〔コメント〕 移民の適応戦略とエスニック聞の分業 一飯田・矢ケ崎報告に寄せて一 久武哲也 矢ケ崎報告は,文化の適応(丈化変容)の差 1.はじめに 異に注目するものであるように思える。 ー移民の適応戦略の歴史的条件一 この二人の報告を,文化の持続性と文化の 飯田耕二郎,矢ケ崎典隆両氏の発表は,ハ 適応の差異とに二分してしまうことは,ある ワイあるいはカリフオノレニア, さらにブラジ 面で誤解を招きかねない部分を含むかもしれ 0数年におよぶ移民研究を背景に ノレなどでの 2 ないが,この 2つの側面は,移民の適応戦略 しての調査報告であった。両氏の報告は,い を考える際の重要な柱であろうと思う。ま くつかの共通する側面と同時に異なった分析 た,それは移民母村研究から出発した日本の の枠組を持つものであったように思える。そ 移民研究が,次第に海外における日本人移民 の共通する側面を指摘するとすれば, 日本人 の定着過程へと移ってきたというその研究の の移民が移住先のホスト社会の中で自らの生 力点の移動とも対応するものであろう 活の基盤を築いていくためにとる適応戦略と し,この 2つの側面は,移民者自身がホスト 職業の選択という点に係るものであるという 社会において同時に抱え込まざるをえない, ことであろう。また,異なった側面を指摘す 相互に葛藤と対立を持った 2つの要素であ O しか るとすれば,飯田氏の報告が, 日本人移民の り,それは多くの場合,世代問,あるいは一 出身地との繋がりを通して,その集団の居住 世と三世との問における文化的な葛藤をもた の形態あるいは職業の選択の側面に一定の差 らすと同時に,言語と教育の面における多大 異を生じさせているという点を強調するのに の調整と工夫を必要とする問題となってく 対し,矢ケ崎氏の報告は, 日本人の移民があ る。そして,最終的には,ホスト社会におけ る一定の教育や信仰,あるいは出身地との繋 る居住形態と職業選択の幅を条件づけ,また がりを持ちながらも,ホスト社会における地 方向づける力となっていくことになろう。 域的差異に対応しながら,様々の制度的条件 しかし,この両報告が提起した移民の適応 の整備や社会経済的組織の形成などを通じ 戦略をめぐる議論を考える際に,今日におい て,異なった適応過程を示す事例を提示して て流布している意味での「丈化」という概念 いくことに主眼がおかれているという点であ 0 世紀の初頭から中 をそのままのかたちで, 2 ろう。そして矢ケ崎報告は,その適応の戦略 1 9 3 0年代)までの時期に適用することは, 期 ( の違いが移住者の居住形態、,入植地の持続 充分注意を要することの様に思える。一般に 性,周囲の住民との関係や交流の側面に異 2 0世紀初頭のアメリカにおける移民問題は, なった要素をもたらしていることを指摘す 1 9 1 7年から 1 9 2 4年にかけての移民政策の確立 る。広い意味で,飯田報告は,文化の持続性 に伴って,入国者数を制限する一方,国別の という側面に力点がかかっているのに対し, 種類区分に基づく排他的措置が講じられてい 9 0 く契機をっくり出すことになる。この排他的 題は文化」概念だけではおさえ切れない, 措置を支える基本的思想は,民族的(人種的) 「人種的フオルマリズ、ム」との対応(それがた 起源を指標として,アメリカ社会への「適応 とえイデオロギーであろうとも)を考慮しな 能力」の程度を測定するという立場であり, ければならないであろうし,また「適応能力」 この民族的(人種的)区分に基づく移民の制 (適応不能民族)をめぐる議論とそれに対応す 限へと移行していく大きな契機となったの る様々な制度化(たとえ科学的的に根拠がな 9 0 7年から 3年間にわたって 1 0 0万ドル が , 1 いにしろ,大衆の世論に支えられたものとし 0 0 人のスタッフを投 の費用を費やし,総勢3 て)の側面も充分に歴史的文脈の中で検討し 入して完成された全 4 1巻に及ぶ移民委員会 なければならないということになろう。 1 9 1 1年公刊)で (テ、イリンガム委員会)報告 ( あった1)新移民」系民族の劣等的特徴を強 d(人類学 調する第 5巻の F人種・民族の辞典l I I . マイノリティ集団としての移民の「可視 化」の問題 D a n i e lF o l k m a r執筆)と第 3 8 巻『移民の d(人類学者, F r a n zB o a s執筆)の 体型変化l イデオロギーに基づく差別が明確になってく 報告は相互に対立する内容となっているが, るのは, 1 8 5 0 年代からである。 1 8 5 3年にサン ここで注目したいのは,移民委員会報告の方 2 d )が フランシスコで『中国とカリフオノレニアl は第 5巻をベースとして北・西欧出身の移民 刊行されるとともに, 1 8 5 6年にはゴピノー に比べて,南・東欧出身移民がアメリカ生活 ( J o s e p hA.G o b i n e a u )の『人種の道徳的・ への適応資質に著しく欠けていると主張して 知的多様性』が英訳 3) されて,人種の劣化論 いるにも拘らず,ボアスは一世と二世の体型 が道徳的側面も含めて,市民社会のあらゆる 変化を含めて調査した結果,新移民も「アメ 面に影響を及ぼすという考え方が普及し, リカイ七」のプロセスを歩んでいることをこの 者 , アメリカにおいて移民に対する人種主義的 摘は,移民が「環境の要因」によってその体 1 8 6 2 年の『中国人移民と国家の荒廃の心理的 8 6 9 年の「カリフオノレニア移 要因 f の刊行, 1 民同盟 J ( C a l i f o m i aI m m i g r a n tU n i o n )の 型までも変化し得るという意味で,人種分析 結成へと繋がっていく。ラッツェルが文化地 のフオルマリズム ( r純粋なる人種」の特定が 理学の最初の著作『中国人移民ーその文化地 可能であるという立場)への批判を含むだけ 理学的・商業地理学的研究 d l5)を公刊した でなく,人種決定論や遺伝決定論に替って, 時期,彼が観察したサンフランシスコの中国 「丈イヒ」の概念が導入される重要な契機となっ 人街は,大陸横断鉄道の完成 ( 1 8 6 9 年)後に ていくからである。すなわち,歴史的環境に おける中国人労働者の流人が増加し,彼がア 作用を受けた文化の相違として人種(民族) メリカに滞在した 1873年 7 月 ~1875年 8 月の 第3 8 巻で示唆した点である。このボアスの指 聞の相違を把握するというこうしたボアスの 時期Ii'中国系アメリカ人問題l d( 1 8 7 0年), 9 3 0 年代になって,社会科学 立場が,その後 1 『中国人の労働力l d( 1 8 7 0 年 ) , Ii'何故中国人は 者の間で一般に受容されていくからである l ( 1 8 7 1年 ) , Ii'中国人と白人の 移民をするのか d O 「文化の適応」あるいは「移民の適応戦略」 d( 18 7 3年 ) , Ii'新しい闘いー どっちをとるかl という課題の設定が可能になるのは,厳密に クーリーの侵入 d l ( 1 8 7 3 年 ) , Ii'中国人の侵略』 いえばこの移民委員会報告以後のことであ ( 18 7 3年 ) , Ii'アメリカの中の中国人 d l ( 1 8 7 7 年) る。この「移民の適応戦略」という課題設定 などが刊行され,中国人問題が顕在化してい 9 世 の持つ歴史的条件を考慮するとすれば, 1 た 。 1 8 7 4 年のサンフランシスコでのラッツェ 紀中・末期から 2 0 世紀の 3 0 年代までの移民間 5万人 ノレの観察で、はサンフランシスコの 1 -91 の住民のうち,アメリカ生れの白人が半分 である。 で,外国生れの白人が半分の割合であり,中 ノ¥イザーとアノレムキストがカリフオノレニア 国人は 1 ・ 2万人以上が狭い街角にかたまっ のマイノリティ人口の変化(図1)を検討す , 0 0 0人以上が居住する」 6) て居住し,黒人は 1 る中で指摘する様に,それは基本的には,少 と,中国人の存在が,サンフランシスコの市 数(移民あるいは先住民)集団が労働力とし 街地の中で「目立った」存在になり始めたこ て組織化されるための経済的条件の変化と対 とを記すとともに,中国人の商業が,その居 応するものではあれ,少数集団相互の聞にみ 住形態とともに,特異な要素を持つことに注 られる人口の変動と交代の大きな要因は,支 目している。 配的集団が認知する許容度(多くの心理的要 ラッツェルが注目するのは,上階が住居, 因も含む)とマイノリティ集団聞の相互の統 下が庖舗の居住形態だけでなく,裏庭で養う 合や協力体制を阻止する制度的(差別的)操 ニワトリや豚などの家畜,住居部分からの排 作によるものである 8)。この図 1に則してい 准物の投棄,下水道の不備,さらに火を使用 8 5 0 年代から 1 8 8 0 年代にかけてのカリ えば, 1 する洗濯業と飲食業の防火の問題,家族労働 フオルニア先住民と中国人移民の「交替」は, と商品のダンピング,同郷団体と資金援助, 基本的には先住民の人口減少(それが病気で さらに小資本と職業の移動性(散髪,大工, あれ,強制移住であれ)と対応した労働力の 塗装請負)などの問題であった。これはヨー 補充という性格を持つものであったことがわ が指摘するように,中国人の居住形態と生活 8 9 0 年代から 1 9 2 0 年代にかけてのマ かるが, 1 様式,さらに特定の職業がもたらす「公衆衛 イノリティ人口の連動した変化は, 1 8 8 0 年代 生」上の問題あるいは「火災」の危険性が, に公布された一連の中国人排斥法による制度 伝染病と火災の発生という形で可視化され, 「排除」される要因となっていくという記述 も九このラッツェルの著作の中に散見でき 1 0 0 る。そして,カリフオノレニア州では,公的職 業に中国人を雇用することを禁止する法律が 1 8 7 9 年に公布される。中国人が小資本をもと 手に商業活動や公的職業以外の労働に従事し なければ,自らの生活基盤を築けないという 8 0 7 0 6 0 状況が生み出されていく。 8 7 0年代のラッツェルや現代のヨーが この 1 ともに観察している点で注目したいのは,移 5 0 40 民の生活様式あるいはその中の特定の生活習 慣が,ホスト社会の人々対しでもたらす危険 3 0 性(伝染病や火災の発生源)の認識が, 日常 的に観察できうるレベノレにまで「可視化」さ れた時に発生する排除(あるいは分離)の論 理である。それは,ホスト社会におけるある 一定の危険性の認識と評価が闇値を超える と,移民集団の生活習慣や労働慣行そのもの に対する否定的評価を生じさせるということ -9 2 1 9∞ 1 9 1 0 1 9 2 0 図 1 カリフォルニア州におけるマイノリティの人口 変化 ( 1 8 5 0ー 1 9 20 ) , l l i e i z e randAlmquist.1971 p.203 による〕 的規制に対応した,新たなマイノリテイの労 ハワイの耕主組合 C H a w a i i a nS u g a rP l a n t e r s ' 働力のリクノレートと,少数集団聞におけるエ A s s o c i a t i o n ) は,労賃の賃上げ運動,労働 スニックの分業の成立過程を示しているもの 組合の結成などによるプランテーション内で 8 9 0年代からのエスニック聞の であり,この 1 の労働運動の発生を押え込み,朝鮮人,プエ 分業(多くは労賃の差とエスニック聞の制度 ルトリコ人,スペイン人,ボルトガル人,ロ 的分離を含む)は,様々の差別待遇の形成と シア人,フィリピン人などの対抗勢力の形成 結びついていた。都市部への中国人,黒人あ を促進するために,エスニックの多様化と低 るいは先住民の人口移動と,農村部における 9 1 0年代に集中 賃金労働力の更なる導入を, 1 日本人とメキシコ人の人口の増加を生じさせ 的に行っていく。さらに,エスニックごとに 9 0 0年頃から顕在化する日本 ていく。とくに 1 明瞭に区分された差別的労賃システムをっくり 人とメキシコ人の農村部における急速な人口 出しながら,その対立の構造を強化していく問。 の増加は連動している。いわゆる農業労働者 こうしたハワイのプランテーション経営の としての移民である。その過程で日本人の農 基本的方向から創り出されたエスニック聞の 園経営とその下で働くメキシコ人労働者とい 差別的労賃システムと社会的対立の構造は, う構造もできあがっていく旬。 1 9 2 0年代における世界的な砂糖生産の増大と こうしたエスニック聞の分業の問題は,ハ 砂糖価格の低下とともに,少しずつ崩れては 9 1 0年ごろから顕在化する。 ワイ諸島でも 1 いくが,しかし,様々の社会的側面に深く影 フックスらが指摘する様に, 1 8 7 0年代に従来 9 5 0年代まで、残っていく。と 響を与えながら 1 の人口の約 5分の lまで減少したハワイ先住 くにハワイの耕主組合を中心とする支配的集 民に替って中国人移民が急増するが,その多 団が日本人の移民の増加とともに,その政治 くは,サトウキビのプランテーションを拡大 的な側面における脅威を感じとる様になるの させる基盤としての濯瓶施設の建設を主体と は,プランテーション内における日本人の し,その後中国人は,先住民の夕口芋耕作地 「子供」の増加であり,それは教育とくに日本 と共存しながら米作の主要な担い手となって 語教育をめぐる問題として顕在化する o エス 1 8 8 0年代の中国人排斥法に伴なっ ニック聞の対立を創りあげながらそのエス て,低賃金のプランテーション労働力として ニック聞における一定の均衡とバランスをと いく 10) 多量に導入された日本人労働者に押し出され ろうとする白人の政策は,アメリカ市民とし る形で,中国人移民の多くはホノノレルや各島 ての日本人の「子供」の急速な増加という形 の市街地に移住し,小資本による商業活動に で崩れ,それが日本人問題を「可視化」させ 従事していくと同時に,農村部においても先 ていく大きな契機となっていったし,より直 住民のもつ濯概用水権を利用しながら米作, 接的には,子供の増加と生活費の上昇の過程 養魚などの活動を担っていく。そして白人 で発生した賃上げと生活基盤の安定化を要求 (ノ、オレ)による土地所有(その大部分が玉大 するプランテーションのストライキとして発 閥による占有)の間隙を埋める形で,中国人 現していった。日本人移民の賃上げ要求とス の士地所有が進められていった。そのため トライキという政治的運動の過程で,より安 に , 日本人移民による土地の保有あるいは所 価な労働力としてのフィリピン人労働者がそ 有は,極めて限定的にならざるを得なかった。 の対抗的エスニック集団としてプランテー 中国人に対する移民制限策の強化とともに ションに導入されていった。それに伴い日本 増加する日本人移民が,ハワイのプランテー 9 2 0年の第 2次オアフ島 人労働者の多くが, 1 ション労働力の基幹部門を担う様になると, ストライキを契機にプランテーションを去っ - 9 3 らかの形で,ホスト社会の慣習的思考を脅か て,ホノノレルや各島の市街地とその周辺に移 動し,小資本で営業の可能な商業やサーヴィ し,しかも自己の集団的価値に対して否定的 ス業,肉体労働に従事するようになってい に作用するものと考えられ,またそれが日常 く。こうした都市部における日本人の就業の 的生活の中で可視化されるようになった段階 機会は,先行する中国人移民の商業活動と競 でホスト社会の人々がとる行動や制度化に対 合しない職種,あるいは補完し合う業種に限 しでも,移民集団は適応するか,あるいは何 定されていた。 らかの方策を考えねばならなくなるであろう。 飯田報告の職業分析にも充分説得力を以て 1 8 9 8年のハワイ王国の併合を契機に, 1 8 8 5 示されているように,日本人の職業の大きな 年の契約労働法(契約移民労働者の入国禁止) 変化は,まずプランテーション内でのフィリ の適用によって,ハワイへの移民の形態は ピン人労働者との関係でも現れてくる。いわ 「白由移民」となる。それ故,移民の数が急増 ゆる「請黍制度」であり,安価な労働力とし すると同時に労賃の高いカリフオルニアへの てのフィリピン人労働者に,耕作を下請さ 8 8 0年代の ハワイからの渡航者も急増する。 1 せ,中間の搾取者としてプランテーション経 中葉から強化された中国人移民排斥の動き 営を担う立場に立つことになる 12)。それは, 9 0 2年の中国人移民禁止法で,ほズ確定 は , 1 教育や技術を資源として中国人移民の業種と するとともに,新たに増加する日本人や朝鮮 競合しながら都市部へと移動する条件を持た 0 5年)さ 人の排斥同盟も太平洋岸で結成(19 ない人々に残された,生活基盤の確立のため 9 0 6年のサンフランシスコ教育委員会 れる。 1 のひとつの方策であった。日本人移民のホス による日本人,中国人,朝鮮人学童の隔離指 ト社会における生活基盤の構築に際しては, 9 0 7年の日米紳士協約に 令をめぐる議論は, 1 経済的条件に対応する自由な職業の選択とい 基づく日本側の移民の自主規制とひきかえ うよりも,むしろ様々なエスニック集団の移 に,表面上は治まるものの,カリフォルニア 民とその定着過程に応じて選択できる職業と への農業移民数と実質的な土地の取得面積は その幅が,エスニック聞の相対的な分業の中 増加していく。カリフオノレニアの農地の保有 で制限されていたということも充分考慮すべ 状況は,イチオカが分析しているように, き点であろうと思う。本来,内陸部の淡水池 1 9 0 5年から 1 9 1 3年の「外国人土地法 J (排日土 や沿岸部の半繭半水の養魚池で、魚携活動を 地法)までに 6万エーカーから 2 8万エーカー 行っていたハワイ先住民あるいはその流通に へと約 5倍近い増加を示している。所有地は 関与していた中国人たちは,漁船を駆使しな 2千エーカーから 2 . 7万エーカーへと約 1 3倍 がら沖合漁業を行うことは少なかった。日本 の増加である。しかし,農地保有の約半分は 人の漁民がハワイ諸島の漁業活動の中核と 「現金借地」の形態であり,残りの保有形態は なっていたのは,その競合する先行者および 「歩合耕作地」と「請負耕作地」で占められて その条件が相対的に少なかったからである問。 9 2 0 いる。農地の所有規模そして保有規模は, 1 m .移民の適応戦略と制度の問題 年の 7 . 5万エーカー(所有地), 4 6万エーカー (保有地)のピーク時まで増加しつづける 14)。 移民の適応戦略を考える上で,ホスト社会 こうした農地の所有あるいは保有状況の推 が移民問題として新しい移民集団に対する差 9 1 3年の外国人土地法(排 移から見る限り, 1 別と排除を主題化し,さらにそれを世論とし 日土地法)の持つ表面上の影響は無かったか て普及させていくためには,移民集団がその の様に見えるが,これはすでに矢ケ崎氏が分 生活習慣の中に帯びている特定の要素が,何 析されているように,土地保有をめぐる様々 94 の努力(それは法的な面での実質的な抜け道 語学校の規制と公立学校教師の資格制限は, をさぐる方法の模索を伴う)と農業経営上の 直接的には市民権を持たない多くの日本人移 調整が行われた結果である問。しかし,こう 民を対象としたものであった問。それは,オ した 1 9 1 3 年の「外国人土地法」への日本人の 9 2 0 年の日本人の クムラが指摘するように, 1 適応戦略が効を奏したために,逆に,その法 プランテーション労働者を中心とするストラ 的制限の実際的効果があらわれなかったため イキの後,プランテーションからの労働力の 9 2 0 年における借地をも禁止する第二次 に , 1 流出を防止するひとつの制度的手段として, の「外国人土地法」を成立させ,さらに連邦 主として日本人を対象として制定された都市 会議はカリフオルニア州の政治的圧力のも における就業機会の門戸を制限する目的を と,日本からの移民を全面的に禁止する「移 持ったものであった 19)。こうしてプランテー 9 2 4 年に制定する遠因 民法 J (排日移民法)を 1 ションから都市へ流出してくる各エスニック となっていく 。そしてこのカリフオノレニア 集団,とくに市民権を得ることのできない 州の外国人土地法が人種差別を効果あら 「帰化不能」の中国人,フィリピン人, 日本人 16) しめるための道具として制定され,運用され などの移民労働者の多くが,都市の雑業労 4 条に違反 ていることは,合衆国憲法修正第 1 務,小規模の自営商居や物品販売,小さな技 するため,無効である」という州最高裁の判 術によるサーヴィス業などの非公的職業を選 9 5 2年に出るまで,この排日土地法は, 決が 1 択せざるを得なかったことがわかる。 カリフオノレニアの日本人移民(とくに農民) I V . むすびにかえて一両報告の意義一 の大きな解消さるべき課題であり続けたので ある 17)。そして帰化不能の外国人」という 移民の適応戦略という課題が,歴史的文脈 熔印を押されてきた有色人種に対して合衆国 の中でみれば,人種的フォルマリズムが学問 への帰化権が付与されたのは,アフリカ先住 的にも,そしてホスト社会の支配的集団の世 7 1年),ハワイ先住民 ( 1 9 0 0 民とその子孫(18 論としても広く受け入れられる素地を持って 年),プエルトリコ人 ( 1 9 1 7 年),アメリカ・ いた時期にあっては,移民集団の適応戦略 1 9 2 4年),ヴァージン諸島民 インディアン ( は,非合理的な差別と排除の中で,多くの困 ( 1 9 2 7 年),南北アメリカの先住民 ( 1 9 4 0 年), 難な条件と闘いながらマイノリティ集団とし 中国人(19 4 3年),フィリピン人とインド人 ての凝集力を保っていかなければならなかっ ( 1 9 4 6 年),そしてマッカラン=ウォルタ一法 ( 1 9 5 2年)による日本人と,戦後になってよう たし,またホスト社会の中にあって代替可能 やくすべての人種に対して帰化市民権の付与 生活は不安定で,しかも絶えず流動する側面 が実現されることになるのである。 を持っていた。 な労働力として位置づけられる限り,移民の 1 9 5 9 年 ハワイ諸島においても,準州時代 ( それゆえに,移民集団がホスト社会の中 州に昇格)において,職業と居住地に関する で,生活習慣であれ,子供の数であれ,土地 制度的差別は, 1 9 0 9 年に準州政府が決定した 所有や特定の職業であれ,支配的な多数派の 「公的職業につくための市民権取得の義務づ 社会集団にとって,その特異性が日常の生活 S e n a t eB i l lNo.17,S e s s i o nLawso f けJ ( の中で可視化され始める段階になると,制度 1 9 0 9 ) から, 1 9 3 5年の「公的職業に就くため S e n a t eB i l l の 3年以上の居住の義務づけ J ( N o . 1 7,S e s s i o nLawso f1 9 3 5 )に至る職業制 9 2 0 年代を通しての,アジア系言 限,そして 1 的な意味でも,非制度的な意味でも排除・分 離の方向が現れてくる。そうした条件と状況 の中で,移民集団が生活の基盤を築するため にどの様な方向で自らに与えられた選択肢を 9 5 選び取り,あるいはそうした状況を変革しよ てくるか,あるいは生活基盤の確立過程(職 うとしたのか,という点を考えていくこと 業,共同組織,土地利用や作物選択,宗教活 は,移民という現象をより歴史的な文脈の中 動など)の中でどの様な効果を持っていたの に位置づけながら検討するということを意味 か,という点に関しでも,より明確になって しよう。 いくであろう。 飯田報告は 1 9 1 0年代から第 2次世界大戦ま コメンテーターとして希望することは,す での日本人移民の職業選択とその変化,特定 でに指摘してきたところでもあるが,日本人 の職業の集中度と日本の出身地との関係を日 移民者がホスト社会の様々なエスニック集 米双方の史料から従来の研究以上によりミ 団 , とくに移民も含めた他のマイノリティ集 クロなレベノレで分析したものであり,戦前の 団との聞でかかえる競合や対立といった側面 ハワイ諸島のプランテーション経済が圧倒的 9 世紀の中・末期から 20 世紀の中葉まで が , 1 に卓越していた時期における日本人の生活基 の約一世紀にわたってホスト社会の中に流布 盤の築き方に対する見通しを得る重要な情報 した人種主義(的イデオロギー)の中で, ど を与えられたと思うし,現時点での統一的な の様な形であらわれ,また,どのような方法 史資料の統計的表示は,貴重なものであ で集団の凝集力を維持し,あるいは解体しな る20)。しかし,アメリカの国勢調査に関して がら自らの生活の権利とその基盤を確立した みれば日本人」というエスニック(人種) のか,という側面の検討を今後より深めて カテゴリーあるいは「職業分類」は,歴史的 いっていただきたいということである。それ にも大きく変化してきたし,必ずしも『日布 は,より広い意味での「差別と抵抗」の文脈 時事布睦年鑑』あるいは外務省通商局による を介在させるということであろうと思う。飯 統計のカテゴリーと一致しないという問題も 田・矢ケ崎報告に対するコメントとしては, 残る。この点はいたしかたのないことであろ 筋をはずれた部分もあろうかと思うが,御海 うが,今後さらなる検討を進めていただきた 容いただきたい。 (甲南大学) いと思う。 矢ケ崎報告は,カリフォルニア州のサンホ アキンバレーの 2つの日系移民社会をとりあ 〔 注 〕 1 ) 山田史郎「移民委員会報告第 3 8巻『移民の体 げながら,ローカルホスト社会の地域的枠組 型変化 d l 20世紀初頭の移民問題とフラン の中で,その適応戦略と居住空間構造に関す ツ・ボアズの人類学一 J,同志社アメリカ研 6,1 9 9 0,41~50頁のうち 41 頁。 究2 るミクロなレベノレで、の分析とそのモデル化を 今回は報告の中心にされた。周知のように, サンホアキンバレーは, 2 ) Speer,W.,C hinaandC a l i f o r n i a :T h e i r 日系人だけでなく R e l a t i o n s ,P a s tandP r e s e n t ,A L e c t u r ι , Marvin& Hitchcock,1 8 5 3,3 0 p . 3 )Gobineau,] . A .( t r a n s. lbyH .H o l t z ),The 1 Moral and l n t e l l e c t u a 1 D i v e r s i t y 0 R a c e s ,w i t hρ a r t i c u l a rRξf e r e n c et oT h e i r Res ρe c t i v el n f l u e n c e si nt h eC i v i l and P o l i t i c a lH i s t o r y0 1Mankind,Lippincott, 1 8 5 6,5 3 4 p . 4 )S t o u t,A .B . , C h i n e s el m m i g r a t i o n and t h eP s y c h o l o g i c a lC a u s e s0 1t h eDecay0 1 様々のエスニック集団の入植している地域で あり,それゆえ文化的にも多様で,しかも異 なった適応過程を検証しうる場である 2ヘ 類 似した環境の中にありながら,こうした様々 なエスニック集団が示す適応過程の差異が今 後,より明確になれば,日本人移民が適応し なければならなかった制約条件も,より見え やすいものとなっていくであろうと思う 22)。 それが居住空間の形成のどの様な局面に現れ 9 6 aN a t i o n ,AgnewC D o f f e b a c h l,1 8 6 2,2 6 p . 5 )R a t z e l,F .,D i ec h i n e i s c h eAωw a n d e r u n g : Ein B e i t r a gz u r Cultur-und H a n d e l s ρh i e ,F .U .Kern,1 8 7 6,2 7 2 S . g e o g r a 6 )i b i , . dS . 1 8 4 . .S .A .,C o n t e s t i n gS t a c e :Power 7 ) Yeoh,B R e l a t i o n s and t h e Urban B u i l tE n v i r ρor . ιOxford onment i nC o l o n i a l Singa U n i v e r s i t y P r e s s, 1 9 9 6, 3 5 1 p . のうち chapt .3 (pp.85~ 1 3 5 ) 参照。 江訳『一世:禁明期アメリカ移民の物語り 9 9 2,2 8 3頁)のうち 1 6 8, -d],刀水書房, 1 1 7 3,2 5 9頁の表 2-4を参照。 1 5 ) 矢ケ崎典隆『移民農業ーカリフォルニアの日 9 9 3,3 1 9頁 本人移民社会一d],古今書院, 1 のうち,第 E部「金融と日本人 J ( 1 6 7 1 9 7 頁),②矢ケ崎典隆「カリフォルニア 川ター J ラック地域における日本人移民の植民活動 9 9 6,6 7 0 と移民社会 J,地評, 69A-8, 1 6 9 2頁のうち 6 7 3 -4頁などを参照。 1 6 ) ①吉田忠雄『排日移民法の軌跡 -21世紀の日 8 )H e i z e r,R .F . and A .] . Almguist,The Other C a l t f o r n i a n s :P r e j u d i c e and D i s - 米関係の原点-d],経済往来社, 1 9 8 3,2 4 1 c r i m i n a t i o n under S t a i n ,M e x i c o , and ,U n i v e r s i t yo f t h eU n i t e dS t a t e st o1920 C a l i f o r n i aP r e s s,1 9 7 , 1 2 7 8 p . ., The L i e0 1 the Land . 9 )M i t c h e l l, D Migrant 恥 r k e r s and C a l 扮 n叩 L a n d ,U n i v e r s i t yo f Minnesota P r e s s, s c a t e 4 5 p . 1 9 9 6,2 1 0 ) ①F uchs,L .H .,HawaiiP o n o :AnE t h n i c 9 6 1, andP o l i t i c a lH i s t o r y Bess Press,1 1 9 8 3,5 0 1 p . のうち p p . 8 6 1 0 5( c h a pt . 3, Success,Pakes t y l e )②拙稿「サトウキピと 頁,②蓑原俊洋『排日移民法と日米関係」岩 0 0 2,3 4 2頁などを参照。 波書庖, 2 1 7 ) 渡辺正清『ヤマト魂 アメリカ・日系二世, 0 0 , 1 3 1 7頁の 自由への戦いーd],集英社, 2 うち 251~305 頁参照。 1 8 ) 拙稿「ホノルル大都市圏におけるエスニック 構造ープランテーションの遺産と制度的人 種主義 J(成田孝三編『大都市圏研究(上) , ] d 9 9 9,4 1 3頁 ) , 3 5 6 3 8 4頁 。 大明堂, 1 タ 1 9 ) Okamura ,] .Y ., ‘Aloha Kanaka ,Me Ke A l o h a ' A i n a :L o c a lC u l t u r e and S o c i e t y i nHawaii,Am ω' a s i aJ o u r n a ,l 7-2,1 9 8 0, p p .1 l5 1 2 9のうち p . 1 2 4o タロ芋(II)ーハワイ諸島の生態環境と水質源 0, の利用形態一 J,甲南大学紀要,文学編 9 1 9 9 4,3 6 7 4頁を参照。 2 0 ) 飯田氏は,本発表と関連する論孜を,①飯 田耕二郎「ハワイにおける日本人の職業構成 1 1 ) 拙稿「マウイ島における砂糖キビプランテー ションとエスニック構造 J (沖田行司編『ハワ 1910 年代 ~1930年代ー J (同志社大学人文 科学研究所編fi'1 9 2 0年代ハワイ日系人のアメ イ日系社会の文化とその変容d],ナカニシヤ 9 9 5,1 9 3頁), リカ化の諸相d],同研究所, 1 9 9 8,4 0 9頁 ) , 309~381 頁。 出版, 1 1 2 6 1 4 0頁,(2飯田耕二郎「戦前ハワイにお 1 2 ) 岡田幸三郎・松生雄幸(共述)fi'米国の糖業d], 9 2 4,3 0 7頁のうち第 塩水港製糖株式会社, 1 ける日本人の人口と居住地 J,大阪商業大学 4章「布珪糖業 J 論集, 1 2 4,2 0 0 2, 1 9 4 2頁などとして発表 (144~181 頁) ,とくに「う けきび定約書 J (訳文) しておられる (154~163 頁)参照。 O 21 )P arsons,] .J . , ‘A GeographerLooks a t t h e San Joaguin V a l l e y, G eogra ρh i c a l R e v i e w , 7 6 -4,1 9 8 6,p p . 3 7 1 -3 8 9のうち E t h n i c 1 3 ) ①森本 孝・古賀元章「漁民社会の歴史一瀬 戸内海・沖家室島の事例研究一d],みずのわ 出版, 2 0 0 2, 6 3頁のうち 4 9 5 5頁。②Schug , D .M . , Hawaii'sCommericalFishingI n d u s t r y :1 8 2 0 1 9 4 5, HawaiianJoumal0 1Histoη, 3 5,2 0 0 1,pp.15~34 。 D i v e r s i t y( p p . 3 7 8 8 0 )。 2 2 ) 矢ケ崎氏は, 日系人社会以外の分析もすで 1 4 )I c hioka,Y.,TheI s s e i : The World0 1the ニア州サンホアキンバレー北部におけるス に行っておられる O 矢ケ崎典隆「カリフオル ρa n e s e Immigrant , F i r s tG e n e r a t i o nJa 1885-1924 ,F reeP r e s s,1 9 8 8(ユウジ・イ 9 9 8,7 5 8 9頁などを 育人間科学部紀要 1,1 チオカ著,富田虎男・粂井輝子・篠田佐多 参照。 ウェーデ、ン人の入植過程 J,横浜国立大学教 9 7
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