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懐旧九十年

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解説;
陸軍軍医制度創設者として名高い石黒忠悳は、弘化2年(1845)岩代国(福島県)伊達郡梁
川に生まれた。19 歳の時、江戸で蘭学を学び江戸医学所に入学した。明治に入り 24 歳の時、
文部出仕し大学東校に奉職、大学少助教兼少舎長となった。この時点で大得業生として同
様に出仕していた佐々木東洋と知り合った。
その後忠悳は兵部省軍医寮に出仕し、一等軍医正になった。明治 10 年西南戦争が勃発し、
明治政府は大阪に臨時陸軍病院を設置し、忠悳がその院長に任命されたが、東洋は自ら志
願し一等軍医正として診療に当たった。
翌年戦争終結後に、政府は脚気病院を設立することを決め、忠悳は設立委員となった。
洋方医部門を東洋、漢方医部門を遠田澄庵が担当し、当時、脚気相撲と呼ばれ治療効果を
競ったが結果は西洋医学の優勢となった。
その後、東洋は杏雲堂医院を創立し東京府医師会、忠悳は軍医監として陸軍軍医部と活
躍の場を分かっていたが、明治 18 年には医療制度についての意見交換のために乙酉会を共
に立ち上げた。忠悳はそれから陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と軍医としての最高位を極
め、さらに日本赤十字社を創設した。
東洋は明治 28 年に医師会長を辞任し公私ともに引退した。それ以降の資料は見あたらな
いが、晩年の交流は殆どなかったと思われる。大正7年(1918)に東洋が 80 歳で没したとき、
忠悳は 73 歳であったがその後 97 歳まで長寿を全うした。
その間、忠悳は 86 歳の頃に自伝を口述筆記させ、昭和 11 年に「懐旧九十年」として博
文館から出版された。
昭和 58 年にはその一部が岩波書店から文庫として再発刊されている。
その中に以下に転載するごとく、西南戦争、政吉留学、脚気病院に関して東洋の挿話が述
べられている。
第五期 兵部省出仕より目清役まで
七 西南戦争、大阪臨時病院
佐々木東洋氏は戦争起るや、日々門前市をなす自家の盛業を休んで直ちに陸軍に医務に
従わんことを出願しました。よって陸軍では軍医正に任じて西下の命を下そうとしたので
すが、佐々木氏はそんな任官沙汰は御免を願うとて、単に陸軍省御用掛大阪臨時病院出張
として西下したのでした。私はこの莫逆の友が自発的に出仕したことに感じ、直ちに全院
の内科部長を嘱託しました。そして傷病兵の治療に専心従事していましたが、氏の内科の
大家であることを知らない送還病兵どもは病気のことだから戦傷の者のように重く扱われ
ぬのは致し方ないが、町の開業医に治療を托されているは情ない、せめて一本筋でも良い
から軍医官に診てもらうようにして欲しいという声が聞こえたので、佐々木氏は私の室に
参り右の事情を語り、軍隊は妙なところで等級を尊ぶこと、実にわれわれの意想外である、
自分も本業を閉鎖してまで尽瘁しているのだから兵士のために正式の任官を受け、軍服を
着けてせっかくの望みを満たしてやりたいという申し出があったのでした。よって佐々木
氏は一等軍医正に任ぜられて平服を軍服に更えて患者に接したのでしたが、戦争が了ると
直ちに軍服を脱ぎすてて辞表を出されたのです。そして功を以て勲四等に叙せられ旭日章
を授けられました。これは当時異数の御沙汰でありました。(岩波文庫版「懐旧九十年」
、
231 頁)
十 医学部綜理心得、医学士留学および女医の始り
初期の卒業生官費留学の実施について、二、三述べておきたいことがあります。私の親
友佐々木東洋君は先に話したように、どこまでも在野医家の高く正しい風格を持し、殊に
金銭に清廉の人でありましたが、その養嗣子政吉君は新卒業の俊才であったので、最初の
留学生の選に当ったのですが、東洋君は私のところへ抗議を申して来られた。貴君は私の
性格も家産の状態も知っている親友でありながら、何ゆえに政吉を官費洋行せしめるか、
これは名誉も責任も大たることで有難くはあるが、あれを選ばれると必ずや他面に一人の
英俊が選に洩れる、私の家はあれの洋行費を出すの余裕はある、貴君は多年の親友である
のに、何ゆえ、私にあれを私費洋行せしめるように話してくれぬかというて、とうとう選
から外させて私費留学にしてしまいました。
(岩波文庫版「懐旧九十年」、240 頁)
第七期 日露戦争役以後
三 脚気調査会、軍医学校の寿像
しかるにまた一方では脚気は全く東洋の病で欧米人のかつて知らざるところであるから、
この治方こそは漢方医に限るという論を主張する者が続出するようになりました。この時
陛下は大久保内務卿を召されて、近年脚気に斃れる者ようやく多いが、この病の治療法に
つき新、古、医方に托して研究せしむるようにとの御仰せであったので、内務卿は明治十
一年東京府に命じ、脚気病院設立委員を置き駒込に病院を設けたのでありました。
私も当時『脚気論』という著書を公にしていたので、この脚気病院設立委員に選ばれて
設立に力を致したのです。病院の治療委員は新方では佐々木東洋、樫村清徳、古方では今
村亮、遠田澄庵の四人でした。しかして古方の両人の主張で、私が報告委員として全体の
実況を厳正公明に報告するよう委託されたのです。この病院の報告は年々内務卿の手を経
て 陛下の御手許へ捧呈されましたが、その治療成績は古方よりも洋方がずっと好成績で
した。
しかし脚気の病源については諸説紛々として定まらず、従って正確なる治療法もなく、
医学上一の難問題であり、軍隊においてもこの病のために支障を来たすこと少くないので
す。これが私などが前々から調査の必要を切論していた所以です。しかるに明治四十一年
に至り、寺内陸軍大臣は各著名の医学者を集めてこれを調査せしむるために、脚気調査会
なるものを設けんとて、その会設立のことを内閣に進言されました。
(岩波文庫版「懐旧九
十年」
、384 頁)
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