(44)甘かった「叛乱軍」の読み ■「今からでも遅くない」で動揺 二・二六事件で「叛乱(はんらん)軍」が占拠したのは、首相官邸から陸軍省や陸軍 参謀本部などがある「三宅坂上」にかけての一帯だった。「司令部」は同じ三宅坂上の 陸相官邸に置いていた。 これに対し本来ここで事件に対処するはずの陸軍幹部らは、北に1・5キロほど離れ た軍人会館(現在の九段会館)に詰めていた。ここには戒厳司令部が置かれていたか らである。 事件発生から3日がたった昭和11年2月29日午前9時前、この軍人会館から三宅 坂上方面に向け、スピーカーを通じての放送が流れ始めた。 「今からでも決して遅くないから、ただちに抵抗をやめて軍旗のもとに復帰するように せよ。そうしたら、今までの罪も許されるのであろう」 さらにほぼ同じころ、飛行機から「下士官兵に告ぐ」という戒厳司令部名のビラがま かれた。 一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ニ帰レ 二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル 三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 単に武力鎮圧の方針を示しただけのものではない。 下士官兵とは、陸軍の場合、曹長、軍曹、伍長の下士官とそれ以下の兵のことだ。 つまり彼らを指揮してきた大尉~少尉の将校たちから引き離し、原隊に復帰させること で「無血」でクーデターを終わらせようとしたのだ。 効果はてきめんだった。目的を知らされないまま将校たちに率いられてきた下士官兵 は動揺し、帰順する動きが生じた。これを見て将校たちも急速に戦意を失い、29日夕 までには武装解除され、事件は3日半ばかりで終わった。 陸軍中央がはっきり武力鎮圧の方針を固めたのは、28日早朝に出された奉勅命令、 つまり天皇の命令が出されたことからだった。 「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速(すみやか)ニ現姿勢ヲ 撤シ各所属部隊ノ隷下(れいか)ニ復帰セシムヘシ」 直ちに原隊に帰らせよ、というのである。その後も青年将校たちが抵抗の姿勢を崩 さなかったことや、当の戒厳司令官、香椎浩平中将が躊躇(ちゅうちょ)を見せたことな どから時間はかかったが、29日早朝までには関東近辺の部隊から鎮圧部隊が集めら れ態勢を整えた。 奉勅命令による鎮圧は、陸軍参謀本部の杉山元参謀次長、石原莞爾作戦課長ら が描いた路線だったが、昭和天皇が終始、鎮圧を強調されたことが大きかった。 青年将校たちは天皇に自分たちの行動を理解していただき、同じ皇道派の真崎甚 三郎大将への組閣の大命が発せられることで「昭和維新」を実現する考えだった。 そのため天皇の側に仕え、これを阻害しそうな斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長 らを真っ先に襲ったのだ。だが昭和天皇のご対応は全く逆だった。 側近の本庄繁侍従武官長に対し斎藤、鈴木らを倒したことに「真綿にて朕が(私の)首 を締むるに等しき行為なり」と怒りを露わにされた。さらに、鎮圧が手間取っていること を知ると「朕自ら近衛師団を率い此(これ)が鎮圧に当らん」とまで言い切られたという (本庄繁日記)。 他にも青年将校らの計画の甘さは指摘されるが、何といっても天皇のご対応を読み 違えたことが決定的だった。 事件は、非公開の裁判でわずか4カ月余り後の7月5日、青年将校らに、五・一五事 件よりはるかに厳しい刑が言い渡され、翌12年8月までに19人が銃殺に処された。さ らに皇道派に属する多くの陸軍幹部が更迭されたり予備役に編入、つまり現役の職務 を退かされたりした。この結果、陸軍は東条英機、武藤章ら統制派のもとに一本化して いく。 だが彼ら統制派には概して中国などに対する強硬派が多く、この後に起きる支那事 変(日中戦争)を抜き差しならない事態に追い込む一因ともなっていった。(皿木喜久) 【用語解説】永田鉄山斬殺事件 二・二六事件の半年ほど前の昭和10年8月12日、陸軍省軍務局長の永田鉄山少 将が局長室で執務中、乱入してきた相沢三郎中佐により斬殺された。相沢は皇道派 系で、統制派の中心である永田への恨みを晴らしたといい、両派の対立はいっそう鮮 明になった。 永田は陸軍随一の俊才といわれ、軍の改革や国家総動員体制の確立に熱心だっ た。暗殺されていなければ陸軍士官学校1期後輩の東条英機に代わり、軍や政府の 中心となっていたことは間違いない。それなら日中戦争や大東亜戦争はどうなってい たのか、という歴史のイフが論じられる。
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