金印は「ヤマト」と読む

金印は「ヤマト」と読む
2016.8.11
田口裕之
I、序
この論考が出来上がったきっかけは、後漢書の異刻本を眺めているときに、倭面土がヤ
マトと読めることに気づいたことでした。そして倭面土がヤマトならば金印「漢委奴国王」
の委奴もヤマトではないか。これは大変な発見をした、と私の身体は雷に打たれたようで
した。この発見は日本の歴史を書き換えます。金印は福岡県下から出土していますが、こ
れをヤマトと読むならば、福岡県が大和日本の発祥の地であり、伝説の神武東遷も証明で
きます。これはなんとしてでもこの金印の読みを証明する文章を書かねばならない。私の
身体は震えました。それを証明するにはどうしたら良いのか。一般の人たちにわかるよう
に提示するにはどうしたら良いのか。頭に浮かんだのが日本・中国・朝鮮の歴史書を全て
調べ、日本もしくは日本人を意味する語を古い順に抽出して一覧表にしたら良いのではな
いかということでした。一覧表を作れば過去から現在までずっと日本のことをヤマトと発
音していたことが証明できるのではないか。
この一覧表を作ったことで 200 数十年以上にわたって解けなかった金印「委奴」の読み
が「ヤマト」であることが確定し、そしてそれを証明する論考ができあがりました。同時
に邪馬台国の読みはヤマトであることが浮かび上がり、その所在地も絞り込むことができ
ました。
作業を始める時に私の頭の中にかすかにあったのが、論語の孔子(前 551 年~前 479 年)
が日本について会話をしていたような、ということでした。孔子が日本を話題にしている
ということは、孔子は日本について書かれた何らかの文書を読んでいたはずです。もしそ
うだとすると、孔子が生きていた紀元前 500 年以前の中国歴史書に日本のことが書かれて
いるはずです。印刷物としての原漢文の中国歴史書は私の身近な図書館にも本屋にも見当
たらなかったのでネットで検索をすることにしました。幸いにしてたまたま 27 インチの大
型デスクトップ型パソコンに買い換えたばかりでしたからそれが可能でした。一文字を
3cm に拡大して膨大な漢文の海をひたすらネットで検索しました。A4 サイズのノートパ
ソコンだったなら目がチカチカしてとても不可能だった作業です。
そうやって捜しあてたのが尚書であり礼記でした。尚書と礼記で捜しあてた幾つかの語
句はどう見ても日本と日本人を意味するとしか思えませんでした。もちろん学校で習う教
科書にはそんなことは一言も書かれていません。調べを続けると、その幾つかの語句は
2,000 数百年にわたって同じ状況同じ用法で日本と日本人を意味するものとして中国・朝
鮮の歴史書に使われていました。
歴史書を調べていて気になったのは、いつの事をどの文書にいつ書いているのか、とい
うことでした。西暦での年号を意識すると「あの事件の前だな、後だな」すると「この事
にはこんな意味がある」ということが浮かび上がってきました。例えば、日本列島が九州
を上に青森を下に描いて東西が逆さまになっている有名な混一彊理歴代国都之図がありま
1
すが、この地図が 1402 年作成であることを考えれば、元寇(文永の役 1274 年、弘安の役
1281 年)や高麗からの使節団(室町時代 1375 年)のあとだから「この位置関係の認識は有り
えないのではないか?」との疑問が湧くはずです。しかも 1988 年に長崎県島原市本光寺か
ら日本列島がきちんとした位置にある同じ混一彊理歴代国都之図が発見されて大きく新聞
報道もなされているのですから、1988 年以降に「古代中国人は日本列島が逆さまになって
いると思い込んでいたはずだ」と書く古代史学者はもはや確信犯として嘘をついているこ
とになります。すべての論考は論理の積み重ねであるべきです。記録も物証も 0 なのに「南
を東と読み替えるべきだ」「・・の可能性は十分ある」などの言説は排除すべきです。
古来より中国は歴史書という形で日本について多くのガイドブックを書いています。日
本について書かれた中国史書は漢書地理志(82 年頃)が最古であると学校教科書にもそう説
明されていますが、その 1,200 年以前の尚書(前 11 世紀頃)に縄文時代であるはずの日本人
が登場しています。
引用は一次資料である原漢文のみ且つ最少に留めました。氷山の一角のような引用では
詳しい事情がわからない、というご指摘があろうかとおもいますが、引用を前後まで長く
すると焦点がぼけるので、そのあたりのご容赦を願いたいと思います。原漢文は旧漢字の
ままにし、現代語訳と解説にはわかりやすい現行漢字を用いました。ただし臺・壹のみは
解説文でも旧漢字のままとしました。
別表として「倭国関連の名称変遷」を添付しました。日本もしくは日本人を意味する語
を古い順に抽出して一覧表にしたことで、本文を読まなくてもこの一覧表を見るだけで委
奴はヤマトと読めることが納得していただけると思います。この「倭国関連の名称変遷」
はそれほどの値打ちがあるものだと自負しています。
解けなかった金印の読みが解けたこと、そして解けたことにより引き起こされる衝撃波
の大きさを理解していただけたらと思います。この衝撃波は今まで流布されてきた日本の
歴史を根底から覆します。今回の私のこの発見が日本古代史界のみならず日本社会の意識
変革をもたらすパラダイムシフト(社会全体の価値観の変動)をもたらすものであることを
願っています。
この論考は『季刊邪馬台国』に於ける去年(2015 年)の論文応募で敢闘賞をいただいたも
のです。最優秀に当選された方の論文はもちろん私の敢闘賞まで全論文を『季刊邪馬台国』
に掲載していただけると新編集長に約束していただいていたのですが、掲載の約束はいつ
の間にかなし崩しになってしまいました。そうこうしていたら「筑紫古代文化研究会」に
お声掛けいただき会のホームページに掲載していただくことになりました。
それぞれの歴史書には倭と邪馬臺国について良く似た語句良く似た文字が時代を跨がっ
すなわ
いわゆる
て同じ用法で何度も使われています。その中で「邪摩堆は 則 ち魏志の所謂邪馬臺なる者也」
いにしえ
「日本は 古 の倭奴国なり」などの語句が呆れるほど繰返されています。歴史書を解読す
る過程において、日本国内での王権の変遷が無く、委奴・倭・邪馬臺国・日本は連続して
いて 2,000 年間ずっと一つの同じ国であること、海外勢力による王朝交代が無いこと、を
2
見ていきました。いくつかの発見は重大で自分でも驚くものが多々でした。今までこんな
話は聞いたことがないぞ、ということが幾つも浮かび上がってきました。それが論考の概
要にあげた事柄です。
II、論考の概要
論考の過程において、下記の件を説明しました。
①
金印国家・倭・邪馬台国・日本は連続した一つの国であり 2,000 年間ずっと「ヤマト」
だったこと。
②
日本と中国は紀元前 2,000 年頃から交流がありそれは 4,000 年以上続いていること。
③
前 11 世紀頃の尚書に日本人を意味する「島夷」「嵎夷」が出ていること。
④
前 11 世紀頃には日本が島国であると判明していたこと。
⑤
なぜ倭人は渡海してまで朝貢していたのか、その理由を見つけたこと。
⑥ 「委」が日本を意味する初めての固有名詞であること。
⑦ 「委」はコメの意味であること。
⑧ 「委」に人偏をつけたのが「倭」であること。
⑨
金印志賀島出土説の不可解を指摘したこと。
⑩ 「如墨委面」を解明したこと。
⑪
王莽時代に東夷の王が渡海していること。
⑫ 「壹」は「臺」を故意に改字していること。
⑬ 「考」は歳をとって背中が曲がっている様を意味しており、春秋二倍年歴は成り立たな
いこと。
⑭
大陸と朝鮮半島から弥生人の渡来は文献記録にないこと。記録にあるのは徐福のみ。
⑮
騎馬民族等の海外勢力が日本に王朝を建てた文献記録がないこと。
⑯ 「島」を「鳥」に、「親」を「新」に書き誤っていて、また「俀」は「倭」の侮蔑の改
字であること。
⑰
邪馬台国はヤマト国であること。
⑱
邪馬台国近畿説は論外であること。
⑲ 『新唐書』『宋史』に古事記・日本書紀の神様が歴代大王として記録されていること。
⑳ 『新唐書』『宋史』に神武東遷が記録されていること。
㉑
日本を意味する漢字表記には邪馬台国の系列と倭の系列があり、正式名称が「邪馬台
国(ヤマト)」であり略称が「倭(ワ)」である。アメリカ合衆国と米の書き分けと同じである
こと。
㉒
別表として「倭国関連の名称変遷」を添付しました。
Ⅲ、歴史書の原文と現代語訳と解説
一、a.尚書(前11世紀頃)夏書禹貢
巻六
3
島夷皮服・・嵎夷既略・・島夷卉服
(訳) 島の夷が服属した・・嵎夷(日の出の東方の地の夷)は既に奪い取った・・島の夷は卉
服(草織りの着物を着ている)
(解説) 夏の初代である禹(前 2070 年頃)の項です。紀元前 2070 年頃のことが紀元前 11 世
紀頃に書かれています。紀元前 2070 年頃は日本の縄文時代のはずです。国立歴史民俗博
物館が 2003 年に弥生時代の始まりを 500 年遡らせて紀元前 1000 年としましたが、それよ
りさらに 1,000 年古い時代についての事を記しています。紀元前 2000 年頃の事件として
日本人が中国の文献に登場する意味はとてつもなく大きいと思います。紀元前 2000 年頃
も日本はまだ縄文時代だったのでしょうか。それで辻褄が合うのでしょうか。
島夷の文字が尚書に出てきます。これは日本人を意味する初めての中国の文字。尚書は紀
元前11世紀頃の中国の歴史書。漢書(82年頃)の倭人は中国歴史書での日本人の初出ではあり
ません。島夷の文字は以後、漢書・朝鮮三国史記・宋史・元史に同じ意味同じ用法で出てき
ます。島と記されているなら、尚書(前11世紀頃)が書かれるまでに誰かが日本を一周して島
であることを確認しているということ。その島は九州なのか日本列島なのかわかりません。
またその誰かは日本人なのか中国人なのかわかりません。
日本の古代史関係者の中では古田武彦氏のみが尚書を参考文献に取りあげています。し
かし残念ながら古田氏の『風土記にいた卑弥呼』の解釈文では、皮服とは「獣の皮を身に
つけている」とされています。温帯に住む日本人が北極のエスキモーのような獣服を身に
つけるという不自然さゆえに、古田氏の筆は曖昧な切れ味にとどまっています。皮服の解
釈は獣の服を着ているか服属のどちらかです。この文章の後半に島夷卉服が出てきますか
らこのケースなら皮の服ではありえません。もしこの、服属していたとする私の解釈が正
しかったとしたら、漢書(82 年頃)における「以歳時來獻見云(歳時を以って来たりて献見す
じ さ い
と云う)」の説明がつきます。倭人が、持衰をつける程の生命の危険を冒してまで度々なぜ
渡海せざるをえなかったのかという、謎が解明できる文献上の証拠となるのではないでし
ょうか。
ぐ う い
嵎夷は後漢書(432 年頃)と通典(801 年)にも再度出てきます。後漢書の注に嵎夷とは日の
出の東方の地、と有ります。ですから嵎夷も日本人を意味する可能性は高いと思います。
b.尚書
海隅出日
周書君奭
巻十六
罔不率俾
(訳) 海の隅から太陽が出る
その海隅の民が率俾(臣下として忠実に服従)しないことはな
い
(解説) a.夏書禹貢(前 2070 年頃)と b.周書君奭は 1,000 年の時差があります。君奭(クンセキ)
(前 1100 年頃~前 1053 年)は燕(前 1100 年頃~前 222 年)の始祖で周(前 1046 年頃~前 256
年)建国の元勲。紀元前 1100 年頃のこの記事に日本人が燕の臣下として忠実に服従してい
ると記されています。夏の禹王の時代から 1,000 年間変わらず臣下として忠実に服従して
いたようです。これも大変なことじゃないでしょうか。1,000 年間以上海路はるばる中国
4
まで貢物を持って行っていたことになります。その航海の大変さが持衰の登場になったの
でしょうか。海隅は隋書(656 年)にも同じ日本の意味で登場します。
二、禮記(前11世紀頃)王制
東方曰夷
被髮文身
(訳) 東方を夷と曰う
有不火食者矣
ザンバラ髪で身体にイレズミをしている
そして火を通さないで食
べる
(解説) イレズミと不火食は以後 3,000 年間日本人の特徴として中国の歴史書に書かれます。
中華料理は全て火を通します。生卵を食べるのは日本だけ。S・スタローン「ロッキー」の
中でロッキーの決意のほどを示す絵として生卵をガブ飲みするシーンがあります。アメリ
カ人に限らず日本人以外のすべてにとって度肝を抜かれるシーン。生卵を食するのは日本
在住の日本人のみです。日本以外では食中毒が怖くてできません。世界各国からのネット
の書き込みを見ても、セレブの和食好きが影響して寿司への外国人の抵抗感は減っていま
すが、生卵を食べることへの不安感はまだ残っているようです。
三、a.論語(前400年頃)公冶長
子曰
第五之七
乘桴浮於海
b.論語
子罕
第九之十四
子欲居九夷
(訳) 孔子が桴を海に浮かべて乗り九夷の所に居住しようとした
(解説) 歴史に詳しくない一般人の孔子に対するイメージは「奈良平安時代の人だったっけ」
ですが、実際の孔子は卑弥呼より700歳も年上で紀元前500年頃の人。その孔子が日本を移住
したい理想郷とみなしています。紀元前500年頃の孔子が弟子との会話に日本を持ち出して
いて、しかもそれについて格別の注釈もなかったとしたら、当時の中国人にとって日本は周
知のことであり、ごく普通に日本と中国の交流が行われていたとみなすべきでしょう。
四、 金印(57年)漢委奴國王
(訳) 漢のヤマト国王
(解説) 委は中国人が日本人に与えた初めての固有名詞。漢書(82 年頃)の倭が初めてではあ
へん
つくり
りません。委が先なのです。金印の委は倭から篇や 旁 を省略した減筆ではありません。日
本と日本人に対して中国人から初めて固有名詞として与えられた漢字が金印に使われた委
だったのです。
委奴がヤマトであるとの解読は別表の「倭国関連の名称変遷」から遡ってのみ可能です。
そして結論まで読まれてから御納得ください。
委奴(ヤマト)は読めましたが、なぜ日本人であるヤマトに対して委の字を使ったのかが
わかりませんでした。呉音でも漢音でも説明がつきません。委はイレズミの意味があるの
5
かと思いましたが、どう調べても委にイレズミの意味を見つけることはできませんでした。
よくよく漢和辞典を読み返すと、委吏=米穀の出し入れを司る役人、が出てきました。孟子
(前 372 年~前 289 年)に出典とありましたから調べると確かに委を米の意味で使っていまし
た。57 年当時は委に米の意味がありましたが、2,000 年経過した現代ではその意味が失わ
れてしまったと推測せざるをえません。日本人は米の民族ですから当て字として委を使っ
たのだとわかりました。古代中国文明が栄えた黄河流域は寒いから米が収穫できません。
だから余計に日本人が米の民族として印象が深かったのではないでしょうか。意訳の典型
として、氷島=アイスランド、があります。音韻が絡んだ当て字の例として、米=アメリカ
合衆国、があります。TV 番組欄に「米が金正恩氏を制裁」とあります。明らかにこのケ
ースはコメではありません。
ここで不思議なのがなぜ委だけじゃなく奴までつけて委奴としたのか、ということです。
委奴にはもう一つの読みである伊都(いと)もあるような気がします。ヤマトと伊都国の二
つの意味を持たせるために委に奴をつけ足したのではないでしょうか。ここで浮かび上が
ってくるのが金印の志賀島出土に対する疑問です。
公式発表では金印は福岡市志賀島出土となっていますがその証拠は 0 です。志賀島出土
はでっち上げであって、金印は福岡県糸島市細石(さざれいし)神社の御神宝だったとの伝
説が福岡市・糸島市には根強くあります。そして志賀島出土の不可解は、
① 当事者がいない(発見者の甚兵衛とその兄喜兵衛の存在を示す文書がない、等)
② 記録がない(宗門人別長・田畑名寄帳・庄屋の御用日記等が出土とされる1784年あたりの
み行方不明、黒田藩家老の記録に金印出土が書かれてない、志賀島の島民に言い伝えがない、
等)
③ 現物がない(金印がほぼ無傷、口上書記載の大石がない、等)
④ 現場がない(口上書記載の地名はない、波打ち際に水田も畑もない、等)
⑤ 考証が不自然(亀井南冥の藩校甘棠館創立と時期が重なり都合が良すぎる、8年後に亀井
南冥が不自然な失脚をしている、亀井南冥の父亀井聴因は福岡県糸島市細石神社の氏子、等)
⑥ しかし本物[金の含有率が95.1%と当時の大判小判(56.4%~67.65%)よりはるかに高い、字
形が西暦57年型(明治大学文学部長:石川日出志教授)、等]。
例えると、重大な交通事故をしたと言い張る大破した車があるけれども、事故したはず
の現場に事故の痕跡が見当たらず、事故の届出書を書いたという運転手とその兄の名前は
幽霊のように戸籍も住民票もなく、警察に事故の公式記録がなく、事故の目撃者が 0。そ
して事故の鑑定書を書いた学者は、その後不自然な失脚をして晩年には全く狂気となり原
因不明の出火により自宅で焼死。裏付けが 0 のこんな奇怪な交通事故があり得るでしょう
か。
五、a.漢書(82年頃)卷二十八上 地理志第八上
鳥夷皮服・・嵎夷既略・・鳥夷卉服
6
(解説) 鳥の誤字以外は1,000文字以上尚書の丸写し。尚書と漢書の違いは島が鳥に変化(誤
字?)しているだけ。書き写し間違いとしか言いようがありません。それ以外は尚書と全く
同じ文章が千文字以上も漢書地理志第八上に続きます。鳥の夷(野蛮人)とは語義矛盾です。
この漢書のように以後の中国の歴史書には明らかな誤写が頻出しています。現代と違って手
書きでしか写しようがなかったから仕方ないのですが、その明らかに誤った字を正当なもの
として言い募るのはいかがなものでしょうか。
司馬遷(前 135 年頃~前 93 年頃)の『史記』には「鳥夷(島夷ともいう)皮服・・・島夷卉
服」とあります。司馬遷が生きた紀元前 100 年頃は島が鳥に誤字として切り替わる過渡期
だったのでしょう。小竹親子の訳文は「皮の着物を着ていたが、鳥夷も入貢するようにな
り」という意味不明な一文になっています。
私は古文書勉強のテキストに貝原益軒『筑前国続風土記』を使いましたが、その際に誤
字脱字脱落がある多くの書写本に驚かされました。明らかな漢字の間違いがごく普通に転
がっていました。ある時は、伊豫となっている文書が前後の文脈を考えるとどうしても伊
勢のはず。講義の前に私たち講習生は「これは伊勢の書き間違いだ」
「いや、伊豫と書かれ
ているのだから伊豫のはずだ」と喧々諤々でした。いざ講義が始まると先生は「これは誤
字ですね。良くあることです」とあっさり断定。私の目から鱗が落ちた瞬間でした。現代
の我々は印刷物に誤字があることを想定していませんから、書かれている文字が絶対のも
のと考えてしまいますが、手書きのみの時代では誤写はありふれていたようです。
それにしても1,200年以上前の尚書の文書を漢書が丸写ししていることに驚きを感じま
す。その背景には1,200年以上も日本と日本人に対して変わらぬ安定したイメージがあった
のでしょうか。
b.漢書
卷二十八下
地理志第八下 燕地条
[
]内は注
然東夷天性柔順異於三方之外[師古曰「三方謂南西北也」]
(訳) 然して東夷の天性は従順 三方の外と異なる
[師古曰く「三方とは南蛮西戎北狄を
謂う也」]
(解説) この文は燕(前 1100 年頃~前 222 年)の条に入っています。天性柔順は平成の今もそ
うです。松本清張氏の「倭国が神仙思想による理想郷として描かれている」との魏志倭人
伝優遇論は間違いであると思います。
故孔子悼・・設浮於海欲居九夷有以也夫
(訳) 故に孔子は悼(いた)み・・浮(はしけ)を海に設(もう)けて九夷に居らんと欲す
以(ゆ
え)有る也夫(かな)
[師古曰「論語稱孔子曰『・・乘桴浮於海・・』言欲乘桴筏而適東夷・・」]
(訳) [師古曰く「論語の孔子曰く『・・桴を海に浮かべて乘り・・』桴筏に乘りて而して
東夷に往かんと欲すと言う・・」]
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
(訳) 楽浪海中に倭人有り 分かれて百余国を為す 歳時を以って来たりて献見すと云う
(解説) 教科書に載っている有名な一文。日本人が中国の歴史書に初出との定説です。しか
7
し私の調べでは漢書の 1,200 年前から日本人は中国の歴史書に登場していましたし、金印
の委が一番目であって倭は二番目の固有名詞です。米の人(民族)の意味で良かれと思って
委に人偏をつけて倭にされたのが『悲劇の好字』(仏教大学: 黄當時教授)になってしまっ
たのだと思います。もっとも黄氏は倭ではなく奴を悲劇の好字としていますが。倭の語源
が、日本人は矮小であったからとか背が曲がっていたからなどの説は、後付けの勝手なで
っちあげであって間違っていると断言できます。
[如淳曰「如墨委面
在帶方東南萬里」
(訳) [如淳曰く「委面(倭人の顔)は墨の如し
帯方の東南万里に在り」
(解説) 倭人の顔はイレズミで黒く塗られている。彼らは帯方郡の東南万里に住んでいる。墨
車=黒塗りの車。つまり、墨=黒塗り。墨の如しとはイレズミで黒く塗られている、というこ
と。
臣王贊曰「倭是國名 不謂用墨 故謂之委也」
(訳) 臣王賛曰く「倭とは是れ国の名 墨と国名は無関係 古くは之(倭)を委と謂う也」
(解説) 日本の固有名詞の一番目は委であり、倭は改字後の二番目の固有名詞である、と臣王
賛が注釈しています。
師古曰「如淳云『如墨委面』蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國
(訳) 師古曰く「如淳が云う『委面(倭人の顔)は墨の如し』とは思うに(発)音するのは委の字の
み しかし此の音は(い)に非ざる也 倭の音は一戈(わ)反である 今なお倭国有り
(解説) 金印の解説を読まれた方なら、委面=倭人の顔 がすんなり理解できるのではないで
しょうか。金印(57 年)から漢書(82 年頃)までの約 25 年間で日本を意味する漢字が委から
倭に切り替わったようです。
漢書の顔師古(7 世紀)注釈本を眺めていたら○音□△反のパターンが頻出していること
に気づきました。これは一体なんだろう。ひょっとしたら漢字による発音記号じゃないの
かと思いつきました。
「倭音一戈反」とは反切法による発音表記。反切(はんせつ)とは漢字
による発音記号。この場合、倭は「一」の声母と「戈」の韻母を組み合わせて発音します。
そして語尾に反の字を付けて反切法であることを示します。日本語には振り仮名がありま
すから発音の説明は簡単ですが、漢字の発音は漢字を使って説明するしかありません。ロ
ーマ字で例えると、
「田音手可反」だったら、田の音は手(TE)の T と可(KA)の A を合わせて
た
TA。田は「た」と発音します、と云うこと。
魏略云『倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種』」]
(訳) 魏略に云う『倭は帯方の東南大海中に在り 山島に依りて国を為す 度海千里 復た国
有り 皆倭種なり』」]
(解説) 渡とするべき字が度になっていますが、漢書第八上が島を鳥に間違えた様に渡を度に
間違えた可能性は高いと思います。
c.漢書
卷九十九上 王莽傳第六十九上
東夷王度大海奉國珍
8
(訳) 東夷王が大海を渡り国珍を奉じた
(解説) 楽浪海中の倭人が歳時を以って来献していますが、その中の一つが新王朝の王莽(8
年~23 年)時代に東夷王本人が渡海していることを記しています。東夷とは日本人のこと。
大海とは玄界灘のこと。渡とするべき字が度になっています。金印(57 年)の以前にも朝貢
の記録がはっきりと残っています。しかも王本人であって遣使奉献ではありません。107
年の帥升等の朝貢が王本人だとか違うとか議論されていますが、王本人が渡海するケース
は複数回あったようです。糸島市細石神社と同じ福岡県糸島市を中心に周辺から多数の貨
泉が出土しています。貨泉は王莽が鋳した貨幣です。王莽と東夷王の交流が大量の貨泉出
土によって証明されるのではないでしょうか。交流に伴う他の文物もこれからの発掘で出
土するはずです。
六、a.論衡(90年頃)異虛篇第十八
周時天下太平 越嘗獻雉於周公・・使暢草生於周之時 天下太平 倭人來獻暢草
b.論衡
儒增篇第二十六
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草
c.論衡
恢國篇第五十八
成王之時 越常獻雉 倭人貢暢・・至漢 四夷朝貢
(訳) 周の第 2 代成王(前 1021 年~前 1002 年)の時は天下太平で、越が白雉を献じ倭人が暢
草を貢いだ
(解説) 三編の記事の異同は、越嘗:越裳:越常
雉:白雉:雉
暢草:鬯草:暢
と微妙に食い
違います。8 世紀後半に唐で木版印刷が始まるまでの 800 年間に筆写していて誤記が発生
したのでしょう。暢(ちょう)と鬯(ちょう)の発音は同じです。越は献、倭人は貢と区別し
ています。これは語調を整える為に貢献の二文字を分けたと見るべきでしょう。
この論衡の記事は尚書(前 11 世紀頃)、漢書(82 年頃)とつながります。しかも漢書(82 年
頃)と論衡(90 年頃)は同時代書であり倭人が同じ意味で使われています。従来、この論衡の
記事は時代が古すぎるからありえない、とか記事が本当でもこの記事の倭人は大陸南方の
倭人だろう、などとされていましたが、漢書と論衡が同時代であることを鑑みれば論衡の
倭人は日本人であることが理解できると思います。玄界灘の海流も今より穏やかだったの
かもしれません。
七、a.三國志(285年頃)魏書 三少帝紀 齊王芳
倭國女王俾彌呼遣使奉獻
や
(訳) 倭国の女王である俾弥呼が使いを遣り奉献した
(解説) 三少帝紀 斉王芳、とは第三代皇帝(239 年~254 年)が少帝(廃位或いは殺害)となって
斉王に格下げされた芳の紀伝ということ。三国志の中で帝紀にのみ卑弥呼の卑の字が人偏
付きの俾の字になっています。中国史書の中で唯一。三国志の著者である陳寿(233〜297)
9
は尚書(前 11 世紀頃)の「罔不率俾」を知っていて魏帝に奉献する卑弥呼を演出したのでは
ないでしょうか。古田武彦氏はこの字が卑弥呼の正式な字だと主張していますが。
b.三國志魏書
第三十烏丸鮮卑東夷傳
鮮卑
東臨大海 長老説有異面之人近日之所出
(訳) 東に臨む大海の日の出る所の近くに異面(入墨をした顔:漢書の委面を分かりやすく記
述)の人がいると説く長老有り
(解説) 陳寿は、三国志の読者が過去の文献に通暁していることを前提にして書いているよ
うです。長老の言葉の「異面」を漢書の三世紀の如淳注の「如墨委面」と故意に重ね合わ
せていると思います。当時の中国人にとって既に分かりづらくなっていた「委面」ではな
く、委(倭)人の顔は「異面」である、としたのは名文家の陳寿らしい見事な表現だと思い
ます。
c.三國志魏書
第三十烏丸鮮卑東夷傳
倭人
(通称:魏志倭人伝)
邪馬壹國 女王・・男子無大小皆黥面文身・・倭水人好沈沒捕魚蛤 文身・・其風俗不淫・・
倭地温暖
冬夏食生菜
皆徒跣・・其人壽考
或百年
或八九十年
不盜竊
少諍訟・・
卑彌呼・・親魏倭王卑彌呼・・親魏倭王・・倭女王卑彌呼・・復立卑彌呼宗女壹與・・壹
與 壹與
(訳) 邪馬壹国の女王・・男子は身分の大小に関わらず誰もが黥面(顔へのイレズミ)と文身
(身体へのイレズミ)をしている・・倭の水人は好んで海の底まで沈んで没し魚蛤を捕る
身・・其の風俗は淫ならず・・倭の地は温暖 冬も夏も生のおかずを食べる
其の人となりは長寿で背中が曲がるほどである
みは無い
或いは 100 年
文
皆ハダシ・・
或いは 80~90 年まで 盗
諍訟は少ない・・卑弥呼・・親魏倭王の卑弥呼・・親魏倭王・・倭女王の卑弥
呼・・復た立つ卑弥呼の宗女である壹与・・壹与 壹与
ひ
き
(解説) 陳寿の三国志だけが邪馬臺国ではなく邪馬壹国となっていますが、これは避諱に因
る改字であると思われます。臺の字は帝王の所在地ひいては帝王を意味しますから東夷の
き
ひ
国名として相応しくないとして忌避されたのでしょう。漢字圏の中国・朝鮮に於いては、
皇帝や貴人の諱(いみな)を避けてその諱に良く似た別の漢字を使うことはありふれたケー
スです。後代ではその遠慮が無くなって本来の臺の字を使い出しました。臺与が三国志で
は壹与となっているのも同じ理由だと思われます。邪馬臺国という国名は三国志以外の後
漢書・北史・通典では同じ臺という表記になっています。
食生菜は礼記の不火食を分かりやすく説明しています。火を使わないで何をどう食べるのか、と
いう中国人の疑問に答える形で。生菜とは加工してない食べ物のこと。刺身・生卵等は今も
普通に日本人の食卓に並びます。一汁一菜の熟語があるように菜とはおかずのこと。今も
中国語で中華料理は中国菜と書きます。生菜は生野菜ではありません。同じくインドはイン
ドネシアじゃないように。勝手に字を加えて意味を変えてはいけません。
日本発祥の武道はハダシです。相撲・柔道・剣道・空手等全て。空手とルーツを同じく
する中国のカンフーと太極拳は靴を履きます。
10
考とは年をとって背中が曲がっている様を意味します。古代史学者は一人も漢和辞典で考の字
を調べたことがないようです。40 歳や 50 歳で背中が曲がることはありません。魏志倭人伝の
裴松之注に魏略曰くとして「その風俗では、正月や四季の区別を知らず、ただ春に耕し秋
に収穫することを数えて年期としている」という春秋二倍年歴の記述があります。しかし
例えば 50 歳の方が 100 歳だと自己申告したら信じるでしょうか。
「本人が 100 歳だと主張
するのだから実年齢は 50 歳であってもその方は 100 歳です」などということはありませ
ん。本当に 100 歳や 90 歳あるいは 80 歳の長寿者がいたのでしょう。信じ難いような老人
が沢山いるのに驚いて、だから記録に残したのだと思います。日本人は清潔な生活をして
いたのでバイ菌による死亡が少なかったのでしょう。春秋二倍年歴だと声高に唱えたり、
あの時代にそんな長寿者がいるはずがないと決めつけて良いのでしょうか。
魏志倭人伝の中に騎馬民族の痕跡は全く見受けられません。卑弥呼の邪馬壹国には牛も
馬も羊も書かれていません。牧畜は 0 のようです。むしろ漁業が全般にわたって記されて
います。騎馬民族は漁業と無縁です。騎馬民族に魚料理はほとんどありません。乳製品が
メインの騎馬民族と魚料理がメインの日本人の食べ物は根本的に異なります。モンゴル出
身の元関脇旭天鵬関が「川に住む魚は神様だから、捕ったり食べたりしたらバチが当たる」
と発言されています。そして魏志倭人伝を読むかぎり、縄文から少なくとも卑弥呼の時代
までに倭国への騎馬民族の渡来は無かったようです。
八、山海經(前 4 世紀~後 3 世紀) 第十二 海内北經
西晋 郭璞(276 年~324 年)注
蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
(訳) 蓋国は大国である燕の南 倭の北にあり 倭は燕に属す
(解説) この一文は山海経の本文ではなく 4 世紀の注に書かれています。注である事に気付
く迄は金印の委より古い時代に倭がなぜ出てくるのかと疑問に思っていました。服属する
順が周>燕>倭になっています。漢書 b.でも倭人は燕地条に含まれていました。
九、 a.後漢書(432年頃)帝紀
[
]内は注
光武帝紀二年・・東夷倭奴國王遣使奉獻[倭在帯方東南大海中]
(訳) 光武帝紀二年(57 年)・・東夷の倭奴国王が使いを遣り奉献した[倭は帯方の東南大海
中に在る]
(解説) 注によると倭奴国は倭と同一とみなされています。すなわち倭奴国は倭の奴国ではあ
りません。定説である倭の奴国ならば、整合性を保つために、匈奴は匈の奴となりますし、
狗奴国は狗の奴国になります。匈奴と狗奴国にそれぞれ奴国があったとは考えにくいのでは
ないでしょうか。この後漢書の倭奴国王(57年)は金印の委奴国王(57年)だとしています。つ
まり金印の委奴国王は倭奴国王とも書きます。
安帝紀永初元年・・倭國遣使奉獻[倭國・・男子黥面文身・・見本傳]
(訳) 安帝紀永初元年(107 年)・・倭国が使いを遣り奉献した[倭国・・男子は黥面と文身・・
11
その黥面文身の見本が伝わっている]
(解説) 後段の b.東夷伝に記された倭国王帥升等の黥面と文身の見本です。倭人(日本人)が
顔にイレズミをしていたことの実証として 2 例を挙げます。
い
す
け
よ
り
ひ
め
おおくめのみこと
さ
古事記神武天皇伊須気余理比売の条に「見其大久米命黥利目(其の大久米命の黥ける目を
見て)」とあるように、神武天皇の使者になるほどの側近である大久米命は黥面(顔にイレ
ズミ)をしていたようです。神武天皇の側近である大久米命が黥面をしていたなら、その種
族は全員同じような黥面をしていたでしょう。一人だけ個性を発揮して大久米命のみが黥
面だったなどという事は当時において有り得ないでしょうから。となると神武天皇も黥面
だった可能性が極めて高いのではないでしょうか。神武天皇に求婚されるまで近畿圏の伊
須気余理比売が顔のイレズミを見たことがなかったとしたら、下層は不明にしても伊須気
余理比売が所属していた近畿圏の支配階層は顔のイレズミをしていなかったことを示唆し
ているのではないでしょうか。そして近畿圏の 3 世紀以前の遺跡に限定すると、黥面埴輪
の出土はまだ無いようです。
け い と く じ
また福岡県那珂川町貝徳寺古墳出土の黥面埴輪が福岡県太宰府市の九州国立博物館に展
示されています。製造時期は 5 世紀後半とされています。5 世紀後半でも福岡に黥面の風
習が残っていた証拠でしょう。中国に見本が伝わっている倭国王帥升等の黥面文身が神武
天皇に引き継がれていたとしたら、倭国王帥升等と神武天皇は同族だったといえるのでは
ないでしょうか。黥面文身の伝統は、倭国王帥升等(107 年)から魏志倭人伝(285 年頃)の邪
馬壹国を経て古事記の大久米命や貝徳寺古墳(5 世紀後半)に繋がっているようです。
b.後漢書
東夷傳
王制云「東方曰夷」・・故天性柔順 ・・[竹書紀年曰「・・ 九夷來御」也]・・嵎夷 曰
暘谷 蓋日之所出也[孔安國尚書注曰「東方之地曰嵎夷」暘谷 日之所出也]夏后氏太康失徳
夷人始畔
(訳) 王制に云う「東方を夷と曰う」・・故に天性は柔順 ・・[竹書紀年に曰く「・・ 九夷
が来御した」也]・・嵎夷とは曰く暘谷なり 蓋し日之出る所也[孔安国の尚書注に曰く「東
方之地を嵎夷と曰う」暘谷とは日の出る所也]夏后氏太康が徳を失った 夷人がそむき始め
た
(解説) 夏后氏太康とは夏朝(BC2070~BC1600 頃)第三代皇帝。尚書夏書禹貢の島夷皮服と
罔不率俾を補強する記事です。紀元前 20 世紀の事柄として日本人が書かれています。尚書
の項にも書きましたが、紀元前 20 世紀なら日本は縄文時代とされています。中国に朝貢し
ていたのは本当に縄文人だったのでしょうか。この後に大陸や朝鮮半島から弥生人が渡来
して縄文人を駆逐したので人種が入れ替わったなどあり得るのでしょうか。
倭・・凡百餘國・・使驛通於漢者三十許國・・其大倭王居邪馬臺國[案 今名邪摩(惟)堆 音
之訛也]
(訳) 倭・・凡そ百余国・・漢の使訳が通じているのは三十許りの国・・其の大倭王は邪馬
臺国に居す[案ずるに 今の名の邪摩堆と邪摩惟は音の訛れる也]
12
(解説) この後漢書でも邪馬臺国=邪摩堆=邪摩惟となっています。
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀・・倭國・・光武賜以印綬
(訳) 建武中元二年(57 年)倭奴国が奉貢朝賀した・・倭国・・光武帝が賜うに印綬を以って
した
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
(訳) 安帝永初元年(107 年)倭国王帥升等が生口百六十人を献じて謁見を請い願った
十、 宋書(502年頃)
(解説) この宋書は倭の五王で有名です。この書でも一貫して倭・倭国・倭王・倭国王の語
句のみ使用。尚書(前 11 世紀頃)から宋書(502 年頃)まで、人種が入れ替わるような海外か
らの騎馬民族等が来た形跡は記されていません。また日本国内でも王権が交代した様子は
見られません。王権が変化したなら何らかの語句の変化があるはずです。すなわち外から
の影響も内からの権力の変遷も宋書からは見受けられません。
後周顕徳元年(954)成立の義楚六帖卷二一國城州市部四三にも「彼の国は古今に侵奪する
者無く竜神報護す」との記述があります。古今とは中国の歴史に残る最古からになります
から、夏王朝を通り越して少なくとも三皇五帝まで遡ると思われます。つまり中国 5,000
年の歴史は弥生人渡来説も騎馬民族征服説も否定しています。
十一、梁書(636年)
祁馬臺國 即倭王所居・・卑彌呼爲王 彌呼無夫壻・・卑彌呼・・魏以爲親魏王假金印紫綬正
始中・・卑彌呼宗女臺與爲王・・
(訳) 祁馬臺国 即ち倭王の居する所・・卑弥呼を王と為す 弥呼は夫や婿がいない・・卑弥
呼・・魏は親魏王と為し金印紫綬を正始中(240 年~249 年)に仮した・・卑弥呼の宗女であ
る臺与を王と為した・・
(解説) 魏志倭人伝と同じ文章。少しずつ字が誤っていたり欠字だったり修正されたりしてい
ます。祁馬臺国は邪馬臺国であり、臺与は魏志倭人伝の壹与です。弥呼も卑弥呼のことです。
十二、晋書(648年)四夷傳東夷条
倭人・・男子無大小悉黥面文身・・今倭人好沈沒取魚・・皆被髮徒跣・・食飮用俎豆・・人
多壽百年或八九十・・多婦女・・
無爭訟・・乃立女子爲王名曰卑彌呼
(訳) 倭人・・男子は身分の大小に関わらず悉く黥面と文身をしている・・今倭人は好んで
海の底まで沈没して魚を取る・・皆ザンバラ髪でハダシ・・食飲にはきちんと足の付いた
台を用いる・・人は多くが長寿で百年或いは八九十歳まで・・婦女が多い・・争訟が無い・・
乃ち女子を立て王と為し名を卑弥呼と曰う
十三、隋書(656年) 東夷傳
13
俀國・・夷人不里數但計以日・・都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也・・安帝時又遣使朝貢謂
之俀奴國・・卑彌呼・・有男弟佐卑彌理國・・俀王姓阿毎・・少盗賊・・男女多黥臂點面文
身
没水捕魚・・氣候温暖
草木冬青・・水多陸少・・入水捕魚・・性質直
有雅風
女多
男少・・裴清使於俀國・・我夷人僻在海隅・・九夷所居・・然天性柔順
(訳) 俀国・・夷人は距離を測るのに里数ではなく日数を以ってする・・都は邪靡堆即ち魏
志のいわゆる邪馬臺なる者也・・安帝(107 年)の時に又遣使をして朝貢したいわゆるこれが
俀奴国である・・卑弥呼・・男弟が有り卑弥の国を理めるを佐く・・俀王の姓は天・・盗
賊少なし・・男女の多くは黥臂點面文身
水に没っして魚を捕る・・気候は温暖
草木は
冬でも青い・・水は多く陸は少ない・・水に入り魚を捕る・・性質は真っ直ぐ 雅な風情
が有る
女は多く男は少ない・・裴清が俀国に使いをした・・我れ夷人は海隅の僻に在り・・
九夷の居する所・・然して天性は柔順
(解説) 聖徳太子が遣隋使に託して隋に送った国書の中の有名な「日出る処の天子、書を没す
る処の天子に致す」に隋の煬帝は怒ったのでしょう。倭国を俀国と書き換えています。同じ
侮辱事例として、高句麗好太王碑文:百済→百残、王莽:匈奴→降奴、高句麗→下句麗
があ
ります。古代史家の中には倭国と俀国は別の国だと主張される方がいますが、一部の歴史書
のそのまた一部分のみをとりあげて鬼の首を取ったように騒いではいけないと思います。
いわゆる
もの
この隋書でも俀国は則ち邪靡堆であり、同時に魏志(倭人伝)の所謂邪馬臺なる者なりと補
足しています。この書でも邪馬壹国を明確に否定して邪馬臺国だとしています。また安帝(57
年)の時に遣使朝貢したのがいわゆる俀奴国すなわち金印の委奴国であるとしています。
隋書(656 年)は白村江の戦い(663 年)目前の成立です。白村江で戦った大和朝廷は邪靡堆
でありまた邪馬臺でもあります。つまり大和朝廷は邪馬臺国の後裔ということになります。
尚書と同じ海隅が使われています。
十四、北史(659年) 東夷傳倭國
夷人不知里數
居於邪摩堆
則魏志所謂邪馬臺者也
(訳) 夷人は里を数えるを知らず
邪馬臺國
邪摩堆に居す
即 俀王所都・・安帝時又遣朝貢
(訳) 邪馬臺国
即ち魏志のいわゆる邪馬臺なる者也
謂之俀奴國。
即ち俀王の都する所・・安帝の時(107 年)また遣いし朝貢す
いわゆるこ
れ俀奴国なり
卑彌呼
始遺使朝貢
魏主假金印紫綬
正始中
卑彌呼死・・卑彌呼宗女臺與爲王・・倭王
姓阿毎
(訳) 卑弥呼が始めて使いを遺り朝貢す
魏の主は金印と紫綬を仮す
正始中(240 年~249
年)に卑弥呼は死す・・卑弥呼の宗女臺与を王と為す・・倭王の姓は天
少盗賊・・男女皆黥臂點面文身
令入水捕魚
性質直有雅風
沒水捕魚・・氣候温暖
草木冬青
土地膏腴
水多陸少・・
女多男少・・倭國
(訳) 盗賊は少ない・・男女は誰もが黥臂點面文身 水に没し魚を捕える・・気候は温暖
14
草
木は冬も青い
せる
土地は肥沃である 水が多く陸は少ない・・命令して水に入らせ魚を捕ら
性質は真っ直ぐで雅な風情が有る
女は多く男は少ない・・倭国
(解説) 隋書と同じで文中に俀が使われています。しかし題名と文の最後に倭国と修正されて
います。
十五、翰苑(660年頃)蕃夷部倭國条
[ ]内は注
馬臺・・[・・大倭王治邦臺・・][・・皆統屬王女也・・]
卑彌娥・・臺與幼齒・・[・・倭面上國王師升・・卑弥呼宗女臺與・・]文身點面[・・女
王也・・][・・其王阿毎・・
][・・邪馬嘉國
女国・・][・・新魏倭王・・]
(訳) 馬臺・・[・・大倭王は邦臺を治す・・][・・皆王女に統属する也・・]
卑弥娥・・臺与は幼い年齢・・
[・・倭面上国の王である師升・・卑弥呼の宗女である臺与・・]
文身で點面[・・女王也・・]
[・・其の王は阿毎・・ ]
[・・邪馬嘉国
女国・・]
[・・
新魏倭王・・]
(解説) 太宰府天満宮宝物殿に原本があることで有名です。馬臺、邦臺、邪馬嘉国と表記が
揺れていますがすべて同じヤマトの意味と思われます。日本書紀の一書に曰くと同じで、
各種の伝聞があることを注は伝えています。表記の変化 or 誤記に多少の違いがあっても中
身は同じ。貝原益軒『筑前国続風土記』に「唐土の書に博多のことを覇家臺もしくは花旭
塔もしくは八角嶋などと書けるあり。その理由は、博多の倭音を聞きてかくのごとく書け
るなり」とあります。家も花も角も博多とは何の関係もありません。ただ音を似せようと
しただけです。カタカナがある日本語でさえ「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」と
いう川柳があります。時代に合わせて表記が複数出てくるのは自然なことでしょう。誤字
脱字が沢山ありますがそこに多くの真実が含まれているようです。ここまできたら倭面上
(ヤマト)、倭面土(ヤマト)が理解できるのではないでしょうか。
十六、日本書紀(720年) 神代巻第四段
大日本
日本此云耶麻騰
下皆傚此
(訳) 大日本 日本(ヤマト)とは此れは耶麻騰(ヤマト)を云う
下のものは皆此れにならえ
(解説) 日本国内では、邪馬臺という卑字の表記を嫌って耶麻騰という表記にしてずっと使っ
ていましたが、日本書紀(720年)の少し前(670年)から小手先の誤魔化しではなく日本という
表記に根本から改めました。そして、下皆傚此(全国民にもこれを徹底させよ)としました。
邪馬臺は耶麻騰だったが日本(ヤマト)に改めた、と。漢字の表記は異なっていても発音はす
べて同じヤマトです。このころはまだ日本(ニッポン)と発音しません。ニッポンもしくはニ
ホンと発音するようになったのは、改字後の漢字の字面のまま読んだ中国人の発音が定着し
た室町時代(1336年~1573年)末期からのようです。漢字が先で発音が後だから、ニッポンと
ニホンの二種の発音になったのだと思います。日本の語源は尚書から続く「日出」を意識し
たのでしょうか。
15
十七、通典(801年)邊防
東夷上 百濟 新羅 倭國
[
]内は注
嵎夷曰暘谷蓋日之所出也
(訳) 嵎夷とは曰く暘谷である つまり日の出ずる所である
(解説) 後漢書(432年頃)と同じ文句を丸写ししています。しかも嵎夷は尚書(前11世紀頃)にも
出てくる文字です。ですから島夷と嵎夷は中国歴史書の中で最も永い年月の間、紀元前11世
紀頃から801年まで2,000年間に亘って、日本もしくは日本人を意味する言葉として使われて
いた文字です。
倭又在東南[倭烏和反]隔越大海
(訳) 倭は東南に在[倭の音はワ]大海を隔てた向こうに有る
(解説) 倭の音を反切法でワと説明しています。倭の正式な呼称はヤマトですが略称はワ。
アメリカ合衆国をベイもしくはベイコクと略することと同じ。
光武中元二年 倭奴國奉貢朝賀
(訳) 光武中元二年 倭奴国が貢物を奉げて朝賀した
(解説)光武中元二年(57 年)は後漢書の建武中元二年(57 年)と同じ。この年号を詳しく書く
と、光武帝建武中元二年。この行では丸写しではなく独自性を見せる為に語句を建武中元
から光武中元に変えている印象があります。倭奴国奉貢朝賀とありますから、ここでも倭
奴国は金印の委奴国であることを強調しています。
倭女王始遣大夫詣京都貢獻
魏以爲親魏倭王假金印紫綬
(訳) 倭の女王は始めて大夫を遣り京都に詣で貢を献じた
魏は倭の女王を親魏倭王と為
し金印と紫綬を仮した
(解説) 京都貢献とありますから魏の都である洛陽まで行ったと考えられます。後半の 12
文字は梁書(636 年)をほぼ丸写しです。倭の女王である卑弥呼に親魏倭王の金印と紫綬を
仮していますから、倭女王は邪馬臺国王卑弥呼であり、倭は卑弥呼が女王をしている邪馬
臺国ということになります。つまり、倭=邪馬臺国
卑彌呼死立其宗女臺輿爲王[魏略云 倭人自謂太伯之後]・・倭王 其王理邪馬臺國[或云邪
摩堆・・]
(訳) 卑弥呼が死して其の宗女である臺与が立ち王と為した[魏略に云う 倭人は自ら太伯の
後裔であるという]・・倭王 其王は邪馬臺国を理む[或いは邪摩堆と云う・・]
おさ
(解説) 卑弥呼の死後に臺与が即位して王になり邪馬臺国を理めた。注の出典は記されてい
ませんが、邪馬臺国について或は邪摩堆と云うとありますから、注釈者は邪馬臺国は邪摩
堆であると認識しています。
倭一名日本 自云國在日邊故以爲稱
(訳) 倭のもう一つの名を日本(ヤマト)という 自らその国が日辺に在る故を以って名称を
為すと云う
倭國王帥升等獻生口・・北宋本、明抄本、明刻本、作「倭面土國王師升獻生口」
16
(訳) 倭国王である帥升等が生口を献じた・・北宋本、明抄本、明刻本、作「倭面土国王で
ある師升が生口を献じた」
(解説) 本文の倭国王帥升等は、注によると北宋本と明抄本と明刻本では倭面土国王師升に
なっています。後漢書の倭面土王は翰苑の倭面上国王であり、また唐類函・変塞部倭国の
条所引の通典には倭面土地王帥升ともあります。それぞれに表記の揺れは有りますが意味
は同じです。倭も倭面土もヤマトと読まざるをえません。帥升と師升は同じ人物のようで
す。帥を師に間違え、土を上に間違え、土に引きずられて土地としたり。これらは漢書に
おいて島を鳥に間違えた同じ事例です。委面を倭面に変えているのは倭を強調した意思を
感じます。漢書(82 年頃)の注に「如墨委面」がありましたが、通典に於いては既に「委で
はなく倭になっている」としたのでしょうか。
十八、a.舊唐書(945年)東夷傳倭國
倭國者古倭奴國也・・其王姓阿毎氏・・多女少男・・皆跣足
(訳) 倭国は古の倭奴国也・・其の王の姓は天氏である・・女は多く男は少ない・・皆ハダ
シである
いにしえ
(解説) ここでも真っ先に倭国は 古 の倭奴国と説明しています。この旧唐書でも王の姓が天
氏であると記しています。
b.舊唐書
東夷傳日本篇
日本國者倭國之別種也
以其國在日邊故以日本爲名
或曰倭國自悪其名不雅改爲日本 或
云日本舊小國併倭國之地
(訳) 日本(ヤマト)国は倭国の別種也
其の国は日辺に在るを以って故に日本を名と為す
或いは云う 日本(ヤマト)は旧くは小国だったが倭国の地を併せた (日本が倭国を併合し
た)
(解説) 旧唐書が書かれた 945 年頃は倭国・倭奴国・日本の繋がりが良く分からず混乱して
いる様子が良く伝わってきます。旧唐書の選者である劉昫は a.倭国篇と b.日本篇の2篇に
分けて、日本と倭国の関係が分からず情報混乱状態であることを告白しています。
a.倭国篇では倭国が昔の倭奴国であるとしていますが、b.日本篇では日本と倭国の関係
について三種類の伝聞を開示しています。
①日本国は倭国と別種。
②倭国の名前を嫌って日本と改めた。
③元々小さかった日本が倭国を併合した。
b.日本篇①に於いて、日本国(ヤマト) と 倭国は別種だとなっていますが、古代史の論者
にはこの部分のみを取り上げる方がいます。一部の歴史書のそのまた一部分のみを取り上
げてはいけません。
十九、新唐書(1060年) 日本傳
17
日本古倭奴也・・惡倭名更號日本
使者自言國近日所出以爲名
或云日本乃小國爲倭所并故
冒其號
いにしえ
(訳) 日本(ヤマト)は 古 の倭奴である・・倭の名を悪みて日本(ヤマト)に更号した 或いは
云う日本(ヤマト)は乃ち小国なり 倭が併せる所と為す故に其の号を冒す
(倭が日本を併
合した)
(解説) 新唐書のこの一文は、改名した理由を二種類の情報として記しています。
①倭の字を嫌って日本(ヤマト)にかえた。
わざ
②元の日本は小国であったのを倭が併合して且つその日本の国名を乗っ取り故と名乗った
から。
旧唐書(945 年)から新唐書(1060 年)まで 115 年経っても倭と倭奴と日本の繋がりがまだ
はっきりと中国に伝わっていないようです。別種か否かは消え、併合を主導した側が旧唐
書と反対になっています。
其王姓阿毎氏・・凡三十二世・・居筑紫城
(訳) 其の王の姓は天氏・・凡そ三十二世続いている・・筑紫城に居住している
(解説) ヤマト朝廷の発祥が筑紫(福岡県)と書かれています。新唐書(1060年)は記紀の350年
後。古事記に筑紫島として九州が出てきますが通常は福岡県のこと。佐賀県吉野ヶ里や宮崎
県日向の方に「そこは筑紫ですか?」と質問したら「NO !」の返事が返ってきます。金印も
福岡県出土です。
にわかには信じがたい記術内容ですが、この情報は日本の何処の誰から伝わったのでし
ょうか。遣唐使の誰が伝えたのでしょうか。日本の正史である記紀とは別に、記紀成立後
300 年以上経ってもこのような民間伝承が残っていたのでしょうか。記紀にあるような神
代の事としてではなく、実在の王の系譜として記されています。残念ながら 32 人の王の名
前は具体的に記されていません。しかしその王の系譜は天御中主を初代とし、第 33 代の神
や ま と
うつ
武から天皇の号を立て、治を大和州(奈良県)に徒したと記しています。新唐書(1060 年)が
書かれた時は既に日本の都は京に移って平安時代(794〜1192)になっていました。しかし、
「筑紫城(福岡県)に居た」となると、天氏を名乗る神武天皇以前の 32 人の王は福岡県に居
たことになります。
魏志倭人伝の邪馬台国はヤマト国と読まざるをえないことがこれまでの説明でご理解い
ただけたと思います。そしてその邪馬台国(ヤマト国)が福岡県にあったことがこの新唐書
に記されています。もとより邪馬台国(ヤマト国)近畿説は論外です。その根拠は、
① 3 世紀の近畿は、金属である青銅が手に入っても武器にせず楽器である銅鐸を作る平和
志向種族。
② 3 世紀の近畿の武器は石器のみ。鉄製鏃や銅剣銅矛を持つ軍事先進国である福岡勢に勝
てない。
③ 3 世紀の近畿には古代中国や朝鮮半島の文物が 0。つまり魏志倭人伝に書かれている様
相が 0。
18
④ 三角縁神獣鏡は、大型凸面鏡だから実用に使えず葬礼の花輪のような存在且つ鉛の成分
分析をすると岐阜県神岡鉱山産鉛を使った国産(金属考古学者:新井宏氏)。そして卑弥呼が
死去して50年以上後の4世紀以降古墳からのみ出土。
二十、(朝鮮)三國史記(1145年)卷六 新羅本紀 第六 文武王
第八代・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘
(訳) 第八代・・二十年(173年)夏五月 倭女王の卑弥呼が贈物を持たせて使者を遣わして来た
(解説) 邪馬臺国女王の卑弥呼が、173年には既に女王になっていて新羅に使者を派遣してい
たことが記されています。即位の挨拶でしょうか。この遣使の目的が臺与と同じ13歳で卑弥
呼が即位した挨拶の為だったなら、卑弥呼は160年生まれと逆算でき、248年or249年の死去
ならば88歳or89歳の長寿だったことになります。魏志倭人伝の寿考と合います。
文武王・・十年・・咸亨元年・・倭國更號日本 自言近日所出以爲名
(訳) 文武王・・十年・・咸亨元年(670 年)・・倭国は日本と更号した 自ら日の出る所に近
きを以って名を為すと言う
(解説) 咸亨(かんこう)は唐の高宗李治の治世に使用された元号。明史(1739 年)の記事と
ぴったり年号が合います。すると卑弥呼の遣使(173 年)も正確である可能性が高くなります。
朝鮮三国史記は紀元前 57 年の新羅始祖即位の記事から始まりますが、早くも紀元前 50
年には倭人の出兵が記されています。倭国の倭人が朝鮮半島の三国(新羅・百済・高句麗)
に攻めて行ったのは、神功皇后の三韓征伐(391 年?)が初めてではないようです。そして
500 年までに 35 回も倭人が襲ってきたと記されています。
新羅建国(前 57 年)から新羅滅亡(935 年)まで、朝鮮半島から日本に襲いかかった記事は
一つもありません。35 本の記事すべてが倭国の倭人が半島を襲った記事です。紀元前 57
年から白村江の戦い(663 年)まで朝鮮半島の正規軍隊は一度も日本に来たことが無いと断
言できるのではないでしょうか。またこの期間に中国の軍隊が朝鮮半島を通過して日本に
来た記事も三国史記にはありません。つまり江上波夫氏の騎馬民族征服説は、三国史記を
みる限りにおいては成り立ちません。日本に於いて海外勢力が係わる王朝の交代は金印時
代から卑弥呼の時代を経て白村江の戦い(663 年)まで無かったといえます。
二十一、宋史(1345年)列傳第二百五十 外國七 日本國
日本國者本倭奴國也 自以其國近日所出故以日本爲名 或云惡其舊名改之也
(訳) 日本国は本の倭奴国也 自ら以って其の国の日の出ずる所に近き故を以って日本と名
を為す 或いは云う其の旧名を悪みて之に改むる也
もと
(解説) 日本(ヤマト)は本の倭奴国(ヤマト)なりと断定しています。また改名した理由を日の
出に近い所、或いは旧名を嫌ったからとはっきり解説しています。この宋史が書かれた頃
にようやく詳しい経緯が正確に中国に伝わったようです。旧唐書と新唐書では二つの国名
の違いが良くわからず或はで説明していました。
19
宋史(1345 年)においてようやく倭奴国(ヤマト)=日本(ヤマト)が日本書紀の耶麻騰(ヤマ
ト)=日本(ヤマト)と重なりました。日本に改名(670 年)してから 675 年後。この宋史が出
るまで、600 数十年の間中国の人間にとって倭奴国と日本は同じなのかどう違うのか困惑
していた様が良く分かります。そして現代の日本人は今も大半が倭・倭奴国・日本のつな
がりを理解していません。
其〈年代紀〉所記云:初主號天御中主 次曰天村雲尊 其後皆以「尊」爲號 次天八重雲尊 次
天彌聞尊 次天忍勝尊 次瞻波尊 次萬魂尊 次利利魂尊 次國狹槌尊 次角龔魂尊 次汲津丹
尊 次面垂見尊 次國常立尊 次天鑒尊 次天萬尊 次沫名杵尊 次伊奘諾尊 次素戔烏尊 次天
照大神尊 次正哉吾勝速日天押穗耳尊 次天彦尊 次炎尊 次彦瀲尊 凡二十三世 並都於築紫
日向宮 彦瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮
あめのみなかぬし
(訳) 初代天御中主から始まって 2 代天村雲尊 其の後皆以って尊の号を為す 3 代天八重雲
あめのににぎのみこと
尊 4 代天弥聞尊 5 代天忍勝尊 6 代瞻波尊 7 代萬魂尊 8 代利利魂尊 9 代國狹槌尊 10 代角
龔魂尊 11 代汲津丹尊 12 代面垂見尊 13 代國常立尊 14 代天鑒尊 15 代天萬尊 16 代沫名
いざなきのみこと
すさのおのみこと
あまてらすおおみかみのみこと
杵尊 17 代伊弉諾尊 18 代素戔鳴尊 19 代天 照 大 神 尊 20 代正哉吾勝速日天押穗耳尊 21
代天彦尊 22 代炎尊 そして 23 代彦瀲尊までみな築紫の日向宮に都を置いていた 23 代彦瀲
尊の 4 番目の子が 24 代大王となって神武天皇と称し 築紫の宮から遷って大和州橿原宮に
住んだ
(解説) 目を疑いますが、記紀に載っている神様が実在の王の名前として出ています。ヤマ
ト朝廷の発祥が筑紫(福岡県)の日向宮と書かれています。宮崎県の日向ではありません。
記紀ではスサノオはアマテラスの弟ですが、ここでは前代の王になっています。新唐書で
ちょうねん
神武は 33 代目、宋史では 24 代目。伝説の神武東遷を中国の宋史に日本僧侶奝然(渡宋 983
年〜986 年)が伝えたとして記録されています。想像とかでっち上げとはとても思えない正
確な系譜です。記紀が作成されて 270 年後に奝然がこのような文書を宋に伝えたというこ
とは、記紀と少し違う常識が平安時代の日本にあったということ。これを伝えた奝然の出
身寺である東大寺に今も残されている古文書を調べる必要があるのではないでしょうか。
新唐書と宋史の情報源は同じ奝然であるかもしれませんが、神武天皇以前が 32 代と 23 代
で異なりますから情報源は複数の可能性もあります。
記紀と中国歴史書には整合と不整合が奇妙に交錯していることを誰しも感じるのではな
いでしょうか。このことは記紀が何らかの作為を持って作られたのではないか、と考える
のは私だけの穿ちすぎた思いでしょうか。もちろん、中国歴史書を優先して日本の記紀を
ないがしろにするものではありませんが、両方に目配りするのは大事ではないでしょうか。
また歴史資料としての価値に高低はあるでしょうが、これだけの記述が残されていること
は事実です。
倭王姓阿每・・宰相曰「此島夷耳 乃世祚遐久・・」
(訳) 倭王の姓は天・・宋の宰相曰く「島夷のみが世襲すること久しい
れ途切れなのに・・」
20
中国の王朝は途切
(解説) 島夷は尚書(前 11 世紀頃)と同じ語句で日本人を意味しています。
二十二、a.元史(1370年) 本紀 第十四世祖十一
日本孤遠島夷
(訳) 日本は弧遠で島夷
(解説) ここでも日本を島夷としています。尚書・漢書・宋史・元史と同じ用法で同じ島夷の
字。紀元前11世紀の周の時代から14世紀に元史が書かれた時代まで2,500年間日本は島夷と
して中国に知られていました。中国史書に於いて日本以外の他の国について島夷の文字が使
われた例はありません。
b.元史
列傳第九五
外夷日本
日本國在東海之東古稱倭奴國 或云惡其舊名故改名日本以其國近日所出也・・見宋史本傳
日
本為國
(訳) 日本国は東海の東に在り古くは倭奴国と称したり 或いは云う其の旧名を悪みて故に
日本と改名す 其の国が日の出る所に近きを以って也・・宋史本伝に見えたり 日本の国と
為す
二十三、明史(1739年)列傳
外国一
第二一〇 外國三日本 作者張廷玉等
日本古倭奴國 唐咸亨初改日本以近東海日出而名也
(訳) 日本は古の倭奴国なり唐の咸亨初(670年)に日本と改めたり 東海の日が出るに近きを
以っての名なり
いにしえ
(解説) 朝鮮三国史記の咸亨元年(670年)の記録と同じ記事。明史でも真っ先に、日本は 古 の
倭奴国であり、唐の咸亨(670〜674)の初めに日本と改めた、と改名した時期も明記。改名し
た理由も東海からの日の出を名前にした、と。
Ⅳ、結論
別表「倭国関連の名称変遷」を見ていただければ分かるように、日本を意味する漢字表記
として邪馬臺国の系列と倭の系列があります。邪馬臺国系列はヤマトと正式に表記したいと
きに使われていて、倭の系列は略称でありヤマトとワを兼ねて使っていたようです。陳寿は、
正式名称として邪馬壹(臺)国、略称を倭としていたようです。丁度、現代の日本人がアメリ
カ合衆国もしくは米と米国を書き分けるように。しかし歴代の中国の歴史家はその混用がわ
からず混乱のまま日本についてのガイドブックを書いていたようです。そして私たち日本人
もその混乱に幻惑され巻き込まれてしまい、その結果「委奴」が読めなくなってしまいまし
た。
21
金印(57年)において委奴国と刻印された特定の国は、670年に日本(ヤマト)と自ら表記を改
めるまで連綿と続いた一つの同じ国です。そして新唐書と宋史に記されている様に、その国
は天御中主から始まり天照大神尊を経て神武天皇時代に筑紫(福岡県)から大和州(奈良県)
に遷った一つの同じ国です。23種の歴史書に出てくる国名はすべて一つの同じ国を意味した
言葉です。ですから国名として出てくるすべての漢字に矛盾なく通じる共通した読みが一つ
だけあるはずです。そしてその国の名前はヤマトです。よって金印「漢委奴国王」は「漢の
ヤマト国王」と読むべきであり、金印研究で有名な大谷光男氏がいうように、中国の古代音
韻論と矛盾はあっても「委奴」は「ヤマト」と読むべきです。
参考文献
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波文庫
和田
清・石原道博
和 26 年
『角川漢和中辞典』角川書店
『古事記』講談社学術文庫
貝塚茂樹・藤野岩友・小野
次田真幸
『三国史記』平凡社東洋文庫
忍
井上秀雄訳注
1980 年
古田武彦 1984 年
『風土記にいた卑弥呼』朝日文庫
『邪馬台国 清張通史①』講談社文庫
松本清張 1986 年
『新訂旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫
『日本書紀』岩波文庫
宇治谷孟
『金印偽造事件』幻冬舎新書
司馬遷
中村啓信
藤堂明保・竹田
『悲劇の好字』不知火書房
黄當時 2013 年
大谷光男
1986 年
1994 年
1995 年
2006 年
『倭国伝』講談社学術文庫
『金印再考』雄山閣
晋
小竹文夫・小竹武夫 訳
三浦佑之
『新版古事記』角川ソフィア文庫
石原道博
1988 年
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野
『史記 I 本紀』ちくま学芸文庫
昭和 34 年
1980 年
金富軾
『日本書紀』講談社学術文庫
編
平成 21 年
晃・影山輝國
2014 年
『日経新聞』2015 年 9 月 19 日夕刊
『筑前国続風土記』早稲田大学図書館ホームページ
『維基文庫』インターネットホームページ
『漢籍の書棚』インターネットホームページ
『中華百科全書』インターネットホームページ
『中国正史に見える古代日本』インターネットホームページ
22
2010 年
昭