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真 の 平 安 は あ な た た ち の も の で す

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真
の
平
安
は
あ
な
た
ヨハネ 20 章 19,20 節 2013 年 4 月 21 日
た
ち
の
復活節第 4 主日
も
の
で
す
説教者:芳賀弥男
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イ
エスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたが
たを遣わします。」
イエスがよみがえられたのは、死んでから三日目の日曜日の早朝です。今日の御言葉は、その日曜日の夕方の出来事でした。そ
の日曜日の夕方までに、イエスは数人の弟子たちにご自分がよみがえらたことを示されました。よみがえられたイエスを見た弟子
たちは、非常に喜びました。「いのちが死ぬ」「人間は死に支配される」というこの世の常識が覆されたのです。そればかりではな
く、自分たちが信頼して従ってきたイエスが、約束通り真の神であることが証明されたのです。また、その方が約束されたように、
自分たちにもこの「死に対する完全な勝利」が確実なものとなったわけです。この日曜日は、救い主であるイエスがこの世に約束
通りに来られたクリスマス以上に、世界の歴史の中でもっとも喜びが沸き起こった日かもしれません。
残念なことは、この喜びのうれしい知らせは、「口伝」によってのみ伝えられたということです。電報も携帯電話もない時代に、
よみがえったイエスに出会った弟子たちは、この喜びの知らせを走って他の弟子たちに伝えに行かなければなりませんでした。(マ
タイ 28 章 8 節)
つまり、
多くの弟子たちの心は、
まだイエスの死がもたらす恐れと心配と悲しみと絶望に満たされていたのです。
まだその喜びを知らない弟子たちは「ユダヤ人を恐れて戸を閉めて」いました。なぜ、そんなにおびえていたのでしょうか? 日
曜日にはイエスを歓迎したユダヤ人群衆が、金曜日には手のひらを返してイエスに罵声を浴びせました。何の罪も犯していないイ
エスでさえ、偽りの証言によって告訴され、神を冒涜した罪で死刑になりました。あのイエスの肉と骨を何度も切り裂いたローマ
兵の鞭と先端についている鋭い爪におびえました。傷だらけ、血だらけのイエスの姿が脳裏に焼き付いています。神ご自身でさえ、
ユダヤ人の陰謀に勝てませんでした。そして、イエスを殺したユダヤ人たちは、イエスだけではなく、イエスに従った者たちも残
さず捕えて同じように処刑するのではないかという恐れから彼らは隠れたのです。彼らが隠れていた部屋も戸や窓に覆いがかけら
れ、暗かったでしょう。しかし、それ以上に彼らの心には少しの希望の光も注がれていませんでした。
そのような閉ざされた部屋の真ん中に、突然イエスが姿を現わしました。日本語だとイエスの言われた言葉は「平安があなたが
たにあるように」と翻訳されています。それは誤訳とまでは言いませんが、願望や祈りのように聞こえます。また、それは今現在、
弟子たちには平安がないということを告げています。また、その平安は「将来に弟子たちにおとずれるかもしれない」という可能
性を示す言葉にも聞こえます。しかし、神であるイエスが、そのような根拠のない慰めを愛する弟子たちに伝えにわざわざ来たの
でしょうか? このような単なる願望や祈りの言葉ならば、私でも伝えることができます。しかし、イエスが語られた真の意味は違
います。
原語のギリシア語では、次のように語られています。
「あなたたちには平安がある」または「平安はあなたたちのものです」 い
ずれにせよ、イエスは恐怖に震える弟子たちに、すでに彼らには平安があることを教えているのです。例えるならば受験で、すで
に合格が決まっていても、合格した事実を知らない生徒はまだ自分が合格したか、不合格かドキドキしています。その生徒に「あ
なたは合格しましたよ」と知らせて、安心させるのと同じなのです。彼らには恐れでもなく、心配でもなく、すでに平安があるの
です!
その平安はどんな平安ですか? イエスは捕えられる前、つまり弟子たちが恐怖でパニックになる前に、その平安について教えま
した。それはヨハネ14章27節にあります。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与
えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなり
ません。」どのような点で、この世の平安とイエスが与える平安は違うのでしょうか。
1.
この平安は人が作るのではなく、神が作る。人が獲得するのではなく、神から与えられる
神の与える平安が世の平安と違うのは、その内容と質だけではなく、得る方法も異なるのです。イエスの真の平安は獲得するも
のではないと言うことです。人間の考え方、世の中の宗教は平安を善行や節制や断食や祈り、お布施や供養などで獲得するものだ
と考えます。しかし、それはいつも疑問を残します。「いつまでやったら良いのか?」と。実際に人間の力に基づく平安は、すぐに
壊れ、失われます。しかし、神の与える平安は神が作ったものなのです。その証拠としてイエスは一度目の「平安」を語られた時、
ご自身の手とわき腹の傷を示しました。この平安は神であるイエスの犠牲によって作られ、与えられるものです。
罪が赦されるためには、何らかの代償を支払わなければなりません。その罪が重いほど、高価な代償が必要です。全人類の全て
の罪の代償を、イエスは完全に支払いました。ちょうどイエスは十字架の上で「完了した」(ヨハネ 19 章 30 節)と叫んだとき、
この代償の支払いが終わりました。つまり、イエスの言う平安は、神であるイエスが私たち人間の罪の罰を完全に受けたので、神
はもう怒っていない、罰はもはや与られないと言う平安です。もはや、供養や善行など罪の代償を神に支払い続ける必要がないと
言う平安です。自分の罪によって自分を責めて苦しむ必要がないのです。安心して、神の家に入ることができる平安です。神はあ
なたを罰する裁判官ではなく、真の神を信じる全ての者にとって、神は「お父さん」となってくださると言う平安です。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ロ
ーマ5章1節)
私たちは平安を獲得することも、作ることもできませんが、神の与えてくださる平安を破壊することはできます。ちょうどエデ
ンの園のアダムとエバはどうでしたか? 彼らはまさしく完璧な平安の中に生きていました。罪、死や病気も、衰えも争いもない中
にある平安です。その完璧な平安を壊したのは、彼ら自身の罪でした。愛を持って彼らに真の平安を与えた神への背きです。それ
は今日でも真実です。神が与えてくださっている平安を、私たち人間は拒絶します。それによって不安な日々を過ごし、一時的な、
霞のように消える平安を得るために奔走します。ある人は健康、豊かな財産、多くの友人、争いのない家庭、国家、楽しい日々が
平安だと信じていますが、それらはすぐに失われます。
2.
真の平安は決して揺らぐことも、なくなることもない
この神から与えられる平安を私たちは「真の平安」と呼びます。ということは世の中で私たちが良く口にする「平安、ピース」
は偽の平安と言うことでしょうか。はい、そうです。真実な平安の姿ではありません。戦争や死、病気や困難、失敗や不幸によっ
て揺らいだり、なくなったりするものは真実ではないのです。真の平安とは、何があっても揺らぎません。真の愛も相手の状態に
よって決して変化したり、失われたりすることがないように。この平安は病気、悲しみ、試練、別れ、孤独、死によっても決して
揺るがず、奪われることもないのです。
ですから、あなたが不安、心配、悲しみ、絶望に心が満たされる時、イエスの言葉を聞きましょう。イエスをあなたの心の真ん
中にお迎えしましょう。そして、今日の御言葉を思い出しましょう。この平安は私たちの人生と考え方を変えます。この部屋に閉
じこもっていた弟子たちも、喜びと平安に満たされて部屋から出て、まだこの平安を持たない人々、この世の平安を追い求め失望
している人、平安を獲得しようともがいている人に、イエスによる真の平安について伝えに行きました。なぜならば、二度目の平
安を伝えた時、イエスは次のような命令を付け加えました。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
イエスはこの世に永遠の平安をもたらすために遣わされました。そして、今、その平安を知り、経験している弟子たちは、恐れと
悲しみと絶望の中にいる人たちの中に遣わされます。
「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫に御言
葉をお送りになりました。このイエス・キリストは全ての人の主です。
」(使徒 10 章 36 節)
全ての人は平安を欲しています。家族の平安、いのちの平安、国の平安、心と魂の平安、死後の平安….真の神は全ての人が欲
するもの、全ての人が真に必要とするものを与えないはずがありましょうか。愛する子供たちがもがいても獲得できないものを、
神ご自身で用意して下さらないと言うことがありましょうか。イエス・キリストによるこの真の平安によってあなたの日々が満ち
溢れますように。この平安に堅く立ち、揺らぐことなくしっかりと立って、この罪と労苦の世の日々を過ごせますように。アーメ
ン
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