電子化と「脱都市化」

電子化と「脱都市化」
明治学院大学国際学部 竹内 啓
要約
産業革命以後の近代社会の発展は、人口をはじめとして金融、政治、文化的機能の都
市への「集積」をもたらした。
工業生産において生産力が上がってくると、都市が膨らみ、あるいは新しい都市がど
んどんできてくる。工業化と都市化の同時進行は 20 世紀以降も進行し、これは 21 世紀も
続くだろうという予測がしばしば行われる。主に開発途上国で、都市がどんどん大きくな
っていくという予想がある。しかしアメリカや日本などの先進国では、もはや方向が変わ
っているといわねばならない。都市機能が拡散し「脱都市化」が起こりつつある。情報ネ
ットワーク化によって分散オフィスや在宅勤務が普及し、また商業、金融機能も都市の外
に移りつつある。高速道路、高速鉄道、航空網の発達によって、人口が大都市に集中する
ことはなくなるであろう。これは技術が発達し、電子化に基づく通信と交通機関のインフ
ラの整備が進んだことによるところが大きい。
文明の成立とともに発生した都市は、都市と農村の対立、そして都市による農村の支
配を生み出した。近代世界では、工業化によって都市的性格を強めた国々が、農村的性格
を多く残した国々を支配した。植民地の独立、解放とともに、多くの開発途上国でも急速
な都市化が進行したのは、それが従属的地位から逃れるための必要条件でもあったからで
ある。
今度は脱都市化が先進国と開発途上国の経済的、政治的、文化的格差を再び拡大する
ことにならないであろうか。近代において豊かな都市社会が貧しい農村社会を支配したよ
うに、近未来社会においては豊かな脱都市社会が、貧しい都市社会を支配することになら
ないだろうか。脱都市化を推進しつつある情報社会の効率性の論理のみを追い求めていた
のでは、脱都市化の意義を踏まえた全体像は見えてこない。
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1 集積から拡散へ
産業革命以後の近代社会の発展は、社会生活のいろいろな面での「集積」concentration を
もたらした。それは多くのものの統合 integration と物理的集中によって、現種の効率を追
求することから生じたものであった。そうしてそれを可能にしたのは、大量のエネルギー
投入による大量処理(大量生産、大量輸送、大量流通)の可能性の実現であったが、同時
にそれが物理的集中化をともなったのは、それが統合のために必要であったからである。
言い換えれば情報伝達処理の技術的発達が不十分であったために、物理的に近い範囲に集
めることが必要になったのである。
電子化は、情報面からの物理的集中の必要性を解消した。少なくとも解消しつつあると
いってもよい。すなわち統合や、管理面の集中 centralization が必ずしも物理的な集中を伴
う必要がなくなり、むしろ物理的には拡散 dispersion が進みつつある。まだそれほど進ん
ではいないが、巨大な本社事務所の代わりに、多数の分散オフィスやホームオフィスで仕
事が行われるようになるのは、その著しい形である。流通面では大百貨店や大きなスーパ
ーの代わりに多数の小さいコンビニエンスストアが売り上げを伸ばしつつある。製造業で
も、依然物理的に巨大な設備や工場は存在しているが、そこに働く人は以前の数分の一に
も減り、しかもその仕事の管理は遠く離れた本社で行われていることも少なくない。
このようなことがすべて、情報通信ネットワークとコンピュータシステムの発達によっ
て可能になったことは言うまでもない。それは蒸気力の導入によって大量生産、大量輸送
が可能になったことに匹敵する大きな意味を持つことである。
このような拡散化の方向は社会全般のあり方にも大きく影響している。その一つの現れ
が「脱都市化」である。
2 先進諸国の脱都市化
2.1 都市機能の拡散化――工業生産、商業、研究、事務所について
近代化は都市化を加速するという議論がよくある。最近でも、開発途上国も含めて、ま
すます都市化が進み人口の集中が起きているという。しかしある時期から、特に先進国で
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は、都市化の方向が逆転しているのではないかと感じられる。「集中」に対する「分散」では
なく、都市的な機能が物理的に空間的に拡散している。つまり、”de-modernization”や”deindustrialization”などに対応する”de-urbanization(脱都市化)”という言葉である。城壁で囲ま
れた中に人が密集して住み、政治的機能や工業・商業などの都市的機能が行われるという
一つの閉ざされた場所としての都市が、いろいろな所へ散ってしまう「脱都市化」がはっき
りと起こりつつある。
我が国は、江戸時代からすでに多くの城下町や港町などがあったが、明治以後の近代化
の中で、工業都市が成立し、更に戦後の「高度成長期」に大きく進展した。一つの企業の大
工場が中心になって人や商業機能が集まり、企業城下町と呼ばれる人口十数万規模の工業
都市がたくさんできた。そして、都市の数が増えてつながり、瀬戸内海沿岸などにメガロ
ポリス (超都市) ができるという状況であった。
しかし、最近、こうした都市の人口は急速に減っている。必ずしも生産がなくなったか
らではなくて、工場はあっても働く人の数が減っている。例えば、かつての八幡製鉄所で
は十万以上の人が働き、人口五十万規模の都市があったが、現在の千葉県君津工場では数
千人しか働いていない。都市ができるほど人はいないのである。また、情報化が進むと管
理機能を本社に集中するから、管理部門、総務部門は不要になり、必要なメンテナンス部
門と無人工場を残して、ロボットだけが働いているということになりかねない。古典的な
工業都市という概念が成り立ちにくくなっている。
次に商業では、地方に昔からある商店街がさびれて、郊外の大規模な駐車場付きのスー
パーに買い物客が流れるという傾向がはっきりしている。例えば、軽井沢のバイパス沿い
にできたスーパーは、東京郊外にある同じスーパーより立派で、商品も多く、値段も安い
ため、東京よりも住みやすいくらいである。アメリカではもっと進展していて、巨大な商
業モールが、それまで何もなかった所にできるというような状況である。こうして、商業
機能も昔の町から何もなかった所へ出て行くようになった。
また研究機能については、アメリカでは昔から研究部門の多くは郊外にあった。ハーバ
ード大やコロンビア大などは町にあるが、多くの大学、研究所は田舎にある。ベル研究所
はニュージャージー州の田舎にあり、IBMの研究所も同様である。日本でも最近は茨城
県つくば市のように新しい研究学園都市や研究開発センターを、何もない所につくってい
る。
このように、すべての機能や人が都市に集中しているという状況は少なくなり、分散し
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ている。分散しても、それぞれが都市的な機能を維持できるのは、情報化と交通機関が非
常に進んでいるためである。
2.2 居住地域の分散と居住条件の均一化
都市機能だけでなく、居住地域も分散化傾向にある。ベッドタウンにまとまって住み、
都市に通勤するのではなく、バラバラに住み、かなり遠方から通勤する人も増えている。
長野新幹線のお陰で小諸市の近くから、都心まで新幹線で一時間半で通えるようになった。
同時に、農村と都市の住まい方の格差もなくなってきている。いかにも農家風の家はほ
とんどなくなり、家のなかの設備も都会風で、納屋もない。全地域が都市化したともいえ
るが、自然が残っているという意味では全く都市化したとはいえない。つまり、「脱都市
化」は、同時にかつての農村の”de-ruralization (脱田舎化)”も含んでいるという、非常に面
白い現象である。
アメリカでもすべての地域で「脱都市化」が進んでいるわけではないが、カリフォルニア
は最も進んでいる。例えば、シリコンバレーは一見のどかな田園風景だが、最先端のハイ
テクが集中している。またスタンフォード大学の周囲には大学の先生が住んでいる避暑地
の別荘地のような住宅地があり、ハイウェイを越えるとその先は人けのない山と海がある。
これらは都会か農村かはっきりとはわからない。都会か農村かと区別して考えずに、「脱
都市化」の一つの現れだと思った方がいいのではないか。もちろん、アメリカでも例えば
アーカンソーのような純粋な田舎や、ニューヨークのような都会もまだ残っている。
日本でも「脱都市化」はかなり進行しつつある。東京などは依然として都市臭さがある
が、今後は徐々に「脱都市化」の方向に向かうのではないだろうか。今の都市の再開発―
―大きいビルを建て多くの人間を集めて何かしようという発想は、時代遅れで、 21 世紀
の都市開発はおそらく違った形になると思われる。
2.3
脱都市化の技術的前提
「脱都市化」が可能になったのには、もちろん技術的な前提がある。情報化と交通の発
達、つまり非常に高度なモノと人と情報のトラフィック網ができ上がってきたためである。
技術の一つとして「オートメーション」がある。これによって、モノをつくる現場とそれ
を管理する機能とを切り離せるようになり、工場の分散が可能になった。
第二の技術は「ネットワーク化」である。日本では分散オフィスや在宅勤務はあまり普
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及していないが、情報ネットワーク化によって徐々に可能になることだろう。例えば、大
学教授が避暑地に住んで、講義のある日はインターネットを使って、そのうち自宅から「テ
レビ授業」ができるようになるかもしれない。
第三の技術は「高速交通インフラ」の整備である。高速道路や新幹線のような高速鉄道
が整備されていることが重要である。アメリカでは、航空網がよく整備されていることが
効果をあげている。今後、関東地方ぐらいの狭い範囲で都市的な所に人口が集中すること
はなくなり、一様に散らばるようになるだろう。時間的な距離があるところへは人は戻ら
ないと思うので、散らばった人が戻ってくるかどうかは、インフラ投資にかかわってくる。
現在、外国とのつながりが増えているのに、外国への航空便が成田に集中しているのはよ
くない。ハブ空港は地方につくるべきである。日本のように狭いところはそもそも地方は
ないようなものだから、それぞれの地方が外国と直接行き来ができるようになることが大
事である。
第四に交通、通信のインフラだけでなく、一般的な社会インフラストラクチャーが十分
に普及していることが重要である。アメリカは 30 年以上前でも、上下水道や電気があっ
て隅々まで社会施設が行き届いていたために、農村と都市の生活格差は非常に少ないと感
じられた。日本でも最近は、生活格差は非常に少なくなりつつある。
2.4 教育の「脱都市化」
恐らく大学教育の「脱都市化」が一番遅れているのが日本である。教育は根本的に考え
直さないといけない時期にある。大学は東京に集中して、新しく開設された大学のキャン
パスは八王子でも、メインキャンパスは東京都心部に残しておかないと、学生が来ないと
いう時代である。これは物理的に「脱都市化」していないだけでなく、これまでの都市化
的な発想で大学教育をやらなければいけないという矛盾をはらんでいる。その上、地方大
学の卒業生はあまり東京に出たがらない傾向や、山形の村から東京の大学へ出てきた人は、
出身の村へは戻らないで、山形市や米沢市など都市的な故郷に戻りたがる傾向になってき
ているようだ。その上で、全国規模の企業も転勤があるのであまり人気がないということ
である。これまでの教育は、いわば大量生産や大量流通を行う大組織が必要とする人間を
作ることを目的としていた。そのことが自ら高度教育の都市集中をもたらしただけでなく、
教育そのものが都市指向になる傾向があった。しかし今後は、この傾向は改めなければな
らない。これまでの教育が作り出したような人間は、社会の方が必要としなくなっている
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かもしれないのである。教育問題そのものを論ずることはここの課題ではないが、都市が
大学を出ても職のない若い失業者の累積場所にならないようにすることは重要である。
3 脱都市化の歴史的意味
3.1 文明の集積地としての都市の消滅
30 年前の日本では、電話を東京の外からかけるの は容易ではなかった。埼玉県の公衆
電話から都内への電話は、申し込んでから 1 時間以上待たされることがよくあった。鉄道
も、以前は上野から軽井沢まで各駅停車で 5 時間かかったのが、今は 1 時間で行ける。要
するに、インフラストラクチャーが均一に普及したという点が非常に重要である。そうな
ると、都市が「くっきりした境」を持っており、人が集中し周囲の農村と明確なコントラ
ストをつくっている、ということが徐々になくなりつつある。
今でも例えばパリでは依然として都市とそうでない所の違いが明確である。パリ風の町
並みが突然途切れ、畑などのある平原になってしまう。日本では以前から違いが明確でな
くなってきている。東海道新幹線に乗っていると、どこまでが町でどこから田園が始まる
のかよくわからない。静岡県では茶畑と工場と都会風の住宅とウナギの養殖地などが混在
している。都市と農村との明確な差がなくなってきつつあるという点では、日本はヨーロ
ッパより進んでいるのかもしれない。
3.2 都市と農村の格差、対立の消滅
「脱都市化」は、歴史的に非常に重大な意味を持つ。文明 civilization は「都市」とい
う言葉と密接な関係がある。つまり、都市の発生は文明の成立を意味し、また都市で文明
が発達してきたということである。都市は文化的・文明的に進んだ所で、農村は遅れてい
るというのが従来の発想である。都市の住民は自治体をつくって「自由」を持っているが、
農村は封建領主に「支配」されていると思われていた。今も若干、都市と農村の文化、文
明的な格差はあるが、しかしこの傾向は徐々に解消していくのではないか。
ただ、住んでいる人と住んでいない人との感じ方が違うという問題はある。最近はどの
土地を訪れても地下街がやたらと多く、新幹線の駅もどこも同じデザインで、住んでいる
人にとっての便利さや住みやすさを追求すれば、おのずから同じになってしまうのは仕方
がないが、住んでいない人間・異邦人にとっては面白くない。
また、かつて作られたリゾート法は全国を観光地化しようというものであったが、全国
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観光地化は不可能である。観光地は非日常的な場所としてしか成立しないから、全国が非
日常的に「脱都市化」するということはあり得ない。「脱都市化」は田舎から都市の住民に
とってのいわば「非日常性」を失わせることになるので、そういう意味では地方をつまらな
くしているともいえる。アメリカでは普段は狭い家に住んで、働いて、たまにどこかへ出
かけるというスタイルは徐々に減りつつあり、日常的に異空間に住もうとしている。しか
し、休暇には贅沢に、電気もない、不便な外国に行きたいという。しかも、自然保護団体
などが「つまらなくなるから電気を引くのはやめよう」などというので、保養地に住んで
いる人はいつまでも貧しく、迷惑な話である。
3.3
都市共同体の解体と農村共同体の解体
都市と農村の対立は、伝統的、歴史的に非常に重要な意味があるが、その格差は徐々に
解消しつつある。
その結果の一つは都市共同体の解体である。ヨーロッパでは、都市には一つのコミュニ
ティ(自治共同体)があり、周辺の封建領主などの権力から、ある程度独立していること
によって、都市のなかで一定の自由が保障されている。同時に、イタリアの都市などでは
都市自体が周辺の農村を支配している、つまり領主になっているという側面もある。日本
では自治共同体を持った都市は歴史的に非常に少なく、昔は堺や博多にはあったようだが、
それも江戸時代には完全に幕府権力に組み込まれてしまった。日本の都市は江戸時代以降
は主として城下町のことであり、城下町には大名とその家臣団がいて、周りに商業などの
機能が集まっていた。自治的な場所ではないが、周辺の農村を支配しているセンターとい
える。江戸や大阪には政治的な自立権はなかったけれども、町人の共同体があって奉行所
などにはごく少数の人間しかおらず、あとは町の自治に任せていたという所も少なくない
ようだ。しかし政治と経済の機能を一つの都市に集中せずバラバラに持つようになり、都
市が拡散した場合、つまり現代風にいうと、都市機能はあっても住んでいる所やオフィス
がバラバラになってしまっては、都市共同体はだんだん解消せざるを得ないことになる。
同時に、農村共同体も解消する傾向にある。昔の農村共同体は、村に人が住みついて、
たんぼでは田植えや水を引くなどの農作業を一緒にするシステムができていた。しかし
機械化によって大勢の人が一緒に仕事をする必要がなくなり、別の場所から車で通い、
就業服に着替えて、機械で作業するという農業が発展すると、農村共同体はなくなって
しまう。こうして都市共同体と同時に農村共同体も解体していくので、都市の生活と農
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村の生活の違いがなくなっていく。
3.4 近代化=工業化=都市化の方向転換
「近代化」は都市化、工業化を意味した。つまり文明史上、ある時期に文明が発生す
ると、文明の集積地としての都市ができた。政治都市や商業都市などいろいろな性格の
都市が、全く都市でない地帯にぽつんと島のようにあったのである。そして莫大な農民
の余剰生産物を都市が巻き上げて文明を作っていたが、生産力が十分でなかったので小
さい規模の都市しか支えられなかった。
ところが産業革命の少し前から、特に工業生産において生産力が上がってくると、都
市が膨らみ、あるいは新しい都市がどんどんできてくる。工業化と都市化の同時進行は
19 世紀以降も進行し、20 世紀になってもその傾向はどんどん進んでいく。開発途上国
ではまだ今もその傾向は進んでいる。そこで、都市化が近代化の方向であり、これは 21
世紀も続くだろうという予測がしばしば行われる。主に開発途上国で、都市がどんどん
大きくなっていくという発想がある。しかしもはや方向が変わっているといわねばなら
ない。
都市という概念は統計ではとらえにくい。つまり、東京都といっても奥多摩の方まで
含むし、23 区は昼間は人がいても夜中は過疎化するから、何が都市か、どこまでが都
市かというのは、統計をだしようがない。例えば、中国の上海特別市は日本の県より大
きいが、その中でもう少し詳しく分ければこの辺りまでが都市だという境はあるかもし
れないが、市の境界線をこの場合は明確にする意味はない。したがって、今までは徐々
に都市に政治的、商工業的な様々な機能が付加し、多くの人間が集積して、都市の大き
さもどんどん広がるというイメージだったが、そうではなくなりつつある。生活は都市
的でも居住場所も機能も徐々に拡散しており、これは近代化=工業化=都市化という方
向が大きく変わることを意味する。
現在、産業の中心は製造業から第三次産業へ変わり、「ソフト化」や「情報化」して
いる。つまり、「脱都市化」は「脱工業化」と結びついている。今まで都市はモノを中
心に集積したが、第三次産業化が進んでネットワーク上で即座にできる無形のサービス
が増えることによって、脱都市化は物理的に集中化する必要がなくなってくるというこ
とと結びついているかもしれない。例えば、証券取引所に大勢の人が集まってする売買
はなくなり、すべてコンピューター取引になってくる。取引所も兜町やウォールストリ
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ートに集積する必要はなく、どこでも、コンピューターで全国あるいは世界中から瞬時
に売買するシステムになってくるかもしれない。いい悪いは別として、機械だけが動い
ている整然とした工場や、灌漑がコンピューターでコントロールされ、刈り取りも精米
も自動的に行われる農村など、世の中はその方向に行きつつあるのではないかと思われ
る。
5 将来への展望
5.1
「市民社会」の将来
技術的に「脱都市化」して、都市あるいは都市的なものがなくなってしまったら、市民
社会や市民運動はどうなるのか。市民というのは「市=city」の人間だから、市があって
初めて成り立つ。シティズンもシトワイアン(市民、市の人間という意味。フランス革命
で共和派が仲間をお互いに呼び合うときの言葉)も同じである。つまり、町や市の共同体
に属している人々が、自分たちで民主的、自治的に町や市を運営することが、デモクラシ
ーの基礎になっている。
民衆を中心とする政治的思想、つまり民衆主義には、都市的デモクラシーという考え方
と農村的ポピュリズムという考えの二つがある。都市的デモクラシーは都市の自治体を基
礎に置いたものであり、デモクラシーが制度化されている社会が市民社会である。農村的
ポピュリズムは、農村共同体に基づいた百姓一揆的ポピュリズムや人民主義があり、性格
はかなり違う。近代的デモクラシーは都市的な市民社会の上に成立したものなのであって
単に共同体が解体したバラバラな個人を基礎としてできたものではない。
そこで、市民運動をしている人に「あなたはどの市に属しておられるのですか」と聞く
と、「わたしは○○市に住んでいるけれども、それは単に寝に帰る場所だ」、「私は地球
市民だ」という人がいるが、地球全体が一つの市にはなっていない。何らかの共同体に属
して、その共同体に対する責任を負うということでなければ、市民という言葉を使っては
いけない。そして、市民が平等な立場で、お互いに責任を持ち、サポートし合い、一定の
ルールの中で権利を主張するのが市民社会であって、どこの共同体にも責任を持たない個
人が権利だけを主張することが市民運動だとは決して思えない。
また最近、地方分権という言葉をよく耳にするが、地方分権をするには、それを担うも
のとして共同体やコミュニティとまでは言わなくても、地方がある程度まとまりを持った
一つの社会でなければいけない。今、はっきりとした都市や農村というものがあれば、そ
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れが一つの分権的権力になる。都市が拡散していたら、ある地域を物理的に区切ってみて
も一つの社会にならない。地方分権を主張する人は分権の基礎をどういうふうに考えてい
るのだろうか。筆者は現在、神奈川県に住んでいるが、「神奈川県民」といわれても自分
のことのような気がせず、しかし税金だけは取られていると感じる。こんなふうに思う人
が多くなったら、だんだん地域社会はなくなるのではないだろうか。
5.2 「バーチャル都市」の限界
今やネットワーク社会だとはいっても、ネットワーク上の都市は成立していない。今
後の可能性の一つとして、現実には離れて住んでいる世界中の人たちがネットワーク上
でコミュニケーションをし、一つのバーチャル・コミュニティをつくり、その上にバー
チャル・シティが形成されるというイメージがあるようだが、バーチャル・リアリティ
で生活空間としての都市を造ることはできないであろう。バーチャル都市空間をつくり、
仮の人物に扮してバーチャルな商店街にショッピングに行ったり、市議会に投票したり
できるかもしれないが、それは単なる遊びにすぎないのではないか。リアリティの世界
で老年を迎えたら、バーチャルな都市空間でバーチャル看護だけしてもらって、実際に
はのたれ死にするしかない。
5.2
開発途上国の動向
開発途上国は、都市機能が拡散化するほど豊かではない。都市的なインフラ(ネットワ
ークや交通網)を全国に広げるには大きな投資が必要で、開発途上国が都市機能を拡散化
するレベルまで達するのは、すぐには難しい。ただ、グローバリゼーションが進み、開発
途上国と先進国が切り離された世界ではなくなったので、開発途上国のトレンドと先進国
のトレンドが接触してくることになっている。例えば、都市機能の拡散が日本の国内にお
さまらず、外国に持っていこうという話が起こってくる。
通産省には、土地が安く、広大、しかも治安も悪くないオーストラリアへ高齢者を移そ
う、フィリピンに老人ホームをつくろうという計画があった。フィリピンは労働力が余っ
ていて、看護婦はトレーニングされていて質も悪くないし、しかも安い。しかし、貧富の
格差が非常に激しくて治安もよくないので、鉄砲を持った兵隊の護衛付きの老人ホームを
つくるという。確かに都市機能の一部「老人扶養の拡散」ではあるが、国境を越えて拡散
しようとするとおかしなことが起こるのではなかろうか。また、逆もある。開発途上国は、
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都市の拡散以前の都市集中型の段階で、農村と都市の格差が非常に大きいので、農村から
都市へどんどん人間が出てくる。都市では雇用が過剰になり、スラムができる。都市にス
ラムができるということは、近代化の初期の段階では必然的に先進国にもあったことであ
る。そこで、今後グローバル化が進み人口が集中する方向にある開発途上国の都市と、機
能が拡散して、ある意味では、もぬけの殻になりかかっている先進国の都市が結びつくと、
先進国の都市に開発途上国のスラムから入ってくる不法労働者が増える可能性がある。
5.3
脱都市化の設計を如何にするか
このように先進国では「脱都市化」の傾向があり、「脱都市化」の傾向は世界的に及ん
でいくというのが、将来の方向だろう。しかし、これがよい方向だというわけにもいかな
い。例えば12億人の人口を擁する中国で、コンピューターネットワークが整備され、農
業や製造業に就く人が少なくなり、都市的生活が中国全土に広がっても、成人の大部分が
株式の売買で生活していくのは無理である。とすると「脱都市化」は一部の先進国の恵ま
れた特権にすぎないのかもしれない。
特に日本やアメリカでは「脱都市化」がトレンドであることは否定しようがないことだ
が、これをどういうふうに調整あるいは設計をしていくかが重要である。都市化が進んだ
時も、スラム化や不衛生などの問題が起きた。それに対して都市を健全な形にしようとい
う都市行政が起こったのである。同じように「脱都市化」を、健全な望ましい姿に導いて
いく必要があろう。
しかし、これはなかなか難しい。というのは地方の小都市は、鉄道の駅を中心にして商
店街や行政機関や住宅地があって、そこから外が農村という形だったのである。しかし、
現在では特急の止まる駅以外、都市の中心としての駅があっても廃れてしまい、駅前の商
店街も廃れる。商店や銀行は別の場所に移り、前と同じ工場労働者は減ってしまった。こ
れを、かつての形で復活させるのは無理である。町おこしをしたいのは昔から地元にいる
人たちで、そこから新幹線で都市に通勤している人は、どうでもいい、と思っている人が
多いかもしれない。
鎌倉市辺りでは「旧住民」と「新住民」という言葉がある。旧住民は親の代以前から住
んでいる人のことで、新住民は住んではいるが土地とは縁がなく、町とも結びつきがない
し、住む場所=物理的に寝る場所になってしまっていて、サービスを提供されれば使うこ
とは使うけれども、帰属意識や責任意識がない。また旧住民は昔から土地と結びついた人
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だから、いろいろな古いことを非常に大事にする。「ここは大事な所だから道路を通すな」
と言って、「何を馬鹿な」と新住民に思われたりすることもある。旧住民は「どうも新住
民の奴らはただ住むだけのために勝手に地元を使っている」と思い、新住民は「どうも旧
住民の奴らは土地をなるべく高く売りつけて、なるべく新住民から搾取しようと思ってい
る」と、お互いに仲が悪い。
都市機能が拡散していくと旧住民という存在はなくなるだろうが、そうするとその土地
に愛着を持つ人が誰もいなくなってしまう可能性がある。その点、アメリカではインディ
アンを除いてはいわば新住民ばかりだが、それでも田舎に行くと住民のコミュニティは強
く機能している。しかしもっと「脱都市化」が進むと、アメリカの非常によいコミュニテ
ィも消滅してしまうだろう。アメリカは広いので「脱都市化」が遅い地域もある。日本と
比べて「脱都市化」の進み具合は単純でないかもしれない。
6 政策的課題
6.1 電子化の必然性とプラス・マイナス
上記のような「脱都市化」の傾向は、コンピュータと情報通信ネットワークの発展、す
なわち社会における電子化技術の発達にともなう必然的な傾向と考えねばならない。それ
は蒸気機関や内燃機関、及び電力の利用が第一次、第二次の産業革命と近代化をもたらし
たと同じ意味で、近代社会に新たな革命的変化をもたらしつつあるのであって「脱都市化」
はその一つの現れである。従ってそのこと自体の善悪を論ずることはあまり意味がない。
しかしそれが社会や個人生活にプラス・マイナス両面の影響をもたらしつつあることは事
実であるから、それについていろいろな面での政策的対応が必要であることも注意しなけ
ればならない。
「脱都市化」のプラス面は、生活環境の改善である。都市は昔から自然的な生活環境に
おいていろいろな問題を生じていた。公衆衛生面での問題はほとんど都市の発生と同時に
生じたといってよい。上下水道の普及などによって衛生面が改善された後も、大気汚染や
騒音、廃棄物などは都市生活を悩ましていた。脱都市化はこのような問題をほとんど解決
するとともに、これまでは都市でしか得られなかった消費生活や文化面での便益の享受を
も可能にしたといってよい。
しかし脱都市化のマイナス面もある。一つは旧来の都市が廃墟化することである。アメ
リカではここでいうような脱都市化より以前に、自動車の普及による住居の郊外移転にと
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もなって、都市中心部の衰退とシステム化が起こった。東京でも都心部の住民数の大幅な
減少が起こっている。それでもこれまでは都市の中の商業機能やオフィスは中心部に残さ
れていたが、脱都市化によってそれも失われて行く可能性が高い。
しばらくたてば、やがて「都市の消滅」ということになるかもしれないが、しかしそれ
には少くとも 100 年の年月が必要であろう。その間の都市の衰退過程には多くの問題が発
生すると思われる。
もう一つの問題は脱都市化の中で、地域コミュニティをどのように形成、或いは再編す
るかということである。すでに述べたようにコンピュータネットワーク上で、遠く離れた
人々がヴァーチュアルコミュニティを作ることができたとしても、それが生活コミュニテ
ィになることはできない。しかし現実に近くにいる人々との間にはコミュニケーションは
成立していないとすれば、単に近くにいるというだけではコミュニティを形成することは
できない。
昔からの都市には「まち」としての緊密なコミュニティが成立していた。近代的な大都
市ではそれが失われ、人々は逆にむしろ他人から一切干渉されない都市生活の孤独な自由
を享受するようになった。脱都市化はそれを全地域に拡大することになるかもしれない。
しかし人間社会は、プライバシーと個人の自由だけを至上とし、共同性を一切拒否するこ
とで成立しないであろう。脱都市化の中で共同性をどのように構築するかは重要な課題で
ある。
脱都市化が電子化と結びつき、或いはその結果として起こることのもう一つの危険は、
電子化の一つの結果である「現実のヴァーチュアル化」がそこに拡大されて現れるかもし
れないということである。脱都市化が生活空間の自然の中への回帰をもたらすように見え
ても、実際はそれが人々と自然との結びつきを強めることとはならない。人々の生活空間
は家や乗り物の中の、周囲の自然条件からは切り離された人工的な、快適ではあるが「生
の自然」との接触を持たない閉ざされた場所となってしまい、人々は周囲の「物」をガラ
ス窓越しに、ちょうどテレビスクリーンの光景を見るのと同じように眺めるだけで、直接
それに触れることがなくなってしまうかもしれないのである。これまでの都市は自然との
接触を失ったと言われた。しかしそこには建物や街路、そして多くの「人工物」の強い存
在があった。しかし脱都市化の中では「人工物」の存在感が失われる一方で、自然的な「物」
が再び存在感を回復することもないかもしれないのである。「脱都市化」は奇妙にシュー
ルレアルな世界を生み出すかもしれない。
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6.2 世界的な意味
更に問題は世界的な条件の中での展望である。文明の成立とともに発生した都市は、都
市と農村の対立、そして都市による農村の支配を生み出した。近代世界では、工業化によ
って都市的性格を強めた国々が、農村的性格を多く残した国々を支配した。植民地の独立、
解放とともに、多くの開発途上国でも急速な都市化が進行したのは、それが従属的地位か
ら逃れるための必要条件であったからである。それが先進国との経済的文化的格差を縮小
する唯一の方法と思われたからである。開発途上国の都市化は現在も進行中であるのみな
らず、むしろ加速化している。単に人口が集中しているだけでなく、多くの混乱と矛盾を
はらみながらも近代的な形を備えた大都市が世界各地で続々と生まれつつある。最近の世
界全体の市場経済化の進展は、都市化を加速しつつある。
問題はこの中でアメリカや日本、そして西ヨーロッパなどが、都市化を越えて脱都市化
に向かいつつあるということである。それは多くの開発途上国が現在なお工業化を強く推
進しつつある中で、先進国がすでに「脱工業化」へ向かっていることと対応している。こ
のことは何を意味するだろうか。
先進国が脱都市化へ向かっているといっても開発途上国、特に中国やインドのような
国々が都市化から脱都市化へと近い将来に転換することは不可能である。それを可能にす
るような社会インフラストラクチュアの建設には莫大なコストを必要とし、従ってまたか
なり長い時間をかけなければならないからである。
しかもこのことは先進国と開発途上国の経済的、政治的、文化的格差を再び拡大するこ
とにならないであろうか。近代において豊かな都市社会が貧しい農村社会を支配したよう
に、近未来社会においては豊かな脱都市社会が、貧しい都市社会を支配することにならな
いだろうか。近代において経済を支配したのは、都市に根拠を置いた工業資本や商業資本、
或いは金融資本であり、それらは巨大な工場や店、事務所ビルなどの目に見える形で君臨
していた。しかし現在の世界を支配しつつあるのは、コンピュータネットワークを通して
市場を操作する、どこにいるともわからない目に見えないマネー資本である。マネー資本
はいわば脱都市化した資本なのである。
都市を根拠とした資本に対しては、これまた都市に集中した労働者階級が、労働組合や
社会主義運動によって対抗し、また中間階級をふくむ市民が投票権を通して政治的にコン
トロールした。しかし脱都市化した社会の中でマネー資本に対抗し、それをコントロール
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する力はどこから生まれるだろうか。コンピュータネットワーク上のヴァーチュアル・ポ
リティックスでは無意味なことは明白であろう。このように考えると、先進国においてさ
え、実はすべての人が快適な「脱都市」社会に生活できると思うのは幻想にすぎないかも
しれないのである。多くの貧しい人々は都市から「脱出」することができず、「貧しい都市」
は開発途上国だけでなく先進国にも残され、或いは拡大していくかもしれないのである。
いわゆるグローバル化の中では「脱都市化」が、開発途上国にもむしろ先進国の一部の
人々が自然環境の最もよいところを占領する形で進む一方、先進国の大都市には開発途上
国から難民や移民労働者が大量に入り込み、それを事実上開発途上国の貧しい都市として
しまうかもしれない。そうなれば脱都市化に加わることのできた人々と、それに取り残さ
れた人々との対比、対立の図式が世界的に形成されることになるかもしれないのである。
それがどのような社会的、政治的問題状況を生み出すであろうか。それについてはまだ何
も言えないが、「脱都市化」がバラ色の未来を生み出すと考えることが楽観的にすぎること
は明らかであろう。世界中がシリコンバレーになることはできないというだけでなく、シ
リコンバレーの豊かさは世界の多くの部分の貧しさの上に成り立っているからである。
6.3 電子化への対応
電子化とそのもたらす一つの結果としての脱都市化については、そこに好ましくない面
がふくまれているとしても、それ自体を止めることはできない。
しかし逆にすべてをいわば「成り行き」にまかせておくことは正しくないし、ましてや脱
都市化を加速する方向へ努力することが適切だということはない。そのもたらす可能性の
あるマイナス面については十分注意深く追求し、適切な対応をしなければならない。
政策的課題としては、脱都市化に対応する面と、それにいわば取り残された部分、とく
に旧来の都市に対するものとの二つの面がある。
脱都市化に対して重要な課題は地域、とくに地方自治体をどのように組織し運営するか
である。現在の地方自治体は、単なる便宜的行政区制となって、一つのコミュニティとし
ての意味をますます失いつつある。しかし日本ではアメリカと違って、それがすべて機械
的、いわば幾何学的に区分されたものではなく、いろいろな歴史的由来にもとづいて区分
された場合が多いから、地形上の必然性を除けば、現在では必ずしも合理的なものとなっ
ていない。例えば現在川崎市は多摩川沿いに極めて細長く、幅の狭い奇妙な形をしている
が、多摩川は東京との境界という以上には、そこに沿う地域を横に結びつける機能は持っ
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ていないから、自治体の形としては合理性がないと言わざるを得ない。そうして沿海地帯
はかつては京浜工業地帯の中核部分を形成したが、製造業の地域的拡散傾向によって、そ
の比重は低下しつつある。一方山の手の新住宅地は全く東京の郊外であって、川崎市内の
商業地域との結びつきは全く弱い。また旧市内地域の住民はかつてはひどい公害に悩まさ
れていたが、新しく開かれた郊外住宅地の環境は極めてよいといってもよい。川崎市は自
治体としていろいろな面で優れた成果を挙げているといってよいが、潜在的には地域共同
体として多くの困難をかかえているといってよい。
地方自治体の構造をどのように再編成すべきかは今後の重要な課題である。現在の地方
自治の基本単位である都道府県については、北海道はともかく、都府県は小さすぎるので
はないか。もっと大きくまとめる方がよいといういわゆる道州制の提案もある。更にまた
市町村についてもより一層統合を進める必要があろう。ただし地方自治については、そこ
に歴史的由来があるだけでなく、その歴史は与えられた条件の中で作られて行くものでも
あるから、単純な機械的合理性にもとづいて区分けすればよいというものではないことに
も注意しなければならない。
また脱都市化は必然的な傾向であるから、それに対応することは必要であるが、それに
無条件に追従し、それを促進すればよいというものでもない。鉄道の到来は、近代的な都
市の発生と、鉄道の駅を中心とする都市構造の成立を大きく促進した。モータリゼーショ
ンと情報化は、鉄道の衰退と、駅を中心とする downtown の没落をもたらした。旧来の町
の中心部を再活性化しょうという努力はなされているが、しかしそれには限界があること
を認識すべきである。しかし逆にすべてを自動車道路と情報通信ネットワーク中心の構造
に再編成すべきであり、旧来の町や地域自治体のあり方は捨ててしまうべきであるという
ことにもならないであろう。自動車道路や情報通信ネットワークは、とりあえず産業(製
造業、商業、金融業など)の便宜になり、その効率性を高めるものであっても、必ずしも
人々の生活全体にとって望ましいとは限らないからである。旧来の都市の混雑から離れる
と同時に、その置かれている場所の自然から切り離された人工的な「脱都市」生活は便利で
快適で、そして情報社会における「先端的な」職業に従事する人々にとって好都合なもの
であるとしても、それはまた同時に人々からも自然からも切り離され、コンピュータネッ
トワークを通してしか人とも「物」ともコミュニケートできない「疎外」された生活を意味す
るかもしれないからである。そのことは特に高齢者や子供にとっては、望ましい環境では
ないであろう。脱都市化社会の中にも、人と人とが結びつき、人間が自然に直接触れるこ
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とのできるような場を、脱都市化を推進しつつある情報社会の効率性の論理を離れて作り
出すことが必要である。地域社会と地方自治体の再編成は、そのような視点から考えられ
なければならない。
6.4 政府機能の拡散
人口の首都圏およびその他の大都市圏への集中化に対応する地方分散、とくには首都機
能の移転の問題も脱都市化の状況の下で考えねばならない。
そもそもの問題は第一段階においては工業化の進展の中で「都市化」つまり人口の都市
集中が進んだことであった。高度成長期においてそれは太平洋―瀬戸内海岸メガロポリス
といわれるような都市群の集合体を作り出した。しかしオイルショック後の転換の中です
でに述べたように地方工業都市の人口は減り始め、第三次産業の集中する首都圏や関西圏
などへの集中が加速し、それが大都市の土地価格の暴騰などを引き起こして、分散化政策
の必要性が強調されるようになったのである。しかし最近の脱都市化の問題が更に次の段
階に入っていることを意味している、すなわち電子化の進展とともに、第三次産業の人、
施設の物理的集中の傾向は止まり、むしろ拡散化が起こりつつあるということであり、こ
のことが企業活動の集中化と同時に進行しているのである。それが脱都市化の主要な動因
となっているのである。
このような状況の中で実は第三次産業の大きな部分を占めている公務、すなわち政府活
動においては、全体としての電子化も、或いはそれにともなう拡散も民間に比べて大きく
遅れていると言わねばならない。現在でも中央省庁の庁舎が、首都のしかも特定の地区に
物理的に集中していなければならない必然性はなくなりつつある。勿論制度や慣習上の制
約から直ちに分散、或いは拡散することには困難があるとしても、それは全般的な行政改
革の中で推進すべき方向である。従って首都機能、或いは中央政府の移転 といっても
それが現在東京に集中している三権の機能を物理的に他の場所にまとめて移すのでは意味
がない。むしろ中央政府の物理的には分散、或いは拡散をともなうものでなければならな
い。そのことは公務の効率化だけでなく、政府の各部局がより機動的に状況に対応できる
ような態勢を作るのに有効であろう。
もう一つ考えられてよいことは、国全体ではなく、地方における政府機能の移転である。
現在各都道府県の政府、つまり県庁や議会は中央省庁の出先機関とともに、ほとんどすべ
てその地域の最大の都市の中に置かれているが、このことは必ずしも適当ではないと思わ
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れる。特に最大都市が政令都市として大幅な独立性を持っている場合には、県庁がその中
に多くの場合市庁と並んで存在することは、あまり望ましくないと思われる。アメリカで
は州政府はその州のむしろ小都市に置かれているのが普通であるが、日本でも今後地方に
おける民間の活動を推進するという観点からすれば、地方政府は最大都市にはない方がか
えってよいと思われる。また電子化が進展すればそのことが行政上不便を生ずるようなこ
とはないであろう。特に大きな災害が起こった場合などを考えれば、救援活動の司令部と
なるべき行政センターが大都市の中心にないことが望ましいと言うべきである。
立派な役所の庁舎や議会が、その地方の中心都市の更に中心部になければいけないとい
う考え方は、脱都市化の時代には全く時代遅れというべきである。
6.5 脱都市化の中の弱者への対応
脱都市化は、すべての大きな社会変容と同じく、それによって利益を受ける者と損害を
被る者、或いは勝者と敗者を生み出す。敗者、あるいは脱都市化における弱者に対する社
会的配慮が大切である。
脱都市化は、これまで都市で生活の糧を得ていた多くの種々様々な第三次産業、すなわ
ち小売商業や対人サービス業の人々の職を奪う可能性が高い。勿論商業やサービス業につ
いては人家から離れた所に新しい立地が行われるであろうが、しかしその過程で営業やサ
ービスの形態が変わり、雇用形態も大きく変化してしまう可能性が高い。結果としては省
力化が進み雇用は減少することになるかもしれない。勿論脱都市化が進んでも、これまで
都市が提供してきた娯楽や文化のための施設が、すべてヴァーチュアル化して、コンピュ
ータネットワーク上のサービスによっておきかえられてしまうであろうとは考えられない。
例えばバーや酒場で酒を飲む代わりに、画面上のヴァーチュアル酒場でヴァーチュアルコ
ミュニティ内の「友人」と酒を(ヴァーチュアルに?、それとも現実の?)を飲むことにな
るだろうとまでは考えられない。けれども脱都市化社会においては人々の生活行動も変化
して、歓楽やレジャーの在り方も変わることは十分考えられることである。
脱都市化が進んでも、都市にはこれまでの投資の結果としての建築物や社会施設の膨大
な蓄積があるから、それは簡単に消滅することはできない。従って今後都市の「空洞化」
によって荒廃が生ずる可能性がある。それについては十分な対策が必要である。
脱都市化にともなう一つの興味ある問題として、土地問題、あるいはむしろ地価問題が
ある。都市化の進展の中で都市の土地の価格は絶えず上昇を続けてきた。それは都市の土
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地の価格が需要を上回っていたからであった。この傾向は日本の「バブル」の時期に頂点に
達した。バブル崩壊後、大都市の土地価格は急落し、再び土地価格が急騰することはない
であろう。脱都市化の進展の中で、都市の土地に対する需要が急激に増加することはない
と思われるからである。かつてバブル期には、東京が世界の金融センターとなるとともに、
莫大なオフィス需要が生じ、東京の土地もビルも大幅に不足するであろうとといわれて、
土地投機に拍車がかけられたのであった。しかし世界の金融センターにおいても、今後物
理的にそれほど巨大な人と施設の集積が起こるとは考えられない。冷静に考えればそのこ
とは 1990 年においても明白なはずであった。今になってはそのことには疑問の余地はな
い。
脱都市化は、ある意味では都市の土地問題を自動的に解決することになる。しかしその
過程では現に起こっているような土地資産に対する債権の不良債権化も起こるわけである。
脱都市化のこのような方向への影響も考慮に入れなければならない。
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