Title フランス革命の憲法原理 - HERMES-IR

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Author(s)
フランス革命の憲法原理 : 近代憲法とジャコバン主義
辻村, みよ子
Citation
Issue Date
Type
1989-07
Thesis or Dissertation
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/18873
Right
Hitotsubashi University Repository
第三章
一七九三年の憲法原理
理
原
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毘舷
年
已
章
三
︸
第一節 ジロンド派の憲法原理
一 コンドルセの憲法思想とジロンド憲法草案
フランス憲法史上で﹁ジロンド憲法﹂と称されるコンドルセ起草の憲法草案︵いわゆるジロンド憲法委員会草案︶
は、一七九三年二月一五ー一六日に国民公会に提出され、ジロンド派主導期の憲法案審議の対象として一七九三年
憲法の成立に多大な影響を及ぼした。一七九三年憲法制定過程に認められるジロンド・モンターニュ両憲法草案︵お
よび両派主導による憲法制定作業︶の連続と断絶の関係、さらに、一七九三年憲法研究にとってのジロンド憲法草案の
重要性についてはすでに前章でみたとおりである。
従来のフランス憲法史学あるいは歴史学研究では、ジロンド憲法草案とモンターニュ憲法︵一七九三年憲法︶との
から説明することは困難である。ましてや、ジロンド草案の憲法原理やコンドルセの憲法思想を、一七九三年とは
の近似性︵とりわけジロンド憲法草案の統治原理の民主的性格︶は、ジロンド派とモンターニュ派との階級対立の構図
ブルジョワのイデオロギーの表明として理解される傾向があった。しかし、このような両憲法︵草案︶の憲法原理上
農民の代表という階級対立的な視点が強調され、ジロンド憲法草案およびコンドルセの憲法思想が、もっぱら上層
廿 憲法原理上の近似性が指摘されてきた反面、ジロソド派11大ブルジョワジー、モンターニュ派11小ブルジョワジー・
第
1
41
異なる状況下で制定された一七九一年憲法の原理やフゥイヤン派の憲法思想と同視することはできない。すでに序
を主張しつつネッケルの財政政策を批判した。彼は、チュルゴに従って、農業によって生み出された余剰価値すな
︵3︶
題に関する論文を発表し始めた。
͡4︶
革命前夜において、コンドルセは、まず、穀物取引の自由の問題に関して﹃小麦取引に関する省察﹄︵一七七六年︶
︵5︶
を刊行し、﹁人民の食糧を確保ずる方法は、穀物取引を完全に自由にすることである﹂として穀物取引の完全な自由
務総監に就任すると、コンドルセも造幣総監︵︼5089已﹁σq合騨巴△Φω呂o§巴。切︶に登用され、財務官吏として経済問
コンドルセの経済思想には、個人的にも交際の深かったチュルゴの影響が最も強く、一七七四年にチュルゴが財
ω 社会・経済思想
と政治思想について概観しておくことにしよう。
期︵一七九二年から一七九四年まで︶に区別し、革命の進展に伴う憲法思想の変化に留意しつつ、彼の社会・経済思想
下では、コンドルセの活動期間を大まかに革命前夜、革命初期︵共和主義者を自認する一七九一年後半以前︶および後
民主主義的な政治思想は選挙や地方行政等の統治原理に反映して、ジロンド憲法草案を構成する要素となった。以
コンドルセの憲法思想のうち、その自由主義的な経済思想は、自然権を核とする人権原理に影響し、また、その
され、翌日自殺した。
の追放によって逃亡生活を余儀なくされ、未刊の大著﹃人間精神進歩史﹄を執筆中の一七九四年三月二八日、逮捕
委員会の中心人物として、ジロンド憲法草案のほか、教育に関する諸改革案を起草した。しかし、一七九三年六月
一七九一年六月のヴァレンヌ逃亡事件以後は他の多くの革命指導者と同様、共和制支持者となり、国民公会の憲法
リのコミューンの一員として、また、立憲君主制論者を中心とするコ七八九年クラブ﹂の一員として活動した。
一七八九年に革命が勃発すると、当時国民議会議員ではなかった彼もいち早く革命を支持し、同年九月からはパ
︵2︶
政治家の一人でもあった。
学を形成した﹁フィロゾーフ﹂の最後の代表者であった。また、その思想を現実の政治や経済政策に応用した革命
ー、チュルゴらの﹁重農主義者︵フィジオクラート︶﹂など多様であったが、彼はこれらの思想家の影響下に独自の哲
彼に影響を与えた思想家は、モンテスキューやルソーのほか、ディドロ、ダランベールらの﹁百科全書派﹂、ケネ
三九歳でアカデミー・フランセーズの会員となって、革命前夜のサロンで当時の経済学者や哲学者たちとの交流を
︵1︶
深め、数学や天文学の他、政治・経済・社会・教育・宗教等について多くの論説を発表した。
ピカルディの小都市リブモンに、侯爵の子として生まれた。彼は、数学者として二六歳で科学アカデミーに入り、
ンドルセ侯爵、呂曽完]o知㌣﹀葺oぎ?Z︷oo訂゜。○①芸ぶヨ曽ρ已拾○。ひoao苫8は、 一七四三年九月一七日、北フランス・
﹁最後のフィロゾーフ﹂と呼ばれ、才人として名高いコンドルセ︵マリージャンーアントワーヌーニコラ・カリタ・コ
ー コンドルセの憲法思想
の人権原理・統治原理上の特色や限界について検討を行うことにする。
ドルセの憲法思想の集大成と解する立場から、まず、コンドルセ自身の憲法思想をみたうえで、ジロンド憲法草案
必要があろう。以下では、従来からジロンド派の憲法原理の表明として捉えられてきたジロンド憲法草案を、コン
法草案︵コンドルセ草案︶のそれとの関係、ジロンド派のなかでのコンドルセの憲法思想の位置なども明らかにする
ここでは、さらに、上層ブルジョワジーの利益の擁護者と解されるジロンド派の一般的な憲法原理とジロンド憲
題とされる所以である。
ジロンド憲法草案の憲法原理上の位置づけを明確にし、一七九三年憲法の憲法原理との比較を行うことが本章の課
⑫ 章と第一章でみたようなフランス革命の構造分析をふまえたうえで、近代市民憲法原理の本質と限界との関係から、
]
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わち純生産物こそが真の富であると考え、この余剰価値の増大のために、穀物取引の自由や穀物輸出の制限撤廃、
︵6︶
44 価格の公平化などを要求した。このような経済自由主義が、フィジオクラートの自由放任政策に通じるものであっ
たことはいうまでもない。また、コンドルセは、﹃賦役に関する省察﹄︵一七七五年︶、﹃賦役の禁止について﹄︵一七七
︵7︶
六年︶のなかで、当時の農民を窮乏させていた賦役制度の苛酷さを訴え、その撤廃を主張した。同時に、チュルゴの
政策であった同業組合の廃止︵チュルゴの辞任によって廃止後二年で復活していた︶を支持し、手工業者のための職業
の自由、雇用者との契約の自由を主張した。これらの主張は、自然権としての所有権の絶対性についての思想を基
礎にもっていたが、コンドルセは他方で、﹁所有に関する法律が制定されるのは、︹富者の保護のみならず︺財産を少
正当性を擁護しつつも、やがては大財産の制限に進む方向を打ち出していた。このことは、﹃チュルゴ氏の生涯﹄二
︵8︼
ししか持たない貧者を保護するためである﹂として、経済的弱者保護の法律を立法者に対して要求し、土地所有の
︵9︶
七八一年︶のなかで、チュルゴの理解する﹁社会秩序の主体﹂をさらに民主化し﹁共和政体がすべてのなかで最もよ
いものである﹂と称するに至ったこととあいまって、彼の経済思想がチュルゴを超えたことを示すであろう。
く10V ͡11︶
次に、革命初期においても、コンドルセは財政に関する多くの論文を発表し、実際に国庫委員︵︷﹁mωO﹁Φ﹁︷O︶とし
て財政・租税改革に熱意を注いだ。彼は、革命以前から、土地に対する直接税を要求し、チュルゴの統一税︵目葛ひ
已己台。︶の考えを支持していたが、一七九〇年に著した﹁個人税について﹂という論文では、個人とりわけ富者から
͡12︶
比例的に税を直接徴集する制度を主張し、累進税を承認する方向を打ち出した。﹁大財産の存在自体が有害である。
それらが平等に近づくことが有用であり、それなくしては、諸権利の平等は全体的なものにも現実的なものにもな
︵13︶
りえないしという彼の考えは、一七九三年六月の論文のなかで明確に累進税を承認せしめた。また、彼は、退職者
のための社会保障の必要を説き、一七九二年三月のデクレ案ではそのための国庫の創設を要求するなど諸改革運動
︵14W
を展開した。
以上のように、コンドルセの社会・経済思想は、革命の進展に伴ってしだいにフィジオクラートの所有権絶対の
原理からの逸脱をみせている。従来は、コンドルセーージロンド派は、もっぱらフィジオクラートやアダム・スミス
の理論に依拠して、上層ブルジョワジーの利益を追求したものと考えられてきた。その故に、穀物取引の自由等に
ついての革命以前の思想が、ジロンド憲法草案を起草した一七九三年にもそのまま貫かれていると考えられること
がつねであった。しかし、最近では、ジ鷺ンド派11大ブルジョワジー11自由の擁護者、モンターニュ派11小ブルジ
ョワジー日平等の擁護者という図式的な捉え方に疑問が提起され、一七九三年には自由・平等という二つの理想の
ジンテーゼが追求されていたこと、そしてコンドルセにおいても、大財産の制限、累進税による平等な税制の確立
͡15︶
が意図されていたことを指摘する研究成果が注目されている。ここでは、社会・経済問題について、ジロンド派と
︵16︶
モンターニュ派の立場が﹁驚くほど似ていた﹂ことが結論づけられる。
②政治思想
コンドルセの政治思想は、その民主主義的主張の徹底さにおいて﹁ジロンド派の政治論の枠をこえ、ルソー主義
強く受け、エルヴェシウス夫人のサロンでフランクリン︵哨日昌琴︶に接したことから、ペンシルヴァニア州憲法な
の実現は夢想でしかなく、貴族制・君主制・無政府制の三つの選択肢のなかでは君主制の選択が最も賢明であるこ
︵18︶
とを、当時影響を受けていたヴォルテールとともに信じていた。一方、コンドルセは、アメジカ独立革命の影響を
まず、革命前夜には、コンドルセは、他の同時代人たちと同様に君主制論者であった。当時の状況では、共和制
あった。
礎とする民主主義的政治思想を確立したが、それは、現実の革命状況に即して彼の政治思想が進展をとげた結果で
響を受けたモンテスキュー流の貴族的政治思想やフィジオクラートの啓蒙専制的政治思想を超越し、共和・王義を基
︵17︶
鯉 によるロベスピエールの民主主義論と双壁をなすものであった﹂と指摘される。たしかに、彼は、革命期以前に影
灘
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︵19︶
どに示された民主的な政治原理への関心を深めていった。彼は、一七八六年に﹃ヨーロッパにおけるアメリカ革命
が命令的委任制度の採用を否認していたことと併せて、コンドルセは、︵少なくとも国民公会に至るまでは︶純︵粋︶代
制︶のみが現実に組織化されうることを明らかにしていた。この点で、コンドルセはルソーと対比され、コンドルセ
コンドルセは、革命前夜の著作のなかで、デモクラシーの実現は直接民主制を意味しないことを述べ、代表制︵代議
な形をとっていった。次の課題は、彼の主張する市民の立法参加権をどのように実現するか、という問題である。
王権の廃止、執行権の内閣への移転、議会による大臣の任命、普通選挙という諸原則が、彼のなかでしだいに明瞭
このように、コンドルセは、自由・平等・人民主権を原理とする憲法体制を構想して君主制を放棄するに至り、
︵30︶
その政治思想は革命の展開に伴って急な進展をみせた。とくに一七九二年八月一〇日の共和主義革命を経た後は、
に共和主義者であった。彼は、﹁共和制について﹂と題する演説のなかで、君主制を擁護する五つの立場の各々につ
︹担︶
いて反論を試み、フランスにはもはや国王が不要であるという結論を導いた。
演説から共和主義への傾斜をみせ始め、国王のヴァレンヌ逃亡事件を経た一七九一年七月九日の演説では、明らか
統治形態についても、彼は、革命初期にはなお君主制を支持しており、一七九〇ー九一年前半に書かれた国民議
ハ28>
会や大臣の選任に関する論文では、君主制の理論が出発点となっていた。しかし、彼の考えは、一七九一年四月の
税や財産による被選挙資格制限の撤廃要求を選挙資格にも拡大し、また、財産の他、職業・性別・人種による制限
︵27︶
にも反対することで、やがて僕碑や赤貧者、女性、黒人にも選挙権・被選挙権を認めるという考えに到達した。
租税による選挙権・被選挙権の制限が一七八九年人権宣言における平等原理や主権原理に反するという考え、選挙
︵26︶
権は人間の本性に由来する自然的な権利であるとする思想が、しだいに彼を普通選挙権の承認に向かわせた。彼は、
二月一四日のデクレに反対して、ロベスピエールら当時の左派議員らと同様に﹁銀一マール﹂の撤廃を要求した。
法問題を検討した際、人民による憲法改正権を主張し、また、被選挙権の要件に銀一マールを課した一七八九年一
しだいにその欠陥が克服されていった。コンドルセは、一七八九年一〇月にパリのコミューンの委員会に属して憲
以上のような革命前夜の政治思想は、革命勃発直後も基本的に維持されたが、革命期の諸法制の展開に対応して、
を要求していたのである。
︵25︶ ・
任者たちの自然権はより多く保障される﹂と解しつつも、地方議会の代表には、その地方に属する住人であること
資格より加重することにも反対していた。コンドルセは、﹁代表の選出についての条件が少なけれぼ少ないほど、委
︵24︶
不動産所有者︵買◎W苗巴8ざ自ぷぴ巴には土地のみならず住居の所有者も含むものと考えており、被選挙資格を選挙
にあった当時のコンドルセの重大な限界であったといえる。もっとも、彼は、税による選挙資格の制限は認めず、
たが、選挙権の主体としての﹁市民﹂の実体を不動産所有者に限定したことは、フィジオクラートの思想的影響下
︵23︶
ての市民に限定されていた。彼が、女性の参政権を認めたことはフェミニズムの展開にとって重要な意味をもっ
︵22︶
の立法参加権としての合。詳匹。。団蒜および、その一態様としての選挙権の帰属が、両性からなる不動産所有者とし
のような市民権︵工﹁O︷[ユΦO凶⇔m︶の存在を基礎として租税の分配など地方議会の§的を考察したが、そこでは、市民
︵21︶
トの集会に属すべきことが主張された。彼は、 一七八八年末の﹃地方議会の構成と機能について﹄のなかでも、こ
の立法参加権の実現方法について細かな検討がなされ、国家意思の最終決定権がつねに第一次集会やディストリク
の短縮などが主張された。翌年の﹃ニュー・ヘブンの一ブルジョワからのヴァージニア市民への書簡﹄でも、市民
︵20︶
挙権く汗oぱ瓜霧鼠昧隅o︶に重要な位置が与えられた。また、アメリカの統治機構との対比から、∼院制や立法期間
しくは代表者を通じて法律の制定に参加する権利は、自然的平等の必然的な帰結として争いえないものとされ、選
利、立法に参加する権利︵参政権︶の四つが、人間の基本的な権利として列挙された。とくに、各市民がみずからも
察した。ここでは、個人の安全︵身体的自由V、財産の安全と宿由な享有︵所有権V、 般的法律にしか服従しない権
4
6 の影響﹄を公刊し、人間の自然権の確保が社会の幸福の基礎であることを出発点として、権力の組織化の問題を考
1
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表制論の闘士であったと解されることが多い。
︵31︶
しかし、代表制︵代議制︶の承認と命令的委任の否認をもって、純︵粋V代表制論の採用を根拠づけることはでき
ない。彼は、革命前夜においてすでに、人民が望むときに議員の議決ではなくその委任者全体の意見によって問題
を確定しうるように憲法を制定することを主張していたが、このような人民による意思決定の原則を深奥に抱きつ
︵32︶
つ、ルソーよりも現実的なコンドルセは、組織化の具体的指針を代表制に求めたのである。一七八九年の論文のな
かで、代表制︵人民が一旦代表を選出した後は、代表が人民に代わって全権力を行使する形態︶と直接制︵人民が全権力を
行使し、代表による介入を全く認めない形態︶を区別し、たとえ原理的には後者が適合的であるにせよ、前者のみが組
︵33︶
織可能であると信じていた彼は、しだいに前者から後者への移行をみせ、その中間点に解決を見出した。すなわち、
彼は、すべての市民は、人権宣言の審査およびそれと憲法との適合性の審査のために諮問されるべきである、とし
てレフェレンダムの採用を明らかにしたが、当時における選挙人団の無知や政治的経験の不足、あるいは広大な社
八34>
会で実際にすべての法規をレフェレンダムにかける手続きの困難さ等を理由として、レフェレンダムをすべての法
律に対して適用することを避け、憲法の改廃のほか重要な法律に限定した。反面、コンドルセは、人民にすべての
法律についての発案権と拒否権および憲法改正権を留保し、人民による代表のコントロール制度と公務員等の讃責
手段も確立した。こうして、一七九三年のジロンド憲法草案では、第一次集会における人民の主権行使形態に重き
がおかれ、今日の憲法学にいわゆる﹁半直接制﹂が採用されるに至る。
︵1︶ コンドルセの父はもともとドフィネ州の優良な貴族の家系であり、母はブルジョワジーの出身であった。彼の生後
学を学んだ。数学者としての彼の才能はダランベール︵O、≧o日σo﹁︷︶らによって高く評価され、その愛人レスピナス嬢
まもなく父が早逝したことにより、コンドルセは、司教の叔父のもとで教育を受け、一五歳のときパリに出て数学と哲
︵ζ=。↑、団ω豆§胡。︶や、エルヴェシウス夫人︵呂ヨ。匡o言m江⊆ω︶らのサロンに出入りすることとなった。これらのサロ
ンで、チュルゴ︵↓已侭o︶をはじめとする当時の経済学者︵とりわけフィジオクラート︶やフィロゾーフたちとの親交を
︿2︶ コンドルセの思想や経歴に関する文献は数多いが、本章では、特記するもののほかに以下の文献を参照している。
深めたことが、彼の憲法思想の形成に重要な影響を与えた。
笥目琴π≧窪買“9状合§ひ簑蓉誉簿㌔へ苫甘蔑o認㌔蕊命法Sき讐○偽へ§§へさ弍9蕊ミミざ民民災災﹀芯ミa§∨合合
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穿崎ミ跨㌻賎、×民e叉§蟄諒冴合注⇔§音博§憂惑קミか☆§甘▼おぼ︰×甑各哀Snす①魁◎o①オΦ♪9状§§9㌔§x瓜㌔×目へ
﹀ミ合8せ登飴○ミさきo§ミへ塗拾昂⋮前川貞次郎﹁コンドルセの生涯とその著作﹂﹃人間精神進歩の歴史﹄︵一九四
九年︶、津田内匠﹁アンシャン・レジーム時代のコンドルセについて﹂ 橋論叢三三巻三号六九頁以下。
︵3︶ チュルゴの経済思想は、﹃富の形成と分配に関する省察㎞︿一七六六年︶その他によって知られ、 ⋮般に、所有権の
絶対性と穀物取引の自由を中核とする経済的自由主義として理解されている。彼は、地主の近代化運動の推進者として
のケネ⋮およびフィジオクラートの流れをひきつつ、その﹁合法的専制主義﹂を批判し、貴族免税特権の廃止、租税体
系の改革、穀物取引に対する制限の廃止などの政策を実践した。’チュルゴの思想は、人間の身体的精神的不平等を財産
の不平等に拡大し、生産階級・被雇用者階級の分化と社会的分業を承認するなど種々の問題点を含みながらも、土地所
有を基礎とする政治参加の構想の背後にある地主への課税論、﹁啓蒙された市民﹂を育成する国民教育の必要を説くな
の
三
九
七
一
チュルゴの経済思想およびコンドルセへの影響については、木崎喜代治﹃フランス政治経済学の生成﹄︵一九七六年︶
照。また、コンドルセの社会・経済思想については、安藤隆穂﹁フランス啓蒙思想における市民社会論の成立ーコン
三〇九頁以下、河野健二﹁経済思想﹂桑原編﹃フランス革命の研究﹄一九三頁以下、舅.≧Φ目目り§呼ミニ⑰。。N一など参
ど、コンドルセが共鳴しうる点を多くもっていた。
章
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頁以下、本田喜代治﹁最後の﹃哲学者﹄コンドルセ﹂﹃フランス革命と社会思想﹄︵一九七〇年︶二四〇頁以下、廷◆間﹁①苫ωぎo͡、
ドルセを中心に﹂思想六七八号三九八〇年︶八一頁以下、吉田正晴﹃フランス公教育政策の源流㎞︵∼九七七年︶七二
︵4︶9邑o︹8[\.痴豊o×一8°。c・ξ一⑦8∋日28象ω巨鍵、ニミ◎﹀°9ao言⑦㌣○、Oo弓o叶9呂ウ゜︾日σqo“§へ﹀§
卜朋辻習﹀◇荘封黛朋︵討○へ目8貼v拐噌夢衙ωρ這Φ靭OP$露ω゜など参照Φ
︵5︶
吉田・前 掲 書 七 四 頁 。
≧ミぐO﹄。。S
○§§さミし。。偶ヨ庁×︼もや⑩O⑦[P︹以下、このコンドルセ著作集からの引用は、§ミさ防三⋮とのみ記す。︺
︵6︶
︵8︶
否o邑o︹8で、勇⑲自o蚤8ω白。已二Φ8ヨ∋o︹8審。。巨9、、、§で§三参×担O]。。q⊃°
︿7V OO蔑偏8∩、勇総o×ぴ自゜・烏汀ω8勾⑳窃、、∀、.もo烏]、吾◎吉ふs吾ω82含ω.、“§o§▼幹×囲らP胡倶ω゜も噂゜◎。べ魯㊤
︵10︶
安藤・前掲論文九二・九四頁は、﹁チュルゴが地主にみいだした、啓蒙された市民が、全社会へと民主化され、普遍
Oo昌巳o︹8戸、.<8江Oζ゜↓ξσqoO.w峯o。ゲ§eさ切三もざO悼田゜
︵9︶ 憲゜ウ墨くωωぎ臼“§.☆、こ⇔8°
︵11︶
化された社会﹂をめざすことによって﹁フランス功利主義の展開における啓蒙的専制の枠からの脱出﹂の段階に足を踏
み入れた、と理解する。なお、安藤﹁フランス革命期の市民社会像ーースミスとコンドルセ﹂思想七〇二号三一頁以下
︵12︶ ひ800﹁8丁、苗ξ一、一日OO[罵叶ωoロロユ、、三品P§eさ靭ひ×炉OPO一9む力方
では、コンドルセに対するアダム・スミスの影響が明らかにされている。
︵13︶ ]≦°司墨町ωω日9号゜☆Sこ廿▽㊤N−Oω゜
︵15︶ SO庁①⊂琶⋮◎氏・でΦωΩ﹃O昌匹ぎω、、“﹄ら合合ヘへOS⇔§、∩へさボミ5災ミOボ置ボ☆§“﹂q⊃o。P⑰ωPここでは、コンドルセの
︵14V ≧ミこP宏鳴
憲法思想のなかにその統合を認め、﹁私は平等を基礎にもった共和主義の憲法だけが、自然と理性と正義に適合する唯一
のものであり、市民の自由と人類の尊厳を維持しうる唯一のものであると絶えず考えてきた﹂とする彼の一七九三年四
月 ○臼の発言に注目している。また、一七九三年には、ジロンド派にせよモンターニュ派にせよ、所有権を尊重しつ
つ︵これど本質的に抵触しない範囲で︶平等の実現を追求したことを強調している。
さらに、同じ問題意識に基づいて、ジロンド派の経済的自由室義を絶対的なものと解し、ジロンド派をしてアダム・
スミス論のフランスへの導入者と考える従来の研究を疑問視するドリニィの研究も貴重である。ここでは、ジロンド派
が必ずしも貿易自由主義の絶対的な推進者ではなく、 一七九二年から一七九三年にかけては、保護主義的な傾向が強め
られていたことが明らかにされている︵呂゜OOユ胃ざ、ドoむ。庄衙o。。警§o日芦已mる力△⑦ω○冒Oロαぎ・。.、w﹄へ竃§ヘミS§、
9§嵩ミ嵩災ミOs眉ボ爲§“℃∨べ∪っoけp参照︶。
︵16︶ 同ウo苧Ω窪o︿口゜・ρ、.﹀妄o︹芭目ω△o訂8芸︸ρ9一〇m9﹃oaぎωω⑦昔訟巳c。ωo暮、、“﹀☆令§8茸ミ“Qさ∨ミへδ災
︵17︶ 安藤﹁フランス革命期の市民社会像﹂思想七〇二号三一頁。9奇忠㌣はぎ冨︹8°口︸亡廿金鳶参照。後者では、一七
ミOボ眉ボ☆§“℃自゜
八九年以来、選挙権・被選挙権の制限に反対して普通選挙の立場をとった者が、ロベスピエールの他はコンドルセだけ
であったことが指摘されているが、コンドルセが革命勃発の直後から普通選挙の立場をとっていたという誤解は避けな
ければならない。ジロンド憲法草案の検討にあたっては、革命前夜から∼七九三年に至る革命状況の進展に朗したコン
ドルセの政治思想の変遷をたどりつつ、政治形態・代表制・選挙制度等に関する理論的な特色と限界を明らかにしてお
くことが必要であり、また、その作業を前提としてはじめて、後に、コンドルセと双壁をなすといわれるロベスピエー
れる。
ルやサン・キュロットの民主主義論、すなわちルソー主義的な民主主義論との差異も明らかにすることができると思わ
︵18︶ ]5ヴ田ぺωむうヲO台e°☆SこO弓]80⇔°。°
︵20︶ Ooao﹃8ρ、口巴.︹呂20909一①カ㍗o言け︷8△、︾ヨ含δ5切已二.国ξ8少§ミミ句二く呂もP一ムHω⋮田゜﹀苫汀日・
︵19︶ は辻こOPごω2P
σ知已け△oζo昌♂艮↑災へ§句惑◎さ合§災句ミ合句菖し㊤一㎝、︵︹8ユコニ零O︶矯廿﹄口2鉾
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﹀﹃各①ヨぴ①巳け合ζo艮o詳噸§“ぱ㌻OPω刈必ふ参照。
−ぴ紹タ選挙人資格については、㌫辻゜もP嵩べ忠ω∴.、やΦω︼o口苫ω△、§ぴo已蒔oo一ω△o之o弍−ロ①<⑩ロもP一戸oけ磐参照。
︵23︶ コンドルセが一七八七年の﹃ニュー・ヘブンの一ブルジョワからのヴァージニア市民への書簡﹄のなかで女性の選
挙権を承認する考えを提承し、 一七九〇年七月三日の﹃女性の市民権の承認について﹄においてフェミニズム理論を展
開したことについては、拙稿﹁フランス革命期における女性の権利﹂成城法学一七号八七頁以下を参照されたい。なお、
口﹀月9∋冨三[△oζo己o︹︹e°ミこ8﹂に2。。∴ひo昆o﹁8□、、むり已﹁一、匙日♂⋮oo△①ψ・︹o日ヨo切き△叶o當号n︷芯、ド
θミ§“戸×もO]一㊤魯鉾参照。
︵24︶ Oo昆o﹁8□、已o・。8二已二①8暴法暮︷§⑦二〇♂9江o§o日Φ暮○霧自6・Φ§σ寂Φ白。℃8<⋮9芭oω、、“Sミさ切三≦︻︼も騨
一綜魯ψ。肉る噂□口Om⇔ω‘参照。
︵25︶ きミこや﹂弍①けρ
︵26︶ 忠゜戸苫ロ①ヨσ①巳⇔江Φ哀◎艮◎﹃㍗8’へ昔“カO自魯卯コンドルセの﹁銀一マール﹂等に対する批判については、
0§全◎苫o♪、、︾貸Φω゜。o勘一、麟8Φ目O翫Φ灘9ざo巴oω烏一霧8且在§ω△。伽昔︹宮謡田。.三冶O§eさ㌘ひ×もO.ミΦWω゜参照。
︵28︶ 隅︾叶各①日ぴ①薮仲△O呂o己o﹁ひ§°☆、こづOじ㌫魯ρ
︿27∨ ㌣泣窒田子亀゜☆ב℃や心+Φ露幹
版の自由などが︵民衆的な︶独裁の危険を回避せしめること、権力者たちの専制から人民を守るために国王が必要であ
︵29︶ コンドルセは、独裁者をもたないために国王が必要であるという第一の議論については、県への行政権の分割や出
るとする第二の議論については、憲法があらゆる特権や富の不平等を除去していることをもって反駁した。また、立法
あげ、行政権の専制の防止のために国王もしくは一人の支配者を求める第四の議論については、行政府の職務の制限や
権の権力濫用から市民を守るために国王が必要であるとする第三の議論については、立法者の任期や職務の限定などを
人民による任命、立法者の監視その他、法律への従属によって専制を回避しうることを主張した。第五の、行政権の強
化のために国王が必要であるとする議論に対しても、真の権力とは国民の権力でしかなく、それは人民の信頼と法律の
制を否認した。その原文は、ひ◎且含8㍗、、O巴ロ丙●cぴ開欝¢P◎⊂蒙吋o㌃留と忌霧霧①寄Φ助訂O霧留コ魯8灘江o鼠琴O簿伽刃、
尊重からしか生まれないこと、平等の支配下では個人の従属を強制する権力があってはならないことを主張して、君主
︵30︶ もっとも、コンドルセは、 一七九一年七月の演説以降もしばらくは立憲君主制の立場で政治活動を続けたため、 一
Sミさ酌︹×一一もOふN。。魯ω“なお、吉田・前掲書八二頁以下も参照。
七九二年八月一〇日までの言動との矛盾が指摘されることがある。その理由については、シャン“ド目マルスの事件を
などが考えられる。畑︾言Oぴoq>足﹀“へ管、Oやo◎ω声忠ψ
契機として君主制の側の反動が強まった当時の状況下で、コンドルセらは政治的には微弱な少数派にすぎなかったこと
︵31︶ 呂゜間日累ω。。ぎ①ひ8°亀S二⇔H霧゜
︵32︶ さミこ ⑰ 一 N ? 品 Φ “
︵33︶ コンドルセの代表制論の進展は、一七八七年の﹃ニュー・ヘブンの一ブルジョワからのヴァージニア市民への書簡﹄
㌫菰絃立涼儀Φ拾詳磁噌9]訟氏㌫8自仲#烏ぎ鄭O図ぺ㌣ω△潔o×oOω、、“嬬◎。ぷ§o§’∩ぷ図らP㍍ω−窃Φ、一七九〇年八月の竺
以後の諸論文のなかに示されている︵㌣巴雪αq曇各ミもp心゜。ぴ魯ωφ︶が、とくに一七八九年の論文、6§戯080㍗、、Qり旨
七八九年協会雑灘巴掲載論文、、︾c×騨ぼ⋮切ぽo汀ごぴΦ詳伽偏鴬二〇も。目◎ぺぴ日飢.oロ①ω白。烏Φ門訂△c融o、、しo葺ロ巴烏o㌫oo◎6芯蒜△Φ
合コω§Φ9島〇三一σ一〇..“ご㊤ト。“θ§さ句二×も㌣切。。?津ωなどでは、直接制への接近が認められる。コンドルセは、一七
嵩。。q⊃°§ミ§w︹×、Oや声怠ム。。刈、政治権力に関する一七九二年一一月の論文..OΦ訂o馨烏⑳ぽ霧O◎c<o︹誘O◎宗蒼鐸窃
他の種類の法律、ひいではすべての法律の範囲にこの権利が拡大されることが希望であることを述べていた︵§§§㌫
八九年の論文で、現時点では法律の承認についての個人的権利を憲法に関する条項に制限するにしても、将来的には、
︿34︶ 前記∼七九二年の論文く..OΦ㌫口舞烏o瓜oぴウO◎⊂<o障oωO◎法苗己霧.、︶のなかで、コンドルセは、すべての個別的法律
W担唱O☆㎏ふ霧参照︶。
餌
1
について全市民が意見を述べることは要求していなかったにせよ、民法や訴訟法などについては、それを要求しうるこ
コントロールに到達しえなかった点では、コンドルセの構想は、一七九三年憲法におけるエロー・ド・セシェルのそれ
とを示唆していた︵§ミ§“ひ×も゜謬ω︶。しかし、いずれにせよ、その実現可能性の問題から全法律についての入民の
には及ばなかった︵︾苫当唱S愚sOひOやふq。o。ム⑩⑩参照︶。
2 ジロンド派の憲法思想とジロンド︵コンドルセ︶憲法草案
ω 憲法委員会とコンドルセ
一七九二年九月の国民公会招集後、新たに設置された憲法委員会では、ブリソー、ヴェルニョー、ジャンソネ、
ペチオンら、当時のジロンド派の有力議員が委員九名のうちの多数を占め、その故に、憲法委員会案がジロンド憲
法草案と呼ばれることとなった。しかし、事実上の委員長であり、憲法草案の起草を担当したコンドルセは、自他
︵1︶
ともにジロンド派の一員として位置づけられていたわけではない。すでに触れたように、コンドルセ自身はむしろ
無党派を自認しており、モンターニュ派議員を中心とする当時のジャコバン・クラブ内では、九委員のうち、ダン
︵2︶
トン、バレール、コンドルセの三人をその同胞として扱っていた。このことは、コンドルセの憲法草案目ジロンド
派の憲法草案という図式から、ことさらモンターニュ派憲法く∼七九三年憲法∨との原理的対立を強調する従来の見
さらに、憲法委員会内の活動でも、コンドルセは、当時のジロンド派の首領と目されるブリソーら上記の有力議
方への警戒の意味で、再認識しておくことが必要であろう。
生まれのアメリカ人でペンシルヴァニア州憲法の起草に貢献したトマス・ペイン︵↓O日①ω㊦①一口O︶、および憲法案起
員たちの影響をほとんど受けていないことが知られている。コンドルセに最も身近な影響を与えたのは、イギリス
︵3︸
草に際して招鴨されたイギジス人のデヴィド・ウイリアムス︵O③<一全妻一=一①日ω︶であった。
ペインは、一七九二年九月にフランス市民として国民公会に選出され、アメリカ革命の理論を基礎に共和主義憲
法原理の確立に貢献した。ペンシルヴァニア州憲法や統治原理に関する諸論文に示された彼の憲法思想は、思想・
表現の自由、政教分離、所有、安全など自然権の享有を個人に保障するという政府の存在理由を前提として、権利
の平等や権利の社会的保障、普通馨制、一院制の議会制・執行府の立法府への従曇を構築して注・天民は・
みずから、あるいは仲介者によって統治するが、この伸介者は固有の権力はもたず、委任された権力のみをもつ。
彼らは人民の受任者であ墓薯である。公務員は、いかなる時もその管理ξいて責任を負う真の管理者で聖﹂
という考えは、審査院︵○◎口ぴo㊦]一▲μ⑦功60昌鋤力Oζ﹁も弓︶の構想をも導いた。この機関は、公務の合憲性を審査し、違憲の法律
の廃止を立法府に要求することができる公選の機関であり、後にみるジロンド憲法草案の審査手続きへの影響を窺
う.⊆とができる。しかし、﹁人民は、集会し、共通の利益について諮問を受け、代表に訓令を与え、立法府に対し
て、建議、請願あるいは竃の方法で、存在すると確信する歪の整。を要求する権利を妄﹂という理念の表明
にもかかわらず、その具体的な実現方法は必ずしも明白ではなく、ジロンド憲法草案のような人民の立法参加手続
業上の一定の制限を除き、すべて市民が選挙権を有する普通選挙制が確立され、県単位の第一次集会を基盤として
蜘 きは確立されていなかった。
雄 また、ウイリアムスも、ペインと同様に一七九二年八月二六日のデクレによってフランス市民権を獲得し、ロラ
劫 ン夫人やコンドルセ夫人のサロンで、コンドルセやジロンド派議員たちと親交をもった。ウイリアムスは、一七九
垣 三年︸月に憲法私案を国民公会に提出し、その草案は四月に六人委員会で検討された。そこでは、年齢・性別・職
寸
達することが企図されていたことは、ペインやコンドルセの構想との関連を想起させる。もっともウイリアムスの
ω品n§ω帥ぎ吟∼。§色という組織が重視され、立法を含むすべての政府の行為を監督し、共和国の各区分にそれを伝
ハ7∨
ヨ市
民が自由に意思を表明しうる制度が構想されていた。とくに、毎年立法府選挙の折に公選される憲法評議会︵否8−
第
砧
1
場合も、従来から指摘されてきたほどのジロンド憲法草案への直接的な影響を見出すことは困難なようにみえる。
むしろ、革命前夜から形成されペインらの影響を受けつつ革命状況に即して発展したコンドルセの個人的な憲法思
硲 これまでの検討からすれば、ジロンド憲法草案は、当時のジロンド派議員の憲法思想を総合したものではなく、
1
想の集大成として理解することが適切であろう。
② ジロンド︵コンドルセ︶憲法草案とジロンド派の憲法思想
コンドルセは、一七九三年二月一五二六日の両日、憲法委員会を代表して憲法草案を朗読し、彼の憲法思想の表
く8︶
明ともいうべき演説を延々と行った。憲法の基本原理に関する趣旨説明のなかで、彼はまず、人民主権、市民の平
等、自然的自由の行使等を実現しうる憲法の制定意義を明らかにしたうえで、概ね次の八つの論点について詳細に
趣旨を説明した。それは、①君主制の廃棄と共和制の確立、②単一・不可分の共和国としてのフランスの領土区分、
③代表制の採用と人民の政治参加の形態、④人民の主権行使の場としての第一次集会の機能、⑤一院制議会の機能
と立法手続き、⑥執行監督の機構と手続き、⑦司法組織と陪審制、⑧選挙権・被選挙権の性格と選挙制度、である。
これらの多くは次節で検討するが、ここでは、とくに、フランスの領土区分に関連するフェデラリスムの問題や立
法手続きなど、コンドルセの見解と当時のジロンド派の支配的見解との間に差異が認められるものについてみてお
くことにする。このような差異は、すでにみた憲法制定過程における国民公会審議にも現れていたものである。
まず、地方分権すなわちフェデラリスムの問題については、従来から、それがジロンド派の憲法思想の代表的な
︵9︸
ものであり、ジロンド派をモンターニュ派から区別する唯 の点であるとさえ評されてきた。コンドルセは、二月
一五日の演説の冒頭部分で、フランスが単一・不可分の共和国を形成することを明らかにしたが、その理由として
あげたのは、長期にわたる慣習や住民の諸関係および国防の必要からフランス人民の緊密な統一が要請されている
こと、単一国家を連邦共和国に分割したり連邦諸国を単一の共和国に統合したりする場合に前提となる強力な動機
が存在しないこと・などで都・また・ジ。ンド派が総じて大都市きわけパリへの権力の集中を非警続けてき
たのに対して、コンドルセは、諸権力の所在地であり諸文化の中枢である大都市の意義を称賛し、大都市とコミュ
ーンとの政治的影響力の配分も問題にした。ここでは、県単位の行政組織を維持しつつも、共和国の不可分性に敵
対する県の代表を阻止するためにその数を減じること、そして、中央政府の活動を増大し、全体的な統一を維持す
るために、従来の地方の代理官︵噌02話ξあ春合o︶に代えて、中央の執行評議会によって選定・罷免される役人を
͡11>
おき、地方との連絡を密にすることが提唱された。このような提案は、過度の地方分権化と地方の無政府状態を回
避しようとするコンドルセの反フェデラリスムの傾向を示すものであるといえる。
これに対して、ラスルスやロランなどジロンド派議員の多くは、一七九三年五月の固民公会でのサン目ジュスト
との論争にも示されるように、諸県に対するパリの影響を否認し、パリが他県と同じ影響力しかもたないようにす
ることを主張して匙・それ以¶・ジ。ンド派の指薯ブリ了は・スイスやアメリカを参考にし蓮邦共和国
の構想を基礎としてコミューンの諸権利を要求していたし、ビュゾも、フェデラリスムの立場からパリへの集権体
羅製憎悪して撞・また・ヴ・竺・|たちは・フランス言了ル川と7ヌ川で境界づけられる北部、東部お
雛 よびジヨンやボルドーを含む中部という三地区にわけ、連邦共和国を形成する構想をもっていたことも知られて
次に、立法手続きなど民主的統治機構の問題について、コンドルセは、まず、広大な共和国において代表制︵代議
フェデラリスムの方向を支持していたのに対しで、コンドルセが、革命前夜から、パリと諸県との協力を要請して
︵15V
フェデラリスムを拒否する立場を表明していたことは、両者の重大な差異として注目に値しよう。
⇔ ㌧纏。このように、ジロンド派の議員たちが、共和国の統一と不可分性の原則を緩め、諸県の自治権を強める形で
三
九
七
∋
第
制︶を採用することの不可避性を明らかにし、個別の委任者の意思に基づく立法は実現不可能であるとして、命令的
57 ︵品︶
委任制度や全法律を市民の承認にかける手続きを否認した。しかしその反面、憲法の制定・改廃についてのレフェ
三
レンダムのほか、法律についての人民発案や拒否の手続きによっで、第一次集会を基盤とする市民の直接的な政治
コンドルセとともに雑誌﹃共和主義者﹄に参画し、エドモンド・バークに反駁してフランス革命擁護の論稿を発表した。
︵3︶ トマス・ペインは、一七八一年にパリにきてチュルゴ、コンドルセ、ダントンらと親交を結び、一七九一年には、
︵2︶ 第二章第一節一1八三頁注︵4︶参照。
員の役割等については、≧而コ噌子§°ミ゜も戸おN㊦⇔°・°参照。
ペインがフランス語を話せなかったこともあ久コンドルセが事実上の委員長であったと解される。委員会内での各委
五〇歳のコンドルセが五六歳のトマス・ペインとともに年長であったため、この二名が主導的役割を果たしていたが、
︵1︶ コンドルセはエーヌ︵︾尻oo︶県など五県から選出され、国民公会の事務局員を務めていた。憲法委員会では、当時
にジロンド憲法草案の諸原理を検討することにしよう。
る。このような革命状況におけるジロンド憲法と一七九三年憲法の歴史的・政治的機能を念頭においたうえで、次
ンド派との政権争いが激化しつつあった一七九三年上半期の革命状況を十分理解してはじめて説明しうるものであ
これらのことは、 一七九三年 月の国王の処刑問題、戦争状態打開の政策等をめぐって、モンターニュ派とジロ
質に関わるような重大な対立は認められないにもかかわらず、モンターニュ派議員を中心とするジャコバン・クラ
︵22︶
ブでは、クートンが、即座にコンドルセ草案を批判した。
た、ジロンド派とモンターニュ派︵主流派︶の憲法原理には、後にみるように、必ずしもブルジョワ憲法としての本
委員会を構成したジロンド派議員たちはこれを支持し、コンドルセ草案の提出と同時に委員会活動を終了した。ま
案が、憲法委員会の総意ではなく、むしろコンドルセ個人の憲法思想の表明として成立したにもかかわらず、憲法
ものではなく、当時のジロンド派の階級利益を擁護するためのものでもなかった。ところが、コンドルセの憲法草
以上のように、ジロンド憲法草案の起草者コンドルセの憲法思想は、必ずしもジロンド派の憲法思想を代表する
いたが、彼の人権宣言草案のなかでは、それは具体的に規定されなかった。
多くの議員とは異なっていた。累進税については、コンドルセはモンターニュ派のダントンらに近い構想をもって
ハ21︶
民への税制上の保護を企図していた点で、コンドルセは、大ブルジョワジーの階級的利益を重視したジロンド派の
その憲法草案では女性選挙権を保障しなかった。また、経済的自由の問題についても、累進税の制度を構想し、貧
八20> 、
早論と、ジロンド派以上に反フェミニストであったモンターニュ派議員の反対を考慮したためか、コンドルセは、
ていた点で、ジロンド派のなかでとくにきわだったフェミニストであった。しかし、当時の憲法委員会内の時期尚
ば、コンドルセは、選挙権・被選挙権の資格を最も広く認めることを主張し、すべての成年女性に市民権を承認し
このほか、コンドルセの憲法思想とジロンド派主導者のそれとの間には、いくつかの相違点が認められる。例え
主張したのに対して、コンドルセは最も簡潔な第三案を採用した。これは、主権者の意思の統一を企図したもので、
︵19︶
モンターニュ派に近いバレールがコンドルセを支持したことで決定されたようである。
織として、すべて三分の二の多数投票で議決するという第三案があったが、このうち、ジロンド派議員は第一案を
後他方に送付するという第一案、一院を二つの部会に分け各々で討議するという第二案、議会をあくまで単一の組
意見の対立があったことが知られている。すなわち、 院制議会に二つの読会を組織し、一方で法案の承認をした
議会に統一されるべきであるとして一院制を主張した。この一院制議会の立法手続きについては、憲法委員会内に
︵18︶
権力分立原則を重視していたのに対して、コンドルセは、立法府への執行府の従属を示唆し、人民の代表は一つの
にしたものはあまりない。また、立法府と執行府との関係では、ジロンド派の議員たちは一七九一年憲法における
︵17︶
較的強く認められ、コンドルセの憲法草案のように、人民による直接的な意思決定手続きや執行監督手続きを明確
品 参加を可能としたことが特徴的である。これに対して、当時のジロンド派の憲法思想には、代表制支持の傾向が比
1
理
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コンドルセととくに個人的に親しく、コンドルセ夫人は彼の著作の翻訳者でもあった。ペインとコンドルセは、自由・
者、フリーメースン支持者、という点でも共通していたことが知られている。︾庁ロ鷺S8唱へ苦“O⑰H。。。。−声◎。O参照。な
平等・国民主権の闘士であっただけでなく、ともに奴隷制度や死刑制度に反対し、フェミニスト、数学者、反キジスト
ぎないとする見解もあるが︵∩ボOO5弍①ぺw§O§ぎヘボ代、O°NぴΦ︶、根拠は薄いようである︵類︾R冨白σ因己完⑳忠◇艮◎呂
お、ペインの憲法委員会での役割を重視し、ジロンド草案の実質的な起草者はペインで、コンドルセはその翻訳者にす
§°ミ“も﹂ω口参照︶。
︵5︶ きミこO°悼8°
︵4︶ ペインの憲法思想については、巴窪鵠当§φ怠こ署ぶ鯵?悼忘参照。
︵7︶ ウイリアムスの憲法思想については、≧Oロ頒蔓“O>☆×二〇PN戸十陪O︰國゜︾﹃n古①§げ①巳ひ江Φζ§ざ﹁P§“災、二℃P
︵6︶ ㌫ミニや9Φヂ
民べ占︽Oを参照。なお、その憲法私案の正文は、O①<庄司︷≡①日。。“.、ω烏音Oo﹁己警oO§ω葺已己oo△Φ蚕ブ﹁90①①<否o△oψ。
<已oωOo旨訂8﹁日①江o昌ユo冨昌○已<Φ︼汀Oo5ω法巨︷o吐、“﹄°㌔‘ピむ。こひ$もΨO。。ω−謬ピ参照。
︵8︶ コンドルセの憲法草案提出時の演説はあまりにも長大で、コンドルセ自身が疲弊し、途中でバレールとジャンソネ
日o芸ω含O蚕ロム①8コω号旦合見こ㊤ω.、“烏§§w︹×一一も⑰ωω09乙力∴﹄、こ一゜。乃こ戸○。。もや臼。。ω9乙・°参照︹以下では、
に朗読を交替したほどであった。その憲法草案の趣旨説明の原文は、∩OO△O内8㍗、.や、O×カO功]ぱO口瓜霧陶ぎ◇欝ωω魯瓜ωω
︵9︶﹀一窪噌S魯゜ミニPNωご﹀°︾巳自合§°ミ゜もO含き一舞゜・°参照。
⊆°、﹂M。。二ひ切◎Φによる︺。
︵10︶ ﹄°、°二.6Bこ吟゜切o。り℃°㎝o。︽°
’
︵12︶ ≧9鴨ざ§°ミ“も゜N$および国民公会の一七九三年五月二四日の議論については、﹄°㌔こ一゜白。二︷°自もPN↓声o⇔°。︾
︵11︶ さミ‘でc。。。もO°鵠㌣$c。∴>8口唱S息゜ミ。らP注べ窪乙・。参照。
参照。
︵13︶ ジロンド派のフェデラリスムについては、SO言已∋昼、.↑o°力○#oコO日ω、、︵砺ω.○貯oaぎ切o吟隷O含①房日o︶“﹄☆湧§
8Sミ魯9さミミ蕊災ミO§§§ミ吻も℃°SΦ[ω∴呂゜勾﹁昌゜・む・日oけも∨ミ゜もPωN一〇吟。。∴﹀°≧﹄胃臼騨S忘さ盲ミざ§
合合㌔轡ミミへ§∀ボ令嘗もPωOO2ω゜など参照。なお、ジロンド派のフェデラリスム傾向を示す地方の運動や綱領に
ついては、=°乞巴一〇P↑⇔㌔へ§ヘミへ§さへ口﹂ミミミ隷§目房さ㌻§﹂§“︿o一゜ド一。。。。Oに詳しいが、ここではその
検討は割愛せざるをえない。
︵14︶ 呂゜ブ﹁①協゜。ぎoTo>ミニO°ωωO ﹀°︾巳昌鼻§°ら㌣、⑰さN参照。
呂゜ウ日協切日oTe°ミ゜も﹂戸﹄では、チュルゴやフランクリン等の影響で初期におけるフェデラリスムの傾向を認めて
︵15︶ 革命以前のコンドルセの反フェデラリスムの傾向については、≧o昌qざ§°ミ.もPSべoけPも﹄$参照。なお、
いるように見える。
︵16︶ ﹄°、こ一.ωこ︹Oo。“POo。︽°
8一︶などジロンド派議員のものが多く、反対に、半直接制の傾向が強いものにはプレーン派のものが多くてジロンド派
︵17︶ 前章で検討した憲法私案のうち、代表制支持の傾向が比較的強いものには、ケルサン︵×臼ωぽ暮︶やバンカル︵ロ碧・
のものは少ないことが知られている︵﹃○巴ざ§‘ミ゜もP。。ωΦ[㊤ 呂゜ウユ合⑦員§.ミ゜、OPN日卑9、本書第二章第
二節一=二九頁以下参照。もっとも、議事録に収録された憲法私案のなかにはビュゾやブリソーなどジロンド派の有力
議員たちのものは存在しないことに加えて、いずれもコンドルセめ憲法草案のように体系的ではないことからすれば、
この検討のみによって断定的な結論を引き出すことはできないであろう。﹄°㌔こ一゜ωこけ①NもPN。。O卑ω∴︹OωもやNωO
oけψ。∴︹自もP嵩Oo吟Pなおジロンド派議員の所属に関しては、﹄°ひ冨已∋一少oPo⋮[°も亨口ω−9のリストも参照︶。
︵18︶ ﹄°、こ一゜oリニ戸㎝o。、OPOo。o。oけω゜
︵19︶ ≧oコ鴨S§ミ゜もPNωローNωOもPぱベーN9参照。
︵20︶ コンドルセのフェミニズムについてはすでに検討した︵前掲拙稿﹁フランス革命期における女性の権利﹂成城法学
一七号八七頁以下参照︶が、ジロンド派のほうにフェミニストが多く存在したことについては、SO冨已∋一∩o∨n⋮⇔°も∨
己
1
靱
お卑ω゜参照。ここでは、モンターニュ派よりジロンド派のほうがより洗練された文化をもち、より強い自由への情熱と
合理主義に根差していたこと、反フェミニストのルソーの影響がより少なく、コンドルセ夫妻やロラン夫人、エルベシ
ウス夫人等のサロンの影響が強くあったこと、などがその理由にあげられている。また、コンドルセが、遺稿となった
﹃人間精神進歩史﹄までフェミニスム理論を維持しながら、一七九三年の憲法草案で女性選挙権を実現しなかった点に
性の教育の向上を先決課題として理解していたことは容易に推測できる。
ついては、国゜︾叶o訂∋ぴ①巳件△o呂o忌o叶で§°ミ゜もP一誤−一宗⋮﹀一〇〇唱ざ§°ミ゜も﹄芯を参照。コンドルセ自身も、女
ユ唱ざoPn⋮[°もU°お卑ω∴SO言已∋一四〇Pn一[こ℃⑰ω。。窪゜・°など参照℃
︵21︶ ジロンド派とコンドルセの経済思想については、すでに概観したのでここでは再び立ち入ることは避ける。]≦°Oo・
︵22︶ ﹀°﹀已訂aト☆飴災“、“合句㌔へoミ嵩“けくもや8−ωO.クートンの批判点は、人権宣言の抽象性、抵抗権の合法性、選
挙制度の複雑さ、執行形態の不備などであった。
ニ ジロンド憲法草案の原理
︹1︺ 人権原理
1 権利の体系
ジロンド憲法草案の人権原理は、前文と三三力条からなる人権宣言︵以下、ジロンド人権宣言と呼ぶ、訳文は、巻末
資料−回参照︶草案のなかに集約されている。人権の保障があらゆる社会的結合の目的であり、人権が国家機構と憲
法原理の基礎をなすという認識においても、また、その自由主義的・個人主義的な原理においても、ジロンド人権
︵1︶
宣言は一七八九年人権宣言とあまり本質的な相違はないと一般に解されてきた。ただ、ジロンド人権宣言では、一
七八九年宣言の不明瞭な諸点を明確にし、共和主義憲法の基礎となる新たな人権宣言としてより体系的なものとな
︵2︶
り、厳密かつ明確な秩序に従って配列されたことが特徴的である。
標題を﹁人の自然的・市民的・政治的諸権利の宣言﹂とするジロンド人権宣言草案では、まず、前文において、
︵3︶
あらゆる社会的結合の目的が﹁人の自然的・市民的・政治的諸権利﹂の保持にあることが明らかにされたうえで、
第一条で、これらの権利として、﹁自由、平等、安全、所有、社会的保障、圧制への抵抗﹂の六つが列挙された。一
七八九年宣言が、自然的権利の具体的内容として﹁自由、所有、安全、圧制への抵抗﹂の四つをあげていたことと
比較すると、平等と社会的保障が新たに加えられ、平等が権利のなかに数えられた点が異なっている。これは、﹁自
由の宣言﹂としての一七八九年宣三口の諸権利をいかに具体的に保障するかが主要な課題となり、民衆の平等実現へ
の要求が強まっていた当時の状況を反映するものであった。革命の進展に伴って変化がみられた平等原理および社
会的保障の基礎としての主権原理に関する諸規定には一定の変更が施され、教育や公的扶助、憲法改正権などの規
㎜ 定が新設されたのも、このような要請に対応していた。
離 このほか、自由や安全、所有、抵抗等に関する事項は、一七八九年宣言の内容をより明確にすべく詳細に規定さ
議論が展開さ紘超。とくに自然的権利の内容およびこれらを人権宣言に掲げることの可否が問題とされた結果、標
られた﹁自然的・市民的・政治的諸権利﹂という諸権利の概念や相互の関係が必ずしも明瞭ではなく、国民公会で
圧制に対する抵抗と憲法改正権に当てられた︶。しかし、このような体系性にもかかわらず、ジロンド人権宣言で提示さ
所有、第二ニー三〇条は租税・教育・公的扶助および社会的保障の基礎としての国民主権に関する諸規定、第三一⊥二三条は
てきわめて体系的に配列されていた︵第二ー六条は自由、第七ー九条は平等、第一〇1一七条は安全、第一八ー二一条は
ヨ れたが、ジロンド人権宣言では、第一条に列挙された六種類の権利に関する諸規定が、一七八九年宣言とは異なっ
九
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題.前文.第一条の﹁自然的.市民的・政治的諸権利﹂という表現が﹁社会における人の諸権利﹂と変更された二
七九三年憲法の人権宣言でも市民的.政治的権利の語が削除され、社会の目的が自然的権利の保障に求められた︶。この審議
では、自然権についての考え方が二種類あることが示され、当時の国民公会において、自然権の存否や市民的・政
治的権利の概念についての統一的な見解は存在しなかったことが明らかになった。ここでは、自然状態における自
然的権利と、社会状態における社会的権利︵市民的あるいは政治的権利︶との区別が問題にされたが、第一条に掲げた
︵5︶
諸権利がどの範晴に入るかについては、見解は全くばらばらであった。
と自由および自然的平等を自然権の内容として理解していたことからすれば、第一条のうち﹁自由、平等、所有、
もっとも、ジロンド人権宣言の起草者コンドルセが、革命初期の著作において、人身の安全と自由、財産の安全
︵6︶
安全﹂は当然に自然的権利に含まれるものと思われる。コンドルセにおいて自然権とは、神にではなく、理性と良
心を備えた人間︵ω雪ω⋮げ一。で、かつ邑胡。目書一Φな存在としての人間︶の本性に由来するものであり、すべての人間は、
その本性において理性的かつ道徳的であるがゆえに等しくこの自然権を享受する、とされていた。自然権は、実定
法に先行し、永久・不変かつ不可侵で、国籍・性別・人種などを問わずすべての人に等しいものであり、ここから
自然的平等の概念が導かれた。
また、社会的保障および圧制への抵抗を規定した第二二条以下には、租税、公的扶助、教育、社会的保障の基礎
としての主権、市民の社会保障や立法への参加権、憲法改正権などが含まれており、これらは社会状態を前提とす
︵7︶
る社会的権利︵市民的.政治的権利︶として構想されていたと解するのが妥当であろう。自由、平等、安全、所有と
いう自然的権利を、社会的に保障し実現するための諸権利が、ここに列挙されたわけである。人権の社会的保障は
国民主権を基礎にもつことを定める第二五条に続いて、主権の属性、人民への帰属、公務の限界と責任、市民の政
治参加権等が定められたことは、社会における市民的権利の保障は市民の政治的権利の保障と密接な関係をもち、
これらが不可分に捉えられていたことを示唆している。普通選挙制を採用して、すべての市民に参政権が帰属する
ことを主張するコンドルセにおいては、政治的権利は市民権︵△﹁O⋮[Oゆn⋮⇔⑲︶と同義であり、主権者の政治的権利は
市民権から派生するものであった.
︵1︶ kピ09己ぴ㌣OcO駕P卜☆9蕊ミミ苦民OOo嵩S駕鳥﹂§“仔窃o、拾Oω“や忠今ジロンド人権宣言が一七八九年宣言を
踏襲していることは、双方の条文︵巻末資料−回回の訳文参照︶を比較することによっても知ることができる。ジロン
ド官三田の第二、九、︸四、︸五、二︸条などの文言は、︸七八九年の文言をほとんどそのまま用いているが、これらは
いずれも自由の定義や人身の自由や所有権など、いわば古典的な自由に関することであることにも注意が必要である。
︵3︶ ここでは、ジロンド人権宣言草案の標題および前文・第一条における﹁△﹁o︹房o暮烏巳む。、巳蕊一ω卑Uo≡五已霧△霧
︵2︶巴呂田ざ§ミ゜も゜ωΦρ
ゴo∋ヨ⑦乙q﹂の部分を、﹁人の自然的・市民的・政治的諸権利﹂と訳出している。この訳は、野村敬造︵﹃フランス憲法・行
六七頁、﹃フランス革命と憲法﹄一八四頁︶、吉田正晴︵﹃フランス公教育政策の源流﹄一〇三頁︶などでも採用されてお
政法概論﹄四六八頁、﹁フランス憲法②﹂金沢大学法文学部論集二六号六五頁︶、長谷川正安︵﹃フランス革命と憲法︵下ご
では、﹁人間の市民的及び政治的な自然的諸権利﹂と訳されており、﹁市民的な自然権と政治的な自然権﹂との二分説が
り、いわゆる権利の三分説に立っている。これに対して、高木ほか編﹃人権宣言集﹄︵岩波文庫、一三六頁、山本桂一訳︶
採用されている。本書では、文法的にも内容的にも前者を妥当と考えて訳出したが、後者のような理解が成立する余地
が全くないかどうか、コンドルセの自然権論に即してなお検討を要することを留保しておきたい。すなわち、前者を妥
当とした根拠として、文法的な問題のほか、①﹁人間の本性等に基づいて、すべての人が生まれながらに等しく享有す
の権利主体について成立する選挙権などの政治的権利をも自然権と解する︶政治的自然権・市民的自然権という理解に
る永久.不可侵の権利﹂として自然権を捉える︵コンドルセおよび一般的な︶立場からすれば、︵社会状態において一定
は、論理的に無理があると思われること、②この点を問題にした一七九三年四月一七日当時の国民公会では、一般にコ
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ンドルセ草案の表現を三分説に理解していたこと、そして、自然的権利と社会的権利︵社会状態における市民的・政治
テティエンヌなどは、.合く︷ω①︹⑦コo巴烏o言△一く一一ω卑Oo一三ρ已o切.と述べて三分説を示していたし、ドノーの憲法私案で
的権利︶との区別のほうをむしろ問題にしていたこと、などをあげることができる︵審議のなかでも、ラボー‖サン”
も、委員会案を三分説として理解していた。﹄右㌔゜、﹂°・。°二〇Nも゜ぱO“穎ωO一参照︶。しかし、コンドルセ草案に関する論
存在する︵﹀一〇昌σq﹁▽“e°ヘへ、こO°ωoo︽︶。後にみるように、選挙権をも人間の本性に由来する点では自然権に属すると解す
説のなかには、﹁彼は、六つの自然権を、市民的なものと政治的なものとに分類した﹂として二分説の解釈をとるものが
るコンドルセの立場からすれば、国民公会で修正を余儀無くされたような矛盾点を含んでいたにもかかわらず、その自
然権論自体のなかに二分説の解釈を可能とする要素が含まれていたようにもみえる。フランス革命期の議事録における
表記の正確度を別としても、コンドルセの自然権概念や市民的権利・政治的権利との区別にはなお明瞭でない点が多く、
当時の権利概念をさらに論究する必要があることを指摘しておきたい。
︵4︶﹄°㌔こH°ωこ庁ONら⑰Nべ。。。↑。。.国民公会での審議の内容と条文の変遷については、第二章第一節一一1一〇〇頁以下
を参照されたい。
︵5︶ 自然権について、バレール、ガラン・クーロン、ロムなどモンターニュ派に近い議員たちは、自然的権利が社会状
ヴェルニョーなどのジロンド派議員とラスルスらは、社会状態においては自然権は消滅ないし放棄されるとして、自然
態においても維持されるとして、これを人権宣言に掲げる原案を支持したのに対して、ラボー・サンーテティエンヌ、
権を他の社会的な諸権利とともに人権宣言に掲げることを批判した。また、その内容について、ジロンド派のイスナー
ン、テティエンヌの発言では、安全.平等・社会的保障を自然的権利と解していたようにもみえる︵卜、二一゜℃⇔°Oト。、
ルは、平等.自由.抵抗は自然的権利であり、安全・所有・社会的保障は市民的権利であると述べており、ラボーnサ
署﹄べq⊃−N。。O°︶。しかし、本章で推論しているようなコンドルセの見解に比較的近いと思われるもので注目されるのは、プ
レーン派のロムの構想である。彼の憲法私案によれば、人間の諸権利は三種類に分類され、第一の﹁社会における人の
権利︵自然的権利︶﹂とは、生命の保持、所有、自由および権利の平等が含まれるとされた。また、第二の﹁政治的ない
し主権的権利﹂とは、独立、主権への参加、委任、選挙権、被選挙権、批准権、監督権、罷免権、請願権、圧制への抵
保護、市民的自由、権利の平等であるとされたく拓㌔ニピ℃怜自もや潔ベート。$の︶。
抗、政治的自由、権利の平等であり、第三の﹁市民的ないし社会的権利﹂とは、教育、公的扶助、正義、安全もしくは
︵6︶ ○◎昆o苫象㌦.O⑲江駕①エ◎o亀Φω障oぱω、、、声べ◎。q⊃、§讐さ靭ひ]×も﹂◎。膳弁一七八九年のこの論文では、身体の安全、身体の
自由、財産の安全、財産の自由、自然的平等の五つが自然権として列挙されていた︵一七九三年憲法の人権宣言でも、
平等.自由.安全・所有の四つが自然的権利として列挙されたことと対照して興味深い︶。なお、コンドルセの自然権概
臼Nミ§“庁く呂も゜巨卑る・°も参照。
念については、≧O昌讐S§.ミ゜も穎ωぺΦ①けω∴口o昌△o叶⇔O戸..OOさコ自ζ⑦コひ⑦△O訂男ぴくOξ己Oコら︾日警δ已O。力ξ一、間烏80.、“
︵7︶ この点、さきの注︵3︶で触れた二分説では、六種類の権利をすべで自然権と解したうえで、その個人的な性格と政
治的な性格によって、市民的権利と政治的権利に二分することになる︵︾剛m目﹁当愚゜合こ∨ω。。ふ゜︶。しかし、このような
区別には疑問の余地があるほか、六つの権利をすべて自然権とするアラングジーの場合にも、租税や公的扶助、教育に
関する三力条は例外と解するなどの難点があり︵注ミスO︽寒︶、にわかには賛成することはできない。それ自体がコンド
述べたような三分説的な理解を維持しておくことにする。
ルセの人権論の矛盾でもあることを認め、アラングリー的見解の再検討の必要を留保しつつ、ここでは、当面、すでに
2 諸権利の内容 、
D 自 由
ジロンド人権宣言における自由に関する規定は、一七八九年人権宣言よりも詳細で、第二条から第六条まで五力
条が当てられた。﹁自由とは、他人の諸権利に反しないすべてのことをなしうることにある﹂︵第二条︶という自由の
67 定義とその内在的制約についての考え方、および、一般意思の表明としての法律が自由の限界を画するとするその
∼
限界論︵第三条︶は、一七八九年宣言第四条を踏襲したものであるが、その具体的内容については、一七八九年宣言
−砧
にも掲げられていた思想の自由のほか、出版の自由︵第五条︶および信教の自由︵第六条︶に関する規定が新設さ
バー﹀
れた。
︵2︶
出版等の方法による表現の自由については、コンドルセは、革命前夜からすでにそれを主張していた。とくに、
一七九一年の七月一七日のシャン・ド・マルスの虐殺事件の後、パジ市がいくつかの新聞の発行を停止したことに
爪3V
対して、彼は猛然と抗議をしたことが知られており、ジロンド人権宣言第五条は、その思想を表明したものである。
また、信教︵祭祀︶の自由の問題は、国民公会の審議で反対が強かったことにも示されるように、当時は相当に微妙
な政治問題でもあったが、コンドルセは、従来から抱いていた思想・良心の自由と祭祀の施行の完全な自由につい
ての信念を第六条に表明した。彼は、宗教は本来個人的で非政治的なものであるという確信から、国家と宗教の分
︵4︶
離を主張し、国家の非宗教性の原則を公教育の問題に発展させていった。
これらの自由に関する規定は、一七八九年宣言の場合と同様、人権のなかで最も主要なものであったが、﹁自由の
第四年、平等の元年﹂として平等の保障が注目されていた当時にあっては、自由を強調することは、反動的なイメ
ージを与えるものでもあった。そこで、六人委員会では、平等を諸権利の筆頭におき、平等に関する規定を自由の
前に移動させた。
② 平 等
すべての人間がその本性に基づいて自然権を等しく享受することを前提とするコンドルセの人権原理においては、
︵5︶
自然的平等がその第一の基底であり、ともに人間の本性に基礎をおく点で、平等は自由の問題と不可分に結びつい
ていた。この自然的平等の保障は正義の永遠の課題であったが、この要請はあくまで形式的な平等を意味し、実質
的平等を含まなかった。また、それは権利の平等にすぎず、事実上の平等を問題にしえなかった。そこで、ジロン
ド人権宣言の平等規定は、それ自体が権利の一内容として位置づけられていたにもかかわらず、﹁平等とは、各人が
同等の権利を享受しうることにある﹂︵第七条︶として権利の平等、形式的平等の原則を明示したものにとどまっ
た。その具体的内容についても、一七八九年宣言と同様に、万人に対する法律の平等と公職の機会均等︵第八!九条︶
が掲げられただけであった。
もっとも、自然的平等の要請から、社会的不平等の排除という要請に到達したコンドルセは、現存する社会的・
経済的不平等を是正するために、公的扶助の制度と教育の機会均等の確立をめざした。第二三条・第二四条の規定
が、公的扶助と教育についての社会の義務を明言したことは、一七八九年宣言の枠を超えるものであった。しかし、
ここでも、その保障は、権利の形式的平等をめざしたものにとどまらざるをえなかった。社会的・経済的平等の実
質的保障についての観点は、所有に関する諸規定によって経済的自由主義が強調されたことで、本質的に限界づけ
られていたのである。
㈹安 全
嶋 コンドルセの自然権論において、安全の問題は、身体的自由の保護の名のもとに重視されていた。ジロンド人権
して保障し、さらに、犯罪に対する刑罰の適用が厳格かつ必要最低限のものでなければならないことを示した。︸
獺 宵三口では、一七八九年宣言で確立されていた法定手続きの保障と罪刑法定主義、無罪推定原則などをそのまま踏襲
七八九年宣言の文言に新たに追加された﹁刑罰は、犯罪に比例し、社会にとって有益なものでなければならない﹂
︵6︶
︵第一七条後段︶という規定は、このような一種の刑罰の謙抑主義を示すものとして注目される。
麟
ゴ
が、その財産、資本、収入および事業を、意のままに処理する主体であることにある﹂︵第一八条︶と定めた。そし
ジ欝ンド人権宣言は、一七八九年官三欝と同様、所有権を神聖・絶対の自然権と解して﹁所有権とは、すべての人
茸 国所 有
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仰輸送の畠という・広薯営業の畠を導き出した︵第一九条︶・これらは・三ドルセが革命晶融夜か裏明してき
て、任意の処分性を内容とする所有権から、すべての種類の労働、商業、耕作と生産の自由、および生産物の販売・
た穀物取引の自由、関税制限の撤廃の要求を実現するものであり、当時のブルジョワジーの要求でもあった。また、
一七八九年宣言の規定には存在しなかった労働契約に関する規定が第二〇条におかれ、労働契約の自由とその制約
︵人身売貿の禁止︶が明らかにされたが、ここで定められた労働契約の制約がきわめて原始的なものにとどめられた
ことは、コンドルセの意図が契約の自由の確立と擁護にあったこと︵労働者を保護する形での契約の制約については全
く関知していなかったこと︶を示している。このことはまた、コンドルセをはじめとする当時の議会派ブルジョワの
多くが、ル・シャプリエ法を歓迎していたことを想起させる。次に、第二一条は、財産の公共利用による制約につ
いて定め、一七八九年宣言第一七条と同様に、公共の必要の明白性と正当かつ事前の補償という条件が満たされな
ければ、財産はその同意なしに侵害されないことを明らかにした。この規定は、一七八九年宣言の場合と同様に、
旧特権階級の財産没収等の革命の成果を正当化するものであると同時に、ブルジョワジーの、財産の不可侵性に対
する執着を示したものといえる。もっとも、一定の条件が完備した際には、財産の公共使用を容認する本条は、ブ
ルジョワジーの所有にとっで重大な制約となりうる点で、両刃の剣でもあった。国民公会での審議では十分な議論
は尽くされなかったにせよ、後にみるように、ロベスピエールらが社会の要求による所有権の制約を強調していた
こととの対比からしても、そのブルジョワ的な性格を直視しなければならない。
⑤社会的保障
所有権規定に続く第二二条以下の三ヵ条は、租税、公的扶助、教育の規定に当てられた。これらはいずれも、所
有権を侵害しない範囲内で社会的・経済的な不平等を是正し、諸権利を社会的に保障するための構想の一貫として
もつ主権︵‖国家権力︶が本質的に人民全体に帰属し、人民を構成する各市民が主権行使に参加する権利をもつこと
市民の政治的権利として構築されていたことは、すでに触れたとおりである。ジロンド人権宣言は、国民に淵源を
いるのはこのためである。また、これらの権利が、人権保障を実現するための主権行使の権利という内容のゆえに、
ての市民の租税参加権︵第ニニ条︶や、社会的保障や立法に参加する権利など、市民を主体とする権利が掲げられて
ける市民の権利であると考えて、これを第一条の諸権利のカタログのなかに挿入した。ジロンド人権宣言に、すべ
と行使の問題をこうして人権保障の問題と結合した。さらにコンドルセは、人権を保障すること自体が、社会にお
淵源を、︸七八九年官三爾と同様に、君・王ではなく国民の側に求めたコンドルセは、社会における公権力の存在目的
に、人権保障のあり方は国家における最高意思の決定すなわち主権行使のあり方に依拠せざるをえない。公権力の
をもっていることを明らかにした。すべての社会的結合すなわち国家は、人権の保障をその存在目的とするがゆえ
さて、第二五条は﹁人権の社会的保障は、国民主権に基礎をおく﹂として、人権保障が主権の問題と密接な関係
るモンターニュ人権宣言に共通する限界でもあり、ロベスピエールやアンラジェとの重大な差異でもあった。
存権や労働権の面から捉えることができなかったジロンド人権宣言の限界を指摘することができる。これは後にみ
ンドルセの共済制度や積立金庫の構想、および弱者のための特別の扶助制度の構想を積極的に実現することができ
ハ8︶
るかどうかは、立法裁量の問題にとどめられたために不明であった。この意味でも、公的扶助の問題を、市民の生
実現は法律に委ねられていた。慈善的な公共救済院の確立を定めた一七九一年憲法下の公的扶助にとどまらず、コ
が社会の神聖な義務であることが規定されたこと自体は一七八九年宣言に比して重要な意味をもったにせよ、その
うに、コンドルセの累進税の構想はジロンド人権宣言で保障されるには至らなかった。公的扶助についても、それ
ことを明らかにした第二三条は、権利の平等の実現のために教育の必要性を重視して、無償かつ非宗教的な公教育
︵7︶
制度を構想したコンドルセの主要な憲法思想の表明として注目される。しかし、租税については、すでに触れたよ
捉えることができる。とくに、初等教育が、万人にとって必要なもの︵ぴOω◎⋮O△O͡O已ω︶であり、社会の義務である
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を明確にした︵第二七条︶点で、人民主権原理を標榜したものとして理解される。人権宣言のなかで、人権の社会的
︵7︶ コンドルセの公教育論については、ここでは立ち入ることができないが、吉田・前掲書六 頁以下、成嶋隆﹁フラ
魯竺○◎昆自8㍗、.︿⋮Φ△m呂゜吋烏oqo.、、§﹀§、ひくらや脇Φ忠ρ参照。
する必要性を痛感し、トマス・ペインらの影響のもとに、死刑の廃止も要求していた。≧oロぴq目゜§°ミニ掌戯O⑳も廿、鵠◎
されていた。また、イギリスの人身保護法やアメリカ革命の成果を学んだ彼は、身体の恣意的拘束に対する自由を確立
︵6︶ この考えは、応報刑ではなく教育刑主義的な発想に基づくものと思われ、コンドルセの革命前夜からの著作にも示
︵5︶ コンドルセの平等思想については、≧雪眞ざ§°ミ゜もやさO卑頚吉田・前掲書=七頁以下など参照。
については、SO冨蕉日﹂弾◎O息℃やO込Φ陪ρ参照。
︿4︶ キリスト教の権力化に反対したコンドルセ、および、比較的カトリック信者の多かったジロンド派の宗教上の立場
︵3︶ ︾︼雪唄子§°☆㌻戸ω8°
ユo﹁9吟二.写椙ヨ雪房ω已ここまo詳m△⑫庁買o留含.、,禽ミ§;×□署゜謡ω含゜・こ≧警自︾§ミ≠も戸ω゜。°。2ω.
︵2︶ コンドルセは、一七七六年に﹁新聞の自由についての断章﹂を書き、その自由を保障する法制を要求していた。Oo亨
一〇二頁以下を参照されたい。
︿1︶ 自由については、出版の自由と信教の自由の二点について議論があったことはすでに概観した。第二章第一節ニー
憲法典に独立した規定を設けて、人民のレフェレンダムによる憲法改正手続きを保障した。
に憲法改正権を明記することを要求していたコンドルセは、ジロンド人権官三口のなかでそれを実現するとともに、
も、以上のようなコンドルセの合法的手段の つとして捉えることができる。すでに革命初期から人権官三欝のなか
なる、﹂とが追加され、第三二条は削除された︶。さらに、抵抗権の規定に続いて人権宣言の最後に掲げられた憲法改正権
国民公会の審議のなかで修正を被ることとなった︵第三一条の文 盲には、合法的な抵抗が無力である場合に蜂起が必要と
このような合法主義は、ジロンド派議員のなかでは多くの支持を得ていたが、モンターニュ派からの批判は強く、
た。これは、後にみるような人民の公務に対する審査や公務員の鑓責手続きなどを念頭においたものと考えられる。
民の尊厳に相応しいような合法的な手段であること、および、憲法であらかじめ規定されていることを要件と考え
法的な手段によって革命が平和裡に達成されることを望んでいた。圧制に対する抵抗についても、それが自由な人
一致していた。しかし、問題は、その手段である。コンドルセは、以前から暴力的な手段を嫌い、可能なかぎり合
員たちも、八月一〇日の王政打倒の蜂起を正当化するため、圧制に対する抵抗の権利を人権宣言に掲げることでは
表明である。コンドルセは、一七八九年七月一四日や一七九二年八月一〇日の革命を人民の自由と平等のための蜂
ハ9>
起であるとして称賛し、とくに後者は、﹁賢慮と正義に基づく偉大な行為﹂であると評していた。当時の国民公会議
これらの諸規定は、コンドルセが人権保障ための必要不可欠な最終的な手段として抵抗権を重視していたことの
る抵抗の諸形態は、憲法で規定されなければならないことも明示された︵第三二条第一ー四段︶。
恣意的な行為が法律に違反して市民の諸権利を侵害したとき、の三つの場合である。ついで、これらの圧制に対す
存在するのは、本来人権を守るべき法律がこれを侵害したとき、公務員が法律の適用に際して法律を侵害したとき、
をもたなければならない﹂という規定がおかれ、第三二条で圧制の諸形態が詳細に定められた。すなわち、圧制が
定は存在しなかった。ジロンド人権宣言では、第三一条に﹁社会に結合した人々は、圧制に抵抗する合法的な手段
圧制に対する抵抗権は、一七八九年宣欝の第二条で自然権の一つにあげられていたが、これに関する具体的な規
㈲ 圧制に対する抵抗
主権行使の権利の∼態様として認めたことも注目されてよいであろう。
権︹人権の社会的保障に参加し、法律の名において諮問された場合に法律に効力を与える権利︺︵第三〇条︶を、第二七条の
㌘ 保障のあり方の問題として、公務の限界の法定と公務員の責任を明らかにし︵第二九条∨、すべての市民の政治参加
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〇〇邑o﹁oo□、.ζo日o障⑦ωω烏一、日ω障已o江ooO已ひ言已o.一お一−㊤N、、、θミさ曾ひく戸OP一自o[む・°など参照。
ンスにおける公教育法制の成立ω﹂法政理論=巻二号︵一九七八年︶一二〇頁以下、≧oコぴq﹁ざ§°ミ←廿や已。。ム一三
共済制度の構想を明らかにしていた。Ooao目m戸、.むり巨一〇ωo巴む・ωoω巳ゴno⊂∋已庁江o昌、、“吉㊤Pθミさ㌘け゜×一もPω。。Ooけω゜
︵8︶ 公的扶助については、コンドルセは一七九〇年にすでに﹁積立金庫︵一〇ωo巴゜・。。oωユ、①8已日巳①江8︶﹂について論じ、
︵9︶≧9鴨子8°ミ゜る自切68α。8。戸、、え8胡ω三竺、﹀・。ω。∋巨m。Z良8巴。ざ×印彗宣ωニベ8§ミ§“戸×もPgO
m⇔白。°参照。
︹H︺統治原理
ー ジロンド憲法草案における統治原理と主権原理
︵1︶
人権宣言草案に続く憲法草案は、前文と全三七〇力条からなる大部なものである。その前文は、﹁フランス国民
は、単一・不可分の共和国に組織される。フランス国民は、すでに確認され宣言された人権と、自由・平等および
人民主権の原理の上に、その政府を設け、以下のような憲法を採択する﹂として、人権宣言の基礎の上に憲法が成
立していることを明らかにした。憲法典の構成は、第一篇﹁領土区分﹂、第二篇﹁市民の身分および市民権行使の要
件﹂、第三篇﹁第一次集会﹂、第四篇﹁︹地方︺行政府﹂、第五篇﹁共和国執行評議会﹂、第六篇﹁国庫および会計
局﹂、第七篇﹁立法府﹂、第八篇﹁国民代表の行為に関する人民の審査および請願権﹂、第九篇﹁国民公会﹂、第一〇
篇﹁司法機関﹂、第=篇﹁軍隊﹂、第一二篇﹁公租﹂、第=二篇﹁フランス共和国と諸外国との関係および対外関係﹂
の全一三篇からなり、とくに第一次集会および行政・立法・司法について詳細な規定がおかれていた。
ジロンド憲法草案は、立憲君主制のもとで国民主権原理に基づく国民代表制を構築していた一七九一年憲法と異
なって、共和制のもとで人民主権原理を標榜し、普通選挙権を有する市民が、第一次集会に集合してその政治的権
利を行使する民主的な統治機構を構想していた。第一次集会では、市民が行政府や立法府の構成員を直接選出する
ほか、憲法の制定・改正時のレフェレンダム、立法府の諮問事項の審議や公務員の審査など、一定の直接参加手続
きが認められていたことが特徴的である。また、一七九三年憲法との対比では、男子普通選挙制を基礎として人民
全体︵市民の総体︶に主権の帰属と行使を認める人民主権原理を標榜していた点は共通していたが、一七九三年憲法
が、立法府への行政府の従属を基礎として、人民ー立法府ー行政府というヒエラルキーを確立していたのに対して、
ジロンド憲法草案では、行政府についても人民の直接選挙を認めて行政権を強化しうる構造をもっていたなどの差
異があった。一七九三年二月一五日の趣旨説明のなかで明らかにされていたコンドルセの構想では、各県に従属す
るコミューンの第一次集会やセクションなどの地方組織を活用しつつ、戦争政策の遂行に伴ってしだいに緊急性を
︵2︶
増していた国家意思の統合と行政権力の強化という課題の実現が企図されていたといえる。
さて、以上のようなジロンド憲法草案の統治原理は、人権宣言草案に規定された人民主権原理と市民の政治的権
その行使に参加する平等な権利をもつ﹂︶の趣旨である。
各市民は主権者として平等に政治的権利をもつ、とするのが第二七条︵﹁主権は、本質的に人民全体にあり、各市民は、
人民を構成する各市民に委ねられた。人民を構成する各市民は実際上の主権者として主権行使に参加するのであり、
殊利益による主権の墓奪を戒めている。主権は、こうして人民全体に不可分に帰属するとされたが、その行使は、
第二八条前段の規定は、一七九一年憲法でも表明ざれており、主権の不可分性に基づいて、その部分的な帰属と特
ことを述べた。﹁市民のいかなる部分的集合も、いかなる個人も、主権を自己のものにすることはできない﹂という
って消滅せず、不可譲である﹂︵第二六条︶として主権の属性を明らかにし、それが、本質的に人民全体に帰属する
願 利を実現すべく構想されたものである。人権宣言は、主権の原理として、まず﹁主権は、単一、不可分で時効によ
章
三
年
三
九
七
一
の
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乃
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勘
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鰍
九
七
一
⇒
章
三
第
π
2
ところで、ジロンド憲法草案では、人民主権の表明と主権の属性・帰属についての規定はおかれていたにせよ、
主権の概念や主権原理の意義などについては、他の革命期の憲法と同様、直接明示されてはいなかった。したがっ
て、主権原理の解明は、当時における主権の用法や主権概念などについての検討を要するほか、憲法学および憲法
︵3︶
史学の理論状況をも考慮にいれて行うことが必要となる。また、主権原理の内実は、憲法が定める統治機構︵とりわ
け意思決定手続き、および執行監督手続き︶のあり方によって決定されるとする立場からすれば、もとより、人権宣言
や憲法典における人民主権の表明だけから判断することは不十分であり、統治機構に関する憲法の諸規定からその
︵4︶
内実を具体的に検証することが不可欠となる。以下では、これらの点をふまえて、ジロンド憲法草案における主権
行使の具体的形態と統治機構の概要を検討することにしよう。
︵1︶ ジロンド憲法草案︵零巳9△oひo房[︷9亘oo含①月巴・・o︶の正文は、﹄°、こ﹂°ωこひO。。もO°8一〇[°p⋮O已管詳2① 、
号゜亀、こOPω O O [ 。 力 ゜ に よ る 。
︵2︶ ﹄°、°、﹂°ωこ戸O。。もO“0。。由o⇔P参照。
︵3︶ フランス革命期における主権の用法が、国権すなわち国家の包括的な支配権としてのそれであったことについては、
杉原泰雄﹃国民主権の研究﹄四一頁以下、O①﹁品△o呂巴亘o﹁σq“8ノミこ⇔°一もPべωoけ㊤参照。また、主権の意義につい
て、学説は、それを国家権力と捉えるものや憲法制定権力と捉えるものなどに分かれているほか、主権原理の意義につ
いても、それを国家権力の帰属を定める法原理と解するか、権力の正当性の帰属を定める︵政治︶原理と解するかにつ
文献のほか、芦部信喜﹁国民主権ω②﹂法学教室五四・五六号︹一九八五年︺、杉原泰雄﹁国民主権と憲法制定権力−
いて、見解が対立している︵序章でも多少触れているが、最近の学説状況については、序章二2四一頁注︵17︶で示した
国民主権論の整理のための覚書ωーω﹂法律時報五七巻六ー九号︹一九八二年︺、高見勝利﹁主権論﹂法学教室六九号二
九八六年︺などを参照されたい︶。とくに、今日の主権論争を担っているこれらの諸学説が、フランス革命期憲法におけ
のフランス憲法学の研究成果を前提的に承認していることからしても、これらの主権問題が本書自体の課題と直接的な
る国民官ぼS菖・王権と人民百oc巳o︶主権との原理的対立、およびこれを理論的に分析したカレ・ド・マルベールなど
じることはできない。本書では、一七九三年の人民主権原理を問題にするにあたって、これを﹁人民︵意思決定能力を
関係をもっていることはいうまでもない。しかし、その問題の大きさからして今日の主権論争についてここで詳細に論
もった市民の総体︶﹂に国家権力︵の実体︶を帰属させることを可能にする法原理として捉えているが、フランス革命期
一七九一年憲法のもとで、﹁国民︵抽象的・観念的な国籍保持者の総体︶﹂を主権者とする国民主権原理が確立された際
憲法の実態に即してみるかぎり、主権原理における権力の正当性の契機をも排除しえないものと考えている。すなわち、
における権力の正当性の契機が問題となったのは当然であったし、また、君主主権の否定が直接的な課題であった当時
には、このような﹁国民﹂に現実に国家権力を帰属させることは論理的にも不可能であったかぎりにおいて、主権原理
では、権力の正当性が﹁国民﹂の側にあることを表明することにこそ意義があった示もっとも、実際には、国民主権原
理は、民衆を排除してブルジョワジーからなる国民代表に権力の実体を帰属させる機能︵およびその実態を隠蔽するイ
デオロギー的機能︶を果たした。この点では、国民主権原理は、ブルジョワジーへの権力の実体の帰属を可能とする︵お
よびそれを正当化する︶法原理でもありえたが、主権圭体たる﹁国民﹂には、形式的には権力の行使から排除された民
衆︵受動市民︶も含まれていた点では、少なくとも、国民主権原理はそのような﹁国民﹂への国家権力の実体的帰属を
指示する法原理ではありえなかったはずである︺。これに対して、一七九三年の段階で、﹁人民﹂︵意思決定能力をもった
にとって、それはもはや単なる国家権力の正当性の帰属ではなく、国家権力の実体の帰属を定める法原理であったし、
具体的存在としての市民の総体︶を主権者とする人民主権原理が構築された際には、その実際上の担い手としての民衆
に、その主権行使の態様00何では、これもまた、﹁人民﹂を構成する各市民への権力の帰属を実際上確保しえず、﹁人民﹂
また、そうでなければならなかった︹しかし、あくまで憲法規範上の主権者は﹁入民﹂という集合的存在であったため
が権力の正当な淵源であることを示す原理︵建前︶に転化しうるものでもあった。この意味では、人民主権原理もまた、
権力の正当性の契機を内包していたことを否定しえないであろう︺。
砲
理
1
原
舷
ナシオン プロプル
いずれにせよ、この問題の検討は今後も継続されなければならないが、とくに、ごく最近フランスにおいて、カレ・
ド・マルベールの研究成果を批判的に再検討し、今日の憲法学でいう﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂の対立が必ずしもフ
ランス革命期の主権概念に適合するものではなく、ともに意思決定参加者としての市民の総体を主権者とした点でむし
8∼ミミヘミ、“ヘミ㌃§∼Qミ句ミミミざ災“sミへ§ミS一㊤。。口︶が刊行されたこともあり、あわせて別稿で検討することとした
ろ共通していたことを指摘する著作︵○昆品已∋oロ①oo戸9∨さ亀oミミ曾ぶ災∼、ミぱざ恥合合ミ切§へ、ざざ§ミ
︵4︶ ジロンド憲法草案の人民主権原理についての憲法学界での位置づけや論争点については、序章︵二2三〇頁以下︶
い︵本書二二九頁以下の後掲注︵2︶も参照されたい︶。
で一七九三年憲法のそれを検討した際に多少問題にした。ジロンド派とモンターニュ派との対立に関する歴史的認識に
ついて立場の相違が認められるにせよ、憲法学界では、一七九三年憲法とジロンド憲法草案との憲法原理上の類似性を
プロプル
認め、ジロンド憲法草案の主権原理を、一七九三年憲法と同様﹁人民主権﹂原理として理解するものが多いようである。
プ プル
とくに選挙権論との関係でジロンド憲法草案←﹁選挙権権利説﹂11﹁人民主権﹂と解すること、および半代表制論との関係
プロプル
で、ジロンド憲法草案←﹁半直接制﹂‖﹁人民主権﹂と解することは、フランスにおいて、第三共和制期以降長らく承認さ
れてきたようにみえる︵﹀°国切∋oヨ、㎏隷さ§S合へさ心へo嵩Sヘミ議ミミミ書ぶ息砺ミへoミぶ災愚“べ。伽△こ一q⊃N一、O∨ω留−ωOΦ ナシオン プロプル
戸O胃品△Φζ巴ひΦ偏“§°ヘへこ吟゜ぷや嵩◎い゜O已σq巳⇔、ミ︶°ミ゜も゜m。。ω⋮ζ゜勺品一〇戸§°ミ゜もPωωO卑ω゜など参照︶。
日本でも、一七九一年憲法の﹁国民主権﹂と一七九三年憲法の﹁人民主権﹂との対抗を自覚しつつ、ジロンド憲法草
案の主権原理を一七九三年憲法と同様に﹁人民主権﹂として捉えていると思われるものに、長谷川正安﹃フランス革命
プ プル
と憲法﹄一七七頁以下、高野真澄﹁ジロンド・ジャコバン両憲法における人民主権実現の構想﹂尾道短期大学紀要一六
集三三頁以下、同﹁﹃ジロンド・ジャコバン両憲法における人民主権実現の構想﹄再論﹂奈良教育大学紀要一九巻一号一
どがある。
=頁以下、野村敬造・前掲書三一頁以下、岡田信宏﹁フランス選挙制度史ω﹂北大法学論集二九巻二号八二頁以下な
プロプル
これに対して、ジロンド憲法草案のなかに一七九三年憲法と同様に﹁人民主権﹂を見出すことに疑問を呈し、これを
﹁人民主権﹂とは質的に異なる主権原理すなわち﹁国民主権﹂の枠内で捉えるという見解も表明されている︵杉原﹃国
プハプル ナシオン
民主権の研究﹄二九〇頁以下では従来の見解が改められているが、その理由として、①ジロンド憲法における法律につ
いての人民決定の原則の未確立、②憲法改廃・法律制定におけるイニシァティブ等の無力性、③執行権に対する人民の
プじプル プトプル ナシオン
監視権の不存 在 な ど が 指 摘 さ れ て い る ︶ 。
プミプル
ジロンド憲法草案の主権原理を﹁人民主権﹂と解するか否かという問題は、論者における﹁人民主権﹂と﹁国民主権﹂
の概念規定の問題、とりわけ﹁人民主権﹂原理と判定する場合の制度上の指標の問題に係わっており、これらの検討を
プきプル
先行させなければその判定を行うことはできない。この点、本書では、﹁人民主権﹂原理に適合的な統治形態には、人民
による意思決定と人民による執行監督を確保しうる制度が必要であり、前者を保障するためには、普通選挙制度に加え
て、人民による立法権行使のためのレフェレンダムもしくは命令的委任制度、また、後者の保障には、人民による公務
員の任免制度あるいは議会による執行統制手続きなどが構想されうる、と考えている。しかし、ルソーやこれに依拠し
たカレ・ド・マルベールの﹁人民主権﹂論のように、命令的委任制度もしくは︵すべての法律についての︶レフェレン
プロプル
ダムを絶対的な必要条件として厳密に要求しているわけではない。本書では、今後の検討の必要を留保しつつも、当面
は、普通選挙制度のほか人民発案と拒否の制度、諮問的レフェレンダムなどの意思決定手続き、および人民と議会によ
る執行監督手続きを確立したジロンド憲法草案についてもーその手続きはきわめて不十分ながらi一七九三年憲法
年
三
使形態について次項で順次検証するが、ここでは、さしあたり、ω︵上記の理由のうち①②については︶ジロンド憲法
と同様、﹁人民主権﹂の枠内で捉える立場を前提的に維持しておきたいと思う。その理歯は、ジロンド憲法草案の土権行
プ プル
七
∼
においても、命令的委任制度や議員の罷免事続きが確保されているわけではないこと、権力担当者に対する主権者の法
草案では、すべての法律に対する人民の承認手続きがないにせよ、人民発案に基づく人民拒否、議会の解散手続きなど
プトプル
が留保されていることを無視しえないこと、㈲︵上記①③については︶﹁人民主権﹂の憲法と規定される一七九三年憲法
障していること、などを指摘しておこう。
的拘束の点では、むしろジロンド草案のほうが詳細な規定をおき、行政権担当者にも人民の直接的コントロール権を保
章
三
の
付氾
九
第
乃
1
憲
理
原
2 主権行使の形態と統治機構
のために公共の利益に基づく諸条件を要求することができるような一種の公務︵︷o口昆8旨ぴ言5︶とみなした。
ろうか。この問題について、政論家たちは対立する二つの見解に分かれた。一方は、政治的諸権利の行使を、そ
入れ、理性を働かせることができる人間の本性に由来する政治的諸権利1を行使する能力を誰に認めるのであ
﹁憲法は、人間が自然から受けとった政治的諸権利−他のすべてのものと同様に、道徳的な観念を敏感に受け
論じていた。
以上のような男子普通選挙の採用については、コンドルセが二月一五日の演説のなかで、その趣旨を次のように
にも、居住地を問わずすべての県から選出されうることが定められた︵第一〇条︶。
条︶、市民資格に年齢要件が加重されたにとどまった。さらに、居住要件の喪失によって選挙権が行使しえない場合
が認められた。また、被選挙権についても、満二五歳以上のすべての市民は、被選挙資格をもつものとされ︵第九
て削除され、心神喪失者を除いて、意思決定能力を有し、かつ一定の居住要件を備えたすべての成年男子に選挙権
た租税要件はもとより、僕碑などを選挙人から排除した職業上の要件や文盲者等を排除した教育上の要件等がすべ
化によっても喪失する︵第二条︶ことを定めた。ここでは、選挙権の制限として、一七九一年憲法下で認められてい
された無能力および心神喪失、第二に市民権剥奪を生ずる刑の宣告をあげ︵第五条︶、さらに市民資格は外国への帰
て、これは当然の帰結であった。ジロンド憲法草案は、選挙権行使を不能にする原因として、第一に、判決で認定
の区別に基づく制限選挙制が廃棄され、すでに国民公会選挙において男子普通選挙制が実施されていたことからし
憲法思想の主要部分を占めていたが、現実には、一七九二年八月=日のデクレによって受動的市民と能動的市民
で選挙権を行使する︵第三ー四条︶のであり、ここに男子普通選挙制が採用された。普通選挙は当時のコンドルセの
子であることを要求した︵第二篇第一条︶。この要件をみたす市民は、引き続き三カ月以上居住する区域の第一次集会
いて定め、第一次集会の市民名簿に記載される要件として、共和国の領土内に一年以上居住する満二一歳以上の男
第一次集会で行う市民の主権行使の第一の形態は、選挙である。ジロンド憲法草案は、第二篇で市民の身分につ
ω 選挙権の帰属
②選挙権と選挙制度
会自体は主権者ではなく、あくまで主権者は人民全体であることが強調され、任意の集会は議決権はもたず、各々
︵1︶
の第一次集会が別々に活動する場合には審議は何の権限ももたないことなどが指摘されていた。
ω8<己コ︶を行使する﹂ことがコンドルセの二月一五日の趣旨説明のなかで明らかにされていた。また、各第一次集
第一次集会に集合した市民は、これらの行為によって﹁主権者の構成員としての諸権利︵合。一房号∋。∋宮。ω晋
事項を審議し議決することであった︵第三篇第二節第一ー二条︶。これらの行為は、主権者の主権行使の内容をなし、
をする場合もしくは国民代表の行為について拒否権を行使する場合、の四つの場合に、共和国の一般利益に関する
公会招集の提議の場合、③立法府が共和国と全国民の要請に関する諮問をする場合、④立法府に対して、議決要請
第一次集会の機能は、憲法で定める所定の選挙のほか、①憲法草案の承認・否認および憲法改正の場合、②国民
簿の管理や集会の招集等を担当する事務局が選出された︵第二ー一一条︶。
〇〇人の市民からなるように区域が設定され︵第三篇第一節第一条︶各集会ごとに市民の名簿が作成されて、その名
に対して、後者は、主権行使のためのいわば選挙区の色彩をもっていた。第一次集会は、各県内で各々四五〇ー九
四条︶。区と第一次集会の区域は同一ではなく︵第六条︶、前者が、県行政機関︵県庁︶の支所をもつ行政区であるの
は大コミューン︵市町村︶に区分され、各コミューンは、区︵ぴ。8けざ5∋ロ己。■巴。・。︶と第一次集会に区分された︵第
ジロンド憲法草案の第一篇は、領土の区分を定め、単一・不可分の共和国に八五の県をおいた︵第一ー二条︶。各県
即 ω 第一次集会
1
法
の
年
三
九
七
一
章
三
第
1
81
彼らは、市民の一部に、排他的に、万人の諸権利の行使を委ねることができると考えた・⋮:。もし、これらの特
県の全第一次集会で毎年五月に実施される︵第七篇第 節第二条以下︶。どの選挙も、候補者名簿作成のための予備選
まず、立法府の議員選挙は、各県の人ロ五万人に一人の割で、人口数を基礎として算出された定員について、各
官、検察官、民事・刑事陪審員、司法監察委員、国民陪審委員、国民軍の指揮官にまで及んでいた。このため、各々
︵6︶
の選挙方法については各篇にも規定がおかれ、次のように定められた。
員︵大臣︶、各県の行政評議会︵8霧。=昆日一コ犀日江︷︶の構成員︵地方行政官︶から、国庫委員・会計検査委員、裁判
ここで市民による直接選挙が認められたのは、立法府や国民公会の議員の他、執行評議会︵85Φ巳爵轡巨5の構成
選挙制度については、選挙が第一次集会の主たる機能であることから、第一次集会に関する第三篇で定められた。
㈲選挙制度
にした。
も、コンドルセは、財産、教育、職業等による諸制約を逐次検討したうえで、これらがいずれも政治的権利を侵害
︵5︶
するものであることを指摘し、﹁結局、被選挙権についていかなる条件をも設けないことに決定した﹂ことを明らか
く、平等にすべての市民に帰属すべきである、として普通選挙制を採用したわけである。また、被選挙権について
ていたために、国籍と居住の要件︵および意思決定に必要な年齢要件︶という本質的な条件の他はいかなる制限もな
挙権のような政治的権利が、道徳的な観念に敏感で理性的な存在としての人間の本質に由来するものであると考え
︵いわゆる﹁選挙権権利説日m。﹃⋮Φ△①一.舎。8日︹合。5。すでにその憲法思想の検討からも明らかなように、彼は、選
︵3︶
権︵政治的権利︶は、人間の本性に由来する自然権であり、すべての個人︵市民︶に平等に帰属することを主張した
︵4︶
する議論︵いわゆる﹁選挙権公務説日mo﹁一〇△o一、公oo9日︹甘oo江oコ︶﹂︶を退け、普通選挙制を正当化するために、選挙
こうして、コンドルセは、一七九一年憲法下で制限選挙制を正当化するために主張されていた選挙権を公務と解
われは、最も簡潔な理由によって認められる自然権を、その真実性が少なくとも不明瞭であるような考察のため
︵2︶
に犠牲にすることが、正当であるとは考えなかった﹂と。 ‘
われには、第二の見解が、理性と正義、そして真に賢明な政治にとって、よりふさわしいように思われた。われ
今日まで、すべての自由な人民は、第一の見解に従い、一七九一年憲法もまたそれを確認した。しかし、われ
確認するために必要な諸条件だけである、と考えた。
他には属さないことを確認し、また、全市民が同じ場所で投票しえない場合に、どの集会に各人が属すべきかを
た。そして、仮にその行使を諸条件に服させることが正当であるとしても、それは、ある人がある国民に属して
これに対して、他方は、政治的諸権利は完全な平等を伴ってすべての個人に帰属しなければならない、と考え
う、と彼らは考えたのである。
ができるならば、このような︹選挙権を行使しえない者としうる者との︺差別には真の意味での不公正はないだろ
挙権行使からの︺排除が、それを免れることの安易さから、ある意味では自由意志に基づくものとみなされること
% 権を得た人々が自分たちだけのために法律を制定することが不可能であり、とりわけ法律によって確立された︹選
1
理
鯨
嚥 挙︵推薦投票ω自9日色oO品ω。コ巨︷o昌︶と本選挙︵確定投票︶の二回投票制で行われる。このうち、推薦投票は、記名
三
一
場合には、補助欄の得票を付加して順次当選者および次点者を決定する︵以上は、第三篇第三節第一⊥=条︶。な
を記入する。集計の結果︵第一欄の︶得票数が過半数を得たものについては得票順に当選が決定し、定員に満たない
投票は、無記名でなされ、各投票人は、投票用紙の第 欄に定数と同数の候補者名︵および補助欄に同数の補欠者名︶
定される。ついで、候補者名簿が県行政機関︵県庁︶から各第一次集会に送付され、本選挙が実施される。この確定
コ 投票でなされ、得票数の多い者から順に定員の三倍の候補者︵および次点者︶が決定され、県行政官吏による公示後
仇 一五日以内に辞退者の申し出を待って︵辞退のときは次点者を繰り上げて︶定員の三倍の人数からなる候補者名簿が確
第
章
∼紹
お、各県から各二名の議員で構成され、憲法の改廃に関連して随時形成される国民公会の議員選挙にも、立法府の
った。しかし、その政治参加の機会を可能なかぎり拡大して、立法府の議員のみならず行政府・司法府の構成員に
総じて、ジロンド憲法草案の選挙制度は、確かに、民衆にとっては複雑・煩墳にすぎて実効性に乏しいものであ
︵10︶
ったことはすでにみたとおりである。
薦投票は単なる表示にすぎないから記名しても危険性が少ないと判断していた。仮に、マティエらによって指摘さ
︵9︶
れてきたような危険性を承認するにせよ、秘密投票制の確立が、当時の状況では必ずしも民土性を示すものでなか
題となったが、コンドルセは、本選挙において無記名投票制が確立されていることを重視し、候補者を選定する推
を鋭く批判した。とくに、推薦投票において記名投票制が採用され、秘密選挙の原則が採用されなかったことが問
︵8︶
を伴うなどの欠点があった。現に国民公会の審議において、エロー・ド・セシェルやロベスピエールはこれらの点
は手続きがきわめて複雑・煩墳であり、またそれ故、時間に余裕のあるブルジョワにとって有利に機能しうる危険
しかし、以上のような選挙制度は、候補者名簿作成のための推薦投票を伴った二回選挙制であったため、実際に
にしていた。また、市民が各選挙において二度の意思表明だけをするような選挙制度は、簡潔で単純な操作を市民
ハ?V
に要求するものであり、その選挙制度の単純さが頻繁な改選を可能とすることなどを述べていた。
とを強調し、各第一次集会の意思が各県の市民の総意となって全共和国の意思形成につながってゆく構想を明らか
ドルセは、趣旨説明のなかで、一七九〇年以来の間接選挙制︵とりわけ選挙人会︶を排して直接選挙制を採用したこ
を活性化したこととあいまって、コンドルセの民主的な政治構想の表明として理解することができる。現に、コン
政治介入の機会を増加したこと、および、再選を認めて再選時における人民の信任機能︵あるいは実質的な罷免機能︶
る制度を構築していた。このような広範な直接普通選挙の採用は、公職の任期の短縮と頻繁な選挙によって人民の
立法府の議員のみならず、大臣や地方行政官などの行政担当官、司法機関の構成員等を市民によって直接に選挙す
以上のように、ジ糠ンド憲法草案は、人権官 欝案の人民主権規定を艮体化するために、男子普通選挙制を採用し、
選出される︵同篇第五節第二条︶。
従って第一次集会で選出される︵同篇第四節第二条︶。反逆罪を裁く国民陪審委員会の構成員も、各県ごとに三名ずつ
随時人民によって選出され︵第一〇篇第三節第九条︶、判決の破棄等を請求する司法監察委員も、個別選挙の手続きに
会で選出される︵同篇第一四条︶。一方、刑事裁判所を構成する所長一名、裁判官二名、検事一名も、二年の任期で、
事者に委ねられる︵第一〇篇第一節第九−一三条︶。民事陪審委員会の委員長等も個別的選挙の方法で直接、第一次集
入する方法がとられ、相対多数により当選した定数の二倍の委員が名簿に掲載されるのみで最終的な選考は訴訟当
選出される民事陪審員の選挙にも第一次集会が関与するが、この場合には、投票は一回で、各投票人は唯一名を記
成員についても、第一次集会での選挙が次のように定められる。まず、各第一次集会の市民一〇〇人に一人の割で
および会計検査委員選挙の場合︵第六篇第一・七条︶にも、上記の議員選挙の方法が準用され、また、司法機関の構
その他、各県の行政委員会を構成する一八名の委員選挙の場合︵第四篇第二節第一ー四条︶や、各三名の国庫委員
れた各大臣の任期は二年で、毎年その半数が改選され、再選されることができる︵第五篇第二節第一ー二二条︶。
第一欄の集計の結果絶対多数を得た者が当選者となり、ついで得票数の多い六名が次点者となる。こうして選出さ
れる。本選挙では、各投票人は、候補者名簿のなかから一名を選んで第一欄に記入し、補助欄に六名を記入する。
=二名の候補者︵および次点者︶が記載されるが、この場合に限って、続く八名の候補者からなる第二名簿が作成さ
て、各投票人は、一名の候補者名のみを記入する。この投票に基づいて作成される候補者名簿には、得票数の多い
われる。したがって、定員が一名の場合の選挙規定︵第三篇第三節第二二条︶が基本的に適用され、推薦投票におい
また、七名の大臣と一名の書記官長からなる執行評議会構成員の選挙は、そのポスト別に個々の投票によって行
幽 議員選挙の方法が準用される︵第九章第八条︶。
1
理
の
章
三
年
三
九
七
一
原
法
憲
第
斑
1
まで、広範に直接普通選挙の原則を適用しようとしたことは、運用上の問題を別とすれば、少なくとも原理上は、
8 6 次にみる一七九三年憲法よりも民主的な内容をもっており、人民主権原理に適合的であったということを否定する
1
︵11︶
ことはできないであろう。
③ 意 思 決 定 手 続 き と 立 法 府
ジロンド憲法草案は、フランス市民が共和国の一般利益を審議する場として第一次集会を設け、第一次集会での
主権行使の態様として、憲法の制定・改廃のほか、立法府の諮問に対する審議、および、立法府に対する審議事項
の採択の要請と国民代表の行為についての拒否をあげた︵第三篇第二節第二条︶。主権者の国家意思決定への参加は、
憲法の制定.改廃に関する事項と一般的な法律制定に関する事項の二つに分けられるが、前者については、人民の
直接的な介入と最終決定権を認め、後者については、第一次集会における人民の発案権と審議権、拒否権等を認め
たうえで、立法権が立法府に属する︵第七篇第二節第一条︶ことを明確にした。以上のような制度は、コンドルセの
趣旨説明のなかで、フランス市民の主権的権利の享受を代表制の憲法のもとで最大限に維持しうる方法として紹介
︵12︶
されており、すべての法律を人民の直接の承認に委ねる制度や命令的委任制度よりも、それに適したものと解され
ていた。
ω 法律の制定・改廃手続き
各県選出の議員からなる立法府は、一院制で毎年改選され、法律︵一9およびデクレ︵念△﹁⑦吟︶の二種類の文書を
制定する︵第七篇第一節第一条、同第二節第三ー六条︶。法律はその普遍性と無期限性、デクレは地方的・個別的適用と
一時的な性格を特徴とする。前者には、国有財産、一般行政機関および国の収入、公務員、貨幣に関する一般規定
が、後者には、軍事、予算、租税、公共事業等に関する諸規定が含まれる。これらはいずれも、立法府における公
開の審議を経て絶対多数で議決される。審議は、草案の採択および最終的な議決のために二回行われ、立法府内部
で選出される理事部において、まず草案の内容や採決の可否等が検討される︵第七篇第三・四節︶。
法律およびデクレの発議は、議員のほか、第 次集会に集合した市民によってなされ、人民発案の手続きは次の
ように保障される︵第一次集会において市民が法律の制定・改廃を請求する手続きは、立法または 般的行政行為等につい
て人民の代表を監督する手続きと同様、人民の審査︵8ロω烏o△已需ξ︼o︶に関する第八篇に規定された︶。すなわち、五〇
名以上の市民が署名した請願が第一次集会の事務部に送付されると、次の日曜日に第一次集会が招集され、過半数
の賛成で審議が支持されると、当該市町村管区内の全第一次集会が招集される。ついで、市町村内の第一次集会で
投票した市民の過半数が当該事項の審議に賛成すると、県内の全第一次集会が招集され、議決が行われる︵第八篇第
一ー一二条︶。その結果、過半数の市民の賛成が得られた場合には、県行政機関が立法府に審議を要請し、すべての
議員・委員に伝達される︵第八篇第一三−一四条︶。立法府では、委員の報告の後に審議の継続の可否を記名投票によ
り採決し、過半数が承認した場合には、正式に法律案となって審議・採択される︵第八篇第一六1一八条︶。この過程
で、審議打切りや提案が否決された場合にはその結果と先決問題︵ρ已。豊。5買合舞亘一㊦︶についての審議内容が各県に
否認した、何月何日の立法府の決議の廃止について、審議の余地があるか否か﹂という所定の様式で、審議の可否
の第一次集会で要請された場合には、立法府は直ちに共和国の全第︸次集会を招集し、﹁以下の提案を承認もしくは
㎜ 伝達されるく第八篇第 九条︶。先決問題についての決議︵念自Φ[︶や提案の根拠となる法律を廃止することが他の県
絃
年
の
已
章
三
一
定期間議員に再選または指名されないく第八篇第二〇⊥三条︶。この規定に従って新たに選出された議会は、二週
法府の決議の廃止について審議の余地があることを認めた時は、立法府は改選され、当該決議に賛成した議員は、
也 を問わなければならない︵第八篇第二〇1二一条︶。この全第一次集会での投票の過半数が、所定の問題についての立
第
条︶。
間以内に当該決議の廃止問題を審議しなければならず、その議決の内容は拒否権行使の対象となるく第八篇第二六
87
膓
。潤
。B
1
三
年
三
九
七
一
の
憲
以上のように、法律の制定・改廃についての人民の発議が、市町村および県における全第一次集会の過半数の支
持を条件として立法府に提出され、議決されうる制度が採用されていた。それは、あくまでも発議権であり、法律
の制定.改廃について立法府を拘束するものではないが、人民の意思を反映させるための配慮として、人民の提案
が否決された場合の理由開示と、議員の責任追及を可能とするための記名投票の方法が定められた。また、人民の
発議に対する立法府の決議を廃止することが第一次集会の多数の意思である場合には、その決議に加担した議員の
再選禁止と議会の改選が定められ、人民の議会解散権と議員の罷免権が部分的に保障された。しかも、一県の第一
次集会の意思と他県のそれとが異なる場合、および立法府とこれらの二県の意思が異なる場合には、全第一次集会
が招集されることが義務づけられており、県や地域による利害・意思の対立が存在した当時においては、その可能
性はかなり高いものと予測されていたことが窺える。
さらに、以上のような人民の法律発案権が人民の拒否権と相互補完的に保障されていたことが注目される。同じ
く第八篇の第二〇条以下の規定に示されたように、人民の発議と異なる決議を行った立法府は一定の条件下で解散
を余儀なくされ、改選後の議会も当該事項の審議を義務づけられたうえ、その議決の内容が全第一次集会の拒否権
︵︵一
uO一↑ ︵]Φ O而白ω一﹂﹁O︶行使の対象とされたことによって、当該事項の審議がとめどもなく繰り返されることになった。
・ ︵13︶
このほか、﹁すべての法律および憲法に違反するすべての立法行為は、拒否権の行使に服せしめられる﹂︵同篇第二七
条︶という原則にそって、立法行為についての人民の拒否権が、第八篇で規定される人民の代表に対する監督の一環
として保障されていた。その手続きに関する特別の規定はないが、発案手続きとの関連からして、全第一次集会の
市民は、記名のうえ、当該立法行為について、賛成または反対のいずれかを投票用紙に記入する︵もしくは、事務局
員に記入してもらう︶ものと解される︵第四篇第五節第五条︶。
しかし、以上のような人民の審査︵OO口ω已﹁O︶手続きには、その複雑さと実効困難さからくる欠陥があり、それを
予想してか、実質上その機能を抑制しうるような二つの配慮がなされていた。まず、第一は、人民の拒否権発動に
コンドルセによって、法的安定性を確保するためであると説明されていた。第二は、拒否権の対象が法律に限定さ
かかわらず、立法府が採択した法律の暫定的な施行が厳格に承認されていたことであるく第八篇第二九条︶。これは、
︵14︶
れていたことである。すなわち、デクレおよび単なる行政行為、地方的・局部的利益に関する議決、公務員に対す
る監督および警察の実施、一般的安全のための措置などは、それらが更新されたのではない場合に、形式的に拒否
権の行使から除外されることが定められていた︵第八篇第二八条︶。
また、ジロンド憲法草案の意思決定手続きには、以上のような人民発案権と拒否権に基礎をおく立法手続きの他
に、立法府の諮問に基づいて人民が最終的決定権を行使するいわゆる諮問的レフェレンダムの制度が採用されてい
た。﹁立法府は、適切と判断する場合には、いつでも、本質的に共和国全体の利益に関する問題について第一次集会
に集合した市民の要望を諮問することができる﹂︵第八篇第三〇条Vのであり、この場合には、同時に全第一次集会が
招集され、投票人は単純に賛否のみで答えることとされた。第八篇には、このほか、法律に対する拒否権行使とは、
承認後二〇年目に憲法上の規定にそって立法府が行う場合︵同篇第四条︶、の三つの場合である。第一の、立法府が提
が必要と考える場合筒篇第七条︶、②∼県の第 次集会の投票人の多数がそれを要請する場合同篇第六条V、③憲法
憲法改正や一部修正等のために国民公会が招集される︵第九篇第一条︶が、国民公会が招集されるのは、①立法府
そって以下のように定められた。
次に、憲法改正手続きは、憲法改正権が本来的に主権者人民に属することを保障した人権宣言第三三条の趣旨に
㈲ 憲法改正手続き
る権利も定められていたく同篇第三∼ー∼ 三条︶。
鯉 別に、市民の個別的利益に関して請願をする権利、公務員の権力濫用・法規侵犯の場合に、市民が裁判所に提訴す
剖
章
第
額
1
理
案する場合にも、全市民の過半数がこの招集を承認することが要件とされており︵同篇第七条︶、国民公会の招集には
は、さほど容易なことではないように思われるからである。
の手続きからして、ジロンド憲法草案と次にみる一七九三年憲法との間に主権原理における質的差異を見出すこと
る人民の立法への介入と憲法改廃についての直接的手続き、および、第八篇で確立された人民の代表に対する審査
状況における制度の実効性の問題を別としても、以上のような人民の発案権・拒否権、諮問的レフェレンダムによ
れが﹁人民主権﹂と対立する﹁国民主権﹂原理に適合的なものと解することには躊躇せざるをえない。当時の革命
プロプル ナシオン ト
が、すでに前項の注︵4︶︵一七八頁以下︶で述べたように、ジロンド憲法草案の以上のような限界から、直ちに、そ
いての概念規定に深くかかわっているため、それを明確にすることなくして択一的な回答を示すことは困難である
見出すか﹁人民主権﹂原理を見出すかについては、見解が分かれている。この問題は、主権原理・代表制原理につ
プープル ︵19︶
ジロンド憲法草案は、代表制を基本的に承認しつつ、直接制の手続きを導入した点で、一般に今日の憲法学でいう
ナシオン
﹁半代表制﹂もしくは狭義の﹁半直接制﹂の憲法として理解されてきたが、その制度の基礎に﹁国民主権﹂原理を
る原理、すなわち﹁国民主権﹂原理に適合的なものと捉えるか、は別に検討すべきことがらである。周知のとおり、
ナシオン
な限界を認める場合にも、それを﹁人民主権﹂原理内での不十分さと捉えるか、﹁人民主権﹂原理とは本質的に異な
プープル プープル
総じて、ジロンド憲法草案の意思決定手続きには、以上のような限界、不備が存在していた。しかし、このよう
相違が主権原理の質にかかわるものか否かについて、さらに検討する余地があるであろう。
る。この点も、第八篇第二条の手続きからすれば、改正内容の提案も含まれると解されるが、一七九三年憲法との
は発議のみなしえて改正案の内容について二七九三年憲法のように︶限定する機能を果たしえないことが指摘され
票の秘密が保障されていないことの問題性が指摘される。第五に、憲法改廃のための国民公会招集について、人民
︵18︶
行使の面でのブルジョワ的性格、例えば、発議権等を行使する際の第一次集会での票決は、記名投票でなされ、投
般的な性格をもつものがデクレ事項に含められていることは問題である。第四に、第一次集会における市民の主権
しうる点で限界がある。とくに、一七九三年憲法では法律事項とされている租税の賦課や税率、宣戦布告など、一
︵17︶
権に服する立法行為が法律に限定され、広範な内容をもつデクレが除外されていることは、人民の介入を骨抜きに
別として︶立法についての最終決定権を立法府に委ね、人民の拒否権行使の場合にも、法律の暫定的な施行を認める
︵15︶
制度は、本質的にこの原則に抵触するのではないかという疑問が生じる。第二に、ジロンド憲法草案で確立された
︵16︶
人民の発案権・拒否権は、立法府を最終的に拘束しえない点で無力であることが指摘される。第三に、人民の拒否
第一に、人民による意思決定を原則とする﹁人民主権﹂の立場からすれば、︵憲法の改廃についての直接的手続きは
プロプル
問題を含めて種々の限界が認められる。
よりも実効性があるものとして、代表制と調和するように構想したものである。しかし、現実には、その実効性の
さて、以上のような意思決定手続きは、コンドルセがすべての法律を義務的なレフェレンダムに服せしむる制度
㈹ 限 界
持されないほか、発案権行使の実効性の問題など、法律の制定・改廃手続きの場合と同様な限界が存在していた。
人民に帰属せしめられていたが、その反面、立法府が招集を行う場合については、改正内容についての発案権が維
こうして、国民公会の招集の決定のみならず、国民公会が作成した改正案についての拒否権および最終決定権が
らない︵同篇第=二条︶。
たときは、国民公会は当然に解散し、立法府は新たな国民公会を招集するか否かを第一次集会に諮問しなければな
場合には、国民公会は新草案を再度人民の投票に委ねる義務をおう︵同篇第一二一二条︶。万一、新草案も否決され
員が選出され、憲法改正案を作成する︵同篇第八・九条︶。この憲法改正案は第一次集会の議決に付され、否決された
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0 いずれにせよ第一次集会の議決を必要とする。国民公会の招集が決定されると、第一次集会において各県二名の議
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ω 執行監督手続きと行政府
数ずつ改選され、再選も認められた︵同篇第二節第二〇条︶。
各第一次集会で本選挙が行われるという二段階制であった︵第五篇第二節参照︶。執行評議会の任期は二年で、毎年半
全国から一名の候補者を指名する各県の推薦投票をもとに=二名からなる候補者名簿が作成され、それに基づいて、
別個に、第一次集会で直接公選されることとされた。その方法については選挙制度の項ですでに触れたが、まず、
に規定された。すなわち、共和国執行評議会は、七名の大臣と一名の書記官長からなり、これらの構成員は、各々
次に、中央の行政機構としての共和国執行評議会︵85。一一。×舎已法ユ巴①問曾已ぴ=ρ9︶については、第五篇で詳細
㈲中央行政組織
していた。
制のほかにも、県行政機関の審議の公開制︵同第一六条︶が保障されるなど、主権者のコントロールへの配慮が存在
は、県の行政官は、市民の利益を代弁する代理人とされ、行政評議会委員の公選制、二年任期︵一年ごとの半数改選︶
補充することはできないものとされ︵第四篇第一節第一九条︶、職務が厳密に限定されていた。また、市民との関係で
一方、立法府との関係では、県の行政機関は、いかなる場合にも法律の執行を停止・変更もしくは新規定により
その中央集権的特色を見出すことができる。
違反しまたは公共の安寧や国家の安全を害する行政行為を無効にする責務を負うこと︵第五篇第一節第八条︶にも、
判に付するためには、執政府や執行評議会の議決を要すること︵第四篇第一節第二一条︶や、執行評議会が、法律に
られたこと︵第四篇第一節第一五条︶は、このことをよく示していた。また、県の行政官をその行政行為について裁
て執政府構成員以外の行政評議会委員のなかから選出され、法律の施行の監視と執行評議会との連絡の任務を与え
かにされていたように、従来の地方の代理官に代わって、国民委員︵OO∋ヨ一ω切①一叶Φ口O桿一〇昌①一︶が、執行評議会によっ
にここではフェデラリスムよりもむしろ中央集権的な統治機構が形成されていた。コンドルセの趣旨説明でも明ら
︵22︶
共和国執行評議会︵OOコo◎⑦=O×mO一﹂吟一︷︶の命令に従属する︵第四篇第一節第一二条︶ことが定められ、すでに触れたよう
代理人︵①oqΦ巳︶とみなされされた︵第四篇第一節第一〇・=条︶。中央政府との関係では、彼らは、本来的に中央の
政事務についての政府の派遣委員︵念一mσq急︶であると同時に、地域の利害に関するすべてについて管轄内の市民の
会委員︶は、主として直接税の賦課や会計、請願の審議等の任務をもち、共和国全土において、法律の施行と一般行
の二名を含む四名が執政府︵一︶一﹁OO[O一叶O︶を形成した︵第四篇第一節第二・三条、第二節第四条︶。県の行政官︵行政評議
条︶。各県の行政評議会は、県内の第一次集会で市民から直接選出された一八名の委員から成り、そのうち最多得票
に市町村行政機関︵巴邑巳ω茸豊8△08日日已尾8∋§宣O巴ぼ︶、各区にその支所がおかれた︵第四篇第一節第一
︵㊦8け︷8ω日已巳o■巴oω︶という領土の区分を前提にしており、各県に行政評議会︵8コ。。。︷一且∋一。一。。☆①江O、各市町村
ジロンド憲法草案における地方行政組織は、第一篇で明らかにされた共和国−県ーコミューン︵市町村︶ー区
ω 地方行政組織
は、立法権に対する行政権の優位という構造は見出せないからである。
ドルセが共和国の統一を確保するという観点から行政権の強化を企図していたにせよ、次にみるような諸規定から
ためであり、これとの関係から次に中央の行政機構に関する規定がおかれたものと考えられる。この意味では、ジ
︵21︶
ロンド憲法草案の構成等から、即座に行政権の優位という特徴を引き出すことはできないであろう。たとえ、コン
先に規定した。これは、各県の第一次集会での主権行使を行う市民にとって地方行政のほうが身近な問題であった
ず、ジロンド憲法草案は、立法府に関する項目よりも行政府に関する項目を前におき、しかも地方行政府の機構を
% コンドルセにおいては、共和国の存立を保障する諸権力のなかで最も重要なものは立法権であり、一旦表明され
︵20︶
た国家意思を執行するにすぎない行政権は、必ずしも真の権力といえるものではなかったといえる。にもかかわら
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このような頻繁な改選と再選の可能性は、人民の執行権へのコントロールを強めるものであり、改選時において
坐 実質的な罷免権を行使しうることを意味していた。人民による直接的な責任追及手続きや罷免権については、無能
1
力または重過失の場合の罷免、死亡・辞任・病気等の場合の交替の場合︵第五篇第二節第三一⊥三二条︶しか明示され
てはいないが、人民の代表に対する監督・審査権を定める第八篇の規定が一般的な行政行為をも対象としているこ
と︵第八篇第一条︶、および公務員の権限濫用や法律違反について裁判に付す権利が市民の権利として保障され︵同三
三条︶、執行評議会構成員の犯罪を裁くために国民陪審委員会が形成される︵第一〇篇第五節︶ことなどからすれば、
人民の執行監督についての配慮が存在したことが窺える。また、執行評議会の権力濫用の危険を予想して謎責手続
きについての多くの規定がおかれたこともその関連で捉えることができる︵第五篇第一節第二一ー三〇条︶。
このほか、ジロンド憲法草案では、以上のような人民による直接的なコントロールの手段に加えて、行政府を立
法府に従属させる構造も存在したようにみえる。執行評議会の構成員は、在任中または退任後は、立法府の議決を
要件として裁判に付され、解任あるいは漬職罪のいずれで追及するかが決められることとされ︵第五篇第一節第二一・
二四条︶、大臣の責任追及が、立法府の議決に依存する手続きが構想されていることもその例である。また、執行評
議会は、毎年、立法期の終りに行政機関の諸経費を立法府に報告し、濫費を指摘する義務がある︵同篇第三節第一条︶
ほか、執行評議会構成員は議会への出席と報告を立法府から求められることが定められていた︵同第六条︶。
さらに、執行評議会の任務は、立法府の制定する法律とデクレを執行し、執行させる任務に限定され︵同篇第一節
第四条︶、いかなる場合にも、法律およびデクレの規定を変更したり、拡張または︵拡張︶解釈したりすることは禁じ
られていた︵同篇第一節第六条︶。立法に関する発案権や拒否権は何ら認められてはおらず、議会の解散権がないこと
もいうまでもない。このことは、コンドルセが、大臣たちは立法府の使用人︵①ひq①耳ω︶であり、その創始者であって
はならないことを述べ、大臣の公選制を定めたのもそれが人民の代表者だからではなく人民の公僕だからであると
︹23>
指摘したことにも示される。ここでは、人民ー立法府ー行政府というヒエラルキーを確立して立法府への権力集中
制を実現した一七九三年憲法ほどにはその構造が明確ではないにせよ、一七九一年憲法のような権力分立制ではな
︵24︶
く、むしろ立法府の優位に基づく一定の権力集中制が採用されていたと考えることができるであろう。
総じて、ジロンド憲法草案と一七九三年憲法との最も主要な差異は、前者が行政担当者の直接公選制を採用して
いたのに対して、後者が間接選挙制にとどまっていたこと、そして、前者が行政府に対する人民の直接的なコント
ロールをめざしており、後者は議会による統制をめざしていたことにある︵別言すれば、ジロンド憲法草案が立法府・
執行府の直接統治型であるのに対して、一七九三年憲法は立法府集権型であるということができる︶。この点では、行政官
は何ら代表の性格をもたないことを主張するコンドルセの意図に反して、ジロンド憲法草案では、直接公選による
行政担当者︵とりわけ執行評議会の構成貝︶が、立法府の議員と同様に∧あるいはその選出方法が各県単位でなく全国の
範囲でなされることなどからすれば、議員以上に︶民主的正統性をもった国民代表として機能しうることを示してい
プ プル
が、このことから逆に、ジロンド憲法草案においては、行政府の優位に立つ権力分立原則が導かれていると解する
る。国民公会で、サンほジュストが批判したのも、このような行政権の肥大化と権力濫用の危険を前提としてのこ
︵25︶
魂 とであった。たしかに、行政府への人民の直接的介入を認めることは、その運用如何では危険な側面をもっている
湖
嚥
︵1︶ ﹄㌔二゜㌍[°O。。、▽P朝。。ロー切。。O°
フランス革命期における選挙権の本質論
︵2︶ ﹄さ二三こ︹O。。﹀廿PO逡−切田◆
︵3︶
︵選挙権論︶の二系譜とその展開については、すでに別稿で検討している
口 ことは疑問であろう。憲法学上の﹁人民主権﹂原理との関係からしても、人民の直接的介入を認める構造自体が、
廿 規範論理上これに適合的でないと解するかどうか、さらに検討に値しよう。
鱈
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のでここでは立ち入らない。前掲拙著︵﹃﹁権利﹂としての選挙権﹄︶所収の﹁フランス革命期の選挙権論﹂、﹁フランスに
おける選挙権論の展開﹂を参照されたい。なお、ここではコンドルセの見解を﹁選挙権権利説﹂の系譜に属するものと
プ プル
して理解しているが、コンドルセの見解は彼自身の自然権理論に依拠するものであり、今日の憲法学において﹁人民主
プ プル
権﹂原理と論理的に結合するものとして主張されている権利説︵主権的権利説あるいは﹁人民主権﹂論に基礎をおく権
プ プル
利説︶の立場とは異なることに注意が必要である。﹁人民主権﹂論に基礎をおく今日の権利説では、選挙権の本質は、︵コ
ンドルセのような自然権説とは異なって︶主権者を構成する市民の権利︵意思決定能力をもった成年としての主権者の
個人的権利︶として理解され、︵自然法学説として今日まで非難されてきたような﹁選挙権権利説﹂とは異なって︶実定
法上の解釈学説として構築されている︵この点については、前掲拙著第二部六六頁以下を参照されたい︶。
プ プル
︵4︶ このようなコンドルセの選挙権論が、﹁選挙権権利説﹂︵←﹁人民主権﹂原理︶の系譜に属するものであることは、フ
た︵前項1の注︵4︶で示した﹀°国切∋o⋮P§°☆↑、OPω留−ω宗 閃゜○自品△o呂巴げ臼σq“息◆☆↑、⇔﹄も﹄NOなど参照︶。
ランス公法学においてもエスマン、デュギー、カレ・ド・マルベールなどをはじめ、多くの学者によって承認されてき
見される︵ρロ①8戸§°☆↑≡Pお①↑ω゜︶。バコの見解については、根拠と思われるコンドルセの文言︵﹁第一次集会で
これに対して、最近では、コンドルセが選挙を主権行使の内容ではなく、単なる職務として捉えているとする見解も散
人民が主権的権利あるいは選挙の職務を行使する﹂という箇所︶における職務の語が、選挙権論における公務︵社会的
ナシオン プロプル
義務︶を意味するか否かが問題であるほか、﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂との対立的把握に批判的なこの著者が、ジロン
ナシオン
ド憲法草案の選挙権論・主権論をどのように理解しているのか︵選挙権公務説←﹁国民主権﹂論の枠組みで捉えているか
プ プル
否か︶は必ずしも明瞭ではなく検討の余地を多く残している。また、わが国でも、ジロンド憲法草案の主権原理を﹁人民
主権﹂として理解することに疑問を提示した杉原教授の問題提起を選挙権論の面で検証すべく、ジロンド憲法‖﹁選挙
権公務説﹂11﹁国民主権﹂という枠組みで理解する見解が表明されている︵伊藤良弘﹁ジロンド憲法における主権論‖選
ナシオン
挙権論﹂一橋論叢八五巻三号一四四頁以下︶こともあり、一言触れておかなければならないであろう。この論文は、す
でに訳出したコンドルセの演説は、﹁﹃政治的権利の行使を⋮⋮一部の市民にだけ⋮⋮委ねること﹄を排斥しているので
あって、﹃政治的権利の行使を以て⋮⋮公務とみな﹄すこと自体を排斥しているのではない﹂︵一四九頁︶と解し、コン
ドルセの見解は、﹁﹃選挙権公務説﹄を媒介として﹃被選挙権公務説﹄を導出している点で⋮⋮ムーニエ←トゥーレの系
ナシオン
譜に連なるもの﹂である︵一五七頁︶ことなどから、﹁コンドルセ報告ひいてはジロンド憲法が﹃国民主権﹄論U﹃選挙
し、この論文では、予想される多数説からの反論に対して再反論することに主眼がおかれているためか、コンドルセの
権公務説﹄の系譜に属すること、従って⋮⋮多数説が誤りであること、は明らか﹂であると結論する︵一五八頁︶。しか
が提示されているわけではない。また、制限・間接選挙制を正当化するために主張されたバルナーヴやトゥーレらの選
見解が︵その﹁権利説まがいの表現﹂にもかかわらず︶本質的に公務説であることを証明する積極的かつ直接的な論拠
挙権公務説と、普通・直接選挙制を採用するコンドルセの見解が全く同質なものか否か等についても、彼の憲法思想に
一定の矛盾︵例えば、コンドルセが革命以前において、選挙権を自然権と捉えながらも制限選挙制を容認していたこと︶
遡って検討されているわけではない。コンドルセの憲法思想の検討からも明らかなように、コンドルセは、それ自体に
と解していたのであり、フランス公法学説がコンドルセの見解を﹁選挙権権利説﹂の系譜で捉えたのもその故である、
を含みながらも、選挙権などの諸権利を、.。ω①房一巨o、、で..﹁巴ωo弓①巨o..な人間の本質に由来する﹁権利﹂︵政治的権利︶
と考えられる。しかし、コンドルセのような自然権思想が、﹁政治状勢の変化如何に従って﹃政治的諸権利﹄の行使形態
る危険を内包していたことの示唆、そして、そのことがルソーとコンドルセの分岐点であったことの指摘︵一六〇頁︶
を自由に変化させ得、かつそのことを﹃正義の法﹄の名で正当化し得る﹂︵一五九頁︶点で、非民主的な本質を隠蔽しう
は重要であり、ここで提起された問題は、すでに指摘したようなコンドルセらの権利概念の問題と併せて、今後も再検
ナシオン
討を要するものであるといえよう。また、一七九三年憲法の本質と限界を問題にする本書の目的からすれば、ジロンド
憲法11選挙権公務説H﹁国民主権﹂という理解が、一七九三年憲法の理解とどのような関係に立つかという点について
プ プル
も 、 ご 教 示 を 待 ち た い と 思ド
う。すなわち、ジロンド憲法をこのように解したうえで一七九三年憲法については、選挙権
権利説11﹁人民主権﹂という枠組みで捉えるどすれば、主権論・半代表制論におけるジロンド憲法と一七九三年憲法との
質的差異のみならず、選挙権論における質的差異︵とりわけ一七九三年憲法における選挙権権利説の採用︶をどのよう
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に論証するかが問題になるであろうし、また、反対に、一七九三年憲法をもジロンド憲法と同様に、選挙権公務説‖﹁国民
主権﹂の枠組みで捉えるとすれば、従来のフランスやわが国における大多数の見解を覆すための十分な論拠、あるいは
全く新たな概念規定の提示が必要とされるだろうからである。
︵5︶込㌔二゜P二〇。。らO°O㊤?OΦ㊤゜
︵6︶ ジロンド憲法草案における選挙制度の概要については、樋口謹一・前掲論文︵桑原編﹃フランス革命の研究﹄所収︶
一〇八頁以下、岡田・前掲論文︵北大法学論集二九巻二号︶八二頁以下など参照。
︵7︶﹄、こゲ ω ゜ 、 け ゜ O 。 。 も O ° O O O 右
︵8︶ ジロンド憲法草案の選挙制度の欠点については、﹁この選挙法は、ブルジョワジーの永久政権を可能にするもの﹂と
する樋口謹一教授の指摘︵前掲一〇九頁︶や、﹁外見上、綿密に尊重された人民主権の美名に隠れて、一階級の支配が組
織され、永続化されるだろう﹂とするマティエの指摘︵﹄°呂讐宮oN、.、↑①Oooむ。⇔一ε江o口△o一おω.、、§°ミニ⇔°口も.OO°。︶
プ プル
などが注目されるが、その選挙方法を実現する場合に考えられるブルジョワジーの利益の問題と、憲法学の規範論理上、
﹁人民主権﹂原理に適合的であるか否かという問題は、区別して考察されるべきであろう。なお、このような選挙制度
に対しては、モンターニュ派のエロー・ド・セシェルは、選挙における人民の疲弊を問題にし︵﹄°、二一゜ωこ︹09や
S。。︶。
N切。。︶、ロベスピエールも、暇のある金持ちだけが選挙に参加しうる結果になると批判していた︵SOoユ①oゴo︹§°☆で℃°
︵9︶ マティエは、推薦投票の記名制は地方貴族の投票への介入を強めると評価した。﹀°三讐宮oN、8°o一亡や㎝OO°
撤廃した反面、候補者選定のための予備選挙を採用したことで、立候補権が実質的に制約された点のほうが問題となる
︵10︶ 第二章第一節二2一一〇ー=一頁を参照。ここでは、秘密選挙原則の問題よりも、むしろ、被選挙資格の制限を
︵11︶ この点では、後にみるように、ジロンド憲法草案とモンターニュ派の一七九三年憲法とでは統治構造が異なってい
ように思われる。
ることがわかる。一七九三年憲法では、人民の直接選出する代表が立法府の議員に限られ、行政府の構成員は間接選挙
にとどめられたこともあって、立法府に権力が集中され、人民ー立法府ー行政府という垂直的な権力構造が構想された
が、人民が、立法府の議員のみならず執行府の構成員らをすべて直接選出するジロンド憲法草案では、このような立法
プロプル
府集権型の構造がとられないのは、当然のこととなろう。したがって、このことをもって、ジロンド憲法草案は﹁人民
プ プル
主権﹂に適合的でないと解することは、﹁人民主権﹂に適合的な民主的統治機構の在り方を不当に狭めることになるとい
えよう。ちなみに、ルソーの﹁人民主権﹂論では、執行権の担当者は人民の公僕であり、人民は好きなときに、彼らを
任命し解任しうることが要請されている︵﹂こ゜兄o已。。む・o①∼bミOoミミS8☆忘一べΦN↑]戸合゜×≦︼一゜ルソー︹桑原訳︺
﹃社会契約説﹄一四〇頁参照︶。
︵12︶ ﹄、こピω二吟゜O。。もO°O。。軽o⇔㊤コンドルセは、ここで﹁共和国の広さが、代表制の憲法しか提案することを許さな
い。というのは、受任者︵念辰ぴq急切︶がその委任のなかで表明された特殊な願望にしたがって、一般的な意思を形成する
ような憲法は、単に法案起草老の機能を果たすにすぎない議員が、一時的な支配権も得ないで、即座にすべての法律を
市民の承認のもとにおかなければならないような憲法よりも、やはり実現可能性が少ないであろう﹂と述べ、まず命令
的委任制度を否認したうえで、実現可能な意思決定方法を検討していた。
︵13︶ ここでは、ジロンド憲法草案第八篇第二六条以下の合o#巳Φ80。・巨oの語には﹁拒否権﹂の訳語を与え、同篇にお
ける広義の﹁人民の審査︵⇔OO白n已﹃O︶﹂と区別をしているが、ここでいう拒否権は、一般に半直接制の一態様と解され、
一七九三年憲法について次にみるような人民拒否︵<9008巳巴冨︶とは同じものではない。人民発案権と組み合わされ
ては、≧Oコσq﹁S§°☆でOP零o。−㎝o。ω卑ω∴○①ω邑O下O已℃①﹁P§°亀でOO﹂。。NO⇔°力∴呂゜ウ日▽む。°。日O戸§°☆ひO戸N一〇忠
た拒否権行使によって、ジロンド憲法草案における立法手続きが、はてしなく複雑で非現実的なものとなることについ
︵14︶ ﹄°、こ一゜ω゜トO。。も゜m。。べ⋮○①切己070ε曽Pe°☆↑、℃]。。N参照。
ω゜など参照。
︵15︶ 杉原﹃国民主権の研究﹄二九二ー二九三頁参照。この立場は、命令的委任制度やレフェレンダムによって、人民に
最終的な意思決定権が帰属されないかぎり︵すべての法律について立法府の役割を単なる法案作成にとどめないかぎ
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プロプル ナシオン
り︶、﹁人民主権﹂の成立を認めないとするものである。ここでは、立法府に立法権が専属し、人民拒否権の発動以前に
法律が有効に施行されるジロンド憲法草案の手続きは、﹁人民主権﹂原理に適合せず﹁国民主権﹂の範晴に含められる
が、すべての法律についてレフェレンダムに付することの実際上の困難からすれば、命令的委任制度を採用しない今日
プ プル
プ プル
の代議政体においては﹁人民主権﹂の実現はほとんど不可能に近くなるものと思われる。また、このような憲法理論上
の問題とは別に、﹁人民主権﹂という概念の歴史性を重視する場合には、コンドルセをはじめとする当時の議員たちは、
すべての法律にレフェレンダムを適用することができない場合の次善策として、人民の発議権と拒否権を人民の直接行
使に委ねる制度を構想し、これが彼らのいう人民主権原理に適合すると考えていたことに留意する必要があろう。
︵16︶ この点も、ジロンド憲法草案における人民の立法参加手続きの重大な限界であることは確かである︵杉原・前掲書
二九三頁、前掲注︵13︶記載の諸文献参照︶。もっとも、発案権・拒否権の本来的な性格からすれば、それが人民の最終決
定権を保障しえないことは予想されるところであり、発案権の拘束力を高めるために採用された立法府の解散や関係議
員の再選禁止による実質的な罷免権の保障のほうをより注目すべきであるという考え方も成立しうるであろう。また、
発案権と拒否権の一方のみ、あるいは双方が相互に関連なく保障されている場合と異なり、両者が相互補完的に制度化
されていることは、人民による意思決定の原則に関して、次にみる一七九三年憲法の場合に匹敵︵あるいはその実効性
権・拒否権行使の実効性、全県、全国の第一次集会で過半数の賛成を得る可能性の問題についていえば︵この点は、当
いかんにおいてはそれを超越︶する内容であることもあながち否定しえないように思われる。第一次集会における発案
時のジャコバン派のみならず、後代の多くの歴史家によって、その手続きの複雑さと非実効性が主張されてきたところ
であるが︶、フランス革命期の地域間の利害対立状況や県単位での意思形成を基礎とするジロンド派の地方分権論などの
存在と併せて理解するならば、ジロンド憲法草案の発議権・拒否権行使の手続きは、一七九三年憲法の場合と比較して
︵17︶杉原・前掲書二九三頁のほか、ρロ①ooT§°☆ごP合でも指摘されている。
も、必ずしも実現不可能と断定することはできないようにも思われる。
︵18︶ この問題については、すでに選挙制度に関連して述べたように、当時は未だ今日のような秘密投票原則が確立され
ていなかったことからすれば、革命状況下では、秘密選挙制が民主的でより民衆の利益に適した制度であったかどうか
︵19︶ フランスおよび日本の憲法学において、半代表制論と主権原理との理論的関係について学説の対立があることにつ
は容易に断定しえない面がある。
政党政治の発達を背景とする第三共和制期以降の憲法制度を分析するための一つの道具概念であったことからすれば、
いては、すでに序章で概観したのでここでは割愛する。フランス憲法学における半代表制論が、男子普通選挙の定着と
それをフランス革命期憲法に直接あてはめることには躊躇を禁じえないが、その点を別としても、今日の半代表制論は
序章でみたような、フランス憲法学における純代表制・半代表制・半直接制・直接制という四分説を採用し、レフェレ
なおも論者によってその内容が異なっており、その検討には厳密な概念規定が必要であるように思われる。本書では、
その検討は次節に譲ることにする。
ンダム・人民拒否・人民発案を内容とする半直接制の段階に、一七九三年憲法とジロンド憲法草案を位置づけているが、
︵20︶ ]≦°ウ叶①ぺo。ω日OT§°へ苦、O]o。O⋮﹀甘コぴ⊇叶□§°☆ごOO°OOOo[°。°、O㎝ω卑ρ⋮○①ω己o巾O已U碧百“e°☆ごOO二〇〇曾o。°な
については、Ooコユo﹁OO戸..OO冨o①言﹁O匹O。力Oo已<oマ。力廿O葺日已窃.、θ§さ句、庁דづPOq⊃﹂⑳けω・︰≧Oコσq﹁ざ8・︹苦Pお切
お、立法権についても、それが人民の多数意思に従属するかぎりにおいては、真の権力といえないことになる。この点
参照。
︵21︶ 例えば、﹀右呂陪三〇Nw.、↑①Ooコω葺已二〇口△o一品ω“、、魯゜へ苦三﹄ON.などでは、とくに行政権の強化をジロンド憲法草
案の特徴として強調しているが、マティエの場合には、ジロンダンとモンタニャールの対立を強調し、ジロンダンを大
ブルジョワジーの代表とする階級対立史観を前提としていたことを併せて理解しなければならない︵序章第二節二〇
頁も参照︶。 .
︵22︶ 第三章第一節一2︵一五六1一五七頁︶を参照されたい。
︵23︶ ﹄°、こゲ℃︹㎝。。ら゜謬一参照。 ’
︵24︶ ここで議会中心立法主義が保障されていることから、表面的には、権力分立原則が維持されているという解釈も導
批
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くことができる。しかし、ここでは当面このように解しておき、後の検討のなかで再論することにする。なお、ジロン
ド憲法草案では、司法作用は立法府や行政府によって行使されえないことが言明され︵第一〇篇第一節第五条︶、司法行
政が執行評議会の監督に服する︵第五篇第一節第七条︶ことを例外として、司法作用の独立性を認めている。このこと
は、裁判官の身分保障︵同第七条︶に関する一般規定にも窺えるが、反面、一年任期の治安判事や半年任期の民事陪審
接選挙制を採用した一七九三年憲法との対比からしても︶、人民の司法作用への参加に留意したものとして、注目され
員さらには二年任期の刑事裁判官・検事、司法監察委員等にっいて、人民による広範な直接選挙制を確立したことは︵間
︵25︶ サン‖ジュストの批判については、﹄°㌔こ一゜ω゜二Φωもやト。ON−NOω⋮≧9σq叶ざ§寓ごOO﹄OべOΦOなど参照。
る。
第二節 モンターニュ派の憲法原理
エロー・ド・セシェルの憲法思想と一七九三年憲法草案
一七九三年五月三一日ー六月二日のジロンド派追放によって国民公会の多数を占めたモンターニュ派は、六月一
〇日に、エロー・ド・セシェルの起草になる新たな憲法草案を国民公会に提出し、わずか二週間で一七九三年憲法
の制定を完了した。
︵1︶
この憲法は、すでに第二章で検討したように、ロベスピエール派とは異なるモンターニュ主流派の所産である。
そこで以下では、草案起草者エロ﹂・ド・セシェルとモンターニュ主流派の憲法思想の検討を行い、一七九三年憲
法の諸原理の特色と限界の問題にアプローチすることにする。
ー エロー・ド・セシェルとモンターニュ主流派の憲法思想
ω 憲法委員会とモンタLニュ主流派
一七九三年憲法制定の主体が、一七九二年九月に組織されたジロンド派の憲法委員会︵九人委員会・コンドルセが
中心︶から、一七九三年四月の六人委員会︵平原派のバレールやロムが中心︶を経て、モンターニュ主流派へと移行す
͡2︶
る過程はすでにみた。ジロンド派追放の直前の五月二九日、コンドルセ起草のジロンド草案を基調とする人権宣言
巫草案が国民公会で採択されると・つづく憲法部分の審議に際して・旧草案を廃棄して新たな憲法草案を起草するた
めに、五人の委員が任命された。この五人とは、モンターニュ派のなかでは中道的な位置にあったエロー.ド.セ
シェルを中心に、マチウ、ラメル、さらにモンターニュ左派のサンnジュスト、クートン︵後二名はジャコバン・ク
ラブ内での憲法委員︶であった。この構成自体、五月三一日ー六月二日の政変前の段階で、すでに、憲法制定の中心
︵3︶
がモンターニュ主流派に移り、左派の勢力も拡大していたことを示している。また、これらの五人が、バレールら
を中心とする当時の公安委員会に加えられたことは、公安委員会の独裁政治の開始時期にあたる過渡的状況のなか
で、憲法制定が重要な政治課題として扱われていたことを物語っている。この点については、六月一〇日からわず
か二週間という短期間に、いわゆる挙党一致体制で憲法制定作業が進められたことの政治的意味、すなわち、戦争
と反革命の危機のなかで、憲法制定が、国民の結束と諸外国に対する政治的安定の誇示のためにいかに重要な意味
をもっていたかという問題として、それ自体興味深い。
また、モンターニュ派による憲法制定時期と相前後する数カ月間は、その憲法思想とりわけ社会・経済思想とも
深いかかわりをもついくつかの重要な法令が制定されているので概観しておこう。
︵4︶
まず、﹁土地均分法﹂の提唱者を死刑に処するための一七九三年三月一八日のデクレがある。これは、まだジロン
ド派主導期のもので、議会での提案者バレールもそれを要求したカンボンもモンターニュ派に属してはいない。し
かし、これに反対したマラーを除いて、多くのモンターニュ派議員が支持を表明し、国民公会全体で﹁国民公会は、
土地均分法、その他すべての土地、商業および工業所有を転覆する法律を提起するすべての者に対して、死刑に処
す﹂ことを可決したものである。このデクレは、革命の急進化に伴って、土地を所有するブルジョワジーの間に広
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受益者が相当程度の農地保有者であり、大地主の土地所有の否定には到達しなかったところに限界が認められる。
掃された。これらの政策はいずれも、モンタ﹁ニュ派の農民寄りの姿勢を示しているが、これらの政策の最終的な
されたものの、これによって封建地代に関する文書がすべて焼却され、地代徴集権を含むすべての領主的権利が一
としての成果を完成し、一七八九年八月四日宣言以来の封建的諸権利の廃棄を徹底するものであった。一部は除外
\ ︵9︶
ョンの住民たちに認めたものである。また、第三の七月一七日の封建制の無償廃棄に関する法律こそ、反封建革命
の不動産を最高入札者に売却することを原則としつつ、代金を一〇年年賦で償還することを認めたもので、後の七
︵7︶
月二五日の法律とともに、小農民や貧民の土地取得を保障しようとしたものである。第二は、六月一〇日の共有地
︵8︶
財産の分割形態に関する法律であり、従来から領主との間で争われてきた共有地の分割所有をコミューンやセクシ
かかわる三つの法令を制定した。第一は、六月三日の亡命者財産の売却方法に関する法律である。これは、亡命者
次に、六月二日の政変以降のモンターニュ派主導下の国民公会は、農村の民衆を結集するため、封建制の廃止に
主義の一面が示されていたといえよう。
には、一方で土地所有者の利益を保護しつつ、他方で富の極端な不公平を是正しようとする小ブルジョワ的な平等
主張されたにもかかわらず一七九三年宣言には採用されずに終わる。しかし、一七九三年五月二〇日に制定された
︵6︶
強制累進公債制度のデクレによって、一部実現をみることになる。以上の三月一八日と五月二〇日の二つのデクレ
会の検討に委ねた。累進税一般については、すでに審議過程についてみたように、後に、ロベスピエールによって
︵5︶
並びに動産の贅沢品、財貨について段階的な累進課税が設定されなければならない﹂とする案を採択し、財務委員
ガレが起草した﹁各市民がその能力に応じて支払うべき負担の配分において、より正確な割合に至るため、不動産、
富の公平を確保して民衆の利益にも応えるために、累進税制度を提唱した。そして、モンターニュ派のラメル・ノ
らず、モンターニュ人権官三言草案にも定められた財産権の保障を述べたものに他ならない。同時に、バレールは、
まっていた不安をとり除き、所有の自由を確保することを明らかにしたものであり、ジロンド人権宣言草案のみな
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︵10︶
さらに、都市の民衆の要求に応えるための政策として、七月二六日に買い占めに対する法律が制定された。これ
との通謀の嫌疑を受け、一七九四年三月に逮捕された後、四月五日にダントン、カミーユ・デムーラン、シャボ、
なった。その後、バレールとともに外交委員会に属して活躍したが、同年一二月にパジに戻って以後は、亡命貴族
員会内での憲法草案起草と国民公会での草案審議の議長を担当し、憲法制定後は八月一〇日の祭典のヒーローとも
てアンリオと対時し、ジロンド派議員逮捕の決定に重要な役割を果たした。その後、政権の中枢にあって、公安委
はサボォワに派遣されてモン・プラン県の軍隊を監視した。一七九三年六月二日の政変時には、国民公会議長とし
派の救済に奔走して物議をかもしつつも、一七九二年九月には国民公会議員に選出され、一二月から翌年三月の間
ルとエロー・ド・セシェルが同席して革命遂行にあたることになった。その後、ジャコバン派であるエローが王党
あるエロー・ド・セシェルが、名だたるジャコバン・クラブの議長に任じられ、最も人格の相違するロベスピエー
時の彼の憲法思想は、﹁フランス人の子孫の幸福のあかしであり、真の栄光の第一の柱である﹂として憲法の擁護を
︵13︶
力説した一七九二年一月一四日の議会での演説のなかにも示されていた。一七九二年六月には、名門貴族の子孫で
一二月に、当時の議会内左派のジロンド派が多数を占めていたジャコバン・クラブのメンバーに再登録された。当
穏健な立憲君主主義者のなかに身をおいた。同年九月には、パリ県の選挙人会によって立法議会に選出され、同年
の虐殺に端を発するジャコバン・クラブの分裂騒ぎもあって彼は一旦クラブを脱退し、ル・シャプリエらとともに
バン・クラブの会員となったが、彼の国王に対する忠誠が非難の的となり、また、同年七月のシャン・ド・マルス
としてストラスブールに赴いてパリの中央集権に反抗していたアルザス地方の状況を見聞した。当時の彼は、他の
︵12︶
多くの革命家と同様、国王と憲法を尊敬する立憲君主主義者であった。パジに戻った一七九一年三月には、ジャコ
二月には、国民議会でパリ第一区裁判所判事に選出され、一七九一年一月には、マチウらとともに国王の派遣委員
との親交も深かった彼であったが、∼七八九年七月の革命勃発時にはバスチーユ攻撃にも参加した。一七九〇年一
容姿と教養から王妃マリー・アントワネットの気に入り、その従姉妹にあたるポリニャック夫人を通じて宮廷貴族
一七八五年七月には年齢制限も免除されてパリの高等法院の次席検事︵①<08⇔ぴq9忠巴︶に任命された。その端正な
一七五九年一〇月二〇日パリの名門貴族の家に生まれ、一八歳で国王の弁護士となったエロー・ド・セシェルは、
そこで、次に、エロー・ド・セシェルについてみよう。
のダントンらとも親しいエロー・ド・セシェルは、国民公会でも公安委員会でも中心的な人物であった。
が公安委員会に入り、しだいにモンターニュ左派が勢力を独占する直前の六月のこの時期には、モンターニュ右派
されたが、これも同じくエロー・ド・セシェル個人の起草になるものであった。一七九三年七月にロベスピエール
れた。また、六月一〇日から約二週間の憲法案審議をほぼ終了した一=二日、新たな人権宣言草案が突如として提出
草作業を終えると、早速公安委員会でその検討が開始され、翌朝、委員会で採択された後、午後国民公会に提出さ
派追放の前後を通じて重要な役割を果たした。エロー・ド・セシェルが一七九三年六月九日夕、約六日間の草案起
エロー・ド・セシェルである。彼は、ジロンド政権下の一七九二年一一月以来、国民公会の議長を務め、ジロンド
︵11︶
さて、一七九三年五月二九日に任命された五人の憲法草案起草委員のうち、事実上単独で草案を起草したのは、
ヵ エロー・ド・セシェルの憲法思想
の所産として理解することも可能であろう。
が一九日に公安委員会に加わった後のものであり、後の九月二九日の一般最高価格法と併せて、ロベスピエール派
的自由主義を厳しく制限したものとして注目される。もっとも、この七月二六日の法律は、すでにロベスピエール
この法律は、モンターニュ派が都市の民衆の要求に応えて、みずから、流通の自由、営業の自由を内容とする経済
活必需品の流通を妨げたり買い占めたりした者を死刑に処し、告発者に没収物の一部を分配することを定めていた。
06 は、当時のサン同キュロット、アンラジェの要求に従って制定されたもので、パン・肉・ぶどう酒などの主要な生
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バジールらとともに処刑され、三六歳の生涯を終えた。
︿14︶
ター蔵︶などがあり、とくに後者は、ルソー、モンテスキューやギリシャの哲学者から学んだ彼の独創的な哲学書と評
の、.︿o養σq①劫忌o日σ①﹁、。や、一七八八年の、、↓ぼo﹁一〇庄Φ一、﹀∋げ一江oo、、﹀一。。ON︵いずれも一橋大学社会科学古典資料セン
きミe≒§o∼ミS§、\§占。。O︾一㊤。。SOOふΦωムO㎝などを参照。なお、エロー・ド・セシェルの著作には、一七八五年
窪ミさ災ミミ§﹀§さ鳥合㌔§ミミ§∀ざ甘貢﹂§㎏§二“⊃°。S8°°。べ÷°。品⋮oり8芸bミ§N貸這ミ§
︵14︶ エロー・ド・セシェルの経歴や思想については、﹄°−]Fo合20﹁前掲書のほか、﹂°弓巳①aS−ら司塁①﹁鼻由゜田oq豆
︵13︶ さミ゜ ; ° ㊤ N ⋮ ﹄ 、 二 ﹂ ° ω こ け ゜ ω べ ⑰ 合 ふ
︵12︶ ﹂㍉S↑o合o叶oお§°亀、°“8°べや゜。ρ
[。6汀8で惑ミミ合恕ぎ∼言、合募、ミミ、恥註9ミ芯鳥皆∼ミぎ宗︹一〇°。合P宗膳゜
Oo諺葺已江oコ匹o﹂お伊︹o﹁∋伽O自出m轟暮△Φoり舎ゴ巴一〇。・、、というタイトルが付されていることも知られている。S山゜
︵11︶ ﹀目三くo。。之讐一〇コ巴oωに保存されている草案の手書き原稿︵庁﹁o巨一〇〇︶には、.。兄oo已一一△o豆宮oω﹁o訂江︿o°・助冨
︵10︶ 七月二六日法の正文は、↑o智ミ﹄へS§丙ミミ㌻さミ§ミwけ゜べもPNミ2ω゜
野・前掲論文一六六頁参照。 、
︵9︶ 七月一七日法の正文は、卜o智ミ﹄ら、湧註讐ミeo、§ミ§ひひべもや一q⊃㊤魯。・∴これらの政策の結果については、河
河野・前掲論文一六三頁参照。
︵8︶ 六月一〇日法の正文は、卜忘㊤ミ﹄へ、0⇔ミ恕sミミ§さoミニベ一。。自もP一〇〇〇︷°・° ﹄°㌔二一゜9ト毯もO﹄ぱo[9
桑原編・前掲書一八一ー一八三頁参照。
して、年賦償還等の方法で貧農にも取得を可能にした点ではモンターニュ派の特色が認められる。河野健二﹁土地改革﹂
点では、ジロンド派の土地政策と基本的に一致していたが、農民の団体取得を禁止した同年四月二四日の法律などに比
︵7︶ 六月三日法の正文は、﹄.、二一◆ωこ︷°09や一〇参照。原則として競売方式をとってブルジョワジーとの妥協を図った
戸O口も右巳口.小林良彰﹃フランス革命経済史﹄︵一九六七年︶=三二頁参照。
︵6︶ 五月二〇日のデクレ︵Om自oけ日ω[一9①暮已口Φ日宮已暮♂需ひ△o旨∋=一一①aω弓一窃ユ合oω︶の内容は、卜、こ﹂°望
︵5︶卜㌔ニビ℃∩仇ΦもやNゆド諺父
けヂ。。二q⊃N合廿や8臼@︵臣三〇コ﹁o︿5卑①⋮o蒜。9ぺ﹀あo亘o己トΦ三㊤品もO]O。。o㌃.︶
陶o官涼芯︶の正文は、﹄°勺“一燈P∋け①P℃PN㊤悼o⇔坦その内容につき、S﹂①ξ610。“騨、忘さ合合㌔“§ヘミざ§き苦魯傍♪
︵4︶ 三月一八日のデクレ͡OO自輿苫忌霧①暮△oヨo詳ざ暮窟詳ぴ§△o=巴o]③田勘希◎c△Φ許伽o江oωむ力昏くΦ吟む力寄Φω乙力弩㌫
たが、後二者は、憲法案には全くタッチしていない。○言☆合≒§o喜㊤ヘミoS災b傍へ§亘[二N二。。︾。ρ写ωホ参照。
レヤ⋮ル︵吋田庄黛△︶、ラクロア、ベルニエ︵ζoΦ議棺門︶、デルマス、ロベール・ランデ︿涛◎σo詳巴昆陪︶の九人であっ
︵3︶ 当時の公安委員会のメンバーは、バレール、カンボン、ダントン、ギィトン・モルヴォ︵○ξ9?呂o自窪已︶、トゥ
︵2︶ とくに第二章第一節一︵七九頁以下︶参照。
︵1︶ 憲法制定過程については、第二章第 節一1人八ニー八三三貝︶注︵1∨の文献を参照されたい。
草案提出にあたっての国民公会での演説のなかに認められる。
ボォワの地にあって 層その傾向を強めたようである。そのルソー主義者としての特徴は、一七九三年六月の憲法
実な“デモクラット”であったことがわかる。彼は、一八歳のときルソーに会って以来ルソーの崇拝者であり、サ
しかし、彼の憲法理念、とりわけ次にみるような民主主義的な政治理念については、ルソーの思想にきわめて忠
その活動と心情における多面的性格を端的に物語っている。
長﹂として活動し、公安委員会のメンバーでありながらモンターニュ右派のダントンらとともに処刑されたことは、
立憲君主主義的な心情の強い、非党派的な人物であったように推察される。﹁ジャコバン・クラブの貴族︵出身︶議
セシェルも、私生活上は貴族的な性格が抜けず、一七九三年にあっても急進的な共和主義者というよりは、多分に
% 以上のように、⋮七九三年憲法を起草したモンターニュ派・ジャコバン派の革命家として知られるエロー・ド・
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されているが、憲法思想は直接表明されてはいない。
2 一七九三年憲法の草案
ω 六月一〇日の演説・憲法草案の趣旨説明−統治構造論
一七九三年六月一〇日のエロー.ド・セシェルの演説については、すでに、第二章でも触れた。彼は、みずから
く1︶
起草した憲法草案の趣旨を次のように述べ始めた。
﹁共和国のいたる所で憲法が緊急に必要とされている。⋮⋮二七〇〇万人の人々は、大声でそれを求めている。
もし、一定の地方で騒擾があるとすれば、それは主として、憲法が欠けているためである。憲法をさらに一日遅
らせることは国家の犯罪である。しかしまた、それを完成した日は、フランスにとっては起死回生の、ヨーロッ
パにとっては革命の日となるだろう。われらの運命はすべてこの瞬間にかかっている。それはいかなる。∪車隊より
も強力である⋮⋮。われわれの心配は、あなた方の要望をみたしていないのではないかということだ。しかし⋮⋮
われわれの仕事には、絶えず、最も感動的な一致が伴ってきた。われわれは、各自、最も民主的な結果に到達す
るという共通の望みをもっている。人民・王権と人間の尊厳が、つねにわれわれの日の前にある。われわれは、い
つも、究極的には、人間の諸権利を獲得することに専念してきた。内心ではひそかに、われわれの仕事が、恐ら
くこれまで存在したなかで最も人民のもの︵o名己昆誘︶であると思っている⋮⋮。﹂
﹁あなた方は、憲法条文のなかに厳密に必要不可欠な条文を提示することをわれわれに課した。われわれの特別
の注意は、決してこの責務に背かないことであった。共和国の憲章は長くてはいけない。人民の憲法は、結局、
人民の諸機関の憲法、人民の基本的な政治的権利の集積にすぎない。⋮⋮われわれは、順序よく進めるために異
なる三つの基本的な作業を区別することを余儀なくされている。それらは、憲法︵典︶、憲法施行の形態、諸制度
︵2︶
の構図である。われわれがここで報告するのは、憲法︵典︶だけである。﹂
こうして、憲法制定の意義を力説し、報告内容を限定したうえで、エロー・ド・セシェルは、さらにいくつかの
主要なポイントについて趣旨説明を開始した。その第一は、代表制についてである。
﹁われわれは、代表原理に最も重大な注意をはらっている。とりわけ、われわれの共和国と同じ位に人が住んで
いる国では、代表は人口にしか基礎をおくことができない⋮⋮。結局、代表制は、人民のなかから直接選ばれな
ければならない。さもなければ、入民は代表されないのである。⋮⋮われわれの原案は、人口五万人を形成する
カントンの各集団ごとに一人の議員を一つの名簿に基づいて任命することにある。その他の方法は存在しえない。
⋮⋮他のすべての試みは実りがなく間違っている。これまでそうであったように、もしあなた方が、選挙人会の
〆 ︵3︶
様式︹聞接選挙制︺を用いるとすれば、代表制の民主的原理を無効にすることになろう。あなた方は、多数決の影
すら得られず、主権を破壊することになる。﹂
ここでは、まず、憲法草案が採用した代表の直接選挙制を正当化したが、一方で一定の公務員の選挙について間
さらに、その腐敗に対処するために大陪審制度に期待する構想を展開した。﹁われわれは、立法府や執行府の横暴に
して、後者の場合にはその起源と職務からして従属性があること、実際に人民が直接全公務員を選出しうる状態に
ヨ
ないこと、公務員の職務は単純かつ唯一のジャンルではないこと、彼らの投票の検索にはあまりに労力と時間がか
︵4︶
かりすぎること、などをあげた。こうして、人民の代表ではないすべての公務員については選挙人会の選択に委ね、
きな違いを確立することが本質的であると考えた﹂と。すなわち、ここでは、代表と公務員を区別し、その理由と
やデクレが依拠する、いいかえれば共和国の運命がかかっている代表︹の選出︺と、多数の公務員の任命との間に大
表した後であるから、他面でわれわれが選挙人会を維持したことを非難しないでいただきたい。われわれは、法律
鯉 接選挙制を維持したことについて、次のように弁解した。﹁人民の主権と選挙の権利についで、かくも完壁な敬意を
絃
㊧
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よって身体的に抑圧を受けた市民の報復のために、大陪審の設立による救済を摸索してきた。それは、人民が、そ
利をもつ︵草案第一五章第一条︶ことを規定した。この機関は、刑罰は科さず、裁判所に移送する︵同章第三条︶もの
から権利を保護するために大陪審を設置し、特定の行為にょって抑圧されたすべての市民はそこに救済を求める権
これは、趣旨説明のなかでも強調された人民主権構想の中心であっただけに、この制度が採用されなかったことの
︵9︶
意味は大きい。すでに制定過程の考察のなかでみたように、エロー・ド・セシェルは、立法府と執行評議会の圧制
制度を構築したが、審議の過程で最も重要な変更を被ったのは、第一五章の大陪審︵冨唱①a甘昌︶制度であった。
エロー・ド・セシェルは、憲法草案の二五力章のなかで、人民主権原理の上に立った単一・不可分の共和国の諸
によって誼責される制度が採用された。
性格はもたず、執行評議会の構成員は間接選挙で選出され、議員とすべての公務員が、人民の代表としての陪審員
ため、デクレについては、議員も代表の性格を獲得することとなった。ただし、執行担当者はいかにしても代表の
法律事項については議員は代表ではないとしつつも、一定の事項を人民の裁可を経ずに制定しうるデクレに委ねた
最終的に主権者人民に委ねられ、その意味で立法府の議員︵法案作成の受任者︶は代表ではないとされた。しかし、
の人民主権論では﹁主権は決して代表されえない﹂ことから、ここでも、一般意思の表明としての法律の制定は、
たがって人民から直接選出された議員が立法府を構成する統治の基本構造が示された。それが依拠していたルソー
以上のように、エロー・ド・セシェルの演説のなかで、各カントンの第一次集会を基盤とし、人口比例原則にし
して、市町村を維持することの意義を強調した。
︵8︶
する忘恩の行為であり、自由に対する犯罪である。また、それは実際に、人民の政府を無効にするものである﹂と
に移り、﹁いかにそれが多数であろうとも、市町村︵∋旨⋮o⋮冨≡mω︶を維持しないことが可能か。それは、革命に対
すべてが、その憲法を強固にしつつ決して全体的な憲法を変更しないように服従している政府を見出すことを提唱
︵7︶
したときの問題の解決に到達した﹂と。こうして、ルソーの政府論の構想を念頭におきつつ、最後に自治体の問題
われは、ルソーの社会契約論のなかの問題、すなわち、彼が、国家が拡大するにつれて縮小する政府、その官吏の
きることになり、その権威は危険なものとなるであろう。⋮⋮幸いにも、このような非常に簡単なやり方で、われ
一般意思によって選出されれば、政治上かくも容易になされる無頓着によって、それが代表に昇格されることがで
行においては人民を代表することはない。したがって、執行評議会は、何ら代表の性格をもたない。もし、それが
人民の保護のためにある。この保護は、大臣と執行評議会が分離されなければもはや存在しない。人民の意思の執
を基礎にもつ最高位の使命をもつものではないことを指摘した。﹁執行評議会は、代表と大臣との中間団体であり、
評議会︵Oo自ぴ培o×含己法Vが、議会や大陪審と異なって人民の直接選挙によらないことの理由として、それが、人民
こうして、法律の決定をすべて人民に委ねることの理由が述べられた後、執行手続きに移った。ここでは、執行
任者であり、デクレ︹の制定︺においてのみ代表であるにすぎない。したがって、フランスの政体は、人民がみずか
︵6︶
らなしえないすべての事柄においてのみ代表制であるにすぎない﹂と。
したがって、議員は、二重の性格を帯びている。人民の裁可に付されなければならない法律︹の制定︶においては受
同時に民主制であるからである。実際、それを証明することは簡単であるように、法律は、デクレとは全く異なる。
と考えている⋮⋮。フランス憲法は、排他的に代表制であることはできない。なぜなら、それは、代表制であると
次に、立法手続きの問題のなかで代表の性格が論じられた。﹁われわれは、国民代表の上に大きな真実を確立した
責任追及の制度であった。
のである﹂と。この大陪審とは、公職者の有責性を担保するために代表制に伴って設置される、主権者の政治監視・
︵5︶
許されず、疑わしい受任者がもはや裁判からも世論からも逃れることができない、自由の威厳ある保護所︵06力=o︶な
12 の代表を創出すると同時に、また、同じ方法で創出する、強制的で有力な裁判所である。そこではいかなる横暴も
2
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三
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憲
第
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で、いわば政治責任の追及を任務とする政治機関であり、陪審員は、立法府と同様、各県の第一次集会によって直
1 4 接選出され、毎年改選されるものとされていた。
2
ここでは、法律の制定について、議員を受任者と解したこととあわせて、同時にその責任追及の手段を明確にし、
立法について一種の命令的委任の制度を構想したものと考えられる。このことは、審議の過程で新たに六月二四日
に提示された修正案で﹁議員に対する人民の鑓責と立法府の圧制に対する人民の保護﹂を目的とする制度が提案さ
れ、すべての議員が、立法期の終りに選出母体である第一次集会で選挙民の裁定を受け、謎責処分に付されること、
︵10︶
そこで﹁無罪宣告﹂がなされた後でなければ、再選も公職就任もできないことが規定されたことに示されている。
しかし、国民公会がこの制度を採用しなかったため、一七九三年憲法には、議員や公務員の責任追及手続きが欠
如することとなった。人権宣言案の第二九・三一条で﹁受任者﹂の語が用いられ、一七九一年憲法などにみられた
命令的委任禁止の条項も存在しないことから、一七九三年憲法には命令的委任制度が採用されていたとする見解も
︵11︶
あるが、実際には、命令的委任制度がとられていないことは第二章で指摘したとおりである。この点は、ルソーの
原理に忠実であろうとしたエロー・ド・セシェルと、当時の他の国民公会議員、モンターニュ派議員の憲法思想と
の相違でもあり、次節でみるロベスピエールの構想との比較としても興味深いものである。
② 六月二三日の人権宣言案の趣旨説明−人権論
六月一〇日の草案提出時に憲法草案の前におかれていた人権宣言草案は、ジロンド派主導期にコンドルセの草案
をもとに審議され、五月二九日に採択されたものであった。しかし、モンターニュ派主導期による憲法制定作業が
ほぼ終了した六月二三日に、突如として、エロー・ド・セシェルが、公安委員会を代表して新人権宣言草案を提出
した。
︵1︶ ︸、こ一゜ωこけ゜OOもO°NgoけP
きるであろう。
対者が存在し続けていたこと、人権宣言にはアメリカの人権宣言が多少とも参考にされていたこと、などが理解で
的な人権宣言案との違いを捨象して制定促進のために影響力を行使したこと、さらに、にもかかわらず、少数の反
ンターニュ派の結束が図られ、異議・審議の余地がない状態であったこと、とくに、ロベスピエールが自己の個人
以上のような一七九三年憲法・人権宣言制定の過程では、六月一〇日の段階以上にロベスピエール派を含めたモ
ある。
点呼はされずに終わった。こうして、国民公会は、再度の朗読の後、審議なしにこの草案を最終的に採択したので
︵13︶
票を要求したが、ロベスピエールが、右派席のなかに賛成しない市民がいることを指摘しつつこれに反対し、指名
ビヨーHヴァレンヌが、国民公会のなかにこの人権宣言に投票しないものがいることを指摘して指名点呼による投
たが、ロベスピエールが、国民議会当時僧侶たちとこの問題で議論したことを想起しつつこれに反対した。ついで、
した。ラフロン・ドユ・トゥルイエは、標題を﹁社会状態における市民の権利と義務の宣言﹂とすることを提案し
ターニュ派席と傍聴席から喝采がわき起こり、ダントン派のフィリポーが、議論をせずすぐに採択することを提案
前者は、反対に、詳細で全世界に通じるものでなければならないのです。アメリカ人がわれわれに示した模範がそ
︵12︶
のようなものだったので、われわれはそれにならったのです﹂と。ついで、前文と三五力条の朗読が終わるとモン
起草し直しました。人権宣言は憲法のようであってはいけないのです。後者は、簡潔さが要求されるのに対して、
われは、最初、簡潔な言葉で起草していましたが、それを読みかえすうち、それがあまりに無味乾燥なのに気付き、
へ
あなた方が、公安委員会に新しい人権宣言草案の提出を委託したので、われわれはここにそれを提示します。われ
エロー・ド・セシェルの趣旨説明は、憲法草案の場合と異なってきわめて簡単なものであった。﹁市民の皆さん、
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2
︵2︶
さミニO°N閤゜
︵3︶ きミこ廿O﹄留ーNO。。°
︵4︶ ≧ミニO右謡。。°
︵5︶ さミこOふOo。°
︵7︶
さミこP留㊤゜
さミニPN㎝㊤゜
︵6︶ さミニ⑰NO◎。°
︵8︶
第二章第 一 節 一 一 2 ︵ 一 一 四 頁 以 下 ︶ 参 照 。
︵10︶﹄、こ一゜切二[°ΦSUP一ω㊤−忘P
︵9︶
⊆.、°二゜ω二ひΦSP一〇①゜
第二章第一節二2注︵17︶︵一二〇頁︶参照。
︵12︶
﹄°、こ﹂﹄こ﹃OべO一〇。。°
︵H︶
︵13︶
二 一七九三年憲法の原理
︹1︺人権原理
1 権利の体系
一七九三年憲法の人権原理は、憲法の冒頭におかれた前文と三五力条からなる人権宣言
言﹂、以下一七九三年宣言と記す︶のなかに体系化されている。
︵1︶
l
および市民の権利宣
︵﹁
ざ
という前提、および、自然権の尊重という点で、一七八九年宣言以来の伝統を踏襲していた。前文に﹁最高存在︵卑讐
なされていたといえる。人権の保障があらゆる社会的結合の目的であり、人権が国家機構と憲法原理の基礎をなす
このような構成は、ほとんどジロンド草案のものとかわらず、一七八九年宣言よりも一層綿密に整序.体系化が
人が人権保障のために行動すべきことが明示された。
の主権にあることが第二三条で示され、ジロンド草案二五条と同様に、人権保障と主権原理が連結されて主権者各
対する抵抗権が蜂起権︵一〇ω已﹁﹁On⇔⋮O口︶として確立された︵第三一1三五条︶。さらに、人権の社会的保障の基盤が国民
八・二九条︶、教育や公的扶助等にかかる社会の義務が明示された︵第二一・二二条︶。同時に、公務員の犯罪や抑圧に
して、市民の租税設定への参加権や憲法改正権・立法参加権が人民主権原理に基づいて規定され︵第二〇.二五.二
について順次規定された︵第三−一九条︶。さらに、﹁人︵ぎヨヨ。︶の権利﹂に対応する﹁市民︵。ぎぺ。コ︶の権利﹂と
れた自然的諸権利︵﹁人の権利﹂︶の内容として﹁平等、自由、安全、所有﹂の四つが掲げられ︵第二条︶、各々の内容
の自然的諸権利の享受を保障するために設立されることを明らかにした。ついで、その保障が政府設立の目的とさ
まず、権利の体系について、第一条で、社会の目的が﹁共同の幸福︵一〇げOコ庁⑦口﹁OO日∋已昌︶﹂にあり、政府は人間
る。
たジロンド派・モンターニュ派の対立点よりむしろ、人権原理における両派の類似性のほうが重視されるべきであ
絶対不可侵性等については、一七八九年宣言やジロンド人権宣言との共通点が多く見られ、従来から指摘されてき
フランス憲法史・人権宣言史をとおしてみれば、この一七九三年宣言は、自由よりも平等を強調し、社会権的な
︵2︶
諸権利を初めて宣言したことで注目されてきた。ところが、諸権利の体系や自然的諸権利の内容、とくに所有権の
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2
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章
第
いえる。
ω6脇∋Φ︶﹂を登場させ、前文で自然権を強調した点では、ジロンド宣言よりも一七八九年宣言のほうに近いとさえ
17
2 ︵3︶
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人権宣言の標題も、ジロンド宣言が﹁人の自然的・市民的・政治的諸権利の宣言草案﹂となっていたのに対して、
て不可欠な公的扶助や教育についての規定は、後にみるような限界を残しつつも、民衆やロベスピエールの理念に
ど、平等を実現するための具体的規定がより詳細に定められた点に特徴がある。さらに、実質的平等の実現にとっ
る場合にも、すべての人に対して同等である﹂︹第四条︺︶、公職就任の平等︵第五条︶、立法参加権の平等︵第二九条︶な
へ
社会が各人に保障すべき不可侵の権利として観念され、法律の平等︵﹁法律は、⋮⋮保護を与える場合にも、処罰を加え
の平等﹂を意味する基本原理であった︵﹁すべての人は、本質的に、かつ、法の前に平等である﹂︹第三条︺︶と同時に、
た。これと比較すると、一七九三年宣言の場合は、社会の共同の幸福を実現するための平等は、それ自体﹁法の前
実際にも、一七八九年宣言と同様に、万人に対する法律の平等と公職の機会均等︵第八ー九条︶を掲げただけであっ
人が同等の権利を享受しうることにある﹂︵第七条︶として権利の平等、形式的平等の原則を明示したにとどまり、
ジロンド宣言でも、コンドルセの憲法思想に即して平等が権利の一内容として位置づけられたが、﹁平等とは、各
ここでは、単なる﹁法の前の平等﹂﹁権利の︵形式的な︶平等﹂原則ではなく、平等自体が、自由とならんで不可侵
︵2︶
の権利の内容に含められたことが重要である。
七九三年宣言第二条は﹁平等、自由、安全、所有﹂をあげた。﹁自由の第四年、平等の元年﹂として平等の保障が注
︵1︶
目されていた当時の状況を反映して、ジロンド草案審議中に平等が諸権利の筆頭に移されたことはすでにみたが、
ジロンド人権宣言草案のそれが﹁自由、平等、安全、所有、社会的保障、圧制への抵抗﹂であったのに対して、一
一七八九年宣言第二条が人の自然的権利としてあげた四つの権利が﹁自由、所有、安全、圧制への抵抗﹂であり、
ω平 等
2 諸権利の内容
︵4︶﹀°呂巴宮oN“9§NミδミミOs§§§二〇ωOも]OO°
第五巻︺﹄三二頁以下も参照されたい。
参照。また、一七八九年宣言については、拙稿﹁ブルジョア革命と憲法﹂杉原編﹃市民憲法史︹講座・憲法学の基礎・
︵3︶ これは、コンドルセの自然権思想とモンターニュ派のそれとの違いによるものである。第三章第一節一四五頁以下
照。
︵2︶ 例えば、い゜O已ひq巳でぎへ芯合へさ心8∨巨巳ミ§§合一.目“ω。価△°もやONべoけ乙・°この点につき、序章第二節二四頁参
頁以下を参照されたい。
︵1︶ 一七九三年宣言・憲法典の正文は、O已゜q巳□忌oロ巳①﹁o͡巴こ暑゜らへ↑もP①N9ρその訳文は、巻末資料−団四〇六
権宣言を含めて、一七九三年憲法の観念的・﹁心理留保﹂的性格が指摘される。
との比較によってこのことは一層明瞭となるが、憲法制定過程でのロベスピエールなどの協力ぶりからしても、人
権などの自然的諸権利の実現と抵触する点で限界を認めざるをえない。後にみるロベスピエールの人権宣言草案等
権的権利の導入にみられるモンターニュ派の人権理念、およびその﹁民衆寄り﹂の傾向は、同時に宣言された所有
ての意味をもつものと理解することができよう。もっとも、このような﹁共同の幸福﹂理念や平等権の強調、社会
サン・キュロット、アンラジェの影響を受けて民衆の生存に留意したものであり、後世の福祉国家理念の萌芽とし
権﹂とも異なり、人権に対する社会の共同の責任を強調したもの、すなわち、生存権を強調したロベスピエールや
だ、第一条で社会の目的が﹁共同の幸福﹂であることを明示した点は、一七八九年宣言・ジロンド宣言と異なる。
︵4︶
これは、社会改革をのぞむ当時のデモクラットたちの合言葉でもあったが、アメリカ独立宣言の個人の﹁幸福追求
18
2 審議過程での修正を経て、一七九三年宣言では、一七八九年宣言と同様﹁人および市民の権利宣言﹂とされた。た
第
19
2
そって、社会・経済的平等の実質的保障への熱意を示したものと考えられる。
が、みずからを売買することはできない﹂︵第一八条第一段︶、﹁何人も、適法に確認された公の必要がそれを要求する
も、市民の事業として禁止されない﹂︵第一七条︶、﹁すべての人は、その労務、時間について契約することができる
事業の成果を享受し処分する、すべての市民に属する権利である﹂︵第一六条︶、﹁いかなる種類の労働、耕作、商業
ものといえる。所有権の定義に始まる第一六条以下の四力条は、﹁所有権は、任意に、その財産、収入、労働および
ラジェやロベスピエールとの重要な差異をなし、ブルジョワジーの利害を優先したジロンド派との共通性を示した
こと自体が、社会・経済的不平等の是正と民衆の小所有の確保のために大所有を制限する構想を提示していたアン
∼七九三年宣言は、一七八九年㎞鳳言、ジロンド宣言と同様、所有権を絶対不可侵の自然権のなかに含めた。この
鶴所 有
されているが、∼七九三年官蕎では、もはやその内容は確立したものとして、全く議論の対象にはならなかった。
九年宣言やジロンド宣言のなかでこのような刑事手続き規定がもっていた重要性は、全体に占める条文の数にも示
主義や無罪推定原則、刑罰の不遡及、厳格かつ比例的な刑罰の適用などの内容がそのまま踏襲されていた。一七八
八条︶に関する規定︵第九ー一五条︶は、ジロンド宣言第一一条から第一七条までに詳細に保障されていた罪刑法定
安全、すなわち﹁社会が、その各構成員に対して、その身体、諸権利および財産の保全のために与える保護﹂︵第
③安 全
て置き換えることを試みたが、理性や最高存在への崇拝について、概して、モンターニュ派が熱心であったのに対
︵4︶
して、ジロンド派はこれらの宗教的感情に敵対的であったことが知られている。
のカタログのなかに維持された。カトリックを制限しようとした当時の革命家たちは、その他の種々の献身によっ
祀施行の自由︵信教の自由︶は、国民公会の審議でも議論になり、一度削除されたが、結局、一七九三年宣言の自由
命の基本特質の枠内にあったことを示している。一方、一七八九年宣言とは異なり、ジロンド宣言で新設された祭
このことは、後にみる所有権絶対不可侵の規定とあいまって、一七九三年憲法が、一七八九年以来のブルジョワ革
法が一七九三年の共和制のもとでも維持され、職人・労働者の団結の禁止が前提として承認されていたからである。
九年宣言・ジロンド宣言と同様、結社の自由の規定は存在しない。一七九一年六月一四ー一七日のル・シャプリエ
想表明の自由︵表現の自由︶と、平穏に集会する自由、祭祀の施行の自由を保障した。もっとも、ここには、一七八
ついで、第七条は、ジロンド宣言で三力条に分かれていた規定を総合して、出版その他のすべての方法による思
いってよいであろう。審議過程では、むしろロベスピエールらのなかに革命遂行のための法律による制約を主張す
︵3V
る声があったことと比較して興味深い。
た。法律を自由の防塞としてのみ規定した趣旨からしても、法律が自由の限界を函するという限界論は後退したと
﹁法律は、⋮⋮社会にとって有害なことのみを禁止できる﹂と定められ、﹁法律の留保﹂のニュアンスは払拭され
留保﹂が定められていたのに対して、一七九三年宣言では、法律が一般意思の表明であることを定めた第四条でも
の表明である法律への服従によってなされる﹂として、法律の優位が強調されていた。ここでは、一種の﹁法律の
自由の限界は法律によって規定されることが定められ、また、ジロンド草案第三条でも、﹁自由の保持は、∼般意思
して正義を、防塞として法律をもつ﹂として、自然権性を強調した。この点について、一七八九年宣言第四条では、
ある﹂としてその限界を他人の権利に求め、権利の内在的制約を示したうえで、﹁それは淵源として自然を、規律と
定義は、第六条前段に移された。第六条では、﹁自由とは、他人の諸権利を害しないすべてのことをなしうる権能で
条のニカ条がおかれたにすぎない。平等に関する規定︵第三⋮五条︶が先行し、一七八九年宣言第四条以来の自由の
自由に関する規定は、ジロンド宣言が第二条から第六条まで五力条をあてていたのに比して後退し、第六条・七
四
2 力 自 由
理
原
法
憲
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七
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万
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捌
理
原
憲
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年
三
九
七
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法
章
E
認
場合で、かつ、正当な事前の補償の条件のもとでなければ、その同意なしに、財産の最小部分も奪われることはな
い﹂︵第一九条︶と定めた。
これらの規定は、ほとんどジロンド宣言を踏襲したものであるが、第一六条の対象から﹁資本﹂の語が削除され
︵ジロンド宣言第一八条では﹁所有権とは、すべての人が、その財産、資本、収入および事業を、意のままに処分する主体で
あることにある﹂とされていた︶、第一六・一七条の所有権の主体が﹁市民﹂に変更されたことには、注意が必要であ
る。これは、ジロンド派と同様に所有の自由・任意処分性を容認してブルジョワジーの満足を図ると同時に、反面、
民衆の要求に接近するため、資本主義的な大所有に反駁する態度を示し、旧特権財産の没収などの諸政策を正当化
しようとしたものと考えられる。とくに、所有権の主体が﹁市民﹂とされたことは、自然状態における人の自然権
としてではなく、社会において法律の制約を被ったものとする所有観、すなわち、ルソーやマブリ、モレリなどに
︵5︶ 、 ︵6︶
連なる所有思想や、所有を法律によって制限される社会制度と考えたロベスピエールの影響を推察することも可能
である。しかし、一七九三年宣言の場合は、結局、これらの所有観には到達しえず、所有の自然権的把握から脱し
えなかった点で、その限界をも示すものとなった。同宣言の第一条で、所有権を人の自然権として位置づけたこと
が前提となっていたことからしても、その所有原理の本質は、やはりロベスピエールやアンラジェのそれとは異な
って、ブルジョワ的なものと考えるのが妥当であろう。モンターニュ派がブルジョワジー︵とりわけその支持階層と
しての中流ブルジョワジー︶の利益に資する所有原理を保持していたことは、その政権下においても、一七九一年六
月一四ー一七日に制定されたル・シャプリエ法が維持され、営業の自由・契約の自由の原則が確保されていたこと、
また他方で、すでにみたように﹁土地均分法﹂に対して死刑をもってこれを禁止したことなどにも示されている。
⑤ 社会的諸権利
一七九三年人権宣言は、不幸な市民に労働または生活手段を提供する社会の義務︵第二一条︶や全市民に教育を提
供する社会の義務︵第二二条︶についての規定をおき、いわゆる社会権保障の萌芽を示した点で重大な特徴が認めら
れる。しかし、公的救済や公教育についての保障はすでに一七九一年憲法第一篇にも定められていたし、ジロンド
宣言でも、公的扶助を﹁社会の神聖な義務﹂と解し︵第二四条︶、初等教育についての社会の義務︵第二一二条︶を保障
していたことからすれば、厳密には、これを一七九三年宣言の特徴としてあげることは妥当ではない。一七九三年
宣言では、たしかに﹁社会は、不幸な市民に対して労働を確保することにより、または労働しえない者に生活手段
を保障することにより、その生存について責務をおう﹂とジロンド宣言よりも詳細な規定をおき、市民の労働権や
生存権の存在を予想させる形で定めていた。ここでは、生存権を重視したロベスピエール草案や、国民公会での審
議虫生存権三・・匡・量を主張したモンター三派のチ・リオらの影響が窺記が・三九三年宣言では・
労働権や生存権が明確な権利としての構成を与えられていなかっただけでなく、個人の所有権の制約に到達してい
なかった点で限界が認められる。所有権の不可侵性、財産の享受・処分の自由が尊重された結果、社会的平等への
配慮が単に社会の義務の宣言︵プログラム︶として示されたにすぎなかったといえよう。
⑥ 人権の社会的保障︵政治的権利︶
ジロンド宣言と同様一七九三年宣言でも、人権の社会的保障に関する規定をおき、主権原理と人権原理との連結
を図った。第二三条の﹁社会的保障は、各人に諸権利の享受と行使を保障するための万人の行為のなかにある。そ
れは国民主権に基礎をおく﹂という規定は、ジロンド宣言第二五条に修正を加えたものであるが、ここでは、政府
の目的が人権︵自然権︶の保障にある︵第一条︶がゆえに、人権保障は国民の主権行使によって実現されることが明
ヘモ
らかにされた。いいかえればバ人権原理は主権原理に依拠し、人権保障は各人の行為︵とくに市民の政治的権利の行使︶
によって維持されることが述べられたわけである。続く第二四条︵ジロンド宣言第二九条︶が﹁公務の限界が法律に
よって明確に定められず、すべての公務員の責任が確立されていないときは、社会的保障は存在しえない﹂と定め、
閣
2
融
願
西
年
三
九
七
一
章
拒
ぴ
﹁主権は人民に属する﹂という人民主権に関する規定を第二五−二七条においたのもそのためである。主権に関す
る規定のなかには、主権の単一・不可分・不可譲性︵第二五条︶、人民の部分が全体の権力を行使しえない︵第二六条
前段︶という一七八九年宣言以来の文言に加えて、主権者個人の意思表明の自由ハ第二六条後段︶、主権纂奪者が死刑
に処せられるべきこと︵第二七条︶、公務の一時性・義務性︵第三〇条︶、受任者の犯罪に対する処罰︵第三一条︶が定
められた。主権者人民を構成する各市民の政治的権利として、憲法改正権︵第二八条︶が保障され、﹁各市民は、法
律の制定、およびその受任者もしくはその代理人の選任に参加する平等な権利をもつ﹂︵第二九条︶として立法参加
権・受任者選任権も明示された。ここでは、人民主権下では当然に立法権・選挙権・憲法改正権が人民に最終的に
帰属することが示され、後にみる憲法典での立法︵人民拒否︶制度や、普通選挙、憲法についてのレフェレンダムな
どの原則が示されたことになる。とくに、第二九条で、選挙権が主権者を構成する市民の権利として構成されてい
たことは、選挙権論における選挙権権利説を明示したものとして、比較憲法的にも興味深いものである。
ハ8︶
ω 抵抗権・蜂起権
このほか、一七九三年宣言では、抵抗権について注目すべき規定が新設された。第三三条は﹁圧制に対する抵抗
は、他の人権の帰結である﹂として、人権の最終的な担保としての抵抗権の位置づけを明確にし、第三五条は、﹁政
府が人民の諸権利を侵害するとき、蜂起は、人民および人民の各部分にとって最も神聖な権利であり、最も不可欠
な義務である﹂として蜂起の手段を正当化した。﹁社会に結合した人々は、圧制に抵抗する合法的な手段をもたなけ
ればならない﹂としてあくまで合法的手段に固執していたジロンド宣三口には、このような蜂起権の観念は存在せず、
ロベスピエールやアンラジェの草案に依拠したものである。現に、第三三1三五条の文言は、ロベスピエール草案
第二七ー二九条を踏襲しており、ロベスピエールの直接的影響が最もよく示されている部分である。また、モンタ
ーニュ派がこのような規定を掲げたことは、一七九二年八月一〇日および一七九三年六月二日の蜂起を正当化する
意味をもっていたこともいうまでもない。
︵1︶ 第二章第一節一=〇一頁を参照されたい。
︵2︶ 平等が法原則か権利︵平等権︶かという問題は、現代の憲法解釈上も検討を要するテーマである︵日本の憲法学で
の問題関心として、例えば、阿部・野中﹃平等の権利﹄一九八四年八一頁以下など参照︶。一七九三年宣言は、この意味
でも歴史的研究の素材を提供しており、別稿で検討したいと考えている。
︵3︶ ﹄°㌔こ一゜ωこ庁①NもO.べOぺ゜
︵4︶ 信教の自由、政教分離についてのジロンド派、モンターニュ派の比較については、Sひ冨已∋一∩oO6言もP怠ムρw
︵5︶ ルソー型とロック型の二つの所有思想の系譜について、藤田勇﹁﹃営業の自由﹄と所有権概念﹂高柳・藤田編﹃資本
呂自工∋臼−↓①∋芦き§°☆、こ戸。。もP°。°。−°。u⊃参照。
︵6︶ ロベスピエールの所有思想は次節で検討する。マティエによれば、それは、一九世紀前半の社会主義思想の基礎と
主義法の形成と展開1﹄︵一九七二年︶四二頁以下︹同﹃近代の所有観と現代の所有問題﹄︵一九八九年︶所収︺参照。
︵7︶ 一七九三年四月一九日の国民公会審議での発言。﹄°、こ一゜℃戸ΦぷPべOO°
なったとされる。︾﹂≦讐宮oN“、.↑①Ooコω二言江ooCΦ﹂べq⊃ω、.“e°☆Sこや廷゜
第二部六六頁以下を参照されたい。
︵8> 選挙権権利説および選挙権公務説のフランスでの展開とその問題状況について、前掲拙著﹃﹁権利﹂としての選挙権﹄
︹H︺ 統治原理 、
1 一七九三年憲法の統治原理ー﹂共和制と人民主権原理
一七九三年憲法は、その制定作業が開始された時点においてすでに、﹁フランスで最初の共和制憲法﹂となる使命
を帯びていた。一七九二年八月一〇日の革命による王権停止、九月二一日に招集された国民公会での共和制樹立の
決定、憲法を人民投票に付する旨の宣言、共和国の単一・不可分性の宣言などによって、共和主義と人民主権の原
鋤 則があらかじめ決定されていたからである。一七九二年一〇月から一七九三年四月にかけて応募された三〇〇以上
に及ぶ憲法私案のなかでも、また、同年四ー五月のジロンド派主導期におけるジロンド憲法草案審議の過程でも、
第一次集会での市民の主権行使と男子普通選挙、人民の立法への参加等に基礎をおいた人民主権の構想が採用され、
後に﹁フランスで最も民主的な憲法﹂と称される民主的な統治原理の基礎がすでに明らかにされていた。
一七九三年六月一〇日に提出されたエロー・ド・セシェルの憲法草案は、これらの準備期間中の成果を集約し、
精密で大部なジロンド憲法草案の内容を、より簡潔なものに整序しつつ、さらに、民衆の政治的要求に接近したロ
ベスピエール草案の急進的な構想をも一部とり入れることによって、ジロンド派追放後のモンターニュ主流派の憲
法原理を集大成したものといえる。
このような一七九三年憲法は、六月二四日に採択された時点で、全部で二五章、一二四力条からなり、全二二篇、
三七〇力条を擁したジロンド憲法草案に比して、より簡潔で体系的に編成されたものであった。六月一〇日の草案
の時点では、全部で二六章、九八力条であり、その構成は、第一章﹁共和国﹂、第二章﹁人民の区分﹂、第三章﹁市
民の身分﹂、第四章﹁人民主権﹂、第五章﹁第一次集会﹂、第六章﹁国民代表﹂、第七章﹁選挙人会﹂、第八章﹁立法
府﹂、第九章﹁立法府の会議の開催﹂、第一〇章﹁立法府の権能﹂、第∼一章﹁法律の制定﹂、第 二章﹁法律および
デクレの標題﹂、第一三章﹁執行評議会﹂、第一四章﹁執行評議会と立法府の関係﹂、第一五章﹁国民大陪審︵Oロ讐碧ユ
言qコ豊§巴︶﹂、第一六章﹁︵地方︶行政府﹂、第一七章﹁民事裁判﹂、第一八章﹁刑事裁判﹂、第一九章﹁破殿裁判
所﹂、第二〇章﹁租税﹂、第二一章﹁国庫﹂、第二二章﹁決算﹂、第二三章﹁共和国軍隊﹂、第二四章﹁国民公会﹂、第
二五章﹁フランス共和国と諸外国との関係﹂、第二六章﹁権利の保障﹂からなっていた。このうち、審議中に第一五
︵1︶
章が削除され、諸条文の項目が整序・追加された結果、採択時には、全部で一二四力条となった。
さて、以上のような一七九三年憲法の構成のなかで、人民主権、国民代表、立法府などに重点がおかれていたこ
とは、すでにみたエロー.ド.セシェルの趣旨説明にも示されていた。もともと、立憲君主制のもとで国民主権原
理を確立した一七九一年憲法に対して、新たな共和制のもとで、男子普通選挙に基づいて人民主権原理を採用する
ことは一七九三年憲法制定過程を通じての課題であり、ジロンド草案でも、共和制と人民主権の採用が大前提とし
て認められていた。ジロンド草案の場合には、人権宣言草案のなかで主権の単一・不可分・不可譲性︵第二六条︶、
主権纂奪の禁止︵第二八条︶、主権の人民全体への帰属と市民の主権行使参加の権利︵第二七条︶、人民の憲法改正権
︵第一三二条︶が定められ、憲法草案の前文で、共和制および自由・平等・人民主権原理の上に政府が設けられること
が宣言されていた。さらに、憲法典のなかで、これに基づいて男子普通選挙制や人民の立法参加の手続き︵法律発案
権および拒否権の保障︶が構想されていたが、一七九三年憲法は、これらの内容をさらに一歩進めたものである。ジ
ナシオン
ロンド憲法草案の主権原理については、これを実質上、︵従来の憲法理論上の︶﹁国民主権﹂原理と解する見解が存在
することはすでに触れたが、この見解によっても一七九三年のそれは﹁人民主権﹂と解されている。この意味でも、
プープル ︵2︶
蝦ジロンド憲法草案の主権原理との相違点をふまえて、具体的な統治構造に照らして一七九三年憲法の人民主権の構
嚥 造を分析することが必要となる。
嚥 一七九三年憲法では、人権宣言︵一七九三年宣三口︶のなかで、ジロンド憲法草案と同様に、主権の人民への帰属と
主権の単一.不可分.不可譲性︵第二五条︶や主権纂奪の禁止︵第二六条︶、憲法改正権︵第二八条︶を定めたが、各
、
イ市
民の主権行使の権利については、ジロンド憲法草案よりも一層明瞭に、法律制定および受任者・代理人の選任権
条︶、人民の受任者の処罰と有責性︵第三一条︶などの規定を新設して、主権者の受任者へのコントロールを強化する
繍 の内容を明らかにした︵第二九条︶。また、主権者の意思表明の権利︵第二六条後段︶、主権纂奪者の死刑︵第二七
27ことに努めた。
認
理
原
憲
の
年
三
九
七
︸
法
章
三
第
四
さらに、憲法典では、まず第一章で﹁フランス共和国は一にして不可分である﹂︵第一条︶ことを定め、ジロンド
憲法草案には存在しなかった人民主権に関する規定を第四章に新設した。ここでは、﹁主権者人民は、フランス市民
の総体である﹂こと、すなわち、主権はフランス市民の総体に帰属することを定めた︵第七条︶が、一七九三年六月
一一日の国民公会の審議において﹁フランス市民の総体﹂という文言が﹁フェデラリスムに通じるすべての道を閉
︵3︶
ざすために﹂追加されたことはすでにみた。ここでいうフランス市民の要件については、第三章が定め、フランス
に生まれ、居住する満二一歳以上の男性、もしくは、一年以上フランスに居住する満二一歳以上の外国人で、所有
権を取得したりフランス女性と婚姻したり養子をとるなどした、一定の要件を満たした者もしくは立法府が認定し
た者が、フランス市民の資格を取得することとした︵第四条︶。また、市民資格喪失要件として、外国への帰化、非
人民的な政府の職務または援助の受諾、名誉刑または体刑の判決を、市民資格停止の要件として欠席裁判による判
決をあげた︵第五・六条︶。さらに、人民主権に関する第四章では、具体的な主権行使の内容として、議員を選任︵第
八条︶し、︵地方︶行政官および各種裁判官︵民事裁判所・刑事裁判所・破殿裁判所の裁判官︶の選出を選挙人に委任し
︵第九条︶、法律を議決すること︵第一〇条︶を定めた。
このように、一七九三年憲法では、共和国での人民主権の原理、および主権の主体と主権行使の内容を明確にし
たうえで、第五章以降で、市民の主権行使の手段について具体的に規定した。主権行使の内容として位置づけられ
た統治機構については、次に項を改めて個別・具体的に検討することにしよう。
︵1︶ 一七九三年憲法制定過程の詳細については、第二章第一節一2︵八三頁以下︶、同節二2︵一〇九頁以下︶を参照さ
れたい。
ナシオン プロプル
は、﹁憲法の正当性の所在を示す﹂ものと解する︵樋口﹃近代立憲主義と現代国家﹄二九九頁以下︶。ここでは、主権原
主権論の本来の土俵での主権とは、憲法制定権力のことであり、主権の帰属の意義︵﹁国民が憲法制定権者だという命題﹂︶
主権を行使するための統治機構︵組織原理の側面︶の解明が主権論の課題となる。これに対して、樋口教授の場合は、
配権︶自体の主権主体への帰属を問題とする︵芦部教授の用法でいう﹁権力的契機﹂で捉える︶ことから、主権主体が
属を指示する原理﹂と捉える︵杉原﹃国民主権と国民代表制﹄四九頁以下︶。さらに、主権の帰属について、国家権力︵支
確化した。すでにみた杉原教授の見解では、主権を国家権力自体と解し、主権原理を﹁国家権力の国内における法的帰
成果を反映した﹁七〇年代主権論争﹂期の学説整理を経て、主権・主権原理・主権の帰属の意義についての対立点が明
日本の憲法学界では、日本国憲法の国民主権の理解をめぐって種々の解釈が存在してきたが、フランス憲法学研究の
︵i︶ 主権ないし主権原理の意義、主権の帰属の意義等について
のメルクマールについて検討を加えておくことが適当と思われる。
し、新たな批判論や論点整理の出現もあり、ここで改めて対立点を整理したうえで、﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂の区別
については、すでに、序章第二節一一︵一四頁以下︶、第三章第一節二︵一七六ー一七九頁注︵3︶︵4︶︶で概観した。しか
ナシオン プロプル
合の主権ないし主権原理の意義と主権の帰属の意義、ジロンド憲法草案の主権原理等をめぐる憲法学界での見解の対立
︵2︶杉原﹃国民主権の研究﹄二七三頁以下参照。フランス革命期の主権原理として、﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂を区別
し、一七九一年憲法と一七九三年憲法に各々の典型をみるフランスおよび日本の憲法学の支配的見解、および、その場
!
れたものとするため、主権論は有効な解釈原理として機能しないとして﹁主権概念不用﹂論が導かれる。さらに、最近
理を﹁正当性の契機﹂、いいかえれば﹁建前﹂の問題として捉え、実定憲法の枠内では憲法制定権力は﹁永久に凍結﹂さ
では、芦部教授から、同じく憲法制定権力を基礎として主権概念を理解しつつ、その帰属について、﹁正当性の契機﹂の
みならず、憲法改正権︵﹁制度化された憲法制定権﹂︶への転化を認めることによって﹁権力的契機﹂の結合を認める折
へ
衷的な見解が提示されている︵芦部﹃憲法講義ノート﹄︹一九八七年︺一二一頁︶。︹以上の論点については、第三章第一
節一一︵一七六ー一七八頁注︵3︶︶で指摘した文献のほか、高橋和之﹁国民主権の構造﹂樋口ほか﹃考える憲法﹄︵一九八
八年︶一四頁 以 下 を 参 照 さ れ た い 。 ︺
さて、以上の論点について、本書では、主権原理を、.本来的には国家権力自体の帰属を指示する法原理として捉え、
30
2
理
原
三
年
三
九
七
一
の
冠絃
章
第
31
2
れば︵君主主権の否定とブルジョワジーの権力奪取という革命の成果を確認するための一七八九年宣言の主権原理、さ
主権論を統治原理︵組織内容︶の解釈にとっても有効なものと解している。ただし、フランス革命期憲法の実態からす
プ プ ル
らに、一七九一年憲法の﹁国民主権﹂原理の下で実際に権力の行使から排除された民衆によって、権力奪取のために構
ナシオン
築された﹁人民主権﹂原理を中心としてみれば︶、﹁権力的契機﹂を前提として成立したと解される主権原理は、一七九
一年憲法のもとで﹁国民︵抽象的・観念的な国籍保持者の総体︶﹂を主権者とする﹁国民主権﹂原理が確立された過程で
ナシオン ナシオン
は﹁正当性の契機﹂が前面に押し出され、民衆︵受動市民︶排除の実態を隠蔽するイデオロギー的機能を果たしたと解
することができる。また、﹁人民主権﹂原理のもとでさえ、権力の正当性が﹁人民﹂にあるとするたてまえに転化する可
プ プル プロプル
契機は、正当性の契機と分離することはできないのではないかとも考えられる︹以上の点につき、第三章第一節二二
能性を含むものであることからすれば、主権の帰属の意義には二つの契機が不可分に含まれ、主権原理における権力的
七六1一七八頁注︵3︶︶のほか前掲拙稿﹁ブルジョア革命と憲法﹂五八−五九頁参照︺。
ナシオン プロプル
ナシオン プ プル
︵︰11︶ ﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂の区別のメルクマール
さて、以上の議論は、﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂を区別するフランス憲法学の理論を前提としており、ここでは両者
の差異を明確にしておくことが必要となる。
まず、第一に、両主権理論における主権主体、すなわち、﹁国民︵ナシオン︶﹂と﹁人民︵プープル︶﹂の差異が問題と
なる。日本の憲法学では、カレ・ド・マルベールの理論を基礎とする杉原教授によって、﹁国民︵ナシオン︶﹂とは﹁抽
象的な国籍保持者の総体﹂、﹁人民︵プープル︶﹂とは﹁具体的な市民の総体﹂として説明されてきた︵後者を普通選挙権
者と同視することから、芦部教授らによって後者を﹁有権者主体説﹂として整理され︹芦部・前掲論文②法学教室五六
号五四頁︺ることが多いが、正確には、国家意思決定能力者のことを意味し、法律上の有権者と同視されるわけではな
い︶。もっとも、樋口教授の場合は、従来の著作では﹁厳密な主権規定をのべていない﹂︵渡辺良二﹃近代憲法における
主権と代表﹄︹一九八八年︺=九頁︶ため、杉原・芦部教授らによっても、以上と同様の理解にもとつく学説として整
理されてきたが、最近、﹁人民主権﹂の場合の﹁人民︵プープル︶﹂を﹁国民全部﹂とする見解が開示された︵樋口﹁﹃魔
プドプル
れに対して、本書では、カレ・ド・マルベールのみならず、ヴデル、ラフリエールなど、フランス憲法学の支配的見解
力からの解放﹄と﹃解放のための魔力﹄﹂法律時報五九巻五号一=二頁および法学教室八〇号一二頁の座談会発言︶。こ
では、﹁国民︵ナシオン︶﹂を﹁全国民﹂、﹁人民︵プープル︶﹂を﹁政治体を構成する個人の総体﹂として理解してきたこ
と︵渡辺良二﹁﹃国民主権﹄論における﹃国民﹄と﹃人民﹄﹂前掲書三七頁︶、および本書で行ってきた革命期憲法の実証
的研究の結果からしても、前記のような支配的な見解が支持されるべきものと考えている。しかし、ルソーのいう﹁人
よびその総体としての人民概念︶の相対性を根拠としてカレ・ド・マルベールの学説を批判してきた従来の学説や、バ
民︵プープル︶﹂も、当時は、女性や未成年者等を含まなかったことを指摘する樋口教授のような見解は、市民概念︵お
コ教授らの最近のフランス憲法学説にも一脈を通じるものがあり、昨今の新たな主権学説とともに再検討に値すること
を指摘しておかなければならない︵ρ亡O碧oT魯゜へ叉バコ教授の見解については、光信一宏﹁フランスにおける最近の
主権論﹂法律時報六〇巻九号六九頁以下の紹介を参照。一七九一年・一七九三年憲法の主権主体をともに﹁市民団﹂と
し、一七九五年憲法をそのジンテーゼとするバコ説への疑問については、拙稿﹁フランス革命二〇〇年と憲法学﹂ジュ
リスト八八六号一〇三頁で述べておいた。また、フランス憲法の主権主体としての﹁市民﹂概念の重要性を指摘しつつ、
−O①Oω﹀き︿OSミ﹀恥ミ︶貯句合嵩合砺へO§ミミご蕊さO合∨§ρ一q⊃o。べN<O言が注目される︶。
近代憲法学における﹁国民︵ナシオン︶﹂と﹁人民︵プープル︶﹂概念の再検討を試みた最近の著作として、oD芯菩呂Φ霊氏品
ナシオン プ プル
第二に、﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂の区別について、主権主体とともに、重要な要素となるものが統治原理との関係
である。
プロプル レフエレ
主権原理の意義についてみたように、杉原教授の立場では、二つの主権原理に適合的な統治機構の解明が主権論の主
ンダム ナシオン
要な課題となり、とりわけ、、﹁人民主権﹂に適合的な直接民主主義の諸制度︵人民自身による立法を実現するための人民
投票の制度、あるいは、命令的委任の制度︶の検討は日本国憲法の解釈論にとっても重要な意味をもつ。反面、﹁国民主
権﹂原理は、国民代表制,︵純代表制︶を不可避的に導いたが、理論上は、その主権原理自体は特定の国権行使の方法を
規定するものではなく、普通選挙や直接制の手続きをも排除するものではないことから、半代表制・半直接制への展開
脱
原
理
絃
章
三
年
三
九
七
一
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第
田
2
も﹁国民主権﹂原理を基礎にしたものと解される︵主権原理の質的転換は否定される︶。これに対して、主権論自体の解
ナシオン
釈論上の意義を重視しない樋。説にあ・ては・むしろ逆に・原理上・﹁ナシオン国民主権﹂が純代表制を・万邸王権﹂がルソー流の
理への質的転換として理解される︵前述序章二2三七ー三八頁参照︶。もっとも、すでにみたような樋口教授の主権主体
プロプル
直接民主主義的要因を肯定するものとされ、一九世紀後半の普通選挙制度確立以後の半代表制の展開が﹁人民主権﹂原
や主権原理についての理解からすれば、民意の支配という﹁建前﹂のもとに半代表制下に観念される主権原理は、樋ロ
教授の用語では﹁人民主権﹂であっても、杉原教授の理解によれば﹁国民主権﹂と解されることとなり、第四・第五共
ブ プル ナシオン
プ プル ナシオン
和制の憲法を半直接制‖﹁人民主権﹂と捉える樋口教授と、これを半直接制11﹁国民主権﹂と捉える杉原教授の認識は、
プ プル
実際には一致しているものと考えられる。なお、本書では﹁人民主権﹂の統治構造上のメルクマールを、①人民による
意思決定の保障、その手段としてのω普通選挙制度、および㈲人民による立法権行使のための人民投票制度もしくは命
議会による執行統制装置、の採用に求めている。すでにジロンド憲法草案に際してみたように、一七九三年憲法の場合
令的委任制度、②人民による執行監督の保障、その手段としての④人民による公務員の責任追及・罷免制度、および⑥
には、不十分ではあっても、これらのメルクマールが、原則的に採用されているものと解しており、一七九三年憲法日
半直接制n﹁人民主権﹂の憲法というフランス憲法学の支配的見解と同様の基盤に立っている。この点については、次
プロプル
に、具体的な統治原理の検討のなかでさらに述べることにする。
︵3︶ 第二章第一節二︵=○頁︶を参照されたい。
2 主権行使の形態と統治機構
ω 第一次集会︵︾ ° ・ ω Φ ∋ 亘 辰 o ω 買 ⋮ ヨ 巳 ﹁ ⑦ ω ︶
人民主権原理を実現する人民の主権行使の基盤は、各カントンの第一次集会である。このことは、﹁人民の区分﹂
に関する憲法第二章で﹁フランス人民は、その主権の行使のために、カントンの第一次集会に区分される﹂として
示され︵第二条︶、行政および裁判権についての県・ディストリクト・市町村という区分と対置された。憲法第五章
では、まず、第一次集会の構成について、第一次集会は、各カントンに六カ月以上居住する二〇〇名ないし六〇〇
︵1︶
名の市民からなることを定めた︵第=二二条︶。ここでは、市民の資格は、議員の選挙人の資格と同一であり、各
市民は、第一次集会において選挙権を行使するものとした。第一次集会の機能のうち、最も基本的なものといえる
選挙は、国民公会の議員の選出、︵地方︶行政官と一定の裁判官選出のための間接選挙人の選出についてなされる
が、その方法については、第一次集会での投票は、各投票人の選択に基づいて、口頭もしくは投票用紙への記載に
よることが定められた︵第一六条︶。
また、第一次集会の法律議決の機能については、﹁法律に関する投票は、賛成または反対によってなされる﹂︵第一
九条︶ことが定められ、市民に法律制定の最終決定権を委ねる形態がとられた。法案の修正権は認められず、この投
票の結果、第一次集会の意思が﹁○○人の投票人からなる○○の第一次集会に集合した市民は、○○の多数により、
賛成または反対する﹂という形式で表明される︵第二〇条︶こととされた。また、第一次集会は、投票権をもつ市民
の五分の一の請求に基づいて臨時に開会され︵第三四条︶、この場合には、集会地の市町村庁が招集する︵第三五条︶
が、臨時第一次集会は、投票権をもつ市民の過半数の出席がなければ議決することができない︵第三六条︶と定めら
れた。以上のような第一次集会の構成と機能は、まさに、一七九三年の人民主権体制の根幹をなすものであり、当
時のサンnキュロットたちも要求していた主権行使の形態を実現しようとするものであった。エロー・ド・セシェ
ルの原案では、第一次集会を構成する市民の居住要件が三カ月とされていたのに対して、審議中に六カ月に修正さ
れ要件が加重された。しかし、市民資格の取得に一年の居住要件を課したうえで、さらに第一次集会での投票資格
へ
として引き続き三カ月の居住要件を課していたジロンド憲法草案︵第二編第二三・七条︶と比べると、なお、要件
は緩やかである。これは、主権者がなるべく主権行使から排除されることがないようにするための配慮であると考
︵2︶
えられる。また、ジロンド憲法草案が、第一次集会を構成する市民の人数を四五〇ないし九〇〇人としていたのに
誕
2
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原
法
憲
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三
九
七
一
章
対して、一七九三年憲法がその規模を縮小したことも、民主的な討議・運営にとって、より有効な対応と考えられ
る。
ここでは、ジロンド憲法草案も一七九三年憲法も、いずれも、市民資格や第一次集会での投票資格の喪失の要件
として、外国への帰化や受刑︵公民権剥奪︶をあげていたにすぎず、ジロンド憲法草案が投票権行使を不能にする要
件として無能力・心神喪失を掲げていたことからしても、意思決定能力を有するすべての市民︵成年男子︶の主権行
使を最大限に保障しようとする人民主権原理の基本原則が読み取れる。また、当時のサン‖キュロットたちが実践
︵3︶
していたパリのセクション集会などでの自治の精神に基づいて、ジロンド憲法草案と一七九三年憲法が、ともに、
第一次集会の内部警察権をみずからに帰属させ、武器携行禁止によって自己規制を強いていたことも注目される二
七九三年憲法第一四・一五条、ジロンド憲法草案第三編第四節第一−四条︶。
②選挙権と選挙制度
ω 選挙権の帰属︵普通選挙︶
一七九三年人権宣言第二九条は、﹁各市民は、法律の制定、およびその受任者もしくはその代理人の選任に参加す
る平等の権利をもつ﹂と規定し、議員の選挙権を各市民の﹁権利﹂として明示した。このことは、すでにみたよう
に、主権者を構成する市民の資格と選挙人の資格を一致させる人民主権原理のもとでの選挙権の本質論を知るうえ
で重要な意味をもつ。エロー・ド・セシェルの演説のなかでも、人民主権と選挙の権利の尊重が強調されていたが、
一七九三年憲法の人民主権原理の下では、主権者の権利として、すべての市民が議員の選挙権をもつことが基調と
されていた。これは、後の第三共和制期の憲法学の用語でいう一七九一年憲法体系下の選挙権公務説︵⇔ぼ。叶⋮。エ。一.
︵4︶
舎。茸陪ム8∩⇔一。o︶に対置される、選挙権権利説︵け冨。﹁一。合一、m一8☆陪−エ﹁05の採用に他ならない。後の一七九五年
憲法は、一七九三年憲法の﹁主権者︵人民︶‖市民の総体﹂、﹁主権者の構成員11市民‖選挙人﹂という構造を踏襲す
る外形をとりながらも、主権者を構成する市民の資格自体のなかに財産による制限を課し、本来選挙権権利説とは
︵5︶
相容れないはずの制限選挙制度を採用したが、一七九三年憲法では、前年九月の国民公会選挙ですでに実現され、
憲法私案のほとんどが要請していた︵男子︶普通選挙制度を採用した。また、被選挙権については、一七九三年憲法
では﹁市民の権利を行使するすべてのフランス人は、共和国の全領土内で被選挙資格をもつ﹂︵第二八条︶と規定さ
れ、選挙資格と同一の被選挙資格を認めていた。この点では、被選挙資格年齢を二五歳として選挙年齢資格を加重
していたジロンド憲法草案とは異なっているが、全共和国領土内で被選挙資格を認めることでは同一であった。被
選挙権に関するうえの規定は、﹁各議員は国民全体に属する﹂︵第二九条︶という規定と対をなし、選出された各議員
が、選出した選挙区の代表ではなく、全国民の代表であることを明らかにしており、代表制の性格を知るうえで重
︵6︶
要である。すでに憲法制定過程についてみたように、国民公会での審議では、一方で選挙区の受任者の責任を追及
しうる命令的委任論に通じる見解があった反面、他方でフェデラリスムを排するという観点からの批判が強く、結
局、後者の方向で﹁全国民の代表﹂論が採用されたのである。
㈲ 選挙制度
﹁主権者人民は、フランス市民の総体である。主権者人民は、その議員︵法苫芯・。︶を直接選任する﹂︵第七ー八条︶
という規定に従って、国民議会の議員の選挙について、男子普通直接選挙制が採用された。この制度では、選挙権
者は、第四条で市民権の行使を認められた市民、すなわち、フランスに生まれ住所をもつ一=歳以上のすべての男
へ
子および一定の要件をみたす二一歳以上の外国人であり、各市民は、六カ月以上居住するカントンの第一次集会に
で、絶対多数により︵第二一ー二四条︶選出されることが定められた。開票は、各第一次集会ごとに行い、第一回開
章では、議員は、人口のみを基礎として人口四万人︵条文では、三万九〇〇〇人から四万一〇〇〇人︶に一人の割合
紅 組織されて︵第=条︶、毎年五月一日に選挙権を行使する︵第三二条︶こととされた。また、国民代表に関する第六
獅
票の結果絶対多数が得られない場合には、上位二名について第二回投票が行われる。得票が同数の場合は、最年長
祝者が優先し・同年のときは抽選による︵第三パー二七条︶とされた・
一方、憲法は﹁主権者人民は、︹地方︺行政官︵江日一巳・。茸讐①烏ω︶、公仲裁人︵曽げ言。ω苫亘浮ω︶、刑事裁判官および
破段裁判官︵言σqΦω。﹁⋮ヨぎ。一ω①三。。①。。・。良。ロ︶の選出を選挙人に委任する﹂︵第九条︶と定め、一定の公務員について
間接選挙制度をも併せて採用した。その趣旨は、エロー・ド・セシェルの演説についてすでにみたが、審議中も間
接選挙制に反対する意見が強く、人民主権の完全な行使のために直接選挙の原則が要請されていたことが注目され
る。しかし、国民公会は、行政官に国民代表と同じ重要な性格をもたせないことを主張したロベスピエールの見解
に従い、民主的正統性をもつ国民代表の地位をより上位におく観点から、地方︵県︶行政官と裁判官の選出を選挙人
会に委ねる規定を可決した。一七九三年憲法は、この制度を実施するため、第七章に選挙人会︵﹀・。。。。∋亘一m。ω伽一8貫巴。切︶
︵7︶
に関する規定をおき、第一次集会に集合する市民の数︵実際の出席者は不問︶二〇〇人について一人、三〇一人から
四〇〇人について二人、五〇一人から六〇〇人について三人の割合で選挙人を選出することとした︵第三七条︶。
以上のような選挙制度は、ジロンド憲法草案が議員のみならず中央および地方の行政官や裁判官に対しても男子
直接普通選挙制を採用して民主的な形態をとりながらも、反面、推薦投票を併用してきわめて複雑を手続きを定め
たことの難点を改め、簡潔でより民主的な手続きを実現したものといえる。また、一七九三年憲法が、ジロンド憲
法草案のような名簿式の推薦投票制を採用せず、単記直接投票制を確立したことは、単に手続きを簡略化しただけ
でなく、議員の﹁県代表﹂的な性格を排除するためでもあった。国民公会での審議中に、ラメルらモンターニュ派
の議員から、フェデラリスムを避けるために主張されていた内容は、国民代表の基礎を人口のみに限定して﹁全国
民の代表﹂を確保し、命令的委任を排除するだけでなく、被選挙権の範囲や選挙制度の決定についても、影響を与
は、制定過程の審議中かなり議論されたが、人民の代表を裁判官が裁くことの問題性を指摘しつつ原案に賛成した
議員に対する逮捕状も勾引状も、立法府の許諾がなければ発せられない﹂︵第四四条︶。これらの議員特権について
れ、訴追され、裁判されない﹂︵第四三条︶、﹁議員は、刑事事件については、現行犯によって逮捕される。しかし、
︵第四二条︶である。憲法第六章で﹁全国民の代表﹂としての性格を与えられた国民議会議員には、免責特権と不逮
へ
捕特権が与えられ、次のように定められた。﹁議員は、立法府内で公表した意見のために、いかなる場合も捜査さ
用した。会期は一年であり︵第四〇条︶、毎年七月一日に開会し︵第四一条︶、国民議会開会の定足数は二分の一以上
憲法第八章では、立法府についてコにして不可分であり、常設である﹂︵第三九条︶と定め、常設の一院制を採
ω 立法府の構成・議員の特権
㈲ 意思決定手続きと立法府
果的には、投票方法について選挙人の意思を尊重する方法が採用されたことに注目すべきであろう。
また、憲法では、口頭での投票を望まない選挙人には投票︵秘密︶の方法を選択することが可能とされ、むしろ、結
当時の民衆の文盲率の高さや、革命状況下での革命派による公開選挙の要求などとあわせて理解する必要がある。
者の投票の秘密も保障された。未だ無記名投票による秘密選挙の原則が一律には確立してはいなかった背景には、
なく投票用紙による投票を望む市民については、投票検査人がその投票を証明する︵第一八条︶ことによって、文盲
民については口頭ではなく投票用紙による投票が保障され、さらに、文字を書くことができないけれども、口頭で
れ、いずれか一方の投票方法に一律に定めることはできない︵第一七条︶とされた。ここでは、投票の秘密を望む市
憲法草案とは異なって、一七九三年憲法は、投票者の選択によって記入投票もしくは大声による投票を認めた︵第一
︵8︶
六条︶。これについては、国民公会での審議の過程でかなり議論があったが、憲法では、結局、二つの方法が併用さ
一方、投票の方法については、本選挙では無記名投票としつつ推薦投票の段階で記名投票制を採用したジロンド
えていたことが理解できる。
理
原
法
の
三
年
三
九
七
一
憲
章
第
3
27
︵9︶
ロベスピエールの意見に従って採択された。もっとも、草案審議の段階では、入民の代表を人民自体が裁くための
一次集会に集合した主権者人民は、議決権を行使するが、これは、賛成または反対の形でしかすることができず︵第
九条︶。﹁異議が成立した場合には、立法府は、すべての第一次集会を招集する﹂︵第六〇条︶。異議が成立すれば、第
に形成された県内の第一次集会の ○分の一が異議を申し立てない場合は、法律案は承認され、法律となる﹂︵第五
べ
買o宮品Φ当の名称で、全市町村に送付される︵第五八条︶。﹁法律案送付後四〇日以内に、過半数の県において、正規
まず、立法府により、、法案に先立って報告書が提出される︵第五六条︶。提出後印刷に付された法案は、法律案︵ζ
な手続きを採用した。
者人民は、法律を議決する︵念#ぴ含巽ごと定め、立法府での法案作成と第一次集会での意思決定について次のよう
なものである。一七九三年憲法は、市民の立法参加権を定めた人権官三田第二九条を受けて、憲法第一〇条に﹁主権
さて、すべての法律︵︼。剛︶の制定を人民の最終的な承認に委ねる手続きこそ、フランス憲法史上に類のない特徴的
㈲ 法律制定手続き
衛、条約の批准や安全・全体の公安に関する事項がデクレの領域に入れられたことなど、二つの区分への分類は、
︵13︶
多分に不調和であることが指摘されている。
を示すものであるといえる。この点については、栄典に関する事項が法律事項になっているのに対して、領土の防
︵12︶
重要事項が人民の裁可に付さないこととされたのは、﹁人民による立法﹂という人民主権原理にとって、大きな限界
内容、さらには公務員の犯罪に対する訴追など、主権者の意思に重大な係わりをもつ内容まで含まれて、これらの
デクレ事項のなかに、防衛や条約など、対外的な重要な政策決定に関する問題が含まれ、また、予備費など予算の
者の訴追、フランス領土の部分的な区分の変更、国家賠償など、一五項目に及ぶ広汎な内容が定められた。とくに、
分、造幣命令、予備費、軍隊指揮官の任免、閣僚および公務員の訴追・貴任追及、共和国の安全に対する陰謀容疑
また、第五五条のデクレ事項には、陸海軍の設立等の軍事、領土の防衛、条約の批准、公的救済・公共事業の区
︵H︶
ら削除された。
のが六月]六日の審議によって法律事項に変更された。また、草案にあった警察に関する事項は法律事項のなかか
念する公的栄典に関する事項が定められた。これらのうち、宣戦布告については、草案ではデクレ事項であったも
重量・刻印・名称、租税の種類・総額・徴収、宣戦布告、フランス領土に関する全般的新区分、公教育、偉人を記
五四条には、法律事項として、民事および刑事の立法、共和国の経常収支の一般的管理、蟹有財産、貨幣の純分・
問題は、いかなる事項を法律事項に含め、いかなる事項をデクレとして除外するかにあった。確定された憲法第
の決定に委ねられ、立法府の職務は法律案の提示に限定された。
レが人民の裁可に服さずに立法府の議決だけで成立するのに対して、法律は、その最終的決定権が人民︵第一次集会︶
おいては受任者であり、デクレ︹の制定︺においてのみ代表であるにすぎない﹂と説明されていたところだが、デク
セシェルの演説のなかで﹁議員は二重の性格をおびている。人民の裁可に付されなければならない法律︵の制定︺に
︵10︶
を発する﹂︵第五三条︶ことが定められた。ここで、法律とデクレを区別したことについては、すでにエロー.ド・
次に、憲法第一〇章の立法府の職務については、まず、﹁立法府は、法律︵一。一︶を提案し︵買09ω旦、デクレ︵合自旦
五二条︶が定められた。
のほか、議場内の行為についての国民議会の懲罰権︵第五一条︶、議場および周辺地域における国民議会の警察権︵第
の定足数二〇〇名︵第四七条︶、過半数による議決︵第四九条︶、五〇人以上の議員による指名点呼の要求︵第五〇条︶
このほか、国民議会の開催に関する憲法第九章では、会議の公開︵第四五条︶、議事録の印刷︵第四六条︶、議決時
議員の腐敗を裁く手段が欠落することとなり、一七九三年憲法の一つの限界を形づくることになった。
跳 国民大陪審の設立が前提とされていたが、最終的に国民大陪審制度が否決された結果、これらの議員特権をもった
理
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狂
斑
九条︶、主権者人民には法案修正権は帰属しないとされた。
するならば、議会ブルジョワジーたちにとっては、第一次集会の人民の権力行使は外見上は民衆の支持を得るため
モ
に必要であったにせよ、実現可能性はもともと眼中になかったといっても過言ではないといえるであろう。
ったことが指摘できる︵この点ぱ、次にみる憲法改正の要件についても同様である︶。このような運用上の限界を前提と
− ︵19︶
バティクルの試算よりもさらに多くなることが考えられ、以上のような修正の結果、きわめて実現困難な要件にな
一七九三年憲法で規定された第一次集会の構成員が二〇〇∼六〇〇人とする場合には、一県内の第一次集会の数は
審議のなかで、いかに、人民の立法参加を困難にする方向での修正がなされたのかが明らかとなる。また、実際に、
体で概ね五〇の第一次集会、最低では一〇の第一次集会の異議で足りた︶ことと比べると、国民公会のモンターニュ派の
県において、一個もしくは数個の第一次集会の異議﹂とされていた︵ここでは、仮に一県につき五の集会としても、全
な要件ではない。さらに、エロー・ド・セシェルが提出した原案では、最初、﹁法律案送付後三〇日以内に、一〇の
く18W
そ二二〇以上の第一次集会の異議を要求するものであった。これは、審議過程でも指摘されたように、決して容易
会の数をおよそ五〇と計算するバティクルによれば、︹。。③\悼+巳×︹切O×声\一〇︺‖§Oという計算によって全国でおよ
形成された県内の第一次集会の一〇分の一の異議﹂という要件は、実際に、当時の県数を八六、各県内の第一次集
して、実現可能性の高いものではなかったことである。﹁法律案送付後四〇日以内に、過半数の県において、正規に
第三に、一七九三年憲法第五九・六〇条で示された人民拒否あるいは諮問的レフェレンダムのための要件が、決
ついては、事後的な承認の制度を要請していたロベスピエールの構想と比較しても不十分さが認められる。
的な意思決定権は外見的なものにとどまることが危慎される。﹁ルソーは憲法全体には承認されておらず、全体とし
︵17︶
て、人民の権力は、実際上のものというより、外見的なものであった﹂と指摘される所以であり、また、デクレに
第二に、デクレ事項の内容が、ジロンド憲法草案に比しても、重要な問題に著しく拡大されており、人民の最終
な意味をもつこととなった。
にみた国民大陪審制度の削除により、立法府の構成員についての責任追及手段が否定されたことによって一層重大
ルが及ばず、代表は主権者からの何らの監督や制約を受けることなく行動することを許容した。このことは、すで
ができなかった。議員が受任者でなく、代表として機能するはずのデクレ事項については、全く人民のコントロー
任追及手段を確保したのに対して、一七九三年憲法では、人民の発案手続きも議員の責任追及手段も採用すること
第 に、ジロンド憲法草案が、議会に立法権を委ねながらも、第一次集会に集合した人民に人民発案と議員の責
思決定には多くの限界が存在した。
の原理に忠実たらんとする意図に出たものであることはいうまでもない。しかし、実際には、一七九三年憲法の意
いずれにせよ、このような制度が、人民主権を実現するための、﹁人民による意思決定﹂の原則を採用し、ルソー
摘されていた。
く16︶
ない点から、レフェレンダムの制度として捉えるほうが適切である。このことは、すでにビュルドーによっても指
後一定の人民の発案により人民に施行の可否が委ねられる制度﹂と解するならば、議会では法案を提添するにすぎ
この制度について、デュギーは、原理上は、立法府によって提案され人民によって法律が採択されるとしても、
︵15∵
事実上は、真のレフェレンダムとい、うよりはむしろ﹁人民拒否﹂の制度と呼んだが、人民拒否の制度を﹁法律制定
ダム︿霧齢冷昆c日8霧鰭︼け鋒5﹂と呼ばれ、立法府は法律案作成権限のみをもつものとする点に特徴があった。
︵︹⑦︷O﹁O口●⊆∋塙①Oζ一⇔鎚け一︹︶﹂あるいは﹁廃止的レフェレンダム︵9寂器昆已ヨ窪.①亘日ぬ①⇔合コ︶﹂または﹁諮問的レフェレン
︵14︶
40 このような法律制定手続きは、﹁人民拒否︵<Φ9噂名巳①⋮吟o>﹂、より最近の用語でいえば、﹁任意的レフェレンダム
2
理
原
法
憲
輪
ヨ
九
七
章
三
第
舖 憲法改正手続き
41
2
憲法改正手続きについては、第二三章の国民公会に関する章のなかで次のように定められた。﹁過半数の県におい
憲
九
章
て、正規に形成された県内の第 次集会の⋮○分の一が憲法の改正または部分改訂を要求した場合、立法府は、国
の理論的関係などについて理論上不明瞭な点が残存していた。これに対して、第四共和制以降の憲法学では、政治
吟ぷ
ロo名乞已吋ΦVの四つの形態について検討が深められたが、ここではなお、﹁半代表制﹂﹁半直接制﹂と主権原理と
するいくつかの博士論文のなかで、人民拒否・レフェレンダム・人民発案および罷免権という人民の介入︵買口箋Φ亨
] ハ24︶ 、
理との区別がなされて以来、一躍、一七九三年憲法の研究意義が承認されたようにみえる。コロンベルをはじめと
摘され、カレ・ド・マルベールによって、一七九三年憲法の﹁人民主権﹂原理と一七九 年憲法の﹁国民主権﹂原
プハプル ナシオン
とくに、第三共和制期の憲法学において、エスマンやデュギーによって一七九三年憲法の﹁直接制﹂的傾向が指
主権原理との関係などについて、なおも学説上に相違や対立があり、必ずしも一般的な理解が確立されているとい
プロプル
えるわけではない。にもかかわらず、一七九三年憲法については、それを﹁人民主権﹂11﹁半直接制﹂の憲法とみな
︵23︶
す見解が定着していることは、すでに序章で概観した。
でもある。ところが、﹁半代表制﹂および﹁半直接制﹂については、その統治構造上のメルクマールや、基礎にある
を実現したものとして理解している。一七九三年憲法を﹁フランスで最も民主的な憲法﹂と解する高い評価の根拠
㈹ ﹁半直接制﹂についで
プハプル
さて、以上のような一七九三年憲法の意思決定手続きについて、一般には、﹁人民主権﹂原理のもとで﹁半直接制﹂
評価が下されている。
く22︶
一七九三年憲法について﹁その起源に反して、本質的に代表制的な性格に反するものは何もない﹂として、厳しい
施行について、自動的に人民の諮問に付されるわけではないこと、をあげてその限界を指摘している。ここでは、
でいること、旬人民のイニシァティブは、代表による改正案作成のための意見表明にすぎないこと、ω改正条項の
ダンカンも、以上のような憲法改正手続きは、ω憲法改正のイニシァティブ自体が実現不可能な条件をつけられ
定しえない。
︵21︶
集会の議決権が認められないとすれば、﹁憲法改正権の人民への帰属﹂という原則が不十分なものとなる可能性は否
改正案について、全第一次集会での議決を要するか否かは明文上定かではない。したがって、この場合に、第一次
こで過半数の賛成があれぼ憲法改正も可能となる、と推測される。もっとも、このようにして国民公会が提示した
した場合には、法律制定の場合と同様に、もう一度、すべての第一次集会が招集されて最終的な議決がなされ、そ
を唱えない場合には、この改正案が有効に成立されることになる、と解される。また、改正案に対する異議が成立
のすべての第一次集会に対して送付し、一定期問︵送付後四〇日︶内に過半数の県の第一次集会の一〇分の一が異議
を作成する。さらに、条文上には明示されていないが、法律制定の手続きと同様に、国民公会は憲法改正案を全国
憲法改正に関して、その招集の理由となった事項に関することにのみ専念し、立法府の権限と同様に、憲法改正案
招集に賛成した場合には、立法府の場合と同一の方法による選挙が行われ、国民公会が形成される。国民公会は、
に及ぶ全国のすべての第一次集会が招集され、国民公会招集について賛否を問う。もし、その過半数が国民公会の
︵20︶
すなわち、過半数の県において県内の第︸次集会の一〇分の の要求で憲法改正の発議があった場合、数千カ所
ものと解される。
と憲法改正部分の指定権が、さらに黙示的には、憲法改正案についての拒否権︵消極的レフェレンダム︶も帰属する
って、この手続きでは、明示的には、第∼次集会に集合した主権者人民に憲法改正の発案のための国民公会招集権
法に関する事項については、国民公会は、招集の理由となった事項についてのみ審議する﹂︵第=七条︶と。したが
五条︶、﹁国民公会は、立法府と同一の方法で形成され、かつ、その立法府の権限をあわせもつ﹂︵第=六条︶、﹁憲
42 民公会の招集について可否を問うために、立法府は共和国のすべての第一次集会を招集しなければならない﹂︿第∼
2
理
原
法
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年
三
七
一
三
第
形態についての﹁純代表制﹂﹁半代表制﹂﹁半直接制﹂﹁直接制﹂という概念区分がほぼ一般化し、﹁国民主権﹂原理
瑠 ナシオン
2
年
三
九
七
一
の
理
原
法
憲
と﹁人民主権﹂原理の区別を前提とした一七九三年憲法の位置づけもかなり明瞭になったといえる。
プベプル
プハプル ナシオン
以である。ただし、第五共和制憲法第三条の主権規定︵﹁国民の主権は、人民に属する﹂︶を、﹁国家の主権は、人民に
︵32︶
て、種々の点を留保しつつも、当面は、一七九三年憲法の位置づけについては、ωの立場を支持したいと考える所
この意味で、︵次にみるロベスピエールやアンラジェらの憲法構想を別とすれば︶フランス議会で制定された諸憲法のう
プロプル
ちで最も民主的な憲法という評価を共有することにやぶさかではない。その﹁人民主権﹂原理の不十分さ等につい
標榜する憲法のカテゴリーのなかに位置づけ、代表制論ではこれを﹁半直接制﹂として認識する立場をとっている。
本書では、すでに序章・第三章第一節でも述べたように、一七九三年憲法の主権原理を、︵次にみるロベスピエール
プロプル
派やアンラジェたちの構想に比して︶きわめて限界の多い不十分なものとしつつも、これを一応、﹁人民主権﹂原理を
一七九三年憲法は、フランス憲法史の﹁枠﹂から逸脱したものとなるであろう。
したものとはならないことになる。これに対して、フランス憲法の展開が﹁国民主権﹂から﹁人民主権﹂への理論
プロプル
的展開を伴うものではない、と解するω∼ωの立場では、いずれにせよ、﹁人民主権﹂の憲法として位置づけられる
ナシオン プ プル
る㈲∼㈲の立場からすれば、そのかぎりで、一七九三年憲法も市民憲法としてのフランス憲法史の﹁枠﹂から逸脱
ンス憲法の展開のなかに﹁国民主権﹂から﹁人民主権﹂への展開と﹁純代表制﹂から﹁半直接制﹂への展開を認め
ナシオン プドプル
かでも典型的な﹁人民主権﹂の憲法H﹁半直接制﹂の憲法として位置づけられているが、一九五八年憲法に至るフラ
プ プル
このように、一七九三年憲法は、︵フランス憲法史上の意義をさほど認めない㈲の立場を除いて︶フランス憲法史のな
採用が指摘される︵カピタン、ラフリエールなど︶。
議事・議決の公開、再選、解散が、﹁半直接制﹂の手続きとして、レフェレンダム・人民拒否・人民発案の手続きの
︵31︶
が制定される︵ファーブル︶。また、別の論者によれば、﹁半代表制﹂の手続きとして、意思表明機能をもった選挙、
︵30︶
フェレンダム・人民拒否・人民発案をその手段とするが、原則的には、人民によって選出された議会によって法律
対して、﹁半直接制﹂は、重要事項について例外的に、立法府に代わって主権者がみずから決定する形態であり、レ
り、その手段として、選挙、解散、命令的委任と被選出者の罷免、請願権、諮問的レフェレンダムがある。これに
﹁半代表制﹂は、原則として立法府に立法権が専属するが、主権者がそれに影響を及ぼすことのできる形態であ
ては、ほぼ次のような認識が確定しているようにみえる。
これらのなかでは、主権原理の基礎について理解が分かれているにせよ、﹁半代表制﹂﹁半直接制﹂の指標につい
月一九日草案などとともに︶例外的に捉えるルクレール、シャントブらの立場、ω従来の﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂
︵29V
との区別を忌避し、あるいは両者の統合を図ろうとする最近のカダールらの立場、などである。
︵器︶ ナシオン プ|プル
﹁国民主権﹂のほうから説明し、﹁人民主権﹂に基礎をおく一七九三年憲法を︵一九四五年の共産党案、一九四六年四
ナシオン プ プル
は、﹁半直接制﹂自﹁人民主権﹂の憲法と解するビュルドー、ヴデルなどの立場、ω比較的明瞭に、今日の主権原理を
プープル ︵27︶
ンの立場、ω﹁純代表制﹂から﹁半代表制﹂への展開の基礎に﹁国民主権﹂から﹁人民主権﹂への展開を認めず、
ナシオン
一九四六年憲法・一九五八年憲法の﹁半直接制﹂をも﹁国民主権﹂原理で説明しながら、一七九三年憲法について
︵26︶ ナシオン プ妻プル
少なくとも﹁人民主権﹂の成立を認め、一七九三年憲法を﹁半直接制﹂の憲法11﹁人民主権﹂の憲法と解するカピタ
プロブル プロプル
三年憲法を﹁半直接制﹂‖﹁人民主権﹂の憲法と解するファーブルやプレロなどの立場、㈲﹁半直接制﹂の基礎には
プーヅル ︵25︶
㈲﹁純代表制﹂から﹁半代表制﹂への展開の基礎に﹁国民主権﹂から﹁人民主権﹂への理論的展開を認め、一七九
ナシオン プロプル
できる。
七九三年憲法の位置づけに関連してまとめると、すでに序章で指摘したように、次のような立場を分類することが
44 現代のフランス憲法学では、代表制論と・王権論との関係は必ずしも整理されて論じられてはいないが、一応、一
2
章
三
第
属する﹂と読むことによって、これを端的に﹁人民主権﹂原理の表明と解するプレロ教授︵︶a︵︶の立場や、﹁国民主
45
2 プ プル
権﹂の﹁人民主権﹂の伝統的な区別を放棄しようとする⑥の立場はとらない。また、旬の立場ではあっても、一七
九三年憲法を﹁民主的な反議会制宕艮㍗℃図庁白o烏鶏苗白ぴ念露o☆図ぱ留巴の 藩葉で示されるルソーの思想の神髄が体
に、﹁受任者︵白P知O匹①吟①︹﹁Oω︶﹂の語が用いられ、公務員の責任が明確にされていた反面、一七九三年憲法のなかに命
されていたように、公務員の責任が厳しく追及されていたことが注目される。しかし、実際には、人権宣言のなか
三〇条︶、﹁人民の受任者およびその代理人の犯罪は、決して処罰されずに放置されてはならない﹂︵第三一条前段︶と
人権宣言のなかでは、公務︵︹og江05署σ言已霧︶が本質的に有期のもので義務とみなされるべきことが定められ︵第
なかった点で、一七九一年憲法やジロンド憲法草案との差異が指摘される所以である。しかも、一七九三年憲法の
︵35︶
が確立されていた。一七九三年憲法が、権力分立の原則を採用せず、とくに立法府・行政府の機関的な独立も認め
全体として、主権者人民および立法府への権力集中による﹁人民ー立法府ー行政府﹂という系列的な統治システム
実際、一七九三年憲法では、行政府の立法府への従属、ひいては、第一次集会・主権者人民への従属が企図され、
接選挙制を採用したことには、前者の直接民主主義志向に対して、後者の権力集中型統治への志向が現れている。
を高めることが企図されていた。後にみるサンnキュロットらの直接選挙制の要求に対して、モンターニュ派が間
͡34︶
立法府の議員と、代表の性格をもたない行政府の構成員との問に差異を設けることによって、議員の民主的正統性
ド・セシェルの説明および制定過程のロベスピエールらの意見にも示されたように、ここでは、主権者の代表たる
以上の制度については、まず、執行評議会の構成員の選任方法が問題となる。一七九三年六月一〇日のエロー.
断する場合には執行評議会の全員または一部について会議への出席を求める︵第七七条︶ことを定めた。
別席をもつ︵第七五条︶こと、執行評議会は報告を行う度ごとに了解を得る︵第七六条︶こと、立法府は、適当と判
た、立法府との関係については、憲法第一四章で、執行評議会は立法府の近隣に所在し、会議に出席し、議場に特
務員を罷免し、更迭する︵第七三条︶ほか、必要がある場合には、裁判所に対してこれを告発する︵第七四条︶。ま
行評議会の構成員の職務怠慢の場合は、立法府によって弾劾されるひ第七 条︶。執行評議会は、自己の任命した公
四条所定の︺告発を行わない権限濫用があった場合に、執行評議会は、︹立法府に対して︺責任を負い︵第七二条︶、執
〇条︶任務を負う。さらに、その責任について、執行評議会が法律とデクレを執行しなかった場合、および、︹第七
条︶。このほか、執行評議会は、その構成員以外から、外交使節を任命し︵第六九条︶、条約について交渉する︵第七
執行評議会を構成せず、互いに直接の関係をもたず別々に行動し、いかなる個人的な権威も行使しない︵第六八
の長官を任命する︵第六六条︶が、この長官の人数や職務は立法府によって定められる︵第六七条︶。これらの長官は
定したデクレの執行のみを担当する︵第六五条︶。また、執行評議会は、その構成員以外から、共和国の一般行政部
に行われる︵第六四条︶。次に、その任務は、一般行政の指揮・監督であり、執行評議会は、法律および立法府の制
つ指名された候補者のなかから立法府が任命する︵第六三条︶。改選は、立法期ごとに半数ずつ、各立法期の最終月
まず、その構成について、執行評議会は二四名からなり︵第六二条︶、各構成員は、各県の選挙会によって 名ず
憲法第一三章は、執行評議会∧95Φ㌫Φ×轡纂5について、次のように定めた。
ω中央行政組織
ω 執行監督手続きと行政府
分さを検証することにしよう。
人民による法律制定手続きの不十分さ︶を留保し、さらに、次に、その執行監督手続きをみることによって、その不十
質的な限界づけを被った︵その意味ではルソーに忠実たろうとしたアンラジェやロベスピエールらとの相違を超えること
ブベプル
のできない︶憲法として理解している。ここでは、このような一七九三年憲法の﹁人民主権﹂原理の限界︵とくに、
46 ︵33︶
2 現された﹂もの︵カピタン︶と解することには同意できず、ブルジョワ革命期の議会派ブルジョワの所産としての本
三
七
一
年
三
の
理
原
法
憲
九
第
令的委任の禁止に関する規定が存在せず、議員や公務員を讃責する国民大陪審の制度が審議過程で否決されるなど、
47 ・ ︵36︶
主権者人民による議員や公務員のコントロールの手続きが、憲法上きわめて不十分だったことが指摘される。とく
2
法
理
に、執行監督については、以上にみたように、執行評議会自身の手によるか、あるいは、司法府への告発、立法府
うな中央集権の伝統からみれば、二世紀後の今日の政治課題としてミッテラン大統領のもとで実現された分権化
集権的統治構造は、その後のナポレオッ支配等を通じて、今日に至るフランスの憲法伝統の基礎となった。このよ
こうして、一七九三年の段階で、国家の防衛と革命の防衛の目的でジャコバン主義の名のもとに強化された中央
る︶。
︵39︶
示すものとして﹁反革命﹂と同視されたにすぎない︵このうち、王党派的な反革命と結びついたのはヴァンデの反乱であ
ュゾーなど少数にすぎず、ここでいうフェデラリスムは、当時の革命状況のなかでの、反中央のジロンド的立場を
批判として存在していたことに注意が必要である。ジロンド派のなかでも、明確な連邦主義の主張をもった者はビ
要求、したがって、一七九三年六月二日以降のモンターニュ独裁に対する親ジロンド派の諸県による中央政府への
を意味したわけではなく、首都パリへの集権を忌避した地方︵ブルターニュ、ノルマンディー、プロヴァンスなど︶の
されていたことを示している。もっとも、一七九三年段階におけるフェデラリスムの観念は、今日のような連邦制
︵38︶
が顕在化した過程で、革命初期のような地方の自治権を縮小し、中央政府に対して反対しえないような制度が要請
を頂点とする集権構造のなかに位置づけられたが、このことは、とくに一七九三年のようにフェデラリスムの問題
ロー・ド・セシェルの説明にもあったように、地方公務員は、完全に中央行政府に属するものとして中央の立法府
のコントロール下におくことによって、地方行政を中央の立法府に従属させる制度を構築していた。ここでは、エ
採用し、代表の性格をもつ立法府の議員と差異を設けていた。また、地方行政官の職務を中央の立法府が定め、そ
次集会に集合した主権者を構成する住民の直接選挙にはよらず、選挙人会や市町村議会を介在させる間接選挙制を
以上のように、市町村官吏や地方行政官︵県およびディストリクトの官吏a巨。︷ω☆暮⑦烏ω︶の選任については、第一
条︶、その会議は公開である︵第八四条︶とされた。
条︶。これらの市町村と県の行政機関︵日旨︷。■①忌四巴∋宣。・茸①↑一8︶は、いずれも、毎年半数ずつ改選され︵第八一
条︶。立法府は、市町村官吏および地方行政官の職務、その服務規則、およびそれらが受ける懲罰を定める︵第八三
の性格をもたず、いかなる場合にも立法府の行為を変更したり、執行を停止したりすることはできない︵第八二
︵①△白P一コ⋮ωけ﹁①[O口﹁ω︶は、県およびディストリクトの選挙人会で選出される︵第七九・八〇条︶。これらはいずれも代表
8コ茸巴。︶︵県庁︶をおく︵第七八条︶。市町村官吏︵。庄6⋮隅ω∋旨昼o碧×︶は市町村議会で選出され、地方行政官
共和国の各市町村︵8∋∋§Φ︶に市町村役場、各ディストリクトに中間の役場、各県に中央の役場︵巴己巳・。ロ良。コ
一七九三年憲法第一五章は、地方行政府と市町村庁について次のように定めた。
カントンという区分も存在した︵第二条︶。
町村︵∋§⋮n■竺⇔ひω︶という区分を採用した︵第三条︶。ほかに、すでにみたような第一次集会での主権行使のための
持していた︵第二条︶のをうけて、一七九三年憲法第二章では、行政および司法について、県ーディストリクトー市
︵37︶
においても、県と市町村の区分が採用されていた。ジロンド憲法草案第一編も現行の八五の県と市町村の制度を維
フランス革命期の地方行政制度は、一七八九年一二月一四日の法律以後の諸法律によって確立され、一七九三年
GD地方行政組織
層その弱点を見出すことができるであろう。
想、あるいは命令的委任と人民の直接的な責任追及制度を要請したアンラジェらの構想と比較することによって一
れらの点については、のちにみるロベスピエールやサン‖ジュストなどモンターニュ左派︵ロベスピエール派︶の構
追及手続きが構想されたのにとどまった点を、一七九三年憲法の限界として指摘しておく必要があろう。なお、こ
る手続きは全く存在しなかった。ここでは、総じて、立法府への権力集中を通じての、議会による執行監督・責任
48 の弾劾の方法によるものに限られ、公務員や議員に対する人民の直接的な責任追及、罷免、執行監督などを保障す
2
原
憲
の
年
三
九
七
一
章
三
第
49
2
三
年
三
九
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法
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憲
章
第
叡
2
︵念8暮邑⋮°・牲。o︶も、決して、フェデラリスムへの回帰ではなく、革命期に形成された国家の単一・不可分の原則
︵40︶
の範囲内での自治拡大の改革にすぎないことを、ここであえて簡単に指摘しておかなければならない。
⑤ 司法制度
フランス革命期には、アンシャン・レジーム下の領主裁判組織を廃止し、新たな行政区画に対応する管轄権をも
った統一的な裁判組織が樹立された。一七九一年憲法では、権力分立の原則から司法権︵o。已く。一こ昆一。庄﹁Φ︶にも独
立の地位を与え、裁判官の公選制や刑事裁判についての陪審制の導入を定め、各カントンや都市の治安判事︵甘゜q。ω
90巴×︶を基礎として、その上にディストリクトの地方裁判所、破殿裁判所を設けていた。ジロンド憲法草案で
は、第一〇編に六節、七ニカ条をおいて、裁判の公開、民事・刑事裁判所の裁判官および陪審員、破段裁判官、さ
らに大逆罪を審理する国民高等陪審委員会の陪審員の公選制︵県の第一次集会での人民の直接選挙による︶・任期制︵二
年間・再選可︶などを詳細に定めていた。ここではいかなる理由によっても、司法作用を立法府や行政府が行使しえ
ず、裁判官は、立法権の行使に関与したり行政作用を侵害したりすることが禁じられ︵第一〇編第一節第五・六条︶、
権力の分立が確保されていた。
これに対して、一七九三年憲法では、司法についての規定は大幅に簡略化され、第一六ー一八章に全部で一六力
条がおかれたにすぎない。民事裁判については、アロンディスマン︵郡︶の市民により選出される治安判事と、選挙
人会で選出される公仲裁人︵①﹁げξ⑦ωε呂8︶、刑事裁判については、選挙人会で選出される刑事裁判所裁判官、お
よび全国に一つ存在する破殿裁判所裁判官がおかれ、各々、任期は一年とされた。裁判官の公選制は、革命初期か
らの伝統であり、主権者の主権行使の内容として一七九三年憲法第九条で定めていたが、ここでは、ジロンド憲法
草案と違って間接選挙制がとられていた。この理由も、すでにみた地方行政官の場合と同様、国民代表としての立
法府議員と差異を設けることにあった。また、民事の治安判事や公仲裁人の人数や権限は立法府が定めるものとさ
れ、刑事裁判の端緒としての告発状も︵陪審員が受理するもののほか︶立法府によって発せられるとされた︵第九六
条∨。一七九一年憲法とジロンド憲法草案が、個人の権利の守護者としての裁判官の権限を独立して保障していたの
に対して、一七九三年憲法では、司法権と立法権・行政権との独立関係は明示されず、総じて、司法権の独立が弱
められていたと解される。司法権との関係でも、立法府を頂点とする権力機関のヒエラルヒーが形成されていたこ
とが理解される。
︵41︶
このほか、一七九三年憲法の制定とは無関係に、一七九三年三月一〇日に設立され、一七九四年のテルミドール
反動による革命政府の終焉まで存続した革命裁判所について触れておかなければならない。三月一〇日法は反革命
的な意図をもったあらゆる者、共和国の自由、平等、単一・不可分に対するあらゆる侵害・陰謀を革命裁判所の所
管事項と定め、三月一八日のく土地均分法﹂の提案者を死刑にする法令違反の容疑者をはじめ、亡命貴族や非宣誓
僧侶、外国人など、すべての容疑者を対象とした。九月一七日には﹁フェデラリスムの賛成者で自由の敵と判断さ
れた﹂すべての容疑者を逮捕することとし、容疑者の総数は八〇万人、投獄者は五〇万人と推定されている。この
ような革命裁判所は、テルールの進行とともに、しだいに手続きが簡素化・迅速化され、一七九三年一〇月から翌
︵42︶
年五月までに、全体の七〇パーセントが、主として反乱・反逆の罪で処刑され、多くの民衆が犠牲となった。
一七九三年憲法自体は、このような革命裁判所の存在について何ら規定していないが、革命の非常事態のなかで
の革命裁判所の超法規的存続を容認していたとするよりは、むしろ、一七九三年憲法の施行の可能性自体が現実の
へ
ものとされていなかったこと、いいかえれば、従来から指摘されてきたように、 一七九三年憲法の制定自体が、民
衆を郷導し革命精神を高揚させるための﹁心裡留保﹂的なものであったと解するほうが妥当であるように思わせる
一例である。
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九
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一
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三
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︵1︶ 本書では、︾留⑩ぎ巨mo買旨巴叶6を第一次集会と訳出しているが、従来は﹁初級選挙会﹂や﹁第一次選挙会﹂などと
訳されることが多かったく野村敬造﹁フランス憲法②﹂金沢大学法文学部論集二六号六〇頁以下、長谷川正安・前掲書
一九二頁など︶。しかし、その機能は選挙だけに限られず、法律の議決などを行うところに意義があるといえる。
︵2︶ ジロンド憲法草案の選挙制度については、第三章第一節二︹11︺2︵一八〇頁以下︶を参照されたい。
︵3︶ サン目キュロットたちの政治活動の基盤については、後に検討する。㍍゜ωOOO己“卜象目嵩よ父せく湧苫式ぱ㌻嵩㌫Φ鷲“
O戸Oo。戸象゜力゜に詳しい。
︵4︶ ﹁選挙権権利説﹂と﹁選挙権公務説﹂については、前掲拙著﹃﹁権利﹂としての選挙権﹄所収の拙稿﹁フランスにお
ける選挙権論の展開﹂︵法律時報五二巻四ー六号︶のほか、︾°国ω∋⑦S“§.☆、こOPω胡象㊤⋮出゜Oぼ議阜Φ譲巴O隅騨愚゜
ミ゜∨⇔°Nも戸合戸象間なども参照。
書二二一頁以 下 参 照 。
第二章第一節二︵=一頁以下︶、﹄°、こゲむ。:庁OOも穎9。。o;°
第二章第一節二︵=○頁以下︶、﹄°、°三c但トOOも窄ホ一〇け。。.
︽イ瓜O﹃Oロ色已ヨ
︵§︶ ∼七九五年憲法については、前掲拙稿﹁ブルジョア革命と憲法﹂杉原編﹃市民憲法史﹄五二頁以下、長谷川・前掲
︵§︶
︵8︶
︵7︶ 第二章第∼節二三二∼頁以下︶、﹄頬㌔スビ靭∩ぴ怜宮yぱO魯p
︵§︶
本章第二節一︵ 二二頁︶参照。﹄°、こピ㌘C総も^田。。°
第二章第一節二︵=三頁以下︶、﹄◆㌔こゲ靭ひ毯も恒望No[む。‘
︵10︶
第二章第一節二︵一=二頁以下︶、﹄°、こ一三こ︹O◎る傷望吟o募゜
同旨、杉原・前掲書﹃国民主権の研究﹄二七七頁。
︵11︶
︵12︶
﹂㍉ζ、080巳ρ為■さ∨ミ§§ミ﹀∼§法ミSおま.Pωq⊇‘
︵14︶ ≧ミ・も・ω㊤⋮把ひo言∋げ巳・↑⇔Oo嵩ミミざボ合﹂NQ軸災合匙“§oひミミo句ミ留♪一q⊃O鯉℃°㊤Oなどでも、
︵13︶
拾n巳拾廷へ①榊O芭品90]誘、、と解されている。
︵15︶ い゜Ocσq已登ぎミ合へさ迂へ§句ミミざミミw⇔]Hも゜ΦNO°
︵16︶ ○°ロξ亀Φ①∼ぎ隷合句鼠§合>oミ尽§w戸く、一q∋吉も﹄Oρこれらの学説につき、序章第二節二︵一七頁︶を参照さ
︵17︶ ﹂㌦呂゜O⑦コρ=買§°☆、こO°ω㊤゜
れたい。
︵18︶ 閃・ロ㏄江巳P.ドO巳m宮o#oω烏一①Oo昌ω法已江oコムΦ嵩q⊃ω、、“㌔§ぺo合合㌔“§ミ篭oボ㌔ボ魯法恥二゜O°。、一〇巳“PNωω.また、
︵19︶ 法定要件の成立の困難性については、﹄°Oo合合o︹卜Dへ嵩ミミ、ざ§合合、目ボ亀8§合㌔へ§∼ミへ§○こ国§ミw
国民公会審議中の修正の重大性についても、口Oo一〇∋げo一、§.ミ゜も.㊤9009︵ご参照。
︵20︶ 前項で立法手続きについてみたように、仮に、全国に八六県、各県におよそ五〇の第一次集会が存在したとする数
一㊤O。。、PNロゲやN。。9
値を基準とするなら、全国で約二二〇以上の集会の要求があった場合に四三〇〇︵ooΦ×切Ou︽ωOO︶に及ぶ全集会が開催
︵21︶杉原﹃国民主権の研究﹄二七八頁、呂゜Ooω訂邑﹁Φω“§°ミス[﹂、一〇ω古⑰N。。O°なお、プリディエフは、一七九三年
されることになる。甲ロ9邑PoP合゜も゜Nωω参照。
憲法の制定について、レフェレンダムを要求した一七九二年九月二一日のデクレの趣旨からして、憲法改正についての
︵22︶ ﹂°−呂゜Oo日巳P§°ミこOSO.
第一次集会での最終的な議決権を認めている。呂゜ウユ合瓜ひ§°ミこPN。。一参照。
︵23︶ 序章第二節二︵一四頁以下︶を参照されたい。
﹂§“臣αωo△o合o貫一q⊃OO旧呂゜ウユ巳o苦oPo一︷こ一㊤ω一⋮ブ゜○巴ざ§°ミこ日α胡o△Φ舎oぞ一q⊃ωNなど参照。
︵24︶:序章第二節二︵一七頁以下︶、国右Oo言∋亘o一“§°ミ∴9°Oo。一〇。・“卜㌻盲ミ§﹃蕊法eミ合ボ防合9§ミミへ§合
へ ︵25︶ζ・出・田宮Pさき愚霧§Nミ§S合⇔ミご§句ミミ§§言8べもや曽・。。⇔乙・∴呂’勺邑。ごき句ミミへ§ζ゜ミS§切
ミへさざ8嵩ミミざミミニOべNもやOおo冨こO⑰ωω切oけω゜
︵26︶戸ひe巨9でb§災ミへo災盲ミ§§§∀ミぶs§一・⊃べNもPOO⑦⇔ω゜もo°一㎝Φ窪㌘ζ﹄Φ右・訂昆﹁。P§°ミ゜二一、
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ミへ貯合合、目ミ♪︷.﹂、一㊤宗もO﹂⑦ω2ω゜など参照。
︵27︶ ○°<a①だミ§sミミざs§ミミ合⇔さ巳へ§切ミミざミミニ廷Φも﹂ωNもO﹂ω02。。°も]q⊃口∴ρロ已a8已、ぎ隷合
ミ∼二㊤ミ∨OやOOoけω゜
句竃§亀盲ミペ§ふ。9二けく一しOΣも℃﹂。。oけω∴︷°<二㊤﹃OもやNOOo㌃゜⋮]°↑忠oヨ宮Pミ§§∼合へ§烏へ§切ミミへ§ー
︵28︶ Ω゜冨巳o﹁oρき切ミミ§w切言ミ§§ミ亀さ心ひ§切ミミへ§§∼ふ。巴こ一q⊃§OP芯Φ⇔ω∴ヒd◆ひ言巳oぴ8Tbさ心
]≦°−工゜間書8“e°☆、二U⑰N一㊤o⇔°。°
﹂°○註餌a、き㊤ミミ︵§砺言ミ§§ミ亀さ苦へ§切ミミざミミふ。巴こ庁一しq⊃おも℃]Oべ①[ω゜
へ§句ミミざボ§∼災留[§亀盲ミ尽§二q⊃べ。。、P“⊃90P一べΦo⇔p
︵30︶
︵29︶
男゜Oe一冨昌︹§°ミニ廿廿゜口Oo︷°力∴S↑忠o隅一曾P§°ミこOP㊤O卑p
プ もっとも、一七九三年憲法と同様に、例えば、﹁半直接制﹂の憲法とされる第四共和制憲法や第五共和制憲法を﹁人
︵31︶
︵32︶
プル
民主権
﹂ の憲法と解することには、その主権規定︵第三条︶の文言や沿革、第=条のレフェレンダムの諮問的性格、
ナシオン プロプル
立法権
に 照 ら し て 、躊躇がある。今後の課題を留保しつつ、当面は、これを﹁国民主権﹂から﹁人民
の
立
法
府
へ
の
専
属 プ プル
主権﹂
渡 的 段 階 と し て 捉 え る こ と で一
、応、﹁半代表制﹂とは区別された﹁半直接制﹂‖
へ
の
傾
斜
の
過
程
、
な
い
し
は
展
開
の
過 ﹁人民 主 権 ﹂ の憲法として理解しておく。第五共和制憲法の主権規定については、さしあたり、拙稿﹁フランス憲法・解
説﹂ 樋 口 ・ 吉 田 編﹃解説・世界憲法集﹄︵一九八八年︶二=二ー二一四頁を参照されたい。
︵33︶ 戸O③巳8口︹肉ヘミ句e§、ざミoざ§亘一㊤゜。心⑰NやΦ゜
本章第二節一︵二=頁︶のエロー・ド・セシェルの演説、および第二章第一節二︵一一二頁以下︶、﹄°、こ一゜9、
︵34︶
ひOO、OPN切o。−N8“OCΦ⇔ω゜
桑原編・前掲書一二八頁、とりわけ一三五頁の図表が興味深い。
︵35︶ 一七九一年憲法、ジロンド憲法草案、一七九三年憲法の間の権力分立原理についての比較は、樋口謹一﹁権力機構﹂
︵36︶ 命令的委任関係の構想や国民大陪審制度の不採用については、第二章第一節二︵一一四頁以下︶で詳しくみたので
︵37︶ フランス革命期の地方行政制度、並びに、県や市町村議会の性格、革命初期の自治体改革等については、ρいo℃o一暮P
ここでは省略するが、一七九三年憲法の主権原理の限界を知るのにきわめて重要な論点である。
窪×。ミ§ヘミ句ミミ§嵩註⇔ミこミ琴書ミ9§§。切誉黄﹂§−﹂℃窒§三SO。ユ8庁゜TSミも⑰㊤冨け㊤
︵38︶ ト○昆Φ合9e°ミ゜も゜N°。ω゜
井上すゾ﹃ジャコバン独裁の政治構造﹄一〇五頁以下参照。
︵39︶ ジロンド派のフェデラリスムについては、第三章第一節一︵一五六頁以下︶、などで触れたが、﹄O冨已ヨ⋮ρ.巴oω
σq一﹃。口合口ω、、もP☆9P S↓巳胃皇o͡①一こ9ミさミヘミざ§ミさ合合㌔轡ミミへ§誉ぶ息切♪お。。Sや。。嵩その他を参
︵40︶ この問題については、別稿で検討する予定であるが、さしあたり、大津浩﹁フランス地方分権制と単一国家ー歴
照。
史的背景とミッテラン改革﹂宮島・梶田編﹃現代ヨーロッパの地域と国家﹄︵一九八八年︶四四頁以下が参考になる。
︵41︶ フランス革命期の司法制度、および司法権力の問題については、ρ↑oOo︷暮P§ミ゜もやω切q⊃9㊤こ゜Oo△o合o戸
§°ミ゜も∨一⇔ q ⊃ o [ 切 ゜ な ど 参 照 。
︵42︶ SO。△。∩9で§ミ゜もPω誤臼㊤参照。革命裁判所をめぐるジャコバン派と民衆の対抗については、後に検討す
る。
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2
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憲
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三
九
七
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章
三
第三節 ロベスピエール目ジャコバン派の憲法原理
ロベスピエール目ジャコバン派の憲法思想
一七八九年の大革命勃発からテルミドールの反動に至るフランス革命の前半期に、議会内外で急進的イデオロー
グとして活躍し、ジャコバン独裁を主導した中心人物がロベスピエールである。彼の人権宣言草案は、一七九三年
四月二一日にジャコバン・クラブで採択されて四月二四日に国民公会に提出され、また、憲法草案の一部も五月一
〇日に提出された。これらは、一七九三年憲法の制定過程にあった当時のジャコバン派︵ロベスピエール派︶の憲法
原理を代表するものとして、ジロンド派やモンターニュ主流派、さらにはアンラジェら民衆の憲法原理との比較検
バン独裁の時期になると、公安委員会内にあって革命政府の最高指導者の位置を占めた。
会は、当初は、主としてジャコバン・クラブ内で﹁反ジロンド派﹂の闘争を主導し、一七九三年六月以降、ジャコ
一〇日の共和主義革命の際は、蜂起コミューンのメンバーとして活動し、セクションの運動をも指導した。国民公
べ
を要求し、一七九二年七月二九日には、国王の廃位と普通選挙による国民公会の招集を要求した。一七九二年八月
〇月には、国王の拒否権や制限選挙制に反対した。一七九一年六月の国王のヴァレンヌ逃亡ののちに、国王の廃位
このような基盤に立って革命に没頭したロベスピエールは、議会で、一七八九年七月の民衆の蜂起を擁護し、一
と改称されて翌年四月まで続き、彼はこれを議会外での論争の場として活用した。
︵]
u①一︶○︹⑦コo◎mζ︹△Φ一①︵UOコω吟一ひζ[﹂OO︶を発行した。﹃憲法の擁護者﹄は、のち﹃選挙民への手紙﹄︵い。琴霧劫。霧8日§①け9ロ芭
は、その演説は一〇〇回に及んだ。彼は、三部会初期の頃から﹁ブルトン・クラブ﹂のメンバーとなり、のちの﹁憲
︵2︶
法友の会﹂目ジャコバン・クラブで活躍するとともに、一七九二年五月から八月まで、週刊の新聞﹃憲法の擁護者﹄
の清らかさ、愛国的情熱﹂が注目されて議会の重要人物となり、憲法制定国民議会では議長をつとめ、立法議会で
のなかにあったと伝えられる。非常な熱意をもって議会に精勤した彼は、たちまち、その﹁非凡な雄弁﹂と﹁意思
ロベスピエールの性格は、質実、厳格で繊細な感受性と誇り高い自尊心に満ち、その生活は、すべて慎みと簡素
トワ州代表の八名のうち第五位で当選した。 七八九年四月三六日、彼三〇歳の時であった。
ることが必要とされていた。ロベスピエールは、このうち、同業組合に属さない住民によって選ばれ、結局、アル
階の間接選挙であり、同業組合もしくはそれに属さない住民による選挙の上に、さらに∩裁判管区しの選挙会を経
場に身を投じる機会が到来した。当時、パリ以外の都市では、三部会第三身分の代議員選挙は三段階あるいは四段
活も安定し、﹁司教区裁判所判事﹂の職にもついて名声が高まっていた一七八九年の春、三部会布告によって政治の
ルイ・ル・グラン学院で法律学を専攻、一七八一年には二三歳で弁護士の資格を得た。そして、しだいに弁護士生
のアラスに生まれた。祖父、父ともに弁護士の富裕な家柄に生まれながら、父の失踪以後孤独な逆境で育った彼は、
マクシミリアン・ロベスピエール︵ζ①×︹∋⋮ぎコ閑◎亘oω豆隅霧︶は、一七五八年五月六日、フランス北部アルトワ州
︵1︶
ー ロベスピエールの憲法思想
まず、その憲法原理が確立される以前のロベスピエールとジャコバン派の憲法思想についてみておくことにする。
討にとって重要な意味をもつ。以下では、ロベスピエールHジャコバン派の憲法原理を明らかにするにあたって、
5
27
ロベスピエールの憲法思想は、議会での発言その他のなかにかなり明瞭に示されているが、これを構成する社会
娚思想 と 政 治 思 想 は 次 の よ う な も の で あ ・ た ・
D ロベスピエールの社会思想
ロベスピエールの社会思想が明確な形をとり始めたのは、一七九二年春のことである。彼は、ルソーから多大な
影響を受け、晩年のルソーに直接会ったとされる神学校時代からルソーに熱中し、ルソーを尊敬していた。彼はみ
︵3︶
ずから﹁ルソーの著作からよみとった理想に常に忠実でありたい﹂という意志を表明していた。事実、一七九三年
のジャコバン主義は、ルソー主義と深く結びついており、その代表者がロベスピエールであった。ソブールによれ
︵4︶
ば、この二つの主義は、ともに平等と所有の問題という重要課題を持ち続け、根底的矛盾のなかにあったと指摘さ
れる。
ルソーは、﹃社会契約論﹄のなかで﹁自由とは確かな平等がなければ存在しえないものである。富の不平等は、政
治的権利を空しい外観だけのものにおい込むことができる﹂と述べる一方、平等については、﹁この言葉を、権力と
富の程度の絶対的同一と理解してはならない。⋮⋮富については、いかなる市民も、それで他の市民を買えるほど
豊かではなく、また、いかなる人も身売りをよぎなくされるほど貧しくはないということを、意味するものと理解
せねばなら麓﹂とし二すべての人がいくらかのものをもち・しかも誰もがもちすぎ麓﹂ような独立生産者の社
会を理想とした。それは、各人が畑や店をもち、賃金労働者にならずとも家族をやしなえる社会、当時の一八世紀
後半のフランス農村と職人・小売商人の社会に対応する社会であった。
一方、ロベスピエールも、ルソーの描いた小生産者社会の理想に従って、所有権を制限し、生存権の保障を重視
する﹁小市民的な平等主義﹂を標榜した。そしてそれは、とくに、次の三つの史料のなかに認められる。
理
これに対して、ロベスピエールは、同じ第四号に掲載した論文﹁われわれの現状の”倫理的な”諸原因について﹂
︵8︶
のなかで、この請願書と同様の口調で現状をきびしく批判した。﹁人民の食糧をもとにして肥える不忠実な行政官、
る権利を金持にしか認めないことである。﹂と述べて、”権利の平等”が存在しない現実を鋭く指摘していた。
た。⋮⋮貧しい労働者や日雇農民が手の届かない価格に食糧が値上がりするのを許すことは、すなわち⋮⋮、食す
けて人民を怒らせた。⋮⋮彼は、穀物取引の自由にいかなる障害を与えることをも禁じた法律をはっきりと擁護し
られてのことであった。⋮⋮市長は、食糧についての人民の不安を鎮めようと努力するかわりに、一切の抗議を退
た。⋮⋮あのいたましい結末となった運動がおこったのは、このような状況のなかで、このような動機にかきたて
た。⋮⋮エタンプでは、すでに小麦が三二ー三三ジーブルで売られており、すぐに四〇リーブルになろうとしてい
がこの地方の全域に広がっていた。大量の小麦が国外へ持ち出されたという⋮⋮噂が⋮⋮ますますそれを大きくし
真相を訴え、土地所有の現状に疑問を呈示しようとしたものである。この請願書は、﹁食糧についての全般的な不安
食糧暴動︵いわゆるエタンプ一揆︶について、当時の立法議会が強硬措置をとることを決定したのに対して、事件の
よる、議会への請願書を掲載した。これは、パリ南方エタンプの市長シモノー︵むり一目POコO口已︶が殺害されるに至った
一七九二年六月四日発行の﹃憲法の擁護者﹄第四号は、モーシャンの司祭ドリヴィエ︵勺﹂280。一置口﹁︶の起草に
︵7︶
ω ﹁ドリヴィエの請願書﹂への同調
原
結
りぬ
賃労働者の増加の原因を追求し、のちに﹁土地均分法﹂に到達するドリヴィエの所有権論は、遅塚教授によって詳
た。少なくともこの意味では、ロベスピエールはドリヴィエを支持するためにその請願書を掲載したようにみえる。
時のフゥイヤンUジロンド体制や上層市民に対して、人民の経済的不平等を告発する立場に立つことを明らかにし
阻 公の財産を食る浪費家大臣⋮:∴国民を裏切る受任者⋮⋮あなた方こそ、盗賊と呼ばれるべきである﹂と。彼は、当
九
七
一
ヨ
章
三
第
細に検討されているように、国民によって個人の私的所有権が全面的に規制されるとする点でロベスピエールの所
囎 ︵9︶
2
有原理とは異なっていた。しかし、両者とも、この段階では、人民の経済的不平等の責任を為政者の悪政に帰せし
ω
2
理
勺氾
︵10︶
め、所有権の社会的な制限を求めた点では一致していた。ドリヴィエの請願が﹁社会問題への開眼の契機﹂になっ
て社会的不平等の原因についての考察を深めたこの時期こそ、ロベスピエールの社会思想の成長期ということがで
きる。
︵11︶
ω 一七九二年一二月二日の演説
ロベスピエールの一二月二日の国民公会での演説は、ロワール県の食糧暴動の直後に、これを弁護する意味で行
われた。そして、このなかで初めて、彼の商業の自由と所有権、生存権に関する理念が明確な形をとって示された。
まず、彼は、次のように述べて﹁所有権を生存権に従属させる思想﹂を明らかにした。﹁何が社会の第一目的か。
それは、時効によって消滅することのない人間の諸権利を維持することである。それらの諸権利のうち第一のもの
は何か。それは、生存の権利である。したがって、社会の第一の法は、社会の全構成員に生存手段を保障する法で
あり、その他の法は、すべてこの法に従属する。所有が制度化され保障されるのは、ただそれを強固にするためで
あるにすぎない。人が財産をもつのは、まず、生きるためである。所有権が人々の生存と対立するものになりうる
というのは正しくない。人間にとって必要な食糧は、生命自体と同じく、神聖なものである。生命を保全するため
に不可欠なものはすべて、社会全体の共通の財産である。その超過部分だけが、個人的財産として、あるいは、商
人たちの稼業に委ねられたものであるにすぎない。同胞の生命を犠牲にして行う商業投機は、すべて、決して取引
︵12︶
ではなく、掠奪であり、同胞殺しである﹂と。
このように、ロベスピエールにとっては、すべての財物のなかで人民の生存に供せられるものが第一であり、こ
れを保障するために所有権が法的に設定されるにすぎないとされた。このため、所有権は生存に先行しえない。人
民の食糧を侵し生存を犠牲にする商業上の買い占め・投機など商業の自由の濫用は、所有権の範囲を超えたもので
あって許されない。こうして、商業の自由が生存について濫用となるに至った時点から、その制限が必要と考えら
れ、﹁超過部分だけが取引の自由に委ねられる﹂という原則が導かれた。
この点について、彼は﹁私は、憲法制定議会で穀物取引に関する立法がなされたのをみたが、それは、過ぎ去っ
た時代の法であり、今日まで何も変わらなかった。というのは、その基礎にある利益と偏見が何も変わらなかった
︵13︶
からである﹂と述べて、穀物取引法を悪法の根源として解していた。彼にとっては、過去の誤りの根源は、生存に
必要な消費財を他の商品と区別しなかったことであり、同時に、所有者や商人の利益を優先して人民の生存を無視
してきたことであった。
彼は、生存と所有に係わる悪の源を、過去における富裕な階級による政治のなかに見出した。そして、このよう
な自由の濫用さえなければ、商業の自由はむしろ必要であるとする考えから脱することができなかった。彼は演説
の冒頭で、﹁私が弁護しようとするのは、貧しい市民だけでなぐ所有者や商人でもある﹂、﹂とを明らか垣・﹁私
︵15︶
は︹濫用を抑える手段自体が︺商業の利益も、所有権も傷つけないようにすることを主張する﹂と述べた。さらに、
﹁立法者がなしうる最大の奉仕は、彼ら︹商人︺を善良な人間にならせることであり⋮⋮また、最も平穏な所有は、
︵16︶
貧しい多数の家族の生存を何ら侵害しない﹂として、秩序的で平穏な所有を理想とした。彼は、しだいに、徳や正
ョワ寡頭体制を攻撃するための政治的課題として食糧や所有の問題を論じながら、エベール派のように﹁土地均分
徹 義という言葉で問題を解消しようとし、所有や生存のあり方をさらに掘りさげることはしなかった。従来のブルジ
原
の
年
已
章
三
一
パリの食糧品店襲撃事件をめぐってジャコバン・クラブでなされた一七九三年二月二五日の演説には、彼の政治
圃 一七九三年二月二五日の演説
の要求を表明していたアンラジェと対比して、興味深い。
︵18︶
が、・の演説のなかで、唯一、﹁独占に対する警戒﹂を表明した法令を要求したこ髭・すでに﹁独占者への死刑﹂
廿 法﹂の方向に展開すること、もなく、また、現状に対処すべき具体的方策も明確にしてはいなかった。ちなみに、彼
第
α
2
理
的傾向が、一層明瞭に示されていた。
このことは、﹁①国民が、何ものかであるような自由な国家はすべて、共和国である。②国民は、君主とともにあっ
︵25︶
ても自由でありうる。③共和制と君主制は相反するものではない﹂という言葉に要約される。一七九一年六月の国
を特徴づけるものではない曖昧で無意味な用語﹂にすぎなかった。この時期の彼の理想は立憲君主制の維持であり、
なかの職務の世襲さえも、恐れてはいない﹂と。事実、彼にとっては、﹁共和制・君主制という言葉は、政府の性質
自由なほとんどすべての愛国者を鼓吹してきたということを少しも恐れなかった。⋮⋮私は、王の権威も、王室の
続く一七九一年七月、﹃フランス人への呼びかけ﹄のなかで、彼は次のように述べた。﹁私は、王の資格が、最も
︵24︶
するために必要である﹂として、国王の存在を擁護した。
民の受任者にすぎなくても、王の存在は、何ら矛盾したものではないーむしろ、政府組織の機能を円滑なものに
八日には、﹁王の尊厳は、国民の尊厳とは別物である﹂と演説した。彼は、﹁たとえ、フランス国王ルイ一六世が人
覆することは、当時の彼には不要であった。三部会召集の時も、彼は、国の救済を君主に求め、一七九〇年五月一
穏当な法律革命を志向していたことを窺わせていた。アンシャン・レジームの矛盾の打破に、国家の全体構造を転
︵23︶
ない。最も簡素で、容易、かつ、おそらく最も確実な手段がわれわれに与えられているようにみえる﹂と述べて、
的な革命によって、われわれの立法の体系を全面的に変革し、特殊な害悪からそれを救済することを求める必要は
治思想の持ち主であったわけではない。彼は、革命前夜の一七八八年には、﹁われわれは、しばしば危険を伴う全体
② ロベスピエールの政治思想
︵22︶
﹁ロベスピエールを革命家にしたのは、革命である﹂と指摘されるように、ロベスピエールは最初から急進的な政
中心とする彼の社会思想が体系化され、他の議会派に比して卓抜した内容が示されていた。
数カ月後に提示されたロベスピエールの人権宣言案のなかでは、一二月二日の演説を発展させて生存権と所有権を
つも、他の一面では反革命視することによって、問題をしだいに政治的色彩のなかに解消していった。ところが、
わしい目標をもつべきではないか。つまらぬ商品に関わるべきではないのではないか。⋮⋮人民は、砂糖をかき集
︵20︶
めるためにではなく、悪党を打倒するために起ちあがるべきである﹂と。
︵21︶
以上のように﹁社会・経済問題をすべて政治的次元で捉える彼特有の論理のために﹂、民衆を一面では正当視しつ
は、次のように述べて、人民への不信、軽蔑の念を露見させた。﹁人民が起ちあがるとき、人民は、みずからにふさ
民が有罪であるとも、人民の運動が法の侵害だともいわない﹂として人民の暴動を支持する発言をしつつ、他方で
動者すなわち﹁サン日キュロットの服を着た金持ち﹂がいたことを指摘して問題を政治化した。加えて、﹁私は、人
が存在しないところでは、固有の必要をみずからで満たす権利をもつ﹂として、民衆の自力救済的な手段を正当化
︵19︶
した。しかし次には、暴動の第二の原因として﹁自由の敵・人民の敵の邪悪な企て﹂をあげ、民衆のなかに敵の煽
の第一の原因として﹁みずからの悲惨を軽減する手段を求める自然で正当な意向﹂を掲げ、﹁人民は、保護する法律
れた自由を与える﹂というみずからの責務を示したうえで、為政者的立場から、人民の暴動を考察した。そしてそ
能 彼は、﹃選挙民への手紙﹄の第六号のなかで﹁人民に単にパンを与えるだけでなく、人為の法律によって強固にさ
2
原
冠絃 王ヴァレンヌ逃亡事件の後も、議会では、ジロンド派のバルナーヴが中心となって国王の不可侵が決定され、九月
︵26︶
=二日、立憲君主制に基づく一七九一年憲法がルイ一六世によって裁可された。ロベスピエールも当初、﹁現行のフ
の
年
已
一
章
三
ところが、遂に、ロベスピエールに決定的な政治的転換がやってきた。ヴァレンヌ逃亡事件の後、国民の間に国
と考えられる。
︵28︶
う 認識
迎 し 、 ﹃憲法の擁護者﹄のなかで憲法への忠実を示し続けた。この時期の彼にとっては、政
に
立
っ
て
憲
法
を
歓 体の名称にかかわらず、専制支配あるいは内外の陰謀と野望から、憲法ひいては革命を守ることが先決問題だった
ランス憲法は、君主を擁した共和制である。したがってそれは君主制でも共和制でもなく、いずれかである﹂とい
匂 、 ︵27︶
第
臼
2
砲九二年七月の終盤・八旦○日の蜂起のわずか二週間前のことで艶・彼は・ジャコバン゜クラブで・王位の廃位・
王の存在についての疑念が生じはじめていたが、ロベスピエールが王位廃止を公然と表明するに至ったのは、一七
国民公会の招集、民衆の武装蜂起などを呼びかけるとともに、みずから蜂起コミューンに加わり、﹃憲法の擁護者﹄
を放棄して急進的デモクラットとして共和主義を推進した。彼にとっても、八月一〇日の蜂起は、君主制と政治的
︵30︶
不平等という二つの悪を排除した重大な意義をもつものであった。さて、﹁政治的平等の担い手﹂としてのロベスピ
エールは、一九八九年以来一貫して議会で制限選挙制を批判してきたが、一七八九年一〇月二二日に早くも次のよ
うな意見を表明していた。
﹁すべての市民は、いかなる者であれ、あらゆる段階で代表になることを主張する権利をもつ。あなた方の権利
宣言の前では、すべての特権、差別、例外は消滅しなければならないのに、その宣言に一致するものはもはや何
もない。憲法は、主権が人民に、人民を構成するすべての個人にあることを確定している。したがって、各個人
は、みずからがそれに拘束される法律︹の制定︺に参加し、自分のことにほかならない公共の事柄の管理に参加す
る権利をもつ。そうでなければ、すべての人が権利において平等であり、人はみな市民であるということは真実
ではない。もし、一日の労働にみあう税しか払えぬ人が、三日分の労働にみあう額を支払う人よりも権利が少な
く、また、一〇日分の労働にみあう額を支払う人が、三日分の税しか払えぬ人より権利が多いとしたら、一〇万
リーブルかせぐ人は、一〇〇〇リーブルの収入しかない人の一〇〇倍の権利をもつことになる。あなた方のすべ
ての法令からすれば、各市民が法律︹の制定︺に参加する権利をもち、さらにそこから、財産による差別なく、選
︵31︶
挙人もしくは被選挙人になる権利をもつことが結論される﹂と。
当時の選挙制度では、選挙人会を構成する選挙人になるためには、一〇日分の労賃に等しいだけの直接税を収め
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以上の内容は、間接選挙制をやむをえず採用しつつ、その不備を補うための諸手段を提示したものである。とく
任が得られないときは、その多数によって排斥される。﹂
、
④選挙人によって選出された議員は、セクションもしくは第一次集会で再検討と審査に付され、もし人民の信
場所に集合する。
③前項の配慮を実効的なものにするため、選挙人は、ジャコバンの議場、もしくは、大衆を収容しうる最適の
②この方法の不備をできるだけ避けるため、選挙人は大声で、公衆の面前で採決することが定められる。
られる。
接任命されなければならない。ただし、状況の必要から、選挙人会を介して国民公会の議員を指名する方法が採
①次の一般原則が確立される。すべての人民の受任者は、人民によって、すなわち、第一次集会によって、直
七日決議
﹁プラス・ヴァンドームの武装市民たちのセクション総会−自由の第四年、平等の第一年、一七九二年八月二
ンドーム︵勺一①OOl<O昌OO∋O︶・セクションで、選挙制度の改革を国民公会に請願するための任に当たった。同セクシ
︵35︶
ヨンとコミューン総評議会で採択された﹁国民公会の選挙形態に関する決議﹂の内容は次のとおりであった。
政治的諸要求に接近したロベスピエールは、みずからがコミューン総評議会への代表者となっていたプラス・ヴァ
︵34︶
別撤廃と普通選挙の実現に至るまで続けられた。八月一〇日以後、コミューン総評議会に参加することで、民衆の
このように、ロベスピエールの批判は、一七九二年八月一〇日革命による能動的市民・非能動︵受動︶的市民の区
二五日、一七九一年五月二五日、一七九一年八月一一日に続けて登壇し、銀一マールの制度にとりわけ厳しい批判
︵33︶
を加えた。こうして、しだいに改善への道を開き、一七九一年九月には、銀一マール制度は廃止された。
有することという厳しい制限が付されていた。このため、ロベスピエールは、先の演説に続いて、一七九〇年一月
︵32︶
なければならず、また、被選挙権についても、銀一マールの価値に等しい直接税を収めてなお、一定の不動産を所
章
第
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2
理
原
︵12︶ きミ こ O ] ﹂ N °
︵11︶ ]≦°カoぴΦむ力豆oqρ、.o力已﹃庁゜。ω已庁ω⋮ω[①90ω.、、θ§さ切合㌔忘o℃合∨さ“ひ︼ד戸﹂Oq⊃卑ω゜
︵10︶ 遅塚・前掲書二一八頁。
の所有権論の比較については、遅塚・前掲書二二六頁が詳細な検討をしており、参考になる。
︵9︶ ドリヴィエの所有権論については、S冒已品ω、§°ミこ[°。。“ピ㊤N﹄も゜N旨ふ品参照。ドリヴィエとロベスピエールと
︵8︶ ζ゜カoげoω℃冨qP、.○げωo自①江ooωω已二〇ω△①已ωo切日o﹁巴oω△Φ昌o☆o°力=已①江oコ①n后o=o、、“きミこ⇔]︿“Uや一=o⇔9
を用いている。両者の差異については、遅塚・前掲書二一四頁以下、三四七ー三四八頁参照。
O勲①コωΦ烏△①冨Ooコ。・9已江o豆Z。︽﹀に掲載したものは、削除等があって原文と同じではないため、ここでは、︾°勺゜版
に、その原文訳が一三二頁以下に掲載されているので参照されたい。なお、ロベスピエールが﹃憲法の擁護者﹄︿いo
記す︶。これについては、遅塚忠躬﹃ロベスピエールとドリヴィエ﹄︵一九八六年︶が、詳しい検討を行っている。とく
参照。θ§さ句ミ§§ミ§㌔合o魯芯∨さwmOも曽○∋[瓜o亘く89巴.、[]<も﹂N。。−一ω切︵以下、θ§さ吻合㌔oせ魯ヘミさと
OPOωOよω。。旧㊥こ゜ロ゜ロg庁oN9勺゜ρカo已ד騨S忘さもミ貯ミ§eへさ§合㌔へeミミざボ言ぶ⇔冴♪什゜忘し゜。ω古OPSO占べO
ウ①<︷曾o酌ロ﹁o已≡oでo力巴コ[−尾oPO庁①已昧9≒o吟切﹁o=ד<巳乙力日oψ力△、国⇔①日OΦω、劫一.>oりωo∋げ宗o昌①江oコ巴Φ、、﹄°㌔二.◎。こ戸︽心
︵7︶ ドリヴィエの請願書の原文は、.。勺m⇔宣oロOmO已胃①艮on一けoぺoコω△oω8∋日§oω△Φζ①已nゴ①∋Po力巴コ〒o力巳豆ooα
︵6︶ ルソー・前掲訳書四一頁。
︵一九五四年︶七七頁による。
︵5︶ きミ゜も﹄品こ゜S男o已。・ω$戸b父へoミミ、8亀ミ、[こ一一、合゜×︻、ルソー︵桑原・前川訳︶﹃社会契約論﹄︵岩波文庫︶
︵4︶﹀°。。。9巳“§§p寒ボ㍗§ミSミ㌔8いざ、﹂㊤09p凶N°
︵3︶ ブゥロワゾー・前掲訳書四〇頁以下。
]≦宮Φ△o。。①日冨△o■Ooコ。。け津旨合昌、、、H冶N、ロ゜之こ[破。品⑩゜。︶。
ャコバンの閉鎖性を非難していることが注目される︵o︹<①ユo戸、.㊥品昌O、§Φコo<o一一〇〇﹁ぬ①邑留江o昌△o一①ωoo一騨甲ーー
のクラブにはほとんど顔を出さず、コンドリエでも一度演説したのみである。この点について、後述するヴァルレがジ
地方支部がジャコバンから離れなかったのは、彼のお蔭であった﹂とブゥロワゾーは指摘する。しかし、反面、彼は他
るほど、彼はジャコバン活動に貢献した。﹁ブイヤン派の分裂に際してジャコバンの危機を救ったのも、彼の力であり⋮⋮
︵2︶ ブゥロワゾー・前掲訳書二九頁。ジャコバン・クラブの存在自体がロベスピエールの功労の記念碑であるといわれ
︵一九六二年︶、同﹃ロベスピエールとフランス革命﹄︵一九八一年︶、など参照。
︵樋口謹一訳﹃フランス革命とロベスピエール﹄一九五五年︶、井上幸治﹃ロベスピエールールソーの血ぬられた手﹄
ω巴ω山〇四一㊤鵠︶︵遅塚訳﹃ロベスピエール﹄ 一九五八年︶、ト呂◆↓巨o∋Uωo豆為&oも芯∨さ§⇔、ぎぎミe㌔§o∼ミへ§
<。=①子b富。§災さ§。s⇔・㌔&§ミぶ声㊤o。。 ρ巨ユ伊き“§ミ泰一〇べ三呂﹄。=三ω8ロ㌔&§ミぶ︵○已Q
︵1︶ ロベスピエールに関する概説書としては、○°司巴9で㌔o曾魯芯∨さ”O。mユニ一〇怠⋮㌔o曾魯合∨さ、<oピN一〇〇ご○°
ができる。
では、これらの諸方策の提示は、彼の人民主権原理が確立されるための重要な過渡的意味をもつものと考えること
それをロベスピエールら議会ブルジョワの戦術によるものと解する向きもあるが、ロベスピエールの政治思想の面
︵36︶
にこのなかの人民による事後審査の制度︵④︶は、選挙人の権限に対する人民の意思の強制を意味するものであり、
砺
2 命令的委任論への接近を示すものといえる。現実の革命過程では、これらの方策が実現寸前に不採用になっており、
法
憲
の
引の自由に関するデクレである。へ↑ミこ戸H×も]﹂古8︷Φ︵Oγ
︵13︶ さミ゜も゜巳一゜ロベスピエールが暗に批判した法令は、一七九一年一二月三一日、および一七九二年一月六日の穀物取
ふ
︵14︶ さミこひHד℃]一P
︵15︶ さミ こ ⇔ ﹂ × “ O ] に ゜
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︵16︶ さミ゜ニニ×>O﹂S°
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2
︵17︶ さミ゜二]דO°巳O°
︵19︶ さミニ⇔]×°やNぶ゜
︵18︶ 呂゜問o亘Φω豆①コP.、o力已二〇ωq8巨oωOΦωωロひ゜・芭g8む・、、、合ミニ吟゜︻×もO°Nご9ω゜
︵21︶
柴田・前 掲 書 五 〇 頁 。
︵20︶ きミこ⇔﹂×°PN誤右
ρヂ巴9﹃’㌔oせ魯芯き二⑩︽9PミP
︵23︶ さミこO﹂一゜
︵22︶
︵24︶ ≧ミニU°ミ﹂°
井上幸治・前掲書五五ー五八頁
︵25︶ ≧ミこO°ミ戸◆
︵26︶
ブゥロワゾー・前掲訳書六三頁。
ρ司巴甘 ﹁ w § ° ☆ 、 こ P ミ N
︵27︶
︵28︶
○°≦−巴95§°☆、こPミω゜
︵29︶ 呂﹄昆p、、冨8言Ω已。亀。閃。●。。。豆①q。。目嵩ON、、“﹄§§切嵩、§§跨合合㌔へ§∼ミへ§さミ嵩♪一゜⊃切Φも]N°
︵30︶
一七八九年一二月二二日のデクレで、三日分の労働にみあう直接税を払う者が能動的市民とされたのち、翌年一月
§﹀さ句合㌔oせ魯ヘミさ’ひく一、O一ω⇔
︵31︶
︵32︶
一五日
の 一 日 分 の 額 は 、工場労働の場合可変的であるとされるなど、この制限には少しずつ修正が加
の
デ
ク
レ
で
は
労
働 ︵33︶ しかし、新しい一七九一年憲法にも制限選挙制は存続され、﹁能動的市民になるためには、少なくとも三労働日の価
えられていった。
値に等しい直接税の支払いを必要とする。選挙人になるためには、これに加えて、人口六〇〇〇人以上の町では二〇〇
労働日分の収入、人口六〇〇〇人以下の町では一五〇労働日分の収入あること⋮⋮等々﹂の条件が設けられていた。
︵34︶ 当時は、普通選挙に続く要求として、選挙人会の介在による間接選挙制を廃止するか、あるいはこの不備を補うた
O轟已詳oこ≦8己oで魯゜らへSこOP。。−ρOo5江9江oコOo嵩㊤一︵自戸目も=]wむ力8﹄”﹀﹁吟べ∵
︵35︶ ﹀器o∋●一mo△o一①む力8江o昌αo一①コ80<9ユO日P.、oo已二〇∋oαo△、m一8菖oo勘一①Oo昌<o暮一〇コロ讐一〇コ巴o、.§e
めに、選出された議員を再度信任に付すことが要求されていた。︾°ωoぴo巳、§°ミ゜も゜NΦO°
㌔忘oも合ミ︹ひ≦一一も込心ωo⇔ω゜ロベスピエール自身﹃選挙民への手紙﹄一〇二号で、その﹁選挙人の任命を人民の批准
︵36︶ 現実に一七九二年九月一二日の選挙人会では、選出議員のリストを第一次集会に送付することが提案されていたに
に付すための﹂草案を提出したのは彼自身であることを述べていた。
もかかわらず、採択されずに閉会された。これに対して、井上すゴ氏は﹁九月五日からの選挙人投票で既にジロンドへ
の優位を確定していたモンタニァールは、もはや民衆に妥協する必要がなく、むしろ、逆に民衆の強化を恐れたために、
も、他のモンタニャール主流派とロベスピエールを区別し、また、ロベスピエールの憲法原理とも区別する立場をとり、
従来の主張をひるがえして、第一次会審査をとりやめたものである﹂という理論を表明されている。本書では、ここで
セクションの宣言にロベスピエールの憲法原理が確立されるための過渡的所産としての評価を与えることが適当と考え
ている。井上すゴ・前掲書一四三ー一四四頁参照。9ρ司巴9で↑爲㌔へ§∼ミごボきぶミ9§o>ミ切湧、o索さ⇔§“一綬。。“
P誌q⊃°
2 ジャコバン派の憲法思想と民衆
へ
イ
ωサン‖ジュストとロベスピエールの憲法草案
一七九三年憲法制定期当時のロベスピエール‖ジャコバン派には、ロベスピエールのほか、国民公会や革命政府
でともに活躍した、サン∬ジュスト、クートン、ル・バなどがいた。彼らは、モンターニュ派左派として、主とし
てジャコバン・クラブを基盤として、一七九三年六月以前には反ジロンド派の活動を担い、ジロンド派追放後は、
ロベスピエールとともに、クートンとサンnジュストが七月一〇日に公安委員会の正委員となり、ル・バも九月に
2勿 保安委員に入って、一〇月一〇日に成立した革命政府の中心的な指導者となった。彼らは、ともに一七九四年七月
のテルミドール反動によって逮捕され、自殺あるいは処刑によって死に至った﹁ロベスピエールの右腕たち﹂であ
く1∨
った。
このなかで、とくに、サン‖ジュストは、一七九三年一〇月一〇日に﹁平和の到来までの革命政府の設立﹂を提
唱し、翌年三月には﹁ヴァントーズ法﹂に関する演説や、ダントン攻撃の演説を行うなど、ロベスピエールに劣ら
ず重要な役割を果たした。サンnジュストの憲法思想は、一七九三年四月二四日演説および憲法草案のなかでかな
り明瞭な形で示されており、ロベスピエールの憲法草案とともに、憲法原理としてその体系を論じるに値するもの
︵2︶
である。このため、その内容の検討は次項に譲り、以下では、これらの憲法草案の概要についてみておくことにし
よう。
まず、ロベスピエールは、国民公会でジロンド草案の審議が始まっていた一七九三隼四月二一日に、人権宣言案
を最初にジャコバン・クラブで公表した。折しも、ジャコバン・クラブ内では、地方の穏健派や連邦主義者の台頭
による危機感が高まっており、ジロンド派を打倒するために、ジ灘ンド草案に対抗すべき憲法案を作成しようとす
る独自の動きが活発になっていた時であった。彼は、﹁われわれのほとんどすべての敵が、自由の共和国の廃雄の上
に権威をうち立てるために結集している。私は、共和主義の憲法的な基礎を呈示することが肝要であり、フランス
人民の権利宣言をまず示さなければならないと考える。⋮⋮自由と平等の友は、中傷を黙らせる。諸国民の普遍的
︵3︶
な法典である憲法の草案のために、議事日程を組むべきである﹂と演説し、早速、みずからの人権宣言草案を朗読
した。これに対して、クラブは即座に決をとり、大喝采のうちに満場一致で採択した。三日後の四月二四日、ロベ
ジャコバン派の憲法草案が出そろった。この段階では、反ジロンド派、反ジロンド草案という政治課題があったに
一〇日の国民公会で、ロベスピエールが・二〇力条からなるみずからの憲法草案の一部を朗読巳・ロベスピエール日
力章︶からなる長大な憲法私案を朗読したが、議事録にみるかぎり、国民公会の反応は皆無であった。その後、五月
. ͡8︶
ざ
さて、サンnジュストは、二編・計二六力章︵立法・行政等に関する第一部一七力章、司法・軍隊等に関する第二部九
とが注目される。
ャコバン主義﹂の主要な要素と考えられてきた中央集権主義が、この演説のなかでかなり明瞭な形をとっていたこ
ジュストは、単一・不可分の評議会が、政府の集中によって共和国の統一を達成することを強調した。従来から﹁ジ
ド派のフェデラリスムが、ルソーの一般意思の不可分性を害し、部分代表の危険をはらむことを指摘しつつ、サン・
草案に関して、その立法者の連邦→地域︶主義的な性格や、執行府の代表的な性格について鋭く批判し旭。ジロン
こうして、強力な憲法の成立を強調したサンnジュストは、立法の性質について観たうえで、コンドルセの憲法
になり、その権利を利用して人民に対抗するのを可能にするだけである。⋮⋮政府がそれを動揺させることのでき
︵6︶
ない、強力で恒久的な憲法以外は、何も、人民を守らないであろう﹂と。
べて決して人民のためにならないのだ。⋮⋮人権を宣言するだけでは、決して十分ではない。それは、暴君が高尚
が不毛で空しい。﹂﹁市民たちよ、権力とその原理の腐敗に抗して、憲法を強力にすることを考えなさい。弱さはす
︵5︶
求するだろう。⋮⋮平和と豊かさ、公共の徳、繁栄、すべてが法律によって実施される。法律がなければ、すべて
事柄については何も教えない。ヨーロッパは、あなた方がフランス人民に憲法を与えた日に、あなた方に平和を要
的な意義について説いた。﹁公法は書物のなかで広く普及しているが、それらは、その適用とわれわれにふさわしい
同じ日、ロベスピエールに続いて登壇したサンnジュストは、みずからの憲法草案を示すとともに、憲法の実践
︵4︶
采はなく、機械的に印刷・配布が決定されたのみであった。
スピエールは、詳細な説明を付してこれを国民公会で朗読したが、この時は、ジャコバン・クラブの時のような喝
理
原
法
憲
の
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三
九
七
一
章
三
第
刀
2
原
η
せよ、彼らの基調演説は、いずれも、憲法制定の政治的意義を強く意識した、実践的なものであった。
したロベスピエールは、九月には、ほぼ﹁左右の両容疑者﹂包囲の体制を確立した。これがテルールの開始であり、
で彼らへの非難を開始した。これに対して、七月の反革命容疑者法をはじめとして﹁反革命派への挑戦﹂にのり出
︵14︶
を増した。過激派グループは憲法や諸政策への攻撃をゆるめず、ロベスピエールは国民公会やジャコバン・クラブ
二四日に成立した憲法を、多数の民衆が歓迎した。しかし、このころから、ロベスピエールと民衆の関係は複雑さ
ロベスピエールは民衆に蜂起を呼びかけた。五月三〇日、民衆はこれに応えて蜂起のトクサン︿警鐘︶を打ち、六月
さらに一七九三年四月・五月の時期は、ジロンド派打倒という目標の前に民衆を結集するための準備期であり、
な時がやってきた。今は祖国の受けた痛手を調べ、これに有効な救済を与える時である。⋮⋮そしてあなた方は、
︵13︶
唯一、あなた方に尊敬を約束する人民を取り巻き、人民に信頼を与えなければならない﹂と国民公会で演説した。
ベスピエールは、翌年三月のデムリエの叛乱に際して、﹁国を救うか、あるいは国を徹底的な崩壊に導くか、決定的
いる。﹂と述べで、即座に民衆蜂起を擁護した。また、反革命の危機に対処するために民衆との共闘を訴え続けた口
︵12︶
新しい裁判官が必要である。われわれは、各セクションの受任者たちによって容疑者が審判されることを望んで
だ。⋮⋮それに対して⋮⋮人民が自由のためになしてきた努力を見るがいい。人民には、彼らにふさわしい政府と
のマスクに隠れ、すべての法律を破壊するために法律を求める者たちー彼らこそ、国民の処罰をのがれているの
彼は、﹁最も疑わしい陰謀者は、八月一〇日には現われず、法律によって彼らを罰することはできない。愛国主義
た。
ロベスピエールにとっては、八月一〇日の民衆蜂起は、民衆の力とその必要を痛感するのに十分すぎる機会であっ
機となったのは、一七九二年の共和主義革命であった。﹁ルソーとの間で人民への共感を共有してきた﹂ともいえる
一七九三年の段階まで、民衆と協調して革命を遂行してきたロベスピエールーージャコバン派にとって、重要な契
② ロベスピエール‖ジャコバン派と民衆
について簡単に触れておくことにしよう。
ジャコバン派と民衆との協調と断絶の関係が深くかかわっていたため、次に憲法原理の検討に入る前に、この問題
行を﹁平和が到来するまで﹂無期限に延期してしまった。このような一七九三年憲法の運命には、ロベスピエール‖
作業が終了した段階では、急速に民衆運動と挟を分かち、一〇月一〇日の革命政府の樹立とともに、この憲法の施
力を結集することを急務としていた。そのために、重要な政治的課題としての憲法制定に協力した。しかし、この
実際に、ロベスピエール‖ジャコバン派は、一七九三年の反革命の危機や戦争の危機をのりこえるために民衆の
スピエールは、あえてこれに対抗しなかった。彼は、まず、モンタニャールにあびせられたアナーキーの非難から、
︵11︶
それを弁護しなければならなかった﹂と指摘している。
ら区別する根深い差異が強調される。社会的デモクラシーの発生が、彼らをたじろがせたのだ。⋮⋮しかし、ロベ
ワゾーは、﹁六月二四日に採択された人権宣言と比較すれば、ロベスピエール派を他のモンターニュ派の同僚たちか
審議のなかでも、極力発言をひかえて迅速な憲法制定のために協力した。このような政治的性格について、ブゥロ
2 現に、六月一〇日に公安委員会から新憲法草案が提出されたとき、ロベスピエールは、みずからの草案の内容が
ほとんど採用されていなかったにもかかわらずモンタ⊥三派の手で共和国に憲法がもたらされることを歓浅・
理
冤法
の
年
であった。まず第一に、パジのセクシ灘ンに対して、集会の常設︵常時開催︶を禁止し、委員会活動に報酬を与えた
この体制は、一部の過激派に終焉をもたらしたのみならず、すべての市民の政治活動に重大な制限を加えるもの
巨
革命政府の樹立であった。
扮 ︵15︶
↓
騨
リエ・クラブのような民衆協会組織を保護する一方で、一七九三年夏以来形成されつつあった薪たな﹁セクション
反面、委員を事実上公務員化することに成功した。第二に、一七九〇年以来発展したジャコバン・クラブやコルド
簗 ︵藝
力
2
協会﹂︵胡OO一m一mωωOn[一〇コ白①⋮﹁⑦o◎︶に攻撃を加えた。これについて、ロベスピエールはブリュメール一九日︵九三年=
︵17︶
2η 月九日︶の演説で次のように述べた。﹁私は、すべての協会が粛清されることをのぞむ。偉大な民衆協会というの
は、暴君と貴族に恐怖をもたらした、革命の当初から長く存在していた”民衆協会”︵切oo︷m品。・8日庄叶①゜。︶のことで
︵18︶
ある。五月三一日以後、無数にふえた新しい協会は不純なものである⋮⋮﹂と。
こうして、ロベスピエールが民衆の政治活動への反目を表明したことについて、ソブールは、﹁革命政府は、人民
の支持は必要だったが、人民の支配は不要であった。ここにおいて、民衆協会とセクション協会の区別が存在し⋮⋮
͡19︶
ロベスピエールは後者と闘いながら、前者を支持しなければならなかった﹂と解説している。
実際、反革命.戦争.経済危機等の諸状況のなかに成立した革命政府のなかで、ロベスピエールは民衆と対立的
な立場に立ち、民衆は革命政府への支持をしだいに失って革命から遠ざかっていった。しかし、このような展開は、
必ずしも状況の論理だけによるものではない。もともとロベスピエールには、民衆とは厳に区別されるべき立場と
論理があった。また、憲法を通して民衆の権利や権力を確立することは、彼が選択した革命政府の論理とは、相容
れないものであった。このことは、革命政府と憲法政府との相違について述べた一七九三年一二月二五日︵ニヴォー
ズ五日︶の演説のなかに、端的に示されていた。
﹁憲法政府の目的は、共和国を維持することにあり、革命政府のそれは、共和国を築くことである。革命とは、
敵に対する自由の闘争である。憲法は、勝利した平穏な自由の体制である⋮⋮憲法政府は、原則的に、市民的自
由に専念するが、革命政府は、公的自由に専念する。憲法体制の下では、公権力の濫用から個人を保護すること
︵20︶
で十分であるが、革命体制の下では、公権力自体が、それを攻撃するすべての徒党からみずからを防衛すること
を強いられる﹂と。
こうしてロベスピエールが﹁徳﹂の周辺をめぐっている間に、革命の流れは、ロベスピエール派に対するテルミ
の社会理念の基本となり、テルールさえも、この﹁徳﹂と表裏一体のものとして捉えられた。
り、﹁徳﹂こそデモクラシーの精神となった。この﹁徳﹂の感情は、同時に”人民の生存と公共の幸福”を求めた彼
らに、革命の目標も、自由と平等の﹁平穏な享有﹂に変化した。今や、彼が最も重視する言葉は﹁徳︵<。﹁ε︶﹂であ
の言葉を捨て、人民の立場に近づく意図で構築してきた人民主権の原理から、代表制の承認へ向かおうとした。さ
みずから行いえないことのすべてを代議員によって行うような状態である﹂と。ここで、彼は﹁受任者︵白⊇①口△①⇔①一﹃O︶﹂
ろう。民主主義とは、主権者人民が、みずから作成した法律に導かれ、みずから行いうることはすべて自分で行い、
︵21︶
そのような政治はかつても決して存在しなかったし、たとえ存在しても、人民を専制に導くだけのものだったであ
数のグループが、バラバラに、性急に、しかも相対立した方法で、社会全体の運命を決するような状態でもない。
﹁民主制とは、人民がつねに集合して公の事柄をすべて自分でとりきめる状態をいうのではなく、また、人民の無
で表現したが、ここでいう民主主義の定義は、ロベスピエールの従来の人民主権論とはニュアンスを異にしていた。
到達するためには、専制に対する自由な闘いをおわらせ、革命の動乱をうまくのがれなければならない﹂という形
しえないものとされた。彼は、このことを﹁われわれの間に、民主主義を構築・確立せしめ、憲法の平和的支配に
そして、ロベスピエール自身が、人権宣言草案等のなかで示し続けた﹁民衆政治の理念﹂は、革命政府では実現
主的な措置が正当化された。
できると考えられた。1こうして、独裁と恐怖政治、さらには民衆の過激なリーダーの弾圧など、すべての反民
そ、革命政府をアナーキーや無秩序から救い、共和国の建設ひいては、正常な憲法政府の方向へ向かわせることが
る﹂画一的で安定した支配が求められていた。こうした強力な支配、すなわち、﹁正義と公共の秩序﹂のなかでこ
して、革命自体の防衛を強いられるような”非常時”にあったため、一層強力でしかも﹁流動的な状況に対処しう
ここでは、革命政府は、未だ安定した憲法体制に入りえない、前段階の、その意味で過渡的なものであった。そ
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ドールの反動を用意させたのである。
︵1︶ ロベスピエール派に属する人物のうち、サンnジュストについては、bdo∋①己く日oけ、皆ヘミさ鼻一㊤。。切 ζ゜Oo日・
∋昌。q。︷・留ヘミ志喜一・。已こ・勺・ρ。ωp讐ヘボ㍗ざ言烏盲ミ§oミ防跨さ巳︵§靭一・。ぶ 閃゜×。∋ぴ。。耳蜜ヘミさ喜一㊤ωご
︵2︶ サン・ジュストは、一七六七年八月二五日、フランス中部のロワール地方、ドゥシーズに生まれた。父は、もとも
国・出①日o吉雰、ミミ合皆ヘミさあ、二。。Og⊃⋮﹄ミ毯§○。§Q§、9さボミ§災ミS§§§“H㊤゜。Oなど参照。
と農村のラブルールの家系ながら騎兵大尉からシュバリエの称号をもつ貴族となり、母はブルジョワジーの家系であっ
た。サン・ジュストは、一〇歳で父と死別後、オラトリオ修道会の学校で寄宿生活を送り、ランスの大学で法律を学ん
だ。一七八九年には過激な詩作﹃オルガン﹄のために投獄され、バスチーユ襲撃事件以後、自由となって革命に参加し
た。一七九〇年に国民衛兵の隊長となり、一七九二年の国民公会選挙に立候補して当選。この間に、﹃革命の精神﹄を出
版し、ジャコバン・クラブや国民公会で革命精神を鼓舞し、国王の処刑や軍の改革を促す演説をしてしだいにモンター
ニュ左派の有力者となり、一七九三年には、最年少で公安委員会に所属した。一〇月一〇日の﹁平和までの革命政府の
設立﹂のための演説以後、テルールの中心人物として、ダントン派の処刑等を断行した。テルミドールの反動によって
︵3︶琴問oσo省︷o﹁﹁P、.勺誌。・o暮豊8ユ、§筥o]〇三〇〇9訂日9コ亀①゜・O﹁o冨、、、觧合笥忘o思ヘミ弐二×もP合切o[ω゜
ロベスピエールとともに二七歳で処刑され、﹁革命の大天使︵一、胃合①5ひqo△o訂問m<o一ロ江oロ︶﹂と呼ばれた。
︵4︶ζ・勾。・Φω冨﹁﹁p.、。,三:。已く竺;宣慧け一。えΦ・・]︶﹁。冨、.、ヘミここ×も゜§。; 卜㌔ト三゜。ω゜。三㊤べ゜吟ω∴
︵5︶卜♪ゲω゜トOωも﹄OO°
ρヂ巴9門e°☆Sこ∨﹄°。9
︵6︶さミ゜も﹄Oド
︵7︶きミこ目ふOド・。宕゜
︵8︶ さミこPN忘゜
︵9︶琴知o亘Φω豆①qP..む力已二①8昌ωけぎ江8、、、觧二民もふ㎝㊤卑ω゜
︵10︶ さミニ﹂×”O°望o。°
︵11︶ 呂゜ロo巳o⋮°りo①F肉oぽ魯合、黍O.べ9
︵12︶ 呂゜ヵoげΦω豆ΦqP.、oり已三c。o品①二〇コム.已昌詳ま已5巴①×☆oa日①障P、、O︷°力89△已﹂O①oO×嵩q⊃ぷθ§さ切合㌔忘oも画ミさ“
けく目[PおOoけωこoひρ≦−巴9﹁w㌔忘§ヘミさ“廿P望︽土嵩゜
︵13︶ ≦巴甘﹁“合ミ“O°㎝8二≦◆閃OσOω宮OqP=O⋮ω8烏乙力△已ミ∋費ψ。Sq⊃ω、、”..O⋮°力8旨c力亀已Nq⊃日自ω嵩㊤ω、、,§e§合
㌔o曾もヘミさ二]דU°ωωωO⇔ω゜
︵14︶ さミニ]ד廿゜O㊤ω⋮︾巳費△“曽☆災⑨合句㌔eミ嵩二゜<、O°N品゜
︵15︶ アンラジェの弾圧については、﹀°ωoぴo巳゜↑D句oボ㍗ヘミo辻湧﹀⇔募へ§切§∼、⇔§ぺ“OO’NNOo⇔ω・
︵16︶ さミこOU°切o。べoけω゜
︵17︶ ︾°oりOぴO巳“..閃OσOω豆ΦqOO二〇ωωOn獄品ω⑰OO巳巴﹁Oω、、w婁⇔嵩飴嵩−§合江Dミ㌔へO辱§切も゜Nぱ魯゜力゜セクション協
会は、セクション政治活動が事実上禁止されたことへの代償として、セクションの活動分子がセクションを基盤に形成
したものである。そして、そのメンバーから、僧・名士︵口Oけ①ぴ一Φω︶・弁護士を締め出し、下層の民衆が多く参加したこ
︵18︶ さミこO°賠q∋⋮θsミ§合㌔忘oも合ミ♪戸ד⑰宗切゜
とから、相当に民主的な組織となりえていた。合ミニO﹄NS
︵19︶ ﹀.むりOげo巳“§⇔嵩、留ミ㍗§合、芯切災㌔eミ嵩“やNNo。 ﹄°、し゜ωこけ゜○。ぷOO°ωOOo[ω゜
︵20︶琴間。亘。ω鳳。隅Φ∴.穿8。詳・,ロニΦω日9⋮罵ω合Ωo毫Φ∋。∋。暮窓くo言吟ざ⋮①⋮﹁o、”w觧合肉忘§§ぷげ〆u・
賠◎切邑くOωO①昌戸
︵21︶ ]≦°問o亘①ω豆o冥Φ、.、∪り弓8ωO﹁ぎ6■o°力△o日o日一〇U巳三〇=oρ巳Oo才Φ暮σq巳O魯庁Oooくo葺︷o昌Z①エoコ巴oユ①o
シ
①α日ぎ富茸9︷ooぎ涼ユO已﹁O△O冨勾●已宮五已O、、“合ミ、庁דOづ.ωロドω㎝ω、9ω8ロ﹁ユロミコ已く5°力O①ロ=︵切 ︷m<叶⋮O﹁]﹁べ㊤︽︶°
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ニ ロベスピエール草案の原理
︹1︺人権原理
1 権利の体系
的課題を担い、反ジロンド草案の意図をもって起草されたとしても、それが、当時の議会派の草案のなかで卓越し
ロベスピエールの人権宣言草案が、ジロンド派とモンターニュ派の対抗のなかで民衆の力を結集するという政治
た内容をもっていたという事実を変えるものではない。ロベスピエール自身が四月二四日の演説でとくにとり出し
て説叢加えたのは、笙に所有権の基礎および制限第二に累進樋第三に世界人民の博愛主義的幕に関して
であったが、この草案には、それ以外にも注目すべき内容が豊富に含まれていた。
全部で三八力条からなるロベスピエールの人権宣言草案は、前半の第=二条までに、政治的結合の目的︵第一
条︶、主要な人権の内容︵第二条︶、平等︵第三条︶、自由︵第四条︶、集会・表現の自由︵第五条︶、所有権︵第六−九
条︶、社会的諸権利︵第一〇ー一三条︶を定めた。また、後半の第一四条から第三四条までに、人民主権、法律、受任
者の任務に関する規定、請願権と抵抗権の規定をおき、最後の四力条に、世界的な博愛主義の規定をおいて臥超。
前文は、一七九三年憲法の人権宣言と同様、人権を厳粛な宣言のうちに表明する意義と動機を次のように述べて
いた。﹁すべての市民が、政府の行為を、たえずあらゆる社会制度の目的と比較できることによって、決して専制に
よって圧迫され堕落においやられることのないように、さらに、人民が、つねに目の前に、その自由と幸福の基礎
をおき、行政官がその義務の規律を、立法者がその使命の目的をおくことができるように⋮⋮﹂と︵以上の表現は、
一七九三年宣言前文にも踏襲された︶。そしてこのことは、﹁正義と理性という永久の法に由来しない人間の法律は、無
知あるいは専制による人間性に対する侵害に他ならない﹂、そして﹁人の自然的権利の忘却または軽蔑が、世界の犯
罪と不幸の唯一の原因である﹂という認識に出発していた。
第一条は、﹁すべての政治的結合︵器ω。巳①⇔合コo。一三ρ已。︶の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然
的な諸権利の維持とそのすべての能力︵︷①〇一﹂一けmω︶の発展にある﹂と述べて、国家あるいは政治組織の目的を明らか
にした。ここでは、一七八九年宣言以来の、国家の存在意義を自然権の保持に求める定式に加えて、﹁能力の発展﹂
すなわち広義の教育を国家の目的として掲げたことが特徴的である。このことは、ロベスピエールにとって、社会
の一般利益を理解し、法律に従うために、高い道徳的資質がとくに必要とされ、教育が重視されていたためと考え
られる。
さて、ロベスピエールにとって、基本的な権利とは何であったか。
一七八九年宣言が自然的権利の内容として自由・安全・所有・抵抗の四つをあげ、ジロンド草案がこれらに平等
と社会的保障を加える体系をとっていた︵一七九三年人権宣言では、平等・自由・安全・所有の四つとされた︶のに対し
て、ロベスピエール宣言の第二条が﹁人の主要な権利︵[。ω買日巳冨日舎o冨△巴.庁。∋∋o︶とは、自己の生存の維持
に備える権利︵舎o津ユ㊦8已⊇o⋮叶巴①8コωΦ⊇良8亀①ω80巴ω9コ8︶と、自由である﹂と規定したことは、とくに注
目に値する。ここで、﹁生存の維持に備える権利﹂いわゆる生存権を第一にあげたのは、平等元年としての一七九三
年の政治課題、とくに次節でみる生存権の保障を要求した民衆運動の展開を考慮したものであり、このこと自体、
、
ロベスピエールが議会派ブルジョワのなかで、いかに民衆に近い憲法原理を構築していたかを示している。続く第
三条が、﹁これらの権利は、’その肉体的・精神的能力のちがいにかかわらず万人に属する。権利の平等は、自然によ
って設定される。社会は、それを侵害するのではなく、平等を幻想にする力の濫用に対して、専らそれを保護する
憲
ものである﹂という規定を掲げたように、平等が社会の義務として保護されなければならないという原則が前提と
その欠陥をうめたいと思う﹂と。そして、宣言に掲げられたのは、﹁①すべての国の人間は兄弟である。異国の人民
自然がその領土、すみかを与えた、広大な家族のためではないと言われてきた。⋮⋮私は、次の諸条項によって、
とくである。あなた方の宣言は、地球上の一角に結集した、人類のなかのわずかな一群のために作られたのであり、
べ
に忘れ去った。あたかも、それは、暴君に対抗する諸国民の永遠の同盟という基礎に対して、無知であったかのこ
﹁憲法委員会は、すべての人間とすべての国民を一つにする博愛の義務と相互援助の権利を明示することを、完全
世界人民の博愛主義的連帯に関するものがある。
︵3︶
ロベスピエールは、一七九三年四月二四日の演説のなかで、世界人民の連帯と博愛について次のように主張した。
これに対して、ロベスピエールが演説のなかで強調しながら、一七九三年宣言には全く採用されなかった規定に、
のかかわりという点でのモンターニュ主流派へのロベスピエールの影響力を示すものでもあった。
エールが理解を示したことの証拠であり、一七九三年宣言のなかにこれらの条文が採用されたことは、民衆運動と
スピエール宣言の大きな特徴である。これは、武装蜂起を提唱し実践したアンラジェら民衆の運動原理にロベスピ
保障の最終的な担保として蜂起権をおいたことは、合法的な抵抗手段に限定していたジロンド宣言に比して、ロベ
は、人民および人民の各部分にとって最も神聖な権利であり、最も不可欠な義務である﹂︵第二九条︶として、人権
げられた。﹁圧制に対する抵抗は、他の人権の帰結である﹂︵第二七条︶、﹁政府が人民の諸権利を侵害するとき、蜂起
ついで、受任者の犯罪や公務員の圧制に対する抵抗権、蜂起権についての規定が、第二七条から第三四条まで掲
防止が強調された。
いうことを仮定しない制度はすべて悪い制度である﹂︵第一九条︶として、法律による自由の保障と、権力の腐敗の
濫用に対して、公共の自由と個人の自由を保護しなければならない。人民は善良で、役人は腐敗しやすいものだと
府を変え、受任者を解任することができる﹂︵第一四条︶、﹁すべての自由な国家においては、法律は統治者の権力の
主権者である。したがって、政府は人民の所産であり、⋮⋮公務員は人民の受任者である。人民は、好むままに政
と法律の制定に参加する市民の権利、法律を執行する受任者・公務員の責任について規定された。とくに、﹁人民は
さらに、宣言後半の第一四条以下では、法律を権利保障の目的にふさわしいものとするために、人民主権の原則
れたことは、ロベスピエールの人権原理の特徴として重要である︵その内容は次項に譲る︶。
前提とされた。ここで、絶対不可侵の自然権ではなく、法律で制約された一種の﹁制度﹂としての所有権が規定さ
ロベスピエール草案では、﹁生存の維持に備える権利﹂の実現のために、所有権が法律によって制約を受けることが
続く第六条以下には、所有に関する規定がおかれた。従来の諸宣言は、これを自然権として掲げたのに対して、
機﹂も確認された。
専制の存在、あるいはそれについての生々しい追憶のためである﹂ことが明らかにされ、自由の保障についての﹁動
が強調されていたように、第五条の集会・表現の自由の規定のなかで﹁これらの諸権利を宣明する必要があるのは、
よる自由﹂の原則が明示された。また、ロベスピエールの演説で”専制”と”暴虐”の敵と闘う原理としての自由
て他人の権利による内在的制約をもつことが明らかにされたほか、自由が法律によって保障されるという﹁法律に
つ﹂と規定した。ここでは、一七八九年宣言などと同様、自由権は自然権として捉えられていたが、その限界とし
自由は、その基準として正義を、その制限として他人の権利を、その原理として自然を、その保障として法律をも
また、自由については、第四条が﹁自由とは、任意にそのすべての能力を行使する、人間に属する権能である。
第一〇条以下の社会的諸権利の条項のなかで具体化されたが、その内容は後にみる︶。
等、権利の平等の実質的保障を具体化する方法として捉えていたことがわかる︵この﹁生存の維持に備える権利﹂は、
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2 されていた。﹁生存の維持に備える権利﹂を主要な権利として掲げたロベスピエールにあっては、これを、社会的平
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も自国の市民と同様に、その能力に応じて互いに助けあわなければならない︵第三五条︶。②一つの国民を抑圧する
ここでは、ロベスピエールは、財産の不平等が罪悪であることを前提としつつも、個人の財産には手をつけよう
を社会制度としての所有に適用しなかったのか。⋮⋮あなた方は、所有権の行使に最大の自由を保障するために
へ
条文を増やしたが、その法的性格を定義するために一言も述べなかった。その結果、あなた方の宣言は、人々の
︵1︶
ためにではなく、金持ち﹀買占者・投機者・専制者のために作られたようにみえる﹂と。
って、あなた方は、正当にも、自由が他人の権利を限界としてもつことを述べた。それならば、なぜ、この原則
﹁人間の第一の財産であり、自然からひき出される諸権利のなかで最も神聖なものである自由を定義するに当た
と考えている。奢修を追放することよりも、貧窮を名誉あるものとするほうがよいことである。⋮⋮﹂
る。私についていえば、財産の平等は、公共の幸福にとってよりも、むしろ個人の幸福にとって必要でないもの
要ではなかったであろう。しかしわれわれは、それにも劣らず、財産の平等が妄想にすぎないことを確信してい
財産の極端な不釣合が多くの不幸と罪悪の源泉であることを全世界にわからせるためには、おそらく革命は必
は、愚か者を恐れさせるためにペテン師たちがつくりあげた幻にすぎないことを知らなければならない。
がいかに不純であろうとも、それには手をつけようと思わない。あなた方があれほど話題にしてきた土地均分法
何人をも驚かさないことを望む。金より他に価値を認めない汚れた魂の持ち主よ。私は、あなた方の財宝の源泉
﹁私は、まず、所有に関するあなた方の理論を補完するために必要な諸条項を提案しよう。そして、この言葉が
ロベスピエールは、四月二四日の国民公会での演説の冒頭、所有の問題をとりあげて次のように述べた。
ω所有権
て、ロベスピエール宣言で掲げられた主要な権利の内容についてみよう。
三年憲法の人権宣言では、これらはほとんど無視された。以下では、生存権と密接な関係をもつ所有権からはじめ
せて、これらの諸規定をロベスピエールの人権原理の特徴として理解することができる。しかし、成立した一七九
日の演説ではとくに所有権が問題とされた。続いて論じられた累進税など、いわゆる生存権にかかわる規定とあわ
ロベスピエールの人権宣言草案は、主要な人権として﹁生存の維持に備える権利﹂と自由をあげたが、四月二四
2 諸権利の内容と特徴
︵3︶§ミ§合㌔&§ミベ吟]×も゜︽Oω゜
︵2︶ 条文の配列について資料によって相違があるが、ここでは、注︵1︶の原典によっている。
ω二︷°⑳POP﹂Oべ⑦吟ω゜
︵1︶ζ・カ。亘。畳而qP、め已二①コ2<。=。9n百①江8合ωOOけω、、“§ミ§合ぎ↑§ミぶけ゜一×もS㎝09ω∴﹄、°二
第三七条で、人権の観点にたつ平和主義が掲げられていたことが注目される。
また、ジロンド派の戦争政策失敗に起因する危機状況にあって、彼は、戦争遂行者の犯罪性を強調した。とくに、
ったのに対して、ロベスピエールは、自然権の承認を前提として、世界人類の博愛・連帯の要請にまで高めていた。
エールの確信が表明されていた。当時、ジロンド派が、尊重すべき人権の主体をフランス国民に限定する傾向があ
意図をはじめ、各国民間の連帯、相互援助の義務、戦争の犯罪性、国王、貴族等の本源的否定についてのロベスピ
ここには、人間の権利の尊厳について、フランス国民のみならず、普遍的な世界人民に対して拡大しようとする
対して反逆する奴隷である︵第三八条︶﹂という四項目であった。
三七条︶。④国王、貴族、暴君は、いかなる者であれ、地上の主権者すなわち人類と、世界の創造者すなわち自然に
する者は、通常の敵としてではなく、反逆的な殺人者、強奪者として、万人によって追及されなければならない︵第
把 者も、万人の敵と宣言される︵第三六条︶。③人民に対して、戦争によって自由の進歩を止め、人間の諸権利を侵害
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批
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としないばかりか、財産の平等が幻想にすぎないことを表明した。そして、きわめて慎重に、所有権の自由な行使
を制限することでその罪悪を修正する道を追求した。彼が非難したのは、人身売買の商人、封建貴族、専制君主な
ど革命の敵たちの所有であり、ジロンド宣言がこれらの所有権を制限しなかったことを批判したにとどまった。
そこで、彼は﹁この欠陥を改めるために﹂次のような諸規定を掲げた。
①所有︵権︶とは、各市民が、法律によって保障された財産の部分を享受し、処分する権利である︵第六条︶。
②所有権は、他のすべての権利と同様に、他人の権利を尊重する義務によって制限される︵第七条︶。
③所有権は、われわれの同胞の安全、自由、生存、所有を害してはならない︵第八条︶。
︵2︶
④この原則を害するすべての取引は、本質的に不正かつ不道徳である︵第九条︶。
これらの諸規定のうち、まず、第六条では、所有権を定義するに際して、その対象としての財産自体に法的制限
を課していたことが注目される。所有権自体が個人財産の享受、処分の権利であることが前提とされても、ここで
った権利とされた。彼が、演説のなかで所有の原理を﹁社会制度︵一コω法ロ[一。コ。・。∩一巴。︶﹂と捉えた理由もここにあっ
は、所有権は絶対不可侵の自然権ではなく、法律で保障された範囲でしか認められない、いわば社会的に制約を被
た。
また、すでに考察した一七九二年一二月二日の演説にも示されていたように、ロベスピエールは、所有権自体の
存在や取引の自由自体を否定せず、その濫用にわたる不正のみを制限することで、社会構成員の生存を保障する方
︵3︶
法を構想していた。すなわち、彼はまず、生存に必要な土地生産物の一部の享受を保障し、所有者や耕作者に彼ら
の職業の代価を保障したうえで、その余剰分について商業の自由に委ねるという構想をもっていた。その結果、所
有権は、生存に供する財産を控除した残りの部分について法的に許容された範囲で、他人の権利を害さない限度に
おいて自由に享受・処分しうる権利として存在した。しかも、この﹁他人﹂の概念は、しだいに同胞全体を意味す
るまでに発展させられ、明らかに同胞の安全・生存・所有などを害するような不正な取引︵投機者・買占者の行為︶
︵4︶
だけが、個人に許容された所有権の限度を超えるものとして否定されることになった。
以上のように、ロベスピエールの所有権論は、その自然権性・絶対不可侵性を否定して、権利の社会的制約を導
いた点で、一七八九年宣言以来の議会派ブルジョワの構想と比較すると、卓越した内容をもっていた。しかし、先
にみたドリヴィエの所有権論や次節で検討するアンラジェの構想、さらに﹁土地均分法﹂派のそれと比較すると、
︵5︶
その所有権制限の論理はきわめて穏健で慎重なものであることがわかる。この点について、ジョレスが、﹁ロベスピ
エールは、バブーフが想像したより、はるかに土地均分法派ではなかった。しかし、権利宣言のなかに所有の定義
を挿入し、それによって、苦しい民衆に多少の保障を与え、平等の方向に社会的発展をもたらそうという心をもっ
ていた﹂と指摘したとおりである。また、ロベスピエールの所有権論については、従来から、ルフェーブルらによ
︵6︶
って﹁国民共同体が所有の機構を統制する権利をもって相対的平等の維持につとめる﹂構造と解されてきたことに
対して遅塚教授が異議を唱えている所以でもある。遅塚教授は、このような捉え方はドリヴィエにこそあてはまり、
︵7︶
﹁ロベスピエール人権宣言私案第六∼九条における私的所有の制限の内容は、厳密に、生存権のための必要部分を
湖 害しえないということだけに限定されて︹いる︺﹂として、その所有原理の限界を指摘する。とくに、この第六ー九
三
一
規定の意義を区別しつつ、各派の構想を比較検討する場合には、﹁第一〇∼一二条の規定があれば、第六∼九条の規
点で注目すべき卓見であるゆが、本書のように、第六ー九条の所有権規定と第一〇ー一二条の生存権︵社会的諸権利︶
う指摘は、ロベスピエールの論理のなかで所有制限の動機としての﹁生存権の優位﹂がいかに重要であるかを示す
いる。﹁ロベスピエールの論理にとって最も重要なのは、実は、第一〇∼一二条であって第六∼九条ではない﹂とい
㎎
条が重視されてきた従来の傾向に対して、むしろ第一〇1一二条のほうを重視する視点を提示し、両者の関係を
ヨ
々、土地生産物のうちの﹁超過部分に関する規定﹂と﹁必要部分に関する規定﹂として捉える鋭い分析を行って
勧各
︵8︶
章
第
田
2
憲
定はなくてもよい﹂と言い切るわけにもいかないであろう。ロベスピエールの所有権制約が限定的なものである以
︵9︶
的扶助は、社会の神聖な義務である。社会は、不幸な市民に対して労働を確保することにより、または労働しえない者
わしいということができる。
かつ、宣言のなかに﹁生存の維持に備える権利﹂を明示した点では、この評価は、ロベスピエール宣言にこそふさ
三年憲法について﹁社会権﹂の萌芽を認める傾向があるが、社会の全構成員にとって普遍的な権利として構成し、
モンタ⊥三派にとっ、ては公的救済は﹁恩恵﹂であった・とを指摘する所以で窪・一般には・従来から・三九
定したことと対比される↓遅塚教授が、ロベスピエールの主張では社会保障の実現は﹁権利﹂であるのに対して、
に生活手段を保障することによって、その生存について責務をおう﹂︶が、社会の扶助義務の対象を﹁不幸な市民﹂に限
︵﹁
と宣言したにとどまったし、また、ジロンド宣言とロベスピエール宣言の文言を折衷した一七九三年宣言第二一条
する趣旨と解することもできよう。この点、ジロンド宣言第二四条では﹁公的扶助は、社会の神聖な義務である﹂
の﹁生存の維持に備える権利﹂︵いわゆる生存権︶を具体化して、社会の全構成員に対して、扶助請求権を認めようと
は、労働と生活手段を確保する公的扶助︵社会保障︶義務を社会全体の義務として認めたことに特徴があり、第二条
いは、労働しえない者に生活の手段を保障することによって、その生存に備える義務をもつ﹂と規定した。ここで
権としてあげたことに対応して、第一〇条で﹁社会は、その全構成員に対して、労働を確保することにより、ある
宣言に固有のものではない。しかし、ロベスピエール宣言では、第二条で﹁生存の維持に備える権利﹂を主要な人
のいずれにも存在していた公的救済ないし社会扶助に関する規定として位置づけられ、それ自体はロベスピエール
所有権規定に続く第一〇1一二条の規定は、もともと一七九一年憲法︵第一篇︶やジロンド宣言、一七九三年宣言
② 社会的諸権利ー生存権について
にみよう。
ジョワのそれと同質なブルジョワ的原理の枠内での限界をもつものであったといえる。では、その内容について次
たにしても、第一〇ー一二条の規定自体は、必ずしもロベスピエール宣言に固有のものではなく、他の議会派ブル
みえる。あえていえば、ロベスピエールの人権原理が生存権の権利性を明確にした点で特筆すべき内容をもってい
界のなかにも、明瞭な形で現れていた。同時に、全く同じことが、その生存権原理のなかにも示されていたように
は、私的所有を前提としたうえでの、所有権の自然権性︵絶対不可侵性︶の認否をめぐる各々の所有原理の特色と限
実であった。遅塚教授の指摘する﹁ロベスピエールの両義性﹂およびモンターニュ主流派のブルジョワ的な一義性
に近かったことにも示されるが、両者ともに、土地の共有や﹁土地均分法﹂の考えには到達しえていないことも事
ルレの構想︵所有権の対象をあらかじめ制限する・とによ・て、生存権の優位に基づく所有権の社会的制限に到達してぬ口︶
うべきであろう。このことは、ロベスピエールが、モンターニュ主流派よりも、次節で検討するアンラジェのヴァ
ロベスピエール宣言は、やはりジロンド派・モンターニュ派らの当時の議会派ブルジョワの枠を一歩超え出たとい
たその主体規定と矛盾をはらむものであった。ところがこの矛盾を解消し、所有権の自然権性を払拭しえた点で、
︵10︶
大財産を制約する方向に修正を施した︵第一六条︶が、自然権として位置づけた︵第一・二条︶点で限界をもち、ま
権の主体を﹁すべての市民﹂とし、その処分権の内容から資本の語を削除するなどジロンド宣言に比して社会的に
れを財産.収入.資本.事業を任意に処分する権利として定義した。これに対して、モンターニュ主流派は、所有
性を説き、ジロンド派の人権宣言草案は、同じくすべての人の自然権としてこれを位置づけつつ︵第一二八条︶そ
事実、フゥイヤン派の一七八九年宣言︵第二・一七条︶は最初にすべての人の自然権としての所有権の絶対不可侵
上では、議会派ブルジョワに属する他の各派に比して質的な差異として捉えることを許すと思われるからである。
位置づけを排除し、所有権の対象が法律によって社会的に制約されるものと捉えたことは、少なくとも権利の性質
86
2 上、第六ー九条はさほど特筆すべきものでないとする見方には同感できる点もあるにせよ、従来のような自然権的
理
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2
もっとも、ロベスピエール宣言も、次の第=条では、﹁生活必需品に欠乏する人々に対する必要不可欠の扶助
は、余剰をもつものの負債である。この負債を支払う方法は、法律で定める﹂と規定し、余剰をもつものの義務と
して公的救済を位置づけた。四月二一日のジャコバンでの報告のなかでは、﹁貧乏人﹂に対する﹁金持ち﹂の負債と
︵13︶
して富者の責務が表明されていたことからしても、ここでは、ロベスピエールが、富裕者の出資による貧乏人救済
の意図をもっていたことが示される。このような構想は、一七九一年憲法以来の﹁恩恵﹂的な貧救政策にも一脈を
通じるものがあり、国家による富の再分配n実質的平等の保障には至らず、大財産の制限にとどまった点で限界が
認められる。逆にいえば、彼の所有権規定と第二条・第一〇条の生存権規定を具体化し、経済的な平等を実現する
ための方途は、﹁土地均分法﹂の方向ではなく、国家対個人の関係をこえた、私人間の財産の再分配の方向に向かお
うとしていたといえるであろう。
第一二条で﹁収入が、自己の生存に要する額をこえない市民は、公の租税の負担を免除される。その他の市民は、
財産の程度に応じて、累進的に、公の租税を負担しなければならない﹂と規定された累進税の保障も、これと同様
のことを示していた。四月二四日の演説のなかで、ロベスピエールは次のように述べた。﹁あなた方は、累進税の基
礎を確立することを忘れている。公の租税の問題について、財産の程度、すなわち、社会から取り上げた利益に応
じて、累進的に、公の租税支払いの義務を市民に課する原理の他に、事柄の性質や永遠の真理から明白に引き出さ
れる原理があるだろうか﹂と。これに対して、一七九三年宣言では、﹁いかなる租税も、公益のためにしか設定され
︵14︶
ない。すべての市民は、租税の設定に参加し、その使途を監視し、それについて報告を受ける権利をもつ﹂︵第二〇
条︶とだけ規定され、累進税に関するロベスピエールの主張は何ら採用されなかった。ただし、すでにみたように、
一七九三年三月一八日には、バレールの要求によって﹁各市民がその能力に応じて支払うべき負担の配分において、
より正しい割合を得るために、土地並びに動産の贅沢品、財貨について、段階的な累進課税が設定されなければな
このように、教育についても、後にみるように、サン‖キュロット、アンラジェの要求に対するロベスピエール
﹁父母を失った子供を国が養子にする。国は、彼らを国民教育寮の生徒とする⋮⋮﹂という言葉であった。
きに従わせることである⋮⋮﹂という条項に、次の言葉を追加して、教育の義務性・公共性を強調した。それは、
は、ルペルチエの﹁国民教育の目標は、子供らの身体を強化し、すべての労苦に耐えさせ、ためになる戒律のくび
員会の報告者として、故ルペルチエ︵琴↑量。量の公教育論を採用して国民公会で報告㎏・。ベスピエール
ロベスピエールは、後の一七九三年六月一八日に公教育について演説を行うとともに、七月=二日には、公教育委
要な目標とした第一条に対応するものであり、教育に強い関心を示したロベスピエールの社会思想を反映していた。
受けられるようにしなければならない﹂と述べた。この規定は、公共の理性の進歩、万人の能力の向上を社会の主
第=二条は、﹁社会は、全力をもって、公共の理性の進歩に尽くさなければならない。また、すべての市民が教育を
次に、社会の義務︵あるいは社会権︶に属する規定の一つに教育に関するものがあげられる。ロベスピエール宣言
ができるといえよう。
ぎないといえる。この点では、ロベスピエール宣言の第一〇ー一二条にも、第六ー九条と同様の限界を見出すこと
﹁形成途上のブルジョワ社会︵資奎義社会︶を容認し、その枠内で社会保障の実現を要求するにとどまつ.口﹂にす
﹁万人の生存権の保障ということ以上に私的所有を制限したり富の不平等を是正したりする意図﹂はなく、総じて、
これらの検討からすれば、ロベスピエールは、大財産を制限し、その余剰を財源としての貧者の救済を試みたが、
いる。
窮理由で、。ベスピエ←自身が、生存に余裕をもたない市民の税負担免除の条項を削除した・とも智れて
また、六月一九日、﹁貧困者であるために免税にすることは、政治から除外されるべき階層をつくることになる﹂と
らない﹂という法律案が採択され、現実に、五月二〇日の強制累進公債制度によってその一部が実現されていた。
︵15︶
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第
舶
2
の理解が示されており、彼の﹁生存権の優位﹂の思想の射程内で捉えることができる。が、反面、一七九三年宣言
︵8︶
︵7︶
ジロンド宣言の所有規定は、本章第一節二︵一六九ー一七〇頁︶、一七九三年宣言のそれは第二節二︵二二一ー二二
遅塚・前 掲 書 二 三 三 頁 。
遅塚・前 掲 書 二 三 三 頁 。
遅塚・前掲書二三四−二三五頁。
﹂・廿弓衙酌穿、ミミ8らミ軌§合S㌔轡ミミ§書ミ⇔隷ト゜。三q⊃もマ=N2ω゜
︵9︶
︵11︶
︵16︶ さミこ庁OぷP一一〇σ
︵15︶ ≧ミこけ゜OPPト。q⊃N:
︵14︶ ﹄、二゜°。°トΦωも﹂q⊃°。°
ざ
OΦ已巳o.、とされていた。
︵13︶
§ミ§合㌔&§ミぶ[﹂×も゜冷﹃.冨ωω。8已﹁°・劫①8。a臼①⊆×芦巳σqgωω゜昌旨゜△°口゜合号庁゜雪く含゜。庁
︵12︶
遅塚・前 掲 書 二 八 五 頁 。
第三章第四節一一︵三五四ー三五八頁︶参照。
二頁︶ を参照されたい。
︵10︶
︵6︶
規制しうる構造が採用されていたことを指摘し、両者の相違を見事に明らかにしている。
有を認めているのに対して、ドリヴィエの場合には、上級所有権者としての国民が個人の土地や土地生産物を全面的に
︵5︶ 遅塚.前掲書二二六頁の図表では、ロベスピエールの所有権が社会の必要部分を控除した超過部分について個人所
者の所有を制限するにとどまったことは、当時の人民の要求と比較すると消極的にすぎるものであった。
の保護という﹁公共の福祉﹂を強調する趣旨であったと解することができる。ただし、この論理によって買占者・投機
な権利行使の調整のために内在的制約原理を提示したというより、むしろ、貧者あるいは弱者を中心とする人民の利益
ないような権利の内容は、同胞の安全・自由・生存・所有一般とされていた。したがって、ここでは、私人間の個々的
︵4︶ ロベスピエールは、所有権の制限について、他人の権利による内在的制約論を展開したが、取引の自由が侵害され
⑰ごOΦ↓ω゜本節一︵二六〇ー二六一頁︶参照。
︵3︶ 一七九二年一二月二日の演説については、ζ゜男o亘o・。巳隅叶P..ω已二〇ω。。已亘巴゜。富ロ8白。。、“§ミさ切合㌔忘o魯芯∨さ“⇔]×w
べての取引は⋮⋮﹂となっていた。θNミさ切合㌔o曾魯ヘミさ“⇔°一×も゜まご﹄°㌔“P°・二⇔︹ω゜℃℃°一S
︵2︶ 演説のなかで示された第九条の文言は、宣言内のそれと異なって﹁この原則に反するすべての占有︵Ooωoωψ・一〇〇︶、す
︵1︶ 爲Nミさ切惑㌔忘o魯軌ミ§︷°一×、U“﹄鵠Φ[°力∴込㌔二゜ωこ庁①ω、OO°一ま臼゜力゜
かったことも特徴的である。
第五条の一力条のみであり、ジロンド宣言、一七九三年宣言に存在した信教の自由︵祭祀施行の自由︶が保障されな
また、自由の具体的内容にかかる規定は、平穏に集会する権利、出版等の方法による意見表明の権利を保障した
革命裁判所を利用してテルールを実行したロベスピエールの人権原理の特徴としてあげることができる。
逮捕・拘禁手続きの保障等、人身の自由に関する規定が一切採用されなかったことは、革命という状況の論理から
た。一七八九年宣言以来ジロンド宣言や一七九三年宣言のなかで確立された無罪推定原則や罪刑法定主義、正当な
けを得た︵第三条︶。また、身体・財産などの保全にかかる安全の規定は、ロベスピエール宣言では、一切削除され
平等は、権利の内容自体ではなく、一七八九年宣言と同様、権利の平等として諸権利間の調整原理としての位置づ
九三年宣言では、権利の筆頭に平等が掲げられ、自由、安全、所有がこれに続いたが、ロベスピエール宣言では、
ロベスピエール宣言が、﹁生存の維持に備える権利﹂とならんで主要な人権として掲げたのは、自由である。一七
① 自 由
同質性を認めることも必要となるであろう。
卯 第二二条後段が、ロベスピエール宣言第=二条の文言をそのまま採用したことによって、モンターニュ主流派との
2
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︵17︶遅塚・前掲書二一二五頁。先に、ロベスピエールが権利としての生存権を主張したのに対して、一七九三年宣言が恩
恵としての公的救済にとどまっていることを指摘したが、このブルジョワ社会内での社会保障の実現という点では、両
者はむしろ同質であるといえよう。これに対して、遅塚教授は、﹁国民の手による私的所有権の制限﹂︵同書一五五頁︶
を説いたドリヴィエにこそ、ルフェーブルらのいう﹁社会的権利﹂の観念が求められると指摘する。もっとも、法学的
にみれば、ロベスピエール宣言と一七九三年宣言のいずれも、今日的な意味での請求権としての社会権の概念にあては
まる内容をもっているといえるか疑問であり、この点では、ドリヴィエも同様であると思われる。社会権︵生存権︶の
とにする。
メルクマールと、私的所有の制限との理論的関係については、なお、憲法学的検討が必要であることを留保しておくこ
︵18︶ 呂゜↑8①=豊o□..コ碧ユ、m含8二8墨江8巴Φ。、、慰§きミ書︵ユo閃oぴΦω08隅⑦︶二﹄二㊤﹃ωもP一切や9°。°
︹n︺統治原理
ー ロベスピエール草案の統治原理ーー人民主権の表明
ロベスピエールの統治原理は、一七九三年五月一〇日に国民公会で公表された二〇力条からなる憲法原則案︵以
︵1︶
下、憲法案と記す︶のなかに示されたが、これは、ジロンド草案やサンnジュスト草案のような体系的な憲法草案と
異なって、憲法構想の一部にすぎないものであった。その第一条は、﹁憲法は、すべてのフランス人に対して、先の
人権宣言のなかに示された人および市民の不変の権利を保障する﹂として、まず、人権保障という憲法の役割を明
確にした。ここで引用された四月二四日の人権宣言案第一九条前段も、﹁すべての自由な国家においては、法律は統
治者の権力の濫用に対して、公の自由と個人の自由を保護しなければならない﹂として法治国家の原則を明らかに
した。
い。また、自由.平等に基礎をおく共和国以外のものを認めない﹂︵第三条︶、﹁フランス共和国は、単一にして不可
さて、その国家の形態について、憲法案は、﹁フランス憲法は、共和制政府以外のいかなる合法的政府も認めな
分である﹂︵第四条︶として、単一・不可分の共和国の原理を採用した。ついで、この共和国の統治原理について、
人権宣言案第一四条は、﹁人民は主権者である。したがって、政府は人民の所産であり、人民の財産である。公務員
は人民の受任者である。人民は、好むままにその政府を変え、受任者を解任することができる﹂とし、憲法案第五
条も﹁主権は本質的にフランス人民に存する。すべての公務員は、人民の受任者である。人民は受任者を任命と同
じ方法で解雇しうる﹂として、人民主権の原理を表明した。この人民主権の内容については、人権宣言案・憲法案
の次の規定によって具体化されていた。
成に協力すべき人民の一部の要望として尊重されなければならない。集合した主権者の各部分︹セクション︺は、完
﹁いかなる人民の部分も、人民全体の権力を行使しえない。しかし、人民の一部が表明する要望は、一般意思の形
全な自由をもってその意思を表明する権利を享受しなければならない。各セクションは、すべての設定された権威
から本質的に独立し、警察と議決の権限をもつ。﹂︵人権宣言案第二〇条︶、﹁憲法は、主権者以外の権力を認めない。
各々異なる執行者によって執行される権威の諸部分は公的な職務にすぎず、主権が公共の利益のために彼らに委ね
たものにすぎない。﹂︵憲法案第六条︶、﹁共和国の人口と面積によって、フランス人民を主権行使のためにセクション
に区分することが強いられる。じかし、人民の権利は、単一の議会で全体的に審議する場合と同様に現実的であり、
神聖である。その結果、主権者の各セクションは、いかなる既存の権威の影響力にも命令にも従属しない。そして、
人民の一部の者の自由、あるいは安全、あるいは尊厳を侵害する受任者は、人民全体に対する裏切りとして有罪と
される﹂︵同七条︶と。
ここでは、主権者が帰属する各セクションを基礎単位として、主権者人民を構成する市民が、権力を受任者に委
坐
2
河
任し、受任者をコントロールするという構造が示されていた。ロベスピエールの統治原理については、とくに、そ
の代表制論の特色が問題とされ、人民主権の実現形態として﹁命令的委任﹂論が採用されたか否かが研究対象とさ
れてきた。ロベスピエールの憲法案およびその演説では、とくに、立法府と執行府との権限の分離と公務員の有責
︵2︶
性に力点がおかれていたが、以下では、これまで一七九三年憲法等について行ったと同様な構成に従って、その人
民主権原理を具体化するための統治形態をみることにしよう。
︵1︶ §ミ§合㌔o曾もヘミベ⇔°一ד戸㎝O。。土Oq⊃°
︵2︶ 比較的最近では、和田進﹁ロベスピエールの代議政論について﹂神戸大学教育学部研究集録第六一集一頁以下でそ
の問題が提起されているが、これについては次項②で検討する。
2 主権行使の形態と統治機構
ω 第一次集会と選挙制度
一七八九年一〇月の段階でいち早く制限選挙制を批判していたロベスピエールにとっては、一七九三年憲法で普
通選挙制を採用することは、もはや当然のことであったと思われる。すでにみたように、一七九二年の国民公会選
挙に際して提出されたプラス・ヴァンドーム・セクションの決議のなかで、彼は、直接普通選挙が人民主権原理に
適合的であることを認めながらも、実際には間接選挙制度を支持していた。そのため、ロベスピエールの憲法構想
のなかで選挙制度がどのような内容をもつかは興味深いが、五月一〇日の演説等で従来の制限選挙への批判を繰り
͡1︶
返したほかは、彼の人権宣言草案にも憲法案にも具体的な内容はほとんど示されていない。
人権宣言草案の第二二条は、﹁すべての市民は、人民の受任者の選任と、法律の制定に参加する平等の権利をもつ﹂
として市民の選挙権と立法参加権を宣言した。この条文は、一七九三年宣言第二九条にほぼ同様な形で採用され、
選挙権の本質を市民の権利として掲げた点で注目されるが、一七九三年憲法では主語が﹁各市民﹂とされたのに対
して、ロベスピエール宣言案では﹁すべての市民﹂となっていたことにも普通選挙を強調する意図が窺える。また、
一七九三年憲法の選挙の客体が﹁受任者または代理人﹂とされたのに対して、ロベスピエール宣言案では﹁受任者﹂
のみがあげられたことは、主権者が選出する議員や行政官をすべて一義的に﹁受任者﹂と捉える、命令的委任関係
についての観点が示されていたといえる。また、ロベスピエール人権宣言草案︵第二〇条第二項︶で﹁集合した主権
者の各部分︹セクション︺は、完全な自由をもってその意思を表明する権利を享受しなければならない﹂と述べ、憲
法案第七条で、面積と人口によって人民がセクションに区分されることを明らかにしたように、選挙権などの主権
行使はセクションの第一次集会で実施されることが予定されていた。憲法案第一九条でも、人民の権利が侵害され
た場合の審査について、各県の第一次集会に意見の公表を求める構想が示されていた。また、五月一〇日の演説の
なかでは、﹁とりわけ、第一次集会での主権者の自由を尊重すべきこと﹂を強調し、﹁投票権を制限し、無効にする
︵2︶
ような悪法を廃止すること﹂を主張した。この点について解釈者は、国民公会選挙に際して、立法議会が第一次集
︵3︶
湖 会
とカントンの首邑での選挙会の二段階選挙︵間接選挙︶制を採用した法制を指していたとするが、ロベスピエール
憲
これに対して、四月二四日に提出されたサンnジュストの憲法草案はロベスピエールのそれとは比較にならない
権利の平等を害することがないように、労働者市民の主権行使が有償とされ︵憲法案第八条︶、選挙規則や審議規則が
︵5︶
可能なかぎり簡単で、集会の日程が労働者に最も便利な時期に設定されることが要請されていたにとどまる。
では、むしろ、国民代表としての性格の有無という立法者と行政官との差異を根拠として、後者には間接選挙制を
︵4︶
採用する構想をもっていたことが示されていた。ほかには、人民の集会での選挙や審議に関して、経済的不平等が
靱 が直接選挙制を前提としていたかどうかは、憲法案のなかには明示されていない。六月一五日の国民公会での発言
九
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97
2
︵6︶
ほど大部で完成されたものであったため、ここには、選挙制度についての詳細な規定も存在していた。まず、政府
の性格を定めた第一章の第九条では、﹁人民の代表は、人民によって直接選出される。人民の受任者は、憲法の定め
る形態に従って第二次集会によって任命される﹂と定められた。サン・ジュストの草案では、人民の代表とは、実
質的に法案の作成を担当する立法者のことであり、受任者︵マンダテール︶とは、行政権を担当する執行評議会構成
員、大臣、行政官をさしていた。受任者が何ら代表の性格をもたないものとされていたことから、ここでは、立法
者は直接選挙制、行政官は間接選挙制というロベスピエールと同様の区別が導かれていたことがわかる。
また、サンnジュストの憲法草案では、二一歳以上で一年以上同じコミューンに居住するすべての男性は、人民
の集会で投票権をもつとされ︵第三章第一条︶、公職への被選挙権については資格年齢が二五歳に引き上げられていた
︵同章第二条︶。コミューンの集会は、二年に一度、代表としての国民議会議員を選出するために開会され、各市民
は、一人一票で、全共和国の範囲で絶対多数を得た三四一人の人民代表を選出するものとされた︵第四章第五・七・
一二条︶。投票方法は、すべて大声によることが定められ︵第四章第四条︶、正当な理由のない棄権は不名誉として一
〇〇リーブル以下の罰金を科せられることになっていた︵第四章第六条︶。文盲率の高かった当時の公開選挙の背景に
ついてはすでに触れたが、反革命勢力を排除して人民を強制的に選挙に参加させる構想は、サン‖ジュストの革命
独裁論につながるものといえる。なお、コミューンの集会では、代表選出の後、投票人二〇〇人に一人の割合で一
人の選挙人を選出する︵第八章第一条︶ものとされ、選挙人は毎年改選されて国民公会の招集に基づいて形成される
評議会︵執行府︶の構成員選出のための第二次集会で、同じく大声によって投票を行う︵第八章第二・五条、第四章第
四条︶ことが定められていた。
② 意思決定手続きと立法府
ω 人民による立法
ロベスピエール人権宣言草案では、﹁法律は、人民の意思の自由かつ厳粛な表明である﹂︵第一五条︶として、一般
意思の表明としての法律について定めた。法律の平等︵第一六条︶のほか、﹁法律は、社会にとって有害であること
のみを禁止することができる。また、社会にとって有用なことのみを命ずることができる﹂︵第一七条︶、﹁人の不滅
の権利を侵害するあらゆる法律は、本質的に不正かつ暴虐なものであり、それは決して法律ではない﹂︵第一八条︶
などの諸規定の趣旨は概ね一七九三年宣言にも採用された。彼は、五月一〇日の演説のなかで、ルソーにならって
︵7︶
一般意思の優位を前提として﹁政府は一般意思を尊重するために設立される﹂ことを説き、コ般意思と公権力は同
じ起源をもつ。⋮⋮公権力が一般意思に仕えているときには国家は自由で平和であるが、逆のときは、国家は抑圧
的で動揺している。公権力は、次の二つの場合に、一般意思と矛盾する。それは、法律が一般意思でないとき、あ
︵8︶
るいは、行政官が法律を侵害するために一般意思を利用するときである﹂と。このような見解は、一般意思の最高
︵9︶
性・不可分性・不可代表性を前提にして、一般意思と法形成との一致を強調したサン・ジュストの構想と共通する
ものと考えられるが、ロベスピエールの立法構想は、必ずしも十分に体系化されていたわけではない。
ロベスピエール人権宣言草案は、﹁すべての市民は、人民の受任者の選任と、法律の制定に参加する平等の権利を
もつ﹂︵第二二条︶と規定し、立法にかかわる人民主権原理の内容を述べた。これをうけて、憲法案では、従来の国
民代表制は﹁人民の受任者たちを人民の監視から遠ざけるため﹂のものであるという認識から、立法者の審議の公
開を定めた︵第一三条︶反面、立法についての発案権・議決権・裁可権等に関する規定をおかなかった。ところが、
︵10︶
ロベスピエールは、六月一六日、国民公会で次のように述べて人民による法律の裁可の制度を明らかにした。
﹁受任者の真の性格はその職務の本質によって決定される。さらに、意思は代表されえないのであるから、代表
任者はその取扱いについて、忠実に人民に報告し、尊敬をもって人民の審判に従わなければならない﹂︵第三四条︶
て受任者の任免権を主権者に帰属させ、さらに、﹁人民は、その受任者の活動のすべてについて知る権利をもつ。受
る﹂︵第一四条二・三段︶、﹁すべての市民は、人民の受任者の選任⋮⋮に参加する平等の権利をもつ﹂︵第二二条︶とし
ロベスピエール宣言では、﹁公務員は人民の受任者である。人民は、好むままに⋮⋮受任者を解任することができ
ω 人民による議員の統制﹁﹁命令的委任﹂関係について
属が明らかにされ︵第︸四章第一・二条︶、コミューンの願望に基づいて、公会が改正案を改正案を作成し、コミュー
︵12︶
ンの各市民が賛否の投票によってそれを決する手続きが定められていた︵同章第四条以下︶。
ちなみに、サン‖ジュストの憲法草案では、憲法の制定についての人民の承認と憲法改正権のコミューンへの帰
体的な構想は必ずしも明らかにはされなかった。
論旨は反革命派に対処するという政治的意図によって導かれており、憲法改正手続きに関するロベスピエールの具
︵H︶
れば、自由の敵たちはこの時期を致命的なものにするために準備ができるようになるだろう﹂と。ここでも、彼の
て忘れることである。公会は、突然の嵐︵O﹁①ぴqO︶のときしか招集されないのであり、もし、期間を定めておくとす
が問題になった際、﹁新憲法を創設しにやってくる国民代表に、憲法で期間を定めることは人民主権の諸原則をすべ
公会での発言にも窺える。彼は、一七九三年憲法草案第二四章に関する審議のなかで、国民公会の開催期間の制限
は当然の前提とされていたはずであり、このことは一七九三年憲法草案の憲法改正手続きを積極的に支持した国民
にはその規定は存在しない。しかし、ロベスピエールの人民主権論のなかでは、人民自身が憲法改正権をもつこと
憲法が、憲法改正についての人民の最終決定権を認めるための手続きを明示していたが、ロベスピエールの憲法案
一四条三段︶旨を定めるほか、改正について何ら規定をおいていない。憲法案でも、ジロンド憲法草案や一七九三年
明らかにしていたのに対して、ロベスピエール宣言には﹁人民は、好むままに政府を変え⋮⋮ることができる﹂︵第
なお、憲法改正手続きについては、ジロンド宣言も一七九三年宣言もともに憲法改正権が人民に帰属することを
はいうまでもない。
し、その具体的手続きが明記されていないため、実質的効果については疑問が生じる余地を残すものであったこと
による異議の発動を認めることで、その不備を補い、人民の立法の内容を一歩前進させていたことがわかる。ただ
民拒否制度の重大な例外となって不徹底さを免れていなかった。これに対して、ロベスピエールの構想では、人民
憲法では、何ら人民の承認・批准を得る必要はなく、その成立・発効が完全に立法者に委ねられていたために、人
認を求めるレフェレンダムの制度が基本的に採用されたものと考えられる。また、デクレについては、一七九三年
る人民拒否制度が採用されたのに対して、ロベスピエールの構想では、法律の成立に明示的かつ必要的な人民の承
が窺える。ここに示されたかぎりでみると、一七九三年憲法では、法律についても人民の黙示的な承認を前提とす
の審議に協力する過程で、エロー・ド・セシェルの草案に影響を受けつつみずからの構想を明確化していったこと
想よりも、はるかにエロー・ド・セシェルの憲法草案に近い。このことから、ロベスピエールは、一七九三年憲法
とされた。このような構想は、五月一〇日の憲法案の時点では示されていなかったばかりか、サン‖ジュストの構
に対して、デクレは人民の承認には付されず、制定と同時に事後の黙示の追認を条件にして有効に執行されるもの
したがって、ここでは、法律はつねに人民の明示的な承認を必要とし、これによって有効に成立し執行されるの
るとみなされるが故に執行されるにすぎない。そして人民が異議を述べないとき、沈黙は承認と考えられる﹂と。
そのとき、法律は人民の意思の表明となる。デクレは、人民の批准に付される以前は、人民がそれに承認を与え
を制定する。法律は、人民が正式に承認したときのみ法律の資格をもつ。それ以前は法律案にすぎない。そして、
の語は、人民のいかなる受任者にも充てることはできないと考える。立法府の構成員は、人民が第一の権力を委
% ねた受任者である。しかし、真の意味では、彼らは代表であるということはできない。立法府は、法律とデクレ
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として、受任者の職務に対する人民の監督を原則とした。
に対するルソーの激しい非難を援用して、受任者を不可罰のままに放置することに反対し、﹁自由な国家では、執行
分的責任﹂にかかわる原則は、人民による受任者の審査と不正公務員の処罰を導いた。ロベスピエールは、代表制
という発言にも示されるように、’この要求は、従来の国民代表制に対する批判に由来していた。ついで、後者の﹁身
二千人の聴衆を収容しうる場所で会議を開かなければならない﹂︵憲法案第一三条︶と定められた。また、﹁国民代表
プ
制、それは、公開にとって好ましく、国民にとってふさわしいものなのだろうか。否、それは、人民の受任者を人
︵18︶
民の監視から遠ざけるために、邪悪な大臣の保護の下で、多くの有識者によって策謀として提案されたものである﹂
法上の機関の審議は、公開である。憲法が要求する公開性は、可能なかぎりの最大の公開である。立法府は、一万
審議の公開を保障しているだけでは十分ではない。⋮⋮国民全体がその受任者の行為を知る権利をもつ。可能なか
︵17︶
ぎり、すべてのフランス人が参加するところで受任者たちが審議しなければならない﹂、﹁立法府およびすべての憲
別した。まず、前者は、人民がたえず受任者を監視するために公開の原則にかかわり、﹁憲法が単に、政府の行為や
と﹂を主張し、﹁道義的責任︵庁希。・噂8。。書一一隷日。﹃①一。︶﹂と﹁身分的責任︵冨苫。・o。諺書一一⋮芯oξωδ已。︶﹂の二つを区
彼は、﹁公務員を、諸個人でなく主権者の現実の支配のなかにおくことによって、彼らに重大な責任を負わせるこ
とは一旦切り離して、ロベスピエール固有の構想をさらにみよう。
この問題は、単に議員の地位や責任の問題にとどまらず、代表制論の内容にかかわるものであるため、その実践
なかで、議員の報告義務と人民の審査についての当初の構想を、陰謀の存在や実現困難性を考慮して改めたことを
︵16︶
披漉したことには、彼の代表制論が命令的委任構想から離れる形で変容をとげたことが窺えた。
示された議員の謎責制度の成立にも消極的であったばかりでなく、議員の免責特権についての六月一五日の発言の
に示されていた。すなわち、エロー・ド・セシェルの当初の国民陪審︵大陪審︶制度の案に反対し、六月二四日に提
このような不徹底さは、より端的に、国民公会での審議のなかでのロベスピエールの発言と、見解の変遷のなか
定との関係も明確にされてはいないようである。
体に委ねている点では、選挙民による責任追及の原則が貫かれているようにみえ、人民全体に対する責任という規
は異なることが留保されなければならない。もっとも、ロベスピエールの構想のなかでも、受任者の罷免を選出母
に対する議員の責任が問題になっている﹂点でも、本来の選挙民の強制的な委任を意味する﹁命令的委任﹂制度と
明確にされ三ない占︹あるいは、ブ馳デュ一フンの指摘するように﹁馨民に対する實の主貝任でなく人民全体
員がこれに拘束されて行動するという次にみるヴァルレなどの構想とは異なるものであり、具体的な委任の内容が
れてきた。しかし、ロベスピエールの構想は、立法行為自体について、選挙民が一定の強制的な訓令を提示し、議
め、遭に対する法的なコントロールを認めるとい昌味で﹁命A謁委任﹂の採用を示唆したものと従来から蟹
人民にその罷免権や監督権を認める構想は、議員を選挙民から法的に独立した国民代表とする考え方と対立するた
らは真の意味では代表であることはできない﹂という発言でも確認される。立法府の議員を人民の受任者としつつ、
かであり、このことは、すでにみた六月一六日の﹁立法府の構成員は人民が最高の権力を委ねた受任者である。彼
さて、議員の地位についてみれば、ここでは立法府の議員が受任者のなかの主要な位置を占めていたことは明ら
事実上の公職追放、再選禁止の効果がもたらされることが定めら提・
頼を喪失したかを宣言する。信頼の喪失という審判が下ったら、いかなる公職にも就くことができない﹂とされ、
の任期の終了後に、その委任者たちの厳粛な審判に付される。人民は、単純にその信頼を維持したか、あるいは信
と、選挙民による罷免権を認めた。また、その趣旨説明のなかでも、﹁立法府の議員や執行府の官吏・大臣らは、そ
雇しうる﹂︵第五条︶、﹁すべての公務員は人民に対して責任を負う﹂︵第一四条︶として、受任者の人民に対する責任
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3 これをうけて、憲法案でも﹁すべての公務員は人民の受任者である。人民は、受任者を選任したと同じ方法で解
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者の公的な犯罪は、市民の私的犯罪と同様に、厳重かつ平易な手続きで罰せられなければならない。政府の犯罪を
されるとき、各県は共和国の他の諸県の審査に付すことができる。また、所定の期間内に、第一次集会は、この点に関するそ
からすれば、次にみる立法・行政の権限分立の構想や憲法案第一九条︵﹁立法府や政府の行為によって人民の権利が侵害
いものとして、政府・執行者の専横に対する制約の意図が存在していたことに注意しておく必要がある。この観点
もっとも、実際には、ロベスピエールにとっては、国民代表制の否定という意図のほか、むしろそれよりも根深
検討にとって、価値ある素材としてロベスピエールの代表制論の意義を認めることもできるであろう。
一 ︵22︶
心からすれば、人民主権原理に適合的な統治形態の多様性、さらには、国民代表制論と命令的委任論との相互性の
置づけることの意義を、代表制論に即して検証しえたことにもなるであろう。また、代表制に関する憲法理論的関
ることでルソーの代表否定の論理により接近しようとしたヴァルレらアンラジェとの中間に、ロベスピエールを位
に固執した議会派ブルジョワジーと、各選挙区での選挙民と受任者との間の個別具体的な命令的委任関係を重視す
するということができる。このことは、代表の主権者全体に対する責任を問題にすることで国民代表の統合的側面
型、すなわち、一七九三年憲法の人民拒否ないしレフェレンダム型と、ヴァルレの命令的委任型の中間的な型に属
したと思われる立法手続きと併せて考察すれば、ロベスピエールの構想は、まさに、人民主権実現のための二つの
の強制的委任を要素とする本来の命令的委任関係と抵触するものと考えられる。前項でみたレフェレンダムを採用
的拘束を前提にしていたことが承認される反面、議員の任期中の﹁不訴追特権﹂などは、個別具体的内容について
査・罷免という制度を網羅し、とくに選挙民自身による罷免・責任追及手段を認めていた点では、議員に対する法
されていたといえるであろう。また、命令的委任の問題についても、人民の、受任者に対する選任・監視・事後審
︵21︶
る徹底的なコントロールを主張したアンラジェとの比較において、ロベスピエールの”議会派”としての限界が示
に賛成して免責特権を主張したロベスピエールは、一七九三年の時点でも同様に、﹁立法者専制﹂の危険よりも一層
︵20︶
﹁執行府の専制﹂に対する危惧を強くもちつづけていたと解するほうが妥当であろう。この点でも、立法者に対す
障することで、特権による﹁立法府専制﹂の危惧を排したものと考えられる。というより、一七八九年にミラボー
でないことは明白であり、人民の審査という一層民主的な方法で、事後的に直接議員の責任を追及する手続きを保
おける免責特権の規定との相違を想起すれば、彼が、議員に特権的な不可侵性を付与することを目的としていたの
すれば、ここで任期中の﹁不訴追特権﹂を認めていたことと抵触するようにもみえる。しかし、一七九三年憲法に
﹁人民の受任者は、誰も他の市民に比して、自己が不可侵であると主張する権利はない﹂と明記していたことから
立法者は任期中は裁判所に訴追されないこととされたことが注目される。ロベスピエールが憲法案第三三条後段で、
ここでは、議員の背任行為については人民裁判所の裁判が定められていたのに対して、議会内の発言については、
条︶と。
の客観的事実は、人民裁判所によって裁かれる。私的な軽罪については、通常の裁判所によって裁かれる﹂︵第一七
かどうか、という問題について意見を表明する﹂︵第一六条︶。﹁前二条所定の、公務員に責めを帰すべき腐敗や背任
その行為は、彼らを選任した人民によって厳粛に審査される。人民は、みずからが授けた信頼にその市民が応えた
成員は、議会で表明した意見のためにいかなる既存の裁判所によっても訴追されない。しかし、任期の終了時には、
うに定められた。﹁公務員の不正の識別を唯一の任務とする裁判所が設立される﹂︵第一五条︶。﹁立法府のすべての構
受任者に不正の嫌疑がある場合に、それを罰するための特別の人民裁判所に送られることとされ、憲法案に次のよ
含まれた。とくに、立法府の議員の統制手続きとして、受任者の任期終了後の選挙民による審査と公職追放のほか、
条に規定されたが、後者については、執行府の官吏の行為についての立法府への報告義務と人民裁判所への訴追が
務員の解雇の手続きと、第二に、立法府による執行の受任者の監視の手続きである。前者はすでにみた憲法案第五
の
3 罰する護は、主薯に帰属しなければならない﹂として二つの提言を行つ.煙・それは・第一に・食による全公
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の意見を表明するために集会する﹂︶で定められた県やコ・、、ユーンでの審査こそ、ロベスピエールに特徴的な公職責任
3碗
追及制度と解することができよう。
③ 執 行 監 督 手 続 き と 行 政 府
ω 人民による行政統制ー身分的コントロール
︵23︶
ロベスピエール憲法案を貫いたものは﹁執行府に対する徹底した不信と敵意﹂であり、その主眼も主権者人民に
よる公務員の統制の確立にあった。そのために彼は、公務員に対する﹁身分的責任﹂の追及と、執行府の堕落・暴
政を防ぐための権限分離の構想に熱意を注いだ。
まず、公務員の身分的責任追及の手続きは、前項でみた議員に対するそれと基本的に同様である。公務執行者は
すべて職務のための受任者にすぎず、人民による任命.権限委託・監視・審査・罷免を受けるべきものとして理解
された。﹁すべての公務員は、受任者に対して責任を負う﹂︵憲法案第一四条︶という大原則を前提として、これを実
現するために、人民の知る権利、受任者の職務報告義務︵人権宣言草案第三四条︶や受任者の犯罪処罰などの規定︵同
第三四条︶や、任免、審議の公開、責任追及・訴追のための諸規定︵憲法案第五・一三二七条︶がおかれた。その基
︵24︶
礎には、﹁統治する人々を審査するのは世論であり、世論を支配し作りだすのは統治者ではない、という視点を失っ
てはならない﹂という、世論や一般意思による行政支配の原則、さらに、﹁公務は、特典とも褒賞ともみなされるこ
とはできない。それは公的な義務とみなされるべきである﹂︵人権宣言草案第三二条︶という公職観があった。ロベス
ピエールは、政治組織を腐敗させたものはアナーキーではなく、専制と貴族主義であったという過去の歴史につい
ての認識から、市民の悲惨の原因をすべて政府の犯罪に求め、﹁あらゆる憲法の第一の目標は政府自体から公的自由
︵25︶
と個人的自由を守ることでなければならない﹂という結論に到達した。その憲法構想のなかで、公務員の義務や責
政機能、立法機能、司法機能は分離される﹂ことを定めた︵第二条︶。これは、ロベスピエールが﹁権力の分立﹂
以上のような細目をぷまえて、憲法案では、職務の任期を二年以内とし︵第九条︶、兼職を禁止し︵第一〇条︶、﹁行
⑤行政各部は、仕事の性質に応じて可能なかぎり区別され、異なる担当者に委ねられなければならない。﹂
④立法と行政は、厳格に分離されなければならない。
増やすほうがよい。
③権限︵℃Oロ<O隅︶は、分割されなければならない。少数の者に非常に強大な権限を委ねるよりも、公務員の数を
②何びとも同時に数個の行政職を担当してはならない。
その権限がより広範である者に対してこの原則を適用しなければならない。
﹁①この︹行政権の制限という︺目的に至る第一の規則は、その権限の継続期間を短くすることであり、とりわけ、
目を提示した。
さて、誌スピエ←は、五旦○日の演説のなかで、行政官の権限に正当な制限を与えるための次のような細
㈲ 機能上の執行コントロールー﹁権力分立﹂について
であった。
任について最も多くのことを語り、最も多くの規定をおいたのも、政府の専制を抑制するという意図に立ったもの
理
瀬
嚥 ではなく、﹁権限あるいは職能の分離﹂を認めることを明らかにしたものである。彼は自由の擁護と暴政の改革のた
離 めの二つの方法として、諸権力の均衡と護民官制度をあげ、前者について次のように述べた。﹁諸権力の均衡につい
廿 て は 、 流 行 が 近 隣 諸 国 へ の 敬意を要求したようにみえたり、自国の堕落が外国の諸制度を尊敬させた時代には⋮⋮
る批判から、一七九一年憲法に採用されたような権力分立原則を否定したが、その基礎には﹁人民を代理する議員
繍すわぎれずわ、れまはそたの、威政信府にのだ絶ま対さ的れなで無い能るをこ示としがてでいきるた・。としがかわしか、る多で少あと左も粥熟﹂考とす・れこばこ、でそはの・均イ衡ギはリ幻想スものし袋く制はに禍対にす
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と選挙権者のみが権力をもち﹂、他の執行者はすべて公務を担当する受任者にすぎないことから導かれた﹁立法府の
︵28︶
で、かつ、簡潔であること﹂、﹁集会の日程はすべて、国民の勤労階層にとって最も便利な時期に定められること﹂
行使を有償にしたことも、当時の民衆の利益に応えるものであった。﹁選挙規則・議事手続きが、できるかぎり平易
が、法律で招集される人民の集会で、公の問題に費やす時間について補償がなされることを要求する﹂として主権
第八条で﹁財産の不平等が、、少しも権利の平等を破壊することのないように、憲法は、労働によって生活する市民
ればならない﹂という結論に到達したロベスピエールは、第一次集会での主権者の自由の尊重を強調した。憲法案
配に抑圧されてきた過去の政治を顧みて、﹁人民は、その自由と正義に基づいて公の集会に参加することができなけ
もあった集会の自由と市民の積極的な政治参加を可能にするための方策を提起した。すなわち、主権者が暴君の支
このようないわば団体自治の規定に加えて、さらに、住民自治に関することとして、サンnキュロットの要望で
︵32︶
︵憲法案第一二条後段︶と定めていた。
﹁憲法は、コミューンに対して、共和国の一般行政に属さない、その固有の自己について規制する権限を認める﹂
ものはすべて個人の自由に帰せしめよ﹂という原則を立てて、コミューンに固有事項に関する自己規制権限を与え、
が統治しすぎてきたことが悪弊の源であるとする彼は、それを避けるために﹁本質的に公権力に属するものでない
日の演説では、さらに、行政権限を抑制する装置としての﹁護民官制度﹂を想定したうえで、﹁私が護民官制度を委
︵31︶
ねるのは、フランス共和国の各セクションに対してである﹂と述べてセクションへの信頼を表明した。また、政府
由とともに、警察︵秩序維持︶や議決の権限を保持することを明らかにしていた︵人権宣言草案第二〇条︶。五月一〇
者の各セクションは、いかなる既存の機関の影響力にも命令にも従わず︵同第七条第二項︶、意思を表明する完全な自
ョンに区分されても、人民の諸権利は、唯一の集会で全体的に審議するのと同じように現実的で神聖であり、主権
︵憲法案第七条第一項︶ことを前提として、セクションの集会を基盤とした主権行使方法を考案した。たとえセクシ
ロベスピエールは、人口も多く面積も広い共和国で、フランス人民が主権行使のためにセクションに区分される
ω セクションの自治と地方行政制度
選挙制が採用された。また、すべての市民が国民議会に対して評議会の構成員を告発し︵同第九章第四条︶、国民議会
︵30︶
は必要に応じていつでも評議員を召還できることが定められていた︵同第一三章第三条︶。
をもたないものとして、立法府と区別され、これが一般意思によって選出されるのを避けるために、県ごとの間接
の法律とデクレの執行のためにのみ行動し、一般行政のみを担当する評議会は︵同第=章第七条︶、何ら代表の性格
議会の単一不可分を定める︵第一編第九章第一条︶とともに、執行府の立法府への従属を原則としていた。国民議会
この点について、サンnジュストの憲法草案も、﹁共和国の統一は、政府の統一によって維持される﹂として、評
想と軌を一にするものであった。
化することによって、立法府への実質的な権力の集中を図りつつ、人民主権の実現をめざした一七九三年憲法の構
を従属させる形での行政統制の構想を確立していた。これは、主権者人民ー立法府ー執行府という主従関係を明確
視した。彼は、人民裁判所やコミューンで行う公務員の身分的統制のほかに、権力分立を否定し、立法府に執行府
以上のように、ロベスピエールは、行政官の専制が主権をむしばんできたことの認識から、とくに行政統制を重
に、彼らを訴追する権限をもつ﹂として、執行府の立法府への従属を明らかにした。
︵29︶
はならないからである。その代わり、立法府は、公務員の職務怠慢を識別することを唯一の職務とする人民裁判所
の場合は、立法府は執行府の構成員を罰することはできない。なぜなら、執行権を掌握する手段を立法府に委ねて
ることは当然である。したがって、執行府の構成員は、立法府に対してその活動を報告しなければならない。不正
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3 優越﹂の原則があった。ロベスピエールは、﹁法律の制定を任務とする機関が、その執行を委ねられた機関に優越す
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3 ︵33︶
を主張したことも、ロベスピエールをして民衆の側近くに位置づけさせる理由の一つである。
偲
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ついては何も規定をおいていない。一七九三年憲法草案第一六章の地方行政府に関する六月一六日の審議で、ロベ
さて、ロベスピエールは、以上のようなセクションの自治論を構築していたが、地方行政制度や地方自治制度に
スピエールは、﹁︹地方︺行政官は何ら代表の性格をもたない。彼らは、いかなる場合も立法府の諸行為の執行を停止
したり、変更したりすることができない。⋮⋮﹂とする原案に対して、﹁人民の受任者の真の性格は、その職務の性
格によって決定されるのであるから、この規定は全く無用である﹂と述べ、人民の意思は代表されえないことから、
人民の受任者は代表ではないことを強調した。これに対して、人民の意思は代表されうるとしたデュコの反論の後、
国民公会は原案を採択したが、次のパラグラフの﹁︹地方︺行政官は、司法、軍事、立法の職務および執行評議会の
職務に干渉することはできない﹂という規定は、これらはもともと県の行政官の固有の職務ではないことを理由に
︵34︶
反対したロベスピエールの意見に従って削除された。ロベスピエールの見解は、行政官を受任者と解する本質論に
終始し、地方自治制度についての具体的な構想は明示されていないにしても、これらの点からは、﹁人民ー立法府−
行政府︹中央の執行評議会ー地方行政組織︺﹂という主従関係を明確にしつつ、中央との関係では集権的機構を採用し
たものと解することができる。
このようないわゆるジャコバン的な中央集権機構論は、サンnジュストの草案にも示されたが、いずれも、主権
行使の基盤としてのセクションやコミューンなどの自治がその人民主権原理の基底に据えられ、行政面での中央集
︵35︶
権主義とも矛盾しないものと捉えられていたことがわかる。サンuジュストの草案では、﹁共和国の統一︹単一性︺
︵36︶
は政府の統一によって維持され、一般意思の実現と代表の統一によってのみ守られる﹂ことを基本として、共和国
を県.︵各々三つからなる︶郡・六〇〇ー八〇〇人の選挙民からなるコミューンに区分し、﹁国民の主権は、コミュー
ンにある﹂︵第一編第二章第六条︶として、コミューンが国民議会の選出・審査のほか最終的意思決定の場となること
が定められた︵第一四章︶。農村地域︵8∋冨ぴqコ。︶では、コミューンごとに一つの市町村会︵ひ。房。一一△①8∋日⋮碧芯︶
がおかれ、都市では、各コミューンが一人の議員を選出して、人口にかかわらず各都市に一つの市町村会がおかれ
て、各々、公役務その他の地域行政の調整・分配にあたることとされた︵第一六章︶。すべての法律がこの市町村会
で﹁国民議会とフランス人民の名において﹂公布される︵第一七章︶ほか、各コミューンで市町村長や検察官、叛乱
︵37︶
を鎮めるための﹁年寄﹂などを選出し、独自に治安・警察の職務を行うこととされた︵第二編第二章・第三章︶。ちな
みに、サンnジュストは、これらの自治組織を基盤として中央集権的な強固で単一の行政組織を構築しようとして
おり、国民公会の審議のなかでもジロンド派のフェデラリスムに対する激しい敵意を示していた。五月一五日のサ
ン日ジュストの発言は、アメリカなど連邦国家制を批判しつつ、共和国の統一は、︵国土でなく︶人民を基礎とした国
︵38︶
の分割と国民代表の単一性、一般意思の自由な行使のなかにあることを主張したものであった。ここでは、国民代
表の単一性を前提として、単一の議会︵ないしは公安委員会や革命政府︶への権力の集中を図る構想が示されており、
’
θミ§合 ㌔ & § ヘ ミ さ 二 ] 〆 O ° 芯 o 。 °
地域代表的性格を厳に排除した点で、次にみる民衆の憲法原理との相違が示される。
︵1︶
︵3︶
觧§㌔忘§ヘミぶ吟二×wO°m自゜
卜㌔“一゜℃⇔°Φ9掌9﹂°
きミこ⇔]דP切ON“99︵宗︶°
︵2︶ きミこ⇔]×、P切Oト。°
︵5︶
︵4︶
θミ§合 ㌔ 忘 § ヘ ミ さ 二 ] × ° ⑰ ︽ q ⊃ 9
︵6︶ 卜㌔二゜℃戸Oω、℃PNO口9ω゜
︵7︶
﹄°㌔三゜ωこ戸Oω、O°NOドサンnジュストは主
、権が代表されえないことを前提として、一般意思が法律だけでなく
︵8︶ さミ゜二﹂×w廿゜OO◎。°
︵9︶
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代表にも一致させられなければならないことを説き、法律と代表が一般意思という共通の基礎をもつことを明らかにし
た。ブMの理解を可能にするために、彼は、立法者は人民のかわりに法案を審議することを構想したが、実際の立法手続
きには、一七九三年憲法のような人民拒否や、ジロンド草案のような人民発案の制度は採用されていない。ここでは、
に対する採否または変更について、コミューンの決定権が留保された︵第一編第一四章第一条以下︶。へ③ミ゜も﹄声O参照。
憲法の改正についてのぞ・三ーンでの人民の最終決定権のほか、︿執行︶評議会によって人民の審査に付託されたデクレ
﹀㌔三゜℃r毯、やぼ◎。⋮爲§§藩畑o倉も芯ミ三民もや謬゜。−切$°
︵10∨
︵11︶﹄勺ニカ㌍[°①メや①誤゜
ら㌔二あ膓戸ひぷO﹄﹂O°
§s§鳥㌔忘恥愚\ミ弐⇔°︼×、⑰OOO°
︵12︶
高野真澄.前掲論文︵﹁ジロンド・ジャコバン両憲法における人民主権実現の構想・再論﹂︶=八ー=九頁、柳
︵13︶
︵14︶
春生・
前
掲
論
文
︵﹁フランス大革命の憲法における人民主権思想の展開︵二︶﹂︶一二五頁以下参照。このほか、和田・前
掲論文
は 、 ロベスピエールの構想を﹁命令的委任﹂論と理解する支配的見解のなかに、拙稿﹁﹃命令的委任﹄法理に
六
頁 関する
覚
え
謬
き
﹂ 一橋研究第二巻第三号八六頁も引用しているが、拙稿では、命令的委任の採用を示唆したものとしつ
つも、 個別的な委任を前提にしていない点など、ヴァルレらの構想とは異なるものとして留保している。また、高野・
前掲論文も﹁九三年の人民主権を象徴するとみられる命令的委任が全体としで観念的なものにとどまっている﹂ことを
指摘し、﹁命令的委任の不徹底の側面﹂にジャコバン的共和政体の限界を見出している点では、いずれも﹁命令的委任﹂
論と断定的に理解しているわけではないといえよう。
︵15︶ 恒O昌△ξ呂臼卜恥§§§こ§ヘミミ“H。。㊤⑦もPべ。。㎏g⊃参照。なお、岡本明﹁ジャコバン国家論﹂社会思想二巻一号
員は使命受託の源泉を入民の全体にたいして負うという観念によって、ヴァルレら最左翼の強制委託論ーそれは、選
一六八頁も、ジャコバン流人民主権説は国民代表制と強制委託の原理を二つの柱としていたことを指摘したうえで、﹁議
出単位ごとの予選会による議員の再査問と法案の審査、および委託行為の即時撤回を主張したーとも一線を画した﹂
と結論している。
︵16︶本書第二章第一節二︵一=二、=七頁︶、﹄°㌔こ一゜9けΦΦもP忠N占︽ω、ぼO吟゜弍もU二ω㊤−一合参照。
︵18︶ さミこ一゜一דP切Oふ
︵17︶ §eさ句合㌔90魯ヘミさ二﹂×、OPOON−9ω◆
︵19︶ さミこ け ﹂ × “ P O O 切 ゜
︵20︶ ロベスピエールにとっては、何より執行府から議員を守ることが重要な問題であったため、一七八九年六月二一二日
ミラボーの提案によって﹁議員はその公表した政見の故に法廷に立たされることがない﹂と決定されたとき、ロベスピ
訳書五四頁参照︶。なお、一七九三年憲法第四三条は﹁議員は、立法府内で述べた意見のために、いかなる場合も捜査さ
エールは、﹁議会の同意なしには、議員は刑事裁判に付されることもない﹂とすることを要求した︵ブゥロワゾー・前掲
一三頁︶参照。
れ、訴追され、裁判されない﹂と規定されたが、ロベスピエールは結局この原案を支持した。本書第二章第一節二二
︵21︶ ヴァルレは、立法者専制の危惧を主要な動機として人民主権の実現を目標としたため、国民公会自体が、彼らの主
張に対する敵として位置づけられることが可能であった。この点、ロベスピエールにとっては、単一の議会による専制
は問題にならず、主権の実現主体はむしろ議会であるとする考えが強かったといえる。ソブールも同旨の結論を表明し
ている。﹀°むoO亘O巳、§⇔ボ㊤寒蕊六ミ合、SD災㌔へ忘ざ㌘OPN誤Oけω゜
く、いわば﹁﹃公務の信託﹄論とでも呼ぶべきものであった﹂ことを明らかにし、﹁﹃代表委任﹄と﹃命令的委任﹄との対
︵22︶ この点では、和田・前掲論文が、ロベスピエールの代表制論は通常理解されているような﹁命令的委任﹂論ではな
立の図式から離れること﹂、﹁﹃国民代表﹄概念は、﹃代表委任﹄概念とは区別して把握しなければならない﹂︵一二頁︶と
指摘する点が注目される。前掲・拙稿︵﹁﹃命令的委任﹄法理に関する覚え書き﹂︶九二頁で、レフェレンダム型と命令的
委任型との区別に関連して、﹁意思決定手続きにおける委任の内容を一般的なものに拡大してレフェレンダム制度との競
合をはかると共に選挙区民に対する議員の事後報告義務および、いわゆる忠実義務を前提とする、議員の責任追及︵召
理
12
3
原
絃
の
彗氾
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第
章
13
3
還・審査・罷免など︶を認めることは理論上は不可能ではないであろう﹂と述べたのも同様の趣旨である。ロベスピエ
提に立って、今日に実現可能な命令的委任制度を追求することもこれからの理論的課題となろう。
ール構想はまさにこのような折衷案であり、人民主権原理に適合的な統治形態は決して一元的なものではないという前
彼の意図をかなり忠実に受け継いでいる﹂と解されているが、とくに行政統制についてそれがいえるにしても、一般的
︵23︶ 高野・前掲論文一一四頁。ここでは、一七九三年憲法は﹁従位的行政府制︵①×伽o暮一︷△m℃o昆①日︶の面において、
︵24︶
觧合㌔&§芯き二﹂ד⑰9一゜
に一七九三年憲法に対するロベスピエールの直接的影響を過大評価しえないことは、すでに繰り返しみたところである。
︵25︶ きミこけ﹂×、Pお①゜
≧ミ゜ニニ×wPOOP
︵26︶
︵27︶ ≧ミこ︷]×w⑰芯O°
︵28︶ さミこ︷]ד戸9N︰ζ゜ロo已一〇⋮ω①①5§°☆S二〇°ミ゜
︵29︶ θミさ防合為o曾魯ヘミさ二右︼דや㎝O口右
θNミ§合㌔忘oもヘミさ二﹂ד巾切OO°
︵30︶卜㌔二゜ωこ⇔°Oω、OPNO。。−N一〇°
︵31︶
︵32︶ さミぷ⇔二×、や9ゲO°㎝8°
︵33︶ さミ゜ン﹂×°O°切Oべ゜
ジャコバン主義の特徴的な諸要素と行政との関係について、○騨自△o力①巨or.、いoω廿8ぴ日ω卑一、注邑己ω茸巴⋮8、、、
︵34︶卜㌔こ一゜ωこ庁09P日。。°
︵35︶
㌔ミ§
合 ⇔ さ叉
ミ へ♪
= 一 一一
︹ ①o
二 ㊤ 。。
も ℃°
。 。 。O
P が詳
い 検 討を
っ てい
注 目 され
。こでは主に革命政府下
ぎ ] 而 O ﹄ 。 卑 し 行 て るこ
のメ カ ニ ズム
れ 、中央集権主義についても、本書でみたような一七九三年憲法制定過程でのロベスピ
の
解
明
が
対
象
と
さ エールらの市町村自治主義的な宣言︵△mo品﹁o江oo。・∋已己6■①一富①茸mω︶を革命政府の体系にまで広げて拡張解釈しないよ
︵迂⇔°も゜。。8︶。
うにとの指摘がされている。革命政府の時期には、市町村を含む特殊的な利益が、 国家利益の絶対的な優越によってほ
とんど否定され、制圧されたからである
︵36︶ ﹄°、二一゜ω二︷°巴、O﹄Oふ゜
︵37︶ さミこOやN一一−曽ω゜
︵38︶ ﹄㌔こ一゜°。こ戸O合OPOq⊃。。−08°
14
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理
原
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法
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第
15
3
第四節 アンラジェの憲法原理
サンnキュロットとアンラジェの憲法思想
ーサンnキュロット運動とその理念
ω サン・キュロットの構成と運動基盤
︵1︶
サン・キュロットとは何か。これについてある資料はいう。
﹁サン‖キュロット︵ω①昌ωlO已一〇︷吟O︶⋮⋮それは、いつも徒歩でゆき⋮⋮巨万の富も、城も、召使ももたず、全く
質素に、妻子とともに、さしずめアパートの五・六階に住む者である。そして彼らは、役に立つ。なぜなら、彼
らは、畑を耕し、鉄をきたえ、鋸でひき、やすりをかけ、屋根をふき、靴をつくり、共和国を救うために、自分
の血の最後の一滴まで流すことを辞さないのだから。⋮⋮夕方、サンnキュロットは、セクションに出席する。
演壇の他の市民から際立ちたいために、髪粉をふりかけ、じゃこうの香水をつけ、長靴をはいてくるやからとは
違って、サンnキュロットは、全力で善良な運動を支え、政治家たちのいまわしい一派の運動を粉砕するために、
やってくる。そして、サンnキュロットはすべての悪人の耳を裂くために、つねに針金と砂利をもち、時には短
刀をもって歩く⋮⋮﹂と。
このように、サンuキュロットとは、社会的な地位も富ももたぬ民衆の総称であり、﹁キュロット﹂︵半ズボン︶を
︵2︶
はいた貴族や上層市民と対比して、長ズボンをはいていたことからこう呼ばれた。さらに、サンnキュロットは、
愛国の革命的・政治的民衆の呼称でもある。それは、政治的カテゴリーで用いられ、主として都市で、自律性を伴
︵3︶
った政治運動の主体となった政治的な民衆を意味していた。
︵4︶
サン・キュロットの社会構成をみると、彼らは、何ら一つの階級を構成していたわけではない。彼らは、手工業
者・小規模店主など小ブルジョワを中心にしていたが、上限には、大商人や農業経営者など生産手段の私有によっ
て利益を享受しうる者から、下限には、事実上賃労働者化した手工業者・職人︵OO︹口O①ひqOO昌ω︶・旦雇者︵]8∋巴一2ω︶
︵5︶
を含み、時として、両者の間には対立すら存在していた。もっとも、賃労働者といっても、工場プロレタリアート
のような資本主義下の労働者ではなく、むしろ小企業主とともに生活して働く家内工業の奉公職人がほとんどであ
った。そのうえ、彼らには、階級的自覚は存在していなかった。この点について、ソブールは、﹁手工業者︵曽江。。きω‖
自営の家内工業職人︶は、奉公職人︵∩◎日O①胃O昌o◎‖O已く叶一①叶ω︶の身分に陥るのを恐れていた。奉公職人は生活物資の高
︵6︶
騰をひき起こした買占人11大商人を憎悪した﹂と指摘する。サンnキュロットの活動分子の大半がこの奉公職人に
ン
属するものであったにせよ、彼らは、大商人や手工業者たちに対して、労資間の明確な区別を前提にした階級意識
︵7︶
を共有していたというにはあまりにも未成熟であった。このことは、当時の資本主義的集中の度合を示すものでも
あり、また、彼らの間に階級的な団結が存在しえなかった状況をも示している。したがって、サン目キュロット運
動自体を、階級基盤あるいは階級意識において同一の、統一的な政治運動と解することはできない。
を基盤にするものと、民衆協会︵ω。o一騨mωo。署巨8ω︶を基盤にするものの二系列に分かれていた。一七八九年の革
そこで、彼らの政治活動の基盤と形態が問題となる。サンnキュロットの政治的実践は、主として、セクション
︵8︶
命勃発時には、民衆運動は定着した基盤がなく混乱の状況にあったが、一七九〇年の春以降、初期の民衆協会が発
生し、セクションが自治組織として政治化した。とくに一七九二年から一七九三年にかけて非常に大きな役割を果
16
3 たしたのは、セクションである。
ω セクションの組織と役割
一七八九年春、セクションは、すでに三部会代議員選出に関する選挙区単位として存在していた。同年一二月一
四日のデクレは、地方自治体全域で選挙区としてのセクションの構成を確認し、一七九〇年五月二一日のパリ都市
法は、パリについて、ディストリ㌶︵畠・。吟.一。。︶を廃止して四八セクションに区分したうえ、セクションを轟とし
て新たなパリのコミューンを組織した。これによって、パリの各セクションは、まず、選挙区として機能するため
に、第一次集会と選挙人会をもつことになった。前者はすべての能動的市民から成り、後者は、これによって選出
される選挙人から成っていた。一方、セクションは、コミューンの新設に伴う行政下部機関としての機能の獲得に
よって、常設の市民委員会︵nO∋=mn一く=︶を発足させた。この市民委員会は、警察職務の補佐のほか、食糧供給や
救済等の一般行政に関与し、セクション内の執行部的存在であった。しかし、しだいにコミューンの下部組織的性
格が強まると、比較的裕福なサン、誌︶ロ。ト上層によって構成された.﹂の委員会は、セクション内の暴から遠
ざかり、曖昧な性格をもつようになった。これに対して、一七九三年三月二一日に成立して以後、セクションの革
命実践の場として力をもったのが革命委員会である。この委員会には、比較的下層の活動分子が集まり、一七九三
年九月には反革命者の逮捕状公布権をもつなど、有力な権力行使が可能とされてぬ剋。
また、委員会とならんで重要な機能を果たしたのが、市民全体から成るセクション総会︵①ωω①∋三m。ひ。合騨巴。︶で
ある。一七九〇年五月二一日のデクレでは、コミューンの監督に服することが定められたほか、その機能や会期・
目的などは自由であっ誌、三九一年五月一八⊥三日のデクレで、総会の開催が純粋に自治体行政目的のもの
に制限されることになった。これを契機に、セクション総会の”常時開催”を要求する運動が高まり、一七九二年
七月にそれが実現した後は、セクション総会は、民衆の政治参加の第一の基盤として機能した。すなわち、人民の
自治の実践の場であると同時に、主権行使のための第一次集会と同様、選挙や当選者の審査等について、人民が直
接討議し、議決する場となった。
現に、市長選挙を契機にセクションの活動が高揚した一七九二年一〇ー一一月のパリでは、セクション間の連帯
をめざした指導者たちが、パリの四八セクションからの代表九六名を集めて、エヴェシェ︵国くΦn冨‖旧司教館︶を拠
︵13︶
点にした全セクションの中央委員会を形成し始めていた。この中央委員会こそ、後にみる過激派リーダー、ジャン・
ヴァルレ︵冒昌く巴Φ↑︶を中心にした人民主権実現のための組織であり、一七九三年五月三〇日ー六月二日の蜂起
の主体であった。しかし、一方で、このようなエヴェシェの勢力とは別に、同じくセクションに基礎をおく勢力が
︵14︶
コミューンに存在していた。それは、四八セクションの代表からなるコミューン総評議会︵n8ωo=°q伽忌﹁巴︶であ
り、とくに一七九三年の春以降、エベール派の支配下に、セクション中央委員会と対抗しつつ、国民公会を圧迫す
︵15︶
る大きな勢力となっていた。
㈹ 民衆協会
ノ
民衆協会は、一七九〇年春から成立した政治的クラブであり、当初は、誰でも自由に加入しうる、地域住民の政
⑳ ︵16︶
㎜
艦
て、民主的な意見を表明し続けていた。わけても、一七九一年六月、国王のヴァレンヌ逃亡に端を発した﹁王位廃
コルドリエ・クラブは、制限選挙制批判、国王の拒否権への反対、憲法の人民による承認の要求など、議会に対し
で指導的役割を演じるようになり、全国的な政治結社となっていたジャコバン・クラブと覇を競う立場にあった。
コルドリエ・クラブ︵︹︼⊂ぴOOω︵▽○叶工O一一〇﹁on︶は、当時でおよそ一七箇所位あったといわれる小規模な民衆協会のなか
市民の結合をめざす組織であったといえる。・そのなかで、一七九一年春以来マラーの活躍を中心に隆盛をきわめた
ヨ 治的啓蒙のための組織であった。この点で、従来のサロンや、議員中心のジャコバン・クラブとは違って、自由な
九
七
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章
三
第
17
3
憲
理
止の註謂願﹂は、他のいかな隠進グル少にも先がけ窪目すべきものであ・.口.発足当初はその漢員が﹁富裕
も消滅しなければならない。もはや、金持ちにとっても貧乏人にとっても、ただ一種類の小麦粉のパンだけしか存
﹁過剰所有は、人民の権利の明白で根拠のない侵害である﹂という考えから、﹁平等の体制にあっては、富も貧困
でいった。
を享受する機会の平等﹂としての﹁享受の平等﹂は、食糧を得るための要求から、しだいに公平分配の要求に進ん
いかぎり意味はない。金持ちは貧者より少しもいい生活をしてはならない﹂という言葉どおり、この﹁社会の恵み
・ ︵23︶
三年には、平等とくにコ享受の平等﹂の達成が革命の第一目標とされた。﹁平等は、生活面のすべてにあてはまらな
一方、生活面からのこの要求は﹁富の不平等﹂の認識と結びつき、民衆の社会的平等への熱情を呼びさました。
ン
ソブールは、この根深い平等主義こそ、サンnキュロットの思想と行動の紐帯であったと理解しているが、一七九
えをしのぐに足る食糧を得る権利として観念していたことが窺える。
に実現されなければならないのは食糧供給問題であるという認識から、生存のための権利︵生存権︶を、最小限に飢
ないこと﹂が宣言され、﹁そうしなければ、人間は権利において平等であることをやめ、貧者の生存は、富者が最も
︵22︶
苛酷な法律を貧者に課する度ごとに危険にさらされてしまう﹂ことを確認した。彼らにとっては、平等原理が第一
二月七日、ギャルドHフランセーズ︵○①aoω占日月巴ω①ω︶・セクションでは、﹁貧者が富者の意のままにされてはなら
とくに一七九三年の最初の数カ月間に、食糧不足の現実が戦闘的な民衆をして社会問題への態度を決めさせた。
然に、享受の平等︵一、血ぴ⊇①一一涼号ω冒三鵠碧8ω︶を導いた。
はない。しかし、この権利は、食糧問題に関する種々の事件のなかでしだいに承認され、この前提から、彼らは当
たミリタン︵活動家たち︶でさえ必ずしも理論家ではなかったために、この権利についての理論的な正当化は明確で
サン日キュロットの社会理念は、生存のための権利︵臼﹁O一⇔劫一wO×一ロ◎吟Φ口OO︶の保障から出発した。もっとも、通暁し
ω 生存のための権利から享受の平等ヘ
とにしよう。
義﹂との相違も浮き彫りにした。以下、ソブールの研究に従って、サン日キュロットの社会理念を概観しておくこ
このようなソブールの分析は、従来から﹁小ブルジョワ平等主義﹂として理解されてきたサン”キュロットの社
︵21︶
会理念の具体的内容を明らかにすることに貢献した。同時に、モンターニュ左派ら議会派の﹁小ブルジョワ平等主
社会的要求をひき出す﹂と。
生む無制限な所有罐対して享受の平等の原理を対置し、そ.、から、公的扶助や藝目の権利などに至るいくつかの
人間にとって生存の条件が同じでなければならないということである。こうして、サンnキュロットは、不平等を
し︺民衆の心性︹マンタリテ︺と行動を特徴づける彼らの団結は、根深い平等主義に由来する。すなわち、すべての
要求が状況の影響下で明確化されたため、そこに首尾一貫した教義的な体系を求めることはできないだろう。︹しか
た理由を説明している。彼らは、漠然とではあるが、そこから生存のための権利の承認をひき出した。⋮⋮彼らの
彼は、次のように指摘する。﹁サン・キュロットの生活条件と状況が、彼らがその社会的要求の中心にパンをおい
出し、それから派生した諸要素を現実の運動に即して多面的に考察愚・
ソブールは、その大著﹃共和暦H年のパリのサン‖キュロット﹄の第二章で、サンnキュロットの社会理念を抽
② サンnキュロットの社会理念
謀﹂への道が用意されていった。
革命政府の攻撃を受け、弾圧と民衆の遊離という条件のなかで法の網をくぐりつつ継続し、やがて﹁バブーフの陰
も、急進的な民衆が中心となったことが理解できる。そして、一七九三年六月以降は、セクション内の協会として
18 な教育あるブルジョワであった﹂にせよ、一七九三年には、後述のアンラジェの指導者たちが入っていたことから
3
原
法
の
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刀
3
在しない﹂という決定が・ミュ←総評議会でもなされるように趨・エベ|ルとシ・|メ・トの友と称するコル
ドバール︵︹UO﹁OOひ①﹁︶が、セクション総会で次のように述べた。﹁もし、君が私より金持ちなら、君は私に君の財産
を分けなければならない。もし人々がそれをのぞまないなら、力に訴えなければなら提﹂と・また二年に四〇〇
〇1五〇〇〇リーブルの金利生活者には、土地均分法が不可欠である﹂と一七九三年五月に宣言して後に逮捕され
たボタン︵勺2日︶の言葉からも、エベール派に近いサン“キュロットのなかには、財産分配を強制するいわゆる﹁土
︵26︶
地均分法﹂の思想に到達していた者がいたことが窺える。
㈲ 享受の平等から所有権の制限へ
しかし、一般には、サン・キュロットは、所有権自体に何ら挑戦しようとせずに、コ早受の平等﹂の要求から﹁所
有権の制限﹂を導いた。彼らにとっては、制限のない所有権行使こそが不平等の根本原因であり、排除すべきもの
であった。そこでまず、農業生産物に関する所有権を攻撃し、ついで耕作者または土地所有者の所有権を制限し、
農作物の取引を統制する考えに至った。彼らは、あくまで消費者の立場から生活必需品の物価安定要求をめざして
おり、これらの要求は﹁農作物は、共和国に返される寄託物としてしか、耕作者または土地所有者によって扱われ
てはならない﹂とする三九三年二月吉のギ・ル﹃フラン芋ズ︵○①a。㌣写き8⋮。・。ω︶°セクシ・ンの決謝や・
後述するジャック.ルーの請願などで、﹁食糧を共和国の万人に帰属せしめ、耕作者には手当てを支弁するという原
則﹂として表明された。農作物の所有権は、何ら時効不消滅の自然権ではなく、社会的立法によってその自由な行
使が制約されなければならないとして、サン・キュロットは、マキシマムの要求や取引の自由の抑制についての請
願を繰り返し、一部のセクションでは、現実に、食糧供給と取引の自治化・国営化を構想して転控。
しかし、サン・キュロットは、すでに小所有と強く結びついていたために、決して所有権そのものを否定するこ
とはなかった。﹁誰も一つの仕事場、一つの店より多くのものをもつことはできない﹂という言葉が、彼らの﹁小所
︵29︶
有者の社会﹂の理想を表明していた。彼らは、富の不平等を漸次消滅させて所有者数を増やすことをめざし、各人
の生存に必要な範囲以上に余分に所有しえないと解することで、ルソーの社会理念を共有していた。このことは、
︵30︶
サンuキュロットの書いたパンフレットに、ルソーがしばしば明示的に言及されていたことによっても明らかで
ある。
現実の資本主義化の流れのなかで、その本質を理解しえないまま、時としてブルジョワジーと協力し、自由主義
︵31︶
的な経済思想を借用したサンnキュロットの社会理念は、その理論化・統一的方針の欠如と相まって、保守的・空
想的な性質をもっていたと解することができる。しかし、少なくとも、彼らは、生存権の観念から所有権の制限を
ひき出し、生存権を享受の平等を保障する唯一の手段として位置づける方法を確立した。また、所有権の自然権性
を否定したのみならず、社会的平等の実現のために公的扶助の制度の確立、産業集中の禁止、公教育の創設等、多
方面の具体的方策を構想しえていた。次にみるこれらの社会的要求とその実践は、﹁モンターニュ派の憲法を一歩進
めた﹂といわれるものばかりである。 ,
⑦ 商業資本への敵対 サン・キュロットの商業資本への敵対は、まず通貨取引に反対する執拗な請求のな
かに現れた。当時は、金銀の流通がアシニア紙幣の信用を下落させて経済と生存の危機を招いていたため、一七九
三年二月には、すでに通貨売買の禁止が要求されていた。国民公会は、同年四月一日、一応この要求に従ったが、
、 ︵32︶
現実に通貨売買や投機は消滅することはなかった。そこでサン・キュロットは、五月一日証券取引所の閉鎖を要求
した。そして六月二五ー二六日のジャック・ルーの強迫的請願と暴動の翌日、国民公会は、パリの取引所を閉鎖し
た。一方、アンシャン・レジーム末期から増えはじめていた株式会社に対しても、サン・キュロットは禁止の要求
を繰り返し、八月二四日に国民公会が金融会社を禁止、ジェルミナールニ六日︵一七九四年四月一五日︶には、すべ
ての株式会社を差別なく禁止することを決定した。しかし、実際には、戦争の進行による軍需製品の需要増加に伴
︵33︶
原
って、その製造をブルジョワジーの手に委ねることが不可避となり、経済活動の自由化のなかで、しだいにサンn
キュロットの運動は無力化していった。
いう基本精神を根底において﹁富者と革命の敵に対する課税によって貧者を救済すること﹂を目標とした。現に、
ω 税制 税制についても、サンnキュロットは﹁富者と貧者の格差を減少し、生活条件を平等にする﹂と
一七九二年八月一〇日以後、﹁国税の主要部分を金持ちのみが負担して財産のない市民の税負担を軽減する﹂試みが
しばしばセクションで実践され、セクション総会の決議によって”武装”や志願兵の確保、留守家族の救済に必要
な額を税もしくは募金という形で金持ちに課することが実現しつつあった。このような要請は、一七九三年三月に
三〇万人の徴兵が決せられた後は一層強まり、アンディヴィジビリテ︵一5α一く︷ω一ぴ=一⇔伽︶・セクションでは・六月四日・
毎月富裕な市民一人について一〇〇リーブル、セクション内の一五の会社について三〇〇〇リーブルを寄付として
課することを決定したなどの例が存在する。しかし、多くのこうした努力は、ブリメール一四日︵一七九三年一二月
四日︶のデクレで否定され、以後は、自発的な寄付を除いてセクション内の租税徴集は禁止された。ソブールは、こ
の点についても、サ㌶︶キュ。。ト内部には個人的財産に固執する者が多−あ久天民による税制﹂には限界があ
ったことを指摘している。
㈲ 労働権と公的扶助の確立 サン目キュロットは、生存権の必然的な帰結として、労働の権利と公的扶助
を受ける権利を主張した。一七九三年五月二二日、グラヴィリエ︵○﹁①<︷一一︷O﹁ω︶・セクションは、サンnキュロットの
生存の糧を公共事業によって保障することを国民公会に対して要求した。また、七月二七日のメゾンnコミューン
︵忌①一ωOコー︹︸O日∋已コO︶・セクションの請願では、生存権から出発して公役務の開放を帰結しており、オムHリーブル
︵出。§。・。−9.。。協舗請願でも、百由と平等が支配する国家では、公役務は社会の無塵層と勤労階層の財産
である﹂と宣言していた。五月八日のアンヴァリッド︵一コ<①一一ユOω︶・セクションの要求では、さらに、孤児・失業者へ
の富者の寄付による救済をはじめとして、公的扶助の実現とその組織化が強硬に主張されていた。これに対して国
民公会は、一七九三年五月四日のデクレで﹁志願兵の留守家族に対する救済﹂を認め、六月二四日の一七九三年憲
さて、以上のようなサン‖キュロットの社会的実践は、いずれも彼らの生存権への信念と社会的平等実現への熱
にその着手は怠られ、サンnキュロットの教育への熱情はしだいに無視されていった。
には無数の困難が伴った。ブリメールニ九日︵一七九三年一二月一,九日︶のデクレは、一定程度民衆の考えをとり入
︵38︶
れつつ、自由だが国家支配の強い形での教育体制の設立を初等教育について認めた。しかし、戦争状況の継続の前
クションや民衆協会ではみずから学校を開設し、サン・キュロットの社会的地位向上に貢献をしたが、学校の維持
育案を発表して民衆の要求に応えようとしていた。しかし、具体的な政策は実施されなかったため、いくつかのセ
日の人権宣言で教育の権利と機会均等を承認し、七月一三日には、ロベスピエールがルペルチエの原案による公教
民衆の勝利を確固たるものにするために、公教育機構の確立とその民主化が急務となった。国民公会でも六月二四
︵37︶
に保障されなければ、教育が金持ちの特権となることを知っていたからである。とくに、一七九三年六月二日以降、
して追求した。生活条件を改善し、金持ちの支配を崩すために教育が不可避であり、また、もしそれがすべての人
ω 公教育 サン・キュロットは、教育の重要性を認識し、その他の諸要求と同様にこれを社会的な権利と
実現された扶助の組織も、テルミドール反動によってすべて無に帰した。
多く、労働を権利として要求しながらも、なおその理論的整理がされないままにとどまっていた。そして多少とも
社会保障制度の基礎ができることになった。ただし、彼らの運動は、旧来の慈善という考えに出発しているものが
︵36︶
そこで一七九三年冬頃には、セクションや民衆協会内部にその扶助の組織化の運動が試みられ、不完全な形にせよ
法でも扶助を受ける権利および労働可能な者に対する労働の供与を明記したが、具体的な実現はないままであった。
匿
理
絃
けぽ
切
望
九
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一
章
矩
皿 情を、現実の革命行動のなかで具体的に示そうとしたものであった。彼らの社会理念は、こうした現実のなかで形
盟
3
の
理
原
法
憲
成され、体得されたものであったが、それ故にまた、必ずしも確固とした理論的体系をもちえてはいなかった。こ
の点こそ、サン‖キュロット運動の特徴であると同時に、彼らの社会理念としての﹁小ブルジョワ平等主義﹂の内
在的な限界でもあった。通常は、彼らの社会理念を代弁したものとしてアンラジェ︵過激派︶ジャック・ルーの六月
二五日の請願が引用されるが、後にみるように、アンラジェの理念との間にはかなりの距離が認められる。
③ サン‖キュロットの政治理念
サンnキュロットの社会理念としての﹁小ブルジョワ平等主義﹂に対応するキーワードは、政治理念については、
︵39︶
﹁直接民主制﹂あるいは﹁人民主権の実質的行使﹂であろう。サン・キュロットは、主としてセクションでの自治
活動や政治的実践を通して、幅広い解釈に基づいた人民主権の原則を忠実に追求し続けた。ソブールは﹁デモクラ
シーについてのブルジョワ的な概念と、革命政府の急務は、サン・キュロットの政治的傾向と調和しうるのか﹂と
いう問題を提起している。以下、ソブールに従ってサンnキュロットの政治理念を概観しよう。
︵40︶
ω 人民主権の原則
なく、人民の諸権利の全体を実現するための基礎であり、主としてセクションの集会に結集した人民の具体的権利
まず最も根底にあったのは、﹁主権は人民にある﹂という人民主権の原則であった。それは決して抽象的なもので
の実現にかかわる原理であった。彼らの人民主権は決して他からの借物ではなく、みずからの言葉で表現し、革命
のなかで確認することによって築きあげたものであった。彼らは、人民主権の行使を、全面的かつ全領域にわたっ
て確保するために次のような構想をもっていた。
励 立法権 ﹁市民がその作成に参与しなかったすべての法律は恣意的である﹂とか、﹁法律は人民によって
作られ、人民掻可を受けなければ価値はない﹂と●つ言口葉が、サン・キュ・。トの天民による立法﹂の原則の
核心を示していた。とくに、法律の裁可は人民主権実現のための本来的な要求であり、一七九二年九月のデ・アール
署リ匡巴一ω︶・セクション、ポワソニエ︵㊦o一。・ω自邑曾①︶・セクションの表明をはじめ、同年一一月二日のピク︵雲ρ已o︶.
△
︵ ︵42︶
セクションの草案、一七九三年六月五日のモン‖プラン︵呂oコ㌣里昌。︶・セクションの表明などによって示された。
ただし、そこでは直接民主制の原理が明確にされていたわけではなく、現行の代表制を存続させつつ、民主主義の
要請と一致させるための救済手段としてこれを求める傾向にあったといえる。
一方、同じ目的から、サン・キュロットは命令的委任論に到達していた。彼らは﹁議員は、代表と呼ばれてはな
らない﹂として、議員を人民の受任者︵マンダテール︶と呼び、主権者人民が、受任者を人民の意思に従わせる権利
︵43︶
をもつことを確認し、ルクレール︵[oo一氏o︶は、一七九三年八月二一日の﹃人民の友﹄で﹁代表された人民は自由
︵44︶
ではなく、代表という形容詞を容易に与えてはならない。⋮⋮意思は代表されえない﹂ことを明言していた。次に、
彼らは、間接選挙の弊害を補うものとして議員の審査・鑓責︵O而コω已﹁O︶を要求した。マルセイユ・セクションのラ
クロワ︵↑g﹁o⋮×︶が﹁間接選挙制は、人民主権の破壊であり、陰謀者にのみ歓迎されるものである﹂と告発して、
’ ͡45︶
全受任者が人民によって第一次集会で指名されることを要求したように、直接選挙制の要求は相当に強いものであ
った。また、議員の監督と罷免についての要求は、抽象的概念としてでなく革命実践の必要に応えるものとして、
とくに緊迫した状況下で強く主張されて・いた。一七九二年秋からジロンド派とモンターニュ派の対立、一七九三年
三月の危機、六月二日の政変という革命の過程のなかでは、人民による議員の責任追及の原則が理論的に正当化さ
︵46︶
れ、議員の不可侵性を主張していたジロンド派が、現実に人民の主権の行使によって解任された。もっとも、議員
びに﹁主権者人民は、人民の信頼に不忠実な議員や全公務員を召還する権利をもつ﹂ことが繰り返し確認された。
の罷免手続きはモンターニュ派の政権下になっても何ら法制度化されなかったため、セクションでは、機会あるた
章
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ω 司法権 ソブールは、﹁主権についての民衆の理解のなかに権力分立は存在しえないだろう。立法者とし
︵47︶
ての主権者人民は、同時に裁判官としての主権者でもある﹂と指摘する。一七九三年五月一六日、ルクレールが﹁司
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みずからが管理する自治組織と考えていたからである。セクションは主権者であり、その内部の行為は、セクショ
を保つことに熱中したのは、セクションを、国民代表を監視するための模範的な政治組織と考えていただけでなく、
次に、常設とならんで重要な課題は自治に関するものであった。ソブールが、﹁サン・キュロットがこれほど常設
この措置は彼らの政治活動への大打撃であり、革命政府による挑戦に他ならなかった。
活動は週二回に制限された。サンuキュロットの目には、この常設こそ人民主権原理の象徴として映っていたため、
モンターニュ派内部でも常設反対の気運が強まり、九月九日、ダントンの主張に基づくデクレによってセクション
会に侵入して報復を企趣・そこで・一七九三年六月二百・マ・了が国民公会で常設禁止を要求したのを契機に、
得ると集会を放棄しがちなサン‖キュロットに代わって、とくに六月二日以降は、敗北した穏健派がセクション集
しかし、反面、リヨン、マルセーユなどの地方都市では、これが反革命の道具となった。危機が遠のき、勝利を
て民主的・革命的な政治生活を送る基盤が確保されたのである。
のミリタンが中心になるという傾向を生じつつも、少なくとも、サンnキュロットには、セクションの常設によっ
ットは常設を武器として活発な政治活動を展開し、連日、労働を終えた午後五時から時には夜中まで、サン・キュ
︵53︶
ロットはセクションの集会に顔を出して革命の遂行と人民主権の実現に貢献した。出席率はしだいに低下し、特定
現実に、セクションの常設に反対するジロンド派とこれを擁護するモンターニュ派との抗争の間中、サン”キュロ
であり、ミリタンが組織しようとしていた﹁人民による政治体制11直接民主制﹂の根幹となるべきものであった。
≧・これは・市民が憂思をもって﹂結集して全階層を単あ意思と力の下に団結させることに貢献するもの
一七九二年の初頭から、セクションの永続活動あるいは常時開設が強く要求され、同年七月には事実上実現されて
区単位と結びついたセクションは、第一の人民主権具体化の場であり、政治を実践的に学ぶ場でもあった。そこで
︵o。自昌9n。︶﹂であった。当時、セクションや民衆協会を政治基盤としていたサン‖キュロットにとっては、選挙
であった﹂とソブールが主張するように、彼らの重要な直接的な政治課題の一つは、﹁セクションの自治と常設
さて、﹁サン・キュロットのミリタンにとって関心が強かったのは、中央の政治よりもむしろ地方︹地域︺の政治
︵51︶
㈲ セクションの自治
非常に重要な問題だったのである。
置等、多くの要求が出されていた。後述のアンラジェの綱領にも示されるように、当時の状況では、軍事の監督は
︵50︶
も適用され、セクションから戦況報告の要求や上官の行動の監督、ヴァンデ地方への兵士派遣のための委員会の設
セクションの公務員審査権が確立されていたといえる。また、人民による行政監督の原則は、当然に軍事の領域に
これらの諸要求によって、現実に公務員はセクションの人民の監督に付され、一七九三年冬までの間に、事実上
義務に違反したすべての公務員の召還もこのなかに含まれていた。
ら、任期終了後の公務の報告の強制、職務内容の追及、そのための委員会の設置等を可能にすることが要求され、
簿を公表し、職務の改革・人事交替等を強制できるようにする・と﹂を要求して匙・また・多くのセクションか
︵一
nO昌︹UOコo力O=︶.セクションは、﹁行政府全域にわたる執行権の行使を休みなく監視すること、パリ中の行政職員の名
権の下では行政権も究極的に人民に属することは疑いないからである。一七九二年一二月一四日ボン・コンセイユ
θ 行政権 サン・キュロットは、人民主権の名において、行政組織とその職員の監督を要求した。人民主
クションや人民裁判所による﹁人民の裁判﹂の理念を形成していた。
官の任命権も人民に属すべきであるとされ、国民公会がこの問題で手を焼いている間に、サン‖キュロットは、セ
民主主義︵00∋O∩﹁①け︷⑦ωΦO⇔一〇口田①一﹁O︶の体制では、全く必然的に、司法権は人民の大権とされた。したがって、裁判
法はつねに人民のなかにある﹂とコミューン総評議会で宣言し、いくつかのセクションでも﹁法廷は人民によって
% ︵48︶
3 形成され、人民自身である﹂ことが表明された。すなわち、司法権はつねに主権の属性の一つであり、セクション
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ン総会にのみ帰属した﹂と指摘するように、セクションの自治について、警察権・執行権・租税の割当徴収権等が
︵55︶
繰り返し要求された。このなかでとくに重要なのは、警察権である。一七九一年二月四日には﹁警察が各県の行政
に帰属することは⋮⋮自由にとって危険であり⋮⋮警察は、パリの場合、四八セクションに分割されなければなら
ない﹂という主張があるセクションから出されていた。現実に、一七九三年には、セクション総会で指名された警
かなければならない。
ここであらかじめ、サンnキュロットのリーダーでもありイデオローグでもあった﹁アンラジェ﹂を登場させてお
として体系化した資料によって、議会ブルジョワとの対比とのなかでそれを分析することが必要となる。そのため、
化等のマイナス要因があったことを認めなければならない。次には、サンuキュロットの理念をより明瞭な法原理
系的な統一理念による指導の欠如という難点があった。そのうえ、現実の運動面での組織力の不備、客観情勢の悪
このように、サン・キュロットの政治理念には、ブルジョワ理念との本質的な矛盾をはじめ、理論化の欠如、体
ルジョワの政治、さらに革命政府とは一致するはずのないものであった。
利を文字どおりに理解するサン・キュロットと、主権者の権利は代表の選出に際して間接的に実施されるにすぎな
︵60︶
いと解するブルジョワ民主主義者の特徴との間に現れた﹂。結局、人民の主権についての考えは、革命を主導したブ
ある。また、そこにはブルジョワ革命と民衆運動の本質的な矛盾も存在した。政治面では、﹁その矛盾は、彼らの権
︵59︶
民との妥協のうちに見出そうとする一部の者が、重大な事変を準備し、組織し、そしてその成果を搾取した﹂ので
劇を生んだ。﹁サンnキュロットが攻撃に不可欠な大勢の人手を供給しながら、ブルジョワあるいは革命の救済を人
あったことである。とくに五月三一日の蜂起では、組織の不十分さが、闘いの成果を議会派の手に渡してしまう悲
とっては、主権者の名で蜂起の権利を要求するだけでは不十分であり、実際に武力をもってこれを維持する必要が
しかし、ソブールは、ここでも、主権と蜂起に関する人民の理念の弱点を指摘する。まず、サンnキュロットに
は、彼らの人民主権原理の重要なメルクマールと解されていた。
するための基本原理に他ならない。主権防衛と、現状回復の最後の手段として捉えられただけでなく、蜂起の権利
令する﹂と宣言された。この意味では、蜂起は単なる革命の緊急行動ではなく、人民主権を排他的・直接的に実現
︵58︶
アル蜂起でも、﹁人民が蜂起状態にあるときは、いかなる権威も、いかなる命令ももはや存在しない。人民だけが命
八月一〇日の蜂起では、人民は、主権の本質的な属性としての司法権を手中に収めたことが宣言され、後のプレリ
示﹂であり、これが宣言されると主権を回復した人民の手に全権力が集中されるものとされた。現に、一七九二年
これに対して、暴力に至る武力の絶対的脅威を伴うものが、武装蜂起である。これこそ﹁人民主権の究極的な表
平和的な蜂起を志向していた。
律への服従を拒絶し、主講の権利行使を回復するための人民の抵抗のしるし﹂としての集団の示竃動つまり
エ・セクションの総会の要求、一七九三年五月二四日のユニテ︵巴oま︶・セクションの請願などは、﹁承認しえない法
もっとも、蜂起は、必ずしも武装活動を意味するものに限らなかった。現に、一七九二年一〇月六日のグラヴィリ
権者が受任者に背かれた場合の主権の行使そのものとして、政治活動の実践のなかで体得していったものであった。
年五月三一日を正当化するために認めたものと解されていた。サンnキュロットにとって、この蜂起の権利は、主
権宣言案や一七九三年憲法︵人権白日=言︶ですでに承認されており、人民が武装した一七九二年八月一〇日、一七九三
主権者人民の最後の手段として、蜂起︵一5ω口﹁﹁①O吟︼O昌︶をあげなければならない。蜂起の権利は、ロベスピエール人
圃蜂起の権利
統括されていった。
る﹂と白日言していた。しかし、革命政府の急務は、セクションの自治とは相容れず、しだいに公安委員会の権限に
萎員が、セク詣ンの奢貝会に従属する体制が整いつつあり、了フ←﹁その範囲ではセクシ・ンは主薯であ
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︵−︶≦呂①﹃六。︿。⇔﹀・。力。ひ。三b合皆§§§二。ざ却嵩▼一§らぷz。ゲ、.勾合8ωΦ巴、目゜。己9§儂゜巴8︰§︷。。
O已、oω︹80已.已コω①コω−○巳o口o㊥、、
︵2︶ ﹀°oりoげo已r卜D讐嵩−︹ミ合、、跨∨⇔斗亘§切ミござ§ぺ゜﹂㊤晶もO°さ。。o↑ω゜そのほか、サンnキュロットについて、戸切゜
勾o。。P§鳴sミミ這黒、㌻皆嵩−○ミ合誉曾一q⊃°。ω参照。
︵3︶ サン・キュロットの定義について、日本の研究では、井上すぶ・前掲書八七ー八八頁、柴田三千雄・前掲書三〇頁
参照。
︵4︶p・。。ひ。已reミも三。工。切二、、§・ω。・§・9。⋮[さ一§け。・ω§6・ざ︷言∋°量ま28§°ω§°
︵5︶きミ‘O﹂ON“⊃°
胡o∩]巴01、°︶
︵6︶ さミこ ℃ ﹂ O ω O °
︵7︶ さミこPさω﹂も⑰︽ωΦ−☆Sソブールは、パリの四八セクションについてパトロンと労働者の人口を比較し、その経
営規模によって、資本主義的集中の度合を認めようとしている。
︵9︶ パリのコミューンの組織については、井上すゴ・前掲書一〇六頁参照。
︵8︶ 井上すs・前掲書九〇頁以下参照。
︵10︶ ﹀°む力o亘o与§°亀SこOやOq⊃OよOO°
︵11︶ ソブールは、市民委員会と革命委員会について階級構成上の比較を行っている。ちなみに、当時のフランス総人口
二三〇〇万・パリ人口六三万︵うち二九万が労働者︶とされる。
︵12︶ ﹀°む力oげo巳、§°ミこ℃°口゜。ω゜
︵13︶﹀・○巴く。□..↑。切○昌目昔○。∋富色Φ一、間くΦ。9、、∨﹄辻巳勺おωOもo﹂N°[。。°
︵15︶ 戸Co°殉。ω①’ロミ肉ボ§⑨切oへざS冴ミ、、w㌻きミ隷≒o§ペミへ§∼“﹂①OぷPお゜一七九三年の春には、国民公会・コミ
︵14︶ ヴァルレの活躍については、本節2︵三三七ー三三九頁︶参照。
ユーン・エヴェシェの三勢力が対抗していたとされる。
︵16︶ 井上すゴ・前掲書九三頁以下。一゜ロo旨畠P卜霧飴☆ミ⑨>eミ宣さ切⇔ぎ嵩二〇ωべもP富o⇔ω゜
︵17︶ 井上すゴ・前掲書一〇二頁参照。
︵18︶ 井上す∼・前掲書九九頁参照。
︵19︶ ﹀°o力o亘o巳“§°☆、こやホベOけω゜︵o庁﹂一“.、↑Oo。9豆﹁陪⋮o諺ω8⋮巴oo。ユm冨ω①コω6巳o口Φユo㊥①ユ゜。庁昌コΦ、、°︶
︵20︶ さミこP㌫S
︵21︶ 柴田・前掲書四三ー四四頁、四九頁では、やはりサン・キュロットの社会理念を﹁小ブルジョワ的平等主義﹂と規
︵22︶ ﹀°o力o亘o巳“息゜☆、二やホo。°
定したうえで、その性格が、政治理念に比して空想的・保守的であったと指摘している。
︵24︶ ≧ミこO°まP
︵23︶ さミ゜も゜ホ㊤゜一七九三年=月一六日、アフランシー︵﹀は﹁①oo臣o︶・コミューンの臨時委員会で宣言された。
︵25︶ さミニO°まN
/
︵27︶ きミこP怠吟゜ ・
︵26︶ さミニP怠N
︵28︶ ︾.o力oσoロr§.ミこやま㎝、アルシ︵﹀日︷ω︶・セクションでは、ブリュメール一八日︵一七九三年一一月八日︶、投機・
独占を廃して国営の商店を設立することなどを要求していた。
︵29︶ さミこ P 怠 q ⊃ °
︵30︶ ≧ミ゜も゜怠o。 ﹀°oooげo巳、、.Ω①ωωΦω㊥oO巳巴﹁①ω①[幻o已ωmΦ①巳ω∋.、書⇔ボP寒蕊−災合、、窃災㌔へoミボ㊤℃O﹄Oω6[ω゜た
とえば、↓o亘一〇という名のサン・キュロットが﹁社会の貧乏な階級の生活をよくする方法について﹂というパンフレッ
トを書いたなかでもルソーが言及されていた。
︵31︶ 柴田・前掲書四三頁参照。
認
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きミこ⑰ミS
﹀胡◎ぴ8㌧卜象留蕊込嚇9W欝句吉Sざ岳§芯x畑“P惑㎝右
︵32︶
︵33︶
㌫辻こ恒おビ
︵34V
一七九三年七・八月にはセクションの多くで老人・病入・身障者らのための救護院の設置が要求された。また、ヴ
︵35︶ きミこ恒おN◆
︵36V
アン ト ー ズ ニ 九 日︵一七九四年三月一九日︶には、ランバール協会で救済を実施しはじめ、フロレアールニニ日︵一七
きミ‘∨おS
九四年
五
月
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一日Vのデクレで各県に基金簿が開設された︵㌫民こOP拾ωムゆc陶V。
︵37︶
︵38Vぴミこや㎝田゜
柴田・前掲書四四頁、井上すゴ・前掲書一二七頁以下参照。一般には、直接民主主義をさしてサン賜キュロットの
︵39︶
政治理
さ れ る が 、 ソブールのように広範な態様に注目すれば、むしろ広い意昧での”主権の実質的行使”として捉
念
と ︵40︶ ︾°む力oひo与さミ‘騨08.︵合㌫目.、↑霧9a芦8ω8≡]繧m6。匹巴①もo呂ωA己◎口m江oOβ帥ω拾目Φ、.°V
えるほうが妥当であろう。
︵41︶ ≧ミ゜︾亨切O。。魯5力゜
きミ゜も゜9Sソブールは、一七九二年九月二二日チュイルリ・セクションの一市民の発言などを例示している。
︵42︶ ≧ミこOO°mOΦふ口゜
︵43︶
︵44︶ さミ‘や臼べ゜
︵45︶ さミ゜︾O°蟄○。°
︵46︶ 奪ミこ廿⇔㎝Nド日ω゜
きミニ穎已N°カトルuナシオン、サン。キュロット・セクションなどでこうした宣言が出されていた。
︵47︶ さミこ∨ぴ口゜
︵48︶
︵50︶ きミこU°㎝ミ゜
︵49︶ さミニUやONOo︷ω゜
︵51︶ さミこ U ° 口 ω P
︵52︶ さミ゜も゜切ωP一七九三年一月一六日、ジロンド派のサール︵む力①一一〇︶は常設を維持することは公安を破壊するとして
反対したのに対して、マラーが祖国が危機にある間中、継続すべきであると主張していた。
︵53︶ ただし、セクションの集会における出席率は平均一〇パーセント程度で多いとき二〇パーセント位であったことが
ソブールの統計に示される︵へ↑ミ゜もO]80①⇔°・右︶。
さミニUひωS
︵54︶ さミこOO°㎝ω㌣OωO°
︵55︶
きミニO⑰9N20力゜
︵56︶ きミこUヂ⑰ωO°
︵57︶
︵58︶ さミニO°O念゜
︵59︶ さミこP切怠゜
︵60︶ さミスO°㎝ミ゜
2 アンラジェの憲法思想
︵1︶
アンラジェ︵国目①σqmω︶とは、革命的なサン‖キュロットの先頭に立った過激派グループの総称であり、パリのア
ンラジェ︵O昌﹁①ひq①︶としては、ジャック・ルー、ジャン・ヴァルレ、テオフィール・ルクレールの三人が代表的な人
物で玩%。彼らは、通常アンラジェとしてグループで扱われるが、実際には、その党派性、盟友関係はきわめて薄
く、厳密には集団的扱いは必ずしも妥当でないことを認識しておかなければならない。これらの個々のアンラジェ
鋤これら三人の活動藍はコルドリエ゜クラブへの所属の他は各々異なっていた・
は直接には個人的なつながりをもたず、共通の綱領の下に団結して行動したことも証明しえないからである。現に、
しかし、最近では、ローズらの研究によって、事前協議の有無は別としても、革命実践の目標において彼らが同
一の政治線上にあったことを認める傾向にあるといえる。ローズは、コ七九二年五月のルーの演説から一七九三年
一一月の﹃ジャーナリスト︵さミ“へ嚢o︶﹄の中断まで、アンラジェのプログラムに共通の要素が存在した。そしてル
クレールがパリに戻った一七九三年五月から、一七九三年九月のルー、ヴァルレの逮捕と﹃人民の友﹄の抑圧まで、
五人の主要なアンラジェのリーダーたちは、緊密な、平行した歩調をつづけたようにみえる。個人的な共謀を直接
示すものが少ないにかかわらず、ここでは、用語の最も緩やかでより非公式な意味での解釈によるという条件つき
で、アンラジェを”党”として言及する通常の用法を正当化するには十分な証拠があるように思われる⋮⋮﹂と述
︵3︶
べて、幅広い意味での党派性を承認している。
そこで、本書では、消極的にであれ彼らの党派性を一定程度承認したうえで、ジロンド派、モンターニュ派、ロ
ベスピエール派との対抗のなかで﹁アンラジェの憲法原理﹂を検討することにする。それに際しては、彼らの革命
行動面での共通性を明確にし、彼らの理念の共通な要素を抽出する必要がある。そのためにも、ここでまず三人の
人物について概観し、ついで一七九三年のアンラジェの運動を一覧しておこう。
ω 三人のアンラジェ
︵4︶
ωジャック・ルー︵冒oO已oωヵoロ×︶
革命勃発時に、三七歳で農村の助任司祭の職にあったジャック・ルーは、一七九〇年二月、パリに移ってコル
ドリエ・クラブに加盟し、本格的な革命活動を開始した。彼は、サン・ニコラ教区のグラヴィリエというスラム
街で貧民救済にあたり、しだいに民衆の信頼を集めていった。同時に、コルドリエ・クラブを中心に左翼のリーダ
ーとの接触を強め、グラヴィリエ・セクションの代表としてパリ県の選挙会やパリ市のコミューン総評議会に送ら
れて以後は、セクションとコミューンの支持も増やしていった。しかし、一七九三年二月の商店襲撃の際には、運
動方法をめぐって、エベール派が勢力をもちつつあったコミューンと敵対した。その後、買占人や投機者の死刑要
求などしだいに過激な活動を推進したことに対して、当時、モンターニュ派やジャコバン・クラブと決裂するまで
に左傾化していたコルドリエ・クラブでは、当初は支持を与えたが、内部の反対にあって、結局、ルーはコルドリ
エから放逐された。さらに、六月二八日にはジャコバン・クラブでロベスピエールの非難にあい、九月はじめに、
コミューン総評議会から正式に議席を奪われることになった。また、グラヴィリエ・セクションの支持にもかかわ
らず、議会とコミューンの圧力によって、セクションの革命委員によって逮捕された。彼は、獄中でも七ー八篇の
新聞﹃共和国のジャーナリスト︵eきミへ鳶o昏合㌔§&蕊§︶﹄を出版し、グラヴィジエ・セクションの支持者た
ちは、出版物の販売組織と彼の釈放を求めつづけた。しかし、自己の敗北をロベスピエールの前に認めたその二七
一号を出し終えた直後の一七九四年一月一二日、彼は革命裁判所に臨む直前に自殺未遂を図り、二月一〇日に自殺
した。
このような革命家としてのジャック・ルーの生涯に、ソブールは最も“攻撃に弱い︵<銭忌日芭Φ︶”指導者であった
︵5︶
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紘
勒
をも意味している。しかし、彼はグラヴィリエ・セクションを基盤とする政治活動の他に、主として﹁社会理念﹂
と名付けたものである。その前半は、六月二一日にコミューンで述べた一七九三年憲法への批判、後半は商業の自
︵6︶
年六月二五日の国民公会での演説であり、マティエがその草稿を﹁アンラジェの宣言︵↑Φ忌①己︷o切けo△g間目①ひqmω︶﹂
後に二九篇の新聞を書き残したことが知られている。このなかで最も端的に彼の思想を表現したものが、一七九三
に関して卓抜した思想を表明し、四年間におよそ七篇の著作、二つの請願書等を著わし、一七九三年七月=ハ日以
という解説を加えた。それは、ルーが聖職者の資格をもっていた故に特別の攻撃を受けなければならなかったこと
后
弍
E
鋤
由に対する彼の社会認識から成っていたが、一七九三年憲法への次のような批判が注目される。
って罷免され、かつ、受任者の決定はセクション総会の批准を必要とすることが原則とされた。こうして、エヴェ
接民主制﹂がこの新しい運動のなかで実践された。実際に、各セクションの受任者はセクションの人民の意思によ
月、エヴェシェ︵旧司教館︶に中央委員会が設立されたとき、ヴァルレがその中心となり、彼の政治理念としての﹁直
占者への実力行使﹂と﹁軍からの貴族のパージ﹂を要求した。セクション活動が最も盛んになった一七九二年一〇
ーグであった。彼は、一七九二年八月六日の請願のなかで、反君主制、新選挙実施の要求のほか、﹁金持ち、食糧買
たヴァルレは、ドゥロワ・ドゥ・ロム︵O﹁o一吟○Φ一”古。∋∋。︶・セクションを基盤とする有数の指導者でありイデオロ
国王の拒否権に抗議するサン‖キュロットニ万人による示威運動のときも、その代表者二〇人のなかに含まれてい
な言動はジャコバン・クラブと敵対するまでに至り、この年に二度目の勾留を経験した。一七九二年六月二〇日の
参加して早くも一回目の逮捕・勾留を受けた頃は街角のアジテーターであった。翌一七九二年の春には、彼の過激
半、ジャコバンやコルドリエ・クラブなどに参加して革命に身を投じた。一七九一年、シャン・ド・マルス事件に
ァルレは生まれた。長く寡婦であった母とともに住み、一七八〇年代に二つの大学で学んだ彼は、一七九〇年の後
ジャック・ルーから一二年遅れた一七六四年、パリ市東部の右岸に位置するティロン︵弓一8コ︶通りでジャン・ヴ
鋤ジャン・ヴァルレ︵冒碧く①ユ旦
︵10︶
︵9︶
クを携えたサンnキュロットが、あなた方の法令を執行するであろう﹂と。
需品は、万人に手の届く価格で引き渡されなければならない。さあもう一度宣告を下すのだ。そうすれば、ピッ
か。商業の自由とは、消費し消費させる権利のことであり、暴虐をなし、消費を妨げる権利ではない。万人の必
権利をもつ。だのになぜ、家庭を守る者を圧迫し、飢えさせることを禁ずる権利を、立法者はもたないのだろう
師の所有のほうが人間の命よりも神聖なのか。⋮⋮立法者は、戦争を布告する権利、すなわち、人間を虐殺する
抑圧する、エゴイストの死物狂いの闘いを終わらせる時である。投機者と買占者を告発せよ。⋮⋮何故、ペテン
貴族主義は、個人の財産と共和国の富を侵害する残酷な行動から成立した。⋮⋮社会のなかで最も勤勉な階級を
﹁金持ちだけが、四年間、革命の利益をほしいものにしてきた。貴族と司祭の貴族主義よりも恐ろしい、商人の
が示唆されていたが、後の﹁国民公会の活動には期待しえない﹂という言葉にも示されたように、根底には議会に
︵8︶
対する不信・絶望が存在していたことは否定できない。
者らの死刑、商業の自由の制限を主張した。ここでは、サン‖キュロットが国民公会に協力して行動を起こすこと
また、彼は、次のように述べて﹁民衆の幸福の基礎﹂を憲法のなかに規定することを要求し、物価の公定、独占
るとき、平等とは幻想にすぎない。市民の四分の三にとって、血涙を絞らずには手の届かないような商品物価の
︵7︶
高騰によって、日ごと反革命が進行しているとき、共和国とは幻想にすぎないー﹂と。
を飢えさせるとき、自由とは幻想にすぎない。金持ちが、独占によって同胞に対して生死を決する権利を行使す
あなた方が人民の幸福のために何一つ行わなかったことを宣言する。ある階級の人間が、罰せられずに他の階級
ついて定めただろうか。否である。あなた方は貨幣の売買を抑制しただろうか。否。実に否である。われわれは、
か。否である。あなた方は買占者に対する死刑を表明しただろうか。否である。あなた方は商業の自由の内容に
㏄
3 ﹁今、憲法が主権者の承認に付されようとしている。しかし、あなた方は、その憲法で投機を規制しただろう
理
原
絃
叶旭
の
年
三
一
これに対して、ジロンド派は五月二四日工べールとともにヴァルレを投獄したが、二七日の釈放に際して民衆の
の排斥、革命軍創設などの諸要求を掲げて活動した。
ヴェシェに公安中央委員会を創設した。ヴァルレを中心にしたこの新勢力は、ジロンド議員の逮捕、投機・買占者
運動を契機に﹁議員のリコールによる国民公会の粛清﹂という目標を掲げた中央委員会は、国民公会に対抗してエ
に
樹 シェの委員会は、国民公会、コミューンとならんで第三の革命勢力になっていった。一七九三年三月九ー一〇日の
章
第
37
3
認況になった・そこで五月三百の蜂起は・エヴェシェの委員会が拠点とされた・前久三三のセクションがエヴェ
気運はますます高揚し、モンターニュ派もコミューンもジロンド派と闘うためには民衆の力を認めざるをえない状
シェに代表を送って革命委員会を組織したときの委員長はヴァルレであった。彼は、﹁われわれは、完全な権力を掌
握している。われわれが・王権体を構成している。われわれは、権威を打破し、権威を主権で染め、そして、それが
公会を打破するのだ。これ以上、合法的なことがありえようか﹂と宣言した。
しかし、国民公会打倒の目的にまで到達した彼らの蜂起は、あまりの過激さ故に崩壊した。その敗北原因は、コ
ミューン、自治行政府などの抵抗と、ジロンド打倒のために懐柔政策をとったモンターニュ派の巧みさなどに求め
ることができる。事実、六月二日の蜂起は、コミューンとジャコバンの支持を得た新メンバーを加えて”改編した”
革命委員会を拠点としたために成功がもたらされたといえる。その結果、ジロンド派の追放による平穏な政権交替
が行われただけで、ヴァルレの構想のように国民公会から権威を除斥することはできなかった。モンターニュ派の
議会ブルジョワたちが第一に恐れたものは、アナーキーの状態とならんで、セクションの人民による国民公会の支
配だったからである。
こうして、六月二日以後ヴァルレの勢力は急激に失われていった。彼は、六月八日にみずからの人権宣言草案を
公会で読みあげる機会を得たが、ローズはこれを﹁辞世︵。り毛昌ω80q︶﹂として理解する。ヴァルレは、さらに六月
二二日コルドリエ・クラブで、﹁軍と政府から真のサン・キュロット以外の者をパージすること﹂を国民公会に要求
するよう主張した。しかし、ルーやルクレールと同様に、その後はクラブからも警戒の目を向けられることになっ
た。セクションとアンラジェに対するロベスピエール団ジャコバン派の攻撃が始まった九月には、ヴァルレはセク
ション側の抗議の先頭に立ち、国民公会でセクションの常設と政治参加に対する報酬の廃止を要求した。しかし、
して彼は、しだいに反モンターニュ派、反公安委員会の調子を強め、国民公会に対して幻滅と反発を抱く人々や、
は述べ、九月四日号は憲法を強く要求し、九月=日号は、憲法の確立を望まない立法者の怠慢を告発した。こう
た。君の敵の死か、しからずんば君の死か⋮⋮もはや躊躇しえない秋が来るだろう﹂と、﹃人民の友﹄七月三一日号
張し続けた。﹁私は、もしそれが必要なら、革命のために一〇万の悪党を犠牲にしなければならないと主張してき
をテーマとしてとりあげた。彼は、﹃人民の友﹄によって革命の”不寝番”たることをめざし、強硬なテルールを主
刑、容疑者の検挙、その他これらを実行するための献身的なテロリストによって構成される革命軍の設立などー
みずから“リヨンのルクレール”と名のり、とくにリヨンの過激派グループの要求−物価抑制、食糧買占者の死
二〇日以後マラーの後をついで﹃人民の友﹄を発行したことによって、ジャーナリストとして知られている。また、
ルクレールは、ルーやヴァルレのようにパリのセクションを主要な活動基盤としたアンラジェとは異なり、七月
年五月=二日の演説を機にロベスピエールらと敵対した。五月三一日には革命委員会に名を連ねたが、六月四日に
エベールの批判を受けて逮捕された後、二七日には再起してコルドリエ・クラブでルーの支持を訴えた。
ブへの参加を認められた。ルクレールは、一七九三年初頭から食糧投機、物価高騰への反対運動にたち上がり、同
領西インドでの内乱にまきこまれた際の経験から既成の革命家と目され、即座にジャコバンとコルドリエの両クラ
軍に加わっていた。彼がパリに出てアンラジェとしての活動を開始したのは、一七九二年の二一歳の時である。仏
一七七一年、リヨン近くのラ・コット︵冨ひ。江Φ︶という町に生まれたルクレールは、革命勃発時にはすでに国衛
耐 テオフィール・ルクレール︵弓頴o廿≧o[①巳o叶○︶
︵11︶
知った。が、彼自身の消息については、一八三一年に回顧的論稿を発表したという事実のほかは知られていない。
る投獄は、彼を最終的に革命から遠ざけることになった。この最後の獄中で、彼はサンnキュロット運動の終末を
エベール派のコミューンの要請で釈放され、しばらく活動を継続したが、翌一七九四年九月からの約一年間にわた
彼はその翌日の九月一九日に逮捕された。この逮捕は彼にとって四回目であり、勾留はニカ月に及んだ。この時は
理
原
七
一
年
三
の
憲舷
九
章
三
第
四
3
極左のメンバーを支援し続けた。同時に彼は、女性のアンラジェとして知られる、ポーリーヌ・レオン︵勺きま。
・パリ市内の商店強奪・グラヴィリエ・セクション中
状 況・成 果
表4 一七九三年の民衆蜂起とスローガン
日 寸 イ
①2月25日
心
・ジャック・ルー︵前日の演説で指示︶
・コルドリエの支持
ス ロ ー ガ ン
﹁パンと石けんを﹂←物価高騰への抗議﹁買占者と相場師に死刑を﹂←買占者等取締りの厳格
な法律の要求
﹁不誠実な受任者1ージロンダンのリコール﹂←公会のパージを要求
﹁買占、投機弾圧の立法﹂
﹁ジロンド派の軍事指導反対﹂←県衛兵隊創設
・ジャン・ヴァルレ中心 シャンピオン、プルニエ
ーが支持
ω軍隊内の全貴族の解雇
③パン価格決定←金持ちの出資による物価抑制
②中央革命軍創設
の告発←一二人委員会の廃止
ω二二人委貝会・ 二人委員会・大臣ルブランら
・セクションとコミューンの陳情
などコルドリエのメンバ
・ジャン・ヴァルレ中心、
エ・セクションを指導
・ルーも独自にグラヴィリ
・公会への抗議・公会打倒の決
と結合して参加
・連盟兵§“蕊︶がパリ市民
クションが参加
ン・フランセ、サンnキュロ
ツト・セクションなど十数セ
②3月9∼10日・公会への抗議の決起←︵失敗︶・ポワソニエ、シテ、パンテオ
③5月31日
などを含むミリタン
ルクレール、ジェルヴェ
起
ニニ一ニセクションの代表が市役
所に結集
トを中心に、コミューン、ジ
・エヴェシェのサン”キュロッ
⑥全行政官庁の粛清・容疑者検挙
﹁パンと賃金増加﹂
﹁容疑者の逮捕﹂を要求
﹁ギロチンは軍隊とともに進まなければならない﹂
﹁革命軍の編成﹂︵ショーメットの請願︶
︵ジロンド派議員の逮捕︶
﹁ニニ人委員会と一二人委員会の委員の即時逮捕﹂
⑨老人・障害者の救済
⑧祖国防衛者の家族の救済
の投票権を一時的にサン舞キュロットに限定
⑤サンnキュロット武装のための工場創設
指導者中心、ビヨー・ヴ
アレンヌ、サンuタンド
・エベール派、コミューン
指導者中心
ヤコバン代表を加えた革命委
・コミューン、ジャコバン
員会が拠点←失敗
一一人の代表が追加された中
・コミューン五人、ジャ“コバン
央委員会中心 . 、
会包囲←成功
・武装した八万の民衆が国民公
ーンに要求←成功
・タンプル街の労働者、コミュ
会に要求
④9月4∼5日・コミューンの指導者、国民公
6月2日
指 導 者
の中央委員会、ルクレールは革命共和婦人協会と﹃人民の友﹄と、三人のアンラジェは主要な活動基盤を異にして
以上のように、ルーはグラヴィリエ・セクション、ヴァルレはドゥロワ・ドゥ・ロム・セクションとエヴェシェ
② 一七九三年の蜂起とその目的ーアンラジェの活動一覧
ール派の陰謀に加わったとして再逮捕されてのちは、テルミドールの反動まで獄中にとどまることになった。
し、九月一六日、彼は、ラコンブとともに逮捕され、ルクレールの新聞は消滅した。以後、一七九四年四月にエベ
閃㍗巳已江。呂葺。ω︶に直接的な支援を与え、これを通じてセクションの活動とも結びつきをもちつつあった。しか
︵12︶
40 [m。コ︶、クレール・ラコンブ︵Ωぽ8冨8∋亘。︶らが活躍した﹁革命共和婦人協会﹂︵い①白力。巳m涼ユ①ωウ①∋∋Φω男曾忌言巴器ω
3
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3
①中央革命軍の編成②軍隊内の貴族のパージ③サンーキュロット武装のための軍需工場設置
①ジロンド派追放②行政官庁粛清’②︵一二人委員会廃止︶③反革命容疑者逮捕④サンーキュロットの投票権のみに一時的に限定⑤セクションの常設・報酬制度廃止
①パンの価格決定’①︵一般物資の価格決定︶〃①︵金持ちの出資による物価抑制︶②買占者への死刑要求③社会扶助鍾竃露
要 求
表5 民衆の諸要求
分類
求要的治政B
的求事軍要C
9月11日法令
︵6月2日蜂起の結果︶9月17日法令
5月4日法令9月29日法令7月26日法令5月4日法令
国民公会の法令による形式的な解決の有無
○○×○×○
○×○○××
○××
○×○△××
△××
実質的解決の有無
一部実施例外条項の存在で効果半減
アンラジェ弾圧の口実となる
いた。しかし、一七九三年の主たる蜂起の指導とそのスローガンからは、互いに補完しあう形で存在していたほぼ
︵13︶
一貫した理念、目標を読みとることができる︵表4参照︶。
以上のような蜂起に関する統計から明らかにされることは、④一七九三年のすべての蜂起に、一貫する目標が存
在していたこと、⑥純粋にアンラジェとサン・キュロットが中心となった蜂起は失敗し、エベール派やジャコバン
のメンバーが中心となったものは成功していたことである︵エベール派とジャコバン派は、蜂起を通じて民衆の反権威的
行動を否定する点では、同盟者でありえていた︶。また、◎アンラジェの指導は、五月三一日をもって頂点となり、その
後は下降したことなど、以上に述べた内容を裏づけるものである。ちなみに諸要求を分類すると、表5のようにな
り、ここからアンラジェに共通の理念・特徴を抽出することが可能となる。
ローズは、アンラジェに共通するプログラムを、①食糧買占者、金銭投機者に対する、法律と暴力の手段による
厳しい制裁、②現実の反革命派および潜在的な反革命派に対する政治的テルールの強化、③軍隊からの反革命派の
パージ、の三つに要約する。 ’ 、
︵14︶
この三点は、前表5のA・B・Cの類型における諸要求を整理したものであり、全体として支持することができ
よう。ただし、アンラジェのプログラムのなかには、要求内容自体に、サン・キュロットの利益を基礎としたもの
が含まれており、とくに政治的要求については、直接、サン・キュロットのみの利益をめざしたものを掲げていた
ことに注目しておかなければならない︵Bー④⑤など︶。また、実現手段について、武装によるテルールを強く主張し
ていた点も特徴と解さなければならない。この点、ローズは、﹁アンラジェの主要な特徴は、社会的急進主義、階級
︵15︶
意識的なテロリズム、そして九三年秋の反ジャコビニズムへの転換である﹂と指摘している。当時のジャコビニズ
ムを形成していたロベスピエール派︵モンターニュ左派︶と民衆との対立は、前述の如く、一七九三年九月中旬のア
ンラジェ弾圧によって明確となったが、総じてモンターニュ派の諸政策は、アンラジェを敵視しつつも、反革命と
理
戦争に対して民衆の力を結集する必要から法制化を余儀なくされたものばかりであった。これに対して、前表に掲
の自由を保護する。しかし国は、投機者を高利貸人を死刑に処する﹂と。さらに翌二一日、コミュ⋮ンで憲法を批判し、
会で発言し、同様に六月二〇日コルドリエ・クラブで次のような項目を憲法に加えることを要求していた。﹁国は、商業
︵8︶ 綱・竃①済◎︿㌔R父象拓◎§﹀いW凝﹀鷺災﹄ら欝∀ロや怠。。ムさ参照。ルーは、六月 五日すでに、コミューンの総評議
九七八年︶三 六 頁 も 参 照 。
︿7︶ ヂ・宕①済◎メ㌔総父霧畑○§㌧縛書冶災﹀㌻貧Oや江千ぱテ訳文については、杉原泰雄﹃人民主権の史的展開﹄二
]≦①己︹2審△o°。窪日ひ自ぼ、㌔﹄さ§へD㌔へ§∼ミヘミ§ミ§、お忘︾O廿“Oミふ⑦O°
︵6︶、.ぱ呂目ぼω仲Φ江霧曽日σQOω..“ξ呂曽ぎく㌔§§蓼§㍉切豊§災﹄9もP江Φ簿㌍之。§⋮︾旬哀9庄。N㌔や。
︵5︶ ︾°も奪o亘o巳“[跨い汀嵩−災合S、窃﹀☆注絃§切§へ、⇔ボペ“P品↑“
呂①己瀞ぴ力需江⑩ωc弓烏①σqぼ、.“b跨邑句冒N§o§﹁ぽR鮪已§∀冶べ﹀。“噂P]o杵◎力゜など参照。
ピ
臼む。∴≦二≦①葵o<、㌔ミミ㌻句㌔o§㍉句ミ心膏ミ﹄へ貢一q⊃①〇二≦°Oo日日①コぴq轡.□Rρ毒ωヵo⊂×二〇︹已品男o已σqP2庁
災㌻カP窃ムo◎⋮﹀°哀陪法Φ帆、、やo◎力綬口ぴ口gg宮灘Q麟oこ①斑○<o巨ぱoび、、“﹄隷民o討畑へεK職黛§息§、∩匂o“冶声凶噂P︽鶏
革命勃発時には、農民一揆の中心地であった町Oo。。コ①nの、サン・トマス教区の助任司祭の職にあった。戸恒男oωPe°
歩兵からのちに裁判官補佐となった人である。∼五歳で剃髪し、二〇歳で、母校ラザジスト学校の教師になった彼は、
︵4︶ ジャック・ルーは、一七五二年にアングレーム︵︾oひqo巳Φ日o︶近くのむり巴コ丁Ωぴ曽ユ●Φ勺﹃①5ω碧で生まれた。父は
︵3︶ 騨口鱒80w§タ☆ぐOやo◎でo。N参照。
ぎno目⊆、、﹄°辻≒°●﹂q⊃ωOも∨NOO象る・°など参照。
る。P轡驚①ぴコ◎、○鴬oバ誘ωo忠oω巨三.、、Φ烏①oqゆ.、□.○ソ涼①自、“﹀。江知肉沓GWど噂P文Φ怠㊤︰P口9窯Φ帆、、ごロ図自㏄oqm
ィエやルフェーブルによって、オルレアンのタブロー︵↓①亘Oξ①き︶やナントのショ︵目○ゴ芦×︶なども研究されてい
9◎已、ラコンブ示口㍗①8日∀o︶を加えた五人について検討している。騨“CO。鱒oωρ§句㎏xR於這籏“その他、マテ
︵2︶ アンラジェに属する人物について、ローズは、これらの三人のほか、女性のアンラジェとしてのレオン︵㊥゜
史学︵ 九五二年︶二〇頁以下がある。
先駆的な研究として、前川貞次郎﹁アンラージェ団コ毒σq⑩切の登場ー一七九三年二月二十五日の事件をめぐって﹂西洋
国コ日ぴ。m日8コ⋮、“﹄°国知㌔二一q⊃ω⇔OO﹄O㊤o[P︶なお、日本では、古くは﹁激昂派﹂﹁義憤団﹂等に訳されてきたが、
三年のほとんどの期間に彼らの運動がコミューン、公安委員会、国民公会をも悩ましたことが知られている。﹂︵、巴o
救済として、徴集.課税.物価の公定、独占の抑圧を提案した。⋮⋮彼らが苦しむ大衆の間に非常な人気を得、一七九
た。﹁アンラジェとは民衆の煽動者︵①ひo⋮冨甘烏。。︶である。彼らは、食糧品や生活必需品の急激な値上りと不足に対する
﹄§☆S㌔“でミミへ§ミミさ切“︹ぷ﹂q⊃HべもP合べo戸㊤︶のなかで彼らの業績を紹介し、一九三〇年には次のように述べてい
キシマムをめぐる闘争﹂︵。、↑oω゜・已げω︷ω訂ooo切b①口合旦品閃m<o冨江oコ、、も庁﹄一Foω国弓①σq伽ω9一巴已口oOo已こ①呂①×一日已β
会主義のパイオニアとしての役割を強調し、マティエがこれを継受した。マティエは、一九一七年に﹁アンラジェとマ
︵1︶ アンラジェは、一九世紀中期に、ティエールやミシュレ、マルクスらによって注目された。そして、ジョレスが社
最後まで追求しつづけた﹁方法において過激な﹂民衆のリーダーであったといえるであろう。
勢力と結ぶことを考えたエベール派と比較すれば、アンラジェこそが、反権威、反国民公会、反中央集権の性格を
以上のように、あくまで集権的な議会基盤の上にたったロベスピエール派や、コミューンを基盤にしつつ議会の
ていた。
念に基づく、民衆の生活防衛と政治分野での人民主権の実践という二大支柱が、ヴァルレの功績によって統一され
ヴァルレ、ルクレールを中心にして、各々の基盤・方法で闘われてきたものである。とくに、生存権優先の社会理
強化﹂という三点こそ、アンラジェの基本的な目標であったということができる。この三つの目標は、各々、ルー、
ョンのサン・キュロットを中心とした主権の完全実施﹂、﹁軍隊の粛清と民衆の武装による反革命派へのテルールの
44 げた諸要求のうち、最後まで実現されなかった﹁ブルジョワジーの犠牲による効果的な経済・社会政策﹂、﹁セクシ
3
原
法
憲
の
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九
一
七
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勘
三
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47
公会への失望を述べた。彼の演説は熱狂的な喝采を受けたにもかかわらず行動提起はなされなかったが、翌二二日のコ
ルドリエ・クラブ、二三日のグラヴィリエ・セクションでの演説では、国民公会への請願について積極的な支持が与え
︵9︶ ≠<﹂≦①井o<、㌔台Nミ切㌔o§べ切らさぶe災﹄ヘミも゜にNなお、ジョレスは、ルーのこのような演説を紹介して、そのな
られるに至った。
かに誤謬や危険な傾向があることを指摘した︵S廿旨αμ号゜ミ゜㍉oO叶日戸﹂q⊃べN⇔°9署]起o⇔ω︶。そして経済危機の原
因についての彼の理解が本質的なものではないこと、すなわち、買占めと投機が、物価騰貴、アシニアの不信用等のす
べての危機の唯一の原因と解したことを批判した。しかし、この批判を待つまでもなく、ルーは、商業の自由の濫用の
処罰を要求しつつも何ら所有権の本質やその制限を十分理論化しえてはいなかった。彼は、多くのサンーキュロットと
同様、人民の生存の保障に出発した平等主義者でありながらも、私的所有の原理を認める矛盾に気づくまでに至らなか
︵10︶ 問゜ロ’閃oωo“§°ミ’もや一〇−ωPその他ヴァルレについては、﹀°ζ讐三〇N、、ドoむ・c・已亘む・一ω冨90ωOo註①暮一①閃m<oざ江o昌、、“
った“活動家”であったといえる。
﹄§亀言㌔“きミ合§ミさ靭一㊤一SOO﹄忠9㊤のほか、杉原﹃人民主権の史的展開﹄三九頁以下を参照。
︵11︶ ルクレールは、父は政府につかえる土木技師、二人の兄は西インド貿易に携わる商人で、かなり富裕な家庭に育っ
た。閑’ロ゜閃OωP§°☆SこOPお−O㎝゜
︵12︶ 革命共和婦人協会および当時の女性の革命運動については、拙稿﹁フランス革命期における女性の権利﹂成城法学
リの革命婦人協会﹂史学雑誌九〇編六号三五頁以下参照。
一七号五九頁以下、﹁フランス革命と﹃女権宣言﹄﹂法律時報四八巻一号六九頁以下のほか、天野知恵子コ七九三年パ
︵13︶ 一七九三年の蜂起については、フランス革命一般に関するマティエ、ソブールの前掲書のほか、主として次のもの
が参考になる。前川・前掲論文︵﹁アンラージェの登場﹂︶二〇頁以下、ジョレス・前掲訳書七巻五一頁、岡本明﹁三月蜂
起とアンラジェ﹂史林五六巻三号︵一九七三年︶九三頁以下、ト呂⋮各巴Φ戸窪せざさ合合㌔へでミミへ§きsミ§“︷°ω゜
合゜ד×一〇U°ωぱ−ω9°
︵14︶ 戸切゜問oω而▼魯゜☆×こ∨お゜
︵15V ぴミこP。。曽
ニ ジャン・ヴァルレの憲法原理
︹1︶人権原理
1 権利の体系
前項の考察から、アンラジェの統一的綱領が必ずしも明確な形で存在していなかったにせよ、サンuキュロット
の社会・政治理念から抽出された一定の目標が共有されていたことが理解された。﹁議会ブルジョワ対民衆﹂とい
う対立の構図が意味をもつのは、革命実践上のみならず、人権原理や統治原理上も、両者が互いに独自のものをも
って対抗したからである。それが、本章で、アンラジェの憲法原理を議会ブルジョワの憲法原理と対比させる構成
をとった所以でもある。実際に、アンラジェの一人、ジャン・ヴァルレの人権宣言案は、モンターニュ主流派やロ
ベスピエールの草案に十分に対抗しうるすぐれた内容をもち、彼の憲法思想が一定の体系性を獲得することによっ
て憲法原理と呼ぶにふさわしいものとなっていた。さらに、それは、彼個人の憲法原理の表明であったと同時に、
間接的な党派的連帯のなかにあったアンラジェの原理の総括的表明であったと解しても、あながち誤りとはいえな
いだろう。ヴァルレの人権宣言案は、生存や所有の問題に関心を示したジャック・ルーなど無数の民衆の理念に﹁下
から﹂支えられた、すぐれた宣灘口の一つである。以下では、その分析をとおして、アンラジェの憲法原理へのアプ
ローチを試みることにしたい。
﹁社会状態における人権の厳粛な官三口﹂1これは、ヴァルレが、みずから﹁真理の元年︵一.①ロ宮Φヨ一20竺①忌苔⑲︶﹂
︵1︶
͡7︶
の一端をまくった厚いヴェールの下に、なおも隠されたままである。そのヴェールをわれわれがとり除こう﹂と呼
﹁神聖なるルソー︵一。合く日π86。c・。碧とという呼称を用い、﹁われわれの主権は、神聖なるルソーが生涯を通じてそ
師、私の主人﹂と呼ぶにふさわしい存在であり、さらに、ルソーが理論上の教師であった。彼は、ルソーに対して
と、より大胆に議論するのを私は聞いた。そして彼らが、すぐれた学問から学ぶことや、私と同様にいくつかのグ
︵6︶
ループに参加することを欲しているのを、私は理解した﹂と。ヴァルレにとっては、サン自キュロットは﹁私の教
た屋根裏部屋の貧乏人たちが、率直に、遠慮なく、上品な紳士や雄弁な弁士、模索する学者よりも、よりしっかり
﹁四年前から、公共の場所で、人民のグループのなかで、サンnキュロットたちの間で、私の好きなぼろをまとっ
し、次のように述べた。
さらに、﹁覚え書き﹂のなかでは、彼自身の理念が、サン擢キュロットたちから得たものであることを明らかに
と。
が一層尊重され⋮⋮人民の一部が⋮⋮抑圧されないために﹂、﹁完全に主権を行使しているフランス市民たちが、全
︵5︶
世界の主権者である諸国民に対して、⋮⋮最高存在の前で、またその庇護の下で、社会状態における人権を宣言する﹂
諸制度の普遍的基礎の未確立に由来することにかんがみて﹂、﹁全人民がその権利・義務を想起し⋮⋮諸機関の行為
﹁無知、誤謬、迷信が、諸国民の隷属の第一の原因であり、⋮⋮慣習の相違、法の不完全・無能、諸国の革命が、
ついで彼は、前文のなかで、人権宣言の目的を明らかにした。
︵4︶
彼らは全く圧制的な権力者になってしまう。﹂と。
ものである。したがって、われわれは、今こそ、創設された機関を抑制し拘束しなければならない。さもないと、
一つの真理がわれわれによく示されている。人間は、生来傲慢に満ち、高い地位につくと不可避的に専制に向かう
に対する裏切り者、反逆者になることで終わった。多数のなかでごく少数の自由人だけがこの感染から免れた。⋮⋮
そしてとりわけ金銭への渇望などが彼らに取りついた。彼らは、愛国者、アンラジェであることから始まり、人民
議士たちは、三度も、その重大な使命を十分に心にとどめることをしなかった。無頓着、才気への自惚れ、支配欲、
ことの意義を示し、続いてこの﹁自由﹂のなかから生まれつつある、新しい隷属に対する警戒を指摘した。﹁わが代
した、まさにその日に、われわれは、一方の手に皆殺しの剣を、他方の手に、人民の完壁な法典のなかに示された
͡3︶
われわれの意思の表明を携えなければならなかった﹂と。ここでヴァルレは、これまでの革命の成果を結実させる
勇敢な市民たちの犠牲のなかから生まれ、われわれが主権者となり、われわれの共同の敵が国民の全権力の前に屈
﹁七月一四日、自由は、けがらわしいバスチーユの廃城から輝かしく生まれ出た。八月一〇日⋮⋮共和制が、最も
人権宣言の意義は、まず、次のような﹁呼びかけ﹂のなかで明らかにされた。
え書き︵コo宮三切8ユ儂o︶﹂が付され、三〇条の条文で構成されている。
フランス人、主権者人民﹂にあてた﹁呼びかけ﹂に続く人権宣言は、前後に﹁前文﹂と﹁歴史的沿革についての覚
48 ︵2︶
3 と呼んだ一七九三年の春、憲法草案の公募に応じる形で発表され、五〇〇〇部が出版された宣言である。﹁八五県の
理
さて、以上のような目的と基盤から生まれた人権宣言案の三〇力条は、次のような構造をもっていた。
憩 びかけていた。
源
の
年
三
由、安全、保護、④財産の享有、⑤圧制への抵抗、の五種類があげられた。これらの各々の内容は、第八⊥三条
五条で規定された。第七条では、社会状態における人権として、①主権の行使、②思想・行動の自由、③個人の自
の直接の帰結であることに依拠する平等の具体的規定︵第六条︶と並んで、国の神聖な義務としての教育について第
と、第四ー七条で、基本的諸権利の基礎構造が示された。法の下の自由・平等に関する規定︵第四条︶、平等が自由
已
田 第一条では、まず、自由の定義が述べられ、第二二二条で諸国間の相互援助の必要と戦争の否定が宣言されたあ
第
章
49
3
ω
3
理
原
法
憲
の
章
三
年
三
九
七
一
第
に規定され、第二三ー三〇条では、一般的な社会契約の目的・内容について規定されて全条項のしめくくりとされ
た。
このような構成は、以下のような相互の関連性を含んでいた。ーまず、第一に、社会状態における人間にとっ
て最も根底的な原理は、自由と平等であった。自由は、神の尊厳を前提とした普遍的原理であり、平等は自由から
の直接の帰結であった。そして自由・平等の原理を根底にして、社会状態における人間の具体的な権利が認められ
た。これには思想行動等の自由や、安全、財産の享有など豊富な内容が含まれたが、その筆頭には政治的権利とし
ての主権の行使がおかれた。また、最後の﹁圧制への抵抗﹂は前四者の帰結であると同時にそれらの維持の手段と
して位置づけられた。第二に、これらの人権の維持こそ社会契約の目的であり、﹁弱い人間を、強い人間から守る﹂
︵第二八条︶ために、その﹁擁護﹂を可能にする社会組織あるいは国家の制度が必要とされた。同時に、﹁主権者
は、本質的に人民でなければならない﹂ことから、人民のみが、一般意思の形成、社会契約の改廃、社会組織への
権限の委任等の主体とされた。こうして、人権の擁護を主権者人民みずからの手で実現する制度の保障が導かれた。
換言すれば、人民主権の原理とは、社会目的たる人権擁護機能を推進し保障する手段に他ならないものであること
が明らかにされた。社会状態における人権の筆頭に主権の行使をおいたことも、人民が主権を行使するなかで、み
ずから人権を保障してゆくという構想を示したものである。第三に、ヴァルレにとっては、他方で、教育が、別の
意味の人権擁護あるいは実現の手段として存在していた。教育は、主権の事後的な擁護機能と比べると先行的な人
権享受にかかわるものであり、また、主権が民主的な政治制度を介在させるのに比して、教育は、全市民の民主的
︵8︶
意識に働きかけることによって人権の実現に寄与するものであるとされた。さらに、第四に、人権と社会組織との
このような関係の上に、この関係自体を強制的に担保する装置として抵抗権が構想された。ヴァルレにとっては、
︵6︶さミ゜もやNω占ふ
︵5︶さミ゜もP㊤山O°
︵4︶さミニ目゜〒口.
︵3︶ ﹂°<①ユo戸§°ミ゜も゜ω゜
︵九大法学二四号八八頁︶も参照した。資料−固を参照されたい。
︵2︶ 訳文については、杉原・前掲書七一頁以下、瓜生洋一﹁ジャン・ヴァルレ著・社会状態における人権の壮厳な宣言﹂
に対して五月とされるものもある︵bミへ§sミさ㎏ミNR§ミQ§§ミ自ミoさ§×○§ミミきミミ㌘⇔]戸一㊤公︶。
切゜戸oωP§ミこP一。。は、一七九三年初頭とし、ト]碧識μ§ミこおN合戸S∨ωOは、九三年一ー二月とする。これ
︵1︶ ト<①ユ①︹b令合目、へ§8合§鳴へ合§切へさ茸昏∼、言さミo合嵩ミミ8ヘミしべqうω゜この宣言の出版時期について、戸
か わ る 統 治 原 理 と し て 扱 っ てお
く
こ
と
一にする。
この点をふまえたうえで、他節との均衡から便宜上、ω・旬・⑨を人権原理として、ω・ωを社会組織の形成にか
を人権の内容として重視していることからしても、形式的な区別は妥当でないことがわかるであろう。以下では、
レにおいては、人権保障と主権行使を密接不可分なものとした点で両者は深い因果関係をもち、とくに、主権行使
後三者は、各々、人権原理と主権原理に属するものとして従来から別々に扱われる傾向があった。しかし、ヴァル
主権原理の提示、ω社会契約の形式についてのセクション中心主義、⑥蜂起権、である。これらのうち、前二者と
ω自由、平等の本質、あるいは平等の実質的規定、旬所有原理、および生存権と社会扶助の権利の内容、ω人民
この人権宣言草案について検討すべき論点は、次の五つにまとめることができる。
社会組織のあり方を規定する主権原理にその淵源が求められていたことが注目される。
障の装置にとどまらず、社会契約の変革・社会組織の転覆を内容とするものでもあった。したがって、社会契約、
抵抗権は、主として主権侵奪に対する救済権であり、その手段は一斉蜂起であった。また、蜂起は、単なる人権保
51
3
磁
三
年
三
九
七
一
の
理
原
法
憲
章
第
田
3
︵7︶きミ.も.O°
︵8︶ ヴァルレは教育の必要を強調し、自由・平等の原理実現のための国民教育プランを構想した。いかなる家長も子弟
へ§ヘミ、﹃⇔§§ミ合ミへさ切ヘミ∀wも合⇔ミ○ミミoミへ§ボミざ§童SON、P一㎝︶。
のために特別の教師をもたず、完全に公教育に参加させる義務があるという︵S<碧一〇⇔、ξSS§§民合Sもへ§∼ミ
2 諸権利の内容と特徴
ω自由と平等
﹁自由とは、秩序と社会的調和を司る倫理的存在である。それは、人々の間のすべての徳とすべての才、すべての
︵1︶
繁栄の原理である﹂と第一条前段は定めた。ヴァルレにとって、自由は、神に淵源をもつ最も崇高で根底的な原理
であり、社会における秩序・調和と不可避的に結びついていた。この点で、﹁他人を害しないすべての行為をなしう
る権利である﹂として個人的自由を尊重した一七八九年宣言以来の傾向に比して、ヴァルレのそれは、社会的に自
由を規定する傾向にあり、むしろ秩序と社会的調和を維持・管理するための原理として捉えられていたといえる。
第四条では、﹁全世界の人間は、自由かつ権利において平等に生まれ、存在し、また、そうあり続けなければなら
ない。この第一の原理が無視され、誤解されるところでは、どこでも専制と無政府状態が君臨する﹂と定められ、
全世界の人間が自然的に自由・平等であるという普遍的原理が確認された。
ついで、自由の原理を、具体的権利について明確にしたものが、思想・行動の自由、個人の自由の規定である。
﹁思想の自由は、まず、すべての人間が最高存在に対して敬意を捧げる場合に自由でなければならないようにす
る。この自由の大原則は、いかなる種類の例外も認めない。故に、国家は、信仰の表明が、社会契約によって確立
された秩序を乱すものでないかぎり、信仰に関する事柄に少しも介入しえないし、また、してはならない。﹂﹁思想
の自由は、また、思想の自由な伝達とすべての意見に対する寛容をも確定する。思考すること、それは、人間の最
も貴重な権利である。したがって、人は、その能力を、いかなる場合にも、禁止され、停止され、または制限され
ることなく、自由に書き、話し、出版することができなければならない﹂という第一一条の規定は、思想の自由の
なかに信仰の自由・表現の自由を含め、秩序による制約以外を認めないことによって、これに絶対性を与えようと
していた。
ついで第一二条は、﹁行動の自由とは、すべての個人に属する、自由に往来し、集合し、創設された機関の統治や
活動を批判し、監督し、要するに、社会と同胞に対していかなる損害ももたらさないことをすべて行うことのでき
る権利のことである。こうして、社会における各人の権利の行使は、他の共同の構成員に同じ権利の享受を保障し
なければならないという社会契約によって確かめられた限界をもっている﹂と規定した。他人との関係で制約を認
めるだけでなく、権力機構に対する批判、監督の行動を内容とした点が特徴的である。さらに、個人の自由に関す
る第一三条では、人身売買の自由を否定し一身の譲渡不可能性に制約理由を求めた後段の規定︵﹁個人の自由とは、す
べての人間がその労力と時間を契約することは自由であるが、みずからを売買することができないことにある。個人の人格は
不可譲である﹂︶を除いて、次のように、全く独自の政治的な定義がなされていたことが注目される。
﹁個人の自由とは、すべての個人がもっている、投票し、選挙し、討議し、そして、各人に帰属する主権の部分
を集会で行使する、争いえない権利のことである。社会契約は、市民が、この権利の行使に際して、中止もしく
は停止されうる場合があることをあらかじめ定めておかなければならない。﹂
次に、平等について、第六条は﹁平等は、自由からの直接の帰結である﹂と定め、自由の崇高性が同時に平等の
必要性を伴うものであることを明らかにした。ヴァルレは、﹁平等元年、自由の第四年﹂と呼ばれた当時の状況にあ
って、自由を個人的原理から社会的原理に高めると同時に、平等を社会的原理として実質的に保障することの重要
性を知っていた。そして社会的・経済的平等の内容について次のように規定した。
の度合に応じて、あらゆる公職に就くことができる。
斑 ﹁ω市民は、出生、財産もしくは身分上の差別なく、各々の能力に応じて、または、各々が抱かせる尊敬と信頼
3
㈲社会の必要によって要請される租税の分担は、それが納税義務者の能力に応じて累進的であるかぎりにおいて
のみ、平等である。
圃わずかな賃金で生活する個人は、生活の糧となる労働生産物の上に課税されることができない。
旬地位に関するすべての差別的な標章は、職務執行の際にしか用いられない。
団社会的報奨は、なされた奉仕の価値に従って段階をつけられ、つねに専ら、徳行と個人的な功労に対して認め
られ、かつ、つねに共同の利用に向けられる。﹂
以上のような平等を具体化するための諸項目のなかで、とくに㈲圃は、民衆の間に実質的な経済的平等をもたら
すためのものとして重要である。ヴァルレは、この宣言に先だつ著作﹃特別の命令的委任に関する草案﹄︵後述︶の
なかでもすでに﹁乞食の根絶、財産の過大な不平等の漸進的消滅、租税および社会的利益への全員一致の協力、公
金費消者・横領者の抑圧、投機者・買占者の死刑要求⋮⋮﹂などの要求を掲げていた。この点でも、﹁ある階級の人
間が罰せられずに他の階級を飢えさせるとき、自由とは幻想にすぎない。金持ちが、独占によって同胞に対して生
死を決する権利を行使するとき、平等とは幻想にすぎない﹂と述べて、同様の社会的諸要求を掲げたジャック・ル
︵2︶
ーとの類似点を認めることができると同時に、社会的・経済的平等原理の実質化・具体化をめざしたアンラジェの
一貫した姿勢を認めることができよう。
②所有権
所有に関する規定は、第一六条以下第二一条までの六力条にわたる。その文言には曖昧な部分が多く、また、他
の著作のなかでは所有原理が明確にされていないため、条文上の解釈のみに頼って内容を判断することはさほど容
易ではない。しかし、ヴァルレにとって、社会状態における所有は、その不可侵性が問題とされる以前に、すでに
成立時に大きな社会的限定を付されており、彼の所有理論は、その条文の順序のとおり論理的に展開されていたと
考えることができる。
まず、第一六条は次のように規定した。
﹁財産の享有とは、占有する権利のことである︵[ど。已一ωω98ユ。ω080叶一公伽・。。ω二。腎。一けα。08・・。ω・。合ロ︶。財産は、
その全員が自己の保全に関心をもっている市民の保護の下にある。﹂
したがって、社会状態における人権としての所有権とは、一七八九年人権宣言のそれのように絶対的な自然権と
して構成されていたのではなく、その対象である財産自体が社会的存在である市民によってすでに保護されている
ものとされた。ここでは、財産享有の単純かつ一般的な形態は、まず︵未だ所有に至らない︶占有として現れること
が示された。
安全、身体の保全は、すべてに先行する財物であるから、彼らの最も自然な意思、最も不変の権利とは、富を獲得
うけないものでなければならない。いかなる国家においても貧乏人が多数を構成している。そして、彼らの自由、
腱 続く第一七条は、﹁土地占有権は、社会においては限界をもっている。その範囲は、商業、農業がいかなる被害も
鮭
の
年
巳
章
三
一
民の個人的自由・安全こそ第一に保護の対象とされなければならない状態であり、しかも、金持ちの圧制から身を
の享有は何ら無制限でありえないことを、社会的現実から導いた。貧しい者が多数を占める国家では、そもそも人
ヴァルレは、所有の問題のなかで最も重要な土地の所有について、社会状態では、土地占有権すなわち土地財産
にある﹂と規定した。
匂 する野心を抑え、正義にかなう方法で富の巨大な不均衡を打破することによって、金持ちの圧制から身を守ること
第
茄
3
理
守るためには、経済的不平等の打破が不可避である。こうして、生存権と享受の平等から所有権の制限を導いたサ
現れた。また、第二に、第一七条において、﹁商業や農業が何ら被害を受けないこと﹂を土地占有の制限として掲げ
超えることができなかった限界は、まず、第一に、第一八条四項で、世襲財産と相続財産・贈与を承認したことに
触れておくことが必要となる。所有権の社会的制限を推進して経済的な不平等の解消をめざしつつも、ヴァルレが
しかし、ここでも、サン・キュロットとアンラジェに共通する限界、すなわち、﹁私的所有自体の承認﹂について
の特徴を示したものであった。
限﹂を周到に表現したものであり、第一八条一ー三項をはじめとして、﹁︵小︶所有の平等﹂を理想とするその所有論
さて、以上のような第一六条から第二一条に至る諸規定は、サン‖キュロットの社会理念としての﹁所有権の制
点でも、ヴァルレの功績を認めることができるであろう。
する死刑の表明には至ってなくても、当時のアンラジェの要求を所有権の制限として体系化したものであり、この
へ
とくに第二〇条で投機や独占等が非難され、国有財産として没収することが定められたことは、たとえそれに対
の財産を奪われない。﹂︵第二一条︶ 、
﹁緊急の、確実に証明された公の必要が要求し、さらにつねに、正当な事前の補償の条件がなければ、何人も自己
財私消の証拠を得たときは、即座に国有財産となる。﹂︵第二〇条︶
﹁窃盗、投機、独占、買占めによって、公共財産の犠牲の上に蓄えられた財産は、社会が、確かな事実によって公
規定された。
に向かわないこと﹂という制約の他に、所有権の不可侵性の例外となる二つの場合が、次の第二〇条、第二一条に
の性質いかんにかかわらず、任意に、自己の財産と収入を処分することができる﹂と。そして、この﹁社会の破壊
﹁所有権は不可侵の権利であるから、それをもつ者はすべて、その行使が決して社会の破壊に向かわない限り、そ
さて、第一八条による以上のような対象の制限をふまえて、第一九条で初めて所有権の性格が述べられた。
ができる。
生存権そのものであったと同時に、現実の生存手段であったパンや石けんなどを直接に意味していたと解すること
という形で体系化したものであるといえよう。したがって、ヴァルレが、第一項で所有権の対象とした財産とは、
な問題であったことを考慮すれば、このヴァルレの宣言は、彼らの理念をまさにその趣旨どおりに﹁所有権の制限﹂
ったのではなく、これらを要求することで社会的不平等の現実を改善し、直接に生存の保障を得ることがより重要
注目される。当時のサン・キュロットにとっては、これらの権利を、人権として位置づけることに主たる意義があ
︵3︶
食を得る権利︶、労働権および社会扶助を受ける権利などがすべて、所有権のなかに包含されて表明されていたことが
以上のように、一・二項においては、サンnキュロットがその社会理念として掲げていた生存権︵生存のための糧
㈹第四の財産は、世襲財産および相続財産または贈与からなる。﹂
㈹第三の財産は、商業、農業の生産物または公私の地位および職務の給料である。
られる赤貧者に対する慈善の実施、および、労働の提供によって壮健な貧乏人に対して施される救済にある。
ωそれに劣らず本質的な第二の財産は、老人、病弱者あるいは労働しうる状態にない者に休息という形で与え
を十分に保障するものである。
ωすべての人間が、主張し要求する権利をもつ、第一の、最も神聖な財産は、彼らに生存の必要不可欠な手段
﹁社会状態における人間は、次の四種類の財産を承認する。
対象となりうる﹁財産﹂を、あらかじめ限定することであり、第一八条に、次のように定められた。
そこで、次に、社会状態において所有権を承認するにあたっての前提的な制限が設定された。それは、所有権の
5
3 6 ン・キュロットの社会理念と同様に、ヴァルレにおいても、所有の制限が必然的なものとして示された。
原
法
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三
第
57
3
皿業資本の拡充を保護し・ひいては資奎義的集中の状況を容認する覧につながるものであったことを指摘してお
たことは、大土地所有者から農民や小商人を擁護する意図に出たものであるにせよ、それは、商業流通の自由・農
かなければならない。さらに、当時、極左派のなかですでに呈示されつつあった﹁土地均分法﹂について、ヴァル
レが全く考慮していないことも事実である。もちろん、一七九三年三月一八日の土地均分法提起者を死刑にする法
令のため、それを明示することができなかった事情も推察されるにせよ、一七九三年七月末に、モーシャンの司祭、
︵4︶
ピエール・ドリヴィエが発表した所有権構想と比較すれば、ヴァルレの﹁土地均分法﹂派からの距離を否定するこ
とはできないであろう。
ドリヴイエは、﹁全体的な貧窮による欠乏が、すべての従属をひき起こすとき、自由はありうるだろうか。ある者
がすべてを持ち、他の者が何も持たない時、平等がありうるだろうか﹂という、サンnキュロットと同じ理念に出
発しつつ、﹁土地は全員のものであり、特別の何者にも属さない﹂﹁各人は、自己の労働の産物について、排他的な
権利をもつ﹂という二大原則を提起した。土地についても、彼は、最大の自然の共有地であるとして、万人が大共
有地に対する配分の権利をもつことを主張した。彼の案は、土地財産に対する相続権を廃止して共有財産を組成す
る一方、大小作地を家族単位の小耕作地に分割して、小作地の全面解体をめざすものであった。そして、コミュー
ンが最終的な土地所有者となることで、市民の各世代は一時的な使用収益権者となり、彼らは災害等の必要に際し
て共有地の分け前を要求しうるのみとされた。ジョレスは、こうしたドリヴィエの構想は、その内実において、ま
︵5︶
さに﹁土地均分法﹂の理念であったと指摘している。これに対して、前述のように、ヴァルレの所有権論において
は、土地所有の形態および彼の究極的な理念は、何ら具体的に語られていなかったことがその限界として指摘され
よう。
③蜂起権
社会契約が権限当局によって逸脱され、主権者の主権が纂奪される非常時には、圧制に対する蜂起権が発生する。
この権利は、前述したとおり、サン・キュロットが革命実践のなかで﹁人民主権の究極的な行使﹂として体得した
ものであった。
ヴァルレは、第二二条に次のような規定をおいた。
﹁圧制への抵抗は、貴重な蜂起の権利である。蜂起の権利は、ただ必要という法しか認めるべきではない。国
王、専制君主、独裁者、野心家、支配的な陰謀家、暴君など、いかなる形で現われようとも、それによって国民
の主権が纂奪され侵害されるとき、圧制が存在する。軍隊や武力が国家の中で優越するとき、圧制が存在する。
社会契約が定めた限界を、設定された諸機関が逸脱するとき、圧制が存在する。国民の公金が費消され、国費の
費消が社会の貧困を極度に進めるとき、圧制が存在する。このような状況では、一斉蜂起︵︷5ω已﹃叶00⇔一◎口一﹄コ一くO﹁ωO一一Φ︶
こそが、独立を保障するもの、権利のうちで最も正当なもの、義務のうちで最も神聖なものとなる。﹂
このように、ヴァルレにあっては、圧制は、主権と主権者の主権行使が侵された場合に認められた。第一〇条五・
理 六項で、租税の決定・公金の管理の監視を主権の行使として想定していたことと相まって、極度な国費濫用は、主
湖
ための蜂起は、彼にとっては平和的形態をとることは考えられず、武装蜂起のみを意味したと考えられる。
転覆するための唯一無比の手段であった。主権の帰結として、主権によって導かれ、主権者の手で主権を実現する
抗の最後の手段として一斉蜂起が考えられたのであり、それは、主権者人民みずからの力で主権を回復し、圧制を
より、むしろ、直接的に人民主権からの帰結として捉えられた。また、そのためにこそ、ヴァルレにとっては、抵
嚥 権行使の侵害となることも示された。従来から、諸人権宣言では、圧制の存在は人民の権利の侵害の場合に認めら
ヨ れてきたのに対して、ヴァルレにおいては、明確に﹁人民の主権侵害﹂として表現されていた点が注目される。彼
勧 にとっては、抵抗の権利は、一七九三年憲法、ロベスピエール草案の場合のように他のすべての人権の帰結という
一
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三
第
四
3
︵1︶ ト<①ユo︹b災eミ誉s8ざNミミ合合吻⇔さ巷合こSミさ㌻合ざ句ミ§8ヘミ︾戸一P︵以下、条文については同書によ
る︶
︵2︶ ≦°呂o完o<㌔3ミ8㌔o§も﹄品゜その他、本章第一節2︵三三四頁以下︶のジャック.ルーの項目を参照。
︵3︶ 岡本明﹁ジャコバン国家論﹂社会思想二巻一号一八〇頁も、﹁所有権の中に生存権を内包させる発想﹂であると理解
している。
︵4︶勺﹄。=<互、。国゜・ω巴む・烏三已巴8且∋一⇔⋮<。o。已﹁・・Φ三二。日昌・冨。・曾S§﹁§。・芝。﹁創﹁⑦・,8芭曾9巨鋤
一。古o∋∋09ロωωo°・号o⋮㌃6↑⇔o已ωωoω日oぺ雪ω創oげo呂Φ已﹁.、∀︵﹁人間にすべての権利と幸福の手段を保障しうる唯一の社
会秩序に基礎的な原理を与えるための本質的な正義に関する論文﹂︶においてもドリヴィエの所有権論が展開されていた
︵S冒旨⑬μ§ミ゜二㊤匿“︷°。。もo°N戸N①︷ω゜︶。なお、ドリヴィエの所有権論については、遅塚・前掲書一四五頁以下、
二二五頁以下参照。
︵5︶ S廿已品μへ↑ミこ[°。。も﹄N一’ジョレス︵村松訳︶・前掲訳書第八巻三〇六頁参照。
︹n︺統治原理
1 人民主権の八つの形態
ヴァルレは、人権宣言草案のなかで、社会状態における人権の筆頭に﹁主権の行使﹂を掲げ、市民の政治的権利
︵1︶
として、主権の実質的な行使を最重要視した。
彼にとって、主権は、単一、不可分、不可譲で、時効消滅しえず、かつ、決して代表されることのない全能の権
力であり、第八条は、次のようにその属性と帰属について規定した。﹁主権の行使は、すべての諸国民︵一。ωZ①江8ω︶
に帰属する。全権力︵訂弓。巨。壱巳。・ω碧8︶は、本来的に、国民のうちにのみ存在する。それは、単一、不可分、不
可譲で、時効消滅しえず、委任状︵ヨ①コ匹陪ω︶によって委任されることができるが、決して代表されることはない。
すべての国家に、ただ一つの権力が存在する。主権者たる諸国民の権力である。創設された諸機関は、そこから由
来したものであり、つねにそれ︹諸国民︺に従属する﹂と。ここで主権の主体を、複数で諸国民︵Z豊。昌ω︶としたこ
とについては、国内というよりむしろ世界的立場に立って各国の諸人民を想定したものと考えられる。彼が﹁アメ
リカ人、アジアの人民、アフリカ人、ヨーロッパ人、諸国民、主権者諸国民よ。誇り高くあれ。﹂と述べている点
や、﹁全権をもちながらも、一握りの人間によって圧迫されている、世界中の主権者諸国民﹂に対して宣言が発せら
れる形をとっている点から、従来の主権の国内的帰属に関する﹁国民﹂﹁人民﹂の用法と異なるものであることがわ
かるであろう。これに対して、主権の国内的帰属については、ヴァルレは、八五県のフランス人民を主権者として
︵2︶
捉え、人民主権の立場を明らかにしていた。このことは、前文で﹁主権者人民︵罵已豆oωo=<①蚕ぎ︶﹂の用語を使用
し、その他の規定で﹁人民の主権﹂という表現を繰り返し用いていただけでなく、実質的な主権行使を人民に真に
へ
帰属させるための人民による意思決定手続きなど、周到な構想が用意されていたことに示される。具体的には、第
と表明したのに続いて、第一〇条で、人民の行使を強固にするための具体的権利を以下のように規定し、民主的な
九条が、﹁委任者︵8∋日①⇔富コω︶の正式な委任によらずに公務を執行する者は、人民の主権を侵害する纂奪者である﹂
理
原
統治の体系を作りあげていた。
㈹自己の委任者の利益を裏切る議員︵念一mσq忌ω︶を召還し、処罰する権利。
して、みずから法律の制定に参加する権利。
㈹法律を提案することを委任された受任者に、個別的には願望と意向を、全体的には﹁意思﹂を提示し、かく
㈲社会の利益を討議する権利。
ω直接にすべての公的機関︵一①ω合9⇔合ロω苫ひ言已。ω︶を選出する権利。
﹁諸国民の主権の行使は、互いに異なる八つの部分に分けられる⋮・:。
憲
60
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法
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匡
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三
一
樹
第
田
3
㈹公の租税の必要性を確認する権利。すなわち、自由に公の租税を承認し、その使途を見守り、その税額、基
日本では、この種の研
次に、第二の要素として、受任者への活発な請願と監督が指摘される。受任者は主権者の意思に従って行動し、
者に委任によって権限を付与することである﹂と述べられたように、﹁主権者による権限の委任によってのみ受任者
︵4︶
は任務を開始しうること﹂が必要とされ、受任者への委任行為が主権行使の重要な要素とされた。
く選挙が主権行使の基本的な要素であった。同時に、﹁主権の第一の行為は選挙することであり、第二は、選ばれた
権の実現には、まず﹁仲介者なく直接に、すべての公務員を選出すること﹂が必要であり、直接普通選挙制に基づ
みでは不十分であることを指摘し、さらに、選挙人会を介在させる間接選挙制を非難した。彼にとっては、人民主
挙は権利の根源的な譲渡ではない。⋮⋮われわれは、一時的にせよ、その用益を受任者に委ねることで主権の行使
︵3︶
を放棄するなら、それ以後は時効によって無効の状態になるということを理解している﹂と述べて選挙権の行使の
会の代議士を指名する選挙人を選出することだけで、われわれの主権を完全に行使できるか考えるがよい。⋮⋮選
まず、命令的委任案の第一の要素は、第一次集会による選挙と諸権限の委任である。彼は、﹁われわれが、国民公
れる第一次集会でなされるべきことを主張した。
って纂奪されてきたという認識に出発して、代表制を否定し、さらに、主権の行使が、人民あるいはそれと同視さ
的要請であることを述べた。すなわち、ヴァルレは、過去四年間にわたる革命のなかで、人民の主権が代表制によ
の原則に基づく命令的委任案を展開して、これが九二年八月一〇日以後の﹁立法専制主義﹂に対応するための歴史
︵日①ロユ①け①一﹁①ω︶であり、われわれの機関︵。﹃σq目ω︶にすぎない﹂と通告し、﹁代理権限なく委任なければ代議士なし﹂
このなかで彼は、代議士に対して、まず、﹁あなた方は、もはやわれわれの代表ではない。われわれの受任者
︵2︶
︵1︶
費で﹂出版のうえ、国民公会に送付した。
一七九二年一二月九日、ヴァルレは、 ﹃特別の命令的委任に関する草案﹄と題する著作を﹁サン開キュロットの出
ω 主権行使と命令的委任の構造
2 主権行使の形態と統治機構
︵2︶さミ゜もふPZo甘︵①︶°
究は豊富とは い え な い 。
三九−一一〇頁で詳細な検討がなされているが、憲法学の分野はもとより、歴史学の分野でも、
︵1︶ S<①ユo︹O伽o一碧巴一〇P>叶吟一〇一〇Se°ミ゜も﹂ω゜なお、ヴァルレの主権論については﹃
、人
杉民
原主権の史的展開﹄
くに注目すべきものは、立法の手続きおよび命令的委任に関するものである。
権という主権行使の諸権利を網羅することで、その実現を図っていたことが理解できる。彼の主権論のなかで、と
選挙権、審議権、法律発議権、受任者の召還権、租税決定権、事務報告請求権、法律裁可権、社会契約︵憲法︶改正
以上のような諸規定によって、ヴァルレは、みずから人民の立場に立脚した人民主権の原理を実質的に追求し、
㈹任意に社会契約を再検討し、改造し、修正し、変更する、国家のなかの全体としての市民の権利。﹂
し、否認もしくは裁可︵む力①白O江OコロO﹃︶する権利。
㈲受任者が、それらに法律としての効力を与え、かつ執行可能にするために提起した法律案︵急o﹁oけ゜力︶を検討
㈲すべての公務員、行政官、官吏、国民の公金の管理者に、その事務について報告を要求する権利。
匿
3 準、徴集、期間を決定する権利。
理
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七
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第
それに忠実でなければならないからである。ヴァルレは、代議士が無制限の力をもつことによって専制君主となっ
た過去の歴史的事実からこの要請を導き出し、その悪弊を根絶するのは、今こそ、人民の不断の監視による他はな
碍
3 ︵5︶
いことを強調した。
はなく、各セクションの受任者に一般意思の形成を委任する手続きであるために、一般意思が誤り、または、主権
して、各セクション内の人民の声が一般意思に高められるものとされた。ここでは、直接に全市民が参加するので
の結果を再びセクションの審査・裁可にかけるという手続きを想定していた。そして、この中央の議事機関をとお
セクションの統一見解をセクションから派遣された受任者が各々もちより、中央の議事機関で討議したうえで、そ
ここにおいて彼は、まず、セクション単位で社会全体の利益を討議し、そのなかで表明された個人的な意見や、
比較し、検討することによってのみ知られるものである﹂と。
思の表明である。この意思は、主権者集会に集合した市民が、セクションごとに表明した部分的な願望を収集し、
また、一般意思の形成について、ヴァルレは、人権宣言案第二四条に次のような規定をおいた。﹁法律は、一般意
た。
の人民は、否認か承認を決することで、法律の成否への決定的な参加・協力を実行する手段を掌握するものとされ
可を経たときのみ法律の効力をもつため、人民の審査と裁可に付すことが必要だからである。こうして第一次集会
協力をする。これに基づいて議会で法律案が作成され、第一次集会に送付される。この法律案は、第一次集会の裁
受任者に対して、個人的な意見・願望や、第一次集会での全体的な意思を、陳述あるいは表示し、立法への第一の
終的に議決するという周到な規定が与えられていた。それによれば、主権者は、まず、法律案の提示を任務とする
立法の手続きについては、前述の人権官三⇔案第一〇条第三・七項で、人民が法律案の作成を委任し、審議し、最
② 意思決定手続き ﹁人民による立法﹂の手続き
言案第一〇条第一・三・四・七項︶。そして、ヴァルレにおいては、この原則は、人民主権を実現するための立法・執
︵8︶
行手続きの態様と切り離して考えることは不可能であった。
託、受任者に対する請願、監視、解雇、協約停止、課罰という内容によって担保しようとしたものであった︵人権宣
以上のように、ヴァルレの命令的委任案とは、﹁代議士は受任者にすぎない﹂という原則を、任命および権限委
﹁立法者専制﹂から人民の主権を守る最後の方法として、議員の責任追及が当然に必要となるからである。
とが帰結される﹂と。ついで、﹁権限を逸脱し、もしくは市民の利益に背いた受任者を罰する﹂ことが要請された。
︵7︶
異なるときは⋮⋮、代議士を召還してその意図を説明させ、彼らが受任者として締結している協約を停止されるこ
が、人をまどわすもので承服しえず、第一次集会で利益を論ずるになじまず、または、受任者の使命であるものと
止として捉えた。また、人民による法律の裁可の原理に関して、次のように指摘した。﹁もし、協約の原理の承認
権限の範囲を定めないで絶対的な自由を与えることの危険を十分に承知していたために、解雇の問題を、協約の停
知が、あなた方に任務の範囲を提示する。そしてあなた方は、みずからが代理権に基づいて人民の考えに発展をも
︵6︶
たらすことを委任されたにすぎない、という原則につれもどされるだろう﹂と述べた。ここでは、彼は、代議士に
宣言したが、われわれは、あなた方が解雇されるべきか否かを容易に決するであろう。われわれの意思の表明と通
磁 第三の要素は、人民による受任者の解雇である。ヴァルレは、﹁あなた方議員は、解雇されうるものであることを
3
理
瀬
嚥 者が欺かれる危険性は免れえない。それゆえ、その救済あるいは予防のために、直接選挙制や、その他命令的委任
章
三
一
法律の執行は、執行委員会に委ねられることを基本法として制定せよ。その執行委員会は、罷免可能な少数の公務
彼は、﹁フランスでは、もはや第一次集会と受任者のなかにしか人民の権利は存在しえない。したがって、以後、
障、地方自治の重視、兼任の禁止等を要求していた。
ヴァルレは、﹃特別の命令的委任に関する草案﹄のなかで、すでに、公務員に対する規制、公職就任の平等の保
詐 論に基づく受任者の報告や召還、責任追及の諸制度、人民による法律裁可制度が設けられていたといえる。
仇 ③ 執行監督手続き
第
砧
3
員からなり、一定期間毎にその責任が審査される。法律の執行のために招集される各市民は、順次、執行委員会の
砺議長になる﹂と述べて・執行手続きの構想を明らかにし超・彼によれば・各大臣は・人民によって告発を受けた場
合は、二年毎に再選挙され、審査を受けることが義務づけられ、また、その場合は、立法府は、全第一次集会に候
補者のリストを送らなければならないとされた。さらに、ヴァルレは、公務員が不正行為をしたことが確認された
場合には、人民の利益を裏切った受任者を死刑に処するための刑事法を制定すると同時に、公務員や代議士の業績
︵10︶
を把握し、責任を法的に追及するための調査・管理制度を創設することを要求として掲げていた。
︵11︶
以上のようなヴァルレの主張は、人権宣言草案には、次のように表明されていた。
﹁国家において創設された機関の第一のものは、国民代表部︹‖議会︺と呼ばれ、第二のものは法律執行委員会と
呼ばれる﹂︵第二五条︶。﹁社会契約は、公職の終身制を正式に禁止する﹂︵第二六条︶。﹁社会契約は、公職の兼任を許
容してはならない。すべての創設された機関の間に、明確な分離を確立しなければならない﹂︵第二七条︶。
これらのうち、第二五条は、執行委員会は議会の下位に位置することを意味し、第二六条、第二七条の規定は、
立法と執行両機関における権限の分離︵権力分立ではない︶を前提としたものであると理解することができる。すな
わち、執行機関は、人民および受任者あるいは立法者の有する権力を単に執行する権限をもつにすぎないために、
これらに従属すべきものであり、その権限が超肥大化する危険性をもつ終身制や兼職が否定されると同時に、立法
の職能とは明確な区別が前提とされなければならないとされた。
次に、第二九条は、不正公務員に対する責任について規定した。﹁社会契約は、公務員の野心を制限することを特
にめざさなければならない。したがって、いかなる者であれ、義務に違反した場合は、その使命の重大さに比例し
て刑罰を科せられる﹂と。こうして、人民主権下での執行監督手続きが、公務員に対する刑事責任の追及によって
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﹁
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の国家機構そのものに係わっていた。それは、何より、ヴァルレ自身の政治的活動基盤がセクションであり、さら
さて、ヴァルレにおけるセクション中心主義は、主権の行使の態様であると同時に、主権行使を現実化するため
を与えていた。
用語を用い、これに﹁社会状態形成において国家の構成員たる主権者が共同して締結する根本的規範﹂という内容
て理解されていたものである。ヴァルレは、根本規範としての意味をさらに明確にするために﹁社会契約﹂という
は、第一〇条八項で社会契約の変更権について述べた。これは、従来の人権宣言ではほとんど﹁憲法改正権﹂とし
すれば、その基本協約が社会契約と呼ばれる一つのまとまりとなる﹂︵人権宣言草案第二一二条︶。ちなみに、ヴァルレ
る。集合したその代理人たちは、自己の委任者の意図を開示し、彼らに法案を作成し提示する。多数がこれを承認
︵12︶
﹁主権者たる国民が社会状態を形成するとき、その諸セクションは、内容を明示した委任状を携えた議員を派遣す
より広義の社会契約の成立に関しても、セクション中心主義を次のように表明した。
がセクションを中心としてなされるという重大な特色を理解できた。一般的な立法手続きのみならず、ヴァルレは、
立法手続きについての考察から、ヴァルレの構想では、一般意思の形成をはじめとする法律制定への人民の参加
ω セクション中心主義
内の人民であったと解することが、彼にとって一貫していると思われる。
公務員に対する処罰の主体は、司法官ではなく、第一義的には、あくまで主権を行使する人民、とくにセクション
国者からなる主権者の司法官の制度﹂を示唆していた他は、特別の構想を示さなかった。この点については、不正
やセクションにおける裁判の実施等の問題については、﹃特別の命令的委任に関する草案﹄のなかで﹁選挙された愛
このほか、ヴァルレは、サンnキュロットが主張していた司法権の主権者人民への帰属、あるいは、人民裁判所
立法府−執行府という権力の段階構造も存在していた︵第二五条︶と考えられる。
完了するものとされた。このほか、人民の直接的なコントロールの他に、議会による行政統制も志向され、人民1
原
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第
3
67
砧
3
に一七九三年には、国民公会に対立する中央機関として全セクションからなる中央委員会をエヴェシェ︵旧司教館︶
︵13︶
で実現していたという事実から明らかにされるものである。実際、フランス革命史研究の立場からは、このヴァル
︵14︶
レの実践をとおして、彼の主権論を理解し、限界を指摘する傾向が強いといえる。
しかし、原理と実践の問題を混同しないためにも、ここでは、彼の主権原理上のセクション中心主義の問題点を
まず抽出しておかなければならない。セクション内で表明された全人民の意見をもとにしつつ、しかも再度の人民
の承認を要件として一般意思を形成するという彼の人民主権の構想自体には、何ら内的矛盾はなく、そのうえ、命
令的委任論等による保障を完備していた点でもすぐれていたと思われる。にもかかわらず、問題があるとすれば、
それはセクション自体の存在形態に関係するものであった。
すなわち、ルソーがコ般意思が十分に表明されるためには、国家のうちに部分的社会が存在せず、各々の市民
が自分自身の意見だけをいうことが重要である。⋮⋮もし、部分的社会が存在するならば、その数を多くして、そ
の間に生ずる不平等を防止しなければならない。こういう用心だけが、一般意思を常に明らかにし、人民がみずか
らを欺かないために有効なもので紮﹂と述べた点に、ヴ・ルレも注意を払う必蒙あったといえる。そして、ル
ソーのように、国家の諸権力が一般意思によって指導される場合を前提にする場合には、﹁主権の具体的行使をセク
ション単位で実施すること﹂と、﹁各セクションの意思は何ら一般意思ではありえないこと﹂との間に存在する不可
避的な矛盾を自覚しなければならなかった。人民主権を実質的に保障するために、前者を強調すればするほど、セ
クション単位の観念的分割は進行し、一般意思の統一とはますますかけ離れてゆくからである。しかも、この傾向
を避けるためにセクション間の連絡を密にし、命令的委任の場合の委任内容や範囲の統一を図ることなどが実際上
考えられるにせよ、彼の理論からは、それらのことは何ら必然的に導かれるものではなかった。
以上のことは、一七九二年から九三年にかけてのサンnキュロット運動の高揚期に、﹁セクションは主権者である﹂
という自覚が高まった過程でエヴェシェの中央委員会が組織されたことにも関連する。すなわち、革命実践の面で、
セクション内での人民主権原理の個別的な実現に力を注ぎつつあったサンnキュロットの支持を頼って、ヴァルレ
は、国民公会やコミューンにも対抗する中央機関を組織し、これを統一してゆかなければならなかった。そして、
彼は、一七九三年五月三一日にセクションの中央委員会を主権の主体として表明するに至った。一七九二年の﹃特
別の命令的委任に関する草案﹄では触れられなかったセクション中心主義が、人権宣言案のなかに登場するのも、
こうした状況の推移によるものといえるであろう。そこで、実践上の問題点あるいは﹁敗因﹂をまとめると次のよ
うになるであろう。
④ 四八セクションの足並みが不統一で、中央委員会に全セクションが参加しえない状況であった。したがっ
てルソーの“部分的社会”としては、当時のセクションは一般意思の形成に平等の立場で参加してはいなか
った。また、それは不可能であったこと。
ω各セクション内の自治と、主権行使への努力が、逆に、全セクションによる一般意思形成あるいは共通利
ω ヴァルレの中央委員会機構は、本来、既存のコミューン組織と両立しうるものではなかった。現実に、対
諏 益追求を軽視させる方向に作用したこと。
勘
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︵1︶ ﹄°<①ユo戸㌔§ミ⇔、Nミミ☆ざ合、も“9ミ災ヘミぶヘミS﹃⇔§ミミミ合ミへ§⇔ミ>o§合⇔合9se︸ミ§き§∨§童ミ“⊃N
員会の組織と原理がそれに対処しうるものではなかったこと などである。
ω 反革命や戦争等の緊迫した危機状況のなかで、強大な中央集権化が要請されていたことに対して、中央委
ヴァルレその他のメンバーによって与えられなかったこと。
⊃ 立関係を招来していたなかで、その関係およびパリ以外の地方組織との関係についての明確な位置づけが、
章
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︵甲Zこ[亘...一8︶°井上す∼・前掲書=二八頁によれば、ロ﹁①窃合によって、一七九二年九月二九日配布の事実が明ら
かにされている︵O︹°図゜︼]°カOωOw§.ら心二℃°一〇〇wコOけ①︵︽oo︶︶が、﹀二≦①け宮oぶo∨寓、こ﹄ボ∨ミ合切㌔へ§ミ亘oボミさ靭︹Φw一㊤一S
Pま。。では、一七九二年一二月九日に公会に提出されたことが示されている。
︵2︶S<旦⑦ひき災心、§ぎ§ボ合、魯ヘヘミoこ§へ目ミも゜切・
︵3︶ さミこO℃﹄−㎝゜
︵4︶さミ゜も゜O°
︵5︶ ヴァルレは、憲法制定国民議会時の議員などが、国王と同じく巨大な権威をもった専制君主となったことを指摘し
た。﹁抑制のない権力と、権限なく委任もない代議士ができて、容易に彼らの体制や特殊意思を主権者の秩序のかわりに
おくことができたのが認められた。この根源的な悪をあなた方が根絶するのだ﹂と述べていた︵S<①エm戸ヘミSPO︶。
︵6︶ さミも﹂一右杉原﹃人民主権の史的展開﹄五二頁では、命令的委任の場合の責任追及とは、法的な委任範囲の逸脱に
対する法的責任のみならず、受任者としての行動の不適切さに対する政治的・倫理的責任も含むかどうかを問題として
いる。この点は、ヴァルレの構想のなかで必ずしも明確にされているわけではないが、﹃特別の命令的委任に関する草案﹄
のなかに、市民の一般的な利益に背いた受任者の処罰を含んでいたことなどからすれば、後者のように広く理解してお
くことが妥当と思われる。
︵7︶さ“SO]N°
︵8︶ ヴァレルは、人民主権について、人権宣言に次のような条項を規定することを﹃特別の命令的委任に関する草案﹄
のなかで公会に要求していた。﹁人民の主権とは、以下のことを実施するために、市民が第一次集会において享有する自
然権である。すなわち、市民が仲介者なく直接にすべての公選のメンバーを選出し、みずからの利益を討議し、法律作
背いた受任者を罰する能力を留保し、その上、法律案を審議することである﹂︵注ミこ廿﹂Φ︶と。
成を委任する旨の委任状を代議士に与え、彼らを召還する能力を保持し、その代理権限の逸脱あるいは委任者の利益に
︵9︶さミ、O﹂。。°
さミ、や8°
<①ユ①︹b合合ミぎボ8合ボボoS⇔跨へさ募合∼、ぎミ§♪OP8卑。。°
︵10︶ き式、P一㊤゜
︵12︶
︵H︶
井上すゴ・前掲書一二七ー二二二頁は、ヴァルレの代表ー委任についての考えを分析し、ヴァルレ的民主制の矛盾
本節一2︵三三七ー三三九頁︶参照。
︵13︶
︵14︶
の結果
て 、 リーダーシップの欠如・拒否、運動の統一性の欠如、無責任性を指摘している。ここでは、ヴァルレの
と
し 中央委
員
会
の
構
想
を
﹁民衆的フェデラリスム﹂と呼び、彼の実践から原理を検討してゆく方法がとられているが、ヴァ
衆的フ
ス ム ﹂ の限界を指摘する井上すぶ教授の議論に対して、杉原教授から詳細な検討と批判がなされている。
ェ
デ
ラ
リ ルレの
明 に お い て は 、この方法の危険性に注意する必要があろう。この点を含めて、ヴァルレの﹁民
人
民
主
権
原
理
の
解 杉原・前掲書五四頁以下参照。
︵15︶ ルソー・前掲訳書第二編三章四八頁。
第四章
一七九三年憲法の歴史的意義と限界
1むすびに代えて
r,﹄﹁日
歴
的
と
界
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義
意
史
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四
章
第
乃
3
第一節 一七九三年憲法の歴史的意義
革命後期の民衆運動と一七九三年憲法
フランス憲法史上最初の共和主義憲法である一七九三年六月二四日憲法は、一七九二年八月一〇日の政変の成果
として共和制の基本原理を確立するために制定された。フランスで初めての男子普通選挙によって選出された国民
公会は、当初から、憲法制定の任務を担って登場していた。
革命勃発後四年目の一七九三年には、民衆運動の激化に伴う革命路線の左傾化によって、貧困な多数の民衆の利
益がめざされ、上層市民を代表するジロンド派に代わってモンターニュ派が革命を指導した。折しも、反革命と戦
争の最大の危機のなかにあって、革命と共和国の防衛が第一に優先すべき目標となっていた。1一七九三年憲法
は、このような革命状況のなかで成立した。内外の敵に新しい共和国の統一と威力を誇示するためには憲法の存在
が必要であり、民衆に満足を与えてその力を結集するためには憲法の原理こそ有効であった。一七九三年憲法は、
これもまたフランス憲法史上最初の、人民投票によって承認された。
しかし、その憲法の実施をめぐって状況は一変した。危機はますます深くなり、革命防衛・共和国防衛の目標は、
民衆の利益実現の目標とは両立しえないことがしだいに明確になった。この目標のために、モンターニュ主流派と
万
3
界
年
の
歴
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史
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已
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章
一
ロベスピエール派からなる公安委員会は、左右の反対者を弾圧して恐怖政治を展開し、民衆とも対立した。一七九
三年一〇月一〇日には、憲法制定から四カ月足らずでその施行延期が決定され、その民主的・急進的な憲法原理は
︵1︶
水泡に帰した。
こうして、まさにリアルな歴史的状況のなかで一七九三年憲法は成立し、消滅した。一面、すべてが﹁事物の力﹂
︵2︶
によるものである。しかし、危機的状況がなかったならば、憲法が実施されえたと解するのは早計であろう。それ
が掲げた﹁不完全な﹂人民主権原理さえ、実施されるには、モンターニュ派は余りにも﹁非民主的﹂﹁反民衆的﹂で
ありすぎた。彼らは、あくまでブルジョワジーの代表であり、その社会基盤において民衆と一線を画していた。ロ
ベスピエールを含めて、政治的思考に勝れた議会ブルジョワにとっては、民衆の利益を共有することは本来的に不
可能であった。一方、主権者としての民衆も、この民主的な憲法を実施するには、あまりにも未熟な要因を多くも
ちすぎていた。階級的自覚が欠落し、確かな理論と強固な団結をもちえなかったばかりでなく、一般民衆とアンラ
ジェ・リーダーとの間にさえ大きな隔たりがあった。さらにアンラジェ自身も、党派的な団結と支持基盤強化の努
力を怠っていた。こうして憲法の有名無実化とともに、革命のなかに構築された民衆運動それ自体が内部的な無力
化の方向に進んでいった。
ところが、テルミドールの反動による革命政府の崩壊を経た一七九五年に、一七九三年憲法の名が再び歴史に登
場した。この時期には、テルミドール右派︵ブルジョワ保守派︶、テルミドール左派︵ジャコバン派︶、ネオ・エベール
派︵旧サン・キュロット運動派︶という三勢力のうち、ブルジョワ保守派が勝利し、他の二派に完全な敗北がもたらさ
︵3︶
れていた。一七九三年憲法は、この時期の第三勢力の綱領となった。
一七九五年三月に入ると、パリの食糧不足の深刻化に加えて、議会内の一七九三年憲法修正の動きが、すでに沈
滞していたサン・キュロット運動を立ち上がらせ、グラヴィリエ・セクション、シテ︵Ωけ価︶・セクションなどを中
心に、議会への抗議行動が始まった。四月一日のジェルミナールの蜂起では、蜂起を呼びかけた﹁人民よ目覚めよ
︵勺6=豆p窓く。≡?8二︶﹂のパンフレットが、国民公会に対して一七九三年憲法の迅速な実施を要求しており、セク
︵4︶
ションの諸要求のなかでもそれが中心的な位置を占めた。続いて五月三〇日のプレリアールの蜂起では、﹁パンと一
七九三年憲法を﹂と書いたプラカードが掲げられ、﹁パンを獲得し、諸権利を奪還するための人民の蜂起﹂というス
︵5︶
ローガンのもとで、一七九三年憲法実施の要求が再確認された。この蜂起では、パリ東部.中央部のセクションを
中心とする多数の民衆によって議場占拠と騒乱が繰り返され、一時は﹁食糧改善と九三年憲法維持﹂の口約を得る
までに至った。蜂起は、結局議会の鎮圧によって敗れ、サン・キュロット運動自体が完全に息の根を止められるこ
とになったが、一七九三年憲法は、これによって一層、民衆の渇望と執着に根ざした革命の一大成果としての位置
︵6︶
づけを与えられ、人民の﹁武器の一つ﹂となった。
ン
一方、初期にサン‖キュロット運動を支持しつつ、やがてこれと決裂し、私有財産の廃止による徹底的な平等と
人民主権の実現をめざしていたバブーフ︵∩︸°]]①げO口︹︶も、一七九三年憲法を高く評価していた。とくに、一七九六
年四月九日に出された﹃バブーフの教義の分析︵﹀昌巴く。。。合訂匹89叶日。△。ロ曽Φ已︷︶﹄のなかに、次のような規定が
︵7︶
おかれていた。
コ七九三年憲法は、フランス人民の真の法典である。﹂︵第一二条︶
﹁一七九五年憲法に由来する、すべての権力は、不公正かつ反革命的なものである。﹂︵第一四条︶
条︶
田 ﹁全市民は、一七九三年憲法にしたがって人民の意思と幸福を回復し、これを防禦しなければならない。﹂︵第一三
第
コ七九三年憲法に手を触れる者は、人民の尊厳を傷つける犯罪者である。﹂︵第一五条︶
77
3 また、秘密総裁府の蜂起綱領として四月中旬に起草された﹃蜂起状︵﹀臼三コωξ器∩9已﹁︶﹄でも、﹁蜂起の目的は、
一七九三年憲法、万人の自由、平等、幸福を再建することである﹂︵第二条︶と定められ、一七九三年憲法が秘密総
六ー二九条、第三二ー三五条を援用していた︵呂゜Oo∋∋自σqoで8°△一︷二や。。O︶ことが注目される。
oや6一⇔°も゜宗︶、また、﹃出版の自由新聞︵]o弓o巴巳Φ冨一ま2芯△o一①買①。。ωΦ︶﹄のなかで、一七九三年宣言第七条、第二
書のなかで、一七九三年憲法成立における民主的要素を強調し︵ロ=oコ昌﹃o江も∨亀で︹一一口戸一ぱ−日g⊃⋮呂・Oo∋∋呂ひqo戸
このほか、バブーフは、﹃一七九五年憲法に従うべきか︵Oo団︹oコo亘忠む・ω彗oo劫訂Oooω[一巨江8亀o一べq⊃忠︶﹄という文
︵8︶ ロ已08﹁8亘§°☆ごO⑰一①﹄o︷o二q⊃q⊃Φけω゜
↑忘§ミ句ミ♪一㊤Oω゜参照。
九三年憲法の関係につき、ζ﹂︶o∋日①oひqo□..↑oω国ひq①已×〇二①Oo昌ω葺已江oコ○⑦一おω、、・きせミミ書﹀さ“eさ0⇔ミ
︵7︶ ロ已oコ知﹁﹁0900嵩も︵目、ざミ﹀ミミS、曹ミふミ合合曽曾§一㊤OS吟二炉OP㊤q⊃−一〇Sなお、バブーフらの平等派と一七
︵6︶ さミ、廿﹄合゜
蜂起後の一七九五年八月二二日、一七九一年憲法型の新憲法︵いわゆる共和暦m年憲法︶を制定した。
ャコバンの蘇生を可能にするものである﹂というチボードー︵]ソ古一ひ①ロユO①已︶の見解に従って憲法制定作業を継続し、両
︵5︶ さミ≡]OO°これに対して、国民公会は、コ七九三年憲法は人民に直接的権力を与えすぎており、コミューンやジ
︵一一︶︶。
政治的プログラムであったと解するR・コップ、G・リューデらの見解を明確に否定している︵ヘミS、OPぱ。。−ωお
︵4︶ ↓QココΦωωo見o>註でO⑰﹂。。一〇吟ω゜テネソンは、一七九三年憲法の実施要求は、人民を響導するためのジャコバンの
下の他、↓Q目oωωoP卜⇔心■誉合句砺§㌣§ミ、拶一q⊃Oq⊃も℃“日魯ω゜参照。
︵3︶ テルミドール以後の革命状況とジェルミナール・プレリアル両蜂起については、柴田﹃バブーフの陰謀﹄六三頁以
だけであろう。
いずれか一方に断定することは困難である。単純な歴史的考察は前者に、単純な憲法原理上の考察は後者に接近させる
に序章︵九頁以下、三四頁︶、第一章第二節二︵七二頁︶、第三章第三節一︵二七二頁以下︶などでもみたように、その
単に民衆を郷導する意図に出た﹁幕間狂言﹂とみるかは重要な問題である︵杉原﹃国民主権の研究﹄六四頁参照︶。すで
︵2︶ 一七九三年憲法の制定と施行延期について、延期は客観情勢によるやむをえない不可避的結果とみるか、当初から、
頁以下︶、第二章第一節一︵七九頁以下︶で検討したところである。
︵1︶ 一七九三年憲法の制定意義および制定から施行延期に至る経過と革命状況については、本書第一章第一節一一︵五七
法である﹂と述べていたように、彼はこのことを最もよく理解していたと考えられる。
︵11︶
れは、長い間、誠実な共和主義者が結集すべき集合点を示してきた。それは人民によって承認された一七九三年憲
九五年憲法に対抗して彼らの力を結集するために、必要かつ最も適切な道具でもあった。バブーフ自身が﹁われわ
こそ、民衆や反政府的共和主義者にとって尊重すべき民衆的・民主的伝統の源泉であったことは事実であり、一七
もかかわらず、少なくとも、一七九五年憲法による革命成果の否定が起こりつつあった段階では、一七九三年憲法
達し、社会主義を基礎とした人民主権原理の構造と結合した点で、一七九三年の諸原理を超えるものであった。に
、 ︵10︶
ジェの﹁小ブルジョワ平等主義﹂や﹁土地均分法﹂派の思想を超越して、私的所有の否定と国民共同体の共有に到
数の支持を得るための政策にすぎないとする解釈も生じている。バブーフの平等主義は、ロベスピエールやアンラ
︵9︶
任追及手続きの不備など、一七九三年憲法原理上の限界に気づいており、それ故に、こうしたバブーフの礼賛は多
あったことが指摘できる。しかし、第二の点については、もちろん、バブーフは、所有権の不可侵性や受任者の責
一七九三年憲法の諸原理のうち、人民主権原理や平等原理などはバブーフらにとっても一定の評価に値するもので
認された唯一の正規の憲法であり、一七九五年憲法に対抗するための民主的な存立基盤をもっていたこと、第二に、
このように一七九三年憲法が綱領的な機能を果たしえた理由として、第一に、この憲法が、人民投票によって承
︵8︶
㎎ 裁府の統一綱領になっていたことがわかる。
3
㎜
裁
臆
酸
迦
認
ヨ
九
七
一
四
章
第
η
3
80
3
︵9︶ 柴田・前掲書二九八頁では、政策的配慮に出たものと解している。
︵10︶ 社会主義と結合したバブーフの人民主権の構造については、杉原・前掲﹃人民主権の史的展開﹄一=頁以下参照。
⇔ミ㌻忘ミ嵩、ミニ・⊃Oω゜﹄﹄日冨⇔bミ災ミ塗き忘へ災S督§しOべ。。°<°呂゜O①言p>°°力①狂ぶPむ。。げ。巳“衷ミR§÷合
以上にあげたもののほか、バブーフの陰謀については、Oo一一〇ρ已o一耳①∋巴一〇コ巴亀ooっ90オ庁巳ヨ き↑oミ.災言∀さひe§霧
合自﹀ミ§宣ミ合句﹀§ミぴヘミ冴︹こ、§ざミ⑨合きせミニO⑳O︵文献目録︶、豊田尭﹃バブーフとその時代﹄︵一九五八
年︶、平岡昇﹃平等に葱かれた人々ーバブーフとその仲間たち﹄︵一九七三年︶、岩本勲﹃フランスにおける革命思想・
増補版﹄︵一 九 八 〇 年 ︶ な ど 参 照 。
、
︵11︶ ]≦°Oo∋∋①口ぴqo□oPo一ゴ℃°鶏゜
二 革命期以後の歴史的機能
大革命以後、一七九三年憲法は、フランスにおける一つの民主的伝統を担うものとして、﹁後代のそれぞれの時点
︵1︶
における現状批判的運動のシンボル﹂として機能した。このことは、マティエが次のように指摘するところでもあ
る。﹁革命の逞しい楽観主義は、未来への有効な賭けであった。彼らの憲法は完全に死んだのではない。その精神は
︵2︶
なおも生き続け、その美徳は、何ら使い果たされてしまったわけではなかったのである﹂と。
ャコバン主義﹂の伝統として、今日まで生き続けた。フランス左翼運動の通史のなかでは、一般に、①復古王制期
このことを証明するように、一七九三年憲法は、ある時はサンnキュロット運動への追憶の表象、ある時は﹁ジ
のカルボナリ︵○碧ぴ。目①︹芭党とジャコバン主義、②七月王制期の共和派運動とジャコバン主義、③二月革命と第
︵3︶ ︵4︶
二共和制期の民衆運動、④第二帝制末期の急進主義運動とベルヴィル綱領、⑤パリ・コミューン期の民衆運動と諸
︵5︶ ︵6︶
綱領、⑥第三共和制期の急進主義運動と諸綱領、⑦一九四〇ー四四年のレジスタン運動、⑧第五共和制期の左翼統
八7∨ ︷8︶
一戦線と社共共同政府綱領など、各時代の種々の局面で、一七九三年の革命理念︵ジャコバン主義︶や一七九三年憲
ハ9︶
法の原理との関係が言及されてきた。しかし、すでに第一章でも触れたように、これらの言及のなかでは、一七九
三年憲法の原理とロベスピエール派の憲法原理、あるいはサンnキュロットの憲法理念との区別が必ずしも明確に
されておらず、いわば﹁フランス左翼の潮流の緩やかな綱領﹂として捉えられてきたにすぎない。そのなかにも、
・ ︿狙︶
﹂.ドフラーヌのように、フランス左翼の潮流と大革命期のモデルを、各々、ω自由主義左翼︵一七八九ー一七九一
年の自由主義的立憲派︶、旬権力左翼︵一七九三ー一七九四年の全体主義的ジャコバン派︶、付反抗左翼︵サン自キュロット
︵11︶
運動に出発したプロレタリア的・絶対自由主義的なアンラジェ、バブーフ派など︶、に求める場合、さらには、G・ルフラ
社会主義的・共産主義的左翼︵アンラジェ、エベール、バブーフなど︶に分類する場合などがある。したがってこれら
堺 ンのように、ω自由主義的・議会主義的左翼、ω民主主義的・反教権的左翼︵コンドルセ、ロベスピエールなど︶、ω
珊 ︵12︶
義
のブルジョワ的成果の防衛﹂を本務とした国民公会のモンターニュ主流派の原理に求めたうえで、その内容を、ジ
かでは、一七九三年憲法自体の原理については、概ね第二の㈲の潮流のなかに位置づけ、この憲法の起源を﹁革命
臆 について、各々、一七九三年憲法の原理の位置づけを問題とすることが必要となろう。当面は、これらの分類のな
歴
刻
の
絃
観
四
一
︵2︶ P呂緯主o“、.い①○◎目9忌芯o鮎Φ嬬Oω..“﹄°辻痴勺4おN◎。“や9戸゜
︵1︶ 樋口﹃近代立憲主義と現代国家﹄一四 頁。
義の問題は、序章で示したように、続巻の課題として今後の検討に委ねることにしたい。
已 ロンド派、ロベスピエール派、さらに、︿ωに分類される︶サンnキュロット・アンラジェの憲法思想・憲法原理との
力 比較のなかで明らかにしておくことが妥当と考えている。が、このような革命期以後の 七九三年憲法の歴史的意
章
第
81
3
幻
3
歴
と
界
限
義
意
的
史
の
四
憲
年
三
九
七
一
法
章
第
田
3
︵3︶ ρ↑m守§P卜朋鶴ミ合8§き、§し㊤べωも℃㊤ド田︰O“9①註P↑a㌔らoいざぷおOω“や一8︾中木﹃フランス政治史
︵上︶﹄五一ー五二頁など参照。
︿4︶ 一八三三年の﹁人権協会﹂の綱領として、ロベスピエールの人権宣⋮欝が採用されていたなど、この時期の普通選挙
運動に与えたジャコバン主義の影響が指摘されることが多い。伊藤満智子﹁オーギュスト・ブランキと七月王政期の共
和派運動﹂歴史学研究三六三号二一頁など参照。
︵5︶ 騨力m目◎o吾9ぱN>忘ミ貢o§締ボ9°∩ぺ拾$“カO田−N9でも、 七九 ー九三年の民衆運動の遺産として捉
えられている。
︵6︶ ○.ピ瓜轟ロP§浪☆㍉こU]ふ駆OP心◎o⑩①︷°。∴﹀]°↓ζOOωρ卜⇔忌さOヘミ誉§ぎボ亀烏§ミ切﹂句﹂黛這ご︵大石訳﹃フ
ランスの民主・王義﹄︹∼九七四年︺二一、一三四頁など参照︶。
︵7︶ パリ・コミューン期の人民主権原理につき、杉原﹃人民主権の史的展開﹄三三五頁以下、柳春生﹁パジ・コミュー
︵8︶ ρζ①﹃江ロ魯゜亘㌻Oや一〇c。−已ポOPごΦム冶゜では、ジャコバン・王義の蘇生として捉えられている。
ンにおける代表観念にかんする憲法史的考察﹂法政研究三八巻二ー四号四九〇頁など参照。
︵9︶ フランス共産党は、一九四五年に一七九三年憲法の再建を要求し︵ζ﹂︶⊆<o﹁°。m﹁“き句ミミへ§防∀ミ“、尽§切災⇔さ心
へ§句辻ミざ苫又ふ脇已㎡ひ曽や呈︶、一九七五年の﹁自由の吉三呂﹂︿邦訳﹃世界政治資料﹄︹一九七五年︶四五五号二八ー
四一頁︶のなかで一七九三年憲法に言及している。なお、共同政府綱領に至るフランスの人民主権の系譜につき、杉原
﹁主権と自由﹂芦部編・前掲書︵﹃国民主権と国民代表制﹄所収︶三五ー四〇頁、杉原﹃人民主権の史的展開﹄四二九頁
以下参照。
︵11︶ ドフラーヌ︵野沢訳︶﹃フランスの左翼﹄︵一九七二年︶二二ー四二頁。
︵10︶本書序章第一節三ー四頁、第一章第二節六四頁以下参照。
︵12V O“㍗⑩昧§P8°☆㍗OO濃o仲P
、
第二節 一七九三年憲法の限界と諸問題
人権原理上の限界
前章の検討から、一七九三年宣言の内容がジロンド宣言のそれとほぼ同一の線上にあり、その所有原理をはじめ
として、一七九三年憲法の人権原理が、そのブルジョワ的性格において、ジロンド草案のそれとほぼ同質のものと
考えられることが明らかにされた。人の自然的権利としての﹁平等・安全・所有・抵抗﹂の権利を基調とした点で
は、その人権原理が一七八九年宣言の類型からさほど遠くないことも認められた。一方、 一七九三年宣言の特徴と
︵1︶
して、平等の強調とその権利性の承認、社会権的諸規定の設置、蜂起権の承認などがあげられる。これらは当時の
民衆の要求に応えるものとして、人権原理の﹁社会的傾向﹂を示すものであった。しかし、ロベスピエール宣言や
ヴァルレ宣言を比較の対象に加えた場合には、その﹁社会的傾向﹂の限界が一層鮮明に浮かびあがる。これによっ
て、一七八九年宣言・ジロンド宣言などの﹁個人的自由中心型﹂に対置しつつ、一七九三年宣言の人権原理を﹁社
会的平等中心型﹂と解してきた従来の解釈も、一定の修正を迫られることになるであろう。
まず、人権宣言の意義及び諸権利の体系についてみると、最高存在としての神の前で厳粛な人権宣言を発するこ
とによって、社会目的の維持を政府の責任として自覚しようとする態度は、ジロンド宣言・一七九三年宣言・ロベ
磁
界
爬
スピエール宣言・ヴァルレ官言口のすべてに共通していた。また、社会目的を﹁共同の幸福﹂とし、政府の任務を人
間の自然権の保障であると規定した 七九三年宣言第 条は、ロベスピエールやヴァルレの構想とも一致していた。
にもかかわらず、その権利の内容はこれらとは異なっており、﹁平等、自由、安全、所有﹂という自然権の絶対不可
侵性を基調とした一七九三年宣言の限界をそこに認めずにはいられない。ロベスピエール宣言は、﹁主要な人権は生
存権︵生存の維持に備える権利︶と自由である﹂︵第二条︶と表明して社会的平等への意図を示したし、ヴァルレ宣言
も、主権の行使や思想行動の自由、財産の享有等を権利の内容として掲げつつも、それを﹁社会状態における権利﹂
として限定し、社会状態に特有の定義を与えた。諸権利のなかで、概ね一七八九年宣言やジロンド宣言を踏襲した
一七九三年宣言の限界についての検討に適するものは、とりわけ平等、所有、社会的権利などである。
最初に、平等についてみよう。﹁平等﹂をそれ自体権利の中に含め、さらに、それを諸権利の筆頭に移して強調し
た一七九三年宣言では、政治的・社会的な平等を保障するために種々の具体的規定をおいた功績があった反面、限
界をもたないものではなかった。もちろん、一七八九年宣言と比較すれば、平等の権利化や社会権的規定の設定そ
のものが憲法史的には前進であったことは否定できないにせよ、その内容としての、奴隷の禁止、公職就任の平等
など身分的平等は、旧制度を打破した革命の成果として当然のものでもあった。また、法律制定への参加などの政
治的平等を掲げたことも、すでに男子普通選挙制を実現していた当時の状況の追認に他ならず、ジロンド宣言とも
差異はない。通常、社会権的規定として重視される教育の機会均等や公的扶助に関する規定さえも、すでにジロン
ド宣言に掲げられていたものであり、﹁時代の要請﹂を示したものといえる。すなわち、 一七九三年の新たな共和制
下で要請されていた平等は、もはや形式的な権利の平等や、政治的平等の表明ではなく、唯一、実質的な社会的平
等あるいは経済的平等の実現であった。そのために、ヴァルレ宣言の第六条は、平等の内容を具体的にし、社会的
地位についての称号の使用や社会的報奨について定めるとともに、累進税制と課税免除の規定をおいた。また、ロ
ベスピエール宣言でも累進税制が規定されたばかりでなく、四月二四日の演説のなかではその採用がとくに強調さ
れていた。これらに対して、一七九三年宣言が、経済的平等の実質的保障に意を用いなかった事実は、その限界と
して注目に値すべきものである。と同時に、これと関係をもつ他の多くの規定が、この平等原理のあり方を決める
ものであったことを忘れてはならない。
それは、とりわけ所有権規定のなかに示された。一七九三年宣言第=ハ条は、﹁所有権は、任意に、その財産、収
入、労働および事業の成果を享受し処分する、すべての市民に属する権利である﹂として定義し、一七八九年宣言・
ジロンド宣言と同様、神聖不可侵の自然権のなかにおいた︵第二条︶。また、﹁いかなる種類の労働、耕作、商業も、
市民の事業として禁止されない﹂とする第一七条も、市民憲法の特色としてのいわゆる﹁営業の自由﹂を表明した
ものであり、しだいに進展しつつあった資本主義的集中と経済力の格差拡大の方向に対して承認を与えるものであ
った。ジロンド宣言の所有規定との比較に際して指摘したように、一七九三年宣言で、所有権の主体を﹁市民﹂と
麟
し、対象から﹁資本﹂を削除するなど一定の配慮が認められたにも拘らず、いずれも所有権の不可侵性・自然権性
︵2︶
蜘 を否定するまでに至ってはいなかった。
嘘
四
章
三
九
七
一
ロベスピエールにも、濫用に至らないかぎりの所有を制限する原理は存在していなかったのである。これに対して、
存在あるいは不可侵性に求め、いわば権利の内在的制約を基調としていたことなどの限界を指摘することができる。
された。しかしここでも、財産の保障を立法裁量に委ねたことの問題性のほか、所有権制限の根拠を他人の権利の
れに伴う商業の自由が不可侵性を帯びていた反面で、この範囲を超えたり濫用に至ったものは抑制されることが示
によって保障された財産の部分を享受し、処分する権利である﹂と定められ、法的に保障された範囲内の所有とそ
塙 えることで濫用に至る大所有に制限を付すことを考慮していた。その第六条では、﹁所有︹権︺とは、各市民が法律
融 この点、ロベスピエール宣言では、自然権のなかに所有権を含めることをせず、所有の原則を社会制度として捉
第
斑
3
ヴァルレの宣言は、所有の積極的な制限を、経済的不平等打破の観点から導いていた。彼にとっては、人民の自由・
入れる道があるために﹂すべての扶助から排除されていたことを欠陥として指摘する。同時に、モンタニャールの﹁義
の関係が明瞭にされていた反面、不幸な市民、労働不能者、要扶助者以外の者は、﹁労働によってみずから必需品を手に
障の対象が、労働能力をもった貧者に限られていた点が欠陥であるのに対して、一七九三年憲法では、労働と扶助の間
﹁公教育組織﹂の設立がすでに表明されていたことが注目されるべきであるとする。また、一七九一年憲法の労働権保
五四頁︶。コリアールによれば、非常に限られた範囲ではあるが、一七九一年憲法第一篇で﹁公的扶助の一般的設備﹂と
法で、﹁公的救済﹂の概念が具体化されたことが注目されてきた︵中村睦男﹃社会権法理の形成﹄︹一九七三年︺=二、
︵4︶ 一般には、フランスにおいて﹁社会権﹂概念が明確になったのは一九四六年憲法によってであるが、一七九三年憲
第四節二︹1︺2︵三五四頁以下︶参照。
︵3︶ ロベスピエール宣言とヴァルレ宣言の所有権規定については、本書第三章第三節二︹1︺2︵二八三頁以下︶、同章
一節一一︹1︺2︵一六九ー一七〇頁︶参照。
︵2︶ 一七九三年宣言とジロンド宣言の所有権規定については、本書第三章第二節二︹1︺2︵二二一ー二二二頁︶、同章第
ラジェの各々の抵抗権規定につき、本書一七二、二二四、二八一、三五八−三六〇頁を参照。
ち、アンラジェら民衆の原理に接近していたからである。ジロンド派、モンターニュ主流派、ロベスピエール派、アン
権利﹂を承認した点で特徴的である。それは、合法的な抵抗手段に固執したジロンド宣言や一七八九年宣言と挟を分か
︵1︶ 一七九三年宣言の抵抗権に関する規定は、ロベスピエール宣言にならって他のすべての人権の帰結として﹁蜂起の
有制限等による実現の具体的基礎への配慮も欠いていた。この点でも、その不十分さが確認できる。
まで抽象的な社会の責務の宣言と、不幸な市民に対する個別的な公的救済にとどまっただけでなく、累進税制や所
を具体的に用意していた。これに対して、一七九三年宣言の場合は、一七九一年憲法やジロンド宣言と同様、あく
つもの︹‖金持ち︺の負債である﹂︵ロベスピエール宣言第=条︶という構想を基礎として、累進税制を伴う扶助財政
︵5︶
化、普遍化に接近するとともに、﹁生活必需品に欠乏する人々︹‖赤貧者︺に対する必要不可欠の扶助は、余剰をも
を﹁不幸な市民﹂から﹁社会の全構成員﹂に拡大することによって、全市民の扶助請求権や労働権・生存権の一般
認められるが、その趣旨は、ロベスピエール宣言において一層明確になる。ロベスピエールは、社会の責務の対象
この規定が、社会的・経済的平等実現の意図を狙って設けられたと解する点では﹁社会権﹂の萌芽としての意味は
しえない者に生活手段を保障することにより、その生存について責務をおう﹂︵第二一条︶と表明したからである。
の神聖な義務として宣言したにとどまらず、﹁社会は、不幸な市民に対して労働を確保することにより、または労働
限界をみることが必要となる。いわゆる﹁社会権﹂の概念はフランス革命期には未だ認められていないが、一七九
︵4︶
三年宣言のなかにその萌芽を認めることができると解するのが一般的である。一七九三年宣言は、公的救済を社会
さて、次に、一七九三年宣言の特徴とされてきた社会権的諸規定について、以上のような所有権との関係以外の
正を主眼としたロベスピエール宣言、ヴァルレ宣言に比して、一七九三年宣言は、全く所有権の制限を考慮しない
͡3︶
ものであった点で、その平等主義と﹁社会的傾向﹂の限界を知ることができよう。
質的差異を含むとみるかはその概念規定いかんによって問題が残るにせよ、所有権の制約による経済的不平等の是
が存在した。これを所有権の自然権性と不可侵性を基調とするブルジョワ的人権原理の枠内での量的差異とみるか、
このように、バブーフのように私的所有廃止論に至らなかった四者の間にも、所有権の規定について微妙な差異
ンド派・モンターニュ主流派・ロベスピエール派と同様の性格をもつものであった。
有権の制限と表裏の関係にあることも示されていたが、反面、私的所有権の否定に到達しなかったことでは、ジロ
の、労働の産物、世襲あるいは贈与によるもの﹂に限定されていた。ここでは、人民の生存権や労働権の実現が所
当初から、社会的に限定を受けたものとして﹁すべての人間に生存の手段を保障するもの、社会的救済にかかるも
肪 安全・身体の保全およびその生存の確保のために大所有の制限が不可避とされ、所有権の対象としての財産自体が、
3
堺
四
義
歴
臆
刻
の
絃
四
九
七
一
離
ヨ
章
第
87
3
路
3
界
の
歴
意
と
限
義
的
史
法
憲
年
三
九
七
一
四
章
第
四
3
務﹂の表現は、何ら司法的強制を伴わないものであることも指摘されている︵ρ︾°Oo=冨a、卜“曾ミ部㌃ヘミざ§靭一㊤討“
︵5︶ ロベスピエールの生存権論につき、遅塚・前掲書二二一頁以下、本書第三章第三節二︹1︺2︵二八七頁以下︶参照。
℃O°巴べよ已︶。
二 主権原理上の限界と問題点
て高い評価が与えられ、﹁主権原理に関するかぎり、市民憲法の限界を超えて︹いる︺﹂とさえ称されてきた。この﹁市
一七九三年憲法の人民主権原理は、従来から、フランス憲法のうちで最も民主的な統治制度を構築したものとし
︵1︶
民憲法の限界﹂、主権原理における市民憲法原理の﹁枠﹂の解明は、まさに本書の究極的課題でもあり、一七九三年
︵2︶
憲法をめぐる見解の対立についても、すでに序章で概観した。
実際、一七九三年憲法は、フランス憲法史上初めて人民主権を明確に標榜した点で、一七九一年憲法から一九五
八年憲法に至るフランス憲法史展開のなかでも比類ない位置を保っている。一七九三年憲法を市民憲法の﹁枠﹂の
内と外とのいずれに位置づける場合にも、立法のみならず﹁行政までの民主主義﹂を達成した一九五八年の第五共
和制憲法以上に、さらに民主的な憲法としての位置づけを与えることが可能となろう。それは、主として、この憲
︵3︶
法が確立した﹁半直接制﹂による法律制定手続きと、議会への権力集中制のゆえである。
しかし、その主権原理の内実を当時の他派のそれとの比較によって検討した後にあっては、その人民主権を、す
プ プル
でにみたカレ・ド・マルベール以来の憲法学理論上の﹁人民主権﹂に適合するものと解する場合にも、やはり、多
くの限界を伴っていたことを留保しなければならない。憲法学上の﹁国民主権﹂﹁人民主権﹂の区別をふまえて、そ
ナシオン プハプル
の特質と限界をまとめてみよう。
まず、主権の概念と属性については、フランスの主権に関する伝統的用法、一七九一年憲法等の伝統的規定とも
何ら異なるものではない。ここでも、主権は、国家の全権力を意味していると解され、主権の属性については、一
七九三年憲法も一七九一年憲法・ジロンド草案と同様、﹁単一かつ不可分であり、時効によって消滅することがな
く、かつ譲渡しえない﹂ことを表明した。この単一・不可分の主権の行使について、﹁人民のいずれの部分も、人民
ナシオン プロプル
全体の権力を行使しえない﹂ことが定められたのも同様である。ところが、主権の国内的帰属と主権行使の具体的
垣曳。後者では、﹁主権は、人民に存する﹂︵一七九三年宣言第二五条︶とされ、﹁主権者人民はフランス市民の総体で
態様︵統治機構のあり方︶をめぐって、一七九一年憲法の﹁国民主権﹂と、一七九三年憲法の﹁人民主権﹂が挟を分
ある﹂二七九三年憲法第七条︶ことが明らかにされた。ここでいう﹁人民﹂とは、実在する政治的意思決定能力をも
った市民︵実際には、当時満二一歳以上⑳男性市民︶の総体であり、抽象的・観念的な国籍保持者の総体としての﹁国
民﹂と対比される。さらに、主権行使の具体的形態については、前者では、主権保持者としての国民の一部からな
る選挙人によって選出された立法府の議員と国王が﹁国民代表﹂とされ、主権保持者︵国民︶と主権行使者︵国民代
表︶が区別されることで、国民代表による間接統治制が原則的に採用されるのに対して、後者では、主権保持者︵人
民︶と主権行使者︵人民を構成する市民︶が一致することが原則とされ、人民による直接的統治が原則とされる。し
かし、現実には、直接制の実現が困難であるために、一七九三年憲法では、意思決定手続きについて人民拒否や人
民投票制度を導入した﹁半直接制﹂が採用された。この点をめぐって、ロベスピエール草案やヴァルレ草案との比
プロプル
較のなかで、 一七九三年憲法の﹁人民主権﹂の限界が示されることになった。
一七九三年憲法では、﹁各市民は、法律の制定、および、その受任者もしくは代理人の選任に参加する平等な権利
をもつ﹂︵一七九三年宣言第二九条︶という原則のもとで、普通直接選挙によって選出された議員が法律案を作成し、
これに対して、第一次集会に集合した人民が黙示的な承認を与える手続きが採用された。ここでは、いわゆる人民
拒否ないし諮問的レフェレンダムの制度によって、法律を人民の承認のもとにおき、﹁人民による立法﹂手続きを﹁原
つのタイプを、各々、一七九三年憲法とヴァルレの構想に求め、両者の中間にロベスピエールの構想を位置づける
七九三年憲法とは大きな隔たりがあった。
このように、人民主権の実現方法としてルソーが提示した﹁レフェレンダム型﹂と﹁命令的委任型﹂に属する二
て小規模な自治組織を前提としていた点などの限界をもっていたにせよ、人民主権原理の徹底という意味では、一
で行われた。アンラジェやセクションの活動分子によって実現されつつあったこの手続きも、無論、その基盤とし
事後審査、訴追・処罰から、人民の事後審査で承認を得られなかった受任者の公職就任の禁止に至る徹底した手段
者への意思の強制は、まず委任権限の範囲の限定に始まり、職務の監視と公開.事務報告の要請、受任者の召還、
のに対して、ヴァルレは、命令的委任制度の採用によって、代表の性格の否定を実現しえていた。ここでは、受任
人民のコントロールを強化しつつも、やはりその免責特権や不訴追特権を認めるなど、それを払拭しきれなかった
は代表である﹂︵エロー・ド・セシェル︶として代表の性格を残存させ、ロベスピエールが、受任者︵議員︶に対する
二重の性格をおびている。人民の裁可に付されなければならない法律については受任者であるが、デクレについて
命令的委任制度に到達していたのがヴァルレであった。代表のあり方については、モンターニュ主流派が﹁議員は
これに対して、﹁主権は、決して代表しえない﹂というルソーの原則を、ロベスピエール以上に徹底するために、
担保するものであった。
任を裏切った議員の人民裁判所への訴追などの制度は、いずれも、議員が人民の意思から法的に独立しないことを
実によって実現しようとしていた。議員に対する人民の審査、選挙区への召還、報告請求、罷免さらには人民の信
る人民のコントロールを、命令的委任関係とは別に、人民投票制度と併せて構築された議員の選定・罷免制度の充
る責任追及制度の確立に重きをおいたロベスピエール草案との差異が問題となる。ロベスピエールは、議員に対す
の国民陪審制度の否決によって︶全く存在しなかったことである。この点では、とくに、立法者を含めて公務員に対す
そのうえに重要な不備は、法律案作成の任務をおびた議員に対する人民のコントロールの制度が、︵憲法制定過程で
事後の報告要求の手続きも存在しなかった。
には、ジロンド草案にさえ存在した人民発案の制度もなく、また、法律案作成に先立つ人民の意思の表明や審議、
︵ヴァルレ宣言第二四条︶と規定したヴァルレと比較することによって一層明白になる。すなわち、一七九三年憲法
が、セクションごとに表明した部分的な願望を収集し、比較し、検討することによってのみ知られるものである﹂
不十分なものにしていた。さらに、﹁人民による立法﹂手続きの不備は、﹁一般意思は、主権者集会に集合した市民
制度上も、この制度の適用を受けない命令事項に軍事・条約・警察等の重要な内容を含めることによって、それを
詳しく検討したように、その手続きは、実際の運用上、人民の承認もしくは拒否を例外化する危険をおび、また、
︵5︶
卯 則的に﹂担保するとともに、立法者に主権者の意思を強制する道を用意していた。しかしながら、第三章第二節で
3
断
このような限界は、一七九三年憲法の憲法改正手続きや間接選挙制の残存、さらには、人民による執行監督手続
るをえないであろう。
トロールを認めないことによって、﹁立法府中心型﹂の主権行使を保障するにとどまった点で、大きな限界を認めざ
聴 ことが可能である。そのなかにあって、一七九三年憲法は、立法府に権力を集中しつつも、立法者への人民のコン
批
廻
年
唖
雛
巳
一
四
いてもなお、その本質に係わるものと解さないでよいか否か、である。本書では、多くの点を今後の検討に留保し
解するか否か、また、その場合に、一七九三年憲法の﹁人民主権﹂の不十分さを、ヴァルレらの構想との比較にお
プ プル
上 の 不 備 に つ い て も 認 め ら れ た ︵す
で
に
検討
した
ので
ここ
では
繰り
返しは避ける︶。問題は、これらの限界を承認しつ
留 き ナ シ オ ン プロプル
つもなお、一七九三年憲法の主権原理を一七九一年憲法の﹁国民主権﹂原理に対抗する﹁人民主権﹂原理として理
章
第
91
3
るメルクマールは何か、という問題であり、﹁人民主権﹂の実現形態を具体的に問題とする今日の主権論の課題とも
プ プル
︵6︶ プープル
プトプル
ーフやパリ・コミューンの思想のように、私的所有を廃止して社会主義に到達するとともに﹁人民主権﹂をより完
ワ的人権原理と・﹁プロプル人民主権﹂原理との両⊥皿可能性の問題を含ん艮孔・現に・フランス憲法思想のなかに蚊バブ
不十分であれ﹁人民主権﹂に属するものであることはすでにみた。このような認識は、それ自体のなかに、ブルジョ
プロプル
一七九三年憲法の人権原理が、その所有規定に示されたようにブルジョワ的なものであり、また、その主権原理が、
三 主権・人権両原理の交錯について1今後の課題
命と憲法﹂五八頁以下でも多少触れたが、今日の主権論の課題については、他日を期したい。
頁以下など参照。なお、前掲拙稿﹁フランス革命二〇〇年と憲法学﹂ジュリスト八八四号一〇四頁以下、﹁ブルジョア革
法学の課題についての覚え書き﹂社会科学の方法一九七〇年一月号一頁以下、高見勝利﹁主権論﹂法学教室六九号一六
︵6︶ 主権論の課題について、統治制度上の問題を重視するものとして、高橋和之﹁﹃イデオロギー批判﹄を超えて 憲
第三章第三節二︹H︺︵二九二頁以下︶、同第四節二︹n︺︵三六〇頁以下︶参照。
︵5︶本書第三章第二節二︹11︺二二五頁以下参照。なお、ロベスピエール、ヴァルレの主権原理については、各々、本書
ジョア革命と憲法﹂杉原編﹃市民憲法史︹講座・憲法学の基礎・第五巻︺﹄一頁以下を参照されたい。
︵4︶ 一七九一年憲法と一七九三年憲法との対抗、および一七九五年憲法の主権原理の検討については、前掲拙稿﹁ブル
世界憲法集﹄二一一頁以下を参照されたい。
︵3︶ 一九五八年憲法については、さしあたり拙稿・拙訳﹁フランス共和国憲法−解説と条文﹂樋口・吉田編﹃解説・
︵2︶ 本書 序 章 第 二 節 一 = 四 頁 以 下 参 照 。
︵1︶ 杉原 ﹃ 国 民 主 権 の 研 究 ﹄ 二 八 〇 頁 。
は、もはや言うをまたないであろう。
ントロール﹂の実現が総合的・体系的に図られることによってしか﹁人民主権﹂原理の真の実現がありえないこと
制を理解してきたことがいかに不十分であるかは、もはや明らかであり、﹁人民による立法﹂と﹁人民による執行コ
プ プル
くことにとどめよう。従来のように、その普通選挙制度や人民拒否の制度をもって一七九三年憲法の民主制・急進
ー立法府集中型﹂と、ヴァルレらの﹁命令的委任−人民の直接コントロール型﹂の二系譜があることを指摘してお
原則があり、これらの実現形態のなかに、少なくとも、一七九三年憲法が標榜した﹁人民拒否・レフェレンダム型
%
3 接合する。ここでは、﹁人民主権﹂原理を実現するために﹁人民による立法﹂と﹁人民による執行コントロール﹂の
意
これらのことは、主権原理と人権原理の相互関係、言い換えれば、﹁主権と自由﹂、﹁デモクラシー論と自由論﹂の
草案は、主権原理と人権原理の両面で一七九三年憲法︵モンターニュ主流派︶とアンラジェの中間に位置していた。
な形で実現しえていた例がある。本書の検討対象のなかでも、ヴァルレは、所有権の制限を強めた非ブルジョワ
堺 全
プロプル
部 的︵その実体は、小ブルジョワ的︶な人権原理の下で、他の草案より徹底した﹁人民主権﹂を構想し、ロベスピエール
義
的
史
の
歴
権原理は、主権原理の如何によってその保障の程度が規定されるという関係が成立していた。この関係は、ルソー
として存在していた。したがって、主権原理はその存在目的としての人権原理の内容に規定され、また、逆に、人
たる主権、およびそれを具体的に行使するための主権者‖市民の権利自体が、人権の保障という目的に仕えるもの
の保全﹂を目的として社会組織が形成され、国家や憲法が成立するという社会契約理論のもとでは、国家の全権力
主権者11市民の権利︶とを区別していたこと自体が、両者の体系的な関係を暗示していた。すなわち、﹁人権︵自然権︶
絃 理論的関係についての一定の推論を呼びおこす。フランス革命期の人権宣言の多くが、そのなかに人権と主権の両
離
ヨ 原理を含み、さらに、権利の主体に関連して、人の権利︵自然状態における自然権︶と市民の権利︵社会状態における
四
章
九
七
一
第
田
3
やアンラジェらの﹁人民主権﹂の構想のもとでは﹁権力が民主化されないかぎり、自由も人権もまっとうされない﹂
プープル ︵2︶
97 という命題として現れた。ヴァルレの宣言では、人権保障という社会組織の任務を人民みずからの手で実現すると
3
き、まず、権力自体を人民のものにするために﹁人民主権﹂原理が必要とされ、その侵害に対する究極的な担保と
プきプル
して蜂起権が存在する、という構造のなかでこのことが明らかにされた。
さて、このような理論的関係を前提とした場合に、フランス革命期の憲法思想のなかに、﹁ブルジョワ的人権保障
ナシオン
︵経済的自由権中心の、形式的自由・平等保障Vーブルジョワ的主権原理勾国民主権ピの系譜﹂と、﹁非ブルジョア的
︵初期プロレタジアー−民衆的︶人権保障︵所有権の制限に基づく、実質的平等の保障︶ー非ブルジョワ的︵民衆的︶主権原
プまプル
プじプル
理び人民主椛畿︶の系譜﹂という異なった二つの系譜が存在したことが理解できる。従来の研究では、このことは、
ナシオン
例えば、ロック型の所有論とルソー型の所有論の対抗、あるいは、ロック型のデモクラシー論・主権論︵﹁国民主権・
議会主権㎞とルソー型のデモクラシー論・主権論︵﹁人民主権㎞の対抗として論じられてきた。フランス革命期の所
有権思想のなかから、ロック的な自然権的所有権論とルソー的所有権論を区別して抽出し、各々の特徴を、﹁所有権
︵3︶
を自然的権利とするもの﹂と﹁所有を人間の制度とする平等主義的立場﹂に求める藤田教授の研究や、一一つのデモ
︵4︶
クラシー論の対抗を問題とするセイバインの研究などがその恰好の例である。革命期の憲法を、一七九一年憲法1ー
ナシオン プ プル
﹁国民主権﹂の系譜と、一七九三年憲法目﹁人民主権﹂という二つの体系に区別して論じてきた憲法学の分野でも、
︿5V
最近では、この対抗を人権論と関連づけて論及しようとする傾向が認められる。本書でみたような一七九三年の憲
法原理に即してみても、ルソー的な小ブルジョワ平等主義の立場から所有権を制限したアンラジェ、ロベスピエー
ルから、自然権的な所有権論を前提としたモンターニュ主流派、大所有に固執したジロンド派、という四者の関係
は、﹁人民主権﹂の徹底さをめぐる位置づけ︵相異点︶にも完全にあてはまっていたことがわかるであろう。所有権
プハプル
の保護についてブルジョワ的利益を追求したモンターニュ主流派には、結局のところ、みずからの利益と敵対すべ
き民衆の諸権利を保全するための主権原理をもつ必然性は何ら存在しなかった。こうして、一七九三年憲法では、
不完全な平等主義が不完全な﹁人民主権﹂と結びつき、そこにとどまったことが理解された。
プペプル
さて、本書の検討から抽出されたこのような議論をさらに理論的なものにするために、今後も、主権原理と人権
原理の相関関係にかかわる研究を深化させてゆく必要が痛感される。とくに、フランス革命二〇〇年をめぐる革命
論の再検討の動向のなかで、一七九三年やジャコバン的伝統の意味について、再度議論が始まっている昨今では、
︵6︶
この問題は一層複雑な様相を示している。なぜなら、従来の二つの主権論・人権論の対抗を超えた、いわば外から
︵7︶
の、より大きな視座に立った﹁二つの自由論、二つのデモクラシー論﹂の問題提起が始まっているからである。こ
こでは、﹁国民主権﹂と﹁人民主権﹂も、いずれも、主権の単一・不可分性を基調とした国家主義︵田①け一・。日o︶や中央
ナシオン プロプル
権化やフ瓢デラジズム、﹁多元型デモクラシー﹂の潮流が出現し、いわば、従来のロック型・ルソ⋮型の両者に対し
解 集権主義、コ元型デモクラシー﹂を前提としているのに対して、このようなフランスの憲法伝統に対抗する地方分
フランスの憲法史上に伝統的な﹁法律による自由﹂﹁国家による自由﹂の潮流が、フランスに導入された憲法院によ
憶 て、トクヴィル型とでも称する別の民主主義論についての論議が盛んになり始めている。また、人権論についても、
裁
難
峡
ゆかなければならない。
の絡みあいを明らかにしつつ、﹁近代憲法とジャコバン主義﹂に関する研究を、さらに次のステップへと発展させて
進行していることからしても、大革命期以来の二つの潮流を支えてきた主権論・デモクラシー論と人権論・自由論
とくに、このような新しい議論が、本書の課題とする﹁ジャコバン主義﹂の評価に直接のかかわりをもちながら
る違憲立法審査権の行使と英米のネオ・リベラジズムなどの政治哲学の影響を受けて﹁国家からの自由﹂を強調す
͡8︶
輌 る、新たな潮流によって“挑戦”を受けているような傾向が認められるからである。
四
七
一
三
雄
九
第
姑
3
%
3
界
限
四
憲
年
三
九
七
一
の
歴
と
義
意
的
史
法
章
第
9
7
3
︵1︶ ﹁人民主権﹂原理については、それが社会主義とのみ結合するものかという問題が、杉原教授の見解をめぐって提起
プ プル
されていることは、すでに序章で指摘した。本暑序章第二節︵三三百︵︶、隅野隆徳﹁魯評・杉原泰雄﹃入民主権の史的展
開﹄歴史学研究四八九号六二ー六三頁参照。
︵2︶ 杉原・前掲﹁主権と自由﹂︹杉原﹃国民主権と国民代表制﹄一三四頁︺。
︵3︶ 藤田勇﹁﹃営業の自由﹄と所有権観念﹂藤田・高柳編﹃資本主義法の形成と展開1﹄︵一九七二年︶二九ー七〇頁︵藤
ナシオン プロプル
田﹃近代の所有観と現代の所有問題﹄所収︶。ここでは、所有原理の対抗が主眼とされているため﹁国民主権﹂対﹁人民
主権にという観点は存在していないようにみえるが、ルソーについては、その独立生産者の所有形態を創出・維持する
ものがその入民主権原理であったことが理解されている。ここではルソー的所有はロベスピエールの所有論の基礎とな
ている。
ったとして、これとジロンダンの自然権的所有論が対立されているが、一七九三年人権宣言については論評は避けられ
︵4︶ セイバイン︵柴田平三郎訳︶﹃デモクラシーの二つの伝統﹄︵一九七七年︶参照。
︵5︶ 杉原・前掲﹁主権と自由﹂︹杉原﹃国民主権と国民代表制﹄一三三頁以下所収︺参照。
︵6︶ ﹁ジャコバン主義﹂の再検討を含めて、フランス革ム叩二〇〇周年をめぐる理論状況につき、拙稿﹁フランス革ム叩二〇
〇年と憲法学﹂ジュジスト八八四号九八頁以下、﹁フランス革命と﹃民衆憲法﹄﹂法律時報六一巻八号四〇頁以下を参照
されたい。
︵7︶ フランスの憲法伝統に対する最近の理論動向について、樋口陽一﹁二つの﹃自由﹄、または﹃公正﹄の代価ーー一九
八四年のフランス新聞法制を素材として﹂小嶋和司博士東北大学退職記念﹃憲法と行政法﹄︵一九八七年︶五一九頁以下
︹樋口﹃権力・個人・憲法学ーフランス憲法研究︼︵一九八九年V一二六頁以下所収︶、同﹁近代憲法原理相互間の緊
参照。
張と選択ー知識人の関心対象としての憲法﹂和田英夫教授古稀記念論集﹃戦後憲法学の展開﹄︵一九八八年︶一頁以下
その詳細については、現在刊行準備中の拙著﹃フ
︵8︶ この内容については、一九八八年五月の全国憲法研究会春季研究総会で﹁フランスの憲法伝統と最近の理論動向ー
ー﹃デモクラシー﹄論と﹃自由﹄論の交錯﹂と題して報告を行った。
ランス人権宣言と現代憲法︵仮題︶﹄を参照されれば幸いである。
\
●
資料
陳
灘
張
詰
人
梅
資料−人権宣言・憲法草案
︵一七八九年八月二六日憲法制定国民議会で採択︶
ロ一七八九年人権宣言︵全文訳︶
﹁人および市民の権利宣言﹂
のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。
第一条︹自由および権利の平等︺
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、
第一一条 ︹政治的結合の目的と権利の種類︺
︹前文︺
すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅す
ば、設けられない。
の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人の譲りわたすこ
ることのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利
存在する。社会的差別は、共同の利益にもとつくのでなけれ
とのできない神聖な自然的権利を、厳粛な宣言において提示
とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。
人の権利に対する無知、忘却または軽視が、公の不幸と政府
することを決意した。この宣言が、社会体のすべての構成員
第三条 ︹国民主権︺
国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、
に絶えず示され、かれらの権利と義務を不断に想起させるよ
第四条 ︹自由の定義、権利行使の限界︺
使することはできない。
体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行
すべての主権の淵源は、本質的に国民にある。いかなる団
うに。立法権および執行権の行為が、すべての政治制度の目
の要求が、以後、簡潔で争いの余地のない原理に基づくこと
担 的とつねに比較されうることで一層尊重されるように。市民
掛
こうして、国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護
01 によって、つねに憲法の維持と万人の幸福に向かうように。
4
自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることに
者は、処罰されなければならない。ただし、法律によって召
第八条 ︹罪刑法定主義︺
ければならない。その者は、抵抗によって有罪となる。
喚され、または逮捕されたすべての市民は、直ちに服従しな
限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ
らない。何人も、犯行に先立って設定され、公布され、かつ、
法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰でなければ定めてはな
第九条 ︹無罪の推定︺
適法に適用された法律によらなければ処罰されない。
定められない。
法律によって禁止されていないすべての行為は妨げられず、
に、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身柄の確保に
何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。ゆえ
とって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によって厳重に
また、何人も、法律が命じていないことを行うように強制さ
第六条 ︹一般意思の表明としての法律、市民の立法参加
何人も、その意見の表明が法律によって定められた公の秩
第一〇条 ︹意見の自由︺
序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意
抑止されなければならない。
つ。法律は、保護を与える場合にも、処罰を加える場合にも、
ら、またその代表者によって、その形成に参加する権利をも
第一一条 ︹表現の自由︺
見について不安をもたないようにされなければならない。
権︺
すべての者に対して同一でなければならない。すべての市民
に、話し、書き、印刷することができる。
れた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由
である。したがって、すべての市民は、法律によって定めら
思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一
第七条 ︹適法手続きと身体の安全︺
階、地位および公職に就くことができる。
第一二条 ︹公の武力︺
人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする。し
よらなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁されない。
恣意的な命令を要請し、発令し、執行し、または執行させた
する権利をもつ。
られるのではない。
求める権利をもつ。
社会は、すべての官吏に対して、その行政について報告を
第一五条 ︹行政の報告を求める権利︺
第一三条 ︹租税の分担︺
第一六条 ︹権利の保障と権力分立︺
第一七条 ︹所有の不可侵、正当かつ事前の補償︺
公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が
所有は、神聖かつ不可侵の権利であり、何人も、適法に確
すべての社会は、憲法をもたない。
第⋮四条 ︹租税に関与する市民の権利︺
認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ、正
権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない
すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、
当かつ事前の補償のもとでなければ、それを奪われない。
不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能
を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定
O五ー 三六㎡貝所
収 の拙
⋮ 訳 によ
るな
。お、各条文の見出しは、訳者が使宜上付したもの︺
∼ れらの諸権利の保障を確保する憲法に先行しなければならな
第 条 人の自然的・市民的・政治的諸権利とは、自由、
い。
社会における人のあらゆる結合の目的は、その自然的・市
る。
平等、安全、所有、社会的保障および圧制に対する抵抗であ
は、社会契約の基礎である。その確認およびその宣言は、こ
民的・政治的諸権利の保持にある。ゆえに、これらの諸権利
﹁人の自然的・市民的・政治的諸権利の宣言﹂
︵一七九三年二月一五日国民公会提出 憲法委員会案・コンドルセ起草︶
回ジロンド憲法草案︵人権宣言案︶
︽樋雛・宙田編﹃解説・世界憲法集已鶯九八八年︶
公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途
力に応じて、平等に分担されなければならない。
るのであり、それが委託される者の特定の利益のために設け
\
たがって、この武力は、すべての者の利益のために設けられ
何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定めた形式に
つ、その徳行と才能以外の差別なしに、等しく、すべての位
は、法律の前に平等であるから、その能力にしたがって、か
法律は、一般意思の表明である。すべての市民は、みずか
れない。
法律は、社会に有害な行為しか禁止する権利をもたない。
第五条 ︹法律による禁止︺
の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の
の ある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他
4
難
麟
憲
ひ
人
磁
料
ま
資
θ3
4
第二条 自由とは、他人の諸権利に反しないすべてのこと
餌 をなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の
4
財産および諸権利の保全のために与える保護にある。
第三条 自由の保持は、一般意思の表明である法律への服
保すること以外の限界をもたない。
第=一条 これらの恣意的行為を教唆し、唱道し、署名し、
すべて恣意であり、無効である。
され、拘禁されない。市民に対してなされるその他の行為は
めた形式によらなければ、裁判に召喚され、訴追され、逮捕
第=条何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定
従によってなされる。法律によって禁止されていないすべて
ければならない。
実行し、あるいは実行させた者は、有罪であり、処罰されな
行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確
ように強制されない。
法律の定める手続きによって召喚または逮捕されたすべての
って力を排除する権利をもつ。ただし、法律の権威により、
第=二条これらの行為をされようとした市民は、力によ
の行為は妨げられず、何人も法律が命じていないことを行う
第四条 すべての人は、自由に、その思想、意見を表明す
第五条出版および他のすべての方法で思想を公表する自
よって有罪となる。
市民は、直ちに服従しなければならない。その者は、抵抗に
ることができる。
由は、禁止され、停止され、制限されない。
れる。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合でも、その身
第一四条何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定さ
第六条 すべての人は、その祭祀の施行において自由であ
る。
柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によ
第七条 平等とは、各人が同等の権利を享受しうることに
ある。
場合にも、保護する場合にも、禁止する場合にも、すべての
第一六条法律が存在する以前になされた犯罪を処罰する
かつ適法に適用された法律によらなければ、処罰されない。
第一五条何人も、犯罪に先立って制定され、公布され、
って厳重に抑止されなければならない。
人に対して同等でなければならない。
第八条法律は、それが褒賞を与える場合にも、処罰する
第九条 すべての市民は、あらゆる地位、職務、公職に就
法律は、恣意的である。法律に与えられた遡及効は犯罪であ
必要な刑罰でなければ科してはならない。刑罰は、犯罪に比
不可譲である。
第二六条 主権は、単一、不可分で時効によって消滅せず、
第一八条 所有権とは、すべての人が、その財産、資本、収入
その行使に参加する平等な権利をもつ。
第二七条 主権は、本質的に人民全体にあり、各市民は、
第二八条 市民のいかなる部分的集合も、いかなる個人も、
は譲渡しうる所有物ではない。
ができるが、みずからを売買することはできない。その身体
第二〇条 すべての人は、その労務、時間を契約すること
第三〇条 すべての市民はその︹社会的︺保障に参加し、
障は存在しえない。
すべての公務員の責任が確立されていないときは、社会的保
第二九条 公務の限界が法律によって明確に定められず、
なる公務も遂行しえない。
することができず、法律の正式の委任によらなければ、いか
主権を自己のものとすることはできず、いかなる権力も行使
れを要求する場合で、かつ、正当な事前の補償の条件のもと
ればならない。
法律の名において諮問されたときは、法律に効力を与えなけ
な手段をもたなければならない。
第三一条 社会に結合した人々は、圧制に抵抗する合法的
でなければ、その同意なしに、財産の最小部分も奪われるこ
るためにしか設定されない。すべての市民は、みずから、あ
第三二条法律が、それによって守られるべき自然的・市
て市民の諸権利を侵害するとき、圧制が存在する。すべての
とき、圧制が存在する。恣意的な行為が、法律の表明に反し
が、個々の事実への適用に際して公務員によって侵害される
民的・政治的諸権利を侵害するとき、圧制が存在する。法律
は、すべての成員に対して等しくそれを行う義務をおう。
は、憲法で規定されなければならない。
自由な統治のもとでは、この各種の圧制に対する抵抗の形態
第二四条 公的扶助は、社会の神聖な義務である。その範
第二三条 初等教育は、万人の要求︵げo。。o一〇︶であり、社会
つ。
るいはその代表者を通じて、租税の設定に参加する権利をも
第二二条 いかなる租税も、公益および公共の必要に供す
とはない。
第二一条 何人も、適法に確認された公の必要が明白にそ
輸送することができる。
い。すべての人は、あらゆる種類の生産物をつくり、販売し、
第一九条 いかなる種類の労働、商業、耕作も禁止されな
および事業を、意のままに処分する主体であることにある。
へ
例し、社会にとって有益なものでなければならない。
第一七条 法律は、一般の安全にとって、厳格かつ明白に
る。
くことができる。自由な人民は、その選択において才能と徳
人
宣
第一〇条 安全とは、社会が、各市民に対して、その身体、
行以外の優先事由を認めない。
案
草
法
憲
言
権
料
資
05 囲および適用については法律で定める。
4
第二五条 人権の社会的保障は、国民主権に基礎をおく。
4
第三三条 人民は、つねにその憲法を再検討し、修正し、 わせる権利はない。職務の世襲は、すべて不合理であり、専
@6
変更する権利をもつ。ある世代が将来の世代をその法律に従 制的である。
0
︹出典 ︾苫主くΦ切勺碧一Φヨゆ巨①式⑦o“蠕.⑫ω騨⋮ρεO◎。らP⑪O㌣∩O㌧CO奏已鐸魯巴こ↑霧n§θ江貯纂一§ωOこOψ窯日n■巴m烏。一〇言力o=⇔五c霧亀Φ鐸悔B蓉O
宣
ウ
草
法
その自然的で時効によって消滅することのない諸権利を保障
第一条 社会の目的は、共同の幸福である。政府は、人に、
するために設立される。
ある。
第二条 これらの諸権利とは、平等、自由、安全、所有で
フランス入民は、人の自然的諸権利についての忘却と軽蔑
ある。
第三条 すべての人は、本質的に、かつ、法の前に平等で
る。それは、保護を与える場合にも、処罰を加える場合にも、
第四条法律は、 般意思の、自由にして厳粛な表明であ
が世界の不幸の唯一の原因であることを確信し、これらの神
提示することを決意した。すべての市民が政府の行為をたえ
すべての人に対して同等である。それは社会にとって正当か
第五条 すべての市民は、等しく公職に就くことができる。
によって圧迫され堕落においやられることのないように、さ
白由な入民は、その選択において才能と徳行以外の優先理由
って有害なことのみを禁止できる。
おくことができるように。そして、フランス人民は、最高存
つ有用なことのみを命ずることができる。それは、社会にと
在の前に、以下のような人および市民の権利宣言を発する。
除する権利をもつ。
らに、人民が、つねに目の前に、その自由と幸福の基礎をお
を認めない。
ければならない。
実行し、あるいは実行させた者は、有罪であり、処罰されな
第=二条 何人も、有罪と宣告されるまでは無罪と推定さ
第=一条 これらの恣意的行為を教唆し、唱道し、署名し、
て正義を、防塞として法律をもつ。その道徳的な限界は、︿自
をなしうる権能である。それは淵源として自然を、規律とし
にある。
分がされたくないことを他人にしてはならない﹀という格率
の確保にとって不必要に厳しい強制は、すべて、法律によっ
しい追憶のためである。
効は犯罪である。
罪を処罰する法律は、専制的である。法律に与えられた遡及
裁判され、処罰されない。法律が存在する以前になされた犯
て厳重に抑止されなければならない。
第八条 安全とは、社会が、その各構成員に対して、その
第一五条 法律は、厳格かつ明白に必要な処罰でなければ
想および意見を表明する権利、平穏に集会する権利、祭祀の
身体、諸権利および財産の保全のために与える保護にある。
科してはならない。刑罰は、犯罪に比例し、社会にとって有
で、しかも犯罪に先立って公布された法律によらなければ、
第九条 法律は、為政者の抑圧に対して、公的および個人
益なものでなければならない。
第一四条何人も、正当に召喚され、または聴聞された後
的自由を擁護しなければならない。
第一六条所有権は、任意に、その財産、収入、労働およ
る必要があるのは、専制の存在あるいはそれについての生々
めた形式によらなければ、訴追され、逮捕され、拘禁されな
である。
び事業の成果を享受し処分する、すべての市民に属する権利
第一七条 いかなる種類の労働、耕作、商業も、市民の事
い。しかし、法律の権威により召喚または逮捕されたすべて
によって有罪となる。
業として禁止されない。
の市民は、直ちに服従しなければならない。その者は、抵抗
第一〇条 何人も、法律が定めた場合で、かつ、法律が定
施行の自由は、禁止されない。1これらの諸権利を宣明す
第七条出版の方法あるいは他のすべての方法によって思
れる。ゆえに、逮捕が不可欠と判断された場合も、その身柄
第六条 自由とは、他人の諸権利を害しないすべてのこと
き、行政官がその義務の規律を、立法者がその任務の§的を
ずあらゆる社会制度の目的と比較できることによって、専制
聖で譲りわたすことのできない諸権利を厳粛な宣言において
﹁人および市民の権利宣言﹂
︵[七九三年六月二四日、国民公会で採択︰エロー・ド・セシェル起草︶
固一七九三年憲法︵人権宣言、憲法典︶
α8三ω嵩゜。q⊃二。2二田ぺ一μお研Nも∨出−ω9
案
憲
言
権
人
料
資
第一一条法律の定める場合以外に、法定手続きに反して
ることはできるが、みずからを売買することはできない。そ
第一八条 すべての人は、その労務と時間について契約す
よってその行為をされようとした者は、力によってこれを排
0
7 なされた行為はすべて恣意的であり、専制的である。暴力に
4
偲
4
媒
雛
忌
人
雄
料
ハ
資
の
4
第一一六条 人民のいかなる部分も、人民全体の権力を行使
時効によって消滅せず、不可譲である。
することはできない。しかし、集合した主権者の各部分は、
い。労働者と使用者との間には、配慮と感謝の契約以外は存
在しえない。
ない。
完全に自由に、その意思を表明する権利をもたなければなら
の身体は譲渡しうる所有物ではない。法律は、僕埠を認めな
求する場合で、かつ、正当な事前の補償の条件のもとでなけれ
第一九条 何人も、適法に確認された公の必要がそれを要
よって即座に死刑に処せられる。
第一一七条 主権を纂奪するすべての個人は、自由な人々に
第一一八条 人民は、つねにその憲法を再検討し、修正し、
ば、その同意なしに、財産の最小部分も奪われることはない。
い。すべての市民は、租税の設定に参加しへその使途を監視
わせることはできない。
変更する権利をもつ。ある世代が将来の世代をその法律に従
第二〇条 いかなる租税も、公益のためにしか設定されな
し、それについて報告を受ける権利をもつ。
くはその代理人の選任に参加する平等な権利をもつ。
第一一九条 各市民は、法律の制定、およびその受任者もし
第一=条 公的扶助は、神聖な義務である。社会は、不幸
な市民に対して労働を確保することにより、または労働しえ
第三〇条 公務は、本質的に一時的なものである。それは、
ない者に生活手段を保障することにより、その生存について
責務をおう。
れる。
特典とも、褒賞ともみなされることはできず、義務とみなさ
て処罰されずに放置されてはならない。いかなる市民も、自
第三一条 人民の受任者およびその代理人の犯罪は、決し
げて公共の理性の進歩を助長し、全市民のもとに教育をおか
なければならない。
第二二条教育は、万人の要求である。社会は、全力をあ
第二三条 社会的保障は、各人に諸権利の享受と行使を保
すべての公務員の責任が確立されていないときは、社会的保
第二四条 公務の限界が法律によって明確に定められず、
第三四条社会の構成員の一人でも抑圧されるとき、社会
第三三条圧制に対する抵抗は、他の人権の帰結である。
いかなる場合も禁止され、停止され、制限されない。
己が他の市民よりも不可侵であると主張することはできない。
障は存在しえない。
に対する圧制が存在する。社会が抑圧されるときは、各構成
第三一一条 公権力の担当者に対して請願を提出する権利は、
第二五条 主権は人民に属する。それは、単一、不可分で、
とり、または老人を扶養する者。
礎をおく。
員に対する圧制が存在する。
最後に、立法府によって、人類に多大な功績があったと判
障するための万人の行為のなかにある。それは国民主権に基
第三五条政府が人民の諸権利を侵害するとき、蜂起は、
る市民によって構成される。
第一一条第一次集会は、各カントンに六カ月以上居住す
第五章 第一次集会
第一〇条 主権者人民は、法律を議決する。
判官および破殴裁判官の選出を選挙人に委任する。
第九条 主権者人民は、︹地方︺行政官、公伸裁人、刑事裁
第八条 主権者入民は、その議員を直接選任する。
第七条 主権者人民は、フランス市民の総体である。
第四章 人民主権
判決が破棄されない限りの欠席判決によって。
訴追状態によって。
第六条市民の権利の行使は、次の場合に停止される。
復権に至るまでの名誉刑または体刑の判決によって。
非人民的な政府の提供した職務または援助の受諾によって。
外国への帰化によって。
断されたすべての外国人。
不可欠な義務である。
法
人民および人民の部分にとって最も神聖な権利であり、最も
㍉
第五条 市民の権利の行使は、次の場合に喪失する。
憲
第一章 共 和 国
カン
県、
第一条 フランス共和国は、単一にして不可分である。
第二章 人民の区分
第二条 フランス人民は、その主権の行使のために、
トンの第一次集会に区分される。
デイストリクト、市町村に区分される。
第三条 フランス人民は、行政および裁判のために、
第三章 市民の身分
フランスに生まれ、かつ居住する満二一歳のすべての男性。
第一二条 第一次集会は、投票のために招集された二〇〇
第四条 次の者はフランス市民の権利の行使を認められる。
ての外国入で、フランスで自己の労働で生活し、または所有
人ないし六〇〇人の市民で構成される。
フランスに∼年以上前から居佐し、満二⋮歳に達したすべ
権を取得し、またはフランス人女性と結婚し、または養子を
第=二条 第一次集会は、一人の議長、書記、投票検査人
された場所に、一般的検査のために委員を派遣する。
めた二人の市民の間で投票が行われる。
第二六条 第一回の検査︹開票︺の結果、絶対多数を得ら
れない場合、第二回目の招集が行われ、最も多数の投票を集
第一六条 選挙は、各投票者の選択にもとづき、記入投票
るいは当選のためにも、最年長者が優先権をもつ。年齢が同
じ場合は、抽選で決する。
第二七条 得票数が同数の場合、決選投票についても、あ
の画一的な方法を定めることができない。’
第二九条 各議員は、国民全体に属する。
第一七条第一次集会は、いかなる場合においても、投票
紙で︺投票することを選ぶ市民の投票を証明する。
第三〇条 議員の受諾拒否、辞任、失権または死亡の場合
共和国の全領土内で被選挙資格をもつ。
第一九条 法律に関する投票は、賛成または反対によって
は、その議員を選任した第一次集会によってその後任者が選
第一一八条市民の権利を行使するすべてのフランス人は、
なされる。
任される。
︿○○人の投票人からなる○○の第一次集会に集合した市民
は、○○の多数により、賛成または反対する﹀と。
四〇、○○○人に対して、議員一人とする。
人口は、国民代表の唯一の基礎である。
第六章 国民代表
第一一一一条
人口三九、○○○人から四一、○○○人までか
第一=条
第二三条
第二四条
第三二条 フランス人民は、毎年五月一日に選挙のために
集会する。
れる。
第三三条投票権をもつ市民の数にかかわらず選挙が行わ
て、第一次集会が臨時に形成される。
第三四条 投票権をもつ市民の五分の一の要求にもとつい
選任は、投票の絶対多数で行われる。
によって行われる。
第三五条 この場合、招集は、通常の集合場所の市町村庁
ら成る第一次集
会
の
各
集
会
は
、 直接に一人の議員を選出する。
各集会は、開票を行い、かつ、最も中心と指定
第四五条
その会議の議事録は、印刷される。
国民議会の会議は、公開である。
第九章 立法府の会議の開催
第四六条
何を問わず、市民二〇〇人について一人、三〇一人から四〇
第四八条
れなければ、 審議することができない。
国民議会は、少くとも二〇〇人の議員で構成さ
〇人について二人、五〇一人から六〇〇人までについて三人
議員が発言することを拒否しえない。
第四七条
の選挙人を選任する。
第四九条 国民議会は、出席議員の過半数で議決する。
国民議会は、その議員が要求した順序に従って、
第三八条 選挙人会の開催と選挙の方法は、第一次集会の
つ。
第五〇条 五〇人の議員が、指名点呼を要求する権利をも
第三九条
立法府の会期は、一年である。
立法府は、単一にして不可分であり、常設である。
の警察権は国民議会に属する。
第五二条 国民議会の議場およびその周辺の所定の場所で
一般的名称の
第五三条立法府は、法律を提案し、デクレを発する。
第一〇章 立法府の権能
ついて讃責する権限をもつ。
第四〇条
立法府は、七月一日に集会する。
第五一条 国民議会は、議場内におけるその議員の行為に
第四一条
国民議会は、少くとも過半数の議員で構成され
かなる場合も捜査され、訴追され、裁判されない。
第 四 三 条 議員は、立法府内で公表した意見のために、い
す
る
こ な けれ
ば
、 成立
と が で き な いO
第四二条
第八章立法府
場合と同じである。
第三七条 第一次集会に集合した市民は、出席・欠席の如
第七章 選挙人会
半数が出席しなければ、議決をすることができない。
第三六条 この臨時集会は、そこで投票権をもつ市民の過
第二五条
第一一=条辞職した議員は、その後任者の承諾の後でなけ
ればその地位を離れることができない。
第二〇条 第一次集会の意思は、次のように表明される。
第一八条 投票検査人は、書くことができないが︹投票用
もしくは大声で行われる。
第一五条 何人も、武装してそこへ現れることができない。
10 の任命によって成立する。
4
第一四条 第一次集会の警察権は、第一次集会に属する。
案
漣
憶
鋸
薙
下に包含される。
第五四条 次に掲げる立法府の文書は法律の
民事および刑事の立法
担 第四四条議員は、刑事事件については、現行犯によって
掛 逮捕される。しかし、議員に対する逮捕状も勾引状も、立法
共和国の経常収支の一般的管理
国有財産
11 府の許諾がなければ発せられない。
4
貨幣の純分、重量、刻印および名称
公教育
フランス領土の全般的新区分
宣戦布告
第五八条 法律案は印刷され、﹁法律﹂の名称を付され、共
暫定的にせよ、法律を制定することはできない。
第五七条報告の一五日後でなければ、審議は開始されず、
第五六条法律案は報告書に先立たれる。
第一一章 法律の制定
偉人を記念する公的栄典
和国の全事町村に送付される。
4
@2
租税の種類、総額および徴収
1
第五五条 次に掲げる立法府の文書は、デクレの個別的名
て、正規に形成された県内の第一次集会の一〇分の一が異議
を申し立てない場合は、法律案は承認され、法律となる。
第五九条 法律案送付後四〇日以内に、過半数の県におい
第六〇条異議が成立した場合には、立法府は、すべての
陸海軍の毎年の配置
フランス領土上の外国軍の通過の許可または禁止
称の下に表わされる。 ケ
共和薗の港湾への外国海軍の入港
第一次集会を招集する。
第一二章 法律およびデクレの標題
全般的な治安および安全のための施策
公的救済および公共事業の年次的および一時的区分
の標題が付される。
第六一条法律、デクレ、判決および各種の公文齋には次
すべての種類の造幣命令
公共事業に関する県、市町村の地方的および個別的施策
︿フランス共和国、共和⋮⋮年、フランス人民の名において﹀
予備費
領土の防衛
執行評議会構成員および公務員の訴追と責任追及
府は候補者の全国名簿にもとついて、執行評議会の構成員を
第六三条 各県の選挙人会は候補者一名を指名する。立法
第六三条 二四名の構成艮からなる執行評議会をおく。
第=二章 執行評議会
共和蟹の一般的安全に対する陰謀容疑者の訴追
任命する。
軍隊の長たる指揮官の任免
条約の批准
フランス領土の部分的な区分の変更
席し、議場に特別席をもつ。
第七五条 執行評議会は立法府の近隣に所在し、会議に出
第一四章 執行評議会と立法府との関係
負う。それは立法府の制定した法律およびデクレの執行につ
第七六条 執行評議会は報告を行う度ごとに了解を得る。
会の全員または一部について会議への出席を求める。
第七七条 立法府は、適当と判断する場合には、執行評議
第一五章 地方行政府と市町村役場
各県に県庁をおく。
ず、互いに直接の関係をもたず別々に行動し、いかなる個人
第六九条 執行評議会は、その構成員以外から、共和国の
第七九条 市町村吏は市町村の議会により選出される。
各ディストリクトに中間の役場をおく◎
外交使節を任命する。
第七八条 共和国の各市町村に市町村役場をおく。
第七〇条 執行評議会は、条約について交渉する。
第八一条 市町村吏、地方行政官吏は、毎年、半数ずつ改
人会により選任される。
選される。
第八〇条 地方行政官吏は県およびディストリクトの選挙
法府によって弾劾される。
第八一一条 地方行政官吏および市町村吏は代表の性格をも
免し、更迭する。
対してこれを告発する。
第八三条 立法府は、市町村吏および地方行政官吏の職務、
きない。
府の文欝を変更したり、その執行を停止したりすることがで
地方行政官吏および市町村吏は、いかなる場合にも、立法
たない。
第七二条 執行評議会が法律とデクレを執行しなかった場
った場合に、執行評議会は、︹立法府に対して︺責任を負う。
合、および、︹第七四条所定の︺告発を行わない権限濫用があ
第七一条 執行評議会の構成員は、職務怠慢の場合は、立
的な権威も行使しない。
第+ハ八条 これらの長官たる官吏は、執行⋮評議ム昧を機⋮成せ
第六七条 立法府は、この長官の人数と職務を定める。
一般行政部の長官を任命する。
第六六条 執行評議会は、その構成員以外から、共和国の
いてのみ活動する。
第六五条 執行評議会は、一般行政の指揮・監督の任務を
月に半数ずつ改選される。
第六四条 執行評議会は、立法期毎に、その会期の最終の
国家賠償
珠
潟
憶
言
随
ぷ
琳
41 第七三条 執行評議会は、自己の任命にかかる公務員を罷
4
13 第七四条 執行評議会は、必要がある場合には、裁判所に
その服務規定、およびそれらが受ける懲罰を定める。
とする。
14 第八四条 市町村および県とディストリクトの会議は公開
4
第一六章 民事裁判
続を要さず、無償で、終審として判決を言い渡す。
公仲裁人は、その判決に理由を付する。
第九五条 治安判事および公仲裁人は、毎年、選出される。
第一七章刑事裁判
第八五条 民法典および刑法典は共和国全体で一律に適用
に受理された告訴状、あるいは立法府の発した告発状によら
なければ、裁判を受けることがない。
第九六条 刑事事件に関しては、いかなる市民も、陪審員
させる市民の権利は侵害されない。
第八六条市民が選出する調停員によってその争訟を裁判
予審は公開とする。
被告人は、自己が選出したか、または官選の弁護人をもつ。
される。
第八七条 調停員の決定は、市民が異議申立権を留保しな
刑罰は刑事裁判所により適用される。
事実および故意は陪審員により認定される。
第九七条 刑事裁判官は、毎年、選挙人会により選出され
い場合に確定する。
出される治安判事をおく。
第八八条法律の定めるアロンディスマンの市民により選
る。
第九九条 破殿裁判所は事件の真相を審理しない。
第九八条 全共和国に一の破毅裁判所をおく。
第一八章 破殿裁判所
第八九条 治安判事は和解させ、また無償で裁判する。
第九〇条 治安判事の員数および権限は立法府が定める。
第九二条 公仲裁人の員数およびアロンディスマンは立法
第九一条 選挙人会により選出される公仲裁人をおく。
府が定める。
ついて裁判する。
破殿裁判所は手続の侵害および法律に対する明白な違反に
定的に終了しなかった争訟を取り扱う。
第一〇〇条 破殴裁判所の裁判官は、毎年、選挙人会によ
第九三条 公仲裁人は治安判事もしくは調停員によって確
第九四条 公仲裁人は公開で審理する。
って選出される。
第一〇九条 すべてのフランス人は兵士であり、武器の操
維持する。
第一〇八条 共和国は、平時においても、陸海軍を有給で
第一〇七条 共和国の全軍隊は全人民によって構成される。
第二二章 共和国軍隊
公仲裁人は口頭で意見を陳述する。
公仲裁人は、口頭弁論あるいは陳述書にもとついて訴訟手
税
いかなる市民も、租税を支払う名誉ある義務
第一九章 租
を免れない。
第一〇一条
第二〇章 国
作のために訓練を受ける。
庫
第一一一条 等級の差別、その標章および服従は、服務に
第一一〇条 総司令官は存在しない。
関連する限りで、かつ服務期間中に限り存続する。
第一〇二条国庫は共和国の収支の中心である。
により管理される。
第一一二条 国内の秩序と平和の維持のために用いられる
第一〇三条国庫は執行評議会によって任命される財務官
れる会計検査委員により監督され、さらに、告発されなかっ
軍隊は、憲法上の諸機関の文書による要請にもとつく場合の
第一〇四条 財務官は、立法府によって議員外から任命さ
た権限濫用について責を負う。
第=四条 いかなる部隊も議決を行うことができない。
の命令にもとついて行動する。
第一=二条 外敵に対いて用いられる武力は、執行評議会
第一〇五条国庫の財務官および国庫収入の収納官は、執
算
行評議会の任命により執行評議会に責を負う国庫委員に対し
第二一章 決
轄
雛
第二三章 国民公会
て、毎年、決算報告を行う。
の第一次集会の一〇分の一が憲法の改正または部分改訂を要
第一一五条 過半数の県において、正規に形成された県内
ない。
ために、共和国のすべての第一次集会を招集しなければなら
求した場合、立法府は、国民公会の招集について可否を問う
れない権限濫用と過誤について責を負う。
立法府は決算について表決する。
される会計検査委員により行われ、会計検査委員は、告発さ
第一〇六条会計監査は、立法府によって議員外から任命
デ
人
随
料
資
4
15
活
み
4
第一一一一条 フランス人民は、
とは講和をしない。
第二五章 権利の保障
その領土を占領している敵
第一一一一一条 憲法は、すべてのフランス人に、平等、自由、
安全、所有、公債、祭祀の自由な施行、普通教育、公共の救
第一一八条 フランス人民は、自由な人民の生来の友人で
すべての人権の享有を保障する。
済、出版の無限の自由、請願権、民衆の結社に集会する権利、
第一一九条 フランス人民は、他国民の政府に干渉しない。
心、不幸に敬意を払う。フランス共和国は、すべての徳の守
第一一一三条 フランス共和国は、忠誠、勇気、老年、孝順
護者に対して、その憲法を託する。
第一一一四条権利の宣言および憲法は、立法府内と公共広
場の標板に刻まれる。
正義と理性という永久の法に由来しない人間の法律は、無知
前文 国民公会に集会したフランス人民の代表者たちは、
り渡すことのできない諸権利を、厳粛な宣言のうちに表明す
の犯罪と不幸の唯一の原因であることを確信して、神聖で譲
認識し、そして、人の自然的権利の忘却または軽蔑が、世界
﹀苫宮くΦω㊥讐8日m巳巴﹁。二7。豊ρ丁ΦべもP忘ωム〇三[°O轟巳︷⑦;⊂oP9°も亨ON㎏ω“︺
あるいは専制による人間性に対する侵害に他ならないことを
これらの諸権利を宣明する必要があるのは、専制の存在、あ
その意見を表明する権利は、人間の自由の明白な結果であり、
専制によって圧迫され堕落においやられることのないように、
るいはそれについての生々しい追憶のためである。
第五条 平穏に集会する権利、出版またはその他の方法で、
さらに、人民が、つねに目の前に、自由と幸福の基礎をおき、
ることを決意した。すべての市民が、政府の行為を、たえず
また、行政官がその義務の規律を、立法者がその使命の目的
れた財産の部分を享受し、処分する権利である。
第六条 所有︹権︺とは、各市民が、法律によって保障さ
こうして、国民公会は、以下のような人および市民の権利
利を尊重する義務によって制限される。
第七条 所有権は、他のすべての権利と同様に、他人の権
第八条 所有権は、われわれの同胞の安全、自由、生存、
第九条 この原則を害するすべての取引は、本質的に不正
所有を害してはならない。
第一条 すべての政治的結合の目的は、人の、時効によっ
障することによって、その生存に備える義務をもつ。
かつ不道徳である。
第一一条 生活必需品に欠乏する人々に対する必要不可欠
て消滅することない自然的な諸権利の維持とそのすべての能
第三条 これらの権利は、その肉体的・精神的能力のちが
権利と、自由である。
の扶助は、余剰をもつものの負債である。この負債を支払う
ることにより、あるいは、労働しえない者に生活の手段を保
いにかかわらず万人に属する。権利の平等は、自然によって
方法は、法律で定める。
第一〇条 社会は、その全構成員に対して、労働を確保す
設定される。社会は、それを侵害するのではなく、平等を幻
力︵賦〇三芯ω︶の発展にある。
想にする力の濫用に対して、専らそれを保護するものである。
は、公の租税の負担を免除される。その他の市民は、財産の
保障として法律をもつ。
第=二条 社会は、その全力をもって、公共の理性の進歩
い。
程度に応じて、累進的に、公の租税を負担しなければならな
第一二条収入が、自己の生存に要する額をこえない市民
人間に属する権能である。自由は、その基準として正義を、
第四条自由とは、任意にそのすべての能力を行使する、
第二条人の主要な権利とは、自己の生存の維持に備える
で表明するものである。
の宣言を、全世界に対して、そして、永遠の立法者の目の前
をおくことができるように。
あらゆる社会制度の目的と比較できることによって、決して
︵一七九三年四月二四日国民公会提出︶
回ロペスピエール人権宣言草案
︹出典
フランス人民は、圧制者に対しては、これを拒否する。
れた外国人に庇護を与える。
第一二〇条フランス人民は、自由のために祖国を追放さ
めない。
フランス人民は、他国民がフランス政府に干渉することを認
あり同盟者である。
第二四章 フランス共和国と諸外国との関係
招集の理由となった事項についてのみ審議する。
第一一七条 憲法に関する事項については、国民公会は、
第一=ハ条国民公会は、立法府と同一の方法で形成され、
16 かつ、その立法府の権限をあわせもつ。
案
草
法
憲
言
宣
権
人
料
資
4
17 その制限として他人の権利を、その原理として自然を、その
に尽くさなければならない。また、すべての市民が教育を受
な自由をもってその意思を表明する権利を享受しなければな
ある。人民は、好むままに政府を変え、受任者を解任するこ
の所産であり、人民の財産である。公務員は人民の受任者で
第一四条 人民は主権者である。したがって、政府は人民
第二一一条 すべての市民は、人民の受任者の選任と、法律
任命されることができる。
人民の信頼以外のいかなる資格要件なしに、すべての公職に
第二一条 すべての市民は、徳と才能以外の差別なしに、
的に独立し、警察と議決の権限をもつ。
らない。各セクションは、すべての設定された権威から本質
とができる。
第一六条 法律は、万人に対して平等でなければならない。
幻想にならないために、社会は、公務員に対して給与を支払
第二三条 これらの諸権利が架空のものにならず、平等が
の制定に参加する平等の権利をもつ。
第一七条 法律は、社会にとって有害であることのみを禁
が、法律によって招集される公の集会に参加するために、自
己および家族の生活を危うくすることがないようにしなけれ
わなければならない。また、労働によって生活する市民たち
ばならない。
止することができる。また、社会にとって有用であることの
質的に不正かつ暴虐なものであり、それは決して法律ではな
第二四条 すべての市民は、政府の役人および職員が、法
律による機関ないし執行者であるときは、彼らに対して、敬
によって定められた場合で、かつ、法律の定めた形式によら
第一九条 すべての自由な国家においては、法律は統治者
ない限り、恣意的なものとなり、無効である。法律の尊重自
度に従わなければならない。
体が、それに従うことを禁止する。さらに、万一、それが暴
の権力の濫用に対して、公共の自由と個人の自由を保護しな
しえない。しかし、人民の一部が表明する要望は、一般意思
第一一〇条 いかなる人民の部分も、人民全体の権力を行使
力によって執行されるときは、それに反駁することが認めら
の行為は、たとえ法律の名においてなされた場合でも、法律
の形成に協力すべき人民の一部の要望として尊重されなけれ
第三三条 人民の受任者の犯罪は、厳格かつ簡易な手続き
第二五条 しかしながら、自由・安全・所有を侵すすべて
ばならない。集合した主権者の各部分︵セクション︶は完全
で罰せられなければならない。何人も、他の市民に対して、
ということを仮定しない制度はすべて悪い制度である。
れる。
自己が不可侵であると主張する権利はもたない。
る権利をもつ。受任者はその取扱いについて、忠実に人民に
第三四条 人民は、その受任者の活動のすべてについて知
ての個人に属する。請願を提出された者は、目的とされた問
題について、決定を下さなければならない。彼らは、決して、
自国の市民と同様に、その能力に応じて互いに助け合わなけ
第三五条すべての国の人間は兄弟である。異国の人民も、
ればならない。
報告し、尊敬をもって人民の審判に従わなければならない。
会に対する圧制が存在する。社会が抑圧されるときは、各構
第三六条 一つの国民を抑圧する者も、万人の敵と宣言さ
第二七条 圧制に対する抵抗は、他の人権の帰結である。
第二九条 政府が人民の諸権利を侵害するとき、蜂起は、
れる。
人間の諸権利を侵害する者は、通常の敵としてではなく、反
第三七条 人民に対して、戦争によって自由の進歩を止め、
第三〇条 社会保障が、市民に対して欠けるとき、各市民
ばならない。
逆的な殺人者、強奪者として、万人によって追及されなけれ
も不可欠な義務である。
る。
の主権者すなわち人類と、世界の創造者すなわち自然に対し
第三八条 国王、貴族、暴君は、いかなる者であれ、地上
は、みずからそのすべての権利を守るための自然権を回復す
人民および人民の各部分にとって最も神聖な権利であり、最
成員に対する圧制が存在する。
第二八条社会の構成員の一人でも抑圧されるときは、社
請願を禁止し、制限し、非難することはできない。
第二六条 公権力の担当者に請願を提出する権利は、すべ
ければならない。人民は善良で、役人は腐敗しやすいものだ
い。
第一八条 人の不滅の権利を侵害するあらゆる法律は、本
みを命ずることができる。
る。
第一五条 法律は、人民の意思の自由かつ厳粛な表明であ
18 けられるようにしなければならない。
4
蝶
幽
形式に従わせることは、専制の最高の巧緻である。
憲 第三一条 いずれの場合も、圧制に対する抵抗を合法的な
牛
て反逆する奴隷である。
︹出典 ﹀﹁∩三くΦω㊥自[①日O昌G一語゜・、蠕.mω騨⋮P︹ Φω“廿Pお。。−NO三臼已く器ω△oロ言×一ヨ=⋮oコカo亘o°。巳o﹁﹁o°↓﹂×℃署﹂①ωムO◆︺
きない。それは、公的な義務とみなされるべきである。
第三二条 公務は、特典とも褒賞ともみなされることはで
人
随
判
掛
4
19
勿
草
4
案
絃
宣
癌
言
権
人
料
資
固ジャン・ヴァルレ人権宣言草案
﹁社会状態における人権の厳粛な宣言﹂
義務を想起するために。主権者である諸国民によって創造さ
れた諸機関の行為が、以後、簡潔で争いの余地のない原理を
手本にすることで、より一層尊重されるために。そして、人
れたすべての者が、各個人の諸権利を保護する、穏当かつ正
その元来の尊厳に従い、その諸権利を誇り、自慢し、教化さ
民の一部がもはや他人によって抑圧されず、それどころか、
て不可分の共和政府に組織されることを決定したフランス国
社会状態における人権の維持に唯一適している、単一にし
彼らの間に均衡を維持するために。
当で恒久的な法律によって、さらに、公共の福利によって、
こうして、全く完全にその主権を行使しているフランス市
隷属の第一の原因であることを考慮し、また、つねに単一で
不変の自然から汲みとられた諸原理が、いつか人々を統治す
としての最高存在の前で、かつその庇護のもとに、社会状態
民は、すべての主権者である諸国民に対して、万物の創造主
内の主権者人民は、何よりも、無知、誤謬、迷信が諸国民の
べき普遍的な法典を形成することを考え、さらに、慣習の相
における以下の人権を宣言し、表明する。
違や異常さ、法律の不完全や無能、諸国の革命は、その諸制
てこなかったことに由来すると考えて、ここに、厳粛な官三口
度が依拠している不変の基礎を社会状態の人間が未だ承認し
が、自由であるように創造されたすべての人民に対して、暴
ることのない権利を明らかにすることを決意した。この宣言
対して、彼らが正義と完全と善行の理念の基礎をおいている
であり、それのみが、聖堂のなかで、賢明で思慮深い人々に
の繁栄の根源である。自由のみが、王座にあって統治すべき
ある。それは、人々の間のすべての徳とすべての才、すべて
君のくびきから脱するのに援助の手をさしのべるために。掛
神を表すべきである。
第一条 自由とは、秩序と社会的調和を司る倫理的存在で
会に結合した人々が、たえず、その権利と分離しえないその
㈲社会の必要によって要請される租税の分担は、それが納
のなかで、社会状態における人権、すなわち、世界と同様に
第一一条諸国民︵↑。ω之良。コω︶は、一つの家族を形成して
平等である。
税義務者の能力に応じて累進的であるかぎりにおいてのみ、
古くからあり、神聖にして、不可譲で、時効によって消滅す
いるにすぎない。暴君の圧制から彼らの商業上の交渉を守る
第三条 諸国民の間の戦争は、国王、専制君主、野心家、
とされるからである。
援助の相互性から、彼らが一体となって生活することが必要
しか用いられない。
㈹地位に関するすべての差別的な標章は、職務執行の際に
産物の上に課税されることができない。
⑩わずかな賃金で生活する個人は、生活の糧となる労働生
シ
という同一の理由、そして、彼らが義務をおうている親密な
支配的な陰謀家たちによって犯される人類に対する犯罪であ
られ、つねに専ら、徳行と個人的な功労に対して認められ、
かつ、つねに共同の利用に向けられる。
㈲社会的報奨は、なされた奉仕の価値に従って段階をつけ
第七条社会の組織は、社会状態における人権の維持を唯
る。人類に対するこれらの抑圧者は、人類の法律の保護の外
る。
にあり、彼らを地上から一掃する者は、全世界の功労者であ
第四条 全世界の人間は、自由かつ権利において平等に生
よび圧制に対する抵抗を意味する。
由、行動の自由、個人の自由・安全・保全、財産の享有、お
一の目的とする。これらの権利とは、主権の行使、思想の自
第一の原理が無視され、誤解されるところでは、どこでも専
第八条 主権の行使は、すべての諸国民︵一。ωZ①吟﹂。コω︶に帰
まれ、存在し、また、そうあり続けなければならない。この
第五条 すべての市民に対する国家の神聖な責務である徳
制と無政府状態が君臨する。
それは、単一、不可分、不可譲で時効消滅しえず、委任状に
よって委任されることができるが、決して代表されることは
属する。全権力は、本来的に、諸国民のうちにのみ存在する。
ない。すべての国家に、ただ一つの権力が存在する。それは、
育︵庄已。①け一。コ︶、知育︵日ψ。耳=n︷一8︶、公衆道徳の流布のみが、
る。
主権者たる諸国民の権力である。創設された諸機関は、そこ
市民に、その権利の享受を実現可能なものにすることができ
は、この貴重な原理から由来する。
第六条 平等は、自由からの直接の帰結である。次のこと
から由来したものであり、つねにそれ︹諸国民︺に従属する。
は、人民の主権を侵害する纂奪者である。
第九条 委任者の正式な委任によらずに公務を執行する者
ω市民は、出生、財産もしくは身分上の差別なく、各々の
21 能力に応じて、または、各々が抱かせる尊敬と信頼の度合に
4
応じて、あらゆる公職に就くことができる。
4
法
2
案
草
憲
言
宣
権
第一〇条諸国民の主権の行使は、互いに等しく異なる八
た秩序を乱すものでないかぎり、信仰に関する事柄に少しも
ゆえに、国家は、信仰の表明が、社会契約によって確立され
思想の自由は、また、思想の自由な伝達とすべての意見に
対する寛容をも確定する。思考すること、それは、人の最も
介入しえないし、また、してはならない。
つの部分にわけられる。それは、社会状態における人がもつ
次の権利である。
ω直接にすべての公的機関を選出する権利。
圃法律を提案することを委任された受任者に、個別的には
る場合にも、禁止され、停止され、または制限されることな
貴重な権利である。したがって、人は、その鯛川を、いかな
㈲社会の利益を討議する権利。
願望と意向を、全体的には﹁意思﹂を提示し、かくして、み
ずから法律の制定に参加する権利。
第一二条 行動の自由とは、すべての個人に属する、自由
に往来し、集合し、創設された機関の統治や活動を批判し、
い。
く、自由に書き、詞U、出版することができなければならな
監督し、要するに、社会と同胞に対していかなる損害ももた
利。
の租税を承認し、その使途を見守り、その税額、基準、徴収、
団公の租税の必要性を確認する権利。すなわち、自由に公
⑰自己の委任者の利益を裏切る議員を召還し、処罰する権
期間を決定する権利。
こうして、社会における各人の樹利の行使は、他の共同の構
らさないことをすべて行うことのできる権利のことである。
その事務について報告を要求する権利。
㈲すべての公務員、行政官、官吏、国民の公金の管理者に、
契約によって確かめられた限界をもっている。
成員に同じ権利の享受を保障しなければならないという劃
第=二条個人の自由とは、すべての個人がもっている、
㈲受任者が、それらに法律としての効力を与え、かつ執行
しくは裁可する権利。
可能にするために提起した法律案︵念自9。︶を検討し、否認も
分を集会で行使する、争いえない権利のことである。社会契
投票し、選挙し、討議し、そして、各人に帰属する主権の部
第一四条 個人の安全は、次のことを要求する。
とができないことにある。個人の人格は不可譲である。
する。この自由の大原則は、いかなる種類の例外も認めない。
に対して敬意を捧げる場合に自由でなければならないように
すべてに先行する財物であるから、彼らの最も自然な意思、
を構成している。そして、彼らの自由、安全、身体の保全は、
でなければならない。いかなる国家においても貧乏人が多数
る。その範囲は、商業、農業がいかなる被害もうけないもの
時間を契約することは自由であるが、みずからを売買するこ
らない。また、個人の自由とは、すべての人間がその労力と
国家のなかの全体としての市民の権利。
㈹任意に社会契約を再検討し、改造し、修正し、変更する、
ω何人も、社会契約によって定められている場合で、かつ、
最も不変の権利とは、富を獲得する野心を抑え、正義にかな
されうる場合があることをあらかじめ定めておかなければな
それが規定する形式によらなければ、逮捕され、訴追され、
約は、市民が、この権利の行使に際して、中止もしくは停止
勾留されない。
第=条 思想の自由は、まず、すべての人間が最高存在
㈲恣意的もしくは不正な命令によって不安にさらされてい
の圧制から身を守ることにある。
う方法で富の巨大な不均衡を打破することによって、金持ち
る。
るすべての市民は、断固としてその命令に服さない権利があ
めに、力によってその力を撃退することができる。
するものである。それに劣らず本質的な第二の財産は、老人、
神聖な財産は、彼らに生存の必要不可欠な手段を十分に保障
すべての人間が、主張し要求する権利をもつ、第一の最も
認する。
第一八条 社会状態における人は、次の四種類の財産を承
㈹何人も、犯罪に先だって公布され、公正に適用された法
㈹各個人は、身体に対する攻撃をうけた場合に、自衛のた
律によらなければ、法廷に召喚され、裁判されることはない。
㈹被告人は、有罪の宣告を受けるまでは、無罪と推定され
で与えられる、赤貧者に対する慈善の実施、および、労働の
病弱者あるいは労働しうる状態にない者には、休息という形
第一五条 個人の保全は、故意の殺人犯が社会から排除さ
べて社会契約によって厳重に抑止されなければならない。
または贈与からなる。
職務の給料である。第四の財産は、世襲財産および相続財産
第三の財産は、商業、農業の生産物または公私の地位および
提供によって、壮健な貧乏人に対して施される、救済にある。
る。したがって、彼を逮捕することが不可欠と判断される場
れ、すべての悪人が罰せられることを要求する。刑罰は、犯
第一九条 所有権は不可侵の権利であるから、それをもつ
合にも、その身柄の確保にとって不必要に厳しい強制は、す
罪に比例しなければならない。
者はすべて、その行使が決して社会の破壊に向かわない限り、
人
処分することができる。
第一一〇条 窃盗、投機、独占、買占めによって、公共財産
その性質いかんにかかわらず、任意に、自己の財産と収入を
判 第一六条 財産の享有とは、占有する権利のことである。
欝 財産は、その全員が自己の保全に関心をもっている市民の保
第一七条 土地占有権は、社会においては限界をもってい
幻 護の下にある。
4
勿
4
拓
4
の犠牲の上に蓄えられた財産は、社会が、確かな事実によっ
となる。
第二四条法律は一般意思の表明である。この薗は、封
権者集会に集合した市民が、セクションごとに表明した劃
て公財私消の証拠を得たときは、即座に国有財産となる。
さらにつねに、正当な事前の補償の条件がなければ、何人も
第一=条 緊急の、確実に証明された公の必要が要求し、
れるものである。
的な願望を収集し、比較し、検討することによってのみ知ら
第一一五条 国家において創設された機関の第一のものは、
自己の財産を奪われない。
第二二条圧制への抵抗は、貴重な蜂起の権利である。蜂
る。
国民代表部と呼ばれ、第二のものは法律執行委員会と呼ばれ
王、専制君主、独裁者、野心家、支配的な陰謀家、暴君など、
起の権利は、ただ必要という法しか認めるべきではない。国
奪され侵害されるとき、圧制が存在する。軍隊や武力が国家
すべての創設された機関の間に、明確な分離を確立しなけれ
第二七条 社会契約は、公職の兼任を許容してはならない。
第一一六条 社会契約は、公職の終身制を正式に禁止する。
の中で優越するとき、圧制が存在する。社会契約が定めた限
ばならない。
いかなる形で現われようとも、それによって国民の主権が纂
国民の公金が費消され、国費の費消が社会の貧困を極度に進
界を、創設された諸機関が逸脱するとき、圧制が存在する。
第二九条 社会契約は、さらに公務員の野心を制限するこ
に特別に専念しなければならない。
第二八条社会契約は、弱い人間を強い人間から守ること
こそが、独立を保障するもの、権利のうちで最も正当なもの、
めるとき、圧制が存在する。このような状況では、一斉蜂起
義務の最も神聖なものとなる。
であれ、義務に違反した場合は、その使命の大きさに比例し
とを特にめざさなければならない。したがって、いかなる者
の諸セクションは、内容を明示した委任状を携えた劃を派
そうあるべきである。
第三〇条 社会状態における人権の維持
に
は
、
あまねく主
て刑罰を科せられる。
第一一三条 主権者たる国民が社会状態を形成するとき、そ
遣する。集合したその代理人たちは、自己の委任者の意図を
権者たる諸国民の独立を必要とする。
法 制 度
︹訳文中の傍線部分は、原文中に、大文字が用いられている箇所である︺
﹄①§<旦。TOひn百。=。コ。。。一。s⑦=。△。ω△8⋮㌃鮎。一ぎヨヨ。合5一、騨讐゜。。。⋮①三おω︺
れば、その基本協約が、社会契約と呼ばれる一つのまとまり
開示し、彼らに法案を作成し提示する。多数がこれを承認す
︹出典
1・ シェイエス﹃第三身分とは何か﹄
人権宣言・憲法
資料H フランス革命︵政治・社会史、憲法史、法制史︶年表
政 治・社 会
1・24三部会の召集状と選挙規則の発表3・ 各地で選挙陳情書の作成
179・25高等法院、三部会の召集形式を裁定
8・8三部会召集の公約
88
㎝1
6・17国民議会成立
5・5三部会 開 会
6・20球戯場の誓い
流を勧告
6・27国王、貴族と僧族に国民議会への合
7・Hラファイエット、人権宣言案提出
7・9国民議会、憲法制定国民議会と改称 7・6憲法作業委員会設置
7・20∼2ーシェイエス、憲法予備草案︵7月草
7・14憲法委員会設置
7・13パリの騒擾激化
7・1ーネッケル罷免
7・下旬∼︿大 恐 怖 ﹀
8・H∼11・3十分の 税廃止のデクレ
8・11封建的特権の廃止のデクレ
7・14バスティーユ襲撃
案︶提出
8・20第六部会案提出
﹁五人委員会﹂発足
8・4∼11封建的特権の廃棄︵封建制廃棄
8・12シェイエス、憲法草案提出
の宣言︶
年
姻
6
表
抽
制
法
法
史
憲
史
加1
9・H国王の停止的拒否権可決
8・20∼26人権宣言に関する討議
8・23マラー人権宣言草案
採択
8・26人権宣言︵﹁人および市民の権利宣言﹂︶
8・28∼憲法に関する討議
9・15 八人委員会成立
10・5∼6ヴェルサイユへの行進︵ルイー610・5憲法制定権力に関する決議
10・8刑事訴訟手続の改正
10・22ロベスピエールの演説︵制限選挙制批判︶10・21戒厳法
世をパリ へ 連 行 ︶
10・19国民議会、パリへ移転
利廃止のデクレ
領主的諸権利買戻しの法令、身分的諸権
3・15長子相続制を廃止
3・9国有財産売却法可決
12・19∼90・3・17教会財産の売却に関するデク レー2・22第一次集会等の組織に関するデクレ
12・14∼22地方公共団体の組織に関するデクレ
制限選挙制可決
11・7議員と大臣の兼職禁止のデクレ
11・2∼4教会財産国有化のデクレ
11・3人権宣言公布
の設立
4・30能動市民の権利行使の条件に関するデク レ
3・24司法組織に関する憲法案討議
11・ ﹁憲法友の会﹂︵ジャコバン・クラブ︶
12・4アシニア紙幣の発行
1・ 地方自治体の選挙1・ 農民の蜂起激化
4・ コルドリエ・クラブ設立5・10モントーバンに反革命運動
5・14教会財産の売却方式に関するデクレ
5・21∼6・27パリ自治市の組織に関するデク レ5・28選挙人会に関するデクレ
6・2暴動煽動者取締りに関するデクレ
7・12聖職者基本法
6・ 地方議会選挙
7・14全国連盟祭
8・16∼24司法組織に関する法律
8・11十分の一税無償廃止
9・3ネッケルの辞職
12・18∼19封建的諸権利の買戻しに関するデク レ
11・3国有財産売却に関するデクレ
ラルド法︶
3・2∼17同業組合の禁止に関するデクレ︵ダ
4・8∼15相続に関するデクレ
6・14∼17ル・シャプリエ法
6・13∼17立法府の組織に関するデクレ
コルドリエ・クラブで朗読
6・20国王の逃亡
加
1
4・20ロベスピエールの選挙権制限反対演説、
6・21国王、ヴァレンヌで逮捕
4・2ミラボー伯爵没︵49∼︶
6・25国王、パリに帰る
桧
治
7・15議会、国王を弁護
7・16フゥイヤン・クラブ設立
9・13国王、一七九 年憲法裁可、翌日施行
9・3 一七九一年憲法採択
9・28第一次集会、選挙人会等に関するデクレ
9・26刑法88ハ成立
8・27プラスnヴァンドーム・セクションの決議8・27選挙法改正︵銀一マール廃止︶
8・1ーロベスピエール、銀一マール批判の演説
敏
革
7・ コルドリエ・クラブ閉鎖
7・17シャンnドnマルスの虐殺
9・30憲法制定国民議会解散
8・5トゥーレ憲法案提出
命
ス
ン
フ
ラ
料
11
資
7
42
銘
4
年
表
抽
制
法
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●
会
社
フ
ス
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治
︵政
革
命
ラ
11
料
資
四
4
凹1
m1
10・1立法議会招集
3・ ジロンド派政府の成立3・3エタンプに飢餓 揆
4・20対オーストリア寛戦布告
3・20パン価格騰貴のため、各地に暴動
派政府成立
8・26第一次集会招集9・3∼選挙人会開催
5・ ロベスピェール﹃憲法の擁護者﹄発刊
6・13ジロンド派大臣の罷免、フゥイヤン
6・20パリの民衆、チュイルジ王宮に侵入
7・ ヴァンデ地方の王党派反乱
7・11﹁祖国は危機にあり﹂の宣言
7・10フゥイヤン派大臣の辞職
7・14全国連盟祭
利停止︵8月10日の革命︶
8・10パリ・コミューンの蜂起、国王の権
8・13国王をタンプル塔内に幽閉
9・2∼6パリの群衆、王党派を虐殺
10・31亡命貴族の財産没収に関するデクレ
11・29忌避僧侶に公民宣言を要求するデクレ
11・9王族の財産没収に関するデクレ
6・18不定期的封建税の無償廃棄
動・受動市民の区別撤廃︶
8・11国民公会招集の形態に関するデクレ︵能
に関するデクレ
8・14国有地の細分割売却、共有地の強制分割
8・20∼25封建的諸権利︵物的権利︶の無償廃 棄
9・20∼25離婚に関するデクレ
12・8穀物取引規則の廃止、商業の自由化宣言
11・29食糧品の最高価格決定
10・14ジャコバン・クラブ内に憲法委員会設置
︵コロー・デルボア、ピヨーnヴァレン
シェイエス︶
ダントン、バレール、トマス・ペイン、
ペチオン、ヴェルニョー、ジャンソネ、
9・25憲法委員会設置︵コンドルセ、ブリソー、
る旨の決議
9・20ジロンド派、パリ・コミューンを弾圧 9・21国民公会で憲法の成立を人民投票に委ね9・20市民の民事身分に関するデクレ
9・21国民公会招集、王制の廃止
9・22共和国宣言[共和暦−年]
9・25ジロンド派とモンターニュ派の闘争
激化
10・2国民公会、公教育委員会を設置
ヌ、ロベスピエール、ダントン、シャポ、
クートン︶
権の厳粛な宣言﹂︺
︹ジャン・ヴァルレ﹁社会状態における人
12・2 ロペスピエール、生存に関する演説
︹憲法委員会活動休止︺
10・19国民公会で、憲法私案の公募を決定
10・16立法委員会、国王裁判の手続きにつ
いて討議
11・27サヴォワ併合
12・11国王の審問開始
12・4国王の裁判開始
1・14国王の判決文の討議1・15国王有罪宣言
1・18国王処刑の決議
2・15∼16コンドルセ、憲法委員会案︵ジロン
1・21国王の処刑
2・1対イギリス、対オランダ宣戦
2・17ジャコバン憲法委員会で憲法草案を批判
ド憲法草案︶を国民公会に提出
2・2430万人の動員令
格決定を商人に強要
2・25パリの民衆、購買者による商品の価 2・25ロベスピエール、民衆運動に関する演説
3・7遺言の自由廃止に関するデクレ
3・18∼29﹁土地均分法﹂提案者に対する死刑を
に反革命
3・3ブルターニュの反革命計画、リヨン
3・28亡命者財産の国有化法
定めるデクレ
3・10∼秋ヴァンデ地方に反革命暴動
3・7対スペイン宣戦
3・9∼10パリの民衆蜂起
鉛
年
4
表
か
制
法
史
法
憲
布
会
史
社
ン
ス
︵政
命
革
ラ
フ
ー1
料
資
31
4
デムーリエの裏切り
3°
10革命裁判所設置
93
ぷ写●ご﹂
だ◎■
一二人委員会の設置
4・4国民公会、憲法私案の検討のため、六人
委員会設巫蹴͡バレール、ロム、ランジュ
イネ、ヴァラゼ、メルシエ、ジャン・ド
4・15国民公会、憲法審議日程を決定
ゥブリ︶
4・1ーアシニアの強制通用令
4・17憲法案審議開始。パレール、人権宣言草
案ハ六人委員会案︶を提出
4・20人権宣⋮欝草案第20∼30条審議終了
4・19人権宣言草案第1∼19条審議
4・2ーロベスピエール人権宣言案、ジャコバ
4・24国民公会、憲法審議に移る。ロベスピエ
ン・クラブで採択
ール、人権宣言案提出。サン・ジュスト
4・26憲法の基礎に関する審議
憲法案提出
度に関するデクレ
§・2010億ジーヴルの強制募債強制累進公債制
5・10磁法第一条採択。ロペスピエ⋮ル、憲法5・4穀物・小麦粉の特別最高価格令
案提出
5・29公安委員会を代表してバレールが演説、
5・13コンドルセ、迅速な審議を要求
5・29公安委員会に、五人の憲法起草委員任命
国民公会で入権宣言全文の採択
︵サン“ジュスト、クートン、エロー・
6・10共有地財産の分割形態に関する法律
法律
6・10エロー・ド・セシェル、新憲法草案︵モ §・3∼7・25亡命者財産の売却方法に関する
ド・セシェル、マチウ、ラメル︶
6・11∼24 一七九三年憲法に関する討議
ンターニュ憲法草案︶を国民公会に提出
パリの民衆蜂起
ジロンド派29名の逮捕
§・11憲法草案第1∼4章の審議・採択
6・12憲法草案第4∼5章の審議・採択
6・14憲法草案第5∼6章の審議・採択
7・17 一切の封建的諸権利の無償廃棄に関する
反革命軍4万、ナントに進撃
ρ◎■2
§・3ーパリの民衆蜂起
§・29マルセイユに反革命
§.7
4・6公安委員会設置
17
田
17
§・16憲法草案第12∼17章の審議・提択
6・15憲法草案第7∼11章の審議・採択
6・17惣法草案第18∼23章の審議・採択
6・23エロー・ド・セシェル、新人権宣言草案
6・18憲法草案第24∼26章の審議・採択
6・24 七九三∼年憲法を可決
提出
§・25ジャック・ルー、国民公会で憲法を批判
6・27第一次集会招集のデクレ
︵﹁アンラジェの宣言﹂︶
7・2∼3パリ県での人民投票
パリその他の大都市で飢餓騒擾
7◆
7・7近郊諸県での人民投票
7・14、21大多数の県で人民投票
7・26買占禁止の法律
法律
育に関するルペルチエの遺稿を提出
7・13マラー暗殺。ロベスピエール、公教
7・27ロペスピエール、公安委員会に参加
§・4人民投票結果の集計
集計結果の公表
8・10一七九三年憲法布告。
8・23国民総徴用法
ヴァンデの暴動激化
7・29
8●8ジャック・ル⋮、銀行家の逮捕を要求
0∨■4パリの民衆、革命軍の編成を要求
0∨■5
革命裁判所改革
9・11
革命軍の創設
9・17反革命容疑者法
9・13亡命貴族の所有地売却に関するデクレ
9・21航海条令
公安委貝会の権限強化
9・13
ジャン・ヴァルレ逮捕
9・19
9・16ルクレール、ラコンブ逮捕
認
4
表
年
隅1
隅1
9・22︹共和暦H年︺
10・10公安委員会、平和到来までの独裁を10・10 一七九三年憲法の施行延期決定
決定。サン・ジュストの演説
10・16マリ・アントワネットの裁判・処刑
10・30女性の結社禁止のデクレ
10・26民事上の行為・契約等に関するデクレ
ム︶
9・29生活必需品の一般最高価格法︵マキシマ
10・24ジロンド派22名の裁判
11・2贈与および相続に関するデクレ
10・18ヴァンデの暴動鎮圧
10・3ージロンド派の処刑
の祭典︶
説
4・23離婚に関するデクレ︵別居期間短縮︶
2・26∼3・3ヴァントーズ法可決︵実施せず︶
12・25ロベスピエール、革命政府についての演
H・10パリのコミューン、大市民祭︵理性
H・17インド会社事件
11・24革命暦発布
3・4コルドリエ・クラブ、蜂起を声明3・10ダントン派逮拗
3・13︵∼14︶エペール派指導者の逮捕
3・3ーサンnジュスト、ダントン弾劾演説
3・24エベール派処刑
6・10革命裁判所の改革
4・5ダントン派処刑
5・22∼23ロベスピエール暗殺計画
5・23女性に家庭復帰を命ずる法律
1・31外国貿易禁止の撤廃
12・24最高価格法撤廃
8・2離婚に関するデクレの廃止
6・8最高存在の祭典
ル9日の反動︶
7・27 ロベスピエール派逮捕︵テルミドー
9・22︹共和暦m年︺
7・28ロベスピエール派処刑
11・1ージャコバン・クラブ閉鎖
12・ 公安委員会、パリの国営工場を閉鎖
アシニヤの急落、物価の高騰
4・3憲法委員会成立
七九三年憲法の実施を要求
3・30アンディヴィジビリテ・セクション、一
3・ 食糧危機激化3・17サン・マルソー、サンnジャック街
の代表、公会にパンを要求
4・ージェルミナールの蜂起
憲法﹂を要求
5動
・20プレリアールの蜂起、﹁パンと一七九三年
5・20∼23サンnタントワーヌ街で暴
6・23ボアシ・ダングラ、憲法草案を提出
︵プレリアールの蜂起︶
8・22共和暦m年︵プリュクチドール5日︶8
憲・30三分の二法可決
12・4反革命家の復権に関する法律
12・ 軍隊への派遣委員制廃止
3・10アシニヤ廃止決定
12・ 資本に対する累進課税法可決
9・2593・10・26のデクレ廃止︵相続の平等廃止︶
5・31革命裁判所の廃止
9・23共和暦m年憲法施行
法採択
6・ ヴァンデ地方に反乱
9・22︹共和暦V年︺
5・10パブーフの陰謀発覚、逮捕
3・30バブーフ、公安秘密総裁府結成
3・5ヴァンデ地方の反乱平定3・27ボナパルトのイタリア遠征︵第一次︶
10・31総裁選挙
10・27総裁政府成立、公安委員会廃止
10・26国民公会解散
10・3∼5ヴァンデミエールの暴動
法
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制
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9・23︹共和暦W年︺
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1・14リヴォリの戦い︵ボナパルト、オー ストリア軍を破る︶
2・∼・5バブーフ派の裁判
5・26バブーフに死刑判決
3・共和暦V年の選挙、王党派の勝利
5・27バブーフの処刑
共和派の勝利
9・4ブリュクチドールー8日のクーデタ、
9・22︹共和暦W年︺
2・15フランス、ローマ共和国を設立4・9∼18共和暦W年の選挙、ジャコバン
派の勝利
5・1ーフロレアール22日のクーデタ
9・22︹共和暦W年︺
5・16ボナパルト、エジプト遠征
5・16シェイエス、総裁に選出される7・6ジャコバン・クラブの再建
8・22ボナパルト、エジプト放棄
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7・16忌避僧侶に対する処置の廃止
6・27亡命者に対する処置の廃止
7・26諸クラブの閉鎖命令
12・13共和暦㎜年︵プリメール22日︶憲法成立
11・10共和暦m年憲法修正決議
10・9ボナパルト、フランスに帰国
9・23︹共和 暦 ㎜ 年 ︺
11・9ブリュメールー8日のクーデタ
8・2元老院議決︵ボナパルト、終身第一統領︶
3・2ーナポレオン民法典︵﹁フランス人の民法 典﹂︶公布
8・ 民法典起草委員会
12・24統領政府成立
6・ ボナパルトのイタリア第二次遠征9・23︹共和暦α年︺
3・ フランス軍、アレキサンドリアでイ ギリス軍に敗北
9・23︹共和暦X年︺
10・ーイギリスと仮平和条約
10・8ロシアと和約
10・9トルコと和約
3・27アミアンの平和条約4・8法王との宗教協約を批准
8・4共和暦X年︵テルミドールー6日︶憲法成立
5・23プロシャと条約締結
6・ ボナパルト、イタリア共和国大統領
9・23︹共和 暦 刈 年 ︺
一帝制憲法︶成立
5・18共和暦刈年︵フロレアール28日︶憲法︵第
8・ーボナパルト、終身の第一統領
5・22イギリスに宣戦9・24︹共和暦川年︺
5・18ナポレオン、皇帝に即位
12・2ナポレオン戴冠式
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3
4
438
439 資料IV 主要参考文献一覧
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水木惣太郎『比較憲法史』有信堂,1963.
「フランス革命二〇〇年と憲法学jr憲法と憲法原理」ジュリスト臨増号,1987.
宮沢俊義「国民代表の概念』『公法学の諸問題」有斐閣,1934〔『憲法の原理』同,1967,
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柳春生「フランス大革命の憲法における人民主権の問題」『法政研究」34巻5・6号,1968.
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「フランス革命期の選挙権論一主権理論との交錯」r一橋論叢』78巻6号,1977〔後掲『「権
利」としての選挙権』所収〕.
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利」としての選挙権」所収〕.
;f権蕃則としての選挙権一選挙権の本質と日本の選挙問剖勤草書房,ig89.
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「フランス革命と『女権宣言』」『法律時報』48巻1号,1976.
2号,40巻1号,1971−73.
「フランス革命期における女性の権利一フランス女権史研究・序説」『成城法学』17号,
「パリ・コミューンにおける代表観念にかんする憲法史的考察」『法政研究』38巻
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1972.
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吉田正晴『フランス教育政策の源流』風間書房,1977.
和田進「フランス革命初期における国民代表思想の検討(IX2)」『法学論叢』99巻4号,100
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法における主権と代表』法律文化社,1988,所収〕.
C.フランス憲法に関連する拙稿一覧
(1)フランス革命憲法
「フランス革命期における1793年憲法の研究序説(1×2)」「一橋研究』1巻3号,2巻1号,
1976−1977.
「『命令的委任』法理に関する覚え書き一フランス革命期の議論を中心に」『一橋研究』
2巻3号,1977.
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t ム プアム
f人=男性の権利から女性の権利へ一一三つのiなぜ』と一つのrいかにカジ:x. ¥スト937
号,1999、
4・ぎ2 資糠v 主要参考文献一覧
440
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大須賀明ぎ生存権論]H本評論社,1984.
「国民と議会一一r国民代表』の理論と歴史に関する一考察(→∼四完」『国家学会
大津浩rフランス地方分権制と単一国主義一歴史的背景とミッテラン改革」宮島・梶田
雑誌』92巻3・4号一94巻1・2号,1979−1981.
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「主権一魔力からの解放」『法学教室」69号,1986.
岡田与好『独占と営業の自由』木鐸社,1975.
竹内康江「純粋代表制と半代表制」杉原編『憲法学の基礎概念1(講座・憲法学の基礎・
「経済的自由主義とは何か一「営業の窪由論争嚢との関連において」ぎ社会科学
第1巻)j 助草書房, 1983.
研究』37巻4号,1985.
田端博邦「フランスにおける『労働の自由』と団結」高柳・藤田編『資本主義法の形成と
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岡本明r1789年人権致言の主権概念」r広島大学文学部紀要』46巻特輯号2,1987.
中村睦男「フランス憲法における社会権の発展(i)∼(3)j『北大法学論集」14巻2号一15巻2
影山日出彌「社会主義国家の主権」『公法研究』33号,1971.
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成嶋隆r主権原理についての一考察」ぎ一橋研究』2巻1号,197?.
清宮四郎『権力分立制の研究」有斐閥,1950.
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小林直樹「憲法秩序の理論」東京大学出版会,198§.
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『国民主権の史的展開一一人民主権との対抗のなかで』岩波書∫蘇1985.
rフランス革命と憲法ω(田(法律学体系・法学理論篇)日本評論新社,1953.
『憲法1 簸法総論』有斐閣,1987.
「フランス革命と憲法』三省堂,1984.
杉本幹夫『憲法の階級性と普遍性」9本評論社,197§、
「テルミドール反動と九五年憲法」戸沢鉄彦還暦祝賀記念論文集「ブルジョア革
鈴木安蔵『憲法の歴史的研究』大畑害店,1933.
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『比較憲法史」勤草書房,1951.
樋口謹一「フランス革命憲法にtsける主権思想」『同志社法学」45号,1957.
隅野隆徳「書評・杉原泰雄f人民主権の史的展開力「歴史学研突』489号,1§81.
「フランス革命における半直接民主制」桐志社法学」55号.1959.
高野真澄「フランス憲法における代表民主制の展開」『尾道短大紀要」15集,1966.
「権力機構」桑原編「フランス革命の研究」岩波書店,1959.
「ジロンド・ジャコバン両憲法における人民主権実現の構想」『尾道短大紀要j16
樋口陽一『議会制の構造と動態」木鐸社,ig73.
集,1967.
『近代立憲主義と現代国家」勤草書房,1973.
∫ジロンド・ジャコパン両憲法における人民主権実現の構想・再論」「奈良教育大
i現代民主主義の憲法思想1創文社,ig77.
紀要」19巻1号,1970.
ff半代表』概念をめぐる覚え書き」芦部編『近代憲法原理の展開1』東京大学出
「フランス代表民主制の現代的展開(1×2)」『奈良教育大紀要』24巻1号,1975.
版会,1976、
高橋和之「フランス憲法学説史研究序説白}∼{5涜」「国家学会雑誌』8§巻1一頚号,1972.
「『半代表」概念をめぐる覚え書き・補遺」ぎ法学』44巻5,6号$欝81.
「現代フランス代表民主政論の源流(1)∼(3}完」f法学志林」79巻4号一80巻3,4号.
「比較憲法(改訂版)』青林書院新社,1984.
1982−83.
1権力・個人・憲法学一フランス憲法研究』学陽書房,1989.
9主権」芦部ほか編ぎ権力く講座基本法学’第6巻)」岩波書忘1983.
深瀬忠一「1789年人権宣言研究序説(1×2×3)J『北大法学論集114巻3・4号,15巻1号,18
「現代憲法理論の源流j有斐閣,1986.
巻3号,1964−1968.
「国民主権の構造」樋口ほか「考える憲法』弘文堂,1988.
「フランス革命の人権宣言制定をめぐるラファイエットとジェファーソン」和田
高見勝利「国民主権と国民代表制」f日本国憲法30年の軌跡と展望』ジanリスト臨増号,
英夫教授古稀記念論文集r戦後憲法学の展開」日本評論社,1988.
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ルソー(桑原・前川ほか訳)『社会契約論』岩波文庫,1954.
ロム(木崎喜代治訳)『権力の座についた大ブルジョワジー』岩波書店,1971,
二宮宏之「フランス絶対王政の統治構造」吉岡・成瀬編『近代国家形成の諸問題』木鐸社,
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國邦語文献2)
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辻村みよ子
資料lv主要参考文献一一ee
● 略歴
1949年7月東京生まれ
1972年一橋大学法学部卒業
1978年同大学大学院法学研究科博士課程単位修得
一橋大学法学部助手,成城大学専任講師を経て
以下の文献は,本書で参照もしくは引用したものであり,必ずしも
現在,成城大学法学部助教授
綱羅的な文献表ではない.とくに,憲法理論については,掲載すべ
● 主な著作
きものが多数あるが,本欝の内容と関係が深いものにとどめ,iヨ本
「権利」としての選挙権(勤草書房,1989年)
の憲法学の教科轡等の多くは省略した.
憲法理論研究会編・参政権の研究(共著:有斐閣,1987年)
略記は,以下のとおりである,
杉原泰雄編・市民憲法史〔講座憲法学の基礎5〕(同上:勤草書房,1988年)
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「フランス革命と『女権宣言』」(法律時報48巻1号,1976年)
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「フランス革命200年と憲法学」(ジュリスト臨時増刊『憲法と憲法原理』,1987年)
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フランス革命の憲法原理
一一 ゚代憲法とジャコバン主義
● 1989年7月31日 第1版第1刷発行
∫’餌κδ%ノour, rectteillis dans ttn ordre chronologiqtte et 1淑o殉2‘ρ,20 vols., Paris,
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Lacr◎ix, S.(6d.), Acte de la Co2n2nitne de Pan’s PendgnS la∼Re’valtttio?;,2e s巨rie,8vo茎s.,
1990年5月3日 第1版第2刷発行
Paris,1955(reprint, New York,1973).
著者 辻村みよ子
Mavidal, Laurent et Clavel(direction),A rchives Parlementaires de 1787δ1860.
発行者一橋本敬
発行所一株式会社日本評論社
東京都豊島区南大塚3−10−10電話03−987−8611振替東京0=16
印刷所一株式会社平文社
製本所一松岳社
検印省略 ◎ TSUJIMURA M.装順/駒井佑二 Printed in Japan
ISBN4−535−57819−2 C3032
1∼eCtteii comPiet desゴεカαノs ie’gisiattfs et Po∼itiques des C zαmbres franジaises, premiさra
s{…rie (178?a }799),91 vels., Paris,1867−1976.
RtiitnPressioit de/㌦ηc∫βηMoniteur,32 vols., Paris,1858−1863.
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〔その他,ジャコバン・クラブやサンmキenロット運動に関する史料は,固,〔舅の項参照.
1793年の磁法草案等の手稿史料は,Archives NationalesのAD XVIIIe,とくにN°256
∼262,印刷史料は,Bibliothalque NationaleのLe,とくにLe3i, Le38などに所蔵され
ているが,議事録1こ収録されたもので本香で直接引用した主なものを[勇固に含めたほか
は.逐一掲げることは避けた.〕