柳川竹堂頌徳碑周辺を綺麗にして思う 二月二十一日(土)は、音田の氏神さん、産巣日神社の春の大祭だった。直会の席で、 「近いうちに柳川竹堂先生の頌徳碑の周辺を綺麗にして県道からよく見えるようにします」 と参会の皆さんに話した。横に座っていた今宮勉さんが、 にれ 「あの大きな楡の木を伐るんならワシも行くぞ」 と申し出てくれた。少し大きすぎてどうしようかと迷っていた私を前向きにさせてくれた。 「三月五日の八時半からや。ほんなら頼めるかい」 とお願いした。 三月五日(木)八時半、上之庄から戸城秀郎さん、戸城晃義さん、貞廣駿さん、石渕の小野達夫 さん、戸城浩二さん、平見の小野秀夫さん、西村の今宮勉さん、青井谷の私の八人が集まった。小 野秀夫さん、戸城浩二さんは所用で午後からは来られなかったが、六人で六時までかかって粗方終 わった。木の幹の片付けには上之庄の丸岡忠一さんが来てくれた。 前回、一昨年の十月二十九日(火)は、戸城健さん、戸城秀郎さん、戸城晃義さん、丸岡政一さ んと私の五人で、碑や石段周辺の草や笹を刈ったり、竹や木を伐っただけ、それでも休まずにして 午前中かかってやっと終わったのだった。前回に比べると、今回はかなり大規模になった。 「今日は これで終わりにしよう」と、皆さん県道下の神事場に集まった。くっきりと姿を現した碑を見上げ て、 「気持ちええのう」と、誰言うともなしに言い合ったのだった。 八日(日) 、私は残っている草、と言っても背丈以上に伸びている笹にかずらが絡みついているし がらみを刈りに行った。根元が十センチ以上の太さのかずらもあって難儀しながら刈っていてふと 下を見ると、戸城晃義さんが木の枝の片付けに来ていた。刈り終わって、二人で片付けをした。結 局夕方までかかった。 「ここまでしといたら、次からは楽やわ」と、二人で確認しあった。体は疲れ ているけど心は癒されて、何とも言えず清々しい気分だった。 楡の木の年輪を数えた。四七まで読める。中心部は腐っていて分からない。樹齢は五十年前後か、 五十年前には、ここは畑で芋や麦を作っていた。作付けを止めてから生えたということになる。 地上五十センチの切り株の幹囲は一六八センチだった。 私の小学校四年生のときの教室から、柳川竹堂の頌徳碑が見えた。その教室は旧本館(明治四十 一年築)の二階だった(当時の新館は昭和十三年築) 。教室から鬼ケ臼山の巨岩も見えた。休憩時間 になるとよく眺めた。学校からの帰りには、真正面遠方に柳川竹堂の頌徳碑を見て歩いた。登校時 には見なかったが、帰りには必ず見た。見なくても見えた。祖父(明治六年生まれ)から柳川竹堂 の話を繰り返し聞かされていたからかも知れない。 柳川竹堂が偉い人らしいことだけは、小学生にも分かっていた。 「やねた(雑貨店)の裏に学校が できて、おじいはそこへ行った」と話してくれた。柳川竹堂の教授を受けたのかも知れない。柳川 竹堂は学校主(校長)であった。祖父からもっとしっかり聞いておけば良かったと後悔するが、何 様小学生では素養が十分に聞くレベルまで達していなかったのだから仕方がない。しかし、祖父の 話と柳川竹堂の頌徳碑は、無意識のうちにも私の心の成長に大きな影響があったと思う。 (平成二十七年三月十五日) 地域の宝として柳川竹堂の頌徳碑を大事にしなければと、そうすることが地域の子供たちの心の 成長に良い影響を与えてくれると信じている。
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