よく人間であること への三富。富島 mm~=)

よく人間であること(のEZS拐 の 町 三 国 )
││ひとつの原・倫理学││
るのか、ということが問題なのです。
ゲルノート・ベ l メ
(丸山徳次訳)
んな人間であるか、ということではなくて、知何にして︹どのように︺人間であること 28zgω 各
・85)を遂行す
zgm各'8ECです。すなわち、誰かがど
す。問題になっているのは、人間であることを遂行すること(︿急自明弘g
れこれの道徳的判断を下すことができたりする以前に、人が成し遂げておかなければならない準備を形成していま
ば、倫理学へのひとつの準備をなしています。つまり、人が特定のあれこれのために決定することができたり、あ
倫理︹学︺に対して中立的でもあり、むしろ倫理学の前領野を形成しています。あるいはよりいっそう適切に言え
わば倫理以前の領野、もしくは、倫理以下の領野のなかでなされる考察です。また、それら諸考察は、さまざまな
はまた倫理的な原理や判断や価値といったもの、あるいは簡単に言って、﹁善 280go)﹂が、問題になる前に、い
以下の諸考察は、確かに多く倫理学に関わっていますが、しかし、それは、まだよい作品とか美徳とか、あるい
序
論
龍谷哲学論集
第二八号
二四
こうした諸考察のために、導入部として私たちの役にたつに違いない古典的な例が、倫理学の歴史のなかに存在
します。私が考えているのは、アリストテレスによるポイエ l シス e
g
g
m
)とプラクシス守﹃宮町)との区別です。
両者は、人間の振舞の二つの仕方であり、詳しく言えば、ポイエ l シスは産出する行為ですし、プラクシスは生き
ることの遂行です。この区別に対して、アリストテレスは次のような例を挙げています。すなわち、ポイエ lシス
とプラクシスは、建てることと住むこととが関わっているように関わりあっています。建てることは、家という一
つの目標を有していますし、この目標によって、その振舞は終わりに達します。それが産み出した産物が善いもの
であれば、それは善いのです。これに対してプラクシスは、住むことに対応しています。住むことは、そのこと自
身以外に目標を持っていません。もしそのことが善いと言われるべきだとすると、その場合の﹁善い﹂は、住むこ
とが知何にあるか︹どのようであるか︺に関わっています。﹁善い GE)﹂という表現は、これら二つの連関において、
異なって用いられます。ポイエ l シス、建てることは、それが産み出す結果の方から﹁善い﹂と言われます。すな
わち﹁善い﹂は、結果が有する属性あるいは形容調です。つまり家の例でいえば、その家が有する属性あるいは形
容調です。これに対して、もしプラクシスつまり住むことが善いと言われるならば、その﹁善 GE)﹂は形容詞で
はなくて、副詞です。それは住むということの遂行に、あるいはより一般的に言えば、プラクシスの遂行に関わっ
ています。この区別を私たちに関係づけるならば、つまり人聞に関係づけるならば、﹁よく人間であること﹂ SF
玄gm各'
m
a
S﹂という
85)という言い回しにおける﹁善 (mg)﹂という用語は同じく副詞であり、しかも﹁ある (
各'
動調に対する副詞であり、より限定的には、人間であること(玄g明
5
3
)に対する副詞です。すなわち、問題に
なっているのは、人は如何にして人がともかくもそれである所のものであるのか、つまり、如何にして人間である
ことを善く遂行するのか、ということです。もう一度、倫理学から離れて言えば、善い人間であること守吉明Eq
冨gRYNZω旦ロ)が問題なのではなくて、すなわち、人が為す行為によってであれ、人が産み出す作品によってであ
れ、人が有する性格によってであれ、人が獲得する美徳によってであれ、とにかく善い人間であることが問題なの
ではなくて、人間であることの遂行それ自身(︿急盟関色gzgms'mo-5852) が問題なのです。
これは、たとえどこかパラドクシカルであっても、なる程もっともらしく聞こえます。人は事実、断じて、人間
であるのではないでしょうか。その点において、 いったい理屈をこねるべき何があるというのでしょうか。
一九四八年の人権宣言︹﹁世界人
このような反論を、過少評価すべきではないでしょう。とりわけ、この反論が有する倫理的・法的な意義に眼
を向けるなら、過少評価すべきではないでしょう。私たちが知っているように、
権宣言﹂︺に従えば、人はその誕生により人間であり、資格づけられることのない人間であること、そして、それ
以上資格づけ不可能な仕方で人間であること、に基づいて、人には人間の尊厳が帰属し、それに結びついて、すべ
ての人権が帰属しています。ここでは、人間であることが ﹁如何にしてか﹂ということは、問題になってはいませ
ん
。
このことは特に障碍者にとって重要です。障碍者が人間であること、そして、障碍者の人間の尊厳は、障碍者が
備えているものの完全性に左右されるものではありませんし、とりわけ、障碍者が理性能力を有するかどうかによっ
て左右されるものではありません。
85)、というのがあるのでしょうか。事実、人間であるにもかかわらず、その遂行において、
各'
しかしながら、まさにこの問題にこそ、私たちは立ち向かわなければなりません。程度の差こそあれ、よく人間
であることおE
'玄
g
人間であることのω
背後に留まり続けることは、可能なのでしょうか。
この点についても、私たちが以下の考察のためにそれに方向を取ることができるような一つのモデルが、哲学史
上に存在します。そのモデルは、実存哲学に由来するものです。そして、そのことは驚くことでもありませんが、
二五
しかしやはり、ここでは、本質に対する実存の優位が重要になります。 つまり、私たちは次のように言うでしょう、
よく人間であること百三玄gRF8g││ひとつの原・倫理学││
龍谷哲学論集
第二八号
一
一
六
すなわち、人間であることの遂行が知何にあるかは、人間であることの一定の内容をもった﹁何であるか﹂という
ことに優先するのです。これに関連して、マルティン・ハイデガlは、欠如様態(母国N522玄。含るということに
ついて幾重にも語っています。人間という現存在 3825は、根源的に、共存在(豆一月明。吉)︹共にいるということ︺
であり、孤独に生きているということは、そうした共存在の一つの欠知様態にすぎません。最も有名なのは、現存
在が誰なのかに関する欠知様態です。すなわち、それは﹁ひと含 ω玄
g﹂︹世人・世間︺です。個々の人聞は、ひ
とが読むものを読み、ひとが行うことを行い、ひとが評価することを評価するのです。これは、現存在の遂行にお
E
-♀﹂、すなわち、断固として自己固有の生を引
ける欠如様態です。何故ならば、個々の人間は、﹁本来的に包加O
き受けることによって、自分自身でありうるだろうから、です。つまり、本来性とは、﹁ひと﹂という欠如様態に
対する積極的肯定的な様態です。
欠如的に人間であること(口。RZES玄O
BOE-gE)
そもそも人は、知何にして、自己固有の人間であることの背後に留まり続けることができるというのでしょうか。
z
s
z
' 玄ogs'gE)、あるいは少なくとも、ともかくも
どのように人間であることを、悪しく人間であること(∞。
人間であること、と呼ぶべきなのでしょうか。ニれに対する答えは、さまざまな生活状況のなかで、しかも私たち
の時代の生活状況のなかで、探さなければなりません。何故なら、私たちの時代の生活状況こそが、人間であるこ
との遂行を決定し、制限しているものですし、ニ lチェが﹃ツァラトゥストラ﹄のなかで予言的に﹁おしまいの人
間︹末人︺(色。こ0
5
0玄gお宮)勺︼の実存様式と呼んだ、還元され切り詰められた実存様式に導いているものだからです。
私は、今日の私たちの実存遂行の構造的な枠組み条件を、二つ挙げたいと思います.その二つの枠組み条件は、
現存在を正しく人間であることへと導かない条件であり、また、個々人が如何にして人間であるか、ということを
まったく気にかけずに済ませるようそそのかす条件、もしくは、目標を追求するあらゆる努力より先に、まずもっ
て自己自身のことを気にかけ、自分が人間であることを気にかけなければならない、ということに関して自分をご
まかす、そういう目標を抱かせる条件です日問題になっているのは、私たちの生活遂行の二つの枠組み条件、すな
わち、技術文明と業績社会です。技術文明は、ますます強く人間の生活遂行を形づくっています。すなわち、人間
の生活遂行が、コミュニケーション、知識の伝達、知覚、社会的行為のように、ただ技術の経路によって媒介され
ているばかりではなくて、むしろ、技術的な媒介物が人間的な生活遂行のその仕方を規定しているのです。実際、
極めて重大なことですが、今日の文明の人間は、自分たちの生活遂行を技術的な装置とシステムに委ねてしまって
います。一八世紀の終わりにカントは人間を未成年的だ呼び、その訳は、自分が生きる生活をみずからの手に収め
ないで、専門家たちに委ねてしまっているからだとしたわけですが、今日、多くの領域において、人間は自分の生
活遂行をもはや自分で生きないで、技術的な仕組みに委ねている、と言うことができるでしょう。例として挙げる
ことができるのは、 スマートフォンやG P Sの助けを借りて方向を決めることですが、これはもっと別の多くの領
域や生活遂行にとってパラダイム的な事例です。世界のなかで自らの方向を決めるということは、基礎的な生活遂
行の一つですし、根本的には、すべての人がそれに習熟するでしょう。ところが、スマートフォンは、そうした方
向決定の働きを人聞から取り除き、﹁私はどこにいるのか﹂、﹁どう行けばよいのか﹂という問いに簡単に答え、決
めてくれます。
それとは別の仕方で、私たちが生きている業績社会は、私たちの生活遂行を切り詰め、貧しくしています。元来
は労働の領域、とりわけ、請負労働の領域およびスポーツに由来するものですが、次第しだいに、あらゆる生活遂
ニ七
行が、それのもたら成果によって、あるいはもっと厳密に言えば、単位時間あたりの成果を尺度として、評価され
g
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M
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-ひ と つ の 原 ・ 倫 理 学 │ │
よく人間であること色昆冨
龍谷哲学論集
第二八号
二八
るようになっています。このような思考もしくは生活実践は、いわゆる余暇をもとらえています。そこにおいても、
生活遂行は、それが何をもたらしてくれるのか、成果に関して時聞がどのように効果的に使われるか、ということ
に向けて生きられるのです。ここで私たちは、アリストテレスを振り返りつつ、本来はプラクシスでありうるし、
プラクシスであるべきものが、ポイエ l シスに転換されてしまう、と言うことができるでしょう。散歩がジョギン
グやウォlキングになってしまい、決してそれ自身で充足することなく、それによって何がもたらされるのか、と
いう観点で見られ、果たされる、というのが、ひとつの特徴的な例かもしれません。
このような場合、人間であることが欠如的な仕方で生きられる、ということを、ずっと以前にヘルベルト・マル
クlゼは﹃一次元的人間﹄という著書のタイトルによって捉えました。そこにおいては、先に挙げた二つの枠組み
条件に対して、さらに今日、人間的現存在の第三の枠組み条件、つまり消費社会が主題化されます。もっとも、マ
ルクlゼにとって一次元性は、個々の人聞が専同化され、それ故に、業績と職業とが要求するままに個々人の諸可
能性が一面的に教育されるということを意味してもいます。この点において、まさにニ lチェもまたすでに﹃ツア
ラトゥストラ﹄のなかで、ただまったく手にすぎなかったり、耳にすぎなかったりするだけ、という人聞について語つ
たのでした。これは勿論、人間のすべての能力を等しく陶冶形成することを目差した人文主義的教育理想に矛盾し
ました。しかしながら、消費社会は、こうした連関のなかに、さらに人間的現存在の新たな変形を持ち込んできま
す。業績社会の諸格率のもとでは、何かをし遂げる遂行は、ポイエ l シスにならざるを得ないのであり、したがっ
て、それは程度の差こそあれ、それによって何がもたらされるのかに即して善いということになります。消費社会
では、いわばそれと逆の諸格率によって判断がなされ、人間的現存在は、大量にかつ﹁高額に﹂消費されれば善い、
とされます。現存在の充実は、消費を介して追求されます│これは、決して満足に至りえない、つまり充実には
達し得ないのですから、悲惨な企てです。基礎的な欲求ではなくて、例えば、生活を高めたり飾り付けたりするこ
とに関わるならば、充実︹充足︺は達成されることはありえませんし、満足が生じることは決してないのです。
以上のことは、差し当たっては単なる示唆にすぎないのであって、後ほどより詳細に論じるつもりですが、まず
は、なお根本的な問題に注意を向けなければならないでしょう。
。
理想的な人間であることE
g-gzgs・
8E)?
よく人間であること2Bog-玄
g
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s
'目立ロ)、という言い方は、いったい人間であるということは、本来、何にお
いて成り立っているのか、という聞いを直ちに引き起こします。この間いは、歴史的には、人間のエッセンス、つ
まり本質を提示することによって答えられてきました。こうした答えも、倫理的には極めて大きな意義を有してい
ましたが、しかし、その答えはやはり、少なくともプラトン的な伝統において理解される限り、人間であることに
おいてより多くの事柄を許容したり、より少ない事柄を許容したりしてきました。すなわち、人間の本質は、人間
の理想 (
Egcもしくは理念(E2)として理解されたのです。理想的な人間であることのそうした諸理念は、例えば、
古典的な徳論のなかに含まれています。ー lひとつの特色ある事例をあらわしているのは、ラテン語の文化領域で
qage は、勇敢であると同時に男性的であることを意味する 55mと呼ばれます。啓蒙
あって、そこでは、徳
主義以後の時代にとっては、自律的な理性的人間という理念が規準的なものになったのであり、その場合、そこに
おいても、本来的に人間であるためには、人は理性性と自律性とを自分自身について鍛えなければならない、とい
うことが含意されていたのです。
しかし、理想的人間というプラトン的な理念には、次のような危険性が含まれています。すなわち、個々の人間
二九
は、この理想に接近していくという下位の領域において、程度の差こそあれ、自分が人間であることを失ってしま
よく人間であること3E玄
gg-MEg--ひとつの原・倫理学││
龍谷哲学論集
第二八号
とをはっきりさせるために、十分に念頭に置いておかなければなりません。すなわち、よく人間であること、とい
理性的人間性に向けて人間を完全化するというこの歴史は、ここでごく簡単に素描したにすぎませんが、次のこ
とを意味します。
間のより深みにある自己(
色 玄
ustopsrga g
g
8
F
g
)﹂と呼ぶことのできる一切を、無視し、排除するというこ
る教育や自己教化は、﹁理性の他者ミ
a
hミqnh守おさ緊急)﹂、すなわち、身体性、感情、つまりニ lチェとともに﹁人
で、特定の可能性を陶冶形成し、完全化する、ということを含んでいます。そうなると、個々人を理性的人聞にす
そのような追求努力は、あらゆる場合に、人間の自己様式化を含んでいます、つまり、別の可能性を犠牲にした上
ちょうどこの例が、特定の理想に向けた人間の完全化を追求する倫理の、もうひとつの弱点をあらわしています。
を要求し、他方、その姉妹はまさに自然に近い有様を保持すべきだとしています。
ます。ルソlは、彼の教育小説である﹃エミl ル﹄において、男子生徒に対しては自然から徐々に解放されること
けられている、ということが付け加わってきます。後者の点については、ルソl の教育学がひとつの例となってい
理想的な人間性の倫理がもっているこうした弱点には、理想は歴史的に変化するし、階層や性差によって条件づ
人は、信用されないし、尊厳を失うし、したがって、動物と見なされてしまうのでも
間性に方向づけることによって、次のような危険性が生じます。つまり、このような理想からずっとかけ離れた個
だベッドの枠組みがそこにあっても、すのこ床が欠けている、といった場合がそれにあたります。倫理を理想的人
このことは、厳密に言えば、悪しきベッドは本来まったくベッドではない、ということを意味します。例えば、た
能な限り理想を達成しようと努める彼の労働によって、程度の差こそあれ善く一個のベッドになるのです。しかし
て説明するならば、ベッドを製作する家具職人は、ベッドの理念へと眼差しを向け、彼の製作中の製品は、彼が可
い、やがては、下等な人間と見なされる可能性がおこってくる、ということです。もう一度プラトン的な例によっ
。
(t50)
とを区別することによって言い表すことができます。人間のひとつの理念に方向を
う言い方は、まさに、理想的な人間性に方向をとって向かっていく、ということを意味しません。この点を、もう
一度、何(宅g
)と知何に
とる倫理は、人聞が真に人間であるためには、人間は本来は何であらねばならないのか、というその何に関わって
います。そこから明瞭な仕方でかけ離れていることは、人間という種に帰属するという意味で人間であることを危
うくします。これに対して私たちにとって問題なのは、個々人が知何にして人間であることを遂行するのか、とい
うその知何に(考古)ということです。その﹁知何に﹂はより良くあったり、より悪しくあったりするかもしれませ
んが、しかし、彼はそのつど人間であり、人間の尊厳の担い手です。最後に本章の終わりにあたってさらに言及し
ておくべきですが、歴史的に見ると、理想的な人間であることは、プラトン的な理念としての﹁人間﹂という意味
で効果を発揮するようになっただけではなくて、カール・ヤスパースが呼んだような﹁模範的な人間音色崎町史町内常
訟)
﹂ということによっても、影響力を持つようになりました。ヤスパ l スがそのように呼ぶのは、他の人々
ミSRS
にとって模範(ぎ号E
)となった人間であり、他の人々は自分たちの倫理と人生行路においてその人間に合わせよ
うとしてきたのであり、模範的な人物にできるだけ似るようになることが、自分たちの倫理だったし、倫理である
わけです。ヤスパースは、ソクラテス、イエス、仏陀、孔子のことを考えています。このように一緒に並べること
は、私にはいささか異様な感じがしますが、しかしやはり、次の限りにおいては明瞭です。すなわち、理想的な人
間性は、個々人にとって、ただプラトン的な理念として思い浮かべられうるばかりではなくて、歴史上の実際の個
別的な人聞によって、パラダイム的に与えられている、ということもありうるわけです。
MEg--ひとつの原・倫理学││
よく人間であること2g玄
町
g田
龍谷哲学論集
第二八号
よく人間であるためには、何を陶治形成しなければならないのだろうか?
と名づけましたが││、その諸性格は、そのつどの文明状況の欠如部分によって認識可能になるでしょう。
同
M
E
a
-。zr巴同)が関わっていますが、しかしまた、
25
は、パトス的なものは抑圧され、排除されます。パトス的なものは、どちかと言えば避けられるべきものと見なさ
苦しみゃ病気であることも関わっています。能動的な活動性に本質的に方向づけられている私たちの文明にあって
域です。つまりそれは、一般的に言えば、受容性︹感受性︺
一人の人聞がうろたえながら自分自身の与えられている限りでの自己をうまく扱う、そういう人間であることの領
よって名指されるのは、能動的な活動性と確固とした決意とによって生きられるのではなくて、むしろそこでは、
私はその第一の例として、パトス的なもの 2 8 3岳
山 RVO)の領域を取りあげます。パトス的なものということに
なくて、むしろ、人間的であることをそのつど生きる、そのあり方、仕方が問題なのだ、ということです。
てまた明らかになってくるのは、よく人間であることという場合には、理想的な人間性の陶冶形成が問題なのでは
史状況および文明状況においてのみ、そのつど答えられうるにすぎません。そうだとすると、そうした答えによっ
それ故、よく人間であるためには、何を陶冶形成しなければならないのか、という問いに対する答えは、実際の歴
z
c
s
g
ω
すでに防止されるでしょう。むしろ、人間であることの基本的な諸性格││私はそれを私の﹃人間学﹄において
か。それに対しては、人間であることに含まれている事柄を、一般的には言うことはできない、といことによって
表象するということに立ち返り、それ伴って、理想的な人間であることの倫理に戻ってしまうのではないでしょう
ます。しかし、人間であることには何が含まれているのでしょうか。このように問うことによって、人間の本質を
よく人間であることというのは、人間であることに含まれていることをよく遂行する、ということを意味してい
四
れます。とりわけ苦しみと病気は、人間であることのあり方とは見なされず、真の人間性を妨害したり制限したり
するものと見なされます。幸福が活動(
一
g
o
a
a
sを意味するものとしたアリストテレスや、﹁活動的生25E
S) ﹂
というタイトルによって人間学の本を出したハンナ・アレントのことを考えてみて下さい。その結果、倫理学はもっ
ばら行為の倫理学と解され、それによって、人がどのように苦しみを経験し、どのようにして病気と共に生きるの
つまり、人間であることが程度の差こそあれ如何にしてよく遂行されるのか、ということは、すっかり無視さ
よく人間であること色EZo
自
の
VEg--ひとつの原・倫理学││
一日にさらされ、
一日がも
いていく (BFBるべきである、という支配的な格率を越えて、人聞は自ら自身に与えられているのだし、自分の身
トス的なものこそが人間的現存在を意味するという自己理解を形成することが重要です。個々人は自分の人生を導
たらすものにさらされている、そういう者として表わしたのでした。こうした強力な伝統に対して、今日再び、パ
それより以前に、ギリシアの叙情詩人たちは、人間を SZ522として、すなわち、
平静さ︹平常心︺(﹀E
RE)、自己統治︹自律︺(﹀ZZコ。ヨ宙)が人間にとっての理想として展開されることになった
﹃
であることを形づくっている、と主張することができるかもしれません。プラトンによって、自立自足 SzgES、
して、むしろ人間の受容性、自分の身がさらされていること合巳5 ﹀5 加
昏包同)が、実存様式という意味で人間
20R
て本来的に人間である、というのではなくて、まさに私たちの文明において能動的活動性が支配的であるのに反対
しかしよりいっそう一般的には、パトス的なものを承認することが重要です。人間は、行為することによって初め
しむことができる、病気であることができる、といった能力を陶冶形成することが重要になるのかもしれません。
したがってそこでまず最初に、苦しみゃ病気の領域を人間的実存に属するものとして承認し、それに応じて、苦
るのだ、ということを見すごしてしまうのです。
癒、救済を探し求めますが、それによって、苦しみゃ病気においても、程度の差こそあれ、人はよく人間でありう
れてしまいます。逃避と排除と克服が、苦しみゃ病気に対する反応です。苦しみと病気に直面して、人は慰め、治
台
、
龍谷哲学論集
第二八号
然から疎外されるのです。これに対して、 ショーペンハウアlおよびニ iチェによる始まりのあと、ようやくこO
るその関わり方によって、自分自身の自然が物体︹肉体︺にされるのです。すなわち、対象化され、自分自身の自
の関わり方、さらにはまた、美容整形とかボディービルディングやジョギング等々といった実践によっても導かれ
は、実銭が問題です。自分自身の自然との関わり方によって、つまり、特に自然科学的な医学によって導かれるそ
るようになっています。しかしながら、そのような理解だけが問題なのではなくて、まさに私たちの文脈にとって
式が支配していることによって、今日ほとんど誰もが、自分において自然であるものを物体︹肉体︺として理解す
的に感じ取ることによって、私たちに与えられているその仕方においてです。技術文明のなかで自然科学の思考様
る限りにおいてです。これに対して、身体が私たちの自然であるのは、それが自己経験によって、すなわち、身体
る経験
与 也を介して、すなわち、とりわけ自然科学および医学のアプローチの仕方によって、経験す
QE含﹃g
て規定されています。つまり、物体︹肉体︺が私たちの自然であるのは、私たちがその自然については、他者によ
うほどにまで、退いてしまっています。この場合、物体︹肉体︺と身体との区別は、私たちの自然の経験様式によっ
ました。これに対して身体 (F巴S は、背後に退いてしまい、しかも、今日、新たに身体の発見が重要である、とい
てくるものです。デカルト以来、人間は次第しだいに強く物体︹肉体︺(問。弓ぬるとして理解されるようになってき
第二番目の例は、人間の自己理解の歴史から導きだされるものではなくて、むしろ技術文明の枠組み条件から出
学︺(﹀ ω昏
25は、そのための実践的練習の本来の分野です。
色芯
035各官加g号号室号﹃向島Egosを取り戻す、といった能力が陶冶形成されねばならないでしょう。感性学︹美
生じさせる念。F
ogssaoR各自ロNEggs、あるいはよりよくは、身の上に生じることに対して開放的であること
の上に己の存在が生じるのだ、ということを強調することが重要です。それに応じて、何ごとかを自分の身の上に
四
世紀に、とりわけ現象学の研究によって、身体は一歩一歩と再び発見されるようになってきました。この場合にも、
たださまざまな洞察が問題なのではなくて、実践が問題です。それどころかむしろ、この間に現象学が人間の身体
について教えていることを共に遂行するためには、身体実践に習熟していかなければならないでしょう。この点に
関しては、平均的に人間であることは、われわれの技術文明のなかでは、よく人間であることではない、というこ
とを示す、はっきりとした例があります。確かに身体が完全に排除されることはありません。しかし、身体によっ
て感じ取られることは、押さえつけられ抑圧されるか、それとも、物体︹肉体︺の出来事の徴候を確定することへ
と外面化されてしまいます。
身体的実存様式に習熟していくならば、すなわち、身体的に感じ取ることに対して敏感になるならば、そのことは、
外的自然の知覚や、芸術の経験にも影響を及ぼすでしょう。中心的な事柄は、身体的に現存していること (
o
g
o
z
28宮宮)を真剣に受けとめることであり、次には、そもそも、身体的に現存していることを経験することです。
﹀回当
そうすれば、身体的な健康状態を通じて、どのようなあり方の空間内に居るのかを、感じ取ることができるでしょ
う。このような場合、人は他の人たちとの身体的なコミュニケーションに対して再び敏感になるでしょう。そうし
た身体的なコミュニケーションは、決して完全には抑圧されえはしませんが、しかし、技術文明においては、人聞
がどれ程一つの空間のなかで二つの木片のようでありうるかということは、驚くべきほどです。このことは勿論、
性的交わりの実践に影響を与え、その実践は、互いを外面的に扱い処理するようなものになってしまいます。つま
り、よく人間であるのではないのです。
最後に、身体的に感じ取ることを排除したり、抑圧したりすることによって、芸術批評や解釈学や芸術史にまで
退化してしまう、そういう芸術経験を取りあげることができます。その場合、芸術についてたくさんのことが互い
に伝達されますが、芸術作品にあたって経験がなされることはないのです。そうした経験をないがしろにすること
VEg--ひとつの原・倫理学││
よく人間であることSE玄o
自
の
五
第二八号
/、
わば人格の乗り物のように理解されるにすぎないでしょう。つまり、そうした実践においては、人は
︹
思
練 習 は 、 そ う し た こ と を 学 び 取 る 練 習 で す が 、 イ ン グ リ ッ ド ・ モlザl(同ロ包斗玄22)によって教示される感情移
その自然から引き裂かれる、とかいったことを全然意味しません。確かに、多くの膜想実践に見いだされる呼吸の
らが自然であるとしても、この自然をいわば内側から生きているとか、その自然と共に歩んでいるとか、もしくは、
考するモノ︺の図式のなかを動いている、と言うことができるかもしれません。しかしこのことはおよそ、みずか
ω
g
58也
それにふさわしく思われるものが、処方されます。しかしその場合、この自然のもの、つまり物体︹肉体︺は、い
う。健全である有機体︹生命体︺、あるいは不健全である有機体︹生命体︺に、有益なもの、よい作用を与えるもの、
ならば、そうした要求は一般的には健康法︹衛生学︺とか食餌療法︹栄養学︺といった概念に組み込まれうるでしょ
体︹生命体︺である、という意味で理解されます。その場合に、よき実践へのさまざまな要求が掲げられるとする
から理解されます。つまり、私たちが産み落とされ、死んでゆき、その聞に栄養摂取に頼っている、そういう有機
のは、余計なことに見えます。私たち自身が自然である、ということをごく普通に認める場合、通常、自然は外部
れますから、そこにおいて、習熟することが必要であり、自然へと自分を深く関わらせていくことが必要だという
いだされたりしなければなりません。私たち自身が自然であるということは、極めて平凡な事実であるように思わ
できますーーしかし、すでに述べましたように、このように自己であることは、まずもって開発されたり、再び見
関 わ っ て い ま す 。 身 体 は 、 私 た ち 自 身 が そ れ で あ る と こ ろ の 自 然2
5zaR色。三20-ZZ吉弘)、というように定義
終わりに第三番目の例ですが、これは、直接、身体でありうること、つまり、自然であること、というテl マに
レl ションにとっては、重大な事柄となります。
は、とりわけ現代芸術のある領域にあっては、つまり、まさに身体的に現存することへの参加を要求するインスタ
龍谷哲学論集
ー
.
.
.
.
.
.
入の練習い別、同様です。そのようにして獲得される、自然であることの自己経験は、外的な自然に対する私たちの
関係にとっても影響作用を及ぼしうるでしょう。外的な自然においては、事実、私たちはよそ者︹門外漢︺のよう
に振る舞い、そこにおいては、﹁コウモリであるとはどういうことか﹂を大抵の観点で私たちは十分に知っている、
ということが見落とされるのです。
最悪なのは、自己固有の自然が異他的︹疎遠︺なものになってしまうことによって、自己固有な自然に対する信
頼もなくなってしまった、という場合です。睡眠、消化、性的交わり、といった私たちの自然な遂行との関わりが
問題と化してしうと、私たちは、つまり現代人は、ここでは外部から操作的に干渉を受ける、というように自分が
動かされていると感じるのです。その理由は、私たちが自己固有の自然との関わりに習熟していないので、その自
然の内にある潜在的な力を汲み出すことができない、という点にあります。この場合にも、そのための前提は、パ
トス的な実存様式を受け容れること、もしくは、私たちの身に降りかかって起こってくることと自覚的に関わり交
わる技術︹技巧︺でしょう。そこでは、身をゆだねる技術守50同52ι2 担。E88ロるといったものが求められね
ばならないのかもしれません。一般的に言えば、現在の既存の条件のもとでは、自然としての人聞は、よく人間で
あるわけではない、ということです。すなわち、人聞が経験する自己固有の自然が、自分にとっては抑圧されてお
り、どうしてよいのかわからなくなっていて、 かえって一個の邪魔物であるのです。 したがって、自己固有の自然
を改良しようと目論むのは、決して不思議なことではありません。
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よく人間であること
七
龍谷哲学論集
第二八号
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八
いうことが問題になっている、ということです。それ故、そうした企ての全体は、極めて個別主義的であり、﹁一
はすなわち、人間の改良が問題になっていのではなくて、人間であることの個々の次元に関して個人を高める、と
要性に従ったり、ついには、美容整形などですでに経験されているように、単純に流行に従うでしょう。そのこと
が何に向かってなのかということは、部分的には個人の願望に従うでしょうが、それ以上に、職業やスポーツの必
ならば、如何なる人聞が改良されるべきであり、何に向かって改良されるべきだというのでしょうか。勿論、改良
るということを度外視して言えば、テクノロジーと医学による人間改良の全プログラムは、間違っています。何故
また、進歩のコストはしばしば進歩の効用を上回る、ということです。しかし、このような歴史のことを忘れてい
えていることは、人間の生︹生活︺が改良されるのではなくて、別のものになってしまった、ということであり、
よって改良されるとするベーコン的プログラムに関して十分経験を積んできたからです。その経験が全体として教
しくグロテスクな感じを抱かせます。というのも、私たちは結局、人間および社会の諸関係が科学と技術の進歩に
め、やる気と積極性を改善し、ついには幸福感を保証したりもします。歴史的に見れば、このような約束は、まさ
れから勿論、向精神薬があります。これは、そのつど適合的な気分や体勢を生み出すことによって、作業能力を高
高めたり、集中力、学習速度、記憶の増大といったものを高めたりする手段を約束している、ということです。そ
ものにまで高めることができる、と信じています。医学の領域でこれに対応するのは、製薬産業が脳の作業能力を
︹インプラント︺されたりする技術的装置によって、私たちは、自分の作業能力をびっくりするくらい素晴らしい
達には、こうした多幸症がつきまとっています。ますますたくさん身体にあてがわれたり、それどころか体内移植
今日、人間を改良することに陶酔感を抱く一種の多幸症が激しさを増しています。テクロノジlおよび医学の発
五
次元的人間﹂ の更なるプログラムであることが判明します。
さらにいっそうひどいのは、例えばドlピングの場合のように、 いわゆる人間の改良が、通常は一定の次元にお
いて、すでに自身の努力で一定程度頂点に達してしまったような人によって求められるのではなくて、部分的に障
碍をもった、不全な人によって求められる場合です。自己開化の道をまずもってまったく歩むことができないとか、
それをまったく知らないといった人か、あるいは、自己の生命状態によって、自己の作業能力もしくは受容性︹感
受性︺の点で制限されている人の場合です。したがって、人間の改良のための手段は、時として、治療として提供
されますし、あるいは、治療という隠れ蓑のもとで提供されたりもします。その基本的な例は、集中カの弱さを治
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から、﹁ノーマル﹂な人によっても能力増強のために使用されるようになっています。ところが、そうしたノl マ
ルな人にとっては、さらには、 いま述べたような弱さをもった人々の集団にとってはなおのこと、そうした弱さを
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ω旨Eiogロ偶)によって克服する、といったようなことがまず試みられる、ということはまったくない、
と言えます。この場合、例えば集中力が弱いということに対して、膜想の訓練をすることは問題にならないでしょ
うし、ポテンツが弱いということに対して、性的な関わり方を変えるとか、あるいは、性的な環境を変えるとかいっ
たことは問題にならないのでしょう。
人間の知覚を技術的に拡大することとして推賞される一切、気分を晴れやかにしたり、能力を増強したりする神
経エンハンスメントに相当する一切は、人間の改良ということからは遠く隔たっています。むしろここで扱われて
いるのは、修復処置であり、人間的能力の補充であり、人間の科学技術的な禁治産宣告です。それは、超人として
そこで自らを呈示したいと思っている﹁おしまいの人間︹末人︺﹂ です。こうした人間改良の名宛て人は、すでに
損傷された人、 つまり自己開化や自己配慮をまったく知らないか、あるいは、カントがすでに人間について自らに
よく人間であること (CS玄gEF8g││ひとつの原・倫理学││
九
第二八号
四
例えば、考えることができる、ということが問題です。この場合、考えることができるということは、本質的に、
人間改良の提案に直面して間接的に選び出されてきたいくつかの例を、取りあげることにしましょう。
と、そして、人間であることのなかに存している諸可能性を発展させることが、問題でなければならないでしょう。
していくことが問題でなければならないし、人間であることに何が含まれているのかを探り出してそれを生きるこ
としても、少なくとも余りにも時期尚早です。可能なあらゆる人間改良に先立って、人間であることにうまく順応
ということです。このように見ると、人間改良というプログラムは、その目標の不釣り合いぶりを完全に無視する
しているし、とりわけ、よく人間であることは練習︹訓練︺を必要としている、ということを認識してきはしなかった、
的な人聞は、どうにかこうにか人間なのであり、人間であることとは何を意味するのかという聞いをほとんど回避
何を意味するのか、ということを深く省察すれば、次のことがわかるでしょう。すなわち、技術文明のなかの平均
人がまったく無思慮に方向づけられているということにある、と見ることができるでしょう。人間であることとは
自己理解にあるし、また、私たちの技術文明のなかにあっては、消費の増大と同様に、技術開発の進歩の点で、個々
いない、そういう状況においては、まさにバカげた感じを与えます。その理由はただ、人間の機能主義的な平均的
人聞がまだまったく己自身に受け入れられていないし、ましてや、自らの内にある諸々の可能性を汲み尽くしては
で強調して人間の改良について語ることは、 いくらかバカげた感じを与えます。まさに今日、そうなのであって、
人聞を改良することが問題なのではなく、そもそもまずもって人間であることが問題なのです。このような仕方
たい何のために人間を改良するのでしょうか。
責任のある未成年性を確認したよう匂﹁自分自身で努力する﹂には余りに怠惰な人です。けれども、そもそもいつ
龍谷哲学論集
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論理学と情報処理に懸かっている、もしくは、そこにおいて成り立っている、という先入観が支配しています。そ
して実際、考えることの可能性は、機械によって、もしくは、人間を機械と結合することによって、高めることが
できるでしょう。けれども、何も思いつかないときには、何も考えることはできません。まさに生産的思考という
のは、自己の無意識的な源泉に依拠していますし、すでにニ lチェが強調したように、自己のカオス︹混沌︺に依
拠しているのです。この場合に陶冶形成されなければならないのは、またしても、身をゆだねる、自身を聞いてお
く、そして、パトス的な振舞様式と関わる、ということです。
次の例は、夢みることができる、ということです。この場合にも、幻覚剤的な薬物、さらにまたパーティー・ドラッ
グとか、一般的には、向精神薬が、人間の表象カを促進し、内容的に高め、多面化することを約束します。けれども、
そのようなものなしに対応した練習や心がけによってイメージ生産の内的機構、あるいは伝統的に言えば、生産的
構想カといったものを、発展させることはできないと、いったい誰が言うのでしょうか。そのような能力は、実際、
幻覚剤的な薬物によっても、天から降ってくるわけではなくて、むしろ個々人において展開されるのです。単純な
例を取りあげてみましょう。いったい誰が何の準備もなく即席で物語りを語ることができたり、架空の幻想的な像
を描くことができたりするでしょうか。こうした場合にもまた、人間改良の提案が実際には貧しい人々に向けられ
るのが、わかるでしょう。向精神薬や気分を高めるものが手段方法となる事柄は、対応する態度や練習によって個
人が自分で呼び起こすことができる、ということであってもよいでしょう。例えば、膜想によって人が自らのうち
に幸福感を高めることができるということが、よく知られているのです。
次の例として、知覚の可能性の改良を取りあげましょう。この場合には私たちは、人間の能力の技術的改良に関
する最も古いモデルに直面します。確かに、メガネや顕微鏡や望遠鏡に反対して言うことは何もありません。たと
え、習慣的にメガネを使用することが、焦点を合わせたり、順応したりする眼の能力を弱めるとしても、そうです。
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龍谷哲学論集
第二八号
現存在として歓迎し、生きる、ということです。私たちはさらに、現在に存在する︹居あわせる︺ということe
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として経験されうるということを意味しているでしょう。つまり、いわゆる無常性を人間のはかない︹一日だけの︺
るということは、﹁老いること﹂が、もはや諸可能性の喪失とか消滅として経験されうるのではなくて、変転(者
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としても生きるということ、そういう努力をすることは、ほとんど重要ではないのです。時間的な実存として生き
す。別の場合にそうであるように、ここにおいても、よく人間であること、すなわち、人間的実存を時間的なもの
別の言い方をすれば、自己固有の実存の時間性が、ただ否定的に、時間の浪費や無常性としてだけ経験されるので
の厳密な調整のなかに繋ぎ止められている人聞からは、自己自身の実存の時間性が抜け落ちていきます。あるいは、
は、人間の諸活動を世界規模で調整し、組織化することをもたらしてきました。しかしながら、こうした期日時間
ワーク化によって、時刻︹時点︺の確定および時間︹持続︺の測定の素晴らしい器具が確立されてきました。それ
最後の例として、時間の経験もしくは人間の時間的現存在を取りあげましょう。この場合、時計と時計のネット
験にとっては適合的なのです。
ケが﹃疲れについての試論﹄で明らかにしたように、多くの場合、まさにはっきり見えない眼差しが美的感性的経
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て、当該の人からは、雰囲気的なものの知覚が抜け落ちていってしまいます。そのうえさらに、べ lタl ・ハント
きり見えるということに集中するのは、人間の知覚能力を対象や信号へと一面化することであり、そのことによっ
それが一次元的に構想されており、特に、はっきり見えるということの改良として構想されていることです。はっ
く発達させないでしょう。人間の知覚能力のこの技術的改良に関してとりわけ異議をとなえなければならないのは、
この機器は、長い目で見れば、人間の空間的な方向認識の能力を弱めるでしょうし、あるいは、その能力をまった
しかし今日、私たちは、例えばすでに触れたナピゲ!ションの機器のような、まったく別の事例と関わっています。
四
間的な存在者として把握し、自覚的に生きること、を学ぶことができるのです。人間とは、いま全体として実存し
ている、と場合によっては言えるような、そういうものではありません。むしろ人間であることとは、時間に延び
広がっていくことであり、 ひとつのメロディーのように、展開してゆき、過ぎ去ってゆくことです。けれども、そ
のような人間の時間的な実存に順応し精通することは、容易なことではありません。とりわけ、そうした実存が、
一個の課題なのです。
時間を点の系列や出来事の系列とする私たちの表象によって、ふさがれてしまうのですから、なおさら容易ではあ
りません。ここでもまた、次のことが重要になります。すなわち、
よく人間であることは、おのずから生じてくることではなくて、それは、
(ダルムシュタット工科大学名誉教授)
こ の 点 は と り わ け 障 碍 者 た ち に と っ て 重 要 で あ る 。 障 碍 者 た ち の 人 間 で あ る こ と と 人 間 の 尊 厳 は 、 彼 ら / 彼K らが具えているもの
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ために功績を果たす、という意味である。ソクラテスは彼に答えて言う、市民たちのことを気にかけるよりも前に、自分自身のこと
の所にやってきて、よき市民であるよう支援してほしいと頼む。しかも、よき市民であることとは、自分の仲間の市民たちと国家の
ここにも一つのアナロジーがある。すなわち、プラトンの対話篇﹃アルキピアデス I
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こ れ に つ い て は 拙 論 を 参 照 願 い た い 。 ロ ぬ こ 冊 目 。 玄ognvωzor582FE--g也
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の完全性に懸かっているわけではない。とりわけ、理性能力があるか否かに懸かっているわけではない。
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龍谷哲学論集
第二八号
四六
一九三七年生まれのべ l メ氏は、ゲッテインゲン大学、ハンブルク大学で数学、物理学、哲学を学び、物理学者・
一九七O年から七七年までシュ
哲学者として著名なカi ル・フリlドリヒ・フォン・ヴァイツゼッカl のもとで学位を得、 一九六六年から六九年
まではハイデルベルク大学の神学者・哲学者であるゲオルク・ピヒトの助手を務め、
タールンベルクのマックス・ブランク研究所(﹁科学的技術的世界の生活条件研究のためのマックス・ブランク研
究所﹂)の研究員だった。七七年以後、ダルムシュタット工科大学の哲学教授であり、二O O二年に同大学を定年
退職された。現代ドイツを代表する哲学者の一人と言えるべ lメ氏は、二O O五年、ダルムシュタット市に社団法
人・哲学実践研究所(宮怠E B﹃甲良町色23=08喜
一0
)を設立され、現在、同研究所の所長として、市民とともに哲
学すること、哲学を実践するということを試みておられる。
べ!メ氏にはすでに三回、一九九六年一 O月、二O O三年一 O月、二O 一一年一一月に、龍谷大学で講演をして
いただいている。その三つの講演﹁哲学することの三つのあり方﹂、﹁身体的実存の倫理││鍛錬術と修辞術との問
の道徳﹂、﹁﹃ドイツの不安﹄、それとも﹃ドイツの奇蹟﹄?││フクシマとドイツにおけるその帰結││﹂は、い
ずれも私の翻訳で﹃龍谷哲学論集﹄第一一号、第一八号、第二六号に掲載されているので、参照願いたい。それら
の翻訳にべ lメ氏についての紹介も付記したが、いくらか反復しつつ、改めて紹介しておきたい。
べlメ氏を一躍有名にしたのは、マックス・ブランク研究所時代の﹁目的内在化論争﹂である。これについては
丸山が﹁科学の相対化と方向づけ││科学批判の一視座││﹂(﹃龍谷大学論集﹄第四二四号、一九八四年五月)に
おいて論じたのでそれを参照していただきたいし、問題となったベ lメ氏とその共同研究者たちとの共著論文﹁科
一九九六年七月
学の目的内在化﹂の翻訳紹介とその訳者解説﹁ポストパラダイム科学の分析視座﹂(﹃現代思想﹄一九八五年七月号)
も参照願いたい。この翻訳紹介の仕事を通じて私はベ lメ氏と文通による交際を開始したのだが、
から三ヶ月間ダルムシュタット工科大学に客員研究員として滞在し、べ lメ氏と直接お会いすることができた。そ
の縁で龍大での最初の特別講演の機会も得た。ともかく、べ l メ 氏 は 、 ま ず 科 学 哲 学 の 分 野 で 著 名 と な っ た の で あ
る。べ l メ氏の意図は、近代科学の生成とその後の歴史的展開および現代の趨勢を追跡することによって、科学が
たどってきた実際の歩みとは別の可能性をその都度明らかにすることによって、近代科学を相対化することにあっ
た。科学論における外在主義と内在主義の二元論を克服することと、トl マス・クl ンによって提起されながらも
実質的分析からは放置されていた﹁ノーマル・サイエンス﹂の具体的分析を遂行することとが、﹁目的内在化テーゼ﹂
の眼目だった。したがって科学哲学といっても科学の内在的な論理を解明できるとするものではなくて、科学社会
学との密接な関係を維持しながら、制度論的な批判を含むと同時に、絶えず別の可能性を解明しようとする﹁科学
一九八三年にドイツ文学研究者で弟のハルトム!ト・ベ l メ氏と共
批判﹂だった。その背景にあったのは、一九六0年代終わりの大学の意味の問いかけと科学批判だった。
ついでベ l メ氏をいっそう著名にしたのは、
ミq待、芯ミミきである。ここでは、啓蒙の完成者としてのカントを例にとって、
同で著した﹃理性の他者﹄ (bah
社会史的・精神分析的に近代理性の構造の生成史が追跡される。カントの批判哲学は理性の境界設定の企てと見な
されるが、境界設定とは、実は理性がみずからを脅かす他者から離れて安全地帯に逃げ込み、みずからを囲うこと
によって他者を排除する運動である。つまり理性はおのれの他者なしには存在せず、機能的に見れば、この他者に
よってこそ必要とされる。このような理性の他者とは、理性から見れば非理性的・非合理的なものであり、自然、
身体、空想、欲望、感情、無意識など、理性が同化しえなかったものの一切である。近代理性の形成とは、限界を
規定し、選別し、再編成する﹁同化と排除の弁証法﹂のプロセスに他ならない.啓蒙と共に、理性から排除される
ものの一切は非合理なものとなる。べ l メ 氏 は こ こ か ら さ ら に 、 理 性 に よ る 他 者 の ﹁ 支 配 ﹂ で は な く て 、 他 者 と の
別なる関わりの可能性を模索しようと試みるのである。ベ l メ兄弟のこの著作は、ドイツにおけるポストモダンの
四
議論の代表的なものとしてハ lバl マスが﹃近代の哲学的ディスクルス﹄(邦訳、岩波書庖) の中で取り上げたこ
よく人間であること色gzgR
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内 g││ひとつの原・倫理学││
七
龍谷哲学論集
第二八号
とによって、さらに有名になった。
四
メ氏は、西洋における﹁意識﹂ の哲学的な概念においては、第一に﹁反省﹂(問。由。巴o
ロ)としての意識の形式が優位
gSEagpsg(意識の諸形式)と題されている。ベー
回、真新しい新刊本をいただくことができた。その本は、回o
前回来日されたとき、ベ lメ氏はすでに﹁意識﹂について新しい本を書きつつあることを話して下さったが、今
を考えておられる。
度か登場するが、この原語は玄
astg であり、ベ lメ氏は玄aEESということで第一義的には座禅による﹁膜想﹂
かは、今回の講演を通していくらか窺うことができるだろう。すなわち、本講演の中に、﹁膜想﹂という言葉が何
中、やはり早朝から大徳寺に毎日通われた。この大徳寺での参禅経験がべ lメ氏にどのような影響を与えているの
稿を用意され、広島(広島大学)と京都(龍谷大学)で講演された.今回の日本滞在は二週間だけだったが‘滞在
徳寺での禅修行にあてられるために来日し、同時に﹁フクシマ﹂について日本の人々と議論したいということで原
二O O三年に来日されたとき、大徳寺で禅の修行を開始されたのだが、ニO 一一年の時も、一一月の一ヶ月を大
あげてこられた。
マと並行して、ベ l メ氏はまたプラトン研究およびカント研究の面でも重要な仕事をされ、多方面に優れた業績を
自然哲学および自然美学の新たな可能性が同時に追求されているのである。自然美学や雰囲気の美学といったテー
ずれも自然と人間との関係についての分析であり、近代科学とは別の対自然関係の可能性の分析であって、そこに
ゲl テをしばしば論じてきたし、﹁身体﹂および﹁雰囲気﹂を鍵概念とする議論を展開してきでいる。これらはい
ツの身体性の現象学がゲl テやクラlゲスに多くを負っているように、べ l メ氏もこれまで色彩論を中心として
は現代ドイツの孤高の現象学者ヘルマン・シュミッツを高く評価し、シュミッツと親しい関係にあるが、シュミツ
ベiメ氏のこれまでの研究は、科学批判から出発して、自然哲学さらには自然美学に移行していった。べ 1 メ氏
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を占めており、第二に、意識は﹁志向的﹂ (
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) でなければならない、という理論的見方が強いことを指摘し、
一方でこうした伝統の系譜をソクラテスまでたどりながらカントとフッサl ルを論じ、他方では、 アウグステイヌ
ス、ルソl、キェルケゴ!ル、サルトルといった哲学者たちばかりか、ナタリl ・サロ lトや夏目激石などの文学
作品を分析して、意識には実は種々様々なタイプがあることを明らかにされている。そして、西洋の伝統的に優位
な﹁意識形式﹂を相対化する経験として、ベ l メ氏は、はっきりと禅の膜想実践を対置されるのである。ただし、
本書の最終章が﹁神秘主義と非二元性︹不二︺﹂(玄
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cと題されているように、ベ iメ氏は禅と
類似の経験や実践が西洋の伝統のなかにもあることを論じてもおられる。われわれは﹁意識﹂そのものについて端
的に語ることはできないのであって、むしろ、多様な意識の諸形式が存在するのであり、しかもその多様性は、文
化の異なりに左右されながら、この世界の内に異なった仕方で配分されている、というのが本書の基本テlゼであ
る。批判的な背景として座禅による膜想実践が対置されていると同時に、分析哲学系の﹁心の哲学﹂(司EE8
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冨宮島)および神経生理学を基盤とする自然主義が批判対象として意識されている。また、べ lメ氏の論述のスタイ
ルそのものが、読者に様々な形式の意識のありょうを実体験することへと誘うようなものになっていることも興味
深い。意識の諸現象は、物のように現れるわけではなく、個々人の諸経験として与えられる他ない。したがって、
多様な意識の諸形式を知るためには、それらを経験するための練習とか、訓練とかいったことが必要にもなる。そ
うした実践そのものを本書が与えることはできないが、そのような実践を指示し、きっかけを与えることはできる
だろう、というのが、本書でのベ l メ氏の主張である。
自意識の過剰さや自己アイデンティティ意識への異常なまでの執着は、対象意識への固執とともに、現代人の病
の
可
理的な諸現象と深く結びついているだろう。今回の講演において、科学技術文明と成果重視の業績社会という現代
四
社会の状況のなかでの人間のあり方が批判されているのも、同じ議論の方向にある。﹁よく人間であること﹂
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べl メ他﹁科学の目的内在化﹂(丸山徳次訳・解説)、﹃現代思想﹄ 一九八五年七月号、べ lメ編﹃われわれは ﹁自然﹂
をどう考えてきたか﹄(伊坂・長島監訳、どうぶつ社、一九八九年)、﹁自然の現象学﹂﹃新現象学﹄(小川・梶谷編、
世界書院、一九九九年)、﹃感覚学としての美学﹄(井村・阿部訳、勤草書房、ニO O五年)、﹃雰囲気の美学││新
しい現象学の挑戦﹄(梶谷・野村訳、晃洋書房、二O O六年)
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