Hosei University Repository ー忌与a ) 1 1 屯 八 男 山本秀燈著﹁問教史談﹂六五八年洛陽堂発行 註(l﹀ 明治十一年六政官級訳﹁ 日本西教 史﹂上・下 年太陽堂発行 犬芭十五 h お家騒動、つまり二橋崩の変を考察するととによって、義鎮研究 の出発点とする次第である。 かかる時代に西国九州の一角に勢力を維持せる戦国大名として 研究対象に採り上げたのであるが、ととに家管相続を鶴つての、 の禁令が出された時に相当し、また室町幕府末期より、信長の出 現、秀吉の九州征伐と、波乱に満ちた時代である。 五八七)死去するまでの時代は、丁度キリスト教が伝来し、秀吉 天文十九年(一五五O ) 交義鑑の跡を継いで、夫正+三年(一 録文書の中に 、キ Dシタシ大名という言葉が見出されたとしても 、 一側面を一示ずに過ぎないことになる。 もキ Dシタ γ大名 といかだしたのは、シュタイシ y y師ではなか ったらうか。・::﹂と述べられている次第で、もし日本の古い記 大 友 義 鎮 ( 宗 麟 ) 研 究 覚 書 ーー 二三己 戦国大名への契機とL てのこ檎崩の変 ー 従来義鎮の名は、史上キリシタジ大名として有名であり 、この 面からの研究は幾っか見る事が出来る。ハ 1)また一般の概説警に 於ても、右の面から出ていない現状である。とはいえ戦後封建論 争の発展に伴ない、伊東多三郎氏も守護大名という角度から大友 J 民を取り扱っておられる。 (2u 右の点から、義鎮を見る場合、先ずキり シタソ大名のわくを外 して、再吟味すべきであると考えるのである。 このことは、吉田小五郎氏がすでに、その著﹁キ Dシタシ大名﹂ 製部)の巻頭において、﹁キ日シタシ大名、今は何でもな (3)( く、との言葉をつかつてゐるが、果して普から日本にあった言葉 であらうか。・・:まだ日本の旧い記録文書の中に、この一言葉を見 H O E 出さない。確かに目。包問。岳江田S0 m ・ ω巴四回開口円円げ忠良 語、 といふ 言葉はでてくる。とれを使って心に くく 。げ江田注目ロ dト シュ♂イシエン著吉田小五郎訳﹁切支丹大名記﹂昭和五年 犬同書底発行 姉 崎 E治著﹁切支丹伝道の問中、廃﹂昭和主年同文館発行 (2﹀史学会第四十七回大会に於ける、﹁守護大名の一研究﹂ 吉田小五郎著﹁キ D シ担ン大名﹂昭和二十九年至文堂発 と題しての伊東多三郎氏の発表、同大会プログラム参照 行 (3) O ﹁大友史料﹂所載、別記録によってみれ 治豊後) 石ユ至 λ。入田丹後守親誠、初ヨリ窪家-一頼マレテ、塩市丸 ヲ馳走セシ問、此時謀叛露顕ス。義鎮、立石一一於テ、戸次侶 警守鑑速、斎藤兵部少輔鎮実一一仰子、入回ヲ談セシム。入回、 府内ヲ出発シテ、肥後国へ到テ、男阿蘇惟豊ヲ頼ム。惟豊、 其暴逆ヲ悪テ、入国ヲ討一ア、首ヲ義鎮一一献ス。於 貝 V 定、国中 一 (IU 静諮ス。義鎮ハ二月廿日=館-一入テ続 -家 Z督 という次第で、との変の発端は、入国親誠が﹁室家一一頼マレテ﹂ の謀叛となるのである。 2)と v あり、右の経緯を また豊後国志によれば、﹁末子八郎が母義鑑に寵せらる故に入 回民を頼みて義鎮を廃せむととを謀る﹂ハ 裏づけているのである。 なお右同室田中の﹁大臣斎藤矯磨守、小佐井大和、津久見美作、 、、、、、、 田口玄蕃﹂(ろと述ぺられている大臣は、たいしんであり、天草 郡史料︹ 4u の﹁義援の執事斎藤搭磨守:::﹂という記述により執 事の地位にあって、義鑑家臣団の重要メソメ ーであると とが分る。 入国民も﹁入田丹後守親真再三談申﹂ハ 5﹀す地位にあったので 斯様にして、要するに二機崩の変は末子八郎の母の嫉妬、入国 T 田口蔵人佐ヲ招キテ目、義鎮ヲ廃シテ塩市丸ヲ家管トスヘキ J ある。 J 小佐井ヲ談ス。津久見、田口、謀叛シテ、館ノ裏ノ門ヨリ 欠 2 ︿ ﹀ (1) O頁 別 記 録 一 伊藤常足続録 、日本隆史地理学会発行ニ ﹁太宰管内志﹂中 回北 宇田掬﹁大女史料﹂ 第 一 幹 二 九 ! しからばその利害関係の背後には、いかなる事情が見られるで あらうか、先づ入田氏についてみよう。 の野心が利害関係の一致を見て生じた事件というととになる。 入、至-一 二措間 塩 A 市丸ヲ津久見害ス。室ヲハ、田口害シ、息 女二人、其外侍女数章切殺シ、桐ノ閲へ切テ出ッ。義鑑、抜 二打刀一立向フ。津久見打ムロセテ、義鐙ヲ庇ツグ。近習ノ輩、 註 4 顎乏二橋崩↓国中サウ動ス。義鎮、於 示脇一間 ν 之-ァ、立 津久見、田口を討留暴。義鑑ハ被一説手一明後日天文十九年庚 成二月十二日、逝去也。 九 ( 駆 由ト云々。四人ノ者、不 ν 肯ジテ退グ。義鑑、怒 ν 之一ア、斎藤、 或時、嫡男五郎、為=湯O 一 OO国別府浜脇ト一一台所へ赴グ 守) F 其留主ニ、義鑑、斎藤擦磨守、小佐井大和、津久見美作守、 ( 義銭 叫 ( 義鐙子息三人ア D。一一一男塩市丸ヲ甚愛ス。 ご措崩の変の 経過を、 ば 、 Hosei University Repository Hosei University Repository 同右 件甘所設、豊後国土ω上、三O 頁 (3) 長 一一 (1) によれば 、入 国は、直入郡入国郷矢原村に津賀牟 大分県郷土史料集成上巻所載、﹁大友興廃記﹂各第二七 (4﹀ 天 草 郡教育会編﹁天草郡史料﹂所載、九州記袋三 (5) 豊後国志 礼城を有していた。入田氏は、大友家第四代親時の子秀直を以て 祖としており、 (2v入回荘を支配するに至り、所霧、同紋衆に属 するわけである。南北朝動乱期にあっては、南朝方に加わり、宗 家と対立するに至っている。 一方大友氏は、﹁尊氏の晩年に当り、九州にては菊池氏の軍大 に接 ひ、大友・少弐二氏の如きも一時宮方と成りしかば、尊氏は 親 ら出でて之を征せんとせしが、偶々病に擦りて 亮去せ り、さて 義詮之に継いで立ち、如何なる方略を取りしかといふに、先づ大 友・少弐の二氏を誘ひしと見え、正平十四年に至りて、二氏共に U (5) ) と v あり、菊池の勢力に当るに、阿蘇民を以て前哨線としてい 阿蘇東殿 (惟村) 一一月十五日氏時︿花押 戸北朝康安二年カ 肥後国守護職事 、臨 拝領候、挙違京都候畢、初安申候 、可令 致軍念給候、恐々謹一言 それのみか、 光同庶氏跡調耕一富庄を 阿蘇東に去与えているのである。 ︿品作)(俄村) との問、大友民は正平十七年、日回出羽次郎同庶子跡、菊池武 幕府は更に渋川義行を探題として下向させたが、菊池に対抗し 得ず、遂に長門に引上げた。 げた。ハ 4u 軍が強く、屡々少弐・大友二民の軍を被った。 十八年、大内弘世が、足利民に応ずるに及んで、鎮西の北朝方 の勢力は一時増大した、それでも菊池の勢力は俄然優勢であった。 為に氏経は 、菊池に対抗し得ず、同年五 月遂に 周防の国府 へ引k 十六年六月、氏経は任に就くため九州に赴いたが、菊地武光の 四 に傾けり、而して阿蘇氏の向背は菊池民の盛衰に大関係あれば、 かくは鍵方互に力を極めて之を誘っていたのである。︹ 7) 一方入国氏は、先に述ぺた如く、南朝方に加わっていたのであ 。 。 マ 右の点から見来って 、入田民は、南北朝時代既に大友家の同紋 るに、菊池氏の軍は益々強盛であり、肥前に打入りて殆ど勢力嵐 広 した。 とし、三月に、書を大友氏に与え、民経援助の旨を依頼した。然 u 護職を授け て 、 其路心を ﹂収めているのである。ハs 翌十五年 、義詮は鎮西探題 として斯波民経を九 州に派遣 しよう 。 。 句 当時﹁阿蘇民は二つに介れ、機武は宮方に傾き、惟村は武家方 叉足利方と﹂なり、正平十四年八月﹁義詮は大友氏時に肥後国守 0 Hosei University Repository 衆ではありながら、西岡氏の一玄われる、 ハ8﹀兵一彦、来分化な、豊一後 地方山間部に見られる名子主と名子によって構造されている下部 構造の上に乗るととろの、在地土豪的性格を多分に有する段階に いましばらく、ご櫓崩の変の解釈には迂遠の様であるが、少し あり、それが南北朝動乱を契機に 、頭角をあらわさんとしたが、 結局失敗に終 ったと いう経、過が想察されるのである。 さらに観点をかえれば、肥後守との国境における安定資が、とれ 以後の大友家にとって重要なる位置を占めるとと、数一言すれば阿 蘇領に対する鎮撫策が問題となる と 守 と が認識されるのである 。 唐橋世済琴﹁豊後同士山﹂巻六 文献刊行会発行 (l) 一 六 = 一 一 員 昭和六主二笠 く右の点について考察を進め、入国氏の大友家に於げる位置を見 定める一助とする次第ーである。 註 阿蘇文香之一文書番号 (2) ﹁ 大 友 系 繋 ﹂ 大 分 県郷土史料集成刊行会恭一行、﹁大分県郊 土史料集成﹂上山一 世所載 (3﹀ 文 学博士田中義成著﹁南北朝時代史﹂二二六頁 (4 ) 同右二二七頁 同右一六九 ( 5 ) 大日 本 古 文 書 家 わ け 第 十三 .一七一、一七O 阿蘇神領についてみると、 , 於コ朝廷一因 v 尽二忠節一為-肥後日向藤摩之守護職-叉於二畳前・ 領地-於一一肥後一国一者一円為一一阿 直後 ・筑前肥前等国-賜-一盟主 l 蘇神領一歪 -Lb長年中}其後将軍義詮之時依-主規一顎-御教書一 復為一三神領一英書於〆今存 v之其け於こ盟主後内一日田郡 ・探珠郡 大佐井郷・武蔵郷柏原・入回国・佐伯・小川上下直入郡高田 ・井田 郷大野庄・内田村 ・宮貞 ・羽歩 ・桑原庄(中路)御答 どもあれど暫く元本の 之地名の件に籾心得ぬ事 附之総皆、将軍之御教書等於今 存v V )(iv 鞄で中略)ヱ人正年中大宮司惟種之時尚阿蘇郡日夜城郡四ケ社 領其外諸所之郡圧等領 ν 之(後略 とあり、阿蘇神宮の社領は、九州中央部を勢力基盤としていた ことが分る。 殊に、義詮時代 ( 十四世紀中葉)に あって 、豊後地方にあって は、日 田・球珠亡都市勢力が浸透しているのであって 、右の引用 文中にある様に入回庄が田町える。これは前節にも述べた如く、大 なおこれらの地域が、阿蘇領となったのは、﹁阿蘇山衆従領豊 友家第四代親時の子秀直の領する所となったものであるが、在地 勢力の主流にのって南朝方に加わっていた と想察される。 後柏原村年貢注文 の正平廿年分ハ 2)ハ一三六五年)﹂の文書のある 点から、領有時期の上限を知るととが出来る 。 四 (6) ︿ 7﹀ 前 掲﹁南北朝時代史﹂ 二五二 頁 (8﹀ 西岡虎之助氏﹁近世初期農村の基本的経済構蓬﹂経済学 論集第十三巻第六、七口ず 四 Hosei University Repository 要するにとの時期に於ける大友氏は 、豊後一圏内の維持が精一 、 杯であ り 辺 境 は不安定な状況にあったのである。 それが義鑑 ( 親安﹀ の代となると 、辺境安定努が実施されてい る。さらに同年八月六日士山手三郎右衛門尉、ハ 5﹀九月二日志手美 (8 ) る。つまり永正十四年七月五日、玖珠郡関所奉行をして、野上次 ) に夫々新給として充行ってい 郎太郎 、 岐部五郎左衛門尉7 (豊久﹀ mE)各々に対し、相続の所領を安堵せしめているのである。 濃守 右のととは、守護大名、としての義鐙が 、着々一国内支配の実質を 充実しつ Lある過程を示している。 かくして阿蘇氏と大友氏の二大勢力の分岐点たる匿境地帯にあ った入田氏は、両勢力間にあって微妙 な る 位 置 に あ っ た の で あ る 。 それが大友民の家臣団の綜成と共に、同紋衆なるが故に要械を みの九 v 。 占めるに至り、継嗣争いに乗じて棲頭を試みたと考えられるので 以上に於て 、大略二橋崩の変の原因たる、入国民の位置を見た のであるが 、入国民が行動を起す背後に は 、 在地勢力の動き、そ ) 二五二頁 伊藤常足開銀、日本歴史地理学学会発行﹁太宰管内志﹂ 大日本古文書家わけ第十三阿蘇文書之三 肥後国志之 = 一、阿蘇郡七O 頁 (1 ) れとの関係を見るべきであるが、直接その事情を語る史料はない が、 一モメジトとなったと考えられる事情を次に紹介する。 註 (2 西刷版寺文書二十二戦ノ内八﹀ ( 同右 大日本史料第 九篇ノ七 同右 同右 (3 ) ﹀ (4 ) ( 5 (6 ) 御柏原天皇 四 (2u 二月十五日 四l 五 頁 懸付 、遂一一防戦一数ケ所、被 腕之由 、忠儀、寒、無一 円 比類一候 、 ν 於ご其場一別而、粉骨之候、必追而 、 一段可二賀申 一 候、恐々謹 この様な落着に至る聞に、 今度津久見作守 、田口新蔵人、慮外之企、無=目定非一侯、其閥、 た 。 そとで入国は、外戚に当る阿蘇推豊のもとに赴くが 、 ﹁惟豊、 大怒一一其謀逆而逃来日﹂ り殺され、首は府内に送られ、民対された。 次 いでその一族入国信濃守 ( 按親誠子乎とある﹀ も 款 に 伏 し 義鎖、命一一戸次左衛門大夫鐙連、斎藤兵部少納鎮実 、 及詑摩 兵部少輔鑑秀、厚大蔵丞鎮忠等一往討 v 之 ハ 1﹀ 三月 、入国丹後守親誠伊蹴其子菜、共謀叛、拠一一州栂牟礼域一 一方入国は、 さきに引用した如く、﹁義鑑ハ被ご深手一明後日天文十九年庚成 一一月十二日逝去也﹂とあり、享年四十九才、到明寺松山紹康と 号した。 ヨ E Hosei University Repository 回北左近将監般 在判 とあり、二月廿一日に は、志賀安一房守 、志賀民都少輸に対し て 同じく感状を与えている。戸 3d とれ 等田北、志賀何れも同紋衆であり、かかる変の後に於て、 すかさず感状を与えて裳握につとめているのである。 なお志賀氏については、さ注の感状の註として、大友史料の編 者団北民は、﹁志賀氏と二橋崩の反逆者の中の何人かと (入国か ) 親戚関係か、または何か特別の関係にありしこと前掲文書の文意 より推知し得らる i也﹂とされている。 斯様にして 、変後圏内勢力の安定に力を尽していることが分る 珠・日田両郡の士四千余騎其勢都合一万六千余騎押 入手肥後 ﹀ -著ニ置子 国阿蘇郡一一宮云肥後一国入ニ義鑑手一於以ニ舎弟義一被τ ν 菊池一後-一菊池肥後守義武一 (1 という次第で、義鎮からいえば、義武は叔交に当るのである。 との義武が、翌十九年六月、二橋崩の変後六月になるや﹁菊池 義武 、起〆 兵、義鎮使一一志賀親守 、志 賀鑑綱、戸次鑑連等将兵、往 就ニ今度、入国信濃守悪行顕然一加コ退治-侯之刻、以二無二心 、 撃下之﹂ハ 2d? というととになり 、同月廿八日との功により て 底一従一一最前一預二馳走 一 候之故、遂-註伐一候、本望候、然処、 到こ肥後匡一義武現形之条、打続在陣軍労 、御忠貞、談、感悦 六月廿八日 雲 、 為 一 話 芸 名 之 内 、 三 拾 寅 分 嬬 ? 事 、 預 進 v之 無v 候、可 有 Vニ知 行一候、恐々謹言 ハ親守υ 志賀安房守殴 V 魂之趣、鐙元、毎度、注進候、国家大篇 、比時 候、習量鎮ハ 今度、各、別而、可 v 有二馳走一地盤之由、対二小原遠江守一入 戸安倍之意 中の把握がなされているのである。すなわち 斯かる肥後方面の安定をみるには、その前提として、玖珠郡衆 在判 在 のである。しかるに六月になるや 肥後方面の空気険悪となって来 国北学矯揖﹁・一へ女史料﹂第一話一 一 四' l五頁 日 半 るのである。 (1 ) 鑑 二陣者志賀鐙高・朽網鑑安三陣田原一党大分国崎士旗本及球 ) 四 註 同 右 四 四 1 五頁 同右 ﹀ 鍛官同 ) ( 3 U F 文同) 来、作二人回跡九重名之内 ( 三拾貫文一(の月日間前 志賀常鐙高陵介殿 鑑 となって、漸く肥後方面の安定をみたのである。 義 鎮 七月義鑑欲 v従コ肥後霞士一一 m出 μ軍先陳者佐伯惟教・志賀親安 二橋崩の変の前年 義 義 (2) ( 3 -畠圃. 、 ここ で義鑑の代にさかのぼるのであるが、天文十八年つま り 、 , Hosei University Repository vvF福二之心底一事、恵存候、殊、急度、可v 各一段、可 被 (4υ 在判 被v 寄ν 陣之由侯、万端、堅固之才覚、無一岸迄一候、恐々謹言 六月十九日 帆足右衛門大夫殿 太田安芸守殿 恵良若狭守殴 古後左近太夫霞 松木丹後守殴 小田次郎兵衛尉殴 岐部五郎左衛門尉駁 恵良肥前守駁 平井宮内少輔殴 野土左衛門大夫殿 其外郡衆中 (封) 玖 珠 郡 衆 中 義 鎮 鎮 国北学繍﹁大亥史料﹂第一斡四四一貝、前置文、個明者の には実の叔父也。大友家よ D入りて菊地家を継ぐ。然るに 註として﹁菊池義武は、大友義鑑の弟にして 、議鎮のため (2) 九l 三O 頁 註(1﹀﹁太宰管内士山﹂中各所載盤後直志之 一一 一 である。 な把握があったればとそ、肥後方面の安定をみるととが出来たの ということになり、何れも豊後清原の一統であり、国衆の確実 義 問右 四四l 四 五 頁 史 料 七 六 、 七 七 四三頁史料七五 七 臼杵四郎左衛門尉 一万田弾正忠 回北大和守 付、奉行之事 一、国衆、加判衆、一意之事 状を、義鐙の遺言状が如実に示している。 内は城下町、として一応の繁栄をみるに至っていた。 ( 1 ) こ の様な 時期に二橋崩の変が生起したのであって、当時の大友民領下 の実 そして義鑑の代には家臣団も不安定ながら編成されており、府 大名としての上昇をたどったのである。 利氏と結び 、常にその連絡を保ち、中央の権威 を 背 景 とし、守護 あったといえるのであって、中央勢力交替の契機を把握して、足 意 し て い る。換言す れば、 豊後園内の支配を固めるのが精 一杯で に注意を怠らず、これに対して直接的な行動に出ることを厳に注 少なくとも南北朝動乱期以後に於ては、肥後の勢力に対しては常 入田氏、さらに後背地肥後方面との関係を見て来たわけであるが 、 以上二橋崩の変について、その経過と、そこに発端の鍵を握る (4﹀ 同 右 (3) ている。 絶えず大友家に対し謀叛し乱をなす。(後略)﹂と述べられ 四 回 Hosei University Repository 吉岡越前守 筑後・筑前・肥後・肥前守護職、及、日向・伊予各半国一﹂円4yz 領有するに至っているが、その支配形態は、豊後国内の一円支配 を略完成し、家臣団の編成をみ、他国の、要所に、同紋衆、国衆 のめぼしいものを配置して、在地勢力の掌握を計るという状況で あった。 小原四郎左衛門尉 一、童書、並、日記箱之事 一、当園、明而、治世可一一覚悟入一事、封分一回所々 一、上下共、邪正之儀、能々、可 ν有一礼明一事 あり、在地勢力によっては下刻上し得ない限界にあった。それと 註 (1) (2) (3) 問北学続﹁大友史料﹂第一韓一一一一 l 一一一一一頁史料五七 経済学博士宮本又次編﹁九州経済史研究﹂三和書房昭 盟国武春﹁中世民本商業史の研究﹂岩波書底昭和二十七 年発行三五四頁三六一頁参照 同時に、大友氏にとっては、守護大名から戦国大名へ転換する契 機としての意義が考えられるのである。 しかるに、この変の主謀者入回民は、その状況観察が関鎖的で か iる時に、二指崩の変の発生をみたことになるのである。 一、日田郡之事、先以、可 ν 為レ如 ν 今事 一、立花城可 v 取哉否之儀、能々、可 ν 有ニ思慮一事 一、於ニ筑後国上下之間二城可レ有一覚悟一事 一、当方大内閣之事、倍、無二之儀、可 v然事 一、当方立柄、如一面々一無一和違一可 被二申付一事 v 一、持物衆之儀者、義鎮、能々、以ニ分別一可 v 被二相定一事 一、加判衆之儀者、可ド為一一六人一事付為ニ紋之衆=一人 他姓衆三人一事 υ 以上ハ 2 右の如く、全文十一ケ条の内、六ケ条(第三、五、六、七、八 田北学繍﹁犬家史料﹂第一一斡 和二十八年九月発行右所載宮本又次﹁九州社会・経済 史に於ける地域性﹂参照 (4) 頁 九条)が豊後園内及びその隣接諸国の把握について述べている。 なお、第十、十一条は、何れも家臣団について述べている。 四 これ等の地域は、宮本又次博士の一式われる、少弐大内、菊池、阿 蘇の地域類型に相当する。ハ 3) 但しこの遺言には、前述した如く、天文十八年肥後を従え、義 したがって、との遺言状は、領内支配の確立の要点を具体的に 指摘したものといえよう。 時を菊池に置いて安定したと考えたのか、何等触れていない。 故に義鎮が義鑑の跡をつぎ、﹁任一左衛門督一叉、兼一一近衛権少 将(受こか︿譲一為ニ第二十代家管一補二九州探題一領一一豊後・豊前・ 五 Hosei University Repository 7行。 43519 8 78 2 8 1 ヵ7 2 6 96 6 6 行6 3 5 5 頁 上 段 頁頁頁ラ頁頁頁 中 下 下 7下 迫 上 段段段行段記段 頁頁 上下 段段 頁 1マ 段 終頁行頁 頁 日下彩 ヵ F 主 β 7 ラ 5 カ TT 7 , q t ; 3 9 11 最 6行 ラ D行 行 行 行終 行 南参十頬量・何月明十題・「介志望空・そ ず台月に琉 賀十れ 玉者一挫重公 伎十九・関球 常九た 郡古日月 ) 1 1 十・ の ・ 三 ・初・す所・ 鋒 ・ 年 共 誤 l 才 ・ 初 日 i 尽 年目る属・高・ τr 」問・陸 筒 日 必 文 北史 E 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