日時:2009年 2月 22日 主日4部礼拝 説教 題名:わたしが休ませてあげます 説教:チョー・ヨンギ牧師 御言葉:マタイの福音書 11章 28~30節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあ なたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたが たもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎ が来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 <序論> 今日、私は皆さんと共に「わたしが休ませてあげます」という題目で御言葉を分かち 合います。 現代社会のある社会学者は、現代社会の特徴を三つに要約して言っています。一つ目 はコンクリート社会です。現代の都会人たちは、アパート、ビルのコンクリートの中 に閉じ込められているせいか、心も考えもコンクリートのように固まってしまいまし た。ですから、隣人を気にかけて仕えるよりも互いを簡単に傷つける人情のない社会 となりつつあるのです。二つ目はスピード時代です。イ・オリョン氏は、過去の時代 が「釜文化」なら、新時代は「ラーメン世代」だと言います。釜はグツグツグツグツ 煮て、長時間かけて料理し、食べるのですが、ラーメンはただ熱湯に入れ、掻き混ぜ て食べてしまいます。ですから、今の時代は深さのない時代となっています。今日は、 誰もが「早く早く」を追求して急ぎ始めたということです。何をしても「早くしなさ い。早くしなさい。早く食べなさい。早く掃除しなさい。早く持って来なさい。」 「早く」が今日の現代の唇に貼られている言葉です。三つ目はストレス時代です。 人々は成功を望みますが、実際に成功する人は全人口の3%に過ぎません。97%の人は苦 労ばかりで、苦労して苦しみながら生きていきます。したがって、多くの人が人生の ストレスによって、恐れ、不安と恐怖心、怒りと怨みが増加するのです。このような 現代社会の悲劇に対して『ゆっくり気楽に生きる』の著者であるピエール・サンソは 「休息の喪失」を指摘し、失われた世代と言いました。神様は人間を六日目に造られ、 七日目は神様ご自身が休まれました。そして、人間たちに命令され、六日間仕事をし て七日目は必ず休むようにとおっしゃいました。今日のように複雑な産業社会で生き 残るための激しい競争によって休みなく七日ずっと、その上、昼夜なく仕事をするこ とが多いです。機械に油をささなければ故障が起きるように、休まず仕事をすれば、 しまいには病気になってしまいます。私が西大門(ソデムン)で牧会している時、説 教の通訳をしている途中で倒れました。そして、教会の執事の方々が私を背負って赤 十字病院に行って、我に返ったことがあります。そしてまた、目が覚めるや早天祈祷 に出て礼拝を導くと、お一人の長老が相談したいと言ってやって来ました。私を見る と、「牧師先生はほんとに、とても傲慢でらっしゃいますね。」ちょっと、病人に向 かって励ましもせず、傲慢だなんて…。「あの、どうしてそんな言い方されるのです か?」と言うと、「牧師先生が神様より偉いふりをするからですよ。神様も六日間仕 事をして一日休んだのに、牧師先生が一体何で、神様よりすごいのですか? なぜ、休 まないで騒ぎを起こすのですか? ちょっと他の者に任せて下さい。傲慢になって、自 分がしなければ回らないと言っていると長生きしませんよ。」その言葉が、生きてい る間忘れられず、いつも思い出します。本当です。神様も六日間仕事をして一日休ん だのに、私たちが一体何で、七日間の間ずっと仕事をして生きられると考えるのです。 そのうち病気にかかって死ぬことになるのです。 <本論> 1.疲れた人、重荷を負っている人 ですから、イエス様は私たちに両手を大きく差し伸べて、「すべて、疲れた人、重荷 を負っている人は、わたしのところに来なさい。」とおっしゃったのです。私たちは、 疲れた人、重荷を負っている人は、みな去りなさいと言いますが、イエス様は私のと ころに来なさい。疲れて、重荷を負ったら、みな私のところに来なさい。この世の肉 体的な荷も重荷です。しかし、肉体的な荷より重い荷が心の重荷なのです。人はみな 罪の重荷を背負っているのです。罪の重荷によって心の罪責感を感じています。家庭 に難題が生じたり、個人的な難題が生じたり、子供に難題が生じると、肝をヒヤっと 冷やします。私が罪を犯したから罪の代価を受けているんだ。そんな罪責がいつもあ り、人は死の入口に入ると恐ろしい罪責感を感じます。心に重い罪責の荷を抱いてい ます。そして、腐敗した心性の重荷を抱いています。お酒を飲みたくないのに、つい お酒を飲んでしまいます。タバコを吸わないようにとタバコのキセルを切ったにも関 わらず、またタバコを吸います。放蕩しないようにと思っても、放蕩します。憎まな いようにしても、憎みます。自分の思い通りになりません。自分が捕虜になっている ようで、その心に苦痛と苦しみは言葉で言い表すことができないのです。そして、病 気にかかって悲しむのです。病気は、皆さん、肉体だけに痛みがあるのではありませ ん。病気になれば、心もすごく痛み、苦しいのです。家族の負担になり、子供たちに とって重荷となるので、心の負担となって苦しいのです。そして、生活の困難にぶつ かる時、心の中で、生きるとは何か。人生を生きるとは何か。どこから来て、なぜ生 き、どこへ行くのか。人生はとても空しいなぁ。心に空しさと無意味が押さえつけま す。そして次に、みな死なないといけないので、死は空しさの重荷を私たちに与える のです。人がいくらこの世で偉いと言えど、死ねば土に帰ってしまうのです。 わが国の自殺率は2006年の資料によると、10万人当たり21.5人で、OECD国家の中で1位 でした。統計庁資料によれば、国内総死亡原因の中で、癌、脳血管疾患、心臓疾患に 次いで4番目が自殺なのです。キョンヒ医療院精神科のベク・ジョンウ教授は、「80% 以上がうつ病と関連がある。」と言っています。心のうつ病を解決できないため自殺 するというのです。国民健康保険公団の統計分析によると、うつ病を病む人は毎年増 加し、2007年度には47万人、2006年より7.2%増え、2008年のうつ病患者は2007年に比 べて5%以上増えたと推定しています。私たちの人生の中で肉体的な荷も重荷ですが、 もっと重い荷は心の重荷であり、心のうつ病です。心にうつ病がやって来ると、人生 のすべてが灰色の光として現れ、私たちの心の中に生きる希望がなくなるのです。す ると、私たちは心を固く持たなければいけませんね。 英国の精神科医師であるハドフィールドは面白い実験結果を発表しました。彼は人の 意志が肉体的な力にどれぐらい影響を与えるかを実験したのですが、その実験で、手 で握る握力を測定して分析しました。まず三人の男性を呼んで、手で握ってみるよう 言いました。普通の状態で平均握力は45kgでした。グッと握って45kgでした。ところ が、二回目は医師が彼らに否定的なことを言いました。「あなたがたは体の弱い人だ。 体の筋肉を見たら、力が出ないようになっている。栄養失調だ。力がない。」そうや って弱いと認識させておいて、もう一度拳を握れと言って、見ると、たった13kgの握 力しか記録できませんでした。通常は45kgを握っていた人が、弱いと認識してからは 本当に13kgしか握ることができませんでした。ところが、またその反対に、実験する 人が、「あなたはとても強い。あなたはできる。あなたの筋肉を見ると、はるかに重 いものを担ぐことができる。力がある。弱くない。丈夫だ。」このように肯定的に勇 気を与えて測定をすると、なんと68kgを握ったのです。通常は45kgを握り、弱いとい う考えが入ると13kgを握っていた人が、強いと勇気を与えると68kgを握ったとのこと です。これは、私たちが持っている力の半分以上は心がけにかかっているということ です。心で「私には無理だ。だめだ。できない。」と思うなら、すっかり弱くなって しまうのです。しかし、心で「強い。できる。やればできる。やってみよう。神様が 共におられる。できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるの だ。」と思うなら、ものすごい強い力が生じるのです。ですから、心が私たちの肉体 の生活にものすごい影響力を及ぼすということを見ることができるのです。私はでき る、やればできる、やってみようと肯定的な心を持つ時はどんなことでもできますが、 私は馬鹿で、無理だという否定的な心を持つ時は、何一つ成し遂げることができませ ん。肉体の荷も重荷ですが、もっと重い荷は心の重荷であり、心が弱くなれば、肉体 的なすべての生活がみな微弱になってしまうのです。 2.わたしのところに来なさい ですから、イエス様は、疲れて、肉体の重荷を負っている人も、心の重荷を負ってい る人も、他のところに行かず、私のところに来なさい。なぜ。イエス様は私たちに力 を与えることができるからなのです。勇気と力と希望を与えることができるため、イ エス様を迎えるなら、軟弱な人が強くなり、強い人はいくらでもさらに強くなること ができるというのです。 イザヤ書32章2節で、イエス様をどのように表現したかと言うと、「彼らはみな、風を 避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわきき った地にある大きな岩の陰のようになる。」 わー、こんな人がどこにいますか? 風を避ける人、嵐を避ける隠れ場のような人、砂 漠にある水の流れのような人、乾ききった地にある大きな岩の陰のような人、その方 がまさにイエスだと言うのです。風を避けるということは、どういうことですか? 風 というのは、地上に吹き寄せる災いの風波なのです。パウロの乗った船が地中海でユ ーラクロンの暴風に会って沈没しかけたように、私たちも人生を生きるなら、患難と 苦しみの風波が狂風のようにやって来るのです。とても正気ではいられない試練と災 いが相次いでやって来るのです。今日、全世界は経済の狂風に会い、アメリカを始め としてヨーロッパ、皆が皆、どうしていいかわからず右往左往しているのです。 箴言1章27節で、「恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のよ うにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、」 詩篇50篇15節で、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。 あなたはわたしをあがめよう。」 このように風が吹く時も神様は、私を呼び求めよ。私があなたを風から避けるように させようというのです。私たちが知恵や悟りやはかりごとや能力を持って風を避けよ うとするなら、避けることはできません。神様が風を避けるようにしてこそ避けるこ とができるのです。 詩篇46篇1節から3節で、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助 け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうと も。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動い ても。 セラ」 なぜ。神様が皆さんの避け所です。神様が皆さんの力となられるのです。苦難の日に そこにある大きな助けとなるのです。苦難の日は他のところに訪ねて行かないで、神 様である父のところに訪ねて行かなければならないのです。 ですから、詩篇23篇4節で、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわ いを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、 それが私の慰めです。」 死の陰の谷、しせきを弁ぜざる大変な所でも、私が主を知っているなら、主が目には 見えず、耳には聞こえず、手には掴むことができなくても、共におられることを信じ ます。すると、主が共におられ、主のむちで私たちを導き、杖で敵を打って、私たち が災いに会わないようにしてくださるとのことですから、風を避けるようにさせる私 たちの主はどんなに素晴らしく、良い神様であられるでしょうか? そして、嵐を避ける隠れ場だと言いました。嵐というのは天から降り注ぐもので、神 様の裁きを言うのです。神様の怒りを言うのです。 ヘブル人への手紙9章27節で、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受 けることが定まっているように、」 今日、神様はどこにいらっしゃるか? 神様を信じないで、自分の拳を信じろと言う人 も、死に至るとなす術なしに神様のとてつもない裁きを受けることになり、地獄に落 ちることになるのです。神様は私たちが生きている間は、悔い改める機会を与えて長 く待ちますが、私たちの日数がすべて満ちて死ぬことになる時は、神様が裁かれるの です。しかし、この裁きを避けさせるようイエス様を送られ、イエス様が私たちの嵐 を遮る存在となったのです。 ヨハネの福音書3章17節で、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではな く、御子によって世が救われるためである。」 裁きが降り注いでも、イエス様の内にいれば、救われることになるというのです。そ れは、偉い人だけが救われるのではありません。私を信じる者が一人として滅びるこ となく、永遠のいのちを持つとおっしゃったのです。 1700年代後半、英国のトップレディ牧師がある日、渓谷を通っていると、突然、狂風 と稲妻、夕立ちに会い、水がドクドクと溢れ出るので慌てて避け場所を探すと、ある 岩に割れ目があります。それで、急いで駆け込み、岩の割れ目に隠れました。それで、 暴風雨とその洪水を免れることになりました。すると、神様に感謝するので心に詩が 一つ浮かんで来ました。それで、ポケットから紙を出し、その詩を書き留めました。 それが、讃美歌188番(日本の聖歌248番)『隠せや我を』という詩であり、英国のア ルバート王子は死が差し迫った寝床でこの賛美を歌ってくれと頼みました。ウイリア ム・グラッドストン首相も自身の葬式でこの賛美を歌ってくれという遺言を残しまし た。人生の最後の道を歩みながら、彼らにはお金も名誉も権力も、それ以上、慰めと 希望にならないのです。お金、名誉、権力が、死の道をどうやって止めることができ るのですか? ただイエス様だけが彼らの岩であり、慰めであり、安息であることを知 ったのです。人生の道で風に会ったり、嵐に会った時、そして、死が目の前に迫る時、 私たちの慰めと安息は、ただイエス様だけなのです。私たちもその賛美をちょっと歌 ってみましょう。 1.隠せや我を とこしえの岩 御脇腹に 湧く水と血に 聖めよ我の 汚れと罪を 2.法の要求に 耐えぬ我は 心熱くし 泣き沈むとも いかでか罪を 贖いうべき 3.浮世を去りて 墓に入る日 裁きの座にて 君に会う時 隠せや我を とこしえの岩 4.浮世を去りて 墓に入る日 裁きの座にて 君に会う時 隠せや我を とこしえの岩 イエス様はまさに皆さんのとこしえの岩なのです。風が吹き寄せ、嵐が降り注ぐ時、 イエス様は手を差し伸べ、私の岩に入って来なさい。私の岩は開かれている。肉を裂 き、血を流して開かれているから、私の中に入って来れば安全であると言われるので す。生きている生前も安全で、死んで裁かれる時も安全なので、イエス様にあって私 たちは成功的な人生と成功的な死を抱くことができるのです。 次に、イエス様は砂漠にある水の流れのような方だと言いました。皆さん、地に水が なければ、どんな生物も生きることができません。虫も魚も動物も生きられません。 しかし、その砂漠にある泉が流れ始めるなら、直ちに草々が生え、生命たちが生まれ、 魚が生まれるのです。イエス様が「私は砂漠にある水の流れのような者だ」。私の心 がうろたえ、失望し、広く荒れ果てた砂漠のようになったとしても、イエス様が入っ て来れば泉となるのです。イエス様が泉から流れ出て、水が流れ始めるのです。希望 のない所には希望を、死がある所にはいのちを与える、いのちの水の働きをするので す。イエス様は宗教ではありません。イエス様はこの荒漠な荒野のような世の中でう ろたえ、失望し、干からびて死んでいくその心に、イエス様は泉として入って来るの です。永遠に湧き出る泉となって、私たちがそのイエス様を迎えるなら、心に、たま しいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であり、いのちを得、 また溢れるように得る、いのちの働きが起こり始めるのです。 ヨハネの福音書4章14節で、「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して 渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいの ちへの水がわき出ます。」 皆さん、胸にちょっと手を載せてみて下さい。その中にイエス様が泉として永遠にと どまられるのです。他のものを探さないでそのイエス様を探すなら、イエス様によっ て皆さんに、いのちを与え、また豊かに与える恵みが溢れ出るのです。 ヨハネの福音書14章6節で、「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であ り、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ること はありません。」 イエス様だけが私たちの道となり、真理となり、いのちとなるため、イエス様お一人 を掴むなら天国に行くのです。ある方が私にこんな質問をしました。「聖書を全部知 らなくても天国に行けますか? 旧約聖書に私たちにわからない御言葉がたくさんある のですが、それを知らなくても天国に行けますか?」そこで私が言った言葉は、「イ エスさえ信じれば天国に行く。目に一丁字なくても、私たちの救いはイエス様を通し て来るのであって、知識を通して来るのではない。たくさん知っているから救われる のではない。信仰によって救われるのに、誰を信じるのか。」神の子イエス様を私の 救い主として信じさえすれば、救われるのです。神は、実に、そのひとり子をお与え になったほどに、世を愛された。誰でも、子供のいる人も、子供のいない人も、偉い 人も、そうでない人も関係なく、私を信じるなら永遠のいのちを持つであろう。恵み のゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、 神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 神様が恵みの賜物によって救いを与えてくださったため、信じさえすれば皆さんは救 われることになるのです。 そして、このイエス様は乾ききった地にある大きな岩の陰だと言いました。乾ききっ た地とは何ですか? 荒野を旅する者が汗を流し、疲れ、お腹がすいて倒れ、もうこの まま放っておくと死ぬしかありません。日が照りつけ、汗は流れ続け、ひもじくて息 をすることができないでいると、すぐそばに大きな岩が陰を作っています。四つんば いに這って岩の下に入ると、たちまち涼しくなり、陰の下に泉も湧き、そこから水も 飲んで、我に返って元気を出すことができたのです。人生の道は険しく、心が疲れ果 て、生きていく勇気がなくなる時、人生を再生する所がまさにイエス・キリストなの です。イエス様の懐に抱かれるなら、その世の中の強い日差しから避けることができ、 荒野の乾いた地から避けることができ、乾いた空気から避けることができるのです。 イザヤ書40章31節で、「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をか って上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」 新しい力。私たちが世の中で得る力ではないのです。ご飯を食べて得る力ではないの です。世の薬を飲んで得る力ではないのです。聖霊によって与えられる新しい力なの です。鷲のように翼をかって上っても疲れず、仕事が忙しく走ってもたゆまず、仕事 がうまくいき、ゆっくり歩いても疲れない、新しい力となるのがイエス様なのです。 3.わたしがあなたがたを休ませてあげます そして、第三に、イエス様が言われました。あなたがたがわたしのところに来るなら、 わたしがあなたがたを休ませてあげようと言われたのです。 仕事をして疲れた時、休むということは、どんなに大きな祝福か言葉で言い表すこと ができません。6.25事変の頃、私たちの生活は苦しかったではありませんか。私は6.2 5事変の頃、私は高校1年生の時だったのですが、生活がとても苦しいので、夜、埠頭 で荷物の上げ下ろし作業をしました。その時は20才の若者だけを集めており、私は17 才でしたが、背が高かったので20才のように見えました。それで、20才とごまかし、 埠頭で荷物の上げ下ろし作業をするのですが、始めの方は持ちこたえて働くことがで きます。Cレーションの箱を肩に担いで持ち運ぶことができるのですが、時間が経ち、 晩御飯を食べて朝の明け方まで仕事をする時はとても働くことができません。ただ荷 物を背負って、そのまま座り込んでしまいます。すると、黒人兵士が来て、足で蹴り、 棒で殴りました。殴って、蹴っても、関心ありません。とにかく地面にでも膝をつい て寝ないと。寝なくては耐えられません。私がその時感じました。人は休まなくては 生きられない。いくら力があっても、その力は最後までは続かない。休まなければな らないということです。ところが、イエス様は、イエス様の御前に出るなら休ませて あげようと言ったのです。いくら私たちの生活が困難で、苦痛で苦しくても、六日間 仕事をして七日目に教会に来て、主の懐に入るなら、いつの間にか心に休息を得るよ うになるというのです。ところが、イエス様の懐に入るのが難しいです。イエス様は、 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、 わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言われましたが、 私たちは柔和と謙遜を学んでこそ、イエス様の中に入って休むことができるのです。 「柔和」というのは、よく飼い馴らされていることです。家畜の牛や羊や山羊は柔和 な家畜です。よく飼い馴らして。ライオンや虎は柔和ではありません。飼い馴らして いません。荒々しい獣です。しかし、よく飼い馴らしたものは柔和です。私たちも、 神様の聖霊の恵みによってよく飼い馴らされた人は、神様にとてもよく従順する柔和 な人となりますが、そうでない人は、とても軽率で騒々しい人となって自分勝手に生 きるのです。従順し、主によく従う人、柔和な人を、主は受け入れるのです。 詩篇37篇11節で、「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれ の喜びとしよう。」 荒々しい人が地を受け継ぐのではなく、貧しい人が受け継ぐのです。私たちの考えで は、荒々しく話をし、拳を振り回し、足で蹴り、激しく突っかかる人が地を受け継ぎ そうですが、そうではありません。地は神様が所有しておられ、神様が望む人に受け 継がせるのです。そして、貧しい人、貧しい民族が地を受け継ぎ、荒々しくて治める ことのできない、そんなきつくて荒い心を持った個人や民族は地を受け継ぎません。 ヘブル人への手紙5章8節から9節を見れば、「キリストは御子であられるのに、お受け になった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々 に対して、とこしえの救いを与える者となる」と言われました。 イエス様は多くの試みと患難を通して神様に従順するかどうかの訓練をしました。イ エス様は死にまで従いました。柔和な方がイエス様なのです。穏やかで従順する、そ のような性格を持っているのです。ですから、私たちも穏やかで従順してよく従う、 そんな心を持って主のところに出て来るなら、主が私たちを最後まで救ってくださる と約束されたのです。そして、へりくだらなければなりません。自分の心を低くし、 主を高め、神様の御前にいつもひざまずきひれ伏して主を礼拝しなければならないの です。人々はちょっと暮らしが良くなると傲慢になるのです。へりくだり、低くなっ て仕事をする時は成功しますが、成功してからちょっと暮らしが良くなると、よく休 み、そして横柄になるのです。喉に力が入るのです。高ぶりは破滅に先立ち、心の高 慢は倒れに先立つのです。高ぶるなら破滅します。高慢なら倒れるのです。ですから、 へりくだるようになれば、主の懐に入ることができるのです。 ペテロの手紙第一5章6節から7節で、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下 にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるため です。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのこと を心配してくださるからです。」 へりくだって入れば、時が来れば、主が私たちを高めてくださるのです。聖書でもそ う言ってるではありませんか? 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出 そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。」と言われた のです。神様は、皆さんが高くされることを望みますが、まず低くされてこそ、次に 高くされるのです。山も、谷が深ければ、山も高いのです。谷が浅いと、山も高くあ りません。私たちがたくさんの試みと患難に会って砕かれ、自分の中心が崩れて、主 に従順し、へりくだって低くなるなら、神様が高く上げて祝福してくださり、用いら れるようになるのです。心優しく、へりくだるなら、神様が祝福してくださるのです。 ある宣教師が汽車旅行をしていました。ところが、前に座った人があまりにも落胆し て顔が青白く、今にも汽車から飛び降りそうな、そんな雰囲気を醸し出していました。 そこで、「兄弟よ、イエスを信じて神様に頼るなら、苦しい重荷を預けて心に平安を 得ることができます。」と言うと、「ハハ。火事になった家に風を煽り立てるような もんだな。あなた、私の境遇になってみてください。神様がどこにいるんですか? 神 様がいるならこんな苦しみに会わせますか?」そこで、宣教師がポケットに手を入れ て、万年筆を取り出しました。汽車がすごく揺れますが、万年筆を置いて、「この万 年筆をちょっとテーブルに立ててみてください。」「あなた、私をばかにしてるので すか? こんな揺れる汽車のテーブルに万年筆を立てろだなんて。どうやって立てろと 言うんですか?」「私は立てることができます。」「では、やってみてください。」 両手を握って、「立てたではありませんか。」「この人は、人を何だと思って、両手 で立てるのが立つことになるんですか?」「立てられなくても、両手で持てば立つよ うに、人生も一人では立てない時、主の手が掴むなら立つことができるんですよ。」 それで、その人は大きく感動したという話を聞きました。そうです。私たちの力では いくら立とうとしても立てません。しかし、主が私たちを支えてくれるなら、私たち は立つのです。 詩篇91篇で、「彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たるこ とのないようにする。」と言っています。皆さん、私たちが主に頼れば、主は責任を 取って私たちを支え、立ててくださることを信じて下さい。すると、神様は、私たち を通して患難や風が吹きつけても、神様が支えてくださり、揺れ動き、捨てられるこ とのないようにしてくれるのです。 次に、主は、あなたがたも私のくびきを負って、私から学びなさいと言いました。イ エス様のくびきの下に入って、優しくへりくだって人生を学びなさい。主のくびきは 何ですか?「十字架」なのです。主は十字架で私たちの罪と腐敗と病と呪いと死をみ な背負われました。そして、私たちに言われるのです。「あなたの重荷を私に委ね、 優しくへりくだって私のくびきの下に入って来なさい。私と共に行こう。」中東では 畑を耕す時、いつも雌牛のくびきの下に子牛を一緒に入らせて畑を耕します。子牛が 穏やかに従順してついて行くことを教えるために、雌牛の首に荷鞍をかけ、その横に 子牛を入れて、「おら!チチチチ!」雌牛が力を目一杯出し、汗をダラダラ流してく びきを引きます。ところが、子牛はちっとも重くないんです。お母さんはどうしてあ んなに大袈裟に汗を流してるんだ? 僕はすごく軽いのに。なぜ。くびきがお母さんの 首にかかっていて、自分の首にはかかっていないからです。ただ遠くから見ると、首 にかかっていますが、お母さんのくびきの下に入ってついて行くので、自分は楽に軽 く歩いて行きます。お母さんだけが汗を流します。私たちの苦しい重荷はイエス様が 背負いました。十字架でみな背負い、私たちがイエス様に穏やかに従順し、へりくだ って低くなってついて行くなら、イエス様の十字架の下で私たちは楽に軽く人生を歩 んで行くのです。苦しい重荷は、主の十字架にみな掛かっているのです。ですから、 聖書では、「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」心の 重荷、肉体の重荷、生活の重荷を背負って、私のところに来て、私に委ねなさい。重 荷は私に委ね、私の下に入って従順し、穏やかについて行けば、あなたは楽に平安に 人生を生きることができる。この苦しい世の中で楽に安らかに人生を生きることがで きるなんて、どんなに素晴らしいでしょうか? ピリピ人への手紙2章6節から8節で、イエス様は、「キリストは神の御姿である方なの に、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、 人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死 にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」 人として来られて、へりくだって低くなり、十字架にかかって人間のすべての罪と不 義、悪と呪い、絶望と死を代わりに背負ったのです。ですから、主が私たちの救い主 となり、私たちを助ける者となることができるのは、私たちの重荷を主が背負われた ためなのです。ですから、イエス様のくびきは、イエス様には苦しくて重いくびきで すが、私たちには楽で軽いのです。なぜ。イエス様のくびきの中に入れば、私たちは 私たちの罪のために死ぬ必要がありません。既にイエス様が私たちの罪のために死ん だので。私たちの腐敗のために私たちが追い出される必要がありません。イエス様が 体を裂き、血を流して、腐敗をみな清算したからです。私たちが私たちの病のために、 私たちが病を背負って苦労する必要がありません。主が私たちのために鞭打たれたの で。私たちが呪いを背負って身もだえする必要がありません。主が呪われたものとな って十字架にかかったので。木にかけられる者はすべて呪われていると言い、イエス 様が呪われて、木にかけられたので。私たちは死ぬことに苦心する必要がありません。 主が死んでよみがえられたので、私たちは主の懐に抱かれて、タダで死んで楽によみ がえり、天国に行くことができるのです。すべてが楽です。罪が赦され、聖くなり、 癒され、祝福され、楽に死んでよみがえって永遠なる天国を得る、楽に軽く人生を生 きることは、イエス様の十字架のくびきの下に入ることです。したがって、 詩篇55篇22節で、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」 詩篇68篇19節、「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私た ちの救いであられる神。 セラ」 昔だけ背負ったのではなく、今日、現在、この場所で、私たちの重荷を背負ったので す。主は十字架のくびきを私たちに差し出して、「さあ、あなたの重荷をここに全部 委ねなさい。あなたの罪の重荷を、あなたの不義や悪の重荷を、あなたの病の重荷を、 あなたの呪いの重荷を、あなたの絶望の重荷を、あなたの死の重荷を、さあ、ここ、 私の肩に委ねなさい。そして、私と共に歩いて行こう。人々は、あなたが十字架を背 負っているように思うが、あなたは楽に軽く人生を生きて行くことができる。」そう おっしゃったのです。どんなに主の恵みがありがたく感謝か、言葉で言い表すことが できません。 <結論> この世の人生は、今日も不安、焦燥、絶望などで疲れ果てています。しかし、イエス 様の御前に出て、イエス様の恵みを悟り、イエス様に頼れば、心と生活に安らぎが来 るようになるのです。 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが あなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなた がたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安ら ぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と言われ たのです。 イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じなのです。見よ。わたしは、 世の終わりまで、あなたと共にいます。ただ主が来て、共にいるのではありません。 主は十字架を背負って、私たちと共におられるのです。なぜなら、私たちの重荷を代 わりに負われて、また、今でも負うために、十字架のくびきを背負って私たちのとこ ろに来ておられるのです。ですから、私たちはイエス様を宗教的に信じないで、形式 的に信じないで、生きようが、死のうが、栄えようが、滅びようが、盛んであろうが、 衰えようが、主に委ね、頼り、信じ、従順してついて行く皆さんとなられるよう、主 の御名によってお願いいたします。 頭を下げてお祈りいたします。 <祈り> 全能なる父なる神様、人生を生きる、それ自体が苦しい重荷です。精神的な重荷があ まりにも重く、うつ病にかかって自ら命を絶つ人も多く、肉体的な重荷もとても重く て耐えることができず、苦しみが限りなく多い世の中に生きているのです。誰がこの 重荷を代わりに背負うことができるでしょうか? イエス様は神様なのに、人として来 られ、人が背負えない重荷を主が背負い、私たちと共に人生を生きて行かれることを 考えると、感謝であります。私はあなたがたを捨てて孤児にはしませんとおっしゃっ た主よ、主が聖霊によって来られ、今日も十字架で私たちの重荷をみな背負ってくだ さり、感謝いたします。へりくだり、柔和になって、主について来なさいとおっしゃ いました。主よ、私たちはへりくだり、柔和になって、主について行きます。主にす べての重荷を委ねます。主が私たちを支え、立ててくださり、すべて楽に軽く、感謝 して人生を生きて行けるよう助けて下さい。イエス様の御名によってお祈りいたしま す。アーメン。
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