2005年(第16回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム

2005年(第16回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム
玄界灘を渡ってきた民俗文化
「文化のつながりを探る」
大賞受賞者 任 東 権
【日 時】 2005年9月17日(土) 16:00∼18:00
【会 場】 アクロス福岡イベントホール(福岡市中央区天神)
【プログラム】
基調講演 任
東 権
パネルディスカッション
パネリスト
佐野
賢治(神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科教授)
永松 敦
(宮崎公立大学人文学部助教授)
松原 孝俊(九州大学大学院比較社会学府韓国研究センター教授)
コーディネーター
稲葉 継雄(九州大学大学院人間環境学研究教授)
はじめに
稲葉継雄
皆様、こんにちは。私の研究は、教育史を
中心にやっており、本日の任先生のセミナーとは直接関
係ない専門でございますが、福岡アジア文化賞の学術研
究賞選考委員の中では最も韓国に縁が深い人間だという
ことで、コーディネーターを仰せつかりました。
私は、1971年から74年にかけて韓国に留学しておりま
した。修士学位は九州大学でとり、博士課程はソウルの
高麗大学で履修しました。
私たちは、福岡に住んでおり、韓国とは非常に近く、日本人の生活の中に韓国をルーツ
とする文化がたくさん入っているということは、皆さんよくご存じだと思います。
私がソウルに留学したとき、最初に驚いたのは、「チョンガー」という言葉でありまし
た。博多は単身赴任の人が多くて、博多チョンガーと言いますね。実は私は「チョンガ
ー」はヨーロッパから来た言葉かなと思っていましたが、男の一人者という意味の韓国語
です。韓国語の発音は「チョンガク(Chongak)」(クは小文字)と言いまして、とても難
しいです。それと、腹が減ったときに「ペコペコ」といいますね。これも韓国語です。
「ペー」が腹、「コップダ」が減った、ペコペコで腹が減ったという意味で、腹ペコとい
う必要はないわけです。
こういったことは一例ですが、私たちの生活の中に浸透しています韓国文化、恐らく今
日の任先生のお話、それからパネリストのお話で、「あっ、それも韓国発か」と驚かれる
ことがたくさんあると思います。しかし、日本独特の発展をしてきたものもあると思いま
すので、韓国文化と同じところ、違うところ、いわゆる異・同、この二つの点に関心をお
持ちになりながらお聞きになるとよいと思います。
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基調講演
任 東 権
韓国と日本の文化を語るときに、ひとつの前提が
ございます。北方文化が韓半島を通って日本に渡っ
たということです。韓国では、文化の移動だけでな
く、人も北から南へ南へと進んできたのです。この
ことは、韓国人の方位感覚を見れば、すぐわかりま
す。
韓国人は「南」=「前」=「腹」です。例
南=前=腹=赤
えば、南にある山を、ソウルでは南山、新羅
テ グ
プ ヨ
の都の慶州でも南山、大邱では前の山、扶餘
西=右=白
青=左=東
ではお腹山といいます。「北」=「後ろ」=
「背中」になり、「左」=「東」、「右」=
北=後=背中=黒
「西」ということになります。韓国人のこういう方位感覚によって、民家の建て方とか、
宮廷の建て方とか、お墓をつくるときの風水思想はこれと全部つながりがあります。韓国
文化の大勢は北から南に向かって移動してきた、そういう形勢が残っているのです。
ではどうして北からなのでしょうか。そして、北のどこから来たのでしょうか。日本人
や韓国人には蒙古斑がありますから、人種学からすれば蒙古人種と言われています。この
こともあって、一般的には、蒙古あたりから来たと言われています。また、韓国は、人種
学的には蒙古系統ですが、文化的には中国の影響を強く受けました。
こういうことから、韓国の文化は北の方から南へ向かって進んできた。そして、玄界灘
を渡って日本に定着したという仮定がたてられるのです。
そうしますと、韓国から日本に、いつ、どのような形で人と文化が渡ってきたのでしょ
うか。釜山から晴れた日に、特に雨が上がった日に南を見ますと、かすかに対馬を見るこ
とができます。昔の韓国の人達は、「あそこには何があるのだろうか。今、僕らが住んで
いるところよりも南の方だから、もっと住みよいところではなかろうか」と思ったので
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しょう。そして、勇気を出して筏に乗り、船に乗ったりして対馬に来たのではないかと思
います。また、そういった人達が対馬に到着して、島の南の方を見ますと、かすかに壱岐
の島が見えます。壱岐に渡りますと九州が見えます。こうして勇敢な者が海を越えて、新
しいユートピアを求めて渡ったのでしょう。
イギリス、オランダ、スペインがあれほどの植民地を持っていたのは、勇敢だったから
です。ハワイにいる日本人で一番多いのは沖縄の方でした。南米に行ってもそのようで
す。日本に来ている韓国人で一番多いのは済州島の人です。島人ですね。農耕民族は土地
を離れたら田んぼがないから死んでしまうけれども、海洋民族は海から幸を得るという知
恵と技術がありますから、新しいユートピアを求めて移動してきたのです。
彼らが来るときに人だけでなく、生活文化がともに来ました。つまり、文化というのは
人が持って移動するものです。そうして大陸の文化が玄界灘を越えて日本に渡ってきたと
いうのが、今回のテーマです。
それでは具体的にどういうものがあるでしょうか。日本の鳥
居に似た役割をするもので、「ソッテ(鳥竿)」というものが
あります。これは、鳥の飾りが付いた竿で、村の神であり、村
の境界も示すものです。この鳥の飾りは、くちばしを北の方角
に向けており、北=故郷のほうを向いています。この「ソッ
テ」が時代を経て「チャンスン(長*[*=木偏に生])」にな
ソッテ
ります。この「チャンスン」では、木に人の顔のようなものを
彫ってあります。さらに時代を経ると、この「チャンスン」に
(江陵市:任氏撮影)
男女の区別がされるようになり、方角によって色分けされるよ
うになります。「天下大将軍」と「地下女将軍」などとして、男女の別を示し、東=青、
西=白、南=赤、北=黒として、東方青帝逐鬼将軍、西方白帝逐鬼将軍、南方赤帝逐鬼将
軍、北方黒帝逐鬼将軍と書いて村の前に立てるのです。これは聖と俗の境であり、村の外
と内の境界になるのです。
韓国の古い時代、親不孝者がおりましたら、村人がその親不孝者をチャンスンのところ
まで連れていって家財道具もろとも投げ捨ててしまうのです。これは村=集団から追放さ
れるという意味で、この人は村の中には再び入れません。このように民間信仰が生活の掟
になるという例は、韓国の方々で村毎のしきたりとしてありました。
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また、後の時代になりますと、チャンスンの下の方に、次の村に行くにはあと何キロと
書くこともあり、里程標としての役割も果たすようになります。
日本において、私は偶然にチャンスンと同じようなものを京都の大将軍神社で見まし
た。その説明には、桓武天皇が平安京を新しく建てる際、平安京の守り神として東西南北
に大将軍を祀ったとありました。私はこれを見て、桓武天皇の母は百済人だろうと考えま
した。当時は、子どもが生まれると母方の里に置き、成長してから父のもとへ連れていく
のです。ですから、桓武天皇は幼いときは百済人の家庭で育ったということになります。
そして、平安京には、母方の神=大将軍を迎えたのです。
私の調べたところでは、この大将軍信仰は、九州にもたくさんあります。九州で一番多
いのは宮崎県の日南市です。全国では 800箇所ぐらいあるのですが、最も多いのは滋賀県
です。滋賀県だけでも 200箇所ほどありますが、百済人の集団部落の近くにありました。
文化の移動は、人の移動とともにあるということがよくわかる例だと思います。
そのほか「盲僧」についてお話しします。日本で盲僧の話を聞いたことがありますが、
韓国においては盲僧という社会的な制度はなかったようです。しかし、占い、病気の治
癒、災害予測などの超人的な能力は目の見えない人にあると認められていました。それ
で、韓国では盲人の職業として、国で認めていたのは占いでした。占いというのは、未来
のことを知るということです。彼らは、霊感があり、お経を唱えて神と通じることがで
き、その人の運命を話してくれるのです。
そういう盲僧のような力をもつ人達のうち、特にそれが女性の場合にはシャーマン、つ
まり巫女になりました。女性の場合は、目が見えても見えなくても巫女として、歌を歌
い、踊り、色々な神事を行うのです。そして病気を治すとか、家の繁盛とか、子どもが遠
いところで成功するようにと、人の願いをかなえてあげるのです。
ところが、目の見えない男性の場合は、歌うことも踊ることもせず、ただ座って太鼓を
たたきながらお経を唱えるのです。お経を通して、その人の願い事、病気の原因とか、成
功するか失敗するかなどを教えるぐらいのものでした。ですから、盲目の人達の中でも男
性より女性のほうが、幅広く神事に携わることができました。
次に、海というテーマについてお話しします。今、私たちは地図を見ると、韓国と日本
の間には玄界灘がありますが、日本の考古学の話によりますと、18万年もしくは20万年前
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には陸続きで、そこには人が住んでいたそうです。韓国の考古学では20万年前、中国では
40万年前という説もあります。そうであれば、歩いて中国大陸から韓半島に渡り、日本
にも行けたでしょう。当時は同じ質の文化をもっていたと考えることができるのです。
2万年前に玄界灘ができて遮断され、それぞれが独立して、その後はしばらく往来がな
くなってしまった。往来がないと、文化は自分の個性を持つものです。ですから、日本は
日本なりのもの、韓国は韓国なりのものになっていったのです。
ところが、先ほども言いましたように、また『魏志倭人伝』にも記されているように、
諸説ありますが3∼4千年ぐらい前に、船に乗り海を渡って中国から海岸伝いに朝鮮半島
の西側の海岸を通って日本まで来た人達がいたのです。
広い海を渡るには、海洋知識と船が必要だったでしょう。船と言えば、日本の船研究の
権威によりますと、船の起源はナイル川だと言っておられます。ナイル川から世界中に伝
播していったと言われています。
海洋知識ということで言えば、韓国では、日本の神風について、このように伝えられて
います。元軍が来て済州島を占領し、軍隊を訓練したあと日本を襲うために出発すると
き、済州島出身の船師が「今は台風が来る時期だから、行ってはいけない」と言ったので
す。ところが、蒙古人は海洋知識がありません。ヨーロッパまで進んでいったのですか
ら、ちょっとした海などたいしたものではないと思い、船を出してしまって、とうとう神
風に遭ってしまったということです。
江上波夫さんの「騎馬民族説」によると、渡ってきたのは、初めは人だけでしたが、後
には馬を連れてきたそうです。馬を連れてくるには、馬にやる牧草を持って来なければな
りませんので、船の構造が違ってきたと考えられます。
はくそんこう
こうして新羅時代、百済時代は往来が頻繁になって、紀元663年の白 村江の戦いのとき
には、それぞれの国において、200∼300艘の船の往来がありました。すでに紀元600年ご
ろには瀬戸内海へも海路で自由に往来する大きな船も出来上がっていたのでしょう。
そうしますと、百済文化、新羅文化が日本の方にどんどん入ってきたと考えられます。
海を境にしてもさほど不便でなく往来することになったのです。それが紀元5∼6世紀頃
のこととすれば、今から1500∼1600年前には大陸からどんどん人と文化が渡ってきたとい
うことになります。
海洋文化が生まれると新しい信仰ができました。陸地に住んでいたときは、神と言えば
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山の神、お産の神、戦争の神、岩の神、木の神ぐらいだったのですが、海に出たら、一番
恐ろしいのは海なのです。人は、何とかして溺れないで生きていたいと思い、自分の力だ
けでは足りないから神様にお祈りする。ですから、船に乗る人には海の神、船神、船霊な
どが出現しました。韓国の南海岸にはたくさんの船神信仰がありますし、もちろん日本で
も船神が発達したのです。人はいつも自分を守ってくれるよう、大事にする守り神に祈っ
たのです。
ところで、日本では鎮守の森として、村の近くの小高い森に神を祀ります。それはだい
たい山の神です。山の神には、山のことだけでなくて、豊作や子宝のことも祈ります。日
本ではほとんどの森の近辺で神を祀っています。韓国では、その山の神、森の神のことを
「モウリ」といいます。「森(もり)」と「モウリ」は音が近いですね。鎮守の森のよう
に、神がいるとされる場所を指す言葉として、転換されたのではないか。何かつながりが
あるだろうという気がするのです。
人や文化は、北の方から南に来たと申しました。故郷を離れると、みんな故郷が見たい
のです。望郷の思いがあります。そこで、小高い山に登って自分の故郷や里はこっちの方
だよと子どもに教えるのです。山に登って自分の故郷の方を指す。私は、これが国見山で
はなかろうかと考えます。日本の歴史上では、国見山というのは、仁徳天皇が国の民の様
子を見る山として有名です。民の家から煙が出たら「食事ができているな」、煙が出ない
と「貧乏をしているな」と心配したという話です。ところが、私は九州に来て、国見山の
「国見」について違う解釈をしてもいいのではなかろうかと考えました。というのは、10
からくにだけ
年ほど前、九州のえびの高原に行った時、韓国 岳という山がありました。その周辺には
高い山が5つありますが、高千穂の山よりも韓国岳が高いのです。これは疑問に思いまし
た。頂上まで登ったのですが、説明書きによりますと、「山に登ったら景色がいい。それ
で韓国岳とした」ということで、どうも納得がいきませんでした。図書館に行っていくら
調べても、それ以上の解釈はないのです。
私は、韓国岳とは、そこに登って北の方を見たら自分の故郷=韓国が見える山だったの
ではないかと考えます。
実は、福岡に来る数日前に、九州北部の地図を見まして、チェックしてみましたら、福
岡の西の方に国見山がたくさんあるのです。西有田に標高777m、伊万里に177m、北松浦
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に496mの国見山などです。しかし九州の南の方は幾ら探してもなかったのです。またこ
の山々は、偶然にも陶工のたくさん住んでいるところに集中しているのです。こういった
ことから、九州において国見山とは、朝鮮半島から渡ってきた人々が故郷の方を見たいと
いうことで裏山に登って国を見る、自分の故郷を見る、望郷の山ではなかっただろうかと
考えます。
古い時代の王が人民の暮らしを判断するための国見山もあるし、故郷を離れた人が自分
の故郷を見るための国見山もあるのではなかろうか。これは九州にたくさんあると思いま
すから、どなたか研究のテーマにしてほしいと思います。
文化は北から入ってきたと言いましたが、一方通行ではありません。韓国から見れば南
の日本の文化が北に行くこともあります。
一例として「綱引き」があります。綱引きは日本から韓国に渡っていきました。
それからまた、韓国では山の神などを祀る場合には、女は禁制で男だけで祀ります。と
ころが沖縄では、男が禁制で女だけで祀るのです。南と北の違ったタイプ、この両方のタ
イプが韓国の南海岸には上陸しておりまして、全羅南道や慶尚南道の南の海岸に行きます
と夫婦が一緒に祀ります。南の沖縄は女性だけ、北の韓国では男だけですが、中間になっ
て、これは2つの文化の習合があったということだと思います。
また、沖縄では、女性が田植えをするとき、働くときに房を頭に巻きますが、韓国では
頭巾で、房ではありません。ところが、韓国でも済州島とか全羅南道の南海岸の農村では
それが見られます。それは南方文化の特徴で、島には行き着いたけれど、内陸までは伝わ
ることはなかったのです。これは、南と北の出会ったところで中間の文化ができたという
例です。
とうじんまち
そのほかに、福岡には唐人 町 がありますが、
平戸や鹿児島に行きましたら高麗町というのがあ
ります。唐人町というのは日本の方々にあり、ま
か ら こ
た踊りにも岡山県牛窓の唐子踊り、大垣や岐阜で
とうじん
は唐人 踊り、前橋では豊年踊りという唐人踊り
が伝えられています。これは朝鮮通信使が往来し
たときに残された置き形見であり、その影響で
す。人の往来が頻繁であればあるほど、文化は伝
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唐人町商店街入口(福岡市中央区)
わるものです。日本の祭りの中にはこの通信使の行列のまねをするところがたくさんあり
ます。和歌山では徳川将軍を祀っている紀州東照宮の祭りや、東京では浅草祭りや神田の
明神祭り、赤坂の山王祭りでも、通信使の行列の影響を受けています。
人の往来は文化を伝播させる。そして、そこの気候や生産物、生活様式に合わせてつく
り替えられていくのです。このように、古い時代に大陸から日本に文化が渡ってきた。そ
して玄界灘を渡ってきた文化は、その土地なりに改良され、日本の文化としてつくり替え
られたといえるのです。
これで、私の話を終了させていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。
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パネルディスカッション
稲葉 任東権先生の基調講演を受けて、パネリストの先生方に、ご自身の専門分野からの
視点で任先生に質問していただくという形で進めたいと思います。それでは、佐野先生か
らお願い致します。
佐野賢治 まず皆さんの前に、逆さ日本
地図を出してみました。これは富山県が
つくった地図です。ですから、富山市を
中心に円が描かれています。皆さんがも
し福岡を中心にコンパスを回してみる
と、発想が変わると思います。
稲葉先生が九州大学教育学部の忘年会
は釜山でやるんだと言っていましたけれ
ども、福岡では東京に行くよりも釜山の方が近いわけです。ですが、距離感だけではな
く、このように逆さに見てもらいますと世界観が変わると思います。
韓国は半島国家で、日本は島国です。そして、日本海がいかに沿海州から朝鮮の沿岸部
の人にとっては邪魔というか、出口が押さえられているという感じを受けたりもするわけ
でしょうね。
海は文化の交流にとって、障害ではなくて、非常に多量の文化をもたらすという要素が
ある。船のことを考えてもらえば、日本のように島国であって山国でもあるところは、ま
た、特に離島などで道路網が発達しない場合は、ごく最近まで船の方が主な交通手段でし
た。日本全体をとらえてみても、北前船交流で京阪の上方の文化が北海道あたりまで伝わ
り、また逆に北海道の昆布が沖縄に行ったのです。このように、大量の物資が運ばれ、北
海道の昆布が、沖縄の食生活にまで影響を与えるわけです。
民俗学という学問は、自文化を研究する学問です。日本民俗学であれば、日本人とは何
なのかということを研究する学問です。
自分の民俗のことは、自分で研究しなければいけないのですけれども、実はそれだけで
はわかりません。つまり、自分の背中は自分では見られませんので、外から見る視点も必
要です。それが比較民俗学という学問です。簡単にいえば、自分の文化を外から見るこ
と、これが任先生の研究です。任先生は、朝鮮民族の民俗をきちんと調べ、それから自分
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の民俗を考えるために、外からの視点として隣接する日本、大和、沖縄、アイヌ、中国の
民族、そしてモンゴル族と、外側から朝鮮民族の民俗文化を見た上で、内と外から合わせ
て自分の朝鮮民族の民俗文化とは何なのかということを研究してこられました。こういっ
た方法論を早くから唱え、実践してこられたのです。
日本における民俗学者として有名な柳田国男が、文学青年として『遠野物語』を明治43
年に書きます。それよりもちょっと前に『石神問答』を書きました。これは彼にとっての
民俗学の開始であり、文学青年からの離脱、そして民俗学へという、ひとつの意思の表明
だと思うのですが、この中で柳田国男が一番注目したのは「石積み」でした。いわゆる石
みなかたくまぐす
神問答で、南方熊楠とやり合うわけですけれども、その中で一番多い話題は何かという
と「十三塚」の話です。あまり十三塚のことばかり言うので、柳田国男は十三塚男と当時
は言われたそうです。
この十三塚というのは、石積みのことで
す。日本では村外れによく、いわゆる道祖
神や石のお地蔵様などがありますが、その
由来はどこにあるのかといったときに、朝
鮮半島のチャンスン(長*[*=木偏に
生])の文化ではないかということが大き
なヒントになってきました。
十三塚というのは筑前地方に非常に多
対馬海岸にある石積み
い。『筑前国続風土記』の中で、貝原益軒がなぜ筑前国には十三塚が多いのか、これは十
三仏から考えられるのではないかと言っていますが、塚の由来とか、日本の道祖神信仰の
ことを考えるときには、一国内だけの、一民族内だけの事例ではすんなりうまく解釈でき
ないのです。お隣の朝鮮民族やそれに連なるモンゴルのオボ信仰などを参照した上で、日
本の道祖神信仰とはどういうものなのかということを考える必要があるのです。
それぞれの民俗で共通する部分と共通しない「異」の部分を理解するには、比較をしな
ければわからない。比較をすることによって自分の民俗の特質がわかるのです。そういう
実践を任先生はやられてきました。日・中・韓、モンゴルと幅広く、分野も昔話、伝説、
神話、また物質文化まで含めて、非常に広い範囲を比較の基準として、再度、自分の民俗
文化と照らし合わせ、自分の民俗をどういうふうに見たらいいのかということを確立し、
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位置づけたのです。東アジアは漢字文化圏
や儒教文化圏、仏教文化や稲作文化などい
ろいろな比較の基準があります。その中で
のそれぞれの民族の持つ民俗文化の「異」
「同」ということを明らかにされたので
す。
任先生が先ほど比較の一例としてあげら
韓国中央民俗博物館入口の石積みとソッテ
れた「ソッテ(鳥竿)」についてですが、ソッテと鳥居などから比較民俗的に見て、どん
なことが言えるのでしょうか。
任
ソッテは「そびえた」という意味で、そびえた柱という意味です。その上に木でつ
くった鳥の彫刻みたいなのを載せるのです。くちばしは北の方を向き、故郷を望むという
意味だといわれています。また、ソッテのある場所は神聖な場所になっています。みだり
に侵してもいけない、汚してもいけない。つまり神がいるという意味があるのです。村の
前にソッテがありましたら、そのソッテは神聖な場所の境界を示し、その中には勝手に
入ってはいけないのです。
ソッテは韓国の全域に分布しており、韓国のどこに行っても見ることができます。ソッ
テは1本だけでなく、古いのと新しいのと何本もあることもありますし、また一度に3本
も4本も立てるところがあります。日本の鳥居は、鳥居といいますが鳥はいないですね。
鳥はいないのに鳥居と言われている。ですから、もとは鳥がとまるようにつくったのでは
なかろうかと思うのです。言葉からしまして、もともとは鳥と関係があったものであると
理解しています。
稲葉 それでは、続きまして永松先生、お願い致します。
永松敦 今日、私に与えられたテーマが「盲僧」ということで、博多には一番なじみの深
いお話をさせていただきます。
博多というのは非常におもしろい土地柄で、芸事を好むという博多気質があります。こ
のまちに来ると筑前琵琶の音が流れてくるという、本当にすばらしいまちです。もともと
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そういう琵琶を弾く芸事がなぜ発達
したのでしょうか。
その淵源は、盲僧琵琶だと思いま
す。目の不自由なお坊さんを盲僧と
呼んでいますが、月の土用、つまり
ウナギを食べる「土用の丑の日」な
筑前琵琶
ど、季節ごとの土用に盲僧が家々を
回って、かまどの前で琵琶を弾き、
お祓いをしていたことから始まっているのではないかと思います。
この博多のまちでも、だいたい昭和30年代くらいまでは、この「盲僧さん」と呼ばれる
人が家々を回っていました。現在、盲僧琵琶が残っているのは、北部九州では玄清法流と
いいまして、その本山は福岡市南区高宮にある成就院です。これは福岡市指定の民俗文化
財にもなっております。ほかには、鹿児島の常楽院流という流派の盲僧琵琶があります。
宮崎県延岡市で現在も頑張っておられる永田法順さんという方は、檀家が1千軒あり、毎
日3軒ぐらいを回り、かまどのお祓いをされています。この方はかすかに目が見えるので
すけれども、普通の路線バスに乗り、一軒一軒訪ねて歩かれるということを頑張ってやっ
ておられます。かつては九州全域、天草から鹿児島、あるいは大分の方、どこへ行っても
こういう方々がたくさんおられました。
どうしてこういう方々が九州にいらっしゃるのでしょうか。これには二つの説がありま
す。玄清法流の説では、筑前の方は宮崎の鵜戸に盲僧がおられ、その人が後に日向の佐土
原に伝え、薩摩に伝え、肥後の水俣に伝
え、筑後の味坂(現在の小郡市付近)に
伝え、博多の冷泉の方に伝え、豊前の中
津に伝えたという話があります。あちこ
ちに盲僧のお祓いの秘伝を教えました
が、平安時代に天台宗の本山である延暦
寺をつくるときに毒蛇が出て困るというこ
成就院での盲僧の読経の様子
とで、九州各地から盲僧が8名選ばれて比
叡山まで行き、地神経を唱えて蛇を追い出し、鎮めたという伝説が残っています。そのと
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きの作法というのは、九州の8名の盲僧が、各10名の僧侶を従えて8角形を作り、お経を
唱えて出てきた蛇をパッと箱にしまって鎮めたといわれています。そのおかげで、この盲
僧8名は九州のそれぞれの地方に帰って、天台宗のもとで琵琶を弾いて語っていいですよ
というお墨付きをもらったという話です。
これが鹿児島の常楽院系統の説になると、内容はほぼ一緒ですが、宮崎の鵜戸に百済か
ち し ん だ ら に きょう
ら盲僧が来て、その百済の僧から地神陀羅尼 経 及び、荒神というのはかまどの神様のこ
とですが、荒神祓いの作法を教えてもらったという話が残っています。
今日のお話の中心は玄界灘ですが、関門海峡を通り抜けて日向灘までおりると、日向灘
沿岸から百済の文化が入ったという話があります。有名なものとしては、宮崎県の南郷村
の師走祭りです。これは、百済の禎嘉王と福智山王という二人の王族の親子が百済から逃
げてきて、ひとりは宮崎県の木城町の比木神社、もうひとりは南郷村の神門神社にそれぞ
れ祀られ、その親子が一年に一回対面するという祭りです。
さて、先ほど任先生のお話にもありましたように、韓国にも盲僧のような方々がいて、
「パンス」または「ポンサ」と呼ばれ、お経を読んでいろんな占いや、かまどのお祓いを
されています。
現代において日韓の盲僧比較を研究されている福岡の永井彰子先生が出版された『日韓
盲僧の社会史』(葦書房、2002年刊)の中に、盲人の集まりというのは、8名いないと支
部や分会というのは組織することができないという伝承が今も残っていると書かれており
ます。これは本当に不思議だなと思いました。
また、文禄・慶長の役の秀吉による朝鮮侵略の戦争の際、朝鮮の盲人が王様を逃がすた
めに活躍したため、その時活躍した8名の盲人のために盲庁を設立し、衣冠の着用を許し
たという話が残っています。このように盲人というのは8名で組織するものだということ
が伝えられています。
このように見てみますと、九州の盲僧8名が比叡山延暦寺に行って大活躍したという話
と一致しておりまして、これは百済から来たという説と必ずしも無関係ではないだろうと
いうように考えられます。
現在の韓国の目の不自由な方々と宗教のあり方というのは、変容してなかなかよくわか
らないのですけれども、韓国では目の不自由な宗教者の方々が、どのような活動をされて
きたのかということを、任先生からここでお話をいただければありがたいと思います。
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任
韓国の古い文献と民間伝承によると、シャーマンの中には目の見えない人がいまし
た。女のシャーマンは歌い踊り、芸をすることによって神様を楽しませて、神様に願かけ
をしましたが、目の見えないシャーマンの場合は、芸より占いを多く行っていました。
男の盲人の場合は、歌い踊ることはせず、座って太鼓をたたきながら読経をします。そ
れは仏教の読経とは違い、約20∼30種類あり、病気によって読経の内容が違います。しか
し、僧侶というわけではありません。韓国において、仏教制度としての盲僧はないようで
す。韓国の仏教団体に電話して聞いてみたのですけれども、制度としましての盲僧はない
ということでした。
稲葉 どうもありがとうございました。それでは松原先生に移りましょう。よろしくお願
いします。
松原孝俊 今年2005年は、「日韓友情年」です。日韓関係の礎を築くこと、よきパートナ
ーとして21世紀を歩むということで、政府間で決められています。仁東権先生の受賞は、
私どものように長年、韓国ウォッチャーとして働いてきた者にとりましては、韓国民俗学
を日本に知らしめるいい機会として、そして福岡がその役割を担ったということで、大変
うれしく思っております。
任先生の業績について一言で申しますと、日本の柳田国男に匹敵するような、韓国民俗
学の開拓者であることは間違いありません。先生は55年間、民俗学の研究をなさってきま
した。初期の著書『韓国民俗学論攷』の序文に、まだ韓国民俗学は啓蒙期を過ぎてわず
か、開拓期にすぎないとお書きになっていらっしゃいます。それは1971年のことです。
先生の研究の最初は民謡の収集から始まりました。そして約2万5千の民謡を収集なさ
いました。これは画期的な仕事であったと強調したいと思います。その後に民俗研究、年
中行事の研究、昔話・伝説の研究をしてこられました。その間、韓国の約2万枚の民俗関
係の写真を撮影されました。
1910年から日本が朝鮮半島を統治し、1945年8月15日に、朝鮮、韓国の人々は解放の日
を迎えました。その日を迎えられた任先生は、恐らく決意なさったと思うのです。自分の
民族を知ろう、自分はどこから来たのかを知ろうと。先生の目の前にあったのは、不幸な
ことに、日本がかき乱した朝鮮民族の様子だったのではないでしょうか。そこから先生の
研究が始まったわけです。そして46冊の本をお出しになりました。論文の数は恐らく数百
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篇になるのではないでしょうか。
さて、この写真は、対馬から写した釜山
です。対馬と釜山とは海を隔てています
が、とても近く互いを見ることができま
す。先生がおっしゃった、海の向こうにユ
ートピアを求めて行くというお考えは、そ
の次の先生の研究の課題でありました、
「人の移動は文化の移動」という、そのテーゼを確立していったように思うのです。
ここで、任先生にいくつか質問させていただきたいと思います。
一つめは、釜山から対馬まで大体50㎞
ちょっとあるそうですが、対馬から壱
岐、そして呼子、その中間に沖の島がご
ざいます。宗像神社があり、我々が今い
る福岡があります。こういう地理的な関
係を、任先生はどのようにお考えになら
れたかということをお尋ねしたいと思い
ます。宗像大社の秋の大祭の「みあれ
祭」は、なぜか玄界灘を朝鮮半島の方に
向かって進んでまいります。沖の島につ
いては、海の正倉院と呼ばれるような古
代文化の宝庫があり、先生はキーワードと
して「ユートピアを求めて」ということを
おっしゃいました。我々日本人は海という
と金比羅船々のように宝船のイメージを
持っているように思うのです。また文部省
唱歌にあります「椰子の実」のように、海
といえば漂着する文化というイメージも
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「みあれ祭」の様子
持っていますが、韓国では海に対するイメージはどうなのでしょうか。これは、韓国にお
いて、海からどのように神を迎えてくるのかということです。宗像大社の海中鳥居といっ
たものについて、「海に関する民俗」という点で先生はどのような見解をお持ちなので
しょうか。
二つめは「海女の民俗」についてです。対馬
や三重県の志摩半島に海女がたくさん住んでい
ますけれども、そうした海女も言い伝えにより
ますと済州島から来たと言われています。福岡
市の志賀島に由来する万葉集の歌に海女の歌が
ありますが、朝鮮半島の海女と日本の海女とい
うものの比較において、先生のお考えや新しい
います。例えば牛窓町の唐踊り、三重県津市の
遣新羅使人の歌
の移動ということを取り上げた本も発表されて
志賀のあまの
おっしゃいました任先生は、朝鮮通信使と文化
志賀の浦に漁する海人
三つめですが、「人の往来は文化の往来」と
明けくれば
ます。
浦み漕ぐらし かじの音きこゆ
︵万葉集第十五巻三六六四番歌 ︶
見解があればお聞かせいただきたいと思ってい
唐踊りも我々は知っていますが、朝鮮通信使と
から
から
して来ているのに「唐」と書いてあります。この「唐 」という文字に我々は惑わされて
とう
から
はいけないと思うのです。これは中国の「唐」ではなく、間違いなく「唐 」が朝鮮を指
すならば、どこか朝鮮半島の民俗儀礼と日本の唐踊りと同じような事例があるとすれば、
ぜひ教えていただきたい。
また、この福岡市には山笠という祭りがあります。この山笠には、朝鮮通信使と関連す
るものがあるのです。それは何かというと、「清道」、韓国語で「チョンド」です。福岡
では山笠の通るところを「清道」という旗を持って道を清めて歩くのです。朝鮮通信使の
行列も「清道」という旗を持って歩きます。これは何か関係あるのでしょうか。三つ質問
いたしましたが、ひとつでもお答えいただければと思います。
任 一つめの質問、韓国の海に関する民俗とイメージについてですが、日本では柳田国男
の「椰子の実」、つまり黒潮に乗って椰子の実が漂流したように、人々も太平洋から黒潮
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に乗って来たであろうという仮説があると、私は考えておりますが、韓国は全然それには
当てはまりません。つまり、北の方が陸続きですから海を渡ってくる冒険はなかったはず
です。もともと韓国は大陸の一部でしたから、海とはあまり関係がなかったのです。民俗
学の発想が柳田国男先生とはちょっと違います。つまり、私たちは北から南へ南へと大陸
を渡って来た民族であり、文化もそうであるということです。
海の中に立つ鳥居をどのように解釈すべきかですが、神様があらわれるには二つの方法
があります。天孫降臨の日本神話にある、天から降りて来る方法と、もうひとつは、海の
向こうから渡ってくる方法の二つです。日本において海の向こうから神様が来るのに、海
のどっちから来るのでしょうか。私の調べたところでは、太平洋からではないようでし
わ た つ み
た。対馬の和多都美の神を祀る神社に行きましても、いろいろな神社の鳥居が韓国に向
かって海の中にたっています。対馬で一番古いのは木坂神社ですが、木坂神社自体が北の
方に向いており、鳥居も北の方を向いています。つまり、船に乗って上陸したそのルーツ
の方角を向いているのです。ですから、海の中に鳥居があるのは神が海のかなたから渡っ
てきたからです。このことは日本が島であるからそうなるのです。韓国にはそういう考え
は全然ありません。対馬の地図で神社の配置を調べてみますと、3分の2が北側、韓国向
きに神社がありました。日本向きには神社がありません。対馬に渡ってきた経路を説明す
るものであろうと思います。
対馬の住吉神社に尋ねて行きましたら、その土地の人から、対馬にあるのが最初にでき
た住吉神社で、その次が壱岐、次が筑紫、次が長門で、一番最後が大阪だったという話を
聞きました。今は大阪が都会なので、大阪の住吉が一番大きいし、威張っているけれど
も、あれは一番末だ、こっちの方が一番だという話です。冗談のような話ですが、私はそ
れには一理があると思いました。これは大陸から神様が、そして人間が渡った順序だと思
います。大陸から渡って対馬に行き、それから島伝いに壱岐に行き、筑紫に上陸して、長
門に行って大阪まで行ったのです。朝鮮通信使の歴史を見ますと、12回往来して、うち1
回だけが対馬泊まりで、11回は江戸まで行ったのです。そのルーツに住吉神社があるので
す。住吉の神を交通の神と日本で言っていますが、もともとは、海路安全の神で、大陸の
向こうからユートピアを求めて来た神様ではなかったろうかと考えます。それから、宗像
大社も一の社が沖の島に、二の社はその沖にあり、宗像大社は内陸の方にあります。つま
り海の向こうから来ているのです。そのために宗像大社もやはり海人神社、海路を守って
いる交通安全の神と言われているのではないでしょうか。
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二つめの質問の、海女に関する民俗ですが、韓国では海女は済州島にしかおりません。
この海女はもしかしたら日本から来たのではなかろうかと思います。韓国の大きな島は済
州島ですし、済州島は南の方ですから海水が温かいのです。韓国の北の方は寒くて海女は
仕事ができないのです。夏になりますと、済州島の海女が東海岸、釜山あたりまで出稼ぎ
に行くこともありますが、それ以外はないのです。ですので、この海女の歴史は気候の状
況、温度から言いましても、もっと南の方に設定することになります。日本には伊勢にも
海女がおりますし、日本の海女の歴史も古いようですから、そのつながりは今後の問題だ
と思います。
からこ
三つめの質問の唐子踊りについてですが、
牛窓の唐踊りは、「唐子踊り」です。三重県
とうじん
津市の唐踊りは、「唐人 踊り」と言ってい
ます。唐人踊りも唐子踊りも意味は同じだと
思います。牛窓の唐子踊りは、5歳ぐらいの
から
男の子を村で2人選び、その子が「唐 」の
着物を着て、自分の父の肩に担がれてお宮の
から
前に行き、踊るのです。唐 といっても中国
岡山県牛窓町「唐子踊り」の様子
ではありません。韓国のことです。つ
まり 韓国の「韓 」のカラ、 中国の
とう
「唐 」もカラで、日本の古い文献を
みますと、中国の唐と混同しているよ
うです。韓国のものもほとんど「唐」
と書いてあります。
私は、島津公と一緒に文禄・慶長の
三重県津市「唐人踊り」の様子
ときに朝鮮に来た従軍僧の記録を手に
とうじん
入れて読んだのですが、その記録には、朝鮮人を「唐人」と書いてあるのです。中には
「今日市場に行ったら、鼻が取れた人が多かった。」などと書かれていました。これは、
豊臣秀吉が朝鮮を攻めた時、はじめは耳を切って武功を示したのですが、耳は2つあるた
め、1人殺したのか、2人殺したのかわからないので、鼻にせよと言われたそうです。そ
ういう記録を見ますと、その中では「唐人」といっているのです。私は『朝鮮通信使と文
から
化伝播』という本の中で、唐とは朝鮮であるということを実例も挙げ1章書きました。
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しかし、「唐人踊り」のある三重県津市には通信使が通ったことはありません。福岡にも
上陸しておらず、対馬から壱岐島へ、そして長門から厳島へ行き、大阪から上陸して、琵
琶湖あたりを通り、関ヶ原をぬけて大垣あたりから名古屋、豊橋、箱根を経て江戸に入っ
たのです。通信使の通ったところがない大垣に踊りがあるのですが、そこでは「豊年踊
り」と呼ばれています。通ったこともないのに何でこうなるのか。その地方の説のひとつ
によりますと、商人が名古屋に行った際、唐子たちの踊りを見ておもしろかったので、自
分の故郷で若い者と一緒に踊り始めたということです。
三重県には津市と鈴鹿町と2箇所にありまして、ここでは「唐人踊り」といいます。着
物も唐人が着るようなまねをしているのです。また、牛窓では本物の踊りに似せて子ども
に踊らせたのに、ここでは本来の姿がぼやけて、踊りも表情もおもしろおかしく変えられ
ていますね。
こういう踊りが豊橋で
は「笹踊り」になり、そ
れから掛川では「豊年踊
り」になり、富士の近く
では「虎踊り」になり
と、いろいろな名称に
なっていますが、それは
朝鮮通信使が行列で通っ
通信使の行列(対馬のアリラン祭り:任氏撮影)
たところでございます。
通信使は約500名程度できたようです。日本の大名は500名に飯を食わせて寝かさないと
いけないため、経済的に随分苦労したようです。最後の朝鮮通信使の際に、対馬止めとし
たのは、内陸の大名たちが財政的に困ると不平を言ったからで、済州島に引き揚げさせた
ということです。 通信使の行列(対馬のアリラン祭り)
この500名の中には、高級官吏や詩人がいました。日本の文人と問答するのです。新井
白石や雨森芳洲とも問答をしました。また、日本からは絵描きを連れてきてほしいと要望
があったようで、絵描きもたくさん連れてきました。その絵や扁額が方々に残っていま
す。ソウルから出発するのは35∼50名ぐらいで、釜山に来るまでには70∼80名ぐらいにな
るのです。途中で官吏を連れ、絵描きも連れていったのです。
ばじょうさい
当時の韓国に、馬上 才という馬に乗って芸をする曲芸師がいました。蒙古の馬術をす
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るので、これは日本ではとても珍しく、日本側はぜひとも馬上の芸をやる人を連れてきて
欲しいと言ったそうです。馬に乗って芸をするためには、馬も連れてこないといけない。
そうして、馬を養う場として江戸に馬場というのが出来たそうです。
釜山からは、一気に膨れて500名になります。なぜこんなに多くなるかというと、その
当時の船は帆船ですから、漕がなければなりません。モーター船ではないのです。釜山か
ら木浦まで、南海岸の漁師たちを強制的に徴発したのです。慶尚南道の今でいう知事に、
何百名調達しろと命じて漕ぎ手を徴発しました。また漕ぎ手の大人のほかに手仕事をする
子どもたちが30∼50名ぐらい連れていかれました。それで500∼550名ぐらいに膨れ上が
り、20∼30艘の船に乗って出発していきました。
対馬の宗氏が釜山まで来て、それから水先案内をして対馬に連れて行きます。大抵、対
馬では、風のため船が出せず、10日、ひどいときには一か月も泊まることがあったそうで
す。それから壱岐に行き、何日も泊まる。また、瀬戸内に行って牛窓では長くて18日間も
泊まったという記録があります。各地で500名が十何日も泊まるのです。当時の大名は大
変だったと思います。
船が出ないで泊まっている間は、文士たちは、日本の文士と字を書いて問答するなど、
交流をしたのです。こうして大陸の文化が日本の文人たちに伝わっていきます。ところ
が、船人や子どもたちは、何もすることがないので、夜になると酒を飲み、自分の故郷の
遊び事をしたのです。それが残って、唐人踊りになり、唐子踊りになったというわけで
す。当時は、日本を往来する外国といえば朝鮮しかなかったので、とてもおもしろく思
い、まねたのでしょう。それが今も日本に残っているのです。
唐子踊りは、日本全国で25箇所ほどに残っています。九州では福岡にはありませんが、
熊本や芦辺に残っています。長い間まねをするうちに唐子踊り、唐人踊りとして定着した
のです。それが江戸を通して日光の近くまで残っています。関西以東はほとんどないので
すが、関東地方に参りまして、富士山を越えて、日光までいく途中の寺には、絵馬とか、
絵巻物にちゃんと唐人行列が描かれています。江戸の三大祭りは浅草、神田の明神、それ
から山王祭ですが、その祭りには唐人行列が必ずありました。
松原 唐人踊りと似ているような踊りが朝鮮半島にありますか。
任 あります。通信使として引き連れてきたのは慶尚南道と全羅南道の海辺の人々です。
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北の地方の人は連れてこなかった。そこで、私の見たと
ころ、韓国で無形文化財として指定されている慶尚南道
テ グ
の民俗伝統芸能があげられます。それは大邱近辺、釜山
コ ソン
オ グァンデ
や固城 など南側にある五広大踊りとよばれるもので、
面を着けた5人による踊りがありますが、その一場面に
似ています。自分たちが見て面白い所だけを再現したの
でしょう。
また、「清道」というのは、道を清めるということで
す。「清道」と書いた大きな旗を持って行列の50∼60メ
ートル前を行くのです。通信使というのは、一国を代表
した国使なので、国使が通る前に道を清めるという意味
五広大踊り
(統營市:任氏撮影)
があります。行列の先頭にはいつも「清道」が行き、道
を清めているのです。
ま と め
稲葉 韓国の料理に「ピビンパプ(pibin pap)」というのがございます。日本語ではビ
ビンバと書いたりしておりますが、ピビンパプ(pibin pap)が正しい発音でありまし
て、「ピビン」というのは、「まぜた」、「パプ」というのが「ご飯」、「ピビンパプ」
=「まぜご飯」ということです。ごちゃまぜにして初めておいしい味が出るというわけで
す。本日のフォーラムもいろんなテーマがありました。皆様、ピビンパの様に、コチュジ
ャンをたくさん入れるか、少し入れるか、あるいはここのところの野菜をどうするかと
か、本日のフォーラムも各人それぞれに味わっていただければ、そのように今日のフォー
ラムの成果を取り入れていただければよろしいかと思います。
ちょっとだけ私の感想を述べさせていただきまして終わりにしたいと思います。かつて
日本では『日本の中の朝鮮文化』という本が、三千里社から50巻出ました。これによりま
すと、日本独自のものは何もない。皆コリアンルーツである、オリジンであるということ
になってしまいますが、任東権先生が今日お話しになりました中のキーワードは、「文化
は変容する」ということでした。韓国から、韓半島を経て玄界灘を渡って日本に来て、日
本なりに変容するということだったと思います。
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また、韓国の中でも同じ一枚岩ではなくて、海辺の文化と内陸の文化はまた違うという
こともありましたし、文化が北から来るばかりでなくて、日本から韓国へ行ったのもあ
る。例えば綱引きというのは日本のものであるとか、あるいは済州島の海女さんたちは日
本発ではないかとか、そういう見方もできるという説です。
こういういろんな知識を私たちは得ることによりまして、日韓の文化、お互いを見ると
きにまた違った見方ができるのではないでしょうか。ペ・ヨンジュンやチェ・ジウの顔も
違って見えるのではなかろうかということを思ったわけでございます。
今日はどうもありがとうございました。
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