茶の湯とキリスト教の関わりを文化的な見地から、これまで具体 的

論文要旨
本論文の目的は、茶の湯とキリスト教の関わりを文化的な見地から、これまで具体
的な形では示されてこなかった史料を提示し、16 世紀後半に来日したイエズス会の茶
の湯を採り入れた「適応主義」(Accommodation) に基づく宣教の実態について明らか
にすることである。史料とはすなわち、筆者が 2012 年に Archivum Romanum
Societatis Iseu(ローマイエズス会文書館)より収集したイエズス会士の文書であり、
本論文では本史料を原文の活字表記と英語訳と共に、日本語に翻訳して示す。
1579 年(天正 7)、イエズス会東インド管区巡察師アレッシャンドゥロ・ヴァリニ
ャーノ(Alessandro Valignano S.J., 1539-1606)は、ローマのイエズス会総本部で
新しく発布された「イエズス会会憲」を、日本に派遣されたイエズス会会員に対して
説明するために来日した。ところが彼は視察当初においてすでに、携えてきたヨーロ
ッパの思想や習慣に基づき編集された「会憲」を当地では使えないと認識した。なぜ
ならば日本の諸事情は、ヴァリニャーノがこれまで宣教を通して体験してきたヨーロ
ッパはもとより、東インド管区に属した地域における文化や人々の生活習慣と全く異
なっていたことを見定めたからである。そこでヴァリニャーノは、異文化の中で宣教
を展開する手段として、布教地の儀礼や習慣、言語などを採り入れた「適応主義」と
呼ばれる布教政策を採用し、日本社会にキリスト教を伝道するための工夫と調整を図
った。
ヴァリニャーノの適応主義政策により、当時日本人の儀礼として武士から町人に至
るまで盛んに嗜まれた茶の湯は彼の注目に価し、イエズス会の布教活動には重要なも
のとなった。彼は日本人が茶の湯を礼儀作法として重んじていることや、教養や嗜み
として価値を見出していることを認識した。ヴァリニャーノは、日本では茶の湯が客
人に敬意を表すために用いる最高のもてなしであることを理解し、これを布教方針に
採り入れて、日本人との友好的な交流関係を築いたのである。
本論文では、ヴァリニャーノが特に当時の主権者や領主たちから布教許可を得るた
めに重視し、彼らの間で流行した茶の湯を日本イエズス会の指針や規則に盛り込んで
いたことを、史料を挙げ明らかにしたい。具体的には、ヴァリニャーノは修道院内に
座敷や茶室を設け、日本の儀礼にしたがい訪問者の身分に応じたもてなしを行ってい
たことを論証する。
さらにヴァリニャーノは、茶の湯に存在する精神性にも着目した。彼は茶の湯には
自らが修道生活の戒律を通して鍛えられた修行という精神性、そして霊性という共通
1
性があることを発見したと考えられる。そこでヴァリニャーノが茶の湯者、つまりイ
エズス会の茶の湯全般業務を担当する奉仕者に対して示した規則書を史料に挙げて、
茶の湯の修行とキリスト教の修道院における修行には、共通する精神性が存在してい
たことを明らかにする。
以上を踏まえ、以下、第 1 章「イエズス会の宣教」と題し、ヴァリニャーノが日本
にて適応主義に基づく宣教を実施するにあたり、イエズス会では創立以来、布教地の
習慣を採り入れた宣教活動が当初から会の特徴であったことを明らかにする。ヴァリ
ニャーノ以前に異教徒の地へ派遣されたイエズス会の宣教師たちが、現地の人々の生
活に適応した布教を実施していたという報告書から、イエズス会が目指す異教徒の地
に適した宣教方針を明白にする。
第 2 章「ルイス・アルメイダの茶会体験報告」では、当事イエズス会修道士であっ
たルイスアルメイダ(Luís de Almeida Irmão, 1525-1583)が堺の豪商である日比
屋了珪の茶会に招かれ、そこで初めて見た茶の湯に関して、史料に基づき具体的に論
じる。アルメイダは日比屋邸の茶室に通され、はじめに食事が摂られ、一同で祈りそ
して茶を点てるという流れで進行していくの茶会を体験した。了珪はキリシタン茶人
であったため、食事が終わり茶を点てる前に祈ることを習慣としていたのであった。
この様子を目撃したアルメイダは、了珪が茶会の中にキリスト教が最も重視する祈り
を盛り込み、日常的に適応させていたことを認識した。本論文では、ヴァリニャーノ
が茶の湯を見出し布教に採り入れる以前に、アルメイダによって注目されていたこと
を明らかにする。
第 3 章「ルイス・フロイスの茶室に関する報告」は、ルイス・フロイスが京の都の
キリシタン茶人の茶室でミサ典礼を捧げたという報告から、彼が認識した茶室の清浄
さについて明らかにする。これに加えフロイスの記述から 4 年程後の出来事であるが、
1573 年(天正元)9 月 8 日、グレゴリウス十三世の勅許の中にミサは「品位ある適切
な場所」であれば、聖別された教会以外でも捧げられるという記述を挙げ、フロイス
が茶室を品位ある場所として見極めていたことを論証する。
第 4 章「ジョアン・ロドリゲス通辞『日本教会史』にみる茶の湯」は、ジョアン・
ロドリゲス・通辞(João Rodrigues Tçuzu, S. J., 1561?-)によって作成された
『日本教会史』“Historia da Igreja do Japão” を史料に基づき、彼が目撃した茶の湯
について検証する。ロドリゲスは茶の作法が数寄(suky)と呼ばれる精神性を重んじ
た茶の湯へと変化していく様子を記述しており、これは茶史と照合しても正しいこと
を明白にする。さらに本章では、宇治の茶師 14 代上林春松氏の研究「ジョアン・ロ
2
ドリゲス『日本教会史』にみる安土桃山時代の宇治茶業」を扱い、ロドリゲスによる
宇治の茶業報告を検証する。
第 5 章「ヴァリニャーノが茶の湯から導き出した適応主義に基づく宣教方針」では、
まずヴァリニャーノが意図するイエズス会の茶の湯の実態を検討する上で、イエズス
会の茶の湯担当者が「同宿」という日本人の奉仕者であったことを明らかにする。具
体的には、日本イエズス会第 1 回協議会並びに日本イエズス会第 2 回総協議会で討議
された同宿についての議事録から、ヴァリニャーノや協議会に参加した司祭全員は、
同宿の存在が宣教活動のために不可欠であると認識していたことを論証する。さらに
ヴァリニャーノが作成した「同宿規則」から、同宿に求められた修道院における奉仕
と生活の関する掟を明らかにする。
ヴァリニャーノが茶の湯の社交性に注目し、これを適応主義に基づき宣教方針に採
り入れていたことについて、『イエズス会士日本礼法指針』や「受付規則」、「客の
もてなし規則」、「茶の湯者規則」を主な史料に用いて解明した。ヴァリニャーノが
『イエズス会士日本礼法指針』の中で命じた修道院や教会の建設条件については、南
蛮文化館所蔵「南蛮屏風図」、神戸市博物館所蔵「都の南蛮寺図」と「南蛮屏風図」
に描かれた構図と照らし合わせ、屋敷が日本建築に造られていたこと、屋敷内には畳
が敷かれた座敷が設けられていたこと、それらの座敷に伴って縁側が設置されていた
こと、そして屋敷の周辺には日本庭園が設けられていたことを検証する。つまり屏風
に描かれたイエズス会の修道院や教会が何れも日本の建築方法を提示して、ヴァリニ
ャーノの適応主義に基づく布教方針が施設の建て方にまで浸透していたことを明白に
する。これに加えて、多賀神社所蔵「調馬・厩馬図屏風」を提示し、そこに描かれて
いる構図はヴァリニャーノが『イエズス会士日本礼法指針』の中で示す「二室一組の
座敷」という間取りと同様であることを示す。これにより、ヴァリニャーノは修道院
の間取りに至るまで日本建築に従い、客人に相応しいもてなしを布教方針の中で掲げ
ていたことを明らかにする。
さらにヴァリニャーノは、修道院内の茶室を生活空間と完全に区別していたことを
「禁制」という茶室内の禁止行為から論証する。
以上の論考に基づき、日本イエズス会は適応主義にしたがい、当時日本で流行した
茶の湯を宣教方針の中に採用していた実態を明らかにする。この背景と実態に関し、
適応主義がいかように行われていたか具体的に明らかにする。ただし、適応主義の範
囲は宣教という目的の手段であり、この点については厳密に区別する。言語、教会建
築の外観は日本の習慣に習ったが、教会内部について適応主義は採らなかった。ヴァ
3
リニャーノは、同宿の中から日本の礼儀作法に通じた者を茶の湯者に選抜し、彼にイ
エズス会の茶の湯を担わせた。しかし、その茶の湯者は修道院を訪問する日本人に対
して、日本の習慣に相応しいもてなしをふるまったのであり、それが修道院の内部に
及ぶことはなかった。適応主義の範囲を示すものである。
適応主義に基づいた茶の湯とキリスト教の交流について、これまで先行研究の岡田
章雄氏をはじめ幾人かの研究者によって扱われてきたが、史料の入手が困難であった
事情も考えられるが、何れも史料を提示して論じてはこなかった。その意味で本論文
は、ローマイエズス会文書館より収集した史料に基づき、ヴァリニャーノの指示によ
るイエズス会修道院内で実施された茶の湯を採り入れたもてなしの実態を明らかにし
た最初の論文である。
4