東京多摩学園は人生万事塞翁の馬からの授かり物 (青梅稲門会 山下更正) 今年の4月「僕らがいちばん安心できる場所」 (東京多摩学園物語)がMOKU出版 より発売することができました。この物語は人と人との不思議な縁で、神の御手に織ら れる布の如く、学園は昭和63年9月開園に至りました。この本を読まれたある会員様 より、青梅稲門会のホームぺージに投稿したらとのお話を頂き、不可思議な縁を体験し た者として、以下塞翁の馬の縁について書かせて頂きます。 (最初の縁) 私は昭和36年早稲田大学第1法学部を卒業し、東京都庁に入職して、東京都水道局 (公営企業)に配属されました。37年7月7日に私は事業所の代議員として、東京水 道労働組合の大会に出席しました。定刻に書記長が壇上に上がったので、開会宣言かと 思ったが「内々事前に連絡してある別の会場に皆さん移動して下さい」との宣言でした。 虎の門の久保講堂から、殆どが出て行った。卑劣極まりないこの大会の運営に驚くと共 に怒りが湧いてきた。事業所に帰り、何故なのか尋ねるが、よく分からなかった。翌朝、 課長に呼ばれ、 「小さい組合(共産党系)から、大きい組合(社会党系)に入れば本庁 の良い部署に異動させる」と勧誘された。「こんな規約違反の分裂は納得できない。分 裂するならだまし討ちでなく、正々堂々と行うべきです」とお断りした。週刊誌の記事 を後で読むと、アメリカ大使ライシャワー氏路線の「労働組合から共産党系を排除する」 その第1号が東京水道労働組合だったとのことである。課長の勧誘を断っただけでな く、 「こんな卑怯な分裂は間違っている。財産は既存の小さい組合のものである。」など の文書のビラを事業所の職員に配りました。それが、小さい組合から評価され、本部書 記長が事業所に来て、「今後組合運動をどうすべきか私の意見を聞きたい」と話してき た。「まず本部、支部の組合幹部は一般職員よりうんと働くこと。分裂時の組合財産は 仮処分申請して、小さい組合が確保すること。組合費の2パーセントを福祉に寄付する こと」で大きい組合に勝てる。この新しい方法で行くべきですと提言した。書記長は「山 下君は管理職と同じだ。我々は資本主義の法律は使わない。福祉は政府がやるべきこと」 と教条主義の回答である。 「書記長!戦争を仕掛けられたのですよ、勝つためにはこれ しかないと私は思います」と言って、この幹部じゃ駄目だと匙を投げた。 (次の縁) 他の大卒の仲間より遅れて、39年5月本庁の工業用水道部工務課経理係に異動し た。挨拶回りしたら各部の経理係長が「今度工水部に来るのは水道局ピカイチの赤が来 るのだ」と聞いたが山下君のことかと笑って言う。 「誰がそんなに言いふらしているの ですか?」と尋ねたら、 「君の所の係長だよ」と言う。工水部80名の中で小さい組合 は私だけである。白鳥の群れの中に黒いカラスが一羽混ざりこんだ状態で、当然村八分 である。当時、私はこれからは車社会になると考え、東京都立大学工学部機械工学科(夜 間)に通学していた。 定時に出るため、朝おにぎり買ってきて、昼食はそのおにぎりをかじりながら、仕事す るのがこの2年の日課になっていた。異動してきて2日目に、皆は昼食に外へ行き私は 通商産業省に提出する国庫補助金の実績報告書にミスがないかおにぎりを食べながら 工事台帳とチェックした。1時過ぎに全員が帰り、工事台帳の担当者が「貴様!俺の工 事台帳に鉛筆で書きやがって。謝れ!」と怒り心頭に達し、大声で怒鳴った。部員が驚 いてこちらを向いている。わたしも大きい声で「あんたの帳簿だって?これは役所の帳 簿だよ、仕事のためにしたんだから謝れなんてとんでもない」と怒鳴り返した。彼はこ の野郎!と殴りかかってきたが、皆が抑えた。しかしこの効果は覿面で翌日からは村八 分の空気は消えてしまった。 数か月後、係長に呼ばれた。「現在の日量約70万㎥は3年前の各工場からの申し込 み水量で決定された。しかしこんなに契約水量は無いと思うので、水使用の合理化、新 産業都市・工業整備地域などへの工場移転等を調査して実際の契約水量が給水開始年度 に幾らになるかその契約水量とその後20年の契約水量の見込みを作成しなさい」との 指示であった。関係各局の資料、通産省の工業統計表、下水道の普及計画等調査し、各 業種別の出荷額単位水量を算出し、今後の生産増と水使用量の合理化による水量減を推 定し、給水開始年度は二分の一の35万㎥その後毎年日量約1万㎥減少する。20年後 は約15万㎥以下に契約水量は落ち込むと資料を添付した報告書を2月後に係長に提 出した。係長はその報告書をさっと読み、俺これから関係部と調整してくると、報告書 を持ち出かけた。数時間後に戻り、係長に呼ばれた。通産省との関係を考慮し「70万 ㎥の旗は降ろさない。第一期工事35万㎥、需要が増加したら、残りの第二期工事を実 施する」との建前で行く。 「山下君!君がこの件は通産省と交渉して纏めてくれ」と指 示された。一月程かかり、第一次事業計画日量35万㎥で現計画の事業費を減額して実 施することで合意できた。ピカイチの赤の私に仕事を与えたのは、信用できるか観察し ていたのだろう。この係長が主計課出身だったので、44年1月主計課に異動となった。 その年の10月二男が誕生し、2月後に幽門狭窄の手術を全身麻酔して行い、重い知恵 遅れとなり、背負いきれない鉛の重い十字架が私の家族に齎された。 (更なる次の縁) 工水部経理係長の縁で44年総務部主計課財務係に異動となった。46~47年にか けて工業用水道事業の健全化計画と水道事業の再建計画の作成など非常に多忙となり、 定時には殆ど帰宅できない状態だった。二男が植物赤ちゃんでどう見ても異常なので、 手術した都立清瀬小児病院に一年後辺りから、全身麻酔が原因ではないかと診察に行く が、真実はあかしてくれなかった。何処の病院に相談しても白い巨塔であった。困り抜 いて、知人の福祉局部長に相談したら、心身障害者福祉センターの相談課に行きなさい と言われた。46年11月相談したら、重度の精神薄弱児と医師に判定され、精神薄弱 ってなんですか?治る病気ですかと必死に尋ねた。そして全身麻酔が原因ですね?と尋 ねたがいずれも答えはなかった。47年の春、早稲田の先輩の財務係長に相談した。 「重 い、歩けない、言葉もない知恵遅れのこどもがおり、年子の子供もいて、妻も大変です。 管理職試験も受けない、定時で帰宅できる近い忙しくない現場に出してください」とお 願した。係長は「知恵遅れの子供さんのために管理職になったほうが良い。来年受験し 合格しましょう。そのために此の課にいたほうが良い」と熱心に説得された。そして翌 年の48年合格し名簿に登録され、49年7月営業所の所長に昇任した。52年営業所 で労働組合が最も強い営業所に異動した。着任後の2月あとに大きい組合と小さい組合 とのトラブルが引き金だったのか、小さい組合のT君が強迫性神経症となった。お母さ んが悲嘆し何回も如何してこのようになったのかと電話がかかってくる。お母さんにあ る日私の自宅に来て貰った。二男を見てもらい、「この子は8歳ですが、人間として生 きたのは57日で、麻酔で植物状態になりました。お子さんは23歳まで人として生活 してこられ、これからも薬の調整で復職もできます。そのためにはお母さんが確りする ことが必要です」と諭した。私はこの体験から、社会には苦悶している家族が沢山いる だろう。二男聡のように人として生きられない大変な子供もいることを公表すると励み になるかも知れないと東京都水道局機関誌「水脈」に、イカ以下君物語として投稿した。 53年3月号に掲載され相当の反響があり、また書いてほしいとの要望で[脳の話](グ レン・ドーマン法)を投稿した。この強迫性神経症の青年は復職し、私が53年7月水 源林事務所管理課長に異動したので、彼にとり最悪の職場環境から、水源林事務所に来 てもらった。彼から昨年3月無事定年退職できましたとのお礼の電話があった。 (さらなる縁) 水源林事務所は奥多摩町、小菅村、丹波山村、塩山市(落合地区)約2,2万ヘクタ ールの山林(水道局所有)を管理している。現在は水源管理事務所に変更され、上述の 山林のほか小河内ダムも管理している。このため奥多摩町とは深く関係する部署であ る。特に石灰石採掘の天祖山との関係では所有者のため、協議等があり多くの知人がで きた。56年経理部管財課長に異動した。水道局財産の所管課のため、奥多摩町との関 係は続いた。59年総務部庶務課長に異動した。議会、幹部職員の人事、多摩地区水道 事業管理者の日本水道協会の東京都支部の事務局等の所管事務であった。60年3月聡 が中野養護学校中等部卒業後の進路として外作業のある足利市のこころみ学園で実習 生として、生きる力を付けて貰うことにした。園長に「山下さん!聡君は預かりますが、 そうすると山下さんも奥さんも、聡君に係っていた時間が浮きますね。それを知恵遅れ の子供のために何か貢献してください。そうしてくれないと、預かる意味がありません。 この子たちは親が頑張らないと生きて行けないのです」と厳しく言われた。園長は「外 作業のある施設を東京に作れば、俺に頼まなくていいのだよ」と言外に言われている気 がした。私は早速、奥多摩町の知人にお願いし、集落に近く福祉施設も近くにあるよう な1万㎡位の山林を探して貰うよう依頼した。その適地の山林(3万㎡)の所有者を調 べたら秋川市の方である。全くつながりが無く、止む無く仕事での知り合いの秋川市水 道課長に、所有者の紹介をお願いした。お蔭で資金ができるまでの無償での借地が実現 し、60年に東京多摩学園設立準備会が発足し、昭和63年9月学園が開園できました。 37年課長の誘惑を拒否、39年本庁でよき上司、その関係で主計課、二男が全身麻 酔による重い知恵遅れ、定時に帰宅できる職場に異動願、早大先輩係長、二男のために 管理職になれと、49年管理職、53年水源林事務所管理課長、59年総務部庶務課長、 この縁で多摩学園はできました。人生万事塞翁の馬の諺通りに強運が巡り来た時に授か ったのが、東京多摩学園であるように思います.高齢にも拘わらず青梅稲門会に2年前 に会員の申込みしたのは更なる縁があるように思えたからかも知れません この本はこれまで述べました事を事実に基づき、第三者のライターさんに4泊5日、 利用者と共に生活して頂きイカ以下君物語等も参考にして纏めた書籍です。この本をご 希望の方はご住所、ご氏名、お電話をお書き頂き、FAX・0428-83-2579 山下更正にご送付下さい。忘年会には参加の予定です。 ふるさと福祉会と家族会出版書籍 山下 更正 著 東京多摩学園第3回収穫祭の模様(平成27年10月24日) 大賑わいの椎茸狩り☆ 食べ物コーナーも大忙し!! 皆さんホダ場では思い思いのくつろぎの ひと時を過ごされました!! 小河内バンバンカンパニーのステージ!! かわいいダンサーズも頑張ってくれました♪
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