自然の経済学的捉え方について

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自然の経済学的捉え方について
H.イムラ一説の検討を中心に一
梅 沢 直 樹
1 序
誰もが認めるように,環境問題の核心は,経済活動を通じて環境破壊が進ん
でいるというところにある。つまり,経済活動にさいして環境に関わる費用に
適切な考慮が払われていないということである。したがって,環境問題への経
済学的接近においては,なぜ環境に関わる費用には適切な考慮が払われないの
か,またそうした状態から脱却するためにはどこをどのように是正すべきなの
かといった問題が焦点を構成することとなる。さらに,こうした問題に関連し
ては,現在の社会=経済構造のもとで費用とみなされている範疇ないしそれに
体現されている費用観の妥当性をあらためて検証してみるべく,そもそも経済
活動にさいして費用とみなされるべきものは何かという論点が浮上してくる。
そのさいには,環境問題においてはいかなる主体にとっての費用が問われるべ
きかも争点となろう。それは人間にとっての費用のみで事足りるのか,それと
も生物さらには自然物一般の権利にまで視野を拡げるべきなのかという問題で
ある。のみならず,費用論は,本来,その対極としての便益ないし効用論と一
体のものであるが,それら両者の関係のつけ方については見解が分かれている。
すなわち,費用と便益ないし効用を対置してその最適均衡を探ろうという発想
に立つ見解と,そうした合理主義的発想そのものを疑おうとする見解とである。
さらに,便益ないし効用論に関しては,方法論的個人主義によるのか,社会=
経済構造的規定性を重視するのかという論点もただちに想起されよう。
こうして,環境経済学は,本来単なる価格論次元に留まりえず,むしろ価格
の基底にある費用範疇を問わねばならないものであるという意味において,対
128 仙田左干夫教授退官記念論文集(第292号)
極としての便益論をも射程に入れた,広義の価値論をひとつの基軸としている
ということがわかる。だかちまた,上述のような諸論点にいかなる回答を用意
するかによって,環境経済学の諸潮流が分岐することともなる。と同時に,費
用観にせよ便益観にせよ,社会=経済構造からの規定性をどう評価するかがひ
とつのポイントとなっているということも注目に値しよう。しかも,社会=経
済構造との関連という論点は,じつは,なぜ環境に関わる費用が不十分にしか
考慮されないのかというそもそもの設問にとっても大きな意味をもっている。
というのは,どの程度に深刻な問題として評価するかは別として,市場経済制
1)
度には私的費用と社会的費用(=社会全成員にと.っての費用)との乖離という
構造的欠陥が随伴し,そのことが上述の設問へのひとつの重要な回答になると
いうのはごく一般的な認識だからである。のみならず,世界経済システムや国
内の社会=経済構造の特定のあり方が,環境に関わる費用を考慮したくとも考
慮しようがないといった貧しい状況にあえぐ人々を生み出している面があるこ
とも,とりわけ地球環境問題に関わってしばしば指摘されるところである。
このように見てくると,固有の存在根拠をもつ価値次元を備え,またさまざ
まな経済的事象を資本の論理を旋回軸とした社会=経済構造と連関させて総体
的に捉えようとする経済学として,マルクス経済学も環境問題にとってなかな
かに興味深い。といっても,「資本論』がそのままで環境問題に十分に対応でき
る内実を備えているというわけではない。価値論について言えば,価格次元と
価値次元の関係の抜本的な再構成が必要であるし,価値実体論においても自然
力排除の論理がいささか安易である。また,上述の合理主義的発想とはいかな
る関係に立っているのかもあらためて検証されてよい。他方で,環境問題を社
会=経済構造的に把握するには,労働力商品論が硬直的で消費社会論が弱い。
そこで,マルクス経済学の長所を生かしつつその欠陥を補正していくことに
より,費用観便益観を含めて社会=経済構造の意義を重視する立場からの環
境問題の解明をいっそう豊富化するということが課題となってくる。本稿は,
1)社会的費用概念は多義的に用いられてきたこと,及び国民経済を念頭にだがこうした用
例もあることについては,植田和弘他『環境経済学』有斐閣,1991年,86−87ページ参照。
自然の経済学的捉え方について 129
そうした作業の一環として,ホワン・マルチネス=アリエの『エコロジー経済
学』及びハンス・イムラーの『経済学は自然をどうとらえてきたか』を手掛り
に,価値論と自然力との関係について考察を加えてみたい。前者は,エコロジ
ー的ユートピア論への共感を背景に,マルクス主義とエコロジーの関係をも主
題のひとつとしながら,エネルギー経済学の学史的考察を行った興味深い著作
である。それに対し,後者は次のような認識を基軸としている。すなわち「交
換価値」ないし「価値」は商品経済に固有の歴史的範疇であり,それら範疇の
抽象性という属性はまさにそのことに由来する限界である。そうした価値論が
見失った社会の物質的再生産の具象的基盤こそ,本来,まず重視されねばなら
ない,と。そしてそうした見地から,抽象的人間労働を実体に据える労働価値
説へと結実していった経済学の歴史を批判的に追跡するとともに,切り捨てら
れていった重農主義に独自の再生産論を今こそ再評価すべきであると強く訴え
ている。さらに,両説を重ね合わせてみると,いずれも社会的再生産の基盤に
着目するとともに,その抽象化に疑問を投げかけているなど重要な共通点も見
えてくる。そこで,より一般的な問題提起となっているイムラー説を中心に両
説を検討してみることとしよう。だがその前に,次項では次のような作業を通
じて両説が提起している問題を検討するための認識枠組の整序を行っておきた
い。すなわち,広義の価値論に関わる諸論点への回答の仕方の基礎的な分岐に
関わらせつつ,さらに環境経済学に顕著な難問にも触れながら,マルクスの価
値論の再構成の方向の要点やなお残る問題点を確認するという作業である。
II 認識枠組の整序
先にも触れたように,次のような認識自体はごく一般的となっている。すな
わち,市場経済制度は多かれ少なかれ私的費用と社会的費用との乖離を伴うし,
そのことが経済活動にさいして環境に関わる費用を適切に考慮しえない重要な
要因となっているという認識である。ということは,私的費用を内実とした「価
格」という範疇以外に,それとは多少とも乖離した社会的費用を内実とする,
いわば商品に本来認められるべき費用に即応した範疇一以下,この範疇を
130 仙田左千夫教授退官記念論文集(第292号)
「価値」と呼ぶ一が存在するという認識は,一般に共有されているというこ
とでもある。そのうえで,その価格ないし私的費用と価値ないし社会的費用と
を同次元のものと解するか異次元のものと解するかということのうちに,基礎
的な分岐点のひとつが見出される。
すなわち,一方で,私的費用も社会的費用も質的には異なる内容を含んでい
るわけではなく,ただ私的な取引当事者と社会全体というように主体が異なる
結果捉えられる費用の範囲が異なり,そこに乖離現象が生じるとする見解が存
在する。他方で,私的費用と社会的費用との乖離の根源には両者の内容に関わ
る質的な相違があり,両者を同次元にあるものとはみなせないとする見解が存
在するわけである。したがって,この分岐点に関しては,私的費用と社会的費
用の双方の内容の質的性格をどのようなものと解するかが焦点となってくる。
具体的に言えば,とくに地球環境問題が強く意識されるようになっている現
今においては,社会的費用が財・サービスの取得のために真に費やされている
体制を超えた基底的費用,その意味で経済原則的な費用であるということにつ
いては,かなり共通の認識が得られていると解される。じっさい,価値論の歴
史を振り返ってみても,経済学の最初の体系化をなしとげたA.スミスの本源
的購買貨幣論が象徴しているように,価値の実体にはそうした了解が込められ
ていた。したがって,問題は,私的費用の内容をも,捉えている範囲は狭いに
せよ,基本的には経済原則的費用と同質の性格のものだと解するか否かにある。
そして,そもそもこうした問題をあらためて問い直し,自覚的に回答を選び取
っているか否かは別として,ちょうどA.スミスの本源的購買貨幣論がそうで
あるように,この問いに肯定的に答える立場の人々は多い。
それに対して,価格と価値とは異次元のものであるという見解を先駆的に提
起しようとしたのがマルクスの価値論であった。リカードウの価値修正論に対
する批判が端的に表現しているように,マルクスは価格と価値とを同次元のも
のとして直接に比較するのではなく,むしろそれらの次元の相違を認めたうえ
2}
で,それらを関係づけようとしていたのである。もっともマルクスは,資本制
2)K,マルクス『剰余価値学説史』,大内兵衛他監訳『マルクス=エンゲルス全集』2611,大/
自然の経済学的捉え方について 131
商品の価格をも 剰余価値の再分配という迂路を介してではあるが一一価値
により規定できると解したことによって,うえのような認識の意義を十分に生
かしきれていない。しかも,資本制商品の価格をそのように価値によって規定
しうるとするマルクスの理解は短絡でもあった。
そこで,マルクスの価値論をそのリカードウの価値論との種差を生かしつつ
3)
再構成すべきこととなるが,そのカギは次の2点だと解される。第一に,資本
にとっての費用観つまり歴史性を帯びた論理に則って構成される資本制商品の
価格と,体制を超えた社会存立の基盤に即した経済原則三次元での人間にとっ
ての費用に根拠をもつ価値の実体としての抽象的人間労働とは,元来,疎遠な
もの,内的な関連はもたないものである。第二に,経済原則的制約は一定のゆ
とりをもった弾力的性格のものであり,資本制商品経済は,ひとつの社会体制
として経済原則的制約の実現を自らの手で担うことになっても,それを経済原
則的指標に直接に準拠して営まざるをえないわけではない。価格は価値に対し
一定の自由度をもちうるのである。そこで,これら2点を踏まえ,疎遠なもの
がいかに接合しているかを資本の論理に即き従いつつ考察してみると,資本制
商品の価格は労働力の商品化を介してそれなりに自己完結していることが見出
される。資本制商品経済は,ひとつの社会体制をなすものとして社会存立の基
盤を自ら維持,再生産していかねばならないのではあるが,自らの論理でもっ
てそれなりに自律的に包摂しきるというかたちでその負荷を処理しているので
ある。かくして,資本制商品の価格は価値とは異次元ということになる。
さらに,この異次元のふたつの範疇の関係を,社会存立の基盤に即した指標
とそれを資本制商品経済において実現している指標という機能的対応を介して,
因果論的にではなく解釈学的に探求していけば,労働量ないし労働時間として
の経済原則的費用は資本の論理では労賃としての費用としてしか受け止められ
ようがないというばかりではなく,それらふたつの費用の問に乖離があること
が利潤の源泉になっていることも明かとなる。つまり,ふたつの費用の間の乖
\月書店,210,21H2,222−23,256ページなどを参照。
3)拙著『価値論のポテンシャル』昭和堂,1991年,第1篇第1章,第3章2,第4章参照。
132 仙田左千夫教授退学記念論文集(第292号)
離は縮小されはしても,解消されることはありえないということである。
こうしたマルクスの価値論の再構成からは,環境問題に関連して次のような
論点が浮かび上がろう。第一に,環境に関わる諸費用を社会存立の基盤の次元
での費用と認めるのであるかぎり,環境経済学は,まずもってそれらの諸費用
が交換の世界ではいかなるメカニズムでどのようなものとして受け止められる
のかの考察へと向かわねばならないということである。交換の世界は,社会存
立の基盤とは疎遠なものであり,かつ自己の論理で自己にとって疎遠な要素を
包摂しうる形式を備えている。それゆえ,各費用に即してそれが交換の世界で
はいかに受け止められ,そこに異次元的包摂が現実化しているか否かを考察し
なければならない。第二に,環境破壊に伴う費用を価格次元で評価することに
は大きな危険が伴いうる。それでは,不当に低く評価された費用を前提に開発
が是認され,環境破壊が進んでいくということも生じうるからである。
もっとも,周知のように,マルクスの価値論自体は,労働という人間にとっ
ての費用のみを実体に数えるものであった。換言すれば,同じ人間にとっての
費用のなかでも,再生不能な希少資源のような自然物に起因する費用は捨象さ
れていた。まして,人間にとっての費用を超えて自然物にとっての費用にまで
視野を拡げようという発想は,マルクスの価値論には認められない。そこで,
マルクスの価値論に関しては,なぜそうしたことになっているのか,また現代
においてもそれでよいのかといったことが,問われねばならなくなる。
のみならず,この自然物にとっての費用にまで視野を拡げるか否かの問題は,
じつは,費用と便益との最:適均衡の追求という合理主義的発想に立つのか否か
という論点と絡み合わされるならば,環境経済学におけるもうひとつの基礎的
分岐,すなわち自然との共生を主題とした生命系の経済学の潮流を一方の極と
するような基礎的分岐,に関わっていくこととなる。以下,環境経済学が直面
する難問に触れながら,この点を少し敷即してみよう。
環境問題に関しては,費用を算出するといっても厳密にそうしたことができ
るのかということを疑わせる要素がきわめて多い。たとえば,地球環境に関わ
るような汚染あるいは希少資源の枯渇は漸次的に進展するものであり,それが
自然の経済学的捉え方について 133
一定の閾値を超えて悪化して明白な負担を生むこととなるまでには時間がかか
る。だとすれば,その間に技術進歩があって,汚染の進展を抑制できるように
なるかもしれないし,代替資源が利用できるようになるかもしれない。もちろ
ん,そうした技術進歩に期待をかけて裏切られる可能性も十分にある。つまり,
将来に予想される負担ないし費用の大きさは,変動する要因に依存する不確実
なものなのである。また,再生可能な破壊に関してはその再生費用を算出しえ
ようが,希少資源を枯渇させてしまったばあいに将来の世代が負うこととなる
損失などといった不可逆的な損失については客観的に算出しがたい。この点は,
環境破壊に随伴する健康被害等にしても同様である。健康を取り戻すための医
療に関わる費用なら特定しえても,病気に苦しんだ,もはや取り戻せない人生
の一時期をどのような大きさの費用と認めるべきかなどは客観的に算:出しうる
ものではない。さらに,生態系はきわめて複雑に絡み合ったシステムであって,
ある部分を変化させることがどのような波及効果を生み出し,それらが積み重
なり合いながら長期的にどのような費用となって跳ね返ってくるかは,十全に
予測できるものではない。ここにも一定の不確実性が伴うのである。
こうして,環境経済学は不確実性や不確定性にどう対処するのかという課題
にいやおうなく直面することとなる。そして,ここで立場が大きく分かれる。
一方は,不確実三等をできうるかぎり乗り超えながら,最適均衡を探ろうとす
る方向である。これは,人間の理性に大きな信頼を置く立場と言えよう。そし
て,そうした姿勢が生態系の複雑さに伴う不確実性にも向けられるとき,そこ
には理性でもって自然をも制御していこうという意思が支配しがちとなる。だ
からまた,そこからは自然物の権利をも認めようという発想は現れにくい。他
方で,最適均衡を追求するという方向そのものに疑問を投げかける立場が存在
する。この立場は,人間の理性に限界を認め,最適均衡を求めて不確実性を乗
り超えていこうとするとどこかで見落としやゆきすぎを伴わざるをえないこと
を懸念する。したがって,むしろ不確実性に伴うリスクを重視し,リスクを回
避しうる範囲に経済活動を限定しようと発想する。また,こうした発想は,現
在の便益観が現在の経済=社会構造に根差したいささか異常なものであり,人
134 仙田左千夫教授退官記念論文集(第292号)
問にとっての豊かさは自然と共生する上述のような範囲の経済活動においても
4)
達成可能であるという理解と通論している。さらに,こうした自然との共生を
めざす立場は,当然,自然物の権利にも開かれていることとなる。
但し,不確実性を重視することと自然物の権利を認めることとは,人間の能
力ないし人間という存在を相対化する点で共通性をもつとはいえ,必ずしも一
体のものではない。たとえば,価格と価値とを同次元と解する人々,すなわち
両範疇は範囲こそ異なっても同質の対象を捉えていると解する人々にとって,
価格ないし私的費用が本来数えているものとは大きな落差のある自然物にとっ
ての費用を価値のうちに認める見解はなじみにくいであろう。しかも,そうし
た人々が不確実性を重視することはありうる。価格と価値との間の質的関係に
ついての評価と不確実性に対する態度とは,一応独立した問題だからである。
それゆえまた,第一の分岐では異次元説に立つものが,第二の分岐では人間
中心主義的に現れることも生じうる。マルクス説は,少なくとも経済学に関し
てはそうしたものであったと言えよう。そして,このこともまた問われてよい。
そこで,次項では叙上の考察に照らしながらマルチネス=アリエ説やイムラー
説を検討してみることとしたい。彼らの問題提起は,マルクス経済学の欠陥を
補正しつつ社会=経済構造の意義を重視する立場からの環境経済学への接近を
豊富化しようとする試みにとって,何を示唆しているであろうか。
IIIマルチネス=アリエ説及びイムラー説の検討
マルチネス=アリエは,次のような興味深い事実から出発する。すなわち,
エネルギー収支という点から言えば,農業の進歩とされてきたものはじつは農
業の退歩でしかないということである。つまり,かっての農法の方が現代の農
4)玉野井芳郎氏やその系譜を引く多辺田政弘氏,中村尚司氏などにこうした色彩が濃い。
多辺田政弘『コモンズの経済学』学陽書房,1990年,など参照。また,一般的には合理性
志向が濃厚な不確実性へのゲーム論的接近においても,SMSアプローチのようにリスク
回避を重視するものがあるなど,この分岐でもすべてを二つの方向で完全に割り切れるわ
けではない。大来佐武郎監修『地球環境と経済』中央法規,!990年,58−59ページ参照。
自然の経済学的捉え方について 135
らう
法より,エネルギー効率という点では数段上回っているというわけである。し
かも,現代の農法を支えている石油資源は再生不能な希少資源にほかならない。
だとすれば,経済活動にあてがわれている現在の尺度は一面的なものでしかな
く,その補正は緊要な課題となっているということになる。マルチネス=アリ
エは,まさにそうした観点に立って,エネルギー論と経済学との接点を開拓し
ようとしてきた人々やそれに関わる論議の史的・考察を展開している。
そのさい,マルチネス=アリエが暖かい眼差しを注いでいるのは,エネルギ
ー経済学の草分け的存在としてのセリイ・ポドリンスキーを含む左翼エコロジ
ストやエコロジー的ユートピアンである。したがって,マルクス主i義とエコロ
ジーとの関係にも大きな関心が払われているが,本稿の文脈では,ポドリンス
キーとマルクス,エンゲルスとの実らなかった接触のエピソードが興味深い。
すなわち,ポドリンスキーはマルクスに敬意を抱いていたし,1880年春には
雑誌に掲載された自説をマルクスに送り,マルクスがそれを認めてくれること
に期待をかけもした。だが,マルクスのこれに対する反応はきわめて鈍かった
ようである。じっさい,ポドリンスキーの便りから2年半以上経過した後に,
マルクスの求めに応じてエンゲルスが自らのポドリンスキー説評価を書き送っ
た書簡が残されている。のみならず,そこでのエンゲルスの評価もまったく否
定的なものであった。エンゲルスは,経済におけるエネルギー収支の計算を社
ゆ
会科学の枠外のものと考えて,ポドリンスキー説を評価しなかったのである。
だが,主として依拠しているエネルギー資源が再生不能な希少資源であるよ
うな経済に関しては,エネルギー利用の効率論ないしエネルギー収支の計算は,
希少資源の濫費が階級間や世代間のどのような負担関係を意味しているのかと
いった問題の追求など,十分に社会科学の主題のひとったりうる。この点,明
らかにエンゲルスには錯誤が認められる。と同時に,マルチネス=アリエが,
5)ホワン・マルチネス=アリエ著,工藤秀明訳『エコロジー経済学』HBJ出版局,1991
年,2。なお,1の20−27,32−33,40ページ以下などをも参照。
6)同上邦訳109−11, 369−71ページ。また,エンゲルスのポドリンスキー評価自体について
は,1882年12月19日及び22日付のマルクスへの手紙,前掲全集35,108−11ページを参照。
136 仙田左千夫教授退官記念論文集(第292号)
リービッヒの物質代謝論には鋭い反応を示したマルクス,さらにエネルギー問
題に関心も一定の理解力ももっていたエンゲルスさえ,ポドリンスキー説との
せっかくの出会いを生かせなかったことを多少とも惜しんでいる風もあること
7)
は興味深い。そうしたマルチネス=アリエの姿勢の背後には,マルクス主義は
エネルギー経済学にじつは開かれていたはずという認識があるからである。
すなわち,マルチネス=アリエは,ポドリンスキーがエコUジー的観点から
人間の生活条件について論じたさいに,「人間生活の永久的自然条件」というマ
ルクス的用語法を用いていたことに注意を促している。そして,ポドリンスキ
ー説がそうしたものであるかぎり,それは十分にマルクス主義と結びつきうる
8)
可能性をもつものだったと解しているのである。この点,筆者も基本的に同じ
認識に立つ。マルクスの価値実体論は,まさに「人間生活の永久的自然条件」
に根拠をもったものと解されるからである。
他方で,マルチネス=アリエが,エネルギー量と労働量との共役尺度を探求
するといった発想に批判的であることも注目に値する。マルチネス=アリエは,
エネルギー収支論を取り込んだ新たな価値論を構想しているのではなく,一面
的な既存の価値論を批判,補完することを企図しているだけなのである。ここ
には,エネルギー収支論を極度に抽象化するのではなく,一定の抽象度のもの
に留めておこうという意図がうかがえる。そしてそこからは,エネルギー問題
を,最適均衡を探求する方向でではなく,経済活動を一定の範囲内に留めてお
9)
く限度の問題として受け止めようとする姿勢が垣間見えてくる。
それに対し,イムラー説を概ね集約したものとしては,たとえば次のような
文言が挙げられる。すなわち,ブルジョア的価値理論は商品の「物象的・質的
側面を一歩一歩排除」しながら成立してきたものであり,またそうしたところ
7)同上邦訳23−24,97−98,367−73ページ参照。ちなみに,エンゲルスはかの手紙の中でも,
生産手段の発達次第でエネルギー効率は著変ずると述べつつ,それが「既に固定されてい
る」エネルギーの消費の問題でしかないことにも一応気がつく理解力を示している。
8)同上邦訳23−24ページ。念のために付言すれば,このことは,マルクス主義がその狭隙な
社会関係概念を改め,生産力概念を変更などしてはじめて可能だとも解されている。
9)同上邦訳22,24,360−63,387−90ページ。なお,21−23,42−44,391−93ページなどをも参照。
自然の経済学的捉え方について 137
から「使用価値や自然をそもそも原則的に理解しえなくなるに至るところの価
ラ
値理論における自然と交換価値との分離」が発生している,と。こうした文言
からは,価値理論のなかに自然的要素を取り戻すべきという主張が浮かび上が
ってこよう。だが同時に,うえの文言に関しては次の点も注目される。すなわ
ち,その前半部分は,使用価値を捨象して価値理論に一面化した経済学の貧弱
さを批判するという興味深い論点ともなっているということ,さらにそれはじ
つは価値実体論とは独立に成立しうる論点であるということである。但し,こ
のあたり,イムラー説には未整理なところがあり,理解や評価が難しいことも
うかがえる。ともあれ,まず前半部分に固有の論点から考察していこう。
第一に,イムラーは,商品の有用性は「空中に浮かんでいるのではなく,商
品体の諸属性によって制約されている」というマルクスの文言をも引きつつ,
「使用価値の中に人間の自然的関係が現れている」ことを確認する。使用価値
11)
こそ「交換経済における自然関係を認識する端緒」というわけである。
第二に,イムラーは,使用価値を非社会的属性現する人々を椰回しながら,
「健康に害がある物質がいかほど小麦に混入されているかということも小麦を
見ただけではわからない」という事実を指摘する。使用価値の質を本当に理解
したければ,使用されている技術,生産手段あるいは労働諸条件など,いかな
る歴史的,社会的諸関係のもとでそれが生産されているかをも知らなければな
らないというわけである。たしかに,使用価値ないし欲求は歴史的,社会的産
物でもあるという点の彫琢を含め,「現実の社会的生産関係は……使用価値を起
12)
点としても形成される」ことに,マルクス経済学は無関心でありすぎた。
さらに,イムラーの使用価値論には次のような論点が含まれていることにも
10) H. lmmler, iVatur in der Okonomischen Theon’e, Westdeutscher Verlag, Opladen,
1985,S. 245.栗山純訳『経済学は自然をどうとらえてきたか』農文協,314ページ。なお,
訳文は原則的に邦訳に従っているが,若干変更したばあいもある。
11)Ebenda, S.243/44,246.同上邦訳312,316ページ。
12)Ebenda, S.248/49.同上邦訳319ページ。なお,筆者は,大量生産を支えるための浪費の
創造や管理され疎外された労働との表裏一体性等,現代の欲求の社会的規定性を重視する
が,欲求についても体制を超えた基本的問題があることは踏まえたい。後者の点を視野広
くかつ現代的に論じたものに,星野克美『消費入類学』東洋経済新報社,1984年,がある。
138 仙田左千夫教授退官記念論文集(第292号)
留目しておきたい。すなわち,「すべての経済的使用価値は自然の総連関から取
り出されたある断片である」と。たとえば小麦は,人間にとっての食料である
だけでなく,小麦畑という一定の風土,さらにまた動植物の生息空間として,
13)
「生産的な自然的生命連関」の一部だというわけである。これは,中期マルク
スの「自然と人間との非和解性」論にも通じうる興味深い洞察と言えよう。
このように,経済学が使用価値を関心の外に置いてきたことへのイムラーの
批判はそれ自体として鋭く,示唆的なものである。かつ,それらはさしあたり
価値実体論には何ら触れるところなく受け止められうる。だが,イムラー説に
おいては,それらは価値実体論が自然を捨象してきたことへの批判と一体化さ
れている。すなわち,使用価値を関心の外に置く経済学は,そのことによって
14)
「価値と自然をすでに切り離している」と。そして,こうした認識の背後には,
労働を抽象化するという操作についての次のような理解が伏在している。
すなわち,「抽象的・量的観点においては物象的自然は抽象的労働という概念
の中で質的に平均化される」,つまり自然は「不変で,不滅な」ものとして前提
されることになる,と。要するに,労働の抽象化は,自然を生産活動にとって
何ら制約にならない無限の資源に化してしまうことなのである。だからまた,
抽象的人間労働概念が支配するところでは,自然の生産力は労働の生産力へと
還元されてしまうこととなる。しかも,イムラーによればこうした自然の捉え
方自身がまたまさにリカードウのものにほかならない。マルクスは,この点で
15)
はきわめて忠実にリカードウを継承してしまったということである。
だが,自然の生産力を労働の生産力に還元してしまったのでは,自然の損耗
のうえに経済活動が活発化していても,それは経済の成長,進歩としてしか認
識されえない。いな,自然の損耗の結果として従来以上の労働が必要とされる
ようになったとしても,それは価値の増大として歓迎されることになるであろ
13)Ebenda, S.247。同上邦訳317ページ。但し,イムラー自身は初期マルクスの自然認識を
高く評価し,中期のそれには触れていない。Ebenda, S.240/41,同上邦訳307−08ページ。
14)Ebenda, S.244.同上邦訳314ページ。
15)Ebenda, S.280,286.同上邦訳360,368ページ。さらに, Ebenda, S. 187, 274/75.同上邦
訳237,353−54ページ,などをも参照。
自然の経済学的捉え方について 139
うと,イムラーは解する。かくして,労働の抽象化をもたらす商品経済やそう
した商品経済の論理に忠実な経済学は,自然の損耗を感知し,それに歯止めを
16)
かけるメカニズムを内蔵せず,ひたすら自然を損耗させていくこととなる。
さらに,イムラーは,マルクスが自然の解放を労働の解放に従属させてしま
ったことをも,うえの論点に重ね合わせて批判する。すなわち,労働の解放が
自動的に自然の解放につながるという見方は,自然やその生産力が労働からさ
しあたって独立した存在であることを見失ったものでしかない。また,その結
果,マルクス主義者は,労働の搾取ないし疎外とは独立して自然が破壊されつ
正7)
つあるという現況にまったく対応しえないことともなっている,と。
かくして,イムラーにとっては,労働過程を抽象的に把捉し,自然の生産力
を労働の生産力へと還元してしまうといった状況を覆すこと,換言すれば,労
コ サ
働過程を具体的,物象的に捉え,そこに参加する自然がさまざまな差異をもっ
た有限な存在であることを認め,自然の生産力をそれとして独立に認識するこ
とが必須の課題ということになる。しかも,イムラーは,この自然の生産力の
認識を,自然も価値を生むというように措定してもいる。すなわち,労働力と
自然力の生産的統一こそ「価値と剰余価値の」物象的源泉である,ないし「労
18)
働力が価値の唯一の原因ではなく,自然も同様に価値の原因である」と。
他方で,こうした労働価値説批判は,ちょうどその裏面に,ケネーに代表さ
れる重農主義の自然把握に対する高い評価をもつ。すなわち,イムラーによれ
ば,そもそも重農主義者の出発点は,フランス農業が荒廃し,その物的,具象
的再生産基盤が掘り崩されていたという歴史的現実にあった。したがって,重
農主義経済学は,この物的,具象的再生産基盤をいかに再生させるか,そのた
めにどのような政策がとられるべきかという問題を焦点に構成されることにな
った。しかも,そのさい,この農業の物的,具象的再生産基盤は社会全体の物
16)Ebenda, S.190/91,220,275,283,289/90.同上邦訳241−43, 282−83,354−55,364−65,371−
73ページなど参照。
17)Ebenda, S.284,290.同上邦訳365−66,373−74ページなど参照。
18)Ebenda, S.264.同上邦訳340。なお, Ebenda, S. 254/55,270, 280.同上邦訳327,348,360
−61ページなどをも参照。
140 仙田左千夫教授退官記念論文集(第292号)
的,具象的再生産基盤でもあると解されていた。重農主義者にとって,剰余つ
まり社会の成長を支える物質的基盤を生み出しうるものは,土地の生産力だけ
だったからである。ということは,社会の成長はひたすら自然の贈り物に依存
していると解するほどに重農主義者は自然力そのものを評価していたというこ
とでもある。そしてそこから,自然の秩序が円滑に機能できるようにすること
こそが社会の繁栄を導くのであり,それに即した政策を追求することこそが枢
19)
要であるという見解が帰結することともなった。
さらにイムラーは,そのように自然の秩序を尊重しようとするケネーの経済
学の特質を,ストア派の「自然と合致した生活」というテーゼとの関連にまで
20)
掘り下げている。こうしたイムラーの考察は,たしかに鋭く,興味深いと言え
よう。だが同時に,上述してきた価値実体論に関しては,イムラー説に無理も
目立つ。そもそも,イムラーは抽象性という価値実体の属性をもっぱら商品経
21)
済に固有の属性と位置づけて批判しているが,それ自体疑問である。
すなわち,マルクスの抽象的人間労働論に即して言えば,たしかにそこには
抽象的人間労働の対立する二様の捉え方が曖昧に並置されている。だが,イム
ラー説に照応する『資本論』冒頭での価値実体の導出は,論理操作としては恣
意性を免れず,周知のクーゲルマンへの手紙に記されたような認識に支えられ
てしか「労働」を導出することができない。しかも,そのクーゲルマンへの手
紙に記された認識はまさに経済原則に関わる。のみならず,そこでの主題であ
る社会的総労働の配分という課題は,社会的総労働をさまざまに転用できるも
のと捉えて,諸用途への充用効率を比較しながら合理的な配分を図ろうとする
ものであり,そうしたことは社会的総労働を諸用途に転用可能なものとしてひ
とまず抽象的に把握することなしには果たされえない。つまり,諸欲望に対す
る労働の相対的希少性を前提するかぎり,経済原則的次元でも一定の効率性は
19)Ebenda, S 302,305−e9,314−16,323/24,332/33,416/17.同上邦訳388,393−97,404−07,
417,429−30,541−42ページなど参照。
20)Ebenda, S,381−84,406−11,419.同上邦訳494−99,528−34,545ページなど参照。
21)以下の論議については,前掲拙著第3章1を参照。
自然の経済学的捉え方について 141
不可欠であり,そこには抽象性という属性が意味をもって現れるのである。
さらに,イムラーは,労働の抽象的把握が自然力の差異の捨象及びその結果
としての自然の生産力の労働の生産力への還元を招くと主張しているが,リカ
22)
一ドウやマルクスに差額地代論が存在していることが示すように,労働の抽象
的把握自体は自然力の差異の捨象に直結しない。とともに,そのさい土地の生
産力が労働の生産力に還元されているのは,リカードウやマルクスが富と価値
とを区別しながら,価値論においては,結局,「人間にとっての費用」を問うて
いるからだと解される。そして,人間にとっての費用を問うという前提が是認
されるなら,かつ土地が極度に不毛化しないかぎり,将来世代の労働の評価に
難しさはあるにせよ,土地の生産力の労働の生産力への還元自体は誤りとは言
えない。土地の生産力の変動はいずれにせよ労働支出量の多寡に跳ね返るから
である。むしろ,このかぎりで問題となるのは,一方で,私的費用と社会的費
用との乖離である。地力を損耗させ,将来の世代に耕作や地力の回復作業のた
めにより多くの労働負担をかげながら,現在の世代はそれを捨象するというこ
とが生じうる。他方で,価格が価値を自らの論理で包摂しきり,自然力の変動
を間接的に表現している価値的評価から遊離することも生じえよう。
同様に,労働を抽象的に把握すれば自然力の損耗に歯止めをかけえなくなる
という主張も錯誤と解される。自然力を損耗させ,特定の財の生産により多く
の労働を費やさざるをえなくなるとすれば,それは相対的に希少な社会的総抽
象労働の利用効率の低下として問題となる。それが看過されるのは,やはり上
述の二つの道筋を通じてであろう。
他方で,価値実体に自然力を加える試みも成功していない。イムラーは「労
働の生産諸力と自然の生産二三の理論的な区分はある程度厳密に定式化されう
る」と主張しているが,現実にイムラーが自然の生産力として示しているのは,
同じ労働方法のもとでの「産出量の多寡」でしかない。つまり,あくまで差額
22)イムラーも当然承知しており,リカードウは2種の自然を安易に使い分けていると批判
しているが,むしろイムラーの側に,価値と富との混同や自然を平均化しないと労働価値
説は成立しないという先入観が見える。Ebenda, S. 215.同上邦訳275ページなど参照。
142 仙田左干夫教授退官記念論文集(第292号)
であって,植物の自然生長力をも含むような重農主義者の言う自然力そのもの
23)
ではない。しかも,この物量としての差額を「価値」表現しようとすると差額
地代等となるが,これは市場での需給均衡を左右する土地次第で変動する当該
農産物の価格に依存し,もはや自然力の差異自体を表現するものでもない。の
みならず,差額地代は,価格として価値とは疎遠な自己の論理でそれなりに閉
24)
じた世界でもある。総じて,イムラーは富と価値との峻別という論議を承知の
うえでそれに挑戦しようとしているのだが,価値は単なる貢献ではなく,何ら
25)
かの費用性を前提とするものであることの認識が弱い。その結果,自然諸力を
価値として評価するとすれば,それがどのような意味で費用であり,したがっ
てどうした尺度が適当かといった考察が必要であることを看過している。
IV 総 括
さて,叙上のような検討結果を,II項での考察に照らして総括してみよう。
まず,イムラー説は,マルクスの抽象的人間労働概念の一側面を徹底化したも
のであり,マルクス派の環境問題論のうちに同様の見解を認めることもできる。
だが,労働過程を抽象的に把捉するところがら自然の捉え方に歪みが生じ,環
境破壊を帰結するというイムラーの主張には見てきたように飛躍があった。む
しろ,経済原則次元でも抽象性という属性がそれなりに有意味であることを認
めることこそ重要であろう。というのは,そのことは経済原則次元でも効率性
がそれなりに求められることを認めることにほかならない。そして,そうした
認識に立ってはじめて,自然力について経済学的に捉えようとするばあいに,
それがどのような意味で効率性を求められるのか,換言すればそれがいかなる
意味で費用なのか,だからまたいかなる尺度をあてがわれるべきなのか,さら
に,資本制商品の価格はそれをどのように受け止めるのか,そこに異次元的包
23)Ebenda, S,272/73,317/18.同上邦訳351−52,408−09ページ。
24)拙稿「資本制的農業と自然力」『彦根論叢』287/88号,1994年,参照。
25)イムラーはリカードウ説の考察に際して富と価値との関係に立ち入っているが,自然の
価値への影響が直接的なのか間接的なのか明確に区分できず,中途半端な指摘に終わって
いる。Ebenda, S. 197−201.同上邦訳251−56ページ。なお,注21)に掲げた箇所も参照。
自然の経済学的捉え方について 143
摂といった事態が発生するのか否かといったことが問われることとなるからで
ある。イムラー説のばあい,上述のような設問はすべて見失われてしまってい
る。したがってまた,社会=経済構造的考察は,商品経済ゆえの私的費用と社
会的費用との乖離論に局限され,しかもその乖離が異次元的包摂ゆえの側面を
含まないのか,換言すれば資本制商品経済という構造のなかで解消しきれるも
のなのか否かといった論点には考察が及ばなくなっているのである。ちなみに,
かくしてみると,イムラーが高く評価した重農主義経済学による自然の具象的
把握も,やはり経済学としての未成熟の現れということになる。
とはいえ,抽象性を批判し,具象性にこだわろうとしたイムラー説に意味が
ないということではない。たとえば,イムラーは具象性への着目を通じて使用
価値への関心を復権させていたが,先にも確認したように,そこには鋭く,示
唆的な内容が含まれていた。と同時に,環境問題としては,使用価値への関心
が消費過程への関心に,ひいては廃棄物への関心につながることをも指摘して
おきたい。自然は,排熱,排ガスを含む廃棄物の処理,環境の再生の局面でも
大きな役割を果たしているのだが,インプットに関心を集中してきた経済学は
それをまったく看過してきたし,そのことが今まさに問われている。
また,経済原則次元で効率性が意味をもつのは,諸欲望に対して労働が相対
的に希少だからこそである。それゆえ,社会が豊かになってくれば,その意義
は低下する。しかも,環境問題についてはとりわけ不確実性が随伴していて,
効率性の追求には陥穽が伴う。かつ,資本制商品経済は,不確実な社会的費用
を低評価し,効率性追求に傾く性向をもってもいる。だとすれば,抽象性への
批判は,効率性にこだわることへの批判として,現代においてなお効率性を追
求しようとする試行に対して,なぜそこまでの水準の効率性が必要であるかの
立証を迫るものとなり,環境破壊に一定のブレーキをかける役割を果たそう。
さらに,具象性を排除し抽象性に一面化していった価値論への批判も,次の
ような論点に結びつけば興味深いものとなる。すなわち,労働の費用性はその
具体的内容を離れてあるわけではないのに,その点を忘却して費用としての労
働観を独り歩きさせたのでは,労働時間の短縮と引替に労働内容をますます無
144 仙田左千夫教授退官記念論文集(第292号)
26)
味乾燥化させるという顛倒現象を惹き起こす。同様に,具象性と機械的に分離
された自然の抽象的把捉は,自然をひたすら手段とみなし,それとの共生に歓
びも見出しうるといったことを忘却させることとなろう。
かくしてみると,抽象化への批判は,II項で見た第二の基礎的分岐に関して
生命系の経済学の側に立つことを含意していると言える。じっさい,イムラー
が物象的・物質的な観点に固執するのも,結局,最:適均衡というより「再生産」
に眼を向けたうえで,そうした観点なら社会の存立基盤の再生産の保持・拡大
27)
こそが重要であることに気づきうると考えているからにほかならない。また,
28)
生物にとっての権利に開かれてあろうとするばあいにも,人間と生物との,あ
るいはさまざまな生物の間での感覚器官や,だからまた環境世界のヴィジョン
や評価の差異の大きさを考えれば,最適均衡を追求するため共役可能な一般的,
29)
抽象的尺度を求めて想像力をめぐらすといってもきわめて難しい。むしろ,守
るべき一定の閾値を探るほうが建設的であろう。だが,人間がある程度の効率
性からの制約のもとで生きている以上,単に再生産基盤を保持するという政策
提言ではそれこそ抽象的に過ぎる。と同時に,現に効率性をめぐって展開され
ている価格次元での活動を,それが異次元的であるか否かの検討を含めて評価
する基準も立てえない。さらに,一定の閾値というのも,あるレベルでの抽象
的考察抜きには探りえない。マルチネス=アリ再説に通じる問題である。
すなわち,同説は,希少資源の消耗という,労働では補償不能な,したがっ
て労働価値説をはみ出た問題への対応としても興味深いが,各次元で抽象化さ
れたものを相互補完させるという発想は一層興味深い。結局,具象性と抽象性
をいたずらに機械的に分離・対立させないことこそもっとも重要なのである。
26)前掲拙著75−78, 253−57,260−61,262ページを参照。
27)a.a.0., S.425/26.前掲邦訳553−54ページ。
28)自然物の権利については,たとえば,アメりカを中心に史的考察を展開した,R.ナッシ
ュ著,松野弘訳『自然の権利』TBSブリタニカ,1993年が平明でかつ内容にも富み,ま
たエコロジー思想の史的展開についてはD.オースター著,中山三三訳『ネイチャーズ・エ
コノミー』リブロポート,1989年,などが示唆的である。
29)D.ピアスらの固有価値論は,この難を回避しうるが,なお人間中心主義を随伴してい
る。和田憲昌訳『新しい環境経済学』ダイヤモンド社,1994年,68−69ページなど参照。