ボツワナの歴史 尾嵜 悌之 訳 HISTORY OF BOTSWANA © Thomas Tlou and Alec Campbell 1997 © Illustration and design Macmillan Boleswa Publishers (Pty) Ltd 1997 Original edition published 1984 This edition first published 1997 Reprinted 1998, 1999 (three times), 2000 (twice), 2001 (twice) Published by Macmillan Boleswa Publishers (Pty) Ltd P O Box 155, Gaborone, Botswana Maps by Nadya Glawe ISBN 99912 78 08 7 訳文第二版へのまえがき 訳者は 2000 年 7 月から 2002 年 9 月まで、青年海外協力隊の一員として、ボツワナ共和国に派遣されていました。 職種は経済ということで、農業省の協同組合開発局にて、経理とコンピューターの指導に当たっておりました。指導に 当たったなどとえらそうに書いてはみたものの、まず何よりも自分の能力不足・経験不足のため、ほとんど自己満足的 なことをやっただけだったといえます。伝えたいこともほとんど伝えられず、ほとんど信頼関係も築けず、恐らく協力 隊としての評判も落としてしまったのだろうと思っています。当時としては、自分にできる範囲でできることをやった だけだともいえますが、悔いが全く無いかといわれればウソになります。 そうしたことの原因として何があったのか、と帰国後いろいろ自分なりに考えてみたところ、コミュニケーション不 足、特に相手に対する理解不足ということが大きな要因だったのではないかと分析しました。確かに派遣中も、ツワナ 語を学んでみたり、現地の新聞を毎週購入したり、いろいろ本を買ってみたりして、それなりに理解しようと努力はし たつもりだったのですが、なにぶん人生経験が足りなかったというか、世の中を知らなかったというか、読んでもほと んど理解はしていなかったと思います。そしてそれらで得た知識を有効に活用したとも思えません。 帰国後、いろいろな経験もし、世の中の見方も少しは変わったところで、また少し英語を勉強したいと思ったときに、 手近にあった一番英語が難しくなさそうな、ボツワナの高校の歴史の授業に使われている本が目に付きました。これを 訳し始めてみると、現地で経験したことの一つ一つがだんだん関連性を持って結びついていくのを感じました。 “そうだったのだ、私はボツワナ人、ボツワナというものを一般的なモワっとしたイメージで単純に捉えていたのだ が、そうではなかったのだ。そこにはそれぞれの人が築いてきた営みがあり、それらが重なり合った関係性があり、そ うして出来上がってきた一連の流れがあったのだ。そうしたものに考えを及ばすこともなく、表層的に相手のことを理 解しようなどと考えていても、何も判るわけがなかったのだ。 ” もし派遣中にこの本をしっかりと読んでいれば、また違った活動になったかもしれません。もっとも能力不足が大き いので、当時読んでも今と同じように感じられたという保証はありませんが。そういうことを考えると、へたくそであ っても、英語よりも日本語になっていたほうが敷居は低く、もし仮に今後派遣される人が派遣前に読んだりしていただ いて、ボツワナという国のイメージを少しでも具体的に持っていただいたら、多少は活動の助けになるのかもしれませ ん。そしてこんなへたくそな訳は読むに耐えないと思われた方は原書に当たっていただくと、参考図書リストなども付 いており、ますますよいかと思います。 この自分の感覚がどれほどの人に共有していただけるものなのかはわかりませんが、こういった考え方の元に、もし このような拙い訳文であっても、ボツワナに関わる人たちに何らかの示唆を与えることができるのならばすばらしいこ とだと思い、恥ずかしながらも公開させていただくことにしました。こんなもので派遣中にご迷惑をかけたさまざまな 人たちに埋め合わせができるとも思えませんが、ほんの少しでも恩返しができ、また、今後派遣される人たちはじめ関 係者のお役に立つことができればこれ以上の幸せはないと思います。 当初は大きく公開するつもりでもなかったので、表記方法の不一致など気になる点はあるのですが、直していくのも 今はちょっと大変なので、見逃していただきたく存じます。ご意見、ご質問などは発行元サイトからご連絡いただけれ ば、と思います。 3 月 11 日に発生した東北関東大震災の被災者の方々に心からのお見舞いをこめて 2011 年 3 月 19 日 尾嵜 悌之 目次 第1章 歴史への導入 第 2 章 私たちはどこから来たのか? コラム~アフリカ起源説 第 3 章 カラハリの最初の人々 第 4 章 鉄加工をする農民の到着 コラム~移民の波 第 5 章 初期鉄器時代 コラム~バンツー語族と後期石器時代の人々の接触 第 6 章 初期の採鉱と精錬 第 7 章 最初の首長国もしくは小国家 900-1200 年 第 8 章 初期鉄器時代から後期鉄器時代へ コラム~初期から後期鉄器時代への変化 第 9 章 狩猟、採集、貢納、交易 950-1200 年 第 10 章 ボツワナとジンバブエの国 1250-1450 年 コラム~誰がグレートジンバブエを立てたのか 第 11 章 第 12 章 第 13 章 第 14 章 第 15 章 第 16 章 第 17 章 第 18 章 第 19 章 第 20 章 第 21 章 第 22 章 第 23 章 第 24 章 第 25 章 第 26 章 第 27 章 第 28 章 第 29 章 第 30 章 第 31 章 第 32 章 第 33 章 第 34 章 第 35 章 ツワナ族とカラハリ族の起源 1200-1400 年 カランガ族とブトゥア国家 南部地域 1400-1700 年 1700 年から 1800 年の間のカラハリ族 ディファカーネ前のツワナ人の生活様式 北東部 1650-1800 年 北西部ボツワナ 1600-1830 年 ディファカーネ、もしくは困難の時代 1700-1840 年 コラム~何がディファカーネを起こしたか? ディファカーネの終わりと再構築 交易と経済変化 1800-1870 年 1800-1900 年の宣教師団 宣教師と教育 ボツワナでのイギリス支配の始まり 保護領への新たな恐れ コラム~ンガミランドへの脅威 保護領の行政的・政治的発展 行政改革:族長権力の削減 支配への抵抗 経済発展の無視 保護領下での教育と保健衛生 いくつかの重要な事件 民族主義と独立 独立期:政府と政治 独立からの経済発展 農業と社会開発 ボツワナと世界 資料編 関係地図(ボツワナ主要河川・主要部族管理地域) 主な略語 ボツワナ主要部族系図 略年表 1 4 8 9 13 15 16 20 21 24 28 30 31 34 38 39 42 44 46 48 53 56 61 66 67 72 76 82 84 90 98 100 106 110 114 123 128 135 143 148 155 160 第 1 章 歴史への導入 私たちはみな自分たちの、そして自分の家族の過去についてなにかしら知っている。両親や祖父母は、彼ら自身のこ とやその両親について教えてくれる。普通両親や祖父母がどこで生まれたかを知っているし、彼らが家で働いていたの か外で働いていたのかも知っている。私たちの両親は私たちが属している集団についてなにか教えてくれる。例えば“曽 祖父は 1871 年にカトラ族と一緒にボツワナに来てモチュディに住んだ”という具合だ。 昔々、私たちは年老いた人たちから、そして成人学校で、歴史を学んだ。これらの学校では、若い人たちは自分たち の集団と指導者の歴史を、偉大な出来事を教える賞賛の詩として知られる長い詩を学ぶことによって覚えた。 このような種類の歴史は両方とも、両親や祖父母から受け継がれ、あるいは賞賛詩を通して伝えられ、伝承として知 られる。それらは口述の言葉で受け継いだが書き残されはしなかった。 筆記の歴史 筆記の歴史は過去に何が起こったかの話を教える。しかしそれは全ての話を教えられるわけではない。なぜなら、そ れには何千もの本を要するからだ。また、多くの初期の歴史は筆記が始まる前に忘れられてしまった。 歴史家はさまざまなもととなる情報を集める。彼らは事実を選ばねばならず、それらを会わせて話を作らなければな らない。これは解釈と呼ばれる。同じ事件を見た 2 人が、同じ言葉を書くわけではないことを覚えておかなければなら ない。また、同じ歴史を書く 2 人が違った事実を選び、違った方法で解釈をするかもしれない。全ての情報の断片は、 資料が何かを外していないかとか、事実の間違った解釈がなされていないかという検証に資されなければならない。 歴史的資料 歴史家はできるだけ多くの資料を使い、証拠どうしを比較する。よく使われる 7 つの資料は 1. 伝承 これは何代にもわたって口述によって語られた過去の歴史であるが、今は混乱しており消えかかっている。歳を重ね た人たちの頭の中にはまだたくさんの知識があり、 彼らが亡くなり忘れられる前に直ちに書き残されなければならない。 情報提供者として物語る人の言葉で伝承を記録しておくことは重要なことだ。理想的には、記録者はその言葉を話す ことができ、係わる人の習慣を知っている人であるべきだ。言ったことは全てノートかテープレコーダーに記録されな ければならない。1 人によってもたらされた情報は、他の人によるものと照合しなければならない。最もよい情報提供 者はまだ彼らの伝統的文化を実践している人だ。女性も男性も等しく良い情報提供者だ。 ここに 2 つの伝承の例がある。最初のものは、創造神話と、土地への最初の権利の樹立についてである。 “昔々まだ岩が柔らかかったロウェの時代、片足の巨人であるわれわれの先祖のマツェンは、彼の臣民、牛、野生動物 と一緒に地下に住んでいた。ある日彼は鳥が1羽彼の上で鳴いているのを聞き、穴を通して空を見上げた。彼は穴を上 り、彼の臣民や牛や野生動物が後に続いた。彼は岩に足跡を残したので、それはラセサのそばでまだ見る事ができる。 ” 2つ目の例は、セベレの長所の1つから取られており、セチェレが彼の息子のセベレを送り、マツェンをその人民で あるングワト族に対するひどい扱いのためにその王座からおろそうとしたことに言及して、 “ングワト王朝の没落は予言されていた。 彼らが悪を偉大なものであると望んだとき、 「マツェンはカボの土地で死に得 る」 、といった。 ” 2. 考古学 これは、人々が残した遺跡を掘り起こすことによって過去について研究する方法である。ある場所で発見されたもの は他の場所で見つかったものと比較される。 考古学は歴史について完全に忘れられていたものを教えてくれる。それはまた、伝承を確認したり、事件をそれらし い順番に並べたりする助けになる。 考古学者は、石器・土器・灰・ハットの床・石壁といった文化的遺物のある場所を見つけ、その場所全体を 1m 四方 に紐で区切り、見つけたものを全て地図に印をつける目安とする。時々、1つの遺跡の上にもう1つの遺跡の層を見つ ける。 彼らはそれらが異なった住居であることを知っている。 層が深くなればなるほど住居の時期は初期のものになる。 住居の時期を確かめるにはさまざまな方法がある。もっとも確かでアフリカでもっとも良く使われている方法は、有 機物(普通は炭だが) 、を試験のために研究所に送ることだ。生きている間に、動植物は炭素をわずかに蓄える。彼らが 死ぬと、炭素はゆっくりと壊れるので、その速さを測ることができる。不幸にも 5 万年以上前のものは、正確な測定の ためには炭素が少な過ぎる。 1 彼らが見つけた物体から、考古学者は、人々がどのように住んでいたかについてたくさんのことを私たちに教えるこ とができる。それらは、植物や骨の遺物から何を食べていたのか、人々が牛や小さな家畜を飼っていたのか、鉄を使っ たり交易したりしていたのか、について教えてくれる。それから人口の大きさや支配地域の大きさもわかる。 例えば、何年もの間、歴史家は、家畜を南部アフリカに最初につれてきたのはバンツー語族の先祖だと信じていた。 最近の発掘で家畜の骨がみつかったことにより、羊や牛はバンツー語族が到着するよりもずっと前に、コイ語族の人々 により南部アフリカに導入されたことが明らかになった。 3. 記録された目撃談 これらはおもにボツワナに最初にやってきた白人旅行者の日記や描写である。 例えば、 ウィリアム・ソマヴィルは 1802 年にタピン族を訪れ、彼が何を見たかについての詳細な描写を記録した。19 世紀のはじめには数多くの訪問者がいた。 ソマヴィルのような旅行者、モファットやリビングストンのような宣教師、バルドウィンのような狩人、バーチェルや スミスのような社会学者、 ベインやアンダーソンのような商人などである。 それぞれが自分自身何を見たかを記録した。 普通彼らの日記や描写や写真は、当時訪問者にとってもっとも面白かったことを記録している。不幸にも、今私たちが 良く知りたいことは、彼らの興味をひかなかった。そうだとしても、彼らの報告は、人々が 150 年以上前にどのように 生活していたかを推測する助けになる。 4. 芸術 絵画、線画、彫刻、そして土甕のようなものの飾りでさえ、過去について多くを教えてくれる。 何千年も前の壁画や彫刻は、それを描いた地域の動物を教えてくれ、それは作者にとって重要なものであり、彼らの 信仰について少しでも学ぶ助けになる。例えば、明らかな儀式の絵は、作者が雨を降らせようとしているのを連想させ る。 初期の旅行家によって描かれた絵により、 日記には書かれていない当時の人々の生活ぶりがより理解できる。 例えば、 ソマヴィルが 1802 年にタピン族を訪れたときに同行した画家のサミュエル・ダニエルは、彼が見たものについて多く の美しい線画や絵画を残した。 他の例では、 1840 年代にボツワナを訪れたアルフレッド・ドルマンも多くの絵を描いた。 その中の 1 つは 1847 年頃のセチェレでの交易の様子を描いている。ここでは、人々が何を着、交易品が交換のために テーブルの上にどの様に並べられているか、ということを見る事ができる。彼の日記では、その絵についての詳細は述 べられていない。 5. 公的記録 これらは、宣教師やビジネスマンや行政官によって書かれたものである。これらは、書いた人が自分たちのことでは なく行政問題について書いているので、とても役に立つ。しかしながら、宣教師の記録は注意深く取り扱わなければな らない。 宣教師はボツワナ人の生活を全ての面で変えようとしていたからだ。 彼らは非キリスト教的なものを非難した。 事業や鉱山に関わる記録も、筆者がほとんど金儲けのことを考えているので、注意深く見なければならない。同じよう に行政官も一般的に自分たちのやった否定的なことについては書かないので、 その資料は批判的に見なければならない。 6. 他の歴史書 これらは二次資料として価値がある。二次資料と呼ぶのは、その中の情報は既に本の作者によって解釈された間接的 なものとして私たちのもとに来るからである。歴史書は批判的に読まれなければならない。つい最近まで、南部アフリ カについて書かれたほとんどの歴史は、南アフリカの白人か、多くはヨーロッパあるいは北米の非アフリカ人によって 書かれていた。彼らは、書かれた歴史がほとんどないか、全く存在しない土地の歴史を書こうとした。彼らはまた、自 分たちとは文化も言語も違った人々について書こうとした。外国人歴史家にとって重要かもしれないことは、彼らが書 こうとしている人々にとっては、重要ではないかもしれない。 7. 言語 言語の勉強は、異なった人々の関係を教えてくれる。ツワナ語とカランガ語は、似た文法を持ち、多くの言葉の由来 を共有していることから、関係している。これにより、ツワナ族とカランガ族の先祖は遠い過去の一時期言語を共有し ていたということがわかる。 特に言葉のそのような研究から、過去に人々がどのように生活していたかを学ぶことができる。例えば、ほとんどの 人々は、サルワ族は家畜を持ったことがないと信じている。しかしながら、ハンツィ地区のナロ族やグチ族、中央地区 のクア族といったコイ人の言葉では、羊、牛、ミルク、犬といった言葉がある。これらの言葉は、隣り合ったツワナ語 のような、長い間家畜を飼ってきた人々の言語から借りてきた言葉ではない。これにより、サルワ族もしくはコイ族(今 後はこう呼ぶが)は長い間家畜を飼っており、それはおそらく隣人がボツワナに到着するよりも前のことだろう。 言語は、それ自身では少ししか教えてくれないが、伝承や考古学と結びつくと、過去を学ぶのにとても有益になる。 2 本書について この歴史書は、人々が存在する前から現在までのわが国の歴史を教えようと試みている。それには上に挙げた資料を 全て使おうとしている。 明らかに、初期の歴史は推測することが難しい。ときどき私たちは、われわれの知識とは大きな開きがある他の作者 の仕事や簡単な調査報告に頼っている。しばしば情報がほとんどなく、また一ヶ所の考古学的発掘以外には資料がない こともあった。そのような場合、われわれは、利用できる証拠を使い、何が起こったか推測することによって間隙を埋 めた。 調査は継続的に行われているので、常に新しい情報が利用できるようになる。この本の第一版で書いたことは、新し い情報や古い事実の新しい解釈によって変わった。おそらく今から 10 年後にこの本が再刊されるとき、また改訂する 必要があるだろう。歴史家はいつも情報の解釈に合意するわけではない。われわれは、物語の全ての面を与えることに し、そしてわれわれが正しいと思ったものを言う。私たちはまた、他の歴史書も使い、その内容と比較した。私たちは、 伝承を、考古学を通じて確認しようとした。たとえば、クウェナ族の初期の支配者であるモツォディはモディぺ丘に住 んでいたといわれた。私たちはそこを発掘し 17 世紀のものと見られるツワナ式の陶器を発見した。私たちはまだそれ がモツォディの臣民のものであるか確かではなく、ングワケーツェ族のものかもしれないと思っているが、ツワナ人の ものであることは確認できている。 巻末には、私たちがあたったたくさんの書籍を添付した。これらの資料は先生や読者にとって有益だろう。それらは、 特定の話題について私たちがここで与えたよりも多くの方法を与えてくれるからだ。 3 第 2 章 私たちはどこから来たのか? 私たちがどこから来たのか理解するために、私たちはだいたい 1000~500 万年前に地球で何が起こっていたのかを少 し知る必要がある。私たちは、アフリカがどんな様子で、気候がどのようにかわり、進化とは何を意味するのかを知ら なければならない。 1000 万年前、アフリカは今のようではなかった。土地のほとんどを覆うような大きな森があり、多くの川や大きな湖 があった。開けた草原やブッシュのような今のカラハリは存在していなかった。気候は今よりも暖かく、今の 4 倍の雨 が降っていた。おそらく季節は今私たちが知っているのとは違っただろう。 ボツワナでは、オカヴァンゴデルタもマカディカディパンもなく、いま見られるような川もなかった。森が国土のほ とんどを覆っていた。おそらくザンベジ川は、ヴィクトリアの滝を超えて東へは流れておらず、南へ流れ、ボツワナに あった大きな湖に流れ込んでいただろう。川は今よりももっと大きかった。オクワ川のような今では乾いてしまったい くつかの峡谷は、たくさんの水を運ぶ大きな流れだっただろう。ザンベジ・オカヴァンゴ・クワンド・オクワの川は全 てボツワナ中央部に流れ込み、6 万㎢に及ぶ大きなマカディカディ湖を形成した。 象やバッファローといった動物は全国に住んでいた。そこには大シマウマやサーベルタイガーといったもはや存在し ない動物もまた住んでいた。彼らは時が経ち気候が変わるにつれ消えていった。その当時森の中に住んでいた動物種と してヒト上科がいた。それはチンパンジー・ゴリラ・私たち自身の先祖を含んでいた。 気候が寒く乾燥してくると、アフリカの広大な森は縮みはじめ、その間に広大な草地とブッシュを残した。森から平 原への変化は、得られる食物の変化を意味した。果実や緑の若葉が少なくなり、木の実・豆・種・球根・根・塊茎が増 えた。 森が縮みはじめると、ヒト上科の中には、開けた土地に住む新しい方法を見つけるよう強いられたものもいた。これ はおそらく、私たちの初期の先祖がチンパンジーのようなサルと別れた時であっただろう。 残念ながら、その当時の、ヒト上科の骨の化石はまだ見つかっていないので、私たちの先祖と他のヒト上科の分離が いかに起こったのか正確にはわからない。しかしながら、私たちは、その先祖がゆっくりと人間に進化してきたことを 知っている。そうだとしても、その時点では、私たちは彼らを人間だとみなすべきではない。チンパンジーの先祖も進 化しており、彼らもおそらく現在のチンパンジーだとは見る事ができないからだ。 時が経つにつれて、全ての動物と植物が変化し、変化する環境の中で生き残ることができた。もし降雨が少なくなり、 気候が涼しくなったら、動植物はより乾燥し冷たい環境の中での生き方を学ばねばならなかった。これは、彼らが生活 スタイルを変えなかったら、死ぬか消え去ることを意味した。しばしば彼らはその形態や体の一部の動かし方を変えな ければならなかった。これらの新しい状態への変化や適応は進化と呼ばれている。 動物が死ぬと、その体はゆっくりと腐り、その骨さえも最後には消えてしまう。ときどき、動物の体は泥の中に特に 火山灰の中や、石灰岩の中に密閉され、その骨は腐るかわりに守られ、ゆっくりと石に代わる。これらの石の骨は化石 として知られる。 考古学者はヒト上科の化石の骨を多くの場所で見つけたが、最も古い骨はアフリカで見つかった。アフリカで見つか った最初の頭蓋骨は南アフリカのフライバーグそばのタウンで見つかり、 1924 年におそらく現在のヒトの先祖であろう と認定された。それはおよそ 200 万年前のものと考えられた。他の 400 万年以上前のもっと古い骨は、ケニア・エチオ ピア・タンザニアで見つかっている。それらは頭蓋骨・歯・手足の骨・あばら骨・骨盤からなっていた。普通それらは 広く散らばって見つかった。多くの骨が 1 つの骸骨として見つかったのは大変珍しかった。化石の骨はボツワナではま だ見つかっていない。 科学者は、 私たちの先祖に属する化石の骨と、 ヒト上科のほかの種類に属するそれとの違いを見分けることができる。 彼らは最初に違いに注意した。腿骨が骨盤についている関節ははっきりといくらかのヒト上科が直立して歩いていたこ とを示していた一方で、 現在バブーンがそうしているように主に足と指間接で歩いているものもいたことを示していた。 私たちは、なぜヒト上科の中に直立歩行をはじめたものがいたかについて、確かなことは知らない。科学者の中には、 私たちの先祖が直立歩行をはじめたのは、危険な動物が近づいてきたときに草を越えて草原を見渡すことができるため だという者がいた。他の学者には、彼らがえさを分けるための中心地にえさを持ちかえり始めたとき、手を使ったのだ というものもいた。だが、どちらも彼らが体を太陽からも熱い地表からもやってくる熱を和らげるための適応だという ことは信じている。 アウストラロピテクス 約 500 万年前まで、気候はまだ今よりも湿っており暖かかったが、長い乾季があり多くの新しい植物が雨なしで何ヶ 月も生きられるよう進歩した。その頃まで、もしくはそれより少し早くに、私たちのもっとも初期の先祖は類人猿から わかれた。現在では、私たちはこれらの先祖をアウストラロピテクス(南の類人猿)と呼ぶ。彼らはまだ類人猿に似てお 4 り私たちよりもかなり小さかった。現在の類人猿や猿のように、彼らは集団や大きな家族で生活し、おそらく昼間は開 けた平原を、食物を探して直立姿勢で歩き、夜は川や湖の岸に沿った木に登り、ライオンや他の動物から身を守ったと、 私たちは考える。 雄のアウストラロピテクスは、雌よりも大きく、身長が約 135 ㎝、体重が 45 ㎏くらいだった。雌はおよそ 105 ㎝の 身長で体重はわずか 26 ㎏だった。つまり、アウストラロピテクスはだいたい現在の 8 歳児と同じ大きさだった。彼ら の腕は長く、足は短かったので、彼らはまだかなりの時間を木の上で過ごしていたと推測される。彼らの頭は小さく、 容量は約 400cc だった。現在の人間の頭は約 1,400cc の容量である。彼らは大きく先が平らな歯と長いあごを持ってお り、それにより固い食べ物を押しつぶし、飲み込んでいたと推測される。 200 万年前までに、アウストラロピテクスの中には進化し、変化したものがいた。彼らは背が高く、重く、歯は小さ く、頭のサイズは大きくなった。また、彼らはいくつかの違った種類に分けられた。彼らはおもに果物・若い木の芽・ 木の実・根・球根・塊茎を食べ、時には昆虫やとても小さい動物を食べたと、私たちは考える。彼らは話すことができ ず、道具や火の作り方も知らなかった。 ホモ・ハビリス 200 万年前より前のいつか、アウストラロピテクスの一種が他よりも大きくなり、わずかに大きな脳を持った。それ は簡単な道具を作り始めた。現在残っているただ 1 つの道具は石でできたものだ。初期の道具のほとんどはいくらかの 剥片が削り取られた小石だった。剥片はおそらく切る道具として使われた。 その大きさと大きな脳と、道具を作ったという事実により、科学者たちはこの種こそがわれわれのもっとも初期の親 類だと信じるよう至った。彼らは、手を使ってものを作ることができたことから、手を使う男を意味するホモ・ハビリ スと呼ばれた。他のアウストラロピテクスもアフリカに住みつづけたが、おそらく道具を使うことは覚えなかった。彼 らは姿を消し始め、100 万年前には、彼らはすべて絶滅した。 ヒトと類人猿をはっきりと分けるには 4 つの特徴がある。直立歩行・平らな顔と小さな歯・大きな知性を示す再組織 された大きな脳・そして手でものを作る能力である。ホモ・ハビリスはこの属性を全て持っていた。初期のホモ・ハビ リスは、彼らの先祖のアウストラロピテクスほど大きくなかった。しかしながら、彼らの脳は大きく、500~600cc の容 量があった。彼らは彼らの先祖より賢かったに違いない。そうだとしても、ホモ・ハビリスはおそらく彼らの先祖であ るアウストラロピテクスと同じように、おもに果物や野菜を食べ、夜は木の上で寝て、生活していただろう。とがった 石の使い道は、他の動物が殺した獲物の肉をあさるときや、骨髄を割るときや、そしておそらく地下の植物を掘るとき に使う木の道具を作るときに使ったのだろう。 ホモ・エレクトス 180 万年前まで、気候は大きく変わらなかった。しかしそれから気候は大きく変わった。ときどきとても暖かく湿潤 になり、他の時期には寒く乾燥していた。森は大きくなったり小さくなったりし、平原は開けた草原からブッシュ・サ ヴァンナまで変化した。雨量は増減した。湖は時にいっぱいになり、時にはからになった。 科学者は、こうした気候変化のおかげで人間の進化は大きな一歩を踏み出した、と考えている。生き残るために初期 の人々は環境の変化に適応しなければならなかった。初期の人々が全て生き残ったわけではなかった。適応に失敗して 消えたものもいた。ホモ・ハビリスの中には重くなり、背も高くなったものがいた。慎重 180 ㎝体重 65~70 ㎏で歩い て簡単に平原を横断できた。 彼らは大きな歯と長いあごを持っていたが、彼らの体は私たちのものと良く似ていた。特に彼らはより大きな頭を発 達させ、容量で約 900cc だった。なぜ彼らの脳は大きくなったのだろうか?おそらく、絶え間なく変化する環境により、 彼らは考え、生き残るための新しい方法を学び、そうして知性と脳を発達させたのだろう。 ホモ・ハビリスの中にはほとんど進化せず、大きな仲間と共存していたものもいたが、最後には彼らは地球上から消 えた。 ホモ・ハビリスの大きな子孫は、ホモ・エレクトゥスまたは直立原人と呼ばれた。私たちは彼らについて良く知らな いが、彼らがさまざまな用途に使えるいろいろな石器の作り方を発明したことは知っている。道具の製造者は彼らが作 りたい道具の形を頭の中でわかっていた。これらの道具の 1 つに片手斧とよばれるものがあった。適当な大きさの石が 選ばれ、先端ととがった端を形作るように両側が削られた。実際にはこれらの斧は、削られた小石や破片のような初期 の道具と違って、作者の頭の中に原型があった。これらの道具は初期石器時代の道具として知られる。 初期石器時代の道具、特に手斧は、ボツワナのあちこちで見つかっている。オクワ川、ンガミ湖の周辺、ボテチ川、 そしてロバツェからラモクウェバネに伸びる東部河床である。これはホモ・エレクトゥスがボツワナ中に住んでいたこ とを示している。 140 万年ぐらい前かそれより後には、ホモ・エレクトゥスは火を使うことを学んだ。最初には、彼らはおそらく野火 5 から燃える木をとって住んでいる所でできるだけ長く燃やしていたのだろう。これが、彼らが木を寝床に使うことの終 わりだったかもしれない。彼らは今では身を守るのに火を使えたからだ。 彼らは私たちが今話しているようには話せなかったが、手や頭を使ったジェスチャーで意思伝達ができたかもしれな い。そしておそらく口で何らかの音を出していただろう。彼らは計画を立てることができ、その戦略を実行することが できた。彼らは大きな動物を狩ったかもしれないが、それは疑わしいようだ。おそらく彼らは、肉を得るためにライオ ンを追い払いその獲物を取る方法を学んだのだろう。彼らはまた、若いレイヨウといった小さな動物、陸ガメ、ねずみ、 巣の中の鳥、卵といったものをとって食べたかもしれない。 ホモ・エレクトゥスはいろいろな道具を作りつづけ、道具は小さくなり、いろいろな用途に使うことができた。60 万 年前には彼らは自分たちで火を起こす方法を知り、ほんのわずかな音を使って話すことができた。 いつも訊ねられる一つの質問は、類人猿から人に徐々に進化したのか、一連の段階として進化が起こったのか、と言 うことである。今日、科学者は、アウストラロピテクスは、最初はとてもゆっくりと発展したと考え始めている。それ から突然、環境の変化が彼らに、すばやく新しい状態に適応するか、さもなければ死ぬかということを強制した。変わ った環境の中で生き残るために、人々は大きくなり、より直立して立ち、より大きな脳と大きな知性を発展させた。実 際、進化は突然噴出した一連のものとして起こった。 ホモ・サピエンス およそ 30 万年前、われわれの先祖はより現在の私たちに似てきた。彼らは私たちのように一歩一歩大きなつま先を 前に蹴り上げて歩いた。彼らは火やいろんな道具の作り方を知っていた。彼らは住処を作ったかもしれない。彼らはお そらく自分たちの間でとても簡単に意思伝達しただろう。しかし彼らはまだ私たちのようには話せなかった。彼らの脳 はおよそ 1400cc でわれわれのものとほぼ同じだった。彼らは計画を作り、その計画をみんなで実行することができた。 私たちは彼らをホモ・サピエンスまたは知恵のあるヒトと呼ぶ。 20 万年前頃、石器づくりに変化が起きた。石を削って形を作る代わりに、ホモ・サピエンスはとてもとがった端を作 ることのできる石を選んだ。これらの石は、完成品の形によって代わる、事前に決められた形に削られた。石核として 知られる削られた石はその端を岩の上に置き、長い剥片を削り取るためのほかの石をうちつけた。これの作者はこのか けらがどのような形になるか既に知っていた。これらの長い剥片は石刃として知られる。時々彼らは、違った用途に形 を変えるために、またそれらを尖らすために、端に沿って削ったり調整したりした。 ホモ・サピエンスはさまざまな種類の道具を作った。それらは、ナイフとして使われるかもしれない鋭く切り取られ た端の長く細い石刃、木や皮を解体するための異なった種類の道具、手斧や槌、槍先や錐に使われる小さなかけらなど だった。握槌はまだ作られていたが、より小さくなっていた。私たちはそれらの道具の多くは木の柄に固定されていた のではないかと考えている。これらは中期石器時代の道具と呼ばれている。初期と中期の道具の違いは、初期の道具は 一般的に石核を削って作られ、石核が道具として使われるのに対して、中期の道具は調整石核から叩いて作られた剥片 からできていた。おそらく 10 万年くらい前に初期石器は中期石器と共に使われつづけていたが、9 万年くらい前には調 整石核から作られた小さな剥片と石刃を残してそれらは消え去った。 科学者が自分自身に訊ねるもう一つの重要な質問は、ホモ・エレクトゥスの子孫の現代人は、全世界でホモ・サピエ ンスとして進化したのか、ただ一箇所で進化したのか、と言うことである。多くの科学者は、20 万年くらい前のアフリ カで、ホモ・サピエンスは石核の道具の代わりに石刃や剥片の道具を作り始めたときに大きな一歩を踏み出したと信じ ている。彼らは、ホモ・サピエンスはアフリカの外へと広がり始め、他の人々の集団が住んでいた地域に住んだのだと 考えている。ゆっくりとアフリカのホモ・サピエンスは、他の集団にとって代わり、15 万年の時間をかけて、世界中に アフリカから出ていった子孫を残して、3 万年くらい前までに初期のホモ・サピエンスは消え去った。 現代人 現代人は、5 万年くらい前にホモ・サピエンスから進化し、おそらく今の私たちと同じようになっただろう。彼らは しばしば、初期のホモ・サピエンスと区別するために、ホモ・サピエンス・サピエンスと呼ばれる。当時気候は氷河期 から間氷期そしてまた氷河期と変わった。北部ボツワナの大きな湖は干上がり始め、川から流れ込む水はわずかになっ た。 石器の作り方はまた変わった。 チャートやシリクレートといった固い石が円柱状に作られ、 また石核として知られた。 柔らかい石や骨槌を使って、それらの円柱から、長い剥片が削り取られ、たくさんの小さくて薄い石刃を作った。石刃 はそれから道具の形に作られた。道具製作者は、おそらく骨から作られていた柔らかい槌やてこを使った。石刃には、 鋭く削った端や先端を作るために、削り取られた小さな剥片があった。多くのとても小さな道具は、木に取り付けられ、 錐や石匙を作るのに使われた。おそらく、長いナイフや草を刈るための鎌、矢や槍のための鏃やかかりを作るために、 時々いくつかの石器は木片にくくられた。3 万年前に作られたそのような小さな鋭い道具は後期石器時代の道具と呼ば 6 れ、ボツワナでは 17 世紀か 18 世紀にやっと終わった。種や小さな木の実をすりつぶすために、そして時々彼らが塗料 に使っていたことを示す赤土をすりつぶすために、石臼が一般的になった。骨の道具も作られた。はり、錐、魚を突き 刺すための銛、矢がらなどである。ときどきそれらは、いろいろな模様の入った溝で飾られていた。 これらの道具製作者は、集団で生活し、しばしば一箇所にとどまり、簡単に意思疎通ができ、狩ったりあさったりし た、より大きな動物の肉を含むさまざまな種類の食べ物を食べた。彼らはダチョウの卵の殻やイシガイの貝殻からビー ズを作り、皮を加工し、服や毛布を作っただろう。彼らは赤土で自分の体を塗ったかもしれない。また自分自身をビー ズでかざりつけ、身につけている中には偶像的意味があると考えられる骨の道具もあった。それはおよそ 3 万年前のこ とで、アフリカでは、彼らは自分たちの住んでいた岩に動物の絵を描き始めた。これらの人たちはボツワナの多くの地 域に住み、そしておそらく私たちがサルワ人と呼ぶ現代のコイサン人の先祖だろう。 石器時代の概観 200 万年ほど前、われわれの先祖は石の道具を作った。私たちはこの期間を石器時代と呼ぶ。なぜならば、私たちが 見つけた遺跡で多くの石器が一般的だったからだ。おそらく彼らは他の木や骨の道具も使っただろうが、ボツワナでは 過去 2 万年でほんの少ししか骨の道具が見つかっていない。私たちはアフリカの石器時代を 3 つの部分に分けた。初期・ 中期・後期である。区分けは時間的経過により、特にどの道具がそれらの期間で使われたかによっている。初期石器時 代の道具は中期石器時代の道具が作られ始めても作られつづけた。それゆえこの期間は重なる。 異なった形の道具は、人々がどのように生活していたかを教えてくれる。しばしば道具の形はその道具がどのように 使われていたか教えてくれる。科学者は使われていた道具の印を検査し、時々それが皮を加工したものだったか、木を 尖らすものだったか、ダチョウの卵の殻に穴をあけるものだったかを知ることができる。 より重い初期の道具はおそらくライオンやレパードに殺された獲物の皮や肉を取ったり、叩いたりするのに使われた のであろう。開けた平原が大きくなったので、ますます特化された道具が、穴を掘ったり固い食べ物を調理したりする ために必要とされた。長い乾季の間に食料が減ったので、人々は槍や屠殺用の道具を使って狩をし、肉を手に入れ始め たかもしれない。 最初は、人々は生きるためだけに天然の固い道具を使ったが、知識のおかげで人々はたくさんの種類の道具を使って より快適に過ごせるようになった。 気候が涼しくなるにつれて、夜暖かくするために毛皮が必要となった。彼らは、話し方・計画の立て方・家の造り方・ 火のおこし方を学んでいたので、それぞれの目的に合った道具を必要とした。初期には1つで済ませていた道具は、そ れぞれの仕事に向いた形に加工された、多くの特殊な道具にとってかわった。 弓と矢を使うのに必要とされる道具と技術を考えてみよう。 • 運ぶ袋を作るために、皮を切るためのナイフと毛を取り除くための削り器 • バッグを縫うための針 • バッグを縫うためと弓を作るための腱からできた紐 • 弓のための枝を切るための鋸か重いナイフ • 弓の両端に先端をつけるためのカンナ • 弓のための木を滑らかにするための削り器 • 矢を強くするための火力熱 • 石の先端を矢につけるための火力熱と樹液 • 矢に使う毒 • 毒を入れる木製の箱を作るための丸のみとのみ • 矢入れのための木の根の皮 • 矢の矢がらを作るための骨 たくさんの種類の道具を作ることができるようになったため、人々は以前住んでいなかった地域まで進出した。道具 を作ることのできなかったアウストラロピテクスは、食べ物を簡単に見つけられる暖かい地域だけに住んでいたと考え られる。しかし、初期石器時代の終わりまでに、北ヨーロッパの氷に覆われたツンドラからアフリカの熱帯雨林まで、 広く異なった地に住むようになった。5 万年くらい前までに、彼らはボートを作ることを学び、マレーシアからオース トラリア本土まで海を渡ることができるようになった。 7 コラム~~アフリカ起源説 現代人はどこから来たのであろう?科学者たちの意見は、 同じではない。 全てがアフリカ起源だとするものもいれば、 ヨーロッパ・アジア・アフリカにそれぞれ住んでいた先祖からだというものもいた。最初の説は"アフリカ起源説”で、 後のほうは゛多地域起源説゛である。どちらが正しいのだろう。 科学者は決める方法として、どれだけ現在の人たちが深く関係しているかと言うことと、彼らの関係がどれだけ遠く まで伸ばせるかということ、を挙げている。彼らは、長い期間にわたっての率がわかっている女性遺伝子の構成を比較 する。変化をはかることによって、異なった人々がどれだけ深く関わっているかわかり、どれだけ昔に1つの同じ集団 を形成していたのかがわかる。 多くの科学者は、20 万年前のアフリカで、ホモ・サピエンススの集団の中で、一人の男と一人の女が現代人につなが る子孫の線をはじめた、と考えている。彼らはまた、その二人の子孫と交配しなかった他の全ての人たちの子孫は、そ れからゆっくりと消えていったと考えている。 約 15 万年前、その男女の子孫の中にはアフリカから出て広がっていくものもいた。彼らは、ホモ・エレクトゥスの 子孫を彼らが住んだ土地で見つけた。科学者は彼らが交配したか知らないが、彼らはしていないと考えている。これら のアフリカ起源の人たちはその前の人たちにとって代わった。ネアンデルタール人として知られる初期の最後の人々は ヨーロッパでおよそ 3.5 万年前に消えた。 DNA として知られる遺伝子の配列によると、アフリカ人は地球上で最も古い人々であることを示している。そして、 インド人・アジア人・ヨーロッパ人はみなアフリカ人から生まれてきた。考古学者は、ホモ・サピエンスの一番古い化 石はアフリカで見つかり、 最も初期の中期石器時代の石刃石器もアフリカで作られたと示した。 これらは全て現代の人々 がアフリカ起源である事を示している。 多地域起源進化論を論ずる科学者は、ホモ・サピエンスはホモ・エレクトゥスからアジアで進化したという。これに はほとんど証拠がなく、ホモ・エレクトゥスがいなくなってから、ホモ・サピエンスにとって代わったというほうがよ りそれらしい。私たちはアジアでのより多くの考古学的作業を待たなければならない。おそらくそこでとても古いホモ・ サピエンスの化石が見つかるかもしれないが、疑問である。 8 第 3 章 カラハリの最初の人々 後期石器時代はボツワナでほとんど4 万年続いた。 人々はツォディロ丘で1600 年くらいまでまだ石器を作っていた。 いくつかの形の石器は 1 万年から 2.5 万年前に作られ、ボツワナの多くの場所で見つかった。 これらの石器は、自分たちを”カラハリの最初の人々”と呼んだり、私たちがコイサン語族やサルワ人と呼んだりする 人たちの先祖が作った。彼らだけが 2000 年前まで南部アフリカと東アフリカの一部に住んでいた住民であり、その後 カメルーンあたりの地域から製鉄技術を持ったバンツー語族の人々が東や南に広がり、アフリカ大陸の南半分の多くに 住んだ。 起源 これらの後期石器時代の人たちはどこからきたのだろうか?DNA テストによると全てのアフリカ人はお互い関係し ている。おそらく 4 万年前、大陸の南半分の、森の外やサヴァンナ地域に住んでいた人たちは、その生活を変え始めた。 彼らは後期石器時代の小さな石器を作るようになった。これらが”カラハリの最初の人々”の先祖である。後期石器時代 はここで最初に生まれここから北へ広がったようなので、私たちは彼らが逆ではなくここで最初に発展したのだと考え る。 彼らは、サヴァンナの草地・海岸・森・川や湖の岸といった多くの違った環境にもゆっくりと広がって住みだした。 彼らはみな狩や野生食物の収集で全て生活した一方で、それぞれこれを違った方法で行った。魚釣りや川の食物を集め る者がある一方で、海岸で食物を探すものもいた。モルーラやモコングウェといった木の実だけをほとんど食べていた ものもいれば、果物や野草そして地下の植物といったいろいろな食べ物を食べていたものもいた。彼らが何を食べ、ど のように生きたかはその地域特有の環境で何が取れるかによっていた。彼らはお互い違った言葉を話していたに違いな い。それらの言語は今でも話されているからだ。 科学者は、ナタの近くのシュア族や、ボテチ川のそばのデティ族、そしてオカヴァンゴのカニ族などの血液の型はバ ンツー語族の血液の型と似ており、後期石器時代のカラハリの人々の血液の型とは異なっているという。そうだとして も、これらの人々は、カラハリの人たちが使っている言葉と似ており、生活習慣もどこか似ている。彼らはバンツー語 族の人々が来るよりも前に南からやってきて、後期石器時代の生活習慣に適応したのだと考えられる。 “カラハリの最初の人々” カラハリの最初の人々”の子孫は誰なのか? 今日では、私たちはボツワナの初期住民の子孫を単一の人たちとみなし、彼らをサルワ人と呼んでいる。私たちは、 彼らを、遠くに住み、狩猟採集を行い、耕作しない人たちだとみなしている。これはまったく正しくない。ボツワナに は、さまざまな地域に住み、異なった営みを実践し、英語がツワナ語と異なるようにお互い違った言葉を話す 5 万人ほ どのサルワ人がいる。 彼らの歴史について何を知っているのか? 南部アフリカの住居跡の発掘により、初期の住民がどのように生活し、その営みが時代につれてどのように変わって きたかがわかる。2 千年前までは、彼らは小さな集団で住み、果物・木の実・野草・種・根茎・根・球根・きのこ・蜂 蜜・昆虫・小動物といった野生の食物を集め、槍や毒のついた矢で大きな動物をしとめた。川に住む人たちは魚をとる ことができ、水を飲みに来た大きな動物を掘った穴に落とすことによって狩をした。彼らは犬を飼っていたかもしれな いが、 他の家畜は飼っていなかった。 自然にはあり得ない地域でチャートのような石で作られた道具が見つかったため、 彼らの間に交易があったことがわかっている。いくつかの場所では彼らは赤土・雲母・鏡鉄鉱を採掘していた。 それから発掘調査によれば、およそ 2 千年前に羊や牛が南部アフリカに入り始めた。それが移民によってもたらされ たものなのか、北の石器時代の人を通して交易されたものなのかはわからないが、わずか数百年前にその地に到着した 鉄加工をする黒人によってもたらされたとは、私たちは考えない。 ハンツィ地区のナロ族・ボテチ川のデチ族・ソワパンのツヮ族・オカヴァンゴのカニ族やブハ族といった人たちは、 自分たちがいつも家畜を飼っており、ときどき作物を育て、川岸に沿った所や涸れない泉のそばで村を作って生活した という。彼らの言葉には牛・牛乳・鍋・羊・ミレットと言う言葉がある。彼らはこれらの言葉を他の言語から借りたわ けではない。これは、他の家畜を連れた人々がこの地域に入ってくるより以前に、彼らが家畜を持っていたことを示唆 している。1800 年代初期のコロロ族の略奪者やツワナ族居住者によって彼らは家畜を奪われ、それを回復できないのだ と多くは言う。 私たちは、彼らの遺跡や住居跡を発掘することにより、彼らがどんな道具を作り、何を食べていたのか知ることがで 9 きる。私たちは、この国の中での彼らの数や分布について、そして採鉱のような彼らの活動について、もっと学び始め た。私たちはまた、彼らが岩に絵を描いたり彫刻したりしたのを知っている。 不幸にも、私たちは彼らの社会習慣について、彼らの墓場・住居の配置・芸術・彼らが交易したもの以外からはほと んど知る事ができない。私たちは、彼らの話している言葉を知らず、彼らが強力な支配者を持っていたかどうかも知ら ず、彼らが戦ったのかどうかも知らない。おそらくより多くの発掘がなされれば、彼らの社会史についてより知る事が できるだろう。 考古学者は、現在生きている人々の生活習慣を学び、それからこれらの研究と考古学的証拠を使い、その先祖が昔ど のような生活をしていたか再現しようとする。 生活習慣は環境変化と隣接するほかの文化の影響の両面で変化するので、 これらの再現はいつも正しいわけではない。 後期石器時代の生活習慣の再現 1 万年前ですら、後期石器時代の人々はボツワナに住んでいた。気候が乾いているときは、彼らは川や湖の岸に向か って動いた。しかし湿潤な気候になると彼らはカラハリに広がり始めた。彼らは 20~50 人の小さな集団をつくり、草 で覆われた小さなハットを作り、一箇所には短期間だけとどまり、食料を求めて数 km 離れた他の場所に移った。 女性がおもに野生食物を集めた。彼女たちは小集団で毎日出かけ、毛皮の毛布を着て、掘るための棒と網を運んだ。 彼らは、豆の木・果物・根・メロン・きゅうりを集めた。ダチョウの卵・陸ガメ・虫の幼虫・巣の中のひな、死んだ小 さな動物などを見つけたときは、それらも集め、毛布にくるんだり、網にいれたりして運んだ。 男たちは、植物や腱から作った紐でマングースのような小さな動物や鳥をとるために罠をしかけた。跳ねウサギは先 にかぎのついた長い棒で穴から引き出された。狩には槍と、もし持っていれば犬が使われた。ワイルドビースト・エラ ンド・キリンのような大きな動物に対しては、這いよりカブトムシから作った毒を塗った軽い矢を使って狩をした。魚 は、河床に低い石の壁を作り、籠で捕らえたり、槍で刺したりして、捕らえた。 肉は、家に運ばれ、集団のみんなで分けられた。もし、キリンのような大きな動物がとれたときには、全員でそれを 切り分けて、食べた。ときどき動物はその場で食べられることもあり、住処に持ち帰られたこともあった。 社会生活 後期石器時代の社会生活を再現することは今となっては難しい。その理由は、製鉄・長距離交易・強い政治制度とい った新しい技術を持ったバンツー語族の人々が、彼らの生活習慣に影響を与えたからだ。 私たちは、一緒に住んでいる集団の人たちは、お互い関係していると考えている。それぞれの集団は、泉・涸れない パン・川の深みなどの地表に残る水源に住んでいた。それぞれの集団の家族はみんな水源の所有者であると認識されて いた。その家族の最高齢のものは集団の指導者だとみなされた。それぞれの集団は、自分たちが住んでいる地域の植物 や動物といった全ての資源について排他的な権利を享受しており、まず許可を得ることなく狩猟や採集のために隣接す る集団の土地に入ることはなかった。 隣接する集団の人々とは結婚により結びついていた。これらの関係は集団をまとめるために重要だった。この重要性 を注目するために、精巧に作られたダチョウのタマゴの殻のかけらでできた宝石などの貴重な贈り物は、集団の間で交 換された。この制度はまだ実践されており、カロとして知られている。そのような贈り物を与えることは、与えたもの と受け取ったものの義務を生じさせた。これらの義務は結婚相手を取ったり、旱魃時に隣人の地域で採集や狩猟をした り、困難のときに助けたり、お互いの儀式に出席したりする権利を含んでいた。 宗教 今日、これらの人々は地球・動物・植物・風土を作った神の存在を信じており、おそらくずっと信じていただろう。 神は空の上に住んでおり、日々の生活からは離れているが、善の存在である。彼は生死の創造主であり、魂を地上に送 り、死後にそれを受け取る。彼は雨と豊かさをもたらす天候を管理している。 彼らは、この神が地球を創造したとき、すべての動物・人々・太陽と風・植物はお互い話すことができたと信じてい る。今では、彼らはもはやお互い話す事はできないが、彼らはまだ、彼ら自身と全ての自然のものとの間には特別な関 係があると認識している。もし彼らが必要もなく動物を殺したり、適当な理由なしに植物を切ったりしたら、神は彼ら を罰して、長い乾季と食糧不足を与えるだろうと、彼らは今でも信じている。 そして、創造主にいたずらし嫉妬する別の神がおり、絶え間なく創造主と戦い、造主が地上に持ってきたものをなく そうとしている。このいたずら神は人々と共に住み、彼らの生活の中の事象を管理している。彼は全ての植物や動物と 話ができ、全ての薬草を育て、風を管理する。彼は病気を運んでくるが、治癒力も持っている。彼は悲しみをもたらす が、人々を幸せにもできる。人々は創造主に健康と雨を願うが、問題があったときにはいたずら神に助けを求める。 10 宗教的実践 悪くなったことは正しいことに変わり得るというのがこれらの人々の信仰である。旱魃・不幸・狩の失敗・争い・不 運・悪い兆し・病気・死といったことがあったとき、人々はこれを正さないといけないことを知っている。女性たちは、 小さな火を起こし、拍手をしたり歌を歌ったりしながらその周りに座って導き、男性たちは彼女たちや火の周りで踊り 始める。 踊りが速くなるにつれて、何人かの男性や、時には女性も、トランス状態に入る。トランス状態のときは、彼らの魂 はその体を離れ、遠い場所まで地下を旅し、いたずら神や雨を降らす動物といった超自然的存在と交信する。彼らは超 自然的存在から偉大な力を得て、雨や風を管理し、病気を治し、彼ら自身の間のよい関係を再構築できる。良いときに はそのような踊りは 2 週間に 1 度かそれ以下の頻度でしか行われない。しかし、悪い時には週に 2 度 3 度開かれること がある 壁画と彫刻 南部アフリカや東アフリカで見られるほとんどの壁画は、後期石器時代の人々によって描かれたと信じられている。 それらのうちいくつかはとても古く、約 2.4 万年前に描かれたと見られる壁画が、ナミビアの洞窟に埋まっていた石の 中から見つかった。太陽や雨にさらされた多くの壁画はおそらく 3000 年以上前のものではなく、古い壁画は現在では かすんでしまい消えてしまっている。 ボツワナには、たくさんの壁画と、彫刻がわずかにある。壁画はカランガ族やビルワ族の地の岩山・ツォディロ丘・ チョベ国立公園のグバチャ丘・マニャナの近く・モエンに見られる。カンエのそば・ボタパトロゥ・ラセサ・クヮディ ベレン・モピピ・マモノ・オクヮ峡谷のツヮーネ・ツヮポンのモレミ・ツォディロ丘には彫刻がある。おそらくまだ良 く知られていない壁画や彫刻があるだろう。 カランガ族やビルワ族の地の壁画はジンバブエに見られるそれと似ている。彼らは主に赤で描かれ、70%は人を、30% は動物を描いている。クドゥー・エランド・キリン・小さなレイヨウが主な動物であり象やサイは余り描かれていない。 ツォディロでは、3500 以上の壁画があり、主に赤で描かれているが、黄色のものもいくつかあり、白いものもわずか ながらある。それらはほぼ 51%が動物で 13%が人間で 36%が幾何模様である。 ツヮーナの先祖巨人の足跡を含んだラセサ・マツィエンそしてそのほかの場所には、他の足跡・動物の足跡・幾何模 様・連なった溝・カップのようなくぼみ・そしていくつかの槍のような鉄の道具の像の彫刻がある。 なぜ人々はこのような壁画や彫刻を彫ったのだろう?それらは全て宗教的な目的で作られたと信じられている。一つ の意見として、それは人々がトランス状態にあったときの経験を表すために描いたというものがある。他の意見は、壁 画には魔法の力が満ちており、天気や健康を管理できると、主張している。他の人々は、狩人が岩にかかれた種類の動 物を殺すことができるように描いたと信じている。彼らの目的がなんであれ、それらはアフリカでもっとも初期の芸術 形態であり、その中の多くはヨーロッパやアジアの偉大な芸術と比べてもとても上手に描かれている。 生活習慣の変化 私たちは、牛と羊が南部アフリカにおよそ 2000 年前に着いたと見てきた。土器づくりもまたほぼ同じ頃にそこに着 いた。これらの新しい所有物と技術は、以前には狩猟と採集だけで生活していた人々の生活に多くの変化を与えたに違 いない。 ボツワナの家畜のもっとも初期の記録はツォディロにあり、そこで取れた羊の歯はほぼキリスト生誕と同じ時期に遡 る。時期はわからないが、ボボノンのそばには羊の壁画がある。石器時代の人々が紀元 200 年頃に恒久的な村として住 んでいたと思われるトテンでは二つの遺跡が発掘されており、そこでは、彼らは、羊や牛を飼い、土器を作り、魚をと り、シマウマ・ツェセベ・ワイルドビーストといった大きな動物を狩、野生の食物を集めていた。 紀元 500 年頃までにバンツー語族の人々が北からボツワナに入り始め、新しい政治や宗教の仕組・山羊・牛と羊・金 属加工の知識・焼物・海岸との交易・貝殻のようなもの・そしておそらく作物農業といった物を持ちこんだ。彼らがボ ツワナで見つけた後期石器時代の人々と交易し結婚関係を結んだことは疑いない。 彼らは結婚しただけではなく、お互いの習慣や信仰を自分たちの文化に取り入れたに違いない。神・創造と雨乞い・ 初期の食料分配に関する寓話・トーテム・先祖が病気の原因になるという考え・魔法についての信仰について、もし私 たちが調べれば、多くの類似点が発見でき、多くの借用が起こったことがわかるだろう。 19 世紀にリビングストン博士や他の旅行者がボツワナを訪れたとき、彼らはブッシュマンと呼んだ人々の生活を描い た。リビングストンは、1849 年にボテチ川で会ったデティ族は皆から川の所有者とみなされ、彼らは最近クルーツェ族 とカランガ族にそこに彼らと一緒に住む権利を与えたと書いている。 彼は、 彼らの恒久的な住居が葦の中に隠れており、 彼らは最近まで角の長い牛をたくさん飼っていたがコロロ族に奪われたとも書いている。 シーグフリード・パサージュのようなほかの旅行者や、歴史家は、族長と呼ぶことができる重要なチュ族やツワ族の 指導者について描写している。ずっと昔にサルワの族長とカラハリの族長で戦争があったという。また、シュア族のカ 11 ラクマエはングワト族と戦い、彼らに多くの問題をもたらしたという。19 世紀のはじめまでに、これらの人々の間に族 長と呼べるような強い指導者がいたことにほとんど疑いはない。 まとめ 後期石器時代は、紀元 300 年頃にバンツー語族が北からやってくるまでは、南部アフリカの唯一の住民だった。彼ら は小さな集団で住み、狩猟採集をしていた。 約 2000 年前、後期石器時代の人々は他の人々を通して南にやってきた家畜を手にいれた。家畜の所有は彼らの生活 を変えた。家畜を手に入れた集団は恒久的な水場のそばで村を作り始めた。 同時に作物を育てたり、土器を作ったりする人たちも現れた。彼らは自分たちで育てられる食料を補うためにまだ狩 猟採集を続けた。 豊かになるものがいる一方で、貧しいままのものもいた。これが彼らの間に強い指導者が現れた時かもしれない。 バンツー語族の人々が、後期石器時代の人々が住んでいた地域に到着し始めたとき、彼らと交易を始め、徐々に結婚 もはじめた。彼らは新しい移民と多くの習慣を分け合い、借用しあった 一般に、彼らの住んでいた土地は半乾燥地帯で降雨量が少なかった。気候が良ければ、牛や羊は増えた。旱魃になれ ば彼らの家畜は死んだ。時々強い人たちが家畜を奪い去り、彼らに何も残さなかった。時には、家畜を持っている集団 が定住し作物を育てる一方で、他の集団はただ狩猟採集を行っていることもあった。また、家畜を全て失い狩猟採集生 活に戻ることもあった。この 2000 年間に何度もそういうことは起きたかもしれない。 リビングストンは家畜を飼っている後期石器時代の人々を南アフリカの北ケープとボツワナで見つけた。後に私たち はどれだけ多くの集団がディファカーネの後でその家畜を失い、とても乾燥した地域に住むことを強いられ、生きるた めに狩猟採集をしてきたかを見る。おそらく、このときに彼らの政治制度は壊れ、指導者を失ったのだろう。 私たちは現在サルワ人と呼ばれている人々は多くの異なった集団を含み、それぞれが自分たちの言葉、営み、習慣を 持っていることを認識しなければならない。彼らは土地の使用権・財産の所有権を認識し、一度は伝統的族長も持って いた。彼らの土地に入ってきた強い人たちが彼らから伝統的な生活習慣を奪い、彼らを家や財産のない人たちにした。 12 第 4 章 鉄加工をする農民の到着 バンツー語族住民の起源 前章で触れたとおり、化石と遺伝的証拠から、すべての現代人の先祖は 20 万年前のアフリカのどこかが起源である。 10 万年以上前、 現代人の先祖は北に動き始め、 アフリカからヨーロッパやアジアに入りはじめた。 アフリカ自身には、 6 万年から 4 万年前の間にコイサン語を話す後期石器時代の人々は、あきらかに中部から南部アフリカに住んでいた。 同時に中央や西アフリカに黒人アフリカ人が住んでおり、彼らの多くは現在のバンツー語族の先祖であった。 約 5000 年前、これらの黒人アフリカ人はチャド湖の西で熱帯雨林の端に沿って住んでおり、そこで彼らはおもに漁 猟でときには狩猟採集も交えつつ生きていた。4000~3000 年ほど前、彼らは北から家畜を獲得しはじめ、作物を育て 始めた。南へ向かい、熱帯雨林を抜け、コンゴ川流域に、約 1000 年かけて到着した者もいた。そこで彼らはかなり恒 久的な住居を作り、漁猟をし、土器や石斧を作り、山羊を飼いヤム芋やヤシといった作物を育てた。 これらの移民は、現在のバンツー語族の先祖だった。5000 年前には、現在前バンツー語と呼ばれる 1 つの言語に近 い方言を話していたようだ。時間と人々の長い距離の移動により、バンツー語は変化し、発展したが、全ては共通の文 法と多くの共通の語幹を持っている。 私たちは、これらの言葉をバンツー語と呼ぶ。それは、16~17 世紀に南アフリカの東ケープの海岸に着いた白人船員 がコーサ人に会い、人々を意味するアバントゥーという言葉を聞いたからだ。後に言語学者は、nto と言う語幹は、中 央、東部、南部アフリカを通して人々という意味で使われていることに気付いた。このようにして、この言語はバンツ ー語と呼ばれるようになり、その言葉を使う人たちはバンツー語族と呼ばれるようになった。ツワナ語とカランガ語は ともにバンツー語だが、ナロ・クン・ツァシといったコイサン語はそうではない。 鉄加工の発見と広がり どのように岩の中から鉄を見つけるか、そしてそれを道具にするかという方法は、およそ 3700 年前に北の肥沃な三 日月地帯と呼ばれる所で発見された。肥沃な三日月地帯は、約 1.2 万年前に人々が最初に食物を育て動物を家畜化した 南西アジアの地域のことである。以前には、彼らは狩猟採集で生きていた。 最初は、鉄加工の知識は秘密だったが、紀元前 700 年頃にそれはエジプトに広がり、そしてすぐに人々は南スーダン そして西アフリカで鉄加工をはじめた。この知識がサハラを渡って西アフリカにきたのか、人々が独立的にそれを学ん だのかははっきりしていない。 約 2500 年前、鉄加工の知識は突然ナイジェリアのベヌエ地域に現れた。そこからこの知識は、他のバンツー語族の 人々に広がった。鉄の武器と道具は狩猟・林業・農業をより簡単で効果的にした。これは人口増加と新しい地域への拡 大の原因となったかもしれない。人々は南と東に動き出した。この動きはしばしば”バンツー族の移動”と呼ばれる。 熱帯雨林の北の縁を通って東へ向かい、東アフリカの大湖地帯に着いたものもいた。南へ向けて熱帯雨林を通りぬけ 今の南部ザイールやアンゴラに現れたものもいた。彼らは山羊をつれ、鉄加工・焼物・農業の技術を持っており、石斧 を作っていなかった。 東へ向けて旅をしたこれらの人々は、大湖地方の周辺で、同じく黒人だがバンツー語族ではない中央スーダンの人た ちと会った。スーダンの人たちは、エジプトからナイル川を通して伝えられた、ミレットのような作物を育て、牛と羊 を持っていた。バンツー語族の人々が、牛や羊そしてミレットの育て方をここであったスーダンの人たちから学んだの か、それとも彼らは既に放牧や農業の知識を持っていたのかは、あきらかではない。 熱帯雨林を抜けて南へ向かったバンツー語族はコイサン語族のコイ支族の北の先祖に会った。彼らはすでに牛や羊を 飼っており、それらはもともとは中央スーダンの人たちから得たものだろう。 私たちは、なぜバンツー語族がキリスト以前の今から何千年も前に広がったのかについて確かなことは知らない。お そらく、彼らはより広い空間が必要で、鉄を見つけることができ、作物を育てられ、家畜を飼うことのできる地域が必 要だったのであろう。彼らは、熱帯雨林と、牛を殺してしまうツェツェハエのはびこる地域を避けなければならなかっ た。彼らは降雨が年間 500 ㎜以上の地域が必要だった。彼らはそれゆえに、彼らの生活習慣に合った地域に広がってい ったのだ。 南部アフリカに入ってきたバンツー語族 バンツー語族は約 2000 年前に、大湖地方と熱帯雨林の南に到着し、そこから広がりつづけ、南へ向かった。彼らは 3 つの一般的な道を取ったと信じられている。歴史家はよくこの道を、二つに分かれた”東の流れ”と”西の流れ”と呼んで いる。゛流れ゛という言葉が使われているのは、彼らが 1 つの動きとしてまたは大きな集団が 1 つ 1 つというかたちで 13 はなく、広くしみるように徐々に土地に広がっていったからである。彼らのうちのどれだけが実際に南部アフリカに到 着したのかは確かではないが、最初は数千人を越えることはなかっただろう。 彼らの取った道は、彼らがその住居に残した焼物でたどることができる。われわれの知識には隙間があり、絶対的な 確信を得るためには、住居の遺跡をより多く発掘しなければならない。 コンゴ川流域から南や東へ動いた 1 つの集団は、おそらくザンベジ川とオカヴァンゴ川の間の開けた地域に到着した だろう。これが西の流れの始まりである。東アフリカの大湖地方に住んでいた人々は、南へ二つの道を取り始めた。最 初の人々はインド洋沿岸をたどった。次の人々はツェツェハエを避けて高地の内陸部を旅した。この人たちは西の流れ に現在のザンビアで出会った。それは、そこから南にいくと西の流れの焼物が、東の流れの特徴を備えるようになるこ とからわかる。 西の流れは紀元 250 年頃中南部アフリカへ到着した。(その地域は今のジンバブエと南アフリカの北部で、おそらく一 部の人たちはボツワナ東部を通っただろう。紀元 500 年以前のものとされる、焼物を含んだ遺跡がマウナタラで見つか った。沿岸を通った東の流れはナタールに紀元 300 年頃着き、東の高地の流れはジンバブエに紀元 350~400 年頃に着 いた。 牛、羊、穀物とコイサン人との接触 二つの重要な疑問がある。バンツー語族はどこで牛・羊・穀物作物を獲得したのか?彼らが動いた先に住んでいた後 期石器時代のコイサン語族の人たちにあったとき、何が起こったのか?これらの疑問への答はまだ完全にはうちたてら れていない。 私たちは最初の質問に答えるために言語学を参照しなければならない。南部バンツー語での牛という言葉は、中央ス ーダン語からきている。これはその起源が東アフリカからきた人たちにあることを示唆している。しかしながら、コイ サン語族の牛や羊といった言葉はそれらと似ている。今のボツワナや南アフリカにいたコイサン語族が、バンツー語族 の人々が到着する前に牛や羊を持っていたことはほとんど疑いない。私たちは、後の第 11 章、第 12 章でツワナ族とカ ランガ族の起源についてより詳しく見る。 バンツー語族の人々は、西アフリカの彼らの故郷で耕作を行っていた。彼らは拡大するにつれて、中央スーダンの住 民と出会った。彼らはミレットやソルガムを作る草を栽培できるようにしていた。しかしながら、西の流れの東アフリ カにいかなかった人々は、南部アンゴラや北部ボツワナの川に沿って生活していたコイサン人から、それらの作物を手 に入れたかもしれない。アンゴラのコイ族は、ソルガムやミレットを意味する自分たちの言葉を持っており、それらは とても古くバンツー語から借りたものではなかった。 バンツー語族が南部アフリカにはいったとき、おそらく彼らとさまざまなコイサン人の共同体には友好的な接触があ っただろう。科学者はコイサン人とバンツー語族の結婚の証拠を見つけた。このように、コイサン人とバンツー語族の 移民の初期接触は普通平和的なものだったようだ。実際には、彼らの到着当時、移民者はとても数が少なくて、彼らが 見つけた人々と戦うほどの力は持っていなかった。 人類学者はまた、コイサン人とバンツー語族の信仰に多くの類似点があると示した。例えば、ツワナ族と現地のコイ サン人やサルワ人はともに、大きな動物の肉を分配する儀式を持っており、どちらも雨蛇について伝統的な信仰を持っ ており、エランドによって与えられる活力を信じていた。これらの全ては、長い接触の間に、結婚・交易・習慣や信仰 の交換が起こったことを示唆している。 14 コラム~移民の波 ほとんどの歴史書は、移民の波が北から南部アフリカに入ってきたのはここ 1000 年以内だとしている。 私たちは頭の中に、人の大群、槍を持ったたくさんの男たちが牛・羊・やぎの群をつれ、たくさんの女たちは荷物を 運び子供の手をひいて従う、といったものを想像する。私たちはそれをほとんど軍隊のようにみなし、次々にやってく ると考える。しばしば、歴史書は、それらの集団が家畜や焼物を南部アフリカで見つけた後期石器時代の人々に伝えた としている。 初期の歴史家は、何百年もの間世代ごとに伝承されてきた物語を集めて書き取ってきた。多くの南部アフリカの黒人 は、彼らの先祖は北の大きな湖に住んでおり、良く組織された人々として南にやってきたという物語を持っている。歴 史家たちは、 カラハリ族が最初にきて、 タピン族やロロン族がそれに続きそれからクウェナ族がやってきたとしている。 この話はどの程度正しいのだろうか? 南部アフリカでは、考古学者が多くの紀元 500 年より前の住居を発掘した。羊や牛、そしておそらく焼物の知識は、 バンツー語族の到着よりも数百年前に北からやってきたことは今では明らかだ。今までの所、本当に初期の住居跡はほ とんど見つかっておらず、紀元 300~600 年の遺跡はほとんど 1000 年近く、古い歴史書がいうよりも昔のことである。 これらの住居跡の多くには後期石器時代の道具やダチョウのタマゴの宝石といったものが埋まっていた。 この事実から、 大群が南へ移動したと示唆する住居はほとんどなく、むしろ小集団が数世紀かけて到着したようだ。彼らは既にそこに 住んでいた後期石器時代の人々と混じって住んだ。これらの人々との結婚は、石器が彼らの住居跡から見つかっている ことから説明される。 約 1000 年前新しいバンツー語族が南部アフリカへ向かってきた。モザンビークとそこに隣接する南アフリカで働い ている考古学者は、新しい人々はタンザニアの地域からやってきて、現在ムプマランガと呼ばれる南アフリカの地域に 12 世紀頃住み始めたと信じている。南部アフリカでは、彼らは南と西へ広がった。彼らの焼物のデザインと村の配置か ら、彼らは現在のツワナ族・ソト族・ングニ族であるとたどることができる。考古学者は、ツワナ人の先祖は、これら の後の移民であると信じている。 初期の歴史書は伝承の歴史にのみ頼っている。第 1 章で見たように、伝承はほんの短期間だけが正しい。何百年にも わたって起きた出来事は、しばしばわずかな期間に圧縮される。考古学は、昔起こった出来事のより正確な時期を調べ る。歴史家はカラハリ族とツワナ族は南部アフリカ地域についた最初のバンツー語族だと考える。彼らはまた彼らがロ ロン族・タピン族・クウェナ族のように良く組織された集団でやってきたと考える。いま、しかしながら、私たちは、 彼らが小さな集団で紀元 1000 年以後にやってきて石器時代の人々と混じったということを知っている。クウェナ族や タピン族といった集団は、南部アフリカではまだ形成されていなかった バンツー族の 推定移動経路 西の流れ 東の流れ 15 第 5 章 初期鉄器時代 鉄器時代という言葉は、期間というよりもむしろ、ある人々が生きた方法を指している。南部アフリカでは、およそ 1500 年前に北からやってきたバンツー語族がこの地域に導入した生活習慣を指す。 この生活習慣は、鉄や銅といった金属を採掘する方法や、それらを道具や宝石にする方法や、農業の知識を知ること を伴っている。それはまた、家畜の所有や、貝殻のような異国のものの交易、強い恒久的な住居の建設と言うことも含 んでいた。 南にきた全てのバンツー語族が全部のこれらのことを実践したわけではない。 あるものは狩猟採集者で、 家畜を追い、 鉄を交換していたと考えられている。他のものは、漁猟をし、川のそばで作物を育てた。彼らは鉄について全て知って おり、使っていたが、みんなが採鉱者ではなかった。鉄や銅を加工するものもおり、彼らはそれらの金属を牛や他のも のと交換した。彼らは自分たちの生活習慣にあった土地に住んだ。漁猟者は川や海岸のそばに住んだ。家畜飼育者は牛 にあった土地を探した。農民は降雨量が年間 500 ㎜以上ある肥沃な土地に住んだ。 石器時代は、異なった生活習慣で描かれ、人々は、石の道具を作ったり使ったりし、狩猟採集をし、一時的な家を立 て、そこでは野生動物や食用食物が豊富にある所に移るまでの短い間だけ生活した。彼らは、北からきた人々が鉄を紹 介するまで、それを知らなかった。 約 2000 年前以前には、南部アフリカの全ての住人は石器時代の文化を持っていた。バンツー語族の人々が到着する と、彼らは鉄器時代の文化をもたらした。時が経つにつれ、石器時代の人々はバンツー語族の様式に合わせ始めた。彼 らは結婚し、鉄の道具と交換し、石器時代と鉄器時代の人々が共に含まれていたより大きい共同体の一部を形成した。 数百年後南部アフリカの全ての人たちは鉄の道具と農業について知った。二つの文化は混合した。石の道具をつい最近 まで作りつづけた人たちもいたが、私たちはもはや彼らが石器時代の文化だったということはない。彼らは南部アフリ カのより大きい鉄器時代文化の一部を形成していたからだ。 歴史家は鉄器時代を違った期間に分けたがる。再びいえば、これはただの時を意味せず、生活習慣を意味する。初期 鉄器時代は、貧富の差がなく、一つの階級が広く散らばった村に住んでいた。後期鉄器時代には階級ができた。とても 裕福になったものがおり、地区、国、そして帝国すらも支配するようになった。この文化の変化はゆっくりと何百年も かけて異なった時に異なった場所で起こった。ボツワナでは、この変化は 1000~1300 年頃に起こった。 文化としての後期鉄器時代は、19 世紀の中頃、商人や宣教師が大量生産商品・資金と賃金労働を伴う経済・そして新 しい宗教を導入したとき、ボツワナでは突然終わった。 二つの流れと初期鉄器時代の遺跡 私たちは、バンツー語族の移民が二つの流れで北からやってきて、約 1500 年前に南部アフリカに到着したことを見 てきた。北西からきた西の流れはおそらくザンベジ川の上流からやってきて、東の流れは東アフリカの大湖地方から東 ザンビアやジンバブエを通ってやってきた。 西の流れ 前章で私たちは、ボツワナでわかっているもっとも早い鉄器時代の遺跡はマウナタラにあり、紀元 400 年頃のものだ とされている事を見た。似たような遺跡は南アフリカでも見つかり、それはマウナタラよりも 100 年ほど早い時代のも のであることがわかっている。 最もよく知られた南アフリカの遺跡はプレトリアのそばのブローダーストロームにある。 ブローダーストロームにとてもよく似た遺跡は、モレポローレ・モチュディ・クマクヮネ・オーツェなどのそばの南 東部ボツワナで紀元 600~1000 年のものが見つかっている。ついには、とても重要な西の流れの遺跡がツォディロ丘の ディヴユで見つかり、それは紀元 600~860 年のものであった。マハハレーペ(紀元 600~980 年)は、モレポローレの南 西約 10 キロの所に位置している。この遺跡は、4ha の大きさで、60 を越える構造物で構成され、焼け落ちる前はその うちのいくらかは固い石でできた家だった。おそらく、これらの家のうち、ほんの少しがこの遺跡に人が住んでいた 400 年の間の同時期に立っていたのだろう。住民たちは移動し後に戻ってきたか、焼け落ちた村のすぐ隣に新しい村を建築 したのかもしれない。 これらの 60 の構築物は、ハットの床を支えたかもしれない注意深く敷かれた石の土台、壊れた壁の遺跡と共に厚く 敷かれた土の床、石の上に置かれた木や草の土台の上に敷かれた土の床、ハットの横に建てられた風除けに使われたか もしれない棒と土でできた半円形の壁などを含んでいる。 他の発見物としては、灰・動物の骨・壊れた土器が捨てられた穴、溝のついた石やダチョウの卵の殻でできたビーズ、 骨の先端や彫刻された壊れた骨の棒、ソルガムやミレットといった焼かれた穀物、小さな鉱滓のかけら、そして後期石 器時代の剥片や石匙などがあった。灰・骨・壊れた器はよく積み重ねたり穴を掘ったりして捨てられていた。ごみでい 16 っぱいになったそれらの山や穴は貝塚と呼ばれた。 両方の遺跡からの土器はとても良く似ていたので、マハハラーペは南アフリカのブローダーストロームの遺跡と比較 できる。二つの遺跡は、多くのほかの側面でも似ている。卵の殻のビーズ・溝のある石・骨の先端・いろいろな型の骨 などである。両方の遺跡はとてもよく似ているので、私たちは、それらの遺跡には、お互い関係した人々が住んでおり、 似たような言葉や生活習慣を持っていたりしたかもしれない、と推測することができる。より考古学的な仕事がマハハ ラーペよりもブローダーストロームで行われ、その居住者やその生活様式に関するより多くの情報が利用できるように なるので、私たちはブローダーストロームに注目している。 今までのところ、ブローダーストロームの 12ha にわたる地域で、47 の構造物が発掘されている。これらの構造物の 中には、家畜用の柵を含んだ家もあった。村の中には大きい鉄加工用の場所があった。たくさんの石の山と、いくつか の人骨を埋めた墓もあった。二つの人間の骸骨が見つかり、それはどちらも土の容器の下に埋められていた。鉄や銅の 輪、銅のビーズや鎖といった金属製品が見つかった。他にも、貝殻・象牙の腕輪・骨の先端・卵の殻のビーズ・石や卵 の殻の円盤・土器・たくさんの小さな石の道具も見つかった。ある場所では慎重にひきぬかれた人の歯の収蔵品が見つ かった。これはおそらく儀式のためであろう。 ブローダーストロームの人々は羊や山羊(骨からではどちらのものかわからなかったが)そして牛も何頭かを飼ってい た。彼らは狩猟採集をしていた。彼らが耕作農業をしていた証拠は見つからず、彼らは放牧専門だったかもしれない。 ブローダーストロームに同時に何人が住んでいたかはわからないが、70~100 人もしくはそれ以上住んでいただろう。 似たような土器が出てきて同時期のものだとされた遺跡は、東から南東に広がっており、人口はかなり広い範囲にわた っていたことが思いおこされる。 土器の証拠から、彼らはタンザニアから南に来たと推測され、北部トランスヴァールに紀元 450 年頃到着した。彼ら はボツワナを通って南にいったかもしれない。彼らは少数でやってきて、家畜と金属加工のよい知識を持っていた。彼 らは定着し、ボツワナへ向かって西へいき、そこでは紀元 700 年まで作物を育てたかもしれない。初期から、彼らは現 在のコイサン人の先祖である石器時代の人たちと接触を持った。そのうちの何人かは村に入って一緒に生活した。彼ら は儀式を実践し(埋葬や歯の収集に見られる)、たぶん象牙の腕輪や銅と交換で、東方の人たちから貝殻を得ており、散 らばった共同体として生活していた。とても大きかったり、裕福であったりする村は見当たらず、それぞれの村は自治 を行い、首長国や小さな国がなかったことが示唆される。南東部ボツワナのマハハラーペに住んでいた人たちはブロー ダーストロームに住んでいた人たちと似たような生活を行っていたに違いない。 1996 年の間に、ツヮポン丘の南側の崖に沿って多くの似たような遺跡が見つかった。まだ調査はされていないが、こ れらの遺跡は紀元 400~700 年頃のものだと考えられている。最もよく知られている南アフリカの遺跡はトランスヴァ ールのハッピー・レスト・ファームにある。その土器は、最初に見つかった場所で科学論文に表記された”マタコマ”と して知られる。 私たちは既にこれらの初期の鉄加工移民について学んできた。はるか北西のツォディロ丘を見れば、初期鉄器時代の 人々がこの国のいろいろな所に住んでいたことがわかる。 別の西の流れの移民は紀元 500 年頃起こった。コンゴ海岸地域からキリスト誕生と同じ頃にきた人々の子孫は、北西 ボツワナのツォディロ丘に紀元 600 年頃到着した。これは彼らが使っていた土器からわかり、彼らはバンツー語族だと 信じられる。彼らはフィメル丘の高地に村を作り、そこはいまディヴユと呼ばれている。あきらかに彼らは、山羊を持 った牧畜者であり、金属加工者そして狩猟漁猟者だった。山羊や羊は彼らの生活にとても重要であり、摂取する肉の 60% を供給した。彼らは村を丘の上の高地に作り、インパラ・ダイカー・リードバック・バッファロー・エランド・ワイル ドビーストといった動物を狩り、バーベルやブリームといった魚を捕り、ジャッカル・狐・ワイルドキャットといった 毛皮を取れる動物を捕まえ、野生の食物を採集した。 さまざまな金属製品が村の貝塚から発掘された。これらは鉄か銅から作られており、どちらもツォディロで自然にと れるものではないので、その金属はどこかから持ってきたものに違いない。鉱滓のかけらや、ふいごの土のノズルによ り、金属は村で再加工されていたことがわかる。大西洋からの貝殻により、ディヴユは海まで伸びる交易のネットワー クに属していたことがはっきりしている。これらの村は孤立していなかった。 わずかな牛の骨も貝塚から見つかった。それは食べられた大きな動物の 3%だけを示していた。これらの人々はそれ らの牛を北から手に入れたかもしれない。もしくは彼らは、川に住んでいたので”川コイ人”と呼ばれていたオカヴァン ゴデルタの境界に住んでいた人たちと交易したかもしれない。彼らの貝塚からは石器は見つからなかったので、彼らは 石器時代の人々とは密接な関係ではなかったことが示唆される。紀元 860 年頃までにディヴユの人たちはツォディロか ら立ち去った。まだ私たちは彼らがどこへいったのかわからないが、おそらく彼らは北へいったのだろう。 同じく西の流れの新しい人々は、だいたい紀元 980 年頃にはツォディロに到着し住み始めた。彼らの土器は、彼らが ザンベジ川上流からきて、前にディヴユに住んでいた人たちとは深く関係していないことを示唆している。彼らはディ ヴユのすぐ下の高地のンコマに村を作った。 彼らの到着により、安定的だが小さな北からの人の動きが続いていることと、バンツー語族の人々が南部アフリカに つくのに何百年もの年月をかけているのがわかる。 17 彼らの貝塚は、これらの人たちについて新しい物語を与えてくれる。牛は彼らにとってとても重要で、全ての大きな 動物の 30%以上を牛から取っていた。彼らは、ディヴユの人たちよりたくさんの銅と鉄の道具を持っていたし、ソルガ ム・ミレット・メロンといった作物を育てた。また、インドからのガラスのビーズやインド洋からの貝殻といった東か らのものと交易した。 彼らの村から石器が大量に見つかったことから、コイサン人と近い関係を持っていたことを示している。ンコマを発 掘した考古学者はツォディロが重要な地域の中心だったと信じている。鉄や銅の道具を多く持ったものや、おそらくコ ンゴから南にやってきた銅とインド洋から西にやってきた貝殻やガラスのビーズと交換する交易網の存在を、考古学者 は指摘した。これらの考古学者はまた、彼らが持っていた多数の牛は丘の上だけでは保ち得ず、その地域一帯の放牧場 で飼われていたに違いないと信じている。牛もまた北の銅や鉄の道具と交換された。 これらの初期石器時代の遺跡の説明を終わる前に、私たちはマタパネン・クォホナ・そしてセロンデラを見なければ ならない。これらの遺跡は、ンコマと同じ頃に人が住んでおり、インド洋まで伸びる同じ交易網に入っていた。それら はいずれもンコマほど裕福ではなかったが、マタパネンには同じ銅の物質と似たようなインドのビーズがあった。 マタパネンはマウンのそばのタマラカネ川の岸に位置し、紀元 780~1040 年の間に住まれていた。住居は川岸から少 し離れた所の支柱と土壁の家で構成されていた。食用になった大きい動物の 80%は、牛と羊か山羊が占めており、家畜 がこれらの人たちにとってより重要になったことが示されている。彼らは、ダイカー・インパラ・キリン・シマウマ・ バッファロー・エランド・ワイルドビースト・リードバックを狩りし、ジャッカルや狐を捕えたが、猫を捕えた形跡は なく、川のそばに住んでいたにもかかわらず魚を食べなかった。彼らはソルガム・ミレット・メロンといった作物を育 て、野生食物を集めた。彼らの貝塚に石器が見つからないのは、彼らが地元のコイサン人と接触がほとんどなかったこ とを示している。 クォホナはオカヴァンゴデルタの中の島に位置し、おそらくいつもツェツェハエがはびこっていた。ここの貝塚から は支柱と土壁の家の土の跡やたくさんの野生動物の骨が見つかった。そこには金属の物体はなかった(おそらくもとはあ ったのだが、汚い状態で錆びてしまったのだろう)。魚や家畜の骨もなかった。陶器のかけらがこの島とマタパネンを関 連付けている。似たような陶器はクォホナの周りのほかのほとんどの島で見つかった。これはおそらくマタパネンに住 んでいる人に関わる人々の狩場として利用されていたからだろう。彼らはツェツェハエのために家畜を育てることがで きなかったからだ。 セロンデラは、チョベ川の岸でカサネのおよそ 15 キロ西に位置し、紀元 860~1260 年に人が住んでいた。深い貝塚 から、考古学者は、土でできた猫背の牛の小立像・マパタネンや川を渡った西ザンビアで見つかったものにより似てい る陶器・砥石・金属製品・ガラスのビーズ・家畜の骨などを発掘した。しかしながら魚の骨は見つからなかった。セロ ンデラは別の東の流れの遺跡である。 紀元1000年までに北部ボツワナの人々はみな、 インド洋までアフリカをまたいで広がる交易網に組み込まれていた。 ンコマは、コイサン人の共同体との結びつきの中で、裕福で重要な交易の中心としてあらわれてきたようだ。その関係 は、 北はコンゴから南東はオカヴァンゴデルタまでマタパネンのような東の流れの集落をとり入れながら広がっていた。 ンコマは富裕になったが、それは重要な交易の中心にとどまり、新興国の首都の様にはならなかった。次の章では、紀 元 1000 年以後の東ボツワナでどのように国が形成されたかを見る。まさにその国がンコマとオカヴァンゴデルタを東 海岸の交易から引き離し、それが彼らの富を失わせ、そしてついにはそれを放棄しなければならない原因となった。 初期鉄器時代の生活の要約 どのくらいの速さで移民たちは南部アフリカに入ってきたのだろうか?彼らは 100km を 10 年や 20 年かけてやって きたのだろうか、それとも 1,2 年で長い距離を動いたのだろうか?今は私たちにはわからない。しかしながら、鉄器時 代人々が 2000 年前にザンベジ川のはるか北側に住んでおり、300 年後には彼らは今のムオウマランガやクァズールー /ナタールに到着していた。彼らは新しい土地に入り、熱帯地域を去った。今、冬はもっと冷たくなり、中央高地では 降雨が少なくなった。彼らは多くの新しい植物や新しい動物を見つけた。彼らは、全く異なった言葉のさまざまな方言 を話す新しい人たちであるコイサン人と出くわし、 この南部の環境を手にいれ理解することによって生活した。 移民は、 彼らの新しい家にどのように住むかを学ばなければならなかった。 次に訊ねなければならない質問はこうだ。これらの移民が持ってきたものは完全な鉄器時代文化だったのか、それと も異なったときに異なった場所から到着した文化の一側面だったのか?つまり、全ての集団がどのように鉄や銅を加工 するか知っており、牛や山羊/羊を飼っており、作物の作り方を知っており、バンツー語を話し、似たような宗教システ ムを実践し、そして柱と土壁でできた住居を建てていたのか?おそらく、最初に海岸沿いを旅して到着した集団は農作 物の作り方を知っていたが、羊/山羊や牛は持っていなかった。内陸を旅してきたものは、家畜を持ってきたかもしれな いが、作物は育てられなかった。西の流れの人々は山羊を連れ、魚を食べたが、内陸高地の東の流れの人たちは魚を食 べなかった。 遠く離れた人々はお互い理解できなかっただろうが、彼らは皆バンツー語を話したと思われる。彼らはまた、村での 18 定住生活をし、家を建て、そこに月単位というよりも年単位で住んだ。東の流れの移民は、中央に家畜用の柵を作り、 その周りに家を立てた。彼らは皆鉄器について知っており、おそらくそれを使ったが、自分たちで加工するのではなく 交易で手に入れたものもいた。彼らが南に移るにつれて、彼らは後ろについてくるものや横を行くものと連絡をとり、 アフリカをまたぐ大きな関係網ができあがった。それにより、彼らは貝殻のようなものを交易し、海岸からボツワナま ではるばる持ってくることができた。 海岸に沿って住むものもいれば、内陸に住むものもいた。考古学者は幾つかの初期の遺跡を見つけ、将来にはもっと 見つかるかもしれない。最初に到着したのは少数だと信じられている。しばしば彼らの住居は離れてばらばらだった。 これはおそらく、それぞれの居住地が自治を行い、強力な首長がいなかったためだと思われる。人々は共通言語・結婚・ 交易・習慣で結ばれ、政治によってではなかった。他の人より特別に裕福な人はおらず、階級の区別はなかった。みん なは似たような生活習慣・放牧・狩猟・作物栽培・採集・村の生活への参加で暮らしていた。 これらの人たちは、支柱に土を塗った家に住んでいたようだ。それぞれの家は、およそ 10~15 のそのような家によ って構成され、中央家畜柵の周りに立てられていた。これにより、共同体はある程度大きく 50~70 人の人が住んでい たと考えられる。 鉄と銅は重要な金属で、採掘され、道具や宝石を作るために使われた。これらの金属が見つかった所では、彼らは採 鉱し、精錬し、しばしば交易のために使った。金属以外では、人々は、木・骨・象牙・貝殻・皮・腱・石といったさま ざまな素材からものを作った。彼らは土器・骨の針・砥石・木の器・皮の衣類・そしておそらく籠といった物を作った。 それらの多くは土の中で腐って消えてしまったが、言語の中にそれらを示す言葉があり、それがとても古いことを示し ているので、彼らがそれらを作っていたことはわかる。例えば選り分け籠といった言葉は、各言語でよく似ており、遠 い過去に関係しており、おそらく一つの言葉から出てきたものだろう。 死者は、頭を西に向けて、性別により横たわる側を変え、ひざを胸まで引揚げていることから、彼らが宗教を実践し ていたと信じられる。時には人は土器と共に埋められた。ブローダーストロームでは歯を貯蔵していたことから、何ら かの儀式の目的で、生きている人から取り除かれたのだと考えられる。 彼らがボツワナに到着したとき、狩猟採集は彼らにとって重要だったに違いない。おそらく彼らはコイサン人から新 しい野生の食べ物や狩猟技術を学んだであろう。また、コイサン人と交易しなければならなかっただろう。おそらく、 鉄と冬の寒さから守るための毛皮と交換したのであろう。 彼らの貝塚から見つかった多くの石器と石片から、 私たちは、 彼らがそれらの人々をおそらく女性を第二第三の妻にするために村に招き入れたのではないかと思っている。彼らはお 互いの習慣や宗教を借用し合い、ゆっくりと新しい形の鉄器時代文化の形を開発していった。 時が経つにつれて、多くの変化が起こったに違いない。人口が増えたので、新しい文化は成功したに違いない。おそ らく新しい人たちが北からやってきて初期の居住者に合流し、彼らと結婚しただろう。牛の数もまた増加し、牛はボツ ワナに住んでいる人にとってとても重要なものになった。彼らが最初に到着したとき、ほとんどの肉は狩によって得ら れていたが、紀元 600 年頃には 60%の動物の肉は家畜から得られるようになった。 家畜の数が増えるにつれ、住居群や家族の中でほかよりも成功するものが出てきた。しばらくして豊かな人たちは指 導者になり、その富を使い広い地域の共同体を管理するようになった。私たちは次章で、どのようにこれらの人々がと ても豊かになり、首長国や小国家を形成したのかを見る。 初期鉄器時代といわれる文化は変化していた。その変化は違ったときにボツワナの違った場所で起こった。パラペの 周りでは首長国が 1150 年頃にできた。それは東海岸と西部ボツワナの間をブロックし、そしてそれがおそらくオカヴ ァンゴデルタやツォディロのよく整備された共同体が、1200 年より前に放棄されたかの理由かもしれない。 南では、ハボロネの周りでは似たような首長国は存在しなかったが、1250 年頃富裕な人々は家を丘の上に動かし始め た。全ての人々が平等であったときは終わり、新しい構造があらわれ、裕福な支配者・鉄加工の専門家・狩猟者や商人・ 小作農・いくつかの階級を形成した貧しい人々からなっていた。 19 コラム~バンツー語族と後期石器時代の人々の接触 バンツー語族が 1500 年以上前に南部アフリカに入ってきたとき何が起こったのだろうか?彼らは後期石器時代の 人々をより乾燥した地域や山に追いやったのだろうか?彼らは戦ったり殺したりしたのだろうか?それとも彼らと平和 的に生活したのだろうか?歴史家の間にもさまざまな意見がある。 白人が最初に南部アフリカに到着したとき、彼らはバンツー語族の農民が東に住み、後期石器時代の狩猟採集をする 放牧者が西に住んでいるのを見た。彼らは、バンツー語族が後期石器時代の人たちをより乾いた西の地方に押しやった と推測した。後に、白人は、バンツー語族と後期石器時代の人々の争いを描いた壁画を見て、彼らの間の接触は暴力的 なものであったことを示すものだというものもいた。 考古学によると最初の接触は平和的なものであったという。おそらく、バンツー語族は後期石器時代の人々と交易を し、鉄や銅を羊や牛と交換しただろう。バンツー語族の住居での石器の製造は、彼らは時には同居したことを示してい る。おそらくバンツー語族の男が後期石器時代の女と結婚し、彼女らを村に連れてきたのだろう。これは、血液型を検 査している科学者による発見によって支持された。彼らはカラハリ族やツワナ族を別の人たちと一緒に調べ、幾つかの 血液型にはコイサン人の先祖から受け継いだものがあることを発見した。言語学の証拠は、南部バンツー語の言葉と音 は後期石器時代に属するものであると指摘している。また、多くの南部バンツー語では、クリック音を後期石器時代の 言葉から借りている。 18 世紀と 19 世紀にアフリカの奥にはいっていった白人旅行者は、バンツー語族と後期石器時代の人々の争いを描い ている。クァズールー/ナタール・自由国・レソトで見つかった壁画は、300 年以内の最近だと思われるその争いを生 き生きと描いている。私たちはバンツー語族と後期石器時代の人々の争いがいつ始まったかまだ知らないが、それはバ ンツー語族の人口が激増し、後期石器時代の人の土地や狩のための動物を奪い始めたときに始まったと考えられる。後 期石器時代の人は家畜を殺して食べることによって報復した。バンツー語族はそれから彼らを攻撃し、彼らの家畜を奪 った。もしこれが本当ならば、接触期の発展は次のように要約できる。 最初の頃、少数のバンツー語族が後期石器時代の人々に混じって、南部アフリカの適度な降雨のある地域に住んでい た。彼らが住んでいる所では、彼らは交易し、結婚した。新たに人口流入があり、多くの後期石器時代の人々を吸収し た。乾燥地では、牧畜をする後期石器時代の人々は、自分たちの住居と生活習慣を守った。 1600 年以後、鉄器時代の人々の人口が大きくなり、後期石器時代の人々が住んでいた所に拡大していった。同時に南 西部に入ってきた白人居住者が、石器時代の人たちの土地を奪い始めた。生き残るために、後期石器時代の人たちは自 分たちの土地のために戦った。ほとんどの場所で彼らは戦いに敗れ、侵略者の召使になった。今日、彼らの子孫はまだ 乾燥した西部に住んでいるが、ほとんどの部分で彼らの土地と家畜を失った。 20 第 6 章 初期の採鉱と精錬 南部アフリカではつい最近まで石器を作りつづけていた人たちがいた。おそらく 200 年前までボツワナの北西部には いた。しかしながら、この 2000 年は一般的に鉄器時代として知られる。鉄の製造と使用は、私たちの先祖の生活習慣 に大きな変化をもたらした。 鉄の精錬と鍛造、鉄鉱石から道具にすることは、たくさんの技能を伴ったとても偉大な技術的成果だった。その使用 者は、近代産業を始める途中にあり、それはアフリカの外部からの商人が他の製品を紹介し始める 1000 年以上も前の 話だった。 しかしながら、南部アフリカで最も初期の鉱山は約 3.3 万年前で、鉄加工できるバンツー語族の農民の遥か前に、そ れは現代のコイサン人の、石器時代の先祖によって採掘されていた。彼らは赤鉄鉱として知られる赤土や、鏡鉄鉱とし て知られる、輝く黒い鉄塊を掘ったそれらの塊は粉にきざまれ、脂肪・血・卵の白身か蜂蜜と混ぜられ絵の具が作られ た。これは壁画を描くことと、人の体を飾ることの両方に使われた。 金属精錬の知識は、農業を行う人たちによって南部アフリカにおよそ 2000 年前に持ちこまれた。私たちが持ってい る最も初期の証拠は、 紀元200 年頃に鉄と銅がどちらも採鉱され精錬された北部ジンバブエで見つかった。 約2 世紀後、 トランスヴァールのブローダーストリームで鉄が精錬された。5 世紀の中頃の村で、考古学者は、二つの鉄加工地域・ たくさんの鉄塊・散らばった鉱滓のあとを見つけた 最も広く継続的に採掘された金属は、鉄だった。これは、道具・鍬・ナイフ・かみそり・皮に穴をあける錐・斧・槍 に使われた。銅も採掘されたが、鉄ほどの量ではなかった。それは、道具として使うには柔らかすぎ、そのために主に 腕輪・ビーズ・ピン・銅線・鎖などの宝石として使われた。スズも南部アフリカでは初期から採掘されたが、見つける のが難しく、鉄や銅と同じ方法では採掘されなかった。金の採掘はおそらく紀元 900 年のジンバブエまで始まらなかっ た。それはすぐにボツワナの北東部に広がった。 ボツワナでは、主に採掘された金属は鉄で、特にパラペのそばのツヮポン丘で採られた。銅採掘の証拠は、紀元 650 年という初期からセロウェのそばで見つかっていた。ツォディロのような離れた場所でも、鉄と銅の加工は紀元 650 年 頃からもしくはもっと早くから始まっていた。より広大な銅の採掘はマチタマとシャシェ川の辺りで始まった。鏡鉄鉱 もまた、石器時代と鉄器時代の両方で採掘された。タマハ・ハカレ(レンツェレタウのそば)・ピクウェのそばで大きな 先史時代の遺跡が見られる。 ダイヤモンドのような貴重な石は 1970 年以前にはボツワナでは採掘されていなかったと信じられている。メノウや チャートのような石は、これらを使った道具が自然に出てくる所から遠く離れた場所で発見されているので、交易によ り遠い所まで運ばれた可能性はある。後期石器時代のチャートの道具は今、ツォディロで見つかるが、最も近い自然の チャートの産出地からは 150km も離れている。 鉱石の加工 金属を含んだ岩や鉱石を道具に変えるには四つの大きな工程がある。試掘・採掘・精錬・鍛造である。それぞれの段 階で異なった技能が要求される。 試掘 試掘とは、岩に鉱物が豊富に含まれており採掘する価値のある場所を探すことである。鉄の場合は、それがありふれ ており、岩は普通重く、赤く変色しているので、見つけるのは難しいことではない。金を見つけるのはもっと難しい。 初期試掘者の技術は優れていたので、白人試掘者が南部アフリカにきたとき、彼らが見つけたほとんど全ての金鉱脈は 既にわれわれの先祖によって掘られていたという。 採掘 最も初期の鉱山は、岩に開けられた溝や穴からなっている。これらは、深さ 1m長さ数 m のものから、大きなもので は深さ数mで長さがほとんど 1km のものまでいろいろある。おそらく、全ての初期の共同体は何らかの採鉱をし、溝 や穴の表面から鉱石を採った。しかし、紀元 750 年までに人口の増加と鉱物への要求の高まりから、いくつかの共同体 は採掘に特化した。 鉱山の中には、小さな入り口から地面に深く掘られていたものもあった。縦鉱が岩の中に掘り進められ、そこから横 穴が、鉱石の豊富な方向へ掘り進められた。ボツワナで最も深い縦鉱は北東地区にあり、表面から 26m の深さがあっ た。ときどき穴は丘の側面に掘られ、大きな洞窟が形成されるまで広げられていった。タマハの近くのセビロンでは、 多くのそれらの洞窟が接近して掘られ、それが崩壊して、とても大きな物になっている。 私たちはボツワナにどれだけの古代の鉱山があるのかを知らない。 表面の穴は侵食され、 横穴は崩壊し穴や溝を埋め、 21 地面のくぼみ以外にはほとんど証拠が残っていない。多くの縦鉱を持つ初期金鉱はそれが放棄された後は、入り口が注 意深く隠されていなければ、瓦礫で埋められていた。他の初期金鉱は、後のヨーロッパ人による採掘で完全に破壊され た。今では、200 以上の金と銅の鉱山が、おそらく 1100~1600 年の間のものだが、デュクウェとトバネの間の地域で 見つかった。鉄加工の遺跡は国の東部を通して特にツヮポン丘で見つかっている。 全ての金と銅の鉱山と大きな鉄の鉱山は、個々の家族かその一族によって長い間所有され、加工されてきた。彼らは その技能を 1 つの世代から次へと伝承していた。一家はすべて鉱業に関与していた。崩壊した鉱山から見つかった骸骨 には、大きな子供や女性、そして小さな年老いた人たちのものがあり、彼らがより地下で働いていたようだ。彼らは、 より簡単に、狭くときにはたった 26 ㎝しかない穴に入っていけるのだ。大きな人たちは入り口か地上で働いた。 最もありふれた採鉱の方法は、金属の大くぎと石鎚を使ったものだった。大くぎは岩が割れるまでその割れ目に打ち 込まれた。この方法が失敗すると、岩の表面に火がつけられ、割れ目に冷たい水が細く注がれ、それによって岩が割れ てかけらができる。岩の破片は皮の袋や籠に入れられ、ロープで引っ張られ、地表に上げられた。そこで、鉱物が豊か なものとそうでないものが分けられ、いらないものは捨てられる。金を含む岩は、焼いて壊され、砕いてこなごなにさ れる。 ツォディロ丘では 18 の古代の鉱山跡が見つかっている。1 つの遺跡では、丘の脇で赤鉄鉱が掘られ、丘の下でそれが 精錬されていた証拠が見つかっている。溶鉱炉の跡はなく、全てのその遺跡には谷底の岩の上で溶かされた鉱滓があっ た。おそらく赤鉄鉱は小さなかけらに壊され、火にかけられたのであろう。鉱滓の中で見つかった炭から、精錬は紀元 800 年頃に行われたとわかった。 他の鉱山には、崖の表面で浅いトンネルになっているものもあった。鉱山の片側では、白い水晶の厚い脈が表れてい た。採鉱者は、鉱山の中で大きな火をたき、熱で岩を壊した。私たちは、石器のためか、鉄にぶつける火打石に使うた めに、彼らが水晶を掘ったと考えている。 3 つの別の鉱山が丘の高い所にあり、同じ方法で採掘されていた。1 つは黒い鏡鉄鉱の硬い塊を生産するために、他 の 2 つは雲母の片岩を含んでいた。これらの鉱山はだいたい紀元 1000 年のものだ。 固い鏡鉄鉱、水晶、卵形の雲母片岩はツォディロの初期鉄器時代の岩の住居の発掘で見つかり、だいたい紀元 1000 年のものだった。採鉱者の人種はわからないが、採鉱技術は典型的なバンツーのものではない。採鉱者は、鉱石を隣り 合うバンツー族と交易したコイサン人かもしれない。 精錬 金(そしておそらく銅も)の精錬は、鉱山を所有する家族によって行われたが、鉄の場合は鉱石のまま他の人々と交易 されたようだ。彼らはおそらくトウモロコシ・家畜・毛皮・ビーズを鉱石と交換した。彼らはそれらを皮の袋に詰めた り牛に積んだりして家に持ち帰った。精錬は、秘密の技術として発達したようだ。それは多くの溶鉱炉が村から離れた 所に隠れていることからわかる。 精錬のための溶鉱炉は、土とアリ塚で作られている。それは、高さ 1m 直径 50 ㎝の卵形の壁でできていた。普通、 2つの、羽口として知られる土の管が溶鉱炉の底に外から刺されていた。溶鉱炉の中には、炭の層と鉱石の層が交互に 積まれ、炉がいっぱいになるまで積まれていた。ふいごからの空気は、羽口を通して溶鉱炉の中に送りこまれた。炭は とても熱くなり、岩の中の鉄はゆっくりと溶け、溶鉱炉の底にブルームと呼ばれる層を形成する。冷めた後にブルーム を取り除き、きれいにする。銅も同じように精錬されるが、鉄よりも低い温度で解けるために、溶鉱炉はもっと小さく、 ブルームはもっと簡単に加工できる。 そのような溶鉱炉の遺跡はいろいろな所に見られ、ラモツヮのそばのタウン峡谷・マハハラーペ・ロバツェ郊外のウ ッドホールファーム・モエン・ツヮポンのマウナタラ・セロウェのちょうど西・マチタマのそば・カランガ族の土地の 多く、ンガミ湖のクウェーベ丘などである。それらの遺跡のほとんどは年月の測定がされていない。私たちは、ツヮポ ンの遺跡が、初期鉄器時代の終わり、おそらく 1100~1200 年頃だということを知っている。他の遺跡から見つかった 陶器から、期間は 1000~1800 年の間だと推測できる。将来的には、溶鉱炉は鉄か銅の採れる岩ならどこでも、時期的 には紀元 600 年からつい最近のものまでが見つかるだろう。 鍛造か鉄加工 鉱石加工の最終段階は、ブルームを製品にすることである。鉄工職人は、とても技術のある人である。彼は普通村の 中で火を公開して仕事をする。燃料に炭を用い、片側に穴のあいた土壁を立てて、火は焚かれる。溶鉱炉のように、こ の穴を通して土の羽口がさしこまれる。これはふいごを守るためである。鉄工職人はふいごの口を羽口にさし、火に空 気を注ぐ。ブルームは炭の中に置かれ、やがて熱くなる。それは火の中から出され、石の鉄床の上で叩かれる。繰り返 し叩き再び熱することにより、鉄工職人は炭・石・埃といった不純物を取り除き、彼が形作ることができる固くなった 鉄だけが残る。彼は、金属のはさみ・のみ・くぎ・石鎚といったさまざまな道具を持っている。これらを使って、彼は 多くの道具や宝石を作ることができる。 リヒテンシュタインやバーシェルといった 19 世紀初頭の訪問者は、ロロン族やタピン族の鉄工職人が働いているの 22 を見ている。彼らはこれらの人々がどのように働き、どのように道具を使っているのかを描いた。現在でさえ、オカヴ ァンゴデルタの周りでは、イェイ族やハンブクシュ族の鉄工職人が、伝統的なふいごを使い炭火の中で鉄を熱し形作っ ている。 鉄の塊の鍛造は特に非常な熟練を要する。最近の科学者は、古い溶鉱炉を再現し、その中で鉄を精製してみた。全て の工程は最初に信じられていたよりももっと複雑だった。今では彼らはその先祖が行っていたような技を真似すること ができない。 23 第 7 章 最初の首長国もしくは小国家 900~ 900~1200 年 第 4 章で私たちは、どのようにバンツー語族が生活をし、いつ最初にボツワナに着いたのかを見てきた。時が経つに つれて、彼らは環境を使う新しい方法を開発し、それにより彼らの生活習慣に多くの変化をもたらした。彼らは新しい 土地で見つけたコイサン語族と住み、彼らからたくさんのことを学んだ。この章では初期鉄器時代の後半について見、 社会的・政治的・経済的変化について描く。 紀元 900 年頃かもうすこし遅い時期に、多くの変化が起こり始めた。新しい土器の様式が現れ、牛の群はもっと大き くなり、村の中には丘の上に動くものも出始め、採掘が増え(今では金も含み)、アフリカの外からの交易品、特にアジ アからガラスのビーズが入り始めた。 考古学者と歴史家はこれらの変化の理由について意見が分かれる。新しい移民が北から入り始め、大きな牛の群を連 れて、土地を管理するようになったと考える人もいる。南部アフリカ自体で多くの人々の動きがあり、それらの動きに より社会的、政治的な動きがあったと信じる人もいる。彼らは、例えば南東からの人々の動きがリンポポ川を越えて北 向きに変わったと考えている。 歴史家の第三の集団は、新しい移民も人口の大きな変動もあったとは信じていない。彼らは物を作る人たちに変化が あったと考えている。つまり、多くの作物を育てたり、牛を多く飼ったり、よりよい採掘者・金属加工者・皮革加工者・ 土器製作者・商人になって、他の人よりも技術が上になった人がいるということだ。豊かになる新しい機会ができたこ とにより、その新しい富を他の人に対する権力を得るために使うようになった人々が出てきた。人々は採鉱・金工・狩 猟・交易に特化するようになった。そのような技術と新しい富は、社会を富裕な人と貧しい人、労働者と支配者に分け た。ボツワナでは、大きな人口変化の証拠はほとんどなく、おそらく新しい富が変化の原因だったようだ。 富裕な人と貧しい人 初期鉄器時代の人々は紀元 600 年頃にシャシェ川を渡ってボツワナに入ってきた。考古学者は、彼らの住居が最初に 発掘されたジンバブエの土地の名前にちなんで、彼らをチィゾの人々と呼ぶ。ボツワナでは、彼らは南西に広がり、シ ャシェ川とセロロメ川の間の土地を満たし、西はスアパンからカラハリの縁にかけて広がった。 彼らは、最初は他の初期鉄器時代の人たちと同じように散らばって住んでおり、おそらく共通の言葉と交易と結婚に よってのみつながっていた。時が経つにつれ、ツェツェハエがおらず、他の牛の病気もほとんどない現在のセレビピク ウェの西の豊かな草地帯で、彼らの小さな牛の群れは大きくなった。 牛の数が増えるにつれて、おそらく他の家族よりもうまく牛を育てることのできた家族は、豊かになり始め、その新 しい群れを使ってより貧しい隣人たちに対しての権力を得はじめただろう。 おそらく彼らは、ほとんど、もしくは全く牛を持っていない人たちに牛を貸すことによって権力を得たのだろう。こ れが牛貸しの習慣の始まりかもしれない。牛を貸したとき、彼らはなにか見返りを求めたが、貧しい人たちが与えられ るのは肉体労働と政治的支持しかなかった。 紀元 1000 年頃、豊かなチィゾの人たちの中に、リンポポ川の西側をカラハリの縁まで向かう動きがあった。これら の人たちは象牙や他のものを東と交易し、裕福になった。彼らは、他のチィゾの人たちと一緒に、たぶん牛を飼うのに とても向いていたので、トウツェモホラ丘の周りの地域に住んだ。 豊かな家族は、丘の上に自分たちの村を構えはじめた。紀元 1000 年頃までに、西部チィゾの人々の間で新しい居住 パターンが発展し始めた。私たちはこれらの西部チィゾの人々を、彼らが最初に大きな牛の所有者と認識された地、す なわちトウツェモホラ丘にちなんでトウツェの人々と呼ぶ。これは彼らを北や東の他のチィゾの人たちと区別するため である。 私たちはトウツェの人々の発展について見ていくが、その前に更に南で何が起こっていたかを見なければならない。 紀元 1000 年頃、数百年間現在ムプマランハやクヮズールー・ナタールと呼ばれている南アフリカの地域に住んでい た人々の集団が西に広がってきた。その中にはノトワネ川を越え、もとはブローダーストロームの人々が住んでいたモ チュディからロバツェの間そして西はカラハリの縁に至る土地に住んだものもいた。ブローダーストロームの人々に何 が起こったかはわかっていないが、紀元 1000 年頃以降彼らの土器は見られなくなり、彼らは新参者に吸収されたか、 さもなければ砂漠の中に移ったかが示唆される。 私たちはこれらの新参者の広がりを住居に残された壊れた土器からたどることができる。この土器は厚い縁を持って いた。それは彫刻か、杉綾模様か網目模様の紐により飾り付けられていた。その模様は容器の首か時には肩の部分につ けられていた。それは南アフリカで最初に見つかった場所にちなんでエイランド土器と呼ばれ、おそらく北からやって きた西の流れのバンツー語族により作られたものだろう。南アフリカでは、エイランド土器は 1100 年以後には作られ ず、その作成者たちがその地域を去ったことを示唆している。しかしながら、ボツワナでは、それは 1750 年頃まで続 いている。それはセコマパンの西まで見つかっており、1740~1800 年頃までのものであった。 24 エイランドの人々はブローダーストロームの人々よりもより恒久的な建物を建て、時には村を丘の上に作った。彼ら は鉄の道具を作り(それは東との交易で得られたものかもしれない)、作物を育て、シマウマや豚といった動物を狩り、 野生植物を採集した。 私たちは今、北へそしてトウツェの人々へ戻らなければならない。彼らの中で裕福な人たちは丘の上に村を作った。 最も大きな村の中には 6 万㎡に及ぶものもあった。次に裕福なトウツェの人々は丘の回りに村を構えた。これらのより 小さな村は 5 千から1万㎡の広さだった。最後には、より多くの小さな村がそれらの中心から広がっており、普通は下 の平野にだが時にはまた丘の上に立っていた。 これらの村の構成はいつも同じだった。すなわち、中央の牛の柵の周りに家と穀倉が立っているものだ。多くの村で は牛の糞を固くしたものを燃やしていた。考古学者は、これらの村のいくつかを発掘し、ほとんどの大きな村では牛の 糞を 1.5m になるまで積み上げていたことを発見した。炭素 14 による調査では、これらの大きな村はほとんど絶え間な く 1000~1250 年の間住まれていたことがわかった。小さな村は糞の蓄積がなく、おそらく 50 年かそれ以下の期間住 まれていたのだろう。 これらの住居の跡は三つの首長国の出現を表していると私たちは信じている。支配的な家族はトウツェモハラ・ボス ツェ・スンに住んでいた。彼らの豊かな親類たちは、丘の頂上の村のまわりに住んでいたと考えられる。小さな村はほ とんど貧しい人々に属しており、おそらくその村々は放牧場と農場に囲まれていただろう。 トウツェモハラは頂上が平らな丘で、100m を越える高さの崖に囲まれており、頂上に続くのはたった二本の細い道 だけだった。そこに住んでいた豊かな人々は、多くの妻とおそらく召使を持っていたに違いなく、召使に水と薪を頂上 まで運ばせたのだろう。周りの土地は、木を切り倒され、過放牧と多くの人々による農作で、破壊されたに違いない。 そうだとしても人々は動かず、そのことによりおそらくますます遠く離れた所から木・水・作物・野生の食物を運んで くる必要が出てきただろう。 彼らの貝塚を掘ってみて、考古学者は、丘の上の豊かな人々が牛肉を主に食べる一方で、小さな離れた村に住んでい る人々は主に野生動物の肉、 時には小さな毛皮を取るための狐やジャッカルといった動物を食べていたことを発見した。 このことや他の証拠から、これらの住居は大きな丘に中心の村を構えた首長国を形成していたと信じられている。 同時に、モトーツェ川の北やセレビピクウェの東の他のチィゾ地域にも同じ理由で似たような発展が起こった。すな わち、牛による財産が増えたのである。この首長国はヒョウの小山と呼ばれている。トウツェモハラ・ボスツェ・スン に主邑を構えた三つの首長国に住む人々は、最初に首長国の遺跡が発掘されたトウツェモハラ丘にちなんでトウツェの 人々と呼ばれている。 新しい首長国の社会構造 私たちは、トウツェモハラ・ボスツウェ・カスウェの考古学的発掘を通して、トウツェの人々の生活様式について多 くを学ぶことができた。私たちは、彼らの村・家畜柵・家・穀倉・墓・穴・貝塚の跡を見ることによってどのように彼 らが生活したかを再現し推測することができる。 私たちは彼らの社会は四つの階層に分かれていたと考えている。それらは以下のとおりである。支配する首長とその 裕福な親類・自分たちの牛を持っている小作農・豊かな人たちや小作農のために働き一緒に住んだ召使・そしてとても 貧しく何の財産も持たないおそらくもともとのコイサン語族の子孫である人たちである。 豊かな人はおそらく召使と一緒に丘の上に住んだ。彼らはたくさんの牛を持っており、そのうちのいくらかを丘の上 の村の中に囲っていた。 ほとんどの牛は他の人により牧草地で世話されたおり、 屠殺するときだけ村につれてこられた。 裕福な人たちの貝塚から見つかった動物の骨から、彼らが食べた肉の 80%は牛肉であり、丘の上で囲われている群だけ では小さすぎてこの肉を提供できないので、私たちはこのことを知る事ができる。その地域の他の貝塚ではそのような 高い割合で牛の骨を含んでいることはない。 私たちは豊かな人たちが多くの妻や召使を持っていたと推測することができる。丘の上には水も薪もなく、耕す土地 も牛のための牧草地もなかった。豊かな人の使うものは全て遠くから丘の上に運んでこなければならなかった。豊かな 人たちはその仕事を自分たち自身ではしなかっただろう。彼らはおそらく、第二第三の妻や貧しい人たちを召使として 使っていたのだろう。その地域には多くの貧しい人たちがいたことがわかっている。 次の社会階層は小作農からなっており、周りの平原の村に住んでいた。それらの村の中には大きな牛の柵の周りに 10 件ほどの家がある大きな村もあった。それらはよい土壌の上に建てられ、ソルガム・ミレット・ササゲ・メロンといっ た作物が育てられている畑に囲まれていた。彼らの貝塚からは、牛の骨やガラスのビーズといった交易品が見つかり、 これらの小作農が貧しくなかったことをあらわしている。おそらく、彼らは豊かな人の牛も持っていたが、自分の牛も 持っていたのだろう。これらの人たちは、よい統治と保護のかわりに、肉や穀物そしておそらく労働といった形で貢納 をしていたと信じられている。 次の階級は召使の階級で、自分の牛をほとんどか全く持たず、豊かな人といっしょに丘の上に住むか、平原の村に隣 り合って住んでいた人たちを含んでいる。彼らは、牛を放牧し、豊かな人の農場で耕作し、水や薪を彼らのために運び、 25 木や骨の道具をつくり、皮をなめし、家の召使として働いた人たちである。その貝塚の大きさから、丘の上の村はかな り大きいと考えられるので、これらの召使の多くは豊かな人たちとともに丘の上に住んでいたかもしれない。 最も低い社会的階層の人たちは国の国境の周りの最も小さい村に住んでいた。これらはトウツェの人々の中で最も貧 しく、彼らの多くはおそらくコイサンの人たちだっただろう。私たちは、彼らの貝塚から主に野生動物の骨を見つけ、 豊かな人たちや小作農の貝塚からよりも多くの石器を見つけた。彼らの住居の中にはしばしば小さな家畜の柵があり、 彼らは肉を食べないけれども豊かな人たちのために牛を育て、またわずかな羊を飼っていたことが示唆される。ジャッ カルや狐の骨が彼らの貝塚から多く出てくることを見ると、おそらく彼らは肉と毛皮のための狩りにそのほとんどの時 間を使っていたのだろう。 初期首長国の生活スタイル 紀元 900 年までのトウツェの貝塚には アジアからやってきたガラスのビーズが含まれていた。トウツェモハラは、 海を渡ってインドまで広がる巨大な交易網の一部となっていた。私たちはまた、綿を紡ぐのに使われる土の円盤のスピ ンドル溝車も見つけた。綿紡ぎの知識は、染めた綿の衣類が豊かな人たちの間で着られるようになるにつれて 1100 年 頃以降海岸から輸入された。ビーズや綿の衣類のかわりにトウツェの人たちはおそらく毛皮と鏡鉄鉱を、そしてもしか したら象牙やサイの角を輸出しただろう。 トウツェの人々はまた、採鉱者であり、金属加工者だった。彼らはツヮポン丘から鉄塊を、ピクウェから鏡鉄鉱を獲 得した。彼らはまた、銅をおそらく遥か北のヒョウの小山の人々との交易を通して手に入れていただろう。彼らは鉄を 加工し、鍬・やり・針・かみそり・腕輪・耳飾りといった物を、そして銅から銅線・鎖・腕輪・大きな飾り用のピン・ 耳飾りなどを作った。鏡鉄鉱はすりつぶされて輝く粉にされ、化粧品として髪や体に使われた。輸入されたビーズと国 内で作られた宝石は、いくつかの小さな村でも見つかっており、そのようなものがただ豊かな人たちにだけよって所有 されていたわけではないということを示している。 牛に結びついた新しい信仰や習慣が発展したのはこのときかもしれない。男性の骸骨は普通牛の柵の中に埋められた 一方で、女性や子供は家の間に埋められた。ハットは柵の東側の周りに立てられ、北から南に向かって伸びてゆき、西 側を空けてあった。これは、牛が特に男性にとってとても重要なものになったことを示唆している。牛の柵への埋葬は、 死後にも男性は牛の世話をしなければならないということを示唆しているかも知れず、これが家畜に結びついた先祖信 仰のはじまりかもしれない。人口は早く増加し、1100 年頃にはシャシェ川とカラハリの間の土地は大小の住居で満ちて いた。 このときになって、エイランド型の土器はトウツェのごみの山からも見つかり始めた。しかしながらトウツェの土器 は南東部ボツワナでは見つかっていない。もし女性がそのときポットを作っていれば、これはトウツェの人々に採り入 れられ、また南からきたエイランドの人々と結婚したことを意味しているかもしれない。おそらく彼らは南の貧しい隣 人の女性と牛を交換したかもしれない。これは婚資の仕組のはじまりかもしれない。 多くの小さなトウツェの村は、2 つの異なった土壌が重なる所に建てられた。1 つの土壌は粘土質の土壌で乾季の農 作物生産に向いた所で、もう1つはより砂の多い土壌で雨季の農作物生産に向いた所である。既にこれらの人々は農業 について多くの知識があり、両方の土壌の利点を生かせる所を選んで住んでいた。中央地区に住んでいる人たちは、今 でもまだこれをしている。 もし、祖父や曽祖父の習慣や信仰を見れば、彼らと 1000 年前に住んでいた人たちの間に多くの類似性を見る事がで きるだろう。似たような習慣は、どこに農地や中央家畜柵を作り、家畜柵の中に重要な男を埋め、牛を使って妻や多く の子供たちそして高い地位と政治権力を得るのかといったことに見られる。 最初の首長国の崩壊 私たちは、トウツェモハラ・ボスツェ・スンに地域の中心を置いたこれらの首長国が、どのように形成され、どのよ うに人口を増やしたかについて見てきた。私たちは、これらの中心は同時代のものだと考える。つまり、彼らは同時に 存在したという事だ。1 つの中心が先に形成され、他のものが最初の小国家から豊かな親類が分かれることにより設立 された可能性がある。 1200 年までにこれらの首長国の人口は大きく増えた。モルプレの近くのカスウェでは、1200 年には現在そこにある よりも多くの村があったと推計されている。また、家畜柵の数から見ると、現在よりも多くの牛がそこにはいただろう。 トウツェの人々は天然資源をより多く使っていた。 人々の数が増え、多くの牛により豊かになるにつれ、彼らは土地の酷使をはじめたに違いない。トウツェモハラのよ うな大きな村では 2000 から 3000 の人たちがその周りにすみ、柱を立てたり、フェンスを作ったり、薪にしたりして植 生を破壊した。 何年にもわたって広大な土地を耕すことによって土地の肥沃さは減少し、 牛により牧草地は破壊された。 1250~1300 年の間のどこかで、トウツェモハラの町と多くの周りの村は見捨てられた。何が起こったかについては 26 確かではないが、この首長国の崩壊には三つの原因があったと考えられる。最初に、この地域の天然資源が減少し、大 きな人口を養うことができなくなったことがある。2 番目にその頃に大きな旱魃が襲ったことがわかっている。これら の旱魃と天然資源の減少は、トウツェの人々がその地域での伝統的な生活習慣を続けるのを不可能にした。第 3 に、豊 かな人たちがその権力の源泉を失ったかも知れないという事だ。 私たちは、豊かな人たちの権力は、もともとは牛の所有に基づいていると考えている。外部世界との交易が増えるに つれて、そして衣類とガラスのビーズが東から輸入されるにつれて、主要な交易品は疑いなく毛皮や塩や他のカラハリ からのものだったのだが、豊かな人たちは牛を交易に使ったかもしれない。ビーズや衣類を身につけることは、豊かな 人たちに自分たちがエリート層に属するのだということを示す新しい方法を与えた。貧しい人たちもまた、自分たちが 豊かになり、影響力を持つようになったことを示すためにビーズや衣類を欲しがった。このように、ビーズや衣類は、 豊かな人たちに自分たちの臣民から支持と貢納を受けるための新しい手段を提供したかもしれない。 しかしながら、12 世紀の間に、大きな交易の中心がトウツェモハラの東のマプングブウェに作られた。1150 年頃ま でにマプングブウェは、ビーズと衣類が来る東海岸と内陸部との交易を管理した。マプングブウェの人々がトウツェモ ハラの豊かな人たちの権力を、ビーズや衣類の交易を減らしたり止めたりすることによって、壊すことができたかもし れない。 トウツェモハラが崩壊すると、隣接した地域のボスツェやスンの政治権力もまた崩壊した。彼らの住居の多くもまた 同時期に放棄された。そこの人たちに何が起こったかはわからないが、おそらく彼らはほとんどの牛を失い、東へ向か ってモトーツェやシャシェ川やリンポポ川に住んでいた人たちと合流したのだろう。 1300 年頃までに、新しい人たちがリンポポ川とシャシェ川の合流点からその地域に入りはじめた。貝塚の中に土器を 含んだ新しい住居を見つけたためにそれがわかる。これらはマプングブウェ丘にちなんで名づけられたマプングブウェ の人たちで、彼らはそこに中心を置いた。彼らの土器はマハラペのそばのロセとボスツウェ丘で見つかり、その時期は トウツェの首長国の崩壊後だった。私たちはマプングブウェの人たちについて後の章で述べる。 27 第 8 章 初期鉄器時代から後期鉄器時代へ 前の章で議論したように、紀元 1000 年頃に南部アフリカで政治組織と社会構造の変化があった。ボツワナでは、こ の変化は 950~1200 年の間に起こった。 私たちは既に第 7 章で全ての歴史家がこれらの変化の原因について意見が一致 しているわけではないことを見てきた。1 つの理論では、新しい人々の移民があったという説があるが、ほとんどの考 古学者は内部での動きだけがあったと信じている。本書では、政治的社会的変化は、おそらく新しい富と新しい形の政 治組織を持ってきたと考えられている北からの新参者によるものではないだろうと議論した。変化はおそらく南部アフ リカの中での人口と富の増大によるものだろう。幾つかの集団が新しい地域で、そこに既に生活していた人たちととも に住むといった、人々の再編があった。 私たちは 950~1150 年の間に、トウツェの首長国に起こった変化について見てきた。牛の群の増加により、裕福にな りそして権力を持つようになった家族が現れ、支配階層を形成した。 トウツェの東側のリンポポ川では、他の首長国が発展したが、それはトウツェの首長国とは違った形だった。私たち は時間を少しさかのぼり、何が起こったかを見てみる。 紀元 950 年頃かそれより少しあと、後のトランスヴァールからきた人の動きが現れた。彼らは北西部に移り、そのう ちのいくらかはリンポポ川とシャシェ川を渡ってボツワナと西部ジンバブエに動いた。第 7 章で見たように、他の人た ちは中央トランスヴァールを出て西へ拡大し始めた。私たちは彼らを、その土器が最初に見つかった場所にちなんで、 エイランドの人たちと呼ぶ。おそらくこれらの動きは、小さな初期鉄器時代の人口がとても大きくなり、よい土地をみ んなが利用できるわけではなくなってきた、ということを意味した。他の移動の理由としては、牛の群もまた大きくな り、彼らは、牛が西のより乾いた地域では草をよりよく食べるという事に気がついたのかもしれない。 私たちは、北西に動きリンポポ川とシャシェ川の合流点付近に住んだある集団の発展について見てみるが、彼らの西 に住んだ人たちについても何が起こったのか見てみたい。 ヒョウの小山 ヒョウの小山は、ブラワヨの少し西のタバゼングウェ(ヒョウの小山)で最初に発掘されたたくさんの種類の関係した 土器に与えられた名前である。ブラワヨの周り、そしてボツワナのスアパンまで広がる地域では、この土器の 1 つの型 がでた。シャシェ川とリンポポ川の合流点では他の型が出た。私たちはこれらの 2 つの型の土器を作った人たちを、そ れらが最初に見つかったジンバブエのマンボ丘とリンポポ川のバンバンディヤナロ峡谷にちなんで、マンボとバンバン ディヤナロの人たちと呼ぶ。 主にバンバンディヤナロの人たちがとても権力を持ったので、私たちは彼らに関心を持つ。最後にはトウツェモハラ の人たちのように、彼らの首都も放棄されるのだが、彼らからグレートジンバブエ国家が発展したのだ。 考古学者の中には、ヒョウの小山の土器は、紀元 400 年頃まで遡ることができるトランスヴァールのリンデンバーグ の土器が発展したものだと信じるものもいる。彼らは、ヒョウの小山の土器は発展して現在のジンバブエや北東部ボツ ワナで今でも作られている土器の原型をなしたと考えている。これについては後で論ずる。いまは、マンボとバンバン ディヤナロの人々がヒョウの小山の土器を、違った形式とはいえ、作ったことを思い出さなければならない。 バンバンディヤナロの人たち 現在のジンバブエの地域では、かなり早い時期から、ほとんどがアジアのガラスのビーズだった交易品が交換されて いた。インド洋の海岸から、それらはおそらく村から村へ内陸にたどり着くまで引き渡されてきたのだろう。紀元 850 年頃以降、この交易は増加し、これを通してシャシェ川とリンポポ川の合流点に住んでいる人たちは豊かになった。 紀元 1000 年頃には、マプングブウェ丘のそばのバンバンディヤナロ峡谷に住む人々は、その人口を増加させた。1 世紀以上の間、初期のチィゾの住民は海岸と交易を行い、主に象牙や毛皮をガラスのビーズと交換していた。新しいバ ンバンディヤナロの人々はこの交易を引き継ぎ、急激に増加させた。同時に、彼らは金を輸出し始めた。彼らはシャシ ェ川の砂から金を洗い出すか、北西部の人とそれを交換したのかもしれない。 ビーズの流れが増加するにつれ、彼らはそれを西の人たちと交換し、牛やもしかしたら妻、そして毛皮や象牙と交換 した。すぐに、とても豊かに成長し始める家族が出てきた。ビーズ、金、鏡鉄鉱、サイの骨、毛皮はいずれも貯蔵がで きた。豊かなバンバンディヤナロの人たちはどのように自分たちに有利になるように交易を管理するかを学んだ。海岸 への主要な交易路はリンポポ川に沿っていた。西からきたものは、この道を通って送られた。 当時のほかの集落と同じように、彼らの住居は中央に家畜柵を、そしてその横には男たちの会議場を配置していた。 1020 年までに、それは村ができてからたった 50 年程度しか経っていないのだが、会議場のそばのごみ捨て場は、とて も大きくなったので、それは牛の柵のほうへあふれていた。これは会議場にいつも多数の男が集まっていたから起こっ 28 たに違いない。周りの地から人々が集まってきたに違いなく、それは会議場がどれほど重要になったかを示している。 1020 年頃には、牛の柵は動かされ、金・象牙・毛皮・ビーズの交易が牛よりも重要になったことを示唆している。 1075 年までには、ごみ捨て場は 6m の深さになり、峡谷全体が家で満たされた。たぶん、豊かな交易に惹かれて何千も の人々がこの小さな峡谷に住んだのだろう。 1075 年には人口がまた増え始めた。豊かな支配者が、今度は約 1km 離れたマプングブウェ丘のふもとに動いたと考 えられる。しかし牛の柵は今までどおりの所に残された。これが南部アフリカで豊かな人たちとその会議場が、自分た ちの牛と離れることになった最初だった。 このすぐ後に、首長は丘の上に動き、峡谷に住んでいた残りの人たちは丘のふもとに住んだ。次の 100 年の間に他の 重要な変化が起こった。1150 年までに、マプングブウェはトウツェのように大きな首長国の首都になった。それは、小 さいが重要で豊かなほかの丘の上の集落に囲まれていた。ジンバブエのマペラやボツワナのムマグウェである。これら の集落の周りには、平原にたくさんの小さな村が散らばっており、そのそれぞれが中央家畜柵を持ち、家や穀倉庫が周 りを囲っていた。 首長国の大きさは確かではないが、マトポ丘の南の境界まで、北には広がっていたかもしれない。ボツワナでは、そ れはおそらく 1200 年頃以降から広がり、西はボスツウェ、南はマハラペまで広がっていただろう。 マプングブウェ丘の頂上の発掘から、スピンドル溝車は中央アフリカ全体では始めてここで使われていることがわか り、綿を紡ぐ知識はマプングブウェとの交易を通して得られたことを示唆している。ガラスのビーズは溶かされ、大き な蒸気ローラービーズになり、そのいくつかはトウツェの国でも見つかった。1175 年頃、重要な男が丘の上に埋められ た。その骸骨と一緒に、考古学者は巨大なガラスビーズ・銅の宝石・金のビーズ・金メッキされた木の動物が埋められ ているのを見つけた。 石の壁が初めて使われたのもまたこの頃だった。石の壁は丘の上に作られ、大きな家を見えなくしたり、家の後ろの 特別に 1 段上げられた場所への入り口にしたりした。一般的な配置と 1 つの地域での碾き臼の位置から、自分の右手側 に住み、会議場を彼の家の前に置き、たぶん雨乞いのための神聖な場所を後ろで 1 段上げている事がわかった。彼の妻 たちは分かれて左に住んでいた。 1150 年以降のどこかの時期で、国は崩壊し、マプングブウェは放棄された。何が起こったかは確かでない。金の交易 権を失ったか、周りの環境が劣化し、もはや大きな集落を保てなかったのかもしれない。 私たちは、その人々に何が起こったか知らないが、崩壊が起こる前には彼らの権力は西にはボスツェまで広がってい たことは知っている。それはもともとの人々が使っていたトウツェ土器のうえの、深さ 1m の貝塚に彼らの土器があっ たからだ。 遥か西に目を向ければ、他の変化を見る事ができる。1300 年頃のある時期にツォディロは捨てられ、一方ではオカヴ ァンゴデルタの東側の村も同じ頃かそれより少し早くにおそらく放棄された。これらの放棄の理由は確かでないが、バ ンバンディヤナロの人々が西への交易路を支配したとき、彼らはビーズや衣類といった重要な輸入品を、さらに西に住 んでいる人たちからうまく奪い取ることに成功し、最後にはもし彼らがそれらのものを欲しいのならば東にくるよう強 制した。 1250 年頃権力の中心はグレートジンバブエに動き、マプングブウェ首長国の崩壊の原因になった。新しい町はマプン グブウェの町と似た構成でグレートジンバブエに作られた。王は丘の上に住み、彼の臣民は下の峡谷に住んだ。今日で は、ショナ族の先祖が石壁の街を作ったとわかっているが、いくつかの歴史の本では、まだそれがアフリカの外からき た人たち、つまりフェニキア人やアラブ人やインド人によって作られたかもしれないといっている。 ヒョウの小山の地域 マンボ トウツウェ バンバンディヤナロ の生活圏を表す 29 コラム~初期から後期鉄器時代への変化 紀元 950 年頃から、土器の様式に変化があり、新しい文化的発展があった。牛の数が多くなり豊かになった人たちが おり、彼らは丘の上に家を動かした。交易は増加し、ガラスのビーズのような新しい商品は増加し、東海岸から内陸に 到達し始めた。豊かな人たちは権力を持つようになり、首長国を設立した。金の採掘や、金や他の金属の探索が始まっ た。新しい人たちは北からやってきたのだろうか、それとも内部の発展の結果としてこれらの変化が起こったのだろう か?しばらくの間歴史家と考古学者は意見が同じではなかった。次に述べるようなことが起こったのではないかと考え られる 1. 紀元 950 年くらいまでトランスヴァールに住んでいた人たちの一部が西へ動き、ボツワナの南西部におそらく既に そこに住んでいたマハハラーペの人たちに混じって住んだ。紀元 1000 年までにマハハラーペ型の土器は、トラン スヴァールの一部で見つかった紀元 950 年以前のエイランド型の土器にとってかわられた。この土器はボツワナで 18 世紀まで作られつづけ、そして彼らはおそらくカラハリ族の先祖に属するだろう。 2. 紀元 950 年の後のいつごろにか、トランスヴァールからきたほかの人々がリンポポ川とシャシェ川を越えて北西に やってきて住みついた。彼らは、ヒョウの小山の人たちと考古学者や歴史家から呼ばれており、その遺跡が最初に 発掘されたブラワヨのそばの丘の名前にちなんでいる。彼らの住むとことは次第に広がり、ソワパンの西岸に到達 するものもいた。彼らがカランガ族の先祖だと考える人たちもいる。 3. トウツェの首長国は 1150 年のすぐ後に崩壊し、その人口のほとんどは消え去った。トウツェ型の土器は作られな くなった。 4. 1150 年以降、何人かのマプングブウェの人々は西へ広がり、トウツェモハラ首長国に入りボスツウェ丘などの土 地に住んだ。1250 年ごろ、彼らは消えた。 5. 1150~1250 年の間に、北から、おそらくタンザニアから、新しい移民が東トランスヴァールに入り始め、南と西 に広がった。この西に広がった人たちが現在のツワナ族の先祖である。 後期鉄器時代には首長国やジンバブエのような国家の設立を見る事ができる。交易と新しい富は新しい政治体制を 作る。南東のカラハリ族の移民は初期鉄器時代の人々を吸収したかとって代わった。北東部ではカランガ族とそれ に関わる人たちがジンバブエ国家を作り、トランスヴァールではツワナ族の先祖たちが、私たちが今よく知ってい るロロン族・クウェナ族・フルーツェ族といった集団と合体しようとし始めた。 30 第9章 狩猟、採集、貢納、交易 950~ 950~1200 年 前の二つの章で、どのように最初の首長国が形成されてきたかを見てきた。初期のトウツェの首長国は牛からの富に 基づいて建てられた一方で、東のバンバンンディヤナロの首長国は、ガラスのビーズや衣類の代わりに輸出される象牙・ 毛皮・銅・金などの交易から得られた富によって作られた。 これは家族の中に裕福にそして権力を持つようになった人たちが出てきた時代である。彼らはたくさんの人たちを管 理できた。彼らは会議場に座り命令を出す一方で、貧しい人たちは彼らに従った。人々は富の生産に特化し始めた。 特に西の多くの人たちは、狩の専門家になった。彼らは象やサイをその牙や角のために、ダチョウをその羽根のため に、ヒョウや狐やジャッカルをその毛皮のために殺した。それらのすべてのものは東へ向かった。 ヒョウの小山の人たちは、マチタマやシャシェ川に沿った所で銅の採掘を学んだ。彼らはまたフランシスタウンやブ ラワヨの周りで金の採掘も学んだ。金もまた東と交易された。当時、彼らは自分たちの国を作らなかった。 トウツェの人々は、専門の牛飼いになった。彼らは牛を北・東・西と交易し、妻や、場合によっては衣類やビーズを 手に入れた。 ボスツウェでは、 人々は遥かツォディロに至るまでの西の人々と交換するためのチャートの石核を作ることを学んだ。 彼らはまた牛を西と交易し、代わりに象牙・毛皮・銅を手に入れた。銅の宝石のいくつかはツォディロを通り、遥か西 部ザンビアやコンゴから来たかもしれない。 南では、エイランドの人たちは優れた鉄加工者になり、ヨハネスブルグから西はボツワナに至るまで広がる丘で鉄塊 を採鉱した。彼らはほとんど自分たちだけで交易し、鉄を牛に、そして牛を妻に換えた。ガラスのビーズや貝殻は彼ら のごみ捨て場からはほとんど発見されず、彼らの北で成長する交易圏の中で、彼らはただの小さく離れた存在でしかな かったことが示唆される。 このように、アフリカの偉大な富をどのように使うかということを学んだ人たちもいた。それを使うことによって、 彼らは豊かになり、貧しい人々を支配し、最初の大きな首長国を形成した。1400 年にジンバブエの国がカラハリからモ ザンビークまで、南はロツァネ川から北はザンベジ川まで広がった所まで、これらは成長した。 人々は個々人の腕を磨いた。すなわち、どのように牛の群を増やすか、どのように鉄・銅・金をを採掘しそれらを宝 石に加工するか、どのように大きな動物を狩るか、どのように象牙に彫刻をほどこし毛皮を毛布に仕立てるか、どのよ うに利益をあげるように交易するか、どのように他を支配するか、といったことである。 狩猟 今日では、私たちは昔の人々がどのように狩りをしていたのかは確かにはわからない。しかし、伝承により、また白 人訪問者、彼らは銃を持ってくる前は大きな集団に混じって狩をしていたのだが、の書き残した記録により、私たちは その方法を知る事ができる。 開けた土地では 2 つの方法が一般的に用いられた。最初の方法は、大きく深い穴を掘り、V 字型にやぶのフェンスを 作った。動物の群は V 字の入り口に追われ、フェンスにそって穴に落ちるまで走り、穴に落ちたら槍で刺された。2 つ 目の方法は、たくさんの人間が動物やその群を囲み、輪をだんだん小さくして、罠にかかった動物たちは槍で刺された 人々は川岸に長いフェンスを立て、フェンスの隙間に長い穴を掘る。これらの穴底には、鋭い棒が上を向けてたてて あった。水を飲みに来た動物は穴に落ち、棒に突き刺された。 他の方法としては、大きな動物が使う道の上の木に、重石をつけられ毒を塗られた槍をつるす方法もあった。象やサ イやカバがその下を通ると、それは道に張られた紐をけり、それによって槍が落ちその動物の背中を刺した。 コイサン人は、彼らの先祖は、象の足の間から毒矢を放ち、その象が弱くなったときに走ってそれに後ろから槍を刺 し、とどめをさした、という。ナタ地域にいるダニサのコイ族は、象を槍だけで殺すことで有名だ。カランガ族による と、彼らの先祖は、象を追いかけ斧で後足の腱を切る前に、注意深く儀式的な準備をするという。ハンブクシュ族は、 獣道に小さな穴を掘り、槍の穂先を木のかけらにつけた。木と刃は上を向けてあり、穴の中に置かれ、草で隠された。 道に沿ってやってきた象は、刃を踏み、足に突き刺さっただろう。 狐やジャッカルといった小さな毛皮を取るための動物は、犬によって狩られたり、紐の罠で捕えられたりした。ヒョ ウのような大きな動物でさえ、犬によって木の上に追い詰められ、そこで槍で刺された。 ほとんどの象牙やサイの角は東と交易されたが、それらの中には内部で加工され、腕輪・スプーン・ナイフの柄・大 きなブローチなどになったものもあった。毛皮はなめされ、毛布に加工された。象の牙・サイの角・毛皮の毛布・ヒョ ウの毛皮・カバの牙・ダチョウの羽根は全て、インド洋の海岸へ向けて東へ輸出された。 31 採鉱 初期鉄器時代のボツワナでは、人々は鉄や銅を採掘した。普通彼らは、露天掘りと呼ばれる方法で地表から鉱石を採 り、深い穴は掘らなかった。 金の採掘は 10 世紀頃ジンバブエで始まり、ボツワナではその少し後に始まっただろう。最初は、人々は川で砂金を 取っていたと考えられる。彼らは水と金を含んだ砂を採るのに木の容器を使った。水を渦巻かせ、少しずつそれを捨て ることにより、重い砂金が底に沈み、一方で砂は容器から出ていった。 マンボの人たちは金採掘の専門家だった。彼らは、どのように御影石から金の鉱床を見つけるかといった方法を見つ けた。鉄の釘や鎚と火を使って彼らは鉱石を割り、深く深く掘り進んだ。ときどき鉱床は 20m の深さにもなった。こ れらの多くの鉱山は地下水の位置まで掘り進んだ。採掘者達は水によりそれ以上は進めなかった。 金と銅の採掘は専門産業となり、専門の採掘者となった女性により行われた。しばしば鉱山は近接しており、全ての 共同体が採鉱のために協力して働いた。 例えば、マチタマの周りには 50 ㎢の広さの土地に、わかっているだけで 46 の銅鉱山があったが、8~10 の鉱山だけ がおそらく同時に採鉱されていた。後に銅の採掘は、今の南アフリカの北部州にある、メシナとファラボルワで始まっ た。そして小さなものとしてはハボロネやカンエのそばのメリタでも始まった。 採鉱者は、まだ自分たちの食料を生産する必要があったので、農業をあきらめたわけではなかった。女性が主要な地 下での採鉱者であったかもしれないし、また深い鉱山は雨季の間水があふれたかもしれないので、採鉱はおそらく冬と 春の、雨が降り農繁期が始まる前にのみ行われただろう。 初期鉄器時代の間、鉄鉱石は村に運ばれそこで精錬された。しかしながら、交易が増え、鉄が価値のある交易品とし て牛・妻・ビーズや衣類のような輸入品と交換できるようになると、鉄の精錬は秘密の場所で行われるようになった。 溶鉱炉は丘の上の狭い村に注意深く隠され、そこで鍬やほかの道具に加工された。鉄の精錬の過程は先祖の霊に関連付 けられ、タブーが多かった。これにより秘密は守られ、ある家族で世代ごとに受け継がれていった。 どのように金が交易されたかについては確かではない。採鉱者はそれを砂金の形で統治者に与えた。そのうちのいく らかは、小さな金塊にされ、それから宝石や金線に換えられた。おそらくほとんどの交易された金は、砂金か金線とし て海岸に送られたのだろう。1 つの説によると、砂金は牛の骨に詰められたといわれる一方で、他の説によるとそれは ヤマアラシの針の中に隠されたという。 銅は上に小さな口がたくさんついたビールの缶のような大きな塊に変えられた。ザンビアやザイールではそれは平ら な十字の形に変えられた。 鉄は加工してから交易された。最も一般的な交易品は、鉄線・鍬・槍の穂先・斧・手斧・かみそり・ビーズだった。 貢納 初期鉄器時代が後期鉄器時代に移るにつれて、貢納が重要性をました。豊かな人々は、よい支配と保護をする代わり に、その貧しい隣人が彼らを支持することを期待した。保護は敵から守ることを意味した。それはまた、天気を管理し、 よい雨を降らし、旱魃やあられがなく、病気や魔法から人々を守ることを意味した。人々はこの保護は豊かな首長や彼 らを保護する支配者の先祖によってなされると信じていた。 最も初期の貢納は、おそらく後期石器時代の人々から鉄器時代の人々へ、野生動物の肉や皮が贈られたものだ。人々 は豊かになるにつれて、平民が狩りしたものの一部を要求し、殺された動物の胸を取った。交易品がより重要になるに つれ、支配者は平民からより多くを要求し、象牙や毛皮や羽根を取った。 鉄や銅が輸出されるようになると、支配者はほとんどの金属を取り上げ、輸出を管理しようとした(そうだとしても、 交易者は直接鉱山を訪れた)。最後には、人々はその支配者に、ソルガム・ミレット・鉄・皮・羽根といったものを含む ほとんどの余剰を提供した。 人々はその余剰を支配者に与えることに不平を言わなかったようだ。旱魃の時には、支配者は貧しい人に食料を与え ることを期待された。また支配者はその臣民の中で支持をうちたてることができるよう、生産物の多くは集団の中で再 分配された。 支配者が豊かになるにつれて、彼らは交易のためにより多くのものを必要とした。これは、年齢階梯部隊が形成され たはじまりかもしれない。年齢階梯部隊は、一生の間付き合う集団に入る 16~20 歳の少年少女によって構成されてい た。支配者は人々が狩りをしたり、畑を耕したり、後には大きく美しい家を立てたりするために、このような組織され た集団を必要とした。この形の公共労働力も貢納の一形態だった。これらの大きな年齢階梯部隊は、防衛のためにも使 われたに違いない。 32 交易 本当の商業交易は、おそらく北東部ボツワナでは 10 世紀に始まった。その地にはアフリカ外部で望まれる、象牙・ サイの角・毛皮・羽根・金・ゴム・銅やおそらく鏡鉄鉱・香木・塩・赤鉄鉱・黒鉛などものが豊かにあった。 これらのほとんどは、最初はバンバンディヤナロを通ってリンポポ川を下って海岸に出た。道はそれから少し北に変 わって、今のマプートに近い海岸に着くようになった。1200 年頃に、主な交易の中心は、バンバンディヤナロから北の グレートジンバブエに移った。これがマプングブウェの首長国が崩壊したときだった。 海岸に着くと、商品はスワヒリやアラブの商人と交易され、彼らはそれをダウ船に載せ、北のキルワなどのケニヤの 海岸に運んだ。そこから、商品はインド洋を渡ってペルシャやインドそして中国まで輸出された。 16 世紀にポルトガル人が記録を残し始めるまで、どれだけの象牙や金が輸出されたかはわかっていない。ある考古学 者によると、10 世紀から 14 世紀の間に年間約 900kg の金が輸出されたと推計されている。このうちのほとんどはジン バブエからだが、一部はフランシスタウンの周りの鉱山から来たものだった。ガルシア・アブ・ホルトという旅行者に よると、16 世紀には年間約 270tの象牙が東アフリカの海岸から輸出された。 主要な輸入品はガラスのビーズと染められた衣類だった。ガラスのビーズには、青緑・緑・黄色・半透明の黄色・赤・ 深い青・トルコ青・黒があった。これらのビーズのほとんどはペルシャ湾を通って現在のイランの地域からやってきた。 鉄や銅、鏡鉄鉱葉主に域内の交易に使われたが、そのうちのいくらか、特にザイールからの銅は確かに輸出されていた。 イブン・バトゥタという東海岸を訪れた一人の商人によると、多くのヒョウの毛皮が輸出され、毛皮と羽毛もまた交 易の主要な部分を占めていたという。輸入品でボツワナの深くまで到達するものはほとんどなく、フランシスタウンの 周りの金や銅の鉱山に着いたときそこで西への交易は止まったようだ。ガラスのビーズと貝殻はツォディロやハバネの 近くのモリツァーネのような南の地域のごみ穴でも見つかったが、大きな数ではなかった。ボツワナの中では、主要な 交易品は牛・鉄・銅・鏡鉄鉱・塩そしておそらく大麻であったが、輸出のかなりの部分は象牙と毛皮だった。犬もまた ジンバブエに輸出されたと信じられている。フランシスタウンやリンポポ地域のようなよい水のある所では穀物が西に 向けて輸出されていたかもしれない。 まとめ アフリカの富への需要が増えるにしたがって、交易はより少ない人によって行われるようになり、1400 年頃までに、 ほとんどすべての交易は、グレートジンバブエに住んでいる 1 つの権力を持った家族により支配されることになった。 交易品を生産する必要性は、社会の構造変化の原因となり、貧富の階層を作り、支配者と平民を作った。 人々は生産面で特化することを学んだ。鉱山での鉄や銅の抽出、道具や宝石の製作、金の採掘、象牙・皮・毛皮のた めの狩猟、大きな牛の群の放牧、そしてより多くの農産物の育成などである。この特化は、貧しい人々に交易のための 手段を与え、採掘者や金属加工者が牛のために交易でき、狩猟者が穀物のために交易できた。人々はしばしば採鉱・農 産物生産・狩猟などの活動で協力した。みんなが同じ生活をしていた古き日々は過ぎ去った。成功した採鉱者・金属加 工者・牛の育成者・狩猟者は豊かになり始め、彼らはより多くの時間を政治問題や交易について議論することができる ようになり、会議場でより多くの時間を費やした。 これが貧富の間に新しい関係ができ、そしておそらく支配者が経済力と共に宗教的権威も得たときだろう。豊かなも のは統治したが、彼らは貧しいものの協力を得るための手段が必要だった。これらの手段は社会の構造にくみこまれて いると私たちは信じている。豊かなものは、貧しいものが必要なものを与えることができた。これらの利益にはおそら く、善良で公正な統治、紛争の解決、隣り合う人々からの保護、牛のような財産の使用、旱魃時の飢えをしのぐための 食料の貯蓄、ガラスのビーズのような輸入品、そして明確な理由がなく起こった事柄(病気・あられ・雷・旱魃・不幸) に対して首長の先祖の力を使っての保護、が含まれただろう。 かわりに、貧しいものはその生産物の一部を金属製品・金・象牙・などの形で納めた。私たちは豊かなものと貧しい ものの間に争いや敵意があったのかはわからない。しかしながら、私たちは首長国が崩壊した事を見てきて、首長国同 士の争いがあったかもしれないと考える。 やがて、丘の上に住んだ豊かな人々と平原の小さな村に住んだ貧しい人が分離した。最後には、支配者は豊かなもの たちの上に立つことになり、臣民に作らせたすばらしい家に住んだ。私たちは次章でこれについて見る。 33 第 10 章 ボツワナとジンバブエの国 1250~ 1250~1450 年 1200 年より後に、ジンバブエの国は、今のマスヴィンゴの町がある辺りで始まった。私たちは誰がその国の基礎を打 ちたてたのかわからない。それは、首都が 12 世紀に崩壊してしまったときに移動してきたマプングブウェの支配者た ちかもしれないし、その地域にすでに住んでいた豊かな小作人たちかもしれない。私たちは、彼らをその遺跡が最初に 発掘された地にちなんで、グマニェの人たちと呼んでいる。 グマニェの人たちは、肥沃な峡谷のある小高い土地のグレートジンバブエに首都を立てた。住居の構成はマプングブ ウェと同じ様式で、支配者は丘の上に住み、彼の妻たちは丘のふもとで特別に守られた所におり、彼の臣民は峡谷の中 に詰め込まれた家に住んでいた。 グレートジンバブエはマプングブウェよりも少し東海岸に近い所に建てられた。それはまたより肥沃な土地であり、 金が採れる主な地域により近い所であった。そこはすぐに交易の主要な中心になった。一方で、西からきた金や象牙な どの全ての交易品は、海岸に送られる前にグレートジンバブエに運ばれた。また一方では、ビーズ・陶器・ガラス・染 められた衣類などの全ての異国からのものは、海岸から最初にグレートジンバブエにやってきた。こうして、ジンバブ エの支配者は全ての交易を支配しとても豊かになった。 支配者が豊かになるにつれて、彼の交易支配は遠く広く広がった。モノはずっと遠くからジンバブエに運ばれた。鉛 の塊は西トランスヴァールからやってきて、銅はマチタマ(今のフランシスタウンの西)やコンゴのように離れたところ からもやってきた。象牙はリンポポ峡谷やオカヴァンゴデルタやザンベジ川から運ばれた。塩はマカディカディで掘ら れ、他の石鹸石・貴重な木・毛皮・羽根・牛・そして穀物のようなものも全て周りの地域からジンバブエに入ってきた。 グレートジンバブエの支配者は多くの妻を持っていた。彼は多くの息子を持ち、彼の利益を守るためにその中の何人 かは外延地区に送られた。彼はとても豊かにそして力を持つようになり、彼の国は大変大きかったので、私たちはおそ らく彼を王と呼ばなければならないだろう。 1250 年のすぐ後に、王はグレートジンバブエに大きな町を立てた。この町は峡谷に建てられ、丘への登り口は頂上の 近くで崖によって守られていた。町は多くの石壁で囲まれていた。いくつかの壁は高さ 9m にもなった。これらの壁は 平らな花崗岩が並べられ、セメントを使うことなく上に重ねられていた。町は大きくなり、1350 年頃までには 11,000 人かそれ以上の住民がいた。 王はほとんど一人で、丘の上の大きく豪華に飾られた家に住んでいた。カランガ族の伝承とポルトガル人の記録によ るとほんの一握りの特別な公人だけが丘の上に住んでいた。王のそばには、王と臣民をつなぐ伝言人がいた。別の公人 は王の占い師だった。 平民とおそらく金持ちさえも、王の姿は見る事はなかった。彼は一人で住み、絹のしきりごしに伝言者に指示を出し た。彼は下の町には出ず、必要に応じて妻を送った。彼の臣民にとっては、彼は目に見えない権力でほとんど神だった。 考古学者は、町を発掘し輸入品の巨大な富を見つけた。中国からの陶器、ペルシャからのガラス容器やビーズ、たく さんの金、銅、青銅、鍛造された鉄の道具や宝石などである。彼らは彫刻の施された石鹸石の容器や大きな美しく彫ら れた石の鷲を見つけた。私たちはアラブ人の記録から、染められた綿の衣類・絹・にしきはインドや中国から輸入され、 野生の綿から作られた衣類は町の中で織られていたことがわかった。王とその家族と、おそらく他の豊かな人々は、美 しいローブ・金や貝殻の宝石・ガラスのビーズ・銅の装飾品といった物を身に着けていたに違いない。 王とその家は常に 200~300 人の男に守られていた。日中は彼の家は、彼をたたえる歌を歌ったり、音楽を演奏した りする男たちに囲まれていた。 丘のふもとには、彼のたくさんの妻たちが(おそらく 1000 人かそれ以上)小さいがまた美しい家に住み、その周りは誰 も見る事ができないように壁で囲まれていた。いくらかの豊かな人を含んだ平民の家は、壁に囲まれた地区の外側に作 られた。彼らの家は、多くの屋根が触れ合うほどお互いとても近くに作られていた。知られた小道を通ってのみ町を通 りぬけることができた。 1300 年までに、王は、町に巨大な石壁を作ったり、王家の一族のために食料を育てたり、肉のために狩りをしたり、 薪や水を集めたりする労働力を指揮できたに違いない。私たちは、この労働力が年齢階梯部隊に組織されていたり、町 に住む家族が貢納の一形態とされていたのか、という事については知らないいくらかの家族が、王家の家族に密着して 特別な召使階級に属していたかもしれない。また、私たちは王が軍隊を持っていたかについて知らないが、その可能性 はある。確かなことは、軍隊は外延地区の平和を守ったり、王の支配を補強したり、貢納を守ったりするのに有益であ ると言うことだ。 グレートジンバブエ国とその西部への影響を描く前に、私たちはボツワナの住居を見なければならない。それが、ど うしてジンバブエがそれほど簡単にこの国の北東部を支配できたかについて理解する助けになるからだ。 34 1250 年のボツワナ 私たちは既に、1250 年の少し前に多くの変化が起こったことを見てきた。私たちはそれについてもっと詳しく見なけ ればならない。 1000~1200 年の間にエイランドの人たちは南東に拡大し、ロバツェ・ハボロネ・モチュディ・モレポローレの回り の丘陵地に支配を及ぼした。そこにはブローダーストロームの人たちがまだ住んでいた。牛の群は増えており、人々は その主邑を丘の上に移した。確かな首長国の兆しはないが、私たちは彼らが同じか関係した言葉を話していたと推測で きる。牛・農作物生産・狩猟は全て重要だった。彼らの村から見つかった石器から、私たちはこれらの人たちがカラハ リの縁に住んでいたかもしれないコイサンの集団と近い関係にあったと知る事ができる。 トウツェの首長国は人口が過大になり、分解し始めた。凋落はおそらく人口が増えすぎたことと環境の侵食によるも のだろう。長く続く旱魃が最初の崩壊の原因になったかもしれない。 トウツェの人々は、牛がたくさんになり、象牙・サイの角・皮・鏡鉄鉱の市場を提供したが、彼らは東からの交易品 を得ることができなかった。 バンバンディヤナロの人たちが、西へ行く人たちから輸入品を取り上げ、首長とその家族の権力を減らすことによっ て、東との交易を妨害した可能性がある。1300 年までにトウツェの首長国は消え、その地域に人は誰もいなくなった。 何人かは残ったに違いないが、ほとんどは消え去り、たぶん北東へ動き、新しい金の交易で利益を得ていたマンボの人 たちに合流したのだろう。 フランシスタウンとマチタマに住んでいたマンボの人たちはおそらくその採鉱活動を 1100~1200 年の間に増やした だろう。このときまで、彼らの住居は小さくよく動いた。彼らは穀倉をほとんど持たず、牛の柵はまた小さかった。し かしながら、1200 年以降住居はより恒久的になり、丘の上に動くものや、段をつけ石壁を作るものが現れ、牛柵がより 大きくなり、多くの穀倉ができた。そして東アフリカ海岸からこの地域までやってくるビーズの交易量は増加した。 1250 年までにマンボの人たちは豊かになったようだ。バンバンディヤナロの人たちとは違って、彼らは自分の領域に 金を持っており、それを採鉱し東と交易でき、それによって彼らはグレートジンバブエを通って海岸まで伸びる主要交 易路の中にいることを保った。 私たちは、バンバンディヤナロの首長国が、1250 年より前、東海岸交易がその内陸の中心をグレートジンバブエに移 したとき、消えたのを見てきた。私たちは、その地域が放棄されたのかどうかは知らないが、多くの人々が移動し、お そらく北の新しい首都へ向かった。 北西部では、ツォディロ丘もまた 1200 年頃に放棄されたようで、一方では東部オカヴァンゴデルタの鉄器時代の村 もそれより 100 年ほど前に消えた。 私たちはこれらの地域がどうして放棄されたのかは知らない。紀元 900 年には、ツォディロは交易の中心で、銅の宝 石がザンビアから南にむかってそこを通りトウツェの首長国へ行き、牛はおそらく反対方向に向かった。マチタマでの 銅鉱山の始まりは、たぶん東で銅の量が増えたことを意味し、古い交易はなくなった。結局、農耕鉄加工者はオカヴァ ンゴデルタで消え、後にはコイサン語族が残った。 このとき、コイ族の集団はボテチ川とンチャベ川に沿ってンガミ湖に至るまで、そしておそらく南はたくさんの地表 の水があるハンツィまで住んでいただろう。川に沿って、彼らは半永久的な小さな村に住み、彼らの丸型でマットに覆 われた家は円状に建てられ、とげのあるフェンスに囲まれていた。夜には、彼らは長い角の牛・羊・そして少しの山羊 といった家畜を村の真中に囲った。彼らは、魚を捕まえるのに、槍で刺したり、川の中に作られた低い石の壁に止めら れた籠で罠にかけたりした。彼らは川に沿ってフェンスを立て、動物が水を飲みに来る所に掘った深い穴に落とすこと によって、シマウマやワイルドビーストといった動物を捕まえた。彼らは野生の食物や蜂蜜を集めた。彼らは何人かの 召使を持っており、毛皮のための動物を狩ったり、野生の食物を集めたりするときに働かせた。 過去には、コイ族の集団は、モトーツェ首長国とオカヴァンゴデルタとの交易に関与していた。トウツェの人々はお そらく彼らを訪れ、金属の道具や宝石を毛皮や羊や長い角の牛と交換した。また、コイの集団はこれらのものを隣人と 交換するためにボスツェやマタパネンから得たかもしれない。 他のコイサン語族は、 カラハリの縁や中に暮らしていた。 東では彼らの中にはトウツェやエイランドの人たちと一緒に住んだものもいた。彼らは主に召使であり、家事をしたり 毛皮や象牙のために狩りをしたようだ。女性の中にはトウツェやエイランドの男性と結婚した者もおり、その子供たち はこれらの集団に受け入れられた。彼らと鉄加工を行う彼らの隣人との間にはもっと交易があったに違いない。カラハ リの中の水のあるパンに住んでいた人たちが、ゆっくりと牛や土器を獲得し、槍や矢を作るのに石や骨ではなく鉄を使 うようになったのは疑いがない。 ツォディロとオカヴァンゴデルタが農耕金属加工者から放棄された時、コイサン人だけが取り残されたが、彼らは鉄 加工者と関係を持ち鉄と銅が必要だったので交易は続いたに違いない。 おそらくそれはより長い距離がかかっただろう。 東では、トウツェとバンバンディヤナロの首長国が消えて多くの人々が去ったとき、コイの集団だけが残り、狩猟・ 漁猟・採集・そしておそらく牛や山羊のわずかな群を放牧した。16 世紀に農民たちがこの地域に戻ってきたとき、彼ら はコイ族がまだそこに住んでいたのを発見したのを、本書の後の部分で見る。 35 グレートジンバブエ国 ジンバブエの国は拡大した。ドンボシャバ・セビナのそば・レプコレ・セルレからソワパンの東岸にかけて・トラン ジュ・タパナ・リンポポ川との合流点に近いロツァネ川の岸などにジンバブエ型の石壁の遺跡が残っている。私たちは それがどんな速度で広がったのか知らないが、グレートジンバブエの王がソワパンから現在のモザンビークまで、ロツ ァネ川から南はザンベジ川まで、現在のボツワナよりも大きな地域を支配するのに、おそらく 100 年はかからなかった だろう。 国が広がるにつれ、それは多くの小さな首長国に支配を及ぼした。それは交易の管理によって行われた。マンボの人 たちによって行われた金・銅・塩の採掘は、グレートジンバブエを通して東海岸にのみ輸出された。王は金や象牙の価 格をビーズや衣類であらわすことができた。彼が怒れば、彼は交易を減らしたりとめたりすることすらできた。マンボ の人たちは彼に協力することか貧しいままでいるか選ぶことを強制された。このように王が彼らを管理するのは簡単だ った。 グレートジンバブエにいる王はおそらく彼の親類をその国の地方の地区統治者として配置した。彼らはまた、岩が多 い丘の頂上に石の壁に囲まれた大きな家を立て、よい服や宝石を身につけ、その地区の臣民を統治した。彼らの主な職 務は金・銅・象牙の生産を管理し、グレートジンバブエに貢納として送られるよう確保することだったに違いない。彼 らはまた、鉄の道具・鏡鉄鉱・毛皮・羽根・塩・牛・若い男女さえも貢納として集めていたようだ。平民は自分たちの 首長に管理されつづけたが、これらは今では地区統治者の支配のもととなった。 地区統治者の全役割と彼らが地区の事象について担った役割はまだ正しくは認識されていない。歴史家の中には小さ な地区首長が自分たちの臣民の管理をしつづけたと信じるものもいる。彼らは全ての貢納を集め、ビーズや貝殻や衣類 と交換に、それらのものを地区統治者に渡した。ビーズや貝殻は平民の村のごみ穴からも、地区統治者のそれと同じよ うに、発掘された。 グレートジンバブエ国の宗教 交易と大きな富がグレートジンバブエ国の建設を助けた一方で、宗教もおそらく力を貸した。伝承によると、ジンバ ブエの宗教は少なくとも 300 年は遡る。その前に変化があったとは考えにくいので、私たちは 700 年前に実施されてい た宗教についてよく推測することができる。 人々は、ムワリまたは神が空に住んでおり、世界・気候・人々の命を支配していると信じていた。死んだ男の魂は地 下に住んでおり、ムワリに話しかけること・雨を降らすこと・土地を豊かにすること・病気から守ること・あられなど の自然災害を防ぐことができた。人々は先祖に話しかけることができ、彼らにムワリとの間に入ってくれるよう説得し た。人生において重要な役割をになった男、特に首長は、一番力のある先祖になり、生前に統治した国を助けることが できる。首長がなくなったときは、彼の魂は神話のライオンに入るといわれている。魂が話すとそれはライオンのよう であり、それを訳すことができるのはその子孫だけであった。 グレートジンバブエの王の力がその富を通じてより強くなるにつれて、彼の魂は国土中でその力を増した。遠くの地 区の人々は雨が必要で、自分たちの先祖の魂にそれができなかったとき、彼らは王に贈りものをし、彼らのために王に その先祖の魂に仲介をしてくれるよう頼んだ。 なぜグレートジンバブエの国はそんなに強くなったのか 歴史家と考古学者は、グレートジンバブエの王の権力増大について異なった理由を提示している。私たちは、よりは っきりとした結論に至る前に、グレートジンバブエについてもっと学ばなければならない。 1300 年のすぐあと、北東部ボツワナのほとんどはグレートジンバブエ帝国の中にあった。それは地区に分けられ、大 きな所もあれば小さな所もあった。金や銅を産する所もあれば、ソルガムを生産する所もあった。その多くには牛がた くさんいた。シャシェ川の全流域において、丘の上にたくさんの石壁に囲まれた遺跡があり、そのそれぞれが地域や首 長国の首都であった。 グレートジンバブエの西に住んでいた人たちは強い国家には組織されておらず、税金や支配に打ち勝つことはできな かった。王が交易を促進するためにその親類を外延部地域に送ったとき、住人はおそらく彼らの商品によりよい価格を つけてくれる仲介者としてこれらの親類を受け入れたのだろう。ゆっくりと王の親類は地区の生産を管理し始めた。 1350 年頃までに、これらの親類たちは強力な地区統治者となり、地区の交易を支配できるようになった。彼らは、シ ャシェ川とモトーツェ川に壁に囲まれた美しい家をたて、強い権力を持つようになった。地元の人たちは採掘・狩猟・ 牛の放牧・農作物生産を続け、自分たちの指導者に統治されつづけたが、グレートジンバブエからの支配者が今では生 産を管理し、貢納を集め、ビーズや衣類といったわずかな輸入品を配布した。 やがて、地区統治者はその地区のすべてを支配するようになった。地元の統治者が亡くなると、その後継者は父の後 を継ぐ前に地区統治者に承認されなければならなかった。これらの統治者は、グレートジンバブエの王との血のつなが りを通して重要な宗教的存在にもなり、健康と豊かさを提供してくれるムワリとの接点だと認識されただろう。 36 1400 年以降、グレートジンバブエ国はその権力の頂点に達し、カラハリ砂漠からインド洋に渡る広大な地域を支配し た。しかしながら、その権力はカラハリの奥やツヮポン丘の南には浸透しなかった。おそらくこれらの地域は首都であ るグレートジンバブエからあまりに離れており、豊かな鉱山や交易に使うものの余剰に乏しい人たちが住んでいたため だろう。 1400 年までに王の権力は減退し始め、東海岸交易の支配を失い始めた。50 年後、グレートジンバブエ国は崩壊した。 現在のブラワヨのそばのカミに新しい首都は移った 歴史書の中には、グレートジンバブエ国の支配者は大きな宗教的権力を持っており、そしてそれが彼らがとても広い 地域に住む人たちに支配を及ぼすことができた理由だというものもある。別の歴史書によると、支配者は強い軍を持っ ており、それにより臣民に金・象牙・牛・農作物といったもので貢納をさせていたという。他の理由として考えられる ものはグレートジンバブエの支配者は、牛をたくさん持っており、その豊かさで交易を支配したという事だ。 私たちは 600 年前に存在した国について話していることを忘れてはならない。伝承はそのような昔までさかのぼって おらず、書物による記録はポルトガル人が 15 世紀の終わりに到着したときにやっと始まったのだ。考古学的な証拠を 使うと共に、後の国がその地域を統治した方法に基づいて推測をしなければならない。 1100 年頃までに、南部アフリカの主要な富の形で、豊かなものが他のものを支配する手段として使われたのは、牛だ った。私たちは、まずグレートジンバブエの建設者と支配者は牛をたくさん持っており、その牛を地域の交易を支配す るために使ったと推測しなければならない。ガラスのビーズと衣類は海岸からその地域に到達し、豊かなものにより身 につけられた。すぐに、みんなが衣類とビーズを身につけたがったが、それは金や象牙と交換でのみ手に入れられた。 それゆえに彼らは金鉱山や象狩で働かなければならなかった。これにより、人々はなぜ採鉱や狩猟をしなければならな かったかは説明できるが、どのようにグレートジンバブエの支配者が交易に支配を及ぼせたかは説明できない。彼らは 良い統治によってそれを支配したのだろうか、それとも他の方法だろうか? 私たちは、牛によるたくさんの富は、豊かな男にたくさんの妻を得る手段を提供した事を知っている。ポルトガル人 の記録と伝承によると、後の王は時には 1000 人ものたくさんの妻を持っていたという。もし、グレートジンバブエの 初期の支配者が国中からのたくさんの妻を持っていたら、彼らは結婚を通してたくさんの共同体に支配を及ぼすことが でき、かわりに支配させるためにその息子たちをこれらの共同体に送った。 ポルトガル人の記録によるとまた、ムタパ国のような後の国は軍隊を持っていた。それゆえにジンバブエの国はたぶ ん軍隊を持っていただろう。この問題についてはたくさんの議論があった。考古学者の中には、グレートジンバブエは 要塞化された町ではないことを指摘し、それゆえに軍隊を持っていなかったとした。彼らだけがその地域で強い軍隊を 持っていたので、町を要塞化する必要がなかったと指摘する者もいた。初級学校が存在したという証拠によると、また 石の壁を作ったり肉のために狩をしたりする労働力の必要性からすると、それらはほとんど軍隊のようなものだったと 考えられる。 最後に、その国では宗教はどのような役割を果たしていたのだろうか?グレートジンバブエが宗教的な神社として作 られたという証拠はない。ほとんど間違いなく、それは人々の牛による富がたくさんになったために発展した。しかし ながら、後の支配者は、その先祖を通してムワリと接触できるので、かなりの宗教的権力を持っていた。たぶん、宗教 的権威が大きくなったので、強い軍隊の必要は減ったのだろう。これは、なぜグレートジンバブエが首都として崩壊し たか説明しているかも知れない。周辺地域が、土地や木や野生動物を使いすぎて豊かではなくなってきたので、王は大 きな町を養うのが難しくなったとわかった。彼の先祖は弱い軍隊では王を助けることができず、彼はもはや交易を管理 することができなくなった。1450 年頃以降、交易路は町を避けるようになった。 グレートジンバブエがどのように統治していたか知ることができない可能性もあるが、おそらく富、宗教的権力、軍 隊の結合によって統治していたのだろう。そうだとしても、私たちはそれらのうちどれが最も重要だったかとはいえな い。 37 コラム~誰がグレートジンバブエを立てたのか ソワパンからモザンビークに広がる、グレートジンバブエや似たような石壁の住居を誰が立てたのであろうか?多く の歴史書によると、アフリカ人、現在のカランガ族の先祖が、グレートジンバブエの設計者であり建設者だったとして いる。しかし、中にはユダヤ人・フェニキア人・アラブ人・もしくはインド人といった外国人が建てたという者もいる。 どちらが本当なのだろうか? グレートジンバブエはアダム・レンダースにより 1867 年に”発見”され、5 年後にそれをソロモン王の金鉱会社の首都 としてそしてシバの女王の家として描いたカール・マウチによって有名になった。数年後、セオドア・ベントが、それ はフェニキア人によって建てられたに違いないといい、一方で空想小説家のリダー・ハガードはアフリカの白人女王の 物語によってこの話を浸透させた。 より真剣な話として、1900 年代の初期にリチャード・ホールはグレートジンバブエがアラブ人に作られたとし、一方 で考古学者のランダール・マキーヴァーはグレートジンバブエがアフリカ人以外のものによって作られた証拠は見つけ ることができず、それはおそらく 1300 年以降に作られたもので、ソロモン王やフェニキア人の時代からは 1500 年も後 のことだとした。別の考古学者のカートン・トンプソンによるさらなる発掘により、マキーヴァーの説は支持された。 そうだとしても、1984 年になってもワイルドフレッド・マーロウ教授は”グレートジンバブエの謎”を発行し、その中 で、グレートジンバブエの大きな囲いは 9 世紀の留置所でアラブに送られる前の黒人奴隷が入れられていた、とした。 このときになっても、多くの白人はグレートジンバブエがアフリカ人によって作られたものではないと信じていた。 グレートジンバブエが外国人によるものだと固執する人は、現代のアフリカ人が石で家を作らず、柱と泥だけで作っ ていることを指摘する。彼らはグレートジンバブエとフェニキア人の建物の遺跡との建築上の類似性を見ており、そし て金の採掘と交易はアラブ人かインド人といった外国人によってのみ組織されたと信じていた。彼らはまた、16~17 世紀のジンバブエに住んでいるアフリカ人は誰が石の町を作ったのか知らないといった、という現代のポルトガル人編 年史家のデ・バホスの意見を引用した。これらの外国人説を信仰している人たちは、グレートジンバブエが紀元 1000 年以前の初期鉄器時代に、もしくは聖書の時代に建設されたとしている。 別の人たちは、考古学者の仕事によって支持されており、出土した土器・金工技術・ハットの建設・住居の構成・グ レートジンバブエで見つかった農業実施の証拠により、それらは典型的なアフリカ人のもので、外国の影響は何も指摘 できないという。彼らは、中国の磁器・ペルシャのガラス・アジアのビーズなどを、東アフリカとの交易の結果として の輸入品だと考えた。 80 年以上に及ぶ科学的調査の後でも、なぜ歴史家を含んだ多くの白人がまだグレートジンバブエは外国人によって作 られたに違いないと信じているのだろうか?最初、南部アフリカの白人居住者にとって、黒人が石で建物を作り、金の 交易を組織する能力があるとは信じがたいことだった。後に人種差別が大きくなると多くの白人は、黒人よりも人種的 に優れた人たちだけがグレートジンバブエを作ることができたと考えた。過去 20 年間のローデシアの時代、所有権と 優越感についての感覚が白人の中にあり、おそらく非アフリカ人がグレートジンバブエを建てたとする科学的な本がま だ出版されていた。これは、黒人がそのような技術や技能を持っているはずがない、という白人の思いこみを主張する 努力としてなされた。 38 第 11 章 ツワナ族とカラハリ族の起源 1200~ 1200~1400 年 この章ではカラハリ族とツワナ族といった二つの民族がどのように形成されたと考えられているのかについて描く。 それにより、私たちが今知っているようなさまざまな集団、すなわちクウェナ族・カランガ族・カ族・タワナ族などに どのように分かれて来たかがわかる。それはとても長い期間で起こったことについて描く。最も初期の起源の物語とこ れらの人々の動きは 700 年もの間世代ごとに受け継がれてきた。長期間に渡っていたので、ほとんどの初期の物語は忘 れ去られ、簡素な概略だけが残った。 ツワナ族とカラハリ族の集団の形成が、首長国に成長するのはずっと後の話で、1200~1400 年、またはグレートジ ンバブエ国の出現と同じ時期だった。これが南部アフリカに多くの変化が起きたときだった。初期鉄器時代は終わり、 人々はさまざまな方法で発展した。この章を読むとき、北部と南部の発展の違いを比較しなければならない。そうすれ ば、いかに違った環境が違った発展を導いたかが理解できる。 初期の起源 ばらばらの共同体が、カラハリ族、ツワナ族、ソト族に発展したのは、おそらく 1100 年のしばらく後にトランスヴ ァールで集団を形成し始めたときだろう。ウィットウォータースランド大学の考古学部のトーマス・フフマン教授は、 ングニ族とソト-ツワナ族の先祖は東アフリカの大湖地方の周りからやってきて、南部アフリカに紀元 1000 年以降に 入ってきた、と信じている。彼は、ングニ族の先祖は最初に南に向かい、今のモザンビークを通って、11~12 世紀にナ タールとトランスカイに住んだ。彼らに続いて 12 世紀に東トランスヴァールに住んでいたソト-ツワナ族の先祖が東 にすばやく広がった。モロコの土器は南東部ボツワナで見つかり、最も初期のものは 13 世紀の終わりのものだった。 考古学者の理論は、古い住居から発掘された土器の様式に基づいている。私たちにとって、最も重要な土器の様式は東 トランスヴァールで発掘されたモロコだった。最近の歴史的なツワナ式の土器によってその発展をたどることができる かもしれない。 他の重要な土器の様式はエイランドで、最初にトランスヴァールのロウフェルトで見つかり、11 世紀のものと算定さ れた。それはまた、トランスヴァールを通って西へ広がり、ハボロネ地域のボツワナで見つかり、そこの初期住居は 12 世紀のものと算定された。カラハリ族は、容器を作るだけの人たちで、東カラハリに長い歴史を持って住んでいる。し たがって、彼らの先祖はほとんど確かにエイランドの容器製作者だった。 上記のことから、カラハリ族の先祖もツワナ族の先祖も 11~12 世紀にトランスヴァールに住んでおり、そして西へ 広がり始めた。カラハリ族の集団の中にはボツワナに 12 世紀頃に入るものもいれば、一方でツワナ族の集団の中には およそ 100 年後に彼らの後に続くものもいた。 トランスヴァールとボツワナの両方において、彼らは、ブローダーストロームやマハハレーペに住んでいたような後 期石器時代や初期鉄器時代の人々と接触を持つようになったに違いない。ブローダーストロームやマハハレーペの土器 は、紀元 1000 年頃に消えて、エイランドの土器に変わっている。たぶんエイランドの人たちとモロコの人たちは結婚 して接触するようになった人たちに吸収されたのだろう。もしこれが正しければ、カラハリ族とツワナ人の祖先は、大 湖地方からの人々・南部アフリカの初期鉄器時代の人たち・後期石器時代の人たちの混合体であるといえる。 伝承 私たちの先祖の物語は、最初の起源について何百年もの間語り継がれてきた。ほとんどの南部アフリカのバンツー語 族は、彼らは、もともとは北東部のたくさんの湖がある所から来たと信じている。ほとんどが陶器から取られた考古学 的記録によって、このことは確認される傾向にある。ツワナ族は最初の先祖であるマツィエンについて以下のように信 じている。「まだ岩の柔らかいロウェの時代、地下の世界から地面にあいた穴を通って地上に上がり、その臣民と家畜を つれ、柔らかい岩に片足の足跡を残した。」南東ボツワナには彼の名を語ったいくつかの穴がある。最もよく知られたも のはラセサのそばにあり、大男の足跡が岩に刻まれている。穴が見つかったほかの場所はボタパトロウのそばや中央地 区の南部にもある。 マツィエンの物語は多くの人たちに信じられていないが、 それはボツワナのとても初期の住居の場所を示唆している。 他の人たちも似たような物語を持っている。それらは普通、自分自身と土地との関係をどのように見ているかを示して いる。どの場合でも、その物語はそれぞれの集団がある土地について独特のいわれを持っており、他の人々がその土地 に対して要求ができないようになっている。 ソト-ツワナ族の人たちは、その先祖を 5 つの主要な集団まで遡ることができる。これらの集団の起源として書かれ た年は、系図学か、一人の首長の平均の統治期間を 20 年とした首長の一覧から算出している。これらの集団は、 1. クヮテン族・ンホロハ族・ボラオングウェ族を含んだカラハリ族。カラハリ族は、カラハリ砂漠の縁に最初に住ん だ人たちと信じられている。 39 2. 3. 4. 5. ロロン族を含んだ南部ツワナ族。この統治者は 12 世紀まで遡ることができる。 フルーツェ族とクウェナ族を含んだ西部ツワナ族。この最初の統治者は 13 世紀の初めまで遡ることができる。 ディホヤ族を含むフォケン族(西部ツワナ族から別れたといわれている)。最初の統治者は 12 世紀まで遡れる。 北部・東部トランスヴァールにいるペディ族を含んだカトラ族。彼らの最も初期のものは 1400 年頃である。カト ラ族によると、彼らは一度フルーツェ族やクウェナ族と合流したという。 伝承によると、14 世紀までにこれらの集団はしっかり区別されるようになった。しばしば、集団の名前は優秀な指導 者の名前を取った。ロロン族によるとその名前は 1300 年頃のモロロンからとったという。 西部ツワナ人はマシーロと呼ばれる首長に統治されていたことがあった。1400 年頃ある集団が彼から別れ、タロ族と 呼ばれるようになった。後に、おそらく 1500 年頃まで西部ツワナ人はマロペに統治された。1 つの物語として、マロ ペにはその第一の家に息子がおらずモフルーツェという娘だけで、第二の家にはクウェナという息子がいた。娘に統治 者になってもらいたいものもおれば、男だけが統治できるというものもいた。集団は別れ、モフルーツェに従うものた ちがフルーツェ族と呼ばれ、クウェナに従うものがクウェナ族と呼ばれた。後にクウェナ族はさらにわかれ、一部は現 在のレソトに行った。 それぞれの部族はその歴史を持っており、しばしばかなりの時間を遡る。普通これらの歴史は、分裂、新しい部族の 発生、大きな旱魃、移民、戦争といった共通の出来事を記録している。しばしば、一つの部族が描いている歴史は他の 部族でも描かれている。しかしながら、これらの出来事を違ったように描いているかも知れず、違った時期になってい るかもしれない。そのようなものの一つの例として、クウェナ・ングワト・ングワケーツェの話がある。彼らは兄弟だ といわれているが、ングワト族の歴史によるとングワトはクウェナやングワケーツェの伝統で信じられているよりも少 なくとも 100 年前には生きていたという。 これらの歴史によると、一つの集団が大きすぎて一人の人間で統治することができなくなると、彼らは小さな集団に 分かれたという。それぞれの部族は他とはわかれているが、その統治者たちはお互い結婚や血縁によって結びついてい る。おそらくこれらの分裂は人々が一つの共同体に属しているのではなく、弱い政治組織を作りながら広がっていった からだろう。 初期の生活習慣と最初のボツワナへの動き 私たちは最初のカラハリ族とツワナ人は、 とても広い土地に広がって小さなゆるい共同体をなしていたと考えている。 彼らは、とても近接した二つの姉妹言語の方言を話していた。これらの方言は、今のツワナ語・カラハリ語・ソト語の さまざまな方言よりも近かったかもしれない。ある集団からきた人は、他の集団の方言を簡単に理解できただろう。時 が経つにつれて、人々は広がり、方言はお互いより違うようになった。 おそらくこれらの人々の習慣の間にはたくさんの類似点があっただろう。たとえば、つい最近まで、カラハリ族・ツ ワナ族・ソト族はみな成人儀式・いとこどうしの結婚・長男による父の最も重要な家の相続、を行っていた。これらの 類似性は、これらの人々が今よりもずっとお互い協力し合っていた 500 年かそれ以上遡らなければならない。これは、 婚資や牛の貸借、そして区といったほかの制度もまたとても古いことを示唆している。しかしながら、これらの習慣は 現在のものと全く同じだとはいえない。習慣もまた、時間と人々が住んだ環境によって変わるからだ。 伝承が統治者の家系を 700 年にわたって描いているという事実は、初期の段階で集団は既に強い政治単位として組織 されていたと言う事を教えてくれる。私たちは、どのように支配者家族が力を持ち、部族として発展したさまざまな集 団に管理を及ぼすことになったかを知らない。私たちは、彼らが、採掘や鉄加工・牛の放牧・東海岸との交易を通して 豊かになったと推測しなければならない。 習慣は変わるけれども、初期のツワナ族やカラハリ族はおそらく今とそんなに変わらない習慣を保ってきたと私たち は推測することができる。主な違いは、共同体は今よりもずっと小さく、誰にも属さない土地が多くあったため、集団 が動き回ることがより簡単だったことだ。 私たちは、初期鉄器時代の間に南アフリカから現在のボツワナの東部にかけて、人口が増加したと考える。エイラン ド型の土器を作った人々は西に広がり、11 世紀には南東部ボツワナに入り、ハボロネ・ロバツェ・モチュディ・モレポ ローレの地域に住んだ。彼らは、主に山羊と少しの牛といった家畜を放牧し、作物を生産し、狩をし、野生食物を集め た。彼らの中にはとても成功するものがおり、ハボロネの近くのモリツァーネ・オーディの近くのレンツェラオーディ・ モレポローレを越えたディテジュワネといった丘に村を作った。 私たちは、初期のツワナ族とカラハリ族にはどこかでつながっていたことを知っている。カラハリ語はソト語やツワ ナ語と同じように独立した言葉だったが、同じ言語集団に属していた。また、彼らの政治組織・部族会議制度・婚資・ 家畜の貸借・年齢階梯部隊は全て似ていた。伝承によれば、長い間、ツワナ族とカラハリ族は一緒に住んでいたか、お 互い近くに住んでいた。 私たちは、当時の全てのツワナ族は、普通トランスヴァールとして知られている地域、主に今のプレトリアの周りの 40 高地草原地帯、に住んでいたが、ツェールストまで西に住むものもいた。私たちはそれがどれくらいの数だったかは知 らないが、約 10 万人いたかもしれない。 14 世紀の後半までに、人口の増加に伴い、ツワナ族の先祖の集団のいくらかは、カラハリ族を追い、ボツワナに入り はじめた。南西部では、ハボロネの西で彼らはカラハリ族に混じって暮らし始めた。ペディ族の先祖の小さな集団は、 西に向かいモトーツェ川に沿って住んだ。 ツワナ族とカラハリ族の形成 私たちは、カラハリ族の形成に付いてほとんど知らない。私たちは現在のカラハリ族がカラハリ語の方言のンホロハ 語・ボラオングウェ語・カワテン語を話していることを知っている。彼らには、マツェン地域まで西へその臣民を連れ ていったモンホロハのような力のある指導者がいた。おそらくカラハリ族の発展はツワナ人のそれと似たものだろう。 多くの人々がツワナ族はいつも大きな村に住んでいたと信じているが、これは正しくない。雨の具合がよく、牛と人 間両方の食料が豊富にあるときはツワナ族、そしておそらくカラハリ族は大きな集団を形成した。しかし旱魃が起きる と、彼らはより小さな集団になった。例えば、1550 年頃、カボがトランスヴァールの主部族からわかれ、何人かのクウ ェナ族を連れて西へ行き、ディテジュワネの近くに住んだ。彼らはおそらくほんのわずかな家族で構成されていたが、 50 年以内にその数は 1000 人を超えた。 これがツワナ族の歴史である。すなわち、集団が別れ、他の集団が合流した。集団が別れることは分裂と呼ばれ、集 団が一緒になることは融合と呼ばれた。この分裂と融合の過程により、集団は絶え間なく新しい土地を探し、そこで現 在の集団から別れて暮らそうとし、そうしてツワナ族は南部アフリカの広い地域に広がった。 そのような集団、もしくは初期部族の大きさは、おそらく多くのことによった。旱魃は分裂の大きな原因の一つだっ た。生存は難しくなり、統治者は非難された。支配者の兄弟と若い息子が支持者を集め現在の集団からわかれた。新し い土地で自分たちの部族を作るかよりよい集団に合流するかどちらかのためだった。これらの集団は、旱魃や家畜を盗 む他の集団の襲撃により、牛を失っていたに違いない。多くの牛の支配者は、ほとんど牛のいない集団が合流するのに 魅力的だった。 集団が一箇所に長い間住むことは、放牧・作物の栽培とやぶの伐採・地表の水の枯渇を通して土地の酷使となった。 これが起こると、集団は新しい牧草地と水を求めて移動しなければならなかった。おそらくカラハリ族が約 900 年前に 最初にトランスヴァールを出ただろう。彼らはツワナ族のように強くもよく組織もされていないからだ。 最初のツワナ族部族 ロロン族が、創設者または最初の族長としてのモロロンのもとで設立されたのは 14 世紀以前のことだった。モロロ ンは、その名前を”徐々に進むライオンの行動”を意味する言葉から取ったかもしれない。彼の息子は鎚を意味するノト と呼ばれた。ロロン族の象徴は鉄である。これにより、その家族は採鉱や鉄加工によって重要になったのかもしれない ことがわかる。彼らは、他の集団のように高地草原帯の故郷から拡大して、南西に動いたと考えられる。 このほかの集団はモハレ族長のもとで 13 世紀のどこかで始まった。この集団はフルーツェ族・クウェナ族(ングワケ ーツェ族・ングワト族を含む)・タロ族・カトラ族・そしていくらかのペディ族の先祖を含んでいた。それは時にはフォ フ族連合体と呼ばれた。彼らは西部トランスヴァールのマリコ川(マディクェ)とクロコダイル川(オーディ)の間の地に住 んだ。 南部アフリカには 14 世紀に厳しい旱魃があり、多くの人々が動く原因となった。旱魃はおそらく弱いものを分割し、 強いものを強くする効果を持った。他の部族が合流したので部族の中には大変強くなるものがあった。そして強さはも っとはっきりと認識されるようになった。 これが形成期だった。やがて、彼らは別れたり合流したりして多くの違った結びつきを作ったが、歴史的集団や王家 の一族は形成された。おそらく連合体はかなりゆるく、小さな集団はかなり広い地域に分布し、彼らの間に一つの支配 的集団がいた。大きさと富で集団が成長すると、彼らは支配的集団から独立するようになった。フォフ族連合体は 15 世紀にはクウェナ族とフルーツェ族にわかれ、後にクウェナ族はさらにわかれた。私たちはこの分裂について第 15 章 でさらに見る。 41 第 12 章 カランガ族とブトゥア国家 カランガ族とブトゥア国家 この章では、権力の中心としてのグレートジンバブエの終焉と、特に今のブラワヨのそばにあったカミを首都とした カランガ族の国であるブトゥアのような後継国家の設立を描く。グレートジンバブエ王国のようにブトゥアはボツワナ まで伸びてきた。 この章で描かれる事件は 500 年以上前の 15 世紀に起こった。彼らについての情報は少なく、少しの伝承、考古学的 発掘、 石造り住居遺跡の測量、 そして東海岸に定着したポルトガル人によって残されたいくらかの筆記記録だけだった。 歴史家は現在の情報の解釈に賛成していないので、ここで語られる話は私たちが今知っている全てを見ており、かなり 正確な絵を描こうとしている。 グレートジンバブエの継承国家 グレートジンバブエの権力の衰退は 1420 年のすぐ後に起こり、1500 年までに主邑は事実上放棄され、そこに住んで いたほとんどの人はどこかへ移動した。 その衰退の理由は確かではないが、それはたくさんの要素の結果であると考えられる。街の周りの土地は放牧・耕作・ 薪収集そして大きな人口集積によって起こった汚染などにより深刻な土壌劣化にあっていたに違いない。野生動物もま た狩猟により姿を消した。これにより、食糧不足が起こり、多くの人を養うことができなくなったこともあり得る。そ のためにまた、 王家の人々が牧草や水そして肥沃な土地といった減りゆく資源を巡って内戦に突入したとも考えられる。 他の要素としては、ザンベジ川のインホンベ・イレディに新しい交易の中心が設立されたこともある。西に住んでいた 金の生産者は金持ちのジンバブエ王に搾取されており、金や象牙を新しい交易センターを使って輸出できれば幸せだっ たようだ。3 つ目の要素は、国が大きくなりすぎて、もはや外延地域の管理ができなくなり、そこで小さな支配者がゆ っくりと独立していったかもしれないことだ。 とにかく、新しい国が現れ始めた。北では、ジンバブエの支配的王朝の支部が現在のジンバブエの北部に当たる地域 で支配を確立した。ムタパ王朝として知られる彼らは、その地域に住んでいたムバラに権力を行使し、1450 年までに重 要な交易拠点であったインホンベ・イレディを含む土地の多くを統治した。 西では、トルワとしても知られるチブンドゥレ王朝が樹立され、今のブラワヨの少し外にあるカミを首都とし、西は スアパンから東はルンディ川まで、南はロツァニー川から北はムパンダマテンガまでの土地を支配した。さらに、力は 少し弱かったけれども、マニカ国として知られる国がサヴェ川の上流に拠点を持ちグレートジンバブエの北東にたちあ がった。 事実上これらの国はグレートジンバブエの後継で、その制度をモデルとして設立された。私たちはその国土がブトゥ アと呼ばれたチブンドゥレ国に注目する。私たちはどこからブトゥアの支配者がきたのか知らない。この王朝は当時の ポルトガル人旅行者にトルワとして知られていた。これは今グレートジンバブエの周りで話されている言葉のカランガ 語で外国人を意味する。 チブンドゥレの家族は、今のブラワヨのそばに住んでおり、グレートジンバブエ国のもとで力を蓄えた地元の首長国 の支配者かもしれない。また彼らはもともとグレートジンバブエからカミに王国の西の統治者として送られてきた王家 の一員かもしれない。いずれにせよ、チブンドゥレ家はシャシェ川の上流を含むカミの周りの金鉱の豊かな土地を支配 した。 チブンドゥレ家は 15 世紀までにとても強力に成長したに違いない。グレートジンバブエを通して交易するかわりに 彼らは、北のザンベジ峡谷のインホンベ・イレディを通して交易し始めた。グレートジンバブエはそれゆえ豊かな西地 区から東海岸へ向かう金・銅・象牙・毛皮の交易に対する支配を失った。交易するものが何もなく、大きな都市人口を 扶養しなければならなかったので、グレートジンバブエの支配者たちはその支配力を失い、彼らの国は崩壊した。 このようにして、ブトゥアの国はうちたてられ、1840 年に滅亡するまで 400 年間続いた。この期間中、それは南部 アフリカでもっとも強力な国に成長した。初期ブトゥアの人々がカランガ族とくにリリマ族の先祖であり、彼らがマン ボの人たちからあらわれたという説には少し疑義がある。現在この地域に住んでいる人々で、ほぼ 1000 年もそのルー ツをたどれるものは他にいない。 さまざまな面でブトゥアはグレートジンバブエ国家の継続だった。全ての国はカミからきたチブンドゥラの王に統治 された。一般の人々は、農作物を育てたり、家畜を育てたり、野生の食物を集めたりして、昔と同じように自給してい た。支配していた王朝は国中に地区知事をおいた。彼らは、しばしば飾りのついた石壁を持つ格の高い村に住む豊かな エリートで、その地域の交易と貢納を管理した。特に知事は鉱業と狩猟の促進に、そして金・銅・鉄・象牙・毛皮をカ ミに流通させる責任を持っていた。カミでは余ったものが東海岸への北の道を通って交易されていた。 チブンドゥレの支配者は近しく編まれた社会で、彼らの中だけで結婚し、普通の人たちからははるかに高い位置を維 持していると信じられている。 42 彼らの厚く造られた土の壁をもった壮大な家は、しばしば岩の露出や丘の頂上に見られ、彼らよりも前のグレートジ ンバブエのように、手の込んだ石の壁に囲まれ、ときどき石の列が並べられ杉綾模様やチェック模様で飾られていた。 囲いの中では、家と庭は時々トンネルの入り口に覆われた演台の上に置かれていた。この豪華さの目的は、社会状況と 政治的地位を強調するためであった。 これらの統治者はあらゆる意味で裕福だった。彼らの衣類は黒や暗い青に染められており、そして時には刺繍された 絹すらも着ていた。彼らは地元で作られた銅や金や鉄の宝石と同じく、ガラスのビーズや貝殻といったものからできた 宝石も持っていた。彼らはときには中国からの陶器の椀やペルシャからのガラス用品も持っていた。彼らの土のビール ポットですら赤や黒の模様をつけ、地元で作られたどんな陶器とも異なっていた。 彼らはかなり豪華に生活し、おそらく、彼らの家を建てたり維持したり、牛を放牧したり、水を運んだり、食べ物を 育てたりするのにたくさんの召使がいただろう。 男たちは彼らの家に隣接していた特別会議場で多くの時間を費やし、一方でその妻たちは支配者の家のすこし下にあ る豪華さの少し劣る家に住んでいた。社会は高度に階層化されており、チブンドゥレ王朝が一番上で彼らに関係した地 区知事がすぐ下におり、彼らの下には一般の人たちがおり、族長と村長がいる自分たちの制度を持っていた。残念なが ら、私たちは社会の違った階層間の関係を知らない。しかし私たちは、地元の族長や村長はほとんどの地場の事件を扱 い、地区知事を通してカミにいる(マンボと呼ばれた)チブンドゥレの王に納められる貢納を管理していたのではないか とうすうす思っている。カミからは余剰が海岸部に輸出された。同じように余剰の輸入商品はカミから地区知事に分配 され、知事はそれを族長や村長に割合に応じて渡し、彼らはそれを自分たちの臣民に分けたかもしれない。この貢納が 報復の恐れからなのか、 そこからの保護を確保するためなのか、 親切な統治に対するお礼のためなのか定かではないが、 これらの全ての要素が理由の一部となっているだろう。 ブトゥアの家の遺跡は東ボツワナの多くの場所で見つかっている。一番良く知られているのは、ドンボシャバ(ンカラ カマテのそば)・ヴクウェ・マジョジョ(セルレのそば)・オールドタチ(シャシェ川とタチ川の合流点)であり、モトロー ツェからトランスヴァールへ西はマカディカディパンの真中にあるンテェテェまで他にも多く存在している。 最近 2 つの村の複合体が注目されている:ポロメッツェのそばのシャシェ川と、マディナレの西のモトーツェ川であ る。ポロメツェでは、1400 年から 1700 年頃のおよそ 100 の住居遺跡がある。いくらかの住居はとても大きく、もっと も大きなもので直径 70m 以上の 3 つ以上で構成される中央家畜柵があり、300 にも上る石の穀倉庫で囲まれていた。 これらの大きな村の周りには、良い土壌のそばにもっと小さな村が点在している。村の複合体は、それぞれが家畜や農 作物を裕福に持ち、それぞれがブトゥア国の一部をなしていた小さな首長国を形成していたかもしれない。それらのそ ばには地区知事の住んでいた石壁住居の遺跡がある。おそらくそれらの村は、カミに穀物やもしかしたらわずかな牛の 群を提供し、かわりに良い政治と隣接する首長国からの保護を受け取った。 ブトゥアの村の遺跡で見つかった多くの陶器は、壷にしろ椀にしろ、赤や黒の紐や掘られた線によって分けられた板 で飾り付けられていた。この陶器の飾りつけはジンバブエの陶芸から発展したもので、それは黒でだけ飾り付けられ、 赤い板はなかった。歴史家の中には、カミの陶芸は伝統的なジンバブエの様式と、新しいトランスヴァールからきたモ ロコ型の混合であると信じるものもいる。ペディ族の伝承によるとリンポポ川を越え西に彼らの国が徐々に拡大したと いう。最初のペディ族の移民はブトゥアの南部地域に 15 世紀までに到着していたかもしれない。 チブンドゥレ王朝は、最初は、彼らの首都から人々が逃げ出すことに対して何もしていなかったと信じられている。 大きな主邑の一般人住居の方式は、上で描かれているように、低い社会階層という考え方を支持して作られている傾向 にあり、特に最も近いエリートの石壁づくりの家からは東西 10 キロ程度離れていた。しかしながら、時が経つにつれ て、一般人は王朝の人と結婚するようになったと信じられている。同時に金が少なくなり、旱魃が襲った。1650 年まで に王朝の権力は減退した。1670 年頃ポルトガル人の記録によると、廃位されたマンボを復位させるために、どれほどポ ルトガル人の開拓移民が内戦に関与したかが描かれている。いずれにしても、1790 年までにチブンドゥレ朝はおそらく 戦争なしに追い出され、新しい支配者が取って代わった。 第 10 章で私たちは、どのようにヒョウの小山の人々が、トランスヴァールを出てリンポポ川を渡り北や西に動き、 今の北東部ボツワナや南西部ジンバブエに住んだかを見てきた。彼らはジンバブエを通って北へ拡大し続け、多くの土 地に住んだ。ヒョウの小山の人々がマプンフブエ、グレートジンバブエそして最後にはブトゥア国のもとになったのは 何の疑いもなく、彼らはカランガ語を含んだショナ語のもとになる言語を話していたに違いない。 ブトゥアの国が一度は土地を支配していた西で話されていたのはカランガ語であり、ブトゥアのもともとの住人はカ ランガ語の古い方言を話していたことに疑いはないだろう。このようにして、カランガ族は約 1000 年前までその歴史 を遡ることができ、その当時彼らはシャシェ川の上流に住み、その地域で金や銅の鉱山を開発していた。 43 第 13 章 南部地域 1400~ 1400~1700 年 この章ではツワナ族とカラハリ族が西に拡大した、長い期間を描く。同時にクウェナ族やロロン族は、彼らが以前よ りももっとお互いが分かれたために、はっきりと定義されるようになった。 私たちは、なぜそれらの拡大が起こったのかは明確にはできないが、人口の増加や、牛の放牧・農地耕作・野生植物 の採集や狩猟によって住んでいる土地の劣化が起こったと推測できる。 最初の移動 1400~ 1400~1500 年 1400 年から 1500 年の間、いくつかの人々の大きな動きがおこった。全てのソト-ツワナ集団は、東はプレトリアか ら、西はカラハリまで、北はマディクワ川とオーディ川の交差点から、南はヴァール川まで広がった。それぞれの小集 団はまだ中央の権力と支配者の系列を認識していたが、大きな集団は壊れ始めた。 ロロン族が南西に移動した時、彼らはカラハリ族の集団の住む土地に住んだ。これらのカラハリ族は明らかにツワナ 族ととてもよく似た生活スタイルを持っていた。彼らは牛や山羊を持ち、ソルガムやミレットといった作物を育て、狩 をし、野生食物を採集した。彼らは、長い間ロロン族の交易相手で、毛皮やおそらく鏡鉄鉱を鉄の道具や銅の宝石と交 換してきたと考えられている。ロロン族はそれらのカラハリ族を自分たちの部族に吸収しようとし、ロロン人の王であ るモクヮテンを彼らを支配させるためにおいた。こうして、多くのカラハリ族がクヮテン族と呼ばれるようになった。 クヮテン族はロロン族から逃げ始めようとした。北へ向かい、彼らの親類であるモレポローレ地域に住んでいたナケ ディ族に合流するものもいた。モロポ川からその南に住んでいたボラオングウェ族は西へ動きはじめウェーダのそばに 住んだ。彼らはすぐに分裂し、モンホローヘのそばの一部集団は移動しマブアセフベに住む一方で、他の集団はモロポ 川まで戻りずっと東まで行き、最後にはレソトのそばに住んだ。 フォフ族連合体の解体 1500~ 1500~1700 年 16 世紀の間、フォフ族連合体は解体しいくつかの重要な集団に分かれ、それらの多くは後にボツワナに入ってきた。 徐々に増える人口、減少する土地の生産性、主に牛である富の増加、そして旱魃といったことが、おそらく引き続く 解体や分裂の主な原因であっただろう。伝承では、牛や耕作地の世話、慣れたバブーンの所有権すらを巡っての継承権 の議論を実際の原因として記録している。しかし、後の理由はおそらく不満に点火されたただの火花であり、その結果 として大きな集団の解体が起こった。分裂が起きたとき、力のある集団はしばしば自立することができた。より弱い集 団は過去に関係していたかもしれない他の集団に合流した。そのような連合はしばしば失敗し、新しい分裂の原因とな り、小さな集団はときどき親集団に戻っていった。 15 世紀の終わりに向かって、 連合は弱体化した。 最初にタロ族が連合から分離した。 彼らは遠くには離れなかったが、 もはやモハレの息子たちを自分たちの支配者だとは認めなかった。モカトラが創始者である別の集団もまた分離し北へ 移動し、最初は関係のあったペディ族のもとに住み、後には自分たちだけで住んだ。 1500 年頃、残ったマロペのもとのフォフ族は、マジャナマツヮーネのそばのリンポポ川上流域に住んだ。彼らは川の 谷に沿って、まだ一人の支配者に貢納していたけれども、いくつかの区別できる集団として広がったに違いない。 マロペは二人の相続人を二つの家に住ませたといわれる。娘のモフルーツェを第一の家に、息子のクウェナを第二の 家に住ませた。マロペの死によってフォフ族は分裂した。モフルーツェに従った小さな集団は南へ向かいロロン族と一 緒に住み、一方でクウェナに従った別の集団は西へ向かい現在のリュシュテンブルグに住み、クウェナ族になった。 1530 年頃クウェナ族は分裂した。彼らの多くは南へ向かいヴァール川を渡り、最後にはオレンジ自由州とレソトに住 んだ。一方で残りのングワケーツェ族やングワト族を含んだ人たちは西へ向かった。 16 世紀の間部族は大きくなっては分裂しつづけた。カトラ族は分裂し、一部は南のヴァール川に向かいトロカ族にな った一方で、 主部族は北のペディ族のそばに住みつづけた。 フルーツェ族はモフルーツェの息子のもとで再統一したが、 すぐに議論が起こり再分裂し、大きな集団は西へ向かいツェールストの北に住んだ。 17 世紀の間に伝承にまだ残っているような大きな旱魃が起こった。食料は希少になり、牛は死に、部族は解体し、家 もなくなった。ロロン族の中にはシャシェ川まで北上したものもおり、一方では西に向かい南部カラハリを通り抜けナ ミビアに入ったものもいた。若い息子のプドゥフツワナは族長の座を父のツェセベから取り上げ、ヴァール川とハーツ 川の合流点であるディカトンに住んだ。 飢饉はとてもひどかったので、 彼らはその隣人であるナマ-コイ族のまねをし、 魚をとって食べることを強いられたそのときから、彼らはタピン族(魚を食べる人たち)として知られるようになった。 彼らは親の部族とわかれたとしてもツェセベを族長だと認識し彼に貢納した。 この旱魃の間にクウェナ族の間で他の分裂が起こった。その当時彼らはモホパ族長のもとでマディクェ川のそばに住 んでいた。彼らは川を下り、今のブフェルスドリフトからそれほど遠くないラタンテンに大きな村をつくった。この部 44 族は、自立していたとはいえングワケーツェ族とングワト族を含んでいた。 1650 年頃のどこかで、モホパは旱魃が終わったことを聞き、マジャナマツヮーネのそばにある自分たちの家に戻るこ とを決めた。彼の若い息子のカボは、一旦そこに残り、その後にモホパに従った。 モホパが去ると、カボと 10 を越えないクウェナ族の家族は今のボツワナに入り、ナケディ族、ファレン族を含んだ クヮテン族が既に住んでいたモレポローレの少し西のディテジャネという丘陵地に住んだ。ボラオングェ族といったほ かのカラハリ族もその地域に住んでいた。彼らの到着のすぐ後に彼らはングワケーツェ族やングワト族をおそらく含ん だ他のクウェナ族と合流した。 より多くのツワナ族部族がカラハリ族の住んでいた土地に入ってきた。彼らは住むにつれてカラハリ族を自分の部族 に編入しようとした。うまくいくこともあったが、そうでないときはカラハリ族が逃げて新しい場所に住んだ。 現在、セロウェの西、ボテチ川、クウェーベ丘、シャカウェにいたるまでのオカヴァンゴの西側といった所にカラハ リ族は住んでいる。これらのほとんどのカラハリ族は、自分たちはいつもそこに住んでおり、ンホロハ族やファレン族 のような大きな集団には属していないという。彼らの起源は確かではないが、少なくとも 300 年以上その地域に住んで いたことは間違いなく、ツワナ族が最初に南東ボツワナに入ってきたときにカラハリに押し出されてきたとても初期の 動きの残りかもしれない。 17 世紀から 18 世紀の初期の間により多くの旱魃がどこか他の所で起こった。ノトワネ川の東に広がるツワナ人の伝 統的な土地は、肥沃ではなくなりはじめ、人口は増大した。1700 年までにツワナ人は過去に持っていたよりもより広い 土地を占拠した。 18 世紀の中頃ツワナ人部族に多くの分裂があった。これらの分裂と部族への影響で、現在のツワナ族国家のほとんど の核もしくは親集団が形成された。17 世紀の間に、リュシュテンブルグの近くに住んでいたカトラ族は分裂した。最初 にタバネのもとの大きな集団が北へ去った。それから彼の兄のモハレに率いられた残りの人たちは東の、今のプレトリ アの北に当たる場所に動いた。モハレの息子のマツェへは 1650 年頃になくなったのだが、第一の家に娘を、第二の家 に息子を残した。カトラ族の中には、娘のモセタに従う者もいれば、息子のカフェラに従う者もいた。現在ではカフェ ラのカトラ族として知られる後者はおもにモチュディに住んでいる。もう 1 つの集団では、最初はラモツヮの南東に住 んでいたが既にその村を西に移していた。この集団はマナーナのカトラ族と呼ばれ、その主な村は現在のモシュパ・タ マハ・そしてカンエのハマフィカナ地区である。 少し早く、それほど重要でない分離がモロポの南で起こった。マホクウェに住んでいたロロン族の一団は北へ向かっ た。ロロン族は「彼らはいくことができる」といい、それがカ族の名前の由来となった。 フルーツェ族もまた分裂した。1 つの集団はショションまで北西にいき、クルーツェ族として知られるようになった。 後に彼らは再び分裂しシャシェ川まで北上した。 この同じ時期に、 ングワケーツェ族とングワト族もクウェナ族から別れた。 ングワケーツェ族は南東へ向かう一方で、 ングワト族は、最初東へ、それから北へ向かった。 しばしばこれらの小さな集団は一緒になった。しかしそれは長く続かなかった。短い間カ族は最初クウェナ族と、そ れからクルーツェ族と一緒に住んだが、すぐにそれぞれの小集団は独立を求め始め自分たちの道を行った。 このようにして、ツワナ人とカラハリ族は西へ北へと広がり始め、実質的に現在のボツワナの全ての土地を支配した 1880 年まで続く植民の過程を始めた。 1500~1700 の 主なツワナ人部族の 動き 45 第 14 章 1700 年から 1800 年の間のカラハリ族 1700 年までに多くの新しい変化が起こった。第 16 章で見るように、ブトゥアのカランガ族王国の首都カミは、もと もとは東からきたヴァロジとして知られる人たちに、内部からの不意打ちによって乗っ取られた。新しい首都は、カミ の少なくとも 60km は北西にあり、現在のボツワナ国境からは遠く離れていたダナンホンベにおかれた。 ツワナ族はボツワナ南西部ではよく定着し、おそらく南ではオレンジ川、北ではボテチ川、東では現在のスワジラン ドとの国境にまたがって交易をしていた。 カラハリ族はまたカラハリ砂漠へも拡大していった。そこで、彼らはマツェンにあるパンのそばにすみ、一部の人た ちは北へ向かいハンツィ丘陵にある固くて水の便の良い土地に住み、クウェーベ丘まで北に住んだだろう。 300 年前、多くの人たちはよく移動をした。彼らは自分の家から 400km も離れた親類を訪れた。彼らはまた交易を するために離れた場所まで旅をした。ングワケーツェ族やロロン族は、ナマ-コイ族と銅や象牙製品を交易するために オレンジ川まで旅をした。ナマ-コイ族は、コトゥ族と呼ばれ、彼らからは羊も得ていた。 クウェナ族ははるばるンガミ湖まで行き狩をした。彼らは、水を見つけられ、人々が友好的である道筋を知っていた。 彼らはまた、水がなかったり住民が敵意を持っていたりして、避けるべき地域も知っていた。 彼らは地図を持っていなかったが、遠くまで旅をした。少なくとも 1 人のツワナ人は 1700 年より前に東海岸に到達 しており、海や、ダウ船に乗り象牙と衣類やビーズを交換している人々を見ていた。 1700 年からは、私たちは重要な伝承を利用できる。現在でさえ、1700 年以前にさかのぼって自分たちの集団の長を 読み上げることができる。多くの強い線が出来上がり、人々はおそらく現在理解できる言葉を話す集団に分かれた。彼 らはまた、私たちが簡単に理解できる習慣を実践した。過去 300 年の私たちの知識はその前よりもずっと正確だ。それ ゆえに私たちは人々が生きた場所や時、その支配者がいつなくなったかをより正確に知ることができる。 カラハリ族 ボツワナでは、彼らが誰なのか本当に認識することなく多くの人々をカラハリ族と呼んでいる。例えば、リュシュテ ンブルグや中央トランスヴァールに住んでいるツワナ族がボツワナのツワナ族をカラハリ族と呼んでいるのを知ってい ただろうか?この名前はカラハリ砂漠に住んでいるという理由で多くの異なった人々に与えられた。実際には、それぞ れの集団は自分たちの名前を持ち、言葉や習慣や歴史を持っていた。 現在ではカラハリ族には 5 つの主要な集団がある。クヮテン族・ボラオングウェ族・ンホロハ族・ファレン族・シャ ハ族である。最初の4つの部族は共通の起源に先祖を遡ることができる。シャハ族は、もともとタピン族・タロ族・ロ ロン族とともに住んでいたが、19 世紀のはじめにカラハリに逃げ出した。彼らはボラオングウェ族に合流しその習慣や 方言を適応させた。彼らは南部のツワナ人とともに住んでいたボラオングウェ族の生き残りだと言うこともできる。 考古学であきらかにされた歴史と違っているが、クヮテン族やンホロハ族の記憶による歴史によれば、彼らは 1300 年頃現在の南アフリカの北西州のどこかでロロン族やカ族と一緒に、もしくは近くで住んでいたという。彼らが共通の 先祖を持っていたかどうかは定かでないが、彼らが同じ地域で住んでいたことはわかっている。クヮテン族は 1450 年 頃(カ族と同じ頃)ロロン族からわかれた。彼らは 1500 年より前にモレポローレに住んでいたといい、その時にはカ族と わかれてすんでいたという。 ンホロハ族は 1550 年頃ロロン族からわかれ、モロポ川にそって西へ動いた。マブアセフベのそばのどこかで彼らは わかれた。父のモンホローのもとの集団は北へ向かいマツェンに住んだ。その息子のンボラウェのもとの集団はマブア セフベに残り、ボラオングウェとして知られるようになった。 ファレン族は、クヮテン族の分派と考えており、彼らがモレポローレに住んでいる間にわかれたと考えている。彼ら は北へ動きショションに住んだ。 初期の記憶の歴史では、日付もはっきりとわからず、事件の起こった場所についても時々あいまいである。ロロン族 とカ族が 1300 年よりかなり前から南西トランスヴァールに住んでいたことは、おおいにありうることだ。記憶による 歴史は、実際に過ぎたよりも時間を短縮したかもしれない。もっと正確にするためには、記憶による歴史を考古学から 得られた情報と比較しなければならない。 モンホローヘのもとのンホロハ族はマツェン地域のフクンツィの周りのパンの集まりや東はカンにいたるまでの所に 住んだ。彼らは直後に再びわかれ、小さな集団は北上を続けハンツィに至り最後にはクウェベ丘に至った。彼らは 1750 年にイェイ族にそこで見つかった。 ボラオングウェ族はマブアセフベに約 100 年間住んでいたが、それから分裂した。一つの集団はハイエナをトーテム にしていたのだが、ディテジュワネへいきクヮテン族に合流した。他の集団は来た道を戻っていった。彼らはもとの土 地を通りすぎ、さらに東へ行きレソトの西の地域にたどり着いた。 ときどき、私たちは、カラハリ族がそんなに遠い昔にどうやって砂漠を越える道を見つけたのか不思議に思う。ボテ 46 チ川やオカヴァンゴに住んでいたカラハリ族がおり、彼らはずっとそこに住んできたという。おそらくカラハリ族は 1000 年以上にわたってカラハリにすみつづけ、 1500 年頃にンホロハ族やボラオングウェ族が砂漠に広がってきたとき、 彼らは実際には単に、おそらくそこに何百年も住み続け、彼らがいつも連絡を取ってきた親類たちの小さな集団に合流 しただけであった。 カラハリ族の生活 なぜクヮテン族のような人々が東に残り、ンホロハ族のような人たちが西に動いたのかを理解するために、これらの 人々がどのように生活していたのかを知ることは重要である。クヮテン族はソルガム・メロン・豆といった作物を育て、 牛、羊、山羊といった家畜を少し持っていた。彼らの社会組織はツワナ族のものととても良く似ていた。彼らには族長 がおり、石でできた壁を持つ主邑があり、少年少女のための成人の仕組があり、年齢階梯部隊が編成されていた。 彼らのほとんど全てのやり方が初期ツワナ族に似ていたに違いない。彼らは食料のための作物を必要とし、それらを 育てることのできる地域の外へ出ていくことはできなかった。 これは彼らがカラハリ砂漠の中深くに入っていくことが、 不可能ではないにしろ難しいということを意味した。雨量は、良い作物を育てるには充分でなかったに違いない。また、 彼らは鉄を採掘し加工した。彼らは鉄塊を砂漠の中では見つけられなかったに違いない。 一方で、ンホロハ族やボラオングウェ族は羊飼いだった。彼らは羊や山羊の大きな群や、もしかしたら少数の牛の群 を持っていた。彼らは作物を育てたがそれはそれほど重要ではなかった。なぜなら彼らは狩りや野生植物の採集でほと んどの食物を得ていたからだ。彼らはまた、鉄を探すことはできなかったが、ロロン族のような人々とそれを交易した。 カラハリ砂漠にすむことは、これらの人たちにとっては簡単だった。乾季には彼らは水や良い牧草地を探してパンか らパンへ群を移動できた。夏の雨の間、彼らはわずかなメロンや豆を育てるために一箇所にとどまった。 彼らはツワナ族と似たような習慣を持っていたが、彼らの社会はもっと緩やかに組織されていた。族長の若い弟たち はいつも彼らの地区を持ち、主の部族から離れていった。カラハリの環境は大きなグループよりも小グループに向いて おり、人々はそれにあわせてきた。 私たちは、ツワナ族とカラハリ族の初期に存在していた関係についてよくは知らない。私たちは、クウェナ族が最初 にディテジュヮネに移動し、 そこにいたカラハリ族の一派であるナケディ族と戦ったときにそれを知る。 伝承によれば、 ツワナ族が移動して、彼らが住もうと思った土地にカラハリ族の集団を見つけたとき、ツワナ族は普通カラハリ族を自 分たちの部族に編入しようとした。彼らはカラハリ族の女性と第二・第三の妻として結婚し、他のものを狩人や召使と して使った。 通例カラハリ族は、家畜や自由を新しい主人によって奪われた。彼らはしばしば、ツワナ族がまずはついてこられな い西の新しい地域に逃げ出した。多くのクヮテン族が 18 世紀の後半にクウェナ族から逃れてレタケンに移った。おそ らくンホロハ族は、ロロン族がマシェンやハンツィに 16 世紀と 17 世紀に移動したとき、彼らから逃げ出そうとした。 彼らは一時的には逃げ出したけれども、ツワナ人は結局彼らを探しだした。 このようにしてカラハリ族は過去 600 年にわたってばらばらになり、ボツワナの多くの地域に広がった。 カラハリ族の 移動の様子 47 第 15 章 ディファカーネ前のツワナ人の生活様式 異なったツワナ人の集団の生活習慣はおそらくかなり違っている。湿った地域では人々は作物を育てることができ、 一方乾いた地域では彼らはより狩りや野生食物集めに頼り、野生動物を追いかけたり、熟した果物を探したりして動い た。そのような状況は牛の生育には好ましかったが、作物生産には向かなかった。 ツワナ人は東では高地に住み(カトラ族・フルーツェ族・トロクヮ族・モホパのクウェナ族)、雨がとても少ないとき 以外は良い作物を育てた。彼らは野生植物を集め、狩りの集団を時には何ヶ月もの間送り出した。彼らは大きい家に住 み、1500 年以後は石の壁も建てるようになった。 南に住むツワナ人(ロロン族・ターロ族・タピン族)もまた作物育成に頼っていたが、東の隣人がしていたよりももっ と狩りに時間を割いていた。 西のツワナ人(カボのクウェナ族・ングワケーツェ族・ングワト族、タワナ族)は、狩りや、豆やメロンそしてときに はソルガムやミレットといった早く育つわずかな作物を作り、野生植物を集めた。彼らの狩場はとても離れていた。ン グワト族はメツェモターベ川のそばに住んでいたが、セロウェの近くの丘陵地帯で狩りをした。1795 年までに、タワナ 族がングワト族から分れたとき、クウェナ族はンガミ湖まで北西にいって狩りをしていた。それぞれの集団や部族は、 儀式以外は他の部族から独立していた。族長は集団の長であり、法については他のどの指導者も彼に従った。ただ儀式 の問題だけ、例えば収穫した最初の果物を取り置くといったことは、彼らが上位者を認識していたことだった。フルー ツェ族の族長の息子は、果物を味わう最初の人間だった。それはフルーツェ族が上位の部族であることを示していた。 この習慣はツワナ人の集団とお互い協力する必要のある集団との歴史的関係を強調していた。 王家の家族から部族の統治者が出て、平民はその地位につくことができなかった。もし統治者が悪ければ、彼の臣民 は、彼の親類の一人を皆の反対があるまで担ぎ出す傾向にあった。それから部族は分裂し一つの集団が離れて他の所に 住んだ。 族長は部族にとって体における心臓のようなものだった。彼は部族が生き続けるために命の血を送りつづけた。彼は 全ての事の指導者で、彼なしでは何事もできなかった。彼は雨と健康を彼の臣民にもたらし、軍を強化し、彼らを守っ た。彼は法を執行し、全ての人に正義が行われるよう見ていた。彼は部族の多くの富を持っており、それを必要として いる人が誰もいないよう見ていた。彼は指導者だったが、彼はまた人々の声でもあった。彼は部族会議での議論を主導 し、一般的な意見を積み上げていった。 ツワナ人はいつも牛を飼っていた。おそらく一時はほとんどすべての牛が王族の財産で、平民はもしあったとしても わずかな牛しか持っていなかっただろう。族長は彼の親類に大きな群を持たせることにより、牛の使用を管理した。順 番に、彼らはその家畜をその親類や平民に分けるのを管理した。もし王家の人たちにそむいたら、その家畜を取り上げ られ、誰か他の人に与えられることを、人々は知っていた。この仕組により人々がその指導者に従うことが確実になっ た。ある人が他の人に自分の家畜を使うことを許したとき、彼はより多くの見返りを期待することができた。牛を受け 取った人々は、持ち主のために群れを追い、農業を助け、皮や肉を運び、問題が起きたときに彼を助け、彼のために戦 い、彼の家で家事すらもした。 牛は裕福な人と貧しい人を分けた。牛を持っている人は裕福だった。牛を持っていない人たちは牛の使用権を得るた めに裕福な人に協力しなければならなかった。牛なしに生きることは不可能だった。牛は誕生、成人、結婚などの重要 な祝い事や、 死の儀式に必要であった。 家族や部族の一員に牛を与えることは彼らの間の関係の強さを表すものだった。 牛の屠殺や肉を共同で食べることで人々が幸せに生活することが保たれた。 ツワナ人は牛が家から逃げ出さないようにするのに大変注意深かった。彼らは牛を貸すことはしたが、それを与える ことはしなかった。結婚のときでさえ、婚資として花嫁の両親に与えられた動物は、その家の所有物からを離れていな いと確認した。これは男がそのいとこと結婚したがるという習慣によって行われた。彼は子供がそのいとこと結婚すれ ば妻に与えられた牛は戻って来るということを知っていた。 宗教 ツワナ人は創造主のモディモが究極的には自然界に責任を持っていると信じていた。モディモの下にはたくさんの小 さな神がおり、ティンティバーネのような形のものもいた。他の小さな神は彼らの初期の先祖の魂で、マツィエンのよ うに地上におりた最初の人々であった。普通彼らは地面の穴に組込まれ、時々足跡や動物の跡が岩に彫られていた。 さらに重要な事は、その子孫の生活を見ている先祖の魂である。たくさんの力を持った先祖の魂は、重要な男のそれ であり、特にうまく支配し部族の運営に成功した強い族長のものである。貧しい男や女もまた先祖になった。しかし彼 らに力はほとんどなく、すぐに生活によって忘れられた。 これらの魂は人々が伝統的な法や習慣に従って生きることを確認した。すなわち老人やその権利を尊重し、自己管理 ができ、礼儀正しく親切で、他の財産権を尊重し、部族を支持することである。実際には彼らはその先祖たちが生きて 48 きたと同じように生きていかなければならなかった。権威の無視、泥棒、姦通、嘘、憎悪、魔法などの悪い行動は先祖 の魂を怒らせ、病気、死、あられ、雷、旱魃などで違反者を罰した。 キリスト教と違い、良い事は死によって報いられるわけではない。むしろ、悪は生きている間に罰せられる。何か問 題があると、人々はそれが神様からの罰だと信じた。普通家畜は儀式として殺され、その肉は先祖や人々と良い関係を 結びなおすためにみんなで食べられる。族長は、部族と先祖に直接的な関係を持つ。彼らは先祖に旱魃時の雨や、病気 の時の健康や、戦いや狩の成功や、魔術からの保護を願った。いくつかの方法で、家族の長は自分の先祖に家族の繁栄 を維持するよう願った。宗教は、社会を族長から召使に至るまで管理し、道徳的な行動を確保した。 社会関係 ツワナ人の部族は多くの社会的階層に分かれている。その中心にあり、最も重要なものは、過去をたどり、創設者ま で遡ることができる人たちの存在である。彼らは先祖の象徴か、賞賛された名前で知られていた。クウェナ族とングワ ケーツェ族ではこれはワニであり、ングワト族ではダイカーだった。カトラ族ではサルだった。 これらの人々は支配者階級を形成した。彼らの中で最も重要なのは、族長とその家族だった。彼らとその直接の関係 がある集団は、ツワナ人の創始者であるモハレまで先祖をたどることができた。 次に重要なのは自分の族長の軍隊を破りその部族にやってきた人たちである。彼らの主邑での場所は支配者の近くに 置かれた。 その後にくる人たちはツワナ系以外の人たちである。すなわちビルワ族・ツヮポン族・ンバンデル族・ロジ族・ンデ ベレ族・カランガ族などである。これらの人たちは普通村の端に居住区が置かれるか、首都から離れた別の村で暮らす かだった。 たとえば、クウェナ族の間では、最下層に位置付けられる人たちは、その地位は部族の環境によってそのときどきで 変わったが、普通カラハリ族であった。15~16 世紀の間、クウェナ族が少なく弱かったときには、彼らはカラハリ族を 市民として部族に迎えいれていた。タワナ族も彼らが弱かった 1805 年頃は同じ事をした。他のとき、つまり部族が強 いときは、カラハリ族はとても劣った人々として扱われてきた。 最下層には、ツワナ語でサルワ人と呼ばれたコイサン人がいた。これらの人々は一般的に村から離れて住み、部族の 一員とは見なされなかった。しかしながら、彼らはしばしばツワナ族の家に付き、狩りをしたり、家事をしたり、農業 地を開墾したり、そして時には牛を追ったりした。カラハリ族はよく彼らを奴隷とし、ほとんど金を払わずに働かせ、 彼らに所有を許さず、ときどき彼らの子供たちと関わったり友達になったりしないようにした。 この階層構造があるのは、一つには婚姻のためである。男は普通最初の妻を自分の社会階層の中から選んだ。特に族 長は娘を王家の人と結婚させることにより部族の結束を強化した。普通、ツワナ人は彼自身と同じ社会階層の人と結婚 し、劣る人とはしなかった。しかしながらカーマ三世はその娘をカ族やタラオテ族といったングワト族とは対等ではな いと見られていた王族と結婚させ、部族を強化しようとした。普通ツワナ族はカラハリ族やサルワ人とは結婚しなかっ たが、部族が弱い時には、カラハリ族を二番目の妻として迎えることもあった。普通、その結婚による子供や、カラハ リ族やサルワ人との関係は、召使か、農奴ですらあった。彼らは部族の一員になることはできず、その父のどんな遺産 も相続できなかった。 族長が、部族の全ての財産について最終的な管理を行っていた。財産はほとんどが牛と羊で、いくつかの群をなして おり、時には首都から遠い所にいた。族長は、王族に対しても平民に対してもそれらの財産を部族のメンバーに与える 権力を持っていた。この制度は、族長が大量の家畜を管理していたので、はっきりと違った社会的階層が支配的だった ことを表している。彼らはそれらの財産を主にその親類に分配していたのである。 彼らは順番にその子供達や自分の地区のメンバーに家畜を分配した。 牛を受け取った平民は部族の中で重要になった。 区が形成されたとき、 それは普通一人の母親からの族長の息子たち、 そして彼らの支持者となりついていく家族たち、 そして召使からなっている。これらのひとびとはバタンカと呼ばれている。バタンカは普通部族の一員で、牛を持つ自 由があり、自分たちの家を持ち、自分たちの作物を育てた。同時に彼らはその区の上級の家族のために働き、家事や農 作業をし、部族の問題では彼らを支持するよう期待された。 社会の中の女性 伝統的に女性にはほとんど権利がなかった。彼女らはいつもその保護者である男性に守られていた。結婚するまでは 父親の、その後は夫の、その死後は彼の嗣子の加護を得た。彼女らは自己表現を許されていなかった。もし間違ったこ とをすれば、保護者が責任をとり、罰を受けた。 女性は部族会議に出席することを許されておらず、 公共演説の権利もなかった。 牛の囲いの中にはいることもできず、 牛を追ったりミルクを絞ったりもできなかった。彼女らは財産相続することも牛を持つこともできず、それらは保護者 によって管理されていた。彼女らは許可なしにそれを捨てることもできなかった。彼女らは自分たちの作ったもの、育 てた野菜、育てた鶏を交易することを許されていたが、畑で収穫されたとうもろこしは交易できなかった。 49 夫はそれぞれの妻のために家を建て、その家族を助けるためにいくらかの牛を割り当てた。彼は妻の許可なしに牛を 除くことはできなかった。結婚した女性は自分の畑を持つ権利があり、そこで、ソルガム・ミレット・トウモロコシ・ メロン・豆を育てた。 男性が部族の問題を見、保護を提供し、牛を育て、狩りをし、農場をひらいて囲いをし、ハットに萱をふき、鉄や木 や毛皮の加工をしている一方で、女性は、家事をし、子供を育て、野生の食べ物や水や薪を集め、炊事をし、ビールを 造り、畑を耕し収穫し、家の壁や囲いを作り、ポットを作った。 年とった男は部族会議場でより多くの時間を過ごし、公共の問題を議論した。若い男は牛の世話をし、狩りをし、囲 いを直した。年取った女性は小さい子供の世話をし、若い女性は手作業と重労働のほとんどを行った。 部族の中でのカラハリ族の地位 全てのツワナ族の王家と、多くのツワナ族平民と、いくらかの非ツワナ族ですらも、カラハリ族を召使にしていた。 すべてのカラハリ族の家族は恒久的にツワナ人家族に付き、要求されたときはいつでも彼らのために働いた。これらの 人々はとても悪く扱われた。彼らは財産を持つことを許されず、しばしばその主人と同じ場所に住むことも許されず、 主人の同意なしに結婚することもできなかった。彼らは主人が食べた同じ皿を使って食べることも許されなかった。彼 らは奴隷よりわずかにましな農奴になるよう強いられ、主人が頼んだことはなんでもしなければならなかった。彼らは 逃げ出すことができず、他のツワナ族の仕事のために送りだされることもあった。このようにしてカラハリ族の家族は ばらばらにされ、子供たちは親元から離された。 伝統的に多くのカラハリ族はクウェネンに住んでいた。あるときカワテン族がそこで独立を維持することができ、自 分たちの作物を育てた。1800 年代の初期には彼らはモレポローレからすぐ南のレタケンへいった。彼らはクウェナ族の 族長であるモルアコモの好意を得たかった。彼は正当な摂政であるセホコトロから部族政治を奪っていた。そのとき彼 は銃の交易の交換品を必死に集めていた。彼は防衛のために武装し、セホコトロと戦いたかった。彼は象牙や毛皮をえ ると同時にカラハリ族を取り除く機会と見た。 モルアコモはカラハリ族に特に残酷で、すでに農奴でないものの財産を全て取り上げ、カラハリに追い出し、彼らに 狩をさせた。彼は、カラハリ族を砂漠に置き彼らが狩ったものをすべて取上げるよう、重要なクウェナ族に彼らを永久 的に監視するよう命じだ。多くのカラハリ族は砂漠の奥に隠れた。最後には彼らは象牙や皮を北のテティ族と交易する ことを学び、彼らからは家畜や銃を手に入れた。しかしカラハリ族は砂漠では悲惨な生活を送ることを強いられ、クウ ェナ族に絶え間なく追われた。これは 60 年間も続きセチェレ一世が彼らを自由にした。 ングワケーツェ族やングワト族や後のカトラ族といった人々はカラハリ族をひどく扱った。ングワケーツェ族の摂政 のセベホもモルアコモのように彼らの財産を取り上げた特に残酷な人として記憶される。カラハリ族はツワナ人の召使 となることで大きな利益を得たと議論する人もいる。実際には彼らのたった一つの利益は彼らを搾取しようとするほか のツワナ人の主人から守られていたことだけだった。 典型的な部族 18~19 世紀にどこかに存在していたかもしれない典型的な部族についてみてみよう。頂点には家族・兄弟・おじ・い とこ・子供たちといった全ての家族と一緒に族長がいた。彼らについて、他のツワナ人家族と、召使のように仕えるバ タンカとして知られる何人かの人たちがいた。これが部族の中心部分で、コシンとして知られている。彼らは集団とし て生活しており、しばしば村の一番高い所に住んでいたが、それぞれの家族とその召使は他の家族とは別の所に住んで いた。 この村から少し離れたしかし中心から見えるところに、構成がとても良く似たほかの村があった。そこには他のツワ ナ人グループが住んでおり、母集団とは離れてここに住んでいた。そこには指導者とその家族がいた。しかしながら彼 らは皆族長よりも低い地位で、統治のために彼を頼っていた。 そこよりももう少し離れて中心から見えないかもしれない所にまた他の村があり、これはツワナ族のために働くカラ ハリ族やクヮテン族かボラオングウェ族のどちらかで構成されていた。時が経つにつれて、三つの村は大きくなった。 これは通常、 他の集団がやってきて彼らに加わり、 族長を自分たちの指導者として認めた人たちが加わったことによる。 それらの村のいくつかは、とても大きくなり、その中にいくつかの区分けができた。彼らが大きくなるにつれて、族長 は自分の家族が彼の代わりに統治できるよういくつかに分けた。1800 年頃までにこれらの村のいくつかはおそらく 10,000 人かそれ以上の人がいただろう。 それらの部族の安定した人口と富の増加で、軍隊がますます重要になった。軍隊は年齢別に編成された。族長の息子 が 16 歳に到達すると、族長はボグウェラを開くことを宣言する。これは全ての若い男が行かなければならない初等学 校だった。それは 4 年か 5 年おきに開かれ、およそ 5 ヶ月間続く。少年たちは離れた場所に連れて行かれ、割礼を受け、 男としてどのように振舞わないといけないかを学ぶ。これは、部族の法・習慣・歴史を学ぶこと、どのように狩りをす るか、どのように戦うか、そしてどのようにお互い協力するか、年取った人への尊敬や大変な困難に耐えることを学ぶ 50 ことを含んでいた。ボグウェラが終わると少年たちは部族会議場に連れて行かれ、部隊に編入され、軍隊式の名前を与 えられる。その後で彼らはその部隊に残り、いつでも仕事のために準備ができているようになった。時々、族長は彼ら を呼び、狩りに行ったり、牛を奪ったり、土地を開いたり、葦を取って来たり、フェンスを立てたり、ただ楽しんだり した。 しばしば、ボグウェラのほんの少し前に、族長の母のような王家の地位の高い女性がボジェールを宣言し、全ての年 のいった少女たちが部隊を結成した。彼女たちも少年たちと同じ期間の訓練を受けた。これらの重要な習慣は何百年も 遡ることができた。 どちらの例でも、部隊の指導者になるのは族長の息子か娘であった。それゆえそれぞれの部隊は族長の息子か近い親 類によって率いられた。このため、族長は軍隊に対して大きな力を振るった。部隊が形成されてからの最初の数年間は、 とても忙しい。しかし新しい部隊が作られたときは、上の部隊の仕事は緩やかになり、結婚が許される。 部隊は特に冬には狩りに多くの時間を取られる。集団の狩場は村からとても離れていた。18 世紀には、ングワト族は セロウェの周りの丘と、ボテチ川の北西で行っていた。クルーツェ族はナタ川の周辺で、クウェナ族はンガミ湖まで西 で狩を行っていた。ングワケーツェ族はカン、時にはフクンツィのそばのカラハリで、タロ族とロロン族はモロポから 西はボックスピッツまでで狩りをした。彼らは長旅のために準備をし、その準備品を運び肉や皮を持って帰るために牛 をつれていった。その当時は車・そり・ロバはなく、全ては牛の背に乗せて運ばれた。 狩りは一般的に、共同作業だった。普通、一つかそれ以上の部隊が参加した。時には個人や家族が自分たちのために 狩りをすることもあった。族長は狩りの命令をし、部隊に参加することを命令した。呼ばれたものがすべて参加するの は義務だった。そうしなかったものは誰でも厳しく罰せられ、殺されることすらあった。 狩りには 2 つの形があった。 年齢階梯部隊は短期あるいは長期にわたって、 野生動物の大きな群れがいる所に行った。 兵士たちはゆっくりと群を囲い込み、動物が輪を破ろうとすると、それを突き刺した。この形の狩りは戦争の直前に行 われ、兵士たちに戦争の準備をさせた。ングワケーツェ族の族長のセベホはディトゥバルバのコロロ族を攻撃する直前 にこの狩りを行った。 もう一つの形の狩りは、特別なワナを使うものだった。男、女、子供は、大きな群が良く草を食べたり水を飲んだり する場所に行った。そこに広さが約 12m で深さが 4m の穴を掘った。その穴を枝で覆い、隠すために土をかけた。そ こから漏斗状のブッシュでできた壁が作られた。これは約 1km の長さがあり、入り口の所で約 1km の広さがあった。 動物の群を漏斗に追いこみ穴に落とすために、部隊に囲ませたり、草に火をつけたりした。他の兵士はフェンスの後ろ に隠れていた。もし動物が穴から出てきたら、彼らは槍でさした。 殺された動物は全て族長のもので、彼が一番よいと考える方法でそれを手元においたり分けたりする。これらの狩り はツワナ族の生活にとって、とても重要だった。族長は彼らを特別なとき、つまり襲撃や戦争の前、ボグウェラの間、 そして族長が不同意になるよう予期している重要な会議の前などに呼んだ。ときどき族長は、彼や彼の秘密の助言者が 公的な死刑ではなく誰かを殺したいときに彼らを呼んだ。その人物は狩りの間に殺され、誰もが疑問をはさんではいけ ないことを知っていた。 マツォーロの最も重要な側面は、部族の統一と、危険な企てに対して人々がお互い協力することであった。これは部 族を強くし、族長の指導者としての立場を助けた。そのような狩りはカラハリ族によっても行われた。おそらく彼らに とってそれはツワナ族にとってよりも重要だっただろう。 それは、 ツワナ族のような強い政治的組織を持っていない人々 が共同することを助けるからだ。狩りは、個々の家族が主要な集団から遠く離れることを妨げた。まだ部隊に入ってい ない少年たちや召使は、普通村から少し離れた所にいる牛を世話した。村に近い所は農業地帯だった。彼らはそこがも っとも肥沃だと知っていたので、ローム層の土壌の小さな土地を探した。そこで彼らは焼き払ったやぶを開拓した。雨 が降ると、族長は種をまく命令をした。男女ともにその土地で働き土を掘り、ソルガム・メロン・豆の種を植えた。彼 らはしばしば、先を尖らせたかなり重い棒を使った。多くの人々は金属の鋤は使わなかった。族長は、草取りを命じ、 後に収穫することを命令した。それぞれの家はこの計画を播種、除草、収穫で守らねばならなかった。このようにして 全ての人々は同じ速さで同じ作物を全て収穫した。これは、誰も他の人よりも良くできず、怠惰にならず、後の助けの ためにお互い頼るので、幸せな社会のために重要だった。 西の乾燥した地域に住んでいたツワナ人は、野生の食べ物の収集が農作業より重要だった。しばしば、彼らは、土地 がやせたり、野生植物がほかの地域でたくさんとれたりするようになると、村を移動した。男は狩人で牛飼いだったの で食料の重要な生産者だった。彼らは食用の肉と、東で穀物と交換できる毛皮を運んだ。彼らはまた、彼らの食料の重 要な部分を占める牛乳を運んだ。牛乳は皮の袋の中で発酵された。これは牧草地から中心の村に運ばれた。長い間彼ら は肉・ソアミルク・蜂蜜、果実、根、虫の幼虫、亀、ウサギ、木の実、菌類、ねずみ類などの野生食物・そして彼らが 育てたり交易したり出来るどんな作物も食べた。 穀物はしばしば水に浸し、発芽させ、食べ物は料理される前後に発酵させるためにおいておかれた。これにより、わ ずかにアルコール分を含ませそのカロリーや食べ物の価値をあげて、農作物が不作のときに重要な役割を果たした。 彼らはよく移動するので、家は東にすむツワナ族のそれのようには建設されていない。しばしば彼らの村は高地に建 設され、丘の頂上であることもあった。ノトワネ川を越えて彼らが最初に立てた家はモィベラフェーツァと呼ばれた。 51 それらは、太い枝が中に曲げられお互い結びつけられていた。それらの枝に草がかけられ、樹皮と一緒に結ばれていた。 後に彼らは良い家を作った。それは屋根、支柱、壁でできていた。屋根は垂木でできており、棒を覆い、支えていた。 この下で、内部の円周状の壁が作られ、やぶが強く括られていた。これらの家は造るのが簡単で集団が動くときに簡単 に放棄できた。 西部のツワナ族は鏡鉄鉱を採掘したが、彼らが鉄も採掘したかは定かではない。多くの口述伝承ではクウェナ族とン グワト族はロロン族、レテ族、トロクヮ族から交易により鉄を獲得したという。あきらかに彼らはすばらしい皮革加工 者だった。彼らは動物の皮を集め、狩りをし、必要な物を全て作り、召使が彼らの所にジャッカル・狐・ジーネット・ カラカルといった毛皮を使うことのできる動物の皮を運んできた。ライオン・レパード・チータの皮は族長のものであ り、それを持ってきたものには子牛か羊が与えられた。男の生活で重要な部分の一つに、縫った皮を毛布にすることが あった。これは彼が部族会議場でやったことだ。これらの毛皮の毛布はナマ-コイ族の人々と羊とで交易され、他のツ ワナ族とは鉄かあるいは穀物と交換された。 約 200 年かそれ以上前に西部のツワナ人は秩序だった社会を持っていた。族長はその臣民を統治していた。彼は雨と 健康をもたらした。彼は全ての財産を政治や関係の複雑な制度を持って管理した。彼は年間の活動を管理した。すなわ ち播種・除草・収穫・狩などである。彼は軍を組織し、その行動を命令した。すべての人々は社会の中の正確な位置を 知っており、どんなときに何をしなければならず、誰と結婚しなければならないかすら知っていた。そのような制度は、 裕福なものは裕福なままで、貧しいものは貧しいままであるということを確実にしていた。それはまた、政治構造を誰 も変えるようとしないので事実上同じままであることを意味していた。 52 第 16 章 北東部 1650~ 1650~1800 年 1650 年まで、カミはまだブトゥア国家の首都だった。石垣の建造物は注意深く開発された。住居は、今ではしっかり 作られた家の土台と低く残っている壁からなっている。これらの壁は、市松模様か杉綾模様を作るように違ったやり方 で置かれて、美しく飾られていた。グレートジンバブエ国の家のように、彼らの家は厚く盛られ、彼らの陶器のように 赤や黒の板で塗られていただろう。 この特徴的な石の壁と陶器により、ブトゥアの支配者の管理下にあった広大な土地の地図を作ることができる。1650 年、その国は、ソワパンの南西の端まで、南はボスツウェ丘からセルレのすぐ南のマジョジョ丘まで達していた。そこ から東に拡大し、ツヮポン丘の北を走りリンポポ川を渡りトランスヴァールに至った。石壁がクブンとスアパンのモス の境界、マジョジョ丘、ロツァネ川とリンポポ川の合流点で残っている。 土台の上の建物の大きさ、美しさ、そして高さは、平民が萱葺きの掘建て小屋に住んでいる一方で、王族に対する忠 誠心が大きかったことを示唆している。建築家は、カミの町には 7000 世帯があったと推定している。それは、グレー トジンバブエほどではなかった。ブトゥアの国はそれ自体グレートジンバブエの国よりも大きかったが、おそらくそれ 程きつく管理されていなかっただろう。ボツワナでは、石造りの住居はほんのわずかしか発掘されていないが、カミ、 ナレタレや他の大きな発掘は現在のジンバブエで行われている。おそらく 200 かそれ以上の石造りの家がブトゥアに属 していただろうが、同時に住まれていたのはそのうちの半分かそれ以下だろう。彼らは重要な街は作らなかった。おそ らくブトゥアの王家の人々が石壁の中に住み、妻の家はその外にあり、その一方で彼の従者や召使家族などのおそらく 200 人くらいの人々は彼の周りの低い土地に住んでいただろう。 この王は、地区の支配者であり、100 から 300 の村を含む小さな地域を統治していた。村は伝統的な首長に直接支配 され、その中には中心の村に広い牛牧場や多くの穀倉を持っていたため裕福だったに違いないものもいた。われわれは 1650 年のカミの支配がどれほど強いかを知らない。おそらく何人かの地区支配者は自分たちで交易を始め、地方の首長 も同じ事を始めたかもしれない。カミやナレタレからもっとも離れた地区ではゆっくり独立を得たかもしれない。何ら かの事件で、特に離れた地域において国の力が弱くなったのは疑いがない。 シャシェ川の上流付近でたくさんの金鉱が地下水の辺りまで届き、採鉱はより難しくなった。加えて金はアメリカで も見つかり、世界の金価格は下落した。結果として、象牙を、現在のマラウィやモザンビークの北の国境に住み象牙と 奴隷を交易しているヤオ族といった長距離商人に供給するための大きな努力がおそらく行われた。 交易と、衣類やビーズといった高級品の輸入は変わっていった。人口は増え、地区内の交易は重要性を増した。 変化はザンベジ川の北岸で起こった。16 世紀にポルトガルは沿岸部に地位を築き、そのうちの何人かはザンベジ川を 上り金・象牙・奴隷といった物を交易した。1663 年にポルトガル人はムタパを退位させ、そこで戦争が起こった。ムタ パの親類のシャンガミアは、現在のハラレであるマゾエ峡谷の周辺地域を統治できると信じていた。人口増加、戦争、 金交易の減少、奴隷貿易の拡大により、おそらくシャンガミアは南西へ向かった。 シャンガミア、もしくはニシャシケ時代 シャンガミアは、このヴァロツヴィ支配者を知っていた海岸沿いの人々によって知られていた名前であった。彼はブ トゥアのカランガ族からはニシャシケとして知られていた。われわれはカランガ語の名前であるニシャシケを使う。17 世紀の間、 ブトゥアは南部アフリカでもっとも大きくもっとも豊かな国だった。 大量に産出される金は海岸に輸出され、 金の量が減り始めたときには象牙と毛皮がその地位を得始めていた。 1683 年にブトゥアはチブンドゥレ王朝によって支配されていた。統治者のチブンドゥレには、彼と共に統治、もしく は彼の首相を務めていたトゥンバレというライバルがいた。 おそらくニチャシケはブトゥアの富が欲しかったのだろう。 彼はブトゥアのもとに密偵を送り、おそらくトゥンバレの助けとクーデターにより、チブンドゥレを欺き彼の権力を奪 った。ニチャシケの支持者はヴァロツヴィとして知られていたが、その意味は”詐欺師、誘拐者、そして扇動者“といっ たものだった。 カランガ族の伝統では侵入者をモヨが象徴であるニャイ族として描いているが、それは南からきて、ニシャシケを指 導者としたものだった。実際にはニャイ族とは単に密偵を意味していた。 ニチャシケの乗っ取りは無血だったようだ。1 つの物語によるとニチャシケは、彼の娘をチブンドゥレに嫁として与 え、その娘がチブンドゥレの転覆を助けたという。彼女はその夫に戦うよりも降伏するよう説得したといわれている。 いずれにしても、ニチャシケはブトゥア国を支配下に納め、カミの北東のダナンホンベに新しい首都を構えた。トゥン バレは二番目の地位を保ち、軍の長になった。彼の力を固めるために、ニチャシケは彼の関係者をチブンドゥレ、トゥ ンバレそして他の王族と結婚させ、国の行政を続けるために程度彼らに頼ることが多かった。彼は彼の支持者をベンベ ジ川のちょうど東に住まわせた。続く数年間、より多くのニチャシケに従うヴァロツヴィがその土地に入ってきて、元 のブトゥアの住人たちに属していた土地を与えられた。多くの格調高い家が彼らの統治する地域を見渡す丘の上に建て 53 られた。乗っ取りの結果、最高統治者の交代と外国人の流入が起こった。この流入は、元から住んでいた人たちが、外 国人の流入と新しい統治者を喜ばず、西へ移動する原因となった。伝承では、この動きの主要な原因はニチャシケの魔 術師だったンゴマネへの恐れであった。 おそらく、 これは彼らがヴァロツヴィ軍に編入されたことを意味したのだろう。 分かれた集団は、北と西へ向かった。西へいった集団はリリマ族だと信じられており、もともとのブトゥア国の中心 をなし、 シャシェ川の源流に 1700~1750 年の間住んでいた。 南や西へ向かった別の集団はボテチ川の辺りまで行った。 同時にもしくは多少後に、他の移民がこの地域に着き始めた。1750 年頃ペディ族の大きな集団が現在のポトジエタース ラスからやってきて、シャシェ川支流のニャマンビシ川に住んだ。 ニチャシケは違う言葉を話している多くの人々を一緒に生活させるという問題に直面していた。彼は国の中心地域を 自分で統治し、周りの地域に親類を任命するというやり方でこれを行った。ニチャシケの上級顧問の息子であるメング ウェは、ンタラオテと共に、カミからソワパンに広がる西部地域と南はセルレに至る地域を任された。 全てのヴァロツヴィがニチャシケの直下にいることを喜んでいたわけではなく、首都から去ったものもいた。その 1 人にホワンゲがおり、彼は 1700 年頃グワイ川まで北上し、そこでネクルバの人たちを征服し最後に立てられた石の建 物のいくつかを建設した。そのうちの 1 つはムパンダマテンガのそばにある。ホワンゲの臣民はナンズヮ族と呼ばれ、 おそらく彼らの主たるヴァロツヴィの国からの独立を指し示すものだろう。 ニチャシケは首都をカミから現在のブラワヨの 120km ほど北東のダナンゴンベに移した。この新しい地区統治者は ブトゥア王家の家を乗っ取るだろうといわれた。権力の保持を確かにするために、彼らはブトゥア王家の娘と結婚しカ ランガ語を話し始めた。彼らはいくつかのブトゥアの石壁住居を拡大したと考えられている。 ボツワナ国境からさらに離れたダマンゴンベへの移動は、ボツワナで権力を維持することをさらに難しくした。1696 年までにニチャシケはほとんど現在のジンバブエに支配を拡大した。最初、軍隊はヴァロツヴィの家族からだけ選ばれ ており、平民からは求められていなかった。これは王の強さを蝕んだ。彼の息子たちが巨大な王国の部分を巡ってお互 いに戦い始めるまでそれほど時間はかからなかった。彼らは力が不充分であることを認識し、ヴァロツヴィは他を自分 たちの支配のために使った。彼らはチブンドゥレの役人がその地域の一般行政を実行し続けることを許した。これは貢 納や平和を保つためのものの生産を確保することも伴った。チブンドゥレの支配者のように、ニチャシケも世襲の支配 者で、ボシェもしくはヴァイシェがその臣民を支配した。彼らは他のものがかわりに支配することを認めたが、ニチャ シケの支配者たちは支配を保つために三つの事を主張した。 1.彼らはすべての新しい支配者を承認しなければならない。彼らは時々嗣子ではない統治者を選んだ。それが彼らに とってより忠実だと考えたためである。 2.彼らは土地を割り当てた。 3.彼らはもともとの地区支配者の家から貢納を集めると信じられていた。 グレートジンバブエの辺りからやってきたカランガ族は、カランガ語に非常に近いショナ語の方言を話しており、東 部地域に住み始めた。南東や南からもさらに多くの移民が到着し始めた。ビルワ族は北部トランスヴァールのナレンか らリンポポ川を渡り、シャシェ川下流やモトーツェに住んだ。クルーシェ族はショションのような北からやってきて最 初セロウェに住みそれからシャシェ川上流に住んだ。ペディ族・レテ族・ツヮポン族の集団はリンポポ川上流のツェツ ェバエ地域を渡ってきて、ツヮポン丘周辺の南のブトゥア国境に住んだ。北部トランスヴァールのヴェンダ族すらもリ ンポポ川やシャシェ川をさかのぼり始めた。おそらくこれらの集団はブトゥアに近づき、その富の分け前に与ろうとし たのであろう。 これが、カランガ族が形成された様子である。最初は、ブトゥアの住人として形成され、その先祖はリリマ族から 10 ~11 世紀のヒョウの小山の人々まで遡る。17 世紀の終わりに彼らはヴァロツヴィに圧倒されて、彼らと混じって結婚 し、その言葉を受け入れニャイ族になった。後にペディ族が彼らに混じって住むようになり、またその言語と習慣を受 け入れた。カランガ族の名前はおそらく 1700 年頃に採用された。その前はブトゥアの住民は自分たちのことをリリマ 族と呼んでいた。しかしながら、ヴァロツヴィの進入の後、彼らは自分たちを明らかにカランガ族と呼ぶようになった。 その名は、最後に国を支配したチブンドゥレのンカランガから来ている。ンカランガとは罰する人を意味する。 今日では、現代のカランガ族の先祖は一般的に上述の三つの起源を持っている。 リリマ族・ウンベ族を含んだもとのカランガ族・セネテ族 ヴァロツヴィかタラオテ族を含むニャイ族・メングェ族・シャンハテ族・ナンザ族 後の移民のセロルワネのペディ族・ンスワジ・マスンガ・ングワディ・カ族・セビナのチズウィナ族 1700 年頃のカランガ族の生活 カランガ族は農民でその肥沃な土地で多くの作物を育てた。彼らはまた、牛・羊・山羊を育てた。彼らは大きな町に は住まず、丘・峡谷・小さな川・森の広場といった特徴のある土地に相互に関連した小さな住居を構えた。 カランガ族の継承は相続だった。すなわち、長男が父の後を継ぐ。しかし彼らはヴァロツヴィに全て支配されていた ため、支配者にもほとんど本当の権力がなかった。ヴァロツヴィはカランガ族に対するその力を 2 つの方法で保った。 54 彼らの神であるムワリは地球と命の創造主だった。彼は雨を運び植物を育てた。ヴァロツヴィはムワリの神官を任命し カランガ族の作物に水を与える雨を管理した。彼らはまたンカランガの支配者を任命するのにムワリからきた象徴的な 力である黒いビーズを彼に与えた。もし彼らが伝統的な継承者を新しい支配者として望まなければ、彼らはビーズを協 力的だと考えられる誰か他の人に与えた。 カランガ族の間には、重要なのは国ではなく一緒に住む共同体なのだという考え方がある。なぜならカランガ族の支 配者は力がなくて、彼らはその民族を統合したり、自分たちの軍隊を作ったりできなかったからだ。彼らの共同体はす べての可耕地を持っている相関連した家族と、彼らに加わり土地を使う権利を与えられた外国人とからなっていた。共 同体で支配を行うためには男とその家族は自分自身の土地を持っている家族とだけ結婚できる。しばしば男はそのよう な家族からのたった一人の妻ではなく二人さらには三人の妻を持つことがある。家族が土地の所有権を通して権力を持 つようになると、共同体はその土地の家族の先祖のために神殿を建てる。すべての共同体はこの神殿の力を実感してい る。彼らは健康と幸福を確保するため、神殿でお祝いを行う。 それゆえ、 権力は一番上で主と呼ばれたニチャシケによって持たれていた。 彼は土地の最終的な分配を支配していた。 彼の下では、彼の代わりに彼の親類が力を振るった。そしてその下では土地所有家族の長が多くの力を振るっていた。 カランガは財産と権利を家族や共同体への支配を得るための手段として使っている。 男が彼の娘の婚資を受けたとき、 彼はそれを親類と分割し、かわりに自分を強く支持をしてくれると考えられる人たちに分け与える。男が亡くなったと きにも同じ事が行われる。彼の嗣子は財産を分け彼が助けを必要とする人たちに分け与えた。財産の分割は決して終わ らなかった。いつも議論があり、財産は再分与される結果となった。しかしながら共同体は一般的にこのような議論を 通じて分裂するよりもむしろ強化された。 力のある家族には、支持を担保するほかの方法があった。もし男がとても貧しくて妻のための婚資を払えなければ、 彼は彼女の両親の家にいった。子供たちが生れたら彼らはその祖父に属することになった。祖父はときどき男にその娘 の一人を与えその娘が結婚したときに婚資が受け取れるようにした。彼はそれを他の妻を得るために使えたが、最初の 妻のために払うことや、自分自身を自由にするためには使えなかった。 カランガ族が 200 年前にどのような生活を送っていたか考えてみよう。真中には首長とその家族がおり、丘の上の村 で豪華に暮らしていた。石の壁と大きな家が厚い壁とともに建てられた。首長は相続の長たちを通して彼の周りに住む カランガ族のたくさんの小さな家を支配した。この支配はおもに貢納を集めることによって成り立っていた。これは、 支配者に多くの牛や名声、輸入品との交換のためのものを提供することであった。ものの中には染めた衣類、ビーズ、 アジアやヨーロッパからの陶器の皿などがありその中には他の首長のために再分配されるものもあった。 カランガ族の支配者はときどきそのもとに多くの小さな共同体を持っていた。彼の力は、全ての王家の家族の貢納を 集める権利と、財産をめぐる争いを解決する権利への尊敬から来ていた。これらの共同体はカランガ族の生活の中心に あった。それらは、20~30 の家族からなっており、みんなお互いの視界の中で生きていた。全ての家族はわずかな家畜 を飼っており、夜には住居の中で囲われ、昼には放牧された。農業のできる土地が見つかると、それは耕された。道具 を作るための鉄は得るのが難しかったため、これらの土地はしばしば小さかった。男女はともに農地で働き、ソルガム・ ミレット・いくつかの種類のかぼちゃやメロン・牛豆・豆・根菜・甘葦などを育てた。男たちは冬には狩に精を出した。 彼らは、特に彼らの首長に象牙の年間供給をはじめてからは、象を狩った。 このときまでに、その地域での金はほとんど取り尽くされた。ほんのわずかな家族が冬の間に鉱山で働き、交易と貢 納のために金を獲得した。それぞれの共同体には鍛冶屋がいた。鉄工には何の秘密もなかった。溶鉱炉は隠れた場所に 作られたが、女性や子供を含めた誰でも見る事ができた。普通人々は自分のために塊を掘ったが、時には牛の背に乗せ、 長い距離を運んだ。鉄塊は工匠に渡され、吹かれ、加工された。 結婚の鋤は工匠によって作られた。彼らは大きな先のとがった鉄の鋤を持っており、それは二つのかけらでできてお り、残滓とともに焼かれ 1 つになっていた。しばしば婚資の一部はこれらの大きい鋤の数で考えられていた。それらは、 ある程度、花嫁が実家で行っていた農作業にかわるものとして考えられていた。 男が畑や狩や採鉱で働いていないときには、彼らは家族や共同体の会議の場に座り、財産分与などについて議論して いた。議論が内部で解決しないときには、それを首長の所へ持ってゆき、彼がそれを解決しようとした。彼はしばしば それが自分の利益になるよう解決した。 まとめ ブトゥアの国は 1450~1840 年までほとんど 400 年間続いた。この間、それは南部アフリカで最も大きく力のある国 だった。チブンドゥレ王朝は 17 世紀後半にニチャシケと彼の子孫によって追い出されたが、国は続いた。彼らは、も ともとは東から来たが、ニチャシケが有名なカランガの家族と結婚し、カランガ語を使ったので、カランガ族から一般 的に神聖な支配者として見られた。 つまり、 彼らはチブンドゥレのようにカランガ族をカランガ族として統治したのだ。 55 第 17 章 北西部ボツワナ 1600~ 1600~1830 年 北部、そして北西部ボツワナは、広大な水のない地域と南はジンバブエから広がる森とそこにはびこるツェツェバエ によって、いつも東部から切り離されてきた。東ボツワナの歴史はジンバブエや南アフリカのそれと密接に関わってい る。北部の歴史はザンビアやザンベジ川中流域と関わっている。 土地の多くはカラハリの砂に覆われているけれども、3 つの大きな川が北から流れ込んでいる。ボツワナにとっても っとも重要なものは、オカヴァンゴ川とチョベ川である。ザンベジ川はカズングラで単にボツワナをかすっているだけ であるとしても、植民地勢力が地図に線を引きアフリカを多くの分かれた国に分割する前は、ザンベジ流域は現在北ボ ツワナに住んでいる人々の本拠地の一部を形成していた。これらの大きな水路は、所によってはあふれて湖や沼地、洪 水平野やオカヴァンゴデルタを形成し、東部ボツワナとは全く異なった形の国土をなしている。これらの地域の湖や沼 地は年間降水による洪水によって水位が上がったり下がったりする。そこには、とても肥沃な土地と大量の魚、そして カバ、レチュウェ、シタトゥンガ、ワニといった水棲動物がいた。雨のない時期には、象やバッファローといった他の 動物たちがたくさん川岸で暮すために周りの土地からやってきた。川岸は肥沃で野生動物にあふれていたが大きな問題 があった。そのほとんどの地域には牛を死に至らすツェツェバエとマラリアを媒介する蚊がはびこっていたのだ。 肥沃な土地、野生動物、豊富な魚のため、人々は川のそばに住んだ。ツェツェバエと蚊の存在は、どこに住むかそし てどんな家畜を育てるかといったことを決めた。 いくつかの歴史によると、 1750 年頃までは北部ボツワナにはおもに後期石器時代の狩猟採集者がすんでいたといわれ ている。それらによるとイェイ族は、1750 年以降にオカヴァンゴデルタに住み始めハンブクシュは 1800 年代の中頃に ボツワナに入ってきたという。第 6 章で、われわれは、鉄加工の知識を持った農民が 600 年までにはすでにツォディロ に住んでおり、彼らは 700 年までにはチョベ川やタマラカネ川の住人だったと見てきた。これらの人々がどんな人だっ たのかについては定かではないが、彼らがバンツー語族の移動の西の流れに属することは分かっており、ツォディロに いた人々はおそらくコンゴ民主共和国沿岸地域の人々の起源だろう。イェイ族とハンブクシュの口頭伝承によると、彼 らは西の流れに属する人々で 15 世紀の間にザンベジ川中流域、おそらく現在のカティマモィロの辺りで暮していただ ろう。 1500 年までに南部アフリカを通して人口が増えた。16 世紀に、集団は拡大し、時には分裂し母集団から離れ新しい 土地に住んだ。南東部では、ツワナ族は西へ向かいカラハリの乾いた縁へ入り、北ではロジ族の国がザンベジ川中流域 にあり、南へ拡大して、イェイ族やハンブクシュ、そしてスビヤ族(彼らは自分たち自身のことをベクハネと呼んでいた) の住んでいた土地へ動き出した。かわりにもとの住民たちは、ロジ族による課税を恐れて、南や西へ動いた。イェイ族 はチョベ川へ向った。多くのハンブクシュは西へ向い最初にクワンド川にそれからさらにオカヴァンゴ川まで向った。 スビヤ族は健在のカサネの辺りに住んだ。 西(現在のナミビア)では、ヘレロ族は徐々に南東に動き、親類であるンバンデル族の土地へ入り、また牧畜民である コイサン人の土地にも入った。 カラハリ族の人々は乾燥したカラハリの中に入りこんでいった。南では、ンホロハ族がレフトゥトゥのマツェン・パ ンの周りとフクンツィに住んだ。さらに北へ向いハンツィ・リッジに沿った固い土地に動くものもいれば、ンガミ湖の 方に押されるものもいた。他のカラハリ族、おそらくファレン族は、ショションのそばの故郷を去り、ボテチ川に向っ て北西方向にさまよい出した。 それぞれの集団は自分たちの起源によった生活スタイルを持っていた。ハンブクシュ・イェイ族・スビヤ族は川の民 族で大きく漁猟によっていた。ヘレロ族は牧畜民で大きな牛の群と暮らし、作物は育てなかった。ほとんどのカラハリ 族もまた牧畜民だった。しかし彼らの群は小さく、おそらくおもに山羊からなっていた。彼らはできる限りで作物を育 てた。すなわちソルガムや牛の豆そしてメロンなどである。しかし狩や野生植物の採集により頼っていた。 カラハリ族はゆっくりとバンツー語族の農民に囲まれ、浸透された。彼らは後期石器時代の略奪者やその子孫の土地 に住み、その何人かは家畜の持ち主だった。 ヘレロ族とンバンデル族 ヘレロ族とその親族のンバンデル族は真の牧畜民だ。彼らは牛、羊、山羊の群を持ち、作物は一切育てなかった。今 日では彼らのほとんどはナミビアに住んでいるが、 多くのヘレロ族やそして特にンバンデル族はボツワナに住んでいる。 彼らの起源を説明するのに二つの物語がある。一つ目は、かつてどんな具合に彼らが現在の本拠である北東部の地域 に住んでいたかをあらわしている。その地域は水にあふれ、広く葦が茂っていた。この国は葦の国と呼ばれた。そのと きでさえもヘレロ族は大きな群を所有していた。これらに関わるいくつかの理由、おそらくツェツェバエの広がりのた め、マンガヴァの息子のフルにしたがっていた幾人かはそこを去って、南西方向へ旅することを決めた。最後には、彼 らは北ナミビアの開けた平原に着いた。二つ目の物語は、エトーシャ・パンのそばに生えているオムンボロンボンホの 56 木についてである。ムクルは最初の男としてこの木から出てきて野生動物や牛や羊をつれてきた。 歴史家は、ヘレロ族はだいたい 1500 年頃オカヴァンゴ川を渡ってナミビアに入ったと信じている。彼らは、かつて はすぐ北に住んでいたンボ族と密接に協力した。しかしながらンボ族は農業民でヘレロ族は牧畜民だった。おそらくこ の異なった生活様式が集団を分けた原因になったのだろう。ヘレロ族がナミビアに到着したすぐ後にンバンデル族がつ いてきた。彼らもまた牧畜民でヘレロ族と似た習慣や言語を持っていた。ヘレロ族はすぐにンバンデル族と戦い、彼ら の牛をほとんど取り上げた。北からきたンバンデル族の別の集団は最初の集団と合流し、東へ向い現在のボツワナ国境 のそばに住んだ。 17 世紀の間これらの人々は彼らの群を拡大し、南への拡大をはじめた。彼らは大きな羊の群を連れてナマ族やコイ族 の土地に入った。旱魃と安定して増える人口のため彼らは東と南東に動き、ナマ族の土地を避けようとした。彼らがい つボツワナに入ったかは分からないが、18 世紀の終わりにはンガミ湖の西岸で牛を放牧していたものもいた。ハンツ ィ・リッジを超えモンニェラツェーラに住んだものもいた。そこでセベホのングワケーツェ族が彼らを 1830 年代に見 つけた。他にはさらに遠く南まで動き最後にはツァボン地区に住んだものもいた。 今日、ほとんどのヘレロ族とンバンデル族は、定住生活を送っているが、これは古くからのことではない。伝統的に その民族は宗教集団に分けられていた。全ての人はどこかの宗教集団に属し、それは 20 くらいあった。それぞれの宗 教集団はその中で一番富裕なものがなる指導者/修道者に率いられていた。全ての家族は 1 つの宗教集団に属し近くで 生活した。彼らの家は大きな木の枝でできていた。太い端を円状に地面に埋め、もう一方の端を内側に曲げ、結んだも のだった。別の枝をその周りに結び、その構造全体は土と牛の糞の混合物で塗られていた。これらのハットは女性によ って作られた。指導者/修道者はいつもとても裕福だった。彼は多くの牛(時には 1,000 頭以上)と羊を持っていた。彼は また、宗教集団に属する大きな牛の群も管理していた。この群は、そのメンバーの利益のためだけに使われた。 ヘレロ族は先祖崇拝をする人たちだった。彼らは全ての問題は彼らの死んだ親類から起こると信じていた。ただ指導 者/修道者だけが先祖に犠牲をささげることができ、これは墓場で行われなければならなかった。その結果彼らは 200 年以上もさかのぼって先祖の名前とその墓の場所を知っていた。 指導者/修道者はまた、聖火をつけることのできるただ一人の人であり、彼の長女だけがその世話をすることができ た。この聖火は最初の先祖であるムクルの贈り物であり、燃え続けなければならなかった。全ての決定は聖火の前で行 われなければならなかった。もし決定が重要ならば、野獣が殺され、先祖への注文は火の脇で行われた。もしある人が 自分の村を立ち上げたければ、彼は指導者/修道者の火から燃えている石炭を獲得しなければならなかった。全ての人 はまたエアンダと呼ばれる別の社会的集団に属した。それは 6 つあった。誰も同じ社会集団に属するものと結婚するこ とはできなかった。ある男が亡くなると、彼の家畜は同じ母から生れた弟によって相続され、彼の子供のものとはなら なかった。 指導者/修道者が死んだとき、50 から 100 頭の牛が 1 ヶ月ほどの間に殺され、その骨は墓に積み上げられた。葬式 が終わると、村は放棄され、聖火は新しい村が作られる牧草地に運ばれた。 男たちは牛や羊の世話をするのにほとんどの時間を費やした。村ではハットが円形に配置され、その中には子牛や子 羊のための柵がもうけられた。群は夜の間は村の外の柵に入れられた。男たちはまた、重い弓矢や槍やワナを使って狩 りにも出かけた。彼らは東のツワナ族との交易で得たものを除いては鉄を持っておらず、彼らの槍は木でできていた。 女性は野生の食べ物を集めるために外出し、牛からミルクを絞り、彼らの主食の 1 つであるソアミルクの一種を作っ た。彼らは、このミルクや捕えた野生動物、死んだりいけにえにされたりした牛、野生植物などを食用にしていた。最 初のヨーロッパ人旅行者が、 ヘレロ族やンバンデル族に出会ったとき、 牛を所有し大きな村に住んでいるものに加えて、 牛を持っていない多くの小さな集団があることを見つけた。彼らは狩猟採集で生活していた。ヨーロッパ人はこれらの 人々は、しばしば彼らを襲撃したナマ族によって家畜を奪われたのだと信じた。そのような小集団は、家畜を手に入れ 再び小さな群を持ち始めるまで長い間狩猟採集者として生活したのだった。 川の農民たち 初期にボツワナの北の国境に沿って住んでいた主要な集団はイェイ族、ハンブクシュ、そしてスビヤ族だった。これ らの人々は遠い過去のいつの頃からか中央アフリカからやってきて、ザンベジ川を下ってきた。彼らは北部ボツワナの 一部に 1000 年以上住みつづけている。 北部ボツワナではほとんど考古学的調査が行われていないので、ほとんどの情報は口頭伝承からきている。これは、 事件が実際起きた事件についての時間感覚は縮められているかもしれないことを意味する。1600 より前のあるとき、ア ルジ(後のロジ族)と呼ばれる集団がザンベジ川上流から下ってきた。彼らは今の西部ザンビアの、カティマモリロの北 の広い洪水平野に住んだ。彼らは、そこに既に住んでいた全ての人々を集め、農業・造船・漁労・狩猟・金属工芸とい った彼らの技能を開発することによって、強い国を作り始めた。1700 年頃までに彼らはとても力強くなった。彼らはま た南へ拡大をはじめ、その国に参加する人々を探し始めた。 しばらくして、チョベ川の南側で他の動きが起こり始めた。1600 年頃にはイェイ族とスビヤ族がマバベの地域に一緒 57 に住んでいた。ハンブクシュは彼らの少し北に住んでいた。伝承によれば、ライオンの皮の所有権を巡って議論が起こ ったといわれる。この皮は、もっとも偉大な指導者に属し、彼の重要さを示す。イェイ族はスビヤ族と戦い、征服され た。彼らはリニャンティ川へ行き、ンハサの土地に住んだ。彼らは、セリンダ川とクワンド川が合流するディイェイに 首都を構えた。スビヤ族はチョベ川へ動き、現在ンゴマの橋があるルチンドに首都をおいた。彼らはその土地をイテン ゲと呼んだ。スビヤ族はとても力強く成長した。彼らの国はオカヴァンゴまで西に伸び、イェイ族を含んでいた。それ は、北はシオモまで、東はヴィクトリアの滝の東に住んでいたトンガ族の土地まで、南はツェツェバエが森にはびこる ヌンガまで広がっていた。1680 年頃まで、ロジ族はその国を南まで広げた。彼らは主に王家の親戚に、国境に住む弱い 人たちの支配をさせることによって統治した。そんな王家の親戚の一人にムワナンビニがいた。彼は 1680 年頃南へい きスビヤ族、ハンブクシュそして北のイェイ族を征服した。今やスビヤ族とロジ族といった 2 つの主人を持つことにな ったイェイ族は、船を使って南へ動きボツワナに入り始めた。小さな集団はオカヴァンゴデルタのマクウェハナ川につ ながる水路を下った。それから彼らは南東のボテチ川とンガミ湖へ向かった。小さな牛の群を連れてツェツェバエの地 域を避け、トテンへ行こうとしたものもいた。南では、彼らはカクウェ川やデティ川に住むコイ族に会った。初期の移 民のハンクジはカクウェのコイ族の指導者の娘と結婚した。これで、イェイ族とすでにその地域で牛を飼っていたコイ 族との間の友好関係が形成された。 1720 年頃ロジ族の王のンガラマは国の拡大によって権力を広げることができた。 彼は納められる貢納と彼のために働 く農奴を増やそうとした。彼らは、ロジ族が洪水平野に村を作るための土手を作るために必要とされた。だいたい 1750 年頃までにンガラマの後継者のンゴンベラは全てのザンベジ・チョベ地域を支配し、鉄の棒で支配した。すぐにほとん どのイェイ族は南へ逃げ出し、オカヴァンゴデルタに住んだ。ハンブクシュの集団は、西のクワンド川に向かって動き 始めた。ハンブクシュのママシは後に残り、ロジ族の国の 1 つになったが、他はほとんど立ち去った。クワンド川でさ えも、彼らにとって安全ではなく、ロジ族が後を追ってきたので、さらに西へ逃げた。最後には、彼らは現在のアンダ ラに近いオカヴァンゴ川に住んだ。しかしながら、そこですらも彼らは安全ではなかった。彼らは、マンバリやオヴィ ンブンドゥの北部アンゴラ海岸からきた商人の訪問を受けた。それらのマンバリ商人の多くはポルトガル人男性と黒人 女性の息子だった。彼らは古い銃と象牙や奴隷を交換にきた。ハンブクシュの指導者は強欲になり自分の臣民の一部を マンバリに売ろうとした。すぐにハンブクシュはその指導者を残してオカヴァンゴ川を下り、セロンガ・ハバムクニ・ セポパといったはるか南の全ての地域に住んだ。 スビヤ族は中心的指導者のもとにかなり強い政治組織を持っていた。これは、集団の統一を保ち、他の良く組織され ていない人々を征服するのに助けになった。ロジ族の国は偉大な統治者のムランブワのもとでその頂点に達し、それは 彼が 1830 年に亡くなるまで続いた。誰が後を継ぐべきかという議論が始まった。これが進む一方で、ロジ族は、セベ ツヮーネのコロロ族に攻撃された。コロロ族は簡単にロジ族を破った。それから彼らはスビヤ族の方に向かい、彼らも 簡単に破った。スビヤ族の指導者は続けることを許されたが、彼らは新しいコロロ王国の一部となり 1865 年にそれが 滅びるまでそのままだった。 スビヤ族、イェイ族、ハンブクシュは多くの共通習慣を持っており、さらに彼らは一緒に住んでいた。主な共通慣習 は、相続のときに母の兄弟を通じて地位と富を譲り受けるということがある。彼らはみんな川の民であるが、それぞれ が他とは違った生活方法を持っていた。これにより彼らは少しずつ異なった土地に住むことができた。 スビヤ族 スビヤ族は主に漁労者と農業者であり、わずかな牛や羊や山羊も飼っていた。彼らは秋に広い洪水平野を耕し、冬の 洪水を待った。それが去った後に、湿った土壌にミレット・スウィートリード・メロンといった農作物を植えた。雨が 降るまでに彼らの農作物は高く成長し、旱魃に襲われることは稀だった。 彼らはまた優れた釣り人で、浅瀬を小船で旅した。彼らの狩りは、普通野生動物を水の中に追い込み、小船を操って 泳ぐ動物のそばに近づき槍で刺した。 イェイ族 イェイ族もまた農業者であった。彼らは家畜を持ち、スビヤ族のように洪水平野を耕した。彼らの政治組織はスビヤ 族のものほどは強くなかった。これは、彼らを一箇所に集めておく中央支配がなかったことを意味する。彼らはたくさ んの小さな指導者を持ち、 それぞれが支配下にいくつかの村があった。 それらの村はしばしば全く一時的なものだった。 ハットは地面にうちつけられたいくつかの棒でできており、その間は葦で埋められていた。屋根は何枚かの葦の織物で なっており、それは壁に結ばれた曲がった棒の上にかけられていた。しばしば大きな集団はマットを捲り上げ、全ての 財産を小船に積み、オカヴァンゴデルタから離れた島へと続く水路を通って動いた。そこでは彼らは狩りや魚釣り、野 生の食べ物採りに数ヶ月を費やした。彼らは特に水百合の球根やツィウィそしてパピルスの古い茎を好んだ。 イェイ族は浅瀬地域、特に狭い水路や多くの洪水平野がある所を好んだ。彼らは立ちあがり、小船を水路に沿って押 したり、長い棒を使って葦の間を通り抜けたりした。彼らは 2 つの主な技術を使って浅瀬で釣りをした。最初の方法は、 きつく縛られたとても細い棒で長いフェンスを作り、水底から水面上まで届くようにした。これは水路の端から端まで 58 広がった。このフェンスのいくつかの場所では、口を上流に向けたかごのワナをつけた。魚はフェンスを通り抜けるこ とができず、かごのワナに入り捕まった。他の方法としては、ろうとの横に穴があいたような形の籠を使ったものがあ った。これは浅瀬で使われた。魚を見つけたとき、彼らはかごを水底まで突っ込んだ。魚は脇の穴から手で採られた。 彼らはまた網も使い、葦原に平行して置かれたり 2 つのカヌーの間で引かれたりした。 イェイ族は優れたカバの狩人だ。男は川の主と考えられていたカバを殺すと大きな名誉を得ることができた。2 つの 一般的な方法が使われた。1 つ目は一人か二人の人間で実行できた。カバが水に入る小道を選び、重石がつけられたと ても大きな槍を下向きに木につるした。しばしば刃には毒が塗られていた。ロープが小道を越えて張られていた。ロー プは、槍が落ちるのを止めている木の枝の所まで、木の幹にそって引き上げられていた。カバがロープの所まで歩いて いくと小さな木が引っ張られ、重い槍が落ちてきて、カバの背中に深く刺さった。2 つ目の方法は、集団で行うやり方 で、興奮するものだった。パピルスの茎で作られた大きないかだがあり、小船がこの上に置かれ、狩人たちはいかだの 真中に隠れた。いかだは、カバの集団に入りこむまで水路を漂流した。それから男たちは立上がり銛を動物にさした。 すぐに小船が水に押し出され、銛に付いたロープをつかみながら岸に向かった。岸につけば、ロープを木に結び、後で 動物が疲れた頃にそれらを重い槍で刺した。しばしばカバは小船の上に乗り、噛み付いたり彼らを驚かせたりした。と きどき狩人が殺された。銛には重い木製の取っ手があり、これはカバが葦の中で動かなくなるまでその後ろに引きずら れていく。カバが弱ると狩人は小船でそれに近づき槍でとどめを刺す。 ハンブクシュ ハンブクシュは川の民で釣りの専門家だが、イェイ族よりも農業に関わっている。彼らは乾いた川岸のやぶを切り、 燃やし、いろんな種類のもろこし、とうもろこし、かぼちゃや根菜を植えた。彼らは、水位が上がっても彼らの土地ま では広がってこない水深の深い地域を好んだ。彼らは、イェイ族のように小船を漕ぐ時立っているよりもむしろ座って いた。彼らは植物で網を作り、魚を捕えるためにそれをしかけた。 他の多くの人々のように、彼らも自分たちの起源について物語を持っている。それらの多くは、彼らはザンベジ川か ら来たとしている。しかし1つだけ彼らはずっとオカヴァンゴに住んできたというものもある。それによると、最初の 先祖であるニャンビは、神になったのだが、彼の臣民がいつも争っているのでくもの巣を登って天に行ってしまったと いう。他の物語では、ニャンビはツォディロのフィメル丘の上で綱に乗った最初のハンブクシュをおろしたという。臣 民をおろした後は、牛もおろした。ハンブクシュはまだ、丘の岩の溝を指す。彼らは、それはまだ地球が柔らかかった ときに彼らの牛がつけた蹄の跡だという。 これは、 ハンブクシュがボツワナにとても長い間住んでいたことを示唆する。 ツォディロで見つかった1650年から1700年に作られた陶器は、 現在のハンブクシュの陶器の直接の祖先であるようだ。 おそらくハンブクシュの一部は主要な集団の前に西へ向かい 1600 年頃までにオカヴァンゴ川に住んだのだろう。 イェイ族のように、ハンブクシュは旱魃の時に川や周りの土地から何を集めて生きるのかを学んだ。旱魃時には魚が 彼らの主食で、全ての女性が魚釣りをした。男性が船で出かける一方、女性や子供は浅瀬で大きなかごを持って働いた。 最初に、かごは浅瀬で横に並べられ、人が水の中を歩き、手や棒で叩きながら魚をかごの中に追い込んだ。彼らはまた 3 つの特別な果物を採るために森の中へ長い旅をした。ムンゴンゴは腐らずに一年保存できる種を持っている。モツヮ ウディは赤くて甘い果物で、マボーラは乾かしてポリッジやビールに入れられた。 ハンブクシュは象を狩るのに賢い方法をとる。彼らはあごのある槍の刃を使い、重い木片につける。彼らは、像の通 り道に浅い穴を掘り、そこに槍の刃を上に向けて置く。象がこれを踏むと、刃は脚の奥に深く入り、歩くことができな くなる。象が弱ると、男たちは斧を持ってきて、後ろ足の腱を切り、座り込んだ所を槍で刺す。 北部ボツワナから北のアンゴラやザンビアにかけてのハンブクシュは、雨を降らす能力で有名だ。偉大な指導者だっ たマシャンゴが最初のあめふらしだったという。その物語はロジ族がハンブクシュを支配していたときに遡る。彼らは クワンド川のマシに住んでいた。マシャンゴは、跳ねウサギの穴で巨大なタマゴのような奇妙な白いものを見つけた。 それを空に向かって振るたびに、雷がなり、雨が降った。彼はその主人のロジ族のために雨を降らし、彼らはとても喜 んだのでハンブクシュに多くの贈り物を与えた。マシャンゴの名声は広がったが、しばらく後に雨が毎年降るようにな ると、ロジ族は贈り物をやめた。それから、ハンブクシュはクワンド川を去り、彼らがルアレとよんだオカヴァンゴ川 へと西へ向かった。多くの人々はまだハンブクシュの雨を降らす力を信じており、もしハンブクシュが攻撃されたらオ カヴァンゴデルタに洪水は来ないだろうと考えている。これが力のある隣国がハンブクシュを攻撃しない理由の一つで ある。 タワナ族の到来 おそらくツワナ人が北部ボツワナで狩りをし始めたのは、最初の集団が定住する 150 年かそれ以上前だろう。18 世 紀のどこかでクルーツェ族の一団がボテチ川まで北西へ動き、クモのそばの島に住んだ。1790 年頃ングワト族の間で問 題があった。族長のマティバはクウェナ族の娘と結婚し、タワナという名の息子が生れた。これは彼が首長の娘のモフ マハディと結婚する前のことだった。それから起こった分裂についての説明は何年にもわたってたくさんの物語が語ら 59 れた。1 つの説では、マティバはカーマ一世よりもタワナを後継者として選んだと発表したというものがある。すぐに 部族は分裂し、まるで内戦状態になった。マティバはクウェナ族に助言を求め、彼らはタワナとその支持者をクウェー ベに送るよう言った。マティバにはそのようにする準備ができていなかった。カーマはタワナを攻撃し、タワナとその 父はレフェペのクウェナ族のもとへ逃れた。 クウェナ族は彼らを歓迎せず、すぐに去るよう説得した。彼らはクウェナ人のトホに率いられてボテチ川へいき、ケ ディア丘のそばでしばらく過ごした。彼らはクルーツェ族が近くにくるのを嫌い、西へ向かい砂漠を抜けてクウェーベ へ行った。マティバは家に戻りたがり息子と議論をした後に、集団を去りレフェペに戻った。そのときから彼らはタワ ナ族と呼ばれるようになった。 クウェーベでタワナ族はばらばらになったンホロハ族を見つけた。 彼らはボテチ川ですでにマラリアにかかっており、 マラリアがはびこっているンガミ湖のそばには住みたがらなかったので、ンホロハ族に合流するよう頼んだ。何人かが 彼らに加わり、タワナ族はンホロハ族の女性を二番目や三番目の妻にし始めた。このようにして、タワナ族は部族をた てなおし始めた。 1824 年までに、部族は良い状態になり、彼らは北へ向かいンガミ湖の東に住み、イェイ族と密接な関係をとるように なった。彼らの習慣はとても違っていたのでその女性たちとは結婚しなかったが、彼らは平和に共存した。このときか らいくつかのとても貧しいイェイ族の家族が召使同然でタワナ族と一緒に住むようになった。彼らはタワナ族のために 働きその主人からいくらかの利益を受け取った。タワナ族は強い軍と政治組織を持っていたので、彼らと関係を持った ンホロハ族やイェイ族そしてわずかなコイサン人をすぐに支配した。彼らはンガミ湖の西に牛を放牧し、そこでぶつか ったンバンデル族を追い払った。 川の民、もしくはノカ族 最初の白人旅行者が 1849 年にボテチ川に着いたとき、彼らはそこにはいろいろな人が混じって生活していることに 気付いた。その中で一番長く住んできたのはテテ族と呼ばれるコイの人たちだった。南にはデティ族がが、北西にはカ クウェ族が住んでいた。ツワナ語では、彼らは単にノカ族もしくは川の民と呼ばれていた。 川沿いに住んでいたほかの人たちには 1750 年から 1850 年の間に到着した移民たちがいた。すなわちクルーツェ族、 ナンズヮ族そして現在のツィエヤーネのそばに住んだイェイ族やクマハの西のボテチ川沿いに住んだほかのイェイ族た ちであった。ツォエの周りにはわずかなカラハリ族が住んでいた。 デティとカクウェは全般的に良く統合されていた。 1849 年にリビングストンはカクウェがイェイ族の召使を持ってい ると描いたが、それはおそらくタワナ族がその地域を支配したときに全ての家畜を失った貧しい人々であろう。確かに イェイ族とノカ族の間には婚姻関係があり、前者は後者を親戚だと考えていた。 デティは長い角を持つ牛の大きな群れの所有者として知られていた。彼らはこれらを西や南で、おそらく鉄や象牙を 持っていたンホロハ族と交易した。1840 年代に二回ンデベレ族に攻撃されたコロロ族が群を補充するために、デティか ら牛を奪った。 1800 年までにノカ族は川沿いで定住し牛を放牧しあらゆる方向に何百 km にもわたる交易網が良く組織されていた。 他のコイサン語族 タワナ族が 1795 年頃ンガミ湖の南の地域に到着したとき、そこはさまざまな集団によって所有されていた。おそら くその最大のものはクウェーベ丘に住んでいたクウェーベを首長とするンホロハ族だった。 しかしながら、南や西のパンには多くのコイ族の小集団があった。すなわちナロ・ンカエコエ・ルスワなどであり、 彼らは山羊やわずかながら牛といった家畜を持っていた。これらの人々はおそらく 1000 年以上前から金属加工職人と 関係があった。彼らは長い刃のついた重い槍を持っており、それを使って象の狩りをした。象牙は東でノカ族やカラン ガ族を通してはるばる海岸まで交易された。彼らはカクウェと似たような言葉を話した。彼らはほぼお互いを理解し、 おそらく婚姻関係もあった。確かに彼らはカナクウェと婚姻関係にあり交易もしていた。カナクウェはボテチ川の西に 住み、カラハリ族と婚姻関係にあった。彼らは多くのカラハリ族の習慣を行い、首長を認識し、財産の相続も様式に従 い、豆とメロンを育てた。 この当時、コイサン語族が狩猟採集者のように恒久的な水源に沿って住んでいるのを見るのは難しかった。狩猟と採 集とによりおそらく彼らは生計を立てていたが、家畜や交易も彼らの生活の中では重要な役割を果たしていた。 それゆえに、200 年前の北部ボツワナについて考えるとき、そこは既に多くの人々が暮していたと言うことをわれわ れは理解しなければならない。すなわち、村に住み、農作物を育て、家畜を育成し、鉄を打ち、長い距離を交易し、象 牙・毛皮・サイの角・はねといったもののために狩りをしてきた人たちだ。これは、孤立したりまばらに分布したりし たものではなく、むしろ統合的な南部中央アフリカ地域の一部で、遠くから定期的にくる商人には良く知られたものだ った。 60 第 18 章 ディファカーネ、もしくは困難の時代 1700~ 1700~1840 年 歴史書はディファカーネをズールー族が国を作った1815年以降に起こった一連の部族戦争だと描写する傾向にある。 それはまた、集団が分裂し南東の故郷から逃れ出てきて、時には 1000km 以上も旅をし、新しく住む土地を探した崩壊 の期間も対象となっている。それらの動きによって、食料、牛、女性を巡って襲撃が起こり、時にはその土地の人々を 追い出した。ディファカーネ期は 1817 年から 40 年の間に拡大し、ンデベレ族がカランガ族の土地に住みついた時に終 わった。 ディファカーネは、ソト語でさまよう群集を意味する。その名前は 19 世紀に黒人歴史家によって造語されたが、一 般には使用されなかった。それが起こった事件についての良い名前なのかは今でも議論の的である。おそらく“困難の 時代”とした方が適切である。 困難の原因 それら困難の時代の原因はいくつかありそうである。人口は増え、拡大のための土地はほとんどなかった。裕福な統 治家族はより良い軍隊を組織し、自分自身を守ることと富を増やすことに使った。彼らは象牙交易を管理することと奴 隷により富を増やすことを探り、女性を残し、男性を売り払った。ケープの白人農場主は、拡大し、コイサン人の牧農 者や狩猟採集者を分裂させ、特にオレンジ川のそばに住んでいるグリカ人から奴隷を買おうとした。南東部の荒らされ た地域では、集団は北西方向に動き出し、新しい居住地を探した。 ボツワナでの困難 それらの問題は現在のボツワナ国境の外でおきたが、その影響はすぐに感じられるようになった。最初の影響は 1800 年のすぐ後に始まり、バシャハとして知られる人のゆっくりとした流れである。それらはオレンジ川のそばで始まり、 モロポを渡って北へ動き、モレポローレのそばでカワテン族やボラオングウェ族とともに住んだ。彼らはおそらくカラ ハリ族で、南部ボツワナの土地を襲ったグリカ人の最初の犠牲者だった。 動かなければならなかったほかの部族は、ロロン族、タロ族といった小さな部族で、北西方向へ移動した。彼らはモ ロポ川を下り、それから北へ向かってマシェンかハンツィを通ったか、ノソプ川まで行った。残されたわずかなものは マシェンに残ったか、最後にはナミビアに着いたものもいた。 1818 年のあと、ズールーランドや周辺地域での戦闘は、武装していたが家の無い人々の大きな集団が北や西に動き始 めた。それらの集団の中には、最後にはカプリビやマラウィやタンザニアといった所に住んだものもいた。彼らは動く につれて、見つけた人々を襲撃し、彼らのやり方で生活し、食料、牛、女性を取り上げ、彼らを広い地域にちりぢりに させた。 1823~37 の間、襲撃と戦いはほとんど絶え間無くボツワナの南東部で行われた。2 つの侵略者は国の右側を通ってい た。最初、セベツヮーネ族長のコロロ族は国外からの襲撃の後、現在のクウェナ族が脱出したモレポローレそばのディ ツバルバに住み、後の 1826 年に彼らが脱出するまでの間、北のングワト族と南のングワケーツェ族を攻撃した。 1832 年には、彼らの後には、ンデベレ族の族長ムジリカジが現代のプレトリアのちょうど北側にある故郷から西にや ってきて、ツェーレストのそばに住んだが、そこではツワナ人から貢納を要求され、払わなければ攻撃された。彼らは 1937 年にボーア人に敗れ、北へ向かい最後には今のブラワヨのそばで 1840 年頃からカランガ族とともに住んだ。 これらの進入はツワナ人を分裂させた。クウェナ族のように故郷から離れるものもいた。部族はわずかな食料で育て ることができ、しばしば丘に隠すこともできた自分たちの牛を失った。部族は異なった指導者によって分割されたり、 保護を受けるためにより強い集団に合流したりした。一時期ングワケーツェ族の首都だったクヮクウェにはおよそ 70,000 人がいた。これは戦い、隠遁、大きな飢えの時として覚えられていた。ンデベレ族が北へ向かったとき、部族は 建て直すのに長い時間がかかったが、彼らは困難が始まる前と同じようにはならなかった。なぜこのような困難が発生 したか理解するために、われわれは 100 年以上さかのぼり、南部アフリカの海岸地帯で何が起きたかを見なければなら ない。われわれは最初に亜大陸に大きな影響を与えた奴隷と象牙の商人について考えてみる。 奴隷と象牙の貿易 1600 年以降奴隷と象牙の貿易は増加し、東海岸を南下してきた。ポルトガル、イギリス、フランスといったヨーロッ パ諸国は奴隷を買ってアメリカまで運び、象牙はインドやヨーロッパに運んだ。1800 年までにマプートとデラゴア湾は この交易の中心となり、この周辺地域では、ヨーロッパ人に売る奴隷と象牙を得るためにアフリカ諸国はお互いに争っ た。ヨーロッパ諸国はまた、計画的に戦いと奴隷の供給を増やしているとして、これらの人々に銃を与えることを非難 された。たしかに、アフリカ人は銃を買い象牙のために象を狩り、奴隷のために襲撃をした。 61 西ケープでの白人の拡大 ケープタウンの政府は白人農場主を管理しようとしたが失敗した。ボーア人と呼ばれる白人農民はケープタウンの外 に広がっていった。彼らは地代を払わなくてすむように、そして政府の管理から自由になるために、より多くの土地を 探した。彼らは広がるにつれて、コイサンの狩猟採集民や牧農者から土地を取り上げ、時には羊や牛を盗み奴隷状態に させた。 白人のこれらの動きはコイサン牧農者を北や東に追いやり、オレンジ川沿いにはコラという民族が住んだ。彼らはコ ラ族や南からやってきた白人背教者やケープから逃げてきた黒人奴隷と結婚した。 そのような集団の一つに、現代のキンバリーのそばに住んでいたものがあり、グリカとして知られるものがあった。 彼らはオランダ語を母語とし、キリスト教を実践し、家畜を養い、農産物を育て、北からの象牙と南からのコーヒー・ 砂糖・銃・鉄器・ブランデー・衣類を交易していた。 ボーア人が北や東に拡大し、牛や奴隷への需要が増すにつれて、グリカ人はツワナ人を襲撃し始めた。すぐにウォー ターボーアやバレントそして後のドイツ人の無法者ブラムといった指導者のもとのグリカ人はツワナ族、ソト族、そし て西のングニ族の土地にまで広がるオレンジ川に沿った争いの土地をつくりだした。 より大きなツワナ人の村の建設 海岸沿いの争いの波紋は、遠くの内陸部の人々にも影響した。ツワナ族がより大きな首都を作り始めたかの 1 つの理 由として、拡大する戦いから自分たちを守ることがあったかもしれない。1750 年頃よりも前、ツワナ族はモレポローレ のような大きな村に住んでいなかったが、1800 年までにはいくつかの大きな村が設立された。ディタコンは 15,000 人 のロロン族とタピン族からなっている、と 1802 年にバロウは描いている。他の白人旅行者はカディツウェーネの 1820 年の人口を 16,000 人のフルーツェ族の住民であると推計している。そのような大きな共同体は特に飢饉の時には自分 たちを養うことに問題を抱えていたに違いない。しかし彼らの大きな軍隊は自分たちを守ることができ、おそらく食料 のために襲撃を行うこともできた。 ツワナ人とディファカーネ:1823 ツワナ人とディファカーネ:1823~ 1823~1840 南東からの侵入は、ツワナ族を荒廃させる効果を持ち、その多くは家、土地、そして牛を失った。現在のボツワナで ディファカーネの影響を受けなかった地域はなかった。一番悪い困難の時期を過ぎた後、ツワナ族は小さな国の再建を 始めた。そうすることによって、彼らは、その土地に住むカラハリ族・ツヮポン族・ビルワ族・カランガ族・イェイ族・ ハンブクシュ族・コイサン人といったほかの集団に権力を広げ、彼らを新しい国に組込み、時には農奴として扱った。 最初の困難が終わったあと、1823 年から 36 年の間に、3 つの重要な侵入者集団があった。最初はフティン族で、ラ ツェベとツァーネに率いられていた。ほとんど直後に、ライオンに殺されたマングワーネの弟であるセベツヮーネに率 いられたフォケン族が後に続いた。フォケン族はノトワネ川を渡り今のモレポローレに住んだ。後にムジリカジのンデ ベレ族は西トランスヴァールを占拠し、ボツワナへの襲撃を指揮した。 フティン族 1823 年 1 月フティン族はヴァール川を渡り、セフネロ族長のもとにあるロロン族を攻撃した。彼らは北東方向に向 きを変え、壁に囲まれたカディツヮーネの町からフルーツェ族を追い出し、そこを破壊した。彼らは西へ向かいマカバ 族長のもとのングワケーツェ族を攻撃した。ングワケーツェ族はフティン族を南へ向かわせることができたが、クヮク クウェから退却した。フティン族はクンワネのロロン族を征服し、彼らのとうもろこしのとれる畑を利用した。 フティン族はそれから南へ動きタピン族を攻撃しようとした。 プティン族がタピン族の首都のディタコンに近づくと、 ンカラハーニェに率いられたラコアナ族が彼らに合流した。大群が近寄ってくるのを見て宣教師のロバート・モファッ トはグリカ人に混じってオレンジ川で暮らしていたケープ政府の役人メルビルに助けを求めた。 軍が近づくにつれ、タピン族は町から逃げ出し、町はすぐにフティン族とラコアナ族に占拠された。そこにいたモフ ァットは侵略者を約 40,000 人だったと推計している。メルビルはおよそ 100 人の武装したグリカ騎兵隊とともに到着 し、1823 年 6 月 26 日にグリカ人は町を騎馬隊で攻撃し、銃撃した。町のそばでキャンプをしていたラコアナ族は、町 の中へ逃げ込んだ。銃の音と騎兵に脅かされて、約 500 人の女子供を残して侵入者は町から逃げ出した。グリカ人は群 衆を逃がしたあとに町を通りぬけ、町に残った女子供を殺したタピン族が後を追った。 グリカ人は、約 100 人の女子供を捕らえ、彼らをケープに売ろうとし、タピン族に牛を拠出させようとした。彼らは 町を焼いた。メルビルは、略奪の取り分として明らかに 33 頭の牛を受け取った。ンカラハーニェは、ラコアナ族がデ ィタコンから逃げ出すときに、グリカ人によって殺された。ラコアナ族は北へ逃げ出し、後数年間西トランスヴァール のその地域の小さなツワナ人部族を攻撃し、最後には南東方向に戻った。 62 セベツヮーネとコロロ族 グリカ人がフティン族とラコアナ族をディツヮコンから追い出す一方で、セベツヮーネ率いるフォケン族とモレツヮ ーネ率いるタウン族もまたその地域にいた。けれども彼らは戦いには参加しなかった。彼らは北へ向かい、ロロン族を 押しのけ、フルーツェ族とカトラ族を打ち負かした。ついに、彼らは、トランスヴァールに地位を築いていたンデベレ 族に攻撃され、西に追いやられた。この攻撃の直後、モレツヮーネはセベツヮーネから分かれ、また南に向かい始めた。 1824 年 8 月彼はピッツァーネでロロン族とグリカ人の合同軍に攻撃された。ロロン族はひどく傷つき 17 人の族長を 戦いで失ったが、彼らはモレツヮーネを現在の自由州に当たるヴァール川を越えた南側に追いやることができた。1824 年には、セベツヮーネはクウェナ族を攻撃し、ディテジュワネ丘の城塞化された町であるディトゥバルバから追い出し た。ここに彼は住み、一方でクウェナ族は南へ行きングワケーツェ族に合流した。ロバート・モファットはクヮクウェ 丘にいたが、マカバのもとでのングワケーツェ族の首都には 14 の地区があり、総人口は約 70,000 人だと推計した。ツ ワナ人は早い時期に合流したのでその農産物を失ったが、彼らはディファカーネの全ての群集を打ち負かし、牛の多く を守った。彼らが合同しなかったのはおそらく違う共同体に住んでいたからであろう。彼らはツワナ人の敵に対してお 互い合流することに慣れていたが、強力な外国人には慣れていなかった。 1826 年から現在の南東部ボツワナの状況は変化した。 西側ではセベツヮーネがディツェジャネ丘に定住した。 東では、 ムジリカジが、現在のプレトリアの近くにマジャナマツァーナに新しい首都を立てた。どちらも牛と新兵を探し、ツワ ナ人を攻撃し、農作物の育成や定住生活を妨げた。この期間に、部族は解体され、人々は丘や砂漠に逃げ出した。 セベツヮーネはいま、彼のもっとも好きな妻の出身部族のコロにちなんで、自分の支持者をコロロ族と呼んだ。彼は ツワナ人の隣人を征服し始めた。最初彼は北へ行き、ングワト族を攻撃しいくらかの牛を奪った。ングワト族はより防 御に向いていると思われたクッツェ丘に移動した。 しかしセベツヮーネは再び攻撃してきて、 彼らを大きく打ち負かし、 ほとんどの牛を奪った。 ングワト族は北へ移動し、カランガ族を攻撃した。最後には、彼らはマトポ丘でカランガ族に打ち負かされ、カリ族 長は殺された。 セベツヮーネは南へ向かい、クヮクウェでングワケーツェ族とクウェナ族を攻撃した。クウェナ族とングワケーツェ 族の一部は、マカバの息子のセベホが戦いに参加しないことを主張した。おそらく息子とその仲間の裏切りにより、マ カバは殺された。ングワケーツェ族は打ち負かされた。翌年セベツヮーネは、再び今度はマカバの息子のセベホを攻撃 するだろうといわれた。ングワケーツェ族はクヮクウェに移動し、クウェナ族は今度は家がなくなり、砂漠を渡って逃 げ出し、多くは最後にはンガミ湖のそばに短期間住んだ。 セベツヮーネは今、東カラハリの広大な地域を支配した。しかしながら、彼はわずかな支持者とたった一つの街を持 っているだけで、地位は強くなかった。1826 年には、彼はングワケーツェ族を再び攻撃し、彼らを打ち負かし、彼らが 残した牛のほとんどを手に入れた。セベホは復讐することを決めた。彼はベインとビダルフという 2 人のヨーロッパ人 旅行者と彼らと行動を共にしていた何人かのグリカ人の助けを得て、ディトゥバルバへ出発した。セベホが彼の牛だけ を取り返し彼らは空砲しか使わないという条件で、いやいやながら参加したと、2 人のヨーロッパ人は後に述べている。 1826 年 8 月 29 日の夜明けに彼らはディトゥバルバを包囲し、目覚めたコロロ人を銃撃し、彼らを追い出し、町を焼き 払い、全ての牛を奪い取った。セベツヮーネはそれからモチュディの近くの丘に住み、数年後に北に去った。 1829 年頃セベツヮーネは再びングワト族を襲撃し、部族を分割した。多くのングワト族はマカディカディに脱出し、 一部は残って丘に隠れた。コロロ族は彼らを追ってマカディカディへいき、それから西へ向かいボテチ川に到達した。 彼らはデティとカクウェの角の長い牛を奪い、モピピの西のケディア丘のそばに住んだ。約三年後彼らは再び西に向か いンガミ湖のそばのタワナ族を攻撃した。モレミ一世は今ではタワナ族の族長であったが彼の軍を 2 つに分けた。一部 隊は彼の弟のモツヮクモに率いられていたが南へ向かいハンツィの牧場で牛の群を守り、一方でモレミの軍隊はコロロ 族とカウツァ平原で戦った。彼は打ち負かされ北へ逃げたが、一方でコロロ族はモツヮクモを追って南へ向かい牛を奪 った。 モツヮクモはすでに牛を集め、北へ去り、オカヴァンゴ川を渡り南アンゴラに入った。モレミは彼の敗れた軍勢をタ オヘ川の西岸まで引揚げ、それからイェイ族の小船を使いデルタ地域に入りハバムクニのそばの島に隠れた。彼らはす ぐに再び北東に向かいマクウェハナまで旅をし、リニャンティ川に居を構えたハンツィ地区から逃げてきた牛を見つけ てセベツヮーネはコロロ族を連れて西へ向かい今のホバビスのそばでンバンデル族とコイサン人を攻撃した。彼は水の 無い土地に入りこみ迷った。彼の牛は死に始め、彼の 10 歳の息子もなくなった。彼はンガミ湖に戻ることを決めた 彼はタワナ族を追い、ハバムクニへ、そしてリニャンティ川へいき、そこで彼の部下は夜に村を囲まれ、夜明けと共 に攻撃された。モレミの妻と、息子のレツォラテーベは他の数人とバスビヤへ逃げ出した。コロロ族は捕らえたタワナ 族を連れて今のザンビアに渡り、ほとんどルサカの位置まで北上した。最後には、彼らは南西に逃れ、タワナ族と一緒 にカチカウから遠くないチョベ川に住んだ。 63 ムジリカジとンデベレ族 われわれは何年かさかのぼって、なぜムジリカジとンデベレ族がマジャナマツヮーナに住んだかを理解しなければな らない。1821 年にマクマロ族の族長のムジリカジは、北部ズールーランドにシャカ王のもとで住んでいた。いくつかの はっきりしない理由で、彼と 300 人の戦士は突然家から逃亡し、北西方向に動き始めた。理由はシャカが奪った牛の所 有権についての議論か、奴隷商人が奴隷狩りのために絶え間無く北ズールーランドを襲撃したことかもしれない。 彼の北への道のりで、彼は多くの人々を集めた。彼は最初にセクワティ族長のもとのペディ族を攻撃し、北へ追いや った。しかしながら、ンデベレ族が定住しようとすると、グリカ軍に攻められ、再び動くことを強いられた。彼らはズ ールーランドから遠く離れた所へ動くことに決めた。 彼らはヴァール川を渡り現在のマガリースバーグのそばに住んだ。 ムジリカジは、その地の原住民はソト族に追い出され、ソト族も一年前に立ち去ったことを発見した。臣民や土地や平 和を得るため、かれは潜在的な敵をその土地から容赦無く一掃することを決めた。彼は部隊を南、西、北に送った。す べての居住地は破壊され、抵抗は無くなった。彼は捕虜を捕まえた。若い男は軍に入れられ、女子供は国に編入された。 彼の軍の強さのため、彼はとても恐れられ、そのため彼の臣民は平和を得た。 これらはツワナ人にとっては恐ろしい時代だった。絶え間無い攻撃のため、彼らの政治組織は崩壊し、牛は盗まれ、 食物を育てることができなかった。小さな部族は解体し、王家の親戚筋は部族から離れ、より強い集団に属した。全て の土地は小さな集団で満たされ、彼らは土地から土地へ動き、丘に隠れ、そして時には野生の食物を集めたりより豊か な隣人から盗んだりして生活することを強いられた。 クウェナ族は、いくつかの集団に分裂し、その中には同時にまたは別々にンガミ湖に住むものもおり、セロウェでン グワト族とともに住むものもおり、ロフェペに行くものや、ルヮレでングワケーツェ族と住むものもあった。 ムジリカジはセベホの元に部隊を送り、ングワケーツェからの貢納を要求した。しかしながらセベホはンデベレ族の 接近を聞き、カラハリに逃げ込んだ。ムジリカジの軍はングワケーツェ族の町を破壊したくさんの牛を奪うことに成功 した。後に彼らはセベホを追って砂漠に入り彼を西のドゥトゥウェに追いやった。ムジリカジはドゥトゥウェでセベホ を攻撃するために軍隊を送ったが、この接近を聞いてセベホはムジリカジを騙すためクヮテン族を数人送った。クヮテ ン族はンデベレ族の道案内をして彼らを棘の多い地域に導き、ングワケーツェ族はそこで彼らを打ち負かした。セベホ はそれから西へ向かいハンツィに入って、最後にはレフトゥトゥに住む一方、ングワケーツェ族のほかの集団は南に動 きロロン族と住んだ。 1836 年のフォール・トレッカーズ 年のフォール・トレッカーズの到着 フォール・トレッカーズの到着 われわれはどれほど白人農民が、ケープタウンの政府管理から抜け出すために、ケープから広がり始めたかというこ とを見てきた。多くのこのような農民は恒久的な家を持たず、車の中に住んでいた。彼らは一箇所に一年かそれ以上住 み、わずかな農産物や野菜を育て、狩をし、象牙・衣類のための毛皮・弾薬・コーヒー・タバコを交易した。それから 彼らは自分たちの牛や羊の群を集めケープタウンからさらに遠くに移動した。彼らは召使を連れていた。西ケープのコ イ族、多くがマダガスカルから来た黒人、そして奴隷として輸入されたマレー人たちだった。白人農民は 2 つの権利を 持っていると信じていた。すなわち、どんな大人の白人も自分の家畜のために必要なだけの土地を取ることができると 言うことと、誰も自分の召使について干渉することはできないという事だった。多くの召使はまだ奴隷であるか、奴隷 のように扱われていた。 農民は聖書以外には本を持たず、彼らは土地に住むこととそこの人々を召使のように使うことができるよう神に選ば れていると信じていた。 彼らは永遠には政府から逃げ出せないと解っていたが、 できるだけ長く自由を保つよう望んだ。 1830 年までに多くの移動するボーア人の相関わる集団が北東に広がり、オレンジ川をわたり、グリカ人に混じって住 んだ。ケープタウンから遠く離れたボーア人の居住地までイギリスの統治が届き始めたので、彼らはその支配を逃れる ために農場を放棄し、トレック・ボーアとなり、家畜や召使と共に東へ向かい、徐々に東ケープに集まった。 1834 と 35 年に他よりも冒険的な何人かのトレック・ボーアは、北へ向かいヴァール川の両岸は無人で農場に向いて いるという報告を送り始めた。彼らは、ツワナ人が最近まで住んでいたその土地はンデベレ族に追い出されたけれども まだ自分たちのものだと考えていることを知らなかった。また、ムジリカジは自分の国を作ることに干渉する隣人がい ないようにするためにそこを無人にしておいたのだった。 1835 年、何人かの有名なボーア人が親類を集め始め、別の集団となりオレンジ川とヴァール川の方へ北上した。これ が、ボーア・トレックまたはアフリカーナー・ディファカーネの始まりだった。一度オレンジ川を渡ると、小さな集団 は大きな集団を形成し、ヴァール川に向かって一緒に動いた。これらの北へ向かったトレック・ボーアの大きな集団は フォール・トレッカーズと呼ばれた。歴史家の中にはこの北への動きを”グレート・トレック”と呼ぶものもいた。 ポトギエーターとシリアーズに率いられた、これらの集団の最初の一団は、1836 年の初期にヴァール川に沿って住ん だ。彼らは広がり、牛や羊を広い地域に放牧し始めた。ムジリカジは、彼が自分のものだと考えている土地にこれらの 農民たちがやってきて、許可なしに住んでいることを聞いた。1836 年 8 月 2 部隊を調査のために送った。彼らはムジ 64 リカジの所へ戻るまでに 2 つのボーア人集団を見つけ攻撃した。ボーア人たちは、再びンデベレ族に攻撃されるかもし れないことを感じて、後にフェグコップと呼ばれるヴァール川の南側に後退した。彼らは車を円陣に組みその中に入っ て、ンデベレ族を待った。彼らは 10 月 16 日に大軍で攻撃した。ンデベレ族は車の輪を突破できなかったがほとんどす べてのボーア人の牛を奪った。 少し後に、マリツに率いられた新しいボーア人集団が到着した。ンデベレ族の攻撃の後、ポトギエーターはロロン族 族長のモロカに助けられた。いま、107 人のボーア人と 40 人の武装した召使がムジリカジを攻撃し始めた。彼らと共 に、ロロン族も家畜を捕らえるために行った。彼らは 1837 年 1 月にモセハを攻撃し 400 人の人々を殺しポトギエータ ーの家畜を取り戻した。 その年の終わりに、ムジリカジは再びズールー族に攻撃され、また 11 月にはボーア人のほかの集団が彼を攻撃した。 戦いは一週間以上続き、ボーア人の騎兵隊はンデベレ族を追いかけ銃撃した。ムジリカジはリンポポ川を渡り、北へ向 かってツヮポンに定着した。食料と牛を獲得する方法として、彼らはングワト族を攻撃し、彼らをマカディカディに追 いやった。1838 年に彼は再び動き、今度はナタへ行った。1 つの集団は今のジンバブエにいった。ムジリカジは残った 人たちと、西や北へ向かい新しい故郷を探した。二年後、彼は今のブラワヨの近くで最初の集団に再合流した。 ンデベレ族を追い出すことによって、ボーア人は征服の権利としてその地を自分たちのものだと考えた。彼らは再び 広がって牧蓄農業をはじめた。北のツェツェバエと東のマラリアに制限され、彼らはおもに南部と西部のトランスヴァ ールに住んだ。 ブトゥア国家の終わり 北では、ニチャシケ朝が深刻な問題に直面していた。1800 年までにブトゥアはとても大きく成長し、違った言葉を話 す人たちを含んでいた。一連の旱魃と内戦が国を弱めた。 マンボのチリサンフルは先祖から受け継いだ力の一部を失い、トゥンバレの子孫がヴァロジヴィ軍の将軍になり、マ ニャンガの首都の近くに拠点を置いた。1830 年までにブトゥアの国は特に西部で壊れ始めた。そこではブリリマーグヮ ーマングウェ県がほとんど独立し始めていた。 その国は、現在のスワジランドからきたムパンガのソト族によって 1832 年頃最初の攻撃を受けた。その直後にング ヮママセコのングニ族に攻撃された。どちらの攻撃も失敗したが、ヴァロジヴィ軍は弱体化した。2 つの侵入者は今の モザンビークからやってきたズヮンヘンダバのングニ族という 3 つ目の集団を呼びこんだ。彼らは逃げ出し、北へ向か って今のハラレのそばに定着した。ここで彼らは自分たちが攻撃を受け南西へ向かい再びブトゥアを攻撃した。彼らは 打ち負かされ、北へ向かってザンベジ川を渡って、最後には今のタンザニアへ入った。 ズヮンヘンダバが打ち負かされたのと同じ年、彼の女いとこのニャマザナ(ニャマズマ)は東から他の軍を連れてマ ニャンガのブトゥアの国を攻撃し、その軍を破りチリサンフルを殺した。彼女は国の支配はできなかったが、その地域 にとどまった。 ブトゥアのカランガ族の国は今やマンボがいなくなった。 1838 年大きなンデベレ族の侵略がブラワヨ周辺を支配して いたグンドゥワネのもとで行われた。2 年後彼はザンビアの辺りで北を周回していたムジリカジとその臣民たちと合流 した。ムジリカジはいくつかの町を作り、すばやくカランガ族をその支配下に入れた。彼はメングウェのような伝統的 首長を許し、その臣民を管理させつづけたが、新しいンデベレ族の封臣として扱った。彼はカランガ族の支配者の忠誠 を得るために牛を与えたが、彼の前のマンボがそうであったように、彼は穀物・毛皮・象牙・そして若者たちといった かたちで貢納を要求した。 1850 年に、カランガ族は新しいマンボを任命し、ムジリカジに対して自分たちの国を再建する最後の試みとして立ち 上がった。蜂起はつぶされ、新しいンデベレ族の国がブトゥアの西部地域でしっかりと設立された。ムジリカジはモト ーツェ川とザンベジ川の間とマカディカディまで西へ向かう土地をすべて要求した。彼はその軍隊を使い支配を強化し たが、現代のボツワナや東ジンバブエのショナ族の地にわたる完全な土地の支配を得ることはなかった。 まとめ 見てきたように、ディファカーネや困難のときといったことがいつ本当に始まり、いつ終わったのかを知るのは難し い。現在のボツワナでは、18 世紀にツワナ人部族の広がりが始まった。ブトゥアの南の国境はカ族が住んでいたが、彼 らは 1700 年代の初期にカランガ族に同化された。クルーツェ族やングワト族もまた南の国境に住んだ。ペディ族やビ ルワ族は、 同時期に西に土地を広げたが、 彼らはおそらく侵略者というよりも難民だった。 タワナ族がクウェーベに 1795 年頃に住んだとき、イェイ族やカラハリ族はそれをディファカーネの始まりと見ただろう。 ディファカーネの後には、生活は元には戻らなかった。われわれは起こったことを全て知っているわけではない。侵 略の前に人々がどう生活していたかは、ある程度推測しなければならない。侵略後の期間については、初期の宣教師・ 狩人・採鉱者・探検家といった人たちの記録があり、世代を通して語り継がれた伝承がある。 65 コラム~何がディファカーネを起こしたか? 何がディファカーネを起こしたのだろうか?なぜズールーランドやレソトの回りに住んでいた共同体は突然壊れ、コ ロロ族やンデベレ族といった分派集団は故郷を離れ何千 km も旅をし、新しい家を探したのだろうか?これは、シャカ が今ではクヮズールー・ナタールとして知られる大きな国を作ろうとしたことが原因の全てなのだろうか?南東海岸で の奴隷と象牙の交易は、いくつかの集団が自分たちを守るためにその地域から立ち去らなければならないほどの崩壊の 原因となったのであろうか?または、長い旱魃や増えすぎた人口が食べ物や土地を巡っての戦争の元となったのであろ うか? 100 年間にわたって歴史書は非難のほとんどをシャカが軍事国家を作ったことと隣人に攻撃を仕掛けたことに当てて いる。実際には南東部で多くのことが起こり、これはほとんど無視されてきた。おそらくヨーロッパ諸国には影響しな かったからだろう。 象牙の交易は、金の交易が減少してから重要性を増した。奴隷もまた、重要性を増した。1820 年までにポルトガル・ イギリス・フランスそして他のヨーロッパ諸国が東海岸で奴隷を買い、 マプートやデラゴア湾からアメリカに輸出した。 これらの国は、黒人支配者に武装をさせ始め奴隷と象牙のためにお互い戦争をさせた。 これらの襲撃はまた牛や農産物を略奪ししばしば人々を宿無しの飢餓状態に置いた。西部では、白人農民は東や北に 拡大し、ときどきイギリス軍の違法な援助も受けた。グリカ人の山賊はオレンジ川沿いを襲撃し奴隷を得て、それを農 民に売った。 われわれはディファカーネの勃発の原因を全て知ることはないかもしれない。しかしながら、象牙の交易と奴隷の交 易がズールーの戦争へと通じたとわれわれは信じている。東でのこの戦争と西での白人の拡大が国を壊してしまったの で、多くの人々が動くことを強いられた。このようにしてディファカーネは動き出したのだ。 66 第 19 章 ディファカーネの終わりと再構築 ディファカーネによる進入、戦争、襲撃がおさまるにつれ、共同体は自分たちがもともと住んでいた土地に再び結集 し、家を建て始めた。族長は、その臣民を守ることや、養うことができなかったため、彼らに対する支配力が低下した。 集団は離れた地域に離散し、難民となり、時にはばらばらになり権力を手中に納めたがった族長の兄弟、息子、おじの 支配下に入った。 特に西部トランスヴァールからのムジリカジとそのンデベレ族の排除により、カトラ族、クウェナ族、モホパ族、フ ルーツェ族、ロロン族などの部族は、マハリエスバーグとノトワネ川の間の地域で再編成することができた。この地域 にはすでにボーア人の小さな共同体があり、彼らは拡大し南から来た別のボーア人と合流しようとしていた。その時、 ツワナ族集団はボーア人を同盟者とみなし、ンデベレ族を彼らの土地から追い払う助けをしてくれると考えていた。 ノトワネ川の西側では、部族は分割されたままだった。セチェレのもとのクウェナ族はレフェペに、ブビのもとの他 の集団はモセレベ川の近くに、 他のわずかはングワケーツェ族に混じって住んだ。 ングワケーツェ族も分割されており、 セホツァーネを長とした集団はツヮネンに住み、 レフトゥトゥではセベホが、 ドゥトルェではディアテンが率いており、 ボメのもとでングワト族と共に住むものもあった。北へ向くと、多くのングワト族がソワパンのモスに住んだが、ボテ チ川まで西に住んだものもいた。セロウェの南のクツウェ丘に残るものもいた。タワナ族は、コロロ族のもとでチョベ 川に住んだ。 再構築は、部族レベルではなく、小集団のレベルで始まった。族長はちりぢりになった臣民を探し始め、小集団が戻 ってくるようにした。しかしながら、より大きな集団を率いた王族は、族長の元に戻ることを拒否した。たとえば、ブ ビは自分の臣民がセチェレに合流することを拒否した。 銃の重要性 戦争が終わったとき、族長にはわずかな財産しか残らなかった。彼らの牛の多くはいなくなった。彼らはその臣民か らの支持を保つために牛が必要だった。一方でセホツァーネのングワケーツェ族のような集団は避難して来たクウェナ 族を加えることにより勢力を強めた。族長はもし外敵から身を守らなければならないのならば、将来的には自分たちの 部族が大きくなり、良く武装されなければならないと認識していた。 今や銃と象牙はとても重要になった。最初の一歩として族長が取ったものとして、自分たち自身を銃で武装すること があった。彼らは銃をグリカ人、ロロン族そして 1820 年頃から彼らの国にやってきた白人商人から手に入れた。ディ ファカーネの間、 彼らは、 フティン族とハラコアナ族がディタコンのわずかな武装騎兵によっていかに追いやられたか、 わずかなグリカ商人が銃をうちこんだときにコロロ族がディトゥバルバからいかに逃げ出したかということを見ていた。 彼らはまたより多くの銃と牛を交易するために、象牙や皮革のための狩りに銃の用途があることを認識していた。 商人が到着すると、族長は彼らが自分たちとだけ交易するように、さらなる北へ動きを妨げようとした。最初、この やり方は機能し、交易路の北の終点はオレンジ川に置かれた。商人は象牙に興味があり、それを車で南に運び、ケープ 植民地に売ることによって利益を得た。オレンジ川沿いの全ての象がいなくなったので、商人は北上しロロン族、ング ワケーツェ族、クウェナ族、ングワト族の各主邑に次々と拠点を築いた。象がこの地域にたくさんいる限りはそれぞれ の族長は象牙交易を管理することができた。族長は銃の臣民への配分や狩られた象牙を全て取ることによって伝統的な 権力を取り戻すことができた。彼は自分以外のものが象牙や銃を交易する事を許さなかった。しかしながら、彼の臣民 は、いかに象牙で牛を買うかを見ており、自分たちで狩りをするための銃を欲しがった。象が少なくなるにつれて、人々 は夜中に直接商人と象牙を銃と交換することを始めた。彼らは自分たちが取った象牙で自分たちの牛を買い始めた。最 初はオレンジ川で、それからモロポ川で、そしてそれぞれの族長の国を通って南西部ボツワナに象がいなくなるまで、 象の群はすぐに捕り尽くされた。 この頃から、 族長の部族に対しての管理の方法に大きな変化が起きたようだった。 過去には富の主な形態は牛だった。 より多くの牛を家族が管理していれば、 より多くの尊敬をほかの人々から受けた。 裕福な人々は他の人に影響力があり、 貧しい人は社会的に無力だった。族長は牛の配分を管理し、多くをその親類に分け与えた。順番に、王族はその牛を貧 しい人々に分け与えることで彼らの支持を得た。伝統的には、重要なのは牛の管理だった。誰も牛を”所有”していなか ったのだ。彼らは他の人にそれを売ることができなかった。それらはいくつかの習慣により交換されるだけだった。実 際には、全ての牛は部族に属し、それぞれの取り分は異なるが、全員が取り分を得る権利を持っていた。ある家族が部 族から追放され、全ての牛が族長によって取り上げられ、他に再分配されたという事実により、これは確認された。今 では人々は銃や象牙を所有しだし、それによって牛や馬と交換できるようになった。牛が買われればそれは買った人の 物になり、部族の財産では無くなる。はじめて家族は実際に本当の財産を持ち始め、もはや族長に気を遣う必要が無く なった。これは平民が族長の助けなしに有力になったことを意味した。 土地が少なくなっているまさにそのときだった。ますます多くのボーア人がトランスヴァールに入ってきて農場と狩 場を探した。農民の中には恒久的な家や小さな町を作りたがるものもいた。彼らはレンガの家を建て、果樹園を作った。 67 彼らは農場の境界に石を積み上げてしるしをつけた。彼らはより広い農場を耕し、タバコやもろこしを植え始めた。彼 らはより多くの水が必要だったので、ダムや灌漑用の堀を作り、水を畑に運んだ。 最初、ツワナ人は彼らを助けた。彼らは農民と土地を分け合い共に働き、耕作や作物育成の助けをし、井戸や堀を掘 り、家を建て、牛の面倒を見た。白人農民が、ツワナ族土地所有者から土地を奪うことにより、より多くの土地を取り、 両者の間の議論が始まった。ツワナ族はもともと農民のために働くと、牛や羊で支払を受けていたが、ボーア人の数が 増えるとこの制度はとまった。ボーア人はもしツワナ族が彼らの農場に住みたいのならば、労働によって支払わなけれ ばならないといった。ツワナ族が拒絶するとボーア人は族長の所へ行き始め、労働に税をかけなければならないと教え た。族長の中には自分たちがボーア人を拒絶するほど強くはない事を知っており、徐々に西へ向かい強い部族に合流す るものもあった。レテ族とトロカ族はともに西へ向かいクウェナ族の地へ移動した。ロロン族はモロポ川の南の彼らの 故郷に戻った。 ボーア人はこの動きを見ていた。彼らはングワケーツェ族とクウェナ族が商人から多くの銃を買っていることを知っ た。彼らはケープのイギリス政府へ行き、ツワナ族に銃を売ることを禁止するよう頼んだ。最初彼らは失敗し、ツワナ 族は自力で武装しつづけた。すぐにクウェナ族はセチェレのもとで強力な部族だと認識され、多くのツワナ族が自分の 家を去り、彼に合流した。 ディマウェの戦い 1852 年にボーア人はサンド川でイギリス人との協定に調印した。この協定はサンド川会議として知られた。それによ り、ヴァール川の北側に住んでいるボーア人はケープのイギリス政府から独立し、イギリスがその地域の黒人集団と同 盟を結ばないことを保証した。 何年にもわたって、ボーア人はセチェレの非武装化と、その臣民が自分たちのために働くことを望んできた。会議に 署名したあと、彼らはこの成果を強制することを望んだ。カトラ族のモシエレレ族長は、ボーア人がセチェレのクウェ ナ族を攻撃するのに対して兵隊を送るよう指示された。1852 年の 7 月 30 日にその頃マリコ川の東岸に住んでいたモシ エレレは指揮官のピーター・ショルツとの会議への出席を断ることによってボーア人に怒りを表した。彼のすむマンワ ネは攻撃され、マボーツァにあるロンドン宣教師団の拠点は理由も無く破壊された。モシエレレとその臣民は牛ととも にセチェレのもとに逃れた。 ボーア人はセチェレを攻めることを決めた。ショルツ指揮下の 430 人の特別奇襲隊は、800 人のツワナ族の予備隊を つれてクウェネンに出発した。クウェナ族の首都であるディマウェに到着すると、彼らはモシエレレを差し出すよう要 求したが、セチェレは彼を明け渡すことを拒絶した。ショルツはそれから、セチェレに武器を放棄しボーア人支配に従 うよう命令した。セチェレはこれも拒絶した。 二つの集団の争いは 8 月 30 日の月曜日に発生した。クウェナ族は、ングワケーツェ族、カトラ族などの部隊に助け られた。戦闘はたそがれ時まで続いた。夜の間に同盟軍はディマウェから引き上げた。クウェナ族は西のディトゥバル バへいき、ングワケーツェ族は南のカンエに戻った。 ボーア人は、クウェナ族とその同盟者を滅ぼすために展開した。カンエまで南下しングワケーツェ族を攻撃したもの もいたが、彼らは今や自分たちを守ることができた。他のものは西へ向かい、最初にコロベンでリビングストンの宣教 師団を滅ぼした。9 日後、ショルツは部下を駆集め、トランスヴァールに立ち去った。しかし、彼らはクウェナ族の一 団に追跡された。ボーア人は農場を 1 つずつ破壊されることを恐れてマリコ川で車陣を作る一方で、クウェナ族は彼ら の農場を焼き、牛を取り上げた。最後には、ボーア人はもはやその地域にとどまることができないと実感したので、そ の農場を放棄し、東へ向かった。 ディマウェの戦いの間、80 人のツワナ人が殺され、200 人の女性と子供が刑務所に入れられたが、その多くは後に逃 げ出すことができた。クウェナ族とその同盟軍は 36 人のボーア人を銃殺し、もし農民が農場に帰ってきても彼らはそ れをすべて破壊するであろうことをはっきりさせた。ディマウェの戦いはボーア人の拡大の転換点となった。クウェナ 族は戦いには勝ちはしなかったが、多くのボーア人を銃で殺し、その侵入を食い止めた。後に彼らは、トランスヴァー ルで反乱を起こすことによって、ボーア人の農場を焼き払い、住居を破壊できることを示した。この意味でディマウェ はツワナ族の勝利だった。もしセチェレがボーア人と戦わなければ、ボツワナ全土がゆっくりとボーア人に占拠され、 南アフリカ共和国の一部になっていたこともありえただろう。 ディマウェは、ボツワナでのディファカーネの終わりをあらわした。そうだとしても、さまざまな国の再構築はセチ ェレがボーア人をマリコ川の東に追いやるよりはるか前から始まっていた。これを理解するために、部族の構造がどの ように組織されてきたかというやり方について最初に見なければならない。 68 伝統的部族組織 伝統的に、どこでも統治部族のツワナ族は、自分たちが広大な土地に関する使用権と、その土地に住むほかの住民集 団から貢納と尊敬を受ける権利を持っていると考えていた。彼らは村に住み、そこはしばしば防衛のために丘のそばに 位置していた。村はたくさんの区からなっていた。これらの区は 2 つのやり方で形成された。 1. もし族長が 3 人の妻と結婚したら、彼は 3 つの新しい区を作りそれぞれの妻の息子をそれらの 1 つに割当、統治し た。それぞれの区に平民家族もつけ、その支持者や奴隷とした。 2. 他の区はおもに、ツワナ族の違った部族集団からなっており、彼らはもとの部族から分かれ、新しい族長を自分の 支配者であると認めていた。 他集団のツワナ族もまた、自分たちの統治者のもとで生活していたかもしれない。地域の中で、彼は尊敬や貢納を払 うよう求められたが、彼らは立ち去ることができた。彼らは貢納と尊敬を払わなければならなかったが、村の中心にす む必要は無く、部族の一員とはみなされなかった。 最後に、普通カラハリ族と呼ばれる、従属的な集団がいる。彼らもまた、村の中心の区に住むか、王家の家に住まわ っていた。彼らは奴隷として働き、普通財産持つことを許されず、ほとんど権利が無かった。彼らは部族の一員とは見 なされなかった。 族長は信用できる平民を、王家の親類に支配されていない村の中心区の長に任命した。 ディファカーネがおさまったあと、部族は改革を始めた。いくつかの場合、ディファカーネが終わる前に族長が部族 を良くするよう再構築をはじめた。侵入が始まるよりも前に、部族がすでに分裂し始めているときに起こった。例えば、 カリはングワト族の再構築を 1824 年には既に始めていた。 再構築は、いくつかの段階を伴った。 1. 族長は自分の臣民がばらばらの集団になっているのを探した。彼らはしばしば族長の兄弟、おじ、いとこなどに統 治されており、族長は彼らを部族に平和裏に戻すよう試みた。もし彼らが拒絶した場合には、今やその集団を率い ている親族を殺すか、その集団と戦った。 2. その後、彼らはディファカーネの前に所有していた土地に、集団の全てに一つの強い居留地を設立しようとした。 3. 彼らの強さと所有している牛の数により、彼らは他の小さなツワナ族集団を説得して難民として参加させた。 4. 彼らは、牛を送ることによって親族・平民ともに支持を勝ち得始めた。 5. 彼らは、その地に住む非ツワナ族を従属させ、彼らに牛、農作物、象牙、羽毛で貢納することを強制した。 6. 彼らは、自分たちの領域を、その地にすむ全ての人々の服従を確保することによって定義した。どんな集団でも、 貢納や尊敬を払うことを怠ったら、彼らは攻撃され、服従させられるか国外追放になった。 ングワト族国家の再構築 カリは、ングワト族の国を作るのにさまざまな手段を使った。最初に彼はカメロ制度を組織した。カメロは、よく戦 争によって略奪された、族長に属する牛だった。それらは族長にかわって世話をするために平民に与えられた。平民は それを許可なしに、屠殺したり、食べたり、交易したりすることは許されず、族長にソアミルクを定期的に供給しなけ ればならなかった。それ以外には、人々はカメロを自分たち自身のために使うことができた。カメロの持ち主は、カメ ロや彼の持っているもの全てを取り上げられないように族長に背かないようにした。 カリは、彼の子供たちにカメロを与え、それは彼らに大きな力を与えたことだった。これにより、カリは族長会議を 安定させることができた。部族政治の大きな部分で族長を支持してきた王家の親類は、いま族長会議でその力が弱めら れていることに気がついた。これにより、部族政治により大きな統一感が形成された。 それから、部族を脅かしたりそれに入りこめない人々をその土地から追い出したりする組織的な戦略が始まった。 1849 年にングワト族のセコマ一世はショションのそばのカ族を攻撃し、その地域から追い出した。彼はツヮポンヒルの 南北に住んでいたビルワ族とレテ族を攻撃し、すべてのツヮポン族を征服した。セレカ族だけは銃で武装し、リンポポ 川のそばのツェツェバエに囲まれた丘に住んでいたため、セコマの息子カーマ三世のときまで征服されずにいた。カラ ンガ族は北のンデベレ族と南のングワト族の間で罠にかけられ、戦わずして服従した。このようにしてングワト族はそ の土地に住む全ての弱い集団に貢納と尊敬を払わせた。 カーマ三世は従属した人々が中心的な部族により近く結びつくようさせた。少年が従属した人々の面倒を見て彼らを 代表した。彼らは”土地の少年”として知られた。彼らは、その臣民を定期的に訪れ、土地を割当、貢納品を集め(その一 部は自分のために取っておくことができた)、小集団間のいさかいを解決し、訴えを聞くというような義務を負っていた。 ングワト族の土地は 4 つの区域と 8 つの地区に分けられ、それぞれは少年が統治した。最初は、首都の自分の地区にと どまっていたが、最後には、彼らは自分たちの地区へ動き、自分の家をたてた。これにより従属集団と部族はより近い 結びつきになった。 ファレン、タロアテ、ツヮポンといった小集団の指導者は、自分の臣民の面倒を見、自分たちの習慣で統治すること 69 を許された。彼らはカーマのために貢納を集め、そのうちの一部を取ることを許された。しかしながら、彼らは自分た ちの成人式を行うことは許されておらず、それは族長によってなされた。従属集団の若い男は、ングワト族の統治で成 人式を行い、それにより彼らとより近い関係になった。 カリのはじめたことは、カーマ三世が完成させた。彼はその支配をリンポポからボテチ、北のカランガ族から南のフ ェペ族まで国中に広げた。他の部族も同じ方法で再構築された。 タワナ族はどのように王国を作ったか? 1840 年頃、ほとんどの王族を含んだ多くのタワナ人は、チョベ川のコロロ族の従属民族として暮らしていた。部族の 残りはオカヴァンゴデルタに住んでいた。この年に、反逆罪の疑いでコロロ族はタワナ族の王家を殺すことを決めた。 タワナ族はこのことを知り、多くは逃げ出しトテンの古い家に戻った。誰が摂政になるべきかの議論のあとに、モハ ラクウェが任命され、国の再建と後継者レツォラテーベ一世が族長になるための育成に取りかかった。 トテンの町は再建され、捜索隊がデルタに不法に住むタワナ人の小集団を取り戻した。モハラクウェはそれからその 土地に住む他の人々に新しい国の市民権を与えた。すなわち、牛を持つカラハリ族、イェイ族、コイサン人である。も し彼らが拒絶すれば、モハラクウェはかれらから家畜を取り上げた。彼は彼らに狩で生活を立てるよう強いたが、トテ ンの大きな町のままであった彼の国に彼らを受け入れることはしなかった。 1847 年にレツォラテーベ一世は族長になっ た。最初娘を王家に嫁入りさせることによって親戚たちの支持を得た。それから彼はイェイ族を国の一員に加えようと しはじめた。少年たちは軍隊に入らされ、全ての共同体が穀物・肉・羽毛に税金を払った。すぐに国はデルタの南を広 く覆いカラハリ族とコイサン人を編入した。少年たちは軍に参加し、共同体は野生動物製品で貢納した。 1849 年に最初の商人が車と一緒に到着したあとに、象牙と銃は重要になり、南に向かった族長のように、レツォラテ ーベ一世は銃を貸し出し、貢納を象牙で要求した。レツォラテーベ一世は自分の新しい国を地区に分け、影響力のある ツワナ族を配置した。これらの少年は貢納を集め、族長の法を課し、訴えに対し判事の役割を果たした。伝統的なイェ イ族やカラハリ族の支配者はその臣民を統治しつづけたが、今では少年の監視下にあった。 1853 年頃レツォラテーベ一世はチョベ川沿いにまだ残っているタワナ族を説得し彼に参加させた。 彼らはコロロ族や ロジ族の家族を何人かを結婚により連れており、それゆえに部族は強くなった。タワナ人は依頼者制度を課し、カラハ リ族、イェイ族、コイサン人を農奴とした。男はカラハリ族の女性を第 2 第 3 の妻として結婚した。貧しいカラハリ族 は自分たちの区を持つ首都へ行ったが、タワナ人への仕事しかなかった。まずしいイェイ族家族がまた入ってくるが、 彼らは自分たちの区を持てず、タワナ人のもとでほとんど奴隷のように働いた。このようにしてタワナ人はその主邑の 大きさを増し、軍隊を強化し、周りの地域を管理した。 レツォラテーベ一世は西のヘレロ族指導者と牛の交換に関する友好条約を結んだ。条約では、攻撃があったときのた めの避難所が提案された。後に彼はコロロ族が攻撃してくるまでを挑発した。彼はクウェーベベの丘陵地まで退却し、 そこで彼らを破った。 1874 年に亡くなるまで、 彼はデルタの南半分やその周りのカラハリに強い国を広げて、 再建した。 まとめ われわれは、いかにングワト族とタワナ族の国が、民主主義、行政能力、強制力を通して再構築を行ったかについて みてきた。これらの町に基盤を置くツワナ族国家は広範囲の土地とそこの非ツワナ族を管理した。 他の国も似たようなやり方で再形成された。けれども、クウェナ人は、主に他のツワナ族移民のおかげで強くなった。 1843 年にリビングストンは、セチェレの支持者はたった 300 人程度しかおらず、一方でそれ程離れていない所にすむ ブビの支持者は 350 人のほかのクウェナ人も含んでいた、と推計した。1849 年までに彼らが合流し他のクウェナ人が 小集団で到着したとき、彼らの数は 2400 人になっていた。彼らが合流したその年には、1250 人のカ族が合流し、部族 の合計は 3650 人になった。それに加えて、奴隷として仕え、村の端に住んでいたカラハリ族家族がいた。ディマウェ の戦いの後、クウェナ族は約 20,000 人の人が住んでいると推計されたモレポローレの西にあるディトゥバルバに動い た。他の部族からやってきたツワナ人もいた。 ングワケーツェ族、クウェナ族、ングワト族といった今日の大部族は、小さな核となる形成時からの人々がいた。彼 らに加わった他の集団はゆっくりと吸収されていった。ディファカーネの後、それらの集団は数が多いことの利点を見 出したので一緒にとどまった。また動き回るのに十分な場所が無かった。1865 年からクウェナ族もングワケーツェ族も その巨大な居留地から動かなかった。カトラ族はボーア人の拡大によってトランスヴァールを去り 1871 年にモチュデ ィについた。ングワト族は 2 度動いた。1889 年に今のパラペの東にあるファラツェに、そして 1902 年にセロウェに行 った。 タワナ族は、 さらなるンデベレ族の攻撃を避けるため、 1885 年にトテンから西オカヴァンゴのタオヘ川へ移った。 彼らは最終的に 1915 年にマウンに移る前にその川にいくつかの主邑を築いた。 ツワナ族部族が統合したのはディファカーネのためであり、彼らが大きな居留地に残ったのは将来への恐れのためで あった。これによって、なぜ、モレポローレ、カンエ、セロウェと言った居留地が現在とても大きいのかということを 70 説明することができる。もしこれらの戦争が無ければ、部族は小集団のままでおり、多くの非ツワナ部族が独立を守っ ていただろう。 1820 年代の侵略がボツワナの人々に及ぼした真の影響は何だっただろう?おそらく、 戦争の最も重要な結果はツワナ 人が共通の敵に対して統一したことだろう。 これは部族が平等な統一を認識した将来のボツワナ共和国の基礎を築いた。 多くの小集団は大集団に参加するか国を出るかという事を強制された。ングワト族のセコマ一世はカ族を彼の土地から 追い出し、ツヮポン族・ビルワ族・カランガ族を征服・合併し自分の部族にくみこんだ。これは結果としてたくさんの 小部族に代わって少しの大部族ができた。 ディファカーネは統治集団と移民とを両方含む大きな首都をしっかりと建設させた。それらの町は行政を簡単にする 一方で、多くの問題も生み出した。周辺環境の破壊や地下水の汚染などである。戦争はまた王族の伝統的な力を終わら せ、平民が富の蓄積し社会の重要な一員となることを許した。多くの人々は、困難なときに彼らを守ることができなか った族長やその先祖に対する伝統的な力に対する信念を失った。これによって後に宣教師団がキリスト教を紹介するこ とが簡単になった。族長たちすらも、自分たちが新しい強さが必要で、宣教師がその道を知っていると信じていた。セ チェレは改宗し、カーマ三世などは洗礼を受けた。 ディファカーネの間、多くの人々が財産を失った。戦後、交易用の象牙・羽毛・はねを獲得するために狩猟が激しく なり、人々は牛を得る手段を得た。短期間で、象・サイ・ダチョウ・猫などの価値のある動物が東ボツワナから姿を消 した。 71 第 20 章 交易と経済変化 1800~ 1800~1870 年 1800 年以前 19 世紀初期以前ですらも、長距離商人が車でやってきたとき、ツワナ族はよく交易した。彼らは彼ら自身の間でも、 隣人との間でも交易した。ときどき、彼らは海岸地帯からはるばるやってきたビーズ、衣類、貝殻といったアフリカの 外からの商品を交易した。主に、鉄や銅の道具や装飾品、鏡、毛皮、タバコ、穀物、犬、家畜、塩、鉄塊、象牙、野生 食物といった自分で生産したものを交易した。 タピン族は、 1700 年以前にオレンジ川でコイサン人と鉄や銅の道具を交易した。 ングワト族はタバコをカランガ族と、 そしてそれを南に持っていってクウェナ族と交易した。トロカ族、レテ族、ロロン族は鉄を採掘して道具を作り、クウ ェナ族とおそらく鏡や毛皮と交換して交易を行った。交易はそれが長い距離にわたって伝達を保つので、とても重要だ った。それは人々が友好的に出会う機会を与えた。また、彼らが自分自身で作ったり育てたりできないものがあるとき に、必要にあわせることができることを意味した。 交易路は、ボツワナ中にそして近接地帯に広がっていた。グリカ人とヨーロッパ人交易者が到着するずっと前に人々 はモレポローレからンガミ湖まで旅をし、オレンジ川の南までいった。リビングストンが 1849 年にンガミ湖に行った 時、彼は新しい道を開いたわけではなかった。彼は何百年もの間使われてきた交易と狩猟の道にそって旅行した。 われわれはすでにどのように族長が象牙と銃を交換したか見てきた。金と奴隷はどちらも重要なアフリカからの輸出 品だった。1600 年までに金の交易は終わり始め、象牙交易がとってかわり始めた。1800 年までに象牙がおそらく一番 大きくなり、圧倒的に最も重要なアフリカからの輸出品になった。その多くはインドに行き、牙の空洞の先が、ヒンド ゥーの結婚腕輪や宝石、彫刻された装飾品などに使われた。固い牙の先は中国やヨーロッパに行った。簡単に運搬でき たので、象牙は毛皮や羽根といったほかの生産品よりもはるかに価値があった。それは腐ったり長期間傷ついたりしな かった。象牙は、車の交易者が望んでいた一つのものであり、族長たちが望んでいた銃と交換された。 グリカ人はボツワナに到着した最初の車の交易者だった。彼らはケープのイギリス支配から逃れるために南からやっ てきてオレンジ川のそばに住んだ。彼らのほとんどはいくらか白人先祖の混じったコイ族の人々だった。彼らは南との 関係を保った。彼らは南でオランダ人と銃、弾薬、織布、鉄器、装身具、鏡といった生産品を交易した。彼らの多くは オランダ語を母語として話した。 1800 年以降 オレンジ川で象が少なくなると、グリカ人は北へ旅を始め象牙のために狩をし、交易した。1805 年までにングワケー ツェ族は象牙をオレンジ川まで運び、彼らと交易した。これはボツワナへ象牙が入りこんだ始まりだった。 グリカ人は他の誰よりも、ツワナ族が車の旅をすることに道を開いていた。1847 年までに彼らはカラハリの端をンガ ミランドまで渡った。1850 年までに彼らはチョベ川に到着した。1852 年までに彼らはオカヴァンゴデルタの西側まで 旅をし、アンゴラとの国境のアンダラに到着した。彼らは同じように車にのりグリカ人のような狩猟交易者になった何 人かのタピン人とロロン人をつれてボツワナ中を旅した。 車による旅はとても難しく、高価だった。1820 年のケープでは車は 30 から 40 ポンドの間だった。その当時、金は ポンドとシリングではかられた。1997 年現在では、イギリスポンドは約 4 プラの価値だが、当時はもっと価値があっ た。二年間でヨーロッパ人の兵隊が稼ぐ額が 13 ポンドだった。最も初期にボツワナに来たヨーロッパ人の旅行者は、1 年間続く旅にはおよそ 600 ポンドかかるといった。これは当時普通の兵隊が 30 年間軍隊に仕えて稼ぐ額だった。 オレンジ川を越えてからは道はなく、けもの道があるだけだった。しばしば車の旅行者は厚くとげのあるやぶを切り ひらいて道路を作らなければならなかった。ときどき車は、荷崩れをおこしてばらばらになったり、岩山やあふれた川 を越えて行かなければならなかった。旅行はとても遅く、1 日に 20km が良いほうだった。 時には 50km にわたり水の無い土地が長く続いていた。時には車を置いて、牛を近くにある水場まで連れて行き、車 を運ぶために数 km 戻ることもあった。 車は車輪のうえに木と鉄を巻いてできていた。しばしば木の車輪や車軸が壊れて修理を必要とした。牛は渇いたり、 モハウといった有毒な植物をたべたり、悪い水を飲んだり、ツェツェバエに刺されたり、ダニ熱で死んだ。当時車で旅 行することはそんなに簡単なことではなかった。 車は象牙交易の可能性のため長い距離を旅した。よい車は 3,000 ㎏か 200 頭分の象牙を運ぶことができた。その象牙 がケープに運ばれると約 1,200 ポンドから 5,000 ポンドで売れた。泥棒、深刻な故障、牛の死、人の病気などの全ての 困難や、時にはその旅行が商人の損失に終わる事を意味しても、1年間がかりの旅行は利益を生むことを示していた。 72 ヨーロッパ人商人 すでに見てきたように、初期の商人はグリカ人・タピン人・ロロン人であり、ヨーロッパ人ではなかった。1810 年以 降にボツワナに来始めたヨーロッパ人はほとんどが冒険家だった。彼らは、新しい土地や人々を見、見たこともない動 物を狩ることを望んだ。当時やってきた他のヨーロッパ人には宣教師団がおり、ツワナ族をキリスト教化し、聖書にし たがった生活を送らせるために、ツワナ様式の生活を変えようと望んでいた。 旅行はとても高価で、ほとんどのヨーロッパ人は交易するための物といっしょにやってきた。交易や象狩を通じて彼 らは、全行程をまかなうのに充分な象牙を得ることができた。これらの最初のヨーロッパ人訪問者がケープに戻り、彼 らが何を見、何を狩ったかを話したため、商人はボツワナに戻り始めた。彼らは染めた衣類、丈夫なズボン、塩、綿毛 布、安い衣類、真鍮線、かぎ煙草入れ、鉄の鍬や調理器、ナイフや斧、牛ひき鋤、金属のスプーン、色のついたビーズ、 銃、弾丸やその金型、火をつけるためのほくち箱、ワインやブランデーといった物を運んだ。 ほとんどの交易物は商人が仕入れるケープでは低い価値のものだった。ツワナ族に売られた最初の型の銃はケープで 約 2.5 プラだった。これは、30 ㎏の重さの象牙と交換され、それはケープで 70 プラと交換された。ヨーロッパ人だけ が利益を得たわけではなかった。グリカ人はオレンジ川で交易品を買うのが難しかったため、しばしば羊を交換のため に運んだ。その当時、1頭の羊は約 1.5 プラで、約 30 プラの牙と交換された。ロロン族の商人が最初にレフトゥトゥに 車で到着したとき、彼らは 40 テーベのほくち箱を 32 プラの牙と交換した。1840 年までに商人はツワナ人が何を望ん でいるか学んだ。すぐにツワナ族はそれらのものの本当の価格を学び、商人が簡単に稼ぐことのできる初期の時代は終 わった。 商人と共に貨幣もやってきた。最初、ツワナ人はものを貨幣のために売りたいとは思っていなかった。貨幣について 良く知らなかったからだ。しかし後に彼らは、ヨーロッパ人の狩人や商人が、グリカ人、ロロン族、タピン族の奴隷に 貨幣を払うのをみて、その使い方を理解した。 全てのツワナ人は銃を望んだが、族長は交易を管理し、他の人々は銃を買うことができなかった。すぐに、彼らは、 南からくる主にグリカ人やタピン人といった人々は狩人や商人のもとで数年間働き、銃や弾丸で支払を受けていること を学んだ。1840 年までに、ツワナ人はオレンジ川まで歩いてゆき、ボーア人の農場で働き貨幣を得て銃を買うことがで きるようになった。これが移民労働者の始まりだった。 交易によって起こった変化 長距離牛車交易の導入とモノの交易は、ツワナ人に多くの変化をもたらした。 族長の権力 最も重要な変化の一つとして族長の地位への影響があげられる。最初、彼らは商人との交易を独占することにより交 易を管理しようとした。彼らは、商人が彼らの主邑に野営したり、後には店を構えたりすることを主張した。彼らはま た、交易を始める前に服やブランデーといった贈り物をするよう主張した。最初、交易は族長たちにその臣民に対する 新しい力を与えた。しかし、すぐに商人は平民と交易する方法を見つけた。ひとたび平民が銃を持つと、彼らは自分た ちのために狩りができるようになり、裕福になった。これは族長がその新しい権力を失い始めたことを意味した。平民 は交易を通して裕福になることができるようになった。今や、族長は、誰が裕福で誰が貧しいべきか、もはやわからな くなった。富裕平民の新階層は族長に何も負っていなかった。彼らはそれゆえに伝統的な制度からより独立していた。 国の拡大 銃によりツワナ族はボーア人を追い出すことができた。ツワナ族はすぐに銃の品質を学んだ。1884 年までにタワナ族 のモレミは、個人的に 2000 丁のライフルを持っていた。 銃はまた、ツワナ族がその国を統一する助けもした。カーマ三世は小さな騎馬武装の機甲部隊を用い、彼に従うこと を拒絶した小さな部族を攻撃した。1863 年に彼がンデベレ族を破ることができたのは、この機甲部隊のおかげである。 交易のための象牙の必要性により、族長は国土を広げようとした。ングワト族はボテチや他の離れた土地を狩場とし て要求したが、彼らはそれらの地域にほとんど権益を得ることができなかった。彼らが象牙の価値に気づいたときこれ は変わった。すぐに、彼らは狩人だけでなく、徴貢者をボテチやモトーツェ、リンポポといった離れた地にも送り、象 牙狩りの場だと主張した。象牙狩りの結果としてツワナ人の国はカプリビに至るまで拡大した。 通信 車による旅は、小道しかなかった所に恒久的な道を開き、通信手段を提供した。車の入れないオカヴァンゴの中でさ えも、小船が物を遠隔地に送り、象牙を運び出すために使われ始めた。車による交易は遠隔地により簡単に入れたため、 全国を小さくみせた。人々はより定期的に旅をするようになった。 73 ショション:交易の中心 交易と車旅行により、セコマ一世はショションを小さな村から重要な交易の中心に変えた。その位置のため、カーマ はショションを 40 年以上北の交易の中心にすることができた。ほとんどの商人はショションを北への最後の旅を行う 前の休息場所とみなした。そこから彼らはンガミ湖、ブロジ、マタベレランドへの長距離旅行に出発した。最初にセコ マ一世が、後にカーマ三世が、商人の移動を妨げる全てのことをした。彼らは交易に対する管理を失いたくは無かった。 実際は商人はショションにすむことが便利であると分かっていた。彼らは遠くからやってきたヨーロッパ人やツワナ 族の狩人の両方と物を交換することができた。ンガミランド、ブロジ、マタベレランドで働く商人はショションでもの を買うことの便利さに気づいた。彼らは、物を安く買えるケープまで 6 ヶ月の旅をするよりもショションで高い値段で 買うことを好んだ。ショションはすぐに小さなヨーロッパ人共同体になり、宣教師、商人そしてそこに本拠を置いた数 人の狩人が住むようになった。ブリキ屋根、木製家具、車、鋤を装備した彼らの四角い家は生活の新しい様式だった。 製造物の重要性 鉄鍋、おの、衣類、既製服などの製造物の輸入の前には、人々は土器、皮服、鉄の道具、銅の宝石といった彼らが必 要なものは全て作っていた。もし彼らが何かを望んだら、それを隣人と交換した。ヨーロッパ物産の輸入はこれを変え た。買った方が簡単なので、人々はモノづくりをやめた。人々は鉄製の鋤やブレスレットを作るための真鍮線を買った 方が楽なので鉄や銅の採掘や精錬を止めた。伝統的なかたちの交易はゆっくりと滅んだ。 最初人々は商人が出したものを全て買っていた。しかし彼らはすぐにどのものが有益なのかそしていくら払うべきな のかを学んだ。1860 年までに、商人は小さな利益で満足しなければならなくなった。それから長い交易路の終着点あた りに国土を持つツワナ人は、草のビーズを買うことをもはや望まなかった。彼らは象牙や羽毛の見返りに価値のあるも のを望んだ。製造物の輸入は他の効果も持った。ヨーロッパの衣類を着た人を見ることや銃を運ぶこと、2 つの棒をこ する伝統的な方法よりもむしろ火を起こすためのほくち箱やマッチといった道具を使うことは重要になった。もし人々 が重要だと認識されることを望むのならば、彼らは新しいものを買ったり着たりしなければならなかった。だから、必 要に応じたものやタバコ、宝石、塩といったわずかな贅沢品を扱う古い交易は変わった。人々は服、銃、ブランデーと いった贅沢品を買うことを望んだ。人々はその家畜を売ることを望まなかったので、交易のための象牙や皮革を得るた めに狩をしなければならなかった。 野生動物の破壊 最後の重要な変化は、野生動物の破壊だった。1800 年より前に象、バッファロー、サイ、シマウマはボツワナ東部や、 レタケン、カン、レフトゥトゥ、ボックスピッツ、そしてカラハリの奥にあるハンツィといった地域ではどこでも見ら れた。ロロン族やタピン族の商人やツワナ人やカラハリ人など、みんなが狩りをした。すぐに、ツェツェバエのいない 地域では、ほとんどの大きい動物は殺された。最後には、象牙や皮革そしてダチョウの羽根を見つけることは難しくな った。羽や象牙の交易はゆっくりと終わった。交易の性質が変わったのだ。 移民労働者 これは貨幣が交易の中で重要になったときだった。貨幣を獲得するために、人々は物を売ったり、働いたりする必要 があった。象牙と羽毛以外にも、より多くの人々が仕事を探すことを強制された。そして仕事はボツワナではほとんど 見つけられなかった。1860 年にキンバリーでダイヤモンド鉱山が開かれたときまでには、多くのツワナ族はすでに国の 外部に仕事を探しにいっていた。鉱山は、長い間もっとも重要な働き口だった。1890 年頃以降自分たちの家を去り賃金 雇用を探す人の数は徐々に増え始めた。人々は牛、車、衣類、食料といった物を買うために、貨幣はとても重要になっ た。後に 1900 年頃年次政府税が導入されたとき、人々はまた住居税を払う必要があった。 当時鉄道はなく、人々はキンバリーまで 500km も歩かなければならなかった。もし彼らがそこで仕事を見つけたら、 彼らは時にそこに 1 年から長ければ 4 年もの間とどまることもあった。賃金を払われると、彼らは衣類、毛布、金属製 品そして牛などを買い、銃やより多くの牛を買うための貨幣を運んでボツワナに歩いて帰った。 まとめ 最初に、外国人商人はビーズ、安い宝石、鏡、ナイフ、粗悪な服を交易のために運んできた。すぐに彼らはブランデ ーやジンを運び始めた。しかしながらツワナ人は彼らが何を望んでいるか知っていた。ビーズや鏡の交易は終わり、鋤、 斧、鋸、琺瑯鉄器そして針といった有益なものを運んだ。彼らはアルコールを運びつづけた。ツワナ人がひとたびそれ を飲むともっと飲みたくなるからだった。 輸入品を買うほうが簡単だったため、人々は採鉱と鉄加工のために働くことをやめた。羽毛や象牙を銃や衣類と交換 できたため、彼らは皮革を縫うことや、象牙を彫ることをやめた。長い間に培われた技術は数年で消え去った。 部族どうしの多くの交易は終わった。人々はもはやオレンジ川まで旅をして羽毛の毛布と羊を交換することはなくな 74 った。彼らは車でやってくる人々と家で交易することができた。 交易は、隣人との社会関係を維持する手段を破壊した。それは多くの伝統的文化を破壊し徐々に野生動物の大きな群 を消し去った。金を稼ぐための移民労働者は家族制度を壊し始めた。輸入衣類を着ることや紅茶やコーヒーを飲む欲望 のために、人々は食料を売ったり金のために働いたりすることを強いられた。 交易により貨幣と賃金労働が導入された。最初は、人々は金を稼ぎ、欲しいものを買うことができた。過去には、彼 らはビールやときには羊や牛で支払った。交易はまた、豊富になった金属の道具など有益な道具を紹介し、新しい薬が 導入され、伝統的な 2 本のこすり棒にとってかわってほくち箱が火をおこすのに使われた。 交易は、人々が裕福になるための新しい方法を提供することにより、また族長がその臣民をつかんでいる力を小さく することによって伝統的制度に変化を与えた。人々は牛よりも他の価値を見出し始めた。銃、車、そして他の価値ある ものが、相続財産の一部を形成し始めた。牛のようにそれらは遺族には相続されず、全家族に属した。交易は伝統的制 度からより独立させることにより、人々の財産や労働に向かう態度に変化を与えた。 75 第 21 章 1800~ 1800~1900 年の宣教師団 18 世紀のヨーロッパと北アメリカには、産業革命の一つの結果として、後に偉大な目覚めと呼ばれるものになる宗教 的な動きが始まった。それは、ジョナサン・エドワーズとジョン・ウェズレイからなり、非改革派教会からの宣教師団 を生み出した。彼らは、神は彼らが社会の中で見つけた、金持ちのために貧しくなった労働者のいるヨーロッパでの階 層分割や、アメリカでの奴隷制といった、多くの不正義に対して権利を与えるために神が呼ばれたと信じていた。組織 は外国の土地に住んでいる非キリスト教に福音伝道を広めるために設立された。そのような組織の中に、1897 年に設立 された、ロンドン宣教師教会(LMS)があった。 宣教師として仕えたがるほとんどの人々は、低中所得者層の、職人・小さな商人の息子・本職ではない修道者・既存 の教会原理に同意できない聖職者だった。家では全ての人々の平等、聖書の教え、そして厳しい道徳規定を信じた。彼 らは、陽気さ、飲酒、踊り、裸、戦い、一夫一婦制の結婚以外での性交、そしてプロテスタントの神の見方以外での信 仰といったものを不埒だとした。彼らは、貧しい家庭から来て、不道徳な人生につながり貧者を搾取していると彼らが 信じていた金持ちを軽蔑した。彼らはアフリカに来て彼らのキリスト教を広げ、金持ちによる貧者の搾取を妨げた。彼 らはツワナ人に対して大きな影響を持っていた。最初の LMS 宣教師団は 1799 年にケープに到着した。1801 年までに アンダーソンはオレンジ川に到達しグリカ人に混じって住んだ。J.M.コクとW.エドワーズがさらに北へいき 1802 年に バタピンに到着した。ウイリアム・アンダーソンは成功した宣教師団を設立することができ、多くのグリカ人をキリス ト教徒に改宗させたが、コクとエドワーズはそれ程成功しなかった。タピン族の族長である、モレハバングウェは、キ リスト教よりも交易により興味を持っていた。彼はグリカの商人を宣教師団よりも好み、交易したがった。彼は、象を 狩るための銃と弾薬・ヨーロッパの衣類・金属の器と象牙と交換するための細かい装身具、毛皮、そしておそらく奴隷 を望んだ。 タピン族は、何百年も前からその土地にきた外国人と共に交易を行い、それを理解していた。彼らは、ビール・踊り・ 重婚・婚資の牛・雨乞いをあきらめることに何の価値も見出さなかった。不可避的に宣教師団も交易を始めた。1808 年にエドワーズは彼が大量の象牙を保管していたングワケーツェ族の首都であるカンエまで北上した。LMS は最初の 宣教師団が働くことの難しさを認識しており、南からは何の助けも来ず、おそらく交易を通して以外には食料を得るこ とができなかった。ゆっくりとコクとエドワーズは説教する意欲を失っていった。コクは殺され、エドワーズはケープ で退職し農民と奴隷所有者になった。 その活動は成功しなかったとみなされたが、LMS はジョン・キャンベルを 1813 年に南部アフリカに送り、国とその 宣教師の問題を調べ、モレハバングウェの息子であるモティビを訪ね、将来の宣教師活動のための計画を立てた。モテ ィビは宣教師を受け入れることに合意したが、ロバート・ハミルトンとジョン・エバンズが彼らの間に住もうとしたと き、彼らが商人でないと分かると、彼らは立ち去るよう強いられた。1816 年にハミルトンはジェームス・リードと共に 戻り、ディツァコンに住むことを許された。タピン族がクドゥマネ(クルマン川)に動いたとき、宣教師団も彼らと一緒 に動いた。徐々にツワナ人の間に、最初の使節団が設立された。 クドゥマネ 北に目を向けると、LMS はバタピン族の国がツワナ族の全ての国への通り道をなしていることを記し、クドゥマネ をその北への拡大の基地にすることを決めた。 そこに住むことに決めた最初の宣教師団は不幸で安定しない人々だった。 状況はロバート・モファットの到着で変わった。彼は 1817 年に南アフリカに着き、宣教師団を訓練するためにグリカ タウンに 3 年間送られた。彼と彼の家族はそれからクドゥマネ川でハミルトンに合流した。そこは、タピン族の首都か ら 13km 離れており、クドゥマネ川の水源に位置し、今では”目”と呼ばれているすばらしい真水の泉だった。モファッ トは、庭師や園芸家として訓練され、すばやく泉からの水の強い流れにどれほど価値があるかを認識した。彼は、モテ ィビにその利点を説得し、宣教師基地を含む全ての主邑を泉の所へ移動させた。 クドゥマネはすぐに中央アフリカへ向かう旅行者にとって重要な駅になり、その地域に広がるキリスト教の中心とな った。それはタピン族に仕えるだけではなく、パリ宣教師団やアメリカ局使節団といった、LMS を追ってその地域に やってきたほかの使節団の展開や奨励の場所となった。早い時期から、宣教師団は説教と教育の仕事を地元の同僚と分 け合い、多くのアフリカ人教師、福音派牧師は、クドゥマネで訓練された。これらの福音派牧師はツワナ人へのキリス ト教の拡大で、重要な役割を演じた。 ロバート・モファット 他が失敗する中でロバート・モファットは成功した。この理由として、彼が一つの志を持ちよく働く男であったため ということがある。ツワナ人は彼がその見方の解釈を教えてくれることを見つけ、しかしいつも誠実で、彼の信じる所 が最大の利益になるよう促進するのに熱心だった。しかし、彼の成功はまた、当時の南部アフリカで起きていた事件の、 76 特にディファカーネのためであった。2 つの事件が特にツワナ族に彼がその友人だと納得させた。1823 年にフティン族 はタピン族を集め、モファットは銃で武装したグリカ人を集め侵入者を追い払った。1824 年にはグリカ人の騎馬隊がモ ファットに合流し、ピッツァーネから侵入者を追い払い、ロロン族を救った。 ツワナ族の統治者は、自分たちの国を守り強化するのに銃がどれほど重要かということをいまや認識していた。結果 として、彼らは宣教師団がいる所によく訪れる商人をひきつけるために、宣教師団にいっしょに住むよう頼み始めた。 ツワナ族がモファットを好きになった他の要素として、 1829 年に彼はンデベレ族の族長であるムジリカジをモセハに訪 れ、彼がツワナ族を攻撃しないよう説得したことがある。彼は成功しなかったが、ツワナ族は彼の試みを賞賛した。モ ファットが好まれ、尊敬されたと言う事実は、ボツワナ中のほかの族長が同じ事を始めたとき、他の宣教師がツワナ族 に受け入れられる助けになった。 宣教師団の受け入れ 私たちは、最初の宣教師団がツワナ族の中で立場を作ることがどれほど難しいか見てきた。彼らはディファカーネが まさに始まろうとしたときにアフリカに到着した。すでに、ツワナ族は、彼ら自身とその牛を襲撃者から守るため、よ り大きな集団を作り始めた。民族意識は強く、族長はその臣民の守護者としてかなりの力を振るった。彼らは、神聖な 力を先祖から受け継いだ族長を信じていた。どのようにして宣教師団はそれ程大きな影響を彼らに与えたのだろうか? 第一段階では、1823 年から 1837 年にディファカーネの侵略者はツワナ人の集団を分割し、彼らを広い地域にばらば らにした。族長はその支配のほとんどを失い、彼らはその臣民を守ることができなくなった。臣民はある程度自分たち の伝統的信仰の信念を失った。 宣教師団は、商人のように車でやってきた。彼らはツワナ語と英語を話し、族長との友好関係を得るために彼らを使 った商人たちに歓迎された。彼らはまた、ケープタウンの政府と連絡をとった。彼らのうちの一人のアンダーソンは、 グリカ人に対する政府の役人に任命された。宣教師は、南からきた新しい交易と政治の網の一部をなしていた。 ツワナ人は、ディファカーネの後に自分たちを再確立しなければならないと認識していた。族長は力をなくしていた ので、人々は宣教師を新しい制度の必要な部分として受け入れ始めた。宣教師は、族長の秘書となり、彼らのために手 紙を書き、外部世界のやり方について彼らに助言を与えた。デビッド・リビングストンはセチェレ族長の信頼された友 人となり、彼と共に長い距離を旅行した。リビングストンが雨乞いをしたとき、セチェレは彼の臣民にその礼拝に参加 させた。これらの理由で宣教師は受け入れられた。 デビッド・リビングストン 1841 年デビッド・リビングストンはクドゥマネにやってきた。1842 年までに、彼はクウェナ族、カトラ族、ングワ ト族、カランガ族を訪れた。1845 年に彼はモファットの娘メアリーと結婚しマボーツァでマナーナのカトラ族に混じっ て生活した。その直後にセチェレ族長はツォンワネでクウェナ族と共に住むよう彼を説得した。後に彼は彼らと共にコ ロベンに移動し、セチェレに読み書きを教え、キリスト教に改宗させた。しかしながら、セチェレはヨーロッパのキリ スト教習慣がツワナの様式よりもよいとは信じなかった。このため、多くの宣教師はセチェレのキリスト教信仰は半分 だけだと感じた。 リビングストンは探検に大きな利益を見出した。彼は、よい交易が奴隷制の悪い交易にとって変わると信じて、イギ リスの交易とキリスト教のためにアフリカに新しい地域を開きたかった。彼はまた、探検を通して得られた新しい科学 的知識を記録したかった。 1849 年にリビングストンは、オズウェル、ミューレイ、ウィルソンと言った 3 人のほかのヨーロッパ人とフレミン グと言う黒人(西インド人)と共に、ンガミ湖に到達した最初の非アフリカ人となった。セチェレの代理のツワナ人であ るラモツォビが彼らを先導した。レツォラテーベ族長は彼らを歓迎し、象牙と銃を交換した。その後、リビングストン は彼の家族をイギリスに送り、彼が後に死を迎えることになる中央アフリカの探検を続けた。ツワナ族はリビングスト ンが医者で病気を治したため、彼が好きだった。彼がより尊敬されたロバート・モフェットの息子であることも、好ま れた理由だった。彼の妻のメアリーもまた、彼らの中でよく働きツワナ語をうまく話したのでクウェナ族に愛されたよ うだった。リビングストンは心の中では生涯宣教師だったが、中央アフリカに移ったとき LMS を去り、説教よりも探 検により多くの時間を割くようになった。 リビングストンがンガミ湖にタワナ族を訪ねたあと、レツォラテーベ一世は繰り返し宣教師に彼の国を訪れるよう頼 み、彼の後継者であるモレミ二世もそうした。ングワト族の教会がジェームス・ヘップバーンと数人のングワト族のキ リスト教徒をンガミランドに送り教会の仕事を始めたのは 1877 年になってからだった。ヘップバーンはセロウェで彼 の仕事を続け、タワナ族やイェイ族に混じって住んでいたアフリカ人の福音派牧師を監督した。しばらく後に、指導的 な福音派牧師であったクク・モホディは説教よりも交易により多くの時間を割くようになり、他の地区に移った。しか しながら、彼は最後には名誉のうちに職を辞し 1925 年に 96 歳で世を去った。アンドリュー・カサ師に従われた福音派 牧師であるソモレカエが後を継いだ。ヘップバーンとショションから来た別の宣教師であるカレン・リードはンガミラ ンドを時々訪れ、アルフレッド・ウーキーがクウェーベに 5 年間住んだけれども、湖の地域での伝道は主にツワナ族の 77 仕事であった。 他の宣教師団体が別のツワナ族集団のために働いた。今の北東地区で、オランダ改革派教会はカトラ族の間で、ルタ ー派教会はレテ族の間で、英国国教会はクルーツェ族の間で働いた。1880 年代までに全ての族都に宣教師が住み、それ らの各部族の中心から布教は外延部に広がった。 教会の設立 セチェレはリビングストンを懐かしみ、新しい宣教師が彼の族都に住むことを望んだ。LSM は新しい宣教師を送ら なかったので、彼は南アフリカ共和国で新しい人を一人探した。彼はボーア人を信用していなかったので、望んでいな かった。しかし彼はドイツ住民がルター派教会のために宣教師を送ったのをみて、幸せだった。 1857 年、ドイツルター派宣教師会のハーマンスバーグ・ミッションの宣教師団はクウェナ族と共に住み、後にディツ バルバに住んだ。彼らは、1852 年の始めにクウェネンを永遠に去ったリビングストンの後を継いだ。二年後彼らはセコ マ族長のングワト族の中でショションに他の宣教師基地を設立した。セコマは彼自身キリスト教徒になることはなかっ た。しかしながら、彼の息子のうち二人、カーマ・ボイカニョ・セコマ(後のカーマ三世)とカマネは、ルター派によっ てキリスト教を教えられる一方で、セチェレと共に生活しショションから脱出した。彼らは 1860 年に洗礼を受けた。 セチェレの助言者はオランダ語を話す宣教師を望まず、英語を話す宣教師を好んだ。最後には、セチェレはイギリス 人宣教師を探すことに同意し、 1862 年にはルター派がクウェナ族を去り、 ショションでの仕事に集中した。 その同じ年、 ショションのルター派宣教師だった、ハインリッヒ・シュレンバーグはナタールの彼の宣教師団の本部と意見が激しく 対立した。彼はショションを去りハーマンスバーグ宣教師団は閉じられたが、その後ボツワナで他の基地を開いた。 1862 年の後半、LMS はジョン・マッケンジーに率いられた宣教師団をショションに送り、ングワト族の間で生活し、 働かせた。一度使節団が設立されるとカーマや彼の弟のようなングワト族のルター派は LSM の会員になった。 宣教師団と文化 ディファカーネの期間、ツワナ族はその家畜の多くを失い、伝統的な集団が分割され、後に新しい指導者のもとでの 再形成に苦しみ、族長は政治的、経済的に弱くなった。ツワナ族は変化の準備ができており、宣教師団はよい時期に到 着した。 宣教師団は他の種類の宗教と新しい道徳を持ちこんだ。彼らは死んだときに神により救われるために、人々はよい生 活を送らなければならず、さもなければ彼らは地獄へ行くだろう。 “良い”とは他のことと同様に、キリスト教の神とそ の息子のイエス・キリストだけを信仰し、規則的な教会の礼拝に出席し、一人だけの妻を娶り、不義、戦闘、饗宴、踊 り、飲酒、罵りを犯さないことだった。彼らはまた、全ての人々は平等で、他人の召使になるよう生れてはおらず、す べての人々はいつもその隣人を助けなければならない。ツワナ人はすでに一人の創造主であるモディモを信じ、マツィ エンやティンティバーネと言った小さな神もすでに信じていた。彼らはキリスト教の神とモディモを同列に並べること は難しいと考え、イエス・キリストを小さな神として受け入れた。彼らはモファットやリビングストンと言った宣教師 団が持ちこむ多くの技術や利点を認識していた。読み書き、薬、銃や車の修理、家の建設、新しい食用作物や農業様式、 ケープタウンの政府との伝達、商人との関係、そして共に嫌っていたボーア人への強い不信といったことである。宣教 師は彼らを下僕のように扱うことはなかったし、彼らから土地を取り上げることもなかった。彼らは宣教師団を友人や 援助者として、そして彼らが多くのものを提供してくれると認識していた。 一方で、宣教師団は多くのツワナ様式が彼らの道徳様式に反すると見ていた。彼らは特に雨乞い者がイエス・キリス トの地位を奪うので雨乞いが嫌いだった。彼らはボハディが妻を買うものだとみなし、若者の踊りや喧嘩を奨励するの で初等学校を悪いものだとみなした。一人以上の妻を娶ることは、聖書の教えや、全ての文明化された人たちの法に反 していた。リビングストンはセチェレを説得し、一人の妻を守らせ、他の妻を家族のもとに帰らせた。彼は、もし族長 を変えられたら、全部の集団を変えられると思った。セチェレは最後には一夫一婦制になったが、宣教師がツワナ人に キリスト教徒のようにするよう期待した多くのほかのことは良い生活のために必要ではないと信じていた。 宣教師団は伝統的習慣に対する戦いに成功したのか?最初は、ほんのわずかしか成功しかなかった。例えば、カーマ 三世のような族長はボハディ、雨乞い、割礼、飲酒をやめた。多くのツワナ人は族長が雨を降らす能力を失い、初等学 校が壊れ始めていることをすでにわかりかけていた変化はすぐに起こり始めた。宣教師と族長は一緒に雨のために神に たのみ、初級学校から部族宣教師教育にとって変わった。 宣教師とその利益 宣教師は、それをやめると未亡人の社会的地位を傷つけることになるのだが、亡くなった兄弟の妻たちと結婚しその 子供を育てる、といったような習慣をやめさせようとした。しかし、彼らはまた、多くのよい点も持っていた。彼らは 78 水不足のためにしばしば失敗したが、より良い農業手法を導入しようとした。1804 年には、アンダーソンがグリカ人を 説得し、定住し灌漑するようにさせた。後に宣教師はハーツ川のそばに最初のダムを造り、最初の大きな灌漑計画の責 任を持った。リビングストンはコロベンにダムを作り、野菜畑の灌漑を試みた。ロジャー・プライスはモレポローレに 耕作を導入し、リビングストンは予防接種を含む西洋式薬学を導入した。 宣教師の基地は交易の中心になった。商人は、族長への手がかりを得るために、そして外延部で交易している間にそ の家畜と車を彼らのもとにおいておくために、宣教師を使った。宣教師は商人を説得し酒よりも道具やバケツといった 役に立つものを運んだ。宣教師はツワナ族が銃や車を直すための機械となった。彼らはまたツワナ族にトマト、キャベ ツ、玉葱、かぼちゃといった新しい種を導入することにより、新しい方法の野菜栽培を教えた。彼らはヨーロッパの衣 類やパン、紅茶、コーヒー、砂糖といった食品といった新しい品物をもたらした。宣教師の妻たちはもっと役立つ仕事 をした。彼らは最も若い子供たちに読み書きを教え、大人の女性に裁縫、パン焼き、衛生、病気の看護などを教えた。 彼女たちは本当によく王家の女性と仲良くなり、それによってその夫たちが族長とともに働きやすくなった。ほとんど の宣教師はその妻なしでは成功しなかった。例えば、モファットの娘は、クドゥマネで生れたが、ツワナ語を流暢に話 した。彼女たちは宣教師と結婚し、その夫を助けた。おそらく彼女たちが行った最も重要な革新はツワナ語で印刷され た本の紹介だった。 聖書とツワナ語文学 宣教師団がくる前に、知識は話し言葉で伝えられた。読み書きは無かった。宣教師はツワナ人が聖書を読めるように 読みかたを学ぶよう望んだ。このようにしてキリスト教はすばやく広がった。われわれは、誰が最初にツワナ語を書い たかを正確にはしらないが、1819 年には宣教師のジェームス・リードは、グリカタウンで印刷された小さな単語帳を発 行した。ジョン・キャンベルは、主の祈りをツワナ語で書いた。それは、下手なツワナ語でかかれていたが、有益な始 まりだった。 モファットは、ハミルトンに助けられ、ツワナ語の文学を生み出すために、最初に真剣な努力をした。彼はルカの福 音書を 1830 年に翻訳し、ケープタウンで印刷した。1831 年には、彼は印刷機をクドゥマネに運び、聖書を翻訳し印刷 し始めた。これは今日までツワナ語の本を印刷しつづけている印刷機の始まりであった。J.アークベルは 1837 年に最 初のツワナ語の文法書の作成に従事した。 1838 年までにモファットは他の宣教師に助けられて新約聖書の翻訳を終えた。 1841 年にウィリアム・アシュトンはモファットに加わり、旧約聖書の翻訳に大きな役割を果たした。この仕事は 1857 年に完成した。1850 年までに印刷会社は正社員を雇用した。LMS は宗教的な本を印刷しただけではなく、ツワナ語の 新聞も印刷した。1857 年に、アシュトンは“ツワナ人の教師とニュースの告知者”という新聞を始めた。新聞は長く続 かなかったが、それは非宗教的なツワナ語文学の始めだった。ほかの新聞が後に続き、多くのツワナ人がそこに書いた。 他の宣教師はツワナ語で本を発行した。それぞれの宣教師会は働いている所の人々の方言で作品を発行した。LMS は、 セタピン、セロロンのメソジスト教徒、セクウェナのルター派、そして後にセカタのオランダ改革派教会で発行した。 彼らはそれぞれ異なった方法でツワナ語の筆記を行った。これがなぜ一つのツワナ語の正統が長い間開発されなかった かの理由である。現在でも、一つのツワナ語の正統を開発する試みはまだ行われている。 宣教師教育 宣教師によって行われたツワナ人の生活に対する最も重要な寄与は、教育だった。最初の学校は宣教師によって始め られた。特に初期には教育分野での最も重要な宣教師団体は LMS だった。宣教師によって与えられた教育の形を理解 するために、 私たちは彼ら自身がなにを望んでいたのか知らなければならない。 宣教師はおもに魂の救済を望んでおり、 経済や社会生活の改善はそれ程重要ではなかった。これは特に初期の宣教師団にとって真実だった。彼らはツワナ人を キリスト教徒に改宗したかった。これを行う一つの方法は、人々に聖書の読みかたを教えることだった。これが、なぜ 宣教師団が聖書をツワナ語に翻訳したかの理由であった。彼らの狙いは改宗だったので、宣教師の教育が建築、大工と いった実用的な科目に集中していなかったのは明白だった。かわりに彼らは、読み書き、聖書を強調した。LMS によ って提供されたこの教育の特徴は、長い間続き、宣教師団とツワナ人の間の誤解を生んだ。ツワナ人は実用的な教育を 望んだ。南アフリカのラブドールにある長老派学校や、レソトのモリージャにあるパリ福音派宣教師会学校のように、 ツワナ人は実用的教育を望んだ。彼らはまた英語を学ぶことを望んだ。これは、教会学校の間に違いがあることを示し ていた。彼らの中にはとても良い教育を提供するものもあった。ツワナ人の不平のために、LMS 宣教師団は後により 良い一般的教育を提供するよう試みた。 79 独立派教会 宣教師団が直面し始めた一つの問題は、独立派教会の成長である。これらは、昇進・給料・指導力といった点で人種 的側面によって差別されていると感じていた、既存の教会の黒人修道士によって始められた。1883 年には、アフリカ人 修道士は、集会の仲間をつれて南アフリカの教会から脱退し始め、自分たちの教会を設立し始めた。この独立派教会の 動きはしばしばエチオピアニズムと呼ばれた。この名前が適用されたのはキング・ジェームスの聖書がアフリカを一般 的にエチオピアとして言及していたことによる。特に、福音派牧師は”エチオピアはそれ自身を主の元まで引き上げた” という文章を参照して引用するのが好きだった。これは、アフリカ中の教会内での独立した黒人指導力を正統化するよ うに見られ、修道士や集会に誇りを染み込ませた。 1896 年に、以前のウェズレー派の修道士だったマンジェナ・モコネが所属した主要な南アフリカエチオピア教会は、 アメリカ黒人によって運営される強い教会のアメリカ基盤のアフリカメソジスト聖教会(AMEC)と合併した。そのとき から、 独立派教会は良く定着し、 数において安定的に成長した。 1904 年に南部アフリカのプロテスタントの宣教師団は、 最初の会議を開いた。おそらく最も重要な議題はエチオピアニズムだった。彼らは独立派黒人教会の設立が彼らの目的 であるべきだという事に合意したけれども、エチオピアニズムには合意しなかった。 1898 年に AMEC の長老であるマーカス・ハバシェーンはボツワナに入り、LMS の隣に AMEC を設立する可能性を 探った。彼は、フランシスタウンまで北上し後にロバツェに教会を設立した。1902 年にングワト族は AMEC と連絡を 取り始めたが、これは無駄に終わった。 モツォアハエの教会 モツォアハエは最初 LMS によってカンエで教師として雇われた。1880 年に彼は LMS によって福音派牧師として訓 練され、1884 年にカンエに戻ってきて、教師や牧師として働いた。1893 年に LMS 宣教師のエドウィン・ロイドは学 校を閉じた。彼が言うには親が支払をしなかったからだという。彼の会衆の中には、モツォアハエ聖職叙任候補者に会 いたがるものがいたが、LMS は拒絶した。これにもかかわらず、モツォアハエは支持者を得始めた。 1901 年に、ロイドはモツォアハエをレフトゥトゥに移動させようとしたが、彼は行くことを妻が病気であるといいこ れを拒絶した。ロイドは彼を LMS からやめさせるよう試したが、彼は族長の部族会議場で礼拝を続けた。ついに 1902 年の 1 月に、彼は 44 人の会衆を連れて LMS を去り自分の教会を始めた。バソエン一世族長は最初ロイドに反対しモツ ォアハエを支持したが、後にモツォアハエが何を望もうと、彼の支持者は部族を割りバソエンを廃位し彼の異母弟のク ウェナエツィーレを族長に据える道を探るだろうということを、彼は実感した。 みんなが出席した雨乞いの祈りの間に、 モツォアハエは立ちあがり、 雨に魔法をかけたため降らないだろうと言った。 バソエンは彼を族長会議で審理しハングワケーツェから追放するよう命令した。彼は拒絶し、夜の間にカンエで騒ぎが 起こった。最後にはモツォアハエはバソエンに公式に謝罪し、6 ヶ月後にクウェナエツィーレは結核で亡くなった。モ ツォアハエの支持者の中には LMS に帰りはじめるものもいた。 モツォアハエは宣教師の権威に挑戦し始めたが、後に勇敢になり、族長にも挑戦した。バソエンは最初彼を支持した が彼自身が脅かされていると気づいた時、モツォアハエを除くよう試みた。LMS はほとんどの地域で良く設立されて おり、認識された教会でありつづけたが、他の教会を締め出しつづけた。そうだとしても、他の独立派教会は設立し始 めていた。彼らは成功しなかったが、LMS にもし会衆を失いたくなかったら改革しなければならないと警告した。 LMS と政治 ロバート・モフェットはキリスト教を英連邦のアフリカ諸国に導入し、皆が平和に暮らせるようを夢見た。彼の平和 構築は時々成功したが、 喧嘩が勃発したとき彼は非キリスト教支配者よりもキリスト教支配者を支持する傾向にあった。 宣教師はツワナの政治を締め出すことは不可能でないとしても難しいと感じた。LMS の宣教師はカーマ三世がキリス ト教徒でその父セコマがキリスト教を拒否したので、二人の争いの際にカーマを支持した。 1870 年以降ヨーロッパ諸国はアフリカの所有について議論を始めた。南部アフリカでは、イギリス、ドイツ、そして ボーア人が皆広大な土地を望んだ。 イギリス人はすでにケープを取っており、 ボーア人は南アフリカ共和国を設立した。 ドイツは今、西に土地を見つけていた。不可避的に宣教師は関わるようになった。イギリス宣教師団は、南部アフリカ での事象を管理するためにイギリスを支持する傾向にあった。ジョン・マッケンジーは南アフリカ共和国が西に拡大し ようとするのを見て、ツワナ人はイギリス支配下でボーア人支配下よりもよい生活が遅れるだろうと確信した。1878 年にマッケンジーはイギリス人がツワナ人をボーア人のトランスヴァール共和国の侵害から守るよう圧力をかけ始めた が失敗した。1882 年に彼は休暇を取りイギリスへ行き、LMS の助けを借りて人々の支持を得るために旅に出た。 後に、イギリスが保護領をセシル・ローズの特許会社に譲渡するよう考え始めたとき、バソエン、カーマ、セベレと いった族長が宣教師のウィルオウベイと共にイギリスへいき、イギリス政府に土地をあきらめないよう説得するのを助 けたのは LMS だった。 80 1885 年そして保護領の設立後、宣教師の立場は変わった。しばしば彼らの同国人だった保護領行政府の助けを得るこ とができたので、今では彼らはもはや族長からのたくさんの助けを必要としなかった。宣教師は自分の都合に会わせて 新しい政府に訴えることができた。アルフレッド・ウーキーはこれをンガミランドで行った。セコマ・レツォラテーベ 族長が、キリスト教の影響に反対しツワナ様式を守ろうとしたので、ウーキーは彼を族長位から取り除くことを支持し た。 族長が要求したのでときどき宣教師団は政治に関与するようになった。ツワナ人によって信用された宣教師はツワナ 人とヨーロッパ人の間を渡す助言者・秘書・通訳として働くよう頼まれた。しかしながら、宣教師は国内政治にあまり 深く関与しないよう注意しなければならなかった。例えば、カーマ三世は 1892 年に部族政治に干渉したヘップバーン を追放し、1913 年にはロイドをショションから取り除いた。それゆえに宣教師は助言者として政治にある程度の影響力 を行使できたが、族長の望みに反することの無いよう注意しなければならなかった。 81 第 22 章 宣教師と教育 教育の初期段階 ツワナ人の間の教育の歴史はクドゥマネの創設によって始まった。クドゥマネは、神の言葉を説教するツワナ人の男 である、福音派牧師を訓練した。説教に加えて、彼らはまた学校でも教えた。これらの男は、クドゥマネから奥地に送 られた。キリスト教の拡大とツワナ人への教育は、宣教師によってというよりも、これらの若いアフリカ人によって主 になされた。福音派牧師の一人に、メバルウェがいた。彼は、デビッド・リビングストンとエドワーズと一緒に、ツェ ールストのそばのマボーツァでマナーナのカトラ族の間に混じって 1840 年代に、布教の仕事を始めた。これはクドゥ マネの北のツワナ人の間での最初の学校だった。これのあと、リビングストンはクウェナ族の間で他の学校を始めた。 後には、他の部族の間で LMS によって学校が始められた。 徐々にアフリカの福音派は、キリスト教の拡大と教育の開始の両方で重要な役割を果たすようになった。彼らは、ボ ツワナ社会での宣教者の戸口として活動した。彼らは、社会での多くの人々に関わり、彼らの習慣と必要を理解し、信 頼されていた。 ほとんどの伝道と、ほぼ全ての教育的な仕事は、福音派牧師によって行われた。しばしば、彼らはクウェーベやレフ トゥトゥといった離れた地域にも送られ、彼ら自身のために働かなければならなかった。彼らの知識のために、彼らの 導くよい人生と彼らの助けは常に与えるようにされており、共同体は彼らを尊敬していた。次第に福音派牧師は、意見 を求められ、族長からのいくつかの重要な宗教的義務を譲り受け、共同体の一員になり始めた。彼らは、雨乞いや豊作 を祈るよう頼まれた。 1852 年のディマウェで、戦いの前の日曜日にクウェナ族のために礼拝を行ったのは、メバルウェだった。戦ったボー ア人の中には翌日の礼拝に出席したものもいた。なぜなら、彼らですらも福音派牧師が聖人であることを認めていたか らだ。そしてかなり経ってからのカンエで、アフリカ人の福音派牧師のモツォアハエは、とても尊敬され、権力を持つ ようになったので、彼は LMS 以外にも多くの支持者を持つことができ、自分の教会を始めることができるようになっ た。後に彼はバソエン一世の族長の地位すらも脅かすことができるようになった。 LMS 以外の他の宣教師団も学校を始めた。ヘルマンスブルグ宣教師団のハインリッヒ・シュレンバーグはングワト 人の子供を教えた。彼の最初の生徒の中には、カーマと、彼の弟のコマネと、後にカーマ三世の妻のベシーとなるエリ ザベス・ゴディサンがいた。ルター派の教会が去ったとき、LMS は学校を譲り受け新しいものを作った。 1860 年までに、タワナ族にだけ学校がなかった。その理由は主に、ンガミランドが遠くはなれていたことと、マラリ アの問題が広がっていたことだった。そこでの教会の仕事は、長い間アフリカ人福音派に残されていた。ンガミランド での最初の仕事は、1877 年から 1905 年までで、クク・モホディ、1890 年代にはソロモカエが加わって行われた。彼 らはタワナ族に教えたが、彼らの教育は初期には大成功したとはいえなかった。本、紙、鉛筆といった教材は、簡単に はンガミランドに輸送できず、LMS はククに資金などの十分な支援をしなかった。 時が経つにつれて、クドゥマネで教育されていた福音派牧師は学校の先生として正しく訓練されていないと感じられ るようになった。1871 年には、ジョン・マッケンジー師によって、ショションで教師を教える新しい学校が始まった。 その学校は 1876 年にクドゥマネに移り、ロバート・モファットにちなんでモファット学校と呼ばれた。この学校は英 語を教えることに重きを置いておらず、ツワナ人の親が望んでいた実用的な科目に重きを置いていた。農業教育を導入 する試みがあったが、ツワナ人の学生は手の労働に不快感を持っていたので、これは失敗した。学校は主に宣教師団と ツワナ人との間の誤解のために、1897 年に閉校した。 1880 年まで、 全ての主要なツワナ人の村に学校ができた。 全ての学校は小学校で、 ほとんどの先生はツワナ人だった。 宗教教育に重きがおかれていたが、他の科目も教えられていた。ほとんどの学校は、読み・書き・算術・ツワナ語・裁 縫パン焼きアイロンかけといった少女のための家政・少しの歴史・いくらかの地理、そしてもちろん聖書といったこと を教えていた。これは、読み書き聖書だけが普通の科目だったときの、初期の改善点だった。家政を除いて、教育はほ とんど実用的ではなかった。全ての教育はツワナ語で、英語はわずかだけ教えられていた。 初期の教育の問題 教育は、しばしばツワナの生活様式と対立した。家に重要な仕事があるとき、親はいつも子供を学校に行かせたいわ けではなかった。これは特に、学校へいくよりも牛の世話をするべきである少年たちについていえた。少女たちは、耕 作期と収穫期には、畑で働かなければならなかったので、学校へ行かなかった。実際には、少女たちは少年たちよりも 村でより多くの時間を過ごしたので、少女のほうが学校へよく出席した。 最初は、王家の子供たちと他の重要な人々が学校へ行った。これは、一部には、貧しい人は学校の費用が払えないと いう事があったが、主な理由は、最初にはツワナ人の支配者は自分の統治下のほかの部族の子供たちが教育されること 82 を望まなかったと言うことだった。ツワナ人の統治者は、教育が配下の人たちに、自分と同じ社会的地位を与えると信 じていた。彼らはまた、キリスト教が説く全ての人々の平等と言うことが、彼らの統治に対する臣民の反乱の原因にな るのではないかと恐れた。例えばタワナ族はイェイ族が教育されることを望まなかった。この姿勢は後にかわり、例え ばカーマ三世はングワト族の教師をンスワジのカランガ族を教えるために 1899 年に送った。 他の問題として、資金の不足があった。宣教師社会は一般的に金持ちではなく、彼らの持っている資金は、よい教育 よりも布教のために使われた。支払が少ないために、宣教師学校はよい先生を集めたり良い教材を買ったりできなかっ た。教育水準は低かった。 誤解の進展 誤解の進展 英語教育と実用科目の欠如と言う事実と共に、貧弱な教育が、宣教師とツワナ人の間での誤解を導いた。福音派牧師 は、よい英語を教えられておらず、それゆえそれを教えることができなかった。彼らは農業のような実用的な科目も教 えられなかった。ほとんどの若いツワナ人は学問的な科目を好み、英語を学びたがった。ツワナ人の親の中には、座学 と呼ばれるものに反対するものが多かった。彼らは、自分の子供たちを建築家か大工にしたかった。彼らはまた、白人 の秘密を理解するために、英語を学ぶことを望んだ。彼らは実生活での教育を望んだ。これらの親の中には、南アフリ カのよりよい学校に子供を送るために反対を示すものもいた。しかし、これらの若者が戻ってきたときには、LMS は 彼らが違う宣教師団体で教わったと言う理由で、彼らを学校に雇うことを拒絶した。彼らはおそらく LMS の好むやり 方で宗教を教えないことを恐れたのであろう。彼らはまた、これらの若者があまりに急進的であることも恐れた。 宣教師学校への反対のほかの理由は、宣教師がツワナ人の子供よりも商人の子供により多くの教育と注意を払ってい るとツワナ人が感じたことだった。これらの不満にもかかわらず、ツワナ人は子供たちを部族と教会が共同で運営する 学校に送りつづけた。この誤解により、ツワナ人は族長と部族が学校に対してより多く管理を行うよう要求した。実際 には自分たちの自助学校を始めた部族もあった。これらの学校は部族学校とか地区学校と呼ばれた。これらの学校は部 族の資金で建設されたので、普通どんな料金も課さなかった。教師はツワナ人の志願者か、部族に雇われたツワナ人の どちらかだった。族長の管理下にあるこれらの学校は人気があり、LMS の学校と競争していた。ングワト族のそれら の学校の中にはセロウェ公学校と呼ばれるものがあり、その校長はシモン・ラツォーサだった。似たような学校はクウ ェナ族とングワケーツェ族にも見られた。これらの学校を運営するために特別教育税を導入した部族もあった。ングワ ケーツェ族とクウェナ族が最初で、1901 年に 2 シリングの年次教育税を導入した。他の部族は後に追って適用し、植 民地政府もこの考えを取り入れた。全ての納税者がこれを支払わなければならなかった。 まとめ 独立した非教会系学校の設立は、はっきりと LMS の教育制度が満足できないものだということを表した。これらの 全ての弱点にもかかわらず、宣教師団がツワナ人への教育の基礎を築いた事は事実だと言える。1900 年までに約 20 の 小学校と約 1,000 の生徒がいた。これは、LMS とオランダ改革派・英国国教会・ルター派・ローマカトリックの各宣 教師団体のおかげである。それはまた、宣教師団を助けまた後に自分たちの学校も作り始めた族長のおかげでもある。 83 第 23 章 ボツワナでのイギリス支配の始まり この章では、なぜ、そしてどのようにボツワナが 1885 年にイギリスに統治された保護領になったかを見る。この植 民地的占領は、大陸のほとんどがヨーロッパ人の支配下に帰着した、より大きなアフリカの奪い合いの一部だった。イ ギリス支配は、それを頼んでもいなかったツワナ人に課された。また、ツワナ人はボーア人に対してその独立のために 戦った。しかしながら、指導的な族長は、ほとんどがいやいやだったが、イギリス保護領を受け入れた。彼らは、イギ リスがボーア人よりも力があることを知っていた。彼らはまた、イギリスのもとで自分たちの臣民を支配しつづけられ ることを望んでいた。 背景 19 世紀の終わりまでに、イギリス、フランス、ドイツのようなヨーロッパ諸国は、早い時期に始まった産業革命のた めに豊かになった。産業革命により、ヨーロッパ諸国にたくさんの工場を建てられることになった。それらの工場は、 衣類や鉄製品のようなさまざまな種類のものを生産した。工場を持つ事業家は利益を生むためにそれらのものを輸出し たかった。これらの事業家や工場主は原料や綿・ゴム・茶・鉄などの製品を輸入したりした。だから、19 世紀の間には 多くのヨーロッパ人商人が、アフリカなどのヨーロッパ以外の国へ行き、次のようなものを探した。 製品への新市場 工場への原材料 すぐに、外国市場を巡ってのヨーロッパの国の間での大競争が始まった。租借者と呼ばれる商人と鉱山探索者は、安 全な市場を持つために彼らが興味を持っているヨーロッパ以外の国を政府が植民地化するのを積極的に支持した。ほと んどのそれらの国は、原材料を手に入れるために植民地化を行った。時々、ヨーロッパ人が当時知っていた資源が全く なくても、それが将来発見されるか開発されるかという期待のためその国は植民地化された。 他の国は、資源があるからというわけではなく、より豊かな国に到達し拡大することを欲しその通り道として植民地 化された。ヨーロッパ事業家の外国での行動は、とても収益性があったので、外国の土地を植民地化することによりヨ ーロッパ政府に支援された。アフリカでは、ほとんどのこの植民地化は、19 世紀の最終四半期、特に 1880 年と 90 年 に起こった。この時期はアフリカの奪い合いと呼ばれる。当時はボツワナと呼ばれていなかったツワナ人の土地は、こ の期間に植民地化された。 アフリカの植民地競争は、とても激しかったので、ヨーロッパの国は互いに戦う準備をしていた。戦争を避けるため に、彼らは 1884 年にドイツでベルリン会議を開き、どのように彼らの間で平和的にアフリカを分割するかを決めるた めに集まった。アフリカ人は彼らの独立した国がヨーロッパ人によって分割されていることを知らなかったことを注記 するのは重要なことである。ベルリン会議のあと、ヨーロッパの植民地化はアフリカで急速に増えた。そして、すぐに エチオピアとリベリア以外の全てのアフリカの国は独立を失った。 植民地化の方法 ヨーロッパ人はアフリカの植民地化をさまざまな方法で行った。 1. 最も重要な方法は征服だった。ヨーロッパで始まった産業革命のために、他の人々が持つ前にヨーロッパ人は機関 銃やダイナマイトのような強力な武器を作ることができた。だから、彼らは槍や弓矢そして旧式の銃など武器を使 っていた人々を簡単に打ち負かすことができた。ヨーロッパ人はまた、遠くに行くことができ、海から攻撃するこ とができる汽船を持っていた。 2. ヨーロッパ人はまた、ときどき土地を取り上げるためその土地の支配者を欺いた。もっとも一般的な方法は、読み 書きのできない支配者に条約と呼ばれる協定書に署名をさせることだった。署名は紙の上に十字を作るという方法 でされた。これで彼の土地を取り上げたのだ。ほとんどの場合、これらの支配者は条約の意味する所がわからなか った。 3. ときどき、彼らの国を壊そうとするほかの敵を恐れて、支配者はヨーロッパ列強のもとに入った。彼らは、そのよ うな保護のもとで独立のままでいたいと信じたが、これは実現しなかった。保護勢力は徐々に被保護支配者の権力 を奪っていった。 84 ボーア人のボツワナ攻撃 1873 年、トランスヴァールの古いンデベレ族の国の滅亡は、今やその地に住めると信じていたツワナ人の間に喜びを 引き起こすはずだった。しかし、ムジリカジの敗北はボーア人による新しい問題をもたらした。ボーア人は自分たちを ムジリカジの王国の相続者であるとみなしていた。 ツワナ人の敵であるンデベレ族を打ち負かしたのは自分たちなので、 ボーア人がツワナ人の統治者に彼らの土地は今やボーア人支配者の管理下にあるといったときに、問題は始まった。ツ ワナ人がこの要求を拒絶したとき、ボーア人は彼らを攻撃する準備をした。 1852 年のサンド川会議によって、イギリスはボーア人にヴァール川の北側を干渉なしに統治することを許した。イギ リスはさらにボーア人に銃と弾薬を売るのを許すことに同意したが、アフリカ人にはしなかった。このようにして、イ ギリスはボーア人と同盟し、アフリカ人に対抗した。 この会議のときまでに、フルーチェ族やカフェラのカトラ族といったツワナ人の集団は、すでにボーア人の支配下に あった。しかし、他のタピン族・ロロン族・クウェナ族・ングワケーツェ族・ングワト族は独立していた。会議に署名 がされてから、ボーア人はツワナ人統治者による会議を召集し、彼らは今やボーア人の統治下にあることを知らせた。 見てきたように、セチェレ一世のように、ボーア人の統治を拒否したものもいた。これは、1852~53 年のツワナ人- ボーア人戦争につながった。 戦争の間、ボーア人は、セチェレのクウェナ族とその同盟者で多くの財産を破壊され 200 人の女性と子供を捕らえら れたカ族・マナーナのカトラ族・ディマウェのングワケーツェ族を攻撃した。この後に、ボーア人は彼らがセチェレを 攻撃する助けを拒絶した、ングワケーツェ族とモンツィーワのロロン族へのさらなる攻撃を始めた。これらの攻撃にも かかわらず、ツワナ人は征服されなかった。彼らはトランスヴァールに対するさらなる攻撃を始め、多くのボーア人の 農場を破壊した。 1853 年、平和が回復されたあと、セチェレはケープ植民地に行き、イギリス政府にサンド川会議を放棄するよう頼ん だ。彼はさらなる争いが起これば、ツワナ人はボーア人に耐え続けるだけの充分な銃弾薬がないことを恐れた。特に宣 教師や商人のように同情的なイギリス人の中には、自分たちの政府にツワナ人をボーア人から守るよう求めるものもい た。しかし、セチェレのような統治者は自分たちをイギリスとボーア人とどちらの支配下に入ることも望まなかった。 かわりに彼らはすでにイギリス人とボーア人の間に存在しているような、イギリスとの同盟を結びたかった。 当時、イギリス政府はボツワナにほとんど利益を持っておらず、アフリカ人とのどんな形の同盟も拒否していた。ア フリカの奪い合いはまだ始まっていなかった。結果として、ツワナ人は自分たちを守らなければいけなかったので、自 分たちで同盟を結ぶことによって、これを行った。クウェナ・ングワト・ングワケーツェ・ロロン・タワナの各部族は サンド川会議があるにもかかわらず、銃と弾薬を得るために協力した。彼らの立場は、ボーア人支配から逃れるために トランスヴァールからボツワナに逃れてきた、レテ・トロクヮ・カトラのような各部族の参加で強化された。 新しく到着した集団でカフェラのカトラ族は、ムジリカジの国が滅びたあと、ボーア人の支配下に入っていた。彼ら はボーア人の農場に住み、無料の労働力を提供することを強制された。ピラネ族長とその息子のカマニャネは、1865 年のソト族との戦いのような他のアフリカ人集団との戦いで、トランスヴァールのボーア人を助けることによって、ボ ーア人支配の負担を和らげようとした。しかしボーア人支配はさらに抑圧的になった。 1869 年にカマニャネはボーア人にこれ以上無料の労働力を供給することは不可能だといった。 ボーア人は彼を公然と 叩くことによってそれに答えた。1870~71 年にカマニャネと多くの彼の臣民は、トランスヴァールを去ってその後に クウェナ族の地になったモチュディに住んだ。1874 年にカマニャネがなくなったあと、彼の息子のリンチュウェ一世は クウェナ族から独立して支配した。 さらに北のツワナ人もまたボーア人に脅かされていた。1866 年に、北東地区のタチ地域で金が発見されてから、その 地域は、ボーア人と他のヨーロッパ人の探検家が所有権を主張した。しかし、ングワト族の支配者マツィエンはイギリ スに、領内に入ってきた白人採鉱者を管理するよう頼んだが、この要求は拒絶された。しかしながら、ングワト族とン デベレ族はボーア人が鉱山を乗っ取ろうとするのを妨げるには十分強かった。1870 年代に、トランスヴァール政府に不 満だった何人かのボーア人は、ングワト族の国を横切り西のどこかに住むことを望んだ。1876 年に、アレクサンダー・ バイーレというイギリス人役人に勧められて、当時ングワト族を統治していたカーマ三世はケープ植民地のイギリス政 府に訴え、この新しいボーア人の脅威に対する保護を求めた。しかしながら、政府は関与することに熱心ではなかった。 そこで、カーマはボーア人に警告し、もし彼らの国を乗取ろうとするのなら、自分たちで戦うだろうといった。ついに、 カーマはボーア人が彼の国を西に通りぬけることを許したが、その国に住むことは許さなかった。ボーア人のほとんど は、カラハリの渇きで死んだ。ほんの少しのボーア人がンガミランドに着き、ナミビアやアンゴラに到達した。 ツワナ人は、ボーア人が彼らを攻撃し脅威を与えひどい扱いをするので、嫌っていた。マブルは特に彼らがアフリカ 人の少年少女を捕え奴隷のように使うので彼らが嫌いだった。イギリス人は奴隷制に反対だったので、宣教師や商人の 影響下にある族長の中にはイギリスはボーア人の拡大に対する同盟になりうると望んだ。 1870 年代までにイギリスもま たツワナ人の土地を要求し始めた。 1871 年にキンバリーの周辺のダイヤモンドの豊かな土地はタピン族から取り上げら れた。多くのタピン族はこの合併に抵抗しようとして殺された。だから、1880 年までに、ツワナ人の指導者はイギリス 85 人もボーア人と同じように恐れ始めた。1870 年代イギリス軍によって、タピン族と同じようにペディ族やズールー族の ような集団に与えられた損失で、イギリスがボーア人よりもいっそう力があるということがわかった。 ツワナ人に対するイギリス保護領の宣言 LMS の宣教師が現れる前に、ジョン・マッケンジー師はイギリスがツワナ人を保護領宣言するよう働きかけること を、特に率直に話した。マッケンジーはこれをいくつかの理由で望んだ。 1. ボーア人が布教の邪魔をしないように。 多くのボーア人は、読み書きといった技能をアフリカ人に教えるために、LMS の宣教師を憎んでいた。宣教師は また奴隷制に反対し、全ての人は神の前では平等であることを教えた。ボーア人は、白人は黒人よりも優れている のだ、と説得した。 2. イギリス人商人がボーア人商人の干渉なしに交易できるように。 3. イギリス人がツワナ人の土地をボーア人の拡大から守るために。 マッケンジーは、イギリス人は黒人と白人の両方のためにツワナ人の土地を開発しヨーロッパの文明を広げた。 マッケンジーは本や記事を書き、ボツワナがイギリス植民地になるようにという彼の立場を述べた。しかしながら、 長い間イギリス政府はそこを占領するほど重要だとは考えていなかった。 1885 年の始めに、 この政策は突然変更された。 そのとき、イギリスは後にベチュアナランドと呼ばれた地域の南半分を保護領と宣言した。この保護領は、1890 年にボ ツワナの北半分に拡大されたのだが、外国司法権法として知られる英国法に基づいて宣言された。この法律により、イ ギリスはイギリス人が働いている、アフリカとアジアといった地域の支配に権威を与えた。保護領というものは、それ ゆえに、アフリカ人やアジア人の利益よりも、イギリス人の利益を擁護した。 イギリスによる保護領の発表は、ツワナ人支配者を驚かせた。誰もそれを頼んでいなかったし、以前にはイギリスは 彼らを助けることを拒絶していたからだ。実際には、ドイツ政府と話がついた後に、彼らは保護領について知らされた だけだった。 なにがイギリスに保護領の宣言をさせたのか?マッケンジーの文章にもかかわらず、 1855 年にはツワナ人の運命に関 心を持っているイギリス人読者はほとんどいなかった。保護領にした本当の理由は、ツワナ人の土地はイギリスにとっ てとても重要になったからだった。 なぜボツワナがイギリスにとってそれ程重要になったのか?1880 年代には、象牙・ダチョウの羽・皮・狩猟記念品な どの動物からの製品はまだ存在したが、それは以前ほど重要ではなくなっていた。大きなツワナ人の村にはいくらかの イギリス人商人がいたが、これらの経済活動だけではイギリスに保護領を宣言させた理由にはならない。南部アフリカ でのイギリス人・ドイツ人・ボーア人の間での競争のために、ツワナ人の土地は突然重要になったのだ。長い間、イギ リス人商人と宣教師は、ケープからマフィケン・カンエ・モレポローレを通って、ンガミランドと中央アフリカとの分 岐点であるショションへ至った。この北への道は宣教師、狩猟者、そして商人によって使われた。それは、イギリスの 交易と中央アフリカへ向かう北への拡大として、とても重要だった。 この道の経済的重要性は、1867 年にキンバリーでダイヤモンドが発見されたことにより増加した。イギリスの資本家 はダイヤモンド鉱山を所有し、南部アフリカ中から労働者を募集した。1870 年代にはすでに、ツワナ人はキンバリーで 仕事を探していた。求人者と労働者はどちらもこの道を使った。1884~85 年にウィットウォータースランドで金が発 見されたとき、労働者求人のために道はより重要になった。裕福な鉱山所有者で、最後にはケープ植民地の首相にまで なったセシル・ジョン・ローズもまた、現在のジンバブエとザンビアへ自分の事業利益を拡大するために北への道を望 んだ。ジンバブエのンデベレ族とショナ族の土地は金が豊富であるという噂があり、ザンビアではすぐに銅や他の資源 が発見された。 北への道路のアクセスに加えて、ローズはそこに鉱物があると考えていたのでツワナ人の国にも興味を持っていた。 金の採掘はウィットウォータースランドで金が発見されるずっと前の 1860 年代にタチ地区で始まった。ンガミランド にはダイヤモンドがあるという噂があり、タワナ族の王モレミ二世は鉱物探索のために租借許可を与えた。ローズはボ ツワナの潜在的な富を巡る競争から脱落したくはなかった。実は、そこの富を独占するために彼はその地域での他の鉱 物探索者の採鉱を邪魔したかったのだ。 ボーア人とツワナ人の新たな紛争と同時に、鉱物資源とより必要となった労働力を得るために、北へと続く道への欲 求が起こった。金鉱から稼いだ富によってトランスヴァールはより強力な国になった。それゆえ、ボーア人がモロポ川 の南に住むロロン族やタピン族に対する土地の要求をより強硬に支持するようになった。この脅威に直面して、マッケ ンジーはイングランドにいき、 そこでイギリス政府がツワナ人に対する植民地支配を打ちたてるようもう一度進言した。 そのとき、1884 年のクリストファー・ベテルの死により、ボーア人に対するイギリス人の怒りが爆発した。ベテルは、 後にツワナ人の地に保護領の宣言をするために送られた将軍のチャールズ・ウォーレン卿の親戚筋に当たるある重要な イギリス人の一家に属していた。ロロン族の間に住み、テポ・ボアビレというロロン人と結婚した彼は、ボーア人の攻 撃に対抗したモンツィーワ族長を助けた。彼は、ボーア人の攻撃により、致命傷を負った。マッケンジーのような人々 86 は、彼の死を以前にボーア人に奪われた土地をイギリスが取り返す必要を正当化するために使った。イギリス大衆の多 くは、自分たちの政府にボーア人の土地の略奪をやめさせるよう要求した。 その間に、北への道は切断され利益を危険にさらす危惧のあることがイギリス政府にとって明白になった。東から、 ボーア人はこの道を脅かした。彼らの中には、マンクワーネ族長に統治されたタピン族の土地を奪い取り、フライバー グの周りに独立したステラランド共和国を作った者もいた。他のものはマフィケンのそばのモンツィーワ族長に統治さ れたロロン族の土地を取り、そこにホーシェン共和国を立てようと試みた。 西では、ドイツ政府は 1884 年にナミビアの海岸地域にドイツ領南西アフリカと呼ばれる保護領を宣言し、そこから 内陸に拡大し始めた。彼らはまた、ドイツ領東アフリカと呼ばれるタンガニーカを植民地化した。イギリス人は、ドイ ツ人とボーア人が統合して彼らにあたり、ナミビア・タンガニーカ・トランスヴァールの間の地域を取り上げるのでは ないかと恐れた。これはローズのようなイギリス人資本家の北への道を切断することになる。これを妨げるために、イ ギリス人は 1884 年 4 月にロロン族とタピン族の土地に当たるモロポ川の南を保護領に宣言した。マッケンジーがその 地を統治する委員長代理に任命された。 ホーシェンのボーア人がトランスヴァールに帰るという進歩があったけれども、 彼は土地要求を解決するためにステラランドのボーア人と協力するよう指導された。まもなく、高等弁務官のヘルクレ ス・ロビンソンは、マッケンジーがツワナ人の利益をステランダーの利益よりもあまりに上に置き過ぎだと裁決した。 だから、彼はマッケンジーをローズと交替させ、ローズはステランダーにイギリス支配を受け入れる代わりに彼らの要 求した土地を提供した。 ホーシェナイツにはまだ問題があった。ングワケーツェ族の助けを得て、ロロン族は彼らを押し返すことができた。 この時点で、トランスヴァール大統領のポール・クルーガーは、自分の国にホーシェン共和国を作ることにより仲間の ボーア人を助けた。それに対して、イギリス政府は強力な軍隊をそこへ送りボーア人を追放することを決めた。 ウォーレン将軍の前進 1885 年 1 月チャールズ・ウォーレン将軍は、ホーシュナイツの土地略奪者を一掃するために、約 4,000 人の兵力で ロロン族の所に到達した。戦いたくなかったので、ボーア人はトランスヴァールに逃げ出した。ウォーレンはそれから フォーティーン・ストリームでクルーガーに会い、そこでトランスヴァールの西の境界を固めることに同意した。これ で、道を北上するボーア人の脅威はなくなった。1885 年 3 月イギリスはドイツに、ベチュアナランド保護領をモロポ 川の北の南緯 22 度(ほぼ現在のセレビ-ピクウェ)まで広げると連絡した。この地域は、クウェナ族、ングワケーツェ族、 そしてほとんどのングワト族の地を含んでいた。4 月には、ウォーレン将軍はマッケンジー他 70 人を伴って、カーマと セチェレ(イギリスがその地域で最も重要な統治者だと考えていた)にその地が保護領の一部になったということを伝え る命令書を持って、モロポ川をわたって現在のボツワナに入った。 イギリスはそうして北への道を守るのに成功した。イギリスは保護領をケープ植民地に譲渡することを提案した。し かしながら、ケープの政治家は当時ベチュアナンランドを取り上げようとは思っていなかった。それから、1885 年 9 月 30 日に、イギリスは保護領を二つに分割した。モロポ川の南の部分では、イギリスはステランダーや他の白人にア フリカ人の土地に住むことを許したが、そこはフライバーグに首都を置いた英領ベチュアナランドの英国王直轄植民地 になった。1895 年 11 月、この植民地はついにケープ植民地に合併された。モロポ川の北側、つまりボツワナは、ベチ ュアナランド保護領として残り、1895 年にマフィケンに首都が動くまでフライバーグから統治された。 ツワナ人統治者の保護領への反応 ウォーレンは、ツワナ人の族長たちが知識なしに保護領を宣言されたことに対しどのように反応するのか知らなかっ た。カンエでは、彼は、ハセイツィーウェ一世とその息子バソエンと私的に懇談したが、保護領の問題は避けられた。 彼はそれからモレポローレに進み、そこで老セチェレに公的な会議で話をした。セチェレ一世の長子セベレとウォーレ ンがモレポローレの部族会議で 1885 年 4 月 27 日に交わされた会話の記録が残っている。この会話は、多くのツワナ人 が最初から保護領に敵意を持っていたことを表していた。 クウェナ族の首都でウォーレンの発表は強い反対を受けた。終日にわたる部族会議で、セチェレ族長と彼の息子のセ ベレは保護に反対した。南アフリカの新聞ですでに保護領について読んでいたが、彼らは疑っていた。彼らはウォーレ ンに、なぜ彼らが保護を頼んでもおらず脅威も感じていないときに、イギリスは彼らを保護しようとするのか、とたず ねた。彼らはそれが独立を終わらせ、土地も同様に失うのではないかということを知っていた。一方で、セチェレはイ ギリスに抵抗することは望みがないとも知っていた。セチェレの影響力のある兄弟であるコシディンツィは同盟として の保護領を歓迎したが、イギリスが税を徴収しようとするどのような試みにも反対した。セチェレは、保護領がどのよ うに機能するのかを最初に見てからでないとクウェナ族は保護領を受け入れるには未熟過ぎるといって会議を結論付け た。彼は、イギリスに、ングワケーツェ族とロロン族がボーア人によって持ち去られた財産を取り戻すことによって熱 意を見せてほしいと要求した。 87 ウォーレンは次にングワト族の首都ショションに行き、そこではカーマが保護領を歓迎した。1885 年 5 月 13 日に、 彼はマッケンジーによって起草された書類に署名した。その内容は、 “私カーマはマングワト族の族長であり、私の弟と町の長とともに、イングランド女王の使節の到来と、女王の望みに より設立された保護領の発表と、またその保護領がマングワト族の法を助けることになることに感謝の気持ちを表明し ます。私は、私の聞いた女王の言葉に感謝をささげ、マングワト族の国内でのイングランド政府の友好と保護を受け入 れます。” “さらに、マングワト族の地で黒人と白人の両方に関して女王が法を作り、それを変更する力を与える。にもかかわら ず、私はわが町の政府も、わが臣民が習慣にしたがって事件を決めることも邪魔しない。しかしまた、これらの役所を 助けることも拒絶しない。これはそうだけれども、わが国にも法があり、イングランド女王はそれが施行中である事を 知り、その法はわが臣民にとって利益があり、私はこれらの法が承認されるべきであると望み、イングランド政府によ って取り去られるべきではないと望む。アルコール飲料については、黒人であれ、白人であれ、マングワト族の地に持 ちこむべきではないという法について言及しておく。さらに、マングワト族の地は売ることができないと宣言した法に ついても言及しておく。この法もまたよいといっておく。それを法として維持しつづけよう。” 保護を受け入れて、カーマはマッケンジーの主張を入れて、イギリス人が来て住むべき土地のために、イギリスに広 い一帯の土地をさらに提供した。カーマはその提供により、彼の臣民がイギリスに税金を払わなくてすむようになるこ とを望んだ。実際には、彼の提供した土地の多くは、実際にはカランガ族・タワナ族・クウェナ族・カトラ族といった 隣接する集団に占拠されていた。おそらく、白人はどこからでも来ると信じて、問題を避けるために彼は白人が自分の 臣民から離れた地域に住むことを望んだ。彼はさらに、よい英国人だけを受け入れ、ボーア人は受け入れないだろうと 強調した。移住者は、イギリス女王の役人によって注意深く選ばれた。カーマの意図はイギリス人居住者を使って彼の 国を守ることだった。例えば、リンポポ川沿いで彼らはトランスヴァールからのボーア人の浸入を防ぎたく、シャシェ 川とモトーツェ川の間ではンデベレ族の襲撃を防ぎたかった。ウォーレンは直ちにンデベレ族の支配者のロベングラに 役人を送ってバングワト族は今やイギリスの保護下にあることを教えた。 カーマの支持を得た後に、ウォーレンは今は保護領を受け入れるのに気が進んでいないセチェレとハセイツィーウェ の所に戻り、イギリス人が彼らの国の東側の境界に住むことを許すことに同意させた。しかし、彼らの言葉はカーマの それとは著しく異なっていた。 “私、セチェレは、クウェナ族の族長であるモツヮセレの息子であり、息子たちと弟たちとともに、英国女王の保護に 関わる通信を聞き、それに感謝の念をささげる。この国で制定されている法に関し、私は自分の人民を慣習に基づいて 統治したいと望んでいるが、女王に白人についてどこにいようとそれを統治する権利を与える。” “私、ハセイツィーウェはングワケーツェ族の族長であり、息子たちと弟たちとともに、英国女王の保護に関わる通信 を聞き、それに感謝の念をささげる。そして私は、ングワケーツェ族の地のわが臣民をそのまま統治しつづけたい。に もかかわらず、私はイギリス人の間で生活するので、彼らの助言と助けを拒絶しない。” 南部ボツワナのほかの族長は保護領について相談されておらず、イギリス人だけが 1890 年に北ボツワナについての その統治を宣告した。実は、イギリスの役人はンガミランドのタワナ族の元へは 1894 年に送られただけだった。セコ マ・レツォラテーベ族長はまた、いやいやそれを受け入れる前に、イギリス統治に反対を表した。 始めから、保護領はツワナ人とイギリス人の間で違ったことを意味した。ツワナ人は、それが外部の脅威からの保護 を、イギリスからの内政干渉を最小限に抑えて行うということを意味するよう望んだ。イギリスにとっては、北への道 という彼らの利益を確保するための保護領だった。彼らは領域を統治するためにあまりにたくさんの費用を使いたくな かったので、最初は族長が自分たちの臣民を統治するのにほとんど干渉しなかった。ウォーレンとマッケンジーは、カ ーマの土地の提供を、より強い植民地政府設立の提案の基礎として使った。しかし、彼らの提案もカーマのオファーも 拒絶された。 イギリスの干渉への抵抗 保護の意味することの異なった視点は、すぐにツワナ人統治者とイギリス人役人の間の誤解を生んだ。これがどのよ うに問題が始まったかだ。保護領の宣言のあと、1885 年 10 月 1 日にイギリス政府はシドニー・シパード卿を保護領の 住民委員長に任命した。シパードは、ケープ植民地の高等裁判所判事で、セシル・ローズの友人だった。1888 年までに、 保護領南部の統治者たちが保護領の有益性に疑問を持っていたのが明白になった。彼らは、モロポ川の南側にある英領 ベチュアナランドのツワナ人が、彼らの土地の 92%を取り上げたイギリス人にひどく扱われるのを見た。だから、カー マを除いては、支配者はイギリスへの不信感を表すようになった。 88 コポン会議 族長の不満を終わらせるために、シパードは 1889 年にコポンで会議を開いた。彼の狙いは、保護領に何らかの形の 行政府を導入することだった。議論された論点の中には次のようなものがあった。 1. 保護領行政府の支出をまかなうために、ツワナ人にハット税が課されること 2. イギリスによる部族間の争いの解決 3. 防衛問題 4. 井戸の掘削 5. 電信線、鉄道、道路のような通信手段 コポン会議には約 1,500 人が出席した。提案された議題はイギリス政府が今やツワナ人の内政問題に干渉しようとし ているように見えたため、ツワナ人の間から大きな懐疑の声が上がった。税制の話は、住民委員長が族長からツワナ人 の最高統治者の座を取って代わることを意味した。 会議の前に、 セチェレはシパードに彼の懸念を以下の言葉で表した。 “私がわが国を女王に差し出したとき、族長の権利までは与えなかった。イギリス政府の保護の意味する所は何なの か?政府との関係で私の町や国での立場は何なのか?” セチェレはそれから、息子のセベレをコポンに送り、シパードに彼は誰にも支配されたくなく、誰にも税金を払いた くないといった。 セベレは、 ングワケーツェ族のバソエンとカフェラのカトラ族のリンチュウェから強い支持を受けた。 3 人はみな、ボーア人の脅威はないので保護は不要だと論じた。カーマ族長だけが保護領への支持をまだ表していた。 シパードはそれから不成功だったコポン会議を終わらせた。ツワナ人は国内問題への干渉に強く反対した。コポン会議 のあと、他の族長は、シパードと同様にますますカーマにも懐疑的になった。 89 第 24 章 保護領への新たな恐れ 保護領設立の直接的な結果は、現在ボツワナと呼ばれている国がボーア人の攻撃から解放され、トランスヴァール共 和国への合併から守られた。しかしすぐに、もっと大きい外からの脅威が現れた。それは、セシル・ローズによるもの で、彼は彼自身のためと、1910 年の成立時からボツワナを支配したがっていた南アフリカ連邦のためにボツワナを望ん だ。これらの恐れは両方ともイギリスの権力者たちの支持を受けていた。しかしながら、彼らのボツワナを乗っ取ろう という動きは失敗した。ボツワナの支配者たちはその臣民を率いてこれらの努力に強く反対したからだ。 ローズの野望 セシル・ローズはとても金持ちで、野望のある、事業家で植民者だった。彼は、キンバリーダイヤモンド鉱山に大き な持分があり、それによって金持ちになった。この鉱山は、世界最大のものだった。ローズは、ケープ植民地の北側に なるべく多くの植民地を設立することにより、より多くの富を獲得したかった。彼はしばしばケープからエジプトのカ イロまでアフリカを通してイギリスの支配下におくことを話した。ケープコロニーの北側に彼の植民地化の野望を実行 するために、彼は 1889 年に英国南アフリカ会社(BSACo)と呼ばれる商事会社を設立した。 1880 年代までに、鉱山の富を探して、南部アフリカ一帯に免許会社があった。それらは、個人と会社両方の形で運営 されていた。ローズとその南アフリカ会社はそれらのうちの一つであった。ローズは、彼の競争者を破る一番良い方法 とイギリス政府の支持を勝ち得る方法は、力のある豊かな会社を運営することを通してだと知っていた。彼の成功によ り多くのイギリス人は彼を先駆的な帝国建設者だとみなした。当時はイギリス政府の支持を得ることは、ローズや他の 強いイギリス人植民者にとって難しいことではなかった。その理由は、イギリス政府は植民地化のためにたくさんのお 金を使いたくはなかったからである。その代わりに、BSACo のような商事会社を使うことによって、できるだけ安く 植民地化を行いたかった。そのような会社は、世界中でイギリスの権力の拡大を助けた。会社の植民地化の努力を助け るために、イギリス政府は普通、会社にその地の支配者から免許や条約を得るよう要求した。理想的には、免許はその 性質を理解した支配者によって署名され、自発的に発行されなければならなかった。しかし、多くの場合、免許会社は 間違った口実により条約を獲得し、支配者はその本当の意味を完全には理解していなかった。 BSACo の設立の主要な目的は、中央アフリカの植民地化、特に現在ジンバブエと呼ばれているンデベレ族とショナ 族の地を植民地化することだった。その富のためにそこでは大きな競争があった。モザンビークから来たポルトガル人 や、トランスヴァールからのボーア人がそれを望んだ。1887 年にはその地域で利益を上げるために、ボーア人はンデベ レ族の王のロベングラと新しい友好条約に調印した。 ローズの部下たちは、 その国に自分たちの権利を主張するために、 急いでロベングラとたくさんの条約を準備した。それらの中で最も重要なものは、ルード免許だった。この条約は、1888 年にローズの部下であるルード、マグイレ、トンプソンによって王を欺いて署名をさせ、獲得された。この中で彼らは、 条約があれば他の免許者から彼の国を守るためにイギリスの支持が得られるとロベングラを説得した、ベチュアナラン ド行政官のシパードとその補佐のジョン・モファットの支持を得た。 実際には、免許はローズにンデベレ族の地の全ての鉱物の権利を与えていた。ロベングラが後に拒否するこれや他の 免許を基礎として、イギリス政府は BSACo にローズにちなんで南北ローデシアとして知られるようになったザンビア とジンバブエを植民地化する王室免許を与えた。1890 年代に BSACo はンデベレ族やショナ族と血なまぐさい戦争をし た後に二つのローデシアを植民地化した。 ベチュアナランドとローズ イギリスが王室免許を BSACo に与えたとき、彼らはまた、BSACo 支配の元にくることになるその地域の保護領を含 めた。しかしながら、ローズはすぐに保護領を統治する費用を推測することに熱心ではなかった。ローデシアの安全保 障を一番におく努力に集中すると合意された。さしあたり、保護領は彼の友人のシパードによって管理され続けること になった。さらに、イギリス政府は、可能な限り会社の支援に関与し続けることになった。そのため、保護領の宣言後 わずか 4 年後の 1889 年にはすでに、イギリスはベチュアナランドを商事会社に手渡すことを決めていた。 1890 年代にローズはケープ植民地からローデシアの新しい植民地まで鉄道路線をひくことを望んだ。この鉄道は、ア フリカ人支配者がまだ強大な力を行使していた保護領を通り抜けていた。コポン会議のあと、ローズは多くの族長はこ の路線が自分の土地を通って建設されることに反対だと言うことを知った。ローズはまた、保護領は鉱物資源を産する だろうと信じていた。すでに金の採掘はタチで始まっており、ツワナ人の支配者は鉱物免許を BSACo 以外の会社に与 えていた。さらに、彼は、ヨーロッパ人が農業、特に農場経営に参加するために保護領に住むことを望んだ。 1890 年にローズはジンバブエ進入の基地としてガマングワトを使った。1891 年にケープ植民地からジンバブエにわ たるタチの金鉱山を経由した鉄道と電信線の建設許可を頼んだ。彼は BSACo が建設資金をまかなうので、これらの建 90 設がイギリス政府の資金節約になることをうまく説明した。 1892 年にイギリス政府は鉄道計画を承認した。 この鉄道は、 もっと重要なことに、ローデシアの鉱物資源開発に有益だった。ツワナ人の土地を BSACo に譲渡することを要求した この条約は、 族長に知らせることなしに秘密裏に合意された。 1893 年ローズの私有軍は保護領警察軍とカーマの約 1900 人の武装兵の力を借りて、ンデベレ族を押しつぶした。その後、ローズは保護領を全面的に管理することにより熱心に なった。 免許取得競争 BSACo が併合計画を実行する前に、ローズとイギリス政府は、ツワナ人がすでにローズの商売敵に与えていた多く の免許を処理しなければならなかった。それらの免許のうちいくつかは、鉄道が通る予定地を譲渡した。保護領の宣言 に続いて、特にウィットウォータースランドでの金の発見の後で、免許会社が鉱物探索・交易・居住・農業・通信建設 のための免許を求めて、ボツワナ中に広がった。 免許の性質は変わった。族長を土地の君主と考えるものもおり、彼らの領域にイギリスや BSACo が支配を及ぼすこ とに反対した。それらの免許会社には、イギリスの国会議員やほかの権力者たちを株主として含んでおり、彼らの要求 や独立主権者としての族長達の要求は、簡単に忘れてしまうことはできないからだ。他の場合では、族長は免許に署名 することが土地についての要求をあきらめるかも知れないということを完全には理解していないこともあった。ツワナ の様式では、土地は個人に売られたり恒久的に与えられたりはしないので、族長は、臣民に土地の使用権だけを与える ことができると理解していた。土地は部族に所属し、族長はその臣民のかわりにそれを管理していたに過ぎなかった。 しかしながら、無節操な免許者は、後に彼らがある地域の私有権を獲得したと要求するために、しばしばその協定に ついて嘘をついた。免許者がその意味を完全に説明することは、もしあったとしてもたいへん稀だった。しばしば、免 許者がその完全な意味を説明すると、支配者は驚き、自分と土地を手放したことを強く否定する。 支配者が免許を与えた理由は次の通りである。 主権支配者としての彼らの地位が認められていること。 彼らはほんの短い間土地を貸すだけだと信じていたため。 免許者が支配者に使用料を払ったこと。 多くの免許は信用できる現地の商人や宣教師の助言の上で調印されたから。 要するに、族長は免許を与えることによって失うものがあるとは信じていなかったのでそうしたのだ、といえる。彼 らの法では、族長は土地の支配権を失うことはなかった。さらに、多くの免許者は、族長に英国政府と BSACo に権威 に対する抗告をする法的権威を与えた。 以下は、不公平な免許の二つの例である。カトラ族の首都であるモチュディの商人であったチャールズ・リレイは、 ングワケーツェ族の国で 99 年間の交易・製造の免許を得た。彼はまた 200 平方マイルの土地の 99 年間の免許も獲得し た。それらの免許を申請するために、リレイは安いものを売るために店を建てるだけだということを強調した。族長は これが彼の臣民のためになると思ったので、その考えが気に入った。二番目の特に不公平な免許は、ロロン族の支配者 のレツォヒレが 1891 年にウィルキンソンに 200,000 モルゲンの土地を貸したものである。ウィルキンソンはその土地 を 1894 年の終わりに 1000 モルゲンにつき5シリングで買うことができ、使用料が 1 年に 10 シリングだった。 免許委員会 1893 年までに、免許者間の競争は激しくなった。いくつかの場所では、ツワナ人は知らないうちに免許者に土地を奪 われる危険にあっていた。 植民地政府は、 さまざまな理由でとても大きな数になった免許について心配していた。 BSACoの1889年の免許では、 保護領の土地と資源について最大限の管理ができることを、イギリスはローズに約束した。シパードはそれゆえ BSACo に競合して出された全ての免許の要求は違法だと宣言した。そのような段階を取るシパードの法的権威が問題視された とき、これは却下された。 ローズと BSACo にとって物事が簡単になるように、高等弁務官は 1893 年に免許委員会を立ち上げた。イギリス政 府のねらいは、BSACo に対する競争を取り除くために、できるだけ多くの免許を取り消すことだった。委員会は BSACo の設立された 1889 年以降に調印された全ての免許を取り消す権限を与えられた。正直に獲得されたものではない免許 もまた取り消されることになった。委員会の会議の間に、どれだけ免許業者に騙されていたかに気がついた支配者もい た。クウェナ族のセベレなどは、委員会の設立を国内問題への干渉だとみなした。彼は、自分だけがクウェナ族の族長 なのでその土地について自分の好きなようにしたかった。委員会は多くの免許を取り消すよう勧告したが、その決定は セベレや多くの免許者を代理し、英国女王陛下の政府よりも族長のほうがボツワナの土地や資源について法的支配力を 持つと論じる弁護士によって抗告された。BSACo は、にもかかわらず、今やベチュアナランドを乗っ取るためだとい うことがあきらかな方法を取りつづけた。 91 譲渡に向けた動き 1894 年の終わりにローズは正式に、イギリスがすぐに保護領を BSACo に譲渡することを保証するよう要求した。イ ギリス植民地大臣は好意的に返答した。譲渡を容易にするために、それに反対していたヘンリー・ロッホ卿が保護領を 含む南部アフリカの英国高等弁務官から解任された。ローズの会社の大株主であるヘルクレス・ロビンソン卿がかわり をつとめた。 ローズの、保護領をすぐに乗っ取ろうとすることに突然熱心になったのは、トランスヴァールを攻撃する基地として それを使いたかったことと、それをボーア人から乗っ取ることに動機付けられていた。ウィットウォータースランド(ハ ウテン)は、トランスヴァール・ボーア共和国をとても金持ちにした。多くの金鉱はローズ自身を含むイギリスの事業 家に属していたが、ローズはそのような富裕な国の政治的権力をボーア人が全て握るという考え方を好まなかった。彼 は、彼の会社が金鉱からの全ての利益を干渉なしにあげることができるように、トランスヴァールがイギリスによって 統治されることを望んだ。 彼の攻撃を正当化するために、彼はトランスヴァールの非ボーア人白人の不満に口実を見つけた。彼らは、ボーア人 から外部者と呼ばれ、トランスヴァールの選挙に投票できないといった不平等な扱いに不満を言った。攻撃の本当の理 由は、ローズが金鉱をイギリス政府のもとにおきたかったという可能性もある。1889 年にカーマだけが BSACo 免許の 条項について正式に話されており、保護領でのローズの利益は、ングワト族の支配者としての彼の地位を干渉しないと いうことを再保証した。その後、しばらくしてカーマは BSACo を支持して、電信線のために労働力を、ンデベレ族に 対しての戦争のために軍隊を提供したりした。しかし、時が経つにつれ、ンデベレ族と同じように彼の臣民も殺されて しまうのではないかと恐れ、カーマはローズを信用しなくなった。ンデベレ族を征服した後に、ローズは、長い間ング ワト族に要求されてきた、タチ地域を含むシャシェ川とモトーツェ川の間の地域を合併しようとした。カーマが強く抵 抗したとき計画は断念された。カーマはまた、ンデベレ族との戦いでローズがングワト族の臆病さを非難したことを恨 んだ。ングワト族は、彼らの農場で天然痘が発生したので、ンデベレ族が最後に崩壊する直前に本拠へ去り始めた。 バソエン、リンチュウェ、セベレ、セコマ・レツォラテーベといったほかの指導的族長は、新聞や、ローズのために 働いているわけではない伝道師や商人を含んだ個人的な情報源を通して、ローズの脅威に気づき始めていた。なぜセベ レが免許委員会を強く非難するのかということは、BSACo への恐れの広がりのためということで説明できる。1895 年 の 6 月、ある新聞編集者が、族長たちに手紙を送り、保護領の BSACo への譲渡問題は今切迫しているということをは っきりと書いた。6 月の後半と 7 月、カーマ、セベレ、リンチュウェ、バソエンは新しい植民地大臣のジョセフ・チェ ンバレンに手紙を送り、彼らの国は BSACo に与えられるべきではないと要求した。彼らは 1885 年に合意したように 女王陛下の直接保護のもとにとどまりたかった。ローズとその部下がモロポの南に住むツワナ人やローデシアに住むン デベレ族や他のアフリカ人をどれだけ過酷に扱ってきたかを見てきたため、ツワナ人は BSACo が大嫌いだった。彼ら は、土地や財産と同様に彼らの自治政府のもとに残っていたものも BSACo によって失うのではないかと恐れた。カー マはまた、BSACo は酒類をベチュアナランドにいれるのではないかと恐れた。 一般的に、当時ツワナ人支配者は、保護領の高等弁務官以下イギリス役人を信じていなかった。これは、彼らが BSACo の味方をしたからだった。この不信のため、族長はイングランドへ行き、植民地事務局に直接主張した。この旅のニュ ースが知られるようになると、ローズはローデシアの行政官リーンダー・ジェイムソンを送り、カーマとの新しい条約 を交渉させた。カーマとの合意に達するために、ジェイムソンは族長の仲のよくない兄弟であるラディタディとモフォ エンをローデシアに住ませることを約束した。カーマは今ローズとの別個の条約を結ぶことを拒否した。 族長の抗議のためのイギリス渡航 バソエン、カーマ、セベレは一緒にイギリスに行った。彼らは数名のツワナ人と首席通訳として宣教師 W.C.ウィロー グバイを帯同した。ケープタウンでロビンソンは彼らに面談し、イギリス渡航を止めさせようと試みた。彼は、彼らが イギリス政府が保護領を譲渡しないよう説得するのに成功するのではないかと恐れたが、族長たちは出かけた。 ロンドンでは、族長たちは以下のような要求をした。 保護領は、ロンドンの女王陛下の政府の直轄下に残り、BSACo へは譲渡されるべきではないという事。 統治者としての彼らの地位は保護されること。 彼らの土地は売られるべきではないこと 飲酒は彼らの地域では禁止されること 彼らは、BSACo がローデシアで悪い政府だったと批判し、女王の保護領統治を賞賛した。植民地大臣のチェンバレ ンは、ローズの部下は女王の部下でもあるため、BSACo へ譲渡される危険はないと説得しようとした。彼は、族長た ちにローズの代理人と譲渡の詳細について交渉するよう助言した。チェンバレンは、イギリス政府はベチュアナランド を BSACo に譲渡する約束は破ることができないとつけ加えた。ローズはハリスという男をロンドンに送り、ツワナ人 の支配者と交渉させ、彼らが自分の計画を邪魔しないことを確認した。族長たちが BSACo との合意に達したことを聞 いて、チェンバレンは休日を続けた。 92 対決と解決 BSACo と交渉するかわりに、三人の族長は英国を旅し、会社への抵抗を支持してくれるイギリス人を探した。ロン ドン宣教師協会(LMS)が戦略を立てた。カーマは誠実なキリスト教徒支配者だったので、特に LMS の支持者を愛され、 尊敬された。また、族長はイギリス中でたくさんの出席者がいる会議を開いた。彼らはどこへ行っても、女王のもとに とどまることを願っており、会社は彼らの国に酒や他の悪影響のあるものを持ちこむので嫌いだと強調した。彼らはさ らに、1885 年に女王の保護を受けたと強調した。当時のイギリスには、多くの人々が飲酒に反対する禁欲運動に属し、 その中には LMS の支持者も多くいた。族長は、そのような人々に、BSACo がローデシアで行ったようにベチュアナラ ンドに酒を持ち込むことにより、ツワナ人へのキリスト教の広がりを破壊するだろうと説得した。多くの人権主義者や 反奴隷団体は、イギリス政府が族長の立場を支持して、アフリカ人の権利を守ることを望んだ。彼らは、ローデシアで の恐ろしい戦争や、その植民地での過酷な統治のために会社が嫌いだった。英帝国は商事会社ではなく英国政府によっ て統治されるべきだと考える人もいた。彼らはさらに 1885 年の保護協定は不公平にも破られたと感じていた。会社の 支配がボツワナに及べば、ンデベレ族戦争のような費用のかかる戦争が起こりうると感じるものもいた。 それゆえに、チェンバレンは休日から戻ったときに、イギリス人、特に教会や事業家たちから、予定されていた保護 領の譲渡に抗議するたくさんの手紙を受け取った。譲渡問題で政府が不人気になり次の選挙に負けることを恐れて、チ ェンバレンは妥協することを決めた。族長たちと会って、彼は 1895 年 11 月 7 日に次のような声明を発表した。 1. 保護領の東側の狭い地域に鉄道路線をひくこと。家畜を守るために線路の両側にフェンスを立てること。 2. 人々の村や耕作地に干渉しないようそれぞれの王は鉄道に必要な土地を割譲すること。 3. 保護領の地位は、クウェナ族、ングワケーツェ族、ングワト族の領域内で保持される。女王の役人はそれぞれの族 長の首都に住む。 4. これらの三つの保護領は、保留地として区画された。すなわち、アフリカ人のためにとりおかれた。これらの地域 の中では、それぞれの族長は、イギリス政府の干渉がほとんどないまま、その臣民を以前のとおり統治した。保留 地以外の土地は王家直轄領としてイギリスに属した。 5. 酒類についての法律は変わらないままだった。 6. 保護領行政をまかなうため税制が導入された。 族長たちは、自分たちが半分のローフを注文されただけだと知っていた。彼らの減らされた領域の外にある保護領は ローズに譲渡された。協定はそれゆえ、カラハリ、カトレン、ンガミランドといった場所の人々になにもしなかった。 しかし彼らは少なくとも保護領の半分を与えられたと信じた。彼らの知らなかったことは、クウェナ族とングワケーツ ェ族は、その土地の 80%以上を奪われることになるよう、ローズが保留地の区画をしたことである。ローズの部下のハ リスが、イギリス政府は解決策をツワナ人の公的利益が死に絶えた時には変更することができるただの一時的協定であ るとみなしていると確認したとき、全ての望むものを得られたわけではないローズの怒りはおさまった。一方で、ロー ズは、ラディタディの部下の反体制派を返すか BSACo にカランガ族の地域を明け渡すかのどちらかを要求することに より、カーマに圧力をかけようとしたが、彼は拒絶した。 ローズほぼ勝利 ベチュアナランド乗っ取りのローズの計画に抗議して三人の族長がイギリスで忙しくしている間に、ローズの代理は 他の保護領の支配者との交渉に忙しかった。シパードとローズの兄弟のフランクは BSACo を代表して、レテ族の統治 者であるイカネンを訪れ、土地の租借を要求した。多くの説得を受けて、イカネンは土地の一部を贈った。イカネンは、 会社は鉄道の建設の間だけのほんの短い期間土地が必要だと考えた。 この成功に勇気付けられて、シパードはロロン族のモンチィーワに会いに行った。彼は、トランスヴァールの国境に 近い、ピツァナフォトロークウェの土地の一部を与えるよう、モンチィーワを説得した。高等弁務官の勧告により、鉄 道路線が通ると考えられたトランスヴァール国境近くの地域は BSACo に譲渡された。 BSACo はすばやくジェイムソン 博士を保護領の譲渡された地域の住民委員長に任命した。 ジェイムソンの襲撃 トランスヴァールの出来事は、しかしながら、保護領を獲得するというローズの望みをすぐに打ち砕いた。1895 年 12 月 29 日の夜、ジェイムソンの襲撃が始まった。英系白人の支持のもとトランスヴァールを乗っ取るというローズの 目的を満たすため、ジェイムソン博士はベチュアナランドのピツァナフォトロークウェからトランスヴァールに侵入し た。しかしながら、三日後にほとんどが前の保護領警察であった襲撃者たちは、ボーア人に降伏した。期待された英系 白人の蜂起は具体化しなかった。 全世界は他の国を攻撃するための踏み台として保護領を使うことを許したイギリスを非難した。イギリスはその名前 にさらに傷がつくことを望まなかった。だから、ローズは保護領は結局彼のものにはならないだろうといわれた。すで にイケネンとモンチィーワにより彼に割譲されていた土地は、戻された。ハンツィのような他の土地は会社に与えられ 93 なかったが、王家直轄領のままだった。しかしながら、ボーア人の牛車団はついに 1898 年高等弁務官により、ハンツ ィに住み、農場を与えられた。彼らの子孫にはまだそこにいるものもいる。 襲撃の重要な結果として、ボツワナが BSACo の支配から脱した一方で、保護領での会社の経済的利益は消えないま まだった。1904 年にイギリス政府は鉄道のための土地を BSACo に譲渡した。会社はまた、王家直轄領から何区画かの 土地を受け取った。それらは、ハボロネ、ロバツェ、チュリ・ブロックだった。チュリ・ブロックは実際には、1895 年に鉄道用にカーマが BSACo に割譲したものだった。後に、チュリ・ブロックを通った路線は建設されないことが決 まった。しかしながらその土地は会社の所有のままだった。タチ地区やハンツィと一緒に、この地域はベチュアナラン ドの中の唯一の白人地域となった。これによってローズのベチュアナランドを乗っ取る試みは終わった。特に、バソエ ン、カーマ、セベレ、セコマ・レツォラテーベといったツワナ人の支配者は、ツワナ人の土地を守るために激しく戦っ た。彼らはそれゆえにしばしばボツワナの歴史の中で英雄とみなされる。 南アフリカへの統一への動き ケープ植民地でのボーア人のイギリス人に対する敵意は、南アフリカ共和国(トランスヴァール)とオレンジ自由州で、 彼らが自分たちの国を設立した後も続いた。これは、イギリスが時折それらのボーア人共和国を合併しようと試みたた めだった。これは、特にダイヤモンドがキンバリーで、金がウィットウォータースランドで発見された後がそうだった。 イギリスは今やナタールとケープの両植民地と二つのボーア人共和国からなる大きな南アフリカを望んでいた。 統一南アフリカは、イギリスにとってより富裕で経済的利益があった。ほとんどのイギリス人事業家は、鉱物資源の 豊富なボーア人共和国をボーア人に統治させ続けるという考えを好まなかった。統一を望んだほかの理由としてイギリ スが南アフリカの植民地に資金を使いたくなかったことがある。4 つの領域が統一されれば、彼らは経済的に強くなり、 自分たちの事務を運営する費用を払うことができる。統一を望んださらなる理由は、ボーア人とイギリス人が一緒にな れば、 打ち続く白人支配に対するアフリカ人の抵抗を破るのに充分な強さになるからである。 例えば、 イギリス人は 1879 ~80 年に、ズールー族との血なまぐさい戦闘を行った。その期間には、ムパンデのセシャワヨ王に率いられたズールー 族がイサンドールワナの戦いでイギリス軍に大勝利した。1878~79 年には、グリカ人やロロン族、タピン族といった 部族の過去の抵抗の記憶や、1877 年にぺディ族がボーア人を打ち負かした記憶があった。1870 年代にイギリスはボー ア共和国をナタールとケープ植民地に統合し緩やかな連合である連盟を作りたかった。しかしながら、ボーア人はポー ル・クルーガーのような男の指導のもとで、この考え方を受け入れることを挑発的に拒絶した。1877 年にトランスヴァ ールのボーア人がペディ族に負けたことを受け、イギリスがトランスヴァールを占拠した。平和的な交渉により、独立 の回復に失敗したあと、ボーア人は武器を取り、マジュバヒルの戦いでイギリス人を打ち負かした。結果として、イギ リス人は、1881 年にボーア人に制限付きの独立を与えた。ボーア人は完全な独立を求めていたので、満足しなかった。 トランスヴァールの大統領になったクルーガーのもとで、彼らはイギリスのトランスヴァールを支配し続ける試みに抵 抗しつづけた。 1896 年のジェイムソンの襲撃のあと、 チェンバレンは新しい高等弁務官であるアルフレッド・ミルナー卿を任命した。 彼もまた、イギリスの南アフリカへの支配を打ち立てることの必要性を強く信じていた。そのために、彼らはボーア人 を戦争へと向かわせた。イギリスの対ボーア人戦争への大衆の支持は、ボーア人の英系白人に対する悪い扱いが誇張さ れることにより、促進された。ボーア人が彼らの独立を奪うであろうイギリスの要求を拒絶した、1899 年 10 月 11 日 に戦争は始まった。それは 1902 年まで続いた。 アングロ・ボーア戦争時のアフリカ人 アングロ・ボーア戦争時のアフリカ人 アングロ・ボーア戦争はしばしば白人の戦いと描写されるが、アフリカ人もそれに巻き込まれた。イギリス人もボー ア人もアフリカ人を自軍に組み入れようとはしなかった。保護領のボツワナ人の大多数を含むその地域のほとんどのア フリカ人は、ボーア人のほうがより抑圧的だったのでイギリス人よりもボーア人のようが嫌いだった。もしイギリス人 が勝てば、アフリカ人がケープ植民地で持っているように政治的、経済的権利が得られるかもしれないと望んだ。トラ ンスヴァールのアフリカ人もまたボーア人に敵意を持っていた。優越なイギリスの力とアフリカ人の敵意に直面し、ボ ーア人は最後には 1902 年のフェーレニギングでの平和協定に調印した ベチュアナランドと戦争 保護領の南部は、アングロ・ボーア戦争に影響された。何人かのツワナ人は、イギリスが参加しないように命令して も参加した。1899 年ボーア人はベチュアナランドの首都であるマフィケンを包囲した。住民委員長(1897~1901)のグ ールド・アダムスと彼の部下は町を去ることができなかった。委員長補のスルモンが、グールド・アダムスが自由にな るまで住民委員長として務めた。ボーア人は保護領政府を破壊することに失敗した。 94 アングロ・ボーア戦争が始まった日、ボーア人は保護領に進入し、パラペのそばの電信線とハボロネとマフィケンの 間の鉄道を遮断した。彼らは、南アフリカとローデシアのイギリス軍の間の保護領を通る通信を切りたかった。このよ うにしてローデシアと保護領の警察はマフィケンを助けに来ることができなかった。ボーア人はまた、食料供給と戦時 物資が中央アフリカからイギリス軍に到着することを止めたかった。 ローデシアからの白人軍を含むイギリス軍は、ボーア人をベチュアナランドから追放したかった。彼らはまた、橋の ような重要な場所を守った。彼らの主要なキャンプはハボロネとロバツェにあった。ボーア人は両方のキャンプを攻撃 し、イギリスはしばらくハボロネを放棄した。しかしながら、1900 年の始め、イギリスはボーア人をハボロネの近くの クロコダイルプールで破った。 それまでは、カーマはマーロラ小隊をマハラペ鉄道橋を守るために送った。マーロラはイギリス軍をこのように助け たので、1728 ポンドを贈られた。ボーア人は東の国境に集まっているときき、カーマはそこを守るのとボーア軍の動き を見るために、人を送った。 リンチュウェ 1 世のカトラ族もまた戦争に参加した。実際には、カトラ族は保護領のほかのツワナ族の集団よりもよ り戦争に関与していた。彼らは、イギリスとローデシアの軍に合流し、モチュディのそばでボーア軍を破った。1899 年 11 月、イギリス軍はカトラ族に頼み、マディクウェ川のそばのデルデポールトでボーア軍を攻撃させた。しかしな がら、イギリス軍は戦闘中にカトラ族を見捨てたので、彼らは単独で戦わなければならなかった。ボーア人はそれから シクワネ村のカトラ族に反撃し、マディクウェ沿いのカトラ族の村を焼き払ったが、最終的には彼らはカトレンとデル デポールトの周辺地域を放棄するよう強いられた。ボーア人がトランスヴァールに住むカトラ族に復讐したとき、リン チュウェはトランスヴァールのボーア人へのさらなる攻撃というかたちで応戦した。彼の部下の中には、プレトリアの 郊外まで行って、ボーア人の牛を捕まえ、その農場を焼き払ったものもいた。 戦いの後すぐに、リンチュウェはイギリスに彼の人民が戦争中にカトラ族が再征服した領域に住み続けることを許し てくれるよう頼んだが、これは拒絶された。リンチュウェはしかしながら、彼の人民のためにいくらかの土地を買うこ とができた。 イギリス人はまた、 彼の兄のラモノをトランスヴァールのカフェラのカトラ族の族長にすることを許した。 多くのツワナ人は、戦争から経済的に利益を得た。彼らは、イギリス軍兵士のために多くの牛肉を売った。レベレン ド・ウイリアムスは 1900 年までに 65,000 ポンドを稼いだと推定した。他のツワナ人は、イギリス軍キャンプで働くこ とにより金を稼いだ。ボーア人はアングロ・ボーア戦争に負けたけれども、彼らは戦後形成された南アフリカ連邦の政 治的多数派となった。最初、彼らの前の共和国は任命されたイギリス人統治者のもとでの植民地となったが、連邦の理 想へのボーア人の支持を得るために、イギリスはこれらの植民地に 1906 年に自治政府を与えた。これはボーア人を喜 ばせた。彼らをさらに喜ばせたことは、イギリスはボーア人の前の二つの共和国にアフリカ人に対してどんな政治的権 力を与えることも強制しなかったことだ。ボーア人もイギリス人もアフリカ人に選挙権が与えられることを望まなかっ た。だから、アフリカ人が戦争中にイギリスを支持しても、彼らはボーア人の敗戦から何の利益も得ることができなか った。実に、ボーア人はアフリカ人よりもよい扱いを受けたのである。南アフリカの歴史を通じて、ボーア人とイギリ ス人はしばしば争ったが、アフリカ人に対しては同盟していた。 アフリカ人への恐れがまた、ボーア人とイギリス人を統一させたがった。この地域ではズールー族が税の支払に対し て戦った 1906 年のバンバラ族の反乱のようなものがあった。 ショナとンデベレは 1896~97 年に BSACo の支配に対し て反乱を起こし、オバヘレロとナマも 1904 年と 1906 年にドイツに対してナミビアで反乱を起こした。 南アフリカでは、ボーア人のほうが英語を話す白人よりも多かったため、ボーア人は政治的強者になった。戦後、ク ルーガーのような古いボーア人指導者は、ルイス・ボタやジャン・シュムッツのような 4 つの白人統治国連邦を支持し た若い男にとって代わられた。彼らは、戦争よりも政治的手段によって南アフリカのボーア人支配を勝ち得たほうがよ いと決めた。 ボーア人とイギリス人の指導者は 1908 年から 1909 年にかけて、新しい連合国家の結成を議論した。1910 年には、 英国王のもとの自治政府として、南アフリカ連邦が結成された。ボーア人は、イギリス人がケープ州の制限されたアフ リカ人投票権が連合の他の州連合に拡大することがないよう保証した後で、連合に同意した。実際には、白人議会が望 むならば、ケープ州非白人の投票権すらも取り除くことができた。ケープ州のアフリカ人は、1936 年にその投票権を失 った。連合結成の結果はアフリカ人にとっては全ての政治的権利の喪失だった。 1910 年から 48 年の間、ボーア人は南アフリカの政治を管理するために一生懸命働いた。ボーア人の民族主義は、1948 年にボーア国民党が南アフリカの選挙に勝った時に達成された。その年、国民党政府は南アフリカの法律にアパルトヘ イトを作った。 ベチュアナランドと南アフリカ連邦 南アフリカ連邦の結成は、その内外のアフリカ人から反対された。政治的、経済的利益に反対するため、黒人アフリ カ会議という政治運動を 1912 年に作った。この動きは後にアフリカ民族会議(ANC)となった。 ベチュアナランド、バストランド、スワジランドの高等弁務官地域は、また連邦に激しく反対した。この理由は、連 95 邦を設立した南アフリカ法には、三領域とローデシアを将来的に連邦に合併するという条項があったからだ。 イギリスは、高等弁務官領域を南アフリカの鉱山への労働力の供給地とみなしていた。イギリス政府は、彼らの他の 経済的利用はほとんどせず、彼らを負担だと考えていた。だから、イギリスはそれらを人材の供給地として使い経済的 に開発できる連邦に譲りたかった。 最初は、南アフリカは白人のためにより多くの土地を供給するので、三つの保護領が欲しかった。他の理由として、 南アフリカの白人は、その領域でのイギリスの政策が連邦の原住民政策と違うので、嫌いだった。保護領では、アフリ カ人はいくらかの政治的、市民的権利を享受し、彼らの事象の運営にある程度参加していた。保護領にはパス法はなく、 差別は緩やかだった。南アフリカの白人は、これがそこのアフリカ人に悪例を与えるのではないかと恐れた。彼らは、 全域でのアフリカ人が全く権利をもたないようにしたかった。これは三つの領域を乗っ取ることによってのみ可能だっ た。他の理由は、南アフリカはその鉱山と農場のために安い労働力を確保し管理することを望んだことだった。保護領 の移民労働者制度は、南アフリカにとって充分ではなかった。それは、保護領でのそのような労働力の募集や管理をす る法律を作ることができなかったからだ。 1950 年代にバンツースタン政策が導入され、南アフリカが保護領を連邦に合併したがるさらなる理由となった。この 政策は南アフリカの土地を、 ボーア人がホームランドと呼んだバンツー地域と、 ヨーロッパ人地域に分けることだった。 アフリカ人は、人口は白人よりもはるかに大きかったが、土地のわずか 13%しか与えられなかった。南アフリカ政府は、 バンツースタンにより多くの土地を加えるために保護領が欲しかった。彼らは、土地の不足が反乱につながることを恐 れた。南アフリカはまた、保護領を製品の市場としてみていた。 保護領での抵抗 ツワナ人は、彼らの土地が南アフリカ連邦に譲渡される意図があることを知っていた。当時、ツワナ人は新聞で譲渡 について読むことができるほどに教育を受けていた。彼らは、その抑圧的な原住民政策のために南アフリカに参加した くなかった。彼らはそこのアフリカ人が土地を失うのを見て、同じように傷つきたくはなかった。南アフリカで勉強し たり、働いたりしたツワナ人はそこの黒人の抑圧について話した。 1908 年、セベレ族長の書記のピーター・シズモ(コーサ人牧師の息子)は、提案された白人運営の南アフリカ連邦の潜 在的な危険について他に警告することに特に活動的だった。彼の主張では、バソエン、リンチュウェそしてレテ族のバ イトゥティ族長はセベレの指導のもとで保護領が連邦の外にとどまるための嘆願活動をした。シズモもまた反対を口頭 で表していたカーマと連絡をとった。バソエンとセベレは、信頼できるマフィケンの商人の J ジェランスに連邦に対す る反対を示すためのロンドンでの活動を指示することにより、彼らの嘆願をさらに推し進めた。結果として、ツワナ人 の南アフリカ合併への反対は、イギリスの新聞で発表され、同情的なイギリスの政治家の注意もひいた。 保護領のツワナ人と同様にソト人とスワジ人の抵抗の結果として、イギリス政府は南アフリカへのどんな領域の譲渡 も延期すると決めた。 1910 年に高等弁務官のセルボーン卿はマフィケンの族長たちにベチュアナランドはいつか譲渡さ れるが、それは彼らに相談した後だと知らせた。カーマを含めた全ての族長は、それからイギリス王に新しい嘆願書を 送り、1885 年と 95 年に合意した通り、彼らが保護領にとどまりたいことを強調した。 1920 年代には、ボーア人の指導者で熱心な人種主義者のヘルツォグ将軍は、連邦の首相になった。1924 年には、彼 は、高等弁務官領域をすぐに譲渡するようイギリス政府に圧力をかけた。彼はその原住民政策をその地域に広げたかっ た。イギリス植民地大臣は、しかしながら、最近三つの領域を訪れた。彼は、どれほどアフリカ人が譲渡について思っ ているか知りたかった。ベチュアナランドでは、ツェケディ・カーマやバソエン二世のような指導者は、訴訟をロンド ンに持ち込み、イギリスの法廷で戦うと脅したりして、譲渡に強く反対した。大臣は、族長はとても強く譲渡に反対し たので、彼らとその臣民はもし連邦に加わるよう強制されたら反乱を起こすかもしれない、と恐れた。 イギリスはまた、三つの領域を南アフリカに譲渡することにますます消極的になった。これは、人種法をヘルツォグ が導入したからだった。イギリス政府とイギリスの有権者はそのような強い人種法は問題を生み出すだけだとして、承 認しなかった。ヘルツォグは、イギリスに譲渡を要求した保護領の白人農民の支持を受けた。イギリスが保護領の譲渡 に躊躇したとき、ヘルツォグは保護領に対する経済的圧力を使った。彼は、一定の重さ以下の牛の輸入を禁止した。こ の禁止は、牛の売上に依存していた保護領経済に悪影響を及ぼした。イギリス政府とツワナ人は降伏しなかった。かわ りに保護領行政府は北ローデシアと海外に新しい牛の市場を見つけた。牛の禁輸はうまく行かず、ヘルツォグはベチュ アナランドから南アフリカへの移民労働力が止まる恐れとさらに輸入が減る恐れを受けた。イギリス政府とツワナ人は これらの圧力に抵抗した。 ボーア人が長期にわたって譲渡の圧力をかけ続ける一方で、ツワナ人は原住民諮問協議会などの場を用い彼らの意見 を広めた。独立に向けた 1950 年代のアフリカ中での要求の結果、イギリス政府は中部と南部アフリカでその植民地に 独立を与えることを決めた。1959 年、イギリス首相のハロルド・マクミランは、ケープタウンの南アフリカ議会での” 変化の風”演説の中で、この政策を発表した。このときから、高等弁務官領域は南アフリカに譲渡されないことが明らか になった。他の植民地と同じように、彼らは自治へと向かって進むことが許された。 96 1961 年に南アフリカ連邦は共和国になり、英連邦を脱退した。これで高等弁務官領域を南アフリカに譲渡しようとす るどんな真剣な試みも終わった。ツワナ人の土地がローデシアや南アフリカから分かれて保持されたのは、おもに、ツ ワナ人の族長の指導力と抵抗によるものだった。 族長はその抵抗を彼らの臣民と同情的な外部者の両方から支援された。 彼らの抵抗によりツワナ人は 1966 年のボツワナ共和国として独立を成し遂げた。 97 コラム~ンガミランドへの脅威 1890 年代にはローズはンガミランドを乗っ取り、ローデシアのような白人居住地にしたかった。彼は、ヨーロッパ人 の植民者社会は、オカヴァンゴ湿地帯からのたくさんの水を使って作物を生産できると信じた。彼はまた、ンガミラン ドはダイヤモンドが豊富だと信じた。最初、イギリス政府は、ンガミランドを保護領にいれることに熱心ではなかった。 ンガミランドを役に立たない湿地だとみなしたのだ。しかしながら、ローズと他の共同免許者は、ついにイギリスがそ の地域の彼らの利益をライバルのドイツの主張からまもるよう説得した。そして 1890 年にはアングロ-ジャーマン協 定にしたがって、ンガミランドとチョベ地域は保護領に加えられた。 保護領のほかの地域と同じように、イギリスはその後ンガミランドを BSACo へ与えようとした。イギリスはローズ に提供されたンガミランドのヨーロッパ人の住居がその地域でのイギリスの利益を保証することを望んだ。ただ一つの 問題は、その地に会社はどんな免許地も持っておらず、共同免許者たちはンガミランドを奪い取るローズの計画に反対 だった。 1888 年タワナ族の王のモレミ二世はストロンボンという商人とその友人のニコルスに約 600 ㎢の試掘権を与えた。 1889 年にストロンボン、ニコルスとヒックスにンガミランドのいたるところでほかの試掘権を与えた。ストロンボンが 亡くなると、ニコルスとヒックスは権利を英国ウエストランド免許会社(BWCC)に売った。会社は、フレデリック・ル ガードに率いられたチームを金とダイヤモンドを探すために 1896~97 年に派遣したが、成功しなかった。 われわれはすでにどれほどイギリスが他の免許会社と比べてローズと BSACo を好んだか見てきた。イギリスは、そ れゆえに、他の免許会社をンガミランドから追い出したかったが、ニコルス-ヒックス試掘権を守るための 1893 年の 租借地委員会の前に BWCC があらわれていた。 新しいタワナ族の王のセコマ・レツォラテーベは、BWCC がンガミランドの土地の所有権を主張していると知った。 彼は、その主張を拒絶し、租借地を取り消した。イギリス政府はセコマの拒絶がンガミランドをローズのものにすると いう彼らの計画にあっていたので、受け入れた。 ローズがニコルス-ヒックス租借地のセコマの拒絶を知ったとき、彼は部下のジョン・ボスマンを送り、セコマから 土地の租借を得ようとした(1893 年の終わり)。高等弁務官はまた、フュラー隊長をンガミランドに送り、タワナ人支配 者が租借地を会社に与えるよう説得した。だから、1893 年に何人かの南アフリカのボーア人共和国からのボーア人牛車 団が、北に新しい共和国を設立することを望んだ。ボスマンがその指導者の一人だった。 ローズは、ンガミランドを植民地化するために彼らを望んだ。彼は、南アフリカからの白人をマショナランドの植民 地化のために、1890 年に同じように使っている。彼は、ボーア人をンガミランドに住ませることを約束した。セコマは 租借地を簡単には与えないだろうということを知って、ボスマンは自分がヴィクトリア女王の役人であるふりをした。 彼は、セコマに、両支配者間の友好条約を結ぶことと、年間 50 ポンドで将来の租借地を得ることを望んでいるといっ た。彼は実際には、ンガミランドの植民地化に許可を得ることを求めた租借地委員会の前に、土地の租借に調印した。 1894 年に植民地事務所は BSACo がンガミランドの領有の主張をイギリスが承認する準備があると知らせた。 ちょうどそのとき、セコマがローズに支持されたボーア人の旅に気付いた。租借地は不誠実なやり方で獲得されたも のだといい、セコマはとても精力的に BSACo に抵抗した。ボスマンは自分が会社を代表しているとは全くいわなかっ た。加えて、ツワナ語と英語での租借地の文意が違っていた。彼は自分がボーア人も BSACo も信用していないとはっ きりさせた。彼は LMS のアフリカ人福音伝道者のクク・モホディといった多くの個人の支持を得ていた。パラペにい たイギリス人役人のジョン・モファットもまた、ンガミランドでの会社統治に反対していた。彼は、会社がそこに住む よう提案しているボーア人は問題を引き起こすと信じていた。モファットは、植民地事務所に、会社は租借地を得るの に不誠実なやり方をしているのではないかと疑っているといった。 セコマの宣誓供述書 私、セコマは、ここに次の文章が正しいことを正式に証明します。私は国を譲り渡したり、どのような権利を売った りもしていません。ボスマンの行ったことは私にとって初耳です。彼がやってきたとき、彼は自分が植民地政府の代表 だといいました。私は彼を信じ、彼は友好条約を結ぶためにきたといい続けました。私が書類に署名したとき、それは 友好条約であり、国を譲り渡したり、売ったりと言うことは何もないと完全に信じていました。彼は、車と銃を提供し た。銃は、最初私は拒絶したが、彼は私が贈り物を拒絶するとケープの上司がたいへん失望するだろうといって 5 丁の 銃を押しつけた。 ングワケーツェ族とクウェナ族の統治者が旅のことを知ったとき、彼らは、ボーア人が自分たちの領域を通過するこ とを望まないといって抵抗した。イギリス人は今、ボーア人の移動は保護領の蜂起の原因になるのではないかと恐れて いた。イギリス政府は A.E.ワルシェを、租借地の調査のために送った。彼は、それらは全て不誠実なやり方で獲得され たと報告した。そして、セコマは結局正しかった。イギリス政府はボスマンの租借地を 1894 年の 12 月に拒絶した。ロ ーズはそれから、イギリス政府にボーア人をハンツィ地区に住ませるよう強制することを決めた。彼は租借地なしに彼 98 らにそこへ行くよう奨励した。イギリス政府はこれに警告し、ローズにセコマから新しい租借地を得るよういったが、 セコマはそれを贈ることを拒否した。このとき、彼はングワト族よりローズは全てのタワナ族の土地を取り上げようと 計画しているときいた。 BWCC は、BSACo に対抗するものとしてそれを使いたかったセコマから、他の租借地を獲得した。結果として、 BWCC は族長を支持した。 高等弁務官は怒ったローズにツワナ人の王は新しい租借地を与えることができないと語った。 しかしながら、イギリスはローズの助けがあろうがなかろうがボーア人をハンツィに住ませたかった。セコマはハンツ ィをあきらめるかンガミランドの全てを失うかの選択を与えられた。セコマはいやいやながらハンツィをあきらめそこ は王家直轄領になった。王家直轄領は BSACo に後に譲渡されることが意図されていた。 99 第 25 章 保護領の行政的・政治的発展 保護領の行政的、政治的、経済的発展を充分に理解するために、イギリスはその植民地を統治したり開発したりする ことに多くの資金を使いたがらなかったことを覚えておかなければならない。植民地は自分たちのために支払わなけれ ばならなかった。南ローデシア(現ジンバブエ)のような多くの白人が住んでいる移民者植民地では、白人が植民地をイ ギリスのために管理していた。ベチュアナランドのような白人のほとんどいない植民地では、イギリスは白人役人の管 理のもと現地民を通しておもに統治していた。この二番目の制度は間接統治として知られるようになった。 イギリスは、ツワナ式の法と習慣を尊敬していたために、間接統治を通して政府を使ったわけではなかった。イギリ スがそうしたのは主に、この行政制度は安上がりで、アフリカ人に自分たちの行政府のために支払い運営させるように するためである。イギリスはまた、もしツワナ様式があまりに干渉されるようだと、ツワナ人は暴動を起こすかもしれ ないと恐れた。イギリスはそれを押さえるために多くの資金を使わねばならなかっただろう。イギリスは、保護領は貧 しく半砂漠の国なので、本当に欲しかったわけではないという事も覚えておかなければならない。当時鉱物資源はまだ 発見されていなかった。これが、なぜイギリスが保護領を南ローデシアか南アフリカに与えたかったかの理由である。 前章で見たように、南アフリカ連邦創設の法律が 1910 年に通過したとき、イギリスは保護領が将来どこかの時点で南 アフリカに与えられるだろうことに同意した。これが、独立直前の 1965 年までなぜ保護領の首都が国の外の北ケープ 植民地に位置したかの理由である。 保護領行政府の始まり 1885 年の保護領の宣言のあと、イギリスは北への道を守るという主目的は達成されたと感じた。イギリスはそれゆえ 大きな行政府を立ち上げる必要はないと見た。保護領設立をその役割としたチャールズ・ウォーレン卿は、第 23 章で 論じたように、何らかの行政府を設立したかったが、イギリス政府は彼を止めた。しかし、保護領外にとても小さな行 政府があった。 ベチュアナランドはバストランドやスワジランドのように、ケープ植民地の統治者である、英国高等弁務官の下に位 置付けられた。これが三つの国が高等弁務官領と呼ばれる理由である。ボツワナを保護領として最初に統治した高等弁 務官はヘラクルス・ロビンソン卿だった。彼と彼の後継者たちはケープタウンそして後にプレトリアに住んだ。南アフ リカ連邦が 1910 年に形成されたとき、高等弁務官はまた、連邦の統治長官になった。族長や宣教師団など多くの人々 は高等弁務官が二つの地位を兼任することに不平を言った。彼らは、高等弁務官が、南アフリカの白人を厚遇し、南ア フリカと保護領の両方で黒人に不利益を与える傾向にあると感じた。 保護領の行政では、高等弁務官は住民委員長に補佐された。ボツワナの最初の住民委員長はシドニー・シパード卿だ った。彼はまた、1885~95 年に英領ベチュアナランド(モポポ川以南)の王家植民地の行政官だった。彼は、英領ベチュ アナランドのフライバーグに本部を置いた。彼は委員長補に補佐され、そのうち二人は通常ボツワナのハボロネとパラ ペにいた。後に住民司法長官は、35 年から地区委員長の職名も持っていたが、保護領の特定の地域を監視するよう任じ られた。イギリス統治の期間を通じて、ボツワナで働くほとんどの植民地役人は南アフリカで募集された。 保護領の初期の間、イギリス政府は、ツワナ人が独立を再び主張しようとするのではないかと懸念した。イギリス人 はまた、隣接するンデベレ族とボーア人についても心配していた。結果として、1885 年に彼らはベチュアナランド国境 警察(BBP)を創設した。最初 BBP は小さかったが、1889ー95 年の間に BSACo の中央アフリカ進出を助けるために、 その数は増えた。1896 年には、BBP は BSACo の英国南アフリカ警察(BSAP)に統合された。最初アフリカ人は警察に 参加することを許されなかったが、1887~89 年に何人かのソト人が乗馬経験とツワナ語理解をかわれ、募集された。 警察内の全ての重要な地位は、おもに南アフリカからきた白人によって占められていた。多くのそれらの役人は、アフ リカ人を軽蔑するか見下していた。実は、あきらかに白人役人の一部の人種主義のためにソト人は解雇された。しかし ながら、多くのソト人は後に 1902 年に BSAP から変わった新しいベチュアナランド保護領警察に入った。 警察は、保護領の法と秩序を維持することが期待された。初期には、彼らは住民委員長と族長の一番のつなぎ役だっ た。委員長補がハボロネとパラペにできたとき、他のつなぎ役ができた。パラペのものは後の 1904 年にフランシスタ ウンに移った。初期には宣教師もまた、保護領行政の助言に重要な役割を果たしていた。それは、彼らはボツワナがイ ギリス支配に入る前から、何年にもわたってツワナ人の間で働いていたからだ。ジョン・マッケンジーのように、植民 地の役人だったロバート・モファットの息子の宣教師ジョン・モファットは、委員長補としてパラペに勤務した。 委員長補はベチュアナランド統治のために住民委員長を助けた。その主な職務は、保護領の平和と秩序を確保するこ とだった。彼らは、保護領外からきた、白人、アジア人、アフリカ人に関わる、実質的に全ての問題を処理した。彼ら はまた、司法長官としての役目も果たし、もはや族長のもとでは裁かれなくなった殺人のような重要な訴訟でボツワナ 人を審理した。しかしながら、ツワナ人族長のもとの地方政府になるべく干渉しないよう指示されていた。実際には、 これはイギリスが族長を通じて保護領を統治することを意味した。この政府の仕組は、後に、同じような仕組を使って 100 北ナイジェリアを統治したイギリス人役人のルガード卿によって、間接統治と名づけられた。 イギリス政府は、保護領の内政について熱心に関与しなかったが、ある事件は彼らをひき入れた。ングワト族の国か らの例がいくつかある。カーマは、植民地行政にとても協力的だったが、彼の権力と領域を拡大するために、イギリス 政府とのつながりを使った。カーマは、彼の国の辺境に位置する小さな部族を支配したかった。1880 年代にはコベ族長 に統治されたセレカ族はングワパ丘に住んでいた。コベは、彼の臣民がカーマに従わなければならないとは考えていな かったが、カーマはコベが彼の権威のもとにあると主張した。コベは、カーマの望みに反して、ボーア人か彼の土地に 住み、狩りをすることを許した。1887 年にカーマは部隊を送り、コベに権威を押しつけようとした。行政府は、大きく 費用のかかる戦争を望まなかった。彼らは状況を調査するために BBP のバテを送った。シパードはそれからセレカ族 の地はカーマに属していると規定した。しかしながら、コベはこの決定を拒否した。BBP の分団を伴った 4,000 人の部 隊に命令し、コベを攻撃させた。セレカ族は、ングワパヒルの周辺から追い出され、トランスヴァールへ追放された。 この事件は、大きな部族の支配者がどのように小集団を統治するために植民政策を利用したかが示されている。 他の事件は、1887 年にトランスヴァールとロベングラのンデベレ族の友好条約を再交渉したピエット・グロブラーと いうボーア人商人を巻き込んだものだった。これは、ボーア人とンデベレ族のどんな結びつきも望んでいなかったので カーマもシパードも両方を失望させた。当時、カーマとロベングラはモトーツェ川とラモクェバーネ川の間にある土地 を巡って争っていた。シパードは、彼の友人であるローズがンデベレ族に対する支配を得ようとする努力を、ボーア人 が妨害することを望まなかった。80 年代には、カーマはトランスヴァールから不法入国し、狩りや酒の販売そして鉱物 探索を行う信用できない白人の問題を抱えていた。結果として、東側国境に沿った紛争地域を守り、彼との交易協定を 破ったイギリス人商人を探すため、彼は部隊を送った。 1888 年に、グロブラーがマタベレランドへ行く途中に紛争地域を通りぬけようとしたとき、彼の隊はカーマの手のも のに攻撃された。グロブラーはひどく傷つき、数日後に亡くなった。トランスヴァール政府はイギリスに抗議して、カ ーマがグロブラーの未亡人に対して 1350 頭の牛を支払うことを要求した。カーマは、グロブラーは違法に彼の国に入 り逮捕されたのだといって、これを拒絶した。シパードはそれから調査会を開き、ングワト族の行動を弁護した。 最終的には、しかしながら、イギリス政府はグロブラーの未亡人に年金を払うことに合意した。この事件の後、シパ ードはロベングラを訪れ、グロブラーとの協定を取りやめるよう説得し、セシル・ローズによるマタベレランドの植民 地化につながるルードの譲歩にサインした。 1889 年以前には、保護領にはほんの少ししかイギリスの管理が及んでいなかったことは明らかだ。イギリスは主にベ チュアナランドの外部の脅威に関心を持っていた。国内行政は族長に残された。彼らは、過去にいつもしてきたように 統治し、そのやり方が好きだった。 新行政府の設置 高等弁務官から送られた保護領のイギリス役人は、ベチュアナランドに強い行政府がないことに不満だった。シパー ドは 1889 年にそれをコポンに導入しようとしたが、族長は抵抗した。新しい高等弁務官のヘンリー・ロッホ卿が任命 された。彼は強い行政府を信じていた。1890 年まで保護領の北の国境は南緯 22 度だったが、ロッホはイギリス政府を 説得して、現在の全ボツワナを含むよう国境を広げた。1890 年 6 月 30 日の緊急勅令(イギリス法)によって、保護領は チョベ・ザンベジ川まで広げられた。 緊急勅令はまた、イギリス女王のために働く高等弁務官にボツワナに対する無制限の統治権を与えた。ロッホはこれ らの力を、保護領により強い植民地行政を敷くために使いたかった。特に、彼は交易、狩猟、そして増加する BSACo 以外の免許要望者を管理したかった。彼は、警察力の規律と、国の法と秩序は、そのような行政を持ってのみ維持する ことができると論じた。 過去に、イギリス政府は、ロッホの求めるような行政府は費用がかかりすぎるのではないかと恐れていた。ロッホは、 税金やそのほかの形で、必要な資金は保護領自身から調達すると論じた。さらに重要なことに、1890 年までにジンバブ エやザンビアに拡大した BSACo の基地として、保護領はますます重要になってきたので、イギリス政府はロッホの地 位について説き伏せられた。 しかしながら、ボツワナを統治するイギリスの権利について、重要な法的疑惑が残っていた。多くの族長は、自分た ちはイギリスと同盟している独立した支配者だとの立場を維持していた。第 24 章で見たように、彼らは自分たちの臣 民を支配しつづけたかった。バソエン、セベレ、セコマ、レツォラテーベといった族長は彼らの訴訟を論ずるために弁 護士を雇った。1891 年の始め、イギリス人役人のジョン・ブラムストンは族長の権利は無視され得ると論じた。彼は、 ボツワナは文明化されていない地域で、その族長たちは、平和、秩序、ヨーロッパ人の良い政治というものを維持でき ないと書いた。それゆえに、1885 年のボツワナが保護領宣言されたときの外国統治法のもとで、イギリスは、保護領の アフリカ人を支配することによって、ヨーロッパ人の利益を守るための法的権利を持った。 イギリス政府はブラムストンの議論を受け入れた。ロッホは 1891 年 5 月 9 日に二番目の緊急勅令を出すことを許さ れ、強い行政府を立ち上げる権限を与えられた。彼は、必要な役人を任命し、この行政府の立上げに必要なすべての事 101 をする権利を与えられた。新しい行政府は平行もしくは二重のものだった。イギリス法に基づく白人行政府が、ツワナ 式の法と習慣に基づくアフリカ行政府と並んで設置された。しかしながら、高等弁務官とイギリス役人は、その下に族 長とその臣民に対する法的権威を持っていたという点で、二つは同等のものではなかった。 保護領には議会がなかった。かわりに、高等弁務官が布告によりベチュアナランドの法を作った。これを全て執行す ることにより、彼はイギリス法に抵触しないアフリカの習慣を尊重することが求められた。これは、高等弁務官はイギ リスの利益を損なうようなツワナ式の習慣は無視できることを意味した。これ以外には、新しい行政府に対してのアフ リカ人の反対を押さえるために、ツワナ式習慣への尊敬は意識された。 1891 年 6 月 10 日、ロッホはより強い行政府の設置についての布告を発布した。布告は、住民委員長とハボロネとパ ラペの委員長補の権力を強めた。住民委員長を助けるために警部がおかれた。法律により、銃や弾薬の交易は免許の発 行で管理された。法廷は、白人どうし、または白人とアフリカ人の訴訟を審理するために設置され、族長は部族会議で アフリカ人どうしの訴訟を裁きつづけた。 行政府に与えられた新しい力はすぐに何人かの族長からの反対にあった。しかしながら、高等弁務官は、今や族長を 罰することや、辞めさせることすらもできた。これはその例である。 セチェレ 1 世は 1892 年になくなり、息子のセベレ一世が後を継いだ。新しい若い支配者は行政府の干渉なしにクウ ェナ族を統治したかった。彼は、自分が望むものに彼の地域での交易や狩猟を許したかった。彼は行政府によって発行 された交易免許を認めなかった。例えば、彼はあるボーア人商人に免許なしで交易をすることを許した。彼はまた、何 人かのインド人商人に、もし彼らが行政府から交易免許を取ったら、彼らを追い出すだろうと話した。若い支配者は、 政府からの警告を無視した。行政府は彼に命令に従わなかった罰として牛 10 頭を課し、彼がもし従わなければモレポ ローレを攻撃すると脅した。ついにセベレは引き下がった。 セベレは独立を維持したかったので、他にも行政府とたくさん喧嘩した。このうちの一つは、クウェナ族の間での争 いによるものだった。セベレに族長になってほしいものもいれば、彼の腹違いの弟のカリになって欲しいものもいた。 行政府はセベレを廃位しなかった。彼には多くの支持者がいたからだ。さらに、彼の地位は、1895 年にバソエンやカー マとともに行ったイギリス訪問が成功したおかげで強化された。カリはセベレをクウェネンのただ一人の族長に認める よう言われた。カリはその直後にコロベンで亡くなり、彼の支持者の中にはングワト族の土地へ行ったものもいたが、 セベレ二世の時代の 1920 年にクウェネンに戻ってきた。このような状況にもかかわらず、植民地行政府の多くの人々 はまだセベレ一世を取り除くことを望んでいた。1901 年に、引退した住民委員長のグールド・アダムスは、セベレ一世 を公判なしでロッベン島、セイシェル、ハンツィのいずれかに拘留することを勧告した。グールド・アダムスの後継者 ラルフ・ウイリアムスは、高等弁務官を説得して、そのような激烈な手続きは必要ないといった。 ンガミランドでは、セコマ・レツォラテーベに運がなかった。1890 年代にタワナ族は分裂した。セコマに支配者にな ってもらいたいものもいれば、マティバ・モレミを選んだものもいた。セコマは、タワナ族の内政に行政府からの影響 を全く望まないとても強い支配者だった。彼は、行政府が BSACo にボーア人が住むための居留地を与えることを拒絶 したため不満だった。彼は、キリスト教よりもツワナの習慣を支持したため、宣教師が嫌いだった。彼はまた、ボテチ 川地域の二つの場所での境界を巡ってカーマと対立した。これらの理由で、行政府は彼を退位させたく、マティバとの いさかいはその口実となった。 1906 年にラルフ・ウイリアムスは高等弁務官によってセコマを廃位するために送られた。 審理なしでハボロネ刑務所に 6 年間拘留された後、1912 年にセコマは彼の支持者とともにカビンバに住むことが許さ れた。1914 年に彼が亡くなったあと、ほとんどの彼の支持者はンガミランドに戻った。行政府がセベレとセコマを扱っ た方法は、行政府が現在でははるかに権力を持つようになったことをあきらかに示している。それは、ツワナ族の事件 に好きなように干渉できた。族長は今では以前ほど独立していない。1895 年にイギリスは英領ベチュアナランドをケー プ植民地に編入したが、自分たちのためにケープ植民地の上に位置する帝国保留地と呼ばれるマフィケン周辺の小さな 土地をとり置いた。保護領の本部は、住民委員長と彼の上級職員が住んでいたマフィケンに移った。そのため、1895 年から、以前は英領ベチュアナランドとともに統治されていた保護領は自分の行政府を持つようになった。しかしなが ら、保護領の首都は独立直前まで国外に残った。 境界 1891 年の緊急勅令は、高等弁務官に部族の間の境界をひく権限を与えた。バソエン、カーマ、セベレが 1895 年にロ ンドンを訪れたときグールド・アダムスは境界をひくことを命じた。これにより、チェンバレンが彼らに与えた保留地 が設立された。いくつかの議論となっている地域があったので、それは簡単な仕事ではなかった。初期に決められた境 界もあった。 モトーツェ川とシャシェ川の間は、ンデベレ族が要求し、後には BSACo とングワト族も要求した。しかしながら、 アフリカ人支配者は、BSACo のようなヨーロッパ人の免許所有会社がタチの金のために彼らに土地を要求させるまで は、そこでの争いはなかった。BSACo は全てのロベングラの領域を引き継いだため、その地域を要求した。しかしな がら、1892 年高等弁務官のロッホは、論争のあった多くの領域を保護領に合併した。1887 年にロベングラから得たタ 102 チ地区だけが、タチ特許鉱山探索会社の土地として残された。 カーマの弟のラディタディは、兄と喧嘩し支持者とともにローデシアに逃れて住んだ。1890 年代に彼はモトーツェ川 とシャシェ川の間の土地を BSACo の支持を得て要求した。1895 年に、三人のツワナ人支配者がイギリスへ行き、保護 領の譲渡に抗議したときチェンバレンは保護領の残りの係争地も含めた。これで BSACo がこれを要求することは終わ った。 ロカロでのカトラ族とングワト族の境界はもめていた。行政府は、この係争のためにカトラ族とクウェナ族がングワ ト族を攻撃しようとしているという噂を聞き知っていた。1894 年シパードはその地域へ急ぎ、レカロの境界をノトワネ 川に定めた。これは、ングワト族保留地の南の境界をなした。クウェナ族とングワト族の境界はクウェナ族によって掘 られたレフェペ井戸になった。時が経つにつれて、両方の部族は牛に水をやるためにこの井戸を使うようになった。1886 年に、カーマはクウェナ族が井戸をのっとり、ングワト族を追い払ったと訴えた。シパードはカーマを喜ばせたかった ので、彼に井戸を与えた。レベレンド・ロジャー・プライスという宣教師に助けられ、クウェナ族は抗議した。高等弁 務官はグールド・アダムスをレフェフェに送り、境界をひかせた。彼は、クウェナ族とングワト族の間で井戸を均等に 分配した。 ングワト族とタワナ族の保留地の西の境界もまた、もめていた。カーマは、彼の国はボテチ川とタマラカネ川が合流 する所で終わると訴えた。セコマは抗議しつづけ、また彼の国の一部に鉱物免許区があったことから英国ウエストラン ド免許会社に支持された。高等弁務官はパンツェラ大佐を 1898 年に送りマカラマベディの二つの保留地の間に境界を ひかせた。 タワナ族とロジ族(ザンビアのバロツェランド)の境界もまたもめていた。レワニカ王とセコマ・レツォラテーベは、 現在カプリビストリップと呼ばれている地域の境界を巡って争っていた。その地域は象牙が豊富で、ハンブクシュとス ビヤ族を支配下に収めたかったので、セコマはそこを欲しがった。レワニカがそこを望んだのは、それらの部族がロジ に住んでいたときにロジの支配下にあったので、その支配を続けたいと思ったからだ。ヨーロッパの宗主国であるイギ リス、ドイツ、ポルトガルは、これらの主張を無視し、カプリビストリップは 1890 年にドイツに与えられた。それは 1914 年 11 月から 1929 年 10 月に南西アフリカ(ナミビア)に返還されるまで、保護領の一部として統治された。 1899 年までに、ほとんどの保留地の境界がひかれた。レテ族の境界は 1909 年に、トロクヮ族の境界は 1933 年に引 かれた。ベチュアナランドは今はっきりと、ツワナ人だけがすむ保留地、王室領、そしてタチ地区、ハボロネ、ハンチ ィ、ロバツェ、チュリ・ブロックといった自由所有の土地に分割された。王室領は、将来のヨーロッパ人の住居か動物 保護区のためにイギリス政府によって管理された、未配分の土地である。 税制と移民労働力 一般的に、植民地の税制、特に居住植民地は、植民者によって運営されている近代経済の中で働いている被植民者に おもに狙いをつけている。被植民者は金融経済になれていないので、他人のために働く必要を見出していない。彼らの 伝統的経済は、家庭は生きるために必要なものを生産し交換するので、普通自給自足である。保護領では、貨幣やもの の交換に基づいた経済は、ヨーロッパ商人や 19 世紀の中頃の宣教師によって導入されたが、ほとんどのツワナ人はこ の近代経済に参加しなかった。植民地時代には、ほとんどの家族の主な現金収入のもとは、保護領外(主に南アフリカ) に出て、農場・工場・白人の家・鉱山などで働いた人たちからの収入だった。これは長い年月をかけて徐々に起こった。 移民労働は、ツワナ人がボーアの農場で働き始めた 1840 年代に始まった。しかし、多くのツワナ人が南アフリカに 仕事を探しに行き始めたのは、キンバリーでダイヤモンド鉱山の発見があってからだった。金発見後の 1880 年代から、 さらに多くのツワナ人が、ツワナ人男性のもっとも大きな雇用者となった南アフリカ鉱山に出かけた。彼らの稼ぎは保 護領により多くの資金をもたらした。保護領では、ツワナ人に税金を課す主な理由は、行政府運営費を捻出するためで あった。 1891 年、高等弁務官はイギリス政府に、ベチュアナランドは行政府のために自分たちで支払うと約束した。1888 年 に税金を導入する計画だったが、これは 1899 年まで行われなかった。税金があまりに早く導入されるとツワナ人は反 乱するかもしれないと恐れたためだ。しかしながら、1895 年に、バソエン、カーマ、セベレは、彼らの国を BSACo か ら自由のままにする対価として、税制に合意するよう圧力を受けた。高等弁務官は、1899 年に年 10 英シリングの家屋 税をついに導入した。家屋税では、成人男性が住んでいる家は全て課税される。もし二人以上が一つの家に住んでいれ ば、それぞれが税を払う。これは、1907 年に 20 シリングの人頭税に変更された。1919 年には、人頭税に加えて3シ リングの原住民税がこれに加えられた。3 シリングは原住民基金へ行き、アフリカ人教育、健康、農業、そしてアフリ カ人に利益を与えるほかのサービスに使われた。これを払えなかったものは、5 ポンドの罰金か、最高 3 ヶ月刑務所に 入れられた。 族長は徴税者に変わった。彼らは、自分の地域で集めた税金総額の 10%を得た。これで、彼らは全納税者が税金を払 うよう確認するよう奨励された。1911 年までに行政府はおもに税金収入から資金を得るようになり、イギリスは税金収 入にほんの少しの資金を加えただけになった。1938 年に、家屋税と原住民税は統合され、アフリカ人税になった。18 103 歳以上の男性はこの税を払った。1899 年と 1965 年の間に、これらはベチュアナランド・ボツワナのアフリカ人によっ て支払われる主要な税金形態となった。 1922 年には白人と白人企業に対して所得税が導入されたが、1930 年代までそれらはほとんど全く税金を払わなかっ た。行政府が弱く、それを集める努力はほとんどされなかった。これは、金持ちが税金を払わず、貧しい人が払ってい たことを意味する。実験的な累進課税が 1949 年に導入された。このねらいは、1938 年に作られた部族金庫により多く の収入を入れることだった。10%の人頭税は必要なサービスをまかなうためには不充分だったのだ。 税制の結果 税制を導入した結果、アフリカ人は税を支払う現金が必要になった。しかしながら、ベチュアナランドには十分な雇 用機会がなく、より多くのアフリカ人が南アフリカの鉱山や農場へ仕事を探しに出ることを強いられた。1900 年代の初 めまでに、ベチュアナランドは急速に南アフリカへ労働力を送り出す”労働者保留区”になった。1896 年におきた牛疫に より牛が死んだ後、さらに多くのツワナ人が南アフリカの鉱山に働きに出ることを強いられた。その後で旱魃があり、 作物と家畜が被害を受けた。より多くの男性が去ったことにより、農作物の世話などの家族の仕事の負担は女性に残さ れた。農業生産が落ちた場合もあった。主人が長い期間留守だったので壊れた家もあった。1943 年までに、南ローデシ アや南アフリカによる求人の増加のため、3 分の 1 の成人男性人口がいなくなり、そのなかには第二次世界大戦に参加 したものもいた。多くの家族は女性に率いられ、家族の奮起を促した。 税制の導入はまた、 牛や羊や山羊をほとんど持っていない人々の窮乏化につながった。 仕事を見つけられないものは、 税金を払うために牛を売らなければならなかった。牛の値段は低かったので、彼らは税金の支払と家族を養うためにた くさんの牛を売らなければならなかった。時が経つにつれて、牛を持つツワナ人の数は減ってきた。とても裕福になっ たツワナ人もいれば、とても貧しくなったものもいた。族長もちろん彼らが受け取った 10%のために裕福になった。そ れを自分自身のために使うものもいれば、部族のために使うものもいた。だから、古い割当のような税制は族長たちに とって利益のあるものであり、彼らは強くそれを支持した。ツワナ人にとって税制が厳しいものであることはあきらか だった。保護領には何の仕事もなかったが、彼らは仕事のために資金を見つけるよう望まれた。ベチュアナランドは最 貧国の一つだったが、自分たちの行政府のために支払わなければならなかった。現代ボツワナの南アフリカへの経済依 存はこのときに始まり、年とともに増していった。 行政府の新しい形 間接統治制度のもとでは、徴税、治安維持、ほとんど全ての法廷審理、新しい法の公示、公共事業への労働力の提供 などで植民地の役人は族長に頼っていたので、彼らはいくらかの権威を得た。族長の中には、以前には統治していなか った人々に対しても、権威を広げたものもいた。族長の中には非セツワナ語圏の人々を過酷に統治したものもいたが、 保護領行政府は通常そのような権力の乱用を止めるよう介入することはなかった。しかし、時代は変わり行政府も変わ らなければならなかった。もはや布告で統治するのは充分ではなかった。 アフリカ人諮問協議会 1920 年には、自分の国の統治に参加したがったサイモン・ラツォーサのように、教育を受けた若いツワナ人が増えて きた。その中には族長はもはや彼らを正しく代表していないと感じるものもいた。彼らはまた、自分たちは税金を払っ ているので法を作ることに参加すべきだと論じた。例えば、イサン・ピラネ族長は教育を受けた族長だった。彼は強い 議会を設立したかった。それはツワナ人に統一と政治的教育を与え、彼らの利益を守るからだ。 高等弁務官はアフリカ人が政府に参加する事を許すことに合意した。彼は、主に教育を受けた若いツワナ人の間の不 満を止めるためにこれを行ったが、新しい議会を使ってアフリカ人の国の運営についての考えも知りたかった。行政府 はまた、新しく創設された原住民基金がどのように使われるべきかという議論のために議会を使いたかった。議会は政 府に一般的に原住民問題について助言をした。1919 年に原住民諮問協議会が形成された。アフリカ人が原住民という言 葉を好まなかったため、それは後にアフリカ人諮問協議会と改名された。高等弁務官は、イサンの提案したような力の ある議会は、政府に反対するために使われるのではないかと恐れていたので、議会は助言を与えることだけができ、法 を作ったり変えたり拒否したりはできないことに決めた。行政府は望むならばそのような助言を無視できた。 議会は、通常は任命された部落長であるが、族長によって任命された各部族からの代表者で構成されていた。族長も また委員だった。族長は教育を受けたツワナ人は脅威だと感じていたので、最初は多くの族長は原住民諮問協議会が好 きではなかった。議会の委員は年ごとに変わった。ングワト族とタワナ族は最初は議会に加わらなかった。カーマ三世 は、行政府が議会を使って族長の力を取り去ろうとしていると疑った。タワナ族は通常年に 1 回マフィケンで開かれる 議会に参加するには遠く離れすぎていた。タワナ族は 1931 年に参加しただけだった。カーマ三世の後継者セコマ二世 とツェケディ・カーマは、原住民布告を討議するときなど、特別な場合だけオブザーバーとして会議に参加した。最終 的には 1940 年にングワト族は会議に参加した。 104 住民委員長は議会の議長だった。最初は、彼の布告を人々がどう考えているかということを確認するために議会を使 った。彼はまた他の告知を作るためにもそれを使った。時が経つにつれて、議会は議員の望むどんな問題でも討論する ようになった。これはアフリカ人に行政府を批判することを許した。それは多くのことを批判した。 行政府にツワナ人がいないこと 行政サービス内の人種差別 行政サービスでのアフリカ人の低い給料 ベチュアナランドでの経済発展の欠如 教育、衛生設備の貧弱さ 議会が長い間議論した他の主要な問題は、ベチュアナランドの南アフリカ連邦への譲渡の問題である。議会は強くこ れに反対した。ツェケディ、バソエン二世そして他の人たちは議会を使って保護領の譲渡を妨げた。 議会の仕事によって、いくつかの改善がなされた。それはツワナ人に彼らの望むものを得るために統一することを教 えた。たとえば、彼らは行政府が保留地の運営のために部族議会を導入しようとする試みに反対した。そのような部族 議会が立ち上げられると、それは族長に管理される。アフリカ人諮問協議会は議員を政治的に教育した。彼らは、全員 で同じ意見をそれぞれの部族だけではなく全国に向けて話すことを学んだ。 議会はまた住民委員長行政府の活動について、年次報告を手に入れることも成功した。これにより、行政府の仕事を 批判することができるようになり、改善のための提案ができるようになった。 ヨーロッパ人諮問協議会 アフリカ人諮問協議会と並んで、行政府は 1920 年にヨーロッパ人諮問協議会を形成した。この議会は保護領の白人 に関わる問題を議論するために作られた。1 つの国内の二つの分かれた議会の形成は、行政府は当時人種の統合を望ん でいなかったことを示している。ヨーロッパ人諮問協議会の委員は、現在のボツワナ国会の議員のように、選挙区によ って選ばれる。選挙区は、保留地を含んだ全国を包含する。現在の議員の何人かがそうであるように、議員の何人かは 政府によって任命された。住民委員長は議会の議長だった。 何年かにわたって、ヨーロッパ諮問協議会の議員の何人かは保護領を南アフリカか南ローデシアに譲渡することを主 張した。しかし、1950 年代までに、白人の中には保護領は黒人の国であり、南アフリカや南ローデシアのような人種ご とに分かれた発展というよりも、人種的調和という点で将来を見た。ラッセル・イングランドやルイス・グルーバーと いったような議員はアフリカ人諮問協議会の議員と友人になり、彼らと一緒に政府に対して、保護領を 1 つの国として 開発するよう主張した。 合同諮問協議会 始めから、アフリカ人は分かれた議会の設立に反対していた。彼らはそれが国を分割し、白人支配の隣国のように人 種主義者の法に道を開くと感じた。彼らはまた、行政府はいつも地域発展に白人を優先すると信じた。加えて、彼らは、 ヨーロッパ人諮問協議会が保護領を隣国の一つに統合することを要求したことに怒った。 ヨーロッパ人委員会の友人とともに、ツワナ人は政府が合同諮問協議会を持つべきだと主張した。これは 1950 年に できた。アフリカ人の方が国内では多数はであったが、合同諮問協議会は二つの議会からの同じ数の代表によって構成 されていた。行政府は、自分の代表を合同諮問協議会に任命した。この議会は白人と黒人の両方に関する問題を討議し た。アフリカ人は、保護領の事件についてより多く発言するために、自分たちの議会に加えてこの議会も利用した。最 初は、白人と黒人が議会内でいっしょに働くことは簡単だとは思われなかった。1956 年以降、議員がより滑らかに働き 始められるように、政府はより多くの権力を議会に与えた。 これらの発展により、価値ある結果がついてきた。可能な限り、統治される人の合意によって統治された。合同議会 の議員は、国の事件についてともに働く経験を得た。1956 年から 1965 年まで、国内自治政府ができたとき、合同諮問 協議会とその継承者である立法委員会議員は、非人種主義社会の創造に向けてともに働いた。 105 第 26 章 行政改革:族長権力の削減 1891 年、議会命令によって、植民地行政府の管理の下に族長を置いた。しかしながら、ほとんどの支配者はまだ力が あり、行政府の影響はほとんどなく自分の部族の日々の仕事をこなしていた。これにもかかわらず、保護領の初期の間 には、行政府は部族の仕事に干渉した。例えば、1901 年から 06 年までの住民委員長のラルフ・ウイリアムスは、1906 年にタワナ族の族長セコマ・レツォラテーベを退位させた。この種類の行動はまれだったが、行政府が族長をもっと固 く管理したいときには、将来にはこれが繰り返された。 20 年代後半と 30 年代初期に植民地行政の考えが変わった。イギリスと何人かの保護領行政官は、ベチュアナランド に、より強い政府が設立されるべきだと感じた。高等弁務官領は、植民地室から除かれ、英連邦室の下に位置付けられ た。1920 年代にレオパルド・アメリーはこの事務所の責任者だった。英帝国がロシアやアメリカといったほかの大国と 渡り合うことができるように、強い経済の強い英帝国を信じていた。 アメリーは、イギリスとその帝国を強化するために、植民地をより経済的にかつ生産的にしたかった。彼は、高等弁 務官領は遠からず南アフリカに譲渡されるだろうと信じていた。彼のねらいは、これらの領域が南アフリカ連邦に統一 される前に開発をすることだった。南アフリカのボーア人の影響と均衡するように、白人植民者はこれらの国に住み人 口を増やすことが奨励されるだろう。 1927 年アメリーは南アフリカと高等弁務官領を訪れ、みずから物事を見た。彼はどれほど統治が貧弱で、どれほど領 域が未開発かを観察した。彼は、よりよい経済発展を促進するために、それぞれの領域に強い行政府を作ることを決め た。彼は、弱い行政を改革できる強い住民委員長を任命した。 ベチュアナランドでは、保護領行政府はその仕事をする資格がないと考えるハイドン・ルイスのような宣教師を含め て貧弱な行政が批判されていた。教育を受けたツワナ人である、サイモン・ラツォーサは、ツワナ人が税金を払ったと しても、行政府は保護領を改善するためになにもできないだろうと考えた。彼は、行政府と族長はどちらも堕落してお り、改革されなければならないと述べた。ほとんどの族長は、しかしながら、彼らの権威の制限や、彼らの臣民を南ア フリカに動かす準備といった、どのような動きにも懐疑的だった。ツェケディ・カーマに主導されて、彼らはイギリス が行政府を改革しようとする試みに反対するようになった。彼らは自分たちが独自性を持ったボツワナの守護者である とみており、1885 年と 1895 年に彼らの先祖によってなされた合意は、イギリスが内政に干渉する権利を制限している と論じた。族長の力を減らしたいと望んでいた教育を受けたツワナ人ですらも、支配者が保護領の統合に反対すること にはほとんどが支持を表していた。 1923~28 年に住民委員長だった、ジュールズ・エレンバーガーのような行政官も、族長の見方を支持した。彼はま た、統合とベチュアナランドの大規模白人居住地に反対だった。彼は、白人に与えられていた、全ての鉱山免許を取り 消すよう望んだ。 イギリスは、行政改革を行わなければならないと決心した。これを行うために、アメリーはチャールズ・レイを住民 委員長(1930~37)に任命した。レイは、アメリーのように、植民地がイギリス法のもとで生産的でよく管理されている ような、強い英帝国を信じていた。レイは、保護領行政の改革について教えられた。彼は、族長が権力を持ち続ける限 り、発展はあまり望めないと感じた。 レイにとって、改革に向けての一歩は、族長の権利を減らすことだった。族長の中には、しばしば行政府とは独立し て動くものがいた。イギリス行政府は、次のような事件によって、改革の必要性を感じた。 ラツォーサ事件 カーマ三世は 1923 年に亡くなり、さらにその息子のセコマ二世も後にボツワナの初代大統領となる当時 4 歳のセレ ツェ・カーマを残して 25 年に亡くなった。セコマの死の結果、彼の弟のツェケディが南アフリカのフォートヘア大学 から呼び戻され、ングワト族の摂政になった。ツェケディはングワト族の権利を守った勇敢で賢く教育を受けた男だっ た。彼はまた、反対を嫌う強い支配者だった。1926 年に、喧嘩をした後、サイモン・ラツォーサとその弟のオベディー ツェは部族会議場でツェケディを撃とうとした。彼らは失敗し、二人の部落長が怪我をした。ツェケディは彼らの家を 燃やし、セロウェから追放した。この事件は、英帝国の最高法廷である枢密院まで上げられた。 マッキントッシュ事件 他の事件が 33 年にセロウェで起きた。過去には、何人かの白人が、ングワト人の少女を誘惑し、妊娠させた。ツェ ケディが摂政になったとき、彼にはこの状況が受入れられなかった。1927~33 の間、彼は繰り返しこの無作法を住民 司法長官に報告したが、何の行動も取られなかった。 1933 年の 8 月ピネアス・マッキントッシュという若い白人が、好きになった若い少女を巡っての喧嘩の間にングワ 106 ト人の若者に怪我をさせた。ツェケディは、マッキントッシュのいくつかの無作法を訴えた。以前に司法長官は彼に対 して何の行動も取らなかったので、ツェケディはマッキントッシュを部族会議で審理することに決めた。彼は、悪事を 働いた若者に課される普通の罰である、鞭打ちの刑を言い渡された。ングワト族とほとんどのセロウェの白人住民は、 この決定を支持した。しかしながら、レイはすばやくこの事件を使って、ツェケディを部族政治から外すことにした。 彼は、執行高等弁務官であり、南アフリカのイギリス艦隊の司令官でもあるエバンス提督に、セロウェへ行きツェケデ ィを退位させるよう要求した。英帝国では、現地の権力では白人を裁くことはできないので、レイはツェケディにはマ ッキントッシュを裁く権利はないと論じた。 エバンス提督は、兵隊を連れてセロウェに来て、ツェケディを審理した。兵士たちはイギリスの火力を見せつけ、ン グワト族を恐れさせた。ツェケディの弁護士である、ケープタウンのダグラス・ブキャナンは、その族長を弁護した。 ングワト族は大勢で現れ、族長を支持した。マッキントッシュすらも法廷の前に現れ、以前に族長会議で審理を受けた ことを述べ、ツェケディに何の不満もないと言った。次の日にエバンスはツェケディを停職にし、フランシスタウンに 追放した。彼が立つ前に、セロウェに住んでいた白人は彼の手を握り、このようなことになったことの謝罪を述べた。 ツェケディは彼の追放への反抗勢力を統合した。追放先から、彼はイギリスの支持者と連絡をとった。人道主義者と イギリスの新聞は、ツェケディに対する不公平な行動についてエバンスとレイを批判した。イギリス議会では、エバン スは必要でなかった支出費用をセロウェに払うべきだと提案した。イギリス政府と休暇でロンドンにいた高等弁務官の ハーバート・スタンレーは、エバンスとレイがあまりに過酷に行動したと感じた。 ングワト族は、族長がいないままだった。行政府はツェケディを変えるよう試みたが、ングワト族はこれに反抗し、 ツェケディの復帰を要求した。ングワト族はこの要求で統一されており、以前ツェケディを批判したサイモン・ラツォ ーサのような教育を受けた人々も、この問題について彼を支持した。ングワト族は統治できなくなり、わずか数週間後 にエバンスはツェケディの追放を解除した。ツェケディは勝利し自分の地位に戻った。彼の運動は、保護領行政府が弱 点を持っていることをイギリスに気づかせた。 その運動はングワト族をまとめ、 行政府に異議を唱えうることを示した。 行政府と族長との間での紛争の他の原因は、ベチュアナランドを通して、強制的な奴隷がまだ存在していることに対 する行政府の不満だった。特にサルワ人は、彼らの主人によってひどく扱われていた。イギリス政府は以下の理由で強 制奴隷を止めさせたかった。 1. 反奴隷運動が、奴隷制度を終わらせない宗主国を批判しており、これも奴隷制度の一例と見られたこと。 2. 国際連盟もまた、国際法の下で違法と宣言された奴隷制度を終わらせるために、植民地政府に圧力をかけた。 3. イギリス政府は、奴隷が自由化されることを望んだ。そうすれば、彼らはイギリス所有の南アフリカの鉱山で働く ことができ、税金を通じて保護領により多くの資金をもたらすだろう。 1930 年代の初期には、 アラン・ピムという男が保護領に送られ、 どのように国を発展させるかについて助言を与えた。 33 年の彼の報告では、彼はアメリーやレイに賛成し、族長が権力を持ち続ける限り国の開発は難しいだろうと信じた。 多くの族長は、しかしながら、地方開発の促進にとても積極的だった。ングワケーツェ族のシーパチィーソ二世と彼の 息子のバソエン二世、カトラ族摂政のイサン、ングワト族のツェケディはそのような男たちだった。彼らが反対したの は、南ローデシアや南アフリカで行われた白人植民者を使ったヨーロッパ風の開発だった。 布告と反抗 住民委員長のレイは、権威主義者で、すぐにツェケディやクウェナ族のセベレ二世といった族長と争いを起こした。 彼は、 族長を自分たちで好きなように統治する独裁者とみなした。 確かに族長の中には独裁的な支配をするものがいた。 彼はまた、到着するとすぐに、保護領の未開発な状態に印象を受けた。彼は、保護領行政府を不充分とみなした。彼は、 強い行政府を立ち上げようと試みた一人の前住民委員長(1901~06)のラルフ・ウイリアムスを賞賛した。ウィリアムス は 1906 年にセコマ・レツォラテーベを廃位したが、これはレイに命令に従わない族長への扱いの前例を与えた。ウィ リアムスはまた、首都をマフィケンからロバツェかハボロネに移そうとしたが、失敗した。彼は、ベチュアナランド保 護領警察を南ローデシア警察の管理から外すことには成功した。彼は保護領警察を住民委員長の直下に位置付けた。 レイは、経済開発と行政改革の大きな計画を始めることを決定した。彼の狙いを成し遂げるための最初の 1 段は、行 政府の直接の管理化に置くことにより、族長の権力を減らすことだった。彼は、間接統治と呼ばれる植民地行政府の仕 組がどのようにナイジェリアやタンガニーカで機能しているかを学んだ。彼はこのような間接統治を保護領に導入する ことを決めた。この地点までで、保護領は平行統治と呼ばれる仕組で統治された。この仕組は、イギリスが、少しの植 民地的監視をしながら、族長たちに自分たちの法や習慣にしたがって統治することを許すやり方である。間接統治はま た、族長は自分たちの法や習慣に基づいて統治しなければならないことを意味する。しかしながら、間接統治のもとで は、族長たちは、その行政的・法的記録を残すことを求められ、植民地行政府により近く管理された。 レイはその行政改革を始めるときに二つの布告を起草した。原住民管理布告では、行政府内で族長を助ける責任を持 つ部族議会を設立した。多くの人にとって、その新しい議会は脅威だった。それは族長の権威だけではなく、部族会議 のそれも脅かした。族長は、その議員が族長会議によって承認される議会の同意を得た上で統治を行う。族長は、住民 107 委員長に従うことを余儀なくされる。彼は、住民委員長の許可なく税金や割当を集めることは許されていない。 その上、イギリス政府の承認なしには、誰も族長にはなれない。行政府は、族長の免職、停職、追放を行うことがで きた。これらの全てはツワナの様式に反していた。族長は生れながらの族長で、部族を除いては誰も解任することがで きない。 原住民布告は新しい法廷を立ち上げた。族長と部族議会の幾人かは上級裁判所に属し、選ばれた部落長は下級裁判所 に置かれた。その布告はまたツワナの様式に反していた。あまり機能していなかったとはいえ、多くの伝統的部族会議 から司法権を取り上げたからだ。族長は、慣習的な問題について彼の臣民の裁判長でありつづけたが、その決定の記録 をとるよう求められた。その記録により、保留地や地区の行政府を代表する地区委員長に訴えることができた。地区委 員長の下に置かれたということは、族長は今やより簡単に植民地行政府に管理されるようになったということだった。 彼らはさらに、 住民委員長からの全ての指示と命令に従い、 要求されたときには地区行政府を助けることを求められた。 1932 年に、レイは布告を族長たちに提示したが、彼らはすぐにそれに抗議した。ツェケディ・カーマに率いられた彼 らは、布告は伝統的組織を使うかわりにそれを破壊するものだと議論した。布告は、部族政治を侵食し、部族会議の全 ての部族決定がなされる場という立場が弱めるものだった。それは部族の議会と法廷を終わらせたのだった。 ツェケディは、ナイジェリアとタンガニーカで実施されていた間接統治を注意深く研究した。彼は、レイの布告はそ れらの国で実施されているような間接統治を提供しないと論じた。そこでは、アフリカ人を統治するのに伝統的組織に 対応しそして使うことによって、間接統治が用いられた。彼は、レイの間接統治を 1927 年に南アフリカに導入された 原住民行政府に例えた。南アフリカの制度は、アフリカ人支配者を白人南アフリカ政権に従属させ、そのため彼らの権 力を破壊した。ツェケディや他の族長にとって、それはレイが受け入れられない南アフリカの制度をコピーしようとし ているように見えた。ツェケディは提案された議会と裁判所に反対した。それはツワナの伝統的な政府の様式には存在 せず、部族会議を弱めるであろうからだ。彼はまた、族長はイギリス政府によって承認されなければならず、政府は審 理や調査なしに族長の権力保留や廃位ができるといった条項にも反対した。ついにツェケディは、布告は族長たちによ って締結された 1895 年の協定(そこには族長は以前の通り彼らの臣民を支配できると書いてあった)を破ったと論じた。 バソエン二世、セベレ二世などが加わって、ツェケディは布告に対してイギリスとアフリカ人諮問協議会で勢力的に 運動した。イギリス議会では、彼は何人かの議員を説得し、布告の草案に反対させた。 ツェケディの運動のため、イギリスの新聞は布告に反対した。彼の非協力的な態度からセベレ二世が 1931 年に退位 した後、レイは同じようにツェケディを取り除く方法を探した。マッキントッシュ事件は、レイにそのような理由を与 えたが、すでに見たように、ツェケディは追放を無効にすることができた。ツェケディの成功にもかかわらず、高等弁 務官は 34 年にレイの布告を承認した。ツェケディは、しかしながら、彼の保留地にそれを適用することを拒絶した。 バソエン二世が加わり、他の支配者に支持され、1936 年に彼は布告を裁判所に訴えた。そこでは、新しい法が 1885 年 と 1895 年のツワナ族の王とイギリスとの間で結ばれた協定を破ったことが論ぜられた。彼らはさらに、1891 年の議会 命令によれば行政府はアフリカの習慣を尊敬しなければならないとなっているのに対して、布告はツワナの習慣を破っ ていることが論じられた。しかしながら、最終的には、ウォーターメーヤー判事は、1891 年の議会命令によれば高等弁 務官の権威は大きく挑まれることはないと規定し、バソエンとツェケディは訴訟に負けた。 この挫折にもかかわらず、族長は反対を続けた。彼らは、英連邦室に手紙を書き、彼らの訴訟を新聞に公開した。族 長と行政府の間には大きな敵意があり、開発の仕事は行政府にとってもっと難しくなった。 保護領行政府の軟化 ツェケディとバソエン二世は法廷での訴訟に負けたが、植民地行政府の多くの人々は、族長を喜ばせるようにしなけ ればならないと実感した。 レイは、 1934 年の布告は機能していないと実感していたチャールズ・アーデン・クラーク(1937 ~42)に住民委員長の座を譲った。 彼は族長たちに、 布告がより受け入れられるように彼らとともに働くことを約束した。 彼はまた、ツワナ人に連邦への譲渡の問題はしばらくの間保留されると話した。 アーデン・クラークはアフリカ人諮問協議会に相談し、話を聞き、勧告のいくつかを実行した。例えば、より多くの 学校を作り、アフリカ人教育についての助言をもらうため教育委員会を創設し、それはボツワナ人を喜ばせた。 アーデン・クラークが行った最も重要なことは、新しい布告を起草し、人気のない 1934 年のそれにかえるために、 委員会を設立したことだった。ツェケディ、マルティナス・セボニ、ボハツ・ピラネ、セボピワ・モレマ、Dr. シラス・ モレマと、何人かの政府役人がこの委員会の委員だった。委員会のアフリカ人はアフリカ人諮問協議会の委員だった。 1941 年に高等弁務官のサー・エドワード・ハーレックはベチュアナランドを訪れた。彼は、ツワナ人に、委員会の勧告 に基づいた新しい布告はすぐに発表されるだろう、といった。彼は、レイがツワナ人の不満の原因を作ったと感じてい た。彼はまた、第二次世界大戦中族長たちの協力を得ることは、重要なことであることを知っていた。 1943 年に新しい布告が公表された。これらの布告は、34 年の布告で失われた族長や部族会議の権力をいくらか回復 した。ツワナ人支配者は、自分たちの地域で開発計画を実行する力を与えられた。高等弁務官は、まだ族長の任命や解 任ができたが、彼はそれを行う前に調査会を開かなければならなかった。部族議会は廃止され、部族会議が部族内で以 108 前のような重要性を持って回復された。ツワナ人は布告を受け入れ、保護領には再び平和が訪れた。 原住民金庫布告 部族の資金を族長が管理することは彼らによる資金の濫用につながることが、 何年にもわたって明らかになってきた。 彼らはこれらの資金を自分の個人的財産のように使い、しばしばその金は王家の家族や族長の側近がおもに利益を受け た。従属部族や部族の首都から遠く離れた地域では原住民基金は多くの利益を与えなかった。アーデン・クラークは、 部族金庫の改革をすることを決め、アフリカ人諮問協議会に相談をした。特に彼は、ツェケディとバソエン二世が彼の 改革を支持することを確認した。 族長は自分たちの金庫が強化されることを望んでいたので、 1938 年のアーデン・クラークの原住民金庫布告を歓迎し、 それは原住民基金を廃止した。布告は、税収は正しく管理され、正しい記録が残されることを定めた。新しい金庫は地 区委員長に監督され、彼は資金が全地区のために使われ族長だけの計画に使われていないことを確認した。新しい金庫 に流れる税収の割合はあきらかに増えた。 地方議会 議会を再導入する試みは、地方議会布告が発布された 57 年まで却下された。それまでは、弱い部族議会が族長の望 むときにたくさん動いていた。族長は地方行政の柱でありつづけた。1957 年の布告でより強い議会が設立された。議員 の何人かは部族会議で選ばれ、他は族長に選ばれた。その地点から、族長は議会の助言を得て統治することになった。 しかしながら、これらの議会は、単に顧問だったので、まだ弱かった。正しく力を与えられた議会は独立してからやっ と生れた。 1936 年までの植民地階層 イギリス植民地行政府 | ケープタウンとプレトリアの高等弁務官 | マフィケンの住民委員長 | 地区委員長 | 族長(9 人の族長がイギリスに認められていた。) | 部落長(イギリスによる承認) まとめ 1957 年までに保護領の地方行政はいくつかの変化を経験した。新しい役人が行政府に加えられ、原住民金庫のような 新しい構造が創設された。族長は地区委員長の権威の下に位置付けられ、議会の助言によって統治されたが、族長は力 を持ったままだった。間接統治が族長の権力を大きく減らすよう狙ったレイによって提案されたが、全面的には成功し なかった。しかし、族長は全ての改革を拒絶したわけではなかった。彼らは自分たちの地区の発展を改善する変化は受 け入れ、伝統的権威を侵食すると見たものは拒絶した。真の族長権力の削減は独立後に起こった。 109 第 27 章 支配への抵抗 植民地時代の間、部族長は、行政府の彼らの権力を減らそうとする試みに対して戦いつづけた。例えば、ツェケディ・ カーマとバソエン二世は、彼らの権威を減らそうとする 1934 年の宣言に挑戦した。しかしながら、族長はまた、苦情 を言う下位の集団からの反対を鎮めるために、ときどき行政府を使った。いくつかの場合では、それらの集団は族長の 支配下にあるとは考えていない場合もあった。しかし、保護領の境界の決定と保留地の創設は、彼らをそれぞれの保留 地の族長の下に固く結びつけた。結果として、保護領時代には、族長は一般的に植民地以前の状態よりも独裁的だった。 植民地化以前の初期の時代には、独裁的支配者に対していくらかの抑制があった。例えば、集団は過酷な支配者のも とを去り、自分たちの支配者のもとで独立した社会を作ることができた。抑圧的な支配に対しては反乱が起き得、タワ ナ族のようにいくつかの独立したツワナ人国家がそのように形成されたことが示されている。 植民地支配のもとでは、そのような分割はもはや不可能だった。族長は、植民地化の前には少しもしくは全く支配の 及ばなかった集団に対して全面的な支配を拡大するのにこの事実を使った。いくつかの場合では、ディファカーネやボ ーア戦争から逃げてきた集団は、クウェナ族、ングワト族、ングワケーツェ族といった強い部族のもとで難民となった。 それらの問題が終わったとき、難民集団は再び独立しようとした。彼らは、その難民状態は一時的なもので、たとえ彼 らを守ってくれた国に何らかの形の寄付を要求されたとしても、自分たちの支配者を再び持ちたいと望んでいた。それ らの難民集団を受け入れた族長は、しばしばそれらの集団が自分の恒久的な支配のもとにあると考えた。それらの異な った解釈は、この章で示すように、しばしば争いにつながった。 マレマのビルワ族 1895 年に BSACo にチュリ・ブロックが与えられたことはすでに述べた。しかしながら、マレマ、ピツェ、セルモラ、 マデマ、 そしてトゥトワといった人々に支配されたビルワ族の集団がそこには住んでいた。 彼らは、20 世紀になるまで、 自分たちの土地が取り上げられたとは知らされなかった。ビルワ族は、それぞれが自分の支配者を持った、独立した社 会に住んでいた。彼らは、ベチュアナランドの南東部、南ローデシアの南西部そして北部トランスヴァールに住んでい た。1850 年代、ングワト族の支配者セコマ一世と、ンデベレ族の両方が、ビルワ族の土地の領有を宣言したが、どちら もそこに固い支配は及ぼしていなかった。ビルワ族は、自分たちを独立した人々だと考えていたが、外部のもの、特に ンデベレ族は牛のために彼らの土地に侵入した。 1885 年の保護領の宣言に続いて、カーマ三世は彼に与えられた領域に住む集団に対して彼の力を固め始めた。1890 年代に、彼は過去にはングワト族の支配が及ばなかった地域に、ングワト族の支配者を任命した。それらの地域の一つ にビルワ族の地があった。 1906 年に彼はその義理の息子であるモディサオツィーレをビルワ族の地の統治者として送っ た。彼の最初の仕事は、全てのビルワ族を支配できる主邑を設立することだった。ビルワ族の集団は一つの主邑に住む ことになり、1915 年までにボボノンが主邑として設立され、彼はそこに住んだ。 ビルワ族の中には、セコバに率いられた者のように自発的にモディサオツィーレに合流するものもあった。他のもの は抵抗したが、最終的にはボボノンに移ってきた。ビルワ族はチュリ・ブロックからは動かなかった。問題は BASCo が白人農民に土地を売り始めたときに始まった。1910 年にビルワ族はいまや土地なしだと教えられた。土地のない人は 借地人と呼ばれ、彼らは白人農民の借地人となった。借地人になりたくないものや農場で働きたくないものはチュリ・ ブロックを去るよう命令された。 マレマと彼の臣民は土地から動くことを拒否した。彼は、歴史的にもそれは彼の権利だと考えた。1919 年にチュリ・ ブロックのビルワ族はボボノンへ動くよう命令された。マレマに率いられ、彼らは抵抗した。1920 年に BASCo は行政 府に頼んでビルワ族が動くよう強制してもらった。行政府は、そこがカーマの保留地だったので、彼にビルワ族を移転 させるよう言った。カーマはモディサオツィーレを送って、強情で独立心のあるマレマを移転させようとした。モディ サオツィーレは、多くがボボノンからの忠実なビルワ族である、約 200 人のライフルで武装した部隊を率いていた。 モディサオツィーレは、マレマとその支持者にすぐにボボノンに動くよう命令した。マレマは、動く前に自分たちの 農作物を収穫することを許されるよう要求したが、この要求は拒絶され、彼らは非常に野蛮にも強制的に動かされた。 マレマの村は焼き払われ、財産は破壊され、略奪された。マレマは後に、彼の家から多額の金が盗まれたと訴えた。マ レマを含む多くのビルワ族は、南ローデシアや南アフリカに逃げ出し、すでにそこに住んでいたビルワ族に合流した。 ボボノンへの旅の途中、逃げ出さなかったものは食料がなく、飲み水も買わなければならなかった。途中で死んだもの もいた。逃げ出したものは、後に農産物を収穫するためにチュリ・ブロックに戻ったが、彼らは逮捕され、ボボノンに 移らされた。ボボノンでは、チュリ・ブロックのビルワ族はモディサオツィーレや彼の上司にために働かされた。 マレマはトランスヴァールに残り、1922 年に弁護士のエマニュエル・グラックマンを雇い、カーマの行動について法 廷に意義申立てをした。マレマは、族長に法廷で意義申立てをした最初の従属集団の支配者だった。行政府は、口実を 使いマレマが代理人を立てることを妨げようとした。彼らは、グラックマンがベチュアナランドで弁護士登録されてい 110 ないという理由で彼を拒絶した。グラックマンはマフィケンのライス氏に訴訟を手渡したが、行政府はこの訴訟が法廷 に行くことを邪魔した。かわりに彼らは、セロウェで、バストランドの植民地官をしていたハーバート・スローリー卿 を議長とした調査を立ち上げた。行政府の狙いは、カーマの支持をし、マレマの訴訟を終わらせることだった。彼らは 議論に公平な解決を見つけることには興味がなかった。 マレマは彼の先祖伝来の土地を取り上げようとするカーマの権利に意義申立てをした。彼は、モディサオツィーレの 解任を求めることにより、ングワト族の族長に支配されることを拒否した。彼はまた、ビルワ族のために損失と損害の ために合計 40,000 ポンドを要求した。彼は、グラックマンにサービス料として 1,000 頭の牛を払った。 調査を通じて、マレマは嫌がらせを受け、我慢を強いられた。カーマは彼の護衛がビルワ族をひどく扱い、マレマに 何頭かの牛を補填のために支払うことに同意したが、40,000 ポンドの要求は拒絶した。マレマはカーマのもとで生活す ることを拒絶し彼の土地の返還を要求した。彼はこれに失敗し、後に勝てないことを実感し訴訟を取り下げた。 マレマは、政府に他のビルワ族が住む南ローデシアのグワンダ地区に住めるよう頼んだ。この要求は入れられず、か わりに行政府は、彼とその臣民がカーマの管理地域の外にあるボテチかネカテの王家の土地にすむことを望んだ。マレ マは、そこが他のビルワ族地区から遠くはなれているので、これらの土地を拒否した。カーマの死後、彼の後継者のセ コマ二世はこの問題を解決しようとした。イギリス大衆の意見は、グラックマンがビルワ族の訴訟を出版したので、ビ ルワ族に同情的だった。行政府は、それゆえこの問題解決を切望し、そのために批判を避けたかった。1925 年に、ボボ ノンでモディサオツィーレのもとに住むことを拒絶したマレマの集団は、そこからそれほど遠くないモララタウに住ん だ。しかしながら、マレマは彼らを支配することは許されなかった。彼は、ングワト族の支配下のその地に住むことを 断り、保護領から罰せられた。彼と、何人かの支持者は、ローデシアやトランスヴァール、チュリ・ブロックのマクネ イルス農場などのいくつかの土地に住んだ。彼の追放は 44 年に解除され、ベチュアナランドに戻ってきた。彼は、60 年に一人の老人としてマララタウで亡くなった。彼の子孫と支持者はまだそこに住んでいる。 1924 年までにベチュアナランドにいる全てのビルワ族はしっかりとングワト族の支配下に入り、 いろいろな村に住ん だ。セルモラのビルワ族はマタタネに住み、フォレのビルワ族はツェツェブジェに、マクワティモケシのビルワ族はコ ボジャンゴに住み、マデマのビルワ族はセモラレに住んだ。すべてのこれらの集団は、ボボノンのングワト統治者の一 般管理のもとにおかれた。独立後、ングワト統治者はもはやビルワ族を統治しなかった。執筆当時(1996 年)、マレマの ひ孫であるミルワ・マレマがボボノンでビルワ族の部落長をしている。 ンスワチのカランガ族 30 年代から 40 年代の間に、ンスワチのカランガ族は、ツェケディ・カーマに統治されたングワト族との長い闘争に まきこまれた。彼らの不平が解決されなかったので反乱を起し、ングワト族支配からの独立を求めた。カランガ族の支 族であるカンスワチ族は、ングワト族保留地の北東部に住んでいた。以前は、彼らは南ローデシアのブラワヨ地区にあ る、ジェトジェニに住んでいた。19 世紀のンデベレ族戦争のとき、彼らの多くは支配者についてセコマ一世下のングワ ト族国家へ亡命してきた。後に全集団はングワト族国家の中のカランガ族の土地で再統合した。そこでは、彼らは間接 的に自分たちの部落長を通じて統治され、ングワト族の統治は受けなかった。彼らはカランガ族の中で信頼される集団 になった。1910 年に 1875 年頃生れたジョン・マダヲ・ンスワチが統治者になった。彼は支配者になる前に南アフリカ の鉱山で働いた。カーマ三世は、一番年長ではなかったがンスワチで一番信頼できるカランガ族統治者とみなした。 ツェケディの統治よりも前には、カランガ族とングワト族の間には何の問題もなかった。ツェケディが族長になった ときに問題が始まった。1926 年にツェケディは、カンスワチ族を含むカランガ族に南ローデシアとの国境に沿ってフェ ンスを作るよう命令した。 ンスワチの部下たちは彼らの土地を耕すのに忙しく、 フェンスを立てる時間をとれなかった。 ちょうどそのとき、ツェケディの徴税官がカンスワチ族に税を課すためにやってきた。彼らは税を払うことを断り、フ ェンスを立てなかった。ツェケディはペトゥ・モフォエンを送って彼の命令に従わないカンスワチ族を審理した。彼ら はそれぞれ二頭の牛を罰金として課された。 その後カンスワチ族は、ツェケディの過酷な統治に限界を感じた。当時、ングワト族の牛の所有者はカンスワチ族の 土地に入り牛を放牧した。これは土地不足につながり、ジョン・ンスワチはこれに不平を言ったが成功しなかった。さ らに問題を悪くしたのは、ツェケディはロンドンまでの旅費のために、カランガ族に牛を要求した。これは、カランガ 族に何の相談もないまま行われた。 1929 年にンスワチはツェケディを飛ばして住民委員長に直接嘆願書を書いた。彼はツェケディの過酷な扱いと、ング ワト族の牛所有者によって彼の土地が破壊されたことを訴えた。彼は、ツェケディによる牛の徴収に抗議し、ツェケデ ィが地域の教育開発に失敗したと訴えた。住民委員長は、徴発がやめられるよう決定したがその決定が強制されること はなかった。かわりに、ツェケディはンスワチに審理のためにセロウェにいくよう命令した。ンスワチは住民委員長の 保護を頼むためにマフィケンに逃げた。 住民委員長はツェケディにこの問題を照会し、 彼は調査を開くことに同意した。 1930 年に調査を開いたセロウェの行政長官は、ツェケディの利益になるように裁定を下した。ンスワチとその支持者 はセロウェに追放された。K.T.モツェテやサイモン・ラショーサのようなツェケディの反対者は、カンスワチ族の苦し 111 みについて新聞に書いた。カンスワチ族は、住民委員長のレイに手紙を書き、ジョン・ンスワチの復帰を頼み、ングワ ト族からの独立を要求した。レイはいくつかの訴えは正当だと納得した。ンスワチは解放され、ツェケディに課された 85 頭の牛を支払うことに合意した。しかし、カンスワチ族はングワト族の支配下のままだった。 ツェケディのカランガ族に対する管理はきつくなった。彼はカランガ族を大きな村に集中させ、彼らを簡単に管理で きるようにした。これらの村は、ングワト族の統治者か、忠実なカランガ族の支配者のもとに置かれた。カランガ族の 小集団はングワト族の住んでいる地域で働くことを要求された。ツェケディはローマカトリック教会がカランガ族に保 健衛生サービスを提供することを妨げた。K.T.モツェテの学校にカランガ族が支援をすることを止めようとした。 緊張は高まった。1942 年に、ンスワチはングワト族統治者と議論になり、後に彼はツェケディがその地を訪れたとき に召集した会議に出席することを拒んだ。彼は裁判にかけられ、18 ヶ月刑務所に入った。彼の臣民は、南ローデシアに 動く許可を得ることに成功しなかった。45 年にンスワチは刑務所から出所した。彼は、セロウェに追放したかったツェ ケディの希望に反して、彼の臣民に再会し英雄の歓迎を受けた。ツェケディは彼にセロウェに戻るよう命令し、そのた めに彼の代理人のタウヤカーレと保護領警察のラングレイ長官を送った。 しかし彼らはンスワチの臣民に石を投げられ、 逃走を余儀なくされた。 行政府は強い行動で反応した。しっかり武装したングワト族の部隊は、保護領警察とローデシア軍の助けを得て、カ ンスワチ族の村に侵入した。南ローデシアと南アフリカの戦闘機が村の上空を周回した。ジョン・ンスワチとその支持 者は捕まり、セロウェにつれていかれた。彼らは裁判にかけられ、ジョン・ンスワチがハンツィへの追放に対して控訴 に成功した後マフィケンに追放された。 カンスワチ族はングワト族の支配に抵抗しつづけた。彼らは、自分たちの支配者であるニェナ・チメラを選び、ツェ ケディの選んだ支配者や彼の忠実なカランガ族の補助者を無視した。彼らはングワト人からの独立を要求した。行政府 の支持を得て、ツェケディは抵抗をこの一度限りで壊してしまうことを決めた。1947 年 9 月彼はオテン・ンポエンに 2,000 人をつけて送り、これを実行させた。13 人のヨーロッパ人と 66 人のアフリカ人保護領警察がオブザーバーとし て従った。ンポエンは井戸を抑え、カンスワジ族に降伏を迫った。カンスワジ族は、囲いの中に入れられ、その中で一 人の妊婦レブナ・ンパポがなくなった。 ングワト族はたくさんの財産を破壊した。1,600 人のカンスワチ人が故郷であるジェトジェニに逃げ出した。ツェケ ディの権威にしたがったものだけが、ベチュアナランドに帰ることができ、ほとんどの者は亡命したまま生きる事を決 めた。1948 年にジョン・ンスワチと彼の支持者はマフィケンに行き、南ローデシアの彼らの臣民に合流することが許さ れた。1958 年に、ツェケディはもはや族長ではなくなった。その年に、多くのカンスワチ族はベチュアナランドに戻り マラポンに住んだ。苦しみはしばらく残ったが、ングワト族との闘争は終わった。ジョン・ンスワジはジェトジェニで 1960 年に亡くなった。 マナーナのカトラ族 反乱はングワト族保留地に限られたことではなかった。1930 年代の初期に、ホブアマング族長の下のモシュパのカト ラ族と、バソエン二世に率いられたングワケーツェ族の間で問題が起こった。バソエン二世が族長になる前は、両部族 の間は平和だった。カトラ族は独立した部族だったが、後にングワケーツェ族の下の従属部族になることに合意した。 彼らは、貢物は払わなかったが、戦争の時にはングワケーツェ族を助けることに合意した。彼らは、1881 年のレテ族と の戦い、1899~1902 年のボーア戦争、1914~18 年の第一次世界大戦でのドイツとの戦いでングワケーツェ族に加わっ た。 バソエン二世が 1928 年に族長になったとき問題が起こった。ツェケディのように、彼は、自分たちをかなり独立的 だとみなしている部族に対して、直接支配をしたいと思っていた。1 年以内に彼は 83 歳の頑固で独立心旺盛な族長であ るホブアマンに喧嘩をしかけた。1930 年にバソエンは、七日再臨教会による保健サービスの拡大を助けるため、彼の居 留地に住む全ての成人男性に二シリングの割当を払うよう要求した。これはカトラ族に相談する前に行われたので、ホ ブアマンは割当を集めることを拒否した。このため、バソエンはホブアマンを部族政治から外すことを決めた。 カンエの行政長官の A .L. クゼンは、若いバソエンを支持したが、住民委員長のチャールズ・レイは割当をやめるよ う命令した。1930 年のホブアマンも出席していたカンエの会議で、彼はその老族長があからさまにバソエンに挑むこと で保留地の平和を壊すことを恐れているという印象を持った。レイは、それゆえホブアマンをカンエに移すというバソ エンの決定を支持した。しかしながら、彼は動かず、カトラ族は割当を払うことを拒否した。彼らはまた、バソエンに 召集された会議にも参加しなかった。 保護領警察に伴われたングワケーツェ族の年齢階梯部隊がホブアマンを逮捕しカンエに連れて行こうとしたが、カト ラ族は彼の逮捕に抵抗した。 ホブアマンはそれからマフィケンに行き直接住民委員長に訴えた。 彼はラモツァで捕まり、 カンエに連れて行かれた。しかし彼の嘆願書は住民委員長に届けられた。行政府もバソエンも老族長に責任を負うこと に熱心ではなかった。 ついに、カトラ族は、25 頭の牛を罰金として払い、バソエンはホブアマンがモシュパに帰る事を許した。しかしその 112 老人は、族長に召集された会議に出席することを拒否することによって、バソエンへの不服従を続けた。1932 年 4 月 クゼンに支持されたバソエンは、ホブアマンとそのわずかな支持者にングワケーツェ族の保留地を去るよう要求した。 クウェナ族のカリ・セチェレ族長はホブアマンを受け入れることに同意した。クゼンはレデボアーに替わった。彼は、 政府とバソエンのホブアマン事件の悪い扱いに批判的だった。調査がされることになったが、それがなされる前に、ツ ェケディ訪問から戻ったばかりのバソエンは、年齢階梯部隊をつれたングワケーツェ族統治者を送りカトラ族を支配さ せた。カトラ族は統治者とその集団がモシュパに入るのを邪魔した。 ビビアン・エレンバーガーが議長を務める調査会が開かれた。エレンバーガーはバソエンを強く支持し、もしカトラ 族がバソエンを族長と認めないのならばトランスヴァールへ送り返すべきだと勧告した。他にもホブアマンをハンツィ へ追放するとの勧告も出した。住民委員長は勧告を拒絶した。彼は、ホブアマンをカンエに移すよう命令したが、ホブ アマンはこれを拒絶した。カトラ族は彼の逮捕を拒絶した。レイはそれから村を壊すよう提案し、高等弁務官はこの行 動に賛成した。ロンドンのイギリス政府は、しかしながら、この提案を拒絶した。彼らは南ローデシア警察が助けに入 るよう提案した。 警察が入る前に、二人のオランダ改革派教会の宣教師ヨハン・レインケと J.C.ノブルは、ホブアマンを説得して、政 府と和平を結ばせるよう試みた。その老人は降伏することに同意し、二人の男と一緒に去った。彼はハボロネ警察キャ ンプに数ヶ月間拘留された。 1935 年、ホブアマンと約 5,000 人の彼の臣民は、ングワケーツェ族保留地を恒久的に去り、クウェネンのタマハに住 んだ。1940 年にホブアマンは 95 歳でなくなった。モシュパのカトラ族の半分は彼に従った。残ったものはその後数年 間バソエンを彼らの族長とは認めなかった。 まとめ 上の例から明らかなように、ベチュアナランドの族長は植民地時代に従属集団の扱いにおいてより権威主義的になっ た。政府は、平和維持・地方行政の運営・保護領行政府のための収入徴収を族長に頼っていたので、一般的に族長を支 持した。族長に対する反抗は従属集団に対するきつい直接支配の導入によって育まれた。反抗者は、族長による絶対的 権威の行使により、彼らが自分たちの権利や特権だと思っていたものを失うことに対して特に反対した。 113 第 28 章 経済発展の無視 “気が進まないながらも、高等弁務官領に対する責任を推測すると、イギリスは 15 年間彼らを全く無視し続けた。政 治的、経済的そして社会的にもそれらの全てに、発展が起こったのは、第二次世界大戦後の現象である。” 経済 一般的に、植民地経済は本当に被植民地の人々には利益を与えない。植民者の狙いは、彼らの利益になる部分だけを 開発することである。豊かな植民地では、その富は、イギリスやフランスといった植民者の母国で使うために、ほとん ど持ち去られた。貧しいままにされた植民地の開発にはほとんどお金は使われなかった。これはベチュアナランドには 当てはまった。植民地経済の特徴は以下のとおりである。 1. 宗主国は、植民者の利益になる部分だけ経済を開発した。これらはおもに植民者の母国に輸出された。だから植民 地経済の特徴の一つは、輸出産物の開発を狙っていることである。しかしながら、輸出から得られた資金のほとん どは、被植民者の利益のためには使われなかった。 2. 宗主国は、植民地開発のためにほとんど資金を投入しなかった。宗主国は、税金や労働力といったさまざまな方法 で植民者が資金を提供できるようにし、自分たちの行政府のために支出をさせた。 3. 道路や鉄道といった運輸システムは、植民者に必要とされた輸出に使われた。 4. 被植民者に直接利益のあるような開発はなされなかった。 開発資金の不足 イギリスがベチュアナランドの開発を無視してきたという証拠として、開発資金の供給失敗がある。イギリスは保護 領を以下のような理由で開発しなかった。 1. イギリスは、他の国や政府がその地を譲り受け支配することのないように、ベチュアナランドを保護領として宣言 した。その恐れが避けられたとき、イギリスは保護領にそれ以上の関心を持たなくなり、その開発のために資金を 投入しなくなった。 2. イギリスは、ベチュアナランドを南アフリカの一部としてみなしており、その領域は徐々に南アフリカ連邦に統合 されると感じていた。確かに、1910 年の南アフリカ連邦設立時のイギリス法を見ると、保護領の合併について条 項がある。 3. そのような初期のイギリスの植民地政策は、植民地はイギリス経済の利益のために存在するというものだった。だ から、イギリスはそれらを開発するために資金を提供しなかった。むしろ植民地は自分たちの発展のために自分た ちで支払わなければならなかった。 ベチュアナランドに対するこのような態度のため、イギリスは 1885 年に保護領を設立してからたった二つの主要な 関心しか持っていなかった。 (a) イギリス政府の活動は、法の維持と平和確保の命令だけに限られているべきだ。 (b) 保護領の住民は、その行政府のための支出をすべきである。 独立前の最後の数年を除いた植民地時代を通じて、社会資本の発展のために、ほとんど何の支出もなされなかった。 健康、教育、福祉の支出は全面的に族長と部族に残された。行政府の主要な支出は、警察や、ベチュアナランドの手紙 を無料で運ぶサービスなどのための鉄道であった。ベチュアナランドは第二次世界大戦の後までわずかしか発展しなか った。1948 年頃、健康と教育に対する政府の支出は、年に 500 万ポンド以下のままだった。なされた最小の発展とい えば、保護領を通じて鉄道を建設したローズの BSACo のような民間企業によってのものだった。しかしながら、1899 年から 1909 年の間に年間 20,000 ポンドの補助金を鉄道に支払わなければならなかった。それらの資金は、アフリカ人 からの税金と、イギリス政府からの救援贈与と呼ばれる少額の財政支援によって調達された。 1885~1933 年の期間 救援贈与は、この期間にむしろ非自発的に少額で保護領に贈られた。ときどきそれらの贈与はまったく止まり、保護 領は自分で資金調達をしなければならなくなった。 1895 年に英領ベチュアナランドから保護領行政府が分かれたときか ら、1900 年までに 212,000 ポンドが救援贈与として提供された。この資金は、保護領が鉄道補助金を支払うために使 われた。1909 年に鉄道補助金が切れたとき、救援援助は徐々に減り、ついに 1912 年に引き上げられた。救援贈与のな い期間が長く続いた。この期間に、アフリカ人に課税し、関税同盟協定によって支払われる関税によって、収入を上げ た。これらは所得税が導入された 1922 年まで二つの主要な収入の柱だった。資金の 80%は行政府と警察のために使わ れたので、開発はほとんど行われなかった。長期にわたるベチュアナランドへの援助不在は、1929 年の植民地開発法の 114 もとで少額の贈与がなされる事によって終わった。 イギリスの、保護領や他の植民地での開発の失敗は、両大戦間期に直面した経済問題に帰することができるかもしれ ない。第一次世界大戦のあとに短期間の経済繁栄の期間があったが、景気停滞が続いて起こった。1929 年から第二次世 界大戦まで、他の多くの先進国のようにイギリス経済は停滞した。この期間は大恐慌と呼ばれる 第一次世界大戦前に、イギリスは、ドイツや極東、ラテンアメリカといった地域に生産物を輸出して収入を稼いだ。 戦後、イギリスはそれらの市場を失い、それによりイギリス産業は悪影響を受けた。イギリス製品は、日本、中国、イ ンド、アメリカといった国々からの安い商品にとって変わられた。ドイツは、イギリス製品の一番のお得意様だったが、 戦後はそのような製品を買う資金がほとんどなかった。結果は、政府が多くの国民を養わなければいけないような大規 模な失業だった。イギリスがベチュアナランドのような植民地を無視したことの原因の一つには、このような深刻な経 済状態が有った。 1933~55 年の期間 1933 年から 55 年の期間にはいくつかの小さな変化があった。アフリカ人諮問協議会とイギリスにいるアフリカ人の 支持者などは、保護領の発展を無視したとしてイギリス政府を非難した。33 年にイギリス政府はピムに率いられた委員 会を送り、ベチュアナランドの経済状況を検査した。委員会はイギリス政府がベチュアナランドをとてもひどく無視し ていることを非難した。 ピム委員会を受けて、いくらかの支援がなされた。1937 年から 38 年までに全ての救援贈与は 70,000 ポンドに達し た。それから第二次世界大戦が勃発し、イギリスの資金は戦争を戦うことに向けられた。植民地開発は無視され、植民 地には戦争のために人と資金を拠出するのも止められた。40~41 年にはベチュアナランドへの救援贈与は止められた。 保護領には、 支出を切り詰めることと、 戦争資金を貯めることが強制された。 戦争が終わったときには、 保護領は 346,000 ポンドを貯めていた。 45 年に戦争が終わったあと、ベチュアナランドの後進性に再び注意が向けられた。40 年代にガーナのクワメ・ンク ルマのような民族主義者に率いられてアフリカの民族主義が成長したため、イギリスはアフリカの植民地にもっと注意 を払うようになった。ベチュアナランドの中では、イギリスやその同盟国の側で戦争を戦ったり、アフリカ人諮問協議 会で働いていたりしたツワナ人は、国の発展の進歩のなさに批判的だった。イギリス国内でも、イギリス政府への批判 は増していた。批判では、イギリスの戦争を助けるために保護領が行った人と資金の拠出が指摘された。 45 年に、イギリスは植民地の発展のために、新しい植民地開発福祉基金を立ち上げた。政策への批判の高まりのため に、イギリス政府は、アレキサンダー・サイモン卿に率いられた別の委員会を 54 年にベチュアナランドに送り、どの ように開発を行ったらよいかの勧告をさせた。委員会は戦争の間に保護領の開発には大きな進歩がないと認定した。委 員会は、ベチュアナランドは植民地開発福祉基金からより多くの救援贈与を受けるべきであり、政府は以前なされてい たよりもよい地域開発を計画するべきだと勧告した。その後、イギリス政府はベチュアナランドにより注意を払うよう になった。 1955~65 年:進歩の年月 植民地時代の最後の 10 年は、前の時代とは大きく違った。54 年の 3 月、イギリス国務大臣は、ベチュアナランドへ の援助贈与は再開され増加されるべきだという事に同意した。彼は、戦時に保護領が貯めた資金は発展のために使われ るべきだと決心し、そのあとでイギリスは増額された援助贈与が再開された。56 年に援助贈与は再開された。この援助 はベチュアナランドがその支出を弁済できるまで利用可能だった。加えて、イギリスは保護領に発展のための借款を与 えることに同意した。 保護領行政府の側では、ベチュアナランドの政治的・経済的前進に責任を持っているのはピーター・ファウカスで、 彼は 54 年から 59 年までマフィケンで政府書記長を、そして 59 年から 65 年まで住民委員長を務めた。保護領は彼の主 導の元で、独立を成し遂げ、経済発展の最初の一歩を踏み出した。彼は、すっかり全部の開発計画を準備した最初の住 民委員長だった。彼以前には、開発計画は全くなかった。 ファウカスは、イギリス政府に、保護領で働く資格のある外国人スタッフを採用し、保護領行政で働くスタッフの数 を増やすために救援贈与を増やすよう説得した。彼は、普通ではない植民地行政官で、彼以前に保護領を統治しなにも しなかった多くの人とは違い、ベチュアナランドの開発に興味を示したことだった。もちらん、時代は変わっており、 これがファウカスの計画が受け入れられる助けになった。 59 年に、 イギリス政府は、 どの面が最初に開発されるべきか決定するために、ベチュアナランド経済の調査を始めた。 次のように優先順位が設定された。(a)水資源開発(b)通信の改善(c)牛生産の改善 作物生産、鉱物探索、教育や健康といった社会サービスもまた注意が必要とされると注記された。50 年代の終わりに 政府は村落開発に集中し始めた。59 年に政府は共同体開発についての報告を委託した。この報告は、村落開発促進のた めに地区行政府に共同体開発官が必要だと提案した。植民地時代にはそのような役人は任命されなかったが、その報告 は植民地後の時代に取り上げられた提案を行った。それは、村落開発に責任のある地区行政府にスタッフが必要だと強 115 調していた。 独立後に適用されたほかの考えは、同時に何年もの期間をカバーする開発計画の準備である。開発計画とは、ある期 間政府がどんな国の開発を計画するかを述べ、どのように計画を実行するつもりなのかを概説するものである。植民地 行政府は、ファウカスの主導により、62 年に最初の 5 ヵ年開発計画を準備した。そのときから、ボツワナ政府は、複数 年計画で国を開発してきた。開発のために、より多くの資金が準備され、計画がたてられたが、50 年代と 60 年代の間 には即時の大規模開発はなかった。その期間は、将来の発展のための基礎を敷設するために資金は使われた。 農業 自給農業は、植民地時代に主要な農業活動だった。大きな商業農場はいくつかの理由で白人の住んでいる地域だけに あった。白人農業者は、その農場を開発するために政府借款を与えられた。彼らはまたその生産物を南アフリカによい 値段で売ることができ、そのため、彼らはよりよい農業器具、肥料、種を買うことができた。政府は白人所有の農場と 鉄道を結ぶ道路を建設し、その農産物を輸出できるようにした。 彼らの土地は部族所有地ではなかったので、白人農民は、作物を守るために自分の農場をフェンスで囲むことができ た。彼らはまた、より良い農法を知っており、ひまわりや落花生といった商品作物を育てていた。 アフリカ人農業を発展させるのに多くのことはなされなかった。自給農家に新しい農法を教えたり商品作物を導入し たりする必要があった。小さな改善が起こったのは、族長と部族の仕事であった。例えば、ツワナ人は牛に曳かせる鋤 の使用を採用し、ロロン族はトラクターのような大きな機械を使って大規模農業を導入した。彼らは白人農民と競争し メイズ栽培の促進のためにいくらかの政府援助を受けた。 一般的に、植民地政府は耕作地農業よりも、牛牧畜産業のほうにより多くの注意を払っていた。ツワナ人はまた、牛 のほうが金回りがよく、よい収入が稼げるので、作物農業よりも牛のほうにより興味を持っていた。作物農業に発展が なかった主な理由は、降雨が少なかったことだが、移民労働者制度もまた作物農業に悪く影響した。男は南アフリカで 仕事を探すためにベチュアナランドを去り、残された老人、女性、子供がすべての農業仕事をした。 35 年に、ピム委員会を受けて、小さな農業局が創設された。しかしながら、50 年代まで充分な資金を得ることがで きなかったので、それは正しく機能しなかった。それは充分な人を雇うことができず、必要な物資や器具を購入するこ とができなかった。マハラペは中心に位置していたので、新しい局の本部があった。ラッセル・イングランド氏が主任 農業官に任命された。彼は 4 人の白人役人と 12 人のアフリカ人実地教授者に補佐された。局の基地はフランシスタウ ン、ロバツェ、カトレンのセレメに設置された。局の主要な仕事は、例を使って教えるために実験農場を運営すること だった。基地が多くのツワナ人居住地から遠くはなれており、交通が不便だったため、その方法はうまくいかなかった。 他の問題としては、多くのツワナ人は機器を買う資金がなく、政府は彼らに支援を全く与えなかったからである。さ らに、農民自身の土地で教えるために、人々に混じって生活する実地教授者がほとんどいなかったことがある。しかし ながら、政府はロバツェの種子開発基地にきた農民には無料でよい種を提供した。 大戦の勃発は、局の実験的な作業を妨害した。ツワナ人は今”戦争の土地”で食料を生産することを要求された。実験 的作業に残された時と資金はほとんどなかった。 54 年に、それぞれの地域でよい農業の例を提供するために、ツワナ人を農民長にするよう教育する新しい試みが始ま った。訓練生は、農民長になるまでに、生徒の農民から始まり、いろいろな段階を経て訓練される。農業実地教授者は、 農業を教えるのにさまざまな地域に配置される。必要な改善を実行するための充分な資金がなく、政府の助けも充分で はなかったので、農民長になれるツワナ人はたいへん少ない。農民長になったわずかな人たちは、コースを修了したと いう証明書を授与される。 実地教授者は、3 年間のコースを修了した後に学位を得る、マハラペの実地教授者訓練センターで訓練を受ける。上 級拡大サービス官によって監督されたこれらの実地教育者で構成される、とても成功した農業拡大サービスがついに始 まった。新農法を学ぶことに興味を示したツワナ人に安い値段で農業機器が売られた。農業展示会が組織され、よい農 産品を育てた人に賞が与えられた。狙いはツワナ人が耕作地での農業を行うことを奨励することだった。 60 年に、政府は農民が自分たちの農産品を売ることができるように、ロバツェに粉砕製粉所を作ることを奨励した。 これにより、特にロロン族の農場で、農産品生産が増えた。この期間に政府はまた、放牧と農業生産についての調査計 画を立上げた。植民地開発福祉基金がこれらの計画を始めるために使われた。全体として、耕作農業は植民地時代には 成功しなかった。主要な問題の一つは、もちろん、全土を通じての少なく不確かな降雨と頻繁な旱魃である。独立した ボツワナでも、これはまだ耕作農業が直面する一番深刻な問題である。ベチュアナランドでの穀物市場の欠如や貧困な 交通といったほかの問題もあった。乾燥した国では、農民はときどき作物を育てるのに灌漑を使う。ベチュアナランド では、灌漑は主に白人農民によって小さな規模で行われていた。問題は、ダムや年中涸れない川がないという事である。 チュリ・ブロックの白人農民は、水を年中涸れないリンポポ川から引いて、柑橘果樹農園を灌漑によって拓いた。ング ワケーツェ族は、37 年にモホバネで、43 年にカンエで、小さな灌漑計画を始めた。チュリ・ブロックでは、タバコや 落花生といった商品作物を育てる試みがあった。南アフリカや南ローデシアではもっと簡単にそのような作物が育てら 116 れ、したがってベチュアナランドではそのような作物への需要がほとんどなかったので、それらの努力は成功したとは 言えなかった。柑橘類だけがうまく育ち売られた。 牧畜 家畜農業は、植民地政府がもっとも興味を持っていた農業活動だった。牛肉の販売は政府に利益をもたらした。雨の ない年やひどい旱魃のときに牛は作物よりもよく持ったので、ツワナ人は耕作よりも牧畜を好んだ。ツワナ人部族は政 府が家畜農業の改善を導入するのをいつも待っているわけではなかった。多くの部族では、政府の助けなしに個人が牛 の交配を主導した。 獣医局 初期に、牧畜が直面した主要な問題は、牛の病気だった。そのような病気と戦う獣医サービスはなかった。1896~97 年に、アフリカの角で始まった牛疫で、たくさんの牛を殺が死んだ。病気で死んだそのような牛に加えて、約 10,000 の牛が病気の拡大を止めるために殺された。この病気や他の病気を防ぐため、1905 年に政府は獣医局を設立した。かな り初期から、この局は耕作農業を扱う局よりも多くの従業員と資金が与えられた。獣医局の仕事の結果として、東海岸 熱のようないくつかの牛の病気は根絶され、口蹄疫のような病気は頻発を防ぐことができるようになった。 結果として牛の数は増えた。 1933 年のピム委員会は、ベチュアナランドには製造業も鉱業もなかったので、保護領は牧畜産業の発展により努力す べきだと勧告した。水は牛にとってとても重要だったので、井戸を掘ることによって、カラハリの砂の草原に新しい牧 草地を拓くことが提案された。オカヴァンゴデルタがたった一つの大きな水源だが、ツェツェバエがそこで牛を育てる ことを妨げた。 1934~43 年の期間に、獣医局は国内を通じて家畜の改善を行う計画を始めた。動物農業のより良い方法を教えるた めに各地区に家畜改善センターを置くことが狙いだった。よい牛や羊を育て、興味のあるツワナ人に補助付き価格で売 るために、キャンプが設立された。また、牛の人工授精が施された。ツワナ人は、高い価格をつけられるように徐々に 牛の改善をした。 40 年代から 50 年代に、行政府は口蹄疫の問題に集中した。33 年から、ほとんどがンガミランドを発生源とする深刻 な口蹄疫の頻発があった。この時期には、全輸出の 70~90%が牛で占められていたので、その病気の発生は地域経済を 弱めた。50 年に、病気の拡大を止める方法を決めるために、口蹄疫についての全地域委員会が南ローデシアのブラワヨ で開かれた。感染地域の牛の動きを止めたり管理したりするために、防疫フェンスを立て、検疫所を設けることが決め られた。牛の動きを許すための許可証が発行され、家畜の定期的な調査が実行された。決められた牛の通り道が創設さ れた。 牛肉輸出 牧畜農民が直面した主な問題は、 ベチュアナランドで牛肉市場がないことである。 牛を処理するための屠殺場もなく、 そこから輸出する先もなかった。そのため牛は生きたまま輸出された。全ての市場はアフリカだけだった。主に最大の 輸入者である南アフリカ、南ローデシア、ベルギー領コンゴ、北ローデシアのコッパーベルト地帯だった。 牛の輸出を促進するために、帝国冷蔵保存社は、34 年ロバツェに屠殺場を立てた。しかし南アフリカが保護領からの 牛肉の輸入を禁止したのを主な理由として、2 年後に閉鎖された。この禁止は、33 年に口蹄疫の深刻な発生を受けて行 われた。南アフリカはまた、自国の農民が保護領の農民との競争を恐れたので、ベチュアナランド牛肉を制限した。 屠殺場は 40 年に再開し、41 年に再び閉じられた。海外市場に牛肉を輸出する資金はなく、第二次世界大戦が終わる まで世界は”高級”牛肉を望んだためである。ベチュアナランドの肉はほとんど”貧弱な”肉であり、当時そのような肉は 海外で簡単には売れなかった。 第二次世界大戦後、世界中で牛肉への高い需要が起こった。ベチュアナランドで生産されるような脂肪の少ない肉は 特に需要があった。この需要は保護領の牛肉産業をよみがえらせた。新しい獣医法がベチュアナランドの肉を多くの困 難なしに輸出できるようにし、さらに 50 年代には南アフリカが輸入禁止を解除した。 49~50 年に植民地会社は北の王室領に二つの大きな農場を設立した。狙いは、牛の農場の開設とかいばの育成を保護 領内で行うようにすることである。しかし、農場はうまく行かなかった。 ロバツェ屠殺場 54 年に英連邦開発公社(CDC)は、ロバツェの屠殺場を再建し、再開した。ベチュアナランド屠殺会社(BAL)が設立さ れ、それを運営した。それは、南アフリカの提示する値段と競争できるような価格で牛を購入した。屠殺場を支援する ため、政府は牛を生きたまま輸出することを禁止した。これにより農民は牛を BAL に売ることを強いられた。北部の 牛所有者はロバツェへの高い鉄道料金に反発した。彼らは、値段が高く、鉄道料金の安い南ローデシアの方を好んだ。 117 彼らはそれゆえに北部に屠殺場を作るよう運動したが、独立するまでそれはかなわなかった。 植民地政府は、モロポ川地域の大きな農場(モロポ農場)を CDC に貸し出した。それは、屠殺のために牛を太らせ繁殖 させるために使われた。CDC は牛肉産業に成功し、50 年代にヨーロッパ諸国やイスラエルといった新しい市場が開か れた。政府は、63 年に獣医補を養成するために学校を建てることにより、産業をさらに支援した。その主要職務は、牛 に病気に対する予防接種をすることと、防疫フェンスの建設と維持を助けることである。 政府が取ったほかの手段は、ツェツェバエを根絶することによって、ンガミランドに人間の住居と牛の農場のための 新しい地域を開くことだった。ツェツェバエは、カプリビストリップからベチュアナランドに広がって、人や牛の間の 病気の原因となった。ツェツェバエが原因となった眠り病は、38 年と 41~42 年に起こった。45 年にはそのハエはマウ ンを脅かした。 ツェツェバエの蔓延を防ぐために、行政府はハエが住む林を切り払った。これはそれ程効果的ではなかったが、独立 後すぐに DDT のような殺虫剤の散布が行われた。 獣医局の活動、CDC、新しい水源のための井戸といったものの結果、46 年に約 95 万頭だった牛の数は 59 年にはお よそ 130 万頭に増えた。植民地時代の終わりには、牧畜産業は大きく発展し、国にとって一番重要な収入源となった。 しかしながら、牛の輸出から主に利益を得たのは、政府、CDC、わずかなツワナ人牛所有者、白人農民、そして牛を売 買する白人商人だった。交通の困難さから、多くのボツワナ人は彼らの牛を屠殺場につれていくことができず、商人に 安い価格で売り続けた。しかしながら、屠殺場に直接売るツワナ人の数は 54 年の 12 人から 62 年には 1500 人に増え た。 60 年までに、保護領行政府から、CDC 屠殺場を南ローデシアの冷蔵保存委員会やケニヤの肉委員会のような公社の 形にするよう圧力がかかった。65 年に CDC から借款を受けボツワナ肉委員会(BMC)が結成された。 乳牛農業 牧畜産業のほかの面として、乳牛農業がある。政府は、牛肉産業のようには乳牛産業に多くの注意を払わなかった。 乳牛産業は、南アフリカがベチュアナランドの牛肉を買うことを制限したときに収入を上げるために、1926 年に始まっ た。しかし農業局の乳牛部はとても小さく、よい仕事はできなかった。白人農民は乳牛によってアフリカ人よりもたく さん利益を得た。その主な理由は、よりよい品種からより多くのよりよい品質のクリームを生産したからである。彼ら はまた、よりよい器具を買うために、銀行から金融支援を受け、普通、鉄道へのよりよい交通を持っていた。クリーム や乳脂は、フランシスタウン乳製品販売所、マフィケン乳製品販売所、南西アフリカ(現ナミビア)のホバビス乳製品販 売所へ販売した。アフリカ人はこれらの市場にはほとんど接近できず、政府は彼らに乳牛や装置を買うための資金を与 えることはしなかった。彼らは貧弱な交通しか持たず、鉄道からも遠かった。そのため、彼らのクリームは輸出のため に鉄道で長い距離を運ばれている間に悪くなり、安い値段で売られた。 乳牛が成功しなかったほかの理由として、降雨の少なさがあげられる。乳牛は、肉牛よりも多くの水とよい牧草を必 要とするが、それらは乾燥地域ではいつも利用できるわけではない。伝統的にツワナ人は乳牛よりも肉牛を育てること により熱心だった。一般的にベチュアナランドの乳牛産業は、より発展したローデシアや南アフリカのそれと、品質、 量、価格において競争できなかった。 水資源開発 ボツワナの中で豊富な水に恵まれているのは、オカヴァンゴデルタのあるンガミランドと、チョベ川に隣接した北部 チョベ地区だけである。残りの部分では水が不足している。畜産業はたくさんの水を必要とするので、井戸が掘られな ければならなかった。井戸は牛だけではなく人間にも水を供給した。 井戸掘りは保護領時代の初期に始まった。これは植民地政府だけによってなされたわけではない。部族長もまた大き な村で井戸を掘った。カトラ族とングワケーツェ族の間で水道料金が課された。40 年までに全ての主要な村に井戸がで き、個人が井戸を掘ることも奨励された。 族長たちは、自分の井戸を掘ったものはそれを自分だけで使えるように水利権法を変えた。これはみんなに属する水 に付いては適用されなかった。彼らはまた、牧草地を守るために、お互いがあまりに近すぎる井戸を禁止する法を作っ た。イサンのもとのカトラ族は、集団でのみ使う井戸を掘ったり買ったりするシンジケートを 33 年に作った。シンジ ケートとは、共同で資産を所有したり、費用や利益を分け合ったりする人々の集団である。 植民地政府には、水の調査が主要業務である地理調査局があった。植民地開発福祉基金からの資金で、より多くの井 戸が掘りぬかれた。大きな村や町では、井戸の水では充分でないことがすぐに証明された。だから 60 年代にハボロネ ダムのようなダムが、水供給のために作られた。水開発は植民地政府がよい仕事をした分野である。これは牛が植民地 経済にとってとても重要なものだったからである。 118 鉱業 独立前には、ベチュアナランドでは鉱業がほとんどなかった。これは、植民地政府がしっかりした鉱物探索計画を持 っておらず、鉱床がほとんど発見されなかったからである。ふりかえると、これはボツワナにとって政治的によかった かもしれない。もし独立前に鉱山が見つかっていたら、ローデシアや南アフリカのように白人が大勢ボツワナにやって きただろう。これらの二つの国のように、植民者はその豊かさのために国を管理しようとし、ボツワナはおそらく簡単 には独立できなかっただろう。 ボツワナだけではなく、南部アフリカでもっとも早い近代鉱業は 1869 年にタチ地区で始まった。そこにはいくつか の鉱山があったが、モナーク鉱山が一番長い間生産されていた。この鉱山での生産は植民地時代も続いた。ローズにケ ープの北の地域へ興味を持たせたのは、部分的にはタチの金の存在があった。しかしながらタチから出る金の量は少な く、採掘を続けるほど利益は出なかった。そして 64 年にタチでの採掘は終わった。鉱山会社の注意は、南ローデシア や南アフリカのより豊かな鉱山に移った。 1897 年にングワト族の土地で石炭の採掘が試みられたが、1900 年に終わった。これは、南アフリカや南ローデシア にはよりよく安い大量の石炭があったからだ。20 年代には、小さな石綿採掘がングワケーツェ族の土地のカンエのそば のモシャネンで始まった。マンガンの採掘も、ングワケーツェ族とマレテ族の土地で行われた。これらはいずれも小規 模な採鉱で多くの収益は稼げなかった。 第二次大戦後に、行政府は鉱業に興味を持ち始めた。それ以前には鉱物のための真剣な地勢調査は行われていなかっ た。43 年に、体系的な地勢調査が公共工事局によって始められた。 公共工事局の地理学者 E.J.ウェイランドが水の調査中にいくつかの鉱物の証拠を見つけたという報告により、行政府 は興味を持ち始めた。 38 年に、公共工事と分かれた部門として地理調査局が設立され、ウェイランドが最初の局長になった。その主要な職 務は、どこで鉱物や水が見つかったかを示した国の地勢図を作ることだった。それはまた、ングワト族の土地で鉄と銅 の、そしてングワケーツェ族の土地で石綿の鉱脈を予想した。 局の発見により、鉱山会社は、植民地時代の終わりにかけて、保護領内の鉱物の探鉱を勇気づけられた。探鉱は、ほ とんどすべての地区と王室領で、ダイヤモンド、銅、ニッケル、金、石炭、プラチナ、銀、鉄鉱石、クロム、鉛、亜鉛、 塩、そしてソーダ灰など全ての種類の鉱物で行われた。この活動の結果として、50 年代から石綿とマンガンのより真剣 な採掘が始まった。銅は、フランシスタウンの近くのブッシュマン鉱山で掘られた。少量が発見され、さらなる試掘を うながされた鉱物もあった。モトゥーツェ河床で小さな鉱脈が見つかり、デビアスによるさらなる採掘を促され、67 年 のオラパの大発見につながったダイヤモンドがこの例である。石炭は 39 年にパラペの近くのモルプレで発見された。 これは 50 年代の試掘を刺激し、後のモルプレとママブラの大鉱脈の発見につながった。 ローデシアのローンセレクション信託会社(RST)の子会社であるバマングワト免許会社(BCL)は、59 年にツェケデ ィ・カーマとの試掘協定にサインした。65 年に彼らはセレビピクウェで銅とニッケルを発見した。鉄のようなほかの鉱 物は小さな鉱脈で見つかり、それらへのさらなる探索は全て止められた。66 年までにほとんど全ての採鉱は利益がでな いという事で終わった。鉱業は、全ての保護領収入のうちわずか 5%しか寄与していなかった。たとえば 61 年には、鉱 業収入は 616,600 プラだった。これは、現在何百万というお金が鉱山から稼がれていることと比べれば、とても小さい。 大規模な鉱業は独立後まで起こらなかったが、試掘は特に植民地時代の終わりにかけて続いた。 交通と通信 国の後進性は、普通貧しい交通と通信制度によって示される。これはベチュアナランドにも当てはまった。必要な交 通網の建設のために生産されたものは、充分ではなかった。商業交通の主要な手段は、ローデシア鉄道に所有された単 線鉄道だけだった。この鉄道を建設した主な理由は、ベチュアナランドを開発するためではなく、むしろ南ローデシア の経済を開発するためであった。 ベチュアナランドはしかしながら、鉄道を輸入とおもに牛のわずかな輸出に使った。鉄道は主に白人農民と植民地政 府に利益をもたらした。ほとんどのツワナ人は鉄道路線から遠くはなれて住んでおり、旅行や物の運搬のためにそれを 充分には使っていなかった。ボツワナの中心部と鉄道を結ぶよい道路はなかった。鉄道制度は、多くの人々が住んでい る地域を通っているか、他の手段で鉄道に到達できるかしたときにのみ役に立つ。これはボツワナには当てはまらなか ったので、鉄道は普通のツワナ人には直接の利益はなかった。その利益は、例えば鉄道によって運ばれたものを店で買 うことができるといったように間接的なものだった。 ロバツェに鉄道で牛を運ぶ少数の牛の所有者もまた利益を受けた。30 年代に、駅にまたは駅からモノや商品を運ぶた めに主要な村と鉄道を結ぶ貨物列車の導入が試みられた。しかしながら、荷馬車輸送が成立たなくなることを恐れて、 族長はこの制度に反対した。荷馬車輸送はツワナ人によって行われており、もし鉄道会社による貨物車の所有が許され れば、ツワナ人は資金を失うだろう。荷馬車輸送は遅くても安かった。荷馬車は徐々に取って代わられたが、小さなロ 119 バ車はモノや人を運ぶのに使われつづけた。 他の鉄道路線をひく試みがあった。ローデシアから北部ボツワナを通り南西アフリカ(現ナミビア)のウォルビスベイ へいくものだった。この鉄道は、カラハリと北部ボツワナに交通制度を導入するだろうものだった。南ローデシアは、 おもにホワンゲから石炭を輸出するためにこの鉄道路線の建設に興味を持っていた。しかしながら、そのような鉄道が 自分の鉄道制度と競争することを恐れたため、これに反対した。保護領行政府は、ついに鉄道建設をしないことを決定 し、計画は放棄された。 ボツワナの道路制度は、また大きく無視されていた。独立当時たった 7,200 ㎞の道路しかなかった。ほとんどの道路 は舗装されておらず、単なる荷馬車の轍跡であった。荷馬車は 30 年代まで普通の交通の主要な手段だった。よく維持 された砂利舗装の道路が、ボツワナとローデシアや南アフリカをつないでいた。政府はまた、白人農場地域と鉄道を結 ぶ砂利道路を建設した。30 年代に、例えば、白人のチュリ・ブロックの農民は、チュリ・ブロックからディベテに道路 をひくよう政府に圧力をかけた。カトラ族の警備員や囚人がこの道を建設するために使われた。 植民地時代の最後の数年間に、道の建設や通信制度の改善により多くの努力が払われた。独立前には全ての道が砂利 舗装の道路だった。ロバツェ駅から高等裁判所までの 5km と、フランシスタウンの約 1 ㎞の道が舗装されているだけ だった。47 年のキングジョージ六世の訪問に伴いロバツェの舗装道路は延長された。54 年にアレクサンダー委員会は、 ボツワナの道路は悲惨だと書いた。その後で、ロバツェ-ハンツィ間、フランシスタウン-マウン間を含む、いくつか のとてもよい支線道路と橋が建設された。全天候型の北部-南部道路が建設された。タチ、マハラペ、ピラネ-モチュ ディ、ラモツァの駅もまた作られた。 小さな週便のフランシスタウンとマウンそしてハンツィを結ぶ飛行機サービスが始まった。主要道路に沿った電話の 本線と電信線は改善された。電話や電信のない地域では、警察無線につながっている。郵便サービスは、人口の大きい 所と大きな村に制限されていた。 産業 独立前には、上に述べた以上の大きな経済活動はなかった。ロバツェの屠殺場に加え、ベチュアナランドにあったし っかりした製造業は伝統的ビール醸造と民芸品産業だった。他の小さな産業は存在したが、ボツワナ経済に大きな貢献 はしなかった。その多くは牧畜業に関連したものだった。屠殺場からの牛脂は 59 年にフランシスタウンに作られた石 鹸工場で使われた。この石鹸は、南ローデシアや中央アフリカのほかの地域に輸出された。屠殺場は、63 年にロバツェ に肉の缶詰工場をたてた輸出消費会社を作った。南ローデシアや南アフリカのより発展した製造業から、安く生産され たものが輸入されたため、ほとんどの小さい製造業は成功できなかった。これは独立後も問題でありつづけた。小規模 経済活動は、南部アフリカ関税同盟が形成されてからの南アフリカとボツワナの場合のように、特に国の間で自由なも のの動きがあるときには、普通大規模なものにかなわなかった。 貿易 述べる価値のあるほかの主要な経済活動は、貿易である。ベチュアナランドの地域貿易の様式は、南アフリカのそれ に固く結びついている。ベチュアナランドと他の二つの高等弁務官領は、南アフリカ連邦が設立された 1910 年に設立 された、南部アフリカ関税同盟(SACU)によって南アフリカと関連している。SACU のもとでは、高等弁務官領は南ア フリカの通貨、銀行、他の金融設備を使っていた。 SACU の国々の間では、自由なものの動きがあった。これは、国の間のものの移動に関税も消費税もかからないこと を意味した。参加国は自国の若く弱い産業を守るために、他の参加国からの輸入を妨げることはできなかった。それゆ え、南アフリカのより発展した産業でできた安いものが高等弁務官領で好まれた。これによってそれらの地域での製造 業は、ベチュアナランドの牛肉産業のような一部の例外を除いては、発展を妨げられた。 国内交易 国内交易 白人商人は、19 世紀の中頃から村落経済で重要な役割を果たした。最初に彼らはほとんど動物からの生産品を交易し ていた。ハスキンス、ハーシュフェルド、リレイス、ロウランズなどのように、大きな村の店番として国に恒久的に住 んだものもいた。アジア人の商人は 19 世紀の後半に最初はおもに南東部のベチュアナランドに入ってきた。 植民地時代を通じて、商業免許を与える植民地政府の制限によって、アフリカ人の商人はほとんどいなかった。外国 人商人、特に白人が好まれた。彼らは、モノの値段を管理し、時には族長に賄賂を贈ったりして、すぐに独占状態を作 った。彼らは、”グッドフォー”と呼ばれる、アフリカ人が嫌う交易制度を導入した。この制度のもとでは、アフリカ人 は家畜や穀物といったものを、代価を現金で支払わない店主に売った。かわりに、彼らは販売票で支払った。この紙は、 後に同じ商人とのみ商品と交換できる。だから、商人は売買価格を両方とも管理し、アフリカ人に対して不公平な利点 120 を持っていた。20 年代までに、この制度に対して、アフリカ人諮問協議会から抗議があった。 族長はもはや商業免許を管理していなかったが、彼らは商人に対していくらかの管理を維持していた。普通、行政府 は免許を族長の同意のもとのみ発行した。族長はまた、営業時間の設定といった局地的な規制を作り、店の家賃を課し た。第二次世界大戦後まで、族長は穀物や家畜の販売といった問題について大きな発言権を持っていた。族長は、商人 のものを自分自身のためや彼の臣民のために必要とした。商人はかわりにその土地で商売をするために族長の支持を必 要とした。 競争の欠如と南アフリカとの交通費が高かったため、交易の規模は小さく値段は高かった。地域内の交易はほとんど なかった。独立前に、アフリカ人商人はほとんどいなかった。それは前述の通りの政府の規制と、事業を始める資金の 不足のためであった。かわりに、ツワナ人は牧畜産業に資金をつぎ込んだ。これが、なぜ独立当時のボツワナ経済が外 国人によって占められていたかのわけである。 移民労働者 植民地ベチュアナランドには、ほとんど雇用機会がなかった。だから、ツワナ人は移民労働者として、最初は主に税 を支払うための資金を稼ぐために、南アフリカへ行った。時がたつにつれ、ツワナ人はもっとヨーロッパ風のものを望 んだ。だから、物を買うための資金を稼ぐために、彼らは南アフリカの鉱山や農場で仕事を探した。植民地行政府は、 税収を得るために移民労働を奨励した。それはまた、南アフリカの鉱山に労働力が提供されることも望んだ。それらの 鉱山は、イギリス人資本家に所有されており、保護領政府もまたイギリス人だった。 1899 年には、行政府は労働力の募集を管理する法律を作り始めた。求人免許は労働力求人機構に売られた。1912 年 には1免許で 25 ポンドだった。この料金は政府収入になった。より多くの鉱山が開かれると労働力への競争は増した。 競争を避けるために、そして給料を低く押さえるために、鉱山会社は 1889 年に鉱山会議所を作り、そして次に 1896 年に地元労働者供給協会を労働者募集のために作った。この組織は大成功したとは言えなかったので、1900 年にはウィ ットウォータースランド地元労働者協会(WNLA)がそれにとって変わった。他の組織の、地元民求人公社(NRC)が、1912 年に結成された。これらの二つの組織は競争せず、お互い助け合った。WNLA が北で募集し、NRC が南で募集した。 結果として、多くのツワナ人が南アフリカ鉱山に働きにいった。 移民労働者制度はツワナ人にいくつかの不利益があった。 1. 好きな所で働くことができなかったので、労働者には低賃金しか支払われなかった。 2. 健康な男はベチュアナランドを去ったので、農業は老人と女性に残された。食料作物の生産は損害を受けた。 3. ツワナ人は自国を開発するかわりに南アフリカを開発した。 4. 夫婦が長い間分かれて生活したので、家族がときどき崩壊した。 5. 鉱山労働者は新しい病気を持ちかえり、部族に悪く影響した。 族長や行政府、鉱山所有者には利点もあった。 1. 族長は税金収入の一部を受け取った。だから、より多くツワナ人が鉱山に行けばより多く資金を族長が得た。 2. 行政府は税金と免許料金を通じて収入を得た。 3. 失業による社会不安が防がれた。 4. 鉱山は安い労働力を得た。これにより鉱山は高い利益をあげた。 5. 移民は自分たちもいくらかの金を得て家族のためにものを買い、牛を売らずに税金を払うことができた。 全体として、移民労働者制度は、ツワナ人を搾取したので、悪いものだった。アフリカ人の支配者すらもときどき彼 らの臣民を南アフリカに労働に出すのを止めた。これは、高い死亡率、人種差別、病気の治療のためだった。ほかの理 由として、移民労働者は部族の経済的・社会的生活を崩壊させたからだ。カーマ三世とリンチュウェ一世が移民労働者 を制限した族長の例である。 植民地時代の土地不足 南ローデシアのような白人植民者の多い植民地では、アフリカ人はほとんどの土地を失った。白人植民者はアフリカ 人の土地を、大きな農場を作るために使った。アフリカ人は、土地を去るか、残りたかったら白人農民のために働くか のどちらかを強いられた。農民は低賃金もしくは無賃金で働いた。アフリカ人は、ときどき、農場にとどまるためには 労働とともに金を支払わなければならなかった。これは極端な貧困と苦痛をもたらした。ボツワナでは白人植民者が少 なかったので、この状態は普通ではなかった。アフリカ人の土地はまあまあ広かったが、チュリ・ブロック、ハンツィ、 タチ地区のようないくつかのの白人地域では、土地不足と苦痛が起こっていた。 北東部(タチ)と南東部の人々は、植民者の土地強奪に苦しんだ。これらの地域でよい牧草地は白人植民者に所有され ていた。北東部の多くは、タチ会社に所有されていた。ハボロネやロバツェのような南東部では、チュリ・ブロックの ように BSACo に所有されていた。ほとんどの植民地期間を通じて、アフリカ人はそのような地域で土地を買うことは 121 許されなかった。自分の土地から来たり、そのような地域に住民として住んでいたりしたアフリカ人は、白人農民に労 働力を提供した。1867 年にタチで金が発見されると、多くの白人がその金を掘りに行った。金の産出が減り始めると、 多くの白人は農業をするか後から売るために、タチに土地を獲得した。 カランガ族は何世紀もの間、タチに住んでおり、クルーツェ族は 1940 年代からそこに住んでいた。ロベングラとカ ーマはまたその地域の所有を巡って争った。保護領が宣言されたとき、イギリス政府は、他の土地の一部を BSACo に 与えたように、タチ地区をタチ会社に与えた。タチはそれから保護領の一部になった。 1893 年の BSACo のンデベレ族に対する戦争によって、多くのカランガ族とクルーツェ族がタチ地区を去った。1894 年に彼らが帰ってきたとき、彼らは土地のない、タチ会社の臣民となった。タチ会社の支配はとても搾取的だった。そ の領地に住んでいた人は、税を払い、薪集めや他の形の労働を会社に提供した。彼らは会社の法律に従わなければなら なかった。この過酷な支配のため、多くのアフリカ人がその地域を去った。ングワト族の土地に戻ったものもいれば、 行政府がカランガ族住居のためにタチ会社から買った小さな地域のタチ保留地に行ったものもいた。その保留地は保護 領の役人と上のカランガ族集団に任命されたカランガ族の部落長が統治した。徐々にその小さな保留地は人でいっぱい になり、タチに戻り会社の住民になったものもいた。クルーツェ族は、1913 年にタチを去りングワト保留地にトノタ村 を設立した。他の多くは南アフリカに移民労働者として行ったり、セビナのような隣村へ行ったりした。 商業都市であるフランシスタウンは、タチ会社に所有され管理されていた。独立まで、フランシスタウンはタチ会社 とその白人住民のために奉仕した。すべての交易は彼らの手にあり、家や事業のための土地は白人のためにあった。ア フリカ人はブルータウンのような混雑した町に住んでいた。 タチの白人は、南ローデシアや南アフリカの植民者共同体の一部であると考えており、一般的に人種差別主義者だっ た。実際、50 年代から 60 年代にかけて、彼らはタチをローデシア・ニサヤランド連邦か南アフリカ連邦の一部にした がった。保護領政府はしかしながらこれを許さなかった。69 年には、独立ボツワナの政府がフランシスタウンと北東地 区のタチ会社の権利を終わらせた。長い間、土地がなく安い労働力をタチ会社に提供した後、アフリカ人は白人社会か ら自由になり、今は土地や財産を獲得できた。 ハンツィのコイサン人(サルワ人) ハンツィの農場が今世紀の初めにボーア人によって植民されたとき、その地域にはすでにいくつかのコイサン語族の 集団が住んでいた。ナロ、カウケイ、グウィなどの人たちである。これらの共同体は、ほとんど狩猟採集者として生き てきた。農民がフェンスを立てるにつれて、最初に野生動物が、それから野生食物が少なくなり始めた。コイサン人は 農民のために働かされるか、飢えるかのどちらかになった。 ハンツィのコイサンの歴史は、その定住がつい最近起こったことなので、よく知られている。ハンツィに起こったこ とは、遠い昔に多くのほかのボツワナで起こったことと似ているだろう。ガンベアリング田園の農民たちは、コイサン の狩猟採集者の住むこの地域に植民し、多くの野生動物を殺し、家畜が野生食物を食べることを許した。大きな違いは、 他の地域では、狩猟採集者はゆっくりと支配的な農業共同体に吸収されたことだ。ハンツィでは、白人の管理は速く行 われた。 122 第 29 章 保護領下での教育と保健衛生 ベチュアナランド保護領内での経済発展の比較的乏しかったのは、植民地政府の教育や保健衛生といった基本サービ スを植民地政府が無視したことと平行して起きていた。これを克服するために、ツワナ人の共同体は学校や病院を率先 して建設した。そのような自助率先の気性はツワナ人に独立後の進歩の基礎を与えた。 保護領下の教育 独立当時、ボツワナには教育された人はほとんどいなかった。これが、独立後の長い間ほとんどの重要職・上級職が 外国人によって行われていた理由である。イギリスは、アフリカの英植民地の中で最悪の教育システムを持っていたベ チュアナランドで、その発展のためにはほとんどなにもしなかった。かなり遅くまで、教育はほぼ完全に宣教師と部族 にゆだねられていた。われわれはすでに、ツワナ人にどれほど宣教師の教育が不足してきたかを見てきた。隣国のほか の教会の宣教師もまた、ロンドン宣教師協会(LMS)がベチュアナランドに高度な教育を提供することに失敗したことを 非難した。1862 年から 1904 年の間に LMS はおもに宗教教育に集中していた。結果として、もっと裕福なツワナ人は 子供たちを南アフリカのラブデールのような学校に送った。そのような批判に答えて、LMS は、フライブルグのそば のタイガークルーフに南アフリカの学校と競争する新しい産業大学を設立することを決めた。この学校は、建設や大工 といった実用的な科目とともに、学究的な科目も教えた。ングワト族はパラペに学校ができることを望み、校舎のため に古い教会の建物を提供した。コロベンにあるリビングストンの古い伝道基地を提案するものもいた。LMS はしかし ながら、そのような学校を、部族の土地ではなく、所有者のない土地に建てたかった。なぜなら彼らは、アフリカ人の 土地に学校を建てたときそれに対して完全な管理ができないかもしれないと恐れたからである。ベチュアナランドの外 に学校を建てたわけには、保護領がいつか南アフリカの一部になるだろうと信じられていたためかもしれない。 アングロ・ボーア戦争のために、新しい学校の開校は遅れたが、1904 年にタイガークルーフ大学は族長を代表してセ ベレ一世によってついに開かれた。自分の土地に学校を望んでいたカーマ三世は式典をボイコットし、ングワト族の生 徒をそこに送ることを拒否した。このボイコットはすぐに終わり、1906 年にカーマ三世は時計塔を買うために 120 ポ ンドを学校に寄付した。 タイガークルーフは実用的な科目を教え、最善の一般教育を行うことを狙いとしていた。タイガークルーフでの教育 の水準は、ラブデールやヒールドタウンと言った南アフリカの有名な学校と比べても高かった。それは、学術的、技術 的、そして教師訓練教育を行った。それはまた、よい小学校と、LMS の伝道者を訓練するための神学校も持っていた。 タイガークルーフは 1915 年まで女生徒の入学を許していなかった。これは女性の教育に対する否定的な姿勢を反映 していた。タイガークルーフで教育を受けた女性には、政治に関与する前に最初のツワナ人の教育局長になったハオシ ツウェ・チエペがいた。他には 1928 年から 31 年までタイガークルーフで教育を受けたエビネン女史もいた。彼女はカ ーマ記念学校で教え、80 年に退職した。本当に、女性は保護領中を通じて教育の発展に主要な役割を果たした。 初期には、タイガークルーフには問題があった。ツワナ人学生は、規則が厳しいと不平を言った。結局タイガークル ーフは有名になり、多くのツワナ人を教育した。その卒業生は、ボツワナで現在、教育・政治・商業・産業と言った分 野で重要な地位で働いている。 53 年には、南アフリカはアフリカ人だけに白人よりも劣った教育をするバンツー教育を導入した。タイガークルーフ は閉校し、LMS はベチュアナランドのオーツェにモエディン大学と言う新しい学校を設立した。モエディンという言 葉は以前ツワナ人がタイガークルーフをさして使った言葉だった。 教育改革とサーガントの勧告 1904 年までに、保護領行政府は教育に全く資金を使わなかった。行政府に資金援助によって伝道学校を助けることを 助言しはじめた政府役人もいた。ツワナ人もまた教育を無視する行政府を批判した。1904 年に行政府は保護領の教育制 度を調査するためにサーガントという男を任命した。彼はそれを改善するための勧告を作る指揮をした。 サーガントは高等弁務官の教育助言者だった。彼は、伝道学校は貧しい教育しか行っていないため、ツワナ人には人 気がないと結論付けた。彼は、あまりに宗教教育を強調することは、ツワナ人を不快にすると注記した。一方で、彼は バソエン、カーマ、セベレ、そしてカトラ族の中でセガル・ピラネによって立ち上げられた民族学校は人気があること を発見した。ツワナ人はまた、学校に対する管理が必要だとサーガントに語った。 クウェナ族とングワケーツェ族は彼らの地域の学校経営を助けるために、すでに学校委員会を導入していた。その狙 いは、宣教師の影響を減らし、自分たちの子供にどのような教育をしたいか自分たちで決めることである。学校委員会 制度は、のちに保護領全土で行政府によってコピーされた。当時、ザンベジ川より南でそのような制度を持っていた所 はどこにもなかった。これはツワナ人の教育行政に対する貢献だった。この制度により、ツワナ人は自分たちの指導者 123 を教育によって開発する機会を得た。一方で、これは保護領行政府に教育の発展を無視したいいわけを与えた。 サーガントが行った勧告の中で重要なものの 1 つに、政府は年次援助を与えることにより学校を助けるべきだ、とい ったものがあった。1904 年に最初の贈与の 500 ポンドが行われた。LMS はまたタイガークルーフへの年次贈与も受け 取った。他の宣教師団体も 1904 年のすぐあとに贈与を受け取ったが、それは充分ではなかった。贈与は教材などを買 うことだけに制限されていた。ほとんどの教育支出は教会と部族によって払われつづけた。 サーガント勧告によっていくつかの改善がなされた。より多くの実用科目が教えられた。学校委員会が形成され、学 校行政は改善された。これらの委員会により、政府、部族、宣教師が共同で教育を管理することができるようになった。 それぞれの委員会は、住民行政長官(後の地区委員長)を議長として、族長、地域の市民、住民宣教師を委員として構成 されていた。 委員会の主要職務は、教育問題について政府に助言することである。委員会はまた、学校経営のための年次財務推計 を算出する。委員会は、宣教師から学校の管理を取り上げ、新しい学校建設の計画をした。より良い学校の監督はまた サーガントの仕事から生れた。宣教師は学校を正しく監督することに失敗し、この失敗のためにングワケーツェ族は自 分たちの学校監督を 1920 年に初めて導入した部族となった。それは、学校を監督し、学校委員会に報告するために、 部族代表を任命した。クウェナ族が後にその例にしたがった。政府もまたこの制度を適用し、これらの役人を副監督官 と呼んだ。これが今日の教育官の元となっている。 徐々に国内の教育制度の運営に変化が導入された。 1928 年にダンブレルが全ベチュアナランドの学校監督官に任命さ れた。彼の最初の報告は、教育システムの運営に多くの改善は見られないというものだった。ツワナ人はまた、学校を 適切に支持することを失敗した政府に批判的だった。アフリカ人諮問協議会ベチュアナランド保護領アフリカ人教師連 盟は改善を要求した。これらの改善要求と、ダンブレル報告によって、教育諮問協議会が 31 年に結成された。それは、 政府、宣教師団体、部族の代表者で構成されていた。これは住民委員長が議長を務める全保護領単位の団体だった。 委員会は教育に関連する全ての重要な問題に責任を持った。これは、教育の政府管理と以前の学校委員会制度の改善 に向かって動いた。宣教師による管理はさらに減らされ、教育問題へのツワナ人の参加は委員会での代表によって大幅 に増えた。 教育の政府管理の発展の最終段階は、35 年の教育局の設置だった。ダンブレルが教育局長に任命され、彼の仕事はた くさんの教育官によって補佐された。局は全ての教育政策の策定と学校の監督に責任があった。 教育への資金拠出 学校への管理が増えたことで、政府は 1904 年に始まった贈与に加え、教育支出の方法を見つけなければならなくな った。 イギリスはこれ以上資金を使う意思はなかったので、 ツワナ人は自分自身で教育支出をしなければならなかった。 長い間、ツワナ人は自分たちの教育支出のために資金調達をしてきた。1919 年から行政府は現地民資金の一部をアフリ カ人教育のために使ってきた。後に、38 年に設置された部族金庫からの資金が、先生の給料、学校建設、教科書や備品 の購入に使われた。 教育課税の考えは、クウェナ族とングワケーツェ族から取り入れた。行政府はこの課税を全ての部族に拡大し、それ は全てのアフリカ人成人男性に課せられる人頭税の一部をなしていた。いくらかの資金は植民地開発福祉基金から来て いたが、これが第二次世界大戦後まで教育への主要な資金源だった。1938 年までに、131 のアフリカ人小学校で 15,000 人以上の生徒が教育を受けていた。 カトラ族民族学校 カトラ族民族学校または“毛布を集めた学校”(*訳注:現地語表現であり、正しい約かどうかはわからない。)に言 及するのは重要なことだ。その学校が作られたという事実は、ツワナ人が自助努力で彼らの子供たちのために教育を提 供しようとしたと言うことをあきらかに示している。カトラ族の例はおそらく K.T.モツェテやツェケディが後にツワナ 人のための中学校をはじめたことを勇気付けただろう。 カトラ族民族学校は、21 年から 29 年までカトラ族の摂政だったイサン・ピラネによって建てられた。族長リンチュ ウェ一世は、彼の息子たち、嫡子のカフェラとイサンをケープタウンのそばの英国学校ゾネブロエム大学へ、よい教育 を受けさせるために送った。彼は息子たちにその臣民の啓蒙的な指導者になって欲しかった。カフェラは 19 年に嫡子 のモレフィを残して亡くなった。20 年にリンチュウェ一世は脳溢血にかかり統治を続けられなくなった。モレフィは族 長になるには若すぎたので、イサンが 21 年に摂政になった。イサンは、教育を通して白人が持っている技能を彼の臣 民に学ぶことを望んでいた力のある統治者だった。彼はすぐに他のベチュアナランドの族長から尊敬を集め、アフリカ 人諮問協議会では彼が近代的な考えを持ちよい話し手だったので指導者とみなされた。 1918 年にイサンはモチュディのオランダ改革派教会(DRC)の宣教師と対立し、教会を去った。アモス・カマニャネ・ ピラネという若い教師と一緒に彼は独立教会をはじめようとした。彼の父は、新しい教会がカトラ族を分割するかもし れないと恐れこれを禁止した。イサンはそれから DRC に再び戻った。 124 イサンが DRC と絶縁したのは、部分的には彼らがカトラ族に提供する教育を軽蔑したからである。そこには 6 年生 まで教えるたった一つの DRC の小学校があっただけだった。算術のような実用的な科目は、宣教師によって俗なもの だとみなされていたので教えられなかった。カトラ族は宣教師教育に満足していなかった。 摂政として、イサンは自分の部族の自助で民族学校を建てることを決めた。彼は政府の援助を期待したが、ほとんど の費用を彼の臣民が支払った。イサンは学校の建設を監督した。学校は英語や算術などカトラ族が望む科目を 6 年生ま で教えた。 カトラ族は学校を作るのに自分自身に頼った。男性も女性も一緒に学校を作った。イサンの年齢階梯部隊であるマチ ェチェレに所属する全ての男は学校のために 5 シリングずつ払った。学校は丘の上に建てられ、男も女もレンガと他の 資材を丘の上まで運ばなければならなかった。大工のために水を運んだ女性もいた。大工はまた校舎も立てた。 学校は 23 年に完成し、高等弁務官により開校された。そこでは少年も少女も教えられた。その最初の校長は、モル ティ・スティースマだった。彼のために作られた家は後に盲学校になった。当時、カトラ族民族学校は、8 つの教室と 講堂を持ち、ベチュアナランドの中で最大のものだった。現在、 “毛布を集めた博物館”(*上記訳注参照)が校舎に入っ ている。 小学校卒業 小学校卒業後 卒業後の教育 40 年代まで、6 年生までの初等教育だけがベチュアナランドで行われていた。政府は学校を一つも運営していなかっ た。南アフリカや南ローデシアで教育を受けているツワナ人の数が多いことでも示されているように高等教育の必要性 は大きかった。これは初等教育後の教育を提供する初期の試みにつながった。 K.T.モツェテの試み カルマン・トゥメディショ・モツェテ(1899~1975)は、王家以外のツワナ人で高い教育を受けた一人である。彼はタ ラオテ族(カランガ起源)で、セロウェで生れた。彼は奨学金を獲得し、ロンドンの大学に入学した。そこで彼は、神学、 音楽、芸術の 3 つの学位を取得した。彼は当時ベチュアナランドに住んでいたツワナ人の中で最も高い教育を受けてい た。権力を脅かすことになるとして教育を受けたングワト族に批判的だったツェケディ・カーマと不和になったあと、 モツェテは 31 年にタイガークルーフスクールへ行ってそこで教えた。すぐに彼は少年のための産業寄宿学校設立のた めにベチュアナランドに戻った。南ローデシアとベチュアナランドのカランガ族は同じカランガ人として、そのような 学校をおもにカランガ族の若者を教えるために始めて欲しいと頼んだ。他の従属的な部族のようにカランガ族も小学校 よりも上で勉強する機会はほとんどなかった。そのような学校は、少年たちが、南アフリカや南ローデシアに行くこと なく、ベチュアナランドで勉強することができるようになる。 32 年に彼は最初の中学校をツェセベのそばのニェウェレで始めた。名前はタチ訓練学校だった。それはイサンのもの と同じように自助計画であり、小学校を卒業した生徒が入学を許された。カランガの共同体が学校建設を手伝った。カ ンスワジ族が大きな家を作るために柱を切り、他の人々が資金調達のために牛や穀物を寄付した。 この計画は外部からも助けを得た。35 年にアメリカのカーネギー社は 5 年間にわたって 1 年 5,000 ドルを寄付した。 このおかげで、学校は親が支払うことができる手頃な学費で済ますことができた。イギリスのいくつかの組織からもい くらかの寄贈があった。学校は 38 年に医療施設に近くなるようにフランシスタウンに移った。 この学校の狙いは • 地元の“やぶの中小学校”のための教師を育てること。 • 簿記やタイピングといった商業科目を提供すること。 • 南アフリカの下級卒業資格のために必要とされる中学教育科目を教えること。 モツェテはツワナ人に学術的訓練と同じように堅実な実用的訓練も行いたかった。学校の科目は農業を主要な科目と して教えていた。最初、学校は成功した。多くの生徒が入学し、おもに南アフリカから資格のある教師がやってきた。 しかしながら、学校にはすぐにたくさんの政治的・金融的問題が起こった。おそらくモツェテやさまざまなカランガ族 特にカンスワチ族との反目のために、 ツェケディは学校に反対だった。 学校の創立者とその支持者は彼の敵だったので、 ツェケディは学校が政治的狙いを持っていると考えたようだ。彼は、教育されたカランガ族がジョン・ンスワチのよう に彼の統治に反対することをあきらかに恐れていた。 いくつかの部族の族長は、しかしながらタチ学校を支持した。37 年には、アフリカ人諮問協議会のクウェナ族とカト ラ族の族長から学校に対する支援が届いた。彼らは、行政府が学校に資金贈与を行い、族長の息子たちを政府の支出に よりその学校で学ばせることを主張した。 ついに、政府は、学校への援助を断ることによりツェケディを支持し、そのためタチ学校はすぐに財務危機を経験し た。38 年に教育局長は学校を格下げし、閉校するよう勧告した。戦争のために資金は欠乏し 42 年に学校は閉じられた。 タチ訓練学校の設立は、多くの後退にもかかわらず、ツワナ人が自分の力に頼ってその子供たちに教育を供給したと いう例だった。短い期間だったが、モツェテの学校は多くを成し遂げた。39 年までに 322 人の卒業生が出て、彼らの 125 多くはベチュアナランドの外で先生になった。運転手や店番、警察、店員、法廷通訳などの仕事につくものもいた。カ ランガ族の多くの将来の政治的指導者はモツェテに教えを受けた。学校が閉じたあとも、モツェテは教育者としてベチ ュアナランドの発展に寄与しつづけ、後に政治家となった。 初期のローマカトリックの試み ローマカトリック教会も中学校を作る初期の試みを行ったが、それも失敗した。34 年カトリック教徒は、カリ丘のそ ばの森林ヶ丘農場で農業学校を始めた。学校は、国が利益を稼ぐことができる家畜産業を改善するので、政府の支持が あった。学校は自助のツワナ人農民を作ることを狙いとしていた。彼らは、学術的科目とともに灌漑や獣医といった農 業技術を教えた。驚くことにこの学校には部族からの支持がなく、生徒がほとんどいなかった。これは、各部族はすで にそれぞれ自分の好みの LMS のような教会を持っていたので、部族はカトリックを支持しなかったようだ。この学校 は 40 年に閉校した。 数年後、カトリックは中学校を作るのにもっと成功した。カトリック教会は会員の子供たちが、他の教会や非教会の 学校に行くことを望まなかった。これは、自分たちの支持者が他の宗教に影響されることを望まなかったためである。 このために、カトリック教会はいつも自分たちの教育機関を世界中でたてている。 44 年カトリック教会は、カレヒルのそばにセントジョセフス大学を開いた。この学校は中等教育、そして後に商業訓 練を提供した。これがベチュアナランドで最初の成功した中学校だった。それはすばやく有名になった。なぜなら、そ れはよい学術的そして実際的な教育を提供したからである。 モエン大学 ツワナ人の自助の精神の一つの偉大な例は、モエン大学の建設である。この学校は、全てツェケディに率いられたン グワト族の努力によって建てられた。ツェケディは 34 年にセロウェに中等産業学校を建てることを提案した。第二次 世界大戦の勃発はその学校の建設を妨げた。ツェケディは、その前のモツェテのように、ベチュアナランドの発展のた めの人材を供給する学校が欲しかった。彼は、南アフリカの学校は、人種主義のため、アフリカ人に全ての必要な技術 を教えていないと感じていた。 戦後、政府はツェケディのモエン建設計画に同意した。ツェケディは、あきらかにそこを愛しよく訪れた彼の父カー マ三世の思い出により、モエン峡谷を学校の場所として選んだ。ここを選んだほかの重要な理由としては、ここには大 量の水があったことがある。48 年に学校建設は始まった。特別課税によって、ングワト族は 10 万ポンドを計画のため に調達した。村落単位を通じて牛や労働力で貢献する人もいた。建設は、セレツェの結婚についての議論で中断された。 51 年にモエンはついに開校したが、それは民族学校だったのでングワト族の生徒に限られていた。実際にここはングワ ト族大学と呼ばれ、この段階ではングワト族の管理下にあった。56 年に政府がその管理を譲り受け、全てのツワナ人に 開いた。50 年代にカトラ族、クウェナ族、ングワケーツェ族もそれぞれ自分たちの部族中学校を始めた。それらの学校 は全て、訓練された教師と設備を買う資金の不足に悩まされていた。55 年までに、初等後教育学校は全て中学校になっ た。その年に 4 年制、5 年制の授業が導入された。64 年までに、8 つの中学校のうち 4 つだけが、39 人の生徒のために 5 年制の授業を行っていた。これにより、独立当時になぜそれ程訓練された人材が不足していたか分かる。 政府の初等後教育学校 植民地政府は 65 年にハボロネ中学が開かれるまではどんな中等教育も行っていなかった。これは独立以前に立てら れたただ一つの中学校だった。政府はセロウェとカンエで 40 年に開かれた教師訓練学校を運営していた。これは、教 育局が初等教育の水準改善に望んでいた一つの方法である。 看護婦と男性病院用務員のために信認された職業訓練所が、 45 年からセロウェ、マウン、フランシスタウンの政府病院で、そして後には中学校と農業者のための教師を訓練してい たスワジランドのバストランド・ベチュアナランド・スワジランド大学(UBBS)で、提供されるようになった。 大学教育 長い間、ツワナ人は大学教育のためには、普通南アフリカのフォートハレだが、外国へ行かなければならなかった。 植民地政府は、フォートハレがツワナ人を受け入れていたので、多少の贈与を行っていた。しかし 52 年から南アフリ カ政府はツワナ人がフォートハレに入学することを妨げるようになった。アパルトヘイト政策の一部としてのバンツー 教育法の導入もまた、ツワナ人が南アフリカで勉強することをくじけさせた。高等弁務官領域はそのため、自分たちの 大学を始めることに決めた。 46 年に、ローマカトリック教会はレソトのロマでピウス 12 世大学を始めた。最初、この大学は南アフリカ大学 (UNISA)に与えられた学位を授与していた。64 年にカトリック教会とイギリス政府は、高等弁務官領での第三段階教育 を供給するためにピウス 12 世大学を UBBS に変えることに同意した。66 年にボツワナとレソトは独立し大学名もボツ ワナ・レソト・スワジランド大学(UBLS)に変わった。67 年に UBLS は自分で学位を授与し始めた。三つの独立国政府 126 は、大学の運営費を平等に負担した。ボツワナには今では自分の大学がハボロネにある。 健康 政府が、その国民が一生懸命働き、国を発展させることを確保する一つの方法に、健康保健を与えることがある。健 康保健は、人々が健康で仕事に適応できるようにする。にもかかわらず、植民地時代には、健康保健は一番無視されて きた分野であった。当時のほとんど全ての健康保健は宣教師によってなされていた。 モレポローレ、モチュディ、カンエ、マウンといった最初の病院は宣教師によって始められた。再臨 7 日目宣教師会 は最初の看護婦訓練センターを作った。教育のように、アフリカ人の健康が白人のそれよりも悪いとしても、政府は白 人によりよい設備を供給した。60 年には国中で 16 人しか医者がおらず、大きな村以外には病院や健康センター、クリ ニックといったものもなかった。この大きな理由は、ベチュアナランドには産業がなかったことがある。植民地世界で は、健康な労働者がより多くのものを生産しそれはより多くの利益をもたらすということで、政府や会社はふつう労働 者のために療養所や病院を作った。多くのツワナ人は健康管理のために南アフリカやローデシアに行かなければならな かった。 127 第 30 章 いくつかの重要な事件 20 世紀の保護領に影響した最も重要な事件には、二度の世界大戦とングワトの族長セレツェ・カーマのルース・ウィ リアムスとの結婚によって生じた政治闘争が上げられる。 これらの事件はいずれも、 ボツワナ人が自分たちを見る目を、 より広い世界の一部とみなすように変えた。それはまた、世界中の多くの人々の、ボツワナ人を見る目を変えた。保護 領内外の人々の間で、領域を形成しているさまざまな共同体が統一し、前向きな国として、世界の他の独立国の間で、 いつか正しい場所を占めるだろうという信念が成長し始めた。 第一次世界大戦 1914 年から 18 年の間にヨーロッパの大国間で大きな戦争が戦われた。片方には、ドイツ・オーストリアハンガリー そしてトルコの各帝国、もう片方にはイギリス・フランス・イタリア・ロシアそして後に日本とアメリカも参加した。当時 これらの国の多くは植民地を支配しており、その植民地はそれゆえに戦争にまきこまれた。英帝国内の(少なくとも白人 にとっての)自治国として南アフリカ連邦はドイツとその同盟国に対する戦争に参加する事に決めた。ベチュアナランド のような非自治植民地は、自動的にイギリスの戦争を支持するよう求められた。 南部アフリカのアフリカ人の多くはその戦争でイギリスを支持する意思を持っていた。イギリスがその替わりに白人 住民の抑圧への反対を支持してくれるだろうと期待した。このために、南アフリカの指導的黒人政治運動である原住民 (後にアフリカ)民族会議は、イギリスのための闘いにアフリカ人を募集した。多くの保護領の族長達、特にリンチュウ ェ一世、シーパピーツォ二世(バソエン一世の息子)、セチェレ二世(セベレ一世の息子)は、戦後に保護領から連邦に変更 させないようにそのイギリスへの忠誠心を示そうとした。それらの 3 人の族長は、自分たちの臣民をイギリスの戦争の 兵隊として拠出することに特に熱心だった。 ボツワナはイギリスのためにドイツ領南西アフリカ(ナミビア)、フランス、そしてときには東アフリカで戦った。皮 肉なことに、多くの闘いでその政府を彼らが見下していた南アフリカ軍の一員だった。約 555 人の保護領からのツワナ 人が南アフリカ軍の原住民勤労軍団に編入され、フランスへいった。それらの義勇兵は、ングワケーツェ族・カトラ族・ クウェナ族・レテ族・トロカ族そしてタチ地区からのカランガ族からなっていた。彼らの中には、後にセベレ二世となっ たセチェレ二世の長男のように王家の人も含まれていた。つまり王家も平民も共に勤めたのだ。 白人南アフリカ人上官による人種差別にアフリカ人が反抗したとき、原住民勤労分隊は引き上げられた。職務中以外 は、黒人南アフリカ部隊は戦時捕虜キャンプとして設計された建物に閉じ込められた。これはたいへんな苦しみを引き 起こした。実に、戦後ほとんどのクウェナ族の部隊が勲章を受け取るのを拒否したのである。 他にも 405 人のカトラ族とレテ族が南西アフリカの南アフリカ人とともに勤務した。ほかにはほとんどのタワナ族と ヘレロ族は、ベチュアナランド保護領警察とローデシア警察と共同で、ドイツからカプリビストリップを攻め取り、守 った。14 年の 11 月にストリップはベチュアナランド住民委員長の支配下に置かれた。そこは南西アフリカに再び統合 された 30 年まで保護領の一部として統治されつづけた。 南アフリカのボーア人の中には、ドイツ軍に参加して彼らの旧敵であるイギリス人と戦ったものもいる。14 年の 12 月にそれらの反乱軍の大きなものがハングワケーツェに入ってきた。しかしながら、15 年の1月 1 日に彼らはシーパピ ーツォ二世に囲まれ、降伏した。これが保護領内で起こったただ 1 つの大きな戦争の事件だった。 多くの族長達の中で、カーマ三世だけが戦争に兵隊を送ることを拒否した。これは、1893 年のンデベレ族に対する戦 争での軍隊参加の悪い思い出によるものか、あるいはもっと最近の彼自身とイギリスとの彼の成功した商店の閉店問題 での争いによるものかであるかもしれない。彼と他のングワト族は、しかしながら、他の部族と同じようにイギリスの 戦争に対して資金拠出をした。 第二次世界大戦 第一次世界大戦が終わったとき、将来は戦争よりも平和的な手段を不一致の解決に用いるために、交戦国は国際連盟 を結成することに合意した。 しかしドイツは自分のものだと思っていた領土を失ったままだったので不満が残っていた。 33 年にアドルフ・ヒトラーがドイツの支配者になった。その後彼は彼の国と他のヨーロッパを第二次世界大戦へと導い た。人種主義者のヒトラーは、ドイツ人は優越人種で支配的人種として他を支配するに値するのだと信じていた。彼は 新世界秩序を信じていた。それは、彼が劣等人種とみなしている、ユダヤ人、ポーランド人やロシア人といった多くの ヨーロッパ人、そして色のついた全ての人々は、ヨーロッパとアフリカを支配するであろう大ドイツ帝国の奴隷となる ことである。南部アフリカでは、彼はその人種主義的ビジョンと英帝国への憎悪を共有するアフリカーナー(ボーア人の 子孫)を支持した。 ドイツの同盟国イタリアと日本もまたその帝国を広げようとした。イタリアは地中海と北アフリカに、そして日本は 128 極東に帝国を望んだ。これらの二つの国々はドイツと組んで、領土を得るための戦争を自由に行えるように国際連盟を 破壊した。 第二次世界大戦は 39 年から 45 年の間に行われた。多くのヨーロッパの国々は、ロシア、アメリカ、中国などと共に、 ドイツ、イタリア、日本そして他の小さな同盟国と戦った。戦争は、ドイツとその同盟国がヨーロッパや世界の他の部 分を征服することを止めるために行われた。 第一次世界大戦のときのように、ヨーロッパの国々は、戦い、食糧・資金・他の資材を供給するように植民地を戦争 に巻き込んだ。多くの場合、植民地の人々は戦争に参加するよう強制された。彼らの多くは、それは白人の戦争であり、 自分たちは参加したくないと考えていた。これが、宗主国が植民地の状況を改善しようとし始めた理由の 1 つかもしれ ない。彼らは忠誠心を促進し、反乱を避けたかった。 第二次世界大戦が始まったとき、指導的族長達はまたイギリスを助ける準備をした。39 年の 9 月、住民委員長のアー デン・クラークは、族長達に、イギリスはドイツに対して宣戦布告したことを知らせ、彼らにイギリスに対して忠義を 尽くし続けるよう頼んだ。族長たちは、その支持と忠誠を言明した。 最初、イギリスはツワナ人に戦争の前線に行くことは頼まなかった。替わりにツワナ人は、自給できるよう充分な食 糧を育てることを促された。イギリスは、資金が戦争のために必要だったので、救援贈与を与えつづけようとはしなか った。イギリスは、族長達にそれぞれの保留地での警察の仕事を引き継ぐよう頼んだ。ベチュアナランド保護領警察は、 鉄道と電信線を反イギリスのアフリカーナーによる治安妨害に備えて、警備させる必要があったからである。 族長達は、しかしながら、兵隊を送ることにより直接戦争に関与することを望んだ。40 年 12 月にツェケディに主導 された族長達は、イギリス軍に参加するベチュアナランド保護領軍事勤労団体の結成を要求した。彼らは、ツワナ人が 戦争に参加することを提案したのである。 なぜ族長達はそうしたのか?イギリスのために戦うことに熱心だったもっとも大きな理由は、もしイギリスを助けれ ばベチュアナランドが南アフリカ連邦に譲渡されることはないだろうと信じたからである。 それは別の国だと認識され、 永遠にそうなるだろう。 行政府は提案を断り、第一次世界大戦のときのようにボツワナ人に南アフリカ連邦防衛軍に参加するよう頼んだ。ツ ワナ人は、イギリス軍に参加するのであって南アフリカ軍にではないと主張し、これを断った。彼らは、イギリス領ベ チュアナランド保護領の代表として戦争に参加することを望んだ。彼らは南アフリカの一部ではなくまたそうなるつも りもなかった。彼らは、南アフリカがツワナ人の犠牲によって面目を施すことも望まなかった。ベチュアナランドが利 益を得るべきだからである。彼らはまた、第一次世界大戦のときのようにツワナ人が南アフリカの白人に虐待されるの ではないか、とも恐れた。 まもなく、イギリスはヨーロッパ・中東・北アフリカの戦争地帯で、労働力が必要であると分かった。冬には、これ らの地域の中には極端に寒くなる所もあった。そこで、熱帯地域以外のアフリカ人だけがそこで働くことができると信 じられた。そこで、亜熱帯南部アフリカにあることから高等弁務官領域で採用をすることに決めた。 ベチュアナランドでは、行政府はアフリカ人諮問協議会を通じて族長達に兵士を提供するよう頼んだ。族長達はツェ ケディの以前の要求を繰り返し、南アフリカ防衛軍に加わることを拒否しつづけた。イギリスはついにソト人やスワジ 人と同じくボツワナ人も別の集団として戦うことに同意した。これを受けて族長達は戦争に送る人を集めだした。 行政府は兵士を集めるのに強制力は用いないと規定した。これは反乱を避けるためでもあり、またどんな場合でも義 勇兵は普通徴用兵よりもよく戦ったからだ。全部合わせるとベチュアナランドでは 24 の部隊に分けられた 10,000 人を 少し超える兵士が集められた。部族はその人口に応じて兵士を提供した。ングワト族が一番多く出し、続いてクェナ族、 ングワケーツェ族、タワナ族、タチ地区住人、ロロン族、レテ族そしてトロクヮ族となった。最後の二つの集団は数が 少なかったので、1 つの部隊にまとめられた。ベチュアナランドの部隊は、バストランドとスワジランドからの部隊と ともにアフリカ予備工兵隊(AAPC)を組織した。ベチュアナランド分団は、海外に送られる前にロバツェのキャンプで 訓練を受けた。全ての部族長と、多くのボツワナ人が戦争を支持したが、支持しなかった人たちもいた。これはこれら が臆病だったからではない。 結局彼らの祖先は過去にコロロ族やンデベレ族そしてトランスヴァールのボーア人と戦い、 またイギリス人の側でアングロ・ボーア戦争(1899~1902)や第一次世界大戦を戦った。彼らの戦争への躊躇は、多くの 応募兵が家から遠く離れた白人のための戦争をしなければならないことに同意していなかったためだった。彼らはその ような戦争を望まなかった。イギリス政府が保護領の発展を無視し、南アフリカや南ローデシアでアフリカ人を裏切っ たことに不満だった。だからなぜ彼らは戦わなければいけなかったのか?多くは南アフリカの鉱山や農場に移民し、丘 や離れた所に隠れたものもいた。 行政府が強制力を使わないようにしたことに対し、人々はしばしば部族長によって AAPC に参加することを強制され た。戦争への抵抗は特に従属部族の間で普通だった。たとえば、多くのカランガ族はツェケディの人の要求に従うこと を断ったし、ハバネでは地元のレテ族はクウェナ族長カリの募集者に石を投げて追い払った。多くは求人のための部族 会議に出席することを断った。例えば、バソエン二世はマレタモーツェ連隊の 158 人のメンバーを募集のために部族会 議に呼んだが、5 人しか来なかった。残りは強制的に出席させられた。軍への参加を拒絶したものは鞭打たれた。行政 府は、南アフリカの鉱山に働きに出ることを一時的に止めさせて軍に参加することも強制した。南アフリカに逃げたも 129 のの中には、どのようにツワナ人が AAPC に参加することを強制されたかを新聞に書いたものもいた。 しかし、他のツワナ人は強制されることなく AAPC に参加した。全体的には、10,000 人の AAPC に参加したツワナ 人は、中東、北アフリカ・イタリアでたいへん勇敢に戦った。対空砲の操縦など熟練した仕事についたものもいた。10,000 人のうち 210 人が活動中かそのほかの理由で死に、637 人がけがをするか障害を負った。46 年には、15 人のツワナ人 が、ヒトラーを打ち負かした記念の凱旋行進に参加した。戦争で死んだツワナ人を顕してハボロネに記念碑が立てられ た。 戦争のツワナ人への影響 ツワナ人は戦争に兵士として貢献しただけではなく、食料と資金も提供した。行政府と部族長たちは、食料生産のた めに、人々に族長の土地で働くようにさせた。これらの畑は”戦争の土地”として知られるようになった。全ての部族は このように食糧を供給し、人々はときにはこのような土地で働かされた。”戦争の土地”で働くことを拒否した人たちは 自分の土地で取れる穀物を持っていた。穀物倉庫は全ての主要な村に建てられた。戦争に資金を拠出するために売られ た穀物もあった。 人々は”戦争の土地”で働き、また多くが AAPC に参加したり、南アフリカで働いたりしたために、家族の土地の食料 生産は落ち、多くの家族が苦しんだ。42 年から 43 年の間に政府は 78,565 袋のメイズを南アフリカから輸入し、人々 を養った。47 年まで穀物は輸入に頼らなければならなかった。 “戦争の土地”政策には抵抗があった。人々は種はまいたが草取りはしっかりせず、穀物を食べる鳥を放っておいた。 トロクヮ族、レテ族、そしてマハラペの人々は”戦争の土地”を耕すことを全く拒否した。彼らは替わりに現金を払った り、自分の土地からの穀物を出したりした。戦争課税が 41 年に導入された。ツワナ人の納税者や財産所有者、牛の所 有者そしてその他の人はこの特別税を払うことを強制され、その多くは牛で支払われた。戦時中に全部で 89,000 ポン ドがこのようにして集められた。この課税は多くのツワナ人、特に小さな牛の所有者を窮乏させた。ベチュアナランド の行政や戦争のために、自発的戦争基金のような多くのほかの拠出も、導入され、支払われた。 戦争の間、イギリスは保護領にその運営のための資金を贈与しようとはしなかった。ツワナ人は支払わなければなら ず、さらに資金をイギリスに送らなければならなかった。ングワト族だけで 5,200 ポンド、全体では 13,000 ポンドが 拠出された。この資金はイギリスが二機の戦闘機を買うのを助けた。その飛行機はツワナ人に敬意を表してベチュアナ ランドとカラハリと名づけられた。集められた金のいくらかは、ベチュアナランド兵士給付基金に注入され、戦後に戻 ってきた兵士の世話に使われた。 その人口比によると、 ベチュアナランド保護領は他のどのアフリカ英植民地よりも戦争に兵隊と資金を拠出していた。 例えば東アフリカ植民地のケニヤとウガンダはあわせて約 1400 万人の人口で 28 部隊を拠出した。ベチュアナランドは それだけでおよそ 40 万人の人口で 24 部隊を提供した。 家に残った人々が苦しんだ一方で、AAPC に参加した兵士たちもまた困難に直面した。彼らは、橋や道路の建設、危 険な夜間警備といった厳しい仕事をした。イタリアの気候は、しばしば湿って寒く、その結果として結核にかかったも のもいた。兵士は家族を懐かしんだ。彼らはまた、白人兵士による人種差別に苦しめられた。ングワト族の兵士はツェ ケディが訪れたときに、仲間の黒人兵士の遺体が他の場所に埋めなおすために白人兵士のための墓地から掘り出された ことに不平を言った。彼らは、黒人と白人の兵士は並んで戦いともに死んだのに、なぜ彼らは別々の墓場に埋められな ければならないのか、と言った。 しかしながら、兵士たちはまた、いくらかの有益で喜ばしい経験もした。彼らは、世界中から集まった全ての人種と 会い、交わった。彼らはまた、人種主義南部アフリカでは許されていなかった、女性を含むヨーロッパの白人と仲良く なることができた。人種的事件は起きたが、全体的な人種に対する態度はヨーロッパのほうがよかった。一人のツワナ 人の兵隊はその経験をこう記している。黒人は白人に混じることができる。まるで彼らが黒人どうし、またはその逆で あるように。ボーア人でさえも戦争では違う人たちだ。 ツワナ人兵士は、とくに大陸のほかの地域からきたアフリカ人に会い、その経験を分かち合うことを大切にした。多 くは、同じようにドイツに対する戦争を戦っていたアメリカや西インドからきた黒人に魅了された。 ツワナ人兵士は新しい技術を身につけた。機関の仕組、運転、大工職、建築、導管敷設そして橋の建設などである。 これらを得るために読み書きを習ったものもいた。彼らは新聞を読む習慣を身につけた。戦争によって、ツワナ語とス ワジ語で印刷された”象”という新聞が発刊された。44 年にそれは 64 年まで続く”ツワナ人の星”に変わり、その後に政 府のニュース紙である”インサイドボツワナ”に、さらに後には”デイリーニュース/今日の出来事”になった。 第二次世界大戦は、ベチュアナランドの未来に役立つ他の影響ももたらした。ツワナ人はあちこちの植民地の人々、 特にアフリカ人、 アフリカ系アメリカ人、 それからツワナ人を含むアフリカ人を勇気付けてくれる同情的な白人に会い、 自由のために団結した。戦後にフィリップ・マタンテやアモス・ダンベといった元兵士は独立へと続く民族主義政治の 発展に重要な役割を果たした。 130 セレツェ・カーマの結婚 48 年 9 月 29 日のセレツェ・カーマとイギリス人女性ルース・ウィリアムスの結婚は、ングワト族と保護領全土に大 きな影響を及ぼした。43 年の宣言によるツワナ人と行政府の平和と協力関係は、乱された。混乱の主な原因は結婚それ 自体ではなく、イギリス政府の問題の扱い方だった。スワジ事件の後、ツェケディはモエン大学を建てるために落着い た。彼の甥のセレツェは、ツェケディが育てたのだが、ロンドンで法律を学んでいた。彼はまたフォートハレとオック スフォード大学で学んだ。 ツェケディはセレツェになるべく早く帰ってきてングワト族を統治して欲しいと考えていた。 突然、48 年にセレツェはルース・ウィリアムスと結婚したいと知らせる手紙を受け取った。ツェケディはングワト族の 法と習慣の強い守護者で、それに従うと族長の妻は部族によって選ばれなければならないとなっていた。普通、族長の 妻は王家の出身で、ツワナ人でなければならなかった。支配者がツワナ人の集団外の人と結婚するのは普通ではなかっ た。アフリカ人であっても、ツワナ系に属していなければ普通受け入れられなかった。ツェケディはセレツェの結婚は この習慣と慣例にあっていないと感じた。彼は、それゆえに、それが部族と部族政治に悪く影響するとの恐れを抱いて 強く反対した。これが反対の大きな理由だったが、ルース・ウィリアムスの人種も彼の反対の一部をなしていた。 セレツェはツェケディの反対にも関わらずルースと結婚した。ツェケディは結婚を終わらせるために可能な手段を全 て使った。彼は、もしこれが失敗すれば、セレツェとルースの子供がングワト族の部族政治の相続人になることを妨害 するだろうといった。彼は、セレツェが族長であることをまだ認めているといった。だから、ツェケディが結婚を拒絶 していないことは明らかだった。 4 日間続いた部族会議では、最初、多くの部族は結婚を拒絶するツェケディを支持していた。セレツェは別の部族会 議を要求した。そこでは、セレツェが習慣にしたがって結婚しなかったことを謝罪したあとに何人かのングワト族は彼 を支持した。彼はそこの人々にもし彼らが自分を支持しないのならば、彼らは自分を失うだろうと言った。ングワト族 は自分たちの正当な族長を失いたくなかった。部族会議の支持を受けた後、ツェケディは行政府に結婚に対して行動を とるように求めたが、彼らはなにもしなかった。彼はそれゆえに 49 年 6 月に別の部族会議を召集して行政府にングワ ト族は行動を望んでいると示した。 6 月の会議では、未来の族長を失うことを恐れたので、多数がセレツェを支持した。ツェケディが部族政治を望んで いると疑うものもおそらくいた。ングワト族の習慣によれば、問題はそこで終わるはずだった。部族の多数は今やルー ス・ウィリアムスを族長の妻として受け入れたのだ。しかしツェケディは反対しつづけ、これでは終わらなかった。6 月の部族会議で負けたあと、彼とその支持者はングワト族の土地を出てクウェナ族の所に住んだ。バソエン二世は、セ レツェの結婚はングワト族の部族政治を破壊すると信じていたので、ツェケディを支持した。彼もまた、ツワナの習慣 の強い支持者だった。 レソトやスワジランドといった、外国の支配者たちも、アフリカの伝統を守るためにツェケディを支持した。ツェケ ディはまたイギリス政府から強い支持を受けた。彼らの支持は、ングワト族の習慣に敬意を払ってのものではなく、む しろ南部アフリカの民族主義によるものであった。 南ローデシアと南アフリカのほとんどの白人はこの結婚に反対した。 彼らは、その結婚は彼らの国のアフリカ人が白人と結婚したいと思わせるのではないかと推測した。これらの国では、 ひどい人種差別を実施していた。保護領内の白人にもまた、結婚の考えに反対するものがいた。 イギリスは、南ローデシアと、特に南アフリカを怒らせたくなかった。イギリスは南アフリカでたくさんの事業をし ており、そこの白人政府を怒らせたくなかった。イギリスは、もしセレツェが族長になれば、南アフリカが英連邦を去 るのではないかと恐れていた。これは、イギリスの会社によって管理されている金の採鉱など、イギリスの経済的利益 に害を与えるかもしれなかった。もしセレツェが族長と認められれば、南アフリカが保護領との貿易を中断すると恐れ るものもいた。 イギリスは、公にはしなかったが、南部アフリカ白人の反対のために、セレツェの結婚に反対だった。彼らは偽りに も南アフリカや南ローデシアの態度は結婚問題とは何の関係もないと述べた。かわりに、彼らは、結婚がングワト族を 分断しベチュアナランドの平和を乱す恐れがあるので反対だといった。見てきたように、ほとんどのングワト人は結婚 を受け入れたが、イギリスは拒絶を続けた。イギリスの反対が実際には平和を乱したのである。イギリスは今では、彼 が族長にふさわしくないという事を見せることにより、セレツェを南部アフリカから取り除くことを望んだ。 ハリジン委員会 49 年に、イギリス政府は高等弁務官領の最高判事であるウォルター・ハリジンを議長とする委員会を任命した。彼ら は、委員会が次の二つのことを示すよう期待した。 a) セレツェがツェケディに勝利した 49 年 6 月の部族会議は、セレツェを族長と認識するにあたってツワナの法 にしたがって行われなかった。 b) セレツェが族長に”ふさわしく適当な人物”ではない 委員会の報告はイギリス政府を失望させた。委員会は 6 月の会議は正しく行われ、セレツェが族長になるのに”ふさわ しく適当な人物”である、と言うことだった。委員会はさらに、セレツェを族長に認めないたった 1 つの理由は、南ロー 131 デシアと南アフリカの政府の反対である、と述べた。 イギリス政府の欺瞞性が明らかになった。最初から、彼らは世界に、セレツェの結婚についての議論への南ローデシ アと南アフリカの不関与という嘘をついていたのだ。いま、ハリジンが真実を明らかにした。真実を隠すために、イギ リス政府はハリジン報告を公表しなかった。それは 81 年までふせられ、そのときについに公表された。 セレツェの追放 セレツェは、彼の弁護士フランケルとゲリックを通して、行政府に彼を族長につかせるよう頼んだ。それをする代わ りに、50 年、イギリス政府はセレツェとその妻を話し合いのためにイギリスに呼んだ。彼らは、夫婦はベチュアナラン ドに帰る事を許されると約束した。政府はしかし書面での保証を与えることを拒絶した。ルースとングワト族は、彼が 帰る事を許されないかもしれないので行かないよう助言したが、彼は大胆にも行くことを決めた。ルースは、イギリス 政府が彼女も帰ることを許さないのを恐れて、後に残った。ロンドンではイギリス政府はセレツェに、彼が部族政治を 放棄しイングランドに住むのなら 1,100 ポンドの年金を送ることを申し出たが、彼はその申し出を断った。後に彼はジ ャマイカでの仕事も提案されたがこれも断った。そのためイギリス政府は少なくとも5年間はベチュアナランドに戻る ことを禁止された。セレツェはイングランドに住むことを強制され、彼の妻も後に一緒に住んだ。彼はイギリスから手 当を受け取った。 セレツェは騙された。ングワト族は族長なしにされた。ツェケディもまた、ングワト族の土地に許可なく入ることを 禁じられた。イギリスはングワト族を、一時的にアフリカ庁と名づけられた地区委員会を通して統治し、一方で行政府 は適切な族長を見つけようとした。地区委員長は上級部族代表のケアボカ・カマネによって助けられた。 ングワト族はこの処理に不満だった。彼らは族長には他の誰でもなく、セレツェを望んだ。しかし彼がベチュアナラ ンドに帰ることができるのは彼の問題を片付けてからであった。例えば彼の第一子ジャクリーン・テボホが 50 年の 5 月に生まれたときのように、彼はロバツェに留め置かれ、セロウェへの訪問はほんの短い期間だけ許された。彼がセロ ウェを訪れたときは、彼は何千もの人々に挨拶した。彼らの中には泣いているものもいた。セレツェは彼の臣民の間で はたいへん人気があった。追放から戻る前に、彼とツェケディはお互いがングワト族の土地に戻ることを支持すること に同意した。ツェケディは、彼の追放がセレツェの追放に対するングワト族の怒りを鎮めるための手段として行われた ことに怒っていた。 しかしながら、ツェケディはすぐにセレツェを支持することを止めた。イギリスでセレツェがングワトの族長として 扱われている、という間違った報告のためである彼は、これらの報告の裏にはセレツェがいる、と間違って信じた。彼 とセレツェ双方の支持者の間には頻繁に争いがあった。彼のセロウェの家は焼け落ちたと報告された。彼はそれゆえセ レツェとの合意を破った。51 年に彼はロンドンへ飛び、そこで 4 ヶ月にわたって彼はイギリス政府が彼に自分の土地に 戻ることを許すよう説得した。イギリス政府はングワト族がツケディの復帰を望んでいるか見るために、三人のオブザ ーバーを送った。彼らはセレツェの人気が伸びていると見た。ングワト族はツェケディの復帰ではなく、セレツェの帰 国を望んでいた。 その年に、保守党がイギリスの政権を握った。ツェケディはロンドンに戻り新しい政府に彼がバングワト地区に戻る ことを許すよう頼んだ。51 年の 12 月に彼は追放から戻ることを許された。セレツェへの支持が強いセロウェでは問題 が起こる恐れがあったので、彼と彼の支持者は 52 年ツヮポンヒルの南にピリクウェと名づけた新しい村を作った。 追放に対する反対 ングワト族は新しい族長を選ぶよう命令された。彼らは、族長は生れており、選ばれるものではないとして、拒否し た。ングワト族はセレツェの禁止に対して多くの方法で反対を示した。彼らは、ツェケディの支持者を攻撃し、部族会 議をボイコットし、行政府に従うことを拒否した。彼らは税金を払うことを拒否し、抵抗を実行した。行政府の役人も また嫌がらせをされた。例えばマハラペでは、女性の集団が警察署を襲った。 セロウェでは、セレツェの追放に対する反対が大きくなった。もっとも声の大きい集団は、レニェレツェ・セレツェ に率いられた、セレツェの年齢階梯部隊の、マレカントヮという集団だった。他の参加者はケネス・コマやモウタコラ・ ンワコだった。彼らは、ケアボカに率いられたセレツェのおじたちが、セレツェの帰国にあまり積極的でないことを非 難した。ケアボカはセレツェを支持すると言った。彼とペト・セコマは、ングワト族の代表団を率いてイギリスに行き、 セレツェの復帰を求めた。これはイギリス政府を怒らせ、代表団に会うのを断り、かわりにセレツェの追放は今恒久的 なものであると宣言した。 ケアボカはセロウェに戻り、彼の抵抗の地位を捨てた。彼は、何が起こったかを説明するために、部族会議を開いた。 地区委員長は警察に会議を中止させるよう命令し、群集をばらばらにさせるためにトラックをその中に突っ込ませた。 群集が警察を攻撃したとき、暴動が勃発した。多くのングワト族が警察によってけがをさせられ、三人の警察官が死に 何人かが傷ついた。多くの行政府役人はまた傷ついた。行政府は、ベチュアナランド警察を助けるために、南ローデシ アとバストランドから警察を呼んだ。何人かのングワト族が逮捕され、刑務所に入れられ、厳しい労働を強いられた。 ケアボカも刑務所に入れられた一人だった。すぐあとに別の暴動がパラペで起こり、警察が再度呼びこまれた。 132 セレツェの支持者の中には、 ツェケディとうまく行っていなかった王家の者もいた。 セレツェが族長になった折には、 彼らはよりよい地位を望んでいた。教育を受けた若者と女性が重要な役割を果たし、そしておそらく女性が最大のセレ ツェ支持団体だった。53 年にングワト人作家のリーティル・ラディタディは、 ングワト人民族会議と言う政党を結成し、 怒れるセレツェ支持の若者を集めた。その中には、K.T.モツェテや M.T.チーペ、そしてンワコやコマのようなマレカン トヮの若者がいた。この政党は長くは続かなかった。 セレツェは、騒動を終わらせるためにベチュアナランドに行くことを許してもらうよう頼んだが、イギリスは彼の人 気を恐れて拒絶した。ロンドンから彼はその臣民に鎮まるよう訴えた。暴動は収まり、人々は税金の支払を再開したが、 彼らはまだ全面的に行政府に協力するようになったわけではなかった。 ングワト族の抵抗と逮捕はベチュアナランドの他の支配者を心配させた。バソエン二世、カリ・セチェレ、モンツィ ーワそしてモレフィ・ピラネのように、全保護領での族長の権力を取り上げるためにイギリスはわざと問題を引き起こ したと非難する族長もいたが、イギリスはこの主張を否定した。レテ族のモコシ族長は、セレツェの支持者だったが、 ングワト族が新族長選びを拒否していることを励ました。行政府はモコシに警告し、セレツェの支持者を黙らせようと した。通常ツワナ人とイギリス政府の間の問題解決に重要な役割を果たす LMS は、関与を拒否した。おそらく部族が 分割されているために、彼らはツェケディもセレツェも支持しなかった。彼らは、どちらかを支持することによって問 題に巻込まれたくはなかった。彼らはおそらくそうすることによって彼らの教会の仕事に影響が出ることを恐れたのだ ろう。 53 年には、ングワト族は再び族長を任命することを拒否した。イギリスはラセボライ・カマネを新しいアフリカ人局 長に任命した。彼は第二次世界大戦に参加した、ツェケディ支持者の、静かな男だった。ングワト族は、彼が自分たち で選んだ人間ではないので、彼の命令に従うことを拒絶した。女性を含むたくさんの人たちが、このために部族会議で 鞭打たれた。カマネはこのような状況下で部族を統治するために最善を尽くした。 イギリスでの抵抗 イギリスでは、特に労働党の国会議員からたくさんの支持を受けていた。フェナー・ブロックウェイがその指導者だ った。ブロックウェイはセレツェ防衛評議会と呼ばれる団体を組織した。他にもオックスフォード大学社会主義者会、 西インド会、教会会議といった、セレツェを支持し彼をベチュアナランドに戻すようイギリス政府に圧力をかける団体 があった。彼らは、セレツェとルースについての不公平な取り扱いについて、イギリスの大衆に知らせた。イギリス政 府はまだ、セレツェを戻し族長にすることを拒絶していた。 50 年代の中頃、イギリスは保護領の未来についての考え方を変え始めた。55 年に J.G.ストリジョンが南アフリカの 首相になった。彼は反英で極端な人種差別主義者だった。イギリスは今、ベチュアナランドの経済発展によりよい機会 を見出した。牛肉輸出が好調で、バングワト地区での銅採鉱も約束されているようだった。しかしングワト族は、セレ ツェなしでは銅のどんな調査も採鉱も許さなかった。特にセレツェ支持の強いカランガ族の地域でラセボライに対する 不服従は強まった。英帝国の中で、独立に対する圧力は強まった。ベチュアナランドでは、ツェケディや他の人たちが アフリカ人諮問協議会を使って、アフリカ人に保護領運営についてより多くの発言権を与える立法評議会(LEGCO)を導 入するようイギリスに強く主張した。ツェケディは民族主義政治家になった。イギリス政府は、セレツェが追放されて いてはそのような変化は平和裏には終わらないだろうと悟った。 セレツェの解放 それらの抵抗が起こる一方で、セレツェは彼の臣民と連絡をとり、イギリス政府に買収されることを拒絶した。56 年 に起きた 1 つの出来事では、彼の臣民が彼の復帰を望んだとき、イギリス政府が彼の追放を子供じみた行動でし続ける ことに対して強く非難して、率直に意見を話した。彼は部族政治を放棄することを拒絶した。ツェケディは今、セレツ ェのルース・ウィリアムスとの結婚を受け入れ、彼らの帰国を要求した。彼はイギリスが彼らの部族を破壊しようとし ていると信じた。彼と他の部族長は、イギリスはセレツェ事件をベチュアナランドを南アフリカに譲り渡すために利用 しようとしているとさえ信じた。彼はまた、全ての開発の仕事が止まっているので、カマネはングワト族のために少し しか仕事をしていないと非難した。 56 年の 7 月ツェケディはイングランドへ行き、不和を解決するためにセレツェに秘密であった。彼らは合意し、イギ リス政府に同意書を提出した。 同意書は、 セレツェは部族政治を断念するので民間人として帰国すると言う内容だった。 ツェケディもまた部族政治を彼自身や彼の息子のために要求しないことになった。ングワト族の抵抗と、イングランド でのセレツェ支持者のためにイギリスはこの取り決めに合意した。 セレツェ事件はまたベチュアナランドの進歩を不可能にした。ングワト族は支配力がなかった。行政府は、抵抗を止 めさせようとするのに多額の資金を使った。ングワト族は、セレツェなしでアングロアメリカン会社と採鉱協定交渉を することを拒絶した。56 年の 9 月 28 日、イギリスはセレツェの追放を終わらせた。セレツェは自由になり、彼の家族 とともに戻ってきた。そして、ングワト族の政治に民間人として参加した。彼は、彼のために非常に苦しんだ彼の臣民、 イングランドの支持団体、そして最後にはツェケディのイギリスに対しての反対などの行動によって自由になった。イ 133 ギリスもまた、セレツェを自由にしなかった場合のさらなる問題を恐れた。セレツェの強い意思とルースの決心もまた 重要な役割を果たした。 セレツェは家に戻り、まだ彼に族長になってもらいたがっているたくさんのングワト族に歓迎された。彼が族長にな ることは不可能だったが、ングワト族はアフリカ人局のような既製の族長を受け入れる気はなかった。彼らは自分たち の正しい部族長を求めつづけた。79 年にやっとセレツェの長男のイアン・セレツェ・カーマが族長になった。 セレツェは帰国後、カマネが議長であるングワト人部族評議会の副議長になった。ツェケディは 2 年後に書記長にな った。二人の偉大な男はアフリカ人諮問協議会に勤めた。勇敢なツェケディは 59 年になくなった。セレツェは後に立 法評議会の議員になり、さらに後に独立したボツワナの初代大統領になった。 幸せなことに、甥とおじはツェケディがなくなる前に再び仲良くなり、ングワト族は平和を享受した。開発の仕事は 再開された。イギリス政府のセレツェの結婚よりも南アフリカを喜ばせようとしたことは、ングワト族に問題を引き起 こした。 まとめ 世界大戦とセレツェの追放は、ボツワナの将来に新しい人と新しい考えを吹き込んだ主要な騒動だった。彼ら自身が 立ち上がることによって、彼らは自分自身を統治する自由のある未来を想像しはじめた。 134 第31章 31章 民族主義と独立 植民地主義は、ほとんどのアフリカの国が独立したことによって終わった。植民地の時代には、アフリカ人は植民者 によって不平等に扱われてきた。被植民地の人々はこの社会的経済的そして政治的な差別に反抗した。 抵抗には普通二つの段階があった。最初は、植民した人たちは、自発的には起こらなかった改革を導入してその状況 を改善しようとした。この段階では、民族主義運動や政党はなかった。自分たちの福祉を改善するための小さな集団や 組織はあった。これらは、似たような利益を持つ人々を統合するのに役だった。 次の段階では、植民地の人々は、状況を改善するただ 1 つの道として政治的独立を要求する政治団体を結成した。こ れは、新しいもしくは脱植民地化された民族主義の段階と呼ばれている。この新しい民族主義は、植民者たちから力を 取り去るという脱植民地化を望んだという点で古い愛国主義とは異なっていた。古い愛国主義もしくは改革段階では、 植民地システムの中で改善を要求したに過ぎなかった。 改革段階 この段階では、ツワナ人は植民地の統治システムの中で物事をよくしようと試みただけだった。彼らはまだ完全な独 立は望んでいなかった。会員の福祉を改善しようと試みる組織の例がたくさんあった。この段階で重要だったことは、 ツワナ系の人が違う部族とも協力して働くことを学んだことである。これは、特定の部族に制限されているというより むしろ全国的である政治団体の形成への道を準備した。しかしながら、当時はまだ、特に上の世代では、1 つの部族と の連携という形が多かった。 ベチュアナランドの外部で働くツワナ人は、組織の新しい考えや新しい形を学んだ。南アフリカでは、”ベチュアナラ ンドの子供たち”や葬儀共同体といった組織を作った。南ローデシアでは、ベチュアナランド文化クラブを結成した。54 年には、L.D.ラディタディは、街の住民を教育するためにフランシスタウンアフリカ文化組織を形成した。それは政治 を開放的に議論した最初のものだった。その会員はベチュアナランド人民党の形成に指導的な役割を果たした。ベチュ アナランド中でスポーツクラブと学生文化集団が形成され、ほかのこととともに政治問題も議論された。アフリカ公務 員会・ベチュアナランド保護領アフリカ教師会などの職業集団もまた形成された。フランシスタウンでは最初の労働組 合であるフランシスタウンアフリカ労働者組合が結成された。 セレツェの結婚に関する危機も、彼の支持者の間で政治的思索を惹き起こした。これらの初期の運動や組織に参加し た人々、特にセレツェの支持者たちは、後の政治団体の形成に重要な役割を果たした。多くの政治団体がバングワト地 区で興ったのは興味深いことだ。 アフリカ公務員会 保護領の公務員は地区行政府と部族行政府に分割されていた。部族行政府は、貧しい労働条件と安い給料に我慢して いた部族長のもとのアフリカ人だけで構成されていた。地区行政府は、アフリカ人と上級で給料のよい仕事を行った白 人によって構成されていた。アフリカ人は低い地位で白人の監督のもとで働いた。経験が豊かで資格のあるアフリカ人 でも、よい仕事には昇進できなかった。白人と黒人の間には差別があったのである。 アフリカ人諮問協議会は、行政府に資格を持ったアフリカ人を昇進させるよう頼んだ。何の行動も取られなかったの で、アフリカ人公務員は 49 年に公務員組合を結成した。自分たちの権利を守るためであった。彼らは、行政府に、資 格の有るアフリカ人をすばやく昇進させ、全ての地位によりよい給料を要求した。 上記二つの組織は密接に協力して働いた。例えば 58 年にはツェケディとセレツェは公共サービスの中での黒人と白 人の間の不公平をなくすよう行政府に対して主張した。組合の圧力の結果、公共サービスの中でいくらかの変化があっ た。60 年代の初めに何人かのアフリカ人がより高い地位に昇進したのである。これにより、組合はその組合員に統一が こうした結果を生み出すことを教えた。今では、その組合はボツワナ公務員組合と呼ばれている。 しかしながら、差別は、アフリカ人の昇進の問題だけに限られていなかった。例えばバストランドのような所では宣 教師団がよい教育制度をたてていたのだが、保護領では適切な教育者が深刻な不足にみまわれていた。そのため、多く の行政府内のアフリカ人は、特に 50 年代と 60 年代では南アフリカからの移住者で占められていた。彼らの多くは、後 に独立したボツワナの市民となり、国の発展に寄与しつづけた。 ベチュアナランド保護領アフリカ人教師組合 公務員組合の結成を促した好ましくない労働条件は、ベチュアナランド保護領アフリカ人教師会(BPATA)の結成にも つながった。教師の労働条件は公務員よりも悪かった。政府は労働条件の改善を行ったが、この状況は独立後も続いた。 保護領時代に教師の給料は公務員よりも安かった。彼らはまた年金基金の恩恵にもあずかれなかった。教師たちは、 適切な住居の不足・不適切な教室・女性教師に対する差別などにも不平を言った。当時、未婚で妊娠した教師は停職か 135 免職された。教師たちはさらに、植民地時代の教育制度は改革されるべきだと考え、彼らはカリキュラムの改訂に直接 関わりたいと思っていた。そこで、37 年に彼らは BPATA を結成したのである。 何年にもわたって、BPATA は教師の労働条件を改善してきた。例えば、教師への退職金を提供するための準備資金 が設立された。65 年に、組合はボツワナ教師組合(BTU)と名前を変えた。BTU は BPATA によって始められた活動を 続けた。 労働組合 労働組合は普通産業発展がおこった国で発生する。労働者は、高い給料や受容できる労働時間などのより良い労働条 件を求めて戦うために労働組合を組織する。ベチュアナランドでは、経済発展が遅れていたので、労働運動は遅れて起 こり、組合は弱かった。 多くのツワナ人は、自分が働いていた南アフリカや南ローデシアの労働組合に参加していた。例えば、ナイト・マリ ペやケネス・ンクヮはブラワヨに拠点があったローデシア鉄道アフリカ人労働者組合のめだった指導者になった。北東 部からきたツワナ人の多くもまた組合員だった。 フランシスタウンアフリカ人労働者運動は 49 年に結成された。フランシスタウンは当時保護領の主導経済中枢で、 名前が示すとおり組合はそこだけで運営されていた。労働条件の劣悪さとタチ会社の妨害のために、アフリカ人は植民 地政府に認知されていた労働組合に熱心に参加した。それは、交渉を通じて問題を解決することを奨励し、フランシス タウンでの労働条件の改善にある程度の成功を収めた。しかしながら、58 年までにそれは衰退した。 58 年にレニェレツェ・セレツェは、ツェケディの助けを借りて、翌年にベチュアナランド労働者組合として登録され るセロウェ労働者組合を結成した。その支部は、パラペ・マハラペ・ロバツェ・マウンにあった。これが全国的な組合 を結成した最初の試みだった。 もっとはっきりとした政治的な労働者運動は、62 年に設立された。その年は、ボツワナ人民党(BPP)が、独立のため に党と密接な関係で働いたベチュアナランド労働組合会議の結成を勧めた年でもある。組合を統一する、継続的な試み は失敗した。そのため、独立当時には 4 つの労働組合があった。フランシスタウンアフリカ人労働者組合・ベチュアナ ランド労働者組合・ベチュアナランド労働組合会議・ベチュアナランドと全労働者組織である。最初の二つは経済改革 と労働者福祉の改善を求めた。後の二つはより政治的で、独立要求を支持していた。77~78 年に、国内の全ての組合を 代表するためボツワナ労働組合連盟が結成された。 立法委員会(LEGCO) 英帝国下では、LEGCOs ははじめ白人入植者に植民地経営について大きな発言権を与えるために作られた。それらは 白人のためだけのものだった。徐々に、この統治システムは、おもにアフリカ人が住んでいる植民地にも同様に拡大さ れ、彼らも参加できるようになった。この形の政府は、イギリス政府の一般的支配のもとにあり、自治政府と呼ばれた。 LEGCOs は役人と非役人から構成されていた。ケニヤとマラウィでは、LEGCOs はイギリスが脱植民地化を考えるよ りもずっと前の 20 世紀初頭に導入されていた。 ベチュアナランドはイギリス植民地の中で LEGCOs がもっとも遅く導入された地域の 1 つであった。保護領政府は 以前に設立された諮問協議会に満足していたので、LEGCO の設立に反対した。50 年代までに、アフリカ中のイギリス 植民地のアフリカ人は LEGCOs を通して政府に参加しており、ボツワナ人もそれを望んでいた。彼らはアフリカ議会 や合弁議会は無力だとしてそれに満足していなかった。 57 年のガーナの独立により、あちこちのアフリカ人はもっと早い独立を望むようになった。LEGCO は独立への一段 階だと見られていた。52 年の 9 月、バソエン二世は、ボツワナ人が彼らを統治する法律の作成に参加できるように、ベ チュアナランドの LEGCO の問題を提出した。それはまた人種間の調和も保証すると見られた。 LEGCO が設立されれば、ベチュアナランドが南アフリカに合併されるのを防げるとの感覚もあった。住民局長のエ ドワード・ビーサムは、その領域はまだそのような体制を持つ準備ができていないとして、その考えを拒絶した。地方 政府が先にできなければならなかった。彼はまた、保護領は貧しすぎて LEGCO の運営資金を出せないともいった。ル イス・グロブラーだけを除いて合弁議会の白人たちもその提案に反対だった。 ツェケディは、ボツワナは自前の地方自治組織を持っていると返答した。いずれにしても、ケニヤ・マラウィ・ガン ビア・黄金海岸・シエラレオネといった国々では、地方役所のような近代的な政府の形が設立される前に、イギリスは LEGCOs を導入している。だから、ベチュアナランドも LEGCO の準備はできていた。 58 年に、M.L.A.カサ、ツェケディ、セレツェ、バソエン二世は、この問題を再びアフリカ人諮問協議会に提出した。 その年に、ラッセル・イングランドは、他のヨーロッパ人諮問協議会のメンバーを説得して LEGCO の設立を支持する よう頼んだ。また、合弁諮問協議会の中で LEGCO の迅速な導入を要求する動きを、ツェケディと共同で後援した。ツ ェケディとセレツェが議論を先導した。彼らはベチュアナランドには LEGCO がないので全てのほかの植民地よりも遅 れていると論じた。 セレツェ、バソエン二世、S.M.モレマ教授、ジミー・ハスキンスで構成されている憲法委員会は、LEGCO のための 136 憲法草案を立ち上げた。60 年に LEGCO は形成され、61 年の 6 月に最初の会議が開かれた。白人よりもアフリカ人の ほうが人口は多かったが、LEGCO は両者同数で構成されていた。白人は選挙区か選挙地区から選ばれた。アフリカ人 メンバーは、古いアフリカ人諮問協議会に変わる新しいアフリカ人会議という組織で選ばれた。アジア人社会から選ば れるアジア人代表も 1 人いた。アジア人は彼らの視点を表現できる議会はどこにもないという不満を持っていた。アフ リカ人代表は LEGCO にアジア人を含めることを支持した。最初は、行政府はアジア人がベチュアナランドの問題に参 加することを拒絶していた。 LEGCO はヨーロッパ人諮問協議会・合同諮問協議会・アフリカ人諮問協議会にとって変わった。アフリカ人を LEGCO に選んだ上に、新しいアフリカ人会議は、61 年から 65 年の間に、議論を行い、アフリカ人の問題について住 民議長に助言をした。この機関は部族長と共に選ばれた代表も含んでいた。65 年にアフリカ人委員会は解散され部族長 会議にとって替わられた。 LEGCO はまたその内閣として機能する執行委員会を持っていた。行政部と選ばれたメンバーがそこで働いた。住民 議長がその主催者か議長を務めた。62 年以降、政府部局と提携した執行委員会の非公式メンバーのうち 4 人とともに、 ある種の見習い大臣制度が施行された。セレツェ・カーマがこのうちのもっとも上位につき、政府書記官と一緒に働い た。アフリカ人は、ベチュアナランドの開発に失敗した行政を批判したり、改善の提案をしたりするために、LEGCO を使った。それは、新しい形の民族主義がベチュアナランドにおこったときに作られたのだった。アフリカ人は、その 結果 LEGCO を独立要求のために使った。改革だけを望んだ古い形の民族主義の時代は過去のものとなったのである。 そのときまでに、イギリスは、彼らが LEGCO の考えを受け入れた理由の一つでもあるのだが、アフリカの植民地に独 立を与えることを決めていた。 政府は、独立への動きを先導するためにはあまり LEGCO を使わなかった。それは、LEGCO の外での政治団体・人 種的少数派・部族長との交渉を通じて行われた。かわりに、ボツワナの新しい首都や国立開発銀行のように保護領の近 代化に仕える新しい政府機関の位置といった問題について代表者の意見を得るために LEGCO を使った。このように、 LEGCO は限られた権限しか持っていなかったが、ベチュアナランドの将来の発展についての考えを議論する場となっ た。61 年の法律で独立へ向けたさらなる動きの段階へ進んだ。 独立への道のり アフリカ全ての独立に帰着した新しい民族主義はベチュアナランドで 60 年代に展開した。しかしながら、それは民 族主義感情の初期のかすかな動きだった。民族主義運動や政治団体の発生の前に、ある種の初期民族主義を表現した人 に、セロウェのシモン・ラツォーサがいた。ラツォーサは南アフリカのラブデールで教育を受け、1905 年から 21 年の 間にセロウェ公学校の校長だった。20 年代と 30 年代に彼は部族長の力を減らす必要性を話したり書いたりした。彼は ボツワナが全国的な民族議会によって統治される時代がきたと感じていた。議会の中には、ベチュアナランドの教育を 受けた若者から成り立っていた自国進歩党があった。この議会は、彼が描く所の部族長の過酷な支配を止めるだろう。 彼はまた行政府にも批判的だった。彼は、王家であるか平民であるかに関わらず全てのボツワナ人を含んだ全国的な運 動や組織について語ったもっとも早いボツワナ人の 1 人であった。 いくつかのアフリカの植民地では、第二次世界大戦から帰ってきた兵士たちが民族主義運動の中で重要な役割を果た した。ベチュアナランドでは、これは起きなかった。これはおそらくベチュアナランドには大きな街や産業の中心がな かったためであろう。民族主義運動は、生活状況が悪く労働者階級の存在する都市部で普通発展した。多くのボツワナ 人兵士は政治的活動がそれ程多くない自分たちの村へ帰った。P.G.マタンテのように南アフリカに行った何人かだけが そこで民族主義運動に参加した。 連邦党 ベチュアナランドの、最初の本当の政治団体はベチュアナランド保護領連邦党だった。それは 59 年にセロウェでレ ーティレ・ラディタディによって結成された。連邦党は部族政治には反対しなかったが、その組織が改革されることを 望んだ。彼らは、ベチュアナランドの人種主義を助長するという理由で、LEGCO の人種的に均衡の取れたメンバー構 成に反対だった。この党はまた民主的に選ばれた政府を好んだ。 この面で、彼らは LEGCO のアフリカ人代表が人々に選ばれた代表ではなく部族長たちに独占されるのではないかと 恐れた。彼らは全成人ボツワナ人への開かれた選挙を望んでいた。 この政党はおもに教育を受けた人々に支持された。その支持者の中には、P.G.マタンテ、K.T.モセツェ、A.M.ツォエ ベベなどがおり、いずれも後に他の政治団体を結成するのに大きな役割を果たした。連邦党はそれ自身小さなままで、 62 年の終わりまでに消滅した。それはベチュアナランドを通して支持を受けることはできなかった。その指導者のラデ ィタディは、59 年にマハラペの下部アフリカ人協会を創設した。それは彼が以前対立していた部族長たちと協力してい るように見えたので、おそらく彼の政党の名声を傷つけた。自由党という新しい組織に党員の何人かが簡単に参加した 61 年には、連邦党はもはや効果的には機能していなかった。しかしながら、自由党はすぐにその方向性が支配的な白人 137 によって決められているとみなされた。その事務総長は保守的な白人の J.オープンショウだった。 連邦党などが、LEGCO の人種バランスに反対していたが、後に起こる経験から一時的な手段としてはいくつかの利 点があった。それは、国のためにともに円滑に働く人種集団の間の信頼関係を作った。それは、白人たちにアフリカ人 支配の政府のもとの新しいボツワナはよい未来を持っていることを納得させた。それは、隣国の南アフリカやローデシ アで人種的緊張が高まったとき、保護領内での緊張を大きく減らした。 ベチュアナランド(後のボツワナ)人民党(BPP) 強い民族主義は南アフリカからベチュアナランドへ広がった。60 年のシャープビル銃撃戦とアフリカ人政治団体の禁 止のあと、約 1,400 人の南アフリカからの難民がボツワナへ逃れてきた。その多くはアフリカ民族会議(ANC)か汎アフ リカ会議(PAC)のどちらかのメンバーだった。モツァマイ・ンポのようにボツワナ人も何人かいた。これらの人たちは ベチュアナランドの中で政治団体を結成した。 それらの新団体のうちで活動を全国に広げようと試みた最初のものは、60 年に結成された BPP だった。BPP の創設 者たちは保護領外での民族主義運動に参加する事により政治的経験を持っていた。モツァマイ・ンポは 48 年から南ア フリカで働いていた。53 年には、彼はロードポールトの ANC 支部の書記長になった。彼は後に、他の多くの南アフリ カのアフリカ人民族主義者と一緒に、反逆罪の罪に問われ、投獄された。彼は解放されたあとに、60 年にベチュアナラ ンドに戻った。 K.T.モツェテは、44 年にニサヤランド(マラウィ)アフリカ人会議を結成するのを助けた。彼はンポのようには政治経 験がなかった。フィリップ・マタンテは、第二次世界大戦中に軍曹まで昇進した。彼は、在家牧師もしていたヨハネス ブルグで ANC の活動に参加した。彼は 57 年にベチュアナランドに戻りフランシスタウンに住んだ。 南アフリカでの政治経験をもって、モツァマイ・ンポは、BPP の結成を主導した。しかし彼はベチュアナランドでよ く知られている人々、党員を集められる人々と働かなければならないことを知っていた。彼は、長い間南アフリカで過 ごしたので、保護領内ではあまり知られていなかった。その上、ツワナ族が大部分を占める中でのイェイ族の出身だっ たので、ツワナ族から支持を得ることは簡単ではなかった。そこで、彼はよく尊敬を受けているセロウェ出身でバタラ オテ起源のングワト族である K.T.モツェテに注目した。彼の高い教育程度により、教育を受けた若者をひきつけるよう 期待された。ンポは、彼がインド議会学校において教育を受けた南アフリカでモツェテを知った。モツェテはンポに合 流して BPP を結成することに同意し、その初代党首になった。 そして、60 年の 12 月にンポとモツェテはパラペで BPP を結成した。マタンテもすぐに彼らに合流した。その指導 者たちは、党首がモツェテ、副党首がマタンテ、そしてどの政党においても権限の大きい事務局長にンポ、であった。 南アフリカから帰ってきた多くのボツワナ人がこの党に加わった。ウィットウォータースランドにボツワナ人を勧誘す るための支部もあった。多くの南アフリカ人難民もこの党を支持した。 フランシスタウンでは、以前の政治活動がさまざまな組織によってなされていたこともあり、この党は急速に成長し た。植民者支配に対する批判は、北東地区そしてフランシスタウンで強かった。この政党に対する支持は鉄道に沿った ほかの地域、特にマハラペ・モチュディ・ロバツェといった場所で強くなった。党員は BPP を全国的な組織にするた めに一生懸命働いた。 BPP はイギリスが立法議会を通じて憲法改正を行ったときに結成された。党は、独立をすぐに要求することにより、 この利益を得た。それはベチュアナランドを開発しなかったといってイギリス植民地主義を攻撃した。それはまた、 LEGCO の人種別代表に見られる人種主義も攻撃した。人種主義は特にフランシスタウンにおいて広く行われていた。 マタンテは 62 年と 63 年にイギリスの植民地主義に抵抗するために国連に行った。おそらく部分的にはそのような圧力 のためもあり、LEGCO は全ての人種差別的な法律を調査する委員会を立ち上げた。住民委員長のピーター・ファウカ スはまた、LEGCO 法の改訂は以前発表したよりも早く、すなわち 68 年ではなく 63 年に行う、と発表した。BPP は、 LEGCO 法が廃止され、独立憲法がすぐに導入されることを望んだ。党は抵抗デモを行った。そのうちの 1 つで、モツ ェテは 800 人以上の集団を率いてロバツェの高等裁判所へ行った。 BPP の植民地政権に対する批判は特に都市部で多くの支持者を得た。しかしながら、党にはいくつかの弱点があった。 まず当時ボツワナ人の大多数が住んでいた村落地域では多くの支持を得られなかった。しかし党は、カランガ族の村落 地帯では一般的に人気があった。おそらくカランガ族たちは BPP ならば彼らが国の運営に参加することをできるよう にしてくれると考えたためだろう。初期には、権力はングワト族の手の中にかたく収まっており、カランガ族はその地 位から普通のぞかれていた。カランガ族は、彼らの土地のほとんどを取り上げ北東地区で長い間彼らを抑圧してきたタ チ会社を批判する BPP が好きだった。 生活状況や労働条件が悪く政治に目覚めた労働者階級がいたため、BPP はいくつかの町で人気があった。村落の人々 はまだ普通あまり政治に目覚めていなかった。彼らは部族政治を尊敬していたので、その廃止を訴えた BPP 党員の呼 びかけは村落の人々を喜ばせなかった。だから、彼らのほとんどは BPP に参加しなかった。BPP は人種主義を実行し ていた白人を攻撃したので、ベチュアナランドの白人の多くは BPP を支持しなかった。保護領政権もまた、BPP の急 進主義を心配していた。61 年に住民委員長のファウカスは彼の上官に BPP のことを報告した。 138 「人民党という極端なアフリカ民族主義政党が北部保護領で設立され、ガマングワトとフランシスタウンでかなりの 支持を受けている。それは熱心に働き、保護領中で勢力拡大にいくらかの成功を収めている。 」 BPP の分裂 BPP は、その指導者たちモツェテ、マタンテ、ンポの不和によりすぐに弱くなった。この不和のためにンポは 62 年 に党から追放された。彼は同じように BPP と呼ばれる彼の政党を結成した。64 年に彼はそれをボツワナ独立党(BIP) と改名した。BIP の政治的信念は BPP と大きく変わらなかったが、分裂により、ンポはより自由に話すことができる ようになった。 なぜ BPP は分裂したのか?マタンテの党費の濫用に対する非難が原因だという人もいる。また、ンポがモツェテの 権力を取り上げようとしたのが原因だという人もいる。財務管理の失敗が申したてられたことが、党内の緊張の原因の 1 つとも思われる。党資金は申し立てによると、マタンテの個人銀行口座を通して流れていたという。党は正しい経理 手続きを取っていなかった。財務管理失敗への疑問はすぐにその権力と結びつけられた。 ンポは BPP の本部を彼の拠点であり党が設立された場所でもあるパラペにおきたかった。この本部が党資金を管理 する。フランシスタウンのマタンテもロバツェのモツェテも、ンポはモツェテから党主職を取り上げるためにパラペを 使いたがっていると信じた。ロバツェもフランシスタウンも南アフリカからの政治難民が党務に参加していた。マタン テとモツェテは、彼らの参加がンポの権力を増加させるのではないかと疑った。彼らはそれゆえにモロニェニのような 何人かの難民をさまざまな手段を使って追放した。62 年の 6 月には、ンポは事務局長としてロバツェへ行き党のロバツ ェ支部の財務を調べた。支部には党資金の管理失敗があるとの申し立てがあった。 マタンテも、ンポと対決させるためにたくさんの彼の支持者をロバツェに送った。モツェテとマタンテは、ンポが党 から追放されるべきだということに合意した。ンポとマタンテのグループの間には緊張があった。警察は、平和を乱す 恐れがある議論を解決するために、ンポにペレンにいるモツェテに会いに行くよう助言した。モツェテの家に着くと、 ンポは事務総長停職の手紙を受け取った。モツェテはンポの党の指導力を傷つけるような活動を非難した。ピーター・ マルピンが後に執行事務局長に任命された。 ンポは BPP 全国執行部の何人かのメンバーの支持をうけていた。彼らはパラペに立つ前にモツェテとマタンテの不 信認投票を決議した。ンポは、新しい全国執行部を選ぶために、全ての BPP 支部の代表者を 62 年 8 月 19 日の会議に 招待した。モツェテのグループも同じ日に代表者を招待した。モツェテ-マタンテグループはまた、マタンテがモロニ ェニを強制的そして違法に南アフリカへの国境を越えさせたとして告訴された審理に対してデモも行った。モロニェニ は帰国しマタンテを法廷に送った。フランシスタウンのマタンテの支持者たちは公式に彼への支持をあらわしてデモを 行い、約 38 人が逮捕された。 BPP の二つの支部が会議を開いたロバツェでは、問題は起きなかった。62 年 8 月 19 日に、ンポのグループは、ンポ を党首とそして彼の義弟ディティロ・マツィエンを事務局長とした全国執行部を選んだ。これにより、BPP の分裂は完 全なものとなった。マタンテとモツェテは大部分の支持者とともに残ったが、BPP 内の不和は終わらなかった。すぐに、 モツェテはマタンテの急進主義に賛成できずに二人は反目した。マタンテは、モツェテがイギリスに対して充分に強く 出ていないとして非難した。モツェテは 63 年の立憲の仕事に参加することを好んだが、マタンテはそれに反対した。 63 年 12 月 12 日の事件はついにマタンテとモツェテによる第二の分裂の原因となった。北東地区ではビールの販売 はタチ会社に独占的に許されていたのだが、伝統的ビールの醸造免許法に対して闇酒屋の女性たちがデモを行った。参 加者が何人か逮捕された。BPP フランシスタウン青年部がこの逮捕に対してデモを行った。警察は催涙ガスを使い、103 人の参加者を逮捕した。マタンテはデモを支持し、彼の人気は都市部住民の間で上がった。モツェテはンポに働きかけ 彼らの BPP の支部を統合しようとした。ンポはこの提案を断った。65 年の選挙結果が芳しくなく、BPP のモツェテ派 は消滅し、彼の政治生命は絶たれた。彼の最後のボツワナ独立への寄与は国歌を作ったことだった。 BPP は分裂により弱体化した。分裂は政治思想の不一致ではなく指導者たちの反目によって起こった。分裂がなかっ たとしても BPP は全国展開していなかったので、基本的に弱い政党だった。それは、おもにタチ地区とそのほかのモ チュディ・ロバツェ・モレポローレといったわずかな地域に限られていた。しかしながら、それは最初の議会内の反対 派だったので、ボツワナの多党制民主主義に寄与した。 ベチュアナランド(後のボツワナ)民主党(BDP) 61 年の 11 月に、セレツェ・カーマは LEGCO の他のメンバーと、後に BPP と呼ばれるようになる新しい政党の結 成について語り合った。委員会はセレツェ・カーマ、クエット・マシーレ、A.M.ツォエベベ、モウタコラ・ンワコ、ツ ェコ・ツェコ、ハオレン・モシニ、ダバダバ・セディエによって構成されていた。彼らはマハラペに集まり、BDP の綱 領を書き上げた。62 年に、BDP はハボロネのオラパハウスそばのモルーラの木の下で会合を開き正式に立ち上げられ た。創立者たちは、ムシ・ピラネ族長によるモチュディで会議を開く許可を断った。セレツェ・カーマは党首となり、 A.M.ツォエベベが副党首、クエット・マシーレが事務局長、アモス・ダンベが副書記長、ベンジャミン・シュタインバ ーグが会計、A.マリーべが副会計にそれぞれ就任した。多くの創立者たちは、アフリカ議会と立法議会のメンバーだっ 139 たので、いくらかの経験を持っていた。 BDP の指導者は誰も南アフリカ民族解放運動の支持者ではなかった。これは、BDP が BPP のように分裂で弱体化 することから救ったかもしれない。 BDP は全体としてベチュアナランド内の闘争に集中していたといえるかもしれない。 セレツェの名声は BDP が強い政党になることを保証した。彼は南アフリカとイギリスでよく教育され、弁護士でもあ った。彼の意思はその結婚に関する議論を通して試され強められた。危機の間、彼はベチュアナランドの共同体の全て の部分から多くの賞賛を勝ち取った。さらに、彼は部族政治を否認していたにもかかわらず、ングワト族の族長として 扱われていた。これは BDP の支持を確実にした。セレツェの事務局長のマシーレは王家ではなく、教師そして校長と して何年か勤めていた。彼はングワケーツェ部族議会、アフリカ議会、そして LEGCO に勤めることにより、政治経験 を持っていた。 「ボツワナの星/アフリカのこだま紙」の通信員として、人間現象の深い経験を得た。彼はよい組織者で 働き者だった。自助努力の人で、激しい仕事を通して彼は保護領内で指導的な農場主となった。そのような人に率いら れ、BDP はベチュアナランドの政治に入るのに良い位置にいた。 なぜ BDP は結成されたのか?当時の全てのアフリカ人民族主義運動と同じように、それは独立のために戦うために 設立されたが、政党をはじめた直接的な理由は BPP に反対することだった。BDP の創設者たちは、BPP が国を平和的 に独立させることができるとは信じていなかった。これが、彼らが BPP に参加せず、かわりに新政党をはじめること を選んだ理由である。BPP 内の分裂とその人種的民族主義により BDP の創設者たちは BPP が国を正しく導くことが できないと信じるようになった。彼らはまた、ANC や PAC の BPP 内への影響も嫌った。彼らは外部からの影響のあ る政党は国のためによく働くことができないと感じていた。 どちらの政党も同じくらい強く独立を望んでいた。BDP は多民族主義の必要性を強調し、できるだけ早い独立を要求 した。それは、法治の前進と一人一票に基づく選挙を要求していた。植民地政府は、普通全ての政党に対する中立政策 を遂行する。彼らは、ボツワナ人がその独立国を統治するための政党選挙にその制度を残した。このために、政府は、 政党政治の出現を好まなかった部族長に、全ての政党がそれぞれの地域で集会を行うことを許すよう求めた。しかしな がら、BDP の将来の国についての狙いはイギリスのそれと似ていたので、植民地政府は BDP を彼らの後を引き継ぐの によりふさわしい政党だと考えた。 BDP は、村落地域の絶大な支持を受けて、すぐに強い政党になった。王家の一員であるセレツェの指導力は、疑いな く党に利点をもたらした。セレツェは、彼の結婚のためにイギリスで苦痛を受けたこともあり、それも人気の一因だっ た。彼はまたその政治能力を部族会議、アフリカ会議そして LEGCO で示した。 一番大きな人口と選挙区数を持つングワト族の地方で BDP はもっとも強く支持された。BDP は BPP のように強く 部族政治を攻撃しなかった。そしてこれが、彼らが村落地域で支持を受けた理由の 1 つである。この党はよく組織され、 統一されていたので強かった。それはまた党務運営のために資金を集めた。多くの白人が BDP を支持し、党に参加し た人もいた。これは、彼らが BDP は BPP よりも穏やかだと見たからだ。BPP が汎アフリカ人主義(それはアフリカ人 のためのアフリカを信じていた)だと見られていたのに対して、BDP は多民族主義を掲げていた。白人から見れば、こ れは、BPP は自分たち白人をみんな追放するだろうということを意味していた。BDP は全国で強い支持を受けた。そ れは実に強かったので、65 年の選挙で簡単に勝利した。BDP の最も重要な貢献は、このほかに、 • 部族的でなく、いくつかの統合されていない部族からなる近代国家連合を創り出した。 • ボツワナ人が自分たちの選択で政府を選ぶことができる定期的な一人一票に基づく多党民主主義を創設した。 • 言論の自由の否定や対立政党の抑圧という結果を起こし得る、他のアフリカ諸国のような一党独裁を避けた。 • 新しい国の経済発展のために、しっかりした基礎を築いた 法制の進歩 50 年代の終わりと 60 年代に、イギリスはアフリカの植民地を独立させることを決めた。これにより、ベチュアナラ ンドのような植民地が早く独立を得ることができた。61 年の憲法はうまくいったので、更なる法制の進歩への道を敷い た。南アフリカへの編入の恐れは去り、ベチュアナランドは独立に向けて前進することができた。完全独立の前段階で ある内部自治政府の憲法の準備をするための話し合いが持たれることが合意された。 最後にモツェテは BPP 執行部の望みに反して行動した。彼は独立の 4 年間の延期を要求した。彼はおそらく BPP に は組織をしっかりする時間が必要だと感じていたのだろう。彼はこれを攻撃され、その提案を引き下げた。しかし、こ れによって彼のイメージは傷ついた。 ロバツェ会議 63 年の 7 月にロバツェで憲法改正の議論が開かれた。ベチュアナランドに完全な内部自治政府を与えることが合意さ れた。しかしながら、住民委員長のピーター・ファウカスはいくらかの保留権限を執行したのだった。64 年に独立の準 備として住民委員長の職名は女王の委員長と改められた。ロバツェ合意は次の条項からなっていた。 1. 大人の投票によって選ばれる議員によってなる国会の設立。4 人の国会選出議員と 2 人のイギリス人役人もいた。 140 2. 3. 国会選出議員は多数派から出た。 イギリスは独立までの間、外交・防衛・公共サービスに責任を持つ 首相と 5 人の大臣による内閣が設立される。議長は内閣の助言を受けて働く勅選の委員長だった。高等弁務官事務 所は 64 年に廃止された。国会は、部族と部族政治に関わる問題については部族長会議の助言を求めた。 独立反対の少数白人居住者 これらの変更を支持する白人は LEGCO の内外にたくさんいたが、少数派白人はアフリカ人政権を望まなかったので それに反対した。これはルイス・マインファールトに率いられたタチ地区の農民に特に顕著だった。彼はタチ地区が独 立国になるか南ローデシアもしくは南アフリカに加わることを望んでいた。 彼は南アフリカに助けを求めたが失敗した。 彼らの指導者の一人は国連に助けを求めさえしたが、これもまた失敗した。 白人と黒人の子供が共に学ぶ学校の統合に反対した白人もいた。ハンツィでは、学校がアフリカ人の子供の入学を許 すようになるからといって白人の親がその子供を学校から引き上げた。 これらの扇動的な動きはアフリカ人をおこらせ、 ボツワナ人の中には全ての白人所有農場を代償なしに取り上げようと要求するものもあったが、 これは実現しなかった。 セレツェ・カーマは、独立反対派の白人が国の破壊を試みるようなことに対して強く反発した。ベチュアナランドは 1 つの国として独立した。白人少数派のベチュアナランドからの分離の試みは失敗した。国が独立したとき、南アフリ カや南ローデシアに去ったものもいた。彼らの多数派は、しかしながら、国に残りボツワナ国民となった。BDP の政策 は彼らに将来の安全を保障したのだ。 独立 65 年の 3 月に 63 年の憲法に基づいて選挙が実施された。とても強くよく組織された政党になった BDP が、国会の 31 議席中 28 議席を取り大多数派を形成して選挙に勝った。BPP は残りの 3 つの議席を取った。BDP の指導者である セレツェ・カーマは最初のアフリカ人政権の首相となった。ンポとモツェテは議席をとれなかった。 新政府はすぐにイギリス政府に国の完全独立を頼んだ。憲法制定会議が 66 年の 2 月にロンドンで開かれた。マタン テは、BDP 政府がボツワナ人のための独立交渉ができないことに抗議して、議会から退出した。彼は政府が独立に関し て人々を正しく調査していないと論じた。彼の抵抗はしかしながら成功しなかった。63 年憲法に似た新しい憲法は合意 に達した。66 年の 9 月 30 日に新しいボツワナ共和国として独立した。この日は国中のボツワナ人が独立の達成を祝う 国民の休日になった。 ベチュアナランドを南ローデシアや南アフリカの一部にしようとする試みに対する祖先の確固たる抵抗のおかげで、 ボツワナは別個の統一した国として独立した。セレツェ・カーマはボツワナの初代大統領に就任した。彼はイギリス女 王にたたえられナイトの称号を与えられた。そのときから、彼はサー・セレツェ・カーマと呼ばれるようになった。 イギリス国旗に替わって新しいボツワナ国旗が考案された。真中の太い黒い帯は人口の多数を占めるアフリカ人を示 し、細い白い縞は白人を意味する。これらの帯は、ボツワナの諸人種政策である非人種主義を示している。青は全ての 生命の源である空と雨を意味する。紋章の題名は、恵を意味する雨である。 イギリスの支配は終わり、イギリス国歌はボツワナ国歌に変わった。あちこちで喜びに包まれた。 ボツワナが独立するだろうことが明白になったとき、首都をマフィケンからハボロネに移す準備がなされた。ハボロ ネは 1932 年に約 106 歳で亡くなったトロクヮ族の族長の名前だった。ハボロネの建設は 63 年に始まり、マフィケン からハボロネへの移動は 65 年に始まった。 民族戦線 新しい政党のボツワナ民族戦線(BNF)は、選挙直後の 65 年の形成された。それは独立前に結成された最後の主要政 党だった。その創設者ケネス・コマ博士は選挙の直前にロシアからボツワナに戻ってきた。しかしながら、政党の結成 が選挙に間に合わなかったので、彼は選挙には参加しなかった。コマは南アフリカ・イギリス・ロシアで勉強したよく 教育を受けた弁護士だった。彼は党の事務局長になった。党首として、彼はまだ指導者のままである。 BNF は BDP 政権にとって替わることを目標とした。それは、BDP のもとでは、ボツワナはその資源を完全に管理 することができなかったと論じた。彼らの論では、これは BDP が、政府が経済を管理するよりもむしろ民間企業を奨 励したためだということだった。BNF はそれゆえ経済の政府管理を導入するという意見だった。それは、国の主要な 経済活動を政府が直接運営するという形をとる社会主義の導入を望んでいた。BNF はまた、BDP が保守的な対内・外 交政策をとっているとして非難した。 BDP を打ち負かすために、BNF は全ての野党を統一しようとした。全ての政党が同じ政治的理想を持っているわけ ではないのでこれは失敗した。しかしながら、労働者グループや公務員といった以前の BPP の党員で、BNF に加わっ た人たちもいた。69 年にバソエン二世・ハセイツィーウェが部族政治を去り、BNF に参加した。党はバソエン二世な らば王族の出身なので効果的にセレツェ・カーマに対抗できるのではないかと望んだ。バソエンはングワケーツェ族の 141 大族長であったが、全国的にはセレツェの BDP には匹敵しえないことが証明された。 まとめ 50 年代と 60 年代の間、保護領内で新しい民族主義が出現した。これは過去の改革政治とは違い、ボツワナの独立を 要求するものだった。59 年から、この新しい民族主義者たちは BPP、BDP、BIP といった政党を結成することにより この要求を強めた。この中で、セレツェ・カーマの指導下にあった BDP がもっとも力を得て、66 年の 9 月 30 日のボ ツワナ独立を引っ張った。 142 第 32 章 独立期:政府と政治 この時点までわれわれは歴史の展開を見てきた。率直に言えば、歴史というものは過去の出来事だけを扱うので、こ の章は歴史とは言えない。ここに述べられている展開のなかには、過去に始まったが現在まで続いているものもある。 これが、われわれが過去形と現在形を使い分けているわけである。 独立後の展開 独立によってもたらされた幸福感は、5 年以上続いた旱魃によって台無しになった。定期的な旱魃はいつもあったが、 この旱魃は新しい政府がまさにできたそのきわどい時期にきた。40 万頭以上の牛が死に、作物は全く育たなかった。65 年までに 36 万人以上の人々が外国の援助と共に政府に養ってもらわなければならなかった。これには多額の資金を要 し、新政府は難しい仕事に直面した。 旱魃がなかったとしても、新政府は植民地時代に世界の最貧国の 1 つになってしまった国を発展させなければならな かった。新政府は 66 年にイギリスと交渉し憲法に基づいた統治組織を立ち上げた。憲法はほとんど変更なく今日まで 運用されている。統治組織は大きく 2 つに分けられた。中央政府と地方政府である。政治的な面では、65 年の最初の選 挙から 5 年ごとにそれは行われ続けている。ボツワナの外交政策は独立以来発展しつづけている。 独立時、経済の面で真の発展が起こるのかという事について望みはほとんどなかった。しかし、何年にもわたってい くらかの発展は本当に起こったのである。独立当時のたった 1 つの重要な経済活動は、牛の放牧や農場経営といった農 業であった。徐々に他の経済活動も始まった。旱魃の最悪期は 66ー67 年で終了した。特に 73 年から 78 年にかけて良 い雨が降り、よく収穫ができた。 首都がハボロネに移ったことにより、政府は資金をボツワナ国内に使うことができるようになった。輸入が増えるに つれ、外国製品の輸入者が支払う関税を、政府はよりたくさん受け取ることになった。たくさんの資金流入をもたらし た 60 年代後期から 70 年代初期にかけて起こった 4 つの出来事は、 • オラパでのダイヤモンドの発見。 • セレビピクウェでの銅‐ニッケルの開発。 • 69 年の関税同盟協定の改善という結果をもたらした南アフリカとの交渉の成功。 • ボツワナ牛肉の良い価格での輸出が増えたこと。 これらの展開により、政府の収入は 69 年から 75 年にかけて増加した。だから、69 年の後半から経済は拡大し始め た。政府は、今や経済と社会発展のための資金をいくらか持っていた。成長する公共サービスの給料を払うこともでき た。独立以降に起こったたくさんの発展のいくつかの例は下記の通りである。 中央政府 66 年の憲法のもとでは、ボツワナの政府は、大統領・副大統領・内閣・立法府・部族長会議・司法府(裁判所)からな っている。これらの政府組織は憲法に基づいて仕事を行う。どの政府機関も憲法を超える力は持っていない。 憲法 憲法は、ボツワナがどのように統治されるべきかという事を示した法律によって成り立っている。憲法には、国民の 権利である選挙がどのように開かれるべきとか、各政府機関の権限の内容などが記されている。このようにして憲法は 政府の権力を制限し、国民を守るよう期待されている。憲法のもとでは、政府がやりたいことをやるということは認め られていない。もし憲法を破れば、国民は法廷に訴えることができる。66 年憲法は独立以来大きく変わることはしてい ない。しかし、それは必要なときに変えられ、その手続きも記されている。 憲法のもとでは、政府には 3 つの主要な機関がある。行政、立法、そして司法である。頂点には大統領がいる。 大統領 大統領は国の統率者で全ての面でボツワナを代表する。彼はまた、国会や内閣の長であり、軍隊の最高司令官でもあ る。実際には、彼が自分で軍隊を指揮することはないが、軍の長官を任命し自分のかわりに指揮をさせる。 大統領は以下のようないくつかの権限を持っている。 行政サービス・軍隊・司法・警察局などの政府機関の長官を任命する。 不逮捕特権がある。つまり犯罪に対する罪には問われない。 議会の召集・解散権を持つ。 143 法律の成立前に、全ての法案に署名しなければならない。 憲法を停止させる、非常事態宣言を行うことができる。 上記の通り、大統領がたいへんな権限を持っていることはあきらかである。 行政府 行政府とは法律が実行されるよう取り計らう責任を持つ政府機関である。大統領・補佐として副大統領・各大臣・各 省庁からなっている。各省庁は各大臣の指示に従い政府の仕事を行う。それぞれの省は大臣に率いられている。大臣は、 省の仕事を監督する官房長官の助言をうける。 内閣は、大統領・副大統領・各大臣・司法長官からなる。定期的に会議を行い、政府決定を行う。それから法律の範 囲内でそれらの決定が実行されるよう各政府サービス部門に指示する。 政府サービスには民生サービスと警察が含まれる。その最高官は官房長官で、大統領と内閣に仕える。政府サービス のメンバーは選挙で選ばれるのではなく、任命される。官房長官のように大統領に任命されることもあれば、政府サー ビス管理局(DPSM)に任命されるものもいる。 DPSM が設立される前には、政府サービスの指名は大統領に任命された政府サービス委員会によってなされていた。 いまでは、委員会の機能は DPSM の決定に対する公務員の訴えについて決定を下すことである。官房長官もまた公務 員からの訴えを扱う。 立法府、または立法部門 立法府とは法律を作る政府部門である。大統領と国会からなっている。65 年から 73 年まで国会は 31 人の議員から なっていた。72 年に憲法が改正され、1 つ議席が加わった。だから、74 年以降の総選挙では 32 の議席が争われた。83 年に憲法はさらに改正されて 2 つの議席が追加され、84 年の選挙では 34 の議席が争われることになった。89 年の選挙 時点では、議席数は変わらなかった。 94 年の総選挙のために、議員数を 40 に増やすさらなる憲法改正が行われた。65 年から国会選出の 4 つの特別枠があ るので、現在の議員総数は 44 である。 73 年まで、大統領は自分の選挙区を持っていたが、72 年の改正によりそれはなくなった。大統領は 1 つの選挙区の ためではなく全ボツワナのために働くべきだ、という観点から取られた措置だった。44 の選挙議席および特別選出議席 のほかにも議員がいる。憲法は、司法長官も国会のメンバーであると定めている。しかし、彼に投票権はない。彼の役 割は法律を作るときに法的な問題について議会に助言することである。国会の議長は、議員である必要はないのだが、 議会によってその内外から選ばれる。議長の主な仕事は、議会での討論を主導することである。 メリウェザー博士が最初の議長だった。つまり、国会のメンバーは現在では 46 人から 47 人なのである。 国会の機能は、ボツワナを統治する、法律や決議を作ることである。一度決議が通過すると大統領であれ誰であれ、 それを変えることはできない。決議を修正したり却下したりできるのは国会だけである。法案は、しかしながら、大統 領がサインによって承認するまでは、法律にはならない。もし彼は法案に不賛成ならば、さらなる議論のためにそれを 国会に送り返す。もし国会が大統領に不賛成ならば、6 ヶ月以内にそれを大統領に戻さなければならない。彼がまだ賛 成できなければ、国会を解散し新たな選挙を要求しなければならない。 国会はまた、政府が毎年どれだけの資金をつかえるのかということも決める。それは、予算の承認というかたちで行 われるのだが、予算は財務開発計画省によって準備され、その大臣によって国会に提出される。議会はまた、政府の借 入を認可する。年次予算の討論は議会が行う最も重要な議論である。 他の議会の機能として、次の 5 年間の政府の開発計画を承認することがある。これらが国会の主機能である。 部族長会議 保護領時代に、部族長の権限が減らされ始めた。にもかかわらず、部族長はよく力を維持したままだった。彼らは部 族内部の活動についてほとんど全ての面を管理していた。その主な理由は、植民地政府は部族を直接統治することに興 味を持たなかったからだ。 独立後、部族長はその権力を大きく失った。新政府は全国土を直接統治したがった。個々の部族よりもボツワナとい う国への忠誠心を作り出したかったのだ。それにより、国の統一感が生れる。そうするための方法として、ボツワナ国 内の全ての人を、権限が国中に行き渡る中央政府のもとに置いたのだ。すでに 63 年のロバツェ憲法会議の間に、部族 長たちと若い教育を受けた政治家との間で権力を巡る闘争があった。問題は、新しい民主政府のもとで、どれだけの権 限が部族長に与えられるかということであった。 部族長の 1 人バソエン二世は言葉が明瞭な部族長たちの報道官だった。 最終的には部族長にはいくらかの認可権は与えられたが、その権限は減らされた。普通のボツワナ人はまだ彼らを尊敬 していたので、ただ彼らを取り除くわけには行かなかった。 BDP は、部族長が強い影響力を持つ村落部で支持を受けたことが主な理由で選挙に勝った。実際には、何人かの部族 長が BDP を支持していた。だから、BDP 政権にとって部族長たちをひどく扱ってその支持を失うことは賢いことでは 144 なかった。部族長たちは、部族長会議の創設によって公式に認知された。しかしその力は弱かったので、彼らは不満だ った。彼らはイギリスの貴族院に似たもっと力のある機関を望んだ。政府は部族長たちの権力を減らしたかったので、 これに賛成しなかった。 国会とならんで部族長会議は議会の一部をなしている。しかし、部族長会議には法律を作る力はないので、議会は一 院制と考えられている。部族長会議は、植民地時代から主要な集団と見られていた 8 つの部族の部族長で構成されてい る。ングワト族・クウェナ族・カフェラのカトラ族・ングワケーツェ族・レテ族・トロカ族・タワナ族・ロロン族の 8 つである。 また、チョベ・北東・ハンツィ・カラハリの各地区の小部族長によって選ばれた 4 人のメンバーと、部族長会議によ って特別に選ばれた 3 人のメンバーもいる。ホブアマン・マレマ・ンスワツィの時代から、主要部族に次ぐと考えられ ていたいくつかの部族のメンバーからは、部族をこのように分けることに対する不平の声が上がっていた。彼らは、全 ての部族が同等の地位を与えられることを望んだ。 そういった変更が行われるかどうかの問題はまだ残ったままである。 立法府の一部とみなされているが、部族長会議は法律を作る力は全く持っていない。その主な仕事は、部族や慣習上 の問題について政府に助言をすることである。国会はそのような問題を扱う前に法案を部族長会議に送りその助言を受 けなければならない。国会はその助言を無視することもできるが、それは両院間の摩擦を引き起こし得るので、普通は その助言は重く見られる。 独立の初期には、部族長たちは、部族長会議を使って自分たちの力を増やそうとしたが、うまくいかなかった。バソ エン二世とリンチュウェ二世が彼らのリーダーだった。部族長会議の無力さに満足せず、69 年にバソエン二世は政府を 辞めボツワナ国民戦線のメンバーに加わった。彼はカンエ選挙区から立候補し、副大統領のクエット・マシーレ博士を 破った。バソエン二世の動きにより、政府はもし部族長を注意深く扱わないと彼らは対立政党に移り勝利を収めるだろ うということを理解した。多くの人々はまだ強く部族長たちを支持していたのだ。 部族長たちの権限削減 バソエン二世の成功にもかかわらず、BDP 政府は部族長の権限を減らす動きを続けた。30 年代のレイの植民地政権 が成し遂げられなかったことを、独立後の政権は成し遂げることができた。政府は、以前には部族長が行っていたいく つかの仕事を行う新しい管理機関を創設することにより、部族長たちの権限を減らしたのだ。 独立の直前の 65 年に成立した地方政府法は、66 年の 7 月以降全ての地区で選挙による議会を設立することを決めて いた。多くの部族長は、それらの地区議会が地方政府の中で部族統治よりも上位に位置したので、それに反対した。バ ソエン二世とリンチュウェ二世は、地方政府の新しい制度はボツワナの伝統に反していると論じた。彼らは今では BDP 政府に裏切られたと感じていた。 政府はそのような抵抗を無視し、68 年に部族土地法を成立させた。この法律は部族長が部族のために土地を保持しそ れを割り当てる権限を奪い取った。その権限は土地委員会に移った。土地委員会の議長は、部族長であってもなくても よいが、地方自治土地省の大臣によって任命された。また、68 年のマティメラ法では迷子の牛に関わる権限を部族長か ら地区議会に移した。 このように、独立以降部族長の権限は大きく減らされてきた。以前に持っていた権限は、中央政府や地区議会・土地 委員会・地区開発委員会といった幾つかの地方統治機関に引き継がれた。部族統治機関というよりも、このような地方 政府機関はおもに地区開発計画の計画や実行に責任を持つ。 政府は部族長たちを地区委員会の下に位置付けた。彼らはしかしながら、ツワナの習慣にしたがって事件を審理する 慣習法廷をまだ主宰していた。部族長たちはおとなしく権限の削減を受け入れたわけではなかった。カトラ族のリンチ ュウェ二世とングワケーツェ族のシーパピーツォ四世は特に率直に発言した。彼らとその仲間は、自分たちは部族の指 導者であり、普通の役人とは違うと考えていた。独立以来の権限喪失にもかかわらず、部族統治は特に慣習法の適用や 議論解決の習慣といって分野でまだ活発に活動していると証明された。政府は、慣習控訴法廷を設立することにより慣 習法の重要性を認めた。政府が王家の人々を裁判長に任命している限りは、これは彼らの興味を引いた。最初の裁判長 はバソエン・ハセイツィウェ(バソエン二世)だった。彼の死後はリンチェ二世に引き継がれた。この任命によって、部 族統治と部族長の重要性はまだ健在であることが示された。 裁判所と司法機関 政府の権限は、それを縛る法律によって支配されている。法を破ったことを告訴された人は誰でも法廷で審理される 権利を持ち、そこで有罪だと証明されるまでは無罪として扱われる。裁判所は法を維持する政府機関である。その仕事 は、犯罪者が審理され、釈放されるか罰せられるかを見届けることである。それはまた、政府の干渉なしに法律を自由 に説明し解釈することを期待されている。司法が立法や行政と分離し独立しているわけはこれである。 大統領でさえも、司法の仕事に干渉すべきではないのである。しかし、大統領は不逮捕特権を行使することができる が、それは法廷がその判定を許可してからである。また、もし議会が、法廷によるある法律の適用について満足しなけ れば、彼らはそれを修正することができる。こうして、政府は法廷の権力を避けることができる。 145 裁判所は、控訴裁判所・高等裁判所・軽犯罪裁判所・慣習裁判所といったいくつかの階層からなっている。公正な裁 判を確保するため、階層ごとに控訴することができる。控訴裁判所が訴えることのできる最高の法廷である。 86 年の 2 月、慣習控訴裁判所が設立された。それは裁判長に率いられる。それ以前は、慣習裁判所からきた事件は案 件ごとに設置される慣習控訴裁判所でときどき審理された。常設の慣習控訴裁判所はなかったのである。それはいつ開 かれても違う部族長が任命された。 慣習控訴裁判所の機能は、上級慣習裁判所やそれがない北東・ハンチィ・チョベといった所では下級慣習裁判所から 上がってきた事件をさばくことである。上級慣習裁判所は、その裁判所を主宰する主要な部族長のいる所にだけ存在す る。主要な部族長のいない所では、下級裁判所しかないので、直接慣習控訴裁判所に訴えることになる。この法廷から の訴えは、高等裁判所へ行き、それから控訴裁判所へ行く。 地方政府 中央政府は国のどこでもそしてなんでもできるわけではないので、中央政府の監督のもとで活動する地方政府に仕事 の一部を分け与える。地方政府はそこで扱えない問題を中央政府に任せる。地方政府の仕組によって、決定はすばやく 行われる。また、地方の人々が自分たちの政府に参加できるようになった。 66 年に、ボツワナは 9 つの地区に分割され、それぞれは地区役所によって運営されることになった。ハボロネ・フラ ンシスタウン・ロバツェ・セレビピクウェといった町は町役所を持っている。地区役所は、初等教育・公衆衛生・水の 供給・地区道路の維持といったことに責任を持つ。町役所は町において同じような仕事をする。必要に応じて地区や町 の役所はまた創設され得る。もっと発展すれば、それらの機能ももっともっと増えるだろう。例えば、ジュワネン町役 所は一番新しいものである。ハボロネは今では市なので市役所になった。 地方役所は、地区土地委員会・地区開発委員会(DDCs)・村落開発委員会(VDCs)の助けを借りて開発事業を進める。 DDC は 70 年代に村落開発を地区レベルで調整するために設立された。政府はまた、開発と土地に関する地区役人をそ れぞれ設置した。これらの役人は、地区役所と政府によって考えられた地区開発計画を起草する。地方自治土地住宅・ 財務開発計画の各省は地区役所と密接して働く。しかし、役所を管理しているのは、地方自治土地住宅省である。DDCs は VDCs の助けを借りて仕事をし、地区土地委員会は土地利用諮問協議会の助けを借りる。地区委員長に率いられた地 区行政府はと部族長に率いられた部族行政府は植民地時代から引き継いだ。 地方政府のこの仕組の狙いは、人々がその課題を民主的な方法で処理することと、彼らがその地域の開発計画の作成 に参加することを保証することである。政府はいくつかの開発計画に資金を提供することにより仕組が働くようにして いる。また、地区内に配置された役人を通じて助言を行う。金融開発計画省は、国の開発計画に含まれる地区開発計画 の準備に助言を与える。 選挙と政党 ボツワナは政治に民主制を敷いている。この仕組の主な特徴は国民がそのときどきに指導者をかえることができると いうことである。ボツワナでは 5 年に 1 回の総選挙によってこの仕組が働いている。ボツワナは、1 つ以上の政党があ る、多党制の国である。これらの政党は、政権を取るために自由に競争している。 選挙のために、国は選挙区ごとに分割される。選挙区の数は人口の増加に伴い増えている。1 つの選挙区から 1 人の 国会議員が選出される。選挙期間中には、全ての政党は選挙に勝つために自由に競争する。5 年か 10 年の間をおいて、 選挙区設定委員会が任命される。これは、新しい選挙区が必要かどうか決める公正な人々の集団である。選挙区が必要 だとされたら、その境界が設定される。委員会はまた、既存の選挙区の分割・廃止・合併を決めることもできる。その 狙いは、各地区の人口は増加や移動により変化するので、その変化を踏まえて議会がなるべく公平な人々を代表するよ うにすることである。 多くの選挙区を勝ち取った政党が、総選挙に勝利する。勝った政党は政府を組織できる。いくつかの選挙区で勝った ほかの政党は、国会で野党になる。野党は、野党の中でもっとも多くの議員を持つ政党の党首によって率いられる。数 年間は、BPP の党首である故フィリップ・マタンテが野党の指導者だった。BNF のバソエン(二世)・ハセイツィーウ ェがその地位を引き継ぎ、ケネス・コマ博士がさらに後をついだ。 野党の主な機能は、政府の支配がうまくいっているか確認すると共に、次の総選挙のために力を貯めて準備すること である。それは、議会の内外から政府を批判することができる。 独立後長い間、野党はほとんど議席を持っておらず、あまり機能していなかった。65 年の選挙から、BDP は全ての 選挙に勝ち、国会の大多数を維持してきた。 ボツワナの政治の大きな特徴は、全ての政党がその考えを自由に表現できることである。対立政党がその政治的信条 によって刑務所に入れられることはない。新しい政党は作られつづけている。82 年に前の副大臣で BNF の創設者の 1 人であるダニエル・クウェレがボツワナ進歩連合(BPU)を結成した。この政党は、84・89・94 年の選挙では BDP に敗 146 れたが、ンカンヘ選挙区で強い支持を受けていた。他にも多くの政党が結成されたが、それらは選挙民には限られた影 響しか与えなかった。多くの評論家が、たくさんの政党が乱立することは政権交代を望む人たちの投票を分割すること によって野党の力を弱めると論じた。例えば、後に BIP と合併して独立自由党(IFP)を作ったボツワナ自由党の結成は、 89 年の選挙で BNF にングワケーツェ南選挙区を失わせる結果となった。94 年の選挙では、BDP は 4 つの選挙区で過 半数以下の得票で勝利した。野党への投票が二つかそれ以上の政党に分かれたからである。野党を統合する試みは今の 所は失敗している。 ニュースメディア 80 年代初頭からの、非政府や独立系の報道機関の設立はボツワナの民主主義の強化に寄与した。メヒ・ボツワナガゼ ット・ボツワナガーディアン・ミッドウィークサン・フランシスタウンボイスといった独立系の新聞は、政府や政党の 活動について自由に書くことができた。彼らはまた、他の国内の展開についても批判的に分析できた。政府管理の報道 機関では報道されていない意見が非政府の新聞では現れることもある。 民主主義の強化 どんな民主主義もそれを支える人々に頼っている。幸運にも、ボツワナには民主主義の強化に積極的に興味を持つ多 くの集団や個人がいる。例えば、ボツワナ大学の民主主義研究会は、民主主義を改善するかもしれない提案をするとい う観点から、74 年以降選挙を研究している。その民主主義研究と協議は国内で広い支持を受けている。ボツワナの民主 主義の強さは多くのケースで試されている。二つの例がある。 選挙結果に満足していない候補者は高等裁判所に訴えることができる。84 年の選挙で、BDP の副党首である、ピー ター・ムシは、ハボロネ南選挙区で辛うじて勝つことができた。BNF のケネス・コマは、高等裁判所でこの結果を拒 否した。間違って開票されていない投票箱があることが発見された。結果、新しい選挙が行われ、コマが辛うじてムシ に勝った。 カーマ大統領が 80 年に亡くなったとき、ボツワナ憲法にしたがって滑らかな切り替えが行われた。大統領が在職中 に亡くなったときは、国会は議員の中から次の選挙までの大統領を選ぶ。BDP 政府の副大統領だったクエット・マシー レ氏が、34 のうち 32 票の賛成(二人の欠席)で、選ばれた。84・89・94 年の選挙で彼は大統領に再選された。マシーレ 氏の選出は重要な点を証明した。セレツェ氏の死後に平民であるマシーレ氏が王家のセレツェ氏の後を継ぐべきかとい う疑問が中央地区の王家の議員たちから出ていたにもかかわらず、 非王家の出身者がボツワナ大統領になれたのである。 ボツワナの多党民主制は今では 25 年以上続いている。それはよく機能し、多くの政治家と個人がそれを改善するた めのさらなる提案をしている。例えば、国会の議席配分は、獲得した選挙区数よりも政党の獲得した得票比率に基づい たほうがよいと考える人もいる。最近ではいくつかの地域で強い支持を受けても議席を獲得できない政党があるのだ。 最近では、BDP と野党の政治家が会談し、そのような提案を議論している。彼らはときには合意し、ときには合意でき ない。国会の直接選出議席の数の増加は、さまざまな政党の合意によって行われる。 まとめ 独立以降、政府を 3 つに分かれたしかし相補的な機関(行政・立法・司法)に分けている憲法にしたがってボツワナは 統治されている。行政と立法の指導者は 5 年ごとに行われる多党制の選挙で決められる。しかし、司法機関と公共サー ビス、部族長会議は、政党政治からは独立した人々によって運営されている。 147 第 33 章 独立からの経済発展 経済 独立した 1966 年の 9 月 30 日、ボツワナは世界の最貧国 10 カ国に数えられた。国土は長く続く旱魃によって荒れ果 てていた。新しい政府が引き継いだ国は、運営資金がなくそれゆえに基本ニーズのための資金をイギリスの援助や他の 外部からの支援に頼らざるを得なかった。教育や保健衛生といった社会設備はとても貧弱だった。結果として国を運営 する教育を受けた人はほとんどいなかった。 他の問題としては、国の地理的な位置によるものがあった。ボツワナは内陸国で、海岸線を持たない。独立時には、 白人人種主義政府に率いられた強力な隣国に囲まれていた。当時ボツワナは、南アフリカの通貨を使っていたので独自 の通貨を持たず、独自の金融政策を立てるための国立銀行もなかった。そのため、南アフリカ準備銀行の金融政策がボ ツワナにも適用されていた。それから、今でもそうだが、ボツワナは、1969 年以前には完全に南アフリカに支配されて いた南部アフリカ関税連合にも属していた。だからボツワナはその経済現象に関してほとんど管理をすることができな かった。 1969 年の国連総会における演説の中で、 セレツェ・カーマ卿はボツワナのひどい状況を以下のように表現した。 「国を運営するためにボツワナ人を訓練するという試みは実際にはなにもされていなかった。70 年にわたるイギリス の支配の間、 植民地政府はたった 1 つの中学校も作らなかった。 最低限の職業訓練すらもほとんど全く行われなかった。 道路や水道・電力供給といった産業の発展に必要なものは全く不充分だった。われわれは、開発計画が基づくべきボツ ワナについての基本的事実について知らないことが多くあるという、恥ずかしい立場にあった。 」 新しい政府は、これらの問題に直面しながら、それらの解決法を見つけようとした。政府の行動を導く考えは、政府 による”社会的経済的発展のための変革計画”の中に含まれていた。政府が狙いは、 • できるだけ早い時期に贈与による援助を終わらせて、ボツワナの独立を強化すること。 • ボツワナ人の雇用を創出し南アフリカへの出稼ぎ労働への依存を減らすため、発展の速度を増すこと。 • 国の発展について自立を推進し、ボツワナ人が国を運営できるよう訓練すること。 • マチタマやセレビピクウェの銅鉱山があるシャシェ工業団地の開発などで、経済の農業依存を減らすこと。 • 経済発展のための正しい計画を立てること。 • 発展に必要となる民主主義の環境を整えること。 経済状況は独立から大きく変わった。たとえば、1966 年にはボツワナの国内総生産は 3700 万プラだった。79 年ま でには 6 億 5 千万プラになり、93 年までには 70 億プラを越えた。ボツワナはまた、国民の生活改善についても独立以 降進歩した。しかし、全てのボツワナ人の生活水準を上げるにはまだ長い道のりがある。都市部にも村落部にもまだ多 くの貧しいボツワナ人がいる。これは、ボツワナ人には十分な仕事がなく財産を多く持っていないためである。数少な い金持ちが主な収入源である牛のほとんどを所有している村落部ではそれがとくに顕著である。 発展の狙い 独立以降、政府の主要な関心は貧困を減らし終わらせることだった。毎回、国家開発計画(NDP)の中で政府はどのよ うにこれを解決するかを述べている。かなり初期から、次のような狙いから政府の経済計画は導かれている。 • 全ての国民の生活水準を上げるためには、資金の流入が必要で、そのために早い経済成長が望まれる。富を国にも たらす主な活動は、家畜・鉱物・工業・耕作といったものがある。 • 経済的自立が狙いである。必要なものをあまりに多く輸入せずにすむように、ボツワナ国内で物を生産することに より、この狙いは達成され得る。 • 社会正義は発展のほかの狙いだ。すべての国民が発展の恩恵を受けなければならない。政府は、仕事や、保健衛生 や教育といった社会サービスを提供しようとしている。 • 政府はまた持続的な発展を目指している。そのためには富を賢く使わなければならない。 政府はまだ全面的にこれらの狙いを達成したわけではないが、努力を続けている。資金は充分でないので、ボツワナ は早期の開発計画のために他の国からそれを借りた。この資金は借款か贈与の形を取った。ボツワナが国際的によく知 られるようになるにつれて、年々ドナーの数は増えた。政治的安定・平和・よい管理のおかげで、ボツワナは外国の援 助を惹きつけることができてきた。資金はまた国内からもさまざまな方法で集められている。 1910 年に設立された南部アフリカ関税連合(SACU)は、初期の収入源の 1 つだった。それは、南アフリカ連邦・ボツ ワナ・レソト・スワジランドからなっていた。南ローデシアも最初は参加していたが、後に脱退した。SACU はこれら の国の間の貿易を奨励するために結成された。仕組は加盟国間のモノの動きには関税がかからないことである。参加国 は全て同じ関税制度を持ち、域外からの輸入関税収入を分け合った。それぞれの国は輸入されたものの価値によってお 金を受け取った。つまりたくさん輸入すれば多くの収入が入ったのである。 148 過去には、SACU の参加国がいくら受け取るのかということは、南アフリカが自分で決めていた。独立後ボツワナは 古い SACU の協定は南アフリカに有利だと申したてた。ボツワナ・レソト・スワジランドが関税収入のより多くの取り 分を得られるように新しい交渉が始まった。1969 年に新しい関税協定が合意に至り、ボツワナはより多くの収入を得ら れるようになった。関税収入は何年にもわたって増えつづけたが、それはとくに 1970 年代の初めに新しく開かれた鉱 山で使われる大きな機械のためだった。 新しい SACU による収入も一部寄与して、ボツワナは 1972~73 年にはじめて均衡予算を達成した。これは、ボツワ ナがこのときはイギリスの援助なしで予算を作れたことを意味し、自立への大事なステップだった。1969 年の協定によ り、ボツワナの若い産業を大きな南アフリカの産業との競争から守ることが可能になった。だから、ボツワナは、もし 国内で似たようなものを作っている場合には、その商品の南アフリカからの輸入を一定期間さしとめることができる。 その狙いは、若い産業が開かれた市場で競争するのに充分強くなるまで、それらを守り発展させることである。 発展の基礎の敷設 1966 年には発展のための資金は不足していた。事業経営・工場開業・農場の生産性向上といったことのための資金確 保は簡単ではなかった。スタンダードとバークレイズという 2 つの商業銀行は、その資金のほとんどを投資している南 アフリカから管理を行っていた。政府は、とくにボツワナ人に対して経済発展のための資金を貸し付ける銀行を設立す る必要性を実感した。そこで、1965 年に国立開発銀行(NDB)が設立された。アフリカ人の農民・協同組合・事業者に 資金を貸すことによって経済発展を奨励することが狙いだった。 最初は NDB の資金は充分でなかったが、ボツワナ人を助けるための金融機関は出発した。しかし、実際には、NDB は貧しい会員よりも富裕な会員により多くの利益を与えた。1980 年代と 90 年代の初期には、管理不足と借り手からの ローン返済の停滞により、収益をあげることができなかった。1993 年には、もっと効率的に運営できるように、外国企 業の傘下に入った。 独立したかなり早い時期に、政府はボツワナの適切な発展のために計画部門が必要だということを実感していた。 1965 年に政府は財務省の中に経済計画部を創設した。67 年には経済計画部にかわって開発計画省が創設された。70 年 には 2 つの省は統合された。それぞれの省庁はマシーレ副大統領に率いられた。新しい省の主な仕事は、計画の方向性 を与え、他の省庁を先導することだった。省は、開発計画を立て、国の財政を管理した。1968 年に国立経済諮問協議会 (NEAC)が創設された。そこには、政府と民間部門からの代表者が含まれており、マシーレ氏に率いられていた。NEAC の仕事は、開発計画が国の全てをカバーしており、全ての共同体に供給されていることを、確認することである。1968 年から 73 年までの最初の 5 ヵ年開発計画策定は大きな 1 歩だった。そのときから、政府は 5 ヵ年計画にしたがって国 を開発した。計画のおかげで投資家やドナーは政府が何をしようとしているかはっきり見る事ができた。それはまた、 政府が資源を正しく使って国を正しく発展させることを可能にした。 鉱山 1966 年の独立当時ボツワナは世界中でももっとも貧しい国の 1 つだったが、今ではよくやっている発展途上国の 1 つである。それはおもにダイヤモンドを中心とした鉱物資源のおかげである。ボツワナはダイヤモンド・銅・ニッケル・ 石炭・ソーダ灰などの大きな鉱脈があり、アスベスト・金・マンガンも少量ながら産出される。鉱物探索が行われてい るので、将来的にはもっと多くの鉱物が発見されるかもしれない。 独立前は、鉱物はさまざまな部族に属していた。独立後すぐに、新しい政府は、部族領域法により、鉱物資源が国に 属するように説得することに成功した。このおかげで政府はボツワナ全体での採鉱について標準的な政策を策定するこ とができたので、とても重要だった。また、鉱山からの収入を、ただ採れた地域のためだけではなく、全土の発展のた めに使えるようになった。 銅-ニッケル 1960 年の中頃までの鉱物探索で、収益性のある鉱物が発見された。1963 年にセレビで 65 年にはピクウェで大規模 な銅鉱山が発見された。1967 年にバマングワト特許会社(BCL)は、その地域には 3 千万トンの銅-ニッケルが存在する と発表した。1968 年に政府はセレビピクウェの鉱山を開発することを決めた。鉱山は雇用を創出し、国により多くの収 入をもたらすだろう。鉱山開発のおかげで、ボツワナは牛だけに収入源を頼らずにすむだろう。鉱山からの収入で、政 府は他の経済活動を発展させ、社会サービスを提供できるだろう。 鉱山の操業のためには、水・道路・鉄道・発電所・町といった社会資本を準備しなければならなかった。政府は 5500 万プラといった巨額の資金を借り、この社会資本を整備した。シャシェダムが建設され、鉱山まで 80km に及ぶパイプ ラインで水が運ばれた。道路と鉄道の支線がセルレと町が建設されたセレビピクウェを結んだ。 政府は経済を多様化させるために、セレビピクウェに事業を誘致することを狙った、セレビピクウェ地域開発促進計 画と呼ばれる計画を最近立ち上げた。これによりもし鉱山が閉まっても町は生き続けるだろう。計画はセレビピクウェ 149 での鉱山以外にも雇用形態を増やすことを目指している。セレビピクウェへの投資を奨励するために、商業や産業の会 社は免税やほかの優遇措置を与えられた。町から周りの地域や南アフリカへつながる交通網の改善のために舗装道路が 建設された。モトローツェでは、灌漑農業を促進するために農業計画が立てられた。商業・産業活動はよく発展したが、 多くの投資家は高い運送費のためにセレビピクウェでの仕事をしたがらなかったことが問題だった。そのためいくつか の事業は閉じられるかもしれない。 石炭 セレビピクウェで採鉱が始まるまで、モルプレの石炭には市場がなかったのだが 1973 年には採掘が始まった。石炭 は、BCL の発電所と精錬所に売られた。モルプレのそばにあるカスウェの大きな石炭鉱脈は、まだ充分な市場がないた めに開発されていない。モルプレ発電所はボツワナ全土の電力を、石炭を使って生産している。料理に使う薪のかわり など他の石炭の使い道を促進している。 ダイヤモンド 銅-ニッケルや石炭よりもはるかに重要なのは、1967 年にオラパで始まったダイヤモンドの発見である。1969 年にオ ラパのダイヤモンドを掘るためにデビアスボツワナ鉱山会社が設立された。生産が始まったのは 1971 年であった。77 年にはレタカネのそばでも採掘が始まった。76 年にはデビアスはジュワネンのそばで新しくとても大きなダイヤモンド の鉱脈を発見した。82 年に完全に操業が始まり、鉱山のそばに町が発展した。92 年にボツワナはデブスワナダイヤモ ンド会社という自前のダイヤモンド採掘会社を作った。ボツワナはまたダイヤモンドの加工もはじめた。82 年からダイ ヤモンド製造ボツワナ社は、ダイヤの切削と研磨を行っている。91 年にはセロウェにティーマネ製造会社として知られ るダイヤモンド切削会社が、デブスワナによって開かれた。ラザレ・カプラン・インターナショナルというもう 1 つの 切削研磨工場がモレポローレで開業した。それらの工場は鉱山と共にある程度の雇用を生み出した。 ダイヤモンドの採掘はボツワナ経済にとって転換点だった。国の発展のために使う資金をダイヤモンドからの大きな 収入で稼ぐことができた。今では輸出の 70%がダイヤモンド収入であるという事実からもその増加ぶりがわかる。ボツ ワナは、他の多くのダイヤモンド生産者と同じように、そのダイヤモンドをロンドンのデビアス中央販売組織(CSO)を 通して販売している。CSO は、異なった種類のダイヤモンドを売っている、たくさんのデビアスの子会社からなってい る。CSO は事実上世界中のダイヤモンドの価格を決めている独占組織である。これが、ダイヤモンドの市場がよく安定 している理由の 1 つである。ロシアと共に、ボツワナは世界の二大ダイヤモンド生産国の 1 つである。部分的にはその 結果として、デブスワナはデビアス国際役員会議に二つの議席を持っている。その二人はボツワナ政府によって任命さ れる。これにより、ボツワナはダイヤモンド産業の意思決定に参加できる。 他の鉱業 ダイヤモンドの採掘のほかにも鉱業はある。92 年にはスアパンでソーダ灰の採掘が始まった。ソワという新しい町が 建設され、フランシスタウンと接続する道路と鉄道が敷かれた。フランシスタウンのそばでは民間企業による小規模な 金の採掘が行われている。 政府は自分では採鉱はできないが、金の採掘を規制し管理する法律を作ることはできる。例えば、鉱山の利益のどれ だけが政府の取り分かということをそれぞれの会社と交渉することができる。政府は、鉱山からの収入をとくに村落地 域の開発に使うことに熱心である。今の所は、開発の多くは都市部で行われているので、政策の結果は適切だ。雇用を 創出し高い利益を守るため、政府はボツワナで加工できる鉱物はできるだけ加工することを決めた。ダイヤモンドの切 削研磨工場をはじめたのはそのためだ。 鉱業の利点と欠点 鉱業はたくさんの重要な利点を持っている。 ボツワナに多くの資金をもたらす。この資金は全ての種類の開発に使われる。 鉱業のおかげでより多くの道路や鉄道が整備された。今ではボツワナとナミビアのウォルビスベイを結ぶ鉄道建設 の話が進んでいる。これにより石炭や他の鉱物を輸出できる。 • ボツワナ人が鉱業から技術を学ぶことができる。 • 鉱山の周りで町が発展し、そこで事業や産業が設立される。 • 鉱業は多くのボツワナ人に職を与える。 鉱業に頼った経済の一番の欠点は、鉱物が枯渇したときのことである。そうすると、鉱山の周りの町は死んでしまう かもしれない。鉱物価格の下落は、国の資金を失わせるかもしれない。鉱業は他にもいくつかの問題を引き起こす。鉱 物の洗浄に使われた水は近くの川に流れ込み汚染するかもしれない。工場からの煙は空気を汚すかもしれない。これが 環境汚染だ。これは、鉱山地域の周りの人々や動物、植生にとって有害になりうる。環境汚染の危険を減らす方法を開 発している。しかしながら、環境破壊は全体的には止められていない。例えば、セレビピクウェ鉱山からの汚染は続い 150 • • ている。 鉱山が開発されればどこでも、そこで働く人や事業をする人が住む町が立ち上がる。地方から多くの人々が仕事を求 めてやってくるが、全てが仕事にありつけるわけではない。村に帰るかわりに、彼らは町の回りに住みつく。セレビピ クウェのボツヮベロのようなこれらの居住地は無断居住者街と呼ばれる。それらの居住地の多くは、学校・きれいな水・ 病院・下水システムといった設備が整っていない。子供たちは学校へ長い道のりを歩かねばならず、町まで買い物や健 康管理のために出かけなければならない。そこでは失業率が高く、そのような環境では犯罪が増加する。 無断居住者は無理やり村に返されることはない。そこで、病院・店・学校といった設備を準備することで彼らの生活 を改善する試みが行われている。無断居住者は彼ら自身でたくさんの生き延びる方法を見つけている。例えば、地酒を 売ったり、闇酒屋を開きビールやスピリッツを不法に売ったりしている。床屋になったり、たきぎや他のものを売った りする者もいる。非公式部門がそのような居住地や国のあちこちで栄えている。 所得政策とボツワナ銀行 富を増えたことにより、国が中央銀行を持ち、金融を管理したり金融政策について助言する必要性が明白になり始め た。また、給料や賃金が規制されていなければ次のようなことも起こり得ると言うこともはっきりし始めた。 • 町で給料を稼いだ人々は、少ししか雇用のない村落部の人々よりも、多くの収入がある。貧しい人と富裕な人の格 差は、とくに村落部と都市部との間で拡大する。これは、国の資源をボツワナ人の間でできるだけ平等に分配する という社会正義政策に反する。 • 民間部門の高い給料は政府から労働者を惹きつけるだろう。そして、国にはそれを運営する熟練した人々がいなく なるだろう。 • 規制されていない高い給料はもっと生産的な活動に投資すべき資金が余り残されていないことを意味し、より少な い雇用しか生れないだろう。 それゆえ、1972 年に政府は所得政策を実行した。その内容は、民間企業や公社は、政府がその従業員に払う給料より もあきらかに高い給料を払ってはならないというものである。家庭内労働や農場労働者を除いて、未熟練労働者には、 最低賃金制が導入された。この政策が遵守されるよう、賃金政策委員会が立ち上げられた。政策は賃金や給料を制限し 未熟練労働者を搾取から守ったが、失業や地方と都市の賃金格差の問題には対応していなかった。 1990 年には、大統領直轄委員会が開かれ、所得政策を検査した。その結果は、給料に対する厳しい管理は減ったが、 公社の給料はまだ上から下まで政府の給料に準じている。 ボツワナは、南アフリカ準備銀行の金融支配からまだ逃れられないでいた。政府は、ランド経済圏を脱し自前の中央 銀行と通貨を持つことを決めた。1976 年にボツワナ銀行が設立され、プラと呼ばれる新しい通貨単位が導入された。中 央銀行は商業銀行や他の金融機関の運営を規制することに成功した。それは、より多くの商業銀行や、保険会社を含ん だ他の金融機関の設立を奨励した。それは国のための莫大な資金準備も創出した。 交通と通信 良い社会資本や通信制度なしではどの国も完全に発展することはできない。新しい政府がかなり初期から道路建設に 集中してきたのはそのためだった。フランシスタウン-プラムツリー間とナタ-マウン間が終われば、ほとんど全ての 国内主要道路および隣国とつながる道路は舗装し終わる。近い将来にはボツワナ-ナミビア間とセレビピクウェから南 アフリカに抜ける道路も舗装されるだろう。これにより主要舗装道路網は完成する。 村落道路計画は、カラハリのように遠く離れたいくつかの地域を除いてほとんど全ての大きな村を道路で結ぶという ものである。そこにはたくさんの貧弱な道路や、全く道路のない所もある。いくつかの川では橋をかけることが必要で、 ここでもいくらかの進歩が見られる。道路の建設により、まだほとんどの交通手段がトラックであるカラハリのような 地域を除いて、国中を結ぶ良いバス網が発展した。バス会社はボツワナ人事業者によるものである。運送業も出現し、 国内や国外向けの荷物が運ばれた。ボツワナ人がどんどんこの分野に参入している。独立以降、国際線・国内線ともに 航空運送網が成長した。いまでは、ボツワナはハボロネ・フランシスタウン・マウン・カサネ・セレビピクウェの主要 空港から全ての隣国に空路で接続している。ハボロネ郊外のサー・セレツェ・カーマ国際空港には大きな国際線の飛行 機が発着している。カサネとマウンの飛行場もまた大きな飛行機が発着できる。マウン空港は観光産業の重要拠点であ ることから南部アフリカでもっとも忙しい空港の 1 つである。他にも国土のあちこちに小さな離着陸場がある。 民間航空局は、航空サービスの管理発展のために創設され、ボツワナ航空は国の空輸業を運営している。ボツワナ人 飛行士や他の航空サービス従事者の訓練が重要な進展である。 鉄道はまだ重要な交通手段である。それは、人も物も運搬する。植民地時代と独立初期には、本線であるラマタバマ からラモクェバナの両越境点間はローデシア鉄道によって運営されていた。80 年代に所有権は国有のボツワナ鉄道に移 った。その過程でエンジンや貨車といった回転資産も手に入れた。新しい空調設備付きの客車がロバツェとフランシス 151 タウンの間で運行されている。ボツワナ人が、列車を運行し他の補助サービスも提供している。新しい本社がマハラペ に建設された。本線と鉱業地区を結ぶ支線も建設された。 1986 年には深刻な問題が持ちあがった。 ボプタツワナホームランドがボツワナの列車の南アフリカへの通過を禁止し たのである。ボツワナは急いでラクーナに迂回路を建設しボプタツワナに入ることなく南アフリカの鉄道に接続できる ようにした。この事件は内陸国であることによって起こったことが示された。政治的や他の理由で、隣国により世界か ら大きく隔離され得るのである。幸運にも、最近では鉄道に関してはボツワナ・南アフリカ・ジンバブエの間には良い 協力関係にある。 郵便と通信制度 郵便と通信サービス(電話・電信・テレックス)は、とくに大きな町と村を結ぶことにより、独立以来大きく拡大し ている。1957 年以前には郵便制度は南アフリカの郵便制度の一部だった。57 年に保護領政府はマフィケンからの管理 をはじめた。63 年まで制度はロバツェで運営され、後にハボロネに移った。今日かなりの遠隔地を含めてほとんどの村 に広がった。長い間郵便局は貯蓄銀行としての役割もあった。92 年に議会はボツワナ貯蓄銀行を公社として設立する法 律を議決した。それは、以前郵便局によって行われていた銀行業を運営するようになった。郵便局もまた最近公社化さ れた。90 年には、ボツワナ通信公社(BTC)がその 100 周年を祝った。ボツワナの通信の歴史は南アフリカや南ローデシ アの歴史と関連している。通信は、電信線とともに始まり、後に電話線も一緒になって、ベチュワナランドを通して 2 つの国をつないでいた。長い間それは郵便局によって運営されていた。 80 年に通信制度を運営するためにボツワナ通信公社が設立され、郵便制度と貯蓄銀行の機能だけが郵便局に残った。 80 年にカリ丘に完成した衛星中継基地により制度はさらに改善した。これにより、ボツワナは南アフリカを経由するこ となく外部世界と通信することができるようになったのである。80 年代には長距離の電話線を使うかわりに、無線を使 った制度が開始された。この制度は国中の主な地点や国外ともつながっていた。結果として、電話・テレックス・ファ ックスを使って世界のあちこちにつながることはより簡単になった。86 年までに BTC は地方電話制度を開発した。こ の狙いは 500 人以上の住民がいる全ての村に電話のサービスを提供することだった。91 年までには、100 を越えるその ような村々に電話サービスを提供した。 産業と商業 独立時には、ボツワナにはほとんどなんの産業もなかった。ボツワナ肉委員会(BMC)がたった 1 つの大きな産業だっ た。わずかな小さな事業がフランシスタウンとロバツェにもあった。フランシスタウンの骨紛工場と皮なめし工場や、 ロバツェの小さな肉缶詰工場やメイズ・ミール工場もそこに含まれていた。ハボロネには何の産業もなかった。この状 況の主なわけは、 • ボツワナ人は産業や事業をお骨充分な資金を持っていなかった。 • ボツワナ人は産業を運営するのに必要な技能や知識に欠けていた。 • ボツワナの小さく各地に広がった人口では製品が利益を出せるような市場を提供できなかった。 • より安い製品を作ることができる大きな南アフリカ産業との競争にさらされていたこと。 • 南アフリカ関税連合のために、ボツワナは南アフリカとの競争を妨げることができなかったこと。 • ボツワナは希少な水と天然資源の不足に直面していた。 鉱業や農業に比べて産業や商業活動は未発展のままだが、いくらかの進歩は見られた。68 年に政府は商業と産業を拡 大することを決めた。73 年に産業発展のために商業産業省が設立された。はじめから、外国人がほとんどの産業を支配 していたことは実感されていた。政府はそれゆえにボツワナ人が産業に参加する方法を探そうとし、同時に外国投資も 奨励した。ボツワナの経済政策は民間企業や自由事業を奨励するよう作られていた。これは政府が直接物を生産したり 事業を行ったりすることはないという事を意味した。これにより、個人や会社がそれをおこなうことが奨励された。し かしながら、産業に関わるボツワナ人はほとんどいなかったので、政府はしばしば事業運営のために公社や政府出資企 業を作った。外国人が全ての企業を運営するのを止めるのが狙いだった。ときには、デブスワナのように、それらの会 社が外国企業と一緒に事業をすることもあった。 70 年に政府所有のボツワナ開発公社(BDC)が設立された。この会社のおかげで、政府は産業や商業の発展に直接参加 できるようになった。このようにして、政府は外国企業と競争し、収入を得ることができた。BDC はまた、ボツワナ 人の雇用を生み出し訓練する限りにおいては、外国企業と共同で仕事をすることも狙っていた。BDC は、 • 雇用を生み出し得る事業の設立を助ける。 • ボツワナ人を訓練する。 • 外国からの輸入品に替わる商品を生産する。 • ボツワナの資源を開発する。 • ボツワナ人のために新しい事業機会を生み出す。 152 BDC は、運輸・観光(ホテル産業を含む)・醸造・不動産開発・農業・金融サービスなどの領域におもに関わるように なった。全ての領域ですばらしい進歩を遂げた。BDC の支援を受けた事業としては、カラハリ醸造所・オーディ織物・ ボツワナタイル・マロソディ(繊維)・金融サービス・カサネ試験灌漑計画・クウェナコンクリート製品・ロバツェ地球 土木・ボツワナクラフト・ボルーミリング・ボツワナ家具などがあげられる。不幸にも、BDC は、村落産業をたくさ ん生み出すことや、重産業の発展を促進することはできなかった。 製造業は商品を製造するための工場という器や建物が必要だ。多くの投資家はその器を立てることができない。ボツ ワナに投資家を誘致したりボツワナ人が事業に参入できたりするように、 BDC は工場の建物を作り企業に貸している。 このおかげで、多くの会社がボツワナに投資するようになった。 73 年に政府は商業産業省の中にボツワナ事業開発部(BEDU)を創設した。それは 74 年に活動開始した。BEDU への 金融支援はスウェーデンの国際開発局や国連開発計画が行った。BEDU はボツワナ人が自分の事業を行うことを奨励し 訓練することを目指していた。BEDU の資産の多くは、ハボロネ・ピラネ・フランシスタウンといった場所に作られた。 ボツワナ人は、そういった施設で事業を行った。BEDU と国立開発銀行(NDB)は自分で事業をはじめることができない 貧しいボツワナ人のためにローンを供給した。NDB はよりボツワナ人の役に立つためにもっと資金を与えた。 BEDU は、隣国の大きな製造業との競争・正しく訓練された人々(特に技術や管理の分野で)の不足・国内の原材料の 不足といった問題に直面していた。しかしながら、いくつかの進歩はなされた。ボツワナ人は訓練され、BEDU の事業 はいくらかの雇用を生み出した。 BEDU の主目的はいつも村落地域での中小事業を助けることだった。 計画は、今では、 建物や原材料のまとめ買いを提供するかわりに、助言サービスを行っている。狙いは、ボツワナ人がその事業を改善す ることができるようにすることである。 政府は、主要な村を電化することなどにより、村落部に生産的な事業を設立することを模索した。村落開発の役人は、 村落地域の産業を促進する調整活動に任命された。政府出資の村落産業推進(RIP)は、カンエやパラペといった拠点で活 動し、村落地域にあった技術を開発するために働いている。また、事業助言サービスという機関は、現地の商人に助言 を与え、事業者のためのコースを行う。 82 年に政府は生産的な雇用創出活動を奨励するために、金融支援計画(FAP)を導入した。輸出品を生産する産業がと くに好まれた。この計画は、小規模、中規模、大規模の事業を助けた。小規模事業への支援はボツワナ国民だけだが、 他のものについては国民でもそれ以外でも支援を受けられた。FAP は、とくに職を生み出しボツワナ人を訓練するよう な新規事業に対し、金融支援を提供する。国民はこの仕組のもとで外国人と組んで事業を行うことができた。村落の事 業者、とくに女性はより優遇された。FAP は、産業的・商業的発展を刺激するのにある程度成功した。計画は町や大き な村を中心に国中に広がった。今までは仕事のなかった村落地域にも職が生れた。女性がたくさん事業に参入した。い くらかの経済多様化が起こったのだ。 FAP は弱点も持っていた。それは一般的に社会の中で貧しい階層よりも比較的富裕な層に恩恵を与えた。村落部を優 先したにも関わらず、村落、特に遠隔地の事業者よりも、都市部の事業者に恩恵が行きやすい傾向にあった。この失敗 の理由には、社会資本や交通網の未整備や、多くの貧しい人々のこの計画についての無知と言ったことがあった。計画 に含まれるいくつかの規則はあまりに複雑過ぎて、教育がほとんどもしくは全くない普通の人には理解できなかった。 にもかかわらず、計画は経済発展を促進しようと試みたのである。 FAP のような機関の活動や、一般的な経済成長の結果として、いくらかの産業が発展した。肉缶詰・皮のめしと皮革 製品・織物・被服・木や金属の家具・軽土木・ダイヤモンド切削などの鉱物加工といったものが例として挙げられる。 観光業もまたすばやく発展している。90 年に観光業を刺激する新しい政策が適用された。 ボツワナの建設業界は 70 年代と 80 年代に成長し、多くの人を雇用した。しかし、90 年代にこの成長は遅くなり、 産業内の雇用の数も減った。 ボツワナ人が最近いくらかの進歩をした領域といえば、協同組合活動がある。それは 60 年代に始まり、政府が支援 した。協同組合活動により全ての町とたくさんの村にスーパーや店ができた。消費者協同組合がもっとも成功した。牛 販売組合のような生産者組合は小さいが成長している。しかし、最近では、主に管理不足によるものだが、組合活動は 多くの問題に直面している。そのせいで、成果も上がっていない。 まとめ 一般的に、鉱業を除いた産業や商業は国の収入の中でほんの小さな部分にしか寄与していない。しかしその部門は多 くの人々を雇っている。民間と公社の事業は、長い間政府の雇用数よりも少なかったが、今ではより多く雇用している。 ボツワナは主に消費財を生産する軽産業で進歩を見せた。 機械や他の産業材といったものを作る重産業はほとんどない。 産業はほとんど都市部に集中しており、村落地帯には産業活動はほとんどない。商店の経営といった商業活動は村落 部にたくさんある。産業を所有したり経営しているツワナ人はほとんどいない。多くのツワナ人は、村落地帯でのたく さんの商業活動を形成している、小さな小売店を経営している。しかし変化は起こっている。新しい形の経済活動をは じめているボツワナ人もいる。不動産市場に参入しているものが増えているのだ。ボツワナ人所有の建設会社も現れて 153 いる。ボツワナ人の建設団体や他のコンサルタント業も作られている。ジンバブエ経済の強化や、とくに新生民主主義 南アフリカの成行きが、どのようにボツワナの産業発展に影響するのかという問題は残ったままである。外国企業がボ ツワナに来なくなったり、ボツワナにいる企業が南アフリカやジンバブエに去ってしまったりする恐れもある。これら の国には大きな市場があるためである。ボツワナの直面する課題はそれゆえに、いかに新しい状況下で経済発展を続け るかと言うことにある。 154 第 34 章 農業と社会開発 農業 都会化が進んだけれども、ボツワナの人口の半分以上は地方での農業活動に従事している。農業は多くのボツワナ人 にとって食糧・収入・雇用そして資本の重要なもとである。地方の人々は農耕と牧畜の両方の農業に従事している。牧 畜のほうが数は多く、割合は 3:1 である。ダイヤモンドが発見されるまでは、牛肉がボツワナの主要輸出品だった。 耕作も人々はそれに食料を頼っているので重要だ。農作物より家畜のほうが旱魃に強いため、牧畜のほうがより頼りに なる。しかしながら、それらの農業活動は関連している。 村落開発 鉱物からの収入の増加によって政府は村落開発政策を行うことが可能になった。1972 年の 3 月には村落居住者の大 部分は極度の貧困にあえいでいるとの認識があったので、政府は第一次村落開発政策を発表した。政府はまた人間や特 に牛の数の増加は、牧草地を破壊するだろうと認識していた。そこで、村落開発政策の狙いは以下のように定められた。 1. 正しい土地利用と管理手法で、土地と野生動物から持続可能な生産増加を行う。 2. 村落地域の市場開拓や信用供与を増やす。 3. 村落地域の水・教育・保健衛生そして福祉サービスといった社会サービスを改善する。 4. 村落地域での産業・サービス・工芸の促進によって可能な限り新しい雇用機会を創造する。 1970 年代には、政府は社会サービスの改善に焦点を当て、土地からの生産を増加させた。家畜部門は進歩する可能性 が大きかったので、農業生産はそこに集中された。家畜生産はまた国に収入をもたらした。家畜部門の発展を妨げる主 な問題は、(1)商業農場、(2)全人口の約 50%のボツワナ人が全く牛を持っていないという事実、だった。 家畜農業 牛の牧畜は収入を稼ぐ主要な農業活動だった。植民地政府によってはじめられた牛の健康管理の仕事は独立後も続け られた。政府は口蹄疫を管理し根絶するさらなる手段をとった。防疫フェンスが立てられ、獣医局はより多くのウイル ス接種を行った。ツェツェバエを殺すための殺虫剤散布が行われた。より多くのボツワナ人を訓練するために、政府は 獣医局を拡大した。1982 年にはボツワナ人が獣医局長になった。政府はまたよい家畜の健康管理は牛肉の質をよくする ということも実感していた。農業省はそのサービスを国の多くの部分に拡大し、牛の所有者に動物の健康管理について 助言するために役人を各地に派遣した。家畜の世話についての情報を広げるためにラジオ番組は工夫され、ニュースレ ターが始まった。 政府はまた、飼育の調査をし、人工授精センターを立上げ、実演農場を運営した。いくつかの動物健康センターが建 設され、よく育てられた雄牛・雄羊・山羊が助成価格で提供された。販売共同組合や屠殺場の設立により、家畜販売シ ステムは改善された。それらの結果として、1960 年代の旱魃後たいへん少なくなっていた牛の数は増加した。1970 年 代にはおよそ 300 万頭に達したが、80 年代の厳しい旱魃でその数は減少した。しかしながら旱魃後には再び数は増え 始めた。 今日、ほとんどの牛は少数のボツワナ人に所有されており、多くの人々は牛から多くの利益を得ていない。政府はそ れゆえにボツワナ人により多くの牛を持つよう奨励している。彼らは国立開発銀行からお金を借りることによりそうで きる。残念ながら、これもまたわずかな人々が使えるだけで、多くは富裕層の人たちである。何年間か口蹄疫の制御に 成功したあと、1977 年に病気は再発した。ボツワナ政府はより多くの防疫フェンスを築き、その病気に効果のあるワク チンを作っているワクチン研究所を設立した。病気のためにボツワナはしばらくの間牛肉をヨーロッパに売ることがで きなかった。 独立後に牛肉加工産業が新たに発展した。ロバツェ屠殺場は手狭になったので、1980 年代に新たにマウンとフランシ スタウンに北部地域のための屠殺場が作られた。ボツワナは今より多くの牛肉を輸出でき、農家はより簡単に販路を見 つけられる。これにより、牛を長距離移動させる必要はある程度少なくなった。運賃もまた減少した。 政府はまた農業省内に小家畜部を設立した。結果として、山羊、羊、牛の飼育は改善した。販売能力もまた改善した。 ボックスピッツ地域でのカラカル羊農場は着手に成功した。養鶏開発計画のおかげでボツワナは以前は輸出に頼ってい た鶏製品を自給できるようになった。乳牛は少ない成功しかおさめられなかったが、人口の多い地域のそばではいくつ かの乳牛牧場が現れた。 155 部族牧草地政策(TGLP) 部族牧草地政策(TGLP) 時がたつにつれ、牛の過放牧によって牧草地があれる恐れが出てきた。小規模農家や全く牛を持っていない人々は、 自分のためだけの井戸を掘ることができる富裕な家畜所有者に、土地を奪われる危険にさらされた。そこで政府は 1975 年に土地が正しく使われるように TGLP を導入した。TGLP の狙いは、 牧草地の劣化を止める。 家畜生産を増やす。 家畜所有者間の所得格差をなくす。 この新しい政策は、共有地域での牛の数を減らすことにより牧草を管理することと、生産を増やすことを、主な狙い にしていた。これは今まではどんな農業にも用いられていなかった新しい牧草地を開くのに用いられるだろう。その新 しい地域は商業農場に変わるだろう。それらは個人や共同経営体に 50 年間で貸し出される。そのような農場を借りる ためには、個人や団体は少なくとも 400 頭の家畜を持たなければならない。興味のある人間には国立開発銀行からお金 を借りる協定が結ばれた。この政策はまた、ほとんどもしくは全く牛を持たない多くのボツワナ人の利益を守ることも 目的とされた。それらの人々は主に離れた地域に住んでいる。彼らの土地を守ることと、共有牧場から大きな農家を締 めだし商業農場に向かわせることにより、 これは行われた。このようにして、 貧富の格差を縮めることが望まれた。TGLP によれば、モラフェもしくは部族地は 3 つに分けられる。商業地、共有地、そして保護地である。商業地は農場ごとに 分けられ、一方で共有地は以前と同じように部族の牛のための牧草地のままだった。保護地はほとんどか全く牛を持っ ていない人のために土地を与える。政府は各地区の土地委員会に新しい土地を割り当てる権限を与えた。 TGLP の結果 政府は 1980 年までに約 1,000 の農場が割り当てられることを期待していた。実際には、そのときまでにはたったの 17 件の契約が成立したに過ぎなかった。たくさんの人々が賃貸農場に興味を持っていたが、十分な農場は準備できなか った。政府がまだ十分な牧草地を見つけることができなかったためである。いくつかの地区では、人々が政策の実効性 に疑問を持っていたため、その実施に慎重だった。しかし新しい牧草地が不足したもっとも大きな原因は、所有者がい ないと思われていた土地の多くに、実際には所有者がいたことである。いくつかのケースでは、商業農場地に井戸を持 つ大農家は農場を借りたがらなかった。 牛が過密で過放牧された共有地はまだ貸し出されていない。この原因は一般的には、大農家がそこから立ち去らず、 彼らにそれを強制する法律が存在しないことである。いくつかの大農家は商業地に移動したが、共有地での放牧権は保 持したままである。これにより、このような大農家は他の共有地の居住者に比べて不公平な利点を持つことになった。 商業農場は遠隔地に割り当てられた場合もあった。そこでは、商業農場主がそこに住んでいる人々を追い出す危険があ る。もし政府が彼らを再定住させられなければ、彼らは土地のない人々になるだろう。 他の問題として、ボツワナ人はまだ牧畜に関して共同経営体という考えになじんでいないことがある。だが、貧しい 人々が TGLP 農場が必要とする 400 頭の家畜を獲得するためには共同経営体が必要なのである。結果は、一般的に、 すでにお金を持っている農家だけが農場を借りることができるようになる。政府の社会正義にかかわる政策に反して、 これは貧富の格差を広げた。 耕作農業 ボツワナの耕作作物は二つの部門で生産されている。とても小さい商業部門と、大きな伝統的部門である。耕作作物 の生産は、伝統的農法を使っているために生産性の低い、伝統的農家によるものがほとんどだ。食糧自給はいつも政府 の主要目標であるにもかかわらず、 人口の増加に伴い食料生産の自給は実現されていない。 以前の植民地政府のように、 新しい政府も耕作作物の生産にあまり注意を払わなかった。 とても遅れてそれははじまったのである。 1973 年以前には、 農業局は大農家の小さな集団を助けることに集中していた。 1973 年以降になると局はボツワナ人に新しい農法を教える ことを思いついた。ラジオ番組や農業実演者による農家への講座を通して、これは行われた。政府は実演者を訓練する ためにセベレにボツワナ農業大学を作った。1976 年には新しくより良い農法を学ぶために調査研究所が設立された。 ボツワナ人が直面した 1 つの問題は、国内には彼らの作った作物のよい市場がないことだった。彼らは余った作物を 南アフリカに売るために商人に売った。飢饉のときにボツワナ人は以前に売った作物をもっと高い値段で買い戻した。 このため、彼らはより多くの作物を作る気をなくした。この問題を解決するために政府は 1974 年にボツワナ農業市場 委員会(BAMB)を設立した。BAMB は穀物を適切な値段で買い、それを貯蔵する。その一部は輸出され、残りは必要な ときにツワナ人に適切な値段で売られる。この過程を実行するために政府は BAMB を金融面で支援する。これにより ボツワナ人がより多くの作物を作ることを奨励する。 落花生やひまわりといった商品作物を生産するボツワナ人もいる。綿花は、チュリ・ブロックのタラナ農場や、バン グワケーツェ地区のマバディサで栽培されている。柑橘類はチュリ・ブロックで 1944 年から栽培されていたが、1970 156 年代の後半まで政府は貧しいボツワナ人農家を助けようとしなかった。オクセンやロバを持っている人々だけが農業か ら利益を得ることができたのだった。 1979 年に政府は貧しい小農家を対象に耕作地開発計画(ALDEP)という新しい計画を導入した。その主目的は、 • 食料生産を増やし、食糧自給や余剰作物の輸出ができるようにする。 • 人々が職を求めて町に入ってくることがないように、10,000 人から 12,000 人の職を創り出す。 • とくに小農家の所得を増やす。 ALDEP は 10ha 以下の小農家を対象にしている。彼らの多くは資金や耕作用の動物や道具が不足している。農民は、 ロバやオクセンといった耕作用動物・フェンス用資材・耕作道具を買うときや、農地の水資源開発のときに、NDB・ BAMB そして協同組合の力を借りた。支援は総費用の 85%をカバーする贈与の形を取った。しかしながら、ALDEP は 80 年代の旱魃にひどく影響を受けた。一般的には、ALDEP の農家は、他の農家よりもよい結果を残し多くの作物 を生産しが、他の収入に頼らなければならないような多くの農家を助けることがまだできていない。 食糧自給を達成し、国の食料戦略を実行するために、政府は大規模商品作物農業を奨励している。国の食料戦略の狙 いは栄養失調の減少および撲滅である。 それは、 旱魃になったときの良い方法や旱魃後の農業の回復について考案する。 500ha といった大きな商業農場は、ムパンダマテンガ地域の作物生産に限られている。NDB のローンと FAP の援助が その地域の農民に与えられる。ムパンダマテンガはボツワナの穀倉になりうる。 1985 年には、政府は降雨利用耕作加速計画(ARAP)という中規模農家を対象とした 5 ヵ年農業計画を立ち上げた。切 り株除去・旱魃時雇用・種子と肥料・フェンス・水資源開発といったことに財政支援が与えられた。農業省の作物保護 部は鳥・害虫・雑草・ブッシュの侵入といったことから作物を守る。 多くの農民が ARAP の恩恵を受けている。旱魃時に ARAP の援助は多くの農民に行き渡った。不確実な雨のため、 乾燥地では充分な食料を生産できない。だから政府は灌漑農業を増やす方法を探した。他の主な発展は、ボツワナへの 稲作の導入である。1978 年には、オカヴァンゴ・デルタの水を使った稲作の方法をボツワナ人に教えるよう、中国政府 に頼んだ。その狙いは、食用と輸出用に充分な米を育てることだった。この計画は労働者の反対を含む多くの問題に直 面した。ボツワナ人は稲作に伴う重労働になれていない。しかしながら、ボツワナ人は水田を割り当てられ、その運営 がうまくいくまで政府は財政支援を与えるだろう。 遠隔地開発計画は村落開発のもう 1 つの重要な側面である。遠隔地の居住者はこの計画のもとで支援を受ける資格が ある。対象者は、確認できるコトラがある村には住んでいない人々で、ほとんどはコイサンの人々である。その主目的 は、彼らに暮らしを提供することである。彼らのほとんどは TGLP や他の商業農場により土地を奪われた。そのような 場合、追い出された人々は失った土地に対して金銭的補償を受けなかった。近くの村に移り住むものもいれば、低賃金 で商業農場や牧場で働くものもいる。自助努力計画が導入され、彼らはどこに住んでいるかにより耕作地や家畜が獲得 できるようになった。工芸や簿記などの小さな事業が奨励された。 政府は遠隔地開発計画を実行するため、特別な部を立ち上げた。全体的な狙いはこれらの人々をボツワナ人社会の主 流に招き入れることである。 村落開発のためには多くやらなければならないことが残っているが、また多くのことが成し遂げられた。たくさんの 計画が立ち上げられ、いくらかの雇用が創出された。社会的サービスは提供され、商業活動は成長している。よくでき たインフラが整えられ、信用銀行業も、ボツワナ協同組合銀行・NDB・ボツワナ建築協会・ボツワナ貯蓄銀行・ボツワ ナ貯蓄協同組合協会や商業銀行によって整った。市場開拓は BAMB やボツワナ協同組合連合によってなされている。 水資源供給 植民地時代に始まった水資源供給計画は独立後も拡大されてきた。大きな新しい計画は、ある程度の大きさの村ほぼ 全てにきれいな水を供給することだった。水道管が水を村のあちこちに供給する。これにより、女性が長い距離水を運 ぶ必要がなくなった。きれいな水は村人のよりよい健康をもたらした。鉱山産業と大きな町の発展により、もっと多く の水資源の供給が必要になった。多くのダムが建設され、拡張された。シャシェダムとモピピダムがいい例で、共に鉱 山のために建設された。 ハボロネダムは拡張され他のダムと接続された。 ラモツァのそばの井戸からも水はやってくる。 地方では、家畜や園芸のために小さなダムが作られ、井戸が掘られた。村落水資源供給計画は、うまく成功した。地 下水調査により、人口集中地帯のための水資源が発見されている。 都会化 経済成長により、町も成長した。独立前には、ロバツェとフランシスタウンだけが都市部だった。それに、首都にな る前は小さなキャンプ地だったハボロネや、セレビピクウェ、オラパ、ジュワネンが加わった。それらの町の人口は急 激に増えた。1991 年の国勢調査からはいくつかの大きい村が都市として分類された。この再分類によれば、少なくとも 住民の 75%が家畜による農業生産に遺贈していない村は、都市となった。 157 都市住民の新世代が徐々に成長している。村で行われていた伝統的習慣は都市では消え、新しい産業文化が発展して いる。賃金雇用の成長により、労働力の移動も増えている。それは、よい賃金と労働条件を促進することにより労働階 級の利益を守るのに重要な役割を果たしている。 社会開発 植民地時代にはたいへん貧弱だった社会サービスは大きく改善した。政府は最も重要なサービスである教育と保健衛 生に集中してきた。狙いは、国中のより多くの人々がこれらのサービスをできるだけ安価で利用できるようにすること である。 保健衛生 独立前には、保健衛生はほとんど全て宣教師によって行われていた。独立後、政府がその活動をほとんど引き継いだ。 都市部にだけ高価な病院を立てるよりむしろ、政府はほとんど全ての村に村落健康センターやクリニックを建設した。 政府はまた、病気をただ治療するよりもむしろ予防を目指した。だから公共衛生官が訓練され、村に送られた。彼らは 人々により健康な生活を送ることにより病気を避ける方法を教えた。家族計画官は、どのように家族の大きさを決める か、子供の間隔はどれくらいおくのか、そして子供をどのように養い世話をするのかと言うことを母親に教える。これ らにより母親と子供の両方の健康が確保される。普通の子供がかかりやすい病気に対する免疫法は無料で提供される。 政府は健康科学研究所を設立し、看護士を訓練した。ボツワナ人の医者や、薬剤師・理学療法士といった他の医療専門 職が、外国留学できるように奨学金が提供された。看護教師を育てるための学位コースが大学で準備された。フランシ スタウンのニャンガバグウェ病院・ハボロネの改装されたプリンセスマリーナ病院・そして新しく開かれたハボロネプ ライベート病院では、深刻な病気の治療のための紹介サービスも提供している。ボツワナでは適切な治療を受けられな い患者は南アフリカの専門病院へ送られる。しかしながら、医者や専門療法士・理学療法士といった熟練スタッフの不 足は問題として残ったままである。 もっと最近では、政府は障害者の世話にその注意を向け始めた。つい最近までそれらの人々は教会かいくつかの私立 組織でしか受け入れられなかった 教育 独立当時、ボツワナ人でしっかり教育を受けていた人はほとんどいなかった。政府は、国を運営する人材を提供する ために教育システムをすばやく拡大することを決めた。そのため、たくさんのお金が初等・中等そして大学教育に費や された。いくつかの新しい小学校や中学校が建てられた。ボツワナ人が国内や海外の大学で学ぶことができるように政 府から奨学金が与えられた。 政府の初期の狙いは少なくとも初等教育は望む人全てに提供することだったので、 1980 年に小学校の学費は撤廃され た。初等教育を終えた全ての子供が、中学校や職業訓練校に入れるわけではないことが問題だった。問題は、教育を受 け続けられない子供のために何ができるかであった。彼らはどうしたら生産的で役に立つ市民になれるのだろうか? 1963 年にパトリック・ファン・レンスバーグはセロウェのスワネンヒルで新しい種類の学校をはじめた。その当時、 彼は南アフリカからの難民だったが、今はボツワナ市民である。彼は学校をはじめるのに海外の民間団体からのお金を 使った。スワネンヒル学校は、他の学校とは異なった種類の教育を行った。普通の中学校の科目は教えられたが、他の 実用的な科目も教えられた。こうして、ボツワナ人はただ学術的な訓練を受けるだけでなく、手に職を付けることも奨 励された。生徒は自助努力の精神を持つことを望まれた。しかしながら、そこでも初等教育のみで終わったさらに勉強 したい生徒の全てに教育を与えることはできなかった。 ファン・レンスバーグは、適切な時期に初等教育修了者のためのより多くの中学校は建設されそうになく、そうした 生徒には仕事もないという事を実感した。 1965 年に彼はスワネンヒル学校のそばでセロウェ職業訓練校を始めることを 決めた。職業訓練校は中学校とは別のものだった。最初は建築学校から始まり、のちに金属工芸、織物、大工などが加 わった。時がたつにつれ、シャシェなどのほかの場所でも職業訓練校が導入され、徐々にその考えは国中に広がった。 これは「ユースブリゲイド運動」として知られるようになり、独立後さらに広がった。職業訓練校の狙いは初等教育修 了者を、自分の労働で生活でき教育を受けられる生産的市民にかえることである。これは仕事と訓練の両方を通して行 われた。生徒は先生と一緒に自分の手で物事を学んだ。普通の教室での講義はほんの短い時間だった。生徒は自分の教 室とドミトリーを自分たちで建てた。職業訓練校の運営資金は彼らが自分たちの仕事で稼いだ。職業訓練校の狙いはそ の費用を全て稼ぐことだ。それは自立のよい例である。 職業訓練校は、以前は輸入されていた商品を生産した。このようにして、彼らは国のために富を創り出し、国の発展 に寄与した。彼らは商品を生産するのに木材や皮といった国内の素材を使った。そのうえ、職業訓練校は信用でき、誇 り高く、役に立つ市民である若い男女を生産した。職業訓練校はとてもうまくいっていたので、政府は金融支援を与え ることにした。職業訓練校の直面した大きな問題は、職業訓練校以外の出身者が手作業をしないので、生徒が手仕事を 158 見下し始めたことだ。管理の失敗による問題もあった。このためいくつかの職業訓練校は閉鎖された。しかしながら職 業訓練校はまだ存在しており、よりよくするためにいくつかの変化がなされている。 政府が職業訓練校へ支援を注ぐようにブリゲイド開発センター(BRIDEC)が設立された。BRIDEC は、時間割開発や 教師・管理者の訓練を通して職業訓練校を助けている。それはまた職業訓練校の管理や金融能力の強化も行っている。 職業訓練校は雇用開発・産業化そして村落開発といった点で重要な役割を果たしつづけている。 1975 年 教育委員会 職業訓練校の考えは、ボツワナの教育システムの変革を促進した。ボツワナ人が教育により手に職を付けてより生産 的になることを、政府は望んだ。だから、ボツワナの教育制度を調査し、どのように改善するかという勧告をおこなう ために、1975 年に教育に関する委員会が開催された。勧告の 1 つに、学校で実用的な授業が導入されるべきだ、とい うことがあった。 委員会はまた 9 年間基礎教育制度の導入を勧告した。その狙いは、制度により全ての生徒が 9 年間の基礎教育が受け られるようになることである。政府と地域の協同で運営されている地域中学校(CJSS)は、国中で始まった。ゆくゆくは 初等教育を終えた全ての子供たちがそこに入らなければならないという事をそれは意図していた。 1992 年までに学齢に 達した子供の 90%以上が小学校に入り、そのうちの 90%は CJSS に進んだ。1994 年には、CJSS の教育の質を高める ために、3 年間の中学位が再導入されることが決まった。 高校の数は CJSS よりも少ないので、CJSS を卒業した生徒の多くは高校に進むことができない。また、それらの生 徒を受け入れる技術大学の数も充分ではない。 全てのボツワナの学校で、訓練された教師、とくに科学教師の不足という問題に直面している。政府はボツワナ人教 師を訓練する一方で、外国から移住してきた先生を使っている。小学校の先生は教師訓練大学で訓練され、中高の教師 は教育大学とボツワナ大学で訓練される。 職業訓練や実用訓練は、教育システムの中でもっとも弱い部分のままである。職業訓練校はほとんどない。多くの要 求される能力は、公共事業局のような政府機関や、ブリゲイド、もしくは仕事を通して獲得される。結果として技術能 力を持った労働者が不足している。今ではいくつかの学校で職業訓練が行われている。ボツワナ経営商業研究所は会計・ 商業・事業管理・秘書実務・タイピング・速記などの科目を教えている。 非公式教育:学校外での教育 1973 年に、普通に公式な中学校・高校に入れなかった生徒が中学と高校の卒業資格を取れるようにボツワナ・エクス テンション・カレッジ(BEC)が開校された。授業は本や教材が生徒の元に送られる、通信教育の形を取った。生徒は宿 題を終わらせ、先生に郵便で送り返すのである。 1978 年に、BEC は新しい非公式教育局(NFE)に吸収され 4000 人の生徒が同時に勉強できるようになった。1979 年 には、たくさんの字の読めない大人が読み書きできるようにするために、NFE は識字教育をはじめた。計画を実行す るために各地区に助手が任命された。ボツワナ大学の大人教育局では大人を教える教師が訓練された。 大学教育 学位教育では、ボツワナ大学(ボツワナ・スワジランド大学(UBS)が両政府間の協定により閉鎖された 1982 年に設 立)に生徒は進学した。UBS は 1975 年にボツワナ・レソト・スワジランド大学(UBLS)が解散した後に作られた。こ の解散は、レソトが UBLS から引き上げレソトのロマにあった主な校舎を取り上げたために起こった。ボツワナとスワ ジランドはこれにより自分たちの大学をすばやく拡大することを強いられた。これらの大学が 1982 年の 7 月に完成し 独立した大学になった。 ボツワナ大学にはいくつかのコースがある。大学はまた国内提携機関のために学位を授与する。教師訓練大学・教育 大学・看護学校の卒業生は UB の学位を受ける。UB の農業コースはボツワナ農業大学で行われ、工学コースは今では UB に統合されたボツワナ・ポリテクニックで行われていた。 ボツワナ国内では行われていないコースを受けるためには、政府は学生を外国に送り出す。今では独立時と比べて全 てのレベルで教育されたボツワナ人が多くいる。UB は国の発展のためにもっと必要とされる人材を供給する。いまで は、彼らは政府や産業の中で重要な位置を占めている。教育分野では大きな成果を成し遂げた。 まとめ 独立以降の急速な都会化にもかかわらず、ボツワナの人口の半分以上は地方での農業活動に従事している。政府は計 画を立て村落開発の促進と貧困の軽減に努めている。全ての計画が彼らの目標に沿ったものではないが、一般的には彼 らに利益をもたらす。全てのボツワナ人はまた教育と保健衛生の改善により利益を得ている。 159 第 35 章 ボツワナと世界 外交政策の必要性 全ての国は、外交政策と、国内もしくは対内政策を持っている。国内政策は国境内の全ての事柄を見ている。外交政 策はそれ以外の世界との国としての関わりを見ている。それはまた、国がどのようにして世界の問題を解くために他の 国々と協力するかということも見ている。他の国々との関わり方を国際関係と言う。国々は相互依存しているので、ど の国も孤立して存在することはできない。そのため、国々は協力し、共に働かなければならない。 国が外交政策を策定するとき、その政策が国益を損なうことがないようにしなければならない。それゆえ、どの国の 外交政策も自己利益により導かれている。国々はお互いに関わるとき、普通相手の利益を認識している。国々は、国外 において自国の利益を見るために使節団を交換する。国々はまた、時事の意見を交換するために、国際組織を形成する。 ボツワナの外交政策 ボツワナの外交政策 ボツワナが独立したとき、人々は、ボツワナはあまりに南アフリカに経済的に依存しているので、独立した外交政策 を持つことはできないだろうと考えた。実際、南アフリカはボツワナが自分たちを非難しない外交政策に従うことを期 待していた。しかし、ボツワナは世界で賞賛され尊敬される独立した外交政策を策定した。その政策は独立初期にはそ れほどはっきりしたものではなかった。カーマ大統領は、1969 年のルサカでのアフリカ連合(OAU)の首脳会談で、 その政策を明確にした。 「しかし、われわれは現在の弱い経済状況によって、われわれが正しいと信じることをいわなく なることはない。われわれはアパルトヘイトを憎んでいることを隠さない。われわれはアパルトヘイトという人種差別 政策の理論と実践を非難してきた。ボツワナは、自己決定、人間の尊厳そして地球上の全ての人々の平等といったもの の否定を指示しない。 」 外交政策は内閣の助言に従い、大統領によって決定される。外務大臣は外交政策を運用する外務省を統率する。ボツ ワナの大使たちは、外国で政策を運用する。ボツワナの外交政策は、どのように地域問題やもっと広い世界の問題を扱 うのか、というものだとみなすことができる。 ボツワナと南部アフリカ ボツワナの地理的条件はその外交政策に大きく影響する。独立当時、新共和国は黒人を抑圧する少数派白人が支配す る国々に取り囲まれていた。彼らは国内のアフリカ人が独立したり政治に参加したりすることを望まなかった。彼らは みんな人種差別を実践していた。ボツワナの、独立アフリカ人国家への北側へのたったひとつの地理的接点はチョベ・ ザンベジ川を挟んだ小さな地点カズングラだけだった。 ボツワナはまた交通・通信システムを南ローデシアや南アフリカにたより、その経済は大きく南アフリカに頼ってい た。これらの全ての要因のためにボツワナはその人種差別的隣人たちに攻撃されないように注意しなければならなかっ た。ボツワナの外交政策はそれゆえに白人国家に報復されないように注意する一方でそれらの国家を非難するという両 面を伴った。同様にボツワナはこれらの国々の抑圧された人々を支援するが、少数白人政府を刺激しないように注意し た。この注意深い政策はいつも成功したわけではなかった。例えば、1977 年にはローデシアの白人政府がボツワナを何 回か攻撃した。 人種差別とアパルトヘイト ずいぶん初期から、ボツワナは人種差別への嫌悪を隠さなかった。カーマ大統領はローデシア(元南ローデシア)と南 アフリカの人種政策を公式に非難した。これが、ボツワナ経済が深くそれらの国々に深く依存しているにもかかわらず 彼らと外交関係を樹立しなかったわけである。 ボツワナの対南アフリカ政策は最小の政治関係、おもに経済関係であるが、にとどめることだった。ボツワナで使わ れていたモノの多くは南アフリカで作られたものだった。ボツワナはまた、モノを南アフリカもしくは南アフリカ経由 で他国に輸出し、輸入品の多くは南アフリカを通してやってくる。南アフリカ政府はときどきボツワナ人が南アフリカ に入るのを良くわからない理由で妨害した。 ボツワナと白人支配下のローデシアの関係は南アフリカの場合と同様だった。2つの国の経済は相互依存していた。 もっと重要なことに、長い間ボツワナはローデシア所有の鉄道路線(ボツワナ国内では鉄道内の人種差別を禁じていた が)に頼っていた。ローデシア人の自由なボツワナ入国は、解放戦争中にローデシアが継続的にボツワナを攻撃している 間は中止された。そのため、1978 年には全てのローデシア人はボツワナへの入国ビザを要求された。 160 解放闘争 ボツワナは、多くの国々と同じように、問題解決には平和的な手段を優先する。これはまた OAU が南部アフリカ問 題の解決のために選んだ方法でもある。OAU は、1969 年にルサカ宣言という文書の中でこの政策を宣言した。しかし ながら OAU はまた、もし白人少数政権が南部アフリカの人々を自由にすることを拒絶すれば、解放運動の武装抵抗を 助長することになるだろう、と述べた。 ボツワナは解放に関して OAU の政策を支持した。それは、平和的手段を選好するが人々が自由のために戦わなけれ ばならないことを理解していることを強調していた。 ボツワナはまた、 強力な白人政府から攻撃される恐れがあるため、 解放運動がボツワナの国内から戦うことは許すことができないことを理解していた。しかしながらボツワナは、解放運 動を承認し、その地域での人種的抑圧による難民を助けた。ボツワナはまた、OAU によって承認されともに南アフリ カ独立のために戦っていたアフリカ民族会議(ANC)と汎アフリカ会議(PAC)を、承認した。ボツワナはまた独立前のア ンゴラ、モザンビーク、ナミビア、ジンバブエといった国々の解放運動を承認し、以下のような方法で彼らを助けた。 • ボツワナは難民に対して開放政策をとり、全ての本当の難民を受け入れた。ローデシア解放戦争の最盛期には、ロ ーデシア難民の数は 1974 年の約 2000 人から 1979 年の約 23,000 人に増加した。南アフリカやナミビアといった 国からもまた難民が入ってきた。難民とは抑圧や戦争のために母国から逃れてきた人々のことである。ボツワナは 彼らに家を与え、食料を与え、事業を行うこと許し、仕事を与え、学校や大学に入ることを許した。ボツワナ国籍 を取る資格があれば、彼らの希望に応じてその資格を与えた。 • ボツワナは抑圧された人々に外交的・政治的支持を与えた。それは、OAU や UN といった国際機関で抑圧反対の 声をあげることを意味した。 • ボツワナは他の前線諸国とともに、解放運動の南アフリカでの平和的生活の交渉をする支援を行った。彼らはまた、 70~80 年代にかけてのジンバブエ愛国戦線や南西アフリカ人民機構(SWAPO)の独立交渉を助けた。 • ボツワナは他の解放運動と共に全南アフリカの真の独立を信じまた主張した。これが、ボプタツワナやトランスカ イなどのバンツースタンを拒絶した理由である。 90 年から 94 年の間にボツワナや他の前線諸国は南アフリカ人の非人種主義、非アパルトヘイトの南アフリカ建国交 渉を助けた。国連大使のジョセフ・レクァイラを交渉下の南アフリカの OAU 監視役に任命し、その後の非人種主義的 選挙まで監視させた。 制裁政策 南アフリカにアパルトヘイトを終わらせるために、OAU と UN は諸国に南アフリカ向けの経済制裁を行うよう要請 した。ボツワナは制裁に反対しない一方で、それを行うことは自国経済を破壊することになるので不可能だった。ボツ ワナ経済は南アフリカ製品に頼っているので両国の貿易を止めることはできなかった。それに加えて、南アフリカはそ こを通過する輸出入を妨害することにより、厳しくボツワナを罰することができた。それゆえにボツワナの政策は、各 国の利益が守られる限りで制裁を行いたい国が行うことには反対しない、ということだった。 ローデシアの場合には、1965 年にイアン・スミスが不法に独立を宣言したあとの白人政権に対して、ボツワナはいく つかの制裁を発動した。例えば、70 年代初頭にはチョベ地域以外のボツワナ全域でタバコやビールなどのローデシア製 品を禁止した。この地域は当時ほとんど全面的にローデシア商品に依存していた。ローデシアの建設会社はボツワナで の操業を許されず、石油や武器はボツワナを通ってローデシアへ行くことが禁止された。 前線諸国 1974 年にアンゴラ、ボツワナ、モザンビーク、タンザニア、そしてザンビアからなるアフリカ諸国は”前線諸国”と名 づけた地域グループを形成した。彼らは、自由への闘いへの援助に密接にかかわっていることからそう名付けた。その 主な役割は解放運動の全ての交渉において支持や助言を与えることだった。例えば、ジョシュア・ンコモのジンバブエ アフリカ人民連合(ZAPU) とロバート・ムガベのジンバブエアフリカ国民連合(ZANU)を愛国戦線に統合するのを助け た。彼らは、OAU、UN や他の組織に解放闘争への助言を与えた。 1990 年以前は、前線諸国はジンバブエとナミビアの解放運動に集中していた。セレツェ・カーマはその中で積極的な 役割を果たした。そしてマシーレ大統領は彼の仕事を引き継いだ。ジンバブエは 1980 年に、ナミビアは 1990 年に独立 した。どちらの国も独立後前線諸国に参加した。 国連大使のジョセフ・レクァイラをナミビアでの国連の特別代表であるフィンランド人のマルティ・アティサリの代 理にたてることにより、ボツワナはナミビアの脱植民地化に目だった役割を果たした。彼ら二人は国連変革支援団の助 けを借り、ナミビアの独立への変革を監督した。 白人政権の反応 1977 年にローデシアはボツワナに何度か攻撃を仕掛け始めた。ローデシアはボツワナが自由戦士キャンプ(それはボ 161 ツワナにはなかったのだが)の設立を許したと主張した。北部、そして北東部ボツワナは大きな危険にさらされた。ボツ ワナ人や難民たちは殺され、財産を破壊された。例えばフランシスタウンの ZAPU 事務所は破壊された。1978 年には レショマで 15 人の若いボツワナ人兵士が殺された。ボツワナは UN に訴えることにより対応し、UN は助言のための 調査団を送った。UN は参加国にボツワナを助けるよう訴えた。諸国と UN は、難民高等弁務官を通じ、難民の支援を 行った。他の国々は石油貯蔵タンクの建設などにより支援を行った。 ボツワナはまた、1977 年にローデシアの侵略から国を守るためにボツワナ防衛軍(BDF)を設立した。軍は、警察から 人材を引き継いだ。最初の司令官は、モンパティ・メラフェ陸軍少将(後に中将に昇進)だった。メラフェ氏が 1989 年の 選挙後の BDP 政権で大臣に任命されたとき、イアン・セレツェ・カーマ中将は彼から司令官を引き継いだ。軍は成長 し、今では小さいながらも空軍も持っている。 ジンバブエ解放戦争が終わったとき、BDF の主目標は南アフリカ軍の侵略から国を守ることに変わった。1980 年以 前には南アフリカからの本格的な攻撃はなかったが、時には彼らはボツワナ国内に入り、ときどきは国境を挟んでの銃 撃戦があった。ときどき南アフリカ政府は、ボツワナによる攻撃反対演説に反対した。ときには、線路が十分でなくな るなどにより、ボツワナの交通事情に困難をもたらした。 1980 年代には、南アフリカ軍は多くボツワナに攻撃をしかけ、ボツワナの財産を破壊し罪のないボツワナ人や南アフ リカ難民を殺した。南アフリカは、殺された人々は解放軍の活動家で、ボツワナ国内に隠れそこから南アフリカを攻撃 していたのだ、と誤った主張をした。南アフリカの攻撃は 1989 年に F.W.デ・クラークが南アフリカの大統領になって 終わった。 最近では、BDF は、動物保護区内の野生動物を密猟者から守るといったような平和的な目的に使われている。1992 ~93 年には BDF はアメリカや他の国の軍隊と共にソマリアでの国連の平和維持活動に参加した。他の部隊はモザンビ ークでの国連平和維持軍に参加した。国連軍は、長く苦しい内戦の後にモザンビークで自由で公正な選挙が実施される ようにした。これらの展開によりボツワナの国際的評価は高まった。 ジンバブエとナミビアでの解放戦争の終わり、そして南アフリカでのアパルトヘイトの終わりに伴い、ボツワナ人の 間ではモレポローレの近くでの高い費用のかかる大きな空軍基地の建設への議論が起こった。政府は現在と将来のため に基地は必要だと議論した。 南部アフリカ開発協力会議(SADCC) SADCC は前線諸国によって結成された。1977 年より早くこれらの国々は経済的・政治的発展において協力すること を決めていた。SADCC の設立に関する多くのことがボツワナ政府によってなされた。ボツワナ大統領であるセレツェ・ カーマ氏はすべての主要な準備会議の議長だった。最初の会議は 1979 年の 5 月にハボロネで開かれ、前線諸国の外務 大臣が出席した。次の会議は 1979 年 7 月にタンザニアのアルシャで経済閣僚によって開かれた。これらの 2 つの会議 は、他の南部アフリカ諸国が招かれ SADCC 経の参加が要請された 1980 年のルサカ会議への道を準備した。この会議 もまたセレツェ・カーマが議長を務めた。 SADCC の狙い • • • • • • • • • SADCC の主な狙いは SADCC 地域以外の国々、とくに南アフリカへの経済的依存を減らす。(アンゴラとタンザニア以外の SADCC 諸 国では南アフリカに経済的依存をしていた。) SADCC 諸国間の貿易を促進し、そのために地域統合を進めること。 SADCC 諸国が開発計画への外国援助を得るためにまとまること、そして SADCC 諸国の利益になる協同計画を進めること。 ボツワナは SADCC の本部であり、事務局はハボロネに置かれた。その仕事のために以下の機構が置かれた。 全ての参加各国政府の首脳によって構成される首脳会議は、SADCC の仕事を先導し管理する最高組織。 参加国の経済担当閣僚で構成される閣僚会議は、全体の政策について責任を持つ。これは、SADCC のさまざまな 機関を調整・監督し、その予定や計画を承認する。また、SADCC の計画を実行するために、委員会や他の組織を 立ち上げる。 閣僚会議によって立ち上げられ、首脳会議によって承認される部門別委員会は、割り当てられた仕事を実行する。 例えばボツワナはハボロネに基盤を置く南部アフリカ農業調査協力センターに責任を持つ。モザンビークはマプー トに基盤を置く南部アフリカ交通通信委員会(SATCC)に責任を持つ。他の参加国もそれぞれ責任を割り当てられて いる。 年次諮問会議は、SADCC 政府と国際援助機関で構成される。この会議で SADCC は計画への資金拠出を求める。 会議はまた既存の計画をその強さと弱さを立証するために批判的に検査する。会議は SADCC 政府とその協力者が 開放的にそして率直に SADCC の仕事について議論できるようにする。 首脳会議によって任命された執行事務官に統率されるハボロネの小さな事務局は SADCC の任務の全体の調整に 162 責任を持つ。それは、閣僚会議と首脳会議に支援サービスを提供する。さらに、SADCC の決定が実行されている か、そして日々の仕事が行われているかを確かめる。 SADCC は、エネルギー・農業・天然資源・農業調査と訓練・交通通信・漁業・林業と野生動物・食料生産と貯蔵・ 家畜生産と動物疾病管理・土壌および水資源保全と土地利用・産業と貿易・人材育成・工業そして観光業といった広い 範囲の活動を取り扱っている。 結果 SADCC のいくつかの計画の実行は前進した。例えば、1985 年にボツワナに設立された南部アフリカ農業調査協力セ ンターはいくつかのよい仕事をした。かなり初期から、SADCC は交通通信システムの改善に優先順位を与えていた。 ほとんどの SADCC 諸国はよい道路と通信網によってつながっている。 おそらく SADCC の最大の成果は、どのように発展の計画を共にたてられるかを地域の国々の間で議論できるように なったことだろう。SADCC は団結という感覚を作り出した。徐々に地域の人々は共通の歴史と目的そして同様の問題 を共有していることを実感するようになった。将来というものが彼らを束ね、協力と自立によりその問題解決に挑まな ければならない。この精神から SADCC の後継である南部アフリカ開発共同体(SADC)は生れた。 南部アフリカ開発共同体(SADC) 1992年の8月17日、 ウィンドホックに集まったSADCCの首脳は、 SADCCに替わる南部アフリカ開発共同体(SADC) の創設に関する条約に署名した。この変化は地域協力のより強い関与を指し示している。その狙いは、SADCC によっ てはじめられた仕事を強化することである。その目的は、 • 発展と経済成長を成し遂げ、貧困を減らし、南部アフリカの人々の生活水準を改善する。 • 共通の政治的価値、仕組、制度を開発する。 • 平和と安全保障を促進し、守る。 • 全体的な自立と参加国の相互依存を通して発展を促進する。 • 生産的雇用と地域の資源利用を促進する。 • 環境を守る。 • 地域の人々のつながりを促進する。 SADC は SADCC のために作られた構造と制度を通して機能する。それは SADC がその目標を成し遂げるかどうか 見届けるために存続する。 ボツワナと広い世界 ボツワナの対外政策は主に南部アフリカに焦点があるが、それはまた地域外の国々との関係にも関心がある。 アフリカ連合(OAU) ボツワナは OAU の一員であり、積極的な役割を果たしている。OAU のルーツは汎アフリカ運動に求められる。この 動きは、19 世紀に黒人の住んでいる所ならどこでも世界中で起こった。そのもともとの狙いは人種差別に対して全ての 黒人を統合することだった。ヨーロッパやアフリカで勉強していた若いアフリカ人は汎アフリカ主義の考えをそこで学 んだ。彼らは第一次世界大戦後にそれらの考えをアフリカに持ちかえった。 アフリカでは、汎アフリカ主義はアフリカ全土での脱植民地化を目指していた。「アフリカ人のためのアフリカ」とい うことが各地で叫ばれた。1950 年代と 60 年代には、ガーナのクヮメ・ンクルマがこの運動の主唱者だった。彼は、統 一を通してアフリカは他の大陸と渡り合うのに充分な経済力・政治力を持つことができるだろうと考えたので、アフリ カの統一を望んだ。1957 年にガーナはサハラ以南アフリカにおいて独立を得た最初の植民地になった。多くのほかの植 民地が独立したあとで 1963 年 5 月に OAU 設立のための会議がエチオピアのアディスアベバで開かれた。本部はアデ ィスアベバにおかれた。 OAU の主目的はアフリカ諸国の協力を通して強いアフリカのために働くことである。この協力は経済的・政治的そ して軍事的な面で行われる。統一を確保する方法の一つは、OAU がアフリカ諸国間の紛争を解決することである。他 の OAU の目的としてはまだ開放されていない地域の開放を助けることがある。OAU はまだ全ての目的を成し遂げた わけではないが、アフリカの脱植民地化には成功した。OAU の問題は一般的に以下の原因で起こる。 • 主に諸国の異なった視点と自己利益が原因である、アフリカ諸国間の困難。 • 外部の大国による干渉 • 大きい大陸で多くの国が一緒に働こうとするときに起こる困難。 ボツワナは UN や他の OAU の会議でアフリカの利益を守るために他の OAU 諸国と協力する。ボツワナは OAU か ら利益を受けてきた。例えばローデシア戦争の時、金融支援として OAU が支えるアフリカ開発銀行から借款を受けた。 163 他の国際組織 非同盟諸国 ボツワナは非同盟諸国に参加している。第二次世界大戦後、アメリカとソ連という超大国は世界の管理と支配を求め て競争した。彼らは世界をブロックやグループに分割する勢力圏を作ることによって競争を行った。西側諸国はアメリ カに率いられ、東側諸国はソ連に従った。この競争は 1946 年から 89 年までの東西冷戦をもたらした。この期間に世界 は二つのブロック間で本当の戦争が起こるのではないかと恐れた。 第三世界(途上国)の何人かの指導者は東西どちらとも与さずに世界平和のために働く運動をはじめようと決めた。こ れは非同盟諸国と呼ばれるようになり、1961 年にユーゴスラビアのベオグラードで最初の会議が開かれた。これは、ユ ーゴスラビアのチトー・エジプトのナセル・インドネシアのスカルノ・ガーナのンクルマの各大統領とインドのネルー 首相によってはじめられた。 この運動は冷戦の終了を助けることにより世界平和のために働くことを狙いとした。 また、 とくに大国によって、参加国への内政干渉が行われることに反対した。世界が勢力圏やブロックに分割されることに反 対し、参加国が大国に命令されることなしに独立した外交政策を取ることを期待した。 ボツワナは、南部アフリカの解放闘争において OAU を支持した非同盟諸国で積極的な役割を演じてきた。1977 年か ら 79 年にかけてボツワナは運動の行政委員会のメンバーだった。非同盟であることを示すためにボツワナは異なった 政治体制を持つ国々と外交関係を樹立した。ボツワナにはアメリカやイギリスといった西側諸国からソ連のような東側 の国までの大使館があった。 ソ連の崩壊と東ヨーロッパでの大きな改革による、ソ連の共産社会主義の放棄は冷戦の終結をもたらした。冷戦が終 わったのでロシアとアメリカの関係はよくなった。非同盟諸国は主に冷戦への反応だったため、運動は今は変化した世 界情勢にどのように適応するかということを見届けるために存続している。 国連 ボツワナは国連に所属しており、いくつかの方法でそこから利益を得ている。国連開発計画といった国連機関はさま ざまな開発計画に資金援助している。世界食料計画は飢饉のときに食料を提供してくれる。国連子供基金は学童や他の 弱い人たちを養う。難民高等弁務官はボツワナ国内の難民を世話する。国連はまたボツワナに必要に応じてローデシア 戦争のときのように政治的・外交的支援をしてくれる。1995 年にはボツワナは国連の最高意思決定機関である安全保障 委員会の非常任理事国になった。 英連邦 英連邦の中でボツワナはほかの参加国が直面する問題の解決を助けている。それらは主に政治的そして経済的問題で ある。例えば 1980 年には英連邦諸国はジンバブエの問題解決を助けた。英連邦諸国はまた、経済発展・教育・健康衛 生そしてスポーツといった領域でどのように協力できるかということを議論する。 ヨーロッパ連合 ボツワナが経済的に利益を得ている国際機関といえば、かつてはヨーロッパ経済共同体(EEC)と呼ばれ、西ヨーロッ パ諸国からなる、ヨーロッパ連合(EU)がある。1972 年にイギリスが EEC に加入したとき、英連邦諸国も、EEC 諸国 と貿易しいくつかの商品をよい価格で輸出することが許された。この協力を促進しより良い価格を得るために、ボツワ ナを含むアフリカ・カリブ海そして太平洋諸国は EEC と交渉する機関を設立した。ボツワナは牛肉をヨーロッパに輸 出している。EU はまたボツワナの経済発展のために資金援助や借款を実施してくれる。 最近では、マシーレ大統領や他の政府交換はボツワナの国際関係を強化している。大統領は、有益な関係を築くため に世界中の多くの国々を訪れている。彼の政治的手腕は国際的に認められているので、彼はさまざまな面で国際的、地 域的な組織に参加している。 最近では彼はモザンビークでの平和協定やレソトの民主主義の回復に重要な役割を演じた。 彼はまたアフリカ世界連合の共同議長に就任した。この連合は 1990 年に発足したのだが、サハラ以南アフリカ諸国、 発展途上諸国、そして世界銀行のような主要金融機関からなる非公式なグループである。この組織では、参加者のアフ リカの発展にかかわる意見を交換する。この狙いは参加者たちがアフリカ諸国の直面する問題をより良く理解すること である。そのような理解を通して、アフリカ諸国にもっと援助が行き渡るよう望むのである。マシーレ大統領はまた、 民主主義・発展・透明性にかかわる連合の最も重要な委員会の 1 つを主宰している。この関与はボツワナの国際的評判 を高めた。 まとめ ボツワナは、経済的に南アフリカとつながった小さな国だが、南部アフリカに関してはたいへんはっきりした外交政 策を取ってきた。また、国際問題においても役割を演じてきた。これによりボツワナは国際的に評価を得た。ボツワナ の外交政策の主眼は、そこでの出来事が直接ボツワナに影響する、南部アフリカに置かれている。 164 関係地図 ボツワナ 主要河川 165 主要部族の管理地域と境界争い 166 主な略語 植民地関係 BSACo 英国南アフリカ会社 BWCC 英国ウエストランド免許会社 BSAP 英国南アフリカ警察 CDC 英連邦開発公社 RST ローンセレクション信託会社 BCL バマングワト免許会社 LEGCO 立法評議会 宗教関係 LMS ロンドン宣教師協会 DRC オランダ改革派協会 政党 BPP ボツワナ人民党 BDP ボツワナ民主党 BNF ボツワナ民族戦線 南アフリカ政党 ANC アフリカ民族会議 PAC 汎アフリカ会議 その他 BBP ベチュアナランド国境警察 BMC ボツワナ肉委員会 UBLS ボツワナ・レソト・スワジランド大学 167 ボツワナ主要部族 系図 マティバ(?) ングワト族 (セロウェ) カーマ一世(?) タワナ タワナ族 (マウン) カリ(?) モレミ一世 カーマ二世(?) レツォラテーベ一世 セコマ一世 カーマ三世 セコマ二世 モツァクモ モレミ二世 カマネ ラディタディ モフォエン セコマ・レツォラテーベ カフェラのカトラ族 (モチュディ) ツェケディ・カーマ クウェナ族 (モレポローレ) セレツェ・カーマ ピラネ カマシャネ イアン・セレツェ・カーマ モツァセレ ングワケーツェ族 (カンエ) セチェレ一世 ラモノ コシディンツィ リンチュウェ一世 カフェラ ハセイツィーウェ一世 セベレ一世 バソエン一世 モレフィ クウェナイツィーレ セチェレ二世 シーパチィーソ二世 バソエン二世 カリ セベレ一世 168 リンチュウェ二世 イサン・ ピラネ 略年表 年 北部ボツワナ 南部ボツワナ ジンバブエ 南アフリカ コイサン人の世界 AD 0 頃 牛・羊の導入・土器づくりの始まり 250 頃 バンツー語族の到着 300 頃 ブローダーストローム遺跡 500 頃 バンツー語族の流入(西の流れ) 600 頃 チィゾの人々(初期鉄器時代) 600-1000 頃 ディヴユの遺跡(西の流れ) ブローダーストローム型遺跡 1000 年頃 トウツウェの人々(~1150) エイランドの人たち(~1750) チィゾの人々(初期鉄器時代) ヒョウの小山の人たち 1100 年頃 ツワナ族・ソト族の形成 1150 年頃 マプングブウェの人たち 1200 年頃 初期鉄器文明の滅亡 1250 年頃 マンボの人たち 1300 年頃 グレートジンバブエの統治下 1450 年頃 グレートジンバブエ滅亡 グレートジンバブエ ツワナ族の流入 グレートジンバブエ滅亡 チブンドゥレ王朝(~1840) 1600 年頃 金の交易が終わり始める 1663 年 ポルトガル人がチブンドゥレ朝 のムタパを退位させる。 ニチャシケの王位簒奪 1700 年頃 カランガ族の成立 1750 年頃 1795 年 フォフ族連合体の形成 ムタパ王朝 ツワナ諸部族の成立 タワナ族のングワト族からの分離 1799 年 最初の宣教師団のケープ到着 1800 年頃 象牙が交易品の中心になる 1808 年 宣教師団、カンエに到着 1815 年 ズールー族国家の成立 ディファカーネの始まり(~ 1840) 1817 年 1823 年 エイランドの人たち(~1100) 新しいバンツー語族の到着 (ツワナ・ソト・ングニ族) コロロ族の襲撃(~26) 169 1830 年 1832 年 ボーア人の北上 ンデベレ族の襲撃(~40) 1840 年 ンデベレ族の定住 1841 年 リビングストン、クドゥマネに到着 1847 年 タワナ族でレツォラテーベ一世即位 1849 年 セコマ一世、カ族を攻撃 1852 年 ボーア人の襲撃・ディマウェの戦い 1863 年 カーマ三世がンデベレ族を破る 1865 年 コロロ王国の滅亡 1866 年 タチ地区での金の発見 サンド川会議 キンバリーでダイヤモンド発 見 1867 年 1871 年 カトラ族、モチュディに遷都 トランスヴァールからの ンデベレ族撤退 1873 年 1874 年 レツォラテーベ一世逝去 1877 年 ペディ族がボーア人を破る イサンドールワナの戦い(~ 80) 1879 年 1881 年 マジュバヒルの戦い 1884 年 1885 年 ベルリン会議 タワナ族タオヘ川に移る ベチュアナランド南半分の英国保護領化 ベチュアナランド国境警察創設 ウィットウォータースランド で 金発見 ルード免許の発行 1890 年代にかけてローデシア へ 1888 年 グロブラー事件 1889 年 ングワト族ファラツェに遷都 コポン会議 英国南アフリカ会社設立 1890 年 ベチュアナランド北半分の英国保護領化(6 月) 1891 年 緊急勅令で行政府設置布告の公布 1892 年 ローデシア鉄道建設計画許可 1893 年 免許委員会の設置 1895 年 バソエン、カーマ、セベレのイギリス渡航 ジェイムソンの襲撃(12 月) 1896 年 牛疫の発生 1899 年 家屋税の導入 1902 年 ングワト族セロウェに遷都 1904 年 サーガント勧告 タイガークルーフ大学の開設 1906 年 セコマ・レツォラテーベ退位 ボーア人共和国に自治権付与 バンバラ族の反乱 1907 年 人頭税の導入 アングロ・ボーア戦争(~02) 1910 年 1912 年 南アフリカ連邦成立 救援贈与の停止 1914 年 アフリカ民族会議の設立 第一次世界大戦(~18) 1915 年 タワナ族マウンに遷都 1919 年 原住民税の導入 原住民(後にアフリカ人)諮問委員会の設置 1920 年 ヨーロッパ人諮問委員会の設置 1922 年 所得税の導入 1923 年 カーマ三世逝去 1925 年 セコマ二世逝去 1926 年 ラツォーサ事件 1927 年 原住民行政府の設置 170 1928 年 バソエン二世即位 1929 年 植民地開発法 1931 年 セベレ二世退位 教育諮問委員会設置 1932 年 レイの布告 タチ訓練施設の開設 1933 年 ピム委員会 1934 年 レイの布告の承認 1937 年 BPATA の結成 1938 年 アフリカ人税の導入 原住民金庫布告 1939 年 第 2 次世界大戦(~45) 1943 年 新布告の発表 1948 年 セレツェ・カーマの結婚(9 月) 1949 年 ハリジン委員会の設置 公務員組合の結成 1950 年 合同諮問委員会の設置 セレツェ・カーマのイギリス追放 1951 年 モエン民族学校開設 1954 年 アレクサンダー委員会 ロバツェ屠殺場の再建 1956 年 援助贈与の再開 セレツェ・カーマ帰国 1957 年 地方議会布告 1959 年 ツェケディ・カーマ逝去 ベチュアナランド保護領連邦党結成 1960 年 ロバツェに粉砕製粉所開設 LEGCO の設立 ベチュアナランド人民党(BPP)結成 1961 年 最初の LEGCO 会議(6 月) 1962 年 最初の 5 ヵ年計画 連邦党消滅 ンポ BPP 追放 ボツワナ民主党(BBP)結成 1963 年 アパルトヘイトの開始 シャープビル銃撃戦 アフリカ連合結成 1963 年 ロバツェ会議(7 月) 1964 年 ボツワナ独立党結成 1965 年 ボツワナ教師組合への改組 部族長会議の創設 第一回国政選挙(3 月) ハボロネ遷都開始 ボツワナ民族戦線(BNF)結成 国立開発銀行設立 セロウェ職業訓練校開校 1966 年 憲法制定会議(2 月) ボツワナ共和国独立(9 月) 旱魃発生(~67) 1968 年 国立経済諮問委員会の創設 セレビピクウェ銅山採掘開始 1969 年 関税同盟協定改正 1970 年 ボツワナ開発公社設立 1971 年 オラパ・ダイヤモンド鉱山生産開始 1972 年 所得政策の実施 171 1973 年 モルプレ炭田採掘開始 商業産業省設立 ボツワナ・エクステンション・カレッジ開校 1974 年 前線諸国結成 1974 年 ボツワナ事業開発部活動開始 ボツワナ農業市場委員会の設立 1975 年 教育委員会開催 1976 年 ボツワナ銀行創設 1977 年 口蹄疫の勃発 ローデシア軍、ボツワナ攻撃 1978 年 ボツワナ労働組合連盟の結成 非公式教育局開設 1979 年 南部アフリカ開発協力会議開催 1979 年 イアン・カーマ族長即位 耕作地開発計画導入 1980 年 衛星中継基地開設 1982 年 ボツワナ進歩連合結成 ジュワネン・ダイヤモンド鉱山操業開始 ダイヤモンド製造ボツワナ社操業開始 金融支援計画の開始 ボツワナ大学開校 1985 年 降雨利用耕作加速計画立上げ ジンバブエ独立 1990 年 1991 年 ナミビア独立 ティーマネ製造会社創設 1992 年 1992 年 南部アフリカ開発共同体創設 デブスワナダイヤモンド会社設立 著者紹介 Thomas Tlou トーマス・トロ教授 小学校、教師訓練学校、ボツワナ大学で教鞭をとる。1976 年から 1980 年にかけてボツワナの国連大使として勤めた。 現在はボツワナ大学の副学長を務める。 Alec Campbell アレック・キャンプベル 1962 年からボツワナで働いている。野生動物・国立公園局長、国立博物館・美術館長などを歴任する。役人を退職し てからは、主に非政府組織で個人としての立場でボツワナに関わりつづけた。現在はボツワナ・ソサエティの副議長を 務め、考古学的な仕事に関わっている。 ボツワナの歴史 2006 年 7 月 14 日 2011 年 3 月 19 日 第1版 第2版 訳者 尾嵜 悌之 ご連絡は発行元サイトよりお願いいたします。 これは公式な訳本ではなく、試訳ですので、引用の際には原書に当たっ ていただくようお願いいたします。 また引用などなされるときは、発行元サイトへのリンクをはっていただ くか、アドレスを明記していただけると幸いです。 172
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