放蕩息子と神の愛

2016 年 7 月 11 日(関)
中部学院大学非常勤講師
岩井謙太郎
表題:放蕩息子と神の愛
ルカによる福音書 15 章 31-32 節
みなさん、おはようございます。この蒸し暑い中チャペルに来ていただき有難うございます。今日は、
聖書の放蕩息子のお話について考えてみたいと思います。みなさん、放蕩という言葉の意味を御存知で
しょうか。辞書を見てみますと、好き勝手にすること、とりわけ、お酒を飲むことが生きがいとなり、
また、ギャンブル(賭け事)にうつつを抜かすこと等の意味が書いてあります。みなさんの中にはその
ようなことに励んでいる人はあまりいないかもしれませんが、聖書の中で、イエスは、このような放蕩
にふけっている人のお話をしているのです。それでは、時間もあまりありませんので、簡単に放蕩息子
のたとえ話の内容を見ていきたいと思います。
あるお金持ちの家に二人の子供がいました。子供は兄と弟です。そして、お父さんが自分の財産を兄
と弟に分けてあげました。弟はお父さんから財産をもらったことに喜んだのでしょうか、そのお金を持
って外国に行き、放蕩にふけり、その挙句、お金を全部使い果たしてしまったのです。今風に言えば、
居酒屋に入りびたり、パチンコ、競馬等にすべてお金を使い果たしてしまったのでした。お金が手元に
ないと言うことは大変不安です。今日食べるご飯にもありつけないかもしれません。住むところもない
かもしれません。恐ろしい話です。そこで、弟は生活のために豚の世話をすることになりました。しか
し、豚の世話をしても、食べ物を与えてもらえるどころか、弟は、豚の餌(いなご豆)すらも満足に与
えてもらえませんでした。弟の状況は大変です。これでは飢え死にしてしまいます。そこで、弟は自分
の生まれ故郷のお父さんを思いだし、今風に言えば、お父さんの会社の雇い人にしてもらえればと思い
ました。その点について聖書は以下のように語っています。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる
資格はありません。雇い人の一人にしてください」
(ルカ15:18-19)
つまり、弟は、お父さんに自分のことを息子と認めてもらう資格はないと思ったのです。なぜなら、
先にお話したように、お父さんからいただいた貴重な財産を遊びのために使い果たしたからです。でも、
生きるためには食べることがどうしても必要です。そのために、お父さんの会社で働かせてもらおうと
したのですね。弟は、何とかお父さんが自分のところで働かせてくれることを期待したのだと思います。
そして、弟はお父さんのところに行きました。お父さんは弟をどうしたと思いますか。お父さんは弟を
見るなり、抱きしめて口づけしました。弟の着ている服や履物(靴)はぼろぼろになっていましたので、
お父さんは、新品の靴と服を弟に与え、豪勢な食事会(パーティー)をして、弟を再び息子と認めてく
れたのでした。おそらく、弟は、この父の愛を、驚きをもって実感したのだと思います。
しかし、そこで話は終わらないのです。つまり、父の弟の愛に対して、お兄さんは父に対して怒りま
す。兄も父から財産を与えてもらいましたが、それを今風に言えば貯金し、しかも、お父さんの仕事を
いつもサポートしていたからです。兄は弟と違って真面目にコツコツと努力していたのですね。それな
のに、お父さんは、兄のために豪勢な食事会をしてくれることはありませんでした。真面目に働いて努
力した自分よりも、父の財産を遊びのために食いつぶした弟の方を父は愛していると、兄は思ったので
すね。このお兄さんの立場もよくわかります。父の弟への愛に納得がいかない人も多くいらっしゃるの
ではないでしょうか。それに対して、父は兄に以下のように言います。
「子よ、お前はいつもわたしと一
緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いな
くなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」
(ルカ15:31
-32)
ざっと、イエスが語る放蕩息子のたとえ話を見てきましたが、このお話は、何を語っているのでしょ
うか。登場人物は、父、兄(息子)
、弟(息子)でしたが、実は、イエスは、お父さんの弟への愛こそが、
神様の愛であるということを語っているのです。確かに、弟は、お父さんの財産を遊びのために散財し
てしまいました。しかし、このような放蕩をしても、その時は楽しいかもしれませんが、後で強く虚し
さと寂しさが残ってしまったのではないでしょうか。放蕩をしつつ弟は苦しんでいたのです。虚しさは
神様から離れてしまっている印かもしれませんね。そこから、これじゃいかんと弟は自分の生き方を悔
い改めたのです。
このたとえ話は、神様は、私たちが悔い改めるならば、必ず私たちを愛してくれる心の広いお方だと
いうことを語っているのです。もちろん、神様は兄をも愛しています。お兄さんが、真面目に努力して
お父さんの仕事をサポートできるということこそ、実は神様の恵みの印だということを聖書は語ってい
ると思います。結果はどうであれ、真面目に努力することにおいて心が満たされる経験をされた方もお
られると思います。お兄さんは、このような神様の恵みをもらいながら、神様に感謝せずに不平不満を
言っているのですね(そのような自分の態度を悔い改めない兄)。そのことをもこのたとえ話は語って
いるのです。そのように考えるならば、弟の本当の悔い改めに心を打たざるを得ません。私たちの多く
は、日々の生活において、お兄さんと同じように不平不満を言いつつ自己中心的に生きております。こ
の放蕩息子のたとえ話を通じて、弟のように(弟みたいにはなれないかもしれないが)、自分の生き方の
不味さを少しでも悔い改め、神様に愛される生活ができたらと思っております。
掲載元:中部学院大学・中部学院大学短期大学部_チャペルアワー