2011年度 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部社会行動論履修コース
2011 年度 卒業論文概要
〈社会学〉
青木つぼみ
池下 世奈
和泉明日香
伊藤 幸一
小熊 彩夏
小倉千奈美
鎌上奈津子
川村 結衣
菅野 史明
桑島 翔
小島あずさ
齋木 由布
齋藤みずき
笹川 祐美
捧
晴香
佐藤 希実
菅原 龍平
杉井 亜実
竹内 香織
武田 和真
谷口 希穂
永尾 光
芳賀 香
星野 純子
見田 智聡
宮
倫世
宮島 真理
村木 友香
山岸あすみ
山岸 美里
高齢者のつながりと支え合いの新たなかたち ........................................ 3
観光産業の活性化とまちづくり .............................................................. 4
「ママ友」言説からみる現代の母親像 ................................................... 5
ゲーム活動が形成する社会関係 .............................................................. 6
現代文学における〈家族〉像 .................................................................. 7
高学歴者の就労選択と人生観 .................................................................. 8
賢明な利用を目指す佐潟における共同性 ................................................ 9
協働のまちづくり .................................................................................. 10
ベーシック・インカムと労働観 ............................................................ 11
現代の日本における裁判の問題点についての考察 ............................... 13
学校でつくられる「男の子」と「女の子」 .......................................... 14
犯罪被害者のセルフヘルプ・グループにおける
居場所の構築に関する考察 .................................................................... 15
同性愛者と社会のまなざし .................................................................... 16
高学歴女性のライフコース形成と親のかかわり ................................... 17
日本の子どもの貧困対策 ....................................................................... 18
親同居未婚者の自立に関する考察 ......................................................... 19
中山間地域活性化の推進体制に関する研究 .......................................... 20
大震災に関する投書の分析から ............................................................ 21
フィクション(漫画)に描かれる女性同士の
「親密な関係」と「同性愛」 ................................................................ 22
メディアによる非正規雇用のスティグマ化について............................ 23
野外フェスティバルと地域のつながり ................................................. 24
インターネット空間のコンフリクトと秩序 .......................................... 25
「ペットは家族」という意識に関する考察 .......................................... 26
アスリートのセカンドキャリア問題 ..................................................... 27
世間に受容される笑いとコミュニケーションの関係について ............. 28
北京市における女性出稼ぎ労働者のライフヒストリー研究................. 29
柏崎からみる原発に対する「ゆらぎ」の可能性 ................................... 30
中心市街地における商店街の活性化 ..................................................... 31
少女マンガにおけるジェンダーの変容 ................................................. 32
子どもの貧困を考える ........................................................................... 33
〈文化人類学〉
伊藤 咲
遠藤 淳也
上村亜沙美
中村ひかり
三須 瑞世
自治体による婚活支援「出会いサポート事業」の意義 ........................ 34
男性・女性の職業・家庭意識 ................................................................ 35
在日外国人への教育支援に関する研究 ................................................. 36
NPO の婚活支援 .................................................................................... 37
文化交流における在日韓国人の意識 ..................................................... 38
3
高齢者のつながりと支え合いの新たなかたち
―常設型地域の茶の間「うちの実家」の実践から―
青木 つぼみ
近年、高齢化の進行が問題とされている。また、一人暮らしの高齢者や高齢者夫婦のみ
の世帯は増加傾向にあり、高齢者の孤独死がメディアに取り上げられるなど、問題となっ
ている。そのような状況のなか、地域のつながりが薄れる反面、共通の価値観や関心事に
おけるつながりを求める高齢者は増加している。そして近年、高齢者の社会的孤立を防ぎ、
人と人とのつながりを再生する取り組みとして住む場所に関係ない誰もが参加できる居場
所づくりの取り組みが全国に広まっている。
地域の居場所づくりは孤独の解消になり、主体的に人と交わることで生きる意欲を高め、
人々がもつ助け合う力を引き出し、高齢者の社会参加や生きがいに発展するという。そこ
で本稿では、新潟県の長期総合計画に組み込まれた「地域の茶の間」
、その中でも常設型地
域の茶の間「うちの実家」の実践に注目し、そこで形成される、従来のような地縁組織と
は異なる高齢者のつながりのかたちを明らかにすることで、このような取り組みがどのよ
うに受け入れられているのかを考察した。
調査は 5 名の「うちの実家」参加者にインタビュー調査を行った。参加のきっかけや感
想、参加前との変化などをきき、
「うちの実家」を中心として生まれる、高齢者のつながり
のかたちを調査した。
「うちの実家」という地域の居場所づくりの取り組みには、高齢者の孤独を解消し、さ
まざまな高齢者の問題に効果があるとともに、人とのつながりの形成、生きがいをうみだ
す効用があることを、参加者のインタビュー調査から明らかにできた。しかし、高齢者の
参加のきっかけの話から、このような取り組みに参加するのは、職業経歴やジェンダー、
まわりの影響、参加者の性格などによる違いが大きいと考えられたので、さらなる多様な
受け皿の形成が課題であるといえる。課題はあるものの、「うちの実家」は高齢に伴い悩み
を抱えた、従来の居場所には居づらくなった高齢者でも、参加することで運営や被災地の
支援などに携わることができる仕組みがあることで生きがいにつながっている。また、
「う
ちの実家」は地域やさまざまネットワークにつながっているため、さらに広がりのある新
しいつながりの形成の可能性があり、地縁や血縁にもとづいた従来の居場所よりも優れて
いる点といえる。
「うちの実家」でうまれているつながりは、現在のような多様化・個人化
している社会であっても、お互いを助け合う優しい心が生まれる、高齢者の新しいつなが
りのかたちといえるではないかと考えられた。「うちの実家」のように、地縁や血縁に限ら
なくても相互扶助の助け合いが実現できている場所があることは、人と人とのつながりが
希薄になっている現代社会において、希望となっていくと感じることができた。
4
観光産業の活性化とまちづくり
―能登半島地震の被災地・輪島市を事例として―
池下 世奈
今日、観光とは観光の行為者(観光客)の目的を指すだけではなく、観光客を受け入れ
る側にも焦点を当て、その取り組みの成功例や地域が抱えている課題について考える必要
があると思われる。また、過疎化や高齢化、労働人口の減少といった問題を抱えている地
方にとって、観光産業の活性化は地域の存続のために大いに期待されている。本稿では、
観光地として認知度のある輪島市を事例として、地方の観光とまちづくりの方向性につい
て検討する。
本稿では、災害復興、ブランド化、さまざまな主体によるまちづくり、都市部の人々と
の交流の 4 点を課題として挙げ、考察を行う。調査は、調査対象者として 8 名の輪島市の
観光に携わる方にインタビューを行った。7 つの観光に携わる団体からそれぞれの取り組み
を伺うことで、観光産業が主産業の輪島市がどのようなまちづくりの方向性をもっている
かについて明らかにする。
能登半島地震による風評被害を防ぐために、石川県や輪島市は、能登は「元気」という
情報をいち早く全国に発信した。このため、風評被害は大きく受けなかったが、行政主導
の取り組みに、地域住民がついていけずにいる状況がある。ブランド化については、輪島
市を含む能登が 2011 年 6 月に世界農業遺産への登録されたことが、地域誘因力を高め、地
域発展を促している。また、「輪島海女採りブランド」は、地域が独自性を高めるために、
もとより存在していた文化的資源を新たに観光資源として認識したことによりできたもの
であり、地域独自の発展をもたらしている。しかしながら観光関係者以外の地域住民には
認知度は高くない。まずは地元の人々への PR を進めていくことが求められるだろう。おも
てなし委員会は、様々な組織が同じ立場で活動に取り組み、官民一体となった団体の成功
例として取り上げた。おもてなし委員会は、行政主導の団体ではなく、あくまでサポート
という形で行政がかかわっているのである。地域と都市部の人々との交流に関しては、白
米千枚田のオーナー制度を例に挙げた。オーナー制度の管理をしている地元の人々は、オ
ーナー制度を通して都市部の人々と「友達」と思える関係を築いた。この背景には、地元
の人々が都市部の人々に対し劣等感をもたず、自分たちの地域に誇りを持っていることが
関係していると思われる。
観光が主産業の輪島市では、さまざまな産業が観光に力を入れ活動している。観光によ
るまちづくりには、地域住民が主体となって活動することが必要不可欠であり、行政主導
の取り組みでは、地域に浸透にくいという現状があることがわかった。ブランド化におい
ては、文化的資源を観光資源として再認識し、まずは地域住民に対しての情報発信を行う
ことが必要である。都市部の人々との交流によっても、地元住民は「自分たちの誇り」と
して観光資源を認知するようになり、それが新たな地域の発展につながるだろう。
5
「ママ友」言説からみる現代の母親像
和泉 明日香
2010 年、男性が育児休暇を取得し積極的に育児を行うという「イクメン」が注目された。
この「イクメン」の存在によって、今まで育児や家庭教育の中で父親不在とされていた概
念や父親像が変わってきていることがわかった。落合恵美子(2004)によると、現代の育
児というものは構造的に育児不安や育児ノイローゼに陥りやすくできているもので、主な
要因としては「父親の協力の欠如」と「母親自身の社会的ネットワークの狭さ」が挙げら
れる。
「母親自身の社会的ネットワークの狭さ」を解消するためには、母親の育児ネットワ
ークの利用が必要である。そのうちの 1 つとして、「ママ友」が挙げられる。そこで、
「マ
マ友」の分析を通して、現代の母親を語る上で何が強調されているのかを探る。
「イクメン」
によって、新たな父親像が提示されているように、
「ママ友」の存在は、母親をどのように
うつし、どのような母親像を提示しているのであろうか。
朝日新聞社の『聞蔵Ⅱビジュアル』を用いて「ママ友」という言葉でキーワード検索を
した結果、1997 年から 2011 年 11 月までの間で 273 件検出された。検出された記事を、
「マ
マ友」と母親像が結びつく記事を取り上げて、「ママ友」がどのように語られているかを否
定的・肯定的な面を分析し、
「ママ友」という言葉の使われ方を文章や文脈から分析すると
いう、2 つの方法を用いた。否定的なイメージの「ママ友」という友人関係は、子どもが中
心にいて自由に行動できず、
「ママ友」同士での消極的な付き合い方が多くあった。しかし、
否定的な記事の中でも、子どものことを一番に考えた結果であったり、現状に満足せずに
向上しようとする意思が見られたりと、
「ママ友」付き合いをしていることで、子どもと育
児と「ママ友」と直接向き合い、母親が自ら考えポジティブに行動している姿がみられた。
また、母親が「ママ友」関係のつらいことを乗り切ることによって、母親自身の成長や糧
になっている。ここから、否定的イメージの「ママ友」の中にも、母親をポジティブに考
えて明るいイメージに変えることが可能であると考える。また、肯定的イメージの「ママ
友」では、育児だけに固執するのではなく、母親が女性・個人としての生活を送り、自分
自身の人生をよりよいものにしていこうとする姿が見られた。
分析結果から、母親としてだけではなく、女であることを取り戻し、個人しての自己実
現をしようという母親像と、育児においては一人で抱え込むのではなく、母親同士で協力
して逆光にも負けない力強く・たくましい母親像を導いた。この母親像は、今まで語られ
てきた母親像とは違い、母親が母親という枠組みだけでなく、私=女=母親という側面か
ら捉えることができるものであった。「ママ友」がポジティブなイメージを母親に与えてい
ることがわかり、
「ママ友」を通して、これからの母親像や母親としての意識がますます明
るくなっていくことと考える。
6
ゲーム活動が形成する社会関係
伊藤 幸一
今日、ゲームは日本を含め、世界中で広まっている。ゲームが普及するにつれて、ゲー
ムを中心とした交流やイベントも盛んに行われるようになった。ゲームがこのように交流
のツールとして使われている理由は、平等に遊ぶことができるという点と、ゲームが「イ
ンタラクティブ・メディア」(桝山 2001)だという点にあると思う。その一方で、集団で
の活動にせま苦しさや面倒さを感じるような状況も時として起こる(木村 2003)
。そこで、
ユーザーの人々が何を目的として参加し、どのように交流しているのか探っていく。
池田・小林(2006)は、誰もが自分の意見や主張を表現できるようなネットワークを有
する場合には、社会関係資本の醸成にポジティブな影響を与えると言う。また、藤・吉田
(2009)は、インターネット上での活動目的として、
「自己の表出」、
「所属感の獲得」、
「対
人関係の拡張」などを挙げている。さらに、犬塚(2011)は、オンラインコミュニティに
はメンバー数に一定の限度があると言い、人数が多すぎると、情報やコミュニケーション
が全体に行き届かなくなってしまうと言う。
調査では、①「Xbox Friends」と「Xbox Live」での他ユーザーとのゲーム活動、②ゲー
ムソフト『コールオブデューティー モダンウォーフェア 3』の“クラン”への参加、③新
潟大学コンピュータクラブのメンバーへのインタビュー調査、④「グリー」と「モバゲー」
を利用している自分の妹への聞き取り調査、の 4 つの調査を行った。
調査の結果、ゲームの攻略ややり込み度を示す「実績」のシステムが、プレイヤーの個
性やこだわり方を表現する指標になっていることが分かった。さらに、実績解除を目的と
した多くのプレイヤーたちが、毎日のように活発なゲーム活動を行っている。このように、
オンラインコミュニティにおいては、実績の仕組みが交流の活性化に役立っている。また、
クランの活動では、メンバーとの連携を築いたり、互いに改善点を指摘し合って向上心を
高めたり、新たなメンバーが入ることで、クランに新鮮な刺激がもたらされたりするとい
ったことがあった。そして、他クランとの交流戦は、まさに精鋭同士のぶつかり合いであ
った。このような大きな連帯感、喜び、興奮を得られることこそ、クラン活動の最大の長
所であると考えられる。他にも、オンラインコミュニティは、リーダーもしくはリーダー
役を影で担っている人たちによって、活発さを維持していることが分かった。彼らの定期
的な企画と気遣いによって、活動が促進されているのだ。
今までは、オフラインとオンラインでは、プレイヤーの求めるものに決定的な違いがあ
るものだと思っていた。しかし、実際に遊び方を比較したり、インタビューを行ったりし
てみると、意外と求めるものは同じであることが分かってきた。つまり、オン、オフの違
いがあっても、どの人も誰かと一緒に楽しい時間を過ごしたいと思って活動しているのだ。
7
現代文学における〈家族〉像
小熊 彩夏
日頃あまり〈家族〉について考えることのない私たちに〈家族〉を見せてくれるものの
ひとつに、メディアがある。メディアによる男女の描写は、現実を忠実に再現したもので
はなく、メディアをとりまく状況と内部の種々のプロセスによって生み出される、人為的
に構成されたイメージである。そして、メディアの中でも文学は、情報の構成/編集にか
かわる原理/形式と深く関係している。作者が意識する/しないにかかわらず、作品には
何らかのかたちで〈家族〉が表現されていることが多い。その表現の在り方は、作者自身
の家族を反映していることもあるだろうし、作者の周囲の〈家族〉の一般的なありようを
映し出していることもあるだろう。つまりは、作者が所属している地域や階級、社会によ
く見られる〈家族〉の姿を反映しているということである。
今日、社会的背景や人々に意識の変化と共に、〈家族〉の在り方はますます多様化してい
る。それに伴い、文学の中の〈家族〉像にも変化があると予想される。メディアとしての
文学は、多様化した〈家族〉や人々のジェンダー意識をどのように汲み取り、情報化して
受け手に発信しているのだろうか。本稿では、2000 年以降の〈家族〉を主題とした小説を
分析することにより、現代の文学の中の〈家族〉像を提示することを目的とした。分析で
は、以下の3つに着目して分析した。
・ 母子世帯など、
〈欠陥家庭〉についてどのように描かれているか。
・ 「血の繋がり」と「心の結びつき」、どちらが重視されているか。登場人物たちにと
って、どのような関係が〈家族〉とされているか。
・ 〈家族〉の中のジェンダーはどのように描かれているか。
分析の結果、まず〈欠損家庭〉については、どの作品の中でも概ね肯定的に捉えられて
いた。かつては特異な〈家族〉形態であった〈母子家庭〉も、今日では一般的なものとし
て受け入れられていることが確認できた。次に、誰を〈家族〉としているかという点であ
るが、
「血縁」であることを重視せず、お互い愛情や信頼関係で繋がっている者同士が〈家
族〉とされているものが多くみられた。「血の繋がり」や「心の結びつき」ではなく、「同
じ場所で同じものを共有している」ことに〈家族〉を見出した作品もあったが、最後には
やはりその〈家族〉の中に愛情や癒しを求めていた。
予想に反する結果が出たのは、
〈家族〉の中のジェンダーである。
「男性が積極的に家事・
育児に取り組む」といった、これまでの性別役割規範を覆している〈家族〉があるのでは
ないかと予想したが、今回調査対象だった作品の中には見つけることができなかった。
全体を通して言えることは、
「家族成員相互の強い情緒的関係」と「子ども中心主義」は、
現代でも揺らぐことなく〈家族〉の根本を担っているということである。どの作品でも、
親が子どもを愛しているという基本的なスタンスがあり、「家族=幸せ」を求めているとこ
ろは共通していた。
8
高学歴者の就労選択と人生観
―大卒夢追求型フリーターの進路決定―
小倉 千奈美
近年、若者の職業生活が不安定化している。高度経済成長期を終え、豊かになった現代
の日本社会では、モノよりサービスの充実が求められるようになり、多様な商品を安く提
供しなければならなければならなくなった。こうした産業構造の変化に伴い、雇用は高賃
金で専門的・創造的労働を任される正規労働者と、低賃金で単純労働を任される非正規労
働者に二極化した。そして、日本企業は新規学卒者の正規雇用を縮小し、一方で非正規雇
用を増大させていく。そうした非正規雇用の増加は、フリーターと呼ばれる若者を生み出
し、今日その数は 178 万人にも及ぶ1。
丸山俊(2004)は、
「フリーターは無気力でも、無能でもない。……フリーターの問題と
は、単に働かない、あるいは働けない若者の問題ではなく、ひとりひとりの働き方を巡る
問題である」と述べており、フリーターの析出要因は、景気悪化や雇用市場の変化だけに
依拠するものではなく、フリーターを選択する者の価値観によるところが大きいことが考
えられる。では、どのような価値観が若者にフリーターという進路を選択させるのだろう
か。就職しようと思えばできる環境にありながら自ら積極的にフリーターを選択したと考
えられる大卒夢追求型フリーターに焦点を当て、彼らの価値観と、その価値観の形成に与
えた周囲からの影響を、インタビュー調査によって明らかにしていった。
調査の結果、大学を卒業したにも関わらず正社員としての就職をせずにフリーターとな
った人の特徴がいくつか浮かびあがった。特に目立ったのは、生き方のモデルとなる人物
の存在がフリーター選択を後押ししていることである。ただし、出会った人物の多さには
大きな差があり、同時に進路選択の主体性にも差が見られた。将来的なリスクを覚悟した
上で自らの積極的に夢追求型フリーターという選択をする事例と、友人に誘われたことを
契機に就職願望を断ち切り夢追求型フリーターの道を歩むことを決断する事例があった。
この主体性の差は、おそらく出会った人物の多さ、すなわち、多様な人生モデルに出会う
機会の多さの差にも関係があるようであった。
フリーターという進路はリスクに対する覚悟を持った上で主体的に選択しなければ、生
活していく上であまりにも無防備である。フリーター選択をする際には、多様なモデルと
接触し、それぞれのモデルの将来像を明確に把握しておく必要があるのではないか。
【参考文献・URL】
丸山俊,2004,
『フリーター亡国論』ダイヤモンド社.
厚生労働省「若年者雇用関連データ」
http://www.mhlw.go.jp/topics/2010/01/tp0127-2/12.html
1
総務省統計局「労働力調査詳細集計」
(2009)による統計結果。厚生労働省のフリーター定義、
「15~34
歳の男性又は未婚の女性(学生を除く)で、パート・アルバイトして働く者又はこれを希望する者」にも
とづくものである。
9
賢明な利用を目指す佐潟における共同性
鎌上 奈津子
2002 年(平成 14 年)に成立した自然再生推進法を始めとして、
「自然再生」の問題は学
問的範囲にとどまらず、行政の具体的施策にも反映されつつある。鳥越(2010)のいう「パ
ートナーシップ的発展」の段階にある現在、
「自治会レベル」の水辺保全事業の主体となる
「そこに住んでいる人たち」が、住民や行政、そして他団体とどのように「パートナーシ
ップ」を築いていくべきか検討する必要がある。
佐潟で行われている「賢明な利用(ワイズユース)
」は、佐潟水鳥湿地センターを拠点と
し、関係ステークホルダーが連携しながら様々な活動が展開されている。佐潟では 2003 年
(平成 15 年)から「佐潟と歩む赤塚の会(以下歩む会)」の提案により水辺再生事業であ
る「潟普請」が始められ、佐潟への思いが異なる団体や個人が保全活動を共に行うように
なった。
「潟普請」が始まったことで「歩む会」が中心となり、鳥越(2010)の言うような
「パートナーシップ」が団体や住民の間で形成されたと考えられる。本研究は水辺再生事
業である「潟普請」が住民、行政、団体に与えた影響や「潟普請」実施の経緯を調査し、
「自
治体レベル」の水辺再生事業の「パートナーシップ」構築を考察したものである。
佐潟の「環境葛藤系」は①新規参入者によって住民の潟への介入が妨げられていること
(「モノ(物質的距離)」
)
、②制限があるため自由に佐潟で活動ができないこと、佐潟を中
心としたコミュニティが構築されていなこと(「コト(社会的距離)」)、③佐潟に「愛着」
をもてず「責任感」を専門家や行政に転化していること(「ココロ(心理的距離)」)など、
「環境共生系」で求められる要素の欠如が問題として現れており、問題の根底に「コト(社
会的距離)
」の欠如があった。そして「歩む会」が主導する「潟普請」は現在佐潟が抱える
これらの問題を解消し、
「環境共生系」に近づけるきっかけとして大きな役割を果たしてい
た。それは①佐潟への愛着の生成、②保全管理への関心強化、③他地域との「社会的距離」
の埋め合わせの効果であり、佐潟における住民の「関係」の希薄化へ作用するものだった。
さらに、今後佐潟が再び「楽しみの場所」として赤塚地域の中に確立していくために、
赤塚地域だけでなく赤塚地区全体を見通した “新しい”コミュニティづくりの必要性も明
らかになった。“新しい”コミュニティに求められる「パートナーシップ」とは、「関係」
づくりにおいて相手を「他者」としてみるものではなく、相手を「仲間」としてみるもの
であった。ここでいう「仲間」とは、「社会的距離」の近さを表す。佐潟で形成されつつあ
る「パートナーシップ」は、地元に寄り添った団体が中心となり、相手を「仲間」として
捉え、それぞれの得意分野を活かしながら時には手助けしあう寄り添いあった関係なので
ある。「自治体レベル」の水辺保全事業では、「仲間」としてともに寄り添いあう「パート
ナーシップ」構築も存在し、そこでは「異質性」よりも、ほおっておけない「仲間」とし
て、お互いに助け合い関わり合う「関係」が必要とされているのだった。
引用文献
鳥越皓之,2010,
「パートナーシップと開発・発展」鳥越皓之編『霞ヶ浦の環境と水辺の
暮らし―パートナーシップ的発展論の可能性―』
,早稲田大学出版部.
10
協働のまちづくり―新潟県長岡市を事例として―
川村 結衣
倉沢進(2002)によると、わが国では 1960 年代の高度経済成長期において、経済中心の都
市開発や地域開発が進んだことにより、各地で深刻な公害発生や開発紛争を引き起こした。
その結果、産業優先から生活者自らが生きがいや喜びを感じられるような生活環境の重視
へ、都市基盤整備や大規模開発といったハード中心の物的計画に市民参加や生活サービス
の充実といったソフト重視の社会計画を加えた都市づくり、地域づくりの考えが強められ
た。さらに近年は盛んに行政と NPO、市民による「協働」が叫ばれるようになっている。
新潟県長岡市では、あらゆる世代が多様で自発的な活動を実現するための取り組みが進め
られている。その一環として、JR長岡駅前の旧厚生会館の跡地にアリーナ、屋根つき広
場、市役所が一体となった複合施設である「アオーレ長岡」を建設する取り組みがある。
このような複合施設は全国でも初めてである。現在、行政、NPO、市民が協働しながらア
オーレ長岡建設の取り組みが行なわれている。本論文では長岡市の協働の現状やこれから
の課題、可能性を探った。
調査は長岡市職員の方と NPO として市民協働に関わっている方を対象にインタビュー
調査を実施した。また、草案そのものを市民自身が議論し、提案するという「みたか市民
プラン 21 会議」で有名になった東京都三鷹市のまちづくりについて、文献やインターネッ
トで情報を収集し、長岡市との比較を行った。
調査の結果、長岡市と三鷹市ではどの段階で市民が参加したのかに違いがあることが分
かった。例えば市民参加で条例を作成する際に、長岡市では案の作成に直接市民は関わっ
ていないが、三鷹市は全くの白紙状態から参加していた。市民が運営するコミュニティセ
ンターに関しても、長岡市の場合運営そのものは市民が行っているが、建物は行政が提供
したものである。一方三鷹市の場合は、建物の建設を検討する段階から市民が関わってい
た。
また、インタビュー調査によって、長岡市では協働においてより多くの市民の参加を促
進したいと考えていることがうかがえた。三鷹市は、市と市民の間に協働関係を明確にし
お互いの役割と責務などを明文化した「パートナーシップ協定」を締結しており、これは
市民の意識を高めた大きな取り組みだったと考える。
長岡市は今まさに協働を実現させるために取り組んでおり、長岡市職員の方がアオーレ
長岡を市民が運営・利用する際に自由度の高い施設にしようと考えていることや、市役所
を現在の郊外から長岡市の中心地に移すことでより市民との距離を縮めて意見を聞きやす
くする取り組みをしていることなどから、今後長岡市も更なる協働の可能性を持っている
と考えられる。
11
ベーシック・インカムと労働観
―フリーライダーの議論を通して「働く」を考える―
菅野 史明
安定した収入を得るための安定した雇用が求められる一方で、雇用自体の数は減少し、
非正規・派遣などの職に就くものが増えるようになった。そうしたなかで、新しい社会保
障として「ベーシック・インカム」
(すべての個人に対しての無条件の基礎所得給付案)が
今注目を浴びている。しかし、同時にこの案に関しては強い反対の声、ベーシック・イン
カムが給付されることで、働かなくなる者が急増するという「フリーライダーに関する」
反対論などがある。本論では、この「フリーライダー」問題に焦点を当てて議論を展開し
た。
宮本太郎(2011)によれば、社会の変容にともない 20 世紀型福祉国家は、従来想定して
きた雇用と社会保障のあり方、家族や親密圏についてのあり方の変更を迫られている。そ
れらの変更のなかでおこる福祉国家の再編のなかに、ベーシック・インカムの議論がある。
しかし、ベーシック・インカムはアプローチとして、雇用と社会保障の切り離しを図るた
め、賛否の分かれる案であると言え、フィッツパトリック(2005)によれば反対論として、
「フリーライダーに関する反対論」「費用効果的に関する反対論」「政治的支持に関する反
対論」の大きく分けて三つの反対論があるとする。
しかし、ベーシック・インカムの議論においては「フリーライダー」が生じるという批
判に対して、
「フリーライダー」へもベーシック・インカムを給付してもよい理由があると
いう反論、つまり、すべての人に対しての給付の正当性に関する議論が主であり、「フリー
ライダー」へ向けられる強い反対論自体への考察を行ったものはなかった。そのため、本
論では、
「フリーライダー」を容認できない労働観がどこからくるものなのかの考察を行っ
た。
考察では、
「働くことは当然」と感じてしまうのはなぜか、という逆説的な問いによって
明らかにしようと試み、結果として、M.ヴェーバー(1989)のいう「天職義務」という労
働を自己目的化するエートスを、私たちは長年の教育(社会からの影響)の成果として会
得して、それを他者に向けた際に「フリーライダーは許せない」という労働観になるのだ
ということを示した。そして、このエートス自体は労働の義務からいっても否定する必要
はないが、同時に「フリーライダー」は許容されるべきだとし、
「フリーライダー」を許せ
なく思う心を多くの人がもつのであれば、そこで考えなければいけないのは、「フリーライ
ダー」問題視する姿勢の軽減の方法となるだろうとした。
12
現代の日本における裁判の問題点についての考察
――判例からみるジェンダー・バイアス――
桑島 翔
近年、裁判による判決が不自然であるものが増えてきている。京都教育大学準集団強姦
事件、千葉市中央区強姦事件、JR 西日本障害者強姦事件などの裁判の判決は、女性が泣き
寝入りしなければならないような判決内容であり、このような判決がなぜなされているの
かを実際の判決文やメディアでの取り上げ方を分析・考察し、探っていく。
アメリカでは、女性差別のある法律が撤廃・改正されたのにもかかわらず、職場におけ
る女性差別があると訴えた女性が敗訴したことをきっかけに、裁判におけるジェンダー・
バイアスが認識され、根絶の必要性が迫られた。日本でも同じように、1995 年の国連の北
京女性会議以降不十分ながらも女性差別のある法制度は、撤廃または改正されてきている。
しかし、福島瑞穂(1997)や段林和江(1990)は、性犯罪の裁判における被害者の「落ち
度論」
、強姦事件などで女性が被害者になった場合における男性によって都合よく繰り広げ
られる言説として「強姦神話」の存在を挙げ、法改正後も裁判におけるジェンダー・バイ
アスは残っていることを明らかにした。そこで本稿では現在の裁判におけるジェンダー・
バイアスの可能性を実際の判決文やメディアによって注目された判決を検討することにし
た。
検討の結果、福島(1997)の述べていた「落ち度論」はほとんどなくなっていたものの、
「強姦神話」の一部はいまだに存在するようであり、「嘘をつく女性像」も裁判の判決から
読み取ることができた。判決文の中には、ジェンダー・バイアスをなくそうとする意見や
女性視点を取り入れた一文があるなどバイアスを解消するかのような動きが見られたもの
の、いまだに裁判におけるジェンダー・バイアスは根強く残っているようであり、ジェン
ダー・バイアス教育がパーソナルな面としてのジェンダー・バイアス理解にはつながって
おらず、ジェンダー・バイアスを理解しているかのような動きは、男女差別批判を恐れる
あまり、形式的には理解し、判決文において理解を示しているように見えても中身にまで
視点が移っていないのではないかという可能性を示唆している。その恐れがそもそもの間
違いであることを認識することから本当のジェンダー・バイアス理解につながっていくの
ではないかと考えた。
〈主要参考文献〉
・東京・強姦救援センター,1990,『レイプクライシス この身近な危機』
,学陽書房
・福島瑞穂,1997,
『裁判の女性学』,有斐閣選書
13
学校でつくられる「男の子」と「女の子」
―テレビドラマの分析を通して―
小島 あずさ
学校とは、現代社会において「平等」の保障をもっとも期待されている場であり、ほか
の生活領域に比べて、男女平等であると思われている場でもあるが、学校はセクシズムも
内包しているため、平等主義とセクシズムという矛盾する二つの原理が共存している場所
なのである。また、日本は文化同質性の高い社会であるから、メディアの流すイメージが
持つ社会的な影響力は格別であり、また、メディアは「あるべき」「あるはず」の人間像を
提示している。そこで、主流メディアであるテレビを取り上げ、木村涼子(1999)の分析
を参考にして、テレビドラマ内の教室場面で描かれている男子生徒や女子生徒、また彼ら
と教師との相互作用を、分析・考察した。
「3 年 B 組金八先生」の第 1 シリーズ(1979)と第 8
シリーズ(2007)、
「ハガネの女 season1」(2010)、
「鈴木先生」(2011)を対象に選び、教室場
面での、
「教師による指名」「教師の問いかけへの児童の返答」「児童の自発的発言」「児童
の発言への割り込み」の 4 つの相互作用量を男女別に分析した。
先行研究では、つねに男子が女子よりも優位な立場にあり、女子はいつも男子の後ろに
追いやられてしまう、という様子が示されていたが、教室空間支配の欲求をあらわす男子
生徒と、その欲求の前にあっさりと引き下がってしまう女子生徒、という構図は、近年の
ドラマにおいては、描かれていなかった。教室支配の欲求をあらわす男子生徒がいても、
女子生徒がそれを黙って受け入れるという態度をとらなくなり、言いたいことははっきり
と伝える、ポジティブな抵抗をする女子生徒が描かれていた。
「3 年 B 組金八先生(第 1 シリ
ーズ)」においては、女子生徒は比較的静かなタイプばかりで、似たような生徒が多かった
が、近年のドラマの中では、強く芯のある女子生徒や、それにあこがれる大人しい女子生
徒など、さまざまな女子生徒の姿が描かれていると感じた。また、男子生徒は、教室内を
良く見て、物事を円滑にすすめようとしたりみんなを楽しませようとしたりするなど、ク
ラスのことを考えた行動をとる生徒が多かった。教師による働きかけについては、主人公
となる教師が男女に差をつけない指導を行う一方、そのライバル教師の言動には男女差別
的なものが見られ、主人公が「あるべき教師像」をあらわしているのだと感じた。
本稿の分析で見られた教室のようすは、メディアがあらわした理想の学校でしかないの
かもしれないし、依然として、教師によるジェンダー・バイアスのかかった働きかけは存在
しているとも考えられる。しかし、メディアによって表現されるものは、その受け手側に
少なからず影響を与えるものになっていく。テレビドラマにおいて、理想の学校が表現さ
れているとすれば、いつかは真に平等な学校というものが実現されうるであろう。
〈主要参考文献〉
木村涼子,1999,
『学校文化とジェンダー』勁草書房
14
犯罪被害者のセルフヘルプ・グループにおける
居場所の構築に関する考察
齋木 由布
セルフヘルプ・グループはつながりを失ってしまった犯罪被害者にとって「安心できる居
場所」となっている。本稿では、このセルフヘルプ・グループの活動が参加者に与える影響
と、被害を乗り越えていく過程との関わりについて考察する。
佐藤恵(2008)によると、参加者が原則の引き受けを通して、
「語る―聴く」の相補的関
係が成立し、
「聴く」ことの効果が実感され、
「同じ」「分かり合える」という感覚が構成さ
れることで、さらなる「聴く」ことへの誘因が生じるという。しかし、実際参加者は語り、
聴き合うことによって効果を実感する一方、
「聴く」ことに困難性を感じながらも、折り合
いをつけながら参加していると考えられる。
本稿では、犯罪被害者のセルフヘルプ・グループにおいて参加者が「聴く」ことの困難
性といかに向き合い、折り合いをつけながら「安心感」や「居場所感」を構築しているの
か、また「語る-聴く」以外の側面からも「居場所感」の構築について考察を行った。
にいがた被害者支援センターのセルフヘルプ・グループ「ひまわり」への参与観察とイ
ンタビュー調査から、共通して得られたのは、自らの事故の概要を「語り」
、他の参加者の
話を「聴く」ことは「現実を受け止めること」であり、「しんどい」という語りであった。
また、被害状況の異なる話を聴くことで、
「価値観を見直すことができる」と違いを受け止
め、肯定的に捉えているものの、その違いが被害者にとって気にしている部分であった場
合、
「つらさ」として感じる参加者もおり、
「聴く」ことに困難性が生じているといえる。
しかし、参加者は、一定の困難性を感じながらも、得られる他の要因に「ありがたさ」
や「嬉しさ」があるために参加を続けていることが調査から明らかになった。
1 つ目の要因は、来れば必ず話せる場があるという環境に対しての安心感である。犯罪被
害者は時間が経つほど事故について話しにくくなり、当時の行政の対応への不満や、亡く
なった家族の思い出話でさえもできない状況にある。また、セルフヘルプ・グループの場
を、外では絶対に出すことのできない「被害者としての自分」を出せる場として語られる
ことが多く、日常と区別されていた。2つ目は、社会へ訴える機会がある点である。
「ひま
わり」では社会を変えていくための活動に主体的に参加できる機会があり、参加者は「自
己満足」と感じていながらも、活動することで気持ちの整理に役立てている。3つ目は、
社会とのつながりを持てるという点である。被害経験がなくても「自分たちの思い、苦し
みを分かろうとしてくれる」他者の存在を知ることによって社会への見方を緩めることへ
とつなげていくことができる。
セルフヘルプ・グループの場では、参加者が「聴く」ことに困難性を抱えつつも、この
ような要因があるからこそ、困難性と折り合いをつけ、
「聴く」ことが可能となっているの
であり、「安心感」や「居場所感」を築くことができていると思われる。
<主要参考文献>
佐藤恵、2008、
「起点としての「聴く」こと――犯罪被害者のセルフヘルプ・グループに
おけるある回復の形」崎山治男他編『<支援>の社会学――現場に向き合う思
考――』青弓社、40-61.
15
同性愛者と社会のまなざし
―レズビアン・ゲイのカミングアウト過程を通して―
齋藤 みずき
同性愛者が抱えている問題について語られるとき、ゲイ・レズビアンは「同性愛者」と
いう 1 つの枠組みに収められてきた。しかし、ゲイはテレビにおいて「異常」な存在とし
て描かれていることに対し、レズビアン女性がメディアに露出することはほとんどなく隠
れたままであるという違いがある。山下・源氏田(1996)によると、日本では特にゲイに
対する差別や偏見が根強く、レズビアンに比べて異性愛者から偏見や嫌悪感を向けられや
すいという特徴がある。そして石本清英(1996)は、レズビアンに対する受容的まなざし
について、単に社会がレズビアンなど存在しないと考えている結果にすぎないという。こ
こから、レズビアンの特徴は存在の不可視性にあると考えられる。つまり、ゲイ・レズビ
アンは世間から異なるまなざしを持って見られており、日本社会における状況は異なって
いるといえる。よって、本稿ではゲイとレズビアンを分け、社会のまなざしと同性愛者の
生き方の関連性についてカミングアウト過程を通して比較検討をする。
調査として、レズビアン女性 5 名、ゲイ男性 5 名、計 10 名の方へインタビューをおこな
った。まず、自身の性的指向の自覚・受容(カミングアウト第 1 段階)に関して、ゲイ男
性は性的欲望の向きという明確な指標が存在しており、早期に性的指向を自覚・受容して
いた。レズビアン女性は、同性へ向かう恋愛感情を、「いつかは異性を好きになる」という
思いから自身の性的指向に結び付けられずに、性的指向の自覚・受容に至る時期が遅くな
っていた。ここに社会のまなざしの影響が見受けられる。つまり、レズビアンの不可視性
をレズビアン女性自身も内在化していた結果、社会が持つ異性愛規範に性的指向を押し込
める余地ができたのではないだろうか。こうした異なる受容過程から、レズビアン女性は
性的指向が不明確であることに起因したアイデンティティに関する葛藤を持つことが多く、
ゲイ男性は自身の性的指向を自覚しながらも表面的には否定しなければならないという葛
藤を経験することがある。
他者へのカミングアウトに関しては
(カミングアウト第 2 段階)
、
それに至る発端はレズビアン女性とゲイ男性で異なっており、レズビアン女性は「本音で
語りたい」という欲求からなる。ゲイ男性は今後の関係を考えたときなど、必要性に応じ
てカミングアウトに至っていた。しかし、社会のまなざしへの抵抗とされてきたカミング
アウトという行為を、同性愛者側からとらえ返すと、異性愛中心主義社会の中で、身近な
場所だけでも良好な関係を築きたいという思いによる建設的な行為であることに共通点が
見られた。家族へのカミングアウトに関しては両者に違いは見られず、自分の家族の異性
愛規範のあり方や性に対するまなざしの向け方、そしてそれに同性愛者自身がどのように
関わっていきたいと考えるのかが重要になっていると考えられる。
レズビアンとゲイは、共通の目線から社会のまなざしとの関わりを決定している面もあ
れば、異なった経験や困難を持つ場合もあり、1つの枠組みで語ることはできないのでは
ないだろうか。今後は今回の調査において考慮できなかった、当事者の属性との関連性も
考えていく必要があるだろう。
16
高学歴女性のライフコース形成と親のかかわり
笹川 祐美
現代は、日本型長期雇用の崩壊と雇用の流動化により、性別役割分業に支えられた家族
の形成と維持の困難性が増大したことに加え、個人の選択の結果に対して個人が責任を取
ることを求められる時代である。このような状況の下で、これから社会に出て行く女子学
生はさまざまな事態を想定して、自分の人生を方向づけていくことが重要となるが、彼女
たちは、どのような選好や規範から自己の将来像を形成するのか。
村松(1994)によると、高度成長期から 1990 年頃までは、母親のライフコースと娘の理
想のライフコース観は密接に関係していたという(「モデルとしての母親」)
。親が女子学生
のライフコース展望に与える影響には、時代状況による変化は見られるのだろうか。また
喜多(2011)によると、現代の女子学生たちは自らが希望するライフコースをあらかじめ
意識し、それが実現する方向で行動したり、リスクを減らす戦略をとるという。このリス
ク管理の方向性は親の関与によって異なるのか。本稿では、女子学生への聴き取り調査を
通じて、現代の女子学生のライフコース展望および自己の人生にたいするリスク管理への
親の影響について分析する。
調査の結果、現代の女子学生のライフコース展望には、母親だけではなく、父親を含む
定位家族からの影響が顕著に見られた。その要因は多様であるが、場合によっては複合的
に絡み合いながら理想のライフコースの形成がなされていた。また女子学生は結婚・出産
による理想のライフコースの変更回避にたいする手段を想定していたが、将来の確定事項
の少なさあるいは定位家族内で形成された価値意識が、彼女たちに長期的で詳細な展望を
立てることを放棄させていた。
女子学生は特に生殖家族に関連するリスクを想定して、就業継続というライフコース展
望を選択していた。なかでも親の影響が顕著に見られたのは、自己の進路選択の過程で経
済的余裕の不足を理由に親から制限を受けた経験をもつ者である。親の葛藤と自分自身が
経験した感情により、将来の子育てを含んだ人生戦略を形成すると考えられる。女子学生
は自己の人生だけでなく、定位家族内の経験によっては、次世代にたいしてのリスク管理
も視野に入れたライフコース・スケジューリングを行うことが示唆された。
本稿では、親が女子学生の理想のライフコース形成およびリスク管理に与える影響に焦
点を当てたが、それらの形成に家族以外の他者からの情報や価値観が関わる事例が見られ
た。現代の女子学生の理想のライフコース形成についてさらに考察を深めるためには、彼
女たちのもつ人間関係、つまり家族以外のネットワークからの影響について明らかにする
必要があるだろう。
主要参考文献
喜多加実代, 2011「女性の就業選択 母親の就業経歴を中心に」石原由香里・杉原名穂子・
喜多加実代・中西祐子『格差社会を生きる家族』有信堂: 83-104.
松村幹子, 1994「女子学生のライフコース観の形成‐親の影響を中心に‐」
『年報社会学
論集』1994(7): 85-96.
17
日本の子どもの貧困対策
―貧困な子どもの家庭外部での経験の有効性とその無償化の実現に向けて―
捧 晴香
日本の子どもの相対的貧困率が OECD の中でも高いという事実を受け、不確実な直接的
資金の支給ではなく間接的な支援の必要性に気づく。阿部(2008)は貧困の子どもの陥りやす
い問題として不健康、低学力、虐待、非行、疎外感を挙げており、これらは家庭・教育課
程外での経験によって解決されると考えられる。そこで本論文では家庭・教育課程外の経
験の中でも「習い事」に着目し、貧困な子どもへのその有効性について調査する。さらに、
貧困世帯の金銭的不利を考慮し、その無償化について、子どもの貧困撲滅運動が盛んなイ
ギリスを考慮しながら考察する。
まず子ども時代の習い事による影響について調査するために、新潟大学の学生にアンケ
ート調査を依頼し、109 名から回答を得た。また、習い事が子どもに最も有意に働く条件に
ついても調査した。分析の結果、運動系の習い事の健康面への好影響、全ての習い事の学
力面への好影響、集団の習い事の疎外感への好影響、さらに習い事の早期開始と継続年数
の比例関係が見てとれた。
次に子どもの貧困に関する日本とイギリスそれぞれの就学前と後における政府の対策と
市民の動きについて文献研究し、各々を比較した。その結果、イギリスは就学前からトー
タルサポート体制が整っており、就学後も学習支援やクラブ活動などをサポートしている。
トータルサポートと早期介入という点において日本にないものを持っていると言える。市
民団体についてもその規模や数でイギリスの方がはるかに上回り、政府も市民団体に耳を
傾け、政府と市民双方の理解が進んでいる点で日本と大きく異なる。
習い事の影響とイギリスと日本の対策の差を見合わせると、今後の日本には就学前のト
ータルサポートの実現と、就学後の学習支援やクラブ活動などの「習い事」のような性格
を持つ制度の導入とその場所の確保が必要であると考えられる。その無償化の実現のため
には、現在日本が目を付けている「地域」と学校の連携の強化の中でボランティアの指導
者を募るのが最も良い方法ではないだろうか。さらに、学童保育の対象児童は小学校 1 年
生から 3 年生であるが、
「習い事の早期開始と継続年数の比例関係」から考察すると、経験
年数を限定せずに幼児から小学校 6 年生まで拡大することも視野に入れるべきである。子
どもの未来への投資として今、行動すべきなのである。
18
親同居未婚者の自立に関する考察
―〈離家〉
〈結婚〉の意味、多様な〈自立〉の在り方―
佐藤 希実
〈大人になる〉
〈自立する〉〈一人前になる〉ということについて、はっきりとした定義
が決められているわけではない。また、それは時代や世の中の状況によって変化するもの
であり、世代によっても異なるものだと思われる。
しかし、現在の日本において、
〈自立〉は「職業をもち親から経済的に自立し、結婚して
家庭をもつこと」
(宮本・井上・山田 1997:ⅲ)として定義されることが多いのではないだ
ろうか。その一方で、国立社会保障・人口問題研究所の調査によれば、2005 年時点では 20
歳~34 歳の未婚男女の 7 割から 8 割近くが親と同居しており、また生涯未婚率も年々上昇
してきていることがわかる。未婚且つ親と同居状態の男女が増えていることが現状であれ
ば、上記したような〈自立〉ではなく、より多様な〈自立〉に目を向けるべきではないだ
ろうか。
本稿では、
〈離家〉及び〈結婚〉が〈自立〉と関連していかなる意味をもつのか、
〈離家〉
及び〈結婚〉に縛られない〈自立〉
、つまり親同居未婚状態においても存在する可能性のあ
る〈自立〉を発見することを目的とした。
調査の結果、
〈離家〉については親と別居する対象者では、それを必須とする対象者とそ
うではないとする対象者が存在した。前者においては、
〈離家〉を〈必要な状態〉というよ
りも〈必要な経験〉としてみなしており、後者では、〈離家〉に〈自立〉のきっかけ程度の
意味を求め傾向が見られた。〈結婚〉については、〈自立〉には必須でないとの回答が対象
者たちから得られたが、対象者本人の多くは〈結婚〉を望んでいるため、彼らは〈結婚〉
に〈レベルアップ〉や、
〈対等〉〈自立〉したふたりが行うもの、という意味を見出してい
た。一方で、未婚の「キャリアウーマン」により高位な〈自立〉を見出す対象者も見られ
た。また〈家〉の継承問題に関わり長男として継承していくことを引き受け〈結婚〉を重
視する例や、家業の継承などの問題に立ち向かい〈結婚〉にまつわる葛藤などが本人の〈自
立〉を考える上で中心となるような、〈結婚〉を〈自立〉と切り離して考えることは到底で
きない例も存在した。
〈離家〉
〈結婚〉以外では、〈仕事〉と〈精神的独立〉が〈自立〉には重要な項目として
多くの対象者に挙げられている。
〈仕事〉は単に自ら生計を立てるための「お金を稼ぐ」手
段としてだけではなく、精神的な成長や、または社会的役割という意味をそれに求める対
象者も見受けられた。これらもまた、以下で紹介するような〈離家〉
〈結婚〉に縛られない
〈自立〉のひとつとも言えるだろう。
〈離家〉
〈結婚〉に縛られない〈自立〉、つまり親と同居且つ未婚の状態においても存在
すると思われる〈自立〉として、
〈親に対する気遣い〉、
〈自分自身を認める〉
、〈与えられた
「枠」
(=親を含めた周囲の人間やメディアに植えつけられ、蓄積していったそれらによっ
て自らの中に形成されていった固定観念)を捨てる〉の 3 つを挙げることができた。
19
山間地域活性化の推進体制に関する研究
菅原 龍平
中山間地域は国土・環境や文化的多様性、食糧自給などを支える重要な機能を有してい
るが、人口減少や少子高齢化、農林業衰退によりそうした機能が失われつつある。したが
って中山間地域の活性化は急務だが、従来の地域活性化理論に基づく活性化活動は人口や
経済、産業の規模・構造が縮小・変化している現状においてなお、人口増加やものづくり
ありきの活性化を志向するものとなり得るため、現状に対応しきれなくなっている。
本論文では以上のような問題意識から、新潟県村上市(旧朝日村)高根集落で活性化活
動を展開している高根フロンティアクラブを対象とし、その推進体制を分析することで、
現状に相応しいと考えられる、人口減少にも関わらず可能な、「ものづくりありき」となら
ないような活性化のあり方を考察することにした。
高根集落ではこれまでに高根フロンティアクラブを中心として、新しいイベントの開催
や廃校となった小学校を再利用した農家レストランの運営、特産品づくりなどの活性化活
動が行われてきたが、それらは「高根元気づくり 5 本の柱」という基本計画に基づいて立
案・実行された。この計画は集落内外の住民を巻き込んで策定されたものであり、集落内
外の住民の協調行動によりそれまで集落の住民が見落としていた地域資源を発見すること
ができたという点は重要である。また、集落外から NPO や企業が高根フロンティアクラブ
を受け皿として集落に入り活動を行うことで住民と関係を深めており、これにより従来に
はなかった新たな活動が集落内外の主体を巻き込んで模索されるようになっている。
上記のような外部の主体との接触に際して地域が排他性を発露させることがあるが、高
根集落では高根フロンティアクラブが双方を媒介することによって排他性を抑制し、地域
内外の活発な交流が実現している。
さらに「ものづくり」に関して、高根集落は経済効果を目的として特産品づくりを行っ
ているのではなく、集落を訪れた客に対して特産品を提供することで集落の良さを知って
もらうことを目的としており、そのために各種イベントや農家レストランと特産品をカッ
プリングさせ、相乗効果を生み出している。このように、経済効果のみならずその後の活
動につなげることができるような目的を設定し、その目的意識を活動に関わる各主体が共
有することで「ものづくりありき」という思考に陥らないようにしている。
以上のことから、現状に相応しい地域活性化は、地域内外の主体があらゆる活性化活動
において目的意識を共有し、協働しながら活動を拡大させ、地域の活力を増大させていく
ことであると考える。
20
大震災に関する投書の分析から
―東日本大震災に関する投書の分析から―
杉井 亜実
言語行為には、ジェンダーが影響しているといわれる。男女それぞれが使用することば
は「男ことば」
「女ことば」に区別され、話し方や文体だけでなく伝える内容においても男
女差があるとされている。男性ははっきりと断定的なことばを使うのに対して、女性は丁
寧でやわらかいことばを使う。また内容でも、男性は公的なことを、女性は私的なことを
述べるという特徴があるといわれている。これらの特徴は、一般読者による主張が記載さ
れた新聞投書にも表れている。近年、男女平等意識が高まり、これまで強く残っていた「夫
は外で働き、妻は家事」の考えが変化してきている。そのような変化が起きている現代に
おいて、ことばにおける男女差はどのようになっているのだろうか。現代の新聞投書にみ
られる男女差を分析していく。
『朝日新聞』の投書欄である「声」欄に掲載された投書のうち、東日本大震災に関する
ものをとりあげて分析した。ことばについては、男女差が明確に表れ、女性が「私」や「思
う」などの主張を弱めることばを使ったり家族への言及をしたりと、これまでと変わらな
い結果であった。しかし、男性による「妻」への言及が増加しているという変化もみられ
た。また感情表現の使い方にも男女差がみられた。投書内容についても、男性は公的なこ
とを、女性は私的なことを述べるという形は基本的には変わっておらず、男性は批判を、
女性は個人的体験を述べたものが多くみられた。内容を細かくみていくと、主張の仕方に
も男女で異なる特徴があるとわかった。女性は読み手を意識したり、人の内面や人との関
わりを主張のなかに取り入れたりする特徴があり、男性は主張の中に自分の考えを入れる
ことで説得力を高めるという特徴がみられた。
このように、現代でも新聞投書には男女差がある。しかしそれは「女ことば」
「男ことば」
や公的・私的のように数量的に捉えることのできる差だけではなく、ことばの使い方や主
張方法の違いなど、分類することのできない特徴も含まれていると考えられる。
21
フィクション(漫画)に描かれる女性同士の「親密な関係」と「同性愛」
竹内 香織
同性愛への理解は少しずつ広まっているといえるものの、メディアによる偏ったイメー
ジも根強く、いまだに同性愛はからかいや差別の対象となることが多い。そのなかでも男
性に比べ、女性同性愛(者)は登場の機会が少なく、現実のものとして認知されにくい状況に
あるため、メディアによるイメージ形成の影響が大きくなりやすい。一方で近年、女性同
士の恋愛を描く創作ジャンルが、男性同士の「やおい(ボーイズラブ)」に対しての「百合(ガ
ールズラブ)」として広がりをみせている。恋愛ものとしての肯定的なイメージを発信する
これらの作品群では、どのような同性愛イメージが発信され、受容されているのか。本稿
では、作品における同性愛の描かれ方に注目し、その内容を分析した。
分析にあたっては、「やおい(ボーイズラブ)」研究の視点を参考にしながら、特に読者を
限定しない一般誌と、「百合(ガールズラブ)」として発刊される専門誌とを分けたうえで、
以下の 3 点に着目した。①一般誌において女性同士の関係が描かれ始めた 70 年代から現在
(00 年代)にかけて、同性愛の描かれ方はどのように変化しているのか。②対象とする読者
に違いがある一般誌掲載作品と専門誌掲載作品とで、描かれるテーマや表現にどのような
違いがあるのか。③読者が求める作品に描かれる“女性同士という関係”の特徴とは何か。
分析の結果、①従来(70~90 年代)の作品では男性嫌悪(男性優位社会への抵抗)の文脈や、
「好
きになったのがたまたま同性だった」という文脈から女性同士の恋愛を描き、特に初期の
作品では悲劇的な終わり方をするものが多かったのに対し、現在(00 年代以降)は、主人公
二人のどちらかが同性愛者あるいは過去に女性との恋愛経験がある人物に設定されること
で、同性愛者としての人生や、異性愛規範への批判的なまなざしを描くことが可能となっ
た。②このような描かれ方の変化の流れには、00 年代以降に確立した「百合(ガールズラブ)」
の浸透も影響しているが、専門誌において描かれる女性同士の関係は、それを前提として
純粋に求める読者のニーズを追求するためか、
「同性愛」というよりは「あなただから好き」
という純粋さが重視されやすく、男性人物や周囲との関係といった描写がほとんどない、
学生・女子校(思春期)の間の閉鎖的なイメージが付与されやすくなっていた。③一方、一般
誌・専門誌ともに描かれる女性同士の関係に特徴的であったのは、対等性であり、読者に
とっての魅力のひとつである可能性がみえてきた。異性同士ではいまだ実現が難しい対等
な関係が、女性(同性)同士では可能になるのである。
「同性愛」理解のきっかけを与えるのと同時に、現代社会で求められる「対等な対」を
描くことも可能な「百合(ガールズラブ)」。一方、そのどちらをテーマとして重視するかに
よって、一般誌と専門誌の表現には違いがあり、それが読者間の好みの違いであると同時
に、現実とフィクションとの境界を曖昧にしている要素でもあるようである。ファンの集
うコミュニティサイトにおける書き込みから、ジャンルを美化するあまり、現実の同性愛
を見下して両者を区別する愛好者の存在も明らかになった。二つのテーマのどちらかを選
び取るのか、どちらも楽しむのかは読者の自由であるが、フィクションと現実の違いを自
覚しつつも、作品に描かれる“女同士の愛”に目を向け、興味・関心をもつ読者の増加に
期待したい。
22
メディアによる非正規雇用のスティグマ化について
―新聞記事の内容分析を通して―
武田 和真
2011 年の矢野経済研究所の調査によれば派遣に対するイメージが低下しているという。
その原因としてはマスメディアによる年越し派遣村報道が関係していると考えられる。そ
こで本論文では派遣村が新聞でどのように報道されたのかを調査することにより、派遣に
対するイメージ悪化の原因を調べることを目的とする。
三好のメディアによるフリーター報道の調査によれば、フリーターという言葉が生まれ
た 1980 年代後半から 1990 年代前半ではフリーターは華やかな存在として報道されたが、
バブル崩壊後からはマイナス・イメージで報道され、「就職できない」や「結婚できない」
というイメージが形成されたという(三好 2007)
。
このように、メディアでは非正規雇用に対してマイナス・イメージで報道される向きが
あ り 、 E. ゴ ッ フ マ ン が 用 い た ス テ ィ グ マ が 形 成 さ れ た と 考 え ら れ る ( E.Goffman
1968=2001)
。
内容分析では派遣村が始まった 2008 年 12 月からの記事を対象にした。さらに、検索数
が一番多かった朝日新聞をメインに分析した。
2010 年に東京都が開設した公設派遣村において派遣村で交通費 2 万円を受け取り無断外
泊をした人々についての報道がなされた。これまでは派遣村を擁護する姿勢で報道がなさ
れてきたが、それだけではうまくいかなくなった。しかし、簡単に小泉・竹中の構造改革
が問題だという主張を崩すわけにはいかず、派遣村の人々が悪事を働いたのは行政の側が
無策であったからだ、という主張をし、主張の一貫性を図る結果となった。しかし、そこ
では「派遣村の人々が悪事を働く人々だ」というイメージの転換がなされないまま報道さ
れてしまった。そのことによって、派遣村の人々は悪事を働く人々だというマイナス・イ
メージが報道の受け手に伝えられてしまった。
非正規雇用に対するスティグマには 2 つの側面がある。1 つは非正規雇用が不安定で貧困
であるという側面である。もう1つは非正規労働者自身に対するマイナス・イメージであ
る。派遣村報道では非正規雇用の問題が個人の責任ではなく社会の問題であるという前者
の側面が報道され、大きな貢献がなされた。しかし、それと同時に後者の側面に対してマ
イナス・イメージが形成されてしまった。
メディアは多様な面から 1 つの面のみを強調する機能をもっている。つまり、非正規労
働者の皆が悪事を働く人々ではないのである。報道の受け手がこのような認識をもつよう
に促していくことができれば、合意形成がスムーズに行われ、問題解決につながっていく。
23
野外フェスティバルと地域のつながり
―新潟県湯沢町のフジ・ロックフェスティバルにおける地域性についての考察―
谷口希穂
本稿では、野外フェスティバル「フジ・ロックフェスティバル」とその開催地である湯
沢町における地域的なつながりと、野外フェスが地域性をはらむ可能性について着目した。
フジ・ロックの黎明期に貢献した地元住民に対するインタビューや、湯沢町とフジ・ロッ
クの主催者が共同して開催するボランティア活動への参与観察により、本稿の問題意識の
考察・検討を目指した。
野外フェスティバルとは本来、地域外で生活する主催者が、地域に干渉することからは
じまる「イベント性」の強い催しごとであるが、フジ・ロックにおいて湯沢町の住民はど
のような葛藤や経験をしてきて、継続に貢献したのかといった内容を、インタビュー調査
により明らかにした。フジ・ロック初期は消極的な住民が多く、フジ・ロックに対して非
協力的な面が目立っていたが、フジ・ロックに参加し、体験することでその本質や客層を
知り、協力的な姿勢をみせる住民が徐々に増えていった。
そしてボランティア活動の参与観察では、ボランティア参加者へのインタビュー調査や、
実際に活動に参加することによって、参加者のチベーションやフジ・ロックと湯沢町に対
する帰属意識を知ることができた。
本稿を検討・考察していく中で、野外フェスと地域のつながりが継続し、そこに地域性
や伝統性が形成されていく過程を見出すことができた。さらに、イベントと祭りは根本的
に異なると言われているが、そうではなく両者において共通と言える特徴を発見すること
もできた。
以上のような考察から、野外フェスが地域に根付いた催しごととなり、そこに新しい地
域性を見出すことができるといえる。
〈主要参考文献〉
永井純一,2005「イベント参加と自己実現―ロックフェスティバルを事例として―」関
西大学大学院人間科学,社会学,心理学研究 62 号 pp17-36.
岡田宏介、2003「イベントの成立、ポピュラー文化の生産―(悪)夢のロック・フェス
ティバルへの動員はいかにして可能か」、『ポピュラー音楽へのまなざし――売
る・読む・楽しむ』東谷護編, 勁草書房.
西田浩,2007『ロック・フェスティバル』新潮社
24
インターネット空間のコンフリクトと秩序
―「2 ちゃんねる」に見るコンフリクトの現状―
永尾 光
インターネットの社会学的研究における代表的な社会学者の一人である吉田は、1990 年
代後半から普及してきたインターネットは、単に新しいメディアであるというだけでなく、
既存の社会に新たに重なって広がるもう一つの環境として形勢されてきた。
(吉田 2000)
と述べており、現実とインターネットの世界がかなり密接していることを感じ取ることが
できる。インターネットは情報の発信受信に用いられることが多いが、コミュニケーショ
ンの手段として利用されることも多い。そして、その「現実と重なっている」インターネ
ットという場で、時折人々は言い争いを起こす。その争い(コンフリクト)は現実よりも
頻繁に起こる。コンフリクトが起こるまでに至らなくとも、互いに初対面で無礼なやり取
りがなされるケースが珍しくない。
今回の論文では、インターネット掲示板「2 ちゃんねる」の掲示板群の中で、そのジャン
ル・話題別にわけてコンフリクトの事例を観察し、どのようなジャンルでどのようなコン
フリクトが起こっているか、ということを分析する。
調査の結果、その場の「話題」によってコンフリクトの質が異なっていること、そして、
大きくわけて 3 種類のコンフリクトの類型があることが分かった。前者に関しては、
「政治
問題」など、知的な話題だとかえってその知性の高さが高い自尊心を生じさせ、互いに蔑
み合う結果を生んでいるケースが多く見られた。逆に敵対チームなどの対立が激しいもの
と予想される「スポーツ」のジャンルでは、実際その傾向は見られたものの、スポーツ特
有の「ルール」の存在がその場の治安を守っている様子が見受けられた。
「芸能」のジャン
ルは、掲示板利用者が設けた「秩序」の結果、その芸能人のファンとアンチがほぼ完全に
隔離され、ひとつのスレッドで両者が衝突することはなかったが、片側(アンチ)からそ
の場にいない相手(ファン)への中傷発言という歪んだ中傷構造を生み出していた。
コンフリクトの 3 類型は、①純粋な対立のコンフリクト、②煽りから始まるコンフリク
ト、③そして対立する両者の片方がその場に存在しない、衝突しないコンフリクトの 3 つ
である。純粋なコンフリクトでは冷静になり相手の意見を吟味して反論する、という通常
の議論の方法から逸脱さえしなければ、基本的に問題はない。現在イシューとして挙げら
れるのは純粋な対立の中でも明らかな蔑み合いのフレーミング形式となっているコンフリ
クトと、そしてその他の 2 種類である。
インターネット上のコンフリクトの解決の根本は結局のところ本人たちの資質に依ると
ころが多い。そのため完全な解決の実現は非常に難しいが、自分たちが過ごすインターネ
ットをより快適なものにするためにも、インターネットでコミュニケーションを行う個々
人の自覚の向上が望まれる。
25
「ペットは家族」という意識に関する考察
芳賀 香
犬猫を合わせたペットの数(20,473 千頭、2010 年 10 月現在)が 15 歳未満の子どもの数
(1692 万 5 千人、2011 年 3 月 1 日現在)を上回る現在、犬猫以外のペットの存在も考慮すれ
ば、ペットは少子化が進行しつつある日本の経済や人々の居住空間、家族のあり方などあ
らゆる面において今後も影響を及ぼしていくと考えられる。
人々の「ペットは家族」という意識に着目した先行研究としては、ペットに関する「主
観的家族論」の実証を試みた山田の調査(山田 2004)や、田渕(田渕 1998)による「家族」と
いう言葉の用い方におけるレトリックを知るためのインタビュー調査などがある。田渕の
調査では、ペットを家族だと語る語彙の中から、
「ペットは単に可愛いから家族だといわれ
るのではなくて、…「世話をしてやらなければならない」
「責任」がある(だから家族である)、
などと説明されるということ」(田渕 1998)が見出された。本稿では、飼い主の「ペットは
家族」という意識は、飼い主自身にどのように働くのか。また、現代社会における家族の
変化と「ペットは家族」という意識はどのような関係にあるのかを明らかにするため、犬・
猫を飼っている飼い主、または元飼い主を調査対象者と設定し、インタビュー調査を行っ
た。
第一に、ペットと飼い主のコミュニケーションは、飼い主の価値観を通してつくられた
解釈が再び飼い主によって理解される反芻行為であり、これによって飼い主は自己の価値
観を肯定・確認しているのだ。ここにおいてペットの存在に家族という意識を持つことは、
自身の価値観が肯定・確認される働きを強調するものと思われる。第二に、ペットの存在
によって精神的安定を得た事例に着目し、その利点としてもともと本人たちが犬好きであ
ったこと、人間同士の付き合いに生じる遠慮や引け目を感じないこと、そして「ペットは
家族」という意識を持つことで、家庭のなかに精神的安定を得られたことを確認した。第
三に、ペットの存在は家族で共有できる事柄を増やす媒体となり、家族が繋がっている実
感を与えてくれるものであることが伺えた。ここで「ペットは家族」という意識は、まさ
に家族のなかに家族員同士を結びつけるものが存在し、その繋がりがより強いものと認識
させる働きをもつものと思われる。そして最後に、動物を譲渡する側としては、飼い主が
自分の条件(相性)にあったペットを見極めることが必要と考えていたことに着目した。「ペ
ットは家族」という意識を保持する人々が家族という言葉を使用するとき、そこには「自
らをこの世に運命的につなぐ関係への希求」(上野 2008)が強く込められていると思われる。
選ぶ権利が飼い主側にあるのなら、条件をつけてより好ましい相手を選ぶ方が、運命的な
関係への希求もより満たされることができるのだろう。
現代における家族の変化は、かつての「画一的」な家族のあり方から「多様な」家族の
あり方へという変容の問題として論じられる傾向にあるという(木戸 2000)。多様という言
葉は、自由と同じくときに人々を不安にする。家族という身近な人間関係が揺らいでいる
今、ペットは飼い主が離さない限りそばにいてくれる存在なのである。
26
アスリートのセカンドキャリア問題
―転職経路における人的つながりとの関連性―
星野 純子
近年、アスリートが引退後のセカンドキャリアの獲得に多くの困難を持っている現状が
明らかになってきた。彼らが現役として輝ける時間は、長い人生のうちごくわずかな間で
ある。個人の競技生活で培ってきた経験を指導者として活かすことは、引退後のセカンド
キャリアとして理想的であると考えられる。しかしスポーツ指導という職域は縮小傾向に
あり、セカンドキャリアは指導者以外にも幅広く模索していく必要がある。
グラノヴェター(1998)によると、家族や友人、社交上や仕事上の知人などの人的つな
がりを通じて転職する場合、最も良い結果が得られると考えられている。その中でも、グ
ラノヴェターがアメリカで行なった調査では、弱い紐帯(まれにしか会わない人)のつな
がりが活用されていることが分かった。しかし、渡辺(1991)が日本のサンプルでグラノ
ヴェターの仮説を検証したところ、同様に人的つながりの有効性は認められたが、弱い紐
帯よりも強い紐帯(いつも会う人)のつながりの方が活用されていることが分かった。ア
スリートの転職の場合にも人的つながりは有効に作用すると考えられる。しかし、アスリ
ートが用いる人的つながりは一般の社会人が用いるものとは異なる関係性を持ち、作用す
るのではないか。そのような問題意識を出発点とし、本論文ではインタビュー調査を行な
った。
調査の結果、アスリートがセカンドキャリアを獲得する過程においても人的つながりの
有効性は認められた。また、そのつながりを見てみると、強い紐帯を用いているわけでは
なかった。日本においては、強い紐帯の仮説が有効に作用しているにも関わらず、アスリ
ートの場合にはその仮説が当てはまらない理由には、アスリートが特殊な人的つながりを
持ちやすいということが挙げられる。彼らには競技生活で培ってきたアスリートならでは
の特殊な社会関係資本の蓄積がある。その社会関係資本から導き出される人的つながりは、
親密な付き合いがなくとも、相互の高い信頼関係を築いている。それにより、弱い紐帯で
あっても面倒を見てもらえるという関係が成立しているのだと考えられる。
〈主要参考文献〉
マーク・グラノヴェター.渡辺深訳,1998,『転職―ネットワークとキャリアの研究―』
ミネルヴァ書房
渡辺深,1991,
「転職―転職結果に及ぼすネットワークの効果―」
『社会学評論』42(1): 2-16
27
世間に受容される笑いとコミュニケーションの関係について
見田 智聡
「お笑いブーム」という言葉が登場してから久しい今日、お笑いは現代人にとって身近
で重要な存在である。笑いは他者とコミュニケーションをとるにあたって重要な役割を負
っている。また、お笑いは時代性のあるものであり、お笑いの傾向をみることは、時代、
社会をみることにつながるといえる。 本調査では、1980 年代の漫才ブームが再燃したと
言われる 2000 年代の漫才をドキュメント分析することを通して、現代人のコミュニケーシ
ョンの傾向について考察していく。調査対象としては、オートバックス M-1 グランプリの
決勝戦を挙げた。
太田(2001)によると、1980 年代の漫才ブームをきっかけに、ボケとツッコミの関係性
は社会空間に現実に根を下ろしていったという。ボケとツッコミの関係がコミュニケーシ
ョンに影響したということは、新しいコミュニケーションが生まれたともいえる。2000 年
代の漫才ブームは、コミュニケーションとどのような相互関係があるのだろうか。
調査結果として、2001 年からの 10 年間で、漫才において 2 つの変化が見られた。1 つ目
は、キャラクターの重要性の増大である。このことから、何が見えるだろうか。浅野ら(2010)
によると、今日、人々は「おまえは何者か」という問いにさらされ続け、その都度何らか
の答えを出すように迫られている。この圧力の対処の仕方で、「空気を読み」、「キャラを立
てる」ことが挙げられる。キャラを立てた振る舞い方は、自己確認や自己表現であると同
時に、さまざまな関係をよりよく保つための方策でもあるのだという。今日においてキャ
ラクターを確立することは、自己を他者に、そして自身に認知させるための補助具の役目
を果たしているといえよう。
2 つ目はツッコミの変容である。太田(2001)によると、ツッコミが脆弱化したという。
しかし、今回の調査結果としては、脆弱化したというより変容したのだといえる。特に 2004
年からは、ツッコミの言い回しが多様化した。ところで、今日のコミュニケーションや、
人間関係のあり方についての問題に、人間関係の「希薄化」が挙げられる。しかし、浅野
ら(2010)によると、SNS やプロフィールサイトの流行を考えれば、むしろ若者たちは人
との関係性を希求していると解釈できるという。2004 年以降の漫才では、ツッコミがボケ
に対し、常識を基準とせず、自分なりに対応している様子が見てとれた。これは、社会が
自分を認め、理解しようとしてくれるような「親密な人間関係」を望んでいた、と解釈で
きるのではないだろうか。今日、自分とは異なる他者を、理解しようとする傾向が出てき
た、と見ることもできる。
〈参考文献〉
浅野智彦・加藤篤志・苫米地伸・岩田考・菊池裕生,2010,『考える力が身につく社会学入
門』, (株)中経出版
太田省一,2002,『社会は笑う―ボケと突っ込みの人間関係』,青弓社
28
北京市における女性出稼ぎ労働者のライフヒストリー研究
―ジェンダーと出稼ぎがライフコース選択に与える影響―
宮 倫世
中国では、
「農民工」と呼ばれる、農村から都市や発達した農村への出稼ぎ労働者が多数
存在する。出稼ぎ労働者は、中国の経済発展を支える重要な役割を果たしてきた反面、都
市戸籍を持たないため、教育、社会保障、医療保険等の面で、出稼ぎ先の市民と同等の待
遇を受けられないという問題がある。特に女性出稼ぎ労働者は、流動性の高い職業に就く
ことがほとんどで、出稼ぎ先で安定した生活を送ることも難しい。また、伝統的な女性観
が根強く残っている農村では、
女性は 20 歳を過ぎた頃には結婚することが期待されている。
そのため女性が出稼ぎに出る場合、学校を出てから結婚するまでの一定期間働きに出るか、
または働きに出る夫について村を離れるかの 2 パターンが主流である。本稿では、女性た
ちの生の声を基に、北京にいる女性出稼ぎ労働者の生活実態を明らかにするとともに、彼
女たちのライフヒストリーの中で出稼ぎがどのような意味を持つのかを考察する。
北京市で働く農村出身の 10-20 代の女性 10 名に対して行ったインタビュー調査の結果、
以下のことがわかった。まず出稼ぎ経緯に関して、調査対象者に共通する特徴として、学
業への意識の低さと主体的な出稼ぎ選択が挙げられる。学業については、陸小媛も指摘し
ている通り農村の教育環境が大きく影響していると言えるだろう(陸 2009: 104-105)
。ほ
とんどの女性が自ら積極的に出稼ぎを選んだと語っていたが、進学しなかった農村女性に
は、出稼ぎという選択肢しか残っていなかったとも言える。都市での生活への期待や技術
取得など積極的な動機が注目されるが、この点にも留意する必要があるだろう。
恋愛観・結婚観については、熊谷苑子らの研究では経済的先進地域での結婚・定住とい
う社会的上昇移動の可能性が、出稼ぎを続ける動機につながると示されたが(熊谷他 2002:
157)
、本調査ではそれと異なる結果が得られた。地元男性との結婚を望む声が多く、また
北京での定住を望む女性も少なかったのだ。都市生まれの男性との価値観や生活様式の違
いに対する心配や、両親の側にいたいという思い、大都市での生活への不満などのためだ。
また、多くの女性が将来住む場所は結婚相手に合わせるとも答えている。将来の結婚相手
が北京に住む予定であってこそ、北京での定住も考慮に入れることができるようだ。
女性出稼ぎ労働者にとって出稼ぎとは、結婚するまでの束の間の自由な時間というだけ
でなく、現実と向き合いながら将来の可能性を模索する大事な機会ともなっている。
〈主要参考文献〉
熊谷苑子・枡潟俊子・松戸庸子・田嶋淳子編,2002,
『離土離郷――中国沿海部農村の出
稼ぎ女性』南窓社.
陸小媛,2009,
『現代中国の人口移動とジェンダー―農村出稼ぎ女性に関する実証研究―』
日本僑報社.
29
柏崎からみる原発に対する「ゆらぎ」の可能性
―柏崎刈羽地域の秩序と精神のゆらぎ―
宮島 真理
2011 年 3 月 11 日に東日本大震災による福島第一原子力発電所事故が起こったが、その
一方で多くの原発立地地域には原発について積極的に話題ができない暗黙の秩序が形成さ
れていた現実がある。しかし柏崎刈羽地域は世界最大の柏崎刈羽原発を有しながらも、2001
年のプルサーマル計画の受け入れに対しては住民投票が行われる等、立地地域のなかでも
原発に対する意識が極めて高い地域である。強固といわれる原発立地地域の秩序構造を変
容させうる「ゆらぎ」をこの地域はなぜ有しているのだろうか。
先行研究からこの地域でのこうしたゆらぎの要因を、外部からの経験を経た運動リーダ
ー達が「変わり者」と回収されないところに秩序の変動の可能性があると考え、掘り下げ
た調査をすべきと考えた。また柏崎刈羽地域の「原発立地地域の秩序」の数々のゆらぎに
関わった中心人物には、原発に対して中立の立場を表明しているということが共通してい
る。そこで中立の立場にゆらぎのキーがあるのではという仮定から、中立的立場を表明し
たリーダーの方々にインタビュー調査を行うと同時に、数々のゆらぎの中でも一貫して推
進の立場を取り続けた市民団体へのインタビュー調査も行った。
調査の結果「変わり者」とされずに周りの容認が得られたのは、やはり中立の立場であっ
たことや議員など動ける立場として活動していたことが大きかったこと、また行動が起こ
せるに至ったのはお連れ合いの方の存在や、関東圏での都会的な生活や経験が大きかった
ことがわかった。また接客業など普段から人間的な信頼も周りから得やすかったため、生
活者の視点をもつ身近なリーダーとして容認されるに至ったのではないかと考えられる。
またこの地域では、行政側は推進の姿勢でありつつも反対派の意見も聞き入れようとす
る姿勢がみられ、反対側もそれを認識していた面がみられた。推進派住民も反対派を恐れ
つつも安全性へのチェック機能として、必ずしも反対派を排除しようとはしなかった。そ
のため、
「変わり者」は排除されず容認されていたのではないかと考えられる。
推進の立場である市民団体は東日本大震災を含め何度かの不信で大きくゆらいだものの、
その団体にとってそれまでの活動は生きがいややりがいであり、仲間との努力の場であっ
た。したがって原発と共生してきた歴史と自分達の活動に誇りをもっていたことが今日ま
で彼らを推進派にさせ、ゆらぎを踏みとどめさせたと考えられる。
30
中心市街地における商店街の活性化
―上古町商店街組合の主体の広がり―
村木 友香
地域商業の衰退、中でも地方商店街の衰退が年々深刻化している。モータリゼーション
や郊外への大型小売店の進出などで客足が遠退くことに加え、経営者の高齢化や後継者不
足などで商店街の維持も困難となっている。大型小売店の出店規制や意欲的な中心市街地
への支援拡充などを定めた「まちづくり3法」が施行され、全国各地で商店街活性化のた
めの取り組みが進められているが、いまだに商店街の空き店舗の増加に歯止めがかからな
い状況である。商店街活性化事業としてハードの整備やイベントが行われ、それが商店街
活性化のための恒常的な活動主体の形成や担い手の増加に繋がることが望まれているが、
実際には非常に困難なことである。そこで、本稿では、衰退した現状を維持するのではな
く、活性化の方向へ変化させようと行動する人物を「主体性がある担い手」と設定し、商
店街の活動の中心である主体の形成と、主体性のある担い手が増加するプロセスを明らか
にすることを課題として、新潟市中央区の古町地区にある上古町商店街を対象に事例調査
を行った。
上古町商店街の活性化のための主体の形成には、勉強会の存在が大きな役割を果たして
いる。長期間かつ定期的に勉強会を実施したことで、人間関係や仲間意識の構築・維持に
大きな効果を発揮したと考えられる。「商店街のアーケードを新しくしたい」という商店主
共通の強い思いがベースにあったことで、勉強会の存在は周囲からのコンセンサスを得や
すい状況にしていた。また、勉強会で4つの町内を1つにまとめ「上古町」へ再編成した
過程で、町内を越えた関係が形成されたこと、「ヨソモノ」「ワカモノ」を組合の重要な決
定権をもつ理事会に組み込むことなど、組織が閉鎖的になりすぎなかったことも、商店街
活性化にとって重要な要因であることを明らかにした。また、振興組合になったことで、
ハードの維持管理のための設備だけでなく、提案された企画を実行に移すための制度や環
境が整えられたことも大きな要因として考えられる。それによって、上古町商店街の女性
経営者支援や商店主同士の横の繋がり作りが必要だという提案が出された際、有志の女性
店主によって女子会が組織されるなど、理事会以外でも企画立案や運営の補助ができる場
が形成され始めた。所縁型のまま無理に1つにまとまろうとせず、目的別に少数の仲間型
グループを形成して活動することで、社長の集まりである商店街の中で主体性のある担い
手がさらに増えていく可能性を示唆していると思われる。
31
少女マンガにおけるジェンダーの変容
山岸 あすみ
宮台真司は、「ある時代以降、少女マンガが、〈世界〉を読み、私を読むための〈関係性
のモデル〉として機能し始めた」と述べ、藤本由香里は、少女マンガの基礎は〈何かが共
有された感覚〉、〈共感〉であり、少女が少女漫画読んだときの共感こそ、少女マンガの特
徴だと述べている。これは、少女漫画が、少女(少女を体験してきた女性)が少女のために描
いた少女の物語であるから可能である。本稿では、いつ頃から少女による少女のためのマ
ンガが登場したのか、少女マンガの発展を通じて、少女という記号がどのように変わって
きたのかをみていく。
近代の漫画の型は明治の終わり頃から、西洋漫画の輸入によって発展していく。少年少
女文化もこの頃から登場する。少年と少女の文化が独立した存在と認められたということ
は、同時に男女の役割分担の明瞭化でもあった。少女とは、まだ大人に成っていない、性
的に未完成の女性を指す。その理想の完成とは「良妻賢母の女性」である。少女たちの全
ては家庭を志向していた。女性漫画家も少なく、少女向け雑誌に描かれたマンガも男性作
家の手で描かれた作品が多い。少女文化が登場してきたころ、少女は大人、特に男性から
与えられるものであった。
少女漫画家たちの台頭とともに、少女漫画は形式と内容の特色を手に入れ、一つのジャ
ンルとして確立した。少女漫画家の登場で少女を細かく表現できるようになったことによ
り、大人の男性持つ理想の少女像から、女性の気持ちを持つ少女像へ移行したために恋愛
を中心とする物語が登場し始める。恋愛における「幸せ」は、素敵な男性からの愛の告白
を受けることで少女の存在が認められること、男性による自己肯定が基盤となった。それ
を表す、解りやすいゴールが「結婚」であった。しかし、男性に認めてもらうのを待つだ
けでは幸せになれないと感じた少女たちがいた。
そして「良妻賢母」の次に代わって登場したのが、
「かわいい」少女だ。以前まで、少女
とは、女性または母になるための準備期間であった。少女はまだ女性になっていない状態、
これから良妻賢母になるための試練が「清く正しく美しい」を貫くことだったが、「かわい
い」少女たちは、
「女性(母性)」を意識しなくなった。そのため、母性を薄くしたことによ
り「子供っぽい」という一面も持つ。1970 年代になると、少女向け漫画のほとんどを女性
漫画家が描くようになる。少女が少女を描くことにより、少女の内面をより深く表現した
マンガが次々と登場する。女性漫画家が描く内面はそれぞれの作者の個性に依存するため、
少女漫画には、個々の自分らしく生きる事を重視した少女たちが登場するようになる。「私
らしい私」探しの志向は、少女たちが自分を見つめなおすことにもつながった。今まで避
けられていた、
「痛み」や「老い」など、自らの身体の性を受け入れるようになったのだ。
現在、少女漫画は男性の描く理想から離れ、少女の理想の世界を手に入れた。性差越境
などのジェンダーに対する試みも行われている。発展し続けているが、昔ながらの良妻賢
母を中心とした少女物語も存在し、その方向性は一つではなく多岐にわたっている。
32
子どもの貧困を考える
―今解決すべきこと―
山岸 美里
日本の子どもは「貧困」などからは遠い位置にあると認識されていたが、2006 年には、
OECD が「対日経済審査報告書」にて、子どもの貧困率についても警告を鳴らしており、
OECD 諸国の平均に比べても高いこと、母子世帯の貧困率が突出して高く、とくに母親が
働いている母子世帯の貧困率が高いこと、が指摘された(阿部 2008)
。
子どもの貧困とは何であるのか、どのような現状にあるのか、何か対策がなされている
のか、過去になされてきた調査や研究についてまとめる。そして、第一に解消しなければ
ならないことは何であるのかをみつけていく。
UNICEF や OECD では、相対的貧困率が用いられているが、日本には、政府による公式
な貧困基準が存在しないし、公式な統計による貧困率も計算されていないため、マスメデ
ィアを含め日本の多くの人は「貧困」をイメージでしか捉えていない。OECD による国際
比較で、日本の子どもの貧困率は、1980 年代から 2000 年代にかけて約 10%から約 15%に
上昇し、約 7 人に 1 人の子どもが貧困状況にあるといわれている。また、貧困状況にある
子どもたちの家族構成を見ると、母子世帯の貧困率は 66%(2004 年度)と突出しており、
OECD 諸国の中でも高い。母親たちは働いていないわけではなく、国際的に比較しても就
労率はきわめて高い(阿部 2008)
。就労していることが貧困・低所得の解消につながらず、
また、社会保障給付などによる政策対応も貧困・低所得を解消するうえに十分に機能して
いえないといえる(湯澤 2008)
。さらに、先進諸国における子どもの貧困率を「再分配前
所得(市場所得)/再分配後所得(可処分所得)
」で見ると(2000 年)、日本は唯一、再分
配後所得の貧困率のほうが、再分配前より高い。社会保障制度や税制度によって貧困率を
悪化させ、貧困でなかった世帯も貧困に陥ってしまうということである(阿部 2008)
。
2010 年 4 月からは公立高等学校の授業料無償化・高等学校就学支援制度がスタートし、
この制度は家計を助けるものとして効果的であると考えらえる。現在まで、児童扶養手当
法や、子ども手当(2012 年度からは子どものための手当制度)もあるが、度重なる制度の
改変と縮小によって、当事者の不安を一層強めるものとなっていたり、扶養手当法の内容
は母の自助努力となされている(湯澤 2008)
。
公立高等学校の授業料無償化・高等学校就学支援制度が導入され、子ども手当も改善さ
れつつあるが、いくら保障や制度があっても、まったく逆の効果をもたらす。私たちがま
ず、解決しなければならない部分ではないだろうか。これ以上貧困の子どもたちを増やす
ことは将来の日本が貧困になっていくことを表しており、貧困でない人々も貧しい国に生
きていくことになる。
主要参考文献
阿部彩,2008,
『子どもの貧困――日本の不公平を考える』岩波新書.
浅井ほか編,2008,
『子どもの貧困――子ども時代の幸せのために』明石書店.
33
自治体による婚活支援「出会いサポート事業」の意義
伊藤 咲
自治体による婚活支援事業は、未婚化や晩婚化を解消する糸口として考えられ、少子化
対策として全国に広まりつつある。しかし、自治体が「出会いの場」を提供し、結婚を促
すことによって、直接的に、少子化対策につながるのだろうか。先行研究では、結婚でき
ない若者の状況を描き出されているとともに、それを克服するための婚活支援の必要性が
述べられているが、自治体婚活支援による少子化対策としての意義が見出せず、曖昧にさ
れている。そもそも自治体による婚活支援は、少子化対策として実施されている、という
前提のもとに存在するはずだが、先行研究論文ではその前提が結果として重要な意義を持
つかについては、言論されておらず、欠落している。
そこで、本論ではまず、新潟県が行っている「にいがた出会いサポート事業」について
調査し、実際に婚活支援がどのような形で実施されているかを客観的にとらえた。次に、
独身男女にインタビュー調査を行うことで、独身男女の考え方、生活、経済的状況を把握
し、これが自治体の行う婚活支援の意図とうまくマッチしているのかを検証した。
「にいがた出会い事業サポート事業」については、実際にイベントに参与観察したこと
で、その取組み自体は少子化対策を掲げながらも、それ以上に参加者自身の人生観や幸福
を形成するようなものになっていることを見てとれた。自治体には、少子化対策を全面に
出さずに非営利的に、個人を支援し、個人の考え方や意見にできるだけ即して活動してい
こうという雰囲気がある。このことは、参加者にとっては居心地がいい婚活支援へとつな
がり、新潟県が行った参加者アンケート集計からもおおむねの満足度の高さをうかがえる。
また最近では、小さな村や町の地域活性化として嫁を呼び寄せるような企画も目立つよう
になってきており、新潟県による婚活支援は、単に独身男女に「出会いの場」を提供する
だけではなく、過疎化が進んでいるような地域を活性化しようとする試みも行っている。
このことから、出会いサポート事業は少子化対策を前提としながらも、その他の面で、効
果的な地域活性化、すみやすいまちづくりを期待をすることができる。
また、独身男女対象のインタビューでは5人の現状を把握した。彼らは現実的な視点を
持っているものの、なかなか結婚に関して具体的な行動ができていない。その事情や理由
は人それぞれではあるものの、結婚の前の段階、つまり恋愛で自分と向かい合う時間や余
裕がないことが伺えた。さらに、それぞれがまだ自分の生活を守ることや、基盤の確立に
忙しい印象を受けた。特に男性の場合は、顕著である。彼ら5人はまた、結婚に肯定的で
はあっても、婚活に励んでいるわけでもなく、一種傍観しているようなところもある。婚
活は、決してすべての若者の傾向であるわけではない。現状を把握しながらも、なかなか
婚活に踏み出さない慎重な若者の存在がある。
本研究で明らかになったことは、自治体による婚活支援「出会いサポート事業」の意義
は、少子化対策としてよりは、地域活性化や個人の人生における気付きや発見を促すよう
なものであるということであった。少子化対策以上に、体験交流を生かして地域の PR に役
立っていたり、地域のひとを楽しませることができるという点で地方過疎化問題を解決す
るひとつの方法としてとらえることができるだろう。
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男性・女性の職業・家庭意識
遠藤 淳也
女性の社会進出に伴って、男女共同参画社会基本法や男女雇用機会均等法が施行された。
しかし、日本では未だに男性らしさ、女性らしさの意識や、男は働き、女性は家庭を守る
という性別役割意識が根強く残っており、家事・育児責任は女、経済責任は男と考える人
は多い。そのため、男性も女性も雇用に関しては均等化したのに、職業選択や、結婚後、
出産後のライフスタイルの選択は限定されている部分がある。人々がそのような意識を持
つのはなぜか。原因はあるのだろうか。このような現状になった原因を探るため、男性と
女性の意識や行動の違いについて先行研究を検討した。
男性と女性の持つ意識には異なった傾向があり、それが原因で実際にどのように労働や、
家事・育児を行うか連鎖的に決定してしまう可能性があることがわかった。また、労働者
だけではなく、雇用する側の企業の態度や環境が大きく労働者に影響し、そのことが労働
者の労働意識や家庭意識を形成する要因となる可能性があることもわかった。これらのこ
とから、男性、女性の意識と行動と企業の態度と環境を調査・分析・考察し、三者の関係
を明らかにすることにした。
先に挙げた三者の意識の問題点や、改善すべき点を検討するために、その各々の意識と
行動の現状を明らかにするために、新潟大学の学務部を対象に聞き取り調査とアンケート
調査を行った。
調査・分析・考察から、調査対象については、①働く男性と女性が抱きがちな労働や家
庭に対する意識の傾向。②実際に働く人々が、職場にどのような意識を持っているか。③
職場の環境が働く人々にどのような影響を与えているか。がわかった。さらにこれらをも
とに④ ①のような意識を持つ原因と意識を変える方法や、実際に変わるとどうなるかと
いうこと。⑤ 複雑に関わりあう男性、女性、企業の三者の意識と行動。についても分析・
考察した。その結果、改善すべき点として、男性は可能な限りもっと家事・育児に参加し
女性の労働の機会を増やし、女性は経済的な面であまり男性に頼ろうとせずに自らが積極
的に働くことによって、現在できてしまっている男性と女性の役割分担の構造を変える必
要があること。そのためには職場が仕事と家庭を両立する環境を整える必要があるという
ことを提示した。
今回の調査では労働意識に関して、男性は家族のため、女性は自分のために働く傾向が
みられたため、これからの女性労働の立場は危ういものとなってしまうのではないかと感
じた。労働には企業や家庭での役割分担がどうしても関わってきてしまう。労働者は、も
し今の家庭などでの役割分担に不満がある場合は積極的に行動する必要があり、不満がな
くても、自分の行動が男性と女性と企業の意識や行動に影響を与えている可能性があるこ
とを自覚すべきだろう。
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在日外国人への教育支援に関する研究
~地域における支援を「にこぱるクラブ」の活動から考える~
上村 亜沙美
本論文では新潟県新潟市で、外国人の子どもたちを支援している「にこぱるクラブ」と
いう団体を調査対象とし、地域社会の中で行われている外国人へ教育支援を分析する。そ
の際重要になるのが、調査の対象が新潟市という地方都市で活動している団体であるとい
う点である。地域の中でどのような支援が行われているのか、その支援の特徴としてどの
ようなことが挙げられるのかについて、地域の中のボランティアによる支援であるという
点に注目しながら分析する。
小中学校における外国人への支援、不就学の問題、日本語の学習方法、多文化共生の 4
つの側面から先行研究を検討し、法務省の統計データをもとに日本に住む外国人の実数を
把握した。
「にこぱるクラブ」の概要と活動内容について記述し、筆者がボランティアに参
加した経験から、日本語学習初回、イメージの共有、筆談によるコミュニケーション、教
科書の言葉と日常の言葉、文化の違いと言語、学習意欲の高さ、母語への依存脱却という 7
点を考察した。
「にこぱるクラブ」の支援者に対して、アンケート調査を実施し、その結果
を分析した。
外国人の子どもたちに教育支援をする支援者達は教員でもなく、保護者でもなく、その
立場は教員と保護者の中間とも言い難い。支援者たちは簡単には定義しきれない立場にあ
ると言える。ボランティアは、子どもたちに対してどこまで教育をする権利、あるいは義
務があるのだろうか。もちろん子どもたちが教えてほしい内容をただ教えればいいという
意見もあるだろう。しかし、支援の対象となる子どもたちは小学生や中学生である。彼ら
は基礎的な教育を受ける段階であり、かつ日本語を習得する必要性にも迫られている。支
援者たちには、小学校や中学校のようなマニュアルもなければカリキュラムも無い。子ど
もたちの要求に合わせて臨機応変に対応できるという利点はあるが、積極的な支援策を講
じるには、何らかの形式化した手法が必要だと言えるのではないだろうか。
次にアンケート結果から明らかになったことは、支援をはじめるきっかけとして、身近
に支援を必要とする外国人がいるという条件があることだった。ここから考えられるのが、
地域の中で外国人と触れ合う機会の少ない地方都市では支援者が生まれにくいということ
である。外国人の少ない地域では、外国人は住民や行政の視線の先から外れていくのであ
る。無償で支援をしてくれる団体、支援者の存在は外国人支援にとって欠かすことが出来
ないが、支援者の確保は大きな問題である。
アンケート結果全体を通して特徴的だったのが、支援者達が外国人の子どもたちが安心
して交流したり、学んだりできる「場」の形成を求めていたことだった。子どもたちは、
言葉も通じず、慣れない環境の中で、不安を抱えて生活している。そのような中で、学習
をサポートすることも大切だが、子どもたちがリラックスできる「場」を作ることも、地
域における支援者に求められているのかもしれない。
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NPO の婚活支援
―婚活支援の現状と地方自治体との協働―
中村 ひかり
婚活とは結婚活動の略であり、山田昌弘と白川桃子によってその必要性が提唱された。
婚活は多くのメディアに取り上げられ、お見合いパーティーなども数多く催されることに
なった。しかし婚活ブームが起こる前から、結婚支援事業に乗り出している自治体も存在
する。本稿では新潟県が行っているにいがた出会いサポート事業(以下出会いサポート事
業)という結婚支援事業と、その事業に参加して結婚支援活動を行っている NPO 法人新潟
婚カツ応援団カクーンの取り組みに着目した。そして県担当者と NPO の代表にインタビュ
ー調査を行い、実際の婚活イベントにスタッフとして参加して参与観察を行った。そこか
ら結婚支援事業と婚活イベントの実態を明らかにするとともに、自治体と NPO の取り組み
を通して、今後の婚活支援に求められていることを考察していく。
にいがた出会いサポート事業は、少子化問題を背景として 2008 年に開始された。事業内
容は、婚活イベントを行う企業や NPO に対して新潟県が助成を行ったり、活動をサポート
したりするというものである。この事業に参加して婚活イベントを行っている NPO 法人新
潟婚カツ応援団カクーンは、結婚したくてもできない男女のために出会いの場を創出し、
幸せな結婚をしてもらうことを目的に 2009 年に設立された。
インタビューとイベントへの参加を通して感じたことは、大きく分けて 2 つある。まず、
婚活イベントに必要なのは、スタッフが参加者を楽しませるというサービス精神を持つこ
とである。イベントに参加したからといって、全員が必ずしもカップルになれるとは限ら
ない。イベント参加者を増やし、カップルになる人たちを増加させるには、たとえカップ
ルになれなくても「楽しかったからまた来たい」と参加者に思ってもらうことが必要であ
る。そのためにスタッフは参加者にとって楽しい場・居心地のいい場を作り出すことを常
に意識しなければならない。
そして次に、今後の婚活支援には個人個人への手厚い支援が求められるといえる。出会
いサポート事業の婚活イベントに参加している人の中には、2 回 3 回と参加しても一度もカ
ップルになれないという人もいる。民間の結婚情報サービスにはそういった個人の悩みや
希望を聞いてくれるカウンセリング的なサービスも存在するが、そういったサービスを利
用するには多額の費用がかかるうえに、もともと結婚情報サービスに不信感を抱いている
人もいる。そこで今後は自治体と NPO 法人が出会いサポート事業の延長として、個人に対
する悩み相談を行うシステムを構築する必要があると考えた。このシステムが実現すれば、
自治体が関わっているという点で安心感のあるサービスを比較的安価に参加者が享受する
ことができるだろう。
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文化交流における在日韓国人の意識
―共生のあり方について―
三須 瑞世
在日コリアンは、朝鮮半島、日本、どちらの国からも異邦人であり、不透明な存在であ
る。そのような環境の中で彼らは自らのアイデンティティについて考え、生きてきた。し
かし、そのようにアイデンティティについて考え、悩み、葛藤する背景には、社会的背景
に差別・抑圧のシステムが未だに潜在しているということを物語っている。本論文ではそ
うした問題に取り組むため、まず、民族的アイデンティティの概念を規定し、なぜそのよ
うな民族的アイデンティティが生まれるようになったのか、歴史的な観点から調べた。在
日にとっての差別社会は、個人の生活と密接に関係してきたためである。そして、在日の
経験を聞き取り、その「在日」という経験の主体が作り出される過程や状況を検討し、今
の日本の在日に対する差別社会というものは具体的にどういったものなのかを考察し、問
題性を指摘していく。そして、共生のために必要なことはどういうことなのかを考える。
3 世のアイデンティティに関する先行研究より、差別に対抗するために戦略的なアイデン
ティティが形成されることが明らかになっている。調査の結果としても民族的な概念に縛
られている人はおらず、在日と認識する機会さえ、今の現代にはあまりないということが
明らかになった。日本の抑圧・差別などから、アイデンティティを見直してきた彼らだが、
現代では在日と認識することさえあまりないという。これは、民族的アイデンティティに
ついて考えるほどの直接的行為が為されていないといえる。しかし、アンケート結果から、
自分は感じないが、ある行為を差別と認識する在日コリアンもいるという回答、よく思い
返してみると差別だったかもしれないという回答があった。差別を差別と捉えない現実、
特別なまなざしを感じる人もいるという、陰でマイノリティを虐げている日本の問題点が
浮かび上がってきた。
今日、日本において、共生社会を目指す動きがあるが、在日コリアンと意識する機会が
減ってきたという彼らの意見からもこのような社会に徐々に近づいているといえる。先行
研究において、世代別に差別に対抗するためのアイデンティティ形成があげられていたが、
今、在日コリアンという肩書、事実はあるものの、考え方は私たちとなんら変わらない。
私たちが勝手に想像しているイメージで、多様な考えを持ち生きる彼らを否定していたと
いえよう。日本社会における差別・抑圧のシステムがあるからこそ日本社会に共生の観念
が求められるようになってきている。共生社会実現のためには、マイノリティが誰からも
抑圧されずに現存できることを目指すことが必要だ。日本人と在日のこれからの本当の意
味での対等な対話が求められるといえるだろう。
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