13号、2004年4月発行/パレスチナ問題研究(PDF : 552.05 KB)

Sache
ざっは
第13号(平成16年4月号)
新入生歓迎号
*PDF に変換する過程でページが変更されています*
目次
はじめに
P1
目次
P3-P52
パレスチナ問題研究
P3
パレスチナ問題研究表紙
P4
1.はじめに
P5-P10
2.ユダヤ教・ユダヤ人の歴史まとめ
P11-P13
補足:東欧のユダヤ人
P14-P16
3.パレスチナ問題前史
P17-P31
4.パレスチナ問題
P32-P33
5.パレスチナ問題の深い理解に必要なこと
P34
6.パレスチナ問題、エルサレム共存についての議論
P35
7.エルサレム問題の解決案
P36
パレスチナ問題研究資料編表紙
P37-P38
1.ユダヤ・アラブの主張の違い
P39-P40
2.パレスチナ問題年表(B4版)
P41-P44
3.ドキュメント エルサレム前編(NHK番組メモ)
P45-P50
4.ドキュメント エルサレム後編(NHK番組メモ)
P51-P52
パレスチナ問題参考文献
P53-P64個人投稿
P53
個人投稿の章表紙
P54
Reverse science !
P55-P57
戦車史パートⅡ
P58-P62世界中の王侯貴族有名人ばかりかイエスやムハンマドとも親戚になれる
方法
P63-P64
もう一人の犠牲者
P65
現代史部アンケート調査 歌手編
あとがき
パレスチナ問題研究
1.はじめに
齋藤晋一郎
パレスチナ問題に関する現在の日本の世論は、①イスラエルがアラブ人
のいた地域に突然やってきて、国家を作った ②従って土地を取られたパ
レスチナ人が怒るのは当然である ③イスラエルはパレスチナ人を追放
したり殺したりしている。 ④だからパレスチナ人はイスラエルに対して
テロをする。というように、パレスチナよりの見方です。
パレスチナ問題に関する話題が出る時は「暴力の応酬」という言葉が必
ずといってもいいほど飛び出します。果たして、単にイスラエルがパレス
チナを攻撃するから、パレスチナはイスラエルを攻撃するという図式で表
せるものなのでしょうか。
イスラエルとパレスチナ人の立場は違います。一概に「暴力の応酬」とい
う言葉で片付けていいものとは思えません。実のところ、何故日本の世論
はパレスチナよりなのでしょうか。そこで、現代史部でもパレスチナ問題
について研究をすることにしました。
また、研究を進めていく過程において、エルサレムの状況、特に神殿の丘
の状況がどうなっているのかがなかなかわからずに苦労しました。岩のド
ーム、アザリ・シャリーフ、第一神殿、第二神殿、黄金門、嘆きの壁、これら
がユダヤ・イスラム両教徒にとってどういった位置づけになっているの
かが未だによくわかりません。
このように、パレスチナ問題を研究するためにはユダヤ教とイスラム教
についてのある程度の知識が必要なばかりか、イスラエル側の主張とパレ
スチナ側の双方の主張を考慮しなければなりません。政治・宗教的な思惑
が絡み合ってパレスチナ問題はいまや非常に複雑になっています。日本で
は、宗教的な問題を深く理解しようとしないで、ただ他の政治的な事例と
照らし合わせてパレスチナ問題に判定をくだそうとする傾向が強いよう
に思えます。
ここではユダヤ教やイスラム教などについても考えた上で、パレスチナ
問題の原因、ひいては解決法まで模索したいと思います。
2.ユダヤ教・ユダヤ人の歴史まとめ
唯一神YHVHの影響に見るユダヤ
齋藤晋一郎
2-1ユダヤ教
2-1-1ユダヤ教の概要――神との関係についての宗教比較
ユダヤ教の根本
ユダヤ教とは、唯一神YHVH(読み方については、ヤハウェ、エホバな
ど諸説あり)を崇拝する宗教である。
トーラ(モーセ五書)、ネヴィイム(預言者の記録)、ケトヴィム(諸
書)が聖典で、それに記されている事を、ユダヤ教は遵守することになっ
ている(これらの聖典をキリスト教では「旧約聖書」と呼ぶ)。これらにタ
ルムードと呼ばれる、あらゆる分野を網羅する膨大な教典を加えたものが、
ユダヤ教の源泉であり全てである(ハラハー(戒律)と呼ぶ)。またそれ
らにミンハグ(慣習)が加わって、ユダヤ教徒の生活が形成される。
キリスト教とユダヤ教のYHVH観
キリスト教的感覚で見るとYHVHは、愛を説いたイエスを遣わした神、
ということで、悪に対して厳しいものである。キリスト教徒にとってYH
VHは、イエスが原罪を背負って十字架にかけられたので、そんなに恐ろ
しい存在では無いと思われる。
しかしユダヤ教は旧約聖書のみでYHVHの性格が決定される。旧約聖
書でのYHVHは、相当恐ろしく厳格な神である。キリスト教の場合はイ
エスが、他にカトリックや東方正教の場合は、聖母マリアや様々の聖人が
YHVHとの間の緩衝材としてYHVHのイメージを和らげているのだ
が、ユダヤ教の場合はYHVHと人間の間には何もいない。
2-1-2旧約聖書の教え――選民思想の解釈
創世記におけるYHVHと人間の関係
旧約聖書の最初の部分である創世記において、YHVHはこの世と生命
を造った存在で、アダムとイブには崇拝を期待したり要求したりしていな
い。
割礼の意味
アブラハム(BC17世紀頃)に至って、YHVHはしばしば彼と接触
するようになるが、それでも崇拝を要求することはなかったのである。し
かしアブラハムには、ユダヤ教の特徴の1つである割礼、即ち男性器の包
皮の一部の切除が要求され、アブラハム以下、彼の率いるヘブライ人(「ユ
ダヤ」という名称は後につけられたものであり、当時はヘブライ人と呼ば
れていた)の男性は皆この割礼を行った。割礼の意味については、衛生面
で良いという説が一般的だが、他民族との性においての区別、即ちヘブラ
イ人と他の民族とは違うのだということを示すために行われたのだと考
えられる。ここに選民思想と呼ばれるものの萌芽が見て取れる。
後にヘブライ人は飢饉のため、住んでいたカナーンの地(現イスラエル)
を離れてエジプトに移住した。やがてエジプト人は、急増するヘブライ人
に反感を持つようになり、彼らを以後400年間奴隷扱いしたと言われて
いる。
YHVHのヘブライ神化
BC13世紀にヘブライ人の一老人モーセは、YHVHの指令と助けに
より、ヘブライ人を率いてエジプトを離れた。この際、YHVHはエジプト
人の家族の長男という長男を全て殺したということになっているが、これ
は、YHVHがヘブライ人の守護神になったことを初めて明確に示した事
件である。この場合では、エジプト人がヘブライ人を虐げたからエジプト
人が悪い、ということにもなるが、ヘブライ人が戻ったカナーンの地に住
んでいた他民族を、特に何も悪い事をしていないのに、ヘブライ人が住む
べき場所に住んでいたからという理由だけで殺され、追放されたのである
から、結局YHVHはヘブライ人の神となったということであろう。
選民思想
ヘブライ人は確かに選民思想であったということができる。他の民族で
も、割礼をしてモーセの教えを守れば、ヘブライ人になれるのではないか
と思うが、それはこの時代には見られないことであろう。また、ある民族を
滅ぼすために、その民族に、YHVH信仰を誘い、男子に割礼を受けさせ、
痛みに悶えている間に、男子全員を虐殺してその民族を滅ぼしてしまった、
という記述もある。
この選民思想は、バビロン捕囚の後に和らげられるようである。イザヤ
書二・二-三から抜粋すると、
「終わりの日に主の家の山は、山々の中のもっとも高いものとして立て
られ、どの丘陵より高くそびえる。すべての民族はここに流れ込み、多くの
民がやってきて言う。
『さあ、主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は
わたしたちに道を示され、わたしたちがその道を歩むために。』律法はシオ
ンから、そして主の言葉はエルサレムから出る。」
旧約聖書においてここで初めて他民族もYHVHの心眼に叶う事とさ
れる。ユダヤ人は祭司としての役割を果たすが、他民族に対して優れてい
るなどということはどこにも書かれていない。
だが、新約聖書にも見られるように、ユダヤ教の司祭達は異民族を蔑視
していた。また、原始のキリスト教会では、ユダヤ人でなければキリスト教
に入信できない、と思うような人々もいた。
ユダヤ教の選民思想は、①バビロン捕囚、②離散(ディアスポラ)とい
う危機の時代に緩められたのだと考えられる。ユダヤ人が小規模の共同体
で生活せざるをえなくなったので、他民族との結婚を余儀なくされ、そこ
で、ユダヤ教を信奉する人がユダヤ人である 、という現在のイスラエル政
府の決定につながったのではなかろうか。
超正統派や正統派がどう思っているのかはわからないが、キリスト教に
もイスラム教にも原理主義はあるので、ユダヤ教を選民思想としてくくっ
てしまうのはどうかと思われる。
2-2ユダヤ人
※ヘブライ人とユダヤ人の違い
ヘブライ人とは、アブラハムからイスラエル王国の分裂に至るまでの民
族を指す。ヘブライ人が北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂した
後、北のヘブライ人はアッシリアに滅ぼされて行方不明となり、南のヘブ
ライ人が後まで生き残った。この南のユダ王国の子孫をユダヤ人と言う。
つまり彼らはヘブライ人でもある。
2-2-1ユダヤ人とは
現在の規定では、ユダヤ人とは、ユダヤ人を母親に持つ人か、或いはユダ
ヤ教を信奉する人とされている。
2-2-2ユダヤ略史
アブラハム~モーセ――エジプトでの民族的苦難
現在のイスラエル地域にいたヘブライ人は、飢饉のためアブラハムの子
ヤコブに率いられてエジプトに移住した。しかしその後エジプト新王国が
ヘブライ人を奴隷としたため、苦難の時代が始まった。400年の後、モー
セはヘブライ人を率いてエジプトを脱出した。
モーセはシナイ山でYHVHから啓示を受けて、それを記すわけだが
(後のトーラ)、それの要約がモーセの十戒である。それらは全て、
「~し
てはならない」という禁止事項であり、それを守らねばならない理由や、或
いはYHVHの愛などということは記されていない。
イスラエル王国――黄金時代
BC1020年頃、ヘブライ人は現イスラエル地域に王国を建国、ダヴ
ィデ、ソロモン両王の代に最盛期を迎えた(「海の民」の侵入によりエジプ
トなどの周辺強国が弱体化していたため)。ソロモン王は巨大な神殿を建
設、威勢を誇った。しかしソロモン王の死後、BC933年に王国は多数派
のイスラエル王国(北部)と少数派でダヴィデの直系であるユダ王国
(南部)に分裂した。
バビロン捕囚――民族の危機とユダヤ教の形成
北のイスラエル王国はBC722年にアッシリアに滅ぼされ、人々は連
れ去られて以後行方不明となり、南のユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼ
されソロモン神殿を破壊されて、BC586年、ヘブライ12部族の中で
唯一生き残ったユダヤ人(以降はヘブライ人ではなくユダヤ人と呼ぶ事
にする)はバビロンに連行された(バビロン捕囚)。
バビロン捕囚中に、ユダヤ人はゾロアスター教の善悪二元論、天国・地
獄などの思想の影響を受けたといわれてる。トーラ及び、ゾロアスター教
の影響によって出来たのが旧約聖書である。
自立と自治――ユダヤ教定着
BC538年、オリエント統一途上のペルシア帝国皇帝キュロス2世に
よりユダヤ人は解放され、イスラエルの地に戻ってソロモン神殿を再建し
たが、その後ペルシア(自治)、アレクサンドロス王国、プトレマイオス朝
エジプトと、次々に支配された。
しかしユダヤ人は反乱を起こし、BC142年に独立、ハスモン朝を打
ち立てた。その後BC63年、ローマ帝国の支配下に入り、その中の自治国
として、ユダヤ人はローマに反感を持ちながらも独自の宗教と文化を維持
し続けた。
離散――流浪の1800年
イエス・キリストの受難後、イエスの予言したように、対ローマ蜂起に
よりエルサレムとソロモン宮殿は徹底的に破壊され、60万人のユダヤ人
が死亡した。
AD132年の「バルコフバの反乱」の後には、遂にローマはユダヤ人を
イスラエルから追放(ガルート)し、以後約1800年の長きにわたって
ユダヤ人は各地に離散(ディアスポラ)することになった。
イスラエルのユダヤ人社会は以後も小規模ながら存続し、エルサレム版
タルムードや、宗教法典などをこの地で生み出している。
ユダヤ人は各地に分散したが、ユダヤ社会及びユダヤ教学の中心は、バ
ビロニア(AD135~1200年代)、スペイン(8世紀~1391
年)、ハンガリー(13世紀~近代)、リトアニア・ポーランド(14世
紀~近代)、アメリカ(1881年~現在)と移りながらユダヤ人として
のアイデンテティを守りつづけた。
8世紀~9世紀頃に南ロシア付近にあったハザール帝国がユダヤ教に
改宗し、その後ハザールが滅びると、ユダヤ教徒達はロシア及び東欧に流
れ込んだという説がある。
イスラエル建国
ナチス政権によるユダヤ人迫害の後、1948年にユダヤ人国家イスラ
エルが建国されると、ヨーロッパのユダヤ人の大半はイスラエルに永住し
た。他にも世界中からユダヤ人が帰還したが、アメリカのユダヤ人は生活
が安定していたので多くは移住しなかった。
2-2-3ユダヤ人社会の分類
世界中に離散したユダヤ人はその地域により、スファルディ(スペイ
ン)、アシュケナジ(中欧・東欧)、ミズラヒ(中東・アジア)の三つに
大別される。スファルディはミズラヒに含まれる場合もある。
1960年の時点で、世界のユダヤ人口は1300万人、アシュケナジ
1100万人、スファルディ50万人、ミズラヒ150万人である。イスラ
エルでは、アシュケナジと、スファルディ・ミズラヒが半々の人口である。
この三系統の他にも、各地域に独特の文化を持つ様々なユダヤ人社会が
ある(あった)が、これらはごく少数である。
ユダヤ人社会では同胞探しが盛んで、ミャンマーやウガンダなどの少数
民族がユダヤ人の一派と目されると、ユダヤ教への改宗を勧める。
補足:東欧のユダヤ人
1アシュケナジは本当にドイツ出身か
定説として、第2次大戦前までポーランドやウクライナ、リトアニア等
に多く見られたユダヤ人は、13~14世紀頃にスペインを発し、フラン
スを通ってドイツから渡ってきたと思われていた(ドイツ系ユダヤ人を
アシュケナジという)。
アシュケナジとはヘブライ語で「ドイツ」という意味である。更に、東欧
のユダヤ人が使用していたイディッシュ語は、ドイツ語からの借用が多く、
このことも「出ドイツ仮説」ら支える結果となっていた。
イディッシュ語はヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語その他の混成語
で、ヘブライ語を使って書かれる。
しかし、アシュケナジの発祥とされる、現ドイツ・フランス国境にあた
るライン川地域の西部ドイツ語、即ちモーゼル・フランコニア語起源の語
彙は、1つもイディッシュ語に使用されていない。更に、フランクフルト周
辺の言語もイディッシュ語には入れられていない。以上の事からイディッ
シュ語の発祥は西ドイツでないことがわかる。
イディッシュ語に多大な影響を与えたのは東中部ドイツ方言、即ち現在
のオーストリア・アルプス地方及びバイエルン地方で使用された言語で
ある。つまりイディッシュ語に入ったドイツ語は、東欧のスラブ・ベルト
地帯に接する東ドイツ圏のものだったことがわかる。
その東ドイツ方言も、アシュケナジがポーランドに辿りついた後に、イ
ディッシュ語に組み込まれた可能性が高い。つまり、アシュケナジがもし
ドイツから来たとすれば、全く言語的影響を受けないでポーランドまで辿
りついたということである。
当時のポーランド人は、高文化を築く神聖ローマ帝国支配下のドイツ文
化を好んでおり、尊敬していた。後進ポーランドはドイツとの経済関係に
頼っていたので、貿易・商業を行うにはドイツ語が必須であった。
しかしポーランド人は金融業を行うのをあまり好まなかったようで、ア
シュケナジが金融界に進出することになる。そこでアシュケナジは、近隣
のドイツ語、つまり東ドイツ方言を学ぶ必要があったということである。
だからイディッシュ語に東ドイツ方言が取り入れられているのであろう。
また、ユダヤ人の記録にも、勿論フランスやドイツの年代記にもユダヤ
人の東方移動に関する事は全く書かれていない。
このように、中世ドイツにユダヤ人が大量にいたということは根拠の無
いことであり、少数いたユダヤ人達ですら、ポーランドに移住したという
記録が無い。よってアシュケナジは出ドイツという定説は間違っているよ
うに思われる。
するとアシュケナジという言葉事体が語弊があるのだが、以後は東欧の
ユダヤ人、という意味でアシュケナジと使う。
2ハザール・ハン国出身説
それでは、アシュケナジはどこから来たのだろうか?
そこで浮上するのが、「ハザール(カザール)・ハン国(可汗(カガン)
国)」である。
ハザール人、とはおそらくトルコ系、或いは中央アジアで「西突厥」と呼
ばれた人々の一部であったと考えられる。ハザールの位置もよく知られて
いないが、大体カスピ海(「ハザールの海」とも呼ばれていた)から、黒海
北岸・南ロシアの草原地帯までの広大な地域がハザールの支配下にあっ
たといわれている。
ハザール族は遊牧民であったが、完全に遊牧経済に依存していたのはな
く、半定住生活を送っていた。
大国ビザンツ帝国もハザールには一目置き、東方の強敵イスラム勢力と
対抗する上で重要な同盟者と見なしていた。ビザンツ皇帝ユスティニアノ
ス2世リノメトス(在位685~695,705~711)の2番目の
妻はハザールの可汗の娘テオドラであり、732年、ハザールの可汗は娘
エイレネをビザンツ皇子(後のコンスタンティノス5世コプロニュムス
に嫁がせ、彼女の息子レオン4世(在位775~780)は後に「ハザー
ルのレオン」というあだ名で知られるようになる。
ハザールは宗教的統治者たる可汗と、世俗的統治者たる王の二重王権、
即ちイスラム教におけるカリフとスルタンのような政治体制であったが、
8世紀~9世紀頃に可汗を含めて支配階級がユダヤ教に改宗した。何故ユ
ダヤ教を選択したのかという事はよくわかっていないが、キリスト教のビ
ザンツ帝国とイスラム世界に挟まれているということで、両世界に対して
の独自性を保つためだという説もある。ハザール公式の神話では、可汗の
前でユダヤ教・キリスト教・イスラム教等の代表が論戦を行い、その結果
ユダヤ教が選ばれたとされている。
しかしこのユダヤ教改宗により、キリスト教国たるビザンツ帝国の仲が
悪くなった上に、キリスト教或いはイスラム教を信仰していた国民達と支
配者の間に亀裂が生じた。
9世紀頃に、ハザールは衰退を始める。支配下にあった諸民族が独立の
傾向を示し、更に東方からの新たなる遊牧民がハザールを脅かすようにな
った(ビザンツがけしかけたとも)。10世紀になると、ルーシのスヴャ
トラフ率いる軍によってとどめを刺された。
ユダヤ教ハザール族は国家滅亡後、ロシアを通ってポーランドに入った
というのが、アシュケナジの出ドイツ説に対する説である。
疑問が残るのは、ハザールの支配者だけがユダヤ教に改宗しても、多く
の国民がユダヤ教に改宗していないと、ポーランドに来た多数のユダヤ教
徒=ハザール人という証明が出来なくなる。
しかし、
「上は王から下は奴隷に至るまで」ユダヤ教に改宗したという説
もある。
3,パレスチナ問題前史
齋藤晋一郎
3-1 シオニズムの高揚
19世紀、国民国家の意識が西欧で高まる中で、ドレフュス事件などの
ようなユダヤ人差別が次第に表面化していった。19世紀後半にはロシア
でユダヤ人集団虐殺(ポグロム)が行われたりした。
独自の国家を持たないユダヤ人の間で、国家建設の機運が盛り上がって
いった。その中心人物が、ユダヤ人に対して寛容であったオーストリア帝
国に住むテオドール・ヘルツルであった。
1896年、ヘルツルは「ユダヤ人国家」というパンフレットを出版、世
界のどこかにユダヤ人国家を建設しようという運動が始まった。結果的に、
ユダヤ人の故郷、パレスチナがユダヤ人国家建設の地として選ばれた。ま
だまだユダヤ人の中で同調者は少なかったが、それでもトルコ皇帝の許可
を得てユダヤ人のパレスチナ移住が始まった。
3-2 イギリス・ユダヤ・アラブの取り引き
1914年、第一次世界大戦が始まった。パレスチナを領有していたオ
スマン=トルコ帝国はオーストリア、ドイツに味方してイギリス・フラン
ス・ロシア・アメリカなど連合国と戦った。
イギリスはトルコの勢力を削ぐため、トルコの支配下に入っていたアラ
ブ人を支援してトルコに対する反乱を起こさせた。イギリスはメッカの有
力者シャリーフ・フサインとの間に書簡を交換し(フサイン・マクマホ
ン協定)、戦後、アラブのオスマン=トルコ帝国からの独立(フサインが
要求している地域にパレスチナは含まれていない)を約束した。
1917年、イギリスは熟慮に熟慮を重ねた結果、バルフォア外相によ
って宣言を発し(バルフォア宣言)、戦後パレスチナにユダヤ人の「ナシ
ョナル・ホーム」建設を樹立することに賛成した。
「ナショナル・ホーム」
とは、主権を持った国家ではないが、その道程にある政治的存在である。一
部のシオニスト達はそれを歓迎したが、非シオニストのユダヤ人達の中に
はバルフォア宣言に強硬に反対した者もいた(熱心なユダヤ教徒=正統
派など)。
ロシアでのポグロムの被害者のほとんどはパレスチナに向かわずアメ
リカに向かっていたように、バルフォア宣言によってユダヤ人のパレスチ
ナ移住が極端に増加したわけではない。1914年の時点でパレスチナの
ユダヤ人人口は8万5千人だった。
3-3 ユダヤとアラブの摩擦
戦後、イギリスはパレスチナを国際連盟の委任統治領として治めること
になった。ユダヤ人のパレスチナ移住は続き、パレスチナの不在地主達か
ら土地を買い取って、ほとんど不毛のパレスチナを開拓していった。アラ
ブ人はユダヤ人の増加に不安を覚え、1920年代からユダヤ人と衝突す
るようになった。
しかし、パレスチナが発展するにつれて、周辺地域からアラブ人も流入
した。概してアラブ人はオスマン=トルコ帝国による統治時代と変わらな
い後進的な農村生活を続けており、ユダヤ人に対抗して独自のパレスチナ
人国家を建国しようなどという機運は全く見られなかった。
東欧出身が多かった当時のユダヤ人移民達の中には、社会主義の影響を
受けているものも少なくなかった。彼らはアラブ人を労働力として使用す
ることを好まず、アラブ人の雇用は積極的に行わなかったようである。当
時ほとんどのアラブ人は農村で生活していたので、ユダヤ人とアラブ人の
経済的な交流もあまり見られなかった。
3-4 対英テロの頻発、イギリスの撤退
1933年、ドイツでヒトラーが政権を取り、以後ユダヤ人迫害を始め
ると、ヨーロッパの大量のユダヤ人がイスラエルに移住してきた。ユダヤ
人の急増によっていよいよアラブ人の不満は高まり、ユダヤ人との衝突は
頻発した。また、イギリスに対する不満も高まった(しかし本格的なパレ
スチナ人組織は結成されなかったと言ってよい)。
これを受けてイギリスは、ユダヤ人の厳しい移住制限を行った。その結
果ユダヤ人のイギリスに対する反感が高まり、イギリスに対するテロが行
われるようになった。1940年代にはパレスチナのユダヤ人人口は40
万人を越えた。
1947年、この苦しい状況によってイギリスはパレスチナからの撤退
を決定、パレスチナ問題は国連に委託された。同年、国連はパレスチナ分割
決議案を採択し、1948年、イスラエルが建国された。
※イギリスの三枚舌外交とは
よくパレスチナ問題に関してはイギリスの三枚舌外交という言葉が使
用されるが、バルフォア宣言が秘密のものではなく、アラブ側もこの宣言
の内容を知っているので、フサイン=マクマホン協定とバルフォア宣言に
ついて二枚舌とは言えないわけである。
バルフォア宣言がパレスチナにおける「ユダヤ人国家」の成立を認めて
いるのならば、フサイン=マクマホン協定と明らかに矛盾するわけだが、
バルフォア宣言ではあくまで National Home(日本語に訳すと郷土という
ことになるのか)と表現している。これを知ったアラブ側もこの宣言を糾
弾しなかったのである。
またサイクス=ピコ協定(英仏露による中東勢力圏の調整に関する秘
密協定)とフサイン=マクマホン協定との矛盾(これにバルフォア宣言
を加えて「三枚舌外交」となる)についても言われる。サイクス=ピコ協定
は単に中東における英仏の勢力圏を確認しただけの協定で、アラブ人を裏
切る等のレベルではない。
サイクスピコ協定は英仏が自分たちの権益範囲を調整しただけで、すぐ
独立を認めるか、委任統治のあと独立を認めるか、さらなる調整が必要か
という分類があっただけである。いずにしろ、英仏が結果として影響力を
保持したいと思う地域を選んだだけのこと。それだってアラブ側が拒否す
れば影響力は残らないわけである。
はっきり言うと、冷戦前のイデオロギー思考に侵された図式で、いろい
ろな史実を判断しているようにしか思えません。
4.パレスチナ問題
平嶋 雄介
4-1 パレスチナ国連分割案
1947年11月29日パレスチナ国連分割決議は賛成33、反対13、
棄権10で可決された。この分割案でパレスチナはユダヤ地区、アラブ地
区、国際管理地区に分けられた。三宗教の聖地エルサレムとイエス=キリ
スト生誕の地ベツレヘムは、国際管理地区である。この分割案でユダヤ側
はイスラム側より少ない人口で58%の土地を得るわけだが、その中には
全パレスチナの約3割あるネゲブ砂漠が含まれている。この土地はユダヤ
人国家が成立したときに地中海と紅海に港を持てるようにした配慮だが
ベドウィンでもなければ住めない。ユダヤ人が分割案で得た土地で人がす
ぐ住める土地は、得た半分程度であった。
4-2 第一次中東戦争と土地の没収
パレスチナ国連分割案に反対し、可決を不服としたアラブ各国は、アラ
ブ解放軍を結成した。1948年5月14日イスラエルは独立を宣言した
が、翌日である15日アラブ側はイスラエルに進撃し、第一次中東戦争が
始まった。1949年7月調停が成立したこの戦争はイスラエルの勝利に
終わり、当初国連で割り当てられたパレスチナ全土の58%を上回る77%
を得た。
この時およそ71万人ものパレスチナ難民が発生した。イスラエル側は、
パレスチナ人は戦火を逃れるため自ら土地を捨て逃げたか、アラブ側がラ
ジオで避難するよう指示したと主張している。これに対してアラブ側は、
そのよう放送はしておらず自分の土地にとどまるよう呼びかけており、パ
レスチナ人が逃げたのはイスラエル軍に脅されたためとしている。この事
については、イスラエル国内に残っているパレスチナ人も多いため、局所
的にイスラエル軍の脅迫があったと思われる。
難民が残していった土地は「所有者不在地」として、イスラエルがさまざ
まな法律を使って、合法的に没収されていった。こうしてパレスチナ人の
村374、(全体の47%)が消えていった。
この時パレスチナ側に残された23%の土地はエジプトとヨルダンが
占領していた。この土地でエジプトとヨルダンがパレスチナ人に自治をさ
せていれば、第三次中東戦争で自治のあるこの土地をイスラエルは占領す
る事が出来なかったかもしれない。第一次中東戦争でパレスチナ人は義勇
兵として二千人が参加しただけであり、アラブ各国はこの戦争で自国の領
土を拡張したかっただけかも知れない。
4-3 第三次中東戦争
1965年ごろから開始されたファタハやその他のゲリラ組織による
イスラエルへの攻撃で、イスラエルとアラブ各国との緊張は高まっていっ
た。これがエスカレートした1967年春、エジプトのナセルがイスラエ
ルに対し行動を起こした。ナセルは5月22日、紅海とイスラエルのアカ
バ湾を結ぶチラン海峡を封鎖した。当時スエズ運河の航行をイスラエル船
舶は許されていないためチラン海峡を封鎖されると、インド洋方面に出る
にはアフリカ大陸を一周しなければならない。イスラエルにとって交易上、
死活問題だった。
1967年6月5日イスラエル軍はエジプト、シリア、ヨルダンを奇襲
した。開戦したその日のうちに制空権を得ると、イスラエルは、シナイ半島、
ガザ地区、ゴラン高原、東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領した。最
後まで抵抗したシリアが6月10日に停戦を受諾したため、6日間戦争と
呼ばれるこの戦いはイスラエルの圧勝だった。これによりヨルダン川西岸
やガザ地区から39万人もの難民が発生した。その中にはイスラエル建国
で難民となりヨルダン川西岸やガザ地区に逃れていた19万人の難民も
含まれている。
4-4 PLOとアラファト
PLOは1964年にアラブ連合により作られた。当初はイスラエルを
口で非難するだけで行動を起こさないので、アラブ諸国には都合のよい組
織だった。これとは別にアラファトを指導者として、ファタハ(パレスチナ
解放運動)が1965年に武装闘争を開始した。ファタハは1968年に、
ヨルダン川東岸のカラメ・パレスチナキャンプに侵攻してきたイスラエ
ル軍を相手に、三倍の犠牲を出しつつ撃退し、一気に地位を高めた。
第三次中東戦争でガザなどが占領されるとPLOは急進化する。そして
69年2月にはファタハの指導者アラファトがPLO執行委員会議長に
就任し、ゲリラ勢力がPLOの実権を握った。アラファトは資金力のおか
げで議長の座を守ってこられた。ファタハには産油国の出稼ぎ労働者から
の納金があり、保守的な産油国は、他のパレスチナ組織とは違い社会主義
でないアラファトに資金を流したからである。
しかしPLOはさまざまなパレスチナ人組織の集合であり、各派閥の駆
け引きで政策が決定されており、アラファトが完全に掌握しているわけで
はない。
4-5 ヨルダン内戦
国力の弱いヨルダンやレバノンはパレスチナゲリラの基地となってい
た。そのためゲリラがイスラエルを攻撃すると、イスラエルは報復として
基地だけでなく、周囲のヨルダンの村や町攻撃した。イブン・タラル・フ
セイン国王はゲリラを脅威と感じていた。なぜならヨルダンは王制の保守
系国家であり、ゲリラのほとんどは社会主義を掲げていてこの国で革命を
起こそうとしていた。
主権を脅かすほどに成長したゲリラに対し、フセイン国王は1970年、
攻撃を開始した。この時劣勢だったゲリラの支援のためシリア軍が介入す
るが、イスラエルがシリアと交戦する姿勢を見せたため撤退した。そして
ゲリラは敗走し、この内戦で二万人ものパレスチナ人が死んだ。この内戦
はパレスチナ人に「黒い9月」と呼ばれ、彼らの脳裏に焼き付けられている。
4-6 第四次中東戦争
1973年10月6日、エジプト軍はスエズ運河を渡りシナイ半島に、
シリア軍はゴラン高原に侵攻した。すでにイスラエルはアラブ側の侵攻の
詳細が手に入っていた。しかし、イスラエルのメイア首相は、またイスラエ
ルがアラブに戦争を仕掛けた、とアメリカに思われたくないため先制攻撃
をせず、兵力も動員しなかった。それにイスラエルは第三次中東戦争で完
敗したアラブが、再び戦争を仕掛けてくるとは思っていなかった。
そしてこの戦争の初期にはアラブ側が善戦する。砂漠では最強のはずの
イスラエル戦車部隊はエジプト軍の歩兵の放つ対戦車ミサイルに次々と
破壊された。戦車が歩兵に大敗した戦闘はこれが初めてだろうと言われて
いる。パイロットの質が高いイスラエル空軍も、大量の対空ミサイルを装
備したエジプト軍による、大量の対空ミサイルを惜しげもなく撃つ戦法に
より、バタバタ落とされた。ところがエジプト軍はスエズ運河東岸に達す
ると、陣地を築き進撃を止めてしまう。 エジプトとしてはとにかく勝利をして、それを和平の材料に出来ればよ
かったのだ。ところがエジプトは、ゴラン高原の完全なる奪還を目指して
いるシリアをこの戦争に引き込むため、第三次中東戦争で奪われた領土
(エジプトはシナイ半島、シリアはゴラン高原 )の奪還と戦争の目的を偽っ
て伝えていた。
そしてシリアにイスラエルの戦力が集中する。イスラエル軍はシリア軍
をゴラン高原から一掃した。だがシリアの首都ダマスカスまで進撃すれば、
ヨルダンが介入してくるのでイスラエル軍は国境線付近で留まった。エジ
プト軍に対して、シャロン率いるイスラエル軍の少数の戦車と特殊部隊が
スエズ運河を渡りシナイ半島のエジプト軍を包囲した。開戦から二週間ほ
どたって国連安保理は停戦を促した。双方ともすぐにこれを受け入れ、1
0月24日に正式に戦闘を終えた。
最後は巻き返したイスラエルだが、初めての勝利無き戦争だった。短期
間ではあったが激しい戦いで、双方の被害は大きかった。エジプトは戦死
者7700名、戦車580台、航空機200機を失い、シリアは戦死者20
00名、戦車670台、航空機40機を失っている。イスラエルは両方の戦
線の合計で戦死者2370名、戦車を670台、航空機を110機失って
いる。
この戦争でエジプト1979年にイスラエルとの和平を実現した。しか
しシリアとイスラエルの間で和平は実現されていない。
4-7 PLOの現実路線への転換と政治的飛躍
1973年の第四次中東戦争後PLOの最大派閥であるファタハはパ
レスチナの完全なる解放は難しいと考えた。第一次中東戦争でアラブ側に
占領され、第三次中東戦争でイスラエルに占領された全パレスチナの23%
の土地に「ミニ国家」を樹立しようと考えた。つまりイスラエルの生存権を
認めるのである。これに対しPFLF(パレスチナ民族解放戦線)等は拒否
戦線を組織した。他にも、ガザと西岸地区を解放した後全パレスチナを解
放するという二段革命論も出てきた。結局、1974年6月のPNC(パレ
スチナ民族協議会)でイスラエルから少しでも土地を解放し、その土地に
民族的権威を樹立していくという内容の宣言が採択された。
PLOは1974年のアラブ評議会でパレスチナの正当な代表として
認められるなど、アラファト指導のもと政治的躍進の時代に入った。国連
総会では、パレスチナ人の自決権、独立国家樹立、PLOを正当な代表とす
る決議が行われ、PLOを承認する国は、イスラエルを承認する国を上回
った。
4-8 レバノン内戦
レバノンにはキリスト、イスラムの各宗派がモザイクのように住んでい
る。そしてレバノンの山岳地帯は、迫害を受けた少数派が逃げ込んでいる
ため「生きた宗教の博物館」と呼ばれている。レバノンは建国のとき多数派
だったキリスト教マロン派が政権を握っていた。しかしイスラム教徒の方
が人口増加率が高く人口比率は逆転していた。1932年以来正式な人口
調査をキリスト教政権は行っておらず、イスラム教徒の間では不満がたま
り、キリスト教徒の間では特権が脅かされるとの不安が高まっていた。そ
して双方に武装組織が作られていく事となる。
そのような状況で1970年にヨルダンを追われたPLOはレバノン
に亡命し、35万人のパレスチナ人が住むようになる。レバノンはこれを
歓迎してはいないが、国力が弱いため排除できなかった。そのためレバノ
ンにはヨルダンのようにゲリラの基地が置かれ、その基地からゲリラがイ
スラエルを攻撃すると、報復としてイスラエルはレバノンの周囲の村や町
も攻撃した。そのため同じイスラム教でもシーア派の武装組織「アマル」は
難民キャンプを攻撃した。PLOが来たことによりイスラム教徒の比率が
さらに高まり、1975年についに内戦に突入した。イスラム教徒とパレ
スチナ人の連合軍対キリスト教徒の戦いは前者が有利で、レバノンには親
パレスチナで社会主義的な政権が樹立されようとしていた。しかしレバノ
ンに急進的な政権が出来る事を恐れたシリアがキリスト教側に立ち参戦
し、双方の力の均衡がとれた状況で戦闘は収まる。
4-9 レバノン戦争「ガリラヤ平和戦争」
イスラエルはレバノンに基地を持つPLOにより、ガリラヤ地方の住民
が攻撃を受けているという口実で、1982年6月4日と5日にレバノン
南部を爆撃し、6日には機甲師団がレバノン国境を越えた。6月8日には
シリア軍が介入したが、9日にイスラエル軍はシリア空軍とミサイル基地
を壊滅させた。6月8日には国連の調停案をPLOとレバノンが受諾した
がイスラエルは拒否。アメリカは安保理のイスラエル非難決議に拒否権を
行使した。14日にはレバノンの支配者層であるキリスト教の右派民兵
「ファランジスト」はイスラエル軍と共同作戦を取り始めパレスチナ難民
を虐殺し始める。6月13日から25日まで首都ベイルートを爆撃。PL
Oが28日に条件つき撤退案を発表するも、7月5日から12日まで第二
派爆撃をした。7月22日から8月12日までの第三派爆撃の後、PLO
はパレスチナ人の安全と威厳ある撤退を求め、8月21日から米、仏、伊の
監視軍の下、PLOとシリア軍の撤退が開始された。PLOは今度はチュ
ニジアのチュニスに亡命した。これにより死者1万9085人、負傷者3
万302人を出したレバノン戦争は終結したかのように見えた。
しかし9月10日にアメリカ軍、11日にはイタリア、12日にはフラ
ンス軍が駐留期間をかなり残して撤退してしまう。そしてイスラエルは1
3日にベッカー高原を爆撃する。
9月14日、レバノン大統領の就任式を待っていたバシール・ジュマイ
ルがファランジスト党本部で爆殺された。イスラエル軍司令官は、犯人は
パレスチナ人(本当はレバノン人)として報復を勧めた。15日にはイスラ
エル軍が西ベイルートに侵攻、16日には難民キャンプにファランジスト
等の右派民兵を投入した。民兵は18日までイスラエル軍の支援の下虐殺
を続け、難民1800人以上が殺されたとされている。イスラエルはこの
事を認めてはいないが、国内にはこの内戦に深入りしすぎたとの意見もあ
る。
4-10 インティファーダ(民衆蜂起)
1987年12月ガザ地区で自然発生したパレスチナ人の占領軍に対
する抵抗は、ヨルダン川西岸等の占領地全体に広がっていった。当時石だ
け(後にエスカレートし銃なども使われる)で抵抗するパレスチナ人の姿と
その鎮圧の様子は世界に放送され、人々の良心を揺さぶり、イスラエルの
「よい占領」のイメージは崩れていった。イスラエル軍は実弾、ゴム弾、催涙
ガスを使い鎮圧しようとしたが、逆に抵抗は拡大していった。1ヵ月後に
はインディファーダに指揮系統も出来た。
これによりこの騒乱と対外イメージ低下による観光収入減がイスラエ
ル経済に響いた。あと、占領する兵士を500人からその十倍にしたため、
占領の費用がかさんだ。
しかしパレスチナ側も多大な犠牲を払った。1993年6月末までに、
死者1233人、負傷者12万9446人を出した。
4-11 独立宣言
1988年6月の臨時アラブ首脳会議でPLOは、唯一正当なパレスチ
ナ人の代表であることと、パレスチナ独立国家という目標に対する信認を
確認した。
そして11月のPNCではパレスチナを領土とし、エルサレムを首都と
するパレスチナ国家の独立が宣言された。あとこの会議ではイスラエルも
国連決議の順守という形で承認された。
アラファトはこれを12月の国連総会で発表し、アメリカがPLOと交
渉する三条件として掲げたイスラエルの承認、国連安保理決議242と3
38(イスラエル軍の占領地からの撤退と公平かつ長続きする和平の確立
を求めるもの)の受け入れ、テロの放棄の宣言をした。しかしテロの放棄を
宣言する事で、今までの活動が間違っていた事になってしまうとの声もあ
った。このようにPLOはアメリカと交渉するため、大きな譲歩をした。し
かしこれは90年のテルアビブでのテロで水の泡となる。
4-12 湾岸戦争
1990年8月2日、イラクはクウェートに侵攻した。国際世論はイラ
クに対し、国連決議を順守し撤退するよう圧力をかけた。それに対しイラ
クは、それならなぜイスラエルにも国連決議を順守させ撤退させないのか、
ダブルスタンダード(国によって対応を変えている)ではないのかときりか
えした。このことでPLOは厳しい選択を迫られた。クウェートには多く
のパレスチナ人が出稼ぎに行っており、クウェートやサウジアラビアはP
LOの資金源であるが、パレスチナ問題の解決を掲げたイラクを支持しな
いわけには行かない。PLO内では多くの議論が交わされていた。しかし、
ヨルダンを中心とする難民はイラクを支持し、それが世界の目にはPLO
がイラクを支持したと映った。
イラクが敗北するとパレスチナ人出稼ぎ労働者は湾岸各国から追放さ
れ、PLOへの資金援助も打ち切られた。この戦争でアメリカは中東の実
権を握るとともに、パレスチナ問題の解決を迫られる事となる。そして今
までイラクが押さえ込んでいた「イスラム原理主義」に直面する事となる。
4-13 マドリード平和会談
ブッシュ大統領は1991年3月の年頭教書で、イスラエルの占領地か
らの引き上げとパレスチナ国家承認の和平案を提唱した。91年10月3
0日にスペイン、マドリードで中東和平会議は開始された。しかしイスラ
エルはパレスチナ側の代表について、PLO、エルサレム出身者、難民の出
席を拒否した。結局、パレスチナヨルダン合同代表団という形でパレスチ
ナ人を参加させるという形式となり、難民も二国間はだめでも多国間の話
し合いなら参加できるとされた。
二国間交渉に入ってしばらく後の92年、イスラエル側はラビンの労働
党のラビンに代わり交渉への期待は高まった。しかしアメリカはかたくな
なイスラエルとの間で袋小路にはまっていった。そして92年12月16
日にパレスチナ人413人がレバノンに追放された事により中断された。
会議では5年間の暫定自治の3年目にパレスチナの最終地位確定の交渉
が行われる予定だったが自治が始まる気配はなく、イスラエルは占領地、
東エルサレムの返還、入植地の撤収、難民の受け入れ等をどれの実行する
気はなかった。だが状況は和平の方向に進んでいた。
4-14 共存に向かう理由
90~91年に崩壊したソ連から33万人の移民がイスラエルに来て
ラビンの労働党に投票した。彼らの多くは入植地は戦争の火種になる厄介
な場所と考えていた。
つぎにイスラエルがPLOに対抗させるために結成を支援したハマス
が、反イスラエル組織として急成長した。それを食い止めるためアメリカ
とイスラエルはPLOを支援した。
またインディファーダによる影響もあった。これによりイスラエル人は
占領地に行かなくなり、イスラエル人にとって占領地は自分たちのものと
の意識が薄れた。
そして経済界も和平に熱い視線を注いでいた。マドリード会談の多国間
交渉で多くのプロジェクトの試算がされ、世界銀行が参加してくると、多
くの経済人が和平が利益を生むと考えた。現にイスラエルではこの和平会
議で、GDP(国内総生産)の赤字が消え、1990年代の前半で数パーセン
トずつ成長している。
4-15 オスロ合意
1993年9月13日、ワシントンでアラファト議長とラビン首相は
「パレスチナ暫定自治協定」共同宣言に調印した。
ことの始まりはノルウェーの小さなシンクタンクがイスラエルと、マド
リード会議ではずされていた PLO に仲介すると提案した。そしてアメリ
カさえ知らないが実現した。ちなみにこの式典がアメリカで行われている
のは、後にこの会談を知ったアメリカが失敗したマドリード平和会議の失
点を取り戻すため、アメリカが仲介したように見せかけたためだ。この式
典により、式典四日前に PLO はイスラエルの生存権を認め、イスラエルも
PLO を承認した。
この協定の当初の予定は10月13日に協定発効、12月13日までに
イスラエル軍の撤退開始、94年4月13日までにガザ・ジェリコからの
撤退完了とそれに伴いパレスチナ警察の創設、五年間による暫定自治開始、
99年4月までに占領地の最終的地位の確定、暫定自治終了とされた。
この協定のイスラエル、パレスチナの双方の反応は、イスラエル側は和
平推進団体「ピース・ナウ」は歓迎集会を開き、リクード党やこの協定で追
い出されるかもしれない入植者は反対。パレスチナ側はこの協定により帰
る場所が出来る67年発生のパレスチナ難民はおおむね賛成したが、イス
ラエルの建国により発生した48年発生の難民は反対した。
4-16 イスラエル軍の撤退
1994年5月ごろからイスラエルの基地撤去が急ピッチで進められ
た。そして元パレスチナゲリラのパレスチナ警察第一陣150人余りがガ
ザに入った。しかし現在でもガザ地区にある入植地にイスラエル軍は配備
されたままである。
4-17 パレスチナ援助国会議
協定調印後の10月1日、アメリカ国務省で45の国と機関が集まり、
「パレスチナ援助国会議」が開かれた。そこでアメリカは五年間で五億ドル、
日本は二年間で二億ドル、サウジアラビアは一年間で一億ドルの拠出を決
めた。会議はインフラ整備のため二十億ドルの基金を設け、世界銀行は十
二億ドルのパレスチナ緊急援助を発表した。しかしこれらの援助について
パレスチナ側は、アメリカ政府はアメリカ企業を通じて投資したいと考え
ており、援助金はまずアメリカ、ECの企業に、次にイスラエルの企業にも
たらされ、三番手のパレスチナの会社にはほとんど残っていないと言って
いる。
しかも援助国は援助金の用途をチェックしてからでないと、資金は渡さ
ないと言い続けた。アラファト議長は援助金に条件を付けパレスチナ経済
を支配しようとしていると批判し、それに対しイスラエルのマスコミは、
アラファトは援助金を自分の利益にするつもりだと非難した。
イスラエルはオスロ合意により、巨大なアラブ市場に参入しようと考え、
パレスチナ自治政府をアラブ世界へのゲートとしようと考えた。ペレスは
著書でこれを「中東経済圏構想(MEM)」という言葉で表している。和平
で安全とアラブとの正常化を得ようとしたのだ。
4-18 ラビン暗殺
第三次中東戦争時の参謀総長たったラビンはパレスチナ人を弾圧する
のではなく和平を結びイスラエルの安全を守ろうとした。そして94年の
12月にはアラファトとペレスとともにノーベル平和賞を授与され、輝か
しい和平の道を進んでいた。
しかし1995年11月四日にユダヤ教過激派の青年によりラビンは
暗殺された。そしてイスラエル国民の5人に1人の120万人が追悼式に
出席した。
ラビンの和平にはユダヤ教正統派も反対していた。彼らから見ればパレ
スチナは神から与えられた約束の地であり、それに手をつけた彼は神を裏
切ったことになる。そしてラビたちからラビンの殺害を教唆する発言が現
れるようになった。これは和平と反和平派の対立だけでなく、国家対「ユダ
ヤ人のアイデンティティ」でもあるユダヤ教の対立でもあった。
4-19 ペレスの失策
ラビンの後を継いだのはラビンと二人三脚で和平を進めたペレスだっ
た。ペレスには和平への充分なチャンスがあった。しかし、まずハマスの軍
事部門の指導者を暗殺してしまい、押さえのきかなくなったハマスの過激
派によるテロの嵐が起き240人の死傷者を出した。そしてレバノン南部
のヒズボラを攻撃した時、国連基地に逃げ込んでいた民間人100人を爆
撃で殺害してしまう。レバノン、国連、世界中からの抗議にさらされ、ヒズ
ボラの反撃にイスラエル兵が死んでいくなかでペレスは支持率を失って
いった。
4-20 ネタニヤフ政権
1996年5月の選挙でペレスは、右派リク-ド連合のネタニヤフに敗
れた。先のペレスが「強いイスラエル」という方針で失敗したのに対し、ネ
タニヤフは完全に安全が保障されたという意味の「真の平和」を説いた。前
の和平で富の恩恵を受けられなかった低所得者層がネタニヤフに投票し
たのだ。その後ネタニヤフはエルサレム付近を入植地で囲いエルサレムを
西岸地区から切り離しイスラエル主権が及ぶようにしたり、歴代イスラエ
ル首相がアメリカと交わしたイスラエル軍追加撤退の合意を凍結したり
した。そして1999年5月の選挙で労働党のバラクと政権交代する。
4-21 バラク政権
バラクはネタニヤフ政権で停滞した和平を軌道に乗せようとしたが難
航した。シリアとのゴラン高原返還では、水資源確保に必要な数百メート
ルの線で決裂した。2000年7月にはキャンプデービットの会議が決裂
した。バラクが提案したパレスチナ国家の非武装化、領域は西岸の90%
以下、入植地は整理統合されイスラエルに主権がある、難民の帰還権と保
障の凍結等でアラファトは独立国家から程遠いとして拒絶したためだ。結
局合意には至らなかった。しかも、2000年9月に右派リク-ド党首シ
ャロンがイスラム教の「ハラム・アッシャリーフ」(高貴なる聖域)でもある
ユダヤ教の聖地「神殿の丘」に登る挑発行為で第二次インディファーダが
起きてしまう。これは前回とは違い、投石だけでなく銃も使われ始めた。こ
れに対するイスラエル軍の鎮圧も激しいものとなり、オスロ合意は破綻し
た。そして現在のシャロン政権となる。
4-22 9・11の後
2001年2月の選挙でリク-ド党シャロンが圧勝し首相となる。かつ
て労働党に投票したパレスチナ人が棄権し、和平派には白紙投票が広がり、
右派は言うまでもなく中間派もアラファトに譲歩しすぎだとしてシャロ
ンに投票したためだ。
そして2001年9月11日、ニューヨーク世界貿易センタービルとペ
ンタゴンにハイジャックされた航空機が突っ込み3000人以上が死亡
した。その後アメリカは「テロに対する戦争」を始めアフガニスタンを攻撃
する。そしてシャロンもこれに同調するとして10月2日にガザに侵攻し
た。
4-23 暴力の応酬の激化
01年10月は強硬派のレハバム・ゼエビ観光相がパレスチナ解放人
民戦線(PFLP)により暗殺される。イスラエルはアラファト議長に犯
人の逮捕を要求し、議長を軟禁するのである。
この頃から自爆テロも激化してくる。それに対しイスラエルはイスラム
原理主義のハマスを潰すことに躍起になる。しかし空爆などによるハマス
幹部の暗殺で多数の民間人を巻き込んでいくようになる。
02年1月30日、女性による自爆テロも起こる。これは28歳のパレ
スチナ赤三日月社(イスラム圏内の赤十字社)に勤めていた女性が行ったも
ので、女性による自爆テロは世界に衝撃を与えた。
4-24 ジェニンの虐殺疑惑
02年4月18日ヨルダン川西岸の難民キャンプ、ジェニンはイスラエ
ル軍に包囲された。イスラエル軍はこれは過激派の掃討作戦と説明しで、
一般市民を含む数百人が死亡したとしている。しかしパレスチナの住民は
1000人以上が虐殺されたといっている。事実、イスラエル軍は包囲し
ているときに、取材陣や救援物資などがキャンプに入ることを妨げている
ので虐殺はあったと思われる。
これに対し国連は、21日に調査団の派遣を表明、翌日にはメンバーを
公表した。イスラエルも初めは受け入れを認めたものの、パレスチナ寄り
の人物を調査団からはずす事を要求した。さらに何度も調査の拒否や延期
を繰り返した。そのため遂には調査団は5月2日に
解散に追い込まれるのである。
4-25 新たなる和平~ロードマップ~
アメリカとEU(ヨーロッパ連合)、国連、ロシアの四者が02年4月3
0日、パレスチナ紛争の最終的な解決を目指し、イスラエル、パレスチナ自
治政府双方に新和平案を提案した。これは2005年にパレスチナ独立国
家樹立とイスラエルとの和平共存を目標とし、具体的なスケジュールを示
している。パレスチナ側は案を提示された直後に受け入れを表明した。
しかし、イスラエルは入植地の凍結とパレスチナ難民の帰還の項目の変
更を求めたが認められなかった。結局イスラエルは対米関係を重視して5
月25日に受諾を決定した。
4-26 分離壁
02年6月16日にイスラエルとヨルダン川西岸を隔てる分離壁が着
工された。イスラエルはこれにより、イスラエルと西岸を分断しパレスチ
ナのテロを防ぐ計画だ。と同時にパレスチナ国家が樹立したときの国境に
なるとして、イスラエル国内では多くの支持を受けている。
しかし一部の入植地が分離壁によりイスラエルと分断されるので反対
していた。そのため分離壁は主要な入植地を囲むため、将来パレスチナの
領土になるかもしれない土地まで食い込んでいる。そのためパレスチナ人
はイスラエルへの出稼ぎが余計難しくなるだけでなく、自治区内の移動、
つまり通院や通勤、通学などの日常生活が妨げられた。他にも畑が分断さ
れてしまった人もいる。
この壁に対し国際社会は非難しているが、イスラエルにもっとも強い影
響力をもつアメリカは、微妙な問題として明言を避けている。
4-26 イラク戦争の後
イラクの大量破壊兵器保有疑惑が口実となり03年3月20日に開戦
したイラク戦争は、予想どおり米軍の勝利に終わり5月2日にブッシュ大
統領は戦闘終結宣言をした。今回もイラクの敗北はパレスチナに影響を与
えた。イラク国内のパレスチナ人はフセイン体制の下優遇されていたため、
体制が崩壊した後はイラク人に冷遇されるようになった。自爆テロの実行
者の遺族に送られる2万5000ドル(約330万)も無くなった。
そして何よりもイラク戦争後の米英軍などの占領政策の行き詰まり、外
国人や占領軍に対するテロ、自衛隊派遣などのニュースでパレスチナ情勢
がかき消されてしまっている。
現在でも一時期よりは収まったが、テロとその報復は続いたままである。
パレスチナ問題、エルサレム共存についての議論
1 エルサレムを共同管理にする。ユダヤ教徒とイスラム教徒で市街を東西
に分割(住み分け)。
問題点:共同管理の線引きをどうするか(第三者が決めるのか)。住み分
けが進むと、意見が合わなくなり関係が悪化する可能性が高い。
2 エルサレムを共同管理にする。住み分けはしない。
問題点:主権がどちらかに寄り、関係が悪化する。
3 エルサレムを国連管理にし、宗教的なものはそれぞれに委託する
問題点:イスラエルが承認する可能性が極めて低い。神殿の丘の帰属問題
が未定。
4 イスラエルにエルサレムの主権を委譲する
問題点:アラブ人が反発し、イスラエルがアラブ人を追い出す可能性があ
る。ユダヤ人入植地が拡大される。
5 アラブ側にエルサレム主権を委譲する
問題点:ユダヤ人が反発し、アラブ側がユダヤ人を追い出す可能性がある。
ユダヤ人のエルサレム立ち入りすら禁止される可能性がある。
現代史部が提案する解決策
国連か米国が介入してイスラエルを屈服させ、エルサレムを共同管理に
する。住み分けは行わない。警察組織は国連主体。神殿の丘の管理は今まで
通りイスラム側に委託、ユダヤ人の神殿の丘訪問の制限を緩くする。
※3月22日、パレスチナ人の精神的指導者ヤシン師をイスラエルが暗殺
したことにより、以上の解決策の実現は非常に厳しいものとなった。
杉浦先生記録
1/31/04 ドキュメント エルサレム前編 1897-1967 年(2/4/04 メモ)
3つの宗教の聖地。3千年の歴史、中東の衝突の震源地、暴力応酬の舞台と
なったエルサレム。
エルサレム旧市街の隅々に設置された無人カメラ。1キロ四方に 300 台。
監視カメラのモニター室で、イスラエル警察が 24 時間監視。
衝突した映像、聖地が騒乱の現場になった。カメラを狙った投石でレンズ
が割れる。
サリー・ヌセイベ(54)父親はアンワル、功績のあったイスラム教徒の墓
地に、アラブ民族主義の担い手。
「パレスチナ人の状況を生涯憂えていた。
父の人生は幸せでなかった。」
メロン・ベンベニスティ(69)父ダビッド、「父を正当化しようと思わな
い。」
聖地をめぐるユダヤとアラブの対立はどのように始まったか。衝突の源を
検証する。
ユダヤ教徒が祈る嘆きの壁。神殿の石垣だけが残ったもの。70 年にローマ
軍に破壊されてユダヤ人が世界中に離散、この壁の下に変えるのが悲願と
なった。
壁の上に、ルーツを同じくする岩のドームが建てられた。7世紀にイスラ
ム教徒が征服。ムハンマドがアラーの下に昇った場所と信じられる。最も
神聖な祈りの場の一つ。
エルサレム駅、鉄道開通時の映像、リュミエール兄弟の撮影。
町中の遊牧民やラクダ。当時支配していたのはオスマン・トルコ。ヨーロ
ッパのキリスト教徒は5万の小さな町を訪れることはあまりなかった。
イエスの墓があるとされるキリスト教聖墳墓教会。
エジソン映画社の映像、人々の生活が記録されている。神殿の丘。
水を買いに来た女性。水は貴重。糸を紡ぐ女性、パンの測り売りの親子。
十字架を背負ってイエスの歩いた道を進むキリスト教信者。今も同じよう
に宗教行事。
岩のドームも写されている。信者の礼拝。
嘆きの壁。信者が祈るの姿。アラブ人の住居が壁に接するように建ってい
た。便宜を図って、5メートルの礼拝の空間をオスマン・トルコがもうけ
た。
イスラムが支配していた百年前には3つの宗教が争いなく共存していた。
キリスト教聖墳墓教会の鍵あけの儀式。開けるのはイスラム教徒。12世
紀にサラディンが十字軍から奪還。ユダヤ教徒を受け入れキリスト教徒に
も信仰の自由を認めた。
鍵の管理はイスラム教徒が行う。代々 800 年預かってきたのが最も古いム
セイべ家。
ムセ:砂漠に住んでいて7世紀に移り住んできた。父はエルサレムに生ま
れて生涯を終えた。
和平交渉を市民レベルで推進、大学で教えながら政治活動に関わってきた。
ムセ:暴力に価値がないとパレスチナ人に訴えた。暴力は失うばかり。
ベンベニスティ、作家として対立の歴史を研究。60 年代にエルサレム助役
として融和政策に取り組む。
ベン:親密な敵。兄弟であり敵、隣人でもある。人間としての権利がある。
メロンの祖先は、15 世紀にスペインの役人を追われた。祖父がギリシアで
1913 年にギリシアから移住して
ラビ。母はリトアニア出身。父ダビッドは、
きた。
このころユダヤ人の移住が増大。19 世紀末からユダヤ人国家をパレスチナ
に築こうとするシオニズムが始まった。信仰を守るユダヤ人はキリスト教
社会で迫害を受けていた。
19 世紀には東欧やロシアで排斥、ボグロム、集団虐殺。
ユダヤ人国家の提唱者は、今のままで迫害を免れるのは幻想、自らの国土
を所有すれば離散することもない。別名シオンの丘をめざすシオニズムの
うねり。
移住者は 20 世紀初め2万人をこえて年ごとにふくれあがる。
開拓初期の記録映像、無人の土地をアラブ人から買い取った。
ユーカリの木を植えて沼地を緑地に変えた。さまざまな苗木を集めた。
ジェフォロンヤコブ。開拓者は略奪と闘いながらぶどうの栽培や酪農を始
めた。
町を計画的につくる。中心にはシナゴーグが建てられた。
今も残されている。集ってアイデンティティを維持してきた。
父ダビッドは学校の教師を務めて、信仰心にもとづくシオニズム運動を実
践。
子どもに「神との約束の地」パレスチナの意味を繰り返し教えて愛国心を
育てた。
勤めた学校の跡が残る。移住してきた人々、欧米から来て開拓を幸せに感
じた。
父は植林を教えた。シオニズム運動の重要な柱の一つだった。
ダビッドの文:精神を教えるだけでは十分でない、母なる大地との関係を
緊密に、心に折り込まれる糸こそが祖国という意識である。
ベン:故郷と感じてこの土地の人間と認識すること。岩や樹木と同じ。父
は成功した。
1914 年、第1次世界大戦、オスマン・トルコを崩壊に追い込み勢力圏に組
み込む。
豊富な資金をめあてに支援を約束。バルファア外相はロスチャイルドに書
簡、シオニズム運動への共感明記。
要請に応じて莫大な戦費を送り、ユダヤ人部隊まで結成。
結団式の映像。国旗となるダビデの旗。巻いた聖典。父も加わった。
一方でアラブにも国家建設を約束し協力を得る。
さらにフランスと密約、国益にあわせて国境線を引く。
委任統治領として、エルサレムもイギリスの支配下。
陥落直後の映像、イギリス軍が徒歩でエルサレム入城。十字軍の再来と避
難されるのを避けた。シオニズム運動の指導者も入城。大きくシオニズム
運動を前進。
世界中のユダヤ人よ、早く嘆きの壁に来れとアピールした。
周辺で近代的街づくり、テルアビブ、1930 年代の映像、カフェやダンスホー
ルなどヨーロッパ風、第1次大戦前の6倍の 30 万人になった。
ヘブライ語も整えられた。教育用の映画。
聖地を追われて 1900 年間、祈りの中で使うだけのヘブライ語を話し言葉
として復活。
多くの語句を言語学者がつくった。ベン・ユフダ、聖書の単語をつなげて。
こうした動きがアラブ人の生活を脅かした。
当時アラブ人には民族国家という意識が希薄。
ヌセイベ父の 79 年映像、長く暮らしてきた歴史があるが、ユダヤ人のよう
な愛国心は持っていなかった。ユダヤ人の国家づくりに追いやられる気持
ちを持ち始めたと。
近代的都市のかたわらで、アラブ人は部族の結集を重視した伝統的生活。
エルサレム近郊の新興住宅地の映像。3才のメロン。アラブ人の混在する
エルサレムに来た、隣に村があったがアラブ人との交流はほとんどなかっ
た。
ベン証言:ガラスの向こう側に暮らしているようだった。まったく関係な
い人たち。
1925 年、ヘブライ大学の開校、旧市街を見渡せる山の上に。エルサレムがユ
ダヤの土地になったかのような行為がアラブ側の反感を買った。
アンワル証言:イギリスの外相まで参加。黒い旗をつくってデモをした。
アラブ高等委員会、部族の代表者会議。率いたのは、アミン・フセイニ、大
アラブ主義。建国をめざすシオニズムとの土地をめぐる全面対決に発展し
ていく。
嘆きの壁近くのユダヤ人の家に宗教画、岩のドームの上にたなびくダビデ
の旗が掲げられたのに反発。
組織的抵抗運動が始まり、テロの応酬がパレスチナ全土に広がった。英軍
にも向けられ鉄道が寸断された。
1936 年、イギリスの調査団が調停に乗り出す。
提案は、エルサレム周辺を委任統治下、分割しそれぞれの独立国家をつく
るもの。両者がこれを受け入れなかった。
自分たちの大シリア、アラブの連合体に属していると考えた。別の国は大
国が勝手に考えたものだ。アラブの連合体を国家と考えた。シオニズムが
アラブを分裂させると考えた。
証言:父は弱体化と見なしてシオニズムに反対。パレスチナ独立にも反対。
第2次世界大戦、ホロコーストの映像。
パレスチナに押し寄せたユダヤ人、イギリスが委任統治権を放棄。
国連の分割案、ユダヤ人の倍以上の人口を抱えたアラブは分割そのものに
反対。
ユダヤ人の国家の設立が国際社会に認められた。
1948 年、5月14日独立を宣言、ベングリオンが初代首相になった。
ペレス:当時は悲惨、アラブは5千万人、軍隊も強力、飛行機もあった。
翌日、アラブ諸国が一斉に攻撃を開始、戦局はイスラエル側に有利に。78%
を支配下に入れた。ヨルダンが西岸を併合、70 万人が難民となった。
東西に分断された。シリアなどに逃れた。ヨルダン国籍の取得を迫られる。
ヌセイベの母、他の国の人間が外から侵入してきて土地を取り上げられた。
テロリストと責められる。
パレスチナ人を冷遇するヨルダンと交渉。消滅を求められた。アイデンテ
ィティを誇示する行為は禁止された。父はヨルダン政府に反対、知事の座
から下ろし、軍隊を派遣して変わりの知事を任命。パレスチナ人は3日間
の抗議を行った。
アラブの文化を一掃するシオニズムの運動、アラブの村がヘブライ語の名
前に変えられた。父が雇われた。ベングリオンが指示。政治的所有権も精神
的所有権も認めないと。
聖典から新しい地名がつくられていった。
証言:20 世紀になって過去の世界に生きようとした。地図ができたが、父
の功績は後ろめたいし、重荷であると。
分断する境界線に壁が建設、嘆きの壁が隔てられた。見つめるユダヤ人た
ち。
証言:最も神聖な場所は国の外になり、取り戻したいと思っていた。
1967 年、エジプトに先制攻撃、3日後、ヨルダンとの間で攻防戦、東エルサ
レムは占領下におかれる。聖地をふたたびユダヤ人が占拠。
嘆きの壁の前のアラブの民家、百数十戸を強引に取り壊して広場をつくっ
た。一方的な併合が最大の焦点になっていった。
ヌセイベ:前にホテルが建った。向こうにユダヤ人の居住区があった。奇
妙な人々だと思っていた。恐かった。髪が長く前進黒ずくめ。イメージ、
ユダヤの世界に足を踏み込み、共存の道を模索していくことになる。
大勝利に酔いしれた第3次中東戦争、助役になったベンベニスティ、行政
で関わることになった。初めて目にした東エルサレムの光景、舗装された
道路が一つもない姿に衝撃。
恐るべき光景、まったく違うエルサレムの姿を見ることになった。
PLOと右派政権の誕生……
「ドキュメント エルサレム 後編 聖地の平和はなぜ実現できないの
か」NHK 2/7/2004 番組
03 年 10 月エルサレムで開かれた支援集会、世界 180 カ国からの参加者へ
呼びかける。
シャロン首相「イスラエルはエルサレムに関していかなる妥協もしませ
ん。」
暫定自治政府前で民衆に訴えるアラファト議長「イスラエルに屈しません。
レスチナは一つ、わがエルサレムは永遠だ。」
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 3 つの宗教の聖地、エルサレム。3000 年
にわたって衝突の震源地、出口の見えないイスラエルとパレスチナの紛争
の最大の焦点。
イスラム教岩のドーム、ムハンマドが神の啓示を受けるため天に昇った場
所とされている。
下にはユダヤ教嘆きの壁、ローマ帝国に破壊されたユダヤの神殿、それを
支えていた石垣の一部とされている。この聖地を巡った世界を巻き込んだ
争いが繰り広げられている。
6 年前、嘆きの壁で祈るブッシュ、有力な次期大統領候補として招かれた。
ヨルダン川西岸の占領地を視察、3 年後大統領となったブッシュは、イスラ
エルよりといわれる現在のアメリカの中東政策を展開。和平の話し合いが
何度も行われたが、解決の糸口はつかめません。
現代も続くイスラエルの軍事攻撃とパレスチナの自爆テロ。1 月 29 日もエ
ルサレムでバスが爆破されて 11 人が死亡。ドキュメントエルサレム後編
は、紛争はなぜ和平への道筋が見出せないのか。背後で影響力を行使する
アメリカの動きとともに検証する。
1967 年、イスラエルが周辺のアラブ諸国と闘った第3次中東戦争、運命を
大きく変えた。シナイ半島全域とガザ地区、ゴラン高原、東エルサレムとヨ
ルダン川西岸を奪う。東7エルサレムは周辺地域を含めてイスラエルに併
合された。
イスラエルは、イスラム教の聖域ハラム・アッシャリフを、イスラム教徒
が自主管理し礼拝する自由を認めた。
聖地管理団体責任者「ダヤン国防大臣が訪れて礼拝を許すと言った。全世
界のイスラム教徒を敵に回し、大きな犠牲者を出すのを避けたかったので
しょう。」
イスラエルは、旧市街でも異なる宗教の人々を混在したままにした。エル
サレムを分断していた壁は取り離され、パレスチナ人はイスラエルで暮ら
すことになった。
サリー・ヌセイベ、分断線の近くに生まれた、大学の学長を務める、
「ここ
が境目でしたが、ユダヤ人は怖くて不気味だった。当時は悪夢を見ること
さえあった。」
第 3 次中東戦争のときサリーは 18 才、父からユダヤ人は土地を奪った邪
悪な人間と聞かされていた。壁が崩れたときユダヤ人に好奇心を持ち、そ
の世界を知りたいと思った。それ以来共存の道を模索する。
「互いを知らず
に偏見を持ってみていたことが分かった。」
旧市街のイスラム地区を歩く、ユダヤ人作家メロン・ベンベニスティ。東
エルサレムの行政を担当、パレスチナ人にとって最大の町で、生活環境の
改善に取り組んだ。
「彼らの元へ私たちが来たという状況だった。ユダヤ人と同等の権利を与
えるべきだと考えた。」パレスチナ人との共存を嫌う人たちの反発を受け
て辞任。独自に共存の道を求める。
第 3 次中東戦争の後、イスラエルは新たな敵との戦いを強いられる。
1969 年PLOの議長にアラファトが就任、ゲリラ闘争を強力に推し進める。
難民キャンプにいるパレスチナ人に軍事訓練を行い、武力による民族解放
を呼びかける。
アラファト「新しい人間を作る。難民を戦士に変える。自由の戦士になる。」
1929 年、嘆きの壁に近い家で生まれた。エジプトの大学で土木工学を専攻、
学生運動を組織しイスラエルへの抵抗運動を始めた。
PLOは周辺のアラブ諸国を拠点にしてゲリラ闘争を続け、当時故郷を語
った映像が残されている。
「このあたりに住んでいました。不思議な魅力が
あります。精神と人格に特別な影響を与える街です。子どものころ反ユダ
ヤのデモに参加した。」
アラファトは、幼いころから聖地を命がけで守る大人の戦いを目の当たり
にして育った。
アラファトの宿敵、アリエル・シャロン、現在のイスラエル首相。
4 度の中東戦争に従軍し最も勇猛な将軍と言われた。少年時代に父から神
との約束の地を守るシオニズムの精神を教えられ、実現のため武力行使を
いとわない信念を貫く。
ベニン元首相とリクードを結成、政治活動を始める。リクードは全域がイ
スラエルのものとする大イスラエル主義をかかげ、その急先鋒に立つ。
1981 年国防相になったシャロンは、軍事力の強化を打ち出す。アメリカの
力を取り込訪米、アメリカに安全保障条約を提案、有力な同盟国になると
売り込む。
この訪問を機に、アメリカの軍需産業とイスラエル軍が結束を強める。。
ユダヤ系のシンクタンク JINSA が毎年開くパーティ。イスラエル軍やアメ
リカ軍、軍需産業関係者が出席する。イスラエルとアメリカの軍事技術交
流に深く関与。
副所長「兵器の実地テストが短い時間でできる。アメリカより早く問題点
を見つけられる。」
アメリカの武器開発にとってイスラエルは重要な実験場だった。イスラエ
ルへの無償軍事援助は年間 18 億ドルに達する。
1982 年、国防相シャロンはアラファトへ本格的な掃蕩作戦をとる。レバノ
ンを拠点にして武力闘争をしていたアラファトに、アメリカ製武器で大規
模な攻撃を加えた。
シャロン「作戦の目的はテロリストPLOをたたきつぶすことだ。」
現在にいたる対決の中で初めて直接対峙した闘いだった。2 ヶ月以上徹底
した攻撃が続き多くの一般市民が攻撃の巻き添えになった。ベイルートは
廃墟同然になった。
圧倒的な軍事力の前でPLOはなすすべがなかった。残留するパレスチナ
難民の安全を保証することを条件にレバノン撤退を決断。アラファトはチ
ュニジアに逃れた。
ベイルートでの難民虐殺事件の責任を問われて、シャロンは国防相を辞任。
その後住宅相になったシャロンは別の方法で大イスラエル主義の実現を
図る。ユダヤ人をヨルダン川西岸とガザ地区に大量に移住させた。住宅相
の時代に急速に増えた。
ユダヤ人の入植地は、隣にパレスチナ人の村があり、パレスチナ人が先祖
代代暮らす土地を徐々に侵食していった。現在、入植地は 150 箇所に達し
て 23 万人のユダヤ人が暮らす。
シャロンは、自分はエルサレムのイスラム教地区の中に家を購入。屋上の
飾りはユダヤ教の聖なる蜀台をイメージ。聖地はイスラム教徒に渡さない
強い姿勢を示した。
部屋の中央の壁に、旧約聖書の言葉かかかげられる。
「もし私がエルサレムを忘れるなら、私の右手は萎えるがいい」
市役所の助役をやめたベンベニスティは、独自に入植地の調査を始めた。
イスラエルがパレスチナを侵食していく現実、水道や道路などの社会資本
にパレスチナの村が依存するようになり、パレスチナ人の村のイスラルエ
化が進んでいた。
(画面に示された資料は学校の成長のグラフ、1968 年から 87 年にかけて、
学校は 1186 から 1767 へ、教室は 4395 から 8594 と増加。)
イスラエル政府の計画ではパレスチナ村周辺を重点に入植地が作られよ
うとしていた。
(画面の地図では、赤が村、青か入植地だが、村よりも広い面積に見える!)
ベンベニスティ「ヨルダン川西岸で大きな変化がおきたが、みんな関心が
なかった。自分で公表しなければと思った。このまま入植が進めば、ガザと
西岸から社会資本を引き上げることができなくなる。警告する必要がある
と。」
メロンは入植地増加でパレスチナ国家の独立が妨げられ、新たな火種にな
ることを心配。
1987 年、イスラエルの入植政策にパレスチナ人の怒りが爆発。イスラエル
軍に石で抵抗しようとする民衆蜂起、インティファーダです。(映像は、青
年が紐を使って投げる缶が、道路に落ちて炎を流していく。火炎瓶でなく、
火炎缶か。)
安住の地を渇望するパレスチナ民衆の怒りを目の当たりにしたアラファ
ト、PLOは国家建設の具体的な指針作りを急がねばならなかった。
1988 年国連総会、国連で演説したアラファトが初めてイスラエル国家の生
存権を認めた。同時にパレスチナ国家をエルサレムを含むヨルダン川西岸
とガザ地区に限定することを受け入れた。パレスチナ全土の解放という方
針を大きく変えた。
新しいPLOはイスラエルとの交渉役にヌセイベを抜擢。オックスフォー
ド大学で学んだサリーは国際派、和平推進派だった。サリーはPLOが武
力闘争を活発化していた時代、距離をおいていた。対話路線への変更によ
って国家建設への期待を強め、和平交渉に力を尽くす。
「その頃イスラエル
政権内にも話を考える人たちが出て二国間和平の実現を図ろうとして枠
組みを作りたいと言っていた。」
1991 年スペイン・マドリード、アメリカの呼びかけでパレスチナ紛争の解
決策をさぐる中東和平会議が開かれた。(ブッシュ大統領とゴルバチョフ
大統領)冷戦が終わり米ソが歩み寄り始めていた。湾岸戦争の時イスラエ
ルのパレスチナ占領を批判するイラクがアラブの人々の共感を得ていた。
アメリカは紛争解決の糸口を見つけなければならなかった。
ヌセイベ「実務レベルの分科会の一つで代表に任命された。和平が合意に
達すると思った。役目が終わり政治を離れ大学の研究生活に戻ろうと思っ
ていた。」
1993 年、ホワイトハウス、オスロ合意。イスラエルとパレスチナは互いの生
存権を認めてパレスチナ人による暫定自治開始に同意した。しかし、エル
サレム問題は将来の交渉にゆだねると、解決が先送りされた。
エルサレムは、イスラエル・パレスチナ双方とも国家の首都にすると主張。
一つの街を共有するのか、二つに分割するのか、主権は全く譲れないのか、
エルサレムの帰属はそうした困難に直面する問題だ。以下に複雑化を示す
映像がある。03 年秋双方で和平交渉に関わった元閣僚や知識人が分割につ
いて議論したもの。
旧市街をどう分割するか中々妥協できなかった。
旧市街の門の主権について。7つの門から入るしかない。マグレブ門とヤ
フォ門について話し合われている。聖域に行くのに重要な門だ。
「3つの門はイスラエル側に残す」
「マグレブ門は毎日何千のパレスチナ人
が利用、平等に分割するという論理ならばパレスチナに主権を。門を通る
のは認める。」
「イスラエル人は二つの門からしか入れないことになる。道
路も駐車場も譲歩した。」
「駐車場までもらっていない」
「門を通ると言って
も道路はダメ、どうやって門まで行けばいいのか」
「ヤフォ門を出ると道路はすぐそこでイスラエル領、そこに主権がないの
はおかしい」
「イスラエル側はこちらが主権について一つ要求すると、いつもその倍を
要求してくる。そういう態度が問題。交渉に従事してきたが、そういうやり
方にいつも腹を立てる。もううんざりです。」
和平を望んでいる人々。それでさえ、道路一本門一つをめぐって感情的に
なる。
パレスチナ国家を建設するにはエルサレム問題は避けて通れない。2000 年、
公式の和平交渉で初めて踏み込んだ議論。キャンプデービッド会談(クリ
ントン大統領がバラクとアラファトを連れる映像)、イスラエル代表は左
派労働党のバラク首相、クリントン大統領が積極的に調停に加わった。イ
スラエル側がタブーとした問題に柔軟な姿勢を見せ始めた。
占領地返還で、ヨルダン川西岸の 92%とガザ地区全域の提案。パレスチナ
難民が元の地に戻るのは拒否。さらにエルサレムについて、イスラエルが
聖地の分割に応じる姿勢を見せた。クリントンが分割案を提示。アラブ人
が多く住むイスラム教地区とキリスト教地区をパレスチナ側に、ユダヤ教
地区とアルメニア地区をイスラエル側の主権下に。
ハラム・アッシャリフ/神殿の丘について話合は暗礁にのりあげた。イス
ラエルが建物の管理権は与えるが、主権は認められないと主張。アラファ
トは受け入れず。
ぎりぎりの交渉を続けたが、一旦中断された。
この機をとらえ和平交渉を崩壊させる動きが起こる。リクード党首シャロ
ン、岩のドームに武装した多数の護衛とともに立ち入った。
「神殿の丘はわれわれのものだ。エルサレム分割は絶対に許さない。」
シャロンの行動にパレスチナ側が強く反発、激しい衝突が起こる。各地に
飛び火し、パレスチナ側のテロやイスラエル側の軍事行動で、これまでに
3千人以上が死亡。和平プロセスは完全に白紙に戻った。(具体的な話を
ほとんど飛ばした。)
ヌセイベ「シャロンは、イスラムの聖域に強引に脚を踏み入れることで、パ
レスチナ人がどれだけ怒るか知っていた。我々はまんまと罠にはまったの
です。」
2001 年、パレスチナの抵抗運動(!?)に危機を感じた世論を追い風に、シ
ャロンは首相に就任。「エルサレムは決して手放さない。」
03 年 10 月ユダヤ系アメリカ人がユダヤ系団体から表彰、ネオコンの実力
者、リチャード・パール「和平交渉では問題解決しない。」
力による外交を標榜。アメリカの軍事力をてこに中東の政治地図を書き換
えようと。
ブッシュ政権のイスラエルよりの中東政策は福音派にも影響を受けてい
る。
最大の組織、クリスチャン・コアリション・オブアメリカ。創設者「イスラ
エルが危機にされすと、聖書の神の教えに反する。」
福音派は、キリストが救世主として現れるにはユダヤ人が聖地を支配しな
ければならないと信ずる。イスラエル支援の活動を議会に対して行う。
上院議員「神殿の丘に行けなかった。腹立たしい。自由に行き来できるよう
にすべき。」
全米に 5 千万人以上いると言われる福音派、南部を中心にするブッシュの
支持母体。
(コアリション~は百数十万人にすぎない。)
創設者「アメリカの政治家がイスラエルを支持するのは福音派が存在する
から。」
毎年エルサレムにやって来て支持を表明する。ヨーロッパのキリスト教が
批判的なのに対して、特異な存在である。ブッシュ政権とイスラエルの関
係を強固にしている。
イスラム教徒の怒りが吹き荒れた。岩のドームを掲げたデモ。
2001 年アメリカで同時多発テロ。ブッシュ「テロリストを野放しにしては
ならない。」
10 月、強硬姿勢をとってきたイスラエル閣僚が狙撃されて死亡。パレスチ
ナへの強硬姿勢を強める。アラファトを敵と宣言、排除を決断。
2002 年、シャロンは暫定自治政府議長府を戦車で取り囲みアラファトを監
禁状態に置いた。
イスラエル軍は、昼夜なく攻撃、暗殺犯人の引渡しと退陣を要求した。応じ
ずに監禁は一ヶ月をこえた。イスラエルは殺害する攻撃をしなかったが、
銃弾や催涙弾を打ち込んだ。
アラファト「ブッシュと国際社会(英語では国連と言っていた)にたずね
たい、イスラエルの行為は許されるのか、私は出ることができない。」
ブッシュはパウエル国務長官を派遣、アラファトに代わるリーダーを求め
る。
イスラエル軍の包囲をとかれたが、アラファトは現在も移動の自由を奪わ
れている。
2003 年、イラク戦争で反発を受けたアメリカは、反米感情を抑えるため新
しい中東和平案、ロードマップを提示。(シャロンとアッバス首相の映像)
アメリカはパレスチナ国家の創設を認めたが(アメリカでなく4者だろ
う)、占領地返還規模など具体的な解決策を明示せず。
武力でパレスチナ側を抑えようとするイスラエルに対して、自爆テロが続
く。自爆テロ犯侵入を防ぐ名目で壁を建設。高さ 8 メートル、居住区を分断
しパレスチナ人の生活を脅かす。68 万人のパレスチナ人に影響があると。
農地の真中にフェンスができて困るパレスチナ農民。半分が向こう側に。
「ブルドーザーで野菜畑をつぶされた。水路をつぶされ、残った畑にも水を
やれなくなった。」収入が激減。同じような影響を多くのパレスチナ人が受
けている。
憎しみだけが募る中、ヌセイベはPLOの役職を離れ、草の根運動、現実的
な和平のため難民が元の居住地に戻る権利、帰還権を放棄しようと。引き
換えに国家建設をと。
難民との集会で訴える。
「今の土地を奪われない確かな見通しを持つこと。」
難民「キャンプで苦労している人以外に帰還権を言えない。」ヌセイベ「苦
難への同情ではなく、現実、どう歩み寄るかだ。」こうした考えは多くの支
持を得られていない。道で裏切り者だと非難される様子。
「第1次中東戦争の前まで住んでいた土地に戻れるという夢、実現しない
ことを伝えなければ、国家をつくれば新しい生活が始まることを示させね
ば。」
対等な共存をめざしてきたベンベニスティが、気にかけるのがユダヤ教右
派の動き。岩のドームを破壊して聖なる蜀台を置く計画が亜くという。
「福
音派も計画を支援、イスラム教徒を追い出しユダヤ人の神殿を建てること
を願っている。キリストが再臨すると。それが実現すれば、エルサレムで大
惨事が起きます。」
今年1月山の上にコンクリートの壁が出現。パレスチナ人が将来の首都と
考える東エルサレムを、イスラエル側に取り込むように壁がつくられてい
る。
百年前にユダヤ人が移住し新たな国家イスラエルが生まれて始まったパ
レスチナ紛争、エルサレムを双方が分かち合うことができるのか。聖地の
和平への道筋は見えていない。
杉浦先生のコメント
パレスチナ問題メモ
「イギリスの二枚舌」
> ユダヤ人とアラブ人の国家に関する「イギリスの二枚舌」といわれるこ
とについて先生何かおっしゃってましたよね。具体的に教えてください。
二枚舌というのは相手をだますことです。つまり、相手によって言い方
を変えているわけです。フランスとの間に領土分割の秘密協定を結んだの
はある意味で二枚舌でしょうが、パレスチナ問題への対応は違います。
バルフォア宣言を出したことをアラブ側が知っているわけです。これで
は二枚舌と言えませんね。
何かの番組でこのことを知った時愕然としました。(この番組でもパレ
スチナ問題を扱ったわけだ。調べねば。)世界史では二枚舌とずっと説明
してきましたから、秘密協定のようなものと思い込んでいたからです。
ポイントは、イギリスは National Home だとかの言い方を使うのですね。
つまり、国家を認めたわけではないとアラブ側に説明したわけです。その
説明を当然シオニストも知っているのです。だから、普通の言い方では、こ
れを二枚舌とは言えない、つまり世界の教え方は根本的に間違っている。
その説明で、衝突の原因を勘違いしている日本人が多いということです。
ふたつの民族が互いに独立を信じていたら、イギリスが矛盾した約束を
していたので、戦後ふたつの勢力が対立することになった、と多くの日本
人は理解したわけですから。
アラブが 2000 年住み慣れていた、ユダヤ人は 2000 年の放浪を続けて 19
世紀末から突然戻ってきた、などと同様、日本特有の「神話」のひとつと言
えるのでしょう。パレスチナ問題「神話」を改めて整理する必要があります
ね。
私は最近、3つの宗教が対立する「聖地」だから紛争がなくならない、と
いう言い方も神話だと思うようになりました。キリスト教は主権を要求し
ていないから、歴史的にはともかく現在全然紛争に関係ないことをしっか
り見る必要があります。
「聖地」だから問題になるのではないということで
す。
その意味で、NHKの番組は根本的にスタンスが誤っていると言えるで
しょう。聖地だからと、キリスト教国が主権を要求すれば別ですが……
問題は、聖地における宗教の自由の確保、これが第1です。
バルフォア宣言についてHPで調べてみた。
national home と表現したことを知らない(無視した)記述が少なくな
い。中にはホームランドと書いてあるものまで存在するありさまだ。
「郷土」
と訳しているものはまだ良心的な方で、大体はユダヤの国家建設を認めた
という記述である。こう書いてしまえば、フセイン・マクマホン協定と矛
盾することは明らかであるが、それは自分で勝手につくった矛盾にしかす
ぎない。
この時点ではイギリスはユダヤ人国家建設までは考えておらず、ある種
の自治地区、コミュニティを認めたにすぎない。文書上からそう考えるし
かないだろう。宣言は、個人的にバルファア外相が書いた手紙ではなくて、
内閣で一致した意見であることを手紙にはっきり書いてある。イギリス政
府の公的な、アラブ人に知らせても構わない政策なのである。
また、この時期の英仏などの密約であるが、イギリスとしては植民地確
保を続けたいと思っていただろうが、同時にいずれ植民地独立を認めざる
を得ないことも覚悟していたわけで、それがフセイン・マクマホン協定と
なるわけだが、それまでの間あるいはそうなったとしても、英仏の間での
勢力地域を分けることが必要だったろう。それが、サイクス・ピコ協定と
考えるべきではないのだろうか。
以下のHPの記述はそのことを反映したものである。アラブの国家をど
う考えるかという問題もからんでおり、それがパレスチナ問題と連動する。
イギリスは領域としての領土に最早こだわっていない。
パレスチナ地域は,3 国間の調整ができず,特別の国際的管理地域とし
て取り扱うことになった。
統一アラブ国家の夢は消え去ったのである。
フランスは領土にこだわったようであるが、イギリスはもうすでに将来
を見越して、勢力圏として関わることを意図していた。そして、それすらも
難しいと悟って戦後撤退してしまうのである。
アラブの人々はトルコの支配下にあったわけで、イスラムとひとくくり
にはできない。トルコはユダヤ人を尊重(利用価値を認めた)したが、
「ア
ラブ人」はそうでなかった。また、政治的、宗教的に統一したアラブという
存在がなかったのに、大アラブ主義の幻想が吹き荒れる、それに翻弄され
てしまったのもパレスチナ人の悲劇であった。他のアラブ人が国家を否定
するという対応をとったわけだ。(この時期に厳密な意味で、パレスチナ
人という自覚を持ったパレスチナ人は存在しない。その誕生はイスラエル
に併合されてからのことだ。)
英国の政策は、アラブ人が怒るでしょうが、国家を約束したわけではな
いとアラブ人弁解したのです。そして、彼らもそのつもりだったのでしょ
う。
よく考えてみると分かりますが、アラブ人(これが何を意味するかが不
明、パレスチナ人とは限らない)にもキリスト教徒がいます。シリアを考
えれば明確ですが、非常に多様です。いろいろなコミュニティが共存する
ことは可能です、統一的な主権の下で。
イギリスにとって予想外だったのは、アラブ人が非常に強硬だった事で
す。理屈ぬきの強硬さでした。オスマン・トルコはユダヤ人の経済的能力
を評価し、共存を積極的に望みましたが、アラブ人はなぜだか分からない
ほど強硬に反対しました。私は宗教的な理由かと考えます。トルコのイス
ラム教徒とアラブのイスラム教は全く寛容度が違うのです。世界史などの
大方のイスラム教観はオスマン・トルコを念頭に置いています。
今、アラブ人のイスラエル批判のHPを読んでいます。
www.cactus48.com/です。
これを見ると、ユダヤ側の言論との差に愕然とします。読みにくいし、具
体的なデータが完全に!欠落している。日ごろから言論の自由のないコミ
ュニティで暮らしているせいでしょうか。悲しくなりました。
そこではサイードが多く引用されています。彼も、最終的にどう考えた
か不明だが、ユダヤ人の立場を理解していません。ただ彼は暴力の否定派
です。
サイードは、南アフリカのマンデラ大統領を例にあげて、被支配者側は
支配者をモラル的に上回らねばならないと繰り返しています。だから、南
アフリカはパレスチナ政府を冷たくあしらっています、今も。
そのHPで滑稽だったのは、ガンジーを引用して自分たちを弁護したと
ころでした。非暴力主義の親分に、自爆テロに熱中する民族の弁護をさせ
るとは悲しくなります。
このHPでは、国連がユダヤ人国家を認めたことをアラブが拒否した理
由として、アラブ人の政治的権利を否定したからだと述べています。これ
が、ポイントだと考えました。
冷静に考えると、1947 年の分割決議で国連が決めたのは、ユダヤ人がそ
の時若干の多数を占める国家の設立であって、その国家でアラブ人が奴隷
のように扱われるわけではありません。
「ユダヤ国家」は正しくないのであ
って、「ユダヤ-アラブ国家」を認めたのにすぎないのです。
すべての土地は国有地以外が私有ですから、アラブ人の土地が奪われる
ことは全くありえないことです。また、選挙においてアラブ人の参加を禁
止することもできないでしょう。つまり、元々オスマン・トルコで政治的
権利がなかったのですから、彼らが失う権利など何もなかったのです。
しかし、彼らはそうは思わなかった。その理由が分かりません。
権利を奪われるわけでないのに、主権を奪われると憤激し、戦争をしか
け、トランス・ヨルダン(これの独立が 1946 年です!)の併合には文句
を言わず(?)、今も帰還権を期待してテロを支援し続けている。彼らの
気持ちが理解できま
せん。
特定の地域の人々が自暴自棄に長期間侵され続け、その程度がますます
増長している、世界的にも希有な現象と思います。ユダヤ人が普通の意味
の外部から来た支配者でなく、他では生きていけない人々であり、パレス
チナ人の方が他のアラブで生きられることを理解できないのです。
申し訳ないけど、パレスチナ難民はもう難民であることをやめて、現地
のアラブ社会にとけこめばそれで生きていけるのです。NHKの番組で紹
介された、エルサレムの最も由緒あるアラブ人のヌセイベ、平和的共存派
の彼もそう言っていると思いますが、集会で「難民」に激しく非難されまし
た。
彼らが政治的現実を理解しないことがパレスチナ問題の解決を伸ばし
てきたのです。そして、彼らの生活を支えているのが国連の援助です。国際
社会は非常に罪なことをしているのでしょう。
アラブ人が支持したパキスタンの独立、彼らがインドに帰還権を要求す
るか。アラブ世界からイスラエルに避難したユダヤ人が帰還権を唱えてい
るか、誰かから援助を受けているか。大戦直後に生じた無数の難民の中で、
今も援助を受け続けているのが誰なのか、考えればその異常さが明らかで
す。
このあたりに、パレスチナ人の自暴自棄の根源があるのかもしれません。
(イスラエルに占領された地域で、現在のパレスチナ人が味わっている悲
劇を無視することはできません。この面ではパレスチナ人が権利を侵害さ
れています。でも、彼らがユダヤ人への自爆テロを支持し、推進し、心の底
でイスラエルの崩壊を願う限り、私はパレスチナの権利侵害は自業自得の
側面が強いと言わざるを得ないのです。)
参考文献
『旧約聖書』
『新約聖書』
『クルアーン』
『GOD 神の伝記』
著者:ジャック・マイルズ 出版社:青土社 旧約聖書の解説、ヤハウェ
の変遷
『地球の歩き方83 イスラエル』
出版社:ダイヤモンド社 旅のガイドブック
『パレスチナ』
著者:広河隆一 出版社:岩波新書 パレスチナに同情的
『イスラエルとパレスチナ』
著者:立山良司 出版社:中公新書 中立的
『アラブとイスラエル』
著者:高橋和夫 出版社:講談社現代新書 中立的 1992年
『君はパレスチナを知っているか』
著者:奈良本英佑 パレスチナに同情的
『イスラエル』
著者:栗谷川福子 出版社:岩波現代新書 少しイスラエルより
『ユダヤ社会のしくみ』
著者:滝川義人 出版社:中経出版 イスラエル支持
『世界史詳覧』
出版社:浜島書店 「ヘブライ人の世界」はよくまとまっている
『Myths Facts(洋書)』
著者:Mitchell G.Bard イスラエル支持
『アラブの解放』
著者:板垣雄三(編) 出版社:平凡社 パレスチナに同情的。アラブ人
の体験談など
『イスラエルという国』
出版社:イスラエル・インフォメーションセンター イスラエルの公式
見解 1997
『マホメットとアラブ』
著者:後藤明 出版社:朝日文庫 マホメット時代のアラビア半島の歴
史。1991
『イスラームとは何か』
著者:小杉泰 出版社:講談社現代新書 1994年
イスラム教の歴史。
『最近中東事情 特派員の見た五○○日』
著者:丸山徹 出版社:丸善ライブラリー 未読 平成6年
『中東戦争全史』
著者:山崎雅弘 出版社:学研M文庫 パレスチナ紛争の原因から詳し
く書いてある。2001
『ハザール謎の帝国』
著者:S・A・プリェートニェヴァ 出版社:新潮社 1996
『わかるユダヤ学』
著者:手塚勲矢 出版社:日本実業出版社 未読 2002
戦車史パートⅡ
彗星艦上爆撃機
戦車の変革~戦車を変えた兵器~
ヘリコプター
地面を走る戦車に対して、三次元の動きをして攻撃してくるヘリコプタ
ーは大敵である。第二次世界大戦では航空機に悩まされたが、ホバリング
も出来るヘリはもっと脅威になった。初めて登場したのはベトナム戦争で、
初期の攻撃ヘリは輸送ヘリに4発程の対戦車ミサイルで攻撃した。そして
初の攻撃ヘリ AH-1コブラもこの時登場した。N AT O(北大西洋条約機
構)の演習では、ヘリは一機の損害で16両の戦車を破壊した。
対戦車ミサイル
第四次中東戦争でイスラエル軍の戦車は、対戦車ミサイルを大量に装備
したエジプト軍の歩兵に完敗した。この戦いは「はじめて歩兵が戦車に勝
利した戦い」と呼ばれている。このときのミサイルの弾頭には、成型炸薬弾
使われていた。これは弾頭の火薬に円錐形のくぼみがあり、爆発するとく
ぼみの先に高温のガスが集中して装甲に穴をあける仕組みである。通常戦
車や戦艦の装甲は、厚さと同じ口径の大砲には耐える。しかしこの弾頭は
口径の5~6倍の装甲まで貫く。しかし装甲を厚くするにも限界があるの
で、戦車はこれに対抗するため複合装甲を取り付けた。これは二枚の鉄板
の間にセラミックやアルミニウムの粉を挟み込んでいると思われる。これ
を装備すると角のある直線的な砲塔となり、装備しているレオパルド2、
M1 エイブラムス、チャレンジャー、90式戦車はいずれもごつごつした外
見である。
第二次世界大戦後の各国の戦車とその思想
アメリカ
M-1 エイブラムスまでアメリカの戦車は性能は普通だが信頼性の高い
戦車を大量に配備している。第二次世界大戦の末期に登場したM-26パ
ーシングの車体の信頼性は高く
M-26→M-46→M-48→M60と40年間設計の基本となって
いる。そして1980年にM-1を完成させた。世界で初めて戦車に搭載
するガスタービンエンジンや動力伝達装置の信頼性不足などの問題もあ
ったが、これを克服すると世界最高水準の戦車となる。
イギリス
センチュリオン、チーフテン、チャレンジャーと機動力が低くても防御
を重視する戦車が並ぶ。朝鮮戦争で初登場したセンチュリオンはその後各
地の紛争地域で使われ、現在でも途上国などを中心に10カ国以上で使わ
れている。
ソ連
中型で、能力が平均的に優れている。そして安価で大量に揃えることが
できるのがソ連の戦車である。ソ連の戦車は砲塔が半球形で、弾が当たっ
てもはじく設計となっている。しかしその分車内が狭く、戦車兵は身長1
67センチ以下に制限されている。近年は複合装甲をつけていないため防
御力が西側の戦車より劣る。
イスラエル
建国当時はどこからも兵器を輸出してもらえず、スクラップの M-4シ
ャーマンを修理して使って第一次中東戦争を勝ったイスラエル。戦車兵の
質と、旧式の戦車でも絶えず改良する努力で、アラブ諸国に囲まれながら
も生き抜いてきている。そして独自開発のメルカバは後方に8人の兵員を
乗せられるという珍しい能力がある。
ドイツ
23年間のブランクを経て開発された戦車レオパルド1は言わずと知
れた名戦車である。
またこれに35ミリ対空機関砲を2門乗せたゲパルドも優秀な対空戦車
といわれている。そして1978年に登場したレオパルド2はその後の各
国の新鋭戦車に影響を与え、現在も改良されて使われている。
日本
戦後16年経って国産の61式戦車は登場した。しかしこの戦車は、同
年代の戦車が105ミリ砲を装備しているのかで90ミリ砲を装備して
いる等の欠点があり、世界水準よりも一歩劣っていた。74年に登場した
74式戦車は優秀なところもあるが最強の戦車とはいえない。90年の9
0式戦車になって世界最強の戦車と肩を並べる事が出来た。しかし50ト
ンの重量(世界の戦車もこれぐらいなのだが)は重すぎて運びにくいとの指
摘もある。
第一次世界大戦で登場した戦車。初期の任務は敵の機関銃座を踏み潰す
ぐらいだったが、次第に歩兵の支援、軽戦車は偵察、そして対戦車戦まで行
うようになる。そして現代の戦車は過去のものに比べ、電子機器を積み、大
型化し、しかし高速化し、そして高価になっている。戦車が発達すれば、他
の兵器が発達し、戦車もそれに対抗して新たなものが開発される。戦車の
開発からは各国の国状が見て取れる。そしてこれらの兵器からも歴史の一
端を垣間見ることができる。
世界中の王侯貴族有名人ばかりかイエスやムハンマドとも親戚にな
れる方法
皇帝フランツ
貴方は何世代前まで祖先がわかりますか?全くわからなくても、ここで
は便宜上無理やり天皇家と系図をこじつけてみてください。あんまり最近
の天皇家とこじつけるのはやめたほうがいいですが(有栖川宮詐欺です)、
藤原氏とか、戦国大名とかとおなじ苗字だったらしめたものです。彼らは
絶対どこかで皇室と系図がつながっているので、神武天皇どころか天照大
神様や宇宙創造神である天御中主神までもが祖先であることがわかりま
す。従って藤原氏や戦国大名に系図をつなげれば大和の八百万の神々が先
祖様になるわけです。
さてこれで日本の名門と親戚になれたわけですが、どうやって世界に進
出するのでしょうか…。日本人はあまり他国の人と結婚しないのでなかな
か外国へ親戚を広げるのは難しいことなのですが、皇室は外国とつながっ
ています。
桓武天皇の実母、高野新笠が朝鮮の百済王室の子孫であることは有名で
す。彼女は百済の武寧王という人の九代目の子孫です。武寧王の元をたど
れば、高句麗の王室の始祖である朱蒙という人にさかのぼれます。このお
方は卵から生まれたお方ですが、彼のお父様は天帝(神様)の子、解慕漱とい
うお方であります。さてこれで、貴方も朝鮮の人々と親戚になれたわけで
す。朝鮮人は全員、天帝の孫にあたる檀君の子孫なのです。
さあお次は中国です。貴方も遂に天帝の子孫であることが明らかになっ
たわけですが、中国の場合は天帝から盤古とかなんだかが生まれて、その
子孫が三皇五帝、ひいては夏王朝、殷王朝、周王朝、秦王朝となったわけで
ありますから、これで始皇帝陛下と親戚になれました。
さあお次は遊牧民に運ばれて絢爛たるヨーロッパの諸王朝に参りまし
ょう。
殷王朝は王女を、異民族との宥和のために嫁がせたりしていたので、王
朝の血が騎馬民族の指導者に入り込みます。それが匈奴まで続いて、やが
て匈奴は西方へ移動を開始します。匈奴はヨーロッパではフン族と呼ばれ
て恐れられましたが、その殷王朝の王女の子孫であるフン族の長アッティ
ラがヨーロッパに侵入、瞬く間に勢力を広めます。
アッティラの死後フンの勢力は崩壊してしまいましたが、アッティラの
子孫はハンガリーのアールパード王家として存続します。
アールパード王家も御多分にもれず他の王家に王女を輸出したので、こ
れでヨーロッパ中の王族が、エリザベス女王であれマリア・テレジアであ
れルイ14世であれアントワネットであれ、ビスマルクやピョートル大帝、
カール5世、王侯貴族と名の付く人なら誰でもアールパードの血を引いて
いることになりました。
さあこれで貴方もヨーロッパの王侯貴族と親戚になれました。ちょっと
整理してみましょう。
系図は、省略されました
では次はイエスやムハンマドと親戚になってみましょう。
天帝=ヤハウェとしてしまうと、アダムや盤古や織姫さまが兄弟になっ
てしまうのでやめます。
まずイエスはアダムの子孫です。イエスには子供がいたそうで(かなり
怪しい話)、その名をヨセフといいます(イエスのお父さんと同名ですね)。
彼の子孫は聖杯王といって、メロヴィング朝の王様たちはは自らの祖先だ
と言い張っております。聖杯王の子孫はなぜかイングランドのアーサー大
王やアルフレッド大王までつながっているので、これでヨーロッパの王侯
貴族はイエス様の子孫であることが明らかになりました(少し強引)。
じゃあムハンマドはどうかといいますと、ムハンマドの娘の子孫はスペ
インのウマイヤ朝の王族(イマーム?)で、その子孫が両シチリア王の妾
となり、その孫が皇帝フリードリヒ2世の妃となってヨーロッパ王侯全部
にムハンマドの血が入りました。
でもそう考えるとイエスやムハンマドは直接の親戚ではありませんね。
ではもう一度最後に整理してみましょう。
系図は、省略されました
この強引な系図によって親戚(祖先)になれる人々
チャーチル、スタンレー、ウォルポール、ピット、ウェリントン、リシュリュ
ー、ビスマルク、ゲーリング、ヘミングウェイ、アラビアのロレンス、ルーベ
ンス、ブラウン博士、ディズニー、ナンセン、シュヴァイツァー、ツェッペリ
ン、オードリー・ヘップバーン、グレース・ケリー、カミラ夫人、ダイアナ、
ブッシュ、ルーズベルト、ジェファーソン、ワシントン、クーリッジ、フォー
ド、ロックフェラー、チンギス=ハーン、ノア、アブラハム、ダヴィデ、ソロモ
ン、カエサル、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、アウグストゥス、
モーセ、アレクサンデル8世、チャイコフスキー、トルストイ、フルシチョ
フ、エジプト歴代王、アケメネス朝、ササン朝、ハンムラビ王、親鸞、在原業
平、藤原道長、紫式部、平清盛、源頼朝、足利尊氏、徳川家康、金日成、金正日、
李承晩、始皇帝、麻生太郎、細川護煕、近衛文麿、松下電器の社長一族、天皇
家、鰐淵晴子など。
なれなそうな人々
お釈迦様、劉備、諸葛亮、溥儀、アショーカ王、ナポレオン、ヒトラーなど
現代史部アンケート調査 歌手編、「この歌手についてどう思いますか」
得点:平民1点、部員10点 下段はコメント
河村隆一…2点
大塚愛…1点
ナルシスト
詐欺師
KinKi Kids…3点
坂本真綾…0点
ギネス級
知名度無し
滝沢秀明…4点
浜崎あゆみ…1点
ハァハァ
操作しすぎ
オレンジレンジ…2点
宇多田ヒカル…3点
もうすぐ消える
左翼
ゆず…2点
今井翼…0点
地味に売れている
付属品
aiko…2点
平井堅…1点
背が低い
微妙
w-inds.…2点
Mr.Children…1点
パクリ魔
BUMP OF CHICKEN…2点
藤木直人…1点
コア
謎の長生き
ケツメイシ…3点
GLAY…2点
人気上昇中
中共のスパイ
L'Arc-en-Ciel…1点
中島美嘉…1点
ライブ無料招待ないとアルバム売れない
雪の華イイ!
中島みゆき…3点
うらみ・ます
SMAP…1点
大河ドラマつまらないらしい
藤山一郎…10点
戦後歌謡界の総司令官
渡辺はま子…10点
声が可愛すぎる
春日八郎…20点
激しくイイ声
徳山たまき…10点
戦前歌手といったらこの人
藤原義江…10点
伊藤久男の先駆け。
伊藤久男…20点
男らしくて純情でよい。
灰田勝彦…10点
ハワイアンの創始者たる美声
鶴田浩二…20点
仁義義侠の体現者。
霧島昇…10点
三橋美智也…10点
ミスコロムビアとの組合わせがイイ
ハートに来る
曽根史郎…10点
田端義夫…10点
50年代といったら彼。現役
紅白再出場希望
都はるみ…5点
坂本冬美…10点
北の宿から以外ダメ
復帰おめでとう
あとがき
新入生歓迎号はいかがでしたか。この号は、2002年度に研究したパ
レスチナ問題を改めてまとめなおしたものです。現代史部にふさわしい現
代史研究になっていると思います。
現代史部は19年の歴史があり、2002年度に復活しました。以後は、
2002年度にパレスチナ研究をして、文化祭で発表。それ以後、北朝鮮に
よる日本人拉致問題を調べ、2003年6月に機関紙『ざっは』を11号で
復刊、文化祭では朝鮮問題研究に取り組み『ざっは』12号を刊行しました。
現代史部は、普段は現代社会に関わる事で、なごやかに雑談をしていま
す。やりたいことがあれば、
『ざっは』のような形で研究をすることができ
ます。時々はみんなでフィールドワークをすることもあります。
現代社会について考えたり、近現代史に興味のある人は、ぜひ社会科教
員室前に来てください。
2004年4月発行
5月改訂増刷