ブッダゆかりの 「聖なる菩提樹」 (後編)

沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
とりでいる警察官を写すことが出来た(写真
6)
。タミル系(ヒンズー教徒)のゲリラにと
ブッダゆかりの
っては多数派民族であるシンハラ系(仏教徒)
「聖なる菩提樹」
の政権に打撃をあたえることのできるものと
(後編)
して、ブッダゆかりの菩提樹や、ブッダの歯
が祭られているキャンディー(Kandy)の
長嶺胃腸科内科外科医院
「仏歯寺」は格好の標的なのである。実際、
長 嶺 信 夫
1998 年 1 月、キャンディーの仏歯寺で「タミ
4.厳重な警備
ル・イーラム解放のトラ」による爆弾テロが
「聖なる菩提樹」を訪ねる日がやってきた。 発生している。検問所によっては女性だけが
2002年9月27日、石窟寺院で有名な宿泊地のダ
チェックされるところもあった。女性による
ンブッラ(Dambulla)からアヌラーダプラにむ
自爆テロを警戒しているのだろう。おんなど
かう。広大な仏教遺跡群に接する駐車場でツア
もが「なんで、女性だけなの!」とブツブツ
ー・バスを降りて、遺跡群の中を歩いてまわる
言っていた。
ことになった。仏教徒が多いスリランカでは、
菩提樹にいたるメイン・ロードは石畳の道
ヒンズー教徒が大多数を占めるインドに比較
路になっていて、生徒の集団や家族づれなど
し、仏教遺跡がよく保存されている。街から離
がゆきかっていた。人々をみると、ほとんど
れた遺跡群のなかにはほかの建物はみあたら
の人達が素足で暑い石畳の道を歩いている。
ず、あたりは手つかずのままの状態で保存され
「聖なる菩提樹」に対面
ていた。あちこちに菩提樹の巨木がはえていて、 5.
その周りでスリランカ・ハイイロオナガザルの
親子が遊んでいた(写真5)
。
ブッダゆかりの菩提樹に至る道路脇には、
要所要所で土のうの上に機銃をかまえて、警
察官(軍人?)が警備していた。場所によっ
ては、4 〜 5 人の武装警官が機銃を前にして
立っている。なかなかそこにカメラを向ける
ことができなかったのであるが、ようやくひ
写真 5 仏教遺跡でみかけたスリランカ・ハイイロ
菩提樹がまつられている場所に着くと、そ
こでも警備が厳重であった。寺院の外で履物
を脱ぎ、帽子をとって境内にはいる。境内に
は多くの老若男女の姿がみられ、地べたにひ
ざまずいて、手をあわせている人達も多い。
添乗員のあとからゾロゾロついて歩く観光客
と異なり、彼等は敬虔な仏教徒なのである。
菩提樹のはえている場所のまわりには、石
写真 6 遺跡の中ではいたるところで厳重な警備が
オナガザル。左後方の樹は菩提樹。
なされていた。
−93(481)
−
沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
組や鉄柵がもうけられていて、寺の関係者や
許可をえた人以外入れないようになってい
た。鉄柵に囲まれている中には数本の菩提樹
の樹が見えた(写真 7)。ツアー・ガイドに
よると、それらのうちのひとつがブッダゆか
りの菩提樹とのことであった。ガイドが指し
示した樹は細長い枝がのび、その枝を支える
ため多くの支柱が建てられていて、みるから
に弱々しい(写真 8)。紀元前 3 世紀に植えら
れたというから、すでに 2 千 2 〜 3 百年の樹
齢である。初代のブッダガヤの菩提樹はすで
に枯れており、記録が残っているうち、最も
古いブッダゆかりの菩提樹はこのスリー・マ
ハー菩提樹(Sri Maha Bodhi Tree)といわ
れている。道路沿いの菩提樹にくらべ、いか
にも樹勢が衰えているので、何らかの対策が
とられているのかと尋ねてみたが、色々対策
がとられているものの、この状態だという。
私達は菩提樹に近づくことができなかった
ので、寺男にチップをあげ、手にいれたのが
写真の葉である(写真 1 :「ブッダゆかりの
聖なる菩提樹」(前編)4 月号 74 ページに掲
載)。ツアー参加者に 1 枚づつ渡された菩提
樹の落ち葉は、私がサルナートの菩提樹から
採った葉にくらべ、いずれも小ぶりであった。
持ち帰った菩提樹の葉は、例の如く、その
いわれを書いた説明文とともに、ラミネート
し、背景に赤い紙と金糸を組み合わせて額装
してある。
6.ガジュマルと菩提樹は同じ仲間
帰国の前日、コロンボ市内にあるケラニヤ寺
院を訪ねたのであるが、そこの境内にも大きな
菩提樹の樹があった。菩提樹のまわりの鉄柵に
は、アヌラーダプラの菩提樹と同様に色とりど
りのワウ(旗)が結ばれ、石台の上には花や果
物がそなえられていた(写真 9)
。菩提樹の樹
の枝をよくみると、緑色の 7 〜 8mm の実がつ
いていた。ガジュマルのまだ熟していない小さ
な実とそっくりである。ガジュマルやイチジク
は菩提樹と同じクワ科の植物で、ガジュマルの
写真 7 菩提樹の周りには、石組みや鉄柵がもうけ
られていて、沢山の旗が結びつけられていた。
写真 8 ブッダゆかりの「聖なる菩提樹」
。枝に沢山
の支柱が建てられている左側の樹。
−94(482)
−
写真 9 コロンボ市内のケラニヤ寺院
境内の菩提樹。
沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
花はイチジクの花と同様に花盤がへこみ、肉質
となった内側にぎっしりと詰まって多数ついて
いる。イチジクの場合、私達はその花の部分を
食べているのである。
まだ 7 〜 8mm にしかなっていない菩提樹
の実をみながら、あと 2 〜 3 か月もすると実
は熟するはずだ。熟すると、実はガジュマル
の実と同じように、赤黒くなるのだろうか、
と考えていた。
ところで、インドやネパールでは、ガジュ
マルは菩提樹と同様に聖樹と考えられてい
て、道路沿いや広場などで、しばしば、菩提
樹とガジュマルの巨木が対になってはえてい
るのを見かけたものである。
7.私の夢…聖なる菩提樹を沖縄平和祈念公園へ
私の数年来の夢は、ブッダゆかりの「聖
なる菩提樹」の分け樹を第二次世界大戦で
みたま
亡くなられた多くの人達の御霊 を慰霊して
いる南部戦跡の平和祈念公園の中に植える
ことである。
平和祈念公園には、世界の恒久平和を祈念す
るため、山田真山画伯が制作した「平和祈念像」
が安置されている平和祈念堂があるほか、人種
や国家、宗教の違いをこえて、戦死したすべて
へ い わ のいしじ
の人達の名前が刻銘された「平和の礎」がある。
平和祈念公園は平和を希求する沖縄の、そして
世界の人達の心の原点なのである。
ミャンマーの寺院境内から採取された菩提
樹の苗を移植した時にわかったことである
が、平和創造の森公園は沖縄県農林水産部の
下部組織である南部農林事務所の管理下であ
る。しかし、平和祈念堂や平和の礎が建って
いる平和祈念公園敷地は、土木建築部の管理
下なのである。
石頭の行政マンには、とうてい理解できな
いことかもしれないが、将来、「聖なる菩提
樹」の分け樹が手にはいったり、その実から
苗木を育てることができたなら、今度は県の
首脳部に直訴するつもりである。
沖縄に帰ってきてから、「菩提樹の実が熟
する頃、インドのサルナートに行ってこよう
か!」と娘に話したら、笑われてしまった。
しかし、** 家内も娘も私の夢の実現を内心
祈っているはず ** と考えている。
8.日本の寺院の菩提樹はニセモノが多い!
ところで、ボダイジュの項を旺文社の学芸
百科事典で調べてみると、「ボダイジュは中
国原産で、寺院の庭などに栽植される落葉高
木。双子葉類・シナノキ科。」…と書かれた
後、矢印とともに、**「釈迦に関係ある『菩
提樹』は本種ではなく、クワ科のインドボダ
イジュである。」** と記載し、ボダイジュの
写真には **「福岡県に渡り、のちに全国に
広まった。
」** と書かれていた。
これを読んでおわかりのことと思うが、現
在全国の寺院には中国からまちがって *** に
せものの「ボダイジュ」*** が移入されたの
である。その後、ブッダゆかりの菩提樹は別
の樹であることがわかり、先に命名されたシ
ナノキ科の「ボダイジュ」の和名を抹消する
わけにもいかず、*** ほんものの菩提樹 ***
の和名として「インドボダイジュ」と名づけ
たのである。植物図鑑によると、インドボダ
イジュの原産地は、インド、スリランカと書
かれている。自分で育ててみても、インドボ
ダイジュの樹は落葉することはない。
数年来、インドボダイジュに興味をいだい
て、あれこれ調べてみると、沖縄でもすでに
かなりの菩提樹が街路樹として植えられてい
るのに気づいた。菩提樹はガジュマルの樹と
同様に幹が少し白っぽく、葉はクワの葉を少
し大きくした形で、葉は互生してついている。
大きくなるとガジュマルのように、気根もで
きるが、ガジュマルに比較すると幾分弱々し
くみえるのがインドボダイジュである。イン
ドやスリランカではかなりの巨木をみかけた
が、沖縄ではまだ巨木をみていない。
(2002 年 10 月記)
−95(483)
−
沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
た。沖縄のオストメイトの皆さんとの海外
への旅行は今回で 6 回目、常連は支部長と両
オストメイト日中
副支部長と私で、今までオストメイトのサ
交流会
ポーターとして参加して頂いた「看護師」
介護老人保健施設 サクラビア
の参加が今回はないのにはなんとも寂しさ
武 藤 良 弘
を禁じ得なかった。
予定通り、福岡空港に着き、各自手荷物を
この「オストメイト」と言う言葉の意味を
ひきながら、バスに乗って国内線の対側にあ
知らない医師が多いのに驚かされていますの
る国際空港へと乗り継ぐ。九州各県からの皆
で、先ずこの言葉を説明することから紀行の
さんと合流する時間に間があるので、4 階の
話しの糸口にします。オスト(Ostomy)+
食堂街で「ブランチ」をとることにする。そ
メイト(Mate)のことで、コロストミー
うこうするうちに時間となり、鹿児島、熊本
(Colostomy)、ウロストミー(回腸導管)な
の皆さんと 1 年振りの再会を喜び合う。空港
どの造設者(患者)の仲間のことです。私は
内の部屋で、団長の高野先生(熊本高野病院
コロ(結腸人工肛門造設)です、私はウロ
理事長)より挨拶と各自の紹介がすみ、搭乗
(回腸導管)ですとお互いに紹介しあい、同
手続、出国手続を済ませ、中国南方航空で広
じ悩みを分かち合い、共有し合い、前向きに
州に向かう。機内食と接遇の在り方はこの数
人生をおくることを目的とした集まりが交流
年間変わりなく、まどろむうちに 3 時間の空
会です。オストメイトの皆さんはこの治療法
の旅で白い雲が棚引く「広州白雲空港」に到
を受けた疾患の再発に対する恐怖感と人工肛
着した。入国手続を済ませ、ホテル「広州華
門の便臭などのトラブルが他人に多大の迷惑
厦大酒店」に。四つ星ホテルとのことであっ
をかけていないかという二重苦を心に抱いて
たが、今までのホテルと比較して質が落ちて
生活されてます。このことが身体障害と社会
いた。しかも、毎 3 食とも同ホテルと他の 1
的不利をもたらしていると言い換えることが
つのレストランの 2 ヵ所でとり、純粋の中国
できます。日本では「日本オストミー協会」 料理であったが各食事のメニューが同じで、
があり、沖縄県支部も全国の会に加わってい
食傷した。食は広州にありと言って各地の食
ます。さらに「世界大会」も盛んに行われて
自慢を耳にするが、言っていいなら、私には
います。私も 15 年ほど前より、このオスト
中国料理は日本にありと言っても過言でない
メイトの集まりに医師として相談を受けるこ
と思った。夕食を済ませ、一同は夜店市場
とで加えてもらっていますが、書籍では学習 (ナイトバザール)に出かけたが、添乗員に
することが出来ない色々なことを教えて頂く
口酸っぱくスリに注意するように言われ、一
ことが多く、お釣りが貰えるくらいです。
同ウインドーショッピングで終わる。
第1日目 沖縄 − 福岡 − 広州(中国)
ANA8:45 便で福岡に向かうので、私は家
人と一緒に 1 時間前に那覇空港に着くと、す
でに顔馴染みの K 支部長、N、W 両副支部長、
H 前支部長、T 氏と支部長の息子さんと合流
する。沖縄から今回の交流会参加者はオス
トメイト 5 人と付き添いが 3 人で計 8 人でし
第 2 日目 日中オストメイト交流会
− 江門市内観光 − 珠江下り
今日が今回の旅のメインイベントである第
8 回日中オストメイト交流会開催の日であ
る。朝飯を済ませ、昨日とは見違えるばかり
の身なりで、三三五五出発時間に合わせてロ
ビーに集まる。遅くなりましたが今回は総勢
−96(484)
−
沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
37 人で、4 班に分け、各々の班に落伍者の防
止と人数把握のため、責任者が指名されてい
た。わが沖縄班は支部長の子息が指名され、
この旅を通してテキパキと対応し、感心させ
られた。感謝の念に絶えない。
広州より高速を走って 1 時間の江門市にあ
る広東五邑中医院(高野大腸肛門病センター)
で行われた。
(図 1)さしづめ、この病院は日
中合弁病院と言う印象であった。この病院に
は熊本高野病院で研修を受けられた医師や看
護師が働いておられ、あたかも日本での病院
を訪問したような錯覚に陥る、心のこもった
歓迎を受けた。おおよそ収容 200 人程度の講
堂で交流会がもたれた。高野先生が流暢な中
国語で挨拶され、中国の病院長が応えられ、
私も突然指名され挨拶させられた。本番は日
本の各支部長がオストメイトの活動と各オス
トメイトとしての心境と日常生活が紹介され
た。ついで、中国の数名のオストメイトが自
身の病気と人工肛門の取り扱いを述べられ、
日本のオストメイトに数々の問題を投げ掛け
られた。それに対して、日本のオストメイト
が丁寧に対応されていた。今回は中国のオス
トメイトは数年前に比べて、明るく、人生に
図1
対してプラス思考であることが印象として強
く残った。
記念撮影後、江門市内のレストランで昼食
を終える頃には暑くなり、木々のたたずまい
も沖縄の盛夏に例えられた。上海の租界地の
ように百数十年前の外国の建造物が立ち並ぶ
旧市街地を散策し、この市街との境界線の橋
を渡りこれで終りかと思いきや、さにあらず、
中国の公設市場ともいえる、路両側に片寄せ
合うような露天商街へと案内された。商店街
の手始めは穀物、果物の干し物で、次ぎの露
店は種々の動物の乾物、そして最後は生きた
魚介類、動物(子犬、子猫)で目を背けたく
なった。その頃になると一同喉は渇き、膀胱
は満タンとなり、慌てて駆け込んだ所がお菓
子の店であった。確かに上から入れ、下から
出して、ホットしている時に、お菓子の味見
をさせられると美味しいと錯覚するものだ。
加えて、一同この 2 時間の暑い市内観光で思
考能力が低下し、この店のお菓子に蟻がたか
るように衝動買いがはじまった。お菓子がな
くなって、衝動買いは終わったが、皆一同欲
得のせめぎ合いで疲れ果て、両手に重い土産
をもって来た道をまた戻ることを考えるだけ
で億劫になった。捨てる神あれば拾う神あり
で、バスが直ぐ側まで迎えにきていた。
バスは来た道をせわしく広州へとうなっ
た。それには広州で夕食を済ませ、8 時より
珠江下りの観光が予定されているからであ
る。ホテルのレストランでお定まりの夕食を
そそくさと済ませ、追い立てられるように珠
江へと向かう。バスを降り、船着き場への道
程で花売りのこどもたちに付きまとわれる。
ホテルより珠江に向かう車窓から目にした立
ち並ぶ花屋を思い出し、この子供達が持つ花
はその売り残りかもと意地悪な想像をする。
船内では子供連れの若い中国女性 2 人と相席
になるも、人は言葉をしゃべる唯一の動物と
言っても共通の言葉を持たないと動物に等し
い。立錐の余地もないほどの多くの客に混じ
−97(485)
−
沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
って両岸にライトアップされた景色を眺めな
がら一時を楽しむ。光が作り出した造型美と
言ってしまえば、身も蓋もないが、翌日その
珠江の海岸縁を通って、年増の厚化粧である
ことが判り、夜に弱い人間の生きざまを会間
見たような嫌悪感に陥った。1 時間半の夜の
遊覧に別れを告げ、ホテルで眠りに着く。
第 3 日目 病院見学 − 広州市内観光
今日はゆっくり出来ると考えると、何故
か早く起き出して、ホテルの前の公園を散
策などで朝食までの時間をつぶす。そこで
は中国の皆さんが思い思いの集まりで「大
極拳」で体をほぐしておられた。(図 2)数
年前の西安ではビートの利いた音楽に合わ
せてダンスに興じられていたことを思えば、
ここ広州では海外の文化の匂いが感じられ
なかった。そう言えば、上海、北京、西安
などの有名な観光地では欧米などの観光客
に出くわすのに、ここ広州では出くわすこ
となく、また観光客も少なかった。
先ず、昨夜の珠江遊覧の川の中洲である二
沙島の豪華な病院の見学である。病院につく
頃には暑くなり、上着をとり、ハンカチ片手
に足を運んだ。広東省中医院二沙島分院と称
され、香港のリッチな人を相手にした病院で、
特別室は 3LDK のマンション並みで、1 日 1
万円程度とのことであった。ちなみにここで
働く看護師さんの月給が 1.5 万円と案内され
た。景色もおおらかで、病院もゆったりして
いて、なんとも羨ましいと印象づけられた。
昼からは、広州市内観光で先ず最初に越秀
山の頂上にある五階建の鎮海楼(解放後は広
州博物館)へと案内された。この頃になると
広州は亜熱帯特有の気温湿潤になり、少し石
段を昇っただけで「ヘトヘト」となり、この
市のシンボルである五頭の羊の彫像を見て、
バスで頂上に行くも冷房の利いたバスより鎮
海楼を眺めて退散す。つぎに中山記念堂は孫
文(日本名中山)(Dr.Sun Yat-sen)を記念
するために建てられたもので、柱のない八角
形の建物で、この記念堂は中国では有名な現
代建築(1988)の一つとされている。内部は
広々としていて、おおよそ 3,200 席があり、
50m の高さである。この記念堂の前に孫文
の銅像が建っていて、格好のカメラアングル
となっていた。(図 3)心身ともに「だらけ
た」ので、喝を入れるためにとは思いたくな
いが、広州などの仏教活動の中心とされてい
る六榕寺参りとなった。榕とはガジュマルの
図2
図3
−98(486)
−
沖縄医報 Vol.39 No.5
随
2003
筆
ことで、宋代のある学者の庭にあった 6 株の
れ、へたばった体にむち打って自分の死に場
ガジュマル(榕樹)に名添えられた寺で、門
所に行くようなもので、全員反対でキャンセ
前で沢山の線香を買い込んで、厄払いを行っ
ルとなった。
た。にわかの善人になっても、日頃の行いを
第 4 日目 広州 − 福岡 − 沖縄
閻魔大王から見透かされているみたいで、そ
そくさと後にした。もう沢山だと思っている
広州を午前中にたって、午後 2 時ごろ福岡
のに、陳氏書院(陳家祠)に引かれて行くと
に無事着く。解散して沖縄の 6 人は別府の湯
広東の民間の建築装飾芸術に感嘆させられ
で心身を癒すため私と別れた。今回の旅は
た。72 の陳と名乗る人が金を出し合って建 「ゆうゆう広州の 4 ヵ日間の旅」とされたが、
てた家族祠(神を祭る社で、数個の社が集合
暑さ、単調な食事、楽しむ事のできる語らい
していて、広々としていた)で、あたかも建
の場のないこと、何とはなくせわしいなどの
物全体の全てが建築装飾物で建てられている
の不満はあるが、何よりもオストメイトの皆
かのように、ちりばめられていた。(図 4) さんが元気だったことは毎回の旅での一番の
やっと正気を取り戻したかとホットしている
印象である思う。
と、南越王の墓につれて行くとガイドに言わ
図4
−99(487)
−