Japan Spaceguard Association Jour. ASTEROID, Vol. 23, No. 4,115 -118 (2014) ペルーの天文学施設ツアー −親子二代にわたる「不屈の歴史」見学記− 根本 しおみ 日本スペースガード協会 9月 26 日: ンカイヨへ向けて出発した。 た。 チリからペルーへ ワンカイヨはアンデス山中の チリのサンチアゴ空港で日 盆地にある、標高 3300m の街 9月28日 : ① 本へ帰る ALMA ツアーの人た である。途中、アンデス山脈 ペルー地球物理研究所 ちと別れてから、我々7 名は の 4800m の峠を超えてゆく。 コスモス太陽コロナ観測所 隣国ペルーのリマへ飛ぶ便へ 高山病になりやすい人にはつ ワンカイヨの日系人協会が 乗り込んだ。今年6月までペ らい道程である。しかし、標 気前よく貸してくれたマイク ルーの国立プラネタリウムで 高 5000m の ALMA で す っ か ロバスに乗って、我々はワン 活動していた私の提案で、せっ り高地順応したのか、我々の カイヨ観測所から 70km 程離 かくチリまで来るならついで メンバーには高山病の症状が れたコスモス太陽コロナ観測 にペルーの天文学施設も見学 出る人はいなかった。2 階建 所跡へ向かった。途中、標高 してもらおうと企画したオプ てバスの、2階の最前列とい 4000m の曲がりくねった山道 ショナルツアーだった。サン うパノラマビューの座席を確 の走行を競うラリーに出くわ チアゴで解散してからは、自 保してあったため、移り変わ し、全ての車が通り過ぎるま 分がツアーコンダクターであ るペルーの風物を車窓に眺め で路肩で1時間程待つ事になっ る。前夜、私を除く全員が標 つつ、8時間におよぶバスの た。ラリーを観戦したり、お 高 5000m の ALMA 望 遠 鏡 夜 旅も快適に楽しんでいただけ 茶を飲んだり、化石を探した 間撮影会に行っている間、私 たようである。 は 1 人サン・ペドロ・デ・ア りして過ごした。標高 4000m 午後3時頃、ワンカイヨに といえば、チリでは息苦しさ タカマのホテルに残り、ペルー 到着すると、ワンカイヨ観測 を感じていたのに、ここでは 側スタッフとスカイプで細か 所の職員たちがバス停まで迎 平地にいるのとあまり気分が い日程の調整をしていた。 えにきてくれていた。今日か 変わらない。アタカマ砂漠と 夜遅くリマ空港に到着し、 らの宿はワンカイヨ観測所の 違って、アンデス山中は緑が その夜はリマのホテルに泊まっ 職員宿舎である。ワンカイヨ 多く、地元の人は畑や放牧を た。 の中央広場やお土産物屋を観 して暮らしている。緑が多い 光した後、街から 15km ほど 分、酸素が多いのかもしれな 9月27日: 離れたワンカイヨ観測所に向 い。 ワンカイヨ観測所 かった。宿舎に着くと、料理 沿道のラリー見物の人々が 翌朝、7:45 発の2階建て高 上手の職員が作っておいてく 帰りだした頃、我々も出発し 速バスでペルー地球物理研究 れた夕食をいただき、明日か た。最後は舗装もされていな 所ワンカイヨ観測所があるワ ら行く見学場所の説明を受け い道無き道を5 km ほど走り、 116 根本しおみ 確保するために、さらに 10 年 の年月が必要だった。石塚さ んがペルーに来てから 30年後、 1988 年8月にペルー初、世界 最高(標高という意味で)の 太陽コロナ観測所は観測を開 始した。 ところが、その2ヶ月後の 1988 年 10 月 31 日、テロリス ト集団センドロ・ルミノソに よってコロナ観測所は爆破さ れてしまう。夜間のテロ活動 に使うため、コロナ望遠鏡に 使われている赤外線装置の引 写真1 コスモス太陽コロナ観測所跡 壁 には未だにテロリストの落書きが残る。 popular Viva la guerra は「人民戦争万歳」という意味。 き渡しを要求され、石塚さん がそれを拒否したためだった。 石塚さん本人もテロリストか コスモス太陽コロナ観測所跡 め舞い上がったホコリが籠っ ら「あの日本人、石塚睦を殺 に着く。この観測所の歴史を てしまい、空の透明度が良く す。」と宣告される。命が危 以下に紹介する。 ない。石塚さんは3年が過ぎ 険にさらされても、石塚さん てもペルーに残る事を決意し は日本に帰国はせず、リマに ペルー天文学、不屈の歴史。 た。その後、観測に適した土 潜伏した。その後アンコン地 その一: 地を探し求め、終にワンカイ 磁気観測所の所長に就任し、 ペルー天文学の父、 ヨ か ら 70km 程 離 れ た 標 高 今日まで、ペルーに天文学が テロに屈せず。 4600m のコスモスの地に建設 根付くように活動を続けてい ペルーの歴史の中で、最初 を決めた。天文学の観測施設 る。 の天文学者は日本人である。 など作った事が無いペルー人 1957 年、京都大学の大学院生 の若者を日本に留学させ、帰 9月28日 : ② だった石塚睦さん(当時27歳) 国した彼らが指導して太陽コ ペルー地球物理研究所 が、ペルーに太陽コロナ観測 ロナ観測所が建設されたのは シカヤ宇宙電波観測所 所を作るプロジェクトで、妻 石塚さんがペルーに来てから コスモス太陽コロナ観測所 子とともにワンカイヨ観測所 20 年後の 1978 年だった。し の見学を終えて、ワンカイヨ にやってきたのが最初である。 かし、建物は完成しても望遠 に降りてきた我々はアルパカ 当初は3年で帰国する予定だっ 鏡を動かすための動力が無い。 のいるレストランで遅めの昼 た。しかし、コロナ観測所は 電気はもちろん来ていないの 食にした。レストランにはた 3年では建設の目処が立たな で、重油を使って発電しなけ またまバンドの生演奏の人た かった。まず、ワンカイヨが ればならない。太陽コロナ観 ちが来ていた。ペルーで音楽 太陽コロナの観測に適してい 測所を管轄する、ペルー地球 があると必ず始まるのがダン なかったのだ。ワンカイヨは 物理研究所から支給される重 スである。ペルー人のスタッ 標高 3300mの高地ではあるが、 油代は毎年微々たる物で、観 フたちに誘われて、我々も踊っ アンデス山中の盆地であるた 測を始めるのに十分な重油を た。ここの標高は 3300m であ ペルーの天文学施設ツアー 117 写真2 レストランでダンス 写真3 夜、美しくライトアップされる シカヤの電波望遠鏡 るが、高地では走るなとか、 しかし、衛星通信が海底ケー ためのトランスを設置してく 息を深く吸えとか、チリで言 ブルに切り替わった 2002 年、 れた。これで電波望遠鏡も使 われていたことは何だったん その役割を終えた。その後、 えるようになる!と、喜んだ だろう?と思う程、普通以上 2008 年にペルー地球物理研究 のもつか の 間 、 一 ヶ 月 後 の に激しい運動をしていた。 所が通信局を譲り受け、宇宙 2012 年4月に、そのトランス 昼食後はシカヤ宇宙電波観 からの電波を捉える電波望遠 が盗まれてしまった。観測所 測所の見学である。ペルーで 鏡へと改造したのである。こ に電気を送るためには、もう 唯一の電波望遠鏡の一番上ま の間、2002 年から 2008 年ま 一度トランスを設置しなけれ で登って、直径 32m のお皿か で元通信局は無人だったので ばいけないが、その設置費用 ら顔を出す事が出来る。お皿 あるが、2004 年に泥棒が入り、 は電力会社が持つのか、観測 マニアにはたまらない経験で 配線類がごっそり盗まれた。 所が持つのか?としばらく揉 ある。この電波望遠鏡の歴史 銅が含まれている線は売れる めたが、2012 年9月に再びト を以下に紹介する。 からだ。それから、元通信局 ランスが設置され、現在まで には電力が来なくなってしまっ 盗まれないでいる。最近は盗 ペルー天文学、不屈の歴史。 た。 難防止のために、夜間は電波 その二: 一方パラボラアンテナは、 望遠鏡をライトアップしてい 二代目、盗難に屈せず ペルー地球物理研究所の持ち る。夜空に白くライトアップ 石塚睦さんの次男、ホセ・ 物になってから電波望遠鏡へ される電波望遠鏡は非常に美 イシツカさんはペルー生まれ、 の改造が施され、2011 年3月 しく、遠くからでも目立つ。 ペルー育ちのペルー人である には発電機で起こした電力を シカヤは職員が寝泊まりして が、東京大学で学位を取得し 使って宇宙からのファースト いるワンカイヨ観測所からは た電波天文学者でもある。現 ウェーブを捉える事に成功し 2 km しか離れていないので、 在はご自身が生まれ育ったワ た。こうして元通信局はペルー 泥棒がトランスを盗もうとし ンカイヨ観測所の所長であり、 初の電波望遠鏡に生まれ変わっ て電気を切ると、すぐに分か シカヤ宇宙電波観測所の所長 たのである。しかし、電力が るのである。 も兼任している。シカヤ宇宙 無い事には観測ができない。 シカヤ宇宙電波観測所の見 電波観測所は、元々はペルー 2012 年3月、電力会社が観 学を終えてワンカイヨ観測所 電話局の衛星通信局だった。 測所の外から電気を引き込む へ戻ってきた時には日もとっ 118 根本しおみ ぷりと暮れていた。最後にワ ンカイヨ観測所内を案内して もらい、職員が用意してくれ たペルーの国民的料理、ポヨ・ ア・ラ・ブラッサ(鳥の丸焼 き)と我々が買ってきたチリ のワインで乾杯した。 9月 29 日: プレインカの遺跡、 トゥナンマルカ ALMA&ペルーツアーも今 日が最後である。夕方の飛行 機でワンカイヨからリマへ飛 ぶ。それまで、空港があるハ 写真4 トゥナンマルカの住居跡 ウハの近くにあるプレインカ 時代の遺跡を見学しに行った。 ルチャ(鱒)料理を食べた。 の乗り場へと向かったのであっ トゥナンマルカは小高い丘の 食事が終わるとハウハの空港 た。 上に丸い形をした住居跡がびっ へ移動である。ここからの飛 しりと連なる、2万人が住ん 行機は、35 人しか乗れない小 だ?と言われる巨大団地の遺 さな飛行機だ。よく遅れや欠 跡である。住居のほとんどが 航があるのだが、定刻通りの 崩れてしまっているので、4、 出発となった。我々が飛行機 50cm 四方の石がごろごろと に乗り込むまで、ワンカイヨ ころがっていてとても歩きに 観測所の職員達が見送ってく くい。それでも、保存状態が れた。 良い物は玄関がわかるので、 18 時頃、リマに着いたが、 ここを出入りして暮らしてい 日本へ帰る便は日付が変わる た人々の在りし日の姿を想像 頃の出発である。それまで空 して楽しめる。 港内のホテルのバーで時間を しかし、ここにも悲しい事 つぶす事にした。ペルー料理 があった。一番保存状態が良 やペルーのビールやピスコサ い住居跡に、目立つ青いペン ワーを飲んでいるうちに4時 キで落書きされていたのであ 間が経ち、チェックインの時 る。こんなに汚されていては、 間になった。 写真を撮る気にもならない。 ここで私はチリからペルー ペルー人がペルーの宝にこん へと旅を続けてきた仲間達と な悪戯をするなんて、許し難 もお別れである。荷物のチェッ い事だった。 クインをしに行く皆さんと空 アンデス最後の昼食は、湖 港で別れて、私は再びペルー のほとりのレストランでトゥ の旅を続けるため、夜行バス
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