中島飛行機 軌跡と痕跡

中島飛行機 軌跡と痕跡 いまから85年前の大正14年。大根畑の広がる村に大工場がやって来た。馬車や牛馬
が行きかう青梅街道。その街道沿いで、飛行機のエンジンを製造した。
やがて大工場の周りに消防署、警察署、郵便局が建ち、村は人が集う街へと変身した。
その後、大工場は第2次世界大戦に翻弄され、戦後二度の合併で名称を変更しなが
ら、工場としての機能を引き継いでいった。だがいま、その跡地にかつてあった大工場
の面影はない。そして2011年(平成23年)3月には防災公園としてさらに姿を変えるこ
とになる。
中島飛行機東京工場(のちに荻窪工場と改称)。大工場を目の当たりにした人々の記
憶が今蘇る。
杉並の地名考
中島飛行機の東京進出は
青梅街道沿い、桃井3丁目の信号近くにある日産自動車荻窪工場跡地に一つ碑がある。
「旧中島飛行機発動機発祥之地」。日産自動車荻窪工場はもとをただせ
荻窪から始まった
ば中島飛行機東京工場だったのである。
中島飛行機は群馬県太田町(現太田市)
を拠点としていた。1917年(大正6年)、海軍将校であった中島知久平(なかじま
ちくへい)が職を辞して立ち上げた航
空機メーカーである。造兵監督官に任命された中島がヨーロッパを視察し、成長しつつある航空機産業の実情を知り、世界の航空情勢に追いつくには民間航空
機産業を興す必要があると決意し、自ら第一歩を踏み出すことになった。その後、陸海軍からの発注を受けて第2次世界大戦終戦時には、三菱重工業と航空機
業界を二分するほどにまで成長した。その中島飛行機が東京進出第1号として創設したのが荻窪の東京工場である。1923年(大正12年)の関東大震災で交通、
通信機関が断絶し太田工場の生産ラインが停滞してしまう経験を受けて、東京進出を模索することになる。
また陸海軍からの受注増加に応じるためエンジンの
本格的生産が必要となっていた。1925年(大正14年)11月、敷地3,800坪、建物550坪、従業員80名の中島飛行機東京工場が始動した。
荻窪で開発された
東京工場の転機となったのは、1930年(昭和5年)、国産第1号のエンジン「寿」を開発したことである。
「寿」は堅実で信頼できるエンジンとして高い評価を受け、
国産第1号エンジン「寿」
中島飛行機がエンジンメーカーとして確固たる地位を築く出発点となった。その後も東京工場は「栄」、
「誉」など優れた製品を世に送り出していった。
ちなみに
「栄」は米英戦闘機を制圧した海軍の「零戦」、日本の戦闘機として最も有名な陸軍の「隼」に搭載され、
「誉」は「世界最優秀戦闘機」の中の1機として評価される
陸軍の「疾風(はやて)」に装備された。
また、中島飛行機のエンジンは民間機でも活躍し、1937年(昭和12年)、朝日新聞社の「神風」号が東京・ロンドン間を南
回りで日本初の国際記録を樹立した
(94時間17分)。
戦後は飛行機から自動車へ
第2次世界大戦後、中島飛行機はGHQ(※)によって企業解体された。荻窪製作所(東京工場を改称)は浜松製作所とともに富士精密工業として再出発する。荻
窪製作所は富士精密工業東京工場として引き継がれたが、後にプリンス自動車工業と合併し、
さらに1966年(昭和41年)、日産自動車と合併した。富士精密工
業東京工場は日産自動車荻窪工場となった。
※GHQ:General Headquarters。いわゆる進駐軍のこと。
中島飛行機の沿革
1917年(大正6年)
海軍を退職した中島知久平が、群馬県太田町(現太田市)に飛行機研究所を設立。太田工場が完成。
大正時代
1919年(大正8年)
中島飛行機製作所と商号変更。
1925年(大正14年)
東京工場が完成。
中島飛行機の沿革
1930年(昭和5年)
国産第1号のエンジン「寿」を開発。
昭和時代
1931年(昭和6年)
中島飛行機株式会社に商号変更。
解体以降を含む
1938年(昭和13年)
陸軍専用の武蔵野製作所が完成。
1941年(昭和15年)
小泉製作所が完成。
1941年(昭和16年)
海軍専用の多摩製作所が完成。
1943年(昭和18年)
武蔵野製作所、多摩製作所を統合した武蔵製作所が発足。大宮製作所が完成。
1944年(昭和19年)
宇都宮製作所が完成。三鷹研究所を新設。三島製作所が完成。浜松製作所が完成。
1945年(昭和20年)
富士産業株式会社に商号変更。
1950年(昭和25年)
企業再建整備法に基づき、富士産業から第二会社12社が分離・独立。
1953年(昭和28年)
富士産業株式会社と第二会社5社が再結集して、富士重工業株式会社を発足。
※中島飛行機の概要、沿革は、
「富士重工三十年史」
(昭和59年7月15日出版)
を参照した。
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