氏 名 ( 本 籍 ) 足 立 元 (愛媛県) 学 位 の 種 類 博 士 (美 術) 学 位 記

ア
ダチ
ゲン
氏 名 ( 本 籍 )
足
立
元(愛媛県)
学 位 の 種 類
博
士
(美
学 位 記 番 号
博
美
第 230 号
学位授与年月日
平 成 20年 3 月 25日
学位論文等題目
〈論文〉近代日本の前衛芸術と社会思想-表現・言説・イデオロギー
術)
論文等審査委員
(主査)
准教授
(美術学部)
佐
藤
道
信
(論文第1副査)
東京芸術大学
〃
教
授
(
〃
)
田
口
榮
一
(副査)
〃
准教授
(
〃
)
松
田
誠一郎
( 〃 )
〃
〃
(
〃
)
井
村
彰
( 〃 )
跡見学園女子大学
北
澤
教
授
憲
昭
(論文内容の要旨)
近代日本に生成・消滅を繰り返した前衛芸術は、同時代西欧の新たな表現への共鳴、既成の権力や芸
術のシステムへの抵抗、原理主義への傾向、そして芸術と非芸術の境界領域への進出を特質とする。そ
れは、程度の大小や方向性の違いはあれ、自らの立ち位置たる〈日本〉を問い直すもの、いわば日本文
化論としての機能をつねに持っていたといえる。また、それは時に、それまでの〈日本〉像を爆破し、
〈 日 本 〉を 過 去 や 別 世 界 の も の に す る 方 向 で も 生 ま れ た 。爆 破 あ る い は 爆 発 と い う メ タ フ ァ ー は 、広 島 ・
長崎への原爆のイメージが色濃いかもしれないが、近代を含めた視野の中ではむしろ明治末の大逆事件
に端緒を求められる。そこに関わったアナキズムの芸術は、芸術の前衛というより政治の前衛であった
が、前衛芸術の起源として位置づけられよう。
そして、近代日本の前衛芸術の歴史は、アナキズムに発する核を持ち様々な社会思想と絡み合う系譜
と し て 描 く こ と が で き る 。す な わ ち 、1900年 代 か ら 1920年 代 半 ば ま で は ア ナ キ ズ ム と と も に 萌 芽 し 、1920
年 代 後 半 か ら 1930年 代 ま で は 共 産 主 義 を 軸 と し て 展 開 し 、 1940年 代 前 半 は フ ァ シ ズ ム に 転 位 し 、 1940年
代 後 半 は 占 領 期 の 思 想 統 制 の 制 限 に 抵 抗 し 、 そ し て 1950年 代 は 民 族 主 義 を ま と っ て 共 産 主 義 か ら 離 反 し
たのである。
本 稿 は 、 1900年 代 か ら 1950年 代 ま で を 対 象 と し 、 以 下 全 8 章 の 内 容 を 持 つ 。
第1章「大逆事件と美術」では、明治末に幸徳秋水が主宰した『平民新聞』の漫画を取り上げる。大
逆事件までの初期社会主義運動に最も深く関わった美術家は小川芋銭であったが、芋銭の漫画は、俳画
の流れを汲みながら、表現においても思想においても、アール・ヌーヴォーがあった。それは幸徳秋水
のアナキズムに対して視覚的に照応したものであったといえる。また、そこにあった伝統の借用と表現
の奔放さは、芋銭の挫折を越えて、次世代のアナキストたちに受け継がれる。
第2章「大正アナキズムの芸術運動」では、望月桂の活動、特に大杉栄らアナキストとともに結成し
た黒耀会を中心に論じる。今日ではほとんど知られていないが、望月および黒耀会の活動は、巧拙を問
わず、極めて過激な社会批判の作品を展示したこと、演劇(パフォーマンス)を重視し、音楽や文学と
の関りを持っていたこと、反機械文明・エコロジーへの視点を持っていたことなど、その後の前衛芸術
に脈々と流れる特質を備えていた。
第3章「三科をめぐる革命のヴィジョン」では、大正期新興美術運動の頂点であった三科の運動の中
で、一氏義良、村山知義、木下秀一郎、柳瀬正夢、岡田龍雄、岡本唐貴らが、それぞれどのようなアナ
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キズムないし共産主義(ボルシェビズム)を抱いていたかを分析する。政治への従属を拒否したアナキ
ズムと政治への従属を目指した共産主義は、実際のところメビウスの環のように連環し、短くも、破壊
的・先鋭的な表現と組織的な展開を両立しえた希有な芸術運動となった。
第4章「プロレタリア美術とエロ・グロ・ナンセンス」では、共産主義思想の厳格な影響下にあり、
健康で明るいリアリズムを至上命題にしたとされるプロレタリア美術が、同時代の昭和エロ・グロ・ナ
ンセンスと関わっていたことを指摘し、そのイメージの再考を訴える。エロスとコラージュの表現はプ
ロレタリア美術の漫画に数多く現れ、猥雑誌、商業漫画誌にも進出していた。美術において、崇高な革
命思想と変態的な欲望は表裏一体だったのである。
第 5 章 「 反 シ ュ ル レ ア リ ス ム の 美 学 」 で は 、 1930年 代 の シ ュ ル レ ア リ ス ム に つ い て 、 こ れ ま で 論 じ ら
れなかった二点からその特質を明らかにする。ひとつはシュルレアリスムとフォーヴィスムの画壇内部
で の 対 立 が 、社 会 思 想 と は 無 関 係 に 、
「 前 衛 芸 術 」と い う 言 葉 の 定 立 に つ な が っ た こ と で あ る 。も う ひ と
つは右翼雑誌『原理日本』に見る田代二見の美術論であり、シュルレアリスムを弾圧した警察権力の背
後にあった美学には、国粋的な反西洋、反自由主義を掲げながらも、近代的個性を超越した新たな芸術
への志向があったことを示す。
第6章「大東亜のモダニズム」では、戦時中に丹下健三が設計した《大東亜建設記念営造計画》を中
心に分析し、西欧のモダニズムがファシズムの美学と混然一体となっていく過程でモダニズムを越えた
表 現 が 生 ま れ た こ と を 論 じ る 。「 日 本 的 な も の 」、 伝 統 と 創 造 、 芸 術 に よ る 記 念 と い う 行 為 に つ い て の 議
論や制作は、丹下による単なる様式論を越えた空想的な国土計画となり、そこでは、戦後の前衛芸術に
もつらなる反近代的な古代〈日本〉のユートピアが描かれた。
第7章「占領期の前衛芸術をめぐる統制と分裂」では、占領期について語られることのなかった三つ
の問題を検討する。一つは占領期の絵画には一般に米軍兵士や米軍批判が描かれなかったことであり、
わ ず か な 例 外 的 な 作 品 も 紹 介 す る 。次 に 、GHQ資 料 の 調 査 か ら 、日 本 美 術 会 が 共 産 党 文 化 部 門 の 一 組 織 と
して監視されていたことを明らかにする。さらに、米ソの冷戦構造を反映して美術界も左右に分裂して
い く な か で 、分 裂 を 引 き 受 け た 前 衛 美 術 会 の 中 か ら 、
〈 日 本 〉の 深 層 部 を 掘 り 下 げ る ル ポ ル タ ー ジ ュ 絵 画
も生まれたことを論じる。
第 8 章 「 前 衛 芸 術 と 民 族 主 義 」 で は 、 1950年 代 の 前 衛 芸 術 に 伝 統 論 争 が 起 こ っ た こ と を 分 析 す る 。 そ
れ は 1950年 に 来 日 し た イ サ ム ・ ノ グ チ が も た ら し 、 多 く の 美 術 家 た ち が 取 り 組 ん だ 課 題 で あ り 、 国 際 化
の中で逆説的に〈日本〉の独自性を表すことが再び問題となった。その原動力となったのは、占領期の
反 動 に 加 え 、 1920年 代 以 来 前 衛 芸 術 に 対 し て 支 配 的 で あ り 、 か つ そ の 拠 り 所 で も あ っ た 共 産 主 義 か ら の
離 反 で も あ っ た 。ま た ノ グ チ に よ っ て 物 体 で な く 場 所 や 環 境 を 中 心 と し た 彫 刻 と い う 考 え が も た ら さ れ 、
〈 日 本 〉 や 「 美 術 」 の 枠 組 み が 解 体 さ れ た こ と は 、 そ の 後 の 1960年 代 末 以 降 の も の 派 や 1970年 代 以 降 の
多彩な動きに対して、それらへの道を開くことになった。
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