ウリヤノフスクの日航機

特集◆ロシアの有望地域を発掘する
新連載◆ユーラシア産業紀行
ウリヤノフスクの日航機
とはいえ、人口60万を越えるこの都市は、レーニ
ンを観光資源として成り立っているような都市では
なく、ヴォルガ河沿岸の工業都市の一つとして捉
はじめに
ウリヤノフスクは、レーニンが生まれた都市として、
えるのが妥当である。ウリヤノフスクは、帝政時代
から続くヴォルガ河西岸地区と70年代以降に開
ロシアとなじみの深い人には、ある程度知名度が
発されたヴォルガ河東岸地区に分断されているが、
ある場所であると思うが、決して、日本と関係の深
工場地区を中心に造成された東岸地域は直角に
い場所ではない。もちろん、日本から直行便が飛
交差する道路と四角いアパートが組み合わさった
んでいたなんてこともない。そのような場所になぜ
極めて人工的な町である。ウリヤノフスクには、自
日航機が出てくるのか不思議であろうかと思う。実
動車産業が存在し、こちらの方が大規模なのだが、
は、ウリヤノフスクは航空機との関係が深い都市で、
特徴的なのは航空産業である。“航空首都”と自
ロシア最大級の航空博物館がある。ここに展示さ
称しているだけあり、旧ソ連最大級の航空機工場
れている旅客機は、アエロフロートとの共同運航便
が存在する。
としてではあるが、日本航空の鶴のマークを付けて
東京とモスクワを結んでいたのだった。
ウリヤノフスクと航空産業
1980年代初頭、ウリヤノフスクに大型輸送機ア
ウリヤノフスクについて
ントノフAn-124を量産するための工場が稼動し始
ウリヤノフスクは、やはりレーニンの生まれた場所
めた。その後、この工場は、生産品目にツポレフ
と紹介することが最も通りがよいと思われる。レー
Tu-204を加えるが、すぐにソ連崩壊を迎える。
ニンという名前は、職業名(革命家が職業である
An-124は膨大なソ連軍の需要に応えるはずだっ
かは議論あろうかと思うが)であり、本名はウラジー
たし、Tu-204も1,000機以上生産されたツポレフ
ミル・イリイッチ・ウリヤノフだった。レーニンが生ま
Tu-154の後継として、同規模で量産され、東側
れたころ、シンビルスクと呼ばれていたこの都市は、
の空を飛び回るはずであった。しかし、ソ連軍も東
革命後しばらくして、レーニンの本名からウリヤノフ
側市場もなくなってしまったので、巨大な工場と寂
スクと呼ばれることになった。市内には、レーニン
しい仕事量が残ることになった。
関連の史跡が残されている。
現在でもこの巨大工場はアビアスタルSP社として
生き残っているものの、2013年末の時点ではTu204の製造は年間数機(月間ではない)しかなく、
An-124の製造再開は何度か報道はされたが本
当に始まる気配がなく、新しく獲得したロシア空軍
向けイリューシンIl-76の生産は計画でも年間5機
という寂しいものであり、まだまだ復活は遠い印象
だ。一方、月産3機に達したスホーイスーパージェ
ットや開発中のMS-21など、新世代の航空機の部
品製造が増えていく可能性があり、明るい兆候も
ないわけではない。特にMS-21は技術的に進んだ
ウリヤノフスクの高層ホテルВенецよりヴォルガ河下
流方向を向いて撮影。左側の水面がヴォルガ河。
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新製法で製造する複合材製の主翼を、ウリヤノフ
スクのアエロコンポジット社で行うことになっている。
ロシアNIS調査月報2014年2月号
ユーラシア産業紀行
は、旅客機をテーマにした博物館というのは、世界
的にも稀である。なぜなら、軍用機であれば、サイ
ズが比較的小さい戦闘機を展示すれば形になる
のに対し、戦闘機よりもはるかに大型の旅客機を
展示する場合は、膨大なスペースが必要になるた
め、軍用機の博物館より実現困難なのだ。もちろ
ん、小型の旅客機であれば、展示することはそこま
で難しくないのだが、民間航空史博物館では、ソ
旧ソ連最大級の航空機工場で、現在でもTu-204や
Il-76 を 製 造 し て い る 。 写 真 に 写 っ て い る 航 空 機 は
Tu-204。
連最大の旅客機イリューシンIl-86(ボーイング767
より一回り大きい)や超音速機Tu-144(幅は小さ
いが長さはジャンボ機に近い)などの大型機の展
示を実現している。博物館が開設されたのは
1980年代初頭であり、ソ連崩壊後は非常に荒れ
てしまったものの、現在、関係者の尽力で、展示さ
れている航空機の復元を徐々にではあるが進めて
いる。
ウリヤノフスクには、早朝と夕方にモスクワ便があ
り、この博物館は空港から500mほどの場所にある
ため徒歩で行くことができる。容易にモスクワから
日帰りが可能である。航空機に関心のあるロシア
民間航空博物館の展示機の一部。大型旅客機も含む
30機以上の航空機が野外に展示されている。
ウリヤノフスクの東の端には、大型貨物輸送に強
関係者の方には強く訪問をお勧めできる博物館で
ある。
ツポレフTu-114
みを持つヴォルガドニエプル航空が本拠地を置く
民間航空史博物館の展示機の中で、異色の存
ヴォストーチヌィ空港があり、西の端には民間航空
在の一つとしてツポレフTu-114がある。現在世界
大学があり、航空機製造以外でも、航空関連のイ
で3機しか残されていない。この飛行機は、大型の
ンフラが多い。前置きが長くなったが、今回紹介す
二重反転プロペラ(重ねるように配置された2組の
る日航機は、民間航空大学に併設された民間航
プロペラが相互に反対方向に回る)を備え、プロペ
空史博物館に展示されている。
ラ機にもかかわらず、ジェット機のような後退翼(斜
め後方に向かって延びる翼)を持つ、見るからに風
民間航空史博物館
変わりな飛行機である。機首には、第二次世界大
民間航空史博物館は、世界的にも最大級の旅
戦時の爆撃機のように、丸いドーム状の窓が付い
客機のコレクションを持つ博物館である。我々がよ
ており、軍用機のような雰囲気まである。この航空
く乗るボーイングやエアバスの飛行機はなく、ほぼ
機が、日本航空との共同運航に使用されていたの
すべての展示が旧ソ連の飛行機であり、マニアが
だ。
喜ぶということに留まらず、旧ソ連の産業遺産、技
Tu-114は、1950年代後半に、冷戦時のソ連を
術遺産の保全という意味で非常に貴重である。実
代表する爆撃機だったツポレフTu-95を改造し開
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特集◆ロシアの有望地域を発掘する
Tu-114が開発されていた時代、米国ではボーイ
ング707やダグラスDC-8という第1世代のジェット
旅客機が開発中であった。こうした第1世代のジェ
ット旅客機の目指したものは、大西洋を横断できる
航続力とスピードであった。米国と西ヨーロッパを
結ぶ路線は、客船時代から高い需要があった。一
方、Tu-114も長距離を高速で飛べることをコンセ
プトにしていたが、ソ連では一般人の海外渡航(特
に西側への渡航)は制限されており、Tu-114のよ
うな長距離旅客機には大きな需要はなかった。と
はいえ、キューバやアフリカ諸国など遠方にも友好
国は存在し、また、要人の外遊の際に米国製ジェ
ット機を利用することは社会主義国の面子が許さ
ないので、このような旅客機が開発されることにな
った。実際にフルシチョフの訪米にはTu-114が使
用されている。ソ連は、既に中型ジェット爆撃機を
改造したTu-104というジェット旅客機を就航させ
ていた。主翼やエンジンを流用し、胴体のみ新規
に開発をして完成させた。長距離旅客機Tu-114
ツポレフTu-114。プロペラ機でありながら後退翼を備
える非常に特徴的な航空機である。生産数は少ない
ものの、就航当時は世界最大の旅客機であった。
の開発でも同じ手が使われることになった。
発された。具体的には、胴体を太くして、広い客室
用いたフルシチョフの訪米は一般のアエロフロート
を設けられるようにした。Tu-95は、1950年代前
の路線に就航する前に行われている)。その後、
半に米国に核爆弾を落とす目的で開発された爆
国際線にも就航していったが、そもそも大きな社会
撃機で、冷戦時代のソ連を代表する爆撃機であっ
的実需が存在するわけではないので、米国の第1
た。Tu-95もTu-114もプロペラ機だが、かつての
世代のジェット機が海外旅行の大衆化をもたらし
プロペラ機がピストンエンジンで飛行していたのに
ていったのに対し、Tu-114の登場は大きく社会を
対し、ガスタービンエンジンを用いるターボプロップ
変えるようなインパクトはもたらさなかった。米国の
と呼ばれるタイプのプロペラ機で、出力が1基
第1世代のジェット旅客機は合計1,500機以上製
12,000もある強力なエンジンを4基搭載していた。
造されたのに 対し、Tu-114は32機で終 わった
当時(1950年代)のジェットエンジンは極めて燃費
( Tu-114 の 次 に 製 造 さ れ た 国 際 線 用 旅 客 機
が悪く、ジェットエンジンを搭載するとスピードは出
Il-62も300機弱の生産。)。一方で、機体の規模
ても米国までの飛行は困難だった。そのため、ジェ
ではボーイング707やダグラスDC-8を上回り、
ットエンジンより燃費のいいターボプロップエンジン
Tu-114は就航当時世界最大の旅客機だった。
Tu-114は1957年に初飛行を行い、1961年から
モスクワ~ハバロフスク間に就航した(Tu-114を
と二重反転プロペラの組み合わせを採用すること
により、スピードと長距離飛行を両立することに成
功した。
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日本航空で運航されたツポレフTu-114
日本からヨーロッパを目指す場合、最短となるの
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はロシア上空を経由することである。現在でも、日
本からヨーロッパに向かう場合は、ロシア上空を飛
行するのが普通となっている。しかし、昔は、日本
から西ヨーロッパまで直行することが飛行機の性
能上難しかったことと、ソ連上空を通過することが
政治的背景から楽でなかったことで、アラスカのア
日本便に投入されたTu-114には日本航空のマークが
入れられていた。写真は日本航空株式会社の提供。
ンカレッジ経由でヨーロッパに向かったり、東南アジ
アと中東を経由してヨーロッパに向かったりした。そ
“半分”日本航空機だったTu-114の現状
んな中、1967年、日本とソ連の航空協定が締結
Tu-114の多くはスクラップになったが、近年スク
され、日本航空とアエロフロートの共同運航便が東
ラップになった1機を含め4機ほど保存された。そ
京~モスクワ間を飛ぶことになった。当時、ソ連側
の内、1機が共同運航便として、半分は日本航空
でモスクワから東京まで無着陸で飛行できる航空
機として運行された登録番号CCCP-76490であり、
機は、Tu-114しかなかった。そのため、Tu-114が
ウリヤノフスクの民間航空史博物館に保存される
共同運航に用いられることになり、登録番号
ことになった。
CCCP-76490とCCCP-76494の2機が共同運航
この機体は、1970年代にアエロフロートの塗装が
用機材として、機首に我々にも見慣れた日本航空
変更になった際に塗り直しが行われ、日本に飛行
のマークと“Japan Airlines”のマークが入れられた。
していた際の塗装ではなく、日本航空のマークも失
ウリヤノフスクで展示されているTu-114はこの日
われている。外部から見ると、大きく破損した部分
本航空のマークが付けられた2機のうち、
はないものの、内装はほとんど失われ、コックピット
CCCP-76490である。
も計器やパネルが紛失し、荒れている状態である。
4月17日モスクワから第1便が飛び立ち4月18
民間航空史博物館を代表する機体であるが、保
日に羽田に到着した。最初に用いられた機体は
存状態は決していいとは言えない。他の展示機種
CCCP-76494であったが、続いてCCCP-76490も
同様、状態の改善を目指したいとしているが、現
モスクワ~東京線に投入され、週1往復が運航さ
状では手をつけることができていない。
れた。冷戦中の1960年代の話であり、現在のよう
博物館では、展示の充実を進めているところであ
にビザさえ取得すれば気軽にロシアを訪れられる
り、日本航空との共同運航についての資料や情報
状況ではなかったし、ロシアとの人の行き来につい
の収集を行っている。更に、将来的には、日ロ友
ても現在ほど需要はなかった。当初の乗客はロシ
好のシンボルとして、このTu-114を日ロ共同事業
アが目的地ではなく、モスクワを見学することはあ
として復元したいという夢を抱いているとのことだ。
っても、その後、ヨーロッパに向かう乗客が多かっ
私もいつか、日本航空のマークのついたこのロシア
たとのことである。
らしい飛行機を実際に見てみたいと思う。
Tu-114は1969年5月まで運航され、この共同
運航便は新型のIl-62に交代した。日本路線に限
【謝辞】
らず、Tu-114はIl-62の配備が進み国際線用に
本稿の作成に協力いただいた民間航空史博物
用いられるようになると、国内線に回され、1970
館Юрий Валкин館長及び共同運航についての
年代末に疲労強度の限界で退役していった。
情報と当時の写真を提供していただいた日本航
空株式会社に感謝いたします。
(渡邊 光太郎)
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