英国春秋

英国春秋
2012年
秋号
ISSUE No.21
発行 英国日本人会
英国春秋2012年秋号
はじめに
オリンピック・ムードに浮かれてあっという間に数週間が過ぎ去って行きました。心配
していたエアーポートも地下鉄も道路さえもスムーズで、少々拍子抜け。ヒースローでは
移民局の係員が「ようこそと」と待ち構えていたと友人の話。さんざん脅かした手前、
「ミ
ラクルは期待しない時に起こるものよ」と神様のせいにしてしまいました。
マーブル・アーチの近くで数秒立ち止まっていたら、何処からともなく胸に名札を付けた
人が、「何かお役に立てるでしょうか?」と近づいてきました。人々はみんな笑顔を絶や
さず親切で、街中は安全で、交通機関はスムーズで・・・「これはどこの国の話でしょう
か」。今回は“かみわざ”
(神業・神技)がいたるところに見られた、素晴らしいオリンピ
ックになりました。
久しぶりに庭に出てみましたら、朝顔、水仙翁、孔雀草、ジギタリス、
擬宝珠の花々が咲き誇っていました。弁慶草はその楕円形で厚手の葉
の先に小さな蕾をたくさんつけ、あと一週間もすれば淡紅色の小さな
五弁花を開くことでしょう。この花はイギリスでは Autumn Delight
と呼ばれていると聞きますが、すでに秋の気配はそこかしこにあり、
先程から落ちたリンゴの実を山鳩が盛んにつついています。
2012年8月
お陰様で『英国春秋』秋号21回目の発行を迎えることが出来ました。今回、会員以外で
特別にご寄稿いただいた方々は、
有地芽浬氏
(SOAS Senior Teaching Fellow)
小倉孝保氏
(毎日新聞社・欧州総局特派員)
沢村亙氏
(朝日新聞社・ヨーロッパ総局長)
林景一氏
(在英特命全権大使)
森嶋瑤子氏
(ICBA UK 支部長)
アイウエオ順
の諸氏です。会員の皆様をはじめ忙しい中、文集に投稿いただいたことに心より感謝いた
します。
***
も
く
じ
***
はじめに
一字違いの名前
森嶋瑤子
本とのつき合い
クーパー矩子
Are You Happy?
加藤節雄
家族の絆−或るパラリンピック走者の話−
小倉孝保
2012年ロンドン・オリンピックを観戦して
岡村光雄
海と帆船
佐山菫子
英国春秋俳壇
なでしこ
バロー典子
いちご
エリオットつや子
月の弓
クーパー矩子
『不思議の島』の日本人たち/マン島のこと
沢村亙
私の卓球練習場所の遍歴
高松直喬
ダウジングと私
畠田勉
日英博覧会における日本美術展の評価と意義について 有地芽浬
Skibo Castle
古沢いくこ
臨床僧
対本宗訓
続・五つのポエム
田村陽子
若者を支援する
高階玲子
英国サッカーと私
林景一
英国春秋あれこれ
小川のり子
-1-
1
2−4
4
5
6−7
7−9
10−11
12
13
14
15−16
17−18
18
19−23
24−25
26−27
28−29
29−31
32−33
33−34
英国春秋2012年秋号
一字違いの名前
森嶋瑤子
「森嶋さん、あなたは小説もお書きになるのね」
「とんでもない!ちょっと文章書いたからといってからかわないで!!」
1980年代の始めの頃だったかと思う。当時、私はイギリス事
情の小文を日本の新聞などに時折書いていた。久しぶりで日本か
ら訪ねて来た友人と会って話がたまたまそのことに触れた時、彼
女は急に思い出したようにそう言った。私のびっくりした言葉の
調子に驚いたのか、この話題はそこで終わりになった。彼女と別
れての帰途、何を思ってあんなとんでもない馬鹿げたことを口走
ったのだろうかと一時は考えたが、それも長くは続かなかった。
それからしばらく経ちそのことも忘れかけていたら、また日本からの訪問客と会って話し
ている時に、「小説は何時頃から書いていらっしゃるのですか」の質問を受けた。「えっ、
また!!」とは思ったが、今度の相手は知人程度だったから私も吐いて捨てるような反応
は出来ず、何かの誤解でしょうとかわして話題を変えた。まさかよりにもよって私の名前
を使い小説を書いている人がいるとも思えず、これらは話し手の何かの誤解だろうと思う
ことにした。しかしその後も「五指に余る」とはいえないとしても誤解が続いたので(手
紙の中に書いて来た人までいた)、この謎を解明するべく次に訪ねて来た友人に私の方か
ら話を持ち出した。
「あら森嶋さん、最近人気のある森瑤子という小説家のこと知らな
かったの。彼女の小説の中にはイギリスの話がよく出てくるのよ。
彼女の本が本屋の店頭に平積みにされているのを見たとき、私だっ
て『えっ、これって森嶋さんの著書?!』と思って手に取ってみた
のよ。立ち読みで少し読んだら、こんな小説をあなたは絶対書かな
いし、また書けないとすぐ分ったから」
私の名前を何度も見ているばかりか、手紙などで何度も書いている友人までがそんなに思
ったのも私の理解を超えていた。劃数の多い重たい字が三つ並びそのうちでも大きい「嶋」
が抜けているのが見えないなんて、それなら節穴同然の目を持った人が沢山いるのだと驚
いた。
*****
「これは一体全体どういうこと! 私の名前がこんなところに大きく出ているなん
て?!」
その後日本に一時帰国をした時、ある書店に何気なく入ると店の正面に、派手な色合の横
断幕が天井から下がっているのが目に入った。その途端、仰天して足が地に張り付いたよ
うになって立ち止まってしまった。その幕には大きな字で私の名前が出ているではないか。
一息ついてよくよく見直すとそれは「嶋」が抜けている「森瑤子」と分り、「なーんだ」
と少し平静を取り戻した。確か彼女の新刊書のサイン会の広告だったような記憶がある。
しばらくどうして見間違ったのかと思いつつ幕を見ていると、すっかり忘れていた友人た
ちの誤解の件が突然よみがえってきた。私の目も節穴同然なのだと、幕の字をしばし呆然
と眺めていた。私の傍らを通り抜ける人たちは、このおばさんは森瑤子ファンでサイン会
に来ようかどうしようかと迷っているのだろうと思ったことだろう。私はそれまで「森瑤
子」と書かれたポスターや印刷物には接したことがなかった。もし前に見ていれば、その
段階で同じようなことになっていたに違いない。今回は字の大きさだけ驚きも大きかった
が。
-2-
英国春秋2012年秋号
このことがきっかけで、丁度同じ頃ロンドンで活躍していたバレリーナの
「森下洋子」のことを思い出した。漢字で書かれた彼女の名前を見ても「え
っ!」と思うことは全くないが、こちらの新聞や雑誌で Yoko Morishita
を見ると最初は「あらっ」程度のことは感じたが、私はバレーとは関係な
いし、日本ではローマ字表記で彼女の名前が出ることはほとんどないだろ
うから、誰も Yoko Morishima と Yoko Morishita を混同して「森嶋
さんはバレーも踊れるの!?」とはいって来なかった。
日本の名前は仮名表記も出来る。これはある意味では重要な表記法だと思う。ことに最近
のように、漢字表記ではこれを正しく読むのはクイズの難題を解くより難しいような名前
がやたらに多くなると、それらはふりがなをつけねば読めない。エッセイスト「桐島洋子」
の名前は漢字表記でも、ローマ字表記 の Yoko Kirishima でも「えっ!」と思ったこと
はなかったが、ある時友人に「森瑤子」と「森嶋瑤子」の間違いの話をしたら彼女曰く、
「森嶋さん、もう一人あなたの名前と一字違いの『翔んでる女』がいる
わよ。
仮名で書いたら『きりしまようこ』もそうでしょ」
当時は「翔んでる女」がもてはやされていた頃だった。森さん、桐島さ
んはまさしくそのような方々だし、森下さんは実際に舞台で跳んでいら
した。
*****
森下さんと桐島さんはそれぞれの分野での優れたタレントと仕事の成果によって名を知
られた方々であり、そのようなものと無縁の私が彼女たちと間違われなかったのは至極当
然である。それなら森さんの場合も同じである筈だ。ところが間違われたし、私も同じ経
験をした。それは見た名前が漢字表記であったのがその原因だと断言してよいと思う。ロ
ーマ字もかなも音を表示する記号、すなわち音標文字、であって目に訴える字ではない。
ところが目で見えるものの表示から始まった象形文字の漢字は視覚に訴える文字である
ことをあらためて思った。
このようなことを考えると、生まれた子どもに名前をつける場合、日本ではいろいろな角
度から見て名前選びをせねばならなくなる。字画数を云々する姓名判断や各家庭の命名の
伝統などは別としても、声に出した時、それを聞いた時、文字に書いた時、そしてそれに
加えて漢字にはそれぞれ固有の意味があるからそれも考慮に入れなければならない。それ
だけに親の愛情や希望を充分に反映する名前を選ぶプロセスには、他の国の親にない楽し
みがあるのでないだろうか。最近日本でも親による幼児虐待や養育放棄が増えているよう
に思うが、そのニュースに出てくる被害を受けた子どもの名前に随分凝ったのを見かける。
それを見るたびに、「生まれる前には愛情と希望を持って名前を選ぶ親だったのがどうし
て」と思うと本当に胸が痛む。
*****
今でこそ「ようこさん」は漢字表記では色々違っていてもクラスには必ず複数いるような
名前だが、明治末期生まれの私の母の頃には殆どなかったようでクラスには一人もいなか
ったらしい。私が生まれた時、父が娘に「ようこ」と名付けたのは母には不満だった。そ
れは母が知っているのは有島武郎の「或る女」の主人公「葉子」だけだったので、母にと
っては「ようこ」は身持ちの悪い女の代名詞だったらしい。私が学校に入学する頃には、
とりわけ珍しい名前ではなくなっていたが、「瑤」は珍しい漢字だったので漢字を尋ねら
れた時には「太陽の陽です」のように簡単に説明出来ず、揚句の果ては「書いて下さい」
と言うことになって父をうらんだ。
-3-
英国春秋2012年秋号
始めてイギリスに来た1956年はいうまでもなく、63年の滞在時も Yoko では面倒
なことがしばしばあった。名前を聞かれて「ようこ」というと、当然のことだが必ずスペ
リングを聞かれる。
「ワイ・オー」と言い始めると、英語の名前には Y で始まるものは珍
しいせいか、それとも私の発音が悪いのか相手は怪訝な顔をして聞き直す。その揚句が、
「書いて下さい」ということになるわけ。ところが一人の「ようこさん」の出現によって、
少々誇張していえば、イギリスに滞在するすべての「ようこさん」の日常生活が楽になっ
た。それはいうまでもなく Yoko Ono だが、彼女の名前のおかげでその後は怪訝な顔を
されたこともスペリングを尋ねられたこともない。
イギリス人の中には「あなたの名前は Yoko Ono と同じだから忘れ
ることがない」と言ってくれる人がいるが、時と場合によってはち
ょっといたずら気分で「必ずしも同じ名前でないのよ」と答え、そ
の意味を計りかねて目を白黒させる相手に仮名表記と漢字表記のこ
とや漢字の話をしたりした。すると
「あなたの名前の字の意味は?」と尋ねる人もあった。残念ながら
私の名は必ずしも体を表していないのだが「beautiful jewel」と答
えるしかない。
本とのつき合い
クーパー
矩子
山口県萩市の祖母の家に疎開していた頃四―五才だったろうか絵
入りの「キンダーガーデン」をもらった。いろいろなおとぎ話が載
っていた中でも私は親指姫が気に入って飽かず眺めていた。薔薇の
花のベットで眠っている姫のそばに描かれたつりがね草やゴボウ
の実の形も今も覚えている。他にわら半紙に印刷された粗末な本も
あった。題を「花びらの旅」と言って動・植物が主人公のお話だっ
た。中でも「お芋の兄弟」がねずみに引かれていくのとか、目を悪くしたゲンゴロウが眼
科に通う話 etc で自然が身近になってゆくもとになったかと思う。
学校にあがると私達子供三人は毎月一冊ずつ本を選べたのでどれに決めるかいつも本屋
で迷った。雑誌のお正月特別号には本誌と同じ位の付録が付いたので特に真剣になったも
のだ。中学生になった時珍しく父がサッカレーの「バラと指輪」を買ってくれて驚きとり
ついてみたがさし絵ほどには面白くなかった。学生時代は体操部の練習以外は図書館が別
宅のように落ちつけてすごせた。社会人になると入社してすぐ図書部があると聞きつけ昼
休みの一時間をボランティアの貸し出し係となった。部員には特権として月に二十冊ほど
自分好みの本を社のあるビルの地下の本屋で選べたのである。忙しい中せっせと購入し真
っ先に読んで借りに来る社員におすすめしていた。
初めて親元を離れてロンドンに暮らしてからなれぬ仕事にホームシックとなったが、それ
を救ってくれたのが本であった。今のように簡単に日本の本が入手できなかったから送っ
てもらった本とは集中して向きあった。調子の良い時横文字の本ともつき合えるけれど落
ちこんだ状態では日本の活字が親しみやすいことに気が付いた。主人の永い療養中外出も
ままならなかったが、近くのライブラリーへ通って英書を辞書を引き引き読破していたの
も必要に迫られてのことであった。入浴中にも本を放せなかった一時期もあったが今は自
戒している。誕生日と新年に自分好みの本を購入していたが好きな作家が大分なくなって
しまうのは淋しいことだ。文がかけなくなり本が読めなくなったらオシマイだと思いつつ
今日も又本をひもとくのである。
-4-
英国春秋2012年秋号
Are You Happy?
加藤節雄
今年のイギリスは女王のダイヤモンド・ジュビリー、オリンピック、パラリンピックと国
を挙げての大きな行事が続き、大変な盛り上がりを見せた。テレビで見る限りイギリス人
がこれほど興奮する姿はちょっと異常にも思えたが、オリンピック会
場に行かなくても、実際にロンドンの街を歩いて見れば、その興奮度
がひしひしと伝わってくるのを感じることが出来た。私自身はオリン
ピックの柔道を観戦する機会に恵まれたが、会場内のピーンと張りつ
めた緊張感と、場内全体に轟く観客席からのものすごい応援で、自分
自身の体内興奮度バロメーターが極度に上がっているのにびっくり
させられた。普段はシニカルな表情を見せるイギリス人だが、オリン
ピック・パラリンピックの期間中、ユニオン・ジャックを振りかざし、
笑顔で声援を送る姿は大変幸せそうに見えた。
アジアの小国ブータンでは国民の幸福度を GNP でなく GNH
で計測している。国民総生産量(Gross National Product)でな
く国民総幸福量(Gross National Happiness)で国の豊かさを表そ
うという試みである。GNH は高い経済成長率や医療制度が発達
した国、所得が高く、消費も多い国の国民が果たして幸せかどう
かと言う疑問を呈している。お金や物質と言った尺度で国の豊か
さを測る現在のやり方が、果たして国民の幸福度に繋がっている
のだろうか。先進国ではうつ病に悩む人が多い。環境破壊を繰り
返しながら経済成長を遂げるやり方がいつまで持続できるのだろうか。
最近、イギリスで政府による国民の幸福度調査が行われた。それによると 74 パーセン
トの人が現在の生活に満足と回答している。もちろん地域差があり、スコットランドの離
島や富裕層の多いイングランド南部に住む人は平均以上に幸福度が高く、ロンドンや、ウ
エスト・ミドランド、北部イングランドの住民の幸福度は平均以下となっている。また、
幸福度の尺度として仕事がある、持ち家に住む、結婚している、健康であると言ったこと
も重要な要素となっている。年齢で見ると、16 歳∼19 歳、65 歳∼69 歳が最も幸福度が
高く、逆に、40 代∼50 代の人が人生に不安を感じている。
この調査はオリンピック前に行われたが、オリンピック、パラリンピックを成功させた
後の調査ではどんな結果が出るか興味があるところでもある。人間の幸福度は小さなこと
で高くなったり、些細なことで落ち込んだりするものである。政治家にとってはいかに国
民を幸せに保つかと言うことが重要な課題だし、ビジネスにとっても国民がハッピーに感
じるフィール・グッド・ファクターは消費にも繋がる大変重要な要素である。
今のイギリスは多くの問題を抱えながらもよくまとまっていると思う。ロイヤル・ファ
ミリーやスポーツで国民にフィール・グッドの感情を持たせ、国をまとめるやり方は、ど
こかの国の様に反日感情を煽り、デモや破壊行為をある程度許し、国民の不満のガス抜き
をする方法と比べればずっと大人でスマートな方法と言わざるを得ない。
振り返って我が日本人の幸福度はどうだろうか。政治の混迷、経済の停滞、原発の不安、
周辺国との領土問題、少子化、老齢化社会、多い自殺と、外から見る日本は幸福な要素が
あまり見えない。GNP で世界 3 位の豊かさは、GNH ではどうなるのだろうか。今、日本
人の GNH 調査をしたら果たしてどんな結果が出るのだろうか。数年前に民間企業が行っ
た調査によると、日本人の幸福度は先進国中群を抜いて最低だったという結果もある。日
本人は幸福の尺度を 1.健康、2.家計、3.家族と自分個人の周辺のみに求めており、ブ
ータンの提唱する人間関係の平穏と交流という社会参加型の幸せに目が向いていないと
言う分析もある。
イギリスに住む我々は本国の日本人より幸福度は高いのだろうか。個人差があるので一
概には言えないが、少なくともイギリス人社会とのお付き合いを深め、ブータンの提唱す
る社会参加型の幸福論を展開することにより、幸福度を高めたいものである。
-5-
英国春秋2012年秋号
家族の絆
−或るパラリンピック走者の話−
小倉孝保
4月にロンドンに赴任した。エリザベス女王の即位 60 年の祝賀に続きオリンピック、パ
ラリンピックとロンドンでは華やかなイベントが続いた。その中で、私の印象に残ったあ
る家族を紹介する。パラリンピックに出場した日本人選手とその家族の話である。
堀越喜晴(よしはる)さんは明治大学や立教大学で言語学などを教えている。1957
年に生まれてすぐ、網膜芽細胞腫という病気がみつかった。この病気は、目の小児がんの
一種だ。眼球を摘出しなければ、がんが脳に転移してしまう。医師は堀越さんの両親に、
「この病気は、命をとるか、目をとるかです」と説明したという。結局、堀越さんは両目
の眼球を摘出し全盲となった。
その後、堀越さんは健常者の倫世(みちよ)さんと出会い、結婚。倫世さんは妊娠する。
堀越さんの気がかりは、自分の病気がお腹の子に遺伝しないかどうかだった。遺伝してく
れるな、との願いもむなしく、長男は 88 年、同じ病気を持って生まれてきた。このとき
も医師は堀越さんに、「命をとるか、目をとるかです」と語った。
堀越さんは長男を信司(ただし)と名付けた。信司ちゃんは生後 40 日で右目の眼球を
摘出され、左目は何とか摘出を免れたが弱視となった。
堀越さんも妻倫世さんも明るい性格である。堀越さんは
しばしば、小さな信司ちゃんを信州の山に連れ出して歩い
た。信司ちゃんも屈託なく育ち小学校に入ると、サッカー、
野球、水泳に興じた。
しかし、堀越さんの恐れていた日がやってきた。外から
帰った堀越さんが玄関を入ると、家の中の空気が重い。リビングで倫世さんが神妙な顔を
している。理由を聞いてみると、夕食後、信司君がこんなことを言ったという。
「どうして僕だけ片目がみえないの。どうして僕だけみんなと違うの。こんなのなら、
生まれて来ない方がよかった」
それまで、信司君は友人と遊んでいても自分の障害に気付かなかったのだろう。それが
自我の芽生えとともに、自分が他者と違うことに気付いたのだ。
堀越さんは信司君の部屋に入った。ふとんの中で丸くなっている信司君を堀越さんはひ
ざに抱き上げて、こう話した。
「お父さんも君と同じ病気で目がみえなくなった。この病気がわかったとき、おじいち
ゃんとおばあちゃんはお医者さんに、この子の命をとるか、目をとるかですよ、と言われ
たんだ。それで、おじんちゃんとおばあちゃんが、命だけは助けてくださいと言ってくれ
たから、お父さんはこうして生きている。お父さんはそれを感謝している。君が生まれた
ときも、お父さんは同じことを言われた。だから、お父さんはお医者さんに、目はいらな
いから命だけは助けてくださいとお願いしたんだ。お父さんは君と一緒にいたかった。お
父さんは両目が見えない。だけど、君は片目がみえるじゃないか。お父さんの分も、君の
その片目でたくさんのものをみてくれないか」
この言葉で信司君は少しずつ、障害者として生きる覚悟をしたようだ。徐々に本来の明
るさを取り戻していった。
信司君は運動の才能があった。中学に入って陸上を始めると中長距離でどんどん記録を
伸ばした。視覚障害の陸上大会に出場しては日本記録を塗り替えた。そして、大学で社会
福祉を学んだ後、信司さんは2011年4月、関西の大手企業に就職し現在、実業団陸上
部に所属。北京(08 年)に続き今回、ロンドン・パラリンピックの5000メートル(視
覚障害)に出場した。
この種目への出場は信司さんを含め9人。自己記録の上では、信司さんは7番目だ。レ
ースの数日前、私は堀越さん、倫世さん、信司さんの4人でピザを食べた。堀越さんの横
に座った信司さんはピザを切り分けては堀越さんの皿に置き、堀越さんの手をそっと皿ま
で持って行く。父のガイドをするのがとても自然になのだ。
-6-
英国春秋2012年秋号
調子を聞くと、信司さんは、「ロンドンに来て、調子は上がってきました」と話した。
5000メートルよりも本来、1万メートルの方が得意だが、ロンドン・パラリンピック
には1万メートルがないため5000メートルだけの出場となった。信司さんは将来、実
業団駅伝やマラソン出場も夢見ているという。
9月3日のレース当日、私は堀越さん夫婦と一緒に観客席に陣取った。レ
ースは午後8時5分から。7時半ごろになると、倫世さんが、「緊張してま
すね。私が緊張してもしょうがないんですがね」と語る。
8時前に信司さんら5000メートルの出場選手がスタジアムに姿をみ
せアップを始める。信司さんの体は心なしか軽そうだ。堀越さ
んに、「調子よさそうですよ」と説明すると、堀越さんは顔を
くしゃくしゃにして喜んだ。
そして、スタート。モロッコ、ケニアの選手が飛び出し、ぐ
んぐんと先を行く。信司さんは自分のペースをしっかりと守り
7位につけている。目の前を通過するたび、3人で大声を張り上げて応援する。信さんは
1人抜いて6位になる。倫世さんは両手を固くにぎりしめながらレースをみている。堀越
さんは首をやや横にして大歓声に耳を傾ける。
ラスト2周になったところで信司さんは前の選手を抜いて5位に上がった。そのまま、
6位の選手との差をどんどん離し結局、5位でゴール。メダルには届かなかったが、自己
記録を大きく更新し目標だった入賞(6位以内)を成し遂げた。
「おう、やったね」と堀越さん。
「すごい、すごい」と倫世さん。夫婦でがっちりと握
手した。しばらくして信司さんが観客席に向かって歩いてきた。堀越さんは倫世さんのひ
じに導かれて、観客席の一番前まで歩いていく。ややぎこちない歩みだが、堀越さんの背
中には、息子の成長を喜ぶ親の姿がはっきりとあった。
「信司、よくやった」と堀越さんが観客席から大声で叫び、大きく両手を振った。信司
さんは、満足げな顔を浮かべ、回りの英国人観客からも拍手が起きた。
障害に立ち向かうことで、この家族の絆はまた一つ強くなった。
2012 年ロンドン・オリンピックを観戦して
岡村光雄
2005 年 7 月 6 日、シンガポールでの IOC 総会で 2012 年のオリンピック開催地はロンド
ンに決まりこのニュースを東京の自宅のテレビ
で観ていました。翌週の 7 月 12 日に憧れのロン
ドンに出発した私たちは、
「まず 3 年程度のロン
ドン生活を」と考えていましたので 7 年先、こ
こでオリンピックを観戦するとは思ってもいま
せんでした。ロンドンの生活は快適であっとい
う間に過ぎ、ロンドン・オリンピックの開催を
迎えることが出来ました。
ロンドン滞在中には東京が 2016 年のオリンピ
ック招致に失敗のニュース。再度 2020 年の招致に向けて活動開始して、今年の 5 月に一
次選考を通る処まで来ています。
私たちの日本の住居は東京の国立競技場の傍にありますので、今度は是非東京で応援をし
たいと、東京開催を待ち望んでいる処です。
東京オリンピック招致には、IOC から欠点と指摘されている、
「市民のオリンピックへの
支持率の低さ」が問題となっています。その為どうしても「オリンピックへの国民の盛り
上がり」が必要です。
そこで折角ロンドンに住んでいるのだから、オリンピックをただ楽しむだけでなく、熱狂
的な応援をして、少しでもオリンピック熱を盛り上げようと思い立ちました。
-7-
英国春秋2012年秋号
オリンピック開催期間中は日本国旗を持って競技場に行って応援、パブでの声援、ジャパ
ンハウスで日本人の仲間と盛り上がり、男女マラソンコースの沿道での日本選手への声援
と、オリンピック応援に明け暮れました。
では特に私の記憶に残った場面の紹介です。
1.
「なでしこ」応援
日本対スエーデンの
予選 (コベントリー競技場 )
コベントリー競技場の試合開始は 12:00。ロンドンから急行で約 1 時間の距離ですが、
余裕を見て、ロンドンユーストン発 8:00 の早めの切符を予約しました。
さて当日早めにユーストン駅に到着すると、応援姿の日本人グループが大勢既に集まって
いました。通常の旅行では日本人はかぞえるほどですが、この列車では日本人乗客の比率
が約 3 割を占め、車内も何か和やかな雰囲気で気持ちも弾んで来ました。
駅からのシャトルバスサービスではボランティアの係員が親切に案内してくれてスムー
ズ。競技場に入る時のセキュリティチェックは厳しいとの事でしたが、思いの他順調で、
開始時間 2 時間前には入場できました。場内には、工夫を凝らした応援姿の日本からの
応援団・英国在住の日本人が続々つめかけ、私たちも一緒に写真を撮ったり、情報交換を
したりしました。
黄色のスエーデンカラーの応援者は少なく、観客の約7割は日本応援。日本チームのチャ
ンスには、競技場を揺るがす大声援で、これなら「なでしこ」も張り切る事が出来ると思
いました。私達も日の丸の小旗で応援。試合後日本チーム全員で日本の応援席に向かって
お辞儀したのは良いマナーと好感が持てました。
2. 「なでしこ」応援
日本対フランスのセミ・
ファイナル (ウエンブリー競技場)
予選、クオーターファイナルを順調に勝ちあがりい
よいよ強敵のフランス戦です。フランスとは、オリン
ピックが始まる前の親善試合で敗れており、油断がで
きません。フットボールの聖地での試合とあって私た
ちも少し興奮気味。日本人会から借りた大きな国旗と必勝日本の鉢巻きで応援する事にし
ました。最寄り駅のウエンブリースタジアムには 5:00 開始の2時間前に着きましたが改
札口からスタジアム迄は人の列、私達も必勝日本の鉢巻きを締め入場。日本・フランス・
英国人他、観客約 6 万人の埋まった競技場は壮観。ゴールポストに近い私達の席の周り
のブラジル人の若者達に、
「日本の応援はどうか」ときりだすと、
「明日の男子の試合は勿
論ブラジルの応援だが女子は日本に負けてしまったので今日は日本を応援する。」との事
で一緒に大旗を振り応援しました。試合開始前の両国国歌の演奏でフランス国歌「ラ・マ
ルセイエーズ」を始めて生で聞きました。続く「君が代」は声を張り上げて歌い感動的瞬
間でした。試合は、後半フランスの追い上げでヒヤヒヤドキドキ。私たちの席の前に座っ
ていた英国人の親子連れは、試合中も冷静で、やはり応援するチームが出ないと盛り上が
れない様です。試合は日本が逃げ切り勝ち、日本応援席は大興奮、ウェーブの連続で一緒
になって喜びました。
3.「ジャパンハウス」でフットボールと女子レスリングを応援
「ジャパンハウス」は 2020 年オリンピック東京招致の拠点として、JOC が中心とな
ってハイドパークに近いビルの一部を借り
上げたものです。ここには TV 大画面を設置
し日本チームの出場ゲームを、日本人ファン
が一緒に応援しようという部屋があります。
7 月 26 日の男子フットボールの日本とスペ
イン戦はロンドンでも注目度が高く、マスコ
ミのカメラが数多く入り日本人の応援ぶり
を取材していました。私達も大使館の用意し
-8-
英国春秋2012年秋号
た、小旗・鉢巻き・ハッピを着て応援しました。試合は予想に反し日本の快勝。集まった
応援団も大興奮。英国のメディアもこの光景を録画していました。
私にもフジ TV のインタビューがありましたので、東京の友人達に出ていたか電話しまし
たが、カットされたようでした。でも同行した友人は英国テレビの SKY ニュースにジャ
パンハウスと応援者の中に自分が少し出ていたと喜んでいました。
8 月 9 日のジャパンハウスでは、女子レスリング吉田選手が決勝戦で金メダルを獲得した
際国旗掲揚と国歌演奏の TV 画面に合わせ応援団と一緒に「君が代」を起立して歌い、そ
の後の「なでしこ」の決勝戦でアメリカチームを追い込んだときの応援の熱の入れ方が印
象に残りました。
4.「ロイヤル・オペラ・ハウス」で近代五輪の展示会を鑑賞
オリンピック開催期間中近代五輪の誕生の歴史と、今迄のメダルやトーチを集めた展示
会があり、ロイヤルオペラのスタッフ達がガイドツアーをしていました。
ここで特に印象に残ったのは、1948 年以降に使われた聖火トーチと開催地毎に聖火リレ
ーの模様をビデオで流していました。
日本開催の 1964 年のトーチリレーは、広いだんだん畑をリレー走者がのぼっていく場面、
瓦屋根の街並みをトーチが走り抜ける場面、富士山と新幹線をバックに走っている場面が
モノクロで映し出されており、私も当時の日本の美しい街並みや田舎の風景が懐かしく思
い出されました。いかにも日本的な穏やか風情が醸し出されている映像には感心しました。
2020 年の開催の時はどの様な写真が撮られるか楽しみです。
5.男女マラソンを日本人会のメンバーと沿道で応援
今回のマラソンコースは市内の名所を 3 周するコースで、路で待ち受けると 3 回もラ
ンナーを声援出来る魅力的なコースになっています。私たち日本人応援団は、セントポー
ル寺院に近い道路沿いの柵に日本国旗を 6 枚張り付け、旗も振って応援しました。女子
マラソンは出発直後大雨が降る等、悪コンデションで、傘をさしながらの応援でした。
男子マラソンは、打って変わって快晴、温度も上がり良いコンデションで、女子マラソン
と同じ場所で応援。付近の応援ポイントの中では、イングランド銀行の前の道路が急カー
ブするコーナーでは各国の人が鈴なりになり
自国のランナーを応援。特に英国の選手には、
順位に関係なく大声援で迫力満点でした。又、
付近の店の TV 画面では、走行選手に合わせロ
ンドンの街並みがアップされ、テームズ川とそ
の周辺をヘリコプターから撮った場面は印象
的でした。この画面を眺めながら、日本なら、
東京ビツクサイトを起点とし、お台場海浜公園、
レインボーブリッジ・皇居・銀座・浅草のスカイツリー・雷門・神宮と、新装予定の国立
競技場をゴールにすれば、ロンドン以上に素晴らしいコースになるのではと思いました。
6.
開会式、 閉会式を TV で見て
開会式は今までにない、英国らしく、本当に素晴らしいものでした。
英国 50 年間のロック・ポツプ中心の閉会式の中で、私が特に印象に残ったのは、音楽の
合間の男子マラソンの表彰式。アフリカの小国ウガンダの無名選手が国旗掲揚に感激し、
国歌斉唱時も晴々とした表情と観衆の惜しみない拍手。オリンピック旗の掲揚時には、ま
づ最初に、古代オリンピックの発祥地のギリシャの旗が掲揚された事です。何時も TV、
新聞等でギリシャのユーロ離脱の危機とアテネのストの場面ばかり見て居た私も、オリン
ピックは政治抜きの国別スポーツの祭典だと再認識しました。
ロンドン市長からリオデジャネイロにオリンピック旗の手渡し、続いて次期開催都市リオ
デジャネイロのプレゼンスがあった事も閉会式を盛り上げました。カーニバルのダンスと
演奏で会場が盛りあがり、登場ダンサー達の激しい踊り、そしてあのペレも登場。
2020 年東京開催はどの様な趣向になるのか、考えるだけでわくわくしてきます。
-9-
英国春秋2012年秋号
海と帆船
佐山
菫子
ロンドン・オリンピックが開催された今夏、わたしは残念ながら、日本の選手が出場する
種目をひとつも観戦することができなかった。開会式や閉会式をはじめ、主要なものは
TV で見たり、インターネットのニュースで確認できた。日章旗を目にするたびに、ここ
ろの目が釘付けになり、それを食い入るように見つめている私がいた。母国とは不思議な
ものである。メダルを取った日本選手たちはもちろんのこと、いろいろな種目で、メダル
に手は届かなかったものの国際舞台で大活躍する選手たちのレベルの高さに驚嘆した。
そんなある日、英国の西南端 Weymouth に出かけ、ヨットの種
目が見たくなった。2 年ほど前に友人と一緒に Weymouth まで
ウオーキングにでかけ、そこから船で Portland にわたり、
Portland Bill のあの有名な赤白のまだらに塗りわけられた灯
台を見たことがあった。広大な海に傾く太陽をみながら、荒波
が打ち寄せる岩壁を歩いた。この辺の Chesil Beach は荒波で
小石の海岸が常に生きているように動きまわるというので危険
で悪名高いし、海峡の荒波も、近くを航行する船を、かつては、
たくさん屍に変えたらしい。ちょうど、明治の初めころに灯台
ができて活躍したらしいが、今はもう、使われていないとかだった。そのとき、Weymouth
の 海 峡が オリ ン ピッ クで ヨ ット レー ス に使 われ る のだ とい う こと を耳 に した し、
Portland にスマートな選手村の建物がにょきにょきと建設中であるのも目撃していた。
そこに今出かけたところで、切符なしで見られるかどうかはわからなかったが、海と帆船
を見たいという強い思いは絶ち切り難く、観光協会に電話をすると、予想通り、現場で見
られるかどうかはわからないとのこと。しかし、ビーチには大テレビが設置され、みんな
で観戦できるので、それがいいだろうとのおすすめ。そちらには全く興味がなく、どこか
の浜辺でこの目できっと現場が見られるはずだという強い予感に基づいて、ゲームの予定
表を確かめた上、無謀にもある日曜日出発した。
ウォタルー駅から汽車で 3 時間半。Weymouth の駅にはいろいろなバスが色とりどりに
並んでいた。しかし、聞いてみると、現場へは歩いていくのだという。歩くのは得意だか
ら、せっせと歩いて、街に出た。交通整理をしている女性がいるので、ヨット競技を見る
にはどこに行けばいいかたずねた。彼女は礼儀正しく、左手先の大ビーチを指差しながら、
あそこに行けば大 TV が設置してあるから、そっち方向に進むようにと勧めてくれた。断
固として現場に行きたいと主張すると、日曜日なので混んでいて、警官から止められるか
もしれないと言う。そのときはそのときでもどってきますと、浜辺への行き方を強引に教
えてもらい、先を急いだ。警官は出ていたが誰も止める人はなく、波止場を越えて、現場
の岬にたどりついた。
突出したコンクリートの岬にベンチが並べてあり、そこはすでにいっぱいの人。ベンチの
うしろにも沢山の人が並んで立っていた。ふと下をみると小さ
な浜辺になっており、短い階段下のじゃりの浜辺に人々がそれ
ぞれに陣取っている。さっそく、彼らに加わることにした。海
に向かって浜辺は低くなっていたので、あとから行ったわたし
たちが、前のほうに行っても、なにも文句は出ない。万一のた
めに持参したレインコートを下に敷き、腰を下ろした。切符を
持った人たちは庭園になっている小高い丘の上に陣取っている
らしかった。はるか前方ではあるが、目の前にヨットの競技の準備ができており、まさに
1 時からひと種目、2時からもうひと種目のメダルレースが始まる直前という、おあつら
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英国春秋2012年秋号
えむきの状況だった。始まるまでのあいだ、みんなはそれぞれに弁当を平らげたり、軽い
午睡に入ったり。水際ではこどもたちが水とたわむれ、シェパード犬も一匹、興奮して、
ジャブジャブ水の中に入ったり、駆け上がってきたり、嬉しさをかくしきれない様子。ま
さに家族ぐるみの観戦といったのどかな雰囲気がいっぱいだった。競技が始まると、ユニ
オンジャックを打ち振り、応援をこよなく楽しんでいる。ブラジルの旗を身体に巻きつけ
て、海に突き出した岩にたたずんで、見入っている人たちもいた。ユニオンジャックの小
旗を若い女性が無料配布していた。しかし、わたしにそれは不要だし、わ
たしの友人はアイルランド人なので、二人とも別に国旗を振ることはしな
かった。しかし、その楽しい、のどかな雰囲気と洋々たる海辺でのオリン
ピックゲームの見物に英国での経験が深まった感じがした。
競技が始まってから、遅まきながら、二つの種目の一つは Star, 次は Finn
というクラスであることが判明。はじめのヨットのほうが少し大型。種目
を知らずに見に行くのであるから、のんきなものである。海の真ん中に舞
台裏の船が何隻か陣取っており、係りの人たちの準備は万端のようであっ
た。それぞれの帆船がしずしずと出陣してくる。やがてスタート点をから
出発。それぞれが英国、フランス、ドイツ、デンマーク、オーストラリア、スイス、ブラ
ジルなどの国旗を掲げて、何度か折り返して、競技はすすんだ。折り返すとき、どの船も
決まったように帆をぐうっと傾けて、U ターン。そのさまは蝶が羽を
たたむようで、美しかった。海と風という自然の力との戦いはまさに
命を張った戦いであっただろうが、これをはるか彼方から見物するの
は、のどかで、気持ちがよかった。TV でみる接戦の緊張はなく、何
がおこなわれているかよくわからないままに、ただ風をはらんだ国旗つきのヨットの忙し
い往来に見入った。空には真っ赤なヘリコプターが 2 機。報道陣
の撮影のためのものらしかった。
あとから行われた Finn というレースで英国が優勝。優勝者の Ben
Ainslie の友人だというカップルが隣に座っていて、大きな国旗を肩にかけて振りながら、
大声で声援。TV の箱の中から出てきた本物の応援にはじめて接して、オリンピックが身
近に感じられた。帰りにヨットの模型を買った。小さいけれど木製で、白紺まだら縞の帆
が2枚ついている。わたしの帆船好きとロンドン・オリンピックの記念である。うちの暖
炉の上にはベルギーで買ってきた白紺の灯台の模型がすでに座っていたから、そのお相手
に好都合であった。オリンピックのマークはついていないが、わたしの“London
Olympic-made in Britain” の記念である。
この大成功に気をよくして、というか、海と帆船への思いがおさえがたく、閉会式の週末、
好天気との予報にあわせて、前から行きたかった Isle of Wight に出かけた。リュックを
背負ったあわてふためく冒険の旅であったが、Southampton から East Cowes までの
フェリーボートの中からの光景も、わたしにとっては生涯忘れられない空と海と帆船の限
りなく美しいシンフォニーであった。北の端、East Cowes の Victoria 女王の Osborne
House でも、昨年から、海岸が開かれたとのことで、宮殿から広大な庭を横切って、小
さな、プライベートな海岸に出ると、強い海の香りが鼻孔を快く刺激した。子どもたちが
見入っていた紙芝居のようなパペット・ショウをのぞきこんだ。小さな平和な海岸だった。
翌日、西南端に位置する、あこがれの The Needles にもバスを乗り換えつつ出かけ、チ
ェアー・リフトで間際まで降りて行くことが出来た。三つのチョーク岩の巨大なかたまり
が、三銃士のように仲良く縦列している。これも同じく名高い赤砂利の海岸に座りながら、
これが私の冒険、私のオリンピックなのだと、ひとり悦に入った。
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英国春秋2012年秋号
英国春秋俳壇
なでしこ
バロー典子
満開や 花弁一ひら 落とさずに
万緑の 中を真直ぐ ローマ道
のりだして 日に当たってる ラベンダー
ゆく道を みづから照らす 蛍かな
幼き日 虹の中にて 虹を見ず
虹消えて われに子らあり 庭にバラ
香りして 園に入れば バラの花
花いばら 父母と歩みし 散歩道
清しさや 庭の小滝の 水の音
“なでしこ”という名ゆかしき五輪の日
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英国春秋2012年秋号
英国春秋俳壇
いちご
エリオットつや子
句の心どこかに吸われし春の雨
たそがれて野すみれの花もう見えぬ
今は亡き母の好物いちご買う
白薔薇も黄薔薇もみんな雨の中
百花咲くこの世は仮の宿という
かたつむり歩道急いでどこ行くの
雨はじき朝顔一つ咲きにけり
白百合のゆれる匂いにふと目覚め
聖火リレー声援の中やって来る
ロンドンの夜空に五輪の旗白し
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英国春秋2012年秋号
英国春秋俳壇
月
の
弓
クーパー矩子
かけちがう思いやりかな冬日和
とりつきて離せぬ本や冬霞
閉園を告げられ戻る衿立てて
正装の孫上気せり睦月婚
気散じに短い家出花を見に
言葉なく残すコーヒー半夏生
繰りごとをさらりと受けて川涼み
秋高し訪英の友やゝやせて
夜半の秋なぐさめを欲る友のあり
カーテンのすき間より照る月の弓
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英国春秋2012年秋号
「不思議の島」の日本人たち/マン島のこと
沢村亙
イングランド本島とアイルランドの間に浮かぶマン島は
不思議な島である。
日本の淡路島ほどのこの島は、法的には英国の領土では
なく、イギリス国王の属領なのだという。1000年以上
の歴史を持つとされる世界最古の民主議会がある。タック
スヘイブン(租税回避地)としても知られ、中心都市ダグ
ラスには、金融マンとおぼしきスーツを身につけた人々が
忙しそうに行き交う一画がある。
と思えば、やはり世界で最も古いオートバイレース「TTレース」シーズンになると、
世界中から来た“バイク野郎”がそこここにたむろする。そして、昔も今も風光明媚なリ
ゾートとして静かな人気を集めている。ダグラスの海岸通り「プロムナード」に立ち並ぶ
6∼7階建てのホテル群が、いかにもリゾートらしい優雅なムードを醸し出している。
70余年前、このプロムナードを英兵士に率いられて港から「行進」してきた東洋人の
集団が、どんなに好奇の視線を浴びたかは、想像に難くない。1941年12月の地元紙
は「ジャップがマン島上陸、ただし監視付きで」の見出しで報じている。
今年の初夏、私はこのマン島を訪ねた。
ロンドン五輪を前に、日本と英国の人の交流をめぐる物語を朝日新聞夕刊で連載するこ
とになっていた。第二次世界大戦の開戦直後にマン島に収容された日本人の話から連載を
始めようと決めていた。日本と英国の歴史をひもとくと、いかに戦争がこの二つの国の絆
を断ち切ったかを痛感する。大戦中の在英日本人の収容と、日本軍による英兵捕虜らへの
虐待は、その最たるものだ。連載では、日英交流がリセットされたところから、それを再
び修復した人々に焦点を当てたいと考えた。
もっとも、マン島収容所について、これという手がかりがあったわけではない。とりあ
えず目指した先のマン島図書館で、司書のアラン・フランクリンさんと郷土史研究家のイ
ボンヌ・クレスウェルさんが、日本の記者を温かく迎えてくれた。マン島にあった「敵性
外国人」の収容所は、資料収集や関係者の聞き取りなど、二人の努力でかなりくわしい状
況が判明したといってもよい。
孤島という「地の利」からマン島は第1次大戦に続いて、第2次大戦でも敵性外国人の
収容所となった。ドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人、イタリア人、フィンランド
人、そして日本人らが、島内約10カ所の「キャンプ」に収容された。
実は、1940年6月にフランスがドイツに降伏し、ナチス協力者がフランスに大量侵
入したのが早期降伏の原因と考えた当時の英政府が、慌てて自国内の敵性外国人の摘発に
乗り出したといわれる。したがって、収容されたほとんどがスパイ活動などとは関係のな
いごく普通の市民だった。
「ドイツ人」の中にはドイツ出身のユダヤ人も少なからずいて、
輸送船がダグラス到着後、マン島の「三脚巴」の旗をナチスのかぎ十字と勘違いし、ドイ
ツに連れ戻されたのではとパニックになったという逸話も残る。
「キャンプ」として、冬場に空くホテルやゲストハウスが接収された。周囲に鉄条網が
築かれ、朝晩の点呼が課されたほかは、広範な「自治」が認められていたという。収容者
の中には音楽家や芸術家もいて、ミニコンサートや展覧会が催されたそうだ。学識者たち
による「大学」が設けられたキャンプもあった。高級ホテルで料理人として働いていた者
が収容されたキャンプでは、仲間の収容者たちはおいしい料理にありつくことができた。
夜間こっそりキャンプを抜け出しては、島の娘と逢瀬を重ねたイタリア人もいたという。
冬場の寒さはかなりこたえたようだが、おおらかな「収容所生活」とはいえよう。
実は、フランクリンさんたちが私を歓迎してくれたのには理由がある。ドイツ人やイタ
リア人などの収容者については写真や証言など多くの記録が残るが、日本人についてはほ
とんど記録がないのだという。日本人の大半は1941年12月にマン島に到着。多いと
きは100人近くいて、大半がダグラスのプロムナード沿いにあるパレスキャンプと少し
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英国春秋2012年秋号
内陸部に入ったハッチンソンキャンプにいた。だが、翌42年4月には多くがスコットラ
ンドの収容所に移送された。その後は捕虜となった日本兵も含めて終戦まで10人前後が
いたようだ。
そうした人数の推移については記録でたどれるものの、いったいだれが、どのような生
活をしていたかが皆目わからない。日本の新聞に載れば、ひょっとしたら関係者が名乗り
をあげてくれるのかもしれないと、フランクリンさんたちは期待したのだ。
先に挙げた、日本人の到着を伝える記事では「日本人は豊かなビジネスマンの趣がある」
と描写されている。まさしくその通り、収容者のほぼ半分は、ロンドンで働いていた商社
や銀行の駐在員と新聞社・通信社のロンドン特派員だった。彼らのほとんどは捕虜交換船
で日本に戻った。
船員や雛の雌雄鑑別士も含まれていたようだ。もちろん収容者の中には解放後に英国に
住み続けることを選択した者もいる。だが、戦後も英国に根強く残った反日感情で、多く
の人々が息を潜めるように暮らした。
そのへんの事情が米国の日系人とはだいぶ異なる。
米国の日系人も戦時中は収容所に入れられた。だが戦後の公民権運動の高まりの中で、
彼らは「日系米国人」であることを隠さず、その権利回復・向上を求める運動も広がった。
私は90年代半ばに米国に駐在していた時、カリフォルニア州の日系団体が毎年主催して
いた収容所跡地への「巡礼ツアー」に参加したことがある。移民としての日系人の「記憶」
は語り継がれてきた。
かたや英国では、企業駐在員を除く日本人社会としては、第一次大戦ごろまでロンドン
に次ぐ規模の日本人社会があったイングランド北東部ミドルズバラ周辺に戦後も日系家
族が暮らしていたことや、ロンドンに日本人が経営するランプシェード工場があったこと
などが、若干知られるのみではなかろうか。
話をマン島に戻そう。日本人収容者の顔ぶれと暮らしぶりについては、日英交流史に詳
しい大庭定男さんが保存されている1965年の日本クラブ会報でその一端をうかがい
知ることができる。そこには収容者自身による将棋教室や時事講話、野球大会の様子が記
されている。ほかにも英国在住の伊藤恵子さんが戦前の在英日本人社会を調査してまとめ
られた労作「The Japanese Community in Pre-War Britain」にもマン島収容所の項目が
ある。
この夏には、ミルトンキーンズ在住のエドナ・エグチ・リードさんが、スパイの嫌疑を
かけられて逮捕され、マン島収容所を経て日本に帰された父、江口孝之氏の思い出をまと
めた「スパイにされた日本人」(悠書館)が日本で出版された。戦後60年以上を経て、
当時の歴史が薄皮をはぐように少しずつ明らかになりつつある。
連載の後、私の元にも反響が寄せられた。前述したようにマン島収容者には報道関係者
もいた。朝日新聞ロンドン特派員だった故・福井文雄氏のご子息から「父がマン島収容所
にいたはずだが、詳細を知りたい」という連絡を頂戴した。福井氏はニューヨーク特派員
を経て、戦雲が濃くなったロンドンに特派員として単身赴任。マン島に収容された後に交
換船で帰国した。だが日本では軍部から「親欧米派」とにらまれ、憲兵に何度も呼ばれた
うえ、44歳の時に赤紙が届いて二等兵として徴兵されたという。それでも戦後は朝日新
聞に戻り、戦後初の特派員として再びロンドンに赴いたとのこと。ご子息によると、エリ
ザベス女王の戴冠式の日に、母に連れられて家の近所の電気屋さんに行って、短波ラジオ
で届く父親の肉声リポートを聞いたという。
それから60年。英国はエリザベス女王の即位60年の祝賀行事
に沸いた。ロンドン五輪では女子サッカーのなでしこジャパンの活
躍に大勢の英国人が日の丸を振り、
「ニッポン」と声援を送った。日
英が敵対した時代と、ようやく普通につきあえるようになった現代。
このふたつの時代の間に、どれだけの歴史のうねりとドラマチック
な人間ドラマが詰まっているだろう。
時代を記録するのも新聞記者の仕事である。「今のニュースを追
う」ことだけに忙殺されず、
「歴史をひもとく」余裕と楽しみを持ち
続けていきたいと思う。
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英国春秋2012年秋号
私の卓球練習場所の遍歴
高松直喬
ピンポンとの最初の出会いは、小学校入学の時、叔母がピンポン
のセットを入学祝に買ってくれたことからでした。当時のことで
すから、私は物干し台を利用して友達とピンポンをして楽しんで
いました。しかし、それは数年しか続かなかったのです。当時は
球だけを売る店がなかったので、球が破れると、それっきりにな
ってしまったからです。その後はピンポンをしたことはなく、中
学生のとき、
県内でも強いと噂のあった卓球部員の巧いプレイを
見て、あんなに上手になったらいいなあ、と思うくらいで、ピン
ポンには殆ど縁がないままでした。それが、1986年にイギリ
スに来てから26年の間に、ピンポンとは親しい係り合いになり
ました。
ロンドンに来た直後、英語学校に入ったが、そこに卓球台があって、休憩時間にい
ろいろな国の友人たちと試合を楽しんだものでした。この経験から、Adult Education で
卓球を始めることになりました。そして、当時のいろいろな(多分財政的な)事情のため、
その練習場所を何ヶ所も変えなければならなかったその遍歴をくどいですが順を追って
書いてみます。
最初は家に近い Paddington College でした。冬でしたが、初めて体育館を訪れた
時、窓は明るく、室内は暖かく、卓球台も5,6台もありました。楽しそうに練習してい
る人たちを見て、夢の国に来たような感じがしたものでした。練習が終わると、ゆっくり
お茶も飲めるし、事務所のスタッフもその時間までいてくれたのでした。
私たちがカンタベリーに引っ越したので、残念ながら6ヶ月の短い期間で終わって
しまいましたが、それから1年半後、ロンドンに戻って来ても卓球をする機会はありませ
んでした。ところが、93年秋、Amberly Road Adult Education で卓球の練習を再開す
る機会を得ました。ここは Edgware Road 駅からバスで5つ目のところで、設備の良い
体育館があり、閉鎖になるまで1年6ヶ月通いました。帰路は厳しい寒さの中でバス待ち
は辛かったですが、卓球が楽しくて全然休まず続けました。
その半年後、幸い N. Wharf Road Education Centre でまた卓球を始めることがで
き ま した 。前 と 同じ 地下 鉄 駅の すぐ 近 くで 、夜 は 淋し いと こ ろで した が 、近 くに
Paddington Mary 病院が見えていました。ここは gym だけで卓球台は10台もあり、
学生、ビジネスマンも含め、参加者が多く、皆上手でした。専門のコーチの指導もあり、
卓球の学校のようでした。始めに準備体操があり、私を相手に球の打ち方などいろいろと
指導して貰いました。ここでの練習は 理想的な期間でしたが、残念ながら10ヶ月足ら
ずでまた閉鎖になってしまいました。
次の場所は、コーチ補佐の人が紹介してくれた Swiss Cottage Sport Centre でし
た。この施設ではバドミントンのセットが張れるし、天井も高く、観覧席さえあり、プー
ルも2つあって堂々たるものでした。私たちは広い gym の一角で数台の卓球台で練習し
ていました。前からのメンバーは時間が昼間に変ったので殆ど来なくなってしまいました
が、新メンバーが入り常時7,8名の参加者がありました。メンバーは主に音楽関係者や
シニアの人達でした。5年近く通ったのですが建て替えでストップとなりました。何故こ
んな立派な大きい施設を建て替えるのかと不思議に思ったのが、4年後には再建され、今
では私たちも時折お世話になっています。
次に探し出したのが Kilborn High Road から北に入ったところにある Chartaris
Sport Centre でした。その gym では中学生の授業でバスケット・ボールのコートが使わ
れていましたが、その中学生たちとの折り合いがうまくいかず、またもそこでの練習も1
年1ヶ月で終止符をうつことになりました。
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英国春秋2012年秋号
またまた探せば良いところが見付かるもので、Taracre
Community Sport Centre という素晴らしい gym が見付かり
ました。Camden Rock バス停から 10 分のところで、Kentish
Town West 駅のすぐ近くです。スタッフもたくさんいて、卓
球台も常時 5 台置いてくれています。冷房もあり夏の練習には
快適です。バスケット・ボール、バドミントンなどのコートも
あるし、隣には子供用 gym があり、子供連れの母親たちでい
つも賑やかです。屋外にはバスケット、サッカーなどの広い施
設があり、子供たちがスポーツの指導を受けている姿も見られ
ます。とにかく新しい立派な gym で、私たちのクラブはシニアのための卓球クラブとし
て位置付けされています。毎週火曜日午後 2 時から 4 時までみんなで楽しく練習してい
ます。練習場所遍歴のあげく、やっと、ここでは落ち着いて、現在まで 9 年 6 ヶ月もの
間クラブの全員で親しく卓球練習が続いているのです。常時 10 人余りが集まり、女性も
ほぼ半数です。しっかりしたクラブと見なされ、そこの Director はクリスマスにはパー
ティを開いてくれるのです。
ピンポンのお蔭で病気はしないし、80 歳半ばを越してもなお足腰は年齢にしては
強いようです。練習している時は何だか若者のような感じになって体が動くのは不思議な
気がしています。ピンポンは気軽に始められるし、シニアにとっても適当な楽しい
exercise だと思います。
 





ダウジングと私
畠田勉
ダウジングを知っている方は少ないでしょう。
ダウジングは古代エジプトに発生したと言われています。日本
語では“振り子”と訳されていますが、これははさみ板にクサ
リがついたその先に砲型状のおもりがついたものです。
これを人がつまんで対象物の上にたらすと、“右”か“左”に
揺れます。これはダウジングが人の心の奥深に到達して判断す
るためです。たとえばロボットのような機械がつまんで対象物
の上に垂らしてもダウジングは微動だにしません。
私が振り子に出会ったのは30数年ばかり前のことです。中国
仙道健康研究会に入った時でした。爾来今日に至っています。
最初の頃は判断が出来るとの事で、株式相場を振り子に聞いて
みたりしました。現在は食品の良し悪しの判断に使っています。買った食品を賞味期間が
不明な時、振り子で調べます。振り子が右回りでしたら食べ、左回りの場合は食べません。
他に、きのこ狩りのシーズンには必ず持参し、毒きのこがどうかの判断を振り子に聞きま
す。
他にも写真の上にダウジングを垂らすとその人の健康状態が判ります。右回りの人は
健康ですが、左回りの人はそう健康でないということです。
ダウジングは身体の異常部の発見にも役立っています。ピラミックス・デジタルの身体の
各部分に垂らすと異常部は左回りします。左回りの場合は、医師の検査を受けるようおす
すめいたします。こんな研究はほとんど行なわれていませんが、もし何かの役に立てれば
と思いご紹介しました。
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英国春秋2012年秋号
Treasures of the Nation:
日英博覧会における日本美術展の評価と意義について
有地芽浬
2012 年はエリザベス女王のダイアモンド・ジュビリーとオリンピックで世界中が
ロンドンに注目した年であったが、オリンピックがロンドンで開催されたのは今回で3回
目、最初のロンドン・オリンピックは 100 年以上昔の 1908 年であった。この 1 回目のオ
リンピックはロンドン西部にその年 Franco-British Exhibition (仏英博覧会)のために建
設された White City 地域 の楕円形の 競技場を中心に開催された。博覧会会場の White
City という名は展示場として造られた建物の全てが白い大理石をふんだんに使った壮麗
な建築であったことから来ているという。オリンピックの 2 年後の 1910 年にはここで
Japan-British Exhibition (日英博覧会) が開催されることになり、日本は国を挙げてこ
のプロジェクトに協力することとなった。各国の産業、文化を紹介して経済促進を狙う世
界博覧会は 1851 年にロンドンのハイド・パークで開催された The Great Exhibition を
皮切りにパリ、ウィーン 、シカゴ、フィラデルフィアなどで次々と成功をおさめており、
日本政府は日本の産業、工芸を世界にアッピールして外貨獲得を目的に積極的に参加して
いたが、1910 年の博覧会は英国と日本だけに焦点を絞った両国の友好関係を深めるため
に格好な機会であった。
当時の日本はまだ明治時代、日露戦争での勝利のあと 1910 年には朝鮮の統治権
を手に入れてまさに東アジアの強国としての存在を世界に誇示している時期であった。
1902 年に日英同盟を結んで以来日本は英国との絆を更に確固たるものにすることを欲し
ていたが、産業、経済商業の面においてはまだまだ英国と大きな差が明白であった。西欧
の先進国を手本に日本も植民地政策を進めて台湾、韓国を手に入れていたが、着々と強国
になって行く日本に西欧諸国は一種の危惧も抱いており情勢を懐疑的な目で見守ってい
る時期でもあった。そのような微妙な政治情勢下にあって、日英博覧会は英国における日
本のイメージ向上を図る日本にとっては願ってもいない幸運なタイミングであったとい
えよう。
外務大臣、小村寿太郎の強力な賛同を得て、日本政府は 208 万円という当時とし
ては多額な費用を注ぎ込み、名誉総裁には伏見宮貞愛親王が選ばれて 1910 年 5 月 14 日
の開会式にはるばる日本から出席されていることからも、日本政府の力の入れようがうか
がわれる。博覧会の会場は 1908 年の仏英博覧会のときよりも更に拡大されて、2 箇所に
日本から招聘された庭師たちの手になる 3,000 坪あまりの伝統的な日本庭園が造られた。
広大な博覧会会場には数々の展示館の他に日本文化の多様性を示すアイヌ村が作られて
アイヌの家族まで博覧会の期間中滞在したという。当時の博覧会会場はその後 100 年の
間にすっかり変貌し、オリンピック競技場はグレイ・ハウンド・ドッグ・レースのトラッ
クとして生まれ変わったが、1985 年にはここに BBC Broadcasting Centre を造るために
取り壊された。 唯一残っていた日本庭園はすっかり荒れていたものを、2 年前の日英博
覧会 100 周年を記念してロンドン在住の日本人ボランティアの力で蘇らせたことは記憶
に新しい。
1910 年の日英博覧会の際に明治政府が最も力を入れて協力を惜しまなかったプ
ロジェクトの一つが Fine Art Palace (図1)の大日本美術展だった。「美術の殿堂」と
いう名からも想像できるよう、この建物は 1908 年の
仏英博覧会の際に両国の美術展示のためにデザイン
されたもので、知識の伝達、教育を目的とした美術
館ともいうべき重厚な建物だった。従来の世界博覧
会での日本美術展示が陶器や七宝、ブロンズ彫刻と
いった工芸品の商品中心であったのとは違って、
1910 年の日本美術展は一部の現代絵画以外は売却を
目的としない純粋な見せるための展覧会だったこと
が大きな特徴であった。建物の右半分は英国王室から貸し出された 15 点の作品はじめ英
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英国春秋2012年秋号
国側の出品した 1,000 点にも及ぶ絵画、彫刻の展示にあてられ、中央ホールをはさんだ左
半分の 14 室が日本にあてがわれた。
博覧会に日本美術の名作を展示することが決定するやすぐに東京では井上馨侯爵
を委員長にかかげた 28 名のメンバーからなる日英博覧会美術品出品奨励委員会が設置
されて、第一回目の会議が 1909 年 8 月 24 日に華族會舘で開かれた。
「大ニ国光ヲ発揚スヘキ
朝野ノ有力者ヲ華族會舘ニ招集」と博覧会事務局報告書にあるように、個人の所蔵する日本
美術の名作を博覧会のために貸し出すこと奨励するのが委員会の目的だった。委員会メン
バーには、大熊重信、岩崎久彌、金子賢太郎、大倉喜八郎、三井八郎右衛門、九鬼隆一、
松方正義、松平正直、益田孝などまさに明治の政界、実業界の有力者たちが名をつらねて
いる。この会議の後には更に各方面 260 名に勧誘、出資を促す手紙が出され、実際に作
品を選出するためには東京美術学校(現東京芸大)の校長、正木直彦ほか 12 名の委員が
任命されている。
選出委員会は 20 回以上の会議を重ねて絵画、彫刻、建築、金工、漆器、染織か
らなる 6 カテゴリーの展示作品を決定したが、中でも委員たちが最も重要視したのが絵
画であった。21 点の彫刻、13 点の建築モデル、40 点の金工、40 点の漆器、9 点の染織
という作品数と比較して 296 点という多数の絵画が選ばれた事は注目に値する。実際問
題としてデリケートな仏教彫刻の輸送よりも掛け軸表装の絵画の方が容易だったことと、
繊細な色彩の保護のために絵画は博覧会期間中に数度の展示替えをするため多数の作品
が必要だったことは明白だが、平安時代から明治までを含む日本美術史総覧ともいうべき
作品のリストからは委員会の意図が絵画を通して日本の美術の品格、文化の奥深さを示そ
うとしていたことがうかがわれる。
展示作品の図録の英語版はロンドンのベンローズ社から、日本語版は博覧会事務
局の編集で審美書院から出版されたが、英語版の序文には「今回の展覧会のため日本から
わざわざ運ばれた美術品は、国の宝(Treasures of the nation)ともいうべき優品揃いで
外国はもちろんのこと日本国内でも滅多に見ることができない貴重な作品ばかりである」
と記されている。この図録は日・英語版ともに作品の所蔵主を明記していることから、後
に現在は東京国立博物館所蔵の国宝となった作品も 1910 年にはまだ個人が所有していた
ことがわかり、美術品の所蔵主からこの 100 年余りの日本の政治的、経済的背景をうか
がうことができる。また 100 年の間には美術史研究にも顕著な進展があったため、当時
は雪舟、周文、狩野永徳など一流画家の真筆とされていた作品が現在では「伝」雪舟、ま
たはその弟子の作品と判断されていることも興味深い。
まず図録を一瞥して明らかなことは、「鳥獣戯画」、「北野天神縁起」、雪舟筆「秋
冬山水図」、長谷川等伯筆「枯木猿候図」、土佐光起筆「源氏物語屏風」、宗達筆「扇面屏
風」、光琳筆「紅白梅図」など現在では国宝、または重要文化財指定をうけている作品の
多いこと、更には平安仏画から始まり、鎌倉絵巻、室町水墨画、桃山・江戸の狩野派、土
佐派、琳派、文人画、京都円山四条派、浮世絵、明治日本画までを網羅するその系統的な
展示方針であろう。それまでのヨーロッパでの日本美術に対する興味は 18 世紀の陶磁器
蒐集、19 世紀の浮世絵版画蒐集といった非常に限られた範囲に留まっていたため、1910
年に展示された絵画は英国の一般人にとっては全く未知の世界であった。大英博物館では
明治のお雇い外国人として日本に滞在して日本絵画収集を熱心に行ったウィリアム・アン
ダーソンのコレクションを 1881 年に買い取っており、一部の知識人、美術評論家たちは
日本美術が浮世絵版画だけではないことを認識していたと思われるが、実際に名作に接す
るのは彼らにとっても初めての経験であった。
当時の大英博物館学芸員で詩人としても活躍した美術評論家、ロレンス・ビンヨ
ンは展覧会が始まってまもなくの 5 月 28 日付けのサタデー・レヴューに次の一文を記し
ている。「シェファーズ・ブッシュで素晴らしい日本美術展覧会が開かれている。美術愛
好家は是非とも近い内に訪れて、展示替えの度に何度も通うことをお勧めする。こんな素
晴らしい機会は二度とないであろう。この展覧会は日本の芸術の高尚さ、偉大な思想を表
現している。
」以下に何点かの絵画をとりあげて、この展覧会の驚くべき質の高さと英国
での高い評価を分析してみたい。
展示作品中ビンヨンはじめ英国の知識人が特に注目したのはそれまで日本国外で
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英国春秋2012年秋号
は見ることができなかった一連の平安時代の仏教絵画だった。日本では明治初期の廃仏毀
釈の風潮の中で貴重な仏画が市場に流れた事情から、個人所蔵となった作品が出ていた。
1910 年当時には政界、経済界の有力者間で仏画蒐集が注目されるようになり、井上馨、
九鬼隆一、根津嘉一郎、大倉喜八郎、益田孝らが競って名品を手に入れていた。特に益田
孝は美術愛好家たちの集まる有名な茶会「大師会」を主催
して、茶会で仏画を飾ることを流行らせている。ロンドン
での展覧会に仏画を出品したのはこうした新しいコレクタ
ーたちであった。
なかでも井上馨所蔵であった「虚空蔵菩薩像」(図2)
は平安後期の繊細な藤原様式を代表する優品で、現在は東
京国立博物館所蔵の国宝に指定されている名作だった。真
言宗の祖、空海が修行中にこの菩薩から超人的な記憶力を
授かり、以後篤く信仰したという虚空蔵菩薩の像は、密教
の求聞持法という秘法の本尊として使われたという。平安
後期の皇族や藤原貴族たちの上品な趣味を反映して落ち着
いた色彩でありながらも高価な截金をふんだんに使った優
美な作品は、仏画をはじめて見る英国の人々に強い感銘を
与えたようだった。
図2
同じく平安後期の仏画で益田孝所蔵の「普賢菩薩像」(図3、現在は細見美術館所蔵)も飛
雲のうえに立つ白象の背に座す優雅な菩薩像で、切れ長な眼と赤い小さな唇が女性のよう
に優しい表情の菩薩像 (図3a) だった。イギリスの鑑賞者たちはこうした慈悲深い表情
の仏・菩薩のイメージにキリスト教の聖母マリア像にも通じる気品と同時に親しみやすさ
を感じ取ったのではないだろうか。再びビンヨンの言葉を借りると、
「偉大な仏画はその
観念的な荘厳さにおいてフラ・アンジェリコ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ミチェラ
ンジェロに匹敵するもので、それ以外のどんなヨーロッパの絵画も及ばない」と絶賛して
いる。
(The Times, 1910 年 9 月 10 日)仏教の複雑なイコノグラフィーや論理に馴染み
のないイギリス人にも宗教画の持つ眼には見えない神聖な本質が感じられたと思われる。
図3
図3a
仏画に対する熱烈な賛辞とは対照的に、ビンヨンはヨーロッパではすでに版画を
通して広く名の知れていた浮世絵師たちの作品を辛辣に批判しているのは面白い。この展
覧会には約 150 点、全体の半分にも上る数の浮世絵が含まれていたが、版画は1枚もな
くて全てが肉筆の作品ばかりであった。初期浮世絵の菱川師宣から鳥居清長、懐月堂安度、
奥村政信、鈴木春信、勝川春章、喜多川歌麿、葛飾北斎、安藤広重まで江戸時代の浮世絵
界を代表する巨匠たちの作品群は、日本では版画よりもはるかに評価の高い肉筆絹本の掛
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け軸、紙本の巻物、屏風だった。しかし浮世絵版画の鮮やかな色彩と奇抜な構図、奔放な
表現を見慣れた西欧の人々の目には、微妙な色彩と綿密な筆致の肉筆は力強さに欠ける単
調なものと写ったようだった。ビンヨンは「多くの鑑賞者は同じ作者の版画と比較して肉
筆浮世絵には魅力を感じないであろう。北斎はたいしたことはないし、歌麿ときたらひど
いものだ。」とまで酷評している。
図4
浮世絵展示のセクションでビンヨンが
賞賛した唯一の作品は、
江戸初期の風俗画界の
異色の画師、岩佐又兵衛の手になるとされる
「豊国祭礼図屏風」(図4)だった。1604 年の
豊臣秀吉の 7 回忌に行われた豊国祭を描いた
6曲1双の屏風は、各縦 166 cm、横 345 cm
の大画面に金雲をちらし祭りを楽しむ千人も
の人々をエネルギッシュな筆致で描いた豪華
な屏風だった。金雲の合間には江戸時代に火事
で損失した京都の大仏殿や豊国神社近くの主
な寺社が見え隠れして、
驚くばかりの細密さで
祭りの行列や踊りに熱中する人々一人ひとり
の表情から衣装の文様までが生き生きと描か
れていた。拡大図(図4a) では当時大流行した
南蛮人の仮装をして踊る人物が認められ、風俗
記録としても興味深い。俯瞰的な構図も日本の
図4a
風景画では一般的な手法だったが、地平線のある画面を遠近法でまとめる西洋の風景画を
見慣れた者には空のない画面は非常に新鮮に写ったのであろう。
この屏風を 1910 年に出品した蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)侯爵は阿波国徳
島藩の第 14 代藩主であったが、明治維新後にはオックスフォード大学に留学し、フラン
ス公使、東京府知事、貴族院議長、文部大臣などを歴任した人物だった。初代藩主の蜂須
賀正勝は豊臣秀吉の恩によって大名となった経緯から豊国神社と蜂須賀家は縁があり、こ
の屏風も元は高野山光明院にあったものが蜂須賀家の家宝となっていた。蜂須賀家は東京
の三田に大邸宅を営み(邸宅の一部は後に慶応のグラウンドとな
った)、北海
道開拓に積極的に関わって大農場経営に成功していたが、1918 年の茂韶の没後には 1920
年ごろから農場の小作争議や凶作が続いて経営は困難に陥って行った。次代の正韶、その
子正氏は共に政治・経済手腕に欠けて蜂須賀家の家運は一途に傾いて行ったが、正氏は家
の経済状態の深刻さをよそに飛行機操縦などの道楽にふけっていたという。ついに 1933
年には家宝の美術品 205 点を売立てに出して借金と相続税にあてることとなり、
「豊国祭
礼図屏風」も手放してしまった。
蜂須賀家の売立てで「豊国祭礼図屏風」を 3 万 6900 円で落札したのは尾張徳川
家第 19 代当主の徳川義親侯爵だった。同じく北海道に徳川家も農場を経営していたが蜂
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須賀家の没落とは対照的に、政治・経済情勢の動向に鋭い洞察力を持っていた義親は家政
整理をして徳川家の経済運営の改革に努めていた。1921 年には 2 度の売立てで多数のあ
まり価値のない美術品は売却して、その資金で 1931 年に現在の徳川美術館の前身、徳川
黎明会を設立して家宝を保護した。そうした経緯から「豊国祭礼図屏風」は今でも名古屋
の徳川美術館所蔵となっており、国の重要文化財の指定を受けている。この美術品 1 点
からも 20 世紀日本の政治・経済・社会の変動、華族階級の衰退が読み取れる。
紙面の都合からその他多くの作品については語れないが、最後に現在は熱海の
MOA 美術館の所蔵する尾形光琳の代表作「紅白梅図屏風」(図5)をあげておきたい。光
琳最晩年の傑作として国宝に指定されているこの作品は、琳派様式の頂点ともいえる名作
でその洒脱なデザイン感覚は現代にも通じる力強さに溢れている。1910 年にこの屏風は
図5
元弘前藩主、津軽承昭伯爵から貸し出されていたが、河野元昭氏(元東大教授)は津軽家の
祖先は光琳の有力なパトロンであったことから、この屏風は光琳が 18 世紀初頭の当主の
津軽信寿の長男信興の結婚を祝して制作したのであろうと指摘している。「紅白梅」とい
う題材は、目出度い儀式の象徴であり、梅は老木ほど香りが優れるといわれることから末
永い将来の繁栄を願う意味でも結婚祝いにふさわしいものだった。
1910 年には光琳の「紅白梅図」の他に後に戦災で失われた同じく光琳筆の岩崎小
彌太所蔵「松島図屏風」や、団琢磨所蔵「つつじ」、宮内庁から貸し出された俵屋宗達筆
「扇面屏風」
、九鬼隆一所蔵の本阿弥光悦筆「萩と兎」、酒井抱一筆「春秋草花図」など 12
点の琳派の作品が含まれていた。ビンヨンも前記のサタデー・レヴューで琳派芸術は「華
麗な装飾」と好意的に述べているが、その評価は洗練された色彩と構図の視覚的なアッピ
ールのみに終わったようだ。琳派の芸術はその題材に日本の文化と伝統に深く根付いた意
味や、文学や絵画にしばしば表される名所への思慕がこめられていることは、当時の西欧
の人々の日本の文化に対する知識では把握できず、「琳派の作品は装飾的」という評価に
留まったのは仕方のないことであった。
1910 年 5 月 14 日に始まった日英博覧会は 5 ヶ月後の 10 月 29 日に好評の内に幕
を閉じたが、期間中に 835 万人の入場者を記録するという大成功であった。大日本美術
展は翌年出版された公式報告書においても最も人気のあった展示の一つとして特に言及
されている。日本の美術は浮世絵版画だけではなく千年を遡る宗教画や風景画があるとい
う事実のみではなく、日本は英国同様の古い歴史と高度な文化・思想を誇る国であること
を美術を通して英国一般の人々に示唆したという意味でこの美術展は大きな意義のある
企画であったと言えよう。美術はその国の文化のバロメターであり、日本の伝統美術は世
界に誇ることが出来る力を持っていることを改めて見直したい。
図1. Fine Art Palace, White City
図2. 「虚空蔵菩薩像」、平安時代(12 世紀)、絹本着色、東京国立博物館
図3. 「普賢菩薩像」
、平安時代(12 世紀)、絹本着色、京都・細見美術館
図3a. 「普賢菩薩像」拡大図
図4.
(伝)岩佐又兵衛、
「豊国祭礼図屏風」6 曲1双、金箔彩色、17世紀、徳川美術館
図4a . 「豊国祭礼図」拡大図
図5. 尾形光琳、「紅白梅図」2 曲1双、金箔彩色、1716 年、MOA 美術館
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英国春秋2012年秋号
Skibo Castle
古沢イクコ
私たちがゴルフ倶楽部に入った時、エドワードさんと
いう方が倶楽部の会長でした。とてもスマートな英国
紳士で奥さんも上品な奇麗な方でした。エドワード夫
妻とは2カップルでよく一緒にゴルフ旅行をする事に
なりました。なかでも1番の思い出は Skibo Castle の
中にある Carnegie Golf Club に行った事です。アメリ
カへ移民し事業に成功した、カーネギー氏が故郷のス
コットランドの出生地にあるお城 Skibo Castle を購入し、今ではその中にゴルフ場がで
き乗馬が出来るように成っています。
ある日、エドワードさんが「私は今年会社を退職するので、Carnegie Golf Cub でゴル
フするのも最後になる。このゴルフ倶楽部は毎年いろんな企画をたてお客さんを接待した
思い出深い所です。最後にもう1度行きたいのだけど一緒に行かないか。3カップルで行
こうと思う。
」そう私におしゃいました。エドワードさんはシテイーの大きな会社の会長
でした。夫は私さえよければ行きたいとすでに返事をしていました。もう1組のカップル
とは面識はありませんでしたが、エドワードさんから噂は聞いていました。ケントに住ん
でいて庭に湖が3つあり、そこに白鳥の家族がいて毎年ヒナを孵すという話しでした。私
は一瞬考えました。ゴルフのプレイの方はみんなについていけましたが、英語に問題があ
りました。聞く方はなんとか成りましたが話す方はみんなの会話に入れませんでした。私
にとって、それは非常に辛いことでしたが、やがて今の自分の欠点も長所もそのまま受け
入れて、真っすぐ上をむいて歩いて行きたいと思うように成ってきていました。
「こんな事は私の人生に1度しかないような経験ですので宜しかったらご一緒させて下
さい。」と答えました。私は旅行中、絶対に夫と日本語で話すまいと心に誓いました。旅
行から帰ってエドワードさんから「イクコが私たちの前で、日本語で話すのではと危惧し
ていたけれど、1度も話さなかったね。」と言われました。気がつかれていたようです。
Skibo Castle に着いたらわたしたちをバチュラーと白いエプロンをしたメイド達が並ん
で迎えてくれました。このようなシーンを映画で見た事があるなと思いました。車から降
りて荷物を出そうとするとエドワードさんが「ゴルフシューズのバッグだけを持って、後
は全てこの人達にまかせなさい。」と言われました。
お城の樫の大階段を荷物を持ったバチュラーの後に付いていくと各部屋にはナンバーの
代わりに名前が付いていました。私達の部屋のドアを開けながら「この人は有名なスコッ
トランドの政治家でこの部屋で自殺しました。この人の幽霊を見たという人もいますので、
もし幽霊が出て来ても驚かれませんように。」と言って出て行きました。夫は「この部屋
で有名な政治家が自殺して、その人の幽霊が出るかもしれない?おまけにその人にちなん
で、この部屋の名前につけただなんて!」と言って笑いながら首を振っていました。私は
着替えながら考えました。「これは演出なのだ!」私達がこのお城に着いたときからドラ
マが始まり、私達はただ演出家に従いゆったりと振る舞えばいいのだと理解しました。
夜は二階のダイニング.ルームで晩餐会がありました。大きな長いテーブルのホスト席に
座っている城主が来客に「ようこそ、Carnegie Castle にお越し下さいました。」という
スピーチの後、女王様に乾杯、レーデイーのために乾杯、その度に男性はグラスを持って
立ち上がりました。その日はオーストラリアのプロゴルファーのグレッグ.ノーマンが家
族ときていました。
食後、居間でくつろいでいると中年のウェイターがモルトーウィスキーを持って来ました。
長いお盆に小さなグラスが5つ並んでいます。「5種類のモルトーウィスキーが入ってい
るので試飲してみて下さい」と言われました。ロバートはいたずらっぽい目で私を見て「イ
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英国春秋2012年秋号
クコが試飲してみてごらん」と言うのです。私は大の甘党でアルコールは苦手なのを、知
っているのにです。私は1つ目のグラスを取り、口に持っていくといい香りがしました。
酔っぱらうと困るので、気をつけてソーと舌の上にのせました。「かすかなスモキーな味
と香りがします。ちょっと甘みもあり、まるでブランデーのようです。」
と言った。みんなはその後もモルトーウィスキーを楽しんでいたが私は
「モルトーウィスキーの試飲で酔ったようなので失礼します。」と部屋
に帰った。部屋にはライオンの足の付いたお風呂がありました。お風呂
に入り、窓辺にある文机に座るとカーネギー城のネーム入りの便せんが
置いてありました。日本の姉に手紙を書く事にしました。モルトウィス
キーの半分ほど入ったボトルがグラスと一緒に置いてありました。少し
飲んでみたくなりました。グラスにモルトウイスキーを少し注ぎ、口にふくむと鼻の奥に
ほのかな香りがしました。飲み込むと、胃がポーと熱く成り、あたまがフワーと軽く成り
眠気が一気に襲って来ました。
次の日、バッグパイプの音で目が覚めました。お城の周りを時計代わりにバッグパイプを
吹きながらまわっているのでしょう。朝食の後、大階段の下のホールに若者がフクロウの
子供を連れてきて見せてくれました。柔らかなふさふさした羽をしています。歩かせると
体に似合わず足は太いのですがヨチヨチとおぼつかない足どりです。大きな目ですが、ま
だ無邪気な目をしています。梟はどうしても右の方向にばかり行くので、若者はそのつど
連れ戻していました。私は梟は恥ずかしいのか、それとも私たちを怖がっているのではと
思っていました。若者はちょっと困ったような顔をして「あちらが台所で、今ベーコンを
焼く匂いがしているものですから。
」と言いました。みんなは思わず笑ってしまいました。
その後、鷹匠が玄関の前の庭でデモンストレーションをしてくれました。鷹の足に付いた
短い紐を放すと鷹はサーと舞い上がって玄関の塔の上に止りました。片手に皮の手袋をし
てその指の間に細く切ったチキンをはさみ、その手を横に上げましたが鷹はなかなか飛ん
できません。
「いつもはすぐに飛んで来るのですが、ヘリコプターが止っているので羽が
傷つかないように空間を測っているのでしょう。」前庭にはグレッグ・ノーマンの乗って
来たおおきなヘリコプターが止っていました。次の瞬間、鷹が飛んで来て一気にチキン取
って塔の上に飛んで行きました。その間、1度も羽ばたきもせず、一瞬の出来事でした。
「皆さんもやってみて下さい。」と皮手袋を渡されました。一人ずつ言われたとうりに革
手袋をしてチキンの切れはしを指の間にはさみ、緊張して手を横に出していました。鷹は
サーと飛んで来てはチキンを取って塔の上に飛んで行きます。その後のホットしたような
満足そうなみんなの顔。
私はそんな様子を写真に取っていました。自分でやってみるつもりはありませんでした。
ところがエドワードさんは最後に私に「さー、イクコもやってごらんなさい」と言われた
ので「いいえ、結構です」と言ったのに「さー早く」とおっしゃるのです。その言葉にお
されるままに私は手袋をしてその手を横に上げました。鷹匠は「アー」と悲鳴を上げまし
た。
その瞬間、鷹がサーと飛んで来てそのまま塔の上に帰っていきました。私はチキンをもた
ず手を横に出してしまったのです。鷹匠は「鷹は一度信頼を無くすと、それをとりもどす
のには時間がかかるのです。」と言いました。私はよく説明を聞いていませんでした。み
んなの注目を浴びながら手を横に上げたままじっと立っていました。なかなかチキンを取
りに来てくれないのです。鷹はやっと飛んできて私の手からチキン
を取ってくれました。みんなもホットしたのでしょう、拍手をして
くれました。
ゴルフが主な目的でしたが今思い出そうとしてもカーネギーがど
んなコースだったのか、どんなプレイをしたのかも、全くと言って
いいほど記憶に残っていません。その時に記念で買ったサンバイザ
ーはその後も愛用して今でも私の手元にあります。
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英国春秋2012年秋号
臨床僧
対本宗訓(僧医)
昨年の2月、京都で「臨床僧の会・サーラ」が発足しました。
「臨
床僧」とは臨床に立つ僧侶という意味での命名です。またサー
ラとは、仏教の三大聖樹のひとつで、釈迦涅槃の光景に出てく
る沙羅樹から来ています。
二千数百年前、仏陀が「医王」とも呼ばれたのは、単に病を
治す知恵を持っていたからではありません。病僧の垢身を清拭
し排泄物の世話をしたという逸話が残されているように、自ら
が辿りついた悟りの境地を基盤に病める人に寄り添い、〝身体〟と〝こころ〟両面のケア
を行ったからに違いありません。生と死の狭間で悩み苦しむ人々の声を聞き、共に考え、
道を指し示したのです。
現代の臨床僧もまた、患者さんとそのご家族に寄り添い、喜びと悲しみを共有すること
を目指します。そうした活動は、当然、寺を支える檀信徒さん方も対象となります。戦前
まで当たり前のように行われていたという檀信徒さんの看取りが復活することで、失われ
かけていた寺と檀家の絆が取り戻されるに違いありません。
日本では従来、葬送儀礼に専従する僧侶は死を連想して縁起が悪い存在とされがちで、
医療機関などに立ち入ることは忌避されてきました。しかし僧侶の本来の役割は人々の生
老病死の苦に寄り添うことであったはずです。そこで私のように宗門を去って医師にまで
はならなくとも、一般の住職の立場で何とか医療や福祉の現場に参加できる道はないだろ
うかと考え、臨床僧の活動を提起したのです。これは私が僧侶の研修会などで講演のとき
に頼まれた、意欲ある坊さんたちとの約束を果たす意味でもあります。
臨床僧になるには宗派や僧位は関係ありません。まずは患者さんやお年寄りの身体に触れ
させていただくために、ヘルパー2級など何か公的な資格を取得してもらいます。臨床の
現場に立つには、相応の知識と技術、それに心構えが必要だからです。そのうえで会とし
ての研修を継続しながら、受け入れてくださった医療機関や福祉施設でスタッフの一人と
して活動します。
臨床僧は、望まれない限り説法はしません。読経や法要も営みません。必要に応じて、身
のまわりの世話や介護の手伝い、患者さんやご家族の話し相手になったりと、手を労し額
に汗して患者さんの身体と心に寄り添います。生老病死の伴走者として、求められればい
つでも傍にいる。それが臨床僧のありかたです。
これにはエピソードがあります。ある仏教系の小さなホスピスでのことです。そこではビ
ハーラ僧を名乗る選りすぐりの坊さんたちが何人か常駐して、死にゆく患者さんたちのケ
アをしていました。
ある日、会社を定年退職した男性が得度して仏門に入り、この
ホスピスでボランティアを始めたのです。作務衣は着けていて
もまだ僧侶としては駆け出しの新米です。お経も読めませんし、
ましてや説法など何もできません。ただ毎日ホスピスに足を運
んで患者さんの車椅子を押したり、お茶を汲んだり、花を生け
かえたり、掃除をしたりと、骨身を惜しまずに奉仕していまし
た。そうするうちに、患者さんや家族の方々と自然な会話が生
まれ、しだいにいろいろな悩みごとを打ち明けられるまでになっていきました。患者さん
や家族の方々は、ビハーラ僧ではなくて新米坊さんのこの男性のほうを頼りとするように
なったといいます。
いくらビーハーラ僧が仏教の専門家であり、いわゆるスピリチュアル・ケアの研修を受け
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英国春秋2012年秋号
てホスピスで活動してはいても、患者さんのベッドサイドにたまにやってきて型どおりの
話をするだけでは心の交流は生まれません。むしろこの男性のように、身を労しながら常
にそばにいることによって、患者さんやご家族、それに医療スタッフの信頼まで勝ち取る
ことになったのです。これはまさに禅門でいう作務の精神でもあります。
さて、話を戻しますが、公的資格を取った臨床僧には次に、いくつかのコミュニケーショ
ン・スキルを修得してもらうことにしています。そのひとつがコンフォート・ハンドです。
ヒーリング、マッサージ、アロマセラピーの各要素が少しずつ合わさったようなこの技法
は簡便ながらたいへん好評で、もちろん医療行為には該当せず、講習さえ受ければ誰でも
行えます。さっそく医療施設の許可を得てデイ・ケアのお年寄りの方々との触れ合いで実
践しましたところ、たちまちほっこりした笑顔の輪が広がり、和気にあふれてお互いの距
離がいっきに縮まりました。文字どおりの触れ合いがいかに人の心を開き和ませるもので
あるか、臨床僧はつぶさに経験することで喜びと自信につながったようです。
臨床僧の会は緩和医療の現場に宗教者の智慧を加えて患者さんとご家族に寄り添うこ
とを目標の一つにしていますが、特別な仏教の話をする必要はありません。いつも傍にい
てお年寄りや患者さんの手を把ったり背中を支えたりするような身体の触れ合いを通す
なかで、心や魂に触れる言葉が自然に紡ぎ出されていくのだと信じています。
私たちは仏教者としての一つのありかたを実践しようとしています。今や説く宗教の時代
は終わり、まさに身をもって行動する宗教の時代です。僧侶として掲げている「衆生済度」
「為人度生」
「利他の行」等の言葉が本物であるならば、実際の行動で示していこうとい
うのです。
宗門という僧侶の集団はややもすれば否定的な角度から見られが
ちですが、視点を換えれば、巨大なヒューマン・リソースです。現
状を何とか打破したいという潜在的な坊さんの数は決して少なく
ありません。やる気はあるけれども、具体的に何をどうやっていい
かわからないのが本音です。そこでちょっとした勇気で取り組める
いいシステムがあれば、日本国中たくさんの僧侶が実際の行動に移
せるでしょう。
本会が活動を開始してより一年余、第一期生にとっては苦難の道が続いています。受け入
れの医療機関や福祉施設がまだ少ないのも大きな悩みです。ご縁を大切にして経験を一つ
一つ蓄えながら、これからさらに工夫を加えていかねばなりません。うまくいったことも
うまくいかなかったことも、ありのままの情報を発信し、多くの皆様のお知恵とお力添え
をいただきながら歩んでまいりたいと願っています。
吹き抜ける風のようにさわやかに、陽だまりのように温かく、大地のようにどっしりと。
患者さんやご家族の方々に遠く近く寄り添い、重く尊い経験を分かち合う生老病死の伴走
者としての臨床僧の活動にどうぞご期待ください。
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英国春秋2012年秋号
続・5つのポエム
田村
陽子
左腕の骨折が治って、ヤレヤレと思ったら、GP から骨密度( Bone Density )のテストを
受けるようにとの手紙が来た。前々から望んでいたことなので、喜んで応じた。テストの
あと何の知らせもないので、大丈夫だったのだろうと思って、しばらくほっておいた。し
かし気になるので結果を聞きにいくと、レセプションの婦人は「ドクターが今日中に電話
で知らせる」ということだった。
オステオポロシス
2012年
4月27日
電話が鳴った。
「Mrs タムラ、オステオポロシスです。
カルシウムとビタミン D と...アスイッドを処方しました。」
と、女性のドクターの声。
おどおどしながら、オステオポロシスのスペルを確かめ、受話器をおいた。
私の辞書にはその語は見つからなかった。
どうも骨粗そう症らしい。
頭の中が「オステオ..
.
.」という言葉でいっぱいになった。
ドクターの処方してくれたサプリメントの他に、
ビタミン D とカルシウムを含む食品を調べた。
ミルク、小魚、なっとう、イワシ、それに太陽。
次の日、小魚の干物3パックと納豆とイワシを買ってきた。
太陽が出ると、ずぼんと腕をまくって、外に出た。
この事を通して、生きることに今まで以上に真剣になった。
宣
言
私がオステオポロシスを宣言すると
2軒隣の中国人の奥さんも、
コーラスグループの英国人のバーバラも
私の通っている教会の長老、ジョンも
同じ仲間だと分かった。
中国人の奥さんからは、薬の副作用や色々な治療法をおそわった。
バーバラからはオステオポロシス・ソサエティのことをきいた。
ジョンからは背むしになったわけをきかされた。
Doctor は会ってもくれなくて、薬を処方してくれただけだったが
病んだ人たちとはドクターにまさるアドバイスを与えてくれた。
沢山の病んだ人たちと、つながっていることが、私を心強くした。
人生は舞台
2012年
土曜日の昼下がり
ショッピングセンターのベンチにぼんやり座っていた。
生まれたばかりの赤ちゃんをのせた乳母車が通った。
バルーンをにぎった、トドラーがバギーに乗って、通った。
ピチピチしたティーンエージャーの男女が楽しそうに語らいながら通った。
杖をついたお年寄りがゆっくり、ゆっくり歩いて通った。
まるで私が生まれたときから年をとるまでの縮図を
舞台で演じているようだった。
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5月12日
英国春秋2012年秋号
太陽の力
2012年
5月23日
2012年
5月27日
雨、雨、雨、毎日雨。
だが、今日は二ヶ月ぶりに晴れわたった雲一つない朝。
藤の花が何時もよりずっと美しくみえた。
ジェラニームの赤い花がまぶしい位に紅くみえた。
私の悩み、オステオポロシスはどこかへ消えていった。
理屈なしに私の心を明るくしてくれた
太陽の力に脱帽した。
鈴
蘭
庭に咲いている鈴蘭をのぞいてみた。
かわいいちょうちんの形をした白い花は、色あせて茶色くなっていた。
何のかおりもしなかった。
咲いたばかりの頃、あんなに清楚で甘い香りがしたのに。
たったの1ヶ月ほど香っていただけ。
私達人間はどうだろう。
生まれたばかりの、甘い香り、
幼児の頃のあぶなっかしい香り、
思春期の頃のはなやいだ香り、
仕事を始めた頃の誇らしい香り、
仕事を退職した頃の平和な香り、
こうして、香りが次々に変化して、
この世を去るときには、
どんな香りを放つのだろうか。
最高の香りを放つことができるのだろうか。
『若者を支援する』
高階玲子
「若者を支援するおば(あ)さんの会」を作りたいと、一人で密かに考えている。
とは言っても何をどのようにするのかは良くわかっていないので、事業計画も資金計画も
白紙状態。まずは、モラル・サポートから始めてみる、か・・・
イギリスでは、中等教育で選択する外国語として日本語が中国語にとっ
て代わられ、街でも中国人の観光客やショッピング客がどんと増え、中
国語を聞く機会も多くなった。そんな状況下で辛くも頑張っているのが、
日本語によるスピーチ・コンテストだ。バブル時代にスタートしたこの
行事は、関係者の努力もあって、今年で二二回目。
春に行われたこのコンテストの社会人の部で見事優勝した、アーゴシュ
トン・ティルさんの日本語はほんとうに素晴らしかった。
(蛇足だが、ティルさんが日本語を勉強してみたいと思ったのは、お父
さんが集めている、ニッポンの忍者に関する本が家にたくさんあって、
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英国春秋2012年秋号
少年の頃それに魅せられたからだそうだ。このお父さんとそのコレクションに関しても大
いに興味が湧く。)
ティルさんは31歳。ハンガリー人だが、今はロンドンをベースに英国航空でキャビンク
ルーの仕事をしていてよく日本に飛んでいる。ご一緒になった方、いませんか?
しかしこのコンテストは、語学力だけではなくスピーチの内容も同等に大事。その上スピ
ーチの後で行われるインタビューでは当意即妙さもカウントされるという厳しいもの。
それらすべてをクリアしてトップになったティルさんのテーマは、「二一世紀に文明とし
て生き残るには」だった。
この壮大な課題に果敢に挑んだティルさんは、日本の若者たちの間で徐々に力をつけて来
つつある社会起業家を例に引き、これからの企業はこれまでの最大限利益を追求する資本
主義的経営から脱皮し、環境や貧困などの問題を解決し、従業員の福祉も考えて、社会的
使命を達成することを目指す活動に変えていかなければならないことを訴えた。
「私もそう思うの!」と私は心の中で叫んだ。
ティルさんが例に挙げた「フローレンス」という病児保育施設を営む NPO は、なんと、
子どもがいないことは勿論、結婚もしていない20代半ばの若者が立ち上げた法人。
何故?どうやって?というその経緯を綴った、駒崎弘樹さんの、
「『社会を変える』を仕事
にする―社会起業家という生き方―」という体験記はとても良い本だった。
ほかにもヒトの助けになり、社会に役立つ仕事をすることに喜びを見出す新しい生き方を
模索している若者たちが日本にも大勢いる。
五月にロンドンにやってきた環境関係の活動をしているある青年もそんな一人。
「私がもう少し若かったら∼∼」とぐちったら、「大丈夫。出来ることは何かあるはず。
一緒にやりましょう」なんて心優しいことを言ってくれた。ホロッ。
今の日本の若者は自由な発想を持ち、自分の夢を実現する手段を真剣に考え出す。そのア
イディアや行動力には目を見張るものがある。右肩上がりの頃の若者(私もその一人・・・)
とは違う。当時は、金持ちがもっと金持ちになればそのおこぼれが下層にも回ってくるな
どと言われて、ほんの少し月給が上がっただけで喜んで二四時間会社に奉仕していた。
その間に、気が付けば、
「リッチな1%とそうでない99%」構造が出来上がってしまっ
た。時代は変わった。今は、言いなりにならず、自らが動く時だ。
社会の仕組みを変える試みに関しては、すでにさまざまな例がある。
「ビッグ・イシュー」などはとてもわかりやすい。
「フェア・トレード」もそうだ。
ムハマド・ユヌス氏は、バングラディッシュでグラミン銀行を創設し、無担保少額融資で
社会的事業を起こして貧困救済に貢献したとして、ノーベル平和賞を受けたが、今後さら
に社会的事業の受容性が増すことを力説している。
かの有名な経済学者、ジョセフ・スティグリッツ氏は、「日本には、いまは、米国より平
等で公正な経済と社会がある。しかし、その過去の成功が今後も続くと当然視するな」と
警告しているそうだ。
(朝日新聞。同氏の著書「世界の99%を貧困にする経済」の書評。)
日本の介護支援制度なども、社会的な事業として上手に産業構造を構築すれば、経済は循
環し、若者の雇用にも一役買い、持続可能な一大産業となるのでは?
何より、誰もがお世話になるわけだし・・・
現在の介護現場の働き方は、ほんとうにきつい。制度のしわよせがすべて現場に行ってい
る。介護の仕事をしたいという若者も多いのに、もったいない。
また、WWOOF(ウーフ)という仕組みは、お金を介在させず
に農業従事者を募り、食事・宿泊は農家が持つ代わりに、労働
力や知識・経験などを提供して貰うという交換を行う。農業再
生、後継者確保はどこの国にとっても急務で世界中に広がり、
日本でも各所で展開されている。
ティルさんもコンテストの副賞で得た航空券を使って日本へ行
き、農家の手伝いをしたいという。そして「日本との関係を本
にして、印税で東日本の被災地を応援したい」とも。
アーゴシュトン君、一緒に世の中を変えて行けるといいね。
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英国春秋2012年秋号
続報、待ってま∼す。
・・・というようなことを、日本にいる知人に書き送ったところ、長
年勤めた企業を辞めて大学の先生になったその人は、「では、私も、
若者を支援するおじ(い)さんの会を作ります」と返信してくれた。
優しい人だなあ。
こうなると、
「若い人を支援するおじ(い)さんを支援するおば(あ)
さんの会」も作りたくなる。
次回予告
会員の廣田丈自氏のご紹介で、LMOチェロ奏者、レイチェル・ランダーさんから
原稿をいただいた。題して「東北3県コンサート・ツアー体験記」で、そのユーモアー
にあふれた軽妙な文体は10ページにわたる長文ながら、一気に読ませてしまう魅力に
満ちたもの。時には涙し、時には笑いが止まらぬ彼女の体験記を、次回2013年春号で、
その全文をご披露したいとおもいます。今回はその一部を、下記ご紹介します。
・・・・穏やかな朝 7 時、気味が悪いほど静かな空港に朝日が刺す。乗り換え便を待つ
間、女性陣は見たことないほど清潔なトイレを訪れる。日本のトイレはハイテク派じゃな
いと使えない。物によってはサウンド効果が搭載されているものとか、トイレの座があっ
たかくなったり、ビデ(ワッシュレット)の水流も強弱調整できて、熱風まで出る。すべ
てお尻ケア用。
旧式トイレが恋しくなりながら私が水を流そうとボタンを捜していると、
カースティー(レーベンのメンバー)が隣のトイレで「アアアアアーーー!!!」と奇声
を発した。静かな彼女にしては大声。「やだー!!」トイレから出て来て余計にヒステリ
ックになっている。見やればなんと髪の前の部分がびっしょり濡れてる。時差でぼーっと
して、ビデの水の向きに注意しなかったのだ。もしかしたらどのボタンがどうなのか押し
てみてこの惨めな結果を導いたかも。きれいなブロンドの髪はゆえにジョイレット(トイ
レットとに Japan の J をもじった)の水にかかってしまった。悪いけど、おかしくて笑
い転げるのに忙しく、同情する余裕がなかった。特に自分でも認めるほど気違い的に清潔
好きのカーステンがこの被害を受けたのがまた可笑しい。毎日髪を洗っていつも花の香り
のする彼女が「トイレの水で髪がびしょぬれ!」とヒステリックに泣いていた。
このトイレ騒動はほんの始まり。日本のトイレは宇宙時代もどきのハイテクか、あるいは
ただの穴かのどちらかに属す。
後者を使うに当たっては、誰も服を汚さずに済んだメンバーはいなかった。自分の排泄物
で汚れたりしないようにと、ある匿名メンバーは、ズボンを脱いで取り組んだ。だのにそ
いつは脱いだズボンをしゃがんで落とさないようにするのに失敗して、その日は1日中裾
をおしっこで濡らしたズボンをはく羽目になった。その後何キロか先でもう一度寄ったト
イレは、変な音楽を鳴らす機種で、しかも「今日も1日お元気でしたか」と日本語のレコ
ーディングが入ったものだった。・・・・・
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英国春秋2012年秋号
英国サッカーと私
林
景一
私は、大阪府立天王寺高校と京都大学のサッカー部で七年間プレーし
た。ポジションは DF であった(岡田武史前日本代表チーム監督が高
校の後輩ということだけが自慢という程度の選手であったが)。TV や
雑誌などを通して、ジョージ・ベストやチャールトン兄弟が活躍する
英国サッカーに深い関心を持っていた。高校の頃から外交官志望で、
大学時代の1973年に英国南部のフォークストンに短期語学留学
した。むろん英語を磨くためだが、週末にはよくロンドンまでサッカ
ー観戦に行った。初めて見たのがアーセナルの対チェルシー戦で、接
戦の末一点差でアーセナルが勝ち、大変興奮したのを覚えている。前
目に出した速いパスにピンポイントで合わせて得点する「アーセナル・ゴール」は往時の
日本のサッカー少年の憧れの的だったのだ。スコットランドでセルチックかレンジャーズ
の試合があるというので、入場券の当てもないまま夜行列車でグラスゴーまで見に行った
が、道行く人に尋ねてもグラスゴー訛りが聞き取れず、冬のさなか道に迷ってスタジアム
に到達すらできなかったという苦い思い出もある。
その後外務省に入って、1996−99年にロンドン勤務となり、どこかロンドンのチー
ムのシーズンチケットを買いたいと思っていたら、運良く一番地元のケンジントン・チェ
ルシー区にあるチェルシーのシーズンチケットを購入できた。年間19試合観戦のために
600ポンドの出費が高いか安いかは議論があろうが、妻もゴルフよりは安いと判断した
のか支持してくれた。座席は指定であるから、隣の青年といつも顔を合わせる。チェルシ
ーがゴールすると抱き合って喜ぶし、調子が悪いと英語での罵り方を学習する機会ともな
った。熱が高じてチェルシーのピッチオーナー(グランドの区分所有権者)にもなった。
アウェー試合の応援のため、リバプール、リーズ、マンチェスターなどに行く、日帰りバ
スツアーにも参加した。
英国サッカーもこの間大いに変遷した。私が最初に英国に来た1973年当時、外国人選
手はまず見かけなかった。英国は、同年の EC 加盟に続き、80年代からヒト、モノ、カ
ネについて市場開放を進め、世界でもっとも開放的な国になった。そして英国サッカーも
国際化、つまり選手の多国籍化が進み、TV を通じて国際的人気を高め、ビジネスとして
大いに飛躍した。これは英国経済が開放化の進展と共に繁栄に向かったのと符合する。7
3年頃には、現在のプレミアに当たる「一部リーグ」の年間収入は2千万ポンドと言われ
ていたが、プレミア・リーグの年間収入は今や20億ポンドを超えるそうだ。しかし、私
が前回勤務した90年代末には、チェルシーやアーセナルなどの有力チームの先発イレブ
ンに英国人がほとんどいないという有様となっており、やや行き過ぎていた。このため、
EU 域外国からの外国人選手には一定以上の代表経験を要求するなどの抑制措置が講じ
られたくらいだ。
英国ではサッカーは大衆の、ラグビーはエリートのスポーツだとよく言われる。私は両方
とも観戦するのが好きで、一部にそういう傾向を感じ取ることもあったが、これも変化し
てきていると思う。メージャー首相は大のチェルシー・ファンだったし、ブレア首相はニ
ューカッスルの熱烈なファンであったことにもそれは表れている。キャメロン現首相もキ
ング・イングランド銀行総裁もアストン・ビラのファンだという話を聞いている。いずれ
にせよサッカーは国民的スポーツであるので、共通の話題を提供し、人脈作りにも役立つ。
1998年、バーミンガムで開かれた G8 サミットは、ちょうど二日目が FA カップ(日
本の天皇杯に相当)の決勝に当たり、ニューカッスルが久々に決勝に進出していた。その
ためか、ブレア首相は、
「我々は大変濃密に良い仕事をしたので、今日は昼までで切り上
げ、午後は国民的行事である FA カップ決勝を皆さんと観戦することとしたい」と各国首
脳に提案した。ランチの後さっさと帰った首脳もいたが、日本の橋本龍太郎総理は真面目
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英国春秋2012年秋号
であった。すぐに FA カップやニューカッスルについてご下問が
あり、担当者から私に照会が来た。「アーセナルが相手なのでニ
ューカッスルは苦戦」という予想と共に、知っている限りお答え
した。結局ニューカッスルは0−2で完敗したが、橋本総理は、
ブレア首相を慰めて個人的きずなを強められたものと思う。
いま、三度目の英国生活を送っている。ゆくゆくは王位を継承さ
れるケンブリッジ公爵は、ハリー王子と共にサッカー好きで、イングランドへのワールド
カップ招致活動の主役を務められたのは周知のとおりである。ケンブリッジ公爵のごひい
きはアストン・ビラだそうだが、いつかサッカー談義をさせていただく機会があるだろう
か。昨年の秋には、大使館のイニシアティブで、大震災関連のチャリティ・サッカー行事
を行った。FA(イングランド・サッカー協会)の好意により、国際代表でないと使用で
きない、いわばサッカーの聖地たるウェンブレーのグランドを、半日、無償提供してもら
った。そこで、多くの企業・団体の支援を得て、被災地3県から16人の高校生を招き、
聖地で試合をする感激を味わってもらったのだ。その時に、わざわざマンチェスターから
応援に駆けつけてくれたサー・ボビー・チャールトンは、長年日本でのサッカー普及に貢
献し、2002年ワールドカップの日本招致のためにも多大の貢献をしてくれた人である。
このため、私は、前回勤務の時から、いつか彼に日本の勲章を上げられないものかと密か
に考えていたが、今回大使になって、本気で取り組んだ結果、今年の春の叙勲に際し、旭
日小綬章授与という形で実現できたことをうれしく思っている。なお、今回のロンドン・
オリンピックの際は、開会前から、男子日本代表チームとベラルーシとの練習試合の応援
のために、ノッティンガムまで出かけた(ベラルーシの大使もちゃんと来ていたが)のを
皮切りに、最後は男子の三位決定戦、女子の決勝まで現場あるいはジャパン・ハウスなど
で応援した。男女とも本当によく頑張って、歴史に残る好成績を残してくれたので、応援
のしがいがあったが、それにしても大使として英国勤務をしている時にこういう巡り合わ
せだったことの幸運を有り難く思った。そういえば、昨年度は、チェルシーが、ついに宿
願の欧州チャンピオンになってくれた。さらに、そうこうしているうちに、日本人選手が
4人もプレミア・リーグでプレーすることになった。なかなか日程のやりくりは難しいか
もしれないが、昨シーズンから来ている李選手に加え、オリンピックの際に激励した吉田
選手がサザンプトンのチームに加入したので、応援のため同市を訪れてみたくなったし、
いつかマンチェスターでサー・ボビーと一緒に香川選手を応援してみたい。宮市選手には
早くアーセナルに戻ってロンドンでプレーしてほしいものだ。どうやら、私と英国サッカ
ーは、なかなか切り離せないようだ。
(本稿はすべて筆者の個人的見解です。)
英国春秋あれこれ
小川のり子
関西人の私には東京は全く不案内で、上京中は“お上りさん”よろしく道を聞きまくる。
その上複雑に交差する乗り物マップを見ただけで気後れがしてしまう。外国に住み、見知
らぬ国を訪れたのは数え切れぬが、そこで途方に暮れたことは、まずないのだが。
先日、上野の西洋美術館の“ベルリン展”に出かけた。フェルメールの「真珠の首飾りの
少女」ほか数点馴染みの絵に出会ったが、あとは特別なのが見当たらない。「あら、これ
だけ! ベルリン国立美術館にはもっと素晴らしいのがあるわ!」と少々見下した気分に
なった。しかし考えてみると、ドイツ人でもない私が一体誰に対して何を“見下した”の
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英国春秋2012年秋号
か自分でもよく分からない。
近くの国立博物館で上村松園の「焔」に出会った。私はこの絵に魅せられて久しいが、オ
リジナルにお目にかかったのは初めてである。悪霊に取りつかれた六条の御息所が自分の
髪の一握りを口にくわえ、あらぬ目つきで振りむく“見返り図”はまさに幽鬼に迫るもの
がある。蜘蛛の糸としだれ藤が描かれた打掛、眉が剃られ、紅のさされた口元から“おは
ぐろ”がのぞき、白蝋のようなしなやかな手がくわえた黒髪の端を神経質につかむ。しか
し何よりもこの絵に凄みを与えているのは、1本1本と丹念に描かれた、裾まで届くほど
の見事な黒髪である。源氏物語(円地訳)では、“…黒髪が、女君の起き直ってゆかれる
につれて音もなくゆるゆると背を伝い上ってゆき、やがて黒漆の滝のように背中一面を流
れた。…”と描写されている。前述した首飾りの少女の、穏やかで幸せそうな顔と、怨霊
にとりつかれ狂った御息所の顔は両極端そのもの。私をしばらくその場にくぎ付けにした
魔性のある画である。
お上りさんの私には上野界隈は一段と興味深い場所。国立博物館
からしばらく行くと、森鴎外旧邸跡にたどり着く。今は水月ホテ
ルの一部になっているが、客がいなければ邸宅の内部まで見せて
くれるそうだ。ホテルとは思えぬ古めかしい佇まいの平屋の家で、
障子の向こうから宴会客のさざめきが漏れ、一瞬、時の流れが止
まったかのように思えた。ここを出て精養軒に向かう。数々の小
説に登場した、この“上野の西洋料理店”は私の憧れの店でもあり、一度ここで“洋食”
を食べてみたいと思っていた。そこからしばらく行くとこれまた物語でお馴染みの不忍の
池に辿り着く。弁天堂、蓮池を過ぎると湯島天神。鏡花の「婦系図」でお蔦が、「別れろ
切れろとは芸者の時に言うものよ。今の私にはいっそう死ねと言ってくださいな」と別れ
話を持ち出した主税に嘆いてみせるのはこの境内である。所帯を持ったお蔦と別れ、恩師
の娘と結婚するなんて、なんたる男と腹立たしい思いをしたものだが、同じく明治の文豪、
尾崎紅葉の「金色夜叉」では、今度はお宮が寛一を捨てて富豪と結婚してしまうから、こ
れで“捨てた捨てない”はおあいこである。
6月は丁度明治神宮御苑の花菖蒲が見所。菖蒲田にこれぞとばかりに
咲き誇る濃淡の紫、霜降りの紫、白、臙脂、ピンク、黄色の菖蒲の花々
の何と優雅で豪華なことか。老人の写生グループが一等地を占領して
いるのを横目にカメラのシャッターを押し続けた。その時、一人の老
人が同じくカメラをさげて私と写生している人との間に割り込んで
来た。立ち往生している私に、「カメラがブレルから動くな」と命令
までする始末。呆れたが黙って近くに場所変え。しかしその際、竹柵
に私の体がふれて、彼のカメラを揺らしたのか、それに腹をたてて、
私の移った場所まで追いかけて来た。そしてこれ見よがしに両手で竹
柵をゆすり私の撮影を妨害。「なんて意地悪な人!わざわざ揺するな
んて」となじると、彼も負けずに「あんたが先に揺すったからだ」とかなんとか言いがか
りをつけてきた。私も負けずに「後から狭いところに割り込んで来て、揺すったも何もな
いでしょ。それに男のくせにわざわざ追いかけて嫌がらせするなんて!」とやり返す。周
りの人たちが面白そうに、それでいて知らぬ振りで聞いているのをしり目に、この後しば
らくやり取りが続く。が結局ロンドン仕込みの私の弁舌に敵わぬと思ったのか、どこかに
消えてしまった。
最近はキレ老人が公衆の面前で、わめいたり暴力をふるったりするケースが増えたと聞く。
この人もキレ老人の一人かと、昂ぶった心を落ち着かせるようにした。しかしよく考えて
みると、私の年齢は彼と同じグループ。あちらはあちらで「今日はキレ婆さんに出会って
ね、人前でガンガンわめき立てられた・・・」とか何とか、奥さんに報告しているかもし
れない。
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『英国春秋』2012年秋号 (No.21)
編集人
小川のり子
発行人
佐野圭作
発行所
英国日本人会
事務局 c/o ita-net ltd
37 Eyre Street Hill
London EC1R 5ET
原稿の送り先 [email protected] 又は
Mrs. M. Hodgson 492 Canterbury Way, Herts. SG1 4ED