Vol.26

感染症シリーズ─ ⑨
性の健康医学財団会頭
熊本悦明 先生
性感染症(STD)
が、予想以上に広く深く、われわれの社会に浸透して、著しく増加し
ていることが明らかになってきています。性感染症全体の増加は、H IV感染(エイズ)
の
増加と密接に関連しています。性感染症もH IV感染も、世界的には予防活動が次第に効
果をあげて、抑制される傾向になってきていますが、日本だけは増加傾向が著しい、と
いう現状です。一体、何故なのか、どうすればいいのか、性の健康医学財団会頭、札幌医
科大学名誉教授の熊本悦明先生にうかがいました。
ここでいう花柳界というのは、いわばセックス産
性感染症の現状
業の世界というような意味です。つまり当時の花
◆◆性感染症は、かつては性病といわれていたと
柳病予防は、セックス産業に遊びに行った男性か
思うのですが、いまいわれる性感染症とは違いが
ら一般社会に性病が広がることを防ぐための戦略
あるのでしょうか。
が中心でした。
熊本
そのような経過の中で、性病という言葉には、
わが国の性感染症予防活動は、古い歴史を
持っています。この「性と健康医学財団」の前身は、
セックス産業でうつる病気という観念が染みつい
1921年、大正10年に後藤新平を総裁として設立
てしまいました。
された日本性病予防協会です。しかし、その主な
しかし、現状はそのセックス産業のものよりも
活動対象は、いわゆる花柳病の予防という点にあ
一般市民の性生活の中により深く浸透して、性生活
りました。花柳病、花柳界などといっても、いま
のいわば“生活環境汚染”
的動向をみせております。
の人には何のことか分からないかもしれません。
病気の種類も、異なってきています。かつては
グラフ1 日本における10万人当たりの性別STD推定年間罹患者数の推移
性器クラミジア(女性)
性器ヘルペス(女性)
性器クラミジア(男性)
淋菌感染症(女)
性器ヘルペス(男性)
260
260
240
240
淋菌感染症(男)
尖形コンジローム(男)
220
220
年
対
罹
患
率
\
10
万
人
尖形コンジローム(女)
200
年
対
罹
患
率
\
10
万
人
180
160
140
120
100
80
60
200
180
160
140
120
100
80
60
40
40
20
20
0
0
1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
(年)
1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
(年)
(熊本ほか:日本性感染症学会誌, 11, 72-103, 2000)
3
グラフ2 性器クラミジア感染症疫学調査(1999年度)
グラフ3 妊婦の性器クラミジア陽性率
(全国検査施行施設 19,002例)
1400
男性
1200
女性
女性/男性比
(%)
(%)
5.0
30
未婚
全体
25
4.0
年 1000
対
罹
患 800
率
\ 600
10
万
人 400
既婚
27.3
4.5
女
性
3.0 /
男
2.5 性
比
3.5
20.5
20
18.4
陽
性 15
率
14.9
12.9
2.0
11.1
10
1.5
7.6
8.3
1.0
4.5
5
200
3.1
0.5
0
3.3
2.0 2.3 2.0
1.4
1.4
2.1
3.1
3.4
0
0
0.0
16∼19歳
15歳∼ 20歳∼ 25歳∼ 30歳∼ 35歳∼ 40歳∼ 45歳∼ 50歳∼ 55歳∼ 60歳∼ 65歳<
2.3
20∼24歳 25∼29歳 30∼34歳 35∼39歳 40∼45歳
全体
(熊本:日本産婦人科学会ランチョンセミナー報告)
(熊本ほか:日本性感染症学会誌, 11, 72-103, 2000)
性病というと、症状の激しい梅毒、淋病、軟性下
の患者数となります。さらに問題なのは、このデ
疳などが代表的なものとされていました。そして、
ータは何らかの症状があって医師に診断された症
かつての性病予防活動は、症状の激しいそれらの
例数であって、無症状で潜在している無自覚感染
性病群に対し、感染リスクの高い性行動の抑制を
例も含めると、女性はこの数の5倍、男性は2倍も
中心にさまざまな活動を展開し、それなりに大き
いるとされております。
な成果をあげたといえます。
しかし現在、性感染症という形で広がっている
性器クラミジア感染症の激増
病気は、クラミジア感染症(女性の5分の4、男性
の2分の1は無症候)、淋菌感染症、性器ヘルペス
(7割は無症候)、それにB型肝炎やエイズなどで、
◆◆女性の性器クラミジア感染症の増加を、どの
ように考えればいいのでしょうか。
あまり症状が出ないでどんどん広がる症状がほと
熊本
んどです。そのため、どこで感染したのかわから
ミジア感染症は生殖年齢の若い人々を中心に、男
ないので、リスクの高い性生活でない日常の性生
女合わせて百万人近くにも達すると考えられます。
活でうつる感染症になっているのです。
◆◆現在の性感染症の実態は、どういうものなの
でしょうか。
熊本
現在、性感染症としてまん延している主な
このようなデータから推定すると、性器クラ
まさか、と思われるでしょうが、その証拠とな
るデータをお示ししましょう。
(グラフ3)
このグラフは、全国の大学医学部産婦人科教室
の協力で調査したもので、妊娠検査の時に同時に
感染症の動向を示すと、グラフ1となります。これ
行った子宮頸管部からのクラミジア検出率です。
は、厚生省国立感染症研究所情報センターのSTD
既婚の一般家庭夫人の20歳代前半の陽性率は
動向調査をもとに、われわれの調査データも加え
1人/15人、20歳代後半で1人/30人となって
て手直ししたものです。
います。既婚の16∼19歳では1人/5人となって
ご覧のように、最近の女性の性器クラミジア感
おり、クラミジア感染の驚くべき流行が示されて
染が非常に増えています。もちろん、それにほぼ
います。さらに、未婚で望まざる妊娠をし、人工
平行して、男性の性器クラミジア感染も増加傾向
妊娠中絶をした女性では、10歳代の後半で1人/
を示していますが、女性側の感染率が非常に高い
3.6人、20歳代前半で1人/7人、20歳代後半で
ですね。年齢別の10万人あたりの罹患率を示した
1人/9人となっています。
のがグラフ2です。
女性が全体として高率で、女性が男性の2.3倍
このように若年女性、ことに10歳代から20歳
代前半の女性に、高い感染率が出ています。
4
グラフ4 未婚妊婦とCSWのクラミジア陽性率
(%)
30
未婚陽性率
性器クラミジア感染症とは
CSW陽性率
25
◆◆では、性器クラミジア感染症とは、どういう
20
陽
性
率 15
病気なのでしょうか。
熊本
性器クラミジア感染症というのは、細菌で
10
すが、ウイルスほどに小さいクラミジアという病
5
原体が性器に感染することによって起こります。
0
16∼29歳
20∼24歳
25∼29歳
30∼34歳
35∼39歳
40∼45歳
全体
(熊本:日本産婦人科学会ランチョンセミナー報告)
昔の目のトラコーマを起こした病原菌で、いまは
性器のトラコーマとなっているのです。しかし、
先ほどお話ししたように、感染しても、男性の場
注目すべきことは、この未婚の妊娠女性でのク
合でも軽い尿道炎を起こす程度で、半分以上の人
ラミジア感染率の高さは、セックス産業従業者
がほとんど気づきません。女性の場合も軽い子宮
(Commercial Sex Worker : CSW)をしのいでい
頚管炎を起こすのですが、自覚症状が少なく気が
ることです。
(グラフ4)
つく人はごく少数(5分の1)だと考えられていま
◆◆この状況を、どう受けとめればいいのでしょ
す。しかも女性では多くの場合、子宮から卵管、
うか。
腹腔へとクラミジアが侵入し、7∼8年のうちには
熊本
まず、性感染症というものが、かつてのよ
うなセックス産業に遊びに行った結果うつされる、
くないのです。
「悪所通いの報い」というようなものではなく、ご
卵管狭窄や卵管閉塞が起こると、当然、精子や
く普通の市民の日常の性生活に入り込んでいる病
卵子の通過障害が起こり、不妊症、あるいは子宮
気だと考えなければならないということです。い
外妊娠のような危険な病気が引き起こされる可能
まや性器クラミジア感染症はセックス産業のもの
性が出てきます。
だけではなく、一般の人々の間に広がり、先ほど
現在、内分泌性の不妊症に対する治療は非常に
説明したように性生活を持つ人々の“生活環境汚
進歩しました。しかし、卵管閉塞など器質的な不
染”
となってしまっているのです。
妊症には、まだ対策が確立していません。体外受
この背景としては、いうまでもなく、若年者を
精といった難しい手段を考えることになり、しか
中心とした性行動が大きく変化し、初体験年齢が
もその成功率はいまだ2∼3割にとどまっている上
低下していること、また複数のセックスパート
に、経費も2∼3百万円もかかるのです。性器クラ
ナーを持つことがごく普通であるというような状
ミジア感染症は、いまや女性の不妊症の、非常に
況があります。
大きな部分を占めているのではないかと考えます。
それからもう一つ、病気の側から考えられる大
きな特徴もあります。
5
卵管狭窄のような器質的な異常を残すことが少な
また、そのようになる前に妊娠したとしても、
母体がクラミジアに感染していると母子感染を起
それはこの感染症が、感染していてもほとんど
こし、生まれてくる赤ちゃんにも、かなりな悪影
症状がないということです。性器クラミジア感染
響が及びます。母体のクラミジアが分娩時に新生
症は、ことに女性で症状が非常に少ないという特
児の目に感染してトラコーマ眼瞼結膜炎を起こす
徴をもっています。ですから、診察・治療を受け
危険があります。
る動機がなく、感染しているという自覚なしに複
また、肺に入って、新生児クラミジア肺炎を起
数のセックスパートナーに感染させてしまうとい
こして、重篤な結果を招くこともあります。女性
うことが、いくらでも起こりうるのです。
の性器クラミジアは、不妊症とか新生児の障害と
いう、いわば女性にとって非常に大切なリプロダ
その他の性感染症
クティブ・ヘルス(母性としての健康)を強く障害
◆◆クラミジア以外の性感染症については、いか
するものなのです。
このような事態を避けるためには、クラミジア
がでしょう。
感染を早期に発見して、器質的な異常が起こる以
熊本
前に適切な抗生物質治療をしなければなりません。
す。男性の場合、尿道炎による排尿時の痛みに
問題は、自覚症状もないのに、婦人科医を訪れ、
淋菌感染症の増加も、最近注目されていま
よって自覚することが多いのですが、女性の場合、
診検台にあがって検体をとってもらうというのは、
膿性の帯下が出ることが多いのですが、最近はほ
現実になかなか難しいということです。
とんど無症状の感染がかなり増えていて、気がつ
最近は、綿棒を使って、自分で簡単に検体を採
取できる器具が開発されていますし(図)、さらに
かないことが少なくありません。放置するとやは
り不妊症になってしまいます。
4∼5時間つけていたサニタリーナプキンでも検査
この淋菌治療にはニューキノロンがよく使われ
できるようにもなりつつあります。このような方
てきたのですが、最近はこれに対する耐性菌がだ
法で、自分で採取した検体を医師のところへ持っ
いぶ増えてきているので、これも淋菌感染症が増
ていけばいいので、患者さんとしては心理的抵抗
えてきている事情の一つといえます。
淋菌感染症も、診断がつきさえすれば、容易に
感が少ないのではないかと思います。
いずれにしても、性器クラミジア感染症を予防
治療できますから、クラミジアと同じように、進
するためには、普通の性生活を送っている女性、
んで検査を受けることが望まれます。この淋菌感
ことに若い女性であれば、少なくとも一度は検査
染症もグラフ1のようにかなり増えており、こと
を受けることをお勧めします。そしてパートナー
に男性側に症状が出やすいため、診断される症例
が変わればまた検査が必要です。パートナーを愛
が増えております。
情があるから、信頼しているから、大丈夫という
その他、カンジダ、尖型コンジローム、性器ヘ
ことではまったく通用しない、
“生活環境汚染”な
ルペス、B型肝炎、C型肝炎、HIV感染なども注意
のです。
しなければいけません。
たとえば、ピルを処方してもらう時に、必ずク
ラミジアの検査も受けるというようなことが日常
性感染症としてのHIV/エイズ
的に行われるようになるのが、望ましいのではな
いでしょうか。もちろん、妊娠時には、必ず検査
◆◆そのHIV感染(エイズ)に関しては、どのよう
を受ける必要があります。
に考えればいいのでしょうか。
熊本
ると知らされて、少し危機感が生まれ、コンドー
図 クラミジア自己検査キット
ム使用率が高くなりました。そのように皆で予防
①
綿棒
一時、性感染症としてのエイズが増えてい
②綿棒の先を膣口から2∼3cm挿入し、
数回回転させ分泌物を拭います。
子宮
①キャップをはず
し綿棒を取り出
します。
この際、綿球の
部分に手を触れ
ないようにします。
性器クラミジア感染症の上昇が止まったのです。
子宮頚部
膣
③綿棒を容器に
戻しキャップを
しっかり閉めま
す。
膣口
②
するようになったため淋菌感染例が激減し、また
ところが1992∼1993年頃から、血液製剤によ
る 薬 害 エ イ ズ 問 題 が 大 き な 注 目 を 集 め た た め、
すっかりエイズは特殊なもの、自分には関係ない
として、性感染症としてのエイズへの危機感を忘
③
れ、予防しなくなってしまいました。そのために、
6
グラフ5 日本におけるHIV感染者・エイズ患者の性的接触による感染の年次推移
(人)
異性間性的接触で感染したHIV感染者(男・女)
異性間性的接触で感染したエイズ患者(男・女)
同性間性的接触で感染したHIV感染者(男)
同性間性的接触で感染したエイズ患者(男)
250
そのため大変危険な状態にあるといっていい過ぎ
200
ではありません。
150
100
性感染症の予防
50
◆◆クラミジアやH I V感染まで含めて、性感染症
0
1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000
の予防には、基本的にどのような注意が必要なの
(厚生省 エイズ動向委員会 平成13年エイズ発生動向年報より)
でしょうか。
また全ての性感染症が増えてきているのです。もち
熊本
ろん、H I V/エイズ感染症もいまや完全に性感染
られておりますが、いまやコンドームは、避妊器
症として広がっており、急上昇を示しているのは
具というより、
“性感染症を防ぐ器具”として再認
きわめて問題といえます。エイズも特殊なもので
識する必要があります。しかし現状は、若い人た
はなくなっています。
ちの調査でも、コンドームの使用目的のほとんど
残念ながら日本は、世界の先進国の中でほとん
が避妊のためであり、性感染症防止のためという
ど唯一、淋菌感染症が急増し、エイズ/HIV感染
認識を持っていた人は、わずか20%程度でした。
者数が増加している国になってしまっています。
(グ
また使ったとしても、射精の時だけというのでは、
ラフ5)
性感染症予防にはまったくなっておりません。性
2000年度のサーベイランスで、公式に把握さ
感染症防止のためには、性行為の最初から最後ま
れているH I V感染者とエイズの患者さんは、6千
で、きちんと装着しなければなりません。またオ
人弱ですが、実際には、その数倍の感染者がいる
ラールセックスがかなり日常化してきたため、口
だろうと推定されています。
の中にも病原菌がいることが少なくないので、そ
そしてH I Vというのは、感染しても10年以上に
の点も要注意なのです。ピル解禁時代となって、
及ぶほとんど無症候の期間があります。この期間
避妊のために使用したいというのではなく、性生
に、感染を自覚せずにセックスパートナーにH I V
活の
“生活環境汚染”
から身を守るための新しい役
感染を広げてしまう可能性があります。
割を、社会的にPRする必要が大きいと思います。
性行動の活発化は、当然、性感染症の感染機会
◆◆性感染症の予防について、薬剤師が果たすべ
を増やします。そして、クラミジアや淋菌感染症
き役割をどのようにお考えでしょうか。
といった性感染症にかかると、粘膜の炎症で感染
熊本
性が高くなり、H I V感染を3∼5倍も受けやすい
しい知識と理解を持っていただきたいと思います。
状態になります。
まず、薬剤師の方々に、性感染症に対して正
ピルを処方するのは医師ですが、実際に薬を手
性器クラミジアや淋菌感染症が増えるというこ
渡すのは薬剤師です。先ほどもふれましたが、自
とは、結局、H I V感染の増加につながっていくこ
覚症状のない性感染症の検査については、ピルの
とになります。
処方を受ける時が検査の大きなチャンスなのです。
そのため、WHOをはじめ、国際的な常識とし、
7
従来から、コンドームは、避妊器具と考え
コンドームの感染防止器具としての使い方も含め
従来の性感染症を徹底したコンドーム使用で防ぐ
てパンフレットなどで、性感染症に関するいろい
ことが、すなわちエイズ/H I V感染の増加を防止
ろな情報を提供していただけるといいですね。
することにつながるとされていますし、事実その
医療関係者があげて性感染症やエイズ予防のた
通りになっております。ところがわが国では、淋
めの啓発活動をしないと、日本は大変なことにな
菌 や ク ラ ミ ジ ア 感 染 が 増 え 続 け て い る の で す。
ると心配しております。