「人口について学ぶ面白さを発見しよう」~やさしい人口学

「人口について学ぶ面白さを発見しよう」
~ やさしい人口学教室 ~
平成 14 年から中学校において「総合的な学習の時間」が実施されたことに伴い、中学生
の来庁または電話による問い合わせが増えました。そこで、特に繰り返し質問のあった基
本的な人口問題について、統計的な厳密さにこだわらず、
「分かりやすさ」に重点をおいて
答えながら、人口について学ぶことの面白さを発見してもらおうと特集を組んでみました。
質
Q1
問
なぜ東京都は、全国で一番、人口が多いのですか?
P1
Q2 東京都の人口は、江戸開府から現在まで、どのように推移したのですか?
P6
Q3
P16
なぜ少子高齢化社会になったのですか?
Q4 なぜ近年、東京都の人口は増加に転じたのですか?
はじめに
~
問題意識をもって数字を読もう
P27
~
世の中は、その姿を目で見ることができません。目には見えない世の中を目に見えるよ
う工夫したのが、数字です。
数字が変化するのは、世の中が変化したからです。この数字の変化をみて、世の中がど
う変化したのか、なぜ変化したのかを調べるのです。数字の後ろに隠れている情報を引き
出してはじめて、数字は生きてきます。このことを「数字を読む」といいます。
大切なのは、数字そのものではなく、数字が意味するところであり、また、数字が変化
した背景です。
けれど、「数字を読んで、どれだけの発見ができるか」は、その人が、普段から、どれだ
け世の中のできごとに関心をもっているか、に左右されます。自分の問題意識を磨き続け
る努力が大切です。これが、みなさんに学んでいただきたいテーマです。
Q1
なぜ東京都は、全国で一番、人口が多いのですか?
この問題が難しくみえるのは、「人は、なぜ大都市に集まるのか」という問題と「東京都
は、どのようにして大都市に成長したのか」という問題を一緒に考えているから。複雑な
問題は分解して、単純な問題から考えよう。これが分析の基本だ。「全国で一番」が抜けて
いる?後回しだ。
まずは、「人は、なぜ大都市に集まるのか」という問題だけれど、これも難しいから、は
じめに、「大都市」って何だろう?を考えてみよう。
-1-
§1
「大都市」って何だろう?
大都市の特徴を書き出してみよう。
・ 人がたくさんいる。
・ 住むところがたくさんある。
・ 働くところがたくさんある。
・ 学ぶところがたくさんある。
・ 交通機関がたくさんある。
・ 楽しいところがたくさんある。
そして、それぞれのなかみをみてみると、
・ 人は、さまざまな職業に就いている。
・ 働くところには、さまざまな会社や産業がある。
・ 学ぶところには、さまざまな学校がある。
・ 交通には、さまざまな乗り物がある。
・ 楽しいところには、買う、食べる、遊ぶ、さまざまな楽しみがある。
このほか、目に見えないものもある。
・ お金がたくさんある。
・ 情報がたくさんある。
・ 流行がたくさんある。
・ 刺激がたくさんある。
・ 自由がたくさんある(ここは、意見が分かれるかな)。
こうしてみると、大都市の特徴は「たくさん」と「さまざま」に要約できる。つまり、
大都市は「さまざま」なものが「たくさん」集まっているところだ。
では、なぜ、大都市には「さまざま」なものが「たくさん」集まっているのだろう?こ
れも難しい問題だから、言い換えてみよう。「さまざま」なものが「たくさん」集まると、
どんなメリットがあるのだろう?
§2
「さまざま」なものが「たくさん」集まると、どんなメリットがあるのだろう?
個人の立場と、会社の立場とに分けて考えよう。
(1)まず、個人の立場から考えてみる。
さまざまなものがたくさん集っているから、ほしいものが必ずある。たとえば、…
①
さまざまな学校や職業がたくさんあるから、自分にぴったりの学校や職業が見つかる。
自分の能力を認めてくれる会社を選べる。人口が多ければ、それだけ消費の規模も大き
いから、給料の高い会社も多い。少しでも給料の高い会社、条件のいい会社を選べる。
会社がたくさんあるから、不況のときでも、地方に比べれば、仕事を探しやすい。
-2-
②
さまざまなお店、楽しみ、文化、病院、福祉施設などがたくさんあるから、自分の好
みや条件に合ったものが見つかる。
③
交通も整っているから、好きなときに、どこへでも出かけていける。
(2)次に、会社の立場から考えてみる。
①
さまざまな人がたくさん集まっているから、会社が求める能力や技術を持った人材を
探しやすい。人手不足のときでも、ただちに補充しやすい。
②
人がたくさん集まっているから、市場の規模も大きい。たくさん売れるから、儲けが
大きい(ということは、社員の賃金も高くなる。)。また、さまざまな人が集まっている
から、需要(ニーズ)も多様で、専門的なお店でも成り立つ。
③
人がたくさん集まると、消費生活が高度化・多様化するから、娯楽、レジャー、ペッ
ト、美容、ホテル、レストラン、文化、教育などのサービス業が発達する。
④
たくさんの会社が集まっているから、どうしたら自分の会社の品物が売れるか、努力
する。競争し合っているから、新しい商品や技術が生まれるし、人々のニーズが変化し
ても、ただちに対応できる。会社も活力があり、成長する。そして、東京で有名になれ
ば、テレビや雑誌にも出て、宣伝効果がある。
⑤
たくさんの会社が集まっているから、情報サービス業、広告業、コンサルタント業な
ど、会社をお客とする仕事も成り立つ。
こうして大都市では、新しい会社や産業が次々生まれるから、自分も大都市で活躍して
みたいと人々に夢や希望を与える。この結果、全国から、
「さまざまな」技術、能力、アイ
ディアを持った人が「たくさん」集まってくる。
こうした人たちが集まると、新製品、新技術、新流行、新たなビジネスチャンスが作り
出される。その結果、新しい会社や産業が生まれる。そうすると、…と繰り返されていく。
いろいろなことが分かってきた。一度、まとめてみよう。そうすれば、次に、何を考え
たらよいのか気がつくから!
§3
ここで一度まとめてみよう
今まで考えてきたことの一つは、大都市では「便利で快適な生活」「高い所得」「大きな
もうけ」を得やすいということだ。
そうだとすると、冒頭の質問の「人は、なぜ大都市に集まるのか?」も答えられる。そ
れは、人は「豊かな暮らし」を求めるから、「豊かな暮らし」を楽しみたいから。
「豊かな暮らし」を手に入れるには、①便利なまちで快適に生活すること、②給料が高
い会社で働くこと、③利潤(もうけ)が大きいまちに会社をつくることなどが必要だ。そ
して、便利なところ、給料が高いところ、利潤が大きいところというのは、大量に売れる
ところ、市場の規模が大きいところ、お客さん(人口や会社)が多いところだ。つまり、
-3-
人口や会社が多いところは、便利で、利潤が大きくて、給料も高い。だから、豊かな暮ら
しを手に入れやすい。
さらに重要なことは、市場の規模が大きいということだけではなく、大都市では、たく
さんの人々、たくさんの会社、たくさんの産業が集まって、競争し合っているから、成長
があり、活力も生まれるということだ。
ここまで考えると、「東京都が、全国で一番、人口が多いのはなぜか?」も分かるね。東
京都は、全国で一番、利潤が大きく、給料も高くて、便利な生活を手に入れやすい。だか
ら、東京都には、全国で一番、たくさんの人口や会社が集まる。逆にも言える。東京都は
全国で一番、人口も会社も多いから、市場の規模も格段に大きく、利益も大きい。そして、
競争し合っているから、成長がある。
では、ほんとうに、東京都が、全国で一番、利潤が大きくて、所得も高いか確認しよう。
§4
データを確認しよう
国や県の利潤やもうけは、何を調べたらいいだろうね。国や県の経済活動が活発かどう
かを知る目安として、国内総生産額(県内総生産額)や人口1人あたりの国民所得(県民
所得)がある。
国内総生産額(県内総生産額)は、厳密にいうと国内(県内)で生産された財やサービ
スの総額のことだから、利潤やもうけとは違うけれど、国や県における全体的な経済活動
の大きさを外国や他県と比較したいときに便利な数字なんだ。
まず、都内総生産額を調べてみよう。これは平成 12 年(2000 年)に約 85 兆円で、全国
合計 510 兆円の 17%に当たる。もちろん全国の中で一番だ。二番めは、大阪府の約 41 兆円
で全国の8%。東京都の経済活動が際だって大きいことが分かる。
次に、1 人あたりの県民所得だ。東京都は 437 万円で、全国 310 万円の 1.4 倍だ。これに、
愛知県の 350 万円、大阪府の 330 万円が続く。3大都市を抱えた府県が上位を占めること
が興味深いね(資料:内閣府「県民経済計算年報」平成 15 年版)。
続いて、「さまざまな」会社が「たくさん」集まって、「さまざまな」人が「たくさん」
働いているかどうかについても調べよう。
東京都の会社数は約 40 万社で、全国 265 万社の 15%を占める。そこで働いている従業者
は約 659 万人で、全国 4047 万人の 16%を占める。これは、他県から東京都へ通勤して働い
ている人も含む。ちなみに、大阪府の会社数は約 20 万社、従業者は約 335 万人だ(資料:
総務省「事業所・企業統計調査報告」平成 13 年)。
以上で、データの確認は終わり。
§5
日本一の大都市が、東京にできたのは、なぜだろう?
最後に、「東京都は、どのようにして大都市に成長したのか」の問題が残った。東京都の
前身は江戸だから、江戸が現在の東京都に成長するまでの歴史をたどってみよう。
今から 400 年前、徳川家康は、江戸に幕府を開き、将軍にふさわしい天下の城下町を築
-4-
いた。その後、「参勤交代」と「新田開発」を始めたことが江戸を大都市にした。
全国の大名を1年おきに江戸に居住させ、また、大名の妻子を江戸に常住させた。家臣
や奉公人も住むから、武家の人口だけで約 50 万人になった。すると、食べ物、着る物、家
などが必要になり、たくさん売れるから、江戸は商業が発達し、商人や職人などの町人も
全国から江戸へ集まった。これは、新田開発によって生活水準が上がり、全国的に人口が
急増したことが背景にある。
幕府を開いて約 100 年後の8代将軍徳川吉宗(在職 1716~45 年)の頃、江戸の人口は 130
万人(推定)で、すでに日本一を通り越して世界一になった。
明治時代に入ると江戸は東京になった。天皇も京都から東京に住み移り、名実ともに東
京が首都になって、国家の中枢になった。現在から約 140 年前だ。
東京が大都市に成長するきっかけとなったのは「近代産業、特に工業の発達」だ。
殖産興業が始まり、蒸気機関など西洋の技術を取り入れて、会社や工場が次々と作られ、
全国から人が集まるようになった。この背景には「鉄道の発展」がある。江戸時代の交通
手段は、徒歩、かご、牛馬、帆船だったから、このことも大変化だった。
その後、日清・日露戦争や第1次世界大戦の時期に、工業が発展して、京浜工業地帯が
形成され始めた。また関東大震災後には、郊外の宅地開発が進み、交通網が発達して、市
街地が拡大した。この結果、人口集中は大規模になり、太平洋戦争が始まる前の昭和 15 年
(1940 年)、東京の人口は 735 万人となった。
太平洋戦争が終わった昭和 20 年(1945 年)、戦災と疎開のため、東京の人口は 349 万人
に減ってしまった。けれど、その後、高度経済成長期に突入すると、戦前にもまして会社
や工場が次々と作られ、全国の中で最も会社や産業が集中した。集団就職列車が走って
(1954~75 年)、全国から中学・高校の卒業生が東京に集まった。昭和 37 年(1962 年)に
は 1000 万人を突破し、世界初の一千万都市となった。江戸幕府が滅んで約 100 年後のこと
だ。農業社会から工業社会への発展の及ぼす変化が、いかにすさまじいかが分かる。
ところが、この頃から都内の土地の値段が上がり、また、住宅不足、大気汚染、交通渋
滞などが社会問題化して、都内は住みにくくなったので、都内の会社に勤めていても、ま
わりの県に住む人が増えるようになった。このため東京の人口の増えかたは、ゆっくりに
なり、約 40 年後の平成 12 年(2000 年)に 1200 万人に達した。
東京都がどのようにして大都市に成長したのか分かった?もっと詳しく知りたいという
人は、次のQ2を読んでね。
ポイントをまとめると、経済が発展して、農業社会から工業社会へと産業が変化すると
ともに、交通手段も発達する。この結果、人々の生活水準が向上して、人口が増えるとと
もに、農村から都市への人口移動が激しくなるということ。実は、この変化と同時に、「少
子高齢化」も始まるんだ。どうしてなのか知りたい人は、Q3を読んでね。
-5-
Q2
東京都の人口は、江戸開府から現在まで、どのように推移したのですか?
これは、江戸が 100 万の都市へ、さらに東京が 1200 万の大都市へと成長していく歴史を
知りたいということだね。大きな流れをつかみたいという人は、Q1の§5を読んでね。
§1
江戸が 100 万人の都市に成長するまで
「江戸百万」という言葉は知っている?まずは、江戸の人口が、どのようにして 100 万
人にまで成長したのかを探ってみよう。
今から 400 年前、徳川家康は、江戸に幕府を開いて(1603 年)、天下の総城下町づくりを
始めた。けれど、この頃の江戸の人口について、正確なことは分かっていない。ただ、江
戸開府の6年後には、スペイン人のロドリゴ・デ・ビベロ(フィリピン臨時総督)が江戸
を訪問して、江戸の人口は 15 万人と記録している(1609 年)。
100 万人には遠いね。100 万人に成長するきっかけとなったのは「参勤交代」
「明暦の大
火」「新田開発」だ。
①
「参勤交代」とは、将軍に反抗しないように、諸国(地方)の大名を1年おきに江戸
に居住(その妻子は常住)させたことをいう。「江戸三百藩」といって、全国に約 270
の大名がおかれ、江戸に住む武家の人口は、家臣や奉公人を合わせて 50 万人にもなっ
た(推定)。すると、食べ物、着る物、家などが必要になり、たくさん売れるから、商
業が盛んになり、商人や職人などの町人もまた全国から集まるようになった。
また、この参勤交代により街道が全国的に発展したから、人や物資などの往来が盛
んになり、産業や都市の発達も進んだ。
②
「明暦の大火」(1657 年)によって、江戸城をはじめ、江戸の市街地の約3分の2が
焼失して、焼け野原になった。けれど、この後、隅田川を越えて、本所・深川が開発さ
れるなど、江戸の範囲が拡大して、延宝期(1673-1681)には、ほぼ江戸の原型ができ
あがった。
③
「新田開発」とは、池や沼を埋め立てたり、山や森林を切り開いて、田畑を増やすこ
とだ。こうして収穫が増えると、どうなる?効果は2つある。まず、1つめ。都市は食
糧を生産しないから、農産物の生産が拡大しなければ、都市は発展することができない。
新田開発によって、食糧が増えると、江戸に運びこまれる食糧が増え、江戸は大都市へ
と発展することができるようになる。2つめ。新田開発によって生活水準が上がり、全
国的に人口が増えたから、商業のさかんな江戸へ移動する人口が増えた。
こうした要因が重なり合って、江戸は大都市に成長した。8代将軍徳川吉宗(在職 1716
~45 年)の頃には、江戸の人口は 130 万人(推定)で、すでに日本一を通り越して、世界
一になった。この頃、北京は 90 万、ロンドンは 86 万、ニューヨークは6万だった。
ちなみに、江戸の範囲は、江戸朱引図(1818 年)によれば、現在の区部より一回り小さ
く、千代田、中央、港、新宿、文京、台東、墨田、江東、渋谷、豊島、荒川の各区の全域
-6-
と、品川、目黒、北、板橋の各区の一部にあたると考えられている。
§2
東京府時代の人口の移り変わり
次に、幕末から太平洋戦争前までの約 70 年間で、どのようにして 700 万人にまで成長し
たのかを探ってみよう。図1のグラフを見ながら読んでね。
図1 東京の人口はどう推移したか(明治から現在まで)
万人
第1次石油ショック(昭和48年)
1164万人
1400
東京オリンピック(昭和39年)
1064万人
1200
1000
太平洋戦争勃発(昭和16年)
728万人
1千万人突破(昭和37年)
800
朝鮮戦争(昭和25年)
628万人
関東大震災(大正12年)
386万人
600
400
終戦(昭和20年)
349万人
日清戦争(明治27年)
161万人
200
0
明治5
第1次世界大戦終結(大正7年)
292万人
15
25
35
大正元
11
昭和7
17
27
37
47
57
平成4
14
明治時代に入ると、「東京府」が成立する。当時の東京府は、現在の区部とほぼ同じ範囲
だった。天皇も京都から東京に住み移り、名実ともに東京が首都になって、国家の中枢に
なった。けれど、幕末・明治維新には戦火や混乱があり、また、武家は国許に帰り、明治
5年(1872 年)には 86 万人に減っていた。
その後、明治 26 年(1893 年)に、神奈川県から西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡(現在の
市郡部)を編入して、ほぼ現在の東京都と同じ範囲になった。このときの人口は 136 万人
で、最盛期の江戸とほぼ同じ水準に戻った。
なお、現在の都道府県に置き換えた本籍人口をみると、最大は新潟県の 176 万人、次い
で、兵庫県 157 万人、愛知県 151 万人、東京府 141 万人、広島県 136 万人、福岡県 126 万
人、大阪府 123 万人の順だった(明治 26 年)
。新潟県が一番というのは、当時の日本が農
業社会であったことを示しているね。((注)本籍人口とは、「戸籍の法(明治4年)」に基づく人口
のこと。家族は、その地に居住しているかどうかにかかわらず、戸主の現住地においてカウントされる。
)
-7-
明治時代において、人口が成長するきっかけとなったのは「工業化の進展」だ。
明治時代の工業化は、「殖産興業」や「日清・日露戦争」の時期に進展した。「殖産興業」
とは、西洋の技術を取り入れて、政府直営の工場をつくるなどして、近代的な産業の育成
を進めたことをいい、これにより、明治の初期には軽工業、特に繊維工業が発達した。ま
た、「日清・日露戦争」の後には、鉄工業が盛んになった。
同時に、鉄道が発展した。鉄道国有化が行われた明治 39 年(1906 年)頃には、全国的な
幹線鉄道網が形成され始めた。江戸時代の生産・交通手段は、徒歩、牛馬、帆船だったか
ら、これは大変化だった。人間も物資も、大量に、しかも早く運べるようになった。
こうして労働力もたくさん必要となった一方で、人をたくさん集めることも可能になっ
たから、農村から都市への人口移動が顕著になって、明治 44 年(1911 年)の東京府の人口
は 273 万人となり、最盛期の江戸の倍に達した。
表1 東京の人口や出生率はどう推移したか(明治から戦前まで)
人口
指数
出生率
合計特殊
死亡率
乳児死亡率
婚姻率
年 次
(単位:千人) (m33=100) (人口千対)
出生率
(人口千対) (出生対) (人口千対)
明治33(1900)
1 947
100
27.5
…
20.3
191.7
7.2
43(1910)
2 707
139
28.3
…
19.6
173.8
6.8
大正9(1920)
3 699
190
29.8
…
23.9
167.6
8.1
昭和5(1930)
5 409
278
28.0
…
14.2
97.5
6.2
15(1940)
7 355
378
26.2
…
12.2
59.5
7.7
資料)東京都「人口の動き」、東京都「東京都衛生年報」
次に、大正・昭和初期において、人口が成長するきっかけとなったのは「工業地帯の形
成」と「関東大震災」だ。
重化学工業は、日露戦争の頃から盛んになったけれど、第1次世界大戦(大正7年・1918
年終結)の後には飛躍的に発達して、その結果、京浜、中京、阪神、北九州の「4大工業
地帯」が形成され始めた。これらの大都市への人口集中はさらに大規模になり、大正 11 年
(1922 年)の東京府の人口は 398 万人になった。大正7年から4年間で約 107 万人も増え
た。図1のグラフをみると、傾きが急激になったことが分かる。昭和 30 年代の高度経済成
長期と同程度の増加率だ。
この都市化によって、人口移動が激化したばかりではなく、出生率と死亡率も低下した。
表1をみると、いずれも 1920 年前後をピークに低下し始めたことが興味深いね。
また、都心3区(千代田、中央、港の3区)の人口も、1920 年に 82 万人、1930 年に 75
万人、1940 年に 77 万人と停滞し始め、いわゆる「人口のドーナツ化現象」が生じた。
このドーナツ化現象は、都市の中心部がビジネス街になるにつれて、居住者が郊外へ転
出したから生じたのだけれど、これは、会社や工場に雇われて働くサラリーマンが増えた
ことを意味する。商店や職人は職場と住居が一致しているので移動できないけれど、サラ
リーマンは職場と住居が分離しているので移動できるから。
これら「経済の発展」「都市化」「サラリーマンの増加」「出生率・死亡率の低下」は、密
接に関係し合っている。すなわち、経済が発展すると、会社や工場に雇われてサラリーマ
-8-
ンとして働き、都市に住むことが一般的になる。所得が上がり、消費のなかみが変化し、
生活水準が向上する。すると、死亡率が低下し、寿命が延び、出生率も低下してしまう。
つまり、少子高齢化が始まる。詳しくは、Q3を読んでね。
こうして第1次世界大戦後に、東京の人口が急増し、また職と住の分離も進んだため、
鉄道網が郊外へと伸びはじめ、また、郊外住宅地の開発が進んだ。この市街地の拡大の最
中の大正 12 年(1923 年)、関東大震災が起き、東京は、江戸時代の「明暦の大火」に続い
て、再び焼け野原となった。この震災後、罹災者が郊外に移住するとともに、鉄道網や郊
外住宅地の開発も活発化し、市街地はますます拡大した。§1でみたように、江戸時代に
「明暦の大火」をきっかけに、江戸の範囲が拡大したのと似ているね。
このため東京の人口は、震災後も激増を続け、昭和3年(1928 年)には 500 万人を突破
し、太平洋戦争が始まる直前の昭和 15 年(1940 年)には 735 万人になった。明治5年の
86 万人から、約 70 年で約9倍に達した。この数字の移り変わりをたどるだけで、農業社会
から工業社会への発展の及ぼす変化が、いかにすさまじいかが分かるね。
§3 東京が 1000 万人の都市に成長するまで
続いて、戦後から高度経済成長の最盛期の昭和 42 年までの約 20 年間で、どのようにし
て 1100 万人にまで成長したのかを探ってみよう。
戦後における人口増加のきっかけは「第1次ベビーブーム」と「高度経済成長」だ。
太平洋戦争中の昭和 18 年(1943 年)、東京都が誕生した。このときの人口は 733 万人だ
ったけど、その後、東京大空襲があって三たび焼け野原となり、戦争の終わった昭和 20 年
(1945 年)には、戦災や疎開のため 349 万人と半分以下に減ってしまった。
表2 東京の人口や出生率はどう推移したか(戦後から現在まで)
人口
指数
出生率
合計特殊
死亡率
乳児死亡率
婚姻率
年 次
(単位:千人) (S25=100) (人口千対)
出生率
(人口千対) (出生対) (人口千対)
昭和25(1950)
6 278
100
23.6
…
8.3
42.9
8.2
35(1960)
9 684
154
17.0
1.83
5.2
20.4
12.3
45(1970)
11 408
182
20.1
2.00
4.9
11.5
12.3
55(1980)
11 618
185
12.0
1.46
5.0
6.7
7.6
平成2(1990)
11 856
189
8.8
1.23
5.9
4.2
6.9
12(2000)
12 064
192
8.3
1.04
7.0
3.5
7.2
資料)東京都「人口の動き」、東京都「東京都衛生年報」
終戦を迎えると、兵隊さんが戦地から復員したり、中国や朝鮮に住んでいた人が引き揚
げてきたり、地方に疎開していた人が戻ったりした。このため、結婚する人が急激に増え
て「第1次ベビーブーム」が起こった。昭和 22 年から 24 年の3年間に産まれた赤ちゃん
は全国で 806 万人、総人口の1割にも達した。現在は1年間に 120 万人だ。このボリュー
ムのある世代が、進学・就職・結婚・マイホーム購入・退職などの時期を迎えると、人口
の変動や経済情勢に大きな影響を与えるということを覚えておいてね。
-9-
昭和 25 年(1950 年)に朝鮮戦争が始まると、日本は、米軍を中心とする国連軍の戦略物
資を調達して、戦前の経済水準を回復した。これを「特需景気」という。その後には「神
武景気」や「岩戸景気」を迎え、戦後の混乱から復興して「高度経済成長期」に入った。
さっき、第1次大戦後に四大工業地帯が形成され始めたと話したけれど、これが、さら
に「太平洋ベルト地帯」へと発達して、経済発展の中心地となった。
ちょうど、この頃、中東で大油田が次々と発見されて、石油が値下がりしたことも経済
成長に有利に働いた。それまでは石炭がエネルギー源の主役だったが、石油にかわった。
また、この頃の人口を年齢別にみると、年少人口の割合が高く、老年人口の割合が低い。
つまり、若い労働力が豊富で、かつ、年金や医療などの社会保障にかかる負担が少なかっ
たことも経済成長に有利に働いた。
この経済復興期・高度経済成長期には、経済や人口のしくみに、さまざまな変化が生じ
た。第1次世界大戦後の都市化のことを思い出しながら読んでね。
①
死亡率は、第1次世界大戦後の 1920 年前後をピークに低下し始めたけれど、まだ、
大人に成長するまでに死ぬ子どもは多かった。でも、経済復興期・高度経済成長期には、
さらに死亡率が低下して、大人に成長するまでに死ぬ子どもは少なくなった。これは、
所得が上昇して生活水準が向上したこと、栄養水準や公衆衛生が改善したこと等のおか
げだ。このように、経済が豊かになって死亡率が低くなることを「少死」という。
②
工業化・都市化が進み、農業社会からサラリーマン社会になると、子どもを跡継ぎや
労働力としなくなったこと、そして、大人に成長するまでに死ぬ子どもが少なくなった
ことが相まって、子どもをたくさん産む必要がなくなり、出生率が低下した(なお、そ
の後、高度経済成長が本格化すると、出生率は低いまま安定した。)。このように、経済が豊かに
なって出生率が低くなることを「少産」という。
経済が発展して豊かになると、多産多死から少産少死の社会へと移っていくんだ。
詳しく知りたい人は、Q3を読んでね。
③
戦前や戦中の頃は、まだ、大人に成長するまでに死んでしまうことが多かったから、
多めに子どもを産んだ。けれど、経済復興期・高度経済成長期に、死亡率が低下したか
ら、この多めに産んだ子どものほとんどが成長した。この結果、全国的に若い人口が急
激に増加した。(注)ここで戦前や戦中の「戦」とは、太平洋戦争のこと。
これは多産多死から少産少死へ移る過程で、多産少死の段階を通過するからなんだ。
④
四大工業地帯を中心とする太平洋ベルト地帯が経済発展の中心地となったこと、そし
て、若い労働力が全国的に豊富だったことが相まって、この若い労働力が都市へ大量に
移動した。なお、農村では、離農が進んで、過疎化したと同時に、若者が少なくなった
から、高齢化が進んだ。
⑤
所得が増えると、消費のなかみも変化して、飲食にかける割合は低下し、電化製品や
車、さらには、娯楽やレジャー、文化や教育を求めるようになる。このため、産業の中
心が、農業から工業やサービス業へ移った。工業のなかみも変化して、繊維・食料など
- 10 -
の軽工業から金属・機械・化学などの重化学工業が中心になった。また、都市に居住す
る人が増えて、サービス業や金融・保険業などの第3次産業が拡大した。
⑥
農業社会では、住居と職場が一致したけれど、サラリーマン社会では、会社や工場に
雇われて働くから、住居と職場が分離した。こうして家族のしくみが変わり、核家族や
専業主婦が増えた。これは、所得が増えて、夫ひとりの所得で家族全員を養うことがで
きるようになったこと等が背景にある。
こうして全国の人口は、急激に増加し、昭和 20 年(1945 年)には 7200 万人だったけど、
昭和 30 年(1955 年)には 9000 万人で、1800 万人も増加した。
この一方で、東京にも、次々に会社や工場が作られて、人手不足になった。このため「集
団就職列車」が走って、中学生や高校生を卒業と同時に列車に乗せて、全国から東京に集
めた(当時、中学卒業者は「金の卵」、高校卒業者は「銀の卵」と呼ばれた。)。今は、22・
23 歳で就職するけど、当時は、15・16 歳が多かった。この集団就職列車は、昭和 29 年か
ら昭和 50 年まで走った。
ちょうど高度経済成長の時期とほぼ一致しているのが興味深いね。
都の人口は、昭和 30 年には 804 万人になり、終戦後たった 10 年で 455 万人も増えた。
昭和 30 年から現在の平成 15 年までの 48 年間の増加人口は 425 万人だから、いかに急激な
増加だったかが分かる。昭和 37 年(1962 年)には 1000 万人を超え、世界初の一千万都市
となった。この後には、ベビーブーム世代(昭和 22~24 年生まれ)が進学や就職の時期を
迎えて、大量に移動してきたから、5年後の昭和 42 年(1967 年)には 1100 万人を超えた。
ところが、この後、東京における人口の増え方は急激にゆっくりになった。区部の人口
が減少し始めたからだ。
§4
区部における人口減少
人口減少は、都心部から始まった。都心3区(千代田、中央、港の3区)の人口は、昭
和 30 年の約 55 万人をピークに一貫して減少を続けて、約 40 年後の平成 8 年には 24 万人
と半分以下になった。
区部の人口は、昭和 41 年の 889 万人をピークに減少し始めて、途中で増加を回復したこ
ともあったけど、平成 8 年には 796 万人になった。「人口のドーナツ化現象」だ。高度経済
成長期に入ると、たちまち都心の人口が減少し始めるのが興味深い。
都心部の人口が減少したのは「都市問題」が原因だ。
官庁や企業のオフィスビルが集中した結果、土地の値段が上がる、住宅が不足する、交
通が渋滞する、大気汚染や騒音などの公害が激しくなるなどして、都心は住みにくくなっ
た。これを「都市問題」の深刻化という。人口が集中したことのデメリットだ(では、メ
リットは何だろう?Q1を読んでね。)。
この一方で、鉄道網が拡張し、道路が整備され、マイカーが普及して、都心と郊外(多
摩地域や、埼玉、千葉、神奈川の3県)との行き来が容易になったとともに、郊外に宅地
- 11 -
が造られた。当時は、「団地族」が流行して、郊外の団地に住むことが夢だった。
この結果、結婚や出産のため、マイホーム購入の時期を迎えた若い世代は、都内の会社
に勤めていても、ほかの県に住まざるを得なくなったから、東京都に隣接する3県の人口
が増え始めた。埼玉、千葉、神奈川の3県を合わせた人口は、昭和 30 年には 739 万人だっ
たけど、昭和 45 年には 1271 万人になって、東京都の総人口を上回った。
このため、東京都は出生率が下がって、高齢化が進んだのに対し、隣接する3県は出生
率が上がって、高齢化はそれほど進まなかった。
表3 都心3区と区部における人口はどう推移したか
各年10月1日現在(単位:千人)
都心3区
東京都区部
昼間人口
昼間人口
年 次
人口
人口
昭和25年(1950)
488
…
5 385
…
35(1960)
545
1 646
8 310
8 955
45(1970)
402
2 069
8 841
10 433
55(1980)
339
2 299
8 352
10 613
平成2(1990)
266
2 669
8 164
11 288
12(2000)
268
2 341
8 135
11 125
資料)東京都「東京都の昼間人口」、注)都心3区:千代田、中央、港の各区。
この昭和 30 年に始まった都心の人口減少は、次第に周辺の区に広がって、昭和 41 年に
は区部全体の人口が減少し、昭和 50 年には都全体の人口が減少した。
この人口減少が拡大した原因は「都市問題」だけではなく、しかも、原因が時期によっ
て違う。§5でお話しするけど、石油ショック(昭和 48 年)の前には、地方から上京した
若者が、卒業・就職・結婚などをきっかけに地元に戻るという「Uターン現象」が増えた。
これは、高度経済成長のため全国的に好景気で、地方においても産業が発達したから。こ
のことを、都市から農村へ人口が逆流したので「地方の時代」という。
けれど、石油ショックのため高度経済成長期が終わると、就職等のため都に転入する若
者が少なくなり、同時に、出生数も急激に減ってしまう。
まとめると、石油ショック前は、都から転出する人が増えて、人口が減少したけれど、
石油ショック後は、都へ転入する人と出生数が減って、人口が減少したんだ。
ところで、この都心の人口減少はマイナス面ばかりではない。都心部でオフィス開発が
進んだから居住者が減少した訳だけど、就業者が増えたことも見落としてはいけない。
都心3区の昼間人口は、昭和 30 年には 132 万人だったけれど、昭和 50 年には 227 万人
と 100 万人近く増えた。単純にいうと、100 万人の雇用を作り出したということだ。雇用に
は、個人の生活を保障するという意味がある。100 万人の働き口を作るということは、とて
も大変なことだ。都心3区だからこそ、100 万人の雇用を作り出すことができたといえる。
物事には、プラスとマイナスの両面がある((注)都心3区の昼間就業者は、昭和 30 年に 97 万人
)。
で、昭和 50 年に 190 万人。
- 12 -
§5
石油ショック後の人口の移り変わり
話を東京都に戻して、昭和 42 年の 1100 万人から、33 年後の平成 12 年に、どのようにし
て 1200 万人を突破したのかを探ってみよう。この間、増減を繰り返したので、時期を分け
よう。図2のグラフを見ながら読んでね。
(1)第2次ベビーブームと石油ショック
昭和 46 年から昭和 49 年にかけて、
「第2次ベビーブーム」が起きた。第1次ベビーブー
ムに生まれた女子が結婚・出産の時期を迎えたためで、この4年間に生まれた赤ちゃんは、
全国で 816 万人になった。
図2 東京の人口はどう推移したか(石油ショックから現在まで)
万人
1240
バブル経済崩壊(平成2年)
1186万人
狂乱地価始まる(昭和61年)
1189万人
1200
都内総生産の成長率が国内
総生産を上回る(昭和56年)
1162万人
1200万人突破
(平成12年)
1160
戦後初のマイナス成長(昭和49年)
1165万人
1120
昭和45
51
57
63
平成6
12
この「第2次ベビーブーム」の最中に、「石油ショック」がおきた。
昭和 48 年(1973 年)に第4次中東戦争が始まり、石油の値段が約4倍も値上がりした。
日本は石油をほぼ 100%輸入に頼っており、当時の産業は重化学工業が中心だったから、高
度経済成長は終わってしまい、翌 49 年の経済成長率は戦後はじめてマイナスを記録した。
これを「石油ショック」という。高度経済成長の始まりも終わりも、石油が関わっている
ことが興味深いね。
この石油ショックにより、経済や人口のしくみに、さまざまな変化が生じた。
①
所得が頭打ちになったとともに、インフレで物価高になったから、家計が苦しくなっ
た。女性の職場進出が進み、夫婦共働きが増えた。
②
産業のしくみが変化して、製造業では、自動車、精密機械、電子機器など、エネルギ
ーをあまり消費としない組立加工業が中心になった。また、第3次産業では、コンサル
タント、コンピューター処理、調査・情報サービス、物品リースなどの事業所向けのサ
- 13 -
ービス業が盛んになった。
③
会社や工場の労働力が過剰になって、労働力の需要(求人)が低くなったから、都市
への人口移動は激減した。集団就職列車も昭和 50 年に終わった。
④
中卒や高卒で就職する者は少なくなり、大学進学率が上昇した。このため、若者の労
働力率が低下した。
⑤
出生率が再び低下し始めた。これに伴って、高齢化が加速し、死亡率も上がり始めた。
これは、高齢化が進んだために、死亡率の高い高齢者が増えたこと、また、出生率が下
がったために、死亡率の分母である総人口があまり増えなくなったことが原因だ。
⑥
物の豊かさよりも、ゆとりや心の豊かさを求める意識が高まった。
この結果、就職のため上京する若者が減り、集団就職列車も昭和 50 年に終わった。つい
に東京都の人口は、昭和 50 年の 1167 万人をピークに、戦後はじめて減少した。
もっとも、減少したといっても、昭和 50 年の 1167 万人から昭和 55 年の 1162 万人だけ
ど。その後も増減を繰り返して、平成 12 年(2000 年)に、やっと 1200 万人を突破した。
(2)東京一極集中とバブル景気
昭和 55 年に増加に転じたのは「東京一極集中」が原因だ。
高度経済成長期には、東京、名古屋、大阪の3大都市に人口や会社が集中したから三極
集中だったけど、この時期には、東京の集中が著しかったから、東京一極集中という。そ
れほど多数の会社が東京に集中したから、昭和 56 年には、都内総生産の成長率は、国内総
生産の成長率を上回ってしまった。((注)都内総生産とは、都内に所在する事業所等の生産活動に
よって生み出された財やサービスの合計額をいう。
)
こうして東京の人口は、増加に転じ、昭和 62 年には 1190 万人となった。これは、東京
では、石油ショック後に工業からサービス産業へと産業転換がいち早く進んで、求人が増
えたから。これを「サービス経済化」という。工場での仕事からオフィスでのデスクワー
クが中心になることでもあるので、
「ホワイトカラー化」ともいう。これは、石油ショック
の前から始まったけど、石油ショック後には本格化した。
このほか、昭和 59 年には、アメリカの対日赤字が 200 億ドルを突破し、日本は世界最大
の純債権国となって、東京に外国会社が次々と設立されたことも大きく影響した。
けれど、昭和 62 年に東京の人口は再び減少に転じた。これは「バブル景気」が原因だ。
さっきサービス業の発達の話をしたけれど、特に銀行や保険などの金融業が発達して、
オフィス開発ラッシュが盛んになった。また、このことは、地価が値上がりするのではな
いかという期待感を高めたから、企業が競って土地を買い始めた。こうして好景気になり、
地価が高騰した。これを「バブル景気」という。地価は、昭和 58 年を 100 とすると、昭和
63 年には、東京都全体では 283.2、区部は 300.5、都心部は 318.4 に高騰した(住宅地)
。
たった5年で3倍も値上がりしたから、「狂乱地価」と呼ばれた。
- 14 -
このため、家庭を持ち、子育てを始めた若い世代が、都内の住宅を買うことは困難にな
り、また、全国的に好景気だったから、Uターン現象による転出が増えて、平成7年には、
東京の人口は 1177 万人に減少した。
(3)平成不況と都心回帰
少し話が前後するけれど、「バブル景気」は、平成2年に株価が暴落したため、翌3年に
経済成長率が昭和 49 年以来のマイナスを記録して、終わってしまう。これを「バブルの崩
壊」という。この後、就職氷河期と呼ばれる就職難が始まり、また、企業の大型倒産が相
次いだ。
この「平成不況」の最中に、東京都の人口は増加に転じて、平成 12 年には 1200 万人を
突破した。企業の大型倒産が相次ぎ、失業率が5%台にもなった不景気が続いているのに、
人口が増えるというのは、高度経済成長期のときと逆だよね。どうしてだろう。
これは、簡単にいうと、高度成長期のときは、転入する人が多くなって人口が増えたけ
ど、近年は、転出する人が少なくなって人口が増えているんだ。では、なぜ転出する人が
少なくなったのか。
バブルが崩壊して以来、不景気が続いているため、狂乱地価が終わり、地価が値下がり
した。一方、企業は経営が苦しくなったり、倒産したりして、所有していた不動産を売り
に出した。これを「資産のリストラ」という。この跡地に、マンションが次々と建った。
この結果、これまでは他県へ転出しなければマイホームを買えなかったけれど、都内の
便利なマンションが安く手に入るようになったので、転出する人が少なくなった。この他
方で、進学や就職のための若い世代の転入は続いているから、人口が増加に転じた。
このほか、第2次ベビーブーム世代(昭和 46 年~昭和 49 年生まれ)が、平成7年には
21~24 歳、平成 12 年には 26~29 歳であり、卒業・就職・結婚の時期を迎えたことも、人
口増加に影響した。
都心3区の人口も、昭和 30 年から減少し続けたけれど、平成9年に増加に転じた。「人
口のドーナツ化現象」がストップして、「都心回帰現象」が始まった。
確かに、都心の人口が回復したことはいいけれど、これは、さっきも話したように企業
も働き口も減っているということだから、余り喜べることではない。都心3区の昼間人口
は平成2年の 267 万人から平成 12 年の 234 万人と、10 年間で 30 万人以上も減ってしまっ
た。なお、夜間人口は、平成2年に 26 万 6 千人、平成7年に 24 万 4 千人、平成 12 年に 26
万 8 千人と推移した。
((注)都心3区の昼間就業者は、平成2年に 238 万人で、平成 12 年に 209 万人。)。
東京都の人口増加は現在も続いており、平成 15 年には 1236 万人になった。しかし、将
来は、平成 27 年の 1264 万人をピークに減少に転じ、「人口減少社会」に突入すると予測さ
れている。どうして将来の人口が減少するのか知りたい人はQ3を、都心回帰について詳
しく知りたい人はQ4を読んでね。
- 15 -
Q3
なぜ少子高齢化社会になったのですか?
太平洋戦争の終結直後から現在までの全国の人口の移り変わりを調べてみよう。
表4をみると、終戦直後の昭和 25 年、全国の人口は 8320 万人で、子どもの割合は 35%、
高齢者の割合は5%だった。
その後の増加人口を 10 年おきにみると、昭和 55 年までは1千万人ずつ増えたけれど、
その後は、6百万人、3百万人と次第に少なくなった。
そして、人口のなかみをみると、50 年後の平成 12 年には、子どもの割合が 15%に低下
し、高齢者の割合が 17%に拡大して、「少子高齢化社会」となった。どうしてだろう。
表4 全国における人口やその年齢別割合はどう推移したか
人口
指数
増加人口
(S25=100)
年 次
(単位:千人)
(単位:千人)
昭和15年(1940)
71 933
86
25(1950)
83 200
100
11 267
35(1960)
93 419
112
10 219
45(1970)
103 720
125
10 301
55(1980)
117 060
141
13 340
平成2年(1990)
123 611
149
6 551
12(2000)
126 926
153
3 315
注)「年齢別割合」とは、総人口に占める各年齢別割合をいう。
§1
テーマは何か?
~
0~14歳
15~64歳
65歳~
(年少人口) (生産年齢人口) (老年人口)
36.7
58.5
4.8
35.4
59.7
4.9
30.0
64.2
5.7
23.9
69.0
7.1
23.5
67.4
9.1
18.2
69.5
12.1
14.6
67.9
17.3
なぜ出生率が低下するのか?
~
世の中のできごと(社会現象)は、どうして生じたのだろうと考えることを「因果関係」
を探るというけれど、これには、世の中のできごとを直接、引き起こした「要因」と、そ
の後ろで、要因を操っている「背景」がある。ちょうどミステリーにも、
「犯人」と「黒幕」
がいるのと同じだね。
世の中のできごとを分析するときは、表面にあらわれた「要因」だけではなく、その後
ろに隠れている「背景」も探り出してみよう。
少子高齢化の要因は「出生率と死亡率の低下」であり、その背景は「経済のしくみの変
化」だ。「経済のしくみ」が変化したから、「出生率と死亡率」が低下して、社会が少子高
齢化したんだ。
もう少し具体的に考えてみよう。
「高齢化」の場合は、経済が発達すると、人々の生活水準が向上して、健康になり、ま
た、生活にゆとりも生まれる。この結果、死亡率が低下して、寿命も延びるから、
「高齢化」
が始まる。この話は分かりやすい。
けれど、「少子化」の場合は、生活水準が向上すると、何がどうなって、出生率が低下し
て、「少子化」が始まるというのだろうか。それとも、生活水準の向上とは無関係なのだろ
うか。
そこで、「なぜ出生率が低下するのか?」「どのような背景の下で、出生率は低下したの
- 16 -
か?」をテーマに探ってみよう。
ところで、本題に入る前にお断りしておくと、全国と東京都とでは、少子高齢化の進み
方に違いがある。というのは、人口が増減する要因は、全国の場合、出生と死亡だけだけ
れど、東京都などの都道府県の場合、このほか人口移動(転入と転出)があるから。この
ため、東京都における少子高齢化の進み方は複雑だ。よって、全国における少子高齢化に
ついて明らかにしてから、その次に、東京都は全国とどう違うのか、その違いはなぜ生じ
たのか考えよう。
§2
お話のポイント
~
いつ出生率が低下したか?
~
どのようなときに出生率は低下したのだろうか。出生率の移り変わりを調べてみよう。
図3のグラフをみると、折れ線グラフが2本並んでいる。まず、この違いを説明しよう。
図3 全国における出生率はどう推移したか
合計特殊出生率
出生率
40.0
5.00
出生率(人口千対)
合計特殊出生率
28.1‰(昭和25年)
30.0
4.00
17.2‰(昭和32年)
19.4‰(昭和48年)
3.00
20.0
2.00
10.0
1.00
0.0
昭和22 27 32 37 42 47 52 57 62 平成4 9 0.00
注1)「出生率」:年間出生数を人口で除した数(千分率)。
「合計特殊出生率」:15 歳から 49 歳までの女子の年齢別出生率を合計したもの。1 人の女子が仮にその
年次の年齢別出生率で一生の間に生むとしたときの子ども数を表す。
注2)高度経済成長期中に、合計特殊出生率は横ばいなのに、出生率が上昇傾向にある理由は、当時の人
口の年齢構造が若く、結婚・出産適齢期の人口が多かったため、出生率が押し上げられたから(25~29
歳の女性数を調べると、昭和 25 年は 336 万人、昭和 35 年は 413 万人、昭和 45 年は 457 万人だ)
。また、
高度経済成長期の後の出生率は、高齢化の影響で、合計特殊出生率よりも急激な低下傾向にある。
注3)昭和 41 年に落ち込んでいるのは、「ひのえうま」が原因。一時的な低下なので、大きな傾向を読む
ときは、無視してください。
資料)国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」
- 17 -
「出生率」は、出生数を人口で割った数だから、適齢期の女性数の多い少ないなどの影
響を受ける。たとえば、適齢期の女性が産む子どもの数が同じなら、適齢期の女性の数が
多いときは、出生率は高くなる。これに対して、「合計特殊出生率」は、年齢別に求めた出
生率を合計した数だから、こうした条件に左右されない。
違いがすぐには分からなくてもかまわない。ここでは、2本の折れ線グラフがたどる大
きな変化(傾向)がつかめればよい。
大きな傾向としては、(1)昭和 25 年の出生率は高かったこと、(2)昭和 25 年から昭和 32
年にかけて低下したこと、(3)昭和 32 年から昭和 48 年にかけて安定したこと、(4)昭和 48
年から再び低下していることが読みとれる。
このことから、出生率は2回低下したことが分かる。
第1回めの低下は、経済力を回復したときに始まり、この後、高度経済成長が本格化す
ると、低下はストップして安定した。
第2回めの低下は、高度経済成長が終わった後に始まり、現在まで続いている。
低下した時期が違うということは、時代の背景が異なるということだ。ここが、これか
らのお話のポイントだ。
そこで、(1)出生率が高かったとき、(2)低下し始めたとき、(3)安定したとき、(4)再び
低下し始めたとき、の4期に分けて、それぞれの時期は、どんな社会だったのか、経済や
人口のしくみが、どのような背景のもとに、どう変化したのか探ってみよう。
このように、複雑な問題は、「場合分けをして考える」または「単純な問題に分解して考
える」というのが、分析の基本だ。
(注)出生率と死亡率の低下は、Q2でみたように、都市への人口集中が顕著になった大正時代から始ま
ったが、ここでは話を分かり易くするために戦後からたどった。また、ベビーブーム(昭和 22~24 年)も
一時的な現象なので、省略した。これらについては、Q2で説明しているので、参照してください。
§3
時代の背景を探ってみよう
(1)終戦直後は、どんな社会だったか?どうして出生率が高かったのか?
第1期は、終戦直後だ。終戦の焼け跡時代の日本は、どんな社会だったか、どのような
背景の下に出生率が高かったのか探ってみよう。データは、昭和 25 年のところを見てね。
表7をみると、昭和 25 年の時点で、就業者の 49%、約半数が第1次産業に従事していた。
明治以降、近代産業が発達し続けたけれど、まだまだ第1次産業の比重は高かった。なお、
農家数は、戦前から一貫して増加傾向を続けており、昭和 25 年には 618 万戸に達して、戦
前、戦後を通してピークを記録した(資料:農林水産省「世界農林業センサス」)。
農業の特徴は、①重労働で、人手をたくさん必要とすること、②家族単位で経営される
ことだ。つまり、家族が労働力だから、家族は大勢いて、しかも、夫ばかりでなく、妻も
子どもも、祖父母も兄弟姉妹も、家族全員が働いた。田植えや稲刈りなどの忙しい時期に
- 18 -
は、隣近所で助け合った。しかも貧しかったから、朝暗いうちから、晩暗くなるまで働い
たし、栄養も良くなかったから、病気、特に結核になりやすく、寿命が短かった。
そして、若いうちに結婚して、たくさん出産し、子育てもまた、母親一人ではなく、家
族全員で、さらには隣近所、地域ぐるみで助け合った。どうして、たくさんの子どもを産
み育てたのかというと、この頃の子どもには、次のような役割があったから。
①
子どもは、家や土地、先祖代々の田畑を継ぐ「跡継ぎ」だった。
②
農業は、手間がかかるから、子どもも「労働力」だった。
③
社会保障制度が整っていない時代だから、子どもが、親の老後や病気の面倒をみてお
り、「老後の頼り」だった。
このため、子どもは「子宝」として大切された。けれど、大人に成長しないうちに死ん
でしまうことが多かった。だから出生率が高かった。たくさん産めば、大人に成長するま
で生き延びる子どもを持つ確率が高くなるから。
この頃は、出生率も死亡率も高く、
「多く産み、多く死ぬ」時代だった。
表5 全国における出生率や婚姻率はどう推移したか
年 次
昭和15年(1940)
25(1950)
35(1960)
45(1970)
55(1980)
平成2年(1990)
12(2000)
出生率
(出生千対)
29.4
28.1
17.2
18.8
13.6
10.0
9.5
合計特殊
出生率
4.12
3.65
2.00
2.13
1.75
1.54
1.36
平均
出生児数
…
4.99
4.18
2.86
2.21('82)
2.18('92)
…
婚姻率
有配偶率(%)
(人口千対) (女25~29歳)
9.3
82.8
8.6
79.1
9.3
76.3
10.0
80.4
6.7
74.5
5.9
57.5
6.4
43.5
表6 全国における死亡率や平均寿命はどう推移したか
年 次
昭和15年(1940)
25(1950)
35(1960)
45(1970)
55(1980)
平成2年(1990)
12(2000)
死亡率
(人口千対)
16.5
10.9
7.6
6.9
6.2
6.7
7.7
乳児死亡率 年齢別死亡率(男)(人口千対) 平均寿命(歳)
(出生千対)
(0~4歳)
(65~69歳)
女
男
90.0
37.4
62.6
…
…
60.1
20.9
51.7
59.57
62.97
30.7
9.1
43.0
65.32
70.19
13.1
4.3
37.5
69.31
74.66
7.5
2.2
25.3
73.35
78.76
4.6
1.4
19.5
75.92
81.90
3.2
1.0
18.2
77.72
84.60
表7 全国における就業人口を「産業別」・「従業上の地位別」の割合でみると…
(単位:%)
年 次
第1次産業
第2次産業
第3次産業
昭和15年(1940)
44.3
26.0
29.0
25(1950)
48.5
21.8
29.6
35(1960)
32.7
29.1
38.2
45(1970)
19.3
34.0
46.6
55(1980)
10.9
33.6
55.4
平成2年(1990)
7.1
33.3
59.0
12(2000)
5.0
29.5
64.3
注)就業人口に占める各産業別・従業上の地位別割合をいう。
雇用者
- 19 -
自営業主
…
26.2
22.1
19.5
17.1
13.5
11.4
家族従業者
…
34.4
24.0
16.3
11.6
7.7
5.6
…
39.3
53.9
64.2
71.2
78.8
83.0
(2)経済力を回復した頃は、どんな社会だったか?どうして出生率が低下し始めたのか?
第2期は、朝鮮戦争(昭和 25 年)をきっかけに経済力を回復して、高度経済成長が始ま
った頃までだ。データは、昭和 35 年のところを見てね。
経済力を回復すると、人々の生活水準も向上して、健康になり、また、生活にゆとりが
生まれ、死亡率が低下し始めた。
この死亡率の低下は、社会にさまざまな変化を起こした。
①
子どもの死亡率もまた低下したから、大人に成長しないうちに死ぬ子どもが少なくな
り、子どもをたくさん産む必要が低下した。
②
戦前や戦中に生まれた子どもが、途中で死ぬことなく、大人に成長するようになった
から、若い人口が急激に増加した。特に、農村は、出生率が高いから、兄弟数が増え、
跡継ぎも労働力も余ってしまった。
③
都市への人口移動が激しくなり、会社や工場にやとわれて働くサラリーマンが増えた
から、農業のように、子どもを跡継ぎや労働力としなくなった。
④
このほか、高齢者の寿命も延び、また、赤ちゃんの死産や乳児の死亡も減った。
これらの変化が重なり合って、出生率が低下し始めた。
ここで注意しておきたいのは、昭和 25 年も昭和 35 年も、30 歳になるまでに8割近くの
女性が結婚しており、結婚のあり方は変化していない。変化したのは、1 人の女性の産む子
ども数が少なくなったことだ(表5)。
まとめると、第1回めの出生率の低下は、「経済の発達により、生活水準が向上して、大
人に成長しないうちに死ぬ子どもの少なくなったこと」、また、
「工業化・都市化が進んで、
子どもの役割が変化したこと」が背景にある。これは、先進国に共通してみられる現象だ。
ただし、寿命の水準を決めるのは、沖縄県や長野県が全国の中で最長寿であることから分かるように、
経済の発展や生活水準の向上だけではないということに注意しよう。
(3)高度経済成長の最盛期は、どんな社会だったか?どうして出生率が安定したのか?
第3期は、高度経済成長の最盛期だ。昭和 43 年(1968 年)、日本の国民総生産(GNP)
の総額は、アメリカに次いで自由世界第2位となった。データは、昭和 45 年のところを見
てね。
この頃の社会は、高度経済成長が続いたから、貯金や生活のゆとりが増えて、消費のな
かみが変化した。もう少しやさしく説明してみよう。
①
高度経済成長とは、簡単にいえば、毎年、所得が上がり続けたということだ。所得が
上がると、まず魚・肉・卵などのおかずやお菓子などが増える。けれど、いくら所得が
上がっても、飲食にかけるお金は、それほど増えないから、電化製品を買うようになる。
- 20 -
はじめは、洗濯機や冷蔵庫などの必需品を買って、次いでテレビやクーラー、さらには
自動車を買う。ひと通りそろえると、今度は、娯楽やレジャー、文化や教育を求めるよ
うになる。レストランや旅行に行ったり、高校や大学に通ったりする。このように消費
のなかみが変化することを「消費生活の多様化・高度化」という。
②
このように、所得が増えると、飲食に消費する割合は低くなり、さらに電化製品も普
及してしまうと、サービスへの消費の割合が高まる。人々の需要が変化するにつれて、
主流となる産業は、農業から製造業へ、さらにサービス業へと移る。これを「産業構造
の高度化」とか「経済のサービス化」という。
③
産業が変化すると、人々の就業のしかたも変化し、農業のように、大家族が全員で働
くのではなく、工場や会社に雇われて「サラリーマン」として働くことが一般的になる。
親元を離れて暮らすようになるから、家族のしくみも変化して、「核家族」や「ひとり
暮らし」が増える。これは、都市の住宅が、アパートや団地など、狭いことも影響した。
表8 全国における世帯を家族類型別の割合でみると…
年 次
核家族
(うち夫婦のみ) (うち夫婦と子供) その他の親族世帯
昭和35(1960)
53.0
7.3
38.2
30.5
45(1970)
56.7
9.8
41.2
22.7
55(1980)
60.3
12.5
42.1
19.7
平成2年(1990)
59.5
15.5
37.3
17.2
12(2000)
58.4
18.9
31.9
13.6
注1)一般世帯総数に占める家族類型別割合をいう。
2)「その他の親族世帯」とは、親族世帯から核家族世帯を除いた世帯をいう。
表9 全国における進学率の推移
年 次
昭和25年(1950)
35(1960)
45(1970)
55(1980)
平成2年(1990)
12(2000)
高校進学率
42.5
57.7
82.1
94.2
94.4
95.9
(単位:%)
単独世帯
16.1
20.3
19.8
23.1
27.6
(単位:%)
大学進学率
…
8.2
17.1
26.1
24.6
39.7
まとめると、所得が上がり、人々の消費のなかみが変化するにつれて、産業のしくみが
変わって、人々の就業のしかたも、暮らし方や家族のなかみも変わったということだ。
こうして給料が毎年アップし続けて、夫ひとりの給料で家族全員を養うことができるよ
うになり、また、電化製品の普及で家事が楽になったことなどのおかげで、専業主婦が増
えた。当時の若い女性の夢は、サラリーマンと結婚して専業主婦になることだったから、
30 歳になるまでに8割の女性が結婚しており、1人の女性の産む子ども数も変わらなかっ
たから、出生率の低下も止まり、安定した(表5)。
この高度経済成長は約 20 年も続いたから、「サラリーマン社会」となり、会社に行く人
と家にいる人とが分かれて、「男は仕事、女は家庭」という夫婦分業を前提とする社会にな
ってしまった。この変化が、この時代におけるさまざまな変化の中で、大きなポイントだ。
- 21 -
なお、出生率が安定しても、寿命は延び続けたから、子どもの割合は低下し、高齢者の割合は上昇した
ことに注意しよう(表4)。また、寿命が延びた割りに、死亡率が低下しないのは、高齢者の割合が高くな
ったので、全体的な死亡率の低下を相殺してしまうからだ。高度経済成長期の後の死亡率は、昭和 55 年前
後を底に上昇し始めた(表6)。
(4)石油ショック後は、どんな社会か?どうして出生率が再び低下し始めたのか?
第4期は、石油ショックから平成不況の現在までだ。データは、昭和 55 年から平成 12
年にかけてを見てね。
石油ショックのため、高度経済成長が終わると所得は頭打ちになり、また、インフレで
物価が上昇して教育費も住宅費も高くなり、家計が苦しくなった。専業主婦でいられるの
は、夫の給料が高い家庭だけになり、それ以外の家庭では、母親も働かなければならず、
「夫
婦共働き」が一般化した。大家族なら家族の誰かが、家事や子育ての面倒をみてくれるけ
れど、核家族では面倒をみてくれる人はいない。農村なら隣近所で助け合うけれど、都会
では助け合うことは少ない。この結果、多くの女性にとって、家庭生活は負担の重いもの
になり始めた。
このことが、結婚・出生・子育てのあり方を変えてしまい、出生率が再び低下し始めた。
この「結婚・出産・子育てのあり方」が変化したという点が第1回めの低下と違うところ
だ。
では、具体的に、どう変化したのか。特に、女性の変化に着目してみよう。
①
女性も働かなければ食べていけなくなったけれど、日本は、まだまだ「学歴社会」だ
から、少しでもいい会社に入り、高い給料をもらうには大学を卒業しなければならず、
在学期間が延びた。
②
女性も会社に雇われて働く「サラリーマン」になると、子どもを産み育てながら働き
にくいし、かといって、いったん退職してしまうと再就職が難しい。このため、若いう
ちは結婚しないで、または、結婚しても出産を遅くして、働き続けるようになった。
③
給料は頭打ちなのに、自分の寿命が延びたから、老後の蓄えが心配になった。また、
子どもの進学率が上昇して、在学期間が延びたから、教育にお金がかかるようになった。
このため、子どもをたくさん産むことは避けるようになった。
④
結婚しなければ、親から独立するきっかけがないし、親と同居すると、なにかと面倒
をみてもらえるから、なかなか親から自立できなくなる。いわゆる「パラサイト・シン
グル現象」だ。また、バブル崩壊から続く不況のため、経済的に独立できるほどの収入
が得にくいという事情もあって、親と同居し続けるようになった。
⑤
仕事、家事、子育てに悪戦苦闘している母親の姿を見て育った子ども(特に女子)は、
結婚や家庭に夢や希望を持てなくなってしまった。
これらの変化が重なって、どうなったのか。
- 22 -
30 歳になるまでに結婚する女性は、昭和 45 年には8割いたけれど、次第に少なくなり、
平成 12 年には約4割になった。また、1人の女性の産む子ども数も、さらに少なくなった
(表5)。こうして出生率が再び低下し始めて、
「少なく産み、少なく死ぬ」時代に入った。
この出生率の低下は、子どもの数を減少させたというだけではなく、高齢化のテンポを
早めた(表4)。これは、分母の総人口の増加率が低下したからだ。
また、未婚や離婚が増えたため、また、寿命が延びたことにより配偶者のどちらかが先
に死んでしまうため、核家族にかわって単独世帯、いわゆる 1 人暮らしが急激に増えた(表
8)。これも「少子高齢化社会」の一側面だ。
現在のところ、「少子化」の影響は、子どもの数が少なくなったという段階だけど、この
少子化がさらに進むと、総人口が減少し始めてしまう。これを「人口減少社会」の到来と
いう。2100 年には全国の人口は 6400 万人と半分に減ると予測されている。
§4
ここで一度まとめてみよう
戦後の 50 年間で、経済や人口のしくみがどう変化したのか、分かった?ポイントは、
「少
子化」「高齢化」ともに生活水準が上昇した結果であり、特に「少子化」は、「経済が発達
して、工業化・都市化が進み、農業社会からサラリーマン社会に移ったこと」、そして、
「女
性にとって、仕事と子育てが両立しにくい社会となったこと」が背景にあるということだ。
では、日本は「女性にとって、仕事と子育てが両立しにくい社会」かどうか、データで
確認してみよう。次の表 10 は、女子の労働力率を年齢別にみたものだ。
表10 各国における女子の労働力率を年齢別に比べてみると…(平成12年)
20~24歳
25~29歳
30~34歳
35~39歳
日本
70.5
69.6
57.0
60.0
韓国
60.8
55.9
48.5
59.1
アメリカ
73.3
77.1
75.6
75.8
フランス
46.9
79.3
77.9
79.2
スウェーデン
60.5
78.1
83.8
85.5
資料)図、表3~10ともに、国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」
(単位:%)
40~44歳
68.2
63.4
78.7
80.6
88.5
各国を比べると、日本や韓国は、適齢期の女子の労働力率が低いこと、出産や子育ての
ため 30~39 歳の労働力率が大きく下がるのに対し、スウェーデンは逆に上がっていく。
もし興味を覚えたら、海外の事例も学んでほしい。今、注目されているのはスウェーデ
ンだ。国土は日本の 1.2 倍の面積(45 万 k ㎡)なのに、人口は 884 万人(平成7年)で東
京都区部とほぼ同じ。そして、出生率は日本よりも高い((注)2001 年の合計特殊出生率を比べ
)。
ると、スウェーデンは 1.57、日本は 1.33、東京都は 1.01 だ。
§5
東京都における少子高齢化は、全国とどう違うのか
続いて、東京都における少子高齢化は、全国とどう違うのか、その違いはどうして生じ
- 23 -
たのか、調べてみよう。ここは少し難しいので、飛ばしてもいいよ。
というのは、さっきも話したけれど、人口が増減する要因は、全国の場合、出生と死亡
だけなのに対して、東京都などの都道府県の場合、このほか人口移動(転入と転出)があ
るので、複雑になるからだ。このことに注意して、東京都と全国の人口の推移を比べてみ
よう。
まず、人口の増え方の違いをみてみよう。
表 11 をみると、昭和 45 年の東京都の人口は、昭和 25 年の 1.8 倍に増えており、全国に
比べて、急激に増加している。これは、人口が増える要因として、全国の場合は出生しか
ないけれど、東京の場合は出生のほかに移動があるから。
東京は、日本で一番の「大都市」であるうえに、昭和 25 年から昭和 45 年は、経済力が
回復して高度経済成長期に入ったから、たくさんの人が全国から移動してきた。これは、
全国的に労働力が過剰だったこと、また、農業で働くことより、会社や工場に雇われてサ
ラリーマンとして働くことが一般的になったから。さっきの話を思い出してね。
表11 全国と東京都における人口の推移を比べると…
各年10月1日現在(単位:千人)
全 国
東京都
S25=100
S25=100
年 次
人口
人口
昭和25年(1950)
83 200
100
6 278
100
35(1960)
93 419
112
9 684
154
45(1970)
103 720
125
11 408
182
55(1980)
117 060
141
11 618
185
平成2(1990)
123 611
149
11 856
189
12(2000)
126 926
153
12 064
192
注)S25=100は、昭和25年を100としたときの各年の数値(指数)。
次に、少子高齢化の進み方(年齢別人口の割合の変化)の違いをみてみよう。
(1)15~64 歳の変化は、東京都と全国で、どう違うか
上でみた、大量の人口移動が急激に起きた結果、どうなったか。表 12 をみると、昭和 25
年から 35 年にかけて、15~64 歳の割合は、65%から 73%と全国以上に拡大した。これに
伴って、0~14 歳の割合が、32%から 23%へと急激に低下した。
でも、その後は、この大量に移動してきた若い世代が結婚や出産の時期を迎えるから、0
~14 歳の割合は上昇しそうに思える。しかし、実際には、昭和 35 年から 45 年にかけて、
23%から 21%へ低下した。どうしてだろう。
①
結婚や出産の時期を迎えると、マイホームを購入するけれど、都内の住宅は高いので、
隣接3県へ転出してしまうから。つまり、隣接3県に転出して、子どもを産んだり、育
てたりしている。この結果、隣接3県で子どもの割合が高くなった。Q2の§4を参照
してね。
②
このほか、この頃、顕著にみられるようになった、いわゆるUターン現象(卒業や、
- 24 -
就職、結婚するときには故郷へ帰ってしまう)も影響している。Uターン現象について
もQ2の§4を読んでね。
表12 全国と東京都における人口の年齢別割合を比べると…
全 国
年 次
0~14歳
15~64歳
昭和25年(1950)
35.4
59.7
35(1960)
30.0
64.2
45(1970)
23.9
69.0
55(1980)
23.5
67.4
平成2年(1990)
18.2
69.5
12(2000)
14.6
67.9
注)総人口に占める各年齢別割合をいう。
65歳~
4.9
5.7
7.1
9.1
12.1
17.3
0~14歳
31.7
23.2
21.0
20.6
14.6
11.8
東京都
15~64歳
65.2
73.0
73.8
71.5
74.1
72.0
65歳~
3.2
3.8
5.2
7.7
10.5
15.8
こうして転入と転出とが相殺するから、昭和 35 年から 45 年にかけて、15~64 歳の割合
が、あまり変わらない。
(2)0~14 歳の変化は、東京都と全国で、どう違うか
東京都における 0~14 歳の割合は、昭和 35 年の時点で、全国より 7 ポイントも小さい(表
12)。どうしてだろう。
①
一般に、出生率は、農村で高く、都市は低いという傾向があるけれど、東京都は、大
都市で、農業に従事する人が少ないから、出生率が低くなる。
②
昭和 30 年代当時の産業は工業が中心で、若い男子の出稼ぎが多く、子どもを産む年
代の女子は少なかった。表 13 で 25~29 歳の男女を比べてみると、全国は女子の方が多
いけれど、東京都は、女子が少なく、男子の方が多い。
③
しかも、結婚するときには故郷へ帰ってしまうといういわゆるUターンが多かった。
④
また、結婚したり出産するときにはマイホームを買うけど、都内の住宅は高いので、
他県へ転出してしまうものも多かった。
その後、高度経済成長は終わったのにもかかわらず、東京都における 0~14 歳の割合は、
昭和 55 年、平成2年、平成 12 年と、全国より3ポイント低い。どうしてだろう。
①
東京都には、高学歴の女子が多く、在学期間が長い。このことが、結婚や出産を遅ら
せる一因となっている((注)平成 12 年の時点で、東京都の場合、20~24 歳の女子は 47 万人、う
ち在学者は 15 万人で 32%を占める。全国の場合、20~24 歳の女子は 411 万人、うち在学者は 90 万人
で 22%を占める。なお、25~29 歳の女子の有配偶率については、表 14 参照。
)。
②
東京都には、オフィスワークやサービス業などの職業が多く、サラリーマンとして働
くから、結婚せず働き続けたり、結婚しても働き続けて、子供を生まなかったり、生む
時期を遅らせたり、生む数を減らしたりするというケースが多い。
③
結婚したり出産するときにはマイホームを買うけど、都内の住宅は高く、他県へ転出
してしまうから。地価が高騰して都内が住みにくくなった平成2年には、全国との差が
- 25 -
3ポイント以上あり、地価が下落して都内が比較的住みやすくなった平成 12 年には、
3ポイント以下になった。この地価と人口移動の関係について詳しく知りたい人は、Q
4を読んでね。
表13 全国と東京都における25~29歳を男女別に比べると…
男25~29歳
年 次
昭和25年(1950)
35(1960)
45(1970)
55(1980)
平成2年(1990)
12(2000)
全 国
女25~29歳
2 822
4 095
4 517
4 545
4 078
4 965
3 363
4 126
4 572
4 496
3 992
4 825
性比
(女=100)
83.9
99.2
98.8
101.1
102.2
102.9
各年10月1日現在(単位:千人)
東京都
男25~29歳 女25~29歳
性比
(女=100)
269
298
90.2
583
516
113.0
684
607
112.6
543
467
116.3
535
461
116.2
581
538
108.0
表14 全国と東京都における出生率等を比べると…
年 次
昭和25年(1950)
35(1960)
45(1970)
55(1980)
平成2年(1990)
12(2000)
出生率
(出生千対)
28.1
17.2
18.8
13.6
10.0
9.5
全 国
合計特殊
有配偶率(%)
出生率
(女25~29歳) (出生千対)
出生率
3.65
79.1
23.6
2.00
76.3
17.0
2.13
80.4
20.1
1.75
74.5
12.0
1.54
57.5
8.8
1.36
43.5
8.3
東京都
合計特殊
有配偶率(%)
(女25~29歳)
出生率
…
71.9
1.83
66.7
2.00
70.7
1.46
61.9
1.23
44.4
1.04
33.1
表15 東京都における就業人口を「産業別」・「従業上の地位別」の割合でみると…
年 次
第1次産業
第2次産業
第3次産業
自営業主
家族従業者
雇用者
昭和25年(1950)
6.4
37.1
56.2
18.4
9.7
71.7
35(1960)
2.2
42.9
54.8
12.2
6.0
81.8
45(1970)
1.0
38.8
59.9
13.5
6.9
79.5
55(1980)
0.7
31.8
67.3
14.5
7.7
77.8
平成2年(1990)
0.5
28.4
69.8
11.2
4.6
84.2
12(2000)
0.4
22.5
74.2
11.0
3.6
85.3
注)総就業人口に占める各産業別・従業上の地位別割合をいう。全国については、表7参照。
資料)表11~15ともに、国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」、総務省「国勢調査報告」、
東京都健康局「東京都衛生年報」
(3)65 歳以上の変化は、東京都と全国で、どう違うか
65 歳以上の割合も、全国より2ポイント小さい。平成 12 年の差もあまり変わらない。し
かし、そのテンポをみると、昭和 35 年と平成 12 年を比べて、全国は3倍に拡大したのに
対し、東京は4倍に拡大した。
この原因は、年少人口と生産年齢人口の構成比が急激に縮小している、つまり、東京は
少子化のテンポがはやいので、分母の総人口の伸びが小さいからだ。
このように、東京都における少子高齢化の進み方は、全国と違って、出生率の変化以外
の要因に左右されるから複雑だ。
少し難しかった?
- 26 -
Q4
なぜ近年、東京都の人口は増加に転じたのですか?
東京都の人口は、昭和 60 年 1183 万人、平成2年 1186 万人、平成7年 1177 万人、平成
12 年 1206 万人と、平成7年に減少して、平成 12 年に増加に転じた。この人口の推移につ
いては、Q2の図2をみてね。
この結果、昭和 30 年から一貫して続いた都心3区の人口減少も、ストップして増加に転
じた。Q2で学んだように、いわゆる「都心回帰」現象だね。
これまで東京都の人口が増えたときというのは、若い世代が全国的に過剰になったとき
や、好景気で労働需要の高いときだった。
でも、近年、若い世代は、少子化の影響で全国的に減少傾向にあるし、また、企業の大
型倒産が相次ぎ、完全失業率が5%台に上昇した戦後最大の不況の最中だ。なのに、東京
都の人口は増加に転じて、平成 12 年には 1200 万人を突破した。どうしてなのだろう。
この質問も、Q3のように、「人口が増え始めるきっかけとなった直接の原因」(出生が
増えたのか、移動が増えたのか)と「その社会経済的な背景」
(好景気なのか、それとも?)
を探ってみよう。
でも、いきなり原因や背景を考えようとしても、手がかりがない。その手がかりを得る
ため、「増えた人口のなかみは何か」、具体的には「どの年齢層が増えたのか」を調べるこ
とから始めてみよう。
このように人口問題は、「年齢別に調べる」というのが分析の基本だ。
§1
年齢別に増加人口を調べることには、どんな意味と方法があるの?
なぜ「どの年齢層が増えたのか」を調べるのかというと、人は、年齢に応じた人生ので
きごとをきっかけに住む場所を変えることが多い。たとえば、若いときなら、進学、卒業、
就職、転勤、結婚、出産など、長じては、子供の独立、離婚、退職、配偶者の死などだ。
だから、増えた人の年齢が分かれば、どんな理由で人口が増えたのか、おおよその見当を
つけることができる。たとえば、15~19 歳が増えたのなら、大学に進学する人が増えたの
ではないかと考えられるよね。
次に、どのようにして、年齢別に増加した人口を調べるのか。
表 16-1 をみてみよう。5歳ごとの人口を、昭和 60 年から5年おきに並べてある。この
表を、横ではなく、斜め下にみるんだ。たとえば、昭和 60 年の 0~4 歳と平成2年の 5~9
歳を比べる。
昭和 60 年の 0~4 歳は、5年後の平成2年には 5~9 歳になる。つまり、昭和 60 年の 0
~4 歳と、平成2年の 5~9 歳は、同じ集団だ。だから、この 5 年間に移動や死亡がなけれ
ば同数になり、同数でなければ、移動か死亡があったことになる。
でも、移動か死亡か、どっちだろうと考えるのは面倒だね。若いときは、死ぬことは少
- 27 -
ないから、移動とみなすことにしよう。また、移動についても、転入と転出の差を考える
のは面倒だから、話を簡単にするために、5年後に増えていれば転入した人がいる、減っ
ていれば転出した人がいるとみなすことにしよう。
例えば、昭和 60 年の 0~4 歳は 62 万人だけど、平成2年の 5~9 歳は 57 万人だから、5
万人減っている。これを、5年間に転出した人が5万人いたとみなすんだ。
表16-1 年齢別人口の推移(東京都)
昭和60年
平成2年
総
数
11 829 363
11 855 563
0
~
4
620 843
521 605
5
~
9
666 781
565 862
10 ~ 14
837 713
640 012
15 ~ 19
934 068
948 359
20 ~ 24
1 181 783
1 195 664
25 ~ 29
919 931
995 391
30 ~ 34
909 087
804 673
35 ~ 39
1 052 373
822 279
40 ~ 44
920 175
1 000 011
45 ~ 49
833 307
893 591
50 ~ 54
778 265
804 082
55 ~ 59
632 913
737 990
60 ~ 64
476 397
588 485
65 ~ 69
362 572
433 985
302 128
318 591
70 ~ 74
207 551
249 195
75 ~ 79
119 756
149 186
80 ~ 84
85 ~ 89
49 386
69 134
90 ~ 94
12 482
20 472
95 ~ 99
1 834
3 189
100 歳 以 上
141
274
不
詳
9 877
93 533
資料)総務省「国勢調査報告」
§2
表16-2 年齢別増減人口
平成7年
11 773 605
467 748
485 921
545 457
731 600
1 169 793
1 056 719
895 053
740 683
784 977
979 147
870 796
777 126
699 205
550 743
391 228
270 421
187 813
92 765
31 229
5 936
560
38 685
平成12年
12 064 101
477 014
462 053
481 852
640 095
991 457
1 118 725
1 020 691
877 029
731 320
773 398
955 871
839 781
737 511
654 925
504 291
349 344
216 801
126 246
47 237
10 471
1 141
46 848
60年→2年
26 200
△54 981
△26 769
110 646
261 596
△186 392
△115 258
△86 808
△52 362
△26 584
△29 225
△40 275
△44 428
△42 412
△43 981
△52 933
△58 365
△50 622
△28 914
△9 293
7年→12年
290 496
△5 695
△4 069
94 638
259 857
△51 068
△36 028
△18 024
△9 363
△11 579
△23 276
△31 015
△39 615
△44 280
△46 452
△41 884
△53 620
△61 567
△45 528
△20 758
近年、増加した年齢層を明らかにしてみよう
この斜め読みの方法を使って、
「昭和 60 年から平成2年にかけての人口の増え方」と、
「平
成7年から平成 12 年にかけての人口の増え方」では、どんな違いがあるのかを明らかにし
て、平成 12 年に人口が増加に転じたのは、どの年齢層が増えたためなのか探ってみよう。
昭和 60 年の 0~4 歳と平成2年の 5~9 歳を比べると5万人減っている。このことを、5
年間に5万人が転出したとみなすということだったね。
同じように、平成7年の 0~4 歳と平成 12 年の 5~9 歳を比べてみよう。47 万人が5年後
に 46 万人で1万人減っているから、1万人が転出した。
つまり、昭和 60 年から平成2年の間に転出した人は5万人だったけど、平成7年から平
成 12 年の間に転出した人は1万人と少なくなってしまった。簡単だよね。
こうした比較をずっと繰り返していくのだけど、その結果を表にしたのが、右側の表 16-2
だ。0~4 歳の「60 年→2年」の欄には「△54,981」とある。これは、昭和 60 年の 0~4 歳
は、平成2年には 54,981 人減った、転出したという意味だ。
この結果から顕著な変化を拾い出すと、次のとおりだ。
- 28 -
①
0~9 歳は、昭和 60 年から平成2年の間に8万人転出したけど、平成7年から平成 12
年の間には1万人しか転出しなかった。
②
20~39 歳は、昭和 60 年から平成2年の間に 44 万人転出したけど、平成7年から平成
12 年の間には 11 万人しか転出しなかった。
③
このほか、10~19 歳の動きに注目しよう。10~19 歳は、昭和 60 年から平成2年の間
に 37 万人増えたけど、平成7年から平成 12 年の間には 35 万人増えた。2万人少なく
なったわけだけど、少子化が進行して全国の 10~19 歳が少なくなりつつある(表 19 参
照)ことを考えに入れると、10~19 歳の転入数はほぼ横ばいであり、安定しているとい
う読み方もできるね。
では、ここで一度まとめてみよう。
①
0~9 歳が、あまり転出しなくなった。
②
10~19 歳の転入者数は、少子化にもかかわらず、ほぼ安定している。
③
20~39 歳が、あまり転出しなくなった。
これで、増えている人口の中身は分かった。次の課題は、これをどう解釈するかだ。
§3
それぞれの年齢層が増加した原因を考えてみよう
冒頭で、「人は、年齢に応じた人生のできごとをきっかけに住む場所を変える。」という
話をしたね。§2でみた年齢層が増加したきっかけは何か探ってみよう。
(1)「0~9 歳が、あまり転出しなくなった」のはなぜ?
0~9 歳の子どもは、自分1人で引越しできないから、親と一緒だ。よって、0~9 歳が転
出しなくなったということは、親の転出も少なくなったことを意味する。これが、「20~
39 歳で、東京都から転出する人口が、少なくなった。」に対応している。
まず、子どものいる世帯が増えているかどうか確認してみよう。
表17 子どものいる世帯数はどのように推移したか(東京都)
6歳未満の親族のいる世帯
一般世帯
うち
うちその他の
年 次
総数
核家族世帯
親族世帯
昭和60年(1985)
561 021
476 138
84 883
平成2(1990)
478 050
417 381
60 669
7(1995)
433 115
385 551
47 564
12(2000)
445 025
406 106
38 919
資料)総務省「国勢調査報告」
18歳未満の親族のいる世帯
一般世帯
うち
うちその他の
総数
核家族世帯
親族世帯
1 526 269
1 271 198
249 038
1 300 512
1 105 276
190 419
1 113 367
959 416
151 298
1 058 609
934 843
121 175
表 17 により、18 歳未満の子どものいる世帯数の推移をみると、総数も、内数である核家
族世帯、その他の親族世帯も、一貫して減少傾向にある。
ところが、そのうち6歳未満の子どものいる世帯数の推移をみると、総数は、平成 12 年
に増加に転じた。これは、核家族世帯が2万世帯も増加したためだ。2万世帯は、それほ
- 29 -
ど多くないように思うかもしれないけど、減少傾向がストップして、増加に転じたという
ことは大変化なんだ。それに、人口に直すと最低でも3人家族だから、6万人以上になる。
では、どうして幼児のいる核家族世帯が増えたのだろう?
幼児のいる世帯が増えたということは、結婚や出産をきっかけに都内のマイホームを購
入する世帯が増えたということだ。若い世代だから、土地や建物が安くないと購入できな
い。しかも、新しい建物が、どんどん提供されなければ、急激に増えない。
そこで、住宅の値段や戸数は、どう変化したのか調べてみよう。
表 18 により、都内の分譲マンションの供給状況をみると、平成3年が分譲価格のピーク
で、1戸あたりの平均価格は 7855 万円、供給戸数は 6,981 戸だった。その後、価格は下落
に転じ、供給は活発化して、平成 12 年は 4482 万円の 45,592 戸だった。価格が大きく下が
ったとともに、供給戸数も急激に増えたことが分かる。
かつては、都内に勤めていても、都内の住宅は高価でなかなか買えなかったから、他県
に転出してマイホームを求めたけれど、近年は、都内の住宅を買えるようになったから、
都から転出しなくなったんだ。
表18 都内のマンションの価格や供給戸数はどのように推移したか
年 次
平成2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
一戸当たり平均価格(万円) 7 773 7 855 6 399 5 169 5 050 4 583 4 760 4 917 4 662 4 589 4 482
分譲マンション供給戸数
10 379 6 931 7 639 11 405 27 538 33 498 34 705 30 739 29 003 40 355 45 592
資料)東京都都市計画局「東京の土地」、東京都住宅局「住宅白書」
(2)「10~19 歳の転入者数が、ほぼ安定している」のはなぜ?
10~19 歳は進学の時期にあたるから、その転入数がほぼ安定しているということは、進
学を理由とする転入がほぼ横ばいとみなすことができる。少子化にもかかわらず、進学者
数が減らないということは、進学率が上昇しているということだ。
大学への進学率を調べると、昭和 60 年に 26.5%だったが、平成 12 年に 39.7%と上がっ
た(全国)。よって、少子化にもかかわらず、進学率が上昇しているため、10~19 歳の転入
者数は、ほぼ横ばいだと考えられる。表 19 でデータを確認してみると、都内の大学への入
学者は昭和 60 年から 12 万人台で安定している。
表19 都内の大学への入学者を出身高校の所在地県別にみると…
(単位:人)
(単位:千人)
入学者
うち東京都に所在
うち隣接3県に所在 うちその他の県に所在 (参考)全国における
年次
総数
する高校の出身者
する高校の出身者
する高校の出身者
10~19歳の人口
昭和60年(1985)
124 437
38 815
35 441
50 181
19 022
平成2(1990)
124 056
37 313
38 394
48 349
18 534
7(1995)
122 368
36 861
39 249
46 258
16 036
12(2000)
127 451
38 803
39 493
49 155
14 035
資料)文部科学省「学校基本調査報告書(高等教育機関編)」
注)「隣接3県」とは、埼玉、千葉、神奈川の各県をいう。
- 30 -
(3)「20~39 歳が、あまり転出しなくなった」のはなぜ?
20~39 歳は、結婚や就職の時期であり、また、これらをきっかけにマイホームを購入す
る時期にあたっている。だから、結婚や就職、マイホーム購入を理由とする転出が減った
と推測できる。
①
まず、結婚や就業を理由とする転出が減ったかどうか探ってみよう。
表 20 をみると、有配偶率も(特に 25~39 歳で)、就業率も(特に 20~29 歳で)、平成 12
年に低下しており、逆にいえば、結婚や就業していない人の割合が拡大した。よって、結
婚または就職していないから移動する(転居する)きっかけがなく、あまり転出しなくな
ったと考えられる。
表20 20・30代の有配偶と就業の状況は、どう推移したか(東京都)
20・30代
20~24歳
25~29歳
30~34歳
35~39歳
有配偶 就業率 有配偶 就業率 有配偶 就業率 有配偶 就業率 有配偶 就業率
率(%)
(%)
率(%)
(%)
率(%)
(%)
率(%)
(%)
率(%)
(%)
年 次
昭和60年(1985)
46.4
71.0
7.8
63.2
40.8
75.7
67.0
71.9
76.9
74.8
平成2(1990)
39.5
72.9
6.0
66.0
33.1
79.2
62.4
73.1
73.6
74.9
7(1995)
36.2
71.7
5.6
63.0
29.5
78.1
56.2
73.8
69.8
73.8
12(2000)
35.6
68.6
4.9
55.9
26.2
74.4
51.2
71.4
64.2
72.2
注)有配偶率=有配偶者÷人口×100。就業率=就業者÷人口×100。
資料)総務省「国勢調査報告」
②
次に、マイホーム購入を理由とする転出が減ったかどうか探ってみよう。
さきほど調べたように、分譲マンションの価格は下がり、供給戸数も増えていた。さっ
きは、幼児のいる世帯が増えていることから、結婚や出産をきっかけに、マイホームを購
入する世帯が増えたと考えた。
けれど、マイホームを購入する理由は、結婚や出産とは限らず、「職場に近い」や「駅に
近い」などを理由に住み換えることも考えられる。また購入する世帯は、幼児のいる世帯
とは限らず、結婚しても当分は子どもを産まないで働き続ける「夫婦のみの世帯」や「単
独世帯」(いわゆる 1 人暮らし)が購入することも考えられる。
表21-1 夫婦のみ世帯数はどのように推移したか(東京都)
年 次
昭和60年(1985)
平成2(1990)
7(1995)
12(2000)
総数
574
665
786
908
326
830
730
491
20~24歳
13 752
10 429
9 493
6 724
25~29歳
59 288
57 157
60 154
56 736
30~34歳
58 271
58 926
74 163
83 342
35~39歳
43 987
39 886
44 445
61 875
30~34歳
157 732
154 585
194 436
248 238
35~39歳
125 252
117 549
118 578
167 634
表21-2 単独世帯数はどのように推移したか(東京都)
年 次
総数
20~24歳
25~29歳
昭和60年(1985)
1 524 406
427 429
251 408
平成2(1990)
1 687 151
403 586
294 380
7(1995)
1 887 862
378 021
319 355
12(2000)
2 194 342
359 403
357 580
資料)総務省「国勢調査報告」。注)年齢は、世帯主の年齢。
- 31 -
そこで、表 21 で確認してみると、夫婦のみ世帯も(30~39 歳で)、単独世帯も(25~39
歳で)、平成 12 年に急増している。
いずれにせよ、分譲価格が低下し続けるマンションが、大量に供給され続けたから、都
内が住みやすくなり、住宅の需要を呼び起こした。その結果、都内からの転出者が少なく
なったと考えられる。いわゆる「職住近接」だね。
§4
マンションブームの背景はなんだろう?
ところで、どうして分譲価格の安いマンションが、どんどん供給されるようになったの
だろう。これは、バブル経済が崩壊して、地価の下落が続いているからだ。
バブル経済のころは、オフィス開発ラッシュのため、土地の値段が高くなって、相続税
や固定資産税が払えなくて、転出する人も出たくらいだ。また、都内のマンションを買う
なんて、平均的な年収の人には無理で、マイホームの購入は近隣3県で、ということにな
った。ところが、バブル経済が崩壊すると、不景気になってモノが売れないから、土地の
値段が下がり始め、分譲マンションの価格も安くなった。
でも、これだけでは、マンションが、どんどん提供できるようになった理由は分からな
い。マンションをたくさん売り出すには広い土地が必要だ。でも、都内のどこに、そんな
広い土地があるだろう。
これは、企業が土地を売りに出しているからだ。バブル経済が崩壊して不景気になると、
企業は経営が苦しくなって、また、土地を持っていてもどんどん価格が下がっているから、
余っている土地、例えば、駐車場、社員寮、倉庫、工場などを売り払って、現金にかえて
いる。こうして売りに出された広い土地を、不動産業者が取得して、マンションを建設し
ている。
それでも、若い人にはまだまだ高い。特に結婚や出産したときは、なにかと出費がかさ
むよね。どうして買えるの?これは、住宅ローンの金利もまた下がっているし、国も住宅
を新築・購入した人の所得税等を優遇したり、区も家賃を補助したりしている。だから、
若い人でも、マンションを買ったり、借りたりできるようになった。
§5
まとめてみよう
いろいろなことが分かった。まとめてみよう。
少子化が進んでいるにもかかわらず、高学歴化のため、10 代の転入は、ほぼ安定してい
る。
この一方で、地価の下落やマンションブーム等によって、都内の住居取得が比較的容易
になり、また、未婚化や就職難によって、転居するきっかけが少なくなった。このため、
子どものいる家族や 20・30 代があまり転出しなくなった。
- 32 -
これらのできごとが重なり合って、東京都の人口は増加に転じたんだね。
参考資料)
内閣府「高齢社会白書」、同「国民生活白書」、厚生労働省「厚生労働白書」、同「女性労働白書」
、同「人
口動態統計 100 年の動向」
、同「出生に関する統計」
、国土交通省「国土レポート」
、同「土地白書」
、同「首
都圏白書」、国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」
東京都「東京百年史」、東京都企画審議室「東京都政五十年史」、東京都知事本部「東京構想 2000」、東京
都総務局「都民経済計算年報」、東京都生活文化局「消費生活白書」
、東京都都市計画局「東京都市白書」、
同「東京の都市計画百年」、同「東京の土地」、東京都健康局「東京都衛生年報」
、東京都産業労働局「東京
の産業と労働」、東京都住宅局「東京都住宅白書」、同「住宅 50 年史」、東京都江戸東京博物館編「江戸東
京博物館シンポジウム報告書2」、東京都公文書館「研究紀要第4号」
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