シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る

Ⅲ部 シーボルトの「日本博物館」構想について――日本を「展示」する――
シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る
松井 洋子
はじめに
本報告は、シーボルトの日本滞在とコレクション形成を支えた経済基盤の解明を目指す
ものである。シーボルトは日本滞在中の博物学的調査 Natuurkundige Onderzoek 遂行のた
めに、バタフィア政庁から資金を与えられ、その使途について報告を残している。その一
方、民具・工芸品・絵画などの蒐集については、贈られたものを除けば自身の経費での購
入がほとんどと考えられる。帰国前に作成した報告書の付録にシーボルトは「下名[シー
ボルト]の計算(支払い)で収集し、差し当たり王立博物館に宛てた、学術調査のための
日本の珍奇品収集物リスト」と題して、Ⅰ書籍、地図、木版絵図などのコレクション、Ⅱ
絵画とスケッチ、Ⅲ鋳貨(コイン)、Ⅳ道具、Ⅴ工芸品、Ⅵ周辺諸国の諸物品 の6項目
に分類した概略の目録を添えている1。また、母と伯父への書翰の中では「学問世界に対
して私はこの列島のあらゆる民族誌の対象物件を収集するという供物をささげた」として
「私の財力を傾けて収集」したこれらが「少なくとも12,000グルデンの価値があり」その
購入費用は20,000グルデンを超えたと、伝えている2。
外科少佐の地位を手に入れたシーボルトの給与は、商館員一般に比べれば高かったとは
いえ、多くのものを注文し購入するのに十分であったとは言えまい。家庭の条件を考えて
も決して豊かではなかったシーボルト3がコレクションのために資金を調達するうえで重
要な役割を果たしたのが、個人貿易である4。ボーフム・ルール大学やブランデンシュタ
イン城に残されたシーボルトの個人文書の中には、通常の商館員についてはほとんど残っ
ていない個人貿易に関する情報が散見される。本報告では、それらを用いて1回目、出島
商館の一員として滞在したシーボルトの個人貿易の実態を多少とも明らかにしたい。
日本側とのやり取りを含む個人貿易の全体像は非常に複雑で出島商館に残る文書のみで
はわかりにくく、未だ十分に研究されていない。シーボルトの個人貿易の具体像の解明
は、当時の出島における商館員の経済活動、ひいては日蘭貿易のあり方の検討にとって
も、重要な意義を持つと考える。
1.1820年代の個人貿易 particulier handel
1799年にオランダ東インド会社が解散し、オランダがナポレオン戦争に翻弄されてい
た時期には、出島の貿易は中立国傭船によって細々と維持されていたにすぎなかったが、
1817年、新生オランダ王国のバタフィア東インド政庁は改めて出島の日本商館を掌握し、
翌1818年にはその後の基礎となる規則を発した。この中では、個人貿易についても明確な
ルールを定め、それに従うことを館員に求めている。
シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る
147
同時代の個人貿易については、1826年から1830年の間活動していた出島の個人貿易協会
Particuliere Handel Societeit te Japan に関する永積洋子氏の業績がある5。それによれば、
①オランダ東インド会社は、様々な議論や曲折がありながらも、個人貿易を、商品と職階
による上限額を決めて認めていた。会社の解散後東インド政庁もその方針を踏襲してい
る。
②日本側では、長崎における貿易はすべて長崎会所 Geldkamer を通じて行なうことになっ
ていた。1685年以降オランダ船との貿易は二つの範疇に分けられ、その上限取引額が定
められていた。すなわち会社 Compagnie(のちには政庁 Gouvernement)荷物の貿易銀
額3,000貫目、個人荷物 Cambang の貿易銀額400貫目である6。
③個人貿易はこの枠組みの中ではオランダ側にとっても日本側にとっても非合法ではな
く、商館員の不充分な給与を補完するものとなっていた。
④商館長メイランは1826年に個人貿易協会を設立した。この協会は、ⅰ)出島の商館員と
バタフィアからの船の船長のみをメンバーとした。ⅱ)バタフィア政庁の承認のもとに
個人貿易を独占した。ⅲ)バタフィアにおける代理人はテン・ブリンク&レインスト
Ten Brink & Reijnst 商会であった。しかし ⅳ)メンバー各人の思惑はバラバラで、その
藤から1830年までと短命に終わった。
永積氏は協会による貿易の輸出入品、その価格、出資者等について分析している。それ
によれば表1にみるようにシーボルトも協会の主要な出資者の一人であった。
表1 個人貿易協会の出資額・配分額
1827年度
株 主 名
出資額
1828年度
配分額
出資額
出資額
配分額
3,000
6,085:73
6,000
14,426:70
6,840
11,945:67
J. F. van O. Fisscher 荷倉役フィッセル
4,200
8,519:96
4,900
11,781:84
800
1,397:15
Van Outeren 筆者頭ファン・アウテレン
2,700
5,477:23
―
―
―
―
G. F. Meijlan 商館長メイラン
P. F. B. von Siebold 医師シーボルト
2,000
4,057:39
3,200
7,694:13
3,480
6,077:62
C. Depmer 書記デプメル
1,500
3,042:96
1,800
4,358:05
1,920
3,353:17
H. Gozeman 書記ホーゼマン
1,500
3,042:96
―
―
―
―
A. Manuel 書記マヌエル
1,500
3,042:96
1,800
4,358:05
1,920
3,353:17
V. Pistorius 書記ピストリウス
1,500
3,042:96
1,800
4,358:05
1,920
3,353:17
C. H. de Villeneuve 書記デ・フィレネウフェ
1,500
3,042:96
1,800
4,358:05
1,920
3,353:17
H. Burger 書記ビュルゲル
1,500
3,042:96
1,800
4,358:05
2,700
4,715:39
―
―
―
―
1,920
3,353:17
L. C. A. Gronovius 書記グロノビウス
200
405:98
250
601.13
300
523:94
P. H. Willers 船長ウィレルス
3,600
7,303:19
―
―
―
―
J. de Fries 船長デ・フリース
―
H. Zutbeek 荷倉番ズトベーク
3,600
7,303:19
―
―
―
G. de Jong 船長デ・ヨング
―
―
4,000
9,617.76
―
―
D. Grim 船長フリム
―
―
―
―
3,600
6,287:19
―
―
―
―
3,600
6,287:19
28,300
57,410:43
27,350
65,761:81
30,920
54,000:00
J. F. van der Zweep 船長ズウェープ
合 計
単位:f.(グルデン)
永積1979より作成、日本商館文書(オランダ国立中央文書館所蔵)
NFJ1596,1599により補正
148
1829年度
配分額
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
2.バタフィアにおける会計
2-1)代理人
シーボルトの個人的経済活動を支えていたのは、ヨーロッパ及びバタフィアにおける代
理人であった。宮坂正英氏らが紹介するシーボルトの書翰を見ると、1822年9月にバタ
フィアへ行くことが決まった段階でシーボルトは、その乗船となったヨンゲ・アドリアーナ
Jonge Adriana 号の船主であったホーボーケン Anthony van Hoboken 7と船医としての契約を
結んでおり8、彼を通じて母と伯父に送金をしている。その後もヨーロッパ商品の購入や母
と伯父への送金など、ホーボーケンがヨーロッパにおける代理人の役割を果たしていたこ
とが窺える。ホーボーケンはロッテルダムの有力な船主で、シーボルトが来日する際に乗っ
ていたドリー・ヘズステルス Drie Gezusters 号も彼の持ち船であった9。彼はさらに1826年
に設立されたネーデルランド貿易会社とも傭船契約を結び、広州へも船を派遣している。
一方、バタフィアの代理人については、1823年日本への出発前の母と伯父宛書翰のな
かに、「テン・ブリンク=レインスト商会という社名のホーボーケンのこちらの会社」に
「全権委任をする公証手続きをし」、「この商社が毎年日本の私にヨーロッパの商品を送り、
私から送り返されたものを東インドで販売し、私の俸給を受領し、要するに必要なこと全
てをやってくれるのです」という言及がある10。この会社はロッテルダムのワインハーベ
ン Wijnhaven の事務所で働いていたテン・ブリンク Candictus ten Brink が、1821年の秋に
バタフィア在住のレインスト Samuel Rijnst を共同経営者として設立し、ホーボーケンの
ジャワ島における専属代理人となっていた11。
他の商館員たちにもそれぞれ代理人がいたようである12。個人貿易はこうしたいわば貿
易取引のプロたちに支えられてこそ成り立つものだったのである。
2-2)バタフィアにおける会計
ブランデンシュタイン城のシーボルトの個人文書の中には、このテン・ブリンク商会によ
る1824年から1830年の当座勘定書 Rekening courant8点(①1824年6月25日付、②1825年6
月25日付、③1826年6月30日付、④1827年6月30日付、⑤1828年12月31日付、⑥1829年7
月14日付、⑦1830年3月4日付、⑧1830年4月30日付)が残っている13。表2として示した
のは、1828年のもの(⑥)である。また、同年の補助帳簿、関連計算書類を表3に挙げた。
この当座勘定書は、借方と貸方を左右に示す複式帳簿の形を取り、記載金額の単位はす
べてグルデンである。左側に記載されるのは debit すなわち借方で、この場合は負債、費
用の発生を示し、シーボルトが支払うべき金額である。1828年には、もっとも大きな金額
を占めるのは個人貿易協会への投資であった。この年シーボルトがテン・ブリンク商会に
依頼してコルネリス・ハウトマン号でバタフィアから送らせたものは975.10グルデンで、
その内訳は、K8. Fa. k. 281の仕入れ計算書 Inkoop rekening に見られる。主にはワイン、ア
ラク酒、ジェネーバなどの酒類、医療器具、貴石類、衣類等であり、一部にはホーボーケ
ンに依頼してヨーロッパから送らせたものもある。ただし、売却のための「商品」と自身
の使用のための品物との区別ははっきりしない。
貸方 credit として記載されているのはシーボルトに渡される、彼に受け取る権利のある
シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る
149
表2 1828年のシーボルトの当座勘定表(テンブリンク商会作成)
Rekening Courant van den Weledel Gestrenge Heer P. F. von Siebold
Debit
Credit
f.
1827
Junij 30
Aan saldo(残高)
1828
Maart 28
Aan het Gouvernement(政庁)
2,421
40
1828
Maart 28
528
30
Julij 3
1
58
975
Aan Handel Societeit(貿易協会)
Julij 31
4,233
35
2,050
15
Septembr. Pr. 202 Goude Kobangs
1
(黄金の小判)
2,407
46
10
Decem br. Pr. op 2 Verkoop rekeningen
31
(二通の販売計算書)
3,965
98
3,200
Aan inkomende regten op diverse
van UEd. Ontvangen
(貴下から受領した商品の輸入税)
60
10
Aan betaalde door den Heer A.
van Hoboken
(ホーボーケン氏による支払分)
294
Junij 25
Aan betaald uitgaande regten
(輸出税)
Julij 5
Aan Diverse pr. Cornelis Houtman
(コルネリス・ハウトマン号に
載せた商品)
Julij 3
Aan saldo(残高)
Pr. Van het Gouvernement
(政庁)
f.
Pr. Van de Agenten der Particulier
Handel Societeit
(個人貿易協会の代理人)
5,176
46
12,656
94
12,656
94
S.E.& O
Batavia Ulto. December 1828
was get. Cands. ten Brink voor カンド・テン・ブリンクが署名
ten Brink & Reijnst テン・ブリンク&レインスト〔商会〕のために
voor kopij konform 謄本については
Ten Brink, Reijnst & Gijsing テン・ブリンク、レインスト&ヘイシング〔商会〕に
(VBZ: K. 8. Fa. k. 286i&285より作成) 表3 1828 年 シーボルトの勘定帳簿類
(テンブリンク商会扱い分)
所蔵番号
(VBZ)
文書表題
備考
K8. Fa. k 279b Verkoop rekening over het restant Japansche goederen aangebragt per de Schepen Ida (286kに写し
Aleyda en Arenus Marinus, verkocht voor rekening van den Weledel Gestrengen Heer P. F. 合綴)
von Siebold. Batavia, Ult. December 1828.
シーボルト氏の勘定でイダ・アレイダ号とアリヌス・マリヌス号[1824年]でもたらさ
れた日本商品の残りの販売計算書 1828年12月末日
K8. Fa. k 280
150
Verkoop rekening over de volgende Japansche goederen aangebragt per de schepen de (286kに写し
Vasco da Gama en Jonge Elisabeth verkocht voor rekening en risico van den Weledel 合綴)
Gestrenge Heer P. F. von Siebold. Batavia, Ult. December 1828.
シーボルト氏の勘定と危険負担でヴァスコ・ダ・ガマ号とヨンゲ・エリザベス号
[1825年]でもたらされた日本商品の残りの販売計算書 1828年12月末日
K8. Fa. k 281
Inkoop rekening over het navolgende ingekocht op order en voor rekening van den Heer P. F.
von Siebold te Japan en aan ZEd. verzonden per het schip Cornelis Houtman, Kapitein De
Jong. Batavia, 5 July 1828, ten Brink & Reijnst.
在日本シーボルト氏の注文と勘定でデ・ヨング船長のコルネリス・ハウトマン号で送
られた商品の仕入れ計算書 1828年7月5日 K8. Fa k 282
Nota van diverse Japansche goederen toebehorende aan den Weled. Gestrenge Heer P. F.
von Siebold te Japan, en overgegeven aan de Heeren ten Brink Reynst & Gijsing. Batavia,
Ult. December 1828.
在日本シーボルト氏所有、テン・ブリンク商会に引き渡された各種日本商品の覚書
1828年12月末日
K8. Fa. k 285
Rekening Courant van den Weledel Gestr. Heer P. F. von Siebold. Batavia, Ulto. December (286iに写し)
1828, ten Brink, Reynst & Gijsing.
シーボルト氏の当座勘定書 1828年12月末日
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
項目である。まず一行目は毎年の政庁からの給与である。彼の給与は月額230グルデンに、
種々の追加支給分があり、年額は4,440グルデンになる。そのうち、若干の控除を経た金
額がここに示されている。また、個人貿易協会からの収益のうち一部、2,050.15グルデン
がここに計上されている。次に示された小判202枚は、翌年には借方に同額が記入されて
おり、詳細は確認できないが、シーボルトが小判によるヨーロッパへの送金を考えていた
ことが書翰からわかる14。
最後の費目が、販売勘定 Verkoop rekening で、この1828年の当座勘定書には表3に示し
た K. 8. Fa. k. 279b と同280の計算書の合計が計上されている。表題からわかるように279b
はイダ・アレイダ号とアリヌス・マリヌス号で1824年度に、280はヴァスコ・ダ・ガマ号
とヨンゲ・エリザベス号によって1825年に、シーボルトの勘定で日本からバタフィアへ送
られたものであり、いずれも売れ残っていたのを、スマランとスラバヤで売り払わせたも
のとみられる。
このように、テン・ブリンク商会によってシーボルトの勘定口座の収支が計算され、毎
年日本行きの船が出る前に勘定書が作成され、出島のシーボルトに送られていた。
3.出島における会計
3-1)出島での金銭と物のやり取りの記録
日本における買物や会計については、その全体を管理する代理人はいない。シーボルト
自身が記帳し掌握することになるが、収支の全貌のわかる基本帳簿のようなものは残って
いない。現在までに確認できた収支の一部を記載する帳簿形態の文書を表4に挙げた。こ
の他に何点かの付属計算書や覚書が存在するが、関連の不明なものが多い。表4の中で、
もっとも全体を捉えようとしているのが1827年/28年の当座勘定帳 Rekening courant pro
1827/28(K8. Fa. f. 194)である。表題は1827年28年とされるが、実際の記帳は1829年末に
日本を離れるまで続いていた。この帳簿も複式の形をとるが、貸方と借方の数字はあって
おらず、他への転記の痕跡もあり、整理の途中のものとみられる。単位はタエルとグルデ
ンが併用されている。K8. Fa. c. 104、Fa. f. 192も類似の帳簿であるが、相互の関係は一部
に確認できるのみである。
日本での販売の結果はこれらの帳簿にはまとまった形では出てこない。長崎会所を通
じて「脇荷」という範疇で販売されたものについては、「カンバン銀 Cambanggeld」とし
て「カンバン勘定 Cambang rekening」の中に含まれ、日用品や輸出商品の購入などと相
殺されるはずであるが、その部分についてはシーボルトは何も記載していない。その一
表4 シーボルトの日本における勘定帳簿類
所蔵番号(VBZ)
K8. Fa. c. 104
K8. Fa. c. 106∼108
K8. Fa. f. 192
K8. Fa. f. 194
表 題(Title)
(表題なし)[ Rekening Boek door Von Siebold 1825-1829] シーボルト金銭出納簿
Bijlage1∼3 上記104の付属計算書 (表題なし)[ Rekening Boek door Von Siebold 1829] シーボルト金銭出納簿
Rekening Courant pro 1827/28 Dr. von Siebold シーボルト当座勘定帳
シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る
151
方、この帳簿に口座として記載される人々とのやり取りの中にも、辞書等とともに「商品
negotie goederen」「交換 ruiling」という記載があり、長崎会所を通さない私的な販売が行
なわれていたことが推測されるが、全体の流れは不明である。これが公認あるいは黙認さ
れていたものなのかどうか、さらに検討が必要であろう。
何人かの日本人の口座については、貸方の末尾に「損失 verloren」と記入されており、
シーボルト事件が発生し、彼のもとに出入りしていた多くの人々が影響を受ける中で、回
収不能な貸し金や前払い注文がかなりあったと考えられる。
3-2)取引の相手
これらの日本における勘定帳に勘定口座が設定されている取引の相手を示したのが表515
である。オランダ側では東インド政庁、テン・ブリンク商会、個人貿易協会、商館長メイラ
ン及び商館職員のビュルゲル、デ・フィレネウフェ、ピストリウス、デプメル、そして同窓の
友人で医師としてバタフィアに勤務していたコルマンとフリッツェ16の名が挙がっている。
表5 シーボルトの勘定帳簿に見る取引相手口座
口座名
Het Gouvernement(バタフィア政庁)
Ten Brink en Rijnst te Batavia(テン ・ ブリンク商会)
De Particuliere Handel Societeit(個人貿易協会)
Meylan(商館長メイラン)
De Villeneuve(商館員デ・フィレネウフェ)
Burger(商館員ビュルゲル)
Pistorius(商館員ピストリウス)
Depmer(商館員デプメル)
Mevrouw A. von Siebold geboren Lotz(シーボルトの母)
Dr. med. Fritze te Batavia(バタフィアの医師フリッツエ)
Dr. med Kollmann te Batavia(バタフィアの医師コルマン)
Kambang Commissarissen(脇荷掛通詞)
Tolk Inabe Itsikuro(稲部市五郎・小通詞末席)
Tolk Kinsaimon(森山金/源左衛門・小通詞並?)★
Tolk Tojokes(荒木豊吉・稽古通詞見習)
De Doktor Minato T/Jooan te Jedo(江戸の医師湊長安)
De Oppertolk(N.)Sak'sabro(中山作三郎・大通詞)
Doktor Koo Tsai te Oosaka(未詳・大坂の医師)
De Dokter Dats moto Kagoo te Oosaka(未詳・大坂の医師)
De Oppertolk Sensaimon(末永甚左衛門・大通詞)
Tolk Sansiro(te Jedo)(名村三次郎・小通事並格 天文台詰)
De Oppertolk Gonoske(吉雄権之助・大通詞見習)★
De Tolk Tsoesiro(吉雄忠次郎・小通詞助)
De Oppercompratoor Jesju(上コンプラドール イェシュ〈藤吉栄重? * 1〉)
Tolk Noosiro(今村猶四郎・小通詞)
Dienaar Toda(使用人 トダ 〈菊谷藤太?・内通詞小頭見習 * 2〉)
Tolk Noonoske(松村直之助・内通詞小頭?)★
Tolk Hidetaro(立石秀太郎・小通詞並同格)★
Sensiro(堀専次郎・小通詞並同格)★
VBZ: K8. Fa. c. 104, Fa. f. 192, Fa. f. 194 より作成 ★は個人貿易協会の取引相手にも名前のある者
通詞の職階は1828年と推定される『分限帳』による
* 1、* 2 本文註15)参照
152
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
日本側で名前が挙がっているのは、弟子と思われる医師3名、コンプラドール Compradoor
1名17、そして役職名としての「脇荷掛通詞 Kambang commissarissen」に加え、内通詞を含
む通詞 Tolk が13名である。
唯一役職名のみが出てくる「脇荷掛通詞」は、カンバン勘定での取引を扱っており、コ
ンプラドールへの支払いに加え、大工、画家トヨスケなどへの支払い、日蘭双方の個人と
のカンバン勘定でのやり取りがこの口座に記載されている。
永積氏によれば、個人貿易協会の取引相手には11人の通詞が含まれていたと指摘される
が、共通する人名は半分ほどであり、それ以外にもシーボルトと個人的に密接な関係を
もっていた通詞たちの名が確認される。
例を挙げれば、稲部市五郎に対しては、薬、アラク酒、ジェネーバなど476タエルの品
物を渡し、また計271.5タエルを貸している。合計747.5タエルについてシーボルトは K8.
Fa. c. 104に「私の子供お稲のために市五郎に預けた合計747タエルについては、ここに下
名の者は前述の市五郎の子供たちに贈物として残す」としている。一方 K8. Fa. f. 194には
市五郎に渡した1827年12月付の「様々な取引商品 200タエル」について「この金額は私
の子供おいねのためで、債務者はタエル12パーセントの利息を1828年12月1日に開始し毎
年支払う。
」とあり、当初帰国に際して市五郎に娘の養育のためにいくらかの商品を預託
していたものの、シーボルト事件に巻き込んでしまった彼の子供たちに、市五郎の負債金
額を送るかたちにしたものと推測される。
吉雄忠次郎にはウェイラントの辞書と様々な商品計807タエル相当を渡し、大工道具一
式26タエル、男女の鬘一式32タエル、種々の絵画130タエルを頼んだが、いずれも未受領
であり18、彼に渡した金額は「この債務者に対し免除された」とされている19。
立石秀太郎は個人貿易協会からも相当の商品を購入しているが、シーボルトも様々な商
品を525タエル相当渡し、他にカンバン勘定でのやり取りも大きかった。一方彼を通じて
何人かに金銭を渡しているようであり、その中にはいねの母其扇とその父親も見える。
ま た、 人 名 が 確 定 で き な い が 使 用 人 ト ダ dienaar Toda20に は、 外 科 道 具 heelkundige
instrumenten158タエル相当を渡し、北斎 Hoksai の絵11点75タエル、古銭類6.5タエル相当を
受け取り、
「なお絵が何点か彼のところに保管されており、それについてはケーサクKesak21
が知っている」22と記されている。
小通詞並や末席、さらに内通詞小頭やその見習いまで含めた比較的下層の通詞たちが
シーボルトの身辺に親しく出入りし、コレクション形成の手足ともなって働きつつ、シー
ボルトから種々の品物を手に入れ、仲介したり私的に売買したりしていたのであろう。
商館員同士、そして関係する日本人との間には、具体的な物の動きは直接にはわからな
い現金やカンバン勘定での貸し借り、前渡しの金額のみの計上も多い。こうした個人間の
頻繁な金銭や物のやりとりが展開する環境の中でこそ、収集品の調達も容易に依頼できた
ものと考えられる。
4.シーボルトの取引の収支
以上見てきたバタフィア及び日本で作成された会計記録から、販売のために日本へ送っ
シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る
153
た商品の仕入れ金額と日本から送っ
表6 シーボルトの取引額
単位:f(グルデン)
た商品の販売価格を示したのが表6
である。日本へ送った商品の仕入れ
価 格 は 総 額23,676.79グ ル デ ン、 そ
年
日本向け商品仕入れ額
Inkoop voor Japan
日本商品の販売額
Verkoop van Japanse
Goederen
1823
4,558:00
2,420:26
れに個人貿易協会への三年間の投
1824
8,598:04
1,682:02
資の総計8680グルデンを加えると、
1825
6,273:28
3,453:76
32,356.79グルデンが、シーボルトが
1826
4,247:47
*1,284:80
1827
2,000:00
?
1828
3,200:00
3,965:98
日本向けの商品に投資した総額とい
うことになる23。 1829
3,480:00
2,522:94
1826年の書翰を見ると、前年母と
合計
32,356:79
15,329:76
伯父に依頼して送らせた品物はどれ
も期待外れであり、またテン・ブリ
ンクやホーボーケンに依頼した商品
仕入れ額 : K8. Fa. f. 194末尾の記載をもとに集計
1827∼29の仕入れ額は表1の個人貿易協会への出資額
販売額 : B17 Fa. a. 92, 93, 94, 103, K8. Fa. g. 203, 275f. 286i, 286b の各史料よ
り抽出
*B17 Fa. a. 109b によれば f. 1284. 20
も、書籍や医療器具などを除く、サフランや金唐革などの一般商品は、価格が低迷して利
益にならなかったものと見える24。新参者のシーボルトが得られる程度の売れ筋商品の情
報は皆が知っており、他の人々も個人で大量に注文した結果値崩れしたのであろう。こう
した状況が個人貿易協会設立の一つの理由であった。貿易協会が存続した期間には、テ
ン・ブリンク商会がその総代理店であったことから、シーボルトは個人としての商品仕入
れを自粛していたものと思われる25。
一方、日本から持ち出した商品については、送状記載額として1824年に10,055グルデン、
1825年には6,049グルデンと言う数字が残っている26。但し、前述のようにこの両年にバタ
フィアへ送られた商品は売れ残り、1828年にジャワ島内の別の場所、スマランとスラバヤ
で売り払われた。この最初の2年の日本商品の輸出が失敗であったことはシーボルトとも
認めざるを得ず、今後は年に5,000グルデン以上の荷は返送しないことにし、また売却も
購入もすべての判断をテン・ブリンク商会に任せると述べている27。1828年についてもバ
タフィアへ送った日本商品のリスト K8. Fa. k. 282が残っており、日本からの輸出について
は、協会の存続中も独自に商品を送っていたと思われるが、金額は記されていない。日本
商品のジャワ島での売却は、持越し品を売り払った1828年に最高額になるが、それでも
4,000グルデンは超えない。
バタフィアで仕入れた商品の日本での販売総額及び日本商品の仕入れ総額は、これらの
会計記録には明示されていない。そのため最終的にシーボルトがどれだけの利益あるいは
損失を得たのかを確定することはできないが、持ち渡った商品の日本での販売において
も、日本で仕入れた商品のバタフィアあるいはジャワ島内での販売においても、シーボル
トの個人貿易が目覚ましい利益をあげた形跡はない。それを反映してか、1823年には毎年
6,000グルデン、うまく行けば8,000グルデンは貯えられる28、1824年には「経済的情況は
極上」29、自分が日本から送った12,000グルデン分の商品を積んだ船が無事につけば、母
と伯父に10,000グルデン送れる30、と母と伯父宛の書翰に見られたいささか誇大妄想的大
儲けへの期待は次第に影をひそめる。翌年の帰国を告げる1827年12月26日付の書翰では彼
154
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
は、「経済状況はまずまずで、日本出発の頃には20,000グルデンの財産は期待できます。
」
と述べるにとどまっており31、その後の書翰では個人貿易については一切言及せず、オラ
ンダ東インド政庁から支給されるはずの年棒4,500グルデンだけを繰り返し語っている。
個人貿易協会の活動期間中には、シーボルトもそのメンバーとして投資し、9,148グル
デンの利益を得ている。わずか3年間でその活動を終えた個人貿易協会は、実はシーボル
トのコレクションに間接的恩恵を与えていたと言えるのかもしれない。
おわりに
シーボルトの当初抱いたバラ色の夢が、こと経済活動においては期待通りでなかったこ
とは間違いない。優秀な学者はしたたかな商人にはなれなかったようである。それでも、
多くの商館員たちが当然のこととして個人貿易を行ない、出島に出入りする日本人たちと
物や金銭をやり取りする環境があり、さらには幸運にも在任中に個人貿易協会の恩恵に浴
することができたことが、シーボルトの「財力を傾けた」膨大な収集を可能にしたのであ
る。そして、日本における物や金銭のやり取りに見られるように、取引とコレクション形
成は、境目のない、日々の交換の営みの二つの側面だったのである。
註
1
栗原福也編訳『シーボルトの日本報告』(東洋文庫784 平凡社 2009)、pp.293-299。
2 ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト関係文書(Brandenstein-Archiv 以下 VBZ。書翰の一部につ
いては宮坂正英、ベルント・ノイマン、石川光庸訳「ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト書簡の
翻刻並びに翻訳」
(長崎市シーボルト記念館『鳴滝紀要』第11号∼21号(2001∼2011)
)に訳載されて
いる。以下基本的にはこの訳文を用い、VBZ の所蔵番号に『鳴滝紀要』の収載巻号(vol.)と翻訳時
に付与された番号(no.)
、翻訳の収載頁を併記する。
)VBZ: B. 13. Fa. b. 313(宮坂 vol.19, no.59A, p.46)
及び B. 13. Fa. b. 308(vol.19, no.59B, p.46)
。購入費用20,000グルデンについては同 B. 13. Fa. b. 314
(vol.19, no.60A, p.50)及び同 B. 13. Fa. b. 317(vol.19, no.61, p.52)
。
3 例えば1823年3月18日付母及び伯父ロッツ宛書翰(VBZ: B. 13. Fa. b. 284(vol.13, no.26, p.105)
)には
「我が家名と家計状況があれより沈下してゆくのを、私はもう見ていられませんでした。
」と家計の問
題が語られている。
4 シーボルトの個人貿易の重要性は、宮坂 vol.16, pp.28-29, 栗原2009, pp.351-355にも指摘されている。
5 永積洋子「オランダ商館の脇荷貿易について―商館長メイランの設立した個人貿易協会(一八二六−
一八三〇年)
」
(日本歴史 379号 pp.55-90,1979)及びその英訳 Nagazumi Yoko “Personal Trade at the
Dutch Factory in Japan: The Trade Society Organized by Chief Factor Meijlan(1826-1830)
”(The Memoirs of
the Toyo Bunko no.66, 2008)
。
6 それぞれはオランダ側では compagnies/gouvernement と cambang と呼ばれた。日本側では本方(もと
かた)
、脇荷(わきに)とされたが、この用語は税率や貨幣換算率の異なる会計の範疇としての意味を
も持っており、実際の荷物の所有者の区分とは必ずしも一致しない。混乱を防ぐため、本報告では本
方と脇荷という用語は日本側の会計範疇としてのみ用いる。
7 ホーボーケンについては、2013年10月のライデンにおけるシーボルト会議 THE SEVENTH INTERNATIONAL
SIEBOLD COLLECTION CONFERENCE held by Siebold Huis, Leiden, The Netherlands & National
Museum of Ethnology, Leiden, the Netherlands, October 16-18, 2013の際に、ハルム・ボイケルス教授
Prof. Harm Beukers から種々のご教示をいただいた。記して謝意を表したい。
8
VBZ: B. 13. Fa. b. 274(宮坂 vol.12, no.21, p.91)。
シーボルトの勘定帳:出島における経済活動を探る
155
9
Oosterwijk, Bram Koning van de koopvaart: Anthony van Hoboken(1756-1850)Amsterdam: De Bataafsche
Leeuw, 1996, p.120。
10
VBZ: B.13.Fa.b.287, 288(宮坂 vol.13, no.29, p.112; no. 30, p.115, 一部松井補訂)
。
11 Oosterwijk 1996, p.121-122。その後1828年に Ten Brinkは帰国し、Maximiliaan ReijnstとGradus Gijsing が
業務を引き継ぎ、社名は Ten Brink, Reijnst en Gijsingとなったが(VBZ: K8. Fa. k. 282)
、本稿では煩を避
け全期間を通しテン・ブリンク商会と呼ぶ。
12
VBZ: K8. Fa. d. 158c(宮坂 vol.20, no.63, p.35)。
13
VBZ: ① K8. Fa. g. 203, ② K8. Fa. k. 275f, ③ B. 17. Fa. a. 92, ④ B. 17. Fa. a. 93, ⑤ K8. Fa. k. 286i &285, ⑥
K8. Fa. k. 286h &291, ⑦ K8. Fa. k. 286e, ⑧ K8. Fa. k. 286b。
14
VBZ: B. 17. Fa. a. 100; B. 17. Fa. b. 304(宮坂 vol.18, no.57, p.55; no.58a, p.59)。日本での取引の記帳の
中にも、小判はしばしば現れる。
15
表5の通詞の役職については、1828年ごろのものと推定される「分限帳」
(長崎歴史文化博物館収蔵
14-296-1)を用いた。なお Oppercompratoor Jesju については1830年11月9日付こんぷら仲間の署名
(日本商館文書 NFJ1943 Protocol no.1(旧番号 Aanwinsten1910 I 389、史料編纂所マイクロフィルム番
号6998-1-138-1, 同写真帳7598-106-4)金井圓『日蘭交渉史の研究』(思文閣 1986)p.416)の中にあ
る藤吉栄重(金井は「栄二郎」とする)、Dienaar Toda についてはシーボルト事件の処罰対象者とし
て押込の処分を受けた「内通詞小頭見習」として「犯科帳」(巻107 森永種夫編『長崎奉行所判決記
録 犯科帳』第八、p.33)に名が見える菊谷藤太の可能性が考えられる。
16 コルマン Georg Joseph Kollmann は VBZ: B. 13. Fa. e. 379(宮坂 vol.17, no.54)、B. 13. Fa. f. 397(宮坂
vol.17, no.55)、B. 15. b. Fa. l. 83(同 vol.21, no.69)の3通の手紙をジャワ島のバイテンゾルフから
シーボルト宛てに書いており、no.69(vol. 21, p.94)では「衛生局の主任医官」フリッツェ Dr. Fritze
について言及している。
17 コンプラドールは日本側では時期により買物使・諸色売込人などと呼ばれ、日本における日用品・個人購入
品の調達を統括していた(Matsui Yoko “The Factory and the People of Nagasaki: Otona, Tolk, Compradoor”
(Itinerario, Vol.xxxvii, issue 3, Special Issue: Canton and Nagasaki Compared, Leiden 2013)
。
18
VBZ: K8. Fa.f. 194。
19
VBZ: K8. Fa. c. 104。
20
菊谷藤太か。前掲注15)参照。 21
二宮敬作か。
22
VBZ: K8. Fa. c. 104。
23
1829年の協会への投資額は K8. Fa. f. 192によれば f. 3482. 40とされるが、ここでは永積氏が用いた日
本商館文書 NFJ1596(オランダ国立中央文書館所蔵)の f. 3480. 00に従った。
24
VBZ: B. 13. Fa. b. 304(宮坂 vol.18, no.58a, p.58); B. 15. Fa. a. 124(同 vol.20, no.64, p.36)。
25
VBZ: B. 15. Fa. a. 124(宮坂 vol.20, no.64, pp.36-37)。
26
VBZ: K8. Fa. f. 194。
27
VBZ: K8. Fa. d. 158c(宮坂 vol.20, no.63, p.34-35)。
28
VBZ: B. 13. Fa. b. 291(宮坂 vol.14, no.31, p.38)。
29
VBZ: B. 13. Fa. b. 294(宮坂 vol.16, no.46, p.53)。
30
VBZ: B. 13. Fa. b. 295(宮坂 vol.16, no.48, p.58)。
31
VBZ: B. 13. Fa. b. 308(宮坂 vol.19, no.59b, p.47)。
後記:オランダ語史料の翻訳に際してはイサベル・田中・ファン・ダーレン氏より、帳簿の理解につい
ては石田千尋氏より御教示を得た。記して謝意を表したい。
(まつい ようこ・東京大学史料編纂所)
156
国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」