匂いの受容から認識まで

季刊化学総説42「味とにおいの分子認識」
2章 匂いの分子認識
7. 嗅覚のしくみ
柏柳誠 北海道大学大学院薬学研究科
匂い分子は嗅細胞に存在する受容体に結合して、嗅細胞の細胞電位を変化させる。細胞電位は、嗅神経部位においてインパルス信号に変換
され、匂い情報が脳に送られる1, 2)。本章では、嗅細胞がどのような受容体を有し、どのよう
な機構で匂い情報を電気信号へ変換するかを紹介する。また、嗅細胞は、ほとんど無数とい
っていい数の匂い分子を高感度で感知し、微小な化学構造の違いを識別する機能を有する。
嗅繊毛
本章では、嗅細胞がどのような機構で、数多くの化学物質を感知・識別するかを考察する。
嗅細胞
従来フェロモンの研究は昆虫を中心に行われてきたが、最近は哺乳動物のフェロモンが脚光
基底細胞
支持細胞
を浴びている。本章では、哺乳動物のフェロモンの受容•識別機構についての最新の研究成果
を紹介する。
嗅球
嗅神経軸策
嗅上皮
糸球体
1 嗅覚系の一般的な性質
1-1-1 嗅覚器の構造
匂いを受容する部位である嗅上皮は、嗅細胞、支持細胞と基底細胞から構成されている(図
1)。これらの細胞のうち、嗅細胞だけが匂い分子の受容機能をもつ。一個の嗅細胞からは
10本近くの嗅線毛が伸びている。嗅上皮表面を走査型電子顕微鏡で観察すると、写真のよ
うに密生している非感覚性の繊毛(白矢印)と嗅繊毛(黒矢印)が見える。嗅繊毛が生えて
いる膨らんだ部分を嗅小胞と呼ぶ。嗅小胞から細胞体にはデンドライトが伸びており、細胞
体から逆の方には神経軸策が伸びている。軸策の末端は、嗅覚一次中枢である嗅球の僧帽細
胞と呼ばれる神経細胞とシナプス結合している。
嗅細胞は、常に外界にさらされているために有害な化学物質により損傷されやすい。この
ために、定期的に基底細胞が新しい嗅細胞に分化して、損傷した嗅細胞に置き換わっている。
ラットの嗅細胞は、およそ30日で新しい細胞に置き換わる。
嗅球
僧帽細胞
嗅細胞
ヒトの匂い閾値(匂い分子数の対数)
図1 嗅上皮の模式図(a)。嗅上皮から嗅球
への投射(b)。ある種の嗅覚 GCR を発現して
いる嗅細胞は、特定の僧帽細胞へ糸球体を
28)
介して入力している 。コイ嗅上皮の走査
型顕微鏡写真 (c) 。嗅繊毛(黒い矢印)と
密に存在する非感覚細胞の繊毛(白い矢
印)
14
酢酸
n‑プロパノール
フェノール
アセトアルデヒド
n
‑ブタノール
エチルエーテル
酢酸メチル
酪酸エチル
12
酢酸イソアミル
酪酸メチル
メントール
クマリン
n‑オクタ
ノール
10
ヘプタン酸
1-1-2 嗅覚器の特性
生物が生産した物質のみならず、人工的に合成した化合物にも匂いがあるので、匂いの種
類は無数にあるといってもよい。嗅覚器は、これらの物質を鋭敏に検知し、識別している。
嗅上皮は嗅粘液で被われているので、わずかでも水に溶ける性質をもっている物質でないと、
嗅受容膜まで到達できない。メタン、エタン、プロパンなどは、水に溶けないために匂い物
質として受容されない。水に溶けない物質には匂いはないが、水に溶けやすいほど匂いが強い
わけではない。むしろ、水に溶けにくい疎水性の高い物質ほど、低濃度で匂いがする。ヒトが
匂いを感じる最小濃度(閾値濃度)と疎水性度をプロットすると、非常によい相関関係が見ら
れる(図2)3)。たとえば、水に溶けやすいプロパノールは、高濃度でないと匂いを呈しないが、
疎水性度の高いヨノンはこれより10000の1の低濃度で匂いを呈する。このような関係は、匂い
物質が疎水結合により受容部位に結合することに起因している。
1-1-3 匂い応答の測定方法
1-1-3-1 匂いの強さ
スカトール
匂い物質がもつ情報は、まず、嗅細胞で脱分極と呼ばれる電気的な情報に変換され、さらに
ヨノン
インパルスに変換される。インパルスは、神経を伝わる間に減衰しないという特性を有する。
8
嗅神経軸策から嗅球に情報が伝えられると、脳波という形で匂い情報が現れる。
-7
-5
-3
-1
脂質膜への吸着性(匂い濃度の対数)
匂いの情報を定量的に測定するために、さまざま測定が行われてきた。匂いの受容機構に関
図 2 ヒトの匂い閾値(空気 1 ミリリット
する情報を得るには、嗅細胞の匂い応答を測定するのがもっとも直接的である。しかしながら、
ルあたりの匂い分子数)と匂い分子の親
嗅細胞の細胞体の大きさは、直径が約10 µmと一般の神経細胞と比べて非常に小さい。このため
3)
油性との関係
に、微少なガラス電極を細胞に刺す手法しかなかった時代には、鈴木によるカワヤツメからの
匂い応答の測定がなされただけで、細胞レベルの実験がなかな
か進まなかった。1991年にノーベル賞を受賞したNehrと
Sackmannにより開発されたパッチクランプ法が適用されるよ
うになり、単一の嗅細胞からの電気的な応答が次々と測定され
アンプ
るようになった。パッチクランプ法は細胞に電極を刺入するの
a) d‑カルボン
ではなく、微小ガラスピペットの先端に細胞を吸い付けること
嗅球
嗅上皮
0.01 µM 0.1 µM 1 µM
10 µM 100 µM 1000 µM
により記録する。このために細胞に与える損傷が少なく、この
匂い物質
手法が嗅覚の研究分野に導入されて以来、匂いの受容機構の解
b) ヘキセノール
析が大きく進歩した。
個々の嗅細胞は、いろいろな匂い物質に対しさまざまな応答
特異性を示す。このために、個々の嗅細胞からの情報だけでは、
cis trans cis
4)
図 3 カメの嗅球より測定した各種濃度の d-カルボンに対する応答(a) 。
5)
ヘキセノールのシス体とトランス体を用いた交差順応実験(b) 。トランス
体に対する応答が順応した後に与えたシス体に対する応答は、シス体を単
独で与えたときの応答と同様に生じた。
表1
別
カメ嗅覚器における各種光学異性体の識
カルボン
シトロネロール
メントール
0.52
水酸化シトロネラール 0.42
シトロネラール
リモネン
識別度
0.78
0.75
匂い物質に対する全体的なあるいは平均的な応答に関する情報を得ることは難し
い。匂い物質に対する平均的な応答を測定するためには、嗅上皮、嗅神経束あるい
は嗅球に電極を接触させて電気応答を測定する方法が用いられる。図3のように、
0.36
カメの嗅球に電極を接触させると、長いときには一週間にわたって安定した匂い応
0.26
答を測定することが可能となる。カメの嗅覚器にいろいろな濃度のd-カルボンを与
えると、濃度の増加とともに応答が大きくなることがわかる4)。カルボンに対する
応答を濃度に対してプロットすると、図4のような曲線が得られる。匂い応答の大きさは匂いの濃度そのものに比例しているのではなく、対数
相対応答値
相対応答値
相対応答値
濃度に比例している。このような関係は、ウエーバー•フェヒナーの法則と呼ばれている。嗅覚器のこうような特性は、極低濃度から高濃度ま
での広い濃度領域にわたって変化する匂い分子を感知するのに役立っている。
1-1-3-2 匂いの識別
匂い応答の一つの特徴は、慣れ(順応、脱感作)が生ずることである。夏の北海道は、ラベンダーの花畑で有名である。花畑で紫の可憐な
花を鑑賞しているうちに、強い香りがただよっているにもかかわらず、ラベンダーの香りをあまり感じなくなってしまう。このような現象は、
嗅覚器に慣れが生じたために起こる。ただし、花畑の中でも北海道名物のトウキビ(とうもろこし)を焼いて売っている店先では、香ばしい
トウキビの匂いを嗅ぐことができる。これは、慣れが特定の匂い物質に対してのみ生じるためである。
このような嗅覚器の特性は交差順応法と呼ばれる実験手法に応用され、匂いの識別を調べるための貴重な手段となっている。たとえば、ト
ランス-3-ヘキセノールをカメに与えると、図3bのような
2.0
1.5
応答が生ずるが、やがて順応して消失する。この状態で
1.0
シス-3-ヘキセノールを与えると、新たな応答が生じる5)。
1.0
0.5
1.0
この結果は、カメ嗅細胞にはヘキセノールのシス型とト
l
0.5
cis
n
ランス型の両者に対する受容体が存在し、カメは両異性
d
trans
iso
0
0
体を識別できることを示している。
0 -8 -6 -4 -2
-6 -5 -4 -3
log[3-ヘキセノール] (M)
log[カルボン] (M)
図4
カメ嗅覚器の各種異性体に対する応答
-5 -4 -3 -2
log[アミルアセテート] (M)
4-6)
匂い物質
2
C a+
cAMP作動性
+ チャネル
Na
NH 3
受容 体
2
+
C a+
Na
NH 3
受容 体
P LC
AC
HOOC
HOOC
G
G蛋白質
A TP
cAMP依存性経路
第三の経路
IP 3
合成酵素
cAMP
合成酵素
IP 3 作動性
チャネル
G
G蛋白質
IP 3
IP 3 依存性経路
cA M P
嗅細胞の興奮
図5
表2
匂いの情報変換機構
cAMPを増加させる匂い物質(+)とIP3を増加させる匂い物質(*)
シトラルバ
ゲラニオール
l-カルボン
ヘディオン
オイゲノール
シネオール
l-シトロネラール
メントン
ラット10) ヒツジ11) ウシガエル9)
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
+
リリアール
ライラール
エチルバニリン
*
*
*
−
−
−
*
−
−
−
−
カメ12)
+
+
異性体の匂い強度と匂いの質の違い
各種異性体は、嗅覚器でどのように受容されているの
であろうか。まず、光学異性体が引き起こす応答の大き
さに違いがあるかどうかに注目してみる4)。図4のように、
d-カルボンに対する濃度―応答の曲線は、l-カルボンの曲線とほぼ重
なっている。応答が生ずる匂い物質の最小濃度(閾値濃度)も変わ
らない。リモネン、シトロネロール、シトロネラール、メントール、
ヒドロキシシトロネラールなどの他の光学異性体について調べて
みても、l体とd体が引き起こす応答の大きさの間には、ほとんど違
いが見られなかった。
幾何異性体であるシス-3ヘキサノールとトランス-3ヘキサノー
ル5)、構造異性体であるn-酢酸アミルとイソ酢酸アミル6)間にも応答
の大きさの違いが見られなかった(図4)。このように、匂いの強
さには、光学異性体、幾何異性体および構造異性体の間で明確な違
いがみられない。先に匂いの応答閾値濃度は匂い物質の疎水性度に
依存していることを述べた。これらの異性体間で疎水性度がほとん
ど変わらないことを考えると、異性体間で匂いの強さに差がないこ
とが理解できる。ちなみに、フェロモンの場合は、異性体間でその
活性に大きな差がある。たとえば、カイコのフェロモンであるボン
ビコールの場合は、シス体とトランス体のフェロモン活性には一億
倍以上の差がある。
カルボンやメントールなどの光学異性体は、それぞれが違う匂い
をもっているとされている。しかし、熟練した調香師は別として、
われわれが実際に匂いを嗅いでみると、光学異性体は互いに同じよ
うな匂いをもっており、両者を識別するのは容易ではない。動物に
交差順応法を適用すると、嗅覚器の匂いの識別能を定量的に解析で
きる。表1は、いくつかの光学異性体間での識別の程度をまとめてい
る4)。嗅覚器は、いろいろな光学異性体を識別するが、識別の程度は
さまざまである。カルボンの場合はよく識別されるが、メントール
の場合は識別の程度が小さい。また、n-アミル酢酸とイソアミル酢
酸も識別される。以上の結果は、それぞれの匂い物質の異性体は異
なる受容体を刺激するために、両者が識別されることを示唆する。
1-2
電流強度 (pA)
1-3 細胞内情報伝達
図5に嗅細胞での情報変換過程をまとめた。匂い物質が受容体と結
(-)は、cAMPを増加させない匂い物質でIP3に関しては測定されてい
合するとGTP結合蛋白質を介して、アデニル酸シクラーゼ(cAMP合
ない カメは 混合液で測定したもの
成酵素)あるいはホスホリポーゼC(IP3合成酵素)が活性化される。細
胞内で生じたサイクリックAMP(cAMP)あるいはイノシトールトリスリン酸(IP3)は、
600
0.5 mM cAMP
それぞれに対応するイオンチャネルを開口し、嗅細胞の電気的な興奮を引き起こす。ま
cGMP
た、これらのセカンドメッセンジャーを介さない経路も、匂い応答の発現に重要な役割
400
を演じている。以下に、嗅細胞内での情報伝達経路について詳しく説明する。
cAMP
1-3-1 匂い物質によるセカンドメッセンジャーの産生
200
0.5 mM cGMP
神経伝達物質やホルモンを受容する細胞では、細胞内にセカンドメッセンジャーの合
成系が発達している。1972年に栗原と小山は嗅上皮に強いアデニル酸シクラーゼ活性が
0
認められること報告し、匂い応答の発現にセカンドメッセンジャーを介した経路が関与
0.2 nA
0
0.2
0.4
5s
する可能性を初めて示した7)。その当時は、GTPおよびGTP結合蛋白質がアデニル酸シク
[環状ヌクレオチド](mM)
ラーゼの活性化に必要であるという概念は確立されていなかったために、匂い物質によ
図 6 ウシガエル嗅細胞の環状ヌクレオチドに
13)
るcAMPの産生は示されていなかった。それから、10年以上経た後に、Lancetのグループ
対する応答
が匂い物質はGTP依存的にcAMPの産生を引き起こすことを見つけた8)。しかし、続けて
発表されたSklarらのウシガエルの嗅繊毛標品を用いた実験により、匂い物質の中には大きな匂い応答を引き起こすがcAMPを全く増加させない
匂い物質が存在することが示された9)。現在までに調べられているおよそ70種類の匂い物質のなかで、60%近い匂い物質がcAMPを産生させるが、
残りの匂い物質はcAMP濃度を増加させなかった。Breerのグループは、cAMPの産生を引き起こさない匂い物質の中にはIP3産生せる匂い物質が
存在することを見出した(表2)10)。彼らが測定した匂い物質はcAMPかIP3のいずれか一つのセカンドメッセンジャーしか増加させなかった。
以上の結果から、匂い物質の中にはcAMP濃度を増加させるグループとIP3濃度を増加させるグループが存在することが示唆された。このような
匂い物質のグループ分けは、揮発性の匂い物質を受容する動物の間では種間の違いを越えて成立する。たとえば、ウシガエルの嗅細胞でcAMP
産生を引き起こさない匂い物質は、ラット、ヒツジ11)およびカメ12)などの嗅細胞でもcAMP産生を引き起こさない。
2
Lancetらの報告でcAMPが匂い応答の発現に寄与している可能性が現実味を帯びてきたが、cAMPがどのような機構で情報変換に寄与するかは
不明であった。1986年に鈴木は、遊離したウシガエル嗅細胞内へcAMPを投与したところ、内向き電流応答が生ずることを報告した(図6)13)。
この結果は、嗅細胞にcAMPで開くチャネル(cAMP作動性チャネル)が存在することを初めて示した。光を受容する視細胞で存在する環状ヌ
クレオチド作動性チャネルは、cAMPではなくcGMPが特異的にチャネルを開口することが知られていたが、嗅細胞の場合にはcAMPとcGMPの
両者がチャネルに対する効果を有していた。また、嗅細胞に存在する嗅繊毛の数が多いと、cAMPで引き起こされる応答が大きかったことから、
cAMP作動性チャネルは嗅繊毛に存在することが推測された。これを裏付けるように、翌年に中村とGoldにより嗅繊毛にcAMPで活性化される
イオンチャネルの存在が報告された14)。それ以来、さまざまな動物の嗅細胞にcAMP作動性チャネルが存在することが見出された。また、倉橋
はイモリ嗅細胞では匂い応答とcAMPに対する応答がよく似ていることを報告した15)。これらの結果は、匂い応答はcAMPを介して引き起こさ
れる可能性を示唆した。このように、嗅覚受容におけるセカンドメッセンジャーの働きを示唆する主要な実験結果は、日本人により次々と示
された。
一方、ラット、ヒト、カエル、ナマズやロブスターなどの嗅細胞にIP3を注入すると応答が発現することが報告された。一般的にはIP3で開く
チャネル(IP3作動性チャネル)は、Ca2+を貯蔵している細胞内小胞に存在している。しかしながら、Restrepoのグループは、この細胞内小胞が
含まれていない嗅繊毛膜標品からIP3で活性化するコンダクタンスの上昇を記録した16)。また、膜電位固定下でCa2+感受性の蛍光色素fura2を負荷
し、IP3が引き起こす応答について解析した結果から、IP3は細胞膜に存在するIP3作動性チャネルに直接作用することにより応答を発現させるこ
とを示唆された17)。これらのIP3作動性チャネルの解析と先に述べた生化学的な実験から、cAMPを介さない匂い物質に対する応答は、IP3を介し
て発現することが示唆された。現在のところ、嗅細胞に特異的に存在するcAMP作動性チャネルはクローニングされているが、IP3作動性チャネ
ルは見つかっていない。嗅細胞に存在するIP3作動性チャネルは細胞膜に存在する
1 mM cAMP
特徴を有しているため、近い将来に新しいIP3作動性チャネルがクローニングされ
る可能性があると思われる。
1-3-2 セカンドメッセンジャーを介さない匂い応答
Lancetのグループは、定量的なRT-PCR法により、マウス嗅細胞のcAMP作動性
50 pA
チャネルは、胎生19日目からが発現しはじめることを示した18)。一方、Gesteland
20 s cAMPに依存しない
1 mM cAMP
匂い応答
らは、発生に伴う嗅細胞の匂い応答の変化を測定したところ、胎生15日目から匂
細胞内に投与されたcAMPによる応答
い応答が生ずることを報告している19)。このように、未成熟な嗅細胞は、cAMP作
動性チャネルが発現していないにもかかわらず、匂い物質に応答する能力をもっ
オイゲノール
シネオール
ている。これらの匂い物質には、cAMPは産生するがIP3は産生しない匂い物質が
シトロネラール
含まれているので、cAMPとIP3の両者に依存しない匂い応答が未成熟な嗅細胞で
ヘジオン
生じていることを示している。
ゲラニオール
それでは、成熟した嗅細胞でも、cAMPを介さない匂い応答が発現するのであろ
シトラルバ
カルボン
うか。筆者らはcAMP作動性チャネルが働かない状態(順応した状態)を作り出し
ライラール
て、匂い応答を測定した(図7)20, 21)。カメやカエルの嗅細胞に高濃度のcAMPを
リリアール
注入すると、いったん大きな応答が発生するが、cAMPを与え続けているにもかか
トリエチルアミン
わらず応答が順応する。このような条件下で匂い物質を投与すると、新たに大き
エチルバニリン
0.0
0.5
1.0
な匂い応答が生じた。この結果は、成熟した嗅細胞でもcAMPを介さない経路が匂
cAMP非依存性応答の割合
い応答の発現に大きな寄与を果たしていることを示唆した。より定量的でかつin
図 7 カメ嗅覚器で測定された cAMP に依存しな
vivoに近い状態でデータを得るために、カメの嗅球応答の測定により、この問題
20, 21)
い匂い応答
を検討した。cAMP非依存性経路を介する応答の寄与は、匂い物質ごとに異なるが、
50%から80%以上であった20)。なお、ここで述べているcAMP非依存性経路を介す
る応答は、IP3を介する応答だけではなく、両セカンドメッセンジャーを介さずに発現する応答で
NH 2
ある。
一方、分子生物学的な手法を用いて、cAMP作動性チャネルの働きを検討する試みもなされて
いる。Ngaiのグループは、cAMP作動性チャネルをノックアウトした生後一日の新生児マウスが
匂い物質に応答する能力を有しているかを検討した22)。ノックアウトマウスでは、cAMPを増加さ
せる匂い物質のみならずcAMPは全く増加させないがIP3を増加させる匂い物質を含めたすべての
匂い応答が生じなかった。このような結果から、匂い応答はすべてcAMP作動性チャネルを介す
る経路で生じていると結論した。cAMP作動性チャネルは、脳(嗅細胞が入力している嗅球を含
む)および大動脈や心臓などの循環器系にも発現していることから、このチャネルを欠損したマ
ウスの生体機能ははかなり損傷を受けていると考えられる。実際、このチャネルの欠損は致死的
COOH
に働き、ほとんどのマウスは生後一日から二日の間に死んでしまう。このようなマウスの嗅細胞
図 8 嗅覚器からクローニングされた
25)
が正常な生理的な機能をもっているかどうか疑問視する意見もある。
嗅覚 GCR
同様に、嗅細胞に特異的に発現しているGsタイプのGTP結合タンパク質(Golf)をノックアウトし
たマウスの匂い応答も調べられている23)。この場合も、cAMPとは無関係な匂い物質を含むすべての匂い物質に対する応答が抑制されてしまっ
た。GolfはIP3の合成には関与していないので、何らかの副作用により嗅細胞の匂い応答能が非選択的に抑制されたことも考えられる。このよう
なノックアウトマウスを用いる実験の場合は、ノックアウトした分子が直接関与していると思われる機能以外が正常であるかどうかを慎重に
考慮する必要がある。
cAMPやIP3などのセカンドメッセンジャーに依存しない経路は、以下のような可能性が考えられている。たとえば、Breerのグループは、匂
い物質がcGMPを産生されることを報告した24)。cGMP合成酵素(グアニル酸シクラーゼ)の中には、一酸化窒素(NO)で活性化されるタイプが
存在する。彼らは、NO合成酵素の阻害剤が匂い物質によるcGMP合成を抑制することを見い出した。これらの結果から、匂い物質がNOの産生
を促し、さらにグアニル酸シクラーゼを活性化し、細胞内のcGMP濃度を増加させる経路が考えられている。ただし、嗅細胞ではcGMPもcAMP
作動性チャネルを通じて興奮を引き起こすことが示されている。このため、NOとcGMPが独立に匂い応答の発現に寄与をしているのではなく、
あくまでもcAMPの働きを補完する程度の役割しか果たしていな
ライラール
ヘジオン
いものと思われる。したがって、cAMPやIP3を介さない匂い応答
は、cGMPやNOも介さずに発現するものと思われる。後に述べる
シトラルバ
ように、この系を介する応答は、匂い分子が嗅細胞膜の脂質層に
リリアール
吸着することにより発現する可能性がある。
匂い物質
OCH 3
OHC
OH
O
CN
CHO
C H 3O
オイゲノール
O C 2H
エチルバニリン
HO
OHC
ゲラニオール
5
OH
2s
OH
3
図9
ウシガエル単一嗅細胞の各種匂い物質に対する応答
31)
1-4 匂い受容体
1-4-1 嗅覚GCRのクローニングと機能
一般に、 cAMPやIP3のようなセカンドメッセンジャーが機能
しているホルモンや神経伝達物質の受容系には、7回膜貫通型の
蛋白質(G-protein coupled receptor: GCR)が受容体として働いている。BuckとAxelは、この点に注目して、ラット嗅上皮より7回膜貫通型の受容
体(嗅覚GCR)をクローニングした(図8)25)。揮発性の匂い物質を受容するマウスなどの動物に存在する嗅覚GCRの種類は1,000種類におよぶ
と推定されている。In situ hybridization法により嗅覚GCRの発現が調べられ、嗅覚GCRの嗅細胞における発現頻度がおよそ0.1%であることが報
告されている。また、アミノ酸などの水溶性の匂い物質を受容するナマズの場合では、100種類程度の嗅覚GCRは1-2%の頻度で発現している26)。
これらの結果から、一つの嗅細胞には一種類の嗅覚GCRが発現していると推測されている。
嗅覚GCRが匂い受容体として機能しているかどうかは、本来嗅覚GCRを発現していない細胞に嗅覚GCRをコードする遺伝子を強制発現させ
て、匂い物質を与えたときにセカンドメッセンジャーを産生させるかどうかを調べればよい。Ramingらは、嗅覚GCRの遺伝子を昆虫由来のSf9
細胞に強制発現させた27)。数多くの遺伝子のなかの一種類の遺伝子を発現させた細胞が、匂いを与えたときにIP3を産生した。他の遺伝子ではIP3
の産生もcAMPの産生も見られなかった。本来、cAMPを増加させる匂い物質の方が多いにもかかわらず、
ヘジオン シトラルバ
匂いを与えたときにcAMPが産生される系は再構成されていない。
嗅細胞から伸びている神経軸策は、嗅球に存在する僧帽細胞に糸球体と呼ばれる構造を介して入力し
ている。一つの僧帽細胞には、2000本ほどの嗅神経が入力している。Axelのグループは、嗅覚GCR遺伝子
の一つP2とlacZ遺伝子が同時に発現する系を用いて、同種の嗅覚GCRを有する嗅細胞の嗅球への投射を調
べた28)。この結果、嗅上皮では特定のゾーンにランダムに発現している嗅覚GCRは、嗅球内の特定の糸状
体に入力していることを明らかにした(図1の模式図参照)。同様の結果は、嗅覚GCR遺伝子の嗅球内で
の発現様式をin situ hybridization法により解析することによっても得られている。嗅覚GCRが匂い物質を受
5 pA
容していると仮定すると、これらの報告は嗅球レベルですでに匂い情報があらかた統合されていることを
推測させる。森のグループは、分子構造の少しずつ異なる匂い物質をウサギの嗅覚器に与え、個々の僧帽
10 sec
細胞の応答特異性を解析した29)。その結果、一つ一つの僧帽細胞は、特定の構造を有する匂い物質のみに
図 10 ウシガエル遊離嗅細胞
31)
応答すると報告している。このような結果は、上記の考えを裏付けている。
の匂い識別
しかしながら、以下の実験結果は、匂いの受容はそれほど単純な機構では説明できないことを示唆し
た。まず、嗅細胞の匂い応答特異性を調べてみると、個々の嗅細胞はいろいろな構造をもつ匂い物質に応答した。すなわち、ラット19)、カエル
30)
、ウシガエル31)、カメ32)およびナマズ33)などで調べられている限り、単一の嗅細胞は性質の異なる多種類の匂い物質に応答した。たとえば、
ウシガエルのある単一嗅細胞は、cAMPを増加させるヘディオン、オイゲノール、ゲラニオールやシトラルバと、IP3を増加させる性質を有する
ライラール、リリアールおよびエチルバニリンなどの匂い物質に応答した(図9)31)。これらの物質の匂いは互いにまったく異り、また分子構
造も千差万別である。
ただし、多くの分子生物学者は、一つの嗅細胞が多数の匂い物質に応答したのは、匂い物質の濃度が高すぎたために非特異的な応答が生じ
た結果であると考えている。この説明は、一見、合理的であるように見えるが、われわれ自身が日常感じている嗅覚体験からは信じがたい。
われわれは、極めて微弱な匂いの質を嗅ぎ分けることができるし、強い匂いの質も識別できる。匂いが強くても、きれいな花の匂いと臭い腐
敗臭を歴然と区別できる。このようなことは、カメを用いた交差順応実験からも証明されている6)。すなわち、匂いの濃度が高くなっても、匂
いの識別能は低下しない。また、Sicardのグルー
ウィスター系オスラット尿に
ドンリュー系オスラット尿に
ウィスター系メスラット尿に
プはカエルの単一嗅細胞から外部誘導法で匂い
選択的に応答した細胞
選択的に応答した細胞
選択的に応答した細胞
応答を測定したところ、高濃度の方が低濃度よ
りもむしろ厳密な匂い識別が行われていること
W
を示している30)。
嗅細胞が投射している嗅球での匂い特異性を
D
もう一度考察してみる。1970年代に高木のグル
ープは、サルの僧帽細胞の多くは異なる匂いを
有する複数の匂い物質に応答することを報告し
W
ている34)。ラットでも同様に、一つの僧帽細胞
は多種類の匂い物質に応答することが示された
50 pA
control
35)
。また、ナマズでは、単一の僧帽細胞がいく
5s
つかのアミノ酸に対する応答が示されており、
個々のフェロモン受容細胞の3種類の尿に対する選択的な応答
その応答特異性は嗅細胞のそれよりもやや低い
36)
neuron 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 111213141516171819 202122232425262728293031323334
。最近では、ゼブラフィッシュ37)とミツバチ38)
W
を用いて、匂いを与えたときの糸球体内に存在
する神経末端中のCa2+濃度変化が測定されてい
D
る。これらの結果でも、単一の糸球体はいろい
W
ろな匂い物質に応答することが示されている。
図 13 ラット鋤鼻器感覚細胞の 3 種類の尿に対する選択的な応答(稲村ら、未発表)
以上のように、嗅覚GCRにより匂い情報が統合
されているために、嗅球レベルでは匂い選択性
が高くなっているというデータはない。
1-2-3 単一嗅細胞には多数の匂い受容体が存在する
カメ32)とカエル31)の単一嗅細胞を用いた交差順応実験は、単一嗅細胞に多数の匂い受容
体が存在することを直接的に示した。たとえば、ウシガエルの遊離嗅細胞にヘディオン
鋤鼻器
嗅覚器
を与え続け、ヘディオンに対する応答が順応した後に続けてライラールを与えると新た
な応答が生じた(図10)。この結果は、最低2種類の匂い受容体が一つの嗅細胞に存在す
ることを明確に示している。このような実験をいくつかの匂いの組み合わせで行った結
果、多くの嗅細胞は複数の受容体をもっていることが明らかになった。ナマズの単一の
嗅細胞にも多数の匂い受容体が存在していることは、Caprioのグループにより示された33)。
ナマズでは、酸性、中性、塩基性のアミノ酸がそれぞれ異なる受容体を刺激することが
示されていた。ナマズのある単一嗅細胞は、メチオニン、アラニンおよびアルギニンに
対しては抑制性の応答を示したが、グルタミン酸や胆汁酸に対しては興奮性の応答を示
図 11 ラットの鋤鼻器と嗅覚器の位置
した。また、他の嗅細胞でもこれらの刺激物質に対して応答したが、興奮性および抑制
性の応答を引き起こした刺激物質の種類は細胞ごとに異なっていた。以上の結果は、単一の嗅細胞に多数の匂い受容体が存在していることを
示している。単一の嗅細胞には一種類の嗅覚GCRしか存在しないので、嗅覚GCR以外の匂い受容体が匂い受容に重要な役割を演じていると考
えられる。Fesenkoのグループは、嗅覚GCRとは分子量の異なる蛋白質が匂い物質に結合する能力を有していると報告している39)。
匂い受容体を考える上で、嗅覚応答の特性を理解しておくことが有益と思われる。たとえば、先に述べたようにカメの嗅覚器は光学異性体
をよく識別する5)。嗅上皮の温度が低い(5°C)ほど識別能が大きく、40°Cになると識別しなくなる。このような変化は可逆的であり、温度を
下げると再び識別するようになる。同様な現象は、シス体とトランス体、n体とiso体の組み合わせでも見られた6)。カメの嗅覚器から脂質を抽
4
出して作成したリポソームでは、温度の上昇とともに膜流動性が増加した。この膜流動性変化と異性体の識別能の低下との間には良い相関が
あった。異性体の識別能低下は、膜流動性の増加に寄因するものと思われる。このことは、嗅細胞受容膜の脂質層が匂いの識別に関与してい
ることを示唆している。
一方、匂い物質は、嗅細胞以外の細胞に応答を引き起こす。たとえば、カメの三叉神経は、カメの嗅覚器と同程度の高感度で、各種の匂い
に応答する40)。また、カタツムリの巨大細胞41)、神経芽細胞腫42)、カエル味細胞43, 44)は、各種の匂いに対して応答する。また、脂質のみから作
製したリポソームも、匂いに応答する。ホォスファチジルコリンにホォスファチジルセリンを混合して作製したリポソームは、カエルやカメ
の嗅覚器より高感度で匂いに応答する45)。これらの結果は、匂い物質が脂質層に結合することにより応答を引き起こすことを示している。単一
の嗅細胞が多種類の匂いに応答したことや、異性体の識別能が40°Cで消失したことを考えると、実際の嗅細胞でも匂い分子が脂質層に結合し
て応答を発現する系が働いている可能性を示唆する。
ラット鋤鼻器膜標品における
IP 3 産生 (pmol/mg protein)
1-3高等動物におけるフェロモン受容
以前は昆虫のフェロモンの研究が盛んであったが、最近では脊椎動物とくに哺乳動物のフェロモンが脚光を浴びている。ヒトでもフェロモ
ンが引き起こす生理作用が見いだされ、ドミトリー(寄宿舎)効果と呼ばれている46)。これは、女子学生が寄宿舎で共同生活していると、彼女
らが放出するフェロモンにより月経周期が同期してくる現象をさす。最近、月経周期を延長するフェロモンと短縮するフェロモンがヒトに存
在することが明らかになった47)。これらのフェロモンが、月経周期を同期させると考えられている。
フェロモンは、主として鋤鼻器と呼ばれる器官で受容される。図11で示すように、鋤鼻器は鼻腔内には存在するが、匂いを受容する嗅上皮
とは独立している。嗅細胞は嗅繊毛を有するが、フェロモン受容細胞は微絨毛を有している。鋤鼻器は脊椎動物では両生類以上で存在し、魚
類には見られない。魚類の嗅上皮には、主にアミノ
ルテニュウムレッド
フェロモン
酸を受容する繊毛をもつ感覚細胞とフェロモンを
N a+
コントロール
N a+
C a2
受容すると想定されている微絨毛を有する感覚細
NH3
+
ラットフェロモン受容細胞の
IP 3 に対する応答
胞が混在している。このようなことから、一般的な
0.1 mM D-IP3
尿
フェロモン
化学物質(匂い物質)を受容する嗅覚器とフェロモ
IP 3 作動性
urine
IP 3 合成
受容 体
チャネル
酵素
ンを特異的に受容する鋤鼻器は、魚類から両生類に
(IP
合成酵素阻害剤)
U-73122
3
P LC
進化するときに独立したものと思われる。このため
HOOC
G
に、以下に詳しく述べるように嗅細胞とフェロモン
K+
50 pA
IP 3
受容細胞の間には共通する部分が存在する。フェロ
20
s
尿
K+
モンが嗅覚器ではなく鋤鼻器で受容されることは、
ネオマイシン
100
ネオマイシン(IP 3 合成酵素阻害剤)
U73122
鋤鼻器を除去するとフェロモンの作用が消失する
という実験で示されている48, 49)。たとえば、メスラ
5s
尿
ットを終日光を照射している条件で飼育すると、
排
50
卵周期が停止する。また、エストラジオールを投与
ルテニュウムレッド
(IP 3 作動性チャネル阻害剤)
しても、排卵周期が消失する。排卵周期が停止した
ラットにフェロモンを含むオスの尿を呈示すると、
0
排卵が誘発される。この際に、フェロモンを受容し
0
0.1
1
10
尿
[ウィスター系オスラット尿] (%)
ている鋤鼻器を閉じたり除去すると、尿を呈示して
も排卵周期は戻らない。また、爬虫類でもフェロモ
図 12 ラットにおける IP3 を介したフェロモン受容 56, 61, 62)
ンが重要な働きをしている。ガーターヘビのオスは、
メスから分泌される誘因物質を鋤鼻器で感知して、
一匹のメスに群がり生殖を行う。脊椎動物におけるフェロモン受容のしくみの解明は、まず、爬虫類を用いて行われた。
5
位置
位置
位置
1-3-1 フェロモン応答の発生機構
Halpernのグループは、餌から分泌されるガーターヘビの誘引物質(正式にはフェロモンではないが、鋤鼻器を介して受容される)を単離・
精製し、その物質が糖蛋白質であることを明らかにしてES20と命名した50)。ES20は、ヘビ鋤鼻器上皮標品のIP3濃度をGTP依存的に増加させ、
cAMP濃度を減少させた51)。カメの鋤鼻器感覚上皮から調製した膜標品は、嗅上皮と同程度のホルスコリンあるいはGTP感受性を有するアデニ
ル酸シクラーゼ活性が存在した12)。また、筆者らが、カメのフェロモン受容細胞にcAMPあるいはIP3を投与したところ、興奮性の電流応答が生
じた52, 53)。これらの結果から、爬虫類ではフェロモンに対する応答は、cAMPやIP3を介して発現している可能性がある。
哺乳動物のフェロモン受容細胞の情報変換機構は、カメのフェロモン受容細胞や多くの動物の嗅細胞のそれとはやや異なっている。嗅細胞
にはcAMP作動性チャネルのタイプIサブユニットとタイプIIサブユニットが存在し、機能的なチャネルを形成している。マウスのフェロモン受
容細胞にはタイプIIサブユニットしか存在しない54)。一般に、タイプIIのみでは、機能的なチャネルを構成しないと言われている。事実、マウ
スの受容細胞にcAMPを注入しても応答は見ら
れなかった。
支持細胞層
位置
動物で用いられているフェロモンは、一種類
1
ではない。尿の中には、さまざまなフェロモン
2
が含まれている。オスラットの尿の中には、先
細胞体層
3
に述べたような排卵周期の復活を引き起こすフ
4
49)
ェロモンが存在する 。メスラットを高密度で
5
基底膜
飼育すると、発情が停止してしまうが、これは
メスラット尿中には発情を停止させるフェロモ
ンが存在しているためである55)。このような現
n=6
n=11
n=6
1
1
1
象の発現にcAMPが関与しているかが調べられ
n=6
n=8
n=14
2
2
2
た。オスおよびメスのウィスター系ラットの尿
n=16
n=14
およびオスのドンリュー系ラット尿は、メスの
n=29
3
3
3
ウィスターラット鋤鼻器感覚上皮の膜標品の
4
n=27
n=30
4
n=47
4
cAMPの産生を引き起こさなかった56)。また、ヘ
n=18
n=27
5
n=22
5
5
ビの誘引物質やマウスでみられる揮発性の2種
0
20
40
60
80 100
0
20
40
60
80 100
0
20
40
60
80 100
ドンリュー系オスラット尿に
ウィスター系メスラット尿に
ウィスター系オスラット尿に
類のフェロモン(デヒドロブレビコミンとブチ
応答した細胞 (%)
応答した細胞 (%)
応答した細胞 (%)
ルジヒドロチアゾール)はGTP依存的にcAMP濃
図 14 鋤鼻器感覚上皮に層状に存在する異なるフェロモン応答性を有する感覚細胞。
度を減少させることが報告されている57)。しか
感覚上皮細胞体層の上部に存在する抗 Gi 抗体陽性細胞(a)。蛍光色素を注入したウィス
しながら、フェロモンの一次中枢の副嗅球で神
ター系オスラットの尿に応答した細胞(b)。感覚細胞内での位置と 3 種類の尿に対する
経細胞の指標となるFos蛋白質の発現の変化を
応答(稲村ら、未発表)。
調べると、これらの揮発性の2種類のフェロモン
を与えてもFosのmRNAの発現量が増えなかったことから、中枢に情報が伝えられないことを示している58)。これらの結果は、cAMPカスケード
に関連した分子が哺乳動物の鋤鼻器感覚細胞にも存在しするが、フェロモン受容における主要な情報伝達経路には寄与しないことを示唆して
いる。
哺乳動物の場合、フェロモンの受容にIP3がセカンドメッセンジャーとして関与している可能性が高い。ハムスターでは膣分泌液から精製さ
れたフェロモン(アホロディシン)59)が、ブタでは精液中のフェロモン60)が、鋤鼻器感覚上皮の膜標品のIP3産生を促進することが報告されてい
る。また、オスウィスター系ラットの尿をメスウィスター系ラット鋤鼻器感覚上皮の膜標品に与えると、濃度依存的なIP3の産生が見られる(図
12)。メスウィスター系ラットの尿およびオスドンリュー系ラットの尿も、IP3の産生を引き起こした56)。フェロモンを含む尿を鋤鼻器感覚細
胞に与えると、神経にインパルスが発生する。ホスホリパーゼCの阻害剤であるU73122とネオマイシンは、ともに尿フェロモンが引き起こす
応答を阻害した61)。また、ラット鋤鼻器感覚細胞にcAMPを注入しても応答は現れないが、IP3を注入すると興奮性の電気的な応答が発生する62)。
IP3に由来する電流応答を阻害するルテニィウムレッドを投与すると、尿中フェロモンに対する応答は抑制された。これらの結果は、ラットお
いては、フェロモンがIP3の産生を引き起こし、IP3依存性チャネルを開口させることにより脱分極を生じさせることを示唆した。
1-3-2 フェロモンの識別機構
メスラットの鋤鼻器感覚細胞に、オスとメスのウィスター系ラットとオスドンリュー系ラットの尿を与えて個々の細胞の応答選択性を調べ
た。図13に示すように、一個の細胞は、3種類の尿の中の一種類の尿にのみ応答した。このように、鋤鼻器感覚細胞の選択性は、嗅細胞と比べ
て非常に高い。フェロモンの場合には、受け取った情報が妊娠の中止などの重篤な変化を引き起こすために、その情報は厳密に識別されるこ
とが必要と思われる。一方、匂いの受容で述べたように、個々の嗅細胞は多種類の匂い物質を受容している。これは、多種多様に存在する匂
い物質を受容するのに適している。
先に述べたように、フェロモン応答の発現には、嗅細胞と同様にIP3がセカンドメッセンジャーとして関与していることが考えられる。Dulac
とAxelは、ラットの鋤鼻器から鋤鼻器に特異的に発現している受容体(鋤鼻器GCR)をクローニングした63)。この受容体ファミリーは、100個
近い遺伝子から構成されていると考えられている。また、1から4%の確率で発現していることから、一つの感覚細胞には一種類の鋤鼻器GCR
が発現していると推定されている。
フェロモンによりIP3が産生されるためには、GTP結合タンパク質を介することが必要となる。Halpernの研究グループは、ラットやマウスな
どの鋤鼻器感覚上皮内でのGTP結合蛋白質の分布を解析した。その結果、感覚上皮内の感覚細胞が存在する層の上部ではGiを有する細胞が存在
し、下部ではGoを有する細胞が存在していた(図14)64)。In situ hybridization法による解析から、鋤鼻器GCRはGiを発現している細胞が局在して
いる感覚上皮の上部の感覚細胞に発現していることが示された。また、マウスやラットの鋤鼻器から、通常のGCRよりも細胞外に露出してい
るN-端側の構造が長い受容体ファミリーがクローニングされた(鋤鼻器GCR-L)。このタイプの受容体は、Goを発現している細胞が存在して
いる感覚上皮の下部に存在する細胞に局在していた65-67)。
各種尿フェロモンに対して、感覚上皮内のどの位置にある細胞が電気的な応答を示すかが調べられた。この結果、図14に示すように、鋤鼻
器GCRやGTP結合蛋白質に対応するように層状に存在している。すなわち、オスのウィスター系ラットの尿は、メスの感覚上皮の上部に存在し
ているGiを発現している感覚細胞に応答を引き起こした。 また、ドンリュー系オスラットおよびウィスター系メスラットの尿は、感覚上皮の
下部に存在するGoを発現している感覚細胞に応答を引き起こした。このように、個々の感覚細胞は、尿フェロモンに高い選択性を示すだけで
はなく、感覚上皮内での分布も局在化している。
まとめ
鼻腔には、2種類の嗅覚器が存在している。嗅覚器は、多種多様な匂いを受容している。一個の嗅細胞は一種類の嗅覚 GCR しかもっていな
いが、構造の異なる多種類の匂いに応答する。嗅細胞の情報変換には、cAMP や IP3 などのセカンドメッセンジャーを介する経路と、セカンド
メッセンジャーを介さない経路が関与している。一方、フェロモンを受容する鋤鼻感覚細胞は、高い特異性を有する。個々のメスラット鋤鼻
器感覚細胞は、特定の尿フェロモンにしか応答しない。哺乳動物の鋤鼻器感覚細胞では、IP3 がセカンドメッセンジャーとして働いている。
謝辞 本小論をまとめるにあたり、貴重な助言を数多く与えてくださいました栗原堅三教授に深く感謝します。
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