オペラの愉しみ(6) 18、1990年 英国 ウェルシュ・ナショナル・オペラ公演 −衝撃の“サロメ” イギリスのオペラ・カ ンパニーとし ては、何と言っ てもロンドンの ロイヤル・オペ ラ・ハウス (Royal Op era House)、 通称コヴェント ・ガーデンがも っとも有名であ る が、他に同じくロンドンを拠 点とするイング リッシュ・ナショナル・オペ ラ(ENO)も 斬新な演出を特長とし た活発な公演 活動を行ってい る。そしてオペ ラに関する音楽 祭 としては国際的に有名 な英国屈指の インディペンデ ントのオペラハ ウスであるグラ イ ンドボーン音楽祭があ る。作品のク オリティー、芸 術性、革新性で 定評があり、オ ペ ラ愛好者にとってひと つの聖地にな っている夏の音 楽祭である。 さて、このウェルシュ ・ナショナル ・オペラである が、それらのオ ペラ・カンパニ ーと比較すると知名度 はそれほど高 くはない。しか しこのウェルシ ュ・ナショナル ・ オペラは他ではあまり 見られない不 思議なオペラ・ カンパニーなの である。 外見的にはこのオペラ 団には次のよ うな注目すべき 点がある。1つ は、日本の我々 が、ヨーロッパのオペ ラといえば直 ぐに思い浮かべ るミラノ・スカ ラ座やウィーン や ミュンヘンの国立オペ ラ劇場などと 違い、このオペ ラ・カンパニー が、定まった専 用 劇場を持たず、各都市 の劇場を転々 と移動して公演 する「ツアー・ オペラ」である と いう点である。その成 り立ちからし て“草の根オペ ラ”と言ってよ いだろう。した が って飛びぬけて有名な スター歌手は いない。しかし 、素朴だが情熱 に溢れた舞台は オ ペラの原点ともいえる 新鮮な感動を 与えてくれる。 もう1つは、現在では 当たり前にな っているが、当 時としては珍し く、このカンパ ニーが専任の演出家を 持たず、一作 ごとにさまざま な演出家と契約 して、常に舞台 に 新鮮な風を送り込んで いることであ った。その結果 、このイギリス の地方オペラが 、 ニューヨークのブルッ クリン・オ ブ・アカデ ミー劇場やミラ ノ・スカラ座に 乗り込んで、 圧倒的な成功を勝ち得 てしまったの である。この日 本公演はヨーロ ッパオペラ界の 新 時代を告げるイギリス のオペラ・カ ンパニーの初来 日であった。 なお、このオペラ団の 来日と同時に このオペラ団の 名誉総裁である ウェールズ皇太 子妃・ダイアナ妃が、 皇太子ととも に公演会場に姿 を現し、観客の 盛大な拍手を浴 び ていた。同妃は7年後 の1997年 、パリで事故死 するのであるが 、その美しい笑 顔 に接した者としては大 変残念に思っ たものである。 <ツアー・オ ペラ> さて、ツアー・オペラ という形態は イギリスのオペ ラ界を大きく特 徴づけている独 自のあり方で、これは オペラが盛ん なヨーロッパの 他の国々でもあ まりみられない 形 態である。その誕生の いきさつはこ うである。 現在、イギリスにはウ ェルシュ・ナ ショナル・オペ ラを筆頭に、ス コテッシュ・オ ペラ、オペラ・ノースな ど十指に近いツ アー・オペラが ある。コヴェント ガーデン(ロ イヤル・オペラハウス )や個人的に 建てられたグラ インドボーン・ オペラハウスを 除 けば、イギリスには舞 台設備を完璧 に整えたオペラ 専用の常設劇場 は殆んど無いに 等 しい。そこでともかく オペラ制作集 団を作ろうと、 劇場などのハー ド面を後回しに し てソフト面に予算を注 ぎ込んできた 結果、ツアー・ オペラという形 態が増えたのが ひ とつの理由である。そ してその背景 には18世紀後 半から20世紀 はじめのイギリ ス においては、イタリアやドイ ツほどにはオ ペラの隆盛を見 なかったという 事実がある。 イギリスでは劇作家で あり詩人でも ある、イギリス ・ルネサンス演 劇を代表する人 物 でもあるシェイクスピ アという最も 優 れた英 文 学 の作 家 が誕 生 しているせいで、演 劇 が 興 隆 している。一 方 、イタリアでは ヴェルディ、 プッチーニ、後 発のドイツでは R.ワー ナーや R.シュトラウスなどの オペラ作曲の 偉大な巨人が輩 出し、フランス においても 独自の国民的オペラが 次々に打ち立 てられた中で、 イギリスでは国 民音楽の様式を そ の本質に据えたものと しては、20 世紀に入ってブ リテンが登場す るまで独自のオ ペ ラは花開かなかったの である。 その反面、一時期、批 判のまとにな った「いまや観 光客のためのオ ペラハウスにな った」コヴェント・ガ ーデンなどが 演出・舞台装置 をひたすら豪華 にし、超大物歌 手 の招聘にしのぎを削っ ている状態に 、ウェルシュ・ ナショナル・オ ペラが開けた風 穴 は、舞台創造の単純な原点か ら放射されるエ ネルギーによ るものであった。MET やウィ ーンを見慣れた目から は、実に質素 な舞台装置であ る。歌手も超大 物はいないが、 装 置の豪華さや仕掛けに 頼ることなく 、有望な新進歌 手たちの気合の こもった歌唱は 、 聴衆の集中力にも引き ずられて、思 いもかけぬ感動 的な力を発揮す るのであった。 歌 手、演出家を固定せず 、1作ごとに 最適の人選を行 い、カンパニー の実態として固 定 しているのはオーケス トラと合唱団 だけなのである 。個人個人の歌 手の力量、舞台 の 華麗さにおいては物足 りないかもし れないが、人間 が歌い、演じる 、オペラという 総 合芸術で最も大切なも のは何か、という原 点を鮮烈に思い 起こさせてくれ るのである。 ◇ジュゼ ッペ・ ヴェル ディ作 曲 ( 1990年11月13日 東京 歌 劇《フ ァルス タッフ 》全3 幕 Bun kamu ra ・オーチ ャードホール) 指揮:リチャード・アームストロング 演出:ピーター・シュタイン 出演:ドナルド・マックスウェル(サー・ジョン・ ファルスタッフ) スザンヌ・マーフイ(アリーチェ)、 ウエンディ・ヴェルコ(ページ夫人) 他。 ウェルシュ・ナショナル・オペラ管弦楽団・合唱団 シェイクスピアの原作 をアリゴ・ボーイトが台 本を書き、イ タリア・オペラ 界の巨星、 ジュゼ ッペ ・ヴェ ルデ ィの 最後 の劇作 品と して 79歳 で完 成さ せ、 189 3年 、作曲 者が80歳の時、ミラ ノ・スカラ座 で初演された。 すでに オペ ラ作 家とし て名 声を 確立 してい た老 巨匠 の久 々のオ ペラ は聴 衆の 喝采を 浴び、30回に及ぶカ ーテンコール に引き出される という大成功を おさめた。 シェイ クス ピア の喜劇 をも とに 、女 性たち に言 い寄 る老 騎士フ ァル スタ ッフ が、機 知に長 けた 女性陣 に懲 らし めら れる物 語。 ヴェ ルディ のオ ペラ ・ブ ッファ はわ ずか2 作で、 最初 期の《 1日 だけ の王 様》は 現在 、殆 ど上演 され るこ とが ないが 、こ の最後 の《フ ァル スタッ フ》 は頻 繁に 上演さ れ、 ユニ ークで まさ にヴ ェル ディ風 とし か言い ようのない傑作として 最高の評価を 得ている。 シェイ クス ピア の「ウ ィン ザー の陽 気な女 房た ち」 を題 材とし たボ ーイ トの 台本は ファル スタ ッフを いき いき と描 き、抜 群の 冴え をみせ てい る。 そこ にヴェ ルデ ィが高 度なオ ーケ ストレ ーシ ョン で音 楽やリ ズム を刻 み、ボ キャ ブラ リー もこま やか な表現 となっ てい て、ド ラマ に描 かれ る人間 心理 が綿 密に描 かれ る音 楽的 充実は 、ま さにヴ ェルデ ィが 作曲家 人生 の集 大成 として 作り 上げ たもの であ る。 劇と 音楽の 完全 な融和 をみせたイタリアオペ ラの最高傑作 として讃えられ ている。 ヴェルディは終幕のフーガの部分から書き始めたといわれるように、こ のオペラは精密なアンサンブルを主体としている。 オペラ界全体にワーグナー旋風が巻き起こっていたこの頃、ワーグナー の音楽を否定していたヴェルディだが、晩年には次第にその真価を評価す る よ う に な り 、《ト リスタンとイゾ ルデ》を絶 賛 し た り し て い た 。 とはいえ、ヴェルディはワーグナーに飲み込まれることなく、独自の手 法を崩さず、自らの語法を発展させていくことによってワーグナーの衝撃 を克服し、後に続くイタリアオペラに多大な影響を及ぼしたのである。 従って《ファルスタッ フ》は ヴ ェ ル デ ィ が 残 し た イ タ リ ア の 遺 産 で も あ っ た 。 ジュゼッペ・ヴェルディ 《ファルスタッフ》の 一場面 《ファ ルス タッ フ》は アレ グロ の、 つまり 快活 な走 る音 楽の多 いオ ペラ であ る。し かし、 指揮 者のリ チャ ード ・ア ームス トロ ング は過度 に音 楽を 走ら せない で、 テンポ はむし ろ抑 え気味 であ った 。そ れは走 らせ るこ とによ って 音楽 の細 部が不 鮮明 になっ たり、 個々 の音楽 のキ ャラ クタ ーを明 らか に出 来なく なっ たり する のを恐 れた のであ ろう。そ れ は 同 じ く 外 連 の な い 正 統 な 演 出 と 、 も の の 見 事 に 呼 応 し て い た 。 演 出 の ピー ター・ シュタ インは 観客に 一泡ふ かせて やろう といっ たあ ざとさ とか、 あるい は恥 じらい もな く作 品の 前に立 ちは だか って自 己主 張し よう といっ た卑 しさが 微塵も なく 、シェ イク スピ アの 作品を 原作 とし たヴェ ルデ ィの 傑作 に謙虚 に歩 み寄ろ うとしていた。 特に第 1 幕第 2 場、同じ手紙を受け取ったアリーチェとメグのやり取り が面白かった。 舞台は全体としてモノトーンの世界。第2幕までのファルスタッフ役の ドナル ド・ マック スウ ェル はこ の役に 欲し いデ ブで好 色、 しか も飄 々たる 味が いま一 つで、 オー ケスト ラも 何か 不完 全燃焼 で物 足り なかっ た。 しか し第 3幕に 入る と、洗 濯籠も ろと も投げ 込ま れた テー ムズ河 から 、や っと這 い上 がっ た頃 から、 ファ ルスタ ッフが 本領 を発揮 しは じめ る。 そして ファ ルス タッフ を交 えた 全員 が最後 の大 フーガ 「世の中、全部冗談だ。人間すべて道化 師だ」といった シニカルな言葉 で、オペラ《フ ァルス タッ フ》は 大団 円を 迎え ること にな る。 人間賛 歌の おお らか な喜劇 で、 終わっ てみれば素晴らしい一 夜になってい た。 《ファルスタッフ》の 第3幕 <ものがたり > 15世紀初頭のウィン ザー。飲んだくれで 太った布袋腹の 老騎士ファルス タッフが、 金づるにしようと二人 の人妻、アリ ーチェ・フォー ド夫人とメグ・ ページ夫人に同 文 の恋文を出した。まっ たく同文と気 づいた夫人たち 、それにファル スタッフに恨み を 持つ従者バルドルフォ とピストーラ 、それにファル スタッフを心良 しと思わぬフォ ー ドと医師カイウスは、 みんなで彼を 懲らしめること をもくろむ。一 方フォードは恋 文 の一件を耳にし、別人 を装ってファ ルスタッフを偵 察に行き、自分 の妻が老騎士と の 逢引を承諾したと知っ て驚く。ファ ルスタッフを自 宅に引き入れた ところを夫に急 襲 されたアリーチェは老 騎士を洗濯籠 にいれて、テー ムズ川に放り込 ませる。再度ア リ ーチェに誘われ、夜の ウィンザーの 森で妖精に仮装 した人々に突き 回されるなど、 フ ァルスタッフはひどい 懲らしめを受 けて降参する。 それまで偉そう にしていたフォ ー ドが娘の結婚工作で女 房たちに敗北 したのを見て、 楽天主義者ファ ルスタッフは気 を 取り直し、「世 の 中 全 部 冗 談 だ 」と 人 生そのものを笑 い飛ばす。 ファルスタッフの魅力 は、道徳など 屁とも思わない ルネッサンス的 活力にあり、彼 はヴェルディ翁がつい に到達した愉 悦の境地の代弁 者なのであろう 。 <ファルスタ ッフを楽 しむ> 《ファルスタッフ》を 他のイタリア オペラのように アリアを楽しも うとしても無理 である。なにせ古いオ ペラの形式を 全部やめてしま ったのだから、 アリアという分 類 すらないのである。これから 紹介するのは ソロの歌が比較 的長く楽しめる 場面である。 まず、第1幕フィナー レの「名誉だ と? 盗人め! 」のモノローグ と第3幕冒頭の 「盗人の世界」のモノ ローグが面白 い。前者は「騎 士の名誉にかか わる」と恋文の 配 達を拒否した2人の子 分に向かって 、名誉がいかに 実体のないくだ らないものであ る かを講釈するのだが、 この場面では 、傲慢さと滑稽 さの両面を発揮 する演技と語り 口 にはかなりの技量が必 要である。後者はテ ームズ川に放り 込まれて寒さに 震えながら、 不機嫌そのもので堕落 した世の中を ののしる。またアリーチェ を口説く第2幕 には「私 がノーフォーク公の小 姓だった頃」 という軽快にし て滑稽な小唄が ある。 ファルスタッフ役はよ く鳴り響く立 派な声であるこ とは必須条件で はなく、むしろ 言葉の機智や縦横に変 化する気分に 即応できる柔軟 さが求められる 。この型破りの 主 人公の、どこか可愛げ があって憎め ないキャラクタ ーは、歌い手に とっては実に大 変 であり難しい代物であ る。 ◇ リヒ ャルト ・シュ トラウ ス作曲 ( 1990年11月14日 東京 楽劇 《サ ロメ》 全一 幕 Bun kamu ra ・オーチ ャードホール) 指揮:リチャード・アームストロング 演出:アンデレ・エンゲル 出演:キャスリン・マルフィターノ(サロメ) ナイジェル・ダグラス(ヘロデ)、 フィリップ・ジョール(ヨカナーン) ピーター・ブロンダー(ナラボート)、 エリザベス・ボーン(ヘロディアス) 他。 ウェルシュ・ナショナル・オペラ管弦楽団・合唱団 新約聖書の物語にもと づくオスカー・ワイル ドの戯曲(フラ ンス語 )の ドイ ツ語 訳を 台本 とし た1 幕仕 立て の楽 劇で ある。 1905年、ドレスデ ン宮廷歌劇場 で初演された。 当時は その 大胆 な内 容で 一大 セン セー ショ ンを 巻き 起こ し、 各地の検閲官により上 演禁止の措置 がとられたとい う、いわく 付きの作品である。 しかし、R.シュトラ ウスの卓越した 作曲技法による 音楽は、 今世紀の音楽劇の新たな方向性を切り拓いた作品として評価 は高く、今日では《ばらの騎士》と ならんで最もよ く上演され ている。 また 主人 公「 サロ メ」(ソ プラ ノ )は 数多 いオ ペラ 作品 の中 でも「エレクトラ」と 並んで、最も 難しい役の一つ としても 知られている。 R・シュトラウス 指揮者 のリ チャ ード・ アー ムス トロ ングは この 当時 、ヨ ーロッ パで 活躍 して いた中 堅の指揮者で、 73 年 から 86 年までこのウ ェルシュ・ナシ ョナル・オペ ラの音楽監督 を務め てい た。日 本で は特 に名 の知ら れた 指揮 者では なか った が、 この《 サロ メ》で は楽曲 を究 めた指 揮が 管弦 楽の 表現力 を緻 密に 引き出 し、 立派 な水 準に仕 上が ってい たと思 う。 オーケ スト レー ショ ンの細 部ま で忠 実に再 現す ると とも に、音 楽の 大きな 流れを 作り 出すの に成 功し てい たし、 ドラ マテ ィック なツ ボが 的確 に掌握 され る一方 で、繊 細な ニュア ンス もさ りげ なく聴 かせ てい た。か っち りと 、し かし同 時に なかな かオーケストラを雄弁 に鳴らす、ダ イナミックな指 揮者であった。 タイト ル・ ロー ルを演 じた キャ スリ ン・マ ルフ ィタ ーノ はニュ ーヨ ーク 生ま れのソ プラノ。全米、全欧で活躍してお り、その役には《フィガロ の結婚》のスザンナ、《椿 姫》の ヴィ オレッ タ、《ホフ マン 物語 》の3 つの 役、《ドン ・ジ ョヴ ァンニ 》の ツェル リーナ、 《ラ・ボエ ーム》のミミな どがあり、ま た《マノン》 《蝶々夫人》 《 サロメ》 《ル ル》などのそれぞれの タイトル・ロ ールを演じてい る。 またいくつもの世界初演の作品の主役を歌 っている演技派 で、数多くのレコーデ ィング、テレ ビ出演をしてき た。 小柄なので原作の16歳の少女らしい初々しさに満ちてい たし、その澄んだ声は 自由さに溢れ ていた。 しかし劇の進行にあわ せ、すばらし い演劇力でサロ メの誘惑や 恍惚は艶をおび、緻密 に計算された 役つくりは説得 力に満ちて いた。 サロメを得意とし、何度も歌 っているとはい え、大管弦楽が 鳴り響く中で歌わなけ ればならない のだから、確か にイゾルデ やブ リュ ンヒ ルデ の 声が 向い てい るの だ ろう が、 一方 で繊 細な サロメ役で熱演の キ ャ ス リ ン ・ マ ル フ ィ タ ー ノ 洗練 され た表 現も 必 要だ から 、彼 女の 天 賦の 声と 表現 力は その 両方の要求を満たすだ けの力に満ち 溢れていた。 サロメ とい う役 は、も ちろ ん技 術的 にも難 しい のだ が、 それは 正し いテ クニ ックを 持って いて 、しっ かり 準備 すれ ば解決 でき るけ れども 、激 しい 情熱 をコン パク トにま とめた 性格 描写が 要求 され 、音 楽的正 確を 崩さ ず、最 後ま で楽 に歌 える声 を蓄 えなが ら、あの燃えるような 激情の役柄を 演じるのが実に 大変難しいので ある。 とにか く息 をつ かせぬ 圧倒 的な 熱演 で、ヨ カナ ーン に求 愛する 場面 や、 ヘロ デにヨ カナーンの首を所望す るやり取りな どは鬼気迫るも のがあった。 楽劇全体の大きな山場 となる、ヘロデ の隠微な眼差し を浴びながら、身 にまとった 7 枚のヴェールを 1 枚づつ脱ぎ捨 ててゆく扇情的 な踊り、「 7 枚のヴェール の踊り」も見 事であった。 特にサ ロメ がヨ カナー ンの 首を 獲得 した後 の壮 大な 解放 感はす ばら しく 、シ ュトラ ウスは ここ でそれ まで 小出 しに してい た美 しい 旋律を 高ら かに 舞い 上がら せ、 待望の 首に接 吻す るサロ メの 陶酔 を露 わに表 現す る。 R . ワー グナ ーに よっ て開拓 され た雄弁 な管弦 楽に よる人 物表 現、 心理 表現は ここ では 更に推 し進 めら れて いる。 そこ には堅 苦しい 常識 を全て 乗り 越え たと ころに 得ら れる であろ う人 間の 自由 と幸福 感が 、この 特異な素材を扱ったが 故に力強く打 ち出されている 。 自らの 絶対 的欲 望のた め、 自ら 狂気 にまで 駆り 立て て、 ヨカナ ーン の唇 にキ スする ことだ けに 執念を 注ぎ 、つ いに 達成す るも 、自 分が欲 して いた もの とは違 って いた失 望感か ら、 生きて いく 価値 すら 見出せ なく なる ほど、 刹那 的に 生き ている サロ メの生 き様が描かれている。 全編を おお う圧 倒的な シュ トラ ウス の豊麗 な音 楽が 、悲 惨な結 末に もか かわ らず観 終わった後に何故か幸 福な気分にし てくれたのが不 思議な感覚であ った。 ア ン デ レ ・ エ ン ゲ ル の 演 出 は 決し て前衛に走っ た演出ではなく 、比較的原 作に即した 判りや すい 舞台を 提供 して くれ た。細 部の 動き まで細 やか な配 慮が なされ 、登 場人物 の心理 の綾 を余す とこ ろな く表 現して いた 。特 に、説 明的 で判 りや すく、 物語 の展開 が明確 に表 現され ただ けで なく 、演出 や装 置も 全体が 具象 的に 表さ れてい た。 遠い古 代のス トー リーを 「わ れわ れの レベル 」へ と近 づけ、 現代 の普 遍的 なもの とし て表わ していたので、このオ ペラを初めて 体験した者には ありがたい舞台 であった。 少し長 くな るが 、この 楽劇 のあ らす じを追 いな がら 、聴 きどこ ろを 述べ てみ たいと 思う。 【作 曲 ・原 作 ・時 と場 所 】 【作 【初 【台 【原 曲 演 本 作 】 】 】 】 【演 奏 時 間 】 【時 と 場 所 】 リヒャル ト・シュトラウ ス(1903∼ 05年 ) 1905年 12月 9日 ドレスデン、宮 廷 歌 劇 場 ヘドヴ ィヒ・ラッハ マンの 訳 を作 曲 者 が 改 編 (ドイツ語 ) オスカー・ワ イル ドの 戯 曲 『サ ロメ』 (新 約 聖 書 マタイ伝 14章 、マル コ伝 6章 より) 全 1幕 ・約 1時 間 45分 西 暦 30年 頃 、イェル サ レムにあ るヘ ロデ の 宮 殿 。 銀の盆に載せられたヨカナーン の首に恍惚とキスを するサロメ 【登 場 人 物 】 ・ サ ロメ(S):ヘロディアスの 娘 、1 6 歳 の 処 女 ・ ヘ ロデ(T):ユダヤ の 王 、サ ロメの 義 父 に 当 たる。実 の 兄 を死 に 至 らしめ 、兄 の 妻 だったヘ ロディアスを自 分 の 妻 とした。性 格 的 に は 小 心 、ヨカナー ンが 聖 者 で あることを認 識 してお り、その 処 遇 をめ ぐって煩 悶 す る。 ・ ヘ ロデ ィアス(M s ):ヘロデの 妻 、サ ロメの 実 母 。神 を畏 れ ぬ 背 徳 の したたか な淫 婦 ・ ヨカナ ー ン(B r ):若 い 預 言 者 。ヘ ロデ とヘ ロデ ィアスの 不 義 の 罪 を糾 弾 したため 、 捕 らえられ て古 井 戸 の 地 下 牢 に 幽 閉 され てい るが 、聖 者 らしい とい うことで畏 怖 され ている。神 の 教 えを説 く高 潔 な宗 教 的 人 間 。サ ロメを魅 了 するだけの 男 性 的 な魅 力 を持 つ 。 ・ ナ ラボ ー ト(T ):高 貴 な血 筋 の 若 いシリア人 。衛 兵 隊 の 隊 長 。サ ロメの 美 しさに 心 を奪 わ れ 、恋 焦 が れ るが 相 手 にされ ず 、絶 望 の あ まり自 害 して果 てる。 ・ ヘ ロデ ィアスの 小 姓 (A l t ):ズボン役 。サ ロメの 妖 しい 魅 力 に 惑 わ され て破 滅 に 向 か うナラボ ートを懸 命 に 引 きとめ ようとする。 【あらすじと聴 きどころ】 序曲はなし。音階を駆け上が るクラリネッ トの音とともに 一気に物語の世 界に入る。 舞台はイェルサレムの ヘロデ王の宮 殿。ヘロデ王が 連日、悦楽にふ ける宴会を催し て いる。しばらくすると 古井戸の中か ら、幽閉されて いる預言者ヨカ ナーンの声が聴 こ えてくる。救世主到来 を告げる力強 い声。そこへ義 父ヘロデが投げ かける淫蕩な眼 差 しにいたたまれなくな ったサロメが 宴会の席を離れ てテラスへ出て くる。サロメは 王 妃ヘロディアスの娘で 、ユダヤ王ヘ ロデは義父にあ たる。このヘロ デというユダヤ 王 は、サロメの実の父で もある兄を殺 し、ヘロディア スを自らの妻と していた。 サロメは不義で結ばれた母親と義父をうとんじ、堕落した宮廷の雰囲気 を嫌悪している。 ヨカナーンの声に興味を持ったサロメは、若い衛兵隊長ナラボートに井戸 のフタを開けるよう命じる。王から禁じられているにもかかわらず、ナラボ ー ト は サ ロ メ の 妖 艶 な 美 し さ に 心 を 奪 わ れ 、ヨ カ ナ ー ン を 外 に 出 し て し ま う 。 サロメは井戸から出たヨカナーンの預言者のもつ尋常ならざる威厳に圧倒さ れ る 。ヨ カ ナ ー ン は サ ロ メ の 母 ヘ ロ デ ィ ア ス の 近 親 婚 の 罪 を 厳 し く と が め る 。 サロメはそんなヨカナーンを目の当たりにして、初めのうちは恐れながらも 次第にこの預言者に心を奪われていく。 しかしヨカナーンはそんなサロメの誘いには目もくれず、サロメがくちづ けを求めると、ヨカナーンは呪われよと言い捨てて井戸の底へと戻っていく のである。 王女としての自尊心を傷つけられ、拒絶されればされるほど、ヨカナーン に対するサロメの執着はますます狂おしいものになってゆく。生まれて初め て知った激しい恋の望みをにべもなく断られたサロメ。初めて味わう挫折で あり、屈辱の体験であった。 歌はしばらく止み、その間オーケストラの音楽が、サロメの心の中のもの 狂おしい復讐の念が膨らんでいく様子を、この上なく雄弁に描き出す。言葉 の演劇には真似の出来ない、音楽劇ならではの状況描写である。 サロメを追ってヘロデ王がテラスに出てきて、その後を妻ヘロディアスが 続く。楽劇は大きく分けた後半に移る。 デ 預 ち ヘ サ り と 枚 を し 能 る ヨ 地下からはヨカナーンがヘロディアスを非難する声が聞こえてくる。ヘロ ィアスは怒り、ヘロデに口を封じるよう求めるが、聖人とのうわさもある 言者に対して内心畏怖の念を抱いている王はそれに従おうとしない。 ヨカナーンの予言の声が再び古井戸から聴こえてくる。「この世の王者た が震えおののく日が、やがて訪れるであろう」。ヘロディアスは苛立ち、 ロデはおびえる。 ヘ ロ デ は 募 る 一 方 の 不 安 な 思 い を 振 り 払 お う と 、王 の 目 は サ ロ メ に 注 が れ 、 ロメに踊ってみせよと命じる。サロメは初めは断っていたが、ヘロデに踊 をみせれば報酬として何でも望みのものを与えようと誓うに及んで踊るこ を承諾する。 素足になったサロメはヘロデの淫靡な眼差しを浴びながら身にまとった 7 の ヴ ェ ー ル を 1 枚 ず つ 脱 ぎ 捨 て て ゆ く 、扇 情 的 な「 七 つ の ヴ ェ ー ル の 踊 り 」 踊るのであった。 10 分 ほ ど の こ の 踊 り の 場 面 の 音 楽 は 、 シ ュ ト ラ ウ ス が 全 曲 中 、 最 後 に 作 曲 た部分で、すでに用いられた主要な主題を巧みにつなぎ合わせ、濃厚な官 性とオリエント風の色彩感を効果的に出し、楽劇全体の山場を形作ってい 。 満足したヘロデ王が、望みは何だと尋ねると、サロメは「銀の盆にのせた カナーンの首」が欲しいと言い出す。その言葉に喜ぶ母ヘロディアス。 それに対し、聖者を殺すことを恐れたヘロデ王はやめさせようと、国の半 分 ま ュ る を で ト が 首 を澄 バス たヨ の言 場面 る。 「お より づけ 味が 苦い サ そし ウス く。 大 げる 為の 命じ お前にやろうと言い、宝石や珍鳥、さらには神聖な法衣や聖壇の垂れ幕 も持ち出して翻意を促すこの場面では、ヘロデの熱唱と色彩感豊かなシ ラウスのオーケストレーションが聴きものである。結局、必死に説得す 、サロメの望みは変わりない。 切り役人が古井戸に降りてゆくと、サロメは井戸のふちに屈みこんで耳 まし、苛立ちながら中の様子を伺う。神経を逆なでするようなコントラ の高い B 音が、効果的に緊張を高める。サロメは銀の盆の上にのせられ カナーンの首を受け取り、陶然として見つめながら、狂おしい愛と恨み 葉を延々と語りかける。言葉の劇では幕切れまで数分で終わってしまう だ が 、 歌 劇 の 《 サ ロ メ 》 で は た っ ぷ り 15 分 ほ ど も 続 く 。 ま さ に 音 楽 劇 の 特 権 で あ 前が私を見たならば、お前 も大きいのだから」ついに をするサロメ。「ああ! したわ。血の味だったの? 味がするっていうもの」。 ロメの純粋さ、可愛らしさ て愛を成就した彼女の恍惚 入魂の音楽が、いよいよ最 は私を愛 は恍惚の 私はお前 いや、 し う の 愛 た ち 口 の だ に に 味 ろ ヨ 接 だ う カ 吻 っ に ナ し た 。 ー た の 愛 ン わ か の の 。 も 神 首 お し 秘 に 前 れ は 熱 の な 死 烈 唇 い の な は 。 神 く 苦 愛 秘 ち い は 、哀れさ、狂おしさ、禍禍しさ、恐ろしさ、 を、余すところなく描き出してきたシュトラ 後の圧倒的なクライマックスへと高まってい オーケストラの総奏がフォルティッシモで、まるでこの世の終わりを告 かのようなグシャグシャに崩れた和音を鳴らし終えたとき、サロメの行 おぞましさに耐えられなくなったヘロデが、この「化け物」を殺すよう 、 楽 劇 《 サロメ》全曲の幕が 下りる。 <この楽劇の特徴> ¶R . シ ュ ト ラ ウ ス の 出 世 作 それまで管弦楽曲や歌曲の分野、また、オペラハウスの指揮者として 活躍していたR.シュトラウスは、ワーグナーに影響されて作曲した 『グントラム』『火難』という2つのオペラの次に、この『サロメ』 を発表した。このオペラは初演から大きな反響を呼んだ。 こ の と き R .シ ュ ト ラ ウ ス は 4 1 才 。こ の オ ペ ラ を 節 目 と し て そ の 後 、 次々とオペラ史に残る作品を書き上げ、オペラ作曲家としての地位を 築き上げていった。 ¶ス キ ャ ン ダ ラ ス な 作 品 原作のオスカー・ワイル れ、その後、ワイルドの 道徳さとワイルド自身の なかなか上演されなかっ ドイツ語訳をオペラにし 定されていたウィーンで の音楽総監督だったマー 上演されたのは初演から ドの戯 同性愛 スキャ た。 たR. の初演 ラーが 10年 ¶シ ュ ト ラ ウ ス の 音 楽 の 説 得 力 曲『サロメ』は、フランス語で出版さ 者の手で英訳されたが、その作品の不 ンダルのせいもあって、イギリスでは シュト はでき 奔走し 以上も ラウス ず、当 たにも あとの の作品 時、ウ かかわ ことで も同様 ィーン らず、 あった に、当初予 国立歌劇場 ウィーンで 。 オペラが 語の意味 っ走った しかし、 強力な説 然性を完 とだけは 終わっ を問う のかー それを 得力に 全に納 確かな て現実に ことだろ と。 どう解釈 よって、 得させら のであろ 引き戻された観客は、あらためてサロメの物 う。−なぜ彼女は、あんな禍禍しい行為に突 するにせよ、我々が、シュトラウスの音楽の あらゆる不条理もろともヒロインの行為の必 れ、大きな劇的なカタルシスを与えられたこ う。 ¶物 議 を 醸 す サ ロ メ の 踊 り オペラの中では、サロメが踊る「七つのヴェールの踊り」の場面が 有名で、サロメ役のソプラノ歌手が裸になるなど過激な演出もあるこ とから、初演以来100年以上経った現在でも物議を醸している。例 え ば 、 2000 年 に 日 本 の 新 国 立 劇 場 で こ の オ ペ ラ が 初 演 さ れ た と き は 、 醜聞的にス ポ ー ツ 新 聞 に も 取 り 上 げ ら れ る ほ ど で あ っ た 。 サ ロ メ は 約 10 分 間 踊 っ た あ と に 長 大 な モ ノ ロ ー グ を 歌 わ な け れ ば な ら ず、サロメ役を演じきるのは至難の業といわざるを得ない。 19、1991年 ベルリン コーミッシェ・オーパー ― 鬼才・ハリー・クップファーのオペラ劇場 ベルリン・ドイツ・オペラ、ベ ルリン国立歌劇場に 続いて、ベルリンに あるオペラ劇場 の、第3番目の劇場としてベル リン コーミッシェ ・オーパーが初めて 来日した。 おりしもこの来日の前年、ベル リンの壁が崩壊し、 統一ドイツが誕生し た。それまでの 東西に分断されていたベルリン には旧西ドイツのベ ルリン・ドイツ・オ ペラと旧東ドイツ のベルリン国立歌劇場とこのベ ルリン コーミッシ ェ・オーパーがあっ たが、それが統一 ドイツの下でのベルリンでは3 つのオペラ劇場が存 立することになった のである。 このコーミッシェ・オーパー( 座席数約1250席 、シーズン期間は9 月から翌年の7 月 ま で )) は い ろ ん な 意 味 で ユ ニ ー ク な オ ペ ラ 劇 場 で あ る 。 1947年にワルター・フェル ゼンシュタインがこ のオペラ劇場を創設 して以来、一貫 し て 音 楽 ド ラ マ の 創 造 芸 術 を 、演 劇 の 作 品 と し て 上 演 す る こ と に 基 礎 を 置 き 、当 然 な が ら 、 ストーリーを最も優位に置いて いる。そして作品の 理解を可能な限りよ り深く、幅広く確 かなものにするために、ベルリ ンに本拠を持つこの 劇場は全ての外国作 品を母国語である ドイツ語で上演することを一貫 して守ってきた。音 楽演劇(ムジークテ アーター)の徹底 的な実践劇場であった。 演出家 ハリー・クップファー ベルリン コーミッシェ・オーパー 携えてきた演目は * ジ ャ ッ ク ・ オ ッ フ ェ ン バ ッ ク 《 青ひげ》 (演 出:ワルター・ フェルゼンシ ュタイン) *ジャコモ・プッチー ニ《ラ・ボエ ーム》(演出:ハ リー・クップ ファー) *w.A.モーツァルト 《フィガロの結 婚》(演出:ハ リー・クップフ ァー) の三作品であった。 私は日程の関係で、《 ラ・ボエーム》 と《フィガロの 結婚》の2演 目のみを観た。 来日した指揮者は、首 席指揮者ロル フ・ロイターと ヨアヒム・ヴィ ラート。 指揮者 を含 めて 名の 通っ た著 名な 歌手 や演奏 家が いる わけ でな く、 それ らよ りも演 出家の名前が広く知れ 渡っていると いう稀有なオペ ラ劇場の来演で あった。 コーミ ッシ ェ・ オー パー の芸 術的 コン セプ トは 、従 来の 、特に イタ リア ・オ ペラ に顕著 にみ られ た音 楽が 優位 にた つ舞 台作り では なく 、音 楽と 舞台 が一 体と なるこ とであ り、 演劇 的な 筋立 てを 最優 位に 置くこ とを 礎に して いる 。従 って 歌手 は当然 ながら 役者 とし ての 才能 をも 要求 され ている 。こ のよ うな 考え から 出発 して いる以 上、必 然的 に出 演す る歌 手は 世界 の有 名歌劇 場が とっ てい るス ター シス テム とは無 関係であり、全ては アンサンブルが 礎となっている 。 著 名 な 歌 手 が 存 在 す る い わ れ がないのである。 <ムジークテ アーター > ムジー クテ アー ターと は、 演劇 主導 型のオ ペラ 演出 を標 榜して 、従 来の オペ ラ演出 を改革しようとするも のである。目指すは、芸術的でありな がら誰にでも 判りやすい、 大衆的 で国 際的な 音楽 演劇 を上 演しよ うと する もので あっ た。 それ はつま り、 音楽と 演劇の二つを同じ重み で扱うという ことである。 首席演出家のハリー・ クップファー は次のように述 べている。 「コー ミッ シェ・ オー パー はど この国 の作 品を 取り上 げる にし ても 、全て のオ ペラを ドイツ 語に してし まう 、と いう コンセ プト をも ってい る。 その 理由 はこの オペ ラ劇場 のみが 、世 界中の 他の オペ ラ劇 場とは 対照 的に 、音楽 が優 位に 位置 してい るの ではな く、ま ず演 劇なの だ・ ・・ とい う根本 によ るも のであ る。 即ち 、オ ペラ作 品は 人間の 感性を 必要 とする 精神 芸術 であ り、理 解力 を必 要とす るも ので ある 。従っ て人 々は上 演の最 中に 一瞬の うち に、 スト ーリー を知 り、 ストー リー の問 題と してい ると ころを 追うことが重要なので ある。そこで 重要なのが母国 語による上演な のである。 勿論 、音 楽面も 重要 視し てお り、作 品の スコ ア全体 に何 があ るの かを、 非常 に綿密 に解釈 する ことに 多く の時 間を 費やし てい る。 上演に おい ても また リハー サル におい ても、 音楽 を根本 から 掘り 下げ る作業 はと ても 重要で ある 。し たが ってこ れは ほとん ど冗談になっているが 、上演回数以 上にリハーサル の回数が多いの です」。 ◇ ジャ コモ・ プッチ ーニ作 曲 (1991年6月18日 指揮:ヨヒアム・ヴィラート 《 ラ・ボ エーム 》全4 幕 グリーンホール相模大野 ) 演出:ハリー・クップファー ベルリン コー ミ ッ シ ェ ・ オ ー パ ー 管 弦 楽 団 ・ 同 合 唱 団 ドイツ語上演 このオ ペラ 劇場 の芸術 的コ ンセ プト からし て、 当然 なが ら広く 知ら れた 歌手 は一人 も出演しない。徹底的 にアンサンブ ル・オペラであ った。 プッチ ーニ 特有 の緩急 の変 化に 富む オーケ スト ラを バッ クに共 演者 たち の丁 々発止 の掛け合いが展開され た。 それではクップファー 演出の《ラ・ ボエーム》の特 徴はどこにある のだろう。 休憩時 間に コー ヒーを 買う 列に 並ん でいる と、 前に 立っ ていた オペ ラ通 と思 われる ご婦人 たち が、「 今日 は変な もの を観 せられ ちゃ った わね」 と大 きな 声で話 して いた。 何かと 思っ て耳を そば だて てい ると「 ドイ ツ語 のプッ チー ニな んて ね」と 酷評 してい た。確 かに 、一番 の印 象は 、イ タリア の音 楽が 流れて いる とは 思え ないほ ど、 暗い舞 台であ った 。プッ チー ニの 音の 色彩と いう もの と全く 違っ て、 リア ルでな おか つ暗い のであ る。 従来の 登場 人物 のよ うに、 貧し いけ れど希 望に 満ち た若 者の青 春賛 歌など という もの ではな く、 虐げ られ た人間 の苦 悩に 満ちた 生活 であ り、 ミミの 扱い 方もと ても神 経質 で、演 技も 細か い。 それに ドイ ツ語 での上 演な ので 、言 葉の明 るさ がイタ リア語 とは 全く違 う感 じで あっ た。原 語だ と万 人の涙 を絞 り取 るメ ロドラ マと いう感 じのプ ッチ ーニが 、ド イツ 語だ と人間 の内 面を 抉るよ うな ドラ マに なるか ら不 思議で あった 。そ れがド イツ 語の イン トネー ショ ンの 魔力な のか なと 考え させら れて しまっ た。言 語が 音楽を 支配 する 力は 、普通 の人 が考 える以 上に 深く 大き いのだ とい うこと が判る。 1幕か らし て、 ミミは 、ロ ドル フオ に偶然 出会 うの では なく、 故意 に、 即ち 企んで 出会う とい う設定 で、 能動 的で 強い意 思を もっ た女性 とし て描 いて いる。 4幕 のミミ の死も まる で呪わ れた よう に、 ベッド の上 では なく、 不吉 な椅 子の 上で息 絶え る。そ こには ミミ に対す る同 情や 憐れ みはな く、 故意 に消さ れた ロー ソク の炎の よう であっ た。ミミの死は自然死 ではなく、社 会的な死である というコンセプ トか? 演奏にも演出にも甘美 な感傷が入る 余地は全くなか った。 それで も、 螺旋階 段を 効果 的に 使った 舞台 美術 の素晴 らし さに 酔い しれて いた 。黒を 基調と した 舞台は 、ま るで ワー グナー の《 ワル キュー レ》 を観 てい るよう で、 ミミと ロドルフォの人間関係 にも微妙な光 と影を投げかけ ていた。 印象に 残っ たの は、第 2幕 のカ ルテ ィエ・ ラタ ンの 喧騒 の様子 や第 3幕 の極 寒の朝 の描写 が特 にすば らし かっ たこ と。舞 台で 演じ られて いる のは 、カ フェ・ モミ ュスの 2階か らマ ルチェ ッロ を誘 惑す るムゼ ッタ と、 その大 胆な 誘惑 に身 悶えす るマ ルチェ ッロの 関係 などが 、舞 台の 緊迫 感と音 楽の 緊迫 感、音 楽の 官能 と舞 台の官 能と が一つ になって息を呑む。「 マルチェッロが ズボンを脱ぎか けるんですよ 、なんて品のな い」 と本気で怒っていた別 のご婦人が実 際にいた。 穏やか な男 女関 係ばか りで なく 、こ のよう なむ き出 しの 愛もあ るの だと 、コ ーミッ シェ・オーパーは先頭に立 って、「愛」のヴェールをひ きはがし、根底にある「性」を むき出しにして、現代 を描き出した ということか。 結論から言うと好きか 嫌いかは別と してまるで演劇 をみている感じ であった。 私個人 とし ては、 プッ チー ニの 音楽を 考え ると 、なぜ この よう な物 語にし なけ ればな らない のか 、ある いは この よう な扱い から 何を 引き出 そう とし てい るのか 、不 明確で あった。残ったのは寒 々とした青春 群像であった。 それが狙いだっ たのであろうか ? <現在のベル リン・コ ーミッシ ェ・オー パー> ベルリンの他の2つの オペラ劇場と 比較すれば 、現在のコーミ ッシェ・オ ーパーは、 ベルリ ンの 中でも 、最 もカ ジュ アルな カラ ーを 持って いる 。と りわ け20 02 年にこ れも演 出界 の異端 児、 アン ドレ アス・ ホモ キが インテ ンダ ント (芸 術監督 )に 迎えら れてからは、若い世代 が気軽にオペ ラを楽しむ場所 として定着した 。 相変わ らず スタ ー歌手 は歌 わな いも のの斬 新な 演出 に溢 れ、プ レミ エは 毎回 評判を 呼んでいる。 近年は 有名 演出 家が次 々に 登場 し、 ペータ ー・ コン ヴィ チュニ ー、 ハン ス・ ノイエ ンフェルスから、バリ ー・コスキー まで多士済々で ある。 音楽総 監督 はカ ール・ セン ト・ クレ ア。コ ーミ ッシ ェ・ オーパ ーは 、演 奏水 準、演 出スタ イル の点で 「ド イツ 中級 劇場の 総括 」な ので、 演出 に興 味の あるオ ペラ フアン には特にお勧めしたい と思う。 ◇ モー ツァル ト作曲 《フ ィガロ の結婚 》 全 4幕 (1991年6月20日 横浜 神奈川県民ホール ) 指揮:ロルフ・ロイター ベルリン 演出:ハリー・クップファー コーミッシェ・オーパー管弦楽団・同合 唱団 ドイツ語上演 アンサ ンブ ルが 十分に 訓練 され て演 劇的に も観 ごた えが あると いう 、こ の劇 場の特 徴がよ く現 れた舞 台で あっ たと 思うが 、そ の反 面、音 楽面 では これ といっ た魅 力を感 じることはなかった。 重要な 役の 伯爵 と伯爵 夫人 が歌 唱力 不足で 、む しろ 脇の ほうが うま いと いう 、中小 団体に よく ありが ちな ケー スで あった 。と はい え上演 全般 が職 人的 な慣れ で支 えられ ているという点が日本 の団体と異な るプロの味にな っている。 アルマ ヴィ ーヴ ァ伯爵 は伯 爵と は思 えない 軽薄 さで 、か なりの 暴君 であ り、 対抗す るフィ ガロ は各状 況に 応じ て焦 ったり 、毅 然と したり 、知 恵を しぼ ったり と、 多種多 様な奮闘振りをみせる 。 また、 伯爵 夫人は 結婚 以前 はロ ジーナ (《 セビ リャの 理髪 師》) であ った こと を思い 出させ る軽 い存在 とな って いた 。伯爵 夫人 は夫 から愛 され ず、 欲求 不満な のだ 。第2 幕で登 場す ると、 絶え ずい らい らして 動き 回り 、テー ブル の上 に置 かれた チョ コレー トボン ボン をひっ きり なし につ まんで 口に 入れ ていた 。回 廊を うま く使っ てい る舞台 美術が冴えていた。 それに して も《フ ィガ ロの 結婚 》とい うこ の作 品は、 どう して この ように 演出 家の創 作意欲を刺激するので あろう。 オペラの愉しみ(7)に続く
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