曹 洞 宗 展 開 の 一考 察 北畠 氏 と太 源 派 を 中 心 と し て- とな る浄 眼寺、 広 泰 寺 の開 山 であ る大 空 玄 虎 の行 実 に つい て 丈 武 士が 禅 宗 に帰 依 し た 理由 に ついて は、 個 々に事 情 を考 察 の諸 本、 寺 伝 にょ るそ の内 容 は、 次 の如 く であ る。 幼 く し て 堅 しな け れ ぽ な ら な い。 こ こ で は、遠 州 で 盛 栄 を 極 め た曹 洞 宗 内 太 源 派 が、 今 回、 対 象 地 の三 重 県伊 勢 地方 に お い て展 開 し た にお いて崇 芝 性 岱 (一四 一四-一四九九) に参 見 し、 以 後 崇 芝 州 の教 院 に投 じ、 享 徳 元 年 (一四五二)、二 四 歳 のと き 東 海 道 竹 点 に つ いて、 そ の実 行 者、 大空 玄 虎 を 中 心 と し て 考 察 す るも 部 分 に つ いて の教 え であ り、 そ の要 求 に応 じ ら れ た宗 教が 支 に対 し て 求 め て い たも のは、 平 易 で実 利 的 で生 活 に密 着 し た 中 世 と いう 時 代 に お いて支 配 層、 被 支 配 層 を 問 わ ず、 宗 教 れ られ て い た。 玄 虎 は、 そ れ を開 き、 独 り坐 禅 を修 し 平 穏 に の、 と あ る谷 か ら 火 焔 熱 湯 が 噴 出 し、 人 々に ﹁地 獄 谷 ﹂ と 恐 で飾 って い るゆ 浅 香 (現在 の松阪 市阿坂、北畠 氏活動 の中心地) った とあ る。 諸 伝 記 は そ の中 で、 伊勢 への移 錫 に つ い て伝 説 に師 事す る。 以後 随 待 し、 も っと も 信頼 さ れ た第 一法 嗣 と な 持 を 得 る こ と に成 功 し、 次 な る段 階 と し て 自 ら の宗 派 の教 理 覆 し た。 これ に よ り太 守 北 畠 材 親 の帰 依 を受 け、 太 守 は浄 眼 のであ る。" へと導 く こ と が、 初 めて 可 能 にな った と み る こ とが 出来 る。 遠 江 の石 雲 院 を 本 拠 と し て い る性 岱 の会 下、 七 哲 の中第 一 寺 を創 建 し、 そ の住 持 に玄 虎 を招 請 し たと 記 さ れ て い る。 は、 諸 行 事 を 逐 次 取 捨 し つ つ、 そ の地 域 にお け る最 適 の方 途 んど が 遠 江 守 護、 今 川 氏 の外 護 を 受 け て、 遠 州 全 般 へ伸 長 し 法 嗣 で髄 一と 伝 え ら れ て い る玄 虎 であ るが、 他 の法 嗣 の ほと そ れ 故 に、 現 実 の場 で教 線 を 拡 大 せ ん と 試 る曹 洞 宗 の 諸 師 を 模 索 し て民 衆 の欲 求 を 充 足 さ せ る途 を 見 出 し、 そ こ を足 掛 二三 一 て い る中 で、 な ぜ 伊 勢 国 へ赴 い てき た か に つい て明 確 に言 及 か ヴ と し て禅 の立 場 を 弘 め んと 試 み た の であ る。 李成 三年 三月 考 察 の対 象 地 であ る伊 勢 地 方 に おけ る、 曹 洞 宗 展 開 の中 心 印度學佛 教學研究第 三十九巻第 二號 -736- 曹 洞宗展開 の 剛考察 (竹 内) 二三二 寺、 越 前 龍 雲 寺、 駿 河 石雲 院 の三 箇 寺 が あ る。 これ ら の業 行 寺、 広 泰 寺、 越 前 龍 雲 寺 の三箇 寺 が あ り、 輪 住寺 も 備 前 洞 松 晋 住 した 寺 は武 蔵 浄 牧 院 ( 第 二世 ) であ り、 開 創 は伊 勢 浄 眼 河 へと 展開 し て いく の であ る。 こ の中 心 と な る石 雲 院 は康 正 石 雲 院 五 派 と いわ れ る法 脈 が 今 川 氏 の保 護 を 受 け な が ら、 駿 師、 大 洞 院 末 の石 雲 院 崇 芝 性 岱 が 注 目 さ れ る。 そ し て、 こ の こ の中 で、 先 の今 川 氏 と の関 係 か ら み る と、 大 空 玄 虎 の にそ の教 線 を伸 長 さ せ て い った の であ る。 は、 性 岱 にも っとも 信 頼 さ れ た第 一法 嗣 であ る と 共 に碧 巌 録 って いる。 時 代 は、 ま さ に足 利 託 一族 の今 川 氏 が 黄 金 時 代 を 元 年 (一四五五)、勝 間 田城 主 を 開 基 と し て、 性 岱 が 開 山 と な し て い る資 料 は見 当 ら な い。 し か し、 玄 虎 の業 行 に よ る と、 に注 釈 を 加 え て.﹃碧 巌 大 空 抄 ﹄ を 残 す な ど、 いか に当 時 の教 迎 え るとき であ り、 今 川 氏 の勢 力 伸 長 に伴 って曹 洞 宗 の教 線 団 に聞 こえ た 宗 匠 であ った か と い う こ と であ る。 大空 と北 畠 氏 間 に、 伝 記 以 上 の結 び付 き を発 見 す る こと が の第 一法 嗣 であ る玄 虎 が 伊 勢 へ赴 き、 大 阿 坂 で国 司 北 畠 材 親 が、 遠 江、 駿 河 に急 速 に伸 び て い った の であ る。 ま た、 性 岱 が 開 基 と な り、 玄 虎 が 開 山 と し て招 請 さ れ て曹 洞 宗 が 進 出 し 困難 であ る の で、 師 の性 岱 にさ か のぼ って師 資 の関 係 に視 点 崇 芝 性 岱 を 打 出 し た遠 江 周 辺 の寺 院 宗 派 の分布 を み ると、 た のであ る。 加 え て後 に田 丸 広 泰 寺 開 山 と も な り、 太 源 派 が を 移 し て み る。 曹 洞 宗 が 圧 倒 的 多 数 を占 め、 全 体 の約 四 五% を占 め て い る点 伊 勢 地方 にお け る強 大 な 教 線 を伸 長 さ せ た の であ る。 に拠 点が お かれ て い たが、 遠 江 へは伊 豆 よ り早 く、 豊 後 泉 福 い る。 そ こ で、 北 畠 馬 が 曹 洞 宗 を 外 護 し、 そ の門葉 が 太 源 派 の地方 武 士 を、 そ の外 護 者 と し て発 展 し た と 一般 に いわ れ て 曹 洞宗 教 団 は、 中 央権 力 者 と の接 近 よ り は在 地勢 力 と し て が 注 目さ れ る。 そ の遠 因 は、 中 世 の今 川 氏 によ る禅 宗 保 護 政 寺 か ら洞 巌 玄 鑑 と そ の法 嗣直 伝 玄 賢 が それ ぞ れ 雲巌 寺 (後 の に属 す る のは如 何 な る 事 情 であ った か考 察 す ると、 以 下 の見 策 が あ った か ら であ る。 曹 洞 宗 の伝 播 は当 初 伊 豆、 遠 江 方 面 龍 泉寺)栄 林 寺 を開 創 し た のが 始 ま り であ る。 そ し て、 足 利 北畠 氏 は親 房 以降 三代 目 国 司 満 雅 ま でそ の勢 力 を保 持 し、 方 も 可能 と な る と 思 わ れ る。 洞 宗 の 一大 中 心 地 を築 を 上 げ た性 岱 の師 茂 林 芝 繁 の師 であ る に は、 北 畠 氏 は吉 野 朝 廷 配 下 の南 朝 方 国 司 と し て 東海 道 方 面 将 軍家 に対 し ても 何 ら 恐 る る点 はな か った の であ る。 そ の間 氏 の外 護 を受 け て遠 州森 の大洞 院 を開 き、 こ の地 に お け る曹 恕 仲 天 閤も、 こ の玄 鑑 のも と で修 行 し て いる。 こ の大 洞 院 の 進 出計 画 の旗 主 と な り、 遠 州 か ら 関東 にか け て 一時 そ の勢 力 開 創 は応 永 一八年 (一四 一一) であ り、 そ の門 下 か ら 石隻 円 柱、 物外 性 応 らが 輩 出 さ れ、 太 源 派 が 中 部 遠 州 か ら東 海 一円 -737- ら な いも ので あ った と いえ る。 与 奪 の権 を にぎ って い る足利 氏 と の関 係 は円満 でな く て はな ま た 足 利 氏 は、 太 源 派 の 一大 拠 点 であ る遠 州 森 の大 洞 院 に 進 出 の功 績 を認 めら れ る と こ ろま で進 展 して いた。 し か し、 時 代 の経 過 に共 って、 そ の情 勢 は、 北 朝 方 足 利 氏 の優 勢 と 変 深 く 関 係 し て お り、 大 洞 院 末 の石 雲 院 は浄 眼 寺 ・広 泰 寺 の本 ﹁南 北 朝 時代 ﹂ か ら、 ﹁応 仁 の乱 ﹂ に かけ て の刻 々と変 化 す る に ょ り治 め られ る の で あ る。 一方 北 畠 氏 は、 正 長 元 年 (一四 化 し て い った の であ る。 そ の後 遠 州 は、 足利 氏 一族 の今 川 氏 危 機 に瀕 す る寸前 と いう 状 況 であ り、 当 時 の伊 勢 にお いて も 浄 眼 の宗 教 的 関 係 と の系 列 が 生 じ、 そ れぞ れ三 者 の関 係 か ら から、 一連 の足 利、 今 川、 北 畠 の政 治 的 関 係 と、大 洞、石 雲、 教 線 拡 大 が あ った の であ り、 そ の影 響 を受 け て い る の であ る にあ る今 川 氏 の禅 宗 保 護 政 策 下 で、 遠、 駿、 豆 三州 に強 大 な 寺 であ る。 そ し て足 利 氏 の内 証 収 束 に功 績 が あ り、 同族 関 係 甚 だ精 彩 に 乏 し いも も と な って いた。 し かし、 五 代 に及 ぶ 北 太 源 派 の流 れ が、 伊 勢 の地 へ玄 虎 を し て定 着 した と も 考 え ら 二六)岩 田川 で満雅 が 戦 死 し、 足 利 義 教 の怒 り も あ り滅 亡 の て 残存 す る唯 一のも の と な って いた の であ る。 こ のよ う な、 畠 氏 は居 然 豪 族 と し て、 ま た 吉 野 朝 廷時 代 の南 朝 側 国 司 と し 行 業 記 ﹄ 中 の田 丸 広 泰 寺 建 立 の 一節 で の ﹁寓 田 丸草 庵 義 材 再 守 護 大 名 可溶 化 し てゆ く の で あ る。 そ の 一端 は、 ﹃玄 虎 和 尚 力 の衰 退 し た北 畠 は満 雅 の 子教 具 以降、 足 利幕 府 に隷 属 す る り成 しが あ り、 国 司 の地 位 と体 面 を保 つ こと は 出来 たが、 勢 への住 民 の帰 依 を 招 請 し た北 畠 氏 へ の信 頼 が 増 し た と も い 谷 鎮 撫 の逸 話 であ り、 大 守 歓 喜 し 住 民安 堵 す る とあ り、 大 空 に せ んと し た と 考 え ら れ る。 そ の傍 証 が 伝 記 に記 さ れ る 地 獄 玄 虎 を 通 し て伊 勢 地 方 に受 け 入 れ、 民 心 の掌 握、 統 治 の 一助 て足 利 の命 を 奉 じ る証 と し て、 そ の傾 倒す る 石雲 院 の法 系 を つま り、 北 畠 氏 は存 続 の た め に、 足 利 氏 と今 川 氏 に接 近 し れ る の であ る。 建 諸 堂 号 広 泰 寺 ﹂ と記 し た 教 具 の子政 郷 の嫡 子材 親 が、 広 泰 状 況下 で義 教 に対 し て は、 赤 松 氏 並 び に 醍醐 三宝 院 満 済 の執 寺 建 立 をあ ら わ し た 一説 であ る。 こ の文 中 の ﹁義 材 ﹂ と は源 る。 <キーワード> 二三三 中世仏教、伊勢 地方、曹洞宗 (愛知学院大学研 究生) 義 材、 つま り材 親 の こと であ り、 足 利 義 尚 よ り 文 明 六 年 (一 え、 そ の点 こそ 北 畠 氏 のも っと も望 む と こ ろ であ った の であ 四七四) に ﹁義 ﹂ の 一を 賜 わ り、 幼 名 具 方 を改 め て 義 材 と 称 し、 そ の後 に改 め て材 親 と 称 し たも のであ る。 こ の こと か ら も 足 利方 に接 近 し、 命 脈 を 保 って い た こ とが 如 実 に現 れ て い 内) る。 政 治 的 背 景 か ら み れ ば、 教 具、 政 郷、 材 親 にと って 生 殺 曹洞宗展開 の 一考察 (竹 -738-
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