フランスの大学で哲学教育を受け、文化に根差すということを考える

医学のあゆみ(2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012
パリから見えるこの世界
Un regard de Paris sur ce monde
第4回 フランスの大学で哲学教育を受け、文化に根差すということを考える
「若いからと言って哲学することを後回しにしたり、年老いているからと言って
哲学することに飽く者が一人もいないことを願う。
なぜなら、誰であれ、精神の健康を守るのに早すぎたり
遅すぎたりすることはないからである」
――エピクロス
「クラシック」が特徴のソルボンヌの講義風景
2009 年 11 月、ドクターコースに登録するため、パリ大学ディドロ(Université Paris
Diderot)の受付にいた。係の方にマスターの教育をどこで受けたのかと聞かれた時、
わたしはそれまでフランスの教育を受けていたのだ、ということをはっきりと意識す
ることになった。確かにパリにいて大学には通っていたが、どこかフランスの大学教
育を覗くという意識が強く、フランスの教育を受けているという認識には至っていな
かったのだ。もし論文を書くだけのドクターコースから始めていたとすれば、そのよ
うな認識に至ったかどうか甚だあやしい。異なる言語で新しい分野に挑んだマスター
の 2 年間は苦しいものではあったが、今では何ものにも代えがたい凝縮された時間と
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して、また道標を必要とする時に戻るべき場所としてわたしの中にある。今回は、ほ
とんどの教授より年上の学生から見たフランスの大学生活を振り返りながら、印象に
残っていることを紹介したい。その根にあるものは、自らの歴史、文化に根差して考
え、行動するという態度に繋がる問題になる。
第 1 回でも触れたように、学生としてフランスに来るということを最初から考えて
いたわけではなく、わたしの望みを満たすためには学生になる以外に方法がなかった
に過ぎない。その望みとは、パリをベースに世界を観察しながら、歴史、哲学、科学
について自らの考えを深めてみたいという漠然としたものだった。幸いなことに、ヴ
ォ ル テ ー ル ( Voltaire, 1694-1778 ) に 揶 揄 さ れ た ラ イ プ ニ ッ ツ ( Gottfried Leibniz,
1646-1716)の予定調和を信じたくなるような出来事が続いてくれた。その中には、フ
ランス国民教育省のフランス語試験 DALF C2 の合格証を受け取ったばかりで、入学の
ための語学試験が免除されたことも含まれている。授業料が自らの学生時代にタイム
スリップするような年間 200 ユーロ程度(約 2 万円)だったことも決断を後押した。
わたしが登録したのは、パリ第 1 大学パンテオン・ソルボンヌ(Université Paris 1
Panthéon-Sorbonne)、高等師範学校(École Normale Supérieure)、パリ大学ソルボンヌ
(Université Paris-Sorbonne)、パリ大学ディドロの 4 大学が参加するマスターコース
LOPHISS(Logique, Philosophie, Histoire, Sociologie des Sciences)であった。論理学、お
よび科学の哲学・歴史・社会学の二つの専攻に分かれるこのコースは新しい試みで、
この分野についての感触を得るためだけではなく、パリの大学の様子を掴むためにも
最良のものであった。観光気分も抜けない 2007 年 9 月、新入生への説明会がソルボン
ヌのバシュラール講堂であった。音が拡散する古い講堂でこれまで聞いたことのない
フランス語による新しい領域の説明を耳にしている時、未だかつて記憶にない冷たい
脂汗が静かに額を下りてきたのには驚いた。フランス語で哲学をやるという無謀な航
海に出てしまったことに体が正直に反応したのだろう。
こちらに来る前、雑誌 Le Point でフランスの高等教育の貧弱さについては読んでい
た。信じられないくらいに劣化した建物、管理サービスが手薄で年に 3 ヵ月も閉まっ
ている図書館。大学生 1 人当り 7,200 ユーロという年間予算は、フランスの高校生や中
学生は言うに及ばずメキシコの大学生よりも低く、アメリカの私立大学には遠く及ば
ない。確かに、上の写真にあるソルボンヌの教室のガラスは歪み、時に割れているこ
ともある。オーディオ・ヴィジュアルの装置はなく、先生は布切れで板書を消す。混
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み合うコースの場合、学生は床に座り、窓際に腰掛ける。不思議なことに、この国際
標準にも満たないような環境に身を置いていると、恰も最初の学生生活を生き直して
いるような感覚に陥り、わたしには懐かしくも心地よいものとなった。
ユルム通り(rue d’Ulm)の高等師範学校正門
左右に 2008 年 3 月の日本週間(Semaine Japonaise)のポスターが見える
講義を聴き始めると、それまで現在だけを見てやって来た科学という営みが実は過
去と繋がっている、ああそうだったのか、という気付きを何度も味わうことになった。
科学についての膨大な思索が哲学者や歴史家によって成されていることにも驚くよう
になる。これらの経験は、過去を振り返る時間もないであろう科学者に向けてその蓄
積について語らなければならないという大袈裟に言うと使命感を以ってわたしを促す
ようになる。この点については回を改めて触れてみたい。もう一つ気付いたことは、
講義をする先生から滲み出す自国の文化に対する誇りのようなものだろうか。誇りな
どという言葉があることさえ忘れていたわたしは、フランスの哲学者や科学者の仕事
をいとおしむように語る彼らの態度を好ましいものと感じるだけではなく、グローバ
ル・スタンダードなど意識の外にあるかのように土地にしっかりと根を張ったその姿
に感動すら覚えることになった。フランスの大学は特別に選別された組織としてあり、
教授は一段上に控えているように見える。教授と学生は飽くまでも教えを諭す者と教
えを請う者という関係にあり、わたしの想像とは大きく異なるものであった。それを
裏付けるかのようにマスター2 年目の同期生(パリ市内の病院で働く 50 代の医師)が
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語った「学生が教師を評価するなどという文化はフランスにはありません」という言
葉が強い印象を残している。そこには外の動きに条件反射するのではなく、自らに照
らして考えようとする落ち着いた姿勢があるように感じたものである。
パリ大学ディドロのキャンパス
正面奥にはセーヌが流れる
マスターでは半期ごとにそれぞれのコースで 15 ページ程度の小論文と 1 年のまとめ
として 1 年目は 50 ページ、2 年目は 100 ページのメモワールを書かなければならない。
中には半期ごとの試験として筆記試験、口頭試問をする先生もいる。いずれも大変な
のだが、わたしのような者には限られた時間での筆記試験や口頭試問が壁のように立
ちはだかった。しかし、口頭試問では興味深い発見があった。会場となる教室に順番
に呼ばれると、机の上にお御籤のような紙が学生の数だけ裏返しに置かれている。そ
の一つを取ると、
「モデルとは」とか「ダーウィン主義と社会について」などの問が書
いてある。その問について 1 時間で自分の考えを纏め、10 分ほど先生に向かって発表
した後、20-30 分の質疑応答が続くというやり方であった。また、10 編くらいの論文
の中から 1 編を読ませ、その内容について同様のことをやる先生もいた。このやり方
を見てすぐに思い出したのが、冒頭でも触れたフランス語試験 DALF である。この試
験もいくつかの記事を読ませた後、そこに共通するテーマについて要約を書かせたり、
質疑応答するという具合だったからである。日本のフランス語検定試験も受けていた
ので、日本とフランスが要求する頭の使い方に大きな違いがあることを体感すること
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になった。日本の場合には問と答えが直線の関係にあり、自ら物語を作る必要がない。
小手先の作業なのだ。一方、フランスの場合にはいろいろな点を繋ぎ合わせて一つの
まとまりをつけるために頭全体をダイナミックに使うことが求められる。最初に DALF
C1 の試験を受けた時には誇張ではなく頭全体が熱くなるのを感じ、そのように使って
もらった休眠中の脳も喜んでいたのではないかと想像させる貴重な経験となった。試
験に関してもう一つ驚いたのは、成績の合否ではなく全員の点数を廊下の壁に貼り出
すことであった。中にはメールで成績を知らせてくれる教授もいたが、そこには全員
の点数が並べられていた。彼らはなぜ日本では考えられないようなことをするだろう
か。所詮、点数などどうでもよいことで、それ以上に大切なことがあると健全にも考
えているのだろうか。
ここで、講義を聴く中で最も戸惑った点について触れてみたい。それは、科学の場
合には当たり前になっているパワーポイントなどを使った視覚情報が全くないことで
あった。中には原稿を読み上げるだけの教授もいる。したがって、理解するためには
空中に放たれる言葉のイメージを自ら描かなければならず、一つひとつの概念の意味
するところを頭の中に持っていなければならない。文系は皆同じなのか学生さんに聞
いてみたが、ソルボンヌはクラシックなのでおそらくそうだろうとの答えが返ってき
た。これに慣れるまでに 1 年はかかったのではないかと思う。この経験から、これま
でパワーポイントで示される模式図を見て実際に起こっていることを理解したつもり
になっていたが、実のところ何も分かっていなかったのではないかという疑念を持つ
ようになった。
そんなことを考えていた最近のこと。クロード・アジェージュ(Claude Hagège, 1936-)
という 1988 年から 2006 年までコレージュ・ド・フランスの言語学教授を務めた方の
「単一思考に抗して」(Contre la pensée unique, Odile Jacob, 2012)という最新本を手に
取った。そこで指摘されているのは、グローバリゼーションにより英語が体現する世
界の見方、思考様式しか通用しなくなり、多様な世界の見方、少数派の言葉、考え方、
文化が消失する危険性である。確かに、外国語を学ぶことは世界を広げる上では必須
である。しかし、その前に忘れてならないことは、
「もの・こと」の機微に至るまで表
現できる母国語を鍛え上げておかなければならないということだろう。そこが蔑にさ
れていると思索が深まらないことは、自らの経験に照らしても痛いほどよくわかる。
母国語で考えることの大切さについて、アジェージュ氏はフィールズ賞受賞者のロー
ラン・ラフォルグ(Laurent Lafforgue, 1966-)博士の言葉を引用して強調している。
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「数学のフランス学派が格別に優れているので、いまだにフランス語を使うことがで
きるのだとよく言われますが、わたしはその逆だと考えています。フランス学派が独
創性と強さを保っているのは、フランス語に執着しているからなのです」
さらに、アジェージュ氏はパワーポイントについても興味深い指摘をしている。80 年
代後半にマイクロソフトにより開発され、90 年代初めから大学や学会などの会合で使
われるようになったこのソフト。今では広い分野での発表には欠かせないものになっ
ている。実はこのソフトがわれわれの思考に隠れた影響を与えているのではないかと
彼は疑っている。なぜなら、文章の突然の短縮、意味のない空疎な形式の適用、論理
的に重要な言葉の省略、恣意的な操作などが頻繁に行われ、正確な思考、真のディス
カッション、論理的な決定が難しくなる可能性を見ているからだ。提示されたものが
恰も真実であるかのような錯覚に陥る危険性が現実のものになった例として、2003 年
の国連において米国国務長官コリン・パウエル(Colin Powell, 1937-)氏が成功したイ
ラクに大量破壊兵器があるというイメージ操作にも触れている。複雑な現実を一つの
映像の中に押し込めることによる単一思考、あるいは思考の羽ばたきに目に見えない
箍を嵌めている可能性もある。これはドイツの哲学者ペーター・スローターダイク
(Peter Sloterdijk, 1947-)氏の言う「視覚化による全体主義」にも通じるものだろう。
映像に頼るあまり、科学者の言葉に対する感受性が鈍っているのではないかと想像さ
れる場に遭遇することも稀ではない。今やこのソフトなしにわれわれの活動は成り立
たない中、そこに潜む問題についても意識しておきたいものである。
今回フランスで哲学教育を受ける機会に恵まれ、フランス人の自国の文化に対する
強い思い、敢えて言えば矜持のようなもの、あるいは世界標準とされるアメリカ発の
文化に対して一歩下がって考える彼らの態度を体で感じることになった。自らの根を
覗き込み、そこから「いま」に戻って考えるという回路を如何に確立し、日常的に動
かしていくのか。エピクロスの教えに従い、考えを巡らせている今日この頃である。
(2012 年 4 月 2 日)
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