パリから見えるこの世界 - Hidetaka Yakura Site

医学のあゆみ (2013.5.11) 245 (6): 541-545, 2013
パリから見えるこの世界
Un regard de Paris sur ce monde
第 16回
修道僧にして哲学者、科学者のジョルダーノ・ブルーノ、その壮大な宇宙
「宇宙には無数の太陽が存在する。その周りには無数の地球が回っている。
そして、そこには生物が住んでいるのだ」
(ジョルダーノ・ブルーノ)
2010 年末、わたしは南仏に向かうためパリ・リヨン駅にいた。そのキオスクで、ジ
ャック・アタリ(Jacques Attali, 1943-)氏の新刊『灯台: 24 の運命』(Phares. 24 destins,
Fayard, 2010) を手に取った。混迷の時代の航路を照らす灯台の役割をすると彼が考え
た明治天皇を含む 24 人が取り上げられている。その中に、以前から気になっていた修
道僧にして哲学者、科学者でもあったジョルダーノ・ブルーノ(Girodano Bruno,
1548-1600)の名前を見つけ、アヴィニョンまで時間をともに過ごす。そこから圧倒的
な世界観を持ち、人間が成し得る一つの極限を超えた人物が現れ、体の芯が震えるよ
うな感覚が襲ってきた。ここで、アタリ氏の語りとともにその宇宙を眺めてみたい。
ジャック・アタリ氏
"Spécial Solidarité Japon" にて
(2011 年 3 月 23 日)
ルネッサンス末期のイタリアでは教会が反動の極致にあった。当時の教会は、宗教
改革や科学、特に天文学に反対の立場を採り、写本の禁止、グーテンベルク(Johannes
Gutenberg, 1398-1468)による印刷物の検閲は言うに及ばず、焚書を行っていた。将来
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の科学の基になる営み、例えば知識の体系化、概念や記憶の研究、実験的な方法、自
然の観察、物質の変換などを取り締まっていた。16 世紀の教会の厳しさは尋常ではな
く、少しでも疑いがあると幽閉し、拷問し、火炙りにしていた。このような時代にブ
ルーノは大胆にも言い放つ。それが冒頭のエピグラフである。そのためローマ教皇ク
レメンス 8 世(Pope Clement VIII, 1536-1605)の命により、ローマの街中で火刑に処さ
れる。1600 年 2 月 17 日のことであった。享年 52。
紀元前 250 年頃にはすでに太陽が中心にあるという説がアリスタルコス(Aristarchus
of Samos, ca. 310 BC-230 BC)により出されていた。しかし、ブルーノの時代、自然は
聖書の言葉に従って動くとされ、容認された学問は神学だけであったが、ヨーロッパ
は次第に開かれつつあった。例えば、フランスでは専制を告発し自由を謳い上げる『自
発的隷従論』(Discours de la servitude volontaire)がモンテーニュ(Michel de Montaigne,
1533-1592)の最も親しい友人であったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシー(Étienne de La
Boétie, 1530-1563 ) に よ っ て 書 か れ 、 フ ラ ン ソ ワ ・ ラ ブ レ ー ( François Rabelais,
1483?-1553)の『第四之書』(Le Quart Livre)が出版されていた。また、イタリアで
はフィレンツェを避難場所としていたユダヤやイスラムのインテリが人類の遺産を写
し、訳し、広めていた。そんな時代にフィリッポ・ブルーノ(Filippo Bruno)は、イタ
リアのノーラに生れる。1548 年のことである。陽気で記憶力に優れた少年だったが、
その無礼さは際立っていた。1562 年、両親は当時の人間学(論理学、弁証法、神学)
を学ばせるため 14 歳の息子をナポリに送り出す。
1565 年、17 歳でナポリにあったドミニコ会に入り、そこで出会った形而上学の師ジ
ョルダーノ・クリスポ(Giordano Crispo)に肖ってジョルダーノと名乗るようになる。
ここで修辞学、形而上学、神学の他に、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ
語を学びながら、芸術を発見し、記憶力に磨きをかける。当時は個人の書斎など望む
べくもなかったので、記憶力は知的活動には不可欠であった。そこで読んだピタゴラ
ス(Pythagoras, 582 BC-496 BC)、プラトン(Plato, 427 BC-347 BC)、アリストテレス
(Aristotle, 384 BC-322 BC)、聖書、モーシェ・ベン・マイモーン(Moses Maimonides,
1135-1204)、エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)、コペルニクス(Nicolaus
Copernicus, 1473-1543)などのすべてを彼は記憶に留めた。そして、すぐに教授連中に
飽き足りなくなる。1568 年には教皇ピウス 5 世(Pope Pius V, 1504-1572)に自らの記
憶術を訴えるため、ローマを訪れている。1573 年、25 歳で司祭になるが、精神をより
高いところに向かわせるのではなく、自由な人間を鎖に繋ぎ、不可解な体系に奉仕さ
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せる奴隷にしようとする教授陣に対する反抗は留まるところを知らなかった。さらに、
彼の三位一体批判、エラスムスなどの読書内容が異端の扱いになり、教会が支配して
いたヨーロッパの大学への道は難しいものになる。事実、ローマ、ジェノヴァ、パド
ヴァ、ブレシア、ベルガモでポジションを探るがうまくいかなかった。1579 年、31 歳
の時にジュネーヴを経てトゥルーズに至る。そこでは彼の悪評が届いていなかったの
か神学の学位をもらい、宇宙論と哲学を教えることができた。翌 1580 年にはパリに落
ち着き、アンリ 3 世(Henri III, 1551-1589)の計らいでコレージュ・ド・フランスの前
身である王立教授団に職を得て、トマス・アクイナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)や
天文学、神学、記憶の講義をしている。
ジョルダーノ・ブルーノ
記憶の研究は彼の精神を思考の構造、発見の過程、人間の性質、宇宙の特殊性へと
向かわせることになる。そして、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)
やスピノザ(Baruch Spinoza, 1632-1677)に先駆けて、人間は宇宙における偶然の存在
でしかないこと、現実とは人間の精神により創り出されるものであること、そして物
質と精神の最小単位としてモナドを提唱し、生命と意識が生まれたのは宇宙のレベル
であり、すべては生きていて、すべてに精神が宿っていることを説くのである。34 歳
の時、神学者の欺瞞、性的妄想をからかう『カンデライオ』(Candelaio)を出版。そ
れ以降、舞台が彼の表現の場となる。それからロンドンにも行き、エリザベス 1 世
(Elizabeth I, 1533-1603)の庇護を受けている。ロンドン滞在中、ストラトフォード・
アポン・エイヴォン とロンドンの間を行き来していたシェークスピア (William
Shakespeare, 1564-1616)と会っていたとも推測されている。例えば、『恋の骨折り損』
(Love's Labour's Lost)に出てくる三年の間寝食と女性を忘れ研究に没頭する人物ビロ
ーンはブルーノから霊感を得た可能性があり、シェークスピア最後の作品と言われる
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戯曲『テンペスト』(The Tempest)に出てくる精神と空気をコントロールする明晰な
魔術師プロスペロもブルーノを想起させると言われている。
1584 年、ブルーノ 36 歳の灰の水曜日、 オックスフォード大学で彼がイタリア語で
出した『灰の水曜日の晩餐』(La Cena de le Ceneri)を標的にした激しい討論会が開か
れる。当時、学問と商業の言語はイタリア語で、フランス語はむしろ政治の言葉、そ
して英語はまだヨーロッパに広まっていなかった。その中で、ブルーノは古代ギリシ
ャよりはビールに詳しいオックスフォードの教授を嘲弄してこう主張する。「地球が
宇宙の中心でないばかりか、太陽もその中心ではない。この宇宙は無数の宇宙からで
きており、神はその無限の内にある。変わらないものは何もなく、すべては相対的な
存在で常に変化している。したがって、人間が宇宙の中で特別の価値がある存在では
あり得ない」。何という現代性だろうか。そして、思想の自由への賛歌を謳い上げ、
カトリック教会の優位性について疑義を差し挟み、魂の再来について語るのである。
しかし、イギリスでの状況が再び悪化し、彼はどこかに向かわなければならなくな
る。一体どこにその場はあるのだろうか。イタリアに帰りたい気持ちはやまやまだっ
たが異端審問が厳しく、また自由の国として名高いオランダの状況も捗々しくない。
ブルーノは結局パリに戻ることにする。ただ、懐疑だけを信じる身ではソルボンヌの
教授職にもありつけず、自らの作品の放棄を要求する教会との和解も困難であった。
彼は一人、訳し、読み、講義をする。しかし、生活は苦しく、飢えと寒さに苦しむこ
ともあったという。迷った挙句、ドイツに移ることにする。1586 年、先ずマールブル
クに向かうが歓迎されず、ヴィッテンベルクの大学で教授として哲学、宇宙論、芸術、
記憶を教える。おそらく、この 2 年間が彼の人生で最良の時だったのではないかと言
われている。
1588 年、この大学の状況も変化し、どこかに移らなければならなくなる。先ず、神
聖ローマ帝国皇帝ルドルフ 2 世(Rudolf II, 1552-1612)の治世に入ったばかりのプラハ
へ向かう。この皇帝はジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo, 1527-1593)、
バルトロメウス・スプランヘル(Bartholomäus Spranger, 1546-1611)などの芸術家やテ
ィコ・ブラーエ(Tycho Brahe, 1546-1601)、ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler,
1571-1630)などの科学者を庇護し、占星術師や錬金術師を身近に置いていた。その後、
ブルーノは庇護を求めてヘルムシュテットへ向かうが、その侯爵が暗殺される。彼の
人生は一体どうなっているのだろうか。この頃から錬金術、魔術、カバラに傾斜し、
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作品が神秘主義的になっていく。1590 年にはフランクフルト、1592 年にはイタリアの
ベニスへ。パドヴァ、ローマでの求職も実ることなく、フランクフルトに戻ろうとし
た前日、部屋に閉じ込められ、ベニスの異端審問刑務所に移送されるのである。
罪状は驚くほど多岐に渉っていた。無限の宇宙と無数の太陽系の存在を説き、キリ
ストを批判し、魔術を使い、三位一体を論駁し、宇宙の永遠性の故に神による創造を
否定し、世界の無限を信じ、輪廻転生を信じ、神学を悪し様に言い、異端審問を軽蔑
し、聖母マリアの処女性を否定し、女性を誘惑したなど、どれ一つ取っても命に関わ
るものであった。拷問を交えた尋問が行われるが、彼はどれも認めない。1593 年 2 月、
ベニスからローマのサン・ピエトロ大聖堂に隣接する異端審問刑務所に移される。彼
はクレメンス 8 世への謁見を要求するが却下され、拷問を挟んだ審問が始まる。この
間の様子を書き残した資料はナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)がパリに持
ち帰った後二束三文で処分されたと言われ、どのような状態だったのかはわからない。
ただ、 三位一体や輪廻転生に対する態度は軟化したが、世界が多数あること、宇宙の
永遠性については意見を曲げなかったとされている。逮捕されて 5 年後の 1597 年、世
界の多数性についての審問が再開。拷問にもかかわらずブルーノは持ちこたえる。1599
年 9 月の 21 回目の審問において、哲学的研究が継続できるという条件付きで部分的な
自説撤回の交渉を申し出るが、教皇は 12 月になり拒否する。判事は全面撤回を迫るが、
ブルーノは何も撤回しないし、撤回しなければならないものもないとして交渉を諦め
る。1600 年 1 月 20 日、クレメンス 8 世はブルーノに 40 日の考慮期間を与え、異端審
問を命じる。2 月 8 日、8 日間の悔悛期間付きで火刑の審判を言い渡すと、ブルーノは
「それを聞いているわたしより審判を言い渡すお前たちの方が間違いなく怖がってい
る」と叫んだと言われている。2 月 17 日夜明け時、自説を否定する最後の機会を拒否
したブルーノはローマのカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出され、火炙りの刑に処
された。
ブルーノとしばしば対比されるガリレオは、1609 年から自ら作った望遠鏡で宇宙を
観察する中、地動説に傾いていく。教会は 1616 年に地動説を擁護する本を禁書にする。
1633 年には地動説に確信を抱くようになったガリレオは教会に捕えられる。しかし、
ブルーノ派のアタリ氏が指摘するように、ガリレオはブルーノほどの勇気や大胆さは
持ち合わせていなかった。彼は「聖書はどのようにして天に行くべきかを教えている
が、天がどのように行って(動いて)いるのかを教えてはくれない」とは言ったが譲
歩し、最終的には在宅の謹慎処分にしかならなかったのである。この時期、ガリレオ
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の異端審問の推移を気にかけていた人物がいた。デカルト(René Descartes, 1596-1650)
である。彼が導き出した宇宙像がコペルニクスのものと近似していたため警戒してい
たのである。デカルトの座右銘は「わたしは顔を隠して進む」
(larvatus prodeo)であっ
た。野心や敵意を持つ人は手に入れることのできない善である休息と精神の静寂だけ
を求めてこの人生を歩む決意を示すものである。その立場から見ると、ガリレオのよ
うな人生、況してやブルーノのような人生は避けるべきものとして映ったのは自然の
帰結だったのかもしれない。自らの考えを著わした『世界と光の論考』
(Traité du monde
et de la lumière)は 1632 年から 1633 年にかけて書かれたが、発表されたのは彼の死後
の 1664 年のことであった。
カンポ・デ・フィオーリ広場の
ジョルダーノ・ブルーノ
ブルーノの死後、すべての著作は禁書扱いにされ、読み、あるいは引用しただけで
破門されることになった。しかし、時を経てブルーノの作品は再評価され、19 世紀に
はイタリア統一運動(Risorgimento)でインテリの間のヒーローとなり、「放浪する哲
学者」、「勇気」、「無礼な人間」、「自由な思想家」の象徴となる。19 世後半から、
ブルーノが火炙りにされたその場所に銅像を建てる計画が持ち上がり、1885 年にはそ
の計画を検討するために国際委員会が開かれる。そのメンバーは錚々たるもので、ヴ
ィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer,
1820-1903)、エルネスト・ルナン(Ernest Renan, 18231-1892)、エルンスト・ヘッケ
ル(Ernst Haeckel, 1834-1919)、ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen, 1828-1906)など
が含まれていた。その結果、時のローマ教皇レオ 13 世(Pope Leone XIII, 1810-1903)
の反対を押し切ってその像は立てられた。1889 年のことである。そして 1979 年、教皇
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ヨハネ・パウロ 2 世(Pope John Paul II, 1920-2005)によりブルーノの名誉は完全に回
復される。「こと」が起こってから 4 世紀が経とうとしていた。
パリ 14 区、ジョルダーノ・ブルーノ通り
プレートには 「1600 年に異端者として火刑に処されたイタリアの哲学者」 とある
(2013 年 3 月 4 日)
先日、パリ 14 区に彼の名前が付いた通りがあることがわかり、訪れてみた。何の特
徴もない短い通りであった。わたしが写真を撮っている時、通りかかった年配の二人
組の女性がプレートに目をやり、「まあー、火炙りにされたんですって」と言いなが
らゆっくりと遠ざかって行った。時代を先んじたブルーノは高価な代償を払わなけれ
ばならなかった。今日の認識論、意味論、相対性理論、宇宙論、遺伝学などの萌芽が
その思想の中に含まれているという。権力に拒否され、無知蒙昧に追われヨーロッパ
中を遍歴する中で、彼は一体何を書き残していたのだろうか。いつの日か、その一端
にでも触れてみたいという想いが湧いている。
(2013 年 4 月 4 日)
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