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第 48 回世界からの手紙
日時:6 月 24 日(金)6 時~8 時
場所:京都大学国際交流センター セミナーハウス
講師:ムニール・ジュイニ(チュニジア)
言語:英語・通訳付き
主催:吉田日本語学習友の会
お問合わせ先:[email protected] (池村)
201443回
第 48 回世界からの手紙
(国際交流センターセミナーハウス
2011 年 6 月 24 日)
People of Tunisia - Nature and the History - / Jouini Mounir
チュニジアの人々 -自然と歴史- / ジュイニ ムニール
今日は私の出身国であるチュニジア共和国を紹介したいと思います。
【チュニジア共和国の地理的概況】
ここ
チュニジア共和国は,アフリカ大陸の北部アトラス山
脈(モロッコからアルジェリア,チュニジアにかけて連な
る山脈)に沿って位置するアフリカ大陸最北端の小さな国
です。また,マグリブ諸国(訳者補足:「マグリブ」=ア
ラビア語で「日の沈む国」「西方」という意味を持ち,イ
スラームが興ったマッカから見て西方=日没する位置にあ
ることから,この地域を指す名称となったと言われている)
として,西にアルジェリア,南東にリビア,そして北は地
中海に囲まれています。国土は 165,000km2(日本の約 5 分の 2),人口は約 10,400,000 人です。
【気候】
チュニジア共和国の気候は地中海性気候で冬が雤季です。北部は温暖で安定した気候ですが,
山間部では冬に雪が降ることもあります。反対に夏は雤がほとんど降らず,乾燥して暑くなります。
南部の一部分はサハラ砂漠です。最も海抜が低い地点は南部の塩湖「ショット・アル・ガラサ」
(訳者補足:昔は海につながっていたが後に陸地に閉じ込められ,水分が干上がってできた塩分濃
度の高い湖。夏はほぼ完全に干上がり,塩の結晶が一面に広がる)の-17m,最も標高の高い地
点は北部シャンビ山の 1,544m です。
【歴史】
チュニジア共和国は古代から歴史の変遷のたびにその名を変えてきました。
・紀元前 8,000 年頃のカスピアン時代,この地域はマスーリと呼ばれました。当時はモロッコ,
アルジェリアとともに同じ国を形成し,農業を中心として繁栄しました。
・紀元前 814 年,東方からやってきたフェニキア人によって都市国家カルタゴが建設され,大変
繁栄しました。カルタゴ遺跡は現在,チュニジア共和国の首都チュニス近郊に多く残っています。
フェニキア人は地中海の海洋交易で栄えました。カルタゴ時代,ハンニバルによって地中海西部~
イタリアを侵攻し支配しました。
・紀元前 149 年,ローマ帝国がカルタゴを征服し,この地を「ローマ帝国アフリカ属州」としま
した。
「アフリカ」という言葉の語源は,先住民族ベルベル人の言葉「人々」です。
・ローマ帝国時代,この地域は農業(豆類,穀物,果物,オリーブオイル等)によって大変な発展
を遂げ,繁栄しました。当時,この地域は「ローマの穀倉庫」と呼ばれました。また,陶器,モザ
イク,織物,ワイン,木材,家畜,動物,羊毛などがローマ帝国に持ち込まれました。
・約 700 年余りにわたるローマ帝国の支配の後,647 年にイスラム教徒のアラブ人(訳者補足:
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イスラームの興りは西暦 610 年頃,預言者ムハンマドが唯一神であるところのアッラーより神の
啓示を受けた)がローマ帝国を破り,この地域を「イフリキーヤ」としてイスラーム世界に編入し
ました。
アラブ人は都市水道を整備し,オリーブオイルをはじめとする農業を推進しました。また,イ
スラム王朝は先住民族ベルベル人が抵抗する不安定な中で,この地域の支配を成し遂げました。
1229 年アルムハッド朝成立,この地域をチュニスと呼ぶようになりました。イスラーム化した先
住民族ベルベル人の下,この地域は地中海沿岸諸国と貿易関係を築き,大変繁栄しました。
・1574 年,オスマン帝国がこの地域を征服しますが,この地域では疫病であるペスト(黒死病)
と飢饉が起こりました。
・1881 年,フランスはこの地域に侵攻し,フランス保護領とする条約に同意させ,チュニジアを
フランス保護領とします。
・1956 年,チュニジアは独立し,翌年ハビブ・ブルギバが初代大統領となりチュニジア共和国が
成立しました。
・1987 年,ズィン・エル・アビディン・ベン・アリは無血クーデターによって 2 代目大統領に就
任しました。
・2011 年,ベン・アリ大統領は民主化運動によって,23 年の長期政権ののち国外に逃亡しました。
【生活様式】
先住民族ベルベル人,ローマ帝国,ヴァンダル人,オスマン帝国,フランスなどの多くの文明
や多様な繁栄した王朝は,チュニジアの文化に大きな影響を与えました。
【ジャスミン】
ジャスミンはチュニジア共和国の国花です。16 世紀にスペイン・アンダルシア地方から持ち込
まれました。開花期は夏で,夏の夕方にはジャスミンの花で作った小さな花束をたくさん抱えた売
り子が信号で停止中の車やカフェでくつろぐ人々に花束を売り歩きます。この小さな花束は,男性
が右耳にはさむと未婚を,左耳にはさむと既婚を意味します。
(訳者補足:当日,この部分は説明
し忘れていました)
【言語】
現在のチュニジア共和国の公用語はアラビア語ですが,アラビア語は,
「フスハー」と呼ばれる
標準アラビア語(文語,正則アラビア語ともいう)と,
「アンミーヤ」と呼ばれる各地域・国ごと
に異なる方言(口語)があります。
チュニジア方言は,標準アラビア語を基本としイタリア語・フランス語・スペイン語・ベルベ
ル語が混ざった言語です。しかし,公文書・新聞・テレビ,たとえばカタール国営放送アルジャジ
ーラなどは標準アラビア語を使用しています。(訳者補足:「文語」とも言われるように,日常生活
において標準アラビア語で話すことはほぼ皆無であり,各地域・国の言葉を使用している)
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【日本人の友人のチュニジア訪問】(写真で紹介)
チュニスのメインストリート,ハビブ・ブルギバ通り:
(写真左)昼間の様子:真夏でも乾燥しているため木陰やパラソルの下は涼しい。
(写真右)夜のカフェ:とは言え日中より夜間のほうが人出は多く,どのカフェも夕涼みを楽し
む市民でにぎわう。
チュニジアでよく見かける典型的な土産物屋:
値段はあってないようなもので交渉次第。この駆け引
きがアラブ諸国での買物の基本らしい。
店での買物そのものが社交場になっているとも言え
る。
ジャスミンの花束売り:小さなジャスミンのつぼみに細い竹串のようなものを刺し,これを束ねた
ものや,ネックレスに仕立てたものを売り歩く様子は,チュニジアの夏独特の風景。この花の香り
を嗅ぎながらカフェを楽しむ。残念ながら,一夜にしてしぼんで枯れてしまう,儚い花束でもあ
る。
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【食物】
「ブリック」:卵の揚げ包み焼き
「鶏手羽元と野菜の煮込み」
春巻の皮に似たものに生卵,好みでツナや
スパイスを効かせて調理しているが,日
ジャガイモ,パセリ,香辛料などを加えて
本人にも食べやすい味。左上は付け合わ
包み,揚げる。卵は半熟に仕上げるので,
せのオリーブオイルとオリーブ,ハリッ
こぼさず上手に食べるにはコツがいる。
サ(日本の味噌のようにチュニジア料理
(料理:ジュイニ・ムニール)
には欠かせない調味料)。
(料理:同)
「タジン」
「マグロ赤身と野菜のマカルーナ(パスタ)」
日本でも知られるようになったタジンはタジ
チュニジア料理はトマトベースの料理が多
ン鍋を用いた煮込み料理であるが,チュニジ
く,これに各種香辛料を加えて仕上げる。辛
ア の タ ジ ン は 卵 液 に好 み で ジ ャ ガ イモ , ツ
さは香辛料の調節次第。チュニジアの主食は
ナ,肉,チーズ,パセリ,香辛料等を加えて
主にパン(一般的にはバゲット),パスタ。
オーブンで焼いた卵料理をいう。(料理:同)
米も食される。(料理:同)
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【結婚式】)
披露宴を前に,新郎(チュニジア人)自宅庭
「ヘンナ」という植物染料を用いて手に様々な
にて。
模様を描く。新婦や,お祝い事の日に女性が施
新婦はコートジボワール系ドイツ人。
す装飾の一つ。刺青ではないので,数週間で自
新郎が手にしているのがジャスミンの花束,
然に消える。
祝宴用に飾られているが,街中で売られるの
は花を束ねただけのシンプルなもの。
披露宴会場にてひな壇に着席する新郎新婦とその母
結婚式(披露宴)の際には車をきれいに飾り付け
(と新郎の弟)。もともと,アラブ圏での結婚式は
て新郎新婦を乗せ,街中を走る。後続車が連な
何日もかけて行うが,現在のチュニジア都市部では
り,大音量の音楽やクラクションを鳴らして祝い
簡素化されることが多い。結婚のシーズンは夏。
ながら披露宴会場に向かうことも多く,チュニジ
アの夏の風物詩となる。
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【革命】
今回の革命が起こったとき,私はチュニジア共和国におり,まさに“その時”を現地で過ごし
ていました。最も治安が不安定だったときは,略奪等から自分の家を守るために近所の人々と協力
して夜営(自衛)をしていました(写真,ビデオで紹介)
。当時,ベン・アリ元大統領はまだチュ
ニジア国内にいたので,夜営の間,私たちは「彼はどのように国外に脱出するのか」
「この国はど
うなるのか」などについて情報交換をしていました。
チュニジア共和国は,長い抵抗運動の世紀を経て作られた国家であり,またすべての国民にとっ
て平和的な国家です。私たちは,自分たちの平和で尊敬と名誉に満ちた暖かい感情を伝えるととも
に,他の事例について知りたいのです。
革命は,まさにその気運がやってきた時,多くの希望をもって起こりました。私たちは,さま
ざまな場所でよく「私たちの考え方を変えようとしたら何が起こるのか?」
「変革はより良い状態
をもたらすのか?」
「もし変革が起こったなら,私たちの暮らしはより良くなるのか?」と話して
いました。
そしてその日,すなわち世界に,まさにアラブ社会およびイスラームの国家に革命はやってき
ました。2011 年,北アフリカのチュニジア共和国という小さな国土と 1 千万余人の人口を持つ国
は,屈辱,失業,貧困に対し,民衆の平和的な抗議運動を開始しました。
2011 年 1 月 4 日にモハメド・ブアズィズィが死亡(訳者補足:2010 年 12 月 17 日,チュニジ
ア共和国中部の町でこの青年が警察官の取り締りへの抗議として県庁舎前で焼身自殺を図り, 18
日後の 1 月4日に死亡した)すると怒りはさらに大きくなり,彼が死亡する前に彼を見舞ったベ
ン・アリ元大統領の行動も無慈悲,非情,人々に対する更なる屈辱という評価を買うことになりま
した。そしてチュニジア共和国国民は深刻な事態と大きな怒りを感じ,大統領退任を決断しました。
2011 年 1 月 14 日,23 年間の長期政権を経て,ベン・アリ元大統領は国外に逃亡しました。
意思と行動が結びついたなら,そう,
“yes you can”でした。チュニジア共和国国民は恐怖と涙の
歳月に対し,革命というマラソンを始めました。それは長い我々の歴史の中で行ってきたこと,つ
まり過去の歴史の中でローマ帝国,ヴァンダル帝国,フランスなどの支配から独立することと同じ
で,我々にとっては特に新しいことではなく正義への最終章であり,これが答えなのです。
長い沈黙の歳月がありました。しかしそれはただ単に沈黙していただけではなく,例えば最後
の戦いの前に兵士が休息をとるような賢明な沈黙でした。私達は,自分たちの力をもって後退せず,
降伏せず,よりよい生活と自らの尊厳のための信念と希望を持っていました。
これ以上,我々の権利を抑圧するべきではなく,政府の都合のよいように作られた法律の名の
下に我々国民の権利を搾取するのをやめさせなければならないのです。政府関係者や組織の腐敗,
これまでの根拠や分析は偽りである,という事実に目をつぶってはいけないのです。我々はこの国
の資源,例えば地下水,巨大な油田,太陽光エネルギー,そして人材をこれ以上隠蔽したくなかっ
たのです。
しかし,このような暗黒の時代にも一条の光,-チュニジアの教育-がありました。我々は教
育を受ける権利があり,それは我々と世界を新しい通信技術でつなげてくれました。教育は,チュ
ニジア国民から恐怖のイメージを取り去り,沈黙を破る方法を見つけたという点で,非常に重要で
した。
今,人々はそれを“ジャスミン革命”と呼んでいます。
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【埋蔵遺産について】
現在もなお,チュニジア共和国には未発掘の遺跡や財宝があります。また,写真に示すような
第二次大戦下のドイツ軍の金塊や,ベン・アリ元大統領の大統領官邸にあった財宝の数々なども彼
の国外逃亡後に見つかっています。そのため,私は金属探知機を購入しました。これで何か見つけ
られるかもしれません。5 月に琵琶湖畔で試したところ,10 円硬貨と 1 円硬貨を見つけました。
○質疑忚答
Q:写真にあった料理が気になったが,あの量は二人分な
のか?ムニールさんはいつも料理を作るのか?
A:
(訳者より)いつもではないが,気が向いたら作って
くれる。一忚,二人で全部食べるが,たくさん作って数
日間かけて食べることもある。写真の料理を食べる比率
はムニール:私=2:1くらい。
Q:京都にチュニジア料理店はあるか?
A:京都にはまだなく,大阪に1件ある。東京には何件かあ
るようだ。
Q:チュニジア共和国には革命前にも憲法はあったのか?
A:革命前にもあった(1959 年 6 月共和国憲法発布)が,特にベン・アリ元大統領が再選を重ね
るにつれて都合のよいように改正されていったようだ。当然,選挙も彼が再選されるような仕
組み(不正が行われていた)になっていたようだ。
Q:言語について,なぜ今なおチュニジア共和国ではフランス語が普及しているのか?
A:フランス保護領下時代,我々はフランスから多くのものを得た(=近代化が進んだ)ので,そ
れを維持するにはフランス語が必要であった。
現在の教育システムでは,9年間の初等中等教育を経て4年間の高等教育にすすむ。(訳者補
足:大学入学試験はフランスと同様の「バカロレア資格試験」を適用)
言語の習得過程はまず各家庭でアラビア語チュニジア方言を体得し,小学校入学後に標準アラ
ビア語(正則アラビア語)を学び,2年生くらいからフランス語,7年生くらいから英語を学
ぶシステムになっている。
大学レベルの高等教育では授業も教科書もフランス語
で行われる。(訳者補足:以前,アラビア語字幕付きの
フランス映画を見ている本人に「どちらの言語で理解
しているか?」と尋ねたら,「フランス語で聞いている」
と言っていた。
)
本人自身は,アラビア語(標準アラビア語,チュニジア
方言,エジプト方言),フランス語,英語,イタリア語,
が使える。
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Q:植民地時代はなかったのか?
A:一忚,フランス保護領ということで植民地ではなかったし,名目上のチュニジア王政も継続さ
れていたが,実質的にはフランス人による自治が行われていた。
Q:女性の服装について,髪を覆うことについて
A:(訳者より)イスラームの教えでは,初潮を迎えた年齢(=生殖可能な年齢)に達した女子は
ヒジャーブと呼ばれる布で髪を覆うということになっている。
しかし,チュニジア共和国前政権下では政教分離を推し進めており世俗主義とも呼ばれている。
例えば大学,公的機関などの公共の場で宗教色を出すことを禁じ,そのような場では髪を覆っ
てはいけないと定められていたそうである。
チュニジア共和国はイスラームを国教としてはいるが,前政権下では上記の理由もあり,その
行動-例えばモスクでの礼拝やヒジャーブ使用-も個人の意思に任されていた。
Q:キリスト教はあるのか(認められているのか)?
A:少数ではあるが認められており,教会もある。ユダヤ教のシナゴーク(礼拝堂)もある。
Q:アルコールについてはどうか?
A:(訳者より)イスラームはアルコール禁忌ではあるが,飲む人は飲む。チュニジア共和国では,
スーパーマーケット等でも販売するスペースがあり購入は可能。
チュニジア共和国国民の考え方として,イスラームは神(アッラー)と個人との契約であって
不可侵であるから,何をしようともどのような行動をとるとしてもそれは神と個人との関係で
ある,という。しかし,だから自由というわけではない。
Q:ムニールさんは飲まないのか?
A:状況によります。
(訳者補足:日本国内のみ。自国では飲みません。)
Q:食肉の処理方法(屠殺方法)について聞きたい。
A:イスラームの教義として食べてはいけないのは豚肉。
その他の動物の肉はイスラームの教えに則った方法で
屠殺したものを“ハラル(食べることを許されたもの)”と
言い食べることができる。方法としては,まずマッカの方向
に向かって祈りを奉げ,神(アッラー)に屠殺の許可を得た
後,動物の頚動脈を切る(失血死)。なぜなら,死肉(絞首,
事故死等)は食べてはいけないからである。日本では,その
ような処理方法で処理された食肉(ハラルフード)を購入し,
使っている。
Q:屠殺は誰でもできるのか?
A:大人であれば誰でもが可能。
(参照:犠牲祭)
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Q:
(ムニールは)なぜ日本語を妻から習わないのか?
A:(訳者より)ムニールは吉田日本語学習友の会,特に澤居さんを大変慕っており,澤居さんに
教えていただいていることが日本語学習継続のモチベーションにつながっていると思う。親し
い人が教えるとケンカになるし,第三者から習うのが一番よいと思う。留学生でもなく,京都
大学には何の関係もないのに教えていただき,本当に感謝している。
Q:チュニジア共和国からイタリアへ多くの難民が流れ着いている,という報道を見た。
この状態をどのように思うか。
A:革命は成功したけれども,翌日から世界が変わったわけではなかった。
特に青年失業者にとっては,明日から世界が変わると信じたのであろうが現実はそうではなか
った。今日も明日も変わらない日常に見切りをつけて渡航したのだと思われる。
主な漂着先のランペドゥーサ島を所有するイタリアは,彼らへのビザ発給を急いでできるだけ
早くイタリア以外のEU圏に出てほしいという思惑があるようだ。しかし,他国は受け入れに
難色を示しており,国境で難民となった人々が待機を余儀なくされている状態のようだ。
(ムニールの)弟もイタリアに不法入国しようとしたことがあるが,非常にリスキーであるため
自分が必死に止めた。
Q:リビアは未だ混迷の中にある。チュニジアとの違いはどこにあると考えるか?
A:チュニジアに比べ,リビアは大変大きな国土を持つ国である。教育については,チュニジアは
アラブ諸国の中でも進んでいる。
Q:女性の権利についてはどうか?
A:チュニジア共和国が成立した時に,初代大統領が女性の権利,例えば一夫多妻制の廃止,参政
権の保証等を推し進めた。現在,多くの女性が公的機関や要職に就いている。
Q:チュニジアは二重国籍を認めているのか?
A:認めている。
Q:ハンニバルは今も国の英雄であるか?
A:彼はチュニジア地域の先住民族ベルベル人であったこともあり,現在もなお人気が高い。
Q:北部は山岳地帯と聞いたが,食糧供給事情を教えてほしい
A:北部の一部分は山岳地帯であるが,そこからなだらかに平原へ移行し,また水源がモロッコの
方角から来ているようで,その地域は農業が盛んで穀倉地帯と呼ばれる。反対に南部はサハラ
砂漠地帯にかかっており,その地域では大変良質のナツメヤシの実(デーツ)が産出される。
チュニジア産ナツメヤシの実(デーツ)は品質がよいことで有名である。また,小麦をはじめ
とする食料自給率はほぼ 100%超である。
Q:水道水は飲めるか?
A:飲めるが,現地に慣れていない日本人はミネラルウォーターが無難である。
通訳は坂尾淳子さん(ジュイニ氏夫人)
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