10.モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯 著者:岡村多希子 彩流社、2000 年2月 29 日発行、 2800 円 岡村多希子(おかむら・たきこ)は、 1939 年生まれ。東京都出身。旧姓は松 尾。東京外国語大学ポルトガル・ブラジ ル学科卒。2003 年まで、東京外国語大 学教授。現在は、東京外国語大学名誉教 授。ポルトガル語・文学研究者。特に、 ヴェンセスラウ・デ・モラエスの研究と 翻訳が多く、モラエス研究では現在にお ける日本の第一人者である。 写真 10.1 中央の灰色の建物が、リスボン市トラヴェッサ・ダ・クルス・デ・トレ ル四番地にあるモラエスの生家である。生家は3Fの右部分です。 1 (1)前書き 最近、私(筆者の林久治)はイエス・キリストとポルトガル人・モラエスを少々 研究している。なぜなら、この二人は謎の多い人物であるからである。イエスに関 しては、本感想文の第1-5回で取り上げた。モラエスに関しては、前々回(第8 回)と前回(第9回)で取り上げた。今回も、モラエスを更に追及して見よう。 モラエスの人生に謎が多いのは次の理由による。➀彼自身が自分の人生を詳細に は発表しなかった。➁彼の死後、彼の蔵書や日記などの膨大な遺品が残された。こ れらの遺品は徳島県立図書館に「モラエス文庫」として保存されていたが、1945 年 7月4日の米軍の徳島空襲で図書館もろともに全焼してしまった。➂生前のモラエ スを知る人々が次々と亡くなり(現在では誰もいなくなった)、色々な説の信憑性 を検証することが困難になった。 モラエスの伝記として、前々回(第8回)は「孤愁」(共著:新田次郎、藤原正 彦)を取り上げ、前回(第9回)は「わがモラエス伝」(著者:佃實夫)を取り上 げた。今回は、「モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯」(著者:岡村多希 子)を取り上げる。 「孤愁」(以後、本Ⅰと書く)は新田の未完の絶筆である。新田が書いた前半の 部分は、1980 年に文芸春秋社より発行されている。新田が残した資料やメモ、モラ エス自身の著書や書簡、モラエスに関する多くの文献、外国や国内の実地調査など をもとにして、次男の藤原正彦が後半を書き継いで、本書は 2012 年に出版された。 本Ⅰは大変読みやすく、芸術作品としては優れている。しかし、本書は他の二書 と内容が異なる点が多く、「本書のどこまでが史実で、どこが著者の創作(あるい は、潤色)であるか」は、本書のみを読んでも判定できない。また本書は、モラエ スを「品格のある文人外交官」として美化し過ぎており、彼の人生における苦悩が 充分には描ききれていない点が、私には不満である。 「わがモラエス伝」(以後、本Ⅱと書く)は力作であるが、著者の佃は無名の芥 川賞候補者に過ぎなかった。本書は 1966 年に出版されたが、今は絶版になっている ので本書の入手は極めて困難である。現在では、本書は大きな図書館でしか閲覧す ることが出来ないであろう。幸い、私は本書を出版直後に購入している。本書は大 作であり、表現は必ずしも分かり易くないので、読破するにはかなりのエネルギー が必要である。 佃は、モラエスが晩年を過ごした徳島の出身である利点を生かして、生前のモラ エスを知る人々を精力的に探して、多くの貴重な証言を集めている。佃を初めとし てそれらの生き証人達は、現在では総て故人となっている。更に、佃はポルトガル 語が出来ず、海外取材が出来る環境(時代的、資金的な制約)に恵まれていなかっ た。また、本Ⅱの出版は 1966 年と比較的に早かったので、佃自身の思い違いや、新 しい研究成果が反映されていない欠点があると、私は考えている。 私は最初、本Ⅰと本Ⅱを読み比べて、感想文を書いてみようと思っていた。その 作業をしている最中に、東京外大の岡村多希子教授がモラエスの著書をたくさん日 本語に翻訳しておられることを知った。現在日本におけるモラエス研究の第一人者 である岡村は、「モラエスの旅:ポルトガル文人外交官の生涯」(以後、本Ⅲと書 く)というモラエスの伝記を 2000 年に出版していた。 2 彼女は「従来のモラエス伝には、想像力の産物が事実と誤解され、繰り返し孫引 きされ定説のようになっている」と述べている。(本Ⅲ:p.366)彼女は、特に、昭 和 15 年に発行された「日本人モラエス」(著者:花野富蔵)の説を、以後の伝記が 安易に踏襲していることに、批判的なようだ。 そこで、彼女は「ポルトガルと日本に存在するモラエス関係の資料を渉猟して、 判明した事実だけを資料として客観的に語らせるという手法」でモラエス伝を書き 上げたそうである。(本Ⅲ:p.366)従って、本Ⅲは芸術作品というより学術研究書 の色彩が強い。今回、「私のモラエス研究」のまとめとして本Ⅲを紹介する。本Ⅰ と本Ⅱとの重複をできるだけ避け、本Ⅲに書かれた新事実に焦点を絞る方針である。 なお、私(林久治)の注釈や感想を青文字で記載する。 (2)ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスの略歴 前々回と前回の感想文から抜粋して、モラエスの略歴を以下に記載する。なお、 本感想文で変更した部分をB体赤文字で記載した。 1854 年 5月 30 日、ポルトガルのリスボン市に生まれる。 1875年 海軍士官学校を卒業(13 人中、9番目の成績)。海軍少尉に任官。 1876年 東アフリカのモザンビークに赴任(勤務は4回)。 1888年 マカオに赴任(亜珍を現地妻として二人の男児を儲ける)。 1889年 マカオから初めて日本に出張。 1890年 海軍少佐に昇進。マカオの港務副司令に就任。 1893年 武器購入のため、この年よりマカオから毎年訪日。 1896年 海軍中佐に昇進。 1897年 ポルトガルの日本公使ガリアルドの随員として、明治天皇と皇后に謁見。 1898年 11 月 22 日、神戸・大阪ポルトガル副領事館臨時事務取り扱いに就任。 1899年 神戸・大阪ポルトガル領事に就任。 1900年 46 才のモラエスは 25 才の福本ヨネと結婚式を挙げる。 1912年 8月 20 日、福本ヨネが心臓脚気で死亡(享年 38 才)。 1913年 神戸・大阪ポルトガル総領事を辞任し、7 月4日に徳島市伊賀町に移住。 モラエス(59 才)は福本ヨネの姪・斉藤コハル(19 才)を愛人とする。 1916 年 10 月2日、斉藤コハルが肺結核で死亡(享年 23 才)。 1929 年 7月1日、モラエスは伊賀町の自宅で孤独死(享年 75 才)。 (3)モラエスのモザンビーク勤務とマリーア・イザベルとの恋 ➀モラエスの少年時代、海軍兵学校、第一回モザンビーク勤務 この部分は、本書(本Ⅲ)に正確に分かり易く記載されているので、詳細は本書 を参照して下さい。(p.11-31)ここでは、本Ⅰと本Ⅱとの相違点のみを検討する。 本Ⅱでは、「フランシスカが上の妹でエミリアが下の妹」と記載されているが、こ れは明らかな佃の誤解であろう。本Ⅰでも本Ⅲでも「エミリアは5才上の姉でフラ 3 ンシスカは3才下の妹」と記載されている。(本Ⅲ:p.14-15)本Ⅰでは、「彼が海 軍士官学校を主席で卒業した」と記載されているが(本Ⅰ:p.88)、岡村の調査に よれば「同期生 13 人中、9番目の成績」であった。(本Ⅲ:p.23) マリーア・イザベルとの恋は、本Ⅰでは殆ど触れられていないが、本Ⅱでは詳し く記載されている。(前回の感想文で、詳しく紹介した。)本Ⅱの二人の恋に関す る記載は(彼女のことをマリーアと書いてある)比較的に正確であるが、本書では より正確に具体的に調査されている(本書ではイザベルと書いてある)。 イザベルは 1846 年 12 月 15 日生まれで、モラエスより8才年長で、美人の才女で あった。彼女の家族は夫サントスと夫の母で、1873 年ころからモラエス家の階下に 住むようになり、両家は家族ぐるみの近所つきあいをしていた。本Ⅱでは、サント スはモラエスの遠縁にあたると書いてあるが、本書では特にそのような記載はない。 兎も角、両家は隣人としてつきあっていたことは確かである。(p.32-33) ➁モラエスの第一回モザンビーク勤務中における、二人の文通 1876 年 12 月4日、モラエスを含む新任少尉全員は、アフリカ勤務に着くべくリ スボンを出航し、1877 年3月5日にポルトガル領モザンビークに到着した。約三年 の任務を全うして、モラエスは 1879 年 11 月 24 日にリスボンに帰国した。1880 年 2月 12 日には中尉昇進試験に8名中2位の成績で合格している。(p.24-31) モザンビークとの往復の船中やモザンビーク勤務中に、モラエスは母国の家族や 友人達(イザベルを含む)と頻繁に文通していた。父親が既に亡くなっていた家族 には、彼は家長として本音を書かなかった。イザベルとの文通では、最初は時候の 挨拶や文学談義などを交わしていたが、次第に植民地勤務の不安や寂しさを彼女に 訴えるようになった。彼女は、年下のモラエスをやさしく励ます手紙を書いた。丁 度このころ、彼女の夫は中枢神経組織を冒す病気が進行していた。(p.32-37) ➂モラエスの本国勤務において、二人の恋が燃え上がる モラエスは 1879 年 11 月 24 日に帰国し、1881 年6月までの一年半の本国勤務の 間に、二人の仲は急接近する。この時期、モラエスは頻繁に階下のサントス家を訪 問していた。まだ健常に近いサントスは、事情を知らずに隣家の青年を迎えいれて いた。愛する息子が隣家の人妻に夢中になっていることを知った母親は、この恋を 諦めるように説得したにちがいない。だが、モラエスは耳をかさない。(p.37-38) 反対されればされるほど、二人の恋は燃え上がった。1880 年 11 月末、二人は逢 引用の家を借りて、初めて肉体的関係を結んだ。モラエスは、神経症に生涯悩まさ れていた。何代かにわたる血族結婚の結果、自分と姉妹には遺伝的欠陥があり、肉 体的・精神的に他者に劣っていると思いこみ、他者とうまくかかわることができず にいた。彼のすべてを受け入れたイザベラによって、彼は性的コンプレックスから 解放された。(p.40-42) そして、イザベルは妊娠する。出産予定は 1881 年9月であった。初期伝記とそれ に依存する従来の伝記では、イザベルの不倫は夫の性的不能に帰している。しかし、 私信から判断すると、夫は 1881 年7月までは出勤していた。それ故、イザベルは身 篭った子供を夫の子として通し、世間はそれを信じた。(p.42) 4 ➃モラエスの第二回モザンビーク勤務中における、二人の関係 本Ⅱでは、モラエスの第二回モザンビーク勤務の様子を次のように書いている。 1881 年3月に、モラエスは三年間の駐屯の約束で再度モザンビークに赴任した。 (本書では、出発は6月6日となっている。)イザベルに手紙を書いても返事が来 ないので、モラエスは同僚のリベイロ中尉の紹介で黒人のアルシーを現地妻に雇っ た。そんな時に、「覚えている」という詩を書いた。(本Ⅱ:p.64-65)モラエスは 睡眠障害や頭痛に耐えられなくなり、病気療養の許可を取って、1883 年8月 30 日 に命からがらリスボンに帰還した。(本Ⅱ:p.75) 所が、本書では「二人の関係はまだ続いていた」と書かれている。1881 年9月 17 日に、イザベルは実母の家で男児を死産した。死産の報は、その日のうちに電報で モラエスに伝えられた。(本書の著者は、海軍中央図書館に所蔵されているこの電 報を見て、感動したそうである。)大変な難産で、もはや若くない彼女にとって、 予後は順調ではなかった。11 月に夫と姑のもとに戻った彼女を待っていたのは、病 気の進行により痴呆化した夫の介護であった。(p.44-45) この頃、モラエスはイザベルから「女性と接するよう」さかんに勧められている。 彼女のことをひたすら想って孤独のうちに閉じこもりがちの彼に、彼女は「あんた の母親として、禁欲は健康によくない」と説いている。本書でも、「モラエスはア ルッシという人気の高い美しい娘と深い関係にあった」と書いている。(p.49) イザベルの悩みは、一家の生活費をかせぎながらの夫の介護だけではなかった。 何より彼女を苦しめたのは「未熟な青年を誘惑して、思いのままに操って金を搾り 取っている年上の女」という近所の噂であった。モラエスの母親もそう考えていた。 彼女のうちにストレスが蓄積されてゆき、1882 年7月 22 日にイザベルを見て脳卒 中の発作を起こした。(p.51-52) ➄リスボンでの不安定な関係 神経症に悩むモラエスは、任期途中でリスボンに帰ってきた。本書ではリスボン 帰着は 1883 年8月 19 日となっているが、本Ⅱでは8月 30 日となっている。モラエ スは一ヶ月あまりの休暇を自宅で過ごした後、国内勤務についた。モラエスが帰国 する数日前に、母親は再度の発作に襲われ、半ば痴呆状態になっていた。彼女をそ のように至らしめた「妖婦イザベル」への指弾の声はいよいよ高くなっていった。 モラエスに対しては、男性であるためか、あるいは被害者と見られたためか、人々 は寛容であった。(p.55) イザベルはモラエス家の隣人であることに耐えきれず、ついに転居した。モラエ スは任地オリャンで密かに若い娘と浮気をしていた。もともと展望のないモラエス とイザベルの不安定な関係は、臆病で未熟な男性を支配する経験豊かな強い女性の 絶対的優位に支えられて、あやうい均衡を保ってきた。その均衡が、彼の成長と自 立によって、ようやく崩れはじめようとしていた。(p.59) ➅モラエスの第三回モザンビーク勤務 1885 年3月 14 日、モラエスは砲艦「リオ・リマ号」の副官に任命され、3月 23 日にリスボンを発ち、4月 30 日にモザンビークに着いた。リオ・リマ号はモザンビ ークを離れていたので、7月6日にリオ・リマ号に乗り込んだ。リオ・リマ号はモ ザンビークを7月 15 日に発って、東南アジアを巡航してマカオに向かった。リオ・ 5 リマ号は各地で乗客を降ろし、9月 26 日にティモールの首都のディリに到着した。 (p.60-61) 本Ⅱでは、「モラエスはモザンビークに帰任したときに健康が回復しなかったの で、周囲の配慮で親友のマイヤー大尉が総督をしているティモールに行った」とな っている。(本Ⅱ:p.76)本書では、モラエスはリオ・リマ号乗船が勤務で、ティ モール総督に任命されたマイヤー少佐はリオ・リマ号でティモールに着任したこと になっている。(p.61)本書の著者は「中尉のモラエスが少佐のマイアーと親友で あった説は不自然である」と述べている。(p.89-90) ティモールでモラエスは「母が5月 20 日に亡くなった」との訃報に接する。その ショックで持病の神経症が悪化して、任期を大幅に残して帰国した。リスボンに着 いたのは 1886 年1月 13 日であった。この勤務を本Ⅱでは、モラエスの第三回モザ ンビーク勤務としている。しかし、本書ではこの勤務はリオ・リマ号乗船であり、 第三回モザンビーク勤務は次の勤務と見なしている。(p.61-62) モラエスは病気治療のため 60 日間の休暇を与えられた。彼は病気が多かったが、 勤務評定は良く、4月 30 日には大尉に昇進している。モラエスは彼自身の希望によ り再度モザンビークに向かった。この間もイザベルとの関係は続いていたが、長き にわたる不安定な恋は二人のあいだに溝を作っていった。彼は 1886 年9月 15 日に リスボンを発って、10 月 14 日にモザンビークに到着した。(p.62-64) この航海で、モラエスは生涯の親友となる軍医のロドリゲス博士に出会った。本 Ⅱには、ロドリゲス博士の影響でモラエスはこの時期に生物収集を行い、「本国の 学会に発表して生物学者として認められた」との記述がある。(本Ⅱ:p.82-83)本 書の著者は、「私の調査したかぎりでは、このような事実は存在しない」と書いて いる。このような記述は、「日本人モラエス」の説を以後の伝記が踏襲しているか らだと、著者は述べている。(p.67-68) 当時は通信の手段が乏しく、手紙を出して返事が来るまでには早くても二、三カ 月はかかった。イザベルとの関係は、不信が不信を呼び、猜疑心は増幅し、二人の 関係はのっぴきならないものになっていた。モラエスから恋の葛藤を打ち明けられ たロドリゲス博士が、モラエスの帰国をとりはからってくれた。彼は前触れなく、 1887 年6月 10 日に帰国した。(p.69-70) ➆破局 1887 年6月 10 日に帰国したモラエスは、下船したその足でイザベルの家に向か った。彼が不意に訪れたとき、彼女はモニスなる男友達といっしょにいた。(林の 感想:モニスがモラエスの知人かどうかを、著者は書いていない。私は、彼はモニ スを知っていたのではないかと想像する。)一方、イザベルのほうも、モラエスが オリャンで浮気をしていたことを知っていた。(p.70) モラエスは、6月 20 日から 60 日間の病休を認められた。彼の精神も多少の均衡 をとり戻した。イザベルとは今後は友人として文通を続けることとし、愛人関係は きっぱりと断つことに両人の間に合意が成立した。しかし、彼にはなかなか思い切 りがつかなかったらしい。イザベルは別離の手紙をモラエスに5回送った。しかし、 彼からの返事はなかった。このようにして、八年におよぶ二人の熱愛は、イザベル 側からの別離宣言という形で終焉した。(p.73-75) 6 (4)モラエスのマカオ勤務 1888 年7月7日、モラエスはマカオに赴任した。彼はイザベルとの恋愛を清算し て、新天地である東洋にやって来た。中国や日本が彼の気性に合っていたのか、持 病の神経症はかなり治まり、彼は勤務と文筆に集中できるようになった。彼のマカ オ時代に関しては、前々回(第8回:本Ⅰ)と前回(第9回:本Ⅱ)で取り上げた。 今回は、彼のマカオ勤務の概略を簡単に復習し、本書(本Ⅲ)に書かれた新事実を 詳しく紹介したい。 モラエスはマカオ到着の直後に、副官としてリオ・リマ号乗船を命じられた。リ オ・リマ号はマカオを母港としてアジア各地に出向いていた。リオ・リマ号は中国 と日本への巡航の任務を帯び、1889 年 6 月 20 日にマカオを発ち、中国各地に寄港 した後、8月4日に長崎に入港した。リオ・リマ号は、神戸と横浜にも寄港して、 9月4日にはマカオに帰着した。モラエスは日本についての第一印象を長崎から姉 のエミリアに次のように送った。「ぼくはすばらしい国、日本にいる。ここ長崎で 世界に比類のないこれらの木々の陰で余生を送れたらと思う。」(p.90-92) モラエスの初来日に際して、彼が上記のような手紙を姉に送ったことは、本Ⅰで も本Ⅱでも記載されている。この手紙は有名であるが、本Ⅱでは妹への手紙だと誤 解している。本Ⅰでは、彼は単独で貨客船ベルギー号に乗って長崎と神戸に来たこ とになっている。「彼は同じ船の乗客で、怪しげな英国人や流暢な英語を喋る日本 人と知り合いになった」ことも本Ⅰでは書かれている。(p.7-44)(林の感想:私 は「本Ⅰのこのような記載は、新田次郎が時代背景を読者に説明するための創作で あって、史実と誤解されては困る」と思っている。なお、本Ⅱ(p.107)では、モラ エスの初来日に関しては、この手紙以外の詳細は記載されていない。) モラエスはマカオ海域での三年間の任期を務めあげ、1891 年4月 11 日にマカオ を発ち帰国の途についた。帰任の航海には、老朽艦「テジョ号」の艦長として同艦 をリスボンに回航する任務が付随していた。587 トンの木造ボロ船を少人数で回航 することは困難な航海であったが、彼にとっては艦長として四カ月という長期にわ たって全指揮をとった最初にして最後の貴重な経験であった。(p.95-97) モラエスは 1891 年8月 22 日にリスボンに入港した。彼は 10 月 26 日にマカオの 港務副司令に任命され、10 月 29 日には少佐に昇任した。彼がリスボンを発った詳 細は不明であるが、12 月 22 日には彼がマカオに居たことが確認されている。なお、 イザベルの病気の夫は、同年7月に死亡していた。(p.98) マカオの港務副司令は陸上勤務で、モラエスの生活は安定して、公務と文筆に励 むことができた。1893 年6月6日に、彼は二回目の日本出張のためマカオを発った。 この時には、日本公使を兼任しているマカオ総督のボリジャとその書記官の三人で、 ベルギー号に乗って来日している。公使の任務は治外法権の交渉で、モラエスの任 務は日本からの大砲購入であった。三人は6月 12 日に長崎に着き、15 日に横浜に 到着している。(p.110-116) モラエスは単独で7月6日に、陸軍砲兵工廠が設置されている大阪に向かった。 大阪砲兵工廠との大砲売買契約は7月 16 日に成立した。本書には、その契約書のコ ピーが掲載されている。日本語の契約書では、ポルトガル側の契約者はモラエス海 軍大尉と記載されている。この時には彼は既に少佐になっていたので、契約書で彼 7 の肩書きが大尉となっているのは不思議である。これは、日本側の翻訳ミスかも知 れない。(p.117-122) 契約締結から製造完了までの二ヶ月あまりの間に、モラエスは大阪と横浜を何度 か行き来した他に、東京と大阪の周辺にある多くの観光地を訪問している。彼は購 入した武器を輸送する手配を終えて、10 月 25 日にマカオに帰着している。ボリジ ャ公使がマカオに帰任したのは 11 月 25 日であった。(p.122-124) モラエスの第二回日本出張に関して、本Ⅰでは、彼は単独で訪日したように書か れている。なお、本Ⅰでは彼の第一回日本出張の時にベルギー号で日本に行ったと 述べている。また、本Ⅰでは、モラエスが第二回目に日本に来た 1893 年は、日清戦 争の直前で日本には他国に大砲を輸出する余裕がなかったと、書かれている。大砲 購入を初めて契約したのは 1896 年になってからだ、とも書かれている。(本Ⅰ: p.170-171)本Ⅰのこれらの誤りは、新田次郎の潤色や誤解が原因であろう。本Ⅱ (本Ⅱ:p.110)でも、この時の交渉は纏まらなかったと書かれている。 モラエスは、1893 年 12 月 30 日に中佐に昇進している。彼は日本から気象観測器 具を購入する公務で、1894 年 7 月4日にマカオを発って、神戸を経由して横浜に7 月末に着いた。彼はそこで日清戦争の開戦を知った。当時の日本は気象観測器具を 外国から輸入していたので、彼は8月 28 日にマカオに帰った。(p.125-127) モラエスより二年早く海軍少尉に任官していたアルメイダ・エッサは、海軍内で 順調な出世をとげ、後に中将まで上りつめた人物である。彼は 1893 年には国会議員 に選ばれていた。エッサの尽力で、モラエスの中国や日本に関する短編が「極東遊 記」という題名で本にまとめられて、1895 年に本国で出版された。この4月には日 本が日清戦争に勝利したので、この本の出版は時宜を得ていた。(p.128-129) 「極東遊記」がきっかけとなって、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見四百年 祭のひとつとして、モラエスに日本関係の著述の執筆依頼がなされた。これも、友 人エッサの推挙と思われる。モラエスは、日本の歴史、日本の美術工芸、日本人の 生活などを詳細に紹介する、「大日本」と題する大部の著書を短期間で書き上げた。 そのため、彼は 1895 年の夏に「病気療養のため」90 日の休暇を取って、日本に来 て本書の執筆をしていたらしい。1896 年の1月には、この本の原稿がほとんど完成 していた。「大日本」は 1897 年夏に出版され、大変な人気をはくした。この本によ り、モラエスの文名は確立した。(p.129-131) 日本から兵器調達の命を受けて、モラエスは 1896 年7月 29 日にマカオを発った。 彼が買い付けた兵器の積み出しがほぼ終わった 1897 年3月に、彼はさらなる兵器買 い付けの命をマカオから受けとった。モラエスの兵器買い付けは以上にとどまらず、 1898 年にも行われたことが陸軍省文献に見られる。(p.135-139) このようにモラエスが日本で武器調達に奔走している頃、1897 年の始めに本国で は極東のいくつかの人事異動が決定された。2月1日には、マカオの港務司令にタ ネロ少佐が任命された。3月4日には、空席のマカオ総督にエドゥアルド・アウグ スト・ロドリゲス・ガリャルド陸軍大佐が任命された。これらの異動を日本で知っ たモラエスにとって衝撃的だったのは港務司令官の交替であった。中佐の自分が副 司令にすえおかれたまま、少佐が司令官に任命されたのである。人一倍神経過敏、 自尊心の強い彼が屈辱感にうちのめされ、憤怒と絶望にかられた。(p.141) 8 夢に過ぎなかった日本移住がにわかに現実味を帯び、その実現へとモラエスが具 体的な行動(神戸領事のポストを得ること)をとりはじめたのは、このときからで ある。(p.142)(なお、本Ⅰと本Ⅱには、彼が神戸領事のポストを希望したのは、 マカオの港務副司令を解任されて、予備役に編入されたからだと、書かれている。 また、本Ⅰには、マカオの前総督がカストロで、新総督がロドリゲスで、新任の日 本公使がエドアルド・ガリアルド将軍であったと書かれている。本Ⅰに記載された 総督名と公使名が本書の異なるのは、新田・藤原の創作なのか、彼ら独自の資料に よるものなのかは、不明である。) マカオ総督は中国、タイ、日本政府への特命全権公使を兼任していた。マカオに 着任したガリャルドは早速、大阪にいるモラエスを外交使節書記官に任命して、 「いつ天皇陛下に謁見できるか」を彼に交渉させた。ガリャルドはマルケス中尉を 随員として 1897 年6月 25 日にマカオを発ち、7月4日に神戸に到着した。公使一 行(公使、モラエス、およびマルケス)は7月9日に上京して大隈外相に会った後、 12 日に皇室儀典長に伴われて京都に向かった。謁見は京都御所で 14 日午前 11 時に 行われ、公使一行は明治天皇と皇后に拝謁した。(p.143-144) ガリャルドとマルケスは7月 27 日に神戸を発ち、8月5日にマカオに帰着した。 モラエスの微妙な立場を承知していたガリャルドは、彼の要望に理解と同情を示し、 おそらく神戸領事館設置の後押しをすることを約束したのであろう。モラエスは、 日本政府への外交使節書記官として、滞日を続けることに決定された。(p.145146) 神戸領事館設置とモラエスの神戸領事就任は、ポルトガル国内の複雑な政治状況 により大幅に遅れた。その経緯は、本書に詳しく記載されている。兎も角、友人エ ッサの力添えもあって、彼が神戸大阪領事館代理運営をまかされたのは、1898 年 11 月 22 日であった。その後、彼は領事代理、領事、総領事に昇進している。(p.149152) (5)モラエスのマカオでの現地妻・亜珍 モラエスはマカオ着任後間もなくから、亜珍(あちゃん)という愛称の愛人を囲 っていた。本書の著者はモラエスの晩年の手紙などから、従来の説を正す貴重な発 見を幾つかしている。先ず、彼女の本名であるが、本Ⅰでも本Ⅱでも「黄育珍」と している。しかし、本書の著者はマカオの家屋登録文書から、「黄玉珍」という自 筆の署名を発見している。(p.98-100) モラエスは晩年になって、友人に次のように書き送っている。(p.98-100) ➀ぼくは中国人従僕に女を世話してくれと頼んだ。従僕は遊女屋から、亜珍を借り てきた。(林の感想:これは、現地人の人格を無視した帝国主義的なやりかたであ る。本Ⅰでは(p.122)、彼は比較的良心的な経緯で亜珍を手に入れたことになって いる。これは新田次郎の潤色であろう。) ➁亜珍はとても若く 14 才であった。ぼくは早くから彼女の性格が嫌になり、別れた いと思った。でも、かわいそうなので、手元においておいた。 ➂亜珍はデンマーク人の水先案内人と中国下層の女性との混血児であった。母親と 二人の子供(亜珍と兄)は父親に棄てられた。母親は生活のために遊女屋に亜珍を 売った。兄は連帯意識の強い混血児社会で辛抱強く働いて、後に裕福な商人になっ 9 た。(林の注釈:彼女の出生は、本Ⅰ(p.128-129)と本Ⅲ(p.99)とはほぼ一致し ている。詳細はどちらかの本を参照して下さい。本Ⅱ(p.97)では、彼女の出生は 不明と書いてあるのみである。) ➃ぼくは亜珍に我慢していた。彼女は男児を生んだが、子供を受け入れようとしな かった。それはぼくにはひどく面白くなかった。(林の注釈:p.102 には、彼女は モラエスがテジョ号でリスボンに帰る直前の 1891 年3月1日に長男のジョゼを出産 したと、記載されている。p.154 には、彼女はモラエスの意に反して、子供に母乳 を与えることを拒絶したと、記載されている。) ➄ぼくが 1891 年 12 月にマカオに戻って間もなく、ぼくは亜珍を遊女屋から 600 パ タカで買取り、自由の身にしてやった。それから、彼女は 1892 年9月1日に次男の ジョアンを出産した。(p.214)(林の注釈:p.215 には、二人の息子たちは 1905 年9月 12 日にマカオの教会で洗礼を受け、実質的認知が成立したと、記載されてい る。) ➅ぼくは亜珍とはうまくゆかなくなり、彼女との性的関係はなくなった。 一時的な慰みものにせよ、この固い蕾のような少女をモラエスは愛した。彼がテ ジョ号を指揮してリスボンに帰る直前に、亜珍は男児を出産した。彼がリスボンか らあわただしくマカオに帰ったのは、少なくともこの時点では、亜珍母子とともに 家庭らしきものを作ろうという意志が彼にあったと推察される。(p.102) モラエスが神戸領事として日本に移住するにあたって、最も頭を悩ませたのは 亜珍母子の処遇であった。本Ⅰ(p.223)では、モラエスは彼女に「一緒に日本に行 こう」と誘ったが、亜珍は日本行きを頑なに拒んだことになっている。本Ⅱ (p.118)では、1893 年に亜珍が二人の子供を連れてモラエスから逃亡したことに なっている。本書では、本Ⅰとも本Ⅱとも異なる、複雑な事情があったことを記載 している。(p.153-159) モラエスが色々と思い悩んだ結果、亜珍母子を神戸に連れて行かなかった。その 理由を、本書は以下のように説明している。(p.153-159) ➀マカオにいるときから、彼と彼女の仲は冷え切っていた。「家の整頓にはほとん ど関心がない、育ちの上から怠惰で、中国語の小説を読みながら長い藤椅子に日が な一日横たわって過ごす」ような亜珍が、神経質で病的にまで几帳面な彼の気に入 るはずがなかった。 ➁もともと気の合わない二人の関係が決定的に悪化したのは子供の誕生後であった。 彼が母乳を与えるよう求めたのに対し彼女がそれを拒否したことから諍いがはじま った。異文化の衝突が、互いに譲ることができない養育方法をめぐって先ず最初に 先鋭化したわけである。 ➂亜珍にとっては、富こそがすべてであり、殆どの中国女性と同様に「自己犠牲」 の何たるかを知らなかった。彼女はヒステリックに泣き叫び、しばしば自殺を口に してモラエスを脅かした。それは彼にとって「生きることを耐え難いものにして行 った。」それでもなお彼が亜珍を許していたのは、彼女が子供たちの母親だったか らである。 ➃亜珍にしてみれば、子を産み落籍されたということは、妻の座を手に入れたこと を意味したに違いない。彼女は「日本に来たい」という。しかしモラエスの子供へ 10 の愛情を逆手に取って、彼女は「結婚」を来日への条件に持ち出したと思われる。 当時の東洋における西洋人男性にとっては、現地妻はごく当たり前の存在であって、 自国の法に則って正式な結婚を考えることは殆どなかった。亜珍からの「思いがけ ない結婚ばなし」に、彼はパニックに陥ったに違いない。 ➄神戸のフランス領事に相談したところ、彼は「領事が中国語しかしゃべらない中 国女性と暮らしたら、ここではひどく悪く評されるだろう」と答えた。 ➅モラエスは、亜珍の性格、気まぐれ、怒りを見て、「彼女を神戸に同伴すること は絶対に無理だ」と判断した。彼は「彼女の来日は、ぼくが初めて果たすことにな る責任ある職務を遂行するのに平安を必要とする外国で、ぼくの生活を滅茶苦茶に してしまうだろう」と思った。 ➆亜珍の兄は裕福な商人になっていたので、彼の庇護の下で彼女も恵まれた生活を していたはずである。しかしモラエスは、亜珍母子に月額 65 パタカと、誕生日や新 年の贈り物を(徳島に隠棲するまで)送り続けた。母子の生活費と二人の息子の教 育費は、これで充分であった。モラエスは他にも、夫を亡くした姉のエミリアと昔 の女中のヴィルジニアにも多少の生活費を仕送りしていた。(なお、1パダカは約 1円で、1ポンドは 10 円であった。当時のイギリスの労働者の週給は1ポンドであ った。)(p.209-213) (6)モラエスの神戸領事時代(1898 年 11 月 22 日-1913 年6月 30 日) モラエスの神戸領事時代における公務や文筆活動については、本感想文では省略 する。本Ⅰや本書で詳しく紹介されているので、興味のある方はそれらの本(また は、私の前々回と前回の感想文)をご覧下さい。本感想文では、神戸領事時代に彼 と生活を共にした、福本ヨネに関連する本書の記述を紹介する。イザベルや亜珍と は正反対の、つつましく従順なヨネとの生活に、モラエスははじめて安らぎを覚え、 男性として自尊心の満たされる思いを抱いたことであろう。(p.191) 徳島のモラエス研究家・新垣宏一の調査によれば、ヨネは徳島市富田浦町堀淵に おいて、福本只蔵とカツ夫妻の三女として 1875 年に生まれた。ヨネには、1851 年 生まれのトヨと、1873 年生まれのユキの二人の姉がいた。トヨは斉藤岩吉と結婚、 斉藤姓になったが、岩吉が没し未亡人となり、産んだ子供達も総て早世した。その ため、亀岡寿次郎と結婚した妹のユキを、夫婦養子として斉藤家に迎えた。斉藤ユ キの長女がコハルである。(p.186) 福本、斉藤家の住まう堀淵はいわゆる下町で、職人や小商売、水商売にたずさわ る貧しい人たちが寄り集まっている環境の悪い地域であった。ヨネたち姉妹の父親 は大工職人で、母親は三味線の師匠をしていた。自分の娘たちにも三味線や踊りを 習わせていた。そして、芸ごとの筋もよく、器量よしであったヨネを芸者修行に出 したということであるが、彼女がいつ、どこへ出されたのかは定かではない。 (p.186-187) 福本ヨネがモラエスに出会うまで、どこでどのような暮らしをしていたかもはっ きりしない。これまで言われていたところでは、大阪松島か神戸福原で遊郭芸者を していたという。二人のなれそめについても諸説があるが、確かなところは何も分 かっていない。(p.187)(林の感想:徳島県立図書館にあった「モラエス文庫」が、 1945 年7月4日の米軍の徳島空襲で図書館もろともに全焼してしまったことが、モ 11 ラエスの人生に謎が多い一因であろう。二人の出会いに関する本Ⅰの記述(p.149、 p.159)は、著者・藤原の下手な創作である。真相が不明なのだから、小説としては これで仕方ない。) モラエスの著書「おヨネとコハル」で、彼は「二十年前に大阪でおヨネに指輪を 買った」と 1916 年に書いている。これが事実なら、1896 年にモラエスはヨネに指 輪を贈ったことになる。もしこれが事実なら、モラエスが神戸に正式に赴任する 1898 年の2年前に、彼はヨネを既に知っていたことになる。(p.188-189)(林の 感想:几帳面なモラエスであるので、二十年前にヨネに指輪を贈ったことは真実か も知れない。しかし、私は「おヨネとコハルのこの部分を読むと、約二十年前とも 解釈できるので、誤差は±3年くらいはあるのではないだろうか。そうすると、こ の部分を金科玉条にして、モラエスとヨネの出会いの年を 1896 年とは断定できな い」と考えている。) 従来の伝記はすべて、モラエスとヨネは結婚式を挙げたことを事実として述べて いる。本Ⅱ(p.124)によれば、ヨネの姉の斉藤ユキは「モラエスはヨネと純日本風 の結婚式を挙げた」と語っていたそうである。本Ⅰ(p.333)にば、「1900 年に二 人は神戸の生田神社で純日本風の結婚式を挙げ、常盤楼で披露宴を催した」と記載 されている。本書の著者は「結婚式の写真もなく、斉藤ユキの証言のみで、二人の 結婚式を事実とする」ことに批判的である。(p.190)(林の感想:斉藤ユキは「二 人が結婚式を挙げたのだから、姉の自分がモラエスの遺産を相続する権利がある」 と主張したかったのではなかろうか。) モラエスとヨネがいつから同棲を始めたかも不明であるが、1900 年の時点で彼は 46 才、彼女は 25 才であった。モラエスは嫉妬ぶかく、ヨネが自分以外の男性と接 することを禁じていたそうである。彼女は黙って彼の言いつけに従っていたに違い ない。ヨネは温和で美しいだけではなく、「使い古しの布切れ、絹糸や毛糸の残り、 郵便葉書、手紙、領収書、身内の写真」などの細々としたものまでも片付け、纏め て、箪笥の引き出しに大切にしまっておく、「整理好きな、善良な、無邪気な、愛 くるしい」性格の女性であった。(p.190-191) モラエスは「日本精神」で次のように書いている。「地位は低くても、日本の女 性はきっと自分を幸福だと思っているのだ。すぐれて献身的、繊細きわまりない魂、 伝統と教育によって、すべての人を満足させるためにやさしく親切であるべく一生 懸命つとめよう、従順の原則、自己犠牲の原則を教えられた、極端なほど個性にな い日本女性は、家庭にあっては無であるどころか、すべてなのだ。」このような彼 の日本女性感はヨネとの暮らしから生まれたのであろう。(p.191) 神戸領事時代のモラエスは、ポルトガルやマカオの知友にあてた私信にヨネのこ とを一言も触れていない。彼がヨネの存在を公にするのは、彼女の死後に徳島に移 住して「おヨネとコハル」を書いてからである。ヨネは6年以上も心臓病で 病床にあり、その間ずっと二人は「たがいに愛し合う二人の兄妹のように」暮らし ていた。(p.193) 1905 年、亜珍の兄・黄金福が休暇で神戸に来た。次男のジョアンが病気療養のた めに伯父に付いて来た。亜珍はモラエスとの和解を望んでいたので、ジョアンが父 親に会うことを望んだ。モラエスは息子を自宅に招かなかった。息子も父親の家庭 12 については何も訊ねなかった。(p.215-216)(林の感想:ジョアンの病気療養は口 実で、モラエスの様子を探りに来たのであろう。) 1908 年にも、亜珍とジョアンが神戸に来た。モラエスは、亜珍との会見がもたら す不都合を心配して、二人に冷たく接した。彼は冷淡さを償うように、「二人の息 子を我が子であると確かに認めている」と言って、マカオでの二人の洗礼の後に送 られた「洗礼証明書の写し」をジョアンに見せた。(p.216-217) モラエスは不治の病に冒されたあわれなヨネのためにできるかぎりのことをして やった。少女のころに売られた彼女には、身内がいたにしてもみな貧しく、親身に 世話をしてくれる肉親がいなかった。死の二年まえから、姪のコハルがモラエスの 家に来ていたのは、そんなヨネを喜ばせるために、彼が手当てを払って来て貰って いたのであろう。ヨネが死んだのは、1912 年 8 月 20 日の夕方である。享年 38 才。 (p.193)モラエスはヨネの遺骨とともに 500 円を斉藤ユキに渡して、それでヨネの 墓を徳島に立てるよう頼んだ。(p.232) モラエスは、ヨネの死から徳島移住までのあいだの一時期、出雲生まれの永原デ ンと同棲していた。デンはヨネとは違ったタイプの粋な感じの美形で、健康な 25 才 であった。彼がデンと懇ろになったのはヨネの生前であり、病気のために性生活を 禁じられていたヨネはデンの存在を容認してはいたものの、決しておだやかではな かった。敏感なモラエスがヨネの気持ちに気づかぬはずはなく、かといってデンの 魅力には逃れることも出来ずにいた。(p.233-234) 「モラエスが自分を助けてくれないのは、そうしたくないからだ。早く自分から 自由になってデンといっしょになりたいからだ、と思い込んでヨネは死んだ」とモ ラエスは思い悩んだ。このような脅迫観念により、彼はヨネの死以後、強度の神経 衰弱にかかり、耐え難いまでの心身の不調に陥った。(p.234) モラエスは「長いこと考えた」結果、「自分の神経を鎮め、もの憂い自分の無為 と自分の衰えを休めるために」、神戸領事と軍籍を辞任して、徳島に移住してヨネ の墓のそばで暮らそう、という結論に達した。彼は「それに徳島には慣れ親しんだ 斉藤家の人々がいる。自分は長くても2、3年しか生きられまいから、死に水を取 ってくれるコハルに相当程度の遺産を残してやれば、亡くなったヨネも喜んでくれ るのではあるまいか」と考えた。(p.234) 斉藤家は寿次郎・ユキ夫婦の間に、8人の子が生まれたが、その半数が夭折して いた。存命していたのは、1894 年生まれのコハル、1899 年生まれのマルエ、1906 年生まれの千代子、および 1911 年生まれの益一であった。その日暮しの貧しい斉藤 一家は徳島市富田浦町堀淵に住んでいた。「不潔な水の流れる運河べりの非衛生な 家」と、モラエスは書いている。モラエスの申し出を斉藤夫婦は受け入れた。 (p.234-235) なお、本書は「ヨネの葬儀の直後に、モラエスはそれまで住んでいた山本通り一 丁目からほど近い加納町二丁目 24 番地の大きな日本家屋に転居した。この異様に早 い転居は、デンを家に入れるために、ヨネとの思い出のしみついた山本通りの家か ら一刻も早く離れようとしたとしか思われない」と書いている。(p.234) しかし、本Ⅱ(p.163)においては、著者の佃はモラエスが加納町に借りていた邸 宅の家主(米沢仁吉)を探し出して、彼から話しを聞いている。佃は「ヨネが加納 町の家を気に入ったので、モラエスがこの家を借りた」と書いている。更に、佃は 13 「モラエスが死亡した夜には、彼はヨネと暮らした加納町の家に居ると錯覚して、 足を踏みはずしたのではないか」、と推理している。(林の感想:「佃説と岡本説 のどちらが正しいのか?」、私には分からない。→最近、解答が得られたので、以 下に追加を記載する。) (追加:2013 年 11 月 12 日)岡村訳の「モラエスの絵葉書書簡」(1994 年、彩流社 発行)によれば、モラエスは 1912 年8月 29 日に、妹のフランシスカに「山本通り から加納町に引越しをする」と、絵葉書を送っている。従って、本Ⅱの佃説は誤り で、本書の岡村説が正しいことが分かった。佃が探し出した家主(米沢仁吉)は、 どうして誤った証言をしたのであろうか? (7)モラエスの徳島隠遁(1913 年7月4日-1929 年7月1日) 私は「モラエスの徳島での生活や文筆活動を知るには、本Ⅱが一番よい」と思っ ている。本Ⅱの著者・佃は地元・徳島の出身なので、自らの体験や、モラエスと直 接に会った多くの人たちから貴重な証言をたくさん得ている。残念ながら、本Ⅱは 長らく絶版状態で、現在において入手することは極めて困難である。私は前回の感 想文で、「本Ⅱが記載したモラエスの徳島生活」のさわりを紹介したので、興味の ある方は前回の感想文をお読み下さい。 モラエスの徳島での生活や文筆活動は、本Ⅰや本書でも詳しく紹介されているの で、本感想文では省略する。ここでは、本書に記載された「モラエスの徳島生活」 に対する、私の感想を書くこととする。 なお、モラエスの徳島での生活や文筆活動を知るには、彼の著書である「徳島の 盆踊り」や「おヨネとコハル」を直接読むこともお薦めしたい。私は、これらの本 の感想文をこれから書く予定にしている。また、15 ページの写真 10.2 に、モラエ スの旧宅跡にある案内板を掲載する。この案内文は、モラエスの生涯と徳島生活を 簡潔に解説している。16 ページの地図 10.3 には、モラエスの旧宅付近の地図と、 モラエスがヨネとコハルの墓に墓参した道順を示す。 本書では、モラエスが 1913 年7月4日に神戸から徳島に来た経路としては、神戸 から小松島まで船で来て、小松島から徳島行きの汽車に乗って、「徳島市北部」の 二軒屋駅で降りて、二軒屋駅から歩いて伊賀町の借家に行ったのではないかと、記 載されている。(p.238-239)(林の注釈:先ず、「徳島市北部」は間違いで、「徳 島市南部」が正しいことを指摘しておきたい。) 本書の著者が「阿波の交通(下)」で調査したように、1913 年4月に小松島-徳 島間の鉄道が開通した。従って、著者の言うように「モラエスが小松島から汽車に 乗り、二軒屋駅で降りて伊賀町まで歩いて行った」ことを否定できないのは事実で ある。(p.238-239)(林の感想:しかし、神戸-徳島航路も並行して運行されてお り、モラエスがどちらのルートで徳島に来たかは不明である。なお、本書には、 「第五共同丸は 25 トン」との記載があるが、常識として「25 トン」は外洋客船と しては小さ過ぎる。「阿波の交通(下)」の記載内容を疑う必要がある。) なお、亜珍は 1919 年6月と(p.283)、1927 年8月に徳島に来ている。後の来徳 の時には、モラエスの健康状態は相当に悪かったが、亜珍について香港に行くこと はしなかった。(p.288-289)モラエスは 1929 年7月1日に、伊賀町の借家で孤独 死を遂げることになる。彼の死の状況はあまりにも悲惨であるので、本Ⅰでも本書 14 (p.336-340)でも死の詳細を遠慮して書いていない。それに反して、本Ⅱでは彼の 死に様を赤裸々に語っている。そういうわけで、「本Ⅱは下品な本である」との悪 評がある。(林の感想:しかし、現在では老人の「孤独死」は大問題となっている。 モラエスは今から百年近く前に、この問題を先がけて体験している。現在でも、彼 の死に様から学ぶことは多い。) (記載:2013 年9月 27 日) 写真 10.2 徳島市伊賀町3丁目にある「モラエス旧宅跡」の案内板。少し読みにく い箇所があるので、以下に全文を掲載する。 モラエス旧宅跡:道路の東側の通路のところに、モラエスが 17 年間、居住していた 借家がありましたが、昭和 20 年の(1945)の空襲で焼失しました。ホルトガル人モ レエスは、大正2年(1913)公職を退いて神戸から来徳し、福本ヨネの姪、斉藤コ ハルとともに居住、大正5年(1916)コハル病死後、老齢と病苦に苦しみながら、 昭和4年(1929)7月1日死亡するまで、著述と墓参の孤独な生活が、ここで続け られました。 ヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau de Moraes):ヴェンセスラウ・デ・ モラエスは、安政元年(1854)ポルトガル国リスボンに生まれ、海軍士官となって 1888 年中国南部マカオに就任。しばしば公務で日本を訪れ、明治 31 年公務で日本 滞在中、解任され、日本に定住。神戸・大阪総領事となって神戸に居住。明治 33 年 (1900)徳島出身の福本ヨネと結婚したが、明治 45 年(1912)にヨネが病死。大正 2年(1913)ヨネの墓ができた機会に、公職を退き永住の決意で、7月4日、来徳 し、伊賀町3丁目の借家で、ヨネの姪斉藤コハルと、ともに居住。コハルも、大正 5年(1916)病死し、その後、墓参と著述の毎日を送り、孤独な生活を続けた。昭 和4年(1929)7月1日、隣人に、モラエスの死亡が発見され、近隣の人で葬儀が 営まれ、遺品は、篤志家に買収され、当時の県立図書館に寄贈され、モラエス文庫 として保管されたが、昭和 20 年(1945)の空襲で焼失した。 平成8年(1996)7月1日 西富田コミュニティ協議会 15 大 道 商 店 街 北 東 西 南 モラエス旧宅 地図 10.3 現在の徳島市街の地図。モラエス旧宅付近の道路は、モラエスの存命時 代と殆ど変わっていない。モラエス旧宅のあった伊賀町は、現在は「モラエス通 り」の愛称で呼ばれている。モラエス旧宅は、上の地図の南端から、更に一丁半く らい南に行った所にあった。モラエスは青線の示すように、伊賀町を北上して、瑞 巌寺や新町小学校の前を通り、潮音寺にあるヨネやコハルの墓(上図では、「モラ エスの墓」と記載されている所)に墓参した。片道は、歩いて 15-20 分の距離であ る。本Ⅱによれば、モラエスは新町小学校の児童達から「毛唐、毛唐」と囃し立て られていたそうである。 16
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