山地拠点都市構想(前編)

山地拠点都市構想(前編)
2014年7月17日
岩井國臣
前編のはじめに
知恵のある人とはどういう人か? 国家がそうであるように、単に知識が豊かであるとか
技術に長けているということではない。知恵のある人とは、人びとがイキイキと生きてい
けることを願い、善意を持って、効果的な運動に何らかのかたちで行動を取れる人のこと
である。
要は、精神である。心である。心のあり方というのは、なかなかむつかしく、一言では言
えないが、心根が優しいということが必要条件であろう。プラントが言うように、知恵の
ある人とは、必ずしもテクニックに長けた人のことをいうのではない。テクニックという
のは、知恵のある人の必要条件ではないということだ。
ところで、現代は激しい競争社会であり、テクニックのない人はスピンアウトせざるを得
ない。また、はじめから激しい競争を嫌う人もいる。またこういうケースもある。会社が
倒産しどうしても働き口の見つからない人である。そういう人たちは、競争社会では弱者
である。この激しい競争社会では会社はいつ倒産するかわからない。したがって、実に多
くの人が弱者になる心配を秘めている。そういう弱者の中には、心根の優しい人も少なく
ないので、そういう人たちがイキイキと生きていける社会を作っていかなければならな
い。
私が提唱する山地拠点都市は、そういう人たちがイキイキと生きていける都市である。山
地拠点都市とは、そもそも、山との繋がりをもとに新たな文明を切り開いていくであろう
21世紀型の都市のことであるが、弱者も含めて老若男女すべての人がイキイキと生きて
いける都市でもある。
かって、大平正芳の「田園都市構想」とか竹下登の「ふるさと創成」という国土ヴィジョ
ンがあった。それぞれ途中で挫折してしまったけれど、私は、それぞれ素晴らしい国土
ヴィジョンであり、私たちの記憶にしっかり留めておかなければならないと思う。私はそ
れらを意識しながら、またプラトンの国家論を参考にして、私なりの国土ヴィジョン「山
地拠点都市構想」を書いた、それがこの論文である。
国の内外において、いろんな思想が錯綜し、いろんな情報が飛び交う中で、日本がこれか
ら向かうべき方向をはっきりさせなければならない。それには、新たな霊魂論を展開し、
プラトンの国家論を下敷きにして、新たな国家論を展開することだ。私の霊魂論と国家
論、それらは誠に未熟なものであるけれど、先に「霊魂の哲学と科学」という論文で
それを書いたので、その要点をここに示しておこう。
平成25年1月27日の世界日報に、映画監督の篠田正浩、この人は1950年に早大で
箱根駅伝の2区を走った方だが、その人が、箱根駅伝の存在意義を「箱根の山を目指し、
その先には富士山がある。だから箱根駅伝は、若者が日本の霊峰を目指して走る神事だ」
と語っているのが紹介されていた。相撲は本来神に捧げるものであるし、本来歌舞音曲も
そうである。私も箱根駅伝は神事だと言って良いと思う。だとすれば、東京から箱根に向
かうそのコースはさしずめ「霊ライン」と言って良いのかもしれない。私はいずれ機会を
見て「霊ライン」についてもその科学的説明をしたいと思っているが、そのまえにそもそ
も「霊とは何か?」を科学的説明をしておく必要がある。「霊魂の哲学と科学」は、私が
今まで「平和の原理」を探し求めて旅をしたその決着をつけるために書いているのだが、
その結果、「霊ライン」とか「イヤシロチ」とか「風水」とか、はたまた中沢新一が大阪
に存在する「ディオニソス軸」などの科学的説明ができるかもしれない。ここでちょっと
お断りしておかなければならないのだが、哲学的に思考されるものにできるだけ科学的な
説明を加えようという意味であって、随所に民俗学的知見や哲学的知見が出てくるのをご
理解いただきたい。
上述のように、この本は、私が今まで「平和の原理」を探し求めて旅をしたその決着をつ
けるために書いているので、まず「怨霊」、「妖怪」、「天狗」、「鬼」とは何ぞや、と
いうところから書き始めている。第1章は私の「妖怪論」である。怨霊も妖怪も天狗も鬼
もすべて霊的な存在だが、怨霊も天狗も鬼も単なる妖怪ではない。「神」に変身するので
ある。特に怨霊については、「神」に変身するためには「呪術」が不可欠である。「呪
術」というものは不思議な力を持っている。そこで、第2章は「呪力」について述べた。
第2章では、岡本太郎の名著「美の呪力」の要点を紹介している。第3章は谷川健一の
「魔の系譜」を紹介した。谷川健一が「 普遍的な発展の法則にしたがっている日本歴史
の裏側に、もう一つの奇怪しごくな流れがある。それは死者の魔が支配する歴史
だ。」・・・という基本的な認識から、「魔の系譜」という本を書いている。これも霊を
語る上で必読の本であるので、私が考える・・・いちばん肝心なところ(心髄部分)を選
び出して、必要な解説を書いている。
実は、霊については、プラトンの霊魂論というのがあって、彼は「パイドン」と「国家」
という本を書いている。これらは、プラトンの力作であって、正に世界的な名著である。
歴史的に数多くの偉大な哲学者が出ているけれど、「霊魂についての哲学」を本格的に書
いた人はいない。プラトンの霊魂論は、人の生き方を指し示すものであり、国家のあり方
を指し示すものである。私には、プラトンによって、まさに「平和の原理」が哲学的に明
らかにされたと考えている。
藤沢令夫は、そのプラトン著の翻訳書「国家」(1979年6月、岩波書店)の解説で、
次のように述べている。
『 イデア論と魂不死の思想とは、両者相まってプラトンの哲学の、特にプラトン的と呼
ばれるべき心髄をなす。「国家」篇で構築される理想国家は、けっしてたんなる安楽国で
もなければ、」いわゆるユートピアや理想郷でもなく、戦争という悪を不可能とする条件
の下で、国のために戦う「守護者」の育成を中心として考えられたものであるが、現実的
な性格を持つものであるが、この極めて現実的ないし現世的な国家の構想そのものがしか
し、妻子共有の話や細々とした食物のことまでも含む記述と共々に、こうしたイデア論と
魂の不死の思想を心髄とする哲学によって、全体としてはそっくり「永遠の相」に包み込
まれることになるのである。』・・・と。
このように、プラトンの霊魂論は国家論とつながっているので、私はプラトンに習って、
霊魂論からわが国のあり方を論じたいというのが、この本を書く動機になっている。しか
し、プラトンの霊魂論についてはその後の科学的知見にもとづいて修正を施す必要があ
る。ホワイトヘッドの霊魂観なども参考にしながら、私は、第5章で霊魂の哲学を語るこ
とにした。「ユウレイのは何か?」という 第4章のは、ホワイトヘッドの霊魂観を紹介す
るための伏線である。ホワイトヘッドはユウレイは存在すると言っているからだ。第5章
の「霊魂の哲学」に引き続き、第6章で「霊魂の科学」を書いた。これは「霊魂の哲学」
を少しでも科学的な裏打ちをしたいという意図があってのことである。霊魂を科学的に証
明しようというものではない。系統発生という誠に重要な科学的事実があるが、これは霊
魂というものの存在を考えないと説明ができない。また、100匹目の猿現象その他の重
要な科学的事実があるが、それらも霊魂で説明すると説明がすっきりする。
私は、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の第3巻「怨霊と祈り」では御霊信仰につい
て詳しく書いたが、その後、臼田乃里子の供犠論を読んで、靖国神社問題を御霊信仰との
関係から根本的に考え直さなければならないことに気がついた。そのことについては、
先の論文「霊魂の哲学と科学」の 第7章「怨霊と御霊信仰」で詳しく解説した。
臼田乃里子の「供犠と権力」(2006年12月、白地社)は素晴らしい本である。「供
犠」に付いてこれほど突っ込んだ考察をした論考を私は知らない。彼女は、 日本にも
「いけにえ」(供犠)の文化があったということ、怨霊は「供犠」であるということ、そ
して御霊(ごりょう)という「神」は怨霊が変身したものであるということを、主張して
いるのである。谷川健一もその著「魔の系譜」の中で怨霊について縷々述べているけれ
ど、臼田乃里子の方がより深い考察を加えている。
以上の知見を踏まえながら、 先の論文「霊魂の哲学と科学」の 第8章「神はどこに存在
するのか?」では、「神の世界」の構造を明らかにした。悪魔にもいろいろな悪魔がい
る。「ファースト」に登場するメフィストはその中でもましな悪魔である。ましな悪魔
は、神の園に入ることが許されており、最高の神と話をすることを許されている。本来の
悪魔は神の園に入ることを許されておらず、悪魔の国に閉じ込められている。ひとつの集
合体が形成されている訳だ。しかし、本来の悪魔、それは怨霊のことだが、そういう本来
の悪魔も、密教僧の発信する「言霊」によってメフィストのような「ましな悪魔」に変身
し、その後も、人々が神として「祈り」を捧げているうちに、神、もちろん唯一絶対神の
配下の神であるが、神へと変身する。怨霊から「ましな悪魔」に、そして「ましな悪魔」
から「神」へと二段階を経て変身していく。
このようなことは科学的に証明できることではもとろんなく、ただ単に、怨霊とか御霊信
仰についての科学的な説明を進める上での仮説だとお考えいただきたい。私はこれを怨霊
仮説と呼びたい。神の国には、本来の神のほかに、人々の「祈り」によって普通の死者が
変身した神と、特別の祈祷と人々の「祈り」によって怨霊が変身した神がいる。このよう
な神の国の構造を考えないと、怨霊とか御霊信仰の科学的な説明ができない。
以上が、 私の霊魂論と国家論を書いた論文「霊魂の哲学と科学」の要点であるが、 それ
に欠けているのは、「山の霊魂」とそれにもとづく国家論である。さらに、日本の伝統文
化の中に「奥の思想」があるが、それがどのように国家論と結びつくのか、それも今まで
の私の論考に欠けていたように思われる。そこで、今回のこの論文『山地拠点都市構想』
では、それら欠けている分を補完することとした。
なお、私は、「霊魂の哲学と科学」という論文で私の霊魂論を展開した後、それに基づい
て「御霊信仰哲学に向けて」という論文を書いた。知恵のある国家として何としても
靖国問題を解決しなければならないという思いから必死で書いたのである。靖国問題を解
決するためには、靖国問題の一つの大きな問題、思想的な問題を解決しなければならな
い。「御霊信仰」の問題である。「御霊信仰」の問題については、御霊信仰の歴史的考察
をした上で、宗教哲学の赴きを見届けないといけないし、その中で、梅原猛の人類哲学な
らびに日蓮の立正安国論と関係して法華経をどう理解するかという問題が出てくる。さら
に、祈りと呪力に関する科学的な説明をどうするかという難問に突き当たらざるをえな
い。それら難しい問題をそれぞれなんとか判りやすく説明するために悪戦苦闘した。なん
とか私なりの思索を重ねて、少しでも皆さんの参考になる論文に仕上がったと思ってい
る。その「御霊信仰哲学に向けて」という論文において、この「山地拠点都市構想」と多
少関係ありそうな部分は、「神のみ心」というテーマで書いた部分である。それを以下に
に紹介しておきたい。
神は存在する。現在のもっとも偉大な科学者ホーキングは、神は存在すると考えている
し、「神のみ心」を科学的に解き明かすことに最大の関心を持っているようだ。
ホーキングが「神のみ心」を科学的に解き明かすことができるかどうかはまだ判らない
が、神から選ばれたような偉大な哲学者には「神のみ心」を哲学的に推し量ることができ
たのではないか。その点では哲学が科学に先行しているように思われる。
神から選ばれたような大哲学者は、宇宙の原理について必死になって考えた。したがっ
て、世界の大哲学者、プラトンとかニーチェとかホワイトヘッドなどの哲学によって、あ
る程度「神のみ心」を伺い知ることができる。現在、科学は急速に進歩している。新しい
知見がどんどん出てきているのだ。したがって、それら新しい知見を踏まえて、新たな哲
学を構築しなければならない。梅原猛の提唱する人類哲学はその一つであろうが、新たな
哲学というものは、もちろん宇宙の原理、自然の原理に合致するものであり、「神のみ
心」を明らかにする宗教哲学に他ならない。
神から選ばれた特別の人、その中には大哲学者のほかにキリストや釈
や老子などの偉大
な宗教家がいる。そういう偉大な宗教家は神の啓示を受け、「神のみ心」にしたがって人
の生きる道を説いた。私はそういう偉大な宗教家の教えは「神のみ心」に合致していると
考えるので、偉大な宗教家の教えに関する宗教哲学を語る必要があるという訳だ。
神は、私たち人間や動物だけでなく、草木国土などすべてのものをお造りになった。宇宙
もだ。
宇宙におけるすべての現象が波動現象。宇宙は「波動の海」 である。それに関する最新の
科学が「弦理論」であり、それを一般向けに解説したのが「ミチオ・カク」の著書「超空
間」(1994年12月、翔泳社)である。ミチオ・カク(加來道雄、1947年生まれ)は
日系アメリカ人(3世)の理論物理学者で、専門は素粒子論。弦理論に大きな貢献があ
り、いわゆる弦の場の理論の創始者の一人。科学の普及活動に熱心で多くの著書を出版、
ベストセラーも複数ある。科学解説者としてTVなどでも活躍している。
宇宙について、「ミチオ・カク」は、著書「超空間」では次のように述べている。すなわ
ち、
『 現在の弦理論の興隆は、カリフォルニア工科大学のジョン・シュワーツと、ロンドン
のクイーンメリー大学のマイケル・グリーンの共同研究に始まった。1984年、この二
人の物理学者が弦について全く矛盾のない条件が成立することを証明したのである。これ
が発端になり、若手の物理学者たちが先を争って弦理論に取り組み始めた。1980年代
後半には、まさに「ゴールドラッシュ」と呼べるような競争が物理学者たちの間で始まっ
ていた。現在では、世界でももっとも優秀な理論物理学者たちがこの理論に決着をつけよ
うと躍起になっており、競争は実に熾烈な状況になっている。』
『 弦理論の本質、それはこの理論が物質と時空の両方の性質を説明できるという点にあ
る。弦理論は、これまでの物理学者を悩ませてきた粒子についての難問二大して明確な解
答を与えてくれる。例えば、何故自然界にこんなに多種多様な粒子が存在するのか、と
いった問題だ。弦は、陽子の1000億×10億分の一という恐ろしく小さなものなのだ
が、振動している。この振動のそれぞれのモードが、特異的な共鳴つまり粒子に対応して
いるという。この弦は非常に小さなものであるため、ごく近くで拡大してみない限り、そ
れが弦の共鳴なのか粒子なのかをはっきり判別することができない。何らかの方法で拡大
して観察することができれば、粒子が点ではなく、振動する弦のモードであることが判る
はずだ。こう考えると、一定の周波数で振動する共鳴の数だけ粒子が存在するということ
になる。共鳴という現象そのものは日常生活でもなじみの深いものだ。』
『 バイオリンの弦はさまざまな周波数で振動する。弦は無限に異なる周波数で振動させ
ることができる。バイオリンの弦がどのように振動するのかさえわかれば、無限にある音
色の性質は即座に理解できる。これと全く同じで、宇宙に存在する粒子も、それ自体基本
的な要素ではない。つまり、電子がニュートリノより基本的であるということはない。粒
子が基本的に見えるとすれば、それは我々の装置の倍率がまだ十分ではなく、粒子の構造
を明らかにできないためである。弦理論によると、素粒子を何らかの方法で十分に拡大し
て観察することができれば、振動する小さな弦が見えるという。この理論に従えば、物質
とは小さな弦が織りなすハーモニーにすぎない。バイオリンで演奏する無数のハーモニー
を作曲することができるように、多数の粒子の存在を説明することができる。宇宙全体
は、無数の振動する弦で組み立てられた壮大な交響曲にたとえることができるだろう。』
『 我々は、物質エネルギーと時空の両方を包括することのできる統合的な理論、弦理論
をついに手にしたのである。弦が矛盾なく運動できるための条件は、驚くほど厳しい。例
えば、この条件によって三次元や四次元の空間を運動できない。弦は特定の次元でしか運
動できないのだ。実際、弦理論で許される「魔法の数字」は10次元と26次元だけであ
る。幸い、この二つの次元で定義された弦理論には、自然界に存在する基本的な力を統一
するだけの「余裕」がある。』
『 弦理論には、自然の基本法則をすべて説明できるだけの十分な奥行きがある。弦理論
の出発点は振動する弦というごく単純な理論なのだが、この中からアインシュタインの理
論、カルツアークライン理論、超重力理論、標準理論、大統一理論まで、あらゆる理論を
導き出すことができるのだ。弦という純粋に幾何学的な概念から出発して、過去2000
年間にわたる物理学の進歩を一望できるというのは、まさに奇跡としか思えない。』
『 1863年、生物学者のトーマス・H・ハクスレーは、「人類にとって最大の問題。
すなわち、あらゆる問題の背後にあり、しかもどんな問題よりもはるかに興味深い問題と
は、自然における人間の位置と、人間と宇宙との関係を解き明かすことである」と語って
いる。宇宙論研究者スティーブン・ホーキングは、今世紀中に統一の問題は解決されるだ
ろうと語っている。また、ホーキングは、物理学の根底にある本質的な原理をできる限り
多くの人々に説明することの必要性について次のように書いている。「我々が完璧な理論
を発見しようとするのなら、それはごくわずかの科学者だけでなく、原理的には誰にでも
理解できるものでなければならない。そうすれば、哲学者であろうと、科学者であろう
と、あるいは一般の人々であろうと、だれもが、<我々と宇宙がなぜ存在するのか>とい
う議論に参加できるようになるはずだ。そして、もしこの問題に対する解答が得られれ
ば、それは人間の理性の究極的な勝利と呼ぶべきものになるだろう。このとき我々は、<
神のみ心>を知ることになるのである。』・・・と。
上述のように、弦理論によると、弦は10次元と26次元の空間でしか運動できない。
ご承知のように、私たちの地球を含む宇宙には四つの力が存在する。電磁力というは、私
たちにお馴染みのもので、電気、磁気、光といった形態をとる力である。強い力というの
は、恒星を輝かせるエネルギーを供給している力である。弱い力というのは、ある種の放
射性崩壊を引き起こす力である。そして、重力とは、これまたお馴染みのもので、地球や
惑星の軌道を一定に保ったり、無数の恒星から渦巻銀河をつくったりする力でもある。
弦理論によると、これらの四つの力は、10次元と26次元の空間に弦の振動という形で
存在している。つまり波動的に10次元と26次元の空間に存在している。ということ
は、私たちの地球とすべてが10次元と26次元の空間に存在しているということを意味
している。宇宙には無数の平行世界があるというのがホーキングの見解だが、意味のある
平行世界は、弦理論によれば10次元と26次元の空間だけであるので、私は、10次元
と26次元の空間だけを平行世界と呼びたいと思う。平行世界にはこの地球上のすべてが
波動的に存在しているのである。
弦理論によって宇宙の原理、自然の原理を解明する糸口が得られたことは現代科学の大勝
利であるが、その輝かしい成果を私たち人類にどのように役立てるかがこれから大きな課
題である。すなわち、私たち人間の「心の安らぎ」にどう関係してくるのか、さらには
「世界の平和」にどのように関係してくのかということである。私としては、ホーキング
が科学的に解き明かそうとしている「神のみ心」というものを念頭において、国家政策論
として、「心の安らぎ」や「世界の平和」の問題をいろいろと考えてみたいと思う。その
ような問題になると、どうしても哲学のご厄介にならざるを得ないが、プラトン以降の近
代哲学で役に立つものはないようだ。哲学もまだまだ未熟ということだが、しばらくはプ
ラトンのご厄介にならなければならないようだ。
山地拠点都市構想(前編目次)
はじめに
目次
序文
第1章 日本の政治
第1節 民主主義国家について
第2節 古代ギリシャの民主政
第3節 ポピュリズム
第4節 今西錦司のリーダー論
第5節 セネットのポピュリズム
第6節 市場経済について
第7節 政治家よ!「関係子」たれ!
第2章 自然の再認識
第1節 故郷(自然)の再認識
第2節 自然の神と技術の神との同盟
第3節 田舎と都市
(1)田舎を生きる・・・贈与
(2)都市を生きる・・・文化を生きる
(3)直観について
(4)都市に自然を!
第4節 「自然の原理」とは?
(1)「自然の原理」と「山の霊魂」
(2)共生社会(協和社会)を夢見て!
第3章 知恵のある国家とは?
第1節 「奥」の思想
1、辺境の哲学
2、槙文彦の「奥の思想」
3、 片岡 智子の「奥の思想」
4、 日本集落の構成原理(園田稔)
5、「間」の思想
第2節 教育について
1、 一般論
(1)胎児と幼児のための母親教育
(2)青少年に対する個人レッスン
(3)子供に対する自由放任主義の見直し
(4)地域教育
2、「勿体ない」の哲学
(1)「勿体」の哲学的意味
(2)モノ
(3)知恵ある国家の教育・・「勿体ない」の教え
第3節 佐伯啓思のヴィジョン
前編の序文
「はじめに」で申し上げたように、この論文「山地拠点都市構想」は、 私なりの国土
ヴィジョン であり、プラトンの国家論を参考にしたひとつの国家論である。
先に書いた「霊魂の哲学と科学」で展開した私の国家論を補完し、それを具体化したもの
である。「知恵のある国家とはどのようなものであるのか?」というのが今回のこの本に
おける中心的テーマであるが、その答えを出すためには、前提となるいくつかの事柄をま
ずこの前編で明らかにすることとした。 第1章「日本の政治」はポピュリズム(大衆主義)について書いたものである。 私は、
日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュリズムは
(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政治、おお
いに結構なことではないか。
なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、衆
愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダーが
必要であることはいうまでもない。大リ­ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が早
く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察力、
責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいのであ
る。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。
政治も音楽やスポーツと同じように、ひとつの文化だから、やはりエリート教育が必要で
はないか? その際には今西錦司の「リーダー論」が基軸になると思う。
第2章「自然の再認識」は、「自然と神の贈与」に感謝しながら如何に価値ある人生を生
きるかという問題を考えながら、「自然と神の贈与」の典型的な産業である「農」の重要
性を述べ、「農」によって如何に「故郷」の再生を図るかを論じたものである。
ハイデガーが言うには、「エートス・アントロポイ・ダイモーン」という言葉をヘラクレ
イトスが使っている。これはギリシャ人の思考を非常にうまく表現しているという。
「エートス」親しくあるもの、「アントロポイ」は人間、「ダイモーン」はギリシャの
神々である。だから、「人間にとって親しくある場所は神の近くにいることである」とい
う意味だとハイデガーは言っている。 神と自然は密接な関係にある。「神と自然の景観
論」(2006年7月、講談社)という 野本寛一という名著がある。そのなかで、野本
寛一は次のように言っている。すなわち、
『「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違い
ない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の 反映にほかな
らない。すべての環境問題の起点はここにある。自然のなかに神を見、その自然と謙虚に
対座し、自然の恵みに感謝するという日本人の自然観・民 族モラルが揺らぎ、衰えてき
ているのである。』・・・・と。野本寛一がいうように、 私たちは、自然のなかに神を
見、その自然と謙虚に対座し、自然の恵みに感謝するという日本人本来の自然観を取り戻
さなければならない。「故郷」を取り戻さなければならないのである。そうでないと、ハ
イデガーのいう「故郷喪失」によって何かの拍子でニヒリズムの罠に陥りかねない。私た
ちは、「故郷」を取り戻して、「自然と神の贈与」に感謝しながら価値ある人生を生きな
ければならない。
「自然と神の贈与」、その典型的なものが「農」である。したがって、「農」は国の基本
であり、地域の基本である。「農」を基本とした地域の自立的発展を図らない限り、地域
コミュニティは崩壊をつづけ、やがて日本は崩壊するに違いない。これからは心の時代で
ある。家族農業も大事にし、「協和」を旗印に、輝かしい地域コミュニティと日本を創っ
ていかなければならない。そのためには、田舎を生きる人のために、人びとが食っていけ
る仕事がなければならぬ。その基本は農業だ。百姓の思考は「野生の思考」と言っても良
いのではないか。 百姓の心は野生の心。 百姓の精神は「野生の精神」。こう考えると、
百姓の行う「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作
り出しているのではないかと思えてくる。
これからの理想とする地域づくりは、もちろん西田哲学や田辺哲学を十分理解しながら
も、私は、中沢新一の「モノとの同盟」という考え方が大事であり、心を大事にしなけれ
ばならないと思う。私は宇宙と響きあいと言っているのだが、感性を大事にしなければな
らない。都市の人々においては、田舎の自然に触れるだけでなく田舎の人々との触れ合い
によって素晴らしい感性が身に付く、そうことが多いのではないか。
「モノ的技術」は「モノ的思考」にもとづく技術であり「ピュシス的技術」とは異質の
ものであるが、中沢新一は、「「モノ的技術」は現代文明とは異質の世界を作り出す力を
秘めている」と言っている。現代文明は、市場経済によって「心」の面で行き詰まってお
り、田舎の地域づくりにおいても「心」を重視しなければ今後の展望がまったく開けない
ところまできている。田舎こそ「モノ的技術による地域づくり」を進めなければならない
のである。
では、具体的にどうすれば良いか? そこが問題だが、結論を先に言えば、中沢新一が
言っているように、「モノ的技術」はけっして市場経済一点張りでは発達しない。「信」
を前提に成り立つ贈与経済によってしか発展しないのである。そして、その贈与経済を支
える産業が「農」なのである。農業と地域通貨については、贈与の視点に立ってその重要
性を考えなければならないということだ。このことを強調しても強調しすぎることはな
い。
しかし、「農」というものはそれだけにとどまるものではない。先述したように、私は、
百姓の思考は「野生の思考」と言っても良い。 百姓の心は「野生の心」。 百姓の精神は
「野生の精神」。今私は「野生の心」のより強靭なものを「野生の精神」と呼んでいる。
百姓はおおむね「野生の心」を持っているし、村の祭りによって「外なる神」の力が働い
て、地域には「野生の精神」も生まれでてきていると思う。こう考えると、百姓の行う
「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出してい
るのではないか。
ホワイトヘッドは、文化とは「文明化された宇宙」であると言っているが、「自然と
神」、それは「宇宙」そのものである。したがって、私たちは、田舎において、「自然」
と響き合い、「神」と響き合い、「宇宙」と響き合うというのが「知恵のある国家」にお
ける最高の文化なのである。「響き合い」、それは思想的に言えば「協和」という言葉で
表現した方が良いかもしれない。私が「共和」というとき、それは「自然」と響き合い、
「神」と響き合い、「宇宙」と響き合い、「人々」との響き合いのことである。そういう
「共和」が現実的に行いうるのは、自然と人情豊かな人々に恵まれた田舎である。その再
生を図らなければならない。過疎地域における地域コミュニティの再生を図らなければな
らない。
今、日本は、世界に先駆け、「地域コミュ ニティの自立」の問題と取り組まなければな
らない。現実は混沌とした「矛盾社会」ではあるが将来に希望はある。市場経済の中に、
一部、贈与経済(地域通貨)を取り込むなど、「地域コミュニティの自立」のための新た
な取り組みの中に大いなる希望が湧いてくる筈だ。響き合いつまり「協和」という希望
だ。
「農」は国の基本であり、地域の基本である。「農」を基本とした地域の自立的発展を図
らない限り、地域コミュニティは崩壊をつづけ、やがて日本は崩壊するに違いない。これ
からは心の時代である。家族農業も大事にし、「協和」を旗印に、輝かしい地域コミュニ
ティと日本を創っていきたいものだ。
第3章の「知恵のある国家とは?」という章では、「祈り」に満ちた生活環境とか社会環
境が重要であるという認識から、「奥」の思想について論じた。
プラトンはその霊魂観に基づいて国家論を展開した。 今後、日本のリーダーには、プラ
トンの国家論を己の政治哲学として、真剣に国家の運営に当たって欲しい。わが国は21
世紀において今後世界から尊敬されるには、知恵があり、勇気があり、節制があり、正義
に満ちた国家でなければならないが、この四つの要素の内、複雑でいろんな意見が錯綜す
るのは「知恵のある国家」についてである。知恵にはいろんな知恵があり得るということ
だ。しかし、私は、「知恵のある国家」とは、ヘーゲルがいうように、宗教の力を借りる
のではなく、啓蒙や教育によって、祖先の霊に「祈り」を捧げるとか、道ばたのお地蔵さ
んなどの神々に手を合わせるとか、そういう生活習慣が身についた大人や子供が少しでも
増えるにしなければならないのではないかと思う。そのための生活環境とか社会環境の
整った国家、 それが私の目指す「知恵のある国家」であり、「山地拠点都市構想」であ
る。すなわち、それは、「山の霊魂」と「奥」を大事にする国家なのである。
「知恵のある国家」のあり方を考える場合、私は、堺屋太一と佐伯啓思という二人の思想
家の時代感覚を基本に据えないといけないと思う。
堺屋太一は、平成14年3月、21世紀の経済社会システム研究プロジェクト(内閣府)の
総括講演で、『 近代文明が終わって、今、新しい「知価社会」が始まりました。こうい
う時代にいかに生きるべきか。この問題については、今後の日本にとっても非常に重要な
問題だと思います。』・・・と述べている。
私も、脱工業社会、脱物質文明の社会に向かっているのは間違いないと思う。心の時代が
やってきたのだ。
今の日本社会のように世界の最先端を走っている「成熟社会」では「知恵のある国家」を
目指さなければならないと佐伯啓思もそう考えている。佐伯啓思の「大転換・・脱成長社
会へ」の核心部分を紹介しておきたい。彼は次のように述べている。すなわち、
『もはや「成長中心主義」「競争中心主義」の社会ではあり得ない。いやおうなく「脱
成長社会」へと推移していかなければならないのである。「豊かな社会」において必要な
ものは、まずは「社会の基盤」の整備であり、よりよい質をもった生活環境の確保であ
り、創造的な文化へのまなざしであろう。ケインズが述べたように、「豊かな社会」にお
いては、人びとは、もっと「美的」で「文化」的な生活を望み、ここにおいて本当に、時
間をどのように使うかという問題に直面するのである。だからこそ、教育や文化、メディ
アの質、多様なコミュニティ形成、人間の間の信頼形成、都市や住環境の整備、医療など
が公共計画の焦点になってくるのだ。』・・・と。
以上述べてきた私の基本認識に基づいて「山地拠点都市構想」を後編で書く。後編では、
二地域居住、クラインガルテン、わが町を美しく、道の駅、地域通貨、などについえ詳し
く論じるつもりだ。
山地拠点都市構想(前編)
第1章 日本の政治
第1節 民主主義国家について
民主主義国家であるかどうかの基準は、いろいろあると思うけれど、私は、フランク・
フクヤマの次の基準が良いと思う。イ、相対立する複数立候補者が存在する、自由で、無
記名で、定期的な男女普通選挙の実施。 ロ、普通選挙によって構成された議会が立法権
の最高権限を持っていることの憲法などの公式文書での明文化。 ハ、議会内における相
互批判的な複数政党の存在。 ニ、自由で多様な行政府批判を行う国内大手メディアが存
在し、それを不特定多数が閲覧できること。
世界には多様な民主国家が存在しているが、これらはおおむね共通して存在する基準で
ある。したがって、日本は間違いなく、この基準を満足しているので、民主主義国家であ
る。一 方、プラトンの考えを不用意にそのまま現在の民主主義に適用すると、「民主主
主義の成功のためには、国民の有権者全体が知的教育を受けられること、恐怖や怒りなど
の感情、個人的な利害、マスコミによ る情報操作や扇動などに惑わされず理性的な意思
の決定ができる社会が不可欠である。つまり徳を持つことである。逆の言い方をすれば、
民主主義を無条件に広めると、知的教育を受けていないもの、恐怖や怒りなどの個人の感
情や利害損得に影響されやすい非理性的なものも有権者(政治家と選挙民)となり、結果
として衆愚政治となりかねない危険がある」・・・ということになってしまいかねない。
この点からすれば、おおよそ世界の民主主義国家と考えられている国家は、すべて衆愚政
治に陥っていることになる。したがって、現在の民主主義において、プラトンの哲人政治
というか強い政治を望む声も出てくるようなことになる。マスコミ亡国論などというもの
も衆遇政治を忌避するところからでてくる。しかし、これらは間違っている。
では、プラトンの考えは間違っているのではないか? そうではない。そうではなく
て、古代ギリシャのが現在の民主主義国家基準に合わないだけのことで、当時の政治活動
からすればプラトンの政治哲学が必ずしも間違っていた訳ではない。間違っているのは、
プラトンの政治哲学を不用意にそのまま現在の民主主義に適用することなのである。しか
し、現在、プラトンの哲人政治を望む声もなくはないので、私があえて「プラトンの民主
政治の考えは間違っている」と言うことをお許しいただきたい。
第2節 古代ギリシャの民主政
現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができる。デ
モクラシーの語源は古典ギリシア語の「デモクラティア」で、都市国家(ポ リス)では
民会による民主政が行われた。特にアテナイは直接民主制の確立と言われている。またヘ
ロドトスの『歴史』では更に寡頭制と専制を加えた三分類が登場し、プラトンやアリスト
テレスが貴族支配や君主支配の概念とともに整理した。ただし古代アテネなどの民主政
は、各ポリスに限定された 「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の
義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男
性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かっ
た。しかし、後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱しソクラテス が処
刑されると、プラトン・アリストテレス・アリストパネスなどの知識人は民主政を「衆愚
政治」と批判し、プラトンは「哲人政治」を主張した。後にアテネ を含む古代ギリシア
が衰退して古代ローマの覇権となると、大衆には国家を統治する能力は無いと考える時代
が長く続いた。
さて、このような古代ギリシャの民主政は、フクヤマの基準に照らして言えば、現在で
いうところの民主主義国家とはいえない。したがって、プラトンの考えは、古代ギリシャ
については妥当な考えであったとして、少なくとも現在の民主主義政治を考える際には、
やはり間違った考えであると言わないといけないように思われる。
塩野七生など学識経験者で、今の政治に対し、哲人政治とまではいわなくても、強い
政治を望む声が少なくないのも事実だと思うが、そういう人の考えには、プラトンなど古
代ギリシャの知識人の考えが、潜在的に影響しているのではないか。かかる観点から、現
在の政治を考える場合には、哲人政治を理想とするプラトンの考えはやはり間違った考え
であると、声高に叫ばなければならないと思われるのである。私は、哲人政治を理想とす
るプラトンの考えは、現在社会においては抹殺しないといけないと考える次第である。
私は、日本の政治が衆愚政治に陥っているとは思わない。リーダー不足はたしかではあ
るが、日本の民主主義はおおむねうまく行っているのではないか。プラトンの考えるよう
な知性を持った国民ではないけれど、国民はそれほど馬鹿ではないということだ。
第3節 ポピュリズム
衆愚政治とポピュリズムは違う。衆愚政治とは、政治家の大半が知的訓練を仮に受けて
いても適切なリーダーシップが欠けていたり、判断力が乏しい人間に参政権が与えられて
いる状況である。その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が
停滞してしまったり、愚かな政策が実行される状況をさす。また、政治家がおのおののエ
ゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及
とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主
義、課題の先延ばしなどを含む。それに対し、ポピュリズムとは、ラテン語の「populus
(民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す。大衆
主義。ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大の
どちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念を指し、権威主義や全体主義と
同義。個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採る
政治理念である自由至上主義(リバタリアニズム)とは対極の概念である。
私は、ポピュリズムを、ニーチェのいう大衆のルサンチマンが生み出す大衆主義だと考
えており、プラトンの「哲人政治」とは対極のものであると思う。すなわち、ポピュリズ
ムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。
報道において「衆愚政治」という意味で用いられることもあるが、その場合は、「今日
では、複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的
解決を回避するもの」として、ポピュリズムは批判的に言及されることが多い。民意を離
れてデモクラシー(民主主義)は運用できないとしても、民衆全体の利益を安易に想定す
ることは、少数者への抑圧などにつながり、危険であるからである。しかし、そういう行
き過ぎがあると、これからの時代、そういうマイナス面をできるだけ速やかに是正してい
かないと大衆受けしないのも事実であろう。
私は、日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュ
リズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政
治、おおいに結構なことではないか。
なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、
衆愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダー
が必要であることはいうまでもない。大リ­ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が
早く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察
力、責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいので
ある。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。
第4節 今西錦司のリーダー論
私は京都大学で大学生活を送ったが、その中心は土木工学科の村山朔郎研究室と山岳部
であって、素晴らしい多くの先輩と同僚,そして後輩に恵まれて、今日の私がある。その
なかでもいちばんご縁の深かったのが松尾稔君である。研究室も一緒だったし、山岳部も
一緒だったし、悪友という言葉が適当かどうかわからないが、大学時代の試験勉強も一緒
にやったし、しょっちゅう飲みにもいった。彼は親分肌で、いわゆるリーダーである。彼
と一緒の時は常に彼がリーダーであって、私はサブリ­ダーである。
大学を卒業してから、研究室の柴田徹先生を会長にして楽友地盤研究会という親睦団体
をつくってそれなりの勉強もやってきたが、その実質的な会長は松尾稔君であった。その
時代の勉強の成果は、「21世紀・建設産業はどう変わるか―建設エンジニアのパラダイ
ム転換」(楽友地盤研究会著、松尾稔監修、2001年2月,鹿島出版)にまとめられて
いるので関心のある方は是非ご覧戴きたい。柴田先生が亡くなってからは、松尾稔君が会
長で名前も楽友研究会に変えて今も集まりを続けている。それができているのも松尾稔君
のお陰である。松尾稔君は、名古屋大学の総長をながくやったし、土木学会長もやったこ
とのある立派な学者である。
今回の東日本大震災は日本が経験したことのない未曾有の大災害であり、これから日本
は価値観の大転換を図り、この国難に立ち向かっていかなければならない。私も残る人生
をかけてできることを精一杯やっていく覚悟であるが、価値観の大転換を図るためには、
今西錦司に学ぶことが多いし、また今西錦司の教えを受け継いでいる松尾稔君に学ぶべき
ことも多い。かかる観点から、2011年5月25日に松尾稔君との対談を行なった。そ
れについては、YouTubeにアップしてあるので是非ご覧いただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=pebArgmgfXw
この対談では,松尾稔君と私の仲であるのでいっさい敬語を使わないことにしたし、二
人とも京都育ちであるので京都弁でしゃべることとした。公に出すものとしてはあるいは
不適当であるかもしれないが、二人が仲の良い京都人であることに免じてお許しいただき
たい。この対談では、松尾稔君から、今西錦司のリーダー論について存分語ってもらって
いる。
岩井 今日はざっくばらんにねいろいろお聞きしたい。まず最初にね、二人とも山岳部
なんだけど、僕の場合はね、卒業してからすぐに建設省に入ったからね、山の方も自然に
途絶えていった。あなたの場合は、ずっとね、大学に残ったからね。山とのご縁も切れず
に、山岳部の諸先輩方のご縁も切れずにやってきたし、特に今西さん(今西錦司)だと
か、桑原(桑原武夫)さんだとか、西堀(西堀栄三郎)さんだとかね、親しくしていたで
しょ。可愛がられたというかね。まぁ、そういうのがあるんですけど、特にその中で、
やっぱりボスはね、今西さんなんだよね。
松尾 完全にそう。
岩井 そう、僕も何度か会合に出たんよ。山岳部のね。その時にね、諸先輩おられると
ね、必ず今西さんが真ん中や。それで、その横に西堀さんがおったり、桑原さんがおった
りしたんですね。ところで、今西さんのリーダー論ってあるでしょ。松尾は松尾の自分の
リーダー論があるかと思いますけど、まず、今西さんのリーダー論からね、ちょっと話し
てもらえませんか。
今ね、ちょっとね、日本はリーダー不足なんですよ。会社もそう、政府もそう。良いリー
ダーに恵まれてないよね。やっぱりリーダーを育成せないかんなと僕なんかは思ってるん
だけど、リーダー論についてちょっと語ってくれませんか。
松尾 あのね、ともかくリーダーっていうのはね、組織であれ、社会であれね、これは
最重要や。しかし、今回の大災害に関連して言えばリーダー不足は深刻や。今回、名前を
上げるのは差し控えるけども、当該の企業にしてもね、政府関係にしてもね、リーダー不
在というのは、いかに悲惨かということをね、もう、多くの国民が感じてると思う。
岩井も山岳部やから、よく知ってるようにね、山岳部の部室ではね、いつも皆んなが自
由に書けるノートがあった。あの中にね、毎日誰かが、リーダー論を書いていた。という
のは、なんでかというと我々の場合はやね、へまなリーダーと一緒に山に登ったら死んで
しまうわけやないか。
岩井 そうそう(笑)
松尾 山登りでは岩とか雪山やらやるからね。生命がかかってるわけやから、言われた
とおり動かないと死んでしまう。だから、それが身に染みてるわけやね。ま、そういう背
景があってね、特に山岳部の系統なんかではね、リーダーの良し悪しというのは常に頭に
置いておかんとイカン。で、そういう中で僕個人のことでいうとね、今、君が言うたよう
に、やっぱり山岳部で、君があげたような巨人というべきような人たちと親しくしていた
だいたというのはね、自分の人生観を決定づけた。と、僕は思うんやけどね。
岩井 なるほど
松尾 ま、その中に今、今西さんの話が出たね。で、今西錦司という人はね、これはも
う、ほんまもののリーダーや。失礼な言い方だし、違うと言う人いるかもしれんけど、俺
の見てる限りでは今西さんが永世リーダーで、西堀さんがね、サブリーダーで、クワハン
ね。桑原武夫大先生がマネージャーかな。そういう感じや。
岩井が今西さんのこと語れというけど、実を言うとね、今西さんのことを語るという資
格もないしね、本当は、そんな能力もないんやけど、それでも、まぁ知ってることを伝え
るとね、ともかく、僕は個人的にね、リーダーというのはこうあるべしということをね、
何回か聞いたんや。あの人は、ものすごい怖い人やったらしい。ちょうど卒業年次でいう
と昭和20年代の連中にしたらね、もの凄い怖かったらしい。しかし、僕なんかにはね、
もの凄い優しいねん。何でか言うと、孫くらいやから(笑)まぁ、孫というと語弊がある
けどね。非常に可愛がってもらった方でね。ともかくね、今西さんはリーダーというもの
がいかに重要かということを言われた。
僕、その頃のノートやメモを取ってあるんだけどね、書いてあることのひとつはね、人
柄ですよ。人格、人柄。人格というのは、かってに俺が後で考えて付けたんやけどね。実
は今西さんはね、人柄と言うてはるわ。人柄。
それからね、二つ目は、順番はちょっと忘れたけどね、先見性。先見性という言葉は使っ
てなかったかもしれんけど。
岩井/松尾(同時) 洞察力!
松尾 洞察力みたいなもんやね。洞察力。それから、三番目はね、これ、もの凄い大事
なんやけどね、常に責任を取る覚悟。これを言うてはるねん。
それでね、僕はそれを人に語らんならん時があってね、どこかで読んだなと思ってね、
探したんや。なかなか見つからなかったけど、とうとう探し当てた。自然学の提唱という
ね、小さいインタビューに答えてはるんや。一九八六年のこと。今西先生はね、一九九二
年に亡くなってるはずやからね、本当に晩年の貴重な資料やね。その中に、やっぱり語っ
てはる、その三つを語ってはるんや。
それで、今、岩井ね。人をつくらなならんと言うたやろ。その資質が有る人間をね、育
てなあかんと。今西さんはね、どういうて言うてはったかゆうたら、リーダーちゅうのは
ね、生まれつきのもんやというのが、あの人の言い方やね。つまりね、人柄ってなものは
ね、生まれついてのものやというわけや。洞察力も。
そやけど、俺がよく今西さんに言われたのは責任や。責任取る覚悟が出来てるというの
はね、もう、相当にトレーニングを積まな出来まへんでと、いうことやねん。
岩井 あぁ、そうか。
松尾 そら、それぞれの立場があるやろ。あんまり、そんな詳しいこと言わはれへんだ
けど、要するに、どういう時には、どういう責任を取ることができるるかっちゅうことを
ね、常に考えてやらなあかんと、いうのがね、今西さんの言い方やったと思う。
岩井 なるほど。
松尾 俺はそう思う。まぁ、それぐらいで良いと思うんやけどね。もう一つだけ言うと
くとね、加藤泰安って、もちろん知ってるやろ。
岩井 知ってるよ。
松尾 大登山家やな。僕らの先輩の。あの人の言い方するとね、リーダーというのは天
才型と努力型があるって言うんだよね。努力型っていうのはね、調整やってゆく人だっ
て、立派なリーダーになるわけやから、そらそれで、また良いやんか。そやけど、天才型
の典型が今西錦司やというわけや。
岩井 そうかもしれんなぁ。うん。
松尾 ともかく洞察力とかね、決断力とかにもとづいて、行動なんかの批判は、絶対許
さんというわけだよ。そやから、こういう大将に付いて行く方としたらやな、もう、迷惑
至極というわけや。なんか批判でもしたら、そんなもん、ぶん殴られるくらいに怒るとい
うわけや。(笑)そやけど、言うたとおりになる、ちゅうわけや。結果が。それが、今西
さんや。クワハン、桑原武夫先生がね、「今西錦司序論」かな。なんかに書いてはるのが
あってね、ともかく、あれは、エゴイストじゃなくてエゴチストやちゅうことを言うては
る。
岩井 そら、どういう意味や?
松尾 エゴイストやったらね、これは利己主義者やろ? 誰にも好かれへんわいな。エ
ゴチストちゅうのは、まぁ言うたら自惚れの物凄い強い人間やね。まぁ、一面で悪く言え
ば、自分の主張が物凄い強いとこがある。で、いい意味でのエゴチストであってね、もの
凄い、不条理やと言うわけや。何も説明しよらへんと。そやけど、なんか知らんけどね、
これについていかないかんという気分にさせる男なんやと(笑)。それが今西や、ちゅう
わけや。それで、やっぱり若い時分にはね、怒ってね、人を叩いたりしたこともあったら
しいけどね。だけど、梅棹さんなんかが書いてはるもんを見るとね、あれぐらいの年齢に
なってくると、もう、人にそういう無礼なことをやる人では絶対になかったと。やっぱ、
京都人としてのね、貴重なマナーを守る人やったと、梅棹さんやらは書いてる。ただし、
この梅棹さんとクワハンの言うてることが全く同じことはね、やっぱりね、論理的にどう
やっていうことはなく、説明せんっちゅうわけや。そやから、何が合理的かということが
わからへん。例えば、知床の時やったか・・・白頭山かな、梅棹さんなんかが、こうこ
う、こういう理由で、こういうルートを通るっていうたら、今西さんは物凄い怒ってね、
もう勝手に行けということで自分だけ違うとこへ行っちゃった。ほいで、やっとこさたど
り着いたら、もうそこで「お前ら何してんねん」ちゅうて待ってはったというわけや
(笑)
岩井 ハハハ
松尾 そう言うのが、やっぱり天才型やね。しかしそれは、先見性、洞察力とかね、そ
れから物凄い知識とかね、そういうものが背景にあるわけでね。
岩井 そりゃ恐らく先天的な物があると思うんだけども、やっぱり僕は全てがそうじゃ
なくって、先天的なものもあるけど、後天的なものもある。そう思う。特に小さい時のね
幼児教育やね、僕は非常に大事じゃないかなと。責任感にしても、洞察力にしてもね、人
柄にしてもね、僕はやっぱり後天的なものも、無いわけではないと思う。
松尾 そりゃあ、その通りや。ところで今西さんは京都でも指折りの織物の息子やろ。
岩井 そうそう。
松尾 だからね、京都ちゅうのは、まぁ梅棹さんもそうだけど、町家のね、こうずーっ
と伝統的に身についていくルールみたいなものがね、
岩井 染み付いとるんやな。そういうとこあると思うね。
松尾 だから、守らなならんルールというのをきちっと守って、言葉遣いやらでもね、
乱暴に言うちゃいかん時には絶対乱暴には言わはらへん。仲間内は別やけどね。
それから、今西さんほどの読書家はいないちゅうことも梅棹さんは書いてはる。今西さ
んの読書は物凄かったらいしいわ。
岩井 あの人ね、直感力がすごいでしょ。これも洞察力か。
松尾 それはさっき言うた(笑)一つ例をあげるとね、大学紛争があったやんか。その
頃、おれは京大の助教授やったけどな。まぁ、大変やった。何回かあったけどね。昭和四
十三年ぐらいだったかなあ東大が入学式かなんか中止したわな。あの頃の紛争でね、どこ
の大学でも学長団交ちゅうのがあった。学長団交で、学長閉じ込めるみたいな格好で、離
さへんわけやんか。二日も三日も。。
岩井 あれは、岐阜大学の学長しておられた時かな?
松尾 その時に、錦(きん)さんはね、岐阜大学の学長やんか。これはは岐阜大のひと
から聞いたことやが、岐阜大の紛争は一日で終わったちゅうんや。京大なんか何日続いた
かわからへんで。それでね、岐阜大の場合はなんで一日で終わったかちゅうことやんか。
それは、学生の側が出す要求みたいなものをね、要望いっぱい有るわけやな。それを今西
さんは次から次へとね、「ああ、いいよ」と言うてね、呑んでしまうというわけや(笑)
そしたら、事務局長とかなんやらがね、もう、びっくりしてやね、そんなことしたら困り
ますがな。ってなわけや。しかし全部呑んでしまって、それで、岐阜大はポンと終わり
や。
岩井 やっぱり、洞察力というか直感力というか、何がどうなるという行く末をね、
ちゃんと見てはるわけやな。
松尾 そうや、お前の言うとおりや。それをね、俺は錦(きん)さんから直接きいたわ
けや。この問題は、どこまで行くかという、見切りがきちっと、つけられるのがね、
リーダーちゅうもんや・・・と錦(きん)さんは言わはる。それが、洞察力やねん。
岩井 なるほど。なるほど。
松尾 そやから、この問題は、今度の場合でもどんな災害になるかちゅうことをね、
ばっと見切りがついたらね、もう、全然対応が違うはずや。大学紛争の話はね、学生が
ワーワー言うてるんやけど、これはここまで行くというのが、パーンと判るわけなんや。
それやったら、それまでの間、ぐちゃぐちゃやってたら時間かかるだけやんか。と、いう
のはね、俺が今西さんから直に聞いた話や(笑)
岩井 まぁ、兎に角、リーダーを育成しようと思って出来るもんじゃないかもしれんけ
ど、やっぱりリーダーに育って欲しいというかね、そういう風土を作っていかないかんの
でね。これから、僕は大きな課題ではないかと。
松尾 俺はそれに賛成する。岩井ね、ここは誤解があっちゃいかんのはねそこや。なん
で泰安の話をしたか。・・泰安って、こんな偉そうな言い方をしていると怒られるな先輩
に・・。加藤泰安の考えやが、ちゃんと書いたり言うたりしてはるのをわしは直に聞いて
るんやけど、天才型とやっぱり努力型があると。努力型の人もリーダーとして必要なん
や。で、努力型の人に、そんな物凄い高レベルのね資質を求めんかて、それなりのところ
で、リーダーを果たせりゃいい。だけども、超トップになるような人は、資質を持ってな
あかん。だから、岩井のそういう志は良いことやから、やっぱり、そこを区別してやね、
努力型も大事や、せやけど・・・。
岩井 天才もおるよと。
松尾 そういう人がおるんやんか、天才型の人が。
岩井 やっぱり、そりゃ見つけなあかんな。
松尾 そう、見つけなあかん。それで、見つけてやぞ、そこで教えなあかんのは、責任
を取る覚悟を教えなあかんねん。これはもう、錦(きん)さんに何回言われたかわから
ん。
岩井 これは別に今西さんのリーダー論、松尾のリーダー論に反対するわけではない。
もちろんそうなんだけどね。もう一つ、僕はね、あなたを見とってよ。松尾のやってるこ
とを、ずーっと見とってね、思うのはね、人の面倒。あなたはね、よう、人の面倒みる
わ。こないだもね、東工大の元学長の木村孟さん、土木学会の会長。あなたも土木学会の
会長やったけどね。その木村孟さんと、あるところで話をしよったんや。でね、やっぱり
松尾に対する尊敬の念ちゅうかね。。あの人はね、あんた松尾稔やから、みーさん、みー
さんって言いよるよ。みーさんは凄いって言うんだよ。なぜ、木村孟さんが、そういうこ
とを言うのかなぁとつらつら考えたらね、あなたが色々面倒を・・まぁ、面倒見るって
言ったらおかしいけどね、あの、やってるんだよ。それは、松尾の凄いとこやなっと僕は
思ってるんですよ。
松尾 いや。ありがとう。
岩井 松尾にさっきの三つは勿論あるとしてやね、且つ、松尾ほど面倒見のええ男はい
ないんじゃないかと僕は思ったりしてますのでね、それだけちょっと、付け加えときま
す。
松尾 おおきに(大笑)それはね、時々言うてくれはる人があるわ。。
岩井 そやろ!
松尾 もう、忘れてしまってる人もあるんだけどね、やっぱり、それぞれの場でね、活
躍もして欲しいしな。だから、出来るだけね、もう、やりとうても、出来んようになるや
んか。そういう、出来る立場が有る場合もあるしね。まぁ、そういう時はまた、特にね、
一生懸命やってきたつもりやけど。岩井の考え。泰安がが言うてはる、努力型というか調
整型というかね、そういう人も僕はね、それぞれのポジションで、リーダーとしては、非
常に大事やと思うやんか。そやから、その人達は、その人達で大事なんだけど、まぁ、国
全体とかさ、あるいはもうちょっと小さくてもね、会社全体とかね、そういうようになる
と、非常に、組織が順調に行ってる時はね、いいんだけど、危機管理を迫られるというよ
うな時には、突出した天才型が必要やな。
第5節 セネットのポピュリズム
ポピュリズム(大衆主義)は、必ずしも理想的な姿ではないが、現在のところ、積極的
に肯定できる社会思想である。私は、政治も進化していて、ようやくにしてこのような良
い政治になったと考えている。これからも進化しつづける。しかし、現時点で言うと、政
治は良い姿になっていて、プラトンのいうような「哲人政治」は時代に逆行した「カビの
生えた遺物」でしかない。
リチャード・セネットというアメリカの社会学者がいる。1943年シカゴ生まれ。リー
スマン、エリクソンらに師事し、20代半ばから都市論などを発表し注目を浴びる。73年
よりニューヨーク大 学教授を務め、同大学人文学研究所を設立。現在はマサチューセッ
ツ工科大学(MIT)およびロンドン経済学校(LSE)教授としてロンドン在住。小説も発表
し、プロ級のチェロ奏者でもある。彼は、著書「不安な経済/漂流する個人―新しい資本
主義の労働・消費文化」(翻訳者森田典正、2008年1月、大月書店)の中で、次のよ
うに言っている。すなわち、
『 私の主張の要点は人々の怠惰にあるのではなく、人々に職人的思考を難しくする政治
的風潮を経済がつくりだしたということにある。「柔軟な」労働を中心にして築かれた組
織において、何かに深くかかわることは、労働者をうち向きなものに、あるいは、視野の
狭いものにすると恐れられる。くりかえしていえば、ある特別な問題に必要以上の興味を
覗かせる者は、能力判定を通過しない。いまや、科学技術自体が関与を求めないのだ。』
『 「組織のフラット化」「短期的価値の追求」といった「グローバリゼーション」に伴
う一部の先端的な企業のあり方が広く「社会の趨勢」とされ、「プロテスタンティズム」
と衝突し、コミットメントが軽視され、政治でさえも商品のように消費されるようになっ
た、ということだろう。「関与を求めない」の意味するところがどこにあるか分からない
が、科学もまた、そうした「短期的価値の追求」に染まっている部分はあるだろう。科学
者も同じ社会に生きているのだから、当然それに影響される。問題はこの次にコミットメ
ントの復権、職人的価値の復活が「来る」のかどうかである。』
『 人々はウォルマートで買い物するように、政治家を選択してはいないか。すなわち、
政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そし
て、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたブランドにとびつくとすれば、政治指導者の
政治運動も石けんの販売宣伝と変わりないのではないか。』・・・と。
また、山口二郎は、ブログの中でリチャード・セネットの考えを視野に入れながら、次
のように言っている。すなわち、
『 現代の民主政治においては、各人の知的能力や政治的関心の度合いには無関係に政治
参加の権利が与えられている以上、大衆の気分が政治に大きな影響を与えることは不可避
である。』
『 ポピュリズム批判もかなり長い歴史を持っている。』
『 ポピュリズムの第1の特徴は、庶民(common man)の欲求と怨嗟を原動力として
いる点である。 第2の特徴は、指導者との直接的結合を目指すという点である。 第3
の特徴は、単純な善悪二元論と敵と目されるものや異質なものの排除という発想であ
る。』
『 以上がポピュリズムの基本的な特徴であるが、19世紀から20世紀中ごろまでの近代
と20世紀末以降のポスト近代とでは、大きな違いも存在する。基本的な前提としては、経
済的達成と、メディアの発展の度合いに関する大きな違いがある。 ここでいう近代とポ
スト近代という2つの言葉は、イギリスの政治学者、コリン・クラウチの『ポストデモク
ラシー』(近藤康文訳、青灯社、2007年)から示唆を得た概念である。クラウチは、20
世紀に確立し、1970年代まで維持された、組織的政治参加の拡大+平等主義的福祉国家
プログラムのパッケージをデモクラシーの最盛期と捉え、1990年代以降、組織の弛緩と
政治参加の停滞、新自由主義的経済構造改革の展開、不平等の拡大などが結合したポスト
デモクラシー段階が始まったと捉えている。こうした歴史区分は、リーダーシップのあり
方や庶民、大衆を政治的に動員する方法についても当てはまる。言い換えれば、20世紀
後半までのデモクラシー(ここでいう近代)と21世紀以降のデモクラシー(ここでいう
ポスト近代)を区別する必要がある。ポピュリズムはデモクラシー段階とポストデモクラ
シー段階の両方に存在するが、その内容は大きく異なる。』
『 近代のポピュリズムは、平等化のベクトルに沿って動いてきた。リーダーはコモン
マンの代表あるいは化身であった。そして、政治という活動は、価値獲得の手段であっ
た。19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカでは大企業の横暴に対抗する農民運動が
活発化したが、そのスローガンは「富の分け前をよこせ(share our wealth)」であっ
た。まさに、価値を再分配し、社会の平等化を進める政治運動がポピュリズムであっ
た。』
『 これに対して、ポスト近代のポピュリズムは、正反対のベクトルに沿って動いている
ように見える。まず、ポスト近代のポピュリズムは、差別のベクトルを内包している。た
とえば現在の日本ではグローバリズムがもたらす経済的不平等はなかなか政治争点化しな
かった。ポピュリズムは富の再分配や平等化とは結びつかない。むしろ、「公務員」対
「民間の低賃金労働者」、「都市の無党派層」対「農民、建設業者」という、全体の貧富
のスケールから見れば小さな差異が争点化される一方、「ヒルズ族」と「ワーキングプ
ア」の間に存在するような巨視的な不平等は放置される。』
『 ポスト近代のポピュリズムは、庶民の政治的受動性と結びつく。』
『 庶民はリーダーの権力基盤を強化している。そこにおいて庶民は、自ら行動するより
も、与えられた構図の中でリーダーが期待する役割を演じるという受動的な性格を持って
いるにすぎない。』
『 変化の不可逆性を認識しつつ、ポスト近代のポピュリズムが持つ陥穽をも見据えよう
というのがセネットの戦略であろう。彼は、現代の民主政治において、人々が市民から消
費者・観客に移行することによって、「能動的に受動的状態に入ろうとしている」という
逆説を見出す。その過程について、次の5つの要素を指摘している。第1に、政党・政治
家の打ち出す政策が相似的になる。第2に、だからこそ政党・政治家は本質的ではない争
点をめぐって対決を演じる。第3に、消費者・観客は、人間の持つ複雑性や曖昧さを受容
できなくなる。第4に、人々はより利便性の高い政治を信頼するようになる。第3、第4
の要素が重なり合えば、人々は、複雑な政策論を拒否し、単純明快な解決(英語で言う
quick fix)を求めるようになる。第5に、継続的に供給される新しい政治製品を受け容れ
るよう促される。』
『 大量消費の資本主義文化に対抗する方策の1つとして、セネットは職人技(クラフト
マンシップ)の重要性を指摘する。安価な大量生産の商品が市場にあふれるからこそ、手
作りの製品も市場での居場所を確保できる。同じことはメディアにも当てはまるであろ
う。メディアが視点をずらす可能性を提示できるかどうかに、ポスト近代の民主主義の可
能性がかかっているということができる。』・・・と。
問題は、政治家にも、セネットのいう職人技(クラフトマンシップ)が必要だというこ
とではないか? また、政治も音楽やスポーツと同じように、ひとつの文化だから、やは
りエリート教育が必要ではないか? その際には今西錦司の「リーダー論」が基軸になる
と思う。
第6節 市場経済について
市場経済は、ポピュリズムを生み出す。ポピュリズムは、現在のところ、「民意!民
意!」と言いながら、本当に民意が反映しているのか? 以下、そのことを説明しよう。
市場経済社会とは、すべての生産者と消費者との関係で成り立っている。この場合、生
産者とは企業だけではなく、個人的に、物やサービスや芸などを売っている人を含んでい
るが、経済社会に与える影響力は企業の力が圧倒的に大きい。プロシューマという面白い
言葉がある。生産消費者 (せいさんしょうひしゃ、prosumer) もしくは生産=消費者、プ
ロシューマーとは、未来学者アルビン・トフラーが1980年に発表した著書『第三の波』
の中で示した概念だが、生産者 (producer) と消費者 (consumer) とを組み合わせた造語
であって、生産活動を行う消費者のことをさす。清水博の関係子(メディオン)もそうだ
が、両者が「響き合い」の関係にある。そういう響き合いというものはあるのだが、第一
次的に主体をなすのは、関係子(メディオン)であり、生産者(プロデューサー)であ
る。
さて、企業は、生産物を売ってより多くの利潤を追求しようとする。そのために企業は
さまざまな戦略をたてる。企業の存続と成長は、現在から将来にわたる市場の動きと変化
の中で、それらの背後に ある基本的原則を踏まえて対応し、長期的に安定した利益をで
きる限り多く確保できる状態を、自らの働きかけを通じていかにして造りだせるかにか
かっている。このような存続と成長の基盤を競争企業より優位なものとして造りだそうと
することを、「差別的優位性の追及」などと呼ばれたりする。企業経営の本質は、「差別
的優位性」の追求であるといって も過言ではないだろう。
「差別的優位性」を追求する企業の経営戦略において中心的役割を果たすのが、マー
ケティングである。マーケティングがその重要な役割を果たすには、現在から将来にわた
る市場の動きと流れの中で、活動の基本的方向を定める戦略と、それにもとづいてヒト・
モノ・カネという資源を用いて行う活動の仕組みを必要とする。 企業は現在から将来に
わたって、財・サービスを商品として消費者に提供し、その見返りよりなる売上高から、
それを開発・生産・流通・することに要した費用を差し引いた利益を最大になるよう行動
する。売上高は数多くの企業が提供する商品の中から、消費者が選択し購 買することに
よって生み出される。企業が売上高を上げるには、商品そのものの質、価格、広告、それ
に販売促進である。
このように企業が売上高を上げるために、消費者に対して働きかける活動がマーケテ
ィングと呼ばれている。その働きかけは、上記の四つを基本的要素として組み合わせる こ
とによってなされ、その組み合わせをマーケティング・ミックスと呼んでいる。
市場経済社会とは、すべての生産者と消費者との関係で成り立っているが、企業の力は
絶大で、企業の論理で動いているといっても過言ではない。消費者は、それに飼いならさ
れてしまっている。消費者は企業の生産したものを買うだけである。消費者は神さまなど
ということもあるけれど、消費者は結果を買うだけである。もちろん、結果として市場に
出てくる商品を買って、使ってみて善し悪しを感じてはいるが、生産に消費者の論理が働
く訳ではない。プロシューマとしての消費者は、生産にも携わるけれど、会社の中で働い
ているだけで、おおよそ消費者の論理が使われている訳ではない。消費者というものは、
弱いものである。生産者のあてがいぶちを生きているのである。それが市場経済社会の本
質だ。
市場経済社会で、消費者は、 結果として市場に出てくる商品を買って、使ってみて良し
悪しを感じるだけである。このことは、政治も言えることで、政治家が作る政治的な物や
事をただ受け取って、その良し悪しをいうだけである。かかる観点から、政治家が作る政
治的な物や事は政治商品と言い代えてもいい。一般大衆は、生活用品をスーパーマーケッ
トで買うがごとく、政治商品を買っているのである。したがって、一般大衆は、難しい事
は何も考えなくていい。とにかく気に入った物を買っておればいい。そして、後で、良い
とか悪いと言っておれば良いのである。こういう情けない状態も、結局は、市場経済のな
せる技である。市場経済社会である以上、それでしかたがない。
政治家は、企業がそうであるのと同じように、良い政治商品を一般大衆に提供していけ
ば良いのである。それがポピュリズムの本質だ。
第7節 政治家よ!「関係子」たれ!
東大名誉教授に清水博という生命学の大先生がおられ、『場の思想』(2003年・東
京大学出版会)という本を出された。清水先生は1932年生れで、私より6つ歳上であ
る。 東京大学の薬学部を出られた薬学博士であるから、薬の先生かと思っていたらとん
でもない。大学院時代は化学物理学を学ばれ、ハーバード大学やスタンフォード大学でも
研究生活をされた生命学の大家である。
生命に関する学問をバイオホロニスというが、先生の研究は、生命というものを分子の
レベルから解明しようとするもので、世界最先端の研究である。
先生は、九州大学理学部教授をされた後、東京大学薬学部の教授を務められ、定年後は
金沢工業大学で「場の研究所」なるものを始められた。この生命学の権威である清水先生
が、哲学を学ぶものの必読の書といえるような前記の本を出されたのである。
清水の著『生命を捉えなおす』(中公新書)の初版は1978年だが、その後研究が進
み、増補版が出たのが1990年である。とくに注目すべきは「関係子」という考え方で
あろう。中村雄二郎は「メディオン」と呼んだらどうかとアドバイスしたようだが、中村
のリズム論とも関係が深く、関係子が発生するリズムの「相互引き込み現象」は清水博の
画期的な発見である。関係子に関する研究はこれからどんどん進み、生命の神秘がもっと
明らかにされるであろう。関係子の着想は実に素晴らしいのだが、近著『場の思想』に、
その話が出てこないのは誠に残念である。
清水博のイメージする「関係子」の概念について、要点を説明しておきたい。
私は今まで、生命学という言葉を使ってきたが、清水博は、生命学とは言わないで、
「生命関係学」と呼んでいる。関係性というものの重要性を充分認識したうえでのことで
ある。生命システムには、多様な複雑性とそこに自己組織される秩序があるというのが清
水博の考え方であるが、この秩序は一義的なものではなく多義性に富んだものである。
では、秩序の多義性というものはどこからくるのか? 清水は、生命の働きを生成的、
関係的にとらえない限り、この問題は解けないと考えている。関係性の重視である。その
粒子がたくさん集まったとき、その状態によってグループとしてのさまざまな機能が出現
してくるのだそうだ。もちろん粒子ごとに特定の機能というものはあるのだが、グループ
としての機能はそれら個々の機能の合計ではなくて、全く別の新たな機能が出現してく
る。それはなぜか? 多くの粒子がどのような状態になっているか、それら粒子と粒子の
間の関係性により、いろいろな機能が出現する。よって関係性というものが重要となり、
それに着目して研究を進める必要がある……というのが清水の考えである。
劇場で役者が即興劇を演じる。観客がそれを見ている。そこには照明装置や音響装置な
ど劇場としてのシステムがある。即興劇を演じる役者は、あらかじめ劇場主、シナリオ作
家、演出家から必要な情報を与えられているが、いったん幕が上がると、あとはもう観客
と一体になってその場の雰囲気で臨機応変に演じる。それが即興劇であるが、清水は『生
命を捉えなおす』のなかでこう言っている。 「役者の演技は、大まかな筋という拘束条
件のもとで、大ざっぱに決められますが、具体的には役者同士の演技の相互関係によっ
て、選択されたり、つくられたりしながら劇を進行させていくのです。その演技は、全体
として一つの筋を生成的に自己組織しながら展開していく必要があり、場違いな演技をす
ることはできません。」
そこには環境とシステムは出てくるが、活動主体が記述されていない。そこでは操作情
報という言葉が使われており、情報を自己組織する活動主体というものを念頭に置いて、
清水はそれを関係子と呼んでいる。すなわち関係子とは、システムや環境から発せられる
さまざまな情報を受け取って、臨機応変に自らの活動に役立つ操作情報を自己生産するも
のである。つまり自己組織するとは、自己生産しながら自分の組織に組み込んでいくとい
うことである。要するに、関係子というのは、意味のある操作情報を自己組織するのであ
る。
関係子(メディオン。名付け親は中村雄二郎。)は舞台の役者、意味ある操作情報は観
客。政治で言えば、関係子は政治家、意味ある情報は大衆である。政治家にとって意味あ
る情報を大衆が発している。それを捉えて政治家は自己組織化するのである。ちょっと判
りにくいですかね。ざっくり言ってしまえば、政治家と大衆とが互いに響き合う、それは
とりもなおさず清水博のいう「生命原理」なのである。ポピュリズムというのはそういう
「生命原理」に合っている。ポピュリズム(大衆主義)における政治家というのは、大衆
を相手に「即興劇」を演ずれば良いのである。ポピュリズム(大衆主義)における政治家
というのは、大衆を相手に一生懸命「即興劇」を演じて、もし大衆から、大根役者と罵倒
が浴びせられたら、舞台から引っ込めば良い。そういう覚悟を以て、政治家という役者
は、大衆と響き合えるよう、一生懸命政治をやればいいのである。それがポピュリズムと
いうものだ。
第2章 自然の再認識
ハイデガーが言うには、「エートス・アントロポイ・ダイモーン」という言葉をヘラクレ
イトスが使っている。これはギリシャ人の思考を非常にうまく表現しているという。
「エートス」親しくあるもの、「アントロポイ」は人間、「ダイモーン」はギリシャの
神々である。だから、「人間にとって親しくある場所は神の近くにいることである」とい
う意味だとハイデガーは言っている。政治家は「ニヒリズム」の問題とは真正面から向き
合わなければならないのであって、ハイデガーがいう「故郷喪失」の現実を直視してほし
い。民主主義の原点である「地域コミュニティ」がなくなっているのである。この状態を
放置したままでは、日本の元気再生は望むべくもない。政治家に期待するところ大であ
る。第1章で述べたように、ポピュリズム(大衆主義)における政治家というのは、大衆
を相手に「即興劇」を演ずれば良いのである。ポピュリズム(大衆主義)における政治家
というのは、大衆を相手に一生懸命「即興劇」を演じて、もし大衆から、大根役者と罵倒
が浴びせられたら、舞台から引っ込めば良い。そういう覚悟を以て、政治家という役者
は、大衆と響き合えるよう、一生懸命政治をやればいいのである。
第1節 故郷(自然)の再認識
「さまよえるニーチェの亡霊」(平成24年6月、新公論社、電子出版)でも述べた
が、私は、ハイデガーは、技術こそ人間の思い上がりの象徴であって、これこそデカルト
に端を発する西洋文明の間違いだと主張しているのだと思う。これからは今までとは逆
に、技術が進めば進むほど神が近く感じられるようにならなければならない。神は、歴史
的に見て、いろいろな国というか場所で、いろいろな場面場面というかいろいろな時に、
人びとに感じられてきたというか現れてきた。しかし、そういう神の立ち現れる場所とい
うのはどういうところなのか? すなわち、神は時空を超えて現れるのだが、そもそも神
の立ち現れる場所とはどこなのか? それは「故郷」だ。そういう意味でで故郷という言
葉が使われており、必ずしも私たちが日頃使っているな意味での故郷ではない。しかし、
私は、ハイデガーのいう「故郷」を私たちの日頃使っている故郷というか田舎、それもも
う少し具体的に言えば「山地の都市」をイメージしている。
神の投企は、時空を超えてある。しかし、人間はなかなかそれを受け止めれない。技術
的な世界(都会)よりも、自然的な世界(田舎)の方が受け止めやすい。ホワイトヘッド
の言葉でいえば、「抱握」(フィーリング)しやすい。故に、私は、故郷再生、田舎の再
生に旗を振っているのだが、その心は「自然」にある。自然は神の投企をそのまま受け止
め、私たちにもそれが容易に「抱握」(感じる)ことができる。技術は神の投企を隠して
しまって私たちには容易に「抱握」(感じる)ことができなくする。そこが大問題なので
ある。
ハイデガーのいう「投企」や「抱握」は神からの贈与である。中沢新一はその著「日本
の大転換」で、脱電発や農業の再生という問題は、今こそ取り組むべき緊急課題であると
して、贈与論を展開した。また、私は、「祈り」の科学シリーズ6(20012年5月、
新公論社、電子出版)で、贈与経済の貨幣・「地域通貨」の必要性を書いた。その要点
は、次のとおりである。
日本復興を図る上で「地域通貨」は避けて通れない問題である。市場経済をなくすこ
とができない以上、贈与経済とのハイブリッド経済を考えねばならない。世界経済の行く
末及び世界構造のあり方を考えたとき、どうしても地域通貨が浮かび上がってこざるを得
ない。地域通貨の問題は、現下の緊急、かつ、重要な国内問題である。
「農」は国の基本であり、地域の基本である。「農」を基本とした地域の自立的発展を
図らない限り、地域コミュニティは崩壊をつづけ、やがて日本は崩壊するに違いない。こ
れからは心の時代である。家族農業も大事にし、「協和」を旗印に、輝かしい地域コミュ
ニティと日本を創っていかなければならないが、それは、「祈りの科学」シリーズ(6)
「地域通貨」に書いた実践論を具体的に検討していけば、充分可能である。ただし、「地
域通貨」の哲学については、中沢新一の贈与論が私の哲学の足らざるところを補ってくれ
ているので、その点だけは申し上げておく。私の「地域通貨」の哲学は、主として貨幣論
から展開したものであって、その背景にある贈与論を論じてはない。モースの贈与論を発
展させ、現代の経済的社会的な諸問題に応えうる新たな贈与論が待ち望まれていたが、2
011年8月に中沢新一の「日本の大転換」(集英社)が出た。これはまさに現代の贈与
論であって、主として原発問題を意識したものであるが、農業などの純粋贈与や地域通貨
にも適用できる一般理論である。中沢新一のこの新たな贈与論によって、地域通貨の哲学
にもしっかりした基盤ができたように思う。
市場経済は競争が原理である。その原理にしたがって農業のあり方が考えられており、
「地産地消」などと言われているが、これは大規模農業を目指すものであって、百姓の行
う「農」、本来の「農」とは論理が逆である。地域の自立を目指すのであれば、「地産地
消」という市場原理で競争に明け暮れる生産者の論理でなく、逆に、地域で消費するもの
については地域で作れという「地消地産」でなければならないのである。
現在の農業は間違っている。本来の「農」に戻らなければならない。農家は本来の百姓
に戻らなければならない。そうでないと資本の力によって地域コミュニティは完全に崩壊
してしまう。現在その危機に直面している。
第2節 自然の神と技術の神との同盟
シヴァ教はディオニュソス教と同じようにエロスの宗教ではあるが、実は、シヴァ教は
自然の宗教でもある。ここのところがきわめて大事なところだ。ここでは自然に焦点を当
ててシヴァ教の説明をしておきたい。「シヴァとディオニュソス・・・自然とエロスの宗
教」(著者・アラン・ダニエル、訳者・浅野卓也と小野智司、2008年5月、講談社)
では、次のように言っている。すなわち、
『 シヴァ教は本質的に自然教である。(中略)この神は、われわれ人類に、聖なる法を
再び見いだすよう教え、人間の法を捨て去るよう諭すのである。』
『 シヴァ信仰の哲学的な全容は、まだほとんど解明されていない。』
『 現代のエコロジーは、真性の倫理への回帰を目指す試みのように見えるが、いまだ人
間中心主義的な発想を超えるものではない。』
『 シヴァは宇宙の支配者である。その多様な姿は、宇宙の方角を支配する神々に結びつ
き、それぞれの神には、生命に対する直接的な影響力と重要なシンボリズムが付与されて
いる。』
『 この世界に生まれたものは、いつかは必ず死ぬ。したがって生の原理は時間に結びつ
き、最終的には死の原理に結びつけられる。創造の神は、同時に破壊の神である。生は死
を育む。いかなる生命体もほかの生物の命を破壊しむさぼり食うことなしに、生き延びる
ことはできない。それゆえシヴァは恐ろしい相貌(そうぼう)をもっている。』
『 宇宙において神々、精霊、人間のなかに顕現する原理は、動物界、植物界、鉱物界に
も同じようにあらわれる。』
『 聖なる場所とはある種の扉で、そこを通過すれば、ひとつの世界からもうひとつの別
の世界へ移行することもそれほど難しいことではない。この通路を通じて、幻視者は突如
として他界へと目が開かれ、また他界へといたることが可能となる。特別な能力がないも
のでも、ひとたびそのような聖地に立てば自分が超自然的と呼ばれる何か、すなわち神々
や聖霊たちの住まう神秘な世界に近づきつつあることを実感できるだろう。(中略)そう
したところに行くと、時間の制約を超えた異次元の宇宙に至るような、ただならぬ空気を
感じずにはいられない。こうした場所で秘跡をさずかり。或いは死を迎えることは、とて
も意義のあることだとされる。そこは、「天界」に通じる門なのである。』
『 エロスは生存の原理でもあるが、消滅と死の原理でもある。何ものもエロスなしに存
在しないし、またこの神を通じて、万物は存在することをやめる。かれはまさに、生と死
の原理であるシヴァの本性を顕わしている。』
『 シヴァ教は、個人という存在を、ジャイナ教のように重視せず、人間の生を一時的
で、かつ、集合的なものとしてしか信じない。人間の個々の生は、あらゆる存在の生と等
しく、宇宙的な事物と意識と知性から選択され、宇宙的にして不可分の魂のかけらを取り
巻く多様な元素が相互に結びつけられる結び目、結節点から形成される。これは、壷のな
かの閉ざされた空間にたとえられるもので、そこには宇宙的な空間と変わるところはな
い。』
『 天界と神々は、宇宙が終息し事物と時空が無に帰するとき、存在することをやめるだ
ろう』
『 われわれがみずからの存在の永遠性に目覚めるのは、この現在の生が持続するあいだ
でなければならない。進化を忘れた終わりのなき魂の不滅という倦怠を夢想しなければな
らない理由など、どこにもないのである。』
『 人間間科学、自然科学的心理学やエコロジーの最近の発見は、シヴァ教がつねに推奨
してきたものと同じ普遍的・人間間問題へのアプローチを提示するものと考えることがで
きる。われわれの時代が、キリスト教の勝利によって一度は絶滅し、「散逸した宗教体
験」を再発見した先駆けとして後世に知られるということも、ありえないことではな
い。・・・こうしたすべての要素(無意識、神話、シンボルへの関心、プリミティブなも
の、アルカイックなものへの熱望といった宗教感情のあらわれ)は、かってあったものの
二番煎じではない新たなヒューマニズムの発展を告げるもののようにも感じられる。なぜ
なら、人類の全体知に達するために今統合されなければならないのは、何よりも東洋学
者、民族学者、深層心理学者、宗教史家による諸々の探求だからである。(M・エリアー
デ「悪魔と両性具有」)(中略)シヴァ信仰の知恵への回帰は、加速度的に破滅へと向か
う人類の歩みに歯止めをかける唯一の道筋となろう。ルネ・ゲノンによれば、「「手短か
に言えば、モダンにおける本来のあり方からの逸脱以前に存在した教えを、この時代条件
にふさわしいかたちで再構築すること、これがたったひとつの課題となろう。東洋は、も
しそうなることを望めば西洋の救済者として現れる可能性は高い。それは、ある種の人び
とが恐れるように見慣れない奇妙な概念を強引に持ち込むことではなく、西洋がすでにそ
の意味を見失ってしまった伝統を西洋みずからが再発見する手助けとなるものである。」
(「世界の終末 現代の危機」)』・・・と。
第3節 田舎と都市
(1)田舎を生きる・・・贈与
田舎を生きる人のために、人びとが食っていける仕事がなければならぬ。その基本は農
業だ。農業と地域通貨については、贈与の視点に立ってその重要性を考えなければならな
い。ここでは、市場原理にもとづく大規模な農業については省略し、贈与経済(地域通
貨)にもとづく三ちゃん農業というか家族農業について少し述べておきたい。
地域通貨は,閉塞感に満ちた今の世の中を打開する起爆剤になるかもしれない。私はそ
んな感じを持っていて,わが国でも何とか地域通貨を根付かせたいと考えている。
「エンデの遺言」のあと,雨後のタケノコのように全国各地で地域通貨が誕生したが,
私の知る限り,成功例は一つもない。その原因はうまく流通しないことにある。うまく流
通しないために、経済的な力を持てない。お遊びといってはちょっと語弊があるが、まあ
そんなところだ。経済的な力を持つ、つまりそれが地域力の源泉になるためには、うまく
流通しないとダメ。うまく流通する条件として、私は、贈与の三角形といっているのだ
が、農家と商店とNPO、この三つの間を流通しないとダメだと考えている。
もちろん、その三角形の頂点にNPOがあり、それが地域通貨を発行するし、全体的な
旗を振っていく。なお、これは当然のことだが、NPOは、運営に必要な円は寄付を受け、
それで運営するのを原則とするというものでなければならない。運営に必要な円を地域通
貨と交換するというようなことはゆめゆめ考えてはならない。地域通貨は、法的にも、円
と交換できないものである。
贈与の三角形でいちばん大事なのは地域農業である。地域農業は市場作物と贈与作物を
作る。地域農業の担い手は、兼業農家や高齢農家,或はご主人が働きに出て行ってお母
ちゃんやおじいちゃんやおばあちゃんでやっているいわゆる三ちゃん農業であっても良
い。農は地域の基本であり、国の基本である。農はただ単に食料を作っているだけでな
く、国の精神を作っている。
地域は大別すれば、田舎と都市がある。 問題は都市である。都市は地域コミュニティ
が壊れ、ノマドが自由気ままに生きている、そういう空間である。都市の論理というの
は、「身体の欲望」が支配する論理で、市場の論理である。それは工業の論理でもある
し、人工の論理である。 それに対し、田舎の論理というのは、「生命の欲望」が支配す
る論理で、贈与の論理である。それは農業の論理でもあるし、自然の論理でもある。
百姓の思考は「野生の思考」と言っても良いのではないか。 百姓の心は野生の心。 百
姓の精神は「野生の精神」。こう考えると、百姓の行う「農」というものは、単に国民の
食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出しているのではないかと思えてくる。
これからの理想とする地域づくりは、もちろん西田哲学や田辺哲学を十分理解しながら
も、私は、中沢新一の「モノとの同盟」という考え方が大事であり、心を大事にしなけれ
ばならないと思う。私は宇宙と響きあいと言っているのだが、感性を大事にしなければな
らない。都市の人々においては、田舎の自然に触れるだけでなく田舎の人々との触れ合い
によって素晴らしい感性が身に付く、そうことが多いのではないか。
田舎の地域づくりは、まず「スピリット」、これは鬼や天狗や妖怪などと言い換えても
いいのだが、そういう妖しげなものが立ち現れうるような「場所づくり」から始めなけれ
ばならない。わかりやすく言えば、河童の棲む川づくりとか天狗の棲む森づくりである。
トトロの棲む森づくりでもいい。子供のための「脳と身体の学習プログラム」が展開でき
る場所づくりと言っているのだが、子供たちが感性を養い身体を鍛える学習プログラムを
作って、それを全国いたる田舎に展開しなければならない。私は今までこういう中沢新一
のいう「スピリット」の重要性を主張してきたが、「農」の重要性というか農作業のモノ
的性質については考えたことがなかった。しかし、実は、農作業というものは、「モノ的
技術」であり、「野生の心」と大変深い関係があるのではないか。そこで「モノ的技術」
というものについて考えてみたいのだが、まず中沢新一の言っていることを紹介しておき
たい。詳しくは (中沢新一、「緑の資本論」2002年5月、集英社)を読んでいただ
きたい。
中沢新一は、「モノ的技術」について次のように述べている。
『モノ的技術は、こんにちのグローバルスタンダードであるピュシス的技術が作り出す
世界とは、異質な世界を作り出す能力をひめている。』
『モノ的な技術は、ピュシス的に思考された技術とは違って、増殖や変容や分裂に、つま
り一定不変で変化しない同一性を思考することができないような現実に対して適用され、
真理ではなく、人間に具体的な幸福(さち)をあたえるのだ。』
『モノ的技術は人間の宗教の根源である「信」ということに、深くかかわってもい
る。』・・・と。
「ピュシス」とは、古代ギリシャ語のようだが、かの偉大な哲学者・ハイデッガーが好
んで使った哲学用語であり、ヨーロッパに端を発する近代文明を支える哲学の底流を流れ
る概念である。日本語では「立ち現れること」と訳されているが、自然物など存在するも
の全てに本質的なものがあり、確かな真理というものがある。それは一定不変である。ひ
とつのものにいろんな姿があったり、いろんな性質があったりはしない。本質的なもの、
真理というものはひとつしかない。こういう考え方がヨーロッパに端を発する近代文明を
創(つく)っている。だから、上記の引用文中の「ピュシス的技術」とか「ピュシス的に
思考された技術」とは近代技術と言い換えても良い。
本質がどうのこうのとか真理がどうのこうのとか、そんな難しいことは別として、現実
というか実際のところは、自然物など存在するもの全てが増殖又は分裂するなど変化して
いる。それが現実であり、現実の社会では、真理がどうのこうのより、具体的な幸(さ
ち)が大事なのである。古代の人はそう考えたのであり、「野生の思考」というか「モノ
的思考」とはそういうものである。
「モノ的技術」は「モノ的思考」にもとづく技術であり「ピュシス的技術」とは異質の
ものであるが、中沢新一は、「「モノ的技術」は現代文明とは異質の世界を作り出す力を
秘めている」と言っている。現代文明は、市場経済によって「心」の面で行き詰まってお
り、田舎の地域づくりにおいても「心」を重視しなければ今後の展望がまったく開けない
ところまできている。田舎こそ「モノ的技術による地域づくり」を進めなければならない
のである。
では、具体的にどうすれば良いか? そこが問題だが、結論を先に言えば、中沢新一が
言っているように、「モノ的技術」はけっして市場経済一点張りでは発達しない。「信」
を前提に成り立つ贈与経済によってしか発展しないのである。そして、その贈与経済を支
える産業が「農」なのである。このことを強調しても強調しすぎることはない。
しかし、「農」というものはそれだけにとどまるものではない。先述したように、私
は、 百姓の思考は「野生の思考」と言っても良い。 百姓の心は「野生の心」。 百姓の精
神は「野生の精神」。今私は「野生の心」のより強靭なものを「野生の精神」と呼んでい
る。百姓はおおむね「野生の心」を持っているし、村の祭りによって「外なる神」の力が
働いて、地域には「野生の精神」も生まれでてきていると思う。こう考えると、百姓の行
う「農」というものは、単に国民の食料を作るというだけでなく、国の精神を作り出して
いるのではないか。
中沢新一いうところの農業が純粋贈与であることの意味は大きい。したがって、三ちゃ
ん農業などの家族農業は、「地消地産」の原理原則に則って、しっかり守らなければなら
ない。
なお、ちなみに言っておけば、地産地消は生産者の論理であり、こういうものを生産し
たからそれを消費せよというもの。地消地産は消費者の論理で、こういうものを消費した
いからそれを生産しろというものである。これからは電気も地消地産でなければならな
い。地域で消費するから小水力発電など地域で発電しようという訳だ。地域の自立のため
には地消地産でなければならない。贈与経済はそういうものだ。
田舎において人びとがイキイキと生きていけるようにするには、まずは贈与の世界、つ
まり地域通貨の世界を田舎に作らなければならない。それができれば、都市で働き口がな
く、経済的に苦しんでいる人たちが田舎に移り住むことができる。地域通貨については、
その実践論など言いたいことがいっぱいあるけれど、ここでは、「田舎を生きる」ために
は、贈与経済が不可欠であるということだけを指摘するのとどめたい。
(2)都市を生きる・・・文化を生きる
技術の世界にも神がいない訳ではない。見えにくくなっているというだけだ。
結婚は「神とのインターフェースである」である。縁に恵まれば、思い切って結婚はし
た方が良い。だからといって、結婚をしないで文化を生きる、そのような生き方が否定さ
れる訳ではない。なぜなら、エロスは、自然と技術や田舎と都市という対立概念、或いは
西洋と東洋という対立概念を超越しているからである。しかし、都市においても結婚の道
を選んだ人は、エロスの神を信仰しなければならない。都市を生きる人には、さまざまな
人がいる。神を信じない人もいるだろう。都市では神が見えにくくなっているから仕方が
ない。それはそれでいい。自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけば良い。つね
に重力の魔がその邪魔をするから、しょっちゅう挫けそうになるかもしれない。しょっ
ちゅう危機に直面する。そのときは「力への意志」が働いて、神の「投企」が働くかもし
れない。そのとき、それまで神を信じなかった人でも、神の「投企」、すなわち神の力、
神の恵みを感じるであろう。自然を生きる、都市を生きる、文化を生きるということはそ
ういうことだ。
都市に生きる人は、子育てに生きるか文化活動に生きるかの、二者択一をしなければな
らない。人生の途中で方向転換をしてもよい。結婚生活をあきらめて文化活動に専念して
も良いし、独身主義であった人が文化活動をあきらめて結婚生活に踏み切っても良い。し
かし、子育てに生きる人は、年齢の如何を問わずエロスの神に「祈り」を捧げなければな
らない。それが私のいちばん言いたいことだ。都市は、神の贈与に働きにくい市場原理の
渦巻く競争社会である。それについていけない敗者がいるのはしかたがない。そういう人
は、都市でも見られる贈与世界を必死で探し出し、どうしてもそれが見つからないとき
は、最終的に田舎に移転することが必要である。田舎でさえ、贈与社会ができている訳で
はないので、田舎に移転しても、現状ではなかなか食っていけないかもしれない。将来は
必ず田舎は贈与の世界、助け合いの世界に変わるとは思うけれど・・・。今のところは、
田舎で食っていくのも決して容易ではない。しかし、私は、将来の可能性を信じて、都市
で食っていけない人は田舎に移転すべきだと考えている。都市は厳しい競争社会であっ
て、弱者には本質的に適合し得ない場所である。そんな場所には一日も早く見切りをつけ
るべきだと考える次第である。
したがって、都市というのは、強者が文化に生きる場所である。では、文化とは何か? 文化というものを本格的というか哲学的に論じたのは、ホワイトヘッドが初めてであ
る。ホワイトヘッドの文化論は、目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。延原時行は、
その著「「ホワイトヘッドと西田哲学との<あいだ>・・・仏教的キリスト教哲学の構
想」(2001年3月、法蔵館)で、ホワイトヘッドは延原時行のいう「諸原理の現実変
換」の問題を「観念の冒険」と呼んでいる、として縷々論じているが、これすら容易には
説明できないし、ましてやホワイトヘッドの文化論はきわめて説明しずらい。彼独特の哲
学用語の説明が結構厄介であるということだ。それを解説していると日が暮れる。そこで
文化という哲学的な意味を私流に判りやすく説明したい。
ホワイトヘッドは、文化とは「文明化された宇宙」であるという。私は、拙著「祈り」
の科学シリーズ(1)「100匹目の猿が100匹」(2012年5月、新公論社、電子
出版)で述べたように、私たちの脳には「内なる神」が、また宇宙(天)には「外なる
神」が存在する。それが響き合うのである。波動の共鳴現象である。これを「協和」とい
う言葉で表現した方がが思想的には良いが、判りやすくいえば「響き合い」である。
「さまよえるニーチェの亡霊」(平成24年6月、新公論社、電子出版)でも述べた
が、ニーチェの「力への意志」やハイデガーの「投企」やホワイトヘッドの「抱握」の哲
学は極めて重要である。神から私たち人間に「力の意志」、「投企」、「抱握」という働
きが及んでいるのである。それを受け止めるのは、人間それぞれの「体験」にもとづくそ
れぞれの「心」である。したがって、神の思い(真理)を受け止める場合、その受け止め
方というのは千差万別である。悟りを開いた名僧なら、かなり神が示す真理を正しく受け
止めることができるかもしれないが、通常、私たちは神が示す真理をきわめて単純化した
形でしか受け止めることはできない。だから、いわゆる文化というものは表面的で、実
は、その奥に隠されている真理に想い馳せなければならないのである。そういう点には十
分留意する必要はあるが、ざっくり言って、文化というものは神が示す真理を含んでい
る。それをどこまで真理に近づいて感受するかは、その人の直感力による。野生の精神に
欠ける人は絶対に直観はできない。直感力は、「重力の魔」の働きにもめげず、苦しい修
行を積んで、野生の精神を身につけ、道の奥義を究めた人でないとなかなか得られるもの
ではない。
しかし、それほど難しく考える必要もないだろう。私たちは私たちなりに、文化の奥に
潜む真理をある程度は感じることはできる。その感じを大事にすればそれで十分。あとは
「力の意志」にしたがって、自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけば良いので
ある。そのうちに直感力は身に付くだろう。以上は「内なる神」の「受け止め」である。
この「内なる神」の「受け止め」は、宇宙の「外なる神」に働きかけ、波動の共鳴現象
が起こるのである。そういう文明というものが、私たちを通じて宇宙の「外なる神」に作
用して、宇宙そのものが文明化される。それがホワイトヘッドのいう「文明化された宇
宙」である。このことをざっくり言ってしまえば、私たちの文明活動が、神を変える、宇
宙を変えるということだ。人間は神あっての人間だし、神は人間あっての神である。その
ことについては、「祈りの科学シリーズ(5)」(2002年5月、新公論社、電子出
版)に書いた(特に、第10章)。
都市におけるすべての文化活動は、人間の歴史を意味するだけでなく、宇宙的な活動で
ある。
(3)直観について
私は、「さまよえるニーチェの亡霊」(2012年6月、新公論社、電子出版)で、次
のように述べた。すなわち、
『 ニーチェは、「人間とは動物から超人に向う間の存在であり、人間そのものではまだ
ダメで人間を超えていかなければならない。」と考えているのだが(「ツゥラトゥストラ
の序説」)、この認識は現在の科学からいってもまったく正しい。人間の脳は三階建て構
造になっており、恐竜型脳の上に原始哺乳類型脳があり、その上に新哺乳型脳がある。そ
して大事なことは、その三階の脳はまだ一割ぐらいしか使われていないのであって、あと
の9割の脳は未使用状態である。今後人間が発達していくとその未使用の脳は少しずつ使
われていく。そのとき、人間はどのような存在になっているかは「神のみぞ知る」のであ
る。現在の最新科学を知らないニーチェがそこまでは知る由もないが、「人間とは動物か
ら超人に向う間の存在であり、人間そのものではまだダメで人間を超えていかなければな
らない。」というニーチェの認識は、現在の最新科学からも正しいのである。脳の未使用
領域が全部使われるようになった段階の人間をニーチェの言い方にならい「超人」と呼ぶ
ならば、これから人類は「超人」に向うのである。彼は、ツゥラトゥストラをして、「超
人にはなれなくても、超人のために超人を用意すべく努力して死んでいけ。自分のあとに
超人が生み出さればいい。」と言わしめている。ニーチェは「超人」と言っているが、こ
こでいう「超人」とは違う。ニーチェのいう「超人」はまだ現在のままの人間である。し
たがって、私の、言葉の使い方に混乱が生じないように、ニーチェのことを今後「巨人」
と呼ぶことにしよう。』・・・と。
ニーチェは、私のいい方では、超人ではなく、巨人だ。多くの人が直観を働かすことが
できるようになれば、人類は今の人間を超越した本当の意味の「超人」となる。まだほと
んど未使用のまま残されている状態の新哺乳型脳が、驚くべき発達を遂げて、 人類は今
の人間を超越した本当の意味の「超人」となるのである。その発達の原動力は、巨人の直
観力である。
直観と直感とは違う。直感は、感覚的に物事を瞬時に感じとることであり、「感で答
える」のような日常会話での用語を指す。他方、直観は五感的感覚も科学的推理も用いず
直接に対象やその本質を捉える認識能力を指し、直感的な洞察力のことです。発達した第
六感のことである。直観,すなわち直感的な洞察力で有名なのはプロ棋士の直観力だ。こ
れは凄いのです。その科学的な研究も行われているが,プロ棋士の直観力による判断は正
しく、そこに出来上がりの局面が頭の中に見えているという。今はないけれど局面が進む
につれて出来上がっていくずっと先の局面が見えているというのだ。今ないものが見えて
いて,先々そのとおりになっていく。直観というのはそういうものだ。いい加減なもので
はない。よほど経験と修練を重ねていけばそういう直観力は身に付くのである。逆に,普
通の人は直観力がなく、あるの直感だけである。直観と直観は違う。違うけれど,直観力
というものは科学的に存在する。今私がここで言いたいのは直観の科学性である。
宇宙の彼方から「波動」がやってくる。「外なる神」が発する「波動」、それを私た
ちは見るのだが、目には見えない。音楽家は「天空の音楽」としてそれを聞くことができ
るが、普通の人間の耳には聞こえない。しかし、第六感すなわち直観を働かせば見える。
キリストやマホメットやお釈迦さんなどいわゆる聖人と言われる人には見えていたのだ。
そう考えるのは決して非科学的ではない。私はそのことを主張したい。
ところで、「外なる神」を科学的な立場から理解するには、浜野恵一の「脳と波動の
法則・・・宇宙との共鳴が意識を創る」(1997年3月,PHP研究所)が一番良い。関
係する図書はいくつかあるけれど,一度はこの本を是非読んでもらいたい。ここではその
真髄部分を補足説明しおこう!
私たちの脳は、三層構造になっている。は虫類型脳と原始ほ乳類型脳と新ほ乳類型脳
というのだそうだが、は虫類型脳と原始ほ乳類型脳はほぼ一体的に機能するので、私はそ
れらをまとめて「活力の脳」と呼びたいと思う。新ほ乳類型脳は、知恵と大いに関係があ
るので、それを「知恵の脳」と呼びたい。「活力の脳」は赤ちゃんの時からどんどん発達
していくが、「知恵の脳」は青年期を過ぎて成人になってはじめて力を発揮する。成人に
なると「知恵の脳」は「活力の脳」を十分コントロールできるようになるのだそうだ。し
かし、この「知恵の脳」は,未知の部分が多く、またほとんど未使用の状態だと言われて
いる。直感力の発揮できる人はこの「知恵の脳」を普通の人より多く使っているが、私た
ち凡人はおおむね10%ぐらいしか使っていないのだそうだ。90%が未使用だというの
はまったくもったいない話だ。人によって悪知恵を働かせるために「知恵の脳」を使って
いる人もおりケシカラン話である。詐欺師などはもってのほかだ!「知恵の脳」は良い方
向にどんどん使って、大いに発達させていかなければならない。それが人類に与えられた
これからの大いなる課題である。
ところで、私は、「祈り」の科学シリーズ(1)で、脳の中では、ともかく波動の共振
が起っているという点と、共振を起こす波動の元は外からのものであり、それを受けるの
は脳の内部の波動であるということを申し上げたが、これは「外なる神」と「内なる神」
との共振(共鳴,響きあい)を述べたものである。「外なる神」も確かに存在するし、そ
れと共振する「内なる神」も当然存在する。
直観力というものは科学的に存在する。今私がここで強調したいのは直観の科学性で
ある。今西錦司は、「野生の人」であり、まさに直観の働く巨人である。
「祈り」の科学シリーズ(1)で紹介した「黒もじの杖」の話を例にして、量子脳力学
の立場から直観の説明をしておきたい。今西錦司は黒もじを必死になって探し求めた体験
が過去にたびたびあったに違いない。そういう「野生の体験」が「学習」として「波動粒
子B」に保存されていた。あるとき黒もじの杖が欲しいと強く願いなら下山していたと
き、その強い願いが「外なる神」と共振を引き起こした。そして、突然、「波動粒子A」
も共振を起こし、彼は何か異常を感じたのに違いない。直観が働くには過去の必死の体験
と強い願いが必要だが、まちがいなく 直観力というものは科学的に存在する。
「活力の脳」によって「ひらめき」(霊感)を感じ、「知恵の脳」によって「直観」を
得る。普通の人にも「祈り」によって「外なる神」の働きかけが起こるが、直感力のある
人は「外なる神」の特別の働きかけがある。日常生活においておおいに「祈り」を行うと
ともに、時にはおおいに特別な体験(学習)を積み重ねて「知恵の脳」を磨こうではない
か。
(4)都市に自然を!
かって、梅原猛は「巨木の町づくり」ということを言ったことがあるが、私の場合は、
「水と緑の町づくり」ということをいろいろと言ってきた。まず、梅原猛は、その著書
「森の思想が人類を救う」(1995年4月、小学館)の中で次のように言っている。す
なわち、
『 浄土教の教え、すなわち<山川草木悉皆成仏>の考え方は典型的な<森の思想>であ
る。』
『 縄文時代から連綿と続いているところの「日本の宗教」というものは<森の宗教>で
ある。』
『 この<森の宗教>の思想について、私は長い間いろいろと考えてきたのですが、結
局、森の宗教の思想 は、生きとし生きるものはすべて共通の生命で生きている。そして
生きとし生きるものはすべて成仏することができるという考え方だと、最近思うようにな
りま した。動物の命も、山や川すら成仏できる。そして成仏するばかりでなく、生きと
し生きるものはすべて生死の間を循環している。』
『 植物や動物の命を尊敬して天地自然を尊敬する。そしてその天地自然や動物と調和し
て生きていく、共生する方法をわれわれは考えなければならないのです。』
『 人間は動物や植物を殺さなければ生きていけない面があります。動物の命を奪うにせ
よ、われわれと同 じ命をもった木を、そして動物を殺す訳ですから、その木や動物の霊
を手厚くあの世に送らなければならいのです。霊をあの世に返さなければならないので
す。 そしてまた木や動物たちにこの世に帰って来てもらわなければならない。私は、こう
いう宗教を今こそとりもどさなければならないと考えるのです。』
『 人間が生きていくということはどういうことなのか、それは植物も動物もみな同じ命
であって、すべて のものはあの世とこの世を循環しつつ、永遠に共生しているのだという
ことを認識しなければならないと思います。そういう思想が人類に浸透したときに、人類
は生き残る可能性がでてくるのだと思います。巨木の問題 は文明の根底に関する問題で
あり、そして巨木を中心とする街づくりは、21世紀を正視する街づくりでなければなら
ないと私は思います。』・・・と。
巨木の問題 は文明の根底に関する問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、
21世紀を正視する街づくりでなければならないと梅原猛は言っているのだが、私はそこ
まで深い思想ではなく、私のただ単なる感性として、「水と緑の町づくり」ということを
いろんな機会に言ってきた。この機会に、それをひとつ紹介しておきたい。
『 ほとんどの都市河川は、従来、都市化の急激な進展に対応して、洪水対策を急がなけ
ればならなかったので、高い直立護岸もしくはそれに近いものが多い。水面は、河岸から
随分下にある ため、景観も悪いし、ボート遊びなどもできない。護岸は、お化粧程度の
改善はできるかもしれないが、抜本的な改善は困難であろう。
しかし、水面については、堰を設ければ、豊かな水面を創出することはさほど難しい事
ではない。従来、そういった堰は、洪水対策上ないほうがいいので、 河川管理者は許可
しなかった。今もその方針が変わっている訳ではないが、私は、今の技術水準からして許
可はできると思うし、場合によれば、河川管理者がそ れを設置することも可能であろ
う。 河岸は、道路になっている所が多く、緑道にはなりにくいかもしれないが、河川管
理用の通路として確保されている所もあ るので、そういった所は、工夫をすれば十分緑道
になり得ると思う。 憩いの広場は、公園橋として整備できると思うが、河川に隣接した
土地があれば、ポケットパークを逐次作って行けばいいであろう。河川は、線として、町
の 景観上かけがいのないものであるので、場所はよほど考えなければならないが、橋上
レストランというものも考えられるかもしれない。』
『 近年は、ビオトープという ことが都市計画上も重要な課題になって来ているが、ビ
オトープで大切なことは、水と緑のネットワーク化ではなかろうか。都市計画に確かに
「緑のマスタープ ラン」というのがある。しかし、水と緑を一緒に考えた「水と緑のマ
スタープラン」というものはない。何故か。 都市河川は、確かに、公園サイドから見て
魅力のない状態になっている。しかし、今述べたような、水と緑のプロムナードとか治水
緑地とか、河川サイドと公園サイドが共同して取り組めば、都市河川も魅力のあるものに
なってゆくはずである。いや、絶対にそうしなければならない。そうでないと、我が国が
国際的に 尊敬されるなんて事には到底ならないと思う。我が国は、我が国の伝統的な自
然観、それは、私に言わせれば、先に言った「自然が人工を完成し、人工が自然を 完成
する」という自然観であるが、そういう自然観に基づき、美しい国、美しい町を作ってい
かなければならない。相当の予算がかかっても。かかる観点から、河川サイドと公園サイ
ドが協力して、「水と緑のマスタープラン」 を策定しなければならない。』
『 現在は、今までの急激な都 市化の進展により、自然環境という観点からは問題も少
なくないが、それでも都市における残された貴重な自然空間である。したがって、これを
大切にしなけれ ばならない。これを大切にし、現状の改善すべき所は改善し少しでも理
想的な姿にもって行く、そのような努力が必要であろう。 河川を都市における貴重な自
然空間と見たとき、最も大きな問題は、河川と背後地との関係が多くの場合切れていると
いうことである。これを何とか改善しな ければならない。 河川は、洪水の流れる所で
もあるので、自ずと河川管理上の制約があって、緑、とりわけ高木が少ない。自然生態系
を考えたとき、理想を言 えば、これは大きな問題であって、何とかしなければならない
問題ではなかろうか。 河川を水と緑の回廊と考えるのであれば、所々において、どうし
ても河川と一体になった林あるいは森が必要である。勿論、河川サイドでは、目下のとこ
ろ、 何ともならない問題である。しかし、これからの問題として、今後、公園サイドに
お願いするか、自然公園ということで環境庁にお願いするか、あるいは総合的な河川環境
整備制度を創設して河川サイドで実施するか、方法はともかく、21世紀を視野にいれた
新たな取り組みを急ぎ模索しなければならないと思う。 当面の問題としては、河川に隣
接する背後地の公園で、河川あるいは河川公園と一体的な形になっていないものがある。
至急これの改善が必要であろう。』・・・と。
日本生態系協会は、日本におけるビオトープの草分けであり、人工的に形作られた水路
やため池、学校の生物観察池など、より自然に近い形に戻し、それによって多様な自然の
生物を復活させるというものである。日本生態系協会の熱心な取り組みのお蔭もあって、
今では都市での実例は実に多く、学校ビオトープのように環境教育の一環で学校などの教
育施設に設置される例も少なくない。しかし、都市におけるビオトープを増やしていく余
地はまだまだある。
巨木の街づくりや「水と緑のネットワーク」とあわせて、ビオトープをもっともっと増
やしていけば、都市における自然はかなり改善され、都市に小動物が生息するようになる
だろう。となれば、都市における神の「投企」が感じやすくなる。都市における自然の回
復が関係機関の力強い取り組みによっておおいに進むことを願ってやまない。
以上、梅原猛の「巨木の町づくり」と私の考える「水と緑の町づくり」についてその要
点を述べたが、実は、町づくりにおいても「陰」というものが重要である。今まで「陰」
の哲学をじっくり考えたことはなかったのだが、この本では稿を改め「陰」の哲学につい
て述べてみたい。
第4節 「自然の原理」とは?
(1)「自然の原理」と「山の霊魂」
第2節「自然の神と技術の神との同盟」で述べたように、「エロス」は生存の原理でもあ
るが、消滅と死の原理でもある。何ものもエロスなしに存在しないし、またこの神を通じ
て、万物は存在することをやめる。かれはまさに、生と死の原理であるシヴァの本性を顕
わしている。「エロス」については、私の電子書籍「エロスを語ろう・・・プラトンを超
えて!」に詳しく書いたので、是非、それを読んで欲しい。
さあそこで、中沢新一と国分功一郎との対談集「哲学の自然」(2013年3月、太田出
版)が最近出たので、それとの関連で「自然の原理」とは何か、それをはっきりさしてお
かねばなるまい。この本は、哲学の世界で、歴史的に、自然というものがどのように考え
られてきたかを縦断的横断的に論じたもので、随分、自然哲学の勉強になる。しかし、
「自然の原理」とは何か、その定義が必ずしも判りやすく語られている訳ではない。そこ
で、私は、この際、「自然の原理」とは何か、その定義を行っておきたい。「自然の原
理」とは「生成と消滅の原理」である。狭義には「生と死の原理」。生命の原理。「いの
ちの原理」と呼んでも良い。広義には、自然現象が生起する、その原理である。
中沢新一は、「哲学の自然」(2013年3月、太田出版)の中で、「ニソの杜」で働い
ている原理は原発を進める原理と対置する論理であって、「ニソの杜」で働いている原理
は「生と死の循環」だと言っている。「生と死の原理」は、「生命の原理」であって、
「生命」というものは、「魂」を通じて「生成と消滅」を繰り返していくのですね。その
根源は「エネルゲイア」だというのがホワイトヘッドの哲学だが、「生成と消滅」、それ
は、すべての存在の根源的なものである。それが「自然の原理」なのである。「神のみわ
ざ」と考えて良い。
なお、中沢新一は、「グリーンアクティブ」という運動を「自然哲学」の可能性を示すひ
とつの活動存在だと言っているが、私もそう思う。だから、これから、自然志向はますま
す強まっていくし、山は「心の故郷」になっていく。これはハイデガーの憧れであった。
岩井 國臣 土曜日 午前 5:51
なお、私の電子書籍「霊魂の哲学と科学」の最終章「終わりに」書いたが、 ケンブリッ
ジ大学のスティーブン・ホーキングも、現在、私たちが見ている宇宙は「神」のような、
何らかの手によって作られた設計図にしたがって作り出されたのだという趣旨のことを
言っている。
桜井 邦朋(さくらい くにとも)という大先生がおられる。桜井邦朋(1933年5月27日生
まれ、京都大学理学部卒業、神奈川大学名誉教授。 )は日本の代表的な宇宙物理学者。
太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威であり、現在、早稲田大学理工学部
総合研究センター客員顧問研究員とユトレヒト大学、インド・ターター基礎科学研究所、
中国科学院の客員教授を努めている、まさに日本が誇る世界的学者である。その大先生
が、「宇宙には意志がある」という本(2001年6月、徳間書店)を出しておられる。
その本の中で先生は次のように言っておられる。すなわち、
『 ここで、私は一つの仮説を読者に提示したいと思う。それは「人類の誕生は、宇宙の
進化から必然的に生み出された結果なのではないか」ということである。すなわち、この
宇宙は私たち人間を誕生させるために存在しているのではないか、ということである。私
たちは、たまたま地球上に生まれたのではなく、宇宙そのものが私たちを必要としている
から、知性を持った人類を生み出したのだ、ということだ。もちろん、読者の中には「そ
んな馬鹿な」と思う人も多いだろう。確かに常識から考えれば、「人類を生むために、宇
宙が作られた」というのは、暴論に属する話かもしれない。(中略)しかし、最新の物理
学の成果から考えると、このような推定はけっして暴論とはいえないのである。この「宇
宙は人間を生み出すためにある」という考え方を、現代物理学では「宇宙の人間原理」と
呼ぶ。最初にこれを提唱したのは、アメリカのロバート・ディッキーという宇宙論学者で
あった。もちろん「宇宙の人間原理」は、あくまで仮説である。この考え方に対して反対
意見を唱える人もいる。しかし、この原理は単なる思いつきで作られたアイディアではな
い。物理学の最新知見をもとに言われていることなのだ。』
『 ケンブリッジ大学のスティーブン・ホーキングも、現在、私たちが見ている宇宙は
「神」のような、何らかの手によって作られた設計図にしたがって作り出されたのだとい
う趣旨のことを言っている。物理学に「神」とか「創造主」という言葉を持ち込むのはき
わめて危険なことであるのは言うまでもない。しかし、現実の物理学の歴史を見ていく
と、今や私たちは「創造主」の領域に迫りつつあるというのも、事実であろう。この宇宙
を理解していこうとする人間の努力は、宇宙創成の瞬間をも解き明かそうとしている。ま
た、一方では生命進化の秘密も、徐々に明らかになりつつある。36億年前に地球上に誕
生した生命は、今や「神のみわざ」を理解しようというところまできているのであ
る。』・・・と。
私は、「平和原理」を追い求めている。そしてまた、上述のように、桜井邦朋は「人間原
理」が物理学の最新知見にもとづいて言われていることを述べている。
「人間原理」は「宇宙の意思」である。私は、ニーチェの「重力の魔」と「力への意思」
について、私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」のなかで詳しく説明したが、「重
力の魔」の働きかけにもめげずに、高見に向かって階段を一歩一歩登っていくには、
「神」に「祈り」を捧げることが必要である。「神」に「祈り」を捧げるということは、
「神に伺いを立てる」ということであり、「神」の「さよう、さよう」という声なき声を
聞くことである。「宇宙の意思」とは、「神」、それは創造主とか唯一絶対神と呼んでも
同じことだが、「神」というものは「正義」を好む。「悪魔」は不正義を好む。したがっ
て、「神に伺いを立てる」ということは、正義に向かうことでもある。しょっちゅう
「神」に「祈り」をささげている人は道を誤ることはない。「正義の魂」が宇宙に満ちれ
ば、国家は平和になる。「宇宙の意思」とは、「正義の魂」が宇宙に満ちることである
し、国家が平和になることである。
すなわち、物理学の最新知見にもとづいても、「自然の原理」とは「神のみわざ」のこと
である、といっても良い。また、「哲学の自然」(中沢新一と国分功一郎の対談集、20
13年3月、太田出版)の中でスピノザの研究の第一人者・国分功一郎によると、「スピ
ノザは神とは自然そのものである」と考えたそうだが、そういうスピノザの考えから言っ
ても、「自然の原理」とは「神のみわざ」のことである、と言っても良い。しかし、そう
いう定義では、「山地拠点都市」のあり方を考える場合に、具体的な政策と結びつきにく
いので、この本「山の霊魂と奥の哲学」の文脈から言って、「自然の原理」とは「山の霊
魂の働き」と定義しておきたい。ただし、これは狭義の定義であって、広義には、「自然
の原理」とは自然界において人智を超えた摩訶不思議な働きをも含むので、山地拠点都市
の都市環境整備に当たっては、常に異常な災害のことを考えねばならない、ということを
申し添えておかなければならない。いずれにしろ、「山地拠点都市構想」においては、
「自然との共生」が大きな課題である。
(2)共生社会(協和社会)を夢見て!
社会構造の問題は、世界構造の問題も含め て、三元論、すなわち「トリニティ論」でない
と解けない。心の問題、魂の問題が絡むからだ。物質的な世界を意味する「意味平面」に
垂直な「魂の自由」を表 現する「第三の軸」を考えねばならない。私は、「リズム人類
学」の立場から、音楽でいう「協和」と「不協和」という言い方を提案している。「ハー
モニー」とか「響き合い」をイメージでき るからだ。魂の響き合い・・・。
資本=ネーション=国家という「トリニ ティ構造」において、心の問題、魂の問題に関係
するのは、ネーション(民族)であり、これが「第三の軸」に相当する。「自由」、「平
等」、「共生」という 「トリニティ構造」においては、「共生」が「第三の軸」に相当
する。ここでは「協和」という新たな言葉を提案している。「共生」の内、「コミュニ
ケーショ ン」なり「触れ合い」から一歩進んで・・・何かを一緒にやる場合の・・・
「連携」つまり「ネットワーク」が「協和」である。
生物学的な意味での狭義の「共生」、それ と「コミュニケーション(触れ合い)」と
「ネットワーク(連携)」は、哲学的には同じことである。「共生」は傷つけ合うことも
ある得る状態。「コミュニ ケーション(触れ合い)」は意見が一致しなくていいからと
もかく相手の立場になって話を聞く状態。意見は一致しなくていい。「ネットワーク(連
携)」は一 部で良いから意見が一致して一緒に何かをやる状態。それぞれニュアンスの違
いはあるが、哲学的には一緒で、これから21世紀は「共生社会」を目指そうと 言っても
良いし、「コミュニケーション社会」を目指そうと言っても良いし、「ネットワーク社
会」を目指そうと言っても良い。まあ、同じことだ。ここでは、 「コミュニケーション
(触れ合い)」と「ネットワーク(連携)」を含み、単に「共生」と呼ぶ。
だから、一言で「共生」といってもさまざ まは形態があるのである。「地域コミュニ
ティ」はさまざまな人が「矛盾だらけの人生」というか「矛盾社会」を生きており、「共
生」の実体験はさまざまだ。 お互い傷つけ合いことはしょっちゅうだし、話し合っても
なかなか相手が同調してくれないので苦労するなんてことも日常茶飯事に起きる。もちろ
ん、意見が一 致して一緒に何かをやるということもある。「地域コミュニティ」は社会の
縮図である。社会の最小単位「スモールワールド」である。したがって、ネーション (民
族)と「共生」と「地域コミュニティ」は、「心」に関係する「第三の軸」に相当するの
である。かかる観点に立って、私は、資本と国家と「地域コミュニ ティ」という「トリニ
ティ構造」を念頭においている。現在、日本では、あまりにも資本と国家が強すぎて、
「地域コミュニティ」がほとんど消えかかってい る。私は、ここにさまざま社会問題が発
生する根本原因があると考えている。
今「無縁社会」が深刻な問題になってきて いるが、この問題は、「自立」に対する認識
が社会全体としてあまりにも希薄すぎる・・・というところからきている。
「自立」は、周りの人とのいろんな関係の 中でできていくものである。決して独自で
「自立」できるものではない。「ネットワーク」の最小単位は三人である。三人は極端で
あるにしても、そういう濃密 というか小さな「ネットワーク」の中で「自立」が達成で
きるのである。すなわち、「無縁社会」の問題は、「地域コミュニティの自立」を図らな
い限り解決で きない。「地域コミュニティ」はほとんど消えかかっている。それが問題の
核心でだ。
「ネットワーク」の心髄は何か? 私はこ のシリーズで「アイデンティティネットワー
ク」を紹介したが、自己の「アイデンティティネットワーク」と他者の「アイデンティ
ティネットワーク」とがどこ でどう響きい合うのか? そういう響き合いの中で、はたし
て「魂の自由」は得られるか? 「欲望に満ちた社会」というか「矛盾社会」を生きなが
ら、はたし て「ネットワーク」によって・・・森岡正博のいう「転轍」は行なうことが
できるのか? などなど・・・「ネットワーク」については、まだまだ勉強しなけれ ば
ならないことが多い。しかし、ここでは、とりあえず、「地域コミュニティの自立」の問
題は「魂の自由」の問題でもあり、世界構造を考える上でもっとも大 事な問題であ
る・・・ということを提起した次第である。
今、日本は、世界に先駆け、「地域コミュ ニティの自立」の問題と取り組まなければなら
ない。現実は混沌とした「矛盾社会」ではあるが将来に希望はある。市場経済の中に、一
部、贈与経済(地域通 貨)を取り込むなど、「地域コミュニティの自立」のための新たな
取り組みの中に大いなる希望が湧いてくる筈だ。響き合いつまり「協和」という希望だ。
それ では、最後に、その希望を込めて宮沢賢治の詩を掲げておこう。こういう感覚が
「地域コミュニティ」の共通感覚(常識)になれば良い。
雨 ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噲ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
なお、上記の論考は、「将来の世界構造」という私の一連の「あとがき」である。「将来
の世界構造」については、次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekai10.html
さらに、「共生の論理」(協和の論理)については、私の一連の論文があるので、それも
ここに紹介しておきたい。是非、参考にしてほしい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/00simizu.html
「共生」とか「協和」は贈与の問題、すなわち地域通貨の問題と深く結びついている。日
本復興を図る上で「地域通貨」は避けて通れない問題である。市場経済をなくすことがで
きない以上、贈与経済とのハイブリッド経済を考えねばならない。世界経済の行く末及び
世界構造のあり方を考えたとき、どうしても地域通貨が浮かび上がってこざるを得ない。
私の電子書籍「祈りの科学シリーズ(5)」の「地域通貨・・地域の自立的発展」では、
地域通貨について若干の考察をした。地域通貨の問題は、現下の緊急、かつ、重要な国内
問題である。「農」は国の基本であり、地域の基本である。「農」を基本とした地域の自
立的発展を図らない限り、地域コミュニティは崩壊をつづけ、やがて日本は崩壊するに違
いない。これからは心の時代である。家族農業も大事にし、「協和」を旗印に、輝かしい
地域コミュニティと日本を創っていきたいものだ。
第3章 知恵のある国家とは?
私は、 「御霊信仰哲学に向けて」という論文の「おわりに」次のように述べた。すなわ
ち、
『 プラトンは、軍人に対し国家が行う特別の教育の他に、軍人になる人の生来の素質と
か一般の的な青少年教育をも重視している。私も同感である。しかし、私の霊魂論から、
私は、親たるものも子供のために魂を磨いておく必要があると考えるし、家庭や地域なら
びに学校において、魂を磨くための教育というものが大事であると考える。すなわち、私
は、教育以前の問題として、魂を磨くための生活環境とか社会環境を重視している。その
観点からいえば、知恵のある国家の知恵に、国民の生命と財産を守るための知恵の他に、
魂を磨くための生活環境とか社会環境を作っていくための知恵も含めて考えたい。今後、
私は、後者の知恵についていろいろと考えていきたい。したがって、私が知恵のある国家
という時、魂を磨くための生活環境とか社会環境の整った国家という意味である。今後、
私は、知恵のある国家構想として、山地拠点都市構想したいと考えている。それは「山の
霊力」などに焦点を当てた山地の拠点都市づくりの構想であり、私の霊魂論がベースに
なっている。乞うご期待!そのことを申し上げてこの論文の終わりとする。』・・・と。
プラトンはその霊魂観に基づいて国家論を展開した。 今後、日本のリーダーには、プラ
トンの国家論を己の政治哲学として、真剣に国家の運営に当たって欲しい。わが国は21
世紀において今後世界から尊敬されるには、知恵があり、勇気があり、節制があり、正義
に満ちた国家でなければならないが、この四つの要素の内、複雑でいろんな意見が錯綜す
るのは「知恵のある国家」についてである。知恵にはいろんな知恵があり得るということ
だ。しかし、私は、「知恵のある国家」とは、ヘーゲルがいうように、宗教の力を借りる
のではなく、啓蒙や教育によって、祖先の霊に「祈り」を捧げるとか、道ばたのお地蔵さ
んなどの神々に手を合わせるとか、そういう生活習慣が身についた大人や子供が少しでも
増えるにしなければならないのではないかと思う。そのための生活環境とか社会環境の
整った国家、それが私の目指す「知恵のある国家」である。それは、「山の霊魂」と
「奥」を大事にする国家である。
「山の霊魂」については、のちほど「後編」で詳しく述べるとして、ここでは「奥」の思
想については、まず最初にこの章で取り上げておきたい。そのあとで、教育のあり方と新
たな価値観の問題を論じたい。
第1節 「奥」の思想
「奥」の空間というのは、ひとつの「シニフィエ」であって、「自然の霊力」というか
「宇宙の不思議な力」を感じることのできる特殊な空間である。つまり、「奥」の空間と
いうのは、「宇宙の原理」というか「自然の原理」の働く空間のことである。そういう空
間は、顕微鏡の中にもある。顕微鏡で生物の細胞の動きなどを観察していると、生命の不
思議を感じ、自然の摩訶不思議なところにある種の感動を覚えることがある。しかし、国
土政策の観点、地域政策の観点から言えば、「自然の原理」のはたく空間を国土や地域に
どのようにつくっていくかということである。また、青少年の教育という観点から言え
ば、自然の不思議を感じること、それは「身体と脳の学習プログラム」の根本的要素であ
るので、「身体と脳の学習プログラム」を実行できる空間を国土や地域にどうつくってい
くかということになる。
「奥」という言葉が万葉集などの古典でどのような使われ方をしているか、そういったこ
とを解説している國學院デジタルミュージアムというホームページがあるのでまずそれを
見てみよう。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68369
この解説によると、「奥」という言葉は、「場所の奥まった所」とか「心の奥」などとい
うように空間的な意味で使われる場合と、「将来的な行くすえ」という時間的な意味で用
いられる場合があるという。 後者の例としては、万葉集の恋歌に多く見られるというこ
とらしいが、前者の例としては、恋情を心の奥に秘めているという意味で使われる場合の
ことであり、その場合、自身の心、またそこに宿る霊魂とのかかわりを意識してのものと
見られるのだという。「奥」が「霊魂」と深く関わっているということは、特に私の言い
たいことだ。さらに、國學院デジタルミュージアム( 菊地義裕)によると、前者の例と
して、「奥山」や「奥に思ふ」という例があり、その例の場合は、「奥」には神霊や霊魂
が宿るという思考をみることができるのだという。
なお、大漢語林に奥のつく言葉が載っているが、それによると「奥」には上述の「場所の
奥まったところ」という使い方の特殊なものだと思うが、奥壤(おくじょう)という言葉
があって、都市に対して田舎のことをいうらしい。また、奥区とか奥隅という言葉があっ
て、この場合は、国の中央部に対して辺境の地をいうらしいが、「奥」には「中心」に対
する「辺境」という意味がある。
1、辺境の哲学
山口昌男の『天皇制の文化人類学』(二〇〇〇年・岩波書店)では、次のようなことが指
摘されている。すなわち、
『 古代日本において、天皇の過剰なダイナミズムはさまざまな形で表現された。生殖力
の誇示はその一つの表現で あった。天皇の性的能力は宇宙のエネルギーの発現と同一視
された。皇后との聖なる結合は言わずもがな、性的放縦さえ、天皇たるものの能力の発現
として容認されたのである。皇子の否定的なイメージは王権のこういった側面の延長にあ
る。混沌が秩序を支えているという「両義的論理」こそが、光源氏(ひかるげんじ)の活
力を裏から支え、表面的には彼を破滅から守るものとして作用させている。すなわち、こ
の「両義的論理」によって、光源氏(ひかるげんじ)の奔放なふるまいも個人的な悪とは
捉えられず に宇宙論的な意義付けを与えられることになる。』・・・と。 田舎の論理と都市の論理は違う。私は、今までいろんな場で「両頭截断」と言ってきてい
るが、「両義的論理」は、「両頭」、すなわち相異なる二元論的な論理を截断する。それ
が、私のいう「協和」である。
「両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)」とい
う禅語を略して「両頭截断」と私はいっているのだが、その意味するところはきわめて奥
が深い。摩多羅神を考える場合にも、エロス神を考える場合にも、少なくともこういう一
元論的認識(絶対的認識)の重要性だけでも理解していないとダメだと思うので、ここで
厳密を期しておきたい。
この禅語は『槐安国語』(かいあんこくご)に出てくる。『槐安国語』は燈国師が書い
た『大燈録』に、後年白隠が評唱を加えたものである。禅書も数多いが、その中でもっと
も目につくものは、道元禅師の『正法眼蔵』と『槐安国語』といってよいと思ふ。両書は
いずれも難解な本である。前者についてはすでに多数の学者がその研究の成績を発表して
いる。しかし、『槐安国語』についてはほとんど研究らしい研究はない。そうだけれど、
大燈国師が胸中の薀蓄(うんちく)を披瀝したところへ、白隠禅師の悟りを加えたたもの
であるから、この本は日本の禅の極限に達したものといってよいだろう。
この禅語については、 松原泰道がその著「禅語百選」(昭和四十七年十二月、詳伝社)
で詳しく説明しているので、それをここに紹介しておく。すなわち、
『 両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)
両頭というのは、相対的な認識方法をいいます。相対的認識が成り立つのには、少なくと
も二つのものの対立と比較が必要です。つまり両頭です。たとえば、善を考えるときは、
悪を対抗馬に立てないとはっきりしません。その差なり段落の感覚が認識となります。
さらに、その差別を的確にするには、それに相対するものを立てなければなりません。
之が三段論法推理の基本となります。その関係は、相対的というよりも、三対的で、きわ
めて複雑です。知識が進むにつれてますます複雑になります。その結果、とかく概念的と
なります。また、比較による知識ですから、二者択一の場合に迷いを生じます。インテリ
が判断に決断が下せないのもその例でしょう。なお、恐ろしいことは、比較というところ
に闘争心が芽ばえることです。この行きづまりを打開する認識方法と態度が、禅的思索で
す。まず相対的知識の欠点が相対的なところにある以上、この認識方法と態度とを捨てな
ければなりません。それを「空(くう)ずる」といいます。ときには「殺しつくせ」「死
にきれ」と手きびしく申します。肉体を消すことではありません。相対的認識や観念を殺
しつくし、なくして心を整地することです。
相対的知識を殺しつくすのは絶対的知識です。しかし、相対に対する絶対なら、やはり
相対関係にすぎません。たとえば、「私が花を見る」のは、私と花と相対して花の認識が
生まれ、その花の色や色香(いろか)や美醜は、またそれに対するものが必要になりま
す。どこまでも相対知です。
次に、私は外の花を見ない、唯一絶対として私が花を見ると、一応は絶対値に立ったよ
うですが、相対に対する絶対値で、やはり相対的関係が残っています。「私」が「花」を
見るという我と花とが対しあっています。純粋絶対知とは、私が花を見るのではなく、花
そのままを見ることです。私が花そのものになって見るより見方のないことを知るので
す。
これを一段論法といいます。その名付け親は、明治後期の理学博士で、禅の真髄をつか
んだ近重真澄(ちかしげますみ)です。禅的さとりを得た人たちは、必ず従来とは、違っ
た見え方がしてきたと喜びを語ります。それは「ある立場から、規定づけられた見方を脱
した」ということでしょう。道歌(どうか。仏教などの趣旨をよんだ歌)の「月も月、花
は昔の花ながら、見るものになりにけるかな」が、一段論法の認識方法と、その結果を
歌っています。また、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)が、無情を感じて法然上
人の下で出家して蓮生坊(れんしょうぼう)と呼びました。彼の歌と伝えられるものに
「山は山、道も昔に変わらねど、変わりはてたるわが心かな」にも、それが感じられま
す。両頭的な相対的認識を、明剣にたとえた一段論法の刀で、バッサリと断ち切る必要を
説くのがこの語です。相対的認識を解体した空の境地です。』・・・と。
私は先ほど、『 田舎の論理と都市の論理は違う。私は、今までいろんな場で「両頭截
断」と言ってきているが、「両義的論理」は、「両頭」、すなわち相異なる二元論的な論
理を截断する。それが、私のいう「協和」である。』・・・と申し上げ、ただいまは「両
頭截断」の説明をしたのだが、それも終わったので、この辺りで「協和」について説明を
しておきたいと思う。
中沢新一は、先に紹介したように、「狩猟と編み籠」の中で、次のように言っている。す
なわち、
『 人類の論理的に思考する能力は、<過剰性や放射性や増殖性をはらんだもの>を理解
しようとするときには、必ずと言っていいほどに、「トリニティ=三位一体」的なモデル
を利用しようとします。木 を木と言い、山を山と言い、水を水と言い、この世界のあら
ゆるものを記号的な意味情報として伝えようとするときには、二元論のモデルで十分で
す。じっさい 一切のものごとを情報化して記憶・計算・伝達するコンピューターは、0と
1との二元論ですべての情報処理をすませています。
ところが、木がただの木ではなくなって、なにか詩的な意味を含蓄するようになるときに
は、それではすまなくなります。「意味」の平面から過剰しあふれ出してくる「価値」の
問題が、発生するからです。意味平面を垂直的に横断していく第三の力を考えにいれなけ
れば、価値の問題は思考不可能です。そのために、詩学は、言語学と違って、増殖を本質
とする価値なるものを理解に組み込むためには、三元論のモデルを採用することになりま
す。』・・・・と。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekai02.html
私は、ここで、過剰性とは人間の欲望によって「資本」が増えつづけて過剰となる状態を
意味していると理解し、放射性とは資本の過剰からさまざまな「平等」の 問題が発生し
てくる状態を意味していると理解している。そこで二元論的に、縦軸に「自由」と「不自
由」をとり、横軸に「平等」と「不平等」をとれば、通常の 社会状態はその四つの象限
上に表現できるのだ。かかる観点から、中沢新一はその平面を「意味平面」と名付けてい
る。
しかし、中沢新一が言うように、「魂」の問題は扱えない。見田宗介が著書「社会学入
門・・・人間と社会の未来」(2006年4月、岩波新書)で指摘しているように、政治
哲学の上で、「魂の自由」は極めて重要な問題だ。「シーザーのものはシーザーに。」と
いう訳だ。「魂の自由」を取り扱うためには、ネーション (民族)、私流に言えば「地
域コミュニティ」ということになるのだが、それらに関わる「意味平面」に垂直な第三の
軸を考えねばならない。すなわち、 ヘーゲルの社会に関する「トリニティ構造」におい
て、ネーション(民族)や「地域コミュニティ」の問題は、「魂の自由」に関する軸を考
えないと問題を解くことは難しい。「魂の自由」の問題は「グノーシス」でないと解けな
いのである。
私は、ここに、「意味平面」に垂直な第三の軸、つまり「魂の自由」に関する軸に「恊
和」と「不協和」をとることを提案したい。「音楽」というか「リズム」に ちなみ、こ
れを称して「恊和軸」という。「音楽」については中沢新一の「文化人類学」を頭に浮か
べて欲しいし、「リズム」については中村雄二郎の「リズム 論」を頭に浮かべて欲し
い。
なお、内田樹の「辺境論」というのがある。これについては、次を見ていただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyongu04.html
彼は、「辺境論」の中で、『 日本社会の基本原理・基本精神は、「理性から出発し、互
いに独立した平等な個人」のそれではなく、「全体の中に和を以て存在し、・・・・一体
を保つ<全体のために個人の独立・自由を没却する>ところの大和(だいわ)」であり、
それは「和の精神」ないし原理ということだが、これは社会関係の不確実性・非固定性の
意識にほかならない。』・・・という川島武宣(たけよし)の考えを紹介している。この
川島武宣の考えは、中心と辺境の問題を考えるとき、見逃すことのできない考えであると
思うので、ここに紹介しておいた。日本では、中枢都市と山地拠点都市とは、その論理は
相異なるけれど、それなりの条件さえ整えることができれば、じゅうぶん協和することが
できる。そこがこれからに日本の大きな可能性である。
「グノーシス」とは、歴史的に、「キリスト教から独立した別個の宗教・哲学体系の「認
識」を代表するもの」と言われているが、私は、中沢新一と同じように、より広い概念で
とらえたい。すなわち、広域に渡って支配的な宗教から独立した別個の宗教体系や哲学大
系の「認識」を代表するもの」と考えたい。中心地の文化の影響を受けながらも、その地
域特有の文化を保持している。時代の進展とともにその地域の文化は今までにない新たな
文化に変質してゆくが、その新たな文化は、中心地の文化を変質せしめる。その力は、人
びとの交流の力による。今私が問題にしている「奥」の哲学との文脈でいえば、中心地は
地方の中枢都市であり新たな文化の発信地は「山地拠点都市」である。グノーシスを生じ
せしめるのは、中枢都市と山地拠点都市との交流である。
なおグノーシスについて、私は今まで私のホームペジでいろいろ書いてきたので、それを
参考にしてもらいたい。
https://www.google.co.jp/search?q=%83O%83m%81%5B%83V
%83X&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&hl=ja&btnG=Google+%8C%9F%8D
%F5&domains=kuniomi.gr.jp&sitesearch=kuniomi.gr.jp
では・・・、交流とは何か? 大漢語林によると、「混じり合って流れる」「行ったり
来たりする」「系統の違うものが互いに交わり合う」とあるが、都市と農山村との交流と
いうとき、都市から農山村に行くだけでは不十分で、農山村からも都市に流れなければな
らないと思う。一方通行は交流と言うべきでないのだ。それともう一つ大事なことは、交
流は、互いに混じり合って一緒に何かを行うということがなければならないということ。
ここではこの点だけを指摘しておいて、中枢都市と山地拠点都市との交流の具体策につい
ては、後で述べる。
その前に、少し道の話をしておきたい。交流は道を通じて行われる。古代は、山の道が中
心であった。それも尾根筋が中心であったのである。その後、近世になって、川の上流に
村落が発達すると、道は川沿いに作られる。近年の高速道路は、川とか山とか関係なく作
られるので、これら道の歴史を考えると、山地拠点都市と上流村落との交流は一般道路だ
が、山地拠点都市と中枢都市との交流は、一般道路にこだわらず高速道路も含めて、もっ
とも時間距離の短い道路を通じて行われる。ただし、高速道路を通じて交流が行われる場
合であっても、山地拠点都市の交流拠点は、「道の駅」であり、中枢都市の交流拠点は、
「まちの駅」である。そもそもそれらは「交流」のために一つの拠点として考えられてい
るからだ。このことは胆に命じておいてもらいたい。
2、槙文彦の「奥の思想」
名著「みえがくれする都市」の中に、槙文彦による、「奥の思想」という論文がある。
http://www.suga-architects-office.com/diary/2010/01/post-932.html
日本人の都市や建築には、「奥行」が織り込まれているということを示した論文である。
日本においては、歴史的な建物の中を歩いたり、あるいは都市の中を歩いたりする際に、
奥深い、秘めやかな場所へと向かっていく感覚がある。
京都の路地空間、密教寺院などに限らず、ごく一般的な寺や神社、昔の屋敷や民家などに
おいても、最も奥まった場所に、最も重要なものがあるという感覚がある。このことは現
在でも有効であるように思われる。
今でも、「隠れ家的なバー」などで表現することができる都市の奥まった部分にある秘め
やかな空間を求めている。アクセスしにくい、人に気付かれにくい場所。しかし気配があ
り、そこに価値が見出される。
3、 片岡 智子の「奥の思想」
哲学では、宇宙全体(マクロコスモス)の一部でありながら全体と類似したものを小宇宙
(ミクロコスモス)ということが多い。人間や芸術作品などである。それに対し、片岡智
子は、「奥」 という言葉があらわすただならない空間をインターコスモスと呼び、
『日本はこのマクロでもミクロでもない「奥」(=心の奥、空間の奥)という空間に、聖
なるものを発見し、文化を築いてきたと言えよう。』と言っている。その代表的なもの
が、彼女は社叢(しゃそう)と言っているが、神社の構造に見られるという。そして、彼
女は、「このような社叢こそが日本文化を読み解く鍵ではないだろうか」と言っているの
で、以下、彼女の論考を紹介しておこう。
片岡智子は次のように言っている。すなわち、
『「社叢」とは、「社」が建築物に代表されるように人の手になるものを表わし、「叢」
が森や草木すなわち自然を表すと考えられる。日本人は、単なる自然崇拝ではなく、自然
に手を加えて土地を整え、社を作り、そこに神を祀ってきた。言い換えれば、社叢はアニ
ミズムを文明化したもので、これこそ日本文化の特徴をなすものだといえる。では、その
インターコスモスを表現する「社叢文学」はどこに見出されるのだろうか。
『古事記』に、「倭は くにの真秀ろば(まほろば) たたなづく青垣 山籠れる(やまごも
れる) 倭し麗し」という歌謡がみられ、これが言葉として捉え得る最古の社叢文だと思
われる。この歌謡は死に瀕した倭建命が詠んだ国偲び歌で、『古事記』においては今の鈴
鹿山脈あたりから大和の国を眺めた景色を詠んだものとなり、従来、「畳のように重なり
合って垣根のようになった青々と茂る山に守られた大和は本当に美しい」と解釈されてい
る。だが、実際に奈良へ行ってみると、この解釈には今ひとつ納得しがたいものが感じら
れる。また、『日本書紀』には景行天皇が九州で望郷の歌として詠んだ同様の国偲び歌と
して登場する。
この二つの歌の共通点は、いずれも遠隔地から鳥瞰的に望んで大和を歌ったものとして捉
えられていることである。これらはマクロな見方で解釈されたものだといえよう。これら
の歌謡は早くに上田正昭氏が『古事記』、『日本書紀』にあるように名だたる人が詠んだ
ものではなく、民間の歌謡だったといわれているように、この歌謡は独立歌謡として捉え
られるべきであり、そこからインターな見方が浮かび上がってくる。以上のように本歌謡
は、本来インターな視点で読み解かれなければならない。そのように考えると「やまと」
は「ヤマのトコロ」という意味で、「くに」は天や空に対する「土地」を表す言葉と解さ
れる。従って、「くにのまほろば」は土地の一番秀でたところということになる。次の
「たたなずく」であるが、まず、「たた」は接頭語で「たたずむ」などと同じ「たた」であ
り、「なずく」は別の歌謡に「なづき田」とあるように馴れる、従うの意味であり、木々が繁
り、静かに親和してたたずんでいる様子を謡ったものと思われる。次に「青垣」である
が、これは漢語ではなく和製の訓読された熟語で、垣をなす緑の木々を讃えるために創ら
れた言葉だと考えられる。青々とした木々によって何かを隔ててそこを守るための「垣」
と表現し、その聖性を帯びた山のこもったところがヤマトであり、麗しいと讃えているの
である。考えてみれば「青垣」の「青」は自然を、「垣」は人工のものをあらわしてお
り、これは正に社叢の詩語に他ならないといえよう。最後の「うるわし」であるが、これ
は端麗という意味であるが、語源は大野晋氏が指摘されたように「潤う」の「うる」と同じで
あり、みずみずしさを重要視する日本の美的感覚を端的に現す和語だといわれている。
したがってここでのヤマトは青垣に囲まれた山籠れる奥処であり、そこは清水の潤う麗し
い所だと謡っているのである。近年、纒向遺跡で水の祀り場が発見されたが、これが三輪
山の麓であることを考え合わせると、ここが「大和」の発祥地ではなかろうか。大和を国
名としたのも、そこに山があって、その清水が湧き出るところを象徴するものだったから
であろう。ここには王権が成立する以前から、麗しい山が存在しており、古代人は聖なる
ものと仰ぎ見ていたにちがいない。それを言葉で表現し水祭りの歌としたのが、この歌謡
だったのではないか。これこそ社叢文学の源というべきであろう。このように社叢という
インターな命に根ざした世界を取り戻し、そうした眼差しで見ていくと、日本文化の、あ
るいは日本文学の根源的な諸相が解明できるであろう。』・・・と。
4、 日本集落の構成原理(園田稔)
歴史と伝統に裏打ちされた陰の「場所」と科学文明に裏打ちされた光の「場所」の組み合
わせ、それがこれからの国づくりに求めら れている。私達は、これから、光と陰の生活
空間を生きなければならない。そして、それをそのままそっくり、わが国の観光資源にし
なければならない。これが 私が提唱する「劇場国家にっぽん」の基本的な考えである。
これからの国土づくりは、光と陰の生活空間づくりでなければならない。私達は、そう
いう光と陰の生活空間の中で生活し、鋭い感覚を磨くとともに ひっそり吐息を秘そめる
ような穏やかな感性をも磨かなければならない。グローバルな市場を戦い抜く鋭い感性と
世界平和をリードする穏やかな感性を、私達日 本人はともに磨かなければならないので
ある。そして、そういう生きざまをそっくりそのまま世界の人々に見てもらわなければな
らないのである。それが私がい うところの「劇場国家にっぽん」であるが、それはとり
もなおさず中沢新一の目指す「モノとの同盟」でもあると思う。それをこれからの日本の
国是としなけれ ばならない。
さて、園田稔(京大名誉教授で秩父神社の宮司)によれば、本来、わが国の「マチの構
造」は、通常の日常的な生活空間のほかに、「鎮守の森」や「里 山」というような日常
的ではあるが非日常的な生活空間から成り立っていた。日常的ではあるが非日常的という
意味は、お祭りとか山菜取りとか非日常的な生活 形態の「場所」であるので非日常的、
しかし行こうと思えば容易に行くことができるので日常的・・・という訳だ。ところが、
近代の都市化によって、そういう 「マチの構造」がすっかり崩されてしまった。これから
の町づくりには、そういう「鎮守の森」や「里山」というようなコスモロジー(宇宙との
響き合い空間) を考えねばならないが、都市では現実になかなかむつかしい。したがっ
て、私は、園田実も言っているのだが、流域単位でそういう「鎮守の森」や「里山」に代
わるコスモロジー(宇宙との響き合い空間)を作らなければならないと考えているのであ
る。本来は日常的な生活空間に持つべき「鎮守の森」や「里山」を、それぞれの流域単位
に日常的な行動範囲を広げて考えていこうではないかという訳だ。いずれにしろ、私たち
は、そういう日常的な「場所」で、厳密な言い方をす れば日常的ではあるが非日常的な
「場所」で、「歴史と伝統に根ざした精神文化のその奥ゆきを生き、陰にかくれたひそか
なリズムに耳を傾けて、鋭い感性を磨 かなけばならない。」・・・のである。園田稔の
永年にわたる研究は、これからの町づくり、地域づくり、国土づくりに大変重要な示唆を
与えている。
21世紀に入り近代科学文明の世界化が問題になってきている今日、日本古来の精神文化
にふさわしいコミュニティづくりが重要だとする園田稔の研究 は実に貴重である。そも
そもの発想は柳田国男まで遡るらしいのだが、私は、この園田稔の研究を十分取り入れて
これからの町づくりの原則を固めなければなら ないと考えている。大畑原則というもの
も誕生しており、アメリカにおけるサステイナブル・コミュニティの動きも視野に入れな
がら、今こそ、私は、わが国らしい 町づくりを推進しなければならないと考えている。
以下、園田稔の研究の要点を紹介しておきたい。
『 第二次大戦後の焦土と化した都市の復興にも更に強まり、今度はアメリカ風のもっぱ
ら産業経済の効率化のみを追求した無機的な都市改造が推し進めら れて、今では国内ど
この都市をみても、およそ無表情なコンクリート・ジャングルやヒート・アイランドばか
りの羅列と化してしまっている。そこには、それぞれ土地の風土に根付いた個性的な景観
を活かし、伝来の地方色豊かな町衆文化を更に高めることで、おのずから住民の文化的な
帰属意識を高めるような配慮が少しも感じられない。要するに、いわゆるグローバル化を
至上とするアメリカの資本主義文明を上質の文化とはきちがえて、日本の大都市がますま
すアメリカ化しつつ文化的個性を喪失してしまっている。およそ文化とは永い歴史風土に
培われてこその伝統的個性のものである。たとえ経済が破綻しても民族は滅びないが、 文
化を喪失すれば民族は滅びてしまう。自動車や電話がグローバル化するように、情報言語
に便利だからといって日本語を英語にすげ替えるならば、日本文化が 破壊され、日本人
の国際的自負も失われよう。
国内の大都市がますます文明のグローバル化を強めるなかで、それに立ち後れる地方の
小都会が辛うじて伝存してきた文化的個性を今や逆手にとってマ チおこしの武器にし、
大都市民が見失った生活共同の潤いと魅力を発揮しようとしているというのが、現今の実
情ではあるまいか。』 『 わたしは、柳田の指摘する経済史的な日本に固有の町の発生因のほかに、もうひとつ
遡った日本人の生活史的な文化の要因をも考えてみたい。それが、 住民たちの生業や生
活を支え、しかも安住の心を満たすべき心象風景たる家郷景観ともいうべき集落形成因で
ある。具体的には、灌混用水の水源とも狩猟採集の 資源ともなる里山や奥山、また神々
や祖霊が鎮まる霊性の世界でもあってその象徴的な延長なり派生が集落に接する〈鎮守の
森〉だという、今でもなお全国 の古い集落の村や町にほぼ等しく見出だされる景観に着
目してみたいのである。
かつて農村工学の神代雄一郎(こうじろゆういちろう)は、日本の風土や文化にふさわ
しい農村のコミュニティ原理を発見するための実態調査を積み重ねるなかで、中国大陸や
欧米に広く営まれてきた「広場村」つまり集落の中心に公共的な広場をもつコミュニティ
とは極めて対照的な「街村」、つまり一本の道路の両側に家並みが連なるという、彼が
「紐状集落」と名付けた集落形成が日本の農村にほぼ共通する特色であることを見出だし
たが、さて彼が当惑した点は、この街村を住民たちのコ ミュニティたらしめる公共の中
心がどこに発見されるかということであった。近年しきりに国内各地で発掘される弥生時
代の環濠集落も含めて大陸的な広場村であれば集落中央に共同の広場があって、現存する
史的形態ではそこに集会のホールや神殿ないし教会の施設が歴然とコミュニティの中核を
明示するが、彼のいう 日本の「紐状集落」には、日本語のムラの語源である家々のムレ
(群れ)を成すにしてもそのムラを統合する中心施設がその内部に見当らないことに、彼
は当惑したのであった。しかし苦心の末に神代雄一郎(こうじろゆういちろう)がこの当
惑を解消した結論は、村の背後にいずれも「姿の良い山がある」という命題であった。そ
してその山の麓に鎮守の森があって、それが等しく街村の裏手や奥に鎮座する村氏神を構
成しているという形態こそが、一見しては家々の群れでしかない農村集落が、それでも村
落協同体を実現し保持する文化的な仕組みであることを、神代(こうじろ)は発見したの
であった。彼が論じるその仕組みとは、まず道路を挟む「向こう三軒両隣り」という六戸
の近隣単位があって街村全体が「往還」ともいう表通りを日常的には〈社会経済軸〉にし
て、外部の他町村とも交流しているが、毎年の春秋などの氏神祭礼には 街村の裏手に当
たる鎮守の社を通して神体山の神が神興などの行列を成して出御し、集落の「往還」をい
わば横断ないし縦断する形でその一角や耕地や或いは川岸や海浜の臨時祭場(仮宮・旅
所)に招迎される。こうして祭礼において出現する氏神往復の「神の道」こそが非日常的
な〈宗教軸〉であって、この際にこれが 〈社会経済軸〉たる「往還」と交錯する地点が
いわゆる「ちまた(巷=道股)」ともなって、そこに聖なる「市」が立つコミュニティの
中心が出現するというわ けである。
イチをマチと同義にして両語を言い換える例も枚挙にいとまない。特に近世の農村地帯
に盛んであった「日限市」「特に月に三度の三斎市が立つ市場で は、三日市、五日市、
六日市、八日市、十日市などはいずれもイチともマチとも呼び慣わして地名になる例が多
い。交易が盛んな土地では、六斎市が立って月に 六度の定期市が立つような集落にはイ
チバともマチバ、あるいは村方にたいする町方とも称され、やがて常設市として市町を名
乗るようになった。しかもそうし た市町や市場町は近くの有力な神社の門前市に由来し
ているか、あるいは市場の一角に市神を祀って市の安全や繁栄を祈っている例が多いが
「いずれにせよイチ がマチであることは、ムラにとってのマチがすなわちマツリという祝
祭の非日常的な時空間であって、人心が沸き立つような賑わいと交易や芸能が盛んに営ま
れるコミューナルな現象世界であることを意味している。日本語の二分範疇を使うなら
ば、日常のケ(褻)の状態にあるムラ社会が時に非日常的なハレ(晴)のイ チやマチの
状態の実現をめざすことになる。その意味で、マツリは本来ムラのマチ化を指すのであっ
て、それが盛んで力強いマツリであればあるほどムラに活気 あるイチ化やマチ化をもた
らすことになる。
実はもう一つ言及すべき大事な論点がある。それは、柳田が「町と称しながら三方里五
方里の大地域を含み深山を含む」といゝ、また神代(こうじろう)が村の背後に 「姿の
良い山がある」といったように、日本の集落構成には周囲の自然風土や景観がコスモロ
ジーとして参入してこそ家郷性を帯びたコミュニティが完成するという原理である。別に
言いかえれば、古来日本人の神聖な秩序観念には、日常的なコスモロジーの中心を人工的
な生活世界の中央に見える形で求めるのではな く、むしろ生活世界の「奥」ないし
「源」とも言える周縁的に隠れた形に求めるという傾向が強いのである。そのことは、た
とえば国語学の阪倉篤義など近年の カミの語源論の成果にみるように、日本語のカミに
は本来的に水源の山谷にひそむ隠れた生命的霊性を指す意味がある。偶像など形を見せぬ
神霊は、豊かで清浄 なカムナビ(神山)やモリ(杜)、ヒモロギ(神樹)やイワクラ
(神石)などをヨリシロ(憑代)にして宿る精霊であって、里宮である神社も普段は深い
鎮守の森こそが祭神が奥深く鎮まることを暗示する。
したがって村が町になり都市になって結果的に神社が市街地に囲まれても、基本的には
鎮守の森深く鎮座する形で日常的には森の自然に籠もるという様式は変わっていない。そ
して住民たちは、大陸的な都市集落のように都心に天高く費える大聖堂の威容に安心する
のではなく、むしろ周辺風土の豊かな自然の霊性を鎮守の森に迎え人れているというコス
モス的な「奥」ないし「本源」という形象に、家郷としての精神的安定を得てきたことを
見逃すべきではない。
この点については、建築学の榎文彦や上田篤が都市の路地裏の神社や鎮守の森の意義
に関連して論じてきたが、近年ではフランスの地理学者オギュスタ ン・ベルクが彼の邦
訳書『空間の日本文化』(昭和六〇年)のなかで「奥」や「裏」を日本的空間の特性とし
て本格的に論じている。
とにもかくにも鎮守の森が、日本的集落のコスモス的座標として、しかし集落の中央を
占めるのではなく集落の周縁にその「奥」を構成し、しかも背後 の住民生活を支える霊
的な風土をも表象するという、いわばコミュニティ文化としての家郷の造形は、明治以来
の都市文明化の大波にほぼ埋没してしまったかに 見える。』・・・と。
「山地拠点都市」では、深山に繋がる「奥」という空間を念頭において宗教軸(祭りの
軸)を考えねばならないが、現実には、すでにそういう地域構造が壊れてしまっているの
で、なかなか難しい問題であるかもしれない。それこそ「知恵」を働かせて、深山に繋が
る「奥」という空間というものを何とかつくり出していかなければならない。
5、「間」の思想
日本舞踊家で、川口流を創設した川口秀子さんは 間 について「舞踊は、間が基準の芸術
であることは言うまでもないが、ただ間に合っているだけでもいけないので、そういう間
を、常間(じょうま、定間とも書く)と言って斥ける。間が基準の芸術でありながら、常
間に踊ってはいけないというところが、日本的と言うか、日本舞踊のむつかしい、奥深い
ところなのだ。」と言っている。また、江戸時代の『南方録』という本にも、「音楽の拍
子でも、合うのはよいが拍子に当たるのは下手だ。雅楽には峯すりの足というのがあっ
て、拍子を打つ瞬間の峯に舞の足の峯が当たらずに、ほんのわずかずらすのが秘伝だ」と
あるそうだ。もちろん三味線もあてはまる。三味線と語りで成り立っている義太夫だが、
言葉の方は五、七でできているので、おのずと三味線を弾く場所も決まってくる。それが
常間と呼ばれる基準なのだが、演奏の時にはそこからずらす。三味線と語りがべったっと
よりそっていてはいけないのだ。しかし、そもそも常間がわかっていないと、それを斥け
ることもできないので、まずは常間をつかむところから始まる。そういえば剣道にも「間
合い」という言葉もあった。相手と自分との距離をさす言葉だ。舞踊にも三味線にも剣道
にもあるということは、調べれば日本のものにはほとんど間がかかわってくるのだろう。
私も長年小唄を習っているが、いつも師匠から言われているのはいわゆる 間 の取り方、
あるいは 間 の大切さである。しかしこれがなかなか難しく、苦労している。
剣道の「間合い」では、相手の竹刀と自分の竹刀の剣先が触れ合う程度で、その間が近く
なったり遠くなったりする。剣先だけでなく、互いの体の間をつかんで、伝わってくる気
配を読む。
「間」をとってうまく話すには? 役に立つUTubeが見つかったので、紹介しておきま
す。
http://www.youtube.com/watch?v=rJOybdfqzhU
「間」は私たちの生きる場を根拠づけるものであるだけでなく、日本文化では、とくに芸
術・芸能の面で、また人と人との間など、生き方においても、決定的な意味をもちつづけ
てきた。芸術から建築まで、人や世間、神仏とのつき合いから死生観ま で、一貫する
「間」の思想を見つめ直し、日本文化の本質を再確認しなければならない。
秘すれば花。秘すれば花なり秘せずは花なるべからず
これは世阿弥の書き残した『風姿花伝』の中の、よく知られた一節である。この花伝書
で、世阿弥は芸上達のアドバイスと、興行を成功させるための方法論を具体的かつ詳細に
書いている。一座の発展と、この芸を志す者に、世阿弥自身が獲得した奥義を伝えたいと
いう、やむにやまれぬ心情から書かれたようだ。
奥の深いものは見せれない。「間」において、観客には奥深いものを感じて貰うしかな
い。その感じ方は、観客次第だが、その自由な感じ方が、面白いのだし、花のように素晴
らしい。奥は「穴」の奥でもある。日本人は「穴」の奥に「ある」というもの、すなわち
神を感じることができる。
「間」の観念というのは、どうやら縄文時代から続いてきて、世阿弥によって完成された
もののようだ。中沢新一は、内田樹との対談集「日本の文脈」(2012年1月、角川書
店)の中で「能というものは中世よりもっと古代の死生観を形式化したもの」という趣旨
のことを言っているが、私もまったく同感で、能というものは縄文時代の死生観を中世の
人が芸能の型に形式化したものと考えている。ここで小林達雄の語る縄文人のすばらしい
感性とわが国の舞踊の縄文性を紹介しておきたい。小林達雄は、その著書「縄文人の世
界」(1996年7月、朝日新聞社)の中で、『 縄文人が人工的につくりだす音はいか
にも低調であった。いわば縄文人は、自ら発する音を自然の音の中に控えめに忍び込ませ
はするが、あえて個性を強く主張したり際立たせようとはしなかった。わが国の舞踊は、
楽器が自らの音の調べとリズムを主張するとき、人の身体、人の身振りや身のこなし方に
も干渉し、注文をつける。わが国の舞踊においては、スリ足で舞い舞いして、なかなか大
地からはね跳ぼうとしないのは、楽器の発達が縄文以来、控えめに終始してきたことに遠
い由来があるのかもしれない。』・・・と述べている。能などの舞(まい)はすり足など
で舞台を回ることを基礎とし、踊(おどり)はリズムに乗った手足の躍動を主とする。舞
(まい)の本質は「間」にあるが、それは小林達雄が言うように、縄文時代から現在まで
連綿と受け継がれているようだ。
では、土取利行の奏でる「縄文の音霊(おとだま)」を聴いてみよう!
http://www.youtube.com/watch?v=K5Zd0iAtEd4
言霊(ことだま)というのがある。言霊信仰においては、声に出した言葉は現実の事象に
影響を与えると信じられ、発した言葉の良し悪しによって吉事や凶事が起こるとされた。
そのため、神道での祝詞の奏上では絶対に誤読がないように注意された。結婚式などでの
忌み言葉も言霊信仰に基づく。古くは、日本は言魂の力によって幸せがもたらされ国(言
霊の幸はふ国)とされたが、最近は、そういうことをあまり言わなくなってしまった。土
取利行(つちとりとしゆき)は音霊(おとだま)という言葉を使っているが、私は、今
後、音霊とか言霊の重要性を認識していくべきだと思う。私は、「山地拠点都市」におい
て、「山の霊魂」と響き合えるように、大いに音霊や言霊を発していかなければならない
と思うのである。その際に、大事なことは、「間」の思想である。縄文人がそうであった
ように、自ら発する音を自然の音の中に控えめに忍び込ませはするが、あえて個性を強く
主張したり際立たせようとしてはならないということだ。
第2節 教育について
1、 一般論
知恵のある国家は知恵のある国民で成り立っている。知恵のある国民を育てるには何と
いっても教育がもっとも大事だ。教育には、胎児教育、幼児教育、少年教育、青年教育、
壮年教育、老人教育があるが、それらのあり方をもっと深く考えて、それぞれの年代に応
じた適切な教育を施さなければならない。
また、教育には、学校教育の他に、家庭教育、地域教育などがあるし、秀才教育というか
エリート教育というようなマンツーマンの個人的なレッスンもある。だいたい家元制度に
乗っかったお稽古ごとやピアノやバイオリンなどの音楽教育、さらにはオリンピック選手
を育てるようなスポーツ教育などはそうであろう。これらについても、その普及をもっと
深く考えていく必要がある。
さらに、教育には、その内容によって、道徳教育、歴史教育、文化教育、体育、社会教育
などがあるが、これらについてもその適切な方法を考えねばならない。教育問題というの
は、考えねばならない要素が実に多く、ここでそれらをすべて話するわけにはいかないの
で、日頃私が気になっている点だけをここでは述べることにする。
(1)胎児と幼児のための母親教育
私は電子書籍「エロスを語ろう・・・プラトンを超えて!」の第5章「第5章 恐竜型脳
と新哺乳類型脳とのバランス」で次のように述べた。
私たちは今こそ新たな「エロスの神」を創造して正しい人生を歩まないと「個人の幸
せ」はおろか「種の保存」すら危なくなる恐れがある。イギリスの医学ジャーナリストで
あるロイ・リッジウェイという人の言うところによれば、「多くの子供から助けを求める
悲鳴が聞こえてくる」のだそうだ(「子宮の記憶はよみがる」1993年1月、めるく
まーる)。
彼はこのように訴えている。すなわち、
『 自分ではどうしようもない「死の恐怖」におびえているのだ。考えてもみたまえ!母
親が、女性が、そして多くの識者が、女性の身体の秘密を知らなさすぎる。懐妊の前のタ
バコや飲酒、あるいは情緒不安的な生活は、知能の低い子供とか五体不満足な子供を出産
する可能性が高いと言われているのに、若い女性でタバコを吸い酒に飲まれている人ある
いは生活が乱れている人が少なくないではないか。』と。
子供は社会の宝である。プラトンの「エロス論」はそのことをいちばん訴えているのだ
が、はたしてプラトンの「エロス論」で十分現代に対応できるのか? 私は、21世紀の
世界に通用する新たな「エロスの神」を創造する必要があると考えているのだが、その場
合、ギリシャのエロス神ではなく、シヴァの神を基本に据えなければならないのではない
か。そうでないと・・・「さまよえるニーチェの亡霊」は浮かばれない!
ニーチェの哲学は「命の哲学」だ。彼の多くの著作の裏に隠されているのは、人生を生
きる上での最高の価値であって、それは「子どもは社会の宝」であるというこことだ。先
に書いた「さまよえるニーチェの亡霊」(平成24年6月、新公論社、電子出版)の結論
だけを言っておきたい。詳しくは同著を読んでいただきたい。
ニーチェの多くの著作の裏に隠されているのは、人生を生きる上での最高の価値であっ
て、それは「子どもは社会の宝」である。人は何のために生きているのか? 私たちは
「生きていくために生きている」のである。では、その生き方はどうでなければならない
のか? 「子どものために生きる」のである。子どもは自分の子どもでなくてもよい。
昔、乳母というものがあったし、自分のおばあちゃんに子どもの面倒を見てもらうという
ことも少なくなかった。母親というのは、昔から結構自分の仕事に忙しく、子育てはおば
あちゃんに任せていた。高貴な人は乳母にお願いしていたかもしれないが、子育てはおば
あちゃんの役割というのが少なくなかったのである。おばあちゃんが人生の中で身に付け
た感性とか人生訓とかいろいろなノウハウを孫に伝達してきたのである。そのお蔭で人類
はここまで発展してきたという「人類発展おばあちゃん説」という学説があるが、今まで
おばあちゃんの存在はきわめて大きかったのである。
現在は、核家族であるので、それを望むべきもないが、もし田舎でも移住が可能であれ
ば、家族農業をやりながら、昔の大家族の生活をするのも非常に価値がある。しかし、そ
れが難しい場合も多かろうと思われるので、私は、都市を生きる人たちに「文化を生き
る」生き方も立派な生き方であると申し上げているのだ。子育てに生きるか文化に生きる
か二者択一であるが、いずれの場合であっても、エロスの神に「祈り」を捧げ、人生をイ
キイキと生きていってもらいたい。エロスに神に「祈り」を捧げるということは、まずは
自分自身が自分の階段を一歩一歩高みに向かって登っていけるように祈ることに他ならな
いが、それも結局は子どものためである。ニーチェは人類のためとか種の保存のためとい
う趣旨のことを時々言っているけれど、それは子どもが私たち人類の「命」を繋いでいる
ということなのである。まさに、子どもは人類の宝である。子どもの健やかに育つことを
祈らずにはおられない。
(2)青少年に対する個人レッスン
古代ギリシャは戦士社会であった。しょっちゅう都市国家同士の戦争があったからであ
る。したがって、国の自由と尊厳を守るためには、戦士を育成する必要があった。その結
果先生の生徒に対するいわゆる「少年愛」というものが一般的に流布していたのである。
そういう古典的な意味の少年愛は、世界中のあらゆる社会で存在したと考えられる社会制
度である。 日本では薩摩の兵児二才(へこにせ)が有名である。白州正子は、薩摩隼人
の海軍軍人・樺山資紀伯爵の孫娘で、薩摩人に囲まれて育ったため幼い頃から「よか二
才」とか「よか稚児」とかいう言葉をフツーに耳にしていたそうだ。なんといっても薩摩
隼人は「男色の道では群を抜いていた」そうで、白州正子はその著「両性具有の美」の中
で「彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として
鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあった」と書いている。
「少年愛」はとりわけ、都市国家であるギリシャのような戦士社会において顕著であり、
年長の戦士と若い戦士のあいだを結びつける互いの信頼関係は、しばしば少年愛の関係に
おいて成立した。このような少年愛は、男性同士の結束と青少年の教育という目的と、
いま一つに、現代的な表現では、青少年を指向する男性同性愛の目的や意味を持ってい
た。
教育とは、青少年を一人前の共同体の成員としての男性に育成するのが目的で、中世西欧
や近代における市民教養としての教育とは意味が違っていた。少年愛としては、古代ギ
リシアの「少年愛」が著名であるが、これは当時の代表的なポリスであるアテナイでは、
暗黙に認められた市民の義務であった。アテナイに比べ、より戦士社会として厳格な文化
や制度を持っていたスパルタにおいては、少年愛は男性市民にとって法文化された義務で
あった。国民皆兵制のスパルタでは、男性市民は戦士であることを意味したのである。
私は先ほど、秀才教育というかエリート教育というようなマンツーマンの個人的なレッス
ンについて、「だいたい家元制度に乗っかったお稽古ごとやピアノやバイオリンなどの音
楽教育、さらにはオリンピック選手を育てるようなスポーツ教育などはそうであろう。こ
れらについても、その普及をもっと深く考えていく必要がある。」・・・と述べた。マン
ツーマンの個人的なレッスンの問題点は金がかかりすぎるということである。これを能力
さえあれば国が援助するようにして、もっと門戸を広げる必要がある。なにせ奨学金とい
うのがあるのだから・・・・。
(3)子供に対する自由放任主義の見直し
私はプラトンの哲人政治と違って、ポピュリズム礼賛の立場であるので、やはり国民全体
の知的水準が向上していかないといけないと考えている。常識、中村雄二郎流にいうと
「共通感覚」ということになるが、常識というものは偏ったものではない。最近のメディ
アの中には、子供の教育上好ましくないと思われるものが結構多い。子供に対する自由放
任主義は、子供の好奇心によって知識が偏るのである。これは好ましくない。
① 暴力性
暴力シーンを含むテレビゲームが子どもの暴力性を高めるという懸念はしばしば見られ
てきた。テレビゲームは、子どもに対して、1)暴力が問題解決の手段 として有効である
という見方や暴力の手段を学習させること、また、2)暴力をふるうことに慣れさせ、そ
の回路を開かせることによって、テレビゲームの中だ けでなく、現実場面においても暴力
をふるわせやすくしてしまうことが心配されている。また、テレビゲームの中で展開され
ている世界は、現実の世界と類似し ており、テレビゲームの中で学習された見方や開か
れた回路がそれだけ現実場面でも機能しやすいと考えられることも心配を強めている。
従来、悪影響を支持する研究結果は、あったとしても、年少の子どもに関する短期的な
影響を検討した実験研究などに限定されており、テレビゲームが暴力性 に及ぼす影響は
あまり深刻には捉えられていなかったと見られる。しかし、近年になって、悪影響を検出
する研究がしばしば出されるようになり、研究者の見方 は、悪影響を支持する方向に動
いているように思われる。
最近になって、悪影響を検出した研究が増えていることについては、近年の立体映像技
術などの進歩によって、表現の現実性が大いに高まっており、そのため、テレビゲームの
影響力が強まっているからではないかと解釈されている。この解釈も、現在ではテレビ
ゲームが子どもの暴力性に対するリスク要因になって いるという見方を強めさせている
ように思われる。
② 社会的不適応
テレビゲームに没頭していると、対面での生身の人間関係を持たなくなる結果、生身の
人間関係の中で育成されるべき技能が身につかず、また、煩わしい生身 の人間関係に向
かっていこうという意欲も失い、ひきこもりや不登校のような社会的不適応の状態になる
のではないかと心配されている。
しかし、これまでの研究では、テレビゲームが子どもの社会的不適応をもたらすことを
示した結果は乏しく、むしろ、もともと社会的不適応の傾向のある人が、テレビゲームで
遊ぶようになるという逆方向の因果関係がたびたび示されている。
テレビゲームが社会的不適応に悪影響を及ぼさないことに関する1つの説明としては、
仮に、テレビゲームが子どもから生身の人間関係を断ち切り、人間関係に関する技能や
意欲を失わせる過程があるとしても、一方で、テレビゲームが友だちとの話題になった
り、ゲームソフトの貸し借りをしたりするなどして人間関係の円滑化をもたらす過程もあ
り、それらが互いを相殺していることが考えられている。
もともと社会的不適応の問題は、インターネットで心配されており、インターネットに
没入し、中毒的になった結果、ひきこもりなどの社会的不適応の状態に なる事例が見ら
れている。最近では、オンラインゲーム、すなわち、インターネットを利用したテレビ
ゲームが普及しつつあり、これについては、社会的不適応 の問題が生じる可能性が考えら
れる。
③ 知的能力と学力
テレビゲームは映像メディアであることから、それに接触していると、従来の文字メ
ディアの場合とは異なる影響を、人間の知的能力ないし認知能力に与える 可能性が指摘
されている。実際に、テレビゲーム使用によって、人間の空間知覚能力などの視覚的能力
が向上することはしばしば示されてきた。テレビゲーム は、視覚的能力については、それ
を訓練する機能があると考えられる。
また、子どもの日常的なテレビゲーム使用によって、勉強や読書などの知的活動の時間
が失われ、その結果、さまざまな側面の知的能力や学力に悪影響が出る のではないかと
いう懸念が出されている。この問題については、論理力などに対する悪影響を示した研究
もあるが、現在のところ研究が少なく、全体として知見 はあいまいであると言える。研
究が少ないことに加えて、知的能力や学力に対する影響は、ゲームソフトの内容によって
大きく左右されると考えられ、それもこ の問題を単純化できないものとしている。実際
に、教育的な内容を持つテレビゲームが知的能力や学力を伸ばすことはしばしば示されて
きた。
最近では、知的能力に関連する話題として、「ゲーム脳」問題が注目されている。これ
は、テレビゲームで遊んでいると、大脳の前頭前野の活動が低下し、その状況が続くと
前頭前野が活動しない人間になってしまうという問題である。前頭前野は、人間の創造性
や社会性を支えるような高度な情報処理を行う部位であり、ゲーム脳とは、テレビゲー
ムによってそうした前頭前野が活動しなくなった脳のことである。ゲーム脳問題について
は、まだ研究が不十分であり、現在のと ころ仮説的な段階にあると捉えられる。今後の
研究が重要であり、とくに、現在、観察されている前頭前野の活動低下は本当に知的能力
の低下に対応するのか、 また、テレビゲーム使用のときに前頭前野の活動が低下すると
しても、それが本当に子どもの発達に影響するのかなどが検討される必要がある。
④ 視力
テレビゲームでは、モニター画面すなわちVDT(Visual Display Terminal)を通じて
情報が提供される。それを長時間、近距離から見た利用者は、眼精疲労や視力の低下な
ど、眼に強い悪影響を受けるのではないかと心配されている。
もともと電子メディアと視力に関する研究は、子どもの問題としてだけでなく、成人の
職場におけるコンピュータやワープロの利用の問題として関心を持た れ、VDT障害の研
究として内外で多く行われてきた。これまでの研究は一般に、VDT作業がまず短期的な近
視や眼精疲労を生じさせ、接触が長期間になると 視力の低下を招くことを示している。
子どものテレビゲーム接触を扱った研究にも、それとの接触によって、実際に調整機能や
眼圧などに異常が生じ、視力の低 下がもたらされることを報告したものが見られる。
⑤ 体力
テレビゲームは室内遊びであるため、外遊びを減らすと考えられる。外遊びが減れば、
運動する機会が失われ、その結果、骨格や筋肉、さらには運動感覚が発達せず、身体能
力の減退や肥満が生じるとともに、ケガや病気をしやすい体になると考えられる。このこ
とから、テレビゲームが外遊びを減少させ、それによっ て、子どもの体力低下が生じてい
るのではないかとする懸念が出されている。実際には、これまでのところ、テレビゲーム
と体力の低下について、その影響関係 をしっかり特定できる形で行われた研究は乏し
い。しかしながら、この影響関係はそのもっともらしさから、一般だけでなく、研究者の
間でも、かなり濃厚であ ると捉えられているように見える。
(4)地域教育
核家族(nuclear family)とは、夫婦とその未婚の子どもからなる家族のことである。
わが国では、家族形態の変化の常套句として「核家族化の進展」をいい、第2次世界大戦
後の高度経済成長の過程で、大都市への人口集中等により、3世代家族等の大家族が減
少し、核家族化が進展してきたと認識しているのが一般的である。しかし、核家族世帯
は、実は戦前から「主流派」だったのである。核家族は人類にとって普遍的なものといわ
れており、たとえば、縄文時代の遺跡として有名な青森県の三内丸山遺跡の竪穴式住居
も、平均4、5人の家族(夫婦とその子ども)が生活をしていたものと推測されている。
しかし、三内丸山遺跡の縄文人も住まいは核家族世帯であっても、周囲には一族がともに
生活をしたであろうし、時代が下って、たとえば江戸時代では一般庶民(ほとんどが農
民)は、近隣に血縁を同じくする人々が大勢いて、農作業をはじめ助け合いながら生活を
するなど、実態的には大家族的な生活であったと考え られる。したがって、現代の核家
族、特に郷里を離れて都市に移り、新たに世帯を構えたような核家族は、近隣に血縁者が
存在しない孤立した核家族という点で、古来の核家族とは性格を異にしており、孤立した
子育てなど新たな課題を抱えている。
したがって、私は、核家族の問題は、結局、地域コミュニティの問題であると思う。教育
の問題だけでなく、介護もそうであるが、主婦の及ばないところは地域で支え合うシステ
ムが今後どうしても必要なのである。知恵ある国家とは、そういう地域で支えあるシステ
ムの充実した国家である。そのためには、今後、私たちは、ボランティア活動を核とした
地域コミュニティを作っていかなければならないのであって、地域通貨の問題とどうして
も取り組まなければならない。今後日本が「知恵のある国家」となるためには、どうして
も、市場経済と贈与経済とのハイブリッド経済を目指さなければならないのである。ハイ
ブリッド経済、これが今後日本が「知恵のある国家」となるための絶対条件だ。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=-phAqQeSOq4
2、「勿体ない」の哲学
私もプラトンがいうように、『 国家は、「知恵」があり、「勇気」があり、「節制」を
たもち、「正義」をそなえていなければならない。』・・・と思う。では、「知恵」のあ
る国家とはどのようなものか? 農業や金融など産業の技術あるいは財政や国土政策などに関わる技術に長じた国家という
のも大事だが、もっと大事なのは国を守る、つまり国民の命と財産を守るための「知恵」
である。農業や金融など産業の技術あるいは財政や国土政策などに関わる技術は知識であ
るが、「国民の命と財産」を守るためのものは、知識と呼ぶより、「知恵」と呼ぶべきで
ある。プラトンはそういっているのだが、私もそう思う。では、「国民の命と財産」を守
るとはどういうことか? その点を少し考えてみたい。プラトンほど教育問題について真
剣に考え、かつ、実践した哲学者は歴史上いない。しかし、プラトンの生きた時代は、民
主社会といっても、今の民主主義の社会ではない。エリートが国を動かす社会であり、だ
からこそプラトンは哲人政治を夢見たのである。彼はその夢破れて、結局、エリート教育
に向かうのだが、今は、民主主義社会なので、エリート教育もそれなりに必要だと思う
が、それよりむしろ国民全体の知的水準の向上を目指さなければならない。「国民の命と
財産」を守るための「知恵」、その「知恵」が国民の間の常識、中村雄二郎流にいえば国
民の共通認識となるためには、どのようなキャッチフレーズが良いのか? 結論を先に言
えば、それは「勿体ない」という言葉が「国民の生命と財産」を守るという意味で常識化
しないといけない、私はそう思うのである。そこで、以下において、少々「勿体ない」の
哲学を考えてみたい。
(1)「勿体」の哲学的意味
「勿体ない」という言葉は、辞書を引くといろいろ出てくるが、その中に、「物事の価値
が十分に生かされていないのが残念だ。」というのがある。そこで、私は、これを言い代
えて、「勿体ない」という言葉は「命やモノの価値が十分に生かされていないのが残念
だ」という意味に解釈することとしたい。その方が、「国民の命と財産」を守るための
「知恵」とは何かが明確になるからである。
まず、「命」の価値とは何か? この点に言及したいのだが、これについては、私の電子
書籍「エロスを語ろう・・・プラトンを超えて!」の 第6章「ニーチェの哲学を超えた
新しい哲学の方向性」で詳しく述べたが、その中で、「命」の科学的な説明として次のよ
うな説明をした。すなわち、
『 私たちは自然と一体になるとき、自然のリズムは、「脳と心の量子論」が説明する
ミッキー場と量子電磁場の中に秩序ある波を生み、霊妙な光を放つことになる。これは
「生命」そのものが、霊妙な光を放ち、イキイキとしてくることを意味しているのではな
いか。 すなわち、「生きる」とは自然と一体になって、生命の本体がイキイキすること
ではないかと思うのである。したがって、エロスの神は、プラトンのそれだけではなく、
シヴァの性愛の神、日本の「ホトの神さま」や摩多羅神、さらに自然神や子どもの健やか
な成長を見守る神さまなど、さまざまな神を祀ってその祭りをすることが必要かと思われ
る。ニーチェとハイデガーとホワイトヘッドの統一哲学はひとつだが、神という存在は、
この世でさまざまな顔を持つ存在でもある。神は「一であり多」である。そういう神を
祀って「祈り」を捧げていると、私たちはイキイキと正しい道を歩むことができ、子ども
たちもイキイキとしてくる。それが「エロスの神」のご利益である。』・・・と。
以上の通り、「生命」の本質、つまり本来あるべき姿は、「霊妙な光を放ち、イキイキと
している<いのち>」のことである。したがって、私の考えでは、植物人間となっている
人の生命は生きてはいるけれど、もはや「霊妙な光を放ち、イキイキとしている<いのち
>」とは言えないので、その延命を図ることは、親類縁者にとって大事だとしても、社会
的には如何なものかと思う。それより死に直面する人にいわゆる「お迎え」がくるように
配慮すべきではないか。その「お迎え現象」については、文芸春秋の平成24年12月号
に「日本人のための宗教・・・死の床の医師と宗教学者<感動の対話>」と題して、岡部
健とカール・ベッカーとの対談が掲載され、それが大いに参考になると思うので、ここに
紹介しておきたい。是非、参考にしてもらいたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/omukae.pdf
次に、物の本質「モノ」については、次の項で詳しく説明したい。
(2)モノ
まず、「モノ」についての中沢新一の説明を紹介しておきたい。
『 狩猟時代の古い日本語をしゃべる人びとに、あなたたちの幸福とはなんですか、とい
う質問をしたならば、「それはあなた、さちの力によって、森 のタマ(霊力)が動物の
からだというモノをまとってあらわれたその動物たちを、うまく仕留めることができるこ
とですよ。そうすれば、タマの霊力が私たちに も分け与えられ、生命は増し、私たちは
こよなく幸福(さち)を味わうことができるのです」などという答えが、返ってくるにち
がいない。「さち」ということ ばは、この場合、モノという容器(これが狩猟の場合に
は、動物のからだということになる)に含まれて人間の前にあらわれた森の多産力をあら
わすタマを、そ の容器を破壊することによって、抽象的な力として取り出して、自分たち
の体内に取り入れるための、一連の技術(技芸)とそれに使用される道具のことを指し
ていた、と考えるおことができるだろう。
狩猟の過程は、鎮魂の過程とちょうど鏡面対称のような関係にある。鎮魂では、内包空間
で充実しきった成長をとげたタマが、「かひ」の容器を破っ て、外気の中にものとなっ
てあらわれてくる。ところが狩猟では、モノ(動物のからだ)の容器を破壊して、その中
から森のタマを純粋な抽象形態で取り出し て、人間たちが自分の体内に取り込むこと
で、幸福の感覚を味わっている。鎮魂では物部氏の技芸である「霊体を結修する鎮魂の
法」がそこにおこるタマの変容 をうながしていた。それが狩猟では、「さち」の技芸能
力によって、霊力の取り込みがおこなわれるのだ。どちらの場合にも、それぞれの技術
が、タマの変容を 媒介している。そして、非感覚的な霊力と物体性とが、おたがいを交換
しながら、技術によってひとつに結びあわされ、鎮魂法と狩猟とはひとつの円環をなして
いる。 』
タマはモノに変容する。タマは見えない。それが見えるようになったものがモノであ
る。だから、モノにはタマが 宿っている。そこが物との違いである。まあ、大ざっぱに
は、タマとモノとは同じようなものである。したがって,「モノとの同盟」とは、物とモ
ノとの同盟である。物とタマとの同盟と考えてもまあ見当違いではないかもしれない。
しかし、今私たちが問題にしようとしているのは、この世の問題である。見える世界の
問題である。見える世界から見えない世界が感覚として実感できないかという問題であ
る。だから、モノを対象にしなければならないのである。物質的な世界は当然肯定しな
がらも、モノの世界をどう取り戻すことができるかが問題なのだ。モノの世界と物質的な
世界との同盟、それが中沢新一のいう「モノとの同盟」で ある。
ちなみに、「東北学(第9巻)」(2003年10月、東北芸術工科大学東北文化研究セ
ンター)に掲載された中沢新一の特別論考「縄文・ミシャグ チ・道祖神・・・環太平洋
神話学への一試論」によると、宮廷でおこなわれてきた鎮魂の方法には、猿女の鎮魂法、
物部の鎮魂法、安曇の鎮魂法があるのだが、 大衆レベルでいえば、丸石道祖神は「タマ
しずめ」であり、双体道祖神は「タマふり」である。「モノとの同盟」を考えるとき、
「タマしずめ」と「タマふり」 の二つがあるという点は重要である。
次に、日本工業技術振興協会の超精密技術部会長をしておられた小林昭はその著「モノづ
くりの哲学」(1993年3月、工業調査会)は、これからの創造的な技術開発にとって
何が大事かを述べているので、その核心部分をここに紹介しておく。彼は次のように言っ
ている。すなわち、
『「工」という字は斧の形から生まれたものであるといわれている。」また、「工」とい
う字は、「二」が天地を,、「I」という字はその間に立つ人を示し、「人が天地の間に
立ってその正を持し規矩ある義」を表すといわれる。』
『金胎不二とは、モノの世界とココロの世界の一体化を意味している。ココロをこめてモ
ノをつくることが、「モノとココロの一体化」であり、これから必要とされるといえる。
これを、「生産曼荼羅の世界」と呼ぶ。』
『これからの「高度工業社会」では多機種少量生産に変わりつつある。不特定多数の消費
者を対象とするのではなく、特定の人を対象として、磨き上げた感性と澄んだココロをこ
めてつくらなければならない時代となるだろう。』
『制度限界の壁を破るためには、原因を追及し、対策を工学的につめていく技術以外に、
ひとつことに打ち込んできた人間のもつものすべてを投入する必要があるように思われ
る。技術プラスアルファーとして人間のもつ「なにか」を加味して最高水準のものに挑戦
しなくてはならないと考えるようになった。』・・・と。
有 職(ゆうそく)織物で人間国宝になっている喜多川俵二さんという人がおられる。1
936年、京都西陣にある[俵屋]十七代・喜多川平朗(故・重要無形文化 財保持者)の次男
として生まれ、1988年に[俵屋]十八代を継承された方である。私はひょんなご縁から
その人から深刻な悩みを聞いたことがある。息子に今の家業を継がせようかどうしよう
かということであった。有職(ゆうそく)織物は,銀座にある高田装束 という店とそこ
にある高田装束研究所が有名だが,興味のある方はそこの店主兼研究所長の高田俊男の著
作「服装の歴史」(1995年,中央公論社)を読んで いただければ、それがどういう
ものかが判る。白州正子も大変な関心をもっていたらしく、町田市にある白州正子記念館
ではときどき有職(ゆうそく)織物に関 わる催しをやっている。
喜多川俵二さんが言っていたが,有職織物にはいろいろな技法があるが,その中には自
分しか織れない技法があるというのだ。喜多川俵二さんの悩みというの は,実は,それ
を子供に家を継がせて伝授するかどうか,迷っているという話だった。銀座の高田装束の
話もしておられた。ああゆう商店は西陣にとって大変あ りがたい存在ではあるけれど,実
際に作っているのは自分たちのような職人であるということだった。そりゃそうだろう。
工芸品というのは,すべて手工芸品で 職人が作る。手作業で作る工芸品というのは,単
なる商品ではない。物ではないということだ。中沢新一のいう「モノ」であって、心がこ
もっているのだ。中沢 新一は民芸品もそうだという。作った人の魂がこもっている「モ
ノ」である。今,単なる商品の大量生産によって「モノ」が消えかかっている。これは私
たち文 化に生きる日本人にとって由々しきことではないのか。
次に、民芸についてであるが、民芸については、次のような素晴らしいホームページがあ
る。まずそれを紹介しておきたい。
http://nihon-mingeikyoukai.jp/society/what_index.html
これをもとに、「民芸品の持つ現代的価値」に触れておきたい。「モノ」というものの概
念に関連しているからである。
「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦は、1913年(大正2)に東京帝国大学哲学科を卒業。
このころより、朋友バーナード・リーチ(イギリスの陶芸家)の導きによってイギリス・
ロマン主義期の神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクの思想に傾倒し研
究を深める。みずからの「直観」を重視するブレイクの思想は柳に大きな影響を与え、芸
術と宗教に立脚する独自な柳思想の基礎ともなった。柳は、1916年(大正5)以降たびた
び朝鮮半島に渡る。そこで柳の心をとらえたものは、仏像や陶磁器などのすぐれた造形美
術の世界であった。そして、その美しさに魅了された柳は、それを生み出した朝鮮の人々
に対し、かぎりない敬愛の心を寄せることとなる。
柳は、日本の朝鮮政策を批判する文章を発表する一方、1924年(大正13)には、日本民
藝館の原点とでもいうべき「朝鮮民族美術館」をソウルに開設す る。そこに陳列された
品物の多くは李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器で、それまで誰ひと
りその美的価値を顧みるものはいなかった。しか し、柳はその美をいちはやく評価し、
民衆の生活に厚く交わる工芸品のなかに、驚くべき美の姿があることを発見したのであっ
た。
李朝工芸との出合いによって開眼された柳の目は、自国日本へと向けられていく。まず、
柳の目を引きつけたものは、木喰上人という遊行僧の手になる木彫仏であった。
木喰仏と呼ばれるこの江戸時代の民間仏の発見をひとつの契機として、柳の目は民衆の伝
統的生活のなかに深く注がれ、そこに息づくすぐれた工芸品の数々を発見していった。
民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界。その価値を人々に紹介しようと、「民藝」と
いう言葉 を作ったのは1925年(大正14)のことであった。
なぜ、無名の 職人のつくった「用いるための器物」がかくまで美しくなるのか。柳はそ
れを「信と美」の深い結びつきの結果であるとし、これもまた、凡夫[ぼんぷ]も救い
からもらさぬ仏の力、すなわち他力[たりき]宗の説く阿弥陀仏の本願の力の恩恵に他な
らないと解したのである。
晩年には、篤い信心を身につけた他力宗の平信徒・妙好人の研究に入り、他力道の深い恵
みの世界をさらに探った。そして、民藝品を妙好品と呼ぶなど、物の美 に即して宗教の真
理を説きつつ、1961年(昭和36)、72年の生涯を閉じた。「美とは何か」、「美はどこ
から生まれてくるか」を生涯問い続けてきた柳の人生は、まさに「美の行者」と呼ぶにふ
さわしいものであったように思われる。
さあ、そこでだ。何故「モノ」には「タマ」が宿っているか? 何故民芸品には作り手の
「魂」が宿っているか? 私としては、この疑問に答えねばならない。私の電子書籍「祈
りの科学シリーズ(1)」の「100匹目の猿が100匹」で説明したように、この世は
「波動の海」である。あらゆる物質は波動の固まりなのである。民芸品など作り手の魂が
こもっている場合やその地物に「祈り」を捧げている場合、その日と或いはその人びとの
魂がその対象物の波動の一部と共振を起こす。人の魂と共振を起こす、その部分が上述し
た中沢新一のいう「かひ」なのである。柳宗悦は「阿弥陀仏の本願の力の恩恵」と感じた
ようであるが、要するに、「モノ」に「かひ」ができるのは「神のみわざ」なのである。
では、ここで、面白い説話を紹介しておこう。中国は六朝時代に「捜神記」に掲載されて
いる「李の神木」という話である。
河南の南頓県に、張助(ちょうじょ)という百姓がいた。ある日、畑で働いているとき、
李(すもも)の種を見つけた。どうしてこんなところに李の種が落ちているのだろう、と
不審に思い、手に取って見たが格別変わった種でもない。誰かが投げ捨てたのだろうと
思ってまた捨てたが、やはり気になった。ふと振り向くと、道ばたの古い桑の木の根元に
う洞(うろ)があって、中に土がたまっていたので、また種を拾ってそこに埋め、水をか
けておいた。翌年、人びとは桑の木の洞から李が生えているのを見て不思議に思い、次か
ら次へと噂し合った。 張助はそれを聞いて、何の不思議があるものか、俺が植えたん
だ、と思ったが、黙っていた。李の木はだんだん大きくなった。ある日、眼の痛む男がそ
の木陰で休みながら、「李君(りくん)よ、俺の眼の痛みを治しくれたら、お礼に豚を一
匹あげるよ」といったところ、急に眼の痛みがやわらぎ、数日立つとすっかり治ってし
まった。その男が李の木に豚を供えたことから、噂が広がって、遠くの村からも願(が
ん)をかけにくる者があり、願い事のかなった人が祠(ほこら)を建てたり、供え物の台
を設けたりして、李の木の下にはいつも大勢の人が集まり、道ばたに物売りが並ぶありさ
まであった。 張助はそれをみてばかばかしくてならなかった。ある日、大勢の人が集
まっているところへいって、「この木は俺が植えたんだ、神木なんかじゃない」と言って
廻ったが、誰も相手にしない。 張助がなおも言い立てていると、一人の男がおしとめ
て、「そんなことを言うと神罰が当たるぞ。ほら、もうあたっているじゃないか」と、 張
助の顔を指差した。 張助の口の脇には数日前から疔(ちょう)ができていて、痛くてな
らなかったのである。「これが神木なら、俺のこの疔も治せる筈だ」と 張助がいうと、
その男は、「願をかけたらな」といった。そこで 張助はみんなのするように李の木の前
にぬかずいて、「この疔を治してくださったら、お礼に酒一升さしあげます」といってみ
た。と、急に疔の痛みがやわらいだ。 張助は半信半疑で家に帰ったが、二、三日たつと
疔がすっかり治ってしまったので、びっくりして、酒一升を供えたという。
如何ですか?こんな話を信じられますか? 私はそういうことも科学的に起こりうると
思っている。私は、よく「角大師のお札」の話をするが、お札にはそれを刷った人の魂が
籠っているので、それによって願いが叶うのである。
(3)知恵ある国家の教育・・「勿体ない」の教え
先に述べたように、「勿体ない」とは「命やモノの価値が十分に生かされていないのが残
念だ」という意味である。青少年の教育では、「いのち」や「モノ」を大事にすることを
教えなければならない。それを包括的に言い表わすことが言葉が「勿体ない」である。
「いのち」や「モノ」を粗末にしては「勿体ない」ということを教える訳である。
子どもたちに人気のテレビ番組に、「芸能人節約バトル」という番組があるが、こういう
番組も悪くはない。「みんなイキイキと「節約生活」を楽しもう!」という訳だが、私の
いう「勿体ない」は、単なる節約ではない。また、「勿体ない」という言葉に感激した人
にノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイがいる。彼女は、日本語の「勿体ない」
という言葉を、世界における環境保護の合言葉にしようと、国連の会議の中で演説された
ことがあるが、私のいう「勿体ない」はもっと哲学的な意味を持っていて、奥が深い。
「いのち」を大事にする精神、「モノ」を大事にする精神なのである。しかし、この精神
をどのようにして青少年に教えていくかは難しい問題である。
子供に当たり前の事、社会のルールを教えるのは大変なことだ。ただ「○○○しなさい」
「○○○の時は、△△△するのよ」と言っても、子供はなかなか教えたようにはしない。
親は教えたつもりになっていても、子供からすると、「なぜそうしないといけないの?」
ということが判らないのである。子供が判るということは、理性ではなくて、感性の働
(はたらき)による。
イザヤ・ペンダサン(山本七平)の「日本人とユダヤ人」 (1971年、角川文庫ソフィ
ア) という本があった。彼は『日本教」などと言って私たちを驚かしたが、その本の中で
「宗教団体のことを言っているのではなく、「日本人のもっとも頼りにするもの」或いは
「日本人がもっとも大事にする心」のことを言っているのだと理解すれば、なるほど彼の
言っているとおりかもしれない。信仰の拡大解釈が許されるとすれば、たしかに日本教と
いうものは存在する。日本でもっとも尊敬されるのは、「人間味あふれる人」であり、宗
教とかイデオロギーは関係ない。これを哲学的に言えば、人間には穴が開いていて、その
穴の存在とその重要性を無意識に自覚しているのが日本人である。日本人が抱く感覚は、
あくまでも感覚であって、言葉でなかなか言い表せない。自分で抱く感覚は人に説明でき
ないのである。だから、日本に開いている穴を見て或いはその穴に入って感じる感覚とい
うものは、どう表現すれば良いのかわからない。穴にいるのが神でも仏でも何でも良いの
です。イワシの頭でも良いのである。それが日本教の本体だ。』・・・と言っている。
要するに、山本七平は、「感謝」とか「勿体ない」という気持ちの大切さというものは、
日本教の基本的な感覚であって、到底言葉では言い表わせないし、それを教えることは困
難、ということを言っているのだ。ではどうするか?
日本教の基本的な感覚、それは私たち日本人の常識、共通感覚であって、「当たり前のこ
と」である。その「当たり前のこと」を子供に教えることの難しは、いろいろな人が考え
ていて、それに関するホームページもいろいろある。ここではその代表的なものをまず紹
介しておきたい。
http://kidscare2.com/
このホームページは、家庭教育のことを言っている。しかし、子供の教育で基本的に家庭
教育が大事だとしても、大家族が崩壊し、おばあちゃんのいない過程が増えている現状で
は、家庭教育には限界がある。知恵のある国家としては、それを補完する社会システムを
考えねばならない。家庭における子育てを補完する社会システム、これについても現在い
ろいろな動きがあり、知恵のある国家に向かう芽生えが出てきている。そこに今後の希望
がある。その希望の動きについては、「母親、子育て、ネットワーク」というキーワード
でネット検索してみてほしい。知恵のある国家としては、これら母親の子育てを支援する
ネットワークをベースとして、ひとつの社会システムを作り上げていくべきであろう。
「勿体ない」の教えは、幼児教育だけでなく、青少年に対する教育が大事である。青少年
教育について、私は、「勿体ない」の教えは、通常の教育ではなかなか難しいと考えてい
る。私は、やはりここは宗教の出番だと思うが、この場合でも、「場所」の問題があっ
て、やはり都会ではそういう特殊な教育は難しいと考えている。宗教心の芽生え、それ
は、「エイトス・アンドロポイ・ダイモーン」のという言葉が意味するように、自然の中
でこそ可能ではないか。私としては、「山地拠点都市」において、宗教家によって「子供
たち向けの法話」をやってもらえないかと思っている。
足利市に長昌寺という曹洞宗のお寺があって、親子の参禅会をやっておられるので、その
ホームページを作っておられるので、ここに紹介しておきたい。まったく宗教色がなく、
そこが素晴らしいと思う。
http://www.choushouji.com/bosatsu/bo_b/b_c.html
また、「子供に伝えたいこと」というページを書いたホームページがあるので、これもつ
いでに紹介しておきたい。子供のことを考えるお寺さんが、今後、もっともっと増えると
良い。そして、今後、そういうお寺さんの全国ネットワークができれば本当に力強いこと
だと思う。
http://www.nichiren.or.jp/walking/20110414-9/
問題は、そういうお寺さんの全国ネットワークや「母親、子育て、ネットワーク」をどう
作り上げていくかということである。知恵のある国家としては、ひとつの社会システムと
してそういうネットワークが必要である。国家の社会システム、これは政治の問題であっ
て、政治家の意識が変わらないと新しい社会システムはでき上がらない。政治家の意識が
変わるためには、国民の意識も変わらなければならないが、特に心ある識者の発言が政治
家に与える影響は大きい。私は政治家はもとより心ある識者に対し、私の思いを伝えるた
めに、この本も書いているし、いわゆるソーシャル・ネットワークシステムを利用してい
ろいろと発言している。政治家や識者にいちばん言いたいことは、これからの日本にボラ
ンティア経済というか、贈与経済の一部導入を図らないと、「心」をよりどころにする社
会システムはできないであろうということだ。知恵のある国家の社会システムをつくりあ
げていくためには、どうしても地域通貨が必要である。地域通貨については、第5節「山
地拠点都市構想」の中で詳しく論じたい。
第3節 佐伯啓思のヴィジョン
佐伯啓思のヴィジョンを述べる前に、堺屋太一の「地価革命」という歴史観に触れておき
たい。堺屋太一は、 1975年、通産省時代に、近未来社会を描いた小説『油断』で作家デ
ビュー。翌年には、「団塊」という言葉を一気に世に広めた小説『団塊の世代』を著わし
た異彩の人である。「知価革命」(堺屋太一、1990年6月、PHP研究所)という本
は、世界と日本の「次なる社会」を大胆に予測し、日本中に衝撃を与えた話題の書。本書
は「脱工業化社会」の仕組みと実像を探り明かし大きな脚光を浴びたが、事実、世界は著
者が提示した「知価社会」に向けて大きく動きだしている。「知価社会」とはいかなる社
会なのか。これまでの工業社会のパラダイムとはどう違うのか。この本は、現代という時
代の巨大な転換点と、その将来の方向性を見定めるための必読の書となっている。その
後、彼は、比較的最近、「堺屋太一の見方」(2009年4月、PHP研究所)という本を
出しているが、彼はその本の中で『 ものを書くようになって40年になる。この40年
間に、世界も日本も世間も人間も、大きく変わった。変化の度合 いが大きいだけではな
い。歴史の流れる方向と人類文明の本質が根本的に違うものになった。近代工業社会が頂
点を極めて崩落、新しい歴史段階の知価社会が始 まったのだ。人類の数千年に及ぶ歴史
の中で、歴史段階の変化と言えるものは5回ほどしかない。その1つが今、この20年ほ
どの間に起こった。』・・・と言っている。
また、彼は、平成14年3月、21世紀の経済社会システム研究プロジェクト(内閣府)の
総括講演で、『 近代文明が終わって、今、新しい「知価社会」が始まりました。これは
私が1985年に発表した、『知価革命』という本から生まれた言葉です が、knowledge
based society(知価社会)という言葉が今、世界的にはやっています。まさに、物財を基
礎とする社会から、知識を基礎とする社会に変わりつつある。こうい う時代にいかに生
きるべきか。この問題については、今後の日本にとっても非常に重要な問題だと思いま
す。』・・・と述べている。
私も、脱工業社会、脱物質文明の社会に向かっているのは間違いないと思う。心の時代が
やってきたのだ。
それでは佐伯啓思のヴィジョンに移ろう。私の尊敬する佐伯啓思が書いた「大転換・・脱
成長社会へ」(2009年3月、NHK出版株式会社)は、これからの日本が進むべき道
を指し示す素晴らしい本である。今日、世界経済は大きな転換期にある。要請されている
ことは、ただ景気回復だけではなく、価値観の大転換なのである。佐伯啓思は、文明の破
綻としての経済危機を読み解き、今必要な「新たな社会像」を指し示している。浜矩子
は、アベノミクスを「浦島太郎の経済学」と断じたが、彼女の言いたいことはもっともで
ある。私は、今のデフレを一日も速く脱却することが緊吃(きんきつ)の課題であり、安
倍総理のいわゆるアベノミクスを高く評価しているが、浜矩子の言わんとするところもよ
く判る。彼女は、日本のような世界の最先端をゆく成熟社会では、格差是正が重要だし、
利他的な生き方を追求しなければならないと考えているようだ。しかし、格差問題も利他
的な生き方の問題も市場経済ではそれを実現することはむつかしい。資本主義経済という
か市場経済というか、今までの経済ではやっていけないのだ。今の日本社会のように世界
の最先端を走っている「成熟社会」では「知恵のある国家」を目指さなければならない。
佐伯啓思もそう考えている。以下、佐伯啓思の「大転換・・脱成長社会へ」の核心部分を
紹介しておきたい。
1、大量生産・大量消費によって、資源をふんだんに投入することで成長を実現するとい
う近代社会の産業主義は限界に達している。ひとつは、しばしば論じられるように、資源
の制約と環境破壊によるものであるが、もうひとつの理由はより内在的なものである。と
りわけ、資本主義という「最先端部分」で大きな利益をあげつつ欲望を無限拡大するシス
テムは、どうしても先進国では活力を失ってゆく。人びとが真に欲望するものはそれほど
多くはない。そうだとすれば、「最先端部分」で新たな新結合を生み出し、新商品と市場
を開拓するコストを回収するだけの十分な需要を見出すことはますます難しくなってゆく
だろうからである。
2、もはや「成長中心主義」「競争中心主義」の社会ではあり得ない。いやおうなく「脱
成長社会」へと推移していかなければならないのである。「豊かな社会」において必要な
ものは、まずは「社会の基盤」の整備であり、よりよい質をもった生活環境の確保であ
り、創造的な文化へのまなざしであろう。ケインズが述べたように、「豊かな社会」にお
いては、人びとは、もっと「美的」で「文化」的な生活を望み、ここにおいて本当に、時
間をどのように使うかという問題に直面するのである。だからこそ、教育や文化、メディ
アの質、多様なコミュニティ形成、人間の間の信頼形成、都市や住環境の整備、医療など
が公共計画の焦点になってくるのだ。
3、今後の日本はどのような位置に立つべきなのか。何をなすべきなのか。ひとつの答え
は明確である。より大胆に徹底した「構造改革」を推進し、グローバルな市場競争のなか
で、アメリカや中国と対等な競争力を持ち、新たな経済成長を可能とする経済大国を再生
させる、という方向である。しかし、国民経済全体にブローバルな競争主義を適用するの
はすでに無理なことであろう。要請されていることは、ただ景気回復だけでなく、価値観
の大転換なのである。このことはまた、「豊かさ」の意味を改めて検討することを要請し
ている。
4、日本は中国ともアメリカとも違っている。ロシアともインドとも違っている。明治以
降の近代化の中で、西欧的な政治経済思想にもとづいた西欧的システムと日本独特の文化
や社会構造にもとづいたシステムとを融合させた形で、独自の「日本型システム」を作り
出してきた。これは政治においても経済においてもそうなのである。それを急激にグロー
バル・スタンダードな市場競争モデルに変形することは無理なのである。そもそもグロー
バル・スタンダードなどというものが本当に存在するのかどうか疑ってかかる必要がある
のではなかろうか。人口減少社会であり、すでにそれなりの「豊かさ」を達成した日本の
課題は、これから変則的な資本主義化を目指す中国とはまったく異なっていることは、と
りわけ強調しておかなければならない。その中国を牽制して世界の中心であり続けようと
するアメリカとも、また違っているのである。その日本がやるべき転換とは何なのか。こ
こで私が述べている「脱成長社会」というものは、けっして「消極的なもの」でもなけれ
ば「座して死を待つ」といったようなものでもない。むしろ、たいへん困難で、極めて
「積極的な道」だと言いたい。しかし、先進国が、このグローバルな大競争時代に、真に
破局を避けようとすれば、本当はこの方向しかないであろう。資源や食料、市場、資本を
めぐるグローバルな確執のあとに来るものは、「脱成長社会」への道でしかないであろ
う。1930年代の経験が示唆するものは、過剰なまでの生産力を生み出してしまった資
本主義が果てしないグローバル競争にはまり込んだ帰結はたいへん悲惨なものだった、と
いうことなのである。それを避けるには、いずれ「脱成長」の道を模索して、グローバル
な競争を適切に管理してゆくほかない。これは、今すぐ可能な転換ではない。しかし、そ
のための準備はすぐに始めるべきである。そして、現在の経済危機はその絶好の機会とい
うべきなのである。景気対策は必要である。大規模な財政出動も必要である。しかし、そ
れらは、来るべき「脱成長社会」の新たな「豊かさ」へ向けた準備でなければならない。
5、その具体的なプログラムは本書の関心事ではないのだが、いくつかの基本的な論点や
方向は明らかだと思われる。次にそのいくつかを列挙しておこう。
① 基本的には「社会」の再建が急務である。より具体的には、医療の質・量の充実と、
医療の効率的で公正なシステムを構築すること。さらには、たとえばガンや重要な感染病
などの先端的で大規模な研究機関の設置。
② これも「社会」の再建としての地方の中核都市の整備、地域のコミュニティの再建、
日本的経営や長期的な雇用慣行の再構築。日本的経営の最大の長所は、信頼を基礎にした
組織づくりにあった。日本経済の成功のひとつの理由が「組織」づくりにあったとすれ
ば、もう一度、新たに日本的経営システムを再構築すべきである。
③ 自由主義か保護主義かという二項対立はあまり意味がない。過度な規制緩和による自
由競争主義が大きな問題を生み出した以上、今後の世界は、自由貿易の建前を唱えつつ、
保護主義を取り込むことになろう。すでにその兆候は各国で見られている。広くは自由経
済の枠組みの中で、領域によっては保護主義や管理貿易を持ち込むことを躊躇すべきでは
ない。
④ 基本的な生活物資の自給体制へ向けて、食料・自然資源・エネルギーの安定確保を戦
略的に目指すべきである。そのための部分的な産業保護も経済ナショナリズムの当然の発
現である。
⑤ 京都議定書の枠組みをベースにした環境戦略によって世界の過度な開発的競争を抑制
すべきであろう。同時にそのことは、日本自身がある程度、環境立国を目指すことにな
る。
⑥ 都市環境の整備と住宅政策、さらには、高齢化社会に向けた住宅環境、公共交通シス
テムの構築。
⑦ 確かな判断力と総合的な知識をもった人材教育。
6、日本は「脱成長社会」へのモデルを世界に提示すべきである。日本こそがその資格を
持ち、実際、そうすべきなのである。この資源や市場をめぐる大国主義的なグローバル競
争の中では、むしろそのことこそが日本の国益でもある。
山地拠点都市構想(後編)
・・・新たな国土ヴィジョン・・・
2014年7月17日
岩井國臣
後編の「はじめに」
前編の「はじめに」で申し上げたように、この論文「山地拠点都市構想」は、 私なりの
国土ヴィジョン であり、プラトンの国家論を参考にしたひとつの国家論である。
先に書いた「霊魂の哲学と科学」で展開した私の国家論を補完し、それを具体化したもの
である。「知恵のある国家とはどのようなものであるのか?」というのが今回のこの本に
おける中心的テーマであるが、その答えを出すためには、前提となる私の基本認識を前編
で縷々述べた。
私は、日本の政治はようやくポピュリズム(大衆主義)になってきたとおもう。ポピュリ
ズムは(大衆主義)は、弱者の論理であって、強者の論理ではない。民意を尊重する政
治、おおいに結構なことではないか。
なお、ポピュリズムは、得てして衆遇政治に陥りやすい危険性を常に持っているので、衆
愚的な政治家を引っ張って、速やかに「民意」に落ち着かせる、そのような大リーダーが
必要であることはいうまでもない。大リ­ダーは、人柄がよく、先行きが見えて決断が早
く、そして結果について責任の取れる人である。今西錦司が言うように、人柄、洞察力、
責任が大リーダの条件だ。国民の目から見て決めるべきはさっさと決めてほしいのであ
る。小田原評議をしていても始まらない。そして失敗したときは責任を取ってほしい。
政治も音楽やスポーツと同じように、ひとつの文化だから、やはりエリート教育が必要で
はないか? その際には今西錦司の「リーダー論」が基軸になると思う。
プラトンはその霊魂観に基づいて国家論を展開した。 今後、日本のリーダーには、プラ
トンの国家論を己の政治哲学として、真剣に国家の運営に当たって欲しい。わが国は21
世紀において今後世界から尊敬されるには、知恵があり、勇気があり、節制があり、正義
に満ちた国家でなければならないが、この四つの要素の内、複雑でいろんな意見が錯綜す
るのは「知恵のある国家」についてである。知恵にはいろんな知恵があり得るということ
だ。しかし、私は、「知恵のある国家」とは、ヘーゲルがいうように、宗教の力を借りる
のではなく、啓蒙や教育によって、祖先の霊に「祈り」を捧げるとか、道ばたのお地蔵さ
んなどの神々に手を合わせるとか、そういう生活習慣が身についた大人や子供が少しでも
増えるにしなければならないのではないかと思う。そのための生活環境とか社会環境の
整った国家、それが私の目指す「知恵のある国家」であり、「山地拠点都市構想」であ
る。すなわち、「神との響き合い」に満ちた生活環境と社会環境、それは「山の霊魂」と
「奥」を意識して整備された「山地拠点都市」に他ならない。
ホワイトヘッドは、文化とは「文明化された宇宙」であると言っているが、「自然と
神」、それは「宇宙」そのものである。したがって、私たちは、田舎というか山地におい
て、「自然」と響き合い、「神」と響き合い、「宇宙」と響き合うというのが「知恵のあ
る国家」における最高の文化なのである。「響き合い」、それは思想的に言えば「協和」
という言葉で表現した方が良いかもしれない。私が「共和」というとき、それは「自然」
と響き合い、「神」と響き合い、「宇宙」と響き合い、「人々」との響き合いのことであ
る。そういう「共和」が現実的に行いうるのは、自然と人情豊かな人々に恵まれた田舎で
ある。山地である。その再生を図らなければならない。過疎地域における「地域コミュニ
ティ」の再生を図らなければならないのである。
今、日本は、世界に先駆け、「地域コミュ ニティの自立」の問題と取り組まなければな
らない。現実は混沌とした「矛盾社会」ではあるが将来に希望はある。市場経済の中に、
一部、贈与経済(地域通貨)を取り込むなど、「地域コミュニティの自立」のための新た
な取り組みの中に大いなる希望が湧いてくる筈だ。響き合いつまり「協和」という希望
だ。
「農」は国の基本であり、地域の基本である。「農」を基本とした地域の自立的発展を図
らない限り、地域コミュニティは崩壊をつづけ、やがて日本は崩壊するに違いない。これ
からは心の時代である。家族農業も大事にし、「協和」を旗印に、輝かしい「地域コミュ
ニティ」と日本を創っていきたいものだ。
そういった私の基本認識に基づいて「山地拠点都市構想」を書いたのがこの後編である。
後編では、二地域居住、クラインガルテン、わが町を美しく、道の駅、地域通貨、などに
ついえ詳しく論じるつもりだ。
山地拠点都市構想(後編目次)・・・新たな国土ヴィジョン
後編のはじめに
後編の目次
後編の序文
第1章 山の魅力
第2章 山についての論考を振り返る
第3章 「山の霊魂」について
第1節 古代人の「祈り」の様相。
第2節「山の霊魂」とは何か? 1、町田宗鳳の「山の霊力」
2、アリストテレスの「共感覚論」
3、古代人は山をどう呼んだか?
4、山は心の故郷
5、 知恵のある地域とはどのような地域か?
第4章 過去の国土政策を振り返って
第1節 「田園都市構想」と「ふるさと創成」
第2節 第4次全総計画の総点検を点検する
第5章 国土政策の現状と課題
第1節 国土形成計画
第2節 二地域居住(国土形成計画における位置づけ)
第6章 山地拠点都市構想の実現に向けて
第1節 山地拠点都市の定義について
第2節 中枢都市との「交流」について
1、二地域居住(国土形成計画における位置づけ)
2、 道の駅、新たな発展
3、クラインガルテン
4、「道の駅」と「まちの駅」との姉妹協定
5、第6次産業について
6、ビジター産業
第3節「自立的発展」を目指す
1、山地の新たな産業おこし
(1)市町村事業の振興
(2)小水力発電
(3)不燃化木材
2、 地域通貨 、新たな挑戦
3、サステイナブル・コミュニティ
第4節 「美しい都市」を目指して
1、山の生態系の復活
2、「美」とは?
(1)景観哲学について
(2)景観問題は何が問題なのか?
3、街の修景
第5節 山の国民運動
1、「緑の列島ネットワーク」
2、「樹木・環境ネットワーク協会」
3、「山の日」の制定を契機に!
4、「全国源流サミット」
5、知恵のある国家の国民運動
後編の序文
前編の「はじめに」申し上げたように、この論文『「山地拠点都市構想』は、私なりの国
土ヴィジョン であり、プラトンの国家論を参考にしたひとつの国家論である。
先に書いた「霊魂の哲学と科学」で展開した私の国家論を補完し、それを具体化したもの
である。「知恵のある国家とはどのようなものであるのか?」というのが今回のこの本に
おける中心的テーマであるが、その答えを出すためには、前提となるいくつかの事柄をま
ず前編で申し上げた。
プラトンはその霊魂観に基づいて国家論を展開した。 今後、日本のリーダーには、プラ
トンの国家論を己の政治哲学として、真剣に国家の運営に当たって欲しい。わが国は21
世紀において今後世界から尊敬されるには、知恵があり、勇気があり、節制があり、正義
に満ちた国家でなければならないが、この四つの要素の内、複雑でいろんな意見が錯綜す
るのは「知恵のある国家」についてである。知恵にはいろんな知恵があり得るということ
だ。しかし、私は、「知恵のある国家」とは、ヘーゲルがいうように、宗教の力を借りる
のではなく、啓蒙や教育によって、祖先の霊に「祈り」を捧げるとか、道ばたのお地蔵さ
んなどの神々に手を合わせるとか、そういう生活習慣が身についた大人や子供が少しでも
増えるにしなければならないのではないかと思う。そのための生活環境とか社会環境の
整った国家、 それが私の目指す「知恵のある国家」であり、「山地拠点都市構想」であ
る。すなわち、それは、「山の霊魂」と「奥」を大事にする国家なのである。
山は「魂」の癒しの「場所」であり、また「魂」を鍛える「場所」でもある。だからこ
そ、多くの人が「山の魅力」にとりつかれている。まず第1章では、「山の魅力」につい
て、岩井國臣の体験をご紹介し、次いで町田宗鳳の見解を紹介することとした。
第2章では、 今回の論文「山地拠点都市構想」と文脈的に関係のあるものを、今まで私
が行ってきた「山についての論考」をピックアップした。その中で特に重要なのは四手井
綱英の思想と小林達夫の見解であろう。
四手井さんは、その著書「森林はモリやハヤ シではない(2006年6月10日、ナカ
ニシ出版)」のなかでおっしゃっている。森林とは単なるモリやハヤシではない。頂上ま
でぎっしりと森林に覆われた山のことである。そこには、本来、神がおられるのだ。私
は、そういう森林の生態系を人工林で壊してしまうことは神を冒瀆する以外の何ものでも
ないと思う。
また、小林達夫は、縄文人と山との繋がりに関して、「山は、単なる風景を構成する点景
ではなく、その霊力をもって縄文人の相手をするようになる。縄文人は仰ぎ見ることで、
はるかに隔たる空間を飛び越えて情意を通ずるのだ。」と言っているが、私たちは、そう
いう縄文人の感性をふたたび身につけることが大事であると思う。
第3章は「山の霊魂」について詳しく述べた。まず古代人の「祈り」の様相について述
べ、『 天の神と地の神との合体による「摩訶不思議な力」、 人々の敬虔な「祈
り」、価値あるものの「誕生」、この三つはボメロオの環でがっちりと繋がっている 』
ということを申し述べた。
さて、「山の霊魂」とは何か?
町田宗鳳がその著「山の霊力」の中で、「山はひとつの巨大な動物である」と言いなが
ら、数々の重要なことを言っているが、その中で、次の二点は特に重要だと思うので、ま
ずはそれを紹介したい。彼は次のように言っている。すなわち、
『 人類の最初の神が動物であったとするバタイユの説は、日本人と山の関係を考える上
で、ひとつの重要なヒントを与えてくれる。それは、この山また山の列島に暮らした古代
日本人の目に映っていた山の姿についてである。近代人にとって山は、土や岩の塊が隆起
してできた特殊地形以外のなにものでもあり得ないが、古代人にとっては、山は息巻く巨
大な動物ではなかっただろうか。山は、肉体を持つ動物である証拠に、あらゆる動物たち
を産み落とす。さしずめ日本の山なら熊や鹿、イノシシにサル、それにウサギやリスなど
が、ところ狭しと駆け巡っていただろう。かってはカモシカやオオカミもふんだんにいた
はずである。いや現在からは想像もできないような珍しい動物が棲息していた可能性もあ
る。それもいつかは考古学者の手によって、明らかになるだろう。人間がこれらの動物の
肉を口にするとき、それは山という巨大な動物の分身の肉にほかならなかった。古代人の
目には、山はけっして無機質な物体ではなく、切れば真っ赤な血が吹き出るほど、肉感を
そなえていたのではないか。それは、人間と山が同じ「いのち」で繋がる生き物だという
感覚でもある。』
『 ここで非常に大切なことを一つ指摘しておかねばならない。それは古代人が持ってい
た感覚や、その鋭い感覚に触発されて生まれてくる想像力を、けっして現代人のそれと同
類のものとあつかってはならないということだ。彼らは、眼、耳、鼻、口、皮膚と言った
バラバラに分離した器官ではなく、全身で感覚していたのであある。個々の感覚的知覚を
統合するものとして「共通感覚」という言葉を最初に使い出したのはアリストテレスであ
るが、近代以前の人間が、そのような統合的感覚をどれほど旺盛にもっていたかは、今も
世界各地で暮らす先住民族の生態を少しばかり垣間みればすぐにわかることである。彼ら
は、獲物がどこに潜んでいるか、どこに行けば食べごろの木の実が採れるか、独特のカン
を働かせる。抜群の視力や聴力を駆使するだけでなく、風の匂いのようなものを嗅ぎ取
り、そこから必要情報を体にインプットしていくのである。(中略)そういう感覚を特に
旺盛に持つ者は、透視や予言などの超自然的な能力を伸張させていき、やがては部族の中
でシャーマン的な役割を果たすようになった。(中略)感覚が活発に働いておれば、さま
ざまなイメージが心の中に湧出してくる。それが想像力である。われわれが迷信や蒙昧
(もうまい)というレッテルで片付けてしまいがちな彼らの想像力は、どこまでも有機的
であった。酵母菌のように、どんどん自家増殖する力を持っていたのである。さしずめ近
代以降の人間の想像力は、ますます無精卵的なものになりつつあるのではなかろうか。こ
こでさしずめ思い出されるのは、「詩人の中でもっとも哲学者であり、哲学者の中でもっ
とも詩人である」と言われたガストン・バシュラールの「物質的想像力」という考え方で
ある。それは、人間が目の前に存在しない事物を夢想する能力ではなく、世界を構成して
いる火、水、空、土などの物質的要素から直接的な刺激を受け、力強いイメージを喚起す
る想像力のことである。人間が頭の中で想像するのではなく、自然界の物質によって喚起
される想像力は、既存のイメージをデフォルメ(変形)し、その常識的イメージからわれ
われを解放してくれる。われわれが、未来に向かってどこまで新しい生活を築きえるか
も、ひとえに想像力の資質にかかっている。』・・・と。
私が「山地拠点都市構想」を書かねばならないと思い立った動機は、もちろん「山の魅
力」もあるけれど、アリストテレスの「共通感覚」ならびにガストン・バシュラールの
「物質的想像力」ということを、 町田宗鳳の著書「山の霊力」で知ったからである。 人
間が頭の中で想像するのではなく、「山」という自然によって喚起される想像力は、既存
のイメージをデフォルメ(変形)し、その常識的イメージからわれわれを解放してくれ
る。われわれが、未来に向かってどこまで新しい生活を築き得るかも、ひとえに想像力の
資質にかかっているのだ。古代人の「祈り」がそうであったように、『天の神と地の神と
の合体による「摩訶不思議な力」、 人々の敬虔な「祈り」、価値あるものの「誕生」、
この三つはボメロオの環でがっちりと繋がっている。今ここでの場合、「山」の持つ「摩
訶不思議な力」に焦点を当てているので、その点から言えば、「山」の持つ「摩訶不思議
な力」と 人々の敬虔な「祈り」と価値あるものの「誕生」、この三つはボメロオの環で
がっちりと繋がっているのである。
第4章は、「田園都市構想」と「ふるさと創成」という過去の国土政策を振り返った。
大平総理は、わが国の内外にわたる長期政策を研究すべく、1979年1月以降順次9つの
研究会を設置した。「田園都市国家の構想」は、このうちの「田園都市構想研究グルー
プ」(議長:梅棹忠夫・国立民俗学博物館長(当時))の研究報告書として、大平総理死後
の1980年7月にまとめられたものである。研究グループは議長以下全22名(民間学識経
験者10名、関係省庁課長・課長補佐クラス12名)で構成され、報告書の起草は、研究グ
ループのメンバーである香山健一学習院大学教授及び山崎正和大阪大学教授(ともに当
時)が行った。
田園都市構想には、大平総理の故郷・香川県の穏やかな風土が色濃く反映していると言
われる。提唱者である大平総理自身は、これをどのように考えていたのか。総理就任後の
国会施政方針演説で次のように言う。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/oohira.pdf
現代は、文化の時代である。この文化の時代の生き方というのはどういうものであろう
か。日本の文化は、人間と 自然、精神と物質、自由と責任の相互に対比されるものの均
衡のとれた調和を大事にする伝統を持っている。しかし、明治以降、近代化に邁進してき
たわが国は、この面に十分な配慮を払ってきたとはいえない。そうした反省に立った対応
の一つが田園都市国家の構想である。
文化の時代は、同時に地方の時代ある。 地方の自発性と自主性の高揚を通じ て、ゆとり
と活力に満ちた多彩な地域社会を形成していかなければならない。
「素晴らしい国・日本 私の「ふるさと創生論」」は、竹下登元総理大臣が自由民主党幹
事長時代の1987年11月に自らの政権ビジョンとして刊行したものであり、竹下氏は発表
直後に総理大臣に就任した。 今日、「ふるさと創生」というイメージは、この1億円事
業とは切っても切れないものとなっている。誠に残念である。竹下登の思想はもっと奥が
深いのである。それを施政方針演説で見てみよう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/takesita.pdf
これらを集約すると、竹下登の考えは次のようになろうか。
これからは「こころ」の時代である。「こころ」の豊かさを重視しながら、日本人が日本
人としてしっかりとした生活と活動 の本拠を持つ世の中を築いていく必要がある。すべて
の人々がそれぞれの地域において豊かで、誇りを持ってみずからの活動を展開する ことが
できる幸せ多い社会、文化的にも経済的にも真の豊かさを持つ社会を創造する、それが
「こころ」の時代における国の基本的目標でなければならない。
「こころ」の時代においては、当然、物の豊かさだけでなく心の豊かさを重視するのであ
るが、問題は経済であって、これまでの経済発展の成果を真の豊かさへと結びつけていく
かが大きな課題ではある。経済的にも、さまざまな不均衡や不公平の是正に努め、活力に
満ちた社会を築くことが肝要である。「ふるさと」と呼ばれるような文化的、経済的な基
盤をしっかりと築き上げることが必要である。そのためには、何と言っても政治の責任は
大きい。政治には、「大胆な発想と実行」が求めらる。
第5章は、国土政策の現状と課題を書いたものである。
平成17年7月に国土形成計画法が成立した。その当時の考え方は、国土審議会調査改革
部会の議事録や「国土政策−国土計画のあり方−」という報告書で確認することができ
る。国土交通省の認識は、当時も現在も基本的に変わっていない。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sakuteizen.pdf
現在の「国土形成計画」は、長い間、考えに考えを重ね、議論に議論を重ねてでき上がっ
たものである。不十分な点もない訳ではないが、今後、「山地拠点都市構想」を進めてい
く場合は、やはり現在の「国土形成計画」をベースにおいて進めるべきであろう。
二地域居住やUJIターン等による定住、交流など多様な形での人の誘致・移動を促
進するために、各地域がそれぞれの特性や魅力を認識し、どのような人を、どのような
形で受け入れるかについての戦略を持ち、地域の情報や住まい方について広く発信する
ことを目指すべきである。二地域居住については、大都市圏と地方圏での二地域居住、大
都市圏内での二地域居住、地方都市と農山漁村での二地域居住など様々な形態があること
を踏まえ、その促進を図るに当たってより具体的な戦略を立てていく。移動してきた人と
日常的に接触し、コミュニティをともに構成するのは地域住民であることから、行政のみ
による誘致となることなく、地域住民やコミュニティ、NPOなど地域の多様な主体が一
体となった取組の下で、移動の検討段階から移動後も含めての一貫した受入・支援体制の
確保を図ることが必要なことは言うまでもない。。
第6章は、山地拠点都市構想の実現に向けて、基本的な認識ならびに具体的な課題につい
ていろいろ書いた。
まず「山地拠点都市」の定義である が、『 山地拠点都市とは、「山の霊魂」の働きが期
待できる山地の中心都市で、地域の 「歴史と伝統・文化」にもとづき中枢都市との「交
流」並びに「自立的発展」を目指す 「美しい都市」のことである。』
「山の霊魂」の働きが期待できる山地とはどんな山地なのか? 霊魂は不死であるから、
過去にその山地で人びとが「祈り」 を捧げた所、つまり昔の神社仏閣のあとや縄文集落
のあとがそうである。さらに、神社仏 閣や祠などが現在あって今なお人びとが祈りを捧
げている所や巨木のある所は、「山の霊 魂」の働きが期待できる。「山の霊魂」の働き
とは、アリストテレスの能動的理性の働き のことである。山地拠点都市は「歴史と伝
統・文化」にもとづく「地霊」の力が働いてい る。
「奥」の哲学との文脈でいえば、中心地は地方の中枢都市であり新たな文化の発信地は
「山地拠点都市」である。グノーシスを生じせしめるのは、中枢都市と山地拠点都市との
交流である。 今後21世紀において、新たな文化の発信地は「山地拠点都市」であって、
その依って立 つものは、「山の霊魂」である。
具体的な課題としては、二地域居住、クラインガルテン、「わが町を美しく」運動、道の
駅、地域通貨などについて書くとともに、地域の産業を如何に振興するかについて書い
た。地域産業振興策については、まだまだ具体性に欠けている点もあるので、今後、多く
の人の知恵も借りながら実践活動を開始しながら、いろいろと考えていきたいと思ってい
る。
第1章 山の魅力
私は、この「山地拠点都市構想」という論文で、「知恵のある国家」とは何かを論じなが
ら、かって大平正芳が提唱した「田園都市構想」や竹下登が提唱した「ふるさと創成」に
代る「山地拠点都市構想」を提唱しようとしている。これを国の指導的立場にあるリー
ダーのみならず、一般国民にもご理解いただくためには、まず山の魅力を感じてもらわね
ばならない。山には誰でも気軽に行ける里山と特別の人が行く奥山がある。奥山にはいわ
ゆる霊山も含まれるが、里山と奥山、この二つの山にはそれぞれの魅力があるけれど、山
ということで共通する部分も少なくない。「山の霊魂」という観点からは、里山も奥山も
区別なく、「山の霊魂」という観点に立って、その共通する部分に注目すれば、それで充
分である。かかる観点から、この章では、里山と奥山の区別をすることなく、ともかく
「山の魅力」を語りたい。「山の魅力」について、まずは私の体験を紹介し、次いで町田
宗鳳の語る山の魅力を紹介することとしたい。
第1節 オールランドな山登り・・・京大山岳部の思い出
山登りにもいろいろあって、京都大学の山岳部に入ったばかりの新人時代、私たちは、
リーダーのデルファーこと高村さんや新人係のコッテこと松浦さ んなどからオールランド
な山登りというものを教わった。岩登り、沢歩き、スキー登山あるいは春、夏、秋、冬と
もかくオールランドに登りなさいということであった。ただ、登るべき岩場、沢などにつ
いては、訓練の場合は別として、いろいろ記録を調べ出来るだけ人の行っていないところ
を選んだ。いわゆる「初登山」だ。こういう行き方は、今西錦司、桑原武夫、西堀栄三
郎、四手井綱彦、川喜多二郎、梅棹忠夫、藤平正夫(日本山岳会現会長)から続く伝統な
のだろう。 朱雀高校山岳部時代の山登りとは当然様変わりして本格的なものになった訳
だ。私は別段、これというほどの記録もないけれど、それでも先輩あるいは同僚のお蔭で
そういう精神だけは身についたかもしれない。未知のものに対する挑戦の精神である。と
いうと誠にキザに聞こえるけれど、それが今の実感である。どんな山登りでも、その時々
において自分なりの新しい発見というものがある。しかし、「初登山」の場合、たとえそ
れがどんなにささやかなものであっても、自分たちだけが初めてそれを知ったという喜
び、それは何事にも代え難い。
黒部渓谷の支流北又谷の完全遡行は二度目に成功した。二回とも松尾稔君(名古屋大学
元総長)と一緒だったかと思う。北又谷には物凄い絶壁からなる瀞(とろ)があって、一
回目はそこをどうしても通過できず、雨のため退却。二回目にアップザイレンが連続して
できるところを捜し出して、何とかそこを通過することが出来た。誠に残念なことには、
後輩が我々の記録をみてそのルートに入り、遭難死したが、そういう難所をやっとの思い
で通過して見た「魚止めの滝」の景観は今でも目に焼き付いている。滝の高さは60∼7
0mもあったろうか。滝の上は岩が削られて丸い窓のようになっている。その「丸窓」か
らほとばしる激流。どこまでも深い滝壺の色。回りに絶壁のいよいよ神秘的なその佇ま
い。忘れられない景観だ。佐渡から新潟に向かう連絡船から見た満月に映える「金波、銀
波」を絵にしたような景色も忘れられない景色だが、やはり山には心に焼き付いた景色が
いくつかあって、私の人生をそれだけ豊かにしているようだ。
北海道の日高山脈にあるルートルオマップ川の完全溯行は失敗に終わったが、まずは人
の行かないところだけに、私たちだけの自慢話がいくつかある。 安田君(元大日本土木
社長)と一緒だった。完全溯行もこれで成功かと思った頃、雪渓が我々の行く手を遮っ
た。今にも崩れ落ちそうなので尾根に逃げるこ とにしたのだが、雪渓の上を恐る恐る左
岸に渡って尾根に取り付こうとしたとき、誰かがトンと足で雪渓を叩いた。その途端、雪
渓全体がどどっと一気に崩れ落 ちたのである。皆が渡り終わったときで何ともなかった
のだが、寒気が背筋を走った。そのほか、夜のテントの周りを熊にうろうろされた話、寝
袋の中までバルサンを焚いてもどうにもならなかった猛烈なヤブ蚊の群れ、背丈の倍ほど
もある笹薮の海のなかで身動きが取れ無くなりそうになったこと、ながい冬の分を急い
で取り戻すかのようにともかく夏の日高山脈は生命力が旺盛だ。
そういった難行苦行をして思うのは、やはり自然との付き合いの難しさということだ。
特に春先は鳥の声で雪崩が起こることもあるし、私たちは、雪崩の起こりそうなやばい雪
渓を通過するときは夜も明けやらぬ早朝とした。沢歩きをしているとしょっちゅう、蝮
(まむし)に会うし、薮こぎをしていてスズメバ チに会うことも少なくない。蝮もスズ
メバチも下手をすると命を落としかねない。見かけたときはできるだけ静かにして、とも
かく相手を刺激しないことだ。ちなみに、沢歩きはわらじが一番いい。最近はいろいろ渓
流釣り用の地下足袋が出ているが、やはり普通の足袋にわらじを履くのがいい。いちばん
滑らないし、いちばん足にやさしい。しかし、もっとも肝心な点は蝮対策である。蝮は紺
色を嫌うそうで、紺染めの足袋とズボンを履いていると蝮に噛まれない。能の出そうな
山に入るときは、昔、馬が着けていたような出来るだけ大きな鈴をぶら下げて歩くとい
い。熊が近付いて来ないのだ。熊の場合はともかく急に出くわさないよう にするのが原
則だが、もし近くに来たときは死んだふりをしているのがよい。日高で、私たちはテント
の中で死んだふりをして助かった。
動物と付き合う場合、人間も動物だが、ともかく動物と付き合う場合、相手をむやみに
刺激しない方が得策だ。相手の嫌がることはしないほうがよい。 これは「共生」の原則
の一例だと思う。こういうことは、オールランドな山登りをやっていると自然に身につく
ことなのかもしれない。
ところで私が、これからの文明の在り方、あるいは人間の生き方に関連して思うこと
は、山登りのように非日常的な体験というよりむしろ日常的な体験の中で、自然とどう付
き合っていくのかということである。今、農業や林業は危機存亡の時だと言われている
が、農業や林業は、ただ単に食料や木材資源を供給するというだけでなく、文明論的に
言って、そこに自然との共生の世界が在るという点にこそ重要な意味がある。今後、我が
国が新たな文明というものを意識して「共生社会」を目指すのならば、農業や林業を疲弊
させてはならない。農山村地域に広がる自然との共生の世界を大事にしていかなければな
らない。
民俗学者の宮本常一は、その著書「忘れられた日本人」の中で自分の祖父について「そ
の生涯がそのまま民話といっていいような人であった。」と述 べ、その生涯を語りなが
ら、子犬や亀、みみずや蟹など、動物と人間が親しみ合い、ともに生きていた世界を描き
出している。そして、「世間の付き合い、あるいは世間体というものもあったが、はたで
見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。」と言って
いる。私が、オールランドな 山登りをやり、身体全体で自然を感じ、そして思うこと
は、結局は人間の生き方の問題であり、文明の在り方の問題である。農に生きる人、山に
生きる人には、自ずと「野生の思考」というか「野生の精神」が身に付くが、私たち町に
住む都会の人間はそうはいかない。だからおおいに山登りをやって「野生の精神」を身に
つける必要がある。これは「野生の精神」と言っていいかどうか判らないが、山では苦し
いことが多いし不便なことが多い。私たちが入った頃の京都大学山岳部では、特に山の道
具が不足していて山では不便を強いられた。しかし、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」」
と先輩から言われていろいろ工夫もしたし、自ずと苦労は厭(いと)わないようになって
いった。こういうものが「野生の心」とか「野生の精神」とどう繋がるのか繋がらないの
か判らないが、「野生の心」とか「野生の精神」について私なりにいろいろ考えてみた
い。
第2節 北又谷の強烈なインプレッション( 全国初の完全遡行)
先に述べたように、黒部渓谷の支流北又谷の完全遡行は二度目に成功した。二回とも松尾
稔君(名古屋大学元総長)と一緒だったかと思う。北又谷には物凄い絶壁からなる瀞(と
ろ)があって、一回目はそこをどうしても通過できず、雨のため退却。二回目にアップザ
イレンが連続してできるところを捜し出して、何とかそこを通過することが出来た。誠に
残念なことには、後輩が我々の記録をみてそのルートに入り、遭難死したが、そういう難
所をやっとの思いで通過して見た「魚止めの滝」の景観は今でも目に焼き付いている。滝
の高さは60∼70mもあったろうか。滝の上は岩が削られて丸い窓のようになってい
る。その「丸窓」からほとばしる激流。どこまでも深い滝壺の色。回りに絶壁のいよいよ
神秘的なその佇まい。忘れられない景観だ。
ここでは、黒部渓谷の支流北又谷の完全遡行に挑戦したときの思い出を、グーグルで検索
した画像をもとに私のイメージとしてここに紹介しておきたい。北又谷という谷がどんな
ところか、おおよそお判りいただけるであろう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kitamata.pdf
第3節 秩父・・・心の故郷がここにある
奥秩心の故郷がここにある奥秩父は、荒川・多摩川・笛吹川・千曲川の源流であるその奥
深い森林と深く刻まれた渓谷の大自然はすばらしい。
私は20年ほど前、秩父の里の生活を求め、マルチハビテーションよろしく秩父市に居を
定めたことがある。そして、奥秩父の山や谷を歩くためのベースキャンプとして山小屋も
建てた。
山小屋付近からはすばらしい景色が広がっていて、私には心に残る思い出はいっぱいだ。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/dai3titibu.pdf
第4節 多摩川源流日記
過日、「多摩川の源流を訪ねる会」で多摩川の源流を旅した。丹波山で泊まり、笠取山
の水干(みずひ)神社にお参りする旅である。白装束こそしていないが、「六根清浄、お
山は晴天」・・・・信仰の山登りにも似たすがすがしい源流登山である。
「多摩川の源流を訪ねる会」も会を重ねて今年で15年目になる。これを始めた三谷さん
や梅田さんの最初の思いはまあたいしたこともなく「多摩川の源 流はどうなっているの
か? ちょっと行ってみるか。」という程度のごく軽い気持ちであったようだ。しかし、
会を重ねる内に、多摩川源流のすばらしさに引き 込まれて、今では、「多摩川沿いに住
まう多くの人々が真の多摩川を知り、人の手によって、人の輪によって、クリーンな多摩
川を復活させる先駆けにになれば と思っています。そして、21世紀には、是非ともさら
に美しい母なる多摩川を次の世代に手渡していきたいと思っています。」と言っている。
すばらしい活動 目標ではないか。
「富士に登るも一歩から」の喩え(たとえ)のように、何ごとも最初はあまりあれこれ
考えずにともかく始めることなのであろう。堀内さんが「軽卒のす すめ」を言っておら
れるが、何か閃い(ひらめい)たら、一見軽卒に見えようともともかく始めるのがいいの
かもしれない。西堀栄三郎さんの有名な言葉に「石 橋は叩いて渡れない」というのがあ
る
当日は、いつものように川崎班と世田谷班とに分かれてバスで丹波山に向かった。途中、
羽村堰を見て、奥多摩湖で昼食。丹波山では、中村文明さんが中心となってシンポジュー
ムが開かれ、私たちも参加した。夜は「かどや旅館」でいつもの楽しい交流会だ。食べ切
れないぐらいの山の幸に舌鼓(したづつ み)を打つのもいつもの通りだ。地元の奥さん
たちがもてなしてくれる。すっかり恒例になってしまった。私は明日の朝が早いので少し
早い目に寝たが、呑んべ いたちは夜遅くまでワイワイガヤガヤやっていたらしい。
丹波山は夜の明けるのが遅い。次第にまわりが白々(しらじら)と白みはじめると、西
の山がモルゲンロートに輝きはじめ、ようやく神々が目覚めはじ める。妖怪どもは身を
潜め(ひそめ)、人々の生活が始まる。実際の生活は端(はた)から見るほどには豊では
ないのかもしれないが、丹波山の生活は、その風 土に恵まれてイキイキと輝いていると
私には見える。
さあ、今日一日の行動開始だ。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tamagen.pdf
第5節 思い出の山さまざま
私は京都育ちである。小学生から中学生にかけて、ボーイスカウトでキャンプに出かけた
りしていたので、山とは必ずしも縁がなかった訳ではないが、意識的に山に行くように
なったのは、やはり高校時代の山岳部に入ってからのことである。京都大学の山岳部の時
代は、第1節に述べたように、良い先輩に恵まれて、本格的な山登りをやった。一年の三
分の一を山に入っていたこともある。建設省に入ってから以降は、参議院議員時代もそう
だし、今もそうだが仕事が忙しく、本格的な山登りはできなくなってしまった。しかし、
今思い出すと、今までに随分いろんな山に行ったなあと思う。そのときの印象が走馬灯の
ように次々と思い出される。そのときの印象に合うホームページをウェブサイトからピッ
クアップして、以下に紹介することとしたい。最初に紹介するのは、おおむね哲学と関係
のあるものだが、最近、私が作ったホームページである。山高くして尊うとからず。 館山
市布良(めら)の「大山」は、低いけれど素晴らしい山だ。私は、布良(めら)の「大
山」を日本三代「大山」のひとつと考えている。
館山市布良(めら)の「大山」http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/meraooya.pdf
鞍馬・貴船 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/kura.html
比叡山 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yokawa.html
稲荷山 www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/inarituka.pdf
秩父郡宝登山(ほどさん) http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hodosan.pdf
次に、京都では、山を語る上で「京都の北山」は欠かすことのできない大きな存在だ。今
西錦司の原点が「京都の北山」にある。私も高校時代によく「京都の北山」に行き、沢歩
きやら薮こぎを身につけた。鞍馬からおおむね尾根伝いに日本海まで抜けたこともある。
では人のホームページであるが、「京都の北山」のホームページをひとつ紹介しよう。私
の抱くイメージと大分違うけれど、お許し願いたい。
京都の北山 http://blogs.yahoo.co.jp/toshio_trekking/28290628.html
京都といえば、大文字山や愛宕山を抜きにはできないので、他人のホームページではある
が、私の抱くイメージに近いものを紹介しておく。
大文字山 http://www12.plala.or.jp/ochikasan16/daimonnji.html
愛宕山 http://blog.goo.ne.jp/hozugawa/e/854fb360f189c3d96a87714d69c26191
高校の山岳部に入って間もない頃、琵琶湖の西にそびえる比良山で、ひどい悪天候の中、
私たちのパーティーが遭難し、一年先輩が岩から落ちて死んだ。1000メートルそこそ
この山であっても、天候次第で遭難することもあることを学んだ。貴重な経験だ。その遭
難事件で山岳部の活動が途絶えがちになったが、私は、それではダメだと思い、盛んに山
に行った。一般学生の募集を行い、伊吹山に行ったことがある。その結果若干部員が増え
たと思う。
比良山 http://d.hatena.ne.jp/fumi_isono/20121104/1352395094
伊吹山 http://ameblo.jp/gobankan-b/entry-11078319447.html
夏の乗鞍岳 http://blogs.yahoo.co.jp/peachchi777/63447741.html
夏の北岳 http://one9638.blog79.fc2.com/blog-entry-170.html
夏の富士山 http://blogs.yahoo.co.jp/skerokero8/36609798.html
京都大学山岳部では、本格的な山登りをやった。その代表的なものとして、北又谷完全遡
行を第2節で紹介したが、その他にも思い出の山行が少なくない。私たちは少しでも荷物
を軽くするために写真機を持って行かなかった。当時の写真機は結構重かったのである。
そんなことで私は山の写真がほとんどない。ということで、以下のものは、他人のホーム
ページでイメージに比較的合うものをピックアップしたものである。
なお、京都大学の一年生の冬は、妙高高原の笹が峯の我が山岳部のヒュッテで、スキー合
宿をする習わしになっている。ヒュッテの近くで4∼5日スキーの手ほどきを受ける。そ
れが終わると、いきなり妙高の外輪山までシールをつけて登っていく。そして外輪山から
滑り降りてくるのだ。私は多少だが高校時代にスキーの経験があったが、下に滑り降りて
くるまで何度転んだか・・・。ひどいときは、樅の木(たんね)の根元が大きな穴になっ
ているので、そこに落ち込んで人に助けてもらう始末。何ともはや・・・。もちろん、
ボーゲンを基本に滑り降りる。急な斜面のところは斜滑降、斜滑降の連続だ。情けないこ
とときたらありゃあしない。それでも怪我をせずに何とかヒュッテにたどり着くことがで
きた。そのときの印象に合ったホームページを探したが、イメージに合うものはひとつも
なかった。そりゃそうだろう。私たちへたくそが気合いだけで山スキーをやっているのだ
から・・
・・・。
冬の富士山 http://first-ascent.net/archives/tag/%E5%86%AC%E5%AF%8C
%E5%A3%AB
厳冬期の北岳 http://rock-and-snow-kuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/
post_9b8b.html
白馬岳 http://www.shinshu-tabi.com/hakubaziri.html
剣岳(つるぎだけ) http://unpo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/2-8885.html
早月尾根 http://nakayamayu.web.fc2.com/record/2009/0912hayatsuki/index2.html
立山のカール http://nan-an.sakura.ne.jp/photogallery/2009/05/post-55.html
後立山連峰 http://www.jalps.net/non/atotateyama/index.html
大雪山 http://ganref.jp/m/minisam606/reviews_and_diaries/diary/4813
駒ヶ岳 http://deer2010.blog96.fc2.com/blog-entry-85.html
なお、深い雪の中をラッセルして白山に登ったことがある。しかし、そのときのイメージ
に合うホームページがひとつも見つからなかった。ただ、頂上手前・室堂の雪の状態に近
い写真が、見つかったので、それを紹介しておく。春山だったのにこんなに雪が深いので
すよ。
http://rakoblog.blog.fc2.com/blog-entry-10.html
建設省に入ってからは、仕事が忙しく、本格的な山登りはできなかったが、それでもいろ
いろな山に登った。特に、思い出深いのは、「源流を訪ねる会」のことである。私が仲間
にいろいろと山の話をしていたら、写真家の井出さんを中心に「源流を訪ねる会」が広島
にもできて、まず最初に太田川の源流の沢歩きをして、冠山のまさに水の湧き出るところ
(太田川の水源地)に源流の木柱を立てた。また、広島山岳会の兼森志郎さんとの交流も
貴重な体験である。当時の会長・三好さんらと恐羅漢山(おそらかんやま)にある広島山
岳会の山小屋で正月を過ごそうではないかと誘われて、東京に帰らず山で正月を迎えたの
も懐かしい思い出である。兼森志郎さんのお蔭だ。彼は今、日本の祝日として「山の日」
をつくろうという運動を展開中である。
それでは、建設省時代の思い出深い山のいくつかを紹介しておこう。人のホームページで
はあるが・・・。
佐賀県天山(てんざん) http://blogs.yahoo.co.jp/jtqqp754/62117823.html
脊振山(せぶりやま) http://www.ne.jp/asahi/tokyo/ono/yama/kokunai/
seburiyama.htm
英彦山 http://ada-kitakyu.com/kinkou/hikosan/hikosan.html
宝満山 http://d.hatena.ne.jp/NAMARI/20110302/1299076921
福岡県福智山 http://blogs.yahoo.co.jp/homanbokka/23615571.html
大分県法華院温泉と九重連山 http://blogs.yahoo.co.jp/mountain_star_flower/
38013484.html
大山(だいせん)http://4travel.jp/traveler/planetginga/album/10379400/
広島県恐羅漢山(おそらかんやま) http://www2.bbweb-arena.com/higejiji/
osora080210.html
島根県安蔵寺山(あぞうじさん)
http://www2.bbweb-arena.com/higejiji/azouziyama080420.html
島根県三瓶山(さんべさん) http://outdoor.geocities.jp/fajar_5353/shimane/
sanbe.html
鳥取県那岐山 http://www.geocities.jp/hino8224/nagi0701.htm
鳥取市九松山と本陣山 http://ameblo.jp/onyourmark/entry-11229850903.html
広島県比婆山 http://outdoor.geocities.jp/fajar_5353/tree03/hiba.html
広島県冠山 http://blogs.yahoo.co.jp/reeeeee98/59987874.html
広島県宮島の弥山(みせん) http://kooikerfondier.seesaa.net/article/311316853.html
島根県大万木(おおよろぎ)山
http://blog.goo.ne.jp/yaji3331/e/c2cba574d7a9f7ddf141b122bfebc521
広島県八幡原高原と臥竜山
https://www.daiwahouse.co.jp/shinrin/blog/blog_detail.asp?
bukken_id=geihoku&blog_id=46
なお、 宮崎県大崩山(おおくえやま)は、あけぼのツツジが素晴らしい。私は、うっす
らとガスのかかった五葉松の原生林に咲いているあけぼのツツジが忘れられない。私には
忘れられない景色が三つある。それは剣大沢の両側の峨々とした岩壁と真っ白な雪渓、そ
の上に見える紺碧の空。それと佐渡島から新潟に帰る舟の中で見た金波銀波の輝き。それ
と大崩山(おおくえやま)のあけぼのツツジである。私のイメージに合う写真はネット
サーフィンをやったけれど遂に見つからなかった。そのような訳で私のイメージには合わ
ないけれど、ともかく五葉松とあけぼのツツジの載っているホームページを紹介してお
く。
http://promontory.cocolog-nifty.com/promontory/cat20933287/index.html
参議院議員になってからは、ほとんど山に行く機会がなかったが、それでも北海道と秩父
を中心にいくつかの山に登った。それぞれに思い出深い山である。
茨城県八溝山(やみぞさん)http://yamayama.jp/yamizo/yamizo.htm
北海道白滝の黒曜石原産地「赤石山」 http://www.geopark.jp/geopark/shirataki/
北海道白滝の比麻良山(ひまらやま)
https://www.yamareco.com/modules/jqm/detail.php?did=223577
甲武信岳 http://d.hatena.ne.jp/shimokita101/20120527/1338118068
両神山 http://ruu8713.at.webry.info/200911/article_6.html
秩父御岳山 http://members2.jcom.home.ne.jp/wm-aoki/newpage143.html
雲取山 http://karake-877.at.webry.info/201203/article_9.html
私の思い出に残る山の内、私のイメージに合うホームページが見つかったのは以上である
が、この他にも私の思い出に残っている山がある。それを順不同に列挙しておく。静岡県
愛鷹山、丹沢山隗、新潟県焼山、三重県藤原岳、三重県御在所山、三重県多度山、広島県
三倉山、恐山、山梨県丹波山村丹波天平山、同じく芦沢山、三峰神社の奥の院妙法ケ岳、
秩父市と川上村の境・十文字峠、秩父市丸山、鹿児島県栗野岳、高千穂峰、いわき市石森
山、静岡県十国峠、静岡県香貫山、高知県横倉山、四国カルストなど。
この中で、特に、栗野岳の思い出が懐かしい。栗野岳には、四元義隆さんと一緒に登っ
た。そのときに、今西錦司の「黒もじの杖」の話を聞いたが、この際、後日談をしておき
たい。私は電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「<100匹目の猿>が100匹」
の第12章「今西錦司 直観を語る」に書いたが、今西錦司は次のような不思議な話をし
ている。「外なる神」の助けによる「直観」の事例として紹介しておきたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-cf08.html
「黒もじの杖」、この話は、ひとつの科学的事実としてその原因究明に多くの科学者に力
を注いでほしいと思うぐらい重大な話だと私は考えているが、この話を知ることができた
のは四元義隆さんのお蔭である。それでは、四元義隆さんと一緒に栗野岳に登ることに
なったいきさつなどを書いたものがあるので、それをこの際振り返っておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yotuomoi.pdf
薬師寺さんの話しを想い出しながら私が思うのは、「今西錦司の黒もじの杖」つまり直
感についてだ。今西錦司さんは、直感力について「山に登ると、目、耳、鼻など 五感が
鋭くなる。山という別世界、いわば非日常の世界に入ったとき、人間は日常生活では緊張
してない部分が緊張し、その世界で働かなければならないように 五感が働いてくれるも
のだ。今、日本ならずアメリカ辺りでも座禅やヨガが流行しているが、これも非日常の世
界に触れて自分の体と心を研ぎ澄ますという意味 で、山の世界に通じるところがあると
思う。」こう言っておられる。私も、山のお蔭だろう、割に直感が働く方かも知れない。
写真を取るとか、植物採取をする とか、バードウオッチングをするのもいいとは思うけ
れど、ともかく五感全体を働かし身体全体で自然を感じるという行き方のほうが私は好き
だ。そんな山登り が好きなのだ。これからもせっせと奥秩父の山に登ってせいぜい五感
を磨きたいと思っている。
五感を磨く事のできる「身体と脳の学習プログラム」というのが、子供の教育を考える
場合の基本であると思う。
かって、養老孟司(ようろうたけし)の「バカの壁」(2003年4月、新潮社)とい
う本がベストセラーになったことがある。彼は、かって永く東大の解剖学の 教授をして
いて、まあいうなれば脳の専門家である。「唯脳論」などという本も書いているのだが、
彼のいうことには吃驚することが多く、目からウロコが落ち るようなことが多い。「バ
カの壁」もそうだ。例えば、『 現状は、NHKの「公平、客観、中立」に代表されるよ
うに、あちこちで一神教が進んでいる。それが正 しいかのような風潮が中心になってい
る状況は非常に心配です。安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真理がある」
などと思ってしまう姿勢、そこか ら一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれ
ば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側の
こと、自分と違 う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるので
す。』・・・・などと言われると、もう吃驚してしまう。しかし、養老孟司の言うことは
真実である と思う。科学的であると思う。
さて、 神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野
心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう 「場所
の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズム
に耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズ ム、それは風土の発する
リズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世
界と深く結び付いた感性というものが養われる のである。そのために「山地拠点構想」
を提唱したいと思っているのだが、ここでは次にその補強として養老孟司の身体論を紹介
しておきたい。
養老孟司は、その著「バカの壁」の中で「身体」について極めて重要なことをいってい
る。人間は「身体」を通じていろんなことを学習していく。学習 というと「脳」の問題
だと思われがちであるが、そうではなくて、「身体」を通じて学習する部分というのが非
常に大きい、というのが養老孟司の認識の基本で ある。これは、西田幾多郎の「場所の
論理」や中村雄二郎の「リズム論」と同じ認識である。「戦後、我々が考えなくなったこ
との一つが<身体>の問題で す。」と養老孟司は鋭く指摘しているが、確かに戦後の日本
には身体をあまり動かさない頭でっかちの・・・まあいうなれば不健全な人間が増えてし
まったよう だ。不健全な人間が多くなれば国家自体も健全であるはずがない。国家が健
全でなければいよいよ不健全な人間が増えていくという・・・・悪循環に陥ってしま
う。それを正すには、やはり原点の問題、つまり「身体」の問題に戻ることだ。養老孟司
は次のように言っている。すなわち、
『 江戸時代には、朱子学のあと、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえ
ば、「知行合一(ちこうごういつ)。すなわち、知ることと行な うことが一致すべき
だ、という考えです。しかし、これは「知ったことが出力されないと意味がない」という
意味だと思います。これが「文武両道」の本当の意 味ではないか。文と武という別のも
のが並列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がぐるぐる回らなくて
は意味がない、学んだことと行動と が互いに影響しあわなくてはいけない、ということ
だと思います。
赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハ
イをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反 応=出力も変わる。ハイ
ハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がるこ
とがわかる。これをくり返していくことが学習 です。
この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第
にその入出力を脳の中でのみ回すことができるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の
代表が数学や哲学です。
赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積
んでいく。しかし、ある程度大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてし
まう。これは非常に不健康な状態だと思います。
仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。限定化す
るということはコンピュータならば一つのプログラムだけをくり 返しているようなもの
です。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしている
ことなのかもしれません。
私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃない
か、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な 意見を在職中から自
由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたか
がよくわかった。この制限は外れてみないとわから ない。それこそが無意識というもの
です。
「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうる
さいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新し
い世界を知ることに繋がるわけです。』・・・と。
そうなのだ。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることだ。私たちは、新しい
世界を知るためには、ともかく身体を動かすことを考えねばなら ない。本を読んだりテ
レビを見ることも必要だけれど、私たちはもっと身体を動かすことを考えなければならな
い。そう考えれば、私たちの学習プログラムは無 限にある。私たちは、養老孟司が言う
ように、「身体と脳の学習プログラム」をいろいろとつくり出さなければならない。それ
がこれからの教育の基本だ。私たちは、「場所のもつリズム性」に 着目して、さまざま
な舞台装置をつくっていかなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目
して、さまざまな仕掛けをしていかなければならな いのだ。それが「山地拠点構想」だ。
新しい川づくりだ。新しい森づくりだ。新しい村づくりだ。いろんな人たちの出合いの場
づくりだ。それがこの本のねらいである。
私は京都大学の山岳部に入って最初に京都の大原にある金比羅という岩場で岩登りの手ほ
どきを受けた。 http://4travel.jp/traveler/aoitomo/album/10718677/
その後いろんな岩場で岩登りの訓練を受けた。その中で、兵庫県のどこであったかその場
所を思い出せないが、川に面した岩場だった。夜はその対岸の河原に寝っころがってヴィ
バーク(野宿)をした。私たちは、テントがなくとも、大きなビニールシートがあれば寝
袋一つでビバークができる。天候の如何に関わらず・・・だ。天気のいい日は、夜空を見
ながら寝るのは実に楽しい。そのときのことである。私たちは蛍が乱舞するのを見た。見
たのだ。その後私はいろんなところで、蛍を鑑賞したが、あの河原で見た蛍の乱舞ほど見
事なものを見たことがない。今もなおあのときに風景が目にこびりついて離れない。
そこで私は考えるのだが、里を流れる川の河原をベースにして子供たちのための「身体と
脳の学習プログラム」を作りたいということと、できれば蛍の乱舞するような水環境を取
り戻したいということだ。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/satokawa.pdf
さて、「奥」とか「穴」とか「洞窟」というのは、ひとつの「シニフィエ」であって、
自然の霊力を感じることのできる特殊な空間である。そこでは、南無妙法蓮華経を唱えて
も良いし、自分の好きな真言を唱えても良い。私の言う「エイトス・アンドロ・ポイダイ
モーン」という呪文でも良い。そうすることによって、その空間には自然の霊力が満ちて
くる。だいたい仏間はそう空間になっているし、神社仏閣はそういう空間のことだ。宗教
とはまったく離れて、住居の中にあって良いし、オフィスビルの中にあっても良い。そこ
で私は、その考えを延長して、地域構造を構想したい。上記のようなイメージの里の川の
河原はそういう場所になりうる。
浄土の思想は、 円仁(慈覚大師)から始まり、元三大師、源信でほぼ完成・・・・・、
法然、親鸞へと繋がっていく。一般的には、極楽といえば、法然の浄土宗や親鸞の浄土真
宗を頭に浮かべるが、その源流をたどれば源信の「往生要集」にいく。宗教に関心をもつ
人であ れば源信を知らない人はないであろう。紫式部も源信の影響を受け、世界の名
著・源氏物語は源信の思想を背景にして出来上がったと言って過言ではない。源信は誠に
偉大な人である。しかし、実をいうと、浄土教えの源流をたどっていくとあの・・・・
「円仁(慈覚大師)」にいくのである。
比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)
の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置
され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者は、口に念仏を唱え、心に阿
弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なも
ので、伴奏として笛が用いられたという。声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲
気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心な信仰者のなかには、阿弥陀の
名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、
極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も
伝えられるようになった。
この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が
源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。源信と恵心院
については、次のような私のホームページがあるので是非ご覧下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
修行僧に必要なのは読経(どきょう)であるが、私たち一般の人間には、そういう宗教的
生活はおおよそ無縁である。しかし、日常の生活空間に「奥」の空間があれば、自然との
響き合い、「山の霊魂」との響き合い、神や仏との響き合いができる。
上述のように、「奥」の空間というのは、ひとつの「シニフィエ」であって、自然の霊力
を感じることのできる特殊な空間である。そういう空間は、顕微鏡の中にもある。顕微鏡
で生物の細胞の動きなどを観察していると、生命の不思議を感じ、自然の摩訶不思議なと
ころにある種の感動を覚えることがある。自然の不思議を感じること、それは「身体と脳
の学習プログラム」の根本的要素である。上述したようなイメージの里の川の河原は、
「身体と脳の学習プログラム」実施のひとつのフィ­ルドであろう。私がそういったこと
を自信をもって言えるのも山の体験のお蔭である。
第6節 町田 宗鳳の語る「山の魅力」
私たちは、特別な知識がなくても、一般的に、山に入れば深い感動を覚える。しかし、
「山の神」の存在に注目すれば、全国各地の「山の神」を通じて、その地域の山の魅力を
より深く感じることができる。町田 宗鳳は、その著書「山の霊力」(2003年2月、
講談社)で一般的な「山の魅力」について語ると同時に、地域の祭りや風俗と「山の神」
との関係を語っている。その他、特殊な山として、「験を修める山」と「魂が蘇る山」に
ついて語っているが、前者の修験道の山である出羽三山、比叡山、愛宕山、大峰山、山上
が岳、そして後者の山である御岳山、高野山、立山、恐山、白山、剣山、石鎚山、屋久島
については、まあ特別な山であり、書かれた書籍も多い。したがって、ここでは、町田
宗鳳の語る一般的な「山の魅力」と山の魅力と「山の神」との関係を紹介することとした
い。
(1)一般的な「山の魅力」
1、日本の山は、個性が豊かである。北海道から沖縄まで日本列島の風土は非常に変化に
富むが、それと同じように全国に散らばる山々の姿も、地域によって大きく異なる。ほと
んど一年中、雪をかぶっている険峻な山もあれば、今も噴煙を吐き出している活火山もあ
る。雄々しき岩壁を天にそそり立たせる山もあれば、女体を思わせるような柔らかく優し
い山もある。だから、山に登って飽きるということがない。私も世界各地を旅してきた人
間の一人だが、これほど山容の豊かな風土を持つ国も珍しい。いわゆる「日本百名山」と
呼ばれる山々をひとつひとつ丹念に登っている人びとが多いのも、むべなるかなである。
しかも、それらの山が人びとの暮らす都会から、けっしてかけ離れた距離に存在する訳で
なく、その気になりさえすれば、ありがたいことにいつでも訪れることができる。外国の
高い山が、ベースキャンプに到達するまで、何日も歩き続けなくてはならないところに
あったりするのと比べて、日本の山々は人間の生活空間と隔絶した場所にある訳ではな
い。人間界とつかず離れず、ちょうどいい具合の場所に堂々と横たわっている。
2、日本はどこに行っても、里人たちは祠(ほこら)を建てて山の神を祀り、それを中心
として、さまざまな祭典を営むだけでなく、山を精神的鍛錬の場とする習俗を伝えてい
る。登山そのものを教義の中心にすえている宗教というのは、世界広しといえども、日本
の修験道ぐらいのものである。おまけに山にまつわる伝承文学となれば、これは日本の独
壇場に近い。もちろん外国にも山に関連する物語は多々あるが、日本人ほど山という空間
に対して想像をたくましくし、盛りたくさんの説話を世代から世代へと語り継いできた民
族も少ない。物語の世界で山姥(やまんば)、雪女、山男、山童(やまわらわ)、河童、
ひとつ目小僧、鬼、天狗、仙人など、さしもの深山幽谷も多彩な住民でひしめきあってい
る。最近、日本の山を埋め尽くしている宗教色抜きのハイカーでさえ、山の頂上に至れ
ば、ご来光を拝んだり、そこにある祠に手を合わせたりしている。
3、山の風景は美しい。アルプスやヒマラヤのように純白の雪をかぶって、神々しく天を
突く山の姿は、おのずと人間の崇高な感情を抱かしめる。神に出会ったときの敬虔感情
も、かくなるやと思わしめるものがある。いや、そのような容易に人をよせつけることの
ない孤高の山との出会いは、崇高な感情、といったよそよそしいものではなく、全身がわ
なわなと震えるような強烈な肉体感覚をともなった、一種の宗教的体験と言った方がよい
かもしれない。そんな山の不思議な魅力に取り憑かれて、どれほど多くの人間が山で命を
失っていったであろう。また、そんなに聳え立つほどの高さがなくとも、日本ならどこに
でもある里山のように、その瑞々しい緑に覆われた穏やかな山並みに、魂が揺さぶられる
ような深い郷愁を覚えた経験は、誰にでもある筈だ。低くて小さい丘のような山でも、妙
に存在感のある山もある。
兎追いしかの山、
小鮒釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷。
如何にいます、父母
恙(つつが)なしや、友がき、
雨に風につけても、
思いいずる故郷。
こころざしをはたして、
いつの日にか帰らん、
山はあおき故郷、
水は清き故郷。
今やこの文部省唱歌をいつでも歌えるというのは、中高年層に限られるようになったのだ
ろうか。それにしても日本人は実際の出身地とは無関係に、山と故郷のイメージを重ね合
わせ、自分の深層心理に不思議な精神空間を構築し、そこにはえも言われぬノスタルジア
を覚えてきたのである。特に日本人の場合、たとえ都会の中で、日々、多忙な生活を送っ
ていたとしても、いつか暇ができれば、山間のひなびた温泉に出かけて、のんびりと清流
でも眺めながら、湯に浸かってみたいという思いを心の片隅に秘めている人が、年齢層に
かかわらず多い。若い女性向けの月刊誌でさえも、しばしば温泉つきの山宿特集を組んで
いる。そのように、どこか日本人には子が母を求めるように、山を懐かしむ心情がそな
わっているようだ。
4、日本中の山々が、年中あまり色彩的変化のない針葉樹林に覆われるよおうになったの
は、ここ100年ぐらいのことである。植林されたことのない山は、劇的にカラフルで
あった。春から夏にかけて、その緑は日増しに濃くなっていく。まるで赤ん坊の細かくて
柔らかい髪が、大人の太くて硬い髪に変わっていくようだ。秋がやってくると、その毛皮
の緑色が、誰の仕業なのかいきなり燃え立つような赤や黄色に変わってしまう。紅葉は細
胞内の葉緑素が分解しておきる現象などという無粋な科学的知識を持ち合わせなかった古
代人は、その音楽的といえる色彩の変化に身体全体で感動していたのかもしれない。(中
略)山は生きている。きっと生きている。古代人はそう感じていたにちがいない。いや色
彩だけではない。山はいくつも自分の声を持っている。春風のそよぎは楽しい山の笑い
声、走り抜ける木枯らしは山の悲しみを伝えるため息、猛り狂う吹雪は山の咆哮(ほうこ
う)。その声を聞いているだけでも、山が感情を持っている激しい生き物であることを古
代人誰も疑わなかったのではないか。おまけに山は動く。雨の中では遠く霞んで見えた山
も、雨上がりには手の届くほど近くに寄ってくる。いつの間に動いたのであろうか、恐ろ
しく速足(はやあし)である。
5、宮沢賢治が、山の頂(いただき)に小さな太陽が浮かんだ「日輪と山」という不思議
な水彩画を残している。山の端(は)に太陽が昇り、そして沈むのを麓から眺めた、あの
構図こそ古代日本人が山に抱いてきた宗教感情を如実に表現しているような気がする。太
陽は山の懐から現れ、山の懐に隠れてゆく。山と太陽は同じ「いのち」を分かち合ってい
るのだ。種山(たねやま)が原や岩手山は賢治の「物質的想像力」の供給源となっていた
と思われるが、彼の四次元的世界では山と太陽が親子のように結ばれていたのだろう。
上記の宮沢賢治の「日輪と山」については次をクリックして下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/miyaniti.pdf
6、たとえどんなに穏やかな姿をしている山であっても、もしそこに日没後、ただ一人残
されるようなことがあれば、人はとたんに、山がそれまで決して見せることのなかった不
気味な魔性に包まれて、思わず震え上がるであろう。漆黒の闇の中、どこからくるともわ
からない不気味な物音に起こされると、動物の目か、はたまた妖怪の目か、ギラギラと鈍
く光って、こちらを睨んでいる。いかに腹の据わった人間でも、思わず鳥肌の立つ思いを
するのが、夜の山である。私はむしろ、そのような山が秘める得体の知れない不気味さこ
そ、山の本質があるのではないかと考えている。
(2)「山の神」との関係
1、いつ龍神が日本の山々に飛来したか、その答えを知っているのは、豊かな水の恵みを
必要とする稲作農耕をはじめた人々である。(中略)山の神の進化は、オロチから龍神へ
の変身にとどまらない。たとえば、柳田国雄は、「民俗学事典」に、サルやオオカミが山
の神、あるいはその使者であると記しているが、(中略)やがてはクマ、シカ、ウサギ、
イノシシ、タヌキ、イタチなども、山の神の姿として理解されるようになった。
2、「山の神」(言叢社)は、ネリー・ナウマンというドイツの民俗学者が、1960年
代に大量の資料を集めながら著した貴重な民俗誌である。その中で、愛知県北設楽郡の慣
習が紹介されているが、地元の人たちはイノシシが泥浴びをする場所であるノバタを、山
の神のいますところとして神聖視したそうである。
3、新潟県中頸城郡春日村(現上越市)では、「狼送り」という風習があった。
4、荒々しい山の神を自分たちの側に引き寄せたのは誰かといえば、猟師、木こり、炭焼
き、木地師、タタラ師、石工、杜氏などの山麓に居住し、自分の生業に山との直接的な関
わりを持つ山の民たちである。つまり彼らは、狩人の神、木こりの神、木地師の神、炭焼
きの神、タタラの神などの職能神として山の神を拝むことになったのである。
5、稲作農業が定着するようになると、こんどは農民たちは山の神を田の神として変身さ
せ、平地に立派な神社を建て、今日の神道に繋がる道筋を開いたことになる。この山の神
が田の神に変身していくプロセスをビジュアルに見せてくれる山のひとつが、秋田県の田
代岳(1178m)である。
6、網野喜彦が指摘しているように、いわゆる百姓という言葉は、けっして農民と同義で
はなく、そこには漁師や回船業など、さまざまな生業を持った非農業民も含まれている。
集落が拡大するにつれ、行商、店子(たなこ)、大工、職工など数限りない専門的職業が
発生したのであり、それはとりおなおさず、地上に存在する職業の数だけ、職能神が増え
たことを意味する。そして遂に八百万(やおよろず)の神々といわれるまでに、日本人は
多種多様の神を崇めるに至った訳でだが、それらの神々が最初に出会ったのが、山という
神話的空間にほかならなかった。
7、弥生時代になると、コメを育てることに命をかけていた農民にとって、水の確保と太
陽の動きが何よりも大きな関心事であった。そこに水分(みくまり)信仰と太陽信仰を二
本立てと山岳観が発生することになった。平地に定住することになった彼らは、自分たち
のムラからあまり遠くないところにあるいちばん高い山を、水と太陽の光をもたらしてく
れる神々の住処(すみか)と定め、それを遥拝(ようはい)した。
8、漁師がなぜ山とのかかわりあいをもったのであろうか。そんな疑問を抱いたのは、那
智大社のすぐ隣にある青岸渡寺(せいがんどじ)に、立派な大漁旗が奉納されているのを
見たときである。
9、実は海に生きる人びとも、山と海とが有機的に結びついてることを経験則から知って
いたのである。(中略)山の体液ともいえる川が、広葉樹林で培養された栄養素を海へと
運び、近海に豊かな魚介類を呼び寄せる訳だ。
10、また海に出た漁師が、山の頂や、山腹に突き出る巨岩などをたよりに、航行距離や
方向をさだめる習慣を持っていたことも、海と山を一体化した信仰が生まれる原因のひと
つとなった。(中略)熊野3600峰のヘソにあたる位置に玉置(たまき)神社がある
が、そこにも大漁旗が奉納されている。この神社には、今でも神代杉などの古木が鬱蒼と
茂っており、本州に残る秘境のひつと言って良いかもしれない。しかし、玉置山は、その
頂上から天気の良い日だけ、熊野灘がかろじて見えるほど、海から離れている。それでも
熊野の漁民たちは、玉置山をおのが霊山として拝んだのである。(中略)平安時代から皇
族や公家が足しげく参詣した熊野三山も、もともとは山の民が崇めた山の神、海の民が崇
めた海の神、農民が崇めた田のが出会い、時には争い、時には妥協し、やがて一つの合体
神として祀られるようになった長い歴史があると受け止めるべきであろう。
11、神の山地から平地への下降、山の神から田の神への移行の過程で登場したのが、マ
レビト信仰である。マレビトは年に一度、人里に出現するが、そのとき秋田のナマハゲの
ようにいかにもグロテスクな姿をして現れるのは、それが古代社会の動物神の名残を留め
ているからである。それは、人間の前に現れるカムイが、必ずクマというハヨクペ(仮
装)を必要としているとされるアイヌの信仰と同じものである。沖縄諸島には来方神とし
てのアカマタ・クロマタを迎える儀式が伝わっている。
12、日本に現存する祭りの大半は、稲作農耕民による田の神にまつわるものであると考
えて良いが、その中にも注意深く観察していけば、田の神以前の祭祀の要素が残っている
ものが、結構多い。その一つが、どこの神社の祭りにも見られる神輿かつぎである。初期
の田の神は、おとなしく社(やしろ)に鎮座する神ではなかった。早春に山から麓に下り
てきて、里人のために稲の生育と収穫を見守り、晩秋になって用が済めば、ふたたび「見
るなの座敷」である山の懐深くに潜む。山から平地、平地から山へ旅するからこそ、マレ
ビトである神は霊験を持つのであり、山という秘密の聖空間から切り離されるわけにはい
かなかった。神は年に一度、わが故郷に旅することによって、その霊験をあらたかなもの
にすることができるのである。(中略)現代の祭りでも、神輿が本社からお旅所まで担が
れていくのは、明らかに「旅する神」の名残であり、お旅所は神々の原郷である山、ある
いはそこに設けられていた山宮に相当するのである。
13、神輿の移動だけでなく、金田一京助が紹介している山里の祭りにも、山の神と田の
神とかかわりが明白にうかがえる。それは金田一の故郷である岩手県盛岡市郊外の「春田
打(はつたうち)」という田の舞である。若い女性の面をかぶった男性が、田植えから稲
刈りまでの所作を舞ってみせるのだが、土壇場になって醜悪な面にかぶり替え、舞を終え
るという。それについて、金田一は次のようにコメントしている。「この最後の瞬間の醜
い女の面こそは、私の地方の山の神で、つまり半年の田の仕事が済むと、若い美しい里の
神が、山へ上がって、あの山の神になるという舞の意味であった。春から夏にかけての、
生育の季節の神が若い女の神で、秋から冬へかけて山仕事になる季節の神が、年上のこの
意地悪い醜い顔した山の神なのである。
14、サルタヒコが、天つ神として降臨してくるニニギノミコトの道案内をするというス
トーリーは、国つ神と天つ神との間に講話が成立していることを、神話の読者に印象づけ
るために作られたのではないか。明治維新の後、国家権力が神道を政治化してしまったこ
とによる大きな過ちは、本来、山岳おはじめとする自然との深いかかわりの中で有機的な
性格を帯びていた国つ神の存在意義を否定し、神ながらの道を天つ神の独壇場としてし
まったことである。そのため、古代から連綿と続いてきた神々の細胞分裂が完全に停止
し、国家と天皇のみに集約される無機的な神々のイメージが、日本神道に定着することと
なった。そのように考えれば、「神は死んだ」というニーチェの言葉を借りてきて、明治
から終戦までの国家神道台頭の時期に当てはめて良いのかもしれない。粘菌の研究で世界
に名を馳せた啓蒙的なエコロジスト南方熊楠が、政府による神社合祀政策に猛烈に反対し
たのは、その結果、鎮守の森の生態系が破壊されることを恐れたからだとされているが、
ほんとうは天つ神と国つ神の間に存在していた絶妙のバランスが壊れてしまうことを、直
感的に理解したからではなかろうか。
15、大和族と出雲族の間に、一種の平和協定が成立し、それぞれ面目を保ちながら割拠
したとしても、すべての先住民が新興の国家権力に対して帰順を示した訳ではない。人跡
未踏の山間部に逃げ込んだ弱小部族は、その後どうなのであろうか。まつろわぬ人びと
は、国つ神になりそこねて、鬼になったのである。日本人が抱いている鬼のイメージは、
頭に角を持った赤鬼青鬼であるが、あれは土着の民の不覊(ふき)の精神、あるいは反逆
性を誇張したものかもしれない。鬼といえば、丹波大江山が有名であるが、この山の鬼も
山城の土地から追放されてしまった先住民の難民化した姿であろう。(中略)特に東北地
方に鬼伝説が多いことも、近畿地方から見れば僻地である東北の山々は大和朝廷の影響が
及びにくく、蝦夷(えみし)と呼ばれる先住民が分散して生き残っていたからである。
(中略)内藤正敏氏の「鬼の風景」という論文に、津軽富士として有名な岩木山(162
5m)の鬼伝説が紹介されている。江戸時代に全国を旅していた菅江真澄(すがえます
み)の「外浜奇勝(そとがはまきしょう)」にも、岩木山の鬼のことがふれられている。
(中略)岩木山はガスが発生しやすく、頂上が見えることがまれであるから、鬼伝説誕生
の地として、いかにも似つかわしい。
16、いわゆる国見山というのは、権力者が登り、そこから見渡す限りの土地を自分の国
と見定め、国誉めの言葉を称えるなどの宗教的儀礼を行った霊山のことである。
17、天つ神を迎える霊的空間である猟んな神奈備山は、その歴史をめぐって神話の果た
す役割が非常に大きいことが特徴であり、エリアーデの考えを借りれば、天・地・人を繋
ぐ「宇宙軸」なのである。日本を代表する神奈備山となれば、純白の冠をかぶった富士山
をおいてないだろう。この山は高さだけでなく、日本一秀麗な姿を持つ山でもあり、葛飾
北斎から梅原龍三郎まで、富士山は日本絵画史の中でもっとも頻度の高い画題のひとつと
なってきた。(中略)日本中にある霊山は、いずれも神々の臨在を人びとに強く感じさせ
る霊的な場所と考えて良いが、富士山はその代表格である。神の「いのち」を目の当たり
にする神秘的空間として、浮き世暮らしをする麓の人間が、今も昔も不思議な思いで仰ぎ
見てきたわけである。(中略)実は富士山が生ける神のごとく、人びとの尊崇の対象と
なってきた背景には、それが最近まで活火山であったという事実がある。富士山が休火山
になりすまし、人間の接近を許すようになったのは、比較的最近のことである。有史以
来、18回も噴火を繰り返し、平生でも空高く噴煙を上げ続けて富士山に対して、日本人
が冒しがたい畏怖の念を抱いていた時間の方がはるかに長いのである。(中略)富士山は
不死山にも通じるが、人びとがこの山に抱く感情の深層には、不老長寿への本能的ともい
える願望が込められているのである。いつも変わらずその毅然とした姿を仰ぐ者は、そこ
に神の無限生命を感じ取ってきたにちがいない。(中略)それにしても富士山頂からご来
光を一目見ようと、蟻の行列のごとく夜を徹して懸命に登ってくる老若男女を見ている
と、この山の存在が日本人の深層心理にどれだけ大きな刻印を押してきたか、改めて思い
知らされるのである。
以上、町田 宗鳳の考えている「山の魅力」を紹介したが、その中で、宮沢賢治の「日輪
と山」という絵を紹介した。この「日輪と山」という絵は、古代から連綿と続いてきた
「日輪観」を表したひとつのシニフィエである。日本人の「日輪観」のシニフィエについ
ては、かの有名な「山越阿弥陀図」というのがある。
「山越阿弥陀図」についてはかってそのホームページを作ったことがある。 2005年7
月3日、多摩美術大学で川本喜八郎の人形アニメーション映画「死者の書」の試写会があ
り、それに感動して作ったのである。「死者の書」は、折口信夫の書いた小説であるが、
松岡正剛をして「この作品が日本の近代文学史上の最高成果に値する位置に輝いているこ
とを言わねばならない。この一作だけをもってしても折口の名は永遠であってよい。」と
言わしめている。私にはそこまで言う知見がないけれど、立派な小説であることは判る。
この折口信夫の「死者の書」に関連して、「山越阿弥陀図」については後で詳しく解説す
るが、まず川本喜八郎の人形アニメーション映画「死者の書」の試写会に関連する私の
ホームページを見ていただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamagosi.pdf
私のホームページには、代表的な三つの「山越阿弥陀図」を紹介したが、その他にも多く
の「山越阿弥陀図」がある。問題は、「山越阿弥陀図」というものが何を意味するシニ
フィエなのかということだ。実は、折口信夫が「山越しの阿弥陀像の画因」という「山越
阿弥陀図」の何に感動して「死者の書」という小説を書いたか、その動機とも言える「山
越阿弥陀図」の解説をしているのである。原文は次の通りであるが、少々長いので、要点
を以下に解説しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/oriyama.pdf
「山越阿弥陀図」というのは、宮沢賢治に「日輪と山」と同じように日本人の「日輪観」
を暗喩するシニフィエであると同時に、日本人の「死生観」と「浄土観」を暗喩するシニ
フィエでもある。
まず日本人の「死生観」について述べよう。日本人の「死生観」は、日本人の「霊魂観」
と言って良い。日本人は人間の魂(たましい)は蘇るものだと考えてきた。最近は、間
違った科学的知識に毒されて、魂が蘇るなんてことは迷信であると考えている人が多い。
しかし、「霊魂」というものは実際に存在するし、プラトンが言うように不死なのであ
る。このことについて私は「霊魂の哲学と科学」という電子書籍を出版しているので、そ
れを是非読んでいただきたいが、古来、日本人の感覚としては、「霊魂」は蘇るのであ
る。
京都の大文字焼きというのがあるが、あれは正式には「五山送り火」という。祇園祭とと
もに京都の夏を代表する風物詩の一つである。この送り火としては東山如意ケ嶽の「大文
字」がもっともよく知られ、それゆえ送り火の代名詞のごとくいわれているが、そのほか
に金閣寺大北山(大文字山) の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天
山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、及び嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」があり、これら
が、同夜相前 後して点火され、これを五山送り火とよんでいる。
大文字に代表される送り火の起源についてそれぞれ俗説はあるものの不思議と確実なこ
とはわかっていない。まず、送り火そのものは、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという
意味をもつ宗教的行事であるが、これが一般庶民も含めた年中行事として定着するように
なるのは室町から江戸時代以後のことであるといわれている。古くは旧暦7月16日の
夜、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習を記した史料 がある。
これに対して現在の五山の送り火は山において点火されるという精霊送りの形態をとって
いる。
なお、京都には、祇園の近くに「六道の辻」というところがある。御盆には、地元では
「六道はん」といっているが、六道詣りという精霊迎えの行事が行なわれている。これは
他に例を見ない京都らしいお盆の行事であるので、この際、紹介してきたい。随分昔に
作ったホームページであるので、写真も悪い。その点、お許しいただきたい。「六道詣
り」の雰囲気ぐらいは感じていただけるのではないかと思う。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/6doutuji.pdf
お盆には先祖の「霊魂」は家に帰ってきて、家族に供養されて、ふたたび天空に帰って行
くのである。お盆の供養というものはそういうものである。そんな迷信はごめんだという
人は、よほど依怙地な人で、京都では多くの人がお盆の供養をする。全国各地で精霊流し
が行われているけれど、これも先祖を家にお迎えして行うお盆の供養である。
日本人の「霊魂観」に関してもうひとつの霊を紹介しておきたい。それは山形の例であ
る。山形の風土論や景観論を考えるとき、欠かせないのが端山・深山だ。山脈に連なる
山々で里に近く、あまり高くもなく美しい山が端山と呼ばれ、里に住む人々に親しまれて
いた。端山の奥にさらに高く聳えるのが深山である。この重なるように結び会う端山と深
山の形が山形に住む人々に篤い信仰心を育んできたのである。人間にとって死は最大の関
心事である。かつて端山の近くに住む里人も、死と死後の世界のことを葬送の中で想念し
たと思う。里人が死ぬとその屍は端山の麓に葬った。肉体が腐敗する頃、その人の魂は肉
体を離れて美しい端山の頂きに登ると考えた。端山に登った霊は、残してきた子供や家族
を山頂からじっと見守って、三十三年のあいだ頂きに止まるという。そしてさらに高い深
山に登りそこから天のアノ世に行くと考えたという。天に昇った先祖の霊は、お正月にお
彼岸にお盆にと年に数回里に帰り家族と交じり、死者と生者は永遠に関わり語り続けると
考えるのである。それは、死はすべての終りではなく、コノ世のひとつの終りであるとい
う。これは人生最大の苦である死を越える人間の叡智であると思う。端山・深山信仰の名
残は県内各地にある。米沢地方の「羽山と吾妻山」、長井地方の「葉山と朝日岳」、上山
地方の「葉山と蔵王山」、村山地方の「葉山と月山」、庄内地方のでは「羽黒山と月山」
「葉山と麻耶山」などである。
山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育てた。このような精神世
界こそ日本人の心の原風景でもあって、全国に共通する日本人の「霊魂観」を表してい
る。
では次に、日本人の「浄土観」について解説したい。浄土思想については、先に述べたの
でだぶるけれど再掲してのち、その補足として町田宗鳳の説明を付け加えることとした
い。
浄土の思想は、 円仁(慈覚大師)から始まり、元三大師、源信でほぼ完成・・・・・、
法然、親鸞へと繋がっていく。一般的には、極楽といえば、法然の浄土宗や親鸞の浄土真
宗を頭に浮かべるが、その源流をたどれば源信の「往生要集」にいく。宗教に関心をもつ
人であ れば源信を知らない人はないであろう。紫式部も源信の影響を受け、世界の名
著・源氏物語は源信の思想を背景にして出来上がったと言って過言ではない。源信は誠に
偉大な人である。しかし、実をいうと、浄土教えの源流をたどっていくとあの・・・・
「円仁(慈覚大師)」にいくのである。
比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)
の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置
され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者は、口に念仏を唱え、心に阿
弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なも
ので、伴奏として笛が用いられたという。声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲
気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心な信仰者のなかには、阿弥陀の
名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、
極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も
伝えられるようになった。
この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が
源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。源信と恵心院
については、次のような私のホームページがあるので是非ご覧下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
さて、この源信と「山越阿弥陀図」との関係について町田宗鳳は次のように述べている。
1、慧心僧都(えしんそうず)の根本信念は、 称讃浄土仏摂受経(しょうじゅぎょう)
から来ていると思われるのである。此聖(ひじり)生れは、大和葛上郡――北葛城郡――
当麻村というが、委(くわ)しくは首邑(しゅゆう)当麻を離るること、東北二里弱の狐
井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕二上山(ふたかみやま)の姿を仰
ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。
2、山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数えれば、芸術上の逸品と見られるものだけ
でも、相当の数にはなるだろう。が、悉(ことごと)く所伝通り、凡(すべて)慧心僧都
以後の物ばかりである。
3、 山越し阿弥陀像は比叡の横川(よがわ)で、僧都自ら感得したものと伝えられてい
る。真作の存せぬ以上、この伝えも信じることはむつかしいが、まず凡 そう言う事のあ
りそうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思わせてい
るということは出来る。横川において感得した相好とす れば、三尊仏の背景に当るもの
は叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられているもの、と見てよいだろう。聖衆来
迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべ てそう言う意図を持っているのだから。併し若
(も)し更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であったとすれば、こんなこ
とも謂(い)えぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、漣(さざなみ)
とを想像せしめる背景は、実はそうではなかった。
4、慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院(こんぶいん)の 来
迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではな
い。だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必 須条件でないと
いえる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な
山から家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。結局弥陀三尊図に、山の端をかき
添え、下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素
乍らの浄土変相図としての条件を、 持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変と
して、山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見ら
れるのである。山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰におい
て感得したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。
5、源信僧都が感得したと言うのは、其でよい。ただ叡山横川において想見したとの伝説
は伝説としての意味はあっても、もっと切実な画因を、外に持って居ると思われる。幼い
慧心院僧都が、毎日の夕焼けを見、又年に再大いに、之を瞻(み)た二上山の落日であ
る。今日も尚、高田の町から西に向って、当麻の村へ行くとすれば、日没の頃を択ぶがよ
い。日は両峰の間に俄(にわ)かに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るで
あろう。
6、私の女主人公南家(なんけ)藤原郎女(いらつめ)の、幾度か見た二上山上の幻影
は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であった。そうして又、
仏教以前から、我々祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、更にはなばなと輝き
出た姿であったのだ、とも謂(い)われるのである。
ここに慧心僧都とか慧心院僧都とか源信僧都と折口信夫が書いているのは、源信(げんし
ん)のことである。源信(げんしん)は、慈覚大師の流れを汲む天台宗の高僧。浄土真宗
では、親鸞が選んだ七高僧(1龍樹、2天親、3曇鸞<どんらん>、4道綽<どうしゃく
>、5善導、6源信、7法然)の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。
天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北葛城郡当麻[2]に生まれる。幼名は「千菊
丸」。父は卜部正親、母は清原氏。
天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。
天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源
(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶ。
天暦9年(955年)、得度。
天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一
人に選ばれる。そして、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に
送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、
名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移
築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。母の諫言の和歌 - 「後の世を渡す橋とぞ
思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の撰述に入
る。永観3年(985年)1月3日、良源は示寂。
寛和元年(985年)3月、『往生要集』脱稿する。
寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。
寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退
する。
長和3年(1014年)、『阿弥陀経略記』を撰述。
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂。臨終にあたって阿弥陀如来像の手
に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した。
以上、源信と「山越阿弥陀図」との関係について町田宗鳳の見解を述べてきたが、私も
「山越阿弥陀図」は源信の創作に始まるものと思う。まず間違いなかろう。
さて、源信はどういう心情で「山越阿弥陀図」を書いたのだろう。その資料がないので、
想像するしかないが、私の想像するところを書いておきたい。
上述したように、 山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育て
た。このような精神世界こそ日本人の心の原風景でもあって、全国に共通する日本人の
「霊魂観」を表している。山こそ私たち日本人の心の故郷なのである。町田 宗鳳も「町
田 宗鳳は「日本人は実際の出身地とは無関係に、山と故郷のイメージを重ね合わせ、自
分の深層心理に不思議な精神空間を構築し、そこにはえも言われぬノスタルジアを覚えて
きたのである。」と語っている。
さて、話はごろっと変わるが、弥盛地(いやしろち)の話である。「弥盛地(イヤシロ
チ)」についての一つの大事な現象、これをご理解いただくには「系統発生」のことを語
らねばならない。私たちがみんな生まれるときに経験する「系統発生」について、私の電
子書籍「女性礼賛」の第2章に詳しく書いてあるので、是非、熟読していただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onna02.pdf
この「系統発生」というのはまことに摩訶不思議な現象であり、シェルドレイクの「形態
形成場の仮説」を前提に波動というものを考慮しない限り、理解することはできない。そ
れと同じような波動現象が「弥盛地(イヤシロチ)」でも起こっている。この波動現象は
人間のみが感知しうるものであろう。
「弥盛地(イヤシロチ)」には二つの力が働いている。一つは山や川からやってきて人間
以外のものにも働く波動の力、もう一つは人間のみに働く波動の力、前者を「風水的現
象」と呼び、後者を「地域の系統発生」と呼ぼうと思う。これらの波動現象については、
私の説明を補強又は関係するものとして関英男の研究がある。関 英男は日本を代表する
電気工学者である。東京工大卒業後、東京工大・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大
学・東海大学の教授を歴任したが、電波関係の著作も多く、電波工学の世界的権威として
知られている立派な科学者である。勲三等瑞宝章を受章。この方は日本サイ科学会を創設
するなどサイ科学の研究・発展・啓蒙に努められたのである。私は関英男の提唱する「サ
イ科学」に重大な関心を持っており、彼の最新の著書「生命と宇宙」(関英男、平成10
年3月、飛鳥新社)から、私の提唱する「祈りの科学」を補強又は関係の深い部分を紹介
しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihido.pdf
私は、 先に述べたように この世はすべて「波動の海」であるが、関英男は波動にも
「念波」と「天波」が二種類の波動があるという。そしてその「念波」に関連して、関英
男は私のいう「外なる神」を宇宙創造の神様と呼び、その「外なる神」が発する波動を
「天波」と呼んでいる。さらに、私たちに内在する「内なる神」が発する波動を「念波」
と呼んでいる。私がいう「外なる神」や「内なる神」については、電子書籍「祈りの科学
シリーズ」(1)の「<100匹目の猿>が100匹」の第10章と 第13章を是非読
んでもらいたいと思うが、私の主張は「神に祈りを捧げれば、神はそれをかならず聞きと
どけてくれる。」というものである。しかし、関英男の主張はさらに先を行っていて、宇
宙創造の神には「意思」というものがある、というものである。私には、宇宙に意思があ
るかどうかは判らないが、「内なる神」の発する波動と「外なる神」の発する波動との共
振現象があるのは間違いないと思う。さらに、それとは別個に「外なる神」の発する波動
というものがあって、それが人間も含めてあらゆる生物と「響き合う」のである。前者は
私が主張する「地域の系統発生」の現象であり、後者は「弥盛地(イヤシロチ)」でも起
こっている「風水的現象」である。
縄文遺跡というのは、「地域の系統発生」型のイヤシロチである。縄文遺跡に静かにたた
ずんで神に「祈り」を捧げれば、きっと縄文の声が聞こえてくるはずだ。山は縄文人の
日々の生活空間であった。男は狩猟に明け暮れ、女子供は山菜採りに明け暮れた。縄文人
の魂が今なお天空に存在するので、山に入って祈りを捧げれば、きっと縄文人と響き合う
ことができる筈だ。かかる私の「地域の系統発生」ということからも、山は私たちの「魂
の故郷」であることは間違いない。源信は、比叡山において、きっとそういう「地域の系
統発生」を感じたに違いない。これが源信が「山越阿弥陀図」を書いたときのひとつの心
情である。
次に、山によって源信はなぜ浄土を思い浮かべたか、その「山の浄土性」について説明し
たいと思う。
ホワイトヘッドのプロセス哲学は、私のもっともなじみやすい哲学である。私たち日本の
「やおよろずの神」を説明し得る哲学はホワイトヘッドの哲学だけである。ホワイトヘッ
ドの哲学については、私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」の第4章に詳しく書い
たので、是非、それを読んでほしい。
ホワイトヘッドの哲学は、活動存在、エネルゲイア、抱握、永遠的対象という概念からな
りたっている。生成と変化という語は、従来同一の事態を指すものとして曖昧に扱われて
きたが、ホワイトヘッドは両者を明確に区別している。現実の存続物にはそれなりの本質
的な意味がある。しかし、その本質的な意味を生じせしめているのは、生成と消滅をくり
返す「活動的存在の世界」、つまり「量子の世界」である。すなわち、現実の存在の本質
は「生成と消滅」にある。そこで生じた本質的な意味を私たちは「橋」という変換機能に
よってはじめて「抱握」しうるのである。心や神は「活動的存在の世界」、つまり「量子
の世界」におわす。しかし、そのままでは私たちはそれを「抱握」できない。私たちは
「橋」という変換機能によってはじめて心や神の存在を「抱握」しうるのである。この文
脈ではざっくり言って「抱握」は「感じる」のことであると考えてもらっていい。
ホワイトヘッドの哲学については、次の素晴らしいホームページもあるので、これも是非
勉強してもらいたい。
http://www.geocities.jp/hakutoshu/index.htm
また、延原時行の著書「ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>」(2001年3月、法
蔵館)もホワイトヘッドのプロセス哲学を勉強する良い教科書であると思うので、興味の
ある方は是非購読願いたい。
さて、東の山際からぬっと出てくる朝日は、生成を象徴している。だから、これを拝んで
一日の元気な活動を祈るのである。また、西の山際から静かに沈む夕日を見て、私たちは
安らかな眠りと明日の幸せを祈るのである。山の日輪は、生成と消滅を繰り返す永遠的存
在である。死と再生を象徴していると言って良い。私たちの魂は、死と再生を繰り返す永
遠的存在なのである。そのような心象を縄文人は持っていたし、源信も何となく感じてい
たのではなかろうか。
先程述べたように、山は私たち魂の故郷である。そして今述べたように、山の日輪は、死
と再生の象徴である。その二つが重ね合う時、そこに「浄土」の心象が形成される。これ
が私のいう「山の浄土性」である。極楽浄土は山のかなたにある。
折口信夫には、「死者の書」を書く前、たった一枚の「当麻曼陀羅」があっただけだ。中
将姫が蓮糸で編んだという伝承のある曼陀羅だ。折口信夫はこれを見つめ、これを読み、
そこに死者の「おとづれ」を聞いたのである。そして、それに発奮し、松岡正剛が「日本
の近代文学史上の最高成果に値する」と極めて高い評価をする書き上げたのが「死者の
書」である。そのあらすじは次の通りである。
天武天皇の子である大津皇子は、天武の死後、叔母であり、天武の后である持統天皇に疎
まれ、謀反を理由に殺されて、二上山に葬られてしまう。それから約百年の時が経った。
墳墓の中で無念の思いで目覚めた王子の霊は、周囲を見回し独白を始める。そして既に朽
ち果てて衣のないことを嘆きつつ起き上がろうとする。一方奈良に住む信心深い藤原家の
郎女(いらつめ)は、写経に明け暮れる日々であったが、秋の彼岸の中日に、幻のように
二上山の二つの峰の間に浮かぶ男の姿をみて、憑かれたように家からさまよい出た。郎女
は一人で二上山の麓の当麻寺まで歩いてきて、寺で保護される。神隠しにあったとみた奈
良の家からは連れ戻しに人が来るが、郎女は拒み寺にとどまることになる。郎女の夢の中
にのみ幻の男は現れる。霊的な男女間の交流があるともみえるが、すべては夢うつつの世
界の中での出来事である。男が衣を持っていないことを知った郎女は、衣にと思い、蓮糸
で布を織ろうと試みる。秋の彼岸の中日に、郎女は再び二上山の山越しに浮かぶ男の姿を
仰ぎ見る。それは極楽浄土図や尊者の姿と重なり、幻のように美しく雲の中に展開してい
た。やがて郎女は苦心して蓮糸で布を織り上げるが、それは棺にかける布のようで寂しく
見えた。郎女は思いついて奈良の家から彩色を取り寄せ、筆をとって幻に見た華麗な浄土
図を布に写し取り、完成させていく。
このあらすじを語るYouTubeは次のものが良いでしょう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sisyarou.pdf
ところで、折口信夫が「当麻曼陀羅」によって聞いたという死者の「おとづれ」の場面、
これはこの「死者の書」という小説の象徴的場面である。これのYouTubeもあるのでこ
こに紹介しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=wUORTsrI-Ho
第2章 山についての論考を振り返る
私の山とのおつき合いは古く、その体験からいろいろと山について書いてきた。その中に
は、この論文「山地拠点都市構想」とは、まったく無関係とは言えないまでも、文脈的に
は直接の関係がないものもある。しかし、そういう文脈的に直接の関係がないものであっ
ても、私の思想の背景としてはそれなりの意味がある。そういう観点から、まず私のホー
ムページに今まで書いた山にともかく関連するものを、私の思想の背景として紹介してお
こう。
https://www.google.co.jp/search?q=
%8ER&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&hl=ja&btnG=Google+%8C%9F%8D
%F5&domains=kuniomi.gr.jp&sitesearch=kuniomi.gr.jp
以上の中から、今回の論文「山地拠点都市構想」と文脈的に関係のあるものを、今まで私
が行ってきた「山についての論考」をピックアップしたものが以下に紹介するページであ
る。細字は要点のみ。全体はURLをクリックしてください!
山の国が育むもの http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/4honyama.html
日本は山国である。国土面積の約70%が山だという国は世界でも珍しい。 そして、日本の登山の歴史は
とても古く、世界に類を見ないほどである。西洋では、山は悪魔の住むと ころとして近代まで近寄る人は少
なかったようであるが、わが国の場合、縄文時代にすでに山頂で祭祀が行われていたようであり、石器時代
の狩猟生活を考え合 わせてみれば、日本人の山との関わりあいは相当に古い。
『日本百名山』の山の文学者、深田久弥が「信仰登山」のなかでこう記している。
「・・・・『万葉集』に、山部赤人の富士山をたたえた歌や、大伴家持の立山をあがめた歌が残ってい
る。山岳文学といったものを設定するとすれば、おそらくこれが世界最初の山岳文学の傑作であろう。これ
ほど早くから、山をあがめ、山に親しみ、山が好き だった国民は世界中どこにもなかった。
富士山に最初に登ったのは「続日本紀」に出てくる役小角(えんのこづぬ)という僧といわれ、天武天皇
の時代である。また「富士山記」が収められている『本朝文粋』は平安朝の書である。その文章には実際に
富士山に登ってみないと書けない山頂の詳しい描写が綴られている。
このように日本の登山史は世界に類を見ないほど古く、今から1200年前に、宗教的な登山ではあっ
たが、すでに登山の黄金時代があった。僧や修験者により、富士山、立山、槍ヶ岳、白山など多くの山が開
かれている。記録としては633年の富士山登頂が世 界で最も古く、それから九百年を経た1522年にメ
キシコのポポカテペトルが登られるまで、その登頂高度記録は破られなかったという。
立山は701年に慈興(じこう)上人によって開山され、白山は716年に泰澄によって開かれた。さ ら
に相模の大山は755年に良弁によって、日光の男体山は782年に勝道(しょうどう)上人によって登頂
されている。ちなみに、ヨーロッパ・アルプスの最 高峰モン・ブランが初登頂されたのは、それから千年後
の1786年のことである。
こういう日本の歴史を世界の人にも知ってほしいと思っている。日本文化のなかにいかに山の文化が育
まれ、森の文化が含まれているか、日本人の心の源流がいかに自然に根ざしているのかを知ってほしいと
思っている。
日本人のアイデンティティーは山への畏敬(いけい)の念、森への畏敬の念から成り立っている。それ は
自然のなかを漂泊する自我であり、無の実感である。漂泊することにより自我にめざめ、違いを認める文化
が生じ、それが多神教の文化をもたらす。多神教が いいとか一神教が悪いなどと言っているのではなくて、
いろんな文化が共生する世界であってほしいのだ。違いを認めあう世界でなければならないということ
だ。もはや世界は一神教の文化ではやっていけないと思うのである。
奥秩父は、荒川、多摩川、笛吹川、千曲川の源流である。その広大な山地には、2000m以上の山が 20座ほ
どあって、北アルプス、南アルプスに次ぐ山岳地帯を形成している。その深い森と渓谷の景観はすばらし
い。私のこれからの人生で、奥秩父の山や谷を できるだけ歩きたい、そんな想いからいずれは秩父に住み
たいと考えている。秩父は歴史も古く、伝統・文化が豊か、人情も豊かであるので、大自然に抱かれた 里の
暮らしを求めてのことでもある。
とりあえず、奥秩父の山や谷を歩くためのベースキャンプとして山小屋を作った。北極星と北斗七星が よ
く見えるから「北天の小屋」と名づけた。三峰口駅から歩い二十分、マイカーだと車から降りて十分、少し
急な坂を登った尾根筋に建っている。秩父は日本列 島で一番古い秩父古生層で有名だが、その古生層と第
三紀層との間の断層が荒川本川の周辺に露出していて、地質学者なら一度は見るべきところだそうだ。
太古、日本に生息したナウマン象を研究したドイツのナウマン博士が東大地質学科の初代教授のとき、 こ
の地をしばしば訪れ、周辺の景色の素晴らしさを称讃したという。今では武甲山が石灰岩採掘のためその美
しい山容をすっかり変えてしまったし、荒川の流れ も発電のため少なくなったが、それでもナウマン博士が
絶賛した風景を彷彿とさせる美しい景観が楽しめる。私の山小屋の登り口は、御嶽山の登山口のすぐ近く
だ。木曽の御嶽山を開いた普寛行者の在所が近くにあり、秩父にも御嶽山がある。その景色は素晴らしく、
両神山、雲取山、甲武信岳など奥秩父の山々が一望に 眺められる。
人との響きあい、自然との響きあい、宇宙との響きあいのなかに、日本人の心が育まれると、私は信じ
ている。ここで大事なことは歴史である。響きあいというものは時空を超えて行われるから歴史を忘れては
ならない。歴史が、人間と自然と宇宙を繋ぎ、日本人 としての心を育んでいくのである。
そしてまた、異質な文化と響きあうなかから国際人としての心、平和の心というものが育まれていくに ち
がいない。このような思いから、私は町づくりにおいても響きあいの場「知のトポス」を作っていかなけれ
ばならないと考えている。同時に、山や川が好きで 自然を愛し、山村の人々との触れあいを大事にする人
が少しでも増えることを願いながら秩父に出かけ、奥秩父の山々を歩きながらさまざまな交流を深めていき
たいと考えている。
山の再生 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyomo000.html
目次
平 成20年11月27日
国 土政策研究会
会 長 岩井國臣
山の再生
山が荒廃しています。これは由々しきことであります。
日本人は,縄文時代はいうに及ばず,旧石器時代の太古の昔から山とは切っても切れない関係の中で生き
てきました。そして山によって生かされてきた のであります。
山は,日本の風土の基本をなすものであります。それが荒廃するということは,日本の風土が壊れること
であり,故郷(ふるさと)が喪失するということであ ります。それはとりもなおさず世界に誇りうる日本
文化が消えていくということであって、日本が世界平和のために大いなる貢献をするなどということは夢の
ま た夢になってしまうのではないでしょうか。
しかし、今ならまだ間に合います。早急に国民的な議論を巻き起こして各方面にアッピールしていけば、
都市側の人たちの理解も進むであろうし,新国 土形成 計画でいうところの第6次産業勃興のきっかけも生
じてくるでありましょう。山がイキイキとしなければなりません。農山村がイキイキとしなければなりませ
ん。故郷(ふるさと)を喪失させてはならないのであります。
故郷(ふるさと)を喪失するということは,上にも述べましたように,世界に誇りうる日本文化が消えて
いくということでありますが、さらに、佐伯啓思さん が言っておられるように,日本国民がニヒリズムに
陥りかねないという問題も含んでおり、これはまさに国是に関する重大問題でもあります。そういう国是に
関 する基本的な問題について侃々諤々の議論をしなければならないのではないでしょうか。
日本の山を良くしたいという私の思いをとりあえずしたためました。これからいろんな人の意見を聞き
ながら,できるだけ多くの人のご賛同を得られるような文 章に改め,日本の山を良くするための国民運動
を展開できるよう,私なりに旗を振っていきたいと思います。
新 しい文明の原理「共生」
里 山と奥山
縄 文人と山
霊山
間 伐材利用の基本的問題点・・・切り捨て間伐が横行する理由・・・
里 山のあり方・・・焼畑農業と低林化・・・
奥 山の改修
間 伐材利用促進基金
端山信仰 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/hayama.html
山形県建設業協会の機関誌「建設月報」に千歳会長が平成十年八月号より十回シリーズで山形の風土論をお
書きになっておられますが、その中で、端山信仰についても名文をお書きになっていますので、以下にそれ
を紹介しておきます。
山形の風土論や景観論を考えるとき、欠かせないのが端山・深山の山岳形である。
山脈に連なる山々で里に近く、あまり高くもなく美しい山が端山と呼ばれ、里に住む人々に親しまれてい
た。端山の奥にさらに高く聳えるのが深山である。この重なるように結び会う端山と深山の形が山形に住む
人々に篤い信仰心を育んできたのである。
人間にとって死は最大の関心事である。かつて端山の近くに住む里人も、死と死後の世界のことを葬送の
中で想念したと思う。
里人が死ぬとその屍は端山の麓に葬った。肉体が腐敗する頃、その人の魂は肉体を離れて美しい端山の頂
きに登ると考えた。端山に登った霊は、残してきた子供や家族を山頂からじっと見守って、三十三年のあい
だ頂きに止まるという。
そしてさらに高い深山に登りそこから天のアノ世に行くと考えたという。
天に昇った先祖の雲は、お正月にお彼岸にお盆にと年に数回里に帰り家族と交じり、死者と生者は永遠に
関わり語り続けると考えるのである。それは、死はすべての終りではなく、コノ世のひとつの終りであると
いう。これは人生最大の苦である死を越える人間の叡智であると思う。
端山・深山信仰の名残は県内各地にある。米沢地方の「羽山と吾妻山」、長井地方の「葉山と朝日岳」、
上山地方の「葉山と蔵王山」、村山地方の「葉山と月山」、庄内地方のでは「羽黒山と月山」「葉山と麻耶
山」などである。
山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育てた。この精神世界こそ日本人の心の原
風景でもあると思う。
霊山 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyomoya2.html
霊山
岩井國臣
私は先に、小林達雄の著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)から縄文人と山との繋がりに
関する彼の見解を紹介した。すなわち、「ムラを取り囲む 自然環境を単なる景観としてではなく、景観の
中にいくつかの要素の存在を意識的に確認することによって自分の眼で創る風景とする。その風景の中に特
別視した山を必ず取り込もうとしてきたのが縄文人流儀であったのだ。
そうした山は、単なる風景を構成する点景ではなく、その霊力をもって縄文人の相手をするようになる。
縄文人は仰ぎ見ることで、はるかに隔たる空間を飛び越えて情意を通ずるのだ。その積極性の典型的現れ
が、ストーンサークルや巨木柱列や石柱列や土盛遺構の位置取りを山の方位と関係づけて配置したことであ
る。さらに、そうした山頂、山腹と二至二分の日における日の出、日の入りを重ね合わせる特別な装置を各
地、各時期に創り上げたのである。
しかし、ム ラと山頂との距離はいかに頭の中で観念的に越えて一体感に浸ることができたとしても、物
理的距離は厳然として存在し、信念、信仰の縄文人魂だけでは到底埋 めることはできない。手を伸ばしても
届かない山頂を呼び込むことは不可能だ。この壁を打開するために、ときには縄文人は自ら山頂をめざす決
意を新たにし て、ついに実行に移したのだ。その時期がいつであったかは特定できないが、その発意は神
奈川県大山出土の注口土器の存在から、少なくとも縄文後期に始まっ ていることがわかる。」・・・・・
と。
そういう風景の中に特別視した山はどう呼べば良いのであろうか。小林達雄はその名称について書いて
いないので、どう呼べば良いのか分からないが、私として は、「霊山」と呼ぶこととしたい。風景の中に
特別視する山のことである。彼は言う。「縄文人は神奈備型の山など特に際立った山に対して、縄文時代草
創期か ら、早期、前期、中期、後期を経て晩期に至るまで終始一貫、強い関心を寄せていた。その兆候
は、まずは縄文時代草創期に遡り、静岡県窪A遺跡は富士山を真 正面に見据えた場所に陣取っており、少な
くとも意識しようがしまいが、朝な夕なに黙っていても目に飛び込んできた筈で、いつの間にやら風景の中
心に富士山 をおいていたものと考えられる。」・・・・と。
そういう例は、富山県極楽寺遺跡、長野県阿久遺跡、山梨県牛石遺跡、静岡県千居遺跡、東京都八王子
の大遺跡、栃木県寺野東遺跡、群馬県天神原遺跡をはじ め、全国に大変数が多いようである。北海道鷲ノ
旗遺跡、青森県大師森遺跡、秋田県大湯遺跡、青森県大森勝山遺跡などのストーンサークルもそうである
が、そ ういうストーンサークルの場合には、いずれの山も例外なく、左右均整のとれた裾広がりの神奈備
型なのだそうだ。
彼は言う。「こうした例を見渡すと、竪穴住居が多数遺された大遺跡や、大勢で膨大な日数をかけて築
き上げた記念物を保有する特別な遺跡などの周囲あるいは 遠くには、決まって目を魅く山の姿のあること
がわかる。偶然の取り合わせなのではない。ムラの設営や記念物の設計に際しては特別な山に方位を合わせ
たり、 二至二分の日の出や日の入りを眺望できるような位置取りがなされたりしていたのだ。」・・・
と。
また、彼はこうも言っている。「それらの山は、ムラの外に鎮座して、その位置によって、近景となり、
中景となり、遠景となりして、独特の風景を創り上げ る。一幅の山水画において、そこにある全てが描写さ
れるのではなく、特別な意味を与え、選び抜かれたものだけが表現されるのに似て、縄文人もまた、その他
多数を埒外に置き去りにして風景を創るのである。際立った山があれば、風景の中の重鎮とし、他をもって
替えることのできない独自の風景に仕立ててゆく。し たがって、めざす山が見当たらないところでは、まず
は山を探すことから始めて、ムラや記念物を営む場所を選定したりしたのである。」・・・と。
小林達雄のそういった見解を噛み締めながら、 私は、 日本文化の源流に、やはり縄文人と山との関係が
あるのだということを再認識し、うれしく思う次第である。
さらに、小林達雄の言葉に耳を傾けよう。『 縄文時代の霊山信仰は、仏教や神道などの宗教、哲学的
思想と結びついたりしながら、近世中期以降には観光的要 素も加わって、カタチを変えては現代にまで日本
の民族宗教として展開してきているのである。この間の経緯については、宮家準(「霊山と日本人」)が多
角的 な視点から論じている。
山に対する信仰は、朝鮮半島や中国、さらに世界中でさまざまな様子を見せている。例えば、アメリカ
合衆国ワイオミング州のビッグホーン・メディシン・ホ イールは、2971メートルの山頂で特別に崇めら
れている。アフリカ、オーストラリアにも知られている。一方、フランスの場合について、アラン・コルバ
ン は、赤坂憲雄との対談において、「日本のような精神的に内化した山のイメージといったものとは、
まったく違う」と明言する。
たしかに、山に対する日本人の心には、日本の伝統的文化の象徴性を見るのである。』・・・と。
では、このエッセイの最後に、前に紹介した私たち山岳部の愛唱歌「守れ権現」をもういちど掲げておき
たい。
守れ権現 夜明けよ霧よ 山は命のみそぎ場所
六根清浄 お山は晴天 風よ吹け吹け 笠吹き飛ばせ 笠の紅緒は荒結び
六根清浄 お山は晴天 雨よ降れ降れ ざんざとかかれ 肩の着ござは伊達じゃない
六根清浄 お山は晴天 さっさ火を炊け ゴロリとままよ 酒の肴は山鯨
六根清浄 お山は晴天 次へ!
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奥山の改修 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyomoya5.html
奥山の改修
岩井國臣
私は先に,里 山のあり方について,焼畑農業をやれないかという私の期待をまず述べた。そのあと、低
林林業についての四手井さんの考え方をもとにそのあるべき姿を書い た。里山は,焼畑農業として利用する
場合や製炭を農用地の土壌改良材として利用する場合を除いて,低林化を図るべきかもしれない。現在の低
林及び低林化さ れた里山は,大いに低林林業の振興を図って,イキイキした山に戻していく。私は,里山と
低林の改修の方向を明らかにしたつもりだ。後は奥山のあり方だ。
私は,下河辺敦(あつし)の流域圏構想にもとづいて国土管理をするのが良いと考えており,山の管理も
流域圏構想にもとづいて行うべきだと考えている。まず流域の市町村が管理できるかどうかを考える。私
は,かって,大畑原則というものを勉強し,そのことを痛切に感じている。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/manabuoo.html
流域の市町村で管理できない場合は, 都道府県で管理する。都道府県で管理できない場合は,国で管理
する。そして,国が管理する場合は,都道府県が応分の費用負担をし,さらにそれに応じて市町 村が応分
の費用負担をするということでなければならない。都道府県で管理する場合は,当然,市町村が応分の費用
負担をする。現実はこういう制度になってい ないので,いろいろ工夫が必要だ。具体的な方策としては当然
現実を考えねばならないのだが,一応,本来あるべき姿を念頭に置いておくことも必要だと思い, 私の考
えを申し上げた。これから奥山の管理のあり方を考えていくのだが,まずは今何が問題なのか,その点を
はっきりさせたいと思う。
管理主体の問題はあとで述べるとして,奥山の管理の問題で今私がいちばん困った問題だと思っているの
は災害のことだ。現在の林野行政では,災害のことがまったく考えられていないということである。
四手井さんは著書「森林はモリやハヤ シではない(2006年6月10日、ナカニシ出版)」で明確に
言っておられるが,スギやヒノキの根は下に張らずに横に張るので災害が起こりやすい。四手井 さんの考
えは,集中豪雨の被害を少なくするには,深く根を下ろす広葉樹と混ぜるとか,また崩れても山の中だけの
被害ですむように,川岸の数百メートル上ま ではスギやヒノキを伐採して広葉樹に改修していくなどの対策
を立てるべきだということである。私は,四手井さんの考えにもとづいてそういう改修を至急実施 してい
くべきだと考える。
そしてさらには,スギやヒノキの人工 林の未間伐区域は早急に間伐を実施すべきであると考えているし、
また現在広く行われている切り捨て間伐については、森林の生態系から見て好ましくないので はないかと
考えている。これらの点については,四手井さんは本の中で何も言っておられないが,まあ行政的にはいろ
んな議論があるのであろう。しかし、私 は,森林生態系の観点から、まずは専門家の大いなる議論が必要
ではないかと思う。四手井さんも言っておられるように,森林は林業のためだけにあるのではな い。動物
や虫のことも考えねばならないし,災害のことも考えねばならないし、エネルギー資源のことも考えねばな
らない。林野行政では,是非,そういうこと がいっさい考えて欲しい。
さて,管理主体の問題であるが,四手井さんは上記著書の中で,次のように言っておられる。すなわち、
『 西ドイツやスイスなどでは,谷ごと にどういう森をつくるかという林業計画が作られ,民有地の植林
計画にも営林署が加わっています。それに比べわが国の場合,70%の民有林に何を植えるかは 所有者まか
せです。植林には低利の貸し付け金が出ます。植える樹種によって金利を変えるとか,天然更新で森をつ
くったらどうするとか、その気になれば何ら かの方策が立てられるような気がします。』・・・・・と。日
本の場合は,たしかに所有者まかせで,維持管理についても多くの所有者は何もせず、森が荒廃の 一途を
辿っている。大問題ではないか。
また、,管理主体の問題だけでなく,現在の山はスギやヒノキの人工林が多すぎるという問題がある。四
手井さんは上記著書の中で 、次のようにも言っておられる。すなわち、
『 (林野庁は)人工林に よる森林管理だけを林業と思い込み,ついに1000万ヘクタールという日本
の森林面積の40%を超える人工林を造ってしまったが、これは優良造林地を造る ということには著しく
問題である。日本の森林面積で,人工造林として良い森林ができるのは森林土壌から考えてせいぜい25%
までである。』・・・・と。私 は,奥山を中心に択伐をすすめ、日本の森林を・・・生態系豊かな・・・
縄文時代から連綿と続いてきた・・・本来の森林に戻していかなければならないと思う。私たちは今こそ四
手井さんの言っておられることに真剣に耳を傾けなければならない。
ところで、「エコロジカル・ネットワーク」という考えがある。私は,その「エコロジカル・ネットワー
ク」というものの実現は、わが国にとって最大の課題のひとつだと訴えてきた。
http://www.river-ing.com/person/person_200606.html
何とか,森林生態系に着眼した本来の山を取り戻したいものである。
四手井さんは著書「森林はモリやハヤ シではない(2006年6月10日、ナカニシ出版)」のなかで
おっしゃっている。森林とは単なるモリやハヤシではない。頂上までぎっしりと森林に覆われた山のことで
ある。そこには,本来,神がおられるのだ。私は,そういう森林の生態系を人工林で壊してしまうことは神
を冒瀆する以外の何ものでもないと思う。早急に奥山を 本来の森林に改修しなければならない。本来の森
林とは人工林でなく,伐採後も天然更新でなければならない。植林をしてはならないのだ。 問題は伐採
の費 用とその費用負担の問題だが,私は,現在の間伐に対する助成制度をもとに若干の見直しをすれば良
いのではないかと考えている。
なお,念のため言っておくと,奥山林業のあり方としては,天然更新が原則で手入れはしないのであ
る。管理費が要らないということだ。木が大きくなってくる と,もちろん用材としての価値が出てくるの
で,一山いくらで買いにくる人が出てくる。そのときに売れば良いのである。要するに,奥山は財産として
持ってい て,買い手がついたときに売れば良いのである。四手井さんの考えによれば,それが本来の奥山
林業であって,低林林業とはそもそも考え方が違うべきなのであ る。もちろん低林林業も,人工更新を行
わず,萌芽更新を原則とする。したがって,奥山林業も低林林業も,現在のスギやヒノキの人工林を,択伐
を進めながら逐次広葉樹に切り替えていく訳だが,伐採後の人工植林という考えを捨てなければならない。
そうでないと森林生態系は本来のものに戻らない。山は良くならない。それが四手井さんの考え方だ。
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御子柴は聖地か http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi04.html
御子柴というところは、諏訪湖から左岸を下ってきて、初めて南アルプスの仙丈ヶ岳が見える場所である。
その逆方向に経ヶ岳がある。つまり、仙丈ヶ岳と経ヶ岳を結ぶ線と天竜川が交差するところが御子柴という
「場所」である。唐沢Bの場合もそうであったが、古代人が木の小枝をもって地面にその場所の説明をする
場面を想像してほしい。経ヶ岳は先に見たとおり「土地見の山」であった。日本列島を南下するにはどうし
ても登らねばならない山であった。その山の位置ををどのように人に説明するか。君ならどうするか?私な
ら、まず八ヶ岳を意味するギザギザの山と諏訪湖を意味する丸い湖を地面に書く。そこから流れ出る天竜川
と仙丈ヶ岳を意味する大きな山を書く。その山の見える位置が御子柴であるので、それを想像してテントの
絵を描く。その反対側に経ヶ岳を意味する山を書く。より丁寧に説明するには、テントから経ヶ岳方面に大
清水川を意味する小さな川を描いておくと良いだろう。これで御子柴にいったことのない人でも御子柴遺跡
のその「場所」に辿り着ける筈だ。
神子柴は聖地 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi05.html
文献的な記録はないけれど、1万年前には、我が国ではすでに経ヶ岳などの「土地見山」に多くの人々が
登っていたと考えている。そして、経ヶ岳の聖性の神髄部 分はその眺望にあると考えているので、頂上の林
は全部伐採をして、360度の大パノラマが見えるようにしなければならない。経ヶ岳からの眺望のいちば
んい い時期は冬であるので、厳冬期にも権兵衛峠から経ヶ岳に登れるように権兵衛峠の拠点整備と道中の
避難小屋を作らねばならない。
なお、聖山・経ヶ岳の遥拝所が私の気のついただけで二カ所ある。ひとつは「山之神遺跡」であり、
もうひとつは「御射山社跡」である。これらはいつの頃できたのかは不明であるが、私の勘としては、少な
くとも縄文時代に繋がるのではないか。いわば、縄文時代からの「つらら」である。こういったところでの
祭りは大事にしなければならない。
御射山祭については、ここをクリックしてください!
御子柴遺跡をジオパークにして、その中で、私はアメリカ人観光客に1万年前の日本文化を語りたいの
だが、御子柴遺跡を中心としたこの地域をジオパークにするにはいくつかの課題がある。
さあ、それではさっと御子柴遺跡の周辺を見て
るとするか。
そうしよう! そうしよう!
これらの写真を見て、皆さんはどういう点が気になるでしょうか。私はいろいろと気になるところがあ
る。御子柴に行く道路ぐらいは電柱をなくして美しくし てほしいし、御子柴遺跡に入る入り口は玄関口とし
て美しくしてほしいし、御子柴遺跡自体も公園として整備して美しくしてほしい。御子柴遺跡は岬としての
聖 性を持っているかと思われるので、東側の林は伐採して草地として仙丈ヶ岳が眺望できるようにしてほし
い。
それでは、御子柴遺跡のある「場所」には、御子柴遺跡を中心として経ヶ岳と仙丈ヶ岳を結ぶ聖線があ
る。その聖線上でみる仙丈ヶ岳と経ヶ岳の姿を紹介しておきたい。
東大寺の不思議 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/todaiji2.html
義淵や良弁の山林仏教性・・・、したがって東大寺の前身である羂索院(のちの金鐘山寺<きんしょうせん
じ>)の山林仏教性を説明したかったのである。御理解いただけたであろうか。東大寺は不思議な寺院であ
り、寺院としての性格は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びているのであ
る。
岩井語録 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tiiki/goroku01.html
里山、裏山の文化
中国地方の自然は、瀬戸内海、日本海、中国山地がそれぞれ素晴らしい個性を持っている。しかも、それぞ
れ地域の歴史・文化と深く関わっている。
中国山地は、ほぼ一様になだらかな山々で、数多くの盆地を抱えている。そこには古くからの生活と生活に
溶け込んだ身近な自然がある。このような里山・裏山の自然は中国山地独特のものである。
日本人の伝統的な思想では、人工が自然を完成し、自然が人工を完成する。このような自然と人間との関係
に根ざした山の文化は、日本文化の基礎を成してきた。山と山の神への信仰は、日本人の心の最も深層部に
横たわる宗教感覚ではないか。
従って、里山・裏山の保全と整備にあたっては、そういった日本の伝統や、山の信仰も大切にする必要があ
る。中国山地は今後、世界の中で極めて高い評価を受ける可能性がある。
(1992年6/13・14歴史を活かした地域づくりシンポジウム)
巨木を中心とする町づくり http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/umehara.html
梅原猛さんは、浄土教の教え、すなわち<山川草木悉皆成仏>の考え方は典型的な<森の思想>だと言っ
ておられるのだが、縄文時代から連綿と続いているところの「日本の宗教」というものは<森の宗教>だと
お考えのようで、・・・・こう言っておられる。
「この<森の宗教>の思想について、私は長い間いろいろと考えてきたのですが、結局、森の宗教の思想
は、生きとし生きるものはすべて共通の生命で生きている。そして生きとし生きるものはすべて成仏するこ
とができるという考え方だと、最近思うようになりま した。動物の命も、山や川すら成仏できる。そして
成仏するばかりでなく、生きとし生きるものはすべて生死の間を循環している。」
「植物や動物の命を尊敬して天地自然を尊敬する。そしてその天地自然や動物と調和して生きていく、共 生
する方法をわれわれは考えなければならないのです。」
「人間は動物や植物を殺さなければ生きていけない面があります。動物の命を奪うにせよ、われわれと同
じ命をもった木を、そして動物を殺す訳ですから、その木や動物の霊を手厚くあの世に送らなければならい
のです。霊をあの世に返さなければならないのです。 そしてまた木や動物たちにこの世に帰って来てもらわ
なければならない。私は、こういう宗教を今こそとりもどさなければならないと考えるのです。」
「人間が生きていくということはどういうことなのか、それは植物も動物もみな同じ命であって、すべて
のものはあの世とこの世を循環しつつ、永遠に共生しているのだということを認識しなければならないと思
います。
そういう思想が人類に浸透したときに、人類は生き残る可能性がでてくるのだと思います。巨木の問題 は
文明の根底に関する問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、21世紀を正視する街づくりでなけ
ればならないと私は思います。」
中沢新一の「緑の資本論」(その8)http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ai/midori08.html
田舎生活とは、田や畑とともに或いは田や畑を身近に感じながら生きることである。山や川ととも に或い
は山や川を身近に感じながら生きることである。海に面したところでは、海とともに或いは海を身近に感じ
ながら生きることである。したがって、田舎生 活では、「田の神」を大切にしなければならないし、「山
の神」や「水の神」を大切にしなければならないのである。「海の神」を大切にしなければならないの で
ある。私たちはそういう「自然の神々」を見捨ててはならないのであって、田舎生活が永遠に守られなけれ
ばならないのである。サステイナブルコミュニティ とは、そういう田舎生活ができる永遠の地域である。そ
れを成り立たせるものが、利子のない貨幣・・・「地域通貨」である。 古代の道を考える http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kikitake.html 日本文化の源流に黒潮文化と黒曜石文化がある。黒曜石文化は北海道から湧別技法集団が日本列島を南下し
ていって全国に広がっていくのだが,私が今いち ばん関心を持っているのは、「湧別技法集団は北海道から
日本列島のどこを通って南下していったか」という疑問である。これを、黒曜石7不思議の5番目の不思議
としよう。湧別技法による黒曜石細石刃に関連するいくつかの遺跡を訪ねながら,この疑問について考えて
いくことにするが、その前に,ぐっと新しくなる が,手始めに日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の酒折宮
伝説から古代の道に思いを馳せてみよう。
旧石器時代の湧別技法という最先端技術が北海道からこの日本列島をどのように南下していった か。下
北半島から、鹿角、角館、大曲、横手、湯沢、新庄、山形、米沢、会津に行く場合、うまく山脈を避けなが
ら、野山を比較的容易に歩くことができる。会 津からが大変なのだ。たびたび言っているように、集落の
まだ発達していない旧石器時代は、河川のほとりに船があるわけではないので、大河川はその上流でし か
渡れない。湧別技法集団が日本列島を南下するには、会津から越後に出るのがもっとも良い。そして、千曲
川の右岸を遡(さかのぼ)り、八ヶ岳は野辺山に向 かうのである。その難所が只見川の源流ということに
なる。したがって、会津は北の文化の集中するところとならざるを得ない。私は、会津は旧石器時代から東
北でもっとも進んだ地域であったと思う。雄物川の右岸の河岸段丘にある塩坪遺跡( 高郷村 )は福島県
を代表する旧石器時代の遺跡であり、今から15,000∼14,000年前のものと考えられている。笹原 山遺跡
は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、奈良時代、平安時代のものが重層的に出土している全国的にも数少
ない複合遺跡 である。また、前に述べたように、只見川の流域は縄文文化のメッカである。会津は、この
ように 旧石器時代から東北でもっとも進んだ地域であり、ここを中心として北の文化が日本各地に拡散して
いったし、稲作文化もここを中心として東北各地に拡散して いった。会津は日本文化にとってかけがいのな
い地域である。東北を勉強するにはまず会津を勉強しなければならない。
荒屋遺跡 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/araya.html
北海道から湧別技法集団等が日本列島を遊動していく場合、地理的条件から、会津から越に抜けるルートが
中心になったのではないかと思われる。大河川は徒渉で渡ることは困難であったからである。魚野川をその
上流部で渡って、千曲川の合流点・荒屋に行く。荒屋からは、千曲川沿いに容易に信濃に行くことができる
が、上越国境の山を越えることもできる。荒屋はまさに交通の要衝である。
旧石器時代晩期から縄文時代早期にかけて荒屋遺跡を中心に人々の活発な活動があったようである。特に、
津南地域は八ヶ岳の人々との交流も盛んであったらしい。御子柴型の石器が菅平(すがだいら)の「唐沢
B」で出土しているが、菅平(すがだいら)は水も豊富だし、狩猟採取を専らとする古代人にとって格好の
場所であったのではないか。津南地域と菅平地域との往来も盛んであったにちがいない。津南地域から菅平
地域に行くには、須坂からから行くルートと秋山郷から草津温泉にぬけるルートが考えられる。
唐沢B遺跡を訪ねて http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karaB.html
世界最高の芸術品とでもいえる御子柴型石斧は、野辺山からどう歩いてこの菅平に持ち込まれたのか。詳細
な道はこの際問題にしないで、ごく大雑把に、どういう目印を当てにしてその当時の交易人は、この菅平に
来たかということである。どういう言葉を使っていたか判らないが、大きくて目立つ山は峻別できたと思わ
れるので、千曲川の右岸を下って、浅間山を見ながら佐久平から上田までは、まあ比較的容易にたどり着く
ことができただろう。千曲川を徒渉することはできなかったと思わざるを得ないので、ただひたすら右岸を
行った。上田では、広大な谷が真田方面から開けているので、その方面に歩いていくことは容易である。そ
して、ただひたすら、その広大な谷を流れている川を遡っていく。水量の多い方、水量の多い方と遡ってい
けば、ひとりでに唐沢の滝に行く。滝を越え、高原に出るが、大きな山と大きな山を結ぶ線と遡ってきた川
の交差するところがお目当てのばしょである。
第3章 「山の霊魂」について
先に私は、論文「霊魂の哲学と科学」において詳しく説明したが、生きとし生きるものす
べてに「霊魂」がある。哲学的にはプラトンがこれを詳しく論じているが、私は、科学的
に、これは「宇宙は波動の海」であるという最新の科学的知見にもとづいてということだ
が、それなりの説明をした。なかなか理解をしてもらえないかもしれないが、「霊魂」は
科学的にも存在するのである。
そのことについては、是非、私の論文「霊魂の哲学と科学」を読んでもらいたいが、「宇
宙は波動の海」であるという最新の科学的知見にもとづいて、濱野恵一がその著「脳と波
動の法則」(1997年3月、PHP研究所)の中で、次のように書いているので、この本
も是非読んでもらいたい。濱野恵一は次のように述べている。すなわち、
『 私たちの心は最新の知見によると、脳に局在するものではなしに、宇宙に各々の心の
働きの場として内在するという。そしてシェルドレイクの場理論によると、各人の脳の場
と宇宙空間に存在する場同士が、共鳴・同調することで心の働きを顕現させる。さらに、
宇宙の場は、その個人の死亡後も存続・継承されることが、マクドゥーガルの実験結果や
「四肢錯覚現象」の証拠から、明らかになっている。この知見にもとづいて「生まれ変わ
り現象」を考えると、前世の記憶を持つ人の場合、自分の脳内にある宇宙の場のミニチュ
アが、何らかのきっかけで宇宙に存在する故人の人格の場にアクセスし、場同士の連結が
生じた結果であると説明し得る。』・・・と。
もちろん、濱野恵一は「霊魂」のことについてはひと言も触れていない。しかし、私とし
ては、彼の本に書かれていない科学的事実を、特に私たちが生まれるときに生じている
「系統発生」をどのように説明すれば良いのかを、さらにプラトンの「霊魂論」に即しな
がら、いろいろと考えたあげく「霊魂」は科学的に存在するという結論に達したのであ
る。「霊魂」は存在する。そういう前提で、「山の霊魂」とは何かを以下においていろい
ろと考えてみたい。
第1節 古代人の「祈り」の様相。
古代人の生活空間は山だ。平野ではない。だから、大地の神、地母神のおわす所は山であ
る。古代人はその山をどのように見ていたのであろうか?
山で生活していて、命に関わるいちばん大事なことは何か?それは方向感覚である。自分
の居る今の場所、これから行く場所、これから帰る場所、それらの方向が常に頭の中では
っきり描かれていないと、山に迷って死んでしまう。山はそれほど恐ろしい所だが、北極
星が常に頭の中に入っておれば大丈夫。山に迷うことはない。
天空には夜は満天の星。昼はさんさんと太陽が輝く。その太陽のお陰で山には「山の幸」
がいっぱいだ。そしてそれら生活の糧を得るために山に入るが、そのときの頼りは北極星
である。山が「山の幸」を生むのは大地の「産みの力」だが、それは太陽の働きかけがど
うも関係しているらしい。その太陽は常に動いているが、北極星は動かない。どうも天空
の中心は北極星らしい。古代人はそのような感覚のもと、天空の不思議な力を感じていた
ようだ。
ところで、子供は母親から生まれるが、それも父親の働きかけがなければならない。父親
の働きかけ、それはほとばしる精液のことだが、それは母親に働きかけて子供を産ませる
力を持つ不思議なものである。その不思議力というのは、夜にやってくるようだが、一
体、それはどこからくるのか? 北極星の方面からではないか? 北極星というのは、摩
訶不思議な存在だ。思わず手を合わせざるを得ない。子供が誕生する不思議な現象と「山
の幸」が生まれる現象とが重なり合って、古代の「祈り」が行われたのではないか。男性
のシンボルは天空の不思議な力は女性「穴」に注ぎ込まれる。天空の不思議な力、それは
今でいう「神の力」ということだし、女性の「穴」、それは今でいえばその「奥」に神が
存在するということだが、石棒というのは、天空の神が大地の神のところに通う通り道で
ある。縄文時代の竪穴住居にしつらえられた祭壇で、赤々と燃えた「炉」は女性の「穴」
のことだが、その「穴」の「奥」におわす大地の神のところに、石棒を通じて天空の神が
降りてくる。
その神への「祈り」は、ムラとしては戸外で行われる。その際には、石棒はあまりにも小
さすぎるので、大きな柱が神の通い道となる。その辺の様子については、私の電子書籍
「女性礼賛」の第5章第3節に詳しく書いた。その中から関係部分をここに再掲しておき
たい。
縄文時代の住居には、炉とその隅に石棒が立てかけられている事例が少なくない。そう
いうところでは、家のなかで毎日のように、天の神や地の神への「祈り」が捧げられたの
である。私たちの多くの家で、仏壇や神棚でお祈りがなされるのとまあ同じようなこと
だ。ロウソクやお灯明は聖なる火である。その聖なる火については、小林達雄がその著
「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で次のように言っている。すなわち、
『 縄文住居の炉は、灯かりとりでも、暖房用で、調理用でもなかったのだ。それでも、
執拗に炉の火を消さずに守りつづけたのは、そうした現実的日常的効果とは別の役割が
あったと見なくてはならない。火に物理的効果や利便性を期待したのではなく、実は火を
焚くこと、火を燃やしつづけること、火を消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自
体にこそ目的があったのではなかったか。』・・・と言っており、火に対する象徴的観念
の重要性について述べている。そして、火の象徴的聖性は、今日の私たちの生活において
もいろいろな場面に認められることを述べ、その原点は、結局、縄文住居の炉にあるので
はないかと言っている。私もまったくそう思う。
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そして、縄文住居の炉は、女性の「ホト」でもあり、女性の象徴的聖性を表わしている
と考えている。地球の母の象徴的聖性、地の神の象徴的聖性と言っても良い。
小林達雄は「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中でもうひとつ重要なこ
とを言っている。すなわち、
『 縄文中期の中部山岳地帯においては、奥壁に石で囲った特殊な区画が設けられ、しば
しばその中央に長い石を立てる。立石は、河原にあるような表面の滑らかなものではな
く、稜をもつ、いわゆる山どりの石である。細長い石であれば何でも良いというものでは
ない。そこには縄文人なりのこだわりが覗く。もとよりこの立石を伴う施設の具体的な目
的意味などは不明である。』と述べ、この施設は祭壇らしいと言っている。彼は断定を避
けているが、私は、立石は石棒であり、男性のシンボルだと思っている。
また、高橋信雄は、Webサイトで、『 御所野遺跡のムラは、墓域を中心に営まれ、
様々な祭祀が行われたと考えられます。その核となるのが前述のストーンサークルです。
ストーンサークルを取り囲むように掘立柱建物がいくつも建てられ、その隣では、モノ送
りの儀式が行なわれたらしき盛土遺構が広範囲にみられます。
この御所野のムラでは、竪穴住居の中でも祭祀が行われていたようです。西のムラの中
心的な建物では、奥の方に「石棒」という縄文時代の祭祀の道具が立てられ、その周辺か
らトックリ形土器や彩色土器、あるいはミニチュア土器など、実用的ではない土器が8
点、完全な形でまとまって出土したのです。
つまり、奥の間が祭壇となっており、近くに石棒が祀られ、小型の土器類が神にささげ
られた可能性が極めて高いのです。入口中央にあった炉も、神聖な場所であったと考えら
れます。』・・・と言い,石棒の聖性を指摘している。
私は,かって、その石棒の持つ意味について、次のように述べたことがある。すなわ
ち、
『 さて、今ここで私のいちばん言いたいことは、柳田国男と胞衣(えな)信仰に出てく
る「富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏」において、ミシャクジは、古くから信仰されて
きた土着の神であり、石棒や丸石などが御神体とされる・・・ということである。このご
神体は、土地精霊と見られている原姿の神で、諏訪大社によって祀られてきた神としても
よく知られている。
次に、諏訪大社といえば、御柱(おんばしら)が有名であるが、 御柱(おんばしら)
は神が降臨する依代(よりしろ)といわれている。神が降臨する依代(よりしろ)として
の 御柱(おんばしら) ・・・・、これが二番目に言いたいことだ。
伊勢神宮にも心御柱というのがある。心御柱を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、
夜間に行われ、それを建てる「心御柱奉建祭」も秘事として夜間に行われる。すべて、非
公開で、しかも、夜間にのみ行われるというのは異常だ。もし心御柱が精霊(神)だとす
れば、異常な神、すなわち異神であり、山本ひろ子の言う異神・摩多羅神と同じではない
か。しかも、猿田彦神社の宇治土公宮司に聞いた話によると、伊勢神宮でもっとも重要な
行事であり、猿田彦神社の宇治土公宮司がそれを司祭するのだそうだ。隠れているという
ことで摩多羅神とイメージがだぶり、猿田彦ということでシャクジンとイメージがだぶっ
ている。誠に不思議な心御柱ではある。
私は、祭祀として立てる柱は、環状木柱列遺跡の柱なども含め、神が降臨する依代(よ
りしろ)であり、縄文人の観念としては、天の神と地の神をつなぐ通路であったと思う。
その通路によって、天の神と地の神は合体し威力はさらに強大なものとなる。私は、縄文
人はそんな観念を持って柱を立てたのだと思う。
上述のように、金春禅竹は、「星が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行な
う」と考えていたが、その通路が柱であったり、先に述べた堀田総八郎のいう「天文祭祀
線」であったりしたのであろう。 いずれにしろ、星というか天の神が地上に降下して、
母なる地の神と一体になって人間に対するあらゆる業を行なったのである。その導きの神
が、土地精霊と見られている原姿の神としての石棒がある。すなわち、神が降臨する依代
(よりしろ)としての 御柱(おんばしら)の源流に精霊(神)としての石棒がある。猿
田
彦大神はその変形である。』・・・と。
ここで大事なことは、地の神というか地母神というか聖なるホトに天の神が降臨すると
いうことであり、ただ単に精霊(神)の働きがあれば良いというものではない。精霊
が必要である。天の神と地の神との合体による「摩訶不思議な力」と 人々の敬虔な「祈
り」と価値あるものの「誕生」、この三つはボメロオの環でがっちりと繋がっている。
天の神と地の神をつなぐ機能を持つものとしては、 諏訪大社の御柱(おんばしら)や伊
勢神宮の心御柱のほか、聖地に存在する磐座(いわくら)やモンゴルのオボー、そして道
祖神などがあるが、私は、それらの源流にあるのは石棒だと考えている。そして、群馬県
月夜野町は利根川河畔の矢瀬遺跡に訪れてその実感を強めたのだが、その報告を以下にし
ておきたい。
新田次郎の「アラスカ物語」という素晴らしい本がある。主人公のフランク安田という
人の存在もそうだが、こういう本が存在すること自体が私たち日本人の誇りであると思
う。この「アラスカ物語」にはいろいろ光のことが出てくるが、その一部を紹介しておき
たい。すなわち、
『 薄紅色の南の空のオーロラが消える と、たちまち頭上に輝きが起こった。色
彩のはげしい点滅と動揺が空いっぱいに広(ひろ)がっていた。天の心のいらだ
ちをそのまま表現したようなせわしげな 点滅が繰りかえされていた。その夜のオ
-ロラは緑を主体としたものであった。緑の絨毯(じゅうたん)全体的に激しい
明滅を繰り返しながら全天に拡がって 行ったが、やがて、部分的な点滅現象は終
わり、それにかわってかなりの面積を持った平面的な明滅が始められた。点滅が
明滅になり、時間的に余裕を持った、 輝きと色彩の周期運動に変ってくると、緑
の絨毯が翼に見えて来た。怪鳥の頭部に当たるあたりに鮮明な赤い爆発が起こっ
た。赤は緑を二つに分断した。緑の両 翼は空いっぱいに羽撃(はばた)いた。
オーロラが出ているのに、星は依然として輝きを失っていなかった。星はオーロ
ラよりも夜空における権威者であった。 遥(はる)かに高いところから、オーロ
ラの芸当を眺めているようであった。』
『 フランクとネビロは暖炉の火を見つめながら夜遅くまで語った。長い放浪に近
い生活を互いに振り返りながら、外の吹雪の音を聞いた。「火がこんなに美しい
ものだとは知らなかったわ」ネビロは 膝(ひざ)に抱いているサダの小さな手を
暖炉にかざしながら言った。「そうだ暖炉の火ほど美しくて、心の暖まるものは
ない」心が暖まると言ったとき、彼は 突然故郷を思い出した。石巻の生家の炉に赤
々と火が燃えていた。天井から吊り下げた鈎(かぎ)に掛けられた南部鉄瓶(てつ
びん)から湯気が吹き出していた。囲炉裏をぐるっと家族がかこんでいた。祖父の
顔が奥にあった。両親も兄弟姉妹たちも炉の火に頬を赤く染めていた。どの顔もにこ
やかにほほえんでいた。』・・・・と。
炉というものは、実用な面だけでな く、何か不思議な力を持っているようだ。「炉の
聖性」と言っても良い。縄文人も「炉の聖性」を感じていたようで、縄文住居の炉は、灯
かりとりでも、暖房用 でも、調理用でもなかったらしい。 小林達雄は、その著書「縄文
の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で、「火を焚くこと、火を燃やし続け るこ
と、火を 消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体にこそ目的があったのではな
いか」と述べ、火の象徴的聖性を指摘している。
詳しくは小林達雄の「縄文の思考」を 読んでもらうとして、ここでは、炉の形態はさ
まざまだとしても、一般的に縄文住居には聖なる炉が あって、 聖なる火が消えずにあっ
たのだということを確認しておきたい。そして、これも当然小林達雄も指摘しているとこ
ろだが、炉と繋がって石棒などが祭られているのが一般的である・・・・、そのことを併
せて確認 しておきたい。聖なる炉と聖なる石棒、これは正し<祭りのための祭壇>であ
る。
矢瀬遺跡は縄文時代の祭りを考える上 で欠かすことのできない遺跡であると思う。博
物館としてはほとんど手が入ってないので、一般の人には面白くないかもしれないが、祭
りの哲学的な意味について興味をお持ちの方は、 是非、 一度は矢瀬遺跡に出かけて欲し
い。矢瀬遺跡は上越新幹線の上毛高原駅と上越線の後閑駅の間にある。上越新幹線と上越
線を結ぶために連絡バスがひっきりなし に出ているし、上越線の後閑駅に特急が止まる
ので、交通の便は非常に良い。
矢瀬遺跡については素晴らしいホームページがあるので、まずはそれを見ていただきたい
http://www2.odn.ne.jp/mcr/yaze/
私は先に、 「聖なる炉と聖なる石棒、これは正しく祭りのための祭壇である」・・・
と申し上げたし、これもまた先に、「祭りは神の世界と人間の世界をつなぐインター
フェースである」ことも申し上げた。
また、古代信仰に関する吉野裕子の見 解・・・「 神霊は男性の種として蒲葵に憑依
し、巫女の力をかりてイビと交歓する」も紹介済みであるが、キリスト教でいえば聖霊、
中沢哲学でいえば流動的知性に関わる 精霊(スピリット)ということになるが、そうい
う種が、男性の象徴・石棒など(男根、石棒、立石)から女性の象徴・炉の火に発出され
て、何か価値あるもの が誕生するのである。これは自然の贈与と言って良い。この縄文
住居の祭壇において祭りが行われ、自然の贈与が発生するのである。これすべて流動的知
性の力 による。こういったことを念頭に置いて、矢瀬遺跡の核心部分をご紹介しておき
たい!
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba08.html
第2節「山の霊魂」とは何か? 1、町田宗鳳の「山の霊力」
町田宗鳳がその著「山の霊力」の中で、「山はひとつの巨大な動物である」と言っている
ので、まず彼の言っていることを聞いてもらいたい。
1、人類の最初の神が動物であったとするバタイユの説は、日本人と山の関係を考える上
で、ひとつの重要なヒントを与えてくれる。それは、この山また山の列島に暮らした古代
日本人の目に映っていた山の姿についてである。近代人にとって山は、土や岩の塊が隆起
してできた特殊地形以外のなにものでもあり得ないが、古代人にとっては、山は息巻く巨
大な動物ではなかっただろうか。山は、肉体を持つ動物である証拠に、あらゆる動物たち
を産み落とす。さしずめ日本の山なら熊や鹿、イノシシにサル、それにウサギやリスなど
が、ところ狭しと駆け巡っていただろう。かってはカモシカやオオカミもふんだんにいた
はずである。いや現在からは想像もできないような珍しい動物が棲息していた可能性もあ
る。それもいつかは考古学者の手によって、明らかになるだろう。人間がこれらの動物の
肉を口にするとき、それは山という巨大な動物の分身の肉にほかならなかった。古代人の
目には、山はけっして無機質な物体ではなく、切れば真っ赤な血が吹き出るほどk、肉感
をそなえていたのではないか。それは、人間と山が同じ「いのち」で繋がる生き物だとい
う感覚でもある。
2、おそらく古代人は、山だけでなく、大地そのものが生き物のような存在であると感じ
ていたのではなかろうか。人間は、そのわけのわからない巨大な生き物の背中にしがみつ
きながら、かろうじて生存している小さな動物に過ぎない。バタイユが言うように、古代
人が動物に「至高性」を感じ取ったとすれば、この地上に山より大きな動物はいないので
あるから、その山に四方から囲まれながら暮らした人びとが、その大いなる動物に対して
畏敬の念をもたなかったはずがない。ましてや波打つような山脈に覆われた日本列島に暮
らした古代人にとっては、「至高性」をもっとも強烈に感じさせる動物とは山に他なら
ず、そこにこそ最初の神観念が発生することになったといっても決して過言ではなかろ
う。
3、ここで非常に大切なことを一つ指摘しておかねばならない。それは古代人が持ってい
た感覚や、その鋭い感覚に触発されて生まれてくる想像力を、けっして現代人のそれと同
類のものとあつかってはならないということだ。彼らは、眼、耳、鼻、口、皮膚と言った
バラバラに分離した器官ではなく、全身で感覚していたのであある。個々の感覚的知覚を
統合するものとして「共通感覚」という言葉を最初に使い出したのはアリストテレスで
あるが、近代以前の人間が、そのような統合的感覚をどれほど旺盛にもっていたかは、今
も世界各地で暮らす先住民族の生態を少しばかり垣間みればすぐにわかることである。彼
らは、獲物がどこに潜んでいるか、どこに行けば食べごろの木の実が採れるか、独特のカ
ンを働かせる。抜群の視力や聴力を駆使するだけでなく、風の匂いのようなものを嗅ぎ取
り、そこから必要情報を体にインプットしていくのである。(中略)そういう感覚を特に
旺盛に持つ者は、透視や予言などの超自然的な能力を伸張させていき、やがては部族の中
でシャーマン的な役割を果たすようになった。(中略)感覚が活発に働いておれば、さま
ざまなイメージが心の中に湧出してくる。それが想像力である。われわれが迷信や蒙昧
(もうまい)というレッテルで片付けてしまいがちな彼らの想像力は、どこまでも有機的
であった。酵母菌のように、どんどん自家増殖する力を持っていたのである。さしずめ近
代以降の人間の想像力は、ますます無精卵的なものになりつつあるのではなかろうか。こ
こでさしずめ思い出されるのは、「詩人の中でもっとも哲学者であり、哲学者の中でもっ
とも詩人である」と言われたガストン・バシュラールの「物質的想像力」という考え
方である。それは、人間が目の前に存在しない事物を夢想する能力ではなく、世界を構成
している火、水、空、土などの物質的要素から直接的な刺激を受け、力強いイメージを喚
起する想像力のことである。人間が頭の中で想像するのではなく、自然界の物質によって
喚起される想像力は、既存のイメージをデフォルメ(変形)し、その常識的イメージから
われわれを解放してくれる。われわれが、未来に向かってどこまで新しい生活を築きえる
かも、ひとえに想像力の資質にかかっている。バシュラールは、本物の詩人なら誰でもこ
の「物質的想像力」を駆使していると言ったのだが、東北の野山を彷徨しながら、「心象
スケッチ」を描き続けた宮沢賢治のことを思い浮かべてみれば、なるほどと思われてく
る。彼のつづる童話が読者の心の中に、パン種のような有機的膨らみをもたらすのは、岩
手産の「物質的想像力」のせいらしい。
山を見て、地殻変動によって生じた特殊な地形としか見ることができなくなったのは、近
代人のドライな想像力のせいである。有機的な」想像力をもつ古代人の感覚には、山はも
っとも野卑にして、もっとも力強い生き物以外の何ものでもなかった筈だ。
4、「原初の生命体」である山は、まず産む力を限りなく持っていた。それは途方もない
性欲を持ち、立て続けに孕(はら)み、そして次々と子を産み落としても疲れを知らない
強靭な母体のようでもあった。そういう意味では、山のたおやかな膨らみは、妊婦の膨ら
みでもあった。おまけに山が産み落とす新しい生命は、人間がサバイバルしていくために
何ひとつ欠かすことのできないものであった。それは山の分身としての動物たちだけでは
ない。現代でも春の訪れとともに、人びとはこぞって山菜摘みに出かけるが、ましてや畑
を野菜を栽培する生活が定着する以前の人たちにとっては、山は文字通り無尽蔵の食料庫
であった。
5、おそらく古代人は、森林を山という大きな動物の毛皮のように受け取っていたのでは
ないか。羊の毛のように刈り取っても刈り取っても、生えて出てくる森林。こんな素晴ら
しい贈り物を与えてくれる山の産みの力に、人びとはおのずと敬服せざるを得なかったで
あろう。
6、モノを産みつづける山には、当然のことながら、子宮口がなければならない。深くて
暗い谷、大きな洞窟なども、その形状から山の子宮と見なされていただろう。滝もそうで
ある。両脇から鬱蒼と生い茂った森林の襞に包まれて、山の液体を流しつづける滝は、ま
るで女陰のイメージである。(中略)聖地とは「性地」のことであるという考え方がある
が、確かに古代から特別な霊気を持つ土地として崇められてきたところには、男女の生殖
器に似た地形や巨岩が見出されることが少なくない。またそこに伝わる伝説や儀礼などに
も、セクシャリティーが露骨に表現されている場合が多い。
2、アリストテレスの「共感覚論」
さて、「山の魂」とは何かを論ずるにあたり、まず町田宗鳳の考えを紹介したが、それら
の中で、極めて重要な問題提起としてアリストテレスの「共感覚論」に触れているので、
その点につき詳しく論じていきたい。それには、私たち動物が持っている本能・「帰属
性」について説明しなければなるまい。
ところで、今西錦司のプロトアイデンティティ(原帰属性)というのがある。私たち動物
は、仲間を仲間として認識できる。自分たちとは異なる種を自分たちの仲間とは認めない
のだ。神は自分たちとは異なる種との交配を禁じているようだ。そうでないと、世の中の
秩序はムチャムチャになり,種の保存なんてできませんからね。また、私たち動物は,自
分たちの棲息 する「場所」を自分たちの生活の生息空間として認識できるようだ。今西
錦司のすみ分け論を前提とした場合, 仲間を仲間として認識できると同時に,自分たち
の生息空間をそのように認識し,決して他の生息空間を荒らさないようにしなければなら
ないなど・・・・自分 たちの生息空間を自分たちの生息空間として認識できなければな
らない。これらの認識能力は,もちろん本能ではあるが,今西錦司は特に「プロトアイデ
ンティティ(原帰属性)」と呼んでいる。このプロトアイデンティティ(原帰属性)につ
いては、 井坂枕(いざか まくら)という人の「今西錦司の世界」というすばらしいホ
ームページがあって、そのなかでプロトアイデンティティ(原帰属性)について詳しく解
説している。また、彼は、プロトアイデンティティ(原帰属性)と帰属性はともに無意識
であるが相異(あいこと)なるものであること、そして原帰属性や帰属性とは別に、帰属
意識というものがあること、この二点を述べている。私も同感だ。それでは次に紹介する
井坂枕のホームページをじっくり勉強してほしい。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/top.html
彼も指摘しているように,原帰属性と帰属性と帰属意識とはそれぞれちがうと思う。先天
的なプロトアイデンティティ(原帰属性)と・・・・後天的なものでプラトンのいうコー
ラに起因する帰属性などはともに無意識である。帰属意識はすべて後天的なもので意識で
ある。 ハイデガーのいうように「ふるさとの喪失」することによって否が応でもニヒリ
ズムに陥らざるを得なくなるのは、帰属性によるのであって、後天的な無意識である。意
識の問題ではない。したがって、教育が悪いとか政治が悪いとか・・・そんな問題 では
まったくない。「ふるさと喪失」によって、誰もが無意識のうちにニヒリズムに陥ってや
る気をなくすのである。現在はそんな世の中になっている。
さて、能力には先天的能力と後天的能力とがある。後天的能力は、自分の生活体験によっ
て培われる能力と教育によって身につく能力である。古代人の能力は現代人の能力と比べ
て、必ずしも劣っている訳ではない。古代人といえども、もし今の教育を受けることがで
きれば、東大にだって入ることができる。逆に、今の私たちが、古代人と同じ野性的体験
をすれば、私たちたちといえども、古代人と同じ感性を培うことができる。要は、人間の
能力は、生活体験と教育によって決まってくるのである。私が言いたいのは、古代人の能
力が私たちのそれに比べて劣っていると考えてはならないということだ。古代人は、感性
的な能力は優れているし、知識的な能力は劣っている。それだけのことだ。
今私は、本能とか先天的能力とか言っているが、本能と先天的能力とはちょっとニュアン
スが違いがあるのかもしれない。しかし、ここではその時々において、感覚的に相応しい
方を適当に使っているので、その点、ご了承願いたい。
本能には、プロトアイデンティティ(原帰属性)の他にいろいろな本能があると思うが、
ある種の本能に起因して、すべての動物は全体を見て直感的にそれなりの適切な判断する
能力を持っているようだ。特にそういう本能を強烈に持っている動物はオオカミである。
そのことに関しては、私のブログに書いたのでそれをここに紹介しておくが、私は、オオ
カミが何ゆえにそういう能力を発揮できるのか不思議でならない。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-1266.html
「動物が全体を見て直感的にそれなりの適切な判断する能力」というものに関しては、第
2節の3の町田宗鳳の説明にあったように、アリストテレスの「共感覚論」というのがあ
る。以下、 アリストテレスの「共感覚論」の解説に入りたい。
共通感覚という言葉は、常識という意味でも使われるし、また中村雄二郎の共通感覚論と
いうのもある。それらとの紛れを避けるために、アリストテレスの共通感覚は、私は、共
感覚と呼ぶことにしたい。
私たちは、五感で何かを感じて行動を起こす。五感とは視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の
五つである。実は、この他に第六感というものもあるが、一般的には私たちの感覚は五感
にもとづくものである。あるサークルに属して趣味的な活動やらボランティア活動をやろ
うとか、地域のために何か役に立とうとか、さらには愛する国のために何かをやろうと
か、いろいろな活動を行う。それらは帰属意識であるが、私たちは何らかの帰属意識とい
うものを持っていて、いろいろな活動を行うのである。感覚がそういう意識を生じせしめ
る。
さあ、そこで五感による感覚についてであるが、このことに関してアリストテレスの共感
覚論というのがある。アリストテレスの共感覚論とは次のようなものである。
私たち人間の感覚には、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五つのものがある。これらの感
覚について、われわれは視覚内部での相違、たとえば赤や青や黒といった色彩相互の相違
を感じ分けるとともに、視覚上の色と味覚上の甘さといった、異なった感覚にわたる相違
についても感じ分けることができる。感じわけることは、アリストテレスによれば判断以
前のことである。だからそれも感覚能力の一部というべきであるが、しかし個別の感覚を
超えたものである。アリストテレスはこれを共感覚と呼んだ。また感覚はおのおの個別に
感じ分けられるとともに、異なった感覚を横断しての感じ分けもなされる。たとえばバラ
の花について、我々は甘い匂いなどという。本来甘さ(味覚)と匂い(臭覚)とは異なっ
た感覚なのであるが、それがバラの花というものにおいて結びつき、このような表現が生
まれるのである。
このような表現が生まれるについては、比較や総合といった、判断の要素が入っていると
思われるのであるが、アリストテレスはあくまでも共感覚という感覚のレベルでのことだ
としている。それは個別の感覚を超えたものではあるが、判断作用を踏まえた概念的な認
識ではなく、対象の感性的な受容なのである。この共感覚の働きがあるからこそ、人間は
個別の感覚を通じて対象を全体的に把握することができるようになる。たとえば花びらの
形やその色、漂う匂い、手をさす棘の存在、これらはみな別個の感覚であるが、それがバ
ラの花の中に結びついて、ひとつの全体的な対象把握が成立する。共感覚の作用がなけれ
ば、個々の感覚はばらばらに受け取られるだけで、そこには一本のばらというまとまりあ
る表象は成立しないだろう。
このようにアリストテレスの共感覚は、個々の感覚から表象を経て概念的な知に至る認識
の作用にとって、基礎的な役割を果たしている。しかもそれは判断にもとづいた概念的な
作用ではなく、あくまでも感性的な働きであった。ここにアリストテレスの共感覚のユニ
ークなところがある。共感覚は対象の感性的かつ全体的な受容により世界の空間的な把握
を可能にするとともに、時間把握の前提ともなる。アリストテレスによれば、現在に関す
るものが感覚であり、未来に関するものが期待であり、過去に関するものが記憶であ
る。記憶を構成しているのは表象であるが、それは本来的には思考に属するものではな
く、共感覚に属するものなのである。人間は共感覚を通じて、現在の感覚と過去の記憶、
そして未来への期待とを相互に関連付けることから時間の観念を獲得した。これがアリス
トテレスの共感覚論的時間論である。
アリストテレスの共感覚とは以上のようなものであるが、 理性について、アリストテレ
スは人間の理性を二元的に捉えていたようである。理念的で能動的な理性と、感覚とつな
がりをもった受動的理性とである。アリストテレスにとって理性とは本来肉体とは独立し
たもので、それ自身の能動的な働きによって理念的な認識に達し、自分自身を実現するこ
ができる。したがってそれは肉体が滅びても、普遍的理性として永遠に存在し続けるとア
リストテレスは考えていたのである。
ここでいう受動的理性とは、上述の五感によって外部の地物を感じて、行動を起こす理性
のことであるが、さきほど述べたように、私たちの中には、ある特殊な人たちがいて、第
六感を働かすことがことのできる人がいる。第六感は、直観とか霊感というものである。
直観については、今西錦司が自分の体験からいろいろと語っている。それについては、私
の電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」「100匹目の猿が100匹」に書いたので、
是非、それを読んでいただきたい。これから人類は、第3の脳の90%という未使用部分
を発達させ、特別の体験をせずとも直観がはたらかせることができるように、進化してい
くのである。アリストテレスは、この第六感のことを能動的理性と考えていたらしい。ア
リストテレスによれば、この能動的理性は受動的理性より優れたものであって、私たち人
間は能動的理性を働かせるように、訓練しなければならないと考えていたようだ。上述し
たように、アリストテレスは、能動的理性は肉体が滅びても、普遍的理性として永遠に存
在し続けるとアリストテレスは考えていた。これは霊魂の働きで生じる人間の理性のこと
である。
風土とは、自然の趣であり、歴史の趣であり、また人びとの生きざまがその土地にしみ込
んだものである。そこから地霊の働きというものが生じてくるのだが、私たちはその土地
に立ち、必死でその土地に関連することに思いを巡らせば、地霊の働きのよって、何か感
じることができる。これが今西錦司が感じていたらしい帰属性というその人のアイデンテ
ィティであり、アリストテレスのいう能動的理性である。能動的理性が働くには、ある条
件の良い場所でなければならないし、霊魂との響き合いをする受け手の作法みたいなもの
が必要だと、私は考えているが、要するに、条件さえそろえば能動的理性が働くのであ
る。
3、古代人は山をどう呼んだか?
さあ、アリストテレスの「共感覚論」の解説が終わったところで、いよいよ核心部分に入
ろう。
シニフィアンとシニフィエとは同じ暗喩であるが、その意味するところは違う。言葉とい
うものはシニフィアンであって、古代人はその感性でどのような言葉で山を呼んだのであ
ろうか? オロチ? 自然の産みの力のある所といういみで、自分の体験と照らし合わせて
ホドと呼んでいたのではなかろうか。これらの疑問にこれから答えていきたい。
そこでまずの問題は、共感覚によって古代人が山をどのように見ていたかということであ
る。共感覚による古代人の山に対する観念てある。古代人の山に対する観念は、さまざま
な山の幸を与えてくれる地母神というような観念であったのではなかろうか。
「ヤマタノオロチ」という名称は、『日本書紀』で 八岐大蛇、『古事記』では八俣遠呂
智という表記で出てくる。「ヤマタノオロチ」という名称の意味は諸説あるようだが、
「オロチ」の意味として、「お」は峰、「ろ」は接尾語(の)、「ち」は霊力、また霊力
あるものとする説もある。私はこの説が正しいのではないかと思っている。しかし、峰は
山全体を代表していないので、縄文人が山全体をオロチと呼んだ訳ではない。ではどう呼
んだのであろうか? その答えを出すには、縄文人は山全体を、先のアリストテレスのい
う共感覚によってどう感じていたかを考えねばならない。縄文人は、共感覚によって、
自然の産みの力のある地母神のようなものと感じていたのではないか。そう私は思うので
ある。
地母神であるというような感覚があったとすれば、その感覚によって縄文人はどういう行
動をとったであろうか? 「祈り」である。「これからも引き続き沢山の山の幸を与えて
下さいと、祈ったのではなかろうか。山は縄文人の生活空間である。縄文人はまず山で祈
った。その祈りによって、今西錦司流にいえば帰属性、アリストテレス流にいえば能動的
理性が働いて「祈り」のためには何かが必要だという意識が生じた。「祈り」のためには
祭壇と儀礼が必要だ。縄文人はそのために、石棒と炉からなる祭壇を作ったのであろう。
まず祈りが先にありきである。祭壇はその後だ。祭壇を作るという理性、これは素晴らし
い。これが神道の始まりである。私はそう思う。 石棒は天にまします父なる神である。
炉は山にまします母なる神である。このことについてはすでに、***で述べたのでもう
一度読み直してほしい。
炉は地母神。炉は聖なる火処(ホト)、火炉(ホド)である。地母神の聖なるホト、ホド
である。あらゆる山の幸はそこから産み出されてくる。だから古代人にとって、山は地母
神であり、山を「ホト」又は「ホド」と呼んだのでなかろうか。
古典として最初にホトが登場する文献としては、古事記上巻の一節に、イザナミ(伊耶那
美)が神々を創生する文脈で以下の記述が見られる。
次生火之夜藝速男神
(イザナミは)次に ヒノヤギハヤヲノカミ を生みました。
亦名謂火之炫毘古神
またの名を ヒノカガビキコノカミ と謂う。
亦名謂火之
具土神因生此子
美蕃登見炙而病臥在
(イザナミの)ミホト(=美しい女性器)は火傷してしまい、病気になって伏せてしまい
ました。
ここでのホトの表記は蕃登となっているが、その後の文献では前述の女性器が焼かれる展
開から火門や火処と書いたり、その他、含処、陰、など様々な表記が見られる。 これ
は、古語は漢字の字面よりもその発音が優先されたためである。
日本各地に「ホト」「ホド」の音を持つ様々な表記の地名が残っているが、民俗学者の柳
田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特
質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地(「陰」部から)などの特徴から名付けら
れたとされる。
「ホト」「ホド」の音を持つ地名は、安寧天皇陵の名前の由来となった地名「美保登」
(みほと:奈良県)などがあったが、更に和銅6年(西暦713年)に発令された諸国郡郷名
著好字令(全国の地名を好ましい意味の漢字で書きなさいという命令)などを経ることで
表記が変わっていき、一例を示すと
保戸:保戸沢(ほどさわ:青森県)、保戸野(ほどの:秋田県)、保戸島(ほとじま:岐
阜県、大分県)
程:程森(ほどもり:青森県)、程田(ほどた:福島県)、程島(ほどじま:新潟県、栃
木県)、程原(ほどわら:島根県)、程ヶ谷(ほどがや:神奈川県(≒保土ヶ谷))
保土:保土塚(ほどづか:宮城県)、保土沢(ほどさわ:静岡県)、保土原(ほどはら:
福島県)、保土ヶ谷(ほどがや:神奈川県、程ヶ谷駅として開業した駅がこの名に変更さ
れたため区名などがこちらで定着)のような形で全国に散見される。なお、宝登山神社に
ついては、この章の第*節の*に書いたので、「ホト」や「ホド」の語源をに思いを馳せ
ながら、もう一度ご覧戴ければと思う。
4、山は心の故郷
さて「山の霊魂」とは何か? 山に生きる生きとし生きるものの霊魂の総体が、その「山
の霊魂」は私たちに作用して、その結果、今西錦司のいう帰属性によって私たちの心の安
らぎを得ることができる。故郷に帰ったという安らぎである。山は私たちの心の故郷なの
である。また、これがいちばん大事な点であるが、「山の霊魂」は私たちに作用して、そ
の結果、アリストテレスのいう能動的理性によって私たちは「野生の精神」を身につける
ことができる。
「野生の精神」を取り戻すことの重要性はのちほど述べるとして、ここでは故郷への帰属
性の重要性を指し示すヘルダーリンの悲歌を紹介しておきたい。故郷とは、実際に自分が
生まれ育ったところでもあるが、町田 宗鳳がいうように、実際の出身地とは無関係に、
山と故郷のイメージを重ね合わせ、自分の深層心理に不思議な精神空間を構築し、そこに
はえも言われぬノスタルジアを覚えるものである。この点が重要であり、私が「山地拠点
都市構想」を提唱する所以(ゆえん)でもある。
ハイデガーが言うように、ニヒリズムの原因は「故郷喪失」にある。そして、その「故
郷」についてハイデガーは、『 ヘルダーリンの悲歌「帰郷」に関する講演(1943
年)のうちで、「存在と時間」の側から思索され、そして、この詩人のその詩にもとづい
て、いっそう印象深く言い述べられつつ、聴取され、こうしてついには存在忘却の経験に
もと
づいて、「故郷」と名付けるに至っている。』・・・と述べている。それでは、 ヘルダ
ーリンの悲歌「帰郷」の一節を紹介しておきたい。
帰郷・・・近親者へ
1
アルプスの山中はまだ明るい夜。雲は
楽しみと思いめぐらし 顎(あぎと)をひらいた谷を包む。
そこへどよめきなだれこむ 軽躁の山風。
樅(もみ)の木立をけわしく切り裂き 輝き消える奔流。
ゆるやかに急ぎ戦い 喜びおののく混沌の霊
姿こそ若けれ身は強健 愛ゆえの諍(いさか)いを
岩の下に祝い 永劫の眼界のうちに湧き返り揺れ動く。
その山中に朝は駆け登る 酒神のように奔放に。
そこでは限りなく成長する 年と神聖な時刻と日が
思い切りよく整理され 混成されている。
それでも嵐の鳥 鷲は時を感知して
山の間の上空にとどまって日を呼ぶ。
今谷底に村はめざめ 怖れを知らず
高みになじみを寄せ 山頂を仰いでいる。
雷(いなずま)のように 古い泉の水は落ち 成長を予感して
大地は落下する滝のもとに濛々と煙り
水音はあたりにこだまし 法外なこの工房は
昼夜をおかず腕を振るい 財(たから)を送り出す。
4
いうまでもない これが生国 故郷の土だ。
探し求めるものは近い もうめぐり合えよう。
由(よし)あって 息子のように 波騒ぐ市門の傍(かたわら)に
立ち 眺め 歌でもって好ましい名を
自分のために探すのだ 旅の男は。幸福なリンダウよ!
客をもてなす国の門の 一つがこれだ。
心をそそるのは前途限りない遠方への出立
数々の驚異に満ちた彼方 そこでは荒ぶる神なる
ラインが放胆な道を平地に切り拓き
岩ばしる谷の水は 歓呼しつつ突進し
明るい山を貫いて コモへと向かい
日の移ろいにつれ 広々とひろがる湖へ下る。
しかしさらに心をそそるのは 清浄な門よ!
故郷への帰還だ 花咲く道のなつかしい国
この国を巡り ネッカルの美しい谷を行く。
森 清浄な木々の緑 槲(かしわ)はここで
静かな白樺や橅(ぶな)と入りまじり
山中で 一つの場所が やさしい絆に私をからめ取る。
5、 知恵のある地域とはどのような地域か?
山地拠点都市は、ただ単に自然の豊かな所というだけではない。知恵のある所でなければ
ならない。知恵のある地域とはどのような地域か?私は、知恵のある国家の基礎的地域で
あると思っている。経済のある国家の基礎的地域は、大都市や地方中枢都市や工業都市な
ど経済のある都市である。経済のある都市は、必ずしも知恵のある都市とは限らない。直
接の関係はないのである。
知恵のある国家となるためには、知恵のある都市を育てなければならない。では、知恵の
ある都市とはどのような都市であろうか?
まず知恵のある人が山の魅力に惹かれて山地に居住することだ。居住は二地域居住でも良
い。そういう居住者が増えるためには、山の魅力が国民の間に広く知れ渡らねばならな
い。山地での居住、その拠点が山地拠点都市であるが、その里山や奥山に入ることによっ
てアリストテレスのいう能動的理性が働き、ますます知恵に磨きがきる。それが国の財産
にもなるし、地域の財産にもなる。
ここで注意しなけばならないことがある。それは山と言っても、山であればどこでも良い
というわけにはいかないということだ。先にも触れたが、ある一定の条件が備わった場所
でなければならないし、受け手の方もある儀礼というか作法にしたがって必死に神に祈る
というか霊魂に話しかけなければならない。能動的理性というものは、ただ山であればど
こでも良いからともかく山に入っていれば良いというものではけっしてないと思う。その
場所が風水や弥盛地(いやしろち)と関係があるのかないのか、その点については、私は
判らない。今後、そういったことものちほど述べる「野生の科学」で研究してほしい。今
の段階で、私は、地霊の働く場所がどういうものかまったく分からないが、ただ古くから
「祈り」の行われてきた縄文遺跡のある場所や現に神社仏閣がある場所というのは、地霊
が働く。そして、受け手の作法次第で、アリストテレスの能動的理性が働くのだと思う。
知恵のある人とは「野生の精神」を身につけた人のことである。現在日本は都市化が進展
して、知恵のある人も多くが都会に住んでいるが、都市とは自然と相反するものであるの
で、私は山地での居住の重要性を訴えてるのだ。都市は文明そのものであるが、文化とは
縁遠い。自然こそ文化の基盤である。知恵のある国家を作り出していくためには、文化に
対する深い理解と文化を育てるさまざまな取り組みがなされなければならない。そのため
には、今までの科学に「野生の科学」を取り入れることが必要である。「野生の科学」と
は、私が思うに、今西錦司がいうような直観を重視した科学のことでもあり、私が提唱す
る「祈り」の科学や「霊魂」の科学でもある。すなわち、「野生の科学」とは、アリスト
テレスの能動的理性に関する科学でもあるということだ。中沢新一の「野生の科学」(2
012年8月、講談社)は中沢新一の蘊蓄を傾けた最近の力作であるが、この本に示唆さ
れるところが多い。私は、「野生の科学」こそ、今までの科学、それはアリストテレスの
受動的理性にもとづく人間中心の科学であるが、その流れを変え、新しい文明を創出する
ものだと思っている。中沢新一は、明治大学の野生の科学研究所で「野生の科学」につい
ての研究を進めるとともに、具体的な国民運動として「緑の山伏」というプロジェクトを
進めているが、「野生の精神」を身につけた知恵のある人は、自分が山地に居住するだけ
でなく、それぞれ自分の思いで山地での体験学習の場づくりをやるべきであろう。特に、
教育者には、養老孟司が言うように、「身体と脳の学習プログラム」をいろいろと作り出
してほしい。
第4章 過去の国土政策を振り返って
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1、「田園都市構想」と「ふるさと創成」
!
(1)「田園都市構想」
大平総理は、わが国の内外にわたる長期政策を研究すべく、1979年1月以降順次9つの
研究会を設置した。「田園都市国家の構想」は、このうちの「田園都市構想研究グループ」
(議長:梅棹忠夫・国立民俗学博物館長(当時))の研究報告書として、大平総理死後
の1980年7月にまとめられたものである。研究グループは議長以下全22名(民間学識経
験者10名、関係省庁課長・課長補佐クラス12名)で構成され、報告書の起草は、研究グ
ループのメンバーである香山健一学習院大学教授及び山崎正和大阪大学教授(ともに当時)
が行った。
田園都市構想には、大平総理の故郷・香川県の穏やかな風土が色濃く反映していると言
われる。提唱者である大平総理自身は、これをどのように考えていたのか。総理就任後の
国会施政方針演説で次のように言う。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/oohira.pdf
!
これらを集約すると、大平正芳の考えは次のようになろうか。
!
現代は、文化の時代である。この文化の時代の生き方というのはどういうものであろう
か。日本の文化は、人間と 自然、精神と物質、自由と責任の相互に対比されるものの均
衡のとれた調和を大事にする伝統を持っている。しかし、明治以降、近代化に邁進してき
たわが国は、この面に十分な配慮を払ってきたとはいえない。そうした反省に立った対応
の一つが田園都市国家の構想である。
文化の時代は、同時に地方の時 代ある。 地方の自発性と自主性の高揚を通じ て、ゆとり
と活力に満ちた多彩な地域社会を形成していかなければならない。 大都市、地方都市、
農山漁村を通じて、自主性に富み活力に満ちた多様な地域社会の形成を促すことは、二十
一世紀へ向けての国づ くり、町づくりの基本である。
都市と田園をつなぐ「緑のネットワーク」、地域社会における指導的人材の育成、地域に
おける文化 活動の展開などの施策を視野に入れながら、豊かな創造力と自由な活力に満
ちた識者に支えられ、国民の英知とエネ ルギーをこの方向に向けていく必要がある。多
くの人々がそれぞれの個性と創造力を伸ばし、真の生きがいを求めている姿はすでにいく
つか見られるが、このような芽生えはまさに文化の時代にふさわしいものである。
二十一世紀へ向けての国づくりの基本は、人々の創意と活力が十分発揮されるようその
環境を整えることにある。地域社会の特性と自発性を尊重するためには、第一に、自然の
緑の活用、都市と田園をつなぐ緑の造成、暮らしの中 の緑の再生を図ることにより、自
然と人間との調和を図っていくことが肝要である。第二に、芸術、社会教育、体育など各
種の文化施設の充実と活性化を図り、指導者の育 成などを通じて、地域における文化活
動の展開を促進していく必要がある。第三に、地域の技術開発を進め、多彩な地域産業の
振興を図って、各地域に魅力ある就業機 会を確保して必要がある。
なお、子供は未来への使者であり、文化の伝承者である。そのためには、教育の活性化
を促していく必要がある。国民の多くが生涯にわたってみずからを啓発し、それぞ れの
能力と個性を伸ばしていこうとする芽生えはすでに出てきており、国は教育の活性化を図っ
ていかなければならないのである。
!
!
(2)ふるさと創成
「素晴らしい国・日本 私の「ふるさと創生論」」は、竹下登元総理大臣が自由民主党幹
事長時代の1987年11月に自らの政権ビジョンとして刊行したものであり、竹下氏は発表
直後に総理大臣に就任した。
「ふるさと創生」というと、多くの者は、全国の市町村に1億円を交付した「ふるさと創
生1億円事業」(正式には「自ら考え自ら行う地域づくり事業」)を思い出すことだろう。
今日、「ふるさと創生」というイメージは、この1億円事業とは切っても切れないものと
なっている。誠に残念である。竹下登の思想はもっと奥が深いのである。それを施政方針
演説で見てみよう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/takesita.pdf
!
これらを集約すると、竹下登の考えは次のようになろうか。
!
これからは「こころ」の時代である。「こころ」の豊かさを重視しながら、日本人が日本
人としてしっかりとした生活と活動 の本拠を持つ世の中を築いていく必要がある。すべて
の人々がそれぞれの地域において豊かで、誇りを持ってみずからの活動を展開する ことが
できる幸せ多い社会、文化的にも経済的にも真の豊かさを持つ社会を創造する、それが「こ
ころ」の時代における国の基本的目標でなければならない。
「こころ」の時代においては、当然、物の豊かさだけでなく心の豊かさを重視するのであ
るが、問題は経済であって、これまでの経済発展の成果を真の豊かさへと結びつけていく
かが大きな課題ではある。経済的にも、さまざまな不均衡や不公平の是正に努め、活力に
満ちた社会を築くことが肝要である。「ふるさと」と呼ばれるような文化的、経済的な基
盤をしっかりと築き上げることが必要である。そのためには、何と言っても政治の責任は
大きい。政治には、「大胆な発想と実行」が求めらる。 政治に大胆で斬新な発想を取り
入れ、産業経済構造改革はもとより、制度や仕組みに至るまで多くの点で改革していくこ
とが求められるのである
このような努力を通じて、世界の期待にこたえることができる日本、しかも次の時代に生
きる日本人が誇りとするに足る真に豊かな国づくりも 可能になる。地域における人と人
との心の通い合い、住民の創意工夫をいかした町づくり、村づくり、地域づくりを進める
と同時に、世界と交流し、世界に貢献していくという、新しい社会をダイナミックに創造
していかなければならない。
!
「ふるさと創生論」は、好景気という時代背景にも恵まれ、「ふるさと創生1億円事業」
という新事業を生み出した。これは、長い地域振興の歴史の中でも画期的な発想であり、
それまでの国による地方公共団体への過度の介入を是正する意味があった。しかし、反面、
地域づくりの内実は各地域に一任され、極端に言えば、国は本質的な思考活動を停止して
しまった。このため、「ふるさと創生論」に内在していた今日的課題につながる問題意識
を深化させる機会までも失ってしまった。地域主体の地域づくりに潜むこの危険性は、今
日まで続いているように思われる。
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(3)ふるさと創生・新たな展開を期して
竹下先生が総理をお辞めになって8年後の平成9年7月に、竹下先生の地元で「ふるさと
創成・新たな展開を期して」と題して後援をしたことがある。私としては、「ふるさと創
成」という国家ヴィジョンを高く評価していたので、本気で新たな展開を願っていたので
そんな思いをテーマを掲げたのである。その思いは今も変わっていない。それでは、その
ときの議事論を以下に紹介しておきたい。
!
■はじめに
!
岩井國臣でございます。平成元年から平成4年まで丸三年間、足かけ4年でございます
けど、広島におきまして、中国地方建設局長をさせていただきました。 島根の皆様方にも、
何かとお世話になったかと思います。たいへん楽しい、充実した3年間を過ごさせていた
だきました。ありがとうございました。
!
先ほどご紹介ございましたが、ひょんなことから参議院議員をやるというようなことで、
今このような立場になっておりますが、地域づくりの問題は、今もな お私の最大の関心
事というか課題になっております。広島の時代にもいろいろと取り組みましたけれども、
過疎問題は、今もなお、私の一番ですね、やはりそ の、気になるところでございます。
大きく言えば国土の均衡ある発展と、こういうことになる訳ですけども、それぞれの地方
の、特に中山間地といいますか、過疎地域の問題が私の頭から離れなくってですね、今な
お、そういった運動を展開しております。
!
!
竹下先生には、何かと気を遣っていただきまして、私の気分といたしましては、竹下学
校の末席にですね、置いていただいておるように感じております。竹下 先生の「ふるさと
創生」、・・・・・・この問題につきましては私のライフワークとして取り組んでいきた
い、そういう風に思っておるわけでございます。
!
今日は、そういうことでですね、・・・・・いろいろまあ参議院議員としてお話したい
こともある訳でございますけれども、・・・・・「ふるさと創生 新たな展開を期して」
という演題で、私の考えといいますか想いというものを聞いて頂きたい、そう思うわけで
ございます。
!
私は、一昨年、参議院ということで全国を走りまわりましたときに、「共生」、ともに
生きるの共生というようなことを言いながらですね、全国を走りまわり ました。ところ
がですね、あまり自民党の中で共生というようなことをいわれる人が、少ないんです。ど
ちらかといいますと、新進党の連中が、共生というよう なことを盛んに言っている。し
かし、共生というのは、やはり多神教なんですよ。多神教というかですね、いろんな立場
のものがですね、お互いの立場を理解し ながらですね、うまくこの世の中を住みわけて
ですね、共に生きていくということですから、それはもう、創価学会とですね、全然相容
れないんですね。新進党 の人が共生、共生と言っている・・・・これはおかしいですね。
まあ、国民を惑わすもの以外の何ものでもない・・・私はそのように思っていますが、我々
は多神教ですから、まあそれも許容しますか。
!
今都議選をやっておりますが、その中で初めて、自民党・東京都連がですね、「共生都
市・東京」というようなことでやっております。組織的に、自民党の中 で、共生というこ
とを前面に出して言ったのは、これが初めてではなかろうかと思いますが、そもそも共生
という言葉はですね、黒川紀章さんが昭和三十年代に 言ったんですね。「共生の思想」
ということを言ったんです。私は、広島におるころから、そんなことを言い始めました。
私は、「共生の思想」こそ我が自民党 にふさわしい考え方ではなかろうかと思っており
まして、・・・・・東京都連が初めて「共生都市 東京」と、高らかに謳い出したことに
ついて大変喜んでおるのでございます。
!
過疎地域の問題が大変でございます。これから大いに頑張って、「ふるさと創生 新たな
展開」にとりかからなければならない。夢を持って、ロマンを持って、過疎地域の地域づ
くりの問題と取り組まなければならない。私はそう考えておりま す。ところで、ロマンあ
る地域づくりとは何か、・・・・私なりに定義をしておりので、まずそれをお話したいと
思います。それはですね、・・・・まず、土地 の自然的特性を、どのように生かすの
か、・・・・これが大事。それと、・・・歴史、文化、その地域の持つ歴史、文化という
ものをどのように生かすのか。そ して、中途半端でなくって、本物志向ということですね。
人々の心の深層部分を震わすようなですね、配慮をしなければならないわけです
が、・・・・・まあそ ういった自然というものを、あるいは歴史文化というものを、ど
のように生かすのかということが極めて大事であります。
!
しかし、より大事なのは、そういった地域づくりをですね、「共生の思想」でやらねば
ならない。こういうことでございます。で、今日は、「共生」、「共生 の思想」に基づく
地域づくり、新たなふるさと創生というものを、少しお話をしたいわけでございます。
!
■サステイナブルコミュニティー
!
今アメリカで、「サステイナブル・コミュニティー」、まあ名前はどうでもいいんです
けれども、要するにコミュニティーの問題が大変大きな問題になってい るんですね。こ
れはどういうことかといいますと、戦後、大勢の帰還兵が帰りますね、ヨーロッパ戦線や
ら、日本にも駐留しておりましたが、その住宅問題が大 変大きな問題になりました。特
別の住宅の部局ができてですね、相当低利の資金を貸し付けたりしてですね、どんどん新
しいニュータウンの建設に入るわけで す。必要な道路その他の基盤整備などももちろんやっ
てですね、どんどん、大都市の周辺にニュータウンができます。「エッジシティー」とア
メリカでは呼んで おりますけれども、「エッジシティー」、大都市周辺のですね、ニュー
タウンがですね、どんどんできる。すばらしい環境なんですね。私たちが見たらそう思う
んです。結構緑は多いし、プールやテニスコートや公民館やら、近くにゴルフ場もあるし、
申し分ないと。日本みたいに土地が狭いということがないわけですか ら。充分ですね、
敷地も取ってですね、立派なまちづくりをやっている。
!
ところがですね、どうもその、「ふれあい」というものがない。・・・・ご夫婦共稼ぎ
で、無理して借金してですね、家買ったりしているんですから、まず家 庭の中でのコミュ
ニケーションが思うようにいかない、と。それからやっぱり、都心部の大変な交通混雑を
我慢しながら毎日通勤するわけですけど、近所の人と はですね、ふれあうチャンスがあ
まりない。そういうことで、コミュニティーが成り立たない。
!
ところでアメリカの民主主義というのは、開拓時代から、そもそもコミュニティー単位
で発達してきたと言われておりますが、コミュニティーが成り立たないということは大変
な問題であるようなんですね。民主主義の基礎がコミュニティーにあると、いうことらし
いんです。そのコミュニティーの機能、コミュニケー ションという機能、ふれあいという
機能が、なくなってきている。これはえらいことだというようなことで、実は、今大変な
問題になっておるようであります。
!
「我思う、故に我あり」・・・・・これはデカルトの哲学ですよね。ですけどどうもで
すね、この哲学はもう、ちょっと古臭いのではないか。中村雄二郎さん という、今をと
きめく哲学者がおられますけど、その方が、そのようにおっしゃってます。そして中村さ
んはですね、人間の本質はコミュニケーションにある、 ふれあいにある、ということで、
「我語る、故に我あり」まあこうおっしゃっているんですね。まあこれ、中村哲学であり
ますが、それが私のいう「共生の哲 学」であると・・・・私は思っているわけであります。
ともかくふれあいというものがないと人間らしい生き方というものができない、というふ
うに思います。
!
町というものは、住民が、その土地にですね、愛着を持って、そしてその土地の文化と
か伝統というものを育んでいくものでなければならないわけであります が、今言いまし
たように、アメリカのほとんどのエッジシティーではですね、おおよそ、そういうふれあ
いがなくなってきている。いうなればコミュニティーと しての機能が欠落しているわけで
あります。
!
そしてまたアメリカで言われておりますのは、自然の問題、自然が破壊されてですね、
!
自然の、・・・・・水の循環サイクルが切れちゃった。切断された。 で、地下水が枯れて
しまうのではないかという心配もいろいろと出てきているわけでありまして、水の問題は
間違いなく、町の成長をストップさせるのではない かというようなことも、ささやかれ
ておるのでございます。
!
で、今言いました、アメリカで問題になっておる「サステイナブル・コミュニティー」
という問題はですね、私の考えでは、それは結局「共生の思想」にもとづく地域づくりの
問題ともいえます。
!
■ロマンある地域づくりの実践
!
我が国におきましては、これから大都市地域におきまして特にですね、そういう「サス
テイナブル・コミュニティー」といった問題が、大変大きな問題になっ てくるかと思いま
す。私自身も東京に住んでおりますし、私が事務所長をしておりましたのは東京の多摩川
なんですが、私は、その多摩川を中心に・・・・大都市におけるコミュニティーの問題と
取り組みたいと考えております。多摩川は都市河川の典型でございますが、その多摩川に
おきまして、「共生の思想」にもと づく川づくりとか、「共生の思想」にもとづく地域
づくり・・・・そういった問題を実践したいと考えております。「たまがわネット」とい
うようなものを作り まして、今いろいろとやっておりますが、しかしですね、大都市にお
きまして、自然との共生を図るなんてなことはですね、まあ実際問題として、大変難しい
と 思います。やはりその自然との共生という点に限って言いますとですね、農山村地域に
その場を求めなけれぱならない。そして、「共生の思想」にもとづく「ロ マンある地域
づくり」というのはですね、やはり農山村地域でなければできないというふうに思ってお
ります。
!
ドイツにおきまして、1960年といいますから、まあ昭和35年頃ですね、その頃、都
市部から農村部へと人口の逆流現象が始まったようです。そしてその 頃、「美しき我が村
運動」というのがですね、「我が村を美しく」とも言いますけれども、そういう運動が大
!
変盛んになるわけでございまして、おそらくこの中 にもですね、「美しき我が村」とい
うようなことで、ドイツに視察に行かれた方がおられるんじゃないかと思います。 そして
また、アメリカではですね、今、片方でエッジシティーの問題が、コミュニティーの問題
が問題になっておるのと同時に、「アメリカの小さな町ベスト 百」と、そういう本がベ
ストセラーになっているということでございまして、先ほど申しましたエッジシティーか
ら、さらに遠く離れた「小さな町での生活」と いうものが大変クローズアップされてお
るようでございます。
!
そしてそこで問題になっておりますのは、わが国の過疎問題もそうでございますけれど
も、やはり職業の問題、職場の問題でございます。その点につきまして も最後に触れます
けれども、もう少し基本的な話を続けさせていただきたいと思います。ドイツの「美しき
我が村」を語るとき、或いはアメリカの「小さな町」 を語るとき、或いはわが国の過疎
地域におけます「ロマンある地域づくり」を語るとき、私はやはり単なるノスタルジアで
語ってはいけない。情緒的な話ではい けないというふうに思っております。今や、先ほど
申しました「共生の思想」にもとづく地域づくりの問題は、二十一世紀における、これか
らの「第三の文明」 というものと密接に関係してのであり、そのことが十分認識されな
ければならないと思います。「共生の思想」にもとづく地域づくりの問題は、そういう極
めて ですね、大事な、基本的な、我が国にとっても基本的な問題だとそういう認識に立
つべきだと思います。
!
!
■「第三の文明」と「共生の思想」
!
私は京都大学の山岳部でございまして、我々のボスに、今西錦司という誠に偉い方がお
られまして、もう亡くなりましたけど、この方が「棲み分け論」をおっ しゃってますね。
ダーウィンの進化論、我々も小学校・中学校とダーウィンの進化論を習うわけですれども、
あれは適者生存で、厳しい弱肉強食の世界でありま すが、あれはどうもおかしい、てな
ことをですね、今西さんは言っておられます。大変かぼそい生物もですね、上手くこの世
の中を住み分けて立派に生きている ではないか、というのが今西さんの棲み分け論。
!
もう一人尊敬する哲学者で梅原猛さんという方がおられますが、この方が、やはりこれ
から21世紀ですね、今のヨーロッパ文明ではやっていけなくなるだろ うとおっしゃって
おります。じゃあ東洋文明かというと、そんなことないですね。西洋文明と東洋文明の混
然一体とした中からですね、「第三の文明」というも のが出てこなければいけない。そ
してそのリーダーシップを日本が取らなくてはいけない。まあこうおっしゃっているわけ
ですね。そしてその「第三の文明」の 原理というものは、「循環と共生」だとおっしゃっ
ておられるわけであります。
!
まあ、あともう一つ例をあげるとするとですね、・・・・・フランス革命100年という
ことで、ヨーロッパのあの自由の女神ですね、あれ20世紀のまさに 世界のモニュメント
だと思います。ベルリンの壁が破れて、ソビエトそのものもなくなりましたが、まさにこ
の20世紀はですね、自由の女神の勝利に終わろう としているわけです。しかし、果たし
て21世紀はどういう世紀になるのか。フランス革命200年ということで、フランスから、
今度はアメリカではなく日本 に提案があって、あの阪神大震災の、淡路島の北端にです
ね、明石大橋のたもとに、21世紀のモニュメントができる予定でございます。いろいろと
関係者が やっておりますが、そのテーマがコミュニケーション。まさに21世紀はコミュ
ニケーションの時代になっていくのではなかろうか、とこんなふうに思っており ます。
!
時間があまりないので、端折っていきますけれども、そういうふうにですね、財政改革、
金融改革、行政改革、教育改革、その他諸々の改革をやらなければなりませんが、私は、
やはり、これからですね、そういうコミュニケーションとかコミュニティーとかですね、
ふれあいとか交流とかですね、そういうことが、極 めて大事になってくる、そしてそれを
実践しうるのはですね、都市部というよりも、むしろ農山村地域ではなかろうかなと、こ
んなふうに思っております。もう一度、過疎地域における、といいますか、まあどこでも
同じことでございますが、ロマンある地域づ くりをどうすすめるか。・・・・・その地
域の潜在的な諸条件を徹底的にですね、どのように生かすのか。歴史、文化というものを
徹底的にどのように生かす のか。こういうことが問題にならなければなりません。そして、
進め方といたしましては、「共生の思想」にもとづいてやって頂きたい。
!
「共生」とコミュニケーションと連携、この3つの言葉は少しずつニュアンスが違いま
すけれども、哲学的には同根の言葉でございまして、「共生」というの は多少相手を傷
付けてもいいんです。相手を殺すというようなことがなければ、「共生」というのは多少
相手を傷付けてもいいんです。コミュニケーションとい うのはそういうことがあってはい
けないわけで、相手の立場になって物事を考える。何も同調する必要はない。連携となり
ますと、一部でいいから、「それはい い、よし一緒にやろう」というようなことで、同
調しなければならない。このように少しずつニュアンスが違いますけども、まあ同根の言
葉でございまして、そ ういうことを充分念頭においてこれからの地域づくりを進めていっ
て頂きたい、このように思うわけでございます。共生、コミュニケーション、連携であり
ます。
!
■都市と農山村との交流
!
おそらく、都市部におきましては、大都市部におきましては、先ほどいいました「サス
テイナブル・コミュニティー」というようなことはなかなか難しいし、 今言いました「ロ
マンある地域づくり」というのもですね、難しい。自然との共生というのは、実際問題と
してなかなか難しいというふうに思います。そこで、 私どもが全国的な問題として考えな
ければならないのは、過疎地域の問題もさる事ながら、都市住民の心を豊かにするには、
どうすればいいかということであり ます。我が国の都市に住む人たちが、豊かさという
ものを本当に実感するためにはどうすればいいか。まあいろいろあろうかと思いますけれ
ども、私はやはり基 本的には自然との共生だと思っております。
!
したがって、都市部における田舎化ということも必要かと思いますが、過疎地域、農山
村地域、田舎においてそれなりの都市化を図りながら、都市の皆さん、 なかなか定住と
いうのは難しいですけれども、一年のうち何度かでいいから都市の皆さんに来てもらうよ
う考えてほしいと思うんです。都市の皆さんを受け入れて頂きたい。都市と農山村地域と
の交流というものを、ぜひ進めて頂きたい。おそらく、それぞれの地域におきまして、今
必死になっていろんなことをおやりに なっておると思いますけれども、やはり、都市の
!
人々は農山村地域に出かけまして、素晴らしい自然の中でゆっくりと時間を過ご
す、・・・・・それがやっぱり 心の豊かさというものを生み出していくのだと思います。
!
都市における田舎化、そして田舎における都市化、そして都市と農山村との交流、ここ
にこれからの政治は目を向けていかなければならないのではなかろうか、私はそう思って
ですね、これから一生懸命、そういった問題に取り組んでいきたい、そんなふうに思って
おります。
!
そうしますとですね、具体的にじゃあどういう事をやればいいか。やはり、それぞれの
地域がですね、元気にいろんな取り組みをやっていくにはですね、まあ 老若男女、年寄
りは年寄りで、女性は女性で、それぞれ役割分担があると思いますけれども、私はですね、
やはり若者がですね、それなりに、定住しないといけ ないと思いますね。やっぱり若者。
若者の定住。Jターン、Uターン、Iターン、何でもいいですけど、或いはそこまでいか
なくってもですね、一年のうち何度 かはこちらに出かけてきてといったことでですね、
やっぱりそういうことを考えていかないといけないのではなかろうか。具体的に、どうい
うことをやればいい か。・・・・・・時間がございませんので、いろいろ私考えるとこ
ろがありますが、大事な点を一つだけ申し上げたいと思います。
!
私が広島におりますときと今日現在とで大変様変わりしたことがございます。それはで
すね、パソコンなんです。インターネットなんですね、マルチメディア なんですね。これ
の技術進歩というのはものすごい。島根県は全国の中でも比較的ですね、そういうパソコ
ン通信だとかインターネットとかが、進んでいる地域だと思います。全般的に。しかしそ
れぞれの町村単位でですね、どのように取り組んでおられるのか。私は、今、リゾートオ
フィスということを言ってるんで す。農山村地域は、先ほど言いましたとおりですね、自
然の中で心が洗われる。地域の人々とふれあって実に心豊かになるわけですから、まあリ
ゾートというの はおかしいかもわかりませんけれども、レクリエーションの場ですよね。
そういうところに最先端のマルチメディアを導入するんです。そして、大体都市部でオ フィ
スがあるわけですけれども、一年のうちですね、何回かきて、・・・・・それも2∼
!
3日でパーっと帰るんではなくて、1週間なり10日なり2週間なりそこにいて、パソコ
ンでもって、インターネットでもって、本社とやり取りをして、仕事もある程度やる。と
いうふうなことで、10年ほど前からリゾートオフィ スという考え方が出ておりますが、
ようやくにしてですね、そういうものが実現可能になってきたのではなかろうか、とそん
なふうに思っております。
!
今日ご出席の皆様方の中で、インターネットを実際におやりになる方もおられると思い
ますが、私の今日の活動報告の見開きの中にですね、私のホームページ のことをちょっ
と書いておりますけれども、その話はしません。要するに、小さな放送局が、それぞれの
町村のしかるべき機関、或いは個人でできる。地域のさ まざまな情報をですね、その小
さな放送局から、全国に向けて或いは都市部に向けて、発信をして頂きたい。まあそんな
ふうに思っておるわけでございます。情報発信です。そして都市と農山村との交流の中か
らおそらくその土地に大変愛着を持ってですね、「ここがもう第2の故郷だ」というよう
な人が出てくるに違い ないと思います。都市と農山村との交流につきましては、現実にい
ろいろ取り組んでおられると思いますけれども、ぜひ、インターネットというものをフル
に活 用して頂くことをぜひお考えいただきたい。これを今日提案させて頂きたいと思い
ます。
!
!
■おわりに
!
先ほども申しましたけれども、町というものはやはり住民がその土地に愛着を持って、
その土地の文化とか伝統というものを育んでいくというものでなければ ならない。それ
が永続的な、半永久的に続くコミュニティーなんですね。そしてそれを引き継いでいく人
たちというのは、若者であり、子供である。こういうこ とでございまして、ぜひ、今の
時代の大きな流れ、高度情報化というものが、大変なスピードで進んでおりますので、ぜ
ひ積極的に、そういった問題とも取り組 んで頂きたい。そして自然との共生の中で、自
然に感謝し、祖先に感謝し、神に感謝してですね、その土地の文化とか伝統というものを
育んでいかなければなら ない。そういったことが私の「共生の思想」なのであります
!
!
が、そういった「共生の思想」こそこれからの世界におけます、梅原猛さんの言う「第三
の文明」と いうものを作り上げていくのかなあと、そんな予感を持っているわけでござ
いまして、その鍵を握っているのは大都市部ではなくって、むしろ過疎地域、農山村地域
ではなかろうか。
!
私も大変微力ではございますけれども、竹下先生やら、青木先生やら、景山先生なんか
のご指導もいただきましてですね、過疎地域の「ロマンある地域づく り」に取り組んで
いきたい。ぜひ皆様方も、何かありましたらですね、具体的にお話頂けば大変結構だと。
!
皆さん方の、それぞれの地域が、これから生き生きして、素晴らしい地域にですね、なっ
ていきますことを祈念申し上げまして私の話をおわらさせて頂きたいと思います。ありが
とうございました。
!
!
!
2、第4次全総計画の総点検を点検する
!
竹下先生の地元で「ふるさと創成の新たな展開を期して」という演題で講演をしたその3
年ほど前、河川局長を辞めた直後のことであるが、「全国総合開発計画」にもとづき、国
土庁において国土政策が進められていた頃、私がそれをどう見ていたか、その辺の話をし
たい。私は、国土庁ができる前、建設省の計画局地域計画課の計画第一係長をしていた経
験があって、国の国土政策については重大な関心を持っていたので、「四全総総点検を点
検・・・地域づくりに哲学はあるか」と題して、小論文を書いたことがある。それを振り
返っておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/news/2001/pfi_chikudo/4zensou.html
!
冒頭の「はじめに」は次のようなことを書いた。すなわち、
!
『 この平成6年6月に、国土審議会調査部会(部会長 下河辺淳)から、「四全総総点
検調査部会報告・・・新しい時代のはじまりと国土政策の課題・・・」が出た。
四全総策定後、その基本的目標の達成を目指して、公共投資の計画的実施等を通じて国
土基盤の整備が着実に進められるとともに、各地域において特色ある地 域づくりが行わ
れている。しかし一方、総人口の伸びの鈍化や高齢化の急速な進行、経済の一層のボーダ
レス化に伴う国境を越えた様々な活動・交流の活発化、 地球環境問題の顕在化等を背景
とした環境保全に対する関心の高まり等、国土をめぐる情勢は大きく変化している。こう
した情勢に対応し、長期的視点に立っ て、国土政策の対応方向を明らかにするため、第
15回国土審議会(1992年12月)において、同審議会に調査部会を設け四全総の総
合的点検作業を行うこ とが決定された。
以来、約2年間、精力的に検討が進められた結果、ようやくこの6月に報告書が出た。
四全総策定後の国土の状況と課題については、大変よく分析してある し、現在を新しい
時代のはじまりと認識して、人と国土をめぐる経済社会情勢の変化を記述した部分につい
ても、よく書かれていると思う。共鳴する点が多い。 しかし、肝心のこれからの国土政
策の基本方向については、「新たな国土の軸」構想と「地域連携軸」構想というものが中
心になっているのだが、私などの感覚 からすると、それはそれで良いとして、ほかに何か
が欠けているという感が強くする。つまり、これからの国土政策の基本方向については、
まだ議論が未熟であ るという感を拭い切れない。
私は、昨年河川局長を辞めるまで、永い間河川関係の仕事を通じて国土づくり、地域づ
くりに係わってきた。国土庁ができる前、計画局で新産・工特の仕事に も係わったし、
地方建設局で地域計画の仕事に係わった期間も少なくない。特に、中国地方建設局長の3
年間は、中国・地域づくり交流会の設立に尽力するとと もに、中国山地を中心とする過
疎地域の地域活性化に積極的に取り組んだ。そういった経験からであろうか、私には、河
川を中心に据えながらも、地域づくりに ついての熱い想いがある。特に今は、河川環境
の仕事に携わっているので、自然、とりわけ水環境と地域との関係を考えながら、地域づ
くりに貢献していきたい と考えている。。
この度の報告書でも述べているように、過疎地域の活性化の問題は国土政策の最大の問
題であるし、特に今は、自然再認識の時代にあって、水環境の問題は誠 に重要である。
!
私は、河川について、21世紀に向けてやらねばならないことが多々あると考えている。
河川局のおいても、新たな施策展開に向かって、さらな る挑戦をしていって欲しいと願っ
ているところだ。
かかる私の想いからすると、地域連携軸構想というのは、その中に、河川局がこれから
挑戦すべき新たな施策展開が入り切らないのではないか、そんな心配が強い。地域連携軸
構想を押し進めることは、これからの国土政策上必要条件であるとは思うが、必ずしも必
要十分条件ではない。その点について、国土庁や河川 局の担当者はもちろん、多くの関
係者に問題提起をするつもりでこの文をしたためた。思いつくままに書いた取り留めのな
い内容なっているかと思うが、その点 は大方のご叱責を賜ることとして、これをきっかけ
に議論を深めてもらえれば誠にありがたい。』・・・と。
!
!
さあそれでは、以下に、「四全総総点検を点検」の中で「山地拠点都市構想」と直接関係
のある分を抜き書きしておきたい。
!
① 過疎地域の活性化に当たっては、豊かな自然環境や歴史的・伝統的文化等それぞれの
地域が有する諸資源の有効活用を図るほか、地域内外との交流・連携を図 り、地域のア
イデンティティを確立し、地域住民が共通の理念を共有するとともに、広く他地域に対し
て情報発信していくことが重要であり、それによって住民 が地域に誇りや愛着をもって生
活することができるようになると考えられ、国としてもこうした地域独自の取り組みを積
極的に支援して行く必要がある。総点検 報告ではこのように述べており、私も全く同感
だ。
!
② 私が思うには、過疎地域においてこそ、地域の自然的特性に応じ、人と自然が共生す
る地域社会をつくり出すことが可能ではないか、その点をとりあ えず強調しておきたい。
そして今一つ強調しておきたいのは、人と自然との共生とは、豊かな自然環境を有効活用
するだけでなく、自然の猛威とも共生するとい うことであり、そういう自然との共生社
会を目指してこそ理想的な地域づくりと言えるということである。過疎地域において理想
的な地域づくりを進めること は、とりもなおさず、世界のなかでの我が国のアイデンティ
ティを確立することでもある。自然、文化、交流という3つのキーワードの中で、特に自
然という キーワードが当面の重要課題であることを指摘しておきたい。
!
③ 過疎地域の再評価
なるほど、経済的な面で、過疎地域の人々の生活を守ることはなかなか難しい。
しかし、そこにはそれぞれの歴史と文化があり、それらを守り、そして水と緑を守る人々
の生活がある。それら歴史・文化、自然は国民共有の財産であり、過疎 地域を経済的な
側面だけで評価してはならないだろう。勿論、過疎地域の経済的な基盤の強化についてい
ろいろ工夫が必要だとしても、経済的な価値評価だけで なしに、歴史・文化、自然とい
うものを含めた総合的な価値評価が国民の間に広がらなければならないだろう。
自然再認識の時代において、やっと、過疎地域における地域活性化に新たな機会が訪
れた。ドイツにおける「美しき我が村運動」のような国民運動を緊急に展開して、過疎地
域の本格的な活性化を図らなければならない。
勿論、これからの国土づくりに当たっては、過疎地域や都市地域の如何にかかわらず、
自然は重要である。自然は配慮ないし保護する対象としてのみでな く、回復し、創造す
る対象として、また、健全な姿で将来世代に引き継いで行くべき資産としてとらえていく
ことが求められている。つまり、地域の如何にかか わらず、こうした観点に立って、人の
営みと自然の営みの新たな統合を目指すことが必要である。しかし、世界に誇れるような、
理想的な自然との共生社会は、 先にも述べたが、私は、過疎地域でこそ実現可能であり、
国土政策の中でこのことはしっかりと認識されなければならないと思う。
!
④ 過疎地域活性化の鍵
心の豊かさや生活のゆとり、うるおいを求める方向で国民の価値観が変化し、人々の自
然への価値意識が高まるなかで、今も述べたが、都市とは異なる、自然 と歴史・文化に
恵まれた生活空間や風景を有する農山漁村は、人間の活力の涵養や活動、居住の場として
国民全体で守り支えていくかけがえのない資産であると 位置づけられる。
このような農山漁村の新たな位置付けを踏まえ、地域自らの選択に応じて自主性と創
!
意・工夫を発揮し、従来の対策にとらわれない新たな視点で、都市との交流さらには諸外
国との交流も念頭に置いた、農山漁村の魅力の向上と地域社会の変革に取り組む必要があ
る。
都市との交流、さらには諸外国との交流を目指した地域づくりにより、地域の発展に向
けた新たな可能性が生まれ、全国に個性豊かな地域が展開される。交流 をキーワードと
する地域づくりは、自然のみならず歴史・文化を生かした地域づくりが前提であり、それ
を前提として新しい文化の創造を目指す地域づくりでも ある。
世界各国には、ジュネーブ、アスペン、カンヌ等規模の小さな都市であっても、特定の
分野で世界的な評価を獲得している都市が存在する。我が国でも、近 年、世界に向けて
情報発信する個性的で魅力ある地域(いわゆる「小さな世界都市」)が形成されつつある。
「小さな世界都市」の形成に当たっては、新たな魅 力ある個性を創造したり、自然、文
化、産業等の地域資源に新たな価値観を吹き込むことが重要であり、今後、地球時代にお
ける地域活性化の一つの方策として 地域の積極的な取り組みが望まれる。
農山漁村においてもそういった世界を意識した地域づくりも必要であり、交流というも
のは、歴史や伝統文化とあいまって、地域の魅力を向上させる。交流の 哲学的意味は、
古いものを壊し、新しいより価値のあるものを創り出すことにある。農山漁村においては、
ややもすると古いもののみに埋没する傾向があるの で、歴史・文化をキーワードにした
地域づくりは、交流を前提として新しい文化の創造を目指すべきである、その点を強調し
ておきたい。
⑤ リージョナルコンプレックスを形成していくため、福祉その他各分野の施策が必要で
あるが、国土政策においてもそのことが重視されなければならないので あって、地域に
おける多くのサークルないし団体が何を共通のテーマにして交流、連携するのが適当なの
か、今回の総点検においては、その点の議論が欠けてい る。
現在は、本格的な高度情報化の時代の幕開け。今後は、従来、各種の制約によって活動
範囲が狭められていた人々が、フェイス・トゥ・フェイスに 近い環境でのコミュニケー
ションを通じて、経済社会活動に積極的に参画し、自らの能力をより発揮することが可能
となる。高度情報化については、政策的にも 各般にわたって積極的な取り組みが必要で
!
あるが、これからの地域づくりには交流、連携が不可欠であるので、マルチメディアやパ
ソコン通信を前提としたコ ミュニケーションシステムを地域に構築していく必要がある。
そのことは、高度情報化を推し進めることにもなるが(我が国の場合とかくハード先行と
言われて おり、われわれはもっと利用に熱心でなければならないと思うが、今はその点
に触れない)、何よりもリージョナルコンプレックスの育成にも不可欠なことであ ろう。
今後の国土政策の最大の課題は、過疎地域の活性化である。人口はともかく、いきい
きとした地域社会を作ることである。共生、交流、連携をキーワードとし た共生社会を
作らなければならない。そのためには、リージョナルコンプレックスを作らなければなら
ない。したがって、これからの国土政策の重要戦略は、如 何にリージョナルコンプレッ
クスの育成をしながら地域づくりを進めていくか、そこになければならない。
この点について、もう少し説明をしておきたい。これからの国土政策は、ハード面につ
いては産業基盤というより生活基盤が中心になるので、それをどのよう に作っていくのか、
そういったソフト面を重視しなければならない。生活基盤というものは、大変幅が広く、
中にはハード先行でソフトが後からついてくるとい うものもあるにはあるが、むしろ、
ソフトが先行して、それを支援する形でハードが後からついて行くというほうが望ましい
であろう。
町とか村というものは地域の住民が作り上げていくものであり、町づくり、村づくりは、
地域の住民が主役である。ソフトが重視されなけらばならない所以で ある。ハード面を
考えると同時にソフト面を考える、また、ソフト面を考えると同時にハード面を考えると
言うことが肝要である。リージョナルコンプレックス の育成というのは、言うまでもな
くソフト面である。広域根幹施設は別として、生活に身近な施設になればなるほど、ソフ
トの内容でハードの内容が違ってくる し、ハードの内容でソフトの内容が違ってくる。し
たがって、これからの国土政策は、リージョナルコンプレックスの育成ということを考え
ながら、そのために 必要などのようなハードをどのように作っていくのか、その点が戦略
として極めて重要であるということだ。
!
!
⑥ 流域についての概念の整理
近年、流域という概念を再認識しようとする動きが広まって来た。流域とは、本来、分
水界に囲まれた集水域という自然地理学的概念であるが、ただ単にそれにとどまらず、歴
史的に見て河川を中心にして農山村社会が形成さ れて来たし、舟運を中心として村や町や
都市が発展して来たこともあって、流域は、社会経済的に見ても、一つの圏域をなしてい
るという認識が古くからあった かと思う。一般の認識として、最近まで流域圏についての
共通認識があったと思う。三全総において、流域圏構想が打ち出されたのも、そういう認
識があったか らこそであり、流域圏の市町村は一つの運命共同体と理解されていた。し
かし、現在は、一般にそういう認識があるのかどうか。
道路交通の著しい発展、水源地域の著しい社会経済的地盤沈下などにより、流域におけ
る人的、物的交流が相対的に少なくなったためであろうか、社会経済的な意味での流域の
概念は、一般には、著しく希薄になったようだ。
しかし、中山間地の問題、水循環の問題、或いは異常気象時の水管理の問題など今日
流域が抱える諸問題を考えたとき、あらためて流域の持つ社会経済的な今 日的意義を明
らかにし、流域という概念についての共通認識を持つようにしなければならないのではな
いか。流域の概念を、今日的な諸問題を視野に入れて問い 直そう、そういう動きが最近
とみに高まってきた。
そういう動きの中で、私も、流域の持つ今日的意義をいろんな場で申し上げていきたい
と思っている。三全総で打ち出された流域圏構想の再評価に繋がるかもしれないと期待し
ながら・・・・。
!
⑦ ドラゴンプロジェクト
治水事業は、社会資本を整備する事業のなかでも、国民の生命と財産を守るもっとも根
幹的なものである。わが国は、欧米先進諸国に比べ河川の氾濫する地域 に人口、資産が
集中し、そこに社会経済活動の中心があることから、治水事業が地域づくりや国づくりの
基本であることはいうまでもない。
この重大な使命を果たすために、国土の利用状況、社会活動状況等に対応して、的確な施
策の展開と事業の推進を図ることが求められる訳だ。
!
しかるに、これまでの営々たる治水事業の積み重ねにもかかわらず、治水施設の整備水準
は依然として低く、国民は水害などの危険から逃れ得ないのが実情であ る。したがって、
わが国は、真に豊かさを実感でき、安全で活力ある生活大国の実現に向けて、治水施設の
さらなる充実を図らなければならない。
同時に、水系環境は、地域の自然そのものであるし、人々の生活文化や精神文化の形成
に大きな役割を果たしてきており、自然への回帰志向、あるいは精神的 なゆとりへの志
向といった国民の意識変化を考えるとき、生態系、風景、親水性等に配慮しつつ、うるお
いのある美しい水系環境というものを創造することは、 現下の緊急かつ重要な課題であ
るといわなければならない。つまり、自然環境や文化を重視した治水事業の新たな展開が、
今求められているように思われるので ある。水文化とか河川文化という言葉も最近はよ
く聞かれるようになった。文化的な側面から、水とか河川を見直そうと言うことだ。
かかる観点から、国際日本文化研究所の安田喜憲教授の提唱により、九頭竜川をモデル
にドラゴンプロジェクトが始まった。ドラゴンプロジェクトは、地域の 活性化を図ろう
とする21世紀に向けての新しい取り組みであって、全国的にみて勿論初めての試みであ
る。三全総において流域圏構想というものが打ち出され たが、あれは言うなれば出すの
が少し早すぎたのであって、今やっと流域圏構想の実現に向けて動き出せるような状況に
なったと思う。流域を中心として地域の あり方を論じ、水と地域のあり方を論じ、水の
文化・河川の文化を論じ、流域における水管理のあり方を論じ、リージョナルコンプレッ
クスの育成を図りつつ地 域レベルで実践的な取り組みをしようと言うのは、本格的なも
のとしてはこのドラゴンプロジェクトが始めてであると思う。
また、このような学際的なメンバーにより総合的に地域のあり方を論ずるというのも全国
で初めてのケースではなかろうか。私は、21世紀のキーワードとし て、自然、文化、交
流の3つのキーワードを考えているが、川とか水を通して自然を考え、川や水を通して地
域の文化を考え、川や水を通していろんな交流活動 を実践していく、そういうねらいを
持ったこのドラゴンプロジェクトは、全国的にみても大変意義の深いものであるし、また
地域にとってもこれからの地域活性 化に大きなインパクトを与えるのではないかと思って
いる。私は、全力を挙げてこれと取り組む覚悟である。
!
!
⑧ 水循環の問題
最近、水系環境とか水循環ということが言われるようになっている。自然に対する国民
的な関心の高まりの中で、いきおい河川や水に対する関心も高くなって 来ている。そして、
水というものを、山から海まで含めて考えるべきだという考え方が多くなって来ている。
さらに、川の水は小河川や農業用水などとも繋がっ て、流域全体で水の系というものが
存在する。水量や水質を考える場合にも、また、自然生態系を考える場合にも、流域全体
で考えることが肝要である。そんな 考え方から水系環境という言葉がよく使われるよう
になった。そして、そういった水系環境の望ましい姿として、水循環ということが言われ
出した。。水循環と いう言葉は、まだ水系環境という言葉ほどは定着していないようで、
人によって若干イメージが異なっているかもしれない。
水循環が適性かつ健全に維持された状態とは、一つは、量に関して、基本的には自然
の保水機能が十分あり土砂流出の悪影響もない状態である。ただし、ダム 等水利用施設
のある場合は適切な維持流量が確保されていなければならない。その結果、水量が豊か、
洪水も急激には出ない、また洪水時の土砂流出や流木が少 ないという状況が作り出され
る。二つ目として、質に関して、汚水の流入もなく自然の浄化機能が維持された状態。そ
の結果、河川の水質はきれいであり、魚類 等の生態系も豊かである。三つ目は、地下水
や水路に関して、地下水涵養機能が維持され水路の水も豊かである状態であって、その結
果、湧水が保全され、身近 な水路にも潤いのある水環境が形成される。
こんな状態は、おおよそ現実離れしていて何を夢みたいなことを言っているのかという
ことかもしれないが、先程から再三述べているように、これからは自然 再認識の時代で
あるので、我が国が世界の中で我が国としてのアイデンティティを確立するためには、そ
のような生活環境を持つべく努力して行かなければなら ないと思う。多くの国民もそれ
を望んでいるのではないか。
今、私たちは、そういう生活環境を回復すべくいろいろと対策を検討中である。その
際、当然河川管理者の責任は大きいのだが、大事なことは住民まで含めた 多くの関係者
の一致協力した動きが必要であるということだ。水量や水質の問題を水循環という視点に
立って本格的に解決するとなると、それはもう流域全体の 問題であり、住民まで含めた
一大運動が展開できるのかどうか。言うは安し、行うは難しであろう。基本的に、流域と
いうものについての共通認識が必要である 所以である。
!
⑨ 異常気象の問題
今は、地球環境が心配されている時代であり、地球温暖化が心配されている時代である。
今後、もし地球温暖化が進めば、世界的に気候が大きく変わり、異常 気象が生じやすく
なるのであって、その結果、異常洪水や異常渇水が起こりやすくなる。河川局では、そう
いったことも視野に入れながら、異常洪水や異常渇水 に対する危機管理を検討している。
渇水調整を頭に思い浮かべれば判るように、
危機管理は、基本的には、流域における諸団体の良好な関係が大前提である。
また、慢性的な水不足の解消を図るためにも或いは異常渇水対策としても今後ともダム
の建設が促進されなければならないが、多目的ダムを建設する場合にお いても、上下流
の良好な関係が維持されているかどうか、そのことが基本的に重要である。その場合、市
町村のみならず住民レベルでの相互理解が大切であり、 そのために、各地で上下流交流
が行われている。「蛇口の向こうに顔がある」とは、関東学院大学の宮村忠教授が言われ
出した言葉だが、逆説的に言えば、住民 レベルでの相互理解がまだまだ不十分という事
かも知れない。
森林が適切に維持されていなければ、異常洪水によって一番ダメージを受けるのは下流
地域である。ダム建設が遅れて、異常洪水によって一番ダメージを受け るのは下流地域で
ある。下流地域の人々は、水源地域があっての下流地域であることを十分認識しなければ
ならない。やはり何と言っても、流域はひとつの運命 共同体である。 ⑩ 流域の水管理
水は地域社会が存在するための基礎資源である。森もそうだ。そして、流域はそれらを
共有している。
公共施設を分類すれば、道路は利便施設であり人工公物であるが、河川は基礎施設であ
り自然公物である。そして、ダムは、河川であり公共施設であって水系 施設、下水道は、
河川ではないけれど公共施設であって水系施設、堰、農業用水路、上水道、工業用水道は、
公益施設であって水系施設である。
私は、勝手にこんな分類をしているのだが、基礎資源に関連した基礎施設管理の原則、
例えば国と地域との関係はどうあるべきなのか。自然公物管理の本質か ら、例えば地域
!
の責任と権限はどうあるべきなのか。また、水系施設である公共施設と公益施設の管理の
関係はいかにあるべきか。
私は、今後、こういったことの学問的な検討を加える必要があると考えているので、今
は軽々しくは言えないが、水系施設における水の管理(水量、水質の管 理)は、本来、
流域単位で統合管理ができないだろうか。少なくとも総合的に管理される必要があるが、
現在は、法制度上の問題からか実体上の問題からか、と もかくそれがうまくいっていな
いように思われる。だからこそ今日の水に関する様々な問題が生じているのではないか。
場合によれば、水基本法というものが必 要かもしれない。
流域における総合的な水管理或いは統合的な水管理というものはそれほど難しい。しか
し、上述のように、流域の本質的な意義からして、どうしても実現していかなければなら
ない国土政策上の重要課題である。
運命共同体というものは、基礎的なもので結ばれて、それを当然の前提として存在して
いる組織をいうのだろう。水はもっとも基礎的なものである。流域は、 水で結ばれ、そ
の関係が崩れれば大きな障害が出てくる。もし、その水の供給が途絶えれれば、地域社会
そのものが存立していけない。国土の管理は、流域の管 理が基本であると言えば言い過
ぎであろうか。
第5章 国土政策の現状と課題
我が国の国土政策の根幹を定める国土総合開発計画の根拠法である国土総合開発法は、昭
和25年制定当時の社会経済情勢を背景に、開発を基調とした量的拡大を指向したものと
なっていたので、その後の情勢変化によって、国土総合開発法を抜本的に見直す必要が生
じてきた。すなわち、地方分権や国内外の連携に的確に対応しつつ、国土の質的向上を図
り、国民生活の安全・安心・安定の実現を目指す成熟社会にふさわしい国土のビジョンを
提示する上で、計画制度を抜本的に見直すことが必要になったのである。その結果、平成
17年7月に国土形成計画法が成立した。その当時の考え方は、国土審議会調査改革部会
の議事録や「国土政策−国土計画のあり方−」という報告書で確認することができる。国
土交通省の認識は、当時も現在も基本的に変わっていない。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sakuteizen.pdf
さらに、「四全総総点検を点検・・・地域づくりの哲学はあるか」という 私の論考とも
矛盾はない。当時のスタンスとしては、『 国民の価値観が多様化する中で、自らの価値
観によって多様なライフスタイルの選択が可能となる「多選択社会」をどのように実現す
るか』というまさに「知恵のある国家」のあるべき姿を模索しようとするスタンスがあ
り、「二地域居住」にも眼が向いている。そのようにして「国土形成計画」の策定に至る
のである。すなわち、現在の「国土形成計画」は、長い間、考えに考えを重ね、議論に議
論を重ねてでき上がったものである。不十分な点もない訳ではないが、今後、「山地拠点
都市構想」を進めていく場合は、やはり現在の「国土形成計画」をベースにおいて進める
べきであろう。
第1節 国土形成計画
2000年7月に策定された「国土形成計画」(全国計画)は、次の通りである。基本的
には、全国総合開発法が否定され国土形成計画法が成立した当時の建設省の考え方が色濃
く現れているかと思われる。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/dokeisei.pdf
当時建設省副大臣を努めていた私がいちばん気にしていた問題は、財界に「過疎地域切り
捨て論」と言っては少し言い過ぎかもしれないが、そういう考えがあったことである。過
疎地域は経済効率が悪いので、経済効率のそれほど悪くないところと非常に悪いところを
峻別して、後者を切り捨てて前者に集中投資すべきだという「選択と集中」という考え方
が流布されていた。過疎地域など都市以外の地域で、その自立性を求めて大いに創意工夫
をするよう地域に対するインセンティブを与えるということは国の立場として当然だが、
「選択と集中」という企業の論理で過疎地域などを切り捨ててはならないのだ。なお、こ
の点については、建設省副大臣になる以前に、私は、国会質問で触れたことがあるので、
この際、参考のために紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/iwakokkai.pdf
なお、2000年建設白書において、過疎地域の切り捨て、すなわち「選択と集中」の懸
念、これは私の懸念でもあったのだが、その懸念が正確に示されているので、これもこの
際、参考のために紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/2000hakusyo.pdf
私の基本的な考えは、過疎地域を軽視しないで、基礎自治体である市町村の元気再生を図
るところにある。市町村が元気にならないと日本は元気にならない。かかる観点から、国
土形成計画で今後の課題とされている市町村に関わる部分をピックアップしておきたい。
是非、市町村の奮起と国土交通省の強力な支援をお願いしたい。
① 地域の自立的発展に向けた環境の進展、都道府県を超える広域的課題の増加
地方分権や市町村合併、規制改革の進展等によって地域の自主決定力が強化されると
ともに、前述のように、東アジア各地域の経済成長による直接交流機会の増大、情報通
信技術の発達、国民のライフスタイルの多様化等、地域の自立的発展に向けた環境が整
いつつある。
② 総人口の減少により国土の利用に余裕を見いだせる今世紀は、適切な人と国土のあり
方を再構築する好機ともいえる。今後は、これまでの蓄積を前提としつつ、人口増加・
高度経済成長の時代には困難であった国土のひずみの解消や質の向上に向けた取組の推
進を図っていくことが重要である。その際、大都市圏と地方圏、都市と農山漁村等の地
域は、それぞれに特色のある人材の育成、歴史と文化の継承、知と財の生産、国土保全、
資源・食料供給、美しい自然環境・景観の保全等の様々な機能を担いつつ、相互に補完・
依存することで支えられていることに留意し、各地域が国土全体に果たす役割について
の理解とその維持強化を進める必要がある。このような取組を通じて、美しい田園風景、
快適で安全な都市、深みのある文化、歴史や伝統に根ざした地域の暮らし、快適で信頼
のおける交通サービスなど、我が国の国土が本来持っている魅力を世界に対してアピール
し、誰もが住んでみたい、訪れてみたいと思う、いわば、美しく信頼され質の高い「日本
ブランドの国土」を形成することを目指すことが求められる。また、このために、投資段
階から維持・管理、さらには再利用等に至る国土の総合的なマネジメント(広義の管理)
の考え方を重視する必要がある。
このような国土構造の現状と課題の下、新たな時代の潮流を踏まえて、新時代の国土
構造の構築に挑戦することにより、一極一軸型の国土構造を是正していくことが必要で
ある。
③ 山紫水明の景色や都市のにぎわいなど互いに異なる特色を持つ地域が、それぞれの魅
力を発揮するとともに、相互に補い合って共生し、重層的に国土を形成するという地域間
の互恵関係を維持発展させつつ、良好な自然環境や美しい景観の形成、安全かつ快適でゆ
とりある生活空間の形成、環境負荷の低減、ユニバーサルデザインの理念に基づく取組の
推進等を図り、美しく信頼され質の高い「日本ブランドの国土」へと再構築していく。こ
れにより、美しさと、安全面や環境面も含めた暮らしやすさを兼ね備えた国土を形成して
いく。
④ 地域の共生関係が良好に築かれた美しく暮らしやすい国土の形成により、地域間の格
差の拡大に対する不安や地域ごとの格差感を解消していく。
⑤ 地理的、自然的、社会的条件による不利性の大きな地域では、当該地域の実情
に応じて国等が後押しすること等が引き続き必要である。その際、これら地域の人口や
高齢化の状況、産業や雇用の状況、地域社会の状況などを総合的に把握するとともに、
地域の動向をモニターし、各地域のニーズに的確に対応したより効果的な支援方策とな
るよう検討していく必要がある。
⑥ 地域づくりの重要な担い手である地方公共団体が、自らの選択と責任
の下に地域経営に必要な施策を行うための権限や財源を有していくことが求められる。
このため、国と地方の適切な役割分担の下、地方分権を推進していく。
また、多様な民間主体の自由な活動を促進し、独自の取組による知恵と工夫が各地域
で展開されることを促すため、規制改革に積極的に取り組む必要がある。加えて、構造
改革特区、地域再生等の地域の発意を活かす枠組みの活用及び充実を図る。
⑦ 美しく、暮らしやすい国土の実現
を目指し、この計画では、「東アジアとの円滑な交流・連携」、「持続可能な地域の形
成」、「災害に強いしなやかな国土の形成」、「美しい国土の管理と継承」及び「『新た
な公』を基軸とする地域づくり」を戦略的目標として掲げ、多様な主体の協働によって、
効果的に計画を推進する。
⑧ 都市から農山漁村までブロック内の各地域が活力と個性を失わず、暮らしの基盤とし
て維持されるための「持続可能な地域の形成」が肝要だ。
⑨ 地球環境や地域の大気環境に配慮しつつ、安らぎや利便性のみならず活力や魅力あふ
れる都市づくりを目指すべきである。そのため、災害リスクを考慮しながら、民間の活力
や地域の自主性・創意工夫を活かしつつ、ユニバーサルデザインの理念に基づき、水・緑
豊かでうるおいや景観に配慮した環境整備を行っていく。
その際、地域固有の歴史や文化を再評価し活かしながら、地域への愛着の醸成やそこ
に暮らしたくなるような魅力を創出していくことが重要である。例えば、歴史的な建造
物、伝統的なまちなみや誇りとなる自然景観を有する地域においては、地域の合意形成
を図りながらこれを一体として保全・継承し、より美しく個性的なまちなみや自然環境
と一体となった歴史的風土を形成していく。
⑩ 独居老人等の高齢世帯、共働きの子育て世帯、外国人等多様な世
帯への身近な生活支援機能については、生活の質の更なる向上に向けて、地縁型コミュ
ニティ等の多様な主体による共助の取組の回復・促進を図っていく。
⑪ 過疎化、高齢化の進展
地域産業の低迷等により農山漁村の活力は全般的に低下しているが、一方で地域資源
を最大限に活用し、既成概念や枠組みにとらわれない革新的な地域戦略により活性化し
ているところもあることから、それぞれの地域が意欲的な企業や若者の農林水産業への
新規参入の促進等、地域外部の人材等の資源の活用を図り、地域固有の資源を最大限に
活用し自らの創意工夫と努力により立ち上がる必要がある。このようにして地域が互い
に切磋琢磨することによって農山漁村全体が活性化していく方向を目指していく。国土
の多くの部分を占める中山間地域については、農山漁村の中でも特に条件が不利な地域
である一方、国土保全などの点で重要な役割を担っていることから、これらを念頭にお
いた施策展開を図り、持続可能な地域づくりを推進していく。
⑫ 国民の価値観やライフスタイルが多様化している中、地域づくりに当たっても、多様
な価値・魅力を持った地域が形成されることが必要である。そのためには、各地域が自
助努力により、様々な資源を活用しながら、特色ある地域の形成に取り組むことが求め
られる。
しかし、人的資源、文化資源、観光資源、経営資源などの各種資源は広域に分散して
存在しており、一つの地域ですべてを賄うことはできない。地域独自の価値・魅力を活
かした多様な地域づくりを進めていくためには、各地域の自助努力とともに、地域間の
互恵の考え方に基づき、複数の地域間で人、物、資金、知恵、情報の双方向的な循環を
形成し、ないところを相互に補いあう取組が不可欠である。
⑬ 異質なものとの接触や異質な人との出会い・交流が個人や地域の新たな活動の可能性
を高め、ひいては新たな文化の創造にもつながっていく。
⑭ 我が国の総人口は今後本格的に減少することから、「定住人口」の増加をすべての地
域で実現することはできない。このため、都市住民が農山漁村等の他の地域にも同時に生
活拠点を持つ「二地域居住人口」、観光旅行者等の「交流人口」、インターネット住民等
の「情報交流人口」といった多様な人口の視点を持った地域への人の誘致・移動を促進す
ることが必要である。
とりわけ、「二地域居住」については、大都市圏と地方圏での二地域居住、大都市圏内で
の二地域居住、地方都市と農山漁村での二地域居住など様々な形態があることに留意が必
要であるが、都市地域の居住者の願望が高く、現在退職期を迎えている団塊の世代を中心
に大きな動きになることが期待されることから、その促進を図ることは重要な課題であ
る。
⑮ 現在、個人においても、企業等においても、社会への貢献を通じて満足度を高めてい
こうとする意識が高まっており、その潮流を活かしながら、新しい地域経営や地域課題解
決のシステムを構築する。さらに、二地域居住を通じて異なる背景を持つ人々が交流する
など、多様な担い手を通じた開かれた地域づくりの実践や、独自の魅力を活かした地域の
実現を目指す。
⑯ 地縁型のコミュニティが再び必要とされており、これら地縁型のコミュニティに加
え、特に都市において成長しているNPO、大学等の教育機関、地域内外の個人等多様な
人々と、企業、それらに行政も含めた様々な主体が、目的を相互に共有して緩やかに連携
しながら活動を継続することを促す。この際、この活動を、これまで行政が担っていた業
務を単に民間委託するという行政事務の外部化にとどめるのではなく、行政事務の高度
化、効率化を引き続き進める中で、住民生活や地域社会が直面している課題に対して、
様々な主体が、地域固有の文化、自然等に触発されて芽生える地域への思いを共有しな
がら、当初の段階から、主体的、継続的に参加することを期待し、これにより、地域の
ニーズに応じた解決やきめ細かなサービスの供給等につなげる。このように、従来、主
として行政が担ってきた公に対して、担い手となる主体を拡充し、これら多様な主体の
協働によって、サービス内容の充実を図る、いわば「新たな公」を基軸とする地域経営
システムや地域課題の解決システムの構築を目指す。
「新たな公」による地域づくりは、例えば、高齢者福祉、子育て支援、防犯・防災対
策、居住環境整備、環境保全、国土基盤のマネジメント、地域交通の確保など地域にお
ける広汎な課題に妥当するものであるが、その活動分野をこれまでの公及び私の領域の
関係を下に整理すれば、
ア.従来の公の領域で行政が担ってきた活動分野を、民間主体が主体的に担うもの(例:
自治会や企業が行う道路清掃等の管理)
イ.行政も民間主体も担ってこなかった分野であるが、時代の変化の中で新たな需要が生
じてきたことにより、対応が必要となってきたもの(例:地域住民が主体となって
参画するコミュニティバスの運行や、公共交通のない地域でNPO法人等が行う自家
用自動車を使用した運送サービス)
ウ.従来の私の領域で民間主体が担う活動分野であるが、同時に、公共的価値を含むも
の(例:空き店舗を活用した中心市街地の活性化)となる。
これらの活動の拡大は、その活動自身を通じた社会貢献による参加者の自己実現につ
ながるとともに、暮らしの安全・安心の確保など地域における生活の質の向上や災害対
応力の向上、環境問題への対応等にも資するものである。加えて、地域経済の活性化や、
新たな雇用の創出、社会的サービスの多様化・充実、行財政への負担軽減の効果も期待
できるなど、多面的な意義がある。
⑰ 各地域は、自助努力を怠れば、地域づくりはもとより、地域の維持も困難となるとの
危機感を持つ必要がある。他の地域と差別化された価値・魅力を創造し、地域の人々が地
域に愛着と誇りを持てるよう、各地域の主体的・総力的な取組を促進する。その際、行政
の施策だけではなく、多様な民間主体を主たる担い手として位置付け、その発意や活動に
よる地域づくりを進めるべきである。国や地方公共団体は、自ら考え、具体的な取組を行
うなど努力する地域に対し、自力では解決できない課題に係る必要な支援を進める。
これまでの地域づくりの事例をみると、以下のように多様な民間主体の発意や活動を積極
的に地域づくりに活かそうとする動きが始まっており、これらの取組への一層の支援を進
める。
ア.地域資源の高付加価値化・ブランド化、複数資源の組合せの取組など、地域の持つ
競争力の高い資源の発掘、再評価、磨き、活用、共有
イ.外部の人材や地域の多様な担い手の確保とその緩やかな組織化によるイノベーショ
ンの促進
ウ.地域の資金が地域に再投資される「資金の小さな循環」、CSR(企業の社会的責
任)や個人の地域貢献意欲などによる「志」がある投資の推進を通じた資金の確保
エ.地域相互間の移動・交流の活性化や戦略的な地域間の連携
オ.地域の情報発信やコミュニティの再生・強化等への情報通信技術の活用
また、地域によっては、人口の減少、高齢化が著しく、維持・存続が危ぶまれる集落
が存在している。このような集落では、高齢者を始めとする住民の買い物、地域交通、
医療・福祉等の日常生活や、水路の維持、冠婚葬祭等への対応に影響が生じているほか、
地域の伝統文化の喪失、農用地や森林の荒廃、災害への対応力の低下など様々な問題の
発生が懸念され、集落に安心して住むことが困難となるなどの状況に直面している。
⑱ 国土の多くの部分を占め、国土保全、水源かん養、自然環境の保全などの上で重要な
役割を果たしていることに加え、棚田等地域特有の個性や魅力を有し、安らぎや癒しの場
となっているほか、我が国の伝統文化の一翼を担っている地域が多い。また、今後、我が
国全体として人口減少、高齢化が進展する中で、中山間地域では高齢者を中心とした地域
活性化のための先進的な取組も行われている。このように、中山間地域は持続可能な国土
管理と豊かな国民生活の実現の観点から重要な意義を有している。
⑲ 観光立国の枠組みとも連携しつつ、グリーンツーリズム等の取組を推進する。さら
に、都市住民が農山漁村で活動するため、市民農園の開設等の農地の利用や、国民参加の
森林(もり)づくり、森林セラピー等森林の多様な利用、遊漁等の海洋性レクリエーショ
ンによる海面利用等、農林水産業と調和のとれた資源の利活用を促進する。
⑳ 都市と農山漁村の間など異なる特性を有する地域間で自治体や企業、NPO等の多様
な主体が広域的に連携し、互いにメリットがある持続性の高い交流の促進を併せて図る。
また、それぞれの地域が有する自然、産業、文化、歴史等に関する情報入手やこれら地域
資源を活用した交流活動等が容易となるよう、例えば鉄道駅、道の駅、体験・交流施設等
の既存の施設も活用しながら、交流・連携の核となる場を整備する。
第2節 二地域居住(国土形成計画における位置づけ)
二地域居住やUJIターン等による定住、交流など多様な形での人の誘致・移動を促
進するために、各地域がそれぞれの特性や魅力を認識し、どのような人を、どのような
形で受け入れるかについての戦略を持ち、地域の情報や住まい方について広く発信する
ことを目指す。二地域居住については、大都市圏と地方圏での二地域居住、大都市圏内
での二地域居住、地方都市と農山漁村での二地域居住など様々な形態があることを踏ま
え、その促進を図るに当たってより具体的な戦略を立てていく。
移動してきた人と日常的に接触し、コミュニティをともに構成するのは地域住民であ
ることから、行政のみによる誘致となることなく、地域住民やコミュニティ、NPOな
ど地域の多様な主体が一体となった取組の下で、移動の検討段階から移動後も含めての
一貫した受入・支援体制の確保を図る。誘致に向けた取組として、地域を知る機会を提
供するためのツアーや産業体験を行うことなども考えられるが、単に地域を知り、仕事
をする機会を提供するだけではなく、地域コミュニティへの参加機会の確保に努める。
誘致段階だけでなく、移動後においても、地域のコミュニティに積極的に参加する機会
を提供することに努める。
移動する者のための住居と居住環境の確保も重要な課題である。地域には多くの空き
家があり、これを移動する者の居住のために積極的に活用する。古民家等に居住者を確
保することは、居住者に新たな暮らしの可能性を与えるのみならず、古民家それ自体の
維持にとっても重要である。しかし、所有者が地域外の人物に家を貸すことに不安を持
つなどの理由により、空き家の活用がなかなか進まない現状がある。このため、行政と
民間の協働による地域の空き家の流動化と活用のための仕組みの構築を図る。また、住
み替えにともなう住宅資金の確保等に係る支援に努める。さらに、二地域居住は定住と
は異なる新たな居住形態であることから、複数世帯間での住居の相互利用、リゾート地
等の長期滞在型宿泊施設の有効活用など、より効率的な仕組みを構築することにより、
人の移動が一層促進されることも期待される。
なお、二地域居住の国土形成計画における位置づけについては、次のような国土交通省
の資料があるので、この際ここに紹介しておきたい。
http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/02/020329_.html
第6章 山地拠点都市構想の実現に向けて
第1節 山地拠点都市の定義について
山地拠点都市とは? その定義と構想の概要を明らかにしておきたい。
まず定義である が、『 山地拠点都市とは、「山の霊魂」の働きが期待できる山地の中心
都市で、地域の 「歴史と伝統・文化」にもとづき中枢都市との「交流」並びに「自立的
発展」を目指す 「美しい都市」のことである。』
「山の霊魂」についてはここまでに縷々述べてきた。「山の霊魂」の働きが期待できる
山地とはどんな山地なのか? 霊魂は不死であるから、過去にその山地で人びとが「祈
り」 を捧げた所、つまり昔の神社仏閣のあとや縄文集落のあとがそうである。さらに、
神社仏 閣や祠などが現在あって今なお人びとが祈りを捧げている所や巨木のある所は、
「山の霊魂」の働きが期待できる。「山の霊魂」の働きとは、アリストテレスの能動的理
性の働き のことである。山地拠点都市は「歴史と伝統・文化」にもとづく「地霊」の力
が働いてい る。
「歴史と伝統・文化」については、私は今まで私のホームページでいろいろ書いてきたの
で、それを参考にしてもらいたい。ホームページ内検索をしていただければ一連のページ
が出て来ると思う。
その一連のページの中で、特に、次のものは「歴史と伝統・文化」の核心部分を述 べて
いるので、是非ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/teidan.html
「地霊」については、私の論文「霊魂の哲学と科学」の第6章「霊魂の科学」に書い たの
で、ここではその抜粋部分のみ紹介しておく。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tirei.pdf
「交流」については、前編第3章第1節の1「辺境の哲学」で述べたのでそれを読み返し て
ほしい。
「グノーシス」とは、歴史的に、「キリスト教から独立した別個の宗教・哲学 体系の
「認識」を代表するもの」と言われているが、私は、中沢新一と同じように、より 広い
概念でとらえたい。すなわち、広域に渡って支配的な宗教から独立した別個の宗教体系や
哲学大系の「認識」を代表するもの」と考えたい。中心地の文化の影響を受けながらも、
その地域特有の文化を保持している。時代の進展とともにその地域の文化は今までに な
い新たな文化に変質してゆくが、その新たな文化は、中心地の文化を変質せしめる。その
力は、人びとの交流の力による。「奥」の哲学との文脈でいえば、中心地は地方の中枢都
市であり新たな文化の発信地は「山地拠点都市」である。グノーシスを生じせしめるの
は、中枢都市と山地拠点都市との交流である。
では・・・、交流とは何か? 大漢語林によると、「混じり合って流れる」「行ったり 来
たりする」「系統の違うものが互いに交わり合う」とあるが、都市と農山村との交流と
いうとき、都市から農山村に行くだけでは不十分で、農山村からも都市に流れなければな
らないと思う。一方通行は交流と言うべきでないのだ。それともう一つ大事なことは、交
流は、互いに混じり合って一緒に何かを行うということがなければならないということ。
ここではこの点だけを指摘しておいて、中枢都市と山地拠点都市との交流の具体策につい
ては、私の思いをのちほど述べることとしたい。
さて、都市についての説明をしておこう。 都市とは、商業、流通などの発達の結果、限
られた地域に人口が集中している領域を称す る言葉として使われることが多い。都市に
ついての国際的に統一された定義はない。現在の日本では、一般的に、市町村のうち市を
都市と呼ばれることが多いと思われるが、私 は、行政施設、商業施設、運動施設、文化
施設、 病院、大学のある区域を都市と呼ぶこ とにする。すなわち、私がこの本で都市と
呼ぶ時、それは行政区域とは関係ない概念として捉えているので、その都市を中心とする
行政区域には、多くの場合、過疎地域というか 田舎を含んでいる。都市機能を持たない
聚落は、私は、村落と呼ぶことにする。
私は中枢都市という言葉を使っているので、これについて説明をしておかねばならない。
第4次全国総合計画(四全総)では、地方中枢都市という言葉と中枢拠点都市という言葉が
使われた。地方中枢都市とは、東京、大阪、名古屋の他に、いわゆる札仙広福と北九州
市を含む。中枢拠点都市は、新潟、金沢、富山、岡山、松山、熊本、那覇である。しか
し、今は、四全総の時代でないし、国土形成計画にしたがって新たな国土ウ ィジョンを
構 想すべき時期であるので、過去の概念にとらわれない方が良い。私がこの本で呼ぶ
「中枢 都市」とは、上記の都市にその他の県庁所在地の都市を含む。すなわち、私のい
う「中枢 都市」とは、地方中枢都市と県庁所在都市のことである。私は、その時の文脈
からこれら を大都市と呼ぶこともあるので、その点もご承知おき願いたい。
山地拠点都市は、山地における生活の拠点となる都市のことである。あくまでも都市で
あって、村落は該当しない。通常、山地拠点都市を流れる川の上流域には都市がなく、過
疎地域であって、古からの村落がある。のちほど述べるが、源流サミットで問題になって
いるのは、このこの地域の中心的な村落を如何に活性化するかという問題である。私の考
えは、山地の村落は、山地拠点都市との繋がりの中で、その持続的発展を期さなければな
らない。それにはまず、山地拠点都市自体が、他の中枢都市との「交流」によって、「地
域の自立的発展」をしなければならない。山地拠点都市と山地に存在する村落との違い
は、私の「山地拠点都市構想」における重要な点であるので、しっかり認識しておいても
らいたい。
私の抱いている山地拠点都市の一般的なイメージは、都市に隣接して森とか里山があっ
て、その奥に奥山がある。そして、さらにその奥に、霊山がある。これを山地の三重構造
と呼びたい。ただし、これは概念であって、歴然と地形がそうなっていなければならない
ということではない。高山にあっては、その麓から頂上に向かって森と奥山と連続して続
いているという場合が普通である。こういうのも含めて、私は、山地の三重構造と概念わ
けしているのである。これを山地拠点都市の標準的なパターンと考えたい。山地拠点都市
からは霊山が見えなくてもいいが、もし見えれば理想的である。また、奥山の山中には、
もし神社仏閣またはその跡があれば、山の霊魂の働きが強くなるので、これも理想的であ
る。さらにまた、奥山の渓谷沿いには村落があれば、それは奥山に奥行きがあるというこ
とであるから、これも理想的要素のひとつである。 以上の考えから、私は、盆地都市は
すべて山地拠点都市であると思う。
盆地都市は山地拠点都市である。したがって、京都は山地拠点都市である。また、神戸
は、盆地ではないけれど、背後に六甲山系を擁し、私の定義によれば山地拠点都市に当た
る。しかし、京都や神戸を山地拠点都市と呼ぶのは適当ではない。私の意図は、アリスト
テレスのいう能動的理性が働く都市を作りたいというものであり、そういう山地拠点都市
が中枢都市を通じてこれからの新しい文明を切り開いていくであろうというものである。
京都や神戸はそれ自体が中枢都市である。独自に新しい文明を切り開いていく力を持って
いる。能動的理性の働く都市という意味では、京都や神戸は完全に私の意図に合致した理
想的な都市である。かかる観点からは、京都や神戸が先端的文化都市である。しかも、京
都や神戸は、中枢都市というだけでなく、すでに世界都市としての要件を十分供えてい
る。したがって、京都や神戸は、先端的文化都市ではあるが、そう呼ぶだけでは不十分で
ある。先端的世界都市と呼ぶべきだ。
熱海も霊性に満ちた山系を擁している。しかし、その山地に村落はない。拠点性はないの
で、山地拠点都市と呼ぶのは適当ではない。しからば何と呼ぶべきか? 熱海は、神戸と
ちがって、大都市ではないので都市としての力も弱く、中枢都市との交流を深めないと、
私のいう知恵のある国家に貢献することはできない。このようなことを考えていくと、熱
海は、先端的世界都市と呼ぶのは適当でないとしても、先端的文化都市と呼ぶのが良いの
ではないかと思う。
いずれにしても山地拠点都市以外にも能動的理性の働きうる大事な都市があるのは確か
で、私の提唱する「山地拠点都市構想」には、京都、神戸、熱海などの先端的文化都市も
含めて考えたい。この本では、京都、神戸、熱海などの特別な存在を意識しないで書いて
いるけれど、そういう特別な都市があるということをここでお断りしておきたい。京都や
神戸や熱海などの都市ヴィジョンを作るときには、一般的に記述した「山地拠点都市構
想」の理念と方法論を参考にして、それらの都市にふさわしいものを作ってもらいたい。
さて、知恵を働かせねばならないいちばん難しい問題、政治的にも行政的にもいちばん重
要な問題は、「地域の自立的発展」である。現在の市場経済のもとでは、山地拠点都市は
大都市や中枢都市の競争力には到底勝てない。だから、三割自治が続いているのだ。した
がって、基本的には、山地拠点都市は市場経済と贈与経済のハイブリッド経済を目指さな
ければならない。
地域通貨については、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の6巻目「地域通貨」に詳し
く書いたので、是非、それを読んでいただきたい。
http://honto.jp/ebook/pd_25231959.html
「山地拠点都市」は、現在の市場経済社会においてこのままでは存続そのものが難しい。
「山地拠点都市」が今後も存続し続けてそれなりに「地域の自立的発展」をしていくため
には、地域経済としてはハイブリッド経済を目指さなければならない。これは必須条件で
ある。さて、贈与論についてであるが、モースの贈与論を発展させ、現代の経済的社会的
な諸問題に応えうる新たな贈与論が待ち望まれていたが、2011年8月に中沢新一の 「日
本の大転換」(集英社)が出た。これはまさに現代の贈与論である。中沢新一のこの 新たな
贈与論によって、地域通貨の哲学にもしっかりした基盤ができたように思う。関係 の皆
さんには、私の電子書籍「地域通貨」とともに、是非、中沢新一の「日本の大転換」 を
読んでいただきたい。
「地域の自立的発展」については、基本的には、贈与経済という新たな挑戦をしなければ
ならないのだが、緊吃の課題として、「山地拠点都市」というハイブリッド経済社会にい
て、どのように雇用の場を作り出していくかという問題がある。 大都市という競争社会
における敗者もいるし、もともと厳しい競争を嫌う人もいる。競争 することだけが生き
る道ではない。厳しい競争を嫌い、豊かな自然の中でのんびりと楽しく生きるというのも
立派な生き方である。山地拠点都市はそういう人の受け皿にならなけ ればならないし、
それが十分可能なのである。新たな産業おこしの問題についても私の思いをのちほど第3
節で述べることとしたい。
前編の第3章では、今後の日本のあるべき姿についての佐伯啓思のヴィジョンを紹介し、
過去の国土政策を振り返り、そして国土政策の現状と課題について述べてきた。後編の最
後、それはこの本の最終結論ということになるが、「田園都市構想」や「ふるさと創成」
に代るべき・・・新たな国土ヴィションとして、「山地拠点都市構想」を提案する次第で
ある。
「山地拠点都市構想」とは、 「山の霊魂」の働きが期待できる山地において、地域の
「歴史と伝統・文化」にもとづき中枢都市との「交流」並びに「自立的発展」を目指す
「美しい都市」を作ろうという国民運動のことである。
地域づくりというものが地域住民が主役でなければならない。そのことは、私との対談
で、川村健一さんが語っているので、この際、それを紹介しておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=Is3Sr9VLXIo http://www.youtube.com/watch?
v=4D9r4O3Jg8I
地域づくりというものは、 あくまで地域住民が主役であって、国が計画を作りそれを地
域にブレークダウンするものではない。「山地拠点都市構想」は、市町村が中心となっ
て、地域の人々と地域の企業や関係団体と一緒になって進めていくものでなければならな
い。このことについては、リージョナルコンプレックスという視点が大事である。中枢都
市との「交流」も 自立的発展」を目指す「美しい都市」づくりも、地域コミュニティに
リージョナルコンプレックスが形成されていなければならない。そのリージョナルコンプ
レックスについては、次を参考にしてもらいたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rijyokon.html
第2節 中枢都市との「交流」について
山地拠点都市は、今後、定住者をどのようにして増やしていくかという問題の他に、中枢
都市との「交流」をどのように増やしていくかという問題がある。前者については、いか
にして雇用の場を確保していくかという問題であり、これについてはのちほど第3節で述
べることとしたい。
1、二地域居住(国土形成計画における位置づけ)
第5章第2節で述べたように、国土形成計画において、二地域居住がひとつの大きな政策
課題になっているが、現実には二地域居住はあまり進んでいないように思われる。
国土形成計画では、『 二地域居住やUJIターン等による定住、交流など多様な形での 人
の誘致・移動を促進するために、各地域がそれぞれの特性や魅力を認識し、どのような
人を、どのような形で受け入れるかについての戦略を持ち、地域の情報や住まい方につい
て広く発信することを目指す。』・・・とされているが、私には、各市町村が、自分の地
域の特性や魅力を十分認識しているようには見えない。認識不足なのだ。だから、私は、
「山地拠点都市構想」を書いているのだが、まず市町村は二地域居住の持つ哲学的意味に
ついて認識の上、「山の霊魂」に対する理解を深める必要がある。
「交流」については、 前編第3章第1節の1「辺境の哲学」で述べたのでそれを読み返して
ほしい。「グノーシ ス」とは、歴史的に、「キリスト教から独立した別個の宗教・哲学
体系の「認識」を代表 するもの」と言われているが、私は、中沢新一と同じように、よ
り広い概念でとらえたい。すなわち、広域に渡って支配的な宗教から独立した別個の宗教
体系や哲学大系の「認識」を代表するもの」と考えたい。
中心地の文化の影響を受けながらも、その地域特有の 文化を保持している。時代の進展
とともにその地域の文化は今までにない新たな文化に変 質してゆくが、その新たな文化
は、中心地の文化を変質せしめる。その力は、人びとの交 流の力による。
「奥」の哲学との文脈でいえば、中心地は地方の中枢都市であり新たな文化の発信地は
「山地拠点都市」である。グノーシスを生じせしめるのは、中枢都市と山地拠点都市との
交流である。 今後21世紀において、新たな文化の発信地は「山地拠点都市」であって、
その依って立 つものは、「山の霊魂」である。
したがって、各市町村は、基本的に山を語らねばならな い。山の魅力と山の摩訶不思議
な霊力を語らねばならない。「山の霊魂」について語らね ばならないのである。それら
については、この第1章から第3章までに私の思いをいろい ろ書いたので、それらを参考
にして、市町村自らが、地域の山の魅力と山を守ることの重要性を語らねばならないし、
「山の昔話」や山の不思議を語らねばならない。そして、私の山に関する「霊魂論」を参
考にして「山の霊魂」について語らねばならない。ただ単に 「山の自然」の素晴らしさ
を語るだけでは、多くの国民の心を揺さぶることはできない。
さらに、国土形成計画では、『 地域住民やコミュニティ、NPOなど地域の多様な主体 が
一体となった取組の下で、都会からやってくる人たちの地域コミュニティへの参加機会
の確保に努める。』・・・とあるが、これもほとんど実績が上がっていない。その原因
は、交流施設というかふれあいの施設が不十分であるからだ。そのための施設として「道
の駅」と「クラインガルテン」について述べるが、これらについては官民の連携が不可欠
である。現在のところこれについてはまったく未熟だと言わざるを得ない。
二地域居住が今後進むかどうかの鍵を握っているのは、「道の駅」と「クラインガルテ
ン」である。この二つのことが国土形成計画では注目されていないようなので、以下にお
いて、この二点について触れておきたい。
2、 道の駅、新たな発展
2011年9月22日、山口県阿武町で「道の駅社会実験二十周年記念シンポジ ウム」が行わ
れた。地域の人を中心に二日間にわたって熱心な議論が行われ、多く の示唆に富む意見
が述べられたが、その中から、コメンテーターとして参加された 山口大学名誉教授の小
川全夫先生などの主な意見を紹介し、そのあとで少々私の意 見を述べてみたい。まず主
な意見は次のとおりである。
1、「道の駅」ができることで、地域の人々が「道の駅」を自分たちのまさに拠点 とし
て、いろいろな活動をすることになった。今まであった地域資源に対し温かい 人間の知
恵を付けて商品にする、そのきっかけを作ったのも「道の駅」の効果であ る。
2、全国に98O近い駅があり非常に乱立。業態がワンパターン化しているような感 じもあ
る。ドライバーだけでなく、地域のお年寄りや子育てをする母親にも便利な 「道の駅」
であるためには地域の人たちの人間性を回復するような機能が必要。そ のためには研
修・交流・生きがいを感じさせるスペースなどワンストップ生活サー ビスの機能を取り
込む必要がある。少子高齢化の波は避けることはできないので、 そこに焦点を当てた新
しい「道の駅」づくりが必要だ。
3、「道の駅」を物を売るという面からだけ見るのではなく、地域の人に「道の 駅」が自
分たちの暮らしを守る拠点であることの理解を如何に深めるか? 住民の 使えない「道の
駅」になると、それでもう「道の駅」の存亡が決まる。そういう意 味で「道の駅」をも
う一度住民の目線に立って考えてみることが必要ではないか。
4、何故農村は今のように疲弊したのか? 農業は第一次産業の担い手と自己規制 してしま
った。農業は本来すべての人間の暮らしを支えるものを生産する機能を備
えていなければならなかったのに、単に農産物を作ればよい、あとは誰かに任せて お金
になればよいという仕組みに乗つかってしまった。これを今後も続けて行く限
り農村は浮かぶ瀬はない。自分たちが持っていたいろいろな物がバラバラになって しま
い、日常生活を支える機能のすべてを分業化の中で最終的には都市に依存して しか生き
ていけないようなものにしてしまった農村が今日あり、それをもう一度取 り戻すための
導火線、糸□のようなものとして「道の駅」がある。
5、単に行政に作ってもらい、そこで細々と何かをやって満足するのではなく、自 分たち
がこの道路の傍に生きる住民として、何を動かし、どうしたら自分たちがそ こで生きる
ための新たな道が見つかるかということに本気になることが大事。
6、顧客のニーズに合った製品やサービス買ってもらうためのマーケティングでな く、社
会が求めている考え方を充分理解し、それを社会に浸透させるためのマーケ ティングを
ソーシャル・マーケティングというが、それが今注目されている。「道 の駅」は住民に
とっての新たなステーションとして活用することが重要だと考えら れるので、ソーシャ
ル・マーケティングをやる必要があるかもしれない。周辺の人 はみな高齢化している。
高齢化した人たちの安心・安全・安定を担保するような機 能(例えば介護医療に関する機
能)を付けたらどうか。
7、個々バラバラで競争するとおそらくすべてがダメになる可能性がある。道路を 共有す
る駅同士、或いは地域の「道の駅」「青空市」「朝市」などが協働してイベ ントなどを
行うのも一つの方法。
8、経営のあり方も今までのように第三セクターありきの考え方はもう止めてもよ いので
はないか。その辺りを少し考えてみてもよい時期。今までのように物販中心 の「道の
駅」のやり方もあるだろうが、「道の駅」のあり方として次の時代を考え て行く。
9、これからの「道の駅」は福祉・災害がキーワードになっていくだろう。点より 面的な
位置付けで、ドライバーが来やすいことプラス地域の人が集まりやすい「道
の駅」にする。「駅に来ると何かある、誰かいる」、これがこれからのキーワー ド。
10、「道の駅」も今は行政に力があるから成り立っているが、これもいつ立ち消 えるか
解らない。その時にどうするかの対応も考えていかなければならない。「道 の駅」に完
成型はない。これからまだまだ地域の住民の対応によって変わってい く。
11、農家民宿では、他と競合しないよう義務付けられた農業体験というのが邪魔 してい
る。農家・漁家だけでなくサラリーマン民宿などいろいろな型があってよ い。客層も変
わって来ている。ヨーロッパでは祖父・祖母と孫の組み合わせも。今 後高齢化社会の中
で、どんな人が利用して行くのか、阿武町でも少しターゲットを 絞った民泊を考え、道
の駅との関係を検討すべき。
さて、「道の駅」はどうあるべきか? 今の「道の駅」は、すばらしいものも少 なくな
いけれど、全般的には、改善すべき点が多いように思われる。多くは単なる ドライブイ
ン(トイレ、土産物店、食堂)とほとんど変わらなくなった。道の駅に ついては、二十二年
前、私が中国地方建設局長をしていたとき、中国地域交流セン ターの仲間と何度か勉強
会を開いて侃々誇々議論をしたが,全国で一番過疎が激し く進んでいた中国地方を何とか
元気にしたいというのが当初の思いであった。しか し、その思いは遂げられていない。
ドライバーのことは国交省が考えるべきことだと割り切っているのかもしれない が、道
の駅の指定管理者である駅長はほとんどドライバーに無関心だ。夜間の営業 がないなど
ドライバー対するサービスが不十分だ。しかし、もっと重要な問題は、 シンポジューム
でいろいろ意見が出ているように、地域に対するサービスがほとん ど皆無に近いこと
だ。何をすべきか、私にもいろいろ考えがあるが、ここではシン ポジュームの意見を紹
介するにとどめ、道の駅が地域通貨の流通拠点になる可能性 が充分あることだけを申し
述べておく。ただ、その大前提として地域の足の問題があるので、最後にその点に触れて
おきたい。
これからは市町村は地域の元気再生のためにB&B(ベッド&ブッレクファース ト、農家民
宿)と取り組むべきである。農家民宿で、朝ご飯だけならお年寄りでも できる。晩ご飯は
「道の駅」に行っていただく。結構農家の小遣い稼ぎになるし、 心の通い合いが生まれ
る。お年寄りは元気なると思う。この場合に問題になるのが 交通手段だ。また、お年寄
りが道の駅において地域通貨で買い物をする場合、問題 になるのが交通手段である。 広
島県安芸高田市主体となって運行するコミュニティバス(おたすけバス)とい うのがある。
これは2010年10月から始まったもので、画期的なものである。こ のバスにはバス停がな
い。家の前まで来てくれるし降ろしてくれる。前日までの予 約制だが、役場に申し込む
とジーピーエス地図上にその家と行き先がプロットされ る。女の子がそれを見て、翌日
のバス運行路線を決定する。バスは-時間に一本の 割合で運行している。バスは市の所有
であるが運転手は委託である。各地域はそう いうバスを運行すれば、道の駅が地域通貨
の流通拠点になることは間違いない。
第1節で述べたように、都市と農山村との交流というとき、都市から農山村に行くだけで
は不十分で、農山村からも都市に流れなければならない。一方通行は交流と言うべきでな
いのだ。それともう一つ大事なことは、交流は、互いに混じり合って一緒に何かを行うと
いうことがなければならないということ。それでは以下において、中枢都市と山地拠点都
市との交流の具体策については、私の思いを述べることとしたい。
3、クラインガルテン
松田雅央(まつだまさひろ)という人がドイツの「クラインガルテン」について、判りや す
く書いておられるので、その要点を紹介しておきたい。彼は、ドイツ・カールスルーエ
市在住のジャーナリスト。東京都立大学工学研究科大学院修了後、1995年に ドイツの渡
り、それ以降、ドイツ及びヨーロッパの環境活動やまちづくりをテーマに、執 筆、講
演、研究調査、視察コーディネートを行っている素晴らしい人である。彼の「クラ イン
ガルテンに関するホームページは、次の通りである。
http://www.umwelt.jp/index_kleingarten.html
その中から、私の興味を引く部分を紹介し、私の思いも合わせて述べてみたい。 カール
スルーエ市には70余りの独立したクラインガルテン協会があり、その大きさはま ちまち
で、数十の区画しか持たない小さなものから数百の区画を持つ大きなものまである そう
だ。それらはすべて 非営利で、協会員が共同で運営しているらしい。クラインガルテ ン
(全体)はひとつのコミュニティを形成し、コミュニティハウスを持っている。私はそ れを
クラブハウスと呼びたい。個人が協会から借りる個々のクラインガルテン(区画)は おおむ
ね100m²ぐらいの小さいもので、そこには「ラウベ」と呼ばれる小さな小屋があ る。小
屋の床面積は最大で16平方メートル。流しもついているが、水道は来てないので飲 み水
は家から持っていくのだそうです。小屋には簡単なベッドがあって泊まることもでき る
が、長期間の滞在は禁止されているという。
松田雅央(まつだまさひろ) の友人は、協会から年約200マルク(約12000円) で200平方メ
ートルほどのクラインガルテンを借りているが、これは電気代、保険料な ど をすべて含
んだ値段なので、非常に安い。小屋は個人の持ち物で、マチルデさんが協会 を通して前
の持ち主から数十万円で買ったものだそうだが、永続的な持ち物であるので、 それを考
慮すればそんなに高い買い物ではないと思う。要するに、ドイツのクラインガル テン
は、非営利団体が運営しているので、すべて中産階級向けのものであって、日本のク ラ
インガルテンのように金持ち向けのもではない。甲斐市のクラインガルテンは、事業主
体が甲斐市で運営団体は農事組合法人だが、入会金が30万円、年会費が40万円で、こ れ
では一般庶民はちょっと手が出ない。
日本は諸物価が高いので、ドイツのようにはいかないが、私は、そこは知恵を出して、年
会費数万円で借りれるようにならないものか。痛切にそう思う。
次に、クラブハウスについて、私の思いを述べておきたい。クラインガルテンにおいて
は、都会からやってきた人と地域の人々との触れ合いが必要である。そしてそれをベース
として、地域における趣味の会やら地域におけるボランティア活動に都会の人が積極的に
参加するようでないと真の「交流」とはいえない。クラインガルテンにおける「触れ合
い」としては、音楽が不可欠だと思われる。音楽は「唱歌」がいい。これならお年寄りも
子供もみんなで歌えるからだ。楽器が弾けたり音楽にそれなりの素養を持っている人は是
非飛び入り参加してもらいたい。音楽の哲学については、私の「リズム人類学」のすすめ
というものがある。
酒ののめない人には申し訳がないが、酒を飲みながら歌を聴いていると心がイキイキとし
てくるのが実感される。
4、「道の駅」と「まちの駅」との姉妹協定
地域交流センターの田中栄治さんが提唱され、現在大きな進展を見せている「まちの駅」
というのがある。「まちの駅」とは、地域住民 や来訪者が求める地域情報を提供する機
能を備え、人と人の出会いと交流を促進する空間施設であり、関係者の意識としては要す
るに人びとの交流施設のことである。もちろん、「道の駅」もその範疇に入るのだが、こ
れからの地域づくりの哲学を踏まえて交流施設の再整理が必要かと思われる。私として
は、これからの「知恵のある国家」として不可欠の市場経済と贈与経済のハイブリッド経
済を考えているので、それを前提として山地拠点都市における「道の駅」を中核に据え、
その連携施設として、中枢都市の「まちの駅」を考えている。その他の「道の駅」や「ま
ちの駅」は私の課題の外にある。もちろん関心がない訳ではないが、中心的なテーマから
外れているという訳だ。
都市の中心商店街は、田舎の地域と姉妹関係を結び、交流を深 める。都市側は田舎の人
びとのために中心商店街に二地域居住用コーポラティブハウスを作り、田舎側は都市の人
びとのために山地拠点都市にクラインガルテンを作って、双方の交流連携を深めるのであ
る。中心商店街につくるコーポラティブハウスはマンションでも良いだろう。交流の場は
公民館その他大都市にはいろいろあるので、コーポラティブハウスは気安く泊まれればそ
れで十分だ。クラインガルテンはそこに交流機能がなくてはならないので、先に述べたよ
うな特別の工夫が必要だ。
毎週田舎から来て中心商店街での青空市場が開かれている。そういうイメージであるが、
具体的には、山地拠点都市の「道の駅」と中枢都市の「まちの駅」で姉妹協定を結んでほ
しい。ともに会員制度になっているので、両者の会員はお互い姉妹関係というか兄弟関係
の間柄になる。地域通貨は「道の駅」で発行する。中枢都市の中心商店街では、山地拠点
都市の人がその商店街にやって来た時、ごく一部の商品で良いから地域通貨で売るように
して欲しい。床屋や美容院も地域通貨でやっていただけるとありがたい。地域通貨はかく
して通貨とし ての機能を持つことができるのである。中心商店街の青空市場では、一般
の お客さんが商品を買う場合 に円(日銀券)を使うが、「まちの駅」の会員は地域通貨で
それら商品を買うことができる。「まちの駅」の会員は、山地拠点都市の人びとの仲間で
あり、二地域居住で山地拠点都市のクラインガルテンに行っ たとき、農業の手伝いをす
るなどさまざまなボランティア活動をして、地域通貨を手に入れるのである。
のちほど述 べる大都市から山地拠点都市に移住して農業を営む人は、今後増えると思わ
れるが、そういう山地拠点都市への農業移住者は、すべてクラインガルテンの会員とな
る。一般的な言 い方で言えば、田舎と都会との架け橋になる訳だ。「まちの駅」の会員
でない人が「青空市場」で買い物をすることも少なくないであろうから、農業移住者が
「青空市場」でそれ なりに円を稼ぐことは可能であろう。
私は中枢都市と山地拠点都市との「交流」を考えている。それは、従来、「都市と農山村
との交流」と呼ばれてきたものではあるが、その「交流」の主体を明確にして「道の駅」
と「まちの駅」を政策課題の中核においている。その場合、「道の駅」と「まちの駅」の
どちらを重視するか? 山地拠点都市構想はその両方だ。中枢都市の人びとの助けがない
と山地拠点都市の持続的発展は難しいし、逆に、山地拠点都市の助けがないと中枢都市の
人びとの「安心」は得られない。競争社会の弱者はますます不安定な生活を強いられると
いう訳だ。これからの社会はボランティア活動が活発でないとやっていけない筈だ。知恵
ある国家とは国民の命と財産を守るところにある。そこにイキイキと生活し続けることの
できる国家のことである。過疎地域にしても中心商店街にしても、現在は、後継者がいな
く、到底サステイナブルなもの、つまり持続的発展の可能なものになっていない。後継者
がいないと居住財産は放棄せざるを得なくなってしまう。これではとても知恵のある国家
とはいえない。過疎地域もそうだが、中枢都市も誠に不安定な社会になっていて、それを
持続可能な安定社会に切り替えていくには、どうしても「地域通貨」が必要で、それを可
能ならしめるのは山地拠点都市と中枢都市が、「道の駅」や「まちの駅」をつうじて姉妹
関係を持つことが絶対に必要なのである。
5、第6次産業
地域企業としての第6次産業については、かって小論文を書いたことがある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisan10.html
この中から、ここでの文脈に関係のある部分を抜き書きしておきたい。
私は、どうしも第6次産業を興さなけ ればならないと思う。 私は、山地拠点都市で、行
政とNPOと企業が力を合わせて、農業や林業との繋がりをもちながら、地域のためにや
る 仕事が・・・・第6次産業だと定義している が、私の定義では第6次産業の担い手は企
業である。ひとつの企業が農業や林業をやりながら出来るだけ何らかの加工業と観光業を
営む・・・というイメージで ある。第1次産業でも良いし,第2次産業でも良いし,第 3次産
業でも良いから、ともかく行政とNPOとタイアップして,地域のためにやってほし いとい
うこ とだ。
さらに、私はジオパークは究極の観光資源であると考えている。しかも,私は,ユネスコ 認
定のものだけでなく,日本型のジオパークを全ての市町村に建設すべきだと考 えてい る。
これから山地拠点都市で進めるべき第6次産業は,究極の観光資源とし て日本型の ジオパ
ークを目指すべきである。 日本型のジオパークは,地域の人々が主役であり,シビルエンジ
ニヤがその舞台と劇場を 作るのである。シビルエンジニヤが中心になって、地質学者、
地理学者、自然生態系学者、歴史学者、文化学者などの助けを借りながら、地域の人々が
地域文化をイキイキと生 きていける・・・そのような地域づくりをするのである。そこ
にセカンドハウスを構えた都会の人たちが自然と歴史と文化を楽しむことのできる地域づ
くりをするのである。世界各国から観光客にきてもらって日本 の理解を深めてもらうと
同時に、地球を考え、平和 を考え、これからの生き方を考えてもらえるように、国際的
な観光地を作るのである。
問題は観光だが、観光については、大いに世界の知恵に学ばなければならない。世界の知
恵に学ぶべきは、B&B、エコミュージアム、ジオパークであるが、日本の歴史と伝統文
化に則り、それぞれを日本らしいものに作り変えなければならない。B&Bについては
「道の駅」との繋がりも考えて日本型を考えてほしい。また、エコミュージアムについて
は、「空き家」の活用という視点から日本型を考えてほしい。ジオパークーについては、
私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の第8巻「平和国家のジオパーク」を参考にして日
本型を考えてほしい。 さらに、わが国独自の新たな知恵として、「山に関する昔ばな
し」をどのように地域で 語っていくかという課題があるし、山地拠点都市における「新
たな神話の創造」という課題があるし、「縄文の音霊(おとだま)」など地域における「 歌
舞音曲」をどのように して創り出していくかという問題もある。いずれにしろ、これら
の観光がらみの課題につ いては、地域における議論の高まりを期待したい。
なお、観光については、ただ単なる観光というだけでなく、次の述べる「ビジター産業」
というものも視野に入れて、特に条件に恵まれた山地拠点都市においては、 「小さな世
界都市」を目指して、おおいに「山の霊魂」の助けも借りてほしい。アリストテレスのい
う能動的理性を働かせるということである。私の考えでは、 ホト神さまとシバ教ゆかり
の神さまに対する「祈り」は、「野生の感性」を呼び覚まして、きっと能動的理性の働き
を活発化してくれるに違いないと思う。
6、ビジター産業
わが国のアイデンティティーは「違いを認める文化」にある。これをどのようにして文
明にまで高めるかがこれからの課題である。今回の東日本大震災という未曾有の国難に直
面している今,日本は大転換を図らなければならない。パラダイムの転換,価値観の転換を
図らなければならないのだ。いろんな課題が山積しているが、ここではそれらの課題の
内「リズム」と「野生の精神」の観点から、ビジター産業の育成について話をしておきた
い。ビジター産業は単なる観光産業ではない。ビジター産業は、いわゆる観光産業のほ
か、研修や会議、スポーツ大 会、グリーンツーリズム、草の根国際交流などを対象と
し、その整備からサービス提供までさまざまな職業があり得る。ビジター産業で重要な点
はコンテンツ産業を含むということだ。
コンテンツ産業とは、インターネットで入手する情報を作る産業のことである。各地域
の歴史と伝統・文化に もとづいて作られるものすべてがその対象となり、地域の人々が
幅広く従事できる。コンテンツ産業は、大都市より地方都市、地方都市とは地方拠点都市
のことをいうが、それよりもっと小さい小京都のような盆地都市の方が有利であるように
思われてならない。歴史と伝統・文化に恵まれて、山あり川ありの大変「スピット」の多
いところだからだ。「リズム」に恵まれているのである。盆地都市は、是非、世界都市へ
の道を歩んで欲しい。そして、積極的に、ビジター産業の育成に努めて欲しい。
また、ビジター産業の育成を行う場合、盆地都市など地方都市のほか、京都や奈良など
日本の「歴史と伝統・文化」を語る上で欠かすことのできない都市がある。ここでは奈良
に焦点を当てて私の年来の想いを述べておきたい。
日本には「違いを認める文化」というものがある。もし文化面で 日本が世界に大きく 貢
献できれば、世界は変わる。世界平和のための国際貢献、これこそわが国の最大の課題
だが、その基本は国際交流を深めることで ある。そして、国民参加の国際交流で大事な
ことは世界の人びとに来てもらうことである。世界の人々には大いに日本に来てもらっ
て,日本が「違いを認める文化」の国であることを感じてほしい。日本が「平和の国」で
あることを肌で感じて欲しいのだ。
私は、国土交通副大臣のときに、河合隼雄や中沢新一とも相談をし,「文化観光懇談会」
なるものを作った。今後,「文化観光」の旗を振ることとしたのである。観光は、そ の土
地の光り輝くもの、つまりいちばん誇りに思うものを見てもらうということだ。私た ち
の世界に誇りうる文化,それは「違いを認める文化」であるし、「ひっくり返し」の思 想
である。
「ひっくり返し」の思想については、第3章第3節で『「祈り」によって、「内なる悪
魔」や「外なる悪魔」を「内なる神」や「外なる神」にひっくり返さないといけないので
ある。「ひっくり返し」・・・,この言葉を覚えておいて欲しい。』と述べ、第3章第6 節
では『 御霊神(ごりょうしん)は「ひっくり返し」によって怨霊が守護神になったも ので
あり、田の神や水の神などの自然神とはその生い立ちが違うけれど、除災(災厄を除く)と
いう点では同じような力を持つ。災厄とは、世の中にあっては天変地異凶作などであり、
個人にとっては貧窮疾病(ひんきゅうしっぺい)である。』と述べ、「祈り科学」 シリーズ
4の第4章では『 私たちはよく「私なんかしょっちゅう,往生してますわ!」と 言いますが,
本来的にはこういう言葉の使い方がおかしいかも。しかし、往生していない けれど,往生
したいと願う心がこもっているのかもしれない。私が思うに,「ひっくり返 し」の思想で
あるのかもしれないということだ。』と述べ、「祈りの科学」シリーズ5の 第4章では
『 源信は,元三大師の弟子である。元三大師の化身が角大師だが,先に述べ たように,その
角大師の姿を天皇がお刷りになってお札として人々にお配りになった。角 大師は、角を
二本持っているので鬼のようでもあるし,何か妖怪のようでもある。誠に不 思議な絵姿
だ。それがお札となって人々の幸せをもたらす。これはまさに怨霊が守護神に なるのと
まったく同じだ。逆転の発想がある。「ひっくり返し」の哲学がある。』と述べ た。ど
うも日本文化には「ひっくり返し」の思想が貫かれているように思う。
「トイレの神様」の持つ哲学や思想には,「リズム」の他に,別の側面がある。それ は、
「逆転の思想」「ひっくり返し」の思想というものである。トイレはもともと不浄な も
のである。そこに「トイレの神様」が宿ることによって、トイレは聖なる場所に逆転す
るのだ。「ひっくり返し」が起るのである。「逆転の思想」「ひっくり返し」の思想を示
す古典としては、能の「蝉丸」がある。これは日本文化のもっとも奥深いところを示して
いるように思われるので、以下に能の「蝉丸」を取り上げる。
逆髪(さかがみ)、それは蝉丸の姉に当たるが、その姉は、狂気の果てに、特に留まる と
ころもなく、全国あちこち「漂泊の旅」を旅している。逢坂の関を彷徨する逆髪(さかが
み)は、 廃屋の中から聞こえる琵琶の音に耳を傾ける。 声をかけられてよくよく見る
と、 琵琶の主は弟の蝉丸である。二人は再会を慶ぶとともに、世の情けの薄いことを嘆
く。 逢うは別れであるのだろうか。名残を惜しみながら二人は別れていく。
彼女の髪は逆さに突っ立って、撫でても下がることはない。子供たちが逆髪(さかがみ)を
笑うのに対して、逆髪は、髪の逆さなることよりも、今は卑賎の身であってももともと高
貴の出である者、そういう者を表面的な見方だけで笑うこと、そのことの方がむしろ転倒
そのものではないかと反問する。
場面はクライマックス、地謡ともども「さかしまの哲学」を詠いあげる。謡曲「蝉丸」
のいうなればクライマックスである。
『 面白し面白し。 これらは皆人間目前の境界なり。 それ花の種は地に埋もって千林 の
梢に上り、月の影は天にかかって万水の底に沈む。 これらをば皆何れか順と見逆なり と
言わん、我は皇子なれど庶人(そじん)に下り、髪は身上より生い上がって星霜を戴 く。
これ皆順逆の二つなり面白や。』・・・と。
こういう「逆転の思想」「ひっくり返し」の思想は日本の「歴史と伝統・文化」のもっ
とも奥深いところだ。平和の思想である。こういう思想的なものも是非世界の人々に知っ
てもらいたい。私が「文化観光」の旗を振る所以である。 これは念のため申し上げてお
かなければならないのであるが、「逆転の思想」「ひっくり 返し」の思想は,なにも密教
に限ったことではないということだ。密教は平安の初期に、見事に怨霊の「ひっくり返
し」をやってのけたが、「ひっくり返し」の思想そのものは、 密教が誕生するその以前
に、すでに奈良仏教の時代に存在したようだ。
能というものは仏教教学というか仏教思想を一般の人々に判りやすく教えるために、奈
良は興福寺で誕生した。能は、その前身の猿楽を室町時代に世阿弥らが発展させたもので
あるが、猿楽は奈良時代に誕生した。奈良仏教の中心は興福寺である。興福寺は不思議な
寺である。東大寺や春日神社とも深い関係を持ちながら、独特の文化を創ってきた。さす
が藤原一門の寺である。かの徳一は興福寺の逸材であるが、良弁や明恵も興福寺との関係
は深い。三人とも藤原であって藤原でない。
能は、極めて奥行きの深い芸術である。「野生の精神」が創り出した芸術である。ぜひ
興福寺界隈には多くの人々に足を運んでもらいたいものだ。興福寺界隈には、興福寺だけ
でなく、東大寺や春日神社など日本の「歴史と伝統・文化」の心髄を語る上で無くてはな
らないものがある。しかし、それらは「野生の精神」が身に付いていないとなかなか見え
ないかもしれない。奥深いのである。良弁や徳一や明恵は藤原であって藤原でないのと同
じように聖武天皇も藤原であって藤原でない。奈良時代の偉大な政治家・藤原不比等は中
臣神道を基礎として日本を律令国家を作り上げるが、これに反し、聖武天皇は良弁ととも
に、大仏を建立、日本を仏教国に仕立てていく。神道と仏教の違いは大きいが、以後、日
本は、そういう「違い」というものを気にしないで、神道の国かつ仏教の国として成長し
ていくのである。各家庭でも神棚があり仏壇がある家が多い。また、結婚式は神道、葬式
は仏教というのが普通であろう。「白でもないし黒でもない、しかし白といえば白、黒と
いえば黒」というのが「両頭截断」だが、そういうところに日本文化の心髄「違いを認め
る文化」が隠されている。そういうものを世界の人々にも判り易く説明するには、哲学者
や宗教家ばかりでなく「野生の精神」を身に付けた芸術家や芸能家の助けが必要であり、
今後日本がビジター産業を育成していく上で「野生の精神」を身に付けた芸術家や芸能家
の役割は大きい。芸術や芸能の発展を心から願う次第である。
第3節「自立的発展」を目指す
山地拠点都市において考えねばならないことがいくつかある。まず第一は、大都市から移
り住んで来て農業をやる人のことである。これを農業移住者と呼ぼう。今後、農業移住者
を積極的に受け入れるためには、地域通貨が不可欠であるので、地域通貨については項を
改めて述べることにする。農業移住者は、基本的には、地域通貨で生活をするのだが、地
域通貨で買えないものも当然あるので、ある程度円を稼がなければならない、どうやって
円を稼ぐかという問題である。
この問題については、第2節の第4項「道の駅とまちの駅との姉妹協定」で述べたよう
に、いずれ将来は、山地拠点都市の農業移住者が「まちの駅」が主催する「青空市場」に
出かけていくことが普通になる。その場合に、「まちの駅」の会員でない人が「青空市
場」で買い物をすることも少なくないであろう。農業移住者が「青空市場」でそれなりに
円を稼ぐことは可能であろう。そのことについてはすでに述べた。
したがって、山地拠点都市の「自立的発展」を図るためには、まず地域通貨を前提にし
て、農業移住者の受け入れを進めることだ。そうすれば、農業移住者が田舎と都会との架
け橋になって、都市と田舎の交流を推進することができるだろう。しかし、それだけでは
不十分である。 山地拠点都市の「自立的発展」を図るためには、根本的に、地域の雇用
拡大の見地から、山地の新たな「産業おこし」をしなければならない。これには二つあっ
て、一つは地域企業の振興だし、もう一つは市町村事業の振興である。このことについて
は次に述べよう。
1、山地の新たな「産業おこし」
山地拠点都市がその自立的発展を図る場合、地域企業の振興を図らなければならないとい
う問題がある。これが第二の問題だ。第一の問題は地域通貨の問題である。
現在の市場経済のもとでもやれることがある。地域企業の企業活動の推進を図ることだ。
地域企業とは、私の定義によれば、地域の雇用拡大の観点から行政ならびにNPOが積極的
に支援する民間企業のことである。私は、先に述べたように、山地拠点都市においては、
農業移住者の問題とともに、企業の雇用という問題を重視しており、行政の積極的な支援
が 不可欠である。私は、熱心な市町村長と一緒になって、山地拠点都市における地域企
業の活動を支援していきたい。具体的には、小水力発電事業、不燃化木材産業、第3次産
業の新興であるが、これらについてはのちほど述べるが、ここでは、小水力発電事業と不
燃化木材産業については、市町村長に熱意さえあえば、市町村長と協力しながら役割分担
を決め、あとはその役割分担にしたがって、国土政策研究会が責任を持ってその新興を図
ることができる、ということだけを申し上げておきたい。
(1) 市町村事業の振興
「道の駅」や「クラインガルテン」は市町村が事業の主役であることは明白である。また
第2節では、観光とビジター産業の振興について、市町村で大いに議論を高めてほしい旨
を述べた。 山地の新たな「産業おこし」に関しても、市町村の果たすべき役割は実に大
きい。先ほどは地域企業の行う「小水力発電」について触れた所であるが、実は、「小水
力 発電」というのは場所によって採算性の良い所と悪い所があって、採算性の良い所は
地域企業が行えば良いが、採算性の悪い所をどうすするかという問題がある。採算性の点
から民間企業が行い得ない水力発電であっても、市町村が事業主体になれば、固定資産税
や事業税が不要であるので、何とか赤字にならずにやれる所がある。また、建設費に市民
ファ ンドなどが使えれば、市町村がやれる所がある。民間企業がやる小水力発電と市町
村でや る小水力発電との区別は、採算性を判断して決まるのである。もちろん採算性の
極端に悪 い所は市町村でもやるべきでない。それは当然のことであろう。
私が将来に期待するものに「間伐材発電」(バイオマス発電)というのがあるが、これに
ついては、残念ながら今のところ企業の採算ベースにはのりそうもない。残念だが仕方
がない。
(2)小水力発電
再生可能エネルギーの全量買い取り制度(FIT)が2012年7月に始まったのを受け、国土政
策研究会小水力発電等研究部会での検討も熱を帯びたが、その後、具体的な動きをしてい
るうちにそう簡単に事業化はできないということが判ってきた。今後どうすれ ば良いか?
そこが問題なのだが、その点については、のちほど述べるとして、とりあえ ず、小水力
発電についての一般的な説明をしておきたい。
小水力発電は、ソーラー発電や風力発電と異なり、天候に左右されにくいため電気を安定
供給できる強みがある。 まずこのことをしっかり頭に入れておいてほしい。小水力発電
は、大規模な投資が不要で、ある程度の水量と落差があれば安定的な発電が可能である上
に、適切な維持管理さえすれば長期間運営できて、減価償却後の利益は非常に大きい。こ
の点もソーラー発電や風力発電にない大きなメリットである。
しかも、市町村が事業主体の場合は山地拠点都市の「エネルギーの地消地産」に役立つ
し、山地の新たな「産業おこし」に役立つ。ただし、これについては誤解を避けるために
少々説明が必要だ。市町村が行う場合にも買電が必要である。電力買い取り価格と発電コ
ストとの差額が市町村の利益になるのだが、それをプールするシステムを市町村に新たに
つくる必要がある。企業会計というか特別会計みたいなものだが、産業振興基金と呼ぶの
がふさわしい。そのプールされた資金を地域の産業振興に使うのだ。要するに、市町村は
小水力発電で、儲ける訳だが、その儲けが少ない場合であっても、赤字を出さないで20
年ほど頑張っておれば、減価償却後は必ず儲かるので、その後は100年間ほど産業振興の
役に立つという訳だ。
国土政策研究会小水力発電等研究部会では、具体的な動きをしているうちに小水力発電
はそう簡単に事業化はできないということが判ってきた。今後どうすれば良いか? そこが
いちばんの問題で、その点についてこれから私の考えを述べておきたい。まず第一の問題
点は、良い発電サイトをどうやって探すかである。発電の概略設計と採算性を概算できる
技術者というのは非常に限られている。通常のコンサルタントではできない。第二の問題
は地元対策である。これは市町村の熱心な関与がないとまず難しいと考えておいた方が良
い。第3の問題は建設費の調達である。市町村には金がないので、いきおい純粋の民間事
業かPFI事業とならざるをえないが、資金をどう調達するかが大きな課題である。その他
にも水利権許可の問題などもあるが、大きな問題は以上の三つである。これらについて
は、個別案件として個別に検討し、解決の道を見つけなければならない。いちばんの問題
は市町村長のやる気だと思う。やる気のある市町村は、是非、国土政策研究会と相談して
ほしい。
(3)不燃化木材
日本は山国である。国土面積の約70%が山だという国は世界でも珍しい。そして、日
本の登山の歴史はとても古く、世界に類を見ないほどである。西洋では、山は悪魔の住む
ところとして近代まで近寄る人は少なかったようであるが、わが国の場合、縄文時代にす
でに山頂で祭祀が行われていた。また縄文時代は日々の生活においても霊山を崇めながら
生活していた。石器時代の狩猟生活を考え合 わせてみれば、日本人の山との関わりあい
は相当に古い。
縄文時代の霊山信仰は、仏教や神道などの宗教、哲学的思想と結びついたりしながら、近
世中期以降には観光的要素も加わって、カタチを変えては現代にまで日本の民族宗教とし
て展開してきている。この間の経緯については、宮家準(「霊山と日本人」)が多角的
な視点から論じている。
山が荒廃している。切り捨て間伐が常態化し山の生態系が壊れている。これは由々しきこ
とだ。日本の場合、山は日本の風土の基本をなすものである。それが荒廃するということ
は、日本の風土が壊れることであり、故郷(ふるさと)が喪失するということである。そ
れはとりもなおさず世界に誇りうる日本文化が消えていくということであって、日本が世
界平和のために大いなる貢献をするなどということは夢のまた夢になってしまうのではな
いだろうか。しかし、今ならまだ間に合う。早急に国民的な議論を巻き起こして各方面に
アッピールしていきたいものだ。
故郷(ふるさと)を喪失させてはならない。故郷(ふるさと)を喪失するということは、
佐伯啓思が言っているように、日本国民がニヒリズムに陥りかねないという問題も含んで
おり、これはまさに国是に関する重大問題でもある。
文化とは、中西進によれば、心の世界に関する教養の総体のことだが、日本は間違いなく
「木の文化」の国である。わが国の「木の文化」については、小原二郎の「木の文化」
(1972年、SD選書)と「法隆寺を支えた木」(1978年、NHKブックス)に詳し
い。わが国は、スギやヒノキなどの針葉樹を中心に、その特性を生かした建築技術を発達
させ、さまざまな木工技術を蓄積してきた。それらの技術によって桂離宮に見られるよう
な美の極致とでもいうべき木造家屋も造ったが、そういうわが国の優れた建築技術は一般
住居のいたるところに生かされている。庶民の住宅でも実に美しく、畳や障子などといっ
たいになって心休まる居住空間となっている。そればかりではない。ご神木というものの
存在を見ても判るように、わが国民には木に対して「信仰心」とでもいうべき心情を育て
てきた。建物にしろ家具にしろインテリアにしろ、木には私たちの心を安らかにする力を
秘めているように思われる。
以上のような基本認識に立ち、私たちは、木材の付加価値を高めて、林業の復活を図ると
同時に、都市における不燃化を図るという目的から、平成24年、「一般社団法人・都市
防災不燃化協会」を設立して活動を開始した。国土交通省、全国自治会では木造密集市街
地の不燃化対策をはじめとして、「都市防災不燃化促進事業」の取り組みが始まってい
る。私たちは、そうした社会的ニーズに応えるために、正しい不燃化の知識と技術の普及
を図り、もって、より安心安全な環境整備に貢献していく覚悟である。そして、山を守
り、山村を守り、木の文化の復活を図って参りたい。
今日本列島は不気味な地殻変動が起こっている。大地震が現実的な驚異になってきている
のだ。大地震で一番怖いのは火災である。都市防災として建築物の不燃化に全力を挙げて
取り組まなければならない。 間伐材の付加価値を高めて、林業の復活を図ると同時に、
都市における不燃化を図ろうと する動きが具体化してきている。その動きが目指す「不
燃化木材」は、低層住宅の内装材としてそれを使うことによって火災に対して絶対安全な
「シェルター」を作ることができる。さらに、高層住宅、たとえば5階建てのマンション
とか10階建てのマンションとか、絶対に燃えない不燃化マンションを造ることができ
る。これらの「不燃化木材」は、 間伐材をかつらむきしてつくる集成材(合板)を使用する
もので、間伐材の付加価値が高ま り、林業が蘇る。今この不燃化木材が大きくクローズ
アップされてきているのである。是 非、不燃化木材の普及を図るとともに、全国のブロ
ックごとに不燃化木材木材の生産工場と山地拠点都市での間伐材の供給体制をつくりあげ
たいものだ。
2、 地域通貨 、新たな挑戦
地域通貨は、閉塞感に満ちた今の世の中を打開する起爆剤になるかもしれない。私そんな
感じを持っていて、わが国でも何とか地域通貨を根付かせたいと考えている。
「エンデの遺言」のあと、雨後のタケノコのように全国各地で地域通貨が誕生したが、私
の知る限り、成功例は一つもない。その原因はうまく流通しないことにある。うまく流通
しないために、経済的な力を持てない。お遊びといってはちょっと語弊があるが、まあそ
んなところだ。経済的な力を持つ、つまりそれが地域力の源泉になるためには、うまく流
通しないとダメ。うまく流通する条件として、私は、贈与の三角形といっているのだが、
農家と商店とNPO、この三つの間を流通しないとダメだと考えている。
もちろん、その三角形の頂点にNPOがあり、それが地域通貨を発行するし、全体的な 旗
を振っていく。なお、これは当然のことだが、NPOは、運営に必要な円は寄付を受け、
それで運営するのを原則とするというものでなければならない。運営に必要な円を地域通
貨と交換するというようなことはゆめゆめ考えてはならない。地域通貨は、法的にも、円
と交換できないものである。
贈与の三角形でいちばん大事なのは地域農業である。地域農業は市場作物と贈与作物を
作る。地域農業の担い手は、兼業農家や高齢農家,或はご主人が働きに出て行ってお母 ち
ゃんやおじいちゃんやおばあちゃんでやっているいわゆる三ちゃん農業であっても良
い。農は地域の基本であり、国の基本である。「祈りの科学」シリーズ(4)の第3章で
述べたように、農はただ単に食料を作っているだけでなく、国の精神を作っている。さら
に、中沢新一いうところの純粋贈与であることの意味は大きい。したがって、三ちゃん農
業などの家族農業はしっかり守らなければならない。しかし、地域農業の主力はやはり農
業法人と地域企業である。そして私が新しい企業形態としてその発展を期待しているのは
農を中心とした第六次産業である。したがって、第六次産業としての地域企業は、市場作
物のほか贈与作物も作らなければならない。贈与作物はもちろん地域通貨でやりとりがさ
れる。
ところで、道の駅は地域の交流拠点である。残念ながら今はそうなっていない。私は広
島で中国地方建設局長をやっていたとき、全国で最初の道の駅を作るとともに、建設省道
路局に働きかけて道の駅の制度を作ってもらった。私は、いわば道の駅の元祖であり、当
初から道の駅は地域の交流拠点にすべきだと考えてきた。そこが高速道路のサービスエリ
アなどともっとも違うところだ。したがって、私は、地域通貨の流通拠点は道の駅がいち
ばん良いと考えている。そして、道の駅は、市町村の指定管理者制度ではなく、市町村が
行うPFI又はPPPで民間企業が運営すべきだと考えている。民間企業が主導権を握る訳
だ。民間企業のノウハウと資金を大いに活用すべきだ。道の駅の運営に民間企業が乗り出
していけば、道の駅はこれから大きく進化していくに違いない。
市場作物の栽培には、人件費として円と地域通貨が支払われる。農村部に若い人が少な
いので、援農隊員というか助っ人を都市部から派遣する必要がある。道の駅の運営主体で
ある民間企業は、市町村やNPOの協力を得て、都市の中心商店街で青空市場を開くと良
い。もっと都市と農山村との交流が深まるだろう。援農隊員はきっと集まる。その人たち
には主に円が支払われるが、ある程度地域通貨で支払うことも考えねばならない。地域通
貨の割合が高ければ高いほど都会に売り出す市場単価は安くなる。つまり、地域通貨のお
陰で、市場競争においてコスト的に有利になるという訳だ。シャッター通りになっている
中心商店街の青空市場に多くの買い物客が集まってくるだろう。中心商店街と繋がりを
持った農家はそれなりに潤い、農業経営に余力が出てくるに違いない。農業経営に心配が
なくなるということだ。後は品質を良くすることに力を注げばいい。
商店もできるだけ多くの商品を地域通貨で売ることが望ましい。しかし、それを強要す
ることはできないので、商工会議所及び商店街組合の全面的な協力が必要だ。地消地産の
原則の元、農家で必要なもの、地域で消費するものはできるだけ地元でつくるように働き
かける。どうしても地元につくる人が出てこない場合は、商工会議所が中心になって,第
六次産業を興す必要があるかもしれない。 なお、ちなみに言っておけば、地産地消は生
産者の論理であり、こういうものを生産し たからそれを消費せよというもの。地消地産
は消費者の論理で、こういうものを消費した いからそれを生産しろというものである。
これからは電気も地消地産でなければならな い。地域で消費するから小水力発電など地
域で発電しようという訳だ。地域の自立のため には地消地産でなければならない。贈与
経済はそういうものだ。そして、贈与経済の中心 拠点は道の駅である。
3、サステイナブル・コミュニティ
川村健一という私の親しい友人が、小門裕幸と共著で「サステイナブル・コミュニティ」
(1995年11月、学芸出版)という本を出したのかなり前の話であるが、日本もよう やく市
町村に対してこの種の話ができる社会環境になってきたようだ。自治意識の高まりが少し
だけれど出てきたということだ。堺屋太一や佐伯啓思や浜矩子などの影響があるのかない
のかよく判らないけれど、国土交通省の意識もたしかに変わってきた。成熟化社会 とい
うか、、脱工業社会、脱物質文明の社会に向かっているという認識が広まりつつあ る。
嬉しいことだ。今こそ、私は、サステイナブル・コミュニティの重要性を声高に訴え て
いきたいと思う。では、以下において、「サステイナブル・コミュニティ」(1995 年11
月、学芸出版)の要点を紹介したい。
1 、アメリカはあり余る広大な国土の中で自然を克服して、常に豊かで質の高い生活を求
めて都市を形成してきた。価値観も宗教も違う多種多様な民族が自由と民主主義を共通の
アイデンティティとしてコミュニティをつくってきた。そのアメリカが、物質文明が進展
する中で民主主義の礎であるコミュニティが失われるという反省に立って、そして将来に
立ちはだかる資源の有限性や地球環境の維持という壁に気がついて、新しい町づくりを始
めている。
2、 今アメリカでは人間性に目指した半永久的に存続しうる町づくりの運動が起こってい
る。人に優しく、人とのふれあいのある人間性豊かな生活の場を提供し、コミュニティを
取り戻す。現代技術を生かし、伝統に根ざしたローカル技術も利用して、エネルギーの効
率化を図る。資源の無駄遣いをしない。生活に必要なものが身近で揃えられ、車を使わな
いで用がたせるようなヒューマンスケール(人間サイズ)のコンパクトな町づくりを作ろ う
としている。マイケル・コルベット、エリザベス・プラター・ザイバーク夫妻、ぴー た
ー・カルソープなどを中心として、問題意識に目覚めたアメリカの建築家は、近年のア
メリカの町づくりに疑問を提示し、地方公共団体の担当者を集めて、彼らの基本的な考え
を積極的に伝える努力を始めている。カルソープは86年の著書にサステイナブル・コ ミ
ュニティという言葉をはじめて使った。
3 、カリフォルニア州の州都サクラメントの南西約26kmに人口約4万6000人の デービス
市がある。このデービス市の一角にマイケル・コルベットの設計で新しい町が建 設され
た。ビレッジホームズである。ビレッジホームズは、81年に完成したニュータウ ンで、
敷地面積24万m²、住宅戸数240戸の、小さな町である。多くの樹木は落葉樹で あり、そ
の半分は豊かな果樹を実らせる。敷地内の自動車道は、通常の道路に比べて細 く、曲が
りくねっている。自動車道とは別に、歩行者用および自転車の道が町の中を縦横 に数多
く巡らされている。この町の特徴を列記すると、地域内での食料の生産、自然を生 かし
た排水システム、自動車道の工夫、多数の歩行者用・自転車用道路、広いパブリック ス
ペース。
4 、サステイナブル・コミュニティにはさまざまな特徴、或いはそれを構成している 要
素と言いうるものがある。これらは相互に重なり合うが、あえて次の七つを抽出した。
イ、アイデンティティ
そこに住んでいることが誇りになるようなコミュニティか。 象徴的な建物や広場、ラン
ドマークがあるか。 歴史や伝統を大切にしているか。 住民参加が促進されているか。住
民の意識は高いか。 住民同士の強い結びつきがあるか。
ロ、自然との共生
緑にあふれたコミュニティか。 自然との調和・共生を志向したコミュニティか。 コミュ
ニティ内での食料の生産が行われているか。 コミュニティの境界としての自然を考えて
いるか。
ハ、自動車の利用削減のための交通計画
自動車の使用を抑制する仕組みがとられているか。 より大きなネットワークとの調和が
とられているか。 歩ける程度の大きさのコミュニティか。
歩道、自転車道などが積極的に整備されているか。
道路の配置はクルドサックか、グリッドシステム化。それらの特徴を良く理解して利用し
ているか。
ニ、ミックストユース
生活する上でのさまざまな活動拠点を持っているか。 自己完結型コミュニティを志向し
ているか。 ひとつの建物の中に商住混在しているか。 集約されたコンパクトなコミュニ
ティか。 犯罪防止の効果も上がっているか。
ホ、オープンスペース
中心となるような、誰もが利用するような公的な広場があるか。 住民にとって魅力のあ
るオープンスペースがあるか。 コミュニティ内外の自然保護のためのオープンスペース
があるか。 コミュニティの境界をなす緑地帯等のオープンスペースがあるか。
へ、画一的でなく、いろいろな意味で工夫された個性的なハウジング
画一的でない個性的な家をつくる努力がなされてるか。 地域に根ざした技術や工夫をこ
らしているか。 エネルギー効率を考えているか。 さまざまな人が住めるような多様な住
宅のタイプが準備されているか。 町づくりに関して基本的なコードがコミュニティにあ
るか。
ト、省エネ・省資源
自然排水溝、水のリサイクル等、水の効率的利用を追求しているか。 省エネのための工
夫がコミュニティになされているか。 太陽エネルギー等、自然再生エネルギーが積極的
に利用されているか。
廃棄物などのリサイクルがなされているか。 エネルギー効率の観点から各建造物に工夫
が見られるか。
サステイナブル・コミュニティというのは以上のようなものである。私は、その理念や設
計思想には大賛成である。しかしながら、アメリカと日本は事情が違うし、日本の中でも
大都市と山地拠点都市でも事情が違う。 大都市の場合は、 問題が多すぎて、サステイナ
ブル・コミュニティというのはごく狭い一部の地域に限定されるように思われる。私のい
う「山地拠点都市」は、おおむね過疎に悩む山地の都市であり、自然には恵まれているの
で、贈与経済さえ導入できれば、サステイナブル・コミュニティの実現が比較的可能であ
る。「山地拠点都市」でいえば、サステイナブル・コミュニティは非現実的な話ではな
い。 問題は、地域の人々が「やる気」を出して地域通貨の問題と取り組むことができる
かどう かである。問題は「やる気」だけだ。財政的或いは制度的な問題はいっさいな
い。今こそ 立ち上がれば、過疎地域の都市、私は「山地拠点都市」と言っているのだ
が、過疎地域の 都市は見違えるように良くなる。十分サステイナブル・コミュニティを
つくることができ る。 理想は高く、現実は低く。私たちは、瞬間を生きる事が大事であ
る。行動の微分というか タンジェントが大事であって、理想を高く持ちながら、現実に
今何をやるべきかを考えね ばならない。できることを一所懸命やれば、自ずと道は開か
れてくる。一つの所に集中し て一所懸命やることだ。もちろん、その際大事なのはウ
ィジョン、つまり理想であって、 その理想というのはサステイナブル・コミュニティで
ある。
第4節 「美しい都市」を目指して
美しい都市を目指して、山地拠点都市が直ちにやらなけばならないこたとはななにか?
私は、上流の村落と一緒になって、おらが山の魅力を語ることだと思う。私は第1章で私
の感じる山の魅力を語ったが、地元の人は地元の人でおらが山の魅力を感じている筈だ。
それをいろん伝達手段を使って、それを語って欲しい。
山地拠点都市にはいろんな人に来てもらわねばならぬ。私たちもそうだが、人に見られて
おれば、もっと美しくならねばという気になる。街の修景に取り組むのはそれからだ。
山地拠点都市に抱くイメージは、その奥にある山のイメージだ。人びとは、その奥にある
山の魅力に惹かれて山地拠点都市にやってくる。だから、都会の人びとが実際にやってき
た時に、そういう人びとがガッカリしないように、山の生態系を良くしなければならな
い。 切り捨て間伐の問題の他にも、深刻な問題がある。それは、シカが増えて、山の生
態系が メチャメチャになっている山が少なくない。シカの駆除に自衛隊の出動要請を検
討する自 治体もでるほど、大きな社会問題になっているところもある。山の生態系を取
り戻すに は、いくつかの課題があるが、当面、シカの問題を解決しなければならないだ
ろう。ま た、山の生態系が崩れたためにクマの被害が増えている。山でのエサが少なく
なったため に里に出くるからである。この節の第1項では、まず最初に四手井綱英の考え
を紹介して おきたい。山の生態系を取り戻すためにはまず基本的に四手井綱英の思想に
したがってそ の再生を図るべきであると考えるからである。その上で、生態系における
現下のシカとク マの問題についてどんな動きがあるか、またそういう動きが功を奏する
かどうか、その点 に書いている。
山地拠点都市というのは、そこに定住する人も二地域居住でやってくる人も、また観光で
やってくる人も、山に入って行って、山の不思議な霊力に出会い、魂を震わせ、野性の感
性を磨くのである。したがって、上述のように、 人びとは、その奥にある山の魅力に惹
か れて山地拠点都市にやってくる。その場合、山地拠点都市が「美」に満ちていれば、
やっ てきた人々の感動は大きく、交流人口や観光客の高い評価を獲得できる。このこと
は山地 拠点都市が「自立的発展」をする基本的要件であり、山地拠点都市は積極的に街
の修景に 力を入れなければならない理由がある。しかし、「美」についてはなかなか奥
が深く、街 の修景といってもそう簡単なことではない。第2項の「街の修景」では、私の
景観哲学を しっかり語ってみたい。
1、山の生態系の復活
四手井綱英が著書「森林はモリやハヤ シではない(2006年6月10日、ナカニシ 出版)」で
明確に言っているが、スギやヒノキの根は下に張らずに横に張るので災害が起 こりやす
い。四手井 さんの考えは、集中豪雨の被害を少なくするには、深く根を下ろす
広葉樹と混ぜるとか、また崩れても山の中だけの被害ですむように、川岸の数百メートル
上まではスギやヒノキを伐採して広葉樹に改修していくなどの対策を立てるべきだという
ことである。私は、四手井さんの考えにもとづいてそういう改修を至急実施 していくべ
きだと考える。
そしてさらには、スギやヒノキの人工林の未間伐区域は早急に間伐を実施すべきであ る
と考えているし、また現在広く行われている切り捨て間伐については、森林の生態系か
ら見て好ましくないと考えている。これらの点については、四手井さんは本の中で何も
言っておられないが、まあ行政的にはいろんな議論があるのであろう。しかし、私 は、
森林生態系の観点から、まずは専門家の大いなる議論が必要ではないかと思う。四手井さ
んも言っておられるように、森林は林業のためだけにあるのではない。動物や虫のこと
も考えねばならないし、災害のことも考えねばならないし、エネルギー資源のことも考え
ねばならない。林野行政では、是非、そういうことを考えて欲しい。
さて、管理主体の問題であるが,四手井さんは上記著書の中で、次のように言っておら れ
る。すなわち、 『 西ドイツやスイスなどでは、谷ごとにどういう森をつくるかという林
業計画が作られ、民有地の植林計画にも営林署が加わっています。それに比べわが国の場
合、70%の 民有林に何を植えるかは 所有者まかせです。植林には低利の貸し付け金が出
ます。植える 樹種によって金利を変えるとか、天然更新で森をつくったらどうすると
か、その気になれ ば何ら かの方策が立てられるような気がします。』・・・・・と。
日本の場合は、たしかに所有者まかせで、維持管理についても多くの所有者は何もせず、
森が荒廃の 一途を 辿っている。大問題ではないか。 また、管理主体の問題だけでな
く、現在の山はスギやヒノキの人工林が多すぎるとい う問題がある。四手井さんは上記
著書の中で 、次のようにも言っておられる。すなわ ち、
『 (林野庁は)人工林に よる森林管理だけを林業と思い込み,ついに1000万ヘク タールと
いう日本の森林面積の40%を超える人工林を造ってしまったが、これは優良林地を造る
ということには著しく問題である。日本の森林面積で、人工造林として良い 森林ができ
るのは森林土壌から考えてせいぜい25%までである。』・・・・と。
私は、奥山を中心に択伐をすすめ、日本の森林を・・・生態系豊かな・・・縄文時代から
連綿と続いてきた・・・本来の森林に戻していかなければならないと思う。私たちは今こ
そ 四手井さんの言っておられることに真剣に耳を傾けなければならない。
四手井さんは上記著書のなかでおっしゃっている。森林とは単なるモリやハヤシではな
い。頂上までぎっしりと森林に覆われた山のことである。そこには、本来、神がおられる
のだ。私は、そういう森林の生態系を人工林で壊してしまうことは神を冒瀆する以外の何
ものでもないと思う。早急に奥山を本来の森林に改修しなければならない。
本来の森林とは人工林でなく、伐採後も天然更新でなければならない。植林をしてはなら
ないのだ。 問題は伐採の費 用とその費用負担の問題だが、私は、現在の間伐に対する助
成制度をも とに若干の見直しをすれば良いのではないかと考えている。
なお、念のため言っておくと、奥山林業のあり方としては、天然更新が原則で手入れは
しないのである。管理費が要らないということだ。木が大きくなってくる と、もちろ ん
用材としての価値が出てくるので、一山いくらで買いにくる人が出てくる。そのときに
売れば良いのである。要するに、奥山は財産として持ってい て、買い手がついたときに
売れば良いのである。四手井さんの考えによれば、それが本来の奥山林業であって、低林
林業とはそもそも考え方が違うべきなのである。もちろん低林林業も、人工更新を行わ
ず、萌芽更新を原則とする。したがって、奥山林業も低林林業も、現在のスギやヒノキの
人工林を、択伐を進めながら逐次広葉樹との混合林に切り替えていく訳だが、伐採後の人
工植林という考えを捨てなければならない。そうでないと森林生態系は本来のものに戻ら
ない。山は良くならない。それが四手井さんの考え方だ。 森林生態系の問題について、
エコロジカルネットワークという考え方があるので、次ぎに これに触れておきたい。
ヨーロッパでは野生生物の生息空間をネットワークで結んでいこうという動きが活発で
ある。一九九二年のハビタット指令というのがある。ハビタット指令にもとづ き、加盟
国十五カ国がヨーロッパとして一つの考え方に基づいて野生生物の価値の高い生息空間と
いうものをそれぞれ法的に保護していこうという大きな運動が 進んでいる。民間組織に
おいても、Eエコネット、ヨーロッパ・エコロジカルネットワーク構想というのがあるよ
う で、これが大変大きなうねりになっているようである。
一 九九二年の地球サミット、そしてそのとき決められましたアジェンダ21。そして先ほ
どの生物多様性条約。そういった一連の動きを見るまでもなく、これからの時代という
ものは自然再認識の時代である、そういうしっかりした認識に立って、生態系保護にかか
わる国民的な運動を今後展開していかなければならない。 私たち日本人もヨーロッパの
人々に負けないように、自然に対するしっかりした認識の上に立って、環境先進国の仲間
入りをしていかなければならぬ。
平成七年十一月に、財団法人日本生態系協会主催の、「生態系の危機、挑戦と課題」とい
うテーマでエコロジカルネットワー ク・シンポジウムが開かれた。
シンポジウムにおいては、日本生態系協会の池谷奉文会長が、我が国の生態系がどういう
危機的状況にあるのか、縷々、話された。
そして、そのシンポジウムにいては、オランダのグラハム・ベネットさんという方とドイ
ツからはヨーゼフ・プラープさんという方が、ヨーロッパにおけるエコネット発展の経緯
と現状、そして実践上の課題という講演をされ、私たちは大きな刺激を受けたのである。
爾来、財団法人日本生態系協会は日本にも「エコロジーネットワーク」をつくりたいと旗
を振っておられるが、今のところあまりうまくいっていない。私は、是非、「エコロジー
ネットワーク」の実現を図りたいと思っている。
その際、私としては、「エコロジーネットワーク」を進める中で、狼や熊などの大型動物
の棲息しうる古代の自然環境に少しでも近づけたい。そして狼や熊との共生を図りたいと
は思っているが、これはなかなか難しい問題かもしれない。 狼については「日本オオカ
ミ協会」という立派な組織があって、狼の放獣を目指しておら れるが、はたしてどうな
るやら。今後の成り行きが注目される。 米田一彦さんをはじめ熊の研究者は少なくない
が、熊の被害は依然として後を絶たず、大 きな社会問題になっている。したがって、民
主党では、「ヒトとクマの共生プラン」とい うものを策定しておられるのでここに紹介
しておきたい。
http://www.murai.tv/jisseki/2006/kuma.pdf
なお、ここでは、北海道の丸瀬布というところで、熊の研究と狼の研究をやっている私の
息子・岩井基樹を紹介すると同時に、オオカミの放獣に対する彼の意見を紹介しておきた
い。彼はオオカミの放獣には反対なのである。
http://www.us-k.net/wildlife_brownbear/10essay.html
オオカミの再導入に関する岩井基樹の意見(ある環境保護関係者からの問い合わせに対して の意見
書、 2012/07/15)
オオカミに限らず、生態を移入する場合には、原則的に次の三点から予測・考察をおこなう必要があ る。
1.移入生物の拡散可能エリアを含め、生態系への影響(効果と副作用) 2.動向把握・管理と、不測の事態が起
きたときの駆逐方法 3.エリア全体のヒトの受容可能性と被害の補償
そしてさらに、エゾオオカミの場合は、4として、 4.北海道に生息したエゾオオカミと海外からの移入個体
群は同一か?という問題がある。
1については、 拡散範囲を含めいろいろな予測が成り立つが、信頼できるシミュレーションがなかなか成り
立たな い。それは、オオカミがヒグマ同様高知能で、学習によって その環境に適応した生活パタンを獲得
するからでもある。海外の、北海道と同様の気象・植生・地形の環境下での事例から推定するのでは 不十
分で、そのエリア に暮らすヒトの暮らしや意識・知識・技術のありようによって、オオカミの 動向は変幻
自在に変化するだろう。 したがって、「予測困難」という前提で、2を考える必要がある。
シカの生息数調整の機能がオオカミ移入の原動力の一つとなっているようだが、これに関しては、 信頼に
足らない。一見もっともらしい理屈で、その効果が まったくないとも言えないだろうが、効 果が乏しいの
ではないだろうか。シカの数は積雪パタンや植生が制御しうるが、はたしてエゾオオカ ミはそんなに劇的
に シカの数をコントロールしていたのだろうか、そこに多少の疑念がある。例え ば、古くから研究が行わ
れている北米・ロイヤルアイランドのオオカミとムース・ 植生の関係の研 究データからすれば、オオカミ
がシカの生息数をコントロールするのではなく、シカがオオカミの生 息数をコントロールするという事実
が浮き彫 りになっている。(ロルフピーターソン)
また、オオカミによるシカの生息数調整効果は、「銃器などによるシカ駆除がおこなわれない」と いう前
提でいくらかは効果が期待できるものの、現実的に は、シカが現在のように駆除されている 北海道では、
ほとんど効果が現れないと予測できる。つまり、銃器による捕獲では、必ず一定レベル の回収不能個体が
生 ずる。手負いで逃げてどこかで倒れるシカや、怪我をしたまま動けないシカな どが、相当数出てしま
う。そのエリアのハンター・猟友会の意識・性質にもよる が、あるエリアで は、ベテランハンターがライ
フルで100発の弾丸を使い20頭のシカを捕獲し、初心者は150発のス ラッグを発射し3頭のシカを年間に捕
獲した事例がある。この数字から、この二人が何頭のシカのど こに銃弾を撃ち込み、どれほどのダメージ
を負わせたかは読めないが、ファジーながら相当数のシ カが手負い個体となり、人知れずどこかに倒れて
斃死したと推察できる。実際にヒグマの調査をして いて、銃弾によって死んだと思われるシカの死骸に遭
遇する ことは多く、現在のところそれらのシ カの一部はヒグマが利用しているものの、仮にオオカミを放
獣すれば、オオカミがシカ死骸をヒグマ と競合する可能性が高 いだろう。つまり、銃弾によって負傷もし
くは死亡したシカをオオカミは利 用する率が、おそらく非常に高くなるため、オオカミによるシカの個体
数調整効果は ほとんど現れ ない、というのが私の考えだ。
また、上の数の調整効果を考える場合には、現在なら死なないはずのシカをオオカミが何頭殺すか という
ふうに考えなくてはいけないが、ひと冬の積雪が平年 並みでも12月に爆弾低気圧なる集中積 雪がある年
は、春を待たずに手づかみできるようなフラフラのシカが見られ、春先に死ぬシカの数も かなり多くな
る。シ カの越冬地への移動という現象は、北大雪ではほとんど私には感知できない。
2について、放獣される第一世代のオオカミには、当然ながら GPS発信器が装着されるべきだろう が、も
し仮に自然繁殖を前提とすれば、北海道の環境でオオカミの交尾期は2月中旬と考えられ、放 獣翌年4月に
は子オオ カミが3 8頭前後誕生する。子オオカミの成長は著しく、半年で約35kg程度 に達するだろう。ま
た同時に、オスの場合は完全に成長しきるまでに数年を要す る。自然繁殖に よって生産された個体に、ど
の段階でどのように発信器をつけるかが問題だが、巣穴にいる子オオカ ミというわけにはいかず、また、
成長個体の 活動場所を特定し、ピンポイントで捕獲することも、 オオカミの警戒心・知能そしてテリトリ
ーの広さを考えれば困難と言える。(たかがヒグマ一頭、ピ ンポイ ントで捕獲できない状況が北海道では続
いている)エアリアルハンティングの手法も、用い ることができない地形・植生が北海道には多い。
以上から、第一世代以降の個体に関して、持続的に動向を把握することが困難になるのは必至だろ う。ど
の範囲に何頭のオオカミがどのように生息しているかわからない状況が生じると思われる。
したがって、考えられる策は、自然繁殖を回避した放獣ということになるが(オスの去勢またはメ スの避
妊)、となると、自然死個体の可能性も含め、持続的 なオオカミの補給が必要になる。とこ ろが、経費・労
力以上の問題として、そういった新規個体が在来のパックに受け入れられるかどうか が疑わしく、単独個
体 率が高いとなると、大型獣のシカではなく、他の中・小型ほ乳類等への補食 圧が高まり、同時に家畜へ
の被害率がカナダやフィンランドより高くなる可能性も十 分にある。
また、仮にパックに馴染んだとしても、従来のオオカミの社会学に沿った行動とはかなりズレが生 ずる可
能性が高い。オオカミの生活史で、繁殖(交尾・出 産・子育て)の要素のウェイトは大き く、それ抜きでオ
オカミのパックがどのように振る舞うか、対外的にも(パックの)内部的にも十分 研究されていないた め、
さらに予測困難になる。
3に関して、 特にオオカミのような大型肉食獣の放獣では、農業被害(酪農)、ペット動物への被害に加
え、死 亡事故も含む人身被害まで想定する必要があるが、近年、ヒ グマの有害捕獲数が増加し、また中型
イヌ属のキツネやタヌキの駆除も高止まりしている北海道の現状からすると、野生動物との共生の思 想が
浸透しておらず、 オオカミの放獣に対して道内のヒトの受容力は準備段階にも達していないと言 わざるを
得ない。 環境保護・調和そして野生動物との共生などには無関心な平均的北海道の人々とは別に、海外の
例 から事実本意に許容ラインを示唆するとすれば(データは他人の論文を使うが)、次のような視角が あ
る。 カナダ,アルバータ州では1982-1996年の14年間に1633頭のウシがオオカミの被害にあった(知 床博
物館研究報告Bulletin of theShiretoko Museum 27: 1..8 (2006)「知床に再導入したオオカミ を管理できる
か」米田政明)。この116頭/年という数字を北海道に適用するわけにはいかないだろ うが、多さとい う点で
は十分参考にすべき数字だろう。 また、オオカミの犬への攻撃性は高く、フィンランド全土に生息する
100頭ほどのオオカミが、 1996-1999年の4年間に65回イヌを襲ったと報告 されている。(犬の被害:14頭/
年)すべての犬 は、現在オオカミの一亜種とされているが、オオカミのパックのテリトリアルな気質・習性
がこの高 い犬への 攻撃性に結びついているものと考えられる。(そこがヒグマと異なるところだろう) さら
に、オオカミはヒグマ同様、無闇にヒトを襲う動物ではないが、状況によって攻撃性あるいは じゃれつき
に近い行動も現れる場合があると考えられ、人身 被害のレベルはヒグマの人身被害と比 較しうるレベルに
ある。カナダでは1969-2000年の32年間に子供が重傷を負った3件を含め,18件 のオオカミ による人身事故
が起きたことが報告されている(0.56人/年)(米田)。
その他、自然繁殖を前提とした放獣の場合、簡単に予測できることは、道内各地に存在する野犬と の交雑
だろう。先述したように、すべてのイヌはオオカミの 亜種にあたり、交雑は容易に成立す る。いわゆる狼
犬となった個体は、総じてオオカミよりもヒトに対しての警戒心が小さく、ヒトとの 距離が小さくなる可
能性 が高い。結果的にその交雑個体あるいはそれを含むパックはヒトを攻撃し やすいと考えられ、むしろ
人身被害・ペットへの被害などを増やす方向に傾くことが、 比較的高い 信頼度で予想できるのではない
か。(オオカミは基本的にヒグマ同様ヒトから逃げる。噛むのはイヌ のほうだ)
※カナダにおける交雑は深刻化しており、先年「黒いオオカミは過去にイヌと交雑した可能性が高 い」と
いう内容の科学論文が発表されたばかりだが、アラスカ におけるオオカミによる人身被害 と、交雑の進ん
だカナダにおけるその数と、私自身は差異があると考えている。データを持ち合わせ ていないので、チェ
ックし てもらいたいが、仮に上の私の経験に基づく推論が正しければ、純粋な オオカミが生息するアラス
カでは、人身被害件数がカナダより低いレベルにあると思う。
4に関して、 現在の比較的進んだ認識からすれば、同じ北海道であっても、別エリアの個体群は別に扱う
のが普 通になっている。 (例:イトウ、サクラマスなどの魚類。昆虫類など)その観点で言えば、生物の 分類
学的なエゾオオカミという種で括って「同じ」とするのは、少々乱暴に思わ れる。分類学は、あ る意味分
類のための学問であり、機能系(エコシステム)のパーツとして厳密に等価なものが同種に 含まれるわけでは
ないと私は思う。 ただし、エゾオオカミであろうが北米のオオカミであろうが、アイリッシュウルフハウ
ンド(オオ カミ狩り用の犬)であろうが、自然に放せば、それぞれ近似 的に従来のエゾオオカミの役割を生
態 系で果たす、つまり、一定レベルでシカを補食し、一定レベルでウシやイヌやヒトを襲うことになる と
思う。この近さ(近 似性)を最大限に高めたければサハリンか国後あたりのオオカミということ になるだろ
うし、シカに対する効果を最大限に求めれば、おそらく、放獣する動物に も異なる選択 がある。この「近
似的に」という部分を抜きに「北海道の生態系の復元」というような論調を輝かし く言うのは語弊もしく
は作為がある。
私自身は、海外からのオオカミ移入では、それがどこの地域からでも外来生物という認識をしてい る。同
時に、野生動物や毒昆虫、あるいは雪や雨や重力や河 川によってヒトが怪我をしたり希に死 亡したりする
ことを一定レベルで容認すべきと考えている。私自身のバランス感覚からすれば、オオ カミによる人身被
害率 が高いとは決して思えないが、それが人為的に放獣される外来種だとすれ ば、放獣主体・許可機関に
科せられる責任は重大だと思う。
1 4への私なりの考察をおこなったが、仮にオオカミの放獣によってエゾシカの生息数調整の効果 が一定レ
ベルで期待できたとしても、そのほかの点で、少なくとも現在、オオカミ放獣の段階ではな いと結論され
る。
蛇足なるが、私はオオカミが好きだ。アラスカで暮らして、圧倒的な存在感があったのがヒグマ。 オオカ
ミはちょっと親近感が湧く。以前、ヒグマ恐怖症だっ たから、余計にオオカミにすがるよう な気持ちも湧
いた。だから、恐怖症がなくなった今でも、私の暮らす谷にヒグマと共に生き残ったオ オカミのパックが
うろ ついていたらどれだけ嬉しい気持ちになるかとも想像するが、それは、ヒグ マの活動やオオカミ放獣
とは別の次元の話。私個人のローマン的、空想的、情緒的問 題だ。アラス カの原野で何度となくオオカミ
のパックに遠巻きに囲まれ眠りについたこともあり、その緊張と弛緩 の心地よい印象が今でも忘れられな
いが、その 感覚を味わいたければ、またアラスカの原野へ行け ばいい。申し訳ないが、オオカミ放獣の議
論は、ちょっとしたオオカミフリークが私欲で宣っている ようにさ え感じるときがある。特に3に関し
て、蒙昧な観がある。つまり、もし仮に真剣にオオカ ミ放獣を狙うのであれば、ヒグマとヒトとの共生を
進めることに専念す べきのように思う。ここを 解決しなければ、すべては座礁するだろう。それくらい、
ヒグマの問題は現場性があり、オオカミの 問題はおとぎ話の出来事のように 思われる。北海道のヒトのこ
ころ・意識の状態がどういうふうか は、ヒグマとヒトの間に立って現場でたった3年でも活動してみれば、
オオカミフリークにも理 解で きると思う。
私が狼犬をベアドッグに仕立てたのは、オオカミ好きだからではなく、現在、ヒグマに対抗すべく 私が持
ちうる犬を考えた場合、狼犬以上に高性能な相棒が見 当たらなかったからだ。コントロール さえできれ
ば、この犬ほど知能・運動能力ともに高く、対ヒグマ作業で機能する犬は存在しないと結 論づけたから
で、これ に関してはローマン・情緒ではなく、あくまで冷静な分析と考察・判断から ではある。(立証はい
まやっているところ)
以上のように、山の生態系を回復することはたいへん難しいようだ。本来、奥山の生態系
が良くなってはじめて山地拠点都市が美しく輝いてくるのだが、それは当面諦めざるを得
ない。クマは、人間側が十分注意すれば、被害を受けずに済む。したがって、私として
は、奥山の改修という問題については、「切り捨て間伐」をなくすことに重点を置いてゆ
くこととしたい。
2、「美」とは?
美しいということは、心の問題でもあり、その概念は広い。しかし、ここでは美しい都市
について述べる前に、その背景となる景観哲学を含めて「美」というものについて少々考
えて見たい。
(1)景観哲学について
世界の人々に来てもらって、恥ずかしいと思う点は何か? いろいろあると思うが、私が
いちばん恥ずかしいと思っているのは、私たちに宗教的な生活というもの が希薄だとい
うことと景観の著しく損なわれているところが多いということだ。私は先に、< 「神々
の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してき ているといって間違いない。
その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。
すべての環境問題の起点はここにある。自 然のなかに神を見、その自然と謙虚に対座
し、自然の恵みに感謝するという日本人の自然観・民族モラルが揺らぎ、衰えてきている
のである。>・・・・という 野本寛一の認識を紹介したが、彼のいうとおり、日本人の
近年における「神」の衰微は著しく、そのことが景観問題にも悪影響を及ぼしている。
景観問題を矮小化してはならないのである。』・・・・と申し上げた。
では、「古層の神」が景観問題とどのように関係してくるのか? 「景観10年、風景 100
年、風土1000年」という言葉がかって流行ったが、この言葉はもともとは風土工学の 先
駆者・佐々木綱が言い始めた言葉で、そういう題の本も出ている(佐々木綱、 巻上安爾、
竹林征三、広川勝実、神尾登喜子の共著、1997年11月、蒼洋社)。 「景観10年、風景100
年、風土1000年」というのは誠に言い得て妙な言葉だと思うが、ちょっと歴史的認識が
足りないように思う。鶴見和子がいうように、歴史が進化 や段階を経ると見るのではな
く、古いものの上に新しいもの が積み重なっていくと見る 視点(「つららモデル」)は誠
に大事であって、歴史的に日本の風景を語る場合、万年前 の風景まで遡る必要があるの
ではないか。かかる観点から「何とか万年という場合、何といえばいいか?」、その点を
中沢新一にちらっと聞いたことがある。その時、中沢新一は 即座に「精霊(スピリット)」
と言った。彼はそれほど深く考えずに直感的に言ったの だけれど、私は、これこそ言い
得て妙な言い方だと思う。「 景観10年、風景100 年、風土1000年 、精霊万年」
・・・。 いいですね。
風景には、「現実の風景」と 「風土に根ざした風景」と「精霊に根ざした風景」がある
というのが私の考えだ。盆栽や 箱庭などの縮景や見立ては、 実際に見えるものの奥に、
それよりさらに意味のあるもの を感じ取ろうとするものである。「現実の風景」から
「風土に根ざした風景」を感じ取 る。これは文化 の問題であるが、さらに「現実の風
景」から「精霊に根ざした風景」と いうか「古層の神」を感じ取ることができれば、ハ
イデガーのいう「投企」が始まるかも しれない。もしそうなれば、そこから新たに自分
を捉えなおし、新たな生き方を始めるこ とができる。これはもう単なる文化を超えた問
題である。風景と景観、 風景と風土、風 景と精霊、これらの問題は極めて大事な問題で
ある。
(2)景観問題は何が問題なのか?
景観問題は大変重要な問題だが、具体的に何が問題なのであろうか? 立法上の問題や司
法上の問題もない訳ではないが、ここでは行政上の問題として景観問題を考えることにし
たい。 美しい景観や風景は国民の財産である。それらを公共財といっていいかどうかわ
からない が、公共的な性格を持っていることは間違いない。したがって、美しい 景観や
風景を守 りまたは創りあげて行くことは行政の責任である。もちろん地域住民と行政と
の役割分担 というのはあるけれど、両者の繋がりがうまくいってい ないと良い行政は行
ない得な い。現在、私の見るところ、行政側に景観問題の認識が希薄であるし、地域住
民と行政と の繋がりも脆弱である。行政側に景観問題 の認識が希薄であれば、景観問題
に関する地 域住民と行政とのコミュニケーションがうまくいかないのも当然であり、私
は、景観問題 を煎じ詰めて行けば、結局 は、景観に関する行政側の認識が希薄であると
いうことに帰 するように思われる。なぜ、景観に関する行政側の認識が希薄なのか? そ
こを皆さんに も是非考えて欲しい。私も行政側にいた人間だが、行政側の言い分もあ
る。景観についてしっかり勉強したいのだが、土木系の学生に景観や風景のことを教える
人もいないし、 教科書もない。私に言わせれば大学というか学者がさぼっている。
佐藤康邦と安彦一恵との共著に「風景の哲学」(2002年10月、ナカニシヤ出 版)という本
がある。「風景」について実に多数の著書が刊行されているが、 総合的な見方に欠けて
いるので、哲学としてその足らざるところを考えて行こうということで、この本を出版す
ることになったのだそうだが、私はこの本を読ん ですっかり考え込んでしまった。「風
景」について実に多数の著書が刊行されているのに何故総合的な見方が欠如 しているの
かということと、そういう問題意識 から書かれた筈の「風景の哲学」という本ですら総
合的な見方が欠如している、それな何故なのか? 私はがっくりしてしまっ た。こりゃも
う病膏盲だなあとい う感じである。
安彦一恵は、景観の善し悪しは好き嫌いの問題であるというようなことを言っている
が、何を寝ぼけたことを言っているのかと思う。哲学かなんか知らないけれど、難しい
ことをひねくり回して、景観の善し悪しは好き嫌いの問題であるという結論を導きだして
いる。しかし、その結論は間違っている。景観とか風景とい うものは、よほど感性を磨
かないと「目利き」はできないのであって、画家や音楽家や詩人の感性に学ぶべきはもち
ろんのこと、芸術人類学的に学ぶところも 多々あるのである。
先にも申し上げたが、『 風景には、「現実の風景」と「風土に根ざした風景」と 「精霊
に根ざした風景」があるというのが私の考えだ。盆栽や箱庭などの縮景や見立ては、実際
に見えるも のの奥に、それよりさらに意味のあるものを感じ取ろうとするもの である。
「現実の風景」から「風土に根ざした風景」を感じ取る。これは文化の問題である が、
さらに「現実の風景」から「精霊に根ざした風景」というか「古層の神」を感じ 取るこ
とができれば、ハイデガーのいう「投企」が始めるかもしれない。も しそうなれ ば、そ
こから新たに自分を捉えなおし、新たな生き方を始めることができる。これはもう単なる
文化を超えた問題である。風景と景観、風景と風土、 風景と精霊、これらの問題 は極め
て大事な問題である。』
実際に見えるものの奥に、それよりさらに意味のあるものを感じ取ることができるか ど
うか。そこが問題だが、知識や感性によって見方が変わって来るというの は、景観や
風景の場合も見立てなどの場合も同じであろう。かかる観点から「見立て」に関する森岡
正博の説明をここに紹介しておきたい。「見立て」は作為が強く、景観や風景とは同列
に論じられないが、ものの感じ取り方については知識と感性が関係するという点を私は言
いたいのであって、安彦一恵のように、景観や風景の善し悪しを好き嫌いの問題で済まし
てもらっては困るのである。森岡正博が「見立ての論理学」というページで言っているよ
うに、観察者の力量が関係して来る。
http://www.lifestudies.org/jp/mitate.htm
彼は言う。すなわち、 『 観賞者が見立て絵の前に立つ。観賞者は、その絵の中に描かれ
ている絵柄を認知す る。彼はこの絵が「見立て絵」であることを知っているので、絵の
中に後景を暗 示する 何かの手がかりがないものかどうか、調査する。調査をしているう
ちに、絵の中の白象が 「普賢」を暗示していることに気付き、彼は一瞬にして前景の遊
女の姿に後景の普賢を 重ね焼きにして見ることができるようになる。こうして彼は、遊
女の絵を、普賢を見立て た「見立て絵」として観賞できるのである。 このように、見
立て絵の観賞とは、制作者が絵の中に仕掛けた「掛け橋」を手がかり に、目の前に描か
れた前景をとおして、後景を自らの力で「発見」してゆく という能動的 行為である。見
立て絵の観賞プロセスでは、この「発見」という契機が重要なものにな る。絵の中に仕
掛けられた掛け橋と、その背後の後景を自分 の力で発見したときはじめ て、観賞者は前
景をとおして後景を透かし見ることの快感と満足を真に得ることができる のである。
この構造を別の視点から見てみよう。観賞者は、絵の前景の中に「掛け橋」を発見す
る。その瞬間、彼の想像世界の中には、その背後に隠されていた後景があり ありと立ち
現われる。これはちょうど、水を詰めこまれてぱんぱんに膨れあがったゴム風船に、針の
先でちょっと穴を開けたとき、その穴から水が勢いよくこち らに溢れ出てくる様子に似
ている。すなわち、絵の前景に「掛け橋」という通路を一点開いたとたん、その通路を
伝って、後景の意味世界が洪水のように観賞者 の想像世界の中へと溢れ出してくるの
だ。 この、前景に穴を開けるとむこうから何かがやってくる、降りてくるという構造
は、見立 て絵にとどまらず、芸術作品 一般が共有している普遍的な構造であると思われ
る。
では、前景の中に掛け橋を発見し、その背後に後景を発見してゆくという、観賞の 「能
動性」の本質はいったい何であろうか。それは、目の前にいま与えられて いるものを踏
み台にして、いまここに存在しないものの方へと羽ばたこうとする精神である。すな わ
ち、<いま・ここ>に縛りつけられた自己の限界性を一瞬解き放って、いま・ここに はな
い世界へと飛翔し、自分が体験したことのないもの、あるいは今後も決して体験でき な
いようなものを、想像世界の内部で仮想体験 しようとする精神である。目の前にない も
のを見、聞こえない声を聞こうとする精神こそが、見立て絵を存立させる原動力であ
る。
もちろんそれは、単に「見立て」だけが持っている論理構造ではなく、広く芸術作品 一
般に見られるものである。人々が、見たこともない異国の情景や、神々の 姿を絵画に 描
いてきのは、いまここで見えないものを何とかしていまここで見てみたいという願望が
あったからだろう。ただ、見立ての場合は、その構造がもう 一段複雑になっている。つ
まり、そのような情熱によって形象化された絵では満足せず、その絵の背後に、さらにも
う一枚の絵を見ようとするからであ る。』・・・・と。
何度も言っているように、 風景には、「現実の風景」と「風土に根ざした風景」と 「精
霊に根ざした風景」があるというのが私の考えだ。「現実の風景」の奥に「風土に根 ざ
した風景」や 「精霊に根ざした風景」という見えにくいが文化的に意味のある風景を 感
じ取る、その感じ取り方というものは見る人の力量次第であって、一般的な観光客には
然るべき説明が必要だ。 しかし、地域文化の担い手でもある 地域の人々は、専門家の助
けを借りながら、地域の歴史を勉強し、知識を増やしながら芸術的な感性あるいは芸術人
類学的な感性を養うための訓練が必要であ る。大変だが、地域で生きるということはそ
ういうことだ。そういう地域の人々の生き様というか「イデア」がプラトンのいう生成の
場「コーラ」に作用し、そ れがまた地域の人々生き様に跳ね返る。そういう相互の響き
合いによって、「風土に根ざした風景」と「精霊に根ざした風景」はさらに奥行きを増し
て行く。そ れが地域文化の成熟というものではないか。そういう地域の人々の生き様を
行政は支えなければならないのである。勉強不足というか力量不足なるが故を以て, 行 政
が地域住民の足を引っ張っぱる、そんなことが絶対にあってはならない。
前に少し「コーラ」について勉強したことがあるが、理 解不十分なまま今日まで来て し
まった。「コーラ」は「場所」のことであるが、「イデア」はそれに働きかける主体で
あろう。オペラでいえば主役歌手である。 私の理解では、「コーラ」はその背景で歌う
コーラスみたいなものであって、中沢新一流にいえば「後戸の神」と言って良いかもしれ
ない。「コーラ」(場所) についてはオギュスタン・ベルクの「風土学序説」という良 い
教材がある。オギュスタン・ベルクの「風土学序説」にしたがってさらに突っ込んだ勉
強をしたことがあり、それをここに紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/keikan00.html
3、街の修景
オギュスタン・ベルクは、風景のなかにコーラが象眼(ぞうがん)されていると言ってい る
が、この文面の意味としては、一般的には何でもない風景のなかにコーラという大変な
意味をもった哲学的に誠に重要なものが嵌め込まれている・・・という意味であろう。
「おもむきにしたがってその場所が変化して行く、その作用」は、「コーラ」の本質から
いって、人々という主観的な力と場所という客観的な力の両方に起因する。 主観的な力
を働かせるとき、その場所の場所性(歴史性とトポス性)の重要性を十分認識していなけれ
ばならない。場所をして語らしめよ!
しかし、「場所をして語らしめよ!」といってもそう簡単なことではない。場所をして語
らしめようとする人物の力量によるからだ。多くの要素が絡み合って、華厳の世界といっ
て良いかもしれないが、複雑な関係が出来上がっている。その関係が風土のおもむきをつ
くっている。歴史的なおもむき、自然的なおもむきである。宗教的なおもむきというもの
もあるかもしれない。これは知識もさることながら感性の問題でもある。第六感というか
直感が働かなければならないかもしれない。これは人の力量の問題だ。場所は人の力量に
応じて何かを語り始める。大きく打てば大きく響くのである。
風景と景色と風光とは、まあ同じようなもので、そこに風土的な「おもむき」があると
いってよい。景観は風景の外観的な側面をいっており、風土的な「おもむき」はない。
オギュスタン・ベルクは、「風土学序説」のなかで、「風景は風土(エクメーネ)の展 開
である。」・・・と言っている。 そしてまた、景観については「自然科学の視点から、
環境の形態を考察して、この対象を<景観>と呼ぶことができる。」・・・と言ってい
る。
「風景には風土のおもむきがあり、景観には風土のおもむきがない。」
プラトンの「コーラ」やオギュスタン・ベルクの風土学を十分意識してどのように景観問
題と取り組むのか、そこが問題で、そういう問題意識から私は、今、私なりの「景観哲
学」を語っている。間違いも多かろうと思うが、気のついた時点でそれは訂正するとし
て、以上のような哲学を背景として、ともかく実践活動を始めようと思う。歩きながら考
えるという訳だ。
「なおしや又兵衛」という会社の都市の修景に使えそうなユニークな技術がある。このよ
うな技術は他にもあるかもしれないが、私は、「なおしや又兵衛」のこの技術を使えば、
「山地拠点都市」の修景が、今よりずっと容易になるのではないかと思っている。天の助
けだ。
まずやるべきは、景観緑三法(けいかんみどりさんぽう)にもとづいて市町村が景観計画 を
作ることだ。景観緑三法は、平成17年6月1日に全面施行された素晴らしい法律であ る。
第2条第3項には、「良好な景観は、地域の固有の特性と密接に関連するものである こと
にかんがみ、地域住民の意向を踏まえ・・云々」と書いてあり、第4項には「良好な 景観
は、観光その他の地域間の交流の促進に大きな役割を担うものであることにかんが
み、・・・云々」と書いてある。私の申し上げたいことがきっちり書いてある。力強いこ
とだ。念のために法文を掲げておく。
http://www.mlit.go.jp/crd/townscape/keikan/pdf/keikanhousandan.pdf
しかしながら、この法律にもとづく修景だけでは、先に述べた「風土に根ざした風景」と
か「精霊に根ざした風景」については、「山地拠点都市構想」にもとづく「美しい都市」
としては不十分であるかもしれない。
私は、この本の前編の第3章「知恵のある国家とは?」の第2節「教育」の中で、中沢新 一
のいう「モノ」について説明し、「 モノにはタマが 宿っている。そこが物との違いで あ
る。」と申し上げ、さらに「今私たちが問題にしようとしているのは、この世の問題で
ある。見える世界の問題である。見える世界から見えない世界が感覚として実感できない
かという問題である。だから、モノを対象にしなければならないのである。物質的な世界
は当然肯定しな がらも、モノの世界をどう取り戻すことができるかが問題なのだ。モノ
の世界と物質的な世界との同盟、それが中沢新一のいう「モノとの同盟」で あ
る。」・・・と申し上げ た。そして、「モノ」というものの概念に関連して、柳宗悦の
「民芸運動」について述べ た。そこで申し上げたように、「美とは何か」、「美はどこ
から生まれてくるか」を生涯 問い続けてきた柳宗悦の人生は、まさに「美の行者」と呼
ぶにふさわしいものであるが、 彼の到達した「美の心」とは「魂」の問題でもある。そ
ういう奥深い「美の心」もあるの だ。民芸品だけではない。そういう「魂」のこもった
古いものを大事にしなければならな いというのが、中沢新一のいう「精霊万年」の意味
するところである。
また、私は、私の電子書籍「霊魂の哲学と科学」の中で、岡本太郎の「美の呪力」につい
て詳しく説明したが、これも魂の問題である。何でもないようなものの中にも、「魂」の
震えるような「美」があるのである。上述したように、 オギュスタン・ベルクも、「風
景のなかにコーラが象眼(ぞうがん)されていると言っているが、この文面の意味として
は、一般的には何でもない風景のなかにコーラという大変な意味をもった哲学的に誠に重
要なものが嵌め込まれているのである。」と言っている。
自動車で見る景色と自転車で見る景色と歩いて見る景色は違う。景観や風景は、自動車や
自転車で感じるもの。風土や精霊は、自転車か歩くスピードでゆっくり見ないと心に感じ
ることはできない。特に精霊は、歩きながら立ち止まってじっくり見ないと心に感じるこ
とはできない。オギュスタン・ベルクのいう風景の中に「象眼(ぞうがん)されているも
の」はそうである。
山地拠点都市の中にそういう心に響くような価値ある「美」をどのようにちりばめていく
かは、たいへん難しい問題だが、ここはやはり文芸家の出番であろう。山地拠点都市で
は、できるだけ多くの文芸家に来てもらって、そこにセカンドハウスでも建てて住んでも
らうのが手っ取り早いのではないか。
第5節 山の国民運動
日本人は、縄文時代はいうに及ばず、旧石器時代の太古の昔から山とは切っても切れない
関係の中で生きてきました。そして山によって生かされてきた。かかる認識から、日本の
山を良くするための国民運動はすでに始まっている。これからもますます盛んになってい
くかと思う。私もその旗を振っていきたい。山を愛し、山の重要性を十分認識しているか
らだ。 私はこの本で、「山地拠点都市構想」を打ち出しているが、それを実現するため
にも、山の国民運動の高まりが不可欠である。しかし、山の国民運動というものは、それ
とは切り離して行うべきものである。また、事実、それぞれの団体がそれぞれの思いを持
って活動を開始している。それが大事である。まずは山の国民運動が高まりを見せるこ
と。それを支えに、いくつかの市町村で「山地拠点都市構想」の理解者が出てくればあり
がたい。
では、そう願いながら、ここでは「山の国民運動」について、私の注目しているものを紹
介し、さらにそれらの動きを加速し、より強力なものにするかを考えてみたい。
1、「緑の列島ネットワーク」
今は、「緑の列島ネットワーク」というNPO法人もできて、山の再生を図る時がやっと
きたようだ。では、このこのNPO法人の進める「近くの山の木で家をつくる運動」の
「千人宣言(原文)」を紹介しておこう。
『 最北端の宗谷岬から南の八重山諸島まで、延々三千キロにわたって弓状に連なる日本
列島は、その国土の三分の二が、森林によって覆われています。海岸線の町、盆地の町、
どの町を流れる川も溯(さかのぼ)ってゆけば、緑の山々にたどりつきます。山は川の源 で
す。海は川の到達点です。この山と川と海が織りなす自然こそ、私たちの生命の在りか
であり、暮らしの基盤といえましょう。 いま、この緑の列島に異変が起きています。破
壊的ともいえる、山の荒廃です。 何が起きているのか? 現実に立ってみることにしま
す。つい最近、スギの山元立木(や まもとりゅうぼく)価格※が一九六〇年(四十年前)の価
格程度に戻ったというニュース がありました。 四十年前といえば、あんぱん一個の値段
は十円、映画館の入場料は百十五円でした。物価 も収入も上昇したというのに、スギの
値段だけは、四十年前の水準に戻ってしまいまし た。木が育つには、何十年も、何代に
もわたる人の手がかかっています。ことに人工林 は、雑草木を刈り、つるを切り、枝を
打ち、間伐を行う、といった細かな作業を必要とし ており、これを怠ると、木の生長が
抑えられるというだけでなく、環境に大きな影響をも たらします。
町がスギ花粉に見舞われるのも、鉄砲水が続出するのも、山に手入れが行き届かないか
ら、といわれています。古くから、治山は治水、といわれてきました。豊かな平野は、後
背(こうはい)の山あってのことです。川や海の魚がおいしいのは、山が豊かなればこそ で
す。木は再生可能な資源であり、地球温暖化防止に重要なCO2吸収の主役でもありま
す。
それなのに、山の暮らしは成り立たず、山から人の姿が消えかかっているのです。 私た
ちの祖先は、ごく自然に木という素材を選び、鋸(のこぎり)、 鉋(かんな)、 鑿 (のみ)など
の道具を用いて家を建ててきました。そこには人がいました。山を守り、木 を育てる
人。木を伐り、製材し、運ぶ人。材を加工し、家に組立てる人。いま、山から人 は失わ
れ、職人の腕は低下したと嘆かれ、柱のキズで背比べする姿は消えたかにみえま す。 山
の荒廃をストップさせ、木の文化を蘇(よみがえ)らせるには、何を、どうしたらいい ので
しょうか? まず我々は、連鎖する自然と地域の営みの中に生きて在ることを知りたい。次
に我々は、 近くの山の木で家をつくる、という考え方を取り戻したい。山と町、川上と
川下、生産者 と消費者が面と向き合って話し込めば、お互いの置かれた現実がよくみえ
てきます。山に 足を運び、荒れた山の現場に立ち、手入れの行き届いた山をみれば、み
ずみずしい緑を、 協働のちからで取り戻そう、という気持が涌いてきます。悩ましいお
金の問題も、寄り 合って吟味を重ねると、建築費の中で木材費の占める割合が、思われ
ているほど高いもの ではなく、決して高嶺の花でないことも分かってきます。木は乾燥
が大事なこと、土や紙 や竹などの自然素材も地域に身近にあることを知ったり、木は建
築後も生きて呼吸してい ることや、木の家は補修すれば寿命が長くなることなど、大切
なことがいろいろとみえて きます。これらの価値を、皆で結び合い共有すること、それ
が、近くの山の木で家をつく る運動の原動力です 。 』
現在山は荒れている。山の管理は、やや極端な言い方だが、流域の市町村の責任であ
る。山が原因で災害がひどくなろうが、それは流域の責任である。山の管理に熱心な流域
は災害が少ないし、山の管理に熱心でない流域は災害がひどい。まあそういうものだ。上
述の通り、間伐材や不燃木材も実用段階に入ってきたようだし、さらに「近くの山の木で
家をつくる運動」という運動も始まった。市町村の奮起を促し、「やる気」を起こさせた
いものだ。
2、「樹木・環境ネットワーク協会」
「樹木・環境ネットワーク協会」というNPO法人がある。その前身である日本樹木保護
協会は、1960年以降、樹木保護を 主目的に活動を展開し、1995年に樹木・環境ネットワ
ー ク協会として再スタートした。以来、「森を守る」「人を育てる」「森と人を繋ぐ」
を テーマとした さまざまな活動を展開しておられる。なかには「子どもワクワクプロジ
ェ クト」というがある。これは「自然の不思議を楽しく発見!」をテーマに、子どもが安
全 に楽しく自然に触れることができるように考えられたプログラムである。なお、樹
木・環 境ネットワーク協会では、グリーンセイバーという資格検定を実施しておられ、
その有資 格者が「子どもワクワクプロジェクト」にも活躍している。グリーンセイバー
は、植物や 生態系に関する知識を体系的に身に付けた人材を育成するために、1998年に
創設された 検定制度で、すでに3,500人以上のグリーンセイバーがいるのだそうだ。これ
らの人たちは、「子どもワクワクプロジェクト」の他に、全国各地で森づくりや里山再生
に取り組ん でいるという。頼もしい限りだ。
知恵のある国家は知恵のある国民で成り立っている。知恵のある国民を育てるには何と
いっても教育がもっとも大事だ。本を読んだりテレビを見ることも必要だけれど、子ども
たちはもっと身体を動かさなければならない。そう考えれば、私たちの学習プログラムは
無限にある。私たちは、養老孟司が言うように、「身体と脳の学習プログラム」をいろい
ろとつくり出さなければならないのだが、樹木・環境ネットワークの「子どもワクワクプ
ロジェクト」はそのモデルとして注目される。 樹木・環境ネットワーク協会も言ってお
ら れるように、森や里山には、次の世代を担う子どもたちの心身を育み、感性を磨くチ
ャン スがいっぱいある。 さて、次の世代を担う子どもたちの心身を育み、感性を磨く
「場」は、けっして奥山では なく、里山である。山地拠点都市としては、奥山の問題も
さることながら、里山の問題と も真剣に取り組む必要がある。里山の改修ならびにその
保全に関しては、既にいろいろな 動きが見受けられるけれど、樹木・環境ネットワーク
協会の活動はその代表的なものとい うか模範的なものであると思う。したがって、今
後、樹木・環境ネットワーク協会を中心 として、 里山に関する国民運動が全国的な広が
りを見せるよう、 重大な関心を持って見 守っていきたい。 日々の暮らしに必要な水、炭
や薪、木材、きのこや山菜などを集落の近くにある山林から 得ることによって、森に光
が入り、 植生が維持され、動物や昆虫、菌類まで含めた豊か な生態系が生まれる、それ
が本来の里山の暮らしであった。その里山の自然と一体になっ た生活が壊れてしまっ
た。その復活を図らなければならない。私の提唱する「山地拠点都 市構想」の大きな柱
である。 私は京都生まれの京都育ちであるが、私の小さい頃、「すいば」というのがあ
った。 「すいば」は個人にとってその人とその仲間にとってかけがえのない場所である
が、里山 がそうであるように、全体的には地域のコモンプレイスという性格もあって、
地域にとっ てもかけがいのない場所である。 私は、山地拠点都市には「すいば」が必要
であると思
う。
京都に「民族自然誌研究会」いうのがあって、いろいろと面白い勉強をしている。そ
の会があるとき「すいば」論をやったことがある(2000年7月1日)。 山田勇氏(京都大学東
南アジア研究センター)が、「『すいば』と生態資源保全」と題して、1950年 代の京都衣
笠金閣寺周辺での本人の「すいば」を紹介 し、さらに「すいば」風景の原要 素として、
場・モノ・うれしさ・テリトリー・仲間が考えられることを述べた。さらに、 山田氏
は、ボルネオ、中国雲南省、カ ナダ、アマゾン・アンデス、パタゴニア、フィンラ ンド
での生態資源保全についての調査の旅から、子どものとき経験した「すいば」への思 い
入れが、いろいろ な地域においてその土地で生活に必要な資源を有効に生態保全して い
る人びとの土着の知恵と相通ずるものであることを報告した。この話は大変いい話で、
余分 なことは言わないでそのまま受け止めておけば良いのかもしれないが、私として
は、実は、コーラに関連してひとこと言いたいのである。
私は前に「文化というものの土地への帰属性」について書いたことがある。 そこで 言
いたかったことを今ここの文脈で言えば以下のとおりである。100年200年経った とき、
何代もにわたって次々と子供たちはその「すいば」でそれ ぞれ何かを体験し、何 かを身
につけ、何かを生み出して行く。その何かは人によってそれぞれ異なるであろう。 生み
出されるものは必ずしも特定されないけれ ど、何かが生成しているのである。主役 へい
せいは人ではなくて場所である。主役は何かを生み出す場所である。すなわち、「す い
ば」は「生成の場所」・「コーラ」で あるということだ!
3、「山の日」の制定を契機に!
「海の日」という日があるのに、何故「山の日」がないのか? 国民の祝日に関する法律
第2条では、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨とし
ている。世界の国々の中で「海の日」を国民の祝日としている国は唯一日本だけだとい
う。海国日本の面目躍如たるものがある。日本が「海の国」であることは間違いない。し
かし、日本は世界に冠たる「山の国」でもあ る。なのに「山の日」がないのは不思議で
はないか。何故「山の日」がないのか? そういう思いから国民運動が巻き起こり、今年
(平成26年)の通常国会で「山の日」の祝日が決まった。これは実にうれしい限りであ
る。
農林水産省の設置法に、「林野庁は、森林の保続培養、林産物の安定供給の確保、林業の
発展、林業者の福祉の増進及び国有林野事業の適切な運営を図ることを任務とす る。」
・・・とある。そしてまた、「森林・林業基本法」では、第二条第1項に 「森林 につい
ては、その有する国土の保全、水源のかん養、自然環境の保全、公衆の保健、地球 温暖
化の防止、林産物の供給等の多面にわたる機能が持続的に発揮されることが国民生活 及
び国民経済の安定に欠くことのできないものであることにかんがみ、将来にわたつて、
その適正な整備及び保全が図られなければならない。」・・・とあり、第2項には「森林
の適正な整備及び保全を図るに当たつては、山村において林業生産活動が継続的に行われ
ることが重要であることにかんがみ、定住の促進等による山村の振興が図られるよう配慮
されなければならない。」・・・とある。にもかかわらず、山がこれほど荒廃し、山村が
消滅しかかっているというのは、林野庁をはじめとする国の責任であることは間違いな
い。今の状況で、せっかく「山の日」を設けられても、山村の人たちは、その祝日を祝う
気持ちになるだろうか? 山村の人たちが「山の日」を心から祝う気持ちになれるようで
ないと、 とても日本が「知恵のある国家」であるとは言えないだろう。
したがって、私は「山地拠 点都市構想」を提唱し、山地の村落の元気再生を目指してい
るのである。ともかく、山を愛する人、山の 重要性を判っている人、そして山村で生活
している人など山に関係のある人たちが、力を合わせて、「山を守る」「山村を守る」
「木の文化を守る」・・・そういう国民運動を盛り上げていかなければならない。
「山の日」の制定運動は、広島から始まった。私のかっての仲間、伊東利彦さんや 兼森
郎さんが広島山岳会の皆さんと一緒になって、2002年に始めたのだ。当初は、広島県
内の森林ボランティア団体、広島県山岳連盟関係者など山にかかわりのある人が中心にな
り実行委員会方式で、ひろしま「山の日」県民の集いの行事を行なった。回を重ねるごと
にその輪も広がり、いまでは森林ボランティア団体・山岳関連団体・環境保全団体に加
え、行政・学校・企業・団体の関係者等も参画した実行委員会方式で事業の企画運営を行
なってこられた。頭の下がる思いである。広島のこういう運動に刺激されてか、あるいは
同時発生的に始まったのか判らない が、条例で「山の日」を制定している自治体が次第
に増えて行った。日本山岳会も「山の日」制定運動に立ち上がった。このことが多くの国
会議員を動かしたようだ。。日本山岳会に敬意を評したい。2012年10月、東京で「みん
なで山を考えよう 『山の日』ネットワーク東京会議」が開かれた。日本山 岳会など山岳
5団体でつくる「山の日」制定協議会が主催し、全国レベルで「山の日」を 考える初めて
の場となった。 山の雑誌「山と渓谷」(山と渓谷社)の平成24年12月号によると、「山の
日」を制定しているのは13府県、「森の日」制定は12県などと なっているが、このよう
な背景のもと、国民の祝日として 「山の日」が制定された次第である。ることになるだ
ろう。
しかし、先ほども申し上げたように、せっかく「山の日」が制定されても具体的 な支援
事業が始まらないと、消滅しそうな山村に生活している「山の人びと」の気持ちと して
は、都会の人たちの勝手気侭な「エゴ」としか移らない。私としては、「山の日」制 定
を契機として、山地の元気再生に向けての「山の国民運動」を盛り上げていきたいと思
う。
4、「全国源流サミット」
「全国源流サミット」というのがある。第一回は長野県木祖村、第二回は岡山県新庄町、
第3回は高知県都野町、第4回は群馬県水上町で開催された。
http://www.vill.kiso.nagano.jp/lifestage/category/industry/koryu/genryu/
genryu_2.html
http://www.vill.shinjo.okayama.jp/index.php?id=147
http://www.town.kochi-tsuno.lg.jp/genryus.html
http://www.town.minakami.gunma.jp/20kankou/00news/
2013/2013-0515-1536-61.html
この端緒は、平成13年4月に、多摩川源流研究所の発足にあわせて、多摩川の源流・東京
都小菅村で開催された「全国源流シンポジュー ム」である。私もそのきっかけを作るの
に尽力したので、それが発展して現在の「全国源 流サミット」に引き継がれているのを
知って、今感無量の気持ちでいる。「山地拠点都市構想」を打ち出した現在、ふたたびこ
の動きを支援できればありがたいと思っている。 「全国源流シンポジューム」は第10回
まで続いて、平成22年10月に、「第1回全国 源流サミット」が相模川の源流・山梨県道
志村で開かれたのである。多摩川源流研究所は、発足と同時に、日本初の常設「源流体験
教室」を創設され、所長の 中村文明さんの熱心な取り組みによって、すばらしい成果を
上げてきている。
しかしながら、小菅村は依然として過疎化に歯止めがかからない。他の源流も同じ悩みを
抱えている。全国のいたるところにある源流地域の持続的発展を図るにはどうすれば良い
か? 日本がこれから知恵のある国家を目指すなら、その問題は極めて重要な問題だが、
それには二つの大きな課題がある。ひとつは、山地拠点都市との繋がりを行政的に強化す
るという問題であり、もうひとつは、源流地域が力を合わせて、源流地域の重要性をひろ
く関係方面に訴えていくという問題がある。源流地域の重要性を訴えていくべき関係方面
とは、NPO「緑の列島ネットワーク」や「樹木・環境ネットワーク協会」などの既存の
組織 のほかに、下流域の人びとのことである。源流の町村は、まずホームページをつく
る必要があるし、いわゆるソーシャルネットワークシステム(SNS)を使っての広報活動を
する必要がある。その上で、市民水車の実現を図る必要があるし、道の駅やクラインガル
テンをつくって下流域の人びととの交流を深めていかなければならない。クラインガルテ
ンにつ いては、源流の町村は、下流の山地拠点都市と行政的によく相談をして、山地拠
点都市が 大都市の人びとの二地域居住のためにつくるべきクラインガルテンを源流につ
くればいい。
5、知恵のある国家の国民運動
山村の元気再生に対する国民世論の高まりと具体的な支援事業が始まらないと、山は良く
ならない。現在、緑の募金活動やさまざまな緑の国民運動が行われているが、私にはどう
もピントが外れているように思われる。植林の必要なところがまだない訳ではないが、大
局的に見て、今や植林の時代ではない。禿げ山が問題ではないということだ。今最大の問
題は、切り捨て間伐をなくすことである。また、奥山の改修の問題がある。四手井綱英
が言うように、これからは増えすぎた人工林を少しずつでも天然林に変えていかなければ
ならない。 本来の森林とは人工林でなく、択伐後も天然更新でなければならない。植林
をしてはならないのだ。 さらに、現在の深刻な問題として源流地域の村落の元気再生の
問題がある。これら三つの問題に眼をつぶって進められている緑の募金活動など現在の緑
の国民運動は根本的に考え直す必要がある。私のいう「山の国民運動」に対比して緑の国
民運動と いうのは、前者が源流地域の村落の元気再生にまで視野に入れているのに対し
て、後者は そういう意識が希薄であって、緑、つまり樹木の植林が中心になっているか
らである。
(1)緑の国民運動・・・今までの経緯
日本の森林は、戦時中は軍需用材、戦後は建築用材やパルプ用材、さらに薪炭供給のため
に乱伐され続け、戦後は各地に禿山が目立っていた。 85年の「国際森林年」には、国土
緑化推進委員会が設置した「二十一世紀の森林づくり 委員会」が、二十一世紀の森林管
理の方向として「国民参加の森林づくり」の概念を提唱 した。 これは、行政や林業家・
森林所有者を中心とした森林管理から、森林の公益的機能の受 益者である幅広い国民の
参加を得た森林管理への転換を意図しており、 国民全体で森林 を守り育てていく方向性
を明示したものだった。この提言を契機に、国土緑化運動は森林 ボランティア活動の隆
盛へと踏み出した。
80年代に入ると、各地で森林ボランティア活動が芽生えたが、その先駆けは六〇年代に
始まっていた。[1]山火事跡地の再生を目指して六七年に岩手県田 野畑村で生まれた 「思
惟の森の会」[2]富山県大山町で下草刈り作業の軽減のため計画された除草剤の空 中散布
に反対して、七四年に若者を中心に草刈り作業 を行った「草刈り十字軍」運動―な ど
だ。 90年代後半に入ると、森林ボランティア活動の関連分野の動向により、活動が多角
的に 促進され、運動としての広がりをみせるようになった。阪神・淡路大震災(95年)を
契 機に、ボランティア活動の重要性に対する社会的認識が広がったこと、特定非営利 活
動 促進法施行(98年)による公益活動の担い手としてのNPO・ボランティア活動が定着 し
たことは、大きな影響を与えた。
森林・林業分野でも、95年に「緑の羽根募金」が「緑の募金による森林整備等の促進に
関する法律」として法制化されるとともに、98年から森林ボラン ティア団体を直接の支
援対象とした国庫補助事業が創設された。 なお、「緑の羽根募金」は、国土緑化運動の
シンボルとして、戦後の荒廃した国土に緑を 復活させる目的で昭和25年に始まったもの
である。緑の募金運動の基盤強化と活動内容 の多様化を図るため、平成7年に成立された
「緑の募金による森林整備等の推進に関する 法律」に基づいて、今いろいろな活動が行
われている。「緑の羽根募金」の規模は25億 円程度で、その半分がおおむね緑化事業に
使われている。
さらに01年に施行された森林・林業基本法には「国民等の自発的な活動の促進」に関す
る条項 が追加され、「森林ボランティア活動」の明確な位置付けがなされた。
結果として、各地で森林ボランティア団体の設立が相次ぎ、活動テーマも例えば[1] 都市
と山村の交流[2]森林バイオマスの利用と連動した森づくり [3]伝統的な木造建 築物など文
化遺産の修復用木材の生産を目的とした「木の文化を支える森づくり」・・・ などと多
様化し、広がりをみせた。 森林ボランティアは97年に300団体弱だったが、06年には
1800団体強。10年 でほぼ6倍という飛躍的な広がりをみせることとなった。これ は、地
球温暖化防止や生 物多様性保全といった地球規模の環境問題が顕在化する中で、森林の
有す る多面的機能 が改めて注目されたことが大きいといえる。
最近は、下流域の都市が上流域に「市民の森」を設定して、下流域住民が参加した森林保
全活動を進めるなど、市町村主導による流域一体となった活動も各地で生まれつつある。
さらに産官学民の多様なセクターが「国民参加の森林づくり」に参画する機運が高まりつ
つあり、知恵のある国民運動として、源流地域の村落の活性化まで視野に入れた「山の国
民運動」が展開されることが期待される。私が「山」というとき、山村を含む山のことで
ある。
(2)「山の国民運動」の中核となる権威ある民間組織
山の国民運動を如何に盛り上げ、それをどのように実際の事業につなげていくか?個人の
ネットワークとしては、SNSがある。また、個人が自由に参加できる森林ボランティア
団体も上述のように今ではたいへん多くの団体ができていはいる。しかし、そういう団体
の自主的なネットワーク組織がない。それぞれの団体の活動については、林野庁が掌握し
ているようだが、やはりそれぞれの森林ボランティア団体が、独自の活動を推進すると同
時に、現在日本の山が抱える緊吃の問題について考え、他の団体と連携して行動を起こす
ようでないと、日本の山は救われない。日本の山の問題、それは源流地域の村落の活性化
の問題をも含むのだが、そういう山の問題を林野庁に任しておくだけでは不十分だと思
う。山の国民運動の盛り上がりが必要なのだ。先に述べたように、 NPO「緑の列島ネッ
トワーク」 や 樹木・環境ネットワーク協会 の活動のほか、山の日制定運動も始まってい
るし、 全国源流サミットも始まっている。しかし、現在、それらの山を良くするための
国民運動がすでに始まっているとはいえ、それぞれの運動が力不足なのだ。山に関する国
民運動が力強く始まるにはどうすればいいか? どうしても、「山の国民運動」の中核と
なる権威ある民間組織が必要だろう。全国各地にある数多くの森林ボランティア団体の活
動を知恵のある「山の国民運動」に向けていくには、権力は無用である。権力ではなくて
「権威」が必要なのだ。
「権威」とは何か? 「権力」とは他人を力ずくで自分の意のままにさせる能力のこと。
自分の地位あるいは力により、たとえ他人の意思に沿わなくてもそうさせる能力のこと
だ。それに対して「権威」とは、自分の影響力を働かせて、イデオロギーや宗教的教義と
は関係なく、自分の意図している方向に、多くの人びとを快(こころよ)くとい うか自ずと
行動させる威信のことである。
イエスは、まさに「権威」の人と言い得るが、近年では、ガンジーやキング牧師やマザ
ー・テレサなどがそれに該当するかもしれない。 名僧といわれる人にはそれなりの権威
がある。
私は、「山の国民運動」を支援する組織として権威あるNPOが必要ではないかと考えて
い る。 私は、日本において「権威」を持っている人というのは、天皇をおいてほかにな
い と思う。天皇との繋がりにおいて、当然、皇族にも権威がある。私は、「祈りのシリ
ーズ (5)「天皇はん」(平成24年5月、新公論社、電子出版)と「天皇と鬼と百姓」(平 成24
年6月、新公論社、電子出版)で書いたように、本来、天皇や皇室は私たちに身近な存在で
あるし、皇族はもっと自由に社会にお出になられた方が良いと考えている。かか る観点
から、私は、「山の国民運動」を支援する全国的なNPOとして、例えば NPO「緑 の列島
ネットワーク」 又は 「樹木・環境ネットワーク協会」に皇族が名誉総裁なり何ら かのか
たちでご就任いただいて、その繋がりの中で全国各地域の森林ボランティア団体の 活動
が行われることをイメージしている。三笠宮家の寛仁(ともひと)親王殿下は、生 前、「皇
族の身分を離れて、身障者問題に打ち込みたい」として1982年に宮内庁に 「皇籍離脱」
を申し出られたそうだが、本来は、「皇籍離脱」をせずとも、皇族が皇室のままもっと自
由に知恵のある国民運動に対する支援活動ができるようにすべきではない か。
(3)山の国民運動・・・これからの課題
「山の国民運動」の中核となる権威ある民間組織、以下においてそういう権威ある民間組
織を「山の国民運動中核組織」と呼ぶことにするが、そういう組織ができて、力強い「山
の国民運動」が始まったとして、次の問題は、それをどのようにして具体的な事業につな
げていくかという問題である。
山地拠点都市の「自立的発展」を図るためには何をやらねばならないか? そのことにつ
いては第3節で縷々述べた。山地拠点都市の「自立的発展」を図るためには、まず地域通
貨を前提にして、農業移住者の受け入れを進めることだ。そうすれば、農業移住者が田舎
と都会との架け橋になって、都市と田舎の交流が推進することができるだろう。しかし、
それだけでは不十分である。 山地拠点都市の「自立的発展」を図るためには、根本的
に、地域の雇用拡大の見地から、山地の新たな「産業おこし」をしなければならない。
山地の新たな「産業おこし」については、すでに第3節で述べたが、ここでは、国民運動
として行いうるものとして「木の文化と山を守る運動」があるので、もういちどここにそ
の基本的な認識を述べておきたい。
日本は山国である。国土面積の約70%が山だという国は世界でも珍しい。そして、日本
の登山の歴史はとても古く、世界に類を見ないほどである。西洋では、山は悪魔の住むと
ころとして近代まで近寄る人は少なかったようであるが、わが国の場合、縄文時代にすで
に山頂で祭祀が行われていた。また縄文時代は日々の生活においても霊山を崇めながら生
活していた。石器時代の狩猟生活を考え合 わせてみれば、日本人の山との関わりあいは
相当に古い。
縄文時代の霊山信仰は、仏教や神道などの宗教、哲学的思想と結びついたりしながら、近
世中期以降には観光的要素も加わって、カタチを変えては現代にまで日本の民族宗教とし
て展開してきている。この間の経緯については、宮家準(「霊山と日本人」)が多角的
な視点から論じている。
山が荒廃している。切り捨て間伐が常態化し山の生態系が壊れている。これは由々しきこ
とだ。日本の場合、山は日本の風土の基本をなすものである。それが荒廃するということ
は、日本の風土が壊れることであり、故郷(ふるさと)が喪失するということである。そ
れはとりもなおさず世界に誇りうる日本文化が消えていくということであって、日本が世
界平和のために大いなる貢献をするなどということは夢のまた夢になってしまうのではな
いだろうか。しかし、今ならまだ間に合う。早急に国民的な議論を巻き起こして各方面に
アッピールしていきたいものだ。
故郷(ふるさと)を喪失させてはならない。故郷(ふるさと)を喪失するということは、
佐伯啓思が言っているように、日本国民がニヒリズムに陥りかねないという問題も含んで
おり、これはまさに国是に関する重大問題でもある。
文化とは、中西進によれば、心の世界に関する教養の総体のことだが、日本は間違いなく
「木の文化」の国である。わが国の「木の文化」については、小原二郎の「木の文化」
(1972年、SD選書)と「法隆寺を支えた木」(1978年、NHKブックス)に詳し
い。わが国は、スギやヒノキなどの針葉樹を中心に、その特性を生かした建築技術を発達
させ、さまざまな木工技術を蓄積してきた。それらの技術によって桂離宮に見られるよう
な美の極致とでもいうべき木造家屋も造ったが、そういうわが国の優れた建築技術は一般
住居のいたるところに生かされている。庶民の住宅でも実に美しく、畳や障子などといっ
たいになって心休まる居住空間となっている。そればかりではない。ご神木というものの
存在を見ても判るように、わが国民には木に対して「信仰心」とでもいうべき心情を育て
てきた。建物にしろ家具にしろインテリアにしろ、木には私たちの心を安らかにする力を
秘めているように思われる。
「木の文化と山を守る運動」の基本的な思想は以上の通りであるが、その国民運動を「不
燃化木材産業」の全国的展開とどう繋げていくかは今後の課題である。ともかく、一日も
早く「木の文化と山を守る運動」を始めなければならない。