邪馬台国と古代史の最新

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邪馬台国と古代史の最新
古代史の最新情報の最たるものは、
元伊勢神宮の籠(こも)神社の
秘仏が国宝として公開された海部氏の系図である。
その他、開発にともなう発掘調査によって
新たな発見が目白押しだ。
それら古代史の最新情報と新たな歴史認識にもとづき
邪馬台国は近江であることがほぼ確定的に思われる。
記紀は、藤原不比等の深慮遠謀による
素晴らしい創作物語であるが、不比等の深慮遠謀とは何か? それを読み解かない限り古代史の真実は見えてこない。
もう一つ大事なことは、古代における交易が大陸まで含めて
広範囲に行われていたことを十分認識することである。
そのためには
「海の道」と「翡翠の道」の実体を理解しなければならない。
ヤマトスクネノミコト
はじめに
この「邪馬台国と古代史の最新」という私の論文は、2013年6月頃書き上げたもので
あり、私のブログにその骨子をアップし始めたのが6月30日である。そして各章毎に全
文を紹介してきたが、序文も含めて第1章から第10章までの全体については公開しな
かった。そこで、今ここにその全体を公開することとしたい。
2015年3月4日
国土政策研究会
会長 岩井國臣
古代史の最新情報の最たるものは、元伊勢神宮の籠(こも)神社の秘仏が国宝として公開
された海部氏の系図である。その他、開発にともなう発掘調査によって新たな発見が目白
押しだ。それら古代史の最新情報と新たな歴史認識にもとづき邪馬台国は近江であること
がほぼ確定的に思われる。
記紀は、藤原不比等の深慮遠謀による素晴らしい創作物語であるが、不比等の深慮遠謀と
は何か? それを読み解かない限り古代史の真実は見えてこない。
もう一つ大事なことは、古代における交易が大陸まで含めて広範囲に行われていたことを
十分認識することである。そのためには「海の道」と「翡翠の道」の実体を理解しなけれ
ばならない。
滋賀県守山市の伊勢遺跡は、昭和56(1981)年に民間の宅地造成工事に先立って実
施した試掘調査によって発見された。その後、平成19年3月までに実施した104次にわ
たる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約 700m、南北約450mの楕円形状に形成されているこ
とが明らかになっている。平成13年に巨大な祭殿とみられる建物跡が見つかった。その
他の大型建物も多く、地元では邪馬台国近江説を唱える人が多い。
糸魚川市に近い新潟県境に境A遺跡(富山県朝日町)というのがある。ここの遺跡調査に
ついては、昭和59・60年、北陸自動車道建設に先立って、県教育委員会が実施した。そ
の結果、極めて重要なことが判った。境A遺跡は、硬玉原石の集散地であり、加工を行っ
ていた拠点集落である。数千点にもおよぶ原石、加工途中の未製品が出土している。完成
品は交易で他所へ運ばれたらしく余り出土していない。そういうことが判明したのであ
る。発掘調査によって出土した遺物のうち、硬玉(ヒスイ)を中心とする玉類製作関係遺
物、蛇紋岩を用いた磨製石斧製作関係遺物、縄文土器、石器類など2,432点が、平成11
年6月に、国の重要文化財に指定された。
ガラス釧(くしろ)が、平成10年9月に、与謝野町岩滝の阿蘇海と天橋立を見下ろす高
台に作られた弥生時代後期(西暦200年頃)の墳墓(大風呂南1号墳)から出土した。
鮮やかなコバルトブルーのガラスの腕輪が完全な形で出土したのは国内で初めてで、今で
は国の重要文化財になっている。
奈良国立文化財研究所の成分分析によれば、中国産のカリガラス製である可能性が高い
ことが判った。その他にも銅釧13・ガラス勾玉6・管玉363・ 鉄剣15・鉄鏃など
当時の貴重品が多数埋葬されていた。当地方には、古代から日本海ルートで大陸と交流す
る強大な力を持った集団が存在していたのである。
また、平成11年には、和歌山県御坊市の堅田遺跡から、弥生前期後半の青銅器を作るた
めの日本最古の鋳型が見つかった。これは九州で発見されたものより古い。したがって、
渡来文化がいったん北部九州や出雲地方にもたらされ、しばらく経って近畿地方に伝わっ
たという従来の考えを完全に覆すもので、渡来の波は西日本一帯に、一気に押し寄せたと
考えざるを得ない。その中心的な地域として丹後が今浮かび上がってきている。
さらに、平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後
半の大きな墳丘墓が発掘された。紀元前1世紀ごろのものである。30m 20m ほど
の方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大
量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。しかも、墓に接する
ように環濠集落があるようだが、これについては今後の調査が期待される。この墓は、あ
の吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代で、墓の大きさも吉野ヶ里よりわずかに小さい
が、吉野ヶ里の場合は、墳丘墓には十数体の遺体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘
遺跡の場合はただ一人のための墓である。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初
の王の墓」と考えられる。
全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられているが、
丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけだ。
阪和高速道路の延伸工事が平成15年完成目途に「みなべ町」で始まったが、それに先
立って平成9年から、埋蔵文化財発掘調査が南部インター チェンジ(約6万㎡)の建設
地予定地を中心に行われた。その発掘調査で、5000年前(縄文時代中期前半期)の集
落跡が出たのである。これまで西日本では、同時代の集落は出土しておらず、考古学上の
空白期とされていたので、「みなべ町」の発掘調査は画期的なものとなった。この遺跡は
「徳蔵地区遺跡」と名付けられている。
「海部氏系図」(以下、「本系図」とも記す)は歴代相承の秘伝として扱われてきたこと
で、みだりに部外者の拝観が許されず、明治以降その原本について親しく調査した学者は
きわめて少なかったといわれる。 その内容は、『與謝郡誌』(大正十二年〔一九二二〕
刊)等で一応学界に知られており、昭和八∼九年には石村吉甫・山本信哉両氏による紹
介・検討もあったが、全体写真は公表されず、詳細な調査もなかった模様である。
東大史料編纂所に長く勤めた中世史料学の大家・村田正志博士は、「かような稀世の古
文献は、ただに海部氏の家寶たるばかりでなく、國家社會の文化財であり、重寶であるこ
とは今更言を俟つまでもない」という認識のもとに、昭和四九年、当時の宮司故海部穀定
(よしさだ)氏の承諾を得て、赤松俊秀京都大学教授、山本信吉氏(信哉氏の子息で当時、文
化庁勤務)とともに、原本について仔細に調査した。これをうけて、村田博士などの骨折
りで、本系図がその重要性を高く評価され、昭和五十年(一九七五)六月に重要文化財
に、その翌五一年六月には国宝に指定されたものである。
こうした経緯は相当程度迅速に国宝に指定されたものといえよう。それ以前には、本系
図についての論考が非常に少ない状況であり、戦前の石村吉甫氏、戦後 では昭和四七年
の後藤四郎氏の論考が目立つ程度である。その後、現在に至ってもあまり多くはなく、滝
川政次郎氏、金久(かねひさ)与市氏の論考・著作などがあるが、国宝指定という事情を踏ま
えてか、海部氏系図についてその評価の高いことを陳述するものはあれ、疑問提起や史料
批判をするものは管見に入っていない。
そういう状況の中で、宝賀寿男が「本系図」に対し、見識ある批判的検討を加え、次のよ
うに述べている。すなわち、
『 いま、国宝・重文に指定されている貴重な系図は少ないが、そのなかでも国宝指定の
「海部氏系図」(あまべしけいず) は著名である。その国宝指定の経緯を見るところ、検討や
指定の過程は拙速であり、問題点がないとはいえない。加えて、この系図の基礎的な問題
点が多くある ことを捨象して、「国宝指定」という事情だけで、記事内容に史実性がある
と考える論及が多く見られる。それどころか、海部氏系図やその関連系図を基に妄論 を
展開する書や論考もかなり見られる状況でもある。
こうした風潮に対しては、冷静な検討と系譜利用の限界を考える必要があると思われ
る。』・・・と。
宝賀寿男の批判は当然であろう。しかし、私は、第3章で詳しく述べるように、海部氏の
系譜に連なる王が全国に先駆け丹後の地に誕生したことは確かであろうと考えている。そ
ういう見地に立てば、「前ヤマトを創った大丹波王国・・・国宝・海部系図が解く真実の
古代史」(伴とし子、平成16年1月、新人物往来社)は新たに古代史を研究する上で必
読の文献であると言えよう。伴とし子は学者ではないけれど、「本系図」を永年研究し、
丹後の古代史を深く考えてきた人である。彼女の研究はもちろん「本系図」の公開が切っ
掛けになって始まった訳で、そういう意味では、私は「本系図」は邪馬台国と古代史の最
新情報であると言って良いと思う。「本系図」については、今後さらに学問的な研究が広
範囲に進むことを期待したい。なんせ国宝なのであるから・・・。
歴史学のみならずあらゆる学問及びその他本格的な登山などで、その時々において難しい
判断を必要とするものは、直観力がないと卓越した判断はできない。そのことは、今西錦
司の言動をつぶさに見ればよく解る。
歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、その他歴史に関連する民俗学などの知識
を持って、現地で地霊の声を聞かなければならない。その地域の風土というものを感じ取
ることが大事なのである。私は,歴史的文献や考古学的知見によって古代を知ることが基
本であるとしても、それだけでは不十分で、現在そこにあるものから古代を推察すること
が大事なのである
アナール派の代表的な存在として鶴見和子がつとに有名であるが、彼女の考えていたよう
に、歴史が進化や段階を経ると見るのではなく、古いものの上に新しいものが積み重なっ
ていくと見る視点(「つららモデル」)は誠に大事である。また、ハイデガーの「過在」
というのは、過去に過ぎ去ってしまったと思われるものでも現在もなお存在しているとい
う一つの哲学であるが、彼は、樹木に譬えて、現在見える枝葉を見て見えない根っこの部
分を考察する「根源学」というものを提唱しているが、判りやすく言えば、過去に過ぎ
去ってしまったと思われるものでも現在もなおその名残が残っているのである。私は、歴
史の連続性というものを重視していて、歴史的な出来事というのは、何らかの形でその後
も影響を与えているので、「過在」をみて過去のことを考察することが大事であると考え
ている。地理学という学問があり、その権威にオギュスタン・ベルクという人がいる。我
は和 哲郎の「風土」というものが一体どういうものかまったく理解ができず、それを勉
強するために日本に移住してきた人であるが、彼は「風土」とは自然の赴きであり、歴史
の赴きであると言っている。プラトンの「コーラ」も「風土」みたいなものであるが、私
はオギュスタン・ベルクの「風土」やプラトンの「コーラ」に加えてさらに、人びとの生
きざまがその土地に染み込んだものが風土であると考えているが、そこにそういうものが
何故あるかを問うものが哲学を含む地理学である。現在見える枝葉を見て見えない根っこ
の部分を考察する「根源学」といっても良い。例えば、最澄のことを考えてみよう。彼は
比叡山の琵琶湖側・坂本の出身であるが、最澄のような偉大な人が何故近江から出たの
か? その答えは渡来人が多かったということだが、では何故琵琶湖周辺に渡来人が多
かったのか? それが根源的な問題であって、地理学的というか哲学的というか、根源学
的な考察をしていけば、多分、琵琶湖周辺に渡来人が多かったのは、邪馬台国が近江に
あったということがほんのり見えてくる筈である。
邪馬台国と古代史の最新
はじめに
目次
序文
第1章 大和盆地の地理的条件
第1節 奈良というところ
第2節 黒潮文化圏との交通
第3節 水銀という資源
1、施朱の風習(古代∼現代)
2、水銀朱の画期的な研究
3、大和に運ばれた三カ所の水銀
第2章 古代の歴史を概観する
第1節 歴史認識の重要性
1、歴史は何故正しく認識されなければならないか?
2、正しい歴史認識のために
第2節 黒曜石文化から縄文文化へ
第3節 縄文時代の技術と交易
第4節 渡来人の技術移転
第3章 丹波王国
第1節 丹後の古代遺跡について
第2節 物部氏の祖神・ホアカリ
第4章 近江王国
第1節 伊勢遺跡
第2節 琵琶湖周辺の豪族
第3節 琵琶湖周辺の技術者集団
第5章 城王国
第1節 城というところ
第2節 城山麓の遺跡
第3節 王朝交代説
第4節 城氏の衰退
第6章 応神天皇と秦氏
第1節 物部氏の発祥と行く末
第2節 応神天皇の大和入り
第7章 藤原不比等の深慮遠謀
第1節 阿多隼人について
第2節 天照大神について
第3節 鹿島神宮の乗っ取り
第4節 記紀神話の創造
第5節 神武東征神話における不比等の真意
第8章 歴史的直観力
第1節「四天王寺の鷹」の解説
1、良弁について
2、秦氏について
3、物部守屋の死について
4、おわりに
補筆1、安東氏について
第2節「諏訪大社の柱とソソウ神」
1、御柱祭り
2、柱とホト神さま
3、高師小僧
4、ホト神さまの現在
5、マダラ神はオソソの神か?
6、黒曜石の道、翡翠の道
7、建御名方命(たけみなかのかみ)
8、立石寺と慈覚大師
9、中尊寺と慈覚大師
10、阿弖流為(アテルイ)と慈覚大師
第9章 琵琶湖の霊力
第1節 弁天さんの降臨
第2節 竹生島の大弁財天
第3節 天台宗の不思議
第4節 龍神
第5節 琵琶湖の真珠
第10章 邪馬台国は近江だ!
第1節 倭国大乱
第2節 魏志倭人伝の比定地
1、第二の奴国
2、黒歯国
3、狗奴国・・・尾張という国について
第3節 物部氏と台与
1、大和盆地の遺跡について(概要)
2、物部氏に関わる遺跡について
3、台与の祭祀について
おわりに
序文
第1章はでは大和盆地の地理的特性を述べる。大和朝廷は何故奈良にできたのか?弥生時
代ないし古墳時代に何故京都にそういう権力機構ができなかったのか?この問題を解くに
は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の連続性を考慮して、旧石器時代から考古学的な考
察をすることが必要である。歴史的な連続性というものを重視しなければならないのであ
る。で は、考古学的な考察をする場合に、どういう視点が必要か?考古学的な考察をす
る場合の視点、それは、人びとが何故そこに集まってきたかということである。 それに
は二つの要件がある。一つは交通、二つ目は交易品である。第1章「大和盆地の地理的条
件」では、黒潮文化圏との交通に恵まれていたこと、サヌカイト、水銀朱(辰砂)を中心
とした交易が大和で盛んに行われいたことを説明している。
第2章では古代史を概観する。今私は、「天皇はどこから来たか」ということを考えよう
としている。そのことが今の私たちの生活にどう関係するのか? 天皇がどこから来よう
がそん なことはどうでも良いのではないか。そうお考えの人が多いのではないかと思う
ので、第1節において、何故歴史認識が重要なのか、その問題について説明するととも
に、正しい歴史認識をする場合の要件を説明する。
最初の日本人であるが、私は、5万年前頃、最初の日本人は黒潮に乗って渥美半島に上陸
したのではないかと想像しており、長野県は飯田市山本の 佐竹中原遺跡の調査結果を見
守っている。岩手 県に最初の人々がやってきたのは、おおよそ4万年前頃と思われる。縄
文時代になると、西日本から多くの人々が東北地方にもやってくる。 しかし、北海道か
ら津軽海峡をわたって東北地方にやってくるのは、「湧別技法集 団」の南下まで待たなけ
ればならない。「湧別技法集団」の南下によって、初めて土器が誕生するので、東北地方
の発展を考える場合も、「湧別技法集団」の南 下というのは重大な意味を持っている。
土器というものは、「湧別技法」という高度な技術をマスターした人々が発明した。その
ことについて第2節で詳しく説明する。
「 縄文文化という世界最高の文化がヨーロッパや西アジアに先駆けて4000年ほどは
やくこの日本に誕生した」ということをアッピールしだしたの は,小林達雄である。日本
の中小企業の技術は世界に冠たるものを持っていると考えているが、その源(みなもと)
は縄文時代まで
る。否、黒曜石 の加工技術、湧別技法を考えると旧石器時代にまで
(さかのぼ)る。また、縄文時代に黒曜石が随分遠くまで運ばれている。その目的は交易
かそれとも部族同士の交流なのか? 第3節では縄文時代の技術と交易について詳しく説
明したい。。
古来、中国は、国家の意思に支えられて、いろんな技術が発達した。その技術が日本に伝
わってきた。 中国文明は、朝鮮半島を通じて間接的に或いは朝鮮半島を介さないで直接
的に、文化全般においてわ が国に強い影響を与え続けてきた。中国文明なければ今の日
本文化はないと言ってもけっして過言ではない。 中国からの外来技術によって、日本の技
術開 発が触発されたことは疑う余地がないが、ここで留意すべきは、日本の受け入れ態
勢である。受け入れ態勢というものを考える場合に、大事な点が二つある。一 つは、古
代でいえばクニグニということになるが、各豪族の力である。もう一つは、その地域の技
術者集団の能力である。私は、その後者の問題について、極め て大事なことを申し上げ
ておきたい。外来技術を受け入れるにしても、またそれに触発されて新たな技術開発をす
るにしても、その地域の技術者集団の技術能力 が関係するのはいうまでもないが、日本
の場合、その能力が世界に冠たるものがあった。それは、伝統技術というか、潜在的な技
術力のことである。第4節では、このような歴史認識にもとづいて中国からの技術移転に
ついて述べることとする。
平成11年には、和歌山県御坊市の堅田遺跡から、弥生前期後半の青銅器を作るための日
本最古の鋳型が見つかった。これは九州で発見されたもの より古い。したがって、渡来
文化がいったん北部九州や出雲地方にもたらされ、しばらく経って近畿地方に伝わったと
いう従来の考えを完全に覆すもので、渡来 の波は西日本一帯に、一気に押し寄せたと考
えざるを得ない。その中心的な地域として丹後が今浮かび上がってきている。第3章は丹
波王国について詳しく述べたいと思う。古代史の新しい情報に皆さんはきっと驚かれるに
違いない。
滋賀県守山市の伊勢遺跡は、昭和56(1981)年に民間の宅地造成工事に先立って実
施した試掘調査によって発見された。その後、平成19年3月までに実施した104次にわ
たる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約 700m、南北約450mの楕円形状に形成されているこ
とが明らかになっている。平成13年に巨大な祭殿とみられる建物跡が見つかった。その
他の大型建物も多く、地元では邪馬台国近江説を唱える人が多い。第4章第1節では、こ
の伊勢遺跡について画像も含めながら詳しい説明をする。
朝鮮半島における縄文時代の遺跡から糸魚川産の翡翠が数多く出土しているので、日本列
島と 朝鮮半島との交易があったことは明らかである。日本海の「海の道」でもあった
が、「翡翠の道」でもあった。そして、その「翡翠の道」は枝分かれして、日本 列島の各
地に続いていた。当然、琵琶湖の水運も盛んであったと思われる。
また、琵琶湖周辺の古代豪族を見ても、琵琶湖周辺には大和朝廷とは浅から ぬ繋がりを
持った豪族がひしめいていたようである。第2節では、琵琶湖周辺の豪族について説明し
たい。
そもそも
城地方とはどういうところか? 第1節では、まず
明をしておきたい。
城地方の風土について説
城というところの風土は、もともと地霊の声の響き渡る不思議な赴
(おもむ)きを持っており、死の匂いの芬々(ふんぷん)とする所である。
現在、近畿圏の外郭環状道路の一部として京奈和(けいなわ)自動車道が建設中だ。京都
市を起点として奈良県を北から西に抜けて和歌山市に到る全長約 120kmの高速道路
である。 そ こで、橿考研は平成21年7月から道路計画地の約6500平米について発
掘調査を実施してきた。橿考研は、平成22年1月21日、それまでの発掘の成果を マス
コミに公表し、4世紀前半に活動した豪族の館か祭りの場の可能性のある遺構が見つかっ
たことを明らかにした。そして、付近一帯の古名にちなんで、この 調査地を「秋津遺跡」
と名づけた。第2節では、この「秋津遺跡」の説明と馬見古墳群(うまみこふんぐん)や
南郷遺跡群などの説明をする。
王朝交替説(おうちょうこうたいせつ)は、日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の
王朝の交替があった とする学説である。私は、記紀は不比等による創作物語であり、信
用して良い部分もあるし、信用できない部分もあると考えている。そこが古代史を考える
場合 の難しい所で、風土を含む地理学的な考察の下、遺跡にもとづく考古学的な裏打ち
を行いながら、どのような歴史認識を持つかが問われるということであろう。 その際に
は、歴史の連続性とか歴史的必然性というものが十分認識されなければならない。
城王
国については、丹波王国や近江王国との関係を無視するわけに はいかないし、そこに歴
史の連続性というものを考えざるを得ないのではないか。第6章で詳しく述べるように、
私は、いわゆる大和朝廷は応神天皇から始まる と考えているが、それはそこに歴史的必
然性を感じているからである。私は神武天皇や崇神天皇は実在しないと考えているのであ
るが、そうは考えてない学者が 多いようであるので、まず第3節では、王朝交代説につ
いて、それがどのようなものかを説明しておきたい。
記紀では、
城王朝は崇神天皇によって滅ぼされたとなっているが、私は、何度も申し上
げているように、崇神天皇は架空の天皇であると考えている。では、史実はどうなのか? 第4節ではその説明を行いたい。継体天皇に
城氏は反対して、
城氏は遂に蘇我氏に寝
返りを打たれて没落することになるのである。
邪馬台国の時代から大和朝廷の時代を通して、いろいろとちらつくのが物部氏である。蘇
我氏は傍若無人にも天皇をないがしろにしたケシカラン氏族だ が、物部氏は常に女王や
天皇に忠実に仕えた廷臣であった。私は、物部氏を廷臣の中心的な実力者として高く評価
しているので、応神天皇の説明に入る前 に、まず第1節で物部氏の説明をしておきたい。
神武天皇や崇神天皇など応神天皇以前の天皇はその実在が疑わしい。だが、応神天皇につ
いては、実在性が濃厚な最古の天皇と言われている。では、応神天皇東遷の動機は何か? 特に、応神天皇東遷を支えた人たちの動機は何か? また、東遷にあたってこれという大
きな戦いがなかったのは何故か? 第2節において、私はそれらの疑問に答えるつもりで
ある。
不比等は、阿多隼人の存在を警戒しながらも、彼ら海人族の文化については、その吸収に
重大な関心を持った。その一つは阿多隼人の有する呪力であり、もう一つは天照大神に関
する神話と伊勢神宮の創建である。三つ目は、物部一族や秦一族の率いる職能集団の統括
である。第7章「藤原不比等の深慮遠謀」では、これらのことについて詳しく説明すると
ともに、不比等が神武東遷神話をどういう思いで創作したのかを説明する。海上の道が既
に大和朝廷の支配下にあることを天下に示したかったのである。海人族ネットワークの分
断作戦である。神武東遷神話によって、日本列島の水軍はすべて大和朝廷、実質的には藤
原氏ということだが、中央権力の集中管理することとなった。藤原氏万全の体制が出来上
がったのである。不比等ほど深慮遠望に長けた人は歴史上そうはいない。彼によって日本
国の骨格ができたと言ってもけっして言いすぎではない。
歴史学のみならずあらゆる学問及びその他本格的な登山などで、その時々において難しい
判断を必要とするものは、直観力がないと卓越した判断はできない。そのことは、今西錦
司の言動をつぶさに見ればよく解る。歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、そ
の他歴史に関連する民俗学などの知識を持って、現地で地霊の声を聞かなければならな
い。その地域の風土というものを感じ取ることが大事なのである。私は,歴史的文献や考
古学的知見によって古代を知ることが基本であるとしても、それだけでは不十分で、現在
そこにあるものから古代を推察することが大事なのである。それは、ハイデガーの言う過
在ということである。過ぎ去ったかに見えても、その名残りみたいなものが現在に在る。
それが過在である。古代を知るには、そのことも大事である。その事を実際にやったのが
民俗学者であり地名学者でもある谷川健一である。谷川健一の最後の仕事が「四天王寺の
鷹」である。彼は、歴史的直観力を働かせながら、「物部氏と秦氏との密接な関係」を明
らかにした。第7章第1節「四天王寺の鷹」では、まず最初にそれを紹介して、次に第2
節では諏訪大社に焦点を当てて、「物部氏と前イズモとの密接な関係」について、私の論
考を進めたい。タイトルは、「諏訪大社の柱とソソウ神」である。
竹生島は、神秘の島である。私は、京都育ちであるが、お茶は竹生島近くの湖水の水で点
てるのが最高と聞いていた。琵琶湖は、古代湖である。竹生島近辺の湖底には、世界にそ
こしかいない貴重種がいくつか生息している。お茶に関連する水の伝承は、竹生島の秘密
と無関係ではなかろう。琵琶湖周航歌の歌詞、「瑠璃の花園、珊瑚の宮」というのもそう
だ。琵琶湖の湖底には竜宮があるのである。竹生島は、まさに神秘の島である。第9章で
は神秘の島.竹生島の秘密をじっくり話すこととしたい。私が竹生島の秘密というのは、
弁天さんと能「竹生島」のことであり、さらには興福寺の龍神や延暦寺の三面大黒との関
係である。
倭国大乱の原因についてはいろいろな説があるが、私は先に、「 全国のクニグニが力をつ
けてきた時、互いに戦い合うのは当然である。それは、歴史的必然であると言って良
い。」と述べたが、その真意は、権力闘争というのは、そもそも人間の闘争本能から生じ
るものであって、クニグニの権力者が誕生したとき、必然的に権力闘争が起こったという
ものである。だから、倭国大乱というものは、局地的なものでなく、全国の各地で起こっ
たのだと思う。その時、何が困るか? 魏志倭人伝や後漢書に倭国大乱のことが書かれて
いるのは、当時、倭国と中国との交流が盛んであったことを意味しており、倭国大乱に
よって途絶えた。このことによって誰がいちばん困るか? 第10章第1節では、このよ
うな観点から「倭国大乱」について述べる。 倭国のクニグニを比定する一つの
は「奴国」である。この国名は2回出てくる。これは
最初に出てくる奴国とは別の国である。最後に出てくる奴国は、 倭国の境界の尽きる所
である。第2節(1)では、この第二の奴国について私の斬新な考えを述べることとした
い。
陳寿は、琉球の島々のことは多分知っていたと思う。魏志倭人伝に琉球に関する記述がな
いのは、多分、陳寿がそういう南洋諸島のことを百も承知であったからだと思う。しかし
ながら、もっと南の方はどうか? 私は、魏志倭人伝の著者・陳寿は、そういう太平洋の
情報に重大な関心を持っていたと思う。そのようなときに、上記のような答えが返ってき
た。それは中国では今まで聞いたことのない、まことに貴重な情報であった。それが朱儒
国、裸国や黒歯国の情報であったのである。それらの島々が、琉球の他に別の島々があ
る。第2節(2)では、朱儒国、裸国や黒歯国がどこか明らかにしたい。今までこの点に
触れた学者はいない。
魏志倭人伝の書きぶりから見て、狗奴国が倭国の一国であることについては特に説明はい
らないと思う。問題は、狗奴国の比定地ははたしてどこか、ということである。それを解
く大事な視点は、二つある。一つは、倭国の中で、邪馬台国が脅威に感じるほどの巨大な
軍事大国を倭国の東方面に探すことである。あと二つ目は、台与と前ヤマトとの関係につ
いての認識だ。かかる観点に立って、 第2節(3)では、 尾張が 狗奴国 であることの詳
しい説明をしたい。
台与が擁立された年代は、魏志倭人伝には記載がないのではっきりしないが、卑弥呼が古
墳に埋葬されたという魏志倭人伝の記事によって、台与が擁立された年代もすでに古墳時
代に入っていたと考えてよい。しかし、弥生時代が終わってそれほど経っていないので、
台与が擁立された頃の状況は、弥生時代の遺跡を調べる事によって、推察しなければなら
ない。第3節(1)では、台与が擁立された頃の大和盆地の遺跡にも続いて、台与を擁立
した陰の実力者を明らかにしたいと思う。
物部氏が軍事氏族であったことを示す遺品としては、1500年前の皮の中から
や柄な
ど多くの木製の刀装具が60個出土している。その数は全国最多である。また、布留遺跡
は、大量の管玉や滑石製の玉、ガラス製玉鋳型やかなさしを出土しており、玉造り遺跡と
しても有名である。さらに鉄滓や鞴(ふいご)の破片なども見つかっていて、鍛冶集団が
いたことが分かる。鍛冶は当時の最先端の技術であり、物部氏が半島の百済や加耶から最
先端技術を携えてやってきた渡来人を配下に抱えていたようだ。第3節(2)では、物部
氏に関わる遺跡について詳しく説明する。
台与の祭祀の道具は鏡。卑弥呼の祭祀の道具は銅鐸。しかし、道具が異なるとはいえ、そ
れを使って祈る対象としての神や祈る内容は、卑弥呼との場合も台与の場合も同じであっ
た思われる。まず、何を祈ったか? 私は、豊穣を祈ったのだと思う。これは旧石器時代
や縄文時代における祈りと断絶はない。特に弥生時代に稲作が行われるようになってから
は、富をもたらすものは稲作であり、富の蓄積によってクニグニができていった。した
がって、各豪族が豊穣を祈るのは当然であって、私は、卑弥呼も台与も豊穣を祈りなが
ら、クニグニの繁栄を祈ったのだと思う。だとすれば、卑弥呼や台与の祈った神は、大地
の神・地母神であり、天にまします神・太陽神であったと考えられる。第3節(3)で
は、このような台与の祭祀について私の考えを述べることとしたい。 台与の祭祀こそ、わ
が国が世界に誇る<神道>の源流は台与の祭祀である。
第1章 大和盆地の地理的条件
第1節 奈良というところ
大和朝廷は何故奈良にできたのか?弥生時代ないし古墳時代に何故京都にそういう権力機
構ができなかったのか?
この問題を解くには、旧石器時代、縄文時代、弥生時代の連続性を考慮して、旧石器時代
から考古学的な考察をすることが必要である。歴史的な連続性というものを重視しなけれ
ばならないのである。
では、考古学的な考察をする場合に、どういう視点が必要か?考古学的な考察をする場合
の視点、それは、人びとが何故そこに集まってきたかということである。それには二つの
要件がある。一つは交通、二つ目は交易品である。交通条件についてはのちほど述べると
して、今ここでは、まず交易品について述べる。旧石器時代と縄文時代を通じて、京都に
無くて奈良にあった交易品とは何か? それは、石器である。奈良特産の石器は、言わず
と知れた二上山の石器である。すなわち、二上山特産のサヌカイトである。京都にはそう
いう石器の一大産地はない。奈良には、それがあった。旧石器時代と縄文時代を通じて、
いろんなものを加工する道具は、石器である。鉄の生産は、縄文製鉄があったとはいえ、
本格的に始まったのは弥生時代である。したがって、縄文時代の道具は、石器であったと
いって良い。石器は、東日本は黒曜石、西日本はサヌカイトである。旧石器時代と縄文時
代を通じて、サヌカイトの一大産地のひとつが二上山、すなわち奈良である。したがっ
て、縄文時代に人びとが集まってきたのは、京都ではなく奈良であった。
奈良盆地から望む二上山
縄文時代に人びとが集まってきたのは、京都ではなく奈良であった。歴史的な連続性とい
うものがあって、何か特別の事情が生じないと、その傾向は連綿と続く。だから、奈良に
おいては、弥生時代から古墳時代、否、それから以降も連綿と人びとが奈良に集まってき
たのである。それぞれ特別の事情が生じて、奈良の都、京都の都、東京の都と歴史は動い
てきた。今後、特別の事情が生じてどこに都が移るか判らないが、それを今想像すること
はできない。私は首都移転などというものはそう簡単なものではないと思う。歴史的な連
続性というものは非常に重いものである。
不比等が記紀を創作し、伊勢にアマテラスをお祀りすることにより、新しい政治体制を
作ってから、天皇が自ら権力闘争に関与したのは、後醍醐天皇の時と、平安遷都の時の二
回あるだけである。よほど特別の事情があったと考えねばならない。それぞれ正しい歴史
的認識が必要だが、特に平安遷都については、正しい歴史的認識をしておかないと、その
後の歴史的認識を間違ってしまう。
私は、歴史というものは、いろんな事情のある中で、別の言い方で言えばいろんな矛盾の
中で、いちばん合理的な道を歩んで来たと思っている。歴史的必然性というものがあるの
ではないか。私が歴史的連続性と言っているのは、そういうことだ。
桓武天皇の時代になって、藤原北家が桓武天皇と一体になって、政治を進めていくわけ
で、私は、そこに歴史的必然性を見るのである。そして、不比等の時代と平安時代との間
に不比等の深謀遠慮にもとづく歴史的連続性を見るのである。不比等の深謀遠慮は切れ目
なく現在まで続いている。また、不比等の深謀遠慮は、邪馬台国の時代から、前ヤマトの
時代へ、さらには、前ヤマトの時代から大和朝廷の時代へと、歴史的必然性を歩んできた
が故に、その延長線上に立って、深く考え、遠い将来を慮ったのではないかと、私は考え
る次第である。不比等は正しい歴史認識の上に立って、記紀を創り、アマテラスを創った
のではないか。
大和朝廷が奈良に誕生したのは、基本的には、そういう歴史的な連続性からくるものであ
るが、そのほかに、実は、奈良が日本列島の中で、圧倒的に優位な地理的条件があった。
地理的条件とは、風土も含むので、交通や資源の他、歴史的なおもむき、自然的なおもむ
き、人びとの生きざまもも含むのであるが、狭義には交通と資源に限っての条件をいう。
奈良と京都との比較として奈良が圧倒的に有利なのは、黒潮文化圏との交通であり、水銀
朱という資源であった。したがって、以下にこの二つの問題について詳しく述べることと
したい。二上山の存在は京都に比べて圧倒的に奈良の地理的条件を有利にしているが、二
上山については第5章「葛城王朝」のところで触れるので、この章では触れない。翡翠の
交易は、やや京都の方が有利かと思われるが、これも別の章で詳しく述べるので、この章
では触れない。
第2節 黒潮文化圏との交通
縄文時代後期、東海地方から北海道まで東日本全域に大流行したのは「ベンケイガイ」製
の貝輪である。愛知・千葉・秋田・北海道などには、貝輪づくりを専門にしていたムラも
現れるようだ。こうした貝輪づくりのムラ近くには、ベンケイガイを多量に打ち上げる海
岸が今でもみられるという。このことについては次のホームページを参照されたい。
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sokuhou/sokuhou58.htm
奈良には縄文時代の貴重な遺跡・橿原遺跡がある。 橿原遺跡からは東北地方を主体とし
た150点にも及ぶ遠隔地の土器が出土しており、これらの出土品は近畿地方においては
他に例を見ない量といえる。 西日本一帯に共通する土器文化圏にあった橿原遺跡から、
特に多くの東北地方の土器が出土すること及び土偶のなかに東日本的な要素が 見出され
ることは、大和盆地と東日本との交易が縄文時代から盛んであったことを意味している。
もちろん、橿原式文様を有する土器が東日本へ波及している事例も多く見られるという。
このような東日本をはじめとする遠隔地との交流を示す出土品は、土器や土製品にととど
まらず、タイ、ボラ、スズキ、フグ、クジラなどの海産の食料資源や、ベンケイガイ製貝輪
などの装飾奢侈品にまで及んでいる。
ベンケイガイ製貝輪
広域的な交流の中心となった橿原遺跡が成立した要因について、先に述べたように、基本
的には、二上山のサヌカイトが交易品の中心にあったことと黒潮文化圏における海上交通
が関係している。黒潮文化圏における海上交通は、太平洋沿岸地域の海上交通のことであ
るので、大和盆地との関係から言えば、地理的には、紀伊が中継点として重要な地域とし
て浮かび上がってくる。そのことを明確に証明する証拠ととして「みなべ町」「徳蔵地区
遺跡」がある。以下に「徳蔵地区遺跡」について説明する。
南部町の位置
阪和高速道路の延伸工事が平成15年完成目途に「みなべ町」で始まったが、それに先
立って平成9年から、埋蔵文化財発掘調査が南部インター チェンジ(約6万㎡)の建設
地予定地を中心に行われた。その発掘調査で、5000年前(縄文時代中期前半期)の集
落跡が出たのである。これまで西日本では、同時代の集落は出土しておらず、考古学上の
空白期とされていたので、「みなべ町」の発掘調査は画期的なものとなった。この遺跡は
「徳蔵地区遺跡」と名付けられている。現在の調査範囲は3600㎡。ここから竪穴式住
居跡13棟、埋甕2基を確認したのをはじめ、おびただしい数の石器や土器の破片などが
出土している。石器や土器は各地のものが集まっている。土器は瀬戸内文化圏の広範囲に
分布する船元式土器をはじめ、関東、東海 地 方 のものもたくさん出土。石器は製品のみ
ならず、香川県の金山や奈良県の二上山などから原石が運び込まれている。驚く事なか
れ、その中に長野県八ヶ岳和田峠の黒曜石が出土したのである。愛知県東浦町の入海(い
りみ)貝塚からも和田峠の黒曜石が出土しているので、尾張地方の海人族が縄文時代から
舟運によって交易に活躍していたことは間違いないだろう。諏訪地方から和田峠の黒曜石
がどのように尾張地方まで運び込まれたかははっきりしないが、私は、諏訪、飯田、設
楽、豊橋、三河湾という「黒曜石の道」を考えている。しかし、それはともかく、今ここ
で私の言いたいことは、黒潮文化圏における尾張と紀伊を結ぶ「海上の道」というものを
考えざるを得ないということである。ベンケイガイの交易は、東日本から尾張と紀伊を経
て大和に至る「海上の道」があったことを意味している。
日本列島における交易において、黒潮文化圏における「海上の道」が果たした役割は実に
大きかったのである。古代史を考える場合に、歴史認識としてこのことは極めて重要であ
る。
第3節 水銀という資源
1、施朱の風習(古代∼現代)
狩猟時代、大型動物を槍を突き刺し、出血多量で死に至らしめる。人間も出血多量
で死ぬことがよくあったであろう。血は生命の素である、そういう認識が人類の誕
生の時からあったものと思われる。赤色は、幼児が最初に覚える重要な色といわれて
いる。生命の保持に深く関わっているらしい。 赤は血の色である。だから、私たち
は赤を見て、無意識のうちに、生命の保持を意識するのかもしれない。
古来赤系の色は、赤、紅、茜、緋などいろいろと呼ばれていたが、古代において、人
工的に作りうる赤系の色は、朱色である。だから、古代において、朱とは赤との区別
はなく、朱も血の色であって、朱は生命の素と考えられていたのである。さらに、朱
は、太陽の色であり、まさに日々の生活を支えるもっとも神聖なものである。した
がって、朱というものは、神聖な呪力を有して、命の蘇りと太陽の蘇りをもたらすと
考えられていた。鳥居などの構造物の朱は、太陽に対する信仰が成熟したころに使わ
れ始めたのであろう。
鮮やかな鳥居の朱色
厳島神社の朱
古代において、使者の埋葬に当たって使われた朱は、命の蘇りを願ってのものであ
る。この施朱の風習は、旧石器時代にすでに始まっている。朱は、使者の埋葬に当
たって、墓の地面にも撒かれたり、身体の上に撒かれたりした。また、壁も朱で飾ら
れたりした。
施朱の風習は、旧石器時代に起源をもつ北方系と縄文後期からはじまる西方系の2
種の異なるものがある。北方系の施朱の風習は、時代が下るにつれ、北海道から東
北に及び、縄文時代後期には九州北部でもはじまる。北方系施朱の特徴は、埋設時
に遺骸などに施されたものであり、施朱は塗布ではなく、ベンガラの粉末を散布し
たものである。西方系施朱の風習の場合、北方系のものとは違って、出現当初から、
天然辰砂の粉末が使われた。墳墓に認められる赤色の顔料は、弥生時代初頭より水
銀朱である可能性があり、甕棺墓が盛んに行われた頃(弥生時代の前期から中期)
はすべて水銀朱である。ところが甕棺墓の衰退にともない、赤色顔料の主流は水銀朱
からベンガラに移る。このような水銀朱とベンガラの使い分けは、かなり複雑な様
相を示し、単純な説明はできないが、古墳時代における石室壁面の赤色顔料は、すべ
てがベンガラである。水銀朱は、そう簡単には手に入らない貴重なものであったよ
うだ。中国の場合であるが、水銀朱は皇帝や貴族の使う顔料であった。北部九州の
甕棺墓に使われた水銀朱は、中国から輸入された可能性が高い。水銀朱は、縄文時
代後期から全国的に顔料として使われるが、それは土器や土偶に塗布されたり漆の顔
料として使われたのである。埴輪に水銀朱が塗布されている例があるが、これは葬祭
の儀式の時の化粧を写したものであるらしい(市丸靖子、「人物埴輪赤彩考」 19
96年、埴輪研究会会誌2)。
なお、九州北部に中国から水銀朱が輸入されて以来、次第に国産品が増えていくが、
そのことについては次に述べる。
2、水銀朱の画期的な研究
南武志、武内章記、高橋和也、今津節生らの研究チーム(近畿大理工、国立環境
研、理研、九州国博)によって、「遺跡出土朱の産地推定のための同位体分析」とい
う画期的な研究が日本学術振興会のプロジェクトとして2002年度に行われた。以
下、その要点を紹介しておきたい。
(1)縄文時代には三重県丹生地方で、弥生時代には徳島県水井鉱山で、朱の採取が
記録されている。当然、日本産朱の利用も考えられたはずである。古代において朱は
辰砂鉱石を粉砕して精製したと思われる。そのためキログラム単位の精製した朱を取
り出すためには、露頭に近い部分から多量の朱が採取できる鉱山であったと考えられ
る。
この条件を満たす鉱山に、中国では陝西省青銅地域と貴州省満山特区が、日本では
三重県丹生鉱山、徳島県水井鉱山、奈良県大和水銀鉱山がある。
(2) 遺跡朱の産地同定方法として、朱を構成する硫黄の同位体比と水銀の同位体
比分析を行った。さらに、朱に混在する鉛の同位体比分析が産地同定に使用できる
ことを検討した。 その結果、 中国貴州省および陝西省の辰砂鉱石は大きくプラスの
δ34S値を示し、日本三重県産、徳島県産、奈良県産辰砂鉱石はマイナスのδ34S値
を示した。
次に、多量の朱が採取された遺跡の朱の硫黄同位体比分析を行ったところ、福岡県
春日立石遺跡、島根県出雲西谷墳墓、鳥取県紙子谷門上谷遺跡、京都府大風呂南墳
墓、福井県小羽山30号墳という北部九州から西日本の日本海沿岸の弥生時代後期の
巨大な権力者の墳墓と、瀬戸内地域で唯一徳島県萩原遺跡という弥生時代後期遺跡
から中国産を示すδ34S値が観察された。
これに対し、上記周辺の同時代の遺跡や奈良県の古墳時代の遺跡からは日本産を示
すδ34S値が観察された。以上のように、弥生時代後期から古墳時代の巨大墳墓で中
国産朱と日本産朱が使い分けられていたことが硫黄同位体比分析から明らかにでき
た。
(3) 多量の朱を1つの遺跡に用いるには、数年かけて収集および貯蔵していた可
能性がある。そのためには複数の産地の朱を混ぜた可能性がある。辰砂鉱石の鉛同
位体は、中国産と日本産で異なり、さらに丹生鉱山と大和水銀鉱山鉱石は非常に近
い値を示すが、徳島県水井鉱山鉱石は明らかに異なる値が示された。
4、 以上、弥生時代後期より古墳時代における遺跡出土朱の産地推定を硫黄同位体
比分析、水銀同位体比分析、および鉛同位体比分析で行った。その結果、古代中国
および日本の主な辰砂鉱山は3種の同位体分析法を組み合わせることで識別精度が向
上し、遺跡出土朱の産地特定が高い確率で可能になると考えている。
彼らの画期的な研究で弥生時代後期より古墳時代における遺跡から出土する水銀朱
の中に国産品があることが判明した。問題は、国内のどこでいつ頃生産されたか、
そしてそれらの水銀朱が運び出された地域はどこか、ということである。私は、伊勢
水銀(三重県丹生鉱山)と大和水銀(大和水銀鉱山)と阿波水銀(徳島県水井鉱
山)の三カ所で水銀朱(辰砂)が採掘され、それらは大和から運ばれていったと考え
ている。
3、大和に運ばれた三カ所の水銀
日本列島における水銀朱の鉱山は、丹後や近江などいくつかの地域に存在するが、
大きなものは中央構造線に集中している。その辺の状況については、次のホームペー
ジを参照されたい。
http://kamnavi.jp/ny/minzoku.htm
辰砂の採掘は縄文時代から行われていたことははっきりしている。なかでも伊勢水銀
として古くから知られている三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、 縄文
時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野(うれしの)町天白(てんぱ
く)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿、磨石や朱容器と考えられる土器が数多く出
土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことが判る。
阿波水銀も縄文時代から生産されていたようだ。1995年度の徳島県埋蔵文化財セ
ンターによる発掘調査(一般国道192号徳島南環状線建設に伴う埋蔵文化財調査)に
よると、矢野遺跡周辺での朱の生産活動が、少なくとも縄文時代の後期初頭には、
既に行われていたらしい。また、1984年から行われた徳島県埋蔵文化センターの
発掘調査によれば、徳島県阿南市水井町の若杉山遺跡では、石杵(いしきね)や石
臼(いしうす)などの石器を用いて「朱」を生産していた。出土土器から弥生時代の
終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられるとのことである。
大和水銀がいつ頃から生産されていたかははっきりしないが、 宇陀地方の辰砂採取
は少なくとも4∼5世紀には丹生氏が採取したようだ。ただしこの頃は露天掘り
だったようで、水銀の本格的な坑道採掘は6世紀後半に秦氏によって始められ、この
宇陀の地は秦氏の管轄下におかれたようである。宇陀の水銀採取は平安初期にはお
終わり、その後は伊勢の水銀に代わっていった。
大和宇陀地方にたくさんある水分神社は、元来、辰砂採掘地の縄文神を祀っていたが、後
に水分神社と言う名称が与えられ、今では、農業神、水の神を祀る神社と思われている。
丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)は和歌山県かつらぎ町上天野(旧天野村)にあ
る。天野大社ともいわれて、紀伊の国一の宮である。海抜500mの山上とは思えない朱に
塗られた雅(みやび)な神社が森に囲まれたとてもいい環境の中にある。この地は盆地で
水田は青々として、小鳥のさえずりが聞こえ、時間がゆったり流れている、ここは将に桃
源郷である。ここのコメは天野米産地として有名である。
白洲正子は、その著書「かくれ里」(1991年4月、講談社)の一節で、「まだか
まだかと思ううち、峠を二つばかり越えたところで下り坂となり、いきなり目の前
が明るくなった。見渡す限り、まばゆいばかりの稲の波だ。こんな山の天辺に、田
圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに天野の名にふさわしい天の一
角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原も、こういう地形のところを いったのかも知れない」 「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりする
ような山村を私は知らない」「できることならここに隠居したい。桃源郷とは正に
こういう所をいうのだろう」・・・と書いている。 水銀朱を採掘する人達が神と崇拝したのが、この丹生都比売神(にゅうつひめじん
じゃ)で、その祭祀を司ったのが「丹生氏」と言われているから、伊勢水銀関係の技
術者がこの大和水銀の地にやってきたのであろう。そして、この天野高原に集落を形
成したようだ。現在、「天野の里づくりの会」というのがあって、素晴らしいホーム
ページを作っているので、ここに紹介しておきたい。
http://www.katuragi.or.jp/amano_satodukuri/
皆さんも是非一度「天野の里」にお出かけ下さい。そして、丹生都比売神社(にゅう
つひめじんじゃ)にお参りし、古き時代の大和水銀朱に想いを馳せて下さい。
ところで、白州正子には、多くの名著があるが、上記の本は私の愛読書であり、その
天野高原に関する記述を一部紹介したので、この章の最後に、白州正子について少し
書いておきたい。
私は、私の電子書籍「100匹目のさるが100匹」で書いたが、今西錦司は学識
の他に特別の直観力を持った人である。今西錦司の他には、白州正子を除いて、その
ような人を 私は知らない。白州正子は、もちろん今西錦司とは学術分野が違うけれ
ど、彼女もその専門分野の学識については群を抜いている。「能のこと」「能面のこ
と」「十一面観音のこと」「木や花のこと」「美に関すること」などを語らせれ
ば、彼女の右に出る人はいない。その上、白州正子は、今西錦司と同じように特別
の直観力が働くようだ。上記の「かくれ里」の解説で、青柳恵介が「文献の上からは
何ほどのことも言えないその思想の芽生えに白州さんは目を凝らす。<黙して語らぬ
木や石>がとうとう口を開くまで目を凝らす。」と述べているが、彼女はまさに特別
の直観力を持っているということだろう。彼女のその直観力は、小さい頃から能を舞
い、能のもっとも奥深い水準まで能を舞い続けたが、その中で培われたものであろ
う。しかし、彼女は、 遂に、 女性なるが故に遂に能を舞うことを止(や)めた。何
故、女性が能の奥義を究めることができないのか、私にはとても説明できないが、
彼女はそれを達観したのである。頭でそう考えるのではなく、身体がそう考える、そ
れが直観である。白州正子は、今西錦司と同じように、直観の人である。彼女の著
作には、他の追随を許さない学識と直観力によって、目から鱗(うろこ)が落ちるよ
うな真実がちりばめられている。上記の「かくれ里」には、大和水銀についていろい
ろと書かれているので、以下にそれを紹介しておきたい。彼女の歴史観に狂いはな
い。以下に紹介する彼女の記述はそのまま信じて良いと思う。彼女は次のように
言っている。すなわち、
『 明恵上人の遺跡を回っていた頃は、度々紀州を旅行して、紀ノ川と有田川ぞいに、い
くつもの丹生の地名と社があることに気がついた。西国巡礼の途上では、若狭の遠敷(お
にゅう)を訪れ、お水取りの元である「若狭の井」を見たが、そのとき遠敷が丹生の転化
であることを知った。越前の丹生郡にも、大丹生、小丹生という地名がある、といった工
合で、それぞれ「丹生」に思い出のある私は、その都度なつかしい感じを持ったのであ
る。いうまでもなく、丹生は朱砂と辰砂を意味し、その鉱脈のある所に「丹生」の名称が
ある。朱砂は煮詰めると水銀になり、水銀をまた煮ると朱砂に還元するという、不思議な
性質を持っているが、不老長寿の薬とされたのも、そういう所から出た思想だったかもし
れない。西洋で発達した錬金術に対して、東洋では
丹術(れんたんじゅつ)が、科学の
基礎となった。丹は薬の他にも、塗料や顔料に用いられ、鍍金(ときん)にも欠かすこと
のできない原料だが、播磨風土記には、神功皇后が新羅へ出発する際、爾保都比売(にほ
つひめ)の命から。赤土を船や鎧に塗ることを教えられ、軍に勝ったという話があり、呪
いのためにも盛んに用いられた。古墳の内部に朱を塗るのも、悪魔除けと防腐剤をかねて
いる。それほど需要の多い鉱物が、不思議な霊力をもつ神として、崇められたのは当然の
ことといえる。そして、朱砂を採掘する人びとは、木地師や金勝族とともに、太古から日
本の国土に住みつき、神聖な職業にたずさわっていた。日本に多くの丹生の地が見られる
のも、彼らが朱砂を求めて放浪した、その足跡を語るものといえよう。松田寿男氏の研究
によると、丹生神社は全国に138カ所もあるそうで、半分以上が和歌山県に集中してい
るという。ちめいはそれよりずっと多く、遠敷の例を見ても判るように、入、丹保、仁
宇、荷尾、玉生、船生など、みな丹生の転化であり、入はシオとも訓(よむ)ために、塩
のついた所もあやしいという。』
『 弘法大師が高野山を開いた時、丹生都比売に案内されたこと、その画像が高野山にあ
ること、私が知っているのはその程度で、紀ノ川すじを取材しながら、たえずこの神のこ
とが気にかかった。聞くところによれば、紀州に70以上もある丹生神社の、総社は伊都
郡天野にあり、天野大社とも丹生都比売神社とも呼ばれている。』
『 今昔物語によると、弘仁7年、弘法大師が高野山を開くにあたり、聖地を求めて巡歴
するうち、大和の宇智郡で、一人の漁師に出会った。(中略)大師が尋ねる場所を教えよ
うと言い、犬を放って紀州の山へ導き、そこで「山の王」に会い、山中に百町ばかりの領
地を譲り受けた。名前を聞くと、我は「丹生の明神」と名乗り、漁師は「高野明神」と答
えて消え失せたという。(中略)吉野から高野にかけては、水銀の鉱脈が多い。弘法大師
はそこへ目を付けたので、漠然と仏教の聖地を求めたのではあるまい。良弁が金勝族を統
率したように、弘法大師は丹生族と密接な関係を持ち、世紀の大事業を成し遂げたのであ
ろう。』
『 天野大社は、いってみれば高野山の奥の院に当たるのだ。古い形式は、無言の内にそ
の経てきた歴史を物語る。今昔物語の説話など、史家は単なる伝説として退けるであろう
が、高野山の草創に、丹生一族が大きな役割を果たしたことは、参道の地理だけ見ても判
ることである。神社の前には、丹生都比売の墓と称する古墳もあった。(中略)古墳は確
かに丹生都比売のものか、そうでなくても丹生氏の祖先を祀ったものに違いない。』
『 神社の裏手には、沢の社というささやかな神社があった。大きな木に囲まれた社で、
ここから清水が湧き出ており、神社の前の池となり、川となって、末は紀ノ川へ合流して
いく。だいたい水銀の出るような所は、川の上流と決まっているから、水銀が採れなくな
れば、丹生都比売が水の神(ミズハノメや龍神)に変身することは、自然の成り行きであ
ろう。』・・・・・と。
それにしても大和朝廷という言葉は不思議な言葉だ。河内朝や近江朝も含むのか?含まな
いのか?どうもその点がはっきりしない。それは何故か?
また、平安時代以降、山城に
朝廷がありながら、山城朝廷とは言わない。これは何故か? それに対応する言葉は、平
城京時代であるが、平城京時代ともあまり言わない。
時代区分としては、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代が一
般的である。大和朝廷というのは、どの時代を言うのか?一般的な認識はともかく、私
は、大和朝廷の時代とは、大和に初めて朝廷ができた時代だと理解している。記紀の立場
に立てば、それは神武天皇の時代ということになろうが、私は、記紀は不比等の創作だと
考えているので、私の立場に立てば、大和朝廷の時代とは応神天皇の時代ということにな
る。それ以降、河内王朝の時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と続く。かかる観点か
ら、この章では、縄文時代、弥生時代及び大和朝廷の時代における奈良の地理的特性を書
いた。しかし、それ以降の時代は、それまでの時代の影響を受けているとは言え、上述の
地理的特性は殆んど朝廷の所在地を決める要素とはならない。経済社会が大きく変化した
からである。
特に、いわゆる平安遷都は、奈良時代と平安時代を画するもので、上述の地理的特性とは
関係なく、両者にどのような根源的な違いがあるのか? 平城京での政権運営が何故行き
詰まったのか、それを正しく認識しなければならない。この章を終わるにあたってそのこ
とを申し上げておく。
第2章 古代の歴史を概観する
第1節 歴史認識の重要性
1、歴史は何故正しく認識されなければならないか?
今私は、「天皇はどこから来たか」ということを考えようとしている。そのことが今の私
たちの生活にどう関係するのか? 天皇がどこから来ようがそんなことはどうでも良いの
ではないか。そうお考えの人が多いのではないかと思うので、以下において、歴史認識の
問題について少し説明しておきたい。
吉野ヶ里遺跡については、10年前のことであるが、はじめて一般公開されるや爆発的
な人気を呼んだ。三ヶ月の間に百万人を超える人が見学に訪れたと言われているが、発掘
現場の見学としては、日本国内は勿論のこと、世界でも空前の驚くべき数だそうである。
ところで、人間の欲求について、A・マズローの五段階説というのがある。マズローの
欲求五段階説によると、人間の欲求にはもっとも低次の生理的欲求から、もっと高次の自
己表現の欲求まで五段階の欲求がある。そして、低次の欲求がある程度満足されないうち
は次の欲求が起きず、また逆に、低次の欲求をある程度充足している人は、必ずそれ以上
の高次の欲求を求めて、然るべき行動を起こすというのである。こういったことは、成熟
化社会に突入したわが国においては、国民のニーズに応えていくという意味で、国づくり
や地域づくりの面でも、充分、意識されなければならない。従前の施策を踏襲しているだ
けではいけないのであって、新たな施策というものが常に求められる所以である。
今後、わが国は余暇時間の増大とともに、さまざまな形の余暇活動(利用)が活発化す
る、これは間違いのないところであります。吉野ヶ里遺跡に対する10年前の、あの爆発
的な関心の高まりというものは、国民がより高次な欲求を求めている証拠だと思う。歴史
とか伝統・文化というものを求める国民の欲求は今後、益々強くなっていくに違いない。
吉野ヶ里遺跡のみならす、各地にある遺跡についても、単なる保存という枠組みを超え
て、国民の欲求に充分応え得るよう、然るべき整備を図る必要がある。
中村雄二郎は、その著「哲学の現在」の中で「歴史への人間の関心にはきわめて本質的な
ものがあるようだ」、「私たちは、自分たちの生きている時代や社会をよりよく認識する
ために、また、込み入った問題、解決しにくい問題に対処して生きていくためにも、自分
たちの時代、自分たちの社会をできるだけ総体的に、できるだけ多角的に映し出す鏡が必
要だ。歴史とは、私たち人間にとって、まず何よりもそういう鏡ではないだろうか。」と
述べている。さらに先生は、哲学者としてこのようにも言っている。「私たちは身体をも
つのではなく、身体を生きるのである。歴史についても、それと同じように、私たちは人
間として歴史をもつのではなくて、歴史を生きるのである。すなわち、私たちにとって、
身体とは皮膚で閉ざされた生理的身体だけではなくて、その活動範囲にまで拡がってい
る。それと同じように私たちは人間存在として自己と共同社会との絡み合いのなかで、瞬
間、瞬間を生きながらにそのことによって、重層的な時間から成る、出来事としての歴史
を生きる。ということは、つまり、歴史とは、拡張された私たちの存在そのものだという
ことである。そして、私たちは、人間として自分自身を知ることが必要でもあり、根源的
な願望であるとすれば、その欲求と願望はおのずと私たちの存在の拡張としての歴史に向
けられるであろう。いいかえれば、私たちにとって歴史を知ることは、すぐれて自己を知
ることなのである。ここに、私たち人間にとって、歴史を知ることの格別な意味があり、
またそのために、私たちは歴史に強く惹かれるのだといえるだろう。」
少々長くなったが、歴史というものを認識する上で、中村雄二郎の考え方は誠に重要あ
ると思うので、紹介させていただいた次第である。私達が共同社会に生きる以上、歴史を
知るということは、本質的なものである、ということである。
「我思う、故に我あり。」 これはデカルトの哲学であるが、中村雄二郎は、そうではな
くて、「我語る、故に我あり」だと言っている。これからの哲学としては、我思うと同時
に我語る、故に我がある。そういうことだ。我語る。私達は、大いに語らなければならな
い。世界から尊敬される国家を目指して、国の歴史を思い、国の歴史を語り、そしてこれ
からあるべき国のロマンを語らなければならないのである。まずは語ることである。
そのためには、歴史は正しく認識されなければならない。
2、正しい歴史認識のために
歴史学のみならず、あらゆる学問及びその他山岳登山など判断を必要とするものは、直観
力がないと画期的な学説など抜群の判断はできない。そのことは、今西錦司の言動をつぶ
さに見ればよく解る。歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、その他歴史に関連
する民俗学などの知識を持って、現地で地霊の声を聞かなければならない。その地域の風
土というものを感じ取ることが大事なのである。私は、歴史的文献や考古学的知見によっ
て古代を知ることが基本であるとしても、それだけでは不十分で、現在そこにあるものか
ら古代を推察することが大事なのである。それは、ハイデガーの言う過在ということであ
る。過ぎ去ったかに見えても、その名残りみたいなものが現在に在る。それが過在であ
る。古代を知るには、そのことも大事なのである。
それでは次の問題として、そういう直観力をつけるにはどうすればいいか? そのことに
ついて少し触れておきたい。
一つは、自分なりに一生懸命勉強することだが、その勉強の内容が大事であると思う。森
に入って森を見ずという言葉があるけれど、時には森の外から森を見ることも必要なので
ある。鳥の目、虫の目、宇宙の目という言葉がある。鳥の目で見ることも必要だし、宇宙
の目で見ることも必要だといういみだが、宇宙の目というのは、喩えであって、霊感を働
かすことをいう。霊感を働かすとは、第三の脳を働かすことであって、このことについて
は、電子書籍「100匹目の猿が100匹」に書いたのでそれを見てもらいたい。
http://honto.jp/ebook/pd_25231954.html
歴史認識にも風土というものが作用する。風土は、かってそこに住んでいた人びとの生き
ざまが土地にしみこんだものである。したがって、その場所に出向いて、その場にたたず
み、心静かに想いに耽る時、何か響き合うものがある。風土が作用するもの、それが地霊
の声だ。そういう事を日頃やっていると、自ずと直観力が身につく。ともかく現地に行く
ことだ。私は,古代人が歩いたであろう道を随分歩いた。だから、私には、黒曜石の道に
ついてはおおよそ見当がついている。
歴史的認識について、他にも、特に言いたいことがある。それは、地理学についてであ
る。地理学とは、本来、そこにそれがあるのは何故か、それを問う学問である。そして、
大事なことは、その問に答えるためには、歴史的なものをしっかり調べることはもちろん
だが、歴史的直観力を働かさなければならない時が必ずあるということだ。例えば、立石
寺は何故そこにあるのか? 歴史の大きな流れの中で、藤原内麻呂に想いがいかなければ
ならない。この閃(ひらめ)きがいうなれば歴史的直観力によるものなのである。
歴史的認識については、さらにもう一つ言いたいことがある。それは、道のことである。
道には、海の道、山の道、野の道がある。交易というものは、それらの道を通じて行われ
た。それらの道のネットワークがあった。それらネットワークの中で、黒曜石の道、貝の
道、翡翠の道、琥珀の道をどのように具体的に想定するのか? それが、正しい歴史認識
を持つための必須条件である。日本列島には、旧石器時代から連綿と続く海の道と高度な
航海技術を有す海人族が存在した。このことをしっかり認識していないと、白村江の戦い
も磐井の乱に対する奥深い認識は持てないように思う。歴史認識が矮小化してしまうの
だ。不比等が何故あのように「阿多隼人」を恐れたのかということも、十分な理解はでき
ないものと思う。
遠山美都男『白村江 ―古代東アジア大戦の
―』(講談社現代新書1370 1997.10)の表紙から。
ではここで、地理学の例題として、一つ質問をさせてもらう。第7章第1節にも書いたよ
うに「白村江の戦い」の総司令官は、現在の静岡県静岡市清水の豪族「庵原氏」であった
が、何故静岡市清水に庵原氏がいたのか? ほとんどの人はそういうことを知らないと思
う。しかし、多くの人が知らないような事実、旧石器時代から連綿と続くところの厳然た
る史実があるのである。 庵原氏のことについては紙枚の関係でここに述べれないが、そ
の答えを私のホームページに詳しく書いたので、それを是非見て欲しい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/atamiaa.pdf
第2節 黒曜石文化から縄文文化へ
人類学では、かつては世界の三大人種をネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドと呼ん
できたが、 今日ではそれぞれ主な居住地域から、「アフリカ人」、「ヨーロッパ人」、
「アジア人」という呼び方で分類している。「アフリカ人」は、ホモ・サピエンス誕 生以
来ずっと故郷の地に暮らし続ける肌の黒い人々。「ヨーロッパ人」はアフリカを旅立った
のち、東に向かったわれわれの祖先たちと別れ、欧州に住み着いた 人々を指す。そして、
太陽の昇る方向を目指して長い旅を続けた集団を「アジア人」と呼ぶ。
「ヨーロッパ人」と別れて東に向かった一団は、大きく二つのルートに分かれる。故郷
アフリカの温暖な気候を求め進んだ「南回廊」と、極寒のシベリア平原を進んだ「北回
廊」である。
「南回廊」は西アジアから南アジア、インドネシア(スンダーランド)を経由しつつ、中
国南部から朝鮮半島を抜け対馬海峡を越えるか、柳田国男の唱えた「海上の道」、つまり
琉球諸島を北上するルートをたどる。
一方、「北回廊」はシベリアを越え、サハリンから北海道へと到るか、モンゴル、中国
北部を経由しながら朝鮮半島を通って日本へ到達するか二つのルートをイメージしてもら
いたい。詳細に見れば四つのルートだが、大きくは「北回廊」と「南回廊」という二つの
道である。
二つの道を別々に歩んだわれわれの祖先たちは、それぞれ旅の途中で人類史上に燦然と
輝く偉大な記録 を残している。北回廊を歩んだ人々は、温暖地方でしか生きられなかっ
た人類にとって初めての「寒冷地克服」という快挙を成し遂げた。そして南回廊にコマを
進めた人々は、陸地しか移動できなかったヒトが、初めて海を渡るのに成功するという
「海洋適応」を果たしたのである。
この二つの偉業をともに成し遂げたのが、いわゆるモンゴロイド、つまり私たちアジア
人の祖先たちで ある。そして先ほども言ったように、その私たちアジア人の祖先たちのう
ち、一部がベーリング海峡を渡ってアメリカ先住民の一派となった。アメリカ先住民の 一
派なども広い意味の「アジア人」つまりモンゴロイドである。
さて、最初の日本人であるが、私は、5万年前頃、最初の日本人は黒潮に乗って渥美半島
に上陸したのではないかと想像しており、長野県は飯田市山本の佐竹中原遺跡の調査結果
を見 守っているが、今のところそれが果たして5万年前の遺跡なのかどうかは確定してい
ない。佐竹中原遺跡がおおよそ5万年前頃の遺跡ではなかろうかと考えてい る考古学者
も少なくないが、私もそのように考えている。私が昔、飯田市山本で泊まったとき、宿の
女将さんがこの付近ではこんなのが出るんですよと言って見 せてくれた石器を見て、中央
道の建設工事のときに発掘された石器が日本最古のものではないかと
されていたことを
思い出し、なるほど黒潮に乗って渥美半島 に到来した人々が豊橋から設楽を通って飯田市
までやってきたのではないかと想像したのを思い出している。
私は、黒潮に乗って渥美半島に上陸したの一派あるいは他のグループが伊豆半島を越えて
熱海までやってきたと考えている。熱海の旧石器人は、造船と航海技術に長け、駿河湾と
相模湾を自由に行き来していたようであるが、その人たちの中から東京湾を越えて岩手県
までやってきた人たちがいたのではないか。黒 潮は伊豆半島付近で誠に複雑な流れをす
る。ぼやあっとしているとジョン万次郎のようにアメリカまで漂流せざるを得ない。沿岸
流をうまくとらえながら、北上 するのはよほど航海技術に長けていないといけない。し
かし、熱海の「海の民」はそれが可能であった、と私は考えている。こういうことを考え
ていくと、岩手 県に最初の人々がやってきたのは、おおよそ4万年前頃を思われる。私
の考えでは年代を相当引き下げざるを得ないが、それにしても4万年前の岩手県に既に
人々が住んでいたということは凄いことである。
縄文時代になると、西日本から多くの人々が東北地方にもやってくる。しかし、北海道か
ら津軽海峡をわたって東北地方にやってくるのは、「湧別技法集 団」の南下まで待たなけ
ればならない。「湧別技法集団」の南下によって、初めて土器が誕生するので、東北地方
の発展を考える場合も、「湧別技法集団」の南 下というのは重大な意味を持っている。
土器というものは、「湧別技法」という高度な技術をマスターした人々が発明した。その
ことについては、私の次のホー ムページを参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen.html
私は、黒潮に乗って渥美半島に上陸した最初の日本人が長野県は飯田市までやってきたの
は、おおよそ5万年前頃ではないかと考えているので、これらの 人々が諏訪湖まで遊動
していって、その周辺で子孫を増やすのはそれ以降のことである。最初の日本人のひろが
りがもととなって、八ヶ岳山麓の一種独特の文化 が作り上げられた、と私は考えており、
旧石器時代や縄文時代の文化を知るには、八ヶ岳山麓がいちばん良いと思う。時代はずっ
と下って縄文時代となるが、か の有名な「縄文のビーナス」を生み出すのも八ヶ岳の縄文
文化である。
第3節 縄文時代の技術と交易
「 縄文文化という世界最高の文化がヨーロッパや西アジアに先駆けて4000年ほどは
やくこの日本に誕生した」ということをアッピールしだしたのは,小林達雄である。小林
達雄には、「縄文土器の研究」(2002年4月,学生社)ならびに「縄文の思考」(2
008年4月、筑摩書房)というすばらしい著書がある。 彼は,「縄文土器の研究」
(2002年4月,学生社)で「少なくとも日本列島の縄文土器は,世界の先史時代にお
ける土器づくりレースのなかで、そのスタートがもっとも早かったグループの一つである
ことはほとんど間違いのないことであろう。」としか言ってないが,「縄文の思考」(2
008年4月、筑摩書房) では次のように言っている。すなわち、
『 土器の製作開始は,重大な技術的革新性を意味するのではあるが、世界のあちこちで
独立して発明された訳ではない。その多くは発明地からの伝播をうけて普及したものであ
る。しかし,発明地は一カ所ではなく,少なくとも三カ所はあったと考えられる。その一
は,西アジアであり、土器出現の過程が詳細に捉えられている。9000年前頃と大方の
研究者は結論づけており,その年代には今後とも大きな変動はないであろう。その二は、
アメリカ大陸であり,アマゾン河流域に 古い土器の存在が確認されている。しかし,
遡ってもせいぜい7500年程度である。よりふるい時の新発見があれば、それがそのま
ま新大陸において独自に土器の発見された年代更新ということになるが、いまのところ一
万年の大台には決して届かないものと予想される。その三が日本列島を含む東アジアであ
り,一万年をはるかに超える古さに遡り,西アジアにおける土器製作の開始年代を少なく
とも4000年以上も引き離して断然古い。』・・・と。
世界に先駆けること4000年ですよ。4000年! 縄文時代に,世界最高の文化が
わが国で花開いていたということである。これは私たちの世界に誇るべきことではない
か。私は、日本の中小企業の技術は世界に冠たるものを持っていると考えているが、その
源(みなもと)は縄文時代まで遡る。否、黒曜石の加工技術、湧別技法を考えると旧石器
時代にまで遡(さかのぼ)る。
「縄文時代の商人たち・・・日本列島と北東アジアを交易した人びと」(小山修三、岡田
康博、2000年8月、洋泉社)という素晴らしい本がある。
この本は、元国立民族学博物館の小山修三さんと青森県教育庁の岡田康博さんが、主に青
森県の有名な縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡を中心として、 縄文時代の様々なテーマ
について対話した記録である。
•
序章.縄文商人の発見
•
第一章.なぜ発見が遅れたのか?
•
第二章.何をどのように商っていたのか?
•
第三章.三内丸山が縄文商人の拠点になった理由
•
第四章.マージナルな縄文商人たち
•
第五章.縄文商人が活躍した社会とコスモロジー
•
第六章.交易舟に乗った「海の商人」
•
第七章.縄文社会の盛衰に対応する商人たち
•
第八章.三内丸山の消滅と、縄文商人の行方
•
終章.新しい縄文時代像の可能性に向けて
三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけての集落遺跡である。ここでは、ヒス
イ・黒曜石・琥珀・アスファルト等が発見されており、縄文時代の商 人が持ち込んだとい
う仮説がこの対話の中心だ。対話なので、通常の本とは異なり、大胆な仮説も提唱されて
おり、大変、参考になる。
縄文時代に黒曜石が随分遠くまで運ばれている。その目的は交易かそれとも部族同士の交
流なのか? その点について考えてみたい。
例えば、八ヶ岳のが黒曜石が三内丸山遺跡まで運ばれているが、伊豆の黒曜石が阿賀野川
の津川という所まで運ばれている。津川にある「小瀬が沢洞窟」と「室谷洞窟」という二
つの遺跡は、阿賀野川水系只見川に近いところにある。 私は、津川の遺跡について書い
たことがあるので、まずそれを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen.html
小瀬が沢洞窟と室谷洞窟 は,特別の技術集団の工房であった可能性が高く,それが故
に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。私が上記のホーム
ページで提起した問題は,何故その場所が特別の技術集団の工房に選ばれたかということ
である。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、
新泉 社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう
思う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明 では腑に落
ちないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議として、「何 故, 小瀬
が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という問題提起したのであるが、「何故、そう
いう交通の要衝に小瀬が沢洞窟と室谷洞窟 は,特別の技術集団の工房であった可能性が
高く,それが故に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。
さて,問題は,何故その場所が特別の技術 集団の工房に選ばれたかということであ
る。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、新泉
社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう思
う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明 では腑に落ち
ないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議として,「何 故, 小瀬が
沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という問題提起をしたのであるが、「何故、交通
の要衝である津川に黒曜石加工の工房ができたのか?」という問題については、工房とい
うからには、その目的が交易であることは自ずと明らかであるので、黒曜石運搬の目的、
すなわち「交易と交流の問題」については追求しなかった。それを今回考えてみようとい
う訳だ。
なお、「黒曜石七不思議」については、次のホームページを、是非、ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/7husigi2.html
では、「交易と交流の問題」について考えてみよう。そんなに遠くの部族どうしの交流な
んてものはおおよそ考えにくいので、私は、 黒曜石運搬の目的 やっぱり交易だと思う
が、その場合、何と交換したかという問題を考えてみなければならない。
この問題については、考古学的な証拠はないので、頭の中で想像するしかない。黒曜石を
遠路はるばる運んできて、またもとのところまで帰らなければならない。交易をして交換
物を持ってもとのところまで帰るとしたら、その交換物は 軽くて持ち運び易いものでな
ければならない。それは何か? そんなものを想像することができるか? 私にはおお
よそ想像できない。私は、黒曜石を遠路はるばる運んできた人たちは、黒曜石とその地域
の特産品と交換したのだと思う。その地域の特産品は、近隣の部族と交換できる。黒曜石
を遠路はるばる運んできた人たち、それは縄文商人と言って良い人たちであるが、縄文商
人は黒曜石を遠隔地まで運んできて、またもとのところまで帰っていく。その帰り道を想
像してほしい。近隣から近隣と渡り歩きながら、それぞれの地域の特産品を商取引きした
のである。その渡り歩いた人達こそ商人以外の何ものでもない。間違いなく縄文商人は存
在したのである。
どんな部族集落にも商人は居たと思う。そういう部族集落の中に、三内丸山遺跡のような
商業集落があっても何の不思議もない。私は、 元国立民族学博物館の小山修三さんと青
森県教育庁の岡田康博さんが 言うように、三内丸山は商業港であったと思う。三内丸山
が商業港であるということについては、批判的な意見が少なくないが、私は、小山さんや
岡田さんの見解に賛成だ。私は、縄文商人が集まる部族集落が日本列島の所々にあっても
何の不思議もないように思う。
第4節 渡来人の技術移転
古来より技術は人類の生活をよりよくするために向上が続けられ、そしてその一部の技術
は軍事的にも利用され、また軍事目的に特化して開発された技術もある。技術と軍事は歴
史においてもその関係性が重要であることが指摘されている。軍事技術というものは国家
の意思によって左右される。その際大事なことは、軍事技術といってもさまざまな要素技
術から成り立っているので、飛躍的に軍事技術が発達すれば、民需の技術も飛躍的な発展
を遂げるということである。しかし、国の意思というものは、軍事技術にだけ働くもので
はなく、民需に向けられる場合も少なくない。イギリスで産業革命が始まった要因とし
て、原料供給地および市場としての植民地の存在が大きく関係しているといわれている
が、これは国家というものが技術の飛躍的発展に大きく関係したことの歴史的事実であ
る。
古来、中国は、国家の意思に支えられて、いろんな技術が発達した。その技術が日本に伝
わってきた。中国からの外来技術によって、日本の技術開発が触発されたことは疑う余地
がないが、ここで留意すべきは、日本の受け入れ態勢である。受け入れ態勢というものを
考える場合に、大事な点が二つある。一つは、古代でいえばクニグニということになる
が、各豪族の力である。もう一つは、その地域の技術者集団の能力である。私は、その後
者の問題について、極めて大事なことを申し上げておきたい。外来技術を受け入れるにし
ても、またそれに触発されて新たな技術開発をするにしても、その地域の技術者集団の技
術能力が関係するのはいうまでもないが、日本の場合、その能力が世界に冠たるものが
あった。それは、伝統技術というか、潜在的な技術力のことである。
伝統技術というものは伝承されるから伝統技術という。現在の技術は、昭和の技術を継承
し発展させたものであるし、昭和の技術は大正の技術を継承し発展させたものであるし、
大正の技術は明治の技術を継承し発展させたものである。また、明治の技術は江戸時代の
技術を継承し発展させたものである。明治時代に、西洋から外来技術が入ってきたが、日
本はこれを瞬く間に吸収し、さらに新たに発展させた。これは世界の奇蹟だという向きも
あるが、奇蹟でもなんでもなく、日本は江戸時代の素晴らしい技術をベースとして、外来
技術を日本化したに過ぎない。江戸時代の技術は、戦国時代の技術を継承し発展させたも
のである。このように、技術というものは、次々と伝承されていくものである。では、日
本の伝統技術はどこまで遡るのか? 実は、旧石器時代まで遡るのである。黒曜石の細石
刃技術という世界でも冠たる技術があって、土器というものが発明された。このことをい
まここで、私は特に言いたいのである。
渡来人の技術移転という点でもっとも強い影響を受けたのは、いうまでもなく中国文明で
ある。以下においては、技術に限らず文化ということで、中国文明の波及という観点で、
古代の歴史を概観しておきたい。世界の「四大文明」の中で、エジプト、メソポタミア、
インダスの文明は滅亡・断絶したが、唯一中国文明だけは、数千年にわたってほぼ同じ地
域で同じ文明を維持してきて、朝鮮半島を通じて間接的に或いは朝鮮半島を介さないで直
接的に、文化全般においてわが国に強い影響を与え続けてきた。中国文明なければ今の日
本文化はないと言ってもけっして過言ではない。
中国文明の伝来ということでまず思い出すのは、記紀における天孫降臨の話である。 記
紀の神話に語られる「天孫降臨」は、四つの伝承がある。一般的に言われているのは、天
孫降臨高千穂説である。この説の場合、天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一
山である「高千穂峰」と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承があるが、どちらの場所が
比定されるかは定説がない。また、また、天孫降臨北部九州説もなかなか有力な説であ
る。この場合、天孫降臨の地は韓国すなわち朝鮮半島に向かい,対面した地だというのあ
る。糸島半島説などの北九州説がこれだ。その背景には,朝鮮半島の住民が九州を経て日
本列島に広まった古き記憶こそが天孫降臨神話なのだという思い入れがある。さらに、天
孫降臨丹後半島説と 天孫降臨
摩半島説というのがある。前者については第3章「丹波
王国」で、また後者については 第7章の 第1節「阿多隼人について」で詳しく書いたの
でそれを読んでいただきたい。
さらに、除福伝説やアメノヒボコ伝説やツヌガアラシト伝説があるし、スサノオが朝鮮半
島の神であったという伝説もある。これらの伝説は、すべて中国文明の伝来を意味してい
る。
なお、 第8章第2節の6の(2)「翡翠の道」で述べたように、倭国の大商人のネット
ワーク組織がいくつかあった。そういう大商人は、人口密度のか高いところ、つまり政治
の中心に引き寄せられてくる。河内王朝の時代、そういった大商人のネットワークを通じ
て多くの渡来人が大阪にやってきたようだ。そのことについて、中沢新一は「大阪アース
ダイバー」(2012年10月、講談社)の中で次のように述べている。すなわち、
『 南朝鮮から北陸、北部九州、瀬戸内海沿岸部は、6世紀くらいまではひとつの共通世
界を形づくっていました。「カヤ(伽耶)」である。その世界を、舟を使って自在に行き
来していたのが、海民と呼ばれる人びとです。海民は玄界
を渡り、能登半島の方にまで
行き来していました。その共通世界における東の突端が大阪でした。彼らの言葉は共通言
語で、方言ほどの違いしかなかったのではないかと言われています。』・・・と。
第3章 丹波王国
第1節 丹後の古代遺跡について
ガラス釧(くしろ)が、平成10年9月に、与謝野町岩滝の阿蘇海と天橋立を見下ろす高
台に作られた弥生時代後期(西暦200年頃)の墳墓(大風呂南1号墳)から出土した。
鮮やかなコバルトブルーのガラスの腕輪が完全な形で出土したのは国内で初めてで、今で
は国の重要文化財になっている。
奈良国立文化財研究所の成分分析によれば、中国産のカリガラス製である可能性が高い
ことが判った。その他にも銅釧13・ガラス勾玉6・管玉363・
鉄剣15・鉄鏃など
当時の貴重品が多数埋葬されていた。当地方には、古代から日本海ルートで大陸と交流す
る強大な力を持った集団が存在していたのである。
ガラス釧(国指定重要文化財)
また、平成11年には、和歌山県御坊市の堅田遺跡から、弥生前期後半の青銅器を作るた
めの日本最古の鋳型が見つかった。これは九州で発見されたものより古い。したがって、
渡来文化がいったん北部九州や出雲地方にもたらされ、しばらく経って近畿地方に伝わっ
たという従来の考えを完全に覆すもので、渡来の波は西日本一帯に、一気に押し寄せたと
考えざるを得ない。その中心的な地域として丹後が今浮かび上がってきている。
渡来人は、朝鮮半島からのものが圧倒的に多いが、黒潮にのって南九州にやってきた。そ
のことを示す遺跡や伝承は南さつま市(合併前の加世田市)のものが有名であるが、確か
に「海の道」が太平洋にも日本海にもあったのだ。朝鮮半島における縄文時代の遺跡から
糸魚川産の翡翠が数多く出土しているので、日本列島と朝鮮半島との交易があったことは
明らかである。
渡来文化は、縄文時代からわが国に入ってきて、そのお蔭でわが国の文化は飛躍的に発達
する。そのことは間違いない。しかし、ここで私は、声高に主張したいのは、本来わが国
の技術水準は高く、日本の文化が渡来文化に頼り切っていたということではけっしてな
い、ということだ。このことについては、私のブログを是非ご覧戴きたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3613.html
明治時代もそうだが、古代も外来文化を積極的に取り入れながら、それを日本化し、新た
な文化を創造する、それがわが国の特質であることを忘れてはならない。そのことを十分
認識していただいた上で、丹後地方の渡来文化の濃厚なところを勉強してほしい。丹後の
渡来文化については、伴とし子の「前ヤマトを創った大丹波王国」という力作があるの
で、是非、それを読んでほしい。
丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から
鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知
られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの拠点となっていたのではないかと考え
られている。
ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は、「鉄」の遺跡
としても非常に貴重な存在なのだ。全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9
本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と
言われている。
弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年現在、丹後からは330点を数えるが、同時期の
大和では13点にしかならない。
丹後の古代製鉄は大規模で、一貫生産体制のコンビナートであった。京都府立大学の門脇
禎二教授は、遠所遺跡から製鉄遺構だけでなく、鍛冶遺跡も発掘された事をとらえて、こ
こを奈良時代の一大製鉄コンビナートともいうべき、驚くべき遺構だと位置づけている。
しかしながら、丹後の古代製鉄の原料である砂鉄は、現在までの調査の結果、丹後地方の
ものではないことが判明している。原料の砂鉄はいったいどこから来たのだろうか? こ
の点は、まだ研究者間でも解明されていない。門脇教授によると、丹後地方には「車部」
(くるまべ)という氏族がおり、この「車部」は物品の運搬を司る氏族で、丹後の古代製
鉄の原料である砂鉄や、出来上がった鉄や鉄製品の運搬を担当していたのではないか、と
推論しているが、その砂鉄がどこから来たか、製品はどこへ運ばれたかについては依然
のままだ。
また、弥栄町溝谷の奈具岡遺跡(なぐおかいせき)では、弥生時代中期にあたる約200
0年前の玉作り工房跡が発見された。遺跡からは、水晶の原石、玉製品の生産
工程にお
ける各段階を示す未製品や、加工に使われた工具などが多数出土した。生産された水晶玉
は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉でした。ここでは、原
石から製品まで一貫した
玉作りが行われており、国内でも有数の規模と年代を誇っている。水晶玉とともに中国や
朝鮮半島から入ってきたと考えられる鉄製工具類なども大量に見つかった。これは、九州
北部よりも先に鉄加工の技術が伝来していた可能性を示すものとして注目されている。
この奈具岡遺跡(なぐおかいせき)については、次のホームページが詳しくて判りやす
い。
http://inoues.net/tango/naguoka.html
さらに、平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後
半の大きな墳丘墓が発掘された。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの
方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量
の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。しかも、墓に接するよ
うに環濠集落があるようだが、これについては今後の調査が期待される。この墓は、あの
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代で、墓の大きさも吉野ヶ里よりわずかに小さいが、
吉野ヶ里の場合は、墳丘墓には十数体の遺体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡
の場合はただ一人のための墓である。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王
の墓」と考えられる。
全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられているが、
丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけだ。
第2節 物部氏の祖神・ホアカリ
はるか遠い先祖に渡来人を持つ場合、よほど言葉に注意をしないといけない。ゆめゆめそ
の子孫を渡来系などと言ってはならない。今私は,物部氏の系譜を語ろうとしている。物
部氏のはるか遠い祖先は、確かに渡来人であるかもしれない。しかし、混血に混血を重ね
て、物部氏という言葉が生じた古墳時代には、物部氏はすっかり日本人になっているので
あって、古墳時代の物部氏を渡来系と呼ぶのは適当ではない。
技術というのは伝承されるので、その技術の源流に渡来人の技術があれば、その技術者集
団を物部氏が統括するということがあったかもしれない。一般的に言って、職能集団とい
うのは、結束が硬く、同じ神を祀っている場合が少なくない。だから、古くからその職能
集団を束ねているボスというのは、代々、そのボスとしての地位を引き継いできたと思わ
れる。今、私が重要な関心を持って話をしたいのは、鉱山師並びに冶金の技術者集団とそ
れを統括してきた物部一族のことである。そして、私が今申し上げたいのは、物部氏を渡
来系の氏族というのは、あまり適当ではないということだ。古墳時代の物部氏は、その後
の秦氏もそうだが、鉱山師と冶金の技術者集団を統括していたらしい。それらの源流に、
渡来人がいたとしても、物部氏や彼が率いる技術者集団を渡来系というのは、適当ではな
い。彼らは、すっかり日本人になっているのであって、いつまでも渡来系というのは、如
何なものか。私はそう思う次第である。
しかしながら、後年は混血によってもはや渡来系と呼ぶのは適当でないとしても、その源
流に渡来人、そして渡来文化があるという意味で、便宜上、渡来系一族と呼ぶ方が彼らの
特質を言い当てている。したがって、私は、今後、あまり厳密に渡来系という言葉を使い
分けしないので、お許しいただきたい。前節で述べたように、日本の技術力というもの
は、縄文時代から、否旧石器時代から連綿と続く世界に冠たるものであり、外来技術が
入ってきても、すぐに日本化してしまうのである。確かに縄文時代から弥生時代、そして
古墳時代に、日本列島には外来文化の波が押し寄せてきた。しかし、それをもって、日本
が中国の植民地であったかの如く考えてはならない。そのことを十分ご承知いただいた上
で、私は,物部氏の祖神ホアカリのことを語りたい。渡来系という言葉が時々出てくかも
しれないが、渡来系という言葉については以上に述べた通りなので、その点、ご注意願い
たい。
伴とし子という人がいる。丹後の人で、学者ではないが、永年、「海部系図(あまべけい
ず)」の研究をした人で、「前ヤマトを創った大丹波王国・・・国宝・海部系図が解く真
実の古代史」という本(平成16年1月、新人物往来社)がある。それにもとづいて「丹
後王国論」を展開している人である。
http://www.youtube.com/watch?v=XzifEGky4Sg
私は、これから国宝「海部系図」によって明らかになる古代史の真実について、その結論
部分を紹介する。彼女がなぜそういう結論に達するのかは、是非、「前ヤマトを創った大
丹波王国・・・国宝・海部系図が解く真実の古代史」という本を読んでいただきたい。そ
れでは、以下に、国宝「海部系図」によって明らかになる古代史の真実についての結論部
分を紹介しよう。
1、「海部氏系図」には、海部氏の始祖として「彦火明命」とあり、「正哉吾勝勝也速日
天押穂耳尊」「第三御子」と書かれ、天孫の一人であることが明記されている。
2、ホアカリノミコトは、丹波国(今の丹後)の凡海息津嶋に降臨した。これは、今、冠
島と呼ばれている。そして、養老3年3月22日、籠宮に天降る。
3、天孫降臨した人物は、ニニギノミコトとホアカリノミコトである。そして、ニニギノ
ミコトは、九州に降臨したのである。そして、ホアカリノミコトは、丹後に降臨したので
ある。
4、問題の焦点は、天皇家の流れに当たるニニギノミコトと、この海部氏の祖であるホア
カリノミコトとはどういう関係か、ということである。兄なのか、弟なのか。政権を持つ
のはどちらなのか。
5、丹波系伝承では、ホアカリノミコトが第三御子、すなわち弟となっている。
6、今の感覚では、家を継承するということに、通常、兄も弟もないが、長く儒教の影響
をうけてきたため、兄が継承する風習があった。つまり、長子相続であった。
7、「海部氏系図」の注目点であるホアカリノミコトが「第三御子」であるという注釈
は、重大な意味を持つ。ホアカリノミコトを「第三御子」と注釈したことからは、そのこ
とを、伝えようとしたのが「第三御子」の表示だったのだ。
8、ヤマトスクネノミコトの妹の名に「
木地方が浮上するのである。古代
前、奈良、
木」とある。こうしたところから、ヤマトでも
城王朝説がある。これは、大和朝廷が成立する以
城地方に発生し、崇神天皇に滅せられたとするものであり、この論のすべて
に同意とはいかないが、この古代王朝が深くかかわったことは否めないと考える。
9、アマテラスの孫に当たるホアカリノミコトは、まぎれもなく、丹後に降臨し、ホアカ
リノミコトの三世孫に当たるヤマトスクネノミコトが大和に入ったのである。
10、ヤマトスクネノミコトといわれても、ちょっとピンとこないというのが本音ではな
かろうか。ヤマトスクネノミコトとはどういう人なのだろうか。
11、このヤマトスクネノミコトの存在意義とは、非常に大きなものがある。
12、「海部氏勘注系図」の記録を見ると、神宝は、ヤマトスクネノミコトも祖神から受
け継ぎ、そして、次代にも伝えたということが判る。
13、神武東征について、これを崇神の東征とか応神の東征などといろいろな説がある。
私見によれば、「記紀」の神武東征伝説は応神の東征をあらわしていると考えている。そ
して、神武を水先案内したウズヒコはヤマトスクネノミコトである。
14、いわば、ヤマトスクネノミコトがたどった丹後・丹波∼近江∼山城∼大和、この
ルートこそ最初の東征ルートといえるのではないか。
伴とし子の
国宝「海部系図」に関する解釈は以上の通りである。私は、彼女の解釈は正
しいと考える。しかし、私がこの一連の論考においては、彼女の
国宝「海部系図」に関
する解釈は私の論考の傍証にとどめて、もっと大きな歴史の流れのなかで、邪馬台国のこ
と、物部氏のことを考えていきたい。前節で述べたように、丹後には輝かしい王国があっ
た。そして、丹後王国と近江王国と
城王朝とは深いところで繋がっている。そのことを
しっかり抑えておけばそれで十分である。それでは丹後王国に引き続いて、近江王国につ
いて語ることにしよう。
ヤマトスクネノミコト
第4章 近江王国
第1節 伊勢遺跡
伊勢遺跡については、詳しい内容が守山市のホームページに掲載されている。それをここ
に転記させていただく。その点につき、守山市当局に感謝を申し上げるとともに深甚なる
敬意を表したい。まずは、守山市のホームページに掲載の画像をさっとご覧戴き、ある程
度のイメージを持っていただいた上で、下記に紹介する一連の文章を読んでいだこう。
昭和56年(1981年)、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて、弥生時代後
期の巨大な集落遺跡が広がっていることがわかりました。その後、平成19年3月までに実施した104次にわ
たる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約700m、南北約450mの楕円形状に形成されていることが明らかになっ
ています。集落が営まれた時代は、縄文時代後期から室町時代で、最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1
∼2世紀)です。遺跡は、南と北にある低地に挟まれた微高地にあり、東から西にかけて傾斜する土地にあ
ります。
弥生時代後期の建物跡には、竪穴住居と掘立柱建物の2種類の建物跡があり、竪穴住居の平面形には円形
と方形そして五角形の3種類があります。また、掘立柱建物の規模には大小が見られ、ここでは床面積が30
㎡以上のものを大型建物と呼んでいます。遺跡の西半部には竪穴住居が広がり、東半部の大型建物跡が無く
なると、その上にも竪穴住居が造られるようになります。
遺跡の西側では、溝を挟んで方形周溝墓が築かれていますが、弥生時代集落の有力者の墓域であったと推
定されます。遺跡の東端では、幅約7m、深さ2m以上もある大きな堀のような大溝があり、北側は方形周
溝墓、南側は、旧河道であったと推定されます。
1. 弥生時代後期の巨大集落
伊勢遺跡は、東西方向がJR琵琶湖線のすぐ西側から阿村町東端まで、南北方向は栗東市立大宝東小学校
から日本バイリーン南側までの範囲に広がり、面積は約30㌶です。弥生時代後期の集落としては佐賀県吉
野ヶ里遺跡、奈良県唐古・鍵遺跡などと並んで国内最大級の遺跡です。
近畿地方の集落遺跡は、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散居住することが特徴で、後期
になって伊勢遺跡のように巨大化する集落は稀です。
2. 次々と発見される大型建物
遺跡の東半部では、弥生時代後期の大型掘立柱建物が合計12棟も発見されています。現伊勢町集落のすぐ
東側は、方形の柵で囲まれた中に大型建物3棟と小型の倉庫がL字状に配置された特殊な区画が存在するこ
とがわかりました。、SB−1(平成4年発見)、SB−2、SB−3、小型の倉庫(平成7年発見)から
成る政治の場であったと推定されています。また、その東側30mの地点には3間 3間の楼観(SB−10、
平成10年発見)、そしてこの楼観を中心にして半径110mの円周状に配置された6棟の独立棟持柱付建物と
屋内に棟持柱を持つ大型建物(SB−6)(平成6、7、10、13年)が発見されています。さらに平成13
年には、円周状の建物群の外側で床面積が185㎡を測る大型竪穴建物が発見されました。この建物の壁には
レンガ状の焼物が置かれ、床が赤く焼かれており、特殊な建築技術がみられました。佐賀県吉野ヶ里遺跡、
栗東市下鈎遺跡で数棟ずつの発見例はありますが、伊勢遺跡では多種多様な大型建物が12棟も集中してお
り、国内に類例を見ません。
3. 弥生の国の中心部を考える遺跡
伊勢遺跡は、紀元140年∼180年頃にあったという倭国大乱の時代に最盛期を迎える遺跡です。
中国の書物である『三国志』魏志倭人伝には当時、列島内には30ほどクニがあり、中国に物資を献上し外交
を行っていましたが、140年頃から180年頃にかけて国内で大乱があり、その後、卑弥呼が共立されて女王
になったとの記録があります。伊勢遺跡で発見された大型建物は、卑弥呼共立直前の建物であり、ここに近
江を代表するクニの中心部があって、様々な政治的儀式やまつりごとが行われていたと考えられています。
魏志倭人伝には卑弥呼の住まいには「居処、宮殿、楼観、城柵」などの施設があると記されていますが、伊
勢遺跡は倭人伝に記された卑弥呼の住まいを彷彿とさせます。伊勢遺跡は国の中枢部の構造を探ることので
きる遺跡として高い評価を受けています。
4. 円周状配置の大型建物
大洲地区では円周状配置の建物群の外側に幅3∼6mの弧状にのびる区画溝があることがわかってきまし
た。約18m間隔で弧状に配置された建物は独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)を持ち、梁行(はりゆ
き)1間 桁行(けたゆき)5間(約4.5m 約9m)で規格性が見られます、壁の外側に棟持柱があり、屋
内の中心部にも心柱があるのが特徴です。両外側の柱は、屋根の棟柱を支える柱で、少し内側に傾斜して建
てられ、中心部の柱はやや細いものが使われています。
独立棟持柱があり、心柱を持つ点は、伊勢神宮本殿にも共通するもので、建築学の宮本長二郎氏は、伊勢
遺跡で次々並んで発見される祭殿は伊勢神宮本殿の創立に深くかかわりをもつ遺跡と評価しています。
(宮本氏論文参照)
「伊勢神宮の名称は神宮としては新しいが、地名が同じであることや、守山市と伊勢市の距離の近さを考え
合わせると、伊勢・大洲遺跡の祭殿遺構は伊勢神宮の創立と不可分の関係にあったものと思える」
(神宮本殿形式の成立『瑞垣』183号 平成11年 神宮司庁刊)
5. 東西日本の結節点
近畿地方では弥生時代後期の大型建物のある遺跡は少なく、伊勢遺跡の特異性が際だっています。
伊勢遺跡から東へ約8km離れた野洲市大岩山では24個もの銅鐸が出土しています。突線紐式と呼ばれる
弥生時代後期につくられた銅鐸ですが、西日本に分布する近畿式銅鐸と東海地方に分布する三遠式銅鐸
が一緒に埋納されていました。銅鐸が埋められた時期は弥生時代の終わり頃と推定され、伊勢遺跡の衰
退期に重なっています。弥生時代の終わり頃に、東西の銅鐸が野洲川流域に集められ、埋納されている
ことから、伊勢遺跡は東西日本の結節点として機能していたとも考えられます。
古墳時代の開始に先立って、東西のクニの長が、伊勢遺跡に集まって、祭祀を行い、政治的な協議を
行っていたのではないかとも考えられています。
6. 多種・多様な大型建物
伊勢遺跡では、二重の柵で囲まれた方形の区画の中に、形式の異なる4棟の建物が計画的に配置されてい
たことがわかっています。方形区画の東側では佐賀県吉野ヶ里遺跡で復元されているような楼観跡がみつ
かっています。また円周状に配置された大型建物には独立棟持柱付建物や屋内に棟持柱を持つ大型建物など
がみられます。さらに大型建物群の外側で屋内に棟持柱を持つ大型竪穴建物が発見されています。伊勢遺跡
からは多種多様な建物がみつかっていて、機能や性格の異なる建物が組み合わされており、政治や祭祀を集
約し執り行っていた遺跡と考えられています。
7.五角形住居
伊勢遺跡では、8棟もの五角形住居が発見されています。平面形が五角形で、柱穴は5本あり、中央に炉
をもち、東南辺の壁際に貯蔵穴をもっているものが通例です。壁際には周壁溝がみられるのも特徴です。
五角形住居は、弥生時代後期に各地で見られますが、特に島根、鳥取、石川、富山県などの日本海沿岸地
域に多く、大阪湾岸や瀬戸内海、四国でも発見されています。日本海沿岸地域との活発な交流を背景に、五
角形住居が伊勢遺跡を中心に多数、建築されたと考えられます。
8.大型建物の柱穴の掘り方
大型建物のうちの3棟(SB−4、SB−5、SB−6)の柱穴の底には直径5㎝ほどの河原石が敷かれ
ていて、柱が沈みこまないようにしてありました。また、傾斜面をもつ、大きくて長い柱穴が掘られてい
て、長くて太い柱を落とし込み、柱を建てあげた事が推測されます。さらに、伊勢遺跡の大型建物の柱材は
すべて針葉樹のヒノキが使用されていました。
9. 旧河道と琵琶湖
伊勢遺跡の南側には幅15∼30mほどの川が流れていたことがわかっています。川岸の一部には護岸の跡が
あり、川を水運として利用していたとみられます。祭殿と見られる独立棟持柱付建物(SB−5)からヒノ
キの柱根が出土していますが、筏(いかだ)を組むための切り込みがみられました。川を利用して大きな柱
材を運んでいたことが想像されます。
また、遺跡内からは大阪から持ち運ばれた大型の壺や北陸・東海地方の土器が出土していて、琵琶湖や湖
に注ぐ川を利用して人や物が運ばれていたと推測されます。
10. 国の成り立ちを探る遺跡群
伊勢遺跡の西約1.7kmには栗東市下鈎遺跡があり、弥生時代後期の棟持柱をもつ大型建物が二棟発見され
ています。二つの建物は独立棟持柱をもつ大型建物です。下鈎遺跡では銅鏃や銅釧、銅滴などが出土してい
て青銅器を生産していた遺跡と考えられています。
伊勢遺跡から北西約2km離れた守山市下長遺跡は弥生時代末から古墳時代前期に発達する遺跡です。下
長遺跡でも弥生時代末の独立棟持柱をもつ大型建物が1棟みつかっています。下長遺跡では古墳時代前期に
首長居館が造営され、儀仗などの威儀具が出土しており、古墳時代の王がいたと推定されています。川跡か
らは準構造船が出土しているほか、全国各地の土器が見つかっています。琵琶湖や川を利用して遠隔地と交
流していたことが想像されます。
伊勢遺跡、下鈎遺跡、下長遺跡の遺跡群は国の成り立ちや、強大な権力をもつ王の誕生を探ることのでき
る貴重な遺跡群と言えるでしょう。
第2節 琵琶湖周辺の豪族
すでに述べたように、古代から日本海ルートで大陸と交流する強大な力を持った丹後王国
があった。それは、海部氏であり、日本海の「海の道」をかなり広範囲に行き来していた
ものと思われる。
渡来人は、朝鮮半島からのものが圧倒的に多いが、黒潮にのって南九州にやってきた。そ
のことを示す遺跡や伝承は南さつま市(合併前の加世田市)のものが有名であるが、確か
に「海の道」が太平洋にも日本海にもあったのだ。朝鮮半島における縄文時代の遺跡から
糸魚川産の翡翠が数多く出土しているので、日本列島と朝鮮半島との交易があったことは
明らかである。日本海の「海の道」でもあったが、「翡翠の道」でもあった。そして、そ
の「翡翠の道」は枝分かれして、日本列島の各地に続いていた。当然、琵琶湖の水運も盛
んであったと思われる。
また、琵琶湖周辺の古代豪族を見ても、琵琶湖周辺には大和朝廷とは浅からぬ繋がりを
持った豪族がひしめいていたようである。まず、伊香氏をあげねばなるまい。伊香氏は湖
北の名族である。伊香氏とともに強大な勢力をもって いたのが息長(おきなが)氏。息
長氏の本拠も伊吹山西麓、現在の近江町あたりである。さらに、湖北最大の規模を誇る茶
臼山古墳の主ともいわれる酒の祭神・ 坂田氏(坂田郡の地名)や犬上氏(犬上郡)、鹿
深氏(かふか→甲賀郡)など、琵琶湖周辺には古代豪族に由来する地名が非常に多く残っ
ている。これは地名として残っている訳ではないが、三尾氏のことに触れないわけにはい
かないので、少々長くなるが、「三尾氏と縁の深い白鬚明神(猿田彦)」のことに触れて
おきたい。
滋賀県高島市の白鬚神社
滋賀県高島市に白鬚神社というのがある。白鬚神社の祭神は「猿田彦」だが、この神社は
社伝によると垂仁天皇の25年、倭姫命(やまとひめのみこと)により社殿を創建したの
に始まる。「猿田彦」が祭神であるのも容易ならざるところがある上に、倭姫命の創建だ
とすれば、この白鬚神社というのはひょっとしたら元伊勢籠神社、すなわち丹後王国との
繋がりがあるかもしれない。白鬚神社は誠に謎めいた神社であるが、その由緒書き(詞書
第四段)に、「 土俗、其神を祠りて、神社をたつ。老翁の貌を現し給へは、白鬚の神と
申しぬ。亦比良の神と申は、かの山のふもとに跡を垂ぬへきなり。浄御原天皇、殊に尊崇
したまひ、叢祠を増造り給へり。」とある。土俗とは地元の豪族のことであるが、当時の
地元の豪族とは三尾氏であるから、三尾氏が、白髯を生やした猿田彦翁が琵琶湖に現れ
た、その瑞祥(ずいしょう)を見て、白髭神社を建立したらしい。
継体大王の父親・彦主人王と振媛が住んでいたといわれるのが、近江国高島郡三尾だ。三
尾は滋賀県北西部に位置する高島市南部の旧高島町および安曇川(あ どがわ)町にあたると
考えられ、現在も三重生(みよお)神社や三尾神社、水尾(みお)神社など「ミオ」の読みが
残る神社が存在している。そして、この地域には、彦主人王と振媛に関わる遺跡が多数存
在するのである。
振媛想像図(丸岡町教育委員会作成)
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_10_10.htmより
『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛が顔きらきらして、大変美しい人であ
ることを聞いて三国(みくに)の坂中井(さかない)(福井県坂井 市)へ使いを送り、近江国高
島郡三尾(みお)(滋賀県高島市)の別業(なりどころ)(別荘)に召し入れてお妃(きさき)とし
た。」と書かれている。2人 は、滋賀県高島市の三尾で結婚し、その後に生まれたのが男
大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)である。
男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなってしまう。そこで振媛は「私は今遠く
故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養 育することができ
ません。越前国高向(たかむく、坂井市丸岡町高田付近か)に帰って親の面倒を見ながらお
育てしたい。」・・・と言い、幼い男大迹王を連れて高向 に帰った。
坂井市丸岡町高田には高向神社が建てられており、この付近に高向の宮があったと推定さ
れる。継体大王は、『日本書紀』によると西暦507年に58歳で即位したとあるので、逆算
すると西暦450年前後に越の国(福井県)に入り、即位するまでの50年余りを過ごしたこと
になる。
さて、白鬚明神は別名「比良明神」という。その「比良明神」のことについては、かっ
て、私のホームページで「 元三大師と比良明神 」と題して少々書いたことがある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hiramyou2.pdf
その中から、この一連の論考と関係のある部分を抜き書きしておこう。
聖武天皇が東大寺を建立するとき、大仏さんの金メッキに使う金が足らなくなって、困っ
た。そこで良弁に金の取得を命じた。天皇の命令である。良弁は必死になって金剛蔵王に
祈ったところ、瀬田の山(現在の石山寺の奥)に行き必死になって祈れという夢のお告げ
があった。そこで、明恵は瀬田の山に入り、必死になって祈っていると、巨石に坐って釣
りをしている一人の老翁が現れた。どなたかと聞くと、「比良明神」だという。そして、
その老翁が言うには、ここで必死になって祈りを捧げおれば、この地は「如意輪観音霊応
の地」だから、金剛蔵王の霊力に、観音の霊力と私こと「比良明神」の霊力が加わって、
きっと願いはかなうだろうと。そこで、良弁は「草の庵」を建て、日夜、観音経を唱え
た。そうしたところ、陸奥の国から百済の人「敬福」が名乗り出て、大仏造営に黄金90
0両(現在の約3.4キロ)を献上した。
「石山寺」の「いわれ」は以上であるが、ここで私が言いたいのは、高島市の白鬚神社の
霊・「比良明神」が石山寺に現れて、天皇を助けたということである。「比良明神」が釣
り糸を垂れたという巨石は、「明神釣垂岩」という。多分「磐座」であろう。そして、そ
の磐座・「釣垂岩」は、石山寺と高島市の白鬚神社と延暦寺の三カ所に現在も存在する。
そこは一般の参拝客が祈るところではなくて、然るべき関係者が必死になって祈りを捧げ
る場所である。延暦寺としては、京の都を守るため、「比良明神」の霊力の力も借りて、
祈りを捧げなければならない。そういう宿命にあるのである。
以上で「三尾氏と縁の深い白鬚明神(猿田彦)」のことについては終わるが、いずれにせ
よ、琵琶湖周辺には、古代において大和政権に優るとも劣らない勢力を持った豪族たちが
ひしめいていたのである。
以上のような観点から、丹後王国や近江王国のあった頃には、琵琶湖の水運は盛んであ
り、丹後王国と近江王国とは深く繋がっていたと思われる。血縁的にも結ばれていたかも
しれない。
継体天皇 胞衣(継体天皇生誕の地は白髭神社の近く6kmほどのところにある)塚
http://kansaiyamaaruki.web.fc2.com/20110108oumitakasima.htmlより
第3節 琵琶湖周辺の技術者集団
アナール派の代表的な存在として鶴見和子がつとに有名であるが、彼女の考えていたよう
に、歴史が進化や段階を経ると見るのではなく、古いものの上に新しいものが積み重なっ
ていくと見る視点(「つららモデル」)は誠に大事である。また、ハイデガーの「過在」
というのは、過去に過ぎ去ってしまったと思われるものでも現在もなお存在しているとい
う一つの哲学であるが、彼は、樹木に譬えて、現在見える枝葉を見て見えない根っこの部
分を考察する「根源学」というものを提唱しているが、判りやすく言えば、過去に過ぎ
去ってしまったと思われるものでも現在もなおその名残が残っているのである。私は、歴
史の連続性というものを重視していて、歴史的な出来事というのは、何らかの形でその後
も影響を与えているので、「過在」をみて過去のことを考察することが大事であると考え
ている。地理学という学問があり、その権威にオギュスタン・ベルクという人がいる。我
は和
哲郎の「風土」というものが一体どういうものかまったく理解ができず、それを勉
強するために日本に移住してきた人であるが、彼は「風土」とは自然の赴きであり、歴史
の赴きであると言っている。プラトンの「コーラ」も「風土」みたいなものであるが、私
はオギュスタン・ベルクの「風土」やプラトンの「コーラ」に加えてさらに、人びとの生
きざまがその土地に染み込んだものが風土であると考えているが、そこにそういうものが
何故あるかを問うものが哲学を含む地理学である。だから、何故琵琶湖周辺に技術者集団
を卓越しているのかを考察するのは、そういう地理学である。 現在見える枝葉を見て見え
ない根っこの部分を考察する「根源学」といっても良い。そういうものを意識して、まず
は、琵琶湖周辺の技術者集団について、白州正子の考えを紹介しておきたい。白州正子の
名著「かくれ里」(1991年1月、講談社)の「金勝山(コンショウザン、コンゼヤ
マ)をめぐって」という論考がある。金勝山は最近は近江アルプスと呼ばれているが、琵
琶湖の南にある連山で、その南側に信楽がある。山を巡って古い寺や神社があり、この地
域には過去の歴史や文化の名残が残っている。それを地理学的に考察していけば、邪馬台
国が近江であったとしても不思議でないように思えて来るだろう。何故そこに多くの古い
寺や神社があるのか、何故そこに多くの技術者いたのか。同様の疑問をもう一つ出してお
こう。それは最澄のことである。彼は比叡山の琵琶湖側・坂本の出身であるが、最澄のよ
うな偉大な人が何故近江から出たのか? それらに共通する答えは渡来人が多かったとい
うことだが、では何故琵琶湖周辺に渡来人が多かったのか? それが根源的な問題であっ
て、地理学的というか哲学的というか、根源学的な考察をしていけば、多分、琵琶湖周辺
に渡来人が多かったのは、邪馬台国が近江にあったということがほんのり見えてくる筈で
ある。
金勝山は栗東市荒張というところにある。
金勝山(605m)
( http://www.city.ritto.shiga.jp/kanko/kanko/1324877145862.htmlより )
金勝山を巡る寺が多く、この山が近江の南部における信仰の中心地であったことを語って
いる。金勝山は「神山」であった。その金勝山の頂上付近に金勝寺(こんしょうじ)があ
る。金勝寺については、次のホームページが良いでしょう。
http://mangiku.web.fc2.com/tera/konze/index15.html
白州正子は、「かくれ里」の中で、「山の景色は素晴らしかった。登って行くにつれ、近
江平野が足元からぐんぐん延びて、はるかかなたに三上山が霞んで見える。」と述べてい
る。確かに金勝山は名山だ。この名山の頂上付近に金勝寺ができたのもなるほどと納得が
できる。
金勝山の頂上から近江平野を望む。三上山の向こうは琵琶湖である。
白州正子は、この名山を「神山」と言っているが、その金勝山の麓にかの良弁は産まれた
らしい。この点につき、白州正子は、「良弁の伝記には不明な所が多いが、金勝山の麓で
産まれた、百済の帰化人の子孫であったという。東大寺の良弁の彫像は、どことなく外国
人らしい風貌を伝えており、近江はもともと帰化人の多い土地だから、これはおそらく事
実に違いない。」と述べている。
良弁の彫像
( http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/rouben2.htmlより )
そして、良弁との関係で次のような極めて大事なことを言っている。すなわち、
『 金勝の名が示す通り、それは金属を扱う人びとが奉じた神、もしくは銅か何かの鉱脈
があったに違いない。影山春樹さんのお話では、金勝族(金粛、金精とも書く)といっ
て、青銅を業とする集団があり、良弁がそれを統率していたのではないかといわれる。私
のその説に賛成である。良弁が金勝寺を建てたのは伝説かもしれないが、帰化人の彼がそ
ういう人たちを指導したことは想像できる。』
『 大仏の建立は、帰化人の助けがなければできないことであった。特に、金勝族を率い
た良弁の功績は大きい。また影山先生をわずらわすと、金勝族は、ただし帰化人ではな
く、木地師、丹生族、海人族などとともに、日本に古くからいた特殊な集団で、それらの
人びとによって、古代人の生活は支えられていた。近江に多いそれらの職人に、新しい技
術を教えたのが、大陸渡来の帰化人であった。金勝寺を建てたのは、良弁かも知れない
が、金勝寺はそれよりはるか昔からの、金勝族が奉じた「神山」であったに相違ない。山
麓の里坊に祀られる多くの神像は、私にそういうかくれた歴史を語ってくれる。』・・・
と。
白州正子は「 山麓の里坊に祀られる多くの神像は、私にそういうかくれた歴史を語って
くれる。 」と言っているが、この白州正子の歴史的直観は、第8章でふれた谷川健一の見
解とまったく同じ歴史観である。私もお二人の見解に賛成である。旧石器時代に、あらゆ
る山々に入り込んで、黒曜石の原石を探し当てている。これらの人びとはよほど特殊な技
術者集団であって、まさに鉱山技術者集団と言って良い。私はいくつかの黒曜石の原石山
を尋ねてそういう実感を持っている。木地師、丹生族、海人族などとともに、日本に古く
からいた特殊な技術者集団の故郷が、この金勝山の山麓であって、彼らの奉じた神の山が
金勝山であったのだ。
ここで考えねばならない重大な問題は、全国を駆け巡っていたそのような特殊技術者集団
が、何故この金勝山の山麓に集まってきたのか、ということである。それは、例えば良弁
のようなリーダー(特殊技術集団を束ねる渡来人)が琵琶湖周辺にいたからである。
では、琵琶湖周辺には何故渡来人が多かったのか?
私は、縄文時代や弥生時代においても、中国、朝鮮、日本を股にかけて交易を手広く営ん
でいた大商人がいたと考えている。そういう大商人の存在を考えないと、邪馬台国が中国
へ朝貢使節団を派遣するなどおおよそ考えられないからだ。そういう大商人には、きっと
重層的なネットワークがあったはずだ。魏の国在住の大商人、伽耶在住の大商人、倭国在
住の大商人のネットワークである。
邪馬台国が何処かはちょっと横において、弥生時代や古墳時代に最も人口が多かったの
は、奈良盆地である。にもかかわらず、琵琶湖周辺に渡来人が多かったのは何故か?それ
は、多分、琵琶湖の水運によって丹後王国と深く繋がっていたことと、奈良盆地とも比較
的至近距離にあったことによるものではないかと思われる。
なお、白州正子は、その著「かくれ里」の中で、「財政的にも豊かであった彼らが、権力
に興味を示さなかった筈がない。」と言っているが、もし邪馬台国が琵琶湖周辺にあった
としたら、今述べた近江の地理的条件に加え、権力との関係から、財政力の豊かな渡来
人、つまり私の言う大商人が琵琶湖周辺にやってきたであろうことは、ごく当たり前のこ
とであろう。
第5章 葛城王国
第1節 葛城というところ
そもそも
城地方とはどういうところか? まず
城地方の風土について説明をしておき
たい。陰陽道の元祖は賀茂氏だが、その賀茂一族のルーツというか本願地は
城である。
城は、広くは蘇我一族や聖徳太子一族など百済系の本拠地 であり、いうなれば仏教伝
来のふるさとみたいなところである。
城といえば「役の行者」だが、役の行者は賀茂一
族だと考えられているし、そういう意味では、
城は、修験道の源流にあると同時に、陰
陽道の源流でもある。
したがって、物部氏の本拠地と蘇我氏の本拠地は奈良盆地の東と西にあり、地霊の作用と
言って良いのかどうか判らないが、地理学的に何か不思議なものがあるようである。そこ
で、私が思い出すのは、
城市の当麻寺に残る「当麻曼陀羅」で、目を閉じれば私の耳に
妖しき地霊の声が聞こえてくる。では、折口信夫の「死者の書」を紹介しておこう。これ
も
城というところを心で感じてもらうためだ。
折口信夫には、「死者の書」を書く前、たった一枚の「当麻曼陀羅」があっただけだ。中
将姫が蓮糸で編んだという伝承のある曼陀羅だ。折口信夫はこれを見つめ、これを読み、
そこに死者の「おとづれ」を聞いたのである。そして、それに発奮し、松岡正剛が「日本
の近代文学史上の最高成果に値する」と極めて高い評価をする文学作品を書き上げたのが
「死者の書」である。そのあらすじは次の通りである。
天武天皇の子である大津皇子は、天武の死後、叔母であり、天武の后である持統天皇に疎
まれ、謀反を理由に殺されて、二上山に葬られてしまう。それから約百年の時が経った。
墳墓の中で無念の思いで目覚めた王子の霊は、周囲を見回し独白を始める。そして既に朽
ち果てて衣のないことを嘆きつつ起き上がろうとする。一方奈良に住む信心深い藤原家の
郎女(いらつめ)は、写経に明け暮れる日々であったが、秋の彼岸の中日に、幻のように
二上山の二つの峰の間に浮かぶ男の姿をみて、憑かれたように家からさまよい出た。郎女
は一人で二上山の麓の当麻寺まで歩いてきて、寺で保護される。神隠しにあったとみた奈
良の家からは連れ戻しに人が来るが、郎女は拒み寺にとどまることになる。郎女の夢の中
にのみ幻の男は現れる。霊的な男女間の交流があるともみえるが、すべては夢うつつの世
界の中での出来事である。男が衣を持っていないことを知った郎女は、衣にと思い、蓮糸
で布を織ろうと試みる。秋の彼岸の中日に、郎女は再び二上山の山越しに浮かぶ男の姿を
仰ぎ見る。それは極楽浄土図や尊者の姿と重なり、幻のように美しく雲の中に展開してい
た。やがて郎女は苦心して蓮糸で布を織り上げるが、それは棺にかける布のようで寂しく
見えた。郎女は思いついて奈良の家から彩色を取り寄せ、筆をとって幻に見た華麗な浄土
図を布に写し取り、完成させていく。
このあらすじを語るUTubeは次のものが良いでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=oCrNXhsQY0Y
ところで、折口信夫が「当麻曼陀羅」によって聞いたという死者の「おとづれ」の場面、
これはこの「死者の書」という小説の象徴的場面である。これのUTubeもあるのでここ
に紹介しておく。
http://www.youtube.com/watch?v=wUORTsrI-Ho
如何です、葛城というところの風土は、もともと地霊の声の響き渡る不思議な赴(おも
む)きを持っており、死の匂いの芬々(ふんぷん)とする所ですね。
二上山
二上山の山越阿弥陀
今西錦司は学識の他に特別の直観力を持った人である。今西錦司の他には、白州正
子を除いて、そのような人を 私は知らない。白州正子は、もちろん今西錦司とは学
術分野が違うけれど、彼女もその専門分野の学識については群を抜いている。第1章
で述べたように、青柳恵介が「文献の上からは何ほどのことも言えないその思想の芽
生えに白州さんは目を凝らす。<黙して語らぬ木や石>がとうとう口を開くまで目を
凝らす。」と述べているが、彼女はまさに特別の直観力を持っているということだろ
う。白州正子は、今西錦司と同じように、直観の人である。彼女の著作には、他の
追随を許さない学識と直観力によって、目から鱗(うろこ)が落ちるような真実がち
りばめられている。
白洲正子は、その著「かくれ里」(1991年4月、講談社)で、葛城地方につい
て、まず冒頭に、次のように書いている。
『 原始のままの風景や信仰ほど、人の想像力をそそるものはない。紀州や吉野へ往
復の途上、えたいの知れぬ魅力にひかれて、何度私は葛城の辺りをさまよったこと
か。(中略)奈良から樫原へ向かっていくと、やがて西の方に二上山が見えて来る。
頂上には、大津の皇子の墓があり、中将姫の伝説で名高い当麻寺が、その山麓に鎮
まっている。ここから葛城連峰ははじまり、南へかけて葛城、金剛とつづくわけで、
古くはそれら全体を含めて「葛城山」と称していたらしい。』
私は葛城という所の紹介をまず「二上山」から始めたが、白州正子の説明にした
がって、さらに「二上山」の説明を続けたい。
大津皇子は天武天皇の皇子です。
天武天皇の崩御後、謀反の疑いをかけられ、死を賜りました。
姉の大伯皇女(大来皇女)が
「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を 弟背と我が見む」
と弟の皇子を悼む歌を残しました。
大津皇子の墓は明治9(1876)年9月に治定されました。
本当の墓は鳥谷口古墳ともいわれています。
( http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/204183/より )
大津皇子の墓説もある古墳
1辺が約7.6m,高さ約2.1mの方墳
二上山雄岳から東南に伸びる尾根の先端に築かれています
( http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/5fdaf61388a68ba1066c5684223a7837より )
たいまでら【当麻寺】
奈良県
城(かつらぎ)市にある高野山真言宗および浄土宗兼宗の寺。
正称は二上山禅林寺。
推古天皇20年(612)聖徳太 子の弟の麻呂子(まろこ)王が河内(かわち)に建立した万宝蔵院を、天武天皇10年
(681)役小角(えんのおづの)が移転、改称したという。
奈良時代建 造の東塔・西塔をはじめ国宝・重文多数を所蔵。
【奥の院】 は寺社の本堂・本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭った所。
( http://katukatu.blog.eonet.jp/default/2008/09/post-40cf.htmlより )
さて、 白洲正子は、「かくれ里」(1991年4月、講談社)で、葛城地方について次
のようにも書いている。たいへん含蓄のある内容なので是非紹介して、その後で、私の
もっとも言いたいことを述べることとしたい。まず、白州正子は次のように言っている。
すなわち、
『 御所(ごせ)が葛城の中心地で、山は目近に迫って来るが、遠くから眺めるのと違っ
て、段々畑の上に、黒々とそびえる山容は、今でも「神の山」という風格を失ってはいな
い。』
『 「葛城坐一言主(ひとことぬし)神社」は、私にとってはおなじみの深い社(やし
ろ)である。同じ姿をし、同じ言葉を繰り返すことから、一言主は蜃気楼だとか、山彦
(やまびこ)を人格化したものとか言われるが、山の不思議な現象は、すべて神の仕業と
思われたに違いない。「悪事も一言、善事も一言」というのは、占いか予言をしたものの
ようである。そこから一言主の名はでたが、今でも村の人たちは、「一言(ひとこと)さ
ん」と呼んで親しんでおり、葛城を巡る神社(主なものだけでも50以上もあり、そのう
ち延喜式が17座ある)の中でも、もっとも霊験あらたかな神であった。』
『 一言主から旧道を南下すると、朝妻という集落がある。そこから右に折れて、急坂を
登ると、海抜600mほどの地点に、高天の村がある。車が通るようになったのも、対最
近のことで、まったく世間から隔絶された秘境である。高いわりに、視界はまるできかな
いが、閉ざされた高原の中で、稲ははや色づき、鎮まりかえった村のたたずまいは、今も
神々が集まっているような気配がする。ここには、一言主や高鴨より、いっそう神さびた
社(やしろ)があり、杉の大木の奥に、ささやかな社殿が建ち、新体山を拝む形になって
いる。「灯明山」とも、「上の山」ともいうと、村の老人が教えてくれたが、上の山は
「神の山」であろう。ほんとうの原始林とは、こういうものをいうのかと思うほど深く、
神秘的な感じがあり、高天の原にはぴったりした神山のように思われた。』
『 役行者の伝記によると、彼はほとんど全国の高山を踏破したようで、その足跡は弘法
大師に匹敵する。後世の宗教、芸術は申すに及ばず、政治にまで大きな影響を及ぼした修
験道は、そのようにして発足した。前人未踏の深山で、木の実を食い、滝に打たれて、自
然と同化した生活は、常人には想像もつかぬような、一種の「霊力」を身につけたであろ
う。』・・・と。
葛城一言主神社
( http://siki-uran.blog.eonet.jp/uran/2008/12/post-1d37.htmlより )
葛城山の高原・高天の村
高天神社
( http://522ryuichi.blog.so-net.ne.jp/2011-12-04-1より )
「役行者像」・・・吉祥草寺所蔵 役小角(え んのおずぬ:634∼701))は、
舒明天皇6年(634)大和国茅原の里(現在の御所市茅原)で生まれ、
幼少の頃から
城山・金剛山に入って修行してい ましたが、
17歳の時 元興寺(現在の飛鳥寺)に学び孔雀明王経を授かったといいます。
やがて熊野や大峯の山々で修業を重ね、
吉野金峯山で金剛蔵王権現を 感得し修験道の基礎を築いたと伝えます。
( http://blogs.yahoo.co.jp/houzan_ky/64250361.htmlより )
さて、白州正子が言うように、役行者は、 前人未踏の深山で、木の実を食い、滝に打た
れて、自然と同化した生活は、常人には想像もつかぬような、一種の「霊力」を身につけ
たのである。では、「霊力」とは何か? 「霊力」とは霊の力のことであるが、「霊」と
は、「魂」つまり「霊魂」のことであるから、「霊力」とは「霊魂の力」のことである。
役行者は、大和国茅原の里(現在の御所市茅原)で生まれ、幼少の頃から 城山・金剛山
に入って修行し、全国の高山を踏破したのち、再び
城連峰にもどって「霊力」を身につ
けたのである。役行者の場合は、その修行の中心は
城連峰であったのだが、
城という
所は、「霊魂」の満ち満ちている不思議なところで、役行者は「霊魂」との響き合いに
よって、「霊力」を身につけることができたのである。この事実を哲学的あるいは科学的
にどう説明すれば良いのか? この点について、私は、必死になって「霊魂の哲学と科
学」という論文を書いた。プラトンの「霊魂論」を哲学的あるいは科学的に必要な修正を
加えたものである。この節を終わるにあたって、それをここに掲載しておきたい。是非、
じっくり読んでいただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rei.pdf
第2節 葛城山麓の遺跡
現在、近畿圏の外郭環状道路の一部として京奈和(けいなわ)自動車道が建設中だ。京都
市を起点として奈良県を北から西に抜けて和歌山市に到る全長約120kmの高速道路で
ある。 そ こで、橿考研は平成21年7月から道路計画地の約6500平米について発掘
調査を実施してきた。橿考研は、平成22年1月21日、それまでの発掘の成果をマスコ
ミに公表し、4世紀前半に活動した豪族の館か祭りの場の可能性のある遺構が見つかった
ことを明らかにした。そして、付近一帯の古名にちなんで、この調査地を「秋津遺跡」と
名づけた。
秋津遺跡の南西方向には、この地方で有名な古墳がある。 宮山古墳という。御所市大字
室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。 5世紀前半の築造で、
津彦(かつらぎのそつひこ)の墓の有力な候補とされている。
城襲
城襲津彦に関する逸話
は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀、応神天皇紀、仁徳天皇紀などに記されていて、実に
魅力的な人物である。 4世紀から5世紀にかけて対朝鮮外交や軍事に携わり、朝鮮から
俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている。彼が連れてきた渡来人たちは、
城山麓
に住み着き、鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、
城氏の経済力の強化に貢献したとされている。その一方で、襲津彦は 特定の実在人物で
はなく、4∼5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった
城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説
化された英雄であったと見る説もある。 渡来人の高い生産性に支えられた
城氏の実力
は極めて巨大で、記紀によれば大王家のそれと肩を並べるほどだった。そうした経済力や
政治力を背景に、
城氏は5世紀の大王家と継続的な婚姻関係を結んだ。また、記紀によ
れば、襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の
3天皇を生んでいる。こうした婚姻関係から、歴史学者の直木孝次郎氏は、5世紀のヤマト
政権はまさに「大王と
城氏の両頭政権」であったと指摘された。
北
城は二上山の東北方面、水平距離で6kmほどの所に、有名な馬見古墳群(うまみこ
ふんぐん)がある。
で
城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている。さあここ
城地方の地理的な説明を少ししておきたい。
城地方の西側は金剛山地である。金剛山地の最高峰は金剛山(1125m)で、北に向
かって
城山(959m)、二上山(517m)と続く。中央にあるのが
東側・御所市の秋津遺跡や
城山で、その
に二上山があり、その近くに
城襲津彦の墓と見なされている宮山古墳がある。
城山の北
城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている馬
見古墳群(うまみこふんぐん)があるという訳だ。
馬見古墳群(うまみこふんぐん)のマップについては、次を参照されたい。スケールを小
さくすると二上山が出てくるでしょう。
http://kofun.info/kofun/775
城山から南方に金剛山がみえる。良い山だ!
一方、南
城には、金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集
落・南郷遺跡群がある。1995年に発掘調査された南郷安田遺跡を はじめとして、さま
ざまな遺跡が見つかっており、5世紀の第2四半期には、
城氏の手によって渡来系の技
術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工 業製品を生産する当時の「工業団
地」が出現したことをうかがわせる。南郷遺跡群についてはのちほど述べるとして、秋津
遺跡の説明を続けよう。
このたび秋津遺跡で4世紀前半の祭祀(さいし)の場とみられる施設跡が発見されたこと
は、襲津彦以前の
城氏の実態を探り出す手がかりになるかも知れない。和田萃・京都教
育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向(まきむく)、西の
城”の二大勢
力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。
橿考研の発表では、この遺跡の活動の中心は古墳時代前期の4世紀 前半とのことだ。近
くに築かれた宮山古墳(室の大墓)の築造年代は古墳時代中期の5世紀前半とされてい
る。仮に宮山古墳の被葬者が
に、
城氏はすでに南
城襲津彦と仮定して、 襲津彦から1世紀もさかのぼる時代
城を支配下におくことができたのだろうか。
この地域は古代氏族鴨族が盤踞していたとされている。弥生時代の中頃、鴨族の一部が金
剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、
城川の岸辺に鴨都波(か
もつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も
木
御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作を行っていたとされている。鴨都
波神社のある付近には鴨都波遺跡がある。この遺跡では弥生時代中期(前1世紀)から末
期(3世紀)さらに古墳時代前期(4世紀)に続く墓が見つかっている。鴨都波遺跡を営
んだのは鴨族だったのか、それとも
何時のころか、
城氏だったのか。
城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町
まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着して鴨
氏になったとされている。 一方、『新
姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとさ
れる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津の
すぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われ
る。
北
城にいた
城氏が紀州への路を確保するために南
城に進出してきたのであれば、古
代氏族の鴨氏や渡来氏族の秦氏との軋轢がこの地方で起きたと想像するのは、それほど突
飛ではあるまい。
城襲津彦の先祖たちは、これらの氏族を南
城からどのように駆逐し
たのだろうか。
南郷遺跡群は、金剛山東麓の広い範囲に及ぶ集落遺跡である。古墳時代中期(5世紀)に盛
期があり、古代の豪族葛城氏の活動拠点のひとつであったと考えられる。丘陵頂部を中心
に様々な性格を持つ遺跡である。渡来人系の工場従事者が居住した一般集落、武器・銀製
品などの工房、生産する人を統括した渡来人の屋敷、倉庫群、導水施設、祭殿などがあ
る。
また、平成17年に調査された極楽寺ヒビキ遺跡も遺跡群の範囲に含まれると考えられる。
極楽寺ヒビキ遺跡では、石垣に囲まれた区画の中に巨大な建物が建てられ、集落全体の祭
祀が行われていたと考えられる。ヒビキ遺跡については、次を参照されたい。
http://sanzan.gozaru.jp/panorama/pa/panorama14.html
http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono/hibiki/katuragihibiki.htm
なお、遺跡ではないけれど、名所旧跡、すなわちハイデガーのいうところの「過在」とし
て、「九品寺」について触れておかねばなるまい。この九品寺を知らずして葛城を語る事
なかれと言われているからである。白州正子は、著書「かくれ里」(1991年4月、講
談社)で、「九品寺は、居ながらにして大和平野の大部分が、視界に収まる大パノラマ
だ。葛城が神山とされたのも、葛城一族が大和に君臨したのも、このような眺望に触れる
と合点が行く。」と述べている。九品寺については、次のホームページが素晴らしいの
で、ここに紹介しておきたい。下の画像は、そのホームページのものである。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_09_07.htm
なお、白州正子は、上述の通り、葛城とは神の山の存在する所であると言っている。神の
山、三輪の「三輪山」に匹敵するのがこの地では葛城山である。葛城山については、御所
市が素晴らしいホームページを作っているので、その中から葛城山を中心とする名所旧跡
を紹介しておきたい。
葛城の道:http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/1katsuragi_0.html
巨勢の道:http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/2kose_0.html
二上山については、冒頭に述べた。二上山、葛城山、金剛山という三つの山が葛城の聖な
る山であるので、次は、金剛山の葛城神社のホームページを紹介しておきたい。
http://金剛山.jp/KaturagiJinja/KaturagiJinja001.htm
(これはリンクが張られていないので、これをコピーしてURL欄にペースとして下さい。そうすれば見れます。)
第3節 王朝交代説
王朝交替説(おうちょうこうたいせつ)は、日本の古墳時代に皇統の断続があり、複数の
王朝の交替があったとする学説である。私は、記紀は不比等による創作物語であり、信用
して良い部分もあるし、信用できない部分もあると考えている。そこが古代史を考える場
合の難しい所で、風土を含む地理学的な考察の下、遺跡にもとづく考古学的な裏打ちを行
いながら、どのような歴史認識を持つかが問われるということであろう。その際には、歴
史の連続性とか歴史的必然性というものが十分認識されなければならない。葛城王国につ
いては、丹波王国や近江王国との関係を無視するわけにはいかないし、そこに歴史の連続
性というものを考えざるを得ないのではないか。第6章で詳しく述べるように、私は、い
わゆる大和朝廷は応神天皇から始まると考えているが、それはそこに歴史的必然性を感じ
ているからである。私は神武天皇や崇神天皇は実在しないと考えているのであるが、そう
は考えてない学者が多いようであるので、まず王朝交代説について、それがどのようなも
のかを説明しておきたい。
崇神王朝は、大和の三輪地 方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝ともよば
れている。私は、三輪王朝というのは適当でないと考えるが、三輪地方に王と呼ぶのにふ
さわしい権力者がいたことは間違いない。古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初
期)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、渋谷向山古墳(景行
陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)、行燈山古墳(崇神陵に比
定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手 白香皇女墓と比定)などの墳丘長が300から200メート
ルある大古墳が点在し、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。私
の考えでは、この王権というのは大王すなわち天皇の政権ではなく、王と呼ぶのにふさわ
しい豪族の一地方の政権である。この王権の成立年代は3世紀中葉か末ないし4世紀前半
と推測され ている。それは古墳時代前期に当たり、形式化された巨大古墳が築造され
た。王権の性格は、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」卑弥呼を女王とする邪馬台国の
呪術的政権ではなく、宗教的性格は残しながらもより権力的な政権であったと考えられて
いる。
河内王朝という言い方があるが、これについても注意を要する。大和朝廷すなわち応神王
朝の延長線上に、宋書に出てくるいわゆる倭の五王、すなわち讃、珍、済、興、武の時代
がくるのだが、これらの人物が記紀におけるどの天皇に該当するのか、まだ定説はない。
『日本書紀』などの天皇系譜から「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天
皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇の説が有力である。このうち「済」、「興」、
「武」については研究者間でほぼ一致を見ているが、「讃」と「珍」については「宋書」
と「記紀」の伝承に食い違いがあるため未確定である。他の有力な説として、「讃」が仁
徳天皇で「珍」を反正天皇とする説や、「讃」は応神天皇で「珍」を仁徳天皇とする説な
どがある。「武」は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山
古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号(『日本書
紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケ
ル」に当てた漢字であることが明らかであるとする説から、他の王もそうであるとして、
「讃」を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、「珍」を反正天皇の実名ミヅハワケ
の「ミヅ」から、「済」を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネの「ツ」から、
「興」を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、と
いう説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体に
ついては今のところ不確定である。
この河内王朝説を批判する論者に門脇禎二がいる。門脇は河内平野の開発は新王朝の樹立
などではなく、大和政権の河内地方への進出であったとする。私は、門脇説に賛成であ
り、応神天皇を祖とする初期の大和政権が河内平野の開発に乗り出し、天皇の威力を百済
や新羅の使者や地方豪族に誇示するために、一連の大古墳を建造したものと考えている。
いわゆる河内王朝説としては、直木孝次郎、岡田精司による、瀬戸内海の制海権を握って
勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭に
よる三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水
野祐、井上光貞の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻
したとする説とがある。それらいずれも私の考えとは異なるのである。
王朝交代説の範疇に継体王朝説というのがあるので、ついでにこの点についても触れてお
きたい。継体王朝説は、継体天皇による王朝こそ現天皇家に続く王朝であるという説であ
る。しかし、継体天皇の即位の事情については、いくつかの見解がある。継体天皇は応神
天皇5代の末裔とされているが、これが事実かどうかについて、水野祐は継体天皇は近江
か越前の豪族であり皇位を簒奪したとした。また、即位後もすぐには大和の地にはいら
ず、北河内や南山城などの地域を転々とし、即位20年目に大和にはいったことから、大和
には継体天皇の即位を認めない勢力があって戦闘状態にあったと考える説(直木孝次郎
説)や、継体天皇はその当時認められていた女系の天皇、すなわち近江の息長氏は大王家
に妃を何度となく入れており継体天皇も息長氏系統の王位継承資格者であって、皇位簒奪
のような王朝交替はなかったと考える説(平野邦雄説)がある。なお、継体天皇が事実応
神天皇の5代の末裔であったとしても、これは血縁が非常に薄いため、王朝交替説とは関
わりなく継体天皇をもって皇統に変更があったとみなす学者は多い。しかしながら、継体
天皇の即位に当たっては前政権の支配機構をそっくりそのまま受け継いでいること、また
血統の点でも前の大王家の皇女(手白香皇女)を妻として入り婿の形で皇位を継承してい
ることなどから、私は、これを新王朝と呼ぶのは適当でなく、皇統に変更はなかったと考
えている。
城王朝説 は、鳥越憲三郎が唱えた説で、神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在
した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県
神王朝に滅ぼされたとする説である。この
在地を
城の地に比定する。この
城地方を拠点とした王朝であったが崇
城王朝説は、神武天皇と欠史八代の王朝の所
城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日
本一帯を支配したが、九州の豪族とされる第10代崇神天皇に踏襲されたとされる。河内
王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族
城氏の協力を得た
ことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。記紀によれば、仁徳天皇は
城襲津彦
(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇
を産んでいる。こうした『記紀』などの記述から、
城氏が河内王朝と密接な関係があっ
たと考えるのである。
私は、すでに述べたように、王朝の交代などというものはなかったと考えている。実在の
天皇は、応神天皇からであり、神武天皇はもちろん欠史八代の天皇ならびに崇神天皇は、
架空の天皇であり、実際は、
城王のように前ヤマトの「王」ではあるけれど、まだ天皇
(大王)と呼ぶのはふさわしくないと、私は思う。
私が崇神天皇を架空の天皇と呼ぶのは、崇神天皇の没年について、記紀にもとづき258
年没説を採った場合でも、崇神天皇の治世は、邪馬台国の時代と重なることになるからで
ある。何度も言うようだが、私は大和朝廷は応神天皇から始まると考えている。卑弥呼も
台与もシャーマンであり、実際の政治は、男性の側近が行っていたのであり、その実力者
が陰の「王」であった。私は、邪馬台国および前ヤマトの陰の「王」は物部氏であったと
考えている。もし
る。物部氏と
城氏を「王」と呼ぶなら、前ヤマトには二人の「王」がいたことにな
城氏とは仲が良かったり悪かったり、いろいろであったようで、実力者と
いうのは物部氏であったときもあったが、
城氏が優勢の時期が多かったのかもしれな
い。その辺りのことは判らないので、前ヤマトの「王」に関しては
る或いは物部氏を超える実力者がいたと考え、一応、
たい。畿内では、丹後王国、近江王国、三輪王国、
城に物部氏に匹敵す
城地方に王国があったとしておき
城王国が卓越しており、これらを統
一する歴史的必然性とは何か? この点については第6章で述べる。
第4節 葛城氏の衰退
記紀では、葛城王朝は崇神天皇によって滅ぼされたとなっているが、私は、何度も申し上
げているように、崇神天皇は架空の天皇であると考えている。では、史実はどうなのか? この節はその説明を行いたい。
継体天皇に葛城氏は反対して、葛城氏は遂に蘇我氏に寝返りを打たれて没落することにな
る。
九州での磐井氏の出現は、畿内の豪族たちの考えを大きく変えるきかっけとなった。北九
州が大和政権に反発する地域 になることは、当時としては唯一鉄の輸入窓口を押さえら
れることであり、大和政権の維持は出来なくなる。これをどうするか、多くの畿内豪族
は、この一点で 意見が一致した。つまり、磐井氏に対抗できる強力な天皇が必要になっ
たのである。 継体の母は「振媛」で、振媛の母親は加羅国王の娘といわれている。つま
り、継体は、父は応神天皇の血を引く畿内豪族・息長氏で、母は加羅国王の血 を引いて
いたので、新羅と対抗できると見られたのである。
振媛の母親が伽耶国出身というのは黒岩重吾の説であるが、私もそう思う。記紀による
と、継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、その応神天皇は新羅系である。この点につい
ては、藤原氏の権威とは関係しない部分であるので、私は、応神天皇や継体天皇に関する
記紀の記述にごまかしはないと思うのである。
ちなみに、「振媛」のことについては、すでに第4章「近江王国」のところで少々書いた
ので、もう一度それを読んでいただきたい。「第3回世界水フォーラム」が平成15年3
月16日から開会され、 182の国・地域からに24,000人以上の人達が参加し
た。 その開会式において、皇太子殿下(第3回世界水フォーラム名誉総裁)が「京都と
地方を結ぶ道」と題し、基調講演をされ、琵琶湖の舟運についても触れられた。今の天皇
家は、継体天皇の直系であり、そういう意味では、「振媛」が祖先でもあり、琵琶湖の白
鬚明神・猿田彦とも深い繋がりを持っている。私は、天皇家と琵琶湖との奥深いところで
のご縁を思わざるを得ない。私は、邪馬台国近江説なので、琵琶湖を中心とした地域がな
みなみならぬところであると皆さんに感じていただければ、とりあえずのところはそれで
結構。邪馬台国近江説の最新情報は最終章で詳しく述べる。
継体天皇の大和入りは、大伴・物部・蘇我・巨勢などの豪族の合議によるものであった
が、平群氏、三輪氏、葛城氏は大反対であった。さあ、そこで問題なのは、 なぜ蘇我氏
は継体天皇側についたのかということだ。蘇我氏が新羅系ということもあるかもし得ない
が、実は、次のような事情もあったのである。
越前の国・三国の坂中井は、九龍川の下流域に位置し交通の要所であった。「国造本紀」
によれば ここに三国(みくに)の国造が置かれ、蘇我氏一族の若長足尼(わかながのす
くね)がその任にあたっていた。蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台頭
してくる豪族であることを考えると、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。
蘇我氏は、そのために葛城氏を裏切るのだが、ともかくそうした経緯を経て、十数年後に
継体天皇は、葛城からはほど近い「磐余の玉穂宮」で即位する。そして、その2年後に継
体は 新羅・磐井の連合軍と戦っている。そのころの磐井は、勢力を伸ばし、北九州をほ
とんど制圧していた。一方、朝鮮半島では新羅が倭国と関係の深い加羅を併合し始めてい
た。継体天皇はこれと戦ったのである。いわゆる磐井戦争は、畿内からは物部氏、大伴氏
などの軍事力が主力であった。戦争は1年ほど続き、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)
が御井(みい)で磐井を破った。この段階で、大和朝廷は、天皇を中心にした、物部氏と
蘇我氏の二大巨頭体制ができ上がる。葛城氏は完全に衰退してしまうのである。葛城氏に
蘇我氏が取って代わったということだ。かくて、葛城の主は蘇我氏となったのである。
蘇我氏については、第8章で詳しく述べる。
第6章 応神天皇と秦氏
邪馬台国の時代から大和朝廷の時代を通して、いろいろとちらつくのが物部氏である。蘇
我氏は傍若無人にも天皇をないがしろにしたケシカラン氏族だが、物部氏は常に女王や天
皇に忠実に仕えた廷臣であった。私は、物部氏を廷臣の中心的な実力者として高く評価し
ているので、まず応神天皇の説明に入る前に、物部氏の説明をしておきたい。
物部氏については、雄略天皇の時代に水軍と関係のある伊勢の豪族を征討したこと、ま
た継体天皇の時代に水軍500を率いて百済に向かったことなどが伝承されており、物部
氏が水軍をその傘下におさめていたことは容易に想像がつくが、学習院大学の黛(まゆず
み)弘通教授がその点を別途詳しく述べておられる(「古代日本の豪族」、エコールド・
ロイヤル古代日本を考える第9巻、学生者)。以下に、その要点を紹介しておきたい。黛
(まゆずみ)弘通教授の考えは次の通りである。すなわち、
『 「旧事本紀」の中の「天神本紀」には、ニギハヤヒが降臨するときにつき従った神々
とか、そのたもろもろの従者のことが詳しく出ているが、それによ ると、つきしたがっ
た神に海部族(あまぞく)である尾張の豪族がいるし、つき従った従者に、船長と舵取り
と舟子がそっている。物部氏が航海民、海人族と関 係があったのは間違いがないのでは
ないか。物部氏系統の国造を詳しく調べると、物部氏は瀬戸内海を制覇していたことが推
定される。
太田亮氏は物部氏発祥の地を筑後川流域とされているが、大分県の竹田市付近が発祥の
地ということも考えられる。「日本書紀」に豊後の直入郡の直入物部神(なおりのものの
べ の か み ) と い う の と 直 入 中 臣 神 ( な お り な か と み の か み ) と い う の が 出 てく
る。』・・・と。
私は、何度も大野川に出かけていって、物部氏の本貫地は大野川の上流域ではないかと直
観していたので、黛(まゆずみ)弘通教授の見解にしたがいたいと思う。
ところで、この本のいろんなところで述べてきたように、東国において、中臣氏は物部
氏の勢力を乗っ取ってしまうのであって、「日本書紀」で中臣氏と物部氏の祖先が一体の
ものであったと思 わせぶりに書くことは、少なくとも物部氏についての記述が正しいこと
を伺わせる。もともと物部氏は大野川の舟運を握っていたのではないかと思う。大野川の
舟運を握る一族 であれば、それは発展的に瀬戸内海の航海権を制覇してもおかしくない
し、いずれは伊勢や尾張、そして遂にはその覇権は東国にも及んだのではないか。物部氏
なくして東国の制覇はあり得なかったと考えては考え過ぎであろうか。
かの有名な梅原猛の「神々の流竄(るざん)」に中臣氏の物部氏勢力の乗っ取りが詳し
く書かれている。中臣氏は成り上がりものであった。鎌足の父、 御食子(みけこ)以
前の、中臣氏の祖先はよく判らない。とにかく中臣氏は、天才政治家鎌足の時に、突然中
央政界に登場し、しかも、たちまちに中央政治の支 配者となった。こうして成り上がった
中臣氏は、古い由緒ある神社をほしがっていた。物部氏の残した鹿島神宮、これは東北経
営の拠点でもあるのだが、その神社の支配権というものは霞ヶ浦湖畔の豪族である多氏が
握っている。中臣氏としては、多氏を抱き込んで、何とかそれを手に入れたい。当然のこ
とである。かくして鹿島神宮の乗っ取りはなり、しかも東北における物部氏の勢力はその
まま中臣氏に引き継がれることとなった。藤原氏発展の基礎はここにある。
さて、応神天皇のことだが、応神天皇については、実在性が濃厚な最古の天皇とも言われ
ている。仁徳天皇の条と記載の重複・混乱が見られることなどから、応神・仁徳同一説な
どが出されているが、その年代は、『古事記』の干支崩年に従えば、4世紀後半である。
『記・紀』に記された系譜記事からすると、応神天皇は当時の王統の有力者を合成して作
られたものと考えるのが妥当であるとする説もある。この実在の不確かさもあり実像をめ
ぐっては諸説が出されてきた。応神天皇の和風諡号である「ホムダ」は飾りの多い8代以
前の天皇と著しく違っている事から実在とみなす説、邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先
祖として祭られている神(宇佐八幡)とする説、河内王朝の始祖と見なす説などである。
また、日本国外の史料との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の讃に比
定する説、ほかに仁徳天皇や履中天皇を比定する説もある。「広開土王碑」に見える倭国
の朝鮮進出を指揮した可能性も指摘されている。
井上光貞は確実に実在が確かめられる最初の天皇としているが、私は、井上光貞説に賛成
だ。宇佐神宮や秦氏との関係などから、史実だと思われるものが多いからだ。また、私
は、上述のように、物部氏のもともとの出身地を大野川の上流と考えており、物部氏は瀬
戸内海を通じて邪馬台国の時代から豊後地方とは深く結びついていたと考えている。応神
天皇の出身地を私は筑後川流域と見ているので、秦氏と物部氏が応神天皇を擁立したとし
ても何の不思議もない。私の考えでは、秦氏が既に邪馬台国の時代から大和に根を張って
いた物部氏に働きかけて、応神天皇を擁立したのである。
私の歴史認識は以上のとおりであるが、ここでは紙枚の関係上そのことを語る余裕がな
い。したがって、ここではその点を不問にして、ただ単に応神天皇と秦氏との関係に焦点
を絞って、私の考えを述べることとしたい。
弓月君が率いる秦一族が 加羅(から) から大挙大和にやってきたのは応神天皇の時代で
ある。しかし、実は、応神天皇が産まれる以前から、秦氏は
加羅(から)
から大和に
やってきていたらしい。加羅(から)は、百済と新羅に挟まれるようにして朝鮮半島の南
端にある小国だが、伽耶(かや)とも呼ばれたりしている。加羅(から)と呼ばれる以前
は、弁韓と呼ばれていた。 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたと
ころで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがっ
て、加羅(から)は朝鮮といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の
国の人びとが住んでいた特殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考
えた方が良いと思う。無理に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の
大阪は境のように、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた方が良いの
かもしれない。そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤマト朝廷か
ら派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有
していたことが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治
組織の発達した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのよう
に定着していたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定
着し、リーダー的存在として活躍していたと想像している。
邪馬台国の時代、倭国は、邪馬台国を中心に政治的に安定していたが、その後、倭国は、
良きリーダーに恵まれなかったようである。加羅、これは九州北部と密接な関係を持った
朝鮮半島南端のもともと交易を中心として栄えた地域であったあったが、この加羅の交易
の自由とこの小国の自治を守るために、倭国の良きリーダーが待望されていたのである。
そこで、秦氏の始祖・功満王の活躍が始まる。大商人の働きかけがあったかもしれない。
秦氏の始祖・功満王の憧れの地は、大和であった。そこで大和の若きリーダーの発掘に動
き、筑後川流域の「ホムダワケ」を見いだすのである。そして大和に出かけて、物部氏へ
の説得工作に努力する。そして、説得に成功。秦氏の始祖・功満王は、物部氏の全面的な
協力を得て、応神天皇の擁立に全精力を傾けるのである。応神天皇誕生の立役者は秦氏の
始祖・功満王である。
以上が私の想像である。想像だから明白な根拠がある訳ではないが、そうとでも考えない
と、応神天皇が群雄割拠する列島をはるばる九州から大和に東遷してきた事情を説明でき
ない。まあ、私の想像は一つの仮説だが、応神天皇東遷のいろんな事柄が矛盾なく説明で
きるように思われる。応神天皇東遷については、記紀は藤原不比等の深慮遠謀による創作
であるので、これにもとづいて考えるわけにはいかない。では、応神天皇東遷の動機は何
か? 特に、応神天皇東遷を支えた人たちの動機は何か? また、東遷にあたってこれと
いう大きな戦いがなかったのは何故か? 私はこれらの疑問に答えたつもりである。
なお、念のために申し上げておくが、記紀においては、応神天皇の異母兄弟である忍熊王
というの人物が出てきて、応神天皇に反乱するので応神天皇はこれをやっつけるという話
になっているが、これは不比等の創作であって歴史的事実ではない。不比等は、記紀にお
いて、仲哀天皇や神功皇后を作り出すことによって、その子供である応神天皇は「万世一
系」の天皇であることを主張している。応神天皇の正当性を主張しているのである。不比
等は「天皇は万世一系の存在」でなければならないというイデオロギーを持っていた。つ
まり、不比等は、「天皇は万世一系の存在」であって、蘇我氏のように天皇をないがしろ
にする輩はこれを滅ぼしても当然。蘇我氏を暗殺したわが父・藤原鎌足はまさに忠臣中の
忠臣であった。藤原一族こそ廷臣の中で最高の忠臣である。藤原一族に歯向かうものは天
皇をないがしろにする不届きものである。不比等はこう言いたいのだろう。
応神天皇東遷に関する旧跡については、次のホームページが詳しいので、これを是非参照
していただきたい。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%97%A
7%E8%B7%A1
この中には、記紀にもとづいて作られた旧跡というものもあるし、実際に、史実にもとづ
く旧跡がある。その峻別はそう簡単ではないが、史実にもとづく旧跡も少なくないという
ことだけは申し上げておきたい。
応神天皇東遷には、その準備にそれなりの年月を要したものと思われる。まず、功満王は
瀬戸内海地方に秦一族を送り込み、その地方の豪族との融和を図らなければならなかった
であろう。もちろん、その際には、瀬戸内海の制海権を有していた物部氏の協力が必要で
あったことは言うまでもない。いろいろと準備を重ねて、応神天皇と物部一族と秦一族の
連合軍は、淡路島にやってくる。それまで長い年月を要したが、遂に、淡路島にやってき
たのである。それから大和に入るまで、紀伊の豪族との融和工作にさらなる時間を要した
だろう。その間、応神天皇は淡路島と小豆島あたりにしばらく待機していたようだ。そし
て、遂に、紀ノ川を って大和入りを果たすのである。
古代の紀ノ川は現在と違って新和歌浦に注ぎ、河口に港があって、紀伊水門(きのみな
と)と称されていた。紀伊水門は、5・6世紀においては、大和王権が直接管理する外港
としてきわめて重要な機能を果たしていた。紀ノ川河口に近い和歌山市善明寺では、 5世
紀中頃の鳴滝倉庫群が検出されており大和朝廷の管理する大倉庫群があった。7世紀にな
ると、飛鳥朝廷の外港は難波津(なにわづ)に限定されていたのである。
中国南朝の諸国家や、朝鮮半島の百済・新羅・伽耶諸国との交渉に際し、大和王権の使節
や水軍は紀伊水門から出航していた。また紀伊水門に運ばれた異国の文物や渡来した人々
は、紀ノ川を通って大和に入ってのある。
紀ノ川は、落差が少なくて、途中に滝がなく、古代にはもっと水量があり紀ノ川河口から
奈良県下市町千石橋までは船で ることができたのである。7世紀、飛鳥に都ができたの
は、紀ノ川を通ってやって来た渡来系の人々が檜隅から高取町域に多く住み、また紀ノ川
を通じ紀伊から遥か中国や朝鮮半島諸国と結びついていたということが大いに関係してい
る。
さて、上記の応神天皇東遷の旧跡に御坊市のものがあるが、応神天皇が何故淡路島からこ
んな南の地までやってこなければならなかったのか、そんな必然性はなにもない。私には
大きな疑問である。記紀において、神武東遷において熊野が重要な地点として語られてい
るが、それと同じように、黒潮を舞台として活躍するアタ族などの海人族向けに書かれた
ものではないかと思われる。
第7章に述べたように、不比等は阿多隼人などの海人族に対して随分気を使っている。 熊
野は、太平洋側におけ海上交通の要かなめの地である。太平洋側の海人族のネットワーク
にとって、もっとも大事なところである。そこは古くから大和朝廷の支配下にある。その
ことを不比等は言いたかったのであろう。熊野が古くから大和朝廷の支配下にあるのな
ら、太平洋側の海人族は、大和朝廷に反旗をひるがえすなどはもってのほか、と思うにち
がいない。不比等はそう考えたに違いない。そういう不比等の思考にもとづいて、応神天
皇東遷について、記紀では、御坊が登場する。この地は、縄文時代からの海人族の拠点で
あった。
和歌山県南部町(みなべちょう)の徳蔵地区遺跡は、近畿中央部・瀬戸内・四国、さらに
は舟による太平洋ルートで東海・関東とも直結した交流・交易拠点・中継集落であった、
と考えられる遺跡である。徳蔵地区遺跡から出土した石器や土器は、各地のものが集まっ
ている。土器は瀬戸内文化圏の広範囲に分布する船元式土器をはじめ、関東、東海地方
のものもたくさん出土。石器は製品のならず、香川県の金山や奈良県の二上山などから原
石が運び込まれている。また長野県の和田峠の黒曜石も確認されている。南部町(みなべ
ちょう)を流れる南部川の旧河川が形成した自然堤防上やその後背湿地には数多くの埋蔵
文化財が存在する。縄文時代から、この地は交易のためのひとつの拠点であったのであ
る。南部町(みなべちょう)は、日本一の梅の里として知られ、梅の代表品種として知ら
れる「南高梅」発祥の地である。また、青梅とともに、梅干しの生産が日本一であるし、
町の木ウバメガシを使った備長炭(びんちょうたん)の生産でも有名である。
第7章 藤原不比等の深慮遠謀
不比等は、阿多隼人の存在を警戒しながらも、彼ら海人族の文化については、その吸収に
重大な関心を持った。その一つは阿多隼人の有する呪力であり、もう一つは天照大神に関
する神話と伊勢神宮の創建である。三つ目は、物部一族や秦一族の率いる職能集団の統括
である。
第1節 阿多隼人について
阿多隼人は、もともと海の民であり、海上の道を通じて交易にもたずさわっていたので、
海人族のネットワークを持っていた。日本列島における海上の道は、隼人の国、おおむね
今の鹿児島県であるが、私の考えでは、阿多隼人が歴史的にも古く、いちばん力を持って
いたと思う。不比等としては、磐井の反乱や白村江の戦いを思うと、阿多隼人の反乱を心
配し、恐れを抱かざるを得なかった。そこで、不比等は、阿多隼人を徹底的に抑え込む戦
略を持った。その一つが、古事記における海彦山彦の物語である。海彦山彦のことについ
ては、後で述べるとして、先に「阿多隼人」のことについて述べる。
宮本常一は、南方から「アタ族」という海洋民族が渡来したとして、この「アタ族」の船
は集団移住のための外洋航海船だから当然構造船のはずで、したがって当然、鉄釘を使用
していたとして、アタ族の技術能力を評価し、その技術の中に製鉄技術を推定された。そ
の後、広州で、秦漢時代(紀元前221∼西暦220)の大規模な造船工場の遺跡が発見
され、その船台から幅6∼8m、長さ20mの木造船が建造されたようで、多くの鉄鋳
物、鉄釘、鉄棒や砥石などが発見された。
それらの技術は、広州からの渡来民・アタ族によって日本にもたらされたと見なされてい
るが、私は、その地点は野間岬、今のみなみ 摩市、旧加世田市であり、アタ族の後裔が
が「阿多隼人」であると考えている。
私は、今、黒曜石のロマンと黒潮のロマンを追求していけば、多分、「海洋史観」と「生
態史観」を統合する新しい歴史観ができていくかも知れない、そんな予感を持ちながら黒
曜石文化圏と黒潮文化圏の勉強を熱心にやったことがある。
栫ノ原型石
画像は、みなみ 摩市から出土した縄文草創期の磨製石 である。丸木舟の製造に使われ
たとされており、黒潮文化圏では珍しくないが、みなみ 摩市のものは、高度な技術によ
り作られておりすばらしいので、特に、「 栫ノ原型石 」と命名されている。この「阿
多隼人」の地は、縄文時代から技術水準の高い航海民族の拠点であったようである。「石
の広がり・・・黒潮文化圏」については、かって私の書いたホームページがあるので、
ここに紹介しておきたい。みなみ 摩市というところ、すなわち「阿多隼人」の地がそも
そもどういう所かを認識する一助にして欲しい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihiro.html
さて、次に海彦山彦の物語だが、これは政治的な意図を持って隼人の服從が語られている
物語である。では、その要点を見てみよう。
海彦と山彦は、たまには違う獲物を捕りたいと思い、魚の釣り道具と鳥獣の狩猟道具を取
り替えっこをする。しかし、山彦は海彦の大事な釣り針を海に落としてしまう。山彦は海
彦にさんざん責められて、途方に暮れて泣いていると、「シホッチの神」が現れて、山彦
に海神の宮、今私たちの知っている言葉で言えば、多分竜宮のことだろうが、ともかく書
く海の神の所に行く行き方を教えながら、海神の女(トヨタマ姫)、これも多分乙姫のこ
とだろうが、そういう尊い神の娘が何とかしてくれることを伝える。山彦は、「シホッチ
の神」に教えられた通りに神の国に行き、トヨタマ姫と出会い、彼女のお陰で海の神とも
出会うことができるのである。そして、山彦、実はホヲリの命のことだが、彼は海の神の
計らいでトヨタマ姫と結婚をし、竜宮で三年間を過ごす。その後のことは、この海彦山彦
物語のハイライトであるので、古事記の原文(日本語訳)を掲げておく。
『ここにホヲリの命は海彦の事をお思いになつて大きな溜息をなさいました。そこでトヨ
タマ姫がこれをお聞きになつてその父に申しますには、「あの方は三年 お住みになつて
いますが、いつもお きになることもありませんですのに、今夜大きな溜息を一つなさい
ましたのは何か仔細がありましようか」と申しましたか ら、その父の神樣が聟の君に問
われるには、「今朝わたくしの娘の語るのを聞けば、三年おいでになるけれどもいつもお
きになることも無かつたのに、今夜大 きな溜息を一つなさいましたと申しました。何
かわけがありますか。また此處においでになつた仔細はどういう事ですか」とお尋ね申し
ました。依つてその大神 に詳しく、海彦が無くなつた釣り針を請求する有樣を語りまし
た。そこで海の神が海中の魚を大小となく悉く集めて、「もしこの鉤を取つた魚がある
か」と問いました。ところがその多くの魚どもが申しますには、「この頃鯛が喉のどに骨
をたてて物が食えないと言つております。きつとこれが取つたのでしよう」と申しまし
た。そこで鯛の喉を探りましたところ、釣り針があります。そこで取り出して洗つてホヲ
リの命に獻りました時に、海神がお教え申し上げて言うのに、「この釣り針を海彦にあげ
る時には、この釣り針は貧乏鉤(ばり)の悲しみ鉤(ばり)だと言つて、うしろ向きにお
あげなさい。そして海彦が高い所に田を作つたら、あなたは低い所に田をお作りなさい。
海彦が低い所に田を作つたら、あなたは高い所に田をお作りなさい。そうなすつたらわた
くしが水をつかさどつておりますから、三年の間にきつと海彦が貧しくなるでしよう。も
しこのようなことを恨んで攻め戰つたら、潮の滿みちる珠を出して らせ、もしおおいに
あやまつて來たら、潮の乾ひる珠を出して生かしなさい。こうして海彦を苦しめるので
す。」と申して、潮の滿ちる珠、潮の乾る珠、合わせて二つをお授け申し上げて、悉く鰐
どもを呼び集め尋ねて言うには、「今天の神の御子の日の御子樣が地上の國においでにな
ろうとするのだが、お前たちは何日間でお送り申し上げて還つてくるか」と尋ねました。
そこで身の丈一丈の鰐わにが 「わたくしが一日にお送り申し上げて還つて參りましよ
う」と申しました。依つてその一丈の鰐に「それならばお前がお送り申し上げよ。海中を
渡る時にこわが らせ申すな」と言つて、その鰐の頸にお乘せ申し上げて送り出しまし
た。はたして約束通り一日にお送り申し上げました。その鰐が還ろうとした時に、紐の附
い ている小刀をお解きになつて、その鰐の頸につけてお返しになりました。そこでその
一丈の鰐をば、今でもサヒモチの神と言つております。
かくして悉く海神の教えた通りにして釣り針を返されました。貧乏鉤(ばり)の悲しみ鉤
(ばり)だと言いながらうしろ向きに渡したのです。そこでこれよりいよいよ海彦は貧し
くなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の満ちる珠を出して
れさせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救いました。海彦は、遂に、おじぎをし
て山彦に言うには、「わたくしは今後、あなた樣の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げ
ましよう」と申しました。そこで今に至るまで隼人は、その れた時の仕業を演じている
し、隼人はホヲリの命にお仕え申し上げているのです。』
ホヲリの命の正妻はタマヨリ姫だが、側室がいたようで、ホヲリの命と側室の間にできた
子供を「アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命」という。「アマツヒコヒコナ
ギサタケウガヤフキアヘズの命」は、ホヲリの命が亡くなってから、叔母のタマヨリ姫と
結婚して産んだ子が、カムヤマトイハレ彦(神武天皇)である。
阿多隼人は本来天皇に隷属すべき存在である。この意識を定着させようとしたのが海彦山
彦の物語だが、海人族に対する意図的な作り替えは他にもある。 城氏は海部氏である。
熊野の王も丹後の王も海人族であり、藤原氏としては相当に海人族というものを警戒して
いたようだ。特に、丹後王朝の史実については、記紀において意図的に抹殺してしまっ
た。事実にもとづいて記紀を書けば、天皇も藤原氏もその権威を無くしてしまう。記紀
は、そういう背景から書かれたのである。
しかし、不比等は、豪族に対する警戒はあったけれど、文化面では、重要な面で南方系文
化を重視した。すべての面で北方系の潜在的優位性を主張しているのではない。その点に
少し触れておきたい。古事記の海彦山彦の物語についてであるが、これは海彦山彦の交換
説話(これを以下において<失われた釣り針>型の説話という。)に浦島太郎の説話が入
り込んだものである。すなわち、古事記の海彦山彦の物語は、二つの説話を張り合わせた
不比等の創作説話であるということだ。もちろん、不比等が自分で考えついたということ
ではなく、彼には 田の阿禮や太の安萬侶などのブレインがいたので、彼らのアイディ
アであろう。不比等は、ブレインに対して阿多隼人がもともと天皇に隷属すべき民族であ
ることを宣伝する神話を創れと命じたものと私は考えている。そういう意味で古事記にお
ける海彦山彦の物語は不比等の創作説話であると言って良い。そして、<失われた釣り針
>型の説話は、インドネシアからポリネシアに分布する説話であるので南方系であること
は明らかである。日本列島には、阿多隼人も含めて、数多くの南方系民族・アタ族がいる
ので、不比等がどこかからそれを知り得たとしても不思議ではない。浦島太郎説話のよう
な物語は、これを神仙思想にもとづく物語だとすれば、類似の物語は世界にあるようで、
必ずしも南方系だと言い切れない。ここでは世界的な説話としておこう。不比等はどこで
それを知り得たか? どうも丹波らしい。日本の文献にはじめて出てくるのは、丹波風土
記であり、それがもとで全国各地に流布したらしいのだ。これを裏付けるものとしては、
宇良神社(浦嶋神社)の由緒というのがある。それによると、その 宇良神社という神社は、
浦嶋子(浦島太郎)の奇譚を知った淳和天皇が、小野篁(おののたかむら)を当地に派遣
し、浦嶋子を筒川大明神として祭祀するために宮殿を造営させたものである。すなわち、
宇良神社 は、天皇の命により、 小野篁(おののたかむら)が建立したものである。丹波で
言い伝えられてきた 浦島太郎が、神として祀られた瞬間である。史実をひた隠しに隠す
朝廷としても、やっと平安時代になって、小野篁(おののたかむら)がヤマトスクネノミコ
トとは知らないまま浦島太郎を筒川大明神として祀ったのである。
宇良神社(浦嶋神社)
( http://masakaki.web.fc2.com/newdir/kyouto/ura/ura.htmより )
元伊勢籠神社に現れたヤマトスクネノミコト
なお、 小野篁(おののたかむら)といっても、どんな人か知らない人が多いかと思うので、
念のために、私のホームページをすべて紹介しておく。
https://www.google.co.jp/search?q=%8F%AC%96%EC
%E2%B9&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&hl=ja&btnG=Google+%8C%9F%8D
%F5&domains=kuniomi.gr.jp&sitesearch=kuniomi.gr.jp
シャーマニズムは、古モンゴリアンの文化である。日本はその文化の中にある。卑弥呼も
台与もシャーマンである。その伝統を復活させたのは,不比等である。不比等は、伊勢神
宮をして,天皇の祖神として天照大神を祀ると同時に,天皇をシャーマンにしつらえたの
である。これは、卑弥呼や台与の祭祀の復活であって、政治的権力は藤原氏にある。不比
等はそれを主張したかったのである。それが、記紀の基本的な姿勢である。不比等は、天
皇を前面に押し立てながら、己の権威を保持しようとしたのである。これは、素晴らしい
考えであると思う。天皇を支える腹心が権力闘争に明け暮れてはいけない。それは、今も
変わりはない。わが国の国是は、あくまでも天皇を中心として、まとまっていく国なので
ある。そのような国是を作ったのは不比等である。そう意味から、私は,記紀の素晴らし
さを高く評価したい。そのような評価をした上で、記紀を分析検討しなければならない。
記紀における神話や物語は、大きな歴史的価値を有している。
( http://www.isejingu.or.jp/より )
卑弥呼
( http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/sintou1.htmより )
なお、不比等は阿多隼人並びに海人族のネットワークを恐れると同時に、阿多隼人を直轄
の臣下にすることによって、全國の「アタ族」を統括したのだと思う。その主なものは熊
野水軍と伊豆水軍である。白村江の戦いで、我が水軍の総司令官を勤めたのが伊豆水軍の
流れを む庵原氏である。
白村江の闘い
( http://blogs.yahoo.co.jp/crinum_asiaticum_jp/8989171.htmlより)
そういうことを不比等は十分知っていて、熊野水軍や伊豆水軍を大事にしたのである。そ
れは、熊野神社や伊豆山神社を朝廷が大切にあつかってきたのを見ても解る。伊豆山神社
のその伝統は、鎌倉幕府まで続く。そういうことを考えていると、私は、やはり日本は、
海洋国家だなあと思う。阿多隼人の国、 摩から、かの世界の名将東郷元帥が出たのも、
当然のことだと思ったりする。
第2節 天照大神について
私は先に、「台与の祭祀こそ、わが国が世界に誇る「神道」の源流は台与の祭祀であ
る。」と述べた。わが国の「神道」は、台与の祭祀から始まって、物部神道、そして中臣
神道を経て、現在に至っている。台与の祭祀について考える前に、まず、神道についての
大筋的な流れを見ておこう。
台与の祭祀と伊勢神宮を中心とする現在の神道とは、基本的な断絶はないのだが、藤原不
比等によって、伊勢神宮が建立され、天照大神が誕生した。これは大改革と言って良いほ
どの素晴らしい変革であり、日本の国是がここに定まった。では、不比等によって誕生し
た天照大神について、その神格を説明したい。
天照大神とは、そもそもどのような神か? その神格を明らかにしなければならない。こ
れはもう哲学の問題だ。記紀における神話をもとに、哲学的思考を重ねなければならな
い。それは、どうもヒルコとの対比の中で、考えねばならないようだ。その点について
は、河合隼雄がいちばん核心部分に迫っているようだ。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-f2d4.html
それにしても、藤原不比等は、何と奥深い戦略を考えたものだと思う。彼は、自分の氏神
としての鹿島神宮を物部氏から奪い取ると同時に、天照大神を祀る伊勢神宮を作った。そ
して、それと同時に、記紀において天照大神を中心に神々の物語を作った。いわゆる日本
神話の誕生である。ということで、私は,河合隼雄のヒルコ論を念頭において、天照大神
の神格について、重要な点を語らねばならない。神の存在について語ること、神というも
のはどこにいるのか、また神は、人間に対してどういう働きをするのか、それはもう哲学
の問題である。天照大神は伊勢神宮にいる。何故伊勢にいるのか、そして、その天照大神
は、私達日本人に対して、どういう働きをするのか、それを考えねばならない。
日本にはさまざまな神がいる。不比等の頃の豪族は、それぞれにおのれの祖神を祀ってい
た。それらの神々を大事にしながら、かつ、天皇を中心に全体の秩序立てを図る神、それ
が天照大神である。女性の太陽神、天照大神でなければならないのである。河合隼雄が言
うように、男性の太陽神ではダメなのである。
本音と建前、それをうまく使い分けるのが日本人独特の知恵である。今ここでの脈絡から
言えば、本音は各豪族の祖神。各豪族は本音で祖神に祈りを捧げながらも、建前として
は、天皇の祖神、天照大神に祈りを捧げ、天皇に忠誠を誓うのである。これによって、朝
廷の権威は揺るぎないものになる。不比等は、何と巧妙な社会構造を考え出したものであ
ろうか。これが、河合隼雄の言う中空均衡構造である。
中空均衡構造については、私の論考があるので、それを紹介しておきたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-8dca.html
日本の歴史と文化の心髄は、違いを認めるところにある。そこが一神教の国と違うところ
である。その源流には中臣神道があり、さらに れば、台与の祭祀に り着く。台与の祭
祀のいちばんの特徴は、祭祀道具が銅鏡であるということだ。少し銅鏡について考えて見
たい。
奴国との争いが生じた時、魏の皇帝は、親魏倭王卑弥呼に黄幢を授与した。邪馬台国は、
それを旗印に、多分、狗奴国の周辺の豪族を糾合し、狗奴国を降伏せしめることができ
た。魏の権威は、絶大であったと思う。したがって、魏の皇帝から下賜された銅鏡も権威
の象徴であったと思う。台与が祭祀の際に使った銅鏡は、威信財としての性格も持ってい
たのではなかろうか。
台与は、狗奴国も含めて、倭国のクニグニに威信財としての銅鏡を積極的に配ったと思
う。
銅鏡のもう一つの用途は、いうまでもなく本来の用途、すなわち祭祀である。では、これ
から、台与は銅鏡を使って何を祈ったか、それを考えてみよう。
台与の祭祀の道具は鏡。卑弥呼の祭祀の道具は銅鐸。しかし、道具が異なるとはいえ、そ
れを使って祈る対象としての神や祈る内容は、卑弥呼との場合も台与の場合も同じであっ
た思われる。まず、何を祈ったか? 私は、豊穣を祈ったのだと思う。これは旧石器時代
や縄文時代における祈りと断絶はない。特に弥生時代に稲作が行われるようになってから
は、富をもたらすものは稲作であり、富の蓄積によってクニグニができていった。した
がって、各豪族が豊穣を祈るのは当然であって、私は、卑弥呼も台与も豊穣を祈りなが
ら、クニグニの繁栄を祈ったのだと思う。だとすれば、卑弥呼や台与の祈った神は、大地
の神・地母神であり、天にまします神・太陽神であったと考えられる。これを旧石器時代
や縄文時代でいえば、前者は「炉」すなわち「ホト神さま」であり、後者は「石棒」すな
わち「柱」である。である。私は、日本伝来の神をそのように捉えているので、神に対す
る断絶はなく、今に続いていると考えている。祭祀の道具は変化してきている。しかし、
基本的に神道の祭祀道具な「鏡」である。その源流に台与の祭祀がある。伊勢神宮も、基
本的には、「ホト神さま」と「柱」に対する信仰に支えられている。このことについて
は、かって、少し書いたことがあるので、ここに紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/maramyo02.html
中国でも祭祀道具として使われていたようであるが、日本に銅鏡が伝わると、それが権威
の象徴として使われ始めるとともに、太陽信仰のための祭祀道具となった。太陽信仰は日
本の旧石器時代からの祭祀と同じである。そういう大きな流れの中で、台与の祭祀では、
太陽神という具象的な神が作り出された。それがやがて天照大神という皇祖神に変身する
のであるが、その源流に台与の祭祀があることの歴史的意義は大きい。
第3節 鹿島神宮の乗っ取り
東国で、中臣氏は物部氏の勢力を乗っ取ってしまう。物部氏ルーツのこと、中臣氏の物部
氏の勢力乗っ取りのことは第6章で述べたので、第6章を読み返してほしい。 物部氏の
残した鹿島神宮、これは東北経営の拠点でもあるのだが、その神 社の支配権というもの
は霞ヶ浦湖畔の豪族である多氏が握っている。中臣氏としては、多氏を抱き込んで、何と
かそれを手に入れたい。当然のことである。かく して鹿島神宮の乗っ取りはなり、しか
も東北における物部氏の勢力はそのまま中臣氏に引き継がれることとなった。藤原氏発展
の基礎はここにある。
さて、藤原氏の鹿島神宮乗っ取りに関連して、漢国(かんごう)神社について勉強するた
め、現地に赴いたことがある。それを次ぎに紹介しておきたい。藤原氏を語るには漢国神
社を語らねばならない。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/kangojin.pdf
さて、最後に、藤原氏が乗っ取った鹿島神宮のある霞ヶ浦という地域は、はたしてどうい
う地域なのか、それを少し語ってみたい。
東北地方最初の日本人は舟を巧みに操って、まず最初に岩手県に上陸した。 命がけで
やってきたと思われる。その後、縄文人は舟を巧み操って、北海道からアメリカ大陸まで
渡っているようだが、最初の日本人が岩手県にやってきたのはそれと同じような冒険心か
らかもしれない。とにかく最初の日本人・海の民が岩手県にやってきたのだ。岩手県に最
初の人々がやってきたのは、おおよそ4万年前頃を思われる。旧石器時代である。
縄文時代になると、西日本から多くの人々が東北地方にもやってくる。かの丸山三内遺跡
を初めとして東北地方にも縄文時代の遺跡が結構多く、漁労や舟運も盛んであったらし
い。しかし、縄文時代から弥生時代にかけて、東北地方やこの霞ヶ浦地方の舟運がどのよ
うな状況であったのかはよくわかっていない。私は、水郷地帯のことであるからおそらく
舟運が盛んであったと推測している。
霞ヶ浦周辺が歴史に登場してくるのは、大和朝廷の東北進出を契機とする。その前線基地
として香取神宮に次いで鹿島神宮が作られていく。東北進出の権力者は物部氏であった
が、鹿島神宮の創建についてはこの潮来地方の豪族・多氏(おおし)の力によるところが
大きかったようだ。潮来地方の豪族・多氏(おおし)は大変興味ある豪族である。大生古
墳群は多氏のものだ。多氏は、神武天皇の御子、神八井耳命(カンヤイミミノミコト)を
祖とする氏族であると言われたりしているが、私は、神武天皇は架空の天皇と考えている
ので、ここでは、多氏は大和朝廷と関係の深い潮来の豪族としておきたい。大、太、於保
などとも書くが、すべて「おお」と読む。多氏は大和朝廷の東北進出に重要な役割を果た
したようで、石城(いわき)の豪族は多氏の一族である。
物部氏については、雄略天皇の時代に水軍と関係のある伊勢の豪族を征討したこと、また
継体天皇の時代に水軍500を率いて百済に向かったことなどが伝承されており、物部氏
がわが国の水軍をその傘下におさめていたことは容易に想像がつくが、学習院大学の黛
(まゆずみ)弘通教授がその点を詳しく述べている(「古代日本の豪族」、エコールド・
ロイヤル古代日本を考える第9巻、学生社)。すなわち、『「旧事本紀」の中の「天神本
紀」には、ニギハヤヒが降臨するときにつき従った神々とか、そのたもろもろの従者のこ
とが詳しく出ているが、それによると、つきしたがった神に海部族(あまぞく)である尾
張の豪族がいるし、つき従った従者に、船長と舵取りと舟子がそっているということらし
い。物部氏が航海民、海人族と関係があったのは間違いがない。物部氏系統の国造を詳し
く調べると、物部氏は瀬戸内海を制覇していたことが推定される。』・・・と。
中臣氏は、 鹿島神宮を物部氏の勢力を乗っ取ってしまう。先に述べた通りである。その
狙いは何か?
東北地方は、古代から人口の集積地であり、縄文時代は最も文化水準の高い中心地であっ
た。しかも鉱物資源の豊かなところであった。中臣氏が狙わない訳がない。奥羽山脈には
日本で唯一の黒鉱鉱脈が走っており、鉄、金、銅などの鉱物資源が豊富にあったのであ
る。7世紀中頃からの大和朝廷の東北進出は、鉱物資源の支配と技術をもった製鉄工人の
獲得のために行われたが、私は、鹿島神宮がなければそれもなし得なかったのだと思う。
鹿島神宮の歴史上果たした役割は実に大きい。
香取神宮は鹿島神宮とはちょっと趣をことにするが、大和朝廷の東北進出という観点から
俯瞰してみると、二つの神宮は一対のものであって切り離して考えることはできない。実
はこの他に、大和朝廷の東北進出という観点から見逃すことのできない神社がもう一つあ
る。それが息栖神社である。
( http://www.kamisu-kanko.jp/power/より )
息栖(いきす)神社は、岐神(くなどのかみ)を主神とし、住吉三神・天鳥船神を相殿と
して祭られている。古くから国史にも見え鹿島神宮と香取神宮とともに信仰のあつい神社
である。岐神は除厄招福の神であり、住吉三神は海上守護に、天鳥船神は交通守護の神と
して御神徳が顕著で、神前に祈念する者にその限りない御恩頼を垂れされて、御守護くだ
さるものである。社前に、日本三霊水の一つと言われる忍塩井(おしおい)がある。俗に
女瓶と男瓶とよばれる二つの井戸から清水の湧き出ている。男瓶は銚子の形で女瓶は土器
に似て一説には神代のものと云うが、常に水底に沈んでおり、天気がよく水澄む日でなけ
れば見えない。 神功皇后の頃というから200年頃ということになるが、香取神宮や鹿
島神宮が創建されるずっと前、あたり一面海水におおわれていた頃、真水淡水の水脈が発
見されていて、太平洋における重要な港としての役割を果たしてきたようである。
霞ヶ浦地方は、息栖神社と香取神宮と鹿島神宮を擁し、古来、舟運の拠点地域として大き
な役割を果たすと同時に、それが故ではあるが、大和朝廷の東北進出の前線基地としての
役割を果たしてきた。
京都の精華大学の建築学の教授に田中充子という人がいる。
田中充子教授のスタジオでは木造建築のお話が繰り広げられていました。
( http://www.kyoto-seika.ac.jp/design/architecture/architecture_lecture/
20121009_1500.htmlより )
この田中充子という人が『古社叢の「聖地」の構造(1)・・・東関東の場合』(京都精
華大学紀要 第三十七号)という素晴らしい論文を書いておられるので、そのなかから関
係の部分を以下に紹介しよう。すなわち、
『「日本の聖地」である古い社叢の信仰を、そのまつられる祭神の種類からそれをもたら
した者が「天孫族」「出雲族」「先住族」、いいかえると古墳人、弥生人、縄文人とする
視点から事例調査した。 事例調査対象として、東関東に鎮座する一の宮をとりあげる。
県でいうと、千葉県と 城県の海岸地帯である。』
『国学者の本居宣長(1730 ∼ 1801)は『古事記伝』(巻三)で「鳥獣木草のたぐひ、
海水など、其そのほか余何にまれ、尋よのつね常ならずすぐれた徳ありて、何かしこ畏き
物を かみ徴とは言ふなり」といっている。具体的にはどういうことだろうか。「畏きも
の」とは、辞書には「おそれおおいこと」「すばらしいこと」などと書かれている。そう
すると、古社叢のなかにはカミガミがいっぱいいらっしゃる、ということではないか。そ
れらのカミガミを祭った人々に「天孫族」「出雲族」「先住族」の三種類とするわけはこ
こにある。』
『出雲族は「記紀神話」で知られるように、スサノオやオオクニヌシに代表される。かれ
らは天孫族がこの国に稲作をもってやってくる以前から、すでに農業をおこなっていた。
「書紀」によると「朝鮮半島からやってきたスサノオとその子のイソタケルが木種を日本
全国にまいた」というからだ。そして北九州を中心とする江南系の「平地的農業」にたい
して、もう一つの弥生農業、つまり高低差のいちじるしいわが国の地形にしたがって「水
源涵養林の農業」を開発したのである。農業に必要なものは、田をうるおす水である。そ
こで水源を守るために、かれらは山に木を植えたのである。日本の農学の基本である。
「農業集団」である出雲族にとって、水はカミだったのである。』
『先住族は漁民であって農業はおこなわない。山の幸と海の幸で、縄文の1万年あまりを
生きてきた。とりわけ海の幸が大きかった。漁民は、海がしけて闇ともなれば漁ができな
いばかりか、陸地を見失い、海洋にほうりだされて海の藻 となる。したがって、太陽は
漁民である縄文人あるいは先住族にとって「超能力」つまりカミだったのである。さらに
先住民は、太陽とともに火をカミとした。火は物の煮炊きだけではない。土器を焼くだけ
ではない。火は闇夜を照らし、禽獣をおいはらい、暖をあたえる。つまり火は、先住民が
尊んだ太陽の「分身」といってもいい。このようにみてくると「天孫族」は古墳人、「出
雲族」は弥生人、「先住族」は縄文人に対応 するとみてよいだろう。 それは社叢では、
「天孫族」、「出雲族」「先住族」のカミがおわします。これが「古社叢の三重構造」で
ある。』
田中充子の論文の要点は以上のとおりであるが、香取神宮や鹿島神宮の詳しいことは彼女
の論文を読んでもらうとして、ここでは大和朝廷の臭いふんぷんの香取神宮や鹿島神宮と
いえど縄文の神が祀られているということに注目していただければそれで結構だ。天孫族
と先住族が共存していたのである。
第4節 記紀神話の創造
わが国の現在の神道は、藤原不比等が物部神道に道教の祓いの思想によって改良をくわえ
て大改革をしたものである。しかし、鏡が御神体であるという本質は台与の祭祀の時とな
んら変わっていない。それでは、藤原不比等が物部神道に改良を加えた大改革について、
その経緯を説明するとしよう。
梅原猛が言うように、 記紀神話は、藤原不比等の「祓いの神道」によって作成された神
話である。そして、この「祓いの神道」を国家計画化した古事記、日本書紀神話に よっ
て、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思われるように
なったのである。実は、藤原不比等の深慮遠謀というテーマで私は天照大神のことを書い
たが、その真意は、不比等が政治の安定化のために天皇の神聖化を図ったというところに
あった。しかし、不比等の狙いは「祓いの神道」、すなわち中臣神道の創造にあったとい
うことは思いもよらなかった。このたび梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、
集英社)を読んで、初めてそのことを知った。まさに眼から鱗が落ちる思いである。梅原
猛の慧眼に今更ながら感服している次第である。
「祓いの神道」は、記紀神話を基盤としながら現在見るような神道の形式を整えていく。
この中では中臣氏の功績がもちろん大きい。藤原不比等の時代、彼は一族を二つの流れに
分割した。即ち、政治を司る 不比等の子孫を藤原姓とし、他を元の中臣姓に戻し、神
を司らせた。中臣氏は祭祀を職とする氏として歴史に登場する。中臣の姓に戻って神 を
司ることは一 族の誇りでもあった。奈良、平安時代は藤原氏の権勢の許、中臣氏は精力
的に、中臣神道がそれ以外の神祀りを駆逐して日本神道の本流となるべく努力した時代
だった。
中臣氏は諸国の神社祭祀を画一化していく。地方独自の祭祀形式は現在にまで一部は残る
が、神殿内の祭壇は中央のそれと特に変わる ことはない。中央に鏡、両側に を立て、
酒、水、塩などを奉る。神社に参ると神主が紙垂を沢山束ねた大麻を振って私たちの不浄
を祓い浄めてくれる。祓い浄め、実はこれが中臣神道の真髄なのである。鏡は天照の御魂
である。天照は地上に降る孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に天の岩戸の前に掲げられた
鏡を渡して、これを天照と思って大事に祀れ、と言った。このときから鏡 は天照の象徴
となった。日本の神々は二種類に分けられる。高天原に発する天津神と土着の国津神であ
る。全国の神社は圧倒的に国津神の社が多い。しかしそれ らの社にも一様に正面に鏡が
据えられている。私たちは大国主や大国魂といった国津神の祀られている神社に参って、
実は正面の鏡を通して天照を礼拝している のである。神主が大麻を振る姿は誰もが思い
浮かべる神官の印象であろう。大麻で以て神主は参拝者の穢れを祓っているのである。こ
の祓え浄めを神道の中心理論として 構築したのが中臣氏であった。
以上の通り、藤原不比等の深慮遠謀によって創られた天照大神と記紀神話によって、中臣
神道は日本神道の中心祭祀となったのである。
梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」
は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言ってい
る。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点
のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、
『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢
氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたこと
によってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。
(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫
は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこ
と、医心方のことを忘れてはならない。)』
『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から
実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふ
つう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の
中心的行事ではなかった。』
『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つに
なったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じる
のである。』
『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓
いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝
詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の
祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹
請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五
帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、
南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』
『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひと
がた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を
祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。し
かし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百
官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがな
され、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪
を、この六月の (つごもり)、あるいは十二月の (つごもり)を期して、水に流して
やる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事
であると思う。』
『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、
「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと
思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろ
う。』・・・と。
以上述べてきた通り、藤原不比等の大改革によって「中臣の大祓の祝詞」が作られ、それ
に基づいた記紀神話が創造された。しかし、その「祓いの神道」は初めて天武天皇によっ
て開始されたものであり、それは東漢氏の伝える道教の儀式が律令の精神によって改造さ
れたものである。 すなわち、わが国の現在の神道は、藤原不比等が物部神道に道教の祓
いの思想によって改良をくわえて大改革をしたものである。
しかし大事なことは、鏡が御神体であるという本質は台与の祭祀の時となんら変わってい
ないということである。そして、その鏡が象徴する本来の思想は、道教の「神仙思想」で
ある。天照大神は、その「神仙思想」にもとづき創られたわが国の「神仙」である。
第5節 神武東征神話における不比等の真意
神武東征とは、一口で言えば、初代天皇のカムヤマトイワレ ビコ(神日本磐余彦、後の
神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話である。
イワレビコが45歳のとき、「海の道」に詳しい塩土老翁(シオツチノオジ)から次のよ
うな話を聞かされた。
「四方を青垣の山々に囲まれた良い土地が、東にある。その土地は広く、統治しやすく、
天下を臨むにふさわしい」
そこで、イワレビコは兄弟たちと図り、そこに東遷して都にする決心をした。そして、イ
ワレビコみずから、皇子たちと水軍を率いて日向の国を出発し東征の途についた。
しかし、すでにヤマトにはナガスネヒコが君臨していた。イワレビコはニギハ ヤヒ(饒速
日)に対し和平交渉をする。ニギハ ヤヒは、永年君主として仕えてきたナガスネヒコを
斬って、自分と同じ天孫族のイワレビコに恭順した。
この神武東征伝承には、大きな矛盾が二つある。一つは、東征の出発地点が美々津港に
なっている点だ。
塩土老翁(シオツチノオジ) から東に広くて統治に適した土地があると聞いて、イワレ
ビコは東征を決意したことになっている。記紀の神武東征でいう 塩土老翁(シオツチノ
オジ) は、古事記の海彦山彦説話においては「シホッチの神」となって現れている。ま
た、 記紀における「笠沙の浜における神武天皇とコノハナサクヤヒメのラブロマン」が
語れている。コノハナサクヤヒメは海彦山彦説話におけるトヨタマ姫(乙姫さま)のこと
である。これらの出来事は笠沙での出来事である。笠沙とは、阿多隼人の本拠地、今の南
さつま市であるが、神武東征神話の原点は阿多水軍の拠点笠沙である。
( http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/kaidou/sand-hayatodream.htmより )
神武東征神話は、九州にあった勢力が長年をかけて大和地方に侵略した歴史を一人の人間
に仮託して聖戦としてまとめ上げたにすぎないが、過去の事実はどうであったのであろう
か? 私は、邪馬台国畿内説であるが、九州説にもそれなりの事実を含んでいることは確かで
ある。弥生時代後期に北九州にあった勢力が畿内に向かったというのは事実であろう。も
ちろんその移動は、一回だけのものではなく、幾重にも亘って行われた。北部九州ななん
と言って大陸や朝鮮半島に近く、その文化的影 響を受けやすいことは誰の目にも明らか
である。建武中元2年(57年)に後漢の光武帝に遣使して金印を授与された奴国は北部
九州に実在した国である。永初 元年(107年)、後漢の安帝に生口160人を献じて謁見
を請うた倭国王帥升もおそらく北九州の国王だったであろう。こうした弥生時代の大陸と
の通交の歴 史の延長上に北九州の豪族の、幾重にも亘る畿内への移動があったのであ
る。
それが神武東征神話の真相である。
さあ、そこで神武天皇神話における不比等の真意を推察してみよう。
神武東征神話には、場所に関する二つの疑問がある。美々津の問題ならびに岡田宮と熊野
の問題である。まず、美々津を出発地とした問題から述べる。神武東征神話の原点は笠沙
である。なのに、神武東征の出発地を笠沙としないで、何故美々津としたのか?これには
二つのの理由がある。不比等は、笠沙について真実をひた隠しに隠して、海彦山彦の物語
だけを語りたかったのである。美々津は、太平洋と瀬戸内海並びに東南アジアを結ぶ海上
の道の結節点である。そこを出発地とすることによって、これら海上の道は、既に大和朝
廷の支配下にあることを天下に示したかったのである。海人族ネットワークの分断作戦で
ある。
次に、何故、遠賀川の河口付近の岡田宮と熊野が神武東征神話に出てくるのか? 瀬戸内
海の主要な国が出てくるのはわかる。かって、北九州の豪族が畿内に向かった時、瀬戸内
海のクニグニとそれなりの緊張関係があったことは事実であろう。この緊張関係は、結構
長く続いたものと見え、高地性集落が瀬戸内海地域に作られる。高地性集落は、その他の
地域にも作られてはいるが、瀬戸内海地域に多いのは、北九州の豪族がおおむね瀬戸内海
を通って畿内に向かったからだと思われ、神武東征神話は、それを意識して作られてい
る。したがって、神武東征神話の中に安芸や吉備が出てくるのは当然としても、岡田宮や
熊野が出てくるのは不思議だ。古事記では、神武東征の途中、岡田宮に詣り天神地 の八
神(八所神)を奉斎し、この地に留まったとされている。 岡田宮の地は、天然の良港で
ある洞海湾に面し、当時は、遠賀川ともほぼ小河川や遊水池で繋がっていたと思われる。
岡田宮のある洞海湾を含む遠賀川の河口付近は、北九州から瀬戸内海に向かう海上の道と
遠賀川の結節点である。遠賀川は、香春という秦一族の本拠地であり、不比等の頭の中に
は、香春は大和朝廷の極めて重みのあるか地域として意識されていたのであろう。その重
要な地域が、もともと大和朝廷の支配下にあったのだと、神武東征神話の中で、言いた
かったのであろう。
熊野は、太平洋側におけ海上交通の要かなめの地である。太平洋側の海人族のネットワー
クにとって、もっとも大事なところである。そこは古くから大和朝廷の支配下にある。そ
のことを不比等は言いたかったのであろう。熊野が古くから大和朝廷の支配下にあるのな
ら、太平洋側の海人族は、大和朝廷に反旗をひるがえすなどはもってのほか、と思うにち
がいない。不比等はそう考えたに違いない。
このようにして、日本列島の水軍はすべて大和朝廷、実質的には藤原氏ということだが、
中央権力の集中管理することとなった。藤原氏万全の体制が出来上がったのである。不比
等ほど深慮遠望に長けた人は歴史上そうはいない。彼によって日本国の骨格ができたと
言ってもけっして言いすぎではない。
第8章 歴史的直観力
歴史学のみならずあらゆる学問及びその他本格的な登山などで、その時々において難しい
判断を必要とするものは、直観力がないと卓越した判断はできない。そのことは、今西錦
司の言動をつぶさに見ればよく解る。
歴史的直観力というものは、歴史学だけでなく、その他歴史に関連する民俗学などの知識
を持って、現地で地霊の声を聞かなければならない。その地域の風土というものを感じ取
ることが大事なのである。私は,歴史的文献や考古学的知見によって古代を知ることが基
本であるとしても、それだけでは不十分で、現在そこにあるものから古代を推察すること
が大事なのである。それは、ハイデガーの言う過在ということである。過ぎ去ったかに見
えても、その名残りみたいなものが現在に在る。それが過在である。古代を知るには、そ
のことも大事である。その事を実際にやったのが民俗学者であり地名学者でもある谷川健
一である。谷川健一の最後の仕事が「四天王寺の鷹」である。彼は、歴史的直観力を働か
せながら、「物部氏と秦氏との密接な関係」を明らかにした。この章では、まず最初にそ
れを紹介して、次に、諏訪大社に焦点を当てて、「物部氏と前イズモとの密接な関係」に
ついて、私の論考を進めたい。タイトルは、「諏訪大社の柱とソソウ神」である。
第1節「四天王寺の鷹」の解説
「四天王寺の鷹」という本は、邪馬台国が大和なのか近江なのかを考える場合の必読書で
ある。また、大和朝廷と東北地方との関係を考える場合の必読書でもある。この本を読ま
ずして日本の歴史を語ることはできないと言ってはちょっと言い過ぎかもしれないが、ま
あそういう側面もあって、この本の内容をきっちり理解することは日本の歴史を語る上で
きわめて大事なことである。ただし、この本を表面的に読んだだけではその心髄を知るこ
とはできない。そこで、私は、この本の心髄部分が一般の人にも理解されるよう、その解
説を行う。
谷川健一は、この本で、「聖徳太子が起請した四天王寺に、なぜ物部守屋が祀られている
のか」という問題意識のもと、四天王寺に秘められた物部氏と秦氏の を綿密なフィール
ド調査と鋭い分析を駆使して追求している。その内容は、谷川民俗学の集大成とも言うべ
き彼でしかなし得ない内容のものであって、そのことに驚きを感ぜざるを得ない。私は、
彼が良弁のことを相当力を入れて書いていることに、まず吃驚した。
1、良弁について
良弁と物部氏や秦氏とを結びつけるもの、そのキーワードは「鷹」である。この本の題名
は「四天王寺の鷹」となっているが、そもそも「鷹」とは何の象徴なのか? 「四天王寺
の鷹」、「英彦山の鷹」、「香春の鷹」、「鷹と宇佐」、「鷹と鉱山」、「鷹巣山と鉱
山」と言葉が出てくるが、谷川健一は、「鷹」は鉱山や鍛冶(かじ)の象徴であって、物
部氏と秦氏を繋ぐものは「鷹」、すなわち鉱山や鍛冶である。しかし、何故「鷹」が鉱山
や鍛冶の象徴なのか? 金勝族(こんぜぞく)というのは、むかし、朝鮮半島からの渡来
した一族で、銅の採掘や青銅の細工を生業としていた技術集団のことであるが、良弁は 金
勝族(こんぜぞく)を統率していたらしい。谷川健一はそう考えている。
私は、今まで、良弁のことをいろいろと勉強してきたが、このたび谷川健一の良弁論を読
んで目から鱗が落ちた思いである。
京都駅の南方40kmぐらいの所に、井手町という歴史的に由緒のある地域がある。そこ
の伝承に「良弁と鷹」の話がある。『 良弁は幼児の頃関東地方で「鷹」にさらわれ、現
在の井出町多賀地区に落とされた。そして、良弁は多賀の里人の手で養育された。』とい
うのだ。 東大寺要録の記事と照応するので、どちらが元になっているのかわからないが、
良弁が多賀氏と繋がっているのは間違いないだろう。
多賀氏は金属技術者の集団であっ
た。井手町には、志賀の豪族・多賀氏が祀る神が(多賀神社の神)が祀る高神社がある。
井手の多賀は、どうも志賀の豪族・多賀が継体天皇とともに井手の地に来たものらしい。
金属技術者である多賀一族は、常陸にも移住しており、藤原一族である「由比の長者」と
繋がっていたよう
だ。「由比の長者」の妻は、多賀氏であり、その子・良弁は母方の井
手の多賀氏に預けられたのではないか。「由比の長者」については、かって一生懸命勉強
したことがあるので、それをここに紹介しておく。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/amanawa.html
谷川健一は、「良弁は世間師であって、良弁が聖武天皇に接近し、巧みに取り入って着々
と地歩を築いたのも、彼の経験にもとづく実務的な才覚が大きな力を発揮した。」・・・
と書いているが、私は、井手町に本拠地を構えていた橘諸兄と良弁との関係がまず先に
あったのでないかと思う。
なお、私は、そのことをまったく知らなかったのだが、谷川健一によると、良弁は笠置寺
の千手窟にこもり、秘法を修したのだという。笠置寺の創建については諸説あって定かで
ないが、『笠置寺縁起』には白鳳11年(682年)、大海人皇子(天武天皇)の創建とあ
る。笠置寺は、井手町とは目と鼻の先にあり、良弁が修行するにふさわしい。現在、笠置
町と井手町を結ぶ線の右側に和束町(わづかちょう)があり、左側に木津市がある。木津
市は木津川が平野部に出るところ、京都から奈良に入る場合の玄関口みたいなところであ
る。そこに恭仁京がある。いうまでもなく井手町の橘諸兄の勢力圏である。その恭仁京の
北東方面(和束町)に安積親王(あさかしんのう)の墓がある。安積親王は聖武天皇の長
男であり、当然、皇太子になるべき人であったが、不幸な死に方をしたのである。この地
域は聖武天皇とたいへん深い因縁のある地域であるが、その地域が橘諸兄の勢力圏であっ
たということは、聖武天皇と良弁との繋がりを考える上で、極めて重要である。そのこと
は、偉大な天皇・聖武天皇を理解する上でも十分認識しておいた方が良いだろう。良弁
は、その橘諸兄のバックアップがあって、聖武天皇のブレインとなったのである。その良
弁が鉱山と鍛冶の技術集団を統括して、あの大仏を建立した。良弁のために実際に活躍し
たのは、秦一族であった。秦一族のもともとの本拠地は遠賀川流域の香春(かわら)地域
であり、そこは大きな銅鉱山のあったところである。大仏の建立には香春の銅が大量に使
われた。また、大仏は金メッキが施されたが、その膨大な金は、良弁が秦一族を通じて東
北地方で確保したものである。
良弁のことについては、谷川健一は、「四天王の鷹」で縷々書いているので、是非、じっ
くり読んでほしい。良弁と秦氏との深い繋がりを理解することができる。
2、秦氏について
さて、秦氏のことであるが、秦氏というのは誠に不思議な一族で、この一族を理解しない
で日本の歴史は語れないというほどのものだ。秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系
に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養
蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。その秦一族の中
で、いちばん有名なのは聖徳太子の側近であった秦河勝であろう。どうもこの人が偉大な
人物であったようだ。
秦河勝のことについては、かって私は、中沢新一に「精霊の王」にもとづいて「胞衣(え
な)信仰」というタイトルで少し触れたことがある。秦氏に関連する部分を再掲しておく
と、中沢新一は、次のように言っている。すなわち、
『 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた
異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出 し、のこりなくその芸
を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったは
てに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したの
だった。その地で、はじめ秦河勝の霊体
は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、
荒神であり、胞衣であること の、まぎれもない証拠であると書いたのである。
ここで坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろん
これはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、
地名や神社の名前とし
て残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神
問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグ
ジ」の音で表現されるなにかの霊威を
もったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心に
おこなわれていたことの痕跡をし めしている。』・・・と。
何故、秦河勝は播州・坂越(サコシ)の浜に流れていったのか? 何故か? その疑問に
ついて、私は、ずっと気になっていたのだが、谷川健一は「四天王寺の鷹」の中でそのこ
との明確な説明をしている。まさに目から鱗が落ちる想いである。では、「四天王寺の
鷹」の最大のハイライトと思われるその部分を以下に紹介しておきたい。彼は、次のよう
に述べている。すなわち、
『 秦河勝と聖徳太子との密接な関係は、太子没後、彼のおかれた社会的、政治的立場を
危なくさせることにもなった。蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)は聖徳太子の
嫡子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と秦河勝の関係に警戒の目を向けてい
た。(中略)この頃、蘇我蝦夷・入鹿父子の横暴は目に余るものがあった。硬玉2年(6
43)には、蝦夷はひそかに紫冠を子の入鹿に授け、大臣に擬する不
な振る舞いもみら
れた。その年、山背大兄王が入鹿によって殺されるのを河勝は目の当たりにしている。
(中略)そこで入鹿の迫害が及んでくることをひしと感じた河勝は身の危険を避けるため
に太秦をはなれ、ひそかに孤舟に身をゆだねて西播磨にのがれ、秦氏がつちかった土地に
隠棲したと推測される伝承が伝えられている。世阿弥の「風姿花伝」に並びに世阿弥の娘
婿の禅竹の「明宿集」にその記述が見られる。』・・・と。
世阿弥は秦一族である。私は、先ほど「 秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限
らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や
機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族である。」と述べたが、秦氏の
子孫に世阿弥が出ている。
明宿集」に秦河勝の子孫に三流あり、一は武人、二は猿楽、
三は天王寺の楽人とあるように、秦河勝を先祖と仰ぐ円満井座の猿楽者と天王寺の楽人と
の間には根強い結縁意識があったらしい。
秦一族は、特に東北地方の発展に大きな力を発揮していくが、このことを理解するには、
物部氏のことをまず理解しておかねばならない。秦一族は、物部守屋が蘇我蝦夷と入鹿 に
殺されてしまってから、物部一族の統括していた技術者集団を引き継いでいくのである。
3、物部守屋の死について
ところで、 蘇我馬子は、なぜ物部守屋を殺したのか? 今まで、一般に、蘇我氏と物部氏
の争いは、宗教戦争であるかの如く理解されている。つまり、仏教をめぐる蘇我稲目・物
部尾輿の対立は、そのまま子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越されて遂に爆発、そのような
理解が一般的であるが、谷川健一はそういう一般的認識に異議を唱えている。谷川健一
は、「四天王寺の鷹」の中で、蘇我馬子の守屋殺戮の目的は、「
膨大な財産を手に入れ
るため 」だと語っている。これは、 蘇我馬子の妻は守屋の妹、その彼女の悪知恵にもと
づくものらしいが、ともかく蘇我氏は物部氏の莫大な財産を手に入れた。
その後、蘇我
蝦夷の時代になるが、上の宮門(みかど)は蝦夷の家、谷(はざま)の宮門は蝦夷の子・
入鹿の家であり、蘇我蝦夷は天皇になったつもりであったらしい。さらに、蘇我馬子は、
守屋だけでなく、遂に、崇峻天皇(聖徳太子の子・山背大兄王が天皇になった)をも暗殺
してしまうのである。そういった蘇我氏の傍若無人の振る舞いは歴史上特筆すべきことで
あると思うが、それらの蘇我氏の一連の動きについては、谷川健一の「四天王寺の鷹」に
詳しく語られているので、是非、「四天王寺の鷹」をじっくり読んでもらいたい。
では、そのことの他に、谷川健一は「四天王寺の鷹」の中で、物部氏のことについて、日
本の歴史を考える上で非常に参考になる事柄をいくつか記述しているので、その要点を以
下に紹介しておきたい。彼は、こう述べている。すなわち、
『 田原本町は秦氏の芸能の拠点。そこに物部守屋が敗亡の後、その子の物部雄君連公が
ひそかに逃げてきて、室屋(村屋)に隠れた。また、ここには物部神社がある。これらの
ことから、物部氏と秦氏の浅からぬ関係が伺える。物部氏は筑後に起こった極めて古い豪
族である。』
『 物部氏は、弥生時代の中期、倭国大乱の時期に、筑後から瀬戸内を通り、大和に東遷
した。水間、水沼、水間、味間(みま、あじま、うましま)という地名は、物部氏ゆかり
の地である。奈良市水間町(水間氏の拠点)の八幡神社の翁舞という神事。この神社の神
は応神天皇と宇麻間遅命だが、もともとは宇麻間遅命(物部氏の祖神)。』
『 滋賀県守山市:近江猿楽の一つの守山猿楽。守山市勝部(旧勝部村):古代に物部氏
族の勝部が居住したところ。勝部神社。守山猿楽と春日神社、興福寺。近江は秦氏の有力
な根拠地であったから、かって物部氏と秦氏の間になにがしかの関連があったと思われ
る。
『 大阪府八尾市跡部は阿都(あと)大連の領地だが、そこに守屋の別荘があった。物部
一族はいちどそこに避難したのち、全国に逃げ延びていった。阿都氏は、大和川の水運を
支配していた一族。「旧事本紀」に出てくる天磐船の「船長跡部首等祖天津羽原、梶取阿
刀造等大麻良」に見るごとく、阿都氏は、もともと海人族である。阿都氏は物部氏と同
族。』
『 日本各地の守屋姓を名乗るもので、守屋の子孫と称するものは少なくない。諏訪大社
の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だという説がある。』
『 物部一族の残党と名乗る人びとが東北北端の地に、かっての先祖の栄光を忘れずに生
きていた。』・・・と。
4、おわりに
谷川健一は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だとほのめかしている。彼は断定
はしていないのだが、私は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だと断定したい。
それを書いたのが次の節である。谷川健一の「四天王寺の鷹」と私の「諏訪大社の柱とソ
ソウ神」は、対になっていて、私としては、是非、「諏訪大社の柱とソソウ神」もじっく
り読んでいただきたい。
谷川健一は、また、「物部一族の残党と名乗る人びとが東北北端の地に、かっての先祖の
栄光を忘れずに生きていた。」と述べているが、彼はそれをあまり説明していない。残念
である。そこで、私は、第1節の補筆として、安東氏のことを少し書いておきたい。
私は、冒頭で「 ハイデガーの言う過在ということである。過ぎ去ったかに見えても、そ
の名残りみたいなものが現在に在る。それが過在である」と述べた。 谷川健一は、「四
天王寺の鷹」の中で、「秦姓の舞」と呼ばれる四天王寺の舞楽は現在の聖霊会に生きてい
る、と述べているが、秦河勝の精神は永遠に過在なのかもしれない。
補筆1、安東氏について
神話にしろ民話や伝承にしろ、はたまた家系図など旧家に残された文献にしろ、それをそ
のまま信じるのではなく、その中に少しでも真実が隠されていないか、それを探究する学
問的態度が肝要である。東日外三郡誌もそうだ。これについては、おおむね偽書であると
いうことになっているが、その中に真実が隠されていないか?私は、今ここで、その点に
ついて考えて見たい。
まず最初に取り上げたいのは、東日外三郡誌の中に記述されている「興国の大津波」につ
いてである。
東北大学理学部地質学古生物学教室の箕浦幸治教授らの「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り
立ち」という論文(1990年の日本地質学会の地質学論集
)によると、「湖とその周
辺での詳細な試 錐調査により、十三湖の歴史の大部分が内湾の環境下で作られ、 現在見
られる閉塞性の強い湖の状況は、浜堤状砂丘の発達によりもたらされたという事実が明ら
かとなった。十三湖の周辺には過去度々津波が押し寄せた経緯が有り、650年前に発生
した巨大津波による海浜砂州の出現によって、十三湖は最終的に閉塞湖となった。」・・
ということが論述されている。津軽地方に江戸時代に伝承されていた都市、十三湊やそこ
を襲った大津波も以前は史実としては疑 問視されていたが、発掘調査や堆積物の調査が進
められるに連れていずれもが事実であったことが明らかになってきたようだ。
私が今ここでまず申し上げたいのはこの点である。
では、次に安東水軍の問題に移ろう。大正時代に喜田貞吉というすばらしい学者がいた。
彼は、長い間京都大学の教授を務め、東北大学に国史学研究室ができた翌年(大正12
年)に東北大学に移籍し、同研究室の基礎を築くとともに、東北地方の古代史や考古学の
研究に没頭した。その一つの資料として、一般人向けに書かれた「本州における蝦夷の末
路」(1928年12月、東北文化研究第一巻第四号)という資料がある。それが青空文
庫から出ているので、それをここに紹介しておく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html
私は、
安東水軍というものが実際に存在したと思う。日本海においては、すでに縄文時
代に三内丸山や北海道南部にとどまらず朝鮮半島まで、翡翠の海上輸送が日本列島スケー
ルで行われていた事は確実である。さらに、旧石器時代から黒曜石に関わる「海の道」と
いうものが存在した。このような歴史認識から、安東水軍の実在を思うのは私の歴史的直
観による。喜田貞吉の考えを裏打ちするものはなにも持ち合わせていないが、喜田貞吉の
説は信じて良いものと思う。かって、青森県の公共団体が、『東日流外三郡誌』の記載に
もとづき、安東氏の活躍を村おこしに繋げようとしたことがあったが、反対が多くて取り
やめになったらしい。とんでもないことだ。事実はどうであっても、ともかく伝承があっ
て、それにもとづいて村おこしをやる事も結構かと思うが、ましてや安東氏の活躍という
のは史実であるから、安東氏の活躍を村おこしに繋げるべきなのだ。現在でも青森県教育
庁発行の資料などでは「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった
『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着してい
る。」と記載されるなど、偽書であるとの認識が一般的になっていることは誠に残念な事
だ。
喜田貞吉が言うように、 安東氏は自ら蝦夷の後裔であり、その先祖は長髄彦(ながすね
ひこ)の兄・安日(あび)である。私は、長髄彦(ながすねひこ)は殺されたかもしれな
いが、その一族は東北地方に落ち延びていったと思うので、安東氏の始祖を長髄彦(なが
すねひこ)としても、あながち間違いではないと思う。
第2節「諏訪大社の柱とソソウ神」
谷川健一は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だとほのめかしている。彼は断定
はしていないのだが、私は、諏訪大社の洩矢神(守矢神)も守屋の子孫だと断定したい。
それを書いたのがこの第2節である。まず諏訪大社の
に迫っていきたい。
1、 御柱祭り
諏訪大社といえば、世間に知られているのは、何といっても「御柱祭」である。
日本三大祭りは京都「祇園祭」、大阪「天神祭」は衆目の一致する所ですが、3つめは東
京「神田祭」の支持者が多い。東北なら3大七夕の一つ「ねぶた祭」入れる人もいるし、
九州に行けば「博多どんたく」を入れる人もいる。「長崎くんち」を入れる人もいる。し
かし、私は、命がけでやる祭という意味で、「諏訪の御柱祭」、「岸和田のだんじり
祭」、「伊庭の坂下し祭」を日本三大祭と呼んでいるし、 歴史的に古くから行われている
という点からは、「諏訪の御柱祭」、「京都の
園祭」、「胆沢のはだか祭」が日本三大
祭だ! 「諏訪の御柱祭」が日本の三大祭かどうかは別として、「諏訪の御柱祭」が天下
の奇祭であることは間違いない。
「諏訪の御柱祭」については、次を是非ご覧戴きたい。
https://www.youtube.com/watch?v=DSHeHrmu5Tc
諏訪大社の御柱祭りは、歴史的のも極めて重要である。この地方では、小規模ながらもい
たるところで同じような祭りが行われている。私の直感では、この諏訪地方の柱をおっ立
てる祭りは、歴史がまことに古く、多分、旧石器時代まで
るものと思われる。旧石器時
代の柱の祭りとは、石棒をおっ立てる祭りだ。このような信仰は、全国各地で見られる
が、特に、注目すべきは,秦一族と関係の深い人たちの信仰する宿神である。宿神につい
ては、哲学者の中沢新一の研究が卓越していて、私は,それにもとづいて現現地に赴きな
がらいろいろ勉強した事がある。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo02.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo03.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo04.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enasinko.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/enayana.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/hujido.html
中沢新一は「ミシャグチは日本の民俗学にとって、いまもなおその草創期と少しも変わる
ことなく、
にみちたロゼッタ・ストーンであり続けている。」と言っているが、ロゼッ
ト・ストーンは、1799年にナポレオン率いるフランス軍によって、エジプトのロゼッ
タ村で発見された石碑である。その石碑には、上段に象形文字、中段に古代エジプトの民
衆文字、下段に古代ギリ シャ語の3つの言葉で同じ内容が刻まれている。以後、この石
碑をもとに古代エジプトの象形文字に関する研究が進められはいるが、今なお謎に満ちて
いる。そこで、中沢新一は「謎にみちたロゼット・ストーン」という言い方をしているの
だが、ミシャグチも謎に満ちている。諏訪を中心としたミシャグチ信仰は、石棒信仰と
言っていいものだが、実は、女陰(ホト)で表わされることこともある。諏訪大社の縁起
を書いた諏方大明神画詞(えことば)というのがあり、現在、絵そのものは行方不明だ
が、言葉だけは残っている。それによると、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミ
シャグチ神、ソソウ神などの諏訪地方の土着の神々であるらしい。ソソウ神は、私のいう
「ホト神様」である。縄文時代の住居には、炉とその隅に石棒が立てかけられている事例
が少なくない。そういうところでは、家のなかで毎日のように、天の神や地の神への「祈
り」が捧げられたのである。縄文住居の炉は、女性の「ホト」でもあり、女性の象徴的聖
性を表わしていると考えている。地球の母の象徴的聖性、地の神の象徴的聖性と言っても
良い。このことについては、次に紹介する私のホームーページをご覧頂きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba04.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba07.html
小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)の中で、「火を焚
くこと、火を燃やし続けること、火を
消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体
にこそ目的があったのではないか」と述べ、火の象徴的聖性を指摘している。 火の象徴
的聖性、それが女陰(ソソ、ホト)で表現されても何の不思議もない。ミシャグチ神は
「ホト神さま」である。谷川健一の「四天王寺の鷹」でも明らかにしているように、物部
氏や秦氏の率いる技術集団のなかに鉱山師や製鉄技術者がいることは間違いないが、この
技術集団は「ホト神様」を信仰していた。秩父の宝登山は「ホト山」であり、製鉄の関係
の技術集団と関係の深い山である。宝登山の事については、私の電子書籍「女性礼賛」の
第5章「ホトの不思議な力・・・聖なるかな生殖」の第5節に詳しく書いたので、是非、
ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onna05.pdf
なお、そこにも書いたが、諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大
社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器がある。これは五行説の「金克木(きんこくもく)」
に基づいた思想で あるといわれている。火克金(火は金を克する)、金克木(金は木を
克する)、木克土(木は土を克する)、土克水(土は水を克する)、水克火(水は火を克
する)というが、克(こく)するの意味は、制御するという意味である。つまり金気であ
る鉄鎌を、木気である木に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめよう
という呪法なのだ。 南信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付
け、軒先につるす風習があったという。法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪
大社で製鉄された鎌が起源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
ここで皆さんに申し上げたい大事な事は、諏訪大社が古代製鉄と関係があるという事もさ
ることながら、諏訪で作られた鉄製品・鎌が法隆寺の護りに使われているという事だ。何
故、法隆寺と諏訪が結びついているのか? その疑問を解く鍵は、秦氏の存在にある。梅
原猛の「隠された十字架」で明らかにされているように、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂
するための寺であり、谷川健一の「四天王寺の鷹」で明らかにされているように、法隆寺
は秦氏がその建設に携わった。そして、秦氏は、物部氏を引き継いで、諏訪の製鉄技術者
集団を統括していた。これらの事を考えると、法隆寺と諏訪が深く結びついていたと考え
ても何の不思議もない。当然だろう。
永承6年(1051年)、前九年の役に出陣する源頼義は園城寺の新羅明神に戦勝祈願をし、
息子義光は「新羅三郎義光」と名乗ったほど「新羅明神」の信仰をが厚かった。秦氏本拠
地香春の神は新羅神であった。秦氏は新羅経由の渡来人であったので、もともと秦氏の信
仰した神は新羅神であったのである。八幡神と秦氏との関係が表面化してくるのは応神天
皇に秦氏が仕え始めてからである。源氏が八幡神を信仰するのは、源氏が秦一族であると
いうことだが、新羅三郎義光は、八幡神を信仰するとともに、秦氏の本来の神・新羅明神
を信仰するのである。なお、新羅三郎義光については、次を参照して欲しい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sinra.html
なお、園城寺は、比叡山延暦寺の寺門派の総本山であるが、そもそも最澄が新羅系であ
り、慈覚大師円仁も新羅との関係が深い。新羅明神のことについては、次の参照して欲し
い。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/heian1.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/heian2.html
なお、京都太秦の広隆寺は秦河勝創建の寺であるが、ここの奇祭「牛祭り」は新羅系の祭
りであり、新羅との関係の深い慈覚大師円仁の始めた祭りである。
2、柱とホト神さま
「諏訪の御柱祭」の歴史をたどるためにキーワードは、旧石器時代の「柱とホト神さま」
に対する信仰である。その諏訪大社の主神「ソソウ神」を知って、慈覚大師円仁は、後戸
の神「摩多羅神」を考え出した。そして、東北地方における天台宗の中核寺院として中尊
寺を建立した。そして、その頃、胆沢方面にも出かけて、黒石寺を建立し、「はだか祭」
を東北の英雄・アテルイとモエの鎮魂の為に考え出したのではないかと、私は考えてい
る。諏訪地方と東北地方に共通するキーワードは、かって物部氏が統括していた探鉱と金
属の製錬に関わる技術者集団である。その後、物部氏が蘇我氏に打ち滅ぼされてからは、
秦氏がこれを統括するようになるので、これらの技術者集団には秦氏の血も混じってい
る。したがって、これらの技術者集団は新羅系の人びとでもある。慈覚大師円仁は新羅と
のご縁の深い人であるので、東北地方の人びとの心に響く教えを広めるためには、慈覚大
師ほどうってつけの人はいない。東北地方というのは、奥州藤原氏の治めていた時代、実
に平和な世界が創られていた。というのも、坂上田村麻呂がその先佃を付け、慈覚大師円
仁がそれを完成をしたのである。今ここでは以上の点だけを申し上げておいて、逐次、話
を続けていこう。
諏訪大社の縁起を書いた諏方大明神画詞(えことば)というのがあり、現在、絵そのも
のは行方不明だが、言葉だけは残っている。それによると、本来の祭神は出雲系の建御名
方ではなくミシャグチ神、ソソウ神などの諏訪地方の土着の神々であるらしい。これは
「オソソ神」すなわち「摩多羅神」であり、私のいう「ホト神さま」である。
諏訪大社の「ソソウ神」に慈覚大師円仁はお参りしたかどうか、そのことについては、確
かな事はいえないが、私は、鷲峰山法華寺がかって諏訪大社の神宮寺の中にあったこと、
また慈覚大師円仁が創建したと言われる 松原大明神(諏訪神社)が、諏訪大社を意識し
て創建されている事などを考えると、慈覚大師円仁は諏訪大社にお参りし、「ソソウ神」
が諏訪大社の古き神である事を知ったと思う。しかも、諏訪地方の縄文製鉄の技術者集団
が新羅系の秦一族と密接な関係にある事を知ったものと思う。したがって、私は、摩多羅
神なる不思議な神を「ソソウ神」として考え出したのではないかと考えるのである。摩多
羅神と秦氏とは深いところで繋がっている。
3、高師小僧
諏訪地方には御射山祭(みさやままつり)という祭りがある。御射山祭は二百十日に先
立って山上で忌籠もりをし、贄(にえ)として動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮
めて台風の無事通過を祈願するのがの目的だったという。
諏訪の神はもともと風よけの神として信仰されていた。諏訪大社には薙鎌と呼ばれる風
封じの神器がある。これは五行説の「金克木(きんこくもく)」に基づいた思想で ある
といわれている。火克金(火は金を克する)、金克木(金は木を克する)、木克土(木は
土を克する)、土克水(土は水を克する)、水克火(水は火を克する)というが、克(こ
く)するの意味は、制御するという意味である。つまり金気である鉄鎌を、木気である木
に打ち込むということは、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのだ。 南
信濃村でも、九月一日には各家で草刈り鎌を竿の竹の棒に縛り付け、軒先につるす風習が
あったという。法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌は諏訪大社で製鉄された鎌が起
源であり、鎌が風を切るという風除けのまじないである。
法隆寺五重塔の九輪の下に刺されている鎌
守矢史料館の全景 守矢史料館の薙鎌
守矢史料館の屋根に突き出した柱に、薙鎌(なぎがま)という鎌の先っぽのようなもの
が、突き刺さっている。薙鎌は、古くは魔よけ、近年では諏訪大社のご神体と考えられて
いる。諏訪大社では、御柱に選ばれた木に目印として薙鎌を打ち込むが、御柱祭の時に除
去してしまうので、諏訪大社の境内に立っている御柱に薙鎌はついていない。
法隆寺の鎌はもちろん鉄で作られており、諏訪大社の鎌は縄文製鉄で作られた。製鉄の
材料は高師小僧というが、それは上流の山々から流れ込んでくる酸化鉄が諏訪湖の葦の根
元にくっつき、大きく成長したものである。水中に入り葦の根っこを刈り取って葦を抜く
と穴の空いた竹輪みたいなものがとれる。それが高師小僧である。その遺物は豊橋市の高
師原で発掘されたので高師小僧と呼ばれている。
4、ホト神さまの現在
中沢新一が「アースダイバー」(2005年5月、講談社)で第9回桑原武夫学芸賞を
受賞した。2006年7月に京都で授賞式があったので、私も出席した。彼は言う。『 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話が語るように、頭の中にあったプログラムを実
行して世界を創造するのではなく、水中深くダイビングをしてつかんできたちっぽけな泥
を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。』・・・と。
「アースダイバー」神話が語っているような作業について、中沢新一は『 気ままな仕
事に見えるかも知れない。でも、僕の抱える中心的な問題は全部含まれる。地底から縄文
の思考を手づかみすることは、歴史の連続性を再発見すること』・・・であると言ってい
る。
そうなんだ。私たちは、その地域の「歴史と伝統・文化」の奥深くダイビングをして泥
臭い何かをつかんできて、それを材料に身体をつかって新しい世界を創造していかなけれ
ばならないのである。そのために、今、私は、「ジオパーク」と取り組んでいる。
中沢新一の「アースダイバー」に上野は花園稲荷神社の「お穴様」がでてくるので、私
は早速行ってみた。
「お穴様」には、上野公園の東京文化会館の南側の道を通って、西方向に歩いていく。
広い道に出るともうそこが花園稲荷神社の入り口である。
これが「お穴様」!
これは、狐の棲んでいた洞窟だという説明が一般的だが、違う。これは「お穴様」であ
る。何の穴かって??そりゃ決まっているでしょう。観音様ですよ! 穴観音! 立派な
祠もある。 お多福人形(講談社の「アースダイバー」より)
さて、お稲荷さんとお狐さんとの関係について少々説明しておきたい。
伏見人形の中には狐が多く見られるが、ここでお稲荷さんと狐の関りについて簡単に紹介
しておく。小林すみ江著の『人形歳時記』(一九九六年一月、オクターブ)に簡潔に説明
してあるので引用する。
この神様(宇賀之御魂命)はまた大御膳神(オオミケツノカミ)とも呼ばれるが、この
「みけつ」に誤って「三狐神」の文字をあてたこと、また稲荷の本地とされるインドの荼
枳尼天(ダキニテン)が狐に乗っていたこと、さらにはわが国にも古来狐に対する根強い
民間信仰があったことなど、多くの要素が重なり合って、あのお狐さんが稲荷の神のお使
わしめということになったらしい。
この他にも、狐の尻尾が稲穂に似ているから、稲荷山に狐が多く棲んでいたから、など
諸説がある。
さて、このお狐さんだが、お稲荷さんのお使いだから伏見人形に多く作られるのは当然
の事なのだが、その伏見人形の狐には面白い特徴を持ったものが作られていた。次に紹介
するのは、『高倉宮・曇華院跡第四次調査 平安跡研究調査報告 第十八輯』の第五節
「江戸時代」の五、「土人形」の内容である(『稲荷信仰と宗教民俗』大森恵子著)。
信仰に関するものでは、「狐」と「土鈴」が量的に多く、また多様な形を表している。
「狐」は座位で頭を横に向け、一対になるものが一般的であるが、尾を男根型につくった
ものがある。なぜ狐の尾が男根になったのであろうか。
それは「稲には繁殖させる穀霊が宿っているという信仰から、稲荷神は子授け・夫婦和合
の神としても信仰されるようになった」からだと思われる。「稲荷神は性神」でもあった
のだ。そして、稲荷神の化身動物が狐なのだ。稲荷信仰とは別に古くから性器に対する信
仰があったが、その対象である男根と狐の尾とが結びついたのだろう。稲荷信仰は五穀豊
穣を願うもので、全てのものを増殖させようとする信仰こそが稲荷信仰の源であり、その
性的な意味を具現化したのが狐の尾の男根なのである。
伏見においては、性を表現した土人形は狐ばかりではなかった。「わらい」と俗称され
た、性的な行為を表現した人形や男女の性器を型取った土細工が、明治初頭まで伏見稲荷
の参道の土産物屋や人形屋で販売されていたのである。「松茸持ち立ちお多福」「松茸持
ち居お福」「馬乗り」「子供乗りお福」「おまら大明神」など多数あったらしい。(出
典:『江戸岡場所遊女百姿』花咲一男著)
5、マダラ神はオソソの神か?
過在の典型が広隆寺の牛祭りである。この祭りにちらつくのが、マダラ神である。マダラ
神とは何者か? マダラ神とは、オソソの神である。私の電子書籍「女性礼賛」の第8章
「 摩多羅(まだら)神とエロス」の第5節に詳しく書いたので是非ご覧戴きたいが、新
羅との関係を念頭に置き、ここで、その要点を紹介しておきたい。その要点とは、摩多羅
神とは「オソソの神」であるということだ。
常行堂(じようぎようどう)というお堂のある天台系の寺院に祀られている「摩多
羅神(まだらしん)」は、仏教の守護神としては異様な姿をしている。
摩多羅神の神像図(「摩多羅神の曼陀羅」)と
いわれているものが、古くから伝えられているか
ら、まずそれをよく見てみよう。
中央には摩多羅神がいる。頭に中国風のかぶり
物をかぶり、日本風の狩衣(かりぎぬ)をまとっ
ている。手には鼓をもって、不気味な笑みをたた
えながら、これを打っている。両脇には笹の葉と
茗荷(みようが)の葉とをそれぞれ肩に担ぎなが
ら踊る、二人の童子が描かれている。この三人の
神を,笹と茗荷(みょうが)の繁(しげ)る林が
囲み、頭上には北斗七星が配置されている。この
北斗七星に是非ご注目願いたい。北斗七星は鉱山
師たちの崇める神「妙見さん」である。
この奇妙な姿をした神たちが、常行堂に祀られている阿弥陀仏のちょうど背後にあたる
暗い後戸の空間に置かれている。この背後の空間から、阿弥陀仏の仕事,つまり阿弥陀如
来の救済の働きを守護しているわけである。
さて、 新羅と密接な関係を持つ慈覚大師円仁のことであるが、彼が始めた天台密教で行
われている独特の玄旨灌頂(げんしかんじょう)という独特の儀式がある。その儀式で
は、まず師と弟子は数日前から沐浴(もくよく)し、浄衣を着て、 なぜ今玄旨灌頂(げん
しかんじょう)を行うのかを述べるなど、おごそかに始まりの儀式を行うのである。
次いで、灌頂道場の前で香を焚き、香油を塗り、口をそそいで、幣帛(へいはく。神へ
の捧げもの。本来神道の作法。)を捧げる。その後に道場に入るのである。道場内には、
正面に先に示した摩多羅神画像、左右の壁には山王七社、天台八祖の画像、十二因縁図、
十界図が掲げられる。
灌頂を受ける弟子とその師は、道場に入る時は笏(しゃく)を持ち、さらに左手に茗荷
(みょうが)を持ち、右手に竹葉を持つ。これは先の摩多羅神画像における二人の童子が
茗荷と笹の葉を持っている構図と同じである。茗荷は一心一念を象徴し、竹の葉は三千三
観を象徴しているらしい。何事も一心不乱に取り組み、その経験から直観を養い、言葉で
は言い尽くせない多くのことを悟らなければならないということであろう。
道場の真ん中には、香炉や供え物が供えられている。師は左の壇に座り、弟子は右側の
草座に控えている。師は摩多羅神の前で三礼し、法華経や般若心経を唱え、山王神や宗祖
たちに拝礼し、それぞれの弟子への口伝(こうでん)に入っていく。口伝(こうでん)は
天台密教の奥義を語る言葉であり、ここまでは誠に厳かなものだ。問題はこれからだ。
口伝の後、摩多羅神画像の三人、つまり摩多羅神本尊とその脇を固める二人の童子をた
たえる歌を歌い舞うのである。「シシリシニシ」という茗荷童子の「リシト歌」と「ソソ
ロソニソ」いう竹葉童子ノ「ロソト歌」というらしい。これが問題であって、なかなか奥
が深いのである。 玄旨灌頂(げんしかんじょう)は、先にも言ったように、 世界的という
か宇宙的というか、その名の通り深遠な内容のものである。それがこの言葉である。言葉
で言い尽くせないことを言葉で説明するにはどうすれば良いか。「リシト歌」と「ロソト
歌」を一心不乱に歌うしかないのである。「シリ」はお尻であり、「ソソ」は女性器おそ
そである。つまり、こんな卑猥な歌や舞が 玄旨灌頂(げんしかんじょう)のハイライトで
あり、師が弟子にこれが意味する宇宙の真理を伝えることがこの一派の秘伝となっている
のである。
熱海の伊豆山神社には摩多羅神の祭りがあり、こんな歌が歌われているという(あやか
しの古層の神・摩多羅神」谷川健一)。「マタラ神の祭りニヤ、マラニマイヲ舞ワシテ、
ツビニツツミヲ叩カシテ、囃(はや)セヤキンタマ、チンチャラ、チンチャラ、チンチャ
ラ、チャン」。ここに「マラ」「ツビ」は男女の性器である。
玄旨灌頂(げんしかんじょう)は、以上のように、本来、世界的というか宇宙的という
か、その名の通り深遠な内容のものである。しかし、その深遠な内容が正しく理解されて
いないとこのように卑俗な取り扱いになる。こうしたところから、 玄旨灌頂(げんしかん
じょう)は、真言密教立川流の影響もあり、性欲の積極的肯定というか性愛の秘技という
イメージが一人歩きしてしまうのである。
北斗七星とオソソを神を一体化した神である。北斗七星に対する信仰は妙見信仰であ
り、オソソに対する信仰はホト神さまに対する信仰である。その二つが今なお生きている
のが、例えば秩父である。秩父夜祭りの源流には妙見信仰があり、宝登山信仰の源流には
ホト神さまがある。これらはすべて鉱山師ないし製鉄技術集団の信仰である。その集団を
率いているのが、秦氏である。秩父の夜祭りは、広隆寺の牛祭りとともに、過在の典型で
ある。これを詳しく調べていくと、秦氏や物部氏に
り着く。
6、黒曜石の道、翡翠の道
岡谷市の梨久保遺跡からは翡翠や琥珀など、遠方から運ばれた希少品が多く出土してい
る。これら翡翠や琥珀は黒耀石の交易によってもたらされたと考えられている。
私は、諏訪というところを、岡谷や茅野なども含めて、広義の意味で定義しているが、広
義の意味の諏訪は、旧石器時代からの交通結節点で、上述したように西日本に向かう山の
道の他に、日本海に向かう道と太平洋に向かう道があった。日本海に向かう道は、松本か
ら姫川沿いに糸魚川に至る道と現在の長野市周辺地域(飯綱高原や野尻湖など)に至る道
があった。諏訪と飯綱高原や野尻湖のことについては、私のホームページがあるので、こ
こに紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/usoinada.pdf
私は、旧石器時代は、特殊な場合を除き、一般的には遊動生活をしていて、一カ所に定住
するということはなかったので、渡し船は一般的には存在しなかったと考えている。した
がって、大きな川は上流部まで遡らないと向こう岸には渡れなかった。どこで渡ったかは
判らないが、梓川や犀川をとにかく渡れたということの事実は大きな意味を持っているの
である。梓川や犀川は、旧石器時代においても交流の支障にはなっていなかった。上が屋
遺跡のある飯綱高原と野尻湖の間には大きな川はないので、諏訪湖周辺の旧石器人が飯綱
高原や野尻湖には自由に行き来できたと考えてよい。
太平洋に向かう道は、高遠からまっすぐに南下し、遠山から水窪に至ったのち、遠州の森
に抜けるのである。
遠山というところは、誠に歴史の古いところで、日本文化の故郷みたいな側面がある。ま
ず、諏訪との関係でいえば、遠山にも諏訪と同じ御射山祭がある。また、遠山には、「湯
立て祭」という重要無形民俗文化財がある。これは、
清和天皇の貞観年中(859∼876)
に宮廷で行われていた祭事を模した湯立が、ほぼ原形のままで伝承されていると言われて
いる。また、南北朝時代の頃、藤原氏が遠山に落ち延びてきたという伝承があり、その
際、天皇を連れてきたという。それを裏打ちするように、遠山郷の此田(このた)地区の
氏神 は、都から逃れて一時住んでいたと伝えられる、南朝第3代の長慶天皇を祭神として
いる。遠山は、合併によって、南信濃村となり、現在は飯田市である。遠山の古代文化を
伝えるホームページを紹介しておこう。
http://www.tohyamago.com/event/misayama/index.php
http://tohyamago.com/simotuki/okori/
http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/tohyamago/2008/11/
遠州の森は、「森の石松」で知っている方も多いかと思うが、二級河川太田川の上流に当
たり、遠州の平野部とは舟運で繋がっていた。この遠州と南信との繋がりは、駒ヶ根は光
前寺の霊犬・早太郎伝説が如実にそれを物語っている。実は、森というところは、歴史の
誠に古いところで、近くに遠州の一宮・小国神社(おくにじんじゃ)があり、その奥の院
は秋葉神社を経て水窪に抜ける山の道である。
以上述べてきたように、諏訪というところは、古代から交通の大結節点であり、「翡翠の
道」の幹線が糸魚川と諏訪とを繋いでいたのである。糸魚川の翡翠は、関東地方はもちろ
ん、尾張や美濃方面、遠州方面にも諏訪から運ばれていったと考えられるのである。
(1)黒曜石の道
私は、今までに旧石器時代に黒曜石がどのように運ばれたかということについて考えてき
た。黒曜石についていろいろと勉強をし、「黒曜石の七不思議」と題して一連の問題を取
り上げた 第5の不思議は「湧別技法集団は北海道から日本列島のどこを通って南下して
いったか」 であった。この不思議を考えながら学んだことは、旧石器時代の道について
である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kikitake.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/araya.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/karaB.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi04.html
そして「黒曜石の道」について私なりの考えがまとまったと思っている。 その結果、日本
列島の東半分ではあるけれど、主たる黒曜石の道は、次のようなものであったと考えてい
る。
旧石器時代から縄文時代にかけて、黒曜石の道の結節点は、長野県は八ヶ岳の東方、野辺
山であった。八ヶ岳の黒曜石は、和田峠の黒曜石が有名であるが、八ヶ岳にはその他多く
の黒曜石の採掘地がある。それら八ヶ岳の黒曜石はすべて野辺山で加工され全国各地に運
ばれていった。神津島の黒曜石も、野辺山で加工され全国各地に運ばれていったのであ
る。野辺山は、黒曜石を語る時、欠くことのできない大事な場所である。その野辺山につ
いては、私のホームページがあるので、それを紹介しておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nobeyama.html
まず神津島から野辺山に至る黒曜石の道を説明する。神津島からアタ族の大拠点熱海を経
て江ノ島に至る。江ノ島から境川を
上し八王子に至る。八王子で分岐し相模川の河岸段
丘を野辺山に向かうのである。野辺山で加工された細石刃などは、野辺山から逆コースで
八王子まで運ばれてくるが、八王子からは、多摩川の左右岸を通って、武蔵野台地や相模
野台地に運ばれていったのである。
野辺山から西日本へは、諏訪を経由して天竜川の右岸を南下し、南箕輪村はかの有名な御
子柴遺跡のあるところから、中央アルプスの権兵衛峠を越える。権兵衛峠については、私
のホームページに少し出てくるので、次にそのホームページを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mikosi03.html
権兵衛峠を越えれば木曽福島の辺りに出るが、そこからは御嶽山麓の南側を通り、長良川
流域に至る。長良川流域の右岸を南下し、美濃の南宮付近を通って琵琶湖の湖岸に至るの
である。はるか時代は下がって弥生時代になると、琵琶湖周辺に豪族がひしめくように誕
生し、やがて晩期には、近江に邪馬台国が誕生する。それらのことを想うと、私は、歴史
の連続性というものを強く感じるのである。
さて、野辺山から東北に向かう黒曜石の道は次のとおりである。
まず、野辺山のすぐ東側に隣接して長野県川上村がある。そこは黒曜石遺跡の多いところ
で、ここが東北に向かう黒曜石の道の出発地と考えてもいいぐらいのところだ。川上村か
ら秩父山地は十文字峠に至る。十文字峠から長尾根を下れば、秩父だし、尾根筋を北に向
かえば、長野県は浅間山の南麓佐久に至る。佐久からは、上田を経て、真田幸村発祥の地
真田郷から菅平に至るのである。菅平からは、また枝分かれして、分岐した黒曜石の道は
吾妻川流域を下って、利根川流域に至るのである。そして、黒曜石の道は赤城山麓に向か
う。赤城山麓は、ご承知のように、かの岩宿遺跡をはじめ、旧石器時代と縄文時代の遺跡
の宝庫である。
さて、黒曜石の道の本線は、菅平から信濃川の右岸、つまり南側を通って新潟県津南町に
至る。津南町は、旧石器時代と縄文時代の遺跡の宝庫であり、そこから荒谷遺跡は目と鼻
の先である。荒谷遺跡は、魚野川が信濃川に合流する越後川口にある。黒曜石の加工技術
には、細石刃を作る湧別技法と彫器を作る荒屋技法という二つの異なった技術がある。湧
別技法集団と荒屋技法集団は、ともにそのルーツをモンゴルとし、つかず離れずの関係を
保ちながら、日本列島を南下していった。そして、新潟県の川口に日本を代表する誠に貴
重な大遺跡を残したのである。そして彼らは、遂に、野辺山にやってきたのである。上述
の野辺山は、実は、黒曜石の加工をもっぱら行ったところではあるが、八ヶ岳周辺の中心
聚落は、諏訪であり、諏訪を中心として縄文文化が栄え、かの有名は縄文のビーナスを残
すのである。野辺山は、多分、諏訪の支配下にあったのであろう。
阿賀野川の中流、新潟県の福島県との県境に近いところに、津川町、今は合併して阿賀町
になっているが、旧津川町に世界はじめての土器が出土した考古学では最重要の遺跡があ
る。小瀬が沢洞窟と室谷洞窟という二つの洞窟遺跡だが、名前が覚えにくいかと思うの
で、ここでは、津川遺跡と呼ぶこととする。
さて、この遺跡調査に執念を燃やした中村孝三郎という新潟の生んだ素晴らしい考古学者
がいる。縄文文化の最高権威である小林達雄は中村孝三郎の流れを
む。その中村孝三郎
をして発奮させたのが、津南町の遺跡である。
今、黒曜石の道と関係のない話をしているようであるが、そうではない。津南町と荒谷遺
跡と津川遺跡とを繋ぐ道が黒曜石の道なのである。それをこれから説明しよう。
実は、津川遺跡には、北海道は白滝の黒曜石だけでなく、神津島の黒曜石が運ばれてい
た。ここに黒曜石の道がある。通っていたのは間違いがない。すなわち、黒曜石の道は、
津南町から越後川口を経て、津川に繋がっていたのである。そこで問題なのは、越後川口
からどこをどう通って津川に行ったのかということである。こういうのは、よほど山の経
験のある人でないと判らないであろう。私は、それほど山の経験があるわけではないけれ
ど、それなりの直観力でもって、多分、小出から山古志村を経て、現在の「六十里越え」
あたりに出て、浅草山から御神楽岳に至る尾根筋を通ったのではないかと思われる。ある
いは、只見川の河岸段丘を通ったかもしれないし、阿賀川筋に会津盆地に出て津川に行っ
たかもしれない。いずれにしろ、黒曜石の道は、山古志村から津川に通じていたのであ
る。津川というところは、新潟平野と会津盆地と秋田方面に向かう交通結節点てあった。
秋田方面に向かう本線は、会津、米沢、山形、新庄、湯沢、横手、鹿角、黒石を経て、三
内丸山に至る。これはイザベラバードが通った道とおおむね同じである。その間特に難所
というところはない。
なお、イザベラバードは、いわゆる日光街道を歩いて、会津に入るが、当時は阿賀野川の
舟運が盛んであったので、舟で港町津川に赴き、津川にしばらく滞在して執筆にいそしん
だようだ。津川のことについては、私の次のホームページに詳しく出てくるので、それを
ここに紹介しておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyokigen2.html
以上が東日本の黒曜石の道である。日本列島を貫く黒曜石の道は、縄文時代を通じて、大
いに使われたのではないかと思う。
なお、念のため申し上げておくと、西日本における黒曜石の道は、これという難所はな
い。旧石器時代に北海道は白滝の黒曜石が鳥取県人形峠まで運ばれている。今まで申し上
げてきたことは、おおむね旧石器時代のことであり、縄文時代の三内丸山の時代になる
と、交易の発達により、翡翠の道もふくめ、陸上より海上交通が主流となる。
(2)翡翠の道
糸魚川市に近い新潟県境に境A遺跡(富山県朝日町)というのがある。
ここの遺跡調査については、昭和59・60年、北陸自動車道建設に先立って、県教育委員
会が実施した。その結果、極めて重要なことが判った。境A遺跡は、硬玉原石の集散地で
あり、加工を行っていた拠点集落である。数千点にもおよぶ原石、加工途中の未製品が出
土している。完成品は交易で他所へ運ばれたらしく余り出土していない。そういうことが
判明したのである。
発掘調査によって出土した遺物のうち、硬玉(ヒスイ)を中心とする玉類製作関係遺物、
蛇紋岩を用いた磨製石斧製作関係遺物、縄文土器、石器類など2,432点が、平成11年6
月に、国の重要文化財に指定された。この遺跡については、富山県埋蔵文化センターの
ホームページがよく判るので、ここに紹介しておきたい。
http://www.pref.toyama.jp/branches/3041/sakai-a-top.htm
糸魚川市の姫川の流域には、蛇紋岩中に構造岩塊として含まれていたヒスイの産地があ
り、現在確認されている日本全国の縄文時代早期から奈良時代の遺跡から発見されている
ヒスイ製大珠や勾玉などの装身具の原料は、この川の流域や西方にある青海川流域、およ
び新潟県糸魚川市大和川海岸から富山県下新川郡朝日町宮崎海岸にかけての日本海沿岸で
採取されたヒスイを用いて加工されたものであると考えられている。その加工について
は、どこで加工されたものか、その場所が判らなかったのだけれど、境A遺跡の発掘調査
で、その場所がはっきりしたのである。そのことの意義は極めて大きく、その意義を強調
しても強調し過ぎることはけっしてないほどだ。
姫川といえば、私などは蒲原沢川の土石流災害を思い出すが、本来は、ロマンチックな川
である。つまり、古事記には、糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫(ぬなかわ
ひめ)に大国主命が出雲から求婚しに来たという神話が残されており、この奴奈川姫が姫
川の名の由来とされるからだ。現在糸魚川市は、世界ジオパークに指定され、世界的な観
光地になっているが、それも 姫川のお蔭だ。
糸魚川市の海望公園にある沼河比売(奴奈川姫)と建御名方命の像
奴奈川姫(ぬなかわひめ)は古事記や出雲風土記などに登場する高志国(現在の福井県か
ら新潟県)の姫であると言われている。奴奈川姫を祭る神社が糸魚川・西
頚城地方に多
く、また、考古学的資料にも恵まれていること、さらには万葉集の記述にある「沼名河の
底なる玉・・・」との関係をみても、
奴奈川姫は神秘的であり、姫にまつわる伝説がこ
の地方に多いのもたいへん興味深い。
青海町黒姫山の東麓に「福来口(ふくがくち)」という大鍾乳洞がある。ここに大昔、奴
奈川姫が住んでおり、機(はた)を織っては、洞穴から流れ出る川でその布をさらした。
それでこの川を「布川(ぬのかわ)」という。
この福来口から二里ばかりの所に「船庭の池」がある。これは姫の船遊をされた所だと
いう。又今井村字今村との境に「東姥(うば)が懐(ふところ)」「西姥が懐」という地
がある。ここは姫を育てた乳母の住んだ所だという。
黒姫山頂には姫を祀(まつ)った石祠(いしぼこら)があり、毎年四月二十四日の祭に
は多勢が登山する。その際不浄な物を身につければ上られぬという。青海町字田海(とう
み)には、この石祠の拝殿、山添(やまぞえ)社がある。渇水や霖雨(りんう)の時は祈
願をする。
のちほど第11章で述べるように、魏志倭人伝に出てくる最後の奴国は、古事記や出雲
風土記などに登場する高志国かどうかは別として、ともかく糸魚川を中心とした地域のこ
とである。上述のように、この地方では、翡翠を加工し、それを交易することで栄えてい
たのである。また、奴奈川姫は、祭祀をも司りシャーマンでもあった。ただし、その祭祀
の仕方はおそらく卑弥呼のそれとは異なっていたであろう。というのは、奴奈川姫の祭祀
道具は、翡翠であると考えられるからである。「日本人なら知っておきたい神道」(武光
誠、2003年6月、河出書房)によれば、勾玉というものは次のようなものであったら
しい。
古代人は円形という完全な形をあらわす玉を「たましい(霊魂)」=精霊を象徴するもの
と考えた。精霊は私欲を持
たず常にまるくかたよりがない。人間は私欲をもち霊魂の形
がついかたよったものになる。そこで古代人は霊魂の形を表す玉類を身につけ時々それを
眺めるこ とによつて自分の霊魂をまるい形に保つよう心がけた。よって、装身具として玉
類がつくられそれを身につけてまるい心で生活すれば多くの精霊の助けを得られ
ると考
えていた。なかでも巴型の勾玉はまるい霊魂が飛び回っている姿をあらわすもので特にこ
れが重んじられた。武光誠はこのように考えているのだが、勾玉はどうもそういうものら
しい。皇室の三種の神器のひとつ八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)は糸魚川翡翠の大珠
だそうで、翡翠の霊力の強さはこんなことからも伺える。
さて、以下、翡翠の道について述べることとする。
縄文時代からすでに日本海には海上の翡翠の道があった。三内丸山には、大量の翡翠が運
び込まれており、どうも交易が活発に行われていたようである。そこで、縄文時代の交易
について、少し考えてみよう。例えば、交易商人が糸魚川から翡翠を大量に三内丸山に運
んだとする。三内丸山には、各地からさまざまな商品が集まってきているので、翡翠の道
を帰る途中で売れそうなものを翡翠との物々交換で入手する。それらを糸魚川まで運んで
いくか、それとも途中で他の商品と交換しながら糸魚川まで戻るかは別として、各地域の
特産品が広範囲に交換されていたのではないか。翡翠は貴重品であり、各地の豪族はこ
ぞって翡翠を欲しがったのでかないか。交易に使われた各地域の特産品はどのようなもの
であったのかは、よくわかっていないけれど、私は,各地域にさまざまな商人がいて、各
地域の特産品が活発に取り引きされていたものと考えている。さまざまな商人の中でも、
翡翠を取り扱うような商人は、相当の権力とネットワーク組織をもっていたのではない
か。私はそう考える。したがって、私は,翡翠の道を思う時、翡翠の道で活躍する大商人
の存在を前提に、広範囲なネットワーク組織というものを考えねばならないと考える。邪
馬台国の卑弥呼は、魏の皇帝に翡翠を献上しているが、糸魚川の翡翠はそれ以前にも朝鮮
半島に運ばれているので、倭国の大商人は、大陸の大商人ともそれなりの繋がりを持って
いたと思う。倭国のそういう大商人のネットワーク組織がいくつあったか判らないが、そ
ういう大商人を統括していた政治権力者がいたに違いない。私は、そういう権力者として
物部氏を想定している。その後、物部氏から秦氏に移るが、秦一族は、政治権力から完全
に離れて、大商人に溶け込んていく。そして、最終的には、藤原氏の支配を甘んじて受
け、専ら金などの鉱物資源の開発とその交易に生きることになる。これは、ものすごく利
巧な選択であったと思う。だから、秦一族と物部一族は、近世に至るまで、特殊な技術集
団として、生き続けるのである。
以上が、翡翠の道と黒曜石の道の背景にある歴史的な事実であると思う。そういう歴史的
認識を持たないと、古代の実態が見えてこないのではないかと思う。翡翠の勉強をすると
いうことはそういうことだ。
次に、糸魚川と諏訪の関係について少し話をしておきたい。
塩の道というのは、全国いくつかあるが、「塩の道・千国街道」が有名である。「塩の
道・千国街道」は、新潟県糸魚川から長野県松本まで(約130km)の旧道である。
フォッサマグナ、これは日本列島における糸魚川・静岡構造線のことだが、「塩の道・千
国街道」はこの中を通っている。「千国街道」は、歴史的にいえば、もともと、旧石器時
代、長野県和田峠の黒曜石が運ばれた「黒曜石に道」であると同時に糸魚川の翡翠が運ば
れた「翡翠の道」でもある。また、古事記によれば、大国主命(おおくにぬしのみこと)
と奴奈川姫(ぬながわひめ)の子、建御名方命(たけみなかたのみこと)が出雲国(いず
ものくに)から逃げて諏訪に行ったのも、この道を使ったと考えられている。
さらに、安曇野の安曇族は、もともと北九州を根拠地とした海女(あま)をひきいる豪族
で、古事記にその名が見えるが、この一族も、日本海を北上して糸魚川から安曇地方に
入ったと考えられているので、「塩の道・千国街道」の歴史は誠に古い。
私は、このフォッサマグナの中を通る道を総称して「翡翠の道」と呼ぶことにする。安曇
野の「翡翠の道」は、糸魚川から出発する道である。「翡翠の道」は、陸上の場合、糸魚
川から出発して、諏訪に至り、それから先は、(1)で説明した「黒曜石の道」を参考に
内陸部における翡翠の交通を考えてもらえば良い。日本列島の内陸部の「道」は、旧石器
時代の「黒曜石の道」から始まって、縄文時代になると、基本的にはそれを踏襲しつつも
渡し船の発達によって新たな「道」が発達する。そして、縄文時代に発達した「道」がそ
のまま弥生時代や古墳時代に受け継がれていく。しかし、弥生時代や古墳時代になると、
水運が縄文時代よりもさらに発達するので、「翡翠の道」はについては、「山の道」や
「野の道」の他に、「海の道」や「湖沼の道」や「川の道」の発達というものも視野に入
れなければならない。琵琶湖の水運と日本海や太平洋の水運は、おおむね弥生時代や古墳
時代に発達し、近世に引き継がれていく。縄文時代から、日本海における「翡翠の道」は
「海の道」であり、これが「翡翠の道」の本命であることは上述した。「翡翠の道」は、
古代史を考える上で、一つの大きな要素である。その経過地点の豪族が関係しているから
である。
糸魚川の翡翠が盛んに加工されて装飾品として交易されたのは,富山県の朝日町で最近発
掘された境A遺跡の大工房ができてからである。弥生時代の中期のことである。弥生時代
から古墳時代の
交易において、翡翠はまあいうなれば通貨の代わりをしたようだ。私
は、各地の豪族がこぞって手に入れようとしたと考えている。その中でか注目すべきは,
滋賀県彦根市の豪族と大阪府は摂津地方の豪族である。これらの地域に至る翡翠の道は、
日本海から琵琶湖、そして宇治川から淀川に至る、主として水運の道である。彦根と摂津
には、翡翠の集散地があって、そこから翡翠の道は、全国各地に分岐していったのではな
いか? あるいは、摂津に勝る一大集散地が大阪湾の何処かにあったかもしれない。いず
れにしろ、糸魚川の翡翠は、琵琶湖から尾張を経て東日本へ、また琵琶湖から大阪湾を経
て西日本へ運ばれていったのではないか。
なお、琵琶湖から大和に翡翠が運ばれた道は、宇治川から木津に至るルートと瀬田川から
和束町を経て奈良に至るルートがあったようだ。和束町からは少し南下すれば笠置に出
る。笠置から枝分かれして、名張川を下って木津に至るルートと、名張川を
って月ヶ瀬
から天理に至るルート、この二つのルートがあったらしい。天理は、物部氏の本拠地であ
る。私は,瀬田川、和束町、笠置、柳生、天理というルートがメインルートであったと思
う。これを天理ルートと呼ぼう。天理ルートは、物部氏の直轄地であり、前ヤマトの時代
から利用された幹線であったと思う次第である。この天理ルートの沿道には、安積親王の
墓、金胎寺、笠置寺などの日本の歴史上欠くことのできない重要な史跡が多く、恭仁京も
近い。この天理ルートが弥生時代の「翡翠の道」であったことは間違いないであろう。
7、建御名方命(たけみなかのかみ)
記紀の日本建国神話によると、『 建御雷神(たけみみかづちのかみ)が大国主神に葦原
中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が
承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力く
らべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出
し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を
殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、
服従した。』・・・とある。
建御名方神は、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に
残る。妃神は八坂刀売神とされている。
また、『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神(たけみなかたの神)は
諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされて
いる。このとき洩矢神は鉄鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これについ
ては製鉄技術の対決をあらわしているのではないかという説がある。
さあこれから、これらの神話や伝承で語られている建御名方神について、少し考えてみた
いと思う。
まず考えてみたいのは、洩矢神と建御名方神との闘いがあったかどうかである。中世・近
世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝(おおほおり)を務
めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官(神長官という職)を務めた。大
祝(おおほおり)は、古くは成年前の幼児が即位したといわれ、即位に当っての神降ろし
の力や、呪術によって神の声を聞いたり神に願い事をするよいった力は神長官のみが持つ
とされていた。これらのことから、諏訪の信仰と政治の実権は守矢氏が永く持ち続けるこ
ととなった。こうして、諏訪の地では、大祝と神長官による新しい体制が出来上がり、信
仰と政治の一体化した祭政体制は古代、中世と続く。このようなことを考えると、私は、
諏訪における伝承とは異なり、洩矢神と建御名方神との闘いはなかったのではないかと思
われる。考えても見てほしい。諏訪における信仰と政治の一体化した祭政体制というの
は、一種の棲み分けであり、そういう棲み分けというものは、平和的な調整によるもので
あって、誰か強力な調停者がいなければならない。だとすれば、その強力な調停者とは誰
か? それを考えねばならない。
私は、すでに「7、黒曜石の道、翡翠の道」で述べたように、翡翠を中心として、 日本列
島を胯にかけて交易を行う大商人がいたと考えており、そういう大商人を統括していた政
治権力者がいたに違いないと思っている。そして、私は、そういう権力者として物部氏を
想定している。これもすでに「3、高師小僧」で述べたように、諏訪では高師小僧を原材
料とする縄文製鉄が行われていた。そして、諏訪には製鉄に関わる技術集団がいた。しか
し、諏訪地方には、砂鉄の鉱山もないし、たたら製鉄の遺跡はないので、私は建御名方神
が諏訪大社の神となってからも、諏訪では、ひきつづき高師小僧による縄文製鉄が行われ
いたのだと考えている。すなわち、出雲からたたら製鉄の技術者集団は諏訪にはやってこ
なかったのだ。諏訪地方に、縄文製鉄技術者集団とたたら製鉄技術者集団の闘いがあった
との伝承は、史実ではなく、建御名方神が出雲系の神であるということから創られた物語
に過ぎない。真相は、諏訪土着の神・洩矢神と出雲系の神・建御名方神との平和的な融合
が行われたということではないか。そして、その調停者は物部氏であった。
鹿島神宮は、もともと建御名方神を祀る物部氏の神社であったが、藤原鎌足がこれを乗っ
取って、
建御雷神(たけみみかづちのかみ)を祭神としたのである。このことについて
は、すでに第7章に書いたので、それを見ていただきたい。かの有名な梅原猛の「神々の
流竄(るざん)」に藤原鎌足の物部氏勢力の乗っ取りが詳しく書かれている。鎌足は成り
上がりものであった。鎌足の父、御食子
(みけこ)以前の、中臣氏の祖先はよく判らな
い。とにかく中臣氏は、天才政治家鎌足の時に、突然中央政界に登場し、しかも、たちま
ちに中央政治の支配者と なった。こうして成り上がった中臣氏は、古い由緒ある神社をほ
しがっていた。物部氏の残した鹿島神宮、これは東北経営の拠点でもあるのだが、その神
社の支 配権というものは霞ヶ浦湖畔の豪族である多氏が握っている。鎌足としては、多氏
を抱き込んで、何とかそれを手に入れたい。当然のことである。かくして鹿 島神宮の乗っ
取りはなり、しかも東北における物部氏の勢力はそのまま藤原氏に引き継がれることと
なった。藤原氏発展の基礎はここにあるのである。不比等は、父・鎌足の功績を正当化す
るために、出雲において建御名方神(たけみなかたのかみ)が建御雷神(たけみみかづち
のかみ)に負けて、諏訪に逃げ延びる神話を創作したのである。建御名方神(たけみなか
たのかみ)は、もともと諏訪大社の祭神であり、物部氏によって鹿島神宮の祭神に祀り上
げられていたのである。物部氏の意思は東北経営にあったのである。物部氏が没落してか
らも、物部一族は、秦一族と一体になって、安東水軍などの海人族を統括すると同時に、
東北地方の金などの鉱山開発に貢献していく。
基本的な歴史認識として、私は繰り返して申し上げるが、鎌足によって鹿 島神宮の乗っ取
りはなり、東北における物部氏の勢力はそのまま藤原氏に引き継がれることとなった。藤
原氏発展の基礎はここにあるのである。
それらの歴史認識を持つための
は「建御名方
神(たけみなかたのかみ)」が握っているのである。
8、立石寺と慈覚大師
鎌足によって鹿島神宮の乗っ取りはなり、東北における物部氏の勢力はそのまま藤原氏に
引き継がれることとなった。藤原氏発展の基礎はここにでき上がったのである。藤原氏と
しては、如何にして東北経営に立ち向かうか? それができてこそ不比等の深慮遠謀が具
体的な形として完成するのである。事実、不比等の後、藤原内麻呂という大人物が誕生
し、不比等の望みを達成する。それによって、かの藤原道長の絶頂に時代を迎えることが
できたのである。その一つの象徴が紫式部の「源氏物語」であるが、道長の絶頂ぶりを表
す歌を掲げておこう。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
(1)朝廷の東北経営の歴史
では、朝廷の、否、藤原氏のと言った方が実体を表しているのだが、朝廷の東北経営につ
いて、話を始めるとしよう。蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝
説の域を出ないとする考えもある。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、
478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。
「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さ
んせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を
征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九
十五国。」
この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知るこ
とが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、こ
れは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されてい
る。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に
広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷
開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在
の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、654年(白雉5年)に
陸奥国が設置されたが、724年(神亀元年)には国府を名取郡の広瀬川と名取川に挟まれ
た地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡の松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離
で約13km北進移転している。日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660
年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)
には越後国に出羽郡が設置され、712年(和銅5年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡
と最上郡を譲られた。この間、個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な
戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和で
あったと推定されている。
宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在
の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥
羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが、光仁天皇以降、蝦夷に
対する敵視政策が始まっている。宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討
を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる蝦夷征討の時代とな
る。この時期は、一般的には4期に分けられているが、坂上田村麻呂が活躍するのは第3期
である。延暦20年(801年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されるが、私の話は、
坂上田村麻呂に焦点を当てて、その前後の頃から始めたい。
今は仙台市だが、歴史的に有名は秋保温泉がある。その秋保の秋保神社に建御名方神(た
てみなかたしん)が祀られている。 秋保神社の元は坂上田村麻呂が創建した熊野神社が
鎮座していたと言われるが、秋保氏15代の盛房が、1513年に名取の長井氏との合戦
の戦勝を祈願して、信濃国より諏訪神社を勧請したのが始まりらしい。時代はずっと後に
なってのことだが、問題は文化の繋がりをどう考えるかということである。 何故、建御
名方神が遥か遠く離れた秋保の地に祀られているか? その答えを得るには、東北地方の
「翡翠の道」を考えねばならない。その鍵を握るのは、旧石器時代から続くところの「黒
曜石の道」である。少し詳しく説明しておこう。「黒曜石の道」というのは、すでに述べ
たけれど、諏訪から野辺山に出て、秩父山の道を歩いて、佐久に出る。そして、佐久か
ら、小諸、上田、真田、菅平、須坂、津南などを通って小出に出る。そこからが最大の難
所で、厳しい山越えをして、只見川流域に出て、会津に至るのである。実は、北海道の白
滝から日本列島を南下する「黒曜石の道」があって、それは津軽海峡を船で渡って、大
曲、湯沢、山形、会津へと向かう。そして会津からは、諏訪からの道を逆行するのであ
る。どうも会津というところは「黒曜石の道」「翡翠の道」「琥珀の道」の古代における
交通の要所であったらしい。会津の琥珀は、 会津大塚山古墳の出土品がその代表的なも
のであろう。会津から米沢を経て山形までは容易な道のりである。山形市の嶋遺跡は、
低湿地に立地する、古墳時代後期の集落跡である。これまでの発掘調査により、柱を地面
に直接打込む方式の建物跡が発見されている。出土品では、一般的な土器(土
師器・須
恵器)のほか、柱材や板材などの建築材、杵などの農耕具、弓や鐙など豊富な木製品が確
認される。また、県内でも出土例が少ない、子持勾玉(こもち
まがたま)や琥珀玉(こはく
だま)なども出土している。
今私は、「翡翠の道」を念頭に置き、会津から山形へ北上する交通を取り上げているのだ
が、会津から山形までは容易な道のりであって、山形も古くから栄えた土地であったと考
えている。交通としては、山形から分岐して、仙台に向かう道もあったであろう。その道
は、秋保(あきう)を通る。この分岐道を黒曜石の道と呼ぶわけにはいかないが、糸魚川
の翡翠がわずかではあるが、仙台市から出土しているので、山形と仙台を結ぶ「山の道」
はあったであろうと私は考えている。この「山の道」は、後世の二口街道であり、多くに
人びとの往来があった。私は、その道を歩いた事がある。二口峠辺りからの眺望はあまり
良くないが、それでも不思議な形の山が遠くに見えた。峠から南面白山に縦走できるらし
い。峠を秋保方面に下ると、渓谷に臨んで岩の屏風をめぐらせたようにそそり立つ磐司岩
(ばんじいわ)があり、大きな感動を覚えると同時に、磐司磐三郎なる東北山岳民族の主
の活躍に想いを馳せたものである。
以上述べた、黒曜石の道や「山の道」を通じて、多分、諏訪の文化が仙台方面に伝わった
ものと思う。それの先導役を務めたのが、物部系の人たち、すなわち長髄彦系の人たちで
はなかったか。坂上田村麻呂は、東北地方の人たちとうまくやっていくためには、秋保の
豪族と協力関係をもつくらなければならない、ということを知っていたのではないか。な
ぜなら、東北地方は、長髄彦系の人たち、それはその後物部系の人たちと一体化して、平
安時代には、秦一族がそれを統括していたと思われるからである。
(2)安東氏の問題
神話にしろ民話や伝承にしろ、はたまた家系図など旧家に残された文献にしろ、それをそ
のまま信じるのではなく、その中に少しでも真実が隠されていないか、それを探究する学
問的態度が肝要である。東日外三郡誌もそうだ。これについては、おおむね偽書であると
いうことになっているが、その中に真実が隠されていないか?私は、今ここで、その点に
ついて考えて見たい。
まず最初に取り上げたいのは、東日外三郡誌の中に記述されている「興国の大津波」につ
いてである。
東北大学理学部地質学古生物学教室の箕浦幸治教授らの「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り
立ち」という論文(1990年の日本地質学会の地質学論集
)によると、「湖とその周
辺での詳細な試 錐調査により、十三湖の歴史の大部分が内湾の環境下で作られ、 現在見
られる閉塞性の強い湖の状況は、浜堤状砂丘の発達によりもたらされたという事実が明ら
かとなった。十三湖の周辺には過去度々津波が押し寄せた経緯が有り、650年前に発生
した巨大津波による海浜砂州の出現によって、十三湖は最終的に閉塞湖となった。」・・
ということが論述されている。津軽地方に江戸時代に伝承されていた都市、十三湊やそこ
を襲った大津波も以前は史実としては疑 問視されていたが、発掘調査や堆積物の調査が進
められるに連れていずれもが事実であったことが明らかになってきたようだ。
私が今ここでまず申し上げたいのはこの点である。
では、次に安東水軍の問題に移ろう。大正時代に喜田貞吉というすばらしい学者がいた。
彼は、長い間京都大学の教授を務め、東北大学に国史学研究室ができた翌年(大正12
年)に東北大学に移籍し、同研究室の基礎を築くとともに、東北地方の古代史や考古学の
研究に没頭した。その一つの資料として、一般人向けに書かれた「本州における蝦夷の末
路」(1928年12月、東北文化研究第一巻第四号)という資料がある。それが青空文
庫から出ているので、それをここに紹介しておく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49820_40772.html
私は、
安東水軍というものが実際に存在したと思う。日本海においては、すでに縄文時
代に三内丸山や北海道南部にとどまらず朝鮮半島まで、翡翠の海上輸送が日本列島スケー
ルで行われていた事は確実である。さらに、旧石器時代から黒曜石に関わる「海の道」と
いうものが存在した。このような歴史認識から、安東水軍の実在を思うのは私の歴史的直
観による。喜田貞吉の考えを裏打ちするものはなにも持ち合わせていないが、喜田貞吉の
説は信じて良いものと思う。かって、青森県の公共団体が、『東日流外三郡誌』の記載に
もとづき、安東氏の活躍を村おこしに繋げようとしたことがあったが、反対が多くて取り
やめになったらしい。とんでもないことだ。事実はどうであっても、ともかく伝承があっ
て、それにもとづいて村おこしをやる事も結構かと思うが、ましてや安東氏の活躍という
のは史実であるから、安東氏の活躍を村おこしに繋げるべきなのだ。現在でも青森県教育
庁発行の資料などでは「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった
『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着してい
る。」と記載されるなど、偽書であるとの認識が一般的になっていることは誠に残念な事
だ。
喜田貞吉が言うように、 安東氏は自ら蝦夷の後裔であり、その先祖は長髄彦(ながすね
ひこ)の兄・安日(あび)である。私は、長髄彦(ながすねひこ)は殺されたかもしれな
いが、その一族は東北地方に落ち延びていったと思うので、安東氏の始祖を長髄彦(なが
すねひこ)としても、あながち間違いではないと思う。
大筋は以上の通りであるが、少し細かく見ておこう。一般的に東日外三郡誌は偽書だとさ
れているので、安東氏を長髄彦(ながすねひこ)と繋げて歴史を論考している学者は喜田
貞吉ぐらいのものであり、他の学者はすべて安東氏は安倍氏の子孫であるとしている。
平安時代末の11世紀の中頃、岩手県盛岡市のあたりに本拠地を構えていた東北地方の大
豪族に「安倍氏」がいた。源氏の二代目・源頼義(よりよし)との戦(いくさ)がはじま
る。その戦いで
戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤
崎(現在の藤崎町で弘前市の北に隣接する町。岩木川を下れば十三湊に至る、そのような
土地。)に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄
えた。だいたいこのような説明になっているかと思うが、肝心の安倍氏の祖先について
は、いろいろな説があるにしろ、まったく曖昧模糊としている。しかし、私は、東日外三
郡誌は真実を語っている部分も少なくなく、また喜田貞吉の歴史的直感力というものを信
用しているので、私は、喜田貞吉と同様に、安倍氏の始祖を長髄彦(ながすねひこ)と考
えている。しかし、長年月を経て、混血に混血を重ねた結果、安倍氏はおおむね物部一族
と同族と考えて良い。さらに言えば、秦一族も血が繋がっていたのではないかと思う。つ
まり、安東氏も、安倍氏も、奥州藤原氏も、私は、物部一族や秦一族と同族意識を持って
いたと考えているのである。
(3)立石寺について
立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大
師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)にさかのぼること
と、慈覚大師円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事
情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらにさかのぼるものと推定され
る。『立石寺記録』(立石寺文書のうち)は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あん
ね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされて
いる。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫
に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の
講師の任にあり、東国に天台宗を広める役割をしたことから、立石寺の実質的な創立者は
安慧であるとする説もある。また、慈覚大師円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年
(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置
いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある。私は、この説に賛成だ。
大和朝廷の時代、会津は大和朝廷の前線基地であった。その後、出羽の柵と多賀城の柵が
設けられるが、この山寺というところは、会津と出羽の柵と多賀城の柵を結ぶ一大交通拠
点であり、朝廷の指示で立石寺が創建された事は間違いない。その任に当たったのが慈覚
大師円仁であるが、そのバックには藤原内麻呂の次男・藤原冬継がいた。朝廷の大戦略の
もと、立石寺は創建されたのである。なお、念のために申し上げておくと、慈覚大師円仁
は新羅と実に縁の深い人であるということ、そしてまた当時の東北の技術者集団を統括し
ていたのが秦一族である。したがって、慈覚大師円仁は、藤原冬継の権力をバックに、秦
一族の力を借りることができた。東北の人びとの心をつまむには、当時、慈覚大師円仁が
最適の人物であったのである。また、延暦寺としても、東北という新たな希望の地に、天
台宗の普及を図る事は最澄の夢でもあったのだ。朝廷と天台宗が一体になって、立石寺の
建立と東北地方における人心の安定を図るために全力を投入したのである。
立石寺の建立を慈覚大師円仁に命令し、財政的にも支援したのは、時の権力者藤原冬継で
ある。藤原冬継は父・内麻呂の薫陶を受け、父を非常に尊敬しいたらしく、父の死後、そ
の追善のために、藤原氏の菩提寺・興福寺に南円堂を建立している。父・藤原内麻呂(ふ
じわら の うちまろ)は、桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いずれの天皇にも信頼され重
用された。伯父である永手の系統に代わって北家の嫡流となり、傍流ゆえに大臣になれな
かった父・真
より一階級上の右大臣に至り、平城朝∼嵯峨朝初期にかけては台閣の首班
を務めた。また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築いた不比等に匹敵す
るような人物である。若い頃より人望が厚く温和な性格で、人々は喜んでこれに従った。
仕えた代々の天皇から信頼が篤かったが、下問を受けても諂うことはなく、一方で天皇の
意に沿わない場合は敢えて諫めることはなかった。十有余年に亘って重要な政務に携わっ
たが、過失を犯すことがなかった。人々からは非常な才覚を持つ人物と評されたという。
こんな逸話が残っている。他戸親王が皇太子の時に悪意を持ち、名家の者を害そうとし
た。踏みつけたり噛みつく癖のある悪馬がいたため、親王はこの馬に内麻呂を乗せ傷つけ
ようと試みたが、悪馬は頭を低く下げたまま動こうとせず、
を打たれても一回りするの
みであったという。
なお、立石寺(山寺)については、私のホームページをご覧戴きたい。随分昔に創ったも
のであり、あまり見栄えが良くないけれど・・・・。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/risshaku.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yamadera.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/enbanji2.html
9、中尊寺と慈覚大師
中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉の文化を色濃く残すものとして、2011年6月に、毛
越寺とともに、世界遺産に登録された。浄土思想を表す建築や庭園及び考古学的遺跡群が
その登録理由になっている。つまり、平泉の浄土庭園は、アジアからもたらされた作庭概
念との交流がうかがえ、その後の仏堂・庭園に影響を与えたこと。平安時代末期約100
年にわたり独自に発展させた仏教寺院・浄土庭園は、現世における浄土を具現化したもの
であり、その文化が現代に息づいていることが評価されたのである。
さあそこでだ。そもそも浄土とは何かということである。浄土思想というものはたいへん
奥が深い。哲学的にも考えねばならないところがある。しかし、浄土について哲学的な話
をしている人は、私は中沢新一をおいて他に知らない。したがって、ここで、まず中沢新
一の「浄土論」を紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nakajyou.html
さて、浄土思想とは誰が始めたのか、ということを少し話をしておきたい。一般に、浄土
思想といえば、源信や法然や親鸞を思い出すだろう。しかし、それは違うのだ。浄土思想
の源流に慈覚大師円仁がいるのである。すなわち、浄土の思想は、慈覚大師円仁から始ま
り、元三大師、源信(げんしん)でほぼ完成し、やがて法然、親鸞へとつながっていくの
である。
浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐か
ら帰国した円仁(えんにん)の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始ま
る。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者
は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょ
う)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏として笛が用いられたという。声美しい僧たち
がかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心
な信仰者のなかには、阿弥陀の名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しう
ん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこ
う)するという、噂(うわさ)も伝えられるようになった。この比叡山は円仁によって始
まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が源信に引き継がれ極楽浄土の思
想が「往生要集」として確立するのである。この辺のことは、私のホームページがあるの
で、是非、それを見ていただきたい。宇治の恵心院から横川の恵心院を紹介しています。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
奥州藤原氏は初代が藤原清衡(きよひら)である。清衡の父は、前九年の役の最後の戦
い、現盛岡市でおこなわれた「厨川柵の戦い」で敗れて処刑された藤原経清(つねきよ)
である。経清安倍一族である。安倍一族は、前九年の役、後三年の役を通じて、源頼義や
義家と戦い、多くの戦死者を出し地獄を味わったのである。奥州藤原氏の初代・藤原清衡
(きよはら)はそれら戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興したのであ
る。この理想の世界が極楽浄土世界の建設であった。清衡(きよひら)は豊富な産金、
漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築いたの
である。
そして2代目・藤原基衡(もとひら)は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡
(ひでひら)は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立したのであ
る。こういった、奥州藤原氏の東北地方の平和を願う心がこれらの寺院にしみ込んでい
る。つまり、仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化である。平泉文化こ
そ、これからの日本の文化、否、世界文明の骨格でなければならない。そういう文化の底
流を流れるものは、喜田貞吉(きださだきち)が言うように、長髄彦、アテルイ、安倍
氏、安東氏、奥州藤原氏など、東北人の精神である。
さて、そういう想いを持ちながら、是非、平泉の世界遺産を見ていただきたい。
http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/sub/sub16.html
中尊寺は、もともとの寺は850年に慈覚大師円仁が創建し、859年に清和天皇から中
尊寺の号を得たと言われている。その後1105年に藤原清衡が堀河天皇の勅により再興
した。先に、「(3)立石寺について」で述べたように、 慈覚大師円仁が実際に東国巡
錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされているので、立石寺の場合
と同じように、誰か弟子をして中尊寺の創建に着手させたのではないか。いずれにしろ立
石寺も中尊寺も、おおむね860年頃に正式な寺院となったのではないかと思う。
平泉世界遺産の心髄は浄土思想にある。そして、浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。
中尊寺を中心とした平泉世界遺産において、私が慈覚大師円仁にこだわるのは、毛越寺の
常行堂に摩多羅神が存在するからだ。これは慈覚大師円仁の奥州藤原氏の平和主義に対す
る強い思いがないと平泉に摩多羅神なんてものが存在する訳がない。
では、中尊寺に引き続き、毛越寺の常行堂にご案内したい。
http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/20287208.html
さて、摩多羅神については、すでにこの節の「5、マダラ神はオソソの神か?」に書
いたように、摩多羅神は、「オソソの神」であり、諏訪の「ソソウ神」であるが、
私は、摩多羅神についてさらにいろいろと書いてきているので、ここで、それを是
非紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyougyou.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros12.pdf
それでは、毛越寺で行われている摩多羅神祭を紹介しておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=J096iXHBaEg
10、阿弖流為(アテルイ)と慈覚大師
私は、今まで東北の長髄彦に繋がる安東氏や奥羽藤原氏のことを述べてきた。東北の長髄
彦に繋がる偉大な人物となると、その他に、阿弖流為(あてるい)がいる。坂上田村麻呂
も偉大な人物であったが阿弖流為も偉大な人物で、お互い敵味方に分かれて戦ったけれ
ど、人間的にはお互い肝胆相照らす仲出会ったと思われ、二人に惜しみない拍手を送りた
い。ここでは阿弖流為に焦点を当て、坂上田村麻呂ではなく、慈覚大師円仁の思いを推し
量ることとしたい。
坂上田村麻呂が創建した京都の清水寺の広い境内の中に、1994年に建立された「阿弖流
為 母禮之碑」(アテルイ モレの碑)がある。これは、 「関西アテルイ・モレの会」に
よって 1994年に建立されたものであり、毎年11月の第2土曜日午前11時より、碑の
前で顕彰と慰霊供養の法要が営まれている。関西在住の岩手県人はもとより、アテルイ・
モレの故郷岩手県奥州市から市長や有志を迎えて、近年は坂上田村麻呂公生誕の伝承地福
島県田村市等からも、
多くの方々に参加しておられるそうだ。「関西アテルイ・モレの
会」では、岩手県人に関わらずアテルイ・モレに関心ある方々の参加を望んでおられるよ
うなので、是非、皆さんも出かけてみては如何でしょうか。
さて、この碑の裏に次のように書かれている。すなわち、
『 八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の
勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東 北の民を蝦夷(え
みし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:
岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(た のものきみあてるい)」は近隣の部族と連
合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも789年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果
敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。801年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて
戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に
疲弊した郷民を憂慮し、同 胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍
は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇
と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により
阿弖流為、母禮は802年8月13日河内国で処刑された。
平安建都1200年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の
顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。』・・・と。
では、清水寺の境内を見て回りたい。このホームページがお勧めです。
http://small-life.com/archives/09/04/2820.php
さて、阿弖流為の処刑は坂上田村麻呂の意に反し、当時の公家達はケシカランとお思いの
方もおられるかと思うので、その点についての私の考えを申し上げておきたい。
阿弖流為と坂上田村麻呂とは、深い友情に包まれ、強い信頼関係にあったようであり。坂
上田村麻呂が彼らを伴って、帰還した時、坂上田村麻呂は、藤原冬嗣に助命を嘆願したと
言われている。しかし、その甲斐もなく、阿弖流為と母禮は、処刑されてしまう。そこ
で、私が申し上げたいのは、藤原冬嗣の判断は当然の判断であって、東北地方の平和な世
界の構築の基礎になったということである。考えても見てください。あれだけの大きな戦
いをやったのである。大勢の人が戦死した。戦犯が出るのは当然だ。問題は、その後の戦
後処理というか、阿弖流為と母禮の霊を慰め、どのような平和な世界をつくっていくかで
ある。そこで、藤原冬嗣が考えたのが、立石寺のは建立であり、慈覚大師の力に頼ること
であった。立石寺は、当時最大の国家ブロジェクトとして建立されたのである。そのそう
責任者が慈覚大師円仁である。藤原冬嗣の何と知恵に満ちた措置であろうか。
岩手県奥州市水沢区黒石町に黒石寺という古刹がある。この寺は、その前身を東光山薬師
寺といった。 東光山薬師寺は、729年(天平1年)、東北地方初の寺院として、行基が
建立したものである。その後、嘉祥2年(849)、慈覚大師円仁が東大寺を出て錫
(しゃく)を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、石窟に座禅し、行基菩
薬師寺を石窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があること
の霊夢を感じ、
から山号を妙見山
と号して再興、四十八宇を造った。これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが
故に薬樹王院とも号したのである。
歴史的に古くから行われているという点からは、「諏訪の御柱祭」、「京都の
園祭」、
「胆沢のはだか祭」が日本三大祭だ! 諏訪大社の神は「ソソウ神」であり、
園神社の
祭神はスサノオであり、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)である。
まず、
園祭の源流を眺めておこう。「剣鉾差し」というのがあり、もっとも有名なのが
粟田神社の粟田祭は千年以上の歴史があり、剣鉾は
園祭の山鉾の原形とも言われている
ようだが、それはどうであろうか。平安時代に入り御霊(ごりょう)信仰と結びつき,貞
観11年(869年)の
園御霊会の創始の際には、神泉苑(しんせんえん)に66本の
鉾を建て疫病退散の祈願が行われたとされている。また、京都では、多くの神社で「剣鉾
差し」が行われている。これらはすべて疫病鎮めの祀りである。これらのことについて
は、次のホームページに詳しく説明されている。
http://www.kyobunka.or.jp/gaiyou/ken.html
「諏訪の御柱祭」については、すでに述べた。ここでは「胆沢の黒石寺はだか祭」の歴史
性について述べたい。「諏訪の御柱祭」の歴史をたどるためにキーワードは、旧石器時代
の「柱とホト神さま」に対する信仰である。その諏訪大社の主神「オソソ神」を知って、
慈覚大師円仁は、後戸の神「摩多羅神」を考え出した。そして、東北地方における天台宗
の中核寺院として中尊寺を建立した。そして、その頃、胆沢方面にも出かけて、黒石寺を
建立し、「はだか祭」を東北の英雄・阿弖流為と母禮の鎮魂の為に考え出したのではない
かと、私は考えている。諏訪地方と東北地方に共通するキーワードは、かって物部氏が統
括していた探鉱と金属の製錬に関わる技術者集団である。その後、物部氏が蘇我氏に打ち
滅ぼされてからは、秦氏がこれを統括するようになるので、これらの技術者集団には秦氏
の血も混じっている。したがって、これらの技術者集団は新羅系の人びとでもある。慈覚
大師円仁は新羅とのご縁の深い人であるので、東北地方の人びとの心に響く教えを広める
ためには、慈覚大師ほどうってつけの人はいない。東北地方というのは、奥州藤原氏の治
めていた時代、実に平和な世界が創られていた。というのも、坂上田村麻呂がその先
を
付け、慈覚大師円仁がそれを完成をしたのである。
先ほども申し上げたが、歴史的に古くから行われているという点からは、「諏訪の御柱
祭」、「京都の
覚大師円仁が
園祭」、「胆沢のはだか祭」が日本三大祭だ! 胆沢のはだか祭は、慈
阿弖流為や母禮の鎮魂のために考え出したものであり、阿弖流為や母禮を
牛頭天王に見立てている。牛頭天王、すなわち、阿弖流為と母禮であり、阿弖流為と母禮
は東北の英雄であ るという訳だ。秦河勝の鎮魂の祭として、慈覚大師円仁は「牛祭」を考
え出した。これも主役は牛だ。「胆沢のはだか祭」も牛。新羅を熟知していた慈覚大師円
仁
が、どういう想いから牛を主役にしたのか、不思議だが、こういうことを発想できる
人は、慈覚大師の他には誰もいない。では、次に「蘇民祭」における鎮魂祭の部・「別当
登」をご覧戴きた い。
http://www.youtube.com/watch?v=9LZv1XRwVs8
第9章 琵琶湖の霊力
私は、京都大学に入って一年目、瀬田川のボート部合宿所からあ宇治分校まで通学したこ
とがある。恒例のボートの学部対抗戦に出るために、ボート部に仮入部していたのであ
る。
毎朝、石山寺まで走り、帰ると腹筋背筋のトレーニングをした。午後、学校から帰ると瀬
田川でボートを漕いだ。土日などゆっくりできる時は、皆でボートを漕いで琵琶湖に出て
行った。琵琶湖に出ると、結構波が荒く、結構危険だなあと感じた。「比良八講」という
言葉があるが、琵琶湖では三角波がたったりして小さな船は危険なのである。丹波方面か
ら琵琶湖に向かって、比良山地の急斜面を駆け降りるように吹く北西の風の影響である。
夜は、酒を酌み交わし、皆で琵琶湖周航歌を歌った。
( http://www.youtube.com/watch?v=1eqZunQStkQ )
「瑠璃の花園、珊瑚の宮、古き伝えの竹生島」。これからその竹生島の秘密を話したい。
竹生島は、神秘の島である。私は、京都育ちであるが、お茶は竹生島近くの湖水の水で点
てるのが最高と聞いていた。琵琶湖は、古代湖である。竹生島近辺の湖底には、世界にそ
こしかいない貴重種がいくつか生息している。お茶に関連する水の伝承は、竹生島の秘密
と無関係ではなかろう。琵琶湖周航歌の歌詞、「瑠璃の花園、珊瑚の宮」というのもそう
だ。琵琶湖の湖底には竜宮があるのである。竹生島は、まさに神秘の島である。さあ、こ
れからゆっくり神秘の島の秘密を話すとしよう。
私が竹生島の秘密というのは、弁天さんと能「竹生島」のことである。
私は、邪馬台国近江説の立場に立ってこの本を書いている。私が何故邪馬台国を近江だと
考えるのか、その直接的な説明は次の章で行う。この章では、間接的に、仮説のまま、い
くつかの話をしたいと思う。科学の世界では、通常、仮説を立ててさまざまな研究を行う
が、さまざまな出来事がその仮説と矛盾なく説明できれば、その仮説の真実性が高まる。
私が第9章で説明するいくつかの不思議な話の数はそれほど多くはないので、邪馬台国が
近江だという私の仮説と矛盾なく説明できたとしても、私の仮説の真実性がそれほど高ま
るとは思わない。しかし、これからお話しするいくつかの話は、邪馬台国が近江かもしれ
ないという気持ちを多少なりとも皆さんに持っていただけるかもしれない。それを期待し
ながら、秘密の話をいくつかするとしよう。
琵琶湖は、古来、歴史上大変大きな役割を果たしてきた。その基本は、水上交通の重要さ
にあったが、それはただ単に物資輸送の水路としての重要さだけではなく、人びとの精神
面においても、大きな影響を与えたのである。
水上交通の重要さについては、例えば翡翠の道一つとっても容易に理解できるであろう。
翡翠の道については、すでに第一章で述べたとおりであるので、ここでは省略するけれ
ど、翡翠の道としての大動脈が琵琶湖の湖上を走っていたのである。
以下、私は、琵琶湖が人びとの精神面に与えた重要さについて述べたいと思う。一つは
「真珠」であり、あと一つは「弁天さん」である。
第1節 弁天さんの降臨
日本の三大弁財天といえば、通常、江ノ島のそれと、厳島のそれと、竹生島の弁財天であ
る。天河の弁天さんが三大弁財天に挙げられることもあるが、弁天さんというのは、海の
神であるので、何故天河に弁天さんが祀られているのか不思議であるが、その不思議につ
いてはまた機会を見て話しするとして、ここでは触れない。市杵島姫命という海の神と習
合した弁財天という意味で、日本の三大弁財天は、やはり江ノ島と厳島と竹生島の弁財天
というのが正当であろう。この中で竹生島の弁財天がいちばん古い。
弁財天というのは、もともとインドはシバ教の神である。それがどのような経路で竹生島
までやってきたのか? 第1章で述べたように、糸魚川の翡翠が朝鮮半島から出土するこ
とから、日本海と朝鮮半島の間に翡翠の道があったことは間違いない。シバ教の女神「サ
ラスヴァティー」が天竺から中国に、そして、翡翠の道を通って丹後の冠島(かんむりじ
ま)に降臨した。そして、それが海人族の神となったのである。現在の弁財天は、宗像の
神「市杵島姫命(いちきしまひめ)」と習合してが誕生したものであるが、実は、それ以
前に、竹生島で弁財天が祀られるようになっていた。したがって、他の弁財天と区別し
て、竹生島では大弁財天という。しかし、日本の中に弁天さんの故郷を探すとすれば、そ
れは丹後の冠島である。丹後王朝と近江王朝との往来は盛んであったので、丹後の海人族
に連れられて弁天さんは竹生島にやって来たのである。
丹後一宮であり、伊勢神宮の元の神社・元伊勢神社でもある籠神社(このじんじゃ)には
数多くの伝承が伝わっている。その多くが謎に満ちているのだが、その一つに弁天さんに
関する伝承がある。
籠神社(このじんじゃ)の東方海上20㎞余に彦火明命がお后の市杵島姫命(いちきしま
ひめのみこと)と最初に天降ったと伝えられる冠島がある。市杵島姫命:その後宗像大社
などに祀られるが、もともとの市杵島姫命は冠島の伝承が古い。すなわち、弁天さんの信
仰はインドからどういう経路か判らないが、丹後半島に伝わったようだ。冠島の伝承につ
いては、次のホームページが詳しいので、ここに紹介しておきたい。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/oitsimaj.html
弁天さんの故郷が丹後であり、丹後の海人族に連れられて竹生島にやってきたのは、何故
か? 近江が邪馬台国だからではないか? それ以外に納得のいく説明ができるか? 第2節 竹生島の大弁財天
竹生島の弁財天は、奈良時代に行基が、聖武天皇自作の弁天を祀ったのが初めと伝えられ
るが、これが琵琶湖周辺地域の信仰を集めるようになったのは、平安中期、天台宗の慈恵
大師(良源)が竹生島で行った蓮華会の祭礼以来といわれる。この祭礼は今の8月15日
に行われ、竹生島のほか出羽羽黒山、大和吉野山など天台系修験霊場で行われる夏の峯入
りに伴う祭礼行事で、法華経を購讃し神仏に供花するところから花の祭礼とも呼ばれる天
台宗の三大祭の一つと言われているらしい。
2012年3月24日から12月2日まで、「長浜・戦国大河ふるさと博」が開かれた。そ
の博覧会と同時開催ということで、竹生島宝厳寺・月定院で『日本三弁才天「竹生島」特
別展 ∼源平と戦国まで武将が仰いだ島∼」が開催され、浅井長政の父親が頭(とう)に
なって奉納したという弁財天が展覧された。頭(とう)というのは、竹生島の蓮華会の際
の最高責任者のことで、頭人ともいう。竹生島の蓮華会では、頭(とう)が弁財天を造り
自宅でしばらくお祀りしたのち、竹生島に奉納する習わしになっている。浅井長政の父親
がその頭(とう)を勤めたことがあって、その弁財天が竹生島宝厳寺・月定院に祀られて
いたので、それが一般に展覧されたのである。普段は拝観できない貴重な弁財天である。
浅井長政とお市の方もこの弁財天を拝んだのではないかと言われている。
竹生島宝厳寺・月定院の玄関
特別展の際に竹生島宝厳寺・月定院で展覧された内部の様子については、次のホームペー
ジを紹介しておく。これを開いて、画面をクリックすると画像が拡大するので、すこし弁
財天の様子が判るかと思う。
http://www.biwakokisen.co.jp/staff/details_115.html
浅井長政奉納の弁財天
なお、8世紀前半に行基が聖武天皇の勅命で彫刻したと伝えられる本尊の「弁才天像」は
本堂の「内陣」に安置されてて拝顔できない。宝厳寺の秘仏なのである。ちなみに言って
おくと、興福寺にも一般には拝顔できない秘仏の弁財天がある。この点においても、竹生
島と興福寺は双子のような関係にある。
竹生島祭礼図(所蔵:大和文華館/奈良)蓮華会の様子を描いた江戸時代の作品。
蓮華会は竹生島最大の行事である。上述の通り、旧来は弁才天様を新規に作造して、家で
お祭りし8月15日に竹生島に奉納する行事であったが、現在では、浅井郡の中から選ば
れた先頭・後頭の二人の頭人夫婦が、竹生島から弁才天様を預かり、再び竹生島に送り返
すのだそうだ。この選ばれた頭役を勤めることは最高の名誉とされ、この役目を終えた家
は「蓮華の長者」「蓮 華の家」と呼ばれている。頭人は、出迎えの住職・役員・三人の
稚児とともに、島の中腹の道場に入り休息、その後おねりの行列が出発する。そして急な
階段を一歩一歩踏みしめて登り弁天堂に入場する。 その後、弁財天を祭壇に安置し、荘
厳な中で法要が行われるのである。
竹生島の蓮華会というのは不思議な祭だ。こんな不思議な祭を誰が始めたのか? 上述し
たように、竹生島の蓮華会は良源が行ったのが始まりである。しかし、誰かよほどの権力
者が良源に命じないと天台宗座主自らがわざわざ竹生島まで来て蓮華会を行うことはあり
得ないであろう。良源(りょうげん)は、平安時代の天台宗の僧で慈恵大師(じえだい
し)のことである。一般には元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。 良源は、第
18代天台座主(てんだいざす、天台宗の最高の位)、比叡山延暦寺の中興の祖である。元
三大師については、私のホームページをご覧戴きたい。紫式部のことも書いています。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/rosanji.pdf
ところで、問題は元三大師に誰が何の目的で命じたかということである。そしてそれが邪
馬台国近江説とどう関係してくるのかということである。答えを先に言おう。元三大師に
竹生島の弁財天信仰と結びつけて蓮華会の祭を始めさせたのは、時の権力者「藤原冬継」
である。藤原冬継については、第8章に書いたが、 立石寺の建立を慈覚大師円仁に命令
し、財政的にも支援したのは藤原冬継である。藤原冬継は父・内麻呂の薫陶を受け、父を
非常に尊敬しいたらしく、父の死後、その追善のために、藤原氏の菩提寺・興福寺に南円
堂を建立している。その後、藤原冬継は、藤原不比等の遺志を継いで藤原氏隆盛の仕上げ
をするのである。私は、藤原内麻呂も大人物であったが、その子・冬嗣も大人物であった
と思う。不比等と内麻呂と冬嗣の三人がいたからこそ、藤原道長が象徴する藤原氏の隆々
たる時代を迎えるのである。
それでは、冬嗣の行った藤原氏隆盛の仕上げとは何か? 一つは龍神信仰による竹生島と
興福寺の一体化であるが、これについては次で述べる。もう一つは、丹後に降臨した弁天
さん信仰を法華経に裏打ちされた格調の高い弁財天信仰に仕上げることであった。これを
判りやすく言うと、丹後に降臨した弁天さん信仰を奪って、まったく新しい弁財天信仰に
切り替えることであった。そんなことが何故必要であったのか? 邪馬台国近江説の立場
に立つ私の場合、近江王国の源流に丹後があるのでそれを切断したかったと思うのであ
る。丹後と近江との繋がりを切った上で、 信仰の面で、 近江と藤原氏の奥深い繋がりを
確立できれば、藤原氏は盤石の構えになる。要するに、私が冬嗣が不比等の遺志を継いで
といったのは、藤原氏盤石の構えをつくるということなのだ。
それでは、ここらで、 天台宗延暦寺と弁財天の繋がりを説明せねばなるまい。
第3節 天台宗の不思議
比叡山延暦寺には、俗に「三面大黒天」というが、正式には「三面六臂大黒天(さんめん
ろっぴだいこくてん)」という誠に不思議な比叡山延暦寺の守護神がいる。
先に私は、弁天さんが丹後の冠島に降臨したことを述べたが、降臨とは一人でやってくる
のではなくて、外国から誰かが連れてくるなり、そういう信仰なり神話なりを語るという
ことである。丹後の場合は、中国か朝鮮か判らないが渡来人がやってきて、海の神に対す
る信仰を定着させたのだろう。その神は、多分、女神であったと思われるが、その名前は
弁天さんと言った訳ではない。そのルーツは、シヴァ教の女神「サラスヴァティー」であ
るが、丹後に降臨したときに、渡来人がどういう神の名前で呼んだかはわからない。そう
いう弁天信仰が竹生島に伝わった時も、その女神を「弁天さん」もしくは「弁財天」と呼
んだ訳ではない。琵琶湖周辺の人たちがどのように呼んでいたかは不明である。弁天とい
う女神の名前を最初に使ったのは、最澄である。最澄は、19才のとき、山林修行のため
に比叡山に入るが、そのときに、大黒天と弁財天と毘沙門天を合体した比叡山延暦寺の守
護神を祀るのである。その三神の中心が大黒天であるので、俗に「三面大黒天」という
が、そういう誠に不思議な神を祀るのである。比叡山延暦寺は、根本中堂のすぐ近くに大
黒堂というのがあって、三面大黒天のいわれが伝わっている。それをここに紹介しておき
たい。
( http://4travel.jp/domestic/area/kinki/shiga/ootsu/ootsu/travelogue/10532075/より )
( http://yaplog.jp/nagomu_kato/archive/217より )
比叡山三面大黒天縁起
千二百年の昔、当山開祖伝教大師最澄上人折、一人の仙人が現れましたので、大師は「あ
なたはどなたですか、そして何しに来られましたか」と尋ねられると、その仙人は「普利
衆生、皆令離苦、得安穏世間之楽及涅槃楽」と法華経のご文を唱えて答えられました。こ
れを聞いた大師は「それなら修行する多くの僧侶達の食生活と健康管理のため、比叡山の
経済を守ってください」と申しますと、仙人は「毎日三千人の人々の食料を準備しましょ
う。それから私を拝むものには福徳と寿命を与えます」と約束されましたので、大師は
「この人こそ三面大黒天に違いない」と思い、早速身を浄め、一刀三拝して尊像を彫み、
安置されたのがこの三面大黒天であります。
その後、豊臣秀吉がこの三面大黒天に出世を願い遂に豊太閣となったことから三面出世大
黒天と尊称され、福徳延寿をお授けになる大黒天として、自他安楽の道を願う人々の信仰
を受け続けております。
合掌
比叡山延暦寺大黒堂
上の文章でご注意いただきたいのは、伝教大師最澄上人と書いてあるけれど、実は、上の
話は最澄の19才の時の話で、彼が俗に「広野」と呼ばれていた頃の話である。もちろ
ん、最澄は、多くの支援者や弟子とともに比叡山に入った。第8章で述べた渡来系の大商
人の支援もあったかもしれないが、多くの人びとと一緒に比叡山に入って、まずどうやっ
て食っていくのか、そして盗賊などに襲われないか、そういう問題が大問題であっただろ
うと思う。そこで最澄は、大黒天と弁財天と毘沙門天の一体になった神を祀るのである。
その時の心境は、「悟りを開いた成果は、自分一人で体験したくない。全宇宙の人びと、
ここにいる人びと皆と共に、無上の喜びを味わいたい。」というようなものと伝わってお
り、当時の最澄の決意というものを知ることができる。「全宇宙の人びと」とはよく言っ
たものだ。19才の若者ですよ。19才! やはり最澄は凄いですね。
さて、問題はまだ終わっていない。問題は、「一体、最澄は。誰からシヴァ教の神を教え
てもらったのか?」・・・ということである。シヴァ教は、かってもそうだったが、現在
もなお世界最強の宗教だと私は思っている。シヴァ教については、是非、次をご覧戴きた
い。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nietye03.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nietye08.pdf
そういう世界最強の宗教を最澄は誰から教わったのか? 最澄の師は、行表(ぎょうひょう)という。行表は741年(天平13年)恭仁宮で道璿(ど
うせん)に師事して得度し、743年(天平15年)興福寺北倉院で受戒した。興福寺で禅・
唯識を学んだのである。その後、近江国崇福寺の寺主となり1丈余りの千手観音菩薩を造
り、次いで近江国の大国師となった。778年(宝亀9年)最澄の師となり、780年(宝亀
11年)師主として最澄を得度させている。のちに奈良大安寺に移った。
広野(後の最澄)は、12才のとき、
近江国国分寺の大国師、行表(ぎょうひょう)の門に入った。
( http://www.geocities.jp/chikurin_dousin/dengyoudaisiden01.htmより )
行表の師・道璿(どうせん、702年∼ 760年)は、中国唐代の僧で、入唐した僧栄叡・普
照の要請により、鑑真に先だち戒律を授けるために日本に招かれ、736年(天平8年)イ
ンド出身の僧菩提僊那(ぼだいせんな)・ベトナム出身の僧仏哲(ぶってつ)とともに来
日する。来日後の道璿(どうせん)は、北宗禅を広めるため、大安寺に「禅院」を設置
し、戒律では『梵網経疏』を撰した。また、天台宗にも精通していた僧である。のちに、
吉野の比蘇山寺に入り、修禅に精励し、山岳修験者にも少なからぬ影響を与えたとされ
る。比蘇山寺については、次を参照してください。
www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hisosan.html‎
菩提僊那という人がどういう人かを知っている人は少なかろう。東大寺の四聖人というの
がある。東大寺と言えば、一般の人々は聖武天皇と行基(ぎょうき)を思い浮かべるだろ
う。第8章第1節の谷川健一の「四天王寺の鷹」にも書いたが、良弁(ろうべん)は実質
東大寺建立を取り仕切った人だが、その良弁を知っている人も少ないが、菩提僊那を知っ
ている人はさらに少ないだろう。 入唐した僧栄叡・普照の要請により来日した鑑真はあ
まりにも有名である。しかし、入唐した僧栄叡・普照の要請により、鑑真に先だち戒律を
授けるために来日した 道璿(どうせん )とともに、菩提僊那(ぼだいせんな)も戒律を
授与するために来日していたのである。しかも、菩提僊那は、東大寺盧舎那仏像の開眼供
養の導師をつとめている。さらに、彼は、華厳経に明るかった上に、インドの呪術やシ
ヴァ教の自然哲学にも明るかった。彼は、のちに大安寺の住し、皇族なみの処遇を受けた
のである。
聖武天皇の周りに、大仏開眼の導師・菩提僊那(ぼだいせんな)上人や、
行基菩
(ぼさつ)、良弁(ろうべん)僧正が座っている。
( http://plaza.rakuten.co.jp/cotton12/diary/200901260000/より )
菩提僊那の死後のことではあるが、最澄の師・行表も大安寺の僧侶になっているので、行
表はシヴァ教のことを知ることができた筈である。そして、行表から、最澄は、世界最強
の宗教・シヴァ教を知ることとなり、先に述べた「三面大黒天」などというおおよそ仏教
とはひと味もふた味も違う不思議な神を創ったのである。それが大黒天、弁財天、毘沙門
天の始まりであり、七福神の始まりである。そして、れっきとした弁財天が、比叡山延暦
寺の「三面大黒天」から独立して、単独で竹生島と興福寺に鎮座するのは、元三大師(良
源)の尽力によるのである。それを元三大師に頼んだのは、藤原冬継である。興福寺の南
円堂と竹生島の宝厳寺がともに西国三十三カ所巡りの札所になっているのを見ても、興福
寺と竹生島の深い繋がりを思わざるを得ない。
さて、いよいよ、龍神の話をするとしよう。この一連の能の物語りは藤原氏の誰が命じた
のか判らない。あるいは、藤原氏の意向とは関係なく、能の作者が渾身込めて創ったのか
もしれない。時期も含めてまったく私の知らないことが多すぎて、龍神にまつわるこの一
連の能の物語が誰がどういう想いで創ったのか、私にはまったく判らない。しかし、少な
くとも言えることは、興福寺と竹生島の一体化を謡いあげており、あたかも藤原不比等や
藤原冬継の遺志を引き継いだように思われるほど、かっての藤原氏隆盛の根源が感じられ
る。龍神にまつわるこれら一連の能は芸術品としても極めて高い水準のものである。これ
らの作品は、余程の人でないと創れない。
第4節 龍神
龍というのは、四神獣の中でも、白虎、朱雀、玄武より格が上の神獣で、最高権力者の象
徴として考えられてきた。
また、宝珠は、中国や日本だけでなく、ヨーロッパにおいても、最高権威の象徴として考
えられてきた。仏が手に宝珠を持っているそういう意味合いのものである。
龍が手に宝珠を持ち、ヒゲの下に明宝を蓄えているのは、龍が最高権力者の象徴であると
同時に、最高権威の象徴であることを意味している。
さて、能に「海士(あま)」というのがある。この能のあらすじは次の通りである。
藤原不比等の子、房前(ふさざき)は、亡母を追善しようと、讃岐の国の「志度(しど)
の浦」を訪れる。
「志度の浦」で 房前は、ひとりの女の海人に出会う。 海人は、房前 としばし問答した
後、従者から海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれ、そこから思い出したよう
に、かつてこの浦であった出来事を語り始めるのである。不比等の妹が唐帝の后(きさ
き)になったことから贈られた「面向不背(めんこうふはい)」の玉が龍に奪われ、それ
を取り返すために不比等が身分を隠してこの浦に住んだこと、不比等と結ばれた海人が一
人の男子をも うけたこと、そしてその子を不比等の世継ぎにするため、自らの命を投げ
打って玉を取り返したことなどを語りつつ、玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに
自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、涙のうちに房前に手紙を渡し、海中に姿を消
す。房前(ふさざき)は手紙を開き、冥界で助けを求める母の願いを知り、志度寺にて十
三回忌の追善供養を執り行う。法華経を読誦しているうちに龍女(りゅうにょ)となった
母が現れ、さわやかに舞い、仏縁を得た喜びを表す。
この作品のハイライトは、何と言っても海人が龍宮から珠を奪い返す様子を見せる場面
だ。能の世界では、「玉の段」の名場面として特別視され、謡どころ、舞どころとして知
られている。一振りの剣を持って籠宮のなかに飛び入り、八大龍王らに守られた玉塔から
宝珠を取り、乳房の下を掻き切って押し込める。死人を忌避する籠宮のならいにより、周
囲には龍も近づかない。そして命綱を引く・・・。子のため自らの命を投げ出す一人の海
人の気迫が、特別な謡と型を伴い、ドラマチックに表現されていく。親子の死別という、
悲しい結末の重苦しさは、後半の短くテンポのよい展開で雰囲気を変えられ、最終的には
明るく、仏法の功徳に繋がっていく。さすがに能発祥の地・興福寺ならではの名作であ
る。
能「海士(あま)」の後日談として、これもまた興福寺ゆかりの有名な能がある。能「春
日竜神」である。不比等の恋人(海士)が竜宮まで出かけて行って取り戻した宝珠は、不
比等の手によって、本来あるべき興福寺に無事収められる。『讃州志度寺縁起』による
と、それを求めて興福寺にやってきた龍神は、興福寺の守護神となって宝珠をお守りする
のである。これの意味するところは、藤原氏の権力と興福寺の権威は、龍神に守られてい
るが故に絶対的というものであろう。 能「春日竜神」は、そういう前提に立って、春日
大社と興福寺が一体のものであることを物語るもので、法華経の影響で興福寺の守護神・
龍神に代って八大竜王が登場するが、春日大明神とは興福寺の守護神・龍神のことであ
る。能「春日龍神」については、かってホームページで書いたように、 白州正子が次の
ような解説をしている。すなわち、
『 春日竜神はそういった単純素朴な能で、むつかしい箇所など一つもない。特別な見ど
ころもない。いってみれば、初心者向きの曲なのです。
だから、つまらないといえばつまらない。私も長い間そう思っていたのですが、ある時
梅若実翁が演じるのを見て、強い感銘を受けたことがあった。そ
れは、今の後シテの場
面で、竜神が、説法の座に、沢山の眷属(けんぞく)を集める所があり、幕の方を向い
て、一々むつかしい名前を呼びあげる。むろん、そ
んなものは一人も現われないのです
が、それら大勢のお供を従えた竜神が、「恒沙(ごうじや)の眷属引きつれ引きつれ、こ
れも同じ座列せり」と、舞台の中央
でどっかと居坐る。専門語では「安座(あんざ)」
(あぐら)といい、ふつう勢いを見せるために「飛安座(とびあんざ)」ということをし
ますが、実さんは老
齢のためか、飛上りもせず、むしろ柔らかくといいたい位に、軽く
ってストンと落ちた。動作は羽毛のようだったが、坐った形は大磐石の重みで、舞台に
は一
瞬深い静寂がおとずれ、橋掛から見物席に至るまで竜神がひしめき合い、釈
の説
法に耳を澄ますかのように見えたのです。
それは今まで見た春日竜神とは、まったく別のものでした。しいていえば、昔の人が信
じた浄土とか涅槃(ねはん)という理想の世界を、ふと垣間見た
感じで、そんなことは
考えてもみないシテが、無心の中に現わしてしまうこのような美しさが、不思議なものに
思われてなりませんでした。もしかすると、その 時私は、自分でも知らずに、明恵上人の
姿にふれていたのかも知れません。』・・・と。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kasumyou.html
さらに、その後日談として能「竹生島」が演じられる。この能を理解する上の予備知識と
して、竜宮というところの摩訶不思議な点を話しておきたい。竜宮への通路は全国いろん
な所にあるが、竜宮という所は天国みたいなもので、一つの世界があるだけである。丹後
の伝説によると丹後にも竜宮への通路がある。興福寺と竹生島と丹後は、一つの竜宮で繋
がっている。入口が違うだけだ。興福寺の守護神としての龍神は、必要に応じて興福寺に
も出没するし竹生島にも出没する。丹後には出没しない。藤原氏と竹生島は深い繋がりが
あるけれど、藤原氏と丹後とは何の繋がりもないからだ。丹後と大和との繋がりは、藤原
氏が誕生する以前の繋がりであり、また、丹後から弁天さんが竹生島にやって来たのも、
藤原氏が誕生する以前のもっと古い話である。
龍神が権力の象徴だとすれば、龍神の棲む竜宮も権力の象徴であると考えてよい。丹後の
竜宮伝説は丹後王朝の存在を暗示し、竹生島の弁財天伝説はその権力が近江に移ったこと
を暗示している。そして、私には、邪馬台国近江説を暗示していると思えてならないので
ある。
能「竹生島」
( http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_027.htmlより )
能「竹生島」に出て来る「波うさぎ」の風景
( http://www.iris-hermit.com/hitorigoto/mudabanasi/tikubusima.htmlより )
能「竹生島」のあらすじは次のとおりである。
宮中の貴族一行が竹生島明神に参拝するために琵琶湖の湖岸まで来たものの、どうやって
島まで渡ろうかと思案していた所 へ、翁と海女の乗る一隻の釣り舟が通りかかり、一行
は同乗を許され竹生島へ向かう。 その島へ向かう舟から眺めた湖畔の景色を歌ったのが
次の一節。
『 島の緑豊かな木々の影が湖畔に映り、魚たちが木を登っているように見える。 月も
湖面に映り浮んで、月に住む兎も波間に映る月明かりを奔けて行くようだ なんとも不思
議な島の景色よ!』
舟が島に到着すると、翁は竜神に、海女は弁財天に変わる。 この不思議な体験から一行
は、改めて竹生島の神々の霊験あらたかなことを思い知るのである。
若狭の水と東大寺二月堂の水が繋がっているという古い言い伝えがあるが、古来言い伝え
られているこの話と、能「竹生島」の竜宮の話を重ね合わせると、大和と近江との古い時
代からの深い繋がりを感ぜざるを得ない。
先に述べたように、龍神にまつわるこれら一連の能は芸術品としても極めて高い水準のも
のである。これらの作品は、余程の人でないと創れない。藤原氏と余程の関係にあった人
で能の奥義を極めて作者と言えば、世阿弥だが、私は、龍神にまつわるこれら一連の能を
創作した人は世阿弥だと思う。それ以外にちょっと考えられないのだ。
藤原良基は世阿弥に「藤若」と言う名をあたえた。この「藤」は藤原氏の「藤」で、その
血統の最高者であればこそ、あたえることが出来る名である。「藤若」と言う名は、良基
以外の人間は与えることが出来ない。それほど重い名である。世阿弥と藤原氏とはこのよ
うな関係にあったからこそ、渾身の力を振り絞って、藤原氏のために龍神にまつわるこれ
ら一連の能を創ったのである。これら一連の能には、かっての藤原氏の栄光の輝きが想わ
れ、武士の世にはなったけれど、引き続き藤原一族の繁栄を願う気持ちがあふれている。
そして、大事なのは、その世阿弥の熱い心が天に通じて、興福寺の逸材・明恵を産むので
ある。明恵は藤原一族であり、時の将軍・北条泰時を通じて、現在の象徴天皇制をつくる
のである。
ちなみに、能「春日龍神」に出てくる「明恵」について、私の主なホームページをこの際
紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/1honmyou.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yumemoku.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirakami.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/toganoo.html
さて、興福寺と竹生島との深い関係は、とりもなおさず大和と近江との関係を示してい
る。そこで、邪馬台国と大和朝廷とは一本の糸で緊密に繋がっていることを、今まで話し
てきた「弁財天」と「龍神」の話で感じ取っていただけただろうか? なかなかそうはい
かないかもしれない。そこで、私は、皆さんに。歴史認識として少し話しておきたいこと
がある。それは、平安京に至るまで朝廷はちょくちょく遷都したが、その認識の仕方であ
る。
大和朝廷といっても、飛鳥に都があったこともあるし、河内に都があったこともあるし、
その後も平城京、近江京、長岡京、平安京と都はちょくちょく移っている。前ヤマトの時
代もあったのである。藤原不比等が記紀において神武東遷などという作り話を創作するも
のだから、魏志倭人伝でいう邪馬台国九州説などというものが出てくるのであって、私
は、邪馬台国を前前ヤマトと考えてもらいたいのだ。そう考えれば、前々ヤマトが近江に
あっても何の不思議もない。朝廷の所在場所がちょくちょく変わるのはその後の歴史の示
すところであるからだ。それが私の歴史観である。このような歴史観に立つ時、大和と近
江は一本の糸で深く繋がっていることを理解できるだろう。そして、それを象徴的に表し
ているのが今まで縷々述べてきた「弁財天」と「龍神」であることをご理解いただけたで
あろうか。
さて、邪馬台国近江説に関連する話として真珠の話しがあるので、この章の最後に琵琶湖
の真珠の話しをしておきたい。信仰と同様に、工芸品というものも、人びとの心に作用し
不思議な力を発揮する。「美の呪力」という言葉もあるくらいである。邪馬台国の時代、
琵琶湖の真珠は、卑弥呼やトヨの心を魅了していたかもしれないのだ。
第5節 琵琶湖の真珠
トヨが魏の皇帝に献上した献上品の中に、5000個の真珠がある。5000個ですよ。
5000個!これは尋常ではない。もちろん天然真珠であり、これが全部琵琶湖の真珠と
いう訳ではないが、私は、そのかなりのものが琵琶湖の真珠であったと想像している。
天然真珠が全国のいろんなところで採れたのは万葉集を見れば明らかだが、ここでは、琵
琶湖の天然真珠を詠(うた)った柿本人麻呂歌集掲載の詩(うた)を紹介しておこう。
「淡海の海 沈く白玉 知らずして 恋ひせしよりは 今こそまされ 」淡海の海 沈く白
玉 知らずして 恋ひせしよりは 今こそまされ 」
<近江の海に沈んでいる白玉ではないが、よく知らないままに恋焦がれていた時よりは、
ねんごろになった今方が、ますます思い募る>
女性の持つ美しさ、優しさ、繊細さを白玉に例え賞賛した詩(うた)である。詠み人知ら
ずだが、柿本人麻呂が素晴らしい詩(うた)だとして自分の歌集に掲載したものである。
琵琶湖の天然真珠は、「近江の湖に眠る得も言われぬ美しいもの」として、宮中の人びと
にも知られていたことが判る。
万葉集にはこんな詩もある。『 妹がため我玉求む沖邊なる白玉寄せ来沖つ白波』
<家の妻へのお土産に私は玉が欲しいのだ。沖の真珠を岸に打ち寄せて来てくれ、沖の白
波よ>
万葉集では他にも海の真珠が唱われてはいるが、琵琶湖の場合と詩の内容が全く異なる。
琵琶湖の真珠の場合は、それが美の象徴として唱われている。他の場合はそうではなく、
旅先のこんな所にも真珠が採れるという驚きとか、それを土産に持って帰りたいという気
持ちを唄っている。そういう詩がほとんどである。日頃見ている琵琶湖の真珠のような美
しい真珠がこんな所にも採れるという驚き、それは、琵琶湖の真珠が宮廷人にとって、身
近なものであったことを意味していないか。
邪馬台国の時代もきっと琵琶湖の真珠は、宮廷人にとって身近なものであったに違いな
い。したがって、トヨが魏の皇帝に献上した真珠の大半は、琵琶湖の真珠であったと、私
には思えてならない。
真珠が装飾品として愛用されたのは、万葉の時代頃までで、それ以降は、服装の変化と装
飾品の発達により、真珠はほとんど使われなくなる。しかし、明治になって洋装がもては
やされる時代になるし、御木本幸吉により養殖真珠が発明されて、真珠が爆発的に普及す
る。琵琶湖の養殖真珠も爆発的に出まわって、最近まで、世界の淡水養殖真珠のほとんど
を琵琶湖の真珠が占めていた。これは、私独特の言い方だが、「琵琶湖の霊力」がそうな
さしめたのである。町田 宗鳳の「山の霊力」(2003年2月、講談社)という本がある
が、そういう言葉がある以上、「琵琶湖の霊力」という言い方も可笑しくはないだろう。
私はかって、 岡本太郎の「美の呪力」(平成16年3月、新潮社)という本に関連して、
「美の呪力」について私なりの考えを書いたことがある
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rei02.pdf
美の呪術とは、現時点で美と認識されているものや歴史的に美と考えられてきたものを踏
まえながらも、それを超越してより根源的な美を認識できるようにする、すなわち真の美
を認識するための「霊的な力の作用」である。端的に言えば、「美の術」とは、真の美を
認識するための「霊的な力の作用」である。古代において、確かに、琵琶湖の真珠は
「美」の象徴、すなわち「美」の根源的なものとして認識されていた。それは、琵琶湖の
持つ「霊的な力の作用」によるものであった。私はそう思うのである。 琵琶湖の持つ
「霊的な力の作用」、そんな言い方がピンとこないとすれば、琵琶湖の風土がそうなさし
めたといいかえてもよい。
なお、この章の最後に、「琵琶湖の霊力」を身体に感じることのできた現代の人に白州正
子がいることを申し添えておきたい。白州正子は、小さい頃から能を舞い能の奥義を悟っ
た人だが、能のもつ不思議な力によって「琵琶湖の霊力」を身体に感じることのできた誠
に希有な人である。
第10章 邪馬台国は近江だ!
最新の古代史の知見によれば、邪馬台国は近江である可能性がいちばん高い。その決め手
は何か? 遺跡と文献、それぞれ解釈次第だが、それは、その人の力量による。それは歴
史認識以外のなにものでもない。邪馬台国の最大の特徴は、中国との繋がりである。その
当時、中国から技術導入を行い、それによって中国との関係がもっとも深かったクニは、
丹波である。そして、丹波ともっとも深い関係にあったクニが近江である。
丹波との関係を考えた時、近江のクニは、ヤマトに比べて圧倒的に優位にあったのであ
る。
さらに、邪馬台国の問題を考える時、倭国の大乱というものがどういうものであったの
か、それを正しく認識しなければならない。全国のクニグニが力をつけてきた時、互いに
戦い合うのは当然である。それは、歴史的必然であると言って良い。しかし、それを考え
る時、正しい歴史観が絶対に必要である。歴史というものは、旧石器時代、縄文時代、弥
生時代、古墳時代の特質というか、その時代の心髄部分を十分に理解していなければなら
ない。弥生時代の心髄的要素は何か? それは、中国から先端技術、その主たるものは青
銅器の製造技術だが、そういう当時の先端技術が入ってきて、それを倭国の豪族がわがも
のにしていったことである。それが日本列島の豪族の姿である。もちろん、縄文時代にも
中国の先端技術が日本海沿岸地域に入ってきた。その典型的なものがケツ状耳飾りだ。こ
のことについては、次のホームページを参照されたい。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html
第1節 倭国大乱
魏志倭人伝に、「元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国で長期間にわたる騒乱が
起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、一人の女子を共に王に立
てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わし、既に年長で、夫は無かった。」
という記述があり、後漢書には、「桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大い
に乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。一人の女子が現れた、名を卑弥
呼と言い、年長になっても嫁かず、鬼道を用いてよく衆を惑わしたので、ここに於いて王
に共立した。」という記述がある。
倭国大乱の原因についてはいろいろな説があるが、私は先に、「 全国のクニグニが力をつ
けてきた時、互いに戦い合うのは当然である。それは、歴史的必然であると言って良
い。」と述べたが、その真意は、権力闘争というのは、そもそも人間の闘争本能から生じ
るものであって、クニグニの権力者が誕生したとき、必然的に権力闘争が起こったという
ものである。だから、倭国大乱というものは、局地的なものでなく、全国の各地で起こっ
たのだと思う。その時、何が困るか? 魏志倭人伝や後漢書に倭国大乱のことが書かれて
いるのは、当時、倭国と中国との交流が盛んであったことを意味しており、倭国大乱に
よって途絶えた。このことによって誰がいちばん困るか? 倭国大乱によっていちばん困る者、それは交易商人のボスである。私はすでに、縄文時代
において、国内の交易ネットワークがあったことを述べたが、弥生時代になって、中国と
の交易が盛んになると、中国側にも多くの交易商人が活躍し、それを束ねるボスが誕生し
ていたのである。そういうボスが存在しない限り、卑弥呼の朝貢団は中国の皇帝のところ
まで行ける訳がない。遠路はるばる旅することもできないし、そもそも皇帝のお目どおり
することも困難であった筈である。
交易商人のグループについては、今の商事会社を想ってみてください。「ハンズオンアプ
ローチ」という言葉があるが、これは商事会社といえども技術開発に力を入れるなど技術
者集団を持って、自らの豊富な資金力をバックとして、他国の権益を獲得していこうとい
うというものである。すなわち、相手企業に建設的な提言を行い、相手の信頼を得てきめ
細かくプロジェクトをフォローしていくのが、いわゆる「ハンズオンアプローチ」であ
る。中国の先進技術を背景に倭国で手広く交易を行うには、その先進技術を倭国のクニグ
ニに教えることが必要だったのである。交易集団は技術者集団でもあったのだと私は考え
ている。それらを束ねるボスがいてこそ、大陸と日本列島を胯にかけて、広範囲な交易シ
ステムができ上がった。その中核をなす技術者集団を、私は、中国系技術者集団と呼び
田。中国系技術者集団が存在したこと、それが弥生時代の一大特徴である。大和朝廷が誕
生する古墳時代に入ると、日本はすっかり中国の先進技術をマスターし、わが国独特のす
ばらしい技術を確立していく。それは、縄文時代のわが国独特の技術があって、はじめて
なし得たことである。
縄文時代最大の発明は、縄文土器の発明である。それまでは、化学変化をもとにした技術
はなかった。すべて、物を切ったり叩いたりする物理変化である。化学変化をもとにする
土器の製作は世界各国で行われるが、わが国は、その最先端を行っていて、第二グループ
を約4000年引き離していた。4000年ですよ。これは凄いことだ。技術というもの
は次々と伝承されていくが、現在、日本の中小企業が世界に冠たる技術を持っているの
は、縄文時代の技術水準の高さに起因する。弥生時代の中国系技術者集団は、きっと倭国
の潜在的な技術力に眼を見張ったのではないか。
弥生時代が終わり、大和朝廷が誕生した応神天皇の御代には、もはや中国から学ぶべき技
術はなかったと思う。したがって、中国系技術者集団は、日本に帰化して、日本で大活躍
をするのである。それが秦一族である。秦一族のことについては、のちほど章を改めて述
べることにする。ここでは、倭国大乱との関係で、中国系技術者集団のことについて述べ
るのとどめる。
中国系技術者集団は、交易を広範囲に行う集団でもある。その場合、クニグニの豪族が相
争っていては、商売に差し支える。何とかこれが収まって、中国との交易ができることを
望んだ筈である。その交易拠点は、九州北部であることは言うまでもない。従来通り朝鮮
半島や中国との交易ができるよう、卑弥呼を引っ張り出した。それが私の考えだ。した
がって、私は、魏志倭人伝に出てくるクニグニとは30カ国とは、西日本だけでなく、東
日本のクニも含んだものであったと考えている。私は、今、邪馬台国畿内説の立場に立っ
て、邪馬台国は大和か近江かを論じようとしているので、当時のクニグニ・30カ国がど
こにあったかが基本的に大事なのである。
瀬戸内海沿岸地域における高地性聚落の存在を以て、それが倭国大乱の証拠だと考える説
があるが、私は、倭国の大乱をそのように特殊化して考えるのには反対だ。高地性聚落と
いうのは、ある特殊な緊張状態におかれた時の聚落の防御態勢の一つであって、いわゆる
「倭国大乱」と呼ばれる卑弥呼が擁立される直前の大乱、その時にはじめて出現するもの
ではない。縄文時代から弥生時代に入って、稲作による富が蓄積されると貧富の差ができ
てくる。そして、土地の奪い合いが起こってくる。やがては、権力者というものが誕生す
る。権力者というものは、もともと土地の奪い合いによって誕生したものであり、本質的
に領土拡大を図ろうとする。したがって、弥生時代が進んでくると、先に述べたように、
「クニグニの権力者が誕生したとき、人間の闘争本能によって必然的に権力闘争が起こっ
た」のである。クニグニの間に絶えず戦いが起こっていた。それが弥生時代の中期の姿で
はないかと思う。邪馬台国の関係でいえば、100余国のクニグニが倭国大乱の頃は30
カ国ほどに減少していた。ということは、邪馬台国にはクニグニの王、つまり地方の豪族
が30人ほどいたのである。
もちろん、多くの渡来人によってそれまでの縄文人との間に混血が始まり、やがて弥生人
が誕生してくるのだが、渡来人と在来人との間に戦いもあったであろう。その典型的な遺
跡が「土居ヶ浜遺跡」だが、鏃の刺さった人骨が多数遺跡墓から見つかっている。しか
し、渡来人と縄文人との戦いというのも特殊例であり、弥生時代の前期に日本列島各地で
起った乱は、上述のように、「クニグニの権力者が誕生したとき、人間の闘争本能によっ
て必然的に権力闘争が起こった」乱である。そして、倭国大乱は、それらの乱とは比較に
ならない規模の大きい戦争であったのである。このような歴史認識をしておかないと、魏
志倭人伝も正しく理解することはできない、私はそう思い、以上、倭国大乱についてくど
くどと書いた次第である。
第2節 魏志倭人伝の比定地
邪馬台国の比定地を考える場合、歴史認識として押さえておかなければならない点が二つ
ある。一つは、倭国の中に糸魚川と伊勢と鳥羽が含まれていなければならないということ
である。それは、翡翠と水銀朱と真珠が卑弥呼の献上品に含まれており、それらの産地は
当然倭国の中でも重要なクニであった筈だからである。二つ目は、倭国の中に銅鐸文化圏
が含まれていなければならないということだ。それは、卑弥呼がシャーマンであったから
だ。卑弥呼は、倭国をまとめるために、倭国の豪族を集めて、祭りをやった筈であり、そ
の時に、銅鐸が使われたと思う。それら豪族には、銅鐸が授与されたに違いない。それら
豪族は、それら銅鐸を持ち帰って、自分のクニで、時に応じて、自ら祭りを行ったに違い
ない。したがって、倭国は銅鐸文化圏を含んでいなければならないのである。
卑弥呼の使節団は、多くの中国人と接触した筈である。その時の通訳は、一人や二人では
なく、数人の人がいた。
倭国には、二つの奴国があった。一つは博多の奴国であり、一つは倭国の外れ、いちばん
遠いクニである糸魚川の奴国である。
私は,邪馬台国畿内説の立場に立っている。邪馬台国畿内説に立つ学者も少なくなく、古
くからいろんな研究がなされている。したがって、私は,ここで邪馬台国が九州か近畿か
は論ずることはしない。始めから邪馬台国は近畿であるという大前提に立って、邪馬台国
は大和ではなく近江であるということを論ずるに止めたい。ただし、魏志倭人伝に登場す
る倭国のクニグニのうち、邪馬台国畿内説に立つ学者が比定する地域については、いくつ
かの間違いが見受けられるので、その点については私の考えを申し述べておきたい。特に
重要なのは、狗奴国の比定地である尾張であり、少し詳しく述べることとしたい。
1、第二の奴国
倭国のクニグニを比定する一つの
は「奴国」である。この国名は2回出てくる。これは
最初に出てくる奴国とは別の国である。最後に出てくる奴国は、 倭国の境界の尽きる所
である。なお、方角については、陳寿は次に示す地図を念頭において記述しているので、
この点をしっかり認識しておかなければならない。その上で、魏志倭人伝の原文を見ても
らいたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001477/files/50926_41514.html
陳寿は、倭国のクニグニの説明をまず九州からはじめて、この図で言えば、順次南のクニ
グニ(22カ国)の名前を記述して、その最後に二番目の奴国が出てくる。したがって、
二番目の奴国とは、この図で、いちばん南にあることとなる。原文には 「其南有狗奴
國」という説明が出てくるが、この文で「其」とは、22カ国のことを言っているのであ
り、二番目の奴国の南という意味ではない。もし二番目の奴国の南だと解釈するのなら、
二番目の奴国はいちばん南にあるという陳寿の記述と矛盾してしまう。陳寿がそのような
矛盾したことを書く筈がない。したがって、狗奴国は邪馬台国の東にあるということで、
二番目の奴国の南にあるということではない。あくまで、最後の記述してある二番目の奴
国は一番南にある国である。
もう一つの大事なことは、陳寿の記述する倭国の数は30カ国である。その内、最初に里
程を説明している九州方面のクニグニは8カ国である。その後、邪馬台国を含めて記述が
つづくが、そのクニグニの数は22カ国である。二番目の奴国が一番目の奴国と異なる別
の奴国であると考えないと、倭国のクニグニの数が30カ国にはならない。最初に出てく
る奴国と最後に出てくる奴国は相異なる国である。別々の土地を同じ名称で呼ぶ現象を
「別地同称」というが、こういう例はよくあることらしい。
この二番目の奴国の比定地を考える場合の一つの視点として、銅鐸祭祀の問題がある。
銅鐸は、従来は近畿地方を中心に出土し、九州からは出土例がなかった為、北九州地方の
銅矛銅剣文化圏と対比されて論評されてきた。昭和初期に東大の哲学者・和辻哲郎が、九
州を「銅剣・銅矛文化圏」、近畿地方を「銅鐸文化圏」と区分して以来、弥生時代はこの
二つの地方で文化が対立していたように思われてきた。 しかし近年、近畿以西の地域か
らも銅鐸やその鋳型が出土し、銅鐸は必ずしも近畿圏に特有の青銅器ではない事が分かっ
てきた。 平成10(1998)年、弥生時代の大規模環濠遺跡として名高い吉野ケ里遺跡か
ら、鈕(ちゅう)を下に向け、逆立ちした形で埋められた銅鐸が出土した。これはそれま
でに発見されていた鋳型と文様などの特徴が同じで、ここで製作だけでなく祭祀も行われ
ていた可能性が強くなった。また製作技法についても、九州と近畿で同時期に同様の技法
が用いられている事例も出現し、数は少ないが九州にも銅鐸があったことが明らかになっ
た。現在、九州における銅鐸出土例は近畿地方に比べて圧倒的に少ないが、このような事
例が出現したことで、和辻説が見直しを迫られている事は間違いないし、銅鐸も北九州が
その起源であるという主張は、ますます看過できないものとなってきた。
したがって、私は、卑弥呼が治める倭国は、畿内を中心としつつも九州を含む西日本であ
ると考える。東は尾張はもちろんのこと駿河まで含む。
さて、ここがいちばん判断の難しいところだが、魏志倭人伝で倭国として記述されている
30カ国の中に、卑弥呼の行う祭祀とは相異なる祭祀を行っているのではないかと思われ
る国が二カ国ある。ひとつは狗邪韓國であり、もう一つは二番目の奴国である。狗邪韓國
の比定地はおおむね定まっているので、問題になるのは二番目の奴国である。狗邪韓國と
この二番目の奴国では銅鐸が出土しなく、多数の翡翠(ひすい)の原石やその加工品とし
ての勾玉(まがたま)が出土する。
古代、翡翠というのは強い霊力を持つと考えられていた。 古代人は円形という完全な形を
あらわす玉を「たましい(霊魂)」=精霊を象徴するものと考えたが、特に、勾玉(まが
たま)はまるい霊魂が飛び回っている姿をあらわすもので特にこれが重んじられた。天皇
に伝わる三種の神器の八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま)もそうである。卑弥呼は銅鐸
によって祭祀を行うシャーマンだが、二番目の奴国には勾玉によって祭祀を行うシャーマ
ンがいた。それが 古志の国の「奴奈川姫」 である。私は、奴奈川姫は卑弥呼にも匹敵す
るシャーマンであったと思う。だから、記紀には大国主命(おおくにぬしのみこと)の求
婚相手・沼河比売( ぬなかわひめ)として登場するのである。奴奈川姫と 沼河比売( ぬ
なかわひめ) とは同一人物である。
そして、奴奈川姫は、 建御名方命を産み、建御名方命の母となる。
糸魚川市の海望公園にある沼河比売(奴奈川姫)と建御名方命の像
建御名方命は、言わずと知れた諏訪大社の神であるし、さらにそれは、中臣鎌足が物部氏
から鹿島神宮や香取神宮を乗っ取るまでは、鹿島神宮や香取神宮の神でもあったらしい。
以上、私の考えでは、奴奈川姫の治める古志の国こそ、二番目の奴国である。奴奈川姫は
の翡翠は、日本列島すべての地域に配られたし、狗邪韓國にも多数配られているのであ
る。「卑弥呼に匹敵するシャーマン・奴奈川姫」と言ってもけっして言い過ぎではない。
実は、私の説「古志の国=奴国」については、さらに強力な論拠がある。それは、卑弥呼
の魏王への献上品に翡翠が含まれていることである。私は、水銀朱や真珠と同等あるいは
それ以上に貴重な献上品であったと思う。その産地を陳寿は魏志倭人伝に書かない訳がな
い。したがって、古志の国はどういう名前で呼ばれたかは別として、必ず記載されている
筈だ。それが「女王境界所盡」の国・奴国である。
2、黒歯国
黒歯国の比定地を考える場合の大事な点が三つある。これは歴史認識の問題であり、単な
る歴史学を超えている。歴史認識というものは、歴史学も考古学も、その他すべての学問
の知識がないようでは、とうてい正しい認識はできない。今多くの歴史学者や考古学者に
欠けているのは、地理学である。地理学というものは、それが何故そこにあるのかを考え
る学問でなければならない。近年、そういう本来の地理学を学校で教えなくなった。地理
学というものは、オギュスタンベルクがそうであるように、哲学をも含むものである。場
所の問題というものは、風土というものが判っていないと正しい認識に立てない。風土
は、プラトンのいうコーラと同じようなものだが、そういうことを知っている人は少な
い。だから、黒歯国の比定が正しくできないのだ。
黒歯国の比定地を考える場合の大事な点が三つある。一つは、中国の歴史家である陳寿が
知らないのに倭国の使節団が知っている、そういう当時の世界的地理情報は何かというこ
とである。二つ目は、旧石器時代における航海技術、日本におけるその中心地は伊豆半島
のものだが、その実態というものはどのようなものであったのかということである。三つ
目は、お歯黒の風習について、地理学的な知識がないといけないということである。
三国志は三世紀に成立した歴史書であるが、西晋(せいしん)の歴史家・陳寿(ちん
じゅ。233∼297)の代表作である。彼の没後、西晋朝の「正史」とされた。それは
魏志・呉志・蜀志の三編からなるが、その中心は魏志である。西晋朝は、魏朝を受け継い
だ王朝だからである。その魏志の最後を締めくくるのが倭人伝だ。つまり魏志倭人伝は、
三国志の中でもっとも中心的なものである。 天子は謁見するだけの仕事だけれど、歴史
家としての陳寿はちがう。聞き得るだけ全ての情報を聞く。直接、使節団と対面して根掘
り葉掘り問い正したに違いない。 それが任務だ。 倭国の実情だけでなく、その向こうの
クニグニはどうなっているか、そういうことも質問したに違いない。私ならそうする。
きっと陳寿もそうしたに違いない。
そのとき、使節団は『 倭国の首都邪馬台国の東(実際は北)の方向、海を渡ること千里
(約90㎞)余りにはまた国があって、全て倭人が住んでいます。また、倭国の首都邪馬台国の
南方(日本列島から外れてしまうので、実際も南方)四千里(約360㎞)余 りには、朱儒国と
いう背丈三、四尺の人々が住む国があります。さらにその東南((日本列島から外れてし
まうので、実際も東南)には裸国や黒歯国という国もあるようですが、これらの国々へは
一年もの船旅が 必要です。倭の地と比較して聞いてみると、この裸国や黒歯国の所在する
ところは、海に囲まれた多数の島々からなる国で、島づたいに周廻すると、全周は五千 里
(約450㎞)余りのようです。』・・・という話をした。陳寿はびっくりしたと思う。
琉球列島を含む南洋諸島は琉球孤と呼ばれ、それらの島々は旧石器時代から独自の文化を
育んできた。それらの島の存在が日本や中国の資料に現れるのは、日本の場合、推古天皇
の時代であり、中国の場合、随の時代である。正史である隋書にそれらの島々の事が記録
されていて、琉求国として認知されていた。しかし、それは正史などの役所関係の資料の
話であって、伝聞としてはどうであったのであろうか? 魏の時代に琉球諸島のことを倭
人が知っていたのかどうか? そこが問題だ。
まず、わが国では、琉球諸島との交流はあったのか? それから話をしたい。交流はあっ
たのである。柳田国男の「海の道」はあまりにも有名であるが、弥生時代から南洋諸島と
わが国の往来はあった。中でも有名なのは、「貝の道」である。
古代の貝製腕輪・釧(くしろ)
ゴホウラ(左) イモガイ(右)
陳寿は、琉球の島々のことは多分知っていたと思う。魏志倭人伝に琉球に関する記述がな
いのは、多分、陳寿がそういう南洋諸島のことを百も承知であったからだと思う。しかし
ながら、もっと南の方はどうか? 私は、魏志倭人伝の著者・陳寿は、そういう太平洋の
情報に重大な関心を持っていたと思う。そのようなときに、上記のような答えが返ってき
た。それは中国では今まで聞いたことのない、まことに貴重な情報であった。それが朱儒
国、裸国や黒歯国の情報であったのである。それらの島々が、琉球の他に別の島々があ
る。
では、これからそれらの国の比定地を考えてみたい。
まず、第一フレーズであるが、「倭国の首都邪馬台国の東(実際は北)の方向、海を渡る
こと千里(約90㎞)余りにはまた国があって、全て倭人が住んでいる」・・・そういう島は
明らかに壱岐である。壱岐の黒曜石は、弥生時代はおろか旧石器時代から朝鮮半島にも運
ばれていて、そこが倭人の国であることは広く知られていたと思う。
次に、これが大問題なのだが、朱儒国と裸国や黒歯国をどこに比定するか? 日本の南に
ある朱儒国があって、その南東方面に裸国や黒歯国がある。その裸国や黒歯国に行くに
は、一年ぐらいの船旅が必要で、それらの島々をぐるっと廻ると約450km。日本列島
の南にあるそういう島々は、小笠原諸島しかない。したがって、私は、朱儒国を伊豆七
島、裸国や黒歯国を小笠原諸島に比定している。こういう判断をするには、冒頭に申し上
げた正しい歴史認識が必要である。是非、皆さんにも知ってもらいたいのでが、旧石器時
代から、日本の造船技術と航海技術は凄いものがあり、そのような海の民の本拠地は熱海
であった。
熱海が旧石器時代から鎌倉時代までずっと日本の海上輸送の大拠点であったことについて
は、私の論考があるのでまずそれを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/atamiaas.pdf
また、「円筒石
がボニン(小笠原諸島)から、マリアナ、カロリン諸島を経てメラネシ
ア、ポリネシア方面に広がった」・・・そのことについても、私の論考があるのでそれも
紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihiro.html
以上の通り、朱儒国が伊豆七島、裸国や黒歯国が小笠原諸島であることは間違いないと思
う。
なお、魏志倭人伝には、「朱儒国という背丈三、四尺の人々が住む国」と書いてあるの
で、 この点に触れておきたい。朱儒という言葉は、身体が小さいという意味もあるが、
ここでは人びとを蔑んだ言葉であると思う。陳寿は、使節団が彼らのことを蔑んだ言い方
で説明したので、彼らを三四尺の「チビ」だと書いたのであろう。
また次に、マリアナ諸島のサイパンなどの島々は裸の人が多いのはまったくうなづける話
であるが、問題として考えねばならないのは、これらの島を黒歯国と名付けたことであ
る。最近、最近と言っても、数百年前のことだが、サイパンでお歯黒の歯が出土したらし
い(「データで考える日本の源流」中尾靖之、2005年12月、郁朋社)。このこと
は、卑弥呼の時代においても、サイパンでお歯黒の習慣があったということにはならな
い。しかし、習俗の連続性というものを考えると、古代からサイパンではお歯黒の風習が
あった可能性がある。だから、私は、きっと使節団がお歯黒の話をしたのだろうと考えて
いる。
3、狗奴国・・・尾張という国について
魏志倭人伝の書きぶりから見て、狗奴国が倭国の一国であることについては特に説明はい
らないと思う。問題は、狗奴国の比定地ははたしてどこか、ということである。それを解
く大事な視点は、二つある。一つは、倭国の中で、邪馬台国が脅威に感じるほどの巨大な
軍事大国を倭国の東方面に探すことである。あと二つ目は、台与と前ヤマトとの関係につ
いての認識だ。私は、台与を擁立した陰の権力者が大和にいて、邪馬台国と狗奴国との和
平を実現した実力者がいたと考えているのだが、その実力者ははたして誰か、ということ
を考えねばならない。私のそういう考えと台与と前ヤマトとの関係については、のちほど
縷々説明をしたいと思うが、まずは邪馬台国が脅威に感じるほどの巨大な軍事大国を邪馬
台国の東方面に探すこととしよう。
最初の論点としては、魏志倭人伝の「 其南有22狗奴國」の解釈である。南というのは
何度も申し上げているように、陳寿は李氏朝鮮の地図と同じような認識で魏志倭人伝を書
いているので、実際の日本地図とは90度ひん曲がっている。実際の方角は、反時計回り
に90度ねじって考えねばならない。それが邪馬台国畿内説の基本姿勢であるが、私は、
畿内説の立場に立っているので、倭人伝記載の方向を反時計回りに90度ねじって読み替
える。その点はご了承願いたい。南の方向に狗奴国がある。問題はどこから見て南なのか
ということである。すなわち「其」の解釈である。陳寿は、「九州から遠隔地の22カ国
は、邪馬台国の周辺の国々だが、それらは九州から余りにも遠いので詳しく記述すること
ができない。邪馬台国の周辺の他の国々については、余りにも遠いので詳しく記述するこ
とができません。」と言っている。そこで国々の名称のみを記述すると言いながら、21
カ国を連記し、そして、22カ国のいちばん最後に狗奴国はその南にあると言っている。
したがって、「其」の解釈としては、21カ国全体を指すものと私は考える。21カ国全
体の中心は邪馬台国であるから、「 其南有22狗奴國」の解釈としては、「邪馬台国の
東に狗奴国がある」という意味である。邪馬台国を大和と考えるなら、その東は三重県に
なるが、三重県には巨大な国を想像させるような弥生遺跡はない。私は、邪馬台国近江説
であるので、近江の東は尾張である。したがって、以下において、はたして尾張が巨大な
国なのかどうかを考察する。その上で、最後に、台与のこと、前ヤマトのこと、そして台
与と前ヤマトとの関係について考察することにしたい。
まずは、尾張の弥生遺跡について説明したい。
日本の歴史というものは、おおよそ革命というか根こそぎ文化が入れ替わるというような
大変化は起こらない、そういう歴史であって、私は日本の歴史の連続性というものを重視
している。そこで尾張というときに真っ先に思い出すのが、私は永いこと名古屋に住んで
いたので、「七里の渡し」である。「七里の渡し」は浮世絵などにもたくさん描かれてい
るが、お伊勢参りの人たちが舟で渡った東海道唯一の「海の道」(海の官道)である。そ
して、引き続き連想するのが古代の「海上の道」であり、柳田国男の「海上の道」や旧石
器時代の「海の道」を思い出す。日本はやはり海洋国家だなあとしみじみ思う。その流れ
の中で、私は、尾張という古代の国を理解しなければならないと思う。私は、かって、物
部氏が航海民、海人族と関係があったのは間違いがないのではないか、との観点から、尾
張にも触れながら、物部氏のことを書いたことがある。それをここに紹介してきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/monobe1.html
香取神宮や鹿島神宮もそうだが、熱田神宮も海人族の拠点であって、それぞれ物部氏と関
係が深いのかもしれない。さっそく、熱田神宮付近の古代遺跡を調べることとしたい。
現在,愛知県南部に海部(あま)郡という地名が残っているが、伊勢湾沿岸の「海人」は
単に漁業を主労働としていた一族ではなく,木曽川,長良川,揖斐川の 木曽三川を利用
してそれぞれの上流地域と交流するための技能(造船や操船)を持っていたとされる。ま
た,当時陸路で木曽三川を渡るのは川の増水時期は困難 なことだったろうから,伊勢湾
を船で渡るほうが楽と考えられる。尾張地域と伊勢地域は船でも結ばれていただろう。尾
張氏は「海人」一族と深く関わり,この 地域に強大な力を持った。大海人皇子(後の天
武天皇)の乳母は,尾張郡海部郷出身で,その首長である大海氏の娘であった。 古代の
海・伊勢湾岸は現在の熱田区までであり,断夫山古墳は海岸線近くに造られていた。
名古屋市北区楠町に味鋺(あじま)神社があるが、味鋺(あじま)神社は物部氏との関係
が深い。味鋺(あじま)は「物部氏の可美真手命(うましまでのみこと)の名にちなんで
いる。宇摩志摩治命 (うましまじのみこと) とも表記する。可美真手命は饒速日命の御
子で、物部氏の祖神とされている。神武 の御代、宇麻志麻治命は物部一族を率いて尾張国
に居住したようだ。
下の図に示すように、熱田の地は、海部族の族長である尾張氏の本拠地にふさわしい湾内
の最奥に位置している。 木曾・揖斐・長良の三つの大河で西方面の陸路が遮断された尾
張は、伊勢湾周辺を睨んだ港のある海人族の中枢の戦略基地として古くから機能していた
と考えられる。
弥生時代には、熱田神宮の付近はほとんどが海だったようだ。熱田神宮は熱田台地の南端
に位置し、その北端には名古屋城がある。この図は象に似ておりちょうど熱田台地は象の
鼻に当たる。象の口当たりに鶴舞というところがあるが、私はそこに住んだことがある
が、近くに大きな八幡山古墳という古墳があった。
さて、尾張の集落遺跡であるが、名古屋市西区と清須市にまたがる朝日遺跡(あさひいせ
き)という凄い集落遺跡が、近年、道路工事の関係で見つかった。これは、弥生時代の東
海地方最大級の環濠集落遺跡で、範囲は東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートル、推
定面積80万平方メートルにも及ぶ巨大集落である。
第3節 物部氏と台与
私は先に、「台与と前ヤマトとの関係についての認識だ。私は、台与を擁立した陰の権力
者が大和にいて、邪馬台国と狗奴国との和平を実現した実力者がいたと考えているのだ
が、その実力者ははたして誰か、ということを考えねばならない。私のそういう考えと台
与と前ヤマトとの関係については、のちほど縷々説明をしたいと思う。」と述べた。これ
らのことについて、以下においていろいろと考えていきたい。
まず、台与のことであるが、卑弥呼の宗女であるという。卑弥呼には夫というべき人はい
なかったようなので、宗女とは同族の娘ということになる。台与を擁立した陰の実力者は
誰だ?
私は、大和朝廷の成り立ちについては、記紀やいろんな伝承にもとづく理解も必要だが、
それだけでは正しい認識に立てないと思う。記紀やいろんな伝承にもとづく理解として
は、今のところ、谷川健一が「四天王寺の鷹」で述べている認識がいちばん信用できる論
考である。しかし、それだけではもちろん不十分で、やはり魏志倭人伝との繋がりを考え
ねばならない。 台与と前ヤマトとの関係についての認識だ。私は、台与を擁立した陰の
権力者が大和にいて、邪馬台国と狗奴国との和平を実現した実力者がいたと考えているの
だが、その実力者ははたして誰か、ということを考えねばならない。私は、台与を擁立し
た陰の権力者を物部氏だと考えている。谷川健一の「四天王寺の鷹」についてはのちほど
述べるとして、まず物部氏について述べる事とする。
1、大和盆地の遺跡について(概要)
台与が擁立された年代は、魏志倭人伝には記載がないのではっきりしないが、卑弥呼が古
墳に埋葬されたという魏志倭人伝の記事によって、台与が擁立された年代もすでに古墳時
代に入っていたと考えてよい。しかし、弥生時代が終わってそれほど経っていないので、
台与が擁立された頃の状況は、弥生時代の遺跡を調べる事によって、推察する事とする。
まず、大和盆地の遺跡について概観してみよう。
二上山北麓遺跡群は大阪との府県境に沿って連なる、二上山から寺山にかけての北東側と
南西側山麓に分布する、旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡を総称している。石器時
代の代表的な石材・サヌカイトの一大産地で、その加工技術とともに、ここから全国に石
器文化が波及していった。すなわち、旧石器時代から縄文時代にかけて、二上山を中心と
した人びとの往来が盛んだったと思われる。石器文化については、次を是非参照してほし
い。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekkibunka.pdf
縄文時代は、関東・中部地方を境にして、南西日本細石刃文化と北東細石刃文化が対峙す
ることになるのである。
北東細石刃文化の文化圏として、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏というものがあり、
旧石器時代と縄文時代というものを理解する上で欠くことのできない要素であるので、こ
れも紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enayana.html
歴史の連続性というものを十分認識する事は、正しい歴史観を持つ上で大事な事である。
この文化圏に関連して、私の「黒曜石の七不思議」という論考があるので、これも紹介し
ておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/7husigi2.html
さて、これから大和盆地の縄文時代の遺跡と弥生時代の遺跡を概観するのだが、まず最初
に申し上げておきたい事は、この時代から人びとの往来、それは交易によるものだが、人
びとの往来は全国的な広がりをすでに見せていたという事である。
上の図を見て判るように、大和盆地にも数多くの縄文遺跡と弥生遺跡がある。そのなか
で、縄文時代の代表的な遺跡として布留遺跡と橿原遺跡を紹介しておきたい。また弥生時
代の遺跡については、大和弥生文化の会のホームページを紹介した上で、弥生時代から古
墳時代へと時代が移り変わる時期の特に注目すべき遺跡として、纒向学研究センター作成
のホームページを、それぞれ紹介しておきたい。
布留遺跡: http://inoues.net/club/karakokagi_new23.html
橿原遺跡: http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/
joumon_shousai.html
弥生時代の主な遺跡: http://www.yayoi.sakuraweb.com/cyber-mizuho/iseki/Index.html
纒向遺跡: http://www.city.sakurai.nara.jp/maki_c/info/iseki.html
2、物部氏に関わる遺跡について
平成24年10月28日に天理文化センターで、『国宝「七支刀」の
』と題して、シン
ポジュームが開かれた。
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_10_28.htm
そのシンポジュームにおいて、天理大学付属参考館の日野宏先生が、次のように述べられ
た。すなわち、
『 布留遺跡は天理市周辺では最大の遺跡で、旧石器時代から現在まで連綿と続いてきた
複合遺跡である。天理参考館は1976年から78年にかけて布留遺跡の範囲確認調査を
実施した。その結果、遺跡は布留川を挟んで、現在の天理教本部を中心に東西2キロ、南
北1.5キロの規模を持つ広大な範囲を占めることが判明した。旧石器時代から人が住ん
でいた痕跡があるが、5世紀から6世紀の古墳時代に大きく発展した様子が伺える。
遺跡の南側には杣之内(そまのうち)古墳群が あり、全国でトップクラスの首長墓が築
かれていて、布留遺跡に大豪族がいたことが分かる。布留遺跡と石上神宮との位置関係か
ら、布留遺跡は物部氏の拠点集 落だったと考えられている。そのことを裏付けるように発
掘調査では、住居跡以外に多数の祭りに関わる遺物や、玉工房や武器工房との関連を示す
遺物などが見つかっている。
天理教本部近くの
の下・ドウドウ地区では、幅が15m、深さ12m規模の人工の大
溝が 築かれている。『日本書紀』には履中天皇のとき溝を掘るという記述があり、その
溝に相当すると考えられている。しかし、付近の岩盤は固く、高度な技術を 持った渡来工
人の関与が指摘されている。その大溝の近くで、碁盤の目のように整然と配列された2棟
の建物跡が見つかった。高床の倉庫跡と推測されているが、その規模は東西9.1m、南
北6.6mもあり、5世紀の総柱建物である南郷遺跡や法円坂遺跡、鳴滝遺跡の倉庫跡の
規模に比べても、そん色がない。
また、布留川の両岸の石敷きの上から祭祀跡が見つかっており、そこから祭祀用土器や
祭祀用玉、滑石で造られた剣形石製品などが多く出土している。特に注目すべきは、円筒
埴輪10個分、朝顔型埴輪15∼16 個分の破片が見つかっている。通常、これらの埴
輪は古墳の墳丘部に設けられて聖域を画すためのものだが、布留遺跡の中には古墳はな
い。そのため、祭祀の場 所を囲うために用いられたようだ。しかも、この時期の埴輪と
しては穴が多いのが特徴で、段だらに赤とか白を色分けてしている。
物部氏が軍事氏族であったことを示す遺品としては、1500年前の皮の中から
や柄
など多くの木製の刀装具が60個出土している。その数は全国最多である。また、布留遺
跡は、大量の管玉や滑石製の玉、ガラス製玉鋳型やかなさしを出土しており、玉造り遺跡
としても有名である。さらに鉄滓や鞴(ふいご)の破片なども見つかっていて、鍛冶集団
がいたことが分かる。
鍛冶は当時の最先端の技術であり、物部氏が半島の百済や加耶から最先端技術を携えて
やってきた渡来人を配下に抱えていたようだ。そのことは、百済の地域に特徴的な鳥の足
を形をした鳥足文の土器や、高坏の下の部分にオタマジャクシの形の透かしし穴を持つ咸
安地方独自の土器が発見されていることからも明らかである。』・・・と。
物部氏も大勢の渡来系技術集団を配下に擁していた事は注目すべき点であり、大陸との交
流があった事は明らかだ。しかし、その時期がはっきりしない。私は、邪馬台国近江説の
立場であり、物部氏が近江の邪馬台国から台与を大和に引っ張ってきて、台与の祭祀を引
き継いだと考えている。そして、その大和に入ってきた時期を三世紀の終わり頃と見てい
るが、実は、時期が問題なのである。もし、台与が女王に擁立されてしばらく経ってから
大和に来たのであれば、邪馬台国は近江だという可能性が高くなる。その点については、
今後のさらなる発掘調査と研究が必要である。それを期待したい。
したがって、現時点では、物部氏が女王台与を大和に引っ張ってきたと私が主張するから
には、私なりに、その動機を推察しなければならない。あくまで推察に過ぎないけれど、
私は、邪馬台国の時代に宗教革命が起こって、いわゆる銅鏡祭祀が銅鐸祭祀に取って代
わった。そして、それにともなって石上神宮の神が三輪山の神に取って代わった。私は、
石上神宮の祭祀は台与の祭祀を引き継いだと考えている。 物部神道の誕生である。 その
後、
城氏と物部氏が政治的に対立するようになり、
城氏と物部氏との勢力争いは
城
地方で蘇我氏が大きな勢力を持つまで続くのである。そして、遂に、蘇我蝦夷と入鹿に
よって、物部守屋は殺されてしまうのである。蘇我氏と物部氏との争いは、谷川健一が言
うように、宗教上の争いではなくて、単なる権力闘争なのである。その権力闘争は、
城
山麓における蘇我稲目の時代に始まった。私は、以上のように考えている。そのことはす
でに第5章の
城王朝のところで説明した。蘇我氏と物部氏の権力争いは、宗教上の争い
から始まった。したがって、神道、当時は物部神道であるが、その始まりは、台与の祭祀
である。台与の祭祀こそ、わが国が世界に誇る「神道」の源流は台与の祭祀である。
3、台与の祭祀について
私は今、「台与の祭祀こそ、わが国が世界に誇る<神道>の源流は台与の祭祀である。」
と述べた。わが国の「神道」は、台与の祭祀から始まって、物部神道、そして中臣神道を
経て、現在に至っている。台与の祭祀について考える前に、まず、神道についての大筋的
な流れを見ておこう。
台与の祭祀と伊勢神宮を中心とする現在の神道とは、基本的な断絶はないのだが、藤原不
比等によって、伊勢神宮が建立され、天照大神が誕生した。これは大改革と言って良いほ
どの素晴らしい変革であり、日本の国是がここに定まった。では、不比等によって誕生し
た天照大神について、その神格を説明したい。
天照大神とは、そもそもどのような神か? その神格を明らかにしなければならない。こ
れはもう哲学の問題だ。記紀における神話をもとに、哲学的思考を重ねなければならな
い。それは、どうもヒルコとの対比の中で、考えねばならないようだ。その点について
は、河合隼雄がいちばん核心部分に迫っているようだ。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-f2d4.html
それにしても、藤原不比等は、何と奥深い戦略を考えたものだと思う。彼は、自分の氏神
としての鹿島神宮を物部氏から奪い取ると同時に、天照大神を祀る伊勢神宮を作った。そ
して、それと同時に、記紀において天照大神を中心に神々の物語を作った。いわゆる日本
神話の誕生である。ということで、私は,河合隼雄のヒルコ論を念頭において、天照大神
の神格について、重要な点を語らねばならない。神の存在について語ること、神というも
のはどこにいるのか、また神は、人間に対してどういう働きをするのか、それはもう哲学
の問題である。天照大神は伊勢神宮にいる。何故伊勢にいるのか、そして、その天照大神
は、私達日本人に対して、どういう働きをするのか、それを考えねばならない。
日本にはさまざまな神がいる。不比等の頃の豪族は、それぞれにおのれの祖神を祀ってい
た。それらの神々を大事にしながら、かつ、天皇を中心に全体の秩序立てを図る神、それ
が天照大神である。女性の太陽神、天照大神でなければならないのである。河合隼雄が言
うように、男性の太陽神ではダメなのである。
本音と建前、それをうまく使い分けるのが日本人独特の知恵である。今ここでの脈絡から
言えば、本音は各豪族の祖神。各豪族は本音で祖神に祈りを捧げながらも、建前として
は、天皇の祖神、天照大神に祈りを捧げ、天皇に忠誠を誓うのである。これによって、朝
廷の権威は揺るぎないものになる。不比等は、何と巧妙な社会構造を考え出したものであ
ろうか。これが、河合隼雄の言う中空均衡構造である。
中空均衡構造については、私の論考があるので、それを紹介しておきたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-8dca.html
日本の歴史と文化の心髄は、違いを認めるところにある。そこが一神教の国と違うところ
である。その源流には中臣神道があり、さらに
れば、台与の祭祀に
り着く。台与の祭
祀のいちばんの特徴は、祭祀道具が銅鏡であるということだ。少し銅鏡について考えて見
たい。
奴国との争いが生じた時、魏の皇帝は、親魏倭王卑弥呼に黄幢を授与した。邪馬台国は、
それを旗印に、多分、狗奴国の周辺の豪族を糾合し、狗奴国を降伏せしめることができ
た。魏の権威は、絶大であったと思う。したがって、魏の皇帝から下賜された銅鏡も権威
の象徴であったと思う。台与が祭祀の際に使った銅鏡は、威信財としての性格も持ってい
たのではなかろうか。
台与は、狗奴国も含めて、倭国のクニグニに威信財としての銅鏡を積極的に配ったと思
う。
銅鏡のもう一つの用途は、いうまでもなく本来の用途、すなわち祭祀である。では、これ
から、台与は銅鏡を使って何を祈ったか、それを考えてみよう。
台与の祭祀の道具は鏡。卑弥呼の祭祀の道具は銅鐸。しかし、道具が異なるとはいえ、そ
れを使って祈る対象としての神や祈る内容は、卑弥呼との場合も台与の場合も同じであっ
た思われる。まず、何を祈ったか? 私は、豊穣を祈ったのだと思う。これは旧石器時代
や縄文時代における祈りと断絶はない。特に弥生時代に稲作が行われるようになってから
は、富をもたらすものは稲作であり、富の蓄積によってクニグニができていった。した
がって、各豪族が豊穣を祈るのは当然であって、私は、卑弥呼も台与も豊穣を祈りなが
ら、クニグニの繁栄を祈ったのだと思う。だとすれば、卑弥呼や台与の祈った神は、大地
の神・地母神であり、天にまします神・太陽神であったと考えられる。これを旧石器時代
や縄文時代でいえば、前者は「炉」すなわち「ホト神さま」であり、後者は「石棒」すな
わち「柱」である。である。私は、日本伝来の神をそのように捉えているので、神に対す
る断絶はなく、今に続いていると考えている。祭祀の道具は変化してきている。しかし、
基本的に神道の祭祀道具な「鏡」である。その源流に台与の祭祀がある。伊勢神宮も、基
本的には、「ホト神さま」と「柱」に対する信仰に支えられている。このことについて
は、かって、少し書いたことがあるので、ここに紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/maramyo02.html
中国でも祭祀道具として使われていたようであるが、日本に銅鏡が伝わると、それが権威
の象徴として使われ始めるとともに、太陽信仰のための祭祀道具となった。太陽信仰は日
本の旧石器時代からの祭祀と同じである。そういう大きな流れの中で、台与の祭祀では、
太陽神という具象的な神が作り出された。それがやがて天照大神という皇祖神に変身する
のであるが、その源流に台与の祭祀があることの歴史的意義は大きい。
おわりに
中村雄二郎は、その著「哲学の現在」の中で「歴史への人間の関心にはきわめて本質的な
ものがあるようだ」、「私たちは、自分たちの生きている時代や社会をよりよく認識する
ために、また、込み入った問題、解決しにくい問題に対処して生きていくためにも、自分
たちの時代、自分たちの社会をできるだけ総体的に、できるだけ多角的に映し出す鏡が必
要だ。歴史とは、私たち人間にとって、まず何よりもそういう鏡ではないだろうか。」と
述べている。さらに先生は、哲学者としてこのようにも言っている。「私たちは身体をも
つのではなく、身体を生きるのである。歴史についても、それと同じように、私たちは人
間として歴史をもつのではなくて、歴史を生きるのである。すなわち、私たちにとって、
身体とは皮膚で閉ざされた生理的身体だけではなくて、その活動範囲にまで拡がってい
る。それと同じように私たちは人間存在として自己と共同社会との絡み合いのなかで、瞬
間、瞬間を生きながらにそのことによって、重層的な時間から成る、出来事としての歴史
を生きる。ということは、つまり、歴史とは、拡張された私たちの存在そのものだという
ことである。そして、私たちは、人間として自分自身を知ることが必要でもあり、根源的
な願望であるとすれば、その欲求と願望はおのずと私たちの存在の拡張としての歴史に向
けられるであろう。いいかえれば、私たちにとって歴史を知ることは、すぐれて自己を知
ることなのである。ここに、私たち人間にとって、歴史を知ることの格別な意味があり、
またそのために、私たちは歴史に強く惹かれるのだといえるだろう。」
中村雄二郎が言うように、私達は歴史を生きている。国家も同じことだ。これから日本は
どういう国になっていくのか、あるいはどういう国に向かっていくべきなのか? それを
正しく認識するためには、歴史と文化を正しく認識しなければならない。国家のあり方に
関係するのだ。したがって、政治家はもちろんのこと、国民も正しい歴史認識を持たなけ
ればならない。
私はこの論考で、藤原不比等の深慮遠謀として伊勢神宮と天照大神が創られたことを述べ
た。神道の源流は台与の祭祀にあるが、その祭祀が今なお現存するのが伊勢神宮と天照大
神である。現在ある神社の原点に伊勢神宮と天照大神が存在する。伊勢神宮と天照大神は
神道の原点であると言って良い。もちろん、伊勢神宮と天照大神は、天皇ゆかりの存在で
あるけれど、それらがわが国の神道の原点であるならば、私達は、伊勢神宮に特別の敬意
を払い、天照大神に親しみと尊敬の念を持たなければならない。そして、ここがもっとも
大事な点だが、わが国が天皇を戴いていることに誇りを持たなければならない。天皇側が
国民の統合の象徴であることを思えば当然のことであろう。天皇は「祈りの人」である。
それはこの度の東日本大震災における天皇と皇后の振る舞いを見ればはっきりしている。
私は、電子書籍の「祈りの科学シリーズ」の(5)「天皇はん」を書いたし、また電子書
籍『天皇と鬼と百姓と・・「天皇のいやさか」を祈る』を書いた。皆さん方には、是非、
読んでいただきたい。よろしくお願い申し上げる。
http://honto.jp/ebook/pd_25231958.html
http://honto.jp/ebook/pd_25249961.html
さて、日本の宗教は、神道を基本としつつも神仏混淆である。これは仏でないかも知れな
いけれど、大黒さんや弁天さんなどの、シヴァ教を源流とする「七福神」に対する信仰も
盛んである。最近では、キリスト教やイスラム教などさまざまな信仰が渦巻いている。日
本は、多神教の国なのである。神道でなければならないとか、仏教でなければならないと
か、そういうことに国民は一向無頓着ではあるが、日本はそれでよいのだと思う。しか
し、私としては、歴史認識としては、やはり伊勢神宮と天照大神を原点とする神道に多く
の国民が重大な関心を持ってほしい。それが藤原不比等の深慮遠謀であり、私は藤原不比
等という人に絶大な尊敬の念を禁じ得ない。
日本は異国の神も含めて神々の国である。私達はそういう「日本の歴史と文化」に自信と
誇りを持とう!「日本の歴史と伝統文化」の心髄は「相手の立場に立って考えることであ
る」。そして天皇は「日本の歴史と伝統文化」の象徴であるが故に、わが国民統合の象徴
なのである。私達は天皇とともにそういう「日本の歴史と伝統文化」を今後とも末永く引
き継いでいかなければならない。それが「日本の精神」だ!
ところで、「靖国神社」には、現在、天皇は靖国神社にお参りされていない。誠に残念な
ことである。天皇が靖国神社に参拝される、その日の一日も早く来ることを念願して、そ
してまた、「日本の精神」を生きる私達のこれからに生き方を思案しながら、筆をおきた
いと思う。
次回は、「日本精神と靖国神社」というテーマで、「日本の歴史と伝統文化」の心髄は
「相手の立場に立って考えることである」という観点から、私の思いを書きたいものだ。
乞うご期待!
2015年3月4日
国土政策研究会
会長 岩井國臣