塩谷 康生 しおや・やすお 栃木県生まれ。岩手大学農学部獣医学科卒業後、1970∼79年、農林省中国農業試験場畜産部研究員。1979∼87年、同畜産 試験場繁殖部研究員。総理府技官、カナダ農務省疾病研究所在外研究員などを経て、現在、(独)農業・生物系特定産業技術 研究機構・畜産草地研究所家畜育種繁殖部長。東京農業大学農学部客員教授。獣医学士、農学博士。 草創期でラッキーだった 牛や牧場といえば牧歌的なイメー ジですが、今、子牛はほとんど人工授精で生まれているそうです ね。 ええ。自然交配はゼロに近いです。今では、ほとんどの雌牛に優良な雄牛の凍結精液を人口授精するため、 ええ。自然交配はゼロに近いです。 牧場では雄牛を飼う必要がなくなっています。日本全体では雌牛約170万頭に対して、雄牛は700∼800頭 牧場では雄牛を飼う必要がなくなっ しかいないのが現状です。 そもそも人工授精は、戦前から行われていたのですよ。自然交配で性病が広がるのを防ぐためでした。次第 そもそも人工授精は、戦前から行わ に、優良な雄牛を選別するようになり、新鮮精液でなく凍結精液を使えるようになり・・・と研究が進んで、 に、優良な雄牛を選別するようにな 一気に普及したのです。有名な雄牛の一頭である「北国7の8」号など、すでに死んでいるのに、凍結精液で 一気に普及したのです。有名な雄牛 これまでに計20万頭もの子牛を生ませています。 現在は凍結精液を使う以外に、受精卵移植、体外受精卵 これまでに計20万頭もの子牛を生ま 移植、受精卵クローン、体細胞クローンといった技術でも、子牛が生産されています。 移植、受精卵クローン、体細胞クロ ※【図解】受精卵移植、体外受精卵移植、受精卵クローン、体細胞クローン技術の違い ※【図解】受精卵移植、体外受精卵 そういった技術の流れのどのあたりから研究をスタートされたのでしょうか。 受精を雌牛側から見るところからスタートしました。だから、ラッ キーだったと思います。というのも、それまでの家畜研究は、ずっと 雄牛=精子に関してのものが主流で、私が就職したころにようやく、 雌牛=受精卵の研究が始まりかけていたところだったのです。 最初は島根県の中国農業試験場畜産部で、雌牛の発情を中心に研究し ました。ここは、肉用牛では日本最高レベルの研究所です。 牛の発情 は21日周期ですが、人工授精を失敗しないためには、発情の時期、時 間をできるだけ正確に見極める必要があります。ところが当時は、牛 の多頭飼育が始まったばかりで、群れで飼った場合に、どんな発情の 状態になるかのデータがなかったのです。 それで、休日でも必ず試験 場に顔を出しては、牛を観察したり、発情した牛を18時間ぶっ続けで 追跡調査して、いつエサを食べた・いつ鳴いたと記録をとったり、発情すれば、夜でも種つけしたり……と いう生活を10年続けて、肉用牛の肥育、繁殖、育種全般にわたって、多くの経験と知識を得ることができま した。 【図解】受精卵移植、体外受精卵移植、受精卵クローン、体細胞クローン技術の違い 受 精 卵 移 植 :雌牛に過排卵誘発剤(ホルモン)を打ち人工授精→受精卵を複数取り出す→代理母に移植、受胎さ せる 体 外 受 精 卵 移 植 :と畜した雌牛の卵巣から未成熟卵子を取り出す→培養して体外受精卵を作る→代理母に移植、 受胎させる 受 精 卵 ク ロ ー ン :受精→細胞分裂が進んだ初期の受精卵を、1つひとつの細胞(割球)にわける→別に用意した 除核卵子(未受精卵から核を取り除いたもの)に核移植→電気刺激で細胞融合させて培養→代理母に移植、受胎さ せる 体 細 胞 ク ロ ー ン :皮膚など体の細胞を分裂させる→別に用意した除核卵子に核移植→電気刺激で細胞融合させて 培養→代理母に移植、受胎させる 次に移った畜産試験場で、世界初という研究成果を出されたそうですね。 1985年に、と畜された雌牛の卵巣から取り出した未成熟卵子を用い て、体外受精技術で子牛を生産できたのです。 それまで哺乳動物 は、必ず子宮なり卵管なりを通らないと受精が起きないとされていた のですが、これで実験動物などで学問的に行われていた体外受精が、 実際の家畜生産技術として使える事が実証されました。しかも、大動 物で成功した。これは画期的なことだと自負しています。 体外受精卵による双子試験 (写真提供:湊 芳明博士) そこにいたるまでに、どんな難題がありましたか。 当時、受精卵を入手する方法は、雌牛にホルモン注射を打って人工授精し、約2週間後にその受精卵を回収 当時、受精卵を入手する方法は、雌牛 する、というものでした。その際、子宮を洗うため、その後2カ月は同じ雌牛は使えません。つまり、3カ月 する、というものでした。その際、子 に1度しか受精卵を取り出せないので、毎月、取り出すには、常時、3、4頭が必要です。実際には1回に に1度しか受精卵を取り出せないので 2、3頭から取りますから、都合20∼30頭は必要。ここまでしても、1回に使える受精卵は10個ほどです。 2、3頭から取りますから、都合20∼ 手間もかかるうえに、効率が悪いですね。 そこで私は、当時指導していただいていた花田章先生とともに、より 効率化させた方法を考え始めたのです。 それは、食肉処理場でと畜した雌牛を活用することでした。処理場で は卵巣は捨てるものですから、行けば無料でもらえます。自分で卵巣 を切り取って持ち帰り、注射器などを使って卵胞から内容物を取り出 し、その中から未成熟卵子を選び出して、培養を試みたのです。 そして、培養器の中で卵子を成熟させ、受精させることができまし た。この体外受精卵から子牛を生ませることができたのです。 卵子の吸引採取。注射器で卵子を吸い取 る 成功するまで、周囲の反応はどんなでしたか。 半信半疑だったようですね。というのも、牛を含めた多くの哺乳動物の卵巣には、生まれた時にすでに何十 半信半疑だったようですね。というの 万という卵母細胞(卵子)が存在するのですが、発情ごとに1個成熟するだけで、残りは成熟しません。死 万という卵母細胞(卵子)が存在する んだ雌牛のそんな残り物をもらってきて、培養器の中で成熟させたって、欠陥品だろうと。だから、牛を借 んだ雌牛のそんな残り物をもらってき りるのに苦労しました。牛はみんなの実験用ですから、おいそれとは貸してもらえなかったのです。 りるのに苦労しました。牛はみんなの そのうちに、未成熟卵子を使ってどうやらうまくいきそうだとなると、ほかの研究所や試験場からも食肉処 そのうちに、未成熟卵子を使ってどう 理場に卵巣をもらいに来るようになって、一時は取り合いのような状態になってしまいました。こちらが最 理場に卵巣をもらいに来るようになっ 初に始めたのだからと、優先的にもらうように取り決めておさまりましたが。 初に始めたのだからと、優先的にもら まさに、明けても暮れても受精卵、という日々だった… ええ。受精卵を初めて実体顕微鏡(※)で見たのは、畜産試験場に来 てからですが、その時の感動は、なんとも表現できないほど新鮮でし た。それまで写真でしか見たことのなかった受精卵が、4細胞、8細 胞となって、実体顕微鏡の下に現れてくる。金色に光って見えたと 思ったほどです。 (※)実体顕微鏡 対象物体を実物そのものに、3次元で水平垂直にゆがみのない状態で観察できる 顕微鏡 3日目の牛の受精卵の様子。分裂した細 胞の一つひとつ(割球)がはっきりと見 える クローン動物はモンスターか 最初は研究者でなく、獣医になるおつもりだったとか。 ええ。私は生まれが那須ですが、義兄が酪農組合で、牛の種つけ=人 工授精師をしていたのです。オートバイに乗って走り回っている姿が かっこよくて、自分もあんなふうになりたいなと。当時は、医者でも 車を持っている人は少なかったのですよ。 また、中学時代の理科の先生の影響もあります。登山の体験談や、第 二次世界大戦中の特別攻撃隊員としての経験談などを交えながら、と てもおもしろい授業をしてくださったのですが、その先生が獣医師 だったのです。でも、何よりの理由は、馬ですね。 えっ、牛でなくて、馬ですか。 実は私は、牛以上に馬が大好きなので 実は私は、牛以上に馬が大好きなのです。昔は、田植え時期には各農家からたくさんの馬が田んぼに出て働 いていました。日が暮れだすと、青年たち(兄貴分に当たる年代の人)が集まり、馬にまたがって馬洗場に いていました。日が暮れだすと、青年 行き、馬の泥を落としていました。 小学1∼2年生の頃、私もその馬に乗りたくてたまらなかったのですが、乗せてもらえませんでした。中学生 小学1∼2年生の頃、私もその馬に乗り になる頃には、耕耘機を使う時代になって、馬もいなくなり、思いは結局、叶いませんでした。それで、獣 になる頃には、耕耘機を使う時代にな 医になって馬に乗るぞ、と心に決めたのです。 医になって馬に乗るぞ、と心に決めた 大学入学前は、消滅しかかっていた馬方(馬車屋)さんに弟子入りして、山から木を運び出す手伝いをし 大学入学前は、消滅しかかっていた馬 て、半月ほど過ごしました。 大学に入学すると、すぐに馬術部に入って、3年半、授業以外の大部分を馬術部で過ごしました。念願の獣 大学に入学すると、すぐに馬術部に入 医師の資格も取得しましたが、農林省中国農業試験場畜産部(現:近畿中国四国農業研究センター)に就職 医師の資格も取得しましたが、農林省 して、研究者の道に入り、牛と関わることになりました。馬が私を牛の研究へと導いてくれたといえます。 して、研究者の道に入り、牛と関わる その牛ですが、どんなところをかわいいなと思われますか。 体外受精などで受胎させた牛が分娩する頃になると、夜、見まわりに 行くのですが、特別に餌を与えなくても、日が重なっていくと、「今 夜もおじさんが見に来たのか」という感じで、すり寄ってきます。ま た、分娩時に、子牛を引き出す介助をしてやると、何となく人間に 頼ってくるような態度が出てきます。すると、自然に、「俺も頼りに されているんだから、しっかり引っ張ってやらないといけないな」と いう気持ちになりますね。 生まれたばかりの子牛を舐め、起立させ ようとする母牛 体外受精卵移植技術を一緒に研究をされた 花田先生と、激論を闘わせたりしたことはありますか。 それはなかったですね。私は、就職後10年間、肉用牛そのものを使って試 それはなかっ 験をしていたので、受精卵については全くの新人でしたから、激論できる 験をしていた だけの素地がありませんでした。ただ、食肉処理場の人たちとのつき合い だけの とか、受精卵の移植、牛の扱い方などについては、それなりに認めていた とか、受精卵 だいていたと思います。 だいていたと 花田先生とは、ほぼ毎日、お昼どきに、ほかの試験場から来ていた研究員 花田先生とは の方々、パートさんも一緒に一つ机を囲んで、弁当を食べながら、話をし の方々、パー て過ごしました。先生は、研究費がなくて実験に苦労したことや、アメリ て過ご カ留学時代の恩師で、体外受精研究の元祖、チャン博士(※)の指導の厳 カ留学時代の しさなどをたびたび聞かせてくださいました。 しさなどをた 受精卵採取中の花田章博士(中 央)、杉江佶(すぎえただし) 博士(右) 使い捨てのプラスチックシャーレやガラス器具なども、あのころは洗浄再 使い捨てのプ 生して使用していました。今では考えられないことです。 生して使 (※)M.C.Cha (※)M.C.Chang博士 中国の大学を卒業後、ケンブリッジ大学に留学。家畜 中国の大学を卒業後、ケンブリッジ大学に留学。家畜繁殖で学位を取得し、アメリカで哺乳動物の受精・発生に関する先駆的 な仕事をした 体外受精卵の研究のほかに、「今・ここ」ならでは、という研究はありましたか。 ええ。東北農業試験場時代の研究が、そうだったと思います。東北で古くから、放牧主体で飼われている短 ええ。東北農業試験場時代の研究が、そうだ 角牛という牛がいます。肉用にも乳用にもなるのですが、肉にすると、赤い汁が出るので、消費者にはあま 角牛という牛がいます。肉用にも乳用にもな り好まれません。それなら、黒毛和種の子を産ませて、短角牛の乳で育てればいいのでは、と考えたので り好まれません。それなら、黒毛和種の子を す。実際に生まれた子牛は、70万円で売れたとか。短角牛の子牛なら、15∼16万円ですから、短角牛農家 す。実際に生まれた子牛は、70万円で は大喜びでした。これは、日本独自の技術を応用してみたものです。 は大喜びでした。これは、日本独自の技術を 日本独自の技術といいますと・・・ 乳用牛のホルスタインに肉用牛の黒毛和種の子を生ませるの です。これは、日本では、乳用牛の肉より肉用牛の肉のほう が値段が約3倍も高いこと、なかでも、柔らかい霜降り肉と なる黒毛和種が、圧倒的に消費者に好まれていることが関係 しています。 ホルスタイン種から産まれた黒毛和種の双子 この方法は一石二鳥なのです。つまり、ホルスタインは乳を より多く出す品種へと改良が進む過程で、体がどんどん大き くなったために、胎子も大きく、初産(最初の牛を生む)牛 が難産になり、母子ともに死んでしまう場合もあります。そ のため、より小さい黒毛和種の受精卵を移植して、お産を軽 くし、かつ、生まれた子牛を高く売るというわけです。 1988年の牛肉の輸入自由化もあって、この方法は外国産牛肉に対抗する有効な手段として、この20年で すっかり定着しています。 研究は、チームでするもの 世界的に見て、日本の家畜研究や技術はどんな位置にあるのでしょうか。 私は体外受精の指導、研究交流などで、中国、韓国、カナダ、アメリ カ、チリー、ポーランド、チェコなどの人々とも交流しましたが、日 本が開発した精度の高い技術は、海外でも高く評価されています。 受精卵を採取する杉江佶博士。杉江博士 は、日本での受精卵移植技術におけるパ イオニア 日本は受精卵移植は世界に先駆けて着手しました。畜産試験場の杉江 佶(すぎえただし)先生がパイオニアで、1964年、世界ではじめ て、開腹をしない非手術的方法で子牛を生ませています。実は、私が 体外受精卵の研究をすることになったのも、受精卵移植に関しては杉 江先生がすでに長年研究されておられたからなのです。現在、世界中 で毎年50万頭以上の牛に受精卵が移植されています。日本はその1 割、約5万頭に移植されています(生産される牛は、この内の4∼5割 くらい)。 畜産の技術といえば、すぐにクローンヒツジ「ドリー」が思い浮かびます。「クローン」とはどん な意味なのでしょうか。 もともと、植物の取り木や挿し木に使われる言葉で、体細胞から作られるという意味を含む「そっくりなも もともと、植物の取り木や挿し木に使 の」ですね。チューリップの球根を地中で増やすとか、アジサイを挿し木するのもこのクローン技術です。 の」ですね。チューリップの球根を地 家畜研究の分野では、親とまったく同じ遺伝子を持つ動物を「クローン」といいます。この技術で作られた 家畜研究の分野では、親とまったく同 個体は、遺伝的にすべて親と同一の性質を備えているため、優れた品種を効率よく増やせるのです。 個体は、遺伝的にすべて親と同一の性 世界初の体細胞クローンヒツジ「ドリー」誕生(1997年)の裏には、日本の研究者が長年にわたって蓄積 世界初の体細胞クローンヒツジ「ドリ した数々のデータが使われています。これらは「ドリー」誕生にも匹敵する大きな功績です。ちなみに現 した数々のデータが使われています。 在、日本では受精卵移植が年間1万頭おこなわれ、うち子牛が2∼3千頭生まれています。受精卵クローン牛 在、日本では受精卵移植が年間1万頭 は1990年以降700頭、体細胞クローン牛は1998年以降430頭が生まれています。 は1990年以降700頭、体細胞クロー 研究者の方々は、体細胞クローン牛の肉を試食しているのでしょうか。 ええ。私も試食しました。ある研究機関が、食肉処理場で、絶対に一 般のところには出さないという約束で、と畜してもらい、200∼ 300g送ってくれたのです。ステーキとすき焼きにしましたが、霜降 りでおいしかったですよ。私は本当は3∼4kgくらい、それも骨がつ いたままのがほしかったのですが(笑)。不安はありませんでした。 どの牛も健康でないと、途中で病気になって死んでしまいますし、異 常があれば、食肉処理場のと畜検査を通りません。検査に合格してい るなら、問題があるわけがないという認識です。 技術が進みすぎて、私たちの理解が追いつかないようなことはありませんか。 サイエンスキャンプの様子(2003年) クローン動物、とくに体細胞クローン動物は、モンスターのようなイメージを持たれている上に、こんな技 術がヒトにも応用されたら……という不安と結びついてしまいました。技術にとって、不幸なことです。私 たち研究者は技術の進歩はすべて善だと思い、努力してきましたが、その過程で、一般の人たちとの乖離が 進んでいたことに気づきませんでした。 農水省ではクローン牛研究の情報公開を強化し、消費者などへの説明会、学識有識者らとの懇談会などを積 極的に行っています。畜産試験場でも、牧場の一般公開デーで、実際にクローン牛を見てもらいながら説明 したり、高校生対象のサイエンスキャンプを開催したりと、多くの人との交流を大切にしています。 これからも一般の人たちにより新技術への理解を深めていただくよう努めながら、日本独自の産業化の方向 性をさがしていくことが大切だと考えています。 将来、家畜研究の分野に進みたいと考えている人たちに、どんなことを期待されますか。 人類は長い歴史の中で、家畜を改良して利用してきました。畜産物は私た ちの生命と健康を守る大切な食物で、それを安全、安価に生産していくた めには、人工授精や受精卵移植などに示されるような高度な技術を開発し て利用していくことが必要です。若い人々に、新しい技術開発に繋がる研 究を期待しています。 また、私は学生時代を振り返って、1つ反省することがあるのです。母校 の先輩「宮澤賢治(※)」のことをもっと知っておきたかったなと。 賢治は自分の学識を農民の為に使い、正直に生きた。なかなかできること ではありません。皆さんも自分の学校の歴史や、卒業生にどんな人がいる かを知って勉強することも、よいことだと思います。 (※)宮沢賢治 1896(明治29)年、岩手県生まれ。「雨ニモマケズ」「風の又三郎」「銀河鉄道の 夜」などの名作で知られる。教育者、農業者でもあり、天文・気象・地理・歴史・哲学・宗教・化学・園芸・生物・美術・音 夜」などの名作で知られる。教育者、 楽などにも精通していた。盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村師弟の教育にあたり、30歳で退職。みずか 楽などにも精通していた。盛岡高等農 ら農民講座を開設し、青年たちに農業を指導したが、1933(昭和8)年、37歳の若さで死去した。 ら農民講座を開設し、青年たちに農業
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