水坤 寄稿 沖縄復帰 40 周年 ひとしお の感慨 株式会社日水コン/九州支所/支所長 ■1.はじめに 町田幹彦 人は右」を通行することになりました。 その「ある日」は、昭和53年7月30日であった 今年沖縄県が本土復帰し、40 周年を迎えまし ため、沖縄県では「730:ななさんまる」として、 た。 法改正に向けて事故が起こらないように県民に啓 昭和47年5月15日、沖縄が日本に復帰し新生沖 発していました。当時、世界王座防衛を重ねてい 縄県としてスタートするに当たり、県知事となっ たボクシングの具志堅用高が得意の左パンチを出 た屋良朝苗知事は県民を代表して、それまでの沖 して、 「車は左」と新聞やテレビ等で広報活動をし 縄が歩んできた苦難の歴史を振り返りながら、 ていたのが懐かしく思い出されます。 「・・言いしれない感激とひとしおの感慨を覚え 私も6月に赴任して約2ヶ月間、やっと沖縄県 る・・」と有名な言葉を残しました。 企業局のパトロールカーで右側を走るのに慣れて 加えて「・・復帰は強い願望であり、正しい要 きた矢先、また、左側に戻るのに戸惑いました。 求である・・」さらに、未来を見すえ「・・自ら 通行方向の切り替え当日、深夜零時、交差点の の運命を開拓し、 歴史を創造する世紀の大事業・ ・」 信号機が左右両側に設置され、既に掛けられてい としています。 るシグナルのカバーを外し、もう一方に掛け直す、 その後、国の振興策等によって上下水道、道路 あるいは撤去する。右側に駐車している車を左側 など社会基盤の整備、県土づくりが進み、県民の暮 に移動する。改正を知っているのに駐車しておい らしは豊かになったはずですが、 普天間移設に代表 た車がないと探す運転手、車に乗ったものの運転 される基地問題はますます混迷を深めています。 に戸惑う女性などなど、慣れ親しんだルールや法 平成 24 年5月 15 日(40 周年記念式典の日) 、た 令を変更することは、かなりの混乱を招くと実感 またま沖縄にいた私も久しぶりにこの式辞におけ した瞬間でした。 る宣言文に触れ、水コンサルタントの立場で沖縄 県の上下水道事業の一端をお手伝いしてきたもの として、 「ひとしおの感慨」を懐きました。 ■3.今は昔 40周年記念式典の当日発刊された地元紙の記事 ■2.ナナ・サン・マルの思い出 を少し拾い読みしてみると、今は昔のオキナワの 現状が垣間見えます。 私は入社まもなく約2年間沖縄県に出向してい る時期がありました。初めて沖縄に赴任したその ①人口は、全国一の出生率(1.79)や女性の平均 年(昭和 53 年)は、復帰後の大事業の一つである 寿命の長さも手伝って約 1.4 倍になっています。 道路交通法の改正年度でした。 また、県民に占める15歳未満の年少人口比率も 沖縄は戦後の米軍統治下で、 「車は右、人は左」 17.7% と日本一であり、今のところ温暖な気候 を通行していましたが、ある日を境に「車は左、 の中で子供とお年寄りがバランスよく住んでい 65 表-1 県内データ比較(復帰時) 項 目 1972 年(復帰時) 2012 年(40 年後) ① 県 内 人 口 96 万人 140 万人 ②入 域 観光客数 56 万人 553 万人 ③米 軍 基地面積 27,900ha 22,800ha ④ 県 民 所 得 約 80 万円 / 人・年 205 万円 / 人・年 ⑤ 企業局平均取水量 228,000㎥/ 日 432,000㎥/ 日 *新聞その他資料参照:集計年月日が異なるので概数 ます。 活用してきましたが、人口の増加や本島中南部 への人口集中とともに、長期間にわたる渇水や ②観光客は、 「奇跡の1マイル」と呼ばれた那覇市 断水が始まりました。これが復帰後の大きな悩 国際通り、 ちゅら海水族館などの人気スポット、 みであり、屋良知事は本土復帰を「・・運命の TV ドラマの放映等も手伝って約 10 倍になって 開拓・・世紀の大事業・・」としましたが、上 います。さらに、1,000万人を目指して、観光客 下水道事業は、復帰後からダムや上下水道施設 誘致を進めています。 の建設など世紀の大事業が始まっています。 ③米軍基地面積は、周知の通り国内の米軍基地や 訓練施設の大半を負担しています。実際、水コ ■4.困難な水源開発 ンサルタントとして、新設公共施設の建設やイ 4.1沖縄県の水道 ンフラ整備の計画をする度、その適地の少なさ 沖縄県の水道は、戦後、米軍水道から琉球水道 とは逆に基地の存在の大きさに気づかされま 公社へと引き継がれていましたが、復帰を機に国 す。 内法の地方公営企業法と水道法に基づき、企業局 会員の皆様にも沖縄県で最適な施設計画を立 の設置とともに沖縄県へと引き継がれました。 案しても用地選定において、大きな計画変更を 企業局最初の大事業は、昭和50年7月本島北部 余儀なくされた経験をお持ちではないでしょう で開催された沖縄海洋博覧会に向けて名護浄水場 か。 他の水道施設の整備を急ぐことだったとお聞きし ています。 ④沖縄県では振興策によって40年間で10兆円以上 復帰から沖縄振興開発計画に従って様々な施策 が投じられたと言われています。復帰当時の県 を実行してきた企業局において、私が出向してい 民所得は、米ドル、円建ての表記や基地収入の た昭和53〜55年は、第1次振興計画も終盤に近づ 関係で明確に示せていないようですが、知人か いていました。しかし、その計画最終年(昭和 56 ら聞いた家賃と月給の関係から、80 万円以下 / 年6月)には未曾有の渇水が始まり、給水制限が 年としておくと2~3倍にはなっているようで 326 日間にも及び翌年7月まで続く大変な状況で す。 した。 これらの経験を踏まえて、沖縄県企業局はダム ⑤沖縄本島の用水供給事業を経営する県企業局に ○人工降雨 ○屋久島からの長距離海底送水 います。沖縄には 300 以上の河川があると言わ ○雨水利用 ○海水淡水化施設 れていますが、いずれも中小河川で全県民の生 ○地下ダム ○海中貯留タンク(マンボー計画) 活用水を賄える大きな河川はありません。 ○下水処理水の再利用 このため県民は昔から雨水や井戸水も有効に 66 による水源開発のほかに、 よれば、表のように平均取水量は2倍になって など、種々の驚くべき提案から実行可能な施策ま 表-2 沖縄県海水淡水化施設の概要 ① 名称・場所 沖縄県海水淡水化センター(沖縄県北谷町宮城 1-27) ② 施設規模 取水量:108,000㎥ / 日 ③ 方式・膜の種類 逆浸透(RO)法 スパイラル型ポリアミド複合膜 ④回収率 40% ⑤ 取水・放流方式 取水:海底取水管方式 放流:水中拡散方式 ⑥ 建築施設 建築面積:約 9,000㎡ 構造:RC・PC 造 生産水量:40,000㎥ / 日 で、開発可能な水道水源を求める作業が進められ ていました。 ていました。 その後、沖縄県の皆様にも海水淡水化施設の完 成以降、主要ダムの完成も相俟って、長期間渇水 4. 2新たな水源(海水淡水化施設) がないとお聞きしています。 中でも、海水淡水化施設の導入は、私にとって 沖縄県の上下水道事業における世紀の大事業は も思い出深い計画の一つで、平成元年の導入検討 まだまだ続いています。 の開始から平成9年の施設完成までお手伝いさせ 我々の技術提案が「平和で、明るい、豊かな県 ていただきました。 づくり」を目指した屋良朝苗知事の思いに少しで それまでも長崎県や沖縄県他の離島に、200〜 も貢献できているか自問自答しながら、これから 500㎥/日程度の小規模海水淡水化施設はありま も持続する上下水道事業を支える水コンサルタン したが、離島振興における飲料水供給としての役 トとして、頼りになる存在でありたいと考えます。 割だったため、この事例は国内で初めて 40,000㎥ /日もの水道水源を海水に求める事例となりまし た。 ■5.終わりに つまり、水道法の中で海水を水道水源として位 沖縄復帰40周年記念の当日に、たまたま居合わ 置づけ、長期水需給計画において陸水系の水源開 せたものとして、式典の様子や新聞の特集を目に 発だけでは需給バランスを取ることのできない、 し、入社まもなく今よりは少し柔らかい頭で屋良 水源不足を補うものとして期待されていました。 知事の著書やこの宣言文に触れたときの感動を思 当時、水道法に海水系水源として海水淡水化施設 い出しつつ、沖縄県の水道事業の整備・拡充に尽 を組み込むため、厚生労働省で補助採択のための 力された水道関係者に深い敬意を表すと共に、知 技術基準(案)づくりに深夜まで調整会議をして 事のお言葉を引用して自分なりの「ひとしおの感 いたことを思い出します。 慨」を記しました。 ナナ・サン・マルの経験から10年以上が経過し 67
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