椿姫はどんなひとだったか

椿姫はどんなひとだったか
中沼 尚
世界で一番公演回数の多いオペラは椿姫です。ヴェルディの美しいアリアや楽しい乾
杯の歌に加えて愛の自己犠牲の物語が共感をもたらすからです。昨年新国立劇場制作の椿
姫では幻想と現実を絡み合わせや、鏡を使った舞台装置など素晴らしい演出と可憐なヴィ
オレッタが涙を誘いました。ところが配布された公演パンフレット(*)を読むと「ヴィオ
レッタは高級娼婦」英語対訳では「high class courtesan」と書かれているのです。広辞苑
によれば娼婦は売春を業とする女で、和英辞典では prostitute とあります。オペラを見て
も小デュマの原作を読んでみても娼婦という片鱗は全くないのです。
オペラ名は La Traviata ですから直訳をすれば「道を踏み外した女」ですが原作はアレ
クサンドル・デュマ・フィスの「椿の花を持つ婦人(La Dame aux Camélias)」です。1853
年フェニーチェ劇場での初演の時は多くのヴェルディのオペラの脚本を書いたピアヴェの
脚本で La Traviata として上演されています。初演の時はヴィオレッタが劇場支配人の妻
ドナッテリで堂々たる体躯のミスキャストだったことと裏社会の不道徳が問題となり公演
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は大失敗でした。そして 1856 年に自分の愛人であったストレッポーニのソプラノの音域に
合わせて楽譜を書き換えて大成功を収めました。小説にしてもオペラにしてもヴィオレッ
タが道を外した女とはとても思えませんし、ましてや娼婦という日本語のイメージとは合
致しません。オペラの中でもヴィオレッタのいかがわしい台詞や、愚痴や、他人を非難する
台詞は出てこないのです。
椿姫のモデルはマリー・デュープレシス(本名
アルフォンシーヌ・プレシ)という実
在の人物で肖像、本など数多くの遺品が残されておりモンマルトルの墓に眠っていますし、
彼女の生涯について多くの伝記が出版されています。日本語では山田勝著の「デゥーミモン
デーヌ」
(**)などがありますが近年マリア・ロックリンが詳細に調べて出版された The Real
Traviata(***)が最も真実に近い記述ではないかと思われます。 そこでマリー・デュープ
レシスの生涯を追ってみました。
Portrait of Marie Duplesis
1824 年に行商人夫婦の次女としてフランスのノルマンディーで生まれました。しかし
父親の激しい家庭内暴力を避けて母親はマリーが8歳の時、娘二人を連れてイギリス人の
家に家政婦として住み込むのですが、父親に連れ戻されました。そのあと雑貨屋の親戚に預
けられます。12 歳ごろまでは街角で食べ物をねだる乞食や、雑貨屋では洗濯女として働い
ていたのですが、ダンスが好きでダンス場に出入りしているときに外交官だった第 10 代ギ
ッシェ公爵グラモンと出会い華やかな社交界の生活が始まるのです。年代別のパトロン遍
歴は次のようになります。
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パトロン
事情
1824 年出生
1838~1841
ノルマンディーの行商人の次女として
第 10 代ギッシュ公爵
グラモン(外交官)と同棲するが浪費を
懸念した父親が二人を引き裂く
1841~1842
ペルゴー伯爵
事業家ですがギャンブルで破産し別れる
1843~1847
スタッケルベルグ男爵 亡くした娘の代わりとして
1844~1845
デュマ・フェス
経済的に行き詰まる
1845~1846
リスト
結核を懸念し別れる
1846~1847
ペルゴー伯爵
英国で結婚するが再度財政危機に陥った為
誰からも支援を受けられず病床に伏す
1847 没
スタッケルベルグ男爵とペルゴー伯爵が看取る
クルチザンとはサロンの女主人のことで 18~19 世紀にかけて存在した職業でしたが現
在は消滅してありません。もともとは裁判所に出入りする人のことですが当時の王侯貴族、
政治家、芸術家がサロンに集まり政治や芸術を語りあっており、そのサロンで仲を取り持つ
女性のことです。約100人のクルチザンリスト(****)が公表されていますがマリーの同
世代はわずかに10人ぐらいでそのトップクラスです。ルイ 15 世の王妃ポンパドール婦人
もクルチザン出身です。マリーが付き合った人としてはバルザック、リスト、ショパンなど
ですから相当高度な教養がなければ勤まりません。彼女は大変な読書家で亡くなった時に
は多くの本が本棚に並んでいたとのことですし、非常にきれいなフランス語を話し、ダンス、
乗馬、ピアノ、演劇鑑賞をこなしていたことが記されています。しかも12歳まで乞食をし
ていた女の子が16歳でトップクルチザンになったということはわずか4年の間に高度な
教養を身に着けたということは驚きです。素質があったということでしょうけれど、誰が教
育をしたかです。
最初のパトロン第 10 第ギッシュグラモン公爵(Agenor, duc de Gramont)の祖母がマ
リーを大変可愛がって読み書きを教えたとのことですのでこの影響が一番大きいと思われ
ます。一方当時貴族の子女の教育はもっぱら教会の尼さんであったこと、マリーは非常に信
心深い人で教会に足しげく通ったとのことですので尼さんの教育を受けたことによるもの
と考えられます。しかし、マリーの浪費癖によりギッシェ家がつぶれると心配した父親の第
9代ギッシェ公爵が生まれた男の子を取り上げて死んだと告げ、権力を行使して外国に追
い出して二人の仲を引き裂きました。後でこの男の子がマリーの消息を探していたようで
す。びっくりするのはこの悲劇のことをマリーは殆ど口にしていないのです。このことがあ
ったためかわかりませんが孤児のために3万フラン(現価値では500万円位)を寄付して
います。オペラの中ではアルフレッドの父親が娘の幸せのためにアルフレッドと別れてく
れという話になっています。
第二のパトロンは事業家のペルゴー伯爵ですがギャンブルで破産したのでマリーはサ
ロンのクルチザンに戻りバルザックなどとも交際をしています。
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第三のパトロンはスタッケルベルグですが高齢で恋人というよりは自分の娘として経
済的な援助をしていました。オペラの第二幕でパリーの郊外のアルフレッドとの愛の住み
家はこのスタッケルベルグが提供したものです。
第四のパトロンはアルフレッドのモデルのアレキサンドル・フェス・デュマです。まだ
駆け出しの小説家で経済的に苦しくスタッケルベルグが二人の仲を疑い援助を渋ったこと
で別れることになりました。この思い出をデュマが「椿の花を持つ婦人」という小説(La Dame
aux Camélias)に仕上げ、映画(Camelle)やオペラ(La Traviata)になり一世を風靡しました。
第五のパトロンは再度ベルゴー伯爵と英国で結婚したのですがフランスでは認められ
ず親族からも反対されとことと事業の失敗で援助が途切れたのでクルチザンに復帰します。
ここでパリーの名医コレッフの紹介でリストに出会います。コレッフは200年も前に結
核の特効薬であるストリキニーネをマリーに処方しているのです。
第六のパトロンがリストです。マリーが本当に恋をしたのはリストだったようで、ピア
ノのレッスンを熱心に受けています。リストのヨーロッパ演奏旅行には是非連れて行って
くれと懇願し、リストもマリーは女性の中の女性だと絶賛しており、愛が成就するかに思わ
れましたが、リストが結核の感染を懸念して別れることになります。
マリーは花をこよなく愛して毎日買っていました。椿はヨーロッパ原産ではありません
がデュマの小説によればパリーで月の初めから25日までは赤い椿、月末までは白い椿が
売られたいたとのことです。小説ではアルフレッドとの出会いの時は紅の椿と書かれてい
ます。オペラや映画では殆どが白い椿が使用されていますが、パリーオペラ座のダムラウが
ヴィオレッタを演じたDVDでは赤い椿が使用されていますので、椿の色は俳優の衣装に
合わせた選択なのかもしれません。マリーは演劇やオペラが大好きで連日劇場通いをして
います。ある有名な女優が病気になったときには毎日匿名でお見舞いの花束を届け慰め励
ましたとの逸話も残されています。
これらの交際はクルチザンという職業を通してなされたもので、パトロンから多額の
経済援助を得て囲われたのは事実ですが売春を業とした娼婦とはちょっと違うようです。
マリーはクルチザンとして超有名人と交際できるほどの知性と教養を身に着けていた女性
であり、孤児への寄付や、病気の女優へのお見舞いなど優しい心を持ったすばらしい女性だ
ったのではないでしょうか。
以上のような事実を知ったうえでオペラを見ていただくと、愛の自己犠牲が一層の共
感をもたらすのではないでしょうか。そして高級娼婦ではなくクルチザンの説明をつけて
高級クルチザンと訳していただきたいと思います。
引用文献
*
新国立劇場公演「椿姫」 https://www.youtube.com/watch?v=YuS3BMo9lsY
**
ドウミモンデーヌ
山田勝著
***
The Real Traviata
http://www.readliterature.com/R_camille.htm
**** Courtesan
早川書房
http://en.wikipedia.org/wiki/Courtesan
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