熱工学特論Ⅰ(野村) 熱力学の歴史 統計熱力学は、極めて多数のミクロな粒子の運動を統計集団として扱うことによって、マク ロな熱現象のベールを取り去ることに成功した。 ここでは科学史の流れをたどって、熱力学あるいは統計熱力学という自然科学の大河がどのよ うに形成されたのかを解説する。熱力学の歴史を簡単にたどってみると、有名なジュールの実験 は、今から 160 年以上も前の 1843 年の話である。ちなみに日本では、伊能忠敬が 1816 年に大日 本沿海輿地図のもとになる測量を終了し、忠敬の死後、1821 年に地図が完成している。ペリーが 初めて浦賀に来たのが 1853 年、日米和親条約が締結されたのが 1854 年のことである。 熱力学・統計力学の歴史 1592 年 ガリレオの温度計 1662 年 ボイルの法則 温度が一定の状態では、気体の容積はその圧力に反比例するという法則 1738 年 ベルヌーイ 著書 「流体力学」の中で気体粒子の運動を力学的に取り扱い、ボイルの 法則の法則を導く 1798 年 ラムフォードの実験 1802 年 シャルル(ゲイ。リュサック)の法則 圧力が一定の状態では、気体の容積は絶対温度に比例するという法則 1811 年 アボガドロ 「分子論」を発表 1824 年 カルノーが「火の動力についての考察」を発表 1825年 スチープンソンの蒸気機関車が、ストックトン∼ダーリントンを走り、世界 最初の鉄道が開通 1843 年 ジュールの実験 1847 年 ヘルムホルツが「力の保存別について」(熱力学の第 1 法則)を発表 1850年 クラウジウスの第 2 法則 1851 年 ケルビン卿(トムソン)の第 2 法則 1865 年 クラウジウスが、エントロビー S = 1 ∫ T dQ の概念を発表 1859 年 マクスウエルによる気体の分子運動 1876 年 オットが、初の 4 サイクルの研究用オット機関を作る 1877 年 ボルツマンが、エントロビー S = k ln W を発表 ガリレオ(Galileo Galirei,1564∼1642) 定量的に温度をはじめて測定しようと試みたのは、有名なガリレオである。1592 年もおしつま った冬のある日、パドヴァ大学における授業のはじめに、ガリレオは図のように卵大の球にスト 1 熱工学特論Ⅰ(野村) ロー状の管を付けた手づくりのガラス器具を持ち込んできた。 彼の温度計は、極めて細い頸の丸底フラスコを想像すればよい。 はじめは球を下にして手で暖める。次に球を上にし、細い管を 下にして水中に立てる。球内の暖められた空気が冷却するにつ れて、水は管の中をしだいに上昇する。球内の空気が室温と同 じになれば、水柱の上昇は止まる。これは空気の熱膨張を利用 した温度計である。不正確であることはいうまでもない。しか し、物質の膨張を利用して温度を測る考えはその後も引き継が れて、今日の水銀やアルコール温度計にまで発展したのである。 膨張によりはじめて温度を測定しようとしたガリレオの卓見は 図 1-1 驚くべきものがある。 ボイル(Robert Boyle,1627∼1691) イギリスの科学者。アイルランド貴族の 14 番目の子と して生まれ、10 代の頃から家庭教師同伴でスイス、イタ リア、フランスなどを旅しながら勉学に励んだ。彼は自 分で真空ポンプを考案し、空気の体積と圧力が反比例す るボイルの法則(1662 年)を見つけた。彼は物質の粒子 構造を唱え、ニュートンも粒子説を支持した。空気を圧 縮したときに縮まるのは、空気がバラバラの粒子ででき ているからで、その際に圧力が増すのは粒子の運動空間 がもとの空間に比べ狭くなったため、壁との衝突回数が 増えるためであると考えました。 図 1-2 はボイルの J 管である。方ラス管を J の字形に 図 1-2 曲げ、一端を閉じて空気を封入する。水銀の量を増減さ せて圧力差を増減させると、それに応じて空気柱の高さが減少または増加をする。違う太さのJ 管を何本もつくり、スケールを目盛ったテープをはって長さを測定した結果、(圧力)×(体積) =一定 の関係をつきとめたのである。 偶然にも室温の空気は、このボイルの法則を極めて正確に満たしている。現在の進歩した実験 でも、この法則からのずれは小さい。もし、二酸化炭素とかアンモニアなどの気体を使っていた ら、この法則は発見できなかったであろう。最もありふれた物質の空気が室温で理想気体に一致 することは、自然の意外な不可思議さを物語っている。 有名なボイルの法則も『空気の弾性(The Spring of the Air)』 (1660)と題名が付けられてい るから、現代の空気の圧力の槻念ではほなく、ばねのような弾性、つまりエアークツションの働 きに興味があったのに相違あるまい。余談だが、フックの法則で有名なフック(Robert Hook、 1635∼1703)は、経済的に恵まれず、ボイルの実験を手伝いながら研究した。物理学の基礎を築 いたニュートン(I. Newton、1642∼1727)も、この時代に活躍している。まさにこの時代は華々 2 熱工学特論Ⅰ(野村) しい近代科学の幕開けの時代だったのである。 ブラック(Joseph Black,1728∼1799) 熱平衡、熱量、熱容量など私たちになじみ深い熱学の概念を確立したのは、イギリスのグラス ゴー大学の教授J.ブラックである。ブラックは、巧妙な実験を繰り返して熱学の基凝をつくった。 ジエームス・ワットも彼の教えを受け、蒸気機関の発明特許についてもブラックの指導を受けて いる。ブラックは技術について卓抜な見識をもった産業革命期の科学者であった。 彼の著書『化学の基礎についての講義』(1760)をたどってみよう。 「…熱は高温から低温の物 体へと拡散する。この事実は、温度計でいちいち確かめるまでもなく自明である。やがて 2 物体 間の熱の移動は停止し、それ以後、熱は移動しない。このとき温度計をそれぞれ接触させると、 温度計に生ずる熱膨張は同じである。この状態を熱平衡と呼ぶことにしよう…」 この経験則を熱力学の第 0 法則という。体温計を早く出しすぎると正しい検温ができないのは、 体と温度計とが熱平衛になっていないためである。中近東の砂漠地帯では日中の気温が 42℃を超 えるところも少なくない。病気をして体温を測り、素早く目盛を見ないと、見る見るうちに水銀 柱は上がり、大気と熱平衡に達してしまうという話がある。 さて、温度を熱平衡で定義したブラックはさらに熱の一般的な特性へと前進する。「・・・温度が 異なる等量の水を混合すると、混合した水の温度は二つの温度の平均になる。しかし、100 度の 水と 150 度の水銀を等しい体積混合しても 120 度にしかならない。つまり、水銀の温度は 30 度 下がり、水は 20 度温度が上がるだけである。水銀が失った熱と水が獲得した熱は等しいから、水 銀は水よりも熱物質の容量(capacity for the matter of heat)が小さいとしなくてはならない。…」 ブラックのいう熱物質の容量は、現在でも熱容量の用語として名残をとどめている。この熱物 質を彼は熱素(カロリック)と名づけた。カロリックの語源は、ラテン語の熱 calos である。熱 量の単位カロリー(cal)の語源も、同じくこの calos である。熱素は重さのない物質であり、熱 の流れは、熱素が図 1-3 の連通管を流れるモデルを想像すると説明できる。 高温の物体 A を低温の物体 B に接触させたとしよう。連通 管の水位は温度、断面積は熱容量に相当する。熱容量は物体 の温度を 1℃上昇させるのに必要な熱素の量であり、 (比熱)×(質量)に等しいから、比熱や質量が大きいほ ど断面積は大きい。A は B よりも断面積(熱容量)が大きい から、多量の熱素を与えないと水位(温度)は上がらない。 物体 A、B を接触させたときの熱素の流れは、連通管のコ ックを開いたときの水の流れにたとえることができる。 図 1-4(a)のように、ブラックの熱量計は氷製である。恒温 0℃を保つ利点さがある。中央のくぼみに高温の物体を入れ ると、0℃が放出した熱量は、(融けた氷の質量)×(80cal) に等しい。つまり、融けた氷の質量を測れば、物体が放出し 図 1-3 た熱量が判明する。物体の温度と質量をあらかじめ測ってお 3 熱工学特論Ⅰ(野村) いて、ブラックはさまざまな物質の比 熱をこのように測定したのである。 0℃の氷が融けて同じ温度の水にな るには、氷 1g 当たり 80cal の熱量が必 要である。熱量計にw(g)の氷を入れ、 80℃の水 w(g) を注ぐと氷が完全に 融けることを実験で確かめ、ブラック はこれを潜熱(融解熱)と名づけた。 図 1-4 この 80cal をさきの比熱測定に利用し たのである。 図 1-4(b)は氷の潜熱を表す熱素モデルである。0℃の水位にポケットが付いている。このポケ ットが熱素で一杯にならない限り温度は上がらない。また、氷の比熱は水の約半分 0.5cal/(g・℃) である。冬の寒いとき、両手をこすり合わせると暖かくなる。のこぎりで木を切ったり、きりで 穴をあけたりすると熱が発生する。これらの摩擦による熱の発生を熱素説はどのように説明して いたのであろうか。 湿ったタオルや紡をこすると、水がしみ出す。これと同様に、物体の内部に潜んでいた熱素が 摩擦によって外部へとしぼり出されると考えられていた。 ラムフォード(Count Rumford,1753∼1814) アメリカ生まれのイギリスの物理学者。本名は、ペンジャミン・トンプソン(Benjamin Thompson)。アメリカ、マサチユーセッツ州英国植民地の農家に生まれる(当時のアメリカは、 まだイギリスの植民地であった)。 幼い頃から賢く、実験数学を好んだ。成人してからは、イギリス植民地省、アメリカ局に入局。 そこで火薬、銃砲の改良に貢献。31 才でイギリス国王からナイト(騎士)の位を授かり、その後、 バヴアリア(今のドイツ)の君主に招かれ、軍務大臣、警視庁総監、最高式武官として 11 年間教 育から貧民の救済まで広く人道的な立場を取り活躍し、伯爵の位を授かっている。 バヴアリアをあとにしてからは、イギリスに戻り科学研究に精を出し、1798 年王立協会で「摩 擦によって起こる熱の起源」という論文を発表。これが、熱の源は運動であるとしたもので、当 時優勢を誇っていた熱素説に打撃を与える論文であった。 この論文は、彼が今のミュンヘンで大砲の砲身を 切削しているとき、砲身がどんどん熱くなることに 注目したのが最初である。当時、熱は物質内部の重 さのない熱素(カロリツタ)によってもたらされる と考えられていた。そのため、熱素説を取る人は、 砲身が熱くなるのは、空気から熱素が供給されるた めで、切削されている砲身の比熱がもとの比熱より 図 1-5 小さくなるためと反論した。 4 熱工学特論Ⅰ(野村) そこで、ラムフォード伯は、ドリルの一部を水の入った箱で囲み、空気との接触を絶ったうえ で大砲の切削を行い、結果、水を沸騰させ、熱素が空気からもたらされるものではなく、運動に よるものであることを実験により明らかにし、切削された大砲の金属の比熱ももとと変わらない ことを確かめた。しかし、熱素説は、この後、ジュールの実験によりとどめを刺されるまで残こ りました。 シャルル(Jacques Alexandre Cear Charles,1746∼1823) フランスの物理学者で数学者。裕福な家に生まれたため、自由に科学実験を行えた。シャルル の名前を最初に有名にしたのは、熱力学上の法則ではなく、水素気球による初めての有人飛行に よってであった。1783 年 12 月 1 日、水素気球に乗り、高さ 3000m、飛行距離 44km を飛行して いる。この飛行で彼は、フランス中の人気者になり、国王ルイ 16 世の招きによりルーブル宮殿に 研究室を移しました。ところが、これが 10 年後のフランス革命のとき革命家から敵とみなされる 要因となっている。結局、水素気球による飛行が認められ、命は助かりました。 その後、シャルルは、水素、酸素、窒素などの気体について実験を行い、気体が一定の膨張を するという事実を発見しました。ところが、シャルルは、この結果を一般には発表せず、同じフ ランス人科学者ゲイ・リュサックに手紙で知らせたのです。手紙を受け取ったゲイ・リュサック は、その後、実験、測定を繰り返し 1802 年に論文発表したのです。この発表も実はタッチの差 で、半年前にイギリスの科学者ドルトンが同じ法則を導いていました。ただ、論文としての発表 が、ゲイ・リュサックの方が早かったので彼の功績となっているのです。 同じ法則がシャルルの法則であったり、ゲイ・リュサックの法則であったりするのは 以上の理由によります。 ゲイ・リュサック(Joseph LouisGay−Lussac,1778∼1850) フランスの化学者で物理学者。化学教授、物理教授を歴任した後、1839 年貴族院に入りました。 業績は、シャルルの項で書いたものが有名ですが、硫酸の製造にも功績がありました。 カルノー(Nicolas Leonard Sadi Carnot,1796∼1832) フランスの軍人で物理学者。パリの理工科大学に学びました。彼の父は、ナポレオン政府の陸 軍大臣、弟は文部大臣を務めており、カルノー自身もイギリス軍と戦いました。フランスの敗北 後、軍事力は産業カであると考え蒸気機関の改良に関心を持ったといいます。 1820 年に退役後、1824 年カルノーサイクルの理論を含む「火の動力についての考察」を発表 したのですが、時代の先端を行きすぎたのか、注目されませんでした。その後、カルノーは、コ レラにかかって死亡したため、多くの遺稿が焼却されてしまいました。 カルノーは熱を保存される流体のようなものと考える立場からカルノーの定理“温度の定めら れた二つの熱源に間に働く可逆機関の熱効率はすべて等しく(二つの熱源の温度だけで決まり)、 この効率を越える熱機関はあり得ない。” を証明している。しかし、熱がそのような流体でない ことはランフォードなどの研究によって明らかになっていた。現代の知識からいえば、カルノー 5 熱工学特論Ⅰ(野村) は熱の流体(熱素)説という間違った説を用いたが、彼が導いたカルノーの定理は正しかったの である。カルノー自身、ランフォードなどによる熱の運動説、すなわち熱は目にみえない運動で あるという説を知っていたが、当時は熱力学の第一法則が確立される前だったので、カルノーは 熱素説を用いたのである。 カルノーの死後、1834 年に一度、クラペイロン(フランスの鉄道技師)が彼の論文に注目しま した。彼は圧力と体積によって状態を表す P-V 図形(ジェ−ムス。ワットが用いた)を導入して カルノーの理論をわかりやすくし、液体とその蒸気からなる体系に無限小のカルノーサイクルを 適用して飽和蒸気圧の温度変化と蒸発熱との関係、いわゆるクラペイロン−クラジウスの式を導 いている。しかし、カルノーの論文もクラペイロンの論文も、理論が熱素説に基づいていたので、 イギリスのトムソン(後のケルビン卿)に見出されるまで、約 20 年間にわたり日の目を見ること はありませんでした。 ジュール(James Prescott Joule,1818∼1889) イギリスの物理学者。少年時代は虚弱でしたが、 裕福な醸造工場の息子として生まれたため、個人 教授を受けることができ、そこで初等数学、自然 哲学、科学などを学びました。20 才になってから は、工場の敷地内に研究所を建て、独学で研究を 進めつつ、マンチェスター文学哲学協会の会合に も出席し、多くの科学者、技術者と出会ったとい います。 1840 年に電流の発熱作用を調べて、ジュール熱 の法則を発見。1843 年にはジュールの実験で、仕 事と熱の関係、エネルギー保存の原理に貢献。実 験の手腕、温度測定の精度などはよかったのです 図 1-6 が、ラムフォードと同じく科学者の賛同は得られ ませんでした。しかし、1847 年に「物質、生命力および熱」と題した講演の中で 1 ポンドの水の 温度を華氏 1 度上げる熱量は、781.8 ポンドの物を 1 フィートだけ垂直に持ち上げる機械的な仕 事と等価であると発表し、ケルビン卿が、ジュールを支持するようになってからはまわりの科学 者達の態度も変わったようです。ケルビン卿は、ジュールの実験の手腕を高く評価し、その後は 共同研究を行い、1862 年にはジュール・トムソン効果を発表しました。 ジュールは、大学教授などの仕事につかず、家の財産で研究を続けたため、晩年は破産状態だ ったといわれています。 へルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz,1821∼1894) ドイツの生理学者で物理学者。大学で医学を学び、1842 年に医学博士となりました。その後、 解剖学、物理学の教授を務め、1888 年からシヤルロツテンプルクの国立理工学研究所長を兼務。 6 熱工学特論Ⅰ(野村) 略歴が示すように、生理学、数学、実験、数理物理の分野において優れた業績を残しました。 主な業績は、1847 年に力の保存に関する説、熱力学の第 1 法則の発表。神経伝導速度の測定、 検眼鏡の発明、色覚の三原色説の提唱、立体望遠銃の発明、聴覚に関する研究から共鳴理論の提 唱、光散乱の電磁理論の発表。(しかし、これはどの天才でも講義はへたで退屈なものだったとい います。これは、材料力学のヤング博士と同じです。) クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius,1822∼1888) ドイツの 19 世紀、もっとも独創的な理論物理学者。ベルリン大学に学んだ後、ボン大学の教授 となりました。彼は、1850 年に発表した「熱の動力」という論文の中でカルノーの熱の理論と熱 の運動論との調和をはかり、第 2 法則を発表。ケルビン卿も独自にこの問題に取り組み、1851 年 に彼も第 2 法則を発表しました。 また、1865 年にエントロピーの観念を発表しましたが、当時の学者の間でも難解であったとい います。彼の考えをそのまま押し進めると、宇宙でエントロピーはいつか最大となり、温度が一 定の状態に落ち着くことになります。しかし、この考え方は、宇宙に関する科学者たちには受け 入れられていません。 ケルビン卿(Lord Kelvim,1824∼1907) 本名は、ウイリアム。トムソン(William Thomson)。イギリス(スコットランド)の物理学者 であり技術者。10 才でグラスゴー大学に入学。その後、ケンブリッジ大学に学び、22 才のとき 再びグラスゴーに教授として戻りました。彼は、単なる学者ではなく、商売もうまく、初の大西 洋横断の海底ケーブルをひき、電信の事業で莫大な富を築きました。 主な業蹟は、1848 年に絶対温度の棟念を発表。電流天秤、電位計、音響器、羅針盤なども彼の 発明です。カルノーの論文の価値に気付いたのも彼でした。1851 年にはクラウジスとは別に熱力 学の第 2 法則を発表。1866 年にこれら多くの功績により、ケルビン卿となりました。研究と事業 両方に成功した非常にうらやましい人物です。 ボルツマン(Ludwig Boltzmamn,1844∼1906) 19 世紀後半の天才といわれるオーストリアの理論物理学者。ウィーン大学に学び、1866 年な んと学位論文で「熱理論の第 2 法則の力学的意義について」を翌年には「気体分子内の原子数お よび気体における内部仕事について」を発表。天才でしたが、時代が悪かったのです。彼の諸説 が正しいとなると、自分達の存在価値がなくなると悟った人たちに攻撃され、とうとう自殺して しまいました。 彼は、確率論と原子論によって現象を解明しようとしました。披の墓標には、有名な エントロビーの式 S=k logW が刻まれています。 課題:学部で習った熱力学の復習の意味で、ボイル・シャルルの法則、クラペイロン−クラジウ スの式、カルノーサイクルについて調べよ。 7
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