ヒジュラ - 俺的小説賞

ヒジュラ
御廚 年成
一
そして、また始まる
夕方と言うには少し早い時間、僕は京都駅にいた。この街は何時来ても懐かしい。急に決まっ
た僕の転勤に合わせ大童で式を挙げ、生まれ育った街を二人で離れ、佐久間礼子とではなく、
妻の牧野礼子と初めて一緒に暮らした街だから。引っ越して来た日の京都は、今日と同じ爛漫
の桜だった。
駅前の雑踏の中、見覚えのある顔を見つけた。京都に勤務した時に可愛がってくれた方、何
年ぶりだろう。
「会長、ご無沙汰しております」
「誰やと思ったら牧野の坊ンやないか、久しぶりやなァ。どや、別嬪の嫁はんも元気か?」
この歳になっても坊ン……あの当時、僕は新入社員で会長はまだ若社長と呼ばれていた。
「はい、お陰様で」
「子供さんも大きくなったやろ」
「先日、初孫も生まれまして……」
「坊ンも孫かァ!
歳ィ取る筈や」
新入社員として国内のプラント現場を回る丁稚奉公と言われた時代、それ以来の長い付き合
い、心があの頃に戻ってゆく。
「失礼いたします。会長、遅くなりました」
不意の声に振り向くと、制帽に白手袋の運転手姿の男が立っていた。
「坊ン、済まんなァ、貧乏暇なしや」
「お忙しそうで何よりです」
「タダのお飾りや、お飾り。たまには遊びに来ィや」
そう言うと、かくしゃくたる足取りで人ごみに消えていった。
エスカレーターを登り、途中の売店で礼子と親父殿の好物の京野菜の漬物をいくつかと寿司
折りとビールを買った。今日は直帰でグリーン車も押さえてある、明日は土曜で誰にも遠慮は
要らない。
座席に着くと早速ビールを開け、一口、二口と口に運ぶ。明るいうちからのビールは何故か
一味増す気がする。静かに滑り出した新幹線の窓をこする様に建つ古寺を思わず振り返ると、
駅ビルの陰から京都タワーが顔を出す。
懐かしい顔を見て思い出したのは入社した一九七九年、ヒジュラ暦とも言われるイスラム暦
なら一三九九年のことだった。この年はイラン革命でイランでの石油生産が中断して第二次オ
イルショックが起こり、イランから大量の原油を輸入していた日本の石油価格は暴騰し、需給
は逼迫した。複数の産油国から円やドルではなく、F四ファントム戦闘機や七四式戦車なら石
油と交換するとバーター取引の申し出があったが、野党は武器輸出三原則を楯にこれに拒み、
日本のオイルロードは飢餓難民の様に痩せ細った。しかし、これを機に原油や天然ガスを確保
するため、日本のプラント屋が世界中に花開いていった時代、やがて欧米のオイルメジャーで
はなく、アフリカや中東で産声を上げた日の丸印のプラントから汲み上げられた原油や天然ガ
スが、はるか海を越え日本に流れ込み始めた。
寿司折りを開けようかと思った時、携帯が震えた。自社ドメインのメールを開けば「至急連
絡して下さい」の一行だけ。寿司をお預けにしてデッキで会社に電話を掛ける。
「日本特殊工機国際事業部、阿部です」
「牧野だ、メール見た。どうした?」
「 牧 野 次 長、 ア ル ジ ェ リ ア の 帝 国 揮 発 油 さ ん の プ ラ ン ト が テ ロ リ ス ト に 襲 わ れ て 行 方 不 明 者 が
出ました。こっちへは何時頃に?」
「アルジェの帝揮さんが?!
東京着は十七時だから十七時半頃になるぞ」
この仕事の宿命みたいなものかもしれない。僕自身も戦乱に巻き込まれ、生死不明と言われ
た事もあった。
いくつかの指示をして席に戻り寿司折を開く。腹が減っては戦が出来ない。行儀悪い事甚だ
しいが、携帯でニュースを見ながら寿司をつまんだ。
それにしても解せない。帝揮さんはイラン・イラク戦争の時にも現地に踏み止まってプラン
ト建設を続け、現地でも、いや世界でも信頼が厚く世界的な大手の筈なのに。なぜこの時期な
のだろう。テロ組織、特にアルカーイダは明確な指揮系統があるわけではなく、縛りの緩いフ
ランチャイズのようなものだ。あっちが目立つならこっちも目立ってやろう、そんな繋がりの
せいかもしれない。アルジェにはイギリスのイングリッシュ・ペトロリアム社の油井もあるか
ら、企業の国籍ではないかもしれない。アルジェリアのテロ組織がエスケープゾーンにしてい
る隣国のマリ共和国は、ニジェール川沿いに僅かな耕地があるだけ、国土の三分の一はサハラ
A
Q APのおかげで騒がしくなっている。シリアは、少数のアラ
アラビア半島のアルカイーダ
砂漠、そのせいなのか。エジプトの民主化運動は先が見えない。
中東のイエメンは
ウィー派が主要ポストを占めているから出口は見えない等々と思考の中、何気なく窓の外を見
ると桜の花が少なくなり、日本列島は南北に長い事を視覚で理解できる。景色は滴るような緑
の山、川の土手に桜の木が映る。「湯水の様に」という言葉が浪費を意味する国の人間は、荒
れた国土しか持たない国では節約の意味なのを知っているだろうか。
会社近くの駅でコインロッカーに土産物を突っ込み、
会社に向かう。土産物をぶら下げて行っ
たらヒンシュクものだ。別荘も愛人も持っていないが、常識のカケラは持っている。
会社に着きエレベーターでフロアへ上がると、窓越しに街の明かりが広がる。何時もより少
しざわついているオフィスに入ると部下の阿部がプリントアウトを持ってきた。
「牧野次長、ブリーフィングの資料です。第一会議室へ入って下さい」
「何時からだ?」
「もう始まります。資料は今日現在の状況と名簿で、ブリーフィング用のプレゼンデータは準
備済み、部長から発表は自分が言われています」
阿部に礼を言い、足早に第一会議室に向かう。中ではもう主要な役職者が揃っていた。
「牧野、来たか」
坂口部長の声、僕が初めて海外の現場に出た時以来の長いつき合いだ。第一会議室には、大
きな世界地図が掛かり、プライム(主契約企業)かベンダー(協力企業)かを問わず、全ての
事業展開が表示されている。部長の横に座り、小声でブリーフィング内容を確認する。しかし、
中東の火事は簡単にアフリカに延焼するが、アフリカの火事は中東に延焼したことはない。そ
れなのに事業部全体を巻き込んでのブリーフィングは何か引っかかる。
ブリーフィングの第一声は坂口部長からだった。
「まず、総務と経理からアドバイスに来てもらった。それと全員を集めた訳は悪い話があるか
らだ。現在までの情報では帝揮さんの行方不明は二十一名だ」
遠い異国で彼らは何を思っているのだろう。いや、考えなくても分かる。
「また、BBCのニュースではシリアで化学兵器が使用されたらしい。未確認情報だがアメリ
カが介入の意思を示している」
冗談じゃない、中東でも火の手が上がった。戦闘地域に指定されれば保険料も跳ね上がる。
工事を止めれば莫大な損害だ。
「早速、アフリカから始めてくれ」
アフリカ担当次長の木俣がレーザーポインターを手に立ち上がった。
「現在我が社が入っているのは、アルジェリアの他はエジプトのギーザ、アレクサンドリア。
リビアのベンガジ、アジュダービヤー……」
地図の上をノミが跳ねるようにレーザーポインターの赤い光が跳ね回る。
「現在、各国の反応は遅れがちになっています」
「イリジウム(衛星携帯電話)も駄目なのか」
「すみません……」
「お前が謝る必要はない。それよりアルジェの対応は?」
「通常通りと思われます」
「判断の根拠は?」
「ラジオ・フランス・アンテルナショナルでマリとジブチに駐留するフランス軍が動いたとの
報道がありました。いずれの国も旧宗主国はフランスです」
つまりテロ組織に対し、交渉に応じない脅しに屈しないと言う強力なメッセージを送り、人
質の生命より迅速な解決を図る方法で、じ後のテロ発生を未然に防ぐには最良の策だ。何回も
襲われる方が余程厄介なのを知らず、これに文句をつけるバカがいる。そこに居合わせたのは
運が悪いと思う他はないが、次は我が身と思うと背筋が寒くなる。
「……エジプトの民主化運動を除けば、全般的に落ち着いている状態です」
「分かった。次、中東」
阿部がレーザーポインターを手に立ち上がる。中東は全般的には落ち着いている。
「イエメンはAQ APのお陰でピリピリしていますが、シリアが化学兵器を使用した未確認情
報は局地的……」
「失礼します!」
若い三崎が息を切らせて走り込んで来た。
「どうした?」
「外務省がシリアの注意レベルを上げました」
「渡航延期か?」
「退避勧告です」
会議室内がざわつく。
外務省の注意レベルは、「十分注意して下さい」
「渡航の是非を検討して下さい」「渡航の延
期をお勧めします」「退避を勧告します。渡航は延期して下さい」の四段階で、さらに退避勧
告以降は大使館の閉鎖もあり得る。
阿部を着席させ、レーザーポインターを受け取る。
「シリアにはフランスのドワーフオイル社のベンダーで、現地事務所の開設準備に佐賀光司郎
を一人で行かせています」
「佐賀は単独は初めてだろう。荷が重くないか?
応援を行かせるなら何をすればいい?」
「バタついた時のために現金、とりあえず米ドルで三万、五千は少額紙幣で」
「そんなに要りますか?」
割り込んでくる経理屋に腹の中で中指をオッ立てる。
こいつらは何時もこうだ、自分が見張っていないと僕たちが無駄金をばらまくと思っている。
現場に何年か置いてから経理をさせなければ、本当の金の使い方は理解出来ないだろう。
例えば、市場で一個十円で買えるコンクリートブロック百個を千百円で買う。これを経理屋
は高いと言う。かえって安いのが分かっていない。当然、輸送料も含むが、ゲリラなどが出没
する地域では、もっと重要なものも含んでいるのを経理屋は知らない。みかじめ料、経費に堂々
と計上出来る訳はないし、株主総会で報告できる訳もない。日本人と付き合っていれば金が入
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る、得をする、だから大事にされる。日本人を大事にすれば利益がある、そう思って貰わなけ
れば身代金目当ての人質になるか、何かの名目で殺される事もある。そうなれば、会社も見舞
金等で相当の出費になる。さらに遺体を防腐処理するエンバーミングや空輸費用は高額だ。こ
れでは経費削減どころではない。建設費の見積りも同じ、工事間にどんな事故が何件起きて、
何人死んで、何人不具になって、だから幾ら金がかかって、そうして金額を積み上げる。あま
り事故が続くと保険屋もいい顔をしなくなり、保険料も上がり利益は減る。無事故ならその分
の金が浮き、会社の儲けになる。そして僕達はボーナスと言うオコボレにありつく。命は金で
計れる。
「認める」
部長の声に経理屋が渋々と引っ込む。
「誰を行かせる?」
部長と視線が交差した。現場への渇望で胸が躍る。
「僕で宜しければ」
やはり僕はバカだ。危険が好きな訳じゃない、僕がやらなければ、そんな御高潔な理由でも
ない。もちろん死にたい訳でもない。きっと日本人って奴は、ミトコンドリア・イヴの土地か
ら気の遠くなる程の時間を掛けて「あっちへ行ったら何があるだろう」「こっちへ行ったら面
白そうだ」そう言いながら、累々と屍を残しつつ、テクテクと歩いてアジアの隅までやって来
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た好奇心の固まりの様な連中の末裔だと思う。その遺伝子が僕たちを動かす、技術屋の看板が
僕たちを働かせる。
「よし、牧野は当分シリアに専念しろ。阿部、牧野の不在間代理だ。いいな」
会議を終え戻ったオフィスには、就業時間を過ぎたのにまだ何人も残っている。点けっ放し
のテレビのニュースは、依然、状況不明を伝えていた。
「阿部、若いのを一人つけてくれ」
「カバン持ちに連れて行きますか?」
「いや、身軽な方が良い。プラン作らせてくれ、遅くても日曜には出国したい」
「分かりました。おい三崎、来てくれ」
入社二年目の三崎に経路と時間のプランを立てさせる。
「残業だが、至急で頼む。注意点は分かっているな?」
経費・時間共に効率的なコース設定、予備プラン、部下には考えさせて鍛える。言われた事
をやっていれば良いのは新人だけ。何故こう考えるのか、何故こうするのかを組み立てられな
い奴は使い物にならない。言葉の不自由な場所、プレッシャーの中、悪条件下で判断の出来な
い奴は足手まといになる。アウトラインを示せば自分で煮詰めていける人材を育てなければ先
細りになってしまう。
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「じゃあ三崎、よろしく頼む」
そう言って自分のデスクのPCを立ち上げ、出張の報告関係を手早くまとめ始めた。どうせ
稟議に回る頃にはシリアだ。
「次長」
三崎の声に顔を上げる。
「出来たか?
結論から聞かせてくれ」
「日曜日、十四時成田発の南回りがベストです」
「他のコースは?」
「はい、最も早いのは明日の成田発十一時三〇分、次は関空発の十五時、それと日曜日の十四
時です」
「各プランのメリットとデメリットは?」
「明日の十一時の便は、最も早く現地入りできますが、テルアビブ経由ですからデメリットが
大きく……」
よし、考えて来ている。腹の中で三崎を褒めた。
イスラム諸国を回るコースにイスラエルを中継させたら失格だ。日本アカ軍だかバカ軍だか
と名乗る低脳共がテルアビブ空港で乱射した御陰で、中東で唯一日本人に厳しい国だ。僕もテ
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ルアビブ空港で土産に持っていった羊羹をプラスチック爆薬と勘違いされ、自動小銃を突き付
けられて別室に連れて行かれ、鞄の内張まで剥がされ、羊羹をダメにされた。モチロン弁償な
どはしてもらえない。検査の後「もう行って良い」と、けんもほろろに放り出された。だが、
彼等の苦労も解るから不平不満を口に出さず腹の中で「ポーランドのオシュベンチャムへ行っ
てしまえ」と毒づく。……オシュベンチャムのドイツ語読みは、アウシュビッツだ……更に悪
い事にイスラエルを中継するとイスラム諸国とイスラエルの両方から文字通りスパイ扱いで、
痛くもない腹を探られる。
「……十五時の便は北周りで、トランスファーの関係から日曜十四時の便より到着が遅れます」
「よし、部長に……」
「聞こえた。それで行くぞ」
いつの間にか部長が経理を連れて入ってきていた。
「牧野、方針は一時閉鎖、社長も了解済みだ。佐賀の面倒を見てやってくれ」
そう言うと僕のデスクの上に要望通りの現金と法人用のクレジットカードが置かれ、預かり
証に署名捺印して受け取り、いくつかの打ち合わせをし、稟議書類のデータを転送したとき三
崎が計画と予約表のプリントアウトを持ってきた。
「ありがとう。もう上がっていいぞ」
次の人事査定のため、備忘録に三崎の勤務記録を書き込んでいると三崎の声がフロアに響く。
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「腹減ったぁ~」
「飯食いに行くか?
ただし魚政だぞ」
「いいですね。お供しますよ」
阿部の声も聞こえてきた。手早くデスクを片付け、引出しの鍵を阿部に預けてフロアを後に
した。
会社を出ると莫大な電力とメンテナンス費用をかけた街灯が照らす街、駅の横にある通りを
飲食街へ入る。居酒屋魚政の暖簾をくぐるといつも通りの威勢のいい声が掛かる。
とりあえずビールで乾杯していると背中から声が掛かった。
「送別会か?」
昔から変わらない豪快な笑い声、坂口さんだ。
やがて運ばれた料理、特大海鮮丼は一瞬の間に三崎の胃袋に消え、さらに刺身の盛り合わせ
や唐揚げをぱくついている。
「三崎、羊の目ン玉も頼むか?」
「何ですかそれ?」
三崎の箸が止まった。
「中東のお・も・て・な・し料理だ」
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アラブ圏では宴席の最上客にふるまわれる部位、初めて出された時は僕も面食らった。
「巨
大なイクラだと思え」そう言われて口に放り込んだが、噛んだ瞬間の何とも言えないドロッと
した感覚は快感とは言い難かった。
「前から伺おうと思っていたんですが、アメリカのローンスター オ
・ イルの連中が部長を知っ
ているみたいでカミカゼ坂口って言っていたんですけど、何なんですか?」
三崎が唐突に切り出した。物怖じしないのがこいつの長所だ。ビビって喋れなくなり奴より
はるかに良い。
「神代の昔のことさ……」
部長は第一次オイルショックの頃から世界中の危険な地域へ文字どおりの殴り込みをかけて
いた一人だ。それを他国のプラント会社は「カミカゼ坂口」と呼んだ。三セル……酒を飲ませる、
女 ―
場合によっては男 を
―抱かせる、金を掴ませる……は当たり前、実力行使も辞せず、駐車
場の車を機関銃でめちゃくちゃにされたり、事務所に手榴弾を放り込まれた事もあったそうだ。
今では考えられないほど荒っぽい時代の話を聞くと、若かった僕には現実離れしたアクション
映画の主人公の様な気がした。
「でもうちの会社は凄いですよね。次長も嵐を呼ぶ男、湾岸戦争の時も現場に居たって」
「馬鹿、嵐を呼ぶのは坂口さんだ。あの時の所長だぞ」
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あれは一九九〇年の五月、僕は休暇でクエートから日本に帰っていた。今度こそは出産に間
に合うかと思っていたら、三人目がもう生まれていた。成田空港から駆けつけた病室、窓際の
ベッドで子供を抱く礼子は、窓からの光が後光の様にも見えた。
数日後、退院した礼子と子供達を連れて写真館で写真を撮った。こんな小さな子供を抱くの
は初めてだ。それまでは家へ帰ると、なんとなく子供が増えているような気がしたが、今回は
本当に実感した。
休暇を終え、義実家へ礼子と子供たちを残して出国して間もない八月、突然イラクのクエー
ト進攻が始まった。帰国命令が出た日、当時の坂口所長に言われ社外秘の部品と回路基板を外
し、ドラム缶に入放り込む。重油とガソリンをバケツで混ぜ、部品にブッ掛けるとモヤの様に
ガソリンの蒸気が上がる。奥歯を噛み締め火を付ける。コンセプトメイクから自分の携わった
部品を燃やすのが切ない。「この子捨てれば、この子飢ゆ。この子捨てざれば、我が身飢ゆ」
そんな言葉が思い出される。もうもうと上がる黒煙の中に強化プラスチックの部品は溶ける、
回路基盤のコンデンサーがはじける、そしてゆっくりと炎の中に沈む。事務所に戻ると他の所
員もフロッピーや図面をかき集めていた。
車で空港に向かう途中、振り返ると砂塵の彼方にプラントが見え隠れする。傷付いた親友を
異国に置き去りにするような気がした。車中、坂口さんから「途中ではぐれたら、どんなルー
トでもいい、日本に向かえ」「領収書は要らん、金で命を買え」そう言われ、各人に二万ドル
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近い現金が配られた。
空港で車を乗り捨て、坂口さんがローカル航空会社の予約カウンターに詰め寄り、予約して
あると言い張り、予約帖を奪い取って百ドル札を挟み「見ろ!
ここに五人予約してあると書
いてある」そう言って強引にトルコのアンカラまでの航空券を取る。パスポートチェックでは
十ドル札を挟んで渡し、塗装の剥げかけたポンコツのプロペラ旅客機に乗る。エンジンが掛か
るとガタガタと揺れる機体が、ヨロヨロと飛び立つ。助かった、この時はそう思ったが、それ
は幻だった。途中で名前も分からない飛行場へ緊急着陸して足止めを食う。国際電話も通じな
い。空腹だが屋台一つ見当たらない。夕暮れ近く、同期の渡辺が何処からかペプシコーラを一
ケース担いできた。車座になり、食事代わりに生温かいコーラを飲む、バチバチと胃の中で炭
酸が弾け、胃が膨れあがり一瞬満腹感を感じるが、ゲップと共に萎んでゆく。その夜はブリー
フケースを枕にロビーで転がる。何でこんなところで足止めをとイライラがつのる、やたら小
便が近くなる、発狂しそうな焦りと不安で寝付けない。
翌日の朝、ウトウトしていたら冷え込みで目が覚めた。警備員や空港職員が出てくると手当
たり次第に袖の下をばら撒き状況を聞くが、「インシャッラー(アッラーの思し召しがあれば)」
の言葉しか返ってこない。つまり、何も分からない事だけは分かった。初めて経験する激しい
不安感と空腹で気が立ってくる。元をただせばイギリスの某社とフランスの某社の工区が、国
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コーラン
境になったせいだ……いや、八つ当たりなのは分かっている、大昔の事で僕には関係ない。で
も、誰かに当たっていなければ脳みそが破裂しそうだ。暇潰しにクルアーンの朗唱、カーリウ
を唱えてみる。何もする事がないよりは、いくらか気が紛れる。宗教の存在価値が少し分かっ
た様な気がした。しかし腹は膨らまない。宗教がメシの代わりにならないのも分かった。
小額紙幣が心細くなってきた三日目の朝、空港の職員が昼にアンカラ行きの飛行機が出ると
教えてくれた。クルアーン第五章、アル・マーイダ……「汝信徒よ、一度取り決めた契約は全
て必ず果たせ」で始まる……に百ドル札を挟んで渡し、航空券の確保を頼む。
航空券は法外な値段だったが背に腹は代えられない。その日の昼に出るはずの飛行機は、夕
方やっと飛び立つ。ガタガタと揺れるプロペラ機でアンカラへ向かう。
日本人
日本に帰る
探す
飛行機
アンカラで手分けして日本行きの便を探しているとバックに付けた日の丸のパッチのお陰で
何人もの人に声を掛けてもらえた。
私
「お前は日本人か?
どうした?」
「ベン・ジャポヌム、 ド ンメック・ジャポン、アラマック、ウチュク」
単語を羅列しただけだったが意味は通じたようで、見知らぬ人のお陰で一時間後の便が見つ
かる、ローマでトランスファーしてパリへ。翌朝、北回りで日本へ。道が見つかった、これで
帰れる、膝も手も震える、そう思った途端にケバブの匂いが鼻につく。まるで国連部隊の食糧
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に群がる難民の様に屋台に走り、紙幣を投げ出す様に渡し、パンに薄切りの肉と野菜を挟んだ
ケバブを口も手も脂でベタベタにしながら貪り、甘くないカルピスの様なアイランで流し込む。
アイランの入ったプラスチックのコップが手に付いた脂で滑る。
「時間がないぞ!
パリに着いたら好きなだけ喰わしてやる!」
その声がなかったら乗り遅れたかもしれない。バタバタとチェックインし、トルコ航空の
ジェット機に乗る。席についてシートベルトを締めても緊急着陸を思い出し、どうにも落ち着
かない。
滑走路に出た機体は加速し、体がシートに押し付けられる。ゴトゴトと伝わる車輪を仕舞う
振動、旋回する飛行機の窓から空港が見えるが、水平になるともう雲の上だった。やがて雲の
切れ間から見える残照に輝くエーゲ海を越え、ギリシャを飛び越すとアドリア海、もうイタリ
アだ。ローマのチャンピーノ空港は煌々と輝く電灯に照らされ、緑の木々を目にしたら安心感
で腰が抜け、着陸してもしばらく立ち上がれなかった。息つく間も無くトランスファーでパリ
へ。オルリー空港に到着した時は殆ど何も覚えていない、いや、タクシーに乗ったのは覚えて
いる。バカンス時期に予約もなく訪れたホテル、さぞ不審な五人だったろう。汚れてヒゲも伸
び放題、スーツに安全靴という珍妙な男もいる。所長が保証金をフロントに叩き付け黙らせて
いる時、僕の目に飛び込んできたのは電話のブース、クレジットカードを取り出すのももどか
しく、思いっきりブロークンなフランス語らしきもので交換に電話を掛ける。
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「アロー、ジャポン、テレフォーヌ!」
日本
キ
ャルトゥ・ドゥ・クレディ!……」
クレジットカードで
「モン・ムシュウ?」(何でしょうか)
電話
「テレフォーヌ!
ジャポン!
糞ババア
淫売
フランス語しかしゃべろうとせず、何度もフランス語で聞きかえしてくる交換嬢に腹が立つ。
スタ、ケル・コナーズ! 、ユヌ・ヴィエイュ・ルピィ、ヴァシュ!……口には出さないが、
うるせえ淫乱メス豚
バ
頭の中は花屋の店先みたいにカラフルなフランス語が閃く。やがてガチャガチャと耳障りな雑
音の後、呼び出し音が鳴る。壁の時計に目が止まる、もう二十三時を過ぎている、起きている
だろうか。
「はい、佐久間でござ……」
受話器から伝わる声に恥も、外聞も、理性も、見栄も、何もかもが吹っ飛んだ。
「レェコォーっ」
「ぁあなたァァ~」
悲鳴のような声が受話器に響き、何かにぶつかる音が耳に響く。
「礼子どうしたの、貸しなさい!」
「礼子ォ、どォしたァ!
礼子ォ!」
「え?!
圭一さん?
今どこ!」
義母の声だ。
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「礼子、礼子はァ!」
「大丈夫よ、それより無事なの」
「無事です。パリまで来ましたァ!」
「圭一さん無事よぉ~っ!」
驚いた。いつもは凛と和服を着て、物静かな笑顔で店先に立つ義母がこんな大声を上げるな
んて。その向こうに大勢の歓声と拍手が聞こえる。二十三時になぜ?
そう思った時、時差に
気が付いた。日本は朝の六時、礼子の実家の和菓子店では何人もの職人さん達が仕事を始める
時間だ。
「赤飯を炊けぇっ!」
義父の声も聞こえる。
「お母さん貸してぇっ!
いつ?
いつ帰ってくるの?」
礼子の涙声、時計を見る、フライトは明日の九時、北回りアンカレッジ経由。
「あと十時間で飛行機が出る。それに乗るから」
「本当?
帰って来る?
待ってるから、子供達も、みんなも待ってる……」
当たり前だ、日本に帰るのは礼子がいるからだ。それ以外の理由は無い。礼子に逢いたい、
子供に会いたい。それ以上の理由は要らない。
「他の人も順番を待ってるから切るよ。成田に着いたら電話するから」
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そう言って電話を切った。順番を待っている人なんかいない。これ以上話をしたら泣いてし
まいそうだったから。
「おい牧野、どうした」
「いや、何でも……」
グラスのビールは温くなりかけ、テーブルの料理は粗方片づいていた。
「そろそろオヒラキにするか」
店を出て駅へ向かう道には酔っ払いの嘔吐の跡はあるが血糊はない、ゴミは転がっているが
死体は転がっていない、クラクションの音は聞こえるが銃声は聞こえない。これがこの国では
当たり前なのだ。
駅前で別れ、コインロッカーから土産物を取り出し、ホームに上がる。無料で飲め、飲んで
も腹をこわさない水道を横目に、自動販売機で冷えたお茶を買う。熱射病対策に岩塩を口に放
り込み、太陽に炙られて熱湯の様になったペットボトルの水を飲みながら砂まみれで作業をし
た事を思えば、これこそが贅沢だと思う。
時刻表どおりに動く電車が来る。電車の窓から見える家々の明かりやネオンが、これでもか
と言わんばかりに揃ったインフラに埋まる街を照らす。生まれてから死ぬまでに一度もホール
ド・アップをされない。銃撃戦に巻き込まれない。溶けかけたチョコレートの様にも見える腐
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乱死体から黒い水蒸気の様に一斉に飛び立つハエの羽音を知らない。日本では当たり前、その
当たり前が当たり前でない場所も多い。日本に住んでいては分からない。それが分かるには、
一度外から見る必要があるのかも知れない。でも利己主義者と思われても、礼子や子供や孫に
見せたいとは思わない。この国にいる限り、銀のスプーンを銜え、薔薇色の雲に包まれて暮ら
しているようなものかもしれないから。
やがて電車は定刻に駅に着く。改札を抜け、街路樹の道を家に向かって歩くと所々に五分咲
きの桜が街灯に照らされ白く輝く。
玄関を開けると礼子の「お帰りなさい」の声が聞こえる。リビングに入り、土産物を渡すと
目を背けたまま口を開いた。
「また出張に行ってくる」
そう言えば、礼子の目を真っ直ぐ見て大切な事を言った記憶は、プロポーズの時だけ、そん
な気がする。多分、その時に一生分の根性を使い果たしたのだろう。
「中東?
ニュースでやっていたわ」
お見通しらしい、頭が上がらない。
「着替えてくる」
そう言ってリビングから逃げ出した。
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寝室のクローゼットにスーツケースを押し込んでネクタイを解く。部屋着に着替え、軽いと
は言い難い足でリビングに戻り、ソファーに腰を下ろす。
「今度は何日くらい?」
正面にいる礼子の手を引きソファーに座らせ、腕を肩に回すと微かにフレグランスの香りが
伝わる。
「そんなに長くないよ」
普通のサラリーマンなら、こんな心配をかける事はなかったと思う。そうなるチャンスは何
回かあった。今回だって誰かを行かせる事も出来た。初めて礼子に好きだと告げた時、僕は高
校二年生だった。それから時間だけは何十年も経ち、馬齢を重ねた。子供達も成人した、孫
も生まれた、それでも礼子に心配をかけている。子供が生まれる時も居たためしがなかった。
七五三の時もいなかった。入学式も卒業式も行った事がない。運動会も文化祭もそうだ。家事
も全て礼子に丸投げしている。夫としても父親としても最低なのは分かっている。本当に申し
訳ないと思う。
「お風呂、すぐ入れますよ」
立ち上がろうとする礼子を抱き寄せ、小鳥がついばむ様に唇を重ねる。
「もぉっ!
いいから早くお風呂入っちゃって下さい」
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浴室のドアを開けると湯気がまとわりつく。二〇〇リットル近くの飲用水と燃料を使い暖め
た風呂、これを当たり前と思う贅沢が日本にはある。体を洗いヒゲをあたり、湯船に浸かる。
下着と部屋着代わりにスウェットを着て、ナイトキャップのウイスキーを取りにリビングへ。
テレビをつけ、サイドボードからアイラのシングルモルトを取り出し、オールドファッション
ドグラスにダブルで注ぐ。口に含むとピートでじっくりと燻されたウイスキーの香りが鼻に抜
け、試運転で火を入れたプラントの耐熱塗料が焦げる匂いを思い出させる。テレビのニュース
は、帝揮さんの事件を流しっぱなしだ。全員どうか無事に、そう祈らずにはいられない。軽薄
なニュースキャスターのヘラヘラした間抜け顔が癪に障る。能天気な芸能ニュースが始まった
時にスイッチを切った。洗面所からヘアードライアーの音が聞こえる。グラスをシンクに置き、
寝室のベッドに転がる。やがて礼子がベッドに入ってくる。左腕に礼子の頭を抱く。風呂上が
りなのに冷たい足が触れる。高校一年の僕は中学三年の礼子と出逢い、時間がたくさん流れ、
ガールフレンド、恋人、妻、母、そして祖母と呼び名は変わったが、想いは変わらない。お互
い髪に白いモノも増えたが、二人で過ごした思い出も増えた。でも、思い出の量は他の人と比
べると少ないのかもしれない。
土曜日の朝、何時もどおりに朝食を取る。子供たちが独立し、二人だけの静かな家は新婚時
代を過ごした京都のアパートを思い出させる。
26
「西京漬を頂いたのよ」
旨そうに焼けている。皿を置く礼子の襟元に小さなネックレスが見えた。
「そのネックレス… 」
・・・
「あら、気が付きました?
あなたが初めて中東に行った時のお土産ですよ……」
あの時は一人目が生まれる前、お腹の大きな礼子を義実家にお願いし、初めての海外勤務で
アラビア湾の現場に入った。二ヶ月目に長女が生まれたが、まだEメールの無い時代、会社の
電話を思いきり私用に使い、名前を話し合った。
それから四ヵ月後、海外勤務の六ヶ月毎に与えられる四週間の休暇の順番が回ってきた。日
本に帰れる、礼子に逢える、まだ実感はなかったが初めての子供に会える、僕は舞い上がった。
市場
休暇初日、現場から空港のある街まで送ってもらい、一泊して翌朝一番の南回りで日本へ帰
る。土産物と夕食を求めてスークに向かう。ふらふらと彷徨う異国の地、気分だけは一端の国
際人だ。頭からすっぽりと被る黒いアパーヤを纏う現地女性、
すれ違う瞬間に一陣の風がアパー
ヤの裾を乱し、中に纏うエメラルドグリーンのドレスとヒールの高いサンダルがちらりと見え
る。不用意に眺めていると揉め事の原因になるので目を外す。外観は黒いお化けのQ 太郎のよ
うだが、その中は明るい色のドレスが多いと聞く。スークを彷徨うちに貴金属店でアラビア風
の細かい細工が施された金のチェーンにトパーズが下げられたにネックレスに目が止まる。宝
石は全くの門外漢だが、トパーズは分かる。礼子の誕生石、エンゲージリングもトパーズだっ
27
た。巨漢の店主がいきなり二百リアル(約十万円)と言ってきたが、僕は値切るためのスペシ
ウム光線やライダーキック並みの必殺技をパスポートケースから取り出し、店主の前に広げる。
プレゼント
私の
妻
礼子
百リアル
白無垢に綿帽子の礼子、色打ち掛けに角隠しの礼子と紋付の僕、二枚の写真だ。
「 ハ ッディーヤ、ムアナー・ザウジャ・レイコ、ミヤ!」
肩や胸の開いたウエディングドレスは、敬虔なムスリムにはバギー(売春婦)扱いされかね
ない。片言と言うのもおこがましい単語の羅列だけだったが、ねばる僕の厚かましさに辟易し
たのだろうか、思いがけない値段で買い取れた。
「……これを着けていると、ちゃんと帰って来てくれる気がしますからね」
そう言って今日は礼子が目を外らせた。
食事の後、スーツケースに荷物を詰め込み、パスポートを取り出す。スタンプの数は昔程多
くない。初めて取った数次パスポートは、数年でスタンプで埋まった。数次パスポートなんて
言葉自体、もう死語みたいなものだ。パスポートを入れているのは友人のハンドクラフト、焦
茶色の皮のパスポートケースだ。昔のパスポートサイズなので今のパスポートには少し大きい
が、初めて海外勤務に出る時にプレゼントされた。深い焦げ茶色だった皮は、角が擦れて色も
褪せて来たが、まだまだ丈夫、この分なら定年まで付き合ってくれるだろう。パスポートケー
スの隠しポケットには、僕のお守りが入っている。白無垢に綿帽子の礼子、色打ち掛けに角隠
28
しの礼子、写真の中ではまだ小さな三人の子供と礼子、三枚の写真。国内では照れくさくって
持ち歩けないが、海外では威力を発揮してくれた、何回も、きっと今回も。
「そうそう忘れていたわ、写真が届いていますよ」
封筒を受け取り数枚の写真をテーブルに広げた。二女夫妻と両家の集合写真に何枚かのス
ナップ写真、初孫のお宮参りの写真だった。長女と長男はいまだに独身だが、二女は二十二歳
で嫁に行った。大学へは行かず、専門学校を卒業してまもなく、一回り近く年上の野郎と家に
来た時の衝撃は忘れない。その日「お父さんと違って、一緒に居てくれる」「お母さんみたい
に心配して暮らすのはイヤ」そう言われたら返す言葉がなかった。
スキャナーで取り込みプリントアウトする。インクが乾くのを待ち、縁をカッターで切り落
とし、パウチする。二女の抱く初孫が御機嫌に笑っている、四枚目のお守りをパスポートケー
スに入れた。
荷物を点検していると使い捨てのサインペン型の筆ペンを準備するのを忘れていた。アラビ
ア文字を書くのに筆ペンは評判が良いので、簡単な土産代わりに重宝する。
礼子を誘い、久しぶりに車でショッピングモールへ行った。文房具屋で筆ペンを三ダースほ
ど買い込み店外へ出ると、最近テレビで宣伝している飛行機技師が主人公のアニメ映画がシネ
マコンプレックスで上映中なのに目が止まる。同じ技術屋として何となく興味を惹かれていた
29
映画だ。久しぶりにこういう時間もいいかもしれない。まるで高校生のデートの様に手をつな
いで映画を観た。
「おい、圭一」
シネマコンプレックスのロビーに出ると、不意に背後から声が掛かった。
振り返れば中学時代からの悪友、牛山と奥さんの夏美ちゃん……いや、夏美さんが小学生位
の子供を二人連れていた。
「夏ちゃん、お孫さん大きくなったわね」
礼子の方が反応が早かった。
「もう小学生よ」
「啓介君の双子ちゃんか?」
牛山が大学二年の二十歳、夏美さんが高校を卒業した直後の十八歳で二人は両親と呼ばれる
ようになり、長女、それから二つ下の長男と二児に恵まれ、お子さん達は、もう家庭を持って
いる。
「お爺ちゃんと何観てきたの?」
「メタボ戦隊デブレンジャー!」
ヒーローの決めポーズと元気のいい声が返ってきた。
30
夏美さんは礼子の同級生で、高校を卒業した二ヶ月後の五月に牛山と結婚式を挙げ、その年
の八月に長女の和美ちゃんが生まれていた。つまり高校三年の時には、もうお腹に和美ちゃん
がいた。母子手帳は母親の戸籍上の名前が載る、だから堂々と見せられるように牛山夏美と書
きたかったとは牛山の弁だが、彼女の在学中の入籍は大騒ぎだったのを覚えている。牛山は、
退学して働くと言い張ったが、両家の説得で学生を続け、卒業後は地元で就職していた。
「お爺ちゃん、お腹へった」
「何が食べたい?」
笑顔の牛山が答える。高校二年の秋、夏美ちゃんと付き合い始めるまでは、硬派という言葉
が学ランを着たような空手一筋の男だったが徐々に軟化して、今ではすっかりいいお爺ちゃん
になっている。時間だけは間違いなく経っている。
牛山と別れて家に戻り、近所の寿司屋で礼子と夕食をとった。また暫く帰って来られないの
が今更ながらに心苦しい。
ベッドに入っても何となく心がザワつく。僕が牛山に勝る所は何処だろうか。給与か?
そ
れがどれ程のものだろう。半年も一年も家を空けることがない、子供の行事にも全て参加し、
その時の写真には両親が揃って写って、休日には地元の空手道場で子供たちの指導に当たる。
牛山こそが人生の王道なのだろうか。埒も無い事で、今更時間を戻せる訳でもない。この生活
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を礼子は幸せと思ってくれているのだろうか。
日曜日の朝、いつもより少しゆっくりと朝食をとる。自覚が無いだけで未練なのかもしれな
い。玄関で少々強引かと思ったが新婚時代の様に唇を重ね、礼子の声を背中に玄関を出る。ド
アが閉まる音が聞こえる。口紅のペタリとした感覚が消えてゆく。その瞬間、僕の体から幾つ
もの言葉が抜け落ちる。遠慮、憐憫、謙譲、惻隠……帰ってきた時に拾えばいい。この国には
ありふれているから。
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二
路の上にて
夕焼けに染まるシリアのダマスカス国際空港、入国ゲートの前で佐賀と会えた。予定通りと
いうのは、やはり気分がいい。建物を出ると日本で見慣れたアスファルトではなく、コンクリー
ト舗装の広大な敷地が広がる。夏になれば五十度を超える熱風が襲うが、この時期は三〇度を
超えた程度だ。
佐賀の運転する車に乗り、ホテルへ向かう。
空港から続く五号高速道路に乗り、市街地に向かうと遠くに山並みが広がる。あの山並みを超
時差帯
えれば地中海の波が打ち寄せる海岸線が広がり、北へ向かえばトルコとの国境、ヨーロッパは
目と鼻の先だが、礼子のいる日本は七つのタイムゾーンの彼方だ。
「荷物を置いたら事務所直行でいいか?」
「いや、明日にして下さい。夜間外出禁止令が出ました」
つまり状況は良くない方向へ転がりつつあるということだ。
ア
夜の礼拝
ッラーフ・アクバール、アッラーフ・アクバール ”
アッラーは偉大なり
ホテルの部屋から見下ろす夕暮れの街は、東京と比べると薄暗く、モスクの尖塔が目に付く。
“
アザーンという礼拝の呼び掛けの声が、 イ ッシャーの時間を告げる。
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雅楽の様に響く抑揚とヴィブラートを耳にすると、キリスト教に賛美歌はあれど、イスラム
ハ
イヤー・アラッサァラーァー ”
イヤー・アラルファラーァ~ ”
いざ、救いのため来たれ
ハ
いざ、礼拝へ来たれ
教には必要ないという理由が分かる気がする。
“
“
カーリウを聞くと、ジェットラグで鈍い頭にもイス
クルアーンの朗誦
朗々と礼拝を呼び掛けるアザーン や
アッラーの他に神は無し
ラム圏に入ったことが理解できる。
“
ラ
ー イ
・ ラーハ イ
・ ッラーッラァー ”
カーリウが終わり、一時してから部屋を出て佐賀とホテルのレストランに向かう。
レストランの席に着くとイスラム式の処理をした食材で作ったハラールかノン・ハラールか
と問うボーイにハラールのコースを注文する。郷に入りては郷に従えだ。
直径三〇センチ程もある大きな取り皿が渡され、その皿にバイキングの様に盛って食べる。
次々と運ばれる料理は、生のニンジンとキュウリ、赤カブやニラに似た生野菜のサラダには酢
の効いたドレッシングとキュウリやトマトのピクルスの様なもの。しぎ焼きの汁がたっぷりと
いった感じの巨大なナスと葉ネギの様なものの料理。羊とタマネギとシシトウみたいな野菜を
バター
ライス
煮込んだミネストローネ風のシチューは、かすかな酸味でさっぱりしている。メインの焼いた
羊の肉は香辛料がピリッと効いて旨い。
ズブダの香りがするルッズは、チャーハンの様にぱらっ
としていて、それに掛けるソースも赤っぽいカレーみたいで辛いものや、甘酢あんのような味
34
のする物が並ぶ。デザートに出された砂糖漬けのナツメやアンズは、一口で糖尿病になりそう
な程甘い。料理を口に運ぶ毎に舌と心が中東モードに変わる、モチベーションが上がる、子供
の様に「変身!」そう叫びたくなる。しかし惜しむらくはビールではなく、ソーダやコーラが
出る事だ。何度食べても香辛料の効いた羊とビールは良く合いそうなのに本当に惜しい。
部屋に戻り、短波ラジオでBBCとNHK海外放送のラジオ・ジャパンを聞く。日本語が優
しく感じるのは何故だろう。
早朝礼拝
翌日、 フ ァジュルを呼び掛けるアザーンの声に叩き起こされる。反射的に腕時計を見ると、
まだ四時半にもなっていない。
イヤーアラッサラァー ”
いざ礼拝へ来たれ
ア
ッサラート・ハイルゥン・ミィナン・ナウム ”
”礼拝は睡眠に勝る
“ ハ
“
良く言えば異国情緒満点だが、「覚めて儚い仮の世に、寝て暮らす程の快楽は無し」と詠う
国で生まれ育った葬式仏教の僕にはあまり関係はない。
シャワーを浴び、To Do リストをチェックし、不用意なトラブルを起こさないため、毎日
変わる礼拝の時間も書き込んだ。
ホテルを出て事務所のあるビルに向かう。途中で目にしたのは、銃を手にした人々の異様な
35
目、黒尽くめの服に銃と盾を持った武装警察の集団、焼けてひっくり返った自動車や瓦礫の散
乱する厳めしい表情の街は砂塵と黒煙、それに甘酸っぱいような硝煙の匂いとゴムの焼ける匂
いが漂う。
事務所に入り、現地雇用員の一時帰休を確認し、佐賀と二人で一時閉鎖の作業の確認を始め
た。
「佐賀、もう一度確認するぞ。データは日本のサーバーに送ったな?」
事務所が略奪を受けた時の情報漏洩を防止するため、データを逃がし、PCはリカバリーを
かけ、書類はシュレッダーに入れる。事務機器は現地リースだが、シュレッダーだけは日本製
を送らせた。安物のシュレッダーと違い、まるで製粉機の様に粉々になる。
「それと金庫やロッカーは空にしたな?」
「鍵もバッチリです」
「バカ!
全部開けっ放しにしろ」
金庫やロッカーが閉まっていると、金目の物が入っていると思われ破壊される。略奪がある
のは仕方ないが、次に来る時のため被害は最小限に抑えたい。
作業を確認して時計を見ると十四時近かった。日本は二十一時、まだオフィスに誰かいるだ
ろう。
36
日本への国際電話は何事もなく接続される。インフラが生きているという事は、事態が見て
くれ程悪くない証拠だ。もちろん瞬時に悪化する事もあるので、うかうかしていられない。呼
び出し音が鳴り、電話が繋がった。
「もしもし、牧野です」
「おお、無事か。閉鎖のチェックリストはメールで見た。あとどの位掛かる?」
「事務所の処置は終わりました。これからホテルで様子を……」
「プライムさんが一時引き上げを決定した。帰国しろ」
「しかし……」
「反政府組織のナンバー・スリーが殺された。しばらく回復は無理だ」
殺すのならトップを殺してくれれば余計な手間が省ける、トップにカリスマ的魅力が有れば
有る程、排除してしまえば烏合の衆になる。
「分かりました。他の所はどうですか?」
「意外に落ち着いているよ、やっぱりお前は嵐を呼ぶ男だな」
電話の向こうからいつもの豪快な笑い声が響くかと思ったら、重く沈痛な声が伝わってきた。
「……それと……残念だが、帝揮さんの六人が亡くなった。他はまだ判らない」
ショックがないと言ったらウソになる。それでも今回大きく報道されたのは人数のせいだろ
う。一人二人だったらベタ記事程度、栗原を連れて帰った時もそうだった。
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貨物機で栗原の棺と一緒に帰った成田空港、グランドクルーの方々の手で栗原の棺は空港ビ
ルの地下室に入り、入管と空港警察の検視を受けた。栗原を迎えに来た細君が、声を殺して涙
する姿に胸が締め付けられる。謗られ、なじられた方がどれ程気が楽か分からない。質素な霊
柩車で貨物トラック用のゲートを抜け、斎場まで送った。道中、もう使うことのない栗原のパ
スポートを開くと、緊張した面持ちの栗原が写っていた。底抜けに陽気な男だったのに。
「何かあったら俺の携帯へ、時間は何時でもでいいから連絡しろよ」
何かあったら連絡出来なくなるのはお互いに良く分かっている。それでも何となく有り難く
感じる。電話を切り、佐賀に帰国を告げると喜色満面の顔を見せる。その気持ちは十分すぎる
程分かる、僕も同じだ。だが、喜んでいる自分の裏には、もう一人の自分が居る気がする。
電話を切るとすぐさまサムードのオフィスに電話をかけた。旅行代理店を営むサムードは、
情報通で強力なコネクションがあるらしく、チケットなどにもかなりの無理がきくので重宝し
ている。
「サムードのオフィスです」
野太い声で英語が伝わってくる。日本語ではないが、何となくほっとするのはなぜだろう。
「NTK‐日本特殊工機の牧野です」
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「ムァキノゥ!
いつ来たんだ?」
それからしばらく時候の挨拶から始まるアラビア式の挨拶が続く。これを放っておいたら
三十分はかかるが、省略出来ないプロトコルの様なものだ。
「ところでサムード、このゴタゴタは何時頃治まると思う?」
帰ってきた答えは意外なものだった。
「一四〇五年の事を覚えているだろう?」
西暦では一九八五年、サダム・フセインが領空内の飛行禁止と無警告撃墜を宣言した時、テ
ヘランに二〇〇人を超える日本人が取り残された年。
「近いうちに反体制派が大きな動きをするらしい。用心した方が良い」
「そこでお願いなんだが、明日の航空券を二人分手配できないか」
「明日?
日本行きか?」
「そうだ。それと、ここのチーフは僕じゃないんだ」
「ニューフェイスか」
「そうだ、そいつに代わるから面倒見てやってくれよ。名前はコーシロー・サガ……」
その時ズシン、ズシンと連続した爆発音が受話器越しに伝わってきた。
「サムード!
大丈夫か!」
「大丈夫だ。コーシッローだな、聞こえたよ」
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「宿はタリスマンホテルの七〇五号室だ」
「分かった。コーシッローに代わってくれ」
佐賀に受話器を渡す。こうやってコネクションを増やしておけば、佐賀の後々の仕事がやり
易くなる、その時はそう考えた。やがて話をしていた佐賀が、受話器を置いた。
「十二時三十分発のトルコ航空二〇二便、アンカラでトランスファーして成田です」
「航空券の受け渡しは?」
「チェックインカウンター前で、チェックイン開始の九時半までには来るそうです」
事務所を出ると佐賀が先程とは打って変わって、未練たっぷりに振り返る。自分の仕事を投
げ出して去る無念さは痛いほど分かる。佐賀の肩をたたき駐車場へ向かう。街路に車を乗り出
すと遠い銃声が散発的に響く。しかしビルの壁に銃声が反射し、どの方角で撃っているのかが
分からないのが怖い。オフィス街を抜けホテルに着くと駐車場の前では自動小銃を構えたガー
ドが立っていたが、チップの効用でスムースに駐車場に入れた。佐賀の口数が少なくなってい
るのに気がついたが、どうしてやることもできない。部屋に戻り、手早く荷物をまとめる。道
路地図を出し、もう一度空港までの道を確認した。
夕食の後、最後の夜と思い佐賀を連れてホテルの最上階にある外国人専用のバーに向かう。
40
意外な事に佐賀は一回もこのバーに来ていなかったそうだ。まあ、初めての単独海外なら緊張
でそんな事も忘れてしまう。僕にも覚えがある。
エレベーターを降りるとガード兼ボーイがパスポートを見せろと言ってくる。
湾岸戦争以来、
戒律がうるさくなってきた。これならサダム・フセイン時代のイラクの方がマシだ。当時のバ
グダット市内には酒屋が何軒もあった。
バーカウンターの後ろには隣国トルコ産をはじめ各国の銘酒が並ぶ。トルコはイスラム圏だ
が、何社もの酒造会社が旨い酒を造っている。良く見ると日本製のウイスキーも肩を並べてい
た。
まずはお約束のように翡翠の様な緑色の瓶が美しいトルコ製のビールで乾杯、ほんの一杯の
つもりだったが、獅子の乳と呼ばれるトルコのラク酒にまで手が伸びる。ラク酒はブドウで造
られた無職透明な酒だが、水を注ぐと白く濁り、口に含むと茴香の香りがツンと鼻に抜ける。
ヘーゼルナッツのオイルを掛けた塩辛いチーズに良く合い、ついつい二杯三杯と杯を重ねてし
まった。
部屋に戻り、短波ラジオをつけてベッドに横になる。ヘッドボードに掛けていたジャケット
の内ポケットからパスポートケースを取り出し、隠しポケットから四枚の写真を取り出す。一
番上になっていたのは白無垢姿の礼子だった。
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今朝も遠慮会釈なく響くアザーンの声で目を覚ます。
浴室に入り、
目覚まし代わりにシャワー
を浴びながら髭を当たる。
朝食までにもう一度荷物を確認した。万が一の用心にクオーター・ガロン(約一リットル)
のペットボトルをタオルで包みブリーフケースに入れる。機内には持ち込めないが、搭乗前に
捨てればいい。
朝食までの時間に今日のシークエンスをもう一度逆算する。フライトが十二時半、チェック
イン終了が十一時三十分、開始が九時三十分、空港到着が九時ならリードタイムが三十分、移
動に一時間、チェックアウト時間が七時半ならリードタイムの合計一時間、時間は貴重な有限
リソースだ。
朝食に出たパンケーキに添えられたバターは、これだけでウイスキーの肴になる程旨かった。
朝食後のコーヒーを飲んでいる時、尺玉花火の様な音が響いてきた。
ボム……ズシン!
ズシン!
パラパラパラッ!
窓ガラスがビリビリと震える。ポップコーンのはぜる様な音は自動小銃の連射、冗談じゃな
い!
近い!
テーブルの上へチップを放り出し、部屋に戻り荷物を引っ掴むとフロントに走る。佐賀に
チェックアウトを命じたが、フロントには僕達より気の早い連中が何人か詰めかけていた。
その間に会社から預かっている法人用クレジットカードで現金を引き出す。最後に威力のあ
42
るのは現金、頭の中でシークエンスを並べる。まずチェックアウト、空港へ移動、チケットを
受け取る、搭乗手続き。必要なリソースは金と時間、優先は時間、リミットは九時半だ。
金を下ろしロビーに戻るとフロントの混雑が悪化している。佐賀を待つ間にサムードに念押
しの電話をしたが、呼び出し音が空しく鳴るだけ。レバシリ商人が電話に出ないのは尋常な事
ではない。レバノン・シリア出身の商人はレバシリ商人と呼ばれ、商売熱心で有名だ。その分、
商売は堅く信頼できる。日本ならナニワの商人が店を放り出す様なものかもしれない。
ロビーで待つが、一向に佐賀の来る気配がない。最悪の状況が浮かび、背筋を寒いものが走
り抜ける。空港がロック・アウトされたら陸路で国境を越えるか、留まるしかオプションはない。
しかし陸路は、隣国のトルコでも最短距離で五〇〇キロ以上、不確定要素が多過ぎ、コストは
かかり過ぎ、旅程の状況かも分からない。ここに留まれば、いつ帰国出来るか判らない。手持
ちの現金では長期滞在は困難、クレジットカードが使えるのは電気・通信のインフラが生きて
いるのが大前提だ。
腕時計を確認するともう八時を回った。列の中に割り込み、佐賀に声をかけた。
「まだなのか?」
「オンラインの故障でクレジットカードが使えないそうで……」
宿
―泊料金の踏み倒し も
―考えたが、この後のことを考えるとこの手は使
ATMも人だかりになっている。つまり、金をという有限リソースは、補充の可能性を失っ
た。一瞬、スキップ
43
えない。フロントを見回すとマネージャーらしき男を見つけた。男に近づき胸の前で五十ドル
札を広げ、小さく手招きする。不審げな表情で男が近づいてきた。
「七〇五号室だ、チェックアウトしたい」
「残念ですが只今、オンラインが……」
男の眼の前で五十ドル札を筒状に丸める。
「キャッシュで払う」
「そう仰られましても……」
丸めた札をちらつかせると男の眼が札を追う。男の胸ポケットに指を掛け、引き寄せる。
「急いでるんだ」
「しかし……」
男の胸ポケットに丸めた五十ドル札を入れ、ゆっくりと指を離し、男の目を見つめたまま、
フ
ラッシュ!」
特別緊急
(軍事英語)
もう一枚の五十ドル札をポケットからつまみ出し、男の眼の前で丸める。
「
「イ、イエス・サー」
男がクリップボードを引き寄せ、電卓で計算を始める。宿泊代金を置くと男の目が五十ドル
札にロックオンしたままなのに気が付いた。
「領収書も必要だ」
44
ついぞ見かけない速度で領収書を切ってくる。丸めた五十ドル札を笑顔で男の胸ポケットに
落とした。
「サムードは捕まったか?」
「携帯が……圏外になってます」
端局が破壊されたのか、理由は分からないがそんなものを詮索している暇はない。長居は無
用、駐車場へ走りだした。走りながら自分に発破をかける、考えろ!
考え続けろ!
思考停
止したらもう何も出来なくなってしまう。思考とは選択肢を増やし、その長所と短所を付き合
わせ最良の結論を出す道具だ。考えろ、最低最悪の状況と回避方法を!
考えない奴は、餌を
喰わなくなった動物と同じ、後は死ぬだけだ。
駐車場で車を確認するとどうやら無事の様だ。佐賀がエンジンをかけた。
「上着を脱げ!
上は作業服を着るんだ」
会社の作業服の背中にはアルファベットと漢字でNTK‐日本特殊工機とTOKYO/J A
PANの文字が入っている。その上、僕の作業服の左袖には日本で刺繍屋に頼み、日の丸のパッ
チと牧野圭一の字を自腹で入れてある。日本国内で右翼チックと言われようが、ミリタリーオ
タクと思われようが、国外では日本人であることを示すのは意外に有利だ。念のため、ネクタ
イを手持ちの中で最も派手な赤地のレジメンタルタイに結びかえる。ネクタイをする地位にい
45
る無害な日本人であることを示すため。
財布はズボンのポケットへ。ジャケットに入れていたらジャケットごと奪われる事があるが、
ズボンは生きている限り奪われる事は少ない。パスポートケースをナイロンコードで首から吊
り、ワイシャツの下へ、ふと思い出してパスポートケースの隠しポケットから四枚の写真を取
出す。白無垢の礼子、色打掛の礼子、三人の子供と礼子、そして末娘と孫、一瞥してワイシャ
ツのボタンを留めた。腕時計は八時二十分を指していた。
風に巻き上げられた砂塵が強烈な太陽を遮り、町をセピア色の映画のように見せる。この町
の中心部まで来た時、自動小銃を構えた武装警察の一群に停車を命ぜられた。
「この先は通行できない」
「僕たちは日本のエンジニアだ。今から空港へ行かなければならない」
「この道は通行禁止だ」
ジャキッ、嫌な音が聞こえた。自動小銃に弾を装填する音、交渉できる領域はとうに過ぎて
いるらしい。泣く子と地頭には勝てぬと言うが、泣く子や地頭は殴り倒しても問題はない。し
かし自動小銃には絶対に勝てない。
「分かった、どっちから行けばいい?」
「あっちだ」
46
中東の「あっち」は全く当てにはならないが、それでも車を走りださせた。
「佐賀、道は分かるか」
「多分……」
頼りない答えにロードマップを確認する。廃墟の様にも見える人影まばらなビル街を迂回し
ている時目に飛び込んできたのは、道路一面に広がった群衆だった。異様な雰囲気、地響きの
様なシュプレヒコールが乾ききった街路を包む。このままでは正面衝突になってしまう。
「佐賀、右だ!」
目についたモスクの庭に車を突っ込む。まさかモスクを襲撃することはあるまい。一時避難
のつもりでスーツケースを掴むと開いた扉に逃げ込んだ。
挨拶ぐらいはしておこうと扉を開けた瞬間、かすかに甘い様で目を刺す猛烈な刺激臭が僕達を
襲う。なんの感情も持てなくても涙が出て来る目への刺激、何度か嗅いだ腐乱死体の匂い。
「グゲッ…」
佐賀が反射的に鼻を押さえようとする。手を掴んで耳元へ囁く。
「鼻を覆うな」
この状況で死者に対する侮蔑と取られる行動をすればどうなるか白痴でも想像出来る。佐賀
の目が怯えきっているのが分かるが、どうする事も出来ないし僕自身も恐い。胃の中身が逆流
しそうだ。生唾を何度か飲み込んでいるうちに目が室内に慣れる。床にいくつものカンバスの
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様な布に包まれた死体が並べられている。放置され体内から腐り始めた死体から廃油の様な黒
い液体が布に浸み出し、猛烈な腐敗臭が漂う。まだ包まれていない死体は乾燥し、ビーフジャー
キーの様な色に見える。ムスリムは土葬のため、状況が落ち着くまで当分このまま置かれるの
だろう。よく見るとサドゥと呼ばれるベドウィン織りの高価な敷物に乗せられた死体もある。
金持ちの死体なのかも知れない。奥から導師と思われる老人が近づいてきた。
「導師、助けて下さい。私達は日本のエンジニアです。デモに逢い逃げ込んでまいりました」
「日本人よ、おまえは何をしにこの国に来ているのか」
「この国が豊かになる手伝い、プラントを造りに来ました」
導師の顔にかすかな笑みが浮かぶ。プラントは弊社に御用命下さいとは言わない。
「安心しなさい。アッラーのお導きだ、ここは安全だ」
ホッとすると同時に盛りのついたウシガエルの様な声に振り向くと、扉の外で佐賀が両膝を
つき吐いていた。
シュプレヒコールの声が街頭を包む。人の流れがモスクの前を通過して行く、早く行き過ぎ
ろ、そう願った。もう時計は九時をはるかに過ぎている。
デモ隊の最後尾が通り過ぎた。そろそろ出発しようかと腕時計を見た瞬間、デモ隊の声が一
層大きくなる。先程までダラダラと歩いていた群衆が市民マラソンの列の様に逆流してくる。
48
遠くから建設機械のような音が聞こえてくる。叫び声の中から耳が拾った言葉に金玉がメリ込
戦車部隊だ
んだ。
逃げろ
「 ウ ィヒダトゥ・アルムダッラアート!」
「インフィサーローン!」
街路に数両の戦車をと装甲車が見える。技術屋として一言も二言も言ってやりたくなるメン
テナンスの行き届かないキャタピラの音と振動に耳も心臓を締め上げられる。デモ隊から火炎
瓶が投げられた。ゴォーッと地響きの様な叫び声が一斉に上がる。映画ならカッコいいかもし
れないが、目の前でやられるのは迷惑だ。腹の中で「このバカ共を蹴散らして早く行かせてくれ」
オカマ野郎
と頼む。その後も二発三発と火炎瓶が投げられるが戦車に当たらない。子供の頃に見た七〇年
安保の騒動を思い出す。「 マ フウール!、余計な事をするな」腹の中で叫ぶ。
ドドドドドドッ!
戦車が機関銃を撃ち始めやがった。冗談じゃない!
慌てて床に伏せた。その時、腹に何かが食い込んだ。鈍い痛みが腹から伝わる、撃たれた、そ
う思った。恐る恐る腹に手を当てる、パスポートケースが腹に食い込んでいた。パスポートケー
スを握った瞬間、礼子の顔が浮かぶ。言い知れない恐怖感が襲ってくる。
ガッ!
ガッ!
十ポンドハンマーで石塊を叩くような音、砕けた石が窓から吹き込んでくる。モスクの石壁に
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イエス
銃弾が当たっている。こうなったら出来ることはただ一つ。その場で伏せてブリーフケースを
頭に乗せ、後は自分にだけは弾が当たらないようにアッラーでも八百万でもイーサーでもブッ
ダでも何でもいい、ありとあらゆる神仏の類に祈るだけ。動けば撃たれる恐怖が支配する。ガ
タガタとキャタピラの振動が床から伝わってくる。早く通り過ぎろ、そればかりを思う。何も
出来ない、逃げ出すことさえ。
いつしか銃声が散発的になり、街路は静けさを取り戻し始めた。気がつくとパスポートケー
スを握りしめていた。周りを見回すと何人かの男が居るのが分かった、僕たちと同じく難を逃
れた連中なのだろう。我に返って腕時計を見る。十時三十二分だった。
「牧野さん、携帯が……」
この状態で通じるとも思えない、衛星携帯電話のイリジウムを取り出すが、ビルの谷間は衛星
が捕まらず通話ができない。サムードの状況が分からない。もう空港にいるのか、あるいはど
こかで難を逃れているのか、まさか……。
佐賀が素っ頓狂な声を上げた。
「やっべぇッ!
車がァ車がァ」
車が燃えていた。
「落ち着け!」
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「空港までどうするんですか?
二〇キロは有るんですよ!」
「忘れろ!
これからの対策を考えるしかないだろ?」
二〇㎞は車やバイクなら三十分程度だが、自転車なら三時間、歩けば五~六時間、何にしろ
徒歩や自転車は途中の給水が問題になるし、バイクや自転車なら荷物を捨てていかなければな
優先
らない。妥当なのは車を雇うことだが、この状態ではタクシーはない。最も良いのは、信頼出
来る車を雇うことだ。現時点での有限リソース、時間と金のプライマリーは時間、リミットは
十一時三十三分、あと一時間を切った。
こうなれば四の五の言ってられない、空港へ行く手段に思考を絞り込む。そして中東では何よ
りコネクションがものを言う。特に導師等の社会的地位のある人間を掴むのが手っ取り早い。
「導師、御覧の様に車が焼かれました。我々は空港へ行かなければなりません。導師のお力で
誰か我々を空港へ送って下さる方を紹介して頂けませんか」
導師の顔に困惑の色が広がる、いつもは自信満々のこの国の人にしては珍しい。絶望的状況
なのは分かるが、ここで引き下がる訳にはいかない。
「誰か空港まで乗せて行ってくれないか!」
モスクの中なのに大声を出した。反応がないが、声を掛け続ける。
「金は払う、急いで空港に行かなければならないんだ!」
「日本人、俺が送ってやろうか?」
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振り返ると背の高い痩せぎすでジーンズにTシャツの若い男だ。
「二百、アメリカドルで」
日本円は銀行取引なら絶大な信用があるが、この様な場所で実弾としてブッ放すなら米ドル
喜捨
に一日の長がある。日本と違ってストレートに金額を要求してくるが、この方がかえってサッ
パリする。
「分かった。支払いは無事に空港に着いたら。約束は守る」
「車は裏に止めてある。白のメルセデスだ」
話は決まった。少々高いが、この状況では仕方が無いだろう。導師にお礼代わりのザカート
を渡す。異教徒からでも拒否しないアバウトさが好きだ。
「佐賀、車で待っていろ!
スーツケースも頼む」
焼けてしまった車の所に行き、マルチツールと呼ばれる折り畳み万能ペンチで、まだ煙の上
がっているレンタカーのナンバープレートを外す。焼けたナンバープレートをタオルで包み、
ブリーフケースに入れ、走ってモスクの裏に回った。
日本では考えられない外観のメルセデスの横に佐賀が突っ立っている。窓ガラスが無かろう
が、ボディがベコベコだろうが動けば御の字、空港まで辿り着けば感謝感激だ。アラブ風の小
さなボンボン飾りが付いた車内、砂だらけのシートに腰を下ろし、ギシギシと軋むドアを力任
せに閉め、暴走族を思わせるような音をたて、元は純白だったはずのメルセデスはガタガタと
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走り出した。腕時計を見ると十時四〇分を過ぎていた。チェックイン終了まであと五〇分だ。
砂と瓦礫にまみれた街路を走っていると、窓から入ってくる焦げ臭い匂いと黄粉の様な細か
い砂がSF映画の世紀末の風景を思い出させる。ショックアブソーバーが抜け、スプリングだ
けで支えているようにフラフラと揺れるメルセデスの中、マルチツールをポケットの中で握り、
いつでもナイフの刃を起こせるようにしていた。念のため佐賀にドライブマップを渡し、道を
覚えるという名目で現在位置をプロットさせ続ける。気が付いたら見知らぬ所へ連れ込まれて
学問僧
ズドン!
日本人二名が行方不明、ベタ記事程度の事件だ。男の気を逸らすために話し掛け続
ける。その中で男は、ウラマーを志し、あのモスクで勉強しているとのことだった。
間もなく車は一昨日と同じ高速五号線に乗る。終点は空港だが、インターチェンジもあり、
気を緩めることはできない。マルチツールを握った掌に汗が浮かぶ。
最期のインターチェンジを過ぎ、空港へ向かう取り付け道路に入った時、素晴らしいモノが
目に飛び込んできた。飛行機が飛んでいる、空港は閉鎖されていない、帰れる。飛行機がまる
で飛び交う天使のように見えた。
「佐賀、あのレンタカーは日借りだろう?」
「……いえ……」
ク ソ ッ!
日借りなら知らん顔をして出国するつもりだったが、車を返さない限り会社は
延々と金を払い続けなければならない。余計な手間が増えた。いや、
確認しなかった僕の責任だ。
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「空港へ着いたらレンタカーは少々揉めるかも知れない、僕が処置する。お前は航空券だ」
下ろした現金の半分を佐賀に渡す。腕時計を見る十一時五分、後三十分を切ったが、レンタ
カーを処置する時間を含むから、実質十分以内に片づけなければならない。
「佐賀、チケットを受け取ったら、搭乗受付の前で待っていろ、スーツケースも頼む……それ
と……僕が遅れたら絶対に待つな、帰国しろ。いいなッ!」
空港に横付けされた車から降り、約束の二百ドルの他に簡単な土産用にバックにと入れてい
た使い捨てのサインペン型筆ペンを渡し、行路の平安を祈ってもらい、ビルに足を向けた時、
暴走族の様なメルセデスのエンジンが止まった。
昼の礼拝
「どうした、故障か?」
「違う、もうすぐズフルだ。終わってから帰る」
「ズフルは何時だ?」
「十一時八分だ。でも何でお前が気にする?
そうか、アッラーに感謝して改宗するなら……」
「ありがとう、心から感謝する。今度来た時必ず訪ねて行くから、アッラーの話を聞かせてほ
しい」
そう言って空港ビルの横にあるレンタカー会社のオフィスに足を向けた。
レンタカー会社の入口で腕時計を見る。ブリーフケースからチップ用に持っていたマルボロ
を出し、百円ライターで火を点ける。久しぶりのニコチンに少しくらっとくる。
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“ アッラ~フ・アクバ~ル、アッラ~フ・アクバ~ル ”
紫煙を目で追っているとモスクからアザーンの声が喨々と響き渡ってきた。さっきのモスク
で十分にザカートしてきたんだ、アッラーにお縋りしても良いだろう。
“ アシュハッド・アッラー、イーラッラー・イーラッラァーァ~……”
アザーンを聞きながらタイミングを計る。息継ぎをたっぷり取ったゆっくりとしたアザーン、
この分なら四分はかかるだろう。何十年も散々悩まされたアラブのIBM……インシャッラー
(アッラーの思し召しのままに)、ブクラ(明日)
、マーレシュ(気にするな)この三つは中東
で最初に覚える言葉、これを称してアラブのIBM、このアバウトさ耐えられず心を病む者も
いる……今日は有り難く活用させて頂く。
“ ハイヤー・アラッサァラーァ~ ”
アザーンも半ばを過ぎた。タバコを捨て、オフィスに入ると素早く周りを見回す。イスラム
圏では礼拝の為、そこかしこに表示してあるメッカのキブラ神殿の方向の表示を見つけた。腕
時計を確認し、ゆっくりとカウンターに近づく。カウンターの中の男と目が合った。顔がイン
ド人の様にも見える。クソッ!
ヒンドゥー教徒なら厄介だ。頼む、ムスリムであってくれ、
そう祈りながらカウンターの前に立った。
「アッサラーム・アライクム。車を返しに来た」
ブリーフケースから契約書と車のキー、それから焼けたナンバープレートを出し、カウンター
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に置く。受付の男が怪訝な顔で何か言いかけた、大きく息を吸い、一気に喚き立てる。
火炎瓶
「インシャッラ ー、車が燃えてし まった!
マーレシュ、デモのせいだ!
インシャッラー、
僕はアッラーの教えのとおりに正直に返しに来た!
あいつらがコクテール・モロトーフを投
戦車
機関銃
げたんだ。これを見ろ!
証拠がある!
デモにやられたんだ!
マーレシュ 、 全てアッラー
の思し召しだ!
ダッバーバトゥンだ!
ラシャーシュンだ!
インシャッラー、僕は悪くな
い!
盗んだ訳ではない!!……」
まくし立て続けるのは案外難しい。それでもアザーンが終わるまで反論を許さず、猛烈な勢
いでわめき続ける。
“ ラー イ
・ ラーハ イ
・ ッラーッラァ~ァ~ ”
赦すお方よ
アザーンが終わった。 ヤ ー・ガッファール!
両手で顔をこすり、男に尻を向ける格好でキブラ神殿の方向を向く。ナンバープレートを包
んでいたタオルを床に敷き、カウンターの向こうで喚き始めた男を完全に無視し、両手をゆっ
くり組み、その手を膝に下ろし、深く一礼する。頭を起こし、両手を上げ、タオルに正座し、
両手を地面に付け一礼する。カスルといわれる行路中に許される省略した短い礼拝の文句を唱
える。唱え始めると男の喚き声が消えた。それはそうだろう、いきなり変な日本人が礼拝らし
きものを始めたのだから。三分も要せず礼拝らしきものを済ませ、立ち上がり振り向く。あっ
けにとられる男の両手をカウンター越しにしっかりと握る。
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「インシャッラー、君のような実力の有る人物に巡り合えたのは幸運だ。
だからお願いするんだ、
アッラーのお導きだったんだ。問題は無いだろう?
マーレシュ、君なら処置は簡単に出来る
筈だ。何より君は敬虔なムスリムじゃないか。アッラーは君の味方だ」
感謝します
そう言って手を男の肩に回し、力任せにグイっと引き寄せてアラブ式の親愛の情……頬をす
り合わせる……を示し、「 シ ュクラン・ラカ!」と大声で言い放ち、にこやかな笑顔と光の
速度で立ち去る。
しかし、日本で男と頬をすり合せていたら特殊な趣味の持ち主と疑われるが、ここは中東だ。
後は保険屋とアッラーが仕事をするだろう。
空港のビルに入り、追いかけられた時の用心に柱の陰で作業服を脱ぎ、ジャケットを着る。
ネクタイを緩めワイシャツの中に吊るしたパスポートを取り出し、ジャケットの内ポケットに
入れる時、ふと思ってパスポートケースの隠しポケットを開く。一番上になっていたのは色打
掛の礼子と紋付の僕が並んだ写真だった。腕時計は十二時二十一分、トルコ航空のカウンター
を目指して走り始めたが、運動不足の身には少々つらい。カウンターの前に佐賀の姿を見かけ
ると心底ほっとした。
「佐賀、チケットは取れたか」
「……サムード……サムードが居ません!」
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真っ青な顔だが、そんな事にかまってはいられない。腕時計を見る、搭乗受付終了まであと
三分だ。
「キャンセル待ち入れたか!」
「……入れましたが、ウエイティングリストが……」
佐賀の歯切れが悪くなってきた。
「携帯も通じなかったのか」
佐賀の両目が大きく開く、顔色が変わる。パニックで失念していたことは明白だ。携帯電話
を取り出し大慌てでボタンを押している。手が震えているのが傍目にもわかる。通じたらしく
電話に向かって叫び始めた。
「サムード!
いま何処ですか、サムード!」
「おーい、ここだ」
その声に振り替えると、肥大漢のサムードがスナックスタンドからコーラの大きな紙コップ
を持ち、ノシノシと近づいてきた。
「街中がひどい状態で時間が掛った。それで喉が渇いてな。マーレシュ、こうして会えたんだ」
脱力感という日本語の意味が全身で理解できた。
「アッラーのお導きだ、良かったな。お前がコーシッローか?」
何が良かったのだか判らないが、これもアラブのIBMだ。
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「はい、佐賀光司郎です」
「サガ・コーシッロー?
サガ?」
「そう、サガ。サガ・コーシローです」
サムードの肩が僅かに震え、吹き出す。僕もつられて笑ったが、佐賀はぽかんとしている。
「サムード、もしかして東アフリカ出身なのか?」
「祖父がスーダンから父を連れて移住し、シリアで俺が生まれたが、何でわかった?」
その時、搭乗受付を急ぐようにとのアナウンスが響いた。
「ま、牧野さん……時間……」
「コーシッロー安心しろ、ファーストクラス二人分で一万九千ドル、良心的価格だ」
「ファーストクラス……ですか……?」
「コーシッロー、どんな席でも良いって言ったじゃないか」
やられた。佐賀も帰国で緊張が緩み、物事を善意に解釈する日本人に戻ってしまったのだろ
うが、僕も予約の確認を十分にしなかったのが敗因だ。ファーストクラスの航空運賃はエコノ
ミーの四倍以上、ビジネスクラスの倍、経理屋と揉める事は必至だ。
「……領収書をくれ」
握手と親愛の情を交わし、行路の平安を祈ってもらう声を背中に小走りでカウンターに向か
う。搭乗受付終了ギリギリ、まさに滑り込みセーフで係員にチケットを渡した。これで帰れる、
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何回経験しても腰の力が抜けるような安堵感は何とも言い様がない。平々凡々たるサラリーマ
ンを望む僕の陰に隠れているもう一人の僕は、バイクで峠道を飛ばすようなこの感覚を望んで
いるのかもしれない。
「牧野さん。今の何だったんですか?」
「何がだ?」
「笑ってたじゃないですか、人の名前聞いて」
「あぁ、あれか。スーダンはスワヒリ語圏だろ。サガはスワヒリ語でレズビアンだ」
「マジですか?」
「それより予約したのはお前だから、経理の口説き文句を考えておけよ」
「口説き文句……?」
「ファーストクラスを使った言い訳だ。認められなかったら差額は自腹だぞ」
搭乗受付の壁に掛かったイスラム暦の電光掲示板が目に止まる、不意にヒジュラという言葉
を思い出した。メッカを追われたムハンマドが再びメッカに還る聖遷行、ここからイスラム暦
は始まった。僕もメッカではなく礼子のいる日本へ還ろう。玲瓏という言葉が最も似合う国へ。
僕のヒジュラは、まだ路の途中だ。
ヒジュラ
作者
御廚 年成
第四回「俺的小説賞」応募作品
無断転載は禁止しています。
この作品の著作権は全て作者に帰属します。
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