横書き掲載

抜
粋
資
料
ミ二七・ヒ八一船団の記録
哀しき鹿島立ち
陸軍兵器学校第六期火工科八区隊
四期生遭難記録資料作成委員会
済州島沖・海没地点海上慰霊祭
執行 平成二年十一月
旭兵団 自動車聯隊
執行 平成元年二月
松岡 徳行氏
御塔婆、生花、捧投して慰霊黙祷、
ご冥福を祈る
フ ィリ ピ ンバ ギオ 古 戦 場 慰霊祭
第二十三師団・師団兵器部付 石井 清栄氏
『山下奉文大将』刑執行現場に立つ墓
閣下の副官、御遺族等ゆかりの方々のご意志にて、粗
末な暮石が処刑後、25年目に建立された。泥濘と雑
草茂った現地に訪れる人もすくない処刑場である。栄
光の閣下には済まない、元は、砂糖黍畑であったが、
今は農民の所有地である。訪れる日本人の賽銭を貰い
たさに、清掃したり、閣下の写真を飾ってサービスし
ている。でも、有難いと思う。(写真・コメント(上下)
ともに石井清栄氏)
江の浦丸・ブラジル丸が入港した北サンフェルナンド港はお粗末で有った。4日徹夜で荷揚げ完了。ドラム缶の
揮発油は海に落として上げ潮で砂浜に回収。経験だと感心。
三富 三郎 君
大重 義彦 君
A4版77頁
A4版 278頁
平成10年発行された「淵野辺に刻んだわが青春
大重・三富両氏活動により陸軍兵器学校の記録も作られ運営されてき
の軌跡 陸軍兵器学校」の本文と写真集である。
た。ここに両君に感謝するとともにご冥福をお祈りする。
2004年5月八区隊交流会記念写真
琵琶湖にて。後列右より大重君, 原田,
三富君三人おいて米田君。前列右より
五人目が古川さん。
目
次
5
◇ まえがき
◇ 哀しき鹿島立ち
指導生徒甲斐重行殿を偲んで
陸軍兵器学校第六期火工科 三富 三郎
9
◇ 陸軍兵器学校海没戦死者・生存者名
12
◇ 第二十三師団配属陸軍工科・兵器学校出身者名
23
◇ ミ二七・ヒ八一・ヒ八三・ミ二九船団編成と乗船区分
26
◇ 輸送船団の動向と被災の概要
33
ミ二七船団の動向
40
ヒ八一船団の動向
◇ 東シナ海におけるアメリカ潜水艦群の動向
狼群作戦と六隻が潜行待機
52
アメリカ潜水艦の電子兵器
59
◇ 陸軍兵器学校生手記
済州島沖における遭難記
陸軍兵器学校
第四期
鍛工科
福山
清臣
60
散り征きし戦友を憶う
同
鍛工科
大谷
好正
72
戦争は運争だ
同
火工科
西本
武実
84
沖縄県民と共に死闘
同
鍛工科
宮田
泰三
93
皮肉な運命に生かされる
同
機工科
金谷
大八
102
鈴木
秀夫
106
九死に一生
◇ ミ二七船団関係者報告手記
先ず空の見えるところに出ろ
船舶砲兵第一聯隊江戸川丸船砲隊長
114
延喜丸戦闘報告書(一部抜粋)
◇ ヒ八一船団乗船部隊・学校生存者手記
-1-
◇ 第二十三師団(旭兵団)
歩兵第七十四連隊あきつ丸で遭難
歩兵第七十二連隊通信中隊長
鈴木
昌夫
124
魚雷三発!あきつ丸の最後
歩兵第七十二連隊通信中隊
吉武
熊彦
126
師団司令部・摩耶山丸と共に
第二十三連隊司令部管理部
宿利
実
127
あきつ丸わずか三分で沈没
歩兵第六十四連隊
田上大五郎
130
第三悌団・江ノ浦丸で
第二十三師団兵器部技術曹長
石井
清栄
132
村松陸軍少年通信兵学校第十一期
村田
寅男
138
◇ 村松陸軍少年通信兵学校生手記
亡き戦友に捧げる
あきつ丸遭難から救助まで
同
金子
博
142
軍歌を歌って漂流二十四時間
同
間橋
国司
150
陸軍少年通信兵学校輸送指揮官
岡田
要
150
陸軍少年重砲兵学校第二期
伊藤
寛
154
藤森
嘉美
155
陸軍少年戦車兵学校第五期
友利
恵徳
159
陸軍少年野砲兵学校第二期
細尾
光一
168
出港直前あきつ丸輸送指揮官に
◇ 陸軍少年重砲兵学校生手記
繰り上げ卒業の十五名は台湾へ
レイテ上陸兵団と共に
同
◇ 陸軍少年戦車兵学校生手記
五島の海は冷たかった
◇ 陸軍少年野砲兵学校生手記
泥水すすり草を咬み
全弾打ち尽くし薄れゆく意識の中で
同
門坂
虎男
175
海没に負けずルソンで戦う
同
上嶋
充
184
◇ 陸軍少年高射兵学校浜松分校生手記
亡き友を偲んで
陸軍少年高射兵学校第二期
伊久間信夫
193
196
レイテ輸送船団の悲劇から
同
堺
比島のジャングルを彷徨
同
大槻
-2-
義光
一郎
199
◇ ヒ八一船団関係者報告・手記
あきつ丸船砲隊長として
船舶砲兵第二聯隊あきつ丸船砲隊長
冬木兵三郎
202
艦隊付属洋上給油船として
艦隊付付属給油船みいり丸一等航海士
市村 愛三
207
旭兵団(第二十三師団)ルソン島転戦記
工兵第二十三聯隊第二中隊長
落合
215
秀正
244
◇ 第二十三師団北部ルソン島戦死傷数調
◇ 陸軍船舶(暁部隊)砲兵聯隊
245
輸送船自衛のため戦う船舶砲兵
陸に上がった船舶砲兵第二聯隊の最後
◇ 陸軍海上挺進隊
陸軍船舶砲兵第二連隊中隊長
駒宮真七郎
249
254
(漁労隊)
261
◇ 戦時における船員
262
船舶の消耗激しく比島向け船団の中止
◇ 船団派遣と繰り上げ卒業の背景
致命的なフィリピン作戦の転換
265
輸送船増徴の具申・決定
271
282
◇ 捷号作戦の策定と最高戦争指導者会議
サイパン島を死守せよ
286
「絶対国防圏」の崩壊と東条内閣総辞職
「捷号作戦」策定と大本営
聯合艦隊「捷号作戦要領」を発令
288
◇ 「絶対国防圏」の崩壊と「捷号作戦」発動
一撃爾後講和主義が特攻を加速
米軍の基礎戦略
288
日本軍の基礎戦略
290
295
「あ」号作戦の策定と発令
-3-
297
◇ 船団護衛と海防艦
◇ 陸軍船舶戦争 概説
松原 茂生
279
304
◇ 船団発航前後の大本営陸海軍の動向
台湾沖航空戦
309
レイテ沖海戦
319
レイテ島の地上決戦
336
海軍神風特別攻撃隊
352
比島戦における日本軍の損害
355
◇ アメリカ潜水艦の電波兵器
日本海軍のアウト・レンジ作戦
357
米軍レーダー「CICシステム」
358
世界レベルの日本「キャビナティ・マグネトロン」
360
米軍VT信管(近接信管)の開発装置
362
幻の日本秘密兵器「有眼信管」
366
※ 用語解説
戦時標準船
368
配当船
輸送船団名称
370
MT船(陸軍特殊輸送船)
373
◇あとがき
-4-
ま え が き
昭和十九年十一月九日、戦局の緊迫化に伴い、陸軍兵器学校第四期生(三年生)の繰り上げ卒業式
が行われ、任官して各地に赴任した。
各工科から選抜された南方総軍派遣要員二〇〇名、第十方面軍(台湾 )、沖縄派遣要員二十一名が、
急遽同期生より五日間早めて十一月四日に卒業式が行なわれてその夜、慌ただしく神奈川県相模原淵
野辺の母校を発ち、十一月九日、ミ二七船団の江戸川丸に、陸軍海上挺進隊等二,二九八名と共に乗
船して、十一月十五日に門司港を出航した。
昭和十九年四月一日、六期生火工科に入校した私たちが、入校時の慣れない学校生活を指導してい
ただいた甲斐重行指導生徒も南方総軍要員として征かれた。
江戸川丸は出港の二日後、十一月十七日夜、五島列島福江島西方の東シナ海で米潜水艦の雷撃を受
けて沈没し、乗船将兵の八十七パーセントの一,九九七名が海没戦死した。陸軍兵器学校四期生一六
一名も海没戦死し、救助者は僅かに三十九名だった。その生存者の中に甲斐指導生徒の名前を見つけ
ることはできなかった。
また、第十方面軍(台湾 )、沖縄派遣要員の二十一名も、門司に集結し、比島レイテ島逆上作戦に
赴く、陸軍特殊輸送船五隻を中心に編成された「ヒ八一船団」摩耶山丸に十一名、神州丸に十名が便
乗して、十一月十三日、相前後して佐賀県伊万里湾を出航した。
ヒ八一船団乗船将兵の主力は、旧満州ハイラル駐屯の陸軍機動第二十三師団(旭兵団)九千余名と、
陸軍海上挺進隊二,〇〇〇名。十一月四・五日に急遽、在校一年間の学習と訓練で繰り上げ卒業を下
命され、下士官候補生に任官した通信兵、戦車兵、野砲兵、重砲兵、高射の諸生徒一,〇七五名とと
もに分乗していた。
十一月十五日、あきつ丸が五島列島福江島西方で、白昼に米潜水艦の雷撃を受けて沈没。同じく摩
耶山丸は十一月十七日夜、護衛空母神鷹と共に済州島西方の東シナ海で魚雷攻撃を受けて沈没し、乗
-5-
船の陸軍兵器学校四期生十一名も全員海没戦死した。
また、第二十三師団に師団兵器部付等で、陸軍工科・兵器学校卒業の十二名の技術将校、技術下士
官が配属されていた先輩と前後して出航したヒ八三船団ミ二九船団の四名が海没戦死した。
ヒ八一船団は、輸送途中の沈没により、師団司令部中枢の参謀等、乗船将兵の三分の一が海没戦死
した。積載されていた大量の武器・弾薬・物資・軍馬・軍犬等も海没喪失した。
陸軍工科・兵器学校開校以来のこの悲劇の状況は、生存者の個人的な手記として断片的に残されて
いたが、その全体の状況を記したものは校史にも記されていなかった。
そこで、赴任の途中、東シナ海の波間に消えた先輩たちへの鎮魂の想いと、陸軍工科・兵器学校史
の一頁に記したいと、有志相寄り委員会をつくり、数少ない救助生存されている先輩の方々の協力を
仰ぎ、調査資料の収集を進めることになった。
幸いにして九死に一生を得て救助された将兵および、魚雷攻撃を免れた輸送船の将兵は、レイテ逆
上陸の作戦変更によりルソン島に上陸した。一部の者は台湾で下船して、第十軍(台湾)と沖縄の部
隊に赴任配属された。
ルソン島上陸の主力並びに沖縄軍に赴任した将兵は、武器・弾薬・食糧・医薬品等の輸送が途絶え、
航空機・艦船の援護もない中、ルソン島での人跡未到のジャングル戦また、沖縄戦での米軍との死闘
を繰り返し、全滅の部隊も出る多くの戦死、餓死・戦病死等の犠牲者を出した。
さらに、輸送船自衛のため、輸送船に陸軍船舶砲兵聯隊の警戒・船砲隊員が多数乗船し、戦死傷者を
出した。
また輸送船乗船船員の犠牲者も多く、江戸川丸に七十六名の船員が乗船していたが、船長と共に七
十名が海没戦死し、救助された船員は僅かに六名であった。太平洋戦争を通して軍人の戦死・戦傷病
者より被害者率は高かったといわれている。
陸軍兵器学校四期生の遭難の状況等を明らかにするため、輸送船で運命を共にしたミ二七船団、ヒ
八一船団の編成・派遣・行動等、全体の状況を調査分析することが必要であるとの認識に立って、次
のような課題を設定した。
-6-
①
何故、南方軍要員だけが僅か五日間、さらに卒業を早めて急遽、門司に集結を命じられたのか。
②
陸軍少年兵の各学校も、南方軍要員だけが在校一年間で急遽、十一月四・五日に繰り上げ卒業
の下命を受けたのは何故か。
③
第二十三師団はハイラルで「台湾派遣」の動員命令を受けた 。「大連・旅順港集結」の命令で
列車で出発した部隊は、途中、満州奉天駅(瀋陽)で「釜山港集結」の変更命令を受領し、短期
間に集結港への変更が何故あったのか。
最終的に「朝鮮半島釜山港」に終結。乗船直前の十一月四日「比島・レイテ島派遣」の変更大
命を受けたのは何故か。
④ 大型の保有輸送船舶が皆無に等しい状況の中、陸軍上陸用舟艇母艦、陸軍改装水上機母艦等の
陸軍特殊輸送船五隻に、海軍改装護衛空母等の護衛艦で派遣する重大作戦とは何だったのか。
⑤
船団派遣と繰り上げ卒業の背景にあると思われる「ルソン決戦作戦」を、大本営が急遽「レイ
テ作戦」に、重大な致命的な作戦変更をしたのは何だったのか。
⑥
ミ二七船団で乗船将兵が最も多く乗船している江戸川丸、またヒ八一船団の摩耶山には第二十
三師団師団長以下師団司令部の中枢と、師団中核の歩兵第七十二聯隊等が、あきつ丸には歩兵第
六十四聯隊が乗船していたが、門司出港後、日本近海で、次々と撃沈された。
米潜水艦は事前に乗船部隊等の状況の情報等、受信・解読をして察知していていたのではない
か。
⑦
黄海・東シナ海で米潜水艦の行動はどうなっていたのか。また、当時、米潜水艦には荒天・深
夜の雷撃が可能な暗視装置等の兵器が開発搭載されていたのではないか。
⑧
重大作戦の輸送船団の護衛艦船は貧弱で、航空機搭載の空母が、白昼に撃沈されている。聯合
艦隊の艦艇、航空部隊等の現状はどうなっていたのか。
-7-
死者は
もはや書き記す
すべをもたず
かたることもできない
生者は
彼らに代わって
しんじつを伝え
残さねばならない
大重 義彦
(ここまでが遺稿である)
この本を発行するに当たり、主筆の中心的である六期火工科8区隊の大重義彦氏、三富三郎氏の両氏が相次いで急
逝し、その遺稿を引き継いだものの、果たして十分にその役割を果たすこと出来るかは非常に困難であると思われた
が、出来る限りその趣旨を生かしていきたいと覚悟を決めて取りかかった。
しかしながら、私達は一時期軍隊に籍を置いたと言っても生徒としてであり学業半ばであり、軍隊の組織そりもの
を体験したわけでなくこのようなものを作ること自体おこがましいことであり、発行に当たっては躊躇せざるを得な
かった。それでも何とか遺志を受け継ぎ形あるものとして後世に残す必要もあると思い直し、少しでも真実に近づけ
るために先輩である石井清栄氏にご協力ご指導を頂き色々のご忠告を加味して何とか脱稿することが出来ました。未
だ多くの記述もれ、地名、人名、等にも無知なるが故の誤記、不確実な面もあろうかと思われますが、平にご容赦頂
きたいと思います。その上で当時の大筋の流れをくみ取って頂きたいと思います。
これが当時海没した方々の鎮魂の一助となれば幸いであります。
原田 宗二
平成二十年一月十五日
-8-
哀 し き 鹿 島 立 ち
指導生徒
甲斐重行殿を偲んで
陸軍兵器学校第六期火工科
三
富
三
郎
昭和十九年十一月三日は明治節であった。翌四日は四期生の一部が南方総軍・台湾十方面軍派遣要員
として同期生より早く卒業したというより卒業させられた。
僅か数日なのに、早めなければならない理由があったのか。
十月二十日頃の夜の点呼の時、取締生徒から、これらの人の十一月四日の卒業のことが伝達された。
廊下一つ挟んで生活している四期生であるが、誰がどこに決まったのか、どこに征くのか全く分からない。軍隊とい
うところはそういうところらしい。しかし、いままでとは違った動きが四期生の中にある。
日にちが詰まってきて、ようやく南方方面への赴任者の名前がそれとなくわかって来た。その中に最初の指導生徒甲
斐重行殿が含まれていた。本当に甲斐殿は自分から望まれたのであろうか。
十月二十六日の夕食は会食であった。指導生徒が任官することを祝い、感謝をこめてのものである。
甲斐重行・武吉 傳・渡井庄作・紅林一安、どの指導生徒も厳しかったが、懇切丁寧な指導であった。
二ヶ月間に学校生活のすべてを教えこもうとした。おかげで、まがりなりにも学校生活に順応できるようになった。
その指導生徒も十一月四日と、九日にはそれぞれ任地に向けて出発してゆく。
平時であれば、再会を期待することもできるであろうが、緊迫したものを感じるようになっている時
であり、再び相見ゆることなどあり得べからざることである。今にして思うと不思議である。それが当然のように思
われていたのである。
-9-
十一月四日午後五時、各中隊は校門から淵野辺駅まで、道路の両側に二列に並んだ。第一中隊は校門
からはるか離れた、駅に近いところである。月もなく、星もない。沿道の家の灯りは完全に遮断されているため何も
見えない。真っ暗である。今日卒業した南方方面赴任者の鹿島立ちである。平時なれば晴れやかに首途を祝ったであ
ろうに。
声を出してはならぬ。号令で挙手の敬礼をもって見送る。これが各中隊の申し合わせであり、今守ら
ねばならないことである。見送るといっても目にみることはできない。
校門の方がにぎやかになってきた。征く者にとっては下級生との別れであり、祖国との永訣である。
貴様ら頑張れ!
後からこい!
待っているぞ!
と口々に叫んでいる声が、聞きとれるようになっ
てきた。
第一中隊第八区隊!
号令が下る。挙手の礼を送る。空気を切る音が肌に感じられる。
第一中隊の卒業生の声が在校生に投げかけられる。甲斐殿の声が一際大きく聞こえる。
八区隊しっかりしろ!
しっかり勉強しろ!
そして、一人ひとりの名前を叫びだした。
声は大きく、そして、絶叫となって行く。
顔は見えない。声は出せない。ただ闇の中で敬礼をしている。
指導生徒にとって、幼さを残した童顔で、ものわかりの悪い、仕方のない奴ばかりの八区隊であった
ろう。だからこそかわいかったのであろうか。甲斐殿の声は胸を締めつける。返事をしろ!
返事しないか
んばかりである。誰しも返事をし、飛びつきたい衝動にも襲われる。
おい!
どうした!
おれの言うことがわからないのか!
どうした!
甲斐殿の声だけが闇空に響き、そして、やがて、遠ざかって行く。別れは当然のことで覚悟はしてい
たが、これ程つらいものか。まさに愛別離苦、闇がつくづく恨めしくなる。どうして月が出ないのか。
征く勇者の軍靴の響きが胸に突き刺さる。
卒業というのに、晴れ姿を人目に誇ることもできない。かつての旅人が戌の刻に旅立ちしたのと異な
る理由で、暗黒の中で征つのである。
甲斐殿だけが、どうしてあんなに叫んだのであろう。どうして絶叫とも言える程の声を出したのであ
- 10 -
と狂わ
ろう。陸軍兵器学校卒業の技術伍長二二一名は江戸川丸と摩耶山丸、神州丸に乗船した。輸送船団は、
陸軍少年通信兵学校、陸軍少年戦車兵学校、陸軍少年重砲兵学校、陸軍少年野砲兵学校、陸軍少年高射砲兵学校卒業
の下士官候補生約一千余名と 、旧満州からフィリピンの決戦場に向かう関東軍の第二十三師団の将兵一万余名および 、
陸軍船舶部隊海上挺進隊で、四船団に編成された。
十一月十三日、門司港を出航したヒ八一船団は十五日十二時頃にあきつ丸が五島列島沖で、十七日十
七時頃に摩耶山丸が、十五日出港したミ二七船団江戸川丸が、十七日二十二時〇分に済州島沖の東シナ海で、米潜水
艦の魚雷攻撃を受けて沈没してしまった。
陸軍兵器学校の卒業生は沈没した江戸川丸・摩耶山丸に乗船していたため、壮途空しく散華してしま
った。
あの常陸丸の近衛後備歩兵第一聯隊将兵と同じ恨みを残して。わが兵器学校卒業生で救助された者三
十九名。その生存者の中に甲斐殿の名はなかった。
すでに、十一月四日に神のみが知る運命を、甲斐殿の何かが悟っていたのではないだろうか。
それが甲斐殿に、八区隊の一人ひとりの名前を叫ばせたのではないか。そうすることによって、一人
ひとりの中に自分を残して征ったのではないだろうか。
甲斐殿は生まれた時から、その運命の糸によって生きて来たのである。陸軍兵器学校に入校したのも、
指導生徒になったのも 、南方派遣征きになったのも 、総て摂理によるものであり 、選ばれた者として生きたのである 。
それは摂理に従順であるとは言え、あまりにも哀しいことである。
ああ!
指導生徒逝きて半世紀。生らはあまりにも平和になれすぎてしまった。なごし世の祖国を願
い、自己犠牲による最高の愛を施した指導生徒。その純にして真の心を体し、神の与えたもうた道を素直に生きてゆ
くことこそ、遺された生あるもののつとめではないか。
平成七年十一月
(淵野辺に刻んだわが青春の軌跡ー陸軍兵器学校より)
- 11 -
南方総軍・台湾・沖縄軍司令部派遣
四
期
生
戦没年月日
海没地点
海 没 戦 死 者 名
昭和十九年十一月十七日
江戸川丸
北緯三三度三五分・東経一二四度三五分
(朝鮮半島小黒山島南西約六十四キロ)
摩耶山丸
北緯三三度二一分・東経一二四度四二分
(朝鮮半島小黒山島南西約七〇キロ)
江戸川丸輸送指揮官
戦没者名
陸軍大尉川満寛常(区隊長)江戸川丸に乗船し海没戦死
乗 船 名
卒 業 時 の 本 籍 地
遺 族 名
火工科
中濱
幸男
桑原
勝
八原
今井
江戸川丸
大分県南海郡下入津村大字竹野浦河内六二五ノ四
父・勇
平
同
島根県八束郡熊野村七五六
父・惣
市
高保
同
島根県米子市皆生一三一
父・宇三郎
清英
同
群馬県群馬郡瀧川村大字下齊田九八
父・覚三郎
羽端八寿夫
同
和歌山市元寺町南ノ一ノ八
父・八
蔵
外村
耕一
同
鹿児島県揖宿郡指宿町十二町一二五三
父・金
造
土井
忠好
同
宮城県桃生郡赤井村關ノ内一号九一
父・國
雄
角本
幾義
同
広島県豊田郡忠海町五四四九
父・仁佐市
佐々木喜一
同
秋田県河邊郡濱田村字館九八二
父・房
佐藤一十三
同
名古屋市中村区下弁井町二ノ九
父・源右ェ門
渋谷
利彦
同
神奈川県足柄郡松田町松田鹿子一〇五
父・富
久
須藤
敏幸
同
埼玉県大里郡花園村大字小前田一四四
父・智
貞
- 12 -
吉
甲斐
重行
同
熊本市上林町五
父・善五郎
高橋
政蔵
同
秋田県雄勝郡元西馬音内村西馬音内掘回字世之澤二九 父・重
高橋
捨一
同
兵庫県揖保郡龍野町ワ四五
父・伊之助
中村
秀雄
同
石川県河北郡倶利加羅村字富田イ一七六ノ乙地
父・政
吉
村尾
幸雄
同
兵庫県出石郡神美村長谷五二七
母・タ
カ
野間
良弘
同
愛媛県今治市大字別宮五四ノ三
父・重
一
矢崎
高儀
同
神奈川県小田原市早川一一九
父・竹次郎
山田
弘治
同
大阪市西区北堀江町一丁目七
母・ハ
ナ
山本
政次
同
愛知県箕飯郡三谷町字二舗四六ノ二
母・キ
ン
原
貞良
同
群馬県佐波郡玉村町大字福島一三三五
父・幸次郎
橋口徳三郎
同
宮崎県東臼杵郡北郷村大字入下三三七
兄・藤
吉
木山
敬憲
同
鳥取県日野郡日野上村三〇二
父・定
重
森田
岩松
同
島根県穏地郡万村大字油井一八五
父・宋太郎
瀬山
林三
同
群馬県桐生市横山町二四四ノ一
母・ハ
ル
加藤
清
同
鹿児島県川辺郡笠沙町赤生木一〇二二六
父・清
丸
丸田
益雄
摩耶山丸
鹿児島県日置郡伊集院町麦生田
父・袈裟吉
沢田
秋元
摩耶山丸
名古屋市東区生駒町六ノ一一七
父・正
二
蒲池
豊海
摩耶山丸
佐賀県
岸田善次郎
摩耶山丸
埼玉県
江戸川丸
新潟県西頸城郡能生村大字能生七一四八
父・嘉
和
同
福岡県京都郡仲津村大字高瀬二八〇
兄・正
幸
同
東京都荒川区尾久町五丁目一二〇一
兄・善
治
蔵
電工科
富田
栄一
緒方
武
片吉健次郎
- 13 -
吉田
光男
同
岩手県西磐井郡一ノ關町字大槻町三
父・
鶴田喜四郎
同
茨城県西茨城郡宍戸町大字太田町七三〇
母・よ
中田
光男
同
北海道函館市山背泊町三二
父・次郎吉
阿南
克巳
同
大分市大分三二二四
父・孫
吉川
千歳
同
広島県雙三郡布野村大字下布野甲三〇一ノ二
父・
澣
木下
聡
同
福岡県大牟田市片平町一三
父・
鍛
喜田文次郎
同
香川県綾歌郡飯野村大字東分二三七一
父・浅太郎
渋谷
和夫
同
千葉県安房郡勝山町加知山三三九
父・泰二郎
古谷
里司
同
高野
重春
同
斎藤
寛
同
津田
恩
同
都築
剛
同
京都市左京区松ヶ崎小竹薮町二七ノ六
父・寿太郎
村田定次郎
同
中辻
政治
同
土支田夏夫
同
石井
英良
同
浦野
鏡
同
岡島
繁次
同
牧野
繁基
同
川腰
照雄
同
福里
文雄
同
吉田
義光
同
伊藤
茂男
摩耶山丸
- 14 -
牧
ね
市
林
誠治
摩耶山丸
京都府南桑田郡篠村字相原
母・ヤ
エ
加瀬
秀夫
摩耶山丸
千葉県香取郡中和村未辺二八六
父・孝
平
東京都荒川区南千住町一ノ五〇
兄・久
雄
郎
機
工
科
田中
英雄
江戸川丸
富田
道雄
同
茨城県東茨城郡伊勢畑村大字神伊勢畑一七二
父・一
大住
七郎
同
兵庫県三原郡松帆村七江七五四番
父・伊勢郎
大槻
峯雄
同
京都府加佐郡有路上村字神有録一七四三
父・仲右ェ門
小津
秀夫
同
大阪府池田市建石町三二六
父・福
松
立石
岩平
同
三重県三重郡縣村大字下海老原一六七三
父・源
吉
田中
慶一
同
群馬県群馬郡伊香保町湯中子七一三
父・十四三
土田
強
同
熊本県下益城郡津森村大字下陳四三三
父・末
中村
貞次
同
京都市伏見区東大黒町一〇二〇
父・鹿次郎
長嶋
一夫
同
千葉県長生郡南日龜村剃金二五九〇ノ二
父・健
治
上田
富弥
同
青森県三戸郡名久井村大字上名久井字山道五
父・次
郎
山本
住衛
同
東京都牛込区余丁町一一七
父・住一郎
松島伊三郎
同
群馬県佐波郡宮郷村大字今九九
父・由太郎
寺林
芳夫
同
石川県能美郡寺井野町村寺井ヘ一四五
父・次
安部
久二
同
山形県西置賜郡豊田村大字今泉一〇一四
父・佐久美
篠崎
幸一
同
長崎県壱岐郡田河村大字諸吉葦邊浦一六五
父・松四郎
並川
憲
同
京都市下京区神松屋町五條下ル上長福寺町二九五
父・長太郎
後藤
忠夫
同
山形県南置賜郡南原村
中馬
公敏
同
鹿児島県姶良郡東国分村小一一八六
父・庄
吉
半田
定雄
同
千葉県印旛郡印西町大字小林二二
兄・順
次
- 15 -
吉
作
安岡
則康
同
佐賀県東松浦郡切木村大字大良一六七九
大谷伊三郎
同
滋賀県蒲生郡日野町
鈴木
同
静岡県志太郡藤枝町
悦郎
父・政治郎
鍛 工 科
小野村浩一
江戸川丸
茨城県筑波郡村田水山村大字田中一四〇四ノ二
父・長
作
吉
大河内義春
同
福岡県八幡市大字屋倉一三
父・友
大橋
勝富
同
福島県伊達郡掛田村中町九
父・文之助
尾場
正一
同
滋賀県野洲郡兵主村大字堤一五二四
父・正治郎
渡部
正勝
同
福島県南会津郡樽原村大字栄富字南原甲五八五
父・平
三
横山
忠三
同
山形県東村山郡天童町大字天童甲一五〇四
父・傳
吉
恒石
秀男
同
高知県香美郡大忍村字中野八二四
父・秀
吉
長谷
初義
同
宮崎県北諸県郡高城町大字有水五五二四
父・高
義
長坂今朝吉
同
長野県埴科郡下村大字新田三九四
父・國
吉
櫻井虎之助
同
大阪市此花区春日出町一五一ノ一五
兄・清
満
斎藤
英雄
同
東京都芝区白金三光町二〇八
父・装
一
上田
輝夫
同
福井県今立郡栗田部町二七号九二
父・軍
治
倉知
武夫
同
愛知県葉栗郡北方村大字北方字東渡ノ三六
父・甚右ェ門
国兼
精一
同
福井県丹生郡常盤村菜原一九九八
父・長左ェ門
山本
敏夫
同
高知市昭和町九七
父・
槙本
昌基
同
広島県蘆品郡有磨村大字下有地四三
父・仁
一
伊原
武司
同
埼玉県埼玉郡武里村大字大枝五八五
父・兼
吉
入江勇次郎
同
福岡市荒戸町一三二
父・八
郎
岩谷
廣司
同
佐賀県杵島郡朝日村大字中町七五六五
父・喜
三
丹羽
治
同
岐阜県稲葉郡岩村岸田七〇一
父・彦三郎
- 16 -
實
荻原
貞文
同
鹿児島県日置郡東市来町長里二七七一
母・フジエ
徳田
博
同
愛媛県宇和島市順賀通四ノ一
父・晴
一
片平
武行
同
鹿児島県薩摩郡水引村網津四三四一
父・藤
吉
燕
庄一
同
新潟市古町通十三番町一五九
父・庄
松
中西
一夫
同
東京都蒲田区荏原一丁目三一〇
父・小次郎
上村
時平
同
愛媛県喜多郡大洲町大字西大洲甲四一二
父・時
雄
宇田武三郎
同
名古屋市熱田区熱田西町字白鳥二四
父・福
助
粂
實
同
香川県三豊郡栗井村三三一
父・頼
彦
越地
博
同
神奈川県中郡比々多村三ノ宮五八九
父・吉次郎
阿部
友吉
同
大分県速見郡豊岡町大字豊岡四九八
父・守
坂
繁雄
同
広島県雙三郡作木村大字門田五一五
父・源一郎
柴田
弘
同
兵庫県河西郡富合村常吉四一五
父・喜代市
兵頭
功
同
愛媛県西宇和郡喜須来村字喜本二番耕地二二一
父・菊
森本
和夫
同
熊本県八代市福生町一五七五
母・タツモ
森本
秀壽
同
長崎県南高来郡守山村丙四六八
父・喜三郎
水野
重男
同
愛知県丹羽郡大山町大字大山字東古券一一四
父・重
関
敏男
同
福島県石城郡温本町下浅具九〇
父・
関澤
義雄
同
新潟県中魚沼郡上郷村大字宮之原二四
父・友太郎
米岡
誠一
同
熊本県菊池郡油水村大字豊水一〇
父・亥
一
伊藤
忠夫
同
東京都大森区大森八ノ三九三
父・愛
造
岩田
温
同
岐阜県加茂郡下麻生町中麻生一四八〇ノ一
父・東
吉
生田
和平
同
福岡県小倉市徳吉町一三四
父・千太郎
石井
謙次
同
横浜市港北区小机一三九五
父・富
林
忠一
同
滋賀県神崎郡永源寺村大字攻所
父・忠兵衛
- 17 -
彦
松
助
寛
次
西山
栄作
同
三重県阿山郡島ヶ村六二九三
父・源三郎
尾形傳兵衛
同
千葉県香取郡香取町香取一四五八
父・
小原
清
同
和歌山市西仲間町一ノ二
父・藤十郎
荻原
定雄
同
山梨県東山梨郡松里村三日市場二三四一
父・安
渡部
孝
同
東京都中野区千光前町一三
父・
宏
神田
隆治
同
東京都下谷区龍泉寺町一三
父・
孝
武智
敏郎
同
兵庫県出石郡倉橋村佐々木六四
父・與一郎
小林
芳久
同
神奈川県中郡岡崎村三〇一四
父・久
吉
高知
俊一
同
東京都蒲田区蓮沼三ノ一ノ三
母・ヤ
ス
古木
重志
同
島根県穏地郡都方村大字油井一一五ノ二
父・兵次郎
榎股
文雄
同
愛媛県温泉郡石井村大字西石井四〇五
父・喜和雄
江崎
勝巳
同
富山県東岩瀬郡東岩瀬町字東岩瀬一八
父・伊三次郎
阿保
純一
同
青森県中津軽郡和徳村大字襟手子宮本九八
父・幹三郎
阿部卯吉郎
同
福岡県糸島郡福吉村大字福井五四九四
母・千
代
佐藤
實
同
福島県伊達郡半田村大字谷地字追分一三
父・文
栄
名本
文雄
同
愛媛県東宇和郡渓筋村大字長谷二高地一五六
父・辧次郎
中山
弘
同
横浜市鶴見区下野谷町四ノ一六一
父・清
山田
義弘
同
新潟県中魚沼郡中深見村丙四九三九
父・林之助
松原治太郎
同
岐阜県羽島郡下羽栗村無初寺六一
父・武
一
石井
直貞
同
札幌市大通西九丁目ノ三
父・尚
孝
勇
勝次
同
鹿児島県大島郡古仁屋町六八九
母・直
菊
浜中
辰美
同
三重県志摩郡長岡村千賀一二七
父・辰之助
浜野
正男
同
茨城県真壁郡嘉田生崎村大字下岡崎二〇
父・與三郎
石田
豊
同
山口県防府市大字田島三八六三
父・仲
- 18 -
傳
徳
作
蔵
本川
泰
同
町田
有造
同
長尾
同
赤塚
同
技 工 科
岩井
利之
江戸川丸
静岡県熱海市熱海九五九ノ八
父・太三郎
井上九洲生
同
福岡県糸島郡岩土村井田二八六
父・耕太郎
市来
秋義
同
宮崎県西諸県郡真幸村亀澤村四五
父・小
伊藤
修治
同
大阪市福島区中江町五七
父・佐一郎
稲川
圓一
同
岐阜県武儀郡富之保村三七八三ノ三
父・久
助
波多江一男
同
佐賀県唐津市唐津一〇〇四
父・健
治
西尾
政治
同
富山県下新川郡船見町一四四一
父・孫
一
西澤源二郎
同
長崎県埴科郡東條村二〇九
父・貞
夫
龍
盛之
同
福岡市堅粕七六七
父・茂三郎
岡田
晃
同
東京都城東区大島町四ノ一九五
父・安
大塚
清二
同
新潟県北魚沼郡小千谷町稗生甲一四二七ノ二
父・作太郎
川村
鶴吉
同
高知県幡多郡宿毛町押ノ川一四〇一
父・林之助
栢木
栄喜
同
奈良県吉野郡川上村白屋四二六
父・一
文
田島
稲雄
同
長野県更級郡上山田村上山田六五六
父・武
三
中野
好男
同
三重県度会郡二見町四一四九
父・末四郎
宇堂
幸次
同
奈良県磯城郡大福村大福五一九
父・善
逸
藤原
廣策
同
静岡県小笠郡池新田町合戸一九五
父・永
一
荒川
廣義
同
福島県相馬郡八幡村坪田平林
母・フ
ジ
- 19 -
助
蔵
佐藤
吉雄
同
大阪市生野区腹見町二ノ八六
父・宇太郎
坂口
保
同
石川県鹿島郡越路町芹川千部一
母・茂
北村
一郎
同
京都市上京区椹木町
父・祀太郎
北野
信治
同
長野県松本市南深志町七三ノ三
父・甲子森
三浦
光雄
同
福岡県浮羽郡千年村若宮二〇五
父・秀
島田
質
同
鹿児島県日置郡日置村日置五一六〇
父・清五郎
廣渡
勇介
同
福岡県宗像郡福台町四四二〇
父・貞
東
金也
同
三重県北牟婁郡九恩村大字早田浦三六
父・金右衛門
注1
江戸川丸、摩耶山丸で遭難救助された者、攻撃を回避して台湾高雄港に入港した神州丸乗船者
は中国・台湾・沖縄の部隊に派遣されて戦死された者もいる。
注2
摩耶山丸、あきつ丸乗船の第二十三師団(旭兵団)の師団兵器部付等で乗船していた陸軍工科
学校出身者は四名が海没戦死した。
平島
(同期技工科奥野様より申し出があり追加)2011. 8. 23
正俊
救助された生存者
生存者名
乗 船 名
卒業時の本籍地
火工科
栗山
花牟礼
亘
江戸川丸
京都市中京区壬生辻町四八
忍
同
宮崎県西諸県郡高原町大字牟田一一六〇
西本
武實
同
広島県呉市広小坪一ノ一二ノ五
門田
渡
同
愛媛県伊予郡原町村麻生七九〇
三島
一士
同
広島市安佐南区長束五ノ二三ノ一二ノ二
- 20 -
能
吉
七
横山
岩男
同
高知市福井扇町一一ノ二
電工科
鍵本
輝夫
江戸川丸
広島県佐伯郡高田村二九九四
高山
勝二
同
広島県三原市港町八三四
武藤
時
同
茨城県久慈郡佐都大字常福地七〇四
森竹
栄蔵
同
鹿児島市下荒田町二二九四
機工科
谷田
正路
江戸川丸
富山県東砺波郡福野町苗嶋一〇八八
柘植
茂
同
岐阜県加茂郡蘇原村赤河一五一ノ一
矢口
博
同
東京都南多摩郡南村字高ヶ坂四八四
金谷
大八
同
群馬県太田市西本町四九ノ三
鈴木
雄朔
同
静岡県志太郡青島町前島一一三一
鍛工科
西本市右衛門
江戸川丸
岡山県阿哲郡豊永井村大字宇井三九八
大谷
好正
同
神戸市林田区東尻池町三ノ六二
片倉
正保
同
愛媛県喜多郡五十崎町大字古田甲一二二九
佐藤
徳次郎
同
山形県東置賜郡二井宿村田澤三〇七四
白鳥
千里
同
長野県上伊那郡箕輪村福與一九三〇
同
山口県萩市大字椿東字越ヶ濱福之町六三四九
久保田
栄作
福山
清臣
同
鹿児島県薩摩郡大村字上上手二九六ノ乙一
品川
秀夫
同
熊本県玉名郡荒尾部四山下区四〇一
比企
正行
同
北九州市若松区高須東四ノ一三ノ一三
川路
弘
同
鹿児島市鴨池町一〇六三
野田
清一
同
佐賀県杵島郡龍玉村大字深浦三三八
- 21 -
近藤
増美
同
広島県呉市宮原通二丁目八一
鈴木
正造
同
埼玉県比企郡下野村九〇
伊藤
武義
同
福島県田村郡御館村柳橋一九五
大庭
豹作
同
東京都
山崎
成
同
愛媛県今治市片山一ノ四ノ二
大久保峯蔵
同(台湾戦死)東京都足立区本木町四ノ五ノ六三
川島
操
神州丸
千葉県
宮田
泰三
神州丸
京都府
高橋
豊水
神州丸
高知県
西尾
清
神州丸(沖縄戦死)長崎県
小川
誠実
神州丸(沖縄戦死)東京都
技工科
松本
貞美
江戸川丸
愛媛県伊予郡中山町中山寅一九六ノ一
坂本
倉輝
同
長崎県北松浦郡南田平村小牛田免一一五六
水上
衛
同
長野県北佐久郡南大井村御影親田一三一〇
- 22 -
陸軍工科・兵器学校出身海没・生存者
ヒ八一船団に乗船海没戦死者
第二十三師団兵器部付
陸軍工科学校第十九期銃工科
陸軍技術曹長
渡 辺 恭 兵
佐賀県
陸軍技術曹長
野 沢 幸 雄
山梨県
陸軍技術曹長
佐 々 木 竹 二
岩手県
陸軍技術曹長
尾 形 幸 三
愛媛県
石 井 清 栄
茨城県
第二十三師団兵器部付
陸軍工科学校第十九期鍛工科
第二十三師団兵器勤務隊付
陸軍工科学校第二十期機工科
第二十三師団野砲第十七聯隊付
陸軍工科学校第二十期鍛工科
◇
ミ二九船団(第三悌団)乗船生存者
第二十三師団兵器部付 (第三悌団に乗船)
陸軍工科学校第二十一期機工科
- 23 -
陸軍技術曹長
4期生南方総軍・台湾軍派遣要員海没戦死者一覧
15・2・10 日現在
海没者
生存者
不明者
計
火 工
32
6
0
38
電 工
14
4
14
32
機 工
23
5
0
28
鍛 工
68
22
6
96
技 工
26
3
0
29
計
163
40
20
223
- 24 -
備
考
単位:名
乗船別人員表(海没・生存者)
江戸川丸
神州丸
計
火
工
34
4
0
38
電
工
29
3
0
32
機
工
28
0
0
28
鍛
工
91
0
5
96
技
工
29
0
0
29
211
7
5
223
計
①
摩耶山丸
単位:名
摩耶山丸3名、神州丸6名(鍛)不足、江戸川丸戦没者の
中に含まれていると思う。
摩耶山丸は機工と電工にいるのではないか?
- 25 -
備
考
陸軍兵器学校・第23師団・ 陸軍少年兵学校卒業生等
輸送船団編成と乗船区分
ミ27船団
船団編成 ◇ 輸送船7隻、油槽船1隻。
輸送船 盛祥丸 (5 .463屯 )、 江戸川丸 (6 .968屯 )、 鎮海丸 (2 .827屯 )、 松浦丸 (3 .185屯)
輸送船 杭州丸 (2 .812屯 )、 延喜丸 (6 .925屯 )、 阿波川丸 (6 .925屯 )、タンカー 逢坂山丸 (6925屯 )。
◇ 護衛艦4隻
第61、第134海防艦、第156掃海艇、157躯潜特務艇。
乗船部隊名 陸軍兵器学校卒業生
陸軍海上挺進第19戦隊・同基地第19大隊
同
第18船隊
船舶砲兵第1聯隊船砲隊
陸軍補充要員便乗者及び軍需物資輸送関係兵員
船
名
乗
船
陸軍兵器学校卒業生
部
〃
積 載 兵 器・機 材
乗 船 兵 員 等
200名 (161名海没戦死) 上陸用舟艇16隻、自動車60両、 乗船兵員
江 戸 川 陸軍海上挺進隊第19戦隊
丸
隊
1 .000名
軍馬150頭、軍用犬200頭、
基地第19大隊
エンジン、海上挺身隊用爆雷54個、
6968 屯 輜重部隊補充兵(自動車輸送隊) 430名
軍馬・軍用犬輸送輜重隊
2 .222名
海没戦死者 2 .032名
543名
ガソリン燃料(ドラム缶)、飼糧、
船員 76名(70名海
部隊付属関係兵器・機材等。
没戦死)
兵器・機材
海軍便乗 399 名海没戦死
船舶砲兵第1聯隊江戸川丸船砲隊員 49 名( 46 名海没戦死 )
盛祥丸
海軍補充要員便乗者
463 屯
船舶砲兵第1聯隊盛祥丸船砲隊員
鎮海丸
陸軍海上挺進第18戦隊
827 屯
軍需物資輸送兵員
船舶砲兵第1聯隊鎮海丸船砲隊員
100名
陸軍
- 26 -
17名
船
36名
員
連絡艇
兵器・機材等
89名
船砲隊員
兵 員
22名海没戦死
逢 坂 山
現地部隊補充要員
丸
船舶砲兵第1聯隊逢坂山丸船砲隊員
兵器・機材
船砲隊員 80 名 海没戦
死船員
6925 屯
62名
〃
軍需物資輸送関係兵員
延 喜 丸 工 員 (インドネシァ・スラバヤ派遣)
6968 屯 海軍延喜丸警戒隊
飛行機 10 機( 解体搬送 )、車両 、 兵 員 積 載 物 の 損 傷 な
魚 雷 20 本 、海上挺身隊用 爆雷 し
300 個、 特設機雷 500 組など、 船員 8名乗船
軍需物資 1, 500 屯
50名
18名
ヒ81船団
船団編成
◇
陸軍特殊輸送船5隻、タンカー5隻。
特設運送艦聖川丸(6 .862屯 )、上陸用舟艇母艦摩耶山丸(9 .433屯 )、
上陸用舟艇母艦吉備津丸(9 .575屯 )、陸軍空母兼上陸用舟艇母艦神州丸(8 .160屯 )、
陸軍空母兼上陸用舟艇母艦あきつ丸(9 . 189屯 )、
タンカー東亜丸(10 .023屯 )、
タンカー橋立丸(10 . 020屯 )、タンカー音羽山丸(9 . 204屯 )、
タンカーありた丸(10 . 238屯 )。
◇
艦隊洋上給油船みりい丸(10 .564屯 )。
護衛艦 9隻。
護衛空母「神鷹」(97式艦載攻撃機14機 )、駆逐艦「樫 」、海防艦第9号、 第61号 、「択捉 」「対馬 」「大東」
「久米 」「昭南 」。
乗船部隊名
関東軍第23師団(旭兵団 )。
陸軍海上挺進第20戦隊、同
基地大隊
威集団(南方)補充兵員
陸軍兵器学校卒業生
21名 (
- 27 -
11名海没戦死)
陸軍少年戦車兵学校卒業生
270名 (127名
〃
)
東京陸軍少年通信兵学校卒業生
285名 (
53名
〃
)
村松陸軍少年通信兵学校卒業生
315名 (118名
〃
)
陸軍少年重砲兵学校卒業生
15名 (
8名
〃
)
陸軍少年野砲兵学校卒業生
70名 (
41名
〃
)
120名 (
58名
〃
)
陸軍少年高射兵学校浜松分校卒業生
船舶砲兵第1聯隊船砲隊
同
船
名
摩 耶 山
丸
9433 屯
あ き つ
丸
9189 屯
第2聯隊船砲隊
乗
船
部
隊
積 載 兵 器・機 材
23師団司令部、歩兵第72聯隊(都城)第2大隊、工兵
第23聯隊第一中隊
独立野砲第23聯隊本部、同 第1大隊、同 段列。
工兵23聯隊1中隊。
陸軍兵器学校卒業生
11名
陸軍少年戦車兵学校卒業生
90名
村松陸軍少年通信兵学校卒業生
54名
陸軍少年重砲兵学校卒業生
5名
陸軍少年野砲兵学校卒業生
22名
陸軍少年高射学校卒業生
40名
船舶砲兵第1連隊摩耶山丸船砲隊 ( 192名海没戦死 )
同 第2聯隊摩耶山丸船砲隊
(
5名
同
)
歩兵第64聯隊直轄部隊(熊本 )、第1、第2大隊。
工兵第第23聯隊第1中隊。 歩兵第72聯隊(都城)
第2大隊、野砲第17聯隊第1大隊本部
同 第2小隊。 陸軍海上挺進第20船隊、同基地大隊
1 .000名
- 28 -
大型上陸用舟艇、陸軍
舟艇
自動車、軍馬204頭、木材
隊属兵器・機材・糧秣等。
乗 船 兵 員 等
乗船将兵
4 、 387 名
海没戦死者 3, 187 名
陸 軍兵器学校卒業生
11 名
戦死
陸軍
連絡艇104隻 、戦車 、
野砲、 山砲、トラック11台、 乗 船兵 員 4200名
軍用犬、 軍馬500頭、
( 23 師団2576名 )
部隊装備関連兵器・機材、
(船砲隊員・船員を含む)
陸軍少年戦車兵学校卒業生
村松陸軍少年通信兵学校卒業生
馬 糧 、 部 隊 付 属 関 連 兵 器 ・ 弾 薬 23師団 2.046 名戦死
90名
88名
陸軍少年重砲兵学校卒業生
5名
陸軍少年野砲兵学校卒業生
25名
陸軍少年高射学校浜松分校卒業生
40名
陸軍船舶砲兵第2連隊あきつ丸船砲隊
船砲隊員 142 名戦死
等。
261名
歩兵第72聯隊本部(都城 )、第1大隊、歩兵第64聯隊
吉 備 津 (熊本)第3大隊 第1大隊、 第2大隊、
隊属兵器・機材・糧秣等。
丸 9575 歩兵第72聯隊(都城)第3大隊、
屯
工兵第第23聯隊第2中隊。
被害なし
独立野砲第13聯隊第1大隊。
威集団(南方)補充要員
陸軍船舶砲兵第2聯隊吉備津丸船砲隊
歩兵第72聯隊(都城)第3大隊 。工兵第23聯隊第2中隊 。
独立野砲第13連隊第2大隊
隊属兵器・機材・糧秣等
神州丸
陸軍兵器学校卒業生(台湾軍派遣要員)
10名
8160 屯
陸軍少年戦車兵学校卒業生
90名
村松陸軍少年通信兵学校卒業生
173名
陸軍少年重砲兵学校卒業生
5名
陸軍少年野砲兵学校卒業生
23名
陸軍少年高射学校浜松分校卒
40名
陸軍船舶砲兵第2聯隊神州丸船砲隊
- 29 -
舟艇100隻
被害なし
ヒ83船団
船団編成 ◇
輸送船3隻、貨物/油槽船7隻
日昌丸(6 .527屯 )、鴨緑丸(7 .363屯)有馬山丸(8 .697屯 )、和浦丸(6804屯)、
輸 送 船
極運丸( 10.045 屯 )、東亜丸(10 .052屯 )、讃岐丸(9 .246屯 )、誠心丸(5 .239屯 )、
貨物/油槽船
永祥丸 (5 . 061屯 )、はりま丸(戦標船2TL型)
◇
護衛艦
9隻
護衛空母海鷹(12 .755屯 )、駆逐艦「神風 」「夕月」 海防艦「第35号」
「第60号 」「第63号」
「第64号 」「第65号 」「第207号」
乗船部隊名
第23師団歩兵第71聯隊本部(鹿児島 )、同
同
工兵第23聯隊本部、同
第1大隊、同
第2中隊、同
第2大隊、同
第3大隊
機材小隊。
陸軍海上挺進隊
船
名
日昌丸
乗
船
部
隊
積 載 兵 器・機 材
歩兵第71聯隊本部(鹿児島 )、同
6527 屯
同
工兵第23聯隊本部、同
第1大隊、
隊属兵器・機材・糧秣等
第2大隊
第2中隊、同
機材小隊。
鴨 緑 丸 歩兵第71聯隊第3大隊(鹿児島)
隊属兵器・機材
7,363 屯 野砲兵第17聯隊の一部
船舶海上挺進隊
和浦丸
歩兵第71聯隊第2大隊(鹿児島 )、工兵第23聯隊本部
6804 屯
野砲第17聯隊の一部
- 30 -
乗 船 兵 員 等
ミ29船団
船団編成
◇
輸送船
3隻、貨物/油槽船
輸 送 船
貨物/油槽船
9隻
はわい丸(9467屯 )、伯刺西爾丸(5859屯 )、
江ノ浦丸
(6998屯 )。
安芸川丸(5244屯 )、くらうど丸(5497屯 )、
大威丸
(6856屯 )、延元丸(6890屯 )、延慶丸(6892屯 )、
延長丸(6888屯 )、明隆丸(4739屯 )、
明島丸
◇
護衛艦
(1993屯 )、第11星丸(1944屯 )、第一興南丸(458屯)
8隻
護衛駆逐艦「朝顔」
海防艦「干珠 」「新南 」「生名 」「41号 」「66号」
駆潜艇「28号 」、駆潜特殊艇「第223号」
乗船部隊名
第23師団輜重第23聯隊本部、同
捜索第23聯隊本部、同
第1、第2中隊。工兵第23聯隊第3中隊。
第1、第2、
第3、第4中隊、同
通信小隊。
師団通信隊、師団衛生隊(野戦病院 )、師団兵器勤務隊、 師団病馬廠、防疫給水部。
陸軍海上挺進隊
- 31 -
・
船
名
乗
船
部
隊
積 載 兵 器・機 材
乗 船 兵 員 等
は わ い 輜重第23聯隊第1中隊。工兵第23聯隊第3中隊。
捜索第23聯隊第2、第4中隊、同
丸
通信小隊。
九州男女列島沖で沈没
隊属兵器・機材・糧秣等
9467 屯
伯 刺 西
爾丸
輜重第23聯隊第2中隊。師団通信隊。師団病馬廠。
隊属兵器・・機材・糧秣等
被害なし
5859 屯
輜重第23聯隊本部 、同
第1中隊 。捜索第23聯隊第1 、 隊属兵器・機材・糧秣等
江 ノ 浦 第2中隊。
舟艇
兵員3 .500名
被害なし
師団兵器勤務隊。師団衛生隊(野戦病院 )。防疫給水部。
丸
6998 屯 陸軍海上挺進隊。
注 1
輸送船の乗船部隊名、人員および積載兵器・機材の名称、数量等は軍事機密で、
船舶会社は船舶が徴用され、軍が
管理運航をしていたために、その詳細な書類が無い。
輸送船乗船者も輸送指揮官、船砲隊長、船長等の管理部門の一部関係者以外は 知り得ず、 書類は海没または、焼却
廃棄されている。救助された生存者の手記(記憶)の照合による以外に詳細の確認は困難である。
また、防衛研究所戦史部資料室、前厚生省援護局保管資料にも、輸送船単位 の乗船部隊・人員の書類は保管され
ていない。
- 32 -
輸送船団の動向と被災の概要
「ミ二七」船団の動向
「ミ二七船団」は当初、江戸川丸、盛祥丸、鎮海丸、逢坂山丸、延喜丸、杭州丸、松浦丸、阿波川丸、
延慶丸、極運丸の十隻の輸送船とタンカーで編成の予定だった。十一月十五日、門司出港直後、延慶丸
が舵の故障で離脱し、十六日には極運丸が機関故障で引き返し、輸送船は八隻になった。
盛 祥 丸
(貨物輸送船)
東和汽船
五,四六三トン
江戸川丸
(貨物輸送船)
日本郵船
六,九六八トン
鎮 海 丸
(貨物輸送船)
東亜海運
二,八二七トン
逢坂山丸
(タンカー)
大阪商船
六,九二五トン
松 浦 丸
(貨物輸送船)
日本郵船
三,一八五トン
杭 州 丸
(貨物輸送船)
大阪商船
二,八一二トン
延 喜 丸
(タンカー)
日本郵船
六,九六八トン
阿波川丸
(タンカー)
川崎汽船
六,九二五トン
護衛艦艇
第一一 第一三四海防艦、第一五六掃海艇、一五七躯潜特務艇等の五隻。
、
昭和十九年十一月十五日十六時〇分
船団は門司を、第一三四海防艦を先頭に三列縦隊に並び、江戸川丸は二列目中央に位置し、船団左に
掃海艇、駆潜特務艇が各一隻と、右側に海防艦一隻の護衛艦五隻が併走して出港した。
外海が危険なため、東シナ海に出て一挙に南下することはできず、大陸沿岸に沿って台湾高雄港に向
- 33 -
かう方法に変更した。船団は先行したヒ八一船団の航跡を進んだ。
十七日二十時〇七分以降
済州島西方洋上の朝鮮南西岸小黒
山島の南西四十マイル付近において
盛祥丸・江戸川丸は、米潜水艦サン
フィシュに、油槽船逢坂山丸、貨物
船鎮海丸はピートの雷撃を受けて沈
没した。
盛 祥 丸
海軍補充要員便乗者および兵器・
軍需品を搭載し、十五日、ミ二七船
団と共に門司六連沖錨地を出港した。
十七日二十二時〇七分頃、済州島
西方海上で米潜水艦サンフィシュの
魚雷攻撃を受けた。第一弾は右舷三
番艙に命中し、第二、第三番艙と機
関室が浸水して運転不能になり、全力を挙げての防水作業にもかかわらず船体が沈下するので、二十三時
三〇分頃、海軍便乗者をいったん救命艇に移乗させ、折から救援にきた第一〇一号掃海艇とともに復旧作
業を続行中、十八日〇一時三十分、米潜水艦が浮上し砲戦をしてきた。
盛祥丸も応戦したが、十八日〇三時〇分頃、弾薬が尽き火力が沈黙すると、米潜水艦は再度、魚雷攻撃
を敢行してきた。魚雷は船体中央部に命中し、北緯三三度、東経一二四度三四分の朝鮮西岸小黒山島南西
約七十キロの海上で沈没した。
- 34 -
海軍便乗者三九五名、船舶砲兵第一聯隊船砲隊員十七名、船員三十六名が海没戦死した。
江 戸 川 丸
江戸川丸は昭和十九年五月二十日、三菱重工業神戸造船所で竣工した。戦時標準船二A型の貨物船で、
船舶運営会の使用船になっていた。
長
さ
一二九・九米、
主機関
二〇〇〇馬力ターボエンジン一基、
速
一〇ノット
力
であった。
門司港で、陸軍兵器学校卒業の南方軍派遣要員二〇〇名。昭和十九年十月、広島県宇品の陸軍船舶部隊
で編成された陸軍海上挺進隊第一九戦隊・同基地第一九大隊の一 〇〇〇名。南方軍補充兵員及び輜重隊
.
員九七三名、船舶砲兵江戸川丸船砲隊四十九名等、兵員二 二二二名。船員は船長以下七十五名が乗船し
.
ていた。
船内には、上陸用舟艇十六隻、軍用貨物車輛六十台、対潜用爆雷五十四個、軍馬一五〇頭、軍用犬二〇
〇匹、航空機用エンジン、燃料(ドラム缶 )、飼料等の比島への輸送貨物を積載して、台湾高雄に向けて
出航した。
十七日二十二時〇五分
北緯三三度三五、東経一二四度三五。朝鮮南西岸小黒山島南西約六十四キロで、米潜水艦サンフィシュ
の攻撃を受け、魚雷は三番船艙右舷、船体の中央に命中した。
爆発によって艙内、甲板上の引火性搭載物からも発火したため、火災は船橋よりも高く舞上がり、炎
は船上を狂うように暴れ、次第に船橋と船尾に迫った。
船内の消火機能が破壊されたこともあり、消火作業も不能になった。船尾にある機関室と船橋の連絡も
絶たれ、燃え盛る炎から逃れるのが精一杯であった。
乗船していた二 〇〇〇余名の兵員・乗組員は、魚雷の爆発で戦死し、船艙で寝ていた大部分の将兵は、
.
梯子も焼け落ちて甲板に上がることも出来ず大混乱になった。船艙の可燃性積載物に火が燃え広がり、
- 35 -
兵隊の叫び声に混じって、軍馬、軍犬の異様な鳴き声が流れていた。船体は二つに折れ船首・船尾を下
げ山型になって沈下しはじめた。
輸送指揮官川満大尉は船と共に
溝口貞雄船長は機密書類の完全な海没消失を確認すると
二十二時三〇分
「乗組員総員の退船!」
命令を下した。
一号、二号救命艇も落下して用をなさず、兵員や乗組員
は雪崩をうって海に飛び込んだ。船上の火勢はますます熾
烈となり、搭載物の爆発も相次いだ。
江戸川丸輸送指揮官川満寛常陸軍大尉(陸軍兵器学校機
工科区隊長)は、燃え盛るブリッジに船長と共に二・三名
の者と炎に照らされ立っている姿を、海に飛び込み舟艇に
救助された兵器学校卒業生が望見していた。
二千余名の輸送指揮官として最後まで船に留まり、船長
と共に江戸川丸と運命を共にした。
十八日〇一時三〇分
燃え続ける江戸川丸に二発目の魚雷が命中し、船体は大音響と共に瞬時に沈没した。
救助された江戸川丸の警戒隊長は、
「溝口船長は、誰もいなくなった二番船艙で黒いカバンを下げて、大声で、総員退船!を叫んでいたの
- 36 -
が印象に残る。また、鎮海丸に救助された者もいたが、その鎮海丸も間もなく米潜水艦ピートに撃沈さ
れた。
十一月の黄海は水温が五度位と低く、夜間に漂流のため、多くの人々は海中で護衛艦を待ち切れず凍
死した者も多くいた 。」
と語っている。
乗船していた兵員二 二二二名の内、二 〇三二名。乗組船員七十五名の内、船長以下六九名が海没戦
.
.
死した。
逢 坂 山 丸
-
戦時標準貨物船(2A
20型)として起工されたが、タンカー不足を補うため、建造中に応急油槽
船(2TA)に改造されて、昭和十九年九月に完成した。
ミ二七船団に編入されて門司を出航。
十七日二十二時四十分
済州島西方海上で、米潜水艦ピートの魚雷攻撃を受け、四番艙に命中、燃料タンクに火災が発生、瞬
く間に全船が焔に包まれた。第二弾がブリッジ下に命中すると、船体は右舷に急傾斜し、黄海上の北緯
三三度三〇分、東経一二四度三〇分の地点で沈没した。石油輸送に活躍する時間も与えられぬまま、完
成後二ヶ月で任務を閉じた。
兵員便乗者・警戒船砲隊員八十名。船長以下六十一名の船員が海没戦死した。
鎮 海 丸
軍需物資輸送関係兵員および兵器・機材を積載して門司六連沖錨地を出航。
十七日二十二時〇七分頃
済州島沖において、僚船江戸川丸が被雷沈没したため、直ちに救命艇を降下し救助にあたるうち、十
八日二十四時四十分頃、北緯三三度三九分、東経一二四度二六分の小黒山南西八十キロにおいて、米潜
水艦ピートの攻撃を受け、激しい浸水で船体が瞬く間に左舷四十度に傾斜し、船尾を上空に向けて沈没
- 37 -
した。
乗船兵員十七名、船員二十二名が海没戦死した。
杭 州 丸
明治四十四年一月、造船奨励法によって造船所のストック・ボートの大運丸として建造竣工した。大
阪商船(商船三井)が台湾航路に投入。その後、国内石炭輸送にも従事した。大正二年、杭州丸となり、
- 38 -
大連、インド・カルカッタ線に就航していた。太平洋戦争で陸軍に徴用され、宇品ー釜山の輸送にあた
った。
昭和十九年十一月、ミ二七船団に編入され門司六連沖を出航。途中、敵潜水艦の攻撃を受けたが、朝
鮮半島珍島方面の避泊地に退避して難を逃れ、高雄に到着できなかった。
松 浦 丸
大正十二年六月、イギリス・ラッセル会社で竣工した貨物船。大正十二年十二月に近海汽船が、揚子
江沿岸行きの石炭や北九州の八幡製鉄所(新日鉄)への鉄鉱石の輸送に当たった。昭和十二年の支那事
変で陸軍に徴用されて軍需輸送に就いた。昭和十六年、再度徴用されたが、速力八ノットの老朽船のた
め、内地ー台湾間や大陸沿岸の輸送にあたっていた。
ミ二七船団に編入され門司を出港。途中、敵潜水艦の攻撃を受けたが、難を逃れて中国大陸泗礁山錨
地に退避して高雄港に到着した。船団は高雄で解団した。
延 喜 丸
ミ二七船団に編入されたが、敵潜水艦の攻撃を免れ、中国舟山列島錨地に退避して十一月二十六日、
高雄港に、松浦丸と共に無事入港した。
阿 波 川 丸
ミ二七船団に編入されたが、敵潜水艦の攻撃を免れ、中国泗礁山錨地に退避した。その後の運航を取
止めた。
- 39 -
「ヒ八一船 団」の動向
ヒ八一船団の編成は、陸軍特殊輸送船(MT船)五隻、高速タンカー五隻で編成された。
聖 川 丸(船団指揮艦・改装水上機母艦)六,八六二トン
川崎汽船
あきつ丸(陸軍空母兼上陸用舟艇母艦)
九,一八九トン
日 本 海 運
摩耶山丸(陸軍上陸用舟艇母艦)
九,四三三トン
吉備津丸(陸軍上陸用舟艇母艦)
九,五七五トン
神 州 丸(陸軍空母兼上陸舟艇母艦)
八,一六〇トン
みりい丸(艦隊洋上補給船タンカー)
一〇,五六七トン
音羽山丸(海軍徴用船タンカー)
東 亜 丸(
同
右
ありた丸(
同
右
橋 立 丸(
同
右
九,二〇四トン
)
商船三井船舶
日本郵船
陸軍省
三菱汽船
商船三井船舶
一〇,〇二三トン
飯野海運
)
一〇,二三八トン
石原汽船
)
一〇,〇二〇トン
飯野海運
護衛艦艇
空母神鷹、駆逐艦樫、海防艦択捉、対馬、大東、久米、昭南、第九号海防艦、第六一号海防艦の
九隻で編成された。
釜山から門司に回航
昭和十九年十一月四日、あきつ丸、摩耶山丸、吉備津丸、神州丸の四隻の陸軍特殊輸送船(MT船)
は、朝鮮半島釜山港に終結した。
満州ハイラル駐屯の機動第二十三師団(旭兵団)並びに、南方軍補充要員、上陸用舟艇、貨物自動車、
部隊の付帯装備の火砲、兵器、弾薬、器材、糧秣、陸軍特攻用舟艇
等を搭載していた。
十一月四日
釜山を出港し、十一月七日に門司六連沖、部碕沖の各錨地に回航した。門司で陸軍特攻用舟艇
- 40 -
軍
馬、軍犬等を積み、昭和十九年十月に広島県宇品で編成され、南部ルソン島バタンガス州に南下する陸
軍海上挺進隊と同基地大隊。繰り上げ卒業で南方軍・台湾軍・沖縄に派遣される陸軍兵器学校、陸軍少
年通信兵学校、陸軍少年戦車兵学校、陸軍少年重砲兵学校、陸軍少年野砲兵学校、陸軍少年高射学校の
繰り上げ卒業生が十一月九日に乗船した。
十一月十日
関門港周辺には十数隻の大型の陸軍
特殊輸送船と高速大型タンカーが、六
連沖、部埼沖錨地と、一部の船は門司
港内に分散して停泊していた。
十一月十二日
各輸送(油)船の船長、機関長、警
戒隊指揮官などが武官府に招集され、
船団会議が開かれた。最近の各船団が
出港後一両日で敵潜水艦に襲撃されて
いるという事実が噂になっていた。
佐賀県伊万里湾で船団編成
十一月十三日早朝
九隻で編成された船団は、門司を出
航して玄界灘を八ノット単縦陣型で夕
闇迫る佐賀県伊万里湾奥深くに入り、
厳重な灯火管制下に一夜を明かした。
十四日〇六時〇分
伊万里湾で船団を編成し出航する。海防艦択捉を先駆させ、船団司令官佐藤勉少将が乗船する聖川丸
を先頭に、輸送船を三列縦隊に配した。聖川丸、神州丸には「す号探信儀」を装備し、護衛空母神鷹は
- 41 -
九七式艦上攻撃機十四機を搭載し、飛行機の発着の際、離れやすいため船団後方についた。
駆逐艦樫は空母の護衛が主任務のため後方に配された。船団の周囲は海防艦で固め、之字運動で航行
し、敵潜水艦の攻撃を避けるため、十二ノットの速力で朝鮮半島西岸に沿い上海沖に向かう。
十二時三十五分、五島列島白瀬灯台を過ぎたころ
「敵機動部隊北上!」
の報が入り、台湾全島に空襲警報が発令された。
米潜水艦が船団を探知
九月十四日十二時〇分
先駆の海防艦が早くも敵潜水艦を探知したため、船団は反転し五島列島宇久島水道南側の神ノ浦湾に
退避した。水道の東西の入口に海防艦昭南等が遊弋して敵潜水艦の掃討作戦を実施した。全船団も終夜
警戒配置についた。
この夜、米潜水艦は宇久島の沖に接近し、戦機をうかがっていた。一方、タンカーみりい丸の無線室
が、米潜水艦同士が交信中の電波を近距離で傍受し、船団の危機が迫ったことを察知した。
米潜水艦クイーンフイッシュ、バーブ、ピキューダの三隻は、東シナ海北海域の哨戒区を受け持って
いた。
十五日〇六時三十分
宇久島水道東口を出た船団は、しばらく擬似針路を南下して急転。済州島南岸をかすめ上海沖に達す
る針路に入った。三列縦隊を形成し、速力十二ノットの基準針路二七五度の之字運動を開始した。
初冬の空は澄みわたり、季節風の吹く海上は白波が立ち、対潜監視はやや困難だが、視界は極めて良
好であった。空母神鷹からは哨戒機二機が常時飛び、船団周辺を警戒するとともに、艦船に装備された
探信儀が作動し、さらに対潜監視員の監視の目が光り、三段構えの警戒体勢で、防潜はほぼ万全と思わ
れた。
聖川丸「QBW信号旗」を掲揚
十一時五十三分、船団指揮船の聖川丸は左前方に敵潜水艦を探知したので、それを示すQBW信号旗
- 42 -
を掲げ、続いて各船に
「右四十五度一斉回頭」
を命じた。
あ き つ 丸 (陸軍水上機母艦)
十一月十五日
米潜水艦旗艦クイーンフィシュが、ヒ八一船団を発見。同時に左舷斜め方向から接近する。
雲量三、気温十三度、北西よりの微風が時折吹くほどで、対潜見張りはやりやすかった。しかし、玄
界灘特有の白い波頭が立つため、望遠鏡での発見は困難と思われた。
あきつ丸は、三式連絡機六機を下ろし、独立飛行第一(対潜)中隊を十一月四日、広島県宇品で下船
させ、その格納庫・船艙に、第二十三師団(旭)歩兵第六十四聯隊本部(熊本)をはじめ、陸軍海上挺
進隊第二十船隊・同基地大隊の一 〇〇〇名。陸軍少年通信兵、少年戦車兵、少年野砲兵、少年重砲兵、
,
少年高射砲兵の各学校繰り上げ卒業生三一九名。陸軍船砲隊第二聯隊あきつ丸船砲隊二六一名等、兵員
四 五〇〇名が乗船していた。
.
飛行甲板には陸軍特攻用舟艇
一〇〇隻の他、戦車、野砲、山砲と、船艙に軍馬五〇〇頭、糧秣を
はじめ、一会戦用弾薬を積載していた。
昼食時に魚雷攻撃
十一時五〇分、乗船者は船内で昼食をとっていた。北緯三三度一七分、東経一二八度一一分の五島列
島福江北西四十キロ付近で、米潜水艦クィーンフイッシュの魚雷が船体後部の食糧庫、弾薬庫付近で爆
発した。この衝撃で上甲板に装備していた中迫撃砲の砲弾、船尾の弾薬、爆雷が次々に誘爆し死傷者が
続出し、船団の各輸送船は直ちに速力を上げ現場から退避行動に移った。
船体後部の三分の一が沈下した時、汽缶室が爆発、船橋も連鎖反応を起こした。あきつ丸は大型上陸
用舟艇をレールに乗せて船尾から降ろすため船内に隔壁がないので、浸水が始まると、直ちに船内の全
域に被害が広がっていった。
- 43 -
十秒後、二発目の魚雷が命中した。船体は四十五度左舷に傾いていた。飛行甲板に固定されていたグ
リン色の特攻用舟艇
一〇四隻も吹き飛ばされた。船は被雷三分後に裏返しの状態で沈没した。魚雷
命中後、空母神鷹の九七式艦上攻撃機、海防艦の爆雷攻撃があり、海防艦大東、昭南が遭難現場に踏み
とどまったが、沈没が急だったため海没も多かった。
米潜水艦の突然の攻撃で、護衛艦は直ちに戦闘に入り、十分間隔の爆雷投下を開始。船団は同時に針
路を北に向け退避して朝鮮半島南岸を目指して、緊張の一夜を明かし、十六日未明に朝鮮半島巨文島泊
地に到着。十二時〇分抜錨、十六時〇分に珍島東側錨地に移動し仮泊した。
海防艦大東、昭南は約
四五〇名を救助し、朝鮮半
島南岸の麗水湾に退避して
いた神州丸に救助した生
存者を引き渡した。
乗船将兵四 五〇〇名
,
の内、救助された者は僅
かに五三〇名、船砲隊員
一四〇名が海没戦死した。
摩 耶 山 丸
(陸軍上陸用舟艇母艦)
第二十三師団(旭)の
師団長、師団参謀等の師
団司令部要員等二 五七六
,
名をはじめ、陸軍海上挺
進隊・同基地大隊一 〇〇
,
〇名、陸軍兵器学校台湾
- 44 -
・沖縄軍司令部派遣要員
十一名、陸軍少年通信兵、少年戦車兵、少年野砲兵、少年重砲兵、少年高射兵の各学校の卒業生二九八
名。陸軍船砲隊員等、兵員四 三八七名が乗船していた。
.
また、軍馬二〇四頭、オンデツキには大型上陸用舟艇と多くの木材、一会戦分の弾薬が積載されていた。
十一月十七日
船団を編成して唐津沖を出航した。夕刻まで異常なく航行が続き、薄暮となって哨戒機が空母に着艦
しはじめた十八時十五分。北緯三三度二一分、東経一二四度四二分の済州島西方一二〇キロで、米潜
水艦ピクーダの魚雷攻撃を受けた。
魚雷二発が機関部の中央部と後部に命中。この瞬間、船橋で指揮をしていた原精一船長は衝撃で海に
放り出された。自室で仮眠していた穂谷首席三等機関士は
「私も床に投げ出された。通路に出ると、サロンに通ずる床がなくなっており、下部の機関室辺りから
噴出する真っ赤な火が見えた。引き返すとパニックになったのか、若い機関員が二人、その場で抱き合
ったままでいたので、無理やり二人を引き放してホールドの方へ押し出した 。」
と語っている。
船体はつんのめるように船首を海に突っ込み、スクリューをフル回転させつつ船尾を高々と持ち上げ
ていた。被雷から沈没まで二分半位で、摩耶山丸の巨体は横転するように沈没した。中甲板に乗船して
いた将兵は脱出の機会が殆どなかった。
夜の海上には、艇内に海水が溜っている。大型発動機の舟艇に乗ろうとするが果たせず水中に没した
り、竹の胴衣をつけた夥しい数の将兵が大発や筏に乗り、或は筏の縁に掴まって浮いて、元気づけの軍
歌を歌う者も多くいた。海防艦が投下する爆雷の音がズシーン、ズシーンといつまでも響き、長い夜が
明ける。
前日あれほど浮いていた人の姿は、かき消すように見えなくなっていた。乗船の将兵四 三八七名の内、
.
三 四九〇名と、船員五十六名も海没戦死した。
.
- 45 -
空母神鷹と護衛艦艇
空母神鷹は、昭和十年建造された元ドイツ客船シャルン・ホルスト号で、ドイツから譲渡され、昭和
十八年十二月呉海軍工廠で護衛空母として改装された。排水量二一 一五〇トン、最大速力二 一九七ノ
.
.
- 46 -
ットで、最大三十三機の飛行機が積載可能であった。
昭和十九年十一月九日、大分県の海軍佐伯第九三一航空隊より、九七式艦上攻撃機十四機が、神鷹に
派遣され搭載された。
十一月十七日
摩耶山丸沈没から五時間後の二十三時〇九分頃、北緯三二度五九分、東経一二三度三八分の済州島西
南西二〇〇キロで、米潜水艦スペードフィシュが神鷹の斜め後方の右舷三 七〇〇メートルの位置で艦
.
首発射管から六本の魚雷を発射し、発射後すぐUターンして直ちに艦尾発射管より四本の魚雷をタンカ
ーに発射した。そして、神州、右舷後方にいた神鷹の右舷に、さらに四発の魚雷を発射して命中させた。
魚雷の爆発により航空用ガソリンに火がつき、同艦の後半部は炎に包まれた。海上に流出した油で海
面も火の海と化し、この火災は船団の全貌を赤々と照らしだすほど激しかった。神鷹は艦首を上に向け
て船尾から沈没したため、飛行機は甲板から海にずり落ちた。
日本海軍が失った四番目の護衛空母で、潜水艦に沈められた最後の護衛空母となった。敵潜水艦が浮
上して砲撃を開始してきたので護衛艦艇も応戦し、その夜は激しい戦闘となった。
乗船の海軍兵員は九四八名の定員を擁していたが、救助された者は少数だったと言われている。
船団被災後の動向
十一月十八日十六時〇分
船団は薄氷を踏む思いで中国大陸岸の浅海面を避難航行して上海泗礁山錨地に退避し、錨を降ろした。
二十一日八時〇分
船団は、遭難者救助の護衛艦の復帰を待ち、駆逐艦樫、海防艦択捉、対馬、大東、昭南、久米の六隻
に護衛されて抜錨。浅海面を縫って航行し、二十三日〇時三〇分、南日水道に入泊した。
二十五日七時三〇分
- 47 -
南日水道を抜錨。同日正午頃、台湾澎湖島東方海上においてフィリピン向けの聖川丸、神州丸、吉備
津丸が予定どおり分進して、二十六日高雄に入港した。高雄で台湾軍、沖縄軍派遣要員等が下船し、各
船は整備を行い、三十日に高雄を出港した。
十二月二日
聖川丸、神州丸、吉備津丸は、フィリピン北サンフェルナンドに到着した。昭南(シンガポール)向
のタンカー船団は、二十五日十八時三〇分に馬公に入港。みりい丸は水タンクの故障修理のため高雄港
に回航して残留した。残った四隻は駆逐艦樫、海防艦昭南、久米、択捉、第九号、第六十一号海防艦の
六隻の護衛で、二十七日十六時〇分に出港。十二月四日に昭南に入港した。
聖
川
丸 (陸軍水上偵察機母艦)
〇式三座水上偵察機、〇式複座水上観測機など十二機を搭載する陸軍水上機母艦だったが、輸送船不
足のため、艦載機を降ろして特設運送艦として、ヒ八一船団の船団司令官佐藤勉少将が乗船して、船団
指揮艦として運行された。途中、敵潜水艦の攻撃を受けたが、護衛艦、輸送船の戦闘、退避を指揮しな
がら上海沖泗礁山錨地に退避した。
船団を再編成して上海沖を二十一日に出航し、高雄で吉備津丸、神州丸と共に、タマ三三船団として
三十日に出港。十二月二日フィリピンのサンフェルナンドに到着した。
吉
備
津
丸( 陸軍上陸用舟艇母艦)
揚陸作戦のために戦車を積載する上陸用舟艇を搭載する陸軍特殊船(MT船)で、第二十三師団(旭)
歩兵第七十二聯隊本部(都城 )、同第一大隊、歩兵第六十四聯隊(熊本)第三大隊、野砲第十七聯隊第
一大隊、同第二小隊、同第二大隊および便乗の山砲第十六聯隊補充兵の兵員に、部隊付属の兵器・機材
・弾薬・糧秣を積載して出航した。
十一月十五日あきつ丸が、十七日に摩耶山丸と空母神鷹が、米潜水艦の雷撃を受けて沈没したが、本
船は他の輸送船と共に攻撃を回避し、大陸岸の浅海面へと避航して、十九日六時〇分に上海沖泗礁山沖
錨地に退避した。
船団はここで待機し、遭難船救助の護衛艦の復帰を待ち、救助の将兵六〇〇名を収容して、二十五日
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八時〇分に出港。聖川丸、神州丸と共に二十六日、高雄に入港した。
一部便乗者の下船や整備の後、タマ三三船団を編成して高雄を出港。十二月一日にバモックタン島に
仮泊。十二月二日二十二時〇分に北サンフェルナンドに到着した。
神
州
丸 (陸軍戦車揚陸舟艇母艦)
日本で最初に建造された陸軍特殊船(MT船)で、飛行機を発射するカタパルトが設けてあり、八九
式中戦車を搭載した大型舟艇二十隻も収容でき、飛行機や馬匹も積載することができた。また、船尾に
は進水装置および船尾門も設けられていた。ヒ八一船団ではカタパルトを撤去して輸送船として就航し
た。
本船には、第二十三師団(旭)歩兵六十四聯隊(熊本)の一部、歩兵第七十二聯隊(都城)第三大隊、
工兵第二十三聯隊第二中隊、野砲第十七聯隊第二大隊および、陸軍兵器学校台湾・沖縄軍派遣要員十名、
陸軍少年通信兵、少年戦車兵、少年野砲兵、少年重砲兵、少年高射兵学校の比島・台湾軍・沖縄派遣軍
要員を含む卒業生四七七名。陸軍船舶砲兵神州丸船砲隊の将兵が乗船していた。加えて、一会戦分の隊
属兵器、弾薬、糧秣等も積載していた。
本船は、東シナ海で米潜水艦の攻撃を受けるも避航し、十九日十六時〇分に上海沖泗礁山錨地に退避
し、あきつ丸、摩耶山丸の遭難救助者三〇〇名を収容して、待避していた聖川丸、吉備津丸と共に、高
雄で台湾軍・沖縄軍要員等が下船した後、フィリピン北サンフェルナンドに到着した。
音 羽 山 丸
音羽山丸は昭和十一年に三井物産が原油輸送船として建造した。異種の石油積載のため、油槽をコッ
ファーダムで区分し、前部槽に軽油を積載し、サイド・タンクに動揺防止装置があった。
昭和十一年四月以来、北米からの石油輸入に従事し、昭和十六年十二月陸軍に徴用された。昭和十九
年九月十七日現在、海軍が保有する燃料は僅か三万四千キロリットルと底をついていた。この頃、音羽
山丸、御室山丸が積んできた二万キロリットルの燃料は海軍では干天の慈雨で表彰状を授与された。
昭和十九年十一月十四日、高速タンカーで油積取りに行くため、ヒ八一船団に編入された。途中、米
潜水艦の攻撃を受けるも無事高雄に入港。輸送船と二手に分かれ、十二月四日昭南に到着した。
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みりい丸 (艦隊洋上補給船タンカー)
みりい丸は艦隊洋上補給船として、艦隊とともに洋上作戦行動をとり得る重装備船であった。
昭和十八年九月四日、三菱長崎造船所で戦時標準型タンカーとして建造された。竣工後は、陸軍配当
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船となったが、昭和十九年六月十日海軍に徴用され、特設給油艦となるための艤装を、日立因島造船所
で五日間で行った。
《機
関》
タービン・七 八〇〇馬力、航行速力十六ノット。
《火
力》
船橋
二十五ミリ連装機銃四基(八門 )、二十五ミリ単装機銃二基(二門)
船尾
二十五ミリ連装機銃四基(八門 )、二十五ミリ単装機銃二基(二門)
.
短二十センチ砲
一門、爆雷投下台
《魚雷防御網》
一基
一式
《洋上給油設備》
曳索、蛇管等
一式
《乗 組 員》
警戒船砲隊員 一〇四名、船員 六十九名
昭和十九年六月二十九日、ルソン島西方海上で敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、左舷中央部船橋下に命中
し、マニラで応急修理をすませ、ミ〇八船団に編入されて、八月十四日、門司六連錨地に帰港した。直
ちに長崎に回航し、二ヵ月半かけて損傷箇所の修理と改装を行い、佐世保に回航して警戒・船砲隊員が
乗船した。
十一月十三日
ヒ八一船団で僚船と共に出航したが、十四日正午、急転して五島列島宇久島水道に退避仮泊した。そ
の夜、本船無線室の受信機は、近距離で敵潜水艦同士が交信する電波を受信した。
翌十五日朝、宇久島水道を出て済州島沖を航行したが、幸い攻撃を逃れて上海沖八格列島西側泊地に
退避し仮泊した。十一月二十四日台湾馬公に着いた。
その後、本船は高雄で罐水修理を終え、ヒ八三船団に加わり、昭南に向かった。
ありた丸・橋立丸タンカー
ありた丸、橋立丸の二隻も、米潜水艦の攻撃を逃れ高雄に入港し、十二月四日昭南に到着した。
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東シナ海における
米潜水艦の動向
狼群作戦で六隻が潜航待機
アメリカ海軍は日本側の暗号を完全に解読し、昭和十八年初頭から「マル・コード(商船暗号 )」の
秘匿名称で呼ぶ、日本の輸送船の数、出発地や目的地、航路、特定の地点の通過時刻など、日本輸送船
団の行動を把握して、基地から各潜水艦に指令を行っていた。
また、アメリカ潜水艦は昭和十七年四月に完成した、荒天の闇夜や濃霧でも魚雷攻撃のできる、マイ
クロ波による「潜水艦用レーダー・SL」を装備していた。加えて、ドイツ軍Uボートの集団戦法に学
んだ「狼軍作戦」と称する、潜水艦六隻による集団襲撃法を実施して、成果を発揮していた。
昭和十九年十一月頃、ハワイを基地とするアメリカ潜水艦は、旗艦クイーンフィシュ、バーブ、ピキ
ューダの三隻が一チームで行動し、クイーンフィシュの艦長が指揮をとり、東シナ海北海域の哨戒区を
受けもっていた。また、このクイーンフィシュは、病院船阿波丸を撃沈して問題になった潜水艦だった。
このグループとは別に、スペードフィシュ、サンフィシュ、ペートの三隻も十月末、ハワイを出港し
て黄海東部の哨戒区で、すでに何隻かの日本輸送船を沈没させて、日本輸送船団を待ち受けていた。
ヒ八一船団に魚雷攻撃
十一月十五日十二時〇分
潜水艦群の旗艦クイーンフィシュは、ヒ八一船団を発見。左舷斜め後方から接近し、あきつ丸に魚雷
攻撃をして沈没させた。
スペードフィシュは、護衛空母神鷹の九七式艦攻一機と水平線上に四本のマストを発見した。
黄海は浅いので潜水艦は深く潜航できず、日没前一時間半だったので、自分の艦に向かってくる船団
をやりすごし、夜になってからレーダーによる水上攻撃に移ろうとの作戦を決定した。
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十七日十八時〇八分
潜水艦ピキューダは十七時五十四分。空母神鷹、大型商船五隻、護衛艦数隻を潜望鏡で確認した。そ
れから十八分後、摩耶山丸に魚雷二発を発射し、機関室と後部に命中させて撃沈した。護衛の海防艦か
ら十七発の爆雷を投下され爆発音を聞いた。
十七日二十三時〇三分
夕方の時間は、護衛では一番大事な時であったが、夜になると着艦できなくなるため、八七式艦上攻
撃機は次々と空母神鷹の甲板に着艦した。そして、神鷹は突如ジグザク行動をはじめた。
スペードフィシュは、空母神鷹の斜め後方右舷三 七〇〇メートルの位置から六本の魚雷を発射し、
.
すぐUターンして、今度は艦尾発射管より四発の魚雷を、別のタンカーに発射した。
スペードフィシュは、神鷹撃沈後に浮上したまま、再度、船団に接近した。この時、一隻の海防艦が
これを発見、砲撃戦となり機銃の撃ち合いがはじまった。
江戸川丸にも雷撃
十一月十七日二十二時〇分以降
十一月十五日、前後して門司港を出港したミ二七船団は、前日先行したヒ八一船団の航跡を進み、済
州島西方洋上で待ち伏せしていたスペードフィシュ、サンフィシュ、ペートの三隻のグループに補足さ
れた。盛祥丸、江戸川丸、逢坂山丸、鎮海丸の順に、四隻の輸(油)送船が魚雷攻撃を受けて沈没した。
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アメリカ潜水艦の電子兵器
アメリカ軍の超短波レーダー(SJ)
昭和十八年二月八日二十二時〇分
戦前の日米航路の豪華客船「龍田丸」が、海上風速二十メートルの大しけの伊豆諸島沖で突然、魚雷
攻撃を受けてわずか二十分で沈没した。乗組員一九八名、軍人・軍属一 二八三人が海没死亡した。
.
護衛駆逐艦山雲や飛行機で捜索したが、日本海軍は何が原因で沈んだか分からなかった。
アメリカ潜水艦ターボンが、新兵器SJレーダーを使って、荒天の闇夜に四本の魚雷を発射し、全部
を命中させたためだった。
当時、潜水艦が月明かりのない荒天の海での魚雷攻撃は、各国海軍の常識では不可能とされていた。
日本海軍では想像もできないことだった。
アメリカ政府は「SJレーダー」の開発を、昭和十三年に、最大手の電信電話公社「ベル」の研究所
に依頼した。潜水艦用レーダーの場合、水面に出す部分が小さいことが絶対条件であった。
.
そのため、可能な限り高い周波数のレーダーが求められた。アメリカはマグネトロンを内蔵した三
〇〇〇メガヘルツの周波数レーダーを開発した。
アメリカ潜水艦がSJレーダーを搭載
昭和十六年十二月
アメリカでは狭い潜水艦の艦内に配置できる小型化したマイクロ波による「潜水艦用SLレーダー」
の試作品ができ、昭和十七年四月、直ちに大量生産が開始された。
SJレーダーと魚雷データー計算機を使って、距離の測定も正確で、敵船舶の進行方向の予測も確実
に把握できた。夜間のレーダーによる魚雷攻撃がアメリカ潜水艦の戦法になった。SJレーダーの効果
は防御にも発揮された。
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旧式レーダーの場合、潜水艦が発射した電波は日本の航空機に傍受されて、位置を逆探知されるとい
う不安があった。そのため、レーダーの使用はきわめて慎重だった。しかし、SJレーダーは、対水上
艦艇用のほかに対空見張用もあり、旧式レーダーよりはるかに遠くから敵機を補足でき、日本軍機を早
期に発見して、敵機の攻撃回避に役立った。
商船番号(マル・コード)の暗号解読
昭和十八年初頭
米海軍は、日本軍の「商船番号」の暗号解読に成功していた。
日本軍の輸送船について、船の数、出発地や目的地、航路や特定の地点の通過時刻などを暗号無電で
基地から指令されていた。日本の輸送船の船名には、必ず「丸」がついていたので米軍は「マル・コー
ド」と呼称した 。「マル・コード」は特殊な四ケタの暗号で、最初に解読に成功したのは、ハワイ真珠
湾の太平洋艦隊無線班だった。
戦後、暗号解読に携わったアメリカ太平洋艦隊無線班の責任者は
「マル・コードは日本人の性格が生真面目で一定のパターンを律義に守るので、一回解読のパターンを
覚えてしまうと非常に簡単な暗号だった 。」と語っている。
解読は海軍ワシントン情報センターと、真珠湾の太平洋艦隊の双方の解読班で行われた。解読された
情報は、ただちに潜水艦隊司令部から。そして、この情報は、直ちに潜水艦隊司令部から、太平洋をパ
トロー中の潜水艦に暗号無線で伝えられた。
戦後、暗号解読に関係した担当者は
「日本海軍は、あんなにたくさん沈められたのに、輸送船番号コードを終戦まで何故、変えなかったん
だろう。米軍は、たとえ解読されなくても、半年ごとに暗号は変えていたけれど… 。」と語っている。
宗谷海峡を突破して日本海に入り輸送船を撃沈したアメリカ潜水艦「レイポン」のロバート艦長も
「マル・コード情報はきわめて正確で、暗号解読で解った地点で待っていると、必ず日本船がやってき
た。それまで長いパトロールを広い太平洋でしていた時間が短縮され、攻撃に専念できた 。」
と話している。
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世界初のPCが暗号を解読
当時、ワシントン情報センターで暗号解読に当たっていたロジャー大佐は
「この暗号解読に大きな力を発揮したのがコンピューター(PC)の原型ともいう。世界でも最初の計
算機だった。
計算機はごく初歩的コンピューターではあったが、IBMが暗号解読のセクションに協力してカード
穿孔機、選別機、照合機、印字機など、今日の計算機と同じ仕組みの機械が、暗号解読班の部屋に入っ
ていた。当時はこれらの機械は全く新しいものであった。
日本海軍の「D暗号」のような高級な暗号解読には、加えられた乱数の排除や、一次暗号文の解読の
ため膨大な傍受電報を集め、部分的に解読した電報を分類・整備することが絶対必要である。こうした
作業の効率化に、コンピューターは絶大な威力を発揮した。暗号数字と乱数表を精密に調べるには選別
機が不可欠だった。もし、コンピューターが開発されなければ、アメリカ軍の情報解読は大変遅れてい
たと思う」
と述べている。
アメリカ海軍・電池魚雷の開発
戦争初期、アメリカの潜水艦は攻撃に大きな欠陥があった。魚雷が質量共に著しく劣っていた。
第一、昭和十六年十二月十日、日本海軍が開戦早々のアジア艦隊の根拠地、マニラ近郊のキャビデ軍港
を爆撃した。このとき、魚雷格納庫に爆弾が命中。魚雷二三三本を破壊した。
米潜水艦隊がオーストラリアのフリーマントルに基地を移してからも、約一年間は魚雷不足に悩んだ。
米海軍は魚雷が足りないので
「目標は物資を満載した大型船に限定した。空船や中型以下の船は、撃沈できる条件でも攻撃禁止」
の命令が出された。
第二、魚雷の性能の悪さ。
昭和十八年七月二十四日、中部太平洋トラック島西方で、潜水艦「ティノーサ」が、護衛艦のいない
単独航行中の大型改造タンカー第三図南丸(元捕鯨母船一九 〇〇〇トン)を発見し、魚雷四本を発射
,
- 56 -
して命中したが爆発せず、後方に回り二本を発射。さらに側面から九本を発射し命中させた。
しかし、後方からの二本は爆発して船を停止させたが、十五本発射して命中させながら、十三本が不
発に終わった。第三図南丸は、軽巡洋艦五十鈴に曳航されてトラック島に入港した。
当時、米潜水艦が使用していた魚雷は「マーク一四型魚雷」で、これに「マーク六型起爆装置」が装
着されていた。原因究明の結果 、「起爆装置が鋭敏過ぎて命中前に爆発したり、真正面から標的にあた
った時は、衝撃が大き過ぎるため爆発しない」
ことが解った。
第三、深度調整装置の精度が低いこと。
通常魚雷は適当な深度を保って命中しないと、早く爆発したり爆発しなかったりするので、深度コン
トロールする調整装置を内蔵している。アメリカ軍の魚雷には目盛りより三メートルも深く進むものも
あり、正確に操作しても敵船の船底の下を通過することが度々あった。
太洋艦隊司令官は磁気起爆装置の使用を禁止して、海軍兵器局に命じて魚雷に関するデーターを再点
検するように指示した。
米国海軍兵器局は、世界的な理論物理学者アインシュタイン博士を嘱託として研究開発に協力を依頼
して、昭和十八年九月頃には、衝突の衝撃で爆発する起爆装置が、不発の少ない型に改善された。
昭和十八年十二月には新式の「電池魚雷」が完成した。電池魚雷は海面下を走るとき「泡の尾」を引
かない利点がある。この電池魚雷の装備によって、アメリカ潜水艦は昼間は電池魚雷、夜間は空気魚雷
と使い分けて攻撃ができるようになった。
アメリカ潜水艦に搭載された新兵器
昭和十八年以降、アメリカ潜水艦に次々と新兵器が搭載された。
「夜間潜望鏡」は、夜間の通視力にすぐれ、夜間攻撃がさらに強力なものになった。
「FMソナー」は、敵の潜水艦や機雷を探知する。日本軍が付設した「機雷堰」を容易に突破できるよ
うになった。
「測深儀」は、潜水艦が秘かに敵の港湾に侵入して水深を無音で計ることができる。これまでは音波を
- 57 -
発射して測定していたため、敵に探知され攻撃されることが多かったが、安全に測定できるようになっ
た。
「敵味方識別装置(IFF )」は潜水艦相互の通信連絡用の無線装置で、昭和十八年四月から、ドイツ
海軍のUボートの集団戦法を真似て、二・三隻で行動する「狼群戦法(WolfーPacking )」
を可能にした。魚雷の火薬もTNTより爆発力の強い「トルペック火薬」に変えた。
太平洋海域に配置された潜水艦の数も、大型一〇〇隻、中型十八隻に増えた。そして、昭和十八年九
月からアメリカ海軍は、潜水艦の最優先攻撃目標は、日本側の石油燃料輸送のシーレーンの破壊作戦を
徹底させた。レーダー・電池魚雷等の出現は、魚雷回避を見張り要員に頼っていた日本の輸送船は、致
命的な損失につながっていった。
日本海軍の魚雷
各国の魚雷は、燃料のケロシンを燃やすのに空気を使用していた。このため、燃焼時の排気ガスの中
に、空気中の窒素が排出されて気泡となり、魚雷の進行中に長い「泡の尾」が航跡として敵から発見さ
れやすかった。
日本海軍が開発した「九五式魚雷」は、空気のかわりに液体酸素を用いた。ケロシンは炭化水素のた
め、これを燃焼させるのに純酸素を用いると、排気ガスは水蒸気と炭酸ガスだけとなり、水に溶けて海
面に泡が立たず、無航跡で推進して敵に発見されにくくなっていた。また、射程距離の長さ、速度、炸
薬量の大きさという点においては、各国海軍保有の潜水艦魚雷としては最高の機能をもっていた。
終戦まで日本海軍の最高機密であった。しかし、索敵電探射撃に必要なレーダーでは、アメリカ軍に
大きく遅れていたことが致命的であった。
この魚雷を列強にさきがけて開発完成させたのは、呉海軍工廠魚雷実験部長岸本鹿子少将と、実験部
員の朝熊利英造兵大佐によるものであった。
- 58 -
陸軍兵器学校
明治五年、フランスから来日した砲兵大尉ジョルジュ・ルボン(後のルボン将軍)によって、東京
・小石川の旧水戸屋敷(現・後楽園)に、造兵司(後の砲兵工廠)が建築され、その中に修業年限三
年の火工・銃工・木工科の「諸工伝習所」が設けられたのが日本における兵器技術教育制度の始まり
である。
明治八年から修業年限四年になり、鍛工・鋳工・鞍工科が追加され六工科になった。明治二十九年
四月「陸軍砲兵工科学校」と改称。大正九年に、陸軍技術本部隷下の「陸軍工科学校」と改称し、新
たに電工・機工科が設けられた。銃・鍛・機・電の四工科の校舎は小石川の本校で、火・木・鞍工科
は板橋分校において教育を受けた。
また、将校学生制度が高等科学生として発足した。その後改編があり、甲種・乙種・己種学生の呼
称が終戦まで続いた。
神奈川県相模原淵野辺に移転
昭和十一年頃から生徒数が増加し、移動改編が繰り返され昭和十四年に神奈川県相模原町淵野辺に
校舎を移し、昭和十五年七月「陸軍兵器学校」と改められた。修業年限も三年の生徒隊、学生隊(佐
官・乙種・戊種・己種学生)と、幹部侯補生隊(甲種・乙種 )。工機兵の教育を行うため、練習隊が
設けられた。
教育は、物理、化学、数学、英語、国語、日本史等の普通学課程と専門課程の基礎工学と実技教育
が行われた。応用化学を中心に学び、火薬・弾薬および弾丸・火具の取扱い研究に任ずる火工科。
電気工学の基礎原理と陸軍における有線、無線通信の取扱い修理に任ずる電工科。機械工学の基礎原
理と戦車、自動車、飛行機の発動機の取扱い修理研究に任ずる機工科。火砲、各種歩兵砲、大砲、機
- 59 -
関銃、小銃等の銃器類の基礎工学並びに修理に任ずる鍛工科。陸軍で用いる眼鏡、測量器具等の光学
兵器、皮革具、木工、麻製兵器等の研究修理に任ずる技工科の五工科に分かれていた。
そして、昭和十七年には陸軍技術本部が陸軍兵器行政本部に改編された。
陸軍兵器学校の一期生は八四〇名が入校した。昭和十九年六月、船舶工兵の誕生にともない、船舶
部隊における兵器勤務要員を教育する目的で広島分教所が開設されて本校から一部移動し、生徒隊二
ヶ中隊、幹部侯補生隊一ヶ中隊が在籍した。
昭和二十年三月に第七期生一 六〇〇名が入校して終戦を迎えた。また、戦局の拡大により生徒隊
.
の修業年限も二年に短縮された。昭和二十年七月十五日、第五期生が実習先で繰り上げ卒業で任官し、
施設、部隊に赴任したのが最後の卒業生になった。
終戦時学校には、実習先の陸軍造兵廠、広島分教所で終戦を迎えた第六期生と学校に在留していた
第七期生を含む生徒隊三 一九〇名に、広島分教所の幹部侯補生隊。練習隊の工機兵、学校本部、教
.
官、文官、工科実習工場の工員等の学校職員を合わせて七 二三四名が在籍していた。
.
昭和二十年八月二十日、終戦詔書捧読式が閉校式となり、連合軍司令官マッカーサーの厚木飛行場
進駐にともない、学校管理要員を残し、各区隊毎に八王子以北の小学校・工場の宿舎等に移動。八月
二十八日 、「生徒ヲ免ジ退校ヲ命ズ」との命令で復員帰郷した。
昭和二十年十一月二十六日、勅命を以て陸軍兵器学校は廃止された。
済州島沖での遭難記
第四期鍛工科 福
山
清
臣
(江戸川丸)
十一月四日に晴れて卒業式
制服に伍長の襟章さんとして
南の神とちりにしわが兄に
一目兄にもみせたしと思う
今日のよき日を心にてつぐ
昭和十九年十一月四日、この日は朝から雨でなんとなく陰鬱な日であった。淵野辺の陸軍兵器学校で
- 60 -
は本年巣立つ南方派遣軍第四期卒業生の別れの式が大講堂で盛大に催された。
昭和十七年十二月一日、幾万の全国の若人志願者の中から選ばれて、晴れて入校ができたわれわれは、
約二カ年の蛍雪の功空しからず、今日ここに卒業の栄冠を受けることができたのである。
十一月四日、揺籃の地、相模原に別れを告げた南方派遣軍(比島)の士は、火工、電工、機工、鍛工、
技工の五工科の二〇〇名。わが鍛工科第五区隊は五十四名中三十名(内三名台湾)であった。
雨天といえども二〇〇名の若武者は、空翔る天馬の如く、欣喜雀躍、ただただ祖国のため五尺の体を
捧げんことを誓い合ったのである。
大隊長椿中佐は、
「諸君の卒業を心からお祝いする。海征かば水浸く屍
山征かば草むす屍とよみし人の心をもって一死
奉公、君国のため、今まで体得した全技術を発揮されんことを祈る。終わり 。」
「大隊長殿に敬礼、頭中(かしらーなか )」
みんなの視線が一斉に大隊長に集中した。気の強い大隊長の目には涙が光り、わが愛し子を励ますよ
うにほほみさえうかがえた。
「大隊長きっとやります 。」
口に言わねど、ひしひしとせまる忠愛の念に誰が惜しもう五尺の体。陛下のもと、この大隊長のもと
必ず惜しむべきでないわが命と感きわまって瞳がうるみポーッとかすんできた。
「直れ 。」
指揮者の声にはっとしてあわてて鼻をすすった。
母校に別れを告げて淵野辺駅へ
二年の長き名ごりを留めつつ 学びの門をわれ出づるなり
十一月四日十七時三十分、南方派遣軍二〇〇名は校庭に整列。幾多、後輩の見送るなか母校を後に淵
野辺駅へ前進した。
恙なく征きませと祈る後輩の
見送る顔に涙こぼるる
業おえていざいでたたむ南に
戦友は笑顔でわれ励ましぬ
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武技により御奉公せんと互いに学んだ戦友の顔を連想すれば、胸一杯になっていつ足を運んだのか知
らず、次第に遠ざかっていく母校の本部の灯りさえ懐かしく心の中に残されるのであった。
武運をば祈ると戦友は握手して
じっと見交わし涙こぼしぬ
南方派遣軍輸送指揮官・陸軍大尉川満寛常以下、南方派遣要員は壮大な見送りをうけて出発した。
区隊長若井稔中尉は名残を惜しむように「国鉄・原町田駅」まで同乗して激励された。
「しっかりやってこいよ 」「まけるな」
と励ましてくれる区隊長に、
「ハイッ、きっと立派に戦います」
と、皆元気よく誓い合っていた。ああ、涙で見送る区隊長、そして涙をもって別れを惜しむわれわれ。
見送る者と見送られる者。その胸中を知る由もなく、横浜線の電車は暗闇の中を離れていった。
亡き兄の仇をうてよと区隊長
励ます顔に涙光れり
門司で江戸川丸に乗船
十一月七日朝、下関海峡を吹く風は冷たく、汽車の中だけでほとんど寒さを知らなかったわれわれは、
ここではじめて冬の気配を感じたのである。地方の人々は冬支度で、駅頭には外套を着た男女の群れも
少なくなかった。
汽車より降りたる吾にたわむれて
眠気をさます下関風
下関で朝食をすまし、関門連絡船で門司に渡る。南方への出港の日が確定していないため、しばらく
門司に滞在することになり 、「第二栄屋旅館」に宿泊する。
「十一月九日、川満隊はいよいよ乗船と決定する。当日は午前九時より埠頭で検疫があり、その後、直
ちに乗船の予定」
との命令が伝達された。
夜明けの静けさの中を軍装をととのえて門司埠頭へ。埠頭に通ずる大きな通路には、われわれと同じ
運命を担う部隊の兵数千名が、道路に座ったまま飯盒で朝食をしていた。
「俺たちと一緒に乗るんだな」
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「そうだなあ」
と、戦友と私語しながら埠頭に着く。
検疫は一人の落伍者も出さずに無事終了し、直ちに乗船の運びになった。
乗る「江戸川丸」は、七 五〇〇トンの貨客船である。既に軍馬、軍用犬、数十台の軍用貨物車輛が船
.
底に積み込まれていた。また、甲板には軍用犬、航空機エンジン、大型上陸用舟艇等も高く積まれてい
た。前甲板と後甲板には砲が装備してあり、不慮の敵に対する攻撃に備えていた。江戸川丸に乗船した
時から、完全に外部と連絡は遮断されたのである。
輸送船団が門司を出港
「昭和十九年十一月十五日〇五時〇分
ワガ船団ハ出港ス」
との命令受領者の声は喜びにうるんで船内に伝えられた。船団は輸送船八隻、護衛艦五隻で編成されて
いた。皆の顔は紅潮し「大敵来れ」と、胸をたたいて退屈しきった船中生活を放散せしめていた。
ああ…遂に祖国の地と離れる時が到来したのである。あの門司の背山の頂きにある大きな岩石も、今、
わが視界から刻一刻と遠ざかりつつある。
「全員甲板に整列!」
輸送指揮官川満大尉は叫んだ。
全員が甲板に整列したのはそれから数秒の後だった。各隊の人員報告が終わると指揮官はおもむろに、
「今、我々は祖国の地を離れつつある。見よ、祖国の山々、祖国の街、思うに感慨無量なり、指揮官川
満は何も言えない。只、皆と共に陛下の万歳と皇国の弥栄を祈るのみである。最後に五ヶ条を唱えて陛
下の万恩に報いんことを誓いたい 。」
ああ指揮官の心は悲壮。船はゆるみなく走る。
「ただ今より東方を拝す、一同東方に向け」
「一同遥拜」
「五ヶ条奉唱」
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明治の世より幾度、忠国の士がくりかえしたのであろう。この五ヶ条を口ずさみながら目に涙、声は
かすかにふるえ、どこからともなくすすりなく声、
「ただ今より故郷の父母、兄弟に離別の挨拶をする」
「各戸遥拜」
感激の一瞬。おさえんとしておさえ得べからざる涙はついに堰をきり、連なる山々、波止場は、もう
ろうとして遠ざかる。
「お父さん、お母さん、今、征きまする」
生きて祖国の土を踏まずと心に決し、じっと瞼をとじれば新たに涙は頬を濡らし、喜ぶべき今日の出
港なのに、なぜか悲しくなる。みんなの頭は喜びと悲しみが錯綜する。港内を走る大小の船も悲壮な兵
の門出を感じてか、みんな白布を振っていた。自分たちはそれに応えて軍帽を振る。門司の港は遂に夕
暗にとざされた。ここはいずこか、夕闇に点滅する灯が一つ一つ見えなくなっていった。
故国の弥栄をば祈るなり
門司を離れて船の出ずれば
大君の御盾となりて征くわれは
思ず唱う五ヶ条のみち
船内でひとときの集い
十一月十六日快晴。この日も夢の間に過ぎた。
十七日、船は玄界灘に入り木の葉のように揺れていた。カモメが船尾に群れついて、兵が投げこむ残
飯をひろい去っていった。いかにも温かそうな白い胸毛の間から、クルリとした目を左右に動かして高
く、あるいは、低く船尾をかすめるかもめの群れに、しばしみとれていた自分は、自然の姿に言い知れ
ぬここちよさを感じていた。
「食事当番集合」
の号令。朝一個のパンを頂戴したかと思うとすぐ昼食だ。毎日すし詰めの船内生活に、さすがの兵も退
屈しきっていた。今日は敵潜水艦の急襲に備えて、いつも離さなかった救命胴衣を離して枕にしている
者が多かった。
「船首に集合!」
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日直下士官がどなった。ガタガタと皆、船首にかけ上がった。
「船内生活に皆気がゆるんでいるので、ただ今から軍歌演習をやる。軍歌、常陸丸!一、二、一、二、
一、二、三」
の音頭により、皆で軍歌を大声を出してどなった。
海上の日足は思ったより早い。日ははや西海に没せんとしている。ギラギラと沖合の波に光りを映じ
て、金色のさざ波が不思議と目を射る。
その夜、お互いに冗談を言い交わしていた。
「俺は家を出るときにな、嫁をきめておけばよかった。あと五年も戦地にいたら二十四歳になる。待ち
どうしいからな。丁度、出発のとき親戚にいい娘がいたのだが惜しいことした」
当年十九歳の槙本伍長は真面目くさって言いながら、靴下の中につめこんだ乾パンをかじりだした。
夕食の不足を補うために胃袋が要求したらしい。
横にいた長坂伍長が、
「槙本いいおのろけだ。俺も十一月一日、学校の休暇で帰ったとき、東京の親戚の家に遊びに行ったん
だ。そこの娘が高女の四年生でとてもきれいで、俺が帰ったとき学徒挺身隊で某工場にいたが…… 。」
と話す。長坂伍長は長野県出身だが東京にいただけ、なかなか開けていると思った。
二人の会話を耳にしながら自分は、
「オイオイおのろけはだめだめ。歌だ、歌を歌おう」
と、自分の不利な態勢から目標を変えさせた。
「ヨーシ来た。歌か、歌もお手のものだぞ」
と、長坂が相槌をうち、槙本も共鳴した。
「本十七日二十二時頃ヨリ斉州島沖ニ入リ、コノ地帯ハ危険区域ニナル各員十分注意スル必要ガアル」
との伝達を、耳に蚊の鳴くように記憶して、いつの間にか深い眠りについていた。
十七日の夕刻から薄雲が天をおおい月の光が遮られたが、雲間から流れる淡い光りは海上の浮島のよ
うに、輸送船をおぼろに照らしていた。
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船団は一路支那沿岸へ!
時速七ノット。護衛艦のみが右に左に赤青の信号灯を点滅させて走行して
いた。
深夜・敵潜水艦の魚雷攻撃
「グワグワーン、バリバリッ!」
昭和十九年十一月十七日二十二時。豊かなまどろみの中、静寂を破って大音響!
「敵潜水艦の魚雷命中!皆逃げろ!」
監視兵のかん高い声。間髪を入れず第六番船が高く火柱をあげて轟沈した。
「轟沈だッ!」
江戸川丸の監視兵が知らせる間もなく、敵潜の魚雷は暗黒のなか、江戸川丸船腹中央深く食い込んで爆
発した。
二十二時。江戸川丸の陸軍兵器学校卒業生南方派遣要員と、その他兵員合わせて二 〇〇〇余名の大半
.
は船倉内に熟睡しきっていたのである。
「第一魚雷命中!」
それは自分たちがかつて予想もしなかった余りにも悲惨な事件であった。いまだ戦争のいかなるものか
を知らなかっただけに、狼狽し、生と死が数秒の間に頭の中をかけめぐっていた。
はっと気がついた時には既に遅く。魚雷爆発のために三番船倉は大破して海水がどっと流れこんでき
た。
「生きる、生きるんだ!」
と、ただ生に執着した。
第一魚雷が命中してから数秒もしないうちに、二発目の魚雷が、二番船倉に命中した。船倉は乾燥し
きった馬糧の藁、流失したガソリンに引火して、火焔は爆臭をまじえ船倉内はどっと燃え上がった。
船倉は一瞬!火焔の地獄絵に
船倉から甲板へ通ずる梯子が数か所に設けられて、縄梯子が吊るしてあった。しかし、この梯子も二
発目の魚雷により完全に破壊されたのである。生きんとして生きる術なく、助けんとして助ける術なく、
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船上では、ただ船倉内に救助を求めて叫ぶ幾百の兵員を見つつ、無念の歯をくいしばるのみであった。
火は数秒にして「三番船倉」を四方より囲焼し、火勢はいよいよ強く中央へ押し迫ってきた。
兵員は絶体絶命!このままでは一兵も残らず船と運命を共にしてしまう。船倉から辛うじて甲板に這い
出た兵は、すで救命胴衣に火が移り、頭髪は燃え、身体は火に包まれて苦転するが、火は情けなく、涙
なく、容赦なく焼死せしめ、数百の魂は遂に地獄の火神に襟がみをつかまれたのであった。
自分は一発目の魚雷によってたたき起こされ、
「魚雷命中!」
いう声をかすかに聞いた。
「おお!やられたか」
と、日頃の豪語もどこへやら、取るものもとりあえず甲板の左舷におどり出た。その途端、二発目の魚
雷が江戸川丸を大きくゆさぶり、自分は爆風のため転倒した。這うようにして左舷デッキにしがみつく
と、頭の中はただ、恐ろしさにおののき、胸の動悸は高まり、次第に息苦しくなってきた。
デッキを見ると乱れ走る数名の兵。便所桶をもって海中に飛び込む兵。筏を切って海中に落とさんと
する兵。わめくのみで何もなさず泣き叫ぶ兵。日本刀や帯剣を振り回している兵等々、火焔のために真
昼のような船上では、火の粉の間を逃げまどう兵の姿など、地獄絵そのものである。
隣に寝ていた槙本、長坂の生死をたしかめる心もなく、自分の身をいかにすべきかを考えることも知
らず、燃え続ける船の上に数秒間ぼう然としていた。
悲しとも今の吾にはいかにせむ
焼けゆく戦友をただながめみて
デッキから暗闇の海中に飛び込む
突如としておこる叫声。鍛工科の片平伍長が便所の手洗桶をもって海中に飛び込んだ。つづいて火達
磨になった兵が海中に飛び込んだ。
それを追うように、手まりのごとく次々に、兵は海の死神に誘われるように異様な叫声をあげて海中
に没し去ってゆく。生きよう、なんとかして生きようとする兵の意識が狂気の如く、こうした絵図を描
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いていく。自分はデッキにつかまったまま放心状態になっていた。漸く気がついたとき、船は火焔に包
まれ、不気味な警笛を鳴しながら全速力で走っていた。
自分は数秒の間に船と共に死なねばならぬような気がした。矢も盾もたまらなくなってきた。渾身の
力を出してデッキの外に体を乗り出した。全速力で走っている船体に波が砕けている。勇気を出してデ
ッキから手を放した。ふわりと体が宙に浮いたと思った途端「どぶん」と海中に沈んだ。
スクリューが頭の横に大きな渦を巻いて走り去った。海水が鼻と言わず、口と言わず、処構わず侵入
してくる。
「もう駄目だ!」
と無我夢中で海上に浮かび出た。十一月の東支那海の海水は思いのほか冷たかった。
江戸川丸は遥か前方に断末魔の叫声を残して走っている。自分の周囲は真黒に覆われ、恐怖と不安の
中で、ただ生きなければという事だけを考えていた。
体が凍る
もうだめだ! その時
死は目前に迫りつつある。冷えきった海水は全身を浸し、軍衣袴の中まで染み込んできた。自分は生
きるということに精いっぱいだった。
「畜生!」
歯を食いしばってやたらに犬かきをやった 。「天遂にわれを助け給わず」と観念すると、過去のすべて
が一旋回して頭の中をかけめぐった。
海水のため体は凍って行く。心臓は高まり、息苦しくなってくる。今まで動かしていた手足も次第に
鈍くなってくる。五体の血管が強張って凍死するかもしれない「死、死 」、頭には再び母の笑顔、父の
顔、弟の顔、区隊長の顔が次々に浮かんできた。
「もうだめだ!」
とあきらめた。そのとき、
「おうい、おうい」
と言う大声にはっとすると、二間位離れた闇の中に大きな筏のようなものがあるのを感じた。声はそこ
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かららしい「助かるかも知れない 」。人間は欲深かなものである。生への希望が少し見えると、生きた
いと渾身の力をふりしぼって、平泳ぎでようやく筏まで近づいた。
「おうい誰か?」
と呼ばれた。
「福山伍長だ」
「おう福山か。俺は久保田だ。上がれ!」
と、久保田伍長にひきづられるようにはい上がった。
遠くから見たときは筏と思っていたが、それは救命ボートの転覆したものだった。ずぶ濡れになった体
をもて余すように船底に横たえた。
「おい大丈夫か」
「うん、もう少しで地獄参りさ。ひどかったなぁ」
と久保田伍長と互いに顔を見合わせて苦笑した。
非情!すがる海上の兵を救えず
暗闇の海上に、四方から兵が流れてきた。
「助けてくれ」
息も絶え絶えの兵が拝むようにして見上げた。
しかしボートは満員だった。二十七名の兵と一匹の軍用犬がボートを命の綱としており、これ以上は
無理である。一人を救うことによってボートは沈む。皆が死ななければならない。兵の助けを求める声
を聞きながら手を出すことができなかった。
「お母さん、助けて!」
と、若い船員が狂ったように救いを求めながら流れ去った。
幾多死にゆく兵をみて、助けることの出来ない自分たちは断腸の思いだった。みんな合掌して只々冥
福を祈るのみであった。
江戸川丸が大爆発ー暗黒の海中に没す
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江戸川丸は火焔につつまれながら誘発して二十二時五十分大爆発をおこし、真ん中から折れて中天高
く火柱を上げ、船首と船尾が天を向くようにして海中深く没し去った。
真黒な海面に二、三の余燼が数千メートルの黒煙になって流れている。弾薬臭が異様に鼻をつく。総
ては終わった。しかし、これから先に襲ってくるものは凍死の外あるまい。また、凍死しないとしても
救助されるのは何時になるのだろうか。一難去ってまた一難。皆は前とは違った不安に包まれ、黙々と
して誰も語ろうとしない。まるで死人のかたまりだ。
「眠るな、眠るな。眠ると死ぬぞ」
誰かが叫んだ。そうだ眠ってはいけない。お互いに励まし合いながら体と体を細紐でくくり、波にさ
らわれるのを防いだ。夜は深々とふけわたり、人の声もなく、さざ波がボートの舷側をたたいていた。
深夜一時頃、
「敵潜水艦浮上!」
と誰かが叫んだ。
皆息をこらしていると、米潜水艦が砲火を放った。
曳光弾が長い尾をひいて飛んだ。しかし、それも護衛艦巡回のために、間もなく海中に潜航し去った。
それから何時間経ったであろうか、東の空には雲が低くたれこめていたが、その合間から天日礼拝の楽
しみを得ることができた。
十一月十八日〇七時頃、大変な空腹を感じてきた。しかし、何も食べるものはない。みんなボート周
辺に死んでいる兵士の雑嚢の中から食糧を探すことにした。
「乾パン」は塩水にぬれて食えなかったが 、「かつお節」が一本見つかった。二十七名、皆で順々に
削って食べたが、皆は満たざる腹を抱えていた。
「おういこれはうめえぞ!」
十数メートル離れたところで筏に乗っている海軍の兵が、爆発のため浮上した「鯛」を生で食べている
のが見えた。
掃海艇に救助ー思わず目に涙
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暁の渺々たる海上には一点の船影も認めず、夜明けまで散見された浮遊死体もいつか見えなくなって
いる。十時頃、掃海艇が一隻、水平線の彼方に信号灯を点滅させながら浮かび上った。遠くの方で爆雷
を落とす音が、ポコンポコンと連続的に聞こえてくる。掃海艇はしばらく水平線上を往来していたが、
十時三十分、われわれの方に一直線に進行して来た。だんだん大きくなる艇を見ながら、今まで希望を
失っていた兵は、喜びの微笑みをたたえながら艇内で体をおこした。
「おい叫ぼう」
と誰かが言うと、
「よし来た」
「一、二の三。おーい! 」「一、二の三。おーい!」
と一生懸命に叫んだ。
艦は次第に大きく波をかきわけて近ずいてくる。皆の目に涙が光った。
「助かった」
とうるむ目に、くっきりとした艦首の菊の御紋が映ってきた。
艇の上にはマスクをした海軍の水兵、艦長は双眼鏡を目にあてて、遠く近くの波間を追うように眺め
ていた。艇は十五メートル位まで接近してエンジンを止めた。艇の上から水兵が
「おうい綱を投げるから受けとれ 。」
と、叫ぶと同時に大きく円を描いて一本の綱がのびて来た。辛うじてその端を握り得た兵は、しっかり
とボートの端にしがみついた。水兵はどんどんを手繰りよせた。ボートが艇に近づいて横づけになった。
ボートから一人ひとり海軍の兵士の手助けによって、梯子をのぼり甲板に上がった。
救助されて上海に上陸
「衣服を着替えて下さい。心配だったでしょう」
と、海軍士官がやさしく話かけながら見舞いに来られた。
「有り難うございます」
自分たちは涙ぐんで答えた。
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助かった!という嬉しさに浸りながら、ややもすればくたくたになって、くずれおちそうになる体に、
海軍の下着を着て甲板から下に降りた。
掃海艇は再び動き出した。
「今度やられたら助からぬぞ」
と、冗談も話せる様になった自分が不思議だった。
掃海艇は進路を西にとり、一路、上海をめざして、時速十二ノットで走り続けていた。
船室の丸いあき窓(ガラス窓)から海面をのぞくと、救命胴衣を着けて死んだ兵が、次々に後方に走
り去って行く。海鳥がその上を、高く低く群れをなして飛んでいた。突然、死人の顔が大きく潮流に乗
って来て丸窓にぶつかって流れ去った。自分は一夜のうちに失った数多くの戦友のことを考え、今更な
がら戦争の恐ろしさを知り、合掌してその冥福を祈った。
散り征きし戦友を憶う
第四期鍛工科
大
谷
好
正(江戸川丸)
海行かば水浸く屍
山行かば草むす屍 ……
われらはそれを盾として勇躍南方を目指し、胸をはずませて校門を後にしたのはつい昨日のようです。
東経
一二四度一〇分
北緯
三三度〇分の済州島の沖。多くの戦友は黄海に散華した。
時は流れて幾星霜。重なる遭難を乗り越えた四期生三十九名のもとに届かんと。又、雄々しく散った靖
国の友の霊に捧げんと。
遺族の方々に、微小なりとも当時の模様をお知らせできれば幸いと思いながら記したのであります。散
り逝きし戦友の名簿を奉じ、靖国の宮に合祀される日の一日も早からんことを祈ります。
四期の友よ、同窓の諸兄方、その名簿の作成にご協力賜りますよう切望いたします。
卒業式後、母校を発ち門司港に
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昭和十七年十二月一日、 陸軍兵器学校四期生として入校。 軍籍の末端に名を連ね、皆の期待を担って
二年。楽しみも苦しみも共にした戦友。思いをはせて当時の模様をつづってみます。
昭和十九年十一月四日。晴れて陸軍技術伍長に任官し、同期の戦友や広島分教所に行った戦友より一足
早く、南方総軍派遣要員として、淵野辺原頭をいつの日か再びこの足で踏むことを神に願いつつ、教官、
先輩、戦友、後輩に見送られて出発。門司の旅館に宿泊、十一月十五日、勇躍「江戸川丸」に乗船。その
意気正に天をつく感がありました。
江戸川丸乗船終了と同時に、港外に出て七隻の輸送船で船団を組む。駆逐艦、海防艦等三隻の護衛艦に
護られ母国ともしばしの別れ。
「必ず手柄話をもって帰って参ります。少しの間、待っていて下さい 。」
と、無言のうちに別れを惜しんでおりましたが、玄界灘の波はわれわれの甘い感傷を、長くは続けさせて
くれませんでした。すぐ船酔いに悩まされ、船室に横になりましたが、さすが若者達、一日も揺られれば
次第に馴れて平気でいられる程になりました。
済州島を望み母国に別れを
母国を出てから三日目の十一月十七日。残酷な、まるで地獄さながらの様相を呈する日が参りました。
十七日十七時頃、船員のひとりが、
兵隊さん、右に高い山のように見えるのが朝鮮の済州島ですよ。これで当分母国も見られません。恐ら
く見納めかもわかりませんので、よく見ておきなさいよ」
と、言ってくれました。
その時、右後方より別の船団(ヒ八一船団)が近づいて来て、われわれの船団を追越し、彼方に消える
が如く去っていきました。さきほどの船員さんが、
「兵隊さん、今追越して行った船団は十三ノットの高速船団で、われわれは七ノットののろのろ船団です。
追越しのあった後は危険ですから気をつけなさいよ 。」
と、自分たちに言うでもなく、何かひとり言のように言って立ち去りました。その一言が非常に頭に残っ
たのが、虫の知らせとなったのかも知れません。
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その時の夕焼けがすばらしく美しく、飽かずに見とれていました。大分寒くなったので船室に入って戦
友の雑談に加わり、教官、先輩の話に花が咲き、船室は割れんばかりの賑やかさでした。他の隊から、
「静かにしてくれ」
と、苦情がでた程でした。それが最後のはしゃぎになるとは全く思いもよりませんでした。その時、誰か
が、
「二十一時だ。寝ようか」
と言いつつ消灯ラッパのまねをしたので、皆はそれに和して消灯となった。
われわれは中二階のようなところにいました。私は眠っていたのでよく分かりませんが、第二船倉の船
底には自動車が積んであり、その上にも兵員が枕を並べて寝ていると聞きました。
縄ばしごも焼け落ちる
寝てから一時間後。何かざわざわと騒ぐ物音に目が覚めました。船内は火の海になっておりました。吃
水線約一メートル上を、左側より魚雷に打ち抜かれ、兵員の寝ている真ん中で炸裂したのです。すでに大
分戦死者もでているもようで、もたもたしてはいられない。早く船倉から出なければ駄目だ!と気が付き、
梯子を探しましたが、梯子の裏側にいたわれわれにさえ梯子が見当たりません。向かい側の梯子も倒れて
おり、縄梯子を見ると、下の船倉でわいわい騒ぐばかりで、誰ひとり登ってくる者がいません。
自分は急いで縄梯子を登って、下に向かって、
「早く上がって来い!」
と大きな声をかけました。
騒然としている下の者は、その声もかき消されて、皆の耳には届かず。ただ、手を振って合図するばか
りでした。
そのうち二・三名の者が気がついて上がってきました。その瞬間。大きな火災が船倉から上がり、嘆声
とも、なんともつかぬ大きな叫喚が聞こえると同時に縄梯子も焼け落ちてしまいました。
甲板では兵隊たちが右往左往するばかりで、指揮官の姿も見えません。船倉は煙のためにぼやけ、その
うえ、人が多くて歩くことも出来ない程です。火災はますます大きく燃え上がり、船全体を包み、まるで
- 74 -
船が炎の中にあるようでした。
もう駄目だ!
皆とび込め!
私は服装を整え軍刀は持っているが、
「劍を持ち出せなかったのが残念であった」
と一人でつぶやき、ハッチの上に立ちながら、しばらくは茫然としていた。どこからか、
「もう駄目だ!。皆とび込め!」
という大きな声を耳にした。はっとわれに返り、そうだ、船にいると危ない。早く飛込むべきだ。と思い
船べりに行き救命胴衣を確実に着け、さあ飛び込もうとした時、初年兵の一つ星が、京都弁で
「どうしたらええねんやろう」
と言いながら近づいてきました。いらぬお節介だと思いながら、
「一緒に飛込んで助かろう!」
というと、
「まだ、退船の命令がでていません」
と、はねつけられました。
「退船命令なんか、でるかなあ!」
と言って飛込みを促すが、頑固に断られました。
すでに数名が飛込んだようである。私も、
「一緒にこい!」
と言いつつ飛込みました。飛込んでから海面までの時間の長かったこと。数分もかかったのではないかと
思われました。幸い深みに入らず、海水も呑まずにすぐ浮き上がったのは、救命胴衣のお陰と思ったが、
首をいやに締めて来るものがある。何だろうと、暗闇のなか手探りしてみると、救命胴衣の前の方の部分
の紐が切れて首を締めていた。
筏のロープを握って海中に
海に飛込んであたりを見ると近くに筏らしいものがある。あれに食らいつけばよかろうと思い、泳ぎだ
- 75 -
そうとしますと、救命胴衣のためか身体の自由がきかず藻掻いていますと、筏が近づいてきました。乗ろ
うとすると先客があり、
「乗ったらだめだ!沈むから」
と断わられました。なる程なあと思い、周囲に付いているロープに縋り付きました。その頃から冷たい海
水のため、寒さを徐々に感じてきました。
一旦寒さを感じ出すとますます寒く、実に寒い。歯の根が合わないとはこのことだと思いました。歯がガ
チガチと音をたてています。筏は一間四方位でしょうか。七、八名がしがみ付いており、自分も何とか筏
に乗って寒さを防ごうとしましたが、一人乗ることによって筏の上に波が来るので、
「筏に乗るな」
と言う。
「元気を出せ」とはげまされ、
「軍歌演習始め!」
の号令で歌いだした。
軍歌演習も一節だけで、あとは歯が不気味に鳴るばかり。
「軍艦が近くにいるからすぐ助けに来てくれるはずだ。元気を出せ」
と言われるが、声を出すことすらおっくうでした。その時、私の脳裏に教官や先輩から聞いていた、寒さ
に勝つ方法、体力の消耗を防ぐ方法がかすめました。また、どうすれば助かるかなど考えているとき、す
ぐ近くを海防艦が走り去り、その余波を頭からかぶりました。
救助艦からロープが投げられた
筏から落ちないようにくらいついていた者も全員が海中にほうり出されました。しかし、すぐ筏に乗り
移りました。くらいついたときは「絶対に筏は離さない」と思って、縄をにぎる手にも自然と力が入って
いました。
軍艦から打ち込む爆雷でおどろき、かつ、おののいているとき、誰かの、
「おい、海中で小便してみろ、温かくて気持ちよいぞ!」
- 76 -
という声に、皆が、
「そうか」
と言って笑い声が起きた。
皆小便したようであった。自分もしました。腹がぐるぐるといい、気持ちよいこと天下一品。小便も大
切にせねばと、皆と言い合いました。
そのうちに巨大な黒いものが近づいて来て、筏の前方約五十メートルのところに止まりました。
「おうい、船だ。助けに来てくれたぞ 。」
と言いながら筏を近づけました。ロープが投げ下された。私も一本のロープにすがりましたが、ロープが
固くて結ぶ方法が分かりません。こんな太いロープが日本にあるのかなあ。敵かも知れないぞ。ままよ、
甲板に上がってから軍刀もあることだ。敵なら切り込めばよい。そのために右手を自由にしておかなけれ
ばならない。刀の鯉口を切つてから引き上げてもらえばよかろうと思い、ロープを引くと、ずるずると引
き上げてくれました。
甲板近くまで上げられたとき、急に周囲が明るくなり、間もなく〃ドカーン!〃という爆発音と共に江
戸川丸が海中に没してゆくのをはっきりと見ました。多くの戦友が沈んだ船と運命を共にしたことだろう
と、あの魚雷爆発時の船内の火炎地獄が浮かんできました。
四時間後「鎮海丸」に救助される
美しいと思った花火のように。その瞬間〃ヒユーヒユー〃と江戸川丸の破片が飛んできました。身をか
すめる。甲板に大分落ちてきたようでした。ロープがずるずると下がり出したときはもう駄目だと思いま
したが、上の方から、
「助けるぞ!少し待て、今、引き上げるから」
と、大きく呼ぶ声に僚船だったのか、敵ではなかった。助かったのだと喜びました。
しかし、そのときは悪いことながら、戦友のことを考える余裕すらなく、自分一人なんとかなりたいとい
う思いでした。甲板に上がったとき、船員も兵隊も、
「もう大丈夫だ。気を大きく持て」
- 77 -
と励ましてくれました。その一言が、天国の声かと思われました。輸送船の「鎮海丸」でした。
そして、
「寒かったろう、エンジンルームが暖かかろう。そちらに入れ!」
と言いました。
「それより風呂に入って温まれ!」
と船員が言ってくれました。入浴を終えて医務室に行くと、急に体中がだるくなり、その場に座り込んで
しまいました。
船員の一人が、
「大丈夫ですか、ケガはありませんか」
と話しかけ、煙草の〃金鵄〃を出してくれました。一服、腹の底まで吸ったときは、何にもたとえようも
なく美味しかった。
「ああ。生きているんだなあ」
と、しみじみ思いました。医務室の中には火傷で手当を受けている者、その他、負傷者など七、八名がい
たようでした。
私は傷一つ負わず、救助された時は午前二時でした。約四時間も海中にいたんだと思いました。
「鎮海丸」にも魚雷命中
船員が
「兵隊さん上衣はボイラー室で乾かしてありますから」
と言われました。
「探しておかないと判らなくなるから」
とボイラー室に入り、石炭貯炭庫の所に行きました。その時、
突然!
重機関銃の連打音を聞き、何かあったなあと思い、上衣らしいものが手に触れた一瞬。また、重
機関銃の音。今度は五・六発の連打と共に
「ドカーン!」
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と大きな音もろともに船が左に傾き、石炭が「ドサット」頭の上にかぶさってきました。電灯が消えると
同時に、
「ボイラールームがやられた!
海に飛込め!
早く早く!」
と、言う声を聞きました。
私は真っ暗の中で出る通路がわかりません。しかし、ボイラー室にいては何もできない。甲板へ出なけ
ればと思い。手探りでボイラー室を出たものの、右も左も真っ暗闇。頭を打ち、けつまずき、生きた心地
はありませんでした。
ボートの上にとび込み気を失う
その時、エンジン室より五、六名が出てきたので、その人の後ろに続き、辛うじて甲板に出てほっとし
ました。それもつかの間、
「飛込め!
船が沈むぞ」
という声。傾く甲板を舷側まで滑るようにしていく間、頭の中にひらめいたのは、江戸川丸甲板から飛込
んだときの筏の事でした。今度も何かあってくれればと思っていました。
その時、ボートと思われるものが降ろされたので、これに食らいつけばよかろうと、大急ぎで海に飛込
みました。
ところがあまり早すぎて、本船との間に隙間がなく、海中ではなくボートの中に落ちました。ボートの
座席に右足をいやというほどに打ちつけ、骨が砕けたかと思われる程で、気を失しなっていました。しば
らくして気がついたとき、本船は逆立ちになり、ボートは転覆の一歩手前。本船からのロープは、前後共
にはずれておらず、
「ボートが危ない、皆飛込め!」
と、言う声を耳にしましたが、もう体が動かずああ、これで一巻の終わりかと観念しました。しかし、神
はまだ私をお見捨てにはなりませんでした。
どれほど気を失っていたか知れませんが、呼吸は苦しくありません。ただ、真っ暗で何がどうなってい
るのか判りません。体は海の中でどうやら水に浸かっているようです。沈みもせず浮いています。こんな
- 79 -
ときは落着きが大切だ。今しばらく考えてと思い、周囲がどうか手探りをしてみました。
暗闇に手探りで脱出口を
手探りしていると、手に触る。鎧戸のようなものに感じられました。船の中にこのようなものがあった
かなあと考えましたが思い当たりません。本船に吸い込まれ、船中にいるものとばかり思っておりました。
さらに、鎧戸のようなものを手探りして、下の方に手を進めると、切れ目があった。この壁の向こうに
行けばなんとかなるだろうと思い、体を海中に沈めてくぐりました。
向こう側に出ますと、星空が見えた。俺は生きていた。死ななかったのだと思いました。その時、星は
一段ときらめいていたようでした。今まで転覆したボートの中にいたのです。転覆したボートの底に上が
ろうとしますが、右足に全然力が入りません。足を傷つけたことも頭にありません。すでにボートの上に
いた人の手を借り、引き上げてもらい、腹這いになったまま、自分の足が何故自由にならないのかと思う
と残念でなりません。そのうち今まで忘れていた寒さを感じてきました。寒いと思うとますます寒く、腹
の底まで冷え込んできます。
そのまま無意識にうつらうつらと眠っていたようです。誰だか分かりませんが、関西弁で
「眠ったらあかん!死んでしまうぞ」
と、頬にビンタをくれて勇気づけてくれました。そうだ、寒いとき眠れば死んでしまう。と言われたこと
を思いだし「起きていなければ 。」と思うけれどもやはり眠い。眠くてやりきれません。
その時、ボートの中から、
「コツ、コツ」
とたたく音がします。そうだ、まだボートの中に人がいるんだと思い、
「おーい、そこはボートの中だ。右か左へくぐって出てこい!」
と呼びつづけました。このことで眠りから覚めたのです。人員は分かりませんが、三名か?五名か?その
中にいたのではないかと思います。
そのうち東の空が白くなり、太陽が昇り始めました。海中より昇る日の出は初めてでした。
ボートの水を鉄帽で汲み出す
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悪夢の一夜は明けました。次第に海面の様子が目に映ってきます。あちらに少し、こちらに一塊まりと、
戦友が藻屑と同じように浮いています。みんな、申し合わせたように上を向き、顔だけは海面にのぞかせ、
口を半開きにして、これがこの世の様か?昨日まであのように雄々しく元気だった戦友か…と、思わせる
惨めな状況です。
そのうちボートの周囲には十数名が集まりました。元気な者が、
「ボートを起こそうー」
と言い出しので、皆で海中に入りボートを起こし、中にあった鉄帽で水を汲み出して浮き上がらせました。
私も人の手を借りてボートに乗りました。
乗っている者同士、励まし合いながら、その中にあった非常食の乾パンや春雨を分け合いましたが、乾
パンは海水でふくれて食べることができず、袋の中から金平糖を探して食べたにすぎません。その時、元
気な者が海中に浮いている鯵を見つけ、
「これで腹の足しにしよう」
と言って、皆で分け合って食べました。その美味だたことは、何にもたとえようもありませんでした。
大発艇とボートで救助活動
腹のふくれたとこで、海上にいる者を助けようと、ボートを動かすことになりましたが、櫂がありませ
ん。鉄帽や手で漕ぐが、意の如くならず、
「助けに行くぞ。少しの間、待ってくれ」
と声をかけてからボートを動かした。そこに行ったとき、その兵隊は力尽きたのか見当たりませんでした。
また、ドラム缶にすがっていた戦友も海中に没したのか、ドラム缶だけが廻りながら浮いていました。
このような悲惨な状況の中にあっても、十数名を救助してボートに乗せました。同期の者は見当たりま
せんでした。
太陽が高くなったとき、大発艇が一隻流れて来ました。鎮海丸に積載されていて、無事着水したようで
す。ボートを近づけ、大発艇に乗員を移し、ボートで救助に向かいました。大発艇には相当年配の将校の
方がおられた。足を引きずって近寄り
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「指揮をお願いいたします」
と申し上げたところ、
「君がやってくれ。負傷しているようだけれども…」
といって、黙ってうつむいてしまわれた。
仕方なく大発艇の先端に立ち、救いを求めるところにボートで行き救助作業をしました。昼頃、大発艇
も満員近くになりました。
軍艦が水平線の彼方に雄姿を現したとき、われわれは大声で救いを求めましたが、すぐ姿を消してしま
いました。そんなことが二・三回繰り返されました。海面には生存している者は一人も見当らなくなった
ので、大発艇に乗り移り、体を寄せ合って寒さを防ぎました。
大発艇から戦友を捜しているとき、同期の友の顔も四・五名いました。呼べども何の応答もなく、ただ
白い顔の横から錦の袋のみが冷たく光っておりました。
併走して海防艦に移乗
救助活動を終えて仕事がなくなると、疲労がでてきたのか、皆座り込み声も出さず、軍艦の消えた方向
に目をやり、寒さと戦っていました。また、水平線の彼方より軍艦が近づいて来たときは、あまりの嬉し
さに全員総立ちになって救助を求めましたが、われわれの大発艇の近くを相当のスピードで通り過ぎて、
爆雷を投げ込みながら遠ざかっていきました。
その余波で大発艇は大揺れし、ボートは転覆してしまいました。その後、二・三回そのようなことを繰
り返し、やっと掃海艇が近づいてきて接舷しました。掃海艇からの連絡で、海域に敵潜水艦がいるとのこ
とで、掃海艇と平行して航行しながら乗り移りました。
海軍の兵曹長がきて、
「ご苦労様でした。よく頑張ってくれました。安心は禁物。付近海域に敵潜水艦がおります。皆の休んで
いるところは爆雷庫の上で、ここに一発くらえば、本艦もろとも木っ端微塵です。そのつもりでいてくだ
さい 。」
と言われました。
- 82 -
われわれは喜びと不安を抱き、素っ裸になって毛布にくるまりました。
一口の酒とお粥に生き返る
酒が出され、一口ずつ口にふくみ、お粥で腹を満たし、寒さも忘れてぐっすり眠りました。その時は、
潜水艦に攻撃されてやられれば仕方がない…と、欲も得もない気持ちでした。救助されたのが昼過ぎ頃だ
ったので、ボートや大発艇で漂流していたのが約八時間以上になります。
目が覚めると夜半過ぎで、もう立つことができないほど足の右大腿部が腫れ上がって痛みを感じました。
掃海艇はエンジンを止めて港に入っているようです。何の音も聞こえません。生きていることすら疑い
たくなります。星が美しい光を投げかけています。その光で島影がくっきりと見えます。昨夜のことが全
く夢のようにしか思われません。中国の舟山列島に到着したとのこと。われわれの七隻の輸送船団は二隻
になっていました。一昨日、追い越して行った高速船団も何隻か撃沈されたと聞きました。
救助された同期生と再会
昨日と異なり、何ごともなかったかのような静かな朝を迎えました。
午前中に、海軍の人達の手をかりて、他の海防艦に乗り移り甲板に上がったとき、戦友の大久保、佐藤
がいて、体を抱えるようにして介助してくれ、生存を喜び合いました。そのうち、艦は微速ながら揚子江
を溯り上海に向かいました。寒さを少し感じますが、海中のことを思えばさして気になりませんでした。
甲板には救助された同期の者が一人また一人増してきて五、六名となり、苦しかったことを話し合い、
これからの戦いで、必ず逝った戦友の仇を討とうと誓い、手をとりあい無念の涙にむせびました。
上海に接岸し下船しました。人員点呼となり、われわれの護衛艦は四列横隊二十五番で切れました。他
の船を含めて生きて上陸した者は二百名でした。私たち同期の者は三十九名しかおりません。
もつと生きていると思っていましたが。上陸した二百名は敗残兵そのもののようでした。携帯していた
兵器といえば二、三名の者が持つ帯剣のみ。ある者は上衣がなく、ある者は軍袴がなく、また毛布で体を
包み、軍靴もなく、これが皇軍かと目を見張るばかりのあり様でした。皆、顔は青白く目ばかりぎょろぎ
ょろしていました。
私は戦列を離れることになり、共に喜ぶ間もなく、戦友に見送られて、淋しく七名の負傷兵と共に、車
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で上海第二陸軍病院に入院いたしました。再び戦友たちの許に帰る日を夢みつつ……。
(台湾第九師団歩兵第三連隊付)
戦争は〃運争〃だ
九死に一生
第四期火工科
西
本
武
実(江戸川丸)
昭和十九年十一月四日夕刻。淵野辺の母校を出発し、十一月六日朝、門司港に到着した。十一月九日
輸送船江戸川丸に乗船した。この間、門司港で民間の旅館に分散宿泊して待機した四日間が、遭難戦死
した者にとっては、二十年の人生において、最も自由を満喫したつかの間の日々であった。
四期生の南方総軍に派遣された者にとって、この度の戦争は「運争」であった。戦死した者と生き残
った者は紙一重の差 。「運」であったと思う。生き残った者は、その生きる「運」が、三つか四つ多く
あったのだと思っている。
敵潜水艦が船団についてきた
「輸送船江戸川丸(七五〇〇トン)は、船首から一番船倉、ブリッジ、三番船倉、四番船倉、船尾に
エンジン室、その上に船員室があった。
兵器学校卒業生二〇〇名の他、二・三回召集経験のある兵、未教育の召集兵など兵員二千二百余名。
さらに、部隊携行兵器、輸送車両、上陸用・特攻用の舟艇、軍馬、軍犬、飼料、燃料などが積載されて
いた。
乗船後船内で待機し、十一月十五日門司港を出港。出航三日後の十七日二十二時頃、敵潜水艦の魚雷
攻撃を受け沈没した。
当時の戦況などについて知らされていなかったが、まさか自分の乗っている船がやられるとは、夢想
だにしていなかった。後で分かったことだが、出港してからすぐに、敵潜水艦が船団についてきていた
ことを知った。
- 84 -
第三船倉の蚕棚に十七名が
兵器学校四期火工第二区隊は区隊員五十九名中、南方総軍司令部要員として比島派遣の十七名が江戸
川丸に、台湾司令部付で二名(海没戦死)が、摩耶山丸に乗船していた。
……
ああ堂々の輸送船とは歌のみで、とてもそんなものではなかった。
船倉に入るなりがっかりした。十七名は三番船倉の両舷側に、三段に区切られた蚕棚まがいの場所の
中、一坪半程を割り当てられ、狭くて寝ることもできない。高さは一メートル程で、立つと頭がついて
しまい、達磨さんのように座って一晩過ごしたが、腰が痛くてたまらない。
「これでは、フィリピンに行くまでに参ってしまう。半分程の者は甲板で寝ることにしたら」
と提案した。
西本、甲斐、門田、山田、野間の五人で、エンジン室上の一坪ぐらいの中甲板に、携帯天幕で仮小屋
を造り寝起きすることにした。他の数名も甲板にでたので船倉に残った者は、蒸し風呂のように暑いが
横になることができた。
十一月中頃の玄界灘は寒く風も強い。甲板上の夜は気温が数度まで下がる。体を寄せ合って眠った。
なぜか?
救命胴衣を着けた
十一月十五日、十六日は無事に過ぎた。十七日の夜、私は何故か救命胴衣を着けはじめた。すると、
甲斐が、
「西、西、どうした。気でも狂ったのか」
と言った。私は、
「気は狂っていない。せっかく貸与されたから、今晩一度着けてみようと思うんだ」
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と言いながら着用した。
虫が知らすと言うのではなく、何となく着けてみた。救命胴衣を装着すると体がごろごろして寝付か
れない。他の四人は救命胴衣を枕がわりにし熟睡している。ゴトゴトというエンジンの音がいやに耳に
つく。ウトウトとした時、
ドカーン!
という轟音に夢を破られた。
やられた。目の前が真っ赤に燃えている。体が震えて立つことができない。これで人生も終わりか、
エーイどうせ死ぬなら破れかぶれでやってやれと。決心すると震えが止まった。地下足袋を履き、コハ
ゼを止めた。
他の四人も漸く救命胴衣をつけた。
「海に飛び込むぞ!行くぞ!」
と声をかけ、下甲板に飛び降りた。
船は中天高く火炎を吹き上げながら走っている。私は他人の頭の上を這うようにして舷側まで行き、
海に飛び込んだ。
ハツと気づくと、ボートに手がかかっていた。このボートは上甲板に吊るしてあったが、数十人乗り
込み宙づりのまま落ちてきたので皆振り落とされ、私が乗った時には三人だった。もし飛び込むのが一
瞬早ければボートに頭をやられていたし、遅ければボートに乗れなかった。
江戸川丸は燃えながら走っている。ボートも引かれながら走っている。見ると二等兵が本船とロープ
で繋がった滑車を抱えているではないか、火が消えたら本船に帰るつもりでいたのか。私は、火は消せ
る状態ではない、やがて本船は沈む、このままではボートが巻き込まれてしまうと判断して滑車を取り
上げ海中に放り投げた。ボートは止まり本船とは離れていった。
次ぎから次へと、泳いで来る者を引き上げた。たちまちボートは満杯になった。古参兵が、
「このままボートに乗せたら沈んで共死になる、この場から逃げよう 。」
と、オールを漕いで現場から離れて行った。
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助けを求める声が次第に聞こえなくなっていった。真にやむを得ない処置であった。
暗夜の海に戦友を見失う
その夜は新月で晴れていて辺りが僅かに見える。波は静かであった。助けを求める声、母の名を呼ぶ
声、軍歌を歌う声など次第に遠ざかっていった。
漸く落ち着いた時、門田がいるのに気づいた。
「おい、門田、他の者はどうした」
「お前が飛び込んで、野間が飛び込み、次いで甲斐、次ぎにわし、その後に山田が…」
声を掛けて見たが三人の姿はなかった。
時がたつにつれて、腹がキリキリと痛みはじめた。海に飛び込んだ時に打ったのか、耐え切れない痛
さである。睡魔が襲ってくると痛みが和らぐ。
「おい!寝たらだめだ!」
と門田に頬を殴ぐられる。目が覚めるとまた痛む。眠くなるとまた殴る。朝までこの繰り返しで頬がは
れ上がっていた。
長い長い夜であった。これほど長い夜は生涯で経験したことがない。
十一月十八日
夜が明けた。静かであった海は荒れている。救命胴衣を着けた死体があちこちに浮いている。眼を
覆いたくなる地獄絵だ。当時の水温では二時間位が限界だったと言われている。
十時頃、海防艦に救助され上海に上陸した。私と門田以外には火工二区隊十五名の姿はなかった。
おれたち捨て石になって
兵器学校卒業生二百余名の中、三十九名が救助された。私たちの火工科二区隊は、門田(戦後に病死)
と私の二名だけが救われた。甲斐以下十五名が戦死した。
卒業時、任地希望地を提出することになった。内地、支那、満洲、南方の四方面であった。みんな第
一志望南方、第二志望南方、第三志望南方と書いた。当時、南方は最大の激戦地であり苦戦が伝えられ
ていた。
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「よし !俺達が捨て石となってこの難局を救わん」
と、南方要員に選ばれた事を名誉に思い希望に燃えていた。
現実はあまりに厳しく悲惨であった。卒業して二週間、出港して僅か三日間。何等なすすべもなく、
冷たい東支那海に消えようとは。二年間、苦しい訓練に耐え真剣に学んだ事、一片も生かすことなくた
だただ残念であったろう。一人生き残っている私は今でも胸が痛む。
何故?護衛艦の少ない海に
あの時、門司港には満州の関東軍から南下の兵士も集結して船団を組んだ。私たちの江戸川丸には、
陸軍海上挺進隊など二千二百余名が乗船していた。そのうち救助された者一八〇名で、僅かに八パーセ
ントに過ぎない。他の船の犠牲者を加えると膨大な人員になるであろう。
門司港を出て済州島のような日本近海で、敵潜水艦群がいる中に、護衛もままならない中で船団を出
す。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる式に多くの将兵を送り出し、少しでも目的地に着けばと考えたのか、
無茶な作戦である。任地に在って、当時を思い出すとき、腹が立ち厭戦気分になることもあった。
上海から台湾ー終戦
救助されて上海へ。その間に南方総軍司令部がマニラから仏印のサイゴンに移駐し、任地がますます
遠くなった。
待船の間、中支派遣軍兵器廠シンニョウ弾薬庫で一ヶ月程手伝いをした。そこで働く中国人と人間対
人間として接することが出来たのは、先の遭難が心理的に大きな伏線になったと思う。この気持ちは次
の台湾でも同じことであった。
二十年一月第十方面軍(台湾)に渡った。台湾で
「これ以上は船は出ないから…」
と、台湾の各部隊に配属されることになった。
私は、新竹地区に駐屯していた第九師団歩兵第三聯隊(武一五三三部隊)付となる。不発弾処理班長
として、数々の不発弾処理をしてきたが、事故なく生き延びて終戦を迎えた。
不発弾処理班長として
- 89 -
昭和二十年二月、新竹地区警備にあたっていた当時、戦況は奪取した比島を基地に、米軍は制空権を
完全に掌握して台湾各地を、意のままに空爆してきた。必然的に不発弾が多発し、各部隊に不発弾処理
班が編成された。火工科出身の私は、班長としてその任に当たることになった。所持していた技術教程
等は海没し、一片の資料も持ち合わせなかった。在校中、弾薬の構造、性能等について習ったが、不発
弾処理については概念的に学んでも、実習したことはなかった。零からの出発である。
不発弾が発生すると、各中隊の工技兵を連れて処理に当たった。他部隊では、不発弾処理中に、死亡、
怪我等の事故発生があったと伝えられてきた。
警防団を指揮して不発弾処理
新竹砂糖工場で不発弾処理中に、兵器学校三期火工のA伍長と四期鍛工の高橋伍長の死亡事故発生が
伝えられた。高橋伍長は、済州島沖で遭難救助された仲であり、その死は大きなシヨックであった。
相次ぐ事故発生のため、聯隊長から
「今後、不発弾処理は、班長のみで、地方の消防団を指揮して行うこと」
との命令が出された。
極論すれば、事故は班長のみで止めるということである。消防団は所詮、素人であり、警備等に当た
らせるのが関の山で、危険な爆破作業等は一人で行うことになった。
その日は朝から小雨が降って居た。敵機が来襲して部隊本部の駐屯地、湖口駅周辺が爆撃された。五
十キロ級の不発弾数発が発生した。民家より離れた田圃の中だったので、その場で爆破作業を行った。
「もし万一、移動中に爆発すれば、担いでいる者はふっ飛んでしまう。同時に俺も吹っ飛ぶ。俺は命が
惜しい。こんなことで死にたくない。俺を信じてついてきてくれ」
と一席ぶった。
団員もようやく納得し、運搬に同意してくれた。不発弾の前後にロープを掛け、担い棒でかつぎ、そ
の前方数メートルを私が先導し、粛々と進んでいった。まるで葬式の列のようである。担い手がつまづ
いてドカーンと爆発するのではないかと、脇の下、背中から脂汗、冷汗がにじみ出てくる。背中に刃を
突きつけられた心境である。顔面はおそらく蒼白であったろう。
- 90 -
数百メートル先にあった田圃の、爆撃で掘り起こされた穴に下ろし、爆薬を装置、点火、皆が退避して
いる所へ逃げるように走って行った。沈黙の数分間、大音響と共に土煙が舞い上がった。拍手と歓声を
あげる団員に、私は静かに頭を下げた。
死に神が避けて通った
その後、各地で間欠的に発生した不発弾の処理を無事に行ってきた。しかし、何度処理作業をしても
馴れはなく、いつかは自分の番がくるのではないかと、死の恐怖におののいていた。
やがて終戦になり、戦いに負けたよりも、ああこれで不発弾処理の恐怖から解放されると、ホットし
たのが本音であった。
卒業して十ヶ月。赴任途中の遭難。任地での不発弾処理と、死神との競い合いであったが、その都度、
死神が避けて通った。五体満足であるのが自身不思議である。
友が言う、
「神仏の加護があったから」
と、私もそれを信じたい。
今日でも、戦時中の不発弾を自衛隊員が処理することが報ぜられる。私は現場を見聞したことはない
が…。強固な土のうで囲い、専門教育を受けた隊員が、ハイテク機器、高度な専門機械を使用して行わ
れ、殆ど事故なく処理されている。徒手空拳、体を張って行った往時のことを想えば隔世の感がある。
甲斐のお母さんと語り明かす
兵器学校入校いらい甲斐とは気が合い、心からうち解けた戦友であった。彼は私を「西、西」と呼ん
でいた。私は四男坊で根っから南方行きを希望していた。甲斐は一人息子で妹さんと二人兄妹であり、
希望してまで南方のような危険な地域に行かなくてもよかった。彼を南方行きにかりたてた責任の一端
は、私にあったのではないかと思うことがある。否、彼は正義感、責任感の強い男で、自ら進んで選ん
だと思う。
昭和四十五年頃、福岡に出張したとき護国神社で、彼の遺族の住所を調べて、北九州市八幡のお宅を
訪ねた。出てこられたお母さんに、
- 91 -
「重行君の陸軍兵器学校の同級生ですが…」
と告げると、一瞬、お母さんは怪訝な顔をされた。
無理からぬことである。お母さんの脳裏にある息子は紅顔の少年の姿であり、四十面した男が同級生
ですがと言っても、戸惑われたのは当然のことである。
その日は甲斐の家に泊めていただき、お母さんと枕を並べて学校時代のこと、四千メートルの遠泳記
録を持ち、水泳の得意だった甲斐の遭難時のことなど、一夜語り明かしたことがあった。
まさしく「運争」だった
先に死ぬも生きるも紙一重の差だった 。「運」であったと述べましたが、今一度ふりかえってみたい。
一、船倉が狭く寒いのを我慢して甲板に出た。もし十分な寝場所があればそのまま船倉に居たであろう。
そこに魚雷が直撃し爆発したのだから即死していたはずである。また、甲板上にいたので海に飛び込
みやすかった。
一、いつも枕にしていた救命胴衣を偶然、魚雷攻撃を受ける前に体に着けていた。そのため他の者より
早く、次の退避行動に移ることかできた。
一、飛び込むタイミングがよかった。一瞬、早くても遅くても、ボートに乗れなかった。
一、ボートに門田が乗っていた。私が腹の痛みに耐えかねて眠らんとした時、彼が頬を何度も殴って起
こして、明け方まで睡魔から救ってくれた。彼がいなかったら、そのまま眠り死んでいたであろう。
私は幾重にも生きる「運」に恵まれて助かった。亡き戦友達を忘れることが出来ない。彼らを偲び、
冥福を心からお祈りします。
- 92 -
沖縄県民と共に
四期鍛工科
宮
田
泰
三(神州丸)
陸軍技術伍長に任官・淵野辺の母校を旅立つ
昭和十九年
十一月四日
卒業式・陸軍技術伍長に任官。見送りを受け、校門を出て淵野辺駅より東神奈川駅経由、
東海道線の夜行列車に乗車。
五日
京都駅着。列車乗換えのため約二時間自由行動、京都駅より門司駅に向かう。
六日
早朝、門司駅着。宿舎(旅館)に行く。乗船までの間、乗船時の注意、避難訓練など行う。
九日
乗船命令 ミ二七船団・江戸川丸
ヒ八一船団・神州丸
摩耶山丸
二〇〇名(南方総軍派遣)
十名
十一名
(台湾第十軍・沖縄派遣、鍛工科)
(台湾第十軍・沖縄派遣、火・電・機・技工科)
神州丸に乗船し門司を出港
十三日
門司を出港。
十四日
済州島付近より引き返し、五島列島宇久島水道に退避仮泊。
十五日
朝、宇久島水道を出航、朝鮮半島方面に向かう。同日正午頃、あきつ丸が敵潜水艦の攻撃
を受け沈没。
十七日
五島列島沖でヒ八一船団・摩耶山丸、護衛空母神鷹が、済州島西方沖で沈没。ミ二七船
団・江戸川丸、盛祥丸、逢坂丸、鎮海丸が、敵潜水艦の猛攻を受け、五島列島沖東シナ
海で沈没。
十八日
神州丸は退避し、上海沖泗礁山錨地に投錨仮泊。
二十一日
海防艦等六隻の護衛を受けて泗礁を抜錨。大陸沿岸の浅海面を航行し南日水道に入泊。
二十五日
朝、南支那海南日水道を抜錨。澎湖島を経由して馬公に入港仮泊。
- 93 -
二十六日
馬公を出港。高雄港に向かう。
二十七日
台湾高雄港に上陸。夜行列車で台北に向かう。
二十八日
台北に到着。台湾第十軍司令部に申告。
十二月
四日
沖縄第三十二軍への配属命令を受領(宮田他四名)
九日
台北発、基隆に到着(旅館に宿泊待機)
十九日
二十四日
基隆港で相模川丸に乗船。
相模川丸で基隆港を出港、沖縄に向かう。
沖縄第三十二軍司令部兵器部に
二十七日
那覇港上陸。第三十二軍司令部に申告。假編第三十一野戦兵器廠に着任。
二十九日
宮田、小川の両名、第三十二軍兵器部勤務を命じられる 。(宮田・銃器課、小川・庶務
課、後に銃器課)
二十年一月
十二日
宮田腸チフスで、沖縄陸軍病院入院し、三月九日に退院。
三月
二十二日
原隊復帰を命じられ修理部に帰り、三月二十四日武器科付を命ぜられる。
二十四日
米軍・沖縄慶良間列島に上陸開始。
二十六日
特編第三聯隊に動員下命。第二中隊第三小隊付となる。昼間は横穴洞窟に布陣、夜間の
み行動を行う。
昼間は洞窟・直撃弾で全員戦死
二十七日
第二線の喜屋武陣地に出動。昼間は洞窟生活に入る。陣地は丘陵地帯に一ヶ分隊程度が
入れる横穴洞窟が点在し、特別の任務はなく命令受領、戦況の伝達等に終始する。時々、
艦砲射撃による着弾があり、五日後に初めての戦死者を出す。その後、炊事壕に直撃弾
を受け、その壕にいたものが全員戦死した。
- 94 -
こうして第二線陣地も次第に激戦の様相を呈するようになった。
四月
一日
米軍・沖縄本島南部地区読谷、嘉手納、渡具知方面海岸に上陸開始。
十日
米軍歩兵第七十七旅団、伊江島に上陸。
二十日
山城陣地に後退。二十八日深夜より行動を開始。 器材はトラック輸送。兵員は夜陰に乗
じて強行移動を行う。この地域には全く被弾はなかったが、昼間は敵の偵察観測機が飛
来するため、行動は総て夜間に行った。
二十九日
天長節で、二ヶ月余ぶりにドラム缶の風呂に入り、恩賜の煙草、最後の一本を吸う。
五月
四日
喜屋武岬陣地に移動。自然の洞窟、岸壁の裂け目等を利用して兵隊も住民も身を潜める。
岩礁地帯にある監視哨から見える敵の艦船は、何事もないように灯りが点在するのが肉
眼でも認められた。
十五日
大渡部落に移動。高射砲陣地等を利用して中隊が分散する。特に任務なく数日を過ごす。
十九日
前線移動にともなう拠点探索のため、兵二名と共に下士官斥候として真境名方面へ陣地
偵察に出動する。
昼間の行動禁止・右手首と腹部に貫通銃創
二十日
長堂地区に移動して重砲陣地に拠る。偵察観測機よりの陣地発見を恐れ、昼間の出入り
一切禁止になる。
二十四日
第一線進出のため出動し、途中、宮城部落に仮泊。昨日より雨期に入ったようで雨が降
る。大見武陣地に出動配備につく、すでに塹壕が掘られているが、丘陵頂上より十数メ
ートル下方にあり、防衛招集兵に蛸壷を掘らせると共に陣地確認のため、数メートル上
方の浅い蛸壷に飛び込んだ途端、右方向より飛弾、右手首上部の皮膚をわずかに残して
貫通、腹部前方を左方向に貫通する。この事により極めて至近距離に敵の狙撃兵のいる
ことを察知した。
- 95 -
防衛招集兵に直ちに作業の停止を指示するも既に遅く、鉄帽を銃弾が貫通して目前で戦
死する者があり、事後、塹壕より一歩も動けず。
今夜、夜襲を決行し前進せよ
二十六日
昼間、左方丘陵地に敵十数名が現れるが距離が遠く、多少の応戦を行うが数分後に撤退
していった。
その後 、「今夜、夜襲を決行し前方に前進せよ!」
との命令を受ける。
夜九時に夜襲に移るが、兵員のほとんどが特科部隊であり、特に夜襲の訓練など全くな
く、たちまち敵の察知するところとなり、数メートル進んだところで、手榴弾による集
中的反撃を受け、地形の不利も手伝って、中隊長、第二小隊長をはじめ、多数の戦死者
や負傷者を出す。
止むなく、一歩後退して戦線を維持し、連隊本部に報告と指示を受けに走る。大隊長よ
り「陣地は死守せよ!」
との命令を受けて小隊に伝達。夜明けを迎える。
口中より多量の出血
二十八日
敵と対峙のまま四十八時間。この間、握り飯一個が支給された。夜に入り突然、手榴弾
による攻撃を受ける。斜面を転げてくる手榴弾が数発、眼前二・三メートルの所で炸裂。
顔面に激しい爆風を感じると共に口中より多量の出血。五メートル後方の横穴洞窟に後
退する。
深夜、兵一名の付添いにて、五〇〇メートル後方の洞窟にある野戦病院で治療を受けて
陣地に戻る。病院はこの時点より解散し後退。
「患者は独自で撤退せよ」
との命令あり。
二十九日
昨夜来の雨止まず。奥行き三メートル足らずの横穴で、木箱の上に横たわる顔面に雫が
- 96 -
夥しい。両眼ほとんど見えず進退きわまる。
夜に入リ、先任軍曹(小隊長代理)の助言を得て、腕を負傷の一等兵に助けられて後退
を決意する。最終撤退地を大渡部落と決めて、手を引かれての後退。三叉路等要所に艦
砲、迫撃砲の着弾夥しく、夜間の行動で四日間を要した。この間、食事はとれなかった。
六月
洞窟(亀型の墓)に退避する
二日
大渡部落に到着。兵器廠の残留兵、負傷者が居る洞窟に入る。沖縄独特の亀型の自然洞
窟の墓を利用する。内部は延べ八畳余。入口は六十センチ角程しか開いていないので極
めて安全である。この壕に最終的には五十名ほどが入ったと思う。
われわれの後退と時を同じくして軍全体が、沖縄本島南部へ移動をはじめていた。した
がって、南部地域も日を追って、グラマン戦闘機の機銃掃射や艦砲、迫撃砲の攻撃(一
ヶ所に数十発が落下)を受けるようになり、夜間は照明弾が絶え間無く打ち上げられ、
身を寄せる壕をもたない兵隊、住民は昼夜を問わず、弾幕の中を右往左往する外ない状
況を余儀なくされていた。
小川誠重君摩文仁で玉砕自決か
五日
大渡部落に後退して数日間は、まだ多少状況に余裕があった。壕を出て摩文仁へ通ずる
道路に出た時、兵器部の将校に出会う。この時、小川誠重君が元気でいることを聞く。
小川君が兵器部と共に摩文仁(牛島軍司令官自決の地)まで後退していたことは確実で、
兵器部がどのような状況で終息したか(玉砕又は自決)知ることはできなかった。ご遺
族に対しては復員後、不十分であったが報告連絡をした。
西尾清君に関しては、何の情報も得ていない。三区隊の八木君と西尾君は部隊編制に加
わらず、兵器廠に残り、八木君は生存していて戦後、収容所内で話し合ったが、西尾君
の消息に関しては知らなかった。
復員後、上陸地の援護局で私が、両君の「戦死確認」の報告を行った。
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火炎放射器で壕内を捜索
二十二日
戦局愈々切迫し、
「敵戦車が火炎放射器をもって近辺の壕を攻撃中」
との情報に脱出を迫られ、薄暮を待って、車輛課の軍曹と私は古参の上等兵と現役の一
等兵を連れて、摩文仁海岸へ脱出すべく壕を出た。半月余りの洞窟生活から一歩外の様
相は正に生き地獄、大渡の海岸から荒崎に連なる海岸線に傾斜する一帯が、艦砲射撃と
迫撃砲で完膚なきまでに叩かれ、その有り様を確認するかのように照明弾が空中にゆら
ゆら揺れて落下し、凄惨そのものであった。
海岸に通じる山陰の小道を、かなりの数の兵隊と住民が水を求めて移動して行く。その
足元に死体がいくつも横たわっていた。数ヶ月前までは平和そのものであったこの付近
が、沖縄最後の修羅場になるとは誰も想像しえなかった。
摩文仁海岸のそそり立つ海蝕洞窟にたどり着いた夜。第二十三軍軍司令部は沖縄戦の終
結を大本営に打電し、牛島司令官、長参謀長以下(参謀の何人かは特命を受けて司令部
を離脱)最後の夜を迎えた。
魚団子の缶詰で最後の晩餐
二十四日
摩文仁海岸に脱出して二日目、時には雑踏のごとく移動していた兵隊、住民の動きがピ
タリと止まる。既に、この海岸へ逃れる路が閉ざされた事が予測される。海上二・三〇
〇メートルの沖に米軍の艦船が数隻、海岸を取巻くように浮かび、船上では上半身裸の
米兵が作業しているのが肉眼で認められる。
スピーカーで、
「この付近にこの方面の司令官はいませんか、敬意を表してこちらから迎えに参ります」
と呼びかけて来る。
私たち行動を共にしている四名も、そろそろ進退を決する時が近づいている事は疑う余
地もなく、話し合い、個人の意志で行動する事になる。
- 98 -
二十四日の夕方、飯盒で飯を炊き、魚団子の缶詰を開けて別れの晩餐をする。月明かり
に海面がキラキラ輝く夜であった。私は岩礁の上に横たわって目を閉じていた。
車輛課の軍曹と古参の上等兵が岩穴を出て行く気配が感じとれた。それから十分程経過
した後、一発の爆発音を確かに聞いた。〃死ぬなら海で死にたい〃それは野ざらしの腐
爛死体を多く目にしたり、海岸の水辺に肥大した死体が、そこ此処に打ち上げられてい
る姿を目の当たりに見れば、自決の方法はただ一つ。水辺の岩頭で手榴弾によるもので、
醜態を残さずに海に還えれると、多くの将兵が抱いていた願望であった。その様な最後
を遂げることが出来た者はきわめて少数であった。
攻撃が止み降伏の呼びかけ
二十七日
「海上に逃れて黒潮に乗れば内地へ流れ着く」
その様なことが本気で語られることもあった。当然の如く海上は敵艦船に封鎖されてい
た。船上からは、
「この地域での戦闘が終わった」
と、投降を呼びかけるスピーカーが、一日に何度か繰り返し放送されていた。
そして、昨日までと打って変わって、攻撃を加えてくる気配は全く感じられない。住民
もほとんどが投降のため、海岸を東の方へ道をたどりはじめ、兵隊たちにも勧めると共
に、彼らが持っている食糧を残して行くよう指示した。
身の危険を感じなくなり、食糧も確保出来た以上、私が負傷した時から行動を共にして
くれた兵隊と、岩礁洞窟に籠城を決め込む。
七月
二日
摩文仁海岸の洞窟まで脱出してきてから数日が経ち、沖縄の戦いが終結したことは明白
である。しかし、この時点で日本が戦争に敗けるとはまだ考えていなかった。
「生きて虜囚の辱めをうけず」
と言う言葉が当然優先してくる。しかし、人間が生死の間に立った時、自ら死を選ぶの
- 99 -
はやはり一種の狂気である。
沖縄では軍民共に多くの自決者を出した。その大半は生きる事への自信を失った時、生
きていることによって、より大きな恐怖を抱いた時、自決が決行されたと思う。負傷を
して一旦手当を受けるとなかなか死ねないようである。
足を負傷した兵隊が、病院の解散にともない泥沼のような雨中の道を、砲撃の合間を這
いずり回りながら後方へ退ろうとする姿を何度か見た。〃足をやられたら自決!〃が合
言葉でもあった。眼前の艦船は昼夜の別なく摩文仁の海岸線を囲んでいるが、攻勢を加
える様子はなく、朝から定期的にスピーカーで、
「武器を捨てて海岸を東の方へ移動しなさい」
と呼びかけている。日を追って戦意が喪失しつつあり、降伏することの恐怖感も薄れ、
岸壁の洞窟にいる将兵の間に「降伏」について議論するようになった。
「班長行こう」の一言で決断
三日
すでに食糧はなくなっていたが、近くに清水が湧く岩場があり、空腹は感じなかったが、
一人去り、二人脱けして取り残される不安感のほうが、敵の手中に降る危険感より大き
くなりつつあった。そして、軍人として最も恥ずべき「降伏」と言う行為を誰も咎めよ
うとしなくなった。
朝から、かなりの人数が東へ下って行った。機を逸すると、この場から動けなくなると
いう思いが、最後の決断を迫られた。私と行動を共にしてくれた兵隊の、
「班長行こう」
と言う声で私も決心した。
先ず階級章を剥がし、腰にぶら下げていた手榴弾と帯剣を外すと一種の虚脱状態に襲わ
れる。三〇〇メートル程行くと摩文仁の丘に通ずる道が開けている。黒人兵が数人、銃
を肩にかけたまま我々を待ち構えているのが見える。来るところまで来たという思いと、
意外にからりとした米兵の様子に〃捕虜になる〃という恐怖感はなくなりつつあった。
- 100 -
すでに数カ月、洗面すら満足にしていない状況だから軍衣も汚れ、恐らくかなりの悪臭
を放っていたと思うが、初めて眼前にする米兵はそんなことには無頓着で、発した第一
声は、
「ウオッチ」
であった。
時計を欲しがっていることはすぐに分かった。父親の形見である懐中時計を上衣のポケ
ットに入れて持っていた。すでにガラスが割れて止まっていたが、黒人兵の掌にそれを
差し出した。その時、何か彼らに媚びているような、嫌な気持ちがしたことを今も忘れ
ない。
やがて、我々は有刺鉄線で囲まれた囲いの中に入れられ、持ち物の検査を二世の軍曹と
米軍将校立会いで行われた。持ち物はポケットに入っている財布、手帳、お守り程度の
物しか誰も持っていなかったが、それを取り上げるでもなく、私が持っていた百円紙幣
を、
「これ戴けますか」
と二世の軍曹がいうので、
「どうぞ」
と答えて渡す一幕がある程度で終わった。
炎天で暑かったが、その場で米軍の携帯食糧が配られ、水も用意された。一人前のパッ
ケージの中にチーズの缶詰、煙草、ビスケット、粉末のレモンジュース、チョコレート
などが入っていた。われわれにすれば珍しい品ばかりだが、さすがにみんな無口で、味
わうだけの余裕は持ち合わせなかった。
沖縄北部の屋嘉収容所に
やがてトラックに乗せられて収容所に向かった。その時はどこに運ばれるのか、どのよ
- 101 -
うに処遇されるのか全く分からなかったし、かなり不安があった。ただ疾走するトラッ
クの上から見る風景は、戦闘前と一変して道路が整備され、要所要所に米軍の蒲鉾兵舎
が立ち並び、飛行場には新鋭機がギッシリと翼を休めていた。
三ヶ月にわたる戦闘の間に、米軍は後方をかくも見事に整備していたかと眼前に見せつ
けられ、制空権のない戦い、物量作戦の前に我が軍の抗戦の無力さを痛感せざるを得な
かった。
トラックは、かなりのスピードで走り続けた。沖縄の南端から、本島北部の国頭郡に位
置する太平洋に面し白砂の上に建てられた屋嘉収容所に落ち着いた。五〇〇坪余りの砂
浜が有刺鉄線に囲まれた幕舎が整然と並んでいて、すでに五〇〇余名の将兵が収容され
ていた。
皮肉な運命に生かされる
第四期機工科
金
谷
大
八(江戸川丸)
十九歳・誕生日の翌日に晴れの卒業式
昭和十九年十一月四日、わが軍が各所で不利な戦況を続けて、激戦苦闘する頃、神奈川県渕野辺の陸軍
兵器学校では、晴れの第四期生卒業を前にして、私達、二百二十一名の者は繰り上げ卒業をして、南方総
軍司令部に赴任の命を受けました。
卒業式後、真新しい技術幹部の制服と階級章を身につけ、脱ぎ捨てた思いで多い生徒服を横目に、新し
く始まる試練と期待に、喜びにも似た感動に胸はずませて、南方派遣軍の送別会に臨みました。
昨日、十九歳の誕生日であった私はじめ、若き戦友たちは二週間後に起きる大惨事など、誰しも予想し
なかった筈です。
- 102 -
中隊に帰り、下級生たちの敬礼攻め、戦友の歓喜と祝福の渦に、今夜任地に向け出発せねぱならぬ身が、
喜びと悲しみに後ろ髪を引かれる複雑な思い出を胸に秘めて夕食をとり、軍装に身を固め、家から届いた
軍刀を片手に、上官、戦友、下級生に見送られ、勇躍赴任の途につきました。
横浜線渕野辺駅に待機する軍用列車に分乗して、中隊長、区隊長、区隊付に別れを告げて、午後十時、
列車は乗船地門司に向けて発車しました。
船倉に軍馬・自動貨車等
十一月六日朝、門司着。乗船手続き、検疫、予防接種などをして市内の旅館に分宿して乗船日まで待機
する。このひとときを利用して写真館に行き、各自は晴れ姿を写し、写真を故郷に送るよう依頼しました。
慌ただしい日々と時間が経過し、愈々乗船命令。一般の部隊など、合わせて総勢二千二百名は隊列を組ん
で、輸送船江戸川丸(七五〇〇トン)に乗船。第三船倉上段に陣取ったが、すし詰め状態で、息苦しい思
いがしました。
船倉下段には、軍馬・貨物自動車と燃料がぎっしりと積まれ、これをハッチで塞ぎ、船倉両側面に三段
に組まれた寝台は、中腰がやっとという高さ、それに二千二百名が詰め込まれていました。甲板への出口
は、ハッチの上に架けられた仮設の木製階段一ヶ所、あとは縄梯子三十本位が下がっていました。
ミ二七船団を追い越す
十一月十五日夜、門司を出航。甲板に集まった私たち二〇〇名は〃海行かば〃を斉唱、皇居遥拝、そし
て自分の故郷に向かって祈りを捧げ、離れ行く故郷の灯を後にして無言、誰も立ち去ろうとしませんでし
た。
十一月十六日、昨夜のうちに護衛艦が集まり、輸送船、タンカー九隻、駆逐艦二隻、海防艦二隻、駆潜
艇二隻で輸送船団が編成されていた。速力四ノットの低速で、蛇行しながら九州西海岸沖を南下し、五島
列島付近を航行しました。
十一月十七日九時頃、東支那海へ入ったわが船団後方に、幾筋もの煙を発見。ぐんぐんと近づいて来る
「ヒ八一」船団には、空母、駆逐艦、海防艦等の護衛艦隊が付き、輸送船もわれわれより大きい立派な船
団で、速力も早く、一時間足らずでわが船団を追い越し、南の方に消え去った。
- 103 -
昼頃より護衛艦の動きが慌ただしくなってきた。船団の周辺に複数の敵潜水艦が接近し、危険水域に入
ったとの伝達があった。駆逐艦一隻が船団から離れてこれを追跡攻撃。爆雷を投下、次々と水柱が上がり
爆発音が轟きわたります。
甲板で日直当番中に雷撃
十七日夜、日直当番で甲板上の幕舎で寝ることになりました。物凄い爆発音で起こされ、船が大きく揺
れる。幕舎を飛び出すと、第三船倉から火柱が吹き上げていました。船倉からは悲鳴が聞こえてきます。
十七日二十二時、東支那海済州島沖でした。霧笛が鳴り、警鐘が連打され、素早く軍服を整え、救命胴
衣を身に付けて船倉を覗いてみると、ハッチの上にいた者は階段と共に下に転落、そこは自動車、燃料に
次々と引火し、火災はますます激しく火の海でした。
縄梯子で脱出してきた者は、次々と暗闇の海に飛び込んで行きました。機工第三区隊の松島伊三郎君が
脱出してきました。申し合わせたように、二人で筏を海中の戦友たちに投げ込みました。積荷のドラム缶
が次々と爆発して、船倉全面に拡がった火災で縄梯子も焼け落ちで行き、一瞬にして大修羅場になった船
内は、呼べど待てども誰も来なくなり、松島君の姿も見失ってしまいました。
怒号と爆音の中、わが生命の終幕を感じながら、
「早く逃げろ!」
という声に無我夢中で、残りの筏にしがみついたまま海に飛び込みました。
頭上を不気味な唸り音を立てて砲弾が飛び交う、曳光弾が長い光の尾を引いて飛んで行く。炎光に映え
る海面に無数の浮遊物が漂流しています。海中で爆発する爆雷の響きが身体にぶち当たり、江戸川丸は大
音響を残して、火柱と猛煙を吹きながら海中に姿を没した。
筏を掴む五人の顔、顔
攻撃はいつしか止んだが腕がしびれる。海中に浸かった薄着の身体が凍りつくように寒い。空腹の上に
眠い。眠っては駄目だと自分を叱咤しました。気が付くと、いつの間にか筏に五人集まっていました。
江戸川丸乗船者だろうが、顔見知りの者はいなかった。お互いに語りかける元気もなく、蒼白、悲愴に
歪だ顔、顔、みんな必死に筏に掴まっていました。父母の、戦友の、隊長の顔、学校の思い出等が、いろ
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いろ様々に脳裏を掠める。頑張らねば、きっと戦友達もどこかで筏にしがみついている事だろう。共に渕
野辺で鍛えた猛者達だから頑張っていることだろう。
身体のなかの感覚が無い、頭は朦朧として眠い、腕の力が抜けそうだ。水平線が白らんで来た。夜が明
けたのだ。日が昇る。
筏の上の四名がいない
十一月十八日。はっと気が付くと筏には誰もいない。精根つきて沈んだのか。明るくなった海面に様々
の浮遊物が漂って沖の方へ一条に連なっている。人影は全くない。何という儚い最後だろう。また、ひと
しきり走馬灯のように故郷、学校、そして恐ろしい船倉の断末魔が脳裏に蘇ってきました。
寒い、空腹だ。彼方に船影が見え、近づいて来ます。護衛艦だ!助かったのだ。艦内に数人の戦友が見
えた。他の艦にも救助された者がいるとの事だった。船団は輸送船三隻と護衛艦一隻が犠牲になったよう
だった。
皮肉な運命に九死に一生を得た私は、眼の前で悲惨な最期を遂げられた戦友たちの最後を思い起こす時、
斯くも残酷な戦争を憎まずにはおられません。
船艙に倒れ、或いは海中に消えられた二.一六〇名(内、同期生一六〇余名)の英霊に心底よりご冥福
をお祈り申し上げると共に、ご遺族の方々に哀悼の意を表します。
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ミ二七船団関係者報告・手記
まず空の見える所へ出ろ!
船舶砲兵第一聯隊江戸川丸船砲隊長
鈴
木
秀
夫
ヒ八一船団の遭難情報は知らず
ミ二七船団は、佐賀県伊万里湾からマニラに向かったヒ八一船団を追うように、十一月十五日、門司
六連沖を出航した。そして、ほぼ同じ海域で被害を受けた。
攻撃した敵潜水艦のチームは前者とは別の組であったが、同海域には常時、敵潜水艦が居座っていた
ことがうかがわれ、ちょうど敵潜水艦の交替時期にミ二七船団が通りかかったものと考えられる。
船団は八ノットの速力で朝鮮南西岸を目指して航行したが、この航路は前日出撃したヒ八一船団のコ
ースと概ね同じであった。これは東支那海がすでに危険海面となったため、大回りして浅瀬を通り、敵
潜水艦の行動不可能な海域を通過して台湾の高雄に行く以外に南下する道がなかったためである。
船団は護衛艦を中心に厳重な警戒網を張り巡らせながら西進を続けたが、先行したヒ八一船団が、十
五日に大被害を受けたという情報は入手していなかった模様で、航路を変更せずに航行したため、十七
日二十二時〇分以後、済州島西方一五〇キロの海上において敵潜水艦の攻撃を受けた。当時の天候は北
東の風二メートル、海上は小波がたっていた。
会敵覚悟で門司を出航
江戸川丸は会敵を覚悟でルソン島北サンフェルナンドに向けて門司を出航した。途中、高雄に寄港し
て態勢を整えた上で、目的地に向かう計画になっていた。
江戸川丸には、輸送指揮官川満寛常大尉のもと、少年兵(注・兵器学校卒業生)二〇〇名、陸軍海上
挺進隊第一九戦隊および同基地第一九大隊の一 〇〇〇名をはじめ、自動車や軍馬等輸送の輜重隊の将
.
兵、陸軍船舶砲兵船砲隊員四十九名の二 二九八名の将兵、船員七十六名が乗船していた。
.
- 106 -
また、舟艇十六隻、自動車六十両、対潜用爆雷五十四個、航空機エンジン、軍馬一五〇頭、軍用犬二
〇〇匹、燃料(ドラム罐 )、糧秣、馬糧などで、北フェルナンドに揚陸する戦略物資を積載していた。
船団は対馬海峡を東進し、済州島に向かう針路を取って前進、監視網を濃密に張り巡らせて雷跡発見
につとめた。船団速力は八ノットであった。
十七日二十一時〇分
門司出航後二日目、私は船首と船尾、船橋を巡回し、見張員から異常の有無を尋ねた後、自室に戻っ
て同室の連絡将校としばらく雑談を交わした。
まず空の見える所に出ろ
二十二時〇五分
「突然ドーン!」
という鈍い音が右前方に聞こえた。
二人は何だろう?と立ち上がり、ドアの取手に手をかけた瞬間、突然棒で殴られたような衝撃が全身
に伝わった。同時に船内の灯りがパッと消えた。
「魚雷だ!」
そう叫んで、私は反射的に机の上の懐中電灯をつかみ船橋に駆け上がった。
そこで真っ先に目に入った光景は、三番ハッチ上にある小型発動機の付近から立ち上がる火炎で、爆
発と同時に可燃物に引火したのを意識した。私は咄嗟に退船口を塞がれたことを直感し、いざの時には
ここから海に飛び込むことに腹を決めた。
私は過去二年間船に乗っていたが、いつも隊員に言っていたことは
「船がやられたら先ず空の見える所に出ろ。救命胴衣がなくても浮遊物で何とかなる。船と一緒に沈ん
だらそれまでだ。水面に浮かべばどうにでもなる。船内におれば絶望である 。」
私より二歳上の兄は水泳の師範であったが、サイパンに向かう途中、船中で戦死したのである。
江戸川丸は紅蓮の炎を吹き上げて燃え盛ったが、不思議に傾斜せず沈没する様子がない。甲板上では
- 107 -
一等運転士が二番甲板上のアイスボックスの上に乗り、乗船部隊を退避させるため大声を上げて手を振
っている。顔が炎に照らされて真っ赤である。
船体は小康を保っているが、刻々危険状態に陥っているのだ。船首の砲座を透かしてみたが暗くてよ
く分からない。私はここで退船を決意し、目前のヘビーデリックについているワイヤロープで甲板に降
りることにした。そこで船室にとって返し、机上の写真を胸に収め、着れるだけの衣類を身にまとい、
救命胴衣をつけて再び船橋に上がった。すでに乗船部隊のほとんどは退船し、船橋には輸送指揮官、船
長ほか数名が残っているだであった。
浮上敵潜水艦に砲戦開始
私は船長に挨拶したあと、ワイヤーを伝って二番ハッチ上に降り、船首砲座に急いだ。砲座に駆け上
がってみると、隊員は曹長の指揮でまさに退船する所だった。
「落ち着け! 落ち着くのだ!」
「タバコをもっている者は出して吸え!」
と叫び、自分も一服つけた。
さすが私の手も震えていた。クソ度胸を出してゆっくり吸い終わってからやおら、
「配置につけ!」
を号令した。
闇を透かして見ると前方に阿波川丸が、右前方には魚雷攻撃を受けてなお走航する盛祥丸が見える。
江戸川丸を攻撃した敵潜水艦は右方にいるので、まず右四五度方向に砲口を合わせた。盛祥丸に注意し
ながらその付近を注視すると、近くに小さな黒い影がかすかに見える。護衛艦にしては小さすぎる…。
「浮上した敵潜水艦だ!」
盛祥丸が近くにいるので射撃ができない。船に搭載されている高射砲には瞬発信管付きの砲弾が交付
され、砲も十五度まで俯角がとれるように改造されていた。そこで中間を狙って威嚇射撃を開始し、僚
船に注意しながら数十発を撃った。
- 108 -
その時、曹長が大声を上げた。振り返って見ると
「火が延びて来る!」
と船橋を指していた。
船上にはすでに人影はなく、火の手が船橋を包み、二番ハッチまで迫っていた。
「一番には爆雷が積んであります。退避しなくては!」
「よし、分かった」
火の手が船橋に退避を下令
私は全員に退避を下令した。左舷砲座横に残っている救命筏を切り落としたところ、筏は無情にも船
より早く流れて行った。
「だめだ!
海に飛び込んで浮いているものに掴まれ。救命胴衣を着けていれば沈むことはない」
こうして隊員たちはジャコップを伝って退船を始めた。
二十三時三十分
私と曹長はしばらく船の様子を見ていた。火の手が二番甲板のアイスボックスの所まで迫ってきた時、
ジャコップを伝って曹長が海に入り、私も片足を入れたが、海水は想像以上の冷たさであった。
「隊長殿早く!」
思い切って海中に入る。
懐中電灯を片手に持ち上げて、濡らさないようにしながらつかまるものを物色していると、いろいろ
なものが流れてきた。そこで四斗樽をつかまえてこの中に懐中電灯を入れ、腰のロープでつないでおい
たが、波がきて海水が入ったため電灯は点灯しなくなってしまった。
次に流れてきたのは玉ネギの箱だったが、浮力がなくて頼りにならず、三番目に大きな箱がきた。軍
用犬の小屋だが鉄格子があってこれもだめ。この頃になると全身が冷えて歯がガチガチ鳴り出した。四
番目に長さ三間もある太い角材がきた。私はこれに移り、片足を乗せて水面上に身体を出した。暖かい。
外気も冷たいはずだが、水の中よりははるかに温度が高かった。
われわれはいつの間にか僚船の連中と一緒になった。この船団の何隻がやられたのか不明だが、本船
- 109 -
以外にも数隻が沈没したようである。
漂流する暗夜に民謡の大合唱
そのうち誰かが〃おけさ節〃を歌い出した。冷たさを忘れようとしているのだ。やがて次々と歌が伝
わり大合唱になった。歌は〃ノーエ節、炭鉱節、デカンショ節〃へと進展した。
新月で闇夜だったが、江戸川丸の火災で漂流者の顔がよく見えた。私の側を漂流していた兵隊が
「自分は衛生兵です。アルコールを持っていますが飲みませんか 。」
という。
「ありがとう」
生来酒好きの私はビンを受け取り、二口、三口飲んだ。
すると、一〇〇パーセントに近い局方アルコールのため口と喉がカーッと焼けたようになって、食道
を伝わって胃袋に流入するのが感じられた。お陰で腹の底から元気が湧いてくるようであった。
合唱はなおも続いた。夜中の一時頃、江戸川丸の火災は最高潮に達して全船火だるまになった時、突如
大音響とともに爆発して、見る見る波間に船影を没し、海上は一瞬真の闇になり何も見えなくなった。
すると、それを合図のように歌が止まり、静寂な海に戻った。それからどのくらい経ったのか、周囲
の暗がりから、
「助けてくれー」
「お母さーん」
という絶叫が起こった。
乗船部隊の少年兵であろうか、耳をすますとどこからともなく、
「うっ!
うっ!」
という呻き声が聞こえてきた。
漂流者たちは今、冷水にさいなまされつつ死んで行くのである。このような悲惨な場面に遭遇したの
は初めてであった。死んでゆく者たちに思いを馳せながら無性に悔しさが込み上げ腹が立ち、戦争を恨
んだ。
- 110 -
寒気が体を締めつけ痛い
その時、目の前に大きな黒い物体が左から右へ静かに動いて行くのが見えた。
「危い!
近寄るな!スクリューに巻き込まれるぞ!」
と、大声で叫んでいる。
「あっ!
救助の護衛艦が来たのだ。
私は余力を振り絞りながら黒い影に向かって泳いで行った。
すると甲板上の水兵が離岸棒で、近づく者を盛んに突き放していた。私の目の前に太い竹竿が見えた
ので夢中でつかんだが、節々が削ってあるので取り付くことができなかった。間もなく護衛艦は通過し
てしまった。
「俺は絶対に生きるぞ、どんなことかあっても絶対に生きるぞ。もし死んだら江戸川丸船砲隊の報告は
誰がするのか」
責任感が身体中にみなぎり、手足の感覚がだんだんなくなっていくのに、意識だけははっきりしてい
た。寒さがますます募ってきた。寒気が体を締めつけるような痛さに変わってきた。まるでタオルにく
るまれて絞りあげられる感じである。
小便がしたくなり、少ししてみると、とたんに暖かみが腹を伝わって胸のあたりで消えた。温泉に入
った感じだ。夜明けまでには間があるので、大切に小便を使おう。こうして小便を少しずつ何回かに分
けて出し、暖をとることにした。
何時頃だったろうか、少し離れた方向からわが方に向かって来る黒い影を認めた。その影は刻々近寄
って来て何か叫んでいる。
左右の頬に平手ビンタ
「泳げる者は泳いで来い!」
救命ボートである。
「曹長、曹長、大丈夫か、ボートが来たぞ!」
「ハイ元気です、隊長殿!」
- 111 -
二人で夢中で泳いだ。
ボートが近づき、水兵が私のバンドを持って真っ逆さまに艇内に引き上げてくれた。曹長も上がった
ようだ。その時、遠くでけたたましくラッパが鳴った。
「帰艦ラッパだ、急げ!」
ボートは救助を中止して本艦に戻る。
ボートダビットにフックがかかると、艦は猛スピードで走り出した。敵潜水艦を近くに探知したので
ある。
私たちはやっと甲板に上がった。途端に水兵の平手ビンタが左右から頬に飛んできた。
「何をするか!貴様は」
私は思わず怒鳴った。すると水兵は、
「申し訳ありません。せっかく助けても気の緩みで死ぬ者がいるので、気を確かに持たせるために殴れ
との艦長からの命令です」
と答えた。
後を振り向くと曹長が横たわっていた。そしてその側で水兵がコソコソと話し合っていた。
「おい、死んでいるらしいぞ。捨てるか」
「そうするか」
まぎれもなく曹長に対することらしい。私はすぐに…
「おい!
今まで俺と一緒にいた曹長だ。気を失っているだけだ。暖めてやってくれんか」
と言うと、二人の水兵は曹長を抱えてボイラー室に連れて行った。
私は士官室に案内され、ウイスキーを落とした熱い紅茶を飲んだ。一口飲んだ時、地獄から生き返っ
たような気持ちになった。お代わりを頼み、濡れた衣服をボイラー室で乾燥していると、
「突然ドカーン!
ドカーン!」
という轟音が聞こえた。
本艦が爆雷攻撃を開始したのだ。まだ敵潜が近くにウロウロしているのである。すさまじいショック
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が腹にこたえる。何としても敵潜を撃沈し、江戸川丸の仇をとってもらいたいものだ。しばらくして攻
撃が終了した。私は士官室で救助された他の二人の者とともに、第六一号海防艦長筧大尉、および先任
将校中里中尉の両名から被雷時の時刻、位置、気温、水温など必要なデーターを聞き、用紙に書き留め
た。
それから二時間後、ようやく東の空が白みはじめ、艦は浮遊物のある方向に向かって行き、自動車の
チューブに乗っている者、筏に衣服で帆を張っている者、伝馬船で漂流している一団を発見。十数名を
救助した。
十八日十五時〇分
海防艦は上海沖錨地に入港した。
乗船将兵の九一パーセントが海没戦死
江戸川丸の遭難結果がまとめられたが、あまりの損害の大きさに息をのんだ。思うに十一月の海がど
んなにか冷温であるか、早く救助されない限り人命は助からないことを身をもって体験した。
なお、特記しておきたいことは、自動車部隊五十数名のうち殆どが助かったのに対して、輸送指揮官
官川満寛常大尉以下乗船していた少年兵(陸軍兵器学校卒業生)は、全員に近い百数十名と、海上挺進
隊員の九十パーセント近い将兵が戦死した事実は、あまりにも対象的であったのに驚くほかはない。
江戸川丸乗船将兵・船員の人的被害は次のとおりである。
乗船部隊 二 一七三名中、
海没戦没者一 九九七名。 救助者
一七六名。
.
.
船砲隊員
四十九名中、
海没戦死者
四十六名。 救助者
三名。
船
七十六名中、
海没者
七十名。
六名。
員
救助者
合計二 二九八名中、戦没者二 一一三名。救助者一八五名。江戸川丸の遭難による乗船部隊・船員の
.
.
九十二パーセントが、魚雷の爆破による船内での戦死、並びに低い水温の海中で長時間の漂流による責
苦による水死と、想像だにしなかった多数の命を散らしたことは、今も胸をしめつけられる衝動にから
れる。
軍馬一五〇頭、軍犬二〇〇匹をはじめ、積載の動物、兵器・機材・糧秣の全ても海没喪失した。
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延 喜 丸 戦 闘 詳
報
延喜丸警戒隊長
海軍上等兵曹
高
橋
正
之
昭和十九年十一月十九日
一、船ノ性質
半貨半油槽船(海軍配当船
六八六八トン)
二、時刻場所
昭和十九年十一月十六日十七時三五分ヨリ同年同月十九日十一時〇〇分マデ
第一次~第六次場所(省略)
三、形
勢
敵情不明、味方海防艦二隻、掃海艇一隻、特殊駆潜艇二隻、護衛ノ下ニ、八隻編隊(ミ二七船団)ニテ
航行中、速力八節(ノット)
当日天気晴、海上静穏ナレドモ風強ク、尚本船戦闘開始前ヨリ夜間ノ為、海上一面薄靄低迷シ視界極メ
テ不良、視界約一〇〇〇米
四、計画(目的企図)
呉軍港ヨリ軍需品ノ爆雷三〇〇個、魚雷二〇〇本、特設機雷五〇〇組、飛行機一〇機その他車輌等、約
一 五〇〇トンヲ搭載シ門司ニ向ヒ、門司港ニ於テ、スラバヤ行ノ海軍工員五〇名便乗、昭南(シンガ
,
ポール)港ニ回航セントス
五、経
過
第一次経過
昭和十九年十一月十五日門司港ヨリ昭南港ニ回航ノ途次、十一月十六日十七時三五、N三四度三二、E
一二八度二一ヲ船団速力八節(ノット)ニテ航行中、右舷一一〇度距離三五〇〇米ニ敵潜水艦潜没中ヲ護
衛艦探知、爆雷攻撃を行い敵潜一隻撃沈確実、本船右砲戦及ビ爆雷戦ヲ発令。総員配置ノママ輸送指揮官
ノ命ニ依リ、船団他船ト共ニ急速同海面離脱目的地ニ向フ
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第二次経過
同年同月十七日十五時三〇、N三三度五二、E一二五度一九ノ海面ヲ速力八節ニテ航行中、右舷一三五
度距離四〇〇〇米ニ、二隻ノ敵潜水艦探知シ護衛艦捜索、尚同時刻左舷一二〇度、距離二五〇〇米ニ、護
衛艦敵潜水艦探知爆雷攻撃、本船爆雷戦及ビ砲戦用意、総員配置ノママ船団ト共ニ同海面急速離脱目的地
に向フ
第三次経過
同年同月十七日十八時〇五、N三三度五二、E一二五度〇八ノ海面ヲ速力七 五節ニテ航行中、本船左
.
舷三〇度ニ敵潜水艦ガ潜在ヲ水中聴音機ニテ、当時当直中ノ水測担当ガ船橋ニオイテ探知セル旨報告セル
ヲ以テ、本船直チニ同海面ニ突入爆雷戦を決行セントセシモ、後続船ノ鎮海丸ガ約二〇〇米ニ近接続航セ
ルヲ以テ、初期発見ノ好機ヲ失セシハ遺憾ノ極ミナリ。之ニ依リテ全員士気愈々旺盛、次期発見必殺ヲ期
シテ航行ヲ続行セリ(警戒隊員配置者名
略)
第四次経過
同年同月十七日二二時〇五、N三三・三五、E一二四・四二ノ海面ヲ速力八節ニテ航行中、本船右舷五
〇度、距離二〇〇〇米ニ敵潜水艦浮上セルヲ、折角一番見張(八センチ眼鏡使用、船橋右舷備付)当直中
ニ発見、当直ノ三等航海士小林武ニ報告、付近航行中ノ護衛艦一三四海防艦ニ発火信号ヲ以テ発見報告。
尚総員配置ヲ令セシ瞬間敵潜水艦潜没、七番船江戸川丸ニ魚雷発射命中シタ。本船ハ機ヲ逸セズ一番機銃
ヲ以テ右砲戦ニテ新タニ敵潜一隻、将ニ潜没運動ニ移ラントスルヲ発見、之ニ対シ銃撃三十五発ヲ浴ビセ
命中多数ヲ得シモ、護衛艦同海面ニ突入シ来リシヲ以テ射撃中止。尚指揮艦艇ヨリ砲撃中止、各船ハ泗礁
山西錨地ニ集合セヨトノ命ヲ受ケ船団離散、敵潜艦潜没セルヲ以テ戦果確認スルニ至ラズ(以下略)
第五次経過
同月十八日〇〇時二〇、N三三・二七、E一二四・三一、船団離散速力十一節ニテ単独航行。味方被害
船海面離脱中左舷三〇度、距離一二〇〇米ニ新タニ敵潜水艦一隻浮上セルヲ折角一番見張ガ発見、旺盛ナ
ル敢闘精神ノ下、日常養成セル見張能力ヲ遺憾ナク発揮、機ヲ逸セズ報告セバ直チニ船首ヲ敵潜方向ニ向
ケ激突ヲ決意突入セシモ、敵潜急速潜没危急ヲ脱セントセシヲ以テ、当時船橋ニ在リテ船長ト緊密ナル連
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繋ヲ保チツツ戦闘全般指揮中ノ警戒隊長直チニ爆雷戦ヲ発令、威嚇爆雷投下(深度六〇米)ヲナシタル処、
再ビ船首距離八〇〇米ニ半浮上セルヲ以テ、直チニ二番機銃ニ射撃を命ジ多数(四〇発々射)ノ有効弾ヲ
得タリシモ、同時ニ敵潜ガ本船ニ向ケ魚雷三本発射セルヲ当直中ノ水測手及ビ船橋上二番機銃手同時に報
告セルヲ以テ船内一致協力、老練ナル船長ノ応急処置ニヨリ船首僅カ二米ニシテ全魚雷ヲ回避、間髪ヲ容
レズ敵潜々没海面ニ突入爆雷攻撃ヲ敢行セリ
初弾深度六〇米、二〇秒ヲ経テ次弾深度九〇米ニテ投下セシ処、約五米ニ及ブ水柱並ニ黒煙多量噴上撃
沈確実、尚水中聴音機ニ依リ探知スルモ爆雷攻撃後音源消滅セリ、当時尚被害船炎上中ニシテ四周ニ十隻
余ノ潜水艦群ガ跳梁シテイタト思ワレルタメ、急速同海面離脱ト夜間視界不良ノタメ、ソノ後ノ状況ヲ確
認スルニ至ラザリシハ遺憾ナレドモ、搭載物資ノ重要ト安全輸送トヲ慮リ、指揮艦艇指定錨地ノ泗礁山西
錨地ニ向ケ単独航行セリ
時恰モ後方距離七五〇〇米ニ、第一回被害火災炎上中ノ味方船舶ノ右約三〇〇〇米付近ト覚シキ海面ニ
在リシ味方ノ船、一大音響トトモニ五〇米ニ及ブ火柱ヲ噴上、続イテ同船右二〇〇〇米付近ニ在リテ、更
ニ一大音響ト共ニ火柱及ビ水柱ヲ望見セシモ、瞬時ニシテ視界ヨリ没セリ、続イテ尚本船指定錨地ニ向ケ
航行中、〇三時〇〇頃、本船左一七〇度距離六〇〇〇米付近ニ更ニ一大音響ト共ニ約四〇米ニ及ブ火柱ヲ
望見セリ
第六次経過
十一月十八日〇五時五九、本船交戦海域ヨリ指定錨地ニ向ケ速力十一節ニテ単独航行中、N三二・五四、
E一二三・五七ノ海面ニ於テ、水測手ヨリ右舷三〇度ニ潜水艦ラシキディーゼル音ヲ聴取トノ報告ニ及ビ、
直チニ右警戒ヲ命シ同海面ニ向ケテ突入スルモ、音源次第ニ右正横ニ移ラントセシヲ以テ更ニ本船回頭シ、
音源ニ向ケ突入セシトコロ、音源更ニ左舷ニ移動左三〇度ニ補足セルヲ以テ直チニ転舵、同海面ニ向ケ再
ビ突入セリ
時恰モ海上一面、黒雲低迷シ剰ヘ細雨ヲ混へタル風強ク、視界極メテ困難ニシテ艦影を認メ得ズ、略々
音源付近ト覚シキ海面ニ到着セルモ音源ヲ逸シ同海面厳重警戒中、当時船橋右舷ニ在リシ警戒隊長右三〇
度距離一〇〇〇米付近ニ敵潜潜望鏡ヲ発見、直チニ一番機銃ヲ以テ銃撃ヲ行ヒタルモ潜望鏡潜没戦果不明、
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尚続イテ爆雷戦ヲ令シ爆雷投下ヲ行ハントセシモ、折柄海防艦右舷四五度方向ヨリ航行シ来リシヲ以テ、
爆雷戦中止、第五次ニ於ケル攻撃状況ヲ海防艦ニ発火信号ヲ以テ通知ス、爾後海防艦ニ続航セヨトノ命ニ
依リ海防艦誘導ノ下指定錨地ニ向ケ航行中、護衛艦稍アリテ逆行セルヲ以テ爾後単独航行セリ
〇七時〇〇、左舷一六〇度距離一万米付近ニ商船一隻、一大音響ト共ニ高サ三〇米ニ及ブ黒煙及ビ火柱
ヲ望見ス。
〇七時一五、左舷一二〇度距離二〇〇〇米ニ左舷見張手ガ浮遊機雷一個ヲ発見報告。
〇七時三〇、左舷五度距離三〇〇〇米ニ左舷見張リ浮遊機雷一個発見報告。
十二時〇〇、右舷四五度距離一〇〇〇米ニ右舷見張リ浮遊機雷一個ヲ発見報告。
十四時三〇、左舷九〇度距離三〇〇〇米ニ左舷見張浮遊機雷一個発見報告。
十七時〇〇、左舷四〇度二五〇〇米ニ左舷見張浮遊機雷一個ヲ発見報告。
十八時四五、揚子江河口余山沖一二マイルに仮泊。
十九日〇六時〇五、抜錨指定錨地ニ向ケ航行中、一〇時四〇分、右舷四五度距離一〇〇〇米ニ三等運転
士小林武、浮遊機雷一個ヲ発見(投錨直前)護衛艦ニ通報(折カラ後方ヨリ入港シ来ル)
護衛艦ガ処分セリ。
一一時〇〇、本船指定錨地ニ投錨セリ。
延喜丸戦闘報告書を読んで
船舶砲兵第二連隊中隊長 駒宮真七郎
ミ二七船団は黄海通過中に四隻を失い、残る四隻はバラバラになって避泊地に退避した。
その後、延喜丸と松浦丸は予定どうり中国揚子江河口に避退し、高雄に入港した。
五隻の護衛艦がついていながらムザムザと、四隻が敵潜に食われた原因は何だったのか。延喜丸の戦闘
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詳報には「…四周一〇隻に及ぶ敵潜水艦群(米潜水艦群の交替期と思われる)跳粱し…」とあるが、護衛
艦の水中聴音機にも当然、音源が捕捉されていたはずで、機先を制して爆雷攻撃を行えなかったのは、は
なはだ残念な護衛体勢といわねばならない。
長時間冷水の責苦に耐え、自らの任務も果たすことが叶わず絶叫を残して死んでいった、予想を越える
多くの将兵・船員の犠牲者はあまりにも哀れであった 。
朝日新聞1978年(昭和53年)十二月七日
(旭)第二十三師団『ハワイ丸』遭難者慰霊祭
輸送船の戦友会が慰霊祭
戦時中、五島・福江市の男女群島沖で百四人が輸送船ぐるみ海に消えた元満州ハイラル第七四四部
隊の全国戦友会(事務局・熊本市保田窪本町)の宮本史郎会長らが先日、亡き戦友たちの三十五回忌慰
霊祭を福江市大津町の八幡神社で行った。一行は戦友たちが故国の見おさめにした玉之浦町大瀬崎を
訪れ「祈りの女神」に参拝、大瀬崎灯台のがけから供物を海にささげ、戦友たちのめい福を祈った。
熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄出身者が中心だった元満州興安省ハイラルの第二十三師団第七四
四部隊は昭和十九年十月二十三日、十七隻の輸送船で南方戦線に向かった。このうち一中隊百四人が
乗った「ハワイ丸」は十九年十二月二日未明、男女群島の南七十五キロの海上で潜水艦の魚雷攻撃で
沈没した。宮本さんらは四十五年に戦友会を作り、毎年九月に熊本市で慰霊祭を行っているほか、戦
友の大半が死んだフィリピンには六回ほど遺骨収集に行っている。しかし、男女群島沖の戦死者の慰
霊祭ははじめて、という。以下略
- 118 -
ヒ八一船団乗船部隊・学校生存者手記
第二十三師団(旭兵団)
第二十三師団(旭兵団)は昭和十三年七月、熊本第六師団を母体とし、歩兵第七十一連隊(鹿児島 )、
歩兵第六十四連隊(熊本 )、歩兵第七十二連隊(都城)を主力の「歩兵三単位制」の「歩兵兵団」として
構成されて、旧満州北部興安嶺の西方ハイラルに駐屯した。
昭和十四年五月ノモンハン事件に参戦し、師団参謀長、連隊長等九名が戦死や自決を遂げ、師団将兵の
七十六パーセント、一二.二三〇人の将兵が戦傷死、軍旗二旒も焼却する運命に遭遇した。
師団はノモンハン事件の大きな犠牲の反省から甲編成の師団として再編された。砲兵は機動九六式十五
榴弾砲、機動九〇野砲。捜索隊は九七式軽装甲車三ヶ中隊編成。自動車輜重隊は六ヶ中隊編成。工兵隊も
機械化され自動車編成となった。さらに、戦車十六連隊が九五式軽戦車の三ヶ中隊編成で加わり、陸軍と
して破格の機動兵団として装備の強化が計られた。
なお、第二十三師団には、師団兵器部付、野砲兵第十七連隊付、自動車輜重第二十三連隊付等で、陸軍
工科・兵器学校出身者十二名が配属されていた。
動員下令で釜山港に集結
昭和十九年十月五日に動員が下令された。師団は急遽、甲師団から乙師団に編成替えをして待機した。
十月二十三日、第十軍(台湾軍)派遣の大命が下令された。十月二十五日出動命令が下った。
師団は昭和十九年当初より南方方面軍に抽出転属させられ、出動待機命令時には定員の七十パーセント
になっていた。師団は召集兵や他の師団からの転属者によって補充し、十月二十五日から順次、中国北部
(旧満州)ハイラルから四三〇〇キロの朝鮮半島の釜山の集結地に貨車で南下し、各連隊は十月二日、三
日と釜山に次々に集結した。
十月四日、釜山において南方総軍第十四方面軍(山下奉文司令官)隷下に入り、比島レイテ島への派遣
- 119 -
変更の大命が下令された。
釜山到着後、輸送船舶の都合から、後方支援の自動車輌及び部隊の一部は下船させられ、十二月まで待
機したが厳寒のハイラルに帰隊した。
比島派遣時、師団は「乙編成」に縮小された。歩兵第六十四連隊、歩兵第七十一連隊、歩兵第七十二連
隊、捜索第二十三連隊、野砲兵第十七連隊、工兵第二十三連隊、輜重兵第二十三連隊、師団通信隊、病馬
廠、師団衛生隊、野戦病院、防疫給水部の外に、独立野砲第十三大隊(野砲兵第十七連隊の戦力補完のた
め)配属された。
師団兵員一万六千名は、輸送船舶の能力、戦闘地域の地形等の現状から、陸軍最新の機動化された「甲
編成の師団」から縮小し、歩兵第七十二連隊は、歩兵十二個中隊を九個中隊に、速射砲三個中隊を一個中
隊に、各歩兵大隊は大隊砲中隊を小隊に、各歩兵中隊は機関銃小隊と自動砲小隊を欠とする「乙師団」に
縮小編成して出動した。
動員下令と同時に第二十三師団は秘匿師団名を通称「旭兵団」と呼称することになった。
三悌団に分かれレイテへ
師団各部隊は、ヒ八一、ヒ八三、ミ二九船団の三悌団に分かれ、第一悌団のヒ八一船団は四隻の陸軍特
殊輸送船あきつ丸、摩耶山丸、吉備津丸、神州丸に分乗し、あきつ丸、摩耶山丸、神州丸は十一月七日釜
山港を出港し、門司六連沖錨地に回航して一部兵員、器材を搭載して、十三日門司六連沖を出航して唐津
湾に集結した。
輸送船は一隻ごとに戦闘単位として、歩兵・砲兵・工兵等の兵科が分乗した。また、一会戦分(一 .五月
分)の弾薬・糧秣に、輕装甲車、工兵器材、自動車燃料、爆薬、馬匹、軍犬、馬糧等も分散して搭載され
た。
輸送船には、台湾、沖縄に赴任する陸軍兵器学校卒業生二十一名また、比島、台湾、沖縄に赴任する陸
軍少年兵の各学校の繰り上げ卒業生一千名、陸軍海上挺進隊と特攻用舟艇(通称・連絡艇
)も分乗・
搭積された。
ヒ八一船団のあきつ丸、摩耶山丸、ミ二九船団はわい丸三隻の大型輸送船が米潜水艦の攻撃を受けて撃
- 120 -
沈されて、摩耶山丸に乗船していた師団司令部参謀長、参謀、高級副官、兵器・軍医・獣医の各部長等、
師団中枢の幹部将校の半数を含む三分の一の将兵が海没戦死し、同時に多くの装備も喪失した。
三梯団(船団)の編成
第一悌団「ヒ八一船団」
師団司令部と共に主力として兵員約一万余名と各隊の兵器・器材等の隊貨を、九千トン級の陸軍特殊輸
送船あきつ丸、摩耶山丸、吉備津丸、神州丸の四隻に分乗して、十一月七日、釜山を出港して門司に回航
し、十一月九日、陸軍兵器学校卒業生二十一名、陸軍少年兵の諸学校卒業生一 .〇七五名、陸軍船舶部隊
(暁)海上挺進隊一千余名が乗船し、佐賀県伊万里湾に移動して高速大型タンカー等十隻の輸送(油)船で
船団を編成した。
昭和十九年十一月十四日朝。護衛空母神鷹、駆逐艦樫、海防艦等九隻の護衛艦と共に、伊万里湾を出航
し、台湾高雄を経由してフィリピンマニラに向かった。
東シナ海済州島沖で、十一月十五日昼、あきつ丸が、十七日夕刻に五島列島沖の東シナ海で摩耶山丸、
空母神鷹が米潜水艦の雷撃を受けて沈没し、兵員の三分の一と積載されていた武器・弾薬が海没した。
高雄で船団を解き、吉備津丸、神州丸乗船の一部、台湾軍、沖縄派遣等の便乗者が下船後 、「タマ三三
船団」を編成し、護衛艦七隻と共にマニラから北サンフエルナンドに変更して十二月二日に揚陸。ルソン
島リンガエン湾正面に展開布陣した。
第二悌団「ヒ八三船団」
日昌丸、鴨緑丸、和浦丸三隻の高速輸送船に分乗。タンカーを含む六隻で船団を編成した。十一月二十
二日釜山を出港し、門司に回航して船団を編成した。十一月二十五日門司の錨地を出航して、十一月三十
日高雄に到着した。高雄港で護衛艦四隻とともに船団を離れ、十二月十二日未明、全船無事マニラに入港
した。
第三悌団「ミ二九船団」
はわい丸、伯刺西爾丸、江ノ浦丸に分乗して十一月二十二日、第二悌団と共に釜山を出港した。輸送船
・タンカー十四隻で船団を編成。護衛艦八隻とともに十一月三十日、門司の錨地を出航した。
- 121 -
船団は九州西岸沖を進み、南西諸島沿いに台湾に向けて針路をとった。十二月二日、男女列島付近で、
はわい丸が米潜水艦シーデヴィルに、安芸川丸も敵潜水艦の雷撃を受けて沈没した。江の浦丸は奄美大島
古仁屋水道に退避。くらうど丸、十一星丸は海防艦生名が追走して高雄に六日に入港。神祐丸は内地に反
転退避。他の六隻は奄美大島古仁屋港等に退避して、数日後に基隆に入港した。
船団の再結集が困難になり解団し、台湾高雄で船団を再編して、十二月二十三日北サンフエルナンドに
到着して揚陸した。
ルソン島の持久作戦に布陣
師団は一部をもってレイテ島に突入することになって、小型船舶に乗り換えた。他はマニラで後続待機
態勢をとった。
レイテに向けて出港の十二月四日朝、マニラに大空襲があり、十五日はマニラとレイテ島の中間にある
ミンドロ島に米軍が上陸を開始。レイテ突入作戦がルソン島の持久作戦に切り替えられ、師団の一部をマ
ニラに残したままリンガエン湾周辺に布陣した。
十二月三十一日、各部隊は終結展開して陣地を構築した。すでに配置についている独立混成第五十八旅
団をはじめ、船舶砲兵第二連隊などの各部隊が旭兵団に配属された。また、海没のため激減した将兵の補
充もあり、総計約三万名の兵力になった。
しかし、輸送船の沈没で失った兵器・弾薬・食糧・医薬品等は乏しいまま戦闘に入った。
同船団に乗船した
第二十三師団 陸軍工科・兵器学校出身者
- 122 -
卒業年次及び科
階級
氏名
備考
出身地
☆ 師団兵器部付
陸軍工科学校第十九期銃工科
陸軍技術曹長
渡辺恭兵
海没戦死
佐賀県出身
陸軍工科学校第十九期鍛工科
陸軍技術曹長
野沢幸雄
海没戦死
山梨県出身
陸軍工科学校第二十一期機工科
陸軍技術曹長
石井清栄
茨城県出身
陸軍技術曹長
佐々木竹次 海没戦死
岩手県出身
陸軍技術曹長
尾形幸三
愛媛県出身
☆ 師団兵器勤務付
陸軍工科学校第二十期機工科
☆ 野砲兵第十七聯隊付
陸軍工科学校第二十期鍛工科
陸軍兵器学校第二期技工科
陸軍技術軍曹
海没戦死
谷口千萬人
☆ 戦車第十六聯隊付
陸軍工科学校第十九期機工科
陸軍技術曹長
中沢伯人
ウエーキ島転任
長野県出身
☆ 師団自動車輜重兵第二十三聯隊付
陸軍工科学校第四期鞍工科
陸軍技術中尉
陸軍工科学校第二十期機工科
陸軍技術曹長
金沢
陸軍工科学校第二十期機工科
陸軍技術曹長
山崎義夫
濠北派遣軍転任
新潟県出身
陸軍工科学校第二十一期機工科
陸軍技術曹長
石井清栄
兵器部転出
茨城県出身
陸軍兵器学校第三期機工科
陸軍技術軍曹
坂井村雄
陸軍兵器学校第三期電工科
陸軍技術軍曹
平沢
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今川義隆
内地転任
清
氾
香川県出身
茨城県出身
岐阜県出身
連隊主力あきつ丸と共に
歩兵第七十二連隊通信中隊長
陸軍大尉 鈴 木 昌 夫(吉備津丸)
昭和十九年十一月十五日朝八時、摩耶山丸は船団を組んで、長崎県五島列島宇久島より航行を開始した。
当日は秋晴れの晴天、波穏やかな濃紺の玄界灘を、各船は整然とした隊形で航行した。船団の前後は海軍
艦艇、空には艦載機の護衛。五島列島の島影が次第に後方水平線に没し、船内命令下達も終わり、昼食準
備中の十一時五十八分。突如、船体を海底から噴き上げる轟音が続けざまに三発。同時に船内に響きわた
る。
「敵潜水艦来襲!」
の非常ベルに、総員背筋を寒くし周囲を見渡すと、左舷を進行中の歩兵六十四連隊主力が乗船している、
あきつ丸(陸軍改装水上機母艦)が、巨大な三本の水柱の中に船体を右舷に傾け、豆粒程に見える将兵が、
飛行甲板から海中に滑り落ちつつあり、船はみるみる中に海中に没してしまった。
一瞬の間の夢のような出来事だった。船団は各船とも狂気のように右へ左へとジグザグ運動を繰り返し、
護衛艦の投下爆雷が水中で炸裂するたびに、摩耶山丸が被雷しているのではないかと、将兵一同肝を冷や
す。海没したあきつ丸遭難者の救助を海軍に依頼し、船団は全速力で敵潜水艦の攻撃不能の浅海に全速力
で退避する。朝鮮半島矢山島沖に到着して危険水域を脱した。そして、将兵一同予期せぬ白昼の悪夢から
ようやく醒めた。
十一月十五日夜は朝鮮矢山島付近で仮泊。翌十六日、木浦南側の珍島付近に移動した。十六日午後四時
頃、護衛の海軍艦艇があきつ丸遭難救助者を満載し船団に戻ってきた。神州丸に収容した者は、僅かに四
〇〇名だった。歩兵第六十四連隊主力(連隊本部、直轄中隊、第一、第二大隊)は一瞬にして壊滅したの
であった。
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歩兵第六十四連隊長はあきつ丸が被雷するや、直ちに部下将兵に脱出を命じる。船の甲板が海水に浸る
に及び、船の運命もこれまでと軍旗を奉じて旗手と共に海上に脱出したが、沈み行く巨船の逆巻く渦に巻
き込まれ、軍旗があわや海没しようとした時、旗手秋本少尉と軍旗護衛兵達の必死の努力で海没を免れた。
連隊長は激浪の中から
「軍旗はどうした!」
と絶叫。
「安泰です」
との旗手の報告を受け、満足げにうなづいたが、連隊長の姿は玄界の波間に消え去った。わが歩兵七十二
連隊直轄部隊の一部の乗船者も大部分の将兵は船と運命を共にした。
摩耶山丸・空母神鷹も雷撃で沈没
退避した船団は、十一月十七日朝七時三十分、遭難救助された将兵と共に朝鮮珍島沖を出港し、黄海を
強行突破して上海に向かった。
護衛の艦船、船団の乗船将兵一同は荒波の中、息詰まるような切迫した雰囲気のうちに夕日は没し、周
囲は夕闇に包まれてきた。
午後六時頃、数発の轟音がこの緊張を突き破った。船団中央の摩耶山丸が閃光の中に左へ急速に傾斜し
ていった。護衛艦は矢継ぎ早に爆雷を投下しつつ船団周辺を全速力で航行している。船団はジグザグ行動
に移り退避した。退避する船は黄海の荒波に大きく上下し、ジグザグ運動により右に左に急傾斜した。ま
た、連続投下される爆雷の海中からの爆発音・振動、闇夜に吹き上げる青白い水柱に、将兵は身を固くし、
固唾を飲む緊張の二時間だった。
船団後尾から航行中の空母神鷹が轟音と共に炎上し、暗黒の海面が瞬時にして火の海になった。
「右舷、敵潜水艦浮上!」
の声に、各船の備砲が一斉に砲撃を開始するも、乗船の将兵は打つ手もなく、ただ、恐怖の渦中で望見す
るのみだった。
船団の各船は、分散退避して翌十八日早暁、支那大陸の安全地帯に達した。しかし、前夜、船団左側に
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いた我が連隊第三大隊乗船の神州丸の姿が見えず、旭兵団が乗船している四隻の輸送船は、我が歩兵第七
十二連隊主力がいる吉備津丸一隻のほかは、南方に行くタンカーのみの誠に心細い状況で神州丸もあわや
被雷沈没かと、連隊将兵は安否を気遣いつつ、船は大陸沿岸を南下し続けた。
十八日午後三時、船団はようやく上海沖に到着集結すると、安否を懸念していた懐かしい神州丸が何事
もなかったように静かに停泊している姿を発見、期せずして吉備津丸船内に歓声が上がった。
直ちに神州丸輸送指揮官と第三大隊松永大隊長が、ランチで吉備津丸の中島連隊長を訪問して相互の無
事を祝した。
あきつ丸の最後
歩兵七十二連隊通信中隊
吉
武
熊
彦(あきつ丸)
通信中隊兵員十二名、馬二十頭を指揮して陸軍空母兼上陸用舟艇母艦あきつ丸に乗船した。同船には第
二十三師団(旭兵団)等の兵員四千五百名、部隊兵器・器材と馬五〇〇頭を乗せて、十一月七日釜山を出
港した。門司、長崎を回航して十五日朝まだ暗き夜明け前に、長崎五島列島宇久島水道を出航した。
船団は護衛空母を含めて約二十隻、晴天で波静かな中、船中では笑い話等に花を咲かせながら緊張のな
かにも平安なひとときを過ごしていた。
午前十一時、命令受領して
「昼間は敵潜水艦等の攻撃は大丈夫、夕刻より充分注意すること」
を兵隊に伝えた。
そして、五名の兵と共に船底に馬の飼料を与えに行き、他の者は暑さのため、全員殆んど裸体で休んで
いた。私も休養すべく鉄帽を脱いだ瞬間、
「潜水艦攻撃警報!」
が船内に響きわたる。
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正午直前だった。間髪を入れず、船尾に打ち込まれた魚雷三発が大音響と共に爆発し、船内は停電して
真暗となり、阿鼻叫喚の地獄絵巻になった。
私は船室よりやっとの思いでデッキに出る。出て見れば船は四十五度に傾き、兵隊は次々に海に飛び込
んでいる。私も船べりを滑り落ちながら飛び込んだ。
私は急激に沈む船の渦に吸い込まれないように一生懸命泳いだ。船から何メートル離れただろうか、後
を振り返ると、既にあきつ丸の姿はなかった。海中には兵隊、馬、軍用犬、船の破片が浮かんでいる。爆
発点近くにいたものと思われる裸体の者、シャツ一枚の者、顔に火傷を負った者、顔や頭から血を流して
いる者、片手がなくっている者等、生き地獄とはこの様なものかと思った。
助けてやろう、手当をしてやろうと思うが、その術もなくただ海中に浮かんでいる筏につかまっている
のみであった。やがて三々五々集まり、私の筏にも十五名位がつかまった。あちこちの集団から軍歌が始
まり、やがて海上一面の大合唱になった。
師団司令部も海没す
第二十三師団司令部管理部
宿
利
実(摩耶山丸)
昭和十九年十一月十五日正午頃、五島列島沖であきつ丸(歩兵第六十四連隊主力、歩兵第七十二連隊、
工兵連隊の一部、野砲兵連隊の一部が乗船)が魚雷攻撃を受けて沈没した。歩兵第六連隊長以下、多数の
将兵が海没戦死した。
十一月十七日午後六時頃、師団主力の乗船した摩耶山丸が済州島沖を航行中に、突然!
「危険区域に入ったから、みんな避難準備するよう!」
との命令がでた。
殆んどの兵は甲板上に出た。私は当直だったので船室に残った。間もなく敵潜水艦の魚雷が、船首に一
発。二発目が機関部に命中した。船は瞬く間に傾き出したので、私は必死になって甲板に出て海中に飛び
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込んだ。そこに運よく上陸用舟艇が船から四隻落ちてきたので、それに自分で乗り移って後ろを見ると摩
耶山丸は、すでに海中に沈んでスクリューだけが目に入り、乗船していた兵達はみんな、海中に投げ出さ
れていた。
私の乗っていた舟艇内には多くの海水が溜まっていたので、近くにいた空の舟艇に乗り移った。海中に
投げ出されて泳いでいる兵隊が、あちこちで
「助けてくれ!」
と叫んでいる。
すぐに自分の巻脚絆を解いて投げ込み、つかまらせて舟に助け上げた。助かった者はまた、他の者を助
けるといったことを繰り返し、二〇〇名程の兵隊を救助した。
第二十三師団長を救助
しばらくして、舟艇の後尾の方で
「オーイ助けてくれ!」
と言う聞き慣れた低い声がした。
もしかしたら西山師団長ではと思い、傍らにいた川口准尉に、
「西山閣下のようだ 。」
と言って、すぐ巻脚絆を持って海に飛び込み、師団長の体を巻脚絆で縛りつけて舟艇に引き上げた。
師団長の顔、軍服は油だらけで、全くお気の毒な状態であった。早速、機関部にお連れして、汚れた軍
服を脱がせ、毛布を巻いて乾布摩擦をしてあげた。機関部の中では兵隊たちが寝泊まりしていた模様で、
背嚢、背負袋があり、その中に煙草があったので、煙草に火を付けて渡すと大変喜ばれた。その頃、見習
士官が指揮をとって、皆に元気づけるために軍歌を歌っていた。
指揮者が、急に
「静かに!静かに!」
と叫んだ。
と、同時に敵の潜水艦が浮上し、曳光弾が数十発打ち込まれたが、被害はなかった。また、それから二
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十分位して、暗闇の中で約二キロ程前方に火柱が上がり、周囲が火の海になり一隻の船が沈没した。その
夜は舟艇の上で一夜を明かした。翌朝、周囲の海には数キロにわたって将兵の屍体が浮遊し、痛ましい光
景であった。
護衛艦一隻が私達の回りを見守っている様子だったので、
「師団長が乗っているので早く救助頼む 。」
と手旗信号を送った。
一向に通じる様子がない。根気よく何回も続けていると、通じたのか
「救助に行きたいが、未だ状況が悪いのでしばらく待て 。」
という返信であった。
数時間後、やっと救助されて、着いたところは上海沖だった。ここで別の輸送船に乗り移り、台湾高雄
に向かった。途中、師団長より特別室に呼ばれて
「君は、わしの命の恩人だ 。」
とお褒めの言葉をいただいた。
十一月二十六日、高雄に着くと師団長は飛行機で比島に向かった。私達は十一月三十日に高雄を出航。
十二月三日、北サンフェルナンド港に上陸した。師団長は三好副官とともに車でマニラの軍司令部に向か
った。
また、摩耶山丸には、師団長、参謀長以下幕僚、各部の部長が乗船しており、魚雷攻撃で師団参謀以下
各幕僚が海没戦死し、師団司令部は壊滅的な被害を受けた。師団兵器部付で陸軍工科学校第十九期の渡辺
恭平技術曹長も海没戦死した。
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あきつ丸わずか三分で沈没
歩兵第六十四聯隊
田 上 大 五 郎(あきつ丸)
昭和十九年十一月十五日十二時十五分頃、陸軍歩兵上等兵で乗船したあきつ丸は、九州五島列島沖で敵
潜水艦の魚雷攻撃をうけて、わずか三分であえなく沈没した。
私は第一補充兵で昭和十八年六月応召。星一つの二等兵で、本籍の熊本第六師団に入隊し、満州ハイラ
ル歩兵第十八部隊に配属された。九月の大演習で身体を痛め、十一月に錬成兵に編入されて北支那山海関
にて冬を過ごした。十九年五月原隊復帰し、十月末に動員下令で、部隊は南下して釜山で一装用夏衣袴に
着替え、陸軍空母兼上陸舟艇母艦の特別輸送船あきつ丸に乗船した。
自動車研修を受け部隊貨物班で、十一台のシボレーのある班であった。班員には地方でバスの運転を経
験した上級者もいて私は一応助手でした。あきつ丸は航空母艦のような飛行甲板があり、甲板には飛行機
ならぬ特攻用舟艇
や、船首の中甲板には軍馬数十頭が繋がれていた。
私はその船首寄りの船室に、一畳三名くらい詰め込まれ、寝るにはエビのようになり、軍装品が壁とい
わず空間に埋め込むように積んであった。
佐賀県伊万里湾で船団が勢揃いした。一歩でもよい内地の土を踏みたいとの願いも空しく、船上より別
れを惜しむしかありませんでした。
十一月十四日伊万里湾を出港。軍歌の「…あゝ堂々の輸送船さらば祖国よ栄えあれ…」を涙して歌う。
港では日の丸を打ち振って、声は届かねど多くの人が見送っている。前後左右を海防艦に護衛されたあき
つ丸は僚船を圧し、これなら大丈夫と安堵感があったが、夕刻、対潜警報のブザーがピーピーピーと鳴り、
演習だろうと思っていた。船は長崎県宇久島に退避した。
ピーピーピーと警報 !
十一月十五日早朝に出港。空はあくまで青く、海も凪いで平時の航海ならばと思わぬこともなかった。
昼前、飯あげ(食事当番)の使役に出て後始末が終わった頃、
「ピーピーピー」
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と警報が鳴った。
直後にずしん!と床が大揺れしたので
「わあーっ!」
と声をあげた。
周りの兵隊が浮足立ってドドドッと、われ先に出口の方に殺到して行った。私は空襲と勘違いして、あ
わてて鉄帽を頭に被ったが、あご紐がうまく結べない。そのうち再びずしん!ときた。付近には人影もま
ばらで床が五度、十度と傾く。急いで救命胴衣を付けたが、これまた紐がしっかり結べない。なんとか固
定して、出口を見ると誰もいない。床からずり落ちそうに傾いてきた。
中甲板の手摺りを伝って歩いた。軍馬たちが滑る床をばたばたやっている。海水が左舷に見えた。対潜
用の大砲がロープに縛られてぶらんぶらんしているのが印象的であった。どこからか、
「天皇陛下万歳」
が聞こえてきた。
軍馬・軍犬も水中で共に
私はどのようにして海に落ちたか記憶がない。水死は苦しいと聞いており、早く死なねばと南無阿弥陀
仏を唱えながら海水を二口呑んだ。水中一メートル位に沈んでいた。ひょっと目を開けたら明るい。これ
ではいかんと、足を掻いたらぽっかり浮上した。紙一重というのだろう。生への執着というか、危機一髪
!もう一口呑んでいたら土左衛門になって、玄界灘の海底に沈んでしまっていただろう。
目の前には軍馬や軍用犬が数頭首を出してもがいていた。船は三分の一くらい海面上にあり、船体横腹
の吃水線の赤色が鮮やかに残っている。兵隊がその横腹にしがみついていたが、ほどなくずるずると船尾
から消えていった。
救命ブイだけでは長持ちしないので、浮いていた味噌樽につかまったが、これはくるくると回ってだめ
であった。近くの角材や板切れを脇に抱えて、やれ安心と落ち着いた。
上甲板にあった上陸用舟艇が浮上し、これに鈴なりに兵隊が乗っており、私もそれを追ったが、距離が
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遠のくばかりで断念した。そのうち重油の海に巻き込まれていた。りんごが一個、ぽかりと目の前に浮い
ていた。
玄界灘近くの冬の海。大きなうねりで下手をすると重油まじりの海水を呑んでしまう。やがて、海防艦
が対潜用爆雷を投下しはじめたので、ズシン、ズシンと間近で起こる爆発の水圧が腹に響き、今度はこれ
で終わりかと観念した。
海防艦に引き上げられる
飛行機が偵察にきたので、救助されるのではと期待をもった。近くの海面で、
「お母さん、お母さん」
という泣き声を聞きました。
夕方五時頃、海防艦がやってきて、われわれの救助を始めた。重油と雑品と兵隊が浮いているところへ
艦上から先を輪にしたロープが下りてきた。これに五名、十名が一度にぶら下がるので、海軍の兵隊が上
から
「一人ずつだ!」
と怒鳴ってロープをわっさわっさと揺する。
力のない兵隊は手を離して目の前でぶくぶくと海中に沈み死んでいった。
私はしばらく離れて順番のくるのを待った。艦上に吊り上げられた時は、どぶ鼠よりひどい姿であった。
重油まみれの体を海軍さんがくれたウェスで真裸になって拭き取った。その時、艦内で飲ませて貰った水
のうまかったことは今も忘れない。首から吊っていた陸軍の貴重品袋は大事に身に付けていた。この中に
は妻と長女の写真が入っている。遭難を体験し九死に一生を得て、その後、フィリピンでルソン島内を転
戦してバギオ山中で終戦を迎え、昭和二十一年末に無事復員するまで、いかにこの写真が私を慰め励まし
てくれたか知れない。
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江ノ浦丸でルソンに
第二十三師団兵器部 陸軍技術曹長 石 井 清 栄
昭和十九年十月五日「動員待機」の下命にもとずき、師団の再編等の諸準備を整え、動員の大命を待っ
ていた。
各部隊の将兵は戦局の急迫に伴い、満州(中国北部)西部国境ハイラルより、兵器、弾薬、糧秣、燃料
を満載した有蓋貨車で、日増しに寒さの加わる北満より南下して、十一月二日朝鮮半島の釜山に終結した。
第三悌団ミ二九船団で出航
釜山港には、七千屯~一万屯級の輸送船がすでに埠頭に横付けされていた。当時、船舶司令部の話では、
一個師団の海上輸送には、一万屯級の船舶十隻と、他に護衛艦船等十数隻が必要だと言われていた。
釜山港には、高射砲、高射機関砲、爆雷発射装置等を装備した陸軍水上機母艦、上陸用舟艇母艦等、特
殊輸送船が配船され、将兵は秋晴れの下、慌ただしく物資の搭載作業にも勇んで汗を流した。
私は第三悌団ミ二九船団の江ノ浦丸(七千屯)に乗船した。同船には輸送部隊の自動車輜重隊本部、捜
索第二十三連隊第一・第三中隊、師団兵器勤務隊、師団衛生隊(第一・第二野戦病院 )、防疫給水部と、
陸軍海上挺進隊が乗船していた。加えて、各隊の隊貨、器材、糧秣、衛生器材、海上挺進隊の連絡艇
等も積載していた。
第三悌団は、十五隻からなる輸送(油)船で編成。昭和十九年十一月二十二日、第二悌団のヒ八三船団
と共に釜山港を出港し、門司に寄港した。
十一月三十日夜半、八隻の護衛艦に護られて門司を出航した。
ミ二九船団の編成
伯刺西羅丸
自動車輜重第二十三連隊第二中隊、師団通信隊、師団衛生隊、師団病馬廠。
はわい丸
自動車輜重第二十三連隊第一中隊、工兵第二十三連隊第三中隊、捜索第二十三連隊第二
、第四中隊、通信小隊。
江ノ浦丸
自動車輜重第二十三連隊本部、捜索第二十三連隊第一、第三中隊、師団兵器勤務隊、
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師団衛生隊、防疫給水部、第一・第二野戦病院、陸軍海上挺進隊。
各船には乗船部隊の隊貨、器材、糧秣、衛生資材、
連絡艇が搭載されていた。
広島県宇品で師団保有弾薬の積載時に、大本営陸軍部より
「台湾軍向け航空投下爆弾二〇〇トンの積載」
の命令が伝達された。
船倉に余裕が無いことがわかると、
「車輌を一部降ろして積め」
との厳命に困った。
釜山で輸送指揮官駒木少佐の指示で、私は自動輜重隊小野少尉と交渉を重ねた結果、乗船していた第一
小隊と自動貨車十四輌を降ろして航空爆弾を積載した。
下船した小野少尉は、命令とは言え
「残念だ!」
と悔しがった。
「次の船で来い!」
との命令で、釜山で待機していた。
その後、輸送船の不足で内地からの比島行きが停止になり、小野小隊は昭和二十年二月、再び零下三十
度、厳寒の北満ハイラルに帰隊した。
はわい丸が雷撃で沈没
船団は九州西海岸を進み、奄美大島から南西諸島沿いに台湾に進路をとった。十二月二日午前四時頃、
五島列島西方の男女群島沖六十海里で、はわい丸が米潜水艦の雷撃を受けた。船底に搭載していた弾薬、
爆薬、自動車燃料に引火して大爆発を起こして沈没した。
甲板からこの様を見て直ちに救助ため、江ノ浦丸に積んでいた自動車部品のタイヤ用チューブを甲板に
集めて、空気を入れて救命用に準備させた。
後日、轟沈で急速に沈没したため、乗船の船砲隊を含め一 八四三名の兵員を、救助することが出来なか
.
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ったことを知った。続いて貨物船安芸川丸(五 二二四トン)も雷撃受けて沈没した。
.
伯刺西羅丸も船体に亀裂
伯刺西羅丸(ぶらじるまる)は、自衛のために多数の対潜爆雷を投下したため、船体に亀裂生じて海水を
汲み出しながら台湾基隆港に入港した。直ちに応急修理をしてフィリピンに向かった。
また、六隻の輸送船は奄美大島南部の古仁屋港に退避し、二隻は基隆港に、一隻は高雄港に直行した。
江ノ浦丸は古仁屋水道に三日間退避した。古仁屋水道及び湾は水深が深く、連合艦隊が入港できるので、
水道の入口には海軍の艦艇が護衛していた。
江ノ浦丸の輸送指揮官は先任部隊長の駒木中佐で、各部隊の中隊長が交替の日直勤務で、対潜監視、乗
船監視を担当した。私も敵潜水艦の攻撃を常に意識しながら積載兵器、弾薬の異常監視等に忙しい船内活
動だった。
退避中ひとときの安らぎ
退避中、不安の中にもひとときの余裕もあった。部隊は福岡、熊本、長崎、鹿児島、宮崎、大分、沖縄
の九州出身者で編成されていた。
房少尉が
「この島は名瀬町がある奄美大島だろう」
奄美大島出身の木場兵長が
「そうなんです。家が見えるんではないか」
すると
「召集されて四年目だもんなあ…。誰だって、家族の顔が見たいんだろう、黙って我慢しているんだ!」
「古兵がそげんこと言うと示しがつかんぞ!」
と声が飛ぶ。
古仁屋での三日目の朝、軍歌演習が終わり、解散して甲板から古仁屋の人家が密集している辺りを眺め
ても、人影は見当らず静かだった。しかし、誰もが陸を見つめて甲板はいっぱいだった。
後甲板に行くと、作業服の船員が釣り糸を垂れていた。
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機関部からの律動音と振動を感じたので、
「本船はディーゼル機関ですね」
と問うと、
「そうだ」
と、五十歳近くの小柄の老船員が、振りかえって答えた。
「停船時は休養だ。航海時は機関室は死んでも離れられないさ、今度はバシー海峡、輸送船の墓場と言わ
れる難所だ」
と笑って誰に言うともなく話してくれた。
船内には兵器行政本部の技術軍曹が便乗し、
「出張でマニラ野戦兵器廠に行く」
と話していた。
陸軍海上挺進隊員
で起居
本船には陸軍船舶(暁)海上挺進隊の舟艇
三十隻が、艫先に積み込まれていた。隊員は甲板に積ま
れている艇内に、救命胴衣を着用したまま寝起きして、軽くエンジンを始動させて保守をしているのには
感心した。
気化器が潮風で白い粉が付着し、エンジンがかからずに困っていたので、自動車部品を提供して交換し
たら、拝むようにして喜ばれたことが忘れられない。彼らは
で敵艦艇に体当たりする特攻隊員であっ
た。船底一枚、明日をも知れない危機感を共有して戦場に赴く同士だと思った。
高雄を経由して〃輸送船の墓場〃と言われるバシー海峡を、十二月特有の暴風雨が幸いし、無事通過し
て十二月二十三日、北サンフエルナンドに入港した。伯刺西羅丸も無事入港して大発三隻が横付けして荷
揚げしているのが見えた。直ちにリンガエン湾正面のルソン島に展開して、米軍の上陸作戦に備えての戦
闘準備を整えた。
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陸軍少年通信兵学校
大正十四年(一九二五年 )、陸軍通信学校が東京杉並区馬橋に創設された。
その後、無線機材の近代化に伴い、電信技術に熟練し、複雑な無線通信機の学理と取扱いに成熟
した初級幹部の必要性に迫られた。
昭和八年(一九三三年 )、陸軍通信学校に生徒隊(通信兵)が新設され、同年十二月一日、第一
期生十五名が入校した。当時、通信兵は工兵科に属していた。
生徒数は年ごとに増加し、昭和十三年(一九三八年 )、神奈川県高座郡大野村(現・相模原市相
模大野)に校舎が新設された。在学中だった第五期生が新校舎に移転した。同年十二月、第六期生
が新校舎に入校した。
太平洋戦争が勃発するとともに、生徒数の飛躍的増加が要請されたため、生徒隊を陸軍通信学校
から独立して、昭和十七年四月一日(一九四二年 )、生徒隊を昇格させて、陸軍少年通信兵学校が
創設された。そして、東京都北多摩郡東村山町(現・東村山市)に校舎が竣工し、昭和十七年十月
二十三日、第八期生および第九期生を擁して移転した。同年十二月一日、第十期生七二〇名が入校
した。
昭和十八年十月一日(一九四三年 )、陸軍少年通信兵学校を発展的に解消して新たに、東京陸軍
少年通信兵学校(東村山町)と村松陸軍少年通信兵学校(新潟県中蒲原郡菅名村(現・村松町)の
二校が創設された。東京校は従来の施設を継承し、村松校は元・歩兵第十六連隊第三大隊跡の兵舎
を生徒舎、教室・実習場として使用した。
昭和十八年十二月一日、東京・村松の両校に第十一期生八〇〇名が入校した。十一期生は昭和十九
年十一月(一九四四年)と昭和二十年三月(一九四五年)の二回に分かれて卒業して戦場に征った。
この十一期生は陸軍少年通信兵学校の最後の卒業生となった。
昭和十九年六月、第十二期生が東京・村松両校に各八〇〇名。二十年四月に村松校に八〇〇名が
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入校した。
卒業後の配属先要員区分は、第一期生から第三期生までは全員が陸軍通信隊(電信隊)要員、第
四期生から第八期生までは、四分の一が二年生になってから師団通信隊要員として教育訓練を受け
た。第九期生は、師団、航空、戦車の四通信隊要員。第十期生は、師団、航空、戦車、固定、船舶、
船舶固定、特殊情報の八区分に分かれて教育訓練を受けた。
第十一期生は、昭和十九年十一月五日、繰上げ卒業により「南方特別演習隊員」として六〇〇名
(東京少通校二八五名、村松少通校三一五名)として派遣された。途中、済州島沖で輸送船あきつ
丸、五島列島沖で摩耶山丸が撃沈され多くの海没戦死者を出した。
昭和二十年八月十五日終戦を迎え、相模原、東京、村松の各学校もその歴史を閉じた。
亡き戦友に捧げる
村松陸軍少年通信兵学校第十一期
村
田
寅
男(摩耶山丸)
南方特別演習隊員派遣
昭和十九年十一月五日卒業式。六日出陣式後に新潟県蒲原鉄道村松駅発。八日に門司到着。九日あきつ
丸、摩耶山丸、神州丸に分散乗船し、十三日門司出港。十五日十二時十分あきつ丸遭難。十七日十八時二
十分摩耶山丸遭難。十八日上海河口着。二十六日台湾高雄に入港。二十七日台湾上陸。二十九日台北軍司
令部に着任。
台湾上陸後、十二月四日台湾軍、南方方面軍に分かれる。
あきつ丸昼食時に遭難
昭和十九年十一月十三日午後、護衛艦に護られ、輸送船団十数隻は門司を出航して南方に向かった。
十三日、十四日の夜は唐津湾に仮泊。十五日五島列島を後に南下した。護衛空母から発進する艦載機は
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船団上空を飛び対潜警戒が始まった。やがて五島列島もはるかに遠のいた頃、私たちは摩耶山丸の船内で
昼食を共にしていた。
十五日十二時十分頃、突然船に衝撃を覚えた。
「敵潜水艦か!」
と緊張する。
ふと見ると右後方を航行中のあきつ丸の左舷に水柱の立ち上がるのが見えた。魚雷が命中したらしく、
間もなく速度がにぶったと思ったら、また船の三倍位の高さの水柱が上がった。あきつ丸は左に傾き、左
側に旋回しながら速度を落としてわずかに前進している。
間もなく後甲板から大火災が上がった。甲板から海中に飛び込む数人の人影も見えた。間もなく空母の
艦載機が飛来し、爆弾を海中に投下して水柱が上がった。海防艦は現場に急行して爆雷を投下していた。
あきつ丸は僅か五分くらいで一万屯の巨体を海中に没してしまった。船団の各船は潜水艦の攻撃を避け
るため、全速力で四方に展開し、朝鮮半島西方の済州島に集結した。
魚雷が命中した時、あきつ丸では甲板にいた人は少なく、殆ど船内で昼食をしていた。救助された坂口
君は後日
「たまたま甲板に設けられていた仮設便所にいたので、海中に飛込むのが容易だった」
と言っていた。
また、坂口君は海中で元気で泳いでいた野村君、一区隊の久留美康夫君を見たそうである。
摩耶山丸に魚雷命中
十七日八時、済州島に退避集結した船団は出航した。救助された者は神州丸に乗っていた。出港後間も
なく、米軍偵察機二機が船団の上空に飛来した。各船の備砲は一斉に火ぶたを切った。特に空母からは猛
烈な射撃だった。米軍機は間もなく去った。
十七日昼頃、朝鮮半島の家屋が見える近海を航行していた。十五時頃はもう陸は見えなくなった。
十七時頃に
「危険海域になるので全員甲板に出ろ!」
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と言われたが、外は寒いのでみんな出たがらないので、船内に残る者は五番の番号が付く者と決められた。
三区隊では滝沢君に当たった。
やがて全員甲板に集合、遥か故国に向かって五ヶ条の御誓文を奉唱した後、それぞれ寝る場所を作るこ
とになった。私は岩間君や大谷君と三名で、少し高い所で寝床を作り、私が最後に座ろうとした時、十八
時二十分頃、左舷後方に魚雷が命中した。大衝撃と共に船は揺れ、すぐに停船してしまった。
大水柱が立ち上がり私たちの頭上に、大変多くの油が混じった海水が落ちてきた。頭から被った毛布に、
その海水がしみこんで、容易に取り除けないほど重かった。ようやく毛布を取り除いてあたりを見回すと、
船は左舷に傾きながら沈んでゆくのが分かった。
甲板船尾から海中に転落
その時、二発目が左舷前部に命中した。傍らにいた岩間君たちが見えないので、私は一人船尾に回って
船砲隊のいたところに駆け上がった。そこでは軍属や船員が次々と海に飛び込んでいた。私も決心して飛
び込もうとしたが、海面まで余りにも高すぎて一気に飛び込むことをためらった。甲板から五十センチ下
に丸窓があったので、そこに足をかけて飛び込もうとしたとたん、足を滑らせて頭から真逆さまに落ちて
しまった。
あっと思った瞬間にはもう浮き上がっていた。その時は、帯剣、弾薬盒、鉄帽、地下足袋、巻脚絆、雑
嚢に救命胴衣を着けていた。不自由な体を動かして船から少し遠ざかった頃、摩耶山丸は渦を巻いて海中
に没した。
海上にはあちこちに戦友が漂流していた。私は元気を出して軍歌を歌った。すべては天にまかせた気持
ちだった。それでも…ここはお国の何百里…と歌うと、流石にいうにいわれぬ寂しさがこみ上げてきた。
やがて、周囲も薄暗くなって、遠くからまだ爆雷の音が聞こえてくる。
ふと見ると、一隻のボートが漂流してきたので、付近にいる戦友とボートにつかまった。一隻のボート
に多くの兵士がつかまったので鈴なりになり、ボートは今にも沈みそうになった。こんな凄惨な中でも、
波は静かで、夜光虫がきれいに光り、空には星がまたたいていた。
すっかり暗くなった大海原で、一粒の粟のようにいつ果てる命かと思うと、わが身がいとおしく感じら
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れて、村松陸軍通信学校のこと、故郷の父母兄弟の顔がまぶたに浮かんでくる。やがて、睡魔と寒さが迫
ってきた。五十メートルの鼻先を敵潜水艦が通って行った。遠く曳光弾が飛び交うのも見えた。
護衛艦は一晩中、爆雷攻撃を続けていたが、私たちは一晩中漂流していた。
救助され上海で神州丸へ
翌十八日昼頃、海防艦昭南に救助された。一命をとりとめた私たちは、泣きながら遥か皇居に向かって
勅諭を奉唱した。
十一月十九日、揚子江の河口に到着。一昨日の敵潜水艦攻撃の苦闘を切り抜けてきた船は数隻しかいな
かった。海防艦昭南から神州丸に移乗した。それから数日後、船団は陣容を整えて大陸沿岸を航行して、
台湾馬公に寄港し、二十六日には台湾高雄港に無事到着した。思えば門司出港から悪夢のような十数日で
あった。
二十七日、台湾に上陸し検疫所で、坂口君、大谷君と再会した。肩をたたき合ってお互いの無事を喜ん
だが、次の瞬間には死んだ戦友を思い、涙ぐんでしまった。坂口君と会ったのもつかの間、彼は沖縄要員
として船を待つことになった。私は台湾軍に配属になり、大谷、木村君は船団を連ねて比島に向かった。
戦い終えて思うこと
思えば村松陸軍少年通信兵学校入校以来、共に生死を誓った戦友であったのに、我ひとり生き長らえて
故国の土を踏むとは、死んだ戦友に申しわけないと思うとともに、また、消息不明の戦友の身の上を案じ
ながら今日に至った。
今はただ遥か戦友たちの冥福を祈り、ご遺族の方々に心からご同情申し上げます。
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遭難から救助され て
村松陸軍少年通信兵学校第十一期生
金
子
博(あきつ丸)
お守り・千人針を肌身に
昭和十九年十一月六日、我々は出陣式を終え南方特別演習隊員として、母校村松校の同期生及び第十二
期生、学校関係者に見送られて勇気凛々校門を後にした。
腰には、近衛兵に勤務している兄より贈られた皮革製の図嚢(地図、筆記具を収納)が大きく光ってい
た。他の戦友もそれぞれ家族から贈られた御守りや、千人針(千人の女性が一針づつ縫って武運と安全を
祈る)を肌身にしっかりと着け、一路、蒲原鉄道村松駅に向かった。
沿道では町の人達が歓呼して送ってくれた。私は三中隊四区隊の後方だったので、内務係准尉殿と、教
育係准尉殿が駅まで付き添ってくれた。その途次、二人の会話を聞くともなしに聞いた事を要約すると、
「皆は海没軍神だ」
と言うようなことだった。
それを聞いて私は内心そんな事があってたまるかと思った。
村松駅より乗車し東京駅に到着した。本来なら皇居前に整列して〃捧げ銃〃の儀式を行うのだが、列車
時刻の関係で東京駅構内で行い、東京陸軍少年通信兵学校同期生と一緒に再び列車に乗り門司に向かった。
列車内ではそれぞれの出身地を通過するとき、土地の状況や物産等、いろいろな話をした。列車は太平
洋岸沿いを過ぎ、瀬戸内海に入った。車窓から見る瀬戸内海は見事な景勝だったが、海岸線は
「軍の機密があるから車窓のブラインドを下ろすように」
との命令が出た。以後、ほとんど窓外の景色は見られなかった。
門司の街で命綱を買う
十一月八日門司に到着した。翌九日乗船前に輸送指揮官・鈴木大尉殿より乗船の心構えについて
「乗船中は勝手な行動をとってはいけない。万一の場合でも退船命令が出るまでは本船から離れてはいけ
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ない」
と訓示されて、訓示の後、命綱(麻縄)一本が支給された。
その後、若干の小休止があったので付近を歩いていたら、地方の人が命綱を売っているのを見た。先方
も商売
「兵隊さん、この綱は何本あってもきっと役に立つよ 。」と言った。
それもそうだなあと思い二本買って腰に吊るした。船内では起きている時も、寝ている時も腰から外さ
ぬことにした。
十一月九日夜、村松少通校一中隊、四中隊の一部と三中隊数十名が輸送船あきつ丸に乗船した。船室は
二段に区切られ、間隔は一間半(約三メートル)四方位で奥行きも一間半位だろうか?隣とは高さ五寸(
約十五センチ)位の板で区切られていた。これを居住区と言っていた。船内は通気が悪く蒸し風呂のよう
な暑さだった。
また、船内の上、中の部分には関東軍の将兵が位置し、甲板には戦車、野砲、山砲等が積載され、船倉
には軍馬、食糧等が積まれていた。
輸送船団は十一月十五日、退避していた五島列島北部宇久島水道を出発。一路南下することになった。
私は手洗いに立った後、ハッチから流れゆく五島の島影を眺めた。同時にこれが故国との別れと思い、故
郷の空に目礼し居住区にもどった。
魚雷攻撃!後部甲板に走る
時刻は正午前だったろうか。配分が終わったところで一斉に食事開始。私は空腹だったので皆より早め
に終わり、飯盒を洗いに行こうと腰を上げたところ、
「ドカン!」
という激しい音と共に足をすくわれた。
一瞬やられた!と直感した私は、急いで後部甲板に向かって走った。通路は一・二メートル位だったが、
出口は狭く一メートル位で、そこはすでに避難しようとする将兵が殺到してなかなか出られず、しばらく
立っているうちに私は押し出された。
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甲板に出てみると救命ボートが一隻ロープで吊るしてあった。ボート内には多数の将兵が乗り込んでい
た。兵士が賢明にロープを操作してボートを降ろそうとしたが、最大荷重のかかっている結び目は解けそ
うになく、業を煮やした将校が軍刀を抜いて一刀両断!とおもいきや、なかなかロープは素直に切れてく
れない。恰も切れない鉈で薪割りをしている感じだった。
はっ!と我にかえり海面を見ると、舷側下二メートル位までに迫っていた。左舷甲板にいた私は、本船
は大きく左に傾斜していることに気づいた。甲板のあちこちで海中に飛び込む人数が増してきた。
勿論、このような状況下でも「退避命令」は出ていない。私は村松少通兵校の輸送指揮官の「退避命令」
を待ったが、船はさらに大きく左に傾き、海面まで一メートル位までになり、本船が覆いかぶさるように
なってきた。
筏にかけた手を軍靴で
退避命令を待たずに海に飛び込んだ。助かるかどうかの考えは全くなかった。この間十秒~三十秒位だ
ったろうか。飛び込んだ後、一寸間をおいて本船を振り向いたら三十メートル位離れていた。立ち泳ぎし
ながら見ていたら二発目の魚雷があきつ丸に命中した。大きな水柱が立ち上がり轟沈していった。
私の鉄帽、装備、兄から贈られた図嚢も、私の身替りになって海の藻屑になった。あたりを見回すと、
近くに大きな筏が浮いている。その上には中央に聯隊旗を打ち立て、その周りを将校、下士官が護り、外
側を兵士で固めていた。泳いでいる人はまばらで、私はあと何時間泳げるかわからないので、その筏にす
がることにした。泳いで行って筏に手をかけた。
先ずは一安心と思ったのは甘かった。周りの兵士が、
「関東軍以外の者は近寄るな。筏につかまってもいかん!」
と言って、折角つかまった手をあの軍靴で思いきり踏みつけられた。
痛みに耐えられず手を離したが、諦めず再三手
をかけたが結果は同じで、他の将兵も同じようにあし
らわれた。私は止むを得ず、また、泳ぎ出した。沈没したあきつ丸からの重油が漂流し、高波のたびに海
水と一緒に何回か飲んでしまった。
顔は重油にまみれてきて悲しくなった。ふと、両親の顔が脳裏をかすめた。
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あの三本の命綱が腰に
こんな事で戦死したくはなかった。あたりを見ると本船に積んであった携帯口糧の箱が浮いている。先
ずそれにつかまり体力の消耗を最小限に食い止めることにした。だんだん腕の力が弱まり、箱がくるくる
と回転し、つかまえると、また、回転するので、これでは体力の消耗は防げないと思い、腰のロープを思
い出して、泳ぎながら探ったら、しっかり三本ぶら下がっていた。しめた!これで一人用の筏を作り、そ
れに乗っていればよいと考えた。早速このロープで付近に浮いている携帯口糧の箱の片端を結び、もう一
方も同じように結び、ちょうど弥次喜多道中の振分け荷物のようにして、その真中に私は乗った。うまく
出来たが、ただ肩から上が水面に出ているだけの状態なので水温が冷たかったら海没死だった。
その間にも海軍の駆逐艇が爆雷を海中に投下して行くので、その度に腹にズシーンと響く。幸い胃腸は
丈夫な方なので大過なかった。敵潜水艦が近くにいるので、時折、救助艦が来るがすぐに散ってしまう。
どのくらい時間が過ぎたのか、再度、救助艦がやってきて二十メートル先で救助作業を開始した。様子を
見ていたが、私のところまでは来てくれそうにもない。
しかし、いつまでも海中で水に浸っているわけにはいかない。自作の筏を手放して救助艦まで泳いでゆ
くことにした。最後の力を振りしぼって泳ぎ、ようやく艦に辿りつき、舷側から下ろされている縄梯子に
三段位上がったところで、手も足も動かなくなってしまった。艦の上から叱咤激励の声と共に手をさしの
べて私を引き上げてくれた。この時の水兵さんの頭に後光がさしているようにみえた。
やがて艦内に案内され休憩室に入った。なかには遭難した兵士が多く救助されていたが、同期生の姿は
見当たらなかった。艦内で暖かいお粥を食べて我にかえると共に、顔が重油で汚れていることに気づき、
千人針を取り出して、顔を拭いたら幾らか奇麗になったようだ。
救助されてフィリピンへ
私は幸いにして九死に一生を得て救助されたが、多くの同期の仲間が事志しと異なり、東シナ海に散華
して逝かれた胸中を思い、心から御冥福をお祈り申し上げると共に、御遺族に御加護あらんことをお祈り
します。
尚、私はこの後、上海で神州丸に移乗してフィリピン・北部ルソン戦線に参戦した。
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軍歌を歌い漂流二十四時間
村松陸軍少年通信兵学校第十一期
間
橋
国
司(あきつ丸)
南方特別演習要員に
村松陸軍少年通信兵学校からは総勢三一五名が、南方特別演習隊として出陣した。村松少通校の隊員は、
あきつ丸に八十八名、摩耶山丸に五十四名、神州丸に一七三名が分乗した。私たちは昭和十九年十一月九
日夜半、暗夜に静かに横たわるあきつ丸に乗船を完了した。
船室は、三段にできた蚕棚ともいえるもので、さらに幾層にも重なっていて通路も狭く、頭が上に当た
らぬ程度である。加えて完全武装のわれわれの装具は、狭いスペースをいっそう狭くしていた。通風も悪
く、数千名の将兵を収容した船内の熱気はすごく、蒸し風呂に入っているようであった。われわれ少通校
は全員が下の階に位置し、行動するには少しは楽であった。十名か十五名が一つのグループになり、主力
が多人数の第三中隊で何かしら心強く感じられた。
十一月十三日門司を出航。唐津湾に仮泊し、翌十四日十六時、周辺海域に敵潜水艦がいて不穏なため、
五島列島北端に退避し、十五日六時ふたたび航行は続行された。
その日の昼食にはぜんざいが出た。甘いものに長い間遠ざかっていたわれわれを大いに喜ばせた。食べ
終わった私は、あまりの蒸暑さに通路に出て一休みしていた。その時である。
傾きかけデッキに波が
「ドカン!」
という大きな音がしたと思ったら、船が動揺しだした。
はじめは船が島か浅瀬に乗り上げたのではないかと思ったが、誰かの
「魚雷だ!」
と叫ぶ声によって、初めて身の危険を感じた。
とっさに出口の方にすっ飛んで行った。船は急に傾き出し、出口まで二十メートル足らずの距離だった
が思うように進めない。すでにあっちの通路、こっちの出口には兵隊が殺到し、叫ぶ声、怒鳴る声でこの
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世のものと思えなかった。
幸い私は脱出が早かったのでデッキに早く出ることができたが、傾きかけたデッキはすでに波に洗われ、
そこまで走り夢中で海に飛び込んだ。そして、もたついていたら、沈む船の渦巻きに呑み込まれてしまう
と思い、少しでも遠くへと泳いだ。
航空母艦、数隻の駆逐艦の護衛のもとに、威風堂々と進んでいた輸送船団も、敵潜水艦による攻撃で、
あきつ丸撃沈の非運を境として、くもの子を散らすように退避行動に移った
一刻も早く助け出されることを願って、波間に見え隠れする特攻用の舟艇に向かって懸命に泳ぎ出した。
近くや、遠くにいる筏やボートから、軍歌が聞こえてくる。ときどき味方の駆逐艦の対潜爆雷が破裂して、
腹わたがひきずり出されてしまうのではないか、と思うほど激痛を感じる。この爆雷のために、漸く脱出
できた人々の中には、胃や腸をねじ切られて死んでいった人も多数いたと思う。私も腸の一部が一回転し
ていて、復員後数年は痛みを覚えた。
脱出してからどのくらい時間がたったのだろうか。ようやくたどりついたボートに救助を求めたが、断
わられてしまった。すでに相当数の人員が乗っているためである。
特攻用舟艇に救助される
次のボートに向かって泳ぎ出して間もなく陸軍特攻海上挺進隊用舟艇の乗員にやっと引き上げてもらっ
た。総勢五名になった私たちは、互いに元気をつけ合いながら、軍歌をうたい救助艦の来るのを待った。
夕日は西に沈みかけ、あたりは薄暗くなり始めたとき、遠くに駆逐艦が見えた。
点々と浮遊物に捕まって漂流する将兵を助け上げていた。エンジンの音があちこちから聞こえてくる。
それは舟艇が駆逐艦めざして走って行く快音である。
われわれもこの機を逃してはと、特攻要員の軍曹が一生懸命エンジンをかけようとするが、全く始動す
る気配がない。あきつ丸から降ろすとき、機関のマグネットが浸水して点火しないのだ。あたりは暗くな
ってくるので心はあせる。他の乗員も、駆逐艦とエンジンを交互ににらみながら、手のほどこしようがな
かった。ついにエンジンはかからなかった。
そしてあたりは一面すっかり暗くなり、洋上には救助を打ち切った駆逐艦が、波の彼方に消えて行った。
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万事休す!絶望感は口にこそ出さなかったが、皆の顔にありありと出ていた。しかし、明日がある。必ず
来てくれるんだ、とにかく明朝まで待つんだと、何度も何度も励まし合う。
静かだった海はだんだんと荒れ模様になり白波が立ち始める。夜半過ぎ一層高まり、舟艇の中にも容赦
なく波が入ってくる。もちろん立つことはできない。垂れ流す小便は股間に心地よい温もりを与えてくれ
るのでいい気持ちだった。飢えと寒さが睡魔を誘う。
「おーい!眠ったら駄目だ、死ぬぞ!」
と声をかけあった。また声をかけながら単純な作業は続けられる。
漂流二十四時間、海防艦に
朝を迎えた。明るくなった水平線を、射るように見つめる。一人の兵隊が、
「見えたぞ、救助船が見えたぞ!」
と叫んだ。
思わず一同万歳を叫び、互いに抱き合って泣きに泣いた。服を脱ぎ、ちぎれんばかりに振る。身体が風
と波のために飛んで行きそうだ。だが、波間に見えた救助船は間もなく消えた。もう駄目だと思ったら、
また見えてきた。こんなことが二度、三度。やがて海防艦がわれわれ目がけて突進してきた。水兵が五名
を引き上げてくれた。遭難から救助されるまで、実に二十四時間の苦闘はここに終わった。
甲板には私たちより先に救助された兵隊がたくさん寝ころんでいたが、同期生の顔は見あたらなかった。
海防艦で出された温かい粥は何よりの御馳走だった。
救助され五島列島の福江港に
救助された多くの将兵と共に、五島列島福江港に入港した。島の小学校を仮宿舎として、村民の人達の
暖かい手によって、再び、帝国軍人としての威厳を徐々に回復していった。
数日後、再度、海軍の船で佐世保に入り、陸軍の重砲兵聯隊の馬小屋を宿舎として藁を敷き、生存者三
百名位の将兵と一週間ほど生活を共にした。この生存者中に、私を含めて五名の少年兵がいた。佐世保で
の一週間は専ら休養と体力の回復をはかるのが目的で、毎日起きて町を遊び回るだけだった。
五名は新しい軍服に身を固め、噂で内地勤務になりそうだと聞き喜んでいた。町を歩く水兵たちが敬礼
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して通ってゆくのが何か照れくさかった。
しかし、一週間後、再び南方行きを命じられた。町の写真館に行き、各人が富士山の絵をバックにして
撮影した。私は故郷を出るとき姉から贈られた時計が海水で駄目になったので、遺品として写真と一緒に
父母に送ってもらうことにした。写真館を出てから近くの農家に立寄り、紙と封筒、鉛筆をもらい、
「一度遭難したが、又、南方に出陣する。両親の無事を祈念するとともに、別便で時計・写真を送る」
旨を書いて、その家の人に謝礼を添えて投函をお願いした。
(両親から写真と時計は着いたが、手紙は届いていなかったと聞き、検閲にかかったのだと思った)
ブラジル丸で比島へ
われわれ五名の少年兵は、
「フィリピンのマニラ兵站部に出向し、そこで命令を受けるように」
下令された。
「輸送船は第二十三師団を輸送する、第三次船団のはわい丸かブラジル丸の何れに乗船するか」
と言われた。
あきつ丸が最優秀船で敵潜の第一目標になった経験から、五名で相談して大きいはわい丸を避け、古ぼ
けたブラジル丸を選んだ。この選択が命拾いになった。
船団は途中、夜半に敵潜水艦の攻撃を受け大型船のはわい丸は轟沈された。救命胴衣を装着して甲板か
ら見ていたが、その様は凄絶そのもので、今度は自分たちの船がやられるのではと、積載しているドラム
缶の転がる音にも神経をいらだたせ、全く生きた心地はしなかった。
数日後、台湾の基隆港に入港した。海岸の埠頭には砂糖の山が沢山あった。水・燃料を補給して、夜半
に乗じて再び南へ進んだ。輸送船の墓場といわれた魔のバシー海峡を無事通過し、フィリピン・ボロ港に
着き上陸した。
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輸送指揮官として
陸軍少年通信兵学校あきつ丸輸送指揮官
岡 田 真 一
出航直前あきつ丸輸送指揮官に
出航直前に輸送指揮官の変動があって、あきつ丸指揮官の村松少通校の植原弘氏が、南方要員となった
ため、神州丸指揮官だった私があきつ丸に移り、神州丸には村松少通校から鈴木宇三郎大尉が着任した。
佐賀県伊万里湾で船団を組み、海防艦六隻、空母神鷹からは二~三機の航空機が絶えず上空を守り実に
堂々たる船団だった。
不穏の中の出航だったが、私たち幹部は夜間不眠で見張りに立ち、船内に入って掌握できない関係から、
昼間の仮眠も甲板上の階段脇でする等、昼夜、甲板での生活でした。しかし、このことが結果的に生き残
ることに結びついた。
なお、運命的だったのは、昼食の知らせがあった。当番兵に
「少々眠いから」
と言って、何時も一緒だった准尉に
「先に食事をするように」
と、食堂に降りてもらった。その准尉は食堂から生還できなかった。
十一月十五日十一時五十九分、魚雷攻撃!かと思った振動。
「やられた!」
と言う船員の声を聞く間もなく船は傾きはじめた。さらに爆発音。
階段下に向かって
「退避!退避!」
と叫ぶ間もなく三十度に傾斜していた。
甲板のすぐ上に、間橋君と同様に生還の元となった自動車エンジン搭載、ベニヤ板製の特攻用舟艇が、
甲板に一〇〇隻積載されており、見習士官が軍刀で切り離していた。私は二隻切り離した時には、本船は
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既に四十五度傾いていた。ようやくの思いで右舷(高い方)にたどりついたが人影は無く、縄梯子を伝っ
て脱出した。
海中では軍服の上に軍刀を背負い長靴を履き、腰に鉄帽をつけていた。身動きができないので十五分く
らいかかって片方の長靴を脱いだ時、あきつ丸の艦影は海に没した。周囲では一人の少年兵がいたが、
「泳げない」
と言うので、
「筏に胸から上を出してつかまるよう」
に指示した。
私はなお泳いだが軍刀が重く、これを放棄し、筏も満員のため、特攻用舟艇まで二〇〇メートル位泳い
だ。そして、救助されて長崎県福江島を経て佐世保に上陸し、教育総監部の指令で帰隊した。
読売新聞昭和六十二年十月二十日付け記事
五島沖に散った少年兵
戦車兵五期生、通信兵十一期生
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同期生、遺族が洋上慰霊
戦時中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて長崎県・五島列島の西方海域で沈没した輸送船「あきつ丸」
「摩耶山丸」で遭難した陸軍少年戦車兵学校五期生、同通信兵学校十一期生の同期生や遺族らが二十
四日、四十三年ぶりに現場近くで洋上慰霊祭を行う。両船の少年兵は当時十六ー十九歳。今還暦を迎
えたり、迎えようとしている同期生たちは「二度と戦争を起こさないよう努力することを、洋上慰霊
祭で確認し合いたい」と話している。
陸軍少年戦車兵学校は昭和十四年に開校。五期生九百人は十八年十二月一日に入校した。ところが、
サイパン島玉砕など戦局の急変で、うち三百人が「南方要員」として、修学年限二年のところを、十
九年十一月に繰り上げ卒業。
一方、通信兵学校は六年に開校。十一期生は十八年に千六百人が入校、うち六百人が同じく繰り上
げ卒業し、それぞれ、北九州市・門司港に集結した。旧満州(中国東北部)からフィリピンに向かう第
二十三師団(旭兵団)も一緒だった。
門司港で、少年兵たちは、五隻の輸送船のうち 、「あきつ丸」(九,一八六総トン)「摩耶山丸」(九,
四三三総トン)など三隻に、戦車兵百人ずつ、通信兵は二百人ずつ分乗。マニラを目指して十九年十
一月十二日午後六時、出港した。タンカー十隻、護衛艦五隻、空母一隻などがしたがった。
ところが、三日後の同月十五日正午前に「あきつ丸」が、五日後の十七日午後六時過ぎに「摩耶山
丸」が、それぞれ米潜水艦の魚雷攻撃受けて沈没した 。「五期生」はわかっているだけで百二十四人、
通信兵も多くが東シナ海に散った」と、戦車兵学校同窓会の本部理事、大神栄さんはこの時は難を逃
れた少年兵たちも、その後、フィリピンなどで戦死者が相次ぎ五期生は二百五十人、十一期生は四百
二十九人が亡くなったという。以下略
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陸軍少年重砲兵学校
昭和十七年三月「陸軍諸学校生徒教育令」が発布され、野戦砲兵学校、高射砲兵学校と共に「重砲
兵学校」にも、生徒隊の少年砲兵制度ができた。
当時、陸軍重砲兵学校は横須賀市馬堀に浦賀本校と、静岡県富士演習場に富士分教所(現・御殿場
市駒門)があった 。「要塞重砲兵」の教育研究は浦賀本校で 、「攻城重砲兵」の教育研究は富士分教
所で実施されていた。
潜水艦の発達で、海岸線を守る要塞に立体的防御を必要とする少年重砲兵の水中聴測の能力が要塞
のみならず輸送船舶用の必要性が増大してきた。
水測要員は、いずれも鋭敏な音感と電気知識を必要とする少年兵の要員養成が急務になった。昭和
十八年十二月一日三保分教所(静岡県清水市三保)が設けられ、水中聴測に関する教育が行われるこ
とになった。
陸軍少年重砲兵の第一期生は、昭和十七年十二月一日、全国応募者の中から十五名が選抜された。
第二期生一九九名は、十八年十二月一日浦賀本校に入校した。
昭和十九年三月、生徒隊は三保分校に移り 、「す号探信儀」敷設作業の実技訓練も兼ねて行われた。
教育は、一般軍事教育のほか、国語、歴史、数学、理科等の一般教養、観測、通信、火砲の演練に加
えて水測器材の構造機能、取扱法等の実技訓練が実施された。
特異な教科としてピアノやオルガンによる音感教育が用いられた。基礎訓練にはド、レ、ミ、ファ
でなく、ドイツ語のC(ツエー)、D(デー)、E(エー)、F(エフ)、G(ゲー)等の和音を聴き分けて、
鉛筆を走らせる。それを朝夕の間稽古で徹底的に鍛えられた。教師には当時、海軍機雷学校で音感教
育を担当していた嘱託の笈田光吉氏(ジャズシンガーの笈田敏夫氏の実父)が兼務して担当した。
少年重砲兵の名称から、重砲の操作や射撃の訓練と思って入校してきた生徒たちは大いに戸惑った
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と言われている。
応用訓練では、各種船舶のエンジン、スクリュー音や潜水艦の水中音などの判別、反射体別に異な
る水中反射音の識別等の水測要員として期待され教育訓練を受けた。
第二期生は、昭和十九年十一月五日、繰り上げ卒業で十五名が台湾要塞要員として赴任した。残り
は昭和二十年三月、九カ所の要塞要員として八十二名。船舶要員として一〇〇名が西宮市の船舶情報
連隊に赴任して、集合教育のあと各地の実践部隊に配属された。
しかし、要塞要員も船舶要員も器材の不足から設置が大幅に遅れたため、本来の技能を発揮できな
いまま終戦を迎えた。また、第三期生と第四期生の各二〇三名は三保分校で終戦を迎え、誕生以来二
年九カ月で短い歴史を閉じた。
繰り上げ卒業十五名台湾へ
陸軍少年重砲兵学校第二期生
伊
藤
寛
静岡県清水の三保海岸の松並は、みごとな枝ぶりを夕凪の白砂に影を長く残し、昭和十九年の晩秋の
一日は暮れようとしている。陸軍重砲兵学校三保分教所では、少年重砲兵学校二期生二〇〇名が、激し
い訓練を終えて、おのおの身辺整理にあたり緊張から解放された時を過ごしていた。
そこへ突然の呼集がかかり、夕陽を背にして、ふたたび昼間のきりっとした顔が整列した。そして中隊
長から思いがけぬ
「十五名の繰り上げ選抜卒業、台湾高雄要塞重砲兵聯隊への配属」
の命令伝達があった。
十五名の名前が呼ばれた。中には自分の耳を疑い、二度目を呼ばれてやっと返事する者もあって、皆
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それぞれに、選抜の中に自分が入っていた喜びと驚きとの交錯した複雑な心境であった。
至急帰校せよの電報
卒業試験が終わり、特別休暇が与えられたので、それぞれの郷里に向かった。しかし戦局は、のうの
うと休暇を楽しむほどの余裕を与えず、郷里の土を踏んでみると、そこには
「至急帰校セヨ」
との電報が待っていた。
軍靴を脱ぐ暇もなく、先祖の墓参をすませ、再び会うこともあるまい肉親たちに別れを告げ、折り返
し次の列車であわただしく帰校した。
昭和十八年十二月、横須賀・馬掘海岸にある陸軍重砲兵学校に、陸軍生徒として入校して約十ヶ月、
苦楽を共にした友と最後の夜を語り、十一月五日、学校あげての盛大な見送りの中、中村区隊長引率の
もとに、東海道線清水駅から任地に向け出発した。
二〇〇名の中から選抜された誇りと、この晴れがましい門出に、胸弾ませた十五名の者には、戦争の
恐ろしさ、悲惨さなど分かろうはずがなかった。列車の中では、あたかも修学旅行を思わせるような楽
しい旅であった。
乗船地門司港は、任地に共に征く船を待つ兵で溢れていた。われわれと共に少年通信兵学校、少年戦
車兵学校の卒業生などの若者たちも、その中に混じっていた。
レイテ上陸兵団とともに
陸軍少年重砲兵学校第二期生
藤
森
嘉
美(摩耶山丸)
乗船していた摩耶山丸からあきつ丸の沈没を目撃している私には、いよいよ死地の戦場に出てきたと
いう緊張と興奮でいっぱいだった。
昭和十九年十一月十七日は、雲が低くたれ、七・八メートルにも及ぶうねりのきつい海だった。十七
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時(腕時計の止まった時間)突然、船内スピーカーが鳴った。
「敵潜水艦群が接近しつつあり、全員退船の準備せよ!」
三保分教所での訓練を想起しながら、救命胴衣の紐を占め、編上靴の紐をゆるめる。
上甲板のデッキにもたれ、暮れ行く海面を白波をけたてて船団を護衛する駆逐艦の掃海戦闘に視線を
向けていた。
数本の魚雷避けるも命中
その時突然、白い直線状のものが、わが船に直進してくるのが見えた。
魚雷だ!
と誰かが叫び続ける。
船は大きく向きを変えたようだった。その時、五〇〇メートルほど先に一メートルぐらいの棒状の物
体が走る。潜望鏡である。また白い直線。これで数本の魚雷をさけてホットした瞬間。真っ赤な炎と轟
音が起こり、私は甲板に叩きつけられた。
二・三名が何回か回転しながら、絶壁のような船腹にそって海中に飛び込んでいった。私も反射的に
飛び込まなければと後を追った。海中から浮かび上がるのに、かなり時間がかかったように思われた。
船から離れるために懸命に泳いだ。ふと後ろを振り向くと、船は赤黒い腹を見せて、山のようにそそり
立っていた。
門司港で城のように感じられた摩耶山丸も、いまは船首を海中に、船尾をわずかに残していたが、そ
れも魚雷を受けて数分後に海面から姿を没していった。
摩耶山丸に乗船していた完全武装の旧満洲から南下し、レイテ島上陸部隊の旭兵団等三千五百余名の
乗船将兵の内、救助されたのはわずか三〇〇名くらいと言われた。
軍歌もうねりの波間に
泳いでいた将兵は、何時しか一カ所に集まり、軍歌が始まった。
「頑張れ!」
と励まし合い、
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「レイテに上陸するまでは死なんぞ!」
と言う悲壮な言葉も聞かれた。
しかし、うねりの高い海の中で集団もいつしか離散して、軍歌も散り散りになり、しだいに聞かれな
くなった。ときどき耳にする海鳴りとともに、きつい腹痛を覚える。魚雷か爆雷が破裂しているのであ
ろう。
何時間漂流したのだろうか、波の背に上がったとき、人の話し声を聞いた。暗闇の中のボートからで
あった。死力を尽くして近寄ると、それは摩耶山丸に積載されていた上陸用舟艇である。寸余のすき間
がないほど兵隊が乗っていた。私は身体の疲れを訴えて、ようやく引き揚げてもらった。
その後、私たちは同じ船団の神州丸に乗り替えた。摩耶山丸の同期生は誰も助かっていなかった。あ
きつ丸から森下が助けられていたので、神州丸の五名と併せて七名となった。出発のときは十五名だっ
たのに残念でたまらない。無念にも戦わずして海底に散った戦友の冥福を祈るほかなかった。
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陸軍少年戦車兵学校
昭和十四年七月十四日、満蒙国境のノモンハンの草原で死闘が繰りひろげられている中 、「陸軍
戦車学校(千葉)に少年戦車兵の生徒隊設置の件」が勅令で出された。
この年の十二月一日、生徒隊が生まれた。十五歳から十八歳までの志願者八二二九名の中から、
第一期生一五〇名が選ばれ入校した。修業年限は二年。一年生の間は、訓練、体育を主に、特技で
ある戦車の基礎教育と普通学の教育があり、二年生になると戦車下士官としてのプログラムに移る。
「普通学」は、国語、数学、物理、化学、工学 。「軍事学」は典範令、測図など 、「術科」は戦
車戦技に操縦、射撃、工術、通信等であった。
昭和十六年十二月一日、千葉陸軍戦車学校生徒隊が「陸軍少年戦車兵学校」として独立し、第三
期生六〇〇名が入校した。さらに、少年兵のような生徒教育をするには、千葉は敷地、施設共不十
分であり、富士山西南麓(現富士市)に移転、十二月十五日に起工式があり、翌十七年八月一日、
「陸軍少年戦車兵学校」として開校した。
十二月一日、第四期生六〇〇名が入校した。昭和十八年十二月一日、第五期生九〇〇名が入校し
た。五期生の二五六名は昭和十九年十一月繰り上げ卒業後、ヒ八一船団のあきつ丸、摩耶山丸、神
州丸に乗船してフィリピンに向かった。しかし、済州島沖の東シナ海で米潜水艦の雷撃を受けあき
つ丸、摩耶山丸が沈没し、多数の海没戦死者を出した。救助された者もフィリピンで多く戦死した。
昭和十九年五月に卒業した第四期生の相当数の者は「陸軍船舶兵」に転科して赴任していった。
同年六月一日入校の第六期生からは整備、操縦、射撃の三分科専習制になった。昭和二十年三月、
第七期生五五〇名が最後の少年戦車兵として入校し、八月十五日の終戦で、八月十七日に「休暇」
として在校生徒を全員帰郷させた。
昭和二十年十月、米軍接収委員に引き渡し、陸軍少年戦車兵学校は廃校になり歴史を閉じた。
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五島の海は冷たかった
陸軍少年戦車兵学校第五期
友利恵徳(神州丸)
二七〇名が南方派遣要員に
私たち五期生の繰上げ卒業(甲種卒業生と呼ばれた)は、各中隊九十名の合計二七〇名で、教育総監賞
は各中隊一名であった。首席卒業生は三中隊の故米沢勇三君と思われる。卒業証書の総代受領と出発時の
申告を彼が行っている。
本校から門司までの輸送指揮官は、鷲尾昂氏であった。列車は下関駅に到着。直ちに艀で門司に移り同
地で六ヶ所に分宿した。各中隊は比島要員、台湾・沖縄軍要員に分けられ、学校出発の二日前にそれぞれ
の名前が発表されていた。沖縄要員は台湾軍の中に含まれていて、門司到着の段階では決まってなかった。
輸送船は、摩耶山丸「マ 」、あきつ丸「ア 」、神州丸「シ」として示達された。船名は正式名称で呼称
することは厳重に禁止された。出発日時は極秘にされて不明であった。乗船名が示達されたことで出発間
近が予想された。出発日時が明らかになったのは当日だった。
昭和十九年十一月九日乗船
当日はどんよりとした曇空。十五時頃、桟橋を艀で離れ、沖合の輸送船に向かって行った。私たち二中
隊の乗船は「シ」と呼ばれ、死を予感するような不吉な思いで艀に揺られていた。沖には多くの輸送船が
いたが、他の中隊がどの船に乗ったか分からなかった。艀は三分位の間隔で桟橋を離れているようで、少
年兵学校以外にも多くの兵員をピストン輸送していた。
門司の桟橋を離れた瞬間から、己の運命を自分の努力で修正したり開拓することはできない、自助努力
を封ぜられた状態になったことを、未だ気がつかずにいたのである。
艀は、とある船の右舷斜め前方より近づきつつあった。 その船は船尾がぷっつり切れた背の高い船で、
まるで巨大なマンボウの尻尾を思わせる姿である。神州丸だった。高さ二〇㍍以上もあると思われる巨大
な船腹に、亀の子が城壁に取っついたような感じで接舷した。風速数㍍位の北風で艀は上下左右に揺れ不
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安定だった。神州丸には人が昇降する階段らしいものが見当たらず、どのような方法で乗船するのか見当
がつかない。やがて縄梯子が投げ下ろされ、それで乗船することになった。
人間が貨物になる日
風速数㍍で巨大な船が揺れ、それに二十㍍の高さで簡単ではない。一番最初に取付いて乗船しようとし
た他の部隊の兵は、縄梯子の途中で昇ることも降りることもできなくなって、デッキの者に縄梯子を手繰
り上げてもらって乗船した。そして、怒鳴り声が上から響いてきた、
「こら!。縄梯子にしがみつくな!おめーら猿でもなければ一人前でもないんだ。只の荷物だと思って片
足を上げて登ってこい!」
と、この野郎と思って見上げると、相手は三・四名で、彼らも縄梯子を船体から離して昇り易いようにと、
何やら作業に懸命だった。
とうとうこれで私たちも人間でなく貨物となったわけだ。
船には釜山より乗船した満洲より比島レイテへ向かう、歩兵を主体にした混成師団の将兵がいた。兵隊
は現役兵は少なく、大半は三十歳を半ば過ぎた二ッ星、三ッ星の召集兵で、装備は三八式歩兵銃、九九式
短小銃、騎兵銃で、銃を立てると天井につかえて不自由をしていた。
船室といえそうな設備ではなく、船倉を何十段にも仕切って段層を設け、少年戦車校の内務班の二分の
一位の所に五・六十名の兵がいるので、一坪当たり四・五名の密度だった。狭さは何とか我慢できたが、
高さは一二〇㌢位しかなく、背伸びはおろか、立つこともできず、動くのに背を屈し、寝るには膝を曲げ
るという状態で、息詰まる思いだった。
なるほど「これでは人間ではなく貨物だ」と、自ら合点がいった。
甲板でひとときのくつろぎ
船倉の中はまるで蒸し風呂で、垢にまみれた汗くさい臭いと、人の吐く息ぎれが充満し、へどをもよお
しそうで辟易して、鉄梯子をよじ登って甲板に出る。辺りを見廻すと暑さに耐えかねたのは私ばかりでな
く、少年戦車校を始め、少年通信校、少年野砲校卒業者もそれぞれ学校毎に集まって涼をとっていた。
伍長の階級章を着けた人が所々に見えるのは兵器学校出身者であった。
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年輩の人がほとんど見えないのは、釜山から乗船した部隊の人達は、蒸し風呂のような状況に慣れてし
まったのであろうか。十一月の北風に一〇分も身を曝していると、涼しさを通り越して寒くなってくる。
それぞれ北風を避けてブリッヂの陰に、身を寄せたり、甲板の所々に積まれた竹筏の山の陰に集まってい
る。船の航行方向によって徐々に移動する。戦車兵学校のわれわれ九十名は煙突の陰に、二十名程度のグ
ループに分かれていた。
煙突の陰は温かいのはよいが、時々機関室のボイラーに石炭を投げ込むのであろう、黒煙が煙突から立ち
昇るのと同時に、赤く焼けた煤がその周辺にパラパラと落ちてきて熱い思いをするのが欠点であった。
陸地に目をやると、右の小高いところが門司で、左の低い稜線は下関辺りであろう。四方はすっかり暮
れなずみ、西方に落日の様子は見られない。空は灰色より、もっと暗い褐色だった。
祖国に別れを告げる
ブリッヂから将校が出てきて、
「今、船が出る」
と、低い声で告げた。
がらがらとアンカーを巻き上げる低い金属音がするだけで、船は鐘を叩くでもなく、汽笛を鳴らすこと
もなく、全く無言のまま静かに進み出した。スクリューの回る感じさえない。
突然、山野内君が、
「おーいみんな、祖国とのお別れだ、最敬礼をしよう」
と言った。
その声で我に返った私達は一同起立し、直立不動の姿勢をとり、脱帽して最敬礼をした。号令を掛ける
でもないのに、それが整然と行われたのは訓練の賜物か。間髪を入れず一同に故国との別れを告げさせる
とは流石、教育総監賞受賞者であった。
誰歌うともなく、海征かばの歌が流れ始めた。見ると筏の陰でも、ブリッヂの陰でも皆一様に歌ってい
て故国との別れを惜しみ、かつ殉国の誓いを立てているようであった。海征かばの歌が終わるのを待って
いたかのように、〃あゝあの顔であの声で〃の歌が続いて流れた。われわれの仲間ではなく。近ずいて行
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くと、下士官を交えた年輩の人達の集団で、精鋭を誇る旭兵団の部隊だった。如何なる精鋭でも故国との
別れに際しては、やはり哀愁の感情が。久しく聞かなかった歌で懐かしい思いをした。
船が走りだしてびっくりした。高速の大船団というのは前日から聞いていたが、薄闇みの水平線に浮か
ぶ船影は飛行甲板のある空母二隻である。そのうちの一隻があきつ丸であったことを後日知った。延々と
続き全部を数え切ることは出来なかった。日は全く暮れ、物の識別さえ難しくなり、上甲板の上も人がま
ばらになった。私達も狭く蒸し風呂のような船艙にもどった。
船底で一夜の夢を結ぶ
奈落の底のような暗い船底の冷たい鉄梯子を伝って降りて行く。自分の巣に引揚げて、どのように割り
込もうかと薄明かりの裸電球の下に目を移すと、甲板に上がる時の混雑程でなく、身を横たえるだけの隙
はあった。そのうち何時の間にか寝入ってしまった。人のざわつきで目を覚ますと、夜の明け始めた様子
で船はそれ程揺れていない。隣の久瀬和範、丸山国雄(両名とも比島で戦死)に促されて甲板に上がった。
甲板には其処ここに兵が三名、四名と身を寄せ合い、毛布にくるまって寝ている。道理で昨夜船内で私達
が割り込むのにそれ程苦労しなかったのだ。甲板上の人達も起きだす者、船倉から上がってくる者で、瞬
く間に甲板はいっぱいになる。
辺りはすっかり明るくなり十一月十三日の朝が明けた。
船内生活の二日目の朝となった。点呼をとることもなく、それぞれ小グループに分かれて軽く体操をす
る。もっとも数千名もの兵員の点呼をとることはとてもできない。川口さんが速歩で来られて皆の状態を
仔細に点検される。その上、少年通信兵学校、少年野砲兵学校出身者も見なければならないので、顔見知
りのいない人達の点検は気骨がおれるようで忙しそうだった。
船団がどのような航路をとり、何日かかって台湾のどの港に入るのかは知らされていないが、格別不安
はなかった。船は九州の山々を遠望しながら南下して航行を続ける。
船酔いする者も多く
山野内君が来て食事は一日に二回、一回目は十時から十一時の頃、二回目は午後四時から五時頃になる
と連絡してきた。今日は天気晴朗にして波は穏やかで、船は殆ど揺れないが、船酔いする者が多くいた。
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船酔いする者は苦しそうだった。乗物酔いの薬の無い時代、時間が経ち自然に船に慣れるのを待つばかり
である。
幸い私は船酔いを全く知らないたちなので、甲板をぶらぶら散歩していました。散歩しながらこの船に
は一五〇㌢位の穴が三ヶ所あって、船倉からの出入口であることが分かった。戦車兵学校時代の中隊舎の
中隊事務室と直結する出入口。右側の一・二区隊と左側の三・四区隊の間にある出入口を思い出した。大
原区隊長、滝沢区隊長、鑰山、西山の内務班長の顔が目の前に浮かび、どうしておられるだろうと頭をよ
ぎった。
護衛空母から飛び立った飛行機が低空で近づいて来た。航空機の哨戒をみると矢張り心強さを感じ、思
わず手を振るのは自然の情である。船酔いしない者ばかり三十名位のグループができあがり、大変賑やか
で、これが南方戦線に決死の赴任途上とは思えない明るさであった。
食事時間が近づき船室に降りた。昨夜は奈落の底に落ちる感じであったが、昼間で幾分明るいためか、
それに慣れもきたのか、それ程嫌な気分を味わうことなく降りることができた。ただ、二十㍍位ある真直
な鉄梯子は一気に降りるわけにはいかず、途中の何十段にも仕切られた部屋の中から声をかけられ返事し
たりと梯子の上の方は人が連なって急がされるので一言、二言、返事をするのが精一杯だった。
雷撃を受けると脱出は不可能
七、八分かかって蚕棚のような自分の部屋に着く。ここが一番船底で船尾に近く、そこに烹炊場があり、
食器洗いの水道栓がずらりと並んでいて、食事と後片付けには便利な所である。その上揺れが少ないのだ
から船内生活では一番好都合な位置であった。天は二物を与えずで、万一魚雷攻撃を受けたら脱出は不可
能と言うことになる一番危険な所であった。
食事が済むと食器洗いの混雑は想像を絶するものがあった。長々と並んで順番待ちするのなら良いが、
船尾の空間に収容できるわけのない二百名以上の人間が、棒倒しの競技さながら押し合いへし合いで、ア
ルミの食器が悲鳴を上げている感じである。それでも二十分位後にようやく順番が回って来て、何とか洗
い終わる。これが毎食後にあるのかと思うとうんざりする。私は食器を直ぐ洗うのではなく、夕食からし
ばらく時間差をつけて洗うようにしたら巧くやれた。苦しい経験は人間を利口にするものだと思った。十
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一月十三日は何事もなく暮れた。
沖縄からの渡航を想起
十一月十四日の朝を迎える。演習もなく本を読むこともできなかった。学校から教範は持参しているが、
船内は暗く、甲板では九州沿岸を航行中といえども安全が保証されている訳でなく、気持ちにゆとりがな
かった。単調な時間が過ぎ退屈でもあった。時折り哨戒機が飛び、船団の護衛は空母共にぬかりはないよ
うに思われた。正午過ぎ頃、これから危険海域に近づくらしいとの噂が流れ、一瞬緊張するが、九州の山
々が遠望できるし、こんな本土近くで敵の潜水艦に襲われることはあり得ないと思っていた。
私は一年前の昭和十八年十一月中頃、少年戦車兵学校の二次試験のため、沖縄より鹿児島へ渡航中、奄
美大島の名瀬港外で、敵潜水艦の魚雷を受け船体に大きな穴を空けられ座礁している貨客船「嘉義丸」を
見ているので、いよいよ来たかとの感じをもっていました。
夕刻、船団は危険を避けるかのように五島列島宇久島に退避し仮泊した。
あきつ丸が雷撃を受ける
十一月十五日朝、甲板に出て見ると船は宇久島の仮泊地を離れていた。曇り空に雲の切れ間があり、鈍
い太陽が時々顔をのぞかせる。上空を飛ぶ哨戒機の数は昨日より回数は多く、護衛艦の動く範囲も少し大
きくなったように見える。
十二時前、食事をして食器洗いに船尾に出る。順番待ちをして私の番が来た十二時頃だった。船尾左舷
側の端から二番目か三番目の水道栓をひねるや否や、
ダダーン!と船を激しく揺るがす轟音が響いた。
「敵襲だ!」
輸送船のどれかに魚雷が当たったと思った。
右側にいた年輩の上等兵が右に向き直って、
「あれだ、あきつ丸だ!」
と怒鳴った。
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私はそれまで、どちらがあきつ丸で、摩耶山丸か知らなかった。隣人の指す方向を見ると、あきつ丸が
やや傾きかけた飛行甲板のある船尾が僅かに曲がった状態で進んでいる。さらに十秒か二十秒、凄まじい
水煙りが、あきつ丸の中央部辺りから天に冲し、しばらく間をおいて、ズドーン!と前よりさらに大きな
轟音が上がった。
二発目の魚雷が止めを刺すように命中したのだ。
神州丸は一層大きく突き跳ばされるような振動を感じた。その瞬間、あきつ丸を目前にしながら、神州
丸に当たったのではないかと錯覚して、洗場にいた人達も逃げ出す者が多かった。船倉にいた人達も先を
争って甲板に出るために梯子に殺到し、狭い出入口は人が詰まり、転げ落ちる者も出る大混乱が生じた。
あきつ丸済州島沖に没す
神州丸の左舷を航行していたあきつ丸の船尾は既に海に没し、それまで線として見えていた飛行甲板は
スクリーンのように見え、船が真横になっていたが、事態は急転回した。赤い船底の一部が見え、間もな
く飛行甲板は見えなくなった。あきつ丸は船底を上にして徐々に後部の方から海に沈んでいった。僅かに
船首が水面上に突き出ていたが、すうっと見えなくなった。この間、六・七分位に思えた。
神州丸は救助に行くどころではなく、非情のようだが速力を上げ、退避しながら爆雷を投下していた。
潜水艦の攻撃から助かる唯一の道はいかに早く、いかに多くの爆雷を投げ込み高速で逃げるかに懸かって
いる。その対応で何の手助けもできない、輸送兵員は唯々、もう少し船のスピードが速くならないものか
と念ずるばかりであった。
約三時間も爆雷を放り投げながら退避した神州丸は危機を脱し、夕闇迫る済州島の陰に入り仮泊した。
凄惨 な五島列島沖
十一月十七日の摩耶山丸と空母神鷹の沈没は、夜陰に入ってからの遭難で詳しいことは分らないが、神
鷹は被雷後一時間近く燃え続け、流れ出したガソリンに火が付き、海を炎で真っ赤に染めて鬼気迫る凄惨
な状況であった。
私たちは十二月、フィリピンに上陸して戦車第二十五連隊に着任し、十日遅れてあきつ丸に乗っていて
救助された三中隊の竹内泰弘君と、摩耶山丸乗船の一中隊の服部弘君が元気な姿でやって来た。急に五期
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生が増えて嬉しかった。
両君とも地獄の底を見て来た稀にみる強運の持主である。あきつ丸、摩耶山丸にはそれぞれ兵員三千五
〇〇名から四千名位が乗船しているのに対し、神州丸は六千名位が乗船。輸送中の生活実態には、雲泥の
差があったと考えられる。
当時、潜水艦に対し、航空機は天敵ともいえる優位性をもち、駆逐艦も有力な攻撃手段をもつ護衛力で
あった。万全とは言えないまでも、当時としては可能な限りの護衛手段を尽くして船団を運行したのに、
真っ昼間にあきつ丸が、摩耶山丸や強力な筈の空母が、夜間に沈められたりする現実を見て、われわれの
生死は、乗っている船の優秀さ、速度や船体の堅牢さ、船員の練度等が決めるのではなく、目にみえない
海中の敵潜水艦の手に握られているという現実を否応なく認識させられた。
死中に活を求めねばならない当時の状況としては、無謀な輸送作戦だったと、これを非難するわけには
いかない。われわれは喜んで南方要員となることを求めたのだ。
◇
◇
唯、今は陸地を踏むことなく、戦車に乗ることなく、戦車兵の本領を尽くすことなく、東支那海に沈ん
だ多くの同期生の無念さを思うと、いうべき言葉がない。
何卒お心安かれと哀悼の意を捧げるものである。合
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掌
陸軍少年野戦砲兵学校
明治六年、フランスのルボン大尉(後の将軍)を迎えて、明治十九年四月二日、千葉県下志
津の旧佐倉藩の調練場に陸軍砲兵射撃学校として発足した。
明治三十年、四街道に移転、陸軍野戦砲兵射撃学校と改称し、教導隊一大隊、野砲第十七、
十八聯隊、野戦重砲兵第四聯隊、憲兵隊、衛戍病院(陸軍病院)に、学生も甲種、乙種のほか
佐官学生も併設された。
大正十一年、陸軍野戦砲兵学校と改称、教導隊一個聯隊(七中隊 )、野戦重砲兵を含む教導
聯隊に拡張し、高射砲練習隊を新設、学生も甲種、乙種、観測、通信、馭法、情報など二十五
種以上となった。大正末期に重砲兵隊を、昭和十年高射砲兵を独立分離した。昭和八年以降、
下士官候補生隊、情報隊、観測隊、幹部候補生隊を逐次新設した。
昭和十七年に、陸軍少年兵制度が公布された。それに基づき、少年野戦砲兵制度(生徒隊)
が発足した。修業年限二年の下士官候補生の養成に当たることとなった。
第一期生は、全国からの応募者六〇〇〇名の中から一〇〇名が十二月一日入校した。生徒は
三区隊制となり、基礎教育が終わってから、第一・二区隊は観測、第三区隊は写真音源の専門
教育を受けた。
第二期生は、昭和十八年五月募集を開始。同年八月第一次試験が実施され、採用予定者は同
年十一月仮入校して二次試験を受けた。全国からの応募者七五〇〇名の中から一六〇名が、昭
和十八年十二月一日に入校を終え、四個区隊に編成された。第四・五区隊八十二名は観測班、
第六区隊三十五名は写真音源班、第七区隊四十三名は、新たに新設された自走砲班としてそれ
ぞれに分割されて専門教育を受けた。
二期生は昭和十九年十月二日より十日間、富士の裾野の北富士演習場での秋期演習より帰校
後、何の前触れもなく十月二十日より十日間の帰省休暇が、入校後初めて与えられた。
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三十一日、休暇から帰ると翌十一月一日に期末試験、そして比島、台湾派遣要員とし卒業者
七十名が指名された。十一月四日慌ただしく卒業式を終え、十一月七日に四街道駅を出発し、
八日門司に着いた。
門司港に待機中の「ヒ八一船団」あきつ丸に二十五名、摩耶山丸に二十二名、神州丸に二十
三名が分乗して十一月十三日、門司六連沖錨地を出港した。
十一月十五日昼、済州島沖であきつ丸が、十七日夜に五島列島沖で摩耶山丸が米潜水艦に攻
撃されて沈没し、四十一名が海没戦死した。救助された二十九名もその後、比島、沖縄、台湾
の部隊に赴任して戦死した者も多く、戦後生きて復員した者は僅か八名という悲劇を校史に留
めた。
第三期生は昭和十九年六月一日、一七五名が入校し、戦局の悪化に伴い観測、写真音源、自
走砲の専門教育に加えて、夜間無灯火演習や、肉迫切り込み演習での長時間匍蔔前進など、重
傷の練兵休を多く出す厳しい訓練に耐えたが、在校のまま終戦を迎えた。
昭和二十年四月一日、第四期生一八八名が入校した。観測、写真音源、自走砲教育も受けた
が、空襲が激しくなり、本土決戦の準備が本格的に発動され、毎日、壕掘り、車両や兵器の疎
開作業、米軍上陸に備えて、敵戦車への肉薄攻撃訓練等に追われ、終戦を迎えた。
泥水すすり草を咬み
第二期生第四区隊
細尾光一(神州丸)
晴れて兵長として校門を出る
昭和十九年十一月選抜され、兵長の階級を与えられて、晴れがましい気持ちで生徒隊長、学校幹部、在
校生に見送られて十一月七日の朝、千葉県四街道駅を出発した。
その時はまさか一年後に戦争に敗れ、無残な姿で故郷の土を踏むことなど考えてもいなかった。
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私たちの乗った特別列車は、一路西に向かった。車内では一抹の淋しさはあったが、それでも悠久の大
義に生きると、意気軒昂たるものがあった。
十一月九日
学校から輸送指揮官として門司まで来られた、瀬戸川区隊長と別れて神州丸に乗船した。
波止場に立って見送っている区隊長の顔には、厳しい中にも恩情が溢ふれた眼差しが忘れられない。
十一月十三日
門司港を出航し、伊万里湾で船団編成をして仮泊。十四日早朝、伊万里湾を出た時には、堂々の輸送船
団に見えて力強い思いであった。
十五日
昼食も全員が終わっていない正午過ぎ、後方で突然
「ドカン!」
と船体を揺るがすショックを受けた。
甲板に駆け上がって見ると、最後尾を走っていたあきつ丸が、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け断末魔の形相
だった。甲板から海へ飛び込む無数の人達の小さい姿。それも数分間であった。あっと言う間にあきつ丸
は波間に消えた。
私の乗船した神州丸は幸い無事で、エンジン全開で朝鮮半島木浦港に退避した。翌日はあきつ丸の遭難
救助者を収容し、船内の整理、船団の再編成で慌ただしい一日を過ごした。収容者の中には重油にまみれ、
濡れ鼠のような姿の斎藤兵長がいた。幸い怪我もなく無事を喜びあった。他の野戦砲兵学校出身者の消息
は不明とのことであった。
五十センチの竹筒一本が命綱
船内は這って入るほどの低い幾段もの棚になっていた。便所へ行くにも不自由な状態だった。夜になる
と敵潜の警報が鳴り、甲板に出て海に飛び込む用意をするが、渡されたのは長さ五十センチほどの竹筒一
本だけ、これが我々の命綱であり心細い限りで、信州の山猿の私は泳ぎに自信もなく、これが今生の見納
めかと思うと寂しいかぎりであった。
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十一月十七日
船団は木浦港を後に上海に向かうとのことであった。夕刻再び敵潜の攻撃を受け、船団護衛の頼りの綱
だった空母神鷹が、紅蓮の炎に包まれている。敵潜は大胆にも浮上して空母に砲撃をしている。曳光弾が
この場に不似合なほどきれいな花火のような光りの尾を引いて飛んでいた。
本船は全速力でジグザグ運動を繰り返しながら、敵潜を避けつつ海上を走り、翌朝、上海の沖合に錨を
降ろした。前夜は摩耶山丸も撃沈され、これから先の航海を思うと、生きて土を踏むことはできないので
はないかと思った。
高雄を経て比島に上陸
途中、上海沖泗礁山錨地に避退し、飛行機の護衛が加わり、沿岸に沿って南下した。
十一月二十六日、
高雄港に入港した。台湾第十軍、沖縄第三十二軍への配属者が下船し、三十日再び出港したが、輸送船
の墓場と言われた魔のバシー海峡に入るとのことで一段と緊張が漲った。
私たちはビルマ・サイゴンが赴任先であったが、船団の被害が大きいため行先が変更となり、上陸地点
はルソン島リンガエン湾と知らされたが、再度変更になり、十二月二日に北サンフェルナンド港の沖合に
錨を降ろした。
敵機の攻撃を避けるため、夜の明けない内に上陸を完了せよとの命令で大変な混雑だった。上陸用舟艇
が岸壁まで夜を通して往復していた。兵員と共に弾薬、食糧も運搬するので、舟艇に乗り移る時、誤って
海中に転落する者も出る始末だった。それでも、生きて土を踏めたことに安堵の胸を撫で下ろした。
しかし、これがその後の苦難の第一歩であることは、知る由もなかった。
泥水飲んで下痢に苦しむ
昼は敵機の襲撃を避け、海辺近くの小さな薮の中に身を潜め、夕方になって出発した。名も知らない駅
から列車の屋根に乗せられて、一路マニラに向かった。途中、何回も退避を命じられ、列車の屋根から飛
び降りて、線路脇の林に隠れることを繰り返した。水が飲みたくても清水がなく、線路脇の泥水を飲んだ
ところ、早速、下痢にかかり、列車の上で用が足せない。仕方なく持参の飯盒で用を足す始末であった。
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昭和十九年十二月八日、奇しくも開戦記念日にマニラに到着。二日間、マニラ競馬場で野営することに
なった。そこで偶然、小宮山兵長に出会ったが、これが彼と最後の別れになった。
私と斎藤兵長は第十四軍盟兵団第二大隊本部指揮班に配属になった。この部隊はリンガエン湾真正面の
ホソロビオトという小さな町にいたが、私は泥水を飲んだのが原因でアメーバ赤痢になり、約一ヶ月現地
住民の建物に寝ていた。一日三十回近い激しい下痢に悩まされたが充分な薬がなかった。誰れ言うとなく
「木炭が効く」と言うので、消し炭を粉にして飲んだところ、十日ほどで効果が現れ、その後三週間ほど
で全治した。
幸いこの間、敵の上陸もなく、戦闘もなかったので命拾いした 。「陛下の赤子」も何のその、赴任早々
これではと情けない思いの日々だった。
湾内に米艦船六四〇余隻で埋まる
昭和二十年一月六日、米軍の六四〇余隻の大船団がリンガエン湾を埋め、上陸を開始してきた。朝にな
ると友軍の飛行機は一機も飛ばなくなり、心細い思いであった。
私たちの任務は観測であり、最前線に出ることは無かったが、歩兵部隊は毎晩、切込み隊を編成して突
撃を敢行していた。その間、砲兵隊は一発も撃たなかった。長期戦に備えて弾丸を保存するためとのこと
であったが、実際は一発撃てば陣地が発見され、徹底的に叩かれる危険があったためであった。
敵の上陸以来約三週間、ホソロビの町にいたが、次第に砲爆撃が激しくなり、じりじりと後退を余儀な
くされ、陣地を山中に移さなければならなくなった。最初の谷間に移動してからは一日十発ほど発射した。
戦況が日本軍に不利と知った原住民は、今までの協力も何のその、手の平を返すように米軍に通報をする
ようになり、米軍は輸送機で、日本軍の後方の現地人部落に食糧、武器を投下し、我々に挟撃態勢をとる
ようになった。したがって現地人と戦わなければならなくなり、我が軍の被害も日増しに増大してゆくば
かりであった。
昭和二十年一月末頃、斎藤君は、原住民ゲリラ討伐のため選抜されて、重機関銃を持ち、兵五・六名を
引率して出て行ったが、彼は帰ってはこなかった。
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ルソン島山中の死の彷徨
それから約一年の長期にわたる、悲惨なルソン島死の彷徨が始まった。
馬は無く、大砲を運ぶことができないので放棄し、重機関銃と小銃が唯一の武器となった。来る日も来
る日も敵機に悩まされ、臼田大尉の指揮でわずかの弾丸でゲリラと戦い、マラリヤに悩まされ、食糧は文
字どおり泥水すすり草を咬み、毎日が野宿でいつ果てるとも知れない逃避行となった。途中、九州の歩兵
部隊の生き残りの者と一緒になって、混成部隊となった。
主食は春菊に似た野草であるが、たまに水牛に有りつけたが、それも人数が多く充分というわけにはい
かない 。「窮すれば通ず」の諺がある。夕方、鶏の糞を探し、樹上に宿る鶏を捕らえて丸焼きの味は最高
の美味であった。黒豚を捕らえての丸焼き、川で沢蟹を飯盒いっぱい集めて煮て食べた。
マラリアと栄養失調で斃れる
八月十五日の敗戦も敵機のビラで知らされたが、敵の謀略であらうと信用できず、山中を彷徨する羽目
になった。これも通信手段の無くなった部隊の悲劇であった。
昭和二十年十一月二十日頃まで、ゲリラとの小さな戦闘を繰り返しながらさ迷い歩いた。その間にも毎
日のように斃れてゆく戦友の姿を見た。その全員がマラリアと栄養失調であった。しかし、誰ひとり埋葬
する者もなく野晒しの状態であった。
自分の被服が破れて着れなくなると、死んでいる人の物と取り替える事は茶飯事であった。私は靴が破
れたので致し方なく取り替えたが、良心の呵責に絶えず、どうにか埋葬したが、今思えばせめてもの心の
慰めである。
杖がなければ歩けない
はじめは死臭に耐えられなかったが、終いには馴れて、死体の側で寝たことも幾度かあった。
「出発!」
の号令で、隣の人を起こそうと手をかけると、グシャリと崩れる。
白骨は到るところに転がっていた。私も二十年八月末頃から、杖を持たなければ歩けないほど体力が衰え、
小銃以外の持ち物は全部捨ててしまった。夜の寒さを凌ぐための一枚の毛布も、三分の一に切らなければ
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重くてもてなくなったので、自分の命も明日か!明後日か!と、何度も思ったことがあった。でも杖さえ
持つ体力のない人も多く、そんな人は早晩は斃れて行くのであった。
何とか戦友を助ける努力はするのであるが、瀕死の戦友を連れて行く体力がなく、動けなくなった者は、
手を合わせて残して行くより方法がなかった。
時には腕の汗が渇いて、薄く白く残っている塩をなめ、虱の血を栄養補給にとすすることもあった。今
思えば悲惨の極みであった。
私たちの任務は、敵がバギオに進出するのを阻止することであった。バギオは山下軍司令官を長とする
第十四軍司令部があったからである。マニラからバギオまでは広いアスファルト道路で結ばれており、一
キロごとに道標が立ててある。きれいな道路で「ベンゲット道路」と言われ、明治時代スペイン人、アメ
リカ人、フィリピン人が、それぞれ手かけたが完成することができず、戦前に移民の日本人たちが造って
世界を驚かせた因縁深い道である。また、バギオは世界の軽井沢と言われる景勝の避暑地でもあった。
二十年十二月下旬に投降
「十二月二十日迄に出てこなければ敵と見做す!」
との米軍の布告に、信用できなかったが、このままでは自滅の外は無いので、一か八かの賭けということ
で、米軍に投降することになった。
二十キロの山中を四日がかりで指定のマニラ街道十五キロの地点に出て投降した。凶器と思われたのか、
「銃を捨てろ!」
との号令で銃を捨てた。
全員裸にされて、肛門まで検査される始末。米軍の青い服を着せられてトラックに詰め込まれた。我々
の捕虜生活が始まったのである。
トラックに何時間も揺られて、着いたところは広い草原であった。銃を持った現地兵の監視付で蕃刀が
渡され、草刈りが始まった。自分たちの収容所作りである。草刈りが終わると、大きなブルトーザーが来
て押しならし、終わると幕舎の建設である。十人用の幕舎が幾張りも建てられ、寝台が運びこまれて収容
所の建設は終わり、翌日には回りに有刺鉄線が張られ、促成の刑務所の感じである。
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収容所生活がはじまる
数日後、隣に別の収容所ができた。それは受刑者の収容所らしくMPの監視付で運動させられている人
の姿が見えた。今思えばあの人達の中に、山下大将もおられたのかも知れない。
四千人くらいの収容所であった。収容当初は朝鮮人が徒党を組んで、日本軍下級指揮官を捜し出しては、
殴る蹴るの暴行を加える毎日であった。それからは一人二人と呼び出され連れて行かれたが、その人達は
殆ど帰って来なかった。私はいつ呼び出されるかと不安な毎日であった。
食事は最初お粥だったが、雑草ばかり食べていた山中の逃亡生活と比べれば、大変有難いと言わなけれ
ばならないが、腹が減り早朝に目が覚める。すると一人ふたりと炊事場の周りに集まって、バリケード越
しに中の様子を窺う。炊事をする者たちが、普通の御飯を食べるのを防ぐためであるが、全く無駄なこと
であった。
炊事場で働く者は昭和十八、十九年頃に捕虜になった者が多いと聞かされた。我々には炊事当番は与え
られず、毎日原住民の監視付で、ゴルフ場作りの土方ばかりである。スコップ手に穴掘り、地ならし作業
であるが、極度の栄養失調のため、身体の自由がきかず、足がむくみ、スコップに足をかけたまま踏み込
む力がない。立てば座れなくなり、座れば立てなくなる、文字に表現できない苦しみであった。
疲れても座って休めない、ゴロリと横になる。すると監視兵が飛んで来て、足で蹴飛ばされる。昨日ま
で使っていた原住民に、今日は足蹴にされる。敗者のみじめさをしみじみ味合わされた。
食事も自然によくなり、四ヶ月くらいすると体力も回復し、生きる望みも湧いてきた頃、私がこの収容
所で一番若いからとの理由で、所長の当番兵を命じられた。
昭和二十一年末に引揚船で
収容されてから一年目の昭和二十一年十二月二十日、引揚船に乗船することになった。何しろ着のみ着
のままで持ち物一つない身軽さであった。朝、広場に集まり幌付のトラックに詰め込まれて出発した。そ
れでも波止場に着くまでは不安であった。
どうして知れたのか、沿道の現地民が察知したらしく、家々の屋根に上がって我々のトラックを見てい
る。中にはトラックに向かって発砲する者もあり、米軍監視兵が威嚇射撃でその場を切り抜け、ようやく
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波止場に着いた。
波止場に着いて車から飛び降りたとき「おーっ」と一様に安堵の声がもれた。しかし、それ以上は言葉
にならない。あちこちで涙を流す者も見られ、万感胸に迫るものがあった。
十二月二十六日、船は紀伊半島の沖を通過、懐かしい祖国の山々を左に眺めたとき、初めて味わった喜
び、感無量であった。船は名古屋に入港。上陸解散になり、夜行列車で故郷に向かった。
国破れて山河あり、見渡す限り焼け野原となっている名古屋の街を見た。比島の山々を彷徨した日のよ
うな苦しみを、再び味わう事はないと信じた。
昭和二十二年一月、小宮山君、斎藤君の家を訪れ、ご家族に彼らの最後を報告したとき、肩の重荷を降
ろしたように思った。友よ、約束の君の骨を拾う事はできなかったが、どうか安らかに眠って下さい。
全弾撃ち尽くし、薄れゆく意識の中で
二期六区隊
門 坂 虎 男(神州丸)
六区隊の生存者一名
第六区隊は、南方に派遣された繰り上げ卒業二十名の内、生存して祖国の土を踏むことが出来たのは私
一人でした。
繰り上げ卒業と同時に、南方軍に配属を下命されたのは昭和十九年十一月四日だった。慌ただしい出発
の準備を整えて十一月七日、在校生の歓呼の声に送られて、思い出の四街道駅を発った。軍事機密のため
郷里への連絡は許されなかった。両親に宛てた遺書と遺髪は、使用した教科書と共に、故郷に送付される
ように手配したが、受け取る両親の姿を想い、隠れて涙を拭わねばならなかった。
十一月七日深夜に京都駅、八日午後広島駅を通過、列車は八日深夜に下関に到着した。
乗船を抽選で決める
直ちに連絡船で門司に渡り、仮泊の埠頭倉庫に入った。間もなく四角い箱が回されてきた。それは乗船
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名を決める抽選の箱であった。私が引いたのは四センチ四方の白い紙に、○の中に「シ」と書いてあった。
征途に向かう者にとって「シ」とは、前途不吉な予感を覚え、心中穏やかではなかった 。「ア」はあきつ
丸 、「マ」は摩耶山丸 、「シ」は神州丸であった。
あきつ丸には、服部道夫、西出角太郎、鈴木一郎。摩耶山丸には斎藤昭男、大竹孝喜、鴨井道夫、鍋田
明、桑原
笹本
通、田辺貞夫、五島文雄、鈴木昭次、武藤清夫、柏井幸彦、鈴木藤郷、熊谷
馨、宮野
博、岩下哲雄、大月
勉。神州丸には
勇、門坂虎男が分乗することに決定した。
十一月九日午後、沖合の輸送船団に向かうため小艇に移乗した。前足を小艇にかけたとき、思えば生き
て再び祖国の土を踏むことができ得るだろうか、体は震え後足は容易に岸壁を離れようとしなかった。
前方に神州丸、中央に摩耶山丸、その後方にあきつ丸、左右両翼に三隻からなる油送船八隻、さらに、
外側に駆逐艦、海防艦七隻、最後尾に護衛空母神鷹、空には哨戒機が旋回し、堂々たる輸送船団だった。
船団の各輸送船には、かってノモンハン事件でソ連軍と激突した、満州ハイラルから南下の精強の第二
十三師団(旭)の各部隊将兵が乗船していた。われわれ神州丸乗船者は、上部甲板が割り当られて居住区
になっていた。
あきつ丸済州島沖で撃沈
十一月十五日門司を出航。遠ざかる九州の山々がやがて水平線の彼方に没しようとするとき、甲板上で
万歳三唱が起こった。ある者は祖国日本の弥榮を、ある者は遠き故郷への別れを、全将兵の頬に涙が流れ、
万感胸に迫るものがあった。
感動の余韻の中で昼食を終えた頃、突然!後方に轟音が響いた。水柱の上がる方向にあきつ丸が小さく
見えていた。敵潜水艦の攻撃が伝えられ船上は騒然となった。護衛艦は爆雷を投下しつつ海面を疾駆して
いる。物凄い爆発音と水柱の中を右に左に蛇行をつづけ神州丸は戦域を離脱した。
「わが神州丸は全速で現在、朝鮮半島木浦に向けて北上中!」
と二度目の伝達があった。
興奮と安堵感の交錯する一夜は明けた。早朝、あきつ丸が撃沈されたことが伝えられた。
十六日、木浦港において再編成された船団は、翌十七日東シナ海北部を横断し、中国大陸に沿って南下
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した。午後六時二十分、暮れる海域にまたしても轟音が響き渡った。薄暮の海上に摩耶山丸が傾き、見る
見るうちに船体は波間に消えていった。つづいて海上が赤々と照らし出された。護衛空母神鷹が天に柱す
る火炎を上げたのである。敵の潜水艦は浮上して、燃えさかる空母に砲撃を加えた。飛び交う曳光弾は提
灯行列のようであった。神州丸の甲板上は風が唸りを上げ、物凄い飛沫となっていた。天空の中で星が右
から左へ、左から右へ絶え間なく大きく、早い速度で流れ去る。船が震える。敵の魚雷攻撃をかわしつつ、
全力蛇行航行がいつ果てるともなく続けられた。緊迫の一夜が白々と明ける頃、神州丸は戦域から離脱し
ていた。
北サンフェルナンドに上陸
朝の海面は静かであった。
茶色に濁る揚子江河口に仮泊し、撃沈されたあきつ丸、摩耶山丸の救助将
兵を海防艦から本船に移乗させた。
安否を気遣っていたあきつ丸の三名、摩耶山丸の十二名は、待てども待てども乗船してこなかった。あ
きつ丸乗員将兵の二千三百余名、摩耶山丸の四千余名の将兵は水漬く屍として東シナ海に海没させられた
と船内で聞いた。
神州丸は中国大陸沿岸を南下し、台湾海峡を横断、十一月二十八日高雄に入港した。むしろ辿り着いた
言うべきだと思う。高雄港には米軍機の爆撃を受けた艦船が数多く沈没しており、岸壁の砂糖倉庫も黒く
焼けただれていた。
高雄で台湾軍配属の宮野君の下船を見送った。何の言葉もないまま手を握り合い、互いに涙を流すのみ
であった。
二日間の休養をとった神州丸は、吉備津丸と他一隻の輸送船と共に高雄を出港した。いよいよ台湾とル
ソン島の間「魔の海」バシー海峡を渡るときが来たのである。多数の敵潜水艦が待ち伏せする海峡、撃沈
された日本軍輸送船で、埋まってしまうと言われた海峡。四十八時間不眠不休の監視体制が続けられた。
われに天佑あり、左舷にルソン島北部の島影を見る。南国特有の美しい海岸線が続く。この国のどこに、
何故戦争が、複雑な感情に浸る間もなく、マニラ湾に米機動部隊が集結のため入港が不能と知らされ、や
むなく十二月三日の日没、リンガエン湾北部の北サンフェルナンドに到着した。
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私は海に手を浸した。日本に続くこの海、この水、この手の温もりを母に伝えたい。
十二月三日夕刻、直ちに北サンフェルナンドの砂浜に上陸を敢行した。そして砂浜で一夜を明かし、早
朝宿営のため、小学校らしい建物に入る。しかし、部隊に所属しない我々は、先を急がねばならなかった。
南方総軍司令部の所在するマニラは、ここから徒歩で二十日間の行程と言う。近くのレイテ島では日米両
軍が入り乱れて攻防戦の真最中である。そんな余裕はない。
その時、朗報が飛び込んできた。マニラに向けて貨車が出ると言うのである。便乗願いは、かって陸軍
幼年学校の教官だった停車場司令官の計らいで許可された。
椰子殻や木片を焚いて走る軽便鉄道の車両には、空挺部隊のパラシュートが満載されていた。早速貨車
の屋根に上がり振り落とされないようにしがみつき、一睡もすることなく二昼夜を過ごした。マニラに入
ったのは十二月八日の午後だった。マニラの市内は比島決戦の雰囲気が街中に満ち溢れていた。とりあ
えずマニラ競馬場に宿営することになった。観覧席の椅子に倒れ込んで昏々と眠った。
祖国を後にして一ヶ月、漸く辿り着いたマニラではあったが、配属された南方軍総司令部は既にサイゴ
ンに撤退していた。
最前線の連隊本部指揮班付
比島方面における制空権は米軍の手中に帰し、この地をして一歩も動くことのでき得ない状況下にあっ
て、我々は第十四方面軍に入ることになった。
ルソン島は三地域の抗戦拠点に分かれていた。マニラ市東方の山岳地帯。バギオ市を中心とするルソン
島北部山岳地帯。クラーク飛行場群の西方に隆起する山岳地帯の三大拠点である。それぞれの拠点は、マ
ニラ東方の拠点を「振武集団 」、北部ルソン山岳地帯の拠点を「尚武集団 」、クラーク飛行場西方の拠点
を「建武集団」と呼んでいた。
十二月十三日午後五時過ぎ、振武集団司令部から迎えが来た。待機していた同期の連中と互いに健闘を
祈り、握手で別れを告げた。集団司令部に到着後ほどなくして再び迎えの車が来た。下士官一名、兵三名
に軽機関銃を装備した物々しいお出迎えである。暗くなった郊外の道路を十数分走った頃、車はにわかに
速度を落とした。前方に狼煙が上がり銃声が聞こえた。様子をうかがいながら走行する。最近ゲリラの出
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没が多くなったと聞く、幸い何事もなくアンティポロという集落に着いた。
比島派遣軍威第四三二八部隊(野戦重砲第二二連隊・連隊長陸軍大佐滝沢綾次郎)本部がある民家に入
った。連隊長は待ちかねたように私の手を握り、日本内地からの長旅の労をねぎらってくれた。改めて部
隊到着の申告後、連隊本部指揮班付を命じられ、茲に晴れて私の所属部隊が決定した。
猛砲爆撃に洞窟内に布陣
戦況は日毎に緊迫の度を増していった。我々は米軍の上陸に備え、連日、昼夜を分かたず陣地構築に汗
を流した。マニラ市街を一望する山腹に洞窟を掘り続けた。明けて昭和二十年、我々には迎える正月も無
かった。一月初旬から中旬にかけて彼我の砲爆撃は天地を揺るがせた。想像を絶する凄まじい艦砲射撃、
空爆、高射砲弾の炸裂など、立ち上がる炎と黒煙はマニラ市街を覆い尽くした。不気味な音を残して砲弾
が頭上を通過してゆく。艦載機が急降下と急上昇を繰り返し、その都度激しい機銃音と爆発が起こる。夜
を日についで天に沖する猛煙は、恐怖と戦慄の何ものでもなかった。
一月九日リンガエン湾に上陸した米軍は、日本軍の主要防御陣地を突破して、ルソン平原に進出した。
空爆と砲撃は相変わらず続く毎日であった。我々はこれを定期便と称していたが、戦線は次第に圧迫を加
えられつつあった。
連隊長と調査斥候に
昭和二十年三月十日は陸軍記念日であった。私は砲撃の合間を見て洞窟から出た。南国の太陽はキラキ
ラと輝いていた。その時、十数機のB二九爆撃機の編隊が頭上を越えて行った。編隊は前方で旋回一列と
なった。こちらに向かってやや高度を下げている。
危ない!
と直感し洞窟の最深部に走り込んだ。
ドドドーン、ドーン!
と物凄い地響きが起こった。
地下三十メートルのローソクの火も一揺れして消えた。祈るような気持ちで時の過ぎるのを待った。崩
れ落ちた土を除けながら外に出た。無い、ない、何もない、草もない、木もない、ただ掘り起こされた赤
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茶けた地面が続くだけだった。
その日の夜半、私は仮眠中に叩き起こされた。
「これから後方陣地構築のため、連隊長と共に出発せよ」
連隊副官奥主大尉の命令であった。私を先頭に連隊長、副官、兵三名が続く。暗闇の稜線を小休止をしな
がら進む。いくつかの山を越えて夜が明けるころ川岸に出た。副官は地図を見てマガリッシャンリバーだ
と言った。樹林に覆われてこんもりした、やや平坦な場所を見つけ夜営することになった。
午後の激しいスコールで濡れた軍衣を焚き火で乾かし、暫く横になろうとした時、前線部隊から連絡が
もたらされた。
部隊は全滅状態に
「本日十一日未明、わが部隊は敵の猛砲撃を受けた後、続いて米軍歩兵部隊の攻撃を受け交戦、一時反撃
するも、火器威力劣勢のため、兵員の消耗激しく、二次攻撃を受けるに及び、部隊は全滅の状態にあり」
ただ茫然とするのみであった。私の所属する連隊本部指揮班も全員戦死と告げられた。水筒を枕に天を
仰ぎながら、人それぞれが持つ運命とは何か。私は考え続けた。
わずかばかり携行した食料もなくなった三月末、米軍の追撃を逃れマウンテンマトバのジャングル地帯
に入った。死ぬか生きるか、飢餓との戦いが始まったのである。この時、連隊長と共にしている者十八名
であった。
自決か衰弱死か地獄の白骨街道
トカゲ、蛇、蛙、川蟹、水苔、木の芽、木の芯と食える物は何でも食った。食わなければ生きておれな
かった。そして上流へ上流へと追い詰められていった。川岸には無数の死体が散乱していた。白骨化した
死体、腐乱してふくらんだ死体、その死体の鼻から口、口から鼻へ、おびただしい蛆虫が出入りする。目
に黒山の蝿が這う。その様はまさに地獄でしかなかった。喉の渇きか、空腹のためか、川岸から身を乗り
出し、顔を水に浸けたまま浮く死体、漸く辿り着いた川辺で果たして水が飲めたであろうか、力尽きて末
期の水さえ飲めなかったとすれば……。
五月そして六月、朝倉上等兵、三木上等兵、藤村一等兵が相次いで死亡した。マラリアの発熱と栄養失
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調で毎日誰かが倒れてゆく。突如としてジャングルの中に、手榴弾の爆発音が起きた。自決である。胸か
ら腹にかけてぶっ裂け、内蔵は飛び散って空洞となり、目は何かを睨みつけていた。動けなくなった者は
衰弱死を待つか自決するか、残された道は一つしかなかったのである。一人倒れ二人倒れて七月初旬に、
われわれ一行は僅か八名になっていた。
連隊長は我々を呼び寄せ
「わが日本軍に勝機あり、諸君に生あらばマニラで会おう、幸運を祈る」
と、苦悩の中に部隊の解散を告げた。
泣く者あり、座り込む者もいた。衰弱しきった者もいた。しかし、どうすることも出来ない。生きるた
めには一人一人が木の根を掘り、草の根を探して彷徨するよりジャングルの中で生きる途はなかった。
私は栄養失調から、日に日にむくむ重い足を引きずりながら、谷川の流れに沿って、もと来た道を引き
返す事にした。その道は白骨街道になっていた。ただ一人で白骨の中で寝て、白骨の中で朝を迎えた。骨
を抱いて寝ることで私は孤独から解放されていたのかも知れない。
幻に母の顔が
何日も何日も歩き続けた。一人となっては、もう月日さえ分からなくなっていた。飛んでくる蝿でも口
に入れたくなる。水だけ飲んだ日もあった。今日一日歩いて後ろを振り返る。僅か数百メートル程しか歩
いていない。涙が出る。歩けない。足が重すぎる。明日死のう、明日こそ死のう、腰の手榴弾に何回も手
を当てる。
知らぬまに眠り込む。そして眼が覚める。ひび割れた足に血がにじみ、蝿がその血を吸いに集まってく
る。追い払う気力もなく、その様を見つめる。今日こそ死のうと決心する。その度に母の顔が浮かぶ。や
はり母が気になる。母の姿がいつも邪魔をする。
眠い、眠たい……。瞼が開かない……。
母の声が聞こえる。母がどこかで呼んでいる。どこかで声がする……。
母と別れたのは、山梨県北富士での秋季演習の後に、十日間の帰省休暇を終えて帰校する昭和十九年十
月三十一日の朝であった。乗合自動車が来るまで少し時間があった。
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「身体に気をつけや」……「毎朝毎晩、神さんにお詣りして祈ってるよって」……母の精一杯の言葉であ
った。母は私に背を向けた。母の小さな肩で波を打つ。涙を見せまいとして、声を出すまいとして、母は
泣いていたのである。
……遠い遠い所に小さい明かりが見える。すこしずつ大きくなって来る。後光が見える……。
一瞬、後光が大きく広がった。私は後光に包まれたように見えた。
幻覚のつづく中で、うっすら目を開けた私は、そこに仏の姿を見たのである。仏の姿は母の姿となり、や
がて一人の日本人と変わっていった。
幻か!目の前に日本人が
その人は例えようのないほほ笑みを満面にたたえていた。優しいまなざしが無言のまま注がれる。身体
を横たえたままの私に二本の注射が打たれた。一本は白い液、一本は黄色い液であった。眠っては起き、
起きては眠る。いつが昼か、いつが夜かさえ私にはわからなかった。目が覚めた時には欠かさず青い汁が
与えられた。
二人の間に話し合う時がきた。
「私は星製薬のマニラ駐在員で、原といいます」
久しぶりの会話であった。この人に逢わなかったら私の今日はない。命の恩人であった。
目的地をマニラに決めて二人は出発した。一日一回私に注射は続けられていた。原さんの持っていたレ
ンズが、何よりも有難く感じた。草の葉を煮ることも出来る。湯を沸かして木の葉でお茶を飲むことも出
来る。火で焼いて食べた蛇は大変美味だった。
むくんだ足の腫れも大分引いてきた。毎日作って下さる原さんの青汁が効くのかも知れない。軍靴も破
れ指先が見えてきた。草むらに横たわっている戦死者の白骨の遺体から軍靴をもらって履き替える。
原さんが手帳に何か書き込む。
「今日は八月二日だ。明日からは夜間行軍をとろう 。」
と言われた。
薄暮から夜明けまで、ときには尾根を越え、時には川原を歩き、昼は茂みに身を隠した。夜間行動に移
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ってから四日目の朝、前方に集落が見えた。原さんは
「おそらくマリキナの町ではないか」
と言う。
やがて、米軍車両が激しく行き来しはじめた。何れにしても身を隠すことにする。時折、激しい銃声が
聞こえる。緊張感の漂う一日がようやく暮れた。グースベリーの茎と葉を生のまま食って夕食にした。
二人の間隔を三メートル以内と決めて、今夜半、自動車道路に接近して付近の状況を確かめることにし
た。万一、米軍と遭遇発見された場合は、お互いに全弾のあらん限りを打ち尽くして、最後を飾る約束を
した。
手榴弾二個、一四式十五連発拳銃一丁、拳銃弾倉に十二発の実弾が装填されている。これが私のもつ全
弾であった。
退くも死、進むも死、総ては天命と覚悟を決めて、道路脇に身をひそませ様子をうかがう。人家を避け
るため道路を横切る事にした。頭を上げた途端に予期せぬことが生じた。犬が激しく吠えたて、つきまと
ってきた。次々と付近の人家が点灯していった。後方で二言三言わめく声がした。間もなく照明弾が打ち
上げられた。その明かりで、米軍の物資集積所であろうか、野積みされた木箱の山が見える。自動小銃の
曳光弾が頭をかすめる。
遮二無二手榴弾を投げた。原さんがガックリと膝をついて倒れた。
「原さん!」
一言、声をかけて駆け寄ろうとして頭を上げた瞬間、右首筋に焼けるような激痛を受けた。
熱い、熱い、肩が熱い、肩に手を当てる。ベットリと真っ赤な血に染まる。動けない、次第に目がかすん
で行く。全てがかすんでゆく、見えない…………。
それから何時間か過ぎた頃であったろうか、遠い遠いところに小さな明かりが見えてきた。
ベッドの上にいた。目の前に米軍看護婦が静かに微笑んでいた。モンテンルパ収容所付属病院だった。
捕虜になって助けられていたんだ。原さんの姿はなかった。
昭和二十一年十一月二十三日名古屋港に上陸して復員した。祖国日本は寒気が吹きすさぶ日であった。
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海没に負けずルソンで戦う
二期六区隊
上 嶋
充 (摩耶山丸)
父に兵長の軍服姿を
昭和十九年十一月四日、繰り上げ卒業を命じられ、警戒警報が発令される中、慌ただしく出発準備や軍
装検査が行われた。その間に私の父と叔父、叔母が急遽、面会にきて最後の別れをして、十八歳八ヶ月の
若い兵長の軍服姿を見てもらった。
十一月七日、在校生に見送られて思いでの四街道駅を勇躍出発した。品川駅で各学校から繰り上げ卒業
の少年兵だけで編成された軍用列車で出発した。車窓から黄色い稔りの田畑で働く老若男女や、工場の窓
から女子工員の打ち振る旗や手に応えながら、車内は、これから戦場に向かうと思えぬ和やかな気分で一
路西下し、同日深夜、私にはいろいろの思いでのある京都駅を通過、広い構内には憲兵が一人ぽっんと立
っている姿があった。これで故郷ともいよいよお別れかと、少し感傷的になった。
翌八日深夜、下関に到着して直ちに連絡船で門司に渡り、その夜は埠頭倉庫に仮泊した。
摩耶山丸に乗船
九日夜明け、港内には大型の輸送船四・五隻が入港しており、馬や物資の積載作業が行われ、緊張した
空気が流れていました。少年兵は各学校ごとに三分割して、あきつ丸、摩耶山丸、神州丸の三隻に分乗し
ました。
野砲校出身者は、摩耶山丸、あきつ丸、神州丸に、乗船前夜、箱の中に「ア 」「マ 」「シ」と書かれて
いる白い紙を各人が抽選のように取り出して乗船名を決めていたので、それに従って乗船することになっ
た。一部の台湾軍派遣要員は神州丸に乗船した。
学校から引率して来られた瀬戸川大尉が、いよいよ乗船という時、父親が年端もゆかない子供を危険な
旅に出すような慈愛温情溢れる、今まで学校では一度も見たことのない顔で、
「気を付けて元気で行けよ」
と言われて、全員の顔を見渡された時の事を未だにはっきりと覚えている。
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乗船完了後、船は岸壁を離れ、瀬戸内海の方に走ったり、西へ暫く航行して停船したりしながら十一月
十四日唐津湾に入り船団を編成して仮泊した。
十五日早朝、唐津湾を出港した。だんだん遠ざかる九州の山々が水平線に没しようとする時には、全員
甲板上で祖国の弥栄を祈って万歳を三唱し、それぞれに故郷に別れを告げた。流石に血気盛んな我々少年
兵も、万感胸に迫ったのを覚える。
あきつ丸につづき摩耶山丸に魚雷命中
十五日正午頃、昼食を終わり、後部甲板でのんびり雑談している時、突然轟音が聞こえた。はっとして
一同顔を上げれば、あきつ丸に水柱が上がり見る見るのうちに傾き、船上から海に飛び込む将兵の姿が豆
粒が落ちるように見えた。
摩耶山丸船上も騒然となり、船に搭載の各砲は臨戦態勢をとり、後甲板から爆雷を投下しながら必死の
ジグザグ行動をおこしたので、後ろ甲板でなすこともなく見ている私たちには、傾いたあきつ丸が左舷に
見えたり右舷に見えたりしながら横倒しになり、忽ちのうちに視界から消えて行った。その間約七分位だ
った。
船団は朝鮮半島の木浦港に退避した。十六日は船内で休養し、あきつ丸の救助生存者を収容して、船団
を立て直して十七日再び同港を出港した。東シナ海北部を横断して中国大陸に沿って南下すべく、
「今日一日は厳戒態勢をとれ!」
との指令により全員緊張の一日であった。
十八時頃、日夕点呼の終了後、蒸し暑い船室にすぐ入る気もなく、その場で雑談していた時、突然どこ
かで絶叫する声が聞こえ、間髪を入れず物凄い衝撃を受け、上から何かがバラバラと落ちて来た。
「敵潜水艦の魚雷が命中!」
流木の角材に身体を縛る
魚雷が左舷に当たったのは不幸中の幸いであった。最前列にいた増永幸雄君は素早く左舷の手摺りに上
がって、
「行くぞ!」
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と一声、暮れ行く海に飛び込んだ。
あっと言う間で止めること事も何もできなかった。船はやや左舷に傾いていたが、まだ相当な速力で走
っていたので、増水君は忽ち見えなくなりこれが最後の別れになった。
やがて船足が止まり、悲鳴や恐怖の声は聞こえず、
「今だ!」
と、前列の者を後列の者が手摺りに押し上げては次々と、
「えいっ! 」「えいっ!」
と気合と共に海中に飛び込んだ。
さすが若武者と後日感慨を新たにした。
沈没時の渦巻きから逃れるために必死になって泳ぎ、振り返ると摩耶山丸の姿は既に波間に没し、薄暮
の海上に泳ぐ多数の将兵が大きな円陣を組んで、そこここに軍歌が沸き上がり、漂流中と言えども士気旺
盛であった。その時は野砲校生も大部分はその中で元気でいたと思う。
天佑か夜とは言え天気は好く、空は満天の星で風もなく、海は穏やかであった。私は円陣から抜け出し、
暗闇の海を当てもなく泳いで行くと、長さ四メートル、太さ十五センチ位の角材が流れており、これに身
体をロープで縛り付けた。水筒には水がいっぱい入っており、雑嚢には支給された牛罐と父が持ってきて
くれた鰹節二本があるので
「これで二日でも三日でも生きてやる、陸の上ならともかく、海では絶対死なないぞ」
と、変に糞度胸が据わり、改めて覚悟を新たにした。
ボートに救助される
やがて波のうねりに乗って、ボートらしいものが浮かんでいるのを発見し、その方向に一緒にいた重砲
兵校生と共に泳ぎ救助された。間もなくこのボートに次々と救助された者が引き上げられた。ボートは満
載になり、もう救助者を乗せる余裕がなくなった。
ボート周囲に多数の浮かんで泳いでいる将兵がいた。将兵たちはボートに救助を求めて寄ってくる。し
かし、ボートからは、
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「君たちを舟艇上に助け上げることは出来ない、乗せると沈んでしまう。せめて我々だけでも、一分でも
早く比島に行き、君たちの分まで働くから、今暫く海中でがんばってくれ」
と、非情を覚悟で、血涙共に下る大声で告げる。今まで、
「上げてくれ、助けてくれ!」
と、ボートの舟べりを握っていた手が次々に離れて泳ぎ去って行き、舟上の我々も涙を流し見送った。
摩耶山丸乗船将兵四千数百名の内、救助された者は九百余名で、一夜の内に三千五百余名が海没戦死さ
れと聞いた。
また、摩耶山丸沈没から数時間後、護衛空母神鷹も攻撃を受け、天に柱する火炎を上げて燃え上がって
いた。さらに、敵潜水艦が浮上して、燃えさかる空母に砲撃を加える。曳光弾が飛び交い、仕掛け花火の
ようにすぐ近くに見えるのに、距離があるのか砲声は聞こえず、大火災を起こす空母の火の明かりで、点
々と泳ぐ将兵が見えた。
北サンフェルナンドに上陸
九死に一生を得た私たちは上海沖で神州丸に収容移乗した。そして台湾高雄港を経由して十二月三日、
比島サンフエルナンド港に入港した。
直ちに揚陸作戦にはいり、昼間は炊煙も出せず苦労し、これが終戦まで続いた。港内と言わず、電柱、
建造物からドラム罐に至るまで、毒々しい赤ペンキで、
「勝つか!
死ぬか!」
と大書してあり、ひしひしと比島決戦の時が迫っているのが分った。
十二月八日マニラに到着した。レイテ島では彼我入り乱れて攻防戦の真っ最中であり、野砲校を出て以
来実に一ヶ月目であった。初めて外国の首都に入り、フィリピンの歴史のままに街はスペイン風であり、
米国風であり、戦雲のない平和な時なら旅情をそそられる風景があちこちにあり、物珍しく見聞した。
私達は第十四方面軍(山下軍司令官)の大阪編成の戦車第二師団(撃兵団)に少年戦車校と野砲校の第
七区隊(自走砲)が。少年通信兵、野砲校生はそれぞれ傘下師団の各部隊に配属された。第六区隊の二人
の生き残りの私と花立義光君、第四区隊の内田高、斎藤克巳、細尾光一、小宮山秋雄の六名は、ベンゲッ
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ト道路入口にあるサイトンという部落に駐屯する、野戦重砲兵第十二連隊に配属となった。私と花立君は
連隊本部指揮班観測分隊へ、内田君と小宮山君は第一大隊、斎藤君と細尾君は第二大隊へ編入され、互い
に健闘を誓って別れた。
昭和十九年の年末も三十一日だけ迎春準備で休務し、比島で迎える南国の正月も特に変わった事もなく、
それでも小さな餅二切と酒、煙草、甘味品など配給された。
リンガエン湾内に米輸送船団
昭和二十年一月三日夜、非常呼集あり、
「敵機動部隊と大輸送船団リンガエン湾に向かって航行中」
との情報に接し、
「各部隊戦闘配置に着け!」
との軍令があった。
私は十センチの砲隊鏡を持って、上等兵一名を連れて連隊観測所に入り、敵情監視の任務を命じられた。
一月四日、米艦隊が湾内に侵入を開始した。五・六・七日と日毎に増し、遂に四〇〇隻を越えた。六日
の夕刻、米軍機がいなくなった頃、五・六名で観測所の偽装をしている後方から爆音が聞こえてきた。わ
が陣地すれすれの低空で日本の飛行機が三機が飛来し、先頭の機から操縦士が手を振っているのが見えた。
リガエンの敵艦に突っ込む特攻機であり、見ていると湾の上空で物凄い弾幕が上がるのが見えた。これが
後にも先にも友軍機を見た最後であった。
平素は明るい群青の海が、一面の濃暗色の米艦隊で埋め尽くされ、砲隊鏡を左から右に回しながら一隻
二隻と数えた。夜ともなれば全艦船煌々と灯火を付け、一大都市の出現かと思うほどであり、我が方は完
全な灯火管制の下に、じっと息を殺して潜んでいた。米軍は夜明けと共に連日の艦砲射撃と銃爆撃が、水
際から次第に内陸部の友軍陣地に加えられ、その激しさは日本軍では到底考えられない鉄量であり、決し
て大袈裟でなく、一発撃てば百発の砲撃があり、自軍の人命消耗を鉄量で防ぐという、人命重視の考えが
根本にあったと思う。
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米軍が上陸開始
昭和二十年一月九日、前日にも増して猛烈な砲爆撃の下に米軍の上陸が開始された。観測所の我々以外
は全員、地下の棲息壕に待機して砲爆撃に耐え、私たちだけで上陸の状況を監視していた。その上陸の様
子は、壮大な戦争のパノラマを見るようであったが、現実は我が観測所も艦砲射撃の照準下にあり、その
弾着は物凄い地響きと爆発音で、天日も暗くなる土煙であった。横一メートル、縦三十センチの観測孔か
ら物凄い爆煙と、土煙混じりの破片が壕内に飛び込んできた。しかし、その中に案外不発弾が多かったこ
とが、今も特に印象に残っている。
私が観測所で敵の猛砲火を浴びている時、花立君は部隊到着後、マラリアに罹り医務室のあった部落で
療養中であった。その後、この連隊観測所を米軍歩兵隊に奪取された時の戦闘で、花立君は老兵や弱兵の
多い分隊の先頭に立って勇戦している。私はその二・三日前の夜間、第一大隊のトラックの救出に行って
右大腿部に打撲傷を受け、歩行困難となり、松葉杖をついて病兵五名を連れて後方の糧秣監視に下げられ
て、その戦闘に加われなかった。
バギオ市の防衛戦であるイリサンの戦闘で久しぶりに一緒になったが、その時も花立君は軽機を持って
分隊の中心になって活動していた。私は一等兵一名を連れて監視哨に出され、分隊の撤退の時に危うく敵
中に取り残されかけたこともあった。
米軍は上陸後、日に日に北上し、迎撃するわが連隊も一門、二門と火砲も撃破され、兵員の損害も次第
に増し、特に一月十八日頃の戦いでは、第一大隊第二中隊は中隊長以下全滅に近い損害を受け、内田高君
も壮烈な戦死を遂げた。
我々指揮班も各中隊の欠員補充にそれぞれ応援の出動を命ぜられ、その度に犠牲者の数を増していった。
ベンゲット道路の攻防戦
二月に入り、日本人には因縁の深い〃ベンゲット道路〃の攻防戦になった。明治三十六年、日本人移民
千二百名が、未曾有の難工事を五年の歳月と、熱帯性の悪疫と戦い、七百余名の犠牲者を出しながら完成
させた道路であった。
我々は馬を失って人力で二トンの火砲を曳き、一発三十六キロの砲弾を担いで後退しては射撃し、撃っ
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ては退がり、また歩兵部隊も鉄量に物言わせてジリジリと進行してくる敵に対して、食糧もない兵たちが
手榴弾と銃剣で夜間の斬り込みが唯一の対抗手段となり、ベンゲット道路に再び日本人の血が流された。
壊滅的な被害を受けたわが盟兵団は、守備を第二十三師団(旭兵団)と交替して、部隊整備再編のために
ナギリアン道へと転進した。
間もなく敵の攻撃の鉾先は我らのナギリアン道へと向けられ、部隊の火砲も次々と破壊されて、私たち
も小銃を持って行動するようになり、軽機関銃などもどこで都合したのか、各分隊でいつの間にか備えて
いた。
この頃、敵の十五センチ加農砲らしい砲撃で道路を妨害され、昼夜を問わず通行不能になるので、
「この砲を破壊するのに専門の砲兵隊から斬り込め」
との命令があった。
我が指揮班から六名が参加したが、その人選に私も花立君も入っていなかったので、二人で人事係曹長
の所に文句を言いにいったら、
「あわてんでもいい、俺が斬り込みに行く時に、お前達も連れて行く」
と言われて、言外に曹長の温情を感じて引き下がった。
彼我の火線が十文字に飛び交う
バギオ市防衛の最後の陣地をイリサンに構築し、挺身工兵隊や輜重輸送隊等と雑多な部隊で防衛線を張
った。そして二日間で自分の蛸壷を七個掘ったのを覚えている。敵の迫撃砲の猛爆下にあって、一個分隊
で、道路に進行してくる敵に対して、花立君たちは軽機を中心に散開して防衛線を張っている。
「道路に進出し、敵を早く発見するために、一等兵一名を連れて百メートル前方の特別監視哨に出よ」と
命令を受けて前進し、兵を監視哨に残して、敵情を視察するため小枝を頭に乗せて稜線に這い上がって見
ると、前方下の方二百メートルに、米軍約二百名が重機関銃を五丁据え付けて食事をしているのが見えた。
後方の友軍第一線から私の姿を見ていた指揮官が、
「敵が見えるか?兵力はどれ位か?」
と大声で問いかけてきたので報告した。
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指揮官は
「また、迫撃砲弾が来るから早く退れ!」
と声をかけてくれた。
俺は敵味方の中間にいるんだなと異様な思いにとらわれた。そして、敵の第一回の攻撃が始まった時は、
文字どうり頭上で彼我の火線が十文字に飛び交い、自分の小銃を撃っても銃声が聞こえない状態になった。
我が軍の猛反撃により、敵は多数の死体を残して後退したが、翌日また、猛砲撃後に二回目の攻撃が始
まり、我が軍はこの攻撃を支えきれずに突破され、我が指揮班も多数の戦死者を出した。
「斬り込みの時は共に行く」
と言ってくれた人事係曹長も、私の目の前で顔面から頭部へ銃弾が貫通して即死した。激戦の中、遺体の
収容も出来ず、横にいた伍長と二人で小指一本を切り取り、最後の別れを告げて後退した。
校友・花立伍長が戦死
四月二十五日、バギオが陥落して敵の手に渡った。
我々は聯隊の集合地に三、三、五、五集まって来るのを整備編成して次の任務についた。六月に入り花
立君は連隊副官を長として、衛生准尉以下四・五名で連絡任務に出発。同じ日に私は指揮班長を長として
下士官五・六名と兵站監部への連絡にと分れて出発した。途中、トラックと共に道路から転落して軽傷を
負ったりしながら帰隊したら、衛生准尉から
「花立兵長は隊の先兵として進行中に、道路のカーブを回った途端に米軍の一斉射撃を受け、腹部に銃創
を負い、直ちに攻撃からの死角へ運び入れ応急手当をしたが、出血多量で全員に見取られながら息を引き
取り埋葬してきた」
と聞かされた。
近距離であったので、
「せめて遺体に最後の別れに行きたい」
と申し出たが、敵の進行が以外に早く、既に敵中であるからと許可にならず、涙をのんで引き下がった。
数日後、連隊副官に呼ばれて出頭すると、連隊長も同席しておられて、
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「今回の行動中、花立兵長が同期の少年戦車兵と出会い、五月一日付で伍長に任官していたので、上嶋兵
長も逆上って、五月一日付で伍長に任官する。同時に花立伍長を戦死の日付をもって軍曹に任官する」と
の昇任の伝達を受けた。
マラリアで意識不明一週間
その時、私は帰隊の途中に第四区隊で第二大隊の斎藤克巳君と偶然に出会った。斎藤君は軽機を担いで
おり大変元気だった。斎藤君から内田高君が戦死したことを知らされた。しばらくの立ち話の後、お互い
に元気で頑張ろうと堅い握手をして別れたが、その後、遂に出会うことはなかった。
六月、七月になって食糧、医薬品は補給もなく欠乏状態になり、文字どおり木の根、草の葉を食い、マ
ラリアと飢えによる栄養失調のために倒れる者が増え、プログ山の兵団最後の複廓陣地に追い込まれる山
道は正に白骨街道となっていた。
最後まで連隊長と行動を共にした本部員十数名も、七月末に部隊を解散し、歩兵第七十二連隊(宮崎県
都城編成)に転属して第三大隊に配属された。中隊に到着した夜から衰弱し切った身体、マラリアの発熱
に襲われて倒れ意識不明の状態で、一週間目に敵襲の銃声で意識が戻り、部隊は武装解除の場所に移動す
るため、中隊長の命令で野戦病院に入院させられ、患者として米軍に収容された。
野戦病院から米軍に収容
昭和二十一年十二月二十三日、名古屋港に復員上陸するまでの一年三ヶ月、収容所暮らしをした。
比島戦線は恐ろしい戦いであった。劣悪な兵器を持たされ、完全に制空権を奪われ、米軍上陸以前から
食糧不足の状態の部隊もあり、私たちも戦闘突入後、半年にわたり食糧、医薬品の補給は全く無く、部隊
全員が飢餓とマラリアに苦しんだ。尚武集団(山下兵団)十五万名の内、戦没者は十二万名を越えたと言
われている。我が連隊も千八百名中、三百余名の生還を数えただけであった。
比島からの復員船は六十五回で終わったと思うが、私たちは六十二回目の船で復員した。
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千葉陸軍少年高射学校
明治十九年、千葉県習志野に陸軍砲兵射撃学校として開校された。大正十一年、陸軍野戦砲兵
学校と改称され、高射砲練習隊が新設され、昭和十年高射砲兵が独立分離した。
昭和十七年、千葉に陸軍防空学校が開校し、生徒隊に第一期生が入校した。第二期生は昭和十
八年十二月一日、千葉陸軍防空学校浜松分教所生徒隊に四〇〇名が入校した 。(測高一五〇名、
聴測五十名、電測二〇〇名 )。昭和十九年四月、千葉陸軍高射学校および浜松分教所に改称した。
昭和十九年十一月五日、第二期生一二〇名(電測六十名、高測・聴測六十名)が繰り上げ卒業
となり南方・第十方面軍(台湾軍)に派遣された。残る二八〇名は昭和二十年三月六日に卒業し
て、陸軍船舶部隊や各部隊に赴任した。
亡き友を偲んで
陸軍少年高射学校浜松分教所
伊 久 間 信 夫(神州丸)
先発卒業で特別教育を受ける
第四区隊の先発卒業は、鏑木邦夫、桑久保一、今野忠男、後藤亨、田中高美、西村薫、林茂、山本廉之
助、伊久間の九名で、昭和十九年九月のある日、特別な教育を受けることを命ぜられ特訓にはいった。
約二ヶ月後、出発の日を決められる二・三日前(家族との交信は禁じられていた)自習室において私た
ちは遺書を書いた。
さすがに何か雰囲気の違った感じで誰もが目を赤くしていた。鏑木君は声を殺して泣いていた。今野君、
西村君も目頭を押さえていたのが、私の机から見えていたことが印象に残っている。
愈々出発の日、軍服に兵長の階級章をつけ、背負袋を背に、村瀬准尉の指揮のもと、戦友の見送りをう
け勇んで校門を出て、国鉄浜松駅に向かった。区隊長、佐藤班長、高安・高島両兵長の駅頭での見送りに
感謝し、軍用列車に乗り込んだ。
- 193 -
列車の中では、みんなが何となくはしゃごうとしていたようだった。ただひとり二区隊の戴君だけは楽
しそうに喜んでいた。
運命を分けた乗船直前の変更
途中、たいした変化もなく下関に到着した。ここで下車し、関門海峡の門司を望む岸壁に一同整列し、
村瀬稔准尉殿より、それぞれが輸送船の乗船区分を受命した 。「ア」あきつ丸 、「マ」摩耶山丸 、「シ」
神州丸の三隻に分乗するのである。もう一隻「キ」吉備津丸があったが、それには本校卒業生は誰も乗船
しなかった。
一度決まっていた私の「マ」乗船が間違っていて「シ」に変更された 。「マ」のときは鏑木君、西村君
がいたようで、他の戦友がどの船だったか憶えていない 。「シ」には戴君と三中隊の手島君がいたように
記憶している。
私は乗船直前の変更で今日の運命が決まっていたのだと、人の運命の不思議さを今更ながら思い感無量
であり、それが戦友と最後の別れになった。
船団を組んで出航
あきつ丸は約九千トンで、船体は航空母艦のように甲板が一枚板になっていた。
ンで大型タンカーの改造船で大きなクレーン用の柱が船首と船尾に立っていた。
摩耶山丸は約八千ト
神州丸は約一万一千ト
ンで、貨客船のようで船内を細かく間仕切りされて、上下幾つにも人が入れるようにしてあり、ムシロが
敷かれて一室(壁も扉もなし)に何人かがすし詰めに入れられた。
十一月十三日、下関沖を出て翌日、唐津湾で船団が組まれて仮泊した。四隻の輸送船とタンカー五・六
隻、護衛の駆逐艦、海防艦が数隻と、少し離れたところに小型空母が一隻が配されて、船団は輪型を組ん
で玄界灘に出航した。
十四日早朝、出港して三十分位した頃、各船一斉に、
「上甲板整列!」
が命ぜられた。
船団長の指揮で皇居並びに伊勢神宮を遥拝、君が代合唱、陛下の万歳三唱したときは身の締まる思いが
- 194 -
した。
このとき僚船はかなり近いところを航行していて、声はきこえないがお互いに手を振り合っていた。そ
れが次第に距離をとりながら前進し二・三時間も走った頃、右手に島がぼんやりと見えてきた。それは済
州島だった。
〃あきつ丸〃轟沈の恐怖
十五日正午前。食事の準備に上甲板に出たとき、対潜警報が発令され、同時に左舷を航行していたあき
つ丸が目の前で(ほんとうに目の前のように感じた)大爆発と共に、船体がど真ん中から真二つに割れて
みるみるうちに沈んでいった。
後には重油がどろどろと海面を覆い、その中に船体の破片や戦死者の爆発時にもぎ取られた肉片、遺体
など形容しがたいものが波間に漂い、救助収容することもできなかった。轟沈とは歌ではよく口にしたが、
実際には初めて見た。その恐ろしさは今でも忘れるものではない。
駆逐艦は直ちに往きつもどりつの対潜行動をとり始めたが、生きて漂流している兵士もいるので爆雷攻
撃はやらなかった。何人が救助されたかは詳らかではないが、私たちの船には誰も乗ってこなかった。
二日目の十七日夜、今度は私たちの前方で摩耶山丸が攻撃を受けて火災をおこしているのが見えた。真
暗な海面でくっきりと船影を浮かびあがらせて燃えている。甲板からは豆のようなものが海に落ちている、
脱出して海に飛び込んでいる戦友たちのようである。助けに行きたいが何もしてやれない。唯、助かって
くれよ、死ぬなよと祈ることだけしかできなかった。
そのうち積んでいた弾薬に引火したとみえて轟音と共に、ものすごい火柱を吹き上げて摩耶山丸は沈ん
でゆくのが見えた。
今も忘れぬ戦友の最後
陸軍少年高射学校の先発卒業生の大部分の者は海没戦死していった。折角、激しい訓練を積み重ね身に
つけた戦闘技術を実戦に使うこともなく、玄界灘と東シナ海に若き命を散らしたのである。私は幸いにし
て台湾に上陸できた。
その後、戦いに破れはしたが命永らえて今日を送らして頂いている。唯、戦友諸君のご遺族に、誰がど
- 195 -
の船に乗り、どの海で戦死したかとの正確な資料がないため、それぞれに詳しくお話しができないことを
申訳ないと思っている。
レイテ輸送船団の悲劇から
陸軍少年高射学校浜松分教所
堺
義
光(神州丸)
レイテ輸送船団の悲劇
勇躍戦地に赴きながら、戦闘らしいことは何もなし得ず、東シナ海の藻屑と消えた将兵と行動を共にした
者として、私はこの小文を霊前に捧げる。
輸送船団が門司港を出港したのは昭和十九年十一月十三日。船団は一万トン級の輸送船四隻、中型改造
空母一隻、小型駆逐艦・海防艦など十隻の大輸送船団で、将兵一万余が乗船したと思う。私たちは岸壁で
三列に並び、右から
あきつ丸、摩耶山丸、神州丸と定められ、私は神州丸に乗船した。これが運命の別
れ目になろうとは ……。
船内は蚕棚のように区切られ、足も伸ばせぬ状態であった。少年戦車兵学校卒業生や満洲関東軍から南
方に派遣される多くの将兵など四千人ほどが乗船していた。二日目の朝、放送で、
「いよいよ本船団は五島列島を離れ、本土に別れを告げ戦地に向かう。全員起立、北東の皇居に向かって
最敬礼」
の号令が船内に流れ、一同身の引き締まる思いがした。
その日の昼、二隻の米潜水艦の攻撃を受けた。私はその時、暗い船底から、仮救命胴衣の姿で梯子を這
い上がり、船尾で飯盒を洗っての帰りであった。突然、
「ドドーン! ゴォーン! 」
という大音響を耳にした。
右舷後方二〇〇~三〇〇メートル位のあきつ丸の船腹に三十メートル位の太い火柱が立った。
あとは船上で戦闘配置につく船舶砲兵隊のあわただしい動きで、沈没の瞬間は見届けられなかった。本
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船は全速力で船列を離れ、右に左に爆雷を投下しながらのジクザグ航行で、船は不気味にギギギィーとき
しむ。
爆雷の炸裂音が船底にいる私たちの腹にこたえる。
救助された戦友と岸壁で
やっとの思いで朝鮮半島海岸に一時避難した。そして黄海を横断中に、また十七日の夜間、摩耶山丸と
護衛空母が雷撃を受け撃沈された。神州丸は十九日単独で上海沖に避退した。その後,海軍双発攻撃機二
機の護衛を受けて二十一日出航し、澎湖島を経て台湾高雄港に二十六日入港した。
奇跡的に救助された、あきつ丸乗船の戦友が重油だらけの姿で高雄の岸壁で再会、涙の握手を交わした。
その後、台北要地防空隊電測兵としてレーダー基地に配属、ここでも空襲で陣地を爆破され戦友の半数
を失い、屍衛兵下士官を命ぜられて任務についた。
人の運命は本当に分からない。戦争末期のあの激しい戦闘を経験した私は、幸い負傷一つせず内地に帰
ることができた。七年前から生き残った同期七名と毎年戦友会をして、生きることの意義をかみしめなが
ら、今は亡き戦友の冥福を祈っている。
上陸一カ月目の入浴
台湾の高雄は、十一月というのにやはり南国、強い日射しで港内には二~三隻の沈められた客船、貨物
船の残骸があった。岸壁は焼け残った倉庫が並び、その横を通って兵站部に入り、約一ヶ月ぶりに芋を洗
うような浴場に入浴が許されて、人間らしくなった。
翌日は下着類など洗濯し、裸で乾くのを待って、夕方、新高雄駅まで、椰子の木が両側に繁る広い道を
行進したときは南方だなあと感じ、しばし見とれていた。
新しい煉瓦造りの駅から半日位、満員に近い汽車に揺られ、途中の台南、台中の駅からは、朝の通勤ラ
ッシュに合い、入口や窓などにぶらさがるように乗って来て、それが台北駅に着くまで続いた。台北駅か
ら十五分か二十分のところに、右手に十二階の塔のある台湾総督府を見て、隣の軍司令部に寄り、その近
くにある簡易兵舎にはいった。
台湾では、蚊帳を吊って入らないとマラリアに罹るので注意を与えられた。その間、沖縄赴任者を決め
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る抽選もあったが籖から外れた。
四五五〇部隊電測隊に配属
昭和十九年十二月一日付で台湾各部隊への配属の命令が下り、神州丸に乗船していた陸軍少年高射学校
の五人の中で私は台北要地防空隊の高射砲第百六十一連隊(四五五〇部隊)第一中隊電測班に配属された。
他の一名は(測高隊の者)第二中隊(台湾松山空港方面)に配属となった。本部指揮班長、副官に申告を
終えて二人は別れた 。(以後会うことはなかった)
第一中隊は、台北郊外の淡水河を挟んで、台北橋を渡った三重保という所で、到着後一週間は部隊医務
病棟で隔離をされていた。その間、一期生の先輩、増田伍長、遠藤伍長の両名の方が訪ねて来られた。浜
松兵舎でも会って顔を知っていたので心強く、手をとって励まして下さった。
建物は竹瓦、竹囲いの明るい兵舎二棟の他、中隊本部、自動車隊別棟、発電倉庫、炊事場、浴場などが
散在していた。高射砲五門、この一中隊だけに私たちの電測班があり 、「た号Ⅲ型」と 、「た号Ⅰ型」の
電測機が備えられており、発電車もあった。
中隊長、各上官、古兵の方々も少年兵ということもあってか親切で、長崎県出身の池田古兵とは兵舎で
枕を並べて寝ていたが、常に兄が弟を見るように親身になって私を指導して下さった。後日、爆撃により
戦死されたが、明日のことは誰にも判らない。
昭和十九年末は平穏に過ぎ、二十年一月二日、昨日につづきグラマン十数機が来襲し、松山飛行場を中
心に〃正月爆撃〃が加えられた。松山飛行場は第二中隊の守備だったので、われわれに被害はなかった。
その後、二~三月は大した爆撃もなく、中隊で演芸会や慰問団によるレビューなど、しばし前線にいるこ
とを忘れるひとときもあった。
この頃、天皇陛下の東京空襲爆撃跡の視察をしておられるニュース映画を見た。一方、敵機より降伏勧
告ビラがしばしば撒かれた。
内容は「日本を再建する人々」と題して、富士山を背にハンマーを振るう勤労者の姿を画いたものだった。
誰も皇軍の最後の勝利を疑う者はいなかった。
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比島のジャングルを彷徨
千葉陸軍高射学校浜松分教所
大
槻
一
郎(神州丸)
二時間・父との別れで出発
昭和十五年当時、舞鶴の海軍工廠にいたが、じっとしておれない思いで軍属として満洲に行った。つづ
いて、少年兵を志願、二期生として千葉陸軍防空学校浜松分教所(昭和十九年四月千葉陸軍高射学校に改
名)に入校。今にして思えば親の意中など考えもせず、ただ一途な愛国精神のみだった。
昭和十九年十一月、思い出深い浜松時代を繰り上げ卒業し、風雲急な南方の戦地へ向かうことになった。
故郷へ電報を打ち、僅か二時間の父との面会のあと、勇んで校門を後に、浜松駅まで行進した 。(引率の
村瀬准尉は南方で戦死された )。
軍用列車に乗ったとき、どこからともなく〃君が代〃の曲が流れる。見送る人々とともに、車中のわれ
われも一瞬静まりかえったこと、このときの感懐は言葉では表現できないものだった。〃君が代〃が終わ
ると、列車はすべるように動き出した。
行き先もわからぬまま輸送船神州丸に乗船した。他の部隊と一緒で、約二千五百名位だったろうか、船
底には軍馬がたくさんいたが、南方のあの暑いところで馬はとても耐えられないのではないかと思った。
一三〇名のわれわれ同期生は、三隻の輸送船に分乗し門司港沖を出港したが、私たち乗船の神州丸だけ
が無事で、あきつ丸、摩耶山丸は東支那海で雷撃を受けて沈んだ。制海権はここもすでに敵のものであっ
た。
比島リンガエン湾に上陸
門司ー済州島ー上海ー台湾馬公ー高雄を経て十二月二日、比島リンガエン湾に上陸したときは、同期生
は五十名に減っていた。その五十名がマニラ高射砲司令部へ配属になり、さらに三つの部隊に分かれた。
翌二十年一月三日、配属されたクラークフィルドの野戦高射砲第七十八大隊(隊長・熊野少佐)本部は、
留守部隊が小倉の関係で九州と中国地方出身者が多く、ほとんど召集兵なので私のような少年兵を大事に
してくれた。
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上陸したときは敵の空襲と艦砲射撃の毎日であったが、若く独身なので恐さ知らず、内地で鍛えられる
よりは愉快な毎日であった。部隊の位置は中部ルソンの飛行場近くで、毎日十時にどこからとまなく敵機
が来襲した。P二四護衛のP三八、P五一グラマン六十機ぐらいの編隊である。敵機と友軍機の空中戦の
下から力の限り弾幕を広げて撃ち、いつも二・三機は撃墜した。
しかし、量をたのむ敵の攻撃のために、友軍戦闘機を次々に失い、敵が三機に日の丸一機の空中戦を見
るようになった。
ジャングル内の逃避行
高射砲隊も弾丸の補給が続かず、次第に制限を受けるようになるなど、戦況は悪化してきた。昭和二十
年一月九日、艦砲射撃と爆撃のあと、米軍はフィリピンに上陸を開始してきた。北から南に下がって、二
月十日頃マニラに突入してきた。日本軍も波打ち際の戦闘、マニラの市街戦でかなり抵抗したと聞いてい
る。わが部隊も予定の行動として高射砲を土中に埋め、原住民、ネグリートのいるジャングルへ入り、こ
の日から終戦まで悪戦苦闘の逃避行がはじまった。
各部隊が山に入ったので米など糧秣は切れ、芋畠も掘り尽くされたので、パパイヤ、山芋、蛇、トカゲ
など、何んでも手当たり次第に早い者勝ちで食べた。大勢が山に逃げたので、焼夷弾で山を焼かれ、歩く
道は銃撃され、制空権を握っている敵機は低空で自由自在に飛来した。
二十年五月頃、部隊として行動ができないので部隊を解散し、十~十五名の小グループで行動した。昼
間は休息、夜間に食べ物を探して移動した。塩もなく、米もないので栄養失調者が続出し、ジャングルの
中で次々に倒れた。戦友のことを案じながらも、自分ことが精一杯でどうすることもできなかった。
ラグナ湖畔の捕虜収容所へ
悪戦苦闘の末、九月中旬、一ヶ月遅れて終戦を知り、恐る恐る敵の軍門に下りPW生活に入る。マニラ
南方、ラグナ湖畔の捕虜収容所は、食事こそ十分であったがノルマは強いられ、ただただ故国恋しさに歌
を口ずさみながら頑張った。
マニラから高砂丸に乗船し、二十年十二月十三日、広島大竹港に上陸して、帰還は本当だったと感じた。
頭の毛が赤くなり、骨ばかりなった私の顔を見て、故郷の人たちは驚いた。
- 200 -
戦地では、敵の野砲も山砲も爆撃も恐くなかったが、威力を発揮した携行便利な敵の迫撃砲と、マラリ
ヤが恐かった。ジャングルの生活から栄養失調で倒れ、また、戦闘で多くの戦友が惜しくも命を犠牲にし
た。こうして無事帰還できたのも、多くの戦友の犠牲の上にたってのものであり、若い身空で南方の露と
消えた戦友の冥福を心よりお祈りする。
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ヒ八一船団関係者報告・手記
あきつ丸船砲隊長として
船舶砲兵第二聯隊あきつ丸船砲隊長
冬 木 兵 三 郎
海防艦に合わせて減速
昭和十九年十月二十日レイテ作戦の開始により、満州関東軍の精鋭が次々とフィリピン作戦に投入さ
れた。ヒ八一船団は、満州北部駐屯の精鋭機動兵団の第二十三師団(旭)を主力とする乗船部隊の輸送
船等で編成されていた。
船団航行は台湾の高雄までを第一区間、それ以後を第二区間とし、高雄でタンカー船団と分離される
計画だった。各船が門司待機中
「船団出航の情報がスパイに入手され、すでに敵潜水艦が五島沖で待ち構えている」
と言う不気味な噂が流れ、不吉な予感が漂っていた。
しかし、この高速船団に選ばれた各船は、陸軍上陸用舟艇母船等の高速特殊輸送船に、護衛空母等に
護衛されていたので、各部隊将兵は意気軒昂であった。
昭和十九年十一月十三日朝、
門司を出航し佐賀県伊万里湾に入泊。翌十四日出航とともに船団を組み、護衛の空母神鷹、駆逐艦、
海防艦と共に船団は減速十二ノット。之字運動Q法をもって高雄に向けて航行した。
船団は、指導基準船の海軍特設運送船聖川丸に、あきつ丸、摩耶山丸、神州丸、吉備津丸の四隻と、
昭南方面に油を積に行く一〇 〇〇〇トン級の高速タンカー五隻が空船で加わった。
.
輸送船の船速は全部十七ノットの実力を保持していたが、護衛の海防艦が鈍速のため、止むなくそれに
従ったとみるべきである。
敵潜警報発令 !
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本船には第二十三師団第六十四聯隊の主力、および摩耶山丸、あきつ丸に分散乗船の陸軍少年通信兵、
少年戦車兵、少年野砲兵、少年重砲兵、少年高射砲兵の繰り上げ卒業の少年兵並びに、第二十陸軍海上
挺進隊並びに同
第二十基地大隊員等の約四 五〇〇名が乗船していた。また、特攻用舟艇
一〇四
.
隻、軍馬、乗船部隊の会戦用兵器・弾薬・資材等も積載されていた。
第二十三師団は摩耶山丸、神州丸、吉備津丸にも分乗していた。われわれは何としても無傷のままで
フィリピンに上陸をと強い決意で任務についていた。
船団は之字運動を繰り返しつつ、予定航路をすべるがごとく進撃しているうち、午後遅く突然!
「敵潜警報」
が発令された。
「進路前方に敵潜水艦が待ち伏せている」
とのことであった。
早速、総員配置につけ射撃準備を完了させた。間もなく、船団は状況待ちのため、五島列島宇久島水
道において仮泊することになった。
十一月十五日早朝
緊張の一夜を明かした船団は、さらに警戒を強化して出航した。まず、偽装航路をとり、西方に向け
済州島南海域から黄海に進むコースをとった。
初冬の天候は澄みわたり、モンスーンのため海面は玄界灘特有の白い波が立ち、肌寒さを感じた。視
界は良好で、絶好の日和だったが、白波のため対潜監視がやや困難であった。出港後間もなく空母神鷹
から索敵機が飛び上がり、低空による対潜警戒を開始した。
箸をとった瞬間、船尾左舷に魚雷命中
十五日十一時五十五分
あきつ丸の音波探信儀や水中聴音機も活動し、毎回
「異状なし」
の報告がなされていた。
- 203 -
この機械は開発間もない音波兵器であるが、時折故障を生ずる欠点があり、今回の場合も若干の故障
が出はじめたので、止むなく双眼鏡による監視を強化して、これを補うこととした。
昼食の準備ができたので、船橋後部の待機所に入り箸をとった瞬間、対潜警報が鳴り響いた。
寸秒を数える暇もなく、船尾左舷に連続して大音響が起こり、激しい振動と同時に、食膳は吹き飛び、
魚雷が命中したことを直感した。至近距離に潜伏していた敵潜水艦からの魚雷であった。発見後、転舵
までの時間がなく、後部に命中したものである。
魚雷命中と同時に、上甲板に装備された中迫撃砲弾、および船尾の弾薬、爆雷が一大音響とともに爆
発して死傷者が続発した。船体の後部三分の一がまたたく間に沈下した時、機缶室が爆発を起こし、次
いで船橋および通路付近に火災が発生した。
運命ここに極まる。雄途空しく数千の兵員、作戦資材が海の藻屑と消えるかと思うと、ただ暗然とし
て悲痛な怒りが込み上げてくる。わが船砲隊員は急傾斜する砲座にしばらくしがみついて守っていたが、
いかんせん横倒しの形で沈没するのは明白なため、私は
「総員退避!」を絶叫した。
艇の固縛ロープ切断
甲板上の
特攻艇の固縛ロープを切断したため、
艇はバラバラと海上に滑り落ち、その後の救
命に役立ったが、左舷から海に入った者は飛行甲板の下敷きになり、数多くの生命を失う結果となった。
私は船橋付近から、近くにいる兵員とともに、大きく傾斜した船腹を滑り降り、海中に飛び込んだ。
遭難船からの退避方向の違いが生命の安否につながるとは思ってもみなかった。その時点でいえること
は、一瞬の判断力が、その個人の運命を決定づける厳粛なる賭のようなものであった。
私達が四・五十メートルほど船体から離れた頃、あきつ丸は赤い船底を見せながら、裏返しの形で空
しく海中に没し去った。まことにアッという間の出来事としか思えなかった。
かなり厚着をして、常に遭難時の用意をしていたつもりであったが、海水がすぐに浸みとおり、氷の
ような冷たさに、思わず身が震えた。あまつさえタンクから噴出した重油が付近一面に拡がっていた。
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寒気に四肢の硬直・胃痙攣・睡魔
黒い油層に浸ってその臭気と息詰まるようなガスに包まれ、二重の苦痛にさいなまされた。極度の寒
気に体の震え、ガクガクする胴震い、四肢の硬直、胃痙攣等々、地獄のさまよいから急に睡魔に襲われ
仮眠状態に入る。目覚めるやさらに厳しい痙攣の波、多くの将兵が同じ苦痛にうめき、絶叫しつつ、眼
前で刻一刻と昇天していく。まことに悲惨としかいいようがない。
再び睡魔に誘われ前後不覚となる。時計はすでに停止して時刻は不明。ふと気がつけば駆逐艦が目前
で停止していた。
私達のゴミのような一群は潮流に乗って舷側にたどり着いた。誰が誰やら区別はつかぬ黒ん坊姿で艦
上に引き揚げられ、軍衣を脱がし、体の油を拭き取ってくれたのは水兵たちであった。気のゆるみで気
絶しそうになると、容赦なく頬にビンタを浴びて正気に戻された。ひととおり手当がすむとお粥が与え
られ、はじめて生きていたことの意識が甦った。
果たして幾人の者が救助されたのか。艦が警報を発令しては突然走りだすので、折角舷側まで来なが
ら救出されない者もかなりあったようだ。
十六日早朝
船団に近づき神州丸に移乗した。収容された者は、みんな疲労と安心から綿のように睡眠をむさぼり、
私は夜になってやっと目が覚めた。折から月も出ない暗黒に、海面は僚船の舳先に砕ける白波だけがか
すかに、しかも時折見える程度であった。
摩耶山丸の雷撃を知る
十七日十八時十八分
前方の闇空に信号弾が上がる。一瞬緊張がみなぎる。右舷を並進していた摩耶山丸が敵潜の雷撃を受
けた。
「摩耶山丸、魚雷命中!」
第一弾が機関部中央に、二弾目が機関部後方に命中した。
船橋付近が突然明るくなると、同時に黒煙と水煙が高々と船体を包み、爆発音が轟々と響き渡った。
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船体は瞬時に横転し、水煙が収まった後には、すでに船影はなく、その最後は轟沈を思わせた。位置は
北緯三十三度二十一分、東経一二四度四十二分の済州島西方一二十キロであった。乗船していた船砲隊
員戦死者は、第一聯隊一九二名、第二聯隊五名であった。
十七日十一時十分
神州丸の船内では警報が連続的に鳴り響き、騒然たる空気に覆われ不吉な予感がヒシヒシと感じられ
た。
摩耶山丸沈没後、今度は右舷後方を航行していた空母神鷹の左舷に連続数発の魚雷が命中し、轟音と
ともに火柱を吹き上げた。流出するガソリンで海面は火の海と化し、なおも艦は火だるまになって走行
していた。まさに凄絶悲惨、断末魔の光景を展開していた。
ヒ八一船団は、兵員輸送の高速特殊大型輸送船二隻と護衛空母等の兵員六千余名を失った。
おそらく船団は多数の敵潜水艦に包囲されているに相違ない。各船は恐怖の中にも対策を講じ、僚船
との連携をとりながら、一斉に爆雷投下を開始した。こうなっては敵潜水艦を抑圧しながら前進する以
外方法はなかった。
敵潜水艦と闇夜の砲戦
しばらくして先頭を行く艦隊洋上補給船みりい丸が、前方に浮上した潜水艦を発見し、戦闘を開始し
た。闇の中で機銃射撃が起こり、続いて猛烈な爆雷投下が敢行された。息詰まる対潜戦闘は神経の消耗
であり、ムキ出しの闘魂対闘魂の激突でもある。
十一月二十一日夕刻
ようやく黄海を乗り切り、上海沖八格列島西側に入泊。私たちはここで下船し、救助された兵力を指
揮して鉄道により朝鮮経由で宇品に帰隊した。
また、左舷から退船した者の中には、
艇や筏で漂流中、漁船その他に救助され長崎海岸に上陸、
帰隊したという者たちもいた。
ヒ八一船団はその後も南下を続け、十一月二十五日正午、澎湖島東側に至り、高雄に寄港して台湾・
沖縄派遣軍およびタイ・仏印に派遣の一部の便乗将兵が下船して聖川丸、神州丸、吉備津丸はタンカー
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船団と分進行動に移り、フィリピンに向かった。
艦隊付属洋上給油船
みりい丸一等航海士
市 村 愛 三
ヒ八一輸送船団と共に
昭和十九年十一月十日
濃い秋色に包まれた関門港周辺に、どこからともなく忍び足で、十数隻の高速特殊輸送船と高速大型
タンカーが、下関港外六連島沖、部埼沖錨地に集まってきた。一部は門司港内にと分散して、時の至る
を待つかのような姿勢で停泊していた。
みりい丸もその中の一隻で、すでに燃料、食料その他の航海必需品の搭載を終わり、港内岸壁に横ず
けされていた。
前線の戦局悪化を反映して、門司港は非常時の色彩がますます濃厚となっていた。十二日、各船の船
長、機関長、警戒隊指揮官などが武官府に招集されて船団会議が開かれた。
席上、本船はヒ八一船団傘下に入って航行することになった。
その頃、船内には誰いうとなく、
「こんどの船団出航は、すでにスパイによって近海にいる敵潜水艦に通報されている。だから、敵潜は
網を張って船団を待っている。出港したらすぐやられるぞ」
という噂が広まっていた。
当時は各船団が、出港後一両日内に敵潜水艦に襲撃されるという事実から、そのような噂が生まれた
ものか、あるいはまた、実際にそうしたスパイ活動があったのか、いまだにその真相はわからない。
十一月十三日朝
みりい丸は僚船とともに、極秘のうちに舳艫相ふくんで門司を出航した。陸軍水上機母艦の聖川丸を
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基準船として、他の特殊大型高速輸送船四隻に、陸軍第二十三師団(旭兵団)の大半の将兵等が分乗し
ていた。
同船団に編入された、みりい丸以下四隻のタンカーは最大級の高速優秀タンカーで、各タンカーとも
門司出港後、船長発表により船団の概要を知ったが、ヒ八一船団は高雄において解散、船団編成替えの
上、四隻のタンカーは昭南(シンガポール)に、旭兵団分乗の四隻の輸送船はレイテに向かうということ
であった。
旭兵団のフィリピン投入により、劣勢にあるレイテ周辺の戦局を一挙に挽回しようと、多大の期待が
寄せられた精鋭機械化兵団だった。
一方、本船団の護衛艦は、護衛空母神鷹、駆逐艦樫、海防艦六隻と言う堂々たるもので、空母を護衛
に配した点からも、いかにこの船団が、作戦上重要なものであったか想像できる。
近距離交信中の敵潜の電波を
玄界灘を八ノット単縦陣。夕闇迫るころ、全船団は吸い込まれるように、伊万里湾奥深くに仮泊し、
厳重な灯火管制下に一夜を明かした。
十一月十四日早朝
伊万里湾を出航。船団会議打ち合わせどおり、やがて三列縦隊となり之字運動に入った。九州の山々
も次第に後方に遠のき、誰もがこのまま上海沖を経て、高雄に直航するものと思っていた。
先駆の海防艦は正午過ぎ、早くも敵潜水艦を探知、船団は急遽転進、また五島列島北部の宇久島水道
に避泊した。日はまだかなり高かった。
敵潜に捕捉されたとすれば、この水道も決して安全な泊地ではない。東西の入口に海防艦を遊弋させ、
全船団は終夜警戒配置。夜間、みりい丸の受信機は、近距離で交信中と思われる怪電波を捉えた。泊地
周辺に網を張っている敵潜水艦同士の交信に違いない。やはり噂は単なる噂ではなかったようだ。
十五日朝
船団は爽やかな秋晴れの海に一斉に宇久島水道泊地からすべり出た。水道東口を出て、しばらく疑似
針路で南下、そして急転、済州島南岸をかすめて上海沖へ達する針路に入った。
- 208 -
速力十二ノット、敵潜の襲撃さえなければ、これ以上快適な航海はないと思われるほど、奇麗に右に
左に之字運動で航走中、五島の島影も見えなくなった。空母の護衛はみりい丸にとって初めてのことで
ある。
空からは潜行中の敵潜水艦も、昼間なら確実に発見できるとか、全く百万の味方を得たような気持ち
であった。空母からの哨戒機は常時、二機ぐらい船団周辺の上空を飛んでいる。昨日から、本船団をね
らっている敵潜も迂闊に手を出すわけにはいかないと思われた。
船団の静寂を破って爆発音!
十五日十一時五十五分
対潜警戒を空母にのみ頼ることはできない。各船、厳重な見張警戒をおこたらなかった。恐らく誰も
が、この厳重な警戒網をくぐって敵潜水艦が、昼間襲撃を敢行することはないと思っていた矢先、轟然、
船団の静寂を破って爆発音
「魚雷命中 !
あきつ丸 」
見張員の報告が乱れ飛んだ。
あきつ丸は瞬時にして、大きく右舷に傾斜し、早くも沈没の態勢になった。陸軍の飛行機運搬船のあ
きつ丸の飛行甲板には、南方諸島における特攻用陸軍連絡艇
に、多数の
が多数搭載されていた。雷撃と同時
が海中に吹っ飛んでしまった。
みりい丸は直ちに総員戦闘配置について対潜戦闘に血眼となった。船団は之字運動を続けながら、針
路を北に変え、朝鮮半島南岸中部に向かった。同時に十分間隔で爆雷の一斉投下を開始。不気味な爆雷
の海中炸裂音は、その都度船体をビリビリと胴震えさせた。一部の海防艦と空からの哨戒機は、雷撃地
点付近に残って索敵に狂奔していた。
「魚雷音、近い !」
と絶えず舵輪を回しながら、全神経を集中していた水中聴音員は、蒼白な顔をして叫んでいた。
船橋見張員の眼は全周に張りめぐらされていた。同時に
「魚雷音、方向知らせ!」
- 209 -
と船長の命令。
「魚雷音、全周 !」
と応答があった。
困った!方向不明。かわす術なし。命中するかと一瞬覚悟したが、時間が経過するも命中せず。よう
やく機械調整不良(船内電源電圧に対する)による異常音の発生と気づいたときは、ほっとした。
十六日未明
船団の一斉投下による絨毯爆雷、海防艦、哨戒機の活動に制圧されてか、敵潜水艦も沈黙の模様。あ
きつ丸を失った船団は、朝鮮半島南岸中部の麗水湾に退避した。
上空・海中の立体哨戒になぜ
飛行機による空からの哨戒、無数の眼による海上見張り、聴音機による水中探索という最高の立体哨
戒にもかかわらず、真昼間、船団は襲撃を受けた。不敵な敵潜水艦の豪胆さもさることながら、これを
事前に発見できないのはどうしたことか?。対潜警戒航行に夜間ならいざ知らず、白昼、ヒ八一船団以
上の方法があるとは考えられない。これから先、本船団はどうなるのか。
夜陰にまぎれて湾内深く退避し、完全に敵潜水艦をまいてしまったと思っていたが、今にして思えば、
敵潜はレーダーで常時船団の所在を確認しつづけ、出てきたら攻撃しようと手ぐすね引いて潜行してい
たに違いない。わが方はそんなことは露知らず、盲蛇式に従来の対潜戦法で船団を推し進めようという
のであった。
十七日朝
麗水湾から少しでも目的地に近づくため、船団は朝鮮半島南岸西部の珍島東側錨地に移動。よく晴れ
た秋空の下、船団は上海沖まで一挙に東シナ海を横断すべく錨地を離れた。航程わずか一昼夜のところ
だが、うまく乗り切れるかどうか。南朝鮮の秋深きころは、空気はどこまでも澄みきって空はあくまで
も高く、大小の島々を右、左にかわして外洋に出る。空母から哨戒機も飛び立ち、船団は十二ノットの
既定速力で鮮やかな之字運動を展開していた。
水中聴音機に異常音が!
- 210 -
十七日
本船の水中聴音機員はしきりに小首をかしげ、呟いていた。
「どうもおかしい。異常音が入ってくる」
「敵潜水艦が近づいているのと違うか」
「ときどき微かに聴こえるだけなので、はっきりしないんだが」
けれども哨戒機も飛んでいる。
海防艦も船団の外側をとり巻いているのだ。本船で聞こえる水中音が彼らに聞こえぬはずはない。何
か機械の調子のせいではないのかと疑問を持ったが、一時間くらい経つうちに、聴音機の調子の狂いの
せいだと考えてしまった。しかし異常音は引き続き、ときどき聴こえてきた。
初冬の日は暮れるのが早い。太陽は西空を金色に染めて水平線に没した。この時
「総員配置!」
が発令され薄暮警戒に入った。
空からの哨戒効果も次第に薄らぐ頃、今日一日の締めくくりでもするように、空母からはさかんに飛
行機が飛び立った。海防艦の行動も活発になってきた。日没前後の一時間は、対潜警戒上最も危険な時
とされている。間もなく夜の帳が下ろされようとする頃、哨戒機は次々と空母に着艦しはじめた。
今日も一日は無事に走れた。しかし、今夜が問題と思った時、
十七日十八時二十分
突如!にぶい爆発音が左舷後方の近距離におこった。
摩耶山丸に魚雷攻撃
雷撃を受けたのは摩耶山丸だった。噴き上げられる飛沫が消滅しないうちに、ぐっと左舷に傾き早く
も沈没の態勢になった。敵の魚雷の威力はすさまじい。ただちに船団は一斉投下の絨毯爆雷攻撃を開始
した。
たちまちにして海は昂奮のルツボと化し、海神も怒ると思われる海中の轟音が、全船団をビリビリと
胴震いさせた。数千の将兵と兵器を満載した摩耶山丸は、雷撃を受けてわずか五分とたたぬうちに、水
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平線に没した秋の夕陽を急ぎ追うかのように、船尾から引き込まれる姿勢で海中に没し去った。
やはり水中聴音機は正直だった。敵潜は朝から船団を追跡していたのにちがいない。摩耶山丸の雷撃
によって確信は深まった。あきつ丸といい、摩耶山丸といい、何れも九 〇〇〇トンを上回る巨船だっ
.
た。共にわずか一・二本の魚雷で致命的な被害を受け沈没してしまった。期待を寄せられていた旭兵団
は早くも大きな戦力を失った。旭兵団はその作戦を急ぐためと、船腹利用の点から、ごく一部を除いて、
兵員とその部隊装備の兵器を別々の船に搭載したからである。二隻の沈没によって、兵団の兵員と兵器
がちぐはぐになってしまった。果たしてレイテ周辺の米軍に対抗して、巻き返し作戦が奏功できるのだ
ろうか。
夜に入った。よく晴れた暗夜で星が奇麗だった。
船団は敵潜水艦の追跡を振り切らんものと、十四ノットの全速でジグザグに進んだ。海も裂けよと爆
雷の一斉投下を続けながら、眼は暗黒の海に白一線の雷跡を発見せんものと虎視眈々と緊迫の連続だっ
た。
こんな時に怖じけづくと、自分が立っている真下の水線部に今にも魚雷が炸裂しそうな気がして、足
も体も宙に浮いてしまう。一ヶ所に落ちついていることができず、ついうろうろと動きたくなる。味方
の爆雷の音にも、そのたびに胆を冷やす。しかしその後、
「エエイ ! ままよ。どうせ一度は死ぬ生命。いつ死んでもいいじゃないか。ジタバタするな。いつで
も死んでやる !」
と、われとわが身にいいきかせると、不思議に恐怖心が遠ざかってゆく。しばらくすると、また恐怖心
が起こる。それを糞度胸で落ちつける。
敵潜水艦との戦いは同時に自己の恐怖との戦いでもあった。
空母神鷹に火災発生
敵潜水艦に捕捉されたが最後、なかなか振り切ることができないことは、いままでの事実が示してい
る。いつまでも
「総員戦闘配置」
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は解けず、爆雷の間歇的一斉投下がつづけられた。
水中聴音機は味方の爆雷投下に邪魔されて、かすかな敵潜の機械音をキャッチすることは困難となっ
た。頼むは見張りのみと、言ってもこの暗夜である。雷跡もよほどの近距離でなければ発見できない。
かわす余裕がなければ発見してもなんにもならない。狙われたら最後である。
逃げ回ってでもいるような之字運動と、威嚇的爆雷一斉投下のうちに時間の経つのも忘れていた。
と、一息ついた瞬間。
十七日二十三時十分
「空母に魚雷命中 ! 火災発生」
と、後部見張員の報告である。
二浬以上の距離があり、味方爆雷の炸裂音の方がはるかに大きかったので、前方見張員ははじめ気づ
かなかった。
船橋左舷翼に飛び出てみると、すでに空母の後半部は紅蓮の炎に包まれていた。搭載していた航空ガ
ソリンに引火したのだろう。本船団の生命とも頼む空母である。勿論、全力をあげて消火にとりかかっ
ているであろうが、なんとしても火の手が上がるのが早かった。時ならずして炎は前部にも拡まり、暗
黒の海面を照らし、天を焦がしはじめた。火災は黒一線を劃した飛行甲板に抑えられて下にまわり、黒
い船体を舌なめずりしている。ときどき火勢余ってメラメラと飛行甲板の上に這い上がってくる。付近
の海面に流出した油が燃えているのであろうか、一面火の海と化した。船体も真っ赤に焼きただれた感
じで、さながら焦熱の地獄絵図が眼前に展開されたも同然。凄まじい慘!。私は呆然として世紀の光景
を見守った。
浮上の敵潜水艦と砲戦
船団は空母の火災に照らされて、あたかも照明弾の下を航行しているような形となった。早くこの照
明を離脱しなければ危険である。みりい丸は速力に余裕が有ったので、増速したのだが、船団航行であ
る以上、そういうわけにいかない。
空母は後方水平線下に没し、十浬以上離れたと思われるが、あたりはまだ明るい。僚船がはっきり見
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える。きめられた時間の爆雷一斉投下など待っていられない。僚船の動きと睨み合わせて随時投下に移
った。船団各船からの随時投下により海は轟きわたり、船体はひっきりなしに胴震いしながら走った。
逃げ回ること二時間、ようやく空母の燃える明かりから離脱できたと思ったら、こんどは海防艦が暗
黒の海上に浮上した潜水艦を発見した。艦は船団右側前方の潜水艦に機銃攻撃を開始するとともに、
本船も直ちに戦闘命令が下された。右舷側船橋楼上五門、船尾楼上の五門の二十五ミリ機銃は一斉に
火を吹いた。
闇をきって幾条もの曳光弾が闇に吸い込まれる彼方に、白い航跡を残して遁走する敵潜水艦が黒い
影のように双眼鏡に映った。敵潜の逃げ足は早く、間もなく闇に消え去り、その後を海防艦が追跡し
て行った。
もう少し発見が遅れていたら、いずれかの船がまた血祭りにあげられていたと思うと、背筋がゾー
ッとしてきた。みりい丸は再び爆雷戦に移り、ジグザグに航路を変えて西に向かった。
夜明けが待ちどうしい。まだ解放されてはいない。あと数時間の辛抱だ。夜が明ければ大陸の岸近
く、潜水艦の活動できない浅海面に達する。
上海沖八格列島錨地に
揚子江の濁流で黄色に変色している海に差しかかったころには爆雷投下も中止されていた。警戒隊
員は空を仰いで対空警戒に専念していた。そして、夕日が赤く染まろうとするころ、上海沖八格列島
西側泊地に疲れた姿を横たえた。
長い航路だった。朝鮮南西岸からわずか三〇〇浬たらずであるが、いままでのシンガポール一航海
ほどの長さに感じられた。くたくたに疲れた体をベッドに横たえ、欲も得もなく貪るように眠った。
しかし、みりい丸にとって、缶水の塩分が増加し、さらに養缶水タンクの塩分濃度も高くなり、ボ
イラー・チューブにスケールがついていた。
爆雷による船体の激震により、養缶水タンクに海水が侵入したためだった。この八格列島錨地では
どうすることもできない。
二十四日早朝
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空母と摩耶山丸の救助に当たった護衛艦の復帰を待ちつつ、三晩ゆっくり休養した船団は、泊地を
出て支那大陸沿岸を南下し高雄に向かった。翌二十五日正午、台湾・澎湖島東側に差しかかり、基準
船聖川丸、神州丸、吉備津丸は高雄に、タンカー四隻は馬公へと分かれた。
ここに非運のヒ八一船団の編成は解かれた。
二十六日正午
みりい丸は高雄に到着。直ちにボイラー・チューブの掃除、缶水ブロー、養缶水タンク内漏洩部の
手入れ補修などを行い。十二月四日、輸送船八隻と護衛艦で編成された昭南行きのヒ一二船団に加わ
り、高雄を出航した。
旭兵団ルソン島転戦の記
第二十三師団工兵第二十三聨隊第二中隊
中隊長
陸軍大尉
落合秀正
平成元年に、第十九師団生還者の「ルソン戦記ーベンゲットの道」に掲載された第二十三師団関
係記事に虚実と誤謬があった。戦記は一片の破片であり、身びいきもあり、建前だけのものもある。
真実の欠落部分をそれぞれが埋めて、真実の記録が残される。生き残った者の使命であり、義務で
あるとの思いから、昭和四十四年、工兵第二十三聯隊会で発行した連隊記録を元に、聯隊会の同意
を得て「旭兵団ルソン島転戦記」を記して、昭和六十一年十一月発刊の雑誌「丸」別冊「太平洋戦
争第四巻」に発行書店の依頼を受けて掲載した。
昭和十九年十月五日
第二十三師団に動員が下令された。師団は急遽、甲師団から乙師団に編成替えをして待機した。
十月二十五日
第二十三師団(旭)第二十三工兵聯隊に出動命令が下り、中国北部(旧満洲)ハイラルから朝鮮半島
南端の釜山に貨物列車で下った。
- 215 -
師団は三梯団に分かれて、陸軍大型特殊輸送船等十隻に分乗した。工兵第二中隊は第一・二・三梯団
の神州丸外六隻に分乗し、門司を経由してフィリピンに向かった。途中、東シナ海済州島沖で、出港二
日目の十五日昼、あきつ丸が敵潜水艦の雷撃を受け、十七日には摩耶山丸が、また、十二月第三梯団の
はわい丸が男女群島沖で沈没し、師団兵員の約三分の一と多数の装備を喪失した。
ルソン島持久作戦への布陣
第一次梯団のヒ八一船団は十二月二日、第二梯団のヒ八三船団は十二月十二日、第三梯団のミ二九船
団は十二月二十三日に北サンフェルナンドに上陸した。戦局の変化に伴い、レイテ決戦を断念してルソ
ン島での持久作戦に切り換えられた。
十二月三十一日
すでに配置についている諸部隊と、海没のため激減した将兵の補充人員が配属されて、師団は総計三
万名の兵力になり、兵器・弾薬・装備・食糧・医療品等は、輸送船の沈没により乏しいまま戦闘に入っ
た。
昭和二十年一月六日〇二時〇分
「敵艦船多数湾内ニ侵入中、直チニ聯隊本部に出頭スヘシ」
との非常呼集を受けた。
聯隊長から
「第二中隊ハ
予メ指定セル陣地前ノ重要橋梁ヲ速ヤカニ爆破スヘシ
タダシ実施時刻ハ別命ス」
の命令を受ける。
工兵聯隊本部は、三個中隊と器材小隊の約九〇〇名から成り、各中隊は指揮班、四個小隊、器材分隊
の約二六〇名編成だった。第一、第三中隊は、輸送船の沈没で多くの海没者を出し、将兵の補充を受け
て再編したばかりだった。
輜重兵第二十三聯隊は、一個中隊が釜山と門司に残留。北上中尉以下一〇二名と馬匹、トラック多数を
海没で失ったが、敵の空襲下、危険をおかして兵員・弾薬・資材を輸送し、戦闘準備を迅速にさせた。
橋梁爆破は各小隊長の指揮で予定どうり行われ、終戦までアメリカ軍との激しく苦しい死闘の始まりと
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なった。
海上挺進隊高橋隊長と会う
聯隊本部から約六十キロ離れたリンガエン湾スワルに、海上挺進隊第十二戦隊・高橋隊七十八名、同
基地大隊九〇〇名と、この挺進隊の援護と、西岸に進出する敵を制扼する任務を担って、第二十三師団
捜索第十二聯隊久保田支隊(指揮・久保田中佐)と、歩兵第七十二聯隊第一大隊(野田大隊)を基幹と
する部隊が布陣していた。工兵第二中隊は陣地構築支援のため、前田軍曹以下七名を派遣した。
昭和二十年一月六日
海上挺進第十二戦隊長・高橋大尉とダグバンで会った。
この日午前、橋梁に爆薬を装着中で敵の艦砲射撃や銃爆撃も始まり、緊迫した状況下にあった。高橋
隊長は師団司令部で命令を受領して帰る途中で、ゲリラの状況を尋ねられた。
「アグノ川の艀がゲリラに沈められたこと」
等を話して、ゲリラ駆逐用に手榴弾五十発を渡して、声をかけ合って分かれた。
その三日後、高橋隊は七十隻の
に分乗して敵艦船に突入体当たりして全員が戦死した。
久保田支隊全滅か
スワルに布陣していた捜索第二十三聯隊久保田支隊(長・久保田中佐 )、歩兵七十二聯隊第一大隊、
海上挺進隊基地大隊は。旭兵団主力と支隊の間に、アメリカ軍五個師団が強襲上陸してきたために分断
され、孤立無援のまま敵上陸部隊と戦闘に突入した。
しかし、航空機、戦車、砲兵隊の支援もない状況下で、十一日夜、前進陣地を撤収した。支隊将兵の
大半は連日の猛砲撃に斃れ、ついに食糧さえもなくなった。中隊級の小グループに分かれ、自戦自活で
敵の包囲網を脱出した。
久保田支隊は、ハイラル出動時、軽装甲車、乗車中隊の四個中隊五〇〇名編成であったが、第三梯団
はわい丸の沈没で北サンフエルナンドに、第一、第二中隊の約三〇〇名が上陸した。
比島ゲリラ部隊は、アメリカ軍から武器・弾薬・食糧等の補給を受けて、一個大隊八〇〇名の三個大
隊の部隊に迫撃砲大隊で聯隊を編成。ゲリラ部隊に待ち伏せ攻撃や残置患者部隊が襲撃され、わが軍の
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- 218 -
戦死者が増えていった。
また、転進途中の市街、集落の住民たち全てが米軍に内通し、ゲリラ部隊に通じているので、この中
を潜行突破するのは至難のことであった。
同じ戦線にいて、歩兵三個中隊と機関銃中隊、大隊砲小隊に工兵分隊と無線分隊の九〇〇名で編成さ
れた歩兵第七十二聯隊野田大隊は、一月下旬、ラブラドル南側陣地を撤退する時、大隊の半数が戦死し
ていた。残った将兵も食糧不足で栄養失調になっていた。そして最後の食糧として、わずか一人に米五
合ずつが分配された。
加えて、一 〇〇〇メートル級の人跡未踏の山中を、野草や川蟹などを集めて腹の足しとしたが、マ
.
ラリア、アメーバ赤痢等の病気が蔓延して、病死者が続出した。わが主力はゲリラ部隊との戦闘であ
った。
野田大隊の生還者は
「電波を出すと敵の砲撃が集中するので、電波発射を禁ぜられた」
と語っていた。
通信施設、機能が破壊された三月以後、連絡途絶状態で久保田支隊の最後の状況は不明であった。終
戦時に、終戦伝達の連絡者が米軍と共に、ラブラドル一帯を捜索したが、久保田支隊の将兵は一名も発
見されなかった。内地に復員した生還者もいなかった。途中でアメリカ軍やゲリラと交戦して全員戦死
したものと思われている。
手榴弾を束ねて戦車に体当り
昭和二十年一月
アメリカ軍は上陸までの四日間、リンガエン湾岸一帯に猛烈な艦砲射撃と航空機による銃爆撃を加え
てきた。
一月七日
工兵聯隊は、第一中隊(長・光武中尉海没、後任北村中尉
後に戦死)が、歩兵第七十一聯隊に配属
となり、第三中隊(長・甲斐中尉海没、後任安倍中尉は後に戦死)が師団司令部直轄。第二中隊(長・
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落合中尉)は、第一小隊長(掘門少尉
後に戦死)を歩兵第七十二聯隊に配属。村上伍長の一個分隊
を歩兵第六十四聯隊第二大隊に配属した。主力はカバルアン丘の大盛支隊の陣地構築支援に赴いた。本
部と器材小隊だけが聯隊長の手もとに残った。
大盛支隊は歩兵第七十一聯隊第二大隊のほか、速射砲小隊、野砲小隊、師団通信分隊が配属された八
百数十名の兵力であった。
一月九日〇七時二〇分頃
敵は上陸を開始。その日のうちに四個師団、翌々日に一個師団基幹が上陸した。
これに対し旭、盟の両兵団は約三万名。この隔絶した兵力・物量の差と制空権の喪失により、次第に押
されていった。
支隊ト共ニ死守シ玉砕セントス
一月十五日朝
工兵中隊主力は聯隊長指揮下、カバルアン丘にいた。私は中隊の去就の意見を具申する時期が来たと
判断した。小隊長たちは私に任せるという。
「……任務ノ主旨ニモトズキ支隊ト共ニ死守シ
玉砕セントス…」
と言う電文を送った。
ただ、上層部のあいまいな戦闘指導に対する批判が無意識ながらこめられていたように思う。
十五日夕方
中隊に脱出命令が下令された。大盛支隊に決別に行く。猛砲爆撃下、彼は緊急指令を出しつづけなが
ら、落ち着いた声で励ましてくれた。
工兵中隊主力二〇〇名は、脱出中に敵観測機に発見され砲撃を受け、死傷者四名を出したが、敵戦車
隊の正面を通過して、二十二日聯隊本部に辿り着いた。
重見戦車支隊も玉砕
一月六日夜
旭兵団に配属になった戦車第二師団重見旅団(旅団長・重見少将)の戦車第七聯隊を基幹として、撃
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兵団の歩兵大隊、砲兵大隊が配属された。戦車第七聯隊は、旧満州の関東軍から転用された現役師団で、
中戦車四個中隊、軽戦車一個中隊の七十輌で編成されていた。
ピナロンから歩兵第七十一聯隊第三大隊、歩兵第七十二聯隊第二大隊と相呼応して、戦車第七聯隊第
四中隊(中戦車十一輌)を基幹とする部隊が挺身攻撃を行った。
十七日朝
ウルダネタでは、戦車第七聯隊長指揮する同聯隊主力、歩兵中隊、砲兵中隊と、敵も砲兵の援護を受
けた戦車と、正面からの激烈な戦闘が行われて双方に大きな損害が出た。
また、七日夕方にビナロナン十字路で、敵戦車隊と歩兵部隊を、わが中戦車八輌と歩兵中隊、砲兵中
隊(一〇センチ榴弾砲)から成る部隊が迎撃して撃破したが、地区隊長伊藤少佐はじめ多数の戦死者を
出した。この両地区の戦闘は、比島作戦における日米両軍の唯一の戦車戦といわれた。
重見戦車支隊は、敵の上陸基地に突入し、敵の部隊と資材を破砕する任務を受けていた。しかし、重
見旅団長は
「制空権もなく、住民がゲリラ化した中で、装甲の劣る戦車では、その用法を無視している」
と反対し
「一部をもって突入し、主力をもって迎撃させ、共に一撃後に地の利を生かせるサンマニエルに退き、
戦車を壕に入れて保塁とする」
との信念で、師団司令部からの督促を受けるが、旅団長命令で布陣した。
十九日
米軍は戦車隊と砲兵隊支援のもとに一個連隊を投入して攻撃してきたが、片之坂軍曹らは手榴弾を束
にして、敵戦車に体当たりして爆破した。また、敵は爆撃機の援護を受けて突入してきたが戦車二輌を
失い、中隊長以下多数の死傷者を出して退却した。
二十四日
重見戦車隊は敵の猛砲撃の下で攻撃を開始したが、六輌の戦車と死傷者八十名を出して後退する。
二十六日
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敵は一三〇メートルまで前進してきたが、戦車一輌を失い、死傷者多数を出して退却した。敵は一個
大隊の増援を得て、大盛支隊陣地の内部に突入してきた。大盛支隊長は、陣地が壊滅し組織的戦闘が限
界に達したと判断し、分散して遊撃戦に移行を命ずる。支隊は火器こそ失ったが、負傷者を含め約一三
十名が残存していた。しかし、繰り返される死闘に、隊員八百数十名の内、生還者は僅かに十数名だっ
た。
二十七日夜半
二十七日まで激闘がつづき、山田中尉ら三名が、夜間に斬込隊として刺突爆雷で肉薄攻撃して敵戦車
三輌を炎上させ、自らも爆死する等の死闘が繰り返された。
重見戦車旅団長自ら戦車に搭乗し、前田戦車聯隊長を先頭に、残存戦車十三輌を率いて敵の正面に対
して夜間攻撃を敢行した。意表を突いた攻撃だったが、敵の対戦車砲の集中砲火を浴びて重見旅団長、
前田第七聯隊長も、他の将兵と共に壮烈な戦死を遂げた。
機関銃・無線機を取り外し地上戦
一月末から二月五日の間
戦車を伴うアメリカ第三十二師団、第二十五師団と激戦をくりひろげた。この戦闘で戦車第六聯隊長
井田大佐、師団整備隊長米田少佐、ウミンガン守備部隊松本大隊長など多数の将兵が戦死した。加えて
戦車並びに火砲の大部も失った。
二月上旬
軍命令により戦車に装備している機関銃(各戦車に二梃の地上戦用に脚を内蔵)無線機を取りはずし
て携行し、各部隊の装備改編をおこなった。
しかし、師団機動力発揮の根源である燃料は、油槽船の沈没等により、所定量をはるかに不足してい
た。一月はじめ、マニラクラーク基地より航空燃料の割譲を受けて、輜重隊が輸送をしていたが、ゲリ
ラの出没と敵航空機の攻撃を避けつつ実施するため、思うようにはかどらなかった。
終戦時、当時のアメリカ第三十二師団長は、重見旅団長、前田聯隊長の遺体を、重見支隊の敢闘を称
え丁重に埋葬したことが岩仲旅団長に伝えられた。
- 222 -
戦車第二師団(長・岩仲中将)の戦力は、昭和二十年一月はじめ、兵員八 〇〇〇名、戦車二〇〇輌、
.
七十五ミリ火砲三十二門、自動車一 〇〇〇輌で、師団主力には、戦車十個聯隊の他、工兵聯隊、速射
.
砲聯隊、機動砲兵聯隊、輜重聯隊、師団通信隊、整備隊、遊撃隊、患者収容隊等で編成されていた。
畠中大隊の挺身攻撃
一月五日
歩兵第七十一聯隊第三大隊(長・畠中少佐)は、サンファビアンに、大隊単位で敵中を潜伏突破、敵
の上陸拠点を攻撃するという破天荒な作戦だった。大隊はマニラから約二〇〇キロを徒歩の強行軍で北
上、南下する敵とすれ違うようにして十三日、ピナロンに到着した。
十六日
長途の行軍の疲れも癒す暇もなく、一部を残置して約五五〇名が、サンファンビアンに出発したが、
周囲でゲリラが横行し、二日間、昼は潜伏し夜に行動して敵基地に接近し、十九日一斉に突入した。
敵歩哨の〃誰何(すいか)〃に、今久留中尉が英語で答え、すかさず山口曹長が斬り倒し、杉本伍長
指揮の工兵分隊が、先頭に立って破甲爆雷を敵戦車に投げ込んだ。各隊はトラック、ジープなどに手榴
弾を投げて爆破し、燃料のドラム缶に十字鍬で穴をあけ点火、基地内は火の海になった。敵に向かって
肉薄する者もあった。
先頭に立って指揮していた畠中大隊長をはじめ多数が、反撃してきた敵の集中砲火を浴びて、五一四
名が戦死し、帰還した者は僅かに三十六名だった。また、浦本中尉指揮する別動の工兵第四中隊もボソ
ルビオ北の敵と遭遇交戦して全員戦死した。
歩兵七十一聯隊は、ハイラル出発時に編成が縮小され、聯隊本部、三個大隊、聯隊砲中隊、速射砲中
隊、通信中隊で約三 五〇〇名。大隊の編成は、本部三個中隊(指揮班、三個小隊 )、機関銃中隊、大
.
隊砲小隊からなる八三〇名だった。
砲撃戦と白兵戦の十日間
一月九日から三日間
歩兵第六十四連隊は、輸送船あきつ丸の沈没で、聯隊長中井中佐以下、本部各大隊の約一 三〇〇名
.
- 223 -
が海没した。比島上陸後、マナオアグからシソン西方方面の前線陣地を死守することになった。第七中
隊(長・藤田中尉)は、敵の上陸予想地に斬込隊として待機し、敵が上陸した一月九日から三日間、約
半数の戦死者を出しながら手榴弾や爆薬で戦車三輌、飛行機一機、物資集積所六ヶ所を破壊した。また、
村上工兵分隊も橋梁を爆破した。
この作戦には野砲兵第十七聯隊(長・吉富大佐)の主力が敵陣地に激しい砲撃を加えた。この聯隊は
摩耶山丸の沈没により、輓馬による十センチ榴弾砲一個大隊の三分の一が海没した。索引車による九〇
式七十五ミリ野砲十二門の独立野砲第十三大隊を基幹とし、歩兵第七十一聯隊からは、小田口中尉(後
に戦死)指揮の二個小隊が火砲援護に、第二速射砲中隊(長・山崎中尉は後に戦死)が、第二大隊の支
援に派遣された。戦死者は約半数に達した。
この戦闘では、敵航空機の爆撃に加え、彼我の激しい砲撃戦が十日間にわたり行われた。
一月十八日
砲兵部隊に撤退命令が出た。火砲は数門に減っていた。撤退途中に敵の歩兵と戦車に発見された。急
ぎ路上に野砲を開脚して射撃を開始し、他は小銃で応戦した。敵の戦車十数両と歩兵部隊を撃破したが、
原田中隊長以下百数十名の戦死者を出し、火砲もやっと二門を第二主陣地に脱出させる致命的な被害を
受けた。
二十六日
二十四日、わが陣地の焼却を企図した敵の焼夷弾攻撃を受け、二十六日に、わが陣地に侵入してきた
敵戦車と歩兵部隊との白兵戦になった。敵戦車二輌を炎上させ歩兵部隊も撤退させたが、両軍に多くの
戦死、負傷者が出た。直ちに、中島聯隊長は本部を含む約三〇〇名を率い、敵の背面に脱出潜伏し、敵
の猛射を受けながら、重傷病兵を担架に乗せて一気に国道三号線を横断した。第二、第三大隊も同様に
脱出に成功したが、第一大隊は敵に察知され、火網の中に突っ込み、田中大隊長以下多数の戦死者を出
した。
第七十一聯隊四八八高地争奪戦
歩兵第七十一聯隊(長・二木栄蔵大佐)は、シソン東方の四八八高地一帯に布陣した。配属の工兵第
- 224 -
一中隊は、第三大隊の残留隊と高地南側の守備に当たった。敵歩兵は砲爆撃のもとに接近し、自動小銃
を乱射して手榴弾を投げて来た。夕方になるとわが斬込隊を警戒して後退し、翌日、またそれを繰り返
した。
わが聯隊は敵を近距離まで引き寄せて、聯隊砲(四一式七十五ミリ山砲)の大平小隊は、零距離射撃
で敵一個小隊を全滅させた。
一月二十五日には一個中隊を撃退した。しかし、連日の接近戦に二月五日、ついに大平小隊長も戦死。
聯隊砲小隊も壊滅した。
水野工兵聯隊長は、第三大隊が一月二十三日にサンファビアン突入の報告を聞いていた。その矢先、
カバルアン丘の大盛支隊から決別電報が届いた。また、工兵第一中隊の北村中隊長が、聯隊長に
「ワガ中隊モ
マラリア
栄養失調、負傷者
戦死者ト悪条件ガ加ワリ
敵ト近椄戦ニ兵力ガ減退状況」
と報告していた。
工兵第二中隊は、食糧不足による体力低下により、大変困難な作業であったが、後方の道路開削に従
事した。二月末に輜重車両(荷車)道が完成した。野戦重砲兵第十二聯隊吉富聯隊長から
「道路拡張の要請を …」を受けたが、水野聯隊長は、
「部下ノ体力ノ衰弱ガ著シイノデ
コレ以上ノ作業ハ無理 …」
と、状況を説明して断った。
わが作業地も砲撃を受け、重傷病者の多くを後方の野戦病院に入院させたが、復帰できた者は少なく、
各部隊とも同様な状況だった。
米軍は海岸から直距離で十キロメートル弱で、歩兵第七十二聯隊が守備をする四八八高地を一ヶ月を
経ても、激しい抵抗にあって奪取出来ないため、新たに交代した部隊で大規模な総攻撃をかけてきた。
一月二十二日の朝
敵の大小数百門の砲撃と航空機の爆撃で陣地は破壊され、山は崩れ落ちた。火炎放射器を猛射しなが
ら近づくと、こちらから銃砲撃を浴びせ手榴弾を投げた。第一大隊森大尉も自ら軽機関銃を握り射撃し、
全員での死闘で敵を撃退した。両軍の損害は大きく、わが軍も約二〇〇名の戦死者を出した。
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方面軍命令で二月末をもって、旭・盟の両兵団はバギオ中心とする戦線を構築するため後退した。
歩兵第七十二聯隊の挺身攻撃
一月七日
歩兵第七十二聯隊主力は、輸送途中の海没者を補充再編した第二大隊も挺身攻撃で、戦死者が多く半
減していた。約二週間にわたる陣地構築で、すべての火器を洞窟に引き込み、擬装して配置していた。
第三大隊が布陣したポソルビオ北方高地で、敵は戦車を先頭に歩兵部隊が接近してきた。これに対して
中村上等兵以下五名が、爆雷を抱えて戦車に体当たり攻撃をした。
一月二十日
陣地内に突入してきた敵戦車隊を、第九中隊(長・細川中尉)と佐藤大隊砲分隊が、肉薄攻撃をして
二輌を擱坐させた。敵は連日、観測機を飛ばして猛砲撃を浴びせ、銃爆撃を加えながら戦車と歩兵で侵
入攻撃してきたが、わが軍は、夜は斬込隊を何組も編成して敵を襲い、物資集積所を破壊した。聯隊砲、
大隊砲、速射砲が活躍して敵の攻撃を阻止していた。
二月下旬まで接近戦を交えながら守りとおしたが、マラリア、アメーバ赤痢等の病気と食糧不足によ
る飢餓、戦死傷者等で漸減する兵力、敵と数量において装備弾薬等、格段の劣勢で苦しい戦であった。
二十六日
転進援護の第五中隊(長・北崎大尉)をわが軍の主力と間違え、敵は総攻撃を行ってきた。第五中隊
は応援の第八中隊と夜襲と速射砲、機関銃の至近猛射によって敵を撃退して脱出したが、北崎中隊長以
下十数名が戦死した。
野戦重砲兵第十二聯隊第二大隊(長・宮本少佐)は、三八式十五センチ榴弾砲十一門をラバユグの谷
間に展開し、野砲兵聯隊の三八式榴弾砲、九〇式野砲各一門とともに、歩兵聯隊の戦闘支援に活躍した。
九〇式野砲の射程は一万メートル。少ない手持ちの砲弾で遠く敵の集結地帯を射撃して弾薬、燃料、
幕舎、火砲を誘爆炎上させて破砕した。三八式榴弾砲の射程は五〇〇〇メートル。十二月下旬からの陣
地構築で洞窟もでき、砲弾の備蓄もできた。
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この聯隊は関東軍からの精鋭部隊で、一 〇〇〇メートル離れた約十平方メートルのトーチカに、三
.
発に一発を命中させる練度をもっていた。敵に射撃のとき以外は洞窟に隠蔽していたので、二門が破壊
されただけだった。転進時に分解搬送したが、その後は現地道が狭く急斜面なので、涙を呑んで搬送を
断念し、九〇式野砲一門だけが通過できた。
長期持久拘束作戦
昭和二十年二月末
一ヵ月半の激戦により、敵を拘束し前進を阻止する効果はあがったが、旭・盟兵団の損害も増大して
いった。
「バキオヲ中心トスル戦線マデ両兵団ハ撤退セヨ」
との命令が伝えられた。
これは、日本本土の決戦準備に時を稼ぐ「長期持久拘束作戦」を展開するためで、カガヤン平地から
の食糧補給路を短縮して飢餓を緩和するとともに、第十四方面軍の中枢があるバギオを狙う敵を、多く
引きつけ減殺しようとするものだった。マニラ攻略を終えた敵が、反転してバギオ攻略を開始した時期
と一致し、直ちに激闘が開始された。
歩兵第七十二聯隊は、標高一 〇〇〇メートル前後の急峻な地形で遮蔽物が少なく、疲労と飢餓に耐
.
えながら病死者も増える中、応急陣地を築いた。
三月三日
最左翼の本多中隊が攻撃を受けた。笹田中尉が指揮する機関銃中隊の麻生分隊は、猛射を浴びせて阻
止したが、本多中隊は夜間の斬込みを敢行した。また、敵は戦車を先頭に攻撃を加えてきて白兵戦が展
開された。
三月八日
右翼の岡本中隊も戦車をともなう歩兵の猛攻を受けた。陣地未完成の大隊を援護するため、近接した
敵に全員突撃を敢行して撃退したが、岡本中隊長以下多数が戦死した。四月二十四日まで陣地を堅持し
たが、戦死・病死等により戦力は三分の一以下に低下した。一個中隊約十数名となった。
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三月一日
歩兵第七十二聯隊に、工兵聯隊は第三中隊杉山中尉以下十名を配属した。重火器陣地構築の支援をさ
せたが、全員戦死または戦病死した。工兵第三中隊は、安倍中隊長以下十数名の偵察隊が後方地帯探索
中、強力なゲリラ隊と遭遇し、交戦のすえ壊滅的な損害を出した。次ぎに綾部中尉(後に戦死)が、そ
の後に坪坂中尉が指揮をとった。五月以降は盟兵団司令部付となり、陣地前の道路破壊や戦車攻撃の戦
闘に参加したが、終戦時わずかに熊田軍曹以下数名だけが残っていた。
ベンゲット道の攻防
三月
歩兵第七十一聯隊は、明治二十六年、日本人移民が建設したベンゲット道(国道十一号線)キャンプ
3付近の守備につき、工兵聯隊主力も歩兵聯隊長の指揮下で守備についた。
ベンゲット道路には、臨時歩兵中隊(杉山隊 )、工兵第二中隊主力(落合隊 )、船舶砲兵隊(駒宮隊
・野砲二門 )、野戦重砲兵第五中隊(新井隊・榴弾砲一門 )、野砲兵段列(後藤隊)の他、井出、島田、
堀内の各隊が縦深に逐次投入され、兵力は延べ約三〇〇名であった。
三月に入って、米軍はナパーム弾を加えた砲爆撃のもと、キャンプ4の奪取を目標に攻撃を開始して
きた。松林はなぎ倒され、岩肌が露出し、路上に砂礫が散乱した。
三月十二日
火砲と機関銃で強化された敵の道路突進中隊が、キャンプ3の橋の西南の丘を守備する杉山隊(約六
十名)と激突した。杉山隊は軽機関銃、小銃、手榴弾で応戦したが、十三日に数名の後送する傷病兵を
除いて全滅した。次いで、敵は落合隊(約三十名)に攻撃を加えてきた。
三月十四日
杉山隊の救援を命ぜられたがすでに遅く、橋は敵の手に渡っていたので、領木軍曹が見つけた洞窟壕
を中心に配置した。
洞窟の中は二十疂ぐらいの大きさの岩石の下を掘った物資集積用のもので、三方の入口が銃座になっ
た。三月一日から敵の幕舎に、二回の斬込みを行っている稲泉小隊約十名も合流した。
- 228 -
敵は数百発の支援砲撃のもとに侵入し、洞窟にも毎日数十発の砲弾が直撃して巨岩が大きく揺れた。
敵は十数メートルまで接近したが、複雑な斜面で手榴弾が投げられず、自動小銃を乱射してきたが、夕
方になると敵は毎日引き揚げた。われわれは四夜にわたり、他隊とともに夜間斬込隊で出撃した。また、
橋を爆破し、軽機関銃で敵の本部に乱射撃を加えた。
落合隊の後方二〇〇メートルに布陣していた新井隊は、斬込隊を支援するため、榴弾砲一門を路上に
出して五発発射した。発砲を終えるとすぐ窪地に隠したので、敵はなかなか発見できなかった。
井出隊は、九二式重機関銃一梃を左岸に配置し、毎日侵入する敵を数百メートル先で捉えて射撃した。
そして、われわれが斬込隊となって陣地を離れるとき、後を引き受け四月二十六日まで守備をした。後
藤中尉指揮する野砲兵部隊も、斬込隊に参加した。
船舶砲兵連隊駒宮隊の野砲二門は、四月八日、右岸の一〇八高地を砲撃し、斬込隊と共に敵に大きな
損害を与えた。
斬込隊と急造爆裂筒
約四〇〇名の補充を受けた歩兵第七十一聯隊第一大隊第二中隊(長・飯隈中尉)は、標高一 〇〇〇メ
.
ートルのブエブエ高地の守備についた。敵はこの要地を奪取しようと、三月九日から猛攻を加えてきた。
わが軍は二梃の機関銃の猛射を中心に防御して敵を撃退した。
第二中隊は三月末、大隊主力に合流したが、四十九名が戦死していた。大隊主力も、大隊長を先頭に
再三の斬り込みを行い、二月末から四月十八日までに約三〇〇名の戦死者を出す程の激しい戦いだった。
三月十四日
砲撃支援のもとに第三中隊がキャンプ3の敵陣地に突入した。第一中隊は、四月に正面の敵に対し数
回の斬り込みを行った。大隊陣地内に、九〇式野砲、速射砲が配置されて、四月十二日からの総反撃に
は、火砲、機関銃の援護射撃のもと全力を挙げて突入し、四月十六日まで敵陣の一角を奪取確保した。
この戦闘中、バギオ野戦兵器廠から急造兵器「爆裂筒」が届いた。擲弾筒と同じ理屈で、爆薬が入っ
た約十センチ立方の鉄箱を、敵陣に向けて発射すると空高く上がり、どこに落ちるか分からないので、
右往左往して壕から飛び出す敵兵を狙撃すると共に、敵に恐怖と損害を与えた。
- 229 -
三月二十四日
工兵聯隊主力の本部、器材小隊、第一中隊に、第二、第三中隊の一部が加わる約二〇〇名が、歩兵第
七十一聯隊第三大隊が布陣する標高一 五〇〇メートルの高地に配置された。
.
二十五日夜
綾部中尉指揮する一隊が敵の基地に斬込隊として突入した。敵と手榴弾戦で損害を与え、その発火で
草むらが燃え上がり、敵はいぶし出されて退却した陣地を占拠した。しかし、二十七日までの戦闘で綾
部中尉以下二十七名が戦死した。
その後も少数ずつの斬込隊が出撃し、攻撃後、敵の食糧を持ち帰る者たちもいた。遠くキャンプ2ま
で迂回し、後方の敵の幕舎に手榴弾を投擲撹乱する班もあった。わが方も未帰還者が増えていった。
四月十二日
総反撃に、工兵隊主力は平田、畔津、久保田の各小隊など第一中隊の全力と川越中尉指揮する稲泉、
後藤の両小隊を併せて一〇〇名に満たない攻撃隊が、敵の第一線を突破したが、敵の猛砲撃と歩兵の猛
射を浴び、十六日までの交戦で、北村中尉以下六十六名が戦死した。
緒方明軍曹は数名とともに敵陣地を奪取し、食糧を捕獲したが重傷を負う。後に自力で脱出して分隊
長として終戦まで勇敢に戦った。
緒方軍曹は日系二世の米国人で、兄弟は米国軍の二世部隊の兵士として各地で戦っていた。山崎豊子
著の小説「二つの祖国」の台本で、NHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』のモデルとなったひとりである。
当時、私は負傷していたため、掘少尉と谷吉曹長と共に、各自が数名の兵を連れてキャンプ2で火砲、
幕舎を爆破し潜伏したが友軍の進出がなく、いったん引き揚げた。
気力で支える敵の総攻撃
船舶砲兵聯隊等から将兵二百数十名の補充を受けた歩兵第七十一聯隊第三大隊は本部を、標高二 二
.
〇〇メートルのサントトーマス山南側に置き、ベンゲット道キャンプ3北側の諸高地の守備についた。
三月十日
ベンゲット道入口へ、わが斬込隊が突入した。以来、数回にわたって斬り込みを行った。
- 230 -
聯隊砲中隊(長・山崎中尉 )、大隊砲小隊(長・井前曹長 )、機関銃小隊(長・井口見習士官)は、キ
ャンプ3の敵陣地を見下ろす山頂付近から猛射を浴びせた。
敵は砲撃と航空機の銃爆撃の援護を受け、歩兵部隊が前進して逐次高地を奪取確保してきたが、わが
軍もこれに対して斬込隊による戦いを挑み、日夜連続の戦闘となった。
十二日
総反撃は、火砲や重火器の支援射撃のもとで、第九、第十一中隊の残存全兵力で行われ、敵陣地を奪
取したが、敵の反撃も猛烈を極め、小田口・外山両中隊長以下多数が戦死した。十六日に聯隊は後退す
る。第三大隊は、三月一日以来の戦闘で約二〇〇名が戦死する大きな損害を出した。
キャンプ3の戦場も、栄養失調等よる衰弱、病気、飢餓と過労で斃れて行く兵が増え、気力だけで戦
っている状況であった。
当時、私は負傷をしていたため、総反撃には、掘少尉、谷口曹長が敵の退路を遮断する第二中隊の任
を担った。
敵の総反撃が始まった。バギオ市の西方で砲爆撃を繰り返し、戦車隊と歩兵二個聯隊で突入してきた。
わが聯隊は小川少佐を残留指揮官に、傷病兵を含む二〇〇名でキャンプ3の全戦場の守備を託し、他は
すべてナギリアン道イリサン正面の救援に急進した。
私の中隊主力はキャンプ4にあって、傷病兵十数名を抱える二十数名で残留し
「陣地を守備せよ!」
との命令を受けた。
四月三日夜、
十三名を率いて敵前の路上で戦車地雷を付設して無事完成したが、敵の迫撃砲の集中射撃で私も重傷
を負った。衰えた体調とも相まって一時は危篤状態になったが、三週間後に何とか歩けるようになった。
この時、重症者は近藤少尉以下六名いた。
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゜
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五回目の斬り込み攻撃に降命
昭和二十年三月下旬、五回目の斬り込み攻撃の命令を、内容のひどさに憤激して実行しなかった。
四月三日
キャンプ4の小学校教室で、林聯隊長、高橋参謀から厳しく叱責された。いまにして思えば、林聯隊
長も軍司令官や師団長から
「最重点正面ヲ守リトオセ…」
と命ぜられ、痩せさらばえた将兵を見て、守るだけでは士気が萎え敵に乗ぜられる。したがって
「無理でも積極的に攻勢をかけなければならない」
と決心されたのかも知れない。
錯綜する前線にあって、各自はそれぞれ階級にかかわりなく、立場で最善を尽くしたはずだ。この時
期、戦線は交錯し、フィリピン全戦線にわたって補給は途絶え、航空機等の援護は全くなく、情報通信
の掌握が殆ど難しく、武器・弾薬・食糧、兵員の戦力は、通常の組織的な部隊運用の戦闘ができる状況
ではなかった。
四月十六日午前、工兵聯隊長は
「歩兵聯隊長の指揮下ヲ離レ
主力ヲ率イ速ヤカニ救援ニ赴ク」
との師団長命令を受けた。
出撃中の部下の収容を処置し、その夜、残存の手兵を率いて、バギオ経由イリサンに直行する。
米軍バギオ突入最後の激戦
イリサンに急進して盟兵団の指揮下に入った水野工兵聯隊長は、本部、器材小隊および榴弾砲二門を
有する所在の部隊を掌握した。以来四日間にわたり総指揮官として敵の猛攻を支えた。
四月二十一日
ついに敵にイリサンを突破され、林聯隊長が諸部隊を総括指揮し、バギオ市西端の日本人移民墓地周
辺で激戦を交える。第十中隊長大山中尉以下二十名余が敵戦車群に肉弾攻撃し、数両を破壊したが、手
榴弾の接近戦になり、敵の火炎放射機の攻撃を受け、大山中隊長以下十数名が戦死し、四名が生還した。
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また、櫻井戦車隊の突入や工兵隊の道路破壊、大隊砲や機関銃隊(井口隊)の活躍で、二十四日の撤
退命令が下るまで阻止していた。
一方、歩兵第六十四聯隊は、捜索十六聯隊の一部をはじめとする将兵の補充を受け、定員の三割程度
までの兵員を確保し、二月十二日、バギオ西方カブヨ付近の諸高地の守備命令を受けた。
三月一日
敵はベンゲット道入口北側のツインピークス高地に攻撃を開始してきた。さらに敵は北に迂回してわ
が聯隊の主陣地に向かう小径を辿ってきた。わが軍は数組の偵察隊が、狙撃、斬り込み、道路閉塞妨害
をした。敵は六日、歩兵一個大隊が進出し、後続の工兵隊が道路の拡張作業を開始して大部隊を終結し
て本格的攻撃準備に入った。
次の夜、平野中尉指揮する工兵第一中隊は、歩兵一個分隊の援護のもとで敵陣地に斬り込み、敵戦車
数台を破壊、幕舎数ヶ所を破砕したが、平野中隊長以下全員が戦死した。
三月二十二日
敵は標高九五〇メートルの高地に、ナパーム弾や爆弾による猛爆撃を加えて来た。二十六日、敵の歩
兵部隊が前進してきたが、五日間にわたる戦闘で撃退した。
飢餓による衰弱が最大の敵
制空権なく、補給が途絶した装備の劣勢、戦闘による将兵の死傷による兵力の漸減、加えて過労、マ
ラリア、食糧がない飢餓が全戦線共通の状態になった。国力を上回る戦争のためなのだろうか
「食い物さえ充分なら、装備や兵力は僅かでも、機敏に動いて敵を撃滅してみせるのに」
と、痩せ衰えて杖の要るわれわれは口惜しがった。
配給は一日一人当たり約五十グラムの米だけとなる。前線では交代で芋を探したが、すでに採り尽く
され、野草や松の内皮を煮て加えた一日二回の重湯、それも戦闘中は炊事ができず、水汲みも命がけだ
った。
衰弱死が増えてきた。最大の敵は飢餓だった。ただ救いは、敵を見下ろす地勢で、敵は山岳戦が苦手
とみられ、これが敵の攻撃を阻む一因となった。
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それに昼夜の気温差はあるが爽やかで、平地戦の暑さに比すると凌ぎやすく、また降雨も少ない季節
も幸した。
敵を引きつけ本土決戦を阻止
将兵を支えているものは精神力だけであった。その根底には
「家族や同胞のいる祖国の本土が侵されてはならない。できるだけ敵を引きつけ、本土決戦を支援する
のだ」
という使命観であった。
しかし、この戦争は必要だったのか。このような生存の限界を超える戦いの中で、一部の人たちは疑
い迷い出した。私もそのひとりだった。
学校長だった稲泉少尉が戦死する少し前に
「敵と戦うとき、激しい恐怖で身震いします。それを任務と思って齒をくいしばる。これが自然の姿で
す。ただ決して死を急いではならない。生きていてこそ任務が果たせる」
との言葉を語った。
生への期待を抱きながら戦死していく者の数の多さ、これ程までして解決しなければならない重大な
事柄が、いったいこの世にあるのだろうか。
在留邦人一千名も共に
四月二十一日
カルゴン山が敵の手に陥ちた。全面撤退の命令を受け、翌日から中隊毎に突破脱出の行動に移った。
しかし、敵が後方に入り込み、第五中隊は一名をのぞいて全滅した。五月二日、カノテ山付近陣地に到
着したときは、各中隊も犠牲者が多く十数名に減っていた。
バギオ西端の歩兵七十一聯隊主力とその配属部隊も、混戦のなか小部隊に分かれて脱出する途中、敵
の砲爆撃で死傷者を出し、五月上旬に逐次到着した。小川少佐の指揮するベンゲット道付近は、川越隊
十数名、井出隊の撤退援護隊を残してアンブクラオに向かった。
援護隊は、ときおり大喚声をあげて敵を引きつけ、路上では井手隊の数名が、洞窟陣地を保持して敵
- 235 -
の目をそこに向けさせた。
二十六日
敵は戦車二輌と歩兵二個分隊の強行偵察隊を編成して前進してきた。そして洞窟付近で撃ち合いにな
り、川越・井手隊は爆薬を抱えて戦車に向かっていったが斃され、対岸の重機関銃の援護も空しく全滅
した。
キャンプ4の私の隊は患者を先発後送し、ダイナマイト数百キロを受領して、敵の進撃を阻止するた
め、バギオまでの橋梁数ヵ所を二晩かけて爆破し、敵の戦車や車両の進行を阻止したので、敵は徒歩で
歩兵部隊が五月一日午後、バギオ市内に入ってきた。
五月三日
われわれはアンブクラオに辿り着いた。市内撤退の最後尾だったので、途中動けずに救いを求めてい
る傷病兵に多く会った。しかし、われわれも分け与えるほどの食糧もない。
「頑張れ、少しでも動け 。」
と激励の言葉をかける以外、何にもしてやれなかった。共に苦難の中で戦ってきた将兵に、ただそれだ
けの言葉しかかけることが出来ず、断腸の思いだった。
歩兵第七十二聯隊は四月二十四日に撤収して、イノマン山付近の新陣地に到着した。途中、砲爆撃を
受けて大きな損害を出した。聯隊の清国中尉指揮する隊は、撤退援護の命令を受け、バギオ南側で敵と
交戦したが、伝令を帰し全員が戦死した。また、細川中尉の隊も援護隊となって敵の追跡を阻止した。
バギオには、わが軍の司令部をはじめ、中枢の後方部隊があった。陸軍野戦病院や兵站病院もあり、
旭・盟兵団の傷病兵が充満していた。病院の移動は三月頃から行われたが難渋をきわめた。
バギオには明治二十六年、ベンゲット道路開設工事に携わった日本人移民の子孫の在留邦人一 〇〇〇
.
名余の人々が在住していた。男子は日本軍に編入され、家族は後方に移動避難したが多くの人達が病死
した。
第十四方面軍司令部は四月十六日にバギオを撤収したが、参謀副長・宇都宮少将が残りバギオ方面の
全指揮をとった。
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自活自戦の戦闘
昭和二十年四月末から五月上旬に、各隊は敵の銃砲撃を受けながら三々五々、山谷を這うようにして
バギオ戦線から撤退していった。
輜重兵聯隊は、わずかの馬匹、トラックも失って臂力運搬が主となり、衰弱した身では体力の消耗が
はげしかった。後に将兵の補充を受けたが、工兵第一中隊は歩兵第七十一聯隊に配属になり転出した。
工兵聯隊は残存の馬匹と輜重車輛を全部この輜重聯隊に供出した。
歩兵第七十一聯隊第三大隊は、第十師団(鉄兵団)の戦闘増援を命ぜられ、二〇〇名で約一〇〇キロ
メートル山道を歩き、野砲陣地を援護の後、バレテ峠北側高地を守備したが後退、その後も敵との戦闘
をつづけ、兵力は三分の一に減少した。小川大隊長は、傷病兵及び谷村軍医中尉、二宮主計中尉と共に
聯隊本部に復帰報告に行き、自らは残された少数の兵と共に山中に反転した。
また師団は、この聯隊の伊地知中尉指揮する二十五名の遊撃隊をバギオに潜入させた。約一ヵ月、慎
重な行動で偵察、妨害、破壊活動をして無線で報告していた。しかし、生還者は七名であった。
この時期から物資の補給は一切無くなり、すべて自活に頼った。各隊はとくに食糧を必死になって探
し求めた。芋や稲穂の入手が最大の喜びだったが、友軍同士の田畑の縄張り争いも起こり、発砲し合う
こともあった。また、小銃、装具、軍靴などは、戦死者が携行装着していたものを利用して埋め合わせ
るという惨めな場面もしばしばあった。
後方には強力なゲリラ部隊がいて、絶えずわれわれを狙っていた。前後に敵がいることで今までとは様
相が異なってきた。
歩兵第七十一聯隊(長・二木大佐)は、後方のボコド付近のゲリラ部隊の根拠地への攻撃準備に入る。
ゲリラ部隊は米軍輸送機からパラシュートで物資の投下を受け、装備の強化を図り、わが方の後方撹乱
を行ってきた。
人跡未到の密林でゲリラと遭遇
歩兵第七十二聯隊は、標高一 五〇〇メートルのイノマン山付近に、第二、第三大隊が守備についた。
.
六月四日
- 237 -
撃兵団(戦車第二師団)転進援護のため、第二大隊がアリタオ方面に急進を命じられる。折から雨期
となり行軍は困難を極めた。敵はカヤバ道を東西から攻撃を開始してきた。ラトバンは人跡未到の密林
地帯で、羊歯や苔、それに沢蟹が多く、それで飢えをしのいでいた。蛭も多く、梢や枯れ葉から飛び出
して、われわれの生血を吸った。蛭はここの旭兵団の全戦域で見られた。
師団司令部や兵站病院は、五月中旬から砲爆撃を受け、ゲリラの狙撃も活発になる。歩兵第七十一聯
隊主力は五月下旬、軍警戦隊も参加してボコドのゲリラの根拠地を占拠し、後方を開放して病院などが
撤退できるようにした。
六月二日
主に道路状態を調査するために、工兵第二中隊も攻撃に加わった。敵は死傷者数名を残して退却した。
この攻撃でゲリラ部隊の病院を占拠した。喉から手の出るほど貴重なマッチを二ダースを見つけ、戦利
品として各隊に分けた。また、看護婦宿舎の部屋には、調度品の中に金魚鉢や数枚のレコードがあった
ので、手回しの蓄音機で聴くと、フォスターの「草競馬」だった。ここは戦場で飢餓のどん底にあると
いうのに、全く奇妙な取り合わせだった。十五日には敵が病院に攻撃を開始してきたので、一時の儚い
出来事は終わった。
七月十日
久保田機関銃中隊は、カヤバに残した弾薬移送のため、二十名を率いて出発した。無事弾薬を回収し
たが、翌朝、約五十名のゲリラに遭遇し、久保田大尉は重傷(その後に自決)江口見習士官が指揮して
夕方で交戦して帰還した。
水牛・山羊・豚・鶏の血も貴重な栄養源
七月十五日夜
中隊は後退援護のため、歩兵中隊と共にこの丘で守備につき、敵の猛砲撃を受けた。そのとき、中隊
の十数名の傷病者を先に後方陣地に退がらせた。ボコド以北はゲリラ地帯だったので、水田も芋畑も友
軍に荒らされていないのは幸いだった。葉煙草もあった。ときおり山羊、水牛、豚、鶏を手にした。塩
がないので、この家畜の血は貴重な栄養源になった。
- 238 -
海岸で海水を飲む夢をよく見た。水牛一頭は六十名の一週間分の食糧に相当した。また、野生の茸が
群生していたが、毒性のものが多くて採食が禁止された。しかし、日系二世の緒方軍曹は鑑別にすぐれ
ていて〃茸博士〃と渾名されていた。お陰で貴重な栄養源が密かに得られた。
しかし、虱や蚤にたかられ、誰も長期に入浴をしない汗や土埃・砂で薄汚れた身体には数百匹はいた。
戦いの合間に軍衣を脱ぎ、しきりに蚤や虱を潰している姿は日常茶飯事になった。カユミには次第に慣
れていった。散発用のバリカンや火付け用のレンズ、火縄は、各隊とも大切に持ち歩いていた。
ブログ山の最終複廓陣地
ゲリラ部隊は地形、風土に強く、米軍輸送機による色分けされたパラシュートで、弾薬、食糧、医薬
品等の物資の補給を受け、急速に強力になっていった。
第一大隊はゲリラ隊を駆逐していたが、擲弾筒は砲弾の炸裂の破壊力と同じ轟音があり、非常に効果
があった。戦闘で森大隊長が狙撃されて戦死した。
歩兵第六十四聯隊は、バギオに挺身隊を派遣して、偵察と破壊活動を行った。
六月十二日
敵の本格的攻撃がはじまり、聯隊本部も急襲された。この時、秋本少尉は大腿部に被弾して歩けず、
みんなに迷惑をかけるからと、軍旗を背負ったまま拳銃で自決した。命令により逐次撤退し、後尾の第
七中隊は、崖の岩石をつぎつぎと敵の頭上に投げ落とし、細い山岳道を妨害して追撃を阻止していた。
昭和二十年六月末から七月はじめに、第十四方面軍が定めた標高二 九〇〇メートルで、住民が「聖
.
なる山」と呼んでいる比島最高峰ブログ山の中腹の最終複廓陣地に到着した。西側に歩兵第六十四聯隊、
左に工兵聯隊、南側に歩兵第七十一聯隊、東側に師団司令部と歩兵七十二聯隊が展開した。野戦病院も
東側と西側に開設した。敵はゲリラ部隊の潜入攻撃や砲爆撃で擾乱してきた。
七月下旬、九月に入れば全部隊で総出撃し、各地で小部隊ごとに自活自戦するための内示を受けて、
師団命令で工兵聯隊に、師団配置全域の地形要図作成と道路調査を命じられた。
八月一日
杉野大尉の測量班等二十名余を指揮して測量を実施し、八月七日に司令部に報告書(地形要図)を提
- 239 -
出した。引き続き、方面軍までの道路調査を命じられ北上中の器材小隊を基幹とする聯隊主力と合流し
た。
ゲリラと最後の攻防
歩兵第六十四聯隊は、七月上旬頃からゲリラ隊の攻撃を受けるようになる。野砲兵聯隊の一部で編成
された第八中隊池田大尉以下三十名は、六月下旬、アグノ川を溯り手榴弾戦でゲリラ隊と交戦し、カバ
ヤン南側高地を確保した。そこを拠点にして七月二十二日、この中隊を含む一個大隊で、その奥にある
ゲリラの根拠地を強襲占拠した。その後、増援された敵は猛砲撃の後、機関銃、自動小銃を乱射しなが
ら近づくが、至近射撃でこれを退けた。こうした一進一退の交戦が何日も繰り返され、わが方の死傷者
も増大した。
そして、八月十五日、敵の砲火が一斉に止まった。
師団長終戦を告げ投降を指令
八月十六日
師団の中で最も敵に接近していた、戦闘中のわが部隊は、アメリカ軍の軍使と接触し、池田大尉は大
隊長の許可を得て、何回か彼らと話し合ったり、アメリカ軍の隊長が食糧を土産にわが陣地を訪れた。
同じころ、ダクラン方面の前線でも井口見習士官が米軍の軍使に面会を求められ、意見を交換してい
た。
八月中旬
工兵聯隊の主力は道路調査中だった。そんな時、突然、終戦の知らせだった。アメリカ軍が飛行機で
撒くビラも読んでいた。生きて帰れるのだ、その嬉しさにみんなどよめいた。しかし、すぐ心配の表情
に変わった。
果たして本当か、無事に帰国できるのか?と。
そして、死力を尽くして戦いながらこの日を見ることなく死んでいった戦友たち。やりきれない思い
であった。
八月二十三日
- 240 -
- 241 -
方面軍司令官より正式の終戦の通知を受けた。師団長は聯隊長を集め事態を説明し、自重を求め降伏
を指令した。各部隊は慰霊祭を挙行、携帯食糧の確保、傷病兵の移送入院、名簿の整備、行軍の準備を
慌ただしく進めた。その間、各歩兵聯隊は軍旗を奉焼した。
敵の輸送機から病院に医薬品が投下され、軍医たちの医療活動が活発になった。患者輸送は輜重兵聯
隊が協力し、米軍がボントック道にトラックを用意した。
九月に入って、各部隊はカガヤンに向かう。そこで武装解除を受け、アグノ川を渡り十数キロの道を
歩いた地点でアメリカ軍の部隊本部に到着した。そこから徒歩でバギオに至り、トラックでサンフェル
ナンドに送られた。そして無蓋貨車でマニラ南方の収容所に輸送されて部隊は解散した。
最後の遊撃戦、山下司令官自決を覚悟
終戦直前のプログ山(注)を中心とする最後の複廓陣地の作戦は淒絶であった。アシン川に沿って使者
として荒木兵団に行ったときの状況は、まさに戦病死した将兵の死体が多く地獄谷の様相を呈していた。
六月下旬、バレテ峠が突破された場合、日本軍としては、比島の最高峰のプログ山に複廓陣地で、最
後の抵抗をするが、その前に米軍と一戦を交え、連合軍の日本本土上陸のため、フィリピン方面より一
兵でも抜くことを許さず、フィリピンに拘束することを考えていた。
そのため、突進してくる膨大な敵軍を微弱な兵力で撃つには、地の利を活用せねばならず。最後の複
廓陣地は食糧が少なく持久戦を考えると、食糧が調達できるカガヤン渓谷であつたが、地形的に不利で
あった。そこで食糧すくなくとも、全軍一体の戦力が発揮できるプログ山を中心とするこに決定した。
幸いにプログ山には、棚田が沢山あって米が得られ、芋畑も至るところにあった。
敵が攻撃を開始してきた。我が軍の弾薬の欠乏がひどくなって来た。複廓陣地最後の山砲の一弾を発
射したのは七月八日であった。この頃、複廓陣地内には赤痢が流行し、栄養失調、マラリアの再発、脚
気などの何れかに、殆どの者が犯されていた。
方面軍司令部でも一度に赤痢患者がでた。作戦の渡辺参謀、田中参謀もやられ、渡辺参謀はすで危険
状態であった。山下方面軍司令官も痩せて
- 242 -
「バンドに三つ目の新しい穴を開けねば。しかし、若い者に負けずに山に登れる」
と笑って話しておられた。
こうした状況の中、方面軍は、食糧の尽きる直前、囲みを破って各兵団ごとに拠点を占拠し、爾後は
ゲリラ戦に転ずる。その時は方面軍として統一指揮は不可能となるので、山下方面軍司令官、武藤参
謀長は自決する。この時機はおおむね九月上旬と予定されていた。
《『 ルソン戦記』を加筆修正し、平成元年八月に記す・落合》
注
プローグ山はルソン島での最高の山です。標高は二,八五〇メートル。二,〇〇〇米級の山々が並
んでいる。
尚武兵団(山下大将)十四方面軍が、最後に玉砕する予定でした。西南戦争に敗れた西郷隆盛の「城
山」に見立てて、ここで最後の戦闘で玉砕しようと、決心していたと、云われています。
フィリピン人は『ブローグ山』を霊山として居るので、あまり登頂しません。
「防衛庁戦史室」の比島捷号作戦にも記載されていますが二〇年七月でした、工兵二十三聯隊に山頂
までの道程 、『水 』「食用植物」の有無を調査、偵察しろとの命令があり、落合秀正中尉を隊長に十
八名で出発いたしました。石井も勿論参加いたしました。途中で土民兵に遭遇しましたが、追い払い
ました
山頂は平地でしたが、雑草と苔が群棲している処でした。頂上からの展望は利かず、水も無い地形
でした。
早速、登山道を記入して、久し振りに師団司令部で師団の後方参謀に報告いたしました。
(石井清栄氏書簡より)
- 243 -
(旭)第23師団死傷者数調査
( 第14方面軍・北部ルソン戦)
昭和25年復員局調
☆ 師団司令部関係
参謀部、副官部、管理部、兵器部、経理部、軍医部、獣医部
部
隊
名
編成人員
歩兵64聨隊編成人員
3420名
他部隊補充人員
4257名
歩兵71聨隊編成人員
3450名
他部隊補充人員
1278名
歩兵72聨隊編成人員
3470名
他部隊補充人員
1986名
索23聨隊編成人員
戦死者(戦傷
生還者
6582名
801名
314名
3608名
994名
126名
4933名
429名
104名
485名
485名
野砲17聨隊編成人員
1800名
1626名
174名
工兵23聨隊編成人員
1340名
1253名
87名
輜重23聨隊編成人員
435名
235名
203名
師団直轄部隊
0
師団通信隊、兵器勤務隊、衛生隊、防疫給水部、病馬廠、野戦病院
※
各部隊
※
各部隊の戦死傷者率
未処理者
『未処理者数』とは、負傷、自決等生死未確認者
☆
歩兵64
85%
☆
歩兵71
76%
☆
歩兵72
90%
☆
捜索23
100%
☆
野砲17
90%
☆
工兵23
93%
☆
輜重23
54%
- 244 -
0
☆
師団直轄部隊の戦死傷者数は不明
陸軍船舶(暁部隊)砲兵聯隊
輸送船自衛のため戦う船舶砲兵
陸軍船舶(暁)砲兵聯隊
ミ二七船団・江戸川丸を自衛のため、船舶砲兵第一聯隊江戸川丸船砲隊四十九名が乗船していた。
昭和十九年十一月十七日、江戸川丸が米潜水艦の雷撃を受け沈没し、陸軍兵器学校卒業生等と共
に四十六名の船砲隊員が海没戦死した。
また、ヒ八一船団・あきつ丸の船舶砲兵第二聯隊あきつ丸船砲隊二六一名は、十一月十五日の雷
撃で一四二名が海没戦死した。全ての大型輸送船には陸軍船舶砲兵隊員(船砲隊員)が乗船し、輸
送船の自衛にあたっていた。
船砲隊員は対空、対潜水艦への積載火砲による戦闘護衛、爆雷投下後の、最終の離船のため、多
くの海没戦死者を出した。救出された者も火傷、打撲等の負傷者が多く、陰で輸送補給を支える部
隊としての犠牲者は、戦闘部隊を凌ぐものであった
陸軍船舶部隊(暁部隊)発足
陸軍船舶部隊(通称・暁部隊)は、広島県宇品の補給厰からの補給と海上輸送を任務とする特別機関
であった。戦局の拡大化に伴い、上陸用舟艇が登場し、艇を操作する兵員をこれに当て、戦闘力を付加
した輸送体制の基本が確立した。これが船舶工兵部隊となり陸軍船舶部隊の前進になった。
日支事変からは、大規模な軍事輸送をすることになり、太平洋戦争開始直前には軍団程度の編成にな
って船舶輸送司令部と改称された。昭和十七年七月、戦局に対処する船舶部隊を戦時編制に改めた。
船舶司令部と船舶砲兵科の誕生
昭和十七年末頃から、最前線では連日の空襲で兵員・資材の揚陸が妨害され、日ごと補給線が不安の
- 245 -
度を増してきた。特に、昭和十八年以降は制海、制空権を連合軍に奪われ、加えて南東・南西アジア方
面等に伸び切った補給線は、敵の潜水艦、航空機、魚雷艇の攻撃に、輸送船の撃沈は昼夜の別なく、出
港直後から次々と葬りさられ随所で寸断された。
これに対処するため、船舶輸送を担当する輸送部隊、輸送間の戦闘を担当する船舶兵団および、統率
する船舶司令部が設けられた。
この大戦に参加した船舶部隊は船舶工兵、潜水輸送隊、海上挺進隊、船舶特別幹部候補生隊、船舶機
関銃隊、揚陸隊、野戦船舶廠など、大小合わせて二八〇余隊を数え、船舶司令官以下約三〇万名。方面
軍に匹敵する膨大な組織になり、特科部隊として船舶砲兵科が誕生した。
陸軍兵器学校広島分教所
戦局の緊迫化に伴う船舶部隊の増強と、特に海上挺進隊の増強等、船舶工兵の誕生に伴い、昭和十九
年六月一日、船舶部隊の兵器勤務要員を教育する目的で、広島県立広島商業学校の校舎を借上げ、校庭
に工場を新築し、天満川に桟橋・船舶繋留場などを設備して、陸軍兵器学校広島分教所が開校された。
開校時は電工、機工、鍛工、技工の四工科の生徒隊一ヶ中隊、幹部候補生隊一ヶ中隊だったが、二十
年五月には生徒隊二ヶ中隊が在籍した。在籍の四期生は昭和十九年十一月九日、広島分教所で繰上げ卒
業を行い、宇品の船舶(暁)部隊に赴任し、野戦船舶廠などに配属された。
船舶砲兵聯隊の任務と行動
船舶砲兵は常時大型船舶に乗船し、洋上航海中の自衛を主たる任務とした。作戦要務令第四部による
と 、(一)輸送間の防空防潜
(二)上陸戦闘の掩護
(三)泊地の防空と船舶自衛が目的で、野戦的
性格はもっていなかった 。(船舶砲兵の将兵は、野戦における戦闘訓練は受けていなかった 。)
乗船中は輸送船が兵舎であり、戦いの場となり、船と運命を共にすることを常と心得ていた。それは
船員と同じであった。常に船長以下乗組員との親和協調を図り、戦闘時においても自衛効果が発揮でき
るよう常時心がけておく必要があった。
船舶砲兵は陸軍の中でも異質で、一般部隊とは性格を異にした。
一
聯隊が揃って行動できない「終結なき部隊」である。編成完了後の出陣式が最初にして最後の集合
- 246 -
で、終戦に至るもついに生存者の終結は見られなかった。
二
乗船期間中、二十四時間監視・訓練と戦闘に明け暮れ、休暇が全くない。監視は見張りと称して昼
夜天候の別なく、船上の要所で立哨にあたった。双眼鏡による監視は眼精疲労が激しいので、立哨時
間は通常一時間を限度としていた。
三
船と行動を共にするので所在が不定で、しかも広域に分散する。輸送船は目的地に肉薄し揚陸を終
えると船団を解かれて、空船に便乗者、物資を積んで本土に帰還する者、前進基地に戻って資材を積
み込んで再び現地に引き返す者、新たな部隊を積んで他の方面に戦闘に参加する者など、輸送船の行
動とともに船砲隊は広大な海域に分散される。また、死亡した場合は水葬となり、永久に墓標は立た
ないのであった。
船舶砲兵第二聯隊本部と兵装(武装 )
各中隊が乗船すると船名を付し「○○丸船砲隊」となる。指揮は最高位の階級の者が船砲隊長となり、
通常は船橋(ブリッジ)付近に指揮所を設け、戦闘指揮と船長との連絡に当たるが、極めて危険な場所
にあった。
戦局の動きにしたがって輸送船の動きが激しくなり、聯隊の指揮命令系統が渋滞し始めたため、あり
ぞな丸に乗船していた第二聯隊本部および材料厰は下船して、宇品に本部を開設した。同時に輸送船の
出入港に連絡所を設け、船砲隊の連絡、給与、人事を行うことになった。
輸送船の兵装(武装)は船の構造、特に甲板上の条件が基本となった。特に砲座面積の広い高射砲は
大型輸送船にしか兵装できなかった。
兵装された兵器類
八八式野戦高射砲
野戦で使用していた口径七五ミリ砲で、船首または船尾に限られていた。
九八式高射機関砲
口径二〇ミリ単装砲で、弾倉には二〇発の弾薬が入り、主として船の中央部に配置
された。この機関砲は太平洋戦争のために製造されたもので、有効射程距離一 五〇〇メートル、
.
発射速度一秒間五発のため、速力の早い飛行機には通用しない。少なくても口径三七ミリ、有効射
程距離三 〇〇〇メートルが必要であった。既に欧米では三連装と二連装が主体で、単装砲では間
.
- 247 -
に合わず、昭和二十年から性能のよい海軍の機関砲に切り替えられた。
その他兵器、
速射砲、対戦車砲、迫撃砲、車輪付野砲、重機関銃、軽機関銃、分捕り品の敵の火器、
海軍用の艦砲、打上筒(敵機が急降下して突込んできた時に発射し、空中に傘つき爆弾で煙幕を作
り、敵機を突込ませて撃墜する)など。
爆
雷 対潜の主役として昭和十七年七月下旬から兵装された。昭和十九年五月から二式爆雷(円筒形
で直径四十五センチ、炸薬一〇〇キロ)に改められた。これは機銃掃射を受けても爆発しないよう
安全性を高めたものであった。
爆雷は、船尾の投下台に五発または十発常備した。信管を爆発深度を三十、六十メートル、着底発
火の三段の何れかに合わせ、台の斜面から転落投下した。海軍のように爆雷砲による発射方法は取
らなかった。爆雷を装備する船は船速十二ノット以上のものに限られていた。状況により低速船に
装備する場合は、爆雷に傘をつけ、沈降速度を緩和させて離脱距離を大きくする方法が講じられた。
水中聴音機 (通称す号)
敵潜水艦のスクリュー音をレシーバーで捕らえる。
音波探信儀 (通称ら号) 水中に音波を発射して船体を探知する。
光学兵器
索敵用眼鏡として十センチ対空双眼鏡をはじめ、各種の双眼鏡があり、監視用として片時
も手放すことはなかった。その他、高射砲中隊には八八式二メートル側高機が、中隊主力の乗船す
る船舶に装備された。しかし、すべて肉眼での監視双眼鏡であった。
ヒ八一船団の陸軍輸送船摩耶山丸、あきつ丸、吉備津丸、神州丸には、高射砲六門、野砲二門、機関砲
八門、爆雷二十発、ら号探信儀一基、す号聴音機一基の兵装がされていた。また、あきつ丸、ヒ八三船
団の日昌丸には、八八式側高機が装備されていた。
- 248 -
陸に上がった船舶砲兵第二聯隊の最後
陸軍船舶砲兵第二聯隊中隊長
駒宮真七郞
陸軍船舶砲兵は、連合軍が全戦域の制海・制空圏を制圧し、昭和十九年十月のフィリピン沖海戦に
より海軍聯合艦隊が壊滅的な敗北を喫して船団護衛も出来ない状態となった。輸送船も度重なる敵航
空機及び潜水艦の攻撃で沈没の急増に船舶の損耗も激しく、船舶の補充も不可能になって、昭和十九
年十二月末、大本営はフィリピンへの輸送船団の本土からの発航を停止した。
この措置により、船舶砲兵部隊の将兵は、陸上部隊として野戦における歩兵戦闘訓練を受けていない
陸上部隊として、命令によって最寄りの師団の補充歩兵聯隊に編入され、終戦まで敵と死闘を繰り返
し、フィリピンの戦野に多くの戦死・戦病死者を出した。
聯隊主力とマニラ残留隊に分断
船舶砲兵第二聯隊主力は、昭和十九年末までマニラおよびバタン半島カフカーベン付近で輸送船自衛
の作戦準備を進めていた。内地からフィリピンへの船舶輸送業務が不可能になり、北サンフェルナンド
への転進命令を受け、徒歩より大移動を実施した。その時、材料廠とマニラ連絡班は、病院の退院患者
を受入れ、医薬品等材料・器材の梱包、配車計画などに追われ北上を断念した。そのため聯隊主力とマ
ニラ残留隊は分断された。
昭和二十年一月九日
一月七日朝、ルソン島北サンフエルナンドは大規模な米軍の艦砲射撃を受け、九日に米軍が大挙上陸
する事態となり、聯隊全兵力の目的地終結は不可能になった。移動行軍中の第二聯隊の各隊は命令によ
り、最寄りの兵団に配属された。
一月十四日
マニラ残留隊は小林兵団に編入を命ぜられた。森崎中尉を隊長に、船舶砲兵第一聯隊、独立速射砲大
- 249 -
隊を含め、野砲、速射砲、機関銃隊二〇〇名で陣地構築を開始した。
第二十三師団(旭)に臨時歩兵で編入
命令が錯綜し、第三船舶輸送司令部から聯隊長に
「兵五十名ヲ指揮シテ
アパリに転進シ台湾高雄ニ渡リ
比島ヘノ船舶輸送業務ヲ継続セヨ」
との命令があった。
しかし、書類携行の徒歩行軍は疲労と飢餓にさいなまされた。加えて空爆とゲリラの襲撃に前進を阻
まれ、一ヶ月を要し、アパリの見える高地にたどり着いた。
ここで再び
「在比島全陸海軍ハ方面軍司令官ノ指揮下ニ入ルコト」
との命令を受けた。
船舶砲兵第二聯隊主力は、第十四方面軍(山下奉文司令官)に編入され臨時歩兵となった。しかし、
船舶砲兵は歩兵戦闘訓練は受けていなかった。再び、五号国道を南下し始めたが、将兵の体力は疲労困
憊し、病餓死者の続発で行軍は牛歩以下の惨憺たるものであった。
こうした状況の下
並松聯隊長に
「撃兵団ノ砲兵隊長ニ赴任セヨ」
との命令が出た。
ルソン島北サンフェルナンドは艦砲射撃で、灰燼と化した直後、駐屯各部隊が作戦展開のため転進し
た後に、船砲隊第二聯隊の主力一 二〇〇名と、配属された少数の兵力だけが残り、第二十三師団から
.
赴任した林大佐を指揮官に、サンフェルナンド守備隊が編成され、山裾の一角に陣地を築き、敵戦車阻
止を主目的とする布陣を敷いた。
手榴弾と竹槍で白兵戦に
昭和二十年一月中旬以降、前面の敵よりも陣地後方の山岳地帯のゲリラ部隊が、活発に攻撃を開始し
てきた。敵機の激しい空爆下に日夜戦闘が続き、守備隊も孤立無援の中に戦力は刻々消耗していった。
- 250 -
守備隊の装備は高射砲二門、野砲六門、速射砲四門、重機関銃四挺だったが、聯隊の性格上小銃が少
なく、止むなく手榴弾を主要武器とし、これに竹槍を作って白兵戦に備える背水の陣であった。
三月に入ると守備隊は完全に包囲され、連日敵の砲撃に曝され、死傷者が続出した。加えて栄養失調
とマラリアで玉砕の色を深めた。林聯隊長は玉砕を覚悟した。
歩行困難な者は遺書と遺髮を
三月十八日夜明け
米軍は戦車と装甲車で掃討作戦を開始してきた。上空には三・四十機のグラマンが飛来し、医務室を
目がけて猛爆を加えてきた。その時、転進命令を受けた。
各隊は撤退準備と共に、重症の傷病兵には自決用の手榴弾を交付した。転進不能の者達は戦友に遺書
と遺髪を託した後、自らの手で自決の道を選んだ。爆撃で軍医川越少尉も戦死した。照明弾が投下され、
至近距離で戦車砲弾が炸裂する中、真暗な街道を重症者を担ぎ、負傷者を支えて転進した。
ナギアン街道の入口の手前で、突然、重機関銃の集中射撃を受け、迫撃砲弾が飛来し、町外れの狭い
川の一枚の板橋には地雷が敷設されていた。事前に、地雷だと直感した。爆発と同時に機関砲の曳光弾
が一斉に飛んできた。
早朝、ナギアンの町に入った。この転進で第二聯隊も二〇〇名の将兵を失い、約八〇〇名がバギオに
到着した。
船舶砲兵第二聯隊の解散
昭和二十年二月二十三日
マニラ陥落後、米軍はルソン島北部の尚武兵団(山下兵団長)の主力に対し新たな作戦を開始してき
た。地勢が急激な山岳地帯で、錯綜する峻険な山が無数に立ちはだかり、峠はいずれも道幅が狭く、絶
壁の中間を削り取った無類の難関であった。
日本軍はこの要害に鉄・撃の両兵団を、さらにバギオに登るベンゲット道に旭兵団(第二十三師団)
を配置し、敵の北上を絶対阻止する堅陣を構築した。
三月二十五日
- 251 -
船舶砲兵第二聯隊は解散と同時に第二十三師団に配属になり、ベンゲット道路のキャンプ4の前線に
配置された。
敵は三月中旬以降、戦車を投入して攻撃してきた。野砲二門をもっていた船舶部隊主力の二個大隊は、
川の向かいにある一〇八高地に対峙し、麓には井手隊(爆雷隊 )、島田隊が配備されていた。敵の昼夜
を問わぬ四六時中の激しい迫撃砲と爆撃による攻撃に耐え、野砲での反撃を繰り返し、血みどろの争奪
戦を繰り返した。
しかし、負傷者、戦死者が多く輩出して兵力の消耗が目立ってきた。到着後二週間を経て、陣中には
食糧が欠乏し、加えてアメーバ赤痢、マラリアが蔓延し、戦闘に耐え得る者が刻々と減少して最早、戦
闘能力の限界に立たされた。
四月二十三日
バキオ陥落が迫ったので、キャンプ4の守備隊に対して転進命令が下った。死闘一ヶ月の防御戦は空
しく転進によって幕が下ろされた。
川名分隊全滅・マニラ残留隊解散
マニラ残留隊は、マニラ北方の山中に布陣していたが、三月十日頃、敵の激しい砲撃に川名分隊(機
関銃隊)が二名を残して全滅。広本分隊(機関銃隊)も陣地の一部を破壊されたため、野砲を分解搬送
して砲撃を開始して敵の進撃をくい止めた。しかし、兵力は刻々と減少し、食糧は底をつき、戦闘能力
が落ちてきた。五月中旬になると敵は戦車、自走砲の援護をうけて攻撃してきた。
五月になると延べ一〇〇機の敵機が来襲し、陣地にドラム罐を投下し、火攻めと銃撃の同時攻撃も加
えてきた。時には手榴弾を投げ合う近接戦もあった。しかし、戦車攻撃に対してはこれを阻止する何物
もなく、やむなく負傷者を収容しつつ後退する。 五月以降は雨期になり、体力の衰弱が急速に強まり、
戦死者も日ごとに増加した。
六月になると組織的抵抗は不可能になった。全軍の運命は最早死あるのみの窮地に立たされた。七月
を迎えたある日、生き残りの全員が放光山(注)の麓に集まった。ここで森崎隊長からマニラ残留隊の解
隊が宣言され、任意のグループによる行動に移った。
- 252 -
モンタルバン奥地の戦闘は、森崎中尉、松浦主計少尉、芦田准尉以下、半数以上の犠牲者を出す悪夢
の二字に尽き、深山幽谷の人外境をさまよい、最悪の戦いであった。
カガヤンの原生林から下山
六月以降、全軍玉砕の運命がのしかかり、谷という谷には腐屍白骨が累々と横たわり、転進する路上
には銃器や装具が散乱し、生ある者も被服は破れ、栄養失調で気力もなく、痩せ衰えた姿であった。そ
の光景は文字どうり幽鬼の巷であり、地の果てを現出したようであった。
昭和二十年八月十五日
フィリピンにも終戦の電波が飛んだが、通信機能を消滅した各兵団はなお戦闘を継続、八月二十五日
頃ようやく戦火が収まり、激しかった砲爆の轟音が止み、ルソンの山野に静寂が戻ってきた。
上空を飛翔する敵機も、今日から米軍機と呼ばれ、ビラを撒き散らす。カガヤンの奥の原生林の中で
終戦を迎えた。瀬降りに戻り信管箱をとり出し、もう一度遺灰の整理を行う。亡き戦友たちは今、紙包
みの灰になって小箱の中に収まっているのだ。
九月十二日
カガヤンの原生林の中からいよいよ米軍陣地に向かって下山した。
船舶砲兵第二聯隊戦死・戦病死者数
第二聯隊昭和二十年一月中旬作戦展開時から終戦時まで、フィリピン全域における戦死・戦病死者
約二 九〇〇名
終戦時の生存者
約
.
注
展開時の人員
二〇〇名
放光山は「マニラ市」の水道源流「イポ」ダムの近くの千メートル弱の山。日本陸軍はマニラ市の
「無防都市」宣言をしたが一部は建造部に残留した。海軍の岩淵陸戦隊はマニラ城内に多数の兵器、資
財、糧秣が、備蓄してあるので放棄して撤退せず、籠城して激烈な戦闘を繰り返した。陸軍は第八師団
を中心として、船舶砲兵や、兵站部隊が統合して、周辺の山地に陣地を構築して最後まで戦ったのが、
- 253 -
横山第八師団である。当時覚えやすいように日本名を付けた地域もあるようです。(石井清栄氏)
陸軍海上挺進隊(漁労隊 )
四式肉薄攻撃艇
で敵艦船に
ミ二七船団江戸川丸、鎮海丸には、比島派遣の「秘匿名称・漁撈隊」と呼ばれた陸軍海上挺進第一九
戦隊・同
基地第一九大隊、第一八戦隊・同
基地一八大隊。ヒ八一船団あきつ丸には第二〇戦隊・同
基地第二〇大隊。ミ二九船団はわい丸等に、海上挺進第二二戦隊・同
基地二二大隊の隊員約四千名が
各輸送船に分乗していた。
また、挺進隊用「四式肉薄攻撃艇(秘匿名称・連絡艇
)」四〇〇隻も、各輸送船に分散して積
載されていた。
あきつ丸が昭和十九年十一月十五日に、江戸川丸、鎮海丸は十一月十七日に、はわい丸は十二月二日
にアメリカの潜水艦の雷撃を受けて沈没した。挺進隊員は乗船していた他の部隊将兵と共に、多数が海
没戦死し、積載していた連絡艇
の多くも喪失して壊滅的な被害を受けた。
陸軍兵器行政本部が統括
陸軍が本格的に特殊舟艇の建造を計画したのは、昭和十八年六月。昭和十七年のミッドウェー海戦の
敗北により、占領地への補給路は敵潜水艦、航空機の攻撃で損害が大きく、大型船舶の東南太平洋戦線
への補給も被害を受けることが多くなった。そのため、潜水艦での主任務外の補給に依存したが、性能
上非能率であった。
当初、舟艇の生産は陸軍運輸部が担当し、補給は船舶補給廠、運用は船舶司令部が統括していたが、
陸軍では急遽、内外の部隊から船舶設計、建造の経験者を運輸部に転属帰還させたが、なお要員不足で
需要を満たせず、昭和十九年初頭、運輸部の生産所管を陸軍兵器行政本部に移管した。そして生産管理
・採用検査は、大阪および神奈川県相模造兵廠に担当することになった。
昭和十九年七月
の生産を開始
- 254 -
サイパン島を中心とするマリアナ諸島が米軍の攻撃目標であることが、米太平洋艦隊の行動から察知
された。昭和十九年五月、船艇研究専門機関として陸軍技術本部第三研究所が改組され、第十陸軍技術
研究所が開設された。マリアナ沖海戦で日本聯合艦隊が致命的な損害を受け、アメリカ軍が六月十五日、
サイパン島に上陸してきた。
六月中旬に自動車エンジンを用い、速力二十ノット以上、一二〇キロ爆雷を両舷に各一個を持った特
攻艇の試作が発令された。七月五日に甲一型が完成し、小型化または、爆雷前装型(海軍震洋艇方式 )、
および、爆雷後装型など試作艇が甲八型まで造られた。
当時、既に軍需物資が不足し、戦車、自動車等の生産が激減し、陸海軍と日産自動車グループの三者
協議で、横浜市の貯木場に日本造船新山下工場を新設し、陸軍船舶工兵隊が同工場の船体製造用の船台
を建設して、船大工や徴用工等を動員して、生産を開始した。
陸軍兵器学校と
製造
昭和十九年六月一日に、船舶部隊の兵器勤務要員を教育する目的で開校された陸軍兵器学校広島分教
所に、昭和二十年五月、技工科六期生第一区隊の五〇名が転校して、終戦の八月十五日まで在籍した。
また、技工科第四区隊五十二名は、昭和二十年六月九日より七月八日まで、兵庫県飾磨市の大阪造兵廠
白浜製造所に実習を兼ねた演習で
の製造を行い、第三区隊の五十名は昭和二十年八月十日から、
横浜市の相模造兵廠日本造船所新山下工場で、実習を兼ねて
連絡艇の側板作りを、八月十五日の
終戦まで行って帰校した。
四式肉薄攻撃艇(通称・連絡艇
)
舟体は木製で、龍骨材は楢材または欅材を使用、外板は九ミリ耐水ベニヤ合板、接着は尿素系樹脂を
使用した。エンジンは陸軍が日産、海軍はトヨタ製トラック用エンジンを舟艇用に改造し、スクリュー
は砲金製、陸軍は途中で鋳鉄製になった。
諸元は次の仕様であった。
艇
長
五.五〇メートル
艇
幅
一.七〇メートル、
- 255 -
- 256 -
深
さ
〇.六七メートル、
排水量
一 一五トン、
最大速度
二十三~二十五ノット、
爆
雷
二〇〇キロ
動
力
ガソリンエンジン六〇馬力
乗
員
一 名
.
連絡艇
一個、
一基、
の生産は、京浜地区では横浜の日本造船新山下工場、東京王子尾久町の南国特殊造船所等
で、昭和十九年七月十一日、第一回分の一 〇〇〇隻の建造が発令された。八月以後十二月までの間
.
に、三 〇〇〇隻が建造された。その後、本土防衛用に二 〇〇〇隻が追加建造された。
.
.
昭和二十年三月以後は、空襲で工場が爆撃焼失し、船大工の疎開等で生産が低下した。大本営海軍
部は(通称・震洋艇、秘匿名称 四 )を、三菱長崎造船所等で一 五六六隻を建造した。 昭和十九年
.
十二月、航空母艦雲龍に、大量の
沈没し、四
四
を搭載して進発したが、十二月九日、フィリピン中部で雷撃
の大半を喪失した。ために、海軍はマニラ湾口に若干の 四 と、フィリピン中部、南部
に甲標的(特殊潜航艇)十隻を配するのみであった。
海上挺進隊の発足と教育訓練
昭和十八年十二月、大型発動機艇(大発)乗員養成のため、陸軍船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)
が香川県三豊郡豊浜町に発足した。後に、瀬戸内海の小豆島に移転した。
特別幹部候補生隊は、旧制中学三・四年生(十六・十七歳)を対象に、全国から選抜試験合格者第一
期生一 八〇〇名、昭和十九年三月に第二期生二 二〇〇名、終戦までに三・四期生が入隊した。
.
.
昭和十九年八月、陸軍船舶部隊の主任務が輸送から攻撃、それも特攻に準じる過激なまでの攻撃部隊
に変って、秘密に宇品の船舶司令部内の船舶練習部に 、「第十教育隊」が編成された。特別幹部候補生
隊および学徒動員で入隊して船舶兵に配属された多数の学徒兵も
とになった。
昭和十九年八月十九日
- 257 -
要員としての教育訓練を受けるこ
一〇〇隻を単位とする海上挺進隊と、基地大隊の戦隊単位で、初の海上挺進隊がフィリピンに六
戦隊、沖縄に四戦隊の編成が下令された。
九月二十二日
第二次二 〇〇〇隻の建造が発注され、フィリピン五戦隊、台湾五戦隊、沖縄五戦隊と本土各地に十戦
.
隊が配属されることになった。
編成と攻撃方法
海上挺進隊は基本的には人員一〇七名、連絡艇
一〇〇隻。戦隊は十隻で一小隊、三個小隊で一中
隊の三個中隊編成で、戦隊長・戦隊本部指揮班長十隻(十二名 )、第一~第三中隊が各三十隻(三十一
名)基地は海岸にトンネルを掘り、その中に艇を収納するのが
隊の配置方式であった。
基地大隊は総員約九〇〇名、第一作業中隊~第三作業中隊(各二五〇名 )、整備中隊(一五〇名)の
編成で、重機関銃四丁、軽機関銃十二丁、重擲彈筒十六丁と小銃で武装し、大隊砲を装備している基地
大隊もあった。
出撃後は陸上戦闘に参加することが想定されていた。
出撃時、隊員は救命胴衣を着用して一名乗船する。二〇〇キロ爆雷一個を積み、夜間敵艦船に接近し、
敵艦約三〇〇メートル手前で舵を固定し、艇から水中に脱出する。艇は全速で敵船に衝突させて自爆さ
せる。水上に浮かぶ乗員は別の指揮艇が収容する。
「甲一型連絡艇」の場合は、一二〇キロ爆雷を二個搭載し、敵艦舷側まで接近してロープで結んで細
長くした二個の爆雷を投下したら反転して退避することになっていた。
捷号作戦と挺進隊の配置
陸軍は捷号作戦のため、海上挺進隊の部隊配備を次のように発令した。
昭和十九年八月十九日発令
大陸命千百六号
沖縄
挺進隊第一~第四戦隊、同
第一~第四基地大隊。
比島
第一海上挺進基地隊本部、挺進第五~第十戦隊、同
昭和十九年九月二十二日発令
- 258 -
第五~第十基地大隊。
大陸命千百三十八号
比島
第二、第三海上挺進基地隊本部、挺進隊第十一~第二十戦隊、同
台湾
第四海上挺進基地隊本部、挺進隊第二十一~第二十五戦隊、同
沖縄
第五海上挺進基地隊本部、挺進第二十六~第三十戦隊、同
第十一~第二十基地大隊。
第二十一~第二十五基地大隊。
第二十六~第三十基地大隊。
初の挺進作戦・高橋隊リンガエン湾に散る
フィリピン決戦に予定された
は、一 六〇〇隻であったが、輸送船の雷撃沈没により、アメリカ
.
軍がリンガエン湾に上陸時
(1)ラモン湾
小暮第一基地隊一八〇隻
(2)バタンガス州海岸
堤
(3)マニラ湾
川越第三基地隊一三〇隻
(4)リンガエン湾スアル
高橋第一二戦隊
海上挺進第八基地大隊(長
第二基地隊二二〇隻
八十隻
少佐)は、早くからラモン湾のマウンバンに基地を設営して待機してい
たが、対応の挺進第八戦隊が海没して一個中隊しか到着しなかったので、第七戦隊に編入され、基地第
八大隊は、マウンバンを撤収して地上戦任務に移った。
昭和二十年一月九日
挺身第十二戦隊(高橋功大尉)七十八名の隊員はスアルを発進し、リンガエン湾内の敵艦船群に突入し
て玉砕した。陸軍初の海上挺進作戦であった。
スワル基地の援護警備に、第二十三師団(旭)捜索第二十三聯隊久保田支隊(久保田中佐 )、歩兵第
七十二聯隊第三大隊(野田大尉)が配置されていた。
- 259 -
海上挺身隊高橋隊が湾内のアメリカ軍艦船
に奇襲したことについて、アメリカ海軍省戦
史部編集「第二次大戦米国作戦日誌」及び、
「戦艦コロラドの一月十日の作戦日誌」に
「第七七機動部隊(護衛 空母群 )、駆逐艦
ロビンソン、リーズ、フイリップ、イートン、
輸送艦ウォアホーク、歩兵揚陸艦三六五号、
九七四号、戦車揚陸艦六〇一号、九二九号、
一〇二五号が特攻艇の攻撃により、沈没又は
大・中・小破を受けた 」と 、記録確認されている 。
高橋隊奇襲突入の後
高橋隊奇襲の後、連合軍は海岸線への砲爆撃
を強化し、そのため他の地点の
隊の出撃数
も減り、戦果も散発的になり、捷一号作戦に
準備した
は、リンガエン湾の敵の逆上陸
作戦に、第十二戦隊の高橋隊長以下の七十隻
が攻撃に参加しえたにすぎなかった。
支援した第十二基地大隊は同夜、スアルか
ら歩兵第七十二聯隊野田大隊陣地の後方に移動
して、久保田支隊長の指揮下に入った。
敵潜水艦の攻撃を避けてフィリピンに上陸した第一次海上挺進隊と基地大隊の配属者は、三 一二一名
.
の中、出撃者と陸上戦闘の第一戦に配置のため、挺身隊員の五十六パーセント、一 七四三名の多数が戦
.
死した。
- 260 -
戦時における船員
陸海軍人より多い船員の犠牲
ミ二七船団の江戸川丸(七二〇〇トン・日本郵船)に、七十五名(溝口貞雄船長)の乗組員が乗船して
いたが、昭和十九年十一月十七日、済州島西方海上の東シナ海で、潜水艦の雷撃を受け沈没した。船長も
最後まで船橋で指揮していたが、乗組員七十名と運命を共にして没した。わずかに和田政臣機関長他五名
が救助された。
同船団の僚船も、盛祥丸(五四六六トン・東亜汽船)が三十六名。鎮海丸(二八二七トン・日本郵船)
が二十二名。油槽船逢坂山丸(六九二五トン・大阪商船)は、白根敏雄船長以下六十一名の乗組員が海没
した。ヒ八一船団の摩耶山丸(九四四三トン・大阪商船)は、弟子丸哲一機関長以下五十五名が海没した。
戦時における船員の身分と待遇
政府は昭和十六年八月、戦時海上輸送完遂のため「海運管理要綱」に基づき、船舶徴用を実施してきた。
一方、船員の待遇に関して、遅ればせながら昭和十八年一月二十六日「船員の待遇に関する件」を閣議決
定した。
一、陸海軍の指示を受け運航する船舶乗組員は、銓衡の上これを陸海軍軍属とすること。ただしその範
囲並びに待遇に関しては、陸海軍の定めるところによる。
二、船員功績に応じて、これが論功行賞の措置を講ずること。
三、陸海軍徴用船、および戦時海運管理令による徴用船員並びに政府(道、府、県を含む)の命令若し
くは、計画に基づき運航する船舶、または政府の使用する船舶にして、戦時中殉職した者につき公
葬を行うごとく措置すること。
四、船員並びにその遺家族に対し、適当なる援護扶助を実施せしむるごとく措置すること。
五、町内会、隣保班の船員遺家族に対する援護扶助を実施せしむるごとく措置すること。
- 261 -
船舶の消耗激しく遂に比島向け船団の中止
「捷号作戦」策定前後の輸送船舶の現状
昭和十六年十二月開戦以来、昭和十九年七月までの新造船腹は二〇九万総屯、喪失船腹四五〇万総屯で、
損耗は新造船の二倍半に達していた。
昭和十九年六月のマリアナ沖海戦の敗北に続き、六月二十四日の米軍サイパン島占領により「絶対国防
圏」の崩壊で、七月二十一日戦争最高指導会議で「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」を決定し 、「捷号作戦」
が打ち出された。
太平洋における制海・制空権も奪われ、大本營の戦争指導構想を根底から覆すことになった。輸送船、
商船の損失も多くなり、昭和十九年八月三日、政府連絡会議において、民間(C船)船舶のすべてを陸海
軍(A・B船)徴用船に振り向け、陸海軍徴用船の損耗補填に当てることを決定した。
開戦以来最大の船舶喪失
昭和十九年九月
制海・制空権の喪失による防衛力の衰退により、緊急部隊の輸送、需要物資輸送のわが船団に対する敵
潜水艦の攻撃は、東経一五〇度から一三〇度、一二〇度と北上し、レイテ攻撃掩護のため、米航空機の比
島セブ島付近の空襲で一挙に十四隻。マニラ港の空爆で十七隻が撃沈された。またこの間、一万屯級の輸
送船や油槽船六隻等が集中的に攻撃をうけて沈没した。同時に、輸送(油)船に乗船していた乗組員はも
とより、多数の将兵が散華し、さらに武器・弾薬・糧秣等の戦略物資も海没した。
九月中に輸送船が、魚雷攻撃で五十二隻、空襲で七十四隻、触雷で四隻の合計一三〇隻、三九八.一三
〇総屯の喪失となり、開戦以来最大の損失を数えた。
「捷一号作戦第一次発動」下令
昭和十九年十月十九日「捷一号作戦第一次発動」が下令された。
敵潜水艦によるわが船舶の損耗が増大してきた。十月十日に沖縄・奄美大島等に、十二日には台湾への
- 262 -
大空襲があった。十九年上半期における油槽船の損耗と建造の実績を比較すれば、毎月一五〇〇〇総屯が
減少している。
なお、健在といわれた連合艦隊も燃料補給に支障が出てきたため、戦艦大和、武蔵を始め、巡洋艦、駆
逐艦、潜水艦等を中心とする水雷船隊は、石油産出地ボルネオ北部のブルネイ湾に集結させて行動をして
いた。
十月十二日より十五日のアメリカ機動部隊艦載機の台湾沖航空決戦。二十四日には、比島中部シャブヤ
ン海で米太平洋艦隊との艦隊決戦「フィリピン沖海戦」で、旗艦巡洋艦最上、戦艦武蔵、空母等を含む合
計二十二隻の艦艇を喪失した。戦艦大和も十発の魚雷攻撃をうけ、前甲板をほとんど水面近くまで沈んだ
状態で瀬戸内海の柱島錨地に帰還した。
連合艦隊はフィリピン沖海戦で事実上喪失した。
十月中に輸送船は、魚雷攻撃で六十八隻、空爆で六十四隻、触雷による四隻、その他二隻、合計一三八
隻、五〇四 一六八総屯が、取り返しのつかない大きな喪失になった。
.
レイテ決戦兵団輸送船舶動員発令
大本營陸海軍部は、十一月一日午前〇時「捷一号第二次発動」を下令した。陸海軍航空中央協定によっ
て、敵のレイテ上陸を粉砕しようと企図し、地上決戦兵団増強のため、北支那(満洲 )、朝鮮、台湾、お
よび南方に駐屯する兵団を緊急輸送する船団のフィリピン危険海域への派遣を急いだ。
十一月八日、戦争最高指導会議は、民船八万総屯の増加使用を決定。二十三日~二十六日に、大型船団
をもってする急増部隊のレイテ突入輸送、十六日より機帆船の獨航、十八日より高速船の獨航等を決定し、
最終的戦力の集中を急いだ。
このため、高速大型輸送船、タンカーも、東シナ海や本土周辺海域で、魚雷攻撃により沈没する船が多
くなった。
十一月中に輸送船が、雷撃で五十四隻、空爆で四十六隻、触雷その他四隻、合計一〇四隻。四〇五 〇三
.
二総トンの喪失にのぼった。
昭和十六年十二月開戦以来、十九年十一月の三年間で、船舶喪失量は、約一六〇〇隻、六〇〇万総トン
- 263 -
であった。
比島向け輸送船団の本土発航を停止
-
昭和十九年十二月、船舶損耗の激増ぶりはどうしても補い得ない状況になった。二十七日にB
29五
十機が東京を空襲、硫黄島に対しても艦砲射撃が激化してきた。
十二月の喪失船舶は、雷撃で二十四隻、空爆で二十一隻、その他、合計四十九隻、一七八.五五四総ト
ンであった。
昭和二十年一月、すでに戦局の大勢は決し、大本營陸海軍部にも本土決戦思想が強く芽生えてきた。比
島戦線も、ルソン島全域に拡大し、南北の海上輸送航路も敵潜水艦、航空機により完全に遮断された。北
フェルナンドに入港すると、敵機が飛来して空爆下の揚陸が相次ぎ、一月七日の艦砲射撃で港の揚陸機能
が消滅したので、比島への本土発航の航路は閉鎖した。したがって、北フェルナンドの揚陸は十二月末を
もって終了のやむなきに至った。
「タ号作戦」のレイテ輸送船舶の北向き(帰還)船団も八十パーセントが雷撃・空爆を受けて沈没した。
昭和二十年一月の喪失船舶は、雷撃で二十隻、空爆で八十隻、触雷によるもの七隻、合計一一四隻。三
一二.九二五総トンに達した。
陸海軍を上回った船員の犠牲
昭和十六年十二月から昭和二十年八月の終戦まで、日本商船の船腹喪失量は、
戦争海難によるもの 二 三九四隻、八 〇一八 一二二総トン、
,
四一五 二六七総トン
.
二 五六八隻、八 四三三 三八九総トンに達した。
.
.
.
計
.
合
一七四隻、
.
普通海難によるもの
喪失量は開戦前、世界第三位だった六三〇万総トンの保有量をはるかに越えた。戦時中に急造された
船舶を含めて、日本海運の全ての客船や貨物船、タンカーが、尊い多数の人命と共に海底に没した。
応 募 船 員
- 264 -
部員(普通船員)
六一 〇〇〇名、
一〇一 九三〇名(十七年から終戦)
.
二六 一〇〇名
.
.
開戦後の徴用船員
一六 〇〇〇名。
.
船員は開戦時に、 職員(高級船員)
が動員された。そして終戦時に戦火をくぐり抜けて生き残った船員は、
部員
五五 六〇〇名。
.
一五 三〇〇名。
合
計
七〇 九〇〇名
.
.
職員
であった。
また、太平洋戦争における海上輸送に従事した徴用(A・B・C)船乗組員の四十三パーセントが、
戦争災害による海没戦死、戦病死および行方不明者になっている。これは陸軍二十%、海軍十六%の二
倍に及んでいる。
敵の攻撃により、沈没・破損をうけて、二回、三回と油の海を泳いだ遭難船員は、延一五二.三〇〇
名に達し、また、疾病三五 〇七二名、負傷四 七一六名の災害船員を出している。
.
.
昭和19年 の船舶喪失推移
月
(海難は除く)
総数隻
トン数
()5千噸以上
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
計
89(28)
122(47)
62(20)
34(11)
64(17)
79(22)
63(22)
75(25)
130(37)
138(46)
104(37)
49(16)
314,561
502,670
238,509
121,654
244,340
275,699
238,039
272,670
398,130
504,168
408,032
178,554
1,009(328)
3,697,036
- 265 -
船団派遣と繰り上げ卒業の背景
致命的なフィリピン作戦の転換
大本営陸軍部及び陸軍参謀本部は、昭和十九年十月十九日の大本営海軍部が発表した、台湾沖航空
戦の戦果の虚報を信じ、フィリピン「ルソン地上決戦」の基本的な作戦計画を十月二十日、急遽「レ
イテ地上決戦」に作戦転換を行い、十月二十二日南方総軍司令官が、第十四方面軍山下司令官に、レ
イテ逆上陸決戦の命令を発した。
米輸送船団・支援艦艇とレイテ湾に進入
昭和十九年十月十八日、アメリカ輸送船団とこれを援護するキンケード艦隊が、風速三十メートルの
暴風雨の中、レイテ湾に進入し、湾入口のスルアン島に上陸占拠した。
十七日七時〇分、スルアン島海軍見張所は
「アメリカ軍戦艦二隻、特設空母二隻、駆逐艦六隻接近」
十七日八時〇分
「米軍の一部が上陸を開始。天皇陛下万歳!」
の打電を最後に玉砕した。
第十六師団は偵察機からは
「レイテ湾内ニ敵艦船ナシ、湾外密雲ニシテ視察シエズ」
と報告。
第四航空軍は悪天候にもかかわらず、飛来する敵艦載機の執拗な敵通信状況から、本格的反攻と判断
し、第二飛行師団に攻撃を命ずると同時に、南方軍司令部に、
「捷一号作戦発動」を申請した。
- 266 -
レイテ守備第十六師団長の報告
十月十八日
米船団を発見したレイテ島守備の第十六師団司令官牧野四郎少将は、第三十五軍司令部に
「敵艦艇多数レイテ湾ニ進入シアルモ十六師団ノ判断トシテ
イハ暴風避難ノ為ニ入湾セルモノナリヤ
敵ハ進攻ノタメ進入セルモノナリヤ
或
或イハ台湾沖ノ戦闘ニオイテ損傷ヲ受ケタル一部艦艇ガ遁入
セルモノナリヤ不明」
との楽観的な情勢判断を報告した。
進入してきた艦艇の数、艦種から冷静に判断すれば、敵機動部隊壊滅は誤報であるとわかったはずで
あった。
レイテ島決戦に作戦変更
十月二十日
大本営陸海作戦部の会同研究が行なわれた。
その席上、陸軍はレイテ島上陸の米軍は二個師団と判断(註 米軍四個師団六万名が上陸)した。
海軍はこの会同でも、
「敵ハ各方面カラ残存空母ノ全テヲカリ出シテイテ
搭載機モ少ナク
素質モ不良デアル」
と、台湾沖航空戦の虚報の戦果を隠蔽して強調した。
陸軍は、台湾沖航空戦の虚報の戦果を信じ
「満身創痍ノ米軍ガ
戦力ヲ集中シテ
レイテニ新作戦ヲシタノハ大ナル過失ニ属スル
今コソ我ガ軍ハ
空
陸
海ノ
敵ヲ撃破スベキデアル」
と、レイテ島にできるだけ地上兵力を集めて米軍に決戦を挑むと、既に決定していたルソン島の地上決
戦をレイテ決戦へと、急遽、致命的な作戦変更をおこなった。
南方総軍と方面軍の意見対立
十月二十日夕刻、
大本営から派遣された作戦参謀杉田一次大佐がマニラに到着した。
- 267 -
ただちに、南方軍総司令部で、南方軍総参謀長飯村穣中将、第十四方面軍参謀副長西村敏雄少将に
「大本営ハ
ルソン島地上決戦カラ
レイテ島決戦ヘノ作戦変更ヲスル」
旨の作戦変更の意向を伝えた。
飯村中将はすぐ同意した。西村少将は突然の変更に猛反対をした。ここで、南方総軍と方面軍の意見
対立が表面化した。
総軍司令官、第十四方面軍司令官を説得
十月二十二日
第十四方面軍の強硬な反対に手を焼いた寺内総司令官(南方総軍)は、第十四方面軍山下軍司令官と
西村参謀副長を総司令部に召致した。第十四方面軍浅枝繁春参謀も同行した。
「東京カラノ命令ナリ
「デキマセン
ナゼ方面軍ハレイテ決戦ニ動カナイノカ」
戦力ガ足リマセン
制空権ガアリマセン 」
などの問答に加えて、制海・制空権の喪失、輸送船舶の不足、長い輸送航路(マニラーレイテ島の距離
は東京ー岡山間)など兵員・物資の輸送の極めて困難なこと、島の大部分が敵艦砲射撃の射程距離に入
り犠牲が大きい等を説明したが、
「陛下ノ御命令デアル」
と言われた山下軍司令官はこれに服した。
直ちに、次のような南方軍総司令官の命令が発令された。
一、驕敵撃滅ノ神機到来セリ
二、第十四方面軍ハ海空軍ト協力シ 成ルベク多クノ兵力ヲ以テ レイテ島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スヘシ
聯合艦隊の情勢観察
十月二十六日、
聯合艦隊はレイテ作戦の情勢観察を次のように分析していた。
「敵ノ水上部隊ガ スリガオ海峡ヲ抜ケテ 「オルモック」ニ出テコナイカト心配スル
攻艇ヲ早ク出シテ欲シイ
陸軍ハ 四
レイテーサマワル間ノ水道ハ既ニ敵ノ手ニ帰シテイルヨウニ思ウ
- 268 -
特
第一師団
(中国北部より南下し上海で待機)ヲ大型船デ
敵空母ハ大型五隻以上
ウ
敵ハ新タニ
中型二~三隻
レイテニ突入サセル件ハ客観的ニ危険大ナルト思ウ
特設空母四隻以上
計十一~十二隻ガ
ココ二ヶ月内ニ新作戦ヲ発現シ得ル能力アリト考エル
マダ残存シテイルト思
コノ敵ニ対シ別途ニ備エル要
アリ」
聯合艦隊のこの慎重な情勢観察を、大本営陸海軍部は共に聴取していた。しかし、十九日の台湾沖航
空戦の戦果を発表した海軍部と、この大本営海軍部発表をそのまま信じていた陸軍部は、共にレイテ決
戦の実行を決定した。
大本営陸軍部の情勢観察
十月二十七日二十二時二十五分
参電第五八一号
第十四方面軍付大本営派遣参謀杉田一次大佐 殿
大本営陸軍部作戦第二課長
一
現戦況ニ関スル当方ノ見解ハ貴見ノ通リ
此ノ際何等ノ懸念ナク冷静且ツ透徹セル信念ヲ堅持シテ
断固既定ノ方針ノ遂行ニ邁進アルノミト確信シアリ
策ヲ講シテ
レイテ上陸部隊ノ地歩維持ノ為
他方面ヨリ空海陸ノ戦力ヲ糾合投入スルニ勉ムヘク
基地航空勢力ノ中部比島方面ヘノ推進必然ナルヘシ
二
特ニ濠北(オーストラリア)方面
従ッテレイテ方面空地ノ戦闘ハ今後尚幾多ノ困
難アルヘキモ敵機動部隊力殆ント壊滅的打撃ヲ受ケタルコト疑ナク
シテ
戦局ハ大局ヨリ見テ我ニ有利ニ
現況ハ寸毫ノ疑念ナク全戦力ヲ決戦点ヘ集中スヘシ戦機ナリト考ヘリ
(略)
参謀本部第二十班(戦争指導)情勢観察
十一月二日以前に、レイテ島の敵将は白旗を掲げると信じ
十月二十六日
最高戦争指導会議幹事補佐合同において
「十一月三日明治節ヲ期シテ
帝国政府声明」
- 269 -
敵ハ必死ノ方
を発表する予定で、案文を上程して内定させていた。
南方総軍の情勢観察
十月二十七日二十三時〇五分
参電第五一三号
第二方面軍司令官
殿
第十四軍参謀総長
一、二(略)
三
レイテ地上決戦遂行後ニオイテ
之ニ併行シテ戦果拡大ノ第一歩ハ
モロタイ島ノ敵ノ撃攘ニ在リ
ト考ヘアリ」
(この、レイテ島の敵を撃滅後、または、之と併行して失地回復の第一目標はモロタイ島と言う電文
は、第二方面軍を激励するための故意の辞句ではなく、台湾沖航空戦の海軍の戦果の虚報を信じ、
レイテのアメリカ軍は撃滅できると)信じての前提であると思われる。
第十四方面軍掘参謀の情勢観察
十月二十七日
尚武参電第一七二号
大本営第二部長(情報担当)殿
第十四方面軍参謀掘栄三少佐
一
敵海軍の情勢判断
台湾沖
比島沖ノ航空戦ニオイテ
敵ノ蒙レル空母ノ損失ハ約八隻( 正規又ハ改造ノミ )ニシテ
今次レイテ作戦ニ参加シアリシ敵ハ概ネ十隻ナリシモ
二十四日
二十五日出撃セル我ガ艦隊ニヨリ
サマール島東方海上ニテ(フィリピン沖海戦)四~五隻ヲ撃沈セルヲ以テ
残敵空母ハ現在四~五隻
(正規又ハ改造ノミ)ト判断セラル、尚アドミラルティ方面ヨリ若干ノ空母(内、英艦ガ若干)ヲ増
強シ、既二戦闘ニ参加シアルモノノ如シ、敵空母群ハ遂次温存的用法ヲ採用スルヤニ判断セラル」
掘参謀の情勢分析は
- 270 -
(聯合艦隊の情報観察は、既に二十六日に悲観的であった。陸軍は台湾沖航空戦の戦果を信じていた
中で、大本営派遣参謀としてマニラへの赴任途中、鹿屋基地航空隊の出撃と帰還状況を自ら確認して、
山下軍司令官に
「台湾沖航空戦の実際の戦果は、発表の二、三割」
と報告し、各戦闘や敵の進行予想にも正確な情勢分析をして「マツカーサーの参謀」と、あだ名された
掘参謀の情勢判断も楽観論に片寄っていた 。)
輸送船増徴の具申・決定
大本営は昭和十九年十月十八日、レイテ湾へのアメリカ軍輸送船、支援艦艇の侵入、二十日アメリ
カ軍のレイテ島上陸を、台湾沖航空戦の残存勢力による失地回復の反攻と誤断。ルソン地上決戦を急
遽転換し、陸海空の全戦力をレイテ島に集中すべき戦機として、満洲・朝鮮・台湾等駐屯地より増援
する陸軍部隊を緊急輸送する輸送船の増徴のため、保有輸送船が僅少の中、慌ただしい動きが始まっ
た。ミ二七、ヒ八一船団関係輸送船は、この増徴計画の最優先順位として組み込まれた。
米潜水艦の蹂躙の中最後の輸送船として繰上げ卒業も含めて最善の努力を払い計画されとものと思考
される。
「捷一号作戦発動」の具申
昭和十九年十月十八日〇二時五十分
威参一電第九七号
- 271 -
大本営陸軍部総参謀長
殿
南方軍総参謀長発
捷一号発動ニ関シ重ネテ意見具申ス
第二十三師団派遣と船舶の増徴実施
昭和十九年十一月一日
大本営は服部作戦課長をレイテ、ルソン等に、現地の戦況を把握するために派遣した。現地では第十
四軍司令部参謀長、第四航空軍司令官より作戦の経過、師団の状況、その他の関連事項の説明を受け、
東京出発時の状況と著しく一変していることを知った。
その上で、所感、作戦指導について発言あり、
「第二十三師団(後詰)と、大型発動機艇三〇〇隻の早急な比島への派遣を要請し、之が輸送のため船
舶の増徴と地上兵団の増強について取り組むこと」
を伝えた。
捷一号作戦第二次発動
十一月一日
大本営は「捷一号作戦第二次発動」を下令した。
十一月二日
第十四方面軍参謀副長西村少将は、マッキンレイからマニラ埠頭近くの南方軍第三船舶輸送司令部を
訪問し、司令官稲田少将と会同して、
昭和十九年十一月二日
尚武参電第三三八号
南方軍第三船舶輸送司令官
殿
第十四方面軍司令部参謀長
公文書面にて「比島派遣の陸上部隊の輸送に関する船舶の早急なる増加配船について」意見具申を行
- 272 -
った。
これに対し、稲田司令官は
「敵ノ政略的戦争指導ノ焦燥ガ、米軍ガ此ノ上陸ヲ行ッタ、我ニ一撃ヲ与エル天佑ナリ、右顧左辨スベ
キニアラズ、直チニ転用シ得ルアラユル船舶ノ準備ヲ命ズルトトモニ、認可ヲ東京ニ申請ショウ」
と回答した。
七万屯の輸送船舶を具 申
昭和十九年十一月四日十一時四十分
威参一電第四五一号
大本営陸軍参謀総長 殿
第十四軍参謀総長
「レイテ決戦ヲ中心トスルタメ、増加兵力ヲ所要ノ船舶長ニ関シ左ノ如ク意見具申ス、詳細ハ大本営参
謀
服部大佐承知アリタシ」
※(十一月一日の服部大佐との会同を指している)
一
意 見
(一) (略)
(二)所要船舶の内訳
船舶十五万総屯ヲ十一月二十日マデニ増強ス
右ノ内A船船腹中ニハ現ニ比島方面ニ在リテ第一師団等ノ輸送ニ任スル優速船二万三千屯ヲ含ム
イ
十一月十日頃マデニ
七万屯
ロ
十一月二十日頃マテニ
八万屯
ハ
右ノ外SS及、高速輸送艇等三十隻内外ヲ速急ニ推進ス
(三)
第二十三師団の外、一個師団ヲ速急ニ推進スルト共ニ
増強ス
二
総テ精鋭充実セル兵団ナルヲ要ス
理 由
- 273 -
年末頃ヲ目途トシテ別ニ二個師団ヲ
(一) 合計十五万屯ハ
レイテ作戦ノタメ
必要最小限度ニシテ
独立混成第五十八旅団及第二十三師団ヲ投入スル場合、
更ニ兵団ヲ投入企図スル場合ニハ追加増配ガ必要デアル(略)
(三)戦略兵団増強の理由
イ
レイテ決戦ノタメ
今後モ独立混成第五十八旅団及ビ第八師団ノ一個連隊ヲ、状況ニヨリ第二
十三師団ノ投入ヲを予定スル。
ロ (略)
ハ
之ヲ要スルニ決戦完遂ノ為、最小限第二十三師団ノ外、速急ニ三個師団増強ガ絶対必要トス
(中略)ナオ第二十三師団ハ十一月中旬頃ニハ到着スルヲ必要トス
船舶増加使用に関する回答
昭和十九年十一月四日
大本営参電七〇三号
第十四軍総司令官 殿
大本営陸軍参謀本部発
昭和十九年十一月二日
用スル件ノ意見具申ニ対シ
尚武参電第三三八号
方面軍作戦ノ全需に応シルタメ
民船八万屯ヲ増加使
陸軍参謀本部ハ船舶増徴ニ関スル戦争最高指導会議デ議決スルヨウ準備中
テアル、第一師団輸送船ノ引続キ使用ト転用可能ナ近在船ノ使用ヲ認メル」
旨の返電があった。
第二十三師団に第十四方面軍編入の大命
第二十三師団は昭和十九年十月二十三日、第十方面軍(台湾軍)戦闘序列に編入され、南朝鮮(釜山)
において乗船準備中であったが、陸軍参謀総長は十一月四日、同師団を第十四方面軍(比島)に編入す
ることについて上奏し決済を仰いだ。
十一月四日大命
「第二十三師団ハ台湾派遣ヲ比島派遣ニ変更ス」
十一月八日
- 274 -
大本営は独立野砲第十三大隊(十㌢榴弾砲、十門)を、第二十三師団序列に編入して戦力を増強した。
「ミ27船団 」・「 ヒ81船団」関係事項概要一覧表
年月日(昭和)
事
項
主な動き
19・1
19・5・
3
大本営海軍部「あ号作戦」策定。
6・15
「あ号作戦」発令。
6・15
「サイバン島に米軍上陸」
6・17
「マリアナ沖海戦」
インパール作戦認可
19・2
米軍トラック島に上陸
19・2・21
新鋭空母の旗艦大鳳など空母3隻、補給艦3隻が、航
東条首相兼陸相は参謀
空機、潜水艦により沈没。航空機395機を喪失。搭乗
総長を兼任、嶋田海相
員395名、艦船乗務の将兵2 056名が戦死した。
も軍令部総長を兼任
.
24
19・7・
3
21
「テニアン島に米軍上陸開始」
「軍政(軍事行政)と軍
「サイパン島守備隊の玉砕」
令(作戦・用兵)が乖離
「絶対国防圏の崩壊」
していては戦争は出来
米軍の占領で大本営は「絶対国防圏」の崩壊にともない、
ない」として東条独裁
戦略方針の根本的な再検討を迫られることになった。
体制を確立
「捷号作戦の決定」
19・7
大本営は「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」として 、「捷
- 275 -
インパール作戦中止
号作戦」を策定した。
8・
3
19・7・18
「民間(C)の輸送船すべて陸海軍(A・B)徴用船に」
政府連絡会議において、C船をすべてA・B船に振り
向け、陸海軍徴用船の損耗補償に当てることが決定。
19
問われ3年間の東条内
閣総辞職
「第1次陸軍海上挺進隊の配置」
大陸命1106号で、比島・沖縄に第1戦隊~第5戦
隊の部隊配置が発令。
9・22
サイパン陥落の責任を
19・7・21
米軍グアム島に上陸
「第2次海上挺進隊の配備」
19・7・22
大陸命1138号で、比島・台湾・沖縄に海上挺進隊
小磯内閣成立
の部隊配備が発令。
9月
「開戦以来最大の船舶喪失」
19・8・19
制海・制空権の喪失により、緊急部隊・需要物資の輸
最高戦争指導会議
送船団に対する敵の攻撃は、東経150度から130度、
戦局は重大段階と徹底
120度と北上し、9月中に輸送船が雷撃で52隻、空
抗戦を打ち出す
襲で74隻、触雷で4隻の合計130隻。398 ,130
総トンの喪失で、開戦以来最大となった。
19・10・5
「第23師団(旭)に出動待機命令」
台湾軍への出動待機命令が下令。甲兵団を乙兵団に編
10・10
19・8・25
連合軍パリ入城
19・9・9
成替えを行い、部隊付帯兵器、器材、弾薬、車輛等の輸
ドゴールフランス共和国
送準備を行う。
臨時政府樹立
「沖縄・奄美大島空襲」
米第三機動部隊の航空機340機で、沖縄・奄美大島
に激しい空爆が行われた。
10・12
「台湾沖航空戦と戦果の大誤報」
19・10・18
- 276 -
台湾・鹿児島鹿屋の基地航空隊の延640機、米第三
陸軍省、兵役法施行規則
機動部隊艦載機グラマンF6F延800機との4日間の
改訂公布。17歳以上を
航空戦で、日本軍は300機以上の航空機を喪失した。
兵役に編入
また、大本営海軍部の戦果について大誤報があった。
18
「米軍輸送船団・援護護衛艦隊レイテ湾に侵入」
米軍はレイテと東方海上に戦闘艦艇157隻、輸送船
420隻、特務艦船157隻の743隻が終結し、レイテ
湾入口のスルアン島に上陸占領した。
19
「大本営・捷1号(フィリピン)作戦第1次発動」を下令。
20
「米軍レイテ島に上陸開始」
米軍はレイテ島に10時、艦砲射撃援護のもとに上陸
を開始市、夕刻までに兵員6万人、車輌、弾薬、器材、
物資7万屯余を揚陸した。
22
「レイテ沖海戦」と「連合艦隊の喪失」
米太平洋艦隊との艦隊決戦で、連合艦隊は、戦艦武蔵
など戦艦3隻、空母4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、
駆逐艦11隻が沈没した。
また、7 .475名の将兵が戦死。航空機100機以上
が失われた。
戦艦大和も10発の魚雷攻撃を受け、前甲板を水面近
くまで沈め、瀬戸内海桂島錨地に帰投した。
10・23
「第23師団(旭)第10軍(台湾)派遣の大命」を下令
25
「第23師団(旭)出動・釜山に集結」を下令
27
「第23師団(旭)満洲ハイラル駐屯地を出発」
- 277 -
19・10・25
海軍神風特別攻撃隊
11・
1
「捷一号作戦第二次発動」下令
レイテ沖に初出撃
3
「第23師団(旭)釜山に到着」
4
「第23師団(旭)第10軍(台湾)派遣を変更し、第14
方面軍に配属、レイテ島への派遣大命」が下令
11・
4
「陸軍兵器学校」
21名の繰り上げ卒業式。横浜線淵野辺駅を出発。
(同期生は、11月9日に卒業)
「陸軍少年野砲兵学校」
南方派遣要員70名。10月22日~31日まで帰省
休暇。11月1日期末試験。4日に繰り上げ卒業式。
7日千葉県四街道駅より出発。
(同期生90名は、20年3月卒業)
5
「陸軍少年通信兵学校」
南方特別演習隊員として、東京校285名、村松校
315名。11月5日繰り上げ卒業式。
村松校は6日蒲原鉄道村松駅出発。東京駅で東京校と合
流して8日門司到着。
(同期生200名は、20年3月卒業)
5
陸軍、風船爆弾をアメリ
カに向け飛ばす
第4期生の南方総軍200名、台湾・沖縄軍派遣要員
4
19・11・1
「陸軍少年戦車兵学校」
甲種卒業生(南方要員)として256名。赴任する
比島・台湾・沖縄軍への配属は、学校出発2日前に、各
人に伝えられて、5日繰り上げ卒業式。静岡県御殿場駅
より出発。
- 278 -
(同期生644名は、昭和20年3月卒業)
11・
5
「陸軍少年重砲兵学校」
台湾高雄要塞重砲兵聯隊派遣要員15名の繰り上げ卒
業式。卒業試験が終わり、特別休暇が与えられ帰郷した。
自宅に帰ってみると「至急帰校せよ」の電報が待って
いた。軍靴を脱ぐ暇もなく先祖の墓参を済ませ、肉親に
別れを告げ、次の列車で折り返し帰校した。5日、東海道
線清水駅より出発して門司に向かった。
(同期生185名は、20年3月卒業)
5
「陸軍少年高射兵学校浜松分校」
19・11
南方派遣要員130名。繰り上げ卒業式。浜松駅より
出発。
の建設に着手
(同期生280名は、20年3月6日卒業)
9
「陸軍諸学校卒業生乗船」
陸軍兵器学校南方軍要員200名は江戸川丸、第10
軍(台湾 )、第13軍(沖縄)派遣要員21名、陸軍少
年兵学校卒業生1095名は、あきつ丸、摩耶山丸、神
州丸に分れて乗船。
13
「ヒ81船団」門司を出航。
あきつ丸、摩耶山丸、吉備津丸、神州丸等の輸送船が
出航。
15
長野県松代で地下大本営
「ミ27船団」門司を出航。
陸軍兵器学校南方総軍派遣要員200名。海上挺進隊
第19戦隊、同基地第19大隊等が乗船の江戸川丸の輸
- 279 -
送船団が、門司を出航。
15
「あきつ丸沈没」
11:50分、済州島沖で米潜水艦クイーンフィシュ
の雷撃により沈没。
17
「摩耶山丸・護衛空母神鷹沈没」
18:15分、東シナ海五島列島沖で、米潜水艦ピキ
ューダの雷撃を受け沈没。
11・17
「江戸川丸沈没」
22:05、東シナ海五島列島沖で、敵潜水艦の雷撃
で沈没。
17
「護衛空母神鷹沈没]
23:09、済州島沖西南西200キロで、米潜水艦
スペードフィシュの雷撃により沈没。
22
「ヒ83船団」
第23師団(旭)第二梯団、日昌丸、鴨緑丸、和浦丸
が釜山を出航。
「ミ29船団」
19・11・24
第23師団(旭)第三梯団、はわい丸、伯刺西羅丸、
江ノ浦丸が釜山を出航。
27
約80機、東京初空襲
「神州丸・吉備津丸台湾高雄に入港」
陸軍兵器学校、陸軍少年兵学校等の一部の台湾・沖縄
派遣軍要員上陸。
12・
2
マリアナ基地のB29
「はわい丸沈没」
- 280 -
九州西岸の男女列島沖で、雷撃を受け沈没。
2
「吉備津丸・神州丸」
第23師団の部隊、陸軍少年兵学校卒業生など乗船の
ヒ81船団の2隻がルソン島サンフェルナンドに到着。
兵員・装備物資を揚陸。
12
「日昌丸・鴨緑丸・和浦丸」
第23師団(旭)乗船の第2梯団ヒ83船団の3隻が、
サンフェルナンドに到着し上陸。
23
「伯刺西羅丸・江ノ浦丸」
第23師団(旭)乗船の第3梯団ミ29船団の2隻が、
サンフェルナンドに到着し上陸。
12・末
「本土発航の比島輸送船停止」
敵潜水艦・航空機により海上輸送航路が完全に遮断さ
れ、1月7日、サンフェルナンド港が艦砲射撃で、港の
揚陸機能が消滅したので、12月末をもって停止した。
20・1・7
「400隻余の米艦船、ルソン島リンガエン湾に侵入」
リンガエン湾に米艦艇・輸送船が侵入し、艦艇・航空
機の激しい艦砲射撃と空爆を受ける。
9
「米軍リンガエン湾に上陸」
20・2・4
ルーズベルト・チァーチ
ル・スターリン、ヤルタ
会談。独戦後処理、ソ連
午前7時30分、米軍の第一波の3個師団が上陸を開
始した。
- 281 -
の対日参戦決定
捷号作戦と最高戦争指導者会議
「絶対国防圏」の崩壊
サイパン島を死守せよ
大本営はサイパン島を死守のため、陸海軍四万三千名の兵力を投入し、島の防備を固めた。
日本海軍は反撃のため、虎の子というべき主力の不沈空母大鳳を旗艦とする空母九隻、大和、武蔵な
ど五隻、巡洋艦、駆逐艦など七十三隻。空母には海軍の主力の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)をはじめ、四
七三機が搭載され、第一機動艦隊(司令官小沢治三郎中将)と、戦場となる周辺の島々の航空基地には
角田覚治中将率いる第一航空艦隊四五〇機の合わせて九二三機が投入された。
アメリカ軍は、ミッドウェー海戦を勝利に導いた海軍の第五艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス
大将を総司令官に任命。サイパン島攻略と日本艦隊との決戦という二つの任務を与えた。
その指揮下に、レキシントンを旗艦とする空母十五隻、戦艦七隻、巡洋艦、駆逐艦など九十三隻、空
母艦載機にF6F戦闘機九五六機で編成された司令官マーク・ミチャー中将率いるアメリカ第五八機動
部隊を出撃させた。
昭和十九年六月十一日
第五八機動部隊は、空母から艦載機を発進させ、サイパン島とその周辺の島々に攻撃を加えた。さら
に十二、十三、十四日と攻撃を続け、日本軍の基地航空隊に壊滅的な打撃を与え、この地域の制空権を
手にした。
六月十五日早朝
アメリカ軍はリッチモンド・ターナー司令官率いる第五一合同進攻部隊の海兵隊二個師団が、沖合の
米艦艇から艦砲射撃の援護を受け、サイパン島西部から敵前上陸を開始した。水際では上陸部隊と日本
- 282 -
守備隊との間で、激しい攻防が繰り広げられた。
「あ」号作戦策定と発令
五月三日、
日本海軍は米軍の中部太平洋への進攻に備え、サイパン沖の米機動部隊との決戦を「あ」号作戦と呼
称して計画を策定し 、「大海指第三七三号別紙」で、聯合艦隊に対して発令した。
六月十五日
米軍のサイパン上陸作戦を受けて「聯合艦隊電令作第一五四号ー三」で「あ」号作戦を発動した。
電子兵器に制せられたマリアナ沖海戦
六月十八日
日本海軍の第一機動艦隊はボルネオ北東沖のタウイタウイ島を出発し、サイパン島南西千キロの海域
まで進出していた。第一機動艦隊の索敵機が、サイパン島西の沖合でアメリカ空母艦隊を発見した。
日本艦隊との距離は約五五〇キロ以上離れており「アウト・レンジ戦法」に最適の距離として、小沢司
令官は攻撃命令を発した。
六月十九日〇七時二十五分
第三航空戦隊の空母千歳・千代田・瑞鳳から、戦闘爆撃機、天山、零戦など一一四機。
同
日
〇七時四十五分
第一航空戦隊の空母大鳳・翔鶴・瑞鶴から、天山、彗星、零戦など一二八機。
同
日
〇九時〇分
第二航空戦隊の空母隼鷹・飛鷹・龍鷹から、天山、戦闘爆撃機、零戦など四十九機の計二九一機が発
進した。
同
日
一〇時十五分
第一・第二航空戦隊の八十三機が、第二次攻撃隊として発進した。
米レーダーが攻撃機を捕捉
- 283 -
米海軍の旗艦レキシントンの戦闘司令室に集められてくる最新鋭のレーダー情報は〇九時三十分に、
二〇〇キロ前方から日本攻撃隊の機影の大きな集団が、間隔をおいて飛来してくる姿を「CICシステ
ム」のレーダー画面が捉え、全軍で迎え撃つ戦闘体制を整えていた。
米軍は対空高度測定レーダー「CXBL」で、日本攻撃機の正確な高度三 五〇〇メートルまで捕捉し、
.
迎撃のためF6Fヘルキヤット戦闘機四五〇機を、四 二〇〇メートルの高度で待ち伏せしていた。
.
この米軍の完璧なまでの迎撃大勢に、不意打ちをくらった日本攻撃隊は、戦闘が始まって、わずか十
分の間に六機の爆撃機が撃墜されて混乱状態になった。
混乱状態になった一因は、攻撃に出動した第六〇一空、第六五三空、第六五四空の日本航空隊のなか
で、第六五三航空隊は、昭和十九年三月に編成されたばかりで、隊員の多くは実戦の経験もなく、充分
な洋上訓練も受けていない新人たちが多く。また、指揮官機の中には、海軍兵学校を出たばかりの若い
中尉で、戦闘経験のないパイロットもいた。
日本海軍はこのマリアナ沖海戦で、はじめて零式戦闘機に二五〇キロ爆弾を装備し、敵艦隊にまず爆
撃を加えてから、戦闘機として戦う「戦闘爆撃隊戦法」をとった。しかし、待ち伏せの不意打ち攻撃を
受け、爆弾の重さで行動の自由がとれず、F6Fヘルキヤットの攻撃の標的になった。
旗艦の空母大鳳・翔鶴と攻撃機二三〇機を失う
六月十九日
午後になっても攻撃隊からの報告がなく、〇八時十分、旗艦空母大鳳がアメリカ潜水艦アルバコアか
ら、たった一本の魚雷攻撃を受け、十五時〇分沈没した。また、空母翔鶴も十四時十分、魚雷三本が命
中し沈没した。
空母大鳳は最新鋭の攻撃型空母で、ミッドウェー海戦で四隻の空母が撃沈された苦い戦訓を取り入れ
た「不沈空母」として日本海軍が、その持てる造船技術の粋を尽くして昭和十九年三月七日、神戸川崎
造船所で完成したばかりであった。
排水量三四 二〇〇トン、最大速力三三.三ノット 、とくに飛行甲板と舷側の防御力は戦艦なみに強
.
化されていた。発着甲板は、厚さ二十ミリの鋼板で、その上に厚さ七十五ミリの鋼板が張られて、五〇
- 284 -
〇キロ爆弾の直撃にも耐えられるようになっていた。また、駆逐艦、潜水艦などから砲撃、雷撃受けて
も、耐えられるよう、水線付近の上部鋼板が一八五ミリ、下方に下がるにつれてクサビ型に薄くなり、
最下部でも七十ミリの厚さの重装備がされていた。
魚雷が命中して八時間後に、燃料タンクから漏れた揮発性ガスに引火大爆発を起こし沈没した。乗艦
将兵二 一五〇人中、一 六〇〇人が海没戦死した。
.
.
小沢司令長官や参謀は巡洋艦羽黒に移乗して危うく難を逃れて、そこから戦闘司令をおこなった。
「VT信管」装着砲弾
六月十九日〇九時四十五分
日本攻撃隊は、米艦隊に接近したが、これまでに経験したことのない、火の海になるほど撃ってくる
すさまじい対空砲火を受けた。かってないほど正確に狙いが定まり、攻撃機の間近で爆発した。
アメリカ海軍は全艦船の高角砲砲弾に「VT信管」を装着して日本攻撃隊を待ち構えた。対空砲火の
威力は二十倍にも増していたといわれている。これによって、米艦隊は防御力が飛躍的に増大した。
日本攻撃隊は、第一攻撃隊、第二攻撃隊の計三二六機中、二三〇機を失った。米艦隊は数隻に至近弾
を受けただけで大きな被害はなかった。
六月二十日十七時〇分
旗艦空母レキシントンは、戦闘機八十五機、急降下爆撃機七十七機、電撃機五十四機の計二一六機を、
日本の機動部隊追撃のため発進させた。
日本艦隊に装備されていた対空見張り用「電波探知機二号一型」が、敵の攻撃隊の接近を捉えたが、
すでに日本艦隊の間近に迫っていた。日本軍は七十五機の戦闘機を発進させたが、アメリカ軍の圧倒的
な戦力の前にすでになすすべもなかった。
この二日間で、日本海軍は正規空母大鳳、翔鶴、飛鷹と補給艦三隻が沈没し、空母四隻が損傷を受け、
航空機四三〇機のうち、三九五機を喪失した。人員は飛行機の搭乗員三九五人、艦船乗員二 〇五六人
.
が戦死した。
アメリカ軍は、空母バンカーヒル、ワスブなどが小破。人員は飛行機搭乗員と艦船乗員で一一一人が
- 285 -
戦死した。
日本海軍の第一機動部隊の幕僚たちは、ミッドウェー海戦で旗艦の戦艦赤城、マリアナ海戦で旗艦空
母大鳳と翔鶴が、海戦の初期で撃沈され慄然とした。
「絶対国防圏」の崩壊と東条内閣の総辞職
六月二十日
豊田聯合艦隊司令長官は日本軍の敗北を認め、小沢司令官に全艦隊の帰還を命じた。
六月二十四日
陸海軍の軍令部両総長が天皇陛下に、
「サイパン島の奪回計画が困難になった」
ことを上奏した。
大本営は「絶対国防圏」の拠点だったサイパン島の放棄を決定した。
マリアナ沖海戦での日本軍の敗北は、すでにアメリカ軍が上陸していたサイパン島に大きな悲劇をも
たらすことになった。
六月二十日
アメリカ第五一合同進攻部隊は、日本軍守備隊への総攻撃を開始した。孤立した日本の陸海軍守備隊
四万名は、本土からの救援部隊の到来を待ち望んでいたが、大本営のサイパン放棄の決定は守備隊に知
らされなかった。
七月三日
サイパン島の中心の町ガラパンが完全に米軍に占領された。追い詰められた日本軍守備隊は「バンザ
イ突撃」や自決で次々と玉砕していった。米軍上陸からわずか三週間で、南雲中将はじめ四万人の陸海
軍の将兵が戦死し、サイパン島は米軍が占領した。また、二万人以上いた日本人一般邦人や島民も、戦
闘に巻き込まれ、自決等の死者は一万人を数えた。
- 286 -
十月十二日
アメリカ本土から「長距離爆撃機B29」の第一陣が到着した。そして、サイパン島はじめマリアナ
諸島に、最終的に九八五機のB29を待機させ、ここを拠点に日本本土への爆撃体制を整えた。
昭和十九年七月十八日
サイパン島喪失の責任をとって東条英機首相は辞職した。新たに小磯国昭首相が選ばれた。
アメリカ軍はすぐに飛行場の設営作業に入った。
- 287 -
「絶対国防圏」の崩壊と「捷号作戦」発動
一撃爾後 講話主義が特攻を加速?
昭和十七年六月のミッドウェー沖海戦。昭和十八年二月のガダルカナル撤退以後、アメリカ軍の反攻
に押され、戦線の縮小を余儀なくされていた。
日本はサイパン島を最前線とする「絶対国防圏」を設定した。アメリカ軍は日本軍の補給路の遮断と、
日本本土への直接の攻撃基地確保を企図し、昭和十九年六月、日米海軍の艦隊決戦マリアナ沖海戦が展
開された。
アメリカ海軍は空母十五隻、戦艦七隻をはじめ、巡洋艦、駆逐艦など九十三隻の艦艇と、空母艦載機
九五六機などで編成した第五八機動部隊を、サイパン島等のマーシャル・マリアナ諸島攻略のために出
動させた。
日本海軍は、浮沈空母といわれた新鋭空母大鳳など空母九隻、戦艦大和、武蔵など七十三隻と、空母
艦載機四七三機で編成された第一機動部隊に、周辺の諸島にある航空基地の第一航空隊の四五〇機が投
入された。
ここで双方の戦略を見てよう。
米軍の基本戦略
昭和十八年八月
イギリスのチャーチル首相とアメリカのルーズべルト大統領が、カナダのケベックで会談した。席上、
アメリカ陸軍航空部隊アーノルド司令官は
「B29による日本本土空襲」
を提案した。
前線基地として、サイパン島を占拠する計画が立案された。
- 288 -
昭和十八年九月
昭和十四年から開発されていた、航続距離六 〇〇〇キロ、飛行高度一万メートルで対空砲火の届か
.
ない上空から、四トンの爆弾が投下できる長距離巨大爆撃機「スーパーフォートレス(空の要塞)B2
9」を開発し、試作機第一号が完成してテスト飛行に成功した。この時、一 六〇〇機の量産がボイン
.
グ社に決定した。
昭和十八年十二月
アメリカは、連合国の統合参謀会議で「日本打倒総合計画」を決定した。
「日本打倒を完遂するには、日本本土への進攻は不必要である。日本を海と空から封鎖、日本周辺に基
地を設け、集中的な爆撃を加えれば、日本打倒は成し遂げられる」という方針であった。
アメリカ軍は統合参謀本部の承認を得て、昭和十九年六月十五日を上陸日とするサイパン進行作戦を
決定した。
昭和十九年六月
アメリカ海軍は第五艦隊レイモンド司令長官を総司令官に任命。旗艦空母レキシントンを含む空母十
五隻、戦艦七隻、巡洋艦、駆逐艦など九十三隻と空母艦載機九五六機で編成された五八機動部隊は、日
本艦隊との決戦とサイパン島攻略の任務を与えられて出撃した。
昭和十九年七月
六月二十日、アメリカ第五一合同進行部隊がサイパン島に総攻撃を開始。七月三日、サイパン島中心
の町ガラパンがアメリカ軍に占領された。
昭和十九年十月
占領したサイパン島や周辺のマリアナ諸島に、直ちに飛行場を設営作業に入った。十月十二日、アメ
リカ本土から長距離爆撃機B29第一陣が到着した。最終的には九八五機を待機させ、日本本土への爆
撃体制を整えた。
- 289 -
日本軍の基本戦略
昭和十八年九月
アメリカが大型長距離爆撃機で日本本土爆撃の機会をうかがっているとの情報は、大本営には伝えら
れていた。御前会議において大本営陸海軍部は新たな指導方針を策定した。日本が絶対に確保すべき地
域「絶対国防圏」を設定し、千島列島、サイパン島、ニューギニア、ビルマ結ぶラインの防衛を強化し、
連合国の反撃を阻止しようとするものであった。
サイパン島は最前線の要衝で、大本営はサイパン島死守のため、陸海軍将兵四三.〇〇〇名の兵力を
投入した。日本海軍は、アメリカ軍の中部太平洋への進攻に備え、聯合艦隊の決戦兵力を集中し、主反
攻の正面に備え、敵艦隊と決戦を挑み、敵主力を補足殲滅するとの方針を決定し「あ号作戦」が計画立
案された。
そのために、不沈空母といわれた大鳳を旗艦とする空母九隻、大和、武蔵等の戦艦五隻、巡洋艦、駆
逐艦など艦艇七十三隻。航空機は空母搭載の四七三機、サイパン周辺の島々の航空基地より第一航空艦
隊の四五〇機を含む九二三機が投入された。
昭和十九年五月三日
聯合艦隊に対して「大海指第三七三号別紙」で 、「あ号作戦」が発令された。
六月十五日
米軍のサイパン上陸作戦を受けて
聯合艦隊電令作第一五四号
三で
「あ号作戦決戦発動」が発令された。
「あ」号作戦を発令
日本海軍はアメリカ軍の中部太平洋への進行に備えて昭和十九年五月三日 、「あ」号作戦の計画を策
定し、聯合艦隊に対して「あ」号作戦を発令した。
- 290 -
六月十五日サイパン島に。米軍は上陸を開始してきた。昭十九年七月七日、日本軍守備隊の四千名が
玉砕し、サイパン島は占領された。
六月十九・二十日のマリアナ沖海戦において日本海軍は、アメリカ海軍の攻撃に、空母大鳳は米潜水
艦アルバコヤの魚雷攻撃を受け、航空母艦翔鶴、飛鷹の三隻と補給船も沈没し、その他、空母四隻も損
傷を受けた。さらに、攻撃に参加した航空機は基地航空隊の航空機を含む四三〇機の中、三九五機を喪
失した。また、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦で、多くの優秀なパイロットが戦死し、その後の航
空戦の戦力の低下になった。
マリアナ沖海戦の敗北と、サイパン島の喪失により、太平洋の制海権、制空権を米軍に奪われた。加
えて、アメリカ軍の長距離爆撃機「空の要塞B29」の日本本土空襲を可能にして「絶対国防権」が崩
壊し、戦争指導構想を根底から覆すことになった。
六月二十日
豊田聯合艦隊司令長官はマリアナ沖海戦の日本軍の敗北を認め、小沢司令官に全艦隊の帰還を命じた。
六月二十四日
海軍軍令部総長、陸軍参謀本部長は天皇陛下に
「サイパン島の奪回計画が困難になった」
ことを奏上した。
七月三日
サイパン島の中心の町ガラパンが完全に占領された。日本軍守備隊の四〇 〇〇〇名はバンザイ突撃で
.
玉砕又は自決した。加えて在留の日本人一般邦人や島民も戦闘に巻き込まれて死亡又は、自決をした。
死者は、一〇 〇〇〇名を数えた。
.
海空決戦を挑み敗北したミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、サイパン島の陥落等により、日本軍が
防衛戦を築いた最重要拠点サイパン島を失ったことで「絶対国防圏」が崩壊した。
また、東南・西南太平洋の制海権、制空権は完全に連合軍に握られた。
- 291 -
サイパン島の放棄と「絶対国防圏」の崩壊に伴い、基本的な戦争指導方針の再検討が求められることに
なった。
七月二十一日
米軍がグアム島に上陸を開始。
大本営は開戦以来初めて、陸海軍部が研究会同もって
「陸海軍爾後の作戦指導大綱」を策定した。研究会同では、決戦にさいしては
「空海陸ノ戦力ヲ極度ニ集中シ
敵空母及ビ輸送船ノ所在ヲ求メテコレヲ撃滅ス」
というものである。
「捷号作戦」の策定
この決戦を「捷号作戦」と呼称した。
サイパン戦の帰趨が明らかになった昭和十九年七月一日、陸軍参謀本部第二十班(戦争指導)は
「今後帝国ハ作戦的ニ挽回ノ目途ナク
シカモ独国(ドイツ)ノ様子モ概ネ帝国ト同ジク
リ貧ニ陥ルベキヲ以テ速ヤカニ戦争終末ヲ企図ス
トノ結論ニ意見一致セリ
ナガラ政略攻勢(講和)ニ依リ戦争ノ決ヲ求メザルヲ得ズ
と早くも結論している 。(種村佐孝「大本営機密日誌」芙蓉書房刊)
「捷号作戦」策定とともに敵の来攻が予想される正面の区分を定めた。
「捷二号」九州南部・南西諸島及び台湾。
「捷三号」本州・四国・九州方面及び小笠原諸島方面。
「捷四号」北海道方面。
「捷号作戦」を決定
七月二十一日、アメリカ軍はグアム島に上陸を開始した。
- 292 -
即チ帝国トシテ甚ダ困難
斯ル帝国ノ企図不成功ニ終ワリタル場合ニ
於イテ最早一億玉砕アルノミ」
「捷一号」フィリピン方面。
今後逐次ジ
同日、大本営陸海部の合同研究会がもたれ 、「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」を決定した。この大綱に
基づいて出されたのが「捷号作戦」であった。
七月一日
サイパン戦の帰趨が明らかになった、参謀本部第二十班(戦争指導)は
「今後帝国ハ作戦的ニ挽回ノ大勢転向ノ目途ナク
而カモ独国(ドイツ)ノ様子モ概ネ帝国ト同ジク
今後逐次ジリ貧ニ陥ルベキヲ以テ速ヤカニ戦争終末ヲ企図ス
トノ結論ニ意見一致セリ
即チ帝国トシ
テ甚ダ困難ナガラ政略攻勢ニ依リ戦争ノ決ヲ求メザルヲ得ズ
斯ル帝国ノ企図不成功ニ終ワリタル場合
ニ於イテ最早一億玉砕アルノミ」
と早くも結論している 。(種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房刊)
こうした考えに基づき、
「本年度(昭和十九年)後期に国力の徹底的重点(七・八割)を、構成して主敵米の進行に対して決戦
的努力を傾倒し、一部(二・三割)を以て長期戦努力を強化する」
と言うのが「捷号作戦」であった。
戦力の七、八割を使って敵に打撃を与え、その間に本土防衛態勢を整備する。もし敵に有効な打撃を
与えることができれば、戦争終結の有利な条件が生まれるであろうというものであった。
最高戦争指導者会議
昭和十九年八月十一日、最高戦争指導者会議が開催された。
その席で軍需大臣藤原銀次郎は、開戦以後の物的国力の推移と今後の見通しについて
「徹底的ニ重点ヲ形成セル軍生産モ
マタ
ハ
十九年度初頭ヲ頂点トシテ爾後ハ低下ノ傾向ニアルヲ否定シ得ズ
現状程度ノ国民生活ヲ維持スルコトモ逐次困難トナル趨勢ニアリ
即チ戦争四年タル十九年末ニ
国力ノ弾撥力ハオオムネ喪失スルモノト認メラレル」
と述べている。
八月十九日、宮中において御前会議の最高戦争指導会議が開かれた。
「今後採るべき戦争指導の大綱」と「世界情勢への判断」が決定された。
前者は「戦力化シ得ル国力ヲ徹底的ニ結集シ
皇土ヲ護持シテ
- 293 -
飽ク迄モ戦争ノ遂行ヲ期ス」
後者は「欧州情勢ノ推移如何ニ拘ワラズ
政略的施策ト相俟ッテ飽クマデモ戦争遂行ニ邁進セザルベカ
ラズ」
と定めていた。
「戦争完遂」という基本方針を繰り返しながら「政略」つまり一度、連合軍に打撃を与え、有利な条
件で講和に持ち込みたいという政治的な「一撃爾後講和主義」に傾きつつあった。
そのため「絶対国防圏」を縮小し、千島・沖縄・台湾・フィリピンにいたるラインまで防衛線を後退
させた。中でも、フィリピンは米軍の進行が最も予想される上、もし喪失すると南方資源ルートが完全
に遮断され、日本の敗戦は必死となるという防衛上最重要拠点であった。
聯合艦隊「捷号作戦要領」を発令
七月二十六日、 大本営海軍部は連合艦隊司令長官に、次期作戦を「捷号作戦」と呼称する指示を発し
た。
八月四日、聯合艦隊は全部隊に正式に「捷号作戦要領」を発令した。
九月二十二日
参謀本部は次の命令を発令した。
一
大本営は決戦方面ヲ比島(フィリピン)正面ト概定シ決戦ノ時期ヲ十月下旬以降ト予定ス。
二
南方軍総司令官、支那派遣軍総司令官、台湾軍司令官ハ概ネ十月下旬ヲ目途トシテ任務達成ノ為
作戦準備ヲ整ウベシ。
同日、参謀本部は第十四方面軍(フィリピン)司令官に、山下奉文大将を内定し、主戦場がフィリピン
との日米双方とも予測が一致していた。
「捷一号作戦第一次発動」
十月十九日
参謀本部は「捷一号作戦第一次発動」を下命し、同日の午後、聯合艦隊に「捷一号作戦」が下令され
た。
- 294 -
十月十二日~十五日
台湾沖航空戦
十月十九日
大本営海軍部は、台湾沖航空戦の戦果を、誤報の情報報告を積み上げて、事実と大きく異なる大勝利の
虚報を発表し、その虚報を聯合艦隊のみで秘匿し、事後の作戦計画に重大な齟齬をきたす原因になった。
十月二十二日~二十五日
フィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)
「捷一号作戦第二次発動」
十一月一日〇一時〇分
大本営陸海軍部は「捷一号作戦第二次発動」
を下令した。
レイテ島決戦兵団の急遽増強のため、本土、満洲、北支那・朝鮮、南方から、兵団を輸送する船団が
フィリピンの危険海域への派遣を急いだ。
十一月八日
最高戦争指導会議は、最終的戦力集中を急いだ。
一
民船(C)八万総トンの増加使用を決定
二
二十一日、対濳護衛用機帆船の徴用を決定
三
十一月二十三日~二十六日、大型船団をもって急増部隊の突入輸送
四
十一月十六日より機帆船の独航輸送
五
十八日より高速船の独航輸送等を決定
「あ」号作戦の査定と発令
- 295 -
19.5.
3
19.6.17
24
7.
3
21
8.
3
19
9.22
10.
5
10.10
12
日本海軍は「あ号作戦決戦発動」を発令。
マリアナ沖海戦
サイパン島、テニアン島に米軍上陸開始
サイパン島玉砕・対国防圏の崩壊
「捷号作戦の決定 」「陸海軍事後ノ作戦指導大綱」を策定。
民間(C)の輸送船すべて陸(A)海軍(B)が徴用船に。
第一次陸軍海上挺進隊比島・沖縄に部隊配置を発令。
第二次
比島・台湾・沖縄に部隊配置を発令。
第23師団に出動待機命令。
米艦載機、沖縄・奄美大島大空襲。
台湾沖航空戦始まる。
14
18
〃
〃
終わる。
レイテの飛行場・重要施設、ルソン島、マニラ等に400機が空襲。
午後、レイテ湾の米艦艇より海岸要地に艦砲射撃開始。
19
大本営海軍部台湾沖航空戦の戦果を発表(大誤報 )。
陸軍参謀本部は南方軍総司令部、海軍軍令部は連合艦隊に対
して 、「捷一号(フィリピン)作戦第一次の発動」を下命。
20
「一億憤激米英撃攘国民大会」と「祝賀提灯行列」開催。
米軍レイテ島に上陸 。(兵員6万名)
22
レイテ沖海戦始まる。
(戦艦武蔵等沈没、連合艦隊喪失)
25
25
27
〃
終わる。
第23師団に台湾軍への派遣動員下令。
〃
満州ハイラルを列車で朝鮮半島釜山に出発。
- 296 -
船団護衛と海防艦
船団護衛艦艇のない開戦
昭和十六年十二月の太平洋戦争開戦時、日本海軍には船団護衛専門の部隊および艦艇は一隻もなかった。
その背景は、海軍には聯合艦隊一辺倒の考えがあった。加えて、開戦当初はアメリカ潜水艦の不振と、
魚雷の性能の悪さに助けられて、日本輸送船団の損害は十六年十二月に十二隻、十七年一月が十七隻、二
月が九隻と開戦前の予想を下回る被害のよるものであった。
「日本の生命線」である南方航路の護衛体勢も貧弱なものであった。不安を感じた陸軍参謀本部が、海
軍軍令部に働きかけて、ようやく昭和十七年四月、第一、第二海上護衛隊の護衛専門の部隊ができた。
元海上護衛総司令部参謀の元海軍大佐大井篤氏は、
「各国とも護衛船隊は駆逐艦が主力で編成されていた。しかし、日本海軍はまだ作戦地域を広げて侵攻
作戦優先のため、駆逐艦は一隻も出せないとのことで、しかたなく、鎮守府や警備府などから老朽の旧式
駆逐艦や水雷艇を集めてようやく編成した。しかも、シンガポールから門司まで約四五〇〇キロのシーレ
ーンを護る第一海上護衛隊が、旧式駆逐艦が十隻。横須賀からラバウルまで三七〇〇キロの第二海上護衛
船隊は、旧式駆逐艦四隻、水雷艇二隻、特設砲艦一隻だけだった。護るべき船舶は三千隻以上あった 。」
と語っておられる。
当時、輸送船に乗船していた船員たちからは、
「護衛艦が旧式で船足が輸送船より遅く、護衛艦の速力に併せて、スピードを落として航行するので、敵
潜水艦や航空機に襲われる危険が高くなってしまう。また、小型の護衛艦は外海の荒波に耐えることが難
しい艦もあった 。」
と言われていた。
海上護衛総司令部の創設
昭和十八年九月三十日の御前会議で
- 297 -
「輸送船舶ノ被害ガ増大シテイル現状カラ、船舶損耗防止ノ成否ハ衛艦艇、航空機等ノ所望護衛兵力ノ急
速整備ニアリ…」
と、海上護衛の強化が正式に決定した。
これを受けて、昭和十八年十一月十五日、海軍に海上護衛総司令部が発足した。司令長官に元海軍大臣
の及川古志郎大将が就任したが、連合艦隊は作戦優先の主張を変えず非協力的であった。
結局、海上護衛総司令部の戦力は、第一、第二海上護衛船隊保有の五十六隻と、鎮守府、警備府のもつ
わずかな艦艇だけであった。護衛対象の船舶は一〇〇総トン以上で、二七〇〇隻だったが、商船護衛に主
に使ったのが、海防艦であった。
海防艦は本来、北洋漁業保護のための艦艇で、戦前に四隻だけ建造されていた。排水量八六〇トン、最
高速力一九・七ノット、航続距離八〇〇〇カイリ、武装は十二センチ砲三門で、商船護衛としては海防艦
程度でよいというのが海軍の判断であった。そして五隻目の海防艦は昭和十八年三月末という現状であっ
た。
この背景には、海軍には連合艦隊一辺倒で、ミッドウェー海戦の敗北後、航空母艦の建艦が最優先され、
次いで潜水艦であった。その結果、昭和十七年度に三十隻の海防艦の建艦計画が決まっていたにもかかわ
らず、計画実施が放置されていた。
輸送船の喪失が戦前予想の四倍をこえ、商船の護衛が御前会議で決定された。海防艦は昭和十八年に十
五隻、十九年に一〇一隻、二十年に五十隻が急速に建造された。
「国後」のように固有名詞で呼ばれる海防艦は、戦前か戦中の早い時期に建造されたもので 、「第○○
号」と番号で呼ばれている海防艦は、昭和十九年以降の戦争末期に建造されたものであった。
しかし、海防艦の戦力は貧弱であった。対潜兵器の水中探信儀、電波探知機(電探)は規格に合わない
真空管や部品を何とか組み合わせたものが多く、性能は著しく悪かった。索敵は人間の目視とカンが頼り
だった。
また、戦争末期に大量建造されたものは、材料の不足と建造期間を短縮するため、船体の外側の大部分
は平面で曲面部分は最小限に押さえられた。構造も儀装も簡易化され、材料は商船用の薄い鋼板を使用し、
- 298 -
電気溶接を多様して、ブロック工法が用いられた。
戦前に建造された海防艦は最高速力十九・七ノットであったが、戦中に建造されたものは十六・〇ノッ
トに落ちた。したがって高速輸送船団からおくれることがあり、逆に高速船団が護衛艦に合わせて速力を
落として航行することもあった。
護衛作戦専門の航空隊が編入
昭和十八年十二月、日本海軍は、初めての電探(レーダー )、磁気探知機の搭載可能な航続距離の長い
大型機、対潜水艦攻撃、護衛作戦専門の九〇一航空隊が発足し、旧式陸上攻撃機や飛行艇が、四隻の護衛
空母と共に海上護衛総司令部に編入された。
昭和十九年四月から、船団護衛方法も改められ、大船団主義を採用して、護衛艦も一船団に平均八隻と
増加した。終戦までに竣工した海防艦一七〇隻のうち八五隻が沈没、十六隻が行動不能と言う大損害を受
けた。
陸軍船舶戦争
概説
松原
茂生
島国日本では経済のみならず軍事防衛においても船舶は重要である。
軍事と船舶といえばすぐ海軍を連想するが海上作戦では軍艦という居室倉庫つきの船舶を持つ海軍と違い
陸軍では作戦・部隊移動・物の輸送等すべてを一般船舶に依存するので船舶との関連は海軍より大きいと
いう一面がある。又軍港等海軍基地以外の港湾業務はすべて陸軍の担当であった。
大東亜戦争では開戦時六〇〇万トンあった日本の全船舶中の二〇〇万トンを陸軍が運用し、その後その
運用量は増加し、終戦直前には日本の輸送用全船舶の運用及び港湾業務(軍港を除く)の実務を陸軍が担当
した。
本書(陸軍船舶戦争)は松原の陸軍船舶の研究を主体に遠藤の海事及び海軍の研究を加えて、明治七年の
- 299 -
台湾征討の頃に始まり昭和二〇年の大東亜戦争終結で幕を閉じた陸軍船舶の歴史を述べたものである。
明治のはじめの国防方針では防衛の第一線を中国大陸においたので陸兵を如何にして海を渡すかが大問
題であった。
その頃の陸軍の船舶の最高責任者は日清戦争の時、第一代の大本営運輸通信長官を務めた寺内正毅少将
(後の元帥総理大臣)である。
宇品を陸軍の船舶基地と定めたのは同氏で先見の明があった。
その後を継いで日露戦を準傭したのが、六年間の長きに亘り参謀本部第三部長を務めた上原勇作少将
(後の元帥参謀総長)であった。
これ等の首脳は海運界の協力態勢作り等に苦労されたが一つの大問題は陸海軍の協同を如何にするかの
問題で、日清戦争の開戦前陸海軍はこのことで大論争をしている。
陸軍は朝鮮半島の陸路兵站路が貧しいのでなるべく遠くへ陸兵を揚陸したいと云い、海軍は護衛の責任
がもてないとて反対し論争となったが、結局無理はしない、護衛のない海に陸兵は進めない、我が制海権
を得るに従い遠くに陸兵を揚陸することで結着した。
いざ開戦となったら日清戦争では先づ釜山に上陸し制海権を得るに順い遠くへ足をのばした。又日露戦
争では東郷中将(後の元帥)率いる連合艦隊が、全力を挙げて陸軍の船の護衛を行い、ロシアのバルチツク
艦隊が日本に向うに当っては、その到着に先だち陸軍の乃木大将率いる第三軍は屍山血河の犠牲を払って
旅順港を攻略し海軍を助けた。見事な陸海協力であったと言うべきである。
日露戦争では常陸丸他数隻しか船舶は失われていない。常陸丸が敵艦の砲撃により沈められた惨状は 1
隻のことだけなのに筑前琵琶等で伝えられ、国民の涙を誘ったぼどの大事件として扱われた。
昭和六年満洲事変が始まり、昭和十二年支那事変へと拡大し戦線が広がるに従い陸軍は多くの上陸作戦
を行ったが、大東亜戦争の緒戦の頃までにかけて日本陸軍の上陸作戦は世界に冠たるものと云われた。
市原技師の考案による大小発動艇や一万トン級の船艇運搬船神州丸等、その技術は米国等もこれを学んだ
ほどで、船法技術ともに島国日本の生んだ栄光であった。
昭和十六年十二月に始まった大東亜戦争では、緒戦に大戦果を挙げたが昭和十七年六月のミツドウエイ
- 300 -
海戦以降次第に制海権、制空権を失い、南ではガタルカナル島ーニューギニア島 -濠北ーレイテ島、中部太
平洋ではサイパン島 -硫黄島、北ではアッツ島、キスカ島等々惨憺たる戦況を呈し、最后は比島攻防戦、沖
縄戦、広島、長崎原爆投下で戦いの幕を閉じた。
ガタルカナル島で戦死された第十七軍参謀 越次一雄中佐の詩に次のものがある。
無弾無糧兵三万
避弾潜洞伏密林
弾無く、糧無く、兵三万
避弾潜洞、密林に伏す
敵船頻来船不来
幻屠敵城夢食人
敵船頻りに来たり、我が船来たらず
幻に敵城を屠り夢に人を食
う
月明我船遂不来
将兵三万将頻餓-
月明りに我が船遂に来たらず
将兵三万、まさに餓に瀕す
装笑苦哀誰人知
仰月長恨不得眠
笑いを装う苦衷、人誰か知る
月を仰ぎ長恨、眠りを 」 得ず
「敵船頻に来れども(我が)船来たらず」
「我が船遂に来たらず」
この項は『越次一雄の死と生』(越次倶子)のホームページより
漢詩の続きは三六〇頁に掲載しました。
これはガ島のみならず全戦局の様相であった。
数百万の無傷の軍隊が内地や中国大陸に居ても決戦場に到着することが出来ず・各個に撃破されたのが大
東亜戦争の実相であった。陸上での会戦は殆ど行われず、配置につくための船舶輸送(統帥綱領で云う集中
の段階)で勝負がついている。
作戦の命の綱は船舶にあったのだ。陸軍船舶部隊は制海制空権を失い苦境に立ち乍らなお創意工夫をこ
らし懸命の努力を尽した。即ち一万トン級の航空母艦(飛行甲板を持った舟艇・飛行機運搬船)五隻、七百
トン級の揚陸船(SS艇・機動艇とも云い、海岸に到着して船首が開き軍隊がとび出すもの))・速力で勝負
す伊号高速艇・海中をもぐる潜水輸送船( 艇)等の他、妨害する敵を攻撃す駆逐艇(カロ艇)・一人乗り木
- 301 -
造船に爆薬をつんで体当りする特攻艇(
艇 )等々の船艇を造り部隊を訓練し急場に臨んだが戦勢を挽回す
るには到らなかった。
陸軍で、どおしてこんな船艇を持ったか不思議に思う人が多いようだが、陸軍は陸軍で何とかしようと
した熱意の現われである。又陸海軍の統一組織がなく大海洋を舞台とする作戦における陸海軍の機能的任
務分担が研究されていなかったことにもよる。
どこの国でも陸海軍は仲が悪いと云はれるが、我国では天皇陛下より同じ軍人勅諭をいただき精神的に
は極めて仲が良く、現にキスカ島撤退の時などは涙ぐまじい協力が行われている。然し統一組織がないた
め、鉄・油等の資源や船腹の奪い合いが起こり、又効率的運用が難しかったであろう。
政府と軍(統帥部)の間にも統一組織がなく、問題が起ったら大本営・政府間の連絡会議で協議すること
になっていた。大東亜戦争中の連絡会議の議題で一番多かったのは船舶問題であった。船舶を作戦に使う
か、国力造成のための南方資源の輸送に使うかの大論争が行われ、これをめぐっては幾多のエビソートが
残っている。東条総理を罵倒して翌日左遷された参謀本部の田中新一作戦部長の例もその一つである。
船舶は作戦の命綱であったが、国力増強の命綱でもあったのだ。それが作戦に多く使われ、作戦のため
多く沈められていって国力がじり貧に陥った。
昭和十六年、開戦時の全船舶は六百万トン、戦時中の造船が三百五十万トン、合計九五〇万トンのうち
八五○万トン(二五〇〇隻)が海の藻屑と消え、六万人余りの船員が国に殉じ、また戦わずしてこれ等の船
と運命を共にした将兵はその数を知らない。
敵の通商破壊作戦、兵站撃滅作戦で目標はこの一般船舶に向けられた。軍艦と違い防備の無い速力の遅
い船舶に乗り組み勇戦奮闘された船員の方々への感謝、靖国神社や観音崎の殉職船員碑に眠る英霊の顕彰
はいくらやっても足りることはない。
そもそも陸軍は、長年大陸における作戦を主体に考え『赤本』と称する対ソ戦法のマニアル作り等万全
を期していたが大海洋を舞台とする作戦については殆どその準備がなかった。
大海洋の作戦では護衛問題等々幾多の大陸作戦と異なった問題があり、陸軍のマニアルの他陸海軍共同
のマニアルを作りこれに基く訓練が必要ではなかったか。
- 302 -
、
昭和十八年の統帥綱領の改定では第七章として「海洋における作戦」を新設したが分量も少なく、抽象
的概念にとどまっている。
やむをえず開戦にふみ切ったせいで準備なき戦いとなったのであろうが、兵法の原則は『勝って後戦え』
と教えている、それを戦って後勝とうとしたのではないかと思われ残念である。
今や我国は専守防衛であるが、多くの島と長い海岸線を有する我が国土の防衛には船舶が重要である。
戦後五十年技術は進歩したが戦史の教訓は大切である。我国海運界を壊滅させたような誤を再び繰り返さ
ないため、日本の平和と健全な防衛にこの本が少しでもお役に立てば幸である。
なお戦後五十年、軍隊や戦争を知らない人々が増えているので、本書はそれ等の人々に分り易いような
用語や云いまわしを用い、多数の写真や図表を付し又軍隊の説明等を加えている。反面軍事専門家にはい
らざる記述やもの足りない所があるかも知れない。
題名は『陸軍船舶戦争』となっており如何にも陸軍の軍事専門書に見えるが、船舶兵に限っては他の兵
科と異り、海軍や海運界と一緒に戦った所謂総力戦のサンブルであって、必ずしも陸軍の軍事専門書では
ないので海軍の方々、海運界の方々、海事関係の方々竝並びに『戦争と平和』や船舶に興味を持っている
方々に読んでいただきたい気持である。
以上が陸軍船舶戦争の概説本文である。
特に潜水艦により海没戦死した将兵の記録として紹介させてもらいました。米潜水艦の方針は
要約すると次の通りです。
日本陸軍を陸で戦わせるな!
海に沈めろ!
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船団発航前後の
大本営陸海軍部の動向
大本営陸海軍部の作戦研究
昭和十九年十一月二十日を目途に、航空を充実した航空総攻撃と決戦兵団の輸送を再興したい状況下、
十七日、大本営陸海軍部は合同作戦研究をおこなった。
一
十一月十七日、第十四軍南方総軍司令部は、マニラから西貢(サイゴン)に移った。大本営は佛印
ー支打通(注※)について十一月十六日に示した。
二
海軍第一遊撃部隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将)は十一月十六日十八時三〇分、ブルネイ発、
瀬戸内海に向かっていた。第二遊撃隊(第五艦隊司令長官志摩清英中将)はマニラ湾から新南群島
方面に南下していた。
三
船舶と兵団については、次の通りであった。
船舶はマニラ湾の被害その他から苦境を加えており「十一月十五日現在ノ大型船(C配当ヲ含ム)
三十三万屯ニシテ、現況ヲ以テ推移セハ
一月頃ハ十万屯以下トナル公算少ナカラス」という状況
だった。
レイテに第二十三、第十師団。ルソン後詰めに、第十九(在鮮 )、第十二(在満)師団と決してい
るが船腹が不足して輸送計画ならず。第十、第十九、第十二師団の派遣はまだ発令していなかった。
十一月八日、輸送船の大量増徴を行ったばかりであることから、機帆船徴傭を研究中であった。
四
航空については、十一月二十日を目途の航空充実を期する大本営は、左記指示を成案中であった。
昭和十九年十一月十八日
大本営指第二千二百九十一号
十月二十日ノ「捷一号作戦間飛行部隊機動統制要領」ヲ廃止シ「捷号作戦ノ為飛行部隊機動の促進
- 304 -
竝統制に関シテ」次ノトウリ定メル 。(内容省略)
中央部は総司令部の西貢(サイゴン)移転の報告を受けるや、方面軍と航空軍の関係を密にするた
め、十一月十五日とりあえず、第四航空軍参謀佐藤勝雄中佐(作戦)と青木武夫中佐(後方)を第
十四方面軍(ルソン島)参謀兼務とする発令を行った。
佐藤参謀はただちに方面軍と連絡し、方面軍の「レイテ決戦策」に「密応する航空作戦」を作成し
た。第四航空軍は、もともとレイテにあってルソン島にはない軍であった。第四航空軍はこの計画
をもって海軍側と折衝した。
福留、大西両中将は
「陸軍はレイテ作戦に専念し、比島北部には力を注ぎえず 」「比島中部以北に敵が新攻略戦(船団
一〇〇隻を予期す)ヲ行ウ際、陸海軍三〇〇機ノ特攻機アレバ敵機動部隊空母ヲ制圧シツツ敵船団
ヲ覆滅シウル算アリ」
とした。
第四航空軍大河内中将はこれに同意し、十六日これを大本営海軍部に電報し、かつ大西中将に上京
を命じた。
大西中将は十八日着京し
「陸軍ハ八紘特攻隊八十四機ヲ二十日ニ進出サセルノデアル
海軍ハ二〇〇機クライ出セルト思ウガ
ココ十日~二週間ガ重大時期デアリ、
ゼヒ出シテホシイ」
と、海軍部に説明しようとしている状況にあった。
五
第六十八旅団のマニラ進出はならず、第二十三師団(後発の一ヶ聯隊欠)が十一月十三日門司を出
港していた。
陸海軍部合同における現状
海軍部は
(一)
十一月十三日~十四日の艦載機による被害(米軍機によるマニラ大空襲)
(二)
硫黄島方面の敵潜水艦の活発化
- 305 -
(三)
ウルシーの艦船の策動、
(四)
十一月十五日の第二十三師団あきつ丸の沈没
(五)
フィリピン沖海戦における軍艦の大損害と第二艦隊の本土帰還(可動艦船は大和、長門、金剛の
みで他はみな損傷、一~二ヶ月の修理を要する)を説明した
万事悲観的な見解を述べた
陸軍部が現状を有利に誤断
概要次のことを述べた。
(一)
第一師団の歩兵第一聯隊はレイテ島ピナ山からナジソン河口へ向かう
(二)
第二十六師団は二十日までに装備を完了する
(三)
十四~十五日、レイテに認めた敵在地機は一一八機である
(四)
敵はレイテに二個師団加わり今七個師団である。二十日前後の敵増援兵力はレイテに来る算大
なり
(五)
捷一号陸軍航空の可動航空機は十六日四〇機であったが、二十日に台湾航空基地から二三五機
(うち特攻機六十機)となる
(六)
大発艇は十一月中に一二〇隻、十二月五十隻増加する
(七)
第二十三師団の主力は二十四日、一部は十二月上旬、第十師団は十二月上旬、第十九師団は一
部が十二月下旬、主力が一月上・中旬、第十二師団は二月上旬現地到着の予定である。
(八)
海軍の水道閉鎖とカリガラ湾制海を希望する
主力の二十三師団の海難
陸軍部が「捷一号陸軍航空」を十一月二十日、二三五機を充実して航空総攻撃を再興させるのは第二
十三師団を二十四日頃レイテに突入させるためであったが、主力が敵潜水艦の攻撃を受け海難したとの
報を受けた。大本営はこの師団に大きな期待をかけていた。
第二十三師団に、十月十一日に甲師団から乙師団に改編発令、二十三日台湾行き発令、十一月四日釜
山にて比島レイテ行きに変更発令した。
- 306 -
二十三師団は十月二十七日、満州ハイラル発、十一月三日釜山に到着した。第一梯団の師団主力は八
日釜山発、同日夕門司着、船団編成に移った。
第一悌団のヒ八一船団は、陸軍特殊輸送船あきつ丸等十隻(タンカー五隻を含む)の高速船団と、護
衛空母神鷹、駆逐艦、海防艦等七隻で編成され、十一月十三日朝、門司を出港した。
大本営は二十四日にマニラに着くと予想した。しかし、十三日十一時五十一分頃、敵潜水艦の魚雷攻
撃を受けて、あきつ丸(九 一八九トン)が沈没し、歩兵・砲兵の基幹部隊二 三七三名が海没した。
.
.
十七日十八時四十五分に摩耶山丸が、続いて空母神鷹と駆逐艦一隻も潜水艦の攻撃を受け撃沈された。
摩耶山丸(九 四四三トン)には、師団司令部、歩兵第七十二聯隊基幹二 二九五名と、多数の馬匹、資
.
.
材が搭載されていた。同船は被雷後わずか十分で沈没。救助された者は九〇〇名に過ぎなかった。
乗船の将官、参謀五名の中、救助されたのは西山師団長と高橋参謀のみで、師団司令部も機能を喪失
した。
艦船不足で兵員の輸送進まず
陸軍部は十一月四日の南方軍の四個師団の要請に対し、第二十三師団(満州 )、第十師団(台湾 )、
第十九師団(朝鮮 )、第十二師団(満州)の四ヶ師団の派遣を決定した 。(台湾は所要兵力に対し三個
師団不足する)十一月八日に船舶増徴をおこなったが 、「多号第三、第四次」船の喪失、十三日のマニ
ラ湾における敵航空機の大空襲による船舶の喪失、その他の喪失が続き輸送計画は成らず、第二十三師
団(十一月四日の大命)に続く第十師団については、十日に内報を発しただけでこの日に至っていた。
そして、次のように発令を見ることとなった。
十一月二十日
大命
在台湾第十師団、在朝鮮第十九師団をフィリピンに派遣。
十一月二十四日
大命
関東軍は第十二師団を集結待機させよ。
当時、船舶事情は著しく苦しく、輸送計画成らず、第十師団のフィリピン派遣の大命もまだ発令しえ
ない状況にあった。
陸軍部は、十一月十八日「一回タケデヨイカラ第十師団ノ輸送ニ協力サレタシ」
と海軍部に懇請に行った。
- 307 -
これに対して海軍部は、縷々事情を説明してこれを断った。
注 十一月八日、首相の天王山談話を見て船舶増徴を行った陸軍部は、その後の意外な船舶喪失によ
り、機帆船徴傭を研究した。陸軍部がこれについて成案し提議するや、十一月十七日海軍も突然、
機帆船六万トンの徴傭を提議して紛糾し、この日に至っていた。
十一月三日、明治節までのレイテ決戦、十一月上旬決戦開始も成らず、下旬決戦開始(航空集中日を
二十日)としている時この状況となった。
真田第一部長はこの日
「第二十三師団ハ全滅、レイテ持久ノコト」
と手帳に記し苦慮した。苦悩している真田部長に梅津陸軍参謀総長は
「今少シク海軍ノ艦艇等ニテモ早ク出ス方法ハナイノカ、第八師団ノ一部テモ出ス方法ハナイノカ」
と歩兵第五聯隊を艦艇輸送する案について述べた。
しかし、海軍の艦艇についての考え方は、十一月十七日の陸海軍合同の第八聯隊についての方面軍の
考え方で、先の十四日の「ルソン作戦指導要綱」現地の輸送力は十五日の「レイテ輸送計画」にそれぞ
れ記述したとおりであった。
結局、陸軍部は、陸軍特殊輸送船吉備津丸、神州丸をもって第二十三師団、第十師団、第十九師団の
順に、三回折り返し輸送する案で二十日、第十師団、第十九師団のフィリピン派遣の大命を伝えた。
《資料》
(注)
防衛研究所戦史室「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」
北支、中支、南支を指す
- 308 -
台湾沖航空戦
戦果の誤報と過信がその後の悲劇を生む
昭和十九年十月十日、アメリカ軍はレイテ進攻支援の陽動作戦のため、太平洋第三機動部隊の艦
艇一九四隻、艦載機延べ一 三九六機で、奄美大島、沖縄本島等を奇襲攻撃した。さらに十一日、
.
ルソン島北部、十二日に台湾南部を空襲攻撃した。
十月十二日聯合艦隊司令部は「基地航空部隊捷一号及び二号作戦発動」を下令した。
アメリカ機動部隊は十月十二日、一 三七八機の艦載機で台湾全島を数次にわたって攻撃してき
.
た。台湾の陸海軍基地航空隊は一二〇機が迎撃して航空戦を展開した。また、鹿児島県鹿屋基地の
「T」攻撃部隊をはじめ、沖縄、九州南部の海軍基地航空隊も参戦して、十二日より十五日までの
四日間、日本軍航空機延べ一 〇二二機、アメリカ軍機延べ二 五九八機が航空戦及び、アメリカ艦
.
.
艇に対する航空戦を繰り返した。この航空戦を「台湾沖航空戦」と呼称した。
日本軍は約七〇〇機以上の損害を受け、航空戦力は著しく低下した。また、大本営海軍部は十月
十九日、空戦史上最大の大勝利として大誤報の戦果を発表した。加えて、虚報の大戦果を極秘にし
て天皇陛下、総理大臣や陸軍参謀本部に対しても秘匿した。
この虚報を信じた陸軍参謀本部は、フィリピン作戦の致命的な作戦変更をすることになった
奄美大島・沖縄へ大空襲
昭和十九年十月九日、アメリカ太平洋第三艦隊機動部隊は、南鳥島を砲撃するとともに煙幕を張り、
吊光弾を打ち上げ、日本軍に大艦隊接近の印象を与えた。
翌十日朝、正規・軽・護衛空母等二十八隻、戦艦六隻を主力に、艦艇一九四隻のアメリカ第三機動部
隊の艦載機延べ一 三九六機が終日、奄美大島、沖永良部島、沖縄本島、久米島、宮古島等に奇襲の大
.
空襲を行った。
- 309 -
日本軍は、潜水母艦迅鯨、特務艦、魚雷艇等二十六隻が沈没。沖縄の西第四航空部隊の陸軍三式戦闘
機飛燕等、航空機四十七機を損失し、米軍機二十一機を撃墜した。
十月十日〇七時〇分
「沖縄が奇襲攻撃された!」
旨の緊急電報が、聯合艦隊司令部(神奈川県日吉)に発信された。
十日〇九時二十五分
聯合艦隊草鹿参謀長が、南西諸島から台湾での航空決戦を予期して、聯合艦隊司令長官名で
「基地航空部隊捷二号作戦警戒」
を発令 。(註
捷一号 比島、捷二号 台湾・沖縄)
また、視察途中、台湾に足止めされていた聯合艦隊豊田司令長官は、
同日十二時四十二分
「基地航空部隊捷一号及び捷二号作戦警戒」
を発令した。
十月十一日
アメリカ第三機動部隊はルソン島北部アパリ飛行場。十二日に台湾南部を空襲攻撃した。
十二日十時二十五分
聯合艦隊司令部は初めて
「基地航空部隊捷一号及び捷二号作戦発動」
を下令した。
鹿屋基地の「T」攻撃部隊が出動
十二日七時〇分以降
アメリカ機動部隊は、同日早朝に台湾東方九十マイルの地点に達し、延一 三七八機の艦載機を発進
.
させて、台湾全島を数次にわたって空襲した。
日本軍も台湾基地の陸海軍戦闘機一二〇機が迎撃して航空戦を展開し、敵機四十八機を撃墜したが、
- 310 -
わが軍も八十機を失った。
南九州、台湾には第二航空艦隊(司令官福留中将)が展開していた。海軍鹿屋航空基地には「T」部
隊と呼ばれる攻撃部隊一三〇機が配属されていた。
「T」部隊は、対機動部隊戦法の中核兵力として、マリアナ沖海戦の敗退以後、敵機動部隊への攻撃
は常套手段では通用しないとして、海軍軍令部参謀源田実中佐が、天象不良時に乗ずる攻撃を着想し
「台風等の悪天候下では、敵機動部隊の艦載機は飛び立てず、対空砲火の効果も阻害される。その時に
奇襲戦法で攻撃するための航空部隊」
として、熟練搭乗員や優秀な若年搭乗員で編成し、待機していた。
十二日十三時〇分
台湾東方に風速二十メートルの台風が接近していた 。「T」部隊に出撃命令が下った。宮崎基地から
は一式陸攻、銀河四十機と、鹿屋基地から一式陸攻十五機が夕方から出撃したが、敵戦闘機の妨害と対
空砲火により戦果は皆無であった。さらに、鹿屋基地から陸軍四式重爆(飛龍 )、艦上攻撃機天山の四
十四機が薄暮出撃して夜間攻撃に向かった。暗夜の無照明のなかでの雷撃だったが、不成功に終わった。
未帰還機は五十四機を数えた。
戦果の大誤報
十月十三日早朝
十二日の「T」部隊の薄暮攻撃の戦果について、出撃搭乗員の報告に基づき、福留司令官は、次ぎの
ように速報した。
撃沈二隻
艦種不祥
(うち一隻は空母の算大なり)
中破二隻
艦種不祥
(うち一隻は空母の算大なり)
事実は米軍艦艇の損害は皆無で、攻撃が薄暮から夜になったため、日本軍機の自爆の火柱、至近弾の水
柱を命中と見た誤報告であった。
十三日十三時三〇分
翌十三日夜明けとともに、米機動部隊は艦載機延べ九七四機で、台湾全土の要地を空襲してきた。
- 311 -
台湾東方北上中の台風の余波で、天候が悪化しつつあった。鹿屋基地の「T」攻撃部隊は、索敵機を
追って一式陸攻、銀河、零戦の計四十機が出撃。
十六時二十分、宮古島上空で索敵機から
「空母七隻を含む二群を発見!」
との連絡を受けた。
攻撃隊は護衛の零戦を、石垣、宮古島の基地に帰投させ、索敵攻撃隊形をとった。
攻撃隊は半晴状態のなかを南下し、スコールの間に出没する七隻の空母群を捕捉したが、太陽は水平線
に沈みつつある薄暮の好機をとらえて四機づつの編隊で、護衛艦からの激しい弾幕をくぐり、海上が暗
くなっていくなかで、海上すれすれの超低空雷撃攻撃をくりかえした。十八時三十一分から約三十五分
の戦闘が展開された。この攻撃で一式陸攻、銀河の十八機が撃墜された。
「T」部隊司令部は、十二、十三両日の戦果を総合判断し、福留司令官は聯合艦隊司令部に報告した。
十二日
空母六~八隻轟撃沈(うち正規空母三~四を含む)
十三日
空母三~五隻轟撃沈(うち正規空母二~三を含む)
その他
両日とも相当多数の艦艇を撃沈破せるものと認む。
この報告を聯合艦隊草鹿参謀長は鵜呑みして公表した。
十三日の戦果は夜間攻撃で、アメリカ軍は重巡洋艦キャンベラ大破、正規空母フランクリンが小破の
みだった。
幻の残存艦船を追撃
十月十四日
アメリカ機動部隊の戦闘機、爆撃機の計二四六機が、朝七時頃から二時間にわたって、主として台湾
の基地飛行場を目標に空襲がつづいたが、九時〇分以降、敵機による空襲が全く途絶えた上に、攻撃に
中国大陸からB25の編隊も来襲した。
日本軍は米機動部隊はかなりの痛手をうけている。十二、十三日の戦果の報告は真実で、敵の半数は
失われたに違いない。いまや敵機動部隊殲滅の機は熟したと誰もが信じた。
- 312 -
聯合艦隊は関東地区にあった第三航空艦隊第五一航空戦隊の主力と、第三航空戦隊(大分・鹿児島 )、
第四航空戦隊(徳島・山口県岩国・広島県呉・島根県美保)の可動兵力、総計三九五機の南九州の各基地
に進出させて、全軍に総攻撃を指令した。
攻撃部隊は、沖縄小禄、中、北、伊江島の四飛行場で補給した上で、第一攻撃隊は一五八機で、十三時三
十分に出撃した。天候は全天曇りで、視界五キロと悪かった。また、所属艦隊の異なる混成部隊のため、
使用電波も各隊まちまちで、相互の連絡ができず、しだいに編隊が分離し、敵艦隊を発見しても統一攻撃
ができず、悪天候下の不慣れな個々の索敵攻撃を行う状況であった。そのため、熾烈な敵の対空砲火を浴
び、各個撃破されて自爆機が多くなった。
第二攻撃隊は、二二〇機が十四時三十分に出撃した。敵艦隊を発見することが出来ず、攻撃を断念して
台湾基地に帰投した。昼間の両攻撃隊の損害は一一二機に達した。
第三夜間攻撃隊を「T」部隊の攻撃機四十二機を五隊に分け、石垣島南方海面の敵機動部隊をそれぞれ
夜間攻撃を行った。この攻撃で二十七機を失った。
鹿屋基地では帰還搭乗員の報告から、戦果を次ぎのように聯合艦隊司令部に速報した。
一
大型空母一隻、
小型空母一隻、
重巡洋艦一隻の炎上確認(撃沈確実三隻)
二
小型空母一隻、
戦艦一隻、
軽巡洋艦二隻、数ヵ所より火炎吹き上げ(沈没ほぼ確実)
この日の米軍の損害は、
空母ハンコック水平爆破で小破。
軽巡洋艦ヒューストン雷撃で大破。
軽巡洋艦リーノ体当たり機で小破。
駆逐艦コーウェル衝突で小破。
駆逐艦キャッシン・ヤング機銃掃射で小破。
十四日の夕暮れ、魚雷を装備した銀河十六機が、米機動部隊第一任務群を攻撃。軽巡洋艦ヒュートンに、
十八時四十五分に魚雷が命中し、動力は止まり航行不能になった。
第五艦隊にも残敵?追撃命令
十月十四日十二時十六分
聯合艦隊司令部は残存敵艦隊を追撃すべく、乗員休養のため瀬戸内海岩国沖に仮泊中の第五艦隊基幹
- 313 -
(艦隊司令官志摩中将)の第二遊撃部隊に対して
「第二遊撃部隊ハ
準備デキシダイ速ヤカニ出撃
台湾東方海面ニ進出
好機ニ投ジ敵損傷艦ノ捕捉撃滅
ナラビニ搭乗員の救助ニ任ズベシ」
との出撃命令を受信した。
同日十八時〇九分
聯合艦隊豊田司令長官は
台湾新竹より電令を発し
「敵機動部隊ハ我ガ痛撃ニ敗退シツツアリ
基地航空部隊オヨビ第二遊撃部隊ハ
全力ヲアゲテ残敵ヲ殲
滅スヘシ」
と命じた。
十五日〇時〇〇分
旗艦の巡洋艦那智を先頭に、二十一戦隊は出撃し、豊後水道を通過して南下した。
十六日九時〇〇分
索敵機が台湾高雄東方二六〇マイルの地点で、敗走中の敵艦隊(米軍の囮艦隊)を発見。
同日十一時〇〇分
台南基地から銀河、天山、九九式艦上爆撃機、零戦一〇三機が出撃した。この攻撃で、米軽空母の艦載
機との空中戦で三十機が未帰還になり、停止状態にあった損傷艦ヒューストンの艦尾に爆弾が命中して格
納庫を破壊したのみだった。
航空戦隊司令官有馬少将、敵艦に突入
十五日八時〇〇分
マニラ哨戒区の索敵機がマニラ東北東二四〇マイルに、米空母四、戦艦その他十三隻からなる機動部隊
を発見。フィリピンの第一航空艦隊第五基地航空隊の零戦二十六機(七機は爆装)が、クラーク基地から
奇襲攻撃のため発進した。爆装の六機は未帰還。
十五日十四時〇〇分
第二次攻撃隊に、一式陸攻、零戦、陸軍四式戦闘機疾風等七十五機がクラーク基地から発進。北部ツゲ
- 314 -
ガラオ基地から天山、零戦十六機が発進した。
第二次攻撃隊に、第二十六航空戦隊司令官有馬正文少将が、
「陸攻に搭乗して攻撃を指揮する!」
と言った。
驚いた飛行隊長等が制止したが
「私の出撃は第一航空艦隊司令長官寺岡中将の了解を得ているから、心配しなくてもいい」
と静かに答えると、身分をかくすために、少将の階級章を衿からはずし、双眼鏡に白ペンキで書かれてい
る「司令官」の文字を削り落とした。
「諸士の武運長久を祈る」
と言うと、陸攻の一番機に搭乗し、先頭を切って発進した。
※(当時、攻撃隊の指揮は飛行隊長がとるべきもので、司令官の職掌ではなかった。空中で指揮をとる
ことはできなかった)
十五日十五時四十分
多数の敵戦闘機と遭遇し、戦闘機隊がこれを排撃する間に、三機の陸攻隊は艦船に突入し、敵空母に雷
撃を敢行した。
米側の資料によると、そのうち一機が、空母フランクリン近くの海中に突入し、その翼の一端が飛行甲
板に飛び散ってきたと言われる。有馬司令官は戦死した。
「当初から、危機の戦局打開のため指揮官みずから攻撃隊の陣頭に立つ強い信念だった」
と、司令官の日頃の言動から、生存の隊員はこう語っている。
この攻撃で、敵空母フランクリンが中破の損害、味方の航空機は二十三機が未帰還だった。
十六日九時〇〇分
索敵機が台湾高雄の東方二六〇マイルの地点で、敗走中の敵艦隊(米軍の囮艦隊)を発見。
十六日十一時〇〇分
台南基地から銀河、天山、九九式艦上爆撃機、零戦等一〇三機が出撃した。米軽空母の艦載機との空中
- 315 -
戦で三十機が未帰還になり、停止状態にあった損傷艦ヒュートンの艦尾に爆弾が命中し、格納庫を破壊し
たのみだった。
聯合艦隊司令部大誤報に衝撃
十月十六日十二時
海軍の索敵機から、
「高雄(台湾)ノハルカ東方海上四三〇マイルニ
西ニ航海中ノ米空母七隻
戦艦七隻
巡洋艦十数隻カ
ラナル米機動部隊ヲ発見シタ」
との報告電報が日吉の聯合艦隊司令部にとどいた。
草鹿参謀長はじめ幕僚たちは、まさに青天の霹靂であった。
十六日昼、
戦果に疑問をもった海軍は、密かに鹿屋の「T」攻撃部隊の田中参謀を、聯合艦隊司令部に召致し、聯
合艦隊淵田、中島の両参謀らが、戦果の検討を始めた。
海軍部は、台湾沖航空戦の敵損傷残存艦艇追撃のため、艦船燃料補給の目的に、陸軍部に油槽船三隻の
増徴を強く要望してきた。陸軍部は誤報の戦果を信じ、決定的な快報が至ることを期待をして、二隻の油
槽船の増徴に応じた。
これに対して海軍部は、
「リンガ泊の大和、武蔵以下の第一遊撃部隊の出撃準備が急進展しつつある」
旨、陸軍部に告げた。
敵艦隊健在を確認反転北上
十六日
南下中の第二遊撃部隊の志摩長官は、旗艦那智が敵艦隊の発する通信の傍受によって、敵機動部隊が健
在で北上していることを察知し、正午いったん西に転じた。すると間もなく、グラマン戦闘機二機が接近
してくるのを発見した。
「空母部隊が近くにいる」と判断してただちに
- 316 -
「全艦隊反転北上セヨ」
と命じた。
十六日十八時十五分
聯合艦隊司令部は第二遊撃部隊志摩長官に
「戦果ニ疑問が生ジ調査中デアルガ
第二遊撃部隊ハ台湾澎湖島馬公ニ回航セヨ」
と電令を出した。
十七日、給油のため奄美大島川薩湾に入港した。
十六日十八時十五分
聯合艦隊は第一遊撃部隊に次のような打電をしていた。
「本十六日偵察ノ結果
残存勢力ハ比較的大ニシテ損傷艦救援ノタメ
ニ行動スル算及積極的攻勢ニ出ツル算ナシトセサルヲ以テ
セラレ損傷艦ノ数モ亦増大スヘキ状況ヲ予察セラレ
ルヲ可トスル研究ニ到達出撃準備ヲ下令セルモ
ヲ以テ各種状況ヲ考慮ノ上出撃ヲ必要トセハ
尚
更ニ数日間
我ガ基地航空部隊ノ威力圏内
我ガ基地航空各隊ノ攻撃ヲ予期
依ッテ第一遊撃部隊ヲ急派決戦ヲ行ヒ戦果拡充ヲ図
之ガ出撃ハ燃料問題
基地将来作戦ニ重大ナル影響アル
決戦発令方取計ラフコト」
この疑問の打電の事実は陸軍部には知らせなかった。
大本営海軍部が、撃沈したと報じた敵空母は全艦健在で、重大な戦果の誤判断による虚報であったこと
を確認。さらに、大本営海軍部は連日大戦果を発表した。また、天皇陛下にも戦果を奏上していた。
虚報の戦果を大本営海軍部発表
十月十九日十八時二十分
大本営海軍部は、史上空前の戦果の誤報を伏せたまま、四日間の戦果として
「我部隊ハ十月十二日以降連日連夜、台湾及ビ呂栄東方ノ敵機動部隊ヲ猛攻シ
撃滅シテ遁走セシメタリ
我方ノ収メタル戦果左ノ如シ。
一
轟撃沈
航空母艦十一隻、 戦艦二隻、 巡洋艦三隻、 巡洋艦又ハ駆逐艦一隻
撃
航空母艦八隻、
破
戦艦一隻、 巡洋艦四隻、 巡洋艦又ハ駆逐艦一隻、 艦種不祥一三隻
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ソノ他
火焔・火柱ヲ認メタルモノ十二隻ヲ下ラズ
撃
一一二機
墜
基地ニオケル撃破ヲ含マズ
二
我方ノ損害
飛行機三一一機
三
本戦闘ヲ「台湾沖航空戦」ト呼称ス。
と発表した。
この発表を受けて、東京、大阪で勝利を祝う国民大会が開催された。
十月二十日
東京日比谷公会堂で「一億憤激米英撃滅国民大会」が、小磯首相、米内海軍大臣、杉山陸軍大臣、重光
外務大臣らの閣僚が出席して開催された。
その席上、小磯首相は大勝利を信じ「フィリピン決戦前のこの大戦果は天佑神助 勝利は今や我が頭上
にあり…」との趣旨の演説をした。
当日夜には提灯行列も催された。参加した閣僚も、陸軍参謀本部も国民も大戦果を信じていた。
日本側の航空戦力は、台湾沖航空戦と一連の米軍機の空襲で、約七〇〇機以上の損失を受け、この方面
における日本側の航空兵力は、十月十七日現在、第六基地航空部隊の台湾・九州の実働数は約二三〇機、
比島方面の海軍第一航空艦隊四十機、ほかに陸軍機七十機になった。
一〇月二一日
皇居に大本営陸海軍の幕僚長は召されて、南方方面陸軍最高司令官、聯合艦隊司令長官、台湾軍司令官
に嘉賞の勅語が下された。
大本営海軍部、聯合艦隊司令部は、宮内庁、総理大臣等の内閣の各大臣、大本営陸軍部をはじめ、外部
には一切真相は知らさない極秘事項にすることを確認して、事後この大勝利で押し通していった。
誤断虚報の原因
大虚報の原因は、無照明の夜間、薄暮や夕暮れの攻撃、敵艦船や艦載機の迎撃の予想以上の反撃、精鋭
のはずの「T」攻撃部隊はじめ、海軍航空隊搭乗員たちの経験不足で、味方の飛行機の自爆の爆発を敵艦
の轟沈と見誤ったり、海面着弾の水柱を命中と誤認して報告していた。
- 318 -
さらに陸軍航空部隊の搭乗員は米艦艇の船型の識別に不慣れで、報告があいまいだったことである。加
えて、ミッドウェー海戦以来、敗報の戦果が続き、心理的に追い込まれていた海軍各級の司令部が、大勝
利の報を、確認しないまま上部に報告するという結果であった。
また、大誤報であることを確認後も、海軍軍令部、聯合艦隊は訂正をせず、全戦局の大勢を決する作戦
を共にする陸軍部にも秘匿した事は、その後の戦局に大きく致命的な結果を与えることになったが、すで
に天皇陛下に戦果を上奏しているため、訂正も出来ずに、極秘にして進めていった。
レイテ沖海戦
昭和一九年七月 、「絶対国防圏」の崩壊に伴い、米軍のフィリピン上陸は、日本本土の生命線防衛
の決戦正面として位置付け、①
る。②
③
基地航空隊の第一(比島 )、第二(台湾)航空艦隊を比島に集中す
聯合艦隊の第二艦隊(栗田司令官)は、特命により敵上陸二日以内に上陸地点に突入する。
空母機動部隊の第三艦隊(小沢司令官)と遊撃部隊の第五艦隊(志摩司令官)は、敵艦隊を北方
陽動牽制する囮艦隊となる。との方針で「捷一号作戦」の主体は基地航空戦力で敵機動部隊と輸送船
団を撃滅するという戦略であった。
昭和一九年一〇月一二日から四日間、米機動部隊艦載機との台湾沖航空戦につづき、レイテ島進行
の米輸送船と支援の艦艇七三四隻の大船団がフィリピン海域を航行し、一八日に一部の艦船がレイテ
湾に侵入、湾口のスルヤン島を上陸占拠し、二〇日にレイテ島に上陸を開始した。
一〇月一八日、大本営海軍部は「捷一号作戦第一次発動」を下命した。
一〇月二二日より四日間、フィリピン周辺の広大な海域で、駆逐艦以上の艦艇一九八隻、飛行機延
二 〇〇〇機が敵味方に分かれて艦隊決戦の死闘を展開した。史上最大の艦隊決戦であり海戦である。
,
- 319 -
台湾沖航空戦、米機動部隊艦載機による台湾・フィリピン航空基地攻撃による損失で、第一航空艦
隊の稼働できる航空機は四〇機で、聯合艦隊も航空機の援護のない特攻出撃になった。
本海戦で米軍に与えた損害は、戦史上初の神風特別攻撃隊の出撃。航空機による攻撃等で、空母三
隻、駆逐艦三隻を撃沈した。日本海軍は空母四隻、戦艦三隻、巡洋艦、駆逐艦など二八隻が撃沈され
航空機一〇〇機以上を損失。七四七五名の将兵が戦死した。
この海戦で連合艦隊は組織的な戦闘力を失って事実上組織的に消滅した。
※
「レイテ沖海戦」は「フィリピン沖海戦」とも言われている。
海戦前の聯合艦隊の動向
第二艦隊 (栗田艦隊)
レイテ湾に突入する任務をもつ、聯合艦隊主力の第二艦隊は、昭和一九年六月二四日、マリアナ沖海戦
の敗北から内地に帰還してきた。内地では重油の不足から燃料補給ができないため、海軍軍令部総長の指
示で、インドネシア・スマトラ島南部の油田地帯近くのリンガエン湾を訓練泊地とした。
昭和一九年七月八日、大和、武蔵を擁する戦艦七隻、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦等三九隻と二万五千
余名の将兵は、瀬戸内海を出航して七月二四日リンガエン湾に到着した。
リンガエン湾では、射撃、魚雷発射、艦隊運動、襲撃教練などの訓練を行っていたが、実弾を使用して
の実戦訓練はできなかった。
第三艦隊 (小沢機動艦隊)
昭和一九年六月のマリアナ沖海戦で、空母が基幹の機動部隊として、正規空母旗艦大鳳、翔鶴、飛龍を
失った第三艦隊は、米機動部隊を北方に陽動分離し、第二艦隊のレイテ湾突入を援護する囮部隊の任務を
もち、正規空母一、軽空母三、戦艦、駆逐艦など十七隻で編成されていた。
空母龍鳳・隼鷹を保有し、戦艦伊勢・日向は艦尾の砲塔を撤去して飛行甲板を設けて二二機を搭載し、
- 320 -
カタパルトで発進し、他の空母に着艦する特殊構造に改装する変則空母の予定が、航空戦艦の役が果たせ
ず普通戦艦として出撃した。
八月六日竣工した空母雲龍、八月一〇日完成の天城、超大型空母信濃も一〇月中旬竣工の予定だった。
空母龍鳳・隼鷹は、搭載機がないため瀬戸内海に残留。完成した雲龍・天城は訓練未了のため、作戦に参
加できなかった。
艦載機は、第一、第三、第四航空戦隊の基地未進出の残留機を帰還させ、新空母天城・雲龍に予定して、
第一航空隊の練度の向上がみられる搭乗員を集めて編成した。正規には四隻の空母に一七四機搭載が、零
戦四八、戦闘爆撃機(零戦に爆弾をつむ)二八、艦上爆撃機彗星八、艦上攻撃機天山二四の一〇八機で、
アメリカの新鋭高速空母一隻分の機数を分散搭載していた。
艦載機は海軍大分基地に終結させた。一方、機動部隊本隊の艦艇は、一〇月一八日から一九日の夕刻に、
別府湾と愛媛県伊豫灘の八島錨地に分かれて終結した。
第五艦隊 (志摩艦隊)
第五艦隊第二遊撃部隊は、旗艦の重巡洋艦那智、足柄をはじめ、軽巡洋艦、駆逐艦など七隻で編成され
ていたが、台湾沖航空戦の幻の残敵を追って出撃。途中、北転して奄美大島で給油して、台湾馬公に回航
したため、第三艦隊本隊(小沢艦隊)は手足をもがれ、艦隊の戦闘力は大きく低下していた。
第一航空艦隊ダバオに再編成
第一航空艦隊(寺岡司令官)は、司令部はマリアナ群島テニアンに置いていた。昭和一九年六月、米軍
のサイパン占領、テニアン島守備隊の玉砕で角田司令長官は戦死し、司令部も消滅した。
八月七日
司令部を比島のミンダナオ島ダバオに移して、司令長官に寺岡謹平中将を任命。零戦隊、夜間戦闘機月
光隊および偵察隊、陸上攻撃隊、輸送隊で保有機数二五七機、輸送機二五機に加え、指揮下に陸軍偵察機
も加え、約三〇〇機で再編された。
現状は補充器材の不足や遅延、発動機の不調などがあった。九月八日には保有機数が五〇〇機に増えた。
しかし、作戦可能機数は約二八〇機だった。
- 321 -
八月からは、敵の大型機、P38等の空襲が多くなってきた。危険なダバオを避けて、七〇一空はミン
ダナオのサンボアンに、二〇一空はダバオの第一基地、北フィリピンのセブ島などに分散し、一五三空が
ダバオ第二基地に駐屯していた。
八月二〇日以降
ダバオは連日のように敵機の空襲にさらされた。九月にビアク島を占領して飛行場を建設した米軍は、
四〇機、五〇機の編隊で空襲が激しくなった。日本空軍は、あくまでも敵機動部隊攻撃のため飛行機を温
存するという作戦で、空襲には迎撃のため飛び出さなかった。夜の空襲に対しては、夜間戦闘機月光が迎
撃に舞上がった。
九月九日と一二日
米軍は延べ約五六〇機で、ダバオなど五地区は猛爆撃の波状攻撃をうけた。基地にあった一航艦の飛行
機六〇機、陸軍第四航空軍約六五機が大破炎上と中小破の大損害をうけた。セブ湾で艦艇一三隻、輸送船
一一隻が撃沈された。
二一日
敵艦載機延べ四百数十機が、九時間にわたってマニラを中心に、四次の連続攻撃を加えてきた。翌二二
日には朝から一六時間、延べ約二一〇機が来襲した。度重なる敵の空襲攻撃に、第一航空艦隊の戦力も激
減した。
九月二三日
第一航空艦隊寺岡司令長官は、聯合艦隊に
「一航艦の可動兵力は、零戦二五、陸上攻撃機一四、天山二〇、彗星二、月光一、陸軍偵察機一、陸軍新
司偵二」
の合計六五機が、全フィリピンを防衛する航空戦力のすべてである旨報告した。
第二航空艦隊台湾 へ
昭和一九年六月一五日、新設された第二航空艦隊(福留司令長官)は、鹿屋基地に司令部を置き、九州
南部で兵力を整備していたが、まだ実戦に参加できる状況ではなかった。
- 322 -
一〇月一日現在
実働保有機は三五八機で、一〇月一〇日の沖縄、奄美大島に対する米艦載機の大空襲。一二日から五日
間にわたる台湾沖航空戦に、台風時に奇襲攻撃ができる「T攻撃機隊」を編成するなど、航空戦では主作
戦正面を担って戦った。この時、司令部は台湾高雄に進出していた。
台湾沖航空戦で日本の航空兵力は、関東地区等の第三航空艦隊の主力、第三、第四航空戦隊の二三七機
は南九州基地に移動して第二航空艦隊の基地航空隊に合流した。台湾沖航空戦で極めて甚大な損害をうけ
た。一七日現在実働機数は二三〇機に減少していた。
二〇日
聯合艦隊は、栗田艦隊のレイテ湾タクロバン突入を
「一〇月二五日黎明時」
と決定した。
その突入支援のため、陸海軍航空部隊は前日の二四日、航空総攻撃をおこなうことになった。二〇日現
在、第一航艦(比島)の保有機数四〇機に、陸軍第四航空軍の二九機を合わせても六九機。また、開戦時
の海軍パイロットの平均飛行時間は約五〇〇時間が、すでに一五〇時間未満にまで低下し、パイロットの
練度もおちて、単独飛行がやっとの者もいた。
神風特別攻撃隊の出撃
一〇月二一日
神風特別攻撃隊の第一次は、関大尉の敷島隊の五機が出撃したが、ルソン島南部のレガスピーに不時着。
二二、二三、二四日も、悪天候で敵空母が発見できずに全機が帰還してきた。
二五日
敷島隊は、関大尉の指揮する五機が出撃して空母群に突入した。敵空母一隻撃沈、同一隻を炎上撃破、
巡洋艦一隻を撃沈したが、再び基地に帰ってくることはなかった。
聯合艦隊レイテに出撃
昭和一九年一〇月一七日早朝、米第七艦隊がレイテ湾口に侵入。スルアン島に艦砲射撃の後に上陸した。
- 323 -
この電信を受けた連合艦隊司令部は、十八日全軍に
「捷一号作戦警戒」
を発令。同時に各艦隊に次のような命令を発した。
一七日〇八時四八
「先遣部隊潜水艦ハ中南比方面ニ対シ全力急速出撃準備ナセ」
〇九時〇八
「機動部隊本隊(第三艦隊)ハ
敵機動部隊ヲ北方ニ牽制スル要アリト判断セラルルニツキ
全力準備ナ
セ」
〇九時二八
「第一遊撃部隊(第二艦隊)ハ速ヤカニ出撃
ブルネイニ進出スヘシ」
一四時〇六
「第六基地航空部隊(台湾)ハ残存全主力ヲ台湾方面ニ集結シ
機宜比島ニ進出スヘシ」
第二艦隊(栗田艦隊)
一〇月一八日〇一時〇〇
軽巡洋艦矢矧を先頭に、第一戦隊の戦艦大和、武蔵をしんがりに、二万五千名の将兵とともに第二艦隊
三九隻は、リンガエン湾を出航して、二〇日一〇時にブルネイ湾に入った。シンガポールから回航させた
油槽船雄鳳丸・八紘丸からの燃料補給をうけた。
一八日
「二五日黎明時レイテ島タクロバンに突入」
の電命を受けた。
二二日〇八時〇〇
旗艦愛宕の檣頭に出撃を告げるブルーの旗旒信号が揚がった。第一水雷戦隊の軽巡洋艦能代を嚮導艦と
して、第二艦隊三二隻の艦船がボルネオ島ブルネイ湾から出撃した。
艦隊は敵飛行機からの早期発見は少ないが、敵潜水艦と遭遇する可能性が高い、狭いパラワン水道から
- 324 -
ミンドロ島南端を通り、サマール東岸沿いに南下、レイテ島に突入する北回り、一二〇〇マイルの最長距
離の第二航路を、甲・乙部隊の二群の艦隊に分かれ、艦隊間隔を六〇〇〇メートルの対潜警戒航行序列、
速力一八ノットで之字運動をつづけ北上した。
第二艦隊第三夜戦部隊(西村艦隊)
二二日一五時〇〇
後発の西村艦隊は、戦艦山城・扶桑を擁した七隻で、低速のために主力部隊とは別に、スル海を東に横
断して、スリガオ海峡からレイテ湾にいたる約八一五マイルの最短距離の第四航路を選び、レイテで合流
するため、ブルネイ湾を出航した。
第三艦隊(小沢機動部隊)
一〇月二〇日朝、
空母四隻を擁する一七隻の機動部隊は、一万二千名の将兵とともに、大分沖を出航し伊豫灘に出動した。
大分基地に集結していた一〇八機の艦載機は、陸上基地から飛来し、航走する母艦に着艦して収容を終え
て、愛媛県伊豫灘佐田岬沖に集結した。
機動部隊は、警戒隊の軽巡洋艦大淀など第三一戦隊の第一駆逐連隊を前路掃討隊として豊後水道を通過
した。
二一日
室戸岬南方約二〇〇マイル付近を南下していた。
第五艦隊(志摩第二遊撃部隊)
一〇月二〇日
志摩艦隊の旗艦那智以下、巡洋艦、駆逐艦九隻の第二遊撃部隊の各艦はタンカー良栄丸から給油をうけ
た。
〇九時三〇
志摩長官宛に、聯合艦隊参謀長よりの命令を受信
「第二遊撃部隊ヲ南西方面部隊ニ編入
比島方面海上機動反撃部隊ノ骨幹トシテ使用スル予定ニツキ
- 325 -
高
雄デ補給ノウエ
スミヤカニマニラニ進出
第一六戦隊ヲ指揮下ニ編入セヨ」
志摩艦隊に、在台湾第六八旅団の兵力を乗船させて、レイテ逆上陸の輸送艦に使用するとのことであっ
た。艦隊は、機動部隊本隊(栗田艦隊)とともに、陽動作戦に参加するため、訓練も準備も重ねてきてい
た。艦隊はマニラに向かって南下している間、聯合艦隊司令部、南西艦隊司令部より二転三転する命令が
発せられた。
さらに、高雄の第二航空艦隊福留長官より大本営の了解事項として
「セブ島ノ基地航空隊ニ搭乗員ト機材ヲ運ブタメ
駆逐艦三隻ヲ至急回航サレタイ」
との電請があった。
志摩艦隊は、七隻の駆逐艦のうち第二一駆逐隊の若葉など三隻を、二一日正午に台湾馬公から高雄に出
港させた。
二一日昼
聯合艦隊参謀長より南西方面艦隊司令部宛、
「第二遊撃部隊ノ作戦ハ
第五艦隊申電ノ要領ニヨリ実施スルヲ適当ト認ム
牽制奇襲ノ目的ヲモッテス
リガオ海峡ヨリ突入スルヲ有利ト認ム」
との通報を受けた。
二一日一六時〇〇
志摩艦隊はマニラに向かって馬公を出港した。
日米艦隊の接敵・決戦
第二航空艦隊フィリピンへ
十月二二、二三日、
第二航空艦隊の三五〇機が、福留長官とともに台湾各基地からマニラのクラーク基地の各飛行場に大挙
移動した。
第三機動艦隊(小沢艦隊)
二二日一一時〇〇
- 326 -
燃料の洋上補給作業を開始した。空母瑞鶴、千代田、千歳の三隻から巡洋艦二隻、駆逐艦三隻に、巡洋
艦大淀から駆逐艦一隻に合計九〇二トンが給油された。海上のうねりが大きく、洋上給油作業の技量の低
下や不慣れな乗員が多く、補給作業中に曳索や油を送る蛇管を切断して作業を中止した。予定時間も大き
く遅れた。
第五艦隊(志摩艦隊第二遊撃部隊)
二二日昼、マニラ湾近くを航行中、
「第二遊撃部隊ハ
第一遊撃部隊(栗田艦隊)ニ策応
第三遊撃部隊(西村艦隊)トトモニ
レイテ湾ニ
突入スヘシ」
と、聯合艦隊司令部より、電令を受信。
第二夜戦部隊(西村艦隊)
二二日一五時三〇
戦艦二隻、重巡洋艦一隻、駆逐艦四隻の七隻は、ブルネイ湾から出撃した。西村艦隊の旗艦は、最大速
力二四 七ノットの低速戦艦ため、機動力は期待できない。加えて、九月下旬に第二戦隊として、戦艦山城、
.
扶桑を率いてリンガ泊地に向けて出発。栗田艦隊本隊に合流したのが一〇月四日、ブルネイ湾に来て一〇
月二一日に、駆逐艦四隻が指揮下に編入され、戦隊として統一訓練は一度もしないままの出撃になった。
二三日一〇時三〇
北ボルネオとパラワン島の間のパラパック海峡を通過して、スリ海に入り東進していた。この時、旗艦
愛宕が敵潜水艦の雷撃で沈没したことを知った。
第三機動艦隊(小沢艦隊)
一〇月二三日
足摺岬南方約一〇〇〇キロの海上を、針路二四五度の西南西に向けて航行途中、〇七時〇〇頃、空母瑞
鶴は敵艦載機の無線通話を傍受した。
二三日一一時〇〇
フィリピン東方に進出していた「潜水艦伊四一号」から
- 327 -
「〇六時三三
北上中ノ敵艦載機ヲ認ム」
との情報が入電した。航行地点より約七四〇キロ付近と判断した。
一四時〇〇
パラワン水道で栗田艦隊の旗艦愛宕・摩耶が雷撃を受けて沈没。
一五時〇〇
旗艦を戦艦大和に変更して、既定どうり作戦を続行していることを知った。
第五艦隊第二遊撃部隊(志摩艦隊)
二三日午前
ミンドロ島西方に向けて変進したころ、南西方面艦隊三川長官より
「第二遊撃部隊本隊ハ指揮官所定ニヨリ行動
遊撃部隊ノ作戦ニ策応
二五日黎明スリガオ海峡ヲ突破シ
レイテ湾ニ突入シ第一
同方面所在ノ敵攻略部隊ヲ撃滅スヘシ」
の電命があった。
志摩長官は、ただちに第五艦隊の各艦に対して
「第二遊撃部隊ハ補給完了後
二五日〇六時〇〇
スリガオ海峡通過
泊地ニ突入シテ敵ヲ撃滅セントス」
と発令した。
艦隊はマニラ入港を中止し、二三日一八時〇〇、コロン湾南部のクリオン泊地に着いた。予定の油槽船
は到着していなかった。事前の打合わせどうり、旗艦那智、巡洋艦足柄から五隻の駆逐艦に給油を実施し
た。補給を受けた艦隊は舳を南に向けて停泊していた。
第二艦隊第三夜戦部隊(西村艦隊)
二三日一〇時三〇
ボルネオ北とパラワン島との間のパラパック海峡を通過して、スル海に入り東進していた。この時、旗
艦愛宕が敵潜水艦の雷撃で沈没したことを知った。
フィリピン沖海戦の前哨戦
第五艦隊第二十一駆逐隊合流不能
- 328 -
一〇月二二日
台湾馬公を出港した駆逐艦若葉・初春・初霜の三隻は高雄に寄港し、緊急輸送を命じられたフィリピン
基地航空隊への機材と人員を搭載してマニラに向かった。途中、バシー海峡で、輸送船が撃沈されて波間
に漂流している陸軍部隊の将兵を発見して約二時間、救助活動を行う。
二十三日
マニラに到着。機材の揚陸と兵員や遭難者の上陸が終わると二〇時〇〇頃、休む間もなく艦隊に合流の
ため、マニラからルソン島沿いに南下してシブヤン海に入った。
二四日〇八時〇〇
スル海に入った。〇七時五五、東方上空に敵艦載機約二〇機を発見。駆逐隊は初春・初霜を左右三〇〇
〇メートルに散開し、対空戦闘態勢に入った。〇八時一〇、急降下爆撃態勢に入った敵機は若葉を目標に
爆撃を集中してきた。若葉も高速で回避しながら機銃掃射で交戦していたが、爆弾が後部右舷に命中した。
つづいて遅動信管装着の爆弾が艦底四、五メートルで爆発して機械室の底が亀裂して浸水が激しく艦は停
止した。
右舷に傾きが大きくなり、カッターを降ろして負傷者と残存の機銃弾を乗せて
「退艦を!」
を命じられた。無傷の乗員は海に飛び込んだ。
初霜・初春もボートを降ろして、三時間にわたって救助活動を行っていたが、突然、八機の艦上爆撃機
が飛来して初霜に急降下して爆弾を投下した。一発が艦尾二番砲塔の左舷に落下して火柱が上がり甲板が
破壊したが鎮火した。
フィリピン沖海戦の前哨戦がスル海の北方海域で始まった。
初霜・初春は、志摩艦隊本隊との合流を断念し、多数の負傷者、救助者の揚陸と初霜の修理のためにマ
ニラに回航した。志摩艦隊は第二一駆逐隊の駆逐艦三隻の戦力が減じた。
旗艦を戦艦大和に移す
一〇月二三日〇時〇〇
- 329 -
艦隊は、水深の浅い危険礁があり、艦隊通行可能な水道幅が約四六キロメートルで、敵潜水艦の待ち伏
せには絶好の海面だったパラワン水道を航行していた。
二四日〇一時〇六
栗田艦隊は、パラワン水道で索敵中の敵潜水艦ダーターに補足された。僚艦デースにも連絡され、両潜
水艦は栗田艦隊に接近してきた。ダーターは潜水艦司令長官に
「一三二度、三〇〇〇ヤード(二七〇〇メートル )、目標は艦船多数」
と作戦緊急報告を打電した。
この電波を傍受した旗艦愛宕は
「総員配置につけ」
「艦隊速力一八ノットニ増速。之字運動A法ヲ開始セヨ」
と各艦に命令を発して戦闘態勢に入った。
〇五時三〇
旗艦愛宕は二隻の敵潜水艦から四本の魚雷攻撃をうけて二〇分後に沈没。重巡摩耶も四本の魚雷が命中
して八分で沈没した。また、重巡高雄は二本の魚雷をうけて、内軸の二つのスクリューをもぎとられ、舵
は吹き飛び回転が急に低速して航行不能になった。
旗艦愛宕の艦上にいた栗田長官と小柳参謀長は、戦艦大和に移乗して大和を旗艦とした。ほとんど味方
の航空機の援護のない丸裸の栗田艦隊は、レイテ攻撃を前に三隻の重巡洋艦を失った。
栗田艦隊は、機動部隊(小沢艦隊)との通信連絡がとれないため、囮作戦の小沢艦隊の動向がわからず、
いったん反転した。そして再反転して引き返したとき、シブヤン海にハルゼー米機動艦隊の主力はいなか
った。
ハルゼー機動艦隊の三群は、囮作戦が成功して小沢艦隊を追撃のため北上し、栗田艦隊から遠ざかって
いた。栗田艦隊はそれを知らなかった。
第六基地航空隊の出撃
一〇月二三日一二時〇〇
- 330 -
マニラを発進して中央のL一八番を飛んだ索敵機(香田飛曹長機)からマニラ航空司令部に
「電探ニヨリ
レラ2シ(マニラの九十度二五〇マイル)ニ敵大部隊ヲ探知
〇〇時五〇」
と、第一報が打電されてきた。
香田機は打電後に、米第三任務隊機動部隊の夜間戦闘機に撃墜された。
福留長官は、香田機の「レラ2シ(飛行機用兵要地点図による位置標示 )」地点に総攻撃をかけること
を決意した。
二四日、
第六基地航空隊(指揮官福留中将)は、シブヤン海に進入する栗田艦隊援護のため、敵機動部隊を補足
殲滅することであった。
攻撃編成は全機一九〇機を、三制空隊、五攻撃隊の八隊に編成した。攻撃隊、爆撃隊、掩護隊等に分か
れて、〇六時三五から〇八時三〇の間に逐次、フィリピンクラークの各基地から出撃した。
攻撃隊が発進した直後、敵の艦載機一三〇機が来襲し、キャビテ軍港めがけて攻撃してきた。艦爆隊(
江間隊)は、シャーマン機動部隊をめざした。〇八時二〇頃、突然、敵戦闘機約一〇〇機が後方上空から
襲いかかってきた。待ち伏せにあった敵機と空中戦を交えた。また、先行していた零戦二六機の制空隊は、
マニラの一五〇マイル付近で、敵グラマン約五〇機に迎撃され空中戦を、第三掩護隊もマニラの一四〇マ
イル付近で、グラマン戦闘機五〇機と空中戦を展開していた。
この戦闘で、敵機一八機を撃墜したが、第六基地航空隊も一五機が未帰還になった。クラーク基地を最
後に出撃した特第一攻撃隊の天山隊八機もまた、マニラ東方一〇〇マイル付近で、敵戦闘機十数機と遭遇
して進撃を阻止された。
この戦闘で、日本軍の艦上攻撃機彗星が急降爆撃で、軽空母プリンストンの格納甲板に、燃料を満載し
て魚雷を装備したアヘベンジャー雷撃機六機がつぎつぎと誘爆して、艦内各所で大爆発を起こした。近接
していた軽巡洋艦パーミンガムも爆風で外鈑が吹き飛び、マストも破壊され航行不能となり、米潜水艦の
魚雷によって沈められた。
- 331 -
武蔵も一九本の魚雷で沈む
二四日一〇時二六
シブヤン海に入った艦隊に、米第一次攻撃隊の艦載機五九機が、戦艦大和、武蔵を集中的に急降下爆撃
で雷撃を加えてきた。航空機の援護もない栗田艦隊は、四六センチ砲の主砲九門をもつ戦艦大和・武蔵も
応戦するが、 一四時三〇までに、延べ二五〇機の五次にわたる波状攻撃をうけた武蔵は、一九本の魚雷、
一四発の直撃弾や無数の至近弾と銃撃の攻撃をうけて、一九時三五、左に転覆して六万四千トの世界最大
の戦艦が沈没した。
このシブヤン海戦で、さらに重巡洋艦妙高、駆逐艦浜風、清霜が撃破された。
第三夜戦部隊(西村艦隊)
二四日〇七時〇〇
スル海を東進していた旗艦最上を発進した偵察機から、レイテ湾の敵機動部隊の艦船の偵察状況報告が
入り、この情報は栗田長官をはじめ、ルソン島南部のブーラン基地から関係各部隊に転電された。
〇九時四〇
レイテ湾から発進した二九機の敵艦爆隊が来襲してきた。敵機が一万三千メートル付近に飛来してきた
時、戦艦山城の三六インチ主砲一二門や、戦艦扶桑・重巡最上も主砲や高角砲で斉射して戦闘が開始され
た。敵機の急降下爆撃で戦艦扶桑の艦尾のカタパルトに爆弾一発が命中し、搭載の水上偵察機二機が破壊
されてガソリンに引火したが、一時間後に沈火した。敵機三機を撃墜した。交戦時間はわずかに五分間だ
った。
ハルゼイ司令官は、西村艦隊の攻撃を打ち切った。囮部隊の小沢艦隊に対処するため、第七艦隊のみレ
イテに残して、各機動部隊に北上を命じたためだった。
西村艦隊は戦闘後、栗田艦隊とのレイテ湾合流の時間調整のため、速力一四ノットに減速して、スル海
を東進したが、何の妨害、攻撃を受けることもなかった。
- 332 -
レイテ沖海戦参加艦艇
連合艦隊司令部
司令官豊田副武大将
(神奈川県日吉)
第三艦隊(第一遊部撃隊)司令官栗田健男中将
◇
参加艦艇
第一部隊
戦艦七、重巡洋艦十一、軽巡洋艦二、駆逐艦十九、
(第一夜戦部隊)第三艦隊司令長官直率
第一戦隊
戦艦武蔵、大和
第四戦隊
旗艦重巡洋艦愛宕、高雄、鳥海、摩耶(重巡4)
第五戦隊
重巡洋艦妙高・羽黒
第二水雷戦隊
(戦艦2)
(重巡2)
軽巡洋艦能代 、(軽巡1、駆逐艦9)
第二駆逐隊
駆逐艦早霜、秋霜
第三十一駆逐隊
駆逐艦岩波、沖波、朝霜、長波、
第三十二駆逐隊
駆逐艦藤波、浜波、島風
第二部隊
(第二夜戦部隊)
第三戦隊司令官鈴木義尾中将
第三戦隊
戦艦金剛、榛名
第七戦隊
重巡洋艦熊野、鈴谷、利根、筑摩
第十水雷戦隊
第十七駆逐隊
第三部隊
総計三十九隻
軽巡洋艦矢矧
(重巡4)
(軽巡1、駆逐艦6)
駆逐艦浦風、磯風、浜風、雪風、野分、清霜
(第三夜戦部隊)
第二戦隊
(戦艦2)
第二戦隊司令官 西村祥治中将
戦艦山城、扶桑、重巡洋艦最上(戦艦2、重巡1、駆逐艦4)
第四駆逐隊
駆逐艦満潮、朝雲、山雲、
第二十七駆逐隊
駆逐艦時雨、
第二艦隊(第一機動艦本隊)司令長官小沢治三郎中将
- 333 -
第三航空戦隊
◇
第二艦隊司令長官直率
参加艦艇
正規空母一、改装空母三、戦艦二、軽巡洋艦三、駆逐艦八
総計十七隻
航空母艦瑞鶴(零戦二八、爆装零戦一六、天山一四、彗星七、計六五機搭載(正規八四機)
改装空母瑞鳳(零戦八、
天山五、
計一七機搭載(正規三十機)
爆装零戦四、
天山六、
計一八機登載(正規三十機)
同
千歳(零戦八、
同
千代田(零戦八、爆装零戦四、九七式艦上攻撃機四、計一六機搭載(正規三十機)
第四航空戦隊
戦艦日向、同
伊勢
巡洋艦戦隊
軽巡洋艦多摩、五十鈴
第一駆逐戦隊
軽巡洋艦大淀、駆逐艦桑、槙、桐、杉
第二駆逐戦隊
駆逐艦初月、秋月、若月
第四駆逐戦隊
駆逐艦霜月
搭載機数
第六〇一海軍航空隊
第五艦隊(第二遊撃部隊)
◇
爆装零戦四、
参加艦艇
総計一一六機
司令長官志摩清英中将
重巡洋艦二、軽巡洋艦一、駆逐艦七
第二十一戦隊
重巡洋艦那智、足柄
第一水雷戦隊
軽巡洋艦阿武隈
第七駆逐戦隊
駆逐艦曙、潮
第十八駆逐戦隊 駆逐艦不知火、霞
第二十一駆逐戦隊 駆逐艦若葉、初春、初霜
- 334 -
総計十隻
米海軍艦隊編成
第三艦隊(司令官・ハルゼー大将)
◇
参加艦艇
総計九十隻
高速空母九、軽空母五、戦艦六、重巡洋艦七、軽巡洋艦五、駆逐艦五十八
マッケン隊(第一群)
高速空母ワスプ(Ⅱ )、ハンコック、ホーネット(Ⅱ )、バンカーヒル
重巡洋艦ボストン
軽巡洋艦サン・ディエゴ、オークランド
駆逐艦十七隻
ボーガン隊(第二群)
高速空母イントレビッド
軽空母インデペンデンス、キャボット
戦艦ニュージャージー(第三艦隊司令官ハルゼー大将座乗 )、アイオワ
軽巡洋艦ビンセンス、マイアミ、ビロクシー
駆逐艦十六隻
シャーマン隊(第三群)
高速空母レキシントン(Ⅱ )、エセックス
軽空母ラングレー(Ⅱ )、プリンストン
戦艦マサチューセッツ、サウスダコタ
軽巡洋艦サンタ・フェ、モービル、リーノー、パーミンガム
駆逐艦十四隻
デビソン隊(第四群)
高速空母フランクリン、エンタープライズ
軽空母サンハーシント、ベロウッド
- 335 -
戦艦ワシントン、アラバマ
重巡洋艦ニューオールリンズ、ウイチタ
駆逐艦十一隻
なお、ボーガン隊(第二群 )、デビソン隊(第四群)の機動部隊から戦艦四隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋
艦三隻、駆逐艦十四隻を別動隊として「第三十四任務部隊(司令官・ウイリス・A・デビソン中将 )」
を編成し、サンペルナルジノ海峡の封鎖部隊にあてた。戦艦にはハルゼー第三艦隊司令長官が座乗して
いた。
第七艦隊(レイテ湾上陸戦の砲撃兼射撃支援部隊
◇ 参加艦艇
司令長官キンケード中将)
七十六隻
戦艦四、重巡洋艦四、軽巡洋艦四、駆逐艦二十二、掃海艇三、魚雷艇三十九。
レイテ島の地上決戦
昭和十九年九月十三日、アメリカ軍は既定のフィリピン進攻作戦を変更し、予定を二カ月繰り上げ
十月二十一日のレイテ島進行作戦を決定した。
大本営は 、「捷一号作戦」のフィリピン戦を、南北二 〇〇〇キロに点在する一平方キロを超える
.
約五〇〇の群島の防衛は、空と海に主力を置き、陸海航空兵力と艦艇による決戦を、陸の地上決戦場
はルソン島とする基本戦略を決定していた。
九月二十二日、大本営は戦局を左右する決戦正面を十月中旬、フィリピン南西部と察知し、陸海空
軍戦力の総力を挙げて戦うことを確認した。
十月二十日、米軍がレイテ島に上陸。十月十九日、大本営海軍部発表が「台湾沖航空戦」の大虚報
による勝利の戦果を発表。大本営陸軍部はこの虚報を信じ、アメリカ軍の残存戦力撃滅のため、ルソ
- 336 -
ン島地上決戦の基本的な作戦計画を急遽変更し、陸軍の全戦力を結集して、レイテ決戦を遂行すると
十月二十二日に急遽決定し、南方総軍に下令した。
それに基づき、本土、中国北部の旧満洲、南方軍等からレイテ島に増援部隊の緊急派遣が決定した
海軍も聯合艦隊のレイテ湾に特攻突入作戦を決定した。アメリカ太平洋艦隊と史上最大の海戦といわ
れる「フィリピン沖(レイテ沖)海戦」を展開した。
日本陸軍兵力七五 二〇〇名、米軍二十五万名の日米両軍が、五十日間にわたって激しいレイテ島
.
攻防戦の死闘がくりかえされた。
アメリカ軍レイテ進行を二ヵ月繰り上げ
アメリカの対日進行計画は、昭和十九年七月サイパン攻略後、九月十五日にパラオ、タラワ島等を攻
略し、十一月十五日にフィリピンのミンダナオ島、十二月二十日レイテ島進行という作戦計画であった。
この作戦計画に対し、アメリカ統合作戦本部や太平洋艦隊ニミッツ司令長官は、
「ミンダナオを攻略して航空基地を建設。ルソン島攻撃は航空隊にまかせ、台湾に進行する飛び石作戦
によって、日本の南方交通路を封鎖遮断する。フィリピン奪回作戦を主戦場にすると、日時がかかり、
損害も大きく、日本本土への進行も手間取る」
と、作戦計画の変更を検討しはじめた。
これに対して南西太平洋方面軍マッカーサー司令官は強硬に反対した。
昭和十九年七月二十七日夜
ルーズベルト大統領はホノルルに、太平洋戦争の指揮をとるマッカーサー、太平洋艦隊司令長官ニミ
ッツ、第三艦隊ハルゼー司令官を夕食に招き、次期作戦計画の調整に乗り出した。カナダのケベックで
第二次連合国会議の席上、チャーチル英首相とも協議した。
一方、アメリカ海軍第三艦隊機動部隊は九月九日からダバオ、十二日にセブ島の日本軍航空基地を空
襲した。いずれの攻撃に対しても日本軍の反撃が弱かった。
ハルゼー司令官は、
「中部フィリピンの日本軍は、防衛力が弱いと判断して、ヤップ島等の攻略計画を取り止め。日本軍の
- 337 -
反撃戦力が回復しないうちに、レイテ攻略作戦をした方が有利と判断」
九月十三日、太平洋艦隊にその旨緊急打電した。ニミッツ司令長官は直ちに、ケベックのルーズベルト
大統領に伝達した。米国統帥部は、
「各島の攻略を取り止め、計画を二ヵ月繰り上げて、十月二十日にレイテ島に進行を」
と、マツカーサーとミニッツ司令官に指令した。
大本営はルソン島地上決戦を決定
昭和十九年九月二十一、二十二日
アメリカ機動部隊はマニラを中心に猛爆撃を加えてきた。マニラ港に停泊していた日本の艦船・輸送
船のことごとくが撃沈破され、集積していた軍需物資の七十パーセントも消失した。また、マニラ周辺
の航空基地で、航空機の六十パーセントが爆破された。
大本営は、アメリカ軍の作戦目標がフィリピンであることを察知し
一
大本営ハ決戦方面ヲ比島正面ト慨定シ
決戦ノ時期ヲ
一〇月下旬以降ト予定ス。
二
南方軍総司令官、支那派遣軍総司令官、台湾軍司令官ハ概ネ一〇月下旬ヲ目途トシテ夫々ソノ任
務達成ノ為作戦準備ヲ整ウヘシ。
との命令を発した。
戦局の大勢を決するフィリピン作戦
九月二十二日
満州第一方面軍参謀長山下奉文大将を、フィリピン防衛の第十四方面軍司令官の起用を内定し、二十
六日、正式命令が満洲牡丹江に届いた。
二十八日、
山下大将は陸軍立川飛行場に到着。九月二十九日午後、梅津陸軍参謀総長から作戦連絡を受けた。
「第十四方面軍司令官ニ対スル要望」として、
- 338 -
一
比島ノイズレノ地ヲ突破サレテモ
日本ノ絶対圏域ガ分断サレ
戦争ノ遂行ハ極メテ困難トナリ死活問題デアル
本土及南方圏域ガ孤立ニ陥リ
比島地区ハ大東亜戦局ノ大勢ヲ決ス決戦場デア
ル
二
敵ノ来攻ハ目捷ニアル
短期ノ作戦準備ニアタリ
最悪時
本土方面ヨリ戦力ノ補給ナキ地上独
力戦ヲ想定シ備エルコト
三
優勢ナル敵ニ対シテ
発揮シ
尋常ノ手段デ戦勝ヲ獲得スルコトハ至難デアル
死中ニ活ヲ求メ
一機一艦
国軍独特ノ殉国ノ精神ヲ
一人一戦撃破主義ニヨル戦法ニ徹スル
との要望が伝達された。
第十四方面軍司令官として、大本営からフィリピン防衛の作戦要項として指示された任務は
一
第十四方面軍司令官ハ
攻ヲ
南方軍総司令官ニ隷シ全比島ノ防衛ニ任ズル
マズ南部比島ニ予想シ
スル場合ハ
コノ際ハ海軍
空軍ヲモッテ決戦シ
陸軍ヲモッテ決戦シ得ルガ如ク準備スル
コレガタメ米軍ノ比島来
次ニ米軍がルソン島ニ来攻
作戦遂行ニ関シ
在比航空軍及ビ海軍ト
協力スル
この任務に基づく作戦会議で、山下司令官は参謀本部服部卓四郎作戦課長と、同席した第十四方面軍
参謀副長西村敏雄少将で
「地上決戦はルソンのみ」
と言う作戦基本戦略を確認合意した。
十月六日夕刻
山下司令官は、陸軍所沢飛行場を発ち、マニラに到着した。
第十四方面軍参謀部作戦情報を担当していた一木千秋中佐は
「山下司令官は、最初からルソンで決戦するつもりだった。ルソンは大きい島だから、艦砲射撃を受け
ない山地に退いて敵の上陸を迎えられる。そして、敵を奥地に引き込み戦闘ができる。また、台湾や仏
領インドシナから爆撃機の援護を受けられる距離にある。
レイテには第十六師団の一個師団で装備も貧弱である。もし、アメリカ軍がレイテに上陸しても、敵
- 339 -
を釘づけにすることが目的だった 。」
と語っている。
レイテ湾口 スルアン島に米軍上陸
十月十七日未明
台風の接近で激しい風雨と高波のなか、レイテ東方海上に、巡洋艦ナッシュビルの艦上で、マッカー
サー大将が総指揮を執る、アメリカ戦闘艦艇一五九隻、輸送船四二〇隻、特務艦船一五七隻、計七三四
隻。上陸部隊は第六軍、護衛は太平洋艦隊第七七機動部隊の主力で編成された大船団が現れた。
十七日〇六時五十分
「戦艦二隻、特別空母二隻、駆逐艦六隻近接中]を報告。
このあと、軽巡洋艦デンバーから、三連装四基十二門の六インチ主砲のレーダー照準の艦砲射撃を受
けた。
十七日〇八時〇分
アメリカ艦艇の一部が進入。米第七師団、第九十六師団の計四万名がレイテ湾口のスルアン島に上陸
を開始した。
スルハン島には、日本海軍見張所と一個小隊三十二名が駐屯していた。
スルアン島の日本海軍見張所から
「敵ノ一部ハ上陸ヲ開始セリ、天皇陛下万歳!」
を打電した後、通信が途絶えた。アメリカ軍レインジャー大隊の攻撃で全員が玉砕した。
十八日
アメリカ空軍はレイテ島の五ヶ所の海軍飛行場に波状攻撃を加えると同時に、マニラを中心とするル
ソン島にも延べ四〇〇機による空襲を行った。
大陸命第一一五号
命令
一
国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス
二
南方軍総司令官ハ海軍ト協同シ
比島方面ニ来攻スル米軍主力ニ対シテ決戦ヲ指導シ
- 340 -
其ノ企図
ヲ撃摧スヘシ
三
支那派遣軍司令官
第十軍(台湾軍)司令官ハ勉メテ前項ノ決戦指導ヲ容易ナラシムヘシ
海軍軍令部は十八日の時点でも、レイテが敵反攻の決戦場であるとの認識は無かった。
十九日〇時〇分
陸軍参謀本部は
「捷一号作戦第一次発動」を下令した。
十九日十七時三十二分
海軍軍令部は聯合艦隊に
「捷一号作戦発動」を下命した。
連合軍レイテに上陸開始
二十日朝、
レイテ湾内外には無数の敵艦船で埋まっていた。
〇六時〇分を期して、湾口の六隻の戦艦が艦砲射撃を開始した。大口径砲弾が、海岸線三十キロ、奥
行二キロに、二時間にわたる徹甲弾を除く、榴弾、黄燐弾など、あらゆる種類の砲弾を無秩序に打ち込
んできた。そのあと、巡洋艦、駆逐艦が湾内深く侵入して海岸線に近づき砲撃を加えた。
レイテ湾岸の日本軍は、第十六師団の三個聯隊が配置されていたが、激しい艦砲射撃と艦載機の爆撃
に対して全くなすすべもなかった。
フィリピン中南部の日本軍布陣は、第三十五軍がセブ島に司令部を置き、主力はミンダナオ島に配置
されて、レイテには第十六師団の二〇 〇〇〇名弱が駐屯しているのみだった。しかも三分の一は、現地
.
ゲリラ対策にあてられ、陣地構築もゲリラの妨害で非常に遅れていた。
二十日十二時〇分
第十六師団司令部は、激しい艦砲射撃を受けて、内陸部の複廓陣地に後退を始め、固定無線は艦砲射
撃で破壊され、隷下部隊との連絡は有線によったが、十七日の台風と艦砲射撃で切断され、司令部と第
- 341 -
三十五軍の通信も途絶えた。水際陣地の兵士たちの大半は、個人判断によって戦わざるを得ない状況に
追い込まれた。
二十日十八時〇分までに
マッカーサー軍団十六万五千名のうち、兵員六〇 〇〇〇名、車輛、弾薬、軍需品等十万七千トンを
.
揚陸した。
二十四日までに、わが第十六師団の五 〇〇〇名余が死傷した。
.
大本営海軍部発表を信じる師団長
十月十八日
風速三十メートルの暴風雨の中を、レイテ島タクロバン沖を南下していた戦艦ペンシルバニアと二隻
の巡洋艦と数隻の駆逐艦を望見した第十六師団長牧野四郎中将は、第三十五軍司令部宛に
「暴風雨ノ避難カ
台湾沖海戦ノ一部損傷艦船ノ遁入カ
師団トシテハ判断不明」
と打電をしている。
牧野師団長は、台湾沖航空戦の大戦果の誤報を固く信じていたので、敵艦隊の目的が判断できなかっ
た。また、南方軍司令部、第十四方面軍でも、十七日の夜、戦勝祝賀会が予定されていたが、十四方面
軍は祝賀会中止し、慰労会に切り替えた。その席に山下司令官と西村参謀副長は出席しなかった。
着任したばかりの大本営派遣参謀堀江栄三少佐は赴任の途中、鹿児島鹿屋基地に立ち寄り、航空部隊
の出撃と帰還状態を自ら確認し、山下司令官に、その実情を報告していた。
また、掘参謀は、大本営第二部長(情報担当)宛に暗号電報で、鹿屋基地での判断を報告したが、そ
の電報は情報として生かされなかった。
犠牲多い「多号作戦」に増援
本土等からフィリピンに増派途中にあったのは第一師団、第十師団、第十九師団、第二十三師団、独
立混成第六十八旅団、独立混成第六十一旅団の四個師団と二個旅団だった。
すでに上海からマニラに到着していた第一師団と、ルソン駐留の第十四方面軍直轄の第二十六師団、
第六十八旅団がレイテ増援軍にあてられた。
- 342 -
十月二十三日~二十六日の四日間、
戦艦大和、武蔵をはじめ聯合艦隊の総力でレイテ湾に突入し、米輸送船団と援護支援する米太平洋艦
隊の撃滅を目的に、フィリピン海域で彼我艦隊の死力を尽くした「フィリピン沖(レイテ沖)海戦」が
展開された。
日本海軍は戦艦武蔵、重巡洋艦最上など三十四隻の艦艇と航空機一〇〇機以上が撃墜され、七 四七五
.
名の将兵が戦死した。この海戦で聯合艦隊は事実上喪失状態になり、太平洋におけ制空権、制海権を完
全に失うことになった。
レイテへの兵員、物資の輸送は、当初の予想以上に極めて困難危険なものになった。
十月三十一日
レイテへの増援軍の第一師団の一一 〇〇〇名が四隻の輸送船に分乗してマニラを出港し、十一月一日
.
オルモックに上陸した。また、十月三十一日、第二十六師団先遣隊、独立歩兵第十二聯隊もマニラから
レイテに向かった。
第一次派遣から十二月まで、マニラ、中南部フィリピンより、合計七五 二〇〇名の兵員が増派された。
.
しかし、豊富な兵器・弾薬と航空機に援護された二五万名の圧倒的な連合軍には比ぶべくもなかった。
十一月五日・六日
マニラを中心にルソン島一帯に敵艦載機による大空襲が行われた。空襲はクラーク基地に増強されつ
つあった日本軍航空機や、マニラ湾、リンガエン湾の船舶・艦船への攻撃が目標だった。
この空襲で、フィリピン沖海戦で難を脱がれた第五艦隊第二十一戦隊の旗艦巡洋艦那智ほか、多数の
艦船が沈没した。基地航空隊は航空機四三九機を失った。また、台湾から増強した「T」攻撃航空部隊
も全滅した。レイテへの日本軍の兵力、物資の補給輸送に対する米軍の激しい牽制攻撃だった。
十一日
第十四方面軍直轄の第二十六師団もオルモックに到着した。途中、輸送船団は三〇〇機のアメリカ軍
機の攻撃を受け、輸送船五隻と護衛艦艇七隻のうち五隻が沈没した。兵器、弾薬、食料のほとんどを海
没したが、将兵はそれぞれ小銃と小銃弾一三〇発、食料一週間分のみを携行し、上陸して戦闘地域に向
- 343 -
かった。
レイテの地上戦は、マニラからの軍需品、糧食のほとんどが途中で敵飛行機の攻撃で海没し、かろう
じてオルモック港に着いた物資も、昼間は敵飛行機の空襲、夜間は長距離カノン砲による砲撃で補給ル
ートを断たれてしまった。
第一師団の将兵も一ヶ月分の糧秣を持って前線に望み、十一月中旬には一粒の米も雑嚢の中に無かっ
たと言われている。 第三十師団、第十師団も同様だった。第十六師団の将兵は十日間ほどで携帯口糧も
尽きて、木の実、草の実をかじりながらの戦いだった。
「多号作戦」では、大型輸送船の九十パーセント、中型輸送船の六十パーセントがレイテに到着して
いる。しかし、マニラに帰り着く船は、大型船十パーセント、中型船二十パーセントに減少し、小型輸
送船は六十五パーセントが、レイテに到着出来ず撃沈されていた。帰途にはさらに三分の一が攻撃を受
けて沈没した。
それでも空襲を警戒して夜間に、島沿いに海岸近くを航行したので、撃沈されても将兵は島に泳ぎつ
く例も多く、辛うじて目的を達した。しかし、武器弾薬、軍需品、糧食等の八十パーセントまでが海没
した。
リモン峠の激闘とブラウエン作戦
十一月一日
航空機、艦船の援護のもと、兵員、兵器、弾薬等の圧倒的な米軍と、わが第一次増援部隊は上陸以来、
補給を断たれ、航空機等の援護もなく、武器弾薬に食料欠乏等のなか、リモン峠攻防の死闘、ブラウエ
ン作戦等の特攻斬込隊による反攻作戦が展開された。
リモン峠の激闘
三日
第一師団今田捜索隊が、カリガラ手前のカポーカンで、敵の先遣隊と遭遇し、師団主力がリモン峠南
麓で米軍機の猛爆撃を受けた。米軍はすでにカリガラを占領して、リモン峠を越えてオルモックへ総攻
- 344 -
撃をかける準備をしていた。
リモン峠はレイテ山脈の北端にあって、標高二〇〇メートルの峠から先は、急坂でカリガラ湾西端に
下る。レイテ島の東西を分ける分水嶺のような地形と位置にあった。
五日十四時〇分
米兵を満載したトラック縦隊がリモン峠北尾根を回ってきた。すでに展開していた第一師団第五十七
聯隊第三大隊が、一斉に機銃掃射を加えた。敵は大混乱して相当の損害を受けて四散した。レイテ地上
決戦の開始だった。
以後、火砲三十六門に弾薬、軍需物資不足の第一師団に対して、敵飛行機の爆撃、艦砲射撃の援護を
受け、火砲二五〇門を装備し、山の形が変わってしまうほど迫撃砲を撃ち込み、さらに白燐砲弾、火炎
放射機などの兵器で装備されたアメリカ軍と、五十日間にわたって、斬込隊による攻撃等の死闘を繰り
返した。第五十七聯隊の二個大隊は、二 五〇〇名のうち、十二月中旬に師団司令部に帰着した将兵は、
.
僅か九十一名だった。
ブラウエン作戦(和号作戦)
十月二十日
米軍はレイテ上陸直後、タクロバン飛行場をはじめ、ブラウエン、サンパブロなどの日本軍航空基地
を占拠した。雨季に入って水浸しの滑走路に鋼板を敷き、十一月初旬には双胴のP38、B25などを
タクロバンに一五〇機、ブラウエンに一〇〇機を配備した。レイテ島の飛行基地設営により、米機動部
隊の艦艇は、硫黄島作戦に移動、艦載機に代わってルソン島を直撃できる拠点になった。
第十四方面軍は、第四航空軍と海軍航空隊及び第三十五軍地上部隊と協力して、レイテの米軍飛行基
地奪回作戦を立てた 。「薫空挺隊」と、落下傘部隊「高千穂空挺隊」が降下し、第十六師団、第二十六
師団の斬込隊と、飛行場等に突入を敢行した。
ブラウエン作戦は、レイテ地上決戦の最後の総攻撃戦になった。
十一月二十三日、
次のような命令が発せられた。
- 345 -
一
航空兵力ヲ結集シテ一時制空権ヲ奪回シ
空中挺身ノ奇襲ニヨリ
ブラウエン
サンパブロ飛行
場ヲ直接占領スル。
二
決行日時ハ十二月五日ヨリ十日マテトスル
三
第四航空軍ハ十一月二十三日カラ二十七日マデ
飛行機ヲ強硬着陸サセル
二十六日ニハタクロバンニ
続イテ十二月一日カラ三日マデ再ビ航空撃滅戦ヲ行ウ
ハ十二月四日カラ七日マデ
海軍航空部隊
カリガラ湾トオルモック湾方面ノ地上作戦ニ協力スル
四
第二挺身団ハ地上攻撃前後ニブラウエン
五
第三十五軍ハ十二月三日マデニ攻撃準備ヲ完了シ
込ミヲ実施スル
航空撃滅戦ヲ行イ
サンパブロ両飛行場ニ降下シ占領スル
攻撃前夜ニ空挺部隊ト協力シテ強力ナル斬リ
攻撃目標ハ第十六師団ハ北ブラウエン
第二十六師団ハ南ブラウエン
サンパ
ブロ飛行場トスル
二十四日
陸軍航空部隊の六十四機は敵飛行場、海軍航空部隊の三十機は敵艦船を攻撃した。
台湾高砂族青年の「薫空挺隊 」
二十六日
この作戦には、訓練をされた台湾高砂族青年により組織された斬込隊「薫空挺隊」と落下傘で降下の
「高千穂空挺隊」が参加した。
マニラから四機の重爆撃機に分乗して、ドラッグ飛行場に車輪を引っ込めたままの胴体強行着陸を敢
行した。飛行機から飛びし、蕃刀をふるって斬り込んだが、激しい敵の銃撃に合い、多くが銃弾に倒れ
た。
十二月五日夜、
栄養失調や弾薬等の不足で戦闘能力が低下し、未開のジャングルをブラウエンに向かって進んでいる
第十六師団は、戦闘可能な兵員一 三〇〇名による斬込大隊を編成し、六日未明に就寝中のブラウエン
.
北飛行場のアメリカ軍守備隊を、銃剣片手に奇襲して成功した。
しかし、通信連絡の齟齬から、すでに空から斬り込んでいたはずの「高千穂空挺隊」の姿はなかった。
- 346 -
第一師団は飛行場北の森に終結した。
十二月六日夕刻
数十機に内地で訓練を受けた、空中斬込み隊第二陣として「高千穂空挺隊」の落下傘部隊が降下し、
ブラウエン飛行場に斬り込みを敢行した。連絡が取れた第十六師団は疲労で動けず、一個大隊のみが合
流して斬り込んだ。
ブラウエン飛行場攻撃は成功したが、救援のアメリカ第九六師団の反撃に遭い、数日間飛行場の使用
を妨害しただけに終わった。
「高千穂空挺隊」はブラウエンには降下できたが、タクロバン、サンパプロ、ドラッグ飛行場を攻撃
した輸送機は撃墜された。また、降下した将兵も敵弾に倒れて、ほとんどの将兵はマニラに帰還するこ
とはなかった。
この間、増援のアメリカ軍は日本軍の拠点オルモック南方十六キロのイビルに猛烈な艦砲射撃を行っ
た後、上陸した新鋭の一個師団に、十二月七日早朝、我が第三十五軍の兵站基地が奪われた。
第十四方面軍は
「ブラウエン作戦の中止を」命じた。
十二月七日
海軍機四十五機がイピル沖の米艦船を攻撃、二十機を失った。同日、第四航空軍富永司令官は第五飛
行団に全機特攻を命じ、二十九機がイピル海に消えた。
十二月八日
第四航空軍は「高千穂空挺隊」の一部をオルモック北方のバレンシア飛行場に降下させた。オルモッ
ク川岸にいた第二十六師団の一部隊と合流したが、アメリカ戦車隊の反撃を受け敗退した。敵艦隊はオ
ルモック湾に進入し、すさまじい艦砲射撃を加えてきた。日本軍には一門の野砲もなく、砲声は全くあ
がらなかった。
日本軍第三次増援隊の独立混成第六十八旅団と第八師団の二個大隊がレイテに上陸した。六十八旅団
は精鋭機械化部隊だったが、敵機の波状攻撃のなか、全船団を座礁上陸させた。兵員六 〇〇〇名は大
.
- 347 -
部分が上陸したが、戦車、火砲、軍需品等は輸送船とともに海没した。
上陸部隊は戦闘地域までは遠く、峻厳なる山脈と人跡未到のジャングルの湿地帯を横断しなければな
らず行軍は苦難を極めたものになった。途中、道を失うなどして第一師団と合流したのは一部の者のみ
だった。
十二月十一日
オルモックが米軍の手に落ちて、レイテ戦の終結が近ずいていた。
米輸送船団ルソン島に進行
第十四方面軍は戦局の打開と第三十五軍救援のため、臨時歩兵大隊と海軍陸戦隊をレイテに増派し、
さらに歩兵第三十七聯隊を派遣する準備をしていた。
十二月十三日
一〇〇隻余の輸送船団が、八十隻の艦艇の護衛のもとにミンダナオ海を西進しているのが発見された。
そして、翌十四日にはスル海に入り北上していた。事態は一変した。
マニラ一帯に米艦載機が飛来した。第十四方面軍は敵がミンドロ島に向かっていることを察し、
「急遽、レイテ作戦の中止」
をサイゴンの南方軍司令部に具申すると同時に、大本営陸軍部に打電した。大本営海軍部は、なおレイ
テ作戦続行を主張し、陸軍部は続行(増援 )、現状維持、撤退の三案に分かれていた。
十二月十五日
アメリカ軍大船団はマニラまで二五〇キロの距離にあるミンドロ島サンホセ沖に現れて上陸した。敵
の目標はルソン島であることが明らかになった。
第十四方面軍山下司令官は、アメリカ軍のルソン進行が目前に迫っているとみて、ルソン防衛準備に
もはや一刻の猶予も許されないと強い決意を固めていた。
十二月二十二日夕刻
大本営陸軍部第一(作戦)部長宮崎周一中将がマニラに到着。二十三日、方面軍と会談の席上、大本
営陸軍部の命令として
- 348 -
一
第十四方面軍ハ依然中部比島ニオイテ
二
ルソンノ防備ヲ強化スヘシ
米軍ノ進行ヲ撃破スヘシ
を伝えた。
レイテ戦を続行しつつルソンの防衛態勢を強化しろと言うのであった。極めて曖昧で非現実的な命令
に方面軍武藤参謀長は反論した。
「ミンドロ島ホセニ上陸シタ敵ハ
図ガアルコトヲ物語ルモノデ
差シ支エナイ
スデニ航空基地ヲ固メテイル
米軍トシテハ
コレハ明ラカニ
ルソン島攻略ノ意
マニラ攻略ノ政治的意義ヲ没却スルコトハ
絶無トミテ
カナラズ来ル」
などの議論のすえ、宮崎部長は
「今後ノ判断ニツイテハ現地司令官山下大将ニ一任スル」
と述べた。
この発言については、東京を出発前に梅津陸軍参謀総長から
「山下ノ自由裁量ニマカセヨ」
と言われていたのであった。
レイテ地上決戦の終結
十二月二十五日
大本営と南方軍総司令官の承認を得た山下司令官は、第三十五軍司令官鈴木中将に対して
「自活自戦、永久抗戦」
の命令書に署名して発令した。
以後一切の援護を望まず、自ら生き、自ら戦え
と言うことであり、レイテ島の放棄である。二ヵ月余にわたったレイテ決戦はこうして終結した。
マッカーサー総司令官も二十五日、連合軍のレイテ作戦終結を宣言した。
レイテの各地に分断孤立して残されいた日本軍将兵の戦いはなおも続いた。そして第三十五軍司令部
が最後の戦闘司令所を置いた、島の西側山地カンキポットをめざして、這うように歩き、やっとたどり
- 349 -
着いた将兵は一万名余り、その殆どが飢餓、フィリピンゲリラ、そして住民たちの襲撃を受け戦死・戦
病死した。
レイテ戦に投入されたアメリカ軍兵力は約二十五万名、うち戦死者約三 五〇〇名。
.
日本軍は兵力七五 二〇〇名、レイテからの転進者約九〇〇名、捕虜約八〇〇名、終戦までの生存者、
.
サマール島など周辺諸島を含め約七〇〇名。戦死、戦病死者七二 八〇〇名で、輸送船沈没等による海
.
没者を含むと約八〇 〇〇〇名と言われ、実に九十七パーセントの将兵が生きて祖国の土を踏むことが
.
できなかった。
ルソン島中心の持久戦に
大本営の十二月二十五日、レイテ戦終焉の決定に伴い、それ以降フィリピンでは、日本本土決戦も見
据えた、ルソン島中心とした持久戦へと作戦が切り替えられた。
レイテ地上戦の日本陸軍部隊
兵員七五 二〇〇名
.
日本軍部隊編成
第十四方面軍(司令官・山下大将)
第三十五軍(司令官・鈴木中将)
第十六師団(師団長・牧野中将)
歩兵第九、第二十、第二十三連隊、
第一〇二師団(師団長・福栄中将)
独立歩兵第一七一連隊、歩兵第一六九大隊
第三十師団(師団長・両角中将)
- 350 -
歩兵四十一、第七十七連隊
第二十六師団(師団長・山県中将)
独立歩兵第十二連隊今掘支隊、第十三連隊
第一師団(師団長・片岡中将)
歩兵第一、第四十九、第五十七連隊
第六十八旅団(旅団長・来栖少将)
歩兵第五連隊高階支隊
- 351 -
海軍神風特別攻撃隊
米軍の対日進行作戦
米国の対日進行作戦は、サイパン島を攻略し、昭和十九年九月十三日既定のフィリピン進行作戦を変更
し、予定を二ヵ月繰り上げて、昭和十九年十一月二十日レイテ島進行作戦を決定した。
日本軍はサイパン島が米軍に占領されて「絶対国防圏」が崩壊し「捷一号(フィリピン)作戦」を決定
し、南北二、〇〇〇キロにわたる約五〇〇の群島の防衛は空と海に主力をおき、陸海航空兵力と艦艇によ
る決戦と、陸の決戦場はルソン島とする基本戦略を決定した。
米軍レイテ上陸開始
十月十七日、マツカーサーが総指揮を執る、米戦闘艦艇一五九隻、輸送船四二〇隻、特務艦艇一五七隻
の計七三八隻。上陸部隊は陸軍の第六軍。護衛は第七七機動部隊の主力で編成された大船団が、レイテ東
方海上に現れた。〇八時〇〇、上陸部隊四万名がレイテ湾口のスルハン島に上陸を開始して占拠した。
十月二十日朝、レイテ湾内外には無数の敵艦船で埋まった。米軍は艦砲射撃を開始した後、マツカーサ
ー軍団十六万五千名の内、兵員六万名と車輛、弾薬、軍需品など十万七千トンも揚陸した。
聯合艦隊出撃
昭和十九年十月二十日、聯合艦隊は、戦艦大和、武蔵等を擁する栗田艦隊のレイテ湾の突入予定日を、
「十月二十五日黎明時」
と決定した。
その突入作戦支援のため、陸海軍航空部隊は前日の二十四日、航空総攻撃をおこなうことになった。十
月二十日現在、先の十月十二日より十五日までの「台湾沖航空戦」で七〇〇機以上の損害を受けた。
また、米機動部隊の艦載機によるフィリピンの日本軍基地航空部隊への空襲攻撃で損害を受け、航空戦力
- 352 -
は著しく低下した。
第一航空艦隊(フィリピン防衛)の保有機四〇機、陸軍第四航空軍の二九機を合わせても六九機だった。
また、パイロットの練度も落ちていた。昭和十六年の太平洋戦争開戦時、海軍のパイロットの平均飛行時
間は約五〇〇時間だったが、すでに一五〇時間未満にまで低下し、単独飛行がやっとのパイロットもいた。
十月十九日、二日前に第二航空艦隊司令長官に就任した大西瀧治郎中将が寺岡司令長官と交替のため、
マニラ北方マバラカット・クラークフィルド飛行場の第一航空艦隊二〇一空戦闘機隊に到着した。
特別攻撃隊の編成を
大西司令長官は、マニラのマバラカット東飛行場、二〇一空本部宿舎の士官食堂で二〇一空の幹部六人
を前に
「レイテ作戦は、聯合艦隊の全滅をも賭した突入作戦である。第一航空艦隊は、栗田艦隊の突入を是が非
でも成功させる支援援護が絶対に必要である。そのため、フィリピン周辺の敵機動部隊、特に敵空母を撃
沈させねばならない。少ない飛行機で敵を撃滅するには、零戦に二五〇キロ爆弾を装着し、体当りするほ
か確実な方法がない」
との趣旨を話した。
必死必殺をねらう特別攻撃、搭乗員が帰還することのない人間爆弾、それを「公の戦法」にしょうとす
る最初の公式な発言でだった。
マバラカット東飛行場で十月二十日深夜、二〇一航空戦隊副長玉井中佐と戦闘三〇五飛行隊長指宿大尉
は編成に取り組み、第一〇期甲種飛行予科練習生出身者から人選を考えた。一〇期の搭乗員は、昭和十八
年十月、練習航空隊の教程を卒業して、玉井中佐が司令の愛媛松山基地の二六三航空隊に入隊して以来、
マリアナ沖海戦など悪戦苦闘を共に戦って、お互いに深い信頼関係に結ばれた上官と部下だった。しかし、
すでに隊員の多くを失い三分の一になっていた。
深夜、階下の一室に教え子の三二名が集まった。玉井副長から長官の話の趣旨を伝え
「親一人子一人、長男、妻子ある者」
に退場を命じた上で
- 353 -
「志願者は申し出るように」
と、話した。全員が特攻志願に賛同であることを告げた。
指揮官は任務の特殊性から人物、技量、士気に優れていなければならない。戦闘三〇一飛行分隊長関行
男大尉(海軍兵学校第七十期)の人選を第一航空艦隊の主席参謀猪口中佐の同意を得て深夜、士官室で長
官の話をした。
一夜深く考えた。翌二十日、関大尉は、指揮官を受諾した。
神風特別攻撃隊出撃
戦史に初めての特別攻撃隊の発足が決まった。
攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と呼称され、敷島、大和、朝日、山桜の四隊に区分された。一隊の編成は
四機で、攻撃隊二機、直援機二機だった。
さらに二十二日から二十六日までの間に「零戦隊」菊水、若桜、葉桜、初桜の四隊と「彗星隊」も編成
された。十月二十一日、関大尉の指揮官機をはじめ敷島隊の五機が出撃したが、ルソン島南部のレガスピ
ーに不時着。二十二、二十三、二十四日も、悪天候で敵空母が発見できずに全機が帰還してきた。
二十五日「神風特別攻撃隊」関大尉の指揮する敷島隊五機は出撃して空母群に突入した。敵空母一隻撃
沈、同一隻を炎上撃破、巡洋艦一隻を撃沈したが、再び帰還することはなかった。
米艦隊は、思いもかけぬ「自殺攻撃」であったため、ひどい狼狽や混乱に陥った。
十月十二、十三日に、台湾・九州南部を担当する第二航空艦隊司令長官福留繁中将隷下の三五〇機が、
台湾からマニラ・クラーク基地に、司令長官と共に到着した。
二航艦は特攻はできない
「一航艦は九月以来、敵の攻撃をうけ、ほとんど壊滅的状態である。空戦に耐える航空機は三〇機しか
ない。その他、戦闘爆撃機を入れても五〇機に満たない情況だ。この兵力でまともに戦闘することは不可
能で、敵の大機動部隊をまえに、いたずらに全滅あるのみだ。
一航艦では一撃必殺の体当たり特別攻撃隊を敢行することに決定した。二航艦もこれに賛成して、特別
攻撃を共にやってもらいたい」
- 354 -
と大西長官は熱心に説得をした。
福留長官は、
「貴様のいうことはよくわかる。しかし、二航艦としては、大編隊攻撃法で訓練してきた。この方針で攻
撃を実施したい。いまここで特別攻撃法を採用すると、搭乗員たちは混乱して士気の喪失を招くことにな
る。したがって二航艦は大編隊攻撃法でまずやらせてくれ 。」
と、自説を押し通した 。(大西長官と福留長官は、海兵四〇期の親友同士だった)
三〇六頁「陸軍船舶戦争」の越次一雄中佐の漢詩の続き
「 越次一雄の死と生」のホームページより
将兵参万死秋来
勿恨勿遺是天命
将兵三万、死すとき来る
恨むなかれ遺すなかれ、是天命
人生長命不百歳
宜使史家泣清 忠
月在中天照密林
林内宛然在水中
月中天にあり、密林を照らす
悟即停船月亦楽
砲声絶朔月夜静
即ち悟る、停船、月、また楽し
人生長命、百歳あらず
比島戦における日本軍の損害
陸
海
軍
軍
参戦兵力
503 ,606
127 ,361
よろしく史家をして清忠に泣かしむべし
林内宛然、水中にあり
厚生省発表 昭和33年調査
戦没者数
369 ,029
107 ,747
- 355 -
砲声絶えて、朔月、夜静か
計
630 ,967
内訳
★ 北部比島と付近海域
陸上戦闘
(鎧)兵団地域
湯口兵団地域
尚武集団主力地域
建武集団主力地域
振武集団主力地域
★ 輸送船撃沈にて海没戦死
アリバ近海
北サンフエルナンド近海
マニラ近海
★ 中部比島と付近近海
陸上戦闘
バラワン島
ミンドロ島
パナイ 島
ネグロス島
セブ
島
レイテ 島
★ 輸送船撃沈にて海没戦死
※ レイテ島で捕虜になった者
レイテ島から脱出できた者
★ 南部比島と付近海域
豹、拠兵団地域
萩兵団地域
菅兵団地域
※
476 ,776
293 ,549
272 ,549
134
4 ,450
126 ,702
42 ,130
99 ,133
21 ,000
7 ,000
10 ,000
4 ,000
113 ,475
104 ,475
790
528
1 ,210
11 ,236
11 ,650
79 ,061
9 ,000
828名
1000名足らずと米軍は推定。
69 ,752
54 ,447
9 ,275
6 ,030
その後昭和39年3月再調査にて訂正して
★ 8月15日敗戦時現存兵力
8月14日迄の戦没者
8月15日以後の戦没者
戦没者合計
軍人、軍属をふくめた合計
127 ,200
485 ,600
12 ,000
498 ,600
518 ,000
- 356 -
と計算している、なお米軍は邦人の死者を24 .000と推定、ダバオ日本人会は、
ダバオの邦人は男15 ,000名、女8 ,000名、内1 ,700が現地召集され、戦没、
行方不明は、6 ,500名で、邦人は沖縄人が多かったと推定している。
引揚者及び戦犯
比島からの引揚げは昭和21年10月17日~22年6月30日にかけて132 ,917名
(陸、海、民)に及んだ。これは朝鮮、台湾への引上げ及び戦争裁判関係は含まれない。
なお、戦争裁判は、昭和22年8月1日~24年12月28日マニラで開かれた。
裁判人員151名、死刑17名、減刑と内地服役は昭和28年6月から7月に実現した。
★
米軍の損害
レイテ島での戦死3 ,500名、戦傷12 ,000名を含めて 戦死 14 ,000名
戦傷48 ,000名 合計 67 ,000名で 負傷者は戦死となった日本側とは異な
り、米軍の戦死は遙かに少なく戦死者の比率は米軍1 :日本軍37になった。
米軍側資料 バシイィカ社刊
「マッカーサー」による
米軍の電子兵器に制せられた
日本海軍のアウト・レンジ作戦
敵の攻撃が届かない範囲から攻撃を仕掛けて、敵に被害を与える戦法 。
日本の艦上戦闘機や艦上爆撃機は、防弾タンクなど防御装備が少なく、機体の構造が軽量なため、ア
メリカ機に比べて航続距離が長いという特徴を生かして、日本航空艦隊の攻撃範囲は七四〇キロ、アメ
リカ機は四六〇キロといわれていた。
- 357 -
小沢司令長官は、アメリカ艦隊に発見される前に、アメリカ軍の手の届かない位置から発艦させ、先
制攻撃をかける。最初の五分でアメリカ航空母艦に先制攻撃をかけて、甲板を壊すだけでもいい、敵航
空機の発着能力に止めを刺し、後は艦隊決戦に持ち込むという作戦。
米軍レーダー「CICシステム」
日米の戦力に決定的な差になったのが、レーダー、電波探知機の性能だった。
アメリカ軍は、ほとんどの主要艦船に、数種類の高性能レーダーを用途別に装備していた。戦闘司令
部の旗艦空母レキシントンには、敵の攻撃隊を発見するための対空見張り用のSKレーダー(敵攻撃機
の水平方向 )、敵攻撃機の高度を補足するCXBL(SM)レーダー、海上の艦船を補足するSGレー
ダー、対空攻撃用のMARKⅡ(高角砲と連動して敵機に標準を合わせる)を装備したCICシステム
を整えていた。
CICシステムの中核となった装置がPPIで、円形のモニター画面に、電波によってキヤッチされ
た映像が三六〇度全方向で見えるシステムで、この装置の開発により地形、敵と味方の位置を正確に把
握することが可能になった。
PPI装置は、日本でも研究されていたが、終戦まで完成できなかった。特に、低空飛行で侵入して
くる飛行機の探知は不可能とされていたが、アメリカでは周波数の小さいマイクロ波の応用に成功して
「CXBL」が開発されて、はじめて唯一、戦艦レキシントンだけに装備されていた。
戦後、アメリカ海軍調査研究所の研究スタッフの報告書に、
「最も画期的なSK、CXBLのレーダーがなかったら、アメリカ艦隊は非常にもろかったと思う 。」
と言われている。
マリアナ沖海戦で威力がみとめられ、量産が決定し、昭和二十年にはアメリカの主要な艦船ほとんど
に装備された。
- 358 -
世界レベルの日本マグネトロンの開発
日本でも昭和九年頃から海軍の技術研究所と日本無線(株)のスタッフが共同研究を進めた。
研究の中心は、マイクロ波を発生させるマグネットロン(空洞磁電管)の開発だった。昭和十四年に日
本無線のスタッフが完成させたキャビナティ・マグネトロンが完成した。現在も日本無線(株)に保管
されている。
当時、マイク波の研究はイギリス、ドイツ、アメリカ等、各国の間でしのぎをけずるように進められ
ていた。マグネトロンの開発は、わが国も先進国に劣ることはなかった。日本のキャビナティ・マグネ
トロンの研究資料は世界ではじめてで、アメリカよりはるかに進んでいた。その資料は、アメリカ国立
公文書館にあるといわれている。
また、昭和二十年十月、米軍の「日本での科学情報活動の調査に関するレポート」の中に
「( 略)ただ、マグネトロンの研究においてのみ、日本は連合軍と対等のレベルにあった。おそらくマ
グネトロンだけは、合衆国より多種を有していた… 。」
との記述もあると言われている。
「奇襲攻撃に不適」と却下
日本の海軍技術研究所から
「電波を利用した索敵兵器の実現が可能」であるとの提案に
軍令部や艦政本部は、
「索敵兵器として自己より電波を発することは、奇襲攻撃を基調とする海上作戦において、自己位置を
暴露するもので不適である」
と却下された。
また、海軍で兵器を管掌している責任者の人達でも
- 359 -
「レーダーなんていらない」
という考えだった。
昭和十六年八月、海軍省は
「電探信儀研究着手」の大臣訓令を発し、レーダー兵器開発が始められた。
同年十月、電波の波長が長いセンチ波を利用して、陸上に設置して敵の攻撃機を捕捉する「一号一型」
電波探信儀の試作機を完成させた。
十二月には、艦船に搭載する対空見張り用レーダー「二号一型」の試作機が完成。これに改良が加え
られ、一二〇~一五〇キロ前方の敵機をとらえることが可能になった。日本海軍のレーダーの主力兵器
になった。陸上見張り用一号、艦船見張り用二号、艦船射撃用三号、陸上攻撃用四号と、機種別に分か
れた。
マグネトロンを用いた電波探信儀も、艦船に装備する「対海上見張り用二号二型」レーダーが完成し
た。しかし、重量があり、故障も多く、兵器としての信頼性が薄いという欠点があったが、電波の出力
が大きいため、補足能力が高く、昭和十七年十二月「二号二型」の量産が決定した。
資材をヤミ市から入手
艦政本部はその製造に十分な資材を準備しなかった。量産を請け負った日本無線(株)は、資材をヤ
ミ市から入手して製造にあてた。しかし、ヤミ物資の調達が警察に見っかり、日本無線の重役と経理部
長が葛飾署に逮捕された。検事の取調べにも電探は機密扱いになっていたので、真相を話すことは出来
なかった。後日、海軍にかけあって、海軍の高等官嘱託に任命してもらって釈放されたと、いうエピソ
ートもあった。
米軍VT信管の開発装着
「VT信管」は、これまで爆発する時間をセットしていた装置が、変幻自在に敵の側で爆発すること
- 360 -
から「可変型時限信管(VT )」と呼ばれていたが、正式には「近接信管(PF )」と言った。
VT信管は、レーダーと同じく電波を利用し、VT信管が装着された砲弾は、周囲十五メートルの範
囲に電波を出して、電波がドーナツ状になって砲弾を覆うように放射される。真ん中の弾頭部分から直
進方向に電波が放射されないのは、狙った方向が正しければ目標物に命中するので電波の必要がなく、
また近くで爆発するより、命中したほうが破壊力が強いので、その効果を無駄にしないためにドーナツ
状に電波が放射された。
VT信管には安全装置があり、発砲される強い衝撃と、空中を飛ぶ時の激しい回転で作動しないよう
になっていた。これが作動すると電波を出して、目標物を感知して自動的に爆発する。直接砲弾があ
たらなくても、その破片と爆風で敵機を撃ち落とせる。
VT信管の開発は、昭和十五年八月、カーネギー研究所に本部を置く、アメリカ国家防衛委員会
(NDRC)の「ディビジョンA」の「セクションT」を担当部課にしてはじまった。
特に、昭和十六年十二月十二日、真珠湾攻撃の五日後に、アメリカ海軍の兵器装備担当将校から
「セクションTのプロジェクトが、実用的な開発を可能な限り迅速に推し進めることが、非常に重要で
あることを強く認識した」
との要望書が提出された。
これによって、開設当初十五名だった研究員は増員され、昭和十七年三月には一 〇〇〇人近い科学
.
者と技術者が集められた。そして、最大の機密保持を講じた極秘開発で進められた。
その中心は
① 発射の瞬間、二万Gの過重、重力の二万倍の重さに耐えられる。
② すさまじい回転に耐えられる信管が必要だった。
当時、二万Gもの衝撃に耐える信管を造ることは不可能と思われていた。昭和十七年一月、耐震性小
型真空管を使用した「VT信管」の試作品がテストされ、五十パーセントの作動率を示した。これによ
ってアメリカ海軍は大量生産を決定した。
昭和十七年十一月、アメリカ海軍に試験的に供給され、昭和十八年一月五日、ガダルカナル近海で巡
- 361 -
洋艦ヘレナが、日本の攻撃機に対してVT信管の砲弾を発射した。その後も改良され不良率五パーセン
トに押さえることに成功した。
米軍は第二次世界大戦中、二 二〇〇万発のVT信管を生産した。また、VT信管はアメリカ陸軍、
.
イギリス軍も使用し、連合国は太平洋、ヨーロッパの戦線で戦いを優勢に進めたといわれている。
日本幻の「有眼信管(三式発火装置)」
日本軍でも近接信管の研究は密かに行われていた。
「有眼信管」は、投下した爆弾が地上または水上の目標、約十メートル上方で爆発し、大きな破壊力
を得るための発火装置である。爆弾の頭部に取りつけて毎秒一.〇〇〇回の明滅する光を下方に送り、
目標からのその光の反射を受け、その強さが一定の大きさになった時に作動する信管だった。
この信管は、信管部分から光を発し、その反射を受けるために、頭部に二個のレンズが取付けられて
いたので、眼が有るように見えることから「有眼信管」と名付けられた。
この研究は大阪大学理学部の浅田常三郎博士が戦後、連合軍総司令部(GHQ)に提出した報告書に
記されて、大阪大学産業科学研究所に保管されている浅田博士の研究資料の中の「戦時研究議事録」と
いうノートに記録され現存していると言われている。
この研究は海軍技術廠爆撃部の委託で、試作は東京芝浦電気(東芝 )、神戸製鋼所鳥羽工場が受けも
ち、爆撃部の技術将校と大阪大学の研究員に企業担当者が加わって、昭和十八年十一月に始まり、昭和
十九年四月、正式に「戦時研究第十六号の一」に認定され「三式発火装置」の名称で、攻撃機の爆弾に
装備されるために作られて、量産が試みられた。
米軍の防御兵器としてのVT信管と戦術思想を異にしていた。
また、飛行機からの投下は砲弾の発射より真空管に与える衝撃は極端に少なく。日本軍はこの時点で、
衝撃に強い真空管開発技術は持ち合わせていなかった。
- 362 -
有眼信管の開発スタッフは三十人で、アメリカの「セクションT」のスタッフ一 〇〇〇名に比ぶべ
.
きもなかった。
有眼信管は昭和十九年秋頃完成し、レイテ作戦などの戦闘に使われたが、昭和十九年末には、有眼信
管装備の爆弾を積む飛行機の確保が難しい情勢になり、日本の戦局を好転させるにはいたらなかった。
- 363 -
日米の対潜水艦攻防対策比較
ア メ リ カ 側
開戦(昭和16 )・潜水艦保有数51隻
17.3頃
・太平洋艦隊22隻、真珠湾
日
17.3.27
17.11.4
・アジア艦隊29隻、キャビテ
・キャビテ爆撃により潜水艦1
側
・特設海上護衛隊設置
・運行統制官を改め運行指揮官
を設置
17.12.10
・「 方面司令」職を設置
1隻喪失し、基地をフリーマ
司令官の命を受け、その指定
ントルに移動
する区域内における海上護衛
・魚雷欠陥著しく不発多し
・作戦は主としてハワイ、ミッ
の分掌
18.3
ドェー方面の哨戒
・海防艦新造第1号松輪の竣工、
攻撃に転向
・艦船攻撃の担当海域を区分
太平洋艦隊
以後護衛艦艇の新造続く
18.11.15 ・海上護衛司令部発足
18.11.
バシー海峡、内南洋以北
アジア艦隊
南支那海、比島、ニューギ
隊と改称
・航空機用磁気探知機完成、
正式採用
18.12.1
~ 12.20
ニア以南
・アジア艦隊を南太平洋潜水艦
・電探1号三型完成、各艦艇
に装備、爆雷搭載量の増加
・ミッドウェー作戦以降は艦船
17年末
本
・特設空母雲鷹、海鷹、大鷹、
神鷹の4隻を海上護衛司令
部に編入
18年末以降
・対潜航空兵力の増加
19.2.1
・第931航空隊の発足、護
・電波兵器の装備、魚雷性能の
護空母搭載飛行隊の訓練、
- 364 -
改善、レーダーの完成
18.4
・狼群戦法採用
整備を担当
19,3.1
・潜水艦90隻に増加
・目標選択順序
18.9
部への編入
19.4月
・大船団主義の採用
19.5月末
・護衛隊(駆逐艦、海防艦)
19.7
・掃討隊(小隊単位)の編成
水艦18隻に増加、目標をタ
19.8.1
・特設対潜訓練隊の編成
ンカーに優先に変更
19.8.20
・第31戦隊の編成
軍艦、タンカー、搭載物のあ
18.
・陸軍航空隊の海上護衛司令
る船舶
・大型潜水艦100隻、中型潜
・在支空軍による船舶攻撃開始
任務
18.11
・音測探知機、ソナーを開発
な掃討を実施する
18.12
・電池魚雷完成、19年1月よ
19.9.
り実戦に採用
19.5
・主目標を護艦に変更
19.5末
・潜水艦艦隊前進基地設置
・就役潜水艦数140隻に、魚
雷の生産過剰
19.末
・潜水艦数156隻
20.1
・太平洋艦隊の前進基地をグア
ムに、増設
20.4
・第7艦隊の前進基地を比島ス
ビック湾に増設
終戦時
・護衛空母搭載対潜のため第
933航空隊を編入
ミッドウェー、メシュロなど
19.8
敵潜水艦の積極的
・潜水艦182隻
- 365 -
用語解説
戦時標準船(戦標船 )
昭和十七年夏からガダルカナルの戦い以降、急激な輸送船の被害増大にともなって、輸送船の建造が大
きな問題になった。
政府は商船建造の所管を海軍艦政本部に移し、第四課商船班が担当した。そして、新たに産業設備営団
を設け、海軍の計画にもとづいて船舶の建造を一括して受注し、完成した船舶を海運会社に売却した。軍
は必要に応じて輸送船として徴用した。これを「戦時標準船」と呼んだ。
◇
ミ二七船団
江戸川丸(二A型)
◇
逢坂山丸(二TA型応急油槽船 )、延喜丸(二A型貨物改造船)
ヒ八一船団
みりい丸(TL型)
◇
ヒ八三船団
はりま丸(二TL型)
◇
ミ二九船団
江ノ浦丸(二A型)
延慶丸(二A型)
延元丸(二A型貨物改造船)
延長丸(二A型貨物改造船)
戦時中、海軍技術少佐として昭和十七年七月から終戦まで、商船班長として戦時造船の企画と実施を担
当し、戦前は横須賀海軍工廠造船部で戦艦大和・空母信濃の設計にも参加し、戦後は日立造船株式会社で
長年設計を担当された元海軍技術少佐小野塚一郎氏は、
「商船班で戦時造船計画の企画と実施した船を戦時標準船(戦標船)と称していた。戦標船は商船班で設
計して、型は貨物船(T型、E型 )、タンカー、鉱石運搬船(K型)など、当初は十種類あった。それを
各造船所の能力に応じて、建造する隻数や船型を指定して効率をあげるため、ひとつの造船所で、同型船
- 366 -
を連続して建造発注した。
輸送船の大量喪失で鉄鉱石の輸入が減少して鋼材が不足してきたので、いかに材料を減らして船を建造
するかが課題になった。その手段として、船員の危険は増大するが、船橋など木材で代用できる箇所は木
製にする。船の側面の鋼板を五ミリ薄くする。また、工程の面では、鋼材を曲げるには、時間と熟練が求
められるので、できるだけ曲げる箇所をはぶいた。
また、エンジンは足りないうえに、海軍艦艇に優先使用されたので、中型戦標船(E型)等はディーゼ
ルエンジンを使用したが、八七〇トン級の小型船舶(改E型)は、焼き玉エンジンで速力七ノットの低速
船になった。
さらに、鋼材節約のため、船体を区切る隔壁が少なく、船型によっては隔壁(船室の仕切り)が無いも
のも建造された。これによって鋼材を約一〇パーセント節約できた 。」
と語っておられる。
戦時標準船は終戦までに一〇三六隻、二六四万トンが建造された。そのうち四十パーセント以上が「改
E型」で占められた。
木造船と筏
船舶不足をおぎなうため、昭和十八年五月、政府は臨時議会を開いて木造船の計画造船着手を決定した。
戦時標準船として七〇、一〇〇、一五〇、二〇〇、二五〇トンの五種類の規格を定めた。
しかし、船舶不足がさらに逼迫すると量産を急ぐために、昭和十八年一月「木造船建造緊急方策要綱」
を決定して、船の種類を減らして工程も簡素化した。船大工も不足したので、一般の大工も動員した。
陸軍省経理局の発案で、北海道留萌などから東京まで曳船式の筏で松の原木の運送を計画。昭和十七年
九月に試験航海で、松材二〇〇〇トンを二週間かかって運んだ。この筏輸送は昭和十八年から本格的に始
まった。
- 367 -
配 当 船
戦時中は陸軍徴傭船を「A船 」、海軍徴傭船を「B船」と呼び、それ以外の官庁船や民需の輸送を担当
している船は「C船」と呼ばれた。C船の大半は船舶運営会に所属していた。昭和十七年五月以降、運営
会所属のまま陸海軍に使用されて、軍の管轄下に置かれる特殊な船が現れた。これが「配当船」と呼ばれ
ていた。
江戸川丸、延喜丸、松浦丸は「配当船」だった。昭和十七、十八年の「配当船」は南方の占領地域から
重要物資を内地に運ぶことが任務であった。
昭和十九年六月、米軍のサイパン島攻略以後は、フィリピン、台湾及び南西諸島死守の戦力増強のため
に、保有稼働船腹約五十四万総トンのうち、約四十一万総トンを投入することが決定した。
だがそれだけでは足らず、A船、B船、配当船の総動員はもとより、十九年七月中旬以降、C船のうち
遠航可能な船腹二〇万総トンを抽出して軍の「配当船」にした。
軍はこれらの船舶を使用して、九月末までの約三カ月間にフィリピンに兵力増強を完了する計画だった。
このために動員されたC船は、九月末までに一〇九隻、四十六万三千トンに達した。これらの船は、特に
「臨時配当船」または 、「AC船 」「BC船」と呼ばれた。
この計画は十月までで、ようやく予定の半数にしか達しなかった。しかも「臨時配当船」は、九月末現
在、四十五パーセント、二十万七千トンの船舶が敵潜水艦・空爆等の攻撃で喪失した。
輸送船団の名称
船団の名称は輸送にあたり船団が組まれた時に付与されるもので、番号については往航は奇数、
復航は偶数で示した。当時、使用された船団名称は、
- 368 -
▽ 石油船団 ……門司ー昭南(シンガポール)を往復するものを「ヒ」船団と呼称した。
「ヒ」A船団(速力十三ノット以上の船団で、直行を建前とする)
「ヒ」B船団(速力十二ノット以下で台湾高雄に寄港するもの)
▽ 石油船団 ……門司ーミリ間を往復するものを「ミ」船団と呼称した。ミA、ミBの二通
りがあったが、いずれも「ヒ」船団よりも低速船だった。
▽ 鉄鉱石船団 …門司ー楡林間を往復し 、「テA 」、「テB」の二通りがあった。往航は基
隆、復航は高雄に寄港するおおむね九ノットの船団だった。
▽ 一般の輸送船団 …行き先別の名称と番号を付与した。例えば、モタ〇〇船団
高雄間 )、タマ〇〇船団
(高雄 ~ マニラ間 )、シマ〇〇団
(門司 ~
(昭南 ~
マニラ間)
陸軍特殊船(MT船)
陸軍特殊船(MT船)は、揚陸作戦のため戦車、上陸用大型舟艇を搭載し、舟艇甲板を設けて船尾のス
ロープから大発艇を甲板両舷に敷いてあるレールで滑らせてウインチで着水、揚艦することができる大型
貨物船で、各船共に高射砲六門、機関砲八門、野砲二門、爆雷二〇発、ら号探信儀、す号聴音機等が装備
されていた。あきつ丸には飛行甲板も装備されていた。
各国は、その技術開発を真剣に研究したが、日本陸海軍は遅れをとっていた。アメリカ軍はLSM(中
型揚陸艦 )、LST(戦車揚陸艦)のように、海浜に押し上げて船首部から一気に揚陸、戦闘を開始する
速効性を発揮していた。
日本海軍の輸送艦もこれに似た方式をとっていたが、搭載物が軽量のものに限定されていた。日本陸軍
は上陸用舟艇を積載した専用船舶の建造を昭和七年に計画し、戦車、上陸用舟艇搭載の神州丸の設計・建
- 369 -
造に着手した。昭和十七年一月竣工したあきつ丸までは、神州丸一隻だった。
昭和十八年十二月に吉備津丸が竣工し、終戦まで民間商船会社に建造させ、徴用した陸軍特殊船(MT
船)は、摩耶山丸を含めて十隻だった。
あ き つ 丸
昭和十四年十一月起工。昭和十七年一月播磨造船所で竣工した。神州丸建造の経験から「ころ」による
移動装置の欠点を木製滑台に改めて、造船技術の先導的役割をつとめた。
あきつ丸は、舟艇および飛行機が搭載でき、丙型船と称された。当初、飛行甲板は戦時に取り付けられ
るように考えられたが、完成間近になって戦局の悪化から飛行甲板を取り付けたまま完成した。
竣工と同時に陸軍に徴用され、ジャワの上陸作戦に参加した。速力十二ノット、飛行甲板は少し短いの
で、高速航空機の離着船は無理だった。飛行機は中型機が飛行甲板で二十機、同甲板下に八機搭載でき、
中甲板には八九式中戦車を乗せた大発動艇二十七隻が収容できた。進水装置も微速で航行しながら戦車を
積んだ大発動艇が、つぎつぎと船尾から進水させることができた。
二十七隻の大発動艇を訓練された兵員で進水するのに四十分くらいでできた。普通の輸送船だと数時間
も要した。また、七五ミリ高射砲、七五ミリ野砲が装備されていた。
「ヒ八一船団」編成時は、納庫に兵員を、上甲板に一〇〇隻の特攻用舟艇
を積載するため、三式連
絡機を下ろし、対潜水艦用の独立飛行第一中隊は十一月四日、宇品で下船して軽空母としてでなく、特殊
輸送船として釜山に回航した。
摩 耶 山 丸
摩耶山丸は昭和十六年八月二十七日、三井造船玉野工場で貨物船として竣工したが、大平洋戦争開戦の
ため、陸軍上陸用輸送船として昭和十七年十二月十九日に竣工し、船内積載の上陸用舟艇を船尾開口から
海上に降ろす大型輸送船として、甲型船と称せられた。
当時では世界に例がなく、現在の米海軍の強襲揚陸艦の先駆け的存在であった。しかし、建造された同
型の船は、僅か数隻であったため威力は発揮できず、姉妹船・高津丸(大阪商船)も撃沈された。
総屯数九 四三三トン、速力二〇 八ノット、三井造船玉野工場で造られた主機関は一万馬力の同社製パ
.
- 370 -
.
ーマイスター・エンド・ウェーン型ディーゼルエンジン二基であった。エンジンルームの囲壁が中甲板を
貫いているので、舟艇の収容および移動には邪魔で中甲板に収容できる大型上陸用舟艇は二十一隻だった。
吉 備 津 丸
昭和十八年十二月、日立造船因島造船所で竣工した。吉備津丸は陸軍の要請により、軍との契約は船主
が建造資金を出し、竣工後は陸軍が徴用すると言うものであって、陸軍が設計・建造を担当した。しかし、
船主側には船の性能が全然知らされなかった。
試運転時の速力は二十二ノットを記録しながらも、重油の消費量は極めて多く、また転舵の時には船体
が大きく傾き安定の乏しい船だった。遮浪甲板の真下に全通の格納甲板を設け、船尾のスロープから大発
艇をウインチで巻き込み、その甲板両舷にレールが敷いてあり、そのレールで大発艇を滑らせて、舟艇甲
板の全長にわたって格納できる仕組みになっていた。
また、その下にある船艙は鋼鉄のマッキン・キング式艙口蓋を持ち、通風に関しても機械通風による十
分な考慮が払われていた。
兵装は船首と船尾に高射砲、野砲、船橋の上には機関砲が装備され、二個中隊の船舶砲兵隊員と船長以
下一三四名の船員が乗船していた。
吉備津丸の船名は、日本郵船では「陸前丸(敵前上陸を意味)と命名する予定をしていたが、陸軍の要
望があって、特に陸軍大臣東条英機から「吉備津丸」という船名が贈られた。
「吉備津の名称は、神武天皇東征の際の上陸地となった岡山県吉備津神社から採ったもの」で、昭和十八
年七月十八日の進水式を前に命名された。
吉備津丸は、昭和二十年八月七日、神戸須磨沖で敵機の投下機雷に触れて座礁したが、乗員は退船して
備品・糧秣も陸揚げに成功した。しかし、船は徐々に沈下して終戦の八月十五日の午前五時頃、海水が上
甲板の一 五メートルに達し沈没した。
.
- 371 -
陸 軍 M T 船 一 覧
船
名
総トン数
所 属
沈没およびその後の顛末
陸 軍 省
● 昭和
月
日台湾左沖
あきつ丸
9,186
日本海運
●
〃
年
月
日五島列島沖
吉備津丸
9,575
日本郵船
●
〃
年
月
日須磨沖で座礁
にぎつ丸
9,547
日本海運
20 19 20 19
年
● 昭和
摂 津 丸
9,680
大阪商船
摩耶山丸
9,433
三井船舶
● 昭和
月
日済州島西方
玉 津 丸
9,589
大阪商船
●
年
月
日北部ルソン沖
高 津 丸
5,656
山下汽船
● 昭和
年
月
日 向 丸
9,687
日産汽船
19 19 19 20
年
● 昭和
年
月
熊 野 丸
9,502
川崎汽船
※
● は沈没した船
17 19
- 372 -
年1月
11 8 11 5
〃
3 15 7
8,120
1 11 8
神 州 丸
沈没
あとがき
「哀しき鹿島立ち」を読んで
ご送付戴きました「哀しき鹿島立ち」仮校正本を一応、全編拝読いたしました。
三富三郎氏の「まえがき」序文に哀しき鹿島立ちに書かれた如く、指導生徒四期生、甲斐重行殿を尊敬、
敬慕の念から、十九年十一月急遽、繰上げ卒業して、任地「南方総軍」に赴任なされた、甲斐技術伍長の
消息を確かめ、赴任に乗船した「ミ二十七船団」の遭難の全容を調査し、甲斐先輩を慰霊せんと、発起し、
当時の遭難資料を蒐集し原案を作成せんと計画したと、知らされました。大重義彦氏とは、偶然の御縁か
ら、鹿児島県人として、戦後の復員者、戦没御遺族の方々の為に献身的に奉仕なされて居る方と知り、親
しく交際いたしました。
彼の日本敗戦末期における国際情勢、戦況の資料の蒐集努力には敬服しました。石井達にも非常に役立
つ、当時の貴重な各種資料は得難いものです。
石井も(旭)二十三師団兵員として、動員下令比島ルソンのリンガエンに山下兵団の主力として米軍七ヶ
師団を迎撃戦闘に敗れ、山岳地帯に後退して、弾薬、糧秣も尽き、補給無き侭に飢餓、疫病に苦しむも、
持久戦闘になり、敗戦を迎えました。
大重様は、石井に当時の状況を尋ねられました。
彼の熱心な研究努力には、頭が下がりました。
石井は戦後になって、陸軍兵器学校生、陸軍少年戦車兵学校生、陸軍少年通信学校生、陸軍少年砲兵諸
学校生の多数が東支那海に於ける悲惨なる、無念の海没戦死が、慰霊されずに資料としても「防衛庁戦史
室」資料にも 、「工華会」(百年史)にも記載されず、巷間にも知らされず、知る人も少ないのにも悲憤を
感じて居りました。
此の「哀しき鹿島立ち」が彼等陸軍少年兵達の慰霊の一助に成ればと、祈願致します。
石井は、最早「米寿」を過ぎ 、「心筋梗塞」に悩まされ現在は認知症にて介護保険のお世話になっている
身ですが、旧友の三富氏、大重氏が生涯掛けて、出版せんとした本書に応えて拝読させて戴きました。
- 373 -
少額ですが、通信費にでも、加えて下さい。
平成十九年九月十三日
大磯町
原田宗二
石井清栄
様
平成十九年三月大重君が突然病に倒れて急死され一ヶ月後彼の晩年の労作であるこの本の原稿がフロッピー
デイスクで送られてきた。生前出来上がったら校正を手伝って欲しいとの依頼はあったとき私で良ければお
手伝いします、と返事していた。それは大重君の相棒であった三富君が一年前にこれまた急死していた。共
に発起人であった二人が何の連絡もなく続けて病に倒れこの本の原稿だけが取り残されたのである。
大重君は原稿はほぼ完成したがまだ未完成だとは云っていた。
私としても元気な大重君がこんなに早く亡くなるとは思っていなかったのでどのように纏めるのかなど一切聞いてい
ないし知らなかった。
それで送られてきたフロッピーをパソコンに入れてビックリした。パソコンでは読めないのだ。これでは駄目だと思
い遺族に大重君が使用していたワープロをお借りすることにした。だがワープロも古くファイルの変換はテキストフ
ァイルに限定され罫線その他は変換できないと聞かされたが、それでも何とか原稿として使用できそうだ。
一応原稿に起こして見出しを付け始めて見たもののワープロが一部機能していないのでファイルの時刻が全て同じ時
間となっている。同じファイルがあるとどれが古くどれが新しいものか判らない。
それでも何とか並べてみたが不明な点が多く結果的には項目が前後したり、重複したりしている点もある。読者の皆
さんには申し訳ないと思っているが最大限原稿を無駄にしないことを建前として重複している点は無視することにし
た。
こんな訳で原稿について相談する方も居ないので大重君が生前何かと書翰を出していた方にお手紙を出したところお
元気でその後本の発行に関心をもたれていた熱心な方で丁度この船団の前後に比島に渡り苦難の末引き揚げられ、し
かも陸軍兵器学校の前身である陸軍工科学校の先輩でもある方に巡り会えてご協力を戴き丁重な返信を戴いたので
「あとがき」のトップに掲載させていただいた。石井さんのご協力なしには本書を纏め得なかったと思う。
- 374 -
また精神的な支えと成った北海道の米田賢一君。また交流会で発行にはお手伝いしたいと申し出下さった古川直子さ
ん、あせらずにとご指導いただいた区隊付指導下士官の金田力雄さんを始め原稿についても整理を手伝いたいと申し
出た井原利春君。色々の方のご指導とご援助のほか、沢山の部外者の方々のご協力ご支援により一応発行に漕ぎ着け
たことをご協力下さった皆さんに感謝致します。
そして此の本を大重義彦君、三富三郎君の霊前に捧げると共に、六十三年前無念にも海没された先輩を始め多くの将
兵の皆様に心からのご冥福をお祈り申し上げます。
そして末永く記録にとどめると共に戦争の実相を知り教訓にしていただければ幸いであます。
始め計画ではB5版の大きさで出版の予定でありましたが諸般の事情でA5版に切り替えたため活字が小さ
くなり読みづらくなりましたことをお許しください。
また本書は末永く記録にとどめるため靖国神社、遊就館、昭和館、国立国会図書館、防衛省防衛研究所
図書館を始め相模原市立博物館、陸軍兵器学校跡地にある野間文化財団野間公民館に寄贈致しております。
- 375 -
◇ 挿入写真・地図・資料(順不同)
① 写真・江戸川丸、松浦丸、逢坂山丸、杭州丸、あきつ丸、摩耶山丸、
吉備津丸、神州丸、音羽山丸、
四式肉薄攻撃艇
、
解説図。
② 地図・「 ミ二七船団 」「ヒ第八一船団」編成配船図、輸送船遭難地点海域地図、
船団航行「之字運動の例図 」、本土防衛圏・捷号作戦ライン地図、
フィリピン全図、レイテ島地図。
旭兵団部隊配置・米軍上陸図、ルソン島北西部海岸要図、久保田支隊戦闘経過
推定図、戦車第二師団作戦経過図、旭兵団戦闘経過該要図、ナギリアン道(国
道9号線)要図、ベンゲット道キャンプ4付近要図、
配置図(北ルソン)
山下兵団最終複廓陣地
(すべての地図揃っていない)
◇ 協力していただいた方々
陸軍工科学校第二十一期機工科石井清栄、陸軍兵器学校第四期火工科西本武実、
火工科引田 正男、電工科武藤 時、電工科安川
木下
富雄、電工科佐藤久之助、電工科清家
渡、電工科塩野泰雄、電工科
満、機工科金谷
大八、機工科
大石国一郎、鍛工科福山清臣、鍛工科大谷好正、鍛工科宮田泰三、
鍛工科前田幸徳、鍛工科菅野
陸軍兵器学校第六期電工科鳥海
新、金取
勇、 技工科奥野
昭、機工科岩間 義明。
陸軍少年戦車兵学校富士ヶ嶺会会長
第五期柳瀬正治
村松陸軍少年通信兵学校さむらいの会会長 第十一期石塚夫
戦時遭難船調査会委員矢内丑五郎、
北野保好(東京書籍株式会社編集局小中文化編集部勤務)
◇ 協力していただいた機関・団体
- 376 -
實、
工華会(陸軍工科・兵器学校同窓会 )、富士ヶ嶺会(陸軍少年戦車兵学校
第五期生同窓会 )、さむらいの会(陸軍少年通信兵学校第十一期生同窓会 )、
防衛研究所戦史部資料室、国立国会図書館、財団法人海事産業研究資料セ
ンター、日本郵船歴史資料館、商船三井株式会社、栗林商船株式会社、
全日本海員組合資料室。
◇ 引用した参考文献資料
陸軍工科・兵器学校同窓会機関紙「工華」第十二、十三、一二六号、
陸軍少年戦車兵学校五期生同窓会機関紙「富士ヶ嶺第十四号 」、
陸軍少年通信兵学校第五期生同窓会編「第三回平戸島慰霊祭資料」
毎日新聞社刊「一億人の昭和史・日本の戦史別冊七 」、
「旭兵団ルソン島転戦記」第二十三師団工兵第二十三聯隊中隊長
落合秀正、
「消滅した久保田支隊の謎」二十三師団歩兵第七十二聯隊通信中隊長鈴木昌夫、
「戦車第二師団潰ゆ」戦車第二師団参謀河合重雄、
陸軍工兵第二十三聯隊部隊史、陸軍歩兵第七十一聯隊史、
「陸軍特殊舟艇あれこれ」陸軍工科学校第二十期銃工科宇高菊夫、
「五島列島沖海難記」陸軍少年通信兵学校五期生同窓会、
「少年砲兵の華実らずー陸軍少年野砲兵学校生徒隊の記録ー」
「少年砲兵史ー平和よ永遠なれー」陸軍少年野砲兵史編集委員会、
「若き空の御楯ー陸軍高射兵学校生徒隊と特幹回想録」生徒隊第二期生編集、
「千葉陸軍高射兵学校生徒隊」輪二六会創立十周年記念誌第二期生編集、
「日本船舶戦時戦史(上・下 )」「日本郵船戦時船史資料集(下 )」日本郵
船株式会社、
「三井商船戦時船史ー商船が語る太平洋戦争ー」商船三井株式会社、
「殉難者追悼記録」山下新日本海汽船株式会社、
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「船舶史稿船籍編第十三号 」、
「栗林商船所有船腹の推移」栗林商船株式会社、
「太平洋戦争記録ーレイテ作戦ー」 防衛研究所戦史室監修、
「日本商船隊戦時遭難史」財団法人海上労働協会、
「海より深く太平洋戦争船員体験記」全日本海員組合、
「船舶砲兵ー血で綴られた輸送船史 」「続船舶砲兵ー救いなき輸送船の悲劇」
「戦時輸送船団史」駒宮真七郎著、
「戦時船舶史 」「陸軍船舶戦争」松原茂生・遠藤昭共著・戦誌刊行会、
「レイテ沖の決戦」 佐藤和正著・光人社、
「レイテに沈んだ大東亜共栄圏 」「電子兵器カミカゼを制す」NHK取材班編、
「日本の戦歴・フィリピン決戦ー山下奉文とマッカーサー」村尾国士著
「レイテ沖海戦」半藤一利著、
「ミッドウェー」元大本営海軍参謀渕田美津男・元海軍中佐奥宮正武共著
「沖縄ー日米最後の戦闘ー」米国陸軍省編・外間生四郎訳。
防衛研究所戦史室「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」
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非売品
平成二十年三月吉日
発行
陸軍兵器学校第六期火工科八区隊
四期生遭難記録資料作成委員会
連絡先 一五六ー〇〇五六
東京都世田谷区八幡山三の三十七の十五の一〇二
TEL・FAX
〇三ー三三〇三ー七六二三
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