フィリピン・マニラのストリート・ホームレス―グローバリゼーションと都市

フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
(青木)― 31
【論 文】
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
― グローバリゼーションと都市変容の表徴として ―
青
要
木
秀 男
旨
産業国都市で、ホームレスが増加し、社会問題となってきた。途上国都市でも、ストリート・ホームレス
が増加している。しかし途上国都市では、今なお、大規模なスクオッター問題に圧倒されて、ストリート・
ホームレスの問題は、固有の社会問題として成立していない。ストリート・ホームレスに関する行政資料や
先行研究も、無きに等しい。本稿は、このような実情の中、フィリピン・マニラ(首都圏)を事例に、スト
リート・ホームレスの実態をあきらかにし、その基本的問題を摘出し、分析を試みる。本稿は、3 つの課題
について考察する。一つ、マニラのストリート生活者の分類を行ない、その中でストリート・ホームレスと
はだれかを特定する。とくに、スクオッター・ホームレスとの関係について議論する。二つ、ストリート・
ホームレスの実態分析を行なう。その場合、まず、ストリート・チルドレンに関する先行の報告と筆者の調
査をもとに、子どもの親・家族に焦点を当て、ストリート・ホームレスの実態に迫る。次に、スクオッター
とその撤去に関する先行の報告と筆者の調査をもとに、家を撤去された住民がストリートに押し出される過
程について考察する。スクオッターこそ、ストリート・ホームレスの最大の供給源である。三つ、ストリー
ト・ホームレスの形成を、グローバリゼーションにともなう都市の労働市場と空間構造の変容の表徴として
説き起こす。
―子どもは 7 人です。16 歳と 12 歳と 11 歳と 8 歳と 3 歳と 1 歳半と4ヵ月です。田舎はカガヤン
(渓谷)
(Cagayan Valley)です。15 年前にマニラに出てきました。田舎には何度か帰りました。
子どもを学校に行かせました。長い間シャワーを浴びていないので、この子らの体もすっかり
汚れました。明日はユーピー(University of the Philippines)へ行って、きれいにしてやります。
野宿は小さい子にはきついですし、病気の子もいるので、田舎へ帰ろうと思います。でも、バ
ス代が足りません。なんとかしたいのですが。
(ケソン市 Quezon City の街角で、店舗が開く朝
6 時頃から夜 11 時頃まで、所帯道具を積んだ荷車を引いて、再生資源を拾集し、夜は店舗のシ
ャッターの前で寝るホームレス・ファミリーの父親ロニー(Rony)の話 2006.11.28。その後、
通行人に石を投げられて、妻が顔に怪我をし、それを機に、妻と女の子 4 人が郷里へ帰ってい
った。しかし郷里では食べ物がなく、子どもが飢えてしまうと、1 ヵ月ほどでマニラに戻って
きた。ロニーは、バス代をカンパした筆者に、すみません、すみませんと繰り返した。2007.2.6)
1
問題と主題
題となってきた。ホームレス研究も蓄積されてき
た。他方、途上国都市でも、ホームレスの増加が
産業国都市で、ホームレス(いわゆる「ニュー・
ホームレス」)が増加し、社会問題となり、政策課
指摘されている(Levinson 2004)。ホームレスは、
スクオッターにも住めない、途上国都市の最底辺
32 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
の人々である。ブラジル・サンパウロでは、1990
市変容の様相が、集中的に表象されている。本稿
年代、
「ストリートを寝ぐらとするホームレス」
(本
が、圧倒的なスクオッター問題の中でホームレス
稿ではこの人々をホームレスと表記する)が増加
に注目するのも、その研究に「グローバリゼーシ
し、10 万人を超えたという(サンパウロ大学教員
ョンと(途上国)都市」研究の戦略的意義を見出
の話 2001.8)。マニラ(首都圏、以下同じ)で、
すからである。
ストリート生活者(street dweller)は、近年の新た
な事象ではない。しか し今、ホームレスが増加
し、ストリート生活者 の様相が変わりつつある。
2
ストリートの人々
途上国都市では、これまで、大規模なスクオッタ
ー問題に圧倒されて、ホームレスに対する関心は
マニラのストリートには、どのような人々がい
希薄であった。ホームレスは、スクオッター問題
るのだろうか。筆者が見聞したままに、ストリー
の一部として語られるだけであった。近年ようや
トの人々を列挙すると、次のようになる ) 。
2
く、一部の途上国都市で、ホームレスが固有の存
在として認知されるようになった。しかしそれで
2.1
ストリートで仕事をする人々
も、彼らの生活実態は不明である。マニラでも、
これは、ストリートで新聞・菓子・タバコ等を
ホームレスはいまだ社会問題として成立していな
売るヴェンダー(vendor)や、市場の前で荷物を
い。ホームレスについての行政資料や先行研究は、
搬送するキャリアー(career)、バス・エフエック
ストリート・チルドレンに関する情報を除けば、
ス(FX マイクロバス)・ジープニー(jeepney ジ
無きに等しい
1)
。
ープ様の改造車)・トライシクル(tricycle ペダル
を漕ぐ、またはモーターサイクルの乗り物)の運
アーノルド・パディラ(Arnold Padilla)は、
転手、大声で客に乗車を呼びかけるバーカー
近 年 の マ ニ ラ で 極 貧 家 族 ( extremely poor
(barker)等、ストリートのインフォーマル職種に
families)が増加し、スクオッターに家を建て
携わる人々である。また、辻芸人がパフォーマン
たり、借りたりする余裕のない人々が、手押
スをしたり、
(視覚)障害者が、エレキギターを弾
し車、防潮堤や歩道、橋の下、歩道橋、高架
いて、歌を歌ったりする。これらの人々は、
(たい
橋、道路の中央分離帯、夜には無人のストリ
ていはスクオッターに)住居がある。そして、朝
ート、寺院や公園の芝生等で目立つようにな
にストリートに出て商売をし、夜に家に帰る。ゆ
った、と指摘した(Padilla 2000:5-6)。そして
えにこの人々は、厳密にはホームレスではない。
その人々を、スクオッター・ホームレス(後
しかしヴェンダーやキャリアー、バーカーや辻芸
述)と区別して、可視的ホームレス(visible
人には、住む家がなく、夜もストリートに留まり
homeless )、 永 久 的 ホ ー ム レ ス ( permanent
ながら(荷車やトライシクルで寝る人もいる)、日
もう一般社会に戻れない人々の意
銭を稼ぐ人々がいる。これはホームレスである。
味か)、現代の放浪者(modern nomads)、さら
ホームレスは、何かの仕事をしなければ生存が叶
にマニラ・ジプシー(Manila’s gypsies)等と
わない。ホームレスも働いている。ゆえに、外見
呼んだ。しかし、彼の記述もここまでである。
だけで、ホームレスとこれらの人々を識別するこ
homeless
とは容易でない。
本稿は、このような実情の中、マニラを事例に、
得られた情報をもとに、ホームレスの実態をあき
2006 年 12 月末、マニラ市街地南端のター
らかにし、その基本的問題を指摘したい。途上国
ミナル、バクララン(Baclaran)のロハス・
都市のホームレスも、産業国都市のそれと同様、
ブルーバード(Roxas Boulevard)の舗道に、
グローバリゼーションの中の都市変容の産物であ
200 人ほどの老若男女が、荷を置き、坐って
る(Aoki 2006:1-13)。否、ホームレスにこそ、都
食事をしている。ミンダナオの少数部族バジ
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
ャオ(Bajao)である )。一帯に、
3
表1
(青木)― 33
ホームレスとスクオッターの違い
ストリート・コミュニティがで
きている。子どもが遊び、母親
が赤ん坊に授乳する。腰にサロ
ンを巻く人が多く、話す言葉は
部族の言葉である。若者たちは、
スクオッター
ホームレス
シェルターをもつ
シェルターをもたない
特定の寝場所をもつ
たえず寝場所を移動する
都心部や河川敷、ゴミ捨場などに
近い所にいる
どこにもいる(ストリートや公園、
橋の下にもいる)
小さな金属の筒を 3 つ束ねた楽
器をもち、それを叩いて大道芸
の練習をしている。
まず、シェルターとは何かという問題である。シ
若者たちが、2 人 1 組で仕事に出かける。
ェルターをもたないスクオッター・ホームレスは
マニラ市街を走るバスに飛び乗り、1 人が通
いない。しかし、樹木・家屋の側にシートを張っ
路に坐って鼓を叩き、もう1人が空き缶を差
たり、荷車を板で囲んで空間を作ったものをシェ
し出して、乗客から小銭を集める。車内を一
ルターと呼ぶなら(廃車に住む人もいる)、ホーム
巡すると飛び降りて、次のバスに移動する。
レスにもシェルターをもつ人がいることになる
その動きの軽やかなこと。そして夜が更けて、 (本稿冒頭のホームレス・ファミリーも、最近は空
バクラランのコミュニティに帰ってくる。老
き店舗の前に板で囲いを作り、そこで寝るように
若男女が、ストリート・コミュニティで夜を
なった)。次に、寝場所の移動である。スクオッタ
明かす(観察記録より。2006.12.30)。
ーは土地を無断占居する人々が集住し、生活する
居住地を指す。ゆえに生活拠点は固定している。
2.2
スクオッターの家を撤去されたが、再居住地
これに対してホームレスは、たえず移動する人々
(relocation lot)を宛がわれなかった人々、または
とされる。しかしホームレスも、じっさいは、寝
いったん再居住地に移転したが、そこからマニラに
場所を特定の地域に定めている。生活空間にまっ
戻ってストリートで暮らす人々
たく頓着なく日々寝場所を移動するホームレスは、
これには、スクオッターを撤去されたが、再居
むしろ少ない。安全で確実な寝場所を確保するの
住地へ移転することを拒んで、元の地域のストリ
は、容易なことではない。最後に、寝場所の状態
ートに留まる人々も含まれる。スクオッターとは、
である。これは、人々が特定場所に「集住する」
公有・私有の土地を無断で(不法に)占居して住
か否かである。スクオッターは、特定場所に一定
む人々の居住地区を指す(スクオッターには、土
数の人々が住む地区であるため、定着する場所は、
地の所有者を名乗る人から土地や家屋を賃借して
永続的に集住できる限られる。これに対してホー
住む人もいる )。スクオッターの人々は、住む土
ムレスは、単身で、または家族と分散して移動す
地に対する居住権がない。その意味で、スクオッ
る人々であるため、生活する場所は(スクオッタ
ター住民もホームレスである。ここでは、この人々
、、、、、、、、、、、、
5
をスクオッター・ホームレスと呼ぶ ) 。
ーよりも)制約されない。このため、表にあるよ
フィリピンで、(ストリート・)ホームレスに
要するに、スクオッター・ホームレスと(スト
対する固有の関心が希薄なため、スクオッター・
リート・)ホームレスを画然と区別する指標はな
ホームレスとホームレスを明確に区別する記述は
い。両者はかぎりなくボーダーレスである。その
ない。全国住宅局(National Housing Authority)は、
上で、次の点は指摘されよう。スクオッター・ホ
その資料で、スクオッターとホームレスを表 1 の
ームレスは、特定場所に集住し、固定的で永続的
ように区別している(NHA 1993)。表によれば、
なシェルターで生活する人々である。これに対し
スクオッターは特定場所に定着した人々、ホーム
てホームレスは、固定的で永続的なシェルターを
レスはたえず移動し、寝場所を選ばない人々とさ
もたず、特定地域のストリートを単身で、または
れる。しかしここで、次のような問題が発生する。
家族と移動する人々である。換言すれば、ホーム
4)
うな「どこにもいる」という状態になる ) 。
6
34 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
レスは、スクオッターにも住めない、スクオッタ
ー・ホームレスのさらに下位に位置づく人々であ
る
7)
こうして、再居住地の家に妻や子どもを置いて、
マニラに「出稼ぎ」に出る人や、再居住地の家を
売却してマニラに戻る人が出てくる。後者には、
。
マニラに戻って親類縁者の家に寄留できる人と、
筆者が面接したスクオッター住民は、いず
れも、「ここにホームレスはいますか」とい
寄留できる家がない人がいる。この最後の人々が
ホームレスになる。
う問いに、「いません。親のない子もいませ
ん。家のない人は、親族の家に住んでいます」
2.3
地方から出て来たが、マニラに寄留できる親
と答えた。住民たちのホームレス認識も、上
類縁者がおらず、また(スクオッターに)家
と同様のものであろう。(タギッグ町 Taguig
や部屋を借りる余裕がない人々
の鉄道敷のスクオッター 2006.11.5)(マニラ
市の橋の下のスクオッター 2006.11.8)
今日も多くの人々が、地方からマニラへ流入し
ている(ただし、その数は低減傾向にある)
9)
。
その多くは、スクオッターに住む親類縁者の家に
スクオッターの家を撤去されたが、再居住地を
寄留する。新来者の 80%がスクオッターに入ると
宛がわれなかった人々は、ホームレスの最大の供
いう指摘もある(URC 1997: 25)。しかし、マニラ
給源をなす(と思われる)。その意味で、ホームレ
都心部のスクオッターの撤去が進むにともない、
スの実態の把握にとって、スクオッター(・ホー
スクオッターに入ることができない人が増加して
ムレス)の動向の把握は決定的となる。この点は
いる。この人々が、終着駅の周辺や公園、墓地等
後述する。
で、荷物を抱えて寝起きすることになる。この人々
さらに、スクオッター撤去に関わって、再居住
はホームレスである。この人々は、さらに 3 つに
地からマニラに戻ってストリートに留まる人々が
分類される。まず、マニラに移住するつもりで出
いる。スクオッターを撤去されて、マニラ郊外の
てきた人々である
再居住地に移転したものの、そこには収入獲得の
ち、そこに家族を置いて、マニラに出稼ぎに出た
機会がない。そのため、移転前の仕事を続けよう
人々である。この人々は、公園等に寝起きしなが
8)
10 )
。次に、マニラ近郊に家をも
。筆者が訪
ら働き、定期的に家に帰る。これは、週・月の一
れたいくつかのスクオッターでは、住民が、再居
定期間ごとに、マニラ近郊とマニラを往復する出
住地への移転を躊躇していた。その理由を尋ねる
稼ぎ者(circular migrant)である。ゆえにこの人々
と、最大の理由は「再居住地には仕事がない」と
は、厳密にはホームレスではない。最後に、災害
いう答えであった。
(タギッグ町の鉄道敷のスクオ
や戦争による難民である。フィリピンは台風等の
と、マニラに戻る人が後を絶たない
ッター 2006.11.8)(マニラ市の運河堤のスクオッ
災害頻発国である。また地方では、新人民軍(New
ター 2006.11.8)
People’s Army)やムスリム(Muslim)の武装グル
ープと国軍(と米軍)の戦闘が続いている。こう
家を撤去されても再居住地へ行かない人
した災害や戦火の中で、家を失い、また生命の危
がいますね。元の地域に関わって仕事をして
機に曝されて国内難民となる人々が出ている。こ
いる人は、移転できません。経費と時間がか
れらの人々が、無一物の状態で故郷を逃れ、親類
かるので、マニラへ通うこともできません。
縁者を頼って、都市へ出る。しかし親類縁者のな
そんな人たちは、他に住む家を探すしかない
い人々は、ホームレスになる。マニラにも、災害
です。それができない人は、仕事はあっても
や戦闘のため故郷を出たという、ミンダナオやル
住む家がない。ですから、ホームレスになる
ソン北部の人々が少なくない(と思われる)
11 )
。
しかないです。じっさい、そんな人たちは少
なくないです。(NGO 2書記長の話 2006.11.6)
2006 年 12 月 25 日夕刻。ルネタ公園(Luneta
Park)・リサール公園(Rizal Park)(2 つの公
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
園が続いている)の広大な広場で、数万人も
の人々がピクニックを楽しんでいる。その中
2.4
(青木)― 35
出稼ぎの少数民族の人々
地方からマニラへ出稼ぎに出る人々に、もう一
に、公園で暮らすホームレスが混じっている。
つ、少数民族の人々がいる。生活手段の乏しいル
夕闇が迫る。家族連れが荷を片づけ、敷物を
ソン(Luzon)島北部・中部の少数民族(コルデ
畳んで家路に着く。しかし夕闇のなかで、坐
ィレラCordilleraやアエタAeta)の人々や、ミンダ
って動かない人、寝そべる人、ビニール等を
ナオ(Mindanao)やパラワン(Palawan)島等のム
拾集する人の影がみえる。2 つの公園に、数
スリムの人々が、マニラに出稼ぎに出てくる。そ
千人のホームレスがいるという。公園管理人
の一部が、ダウンタウン(キアポQuiapoやクバオ
と警察官は、外国人観光客が来るからと、た
Cubao、バクララン等)で、ストリートで寝起き
えずホームレスを追い立てている。しかし 12
しながら、ヴェンダーや物乞いをする
12 )
。クバオ
月 16 日、クリスマス休暇の時期に入り、市
を中心にエドサ(EDSA)通りには、物乞いのシ
は、ホームレスが公園に留まることを許可し
ンジケートもあるという(少数民族問題のNGO 3
た。公園で寛ぐ市民が増加することで、ホー
活動家の話 2006.12.6)。12 月~1 月には、クリス
ムレスの追い出しが、じっしつ不可能になっ
マスと新年の景気を当て込んで、ヴェンダーや物
たからである。ホームレスは、公園に来る市
乞いの出稼ぎが増加する。時期が過ぎると、一部
民や観光客を相手に、ヴェンダー、再生資源
の人々は田舎に帰り、一部の人々はマニラの同胞
拾集人(scavenger)、物乞い等をして収入を
コミュニティに入り、一部の人々はストリートに
得ている。
留まる
クリス(Kris)は、40 歳代の建設労働者で
13 )
。この最後の人々は、永続的なホームレ
スになる。
ある。田舎を出て、建設労働をしていたが、
契約が切れて失職し、9 月から公園で暮らし
コルディレラの人たちがクリスマスの時
ている。所帯道具は破れた袋が一つ。中には、
期に集団でやってきて、ヴェンダーをしてい
クッキーが少々とバナナが 1 本だけ。仲間の
ます。子どもたちは物乞いをします。クリス
カルロス(Carlos)は、40 歳代の料理人であ
マスが終わると田舎に帰ります。一部の人々
る。彼も、田舎を出て、レストラン等の調理
は、キアポに留まって仕事を続けます。(キ
場を転々とし、10 月から公園で暮らしている。
アポのドロッピング・センター代表の話
時どき公園から仕事に出かける。雨が降る時
2006.11.13)
は、近くの建物や地下道に避難する。彼らは、
収入を得るため、ビニールのシーツを売る。
子どもの親にはストリートで暮らすムス
シーツは、公園に来る人が坐ったり、夜には
リムの親もいます。彼らは、キアポのムスリ
体を覆ったりする。1 枚 13 ペソで仕入れて
ム・コミュニティと繋がっています。コルデ
20 ペソで売る。また、捨てられたシーツを集
ィレラの人たちが出稼ぎタイプのホームレ
めて、それを売る。ホームレスは、いつも警
スだとすれば、彼らはいわば定住タイプのホ
察官に追い立てられている。中には警察官と
ームレスといえるでしょうか。(同センター
組んで、寝起きする場所代を 20 ペソ巻き上
のボランティアの話 2006.11.20)
げる「悪い奴」もいる。クリスマス・シーズ
ンは、多くの人が公園に来るので、商売もし
2.5. ストリート・チルドレン
やすい。この時期は、田舎からも多くの人が
フィリピンで、ストリートの子どもの悲惨な姿
出てくる。そして公園で寝起きしながら、仕
が、貧困の象徴として行政・NGO・研究の関心を
事 を 探す 。( 調 査 協力 者 Raffy と 聞 取 り 。
集めてきた。ゆえに、ストリート・チルドレンに
2006.12.25)
ついての資料や研究は少なくない。ホームレスは、
ストリート・チルドレンの調査・研究に包摂され
36 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
てきた。ストリート・チルドレンとは、生活の大
の家を撤去され、再居住地を宛がわれなかった
半をストリートで過ごす 18 歳以下の幼児・児童・
人々の一部、また、再居住地からマニラに戻り、
未成年者を指す(Ruiz homepage)。そこには、さ
ストリートに留まる人々の一部、③の移住するつ
らに 4 つのタイプが区別される。一つ、学校が終
もりで、また出稼ぎで、さらに難民として地方か
わるとストリートに出て仕事をし、夜には家族の
ら出て来た人々の一部、④の出稼ぎの少数民族の
元へ帰る子どもである(children on the street)。こ
人々の一部、⑤のストリート・チルドレンとその
の子どもは、ストリートで働いて家族の生計を助
親の一部、これらの人々が、本稿でいうホームレ
けている。ストリート・チルドレンの 70%がこれ
スということになる。
に該当する。二つ、ストリートで暮らし、たまに
ではホームレスとは、具体的にどのような人々
家 族 の 元 へ 帰 る 子 ど も で あ る ( children of the
だろうか。マニラのホームレスの全体像を描くに
street)。ストリート・チルドレンの 20%がこれに
足る資料や研究は、まだない。ホームレスに関す
該当する。三つ、家族に遺棄されたり、無視され
る資料として、マニラ首都圏の、ストリート生活
た子どもである。これは、家族と完全に絆を断っ
者(vagrant)や物乞い(mendicant)等を一時収容
た(断たれた)、狭義のストーリート・チルドレン
する施設ホセ・ファベラ・センター(Jose Fabella
である。ストリート・チルドレンの 5%がこれに
Center)の収容者に関する資料があるだけである
該当する。四つ、ストリート・ファミリー(street
(と思われる)。これに対して、ストリート・チル
family)の子どもである。この子どもは、家族と
ドレンに関する資料や研究は少なくない。ゆえに
ともに荷車を押して街を移動し、夜になると、目
ここでは、まず、ストリート・チルドレンに関す
当ての場所で寝る(冒頭の引用例の子どもがこれ
る資料、とくに子どもの親に関する情報から、ホ
に該当する)。
ームレス像を間接的に推察し、次に、それを一時
これらストリート・チルドレンの様相は、ホー
ムレスの全体像を知る上で貴重な情報源となる。
収容施設の資料で補強するという方法を取ること
にしたい。
第四のタイプはもとより、第一・第二のタイプも、
子どもがホームレスであるだけでなく、家族も、
多くはホームレスか、ホームレスに近い状態にあ
3.1
ストリート・チルドレン
まず、ストリート・チルドレンに関する資料か
ら、ホームレス像を推察したい。
るからである。
3.1.1
3
ホームレス
ホームレスの数
ホームレスの人口を直接教える資料はない
14 )
。
これに対して、ストリート・チルドレンについて
以上にみたストリートの人々の分類は、ストリ
は、次のような数字が指摘されている。ユニセフ
ートにいる人々をそのまま列挙したものである。
(UNICEF)は、1991 年にストリート・チルドレン
中には、ホームレスでない人々も含まれる。結局、
の全国調査を行ない、マニラで 107,005 人のスト
ホームレスを暫定的に定義するならば、
「固定的で
リート・チルドレンを数えた(NYC 1998: 144)。
永続的なシェルターをもたず、寄留する住居もも
子ども福祉会議(Council for the Welfare of Chil-
たず、一定範囲の空間(ストリート)を個人で、
dren)は、2000 年に、見てすぐストリート・チル
または家族と移動しつつ、そこで寝起きする人々」
ドレンと分かる子どもを 44,435 人確認した(CWC
ということになるだろう。それは、スクオッター・
homepage)。エンマ・ポリオ(Emma Porio)は、
ホームレスと対になる人々である(ただし、スク
マニラに 1988 年に 50,000~75,000 人のストリー
オッター・ホームレスの底辺部分は、ほとんどホ
ト・チルドレンがいたとした(Porio 1994:112)
15 )
ームレス状態にある)。上記の分類カテゴリーでい
。この最後にほぼ等しい数が、マニラのストリー
えば、①のヴェンダーの一部、②のスクオッター
ト・チルドレンの数として、報告書や論文等でし
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
(青木)― 37
ばしば採用されている。先に述べたように、スト
大きな繁華街のある市で援護対象者が多かった。
リート・チルドレンの 70%は、親・家族とともに
生活資源を入手する場所と夜に寝る場所が異
暮らすか、親・家族との間を行き来している。本
なることもある。また、子どもと成人では活動や
稿は、この子ども(広義のストリート・チルドレ
就寝の場所が異なることもある。
(成人)ホームレ
ン)に注目する。というのも、彼らの親・家族の
スでは、繁華街の他、河川や運河等の危険な場所
相当数が、ホームレス状態にあると推察されるか
や墓地等の寂しい場所が加わる。とはいえ、ホー
らである。また、子どものいない単身のホームレ
ムレスの活動・就寝の場所は、ストリート・チル
スもいる。これらの成人ホームレスにストリー
ドレンのそれとおおむね同じとみていい。ストリ
ト・チルドレンを加えると、マニラのホームレス
ート・チルドレンの親・家族も、子どもの近くに
16
は、100,000 人をはるかに凌駕すると推察される )
いる。マニラで、筆者が多くのホームレスを目視
。
した地区として、キアポ(教会・商業地区、ター
ミナル)、クバオ(商業地区、ターミナル)、バク
このセンターに来る人も増えてますし、マ
ララン(教会・商業地区、ターミナル)、サンタア
ニラ全体でもホームレスはおそらく増えて
ナ(Santa Ana
いると思います。キアポ、クバオ、マカティ
商業地区)、ディビソリア(Divisoria 市場)、ナボ
商業地区)、サンタメサ(Santa Mesa
(Makati)、オルティガス(Ortigas)等の繁華
タス(Navotas 漁港)、就寝場所としてルネタ・パ
18 )
街に多いのではないでしょうか。それから墓
ーク、リサール・パーク、北部墓地等がある
地にも多いですね。そうした実態に対応する
これらはいずれも、ストリート・チルドレンが多
ために、この施設も拡張する予定です。現在
いとされている地域である。
。
は 150 人が定員ですが、これを 200 人以上に
する計画です。ちなみに今日は 222 人のクラ
教会周辺からパシグ川(Pasig River)にか
イアントが入っています。超満員です。(ホ
けて、1,500 人を超える人々がストリートで
セ・ファベラ・センター所長の話 2006.12.4)
暮らしています。その内、ホームレスは少な
17)
くとも 1,200~1,300 人はいるでしょうね。こ
れにストリート・チルドレンが加わります。
3.1.2
ホームレスの分布
ホームレスがストリートで生きるには、日々、
(キアポのドロッピング・センター代表の話
2006.11.13)
生活資源が入手できなければならない。彼らが確
実に生活資源が入手できる場所とは、人が集まり、
北部墓地は、市営の墓地と私有の墓地から
物が繁く流通する場所である。社会福祉開発省が
成る。少なくとも 2,000 人のホームレスが、
1998 年に行なった全国調査では、ストリート・チ
市営墓地を中心に、墓と墓の間隙空間や、墓
ルドレンは、ストリート(36.5%)、市場(8.0%)、
を収めた装飾建築の屋根の下で暮らしてい
教会・娯楽地区(12.4%)等におり、一般に、娯
る。その数は増加傾向にある。ホームレスの
楽・商業地区、バス・ターミナル、港湾、公園等
多くは、墓守りや墓地の清掃等をしている。
に 多 い こ と が あ き ら か に さ れ て い る ( Ruiz,
墓守りの報酬は月 50 ペソである。ホームレ
homepage)。前掲(注 16)の資料によれば、2,100
スは、生計を補うために、墓地の内外でヴェ
人の対象者(ホームレス)が保護された地域の分
ンダーや再生資源拾集、物乞い、建設労働等
布は、マニラ市 40.8%、ケソン市(Quezon City)
をする。ヴェンダーは、墓参りの人々に花、
18.9%、タギッグ町 7.1%、パサイ市(Pasay City)
蝋燭等を売る。インド人から高利(月 2 割)
6.9%、パラニャーケ市(Parañaque City)5.5%、マ
で金を借り、墓地内でサリサリストア
ンダルヨン市(Mandaluyong City)5.0%等であっ
(sari-sari store 雑貨店)を営む人もいる。再生
た(DSWD-
NCR 2006)。マニラ市やケソン市等、
資源拾集人は、墓地内外のゴミ箱でプラステ
38 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
ィック瓶等を拾集したり、レストランの勝手
考になる。社会福祉開発省マニラ首都圏局
口で食べ物を探す。物乞いは、墓地周辺のス
(DSWD-NCR)は、2005 年 4~6 月、ストリート・
トリートで通行人に金銭を乞う。いずれも、
チルドレン 606 人とその親に対する更生援助事業
夜は墓地の建築物の屋根の下で寝る。
を行なった(DSWD-NCR 2004a)。マニラ市キリノ
面接したホームレス女性(50 歳代)の話。
通り(Quirino Avenue)では、サンパギータを売る
1982 年に、ミンダナオからマニラに出てきま
30 人のストリート・チルドレンとその親たちが事
した。ここに来る前は、夫は建設労働者でし
業に参加した。これらの家族は、フィリピン国有
た。でも、肺結核になって、重労働ができな
鉄道北部(Philippine National Railway-North)の整
くなりました。それで生活に困って、ここに
備にともない、スクオッターの家を撤去され、再
来ました。ここでは墓守りをしています。で
居住地へ移動する直前のホームレス状態にある家
も、月 50 ペソの報酬では生活できません。
族であった。子どもたちの親の仕事は皿洗い、料
それで、お金を借りてサリサリストアを開き
理手伝い、運転手、洗濯、タバコ売り、雑巾売り、
ました。利子が高くて、やりくりが大変です。
トライシクル運転手、瓶売り、ジープニーの客引
夫は時どき、栄養をつけるため、50 ペソもす
き等であった。1 日の稼ぎ(以下同じ)は、50~
る豚の内臓を買います。その関係で、屠場の
200 ペソで、250 ペソを超えたのは 3 家族のみであ
仕事を貰うこともあります。上の娘が 18 歳
った。(2005 年のマニラの労働者の 1 日の最低賃
になります。もうすぐお店の販売員に就職す
金は 300 ペソである)。パラニャーケ市では、21
る予定なので、かなり助かるはずなのですが。
人のストリート・チルドレンが事業に参加した。
(家族は、墓の横の店の小さな部屋で暮ら
す。)
子どもたちの親の仕事は、サンパギータ売りが 10
人(その内 4 人が 200~300 ペソを稼いだ)、バク
ホームレス女性(40 歳代)の話。1986 年
ラランの飲食店から残飯を貰い、それを売る人が
に、ヴィサヤ(Visaya)からマニラへ出てき
11 人であった(200~300 ペソを稼ぐ人もいた)。
ました。そして、ここにダイレクトに来まし
家族は、教会周辺のストリートに掘立小屋を建て
た。夫は墓守りでしたが、病気で死にました。
て住んでいた。パサイ市では、10 人のストリー
この墓の下に埋葬しました。今、9 歳と 10 歳
ト・チルドレンが事業に参加した。子どもたちの
の娘がいます。月 50 ペソの収入しかないの
親の仕事は、バルート(balut 孵化したあひるの
で、生活に困っています。それで、再生資源
卵)売り 2 人(100~200 ペソの稼ぎ)、食べ物売
拾集や物乞い等、いろんなことをしています。
り 4 人(200~300 ペソの稼ぎ)、魚売り 1 人(200
そして、娘をどうにか公立学校へやっていま
ペソの稼ぎ)サリサリストア(sari-sari store 雑貨
す。一人は小学 1 年生ですが、発育不全で体
店)経営 1 人(300 ペソ)、サンパギータ売り 1 人
が小さく、病気ばかりしています。あまり長
(30 ペソの稼ぎ)であった(親1人の仕事は不明)。
生きできないでしょう。死んだら、娘もこの
ケソン市では、15 人のストリート・チルドレンが
墓の下に埋めてやります。(家族は、セメン
事業に参加した。子どもたちの親の仕事は、サン
トで固めた墓の敷地に、プラスティックで簡
パギータ売りが 12 人(150~200 ペソの稼ぎ)で、
易な屋根を作って暮らす。)
(調査協力者 Raffy
3 人は子どもを置いてマニラ近郊(ブラカン
と聞取り。2000.12.31)
Baclacan)へ移住していた。家族すべてが、2005
年に行なわれたスクオッター撤去の犠牲者で、全
国住宅局の世話で小部屋を借りて住んでいた。サ
3.1.3
ストリート・チルドレンの親・家族
ン・ファン市(San Juan City)では、10 人のスト
ホームレスは、ストリートでどのように生活を
リート・チルドレンが事業に参加した。子どもた
凌いでいるのだろうか。その実態をあきらかにす
ちの親の仕事はサンパギータ売りで、ミネラル水
るには、ストリート・チルドレンの親の情報が参
を売る人もいた。
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
(青木)― 39
える人々が、その周辺でホームレスになった。
これらのストリート・チルドレンは、マニラの
ストリート・チルドレンのごく一部であり、事業
地域を離れる人はほとんどいない)。二つ、
に参加した子どもたちという点で、サンプルも偏
キアポに続くサンタ・クルツの繁華街である。
っている。しかし、それでもそこから、子どもた
30 人ほどの子どもが集る。子どもの親・家族
ちと同様、親・家族も、ホームレスか、かぎりな
も、夜は商店の軒下等で寝るホームレスであ
くホームレスに近い状態の人々であることが分か
る。三つ、キアポ教会前の広場である。30 人
る。仕事は、ほとんどストリートのヴェンダーで
ほどの子どもが集る(広場界隈だけで 80 人
あり、生活は平均 200~300 ペソと極貧水準で(マ
の子どもがおり、中には、親に遺棄された子
ニラの最低生活費は 2000 年に 1 人 590.3 ペソ/
どもも少なくないという)。子どもの親・家
日であった)
(NSO homepage)、居住は、ストリー
族はほとんどヴェンダーで、夜は広場や商店
トや小部屋の一時住いという状態であった。とく
の軒下に寝る。(観察記録より)
にスクオッターの家を撤去されて行き場を失った
家族が多い。このように、ストリート・チルドレ
3.2
ホームレス像
ンの側にはホームレスの親・家族か、それに近い
ホームレスの情報について、ホームレスの収容
状態の親・家族が控えている(むろん、すべての
施設ホセ・ファベラ・センターが作成した資料が
親・家族がそうだということではない)。
あ る (JFC 2006)。 こ の 施 設 の 収 容 者は 、 大 半
(75.2%)が、マニラ首都圏開発局のストリート清
このドロッピング・センターには 30 人の
掃のなかで、発見され、説得され、送られてきた
子どもが来ています。この子たちの親はほと
ホームレスである。同センターに、2006 年 1~6
んどこの界隈(のストリートや広場)にいま
月に 2,794 人のホームレスが収容された。その内
す。ほとんどがヴェンダーです。なかには、
訳は、一時通過者 461 人、物乞い 86 人、ストリー
トライシクルの運転手をする父親や、売春を
ト生活者 2,193 人、強制排除の犠牲者 42 人、その
する母親もいます。子どもたちも、サンパギ
他 12 人であった。収容者の年齢は、17 歳未満(幼
ータやキャンディを売ったり、雑貨品を売っ
児、児童、未成年者)34%、18~24 歳 19%、25~
たりしています。かっぱらいやすりをしてい
59 歳 44%、60 歳以上 3%であった。
(計 2,803 人)。
る子もいます。ドラッグを売る子もいます。
大多数の子どもには親がいる(同センター所長の
そうした子どもたちは、時どき大金を手に入
話 2006..12.4)。親にもホームレスが多いが、スク
れています。私たちの活動は、子どもたちに
オッターに住む者もいる。収容者の婚姻歴は、離
そうしたことを止めさせるのが目的です。
婚 69 人、年少者 189 人、内縁関係 231 人、単身者
(キアポのドロッピング・センター代表の話
2006.11.13)
1,718 人、既婚者 499 人、寡婦 73 人であった(計
2,799 人)。収容者の性別は、男性 72%、女性 28%
であった。収容者の生誕地はマニラ 46%、マニラ
2007 年 2 月 2 日夜、同センターのストリー
外 54%であった。マニラ外の地域では、ビコール
ト・チルドレンのアウトリーチに参加した。
(Bicol)、ヴィサヤ(Visaya)、ミンダナオ等、全国
地点は 3 ヵ所である。一つ、キアポのムスリ
ム・コミュニティである。菓子の配給に、40
に及んでいる(同所長の話 2006.12.4)。
これらのデータから、次の諸点が指摘される。
人ほどの子どもが集る。子どもの親・家族は、
一つ、収容者は、子どもから壮・高齢層まで広範
ヴェンダーやトライシクルの運転手で、市場
な年齢階層に分布している。二つ、それに照応し
横の通路の壁沿いにできたスクオッターに
て、婚姻歴の有無も、年少者から寡婦まで多様で
住む(おりしもその一角が、マニラ首都圏開
ある。単身者が過半数(61.8%)を占める。既婚
発局 Metropolitan Manila Development Author-
者や内縁関係者も、多くは、施設収容時にはじっ
ity により撤去され、300 世帯、1,500 人を超
しつ単身生活者であったと思われる。三つ、マニ
40 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
ラ首都圏で生まれた収容者が半数に近い。これは、
収容者に幼児や児童、未成年者が少なくないこと
から、当然の結果である。同時にそこには、ホー
ムレスが地方出身者だけでなく、マニラで生み出
されている実態が窺われる。
収容者の居住地(施設収容時にいた地域)は、
マニア首都圏第一区(Manila City)6%、第二区
(Mandaluyong City, Marikina City, Pasig City, Quezon City, San Juan)30%、第三区(Caloocan City,
Malabon, Navotas City, Valenzuela City)8%、第四区
( Las Piñas City, Makati City, Muntinlupa City,
Parañaque City, Pasay City, Pateros, Taguig)21%、そ
してマニラ首都圏外 35%であった(計 2,745 人)
(地図を参照されたい)。収容者の 65%が、マニラ
各地区(とくに第二区と第四区)から送られてき
た。これがホームレスの実際の分布を反映してい
るとすると(それを確証する術はないが)、ホーム
レスは、まず、首都圏の中心(第一区)からその
周辺部に拡散していると推察される。次に、第三
区は首都圏の最貧地域であるが、その第三区より
ストリートでの生活資源が豊富な地域を選んでい
ると推察される。
収容者の施設収容前の職業は、運転手 19 人、
運転助手 5 人、物乞い 53 人、駐車場見張り人
(parking boy/girl)12 人、配車人 8 人、労働者 96
地図
マニラ首都圏の市・町構成
人、種々のヘルパー43 人、バーカー41 人、ヴェン
ダー113 人、再生資源拾集人 99 人、年少者 63 人、
ストリート・チルドレン 6 人、学生 9 人、その他
法的活動に専念するホームレスは、少数である。
133 人であった(計 700 人)。ヴェンダー、再生資
ホームレスの中心的な仕事は、再生資源拾集人と
源拾集人をはじめ、物乞い、駐車見張り人、配車
物乞いである。再生資源拾集人には、寄せ屋から
人、バーカー、運転手、運転助手等、すべてスト
資金を借りて缶・瓶・紙・金物等を買い取る人、
リートでの仕事である。ここで労働者とは、手間
捨てられた缶・瓶・紙・金物等を拾集する人、使
賃稼ぎの日雇労働者のことで、ストリートから仕
えなくなった靴・鞄・玩具等なんでも拾集する人、
事に出る人々を指す。このように、ホームレスは
廃品のなかから食べられる物を拾集する人といっ
ストリートで、また、ストリートを経由して生計
た仕事の序列がある。荷車を持つ人、借りる人、
を支えている。
もたない人の序列もある。物乞いにも、楽器を演
ホームレスの仕事は、ヴェンダー、再生資源拾
奏したり、芸を見せたりする人、子ども(哀れを誘
集人、手間賃稼ぎ(配車・見張り人watcherやバー
う容姿の子ども)を抱く人、ただ手を差し伸べて物
カー、靴磨き)、物乞い、非合法的活動(かっぱら
乞いをする人等のいくつかのタイプがある
19)
。
い・すりやドラッグ販売、売春)に集約される。
スクオッターで住民の仕事を尋ねたところ、一
ホームレスには、親方に雇われ、または商品を借
人が「ベガー」と答えた。周囲の人々もそれに頷
り受けてヴェンダーになる人が多い。他方、非合
いていた(前掲パサイ市のスクオッターで
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
(青木)― 41
2006.11.8)。すなわち、物乞いも一つの正当な仕事
体の家族数が増加したので、スクオッター家族の
であり、スクオッターでもそのような理解が通念
比率は漸減しているが、実数は増加している。ス
となっている。
クオッターが増加している背後には、3 つの全般
的過程がある。一つ、マニラで貧困者が増加して
いることである。マニラの貧困発生率は、1997 年
4
スクオッター
8.5%、2000 年 11.4%で(NSO homepage)であった。
貧困線以下で生活する人は、1997 年に 873,555 人、
ホームレスの多くは、マニラ(首都圏)の外か
2000 年に 1,275,809 人であった(NSO op.cit.)。二
ら流入した人々である。ホセ・ファベラ・センタ
つ、土地・家屋の価格が高騰していることである。
ーの前掲資料では、過半数のホームレスが、マニ
マカティ市のビジネス地区(Makati Avenue)では、
ラ外を生誕地とする人々であった。しかし、若い
1 ㎡が 1990 年に 60,000 ペソであったが、96 年に
ホームレスを中心に、ホームレスはマニラで生ま
、、、
れた世代に交替しつつある。換言すれば、マニラ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
の経済社会構造のなかに、ホームレスを階層とし
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
て生み出すメカニズムが形成されつつある。その
は 220,000 ペソであった(URC1998)。ケソン市の
あった(URC1997)。首都圏の地価は、1996 年だ
解明こそ本稿の目的である。その場合、スクオッ
けで、首都圏CBD(Central Business District)で 50%、
ターの存在が最大の鍵をなす。スクオッターこそ、
周辺地区で 25%高騰した(Rebullida1999: 17)。三
ホームレスの最大の供給源だからである。実証研
つ、政府・行政の住宅政策が進展しないことであ
中流クラスの住宅地では、1986 年に 450~1,500
ペソであったが、95 年には 4,000~12,000 ペソで
究がない現在、このような見解は推察に留まる。
る。政府が 2005~10 年に建設が必要とした住宅戸
しかし前掲の諸資料から、また筆者の見聞から、
数は、全国で 3,756,072 戸(その内マニラは 496,928
限られた情報ではあるが、スクオッターを排除さ
戸で全国の 13.2%)であった。しかし、その政策
れてホームレスになる人々は、確実に増加してい
として建設目標にされたのは 1,145,404 戸で、必
る。
(ストリート・)ホームレスが、スクオッター・
要戸数の 30.4%であった(Karaos & Payot 2006:
ホームレスから析出されつつある。では、それは
67-68)。実際はこの目標を達成することさえ覚束
どのようにしてだろうか。ここで、その析出過程
ない
の一端を、スクオッターの分析をとおしてあきら
ッター家族に土地の権利を与えたのは 228,548 家
かにしたい。
20 )
。政府が 2001~06 年 3 月の間に、スクオ
族で、それは目標の 34.1%であった(Karaos &
Payot 2006: 69)。
ホームレスは確実に増えています。つい近
年まで、そんな状態ではなかったと思います
4.2
都市の改造
よ。どうして増えたかって。それは、スクオ
グローバリゼーションのなか、マニラ経済が活
ッターを撤去されて、行き場を失った人が増
性化し、土地利用が高まり、土地投資が加速した
えたからです。スクオッター撤去が増えてい
(以下は青木 2005)。地価の高騰もそのためである。
ますから、まだまだ増えるでしょうね。残念
1990 年代に都心部の再開発が進み、モール等の大
なことですが。(NGO 1活動家の話 2006.11.8)
型商業施設、企業やマンションの高層ビルが建設
された。マカティ~クバオの中間点オルティガス
4.1
スクオッターの増加
1990 年代以降、マニラのスクオッターは、家族
(Ortigas)には、副都心が建設された。この結果、
2 つの事態が生じた。一つ、私有の遊閑地・荒廃
も人口も増加している。政府機関によれば、それ
地に立地したスクオッターの撤去が進んだ。二つ、
は、1995 年に 432,450 家族(MMHP 1996: 11)、99
スクオッターが地価の高い都心部から安い郊外へ
年に 577,291 家族(Padilla 2000: 5)、2000 年に
周縁化された。不動産市場の規制緩和がこれらの
716,387 家族(NHA 2001: 13)であった。マニラ全
事態に拍車をかけた。その結果、スクオッターが
42 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
郊外化した。表 2 をマニラの前掲地図に重
表2
再居住した世帯数
ねて見られたい。
(撤去されて)再居住した
家族数とスクオッター家族数の集計年が異
北
再居住世帯数
全世帯数
部
再居住率
7,829
108,193
72
傾向が確認されよう。1980~90 年代に、
カロオカン市
2,360
52,193
45
CBD のマニラ市、マカティ市、パラニャー
ナボタス町
1,736
19,030
91
ケ市から離れるにつれ、おおむね再居住率
バレンズエラ市
1,772
19,619
90
が低減している。政府は、住宅建設や融資
マラボン市
1,961
17,400
113
31,934
94,761
337
28,545
50,052
570
2,645
21,266
32
744
23,443
32
なるが、それでも、再居住率のおおよその
事業をみずからの財源で賄うことを断念し、
西
部
財源の調達を金融機関に、住宅供給を開発
マニラ市
業者に委ね、みずからはそれらの介添役(税
サンファン市
制優遇や法的措置等)に回るとした。こう
マンダルヨン市
して、住宅政策は市場原理に包摂されてい
東
った。
他方、政府は、財源不足の補填のため公
有地の民間払い下げを進めた。そこへ不動
部
17,774
210,819
84
ケソン市
15,770
181,659
87
パシグ市
1,910
11,556
165
マリキナ市
94
17,603
5
16,945
163,520
53
パサイ市
8,719
70,709
123
( Light Railway Transit ) の 延 長 や 新 路 線
パラニャーケ市
2,406
6,320
381
(Mass Railway Transit)の敷設、環状道路や
モンテンルパ市
336
34,705
10
高速道路の延長、河川や運河の整備等の事
ラスピニャス市
1,641
23,492
70
業が行なわれた。また、危険地区の整備や
マカティ市
3,378
8,384
403
街の美化政策が推進された。河川や運河で
タギッグ町
194
15,665
12
は両岸 10 メートル以内の居住が禁止され
パテロス町
271
5,765
47
74,482
577,291
129
産資本が参入した。また政府は、都市イン
南
フラの整備を進めた。既設の高架鉄道
た(NGO 1活動家の話 2006.11.8)。鉄道線路
合
部
計
の両側 15 メートル以内の居住が禁止され
(NHA 2004: 12)(Padilla 2005: 5)
*再居住した世帯数は 1982 年~2001 年の累計
た。
*全世帯数は 1999 年 11 月時点のスクオッター世帯数
4.3
スクオッターの撤去
*再居住率は 1000 分比
これらすべてが、スクオッターの撤去を
招いた。そもそもスクオッターには、政府が撤去
年、パシグ川河岸のスクオッター300 家族が撤去
優先地区とする場所での「不法占拠」が多い。2000
された(Padilla op.cit.)。2001 年だけで、18 件、
年に、マニラのスクオッターは、危険地帯(海岸
10,048 家族が撤去された(Padilla 2002: 6)。2005 年、
敷、河川敷や鉄道敷、塵芥集積場等)13.2%、政
政府はマニラの北部(Caloocan North, Malabon,
府のインフラ開発予定地 22.9%、公有地 44.9%、
Valenzuela, Mandaluyong)から南部(Caloocan South,
私有地 19.1%であった(NHA 2004: 13)。スクオッ
Manila, Makati, Taguig, Parañaque, Muntinlupa)を縦
ターの 36.1%が、すぐにでも撤去されかねない地
貫する国有鉄道(PNR)の整備に着手した。また
区であった。マニラで、1992~95 年に 105 件のス
同時に、河川敷や運河の整備を始めた。これらを
クオッター撤去があり、20,116 家族が撤去された
含めて、2005 年現在でスクオッターを排除された
(Karaos 1996: 10-12)。1999 年に、モンテンルパ市
家族数、および 2010 年までの間に排除予定の家族
のスクオッターで、1,600 家族が撤去され、全家
数は、表 3 のとおりである(Karaos & Payot 2006:
族がホームレスになった(Padilla 2000: 16)。2000
76)。表によれば、マニラで、5 年間に 130,000 家
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
族を超える家族がスクオッターから排
表3
(青木)― 43
スクオッターからの撤去実施家族と今後予定の家族
除されることになる。2000 年に入って、
マニラ首都圏開発局や公共事業・高速
移住予定家族
移住実施家族
今後予定家族
道路省(Department of Public Works and
北部鉄道
38,588
22,318
16,270
Highways)、全国住宅局によるスクオ
南部鉄道
50,013
6,753
43,260
ッターの撤去も増加している。2004 年
パシグ河川敷
10,827
6,095
4,732
にマニラで 341 の撤去があった(その
運河堤
26,120
5,073
21,047
内 120 のスクオッターが警察官の実力
インフラ予定地
7,945
7,127
368
行使で撤去された)(Karaos & Payot
計
33,043
47,366
85,677
2006: 75)。2005 年に 233 の撤去があっ
Medium Term Philippines Development Plan & National
た(その内 80 のスクオッターが実力行
Housing Authority(Karaos & Payot 2006: 76)
使で撤去された)
21 )
。前掲NGO 1 によ
れば、2005 年 10 月~06 年 4 月の間に 4,591 家族、
て路頭に迷う悲劇は、枚挙に暇がない。マニラで
22,955 人がスクオッターから排除された(Karaos
1992~95 年にスクオッターを撤去された 20,116
& Payot op.cit.)。
家族の内、再居住地が補償された家族は 43%であ
った(Karaos 1996: 10-12)。1999 年、モンテンル
昨日、Taguig の西ビクタン(Bicutan)の軍
パ市で撤去された 1,600 家族には、再居住地が宛
保有地で、国軍兵士 100 人によるスクオッタ
がわれなかった。2000 年、パシグ川河岸で撤去さ
ー撤去があり、100 家屋、住民 300 世帯が排
れた 300 家族には、再居住地が宛がわれなかった
除された。住民は投石をもって撤去に抵抗し、 (Padilla 2000: 16)。また次の論文には、2001 年の
これに対して、兵士は威嚇射撃を行なった。
アロヨArroyo政権下における撤去と人権侵害の
この衝突で少なくとも 9 人が負傷した。家屋
18 例が詳述されている(IBON 2001)。さらに 2005
の撤去跡からは 12 個の火炎瓶が発見された。
~06 年に、国有鉄道の沿線以外の 1,591 家族が撤
「私たちは鼠みたいだ。私たちには代わりの
去され、その内再居住地を宛がわれたのは 23.8%
家がないのだ」
(PDI 2006.10.13)。このままで
で 、 立 ち 退 き 料 を 貰 っ た の は 37.0% で あ っ た
は 300 世帯 1,800 人がホームレスになってし
(Karaos & Payot 2006: 77)
22 )
。
まうと、市当局が土地の一部を住民に分譲す
るように軍に要請した。住民の一部は、元の
1992 年の都市住宅開発法の制定以前にあ
場所に留まり、自分の家の建材を売ったりし
ったスクオッターの撤去には再居住地が保
て、当座を凌いでいる(PDI 2006. 10.14)。
障されることになっていますが、それ以後に
できたスクオッターの撤去には再居住地が
4.4
ストリートへ
都市開発住宅法(UDHA)には、スクオッター
の撤去に関して、住民の居住権擁護の観点から、
保障されません。私たちは、それらのスクオ
ッターの撤去の監視にも重点を置いて活動
をしています。(NFO 1活動家の話 2006.11.7)
危険地区を除いてスクオッターの撤去を原則禁止
する、撤去する場合は住民に事前通告を行なう、
再居住地を宛がわれなかった人々は、代替の居
撤去には裁判所の決定を必要とする、撤去対象者
住地を探すか、親類縁者の家(たいていは他のス
には住宅資金を優先的に融資する、公有地に住む
クオッターに住む)に寄留するか、それらが叶わ
撤去対象者には再居住地を宛がう等の規制が盛ら
ない人々はホームレスになるしかない。仕事や子
れている。しかし多くの撤去が、事前通告も裁判
どもの学校の都合で、再居住地への移転を拒絶し
所の決定も再居住地の補償もなく行なわれ、抵抗
て、元のスクオッター近くでホームレスになる
する住民に多数の怪我人が出ている。家屋を失っ
人々もいる。他方、再居住地へ移転した人々はど
44 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
うだろうか。再居住地はしばしばマニラ(仕事の
まっている。ホームレスが、商業地区、娯楽地区、
場)から遠く、周囲に就労機会もなく、生計が成
ターミナル、市場、教会、公園、墓地、港湾等、
り立たない。また、電気や水道、学校や病院等の
市街地のストリート・公共空間の至る所に目立つ
23 )
。こうして、
ようになった。そしてその人々は、
「不可視の」
(特
多くの人々が再居住地からマニラへ戻ることにな
定空間に集住する)共同体を作るスクオッター・
る。マニラで生活の拠点が確保できる人はまだい
ホームレスと区別されて、可視的ホームレス、永
い。それができない人はホームレスになるしかな
久的ホームレス等と呼ばれるに至った(Padilla
い。再居住地を宛がわれなかった人々、再居住地
2000: 5-6)。ホームレスが確実に増加し、その人々
から戻った人々、さらにそれらの人々の内でホー
をめぐる問題が「ニュー・ホームレス」の問題と
ムレスになった人々の全体数は、不明である。し
して社会的に成立するのは、いまや時間の問題で
かし、これらの人々がホームレスの最大の供給源
ある。
生活施設がなく、生活が困難となる
になっていることは、推察に難くない。
(新しい貧困がもたらす~引用者)新しい
周辺性による都市空間の占拠は、二つの形態
5
ホームレスの形成
をとる。一つは黙許されたゲトーとしてであ
り、そこでは取り残された人々が、社会の主
5.1
流からは目に触れないところで居住を許さ
ニュー・ホームレス
アメリカでは、1980 年代以降、ダウンタウンの
れるというわけである。もう一つは、「スト
一角(skid row)にたむろする、中・高年齢の白人
リート・ピープル」(住所不定者)が都市の
男性を中心とするホームレス(skid rower)が減少
中心地域に表だって姿を現すという、危険な
し、性・年齢・エスニシティが多様化し、市街地
戦略であると同時に生存のためのテクニッ
に拡散し、市民に可視的な「ニュー・ホームレス」
クである(Castells 1983=1997: 236)。
が増加した(Levinson 2004: 108, 392)。日本でも、
1990 年代以降、仕事にあぶれて寄せ場周辺の路上
5.2
グローバリゼーション
に留まり、仕事が出ると労働現場に戻る日雇労働
このようなホームレスの増加は、途上国都市の
者が減少し、いったん路上に排出されるとふたた
全般に見られる現象であるだけでなく、産業国都
び労働現場に戻ることのできないホームレスが増
市におけるニュー・ホームレスの増加に照応する
加した。これに、社会底辺の諸職業から排出され
ものである
たさまざまな人々が加わった。そしてホームレス
らの現象を生じているもの、それはグローバリゼ
は、駅や公園、河川敷等に定着し、市民に可視的
ーションである。もとより、マニラにおけるホー
な存在になった。日本でも、この人々が「ニュー・
ムレスの増加には、マニラの歴史に規定された固
ホームレス」と呼ばれるに至った(笠井 1995: 11)。
有の経緯がある。フィリピン(マニラ)経済はな
途上国都市マニラで、ストリート生活者(street
ぜ離陸できないのか。フィリピン(マニラ首都圏)
24 )
。それらの現象の基底にあり、それ
dweller)は、近年に現われた人々ではない。地方
の政府は、なぜ貧困や住宅の問題を解決できない
からの新来者で、仕事と住居を得ることができず、
のか。問題の背景には、どのような政治・社会・
ストリートに野宿する人は昔からいた。物乞いを
文化の構造があるのか。当然、これらの問いが個
して放浪する人もいた。その数も少なくなかった。
別に問われ、解明されなければならない。その点
しかしそれらの人々は、都市人口の過半数に及ぶ
を念頭におきつつ、ここではその前に、どうして
スクオッター・ホームレスに圧倒されて、その一
グローバリゼーションがホームレスの増加を生じ
部と見做されるに留まった。しかし、1990 年代末
ているかを問い、その途上国都市マニラにおける
以降、ホームレスがさらに増加した。その数は特
一般的過程を説明することにしたい。グローバリ
定できないが、市民の間にもそのような認識が広
ゼーションがホームレスを生み出す過程は、たが
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
いに関連しあう 4 つのサブ過程から構成される。
、、
的な背景となった(人々をストリートへ押し出す
28 )
プッシュ要因 1)
5.2.1
生活機会の増大
(青木)― 45
。ただし、窮乏化する人のす
べてがホームレスになるわけではない。生活崩壊
グローバリゼーションは、マニラでもサービス
の土壇場で、親類縁者の救済ネットワーク(safety
経済の膨張を招いた。それは、ストリートにおけ
network)をもたない、一部の人のみがストリート
る生活機会の増大をもたらした。まず、商業施設
に流出していく。
やコンビニンス・ストア、ファミリー・レストラ
ン等が増加した
25)
。それにより、食料等、ホーム
5.2.3
スクオッターの撤去
レスがストリートでの生活を凌ぐ生活資源が増大
グローバリゼーションは、資本競争を促し、土
した。市民の消費水準の向上にともない、物乞い
地の再利用を促した。不動産市場が膨張し、遊閑
の機会も増大した(ストリートへホームレスを誘
地・荒廃地の再開発が進んだ。そして地価が高騰
うプル要因 1)。
し、土地の資本価値が高まった。これも遊閑地・
次に、サービス経済の膨張は、労働のインフォ
荒廃地の再開発を促した。こうして、土地の商業
29 )
ーマル化(自前の小資本で、また知識・熟練を要
利用、ジェントリフィケーションが進んだ
さずして参入できるような諸職種の増加)を促し
府の公有地の払い下げやインフラ事業、危険地区
た(青木 2003: 113-119)。そして、インフォーマ
の整備、街の美化等も、資本競争に照応する上か
ル職種が膨張した。その底辺にあって、ストリー
らの都市再開発であった。これらの結果、都心部
トでの仕事(ヴェンダーや再生資源拾集人、バー
からスクオッターの撤去が進んだ。そしてスクオ
カー等)が増加した
26 )
。また、新たなインフォー
27 )
。政
ッターが、遊閑地・荒廃地が残存する都心周縁で
。その底辺にあって、清掃
増加した(スクオッターの郊外化)。スクオッター
人や荷物運搬人、サンドイッチマン、駐車場見張
撤去で、再居住地を保障されず、また再居住を拒
り人、走り使い等の仕事が増加した。これらは、
絶し、かつ寄留できる親類縁者のない人々は、ス
ホームレスの生活機会の増大をもたらした(プル
トリートに留まった。再居住地へ移動してもそこ
要因 2)。
で生計の方途がない人々は、マニラに戻った。そ
マル職種が現われた
して、寄留できる親類縁者のない人々も街頭に留
5.2.2
まった。さらに、地方からマニラに出てきたが、
階層の下降圧力
グローバリゼーションは、労働市場の再編を促
し、労働の柔軟化(flexibilization
労働者に多様
な仕事をこなす能力が求められること)と契約化
(contractualization
スクオッターにも入れず、寄留できる親類縁者の
いない人々も、街頭に留まった(これらすべてプ
ッシュ要因 2)。
3~6 ヶ月の雇用期間が定めら
れること)をもたらした。それらは、労働者に就
5.2.4
労の不安定と実質賃金の切り下げをもたらした。
グローバリゼーションは、新自由主義のもと、
政策の頓挫
近代企業(多国籍企業を含む)においても、最低
小さな政府を生んだ。また、途上国政府の財政危
賃金に満たない(飢餓)賃金で働く労働者が増加
機が進行した。その結果、ホームレスに関わる諸
した。それは労働者の生活困窮を招いた。ある人
政策が、頓挫をよぎなくされた。まず、都市底辺
は、副業(たいていはインフォーマル職種)をも
層(スクオッター住民)に対する雇用創出の政策
った。ある家族では、他の家族員が就労した(こ
が頓挫した。次に、スクオッター住民に対する土
れもインフォーマル職種)。ある人は、企業のフォ
地確保と住宅建設の政策が頓挫した。再居住の恩
ーマル職種からインフォーマル職種に転職した
恵も一部のスクオッター住民に留まった。こうし
(青木 2003)。このような労働事情は、労働者の窮
て、貧窮者がホームレスになるのを防ぐ政策が頓
乏化と階層的な下降圧力を強めた。そしてそれは、
、、
労働階層の底辺にある人々のホームレス化の一般
挫した。さらに、ホームレスを救済する雇用・福
祉政策が頓挫した。マニラの場合、医療等の緊急
46 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
30
援助と 6 つの収容施設 ) への一時収容を除いて、
同NGO 4 、収容施設、教会等で筆者が面接した
見るべきホームレス対策はない(これらすべてプ
人々、先行の報告や研究の情報をもとに、スト
ッシュ要因 3)。
リートの人々の全体像を描く。
3)
バジャオはモロ(Moro)の 13 部族の 1 つであ
るが、ムスリムではない。海辺に家を作る貧し
6
途上国都市のホームレス研究
い漁民で、伝統的なコミュニティをもち、海洋
生活のなかで言語や風習、音楽等を伝承してい
マニラにおけるホームレス(の増加)を、グロ
る。マニラに出ても、タガログを話さず、バク
ーバリゼーションが促す経済・政治・社会の諸過
ラランのコミュニティを拠点に、辻芸人や物乞
程を介して解釈すると、このようになる。困窮し
いをして暮らす。
(NGO 4 活動家の話。2007.1.21)
た人々をストリートへ誘う諸要因(プル要因 1・2)
4)
スクオッターには、(違法に)土地の所有者を
とストリートへ押し出す諸要因(プッシュ要因
名乗り、土地や家を貸すことを生業とするシン
1・2・3)が重なって、ホームレスが社会層として
ジケートもある。政府のスクオッター政策(か
形成されていく。もとより、ホームレスが生まれ
つて、住民に居住権認可の証明書を出したケー
る事情は、国や都市ごとに異なるし、困窮した人々
スがあった)や、複雑な土地管理行政(土地所
がホームレスになる事情も、無限に多様である。
有の登録や名義変更の手続きに 3 年を要すると
しかしグローバリゼーションのもと、産業国・途
、、、、、
上国の諸都市で、ほぼ同時に「ニュー・ホームレ
い う ) が 、 こ れ を 可 能 に し て い る ( TPS,
ス」が生まれている。マニラでもその過程が進行
2007.1.28)。
5)
スクオッター政策の基本を定めた都市開発住
している。この事実は動かない。
「ニュー・ホーム
宅法(1992 年制定)では、スクオッター住民は、
レス」は、グローバリゼーションの進行の表徴と
「困窮したホームレスの市民」(underprivileged
なっている。グローバリゼーションのもと、都市
and homeless citizens)と表現されている。しか
下層の人々の労働と居住は、どのように変容しつ
し、スクオッターには非貧困層も住んでいる。
つあるのか。貧困の原因と性格は、どのように変
近年、スクオッターの階層分化が進んでいる。
容しつつあるのか。そして都市下層は、どのよう
都市研究協会(Urban Research Consortium)の
に再編されつつあるのか。「ニュー・ホームレス」
算定によれば、マニラのスクオッター人口の 20
の研究は、これらの問いを解明する有効な切り口
~25%は定収入をもち、人口の平均収入は、政
となる。しかし、途上国都市(マニラ)のストリ
府算定の貧困線を 20%上回った(URC 1995:5)。
ート・ホームレスの研究は、始まったばかりであ
とはいえ、大多数のスクオッター住民は、貧困
る。
に喘いでいる。セント・ジョセフ(St. Joseph)
大学は、ケソン市の 4 つのスクオッターの 887
世帯について生活調査を行なった(SJC,1995)。
注
それによれば、スクオッターの貧困発生率(全
世帯に占める貧困線以下の収入の世帯の比率)
1)
研究者も行政職員も、ホームレスの研究や資料
は 80.4%で、非貧困世帯は 2 割に留まった(SJC
はないという。どこでも「大変ですね」と労わ
1995)。貧困世帯の底辺部分は、生活実態にお
れる。新聞では、「火事で焼け出された住民が
いてホームレスと大差ない。
ホームレスになった」という記述か、ストリー
2)
6)
もっとも、集住もスクオッターとホームレスを
ト・チルドレンの話が出るくらいである。これ
区別する決定的な指標とはならない。筆者が訪
がフィリピンの実情である。
れた運河堤のスクオッター(2006.11.8)は、2006
以下、スクオッター、ホームレス、スクオッタ
年 4 月に撤去され、今は 3 家族が離れて残って
ー問題のNGO 1 、同NGO 2 、少数民族問題のNGO 3 、
いる。これはもはや集住とはいいがたい。しか
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
7)
しそこには、固定したシェルターがあり、家財
1980-90 年 16.3%であった(Pernia 1994: 40)。こ
道具があり、家族生活があった。
れは、スクオッター人口にマニラ生れの人々が
NGO 2 代表は、スクオッターには一つの家屋に
増加している事実に照応する。たとえば、ケソ
数家族が住むことが多い、その場合、家主をス
ン(Quezon)市の第二居住区(DistrictⅡ)の調
クオッター住民とみて、その他の家族はホーム
査によれば、1997 年に、人口の 50%がマニラ
レスとみるべきではないかという(2006.11.20)。
生れで、80%がマニラに 10 年以上住んでいた
実態はそのとおりであろう。しかし本稿では、
(Endeiga 1999: 31)。前掲の鉄道敷のスクオッタ
その他の家族もスクオッターとみなす。一つの
ーでは、ほとんどの人はすでに 20 年近く住ん
部屋に同居生活をして、家賃は月に 1,000 ペソ、
安くても 700-800 ペソはするという。とすれば、
8)
でおり、60-70%の世帯がそこで生れたという
(住民の話 2006.11.5)。
月に最低 5,000 ペソの定収入がないと、部屋さ
10) パディラは、ホームレスの最大の供給源として
え借りれない(同代表の話)。それは、定収入
地方からの新来者を挙げる(Padilla 2000: 6)。
のないホームレスにはできない話である。
しかし、実態はそうではなかろう。地方からの
4 つの再居住地の調査によれば、住民(600 人)
新来者は減少しているし、新来者には、親類縁
の職業構成は、失業 26.5%、未熟練労働 12.8%、
者を頼ってのチェーン・マイグラント(chain
運転手 13.8%、販売(ヴェンダー)15.5%、建
migrant)が多い。そもそも農村の最貧者には、
設(日雇)8.7%、農業(家庭菜園)2.3%、メイ
国内移住さえ叶わない人が多い。ただし、災害
ド 1.5%、技術者 8.8%、サービス職 5.3%、職人
難民や政治難民の場合は別である。
2.0%、その他 2.7%であった(ICSI 2000)。失業
11) かつて(1987 年)、筆者のマニラ滞在中に、ミ
率が高く、技術者を除いてすべてインフォーマ
ンダナオでの戦闘激化により、多くの人々がマ
ル職種である。また、スクオッター住民の職業
ニラ(首都圏)に逃れ、マニラ市内の大学(フ
構成と比べて職種が少なく、販売、メイド、サ
ィリピン工科大学 Polytechnic University of the
ービス職等の比率が低い(たとえば UPA,2004:
Philippines)のキャンパスに野営した。そして、
17)。マニラ郊外のサンマテオ市(San Mateo
その野営を人権問題として認めるかどうかを
City)の山中の再居住地で、住民に仕事を尋ね
めぐって、大きな議論が起きた出来事が思い起
た。すると、家畜飼育、ヴェンダー、再生資源
こされる。その時、キャンパスを開放した進歩
拾集人と返ってきた(2006.11.20)。職種がいか
にも少ない。
9)
(青木)― 47
地方の工業化とともに、マニラへの人口流入は
派の学長が狙撃された。
12) 社会福祉開発省マニラ首都圏局(Department of
Social Welfare and Development-National Capital
低減傾向にある。マニラの人口増加率は、
Region)は、2004 年 1-3 月に 584 人の困窮者に
1995-2000 年に年間平均で 1.06%、全国平均は
緊急援護を行なった。その内訳は、ストリー
2.36% で あ っ た ( 2000 年 の マ ニ ラ 人 口 は
ト・チルドレン 405 人、成人ホームレス 109 人、
9,932,560 人)
(NSCB homepage)。マニラ周辺の
少数民族出身者 70 人であった(DSWD-NCR
ダ ス マ リ ア ン ズ ( Dasmarians )、 カ ヴ ィ テ
homepage)。この少数民族出身者も、ほぼホー
(Cavite)、サンタロサ(Santa Rosa)、ラグナ
ムレスとみていい。
( Laguna ) で は 、 年 に 10% を 超 え た ( TPS
13) コルディレラの人々は、マニラに 4 つのコミュ
2006.10.1)。また、マニラから地方へ出る人も
ニティをもつ。その人口は不明である(少数民
増加している。古い数字であるが、1985-90 年
族問題 NGO3 活動家の話 2006.12.6)。ムスリム
に、マニラへ流入した人は 456,597 人、マニラ
の人々は、5 つのコミュニティをもつ。その人
から出た人は 331,389 人で、実質の流入増は
口は推定 20 万人という(少数民族問題 NGO4
125,228 人であった(Pernia 1994: 33)。マニラ
活動家の話 2006.12.12)。
人口における新来者の割合は、1970-80 年 37.0%、
キアポの公営市場周辺の歩道で商うムスリ
48 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
ムのヴェンダーが、年末年始の交通渋滞の原因
容者は、246 人であった。収容者は増加する一
になるとして排除された。ヴェンダー組織
方という。
(Pasig United Muslim Federation)の代表は、そ
18) 十分に確認された事実ではないが、ルソン島
れでは生活が成り立たない、せめて公営市場の
北・中部からマニラに出稼ぎに入る人には、マ
前で商うのを許可してほしいと市役所に申し
ニラ北部のバス・ターミナルのモニュメント
出た。それに対して、権利金等 10,000 ペソを払
(Monument)界隈に、ルソン島南部からマニラ
っている市場内のヴェンダーから、市場の前で
に出稼ぎに出る人は、マニラ南部のバス・ター
安い品物を売られては適わないと反対が出た。
ミナルであるバクラランに、さらにマニラ中心
2 週間前には箱が爆発して 3 人が負傷する騒ぎ
部のルネタ公園、リサール公園に、行く所がな
まで起こった(PDI 2006.12.20)。このムスリム
くホームレス状態で留まる人が多いと思われ
組織には、300 人のヴェンダーが参加している。
る。これらの人々の一部が仕事を得て、または
14) 全国住宅局でも社会福祉開発省(Department of
スクオッターに入り、残りの人々がホームレス
Social Welfare and Development)でも、ホームレ
としてマニラ市内に散っていくものと思われ
スはたえず移動する人々だから数や分布をカ
る。こうしたホームレスの空間移動の実態も、
ウントすることはできないという。研究者もそ
不明である。
ういう(Padilla 2000: 6)。しかしホームレスは、
19) 街頭での物乞いの規制・取締りに関する法令
特定地域の範囲で移動する人々である。ホーム
(大統領令 1563)には、mendicant(生活手段を
レスは、特定地域に定着ないし半定着する人々
もたず、きちんとした仕事もなく、仕事に就こ
である。ゆえに、少なくとも概数のカウントは
う と も せ ず 、 も っ ぱ ら 物 乞 い を す る 人 )、
可能である。それは欧米や日本での経験が示す
exploitated infant or child(放浪生活をしながら
とおりである。むしろマニラの場合、ストリー
物乞いする 8 歳以下のこども)、habitual men-
トで働く人々で、ホームレスとそうでない人を
dicant(スクオッター等に住みながら物乞いす
どう見分けるのか、スクオッター・ホームレス
る人)の分類がある(DSWD-NCR 無題名資料)。
とホームレスの境界線をどこに引くのかとい
20) 政府の住宅建設実施の遅れは、土地購入と住環
う技術的な問題が、ホームレスのカウントを困
境整備の財源が不足していること、土地購入や
難にしているはずである。ともかく真実は、そ
住環境整備をめぐる行政と地域の合意が困難
こまで議論を詰めるほどに、ホームレスの問題
な こ と に 原 因 が あ る ( Karaos & Payot 2006:
に政策や研究の課題を感じていない、または手
67-68)。さらに、政策実施における行政組織が
が回らないということであろう。
非効率である(官僚制、中央と地方の連携の阻
15) ストリート・チルドレンの他に、工場や小売販
売、家業手伝い等で働く子ども(working children)
害)ことにも原因にある。
21) 2005 年に、スクオッター撤去において実力行使
が、マニラで 20 万人に上るという(Porio 1994:
を自粛すべしとの行政命令(ED152)が出され
109)。この中にも、生活実態はストリート・チ
たため、その件数が減少した(Karaos & Payot
ルドレンと変らない子どもが少なくないと思
2006:75)。
われる。
16) 社会福祉開発省マニラ首都圏局は、2006 年 1~
6 月に、マニラの繁華街で 121 回のアウトリー
チ活動を行ない、延 2,100 人のホームレスを援
護した(DSWD-NCR 2006)。その内訳は、ホー
ムレス 52%、ストリート・チルドレン 40%、ス
トリート・ファミリー8%であった。
17) 後日、2007 年 1 月 22 日に施設を訪れた時の収
22) 前掲のマニラ市の橋の下のスクオッター(53
世帯)では、市行政から、一世帯 5,000 ペソの
立ち退き料での撤去を通告されている。住民は、
それを不服として市行政と交渉を重ねている
(2007.1.7)。
23) 行政は、これらの不都合を回避するため、再居
住の基本を市内への移転に置いている。北部・
南部国有鉄道の移転計画では、(一部)それが
フィリピン・マニラのストリート・ホームレス
(青木)― 49
実施されている。市外への移転は、市内に再居
包装作業労働者等。このほとんどがマニラの新
住の土地が確保できない場合のみとされる。マ
たなインフォーマル諸職種に照応する。マニラ
ニラ市やマカティ市の場合では、マニラ(首都
ではこれに、大型店舗の販売員や運転手等、フ
圏)近郊のラグナやカヴィテ、ブラカン等が再
ォーマル部門の下層サービス・販売職種が加わ
居住地とされた(住宅・都市開発調整会議
る。
Housing and Urban Development Coordinating
Council の職員の話)
( Karaos & Payot 2006:72)。
24) このグローバルな「都市下層」析出の過程を解
28) 民間の調査機関(社会情勢観察所 Social Weather
Station)によれば、マニラで 2006 年 11 月に、
調査者(世帯主)300 人の 17.7%が、過去 3 ヶ
明し、検証することが、筆者の関心事である。
月に少なくとも 1 度は飢餓体験をしたと答えた
そこで筆者は、分析・説明の鍵として「新労働」
(TPS 2006.12.20)。その内、日々食べ物に困る
「新貧困」の概念を措定した。本稿は、その立
「深刻な飢餓」状態にある人は 5.0%であった。
証の一環としてある。その仮説については、次
回答者の 48%は、みずからを貧困者を考えてい
を見られたい。(Aoki 2006: Chapter 1)
た。また回答者は、貧困を免れるには月収
25) たとえば、コンビニエンス・ストアのセヴン・
10,000~12,000 ペソが必要であると答えた(主
イレブン(7-Eleven)は、フィリピンで 1984 年
観的貧困線)。これは、2000 年センサスの最低
に第一号店が出され、2005 年には 253 店まで増
生活費 17,713 ペソ(マニラ)(NSO homepage)
加した。そのほとんどはマニラにある
をかなり下回る。その落差に、人々の強い生活
(Philippine Seven Corporation homepage)。ファ
逼迫感を窺うことができる。
ースト・フード店のジョリビーは、1975 年に第
29) マニラで、行政の「美しい街づくり」が進めら
一号店が出され、2006 年には、全国で 1,287 店
れている。ケソン市で、クリスマスから年末年
まで増加した(Jollibee Food Corporation home-
始にかけて(12 月 1 日~1 月 8 日)、交通渋滞
page)。その大半はマニラにある。
の原因になるとして、歩道や歩道橋のヴェンダ
26) マニラのインフォーマル職種の従事者は、1995
ーを排除し、指定された場所でのみ許可する規
年に 549,000 人という報告がある(この数字は、
制が始まった。一切の例外を認めず、違反者は
かなり控え目のように思われる)(Joshi 1997:
逮捕、商品没収に処するという厳しい規制であ
6)。その内、事業者(零細自営)351,000 人(そ
る(TPS 2006.12.2)。繁華街の至る所で、日々、
の内女性 49%)、雇用者 188,000 人(その内女性
「違法」ヴェンダーを取り締まる警察官と逃げ
44%)で、雇用者がない事業体 81%であった。フ
回るヴェンダーの攻防が繰り返されている。
ォーマル職種のインフォーマル化(契約労働
化)の煽りを受けて、インフォーマル職種の就
昨日、メトロマニラ開発局(MMDA)によ
業者は増加しつつある(Joshi 1997: 8)。
るバクラランの舗道のヴェンダーの排除が
27) サスキア・サッセン(Saskia Sassen)は、ニュ
行なわれた。また、ヴェンダーと彼らのコ
ーヨーク州のサービス業の下位職種として、次
ミュニティ(住民 5,000 人)を繋ぐ橋が解
の諸職種を掲げた(Sassen1988: 200=1992: 234)。
体された。ヴェンダーと住民はこれに投石
メイド、清掃人、ビル等の管理人、荷物運搬人、
で抵抗し、警察官は威嚇射撃を行なった。
銀行内走り使い、炊事場手伝い、食料貯蔵室係、
この衝突で 2 人が死亡、3 人が負傷した(TPS
サンドイッチ/コーヒー係、食事サービス、客
2007.1.6)。この地区ではこれまでも何度か
室係、切符もぎ取り、在庫管理事務員、洗濯人、
撤去騒ぎがあり、2003 年には 4 人の死者を
機械洗濯人、手洗いのドライクリーニング従業
出した。パラニャーケ市当局は、一帯にモ
者、しみ抜き作業要員、プレス作業要員、洗濯
ールを作り、ヴェンダーが永久店舗をもて
物をたたむ係、敷物洗濯人、靴修理人、配達労
るように計画している(PDI 2007.1.12)。
働者、駐車場管理人、害虫・鼠等の駆除業者、
30) 収容施設の運営主体の内訳は、社会福祉開発省
50 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
1 つ、同首都圏局 2 つ、市 3 つである。その他、
NGO が運営する施設が 3 つある(DSWD-NCR
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52 ―ヘスティアとクリオ No.5(2007)
Transformation of Urban Structure and Street Homeless :
A Case of Metro Manila
AOKI Hideo
Urban Sociology Research Center
In cities of industrial countries, homeless people on the streets have increased and their existence has become
a social problem after 1980s. In cities of developing countries, the street homeless who can not live even in squatter
areas have increased after the end of 1990s as well. However, the problem of street homelessness has not yet been
constructed as a social problem in developing countries because it is overwhelmed by the large-scale squatter problems. The street homeless have been regarded as a part of the squatter homeless. Therefore, the government reports
about the street homeless is very few. Previous research about the street homeless is very few as well. In this paper I
will clarify the actual situation of the street homeless in Metro Manila relying on the information which I gathered,
extract its basic problems and analyze them. I will propose three concrete topics here. First, I will classify the various
street dwellers into different groups and identify who are the street homeless. I will argue in particular about its relationship with the squatter homeless. Next, I will analyze the actual situation of the street homeless. I will do it relying
on previous reports about street children and my survey, focusing on the parents and families of the street children. At
the same time I will analyze the process in which the inhabitants are removed from the houses in the squatter areas
relying on previous reports on squatter demolitions and my survey. Squatter is the greatest source that produces street
homelessness. Finally, I will explain the formation of the street homeless as a symbolic phenomenon of the transformation of labor market and spatial structure in the city brought by the economy of new-liberalism. The increase of
homeless in industrial countries and the increase of street homeless in developing countries are the processes which
continually exist simultaneously under the globalization.