第三回ミクロゼミ カント『道徳形而上学原論』③ 担当:徳山・山本・中野 1

第三回ミクロゼミ
カント『道徳形而上学原論』③
担当:徳山・山本・中野
第三回ミクロゼミ
カント『道徳形而上学原論』③
担当:徳山・山本・中野
問 1:定言的命法と仮言的命法の根拠の違いを、P100 を参考に明らかにし、それぞれの例
を挙げて説明せよ。
【引用】
P100 「もし目的が理性によってのみ与えられるならば、その目的はすべての理性的存在者
に等しく妥当せねばならない。
」
同上 「欲求の主観的根拠は動機であり、また意欲の客観的根拠は動因である。動機に依
存する主観的目的と、すべての理性的存在者に例外なく妥当する動因にもとづくところの
客観的根拠との相違は実にここにある。
」
同上 「実践的原理が、主観的目的をすべて度外視するならば、その原理は形式的である、
しかし実践的原理が主観的目的を、従ってまたなんらかの動機を根底に置くならば、その
原理は実質的である。
」
同上 「或る理性的存在者が、彼の行為の結果として任意に設定した目的(実質的目的)はす
べて相対的なものにすぎない」
P101 「人間ばかりでなく、およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する、す
なわちあれこれの意志が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、自分自身な
らびに他の理性的存在者たちに対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時
に目的とみなされねばならない」
【解答】
定言的命法と仮言的命法の根拠の違いは、端的に言えば動因にもとづいているか、動機
にもとづくものであるか、という点である。つまり、定言的命法はある行為に対して、そ
の行いをするに至る過程が重視されなければならない。その行為のもととなった意志に着
目する必要があるのだと考える。定言的命法は、「君は、
〔君が行為に際して従うべき〕君
の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲し得るよう
な格律に従ってのみ行為せよ。
」(p.85 引用)というように、すべての理性的存在者に当ては
まるべきものである。そのため、定言的命法の根拠は、行為の格律が普遍的に妥当すると
いう点にあり、いつでも意志を手段としてではなく同時に目的として見なさねばならない
のである。
仮言的命法では、ある行為の結果のみに焦点を当てている。行為の結果が傾向性による
ものだとしても行為だけを切り取って正しい、道徳的であると判断することとができれば
問題はないのである。ある女子生徒が高校に入学し、早速入部したい部があったため、部
活動を始めた。その部活動では早朝にも練習があり、放課後にももちろん練習があるため、
体は疲れきってしまっている。そのため、帰宅後はできれば勉強などしたくないだろう。
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ある日、母親から「勉強しないなら、成績は下がる一方なので、部活は辞めてもらう」と
宣言されてしまった。部活を辞めたくはないため、当然彼女は母親の言うとおりに勉強も
怠らずにするようになったのである。このように、仮言的命法では、ある行為を行う場合、
その際には傾向性に基づいて行為がなされる。しかし、結果に至るまでの過程がどうであ
れ、結果としてはその行為は問題がない行為であると判断されるのである。さらに、目的
だけを重視するため、当然すべての理性的存在者に普遍的に妥当する法則でもない。よっ
て、仮言的命法の根拠は、行為に対して「目的のためにしなければならないこと」を前提
としているため、動機にもとづいたものなのである。
問 2:
「目的の国」とは何か、以下のキーワードを用いながら説明せよ。
キーワード:理性的存在者、格律、普遍的立法、自然の国
【引用】
P113「理性的存在者は自分自身ならびに他のいっさいの理性的存在者を単に手段として扱
うべきでなく、いついかなる場合でも同時に目的自体として扱うべきであるという法則に
服従しているからである。そうすると共通の客観的法則による理性的存在者たちの体系絵
的統合すなわち一個の国が成立する。」
P114「目的の国は、意志の自由によって可能となる、(中略)しかし彼は、彼の意志を規定
する格率によるだけでは、元首の地位を保持することはできない、このことは彼が、自分
の意志に適合する能力に欠け目がなく、まあたこの能力を制限する何ものも存在しないよ
うな、完全に独立した存在者であるときにのみ可能である」
P115「それだから理性は、理性的存在者の意志を普遍的に立法するものとみなして、(中略)、
理性的存在者の尊厳という理念にもとづいて為されるのである。
」
P120「―すべて格率は、それ自身の立法[中略]によって、自然の国としての可能的な「目
的の国」と調和すべきである。
」
P123「すべての理性的存在者に例外なく通用するところの普遍的妥当性を、みずからのう
ちに含むような格率に従って行為せよ」
P124「理性的存在者は、およそ単なる自然的存在者に優越する尊厳(特権)を備えている」
P125「目的の国は格率によってのみ―換言すれば、理性的存在者がみずから自分自身に課
した規則によってのみ可能であるし、これに対して自然の国は、外部から強制された作用
原因に従ってのみ可能となる。
」
「自然全体は、その目的としての理性的存在者に関係している」
【回答】
「目的の国」とは共通の客観的法則により相異なる理性的存在者が体系的に結合した存
在である。目的の国における理性的存在者は、自身の意志を規定する格律に従うだけでな
く、その格律が普遍的立法(意志がみずから自分自身に課する普遍的法則)と両立するよう
な格律に従わなければならない。なぜなら、目的の国を可能にするものは、いっさいの理
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性的存在者が自分や他の理性的存在者を目的自体とみなすところにあるからだ。そして、
目的自体とするためには、道徳性が必要であり、道徳性があるから目的の国の成員は普遍
的に立法でき、他の理性的存在者を自分自身と同じような目的自体とみなせるのだ。
ここで目的の国を
自然の国
と対比させて目的の国の概念を考える。まず理性的存在
者が目的の国の成員だとすれば、自然の国の成員は感覚的(自然的)存在者だといえる。我々
は肉体がある以上、自然の国からは逃れられない。そこでは物事の原因と結果に縛られて
いるため、意志の自由は存在できない。しかし、目的の国という精神的な世界では、理性
的存在者は自己の理性によって道徳的行為を規定できる。つまり、自分で自分の行動を決
めることができる、つまり意志の自由を得られるのだ。目的の国の理性的存在者は、意志
の自由をより道徳的価値を帯びるような形で実践していかなければならないのだ。
問 3:p.129「それにしてもこの自律の原理が、道徳哲学における唯一の原理であるという
ことは、道徳の諸概念を分析するだけで十分に説明できる。」とある。カントは意志の自律
というものを道徳性の最高原理として考えているが、なぜそういえるのか。他律というキ
ーワードと対比させながら説明せよ。
【引用】
P129
「自律の原理はこうである、―「意欲が何かを選択する場合には、その選択の格律
が当の意欲そのもののなかに、同時に普遍的法則として含まれているような[選択する意欲
がその選択の格律を、同時に普遍的法則として含んでいるような]仕方でしか選択してはな
らない」
。」
P130
「意志が自分の本領から出て、何によらず意志の客体[目的]の性質のうちに、これ
を求めようとすると、必ず他律が生じる。そうなると意志は、自分自身にみずから法則を
与えるのではなくて、この客体が、自分と意志との関係を介して、意志に法則を与えるこ
とになる。しかしかかる関係は、傾向性にもとづくにせよ或いは理性の表象にもとづくに
せよ、仮言的命法を可能にするだけである」
同上 「それだから定言的命法は…実践理性(意欲)が自分にかかわりのない関心を処理
するというだけではなくて、この理性が命令者としての自分自身の権威を最高の立法とあ
いて証示するためである。」
P131f 「他律という観点から得られるいっさいの原理…第一に経験的原理は、幸福の原理
から生じ、自然的感情もしくは道徳的感情にもとづいて成立する。また第二の合理的原理
は、完全性の原理から生じ、可能的な結果としての完全性という理性的概念[理念]にもと
づいて成立するか、さもなければ我々の意志を規定する原因としての、独立した完全性と
いう概念[神の意志]にもとづいて成立するか、二つのうちのいずれかである。」
P132-3「経験的原理はまったく道徳的法則の根拠たるに堪えないのである。道徳的法則は、
すべての理性的存在者に普く妥当すべきであるが…この法則の根拠が、人間の本性の特殊
な構造や、或いはかかる本質が置かれている偶然的環境に求められでもしたら、すべて失
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われてしまうからである。…この原理が道徳性の基礎に据えようとしている諸般の動機は、
道徳性を土台ぐるみ顚覆させてその崇高さをことごとく滅却するからである。要するにこ
の動機は、徳に向かわせる動因と悪徳に趣かせる動因とを同列に置き、もっぱら打算に長
じることを教え、徳と悪徳との間の特殊な区別をまったく払拭し去るのである。
」
P133
「道徳的感情…(…感情はその性質上、無限に程度の差を含むところから、善と悪
を判定すべき一定不変の標準を与えることができない。それだからもし或る人が、自分の
感情を標準にして他人を判断するとしたら、その判断は妥当である筈がない)は、とにか
く道徳性とその尊厳とに敬意を表し、また徳に対する満足とこれを尊重する念とを直接に
徳に帰するし、我々を徳に結びつけるのは、徳の美わしさではなくて利益だけである」
P135
「完全性という存在論的概念(この概念ははなはだしく空疎でかつ漠然としている
ため、可能的実在の無辺際な領域において、我々が求めているような都合のよい最大の総
量(完全性に関する)を見つけるには役立たないのである。)」
P137
「意志を規定する規則を意志に指定するために、意志の客体が根拠とされえねばな
らないような場合には、その規則はいつでも他律よりほかの何ものでもない。…客体が意
志を規定するとなると、それは自分自身の幸福を原理とする場合のように傾向性を介する
か、それとも完全性の原理におけるように、我々の可能的な意欲一般の対象に向けられた
理性を介するかであろう、だがこの二つのいずれにおいても、意志は行為の表象によって
直接に自分自身を規定するのではなくて、行為の結果を予め見越したうえで、この結果が
意志に影響を及ぼして生じた動機だけが意志を規定するのである。
」
【解答】
自律の原理とは、意欲が何かを選択する場合に、その選択の格律が当の意欲そのものの
なかに、同時に普遍的法則として含まれているような仕方でのみ選択しなければならない
原理をさす。しかし、自分自身から獲得する格律ではなく、自分とはほかの客体の性質か
ら格律を得ようとすると、そこに他律が生じることになる。つまり、意志を規定する規則
が、意志の客体を根拠としているものである場合は他律になるのである。この他律には大
きく分けて 4 つの原理に分類することができる。経験的な観点から得られる自然感情にも
とづく幸福の原理・道徳的感情にもとづく幸福の原理、合理的な観点から得られる人間に
おける完全性の原理・神における完全性の原理である。しかし、これらの原理はどれも道
徳的にもっともらしい説として浸透しているが、これら 4 つの原理は仮言的命法にかなう
ものであるために道徳的法則にかなうものではない。
まず経験的な観点から得られる自然感情にもとづく幸福の原理・道徳的感情にもとづく
幸福の原理である。これは、道徳的法則がすべての理性的存在者に普遍的に妥当するもの
でなければならないにもかかわらず、これらが得られる根拠は、人間の本性に特殊な道徳
的感情や、周りからの環境によって偶然的に得られたものである。道徳的感情においては、
無限にその程度に個人差が生じるため、道徳的な判断をくだす要素にはなりえないのであ
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る。また、偶然的に得られた経験からも、それを必然たらしめることはできないのである。
合理的な観点から得られる人間における完全性の原理・神における完全性の原理は、そ
もそも完全性という存在論的概念が空疎かつ漠然としており、またこれは人間が完全無欠
な道徳性を導こうとして得られたものあることは明らかである。そのため、神の意志に関
して我々に残される概念は、人間のあらゆる傾向性を基礎に置くことにつながるため、結
局のところ仮言命法という形をとることになるのである。
以上のように、客体が意志を規定する他律では、それは自分自身の(幸福という)傾向
性に関するか、それとも可能な意欲一般の対象に向けられた完全性に関するかのいずれか
に属することになる。これらの意志はすべて、行為の表象を直接の目的としてではなく、
予め予見した行為の結果が意志に影響を及ぼしている。そのため、他律は道徳的にもっと
もらしい原理であると考えられがちであるが、実はありふれた偽物の原理の源泉であるこ
とは明らかなのである。そのため、この他律をあらためて制限するような定言的命法、つ
まり自律が必要となり、このことは同時に道徳性の最高原理になるのである。
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