21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 21世紀COEシンポジウム『映画文化の振興と保存』 午後の部「映画文化の振興と保存─地域アーカイヴの試み─」シンポジウム採録 冨田 美香 (本学文学部助教授)E-MAIL [email protected] 立命館大学アート・リサーチセンター マキノ・プロジェクト http://www.arc.ritsumei.ac.jp/cinema/ 矢野 進(世田谷文学館主任学芸員) 世田谷文学館 http://www.setabun.or.jp/ 川村 健一郎(川崎市市民ミュージアム学芸員) 川崎市市民ミュージアム http://home.catv.ne.jp/hh/kcm/ 入江 良郎(東京国立近代美術館フィルムセンター研究員) 東京国立近代美術館フィルムセンター http://www.momat.go.jp/fc.html 森脇 清隆(京都府京都文化博物館学芸員) 京都府京都文化博物館 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bunpaku/ シンポジウム『映画文化の振興と保存』プログラム 第一部 午前の部 10:30~12:30 報告 ビデオ上映 1991年第16回 湯布院映画祭 マキノ雅広シンポジウム記録映像 「活動屋一代 マキノ雅広の映画渡世」 (1991年制 作スタッフ=企画・インタビュー高崎俊夫、制作プロ Ⅰ.矢野進「資料展から映画祭まで:世田谷文 学館の8年」 ダクション:レイダース/2003年制作スタッフ=企画 ・制作 立命館大学ARCマキノ・プロジェクト 編集 :マキノ・プロジェクト西川真悟) 午後の部 13:30~18:00 シンポジウム「映画文化の 振興と保存─地域アーカイヴの試み─」 報告1. 矢野進(世田谷文学館主任学芸員)「資料 展から映画祭まで:世田谷文学館の8年」 世田谷区立世田谷文学館の概略 設立経緯 1995年開館。明治以降の世田谷区にゆかりのある文 学と文学者に関する資料の収集および展示。 主な展覧会に、「横溝正史と『新青年』の作家たち」 報告2. 川村健一郎(川崎市市民ミュージアム学芸 「坂口安吾展」「『青鞜』と『女人芸術』展」「遠藤周作 員)「映画を“展示”する:映画生誕100年博覧会 展」「横光利一と川端康成展」「瀧口修造と武満徹展」 と映画美術監督木村威夫展」 「井上靖展」「北杜夫展」「沢木耕太郎の旅展」「西脇 報告3. 冨田美香(立命館大学文学部助教授)「大 学教育とアーカイヴ活動:立命館大学アート・リサ ーチセンターの活動」 報告4. 入江良郎(東京国立近代美術館フィルムセ ンター研究員)「海外の事例:ドイツにおける地域 アーカイヴの試み」 順三郎展」「寺山修司展」「安部公房展」など。 活動内容 ●展覧会 企画展(春・秋の文学展、夏の絵本展、 冬の写真展、映画資料展)、常設展 ●収集保管 資料収集・保管、調査研究、閲覧対 ディスカッション 応、ライブラリー運営、資料目録の制作 進行:森脇清隆(京都府京都文化博物館学芸員) ●教育普及 講演会、朗読会、上映会、「土曜ジュニ 開催日時:2003年11月16日(日)10:30~18:00 ア文学館」、「移動文学館」、「世田谷文学賞」ほか 会場:京都府京都文化博物館 別館ホール 学芸員体制 ( )内は非常勤 主催:立命館大学21COE京都アート・エンタテインメ 学芸部長=1名、展覧会担当=3名、資料情報担当 ント創成研究 共催:京都府京都文化博物館 開館15周年記念特別 展「KYOTO映像フェスタ」 =3名、教育普及担当=1(3)名 映画関連主要企画 1996年「映画と世田谷」展 49 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 1997年「映画美術監督中古智と成瀬映画の世界」展 近い南烏山で再開発がありまして、地域住民からも 1998年「衣裳デザインに見る映画の魅力 公立の文化施設を入れてほしいという要望があり、 衣裳デザ イナー柳生悦子の仕事」展 近隣に徳冨蘆花が住んでいた蘆花恒春園という東 1999年「黒澤明の仕事展」 京都の公園がある環境ですので、区内に文学館を 2000年「第1回世田谷フィルムフェスティバル 映画 つくるのであればこの場所がふさわしいんじゃない かということで、世田谷文学館ができました。 監督・小林正樹の世界」 時代 建物は3階建てで、3階が事務室と収蔵庫、2階 劇の名匠・稲垣浩の世界」、「第3回世田谷フィルムフ が常設展示室で、広さは約500㎡程です。それから ェスティバル 1階に180㎡程の企画展示室と、同じぐらいの広さ 2001年「第2回世田谷フィルムフェスティバル 日本SF映画の黎明期」 2002年「第4回世田谷フィルムフェスティバル ニッポ ト・スペースがあります。 ン・ミュージカル映画の世界」 2003年「第5回世田谷フィルムフェスティバル の文学サロンと呼ぶ、多目的ホールのようなイベン 映画 俳優・三船敏郎」 Ⅰ-2.世田谷文学館の映画への取り組み 映画関連主要コレクション(ノン・フィルム) Ⅰ-2-1.常設展示「映画のメッカ」から企画展へ ●小林正樹監督生涯資料(台本、スクラップブック、 開館にあたって、常設展示室の中に一部、「映 書簡、旧蔵書等2700点)、●中古智映画美術資料(ス 画のメッカ」というコーナーを作ることになりました。 ケッチ、ロケハン写真スクラップブック等1000点)、● 皆様ご存じの通り、世田谷区には東宝撮影所があ 柳生悦子衣裳デザイン資料(衣裳デザインスケッチ、 るんですね。1932年にP.C.Lから始まった映画会社 スチール写真等4100点)、●舘林三喜男内務省映画 の撮影所です。その関係もあって、映画と文学とは、 検閲関連資料(原稿、切り抜き等90点)、●映画台本 原作と映画ですとか、シナリオも文学の一部ですし、 (衣笠貞之助・須川栄三・福田純・丸山誠治・上條逸 文学者と映画人との交流も非常に深いということで、 雄 ・岩 間 芳 樹 ほ か旧 蔵 台 本 4700点 )、 ● 映 画 雑誌 小コーナーですけれども、世田谷の撮影所で活躍 (「キネマ旬報」「映画旬報」「映画の友」など5000点)、 された監督さんの資料などを急遽集めることになり ●映画ポスター(東宝を中心とした日本映画のポスタ ました。対象は山本嘉次郎、稲垣浩、黒澤明、衣 ー1000点) 笠貞之助、マキノ雅広、成瀬巳喜男、市川崑、本 多猪四郎、円谷英二の9人の監督さんです。古書 Ⅰ-1.世田谷文学館の紹介 構想から設立まで 店で購入するほか、映画人ご本人やご遺族を廻っ 皆様、初めまして。東京の世田谷文学館から参 て、展示コーナーを作るために何かご協力いただ りました矢野と申します。よろしくお願いいたします。 けませんでしょうか、とお願いしまして、展示室を作 京都の皆様には一番なじみの薄い施設かと思いま り始めたんですね。それが、文学館が映画に関わ すので、先ず世田谷文学館のご紹介をさせていた るきっかけとなりました。つまり、他の施設と大きく違 だきます。 う点は、まず展覧会があって、そこから文学資料展 世田谷文学館は、世田谷区立の、文学を専門と した博物館施設です。世田谷区は、人口が80万ほ の一部として、映画資料展を始めることになったの です。 どで、都内でも最も人口の多い地域ではないかと この常設展「映画のメッカ」を作って95年に開館 思います。20年くらい前、世田谷美術館ができた しましたところ、区内には映画人の方が多くお住ま 頃に、やはり文学者の間からも是非文学館をつくっ いになっていらっしゃいますので、いろんな方から てほしいというお話がありましたが、実現するまでに 資料のご寄贈があり、小コーナーでは展示しきれ なかなか時間がかかりました。ちょうど10年くらい前 ないほどの資料が集まったんですね。それで企画 に、世田谷区の北西の、京王線の芦花公園駅に 展示としまして、翌年に「映画と世田谷」という映画 50 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 資料展をやりました。これはちょうど前年に、川崎 るアート系のフィルムとかビデオアートとか、そういう 市市民ミュージアムさんが開催された「映画生誕 作品の定期上映を担当していたんです。そのとき、 100年博覧会」を拝見させていただいて、こういう展 上映会というものはフィルムとかビデオとか上映す 覧会のありかたがあるのかと、それが大きなヒントに るものを収集していかないと、その都度終わってし なっています。 まって蓄積がないと痛感したものですから、世田谷 この「映画と世田谷」展の9分程の記録映像を用 意しましたので、撮影所も含めて、世田谷区がどう いう地域なのかをご覧になってください。 文学館でしか見られない、資料を生かした上映会 というか展示会をできないかと思いました。 ちょうど、「映画と世田谷」展を開催したときに、 【ビデオ「世田谷ハリウッド」(短縮版)上映】 中古智さんという美術監督さんのご遺族から、貴重 今の映像で、よくわかっていただけたんじゃない な美術デッサンの資料を文学館に寄贈していただ かと思うんですね。世田谷区の誕生とほぼ同時に きました。そこで、これを整理して、美術監督のデッ 映画の製作が始まったわけです。皆様がお住まい サンという、映画を作る過程の資料の展示と、その の京都と較べますと、規模はもう少し小さいですけ 映画作品を上映しようと。例えば成瀬巳喜男監督 れど、同じように映画会社がいくつかあって、その の『浮雲』(1955年)のスケッチを展示して、上映会 地域の中に映画人の方が非常にたくさんお住まい ではその『浮雲』を上映すると。さらにその間に、美 になっている、というのが世田谷区の一つの特徴 術監督の中古さんや成瀬監督の、助手さんや助監 でもあるんです。 督さんだった方々のトークショーを組もうと。実際に この展覧会を開催したとき、思いの外、地域にお その時は、須川栄三監督と、美術監督の育野重一 住まいの映画人の方達から好評で、知らないうち さんと竹中和雄さんに、当時の制作を振り返ってい に、自転車で展覧会を見に来てくださったりしてい ただきました。中古さんの資料を通して、どういうふ たのです。これをきっかけとしまして、家にこういうも うに作品が作られるのか、またその時どんな苦労が のがあるので是非引き取っていただけないかという あったのかということを知っていただけるような、「美 お話ですとか、たとえば戦前から映画が好きで『キ 術監督中古智と成瀬映画の世界」という小展示を ネマ旬報』なんかをずっと集めてきた区民の方から、 したんですね。 お宅を改装するのにどうしても持ちこたえられない これがまた案外、映画人の方から好評でした。と から是非まとめて引き取ってほしいという、非常に いうのは、今までそういうかたちで映画のスタッフを 私どもとしても嬉しいお話を多くいただきました。こ 展示で取り上げる機会があまりなかったのかもしれ ういう形で、世田谷文学館の収蔵資料の映画への ません。そこで、地域の博物館がそういう事をしてく 振れ幅が広がってきたのです。 れるということで、またさらにサポートの輪が広がっ ていきました。 Ⅰ-2-2.企画展と上映会へ 簡単に、今世田谷文学館でやっている映画のイ ベントについてお話ししたいと思います。 翌年には、衣裳デザイナーの柳生悦子さんとい う、東宝の「三人娘」シリーズとか「社長」シリーズと か、SF映画も含めて、いろんな作品の衣裳を手が この頃、上司から、文学館だから文芸映画の上 けた方のスケッチを寄贈していただいたので、「衣 映会を定期的にやってほしいという話がありました。 裳デザインにみる映画の魅力 衣裳デザイナー柳 それを考えたとき、文芸映画の上映会であれば、 生悦子の仕事」という、衣裳デザインをテーマにし 文学館でなくても作品を借りればできるわけですね。 た同じようなイベントを開催しました。 それで、この博物館でしかできないような上映会に これらの活動の発端は文芸映画の上映会です したいと思いました。実は、私は世田谷文学館の前 し、決して文芸から離れているわけではないのです に世田谷美術館に数年勤めておりまして、いわゆ が、文学館として、映画を、文学の彩りとするという 51 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 のではなく、きちっとコミットしていきたいという思い 映画鑑賞会の事業移管です。これは、成城にお住 がありました。そういうかたちで、春と秋には文学者 まいだった稲垣浩監督がご存命中に、毎年無声映 の回顧展をやって、その間に、映画人や映画をテ 画を鑑賞する機会を世田谷区でできないだろうか ーマにした資料展を開催しました。 と発案をされ、それを区の文化課がずっと続けてい たものなのですが、映画のイベントもやっている文 Ⅰ-2-3.世田谷フィルムフェスティバルへ 学館に移した方がいいということで、文学館に移管 されました。 さらに、シナリオ作家協会さんから、世田谷文学 館と共催で、シナリオをテーマにしたイベントができ ないだろうかというお話がありました。実はシナリオ 作家協会さんとはそのときが初めての出会いでは ないんです。世田谷文学館ができたときに、世田 谷区が15年近く続けていた世田谷文学賞というも のが、文学館に移りました。これは、区民から詩や 小説、短歌などの作品を募集して賞を差し上げる 形式ですが、移管されたとき、そのまま引き継ぐより は、川柳も要望があるから入れたほうがいいし、もう 少し幅を広げてなにか新しさを出そうと、童話とシ 【第1回世田谷フィルムフェスティバルのチラシ】 ナリオもその中に入れたんですね。その選考委員 を、脚本家の白坂依志夫さん、高山由紀子さんに 99年には、黒澤明さんの仕事をご紹介する展覧 していただいて、以来ずっとお付き合いがあったん 会「黒澤明の仕事展」を開催しました。こちらは初 です。たまたまそのお二人がシナリオ作家協会の めて映画人を個展として取り上げた企画展です。こ 事業部のご担当で、文学館と共催でシンポジウム のときは、展示だけで文学館は手一杯で、予算面 をやりましょうよと。 でちょっと厳しかったんですね。それで、当館から そうしますと、今までのような小展示とトークショ 京王線の4駅隣の下高井戸にある、下高井戸シネ ーをやったり上映会をやったりするだけでは、収ま マさんといういわゆる名画座のような映画館にお話 りきらなくなったんですね。それで、「世田谷フィル をしましたら、黒澤さんの特集を是非やってみたい ムフェスティバル」という名前にしたらどうかと。 ということで、文学館では資料展をやって、その近 ということで拡大しまして、2000年の1月に「世田 くの映画館では黒澤さんをテーマにした上映会を 谷フィルムフェスティバル」というものを始めました。 するという、近隣の映画館とのつながりもできました。 基本的には映画の資料展と、トークショーと上映会 また、小林正樹監督のご遺族から、旧蔵書から が中心になっています。世田谷区内には映画館が 台本や書簡などすべて含めた生涯資料をどこかに 5つありまして、先ほどの下高井戸シネマと、下北 納めたいというご相談を受け、小林正樹監督は世 沢の短編映画上映館のトリウッドとシネマ下北沢、 田谷の梅丘にお住まいだったので、世田谷文学館 そして三軒茶屋に二軒ある名画座にも、期間中に でお引き受けしました。この資料を整理して収蔵品 何かあわせて上映会をしていただけませんでしょう 展というかたちで、黒澤監督の展覧会と同じように か、とご相談を持ちかけたりしました。 小林正樹展を企画しました。その99年に、いくつか 新しいお話があったんです。 一つは、世田谷区で20年ぐらい続けていた無声 52 さらにその時、フィルムフェスティバルという以上、 やっぱり撮影所に協力していただかないと、意味 がないんじゃないかという話が出まして、東宝スタ 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 報告をしてまいりましたが、最後に、文学館で映画 を扱うメリットとデメリットを申し上げます。 メリットとしましては、地域を立体的に捉えられる 事があります。世田谷文学館は、区立の文学館とし ては初めてでしたけれども、隣の目黒区に日本近 代文学館が先行してあるんですね。これは川端康 成さんや高見順さんなどが提唱して、近代文学の 作家さんの資料を収集している館です。その隣に は、今年4月に閉館しましたけれども、東京都立近 代文学博物館という施設がありました。資料の収蔵 数も100万点を超えている博物館が先行してあるな かで、後発の文学館としてどういう形で運営できる だろうかと考えたときに、世田谷には非常にたくさん の作家さんがいらっしゃいますけれども、大衆文学 とかミステリーとかSFとかそういうものも射程に入れ たらいいんじゃないかと。そういうことを考えたときに、 映画というものが非常に密接につながってくるという 【世田谷文学館周辺図】 ことです。地域博物館が、文学だけとか、あるいは 美術だけとか単一ジャンルで考えてしまうと、その交 ジオさんにお話を持ちかけました。皆さん、撮影所 流というのはなかなかとらえにくい。その点、映画は の中って一度見てみたい、という希望が強くあるん 幅が広いですから、導入して良かったと思います。 ですね。で、見学会をさせてもらえないだろうかと デメリットとしては、あくまでも文学館という施設で いうのが一つ。もう一つは、70年近く映画の製作を 映画専門館ではございませんので、ちょっと専門 しているスタジオで、まさにそのスタジオで作られた 性に乏しいところがあるかなという点です。そういう 映画を上映・鑑賞できないだろうか、ということです。 部分は、研究者や専門家の方とか、あるいは映画 その東宝スタジオには70席ぐらいの試写室がある 関連の専門館にご協力を得て、今後進めていきた んですね。そこを使わせてもらって、上映会をした いと思っております。 いと。特にこれが非常によかったのは、世田谷文学 館は上映設備がちょっと貧弱で、16ミリしか上映で 簡単ではございますけれども、以上でご報告を 終わらせていただきます。 きないので、プログラムの幅がすごく狭くなってしま うんです。東宝スタジオさんの協力によって、35ミリ Ⅱ.川村健一郎「映画を“展示”する:映画生誕 で観たい映画も可能になり、フィルムフェスティバ 100年博覧会と映画美術監督木村威夫展」 ルが始まりました。 第1回目が小林正樹さん、翌年は稲垣浩さん、3 川崎市市民ミュージアムの概略 回目はSF映画、4回目はミュージカル、そして5回 設立経緯 目の今年は、映画俳優の三船敏郎さんをテーマに 1981年 開催する予定でおります。 映像文化センター」構想発表 1988年 Ⅰ-3.文学館で映画を扱うメリットとデメリット 今まで、世田谷区での映画との取り組みの現状 川崎市が複製芸術を対象とした「漫画・写真・ 「都市と人間」という基本テーマをかかげて 開館。 活動内容 53 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 ●収集 都市文化としての複製芸術(ポスター、写 真、漫画、映画、ビデオ等)、 川崎に関連する考古・ ミュージアムのご紹介をさせていただきます。 川崎市というのは行政区としては神奈川県のな 歴史・民俗資料および芸術作品 かにありますが、多摩川を越えると、先ほどの世田 *映画部門の作品収集対象…(戦後独立プロ、第三 谷文学館さんのある世田谷区があり、多摩川を少 世界の映画、サイレント映画、アニメーション映画、川 し北のほうに上ると東京都の調布市があるんです 崎市を写した映画、日活) ね。そして、世田谷区には先ほどのお話の通り東 ●上映・展示・調査・研究・講座学習・創作講座 宝の撮影所があり、調布市には日活と大映の撮影 学芸員体制(常勤) 所がある。ということで、川崎自体には残念ながら 考古=2名、歴史=2名、民俗=2名、美術・文芸=1 撮影所がないんですけれども、その大映、日活、 名、グラフィック=1名、写真=2名、漫画=2名、映像 東宝に属していらっしゃった映画人の方が、たくさ (映画=1名、ビデオ=1名) ん住んでいる街でもあります。 映画部門主要企画( は展覧会) 川崎市は市民ミュージアムを設立するにあたっ 1989年「独立プロダクションの系譜」、「幻想の魔術師 て、漫画・写真・映像文化センターという構想を立 イジィ・トルンカ ち上げました。それが1981年です。その構想が何 アニメーションフェア」 1990年「ヤン・シュワンクマイエル映画祭」、「ディレク を狙いにしていたかというと、川崎は皆さんご存じ ターズ・カンパニーの監督たち」 の通り、20世紀になって京浜工業地帯のなかの主 1992年「レンフィルム祭」 要な都市として、発展してきた都市ですね。もちろ 1994年「まなざしの力/ケン・ローチ回顧展」 ん労働者の街だったわけです。いわゆる大衆という 1995年「映画生誕 100年博覧会」、「デコールの前衛 ものが労働者を中心に構成されているのであれば、 とリアリズム/美術監督・久保一雄」 その大衆が身近に非常に感じていた、愛していた 1996年「岩波映画出身の監督たち」、「韓国映画祭~ 文化、あえて芸術と言いませんけれども、文化とし 知られざる映画大国」 ての漫画や写真、映像というものを取り上げること 1997年「レトロスペクティヴ/ジョルジュ・ド・ボールガ は、川崎にとって相応しいだろうという考えから、こ ール」 ういう構想が出てきたんですね。その時に対象とす 1999年「映画における<沖縄>」、「具流八郎の世界」 るのは、絵画など、いわゆるハイアート、ハイカルチ 2001年「<映画>を聴く ─真鍋理一郎の映画音楽─」 ャーに対して、ローアート、ローカルチャーと言わ 2002年「映画美術監督木村威夫の世界」展 れる、漫画だとか写真だとか映像だとか、いわゆる 映画部門主要コレクション 複製技術に基づいた文化を活動の対象にしようと ●久保一雄コレクション(セットデッサン、図面、スクラ いうことで、最初の構想が立ち上げられたということ ップブックなど です。この構想は今も市民ミュージアムという施設 2,000点)、●神代辰巳演出台本 80点、●山本薩夫台本 55点 のなかに生きています。 一方で川崎市には、川崎市の考古資料や歴史 Ⅱ-1-1.川崎市市民ミュージアムの概要及び設立 資料、民俗資料を集める市立博物館構想が1980 経緯 年代に並行してありました。結局それらがもろもろ 川崎市市民ミュージアムで映画を担当しておりま す川村と申します。よろしくお願いいたします。 の事情で一緒になり、1988年に開館したのが市民 ミュージアムという施設なんです。 僕のほうでは、これまで川崎市市民ミュージアム で開催した二つの大きな映画の展覧会を具体例と Ⅱ-1-2.8(9)部門からなる総合博物館 して、映画を展示することの難しさと意義を、お話し ─映画部門の活動(収集・上映・講座)─ してみたいと思います。その前にまず、川崎市市民 54 ですので、市民ミュージアムには、考古、歴史、 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 民俗という川崎の市域に関わる資料を扱う部門と、 えた1995年に開催しました「映画生誕100年博覧 それから川崎市在住の画家や作家を対象にした 会」という展覧会。それからもう一つが昨年開催しま 美術文芸という部門と、漫画・写真・映像文化セン した、日活などで非常に重要な仕事をたくさん残さ ター構想の写真、漫画、映像、さらに同様の趣旨 れた映画美術監督の木村威夫さんの展覧会です。 のグラフィック(ポスター)を対象にした部門、全部 一つ前置き的にお話ししますと、映画資料を展 で8つの部門ができたわけですね。映像は映画とビ 示するということには、非常に困難を伴う側面があり デオに分かれていますので、映像を分けると9部門、 ます。それは何故かといいますと、映画というのは、 つまり市民ミュージアムは「都市と人間」という一つ 実際のフィルムを映写してスクリーンで観ていただ のコンセプトをテーマとして設立された、9つの部門 く、これが映画を体験する第一義なんですね。それ からなる総合博物館です。 に関わる資料を展示で構成しても、映画そのもの 市民ミュージアムの簡単な3分ほどの紹介ビデオ を見ていただきながらお話しします。 を観たことにはならないわけです。ですから、絵画 を展示するのと同じ次元で映画を観ていただくとい 【川崎市市民ミュージアム紹介ビデオ上映】 えば、上映をするということが、第一義になるわけで 場所は川崎市の等々力緑地という、多摩川のす す。 ぐ脇、かつてサッカーチームのヴェルディがいた等 となると、映画を展示するということは、いったい 々力グラウンドのそばにあります。ここは今はフロン どういうことなんだろうか。映画というものはあくまで ターレというサッカーチームのホームグラウンドにな フィルムに刻印されているもの、スクリーンに投影さ っております。 れるもの、ですよね。そのときに敢えて、映画を展 川崎は人口が130万人に及び、先ほどいいまし 示することで見えてくるもの、それが見えてくるよう たとおり、労働者の街というところがあって、そうい なかたちで、展示を構成していくということが、映画 った方たちが非常に身近に、親しみを感じている の展示に関わる困難さ、なんですね。それを具体 漫画だとか写真、ポスター、映像、そういったものを 的にお話ししていこうと思います。 扱っている部分が、近隣の他の美術館と異なる非 常に大きな特徴になっています。 この中で映画部門がどういう活動をしているかと いうと、1階にあります268席の映像ホールを使って、 Ⅱ-2-1.映画生誕100年博覧会 a) 〈20世紀〉を体験すること 「映画生誕100年博覧会」という展覧会は1995年 作品を集めての上映会と、もちろん35ミリ、16ミリ問 に開催されました。一つ映画に関して特別に指摘 わずフィルムの収集活動。それから3階にあるもう しておきたいことは、我々は過去の記憶を、映像を 少し小さなミニホールを活用して、いわゆる研究講 通じて非常にリアルな形で保有できているわけで 座の開催。そういった活動を行っております。我々 すね。それはでも、ほとんど20世紀に到ってやっと は1988年の11月がオープンですから、今月15周年 人間ができたことであって、例えば15世紀の戦争 を迎えました。通常は、映像ホールでの上映会の の場面というのは我々は映像で観ることはできない 開催が映画部門の仕事の中心ですが、市民ミュー 訳です。そういう意味で、映画の100年を振り返る ジアムの他の部門は、企画展示室を使っての展覧 展覧会というのは、我々がどういう時代を生きてき 会を中心に活動を行っております。この15年のな たかということを、振り返ることでもあったわけです。 かで映画部門も、企画展示室を使っての展覧会を、 つまり、映画というものを一つの集約点にして、20 これまで2回開催してきました。 世紀を展覧会を通じて体験できないだろうか。それ がこの展覧会のおおもとの狙いになっています。 Ⅱ-2.映画を展示すること その1回目が、ちょうど映画が誕生100年目を迎 それと同時に、この展覧会が非常に大きな狙い としたものがあります。映画の100年をひとまとめに 55 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 ばっと回顧するというのはやっぱり難しい。スペー おそらく総点数は、2000点にのぼったと思いま スの限界も当然あります。実はフィルム以外の映画 す。とにかくそれだけ膨大なさまざまな種別の資料 資料というのは、非常に種類が雑多で多様性をも を、いわば量全体として見ていただく試みとして、こ っていて、その資料が訴えかけてくる内容もかなり の展覧会は開催しました。こういった資料の雑多性 様々に異なっているんですね。そこで、その雑多 を通じて、映画が100年経って残してきたもの、そ 性をできるだけ個々の質で見せていくというよりは、 れについての意義をもう一度振り返っていただこう これだけの資料が映画に関してあるんですよと、量 ということがこの展覧会の狙いでした。 で見ていただくことを狙いにしたんです。 b) 展示構成と資料の雑多性―博覧展示の意義 この展覧会の構成は、通史的な形態をとってい ただしこのときは、一方で先ほどお話しした展示 の困難さというものを感じた展覧会でもあったわけ ですね。つまり、もし量で見ていただくのであれば、 ますが、基本的には戦前を中心にした展覧会です。 もっと爆発的に量があっても良かったかもしれない。 「映画の誕生」というコーナーから始まって、「都市 もっとたくさんの資料展示で展示の壁面からなにか と観客」、「映画と他芸術」、そして「映画の世界」で らすべて埋め尽くして、そういう構成のなかで展示 基本的に映画史的なテーマを追いまして、最後に を見ていただく機会を作った方が良かったかもしれ 「戦争と記録」で戦時の様々な資料を紹介しながら、 ない。そういう、言ってみれば展示の手法というか 展覧会を構成しました。 方法論的なところでの内省が少し足りなかったかな 例えば『何が彼女をそうさせたか』(1930年)とか ということを感じていました。 『海を渡る祭礼』(1941年)の現場写真のスチール、 それから『原爆の子』(1952年)のポスター、こういっ Ⅱ-2-2.映画美術監督木村威夫の世界展 たものは「映画の世界」という映画史的な部分をフ 2002年に、映画部門は、2度目の展覧会を開催 ォローする展示コーナーで紹介致しましたし、映画 することになりました。それが美術監督の木村威夫 法案についての議事概要や、「同盟ニュース」のポ さんを取り上げた展覧会です。このときは、最初か スター、「日本ニュース」の従軍服などは、「戦争と ら、いかに映画を展示するかということを非常に強 記録」というコーナーのなかで紹介しています。 く念頭に置いて、展示の構成を考えました。 資料についても非常に雑多です。映画の前史 a) スタッフワークを検証する 的なダゲレオタイプだとか、マイブリッジの連続写 第一に映画というものは、映画監督だけが映画 真、それから東京の葵館の映画プログラムや、チャ を作るわけではなくて、皆さんご存じの通り、美術 ップリンとダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピック 監督もいれば、撮影監督も、脚本家も、録音技師も、 フォードのブロマイド、大河内伝次郎のブロマイド、 さまざまな方たちの協力のもとに映画作品は作られ それから山中貞雄監督の『人情紙風船』(1937年) るわけです。我々としては監督だけに力点を置くの の美術を担当した久保一雄のセットデッサンなど、 ではなく、そういったスタッフワークを検証すること 映画の制作に関わる資料なども併せて展示をいた を試みたいと思っていました。実際我々が行ってい しました。展示数はおおよそ1000点になります。 る上映会も、監督特集は非常に少なくて、こうした さらにこれと並行して、市民ミュージアムには、漫 スタッフの方たちに力点を置いた特集を組むことが 画部門、写真部門、グラフィック部門に対応する三 非常に多いんです。この展覧会もその延長線上に つのギャラリーがありますので、グラフィックポスタ あります。 ーのギャラリーでは映画のポスター展を、写真のギ b) 美術監督が美術監修した展覧会 ャラリーでは映画スターの写真展を、また漫画ギャ 我々が木村威夫を取り上げて展覧会をする際に、 ラリーなどでは、およそ400点の映画文献の資料展 第一にやろうと思ったことは、現役の美術監督であ も、併せて開催しました。 る木村さんに、展覧会そのものを美術監督してもら 56 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 おうということでした。木村さん自身に、いわば一つ それから30年代の新劇の劇団である新協劇団の の映画の美術を形づくるのと同じように、市民ミュ 『デッドエンド』など、舞台の手伝いもしていました。 ージアムの企画展示室という場所を使って、美術 こういった彼特有の経歴については、非常に簡単 監督をしてもらいたいというところから出発しました。 に展覧会のなかで触れました。 その過程で木村さんとずっとやりとりをしながら、お 全体の展示の構成としては、まずシナリオを読ん 互いに図面をもとに、展示の構成を考えていった で、木村さんがどういう着想をするのか、というとこ わけです。 ろからコーナーを出発しました。彼はまずアイデア を必ず絵に描くんですね。しかもそれは具象的な 絵ではなくて、抽象的なものが非常に多い。展示し たのは、鈴木清順監督の『花と怒濤』(1964年 )や 『ピストルオペラ』(2001年)のために描かれたデッサ ン、依田義賢さんが脚本を書かれた『千利休 本 覚坊遺文』(1989年)のシナリオを読んだときの着想 などです。つまりこれらは具体的に美術セットに反 映しているわけではないのですが、彼の場合は、 そういう絵に描くことから先ず始めるということなん です。 【映画美術監督木村威夫の世界展 展示室図面】 展示の構成を考える際に、とりわけ念頭に置い たのは、美術監督を取り上げる際に考えられる二 つの方法です。一つはその美術監督自身の略歴 に沿って、フィルモグラフィーを順に追っていくよう な配列。それは素直な構成だと思います。ところが 美術監督の仕事って、いったいどういう順序でどう いう形でやっているのか、担当した我々も含めてよ くわからない。そこで僕たちはもう一つの方法を選 択しました。展示自体を、木村さんの美術監督の 仕事の順に沿って構成していくという方法です。 【映画美術監督木村威夫の世界展 『千利休 本覚坊遺文』のデッサン】 c) 美術監督の仕事の流れに沿った展示構成 順に簡単に説明します。恵比寿帝国館という戦 その後、美術監督は着想を頭に置きながらロケ 前にあった映画館が、木村威夫さんの本籍地で、 ハンをします。久松静児監督の作品で森繁久彌主 彼は生まれのときから映画と縁があったわけです。 演の『警察日記』(1955年)という、日活の戦後製作 57 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 再開を助けた大ヒット作では、舞台となる警察署を 探すために東北中を歩き回りました。 【映画美術監督木村威夫の世界展 『赤い波止場』ホテルの部屋と廊下の図面】 【映画美術監督木村威夫の世界展 『警察日記』ロケハン写真】 そういうロケハンを経て、彼は具体的なデッサン へ踏み込んでいくわけです。例えば一つの例です けど、舛田利雄監督の『赤い波止場』という、石原 裕次郎主演の1958年の映画。二谷英明と石原裕 次郎が格闘する場面の、ホテルの部屋と廊下の図 面があります。木村威夫さんは基本的に図面を残 すことを嫌う方で、だいたい映画が終わってしまえ ば、ぐしゃぐしゃってして捨てちゃうそうで、あんまり 残っていないんですけれど、これはその時に助手 【映画美術監督木村威夫の世界展 『海は見ていた』葦の屋1階の模型】 をされた方がたまたまずっと保管していて、残って いたものです。鈴木清順監督の『肉体の門』(1964 年)や、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望 郷』(1974年)など、具象的な絵を実際のプランの前 にお描きになったこともあります。『サンダカン八番 娼館 望郷』の場合は、東宝のスタジオ内に、実 際そういうセットを組んだわけですね。 木村さんが美術を組み上げる、映画に入る直前 の様子を紹介するコーナーも設けました。調布の 神代植物公園の駐車場に作られた、熊井啓監督 の『海は見ていた』(2002年)のオープンセットの模 型や、葦の屋という主人公が生活している娼家の1 階部分の模型などです。 【映画美術監督木村威夫の世界展 美術セット・パノラマ】 今お話しした通り、もともとの着想からロケハンへ 行って、具体的に図面を書いて実際にセットを組 そういった資料を配置してきた最後に、我々は木 む、そういう美術監督の仕事の流れで展示の構成 村さんとともに、実際のセットを組みました。『海は見 を考えたわけです。併せてこれには上映会や、木 ていた』の葦の屋のおもて面や、『親鸞 村さんご本人による講演会なども連動して開催しま 白い道』 (1987年)という映画に出てくる太子堂の風景です。 58 して、展示を立体的に紹介しました。 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 Ⅱ-3.映画文化の振興 〈映画体験〉の共有に向 けて Ⅲ.冨田美香「大学教育とアーカイヴ活動:立命 館大学アート・リサーチセンターの活動」 最後にまとめ的にお話ししますと、映画を展示す るということの難しさとして、先ほど、映画を見てい ただくことと映画の資料を見ていただくことというの 立命館大学アート・リサーチセンター は、種類が違うということをお話ししました。 映画の資料というのは非常に重要なものです。 および映画プロジェクトの概略 設立経緯 映画について我々がより深い情報を知りたいという 1997年 アート・リサーチセンター設置準備会設置。 ときに、映画に関わる資料があってこそ、初めてそ 1998年 アート・リサーチセンター設置。文部科学省 の映画についてのいろんな知識が与えられるとい 学術フロンティア推進拠点に指定。「都市と芸能─無 うことは間違いありません。しかしここでは、映画の 形文化・時間芸術に関する総合的研究」(1998-2002 資料というのはそれ自身で展示に見合うだけの強 年) 度を持っているのだということを、併せて強調させ 1999年 ていただきたいと思います。その固有性は何かとい 2000年 学術フロンティアプロジェクト「京都映像文化 えば、我々が映画を受容してきたこと、観客として デジタル・アーカイヴ 映画に触れてきたこと、スクリーンに投影された、そ 2001年 文部科学省オープン・リサーチセンター整備 ういう映画体験、その記憶の集積こそ、まさに映画 拠点に指定(2001-2005年度)「デジタル時代のメディ 資料なんじゃないかということなんですね。例えば、 アと映像に関する総合的研究」 チラシ一つとっても、ブロマイド一つとっても、それ 2002年 文部科学省21世紀COEプログラムの拠点に は我々の、映画に接した各世代の方それぞれの、 選定。「京都アート・エンタテインメント創成研究」 映画に触れた体験が投影された資料なんだという (2002-2005年 度)。「京都の映画文化における地域 ことです。それが集積されることによって我々は、 文化発信機能の形成と展開─マキノおよび大映京都 映画の体験というものを再び展示を通じて体験す 撮影所を中心に―」(大映京撮プロジェクト)発足。 るんじゃないだろうか。そういうふうに思っています。 2003年 オープン・リサーチプロジェクト「失われた映 そして、こういう映画体験を共有可能にしていく、 画イメージの復元研究─マキノ・プロジェクトⅡ―」発 アート・リサーチセンター施設の竣工。 ―マキノ・プロジェクト―」発足 つまりそういう回路を作っていく、そういう試みとして、 足 映画を対象とした地域の施設の、活動の役割があ 活動内容 るんじゃないかと思います。それは地域の映画祭 京都に位置する総合大学として、京都の芸術・文化を への協力だったり、地域のボランティアの人たちと 重視したアート研究を基礎に据える。 の映画製作だったり、あるいは市民ミュージアムと マキノ・プロジェクトの活動内容 いうこの施設に、足を運んでもらって映画を見たりと、 研究・普及 そういうことすべてと絡んでいますけれども、こうし 映画関連主要企画 た映画の体験を共有しあうことというのが、地域振 2000年「映画都市・洛西再発見 撮影所跡地30km 興につながる大きな回路になるのではないかと、僕 「キネマの道」踏破!」、「甦る日本のハリウッド─無 は思っています。 声映画、等持院に還る!─」 映画展示というのは、そのための一つの回路を 収集・調査・保存・ 2001年「無声映画、等持院に還る!─第二弾 甦る 十分生み出す意義深いものだと僕は感じています。 マキノ映画─」 あまりまとまっていないですけども、時間もありませ 2002年「無声映画、等持院に還る!─第三弾 甦る んので、私の報告は終わらせていただきます。どう マキノ映画 ─ 」、森田富士郎氏講演「映画の行方 もありがとうございました。 ─デジタルとの合流─」 59 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 2003年「KYOTO映像フェスタ」(日露戦争・尾上松之 助・マキノ映画コーナー)、「無声映画、等持院に還 る! ─ 第四弾 マキノが伝えた活劇の魅力 ─ 」 「シンポジウム映画文化の振興と保存」 映画関連主要コレクション(ノンフィルム) ●都村健氏旧蔵映画資料寄託コレクション(スチル写 真、マキノ映画関連誌、スクラップブック)●林義一映 画スチルコレクション●土田正義氏旧蔵映画資料コレ クション(映画関連書籍、京都映画塾関連スクラップ ブック)●並木鏡太郎氏旧蔵資料(『天授ヶ丘』執筆資 料)●朝日シネマポスターコレクション●東映株式会 【1930年代までに洛西地域に作られた撮影所】 社寄贈ポスター ということで、撮影所を法華堂に新設し、その後さら Ⅲ-1.映画都市・京都の紹介 に、大将軍へ撮影所を移転し、その大将軍撮影所 立命館大学文学部の冨田です。よろしくお願い からは、今度は中心監督だった牧野省三が横田永 します。世田谷文学館さん、そして川崎市市民ミュ 之助から独立して、撮影所を等持院の境内に作り ージアムさんと、博物館、美術館が続きましたけれ ました。この牧野省三のマキノ映画からは阪東妻三 ども、立命館大学ではアート・リサーチセンターと申 郎や、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎など多くのスターや します収蔵庫を備えた研究施設がありまして、京都 スタッフが出、彼等も独立して太秦に自らの撮影所 の芸術・文化を対象にしたアーカイヴ活動を行って を作り、1930年半ばには、日活とマキノ映画の系統 います。私の主宰するマキノ・プロジェクトは、そこ の撮影所やその跡地が、この洛西地域に13ヶ所程 で、京都の映画を対象に2000年から活動を開始し にものぼったんですね。 ました。私の報告では、まず映画都市・京都の紹介 京都をこのような日本のハリウッドへと変貌させた を若干いたしまして、なぜこの京都で一私立大学 きっかけは、京都府の府費留学生であった稲畑勝 がこのような活動をしているのかということと、大学 太郎が、フランスで知り合ったリュミエール兄弟から、 教育におけるアーカイヴ活動の可能性を御紹介し 彼等が開発をしたシネマトグラフを、近代産業の一 たいと思っております。 環として、また海外の文化等を日本に普及する非 京都に多くの撮影所ができ、日本のハリウッドと 常に合理的な機械として京都に運び込んだ事にあ 言われたのは1920年代半ばからで、そのルーツは りました。その背景には、明治維新の遷都のため東 千本通りにあった芝居小屋の千本座に遡ります。 京に都を奪われ、中心を失った都市・京都が、起 その千本座を持っていた、後に日本映画の父と称 爆剤として敷いた近代化政策があり、そのために される牧野省三が、興行者の横田永之助から映画 府費留学生が派遣されていったのです。その一人 制作を依頼され、旅役者の尾上松之助を使って千 が稲畑勝太郎だったわけですね。 本座の裏手で撮影をし、日本初の映画スターとい その近代化政策のなかには、いままで盛んでは われるまでの人気者に松之助を育て、日本映画の なかった地域に新たな産業、文化を根付かせる、 人気を形作っていきました。その後、映画の量産体 地産を盛んにするという方針があり、映画はその方 制を支えるべく二条城撮影所等ができまして、牧 針と、ぴったりと一致していたものでした。後に撮影 野省三と横田永之助は映画製作を進め、映画を産 所が作られていく洛西地域は、それまで盛んな産 業として広げていく役割を果たしていきます。その 業等もなく、そして田畑にも相応しくない土地であ 撮影所が狭くなってきた、あるいは施設が整わない り、嵯峨野のお墓参りに通過する、一通過地点で 60 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 しかなかったのです。映画という新しい産業が撮影 所の建設によって洛西地域に根付くようになり、結 果的に映画が京都の新しい地場産業になっていき ました。 Ⅲ-2.立命館大学アート・リサーチセンターの概略 ここで話を戻しますが、立命館は、その撮影所 街の磁場の拠点ともいえるマキノ撮影所があった 等持院の背後に建っている、極めて特異な大学で 【マキノ・プロジェクトのトップ頁】 す。そういった立地条件にもかかわらず、それまで 製作された映画作品の様相はもちろん、撮影所で 文化・芸術関係をまったく対象にしていなかった立 の映画作りや、映画人の記憶、映画資料等々を調 命館が、文化・芸術をテーマに据えようと1997年に 査・収集し、それらをデジタル化して普及していくこ 構想したのがアート・リサーチセンターです。 とを方針として掲げています。ここまで、アート・リサ このアート・リサーチセンターが従来の大学施設 ーチセンターの組織形態と、なぜそういう施設で映 と違っている点は、学外資金による運営を約束事 画を対象とするプロジェクトを立ち上げたのかという 項としていることです。大学からの補助金で運営す 背景を説明しましたが、館の設備紹介とともに活動 る従来型の研究所ではなく、外部資金の獲得、つ 状況を映像にまとめましたので、そちらをあわせて まりは開かれた研究というリエゾン的な活動を前提 ご覧ください。 としています。第一の外部資金が、文部科学省の 【マキノ・プロジェクト活動紹介ビデオ上映】 学術フロンティアという補助金で、「都市と芸能─ 無形文化・時間芸術に関する総合的研究─」とい Ⅲ-3.大学施設の立地を利用したマキノ・プロジェ うテ ー マ の 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト の 推 進 拠 点 とし て、 クトのアーカイヴ活動概略 1998年に採択されました。これは5年間の期限つき アート・リサーチセンターには収蔵庫が3室あり、 で、その補助金で建物を作り、そこを拠点として「都 1室では、通常の書籍類や映画機材等を保存して 市と芸能─無形文化・時間芸術に関する総合的研 います。収蔵庫2では、和装本やスチール写真を 究─」を構成する複数のサブ・プロジェクトが活動 保存しています。写真は1点ずつスキャナーでデジ を開始しました。映画をテーマにしたマキノ・プロジ タル化したのち、オリジナルはこの収蔵庫に保存し、 ェクトも、そのサブ・プロジェクトの一つにすぎませ 複製物のデジタル情報を調査等に活用しています。 ん。学術フロンティアは2002年に完成年度を迎え 3室めはフィルム専用収蔵庫です。プロジェクト室 ましたので、現在は、やはり文部科学省の補助金 では、メンバーの学生たちとデータベースやWEB であるオープン・リサーチや、21世紀COEプログラ 作成、資料調査、資料整理などをしています。各プ ムの推進拠点に指定されたプロジェクトを中心に活 ロジェクトが共同で利用するアーカイヴ作業室は、 動しています。もちろん外部資金として、補助金以 A3サイズのスキャナーやPCが充実していますので、 外に産官学の共同研究を成立させていくことが、 私達のプロジェクトでは、共同研究の機関や映画 大学内では推進されています。 人の方から提供いただいた映画のプレス・シートや このアート・リサーチセンターの活動方針には、 撮影台本、新京極の大正期の映画館チラシ等を 設立時に設定した「都市と芸能」というテーマと、 今年はデジタル化しました。スタジオ施設もあり、午 1997年当時よく言われていたデジタル・アーカイヴ 前の部で上映しましたマキノ雅広のシンポジウム記 というコンセプトがあります。そこでマキノ・プロジェ 録映像もここで編集しました。 クトでは、この京都の洛西地域の撮影所文化を、 また、太秦に近いことも手伝って、太秦の映画人 61 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 の方々からのご協力も頂戴しています。一例では、 指します。 撮影監督の森田富士郎さんの講演ですとか、日活 地域の映画人の方々も、次の世代に自分たちの から大映京都撮影所にいらした録音技師の林圡太 技術や文化を伝えたいという思いを強くお持ちで 郎さんに大映設立当時の体験談を伺ったりしてい すので、少数とはいえ熱心な学生との交流を喜ん ます。これらはすべて映画人の方々の映像記録と でくださり、私どもに協力してくださいます。ですか して学生スタッフが撮影・編集しています。 ら、このプロジェクトの一番の使命は、映画を単に 「KYOTO映像フェスタ」では、3階の日露戦争映 映像情報として消化するのではなく、もっとより文化 画期、尾上松之助、マキノ映画と、4階の『たそがれ 的な深い意味で捉えていく次の世代の育成にある 清兵衛』(2002年)の照明コーナーの展示を担当し と考えています。 ましたので、授業で見学会を行い、コーナーを担 当した学生メンバーが引率・解説をしました。その そこで、プロジェクトの活動は三本の柱をもって います。 際、『たそがれ清兵衛』の照明技師の中岡源権さ 一本目は収集と調査。収集は、文献調査と収集 んにお越しいただいて、実際に並んでいる照明機 だけではなく、映画人がお持ちの制作資料や、今 材を点灯して、展示されている大魔神にあて、照明 まで記録されてこなかった個人の記憶を残していく による表情の違いや、鏡とレフ板での反射の違い、 ことも、フィールドワーク、オーラルヒストリーと称し 影の出し方の違いなど、映画照明の技術と魅力を てテーマに掲げています。とくに、太秦界隈の撮影 体験させていただきました。 所で映画作りをされていたスタッフの方々の創作談 また、かつて等持院で作られた映画を、澤登翠 や、撮影所や会社に対しての考え、先輩から受け 弁士と楽団カラード・モノトーンの生演奏付きで上 継いだものなど、そういう体験を、映像記録と文字 映するという、先ほどの世田谷文学館さんと同じよ 情報として残そうとしています。聞き取りに参加する うなコンセプトの無声映画上映会を、毎年行なって 学生にとっては、映画人の方々との人間的な触れ います。映写技師の田井さんという方に、スクリーン 合いから受ける刺激が、大きな体験になるんです も持ち込んでいただいて、学生メンバーと一緒にス ね。そういう人間形成の点も、このプロジェクトでは クリーンを作るところから始めます。専門的な映写 重視しています。 技師の方も少なくなっていますので、この田井さん 二つ目には収蔵庫と連携したオリジナル資料の との交流のなかで映画文化を支える映写技師の技 保存があり、閲覧利用や普及用のデジタル画像を 術とその存在の重要性も学んでいます。 作成しています。メンバーは、資料ごとに試行錯誤 しながらデジタル化や機器の使用を体得していき Ⅲ-4.大学における地域アーカイヴ活動の教育効 ます。 地域文化と社会を形成する次世代の育成へ 三つ目はそうして収集した情報を、単に自分た 今、駆け足で皆様に観ていただいた活動の内容 ちで蓄積するのではなく、いかに普及していくかと 果 を説明します。 プロジェクトは大学所属の専任教員が立ち上げ、 いう、このプロジェクトで一番問われている点です。 というのは、この活動を続けるためには、やはり外 研究費を獲得して成立します。マキノ・プロジェクト 部評価を得る事が必要なんですね。そのためにも、 のメンバーは、教員や院生や学部生が中心で、プ 普及をしていく意義とその方法を、常に考え、それ ロジェクトの活動は単位にもバイトにもなりませんが、 を実現させていく方向で動いています。 学部の授業やHPで関心を持った熱心な学生が参 一つの例として、学部3回生のゼミからこのプロジ 加し、プロジェクト活動を通して自らの関心事や研 ェクトに参加した学生達が作った「大映京都撮影所 究テーマを深化させる、あるいは社会に還元できる の全貌」というホームページを紹介します。今年度 成果をプロジェクトとして挙げていく、という事を目 から、マキノ・プロジェクトでは、社史も撮影所史も 62 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 【「大映京都撮影所の全貌」 トップ頁】 【「大映京都撮影所の全貌」撮影所訪問頁】 なく消えていってしまった大映京都撮影所の研究 は、非常に大きな教育効果をもっています。今まで をテーマに掲げ、大映京撮プロジェクトをたちあげ 映画に関して、京都のなかではそういった試みが、 ました。先ずは、大映京都撮影所の活動史や作品 圧倒的に少なかったと思うんですね。撮影所がいく リストの作成と、撮影所の俯瞰図に各施設の説明を つもあり、地域に多くの映画人がいるなかで、大学 つけました。この活動で学べる大きな点は、こういう で映画・映像をテーマにし、アーカイヴ活動をする 研究様態でなければ出会えない映画人や一次資 ところが非常に少なかった。それが京都の各文化 料と触れられることと、その研究成果を外に発信す のなかでの、映画のヒエラルキーの低さの表れで る際に、通用する言葉は何かを、常に考えるという はないかと思います。 点ですね。先ほど川村さんがおっしゃっていました、 アート・リサーチセンターでのアーカイヴ活動の 回路を開くという発想で、メディアに応じて見やす メリットとデメリットという点で、今までメリットに近い い、わかりやすい、明確なコンセプト、を考えるよう 点を申し上げたので、デメリットを一つ指摘します。 にしています。また、コンセプトについては、たとえ それは、現状のプロジェクト活動には永続性がない ば東洋一といわれたA2ステージの広さがあってこ ということですね。博物館との最大の違いは、アート そ作れた夕景の照明という話を中岡源権さんから ・リサーチセンターに、そのプロジェクトがなくなった 聞きますと、その施設と技術が一体となって撮れた とき、つまり研究費を獲得できなくなったとか、プロ 夕景は、大映京撮の特徴であり、もう二度と作れな ジェクト推進者が居なくなったとか、そういう場合、 い画であると気づくわけですね。そのエピソードとと そのプロジェクトを通してお預かりした資料を誰が もに、ではそういうステージを我々は潰してしまって 管理できるのかという点です。そういう意味で、大学 良かったのか、という問いを、太秦の今後も含めて、 でのアーカイヴ活動に対して、大学や社会の理解 発していく必要があると思っています。 を求めたいと思います。 地域社会や機関との連携について付け加えま 最後に、このようなプロジェクト活動を通して、京 すと、KYOTO映像フェスタで私どもが担当したコ 都での映画をそれまで観たことがなかった学生が、 ーナーでは、学芸員実習の授業を丸2日組み、合 尾上松之助に関心を示して研究するようになり、つ 計20人程で実際の展示設営を行ないました。学生 いにKYOTO映像フェスタにあわせて、アート・リサ 達は、展覧会のテーマは勿論、講義で得た知識と ーチセンターの機材を使って製作費ゼロで作って 現実の違いを痛感しながら、自分たちが作った展 しまった、3分半ほどの尾上松之助紹介作品があり 覧会がどのように受け取られていくのかというところ まして、それを皆さんに観ていただきたいと思いま まで関心を向け、学芸員授業や学芸員、博物館へ す。コンセプトは、京都の街に未だに松之助の面 の熱意も非常に深まりました。大学の講義では決し 影があり、そしてそれを辿ることが映画への旅行で て体得できない、こういう博物館さんとの協力関係 もあり、地域文化としての映画を見直す体験でもあ 63 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 る、というものです。観ていただいた後に、皆様の ・資料係=1名 方でも、京都と映画の関係を検討していただけれ 主要企画( ばと思います。 1991年「発掘された映画たち ― 小宮登美次郎コレ 【ビデオ「尾上松之助と京都 目玉の松ちゃん の面影を巡って」上映】 は展覧会) クション」 1992年「忠次旅日記」復元上映 これで私の報告は終わります。有難うございまし た。 1996年 長期シリーズ「日本映画の発見」を開始、共 催企画「ジャン・ルノワール、映画のすべて。」 2001年「発掘された映画たち2001:ロシア・ゴスフィル Ⅳ.入江良郎「海外の事例:ドイツにおける地域 アーカイヴの試み」 モフォンドで発見された日本映画」 2002年「展覧会 映画遺産 東京国立近代美術館フ ィルムセンター・コレクションより」 東京国立近代美術館フィルムセンター概略 設立経緯 1952年 主要コレクション(ノンフィルム) ●国立国会図書館寄贈(キネマ旬報社調査部旧蔵) 日本初の国立美術館として「国立近代美術 戦前日本映画スチル写真●辻恭平氏旧蔵映画図書 館」(現・東京国立近代美術館)が京橋の旧日活本社 ●御園京平氏旧蔵映画ポスター(「みそのコレクショ ビルを改築して開館。「フィルム・ライブラリー部門」 ン」)●映倫寄贈戦後映画シナリオ、ポスター●東映 (現・フィルムセンター)が発足。 株式会社寄贈スチル写真ガラス乾板 1970年 美術館の北の丸公園移転に伴い旧美術館 Ⅳ-1.フィルムセンターと世界のフィルム・アーカイヴ を改修して「フィルムセンター」が開館。 1978年 「フィルム・ライブラリー協議会」からの寄贈 東京国立近代美術館フィルムセンターの入江と 資料をもとにして映画専門の図書室を開室。 申します。私の方からは、海外の事例としてドイツ 1986年 における6つの地域のフィルム・アーカイヴと、それ 神奈川県相模原市の米軍キャンプ跡地に 分館(フィルム保存施設)が竣工。 から国立アーカイヴに相当する連邦資料館の活動 1989年 をご紹介したいと思います。 文化庁とフィルムセンターの主催による「優 秀映画鑑賞推進事業」開始。国際フィルム・アーカイ その前に、私どものフィルムセンターについて簡 ヴ連盟(FIAF)へオブザーバーとして加盟。 単に触れさせていただきます。フィルムセンターが 1993年 FIAFへ正会員として加盟。 所属している東京国立近代美術館はわが国では 1995年 京橋の本部ビルがリニューアル・オープン。 最初につくられた国立の美術館で、1952年に設立 2002年 美術館内の共有スペースであった展示室を されました。このときフィルムセンターの前身にあた 映画専門のスペースとして再開室。 るフィルム・ライブラリーという、小さな映画部門が 活動内容 併設されました。これはニューヨーク近代美術館 内外の映画 (MOMA)をモデルにしたものと言われています。 フィルムや映画関係資料の収集・保存・復元・調査・ そのフィルム・ライブラリーが専用の建物を持ち、フ 研究・発表 ィルムセンターと名称を変えて新たに開館したのが ●映画の博物館・資料館としての機能 ●映画文化・芸術の拠点としての機能 優秀映画鑑 けたのが1971年ですから、それとほぼ同時期にな 賞推進事業、映画製作専門家養成講座 ●映画による国際交流の拠点としての機能 1970年です。京都府がフィルム・ライブラリーを設 国際フ ィルム・アーカイヴ連盟(FIAF)正会員 りますね。 フィルムセンターの業務が当初から、どこか国家 研究員体制(常勤) 事業の色彩を帯びていたとすれば、それはフィル 主幹=1名、映画係=2名、企画・普及係=2名、情報 ム・ライブラリー時代にシネマテーク・フランセーズ 64 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 と共催した「日仏交換映画祭」(1962年)ですとか、 インスティテュート(BFI)ですとか、フランスの国立 あるいはフィルムセンターの開館記念特集となった 映画センター(CNC)、ロシアのゴスフィルモフォン MOMAとの共催による「アメリカ古典映画の回顧」 ドといった、おおむね100名以上のスタッフを抱える (1970年)など、上映活動を主体にした国際文化交 スーパー・アーカイヴだったことが判ります。 流に負うところが大きかったかもしれません。しかし これには当時、フィルム・アーカイヴというのは一 それらにもまして決定的だったのは、戦後アメリカ 国に一つという考え方が強かったということもあった に接収されていた大量の日本映画が米国議会図 のだと思います。ところが、1989年にフィルムセンタ 書館を通じて、1967年から日本に返還されることに ーが加盟した国際フィルム・アーカイヴ連盟 なり、フィルムセンターがその受け皿となったことで (FIAF)の会議に実際に参加してみますと、世界に はないかと思います。また、我が国における映画保 は、その地域や民族に関わる映像を専門に集める、 存運動が進展していく中で、国内では既に失われ リージョナル・アーカイヴというものがたくさんあるこ てしまった日本映画がしばしば海外のフィルム・ア と が 判 り ま す 。日 本 で は ま だ 珍 し い よ うで す が、 ーカイヴで見つかり、里帰りを果たすということがた 1995年にできた沖縄県公文書館では、劇映画であ びたび起こるようになります。こうしたことを通じて、 ろうとドキュメンタリーであろうと、沖縄に関するすべ 自国の映画遺産を国の責任において保存管理す ての映像を集めようと活動しています。そのようなア ることの意義が、次第にはっきりと理解されてきたの ーカイヴが世界にはたくさんあり、それらがFIAFの ではないかと思います。 ような国際団体でも重要なポジションを占めている しかしながら、ある時期の日本の映画保存事業 のです。 というのは、ひたすら貧困の一語において語られて それからアメリカなどの場合を考えてみますと、 いたことがあります。そのピークともいえるのが、フィ 先ほどのMOMAの映画ビデオ部というのは1935年 ルムセンターの老朽化したビルが火災に遭い、数 に設立された先駆的なアーカイヴの一つですが、 100本の外国映画のフィルムが失われるという1984 実際にはこの他にも様々なアーカイヴが独自の活 年の事故でした。こうした状況が1980年代を境に、 動を行っていることに、気づくわけです。例えばジョ 徐々に変化していきます。例えば1986年には、神 ージ・イーストマン・ハウス、アカデミー賞で知られる 奈川県に本格的なフィルム保存施設が建設されま 映画芸術科学アカデミーのアカデミー・フィルム・ア した。1995年には、東京駅近くの本部ビルが再建 ーカイヴ、UCLAの映画テレビ・アーカイヴ、カリフ されまして、公開施設も一新されます。この間にフ ォルニア大学バークリー校のパシフィック・フィルム ィルムの購入予算も飛躍的に増加しまして、今では ・アーカイヴなど世界的にも有名な、日本のフィル コレクションの数が約35,000本に上っています。こ ムセンター級のフィルム・アーカイヴが国内にごろ の数字は、先ほどのMOMAのコレクションをいつの ごろしています。そしてそれらのアーカイヴとは別 間にか追い抜いているほどですから、短期間の間 に、コレクションの数が1桁も違う議会図書館の映 に日本の映画保存もどれだけ急激な変化を遂げて 画放送録音物部があります。一口にフィルム・アー いるかが判ると思います。少なくとも、フィルムセン カイヴと言っても、その母体となる上部組織が美術 ターを貧困の一語で語るという時代は過ぎ去り、日 館であったり、図書館であったり、大学であったりと 本の映画保存は、今や第二のステージを迎えてい 様々であるのも興味深いと思います。 ると言うことができると思います。 つまり、海外の先進アーカイヴには、二つの種 ところで、過去の資料などを見ておりますと、川 類があるように思います。一つは大規模で中央集 喜多かしこさんを中心とした、日本における映画保 権的な機関を中心に一元的かつオールマイティな 存運動のパイオニアたちが思い描いていたのは、 活動を行うフィルム・アーカイヴ。それからもう一つ どちらかというとイギリスのブリティッシュ・フィルム・ は、アメリカのように、複数のアーカイヴが、それぞ 65 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 れの個性を競いながら、結果的にはそれぞれの機 フィルム保存庫は、市内の別の建物にあり、フィ 能を分担しあうようなケース。日本ではこれまでどち ルム・コレクション数は約5,000本、アヴァンギャルド らかというと、前者のタイプが参考にされる傾向が 映画やアニメーション映画の収集に特に力を入れ 強かったように思いますが、今回ここでご紹介した ています。フィルム保存庫は、白黒フィルムが8℃、 いのは、もう一つのモデルの方で、私が実際に訪 カラーフィルムは6℃と低温を保つ設計で、さらに ねたことのあるドイツの事例を取り上げたいと思い 上映設備の方も、無声映画のために映写速度を自 ます。これからご紹介する7機関のうちの、実に6機 由にコントロールできる機能を備えています。もち 関までがFIAFに加盟しています。 ろんこれらは全て、世界のフィルム・アーカイヴのス タンダードに合致するレベルのものですが、ところ Ⅳ-2.ドイツのフィルム・アーカイヴ が驚いたことに、このアーカイヴは、フィルムの保存 Ⅳ-2-1.ドイツ映画博物館(フランクフルト) や上映よりも、展示活動の方に力を入れているの ■1984年開館(1971年発足のコミュナール・キノを吸 ですね。スタッフは全部で23名ですが、フィルムの 収) 保存、上映に関わっているのはそのうちの3名にす ■1988年にFIAF加盟 ■正職員:23名 ■【公開施設】上映スペース:140席/常設展示スペ ぎません。映画の保存や上映よりも、資料の収集 ース:760㎡/企画展示スペース:350㎡/図書室 や展覧会の開催の方に力を注ぐフィルム・アーカイ ■【コレクション】フィルム:5,000本/写真:600,000点/ ヴというのは、日本ではちょっと想像できませんが、 ポスター:20,000点/宣伝素材(印刷物):8,000タイト ドイツでは珍しくありません。 ル/スクリプト:4,000点/クリッピング:500,000点/グ 展示の内容は、映画の発明の基礎となった視覚 ラフィック・コレクション:2,000点/機材:2,200点以上 的装置をふんだんに見せながら、動く映像の原理 /録音物:3,800点/楽譜:2,000点/総譜:数100点 について学ぶことのできる第一展示と、『カリガリ博 最初にご紹介するのはフランクフルトのドイツ映 士』(1919年)や『マルタの鷹』(1941年)の模擬セット 画博物館です。ここは、1971年に設立されたコミュ といったアトラクション型の趣向を凝らしながら、映 ナール・キノを吸収し、1984年に博物館として開館 画がどのように作られているのか、映画というのは しています。ドイツでは、今回ご紹介するフィルム・ どのようなスタッフによって作られているのか、そう アーカイヴの他にも、「コミュナール・キノ」と呼ばれ いった「夢の工場」の裏側を見せる第二展示から構 る非営利的な上映組織が国内の各地で活動を繰 成されています。いずれの場合も体験型の展示で り広げているのですが、それがそのまま映画博物 子供たちにも人気があるようです。 館に成長してしまった例です。現在では、マイン川 沿いに広がる「博物館の岸辺」という観光スポットの 中でも、ひときわ人気の高い施設として知られてい ます。 建物は6階建てで、1階が企画展示室、2階から3 階までは常設展示室で、最上階には図書室、地下 には上映スペースを完備しています。これから見て いくようにドイツのフィルム・アーカイヴは一つ一つ が小ぶりですので、公開事業一つをとっても上映 から展示、資料の閲覧まで全てに乗り出していると ころは少ないのですが、ドイツ映画博物館の場合 【ドイツ映画博物館 はそのなかでは大変よくバランスがとれている事例 また、このような展示の表舞台には出て来ないも と言うことができます。 66 『カリガリ博士』の模擬セット】 のの、ドイツ映画博物館には映写機をはじめとする 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 2,200点以上の映画機械のコレクションがあり、これ はドイツ国内でも最大規模を誇る内容となっていま すので、付け加えておきたいと思います。 【ドイツ・フィルム・インスティテュート 膨大なペーパー・コレクション】 【ドイツ映画博物館 映写機のコレクション】 Ⅳ-2-2.ドイツ・フィルム・インスティテュート/DIF (フランクフルト、ヴィースバーデン) ■1949年設立 ■1952年にFIAFに加盟 ■正職員 :16名 ■【公開施設】上映スペース(ヴィースバーデン):280席 ■【コレクション】フィルム:10,000本/写真:1,500,000 点/ポスター:25,000点/クリッピング:600,000点/ 【ドイツ・フィルム・インスティテュート ポスターの整理風景】 検閲カード:85,000点 /雑誌:1,700種 /スクリプト: 3,500点/プログラム:30,000点 ンの内容もポスターやスチル写真、クリッピングそ もうひとつ驚いたことには、このドイツ映画博物館 の他のペーパー・マテリアルに強いのが特徴となっ と同じ建物の4階には、ドイツ・フィルム・インスティ ています。わずかに1フロアを隔てたところでドイツ テュート(DIF)というまったく別のフィルム・アーカイ 映画博物館とドイツ・フィルム・インスティテュートの ヴがオフィスを構えています。ドイツ・フィルム・イン 資料整理が平行して進められている様子は圧巻で スティテュートの設立は1949年、戦後ドイツにでき したが、同じフィルム・アーカイヴといっても得意と た最も古いフィルム・アーカイヴで、国内の映画保 する分野や社会的な役割はそれぞれ異なっている 存運動においては先ほどの映画博物館よりも重要 のです。 なポジションを占めています。 フィルム・コレクションは、10,000本です。スタッフ Ⅳ-2-3.デュッセルドルフ映画博物館 の数は16名と、少ないように思えますが、そもそもこ ■1993年開館(前身のデュッセルドルフ・フィルム・イ のアーカイヴはドイツ映画博物館のように展示や上 ンスティテュートは1979年) 映を事業のメインに据えているわけではなく、例え ■正職員:15名 ばコレクションの貸し出しや、外部の企画へのサポ ■常設展スペース:2,000㎡/企画展示スペース:280 ート、それからナショナル・フィルモグラフィー編纂 ㎡/図書室 のような大型のプロジェクトでリーダーシップを演じ ■ 【 コ レ ク シ ョ ン 】 フ ィ ル ム : 4,000タ イ ト ル / 図 書 : ています。そうした業務内容を反映して、コレクショ 13,000冊(逐次刊行物、オリジナル・シナリオを含む) ■2002年FIAF加盟 67 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 /写真:200,000点/ポスター:20,000点/ドローイン 装置なのですが、そうしたものが実際に今でも残っ グ:500点/衣裳:100点 ていて、こちらは上映スペースに設置されています。 デュッセルドルフでは、ライン川沿いに映画博物 館があります。フランクフルトの場合もそうですが、 有力な観光地の目玉として映画博物館を建てると いうケースが、ドイツではよく見られます。このデュ ッセルドルフ映画博物館は、設立が1993年と比較 的新しいのですが、その前身のデュッセルドルフ・ フィルム・インスティテュートの設立が1979年ですか ら、そうした伏線の時期も含めると、どこの映画博物 館にも長い歴史があることが判ります。 展覧会の内容は、映画に先行する視覚装置や 映画機材などをたくさん展示しているあたりはフラ 【デュッセルドルフ映画博物館 シネマ・オルガン】 ンクフルトと似ていますが、このほかに映画人を顕 もっとも、デュッセルドルフ映画博物館のような新 彰するパンテオンのようなコーナーもありまして、こ 興の小さなアーカイヴになりますと、予算や保存ス の中に溝口健二監督なども入っていました。この種 ペースなどわが国のアーカイヴにとっても身近な問 の趣向は、京都の太秦映画村の資料館などに通じ 題を抱えている場合が少なくありません。例えば今 るものだと思います。それからこの博物館には、黒 のシネマ・オルガンを付けた立派な上映施設はリス 澤明監督の『夢』(1990年)に出てきた着物の衣裳も トラに遭って今は民間の運営に委ねられています。 展示されていてちょっと驚いてしまいました。また細 それから博物館内にある書庫を兼ねた紙資料の保 かいところではサミュエル・フラー監督がくわえてい 存庫はもともとは展示室であった場所を模様がえし た葉巻や、ヒッチコック監督のサインなど、映画観 たもので、予算難の中でいろいろな工夫を重ねて 客の視点を大事にしているところに展示の特徴を いる様子でした。図書室はオープンしていますが、 持っています。 閲覧室に相当するスペースはないため、利用者は その日休みを取っている職員の空き机を見つけて、 そこで閲覧するという方法がとられていました。 フィルム保存庫はフランクフルトの場合と同様、 市内の雑居ビルにあります。フィルム保存庫という と、どうしても国立アーカイヴ・レベルの大型施設を 想像してしまいがちですけれども、実際にはデュッ セルドルフ映画博物館のように、市内の雑居ビル を改造して、その中にフィルム保存庫を設けるとい うケースもしばしば見られます。適正な温湿度調整 を行うための空調装置を、オプションで付けること 【デュッセルドルフ映画博物館 展示室】 このほかにも、ロッテ・ライニガーというアニメーシ によって、町中の雑居ビルを映画保存施設に変え てしまうという工夫がなされているわけです。 ョンのパイオニアが使っていた本物の撮影台を見る ことができたり、シネマ・オルガンと言いまして、無声 Ⅳ-2-4.ドイツ・キネマテーク=ベルリン映画博物館 映画を上映するときにキーを叩くと、雷の音やピスト ■1963年創立(2000年に映画博物館を開館) ルの音などたくさんの効果音が出るという、大変な ■1965年FIAFに加盟 68 ■正職員:42名 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 ■【公開施設】常設展スペース:1,500㎡(他に企画展 ほど、資料がよく保管されていることに驚かされま 用の小スペースあり)/図書室(2000年に開室) すし、映画ファンだけではなく一般の来館者にも理 ■【コレクション】フィルム:15,000タイトル/スチル写 解しやすいように解説やレイアウトもよく練られてい 真:200万 点以上 /シナリオ:30,000点 /ポスター: て、お金も人手もかかっていることが一目でわかり 20,000点/印刷物(プログラム等):60,000点/衣裳・ ます。ドイツ国内でも最も贅沢な展覧会と言えると セット・デザイン:15,000点/図書:60,000~70,000冊 思います。 さらに二つ付け加えますと、マレーネ・ディートリ ッヒの死後、膨大な数の遺品をベルリン州が購入し まして、それがこの博物館の大きな目玉になってい ます。もう一つは、特殊撮影に関わる資料の収集 で有名なロルフ・ギーゼンのコレクションを招いてい ることで、こちらも幅広い層からの人気を集めてい ます。 【ソニー・センターの中庭】 ベルリンの新名所となったソニー・センターの中 には「フィルムハウス」というエリアがありまして、この 中に入っているのがドイツ・キネマテークです。創 立が1963年で、先ほどのドイツ・フィルム・インスティ テュートと、このドイツ・キネマテーク、そして後で紹 介します連邦資料館のフィルム・アルヒーフが、ドイ ツ国内のフィルム・アーカイヴではいわゆるビック・ スリーを構成しています。例えばこのドイツ・キネマ テーク1館だけをとってみても、日本のフィルムセン ターと同等かそれ以上の数量のコレクションを抱え 【ベルリン映画博物館 展示案内】 ていると言えばおおよその規模が想像できるかと 思います。 ところで先ほどのフィルムハウスというエリアには このドイツ・キネマテークももともとは一般の来館 映画博物館の他に図書室と上映施設、映画学校 者を集める公開事業は行っていなかったのですが、 も併設されています。これらは同じ建物に入ってい 2000年に満を持してオープンさせたのがベルリン るので一見一つに見えるのですが、上映施設と映 映画博物館です。展示の内容は自国ドイツの映画 画学校はそれぞれ全く別の組織です。「アルゼナ 史をクロノロジカルにたどる構成になっています。と ル」と呼ばれる上映施設の方は、先ほども触れたコ いうと、簡単に聞こえますけれども、実際にはどのよ ミュナール・キノの一つです。つまり、ドイツ・キネマ うな展示コンセプトも出品可能な資料が所蔵されて テークは自分たちの上映スペースを持っていない いるかどうかに左右されてしまうものですから、この わけですが、それではこのコミュナール・キノはドイ ように展示内容がストレートであるほど館の実力が ツ・キネマテークのコレクションのための上映会場 はっきりと表れてしまうのですね。ところがベルリン なのかというとそうでもなくて、「アルゼナル」自体が 映画博物館の展示は、そうした苦労もわからない 6,000本ものフィルム・コレクションを持っています。 69 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 今回の報告では、7つのフィルム・アーカイヴだ けを取り上げていますが、ベルリンの「アルゼナル」 の他にも1,000本単位のフィルム・コレクションを持 つコミュナール・キノはボンやハンブルクにもあり、 それらがフィルム・アーカイヴの予備軍として控え ているということも付け加えておきたいと思います。 Ⅳ-2-5.ポツダム映画博物館 ■1979年設置 ■1991年にブランデンブルク 州の管轄下に置かれる ■正職員:29名 ■【公開施設】上映スペース:135席/常設展ス ペース:400㎡(他に企画展用のスペースあり) ■【コレクション】写真:600,000点 /ポスター: 12,000点/シナリオ:2,000点/スケッチ:6,000 点/衣裳:100点/機材:1,000点以上/模型: 100点/図書:9,000冊 ポツダムの映画博物館は唯一、旧東ドイツ側に あった施設で、フランクフルトの映画博物館とほぼ 【ポツダム映画博物館 ビオスコープ】 同時期の1979年にできた施設です。ここはもともと、 後で説明します東ドイツ国立フィルム・アルヒーフ が所蔵している映画関係資料を使って展覧会を行 う場所でしたが、国立フィルム・アルヒーフのコレク ションは1990年の東西ドイツ統合に伴い、西ドイツ 側の連邦資料館フィルム・アルヒーフに吸収されて しまいました。そのためポツダム映画博物館のコレ クションは、1990年以降に再構築されたものなので すが、もちろんそのような事情は話を聞くまで全く 判らないほど内容が充実してますし、今後の展開 が最も気になる映画博物館と言うことができます。 また、例外的に連邦資料館に吸収されずに残っ た資料に、1,000点ほどの映画機材があり、これら は、フランクフルトのドイツ映画博物館と双璧をなす 【ポツダム映画博物館 ドレス・ルームを模した展示】 に国宝ともいえるような映画資料をここでは見ること ができるわけです。 ポツダム映画博物館の地元バーベルスベルクは、 コレクションとなっています。これは連邦資料館から 有名なUFAスタジオやDEFAスタジオがあった場所 の出展ですが、博物館のエントランスには、ドイツ で、常設展示も「映画都市バーベルスベルク」の歴 のスクラダノフスキー兄弟が発明したビオスコープ 史をたどる内容になっています。これは、今回の京 と呼ばれる映画機械が展示されています。一般に 都文化博物館の展示が、京都の映画史をたどって は、リュミエール兄弟のシネマトグラフが公開された いることと似ていると思います。 1895年の12月が映画の誕生日とみなされています コレクションでは、やはり旧東側にあったというだ が、スクラダノフスキー兄弟はこれよりも早い11月に けあって、東ドイツの崩壊後にDEFAスタジオやそ 有料上映会を開いているのですね。そのようなまさ の関係者が放出した映画資料を多く含んでいるこ 70 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 とがこの博物館の特徴になっています。 かわり映画の復元やユニークな企画上映など何か ここまで見てきたことからも、映画博物館や映画 一芸に秀でている、そして世界的な名声を勝ち得 展示と一口に言ってもその切り口は様々で、それ ているという例は決して珍しくありません。ただしそ ぞれの施設がとてもユニークな個性を競っているこ れが可能になっているのも、国内に他の同種機関 とが判ると思います。 があるからだということに注意していただきたいと思 います。 Ⅳ-2-6.ミュンヘン映画博物館 ■1963年設立 ■1979年FIAFに加盟。■専門スタッ フ:6名 Ⅳ-2-7.ドイツ連邦資料館フィルムアルヒーフ(ベ ルリン、コブレンツ、オーバーザイン) ■【公開施設】上映スペース:165席 ■帝国フィルムアルヒーフ:1935年■1938年FIAF創 ■【コレクション】フィルム:5,000タイトル 立メンバー/■東独国立フィルムアルヒーフ:1955年 ミュンヘン映画博物館は、博物館という名前が付 ■同年にFIAF加盟/■連邦資料館フィルムアルヒー いていますが、展示施設を持っていません。設立 フ : 1955年 フ ィ ル ム 収 集 を 開 始 ■ 1973年 に FIAF加 は1963年で、フィルムの収集や上映、とりわけ映画 盟。/1990年の東西ドイツ統一に伴い合併。 の復元に伝統を持つ世界的に有名なフィルム・ア 専門スタッフ:125名 ーカイヴです。例えば、2000年の京都映画祭でフ ■【コレクション】フィルム:148,000タイトル ■ リッツ・ラングの『メトロポリス』(1926年)デジタル復元 最後に、連邦資料館フィルム・アルヒーフをご紹 版が上映されましたけれども、『メトロポリス』の復元 介します。ドイツのナショナル・フィルム・アーカイヴ というのは非常に長い歴史を持っていまして、あの は、先ほども触れましたように1990年の東西ドイツ デジタル復元版の前にとても伝説的な1986年の復 統合に伴い、東側の国立フィルム・アルヒーフと、 元バージョンというのがあり、その復元を行ったの 西側の連邦資料館フィルム・アルヒーフが統合され がこのミュンヘン映画博物館です。つまり、欧米各 たという経緯があります。そもそもドイツの映画保存 地に散らばってしまったフィルムのフッテージをか は、ナチスの文化政策を背景とした、1935年の帝 き集めて、それを綿密な資料調査と照合しながらで 国フィルム・アルヒーフの設立にまで遡ることができ きるだけオリジナルに近いバージョンを作り出すと ます。これはアメリカのMOMAやイギリスのNFA(現 いうのが、このミュンヘン映画博物館のお家芸にな NFTVA)とともに国際アーカイヴ連盟(FIAF)の創 っています。またコレクションでは、ニュー・ジャー 立メンバーになった先駆的なアーカイヴの一つで マン・シネマの作家たちの厚い信頼のもとに彼らの す。ところが敗戦によりそのコレクションが一度はソ ネガを管理していたり、オーソン・ウェルズが晩年の ヴィエトに接収されます。その返還先となったのが 20年間に手がけた作品に関わる全フィルム素材も 東ドイツで、こうして1955年に国立フィルム・アルヒ ここに所蔵されています。 ーフが誕生することになります。 まさに映画のメッカといった雰囲気をたたえたア この東ドイツのフィルム・アルヒーフは、いわばス ーカイヴですけれども、ミュンヘン映画博物館は川 ーパー・アーカイヴの典型で、レトロスペクティヴの 崎市市民ミュージアムのように、いくつもの部門か 開催から巡回上映まであらゆる事業を一手にこな ら構成されている市の博物館に帰属している関係 し、収集対象もドイツ映画のみならず世界中の映 もあり、専門職のスタッフが6名しかいないのですね。 画を集め、またフィルムのみならず映画関係資料も 欧米の先進的なアーカイヴと言うと、どうしても大型 集めます。ベルリン郊外にある地下式のフィルム保 のアーカイヴばかりを想像してしまいますが、ミュン 存庫も、この種の施設の見本のような所で、日本の ヘン映画博物館のように映画資料は原則として集 フィルムセンターを含め世界中の主要アーカイヴ めず、展示室も図書室もオープンしていない、その の保存庫が大きな影響を受けています。 71 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 局などがこの連邦資料館のユーザーになる、そう いう関係も成り立っています。 こうしたアーカイヴのポリシーの違いはそれぞれ のスタッフ数にも反映されていまして、東側の国立 アルヒーフでは180人のスタッフを抱えていたのに 対し西側では60人と、大きな落差がありました。とこ ろが、統合直前の時点でフィルム・コレクションの数 を比較してみますと、東側が64,000タイトル。これに 対し西側は戦後振り出しに戻って映画の収集を始 めたはずですけれども、こちらも60,000タイトルと、 【ドイツ連邦資料館フィルムアルヒーフ フィルム収蔵庫入口】 ほぼ同数なのですね。つまり、資本主義的な効率 性に準拠する西側のフィルム・アルヒーフは、国内 の他のフィルム・アーカイヴや映画博物館に多くの 機能を委ねながら、とてもコンパクトな体制で多くの フィルムを散逸から救うことができた、と言うことがで きると思います。東ドイツと西ドイツ、これはもう優劣 の問題ではなく、あくまでも映画保存の二つの型だ と思いますが、ちなみに統合後の連邦資料館のフ ィルム・コレクションは2001年の時点で、148,000タ イトルという驚くべき数量に達しています。 Ⅳ-3.総合力でみるアーカイヴの可能性 つまりドイツのフィルム・アーカイヴというのは、一 つ一つを眺めますと、どうしてもフランスやイギリス、 ロシアのような国の先進アーカイヴと比べると組織 も小ぶりで、見劣りするような気がしますけれども、 それら全てを合わせた総合力でドイツの映画保存 を考えると、決して他の国に引けをとらないくらいの 【ドイツ連邦資料館フィルムアルヒーフ 可燃性フィルム収蔵庫内部】 一方、西ドイツ側の連邦資料館は本来は公文書 などのドキュメントを収集する場所で、東側と同じ 成果を上げていることが判ると思います。それから たくさんのフィルム・アーカイヴがあるということは利 用者の側から眺めても、サービスにヴァラエティが あるということを意味しています。 1955年に始められたフィルムの収集も、当初はそう しかしこれはちょっと思い起こしてみれば、そもそ したドキュメントとならぶ歴史資料の一つとして位置 も美術館や博物館、図書館のような文化施設が、 付けられていたものです。こちらは、東側の国立ア 日本国内を見ても一つではなく、たくさんありますよ ルヒーフとは対照的に、上映会や展覧会など一般 ね。それと変わらないことなのかもしれません。 の来館者を集めるイベント型のサービスは行わず、 いずれにしましても、映画の保存や振興という問 あくまでも館内閲覧などによるアクセス対応を行っ 題は、今や個々の機関レベルの尺度で測られるだ ていますが、さらにいえば、プリントの貸与やフッテ けではなく、日本の映画保存というトータルな枠組 ージの提供を通じて、国内外の同種機関やテレビ みの中で考えるべき段階にきているのではないか 72 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 と思います。たいへん駆け足でしたが、どうもありが 2003年「夢とロマンでつづるKYOTO映像フェスタ~フ とうございました。 ィルム・ルネッサンス~」 映画関連主要コレクション *本報告に登場するドイツのフィルム・アーカイヴの詳 ●大映京都撮影所(宣材、シナリオ、機材等)、●シ 細については「ドイツの映画保存」『NFCニューズレ ナリオ作家協会(協会所蔵シナリオのうち重複分)、● ター』第40号~45号(2001年~2002年、東京国立 松竹関西支社(宣材)、●岡田一文庫(宣材、スクラッ 近代美術館)を参照。 プブック、出版物、ビデオ等)、●伊藤大輔文庫(スチ ル、スチルフィルム、原稿、書籍、レコード、その他)、 ●荻昌弘文庫(書籍、雑誌、レコード等)、●森一生 第二部 ディスカッション 文庫(書籍、スチル宣材、シナリオ等)、●結束信二文 庫(シナリオ、スチル宣材、書籍、レコード等)、●倉嶋 京都府京都文化博物館の概略 暢音響文庫(テープ類)、●土田正義氏資料(書籍、 1967年 『祇園祭』資金を伊藤大輔と中村錦之助らが 雑誌、シナリオ、企画事務書類等)、●菊水映劇資料 京都府へ要請 (チラシ、ポスター、スチル、レコード、映写機)、●寿 1971年 京都府フィルムライブラリー事業発足。大映 々喜多呂九平資料(自筆原稿)、●山中貞雄文庫(ス が倒産し、労組が機材・フィルムを債権として確保した チル、寄せ書き、日記等) ため、府がフィルムを購入し保存。 1972年 映画人やフィルムライブラリー協議会の支援 京都府京都文化博物館の成立 から、大手4社作品を収集可能に。京都府立文化芸 森脇 術会館で「京都府保存映画鑑賞会」を月1回開催。 申します。よろしくお願いします。第二部のディスカ 1988年財団法人京都文化財団京都府京都文化博物 ッションに入る前に、今回のシンポジウムのきっか 館へ。 けともなりました、京都文化博物館開館15周年記 京都府文化博物館の活動内容 念の「KYOTO映像フェスタ」について、館の紹介も ●展覧会 含めてご説明させていただきます。 特別展、常設展 ●文化情報、展示会場の提供 司会を務めます京都文化博物館の森脇と 京都文化博物館は、京都の歴史、文化を通して ●別館の活用 見られるように京都府が作った博物館施設で、歴 ●その他事業の実施(各種資料の収集、保存、展 史、考古、民俗、映画、現代美術、伝統工芸などを 示、研究やフィルムライブラリー事業、埋蔵文化財の 扱っています。映画は私の映像・情報室という部門 発掘調査事業など) が担当しておりまして、前身は1971年に発足した 学芸員体制(常勤) 京都府のフィルム・ライブラリー事業です。実はこの 学芸第一課(美術担当=2名、工芸=2名、映像・情 ライブラリー事業は、地方自治体ではイタリアのミラ 報室=1名)、学芸第二課(考古担当=6名、民俗=1 ノ、トリノに続く、世界で3番目でありまして、立ち上 名、歴史文献担当=1名) げには、京都にお住いの映画人の皆さんが強い後 映画関連主要企画 押しをして下さいました。以後、日本映画の発祥の 1997年「─日本映画100年記念企画─日本のハリウ 地として、京都の映画を産業として、文化財として ッド京都 守り、育てていく事を目的に、フィルムですとか、資 撮影所特集」 1997-1998年「─日本映画100年記念企画─京都映 画講座」 料を収集しています。 このライブラリー事業が開始したその年に、大映 2001年「才華凄艶,市川雷蔵の世界」ポスター展と特 が倒産しまして、労働組合が機材やフィルムを債 集上映 権として確保したことがありましたので、府の方でそ 73 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 のフィルムを購入しまして、フィルム収集が始まりま 階は京都の映画の歴史展示という構成に致しまし した。また、その後、京都撮影所が縮小されていく た。2フロアの展示に加え、別館ホールで映画上映 なかで、映画機材ですとか、ポスター、スチルです も行なっています。 とか、国際映画祭の賞状などの寄贈を受けました。 私たちは、お客様に4階の展示で楽しんでいた これらがまず、文化博物館の大きなコレクションとな だいた後、3階で勉強して最後に映画を観て帰っ っています。その他にも、松竹関西支社さんからの ていただきたいと考えておりました。映画の資料が ポスターや、シナリオ作家協会さんからの脚本など、 好きな人、映画の鑑賞が好きな人の層が同じだと 多くの寄贈を受けています。 思っていたのですね。ところが実際には、映画の好 1988年に文化博物館が開館しましたので、フィ きな人は映画だけを観てそのまま帰ってしまわれる、 ルム・ライブラリー事業がこちらに移管されました。 展示資料の好きな人は資料を観て、そのまま帰っ 以後は、この博物館を拠点にして、フィルムや映画 てしまわれる、そういう人が結構多いのです。そうい 資料の収集と保存をし、3階の映像ホールでは映 う人もいるだろうと思っていたのですが、予想以上 画上映をしています。資料も、伊藤大輔監督の生 に多かったのです。 涯資料ですとか、森一生監督、脚本家の結束信二 今回の討論を始めるにあたりまして、ちょうど一 さんなど、京都の映画人の方々やご遺族から、たく 年前、フィルムセンターさんが常設展示室をオープ さんの資料の寄贈をいただきました。文化博物館 ンされ、川崎市市民ミュージアムさんが木村威夫展 の場合は、こうした映画人の方々は、どういう資料 をされ、そして世田谷文学館さんも恒例のフィルム を元に映画を作ったのか、ということがわかるように、 ・フェスティバルを開催して、東京では映画の展覧 できるだけ文庫という形で収蔵しています。 会が立て続けにありまして、今年この京都でも映像 京都文化博物館15周年記念KYOTO映像フェスタ フェスタという映画展覧会を開催しましたが、この事 こうして活動を続けてきました結果、現在、30万 態に直面して、これは何なのかと、映画を展示する 点ほどの資料を持っています。この博物館の15周 ことの難しさを、今、実感している状況です。先ほど 年を記念して、皆様にその30万点の資料を一堂に 川崎市市民ミュージアムの川村さんも、同じような お見せしたいと、「KYOTO映像フェスタ」を企画し お話をされましたが、市民ミュージアムさんは、開 ました。 館15年目ですでに2回やっておられますね。もう少 そして今回は、日本映画が好きな人だけでなく、 し展示の難しさについて詳しくお聞かせください。 広い枠で、映像を好きな多くの人に来て貰いたい 映画資料を展示する難しさ と、ちょっと欲張りました。例えば、ハリウッド映画や 川村 特撮映画が好きな人には『大魔神』(1966年)の特 を拝見しまして、その資料の量の多さ、スペースの 撮ステージであったり、アニメーションを好きな人に 大きさ、それを考えただけでも圧倒的なヴォリュー は京都アニメーションの出張スタジオであったり、 ムで、本当に感服する限りです。市民ミュージアム ゲームを好きな人にはゼネティク(禅)・コンピュータ の場合は、大体640㎡くらいの展示室を使っての展 であったり、そういうもので、今まで日本映画を観た 示でした。 「KYOTO映像フェスタ」の3階と4階の展示 ことの無い人にもとにかく館に足を運んでもらって、 映画資料の展示の困難さに関していえば、この 4階の展示の次に、3階の映画資料の展示をちょっ 間の木村威夫展では、率直に言いまして、入場者 とでも見ていただいて、日本映画の面白さを頭の 数は近年でほぼ最低を記録するような数字でした。 隅にでも入れて帰ってもらいたい。京都は日本の それは正直に言って、僕たちの至らなさもたくさん ハリウッドと言われていた、言葉で言うのは簡単で あります。それから木村威夫さんは、日本の現役の すが、そういったことを実感して帰ってもらいたいと 美術監督の中では間違いなく代表的な方ですけ いう、非常に普及的な意図で、4階は体感展示、3 れども、お名前の一般的浸透度のなさだとか、そう 74 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 した、いろんな原因があると思います。 本当にない、残っているものよりは失われているも けれども、我々も映画の上映会と講演会と展覧 のの方がはるかに多いというのが、出発時点での 会とを連動させて開催し、実感したことは、先ほど 正直な印象でした。例えば、先ほどのベルリン映画 お話した通り、スクリーンで映画を観るということが 博物館のように、自国の映画史を辿ろうとしても、フ 映画を体験することの第一義だとすると、展示を見 ィルムセンターには黒澤明関係の資料があるわけ ることと、映画を体験することが別々というケースが でも、原節子関係の資料があるわけでもない。誰が 我々においても非常に多かったのですね。展示だ 見ても日本映画のメインストリームに属していると思 けをご覧になってお帰りになる方も多かったですし、 えるような資料というのは意外に少ないのです。そ 映画の上映だけを観てお帰りになる方も多かった。 れから、これはフィルムセンターの外側も含めての 正直に言いますと、映画を上映するときの方がたく 話で、森脇さんにうかがったときには大変驚いたの さんお越しいただけまして、木村さんご自身の映画 ですが、『羅生門』(1950年)が受賞したヴェネチア 制作の裏話等も合わせて行いましたので、映画の 映画祭の金獅子賞のトロフィーというのは既にオリ 裏側も観られたと、皆さんご満足されてお帰りにな ジナルが失われていると言うのですね。 られました。展示の場合、我々が付き従って展示 森脇 解説のようなことをせずに、展示物だけが物語るも 資料がいろいろありますが、金獅子賞の像は、大 ので観客の方に映画の魅力を感じてもらうことは、 映京都撮影所のグランプリ広場においてありました なかなか難しいと非常に痛感しました。映画の資料 レプリカなんですね。あともう1点は、宮川一夫先生 の展示が、決して低いという意味ではなく、映画の のお宅からお借りしてきている分で、これもレプリカ 上映とは違う、別種の役割を持っていると言うことを、 です。 強く実感した次第です。 入江 失われた映画遺産を展示する「展覧会 映画遺産」 て気付くことですけれども、そのために必要となる 森脇 資料の保存が、充分には行われてこなかったという フィルムセンターさんは上映の企画が中心 だったわけですが、展示は、上映企画とは別にな っていますね? KYOTO映像フェスタの会場に『羅生門』の 展示を立ち上げようという段階になって初め ことなのです。 もちろんこれには理由もあります。一つはフィル はい。私どもの方では2002年の11月27日に ムセンターに独立した資料担当の係ができたのは 映画展示室をオープンしました。フィルムセンター 2000年になってからのことで、それまでは兼務で資 の新しい建物ができたのは1995年で、その中には 料を集め整理するという作業を延々とやっておりま 展示室もあったのですが、これは近代美術館全体 して、なかなか資料関係の業務だけに力を入れる の共有スペースだったので、映画関連の企画とし わけにはいかなかったという事情があります。もう一 てはポスター展や写真展のようにペーパー・コレク つの理由としては、一口に映画資料といっても色 ションを主体とする展覧会を毎年1回くらいのペー 々ありまして、フィルムセンターが力を入れてきたの スで行ってきました。実はそれより以前、1970年に は、どちらかと言うと文書系の資料なのですね。映 フィルムセンターが開館した時点でも、映写機や撮 画の調査に必要な図書や、それからフィルム自体 影機などの実物資料を陳列して見せるスペースが は失われているけれどもその面影を偲べるようなポ 存在していたのですけれども、火災によって建物を スターやスチル写真などのペーパー・マテリアルに 閉じた後は、長いこと途切れていました。ですから は強いのですが、一点ものの資料や立体物などは 2002年の展示室オープンは、その再開とも言えま あまり得意ではなかったということがあります。 入江 す。 ですから今回、京都文化博物館の展示を見せ 実際の映画展示は、自分たちのコレクションを再 ていただいたときに、フィルムセンターがこれまで 調査するところから始まるわけですが、飾るものが 映画資料を収集してきたポリシーとだいぶ違うな、 75 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 ということが第一の印象としてありましたし、宮川一 入場者数が35人です。ということで、今度はもう少し 夫や依田義賢をはじめとする映画人たちの遺品な 人が入るような、つまり上映企画と連動した展示企 どが、京都という土地に根付いた形で見事に残さ 画を立ち上げました。今年は小津安二郎と清水宏 れていて、それが展示に生かされているという点に の生誕100年を記念する企画上映がそれぞれ始ま 大変感激しました。これはフィルムセンターとは違 りますが、それに合わせた展覧会で、二人の蒲田 った形で、京都のフィルム・アーカイヴが機能してき 時代の失われた映画を関係資料によって辿る内容 たことをよく表していると思います。 になっています。また、先ほどの「展覧会 映画遺 それでは我々の「映画遺産」という展覧会が最終 的にどうなったのかといいますと、これは逆手に取 産」も、今後は規模を縮小した形で常設展として継 続して行く予定です。 るといいますか、これだけの映画に関する遺産が このように試行錯誤を重ねている最中ではありま 失われてしまっているということを、そのまま正直に すが、「展覧会 映画遺産」を準備する過程で、京 訴える展覧会を開くことにしたのです。 都に残されている『羅生門』の扁額や、横田永之助 実際、「映画遺産」という展覧会は、日本映画の が持っていた明治33年のゴーモン映写機の現存を 草創期から戦後の黄金時代までの年代を順々に 確認することができたり、それらを期間限定の特別 辿っていくのですけれど、そこで観ることができるの 出品として東京に招くこともできました。それらの全 は、決して日本映画のメインストリームに属している てが、ある種の芽生えだと思うのです。既に失われ 資料ではなくて、それらの時代に属していて、なお てしまったものの大きさは否定しようもありませんが、 かつ現存し得た資料なのですね。そういったものを 東京でも京都でもようやく何かが始まろうとしている ポツポツと、ランダムに観ていこうということが一つ。 わけで、これは今後継続していけば、もっと大きな それから、日本映画が過去にどのような経緯で失 成果に繋がるかもしれないし、それだけで人が集ま われていったのか、そのプロセスを辿る構成にしま るような魅力的な展覧会が開かれる可能性も、実 した。関東大震災によって日活創立以前のフィル はまだまだ残されているのではないかと私は考え ムのほとんどが失われてしまったケースをはじめ、 ております。 戦争によって失われたフィルムや、戦後になっても、 失われつつある映画遺産 例えば京都の松竹下加茂撮影所では可燃性フィ 森脇 ルムの火災でほとんどのフィルムが失われている。 の映画の黄金期に活躍された方たちが、どんどん そうしたことが映画の草創期から戦後の黄金期まで お年を召されまして、70、80歳になってこられてい 繰り返されてきた。これもまた映画史なのです。 ます。資料を残すということも含めて、新しい動きと また一方では、映画保存運動の中でこれまでに 残っているという意味と同時に、戦前、戦後 いう点で、立命館の冨田さんはどう御考えです 発掘されたフィルム、例えばイギリスから帰ってきた か? 衣笠貞之助の『十字路』(1928年)や、東ドイツから 冨田 帰ってきた内田吐夢の『土』(1939年)、あるいはあ 今まで多くのものが失われてきたというのが事実で る民家から見つかった溝口健二の『ふるさと』(1930 あって、それでもまだこういったものは残されている 年)、そうしたものをビデオクリップで見せることで、 と確認できた、というのが現状ですよね。私が非常 二つのパラレルなストーリーが展開する。そのこと に怖いと思っているのは、アーカイヴで保存されて で、ある種、振興という問題と結びついてくるかもし いる資料よりもまだ多くの貴重な資料が、京都市内 れませんけれども、まさにフィルム・アーカイヴの存 の新旧映画人のご家庭にあり、それらがこのまま失 在意義を訴えるための展示にしたのですね。 われていく可能性が多分にある、ということです。指 入江さんと森脇さんがおっしゃったように、 ただ、入場者数ということでは、我々も苦戦して 摘されたゴーモン映写機や『羅生門』の扁額も、個 います。既に1年近く開催してますが、1日当たりの 人の方々が大事にお持ちであったもので、それを 76 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 私たちが今回お借りして展示し、そして日本に現 力が足りないですね。 存していたことを確認できた、という状態です。これ その力を大きくしていくためには、つまりメンバー は確かな一歩に違いないのですが、その一歩をさ や支援者を増やすには、おそらく映画文化の振興 らに今後どのように続けていけばいいのかという点 なり保存なりの必要性が一般的に認められていな で、私自身は途方にくれています。 いと思うので、文化的な中での映画自体のヒエラル たとえば立命館のアート・リサーチセンターは、 キーを押し上げて行く方向でしかないと思うのです。 2000年に建物ができて収集を始めましたけれども、 極論を言えば、映画館に足を運ばないのは文化的 既に収蔵庫は一杯になりつつあるのですね。そう に劣っている生活であるとか、映画の展覧会を観 なったときに、京都市内にまだたくさんある貴重な て尚かつ映画も見ることが映画を愛する、あるいは 資料をどこが受け入れられるのだろうと、強い危機 文化的な生活として理想的なスタイルであるのだ、 感を感じます。物以外に、映画人として製作をされ といったあたりを理解していただく、そういう方向で ていた方々や、映画産業の重要な原動力だった観 動いていくしかないと思っています。 客の方も毎年亡くなっていかれますね。観客論か 例えば授業で接する学生は、昔の日本映画を ら映画文化を捉えることも、今もう最後の時代になり 観たことの無い学生が大半ですが、それはきっか つつあるのではないかと思います。 けが無かったという例が多く、彼らが非常に古いと 一つ可能性として考えていることは、先ほどの入 思っている映画でも、表現行為として斬新な視点 江さんの報告にもありましたように、たとえば、市な や、あるいは高度なスタッフの技術がいかに発揮さ り府なり国なりといった行政機関が作っているアー れて総合芸術の映画を作りあげているかというあた カイヴ以外にも、海外に多く見られるような例えば りを、映像と製作現場の話を含めて解説すると、新 大学ですとか、やろうと思えばいろんな形でアーカ 鮮な反応が返って関心が高まるんですね。新たな イヴはできるのですね。先ほどのドイツの事例では 観客層や支援者を生めるのですが、それは、理想 観光政策でアーカイヴを作ったという、そんなこと を言えば大学からでは遅い。中学生とか小学生の が成立するのかと思って驚いたのですが、そういう 頃からそういった教育の機会ができない限り、幅広 ことも可能性としてはあると思うのです。全体として い形での需要者層が形成されていかないのではな 底上げする発想でいかないと、このままでは、各家 いかと思うのです。 庭から受け皿を失った資料が処分されたり、虫食 森脇 い状態になったりしかねませんので、皆さんのご協 あると思うのですが、受容者層を広げると言う意味 力をいただきながら、この活動を一歩進めていきた で、世田谷文学館さんは映画専門とは違う文学館 いと考えています。 として、文学と映画の違いを感じますでしょうか。 実際のところ、マキノ・プロジェクトでは、映画人 映画の受容者層、インフラみたいな視点が きっかけ作りの仕掛け のお話を聴き、かつ資料収集とデジタル化による 矢野 現在は、それほど違いを感じていません。 閲覧用のコピーを作るということを始めていますけ おそらくそのほかの文学館で、「映画」と「文学」を れども、まったく身動きがとれなくなって活動が停 考えたとき、「映画」とその原作という関係で「文学」 滞するという、組織的な体力不足の問題も出ていま をとらえるのが一般的でしょう。つまり展示であれば、 す。例えば聞き取りをしていく際にも、一人一人の 林芙美子の著書『浮雲』と成瀬巳喜男の監督した 方とコミュニケーションをとる時間が膨大になってし 『浮雲』のポスターを並べるような感じです。「見て まい、それがために資料収集のほうに手が回らなく から読むか、読んでから見るか」ではないですが、 なる。資料収集を中心に、あるいは今回のように実 映画と文学のジャンルの違いを示すだけで終わっ 際に展示を作っていくとなると、聞き取りの方に全く てしまう。そういう展示にどれほどの意味があるのだ 手が回らなくなるといった状態で、やっぱりまだまだ ろうか、と強い違和感があったんです。それで、映 77 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 画も扱うのであれば、映画を構成する要素のひと ます。 つとして「文学」を捉えた方が面白いんじゃないか 森脇 なと。映画資料展を文学資料展のひとつのバリエ 品はわからないのでしょうか、その資料の面白さも ーションとして考えたわけです。 わからないのでしょうか。例えば、伊藤大輔監督の 通常、文学館では、作家の肉筆の原稿ですとか、 映画というのは、作品を見てからでないと作 戦前の作品は残っているものが少ないですから、 あるいは書簡、図書、雑誌とか、そういったものを 資料を見てどんな映画だろうと、そういう部分に思 展示して観て頂くというのが基本的なスタイルです いをはせることが私などはありました。そういう意味 ね。そうしますと文学作品は、本を買って自宅で読 で、資料を見て映画を想像する観客層も想定でき むものですから、わざわざ博物館にまで来て作品 たんですね。 を読もうというモチベーションを、我々が作らなけれ 先ほど矢野さんは、文学の場合も、展示では中 ばならない。そう考えたとき、非常に難しい問題で 身は伝えられないとおっしゃいましたよね。教育に あると思いました。美術館であれば作品を鑑賞する ついて大学からでは遅いと言う冨田さんの意見も ために、その場に足を運ぶ必然性があります。詩 ありましたが、小学校から教育されている文学でも、 や短歌など短詩系の作品などは、展示ケースに並 読まないと作品はわからないのでしょうか、制作関 べて鑑賞することも可能ですが、小説や評論など 連の資料に触れて初めて理解できるものがあるの そういったものをガラスケースに入れても、頁を開 でしょうか。 いた一部分しかわからない、もしかしたらほとんど 矢野 何もわからないかも知れない。しかし、展示資料に でも映画でも、作品を知ってから制作過程資料を ちょっとした説明をつけたりして、ある程度関心を持 見た方が、興味を惹きやすいはずですし、面白さ って頂くようなことはできるはずなのです。 を発見できるでしょう。その辺が文学館のジレンマ 難しい質問ですね。一般的に言って、文学 僕自身は、文学資料展というのは、あくまでもき なんですよね。結局、作品に触れてもらえればい っかけ作りではないかと思うのです。例えば、遠藤 いわけですよ。例えば、その作家については知ら 周作展や井上靖展など、そういった作家の展覧会 なかったけれども、世田谷文学館という所に来て一 を開いたときにいらっしゃるのは、遠藤さんなり、井 つのエピソードを知って、そういう作家がこういう作 上さんなりの作品を既に読んでいるか、ファンの方 品を作っていたんだ、と改めて知ることによって本 がほとんどなんですね。読んだことはないけれども、 でも読んでみよう、と。そのために、どんな資料をど あそこの展覧会に行ってみたらなんとなく読む気に のように並べて、どんな展示を体験してもらうかとい なるとか、あるいはちょっと関心を持ったとか、そう うのが重要だと思うのです。 思わせる、仕掛けのある演出が文学館の展示には 必要なのではないかと思います。 例えば、遠藤周作さんの展覧会を担当した際に、 遠藤さんは、いわゆるカトリックの宗教的なテーマ 文学資料展というものも実はそれほど歴史があ の作家という堅苦しいイメージがある一方で、面白 るわけではありません。せいぜい20数年くらい。そ いエッセイを書く「狐狸庵」のおどけたイメージがあ れも日本近代文学館が、主にデパートを会場に行 ります。僕は、別の視点を提示して、更に作品に触 ってきたものです。世田谷では、川崎市市民ミュー れてもらえたらいいなと思いました。それでちょっと ジアムさんの「映画生誕100年博覧会」を参考に、 した仕掛けをしたんです。遠藤さんは非常に長い 手探りで映画の資料展を行ってきましたが、非常に 闘病体験があって、それが作品にも影響を与えて 心強く思ったのは、昨年、フィルムセンターさんが いるのですが、晩年に、心暖かな医療を求めるとい 展示室を常設で作ってくださったことです。これは う提言をしたんです。病院の先生や看護婦さんが 我々のような、専門館ではない、一地方の博物館 どう患者さんに接したら患者にとって良い医療がで が映画に取り組むときの、一つの指針になると思い きるのかというもので、その辺をテーマに展示を構 78 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 成したんですね。それは、あんまり遠藤さんの作家 としても、総入場者数としては上映に見劣りすると イメージにない部分だったこともあって、受け手にと いうこともありますが、やはり映画を見た人が展示を って、新鮮な印象を与えたようです。宗教的なもの 見るという一方向な流れしかないことも関係してい に対してあまり関心が無かったんだけれども、『沈 ると思います。そのこと自体が、例えば文学の社会 黙』を読んでみましたとか、そういう人が結構いたん 的なステイタスと映画のステイタスの違いを表して です。だから、とにかく今まで手にとって作品を読 いるような気もしてしまいますが、元々映画を知っ んだことのない人たちに、いかに本を手にとっても ている人だけが見る、映画を見たお客さんしか展 らうかという仕掛け、演出をいろいろと用意すること 示を見ないというのでは、全く広がりが生まれない が大事なのかなと思うのです。 ので、なんとか来館者の裾野を拡げたい。そのこと 文学と映画を一緒に並べるのは難しくて、うまく によって映画を見るきっかけが生まれれば、こんな お答えできないんですけれども。世田谷文学館の に理想的なことはないのですが、そのようなきっか 場合は、そういう文学資料展のアプローチをある種、 け作りの面で世田谷文学館が果たしている役割は 映画資料展にも応用してきたともいえます。映画の とても大きいと思います。 場合は1時間半から2時間あれば作品を鑑賞できる 回路を開くのは教育か わけですから、展示会場で映画資料展とともに両 冨田 方体験してもらうことも可能なわけですね。資料か ても松之助にしても、それぞれ1000本近く撮られた ら作品に関心をもってもらうには、仕掛けや演出、 にも関わらず、残っているフィルムが10本もないと 展示方法についての研究が必要なんだと思います。 いうものでしたので、私達の興味も勿論、先ず資料 写真も含めて展示は読むものが中心ですから、来 から入っていったんですね。そして残っている映画 館者一般に分かりやすく組み立ててあげる必要が に出会い、その資料を再読しながら映画と資料の あります。映画資料展では作品の説明にスチルは 両方からその映画の特質なり魅力を見ていく、とい 欠かせませんが、これが権利の関係で使用料も安 うことをしました。唯、展示でそれを表現するのは無 くなく、本編の一部をビデオで流すとなると、これは 理だと思いましたので、写真情報としても興味を持 もうほとんど無理に近いのです。こういうあたりがクリ ってもらえそうなスチールや、映画をイメージできる アされると映画資料展も大きく変わる可能性がある シナリオですとか、そういったマテリアルを中心に と思います。 構成して、その先への、見られない映画への関心 映画文化の受容者層の開拓 も持っていただきたいと思ったのです。 私達が今回展示を担当したマキノ映画にし 本を読むのが先か、展示を見るのが先かと それと映画と文学の違いという点で、私がさっき いう事ですけれど、先に本を読んでいる人にとって 教育が遅いと言ったのは、文学と映画を比べる時 は、展示にはその作品の読み方を変える効果があ に、文学の方が高尚で、映画は娯楽で低いという ると思うし、しかも矢野さんのお話では、展示を見る 一般的な通念に対して、そうではなく同じである、と ことによって本を読むきっかけ作りが生まれるという、 いうことを広めたいということが、まずあったんです 非常に理想的な、双方向的なバランスが、読むこと ね。 入江 と展示を見ることの間に生まれていると思うのです。 それとともに、ちょっとレベルが違ってくるかもし ところが、映画ではそれがなかなかうまくいかな れませんが、今現在、メディア・リテラシーという言 いのですね。映画上映と連動した展示をやっても、 葉で、小学校からパソコンなどを使った教育が行わ 映画には人が入るけれども展示にはなかなか人が れ、映像教育も含まれています。その映像教育で 回ってこないという話がありました。一つには、企画 映画が取り上げられる時には、ビデオなどの複製 上映のお客さんは1人で何作品も見るのが普通で 物でパソコンやTVモニターで見るというのが、一般 すので、そのお客さん全員が1回ずつ展示を見た 的なやり方になっています。その結果、例えば映 79 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 写機は、今、学校の現場からどんどん捨てられて 映像は、やはり何かのための映像だったんですね。 いますので、映写機を通して見ていく映画の需要 例えば理科にしたって算数にしたって教育現場で のあり方は、学校教育の現場から完全に失われつ 使われるものというのは、そういうものを教えるため つあると思うんです。私が立命館に来たのは2000 の補助的な教材としての映像素材だったと思いま 年ですが、前年の校舎建て替えの時に大型の液 す。 晶プロジェクターを設置して、それまであったアー 結局、教育の中の映画が素材として活用される ク式の35ミリ映写機を捨てたって言うんですね。ア に過ぎないのであれば、確かにそれがフィルムで ート・リサーチセンターを作っておきながら、何でそ あろうと、35ミリであろうと16ミリであろうと、ビデオで の映写機を捨てたんだ、と随分怒りました。 あろうとあまり問題にならないかもしれない。だけど、 それは、映画を教えるときに、フィルムで撮られ その対象が映画そのものになった場合には、当然 た映画と、それを上映する映写機というのはやはり それが35ミリなのか16ミリなのか、あるいはビデオで 映画文化の中の非常に重要なものであって、それ 撮られたものなのかというのは、非常に大きな問題 らをきちんと総体的に捉えていかないと、映画文化 に絡んでくるわけですね。 というものにはなり得ないと思っているんです。とこ 森脇さんがおっしゃられたように、学校教育の中 ろが、映像教育とかメディア・リテラシーで言ってい で、文学では、例えば夏目漱石とか教科書に採録 るのは、そのソフトに込められた情報をどう読み解 されて我々は国語の授業で教わりますね。しかし、 いていくかという点がテーマになっていて、それら それと同じように映画が教えられないんだろうか。 を再現する機構ですとか、映像表現の特質、フィル 例えば、川端康成という名前と同じように、黒澤明 ムの表現などそういったものは全部削ぎ落としてい という名前が、小学校や中学校の国語の授業で聞 るんですね。芸術や文化としての教育にはなって かれるようにならないんだろうか。話としてはそこで いないので、その点を大学から教えているのでは すよね。 遅いのではないかと。つまり、情報教育としてやっ しかし、一方で、そういう形での映画文化の浸透 ている以上は、文化的なステイタスは上がっていか 度の低さが教育に一つの起因を持っているとすれ ないと思っています。 ば、その事の強調だけでは、問題を克服するのは 川村 難しいと思います。むしろ、教育機会が与えられて 冨田さんのお話と、森脇さんのお話を受け て発言します。 いない映画というものを、その現状の中でいかに浸 小中学校から教育機会を与えるべきというお話 透させていくかが、問われているのだと思います。 で、冨田さんが正確にご説明されたと思うんですけ その意味で、報告にもありましたように、アート・リサ れども、一つは視聴覚教育という形で、戦後ずっと ーチセンターさんでやっていらっしゃることは非常 展開してきた教育行政の枠組みの中での映像の に重要だと思います。大学だから博物館だから美 扱い、かつてはそれは映画と呼ばれるべきものだ 術館だからということではない重要さがあると思いま ったんですが、それが限界に来ていて、各地方自 す。とりわけ、世田谷文学館さんの例でもそうです 治体には視聴覚ライブラリーがあり、学校機関など けど、物がこういうところへ集まってくるというのは、 に16ミリのフィルム貸し出しをするわけですね。しか 人との交流が先ず前提なわけですね。人と接して、 しもう、フィルムを貸し借りしているケースはほとんど その中である程度信頼していただいて、資料をお ない状況だと思います。ビデオが一般的ですね。 預かりするというのがほとんどのケースですので、 破綻の理由として、映像教育あるいはメディア・リテ そういう形で、そういう方達との交流を、それまで接 ラシーという形で、新しい映像教育に関するパラダ 点の無かった学生の方なども参加してもらって、定 イムが出てきたということもあると思います。もう一つ 期的に行なっているということは、非常に重要な意 は、非常に単純に言って、そういう形で提供される 義を持っていると思います。 80 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 僕は、実は10数年前は京都に住んでいまして、 眞也さんという方が企画とガイドを、私達がサポート 恥ずかしながら、その時は全く感じていませんでし 役を務めて、一般の方々に広く呼びかけましたとこ たけれども、今京都に旅してくると、非常に強く実 ろ、60人以上の応募者があり、朝から夕方まで30k 感するのは、京都にそういう映画人の人達がたくさ m歩きますので、30人程に選抜して行動しました。 ん住んでいる、普通に町中を歩いていると、ひょっ 映画がスクリーンで上映される映画だけじゃなく、 とそこから出てくるかもしれない、道角を曲がった所 映画制作の現場から受容の場まで入れると、世の でふっと出会った人が、かつて大映を支えたもの 中全部、映画的な物に見えてくる、そういう体験だ すごい映画人かもしれない、そういうふうに自分の ったんですね。それに参加して下さった方々も、や 住んでいる町をもう1回見てみると、自分がこれだけ はりずっと私達の活動を応援して下さっています。 魅力ある町に住んでいたんだということに、気づか つまり、先ほど川村さんがおっしゃったように、い されるわけですね。それによって、町が持っていた かに社会との回路を開いていくのかというところが、 イメージは、ざっと一変してしまうということは、確か 今まで足りなかったんじゃないか、と思っています。 にあると思います。そういう意味でも、冨田さんがや 映画好きな人達だけに通じる言葉では、支援の輪 られているプロジェクトという形での活動のスタイル というのは拡がっていかないので、そうではなくて、 ですね、そのフレキシビリティーも含めて、美術館、 例えば地域文化なり何なり言葉を代えてでも、より 博物館、大学ということにこだわらず、我々もやはり 多くの人に関心を持っていただいて、支援者にな そういうことも試みていきたいというふうに感じます。 ってもらえるような、そういう社会と映画との回路の 冨田 作り方が、これから必要なのではないかなと思いま 先ほども申し上げましたが、プロジェクトに 関わっているメンバーは特殊な学生になりつつあり す。 ますが、当初は、日本映画を見た事も無い一般的 アーカイヴと地域との連携 な学生なんです。その学生達がどうしてプロジェク 森脇 トに参加して積極的に活動するようになっていった て、その京都的な特徴を活かして成果をあげてい かというと、やはりきっかけ作りがあるんですね。 る立命館さんに、展覧会への協力をお願いして今 京都は本当にそういう意味では幸いであっ たとえば2001年から2年間、大学コンソーシアム 回の京都映画創生期のコーナーが実現しました。 京都という、京都市内の全大学が単位認定の授業 京都の中での収蔵施設と研究施設とのネットワーク として受講できる授業を担当しまして、そこで、半期 的な展示も、形となったわけです。こういう繋がりは、 通して1本の映画をとりあげ、その作品に関わった 関東の方ではどうなんでしょうか。 助監督、撮影、照明、美術、録音などのスタッフの 川村 方々に一回ずつ登壇していただき、各シーンの制 地域との繋がりは常に課題として意識しています。 作談や表現をスタッフ・ワークの視点で解説しても 川崎という市は縦に細長い行政区で、横に私鉄の らったんです。1年目は伊藤大輔監督の『弁天小 沿線が通っていまして、基本的に文化圏が横でつ 僧』(1958年)を、2年目は黒澤明監督の『羅生門』を ながっているんです。同じ川崎市に住んでいても、 とりあげまして、田中徳三監督や西岡善信美術監 出掛ける先は小田急線に乗って新宿へ、東急線に 督、中岡源権さんなどにご協力いただきました。そ 乗って渋谷に出て行く、そういう形で文化圏が構成 の時の受講生達が、回を重ねるごとに熱心さを増 されているので、なかなか縦の繋がりが意識しづら して、メンバーに参加したり、支援者としていろんな い行政区なんですね。 所で協力をしてくれます。 開館して15年が経ちますが、施設の性格上、 その小田急線沿線の新百合ヶ丘という場所で、 それから2000年に、京都の洛西地域にかつてあ ワーナー・マイカルのシネコンの劇場を借り受けて った13ほどの撮影所を一気に歩いて回るというイベ 市民ボランティアで基本的に運営している「しんゆ ントを行ないました。東映京都の映画人だった古市 り映画祭」という、もう来年10回目を迎える映画祭が 81 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 ありまして、その映画祭とは一緒に連携しながらい 発起人になり、冨田さんが幹事のような役を買って ろんな活動していこうと思っています。そのしんゆり 出てくださったことで実現したものです。それまで 映画祭は、今村昌平さんが理事長を務めている日 は、私達も別に秘密主義に閉じこもっていたわけで 本映画学校の方たちと協力し合って運営されてい はないのですが、それぞれが目の前の業務に追わ るんです。そこと一緒に、ビデオでですけれども、 れているだけで、お互いの活動内容についてはよ 中学生にフィクション映画やドキュメンタリー映画を く理解していない部分も多かったのですね。そうし 作らせるようなワークショップをやっています。そう た中で、特にノルマを設けることなく、達成すべき いう形で、地域で映像、映画に早く触れられる機会 目標を掲げるのでもなく、なかなか外部には相談し をできるだけ作っていきたいと思っています。 にくいようなことを率直に話し合う、そういう場を設 そういうことは非常に求められていますし、当たり けるところから始めたのです。 前のことですけれども、地方自治体の運営する博 当初矢野さんには、映画の資料を整理するノウ 物館や美術館は、ある意味では必要以上にそれを ハウは、フィルムセンターのような映画の専門機関 意識して、今後は活動していかないとまずいとは感 に集約されているだろうという考えがあったと思うの じています。 ですが、実際には私どももフィルムを集めたり保存 矢野 地域との関わりは、先程ご報告したとおり、 したりするのが専門で、また先に触れたように独立 フィルムフェスティバルで区内の撮影所や映画館と した資料係ができたのが2000年ですから、それほ 連携しています。ちなみに、このフェスティバルのリ どハイレベルな資料整理を行っていたわけではな ーフレットとポスターは、和田誠さんにずっと描いて いのです。逆に、資料の扱いに関してはそれを専 いただいていて、和田さんも世田谷にお住まいだ 門でやられている世田谷文学館から教わるところ ったそうです。第1回の開催にあたって、何かシン が多かったというのが正直なところです。今では、コ ボリックなものを描いて頂けませんかとお願いした レクションの内容についての情報交換はもちろん、 時に、「やっぱり世田谷だったらゴジラじゃない?」 実際の資料の貸し出しや、寄贈の話があった時に、 って絵を描いて下さって、それがロゴマークになっ どの館が受け入れられるかといった相談などもスム ているんです。 ーズにできるようになりました。 研究施設とのネットワーク作り、共同の調査研究 将来的なことについては、例えばフィルムセンタ 活動は課題となっています。先ほどの冨田さんの ーが所蔵しているプリントの貸し出しのことを考えて お話ではありませんが、映画資料は放っておくと散 みたいと思います。 逸してしまう可能性がありますから、今のところ研究 これまで、なかなかこれをできなかった理由とい よりも収集が優先されています。もちろん収蔵庫に うのは、例えば博物館・美術館というのは日本国内 限界もありますが、それが地域博物館の使命だと にもたくさんありまして、そこに資料を貸し出すと、 思っています。普段、映画人の方々と接していて、 美術梱包車を仕立ててコレクションの引き取りに来 私たちに対する期待を非常に強く感じています。 る、学芸員が白手袋をして扱う、そういうインフラが 今後の展望 全国共通で整っているわけですが、フィルムに関し 森脇 てはそれが無いのですね。 では質疑応答に入る前のまとめとしまして、 映画を文化として普及させ、機能させたいという活 本来フィルムセンターの所蔵フィルムというのは 動と、その将来観についてお願いします。 保存用ということをうたっているわけですが、それを 入江 非営利というだけの理由で消耗品と同じ扱いを受 国内でこうしたシンポジウムが開けたこと自 体が、私は大変画期的なことだと思っています。 私たちのグループが研究会のような集まりを持ち 始めたのは3年ほど前のことで、これは矢野さんが 82 けてしまうことはやはり問題だと思います。このこと はなかなか理解を得にくい部分かも知れませんが、 私などもいざ資料のセクションに移り、展示施設を 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 相手に映画ポスターなどの貸し出しを経験してみ えたいと思います。 ると、全てのものごとがスムーズに運ぶので余計に 川村 落差が目に付きます。そうした中で、京都文化博物 れども、報告の時にお話しした通り、映画の誕生し 館や、川崎市市民ミュージアムのように自らフィル た20世紀に生を受けたことに僕は幸福を感じます。 ムの保存を行っている専門機関との連携は、やは 15世紀の人はこういった形で映像を体験することが り優先的に考えていくべき課題だと思います。先程、 出来なかった訳ですし、僕ら20世紀の人間は、今 学校が35ミリ映写機を捨てているという話がありまし までの人が体験できなかったことを体験出来る訳 たが、逆にいろいろな地域の組織などが本格的な です。我々自身の「生」を映像を通じて記憶し、記 映画上映ができるだけのインフラを持つような努力 録していくことは、映画資料を保存していくことと直 をしていただきたいと思います。さもなくば、フィル 接的に繋がっていると思っています。 非常に大げさなことを言うかもしれませんけ ムセンターがきちんと消耗品として回せるようなフィ 例えば講演会や上映会、映画資料の展示会を ルムを、保存用のプリントとは別に作っていかなく 通じて、文学館、美術館、博物館、大学、それから てはいけない、それが今後の差し迫った課題、問 一般の映画館も、今は地域の映画祭や市民のボラ 題点と捉えています。映画を見る機会が増えれば、 ンティアの方が自発的に映画館を作って運営して それは映画教育にも貢献すると思います。 いっている状況が地方にもたくさんありますし、そう 冨田 いま強く感じていることは、まだ間に合う、と いう環境の中で、映画は明らかに今後もっと必要と いうことです。つまり、今まで失ってきたものはもう されると、強く感じています。そのためのきっかけと 取り返しがつかないけれども、これから失うであろう いうお話もありましたけれども、僕たちは、形となる ものを止めることは出来る。そういう意味で自分た ものを皆さんに提供していきたいと思いますし、そ ちは、単に映画を消化していくだけではなくて、前 れがご要望に応えきれていないならば、それをきっ 向きな形で、次の代に繋げる上でも、歴史的なもの ちり反省して生かしていく気持ちもあります。 も含めて吸収していきたいと思いますし、そのため 同時に入江さんや冨田さんが、どこでもアーカイ には今以上に収集したり、保存したり、あるいは外 ヴになり得るというお話をなさった通り、いわば個人 に向けてアピールすることが必要だと思っています。 の方でもアーカイヴを作ることができるし、自分自 そういう形でこれからも活動していきたいと思いま 身もアーキヴィストになることができるのですね。確 すけれども、ただ正直に言いますと、周りの方の御 かに地方自治体からお金を取るということは大変か 希望も多く、それを今私たちがすべて受け止めら もしれないけれども、プライベートな運営のアーカイ れるかというと、本当にぎりぎりの状態でやっており ヴも日本国内にはあるわけです。収集家として、資 ますので非常に難しい。その時に、これはアーカイ 料を抱えている個人の方もたくさんいらっしゃいま ヴ側の人間だけの問題ではなくて、京都は町全体 す。そういった形で機能することもできる訳ですし、 が映画を作る場であり、需要の場であったと同時に、 それが一つの閉じた空間を作るのではなくて、こう 映画を守っていく場としても機能していくためには、 いった博物館施設、美術館施設、大学、映画館、 市民としてどうすればいいのかということを、一緒に そういった施設や個人の方との交流の中で、映画 考えていって欲しいと思うのです。率直に言えば、 は必要とされている、映画は必要なのだ、という実 映画のアーカイヴ活動が、京都府だけではなくて、 感を共有していければと、強く思っております。 なぜ京都市にできないのか、なぜ右京区にできな 矢野 いのか、なぜ例えば地域の学校にできないのか、 とお客さんが入りにくいというお話しがあったので といった言葉を、皆さんにも発していただきたいと すけれども、世田谷文学館の場合は、例えば年に 思っておりますし、その大きな運動の中で私たちも 4本位の企画展がある中で、映画関連の企画展を どういうふうにネットワークを広げていけるのかを考 他の文学展と比べてみましても、そんなに極端に 先ほどの皆さんのお話で、映画の資料展だ 83 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 少ないわけではないのです。著名な作家の回顧展 贈するということも、住民参加の方法の1つではな など、非常に多く入る展覧会ですと、例えば同じく いかと思っております。 らいの期間、約40日開催した場合、8000~9000人 それから公開については、展示とか図録とか本 の入場者数があります。「映画と世田谷展」は3300 にするのは費用もかかりますし限界もありますので、 人でちょっと少ないですが、「黒澤明の仕事展」で 館で持っている資料をどうアピールしていくのかも も6200人です。文学展の平均が約5000人ですから、 大きな課題です。最近、DVDを出すときに、本編だ 決して映画資料展だけが特別に少ないわけではな けではなくて、その当時に作られた予告編とか資 いのです。これは世田谷が特殊なケースとなれば 料などの特典映像を付けますね。館の収蔵資料を それまでですけれども、文学だけではなくて映画も 特典映像として入れてもらうこともひとつのアピール 導入したことで、相乗的な効果があって、お客さん になるかもしれません。ケースとしてご紹介しますと、 が来てくれているのではないかと思います。映画資 小林正樹監督の『怪談』(1964年)のDVDが去年出 料展をフィルムフェスティバルのなかで一緒にやる ました。東宝さんからDVDの製作担当の方が当館 ことを毎年繰り返していくことで、世田谷文学館の にいらしたときに、何か特典映像に入れられるもの お客さんたちに、認知されてきているのでしょう。 はありませんか、ということで、それならば面白いも つまり、映画資料展というのはまだ始まったばか のがありますよ、と。小林正樹監督がその映像を作 りだと思うのです。収集に関しては長い歴史がある るために、いろんな雑誌とか画集から絵画や写真 かも知れませんが、展示はまだ始まったばかりだと を切り抜いて貼り付けたスクラップブックがあるんで 思うのです。そういう意味では、今は機会こそ少な す。それを一部ディスクに収録しました。それから、 いかもしれませんけれども、継続して開催すること もうひとつ、市川崑監督の横溝正史原作の作品だ によって、お客さんも徐々に増えて、認知されてい けを集めたDVDがボックスセットで発売されるという くのではないかと思っています。 お話がありました。実は世田谷文学館は、横溝正 世田谷の場合は文学館ですけれども、資料を収 史さんの旧蔵書を含め、ほぼ全資料が寄贈されて 集していると、どこまでが「文学」で、どこまでが「映 いて、収蔵品の中でもかなりのヴォリュームがありま 画」なのかという線引きが、実は非常に難しいので す。また、世田谷区ではかつて「文化人記録映画」 す。文学者関係の資料の中にも映画関係のものが という世田谷にゆかりの作家や画家の記録映画を あったり、映画関係者の中に文学関係のものがあ 作っていたんですが、そのなかに、渡辺邦男監督 ったり、またその作家の方が映画を撮る場合もある のご子息の渡辺邦彦さんが監督をした「横溝正史」 かも知れませし、渾然一体となっているのですね。 の記録映画があり、渡辺監督の承諾が得られ、特 あまり映画は映画だけと特化しないで、もう少し緩 典ディスクに収録されました。そういった形で、世田 やかに、広く考えていくことによって、文学にも関心 谷文学館という博物館が映画に取り組んでいると のある人が映画にも入ってくるとか、色んなアプロ いうことを、区民の方だけではなく、もっと広く一般 ーチの仕方があるという気がします。 に知ってもらえるようにつとめています。 振興という点では、もちろん映画の資料を展示し 森脇 最後にちょっと生々しいお話をしたいと思い て見ていただくということも、アピールのひとつにな ます。文化博物館も映画の上映をしております。観 るのですけれど、やはり最近は地域の人がどれだ に来ていただける方は、60%以上が60歳以上の方 け参加できるのか、という点が課題になっておりま ですね。この人たちは皆さん映画好きで映画も良く す。フィルムフェスティバルの場合も、どういう形で 知っておられまして、昔懐かしい、昔こんな良い映 地域の人に参加してもらえるのかを、いろいろと考 画があったなということで来られるのですね。という えている段階です。もしかしたら、自分の家にあっ ことは、10年後は、昔懐かしいという日本映画の良 た映画のポスターや、パンフレットなど、資料を寄 さがわかっている人、今の60%以上の人に来ても 84 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 らえない、つまり観客数6割減という話ですね。これ 携の、ご実績ないしは模索がおありならば、是非お は切実な問題でして、その中で何ができるのかとい 伺いしたいと思います。各自治体の教育委員会を うことで、日本映画に興味の無い人も引っ張ってこ 通す、通さないはわかりませんけれども、素人でも よう、アニメ好きな人にも日本映画を片隅にでも観 直ぐに考えつくことですので、恐らく各関係機関の てもらおう、という企画を考えたのです。 方はお考えなのではないかと思いますが、あまりそ ところが実際にふたを開けてみましたら、今平均 れは普及しているように聞いたことはないのですね。 1日250人位です。これは普通の美術の展覧会の もしかしたらなんらかの障害があるのかと思うので 半分、あるいは3分の1です。予算的には観ていた すが。 だいたらわかるのですが、大魔神の天守閣など、 森脇 いろいろ作り物を作っておりますので、美術展より けれども、「KYOTO映像フェスタ」では、できるだけ も経費はかかっています。こういうことが重なって、 子供からお年寄りまで、楽しめるようにと想定はした 今回スベってしまったということになってしまったら、 のです。 次に同じレベルで実現するのは難しいという状況も、 学校教育との関連についてのご質問です 例えばさっきステイタスという話もありましたが、 一方ではあるのですね。その中でどうしていったら 映画が入っていたら後援ができない、という教育委 いいのかと、先ほどのステイタスの話が出ていまし 員会も実際にありまして、その教育委員会の系統 たけれども、例えばそんなにステイタスは高くない の協力は得られませんでした。やはりそういう障害 ブリキのおもちゃの展覧会だったら観に来たりしま はあるんですね。学校教育の中で、映画が明らか すよね。ステイタスの問題なのか、何なのかというこ に芸術文学よりも冷遇されているというところもあり とを、皆さんと話ができればよかったのですけれど ます。もう一方の教育委員会は、学校単位のポスト も。 みたいなところに配送して、通り一遍の方向で終わ ってしまったというのが今回の現状ですね。大学の 質疑応答 方は、集団学習ということで来ていただいています。 観客A 例えば小中学校の先生に、生徒を引率し 児童教育とアーカイヴの関係 て全部解説しますよ、等と個別におっしゃれば、先 観客A 生としては、1回分、総合学習のことを考えなくて済 パネラーの方々がお話になったことで、個 別的な質問を一つさせていただきます。 映画が先か、資料が先か、といったことは別にど むので、効果があるのではないでしょうか。 森脇 料金の問題がありましてね。すぐに支出で ちらでもいいと思うのですね。映画を観る喜びが伴 きないと。例えばクラス全員行って、ということであ っていないことはもちろん困ると思いますけれども、 れば良いのですが、総合学習は個別に行ったりし 素晴らしい作品を観て感動した経験がきっかけとな ますよね。相談もしたのですが、2、3人からそういう っても良いし、何か資料との出会いがきっかけとな 話が返ってきて、なかなか網かけての導入はしづら っても良い。ただ、ご指摘の通り、資料が展示して いと諦めてしまったというのが現状です。 あるだけでは、ある程度の基礎知識が必要となっ 川村 て、それを楽しむということは成立し辛いかもしれま 下にあって、学校から社会見学で定期的にミュー せん。 ジアムにやってきて、生徒達が入場者数としてカウ 市民ミュージアムも川崎市教育委員会の傘 そこでお伺いしたいのは、シンポジウム中半から ントされるという実態はあります。そういう形で博物 後半にかけての主要なテーマでありました、映画 館として利用されていますけれども、残念ながら映 文化の振興と保存ということと、学校教育との関わり 画の常設展をする場所がないので、博物館見学に について、入場者数の伸び悩みという点も含めて、 小学校5年生の子たちがやって来て、映画につい 例えば昨年度から導入された総合学習などとの連 てお話をするということは、確かに今はしていませ 85 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 ん。上映会をやる際には、教育委員会を通じて教 ア』(1995年)を上映して、その後に子供たちに自分 員の人たちに、積極的に投げかけをしています。 たちがイメージする、ゴジラに負けない自分だけの けれども、今日はこの学校、次はあの学校という、 怪獣を描いてもらいました。そうしたら、そのとき随 いわば網をかけるような形で、映画のイヴェントに 分たくさん子供たちが集まって、本当に生き生きと 参加してもらうのはさすがに難しいと感じています。 して画用紙いっぱいに好きな怪獣を描くのですね。 矢野 今、総合学習とか、土曜日に小・中学校が その絵をアニメーションで動かすことができればも お休みになったりして、真っ先に博物館で何かを っと面白いかもしれませんが、そういうふうに文学 やって欲しいという要望は、確かにあるのです。 館では、子供たちが、映画作りや映画の面白さに 参考までに申し上げますと、世田谷文学館では、 ちょっとでも触れられるような機会を、短歌や詩を 今年度から「土曜ジュニア文学館」というのを毎月 つくりながら文学に触れるのと同じように、とり入れ 開催しております。事業数の増加は担当者の負担 ております。 にはなっているのですが、とにかく小・中学生に文 ところで、世田谷区は全国でも珍しい、視聴覚教 学館に来てもらって、それがいずれは長期的なフ 育の先駆けの地なのだそうです。山本嘉次郎監督 ァンになって貰えればいいなということで、子供た 夫人が区議会議員だったこともあって、区からの補 ちが来るためのきっかけ作りを考えました。いろん 助金によって小・中学校の各校に映写機を1台ず なプログラムがあって、例えば子供たちが読んでい つ設置しました。しかし、先ほどの冨田さん、川村さ る本って、お子さんが居ればわかるかもしれません んのお話のとおり、残念ながら今では学校教育の が、大人には全然わからないですね。そこで子供 場から映写機はすっかり姿を消しています。視聴 たちにアンケートをとって、大人に読ませたい自分 覚教育のあゆみは、児童教育や学校教育と映画を たちの好きな本を挙げてもらって、それを並べて、 考えるときに再考すべきことかも知れません。 実際に手にとったり、ショップで買えるとか、そんな ブロードバンド時代の映画普及について ことをしています。 観客B ブロードバンドや光ファイバー環境が整っ また、文学館の中では映画も大きな位置を占め てきていますが、アーカイヴの方々は、一般の人た ておりますので、映画に関するものもあります。例 ちに映画を見せる時の上映会と違う公開方法につ えば、一つは『鉄腕アトム』のアニメーションをフィル いて、どういう見解をお持ちなのか、知りたいと思い ムで上映することです。1963年の白黒作品ですけ ます。 れど、集まるんですよね、小学生が。その時は初代 パソコンは、持っている方と直接結ぶことができ アトムの声優をつとめた清水マリさんにお話をして る、現代的なアイテムだと思うのです。それをフル いただきました。小学生にとっては新鮮な体験だっ 稼働してこそ昔の財産を活かしきることができ、映 たようです。絵に合わせて喋るというのもそうですし、 画の再興をできるのだと。それが著作権の問題だ 彼等はテレビでしかアニメーションを観ていないの とか、商業上の問題だとかで、できないと言うのだ で、映画って光の反射を見るものですから、同じ写 ったら、それを活かしてくれるような方法を国のほう っているものでもスクリーンだとこんなに違うのか、 でも考えてほしいなと思います。 と身をもって体験できるというところがあったみたい 入江 です。それから他には、世田谷生まれの怪獣ゴジ は確かです。どこにいても容易に見られるというの ラの誕生に立ち会ったスタッフに来てもらおうという は、デジタル媒体の利点だと思います。そして、私 ことになりまして、その時は、「ゴジラ」はもちろん、 たちが今後これまで以上の自己アピールをしてい ウルトラマンの怪獣や北朝鮮の怪獣映画『プルガ かないと、フィルム・アーカイヴの存在が認知されな サリ』(1985年)のデザインをなさった美術監督の鈴 いかもしれない。ただし、そうした運用の大前提とし 木儀雄さんにお願いしました。『ゴジラVSデストロイ て、フィルムをきちっと散逸から守り、リクエストがあ 86 私たちがそのような議論に包まれているの 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 ればそれに応えて可能なかぎりオリジナルに近い 観客B 素材を提供する、フィルム・アーカイヴの一番根幹 身分を証明するものを電子的に出して、そしてまた の業務を私どもはやるべきであると思っています。 何かをもらう、電子政府は、まさにそういった発想だ そのこと自体は言葉で言うとシンプルですが、実際 と思うのです。認証システムはまだちゃんと開発さ には容易なことではありません。しかし一方、そうし れていないということで難しいところがあるのだと思 たコレクションにアクセスする利用者の一つが、プ いますけれども。あと、フィルムを捨てるという話で ロバイディングのようなことを業務としている業者さ すけれども、昔の映画自体が知られていないという、 んであっても良いわけですよね。 その状況をどう打破するかということで、例えば、ホ 冨田 マキノ・プロジェクトではブロードバンドの配 ームページにアクセスして大勢が映像を見たという 信も考えてはいますが、マキノ映画については、や 事実を築きあげることが、大事ではないかと思えま はり権利問題だとか肖像権の問題等がなかなか難 す。 しい。公の著作権が切れているマキノ映画のフィル 観客D ムが寄贈されても、それを配信して、普及させたい の映画の素材がオリジナルとは違ってきてしまう、と という思いはありますが、じゃあ、そこに写っている いうことがあると思うのです。これは「映画」が通常 方々の肖像権の許可を取らなくて流したときに、例 の映像のソフトではなくて、映画文化であるというと えばご遺族との関係を築いていけるのかと、考えて ころの重要な点ですけれども、例えば昔の無声映 しまうのです。マキノ映画のスチールもたくさんデジ 画だったら、一秒間が今の24コマじゃなくて、16コ タル化していますけれども、その利用を限定してい マだったり、18コマだったり、20コマだったりすると るのは、臆病すぎるのかもしれませんが、やはり肖 か、あと画面のフレーム・サイズそれぞれに違うと。 像権の問題がネックになっているという事実はあり そういったものが映像配信用のものに変換されたと ます。根源的な問題として、資料をお預かりする以 きに、全てオリジナルに忠実なものができるのかと 上、二次的な利用も含めて、預けて下さった方との いう問題があると思います。きっかけとしての入り口 関係を崩さないように、どうしていくのか、という点を はいっぱいあったほうが良いかもしれないけれど、 考えてしまうのです。 オリジナルはオリジナルでという点は大事にしたい。 それともう一点、そういった配信映像で見られる 森脇 電子認証という方法もあるでしょう。自分の 根本的な問題として、映像配信される時 溝口健二監督の作品などスクリーンで観て ようになったときに、フィルムなんか捨てていいじゃ おりますと、大画面で見て初めて表現されている部 ないかという極論が、無理解な人たちの間から出な 分というのもかなりあるという気がするのです。です いとも限らないのですね。特にサポート体制が無い から、映画館で映画を観て欲しいと、紋切り型みた 状況では、保存が一番お金がかかるので、皆がデ いによく言われますが、実際にコントラストであった ジタル・データで映像を見られるのであれば、オリ り、視野の全体に画面があるという状況であったり、 ジナルは捨てていいじゃないかと、言われてしまう いわゆるチャンネルを変えるという選択肢がない、 場合があります。後ろ向きですけれども、それが怖 強制的にじっと座って見る状況ということを含めまし いという状態も正直なところあります。 て、やはり映画館で見るということが、一つの前提と 観客C そういう話は現実としてあります。私は大 してあると思うのですね。ブロードバンドやDVDは 阪の民放局のライブラリーで仕事をしている者で、 二次化されていますから、その二次化で構図の勉 昭和30年代は全部フィルムで置いていましたが、 強になるのか、演技の勉強になるのか、監督なり元 テレシネ作業を順次やって、そのフィルムは放るべ の映画を作った方が想定していたものとは違う形の しなんです。それと、さきほどおっしゃった権利の 鑑賞になるのは、仕方のないことですよね。 問題ですよね。やはり契約書の範囲内と言っても、 フィルム映写の危機的状況 人間関係はうまくいかないのですよ。 観客C フィルムの状態にもよりますよね。例えば 87 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 博物館のフィルムならばきれいだと思いますが、僕 用意しておくのは不可能ですし、それは率直に言 は以前に小津安二郎監督の『小早川家の秋』 って現在の映画環境では非常に難しいということで (1961年)を映画館で見たとき、カラーもぼろぼろで す。 シネスコ・サイズになっていたんですね。ああいうプ ただ、今現在、フィルムをスクリーンで上映する リントの上映で日本映画を初めて見た若い人がい 場所は全国にどんどん増えつつあります。例えば たら、日本映画って汚いし、色もむちゃくちゃだし、 NPO法人で市民映画館を作る、市民会館などを利 こんなものだという捉え方をするかもしれない、とい 用して、公的な支援を受けて映画祭をボランティア う恐れはあります。フィルムで見るということはもちろ で行う、そういった形での拠点がまさに全国的に醸 ん大事ですけれども、こういう時代になって、DVD 成されつつある状況です。そこで洋画しかやらなけ で色も補正されたソフトが出来た今、色や画質など れば悲しいのですが、それだけ劇場が増えてきた 総合的なことを考えてみますと、はたしてスクリーン ならば、やっぱり日本映画を上映して、独自性を出 で観ることと、テレビで観るのとではどうなんだろう していこうという映画館ももちろん増えてきますし、 かということを、今思っているのです。文博さんやフ そういう市民の方たちや自治体の自主的な動きが ィルムセンターさんはフィルムを修復されているで 盛んになっていることは事実なので、我々既存の しょうけれども、やはり映画館でフィルムを見るとそ 施設も連携しながら活動していきたいと思っており ういう危険もあるという、悲しいことだと思います。 ます。 川村 入江 市民ミュージアムという施設は、収蔵してい 以前、ハワード・ホークスのレトロスペクティ る作品の種類と本数に非常に限りがあるので、実 ヴをフィルムセンターで開催したことがありまして、 は普通の映画会社から作品をお借りして、収蔵品 世界中のフィルム・アーカイヴから最良のプリントを と混ぜたりしながら上映している施設でもあります。 借りてきたのですが、必ずしも全てがニュー・プリン それで35ミリのフィルムをお借りしたら、色は完全に トのようにピカピカであるとは限らないのですね。ビ 落ちている、場合によってはものすごい臭気を放っ デオなりTVでいいものが出ているのに、なぜか上 ている、そういうフィルムを借りることもあるのです。 映のプリントだけは傷んでいるというケースがあって、 しかも、こうした作品をお借りできるのは早くてせい 実際そのようなことが起こりうる時代に踏み込んでし ぜい上映の1週間前で、もう広報してしまっていま まったことが一つあります。今後、本格的なブロード すから、作品も入れ替えられないのですね。僕の バンドの時代が到来した場合、私どももそれにふさ 経験では、ある作品をお借りしたときに、映写機に わしいアクセス対応の仕方を迫られていくこととは も通らないほどの35ミリプリントが送られてきまして、 思いますけれども、一方できちんとしたオリジナル たまたま16ミリのニュープリントが同じ作品としてスト のフォーマットを情報や物のかたちで後世へ伝え ックされていたので、泣く泣くそちらに入れ替えて、 ていくことは、あいかわらずフィルム・アーカイヴの 上映したことがあります。クリアーな状態であれば、 仕事であると認識しております。 勿論35ミリでやりたかった。フィルムセンターさんに 森脇 しても京都文化博物館さんにしても、基本的には く日本映画の全作品が見られるように仮になったと 新しく焼いた収蔵フィルムを上映されるので、借用 しても、果たしてアクセスは上がるのでしょうか?ま して上映することはないのですね。我々は、半分と た、それで日本映画ファンは増えるのでしょうか? いうか4分の3くらいは映画館的な機能をもっており ブロードバンドの今の画質の状況で、日本映画を ますので、どうしてもそういうケースに遭遇するので 観る人が増えるのかな? というのが、個人的な見 す。我々も望ましくは、上映する作品全て、状態の 解です。それならどこにお金をかけたほうがいいの よいプリントで上映したいと願っているのですけれ かということも、一方ではあると思うのですね。もし ども、映画会社があらゆる作品にそうしたプリントを 一定額しか出ないのであれば、フィルムを保存する 88 しつこいようですが、ブロードバンドでとにか 21世紀 COEシン ポジウ ム『映 画文化 の振 興と保 存』 ことに回すという判断もあって良いとは思います。 在が必須であるという自明の理をあえて主張するこ 議論はつきませんが、予定時間を一時間も超え とで、投影されるイメージにのみ集約されがちな てしまいましたので、本日はこれで終わりにさせて 「映画」観の大幅な修正を主張したものである。そ いただきます。皆さま、遅くまで本当にどうも有り難 の結果、報告者側の議論に対してフロア側の参加 うございました。 者から、ノン・フィルムの偏重に対する不満の声が あがり、それを契機にノン・フィルムを巡る議論は断 ち切られるという展開に陥ったが、一方では会場内 解説 でのディスカッションが活発化し、有意義な意見交 本稿は、2003年11月16日に京都府京都文化博 換も可能になった事を記しておきたい。尚、字数の 物館の開館15周年記念特別展「KYOTO映像フェ 問題から、6時間近くにも及んだ午後の部のうち、 スタ」と共催した立命館大学21COE京都アート・エ ディスカッション部分については、上記テーマの問 ンタテインメント創成研究シンポジウム(午後の部) 題意識と呼応する部分のみ採録した。 「映画文化の振興と保存─地域アーカイヴの試み 本報告書が更なる有意義なディスカッションや活 ─」の採録記録に、各報告者が補筆・修正を加え 動の契機となる事を期待すると共に、本シンポジウ た報告書である。 ムの全参加者に深謝したい。(冨田美香) シンポジウムのテーマ「映画文化の振興と保存」 は、従来の映画受容のあり方に対し、消費文化か 注 ら、育成する文化へとドラスティックな転換を主張 (1)1991年8月21日~25日に開催された「第16回湯 すると同時に、その可能性を模索する契機として設 布院映画祭 マキノ雅広監督特集」におけるマキ 定した。そのため、シンポジウムは午前と午後の2 ノ雅広の数日間を追った6時間ほどの記録映像 部構成をとり、午前の部では、日本映画の父・マキ (VHS素材)をもとに、約2時間に本プロジェクトが ノ省三の長男として、生まれながらの日本映画の申 編集したドキュメンタリー作品『1991年 第16回湯 し子であった稀有な活動屋・マキノ雅広が、最晩年 布院映画祭 マキノ雅広監督特集記録映像 活 に、映画に消費し尽くされた自らの生涯を軽やか 動屋一代 ―マキノ雅広の映画渡世―』のこと。 に振り返る一方で、映画観客が育たなければ映画 もとの記録映像素材は、その提供者・高崎俊夫 産業は成立しないという、悲憤にも近いメッセージ 氏によると、1991年 の湯布院映画祭で口述版 (1) を発した記録映像を上映した。続く午後の部は、映 「映画渡世」(マキノ雅弘自叙伝)の制作を試み 画文化の振興と保存をテーマに活動している日本 たが、重要なシーンで画が乱れるなどの問題か 国内の代表的な地域アーカイヴによる活動報告を ら作品化を断念し、陽の目を見ずに終わった映 行い、国内の現状把握とともに欧米諸国との相対 像である。 化を行った。 この午後の部のシンポジウムの焦点が、「映画文 化の振興と保存」を掲げながら、フィルムよりもノン・ フィルム・マテリアルに比重を置いている理由として、 上述の意図に加えて、既にフィルム上映の多様な 試みについては「映画上映ネットワーク会議」が多 数の報告集を発行し、現実化に向けて歩みを始め ている状況であることを指摘しておきたい。端的に 記せば、本シンポジウムでは、「映画」の成立には、 プロジェクターというノン・フィルム・マテリアルの存 89 ア ー ト ・ リ サー チ Vol.4 90
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