Future development of Japanese film policy from a

都市の記憶としての映画資料アーカイヴのデザイン
−京都を事例として−
権 藤 千 恵
Ⅰ はじめに
(3)周辺的なドキュメンテーション
Ⅱ 初期京都映画と周辺環境
Ⅳ
(1)近代化政策とシネマトグラフ
デジタル・アーカイヴによる映画資料アーカイヴの
公開例
(2)劇映画製作とバナキュラーなもの
(1)マキノ・プロジェクトについて
(3)初期の映画興行
(2)マキノ・データベースの構築
Ⅲ アーカイヴ資料の再分類
(3)課題と展望
(1)映画フィルム
Ⅴ 考察―アーカイヴによって再生される都市の記憶
(2)作品関連のドキュメンテーション
Ⅰ はじめに
このことは、例えば都市再生の理論と実践において、歴
史や記憶、場所が常に都市空間に内在化している5)こと
本稿は、京都が生んだ映画文化・産業についての映画
を明確にする意味から、バナキュラーの定義に示唆を与
資料アーカイヴのデザインを提案するものである。その
えているのではないだろうか。
目的は、映画資料アーカイヴをバナキュラーなものや社
京都における映画文化・産業の発展に、京都の伝統的
会的・政治的状況からのアプローチを含めた包括的な枠
な文化や自然景観が影響していることについては、すで
組みとして捉え、都市の記憶の再生へと導くことにある。
に鴇明浩らによる研究事例がある6)。この中で述べられ
本稿では先ず、京都の近代化の潮流にあった映画が一
てきたのは京都の映画、特に京都の特徴である時代劇映
大文化・産業に発展する過程において、どのようにバナ
画の作品・製作背景にある、京都というまちがもつ文化
キュラーなものや当時の社会状況に影響されてきたのか
ストックの存在であった7)。鴇は、映画製作を可能にし
について、日本映画史の先行研究をもとに概観してみた
た素地として、京都における芸能美術や撮影所の立地、
い。バナキュラーという言葉は本来「根付いていること」
景観に至るハード・ソフト両面からの文化ストックが京
「居住」を意味することばに由来するラテン語であり、
都における映画製作を支えた背景であるとした8)。ここ
「家で育てたもの」に関連するものすべてに使用された
で鴇が定義した文化ストックの概念は、本稿における京
1)
言葉であるという 。イヴァン・イリイチはバナキュラ
都映画がもつバナキュラーなものと一致する。
ーな言語とその再生の可能性を語ることによって、望ま
加えてリンチは「保存とは、予測の困難な長期的な未
しい未来社会の生活のあらゆる場でもう一度ひろがるか
来に思いをめぐらして、そのような未来において重要性
も知れない存在(あること)、行動(すること)、制作
をもつと思われる資源を現在の時点で維持することであ
(つくること)のバナキュラーな様式があることに気づ
る9)」と説いている。このことは、映画に限らず、現時
かせ、その議論を著書『シャドウ・ワーク』の中で引き
点においての一般的な文化・歴史資料アーカイヴが例え
2)
出そうとした 。このイリイチの定義は本稿において重
ば、未来の都市再生のための重要な資源を提供するもの
要な位置を占める。バナキュラーという言葉は、確かに、
として、より正当化された意味を持つことを示唆するだ
ドロレス・ハイデンが指摘するように、学者や専門家の
ろう。当然ながら、そのためには予測不可能である未来
3)
多様な意見に左右されて明確な定義は得ていない 。し
の資源として有効に活用されるために、その保存にも工
かしながら、ケヴィン・リンチは「過去を選択すること
夫を加える必要があるだろう。本稿ではひとつの試論と
4)
は、未来の建設を促進するでもある 」。と説いている。
−63−
して、未来の資源として活用されることを前提とした映
政策科学10−1,Oct. 2002
画資料のアーカイヴのデザインを試みたい。具体的に、
コンスタン・ジレルは来日後、明治期の日本の姿を多く
京都において映画資料が保存・活用されるためにどのよ
撮影している12)。
うな資料が必要であるのかについて(1)映画フィルム
これまでの伝統の保持から近代化へと転換をはじめた
(2)作品関連のドキュメンテーション(3)周辺的な関
明治期の京都に入ってきたのが、シネマトグラフ=映画
連ドキュメンテーションの3点から検討してみたい。続
であった。東京遷都によって京都は精神的な打撃を受け
いて、映画資料について包括的かつ体系的に扱ったアー
た。京都府はこの危機に対して最も動揺が激しかった西
カイヴ・デザインの例として、筆者が共同研究として携
陣に、全般的な産業振興のために勧業場開設をはじめと
わった「京都映像文化デジタル・アーカイヴ―マキ
する新産業計画を樹立し、日本の最先端をきって近代化
ノ・プロジェクト―」の実践例をとりあげる。最後に、
をすすめた13)。偶然にも、西陣織が西洋の最新技術を学
このような映画資料アーカイヴを実現によって再生され
ぼうとした先がフランスのリヨンであった。西陣織は、
るべき都市の記憶について、リンチの保存の定義から考
リヨンからジャガード機を輸入すること14)で、近代化へ
察し、結語としたい。
の転換を可能にした。当時発明された映画の装置にはエ
ジソンが発明したキネトスコープや、ヴァイタスコープ
Ⅱ.初期京都映画と周辺環境
があったが、京都に持ち込まれたのはリュミエール兄弟
が発明したシネマトグラフであり、稲畑がリュミエール
京都における映画(以下、京都映画とする)の産業
の兄、オーギュストと懇意であったことから撮影権、配
的・文化的な発展は、社会的な状況と、京都という空間
給権も得ることができた。このような、偶然のような出
が持つバナキュラーなものに影響されてきたと考えられ
来事の積み重ねが、やがて映画を京都の一大産業にまで
る。本稿では日本映画史の先行研究をもとに、初期の京
発展させていくこととなったのである。
都映画の発展としての(1)シネマトグラフの伝来(2)
(2)劇映画製作とバナキュラーなもの
劇映画製作(3)映画興行について概観したい。映画文
化・産業の形成過程については、社会史的なつながりや
次に、劇映画製作におけるバナキュラーなものについ
バナキュラーなものから示唆される人的交流といった論
て考えてみたい。京都で撮影された最初の本格時代劇は
点もあるが、本稿の限られた紙面では十分な記述が確保
千本一条の芝居小屋、千本座の経営者であった牧野省三15)
できないため、稿を改めることとする。
による『本能寺合戦』(1908年 牧野省三監督 横田商
会製作)であるといわれている。牧野省三によれば、こ
(1)近代化政策とシネマトグラフ
の作品は真如堂の境内を使って撮影を行い、当時千本座
まず、映画伝来と京都との関わりについて概観してお
に所属していた一座がそのまま出演。2本目と3本目は
く。1896(明治29)年、商用で京都府からリヨンヘ渡っ
北野天満宮で撮影を行い、千本座裏の大超寺でも撮影を
は、工業学校の同窓生であるリュミ
行ったという16)。以後、映画製作のロケには市内の社寺
エール兄弟の兄であるオーギュストの誘いで、シネマト
や自然空間が使用されていくこととなる。平安時代から
グラフを観覧した。『稲畑勝太郎君伝』によれば「当時
の自然が残る風光明媚な洛西、武家屋敷や寺社仏閣が残
シネマトグラフの公開は、世界においても、最初のこと
る洛中など、バナキュラーな環境下にあった戦前の京都
であり、十九世紀末における一大発明として、各国人に
は、京都映画の特徴である時代劇映画を撮影する場所に
センセイショナルを与えたが、君もまた初めてこれに接
あふれていたと言えるだろう。やがて、ロケ撮影だけで
して、科学の発達と文化の躍進に想到し、驚嘆を禁じ得
はなく、撮影所内でもセットを用いた映画製作が始まる
ていた稲畑勝太郎
10)
11)
なかった 」。とある。シネマトグラフを日本に紹介す
が、セット建造に必要な木材の供給にも恵まれていた。
る最新文化として最も適当で、商業価値以上のものがあ
平安京の昔から、洛西の嵯峨・梅津地域は材木の集積地
ると感じた稲畑は、リュミエール社から装置2台とフィ
であった。明治期に、材木の市中への運搬がこれまでの
ルム、そしてシネマトグラフの商用権を購入した。1897
車から運河の開墾によって船運による運搬を実現するに
年には、リュミエール社に雇用されたコンスタン・ジレ
至った。これにより、輸送ルートである嵯峨−千本三条
ルという映写技師兼撮影技術者を携えて帰国している。
が活況をみることとなったのである17)。このことは、洛
−64−
都市の記憶としての映画資料アーカイヴのデザイン(権藤)
西地域に撮影所が広がったひとつの理由でもあるだろ
によって京都のバナキュラーなものが映画と結びついて
う。さらに、明治から大正末期にかけて、洛西地域に電
いった。牧野が日本映画の父と呼ばれる理由には(1)
気鉄道が開通したことも、この地域に撮影所が立ち並ぶ
20世紀の京都の地場産業にまで発展した映画産業の誕生
18)
ことへとつながった 。
と発展を担った人物であったこと(2)尾上松之助に代
撮影所と材木商とのつながりも存在する。牧野省三に
表される、俳優やスタッフの才能を開花させる名プロデ
映画製作を依頼していた横田商会が京都で最初の撮影所
ューサーであったこと(3)自由製作・自由配給を謳っ
となった、後の二条城撮影所を建設する時に、その土地
た独立プロダクション運動の旗手という3点23)に集約す
を所有していたのは千本三条の侠客・千本組の笹井三左
ることができるが、牧野は自らの芝居小屋で雇っていた
衛門であったが、牧野省三の妻知世の父が三左衛門の兄
役者や近所の寺社空間に見られるように、周辺のバナキ
19)
もまた、記憶にと
ュラーなものを巧みに利用していった。牧野は、母やな
どめておく必要がある20)が、この点について詳しくはい
が上七軒の女義太夫の師匠であったことから幼いころか
ずれ稿を改めることとしたい。
ら芸事に慣れ親しんでいた。このことが牧野の大きなバ
弟分であった縁で貸し出されたこと
劇映画に登場する大道具や小道具についても、京都の
ックグラウンドとなった24)ことは確かだろう。しかしな
伝統産業や芸術が支えてきた。牧野省三により小道具業
がら、牧野には自ら率先して西陣織以外の地場産業を興
をはじめた高津商会ははじめマキノ専属の小道具業であ
したかったのだ25)という話がある。さらに滝沢一は「牧
ったが、マキノ映画にみられるその背景づくりの質の高
野省三は、京都人らしい才覚でもって、この地で育った
さから日活、松竹からも仕事をうけるようになったとい
歌舞伎や浄瑠璃の情の世界に、西陣織の伝統的に培った
21)
ファッショナブルな感覚を加え、それを映画のメカニズ
う 。劇映画に出演する俳優は、芝居小屋の役者を使う
22)
ことから始まった 。これも牧野省三によってつくられ
ムのなかに紡ぎ出したパイオニアであったといえよう
たシステムのひとつである。牧野省三は、岡山の芝居役
26)
者であった尾上松之助を見いだし、日本映画初のスター
い産業を興すために、景観、建物、芸能、伝統技術など
にした。その後、新劇や歌舞伎出身の俳優が映画スター
京都にあるバナキュラーなものを常に活かして、京都映
へと育っていったことは、もはや周知の事実であろう。
画を生み出したことを端的に示しているのではないだろ
」と語っている。このことは、牧野省三が京都に新し
うか。
以上のように、後に日本映画の父といわれる牧野省三
[図1]撮影所マップ
出典:「洛西撮影所インデックス撮影マップ」『京都映像デジタル・アーカイヴ−マキノ・プロジェクト−』
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/cinema/
−65−
政策科学10−1,Oct. 2002
(3)初期の映画興行
唆をもとに、映画資料についての再定義を試みたい。
映画興行の面においても、バナキュラーなものが影響
Ⅲ.アーカイヴ資料の再分類
している様子を窺い知ることができる。京都で最初の映
27)
画興行が行われたには1897年3月のことである 。黎明
期には、多くの映画が芝居小屋で上映された。畳敷の芝
未来へ活用するための映画資料の保存を目指すことに
居小屋での興行は常設館の設置とともに、次第に椅子席
ついては、まず、周辺的な情報を包括的かつ体系的に扱
へと変っていった。しかしながら、当時の証言によれば、
ったアーカイヴ・デザインを実践することが考えられ
昭和初期までは、千本座のように芝居小屋から続く映画
る。本章では、一つの試論として京都映画のアーカイ
館は仮設の椅子席と畳敷きの客席であり、舞台と花道が
ヴ・デザインを考えるにあたって、どのような資料が必
28)
残っていたという 。西洋の文化が流入する近代化の流
要となるのか。資料の再分類を試みたい。
れにあって、旧来の芝居興行と新しいメディアを用いた
まず、京都映画アーカイヴは主に、(a)映像の文化
映画という2つが同じ場所で観客に受け入れられていた
遺産として(b)地域資料として(c)映画研究・メデ
点は大変興味深い。加えて『稲畑勝太郎君伝』には、稲
ィア研究の資料としての3つの意味をもつアーカイヴで
畑勝太郎が最初に映画興行を行った際に「興行一切の世
あると考えることができるだろう。まず、
(a)における、
29)
話を焼いた者は、野村芳国 と称する浮世絵師で、もと
映像の文化遺産という考え方は、1980年にユネスコから
寺町錦小路辺に住んで、芝居の看板を書いていた人であ
発表された“Recommendation For The Safeguarding
った。その頃常に四条通を彷徨していた大道商人の坂田
And Preservation Of Moving Images”(映像の保護と保存
某が、将来弁舌に巧みなのを、この人の周旋に依って拉
に関する勧告 34))に起因する。現在、一般的なフィル
し来たり、君が着古しのフロックコートを譲り、上演フ
ム・アーカイヴは、FIAF(国際フィルム・アーカイヴ
ィルムの説明に当たらせたが、思うにこれが我国におけ
連盟)によって「映画フィルムを破損・散逸から救済し、
30)
る最初の映画弁士ではあるまいか 」。とある。日本映
保管し、必要な保存、修復、復元処理を施して、適切な
画独自の活弁による映画興行が発達した背景について加
情報化と公開事業をおこないつつ、これを文化遺産とし
藤秀俊は、坂田のような大道商人に代表されるレトリッ
て、また歴史資料として安全かつ適正に次世代へと継承
クと商用の雄弁術、加えて、関西という地域独自の商人
させることを責務としている機関・団体35)」であること
の「おしゃべり文化」が発達していたことによって、西
が定義されており、多くの国で、映画資料の保存はフィ
洋からの新技術である映画はそのセールス話術によって
ルム・アーカイヴが責務を負っている。(b)について
広く普及し、やがて活弁へとそのスタイルを変えていっ
は、京都映画の場合、周辺的な状況も捉えることのでき
た31)のではないかと述べている。
るアーカイヴとしての機能を持たせるためには、フィル
京都におけるバナキュラーなものから映画が発展した
ム・ドキュメンテーションといった原資料のほか、興行
過程は、映画という新たな文化・産業へ、既存の文化・
の統計データや、撮影所データのような周辺地域の情報
産業・技術、といったものが吸収されていった過程だと
をデータ・アーカイヴする必要がある。原資料が図書館
捉えることができるだろう。しかしながら、都市生活が
や資料館に保存されている場合、新規に原資料を収集す
32)
営まれる場所は時と共に変化する 。映画文化・産業の
るのではなく、電子データによって情報を保存・公開す
形成過程に内在するバナキュラーなものを未来へ活用さ
るデジタル・アーカイヴ手法を用いることもまた必要と
せる方法には、すでに失われた撮影所や、映画フィルム
なるだろう。(c)では、ラジオ・レコード、上映記録
を知り、現在を生きる人々とをつなぐためのアーカイヴ
を残す新聞メディアといった同時代のメディアとの関連
が必要であると考える。ケヴィン・リンチは保存につい
が重要になるはずだ。
て「予測の困難な長期的な未来に思いをめぐらして、そ
次に、何をどのようにアーカイヴするかについて話を
のような未来において重要性をもつと思われる資源を現
進めたい。ここでは大きく(1)映画フィルム(2)作品
33)
在の時点で維持することである 」。と説いた。では、
関連のドキュメンテーション(3)周辺的な関連ドキュ
実践において映画を保存するためには、どのようなアー
メンテーション、の3点に分け、具体的に考えてみたい。
カイヴが必要となるのだろうか。次章では本章で得た示
−66−
都市の記憶としての映画資料アーカイヴのデザイン(権藤)
(1)映画フィルム
用され、内部秘にされていたもので、一般に流通してい
すべてのフィルムを網羅的に収集することが、現在の
たものではない39)。現在も雑誌やプレス用に使用される
フィルム・アーカイヴの収集活動においては望ましいと
スチル40)資料は、劇中の写真や出演者ブロマイドのよう
考えられるが、経済的にも、制度的にも現状ではどのア
なものなど様々であるが、京都の場合、ロケ地のスチル
ーカイヴでも不可能である。従って、地域単位でアーカ
には戦前や戦後の京都の様子がうかがえるものもある。
イヴを持ち、それぞれのアーカイヴがその土地で製作さ
単に映画作品の資料としてだけではなく、当時の風俗や
れた映画フィルムを収集することが理想的なのではない
町並み保存を知る上での補完的な資料にもなりえるので
だろうか。具体的な収集方針としては、現在、京都府立
ある。同様に宣伝用につくられたものとしてポスターが
文化博物館で取り組まれているような以下の収集方針
36)
あるが、ポスターは宣伝媒体にとどまらず、それ自体が
が適切であると考える。特に、京都映画のアーカイヴを
美術作品でもある。ときには有名な作家の手によるポス
考えた場合、①から③を重視することでおおよその目的
ターも存在する41)。このほかチラシ、パンフレットとい
に達するのではないだろうか。
った一連のプレス資料、映画主題歌42)や映画説明を録音
① 京都で製作された作品
したSPレコードがある。これら映画関係資料の分類例
② 京都がテーマになった作品
[表1]映画関係資料分類(例)
③ 京都ゆかりの関係者が製作した作品
図書
④ 優秀映画と見なされる作品
⑤ 貴重な作品
⑥ 当時話題を呼びまたは評判となった作品
⑦ 研究資料として断片フィルム
(2)作品関連のドキュメンテーション
写真
映画の場合、作品関連のドキュメンテーションは図書
や視聴覚教材にはとどまらない。現存しない無声映画を
ポスター
研究する上では欠かせない資料であり、フィルム以外か
ら作品を読み取るための不可欠な手段である。加えて、
映画が集団によってつくられていること、映画がその創
世記から産業とむすびついて商品として扱われていたこ
と等、映画自体の特殊な事情からもドキュメンテーショ
ンを収集することは映画作品同様に重要なことである。
まず、映画に関する書誌についてみておきたい。現在の
録音物
図書館分類に基づいて映画関係書籍を分類する場合、映
画理論・評論集、映画史、映画技術(カメラや現像に関
する著述・シナリオ本など)があるが、これらは通常の
録画物
書籍分類では芸術(700)演劇(770)のなかの778に大
機器・機材
きく分類される。映画書籍を専門に扱う上で、この分類
法は明らかに不十分であると考えられる37)。このため、
映画前史資料
美術関係資料
特殊撮影資料
衣装関係資料
アニメーション関係資料
個別文書類
東京国立近代美術館フィルムセンターでは、辻恭平氏の
『映画の図書』に基づいた図書分類が採用されている38)。
また、松竹大谷図書館も独自の分類法を採用している。
さらに図書に近いかたちのものとしては、撮影台本、企
画書、コンティニュイティ(絵コンテ)、スクリプター
の記録などがあるが、これらは図書と違い撮影現場で使
単行本
逐次刊行物(映画雑誌・興行通信)
撮影台本
映画祭カタログ
書籍体パンフレット
楽譜
切り抜きファイル(プレス・カッティング)
マイクロフィルム
スチル写真
ポートレート(ブロマイド)
原画フィルム
ポスター
ロビーカード(印刷スチル)
プレス資料
撮影所通信、スタジオ・メール
プレスシート
チラシ(ビラ)
パンフレット
映画館プログラム
試写状、特別鑑賞券
特殊宣材
レコード
CD
録音テープ
ビデオ
レーザーディスク
撮影機
映写機
現像資料
出典:佐崎順昭「映画資料・情報の集積と利用に向けて」
『NFCニューズレター』第3号(1995年8-9月号)、15-16ページ
−67−
政策科学10−1,Oct. 2002
については[表1]を参照いただきたい。
いて、その活動記録、作品目録関連のデータ・アーカイ
今後、これらドキュメンテーションの活用の牽引力を
ヴの作成に関わった。大正末期から昭和初期の15年余の
高めるためには、原資料とともに、作品毎に系統的なデ
記録をデータ・アーカイヴ化することは、コンピュータ
ータ・アーカイヴを構築することが求められてくるだろ
を用いてのデジタル・アーカイヴが主流となっている現
う。例えば、ドキュメンテーションそれ自体は近隣の図
在においては、同時にwww等によって広く情報公開が
書館にあるような場合もあるだろう。作品をメタデータ
できることも意味する。本章では「マキノ・プロジェク
とした、雑誌の作品記事が系統的に知ることのできるデ
ト」における公開例をもとに、デジタル・アーカイヴを
ータベースの構築、スチル資料やポスター資料のデジタ
用いた映画資料アーカイヴの公開例について考察する。
ル・アーカイヴ化は、ドキュメンテーションの公開にお
(1)マキノ・プロジェクトについて
いて補完的あるいは代替手段的な役割を果たすこととな
「京都映像文化デジタル・アーカイヴ―マキノ・プ
るだろう。具体的なデータ・アーカイヴ例や課題につい
ロジェクト―」(以下、マキノ・プロジェクト)は、
ては、第Ⅳ章でさらに詳しく述べることとする。
京都における映画文化を包括的に捉えるアプローチとし
(3)周辺的な関連ドキュメンテーション
て、映画集団「マキノ」の軌跡に焦点を絞り、デジタ
作品以外の情報、特に第Ⅰ章でとりあげた、ロケ地や
ル・アーカイヴ手法によってその活動軌跡を検証するプ
撮影所、興行に関する情報がこの周辺的な関連ドキュメ
ロジェクトである。映画集団「マキノ」は、日本映画の
ンテーションにあてはまる。撮影所の変遷や、それに伴
父と称される牧野省三が1919年に設立した「ミカド商会」
う人事(映画人の動き)を知ること、興行や作品製作に
に端を発し、その後「牧野教育映画製作所」や「マキノ
携わった人物の情報を知ることは、地域史・映画史を知
映画」「マキノプロダクション」といった名称で、牧野
る上でも貴重な情報源になるだろう。
ファミリーを核として展開された独立プロ活動を意味す
る。その活動期間は1919年(大正8年)から1937年(昭
近年様々な研究分野の手法として用いられているオー
和12年)の約18年間である45)。
ラル・ヒストリーをアーカイヴの対象をすることも、京
マキノ・プロジェクトでは、集団としての「マキノ」
都映画アーカイヴには必要であるだろう。1971年に京都
府にフィルムライブラリーが設立するにあたり、調査を
の全軌跡をとらえるために、各撮影所の活動記録・作品
行った映画評論家の山田和夫氏は、フィルムの収集等に
目録・スタッフ名鑑・撮影所図・上映館リスト・関係者
加え、映画人の「聞き書き」資料の製作、京都における
談話等・同時代資料の画像情報などを調査・デジタル化
「映画史跡」の調査と保存、機関誌の発行を調査報告の
し、インターネット・リソースとして、ウェブ上で発信
中で提唱した43)。京都府では1971年から1975年にかけて、
映画評論家の滝沢一氏や研究者の奥田久司氏等を聞き手
として、日本映画史で中心的役割を演じてきた映画人に
インタビューを行っている44)。観客であった市民や、映
画人への聞き書きを行うことは今後も継続して行ってい
く必要がある。それらがアーカイヴされることは、記憶
の再生と新たな京都映画へのアプローチ形成を導くだろ
う。
Ⅳ.デジタル・アーカイヴによる映画資料
アーカイヴの公開例
周辺的なドキュメンテーションはどのように保存し、
どのように公開していけばよいのだろうか。筆者は共同
[図2]マキノ・プロジェクトホームページ
(http://www.arc.ritsumei.ac.jp/cinema/)
研究として、牧野省三を中心とする映画集団マキノにつ
−68−
都市の記憶としての映画資料アーカイヴのデザイン(権藤)
していく試みを開始した。現在は、1.マキノ・プロジ
る情報資源へのメタデータ項目を定義するプロジェクト
ェクトの活動、2.マキノ映画リサーチ、3.その他の
で、現在15要素のメタデータセットを定義している49)。
活動の3パートで構成され、マキノ・プロジェクトの目
但し、ダブリンコアはインターネット上での検索に、書
的や映画集団「マキノ」の解説の他、太秦を中心とする
誌データのようなキーワードを付随させるためにつくら
京都洛西地域の撮影所の説明と関連年表を掲載した「洛
れているため、素材によって、基本の15項目に対してメ
西撮影所INDEX」、立命館大学アート・リサーチセンタ
タデータを追加、変更させることが可能である。これに
ーで所蔵している映画フィルムの保存とカタロギングに
より作品の他、フィルム、スチル、台本などあらゆる資
関する情報も公開している。
料に対応させることができるが、そのデータ基準やリレ
ーショナルについては、学際的な実践研究から様々な議
(2)マキノ・データベースの構築
論を深めていく必要があるだろう。
映画集団「マキノ」はその活動期間である1919年から
マキノ・プロジェクトでは、この他のテキストデータ
1937年までのあいだに1000作品を越える映画作品を製作
ベースとして、活動年表と人名録データ作成を行ってお
している。加えて、現存する作品は断片のフィルムを含
り、年表の一部はホームページ上で公開している。今後
めても、1割に満たない。無声映画の90%がすでに失わ
は作品データベースへの関連づけを行い、映画集団『マ
れているという現状において、マキノ作品もまた例外で
キノ』に関するリレーショナルなテキストデータベース
はない。しかしながら、フィルムが失われていても、作
の構築を目指すことにしている。これにより、これまで
品データという情報資源は、映画史を知る上で、また失
映画研究ではなかなか試みることができなかった映画史
われた作品を知るために必要不可欠な重要資料であり、
への包括的なアプローチを可能にしていきたい。
フィルムに替わる第1次資料である。そのため、世界各
(3)課題と展望
国のフィルム・アーカイヴで行われている所蔵映画作品
のカタロギングと同様に行い、より詳細なかたちでデー
マキノ・プロジェクトでは、以上のように映画文化の
タ収集を行っていく必要がある。マキノ・プロジェクト
保存と継承を目的として、さまざまなデジタル・アーカ
46)
ではまず、野村祐介氏製作による日本映画データベース
イヴ活動を行っている。まず、失われたフィルムについ
のデータの他、雑誌『キネマ旬報』の作品紹介や、当時
て研究をすすめていく上で問題となるのは、さまざまな
マキノが発行していたファン雑誌『マキノ』の作品紹介
機関で保存されている映画資料について、または映画作
等からもデータを収集し、できる限り項目を細かく分け
品の情報についてどのように入手するかである。しかし
てデータ入力を行うこととした。これらテキストデータ
ながら、映画資料へ容易な情報アクセスという問題は世
の入力にあたっての入力項目は、作品名(タイトル)、
界のフィルム・アーカイヴに関わる課題でもある。従っ
製作(会社)のほか、スタッフ、封切年月日、配役、上
て、研究者やアーキヴィストに関係なく、映画資料アク
映時のフィルム巻数など、様々な要素が必要となってお
セスという問題の解決モデルとして提示されるのが、共
り、1作品に対するデータ数は膨大な数となった。これ
通の目録データベースの構築であるといえるだろう。マ
らのデータはメタデータを設定して、段階を追う毎に詳
キノ・プロジェクトにおけるマキノ作品データベースの
細データを表示するシステムを構築する目的をもって作
構築が、少しでも映画資料におけるデジタル・アーカイ
成されたデータである。そのため、第1次データ表示の
ヴの必要性を理解していただけるものとなれば幸いであ
ためのメタデータの作成と、段階表示のために適切なシ
る。今回、作品データベース構築においてダブリンコア
ステムが必要となる。メタデータの作成にあたっては、
を用いたのは、ダブリンコアが書誌データとしてだけで
47)
のメタデータセットを組み込み、記述に
はなく、あらゆる電子情報のためのメタデータとして提
はXMLを用いる予定である。インターネット上での検
唱されているものであること、同様にさまざまな電子デ
索を簡略化するために開発されたメタデータ基準のプロ
ータに対して柔軟に対応できうるメタデータであること
ジェクトにダブリンコアがある。ダブリンコアは、オハ
が理由としてあげられる。尚、メタデータの設定は、作
ダブリンコア
48)
イオ州ダブリンを本拠地として、米国のOCLC (Ohio
品だけではなく、他のテキストデータやスチル写真情報
Computer Library Center)が中心となって取り組んでい
のデータにも必要である。最終的にすべてのデータのリ
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政策科学10−1,Oct. 2002
活動記録
作品目録
スタッフ名鑑
撮影所概要
テキストデータ
都村健
コレクション
マキノ
上映館リスト
関係者談話等
画像情報
[図3]マキノ・プロジェクトのデジタル・アーカイヴ概念
レーショナルが不可欠となるだろう。同時に、wwwコ
を出すことはできない。しかしながら、映画によって過
ンテンツ化する際も、エンドユーザ側に立った工夫が求
去100年に渡って形成された、映画都市としての京都を
められており、今後も様々な課題に取り組まなければな
今、再び鮮やかな記憶として甦らせるアプローチ方法が、
らない。
製作された映画作品のテクストや、作家論的な映画史の
みではもはや不十分であり、地理学的、生物学的な諸分
Ⅴ.考察―アーカイヴによって再生される
都市の記憶
野を含めた学際的なアプローチが必要となっていること
は確かだろう。映画資料アーカイヴから得られる京都の
記憶が、果たしてどのようなものであるのかについては
映画資料アーカイヴの保存が目指すものは、景観・バ
さらに議論を深めていきたい。今回、本稿では触れなか
ナキュラー建築の保存プロジェクトの目的と同様に、文
った、京都と映画との社会史的な結びつき、バナキュラ
化保存という視点から都市再生を包括的に捉えるもので
ーなものが結びつける人的交流は、近代化、大正デモク
ある。近年のアメリカにおけるバナキュラーな建築や景
ラシー、戦争という時代の変化とともに複雑に絡み合う。
観保存のプロジェクトは、オーラル・ヒストリーや地域
今後研究を深め、いずれ稿を改めたい。
住民との協働という手法から、都市デザインの新たなア
映画資料アーカイヴのへアプローチとして、本研究に
50)
プローチへの地平を拓いた 。ここで明らかにされたの
おけるデジタル・アーカイヴが果たす役割は、資料アー
は、失われた場所、失われた文化についてではなく、そ
カイヴの補完的な役割を果たすだけではなく、データベ
の場所の記憶、文化の記憶を浮き彫りにすることである。
ースの構築によって、地域と映画をつなぐ道具としての
このことは、リンチの保存の定義における過去の資源が
役割を実証するためのものであると考えている。第Ⅳ章
維持されること、実際のアーカイヴ活動が人々と結びつ
でとりあげた『京都映像文化デジタル・アーカイヴ―マ
くことと関連しているのではないだろうか。さらに、同
キノ・プロジェクト―』においてWWW上で公開してい
様のアプローチによって、映画から京都という都市の記
る様々な「マキノ」データはその一環である。第Ⅱ章で
憶を再生させることはできないだろうか。なぜならば、
述べたように、京都の映画文化・産業の発展には、牧野
現在は景観保存のまちづくりなどで実践されている手法
省三の功績が大きい。従って、その牧野が築いた映画集
が、資料アーカイヴにおいても有効であると考えるから
団「マキノ」の足跡について、テキストデータや画像デ
である。
ータによって保存の補完や公開を果たすその役割は大き
資料保存がどれほどまでに記憶を引き出し、都市再生
い。しかしながら、デジタル・アーカイヴには、一般的
の牽引力となるのかについては、今のところ明確な結論
なフィルム・アーカイヴの課題とともに、まだ多くの諸
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都市の記憶としての映画資料アーカイヴのデザイン(権藤)
課題がある。それは、本研究においても同様である。
本>』(岩波書店、1995年)を参照されたい。
13)西陣から最初にリヨンに職工が送られたのは明治五年のこ
解決モデルの構築にあたっては、常に包括的なアプロ
とである。西陣織に端を発した伝統産業の技術革新はその後
ーチが必要であり、保存に携わるアーキヴィストや研究
者、市民と様々な対象に対応できる柔軟性も必要である。
文化と市民が資料によってつながれたとき、必ずそこに
染色や清水焼にも普及していく。(林屋辰三郎著『京都』岩
波書店、1962年、214-218ページ)。
14)前掲『京都』218ページ。
甦る記憶があるはずである。
15)25歳のときに芝居小屋、千本座の経営をはじめた牧野省三
(1878∼1929)は横田商会の横田永之助の依頼により映画製
[追記]本稿は、修士課程における研究及び立命館大学
作を開始する。彼は膨大な数の映画作品を作ったといわれる
アート・リサーチセンターにおける文部省学術フロンテ
が現在ではその正確な数を知ることはできない。詳しくは京
都映像デジタル・アーカイヴーマキノ・プロジェクトーのホ
ィア推進事業共同研究『京都映像デジタル・アーカイヴ
ームページ(http://www.arc.ritsumei.ac.jp/cinema/)を参照
―マキノ・プロジェクト―』により大きな知見を得た。
されたい。
立命館大学アート・リサーチセンターのスタッフ、なら
16)前掲『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』146ページ
びに共同研究員諸氏に記して感謝の意を表したい。
17)京都嵯峨材木史編纂委員会編『京都嵯峨材木史』嵯峨材木
株式会社、1972年、133-134ページ
18)前掲「京都時代劇映画撮影史―時代劇を育てた映画都市の
文化ストックと景観」74ページ
注
19)荻野正人・紙屋牧子・大矢敦子「二条城撮影所」前掲マキ
1)イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク―生活のあり方を
ノ・プロジェクトホームページ。
問う―』玉野井芳郎・栗原彬訳、岩波書店、1982年、283ペ
20)バナキュラーなものがもたらすのはその歴史や記憶のみな
ージ。
2)同上、121ページ。
らず、人々の交流の接点も紡ぎ出すのかもしれない。嵯峨の
3)ドロレス・ハイデン『場所の力 パブリック・ヒストリー
材木商から千本組、京都映画へとつながる人脈と、大正デモ
としての都市景観』後藤晴彦・篠田裕見・佐藤俊郎訳、学芸
クラシーという時間の流れが生んだ、京都映画のもう一つの
出版社、2002年、34ページ。
形成過程については、特に稿を改める必要がある。尚、千本
4)ケヴィン・リンチ『時間の中の都市―内部の時間と外部の
組と映画との関連については、「映画界の黒幕」といわれた
時間』東大大谷研究室訳、鹿島出版会、1974年、90ページ。
笹井末三郎の生涯を追った、柏木隆法『千本組始末記』(海
燕書房、1992年)に詳しい。
5)前掲『場所の力 パブリック・ヒストリーとしての都市景
21)高津嘉之・新藤兼人「高津商会事始」『講座日本映画2
観』14-19ページ。
無声映画の完成』岩波書店、1986年、284ページ。
6)先行事例について詳しくは、鴇明浩「京都時代劇映画撮影
史―時代劇を育てた映画都市の文化ストックと景観」(京都
22)前掲『日本映画発達史Ⅰ』146ページ。
映画祭実行委員会編『時代劇映画とは何か―ニュー・フィル
23)板倉史明「牧野省三について」前掲マキノ・プロジェクト
ホームページ。
ム・スタディーズ』所収、人文書院、1997年)や、太田米
男・水口薫・鴇明浩構成『日本映画と京都(別冊太陽、日本
24)前掲『日本映画発達史Ⅰ』147ページ。
のこころ97)』(平凡社、1997年)を参照のこと。
25)滝沢一「栄光と挫折」、杉田博明編『近代京都を生きた
人々 明治人物誌』所収、京都書院、1987年、471ページ。
7)前掲「京都時代劇映画撮影史―時代劇を育てた映画都市の
26)同上、471ページ。
文化ストックと景観」68ページ。
27)シネマトグラフは「自動幻画」と訳され、京都での上映案
8)同上、68ページ。
9)同上、147ページ。
内と、先に公開されていた大阪での盛況振りを伝えた広告が
10)稲畑勝太郎(1862-1949)は、京都府最初の留学生として
掲載されている(日出新聞、明治30年三月二日付)。
明治10年に渡仏、リヨン近郊のヴェル・フランシュ工業学校
28)冨田美香・紙屋牧子・権藤千恵「洛西地域映画史聞き取り
予備校に入学している(高梨高司編『稲畑勝太郎君伝』稲畑
調査報告Ⅱ小林昌典氏談話」『アート・リサーチ』第2号
(2002年3月)、121ページ。
勝太郎翁喜寿記念伝記編纂委員会、1988年、162-163ペー
29)野村芳国(二代)(1855-1903)は『京阪名所図絵』が世に
ジ)。
11)同上、296ページ。
知られるが、最晩年まで芝居の絵看板や都をどりの背景画に
12)映画伝来に関しての詳細は、田中純一郎『日本映画発達史
携わった民衆の画家として生き抜いた画家であった。芳国は、
Ⅰ 活動写真時代』(中央公論社、1980年)、吉田喜重 山口
京都でのシネマトグラフ上映以降も、映画興行に携わってい
昌男 木下直之編『映画伝来 シネマトグラフと<明治の日
る(岡本祐美「野村芳国伝」、『麻布美術館 研究紀要1』
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政策科学10−1,Oct. 2002
『NFCニューズレター』第3号(1995年9-10月号)、14-15ペ
1986年春号、57-66ページ)。息子の野村芳亭は、後に映画監
ージ)。
督となり松竹蒲田撮影所の所長も務めた人物である。
42)映画主題歌を収集する上で特筆すべきことのひとつに、昭
30)前掲『稲畑勝太郎君伝』301ページ。
和初期に映画から流行歌を送り出した「小唄映画」の流行が
31)加藤秀俊『見せ物からテレビへ』岩波書店、1965年、137-
ある。なかでも『東京行進曲』(1929年 溝口健二監督 日
145ページ。
活太秦撮影所製作)は小唄映画によるヒット曲のなかでも有
32)前掲『場所の力』262ページ。
名な曲のひとつであるが、その広報も画期的なものであった。
33)前掲『時間の中の都市』147ページ。
「(略)その第一はなんと云っても日活の『東京行進曲』で、
34)Recommendation For The Safeguarding And Preservation
東京市内のカフェーにレコードを配布して、此主題歌を一躍
Of Moving Images
ポピュラーなものとした日活宣伝部の手段は、映画宣伝法の
http://www.unesco.org/culture/laws/cinema/html_eng/page1.
上に一新生面を劃したものというべきであろう」(『昭和五年
shtml(英語版)
度 日本映画事業年鑑』国際映画通信社、1930年、43ペー
35)「FIAFとは何か?」『NFCニューズレター』第2号(1995
ジ)。
年7-8月号)、2ページ。
43)『府立フィルムライブラリー設立調査中間報告書』京都府
36)「京都府立京都文化博物館」『世界のフィルムライブラリー
文化事業室、1970年、8ページ。
1989』財団法人 川喜多映画文化財団、1989年、15ページ。
37)「(前略)要目778が映画となっているが、小数点二桁の細
44)京都府京都文化博物館編『INTERVIEW映画の青春』キネ
目部分の十進分類で、「コンテュニュイティ」と「色彩映画、
シネマスコープ」「幻燈、スライド」などが一つの細目とし
マ旬報社、1998年、8ページ。
45)「マキノ・プロジェクトについて」前掲 マキノ・プロジ
て「理論」や「映画史」などと同じレベルでたてられている
ェクトホームページ。
など(略)映画専門の分野で考えた場合、実用に合わないこ
46)日本映画データベース(http://www.jmdb.ne.jp)は、野村
とは明らかである」(佐崎順昭「映画資料・情報の集積と利
祐介氏が個人で運営しているオンライン・データベースで明
用に向けて」
『NFCニューズレター』第1号(1995年5月号)、
治32年から平成12年までに製作された日本映画のデータを検
14-15ページ)。
索することができる。
38)フィルムセンターの図書分類表はWWW上(http://www.
47)Dublin Core Metadata Initiative, http://www.dublincore.org
48 アメリカを中心とする非営利のライブラリー・サービス機
momat.go.jp/FC/Lib/classify.html)で公開されている。
39)前掲「映画資料・情報の集積と利用に向けて」14-15ペー
関で世界最大の書誌データベースWorldCatを中心とする約80
ジ。
のデータベースへアクセスできる。詳しくはOCLCホームペ
40)本稿では、「スチール」ではなく、原音に近い「スチル」
で統一する。
ージ(http://www.oclc.org/home/)を参照されたい。
49)ダブリンコアの基本15項目については、「日本語による
41)「映画が誕生したときにはすでにポスターは商業デザイン
Dublin Core Element Set」(http://www.dl.ulis.ac.jp/DC/
として認められた存在であり、(略)そのためカタロギング
index_J.html)を参照いただきたい。
に関しては写真家以上にデザイナーの名前が重要であり、個
50)場所が持つ社会的記憶をまちづくりに活かすという「場所
別の映画ポスターを集めた図版集もいくつか出版されてい
の力」理論と実践については、前掲『場所の力 パブリッ
る」(佐崎順昭「映画資料・情報の集積と利用に向けて[2]」
ク・ヒストリーとしての都市景観』を参照されたい。
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