《論 文》 身体心理療法の基本原理とボディラーニング

札幌学院大学人文学会紀要第 80 号 2006 年 ウェブサイト掲載版 http://ext-web.edu.sgu.ac.jp/kenkyuho/
《論
文》
身体心理療法の基本原理とボディラーニング・セラピーの視点
葛
要
西
俊
治
旨
身体心理療法は 20 世紀前半、W.ライヒが「筋肉の鎧」という現象、すなわち心的外傷体
験が身体を鎧化して固め浅い呼吸へと陥らせることを見いだして始まった。しかし、フロイ
トの精神分析は、抑圧された心的外傷が目に見える形で身体に刻み込まれることを無視し、
心的で実体的ではない夢分析および自由連想のみを用いることになった。身体心理療法の歴
史は学究的な意味では悲劇的な始まりとなったが、心理学における身体的要因が全面的に見
捨てられることはなかった。たとえば、A.ローウエンによるバイオ・エナジェティックス、
ダンス/ムーブメント・セラピー、センサリー・アウェアネスなどは、人間の身体が無意識内
界を映し出すという身心連関を明確にすることによって身体心理療法の有効性を示している。
最も特徴的な身体心理的問題とは、ライヒが述べたように身体的こわばりであり深いリラク
セイションに至れないことであるため、実践的な身体心理療法はどのような形であれ効果的
なリラクセイション方法を伴う必要がある。
日本における卓越した三つの身体心理的アプローチ、すなわち、1)他者の身体に働きかけ
るべく真正の声を回復するための竹内敏晴レッスン、2)野口三千三によって開発された体操
の一種で、リラクセイションが決定的に重要だとする野口体操、3)土方巽によって 1950 年
代に創始された前衛的な舞踊形式である暗黒舞踏、を研究し経験し実験化することによって、
それらがいずれも身心の緊張緩和に優れており、同時に、1)竹内レッスンにおける単純なリ
ラクセイション課題ですら、社会的に条件付けられた無意識的身体反応のために、ほとんど
の人には困難な課題であることを実験的に見いだしたこと、2)野口体操の全く新しい身体概
念―「人間の身体は皮袋でありその中に骨や筋肉や内臓が浮かんでいる」という感覚は、身
体の意識的制御を効果的に放棄することによってのみ体感されること、3)抑圧されて無意識
界の深みに埋められている心的外傷体験は、痙攣や発作的な動きや引きつけといった社会的
に忌避される非日常的な動きとして、心理療法的な舞踏の場における自然な自律性運動とし
て体験されることによって安全に把握されること、以上の内容を筆者は確認してきた。これ
ら三つのアプローチを統合し、キーワードに関連した精神医学的および心理学的研究を考慮
に入れ、実践的な身体心理療法として新たにボディラーニング・セラピーが展開されてきた。
それは特に認知行動療法的アプローチとともに下意識の世界に向けた非催眠的な暗示機能に
基づくものである。「からだあそび・リラクセイション・対峙」という三つの局面から構成
され身体的な動きと身体心理的なエクササイズを用いるボディラーニング・セラピーは、身
体心理的な問題を主訴とする広範囲の人々に極めて適切なアプローチであることが見いださ
れている。
キーワード:身体心理学、ボディラーニング・セラピー、ダンスムーブメント・セラピー、
舞踏ダンスメソド、暗黒舞踏、社会性緊張、自律性解放、ラベリング理論、
身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
認知行動療法、一般意味論、学習性無力感、ダブルバインド、トラウマ、筋肉の
鎧、バイオエナジェティックス、エリクソン催眠、アフォーダンス、能動的想像
法、解離性人格障害、状態依存記憶、後催眠暗示、隠れた観察者、変性意識状態、
悪魔祓い、欲求階層説、X理論Y理論、経営行動科学、からだあそび、リラクセ
イション、対峙
目
次
はじめに
1.身体心理療法としてのボディラーニング・セラピー
1)身心探索のための舞踏ダンスメソド
2)暗黒なる舞踏と Butoh dance
3)腕の脱力を困難にする社会性緊張
2.身体的アプローチと心理的アプローチの狭間
3.身体心理学的アプローチのアブダクション的了解
Ⅰ.身体心理学的アプローチの諸相
1.S.フロイトの精神分析と W.ライヒの「筋肉の鎧」
2.精神分析の身体化と A.ローウェン
3.記憶の状態依存性と記憶喪失の意味
4.社会的に非標準的な身体心理的反応とラベリング
5.身体心理的手がかりに基づく記憶の復活と洞察
Ⅱ.精神療法・心理療法の展開における身体心理学的要素
1.無意識の露頭としての身体
2.精神療法および関連領域における展開
1)精神分析の系譜について
2)C.G.ユングの能動的想像法の身体的展開
3.学習理論と行動療法の系譜
4.認知療法の系譜
5.感情の理論と帰属療法の系譜
6.M.エリクソンによる現実転換アプローチ
1)些細な事実を捉えること
2)定型的なパターンを切り崩すこと
3)下意識に対する暗黙のメッセージ
Ⅲ.無意識の世界と身体心理的関与
1.身体心理学的実践の本質的一回性と感性
2.アフォーダンスという無意識的な動作誘導
3.体感心象と視覚的イメージとの質的差異
1)神経言語プログラミングと優先感覚チャンネル
2)身体感覚に基づく身体心理的アプローチの意義
4.催眠による下意識の探求と「隠れた観察者」
5.「自我」から成る文化と「私の中の無意識」とを結ぶ
Ⅳ.指導とカウンセリングとセラピーの間
Ⅴ.ボディラーニング・セラピーによるアプローチ
1.豊かなリラクセイション状態の実現
2.身体心理療法の「場」と A.マスローの五段階動機理論
3.「リラクセイション」「からだあそび」そして「対峙」へ
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
はじめに
1.身体心理療法としてのボディラーニング・セラピー
身体心理学的アプローチ(somatic psychological approach, psychosomatic approach)とは、
人間の「からだ」と「こころ」という身心両面を視野に入れて人間理解に迫ろうとするアプロ
ーチである。心理学という学問は長年の間、「身と心」のうちの「こころ」という側面にのみ
関心を向けてきていることから、そこにあらためて「からだ」という側面を取り入れることに
よって、より全人的な理解を目指す学問へと発展すべき歴史上の要請を担っているといえる。
本稿はこうした観点に立ち、身体心理学的アプローチの学問的背景を把握することによって、
身体心理療法(body psychotherapy, somatic psychotherapy)の重要性をあらためて提起する
ことを目的とする。
もちろん、精神医学および臨床心理学的実践の場において身体心理学的アプローチが歴史的
に 皆 無 だ っ た わ け で は な い 。 た と え ば Staunton(2002) (1) に よ る 最 近 の 著 書 "Body
Psychotherapy"に示されるように、その源は精神分析を創始したS.フロイト、そして弟子のW.
ライヒへ遡るおおよそ一世紀にわたる展開の中にあることは事実である。しかし、その後の歴
史的経緯の中で身体心理学的アプローチは学問的関心や実践の中軸となることなく今日まで推
移してきている。
さて、心理臨床の面接などのように言葉的理解を中心にした了解のみならず、身体的な動き
や姿勢などの身体的事実として立ち起こる事柄を視野に収めることは、人間存在の全人的理解
に寄与することは言うまでもない。その際、そこに立ち起こっている身体的事実とは、たとえ
ば、1)呼吸の状態、姿勢、目線のあり方、手足や指先の置き方、表情といった身体的現象のみ
ならず、2)体格あるいは身体的形状という物的事実としての身体、および、3)病気や怪我など
の影響を引き受けてきた生理学的実体としての身体、といった側面から成り立つ。これらの身
体的状況、そして心的内界という二つの側面は、たとえば心身医学(psychosomatic medicine)
の成立にも見られるように明らかに密接な関係にある。本稿における身体心理学的アプローチ
とは、こうした身心連関という観点をさらに掘り下げ、特に「からだ」と無意識との関係に焦
点をあてるものである。すなわち、身体心理学(body psychology, somatic psychology)とは、
「意識されない内的世界が身体状況に反映することを前提として、動作や姿勢などとして実体
化した身体状況に基づいて無意識の内容を推定するという、身体と無意識的心理状態との相互
関係に基点をおく理論的考究と実践」、というものである。また、動作や姿勢などの身体的状
況への実際の働きかけによって行われる身体心理学的実践および身体心理療法とは、そうした
働きかけに含まれる認知的行動的要素および対人社会的要素を通じて身体的変容および認知的
行動的変容を導き出すための心理療法といえる。
(なお、「からだ」という平仮名表記は、物体としての身体というよりも、動作や状態として
表出されている身体的現象に注目する際に用いる。)
身体心理学的アプローチと身体心理療法は、その観点や実践内容などによって様々なものが
考えられるが、その中で、これまでに筆者を中心にして展開されている身体心理学的実践の一
端は、ボディラーニング・セラピー(Body-Learning Therapy)という名称で呼ばれている。そ
の特徴は、さまざまな身体心理的エクササイズやそうした状況を「体験すること」すなわち
「体(からだで)験(ためすこと・たしかめること)」自体の影響とその作用に焦点をあてるとこ
ろにある。後にふれる認知行動療法も「行うこと」の意義を方法論として取り込むものである
が、ボディラーニング・セラピーでは、身体心理的体験を経る中で身体心理的発見とそうした
気づき(awareness)へと至ることを重視し、「感じとること」を土台とした自己発見的な「身
体的な学習 body-learning」過程を重視しているという特徴がある。どのような体験であって
もそれが「からだ」に実質的に届くとともに、認知面行動面においても実質的な影響を与える
ためには、いくつかの要素と条件が必要であることはいうまでもない。本稿では、身体心理療
法としてのボディラーニング・セラピーに関連する重要な知見を概観することを通じて、心理
療法一般において身体心理療法が占めるべき位置づけを明らかにするものである。
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
1) 身心探索のための舞踏ダンスメソド
アメリカの精神科領域において主に統合失調症の患者を対象にして発展してきたダンスムー
ブメント・セラピー(Dance/Movement Therapy)は、1966 年にアメリカダンスセラピー協会
(ADTA: American Dance Therapy Association)が発足するとともに大きく展開し、ダンスセラ
ピスト修士課程によって認定されるダンスセラピスト資格は、州によっては、看護師・臨床心
理士などと同等の専門資格として認められるに至っている。国内でも 1992 年に日本ダンス・
セラピー協会が発足して資格制度を立ち上げ、医療・福祉・教育・地域・アートの領域におい
て専門家として活躍する人材を養成している。そうしたダンスムーブメント・セラピーは、そ
の理論的背景や実践方法、セラピーの目的や対象者などに関して、極めて多岐にわたる多様な
内容をもつ総合的な身体心理学的アプローチとなっている。
そうした国内外のダンスムーブメント・セラピーとは理念的に及び技法的に異なるいくつか
の 独 自 要 素 を 含 む Kasai(1999, 2000) (2,3 ) の 舞 踏 ダ ン ス メ ソ ド (Butoh dance method for
psychosomatic exploration:身心探索のための舞踏ダンスメソド)とは、運動療法や健康体操
といった運動処方の次元にあるものではなく、無意識の暗がりについての身体心理学的で「考
古学的」な関心と、社会的に非標準的な身体動作、たとえば痙攣や引きつけや発作的動作など
への関心に基づく一つの身体心理学的体系である。このアプローチは、日本の前衛的パフォー
ミング・アートである「暗黒舞踏」の影響のもとに展開され、ボディラーニング・セラピーの
一端を占めるアプローチとなっているため、その概要を以下に示す。
しばしば、「発狂」「気が狂う」「気がふれる」といった言葉によって表される状態には、
痙攣や発作的動作や常同動作や身体的固化(カタレプシーcatalepsy)といった身体的状態とと
もに、何らかの心理的破綻状態とが含まれている。そうした身心状態は、社会的なタブーとし
て社会的な中心的価値から追いやられ周縁化されているけれども、「発狂」などといった通俗
的で曖昧な概念によって了解するのではなく、現実の身体動作や身体状態を把握し、さらに可
能ならばその意味を読み取ることは身体心理学的アプローチの骨子といえる。そうした身体動
作や状態は、内的な恐怖や不安や絶望やあるいは感覚遮断や解離状態であるなど、その多くは
外的な対象物に対する関わりとはならないために、動作として実体化できないきわめて困難な
身振りであるといえる。さらに、それらのほとんどは意識的な造作ではありえず、心的内界の
深みをきわめて誠実に映し出していると考えられる。こうした身心状態に関する理解を深める
ためには、その理論的了解とともに何らかの体験的な方法をもつ必要があることはいうまでも
ない。1983 年から今日に至るまでの筆者の実践的活動を通じて、以下に示す暗黒舞踏という
舞踊の一形式が、その前衛的な特徴のゆえに、身体心理学的考古学としての関心と社会的に周
縁化された身心状態の位置づけに有効であることを見出してきた。その基本は、舞台などの限
定された時空においては、発狂したと言えるほどの人間存在としての極限を生きるという一つ
の祝祭が許されること、にある。
2) 暗黒なる舞踏と Butoh dance
1950 年代、土方巽によって創始された暗黒舞踏(Butoh dance)という前衛的(avant-garde)
で日本独自の舞踊形式は、近代から現代へと至る過程で見失われた身体を取り戻すための時代
的文化的な運動でもあった。白塗りを施した肢体で常軌を逸した如くのたうち回り踊る狂う
「暗黒なる舞踏」は、身心の内奥をそのまま舞台にさらけ出すほどの凄まじさであったという。
土方巽の「肉体の叛乱」というイベントはまさに、1960 年代当時の時代的価値観に対する反
乱であると同時に、社会的な役割によって硬直化し時計化された身体から抜け出すこと、ある
いは、そうした社会から脱落して息も絶え絶えとなった「はぐれた身体」をよみがえらすため
の祝祭でもあった。
1980 年代に入ると、舞踏家・大野一雄、舞踏集団「山海塾」などによる海外公演での成功
をきっかけに、欧米のコンテンポラリー・ダンスの世界は暗黒舞踏すなわちButoh danceから
の様々な影響を受け始めることになる(原田,2004) (4) 。そうした舞踏の身体訓練の一つとして
比較的早い段階から取り入れられていったのが野口三千三(みちぞう)による「野口体操」であ
った(野口,1972;1979) (5,6) 。従来、欧米における身体理解が筋肉骨格に基づく固体としての構
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造物であったのに対して、野口三千三は「からだとは、その中に筋肉や骨や内臓が浮かんでい
る皮袋…」であるという液体的身体観という斬新な視点と、最も効果的に身体動作を実現する
ためには「身体の半分の筋肉は(切り替わりつつ)常に脱力していなければならない」という身
体観に基づく実践方法を展開していった。その中で最も基本的なことが「重さを感じること」
でありそれを通じて「からだを感じること」であったことは、視覚的な対象物として身体を捉
えている欧米の身体観、また視線による「監視」が近代の一つの本質であると説くM.フーコー
の「監獄化原理」(フーコー、1977) (7) の指摘を乗り越える身体観でもあった。
なお、舞踏の海外公演と同時に行われるワークショップの場において、海外の文化圏に生ま
れ育った参加者たちの身体心理的反応の多くが、日本文化圏にある人々のそれとは大きく異な
ることを見いだすことによって、本人の身心に肉化された文化的社会的要素を明確に把握する
ことが舞踏ダンスメソドの根幹を成すに至った。例えば、同じ「リラクセイション」の指導で
あっても、日本国内では、他者の視線によって釘付けになっている身体を他者から取り戻し自
らの感覚の世界を深めていくことが多いのに対して、欧米では、自らの個我を放棄し他者との
無言のコミュニケーションの波間にあることや、息を吸うことや吐くことが空気という環境の
中に漂う「身」であることの証であることを体得するなど、ほとんど正反対といえるほどであ
る。ボディラーニング・セラピーは、そうした舞踏ダンスメソド (8,9,10) の理論的背景と実践方
法を組み込むことによって、より総合的な身体心理療法として展開されてきた。
3) 腕の脱力を困難にする社会性緊張反応
家族や近所の人たちや学校や職場など周囲にいる人々からのさまざまな社会的要請によって、
また、その社会が歩んできた歴史や文化的背景などの状況からの影響力によって「からだ」は
「社会化」されていく。フロイトが説く「超自我 super-ego」とは、さまざまな社会的規範が
躾けや教育や強制を通じて内在化されて構成された心的部分であるが、そうした社会化への負
荷は「こころ」のみならず「からだ」にも同様に影響することは言うまでもない。
たとえば、竹内敏晴レッスンにおける「腕のぶら下がり」のエクササイズとは、二人が組と
なり、一人が腕の力を抜いて立っているとき、もう一人の人が相手の手をとって相手の片腕を
肩の上方まで持ち上げ、次に、その手を放すとどのようなことが起きるかを確かめるという簡
単なエクササイズである(竹内,1990) (11) 。しかし、こうした状況で腕全体の力が適度に抜けて、
自然に落下するというケースは意外なほど少ない。この傾向は、筆者の 20 年以上にわたる
「腕の脱力」試行(概算で延べ一万人余)といくつかの実験研究(葛西 1994 (12) ; 葛西・ザルチュ
オノヴァ 1996a (13) ; 葛西 1996b (14) )とによって明らかとなっている。多くの場合、自分の腕が
持ち上げられる際に無意識に腕に力が入って固まってしまったり、あるいは、腕が持ち上げら
れていくのを無意識のうちに手伝ってしまうということが起きる。また、持ち上げられた腕が
上方で放されてもそのまま自然に落下することも少なく、放された瞬間、腕が固まって一度停
止し、それから落下するということも多い。また、その他の無意識的な反射や反応が随所に現
れたりもする。こうした反応傾向からは心理的および身体的緊張の強さを推測することができ
るのだが、「腕のぶら下がり」エクササイズを長年行ってきている竹内敏晴は、こうした身心
の緊張反応が、身心のあり方に関する社会的要因によって生起していることを当初から指摘し
ている。実際、このエクササイズの要点は「他者によって腕が持ち上げられる」という二者関
係という構造にあり、自分で腕を持ち上げて脱力することは特に問題ないにもかかわらずそれ
が困難だというのは、他者によって持ち上げられるという関係性によって何らかの社会性緊張
反応が引き出されてくることによる。
リラクセイションのワークショップの場で、「腕の力を抜いて横になっているように」参加
者に伝えてから、横たわっている人の片手をつかみ腕を持ち上げようとするだけで、しばしば
反射的にまた無意識のうちに相手の腕が持ち上がってくることがある。「腕の力は抜いて横に
なっていれば良い」ことを言葉で伝えても、腕は自らの意志をもつかのようにピクピクと震え
て持ち上がろうとする―(竹内, 1983, p.67-68) (15) 。実はこうした反応の方が人数的には多い
ため、脱力できないことの方が普通と言うべき状況である。そうした腕は、いわば、持ち上げ
をしようとするこちら側の意図に対して極めて「親切な腕」であるが、それとりもなおさず、
自らの意志とは無関係に無意識的あるいは反射的に相手の意向に沿おうとする、一種の「身体
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
の反乱」ということでもある。「親切な良い腕」とは他者にとってさしあたり都合の良い腕で
あるけれども、そうした腕は、腕主本人とは疎外関係にあると言わざるを得ない。
いずれにしても、こうした緊張反応の多くが「身体の社会化」と呼ぶべき現象であることが
明確となるにつれて、そうした緊張反応を軽減するためには「身体の脱社会化」という過程を
踏まえるべき必要性が大きく浮かび上がってきた(葛西,1990;1991;1992) (16,17,18) 。ボディラ
ーニング・セラピーは、こうした経験的および実験的事実に基づき、身体心理的エクササイズ
よって「身体の脱社会化」を実現し、生々しく艶やかでさえある身体を新たに開拓することを
目指すアプローチとなっていった。
2.身体的アプローチと心理的アプローチの狭間
動作や姿勢に関する身体の使い方、あるいはリラクセイションや痛みへの対処といった事柄
は、身体的アプローチと心理的アプローチの丁度中間に位置する領域であるため、これまでに
必ずしも十分に統合的なアプローチが展開されてこなかったと考えられる。たとえば、医療的
ないし理学療法的、あるいは整体やアクレサンダー・テクニックなどの身体的アプローチだけ
では身体的不調や不全感が改善されない場合には、当然、心理的側面への配慮が必要となるけ
れども、身体的技法によるアプローチは心理療法的側面を必ずしも展開させている訳ではなく、
また、その反対に、おおかたの心理療法は現実の身体的状況に有効に働きかけるための的確な
技法や手技及びその理論背景を展開させてきてはいない。端的に述べるならば、リラクセイシ
ョンを必要とする状況があるならば、たとえば、自己催眠からの発展型である自律訓練法を用
いるよりは、手足や呼吸が楽になって安らぐような実際的な身体的関与によるアプローチの方
が有効であったり、その反対に、緊張して姿勢や動作に固さが見られる場合は、ただちに身体
的技法で身体に働きかけるよりも、本人が和むような心理的働きかけを行い、状況を好ましい
方向に(認知的に)転換するといった関わり方が有効であったりといったように、身体的アプロ
ーチあるいは心理的アプローチを対比しそれぞれの特性を生かす必要がある。ボディラーニン
グ・セラピーによるアプローチはそうした問題を乗り越え、身心両面を視野に収めてより適切
な働きかけを行うための方法として開発されてきた。その理論的背景は認知的行動的変容に関
する心理学的知見にあり、その身体技術的背景は主に野口体操的な身体観と実践、および竹内
敏晴レッスンないし暗黒舞踏身体訓練にあり、独自に開発された方法(「腕の立ち上げのレッス
ン」など)も適宜用いられている。
ところで、身体心理学的アプローチの特性上、クライエントの主な問題や懸念などが身体心
理的なものであるときに、身体心理療法はとりわけ適切なアプローチとなることを指摘したい。
痛みであるとか、身体的な違和感であるとか、肩こりや心身の過緊張であるとか、声の問題で
あるとか、姿勢や動きなどについての懸念であるとか、そうした具体的で多様な身体心理的な
訴えについては、それらが医学的な原因究明と医療的処置を経てもまだ解決の見通しがないと
き、それらは身心連関の相互作用によって捉えられるべきテーマとなるからである。なお、医
療的措置の範囲外の身体的訴えの場合、そうした身体的現象はおおむね二つのカテゴリーに分
けられる。一つは、下意識の内容が身体的な症状として表出している身体心理学的テーマに関
わる場合、もう一つは、元々はそうした構造によって出現したものが習慣化している場合であ
る。前者の場合は、以下に示す精神医学的ないし心理学的知見を前提に問題の解明と対処にあ
たる必要がある。それに対して後者の場合は、問題が身体化した後にそうした出来事の痕跡と
しておおむね習慣的に発生していると考えられるもので、身体的状態そのものへ直接に働きか
けることがしばしば可能となる。(なお、後者の身体的働きかけによって身体症状が改善する
場合、そうした焦点付けによって逆に心理的問題があらためて引き出されてくる可能性を考慮
する必要がある)。
3.身体心理学的アプローチのアブダクション的了解
身体心理学的アプローチは、下意識の何ものかが身体面に反映していること、あるいは、身
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体的体験が下意識に対して何らかの働きかけをしていること、といった身体と下意識との相互
連関の実際を把握することから始まる。こうした身体心理学的理解を実際に進めていく際には、
これまで積み重ねられた精神分析的アプローチにおける知見、条件付けに基づく学習心理学な
らびに認知心理学などの心理学的知見が極めて重要となることはいうまでもない。しかし、こ
うした理論的背景についての知見によって身体心理療法の学問的位置づけが明確になるにして
も、それに関連して特に述べておくべきことがある。それは、そうした知見によって相手の身
体心理的な特徴を把握し、それに見合った形で関わっていくという実践の場において、そうし
た様々な理論や知見は、当然ながらあくまでも一つの「仮説」に留まることである。というの
は、身体的関与を行うとする際に最大の注意点は、一人一人の人間の身体心理的状況の個別性
・特異性にあって、平均的な状況についての理解や理念的な把握であるに過ぎない理論や知見
は、そのままではアプローチする側からの一方的な「投影」に過ぎないことである。そのため、
身体心理療法の過程では、実際に生起する身体心理的な有様や出来事という事実を通じて、
「投影」として立てられた仮説を、事実に基づいて不断に修正する過程を続けていかねばなら
ない。こうした過程は、方法論的には葛西(2005) (19) が示す「アブダクションによるモデル構
成法」というアプローチを前提として進められるべきことを特に指摘しておきたい。
Ⅰ.身体心理学的アプローチの諸相
1.S.フロイトの精神分析と W.ライヒの「筋肉の鎧」
二十世紀初頭の近代精神医学が S.フロイト(Sigmund Freud,1856-1939)によって創始されたこ
とはよく知られているにもかかわらず、そのフロイトが自由連想法と夢分析によるアプローチ
を開発するのに先立っていくつかの身体心理学的関与を行ったことはそれほど知られてはいな
い。向精神薬という薬学的発展も未だ為されていなかった当時の精神医学界での中心的な治療
方法は催眠法であり、そうした催眠誘導法の多くが患者に対する身体的関与を含むこと、また、
医師という立場上、身体的接触を含む関与は普通のことであった。したがって、初期のフロイ
トが患者の脚や全身へのマッサージを施したこと、寝椅子に横たわっている患者の心身状態を
なぞろうとしたかのように寝椅子の横の床にに同じように寝そべっていたこと、記憶を呼び戻
そうとするかのように患者の頭部への接触と軽い圧迫を行ったこと等々(Staunton, 2002)は、
時代的にはそれほど特殊なことではなかった。
しかし、こうした身体的アプローチは、言葉によって行われる自由連想法や夢分析によって
精神分析が構成されていくのに伴って、フロイト自身は全く用いなくなっていった。精神分析
の理論では、リビドー(libido)と名付けられた性的エネルギーからなる欲望とその抑圧によ
って神経症が発症するというモデルの下、その機序を解明すべく患者の「無意識」という内的
世界に分け入り、患者の過去に潜む「心的外傷経験(トラウマ trauma)」を自由連想法や夢
分析といった言語的方法によって見出し、次いで患者がその事実を洞察することによって精神
医学的治療へ至ると考えられた。そこには、一定の効果が認められながらもそのメカニズムが
不明であるとして催眠法を拒否したフロイトの、いわば科学至上主義的姿勢が貫かれていたし、
言語的資料を治療の一次資料として扱い、それを元にして一般化・客観化・単純化を実現しよ
うとした当時の自然科学的観点からの要請があったともいえる。それと同時に、身体心理的現
象の一回性や不定性といった難解な問題は、当時の科学理論における時代的な限界もあり、特
に取りざたされることもなかった。
(なお、近年発展が著しいカオス理論や複雑系科学といった数学的理解によって、旧来の科学
観に対する見直しが行われてきている。)
いずれにしても、明確な「心の理論」を提起し、それによって問題を可視化し治療に当たる
という精神分析は、実はその有効性に関する科学的立証の問題は残しながらも、患者の問題を
理解し治療にあたるための一定の枠組みを提供するアプローチとして承認されていった。
その一方、フロイトの弟子のW.ライヒ(Wilhelm Reich,1897-1957)は、フロイトが唱えた性
的エネルギーであるリビドーが人間心理の力動の本質に根ざすとする汎性欲論的観点にたち、
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
いわゆる「性的エネルギー経済」を有効に機能させる方法を探り当てようとした。そうした方
向性は結果的に、生物学的な実体として存在する身体そのものへの関心を深め、「筋肉の鎧
muscle armor」 (20) という概念化とそうした身体心理学的メカニズムの解明へ向かわせること
となった。ライヒは、苦痛や苦悩に見舞われた人間がそうした困難に直面することによって傷
つくとき、それは単に心的な過程としてのみ起きるのではなく、身体についても一定の防衛的
反応が引き起こされると考えた。たとえば、人は苦痛や苦悩に際して反射的に「息を詰める」
ことによって、生体にとっては耐え難い体験が身心に食い込まないように阻止しようとする。
そうした「息を詰める」反応はまず呼吸に関連する様々な部位、すなわち、唇・口・顎・喉・
肩・胸部・腹部といった一定の部位の筋肉の「固化・固着fixation」として実体化することを
発見した。すなわち、不安や恐怖などが単に心理的な出来事として留まるのではなく、その影
響は身体のあり方にまで浸透し、身体的な変容や固化が引き起こされるのである。例えば、浅
い呼吸あるいは呼吸を止めていることは不安や恐怖を感じないようにするための一つの防衛反
応ではありながらも、それによって「深く息をしない・できない」身体として柔軟性を失い硬
直化していくことによって、心理的な防衛反応が身体に実体化(肉化)することを指摘したも
のである。ライヒによるこうした「筋肉の鎧」の発見によって、精神医学的領域および臨床心
理学的領域が身体心理学的要素を組み込まなければならない必要性に迫られたといえるだろう。
このように心的不安や恐怖が身体に肉化した「筋肉の鎧」を発見したライヒではあるが、し
かし、「性的エネルギー経済」の観点を深めるうちに、当時のヨーロッパ文化やヨーロッパ社
会そのものの中に性的エネルギーの抑圧形態を見いだし、次第に共産主義思想および社会的変
革への関心を深めていった(ライヒ,1969) (21) 。そうした方向へ向かったライヒは当時の精神医
学の世界からの逸脱と見なされ、ライヒによって発見された身体心理学的観点の意義も同時に
見失われていった。そうした中、ライヒの弟子であるA.ローウェン(Alexander Lowen,1910-)
は、ライヒの発見の精神医学的価値を自らの体験を通じて明確に認識する中で、ライヒの観点
をさらに深め徹底することによって「生体エネルギー法」または「バイオエナジェティックス
Bioenergetics」と呼ぶ画期的な身体心理学的理論体系をまとめ上げるに至った。
2.精神分析の身体化と A.ローウェン
ライヒの弟子となった A.ローウェンは、ライヒによる身体心理的セッションを受けていた際
の様子を鮮明に書き記しており、そうした記述の中からライヒの発見となる「筋肉の鎧」の実
際の例をうかがい知ることが出来る。ローウェンの胸郭が十分に膨らんだり縮んだりしていな
いという単純な事実を指摘したライヒには、何らかの恐怖の抑圧によって息を詰める過程が身
体化・肉化したものとして理解していたと思われる。少し長く引用をするが、精神分析的な理
解が身体的側面に基づいて進んでいく過程を読みとることができる。
(A.ローウェン 1990 からの引用) (22)
ライヒとの最初のセッションの間、ライヒが私の呼吸をよく観察できるように私は
パンツ一枚でベッドに寝ていた。ライヒはただ、息をするようにと指示しただけだっ
た。私には自分がその間息をしているように思えたが、十分後にライヒは、「ローエ
ン、君は息をしていないじゃないか」と言った。私は、「息をしていますよ、そうじ
ゃないと死んでしまいます」と答えた。ライヒは「でも、君の胸は動いていないよ」
と言うと、彼の胸に手を置いて、呼吸に合わせて胸が上下に動くのを感じてごらんと
言った。自分の胸が彼の胸ほど動いていないのが分かったので、呼吸に合わせて自分
の胸を動かすようにした。口で息をし、数分これを続けた。そこでライヒは私に目を
大きく開けるように指図した。私がそうすると、突然叫び声が出た。私には自分の叫
び声は聞こえていたが、自分のものであるという感じがなかった。恐ろしくはなく、
ただびっくりしただけだった。近所迷惑になるといけないから叫び声を止めるように
ライヒが言ったので、私は従った。口からの呼吸を再開したが、十分ほどしてからラ
イヒはまた、目を大きく開けるよう指示した。叫び声が起こったが、この時も私は自
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第 80 号
分とかけ離れた気持ちで聞いていた。彼のオフィスを出た時、私は自分がまったく気
づいていない何か深い問題を抱えていることを悟った。…
呼吸を続け、身体に身を委ねる過程で、さらに二つの劇的な出来事が起こった。あ
る時、呼吸をしながらベッドに横になっていると、何かが私を突き動かして私の体を
揺すり始め、とうとう私はベッドの上で身を起こしてしまった。意識的に考えたり努
力したわけでもないのに、私は立ち上がると、ベッドに向かってしばらく立っていた。
それから両手の握りこぶしでベッドをたたき始めた。そのうち父の顔が浮かんできた。
父が昔私を殴った仕返しに彼を殴っているのが分かった。―それは、すっかり忘れて
いた出来事なのだが。しばらくして父に会った時、私に平手打ちをくわしたことがな
いかどうかを尋ねた。父は一度だけ、私が遊びほうけて帰宅が遅れ、母に心配をかけ
た時に平手打ちをしたことを認めた。(p.71-72)
3.記憶の状態依存性と記憶喪失の意味
この現象を理解するためには、記憶の状態依存性(state dependent memory)、あるいは記憶
の文脈依存性(context dependent memory)についての知見が必要となるため、若干の解説を加
える。ある一群の記憶はそうした記憶内容自体とそれが体験された際の心身状態やその他の状
況(場所や環境など)との組み合わせとして記銘されるという特徴があるため、記憶の再生は記
憶を思い出す状況が記銘時の心身状態や状況と近いものであるほど良く思い出されることにな
る。こうした傾向は動物実験でも確認されている現象であるが、人間についてはアルコールに
よる酩酊時としらふの状態に関しても記憶再生の状態依存性が報告されている(D.W.Goodwin
et al.,1969) (23) 。
ローウェンの体験、つまり、ベッドを「たたき始めた」という身心状況が実際に生起するこ
とによって、「叩く」という身心状況が過去の記憶、すなわち父が私を「叩いた」という身体
心理的な記憶の覚醒のきっかけとなったと考えられる。ある身体心理的状況や何らかの状況に
居ることによって思いもかけない記憶やイメージが浮かび上がってくるメカニズムは、身体心
理学的な意味での心的「考古学」を実践するための理論的基盤の一つともなっている。すなわ
ち、様々な身体動作や姿勢が体験できるとき、人はそうした身体的状況に結びついた記憶をふ
いに回復することがあるため、たとえば、指をくわえるとか、自分自身を両腕で抱きしめると
か、あるいはローウェンの体験にもあるように、大きく目を見開くなどといった動作や行為に
よって、思いもかけないトラウマなどの記憶が引き出されることがある。なお、ある特定の身
体動作や姿勢によって引き出された記憶は、多くの場合、そうした記憶が単に想起されたとい
う体験にとどまり、引き出された記憶に付随している可能性のある感情的情動的な側面は必ず
しもそれと同時に噴出する訳ではない。状態依存的に覚醒される記憶は、おおむね「状況その
ものの記憶」「その状況での体験内容の記憶」「そうした体験に付随した情動の記憶」といっ
たように段階的に想起されることが考えられる。
フロイトはトラウマとの対峙と洞察によって神経症的問題が解決すると考えたが、トラウマ
体験は、多くの場合、そうした異常で特殊な事態という身心状況と組み合わせて記憶されるこ
とによって、日常的には簡単に想起されない状態で保存されていると考えられる。そのため
「記憶の抑圧」と呼ばれる現象は、実際に「抑圧」というメカニズムによるものなのか、それ
とも、記憶の状態依存性による想起可能性の低さなのかは必ずしも判然とはしない。いずれに
しても、そうしたトラウマと「出会う」ことが神経症の治療過程として考えられているが、極
度に苦痛に満ちた虐待(abuse)などの体験に関しては、そうしたトラウマを本人が直接体験す
ることによって問題が超えられるのではなく、かつてのトラウマ体験時と同様の発作や恐慌状
態を招く危険性があるだけではなく、そうした恐怖体験の再来に対する不安やそうした恐怖体
験をもつ自分自身に対する問題視などの心理的困難状況が二次的に増幅する危険性も高い。す
なわち、記憶の状態依存性という性質に伴う「壁」によって、過去のトラウマ的記憶が日常生
活場面に噴出してこないことは、それ自体が一つの自動的な防衛機制として意識主体を守るプ
ラスの働きを担っているとも考えられる。また、心的外傷体験後ストレス障害、いわゆる
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)についても、そうしたトラウマ体験に直接に対峙する
に足るだけの十分な身心状況や環境条件などが整わない限り、拙速に記憶や体験内容の想起に
向かったりしないことも現在では基本的な対処方針となっている。
ちなみに、小さい頃など或る一時期の記憶がないと訴えるクライエントに対する催眠法によ
る治療過程においても、意識主体である本人がそうしたトラウマと直接出会うことは避けるた
めに、催眠誘導下において何段階もの体験分離を行うだけではなく、覚醒時にはそうした過程
全体についての健忘暗示を徹底するなど、極めて慎重な対応を行う。本人が記憶がないと述べ
るほどに分離されている記憶とは、理論的には極めて非日常的な体験についての記憶であるだ
ろうから、その「非日常」ということがどの程度にまで本人にとって重大なトラウマ的体験で
あって、場合よっては何からの発作や恐慌状態を引き起こしかねないことを念頭におく必要が
あるためである。
なお、ここではさしあたり記憶の状態依存性に注意を向けているが、E.L.ロッシ(Earnest L.
Rossi, p.74-75, 1999) (24) は、心的外傷性記憶喪失、多重人格および恐怖症について、「一般
に心身障害と呼ばれる心身の多様な機能障害を生むのは、まさに(その)ショックやストレスが
精神外傷的な事件を強力にコード化し、それと同時に効果的な対応行動を阻害するという精神
生物学的な二重拘束状態にほかならない」と述べ、自律神経系・内分泌系・免疫系などの生理
学的システムと「こころ」との密接な対応関係の中で状態依存学習が展開していることを詳述
し、状態依存性とはそうした生理学的システムまでも巻き込む心身連関現象の基本であると捉
えている。
4.社会的に非標準的な身体心理的反応とラベリング
舞踏ダンスメソドに基づくボディラーニング・セラピーは、埋没していた身体心理的記憶の
復活といった可能性をあらかじめ理論的に組み込み、そうした事態の前後における対処方法を
用意している方法である。たとえば痙攣や身体的固着(カタレプシー)や発作的動作などの社会
的に非標準的身体状況は、そうした動作や身体状況の体験によってそれらと結びつくようなト
ラウマ的記憶を呼び起こす可能性も考えられる。ボディラーニング・セラピーでは、その成り
立ちの基本にこうした解離的な身体反応の可能性を組み込み、トラウマとの偶発的な対峙の可
能性についての見通しを前提にして、そうした対峙を回避する必要性についての認識や回避の
ための対処方法を整備してきている。基本的な観点としては、痙攣や発作的反応など社会的に
非標準的とされ一見「異常」に見える身体心理的反応は、それがある程度のレベルに留まる限
りは、自律訓練法 (25) の実施に際してしばしば観察される自律性解放(autogenic release)とい
う自発動として、それ自体は身心全体の軋轢を解放し調整する働きをする健全な反応と見なさ
れる。しかし、そうした体験が「異常」であると本人が認知した場合には、そうした認知によ
って二次的に恐慌状態が引き出されるがあるばかりか、そうした事態に居合わせた周囲の人々
の間にも何らかの恐慌状態を引き起こし、そうした周囲の反応そのものが再度本人に跳ね返り、
ラベリング理論(labeling theory) (26,27) が説く「二次的逸脱secondary deviation」的展開を
引き起こしかねない。つまり、周囲の人たちから本人に「異常」というラベルが貼られること
によって、周囲からのそうした眼差しとラベルとによって、まさにラベルが指し示すような存
在へと陥っていく悪循環の過程が存在するし、こうしたラベリング過程は本人の自己認知に際
してもネガティブな方向に増幅される可能性がある。
そうしたラベル貼りの出発点となる非標準的な身体心理的反応についてみるならば、自律性
解放というレベルでの動きであるならば、そうした体験そのものは、いわば身体心理的自己マ
ッサージのようにポジティブに機能し、体験する本人は事後に心地よい身心弛緩を体験するこ
とがほとんどである。それとは異なり、突然、発作的に発生した動きの場合は、そうした動き
そのものに本人が驚愕することも多いため、身体的および認識的に一定の準備状態にない場合
は、おおむねそうした展開に至らないように配慮することになる。
ローウェンが「ベッドを叩き始めた」という展開は、ライヒによる心理療法という場で起き
たことによって、そうした行為や展開そのものが心理療法としての枠組みにあるものと認識さ
れ、「異常」とはされない。すなわち、社会的に非標準的な身体心理的反応などは、一般に
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札幌学院大学人文学会紀要
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「心理療法の場での反応」などのラベルによって社会的に承認されるものとして認識される枠
組みが必要となる。ボディラーニング・セラピーでは、すでに述べたように「暗黒なる舞踏」
というパフォーミング・アーツの一形式を取り入れた方法であることによって、何らかの非標
準的な身体心理的反応が発生した場合、そうした体験そのものを身体心理的表現芸術の一端で
ある「きわめて前衛的な動き」として場を限定しつつ位置づけて、肯定的な社会的承認を与える
ものである。そうした枠組みが存在することによって、特異な身体心理的体験をした本人が守
られるのと同時に、そうした身体心理的反応への遭遇ないし「対峙」に基づいて無意識の内界
への探索が次に可能となるのである。
5.身体心理的手がかりに基づく記憶の復活と洞察
ローウェンの体験をもう少し続けて引用し、トラウマ体験が身体的に実体化している様子を
見ておこう。
セラピーのもう一つの転機は、少し後で起きた。あるセッションの間、呼吸をしな
がらベッドに寝ていると、天井に何かあるイメージを見そうになっているという、は
っきりした予感があった。その後何度かのセッションの間に予感が強まり、とうとう
イメージが現れた。母が非常に怒った表情で私を見下ろしている顔を見てしまった。
自分がだいたい九ヶ月位で、家の外の乳母車の中で寝ていた。私は母を求めて泣き続
けていたが、たぶん母は何か用があり忙しかったのだろう、私の泣き声は母を怒らせ
たにちがいない。彼女が現れてきた時、顔に冷たく硬い表情があり、私は凍り付いて
しまった。そのときにあげることができなかった叫び声がライヒとの最初のセッショ
ンで出たことが分かった。その叫び声はまだのどにひっかかっていたのだ。のどが非
常に収縮していたせいで、私は叫ぶことも泣くことも出来なかった。(ローウェン、
1990,p.73)
こうした体験「叫ぶことも泣くこともできない状態」と自らの「浅い呼吸」との関
連について、ローウェンは他のワークショップの場での体験から次のような気づきを
得る―。「母が私ののどを心理的にかき切ったからこそ、はっきり物を言ったり叫ん
だりするのが難しいということが分かった」と。
声に出さないし声に出せないほどの恐怖によってローウェンは息を詰めた結果、吐気と吸気
が滞りなく行われないような呼吸機能に関わる筋肉の何らかの固着が発生した。大きく息を吸
えない身体、大きく息を吐き出せない身体、新陳代謝が全体的に低下した身体、あるいは、表
情や身体全体の固化や動作の固さも想像されよう。
なお、こうした幼少時とは母子未分化の状態からようやく成長を初めているに過ぎないため、
心的防衛機制も当然ながら未発達である。そのため、そうしたつらい体験についても「そのと
きの母はたまたま忙しくて大変だったから、そうしたことも仕方がなかったのだ」とか「母は
いつもは優しくて自分のことを大事にしてくれていた。だからそのときのことは例外的なこと
だった」など、自己防衛的な認知的処理をする能力はまだ持ち合わせていない。ローウェンの
上記の体験には、母親の反応に自分自身がそのまま同一化されて取り込まれていく幼少時の反
応の特徴が明確に現れているといえよう。
さて、このような一連の身体心理的発見の過程を自ら歩んだローウェンは、身体心理学的関
心をさらに深めて「バイオエナジェティクスbioenergetics」 (28) という領域を開拓していった。
いずれにしても、ローウェンの事例を通して「筋肉の鎧」に関わる身体心理学的展開を読み解
くならば、精神医学および臨床心理学は、フロイトが「発見」したところの「無意識」を当該
学問体系の中心に据えるのと同時に、それが身体化され肉化されていく過程とその結果をも取
り込まざるを得ないはずであった。すなわち、不安なり恐怖なりの心的脅威が抑圧される過程
においては、そうした事柄が無意識化されるだけではなくそうした抑圧過程が身体面にも「筋
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
肉の鎧」として実体化するのであるから、精神医学や臨床心理学は「抑圧による無意識化」と
「抑圧の身体化」という二重の過程を視野に納めるべきであった。しかし、当時の精神医学界
からライヒが思想的に離れていくにつれて、精神分析は「抑圧による無意識化」の過程のみに
焦点を合わせるものへと収斂していった。
Ⅱ.精神療法・心理療法の展開における身体心理学的要素
1.無意識の露頭としての身体
心的抑圧の身体的実体である「筋肉の鎧」という概念に基づくならば、無意識の世界の様々
な有り様が何らかの仕方で身体面に映し出されているという一般的理解へ到達することができ
る。すなわち、息を詰めることで浅い呼吸へと至った身体が何らかの心的抑圧の有り様を映し
出しているのならば、様々な身体的状況や身体的反応、様々な姿勢や動作の中にも無意識界の
何らかの有り様が映し出されている、という理論的視点が浮上するということである。
身体が無意識の内容を映し出すというこうした観点として、たとえば、プロセス志向心理学
(Process Oriented Psychology)を創始したユング派の精神科医であるA.ミンデルは、夢に現
れる内容が身体面に反映されるという両者の結びつきを取り上げ、それを「夢身体」「ドリー
ム・ボディdream-body」 (29) と呼んだ。そして、クライエントの問題が夢としてあるいは身体
的現象としてその表出形態を変えて現れ推移する過程を重視したミンデルは、推移の過程その
ものに寄り添っていく「プロセス志向」的な心理療法を推し進めている。
さて、身体心理療法の一つであるボディラーニング・セラピーは、身体状況と心的内界との
関係の詳細に焦点をあて、問題とされる状況を改善するための実践的技法に基づくアプローチ
であり、そこにさらに舞踏ダンスメソドとしての実践から明らかになってきた社会的要因の重
要性を取り込むことによって、その基本的枠組みが整うこととなった。その際、舞踏ダンスメ
ソドの展開の経緯から、「からだあそび」「リラクセイション」「対峙」という三つの局面が
ボディラーニング・セラピーの実際の過程を構成するに至っている。以下では身体心理療法に
結びつく精神分析的知見や心理学的知見を取り上げ、身体および心的内界の有り様を推測する
ための手がかりの概略を示しておくことにする。
2.精神療法および関連領域における展開
1) 精神分析の系譜について
精神分析は、フロイトによる創始以来、人間の深層心理の多様な側面を捉え続けてきている。
ここでは簡略的に示すに留めるが、たとえば、「イド・自我・超自我」(すなわち「内的な感
情衝動の座・現実的調整者・内在化された社会的規範」)、あるいは「意識・前意識・無意
識」といった基本的な心の構造、「口唇期・肛門期・エディプス期」という発達的段階に関す
る考え、そうした発達過程における母子関係に関する対象関係論や愛着(attachment)を含む乳
幼児からの発達と、大人へと向かう段階におけるアイデンティティ獲得とモラトリアム
(moratorium)期といった広範囲の発達モデルを含んでいる。乳幼児期の母子関係については、
たとえば、一体化した母親からの分離が口唇的満足を含む愛着関係の遮断となることから原初
的な怒りや抑鬱の発生基盤となることがM.クライン(Melanie Klein,1882-1960) (30) らによっ
て示されたり、あるいは関連領域として、アカゲザルの赤ん坊は、授乳可能な針金製の母親模
型にではなく、授乳できないが布製で肌触りの良い母親模型に愛着を示すことを明らかにした
H.F.ハーロー(Harry F.Harlow,1949) (31) の実験、また、乳幼児期の母親的関わりの不在(マタ
ーナル・ディプリベーション maternal deprivation)が心身両面の発達に大きな阻害となるこ
とを見いだしたボウルビィ(John Bolwlby, 1951;1969) (32,33) の研究などによって、スキンシッ
プにおける暖かさと柔らかさが発達上の極めて重要であることが確認されてきている。さらに、
M.アインスワース(Mary Ainsworth et al.,1978) (34) らは、馴染みのない場所に母親から置き
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札幌学院大学人文学会紀要
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去りにされた乳幼児の反応・行動パターンを通文化的に実験的に確認することによって、母親
への愛着が形成されている乳幼児群に対して、母親から分離されても泣かず母親が戻ってきて
も母親を避ける群、あるいは再会に際して母親を叩いたりして怒りの感情をぶつける乳幼児群
といったグループが存在していることを見いだしている。
そうした乳幼児から児童を経て成長していく人間の身体的形成について、バイオエナジェテ
ィックスを創始したローウェン (35) は、特定の精神的疾患と身体的形状を含めた身体的あり方
との関係を詳述しており、E.クレッチマー(Ernst Kretschmer,1888-1964)の肥満型・闘士型
・細型、あるいはW.シェルドン(William H. Sheldon, 1899-1977)の内胚葉型・中胚葉型・外
胚葉型といった三分類による体型論からは長足の進歩となっている。
なお、現象学的観点から精神病理を捉える木村敏 (36) は、たとえば、メランコリー心性と統
合失調症的心性が「ポスト・フェストムpost-festum」対「アンテ・フェストムante-festum」
すなわち、「祭りの後での後悔」対「祭りの先触れへの不安」という時間軸上に対比的に位置
する病像であることを取り出すなど、人間的精神の病として精神疾患を捉える立場にある。そ
れに対して、大脳生理学や薬学の発展に伴い精神安定剤や精神賦活系・感情抑制系といった向
精神薬が多様に開発され一定の効果が確認されるにつれて、精神的疾患の多くは「人間的精神
の病い」というよりも「脳機能の生理化学的失調」といった観点から把握される方向に移行し
たといえる。そして、精神科医による処置の中心は向精神薬などの組み合わせと投薬量の調整
へと向かうこととなった。なお、最近では、神経症・統合失調症といったフロイト以来の伝統
的な病像に加えて、境界性人格障害・注意欠損多動障害・解離性人格障害・恐慌性障害などと
い っ た 多 様 な 分 類 (DSM-IV: Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders
version-IV, 1994-)が提示され、それぞれの病像の理解と対処とが進められている。
なお、主に神経症をテーマとしていたフロイトの精神分析は、しかし、そのままでは統合失
調症への適用は困難であることに直面したアメリカの精神科医H.サリヴァン(Harry Sullivan,
1953) (37) は、重症の統合失調症者(主に破瓜型と言われる)に対して、「精神医学は対人関係の
学問である」という実践的理論に基づいて、入院患者に対して対話などの豊かなコミュニケー
ション活動を適用することによって当時としては驚異的な治療成果を挙げるに至った。「関与
しながらの観察participant observation」と呼ばれるサリヴァンのこうしたアプローチは、
患者との対話によって患者についての事実を把握すること、治療者は患者を理解し援助するこ
とに強く願うこと、さらに、患者に深い敬意をもち問題の解決には大きな意味があると認識す
ること、という人間的な態度で接するものであった。精神科領域におけるサリヴァンのこうし
た対人関係論は、後に、アメリカにおけるダンスセラピーの基本的理論の一つとされることに
なる。
たとえば、初期のダンスセラピストの一人でアメリカダンスセラピー協会の初代会長となっ
たM.チェイス(Marian Chace,1896-1970) (38) は、主に精神科閉鎖病棟でのダンスセラピーのセ
ッションによって一定の成果を挙げる中で、「コミュニケーションとしてのダンス dance for
communication」という観点に基づくダンスセラピーの有効性を示した。健康体操や運動療法
という要素はそれなりに含まれながらも、「身体的関与によるコミュニケーション」という身
体心理的療法としての可能性を明らかにすることによって、アメリカのダンスセラピーは身体
心理療法的アプローチの一つとして展開することとなった。
2) C.G.ユングの能動的想像法の身体的展開
C.G.ユング(Carl G. Jung, 1875-1961) (39,40) は、フロイトが明確に取り出した無意識という
内界が、単に個人的なレベルでの経験や思いの世界に留まるものではなく、個人がかつて体験
したことのない内容を含むほどの深みがあることを見いだし、それを「普遍的無意識(あるい
は集合的無意識)collective unconscious」と呼んだ。フロイトが主に神経症の患者を対象と
して精神分析を展開してきたのに対して、ユングは主に統合失調症の患者の妄想や夢などを分
析する仕事に専念した。統合失調症の患者達が語る非現実的で夢想的な物語に耳を傾けたユン
グは、そうした物語の内容がしばしば世界各地にある神話や伝説と極めた類似したものである
という「偶然の一致」に何度も遭遇し、無意識の極めて深い層にはいわば人類に共通する無意
識層が横たわっているという確信を得たのだった。なお、後に、超個的心理学(transpersonal
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
psychology)として展開されていく「個人を超えたレベルでの心理学」は、その起点の一つを
ユングの普遍的無意識といった概念に求めることができるだろう。
こ う し た 無 意 識 の 深 い 層 へ と 至 る 内 的 探 索 に 際 し て ユ ン グ は 「 能 動 的 想 像 法 active
imagination」という方法を用いていた。これは、日常的な状況の中にありながら、イメージ
を拡充させ意図的に「夢」の世界へと参入していくものである。そこでは様々なイメージや事
柄がそれぞれに自主的に物語を組み立て始め、主体自我はそうしたイメージが次々と造り出す
流れの只中に放り込まれていくため、いわば覚醒したままで見る夢の世界の有り様に近い。な
お、こうした能動的想像法については、後に、催眠現象の研究者である E.ヒルガードによる
後催眠暗示を用いた催眠実験によって、物語の先意識的構成を担当するメカニズムが下意識構
造に存在することが突き止められている。
さ て 、 ユ ン グ 派 精 神 科 医 で あ り ア メ リ カ の ダ ン ス セ ラ ピ ス ト (DTR: Dance Therapist
Registered)資格者でもあるJ.チョドロウ(Joanne Chodorow, 1937-) (41) は、グループセッショ
ン及びクライエントとの個人セッションの場において、能動的想像法を動作やダンスといった
領域へと拡張して、身体に浮かび上がってくる感覚や動きや仕草や姿勢が自ずと展開していく
その流れのままに任せるという方法を用いている。イメージの世界での能動的想像といった内
的な作業ではなく、動きや姿勢や踊りといった実質的行為によってイメージが実現されていく
場にクライエントとともに身を置き、一緒に動いたりリードしたり観察したりする形式でセラ
ピーセッションが構成される。クライエントは自らの身体的感覚に従い、あるいは自分や自分
の身体が欲する動きや姿勢や動作やダンスとして、身体としての存在を丸ごとその場に投げ込
んでいくことが許される。すると、あるときは彷徨うような動きであったり、一カ所にじっと
固まったままでいたり、仕草や動作を際限なく繰り返すようなことであったり、発作的な動き
であったり、殴ったり蹴ったりするかのような攻撃的な動きであったり、涙にくれることであ
ったり、何かの踊りのような軽やかな動きや動作であったりなど、身体的実存としての有り様、
すなわち「オーセンティック・ムーブメント(真性の動き) authentic movement」が次々に浮
かび上がってくる。そうした動きのセッションに続いて、チョドロウはそこでの体験をクライ
エントと話し合い共有するとともに、精神療法的関与や心理療法的支援を行っていくのである。
ユング派の観点から眺めることによって、クライエント動きは、1)意識的で自我に方向付け
られた動き、2)個人的無意識からの動き、3)文化的無意識からの動き、4)根源的無意識からの
動き、5)アイデンティティの「自我-自己」軸からの動き、という五つのレベルのどれかに属
すとされる(チョドロウ, 1997, p119)。1)はいわばペルソナ(persona)のレベルからの動きで
あり、2)は「生きられていない人生の半面」である「影 shadow」からの個人的無意識レベル
における動きということである。3)-4)は個人的体験に由来する無意識世界ではなく、人類共
通と目されているほどの広大な普遍的無意識に由来する動きである。そして、5)は「自我」と
して小さく閉じている「私」という存在が、ユングの説く「個性化過程」の中で今以上に自分
らしい自分という「個性」へと向かっていくとともに、他者や世界の様々な様相や事物ともど
もに一つの全体性を成す「自己 self」へと向かっていくことに関わる動きである。チョドロ
ウは 1)∼5)という五つのレベルにおける動きを識別しつつ、失われてしまった全体性が、動
きや姿勢などの身体的事実とそうした体験によって再び回復されていく過程をクライエントと
共に歩むのである。
ちなみに、超個的心理学 (42) では、人は誕生当初、世界と一体化した「ウロボロスの蛇」の
「一なるものoneness」の状態であるが、そうした母子未分離の状態から自我と非自我が分離
しさらに他者が分離し、一体性と全体性を失っていく過程をたどると説く。それ同時に、一体
性を失って孤絶してしまった個我は喪失した全体性を何らか仕方で取り戻そうとするという。
ユングが自らの内的要求のままに始めたのは、手を動かしてレンガを積み自宅に塔を建てるこ
とであったし、感じるまま手が動くがまま同心円に四角形が重なった絵を描き続けることだっ
た。後に、チベット・マンダラとの類似性からその意味が解釈されたユングの絵は内的世界の
全体性や相補的要素の結合に関わる表出とされた。また、心理学とは一見無縁に思われたヨー
ロ ッ パ 中 世 の 錬 金 術 (alchemy) に つ い て も 、 実 は 分 離 さ れ た 反 対 事 物 の 「 神 秘 的 な 結 合
hierosgamos」による全体性の復活という、内界からの投影に基づく壮大な営みであることが
ユングの研究によって見いだされている。
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
3.学習理論と行動療法の系譜
習慣や行動パターンの形成に関わる古典的(classical conditioning)あるいはオペラント的
条件付け(operant conditioning)に関する実験研究によって、習慣化・自動化・無意識化され
た行動や反応パターンの成り立ちに関する実験的研究と理論が心理学界を席巻していた時代が
あった。その当時、狭義での行動主義(behaviorism)は、観察不能な意識や心理状態にはふれ
ず、観察可能な行動のみを対象として「刺激と反応」の法則性を見いだすことをその基本的立
場とした。しかし、特定の刺激や環境条件によって一定の反応や行動のみが生起するとは限ら
ない反応や行動の柔軟性や可塑性が、生物としての生存と適応に極めて重要であることが生態
学的研究から次第に明らかになり、また、環境や事態をどのように認識し解釈するかという認
知機能の重要性が次第に解明されて中で、刺激と反応を媒介する認知的過程をも次第に取り込
むようになった。そうした経緯のもとで発展してきた現代の行動療法は多岐にわたるが、おお
むね「実験的に確認されてきた学習理論や行動理論を学問的背景とする行動変容の技法による
もの」と位置づけられる。たとえば、新しい行動パターンを獲得させるためには最終目標とな
る行動までの過程をいくつかの小さな段階に分けて習得させていく「シェイピング shaping」
(行動形成)などはオペラント的条件付けによる行動療法技法の一つとして知られている。こう
した行動療法は、精神分析などとは異なり、心理的問題の原因の詳細に焦点を当てるというよ
りも現実の不適応行動そのものを対象として、そうした行動そのものを変容させること自体に
焦点付けをする。たとえば、医療施設などにおいて、指定されたとおりに服薬するとか一定時
刻に起床ないし就寝するなどの生活行動に対して「褒める」といった働きかけが行われたとき、
望ましい行動に対して強化を与えるオペラント的条件付けと呼ばれる、などである。
ところで、一定の刺激に対して特定の反応が誘発されるように条件付ける条件反射学(後の
古典的条件付け)を解明していったI.パブロフ(Ivan Pavlov,1849-1936)は、実験神経症と呼ば
れる現象を確認している。イヌを被験体として視覚的弁別課題を与えた場合、すなわち、特定
の図に対して反応するとエサが与えられるが、間違った場合は電気ショックなどの罰が与えら
れる状況において、識別の困難な視覚刺激が与えられた場合、イヌは頻繁に吠えたり噛みつい
たりという異常な状態に陥ることを見出した。J.ウォルピ(Joseph Wolpe,1969) (43) は、こう
した実験神経症に関する研究に基づいて、戦争神経症(combat fatigue, shell shock)を治療
する心理療法として「系統的脱感作 systematic desensitization」という行動療法を開発し
た。本人からの聞き取りに基づいて作成された不安階層表に位置づけられた不安や恐怖に対し
て、低い段階から一段ずつリラクセイション訓練を積み重ねていく方法である。その他、望ま
しくない行動の抑制のために、電気ショックや催吐剤や悪臭をもつ化学薬品などを用いて嫌悪
感や不快感が伴うようにすることで行う「嫌悪条件付けaversive conditioning」についても
研究が行われてきた。たとえば、悪臭を染み込ませたタバコで禁煙を条件付けるといったよう
な嫌悪療法(aversion therapy)も開発されているが、負のイメージが付きまとうとともに状況
によっては人道上の問題も指摘されるところである。なお、特に気にせずに食べた物が実は本
人にショックを起こさせるほどの嫌悪物だった場合など、たった一回の経験で二度とその食べ
物に手を出さなくなるといった例は偶然に起きた嫌悪条件付けといえる。
さらに、どのように反応しても無効であるような状況を反復体験させられた場合には、実験
動物には異常行動や無反応が現れてまるで諦めや絶望の中にいるように見えたことから、P.セ
リグマン(M.E.P.Seligman,1968;1985) (44,45) はこうした状態を実験的に確認することを通じて
「学習性無力感learned helplessness」の理論を提起し、絶望や抑鬱や無力感といった心的状
態の形成機序の一端を突き止めるに至った。このように不安や恐怖といった情動的反応が条件
付けおよび学習理論のテーマとして知見が積み重ねられてきた経緯から、感情的反応や情動的
反応に関わるクライエントの問題についてはこうした領域からのアプローチが用いられること
が多いといえる。
この学習性無力感ないし学習性絶望の考え方は、反応不能や行動不能の理論的研究として、
その後、統合失調症の発症メカニズムの一端を担うものとなった。児童の統合失調症の発症の
メカニズムを研究していたG.ベイトソン(Gregory Bateson,1990) (46) は、統合失調症の児童が
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
い る 家 庭 内 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 調 査 し 、 親 子 の 対 話 が 極 め て ダ ブ ル バ イ ン ド (double
bind: 二重束縛)的であること見いだし、そのように論理的に破綻した対話の犠牲となった子
どもが学習性絶望状態へと陥り、突発的行動や奇妙な行動あるいは無反応といった異常な状態
を呈して統合失調症状態に至ることを唱えた。ここで、ダブルバインド的状況とは、ある反応
をしても罰せられるししなくとも罰せられるという窮地に立たせられる状況をいい、元々は、
「クレタ島人はウソつきであると、クレタ島人が言った」といったエピメニデスの逆理として
知られるような論理的矛盾を含む状況を指す。こうした陳述は、その陳述がその陳述自体を再
帰的に指し示すという自己言及的な構造をもつことによって真偽の判定のつかない論理的矛盾
を含むことが、B.ラッセル(Bertrand A. W. Russell, 1872-1970)の階型理論によって指摘さ
れている。それは、とりもなおさず、そうした陳述がなされてしまえば、それを論理的に乗り
越える妥当な方法が存在しないことを示すものである。
「こっちにおいで」と親に言われた子どもはそばに行こうとするが、親の態度に不安を感じ
た子どもはそばに行くのを躊躇したとする。親が言語的に伝えたメッセージ「こっちにおい
で」と、非言語的に相手に伝わったメッセージ、たとえば、<そばに来てほしくないほど嫌い
だ>という矛盾したメッセージ(多くの場合、表情や口調や姿勢や態度などに無意識のうちに
身体化されたもの)の間で、子どもは立ち往生する。矛盾する二つのメッセージの間でどうす
べきなのか、論理的に解決する方法は存在しない。さらに「おまえが好きなのに、おまえは私
のそばに来ようとしない」と言われ、子どもが決心して親のそばに行こうとすると「来いと言
われたから来るのか」と親に難詰されたとしたらどうすべきだろうか。子どもが「来いと言わ
れたからそばに来ようとした」と答えたならば、親から「口答えするのか!」とさらに詰問さ
れ、何も答えずに黙っているならば「どうして答えないのか!」問い詰められる―。このよう
に次々と繰り出される多重のダブルバインド状況に置かれたならば、正常な思考や正常な対人
関係が困難となっていくことは確かであろう。
このようなダブルバインド状況という論理的破綻状況の中で子どもが学習性絶望に陥り、結
果的に統合失調症を発症するというベイトソンの研究と論点が正しいのならば、一つの可能性
として、発症する子どもには次のような能力がなければならない。まず第一に、1)論理的破綻
をそれとして認識できる程度の高い思考能力があること、また、2)認知的整合性あるいは認知
および行動も含めた内的一貫性が維持されないことによって本人が破綻する程度にまで内的一
貫性への欲求が高いこと、あるいは、3)ダブルバインド状態が極めて異常であると感じられる
ほどに感受性が高いこと、などである。つまり、こうした思考能力、内的整合性、そして高い
感受性の持ち主であればあるほど、逆に統合失調症状態の可能性を高めてしまうことになる。
そして、矛盾したメッセージの狭間に立たされ、することもできずしないでいることもできな
いのならば、心理的にその場から姿を消して不在となる「解離」というの対応は、必然ともい
えるほどの心的防衛機制となるだろう。いずれにしても、ベイトソンのダブルバインド理論に
基づくならば、統合失調症を発症する人とは「あまりにも異常な対話状況に置かれてきた、敏
感な感受性の持ち主」という定義も可能なのかもしれない。
このように異常なコミュニケーション状態が統合失調症の発症に関わることがベイトソンに
よって示されたことから、正常かつ思いやりのあるコミュニケーションによる対人関係によっ
て統合失調症状態が改善されることを実証したサリヴァンの対人関係論的アプローチは、その
有効性についての根拠をダブルバインド理論に求めることもできるだろう。なお、ベイトソン
の理論は、認知的整合化という認知的システムの破綻が、学習性絶望という条件付けのメカニ
ズムを通じて心身に固定化されることによって統合失調状態が生起したと捉えるため、学習に
関する理論と認知に関する理論の双方を根底におくものといえるだろう。
と こ ろ で 、 心 理 学 領 域 で の 進 展 で は な い が 、 F.M. ア レ ク サ ン ダ ー (Frederic M
Alexander) (47) に よ っ て 開 発 さ れ た 身 体 調 整 的 技 法 で あ る ア レ ク サ ン ダ ー ・ テ ク ニ ッ ク
(Alexander Technique)は、習慣化し自動化した好ましくない身体的反応や状態を改善するた
めの専門的技法として知られている。自分自身、シェイクスピア劇において朗誦しようとした
途端、無意識のうちに頭がややのけぞり喉が狭まるために声が出なくなったアレクサンダーは、
自動的に生起する誤った身体的反応から抜けだすための技法を完成するまでに 10 余年の歳月
を費やしたという。無意識のうちに自動的に発生する身体反応を抑止(inhibition)して、身体
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
の正しい「使用use」が生起することを導き出すという、アレクサンダー・テクニック教師に
よる身体的関与(hands-on)は、(overtな)行動パターンそのものの変容の前提として、不適切
で潜在的な身体心理的反応を変容させる技法として注目すべき点が多い。
さて、条件付けのメカニズムによって獲得され習慣化・自動化・無意識化された不適応・不
適切な反応や行動パターンは、心理的にプログラムされて内在化されるだけではなく、動作や
姿勢などの筋肉骨格系や生体を維持する内臓分泌系の身体的実態としても「肉化」されると考
えられるため、言語的な指摘や指導のみによってそうした身体的実質が変容することは考えら
れそうにはない。したがって、何らかの実際的な行動あるいはそうした体験を通じて身体的実
質へと影響を与えることが行動的療法の基本となることが考えられる。なお、ここではすでに
旧来の行動主義の意味での「行動」ではなく、いわば「行動すること」「体験すること」その
ものに意味があるという枠組みに基づくものといえるだろう。
4.認知療法の系譜
A.ベック(Aaron T. Beck, 1976) (48) によって創始された認知療法(cognitive therapy)は、
鬱病やパニック障害における心理状態が「認知の歪みcognitive distortion」によって発生し
ていることを唱える。人は通常、無意識のうちに様々な仮説(assumption)を抱きそれに基づい
て考え行動するが、その多くは論理的に辻褄が合わなかったり状況の一部分しか考慮に入れな
いなどの歪んだ内容を含むことがある。それは「過度の一般化・二分割思考・偏った情報の選
択的抽出・特定の事柄の拡大視ないし縮小視・情緒的理由付け・自己関連づけ」などといった
歪みと偏りであり、その多くはフロイトが示した(心的)防衛機制(defense mechanism)のいく
つかに対応しており、それぞれに特徴的な歪みをもつ。認知療法を進める治療者はクライエン
トとともに、事実に即していない、あるいは状況にふさわしくないこうした認知的歪みを発見
し共同して問題の修正に向かうこととなる。ところで、向精神薬の開発と処方を通じて、鬱病
やパニック障害が単に心理的な病なのではなく、セレトニンなど大脳の神経伝達物質の分泌や
吸収に関わる生理学的失調としての側面が明らかになるにつれて、そうした医学的対処の必要
性が明確になった。したがって、認知療法が担っているのは生理学的メカニズムとして起きる
鬱やパニック状態そのものへの対処というよりも、そうした体験によって二次的に誘発される
予期不安や自己否定的観念などの心理的問題への対処が基本となるといえる。なお、認知療法
はしばしば行動療法と対となり認知行動療法として位置づけられる。一般的にいえば、認知療
法は行動変容に関する理論的技能的側面を十分に展開していないため行動療法の知見が必要と
なること、その一方、行動療法側は認知に関する理論的技能的側面を補足する必要があるため
だといえる。
たとえば、認知的歪みについての説明に対してクライエントが「分かりました」と答えて直
ちに問題が解決するのであれば、認知セラピーと呼ぶほどのこともなく指導あるいは教示と呼
べば事足りる。問題は、認知的歪みに関する指摘や理解がどれだけ正確なものであったとして
も、そのことを言語的に指導するだけで認知的変容や行動的変容がただちに生じるとは考えら
れないことにある。(そうした指摘や教示が「暗示」として機能するのならば、催眠療法とい
う別の位置づけとなるだろう。)したがって、認知的歪みについての理解が実際の行動変容へ
と結びつくためには、何らかの行動的な練習なり体験なりを通じた「学習」とその理論的枠組
みが必須となるといえる。
それとは逆に、1930 年代にカナダの生理学者H.セリエ(Hans Selye, 1907-1982)によって
提起された「汎適応症候群GAS: general adaptation syndrome」と呼ぶ一定の生理学的変化を
引き起こすストレスとは、一見、そうしたストレッサー(stressor)によって生理学的反応が直
接的に引き起こされるように思われる。しかし、どのようなストレッサーであっても全ての人
に 一 定 の ス ト レ ス 反 応 を 誘 発 す る 訳 で は な い こ と か ら 、 R.S.ラ ザ ラ ス ら (R.S.Lazarus and
S.Folkman, 1984) (49) は「ストレス刺激の有害さについての認識」と同時に「ストレスへの対
処能力についての自己認識」という認知的側面によって、本人にとってのストレッサーとして
の強度が決定されるとした。つまり、ストレスへの対処という課題は、旧来の行動主義的な
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
「刺激と反応の結びつき」という観点のみでは不十分であって、認知的変容によるストレス対
処(stress coping)といった認知的要素を取り入れなければならないのである。
ところで、認知療法が掲げる認知の歪みとされる内容の大半は、20世紀初頭、A.コージブ
スキー(Alfred Korzybski,1933) (50) による一般意味論(General Semantics) (51) によってその基
本的構造はすでに捉えられていて、「非アリストテレス的思考体系」による正しい思考
(sanity)に基づくことで、そうした歪みは乗り越えられるとされた。ちなみに紀元前にギリシ
ャで活躍したアリストテレス(Aristotle, BC384-322 )は、同一律「AはAである」、矛盾律
「AはBでありかつBでないということはない」、排中律「AはBであるかBでないかのいず
れかである」という日常的には妥当と思われる基本論理を提起した。しかし、物事や事物に付
随する時間や場所や状況などといった詳細な実態や条件を「抽象」という操作によって無視し
なければ、そうした抽象的で一般的な命題は成立しないことは一般意味論が指摘するところで
ある。さらに、矛盾律「光は波でありかつ波でないということはない」、そして排中律「光は
波であるか波でないかのどちらかである」という命題が、20世紀初頭の物理学の世界におい
て明確に拒否された今日、事実と言語と論理に関する認識上の変革を唱えた一般意味論の重要
性は依然として保たれているといえる。(葛西(2005a) (52) の説明を参照されたい)。
一般意味論のこのような成果の一端が、A.エリス(Albert Ellis,1975) (53) による論理情動療
法(rational-emotive therapy)として展開され、それと相前後してより広い適用領域をもつ認
知療法が提起されたといえる。なお、いずれの場合も思考が無意識的に行われる「自動思考
automatic thought」というメカニズムによって、歪んだ思考内容が無意識のまま、反省や内
省を経ることなく実行ないし行動化され現実とのズレが生じることが問題とされる。たとえば、
「過度の一般化」とは、一度の失敗で「自分はもうダメだ」と思うなど、一般化できるほどに
十分に裏付けられていない認識に陥る傾向である。一般意味論的には「もうダメだと<さしあ
たり今の自分は>思っている」ということであって、今の時点ではそうかもしれないけれども
時間が過ぎたり別の状況ではそうではないかもしれないとか(日時や場所や状況などについて
の添え字を付けて区別するindex化という対処方法がある)、他の人はそれほど「ダメだ」とは
思わないかもしれないとか、「ダメ」という言葉が「ダメかダメでないか」の二分割になって
いて中間領域が存在しないなど、主に思考パターンの構造に由来する欠陥であることが指摘さ
れている。論理情動療法や認知療法は、こうした論理的な破綻を見いだしそれを是正すること
を骨子とするアプローチであるが、(後に示すように、主に意識主体に働きかけることによる)
そうした「指導」と「教育」ということだけで、心理療法としての実績が実現されているのか
否かについては議論の余地がある。
認知行動療法 (54) の必要性についてはすでに示した通りであるが、それ以上に、行動療法の
アプローチ単独では必ずしも十分ではないことを極めて明確に示したのが、L.フェスティンガ
ー(Leon Festinger,1919-1989)の認知的不協和理論(theory of cognitive dissonance) (55,56)
だった。
人間の認知と行動内容が全体として整合的であり一貫していること、すなわち「認知的整合
性 cognitive consistency」を求めるという動機ないし内的欲求はすでに指摘されていたが、
フェスティンガーの研究は認知的整合性を求める内的圧力がどれほどの態度変化をもたらすも
のかを明らかにした。たとえば、ある作業についての自分自身の思いと反対のことを他人に言
う場合、報酬として 1 ドルをもらった被験者と 20 ドルをもらった被験者とを比較すると、1
ドルもらった被験者では作業に対する態度が変化したが 20 ドルもらった被験者ではそうした
態度変化が見られなかったという。これは、本人の思いに反することを言ったとしても、20
ドルをもらった被験者は 20 ドルもらったからそのように発言したと認知的に不協和ではない
のに対して、1 ドルしかもらわないのに自分の思いと反対の内容を述べた被験者は、内的な不
協和状態におかれる。そして、認知的整合性への内的圧力によって、不協和を解消するために
元 々 の 思 い が 変 わ る と い う 方 向 に 態 度 変 容 が 起 き た と 解 釈 さ れ た 。 強 制 承 諾 実 験 (forced
compliance experiment)と呼ばれるこうした研究によって「報酬の少ない方が態度変化は大き
い」ことが判明したことは「反応は報酬の量によって強化される」という学習理論の基本原理
を覆すほどの出来事であった。すなわち、条件付けの観点から想定される仮説「20 ドルもら
った方が、1 ドルしかもらわない人よりも自分の信念と反することを言うことが強化されるか
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札幌学院大学人文学会紀要
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ら、態度変化が大きいはずだ」という予想は成立しなかったからである。
ここで注目すべきことは、自分の思いと違うことを「言った」という動かせない事実が人の
認知と結果的な態度変化に強い影響を及ぼしているということである。このため、行動療法が
用いる「行動」という言葉には、何かを行ったという身体的な事実としての意味だけではなく、
行ったことに関する本人にとっての心理的な「意味」という側面があることを見落としてはな
らない。本人の思いに必ずしも沿わない行為を行ったという事実そのものが当人の態度をどれ
だけ変容させるかについては、たとえば、狂信的カルト集団によるマインド・コントロール
(mind control) (57) にも見いだすことができる。いわゆるマインド・コントロールとは、催眠
や暗示によるというよりも、集団内部での社会的な圧力による教え込みとともに、カルトへの
協力的な行動を(強制承諾実験のように状況的に仕方なく)行ったという事実にひきずられ、
(行為と思いとの不協和状態の解消への内的圧力によって)、カルトに対する好意的な態度変容
が形成されることが指摘されている。
5.感情の理論と帰属療法の系譜
人は出来事の理由や原因に深い関心を持ち、物事が「何のせいで」そうなったのかを知りた
いという内的衝動に駆られるものである。このように事柄の理由や原因を「何かのせいにす
る」ことを帰属といい、それによって人は内的な一貫性を維持しようとする。そうした帰属と
いう認知的側面に着目して行われる心理療法の一つ、帰属療法(attribution therapy)とは、
「何かのせいにして」いるクライエントの帰属の方向を切り替えるように働きかけることによ
って、問題を認知的に克服しようとするアプローチである。この帰属療法を認知療法一般に含
めずに分けて述べるのは、感情に関する実験的研究が、以下のように原因理由に関する主観的
「帰属」の重要性を示しているためである。
人間の感情や情動(emotion:心理的生理的感情状態)に関する実験研究、たとえば、情動の二
要因理論を唱えたS.シャクター(Stanley Schachter, 1962) (58) は、情動が体験されるためには,
生理的興奮(自律神経系の活性化)と同時に、そうした状態について手がかりとなるラベリング
(名付けによる解釈)という二つの要素が必須であるとした。そして、生理的興奮状態について
のラベリングのされ方によって、そうした興奮状態がどのような感情・情動として体験される
かが左右されると考えた。そこで、状況についての誤情報を与えて「誤帰属
misattribution」を生起させることによって、同一の生理的興奮状態が異なった感情体験とし
て報告されるという予測を確認するための実験を行った。たとえば、アドレナリンを注射され
た被験者は,陽気に振る舞うサクラ(実験者によってそのように振る舞うように教示された実
験協力者)、または怒ったように振る舞うサクラと一緒にされた場合、アドレナリン注射によ
って引き起こされる生理的状態について誤った情報を与えられたり情報を与えられないでいた
場合、被験者はサクラの「陽気さ」や「怒り」に影響され、自らの生理的興奮状態を「喜び」
や「怒り」として感じるという傾向が確かに認められたのだった。つまり、アドレナリン注射
による生理的活性状態は本人にとってはまさにそのような身体体験そのものであるにも関わら
ず、そうした状況がどのような感情として体験されるかは、生理的状態に対してどのようなラ
ベルが無意識のうちに貼り当てられたかによって決定されることが示されたのである。
「誤帰属」 (59) による態度変容誘導のその他の例としては、たとえば、偽の心拍音を聞かさ
れてながら女性のヌード画像を提示されていた被験者は、偽の心拍数に大きな変化があったス
ライド画像により魅力的に感じる反応を示したという報告、あるいは、ヘビ嫌いの被験者が、
ヘビのスライドが示されても心拍数に変化のない偽の心拍音を聞かされた後では、蛇のそばま
で近寄れるようになったという報告など様々なものがある。
また、欲求不満や憤りを感じるような対人関係的場面を図版として提示する投影検査法「PF
スタディ Picture Frustration Study」によれば、被験者の反応傾向がたとえば「外罰型」
「内罰型」などとして把握される。このとき、外罰的な反応とは、フラストレーションの理由
とその因果帰属が「自分以外の誰かや何かのせい」と認識されることによって、他者や外部に
対しての怒りや攻撃となるのに対して、内罰的な反応とは「自分のせいでそうなった」と無意
識のうちに設定されることによって、悲しみや罪悪感が体験される。ここで、そうした帰属の
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
方向を切り替えて他者から自分自身に向けてみたり、その反対に自分自身への帰属を他者へと
帰属させるならば、全く正反対の感情を体験することになると帰属理論は予想する。たとえば、
本当は自分のせいでそうなったのだと気がついたならば、それまでの怒りの感情は消え、自分
自身に対する罪悪感や悲しみが襲ってくるということである。
ところで、日本国内で始められた内観療法はこうした帰属の切り替えという観点からも理解
することができる。浄土真宗の身調べという修行に基づき吉本伊信によって打ち立てられた
「内観」あるいは「内観療法」とは、「親にしていただいたこと・迷惑をかけたこと・親にし
て返したこと」を静かに内省内観するものである。そうした内観の内容を数時間ごとに導師に
聞き取ってもらうという体験を積み重ねる一週間ほどの生活の中で、たとえば、それまで外罰
的に他者や外部へと向けていた帰属の方向とそれに伴う怒りなどが、自分自身の愚かさや幼さ
などのためにそうなっていたという発見へ至ることによって、一挙に内罰的方向へと切り替わ
ることが起きる。こうした切り替えが起きたならば、そうした自覚は自らへの罪悪感と後悔を
もたらし、場合によっては深い懺悔とともに人格的変容と呼びうるほどの変容へと至ることに
なる。こうしてみると、内観療法は帰属の切り替えという認知的変容を招来する帰属療法の一
形態と考えることもできる。もちろん、「内面深くにある思いを導師に聞き届けていただく」
という構造そのものに、心理臨床の面接に連なる本質的要素があることは言うまでもない。
6.M.エリクソンによる現実転換アプローチ
いわば儀式めいたとさえいえるような従来の催眠誘導の技法の代わりに、比喩や物語や視点
の切り替えなどを対話の中に自在に用いることによって催眠性トランスに誘導するアメリカの
精神科医M.エリクソン(Milton Erickson, 1901-1980) (60,61) の催眠療法は、その独自性とセラ
ピーとしての有効性のゆえにしばしばエリクソン催眠と呼ばれている。催眠療法の世界を一変
させたエリクソン・アプローチの多彩な内容についての解明が進むにつれて、短期間での治療
成 果 を 目 指 す ブ リ ー フ ・ セ ラ ピ ー (brief therapy) 、 あ る い は 戦 略 的 心 理 療 法 (strategic
therapy)、情報処理と感覚チャンネルに関する知見をもとにした神経言語プログラミング
(NLP: Neuro-linguistic Programming)といった領域が展開されてきている。
エリクソンは多くの場合、クライエントに対して何らかの行為・実践・体験をするように教
示や指示を与え、クライエントはそうした指示に沿って何らかの行為とそうした体験をするこ
とを重視していた。(セラピーの半数以上が催眠を用いないアプローチだったとも言われてい
る)。ちなみに、この点においては身体心理療法の一つ、ボディラーニング・セラピーも同様
であって、頭の中のイメージや空想ではなく、何らかの実際的な体験を経ることや、現実に何
かを行うという「体験」そのものを重視するという立場である。すでに認知的不協和理論にお
いて、行為を行うという体験そのものが認知の仕方や態度に強い影響を及ぼすことが明らかに
されたように、エリクソンの方法にしても、「実際に行うこと」「体験すること」が、アプロ
ーチの中心となっていることは、心理療法としての位置づけを明らかにしていく際にも極めて
重要な点である。
また、精神分析をはじめ従来の心理療法がおおむね「過去から現在を眺める」という立場で
あるのに対して、エリクソンはいわば「現在から未来を見据える」という立場から心理療法を
推し進めていることが特徴的といえる。(V.フランクルによるロゴセラピー (62) もこれに近いと
考えられる)。仮に従来のアプローチが生育歴や過去の問題に焦点を合わせる「過去現在アプ
ローチ」ならば、エリクソンは現時点での状況から少しでも改善された望ましい未来へ向かう
ことに強い関心を抱く「現在未来アプローチ」といえる。それは理論的な立場としてというこ
とではなく、クライエントの問題を現実に解決することを最優先していたエリクソンが見いだ
してアプローチだったと考えられる。ここでエリクソンの考え方とその実践内容を「現実転換
reality conversion」アプローチと呼びその一端にふれることで、身体心理療法との共通点を
捉えておくことにする。
あらかじめ要点を述べておくならば、本稿のテーマである身体心理療法は、その基本的な特
性上、催眠誘導を前提とするアプローチではないにしても、身体という実体への関わりを含む
実践的なアプローチであることによって、エリクソンによるアプローチと同様に、「体験によ
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札幌学院大学人文学会紀要
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る事実そのものの重み」、「問題を未来に向かって現実的に乗り越えること」そして、身体的
体験が何らかの含意をもつこととして心的内界において受け取られることによる「下意識への
働きかけ」という要素を含むものと考えられる。もちろん、ここでいう「下意識への働きか
け」とは催眠誘導による催眠性トランスのことではなく、身体的体験が結果的に「暗示」とし
ての働きをもつという意味においてである。身体心理療法とエリクソン・アプローチとのこう
した共通性はたんなる偶然ではなく、実際的な行動を「すること」とそうした体験を「経る」
ことというアプローチの共通性に由来するものといえる。
1) 些細な事実を捉えること
エリクソンは、一人一人異なっているクライエントに対して同じ方法でのセラピーが通用す
るはずはないといった観点に立ち、どのような理論もそれをそのまま適用しようとするアプロ
ーチは、プロクラステス(Procrustes: 捉えた旅人を鉄の寝床に縛り付け, 長い足は切り短い
足は引き延ばした強盗)的な観点であるとして極めて否定的であった。エリクソンによるセラ
ピーの内実は実に多岐にわたっているけれども、エリクソンはクライエント一人一人の独特な
世界を正確に把握するために、些細な動きに至るまで観察していたことが知られている。彼の
観察眼に関する逸話としては、たとえば、ある女性のクライエントが「私の問題がわかります
か」とエリクソンに尋ねたとき、エリクソンは「はいわかります、ミスター」と相手が女装の
男性であることを見抜いていたという。クライエントが腕を動かしたとき、肘が胸元に寄る際
の微妙な動きから推定したといわれている。こうした観察力とそれによって個々のクライエン
トの独特なあり方を把握すること、それがエリクソンのアプローチの根幹を形作っているとい
えよう。それと同様に身体心理療法においても、クライエントの些細な動作や反応に十分に感
覚が開かれていなければ適切な対応が難しいことはいうまでもない。
2) 定型的なパターンを切り崩すこと
エリクソンは観察によって得た事実に基づいて、クライエントが行動する際に無意識のうち
に設定している前提条件や行動パターンをより的確に把握しようとしていた。というのは、
「クライエントの問題はある一定の条件や状況が用意されているときに限って生起する」とエ
リクソンは考えていて、仮にそうした条件や定型的なパターンが崩壊するならば、問題となっ
ている行動はそれが発生するための前提条件を奪われることによって途絶ないし無効となると
考えていたためである。そうした変化が起きるならば、それをきっかけとして認知的および行
動的変容が期待されることは、認知的不協和理論による知見からも了解できることである。
エリクソンの弟子の一人、W.H.オハンロンによるセラピーの一例として、たとえば、禁煙し
たいクライエントが来談したとき、そのクライエントには嫌いな事務仕事があって相当に溜ま
っていていることを利用して、「タバコが吸いたくなったら、嫌いな事務仕事を 15 分間する
こと。それが終わったらタバコを一本吸っても良い」といったものだったという。喫煙衝動と
嫌いな事務仕事という二つを天秤にかけたような指示は、後にエリクソン研究者によって「善
意の苦行 benevolent ordeal」と呼ばれる課題設定となっていた。こうした指示にしたがって、
タバコを吸うために嫌いな仕事を必死に 15 分間成し遂げたとき、クライエントはタバコが吸
えるという報酬(reward)とともに、嫌いな仕事が現実に 15 分間分片付いているという事実に
基づく安堵感と達成感という心理的報酬を獲得できることになる。そうした体験的事実ととも
に、事務仕事中の 15 分間は確実に喫煙をしていないという事実も積み重なっていることも見
落とせない。こうして体験された内容を本人の側から眺めるならば、「嫌いな仕事を 15 分間
がんばってつらかった」「その間、15 分間も禁煙していた」「その後でタバコを一本吸って
満足した」「嫌いな仕事が 15 分間分なくなり楽になった」というものであろう。
こうした体験的な事実が認知に及ぼす効果については、認知的不協和理論によって明らかに
されていることはすでに述べた。すなわち、自らは望んでいなかったが実行してしまったとい
う(強制承諾による)「事実の重み」によって、それまでの(望ましくない)認知的整合性状態が
崩壊し、新たな整合状態に向かうために何らかの認知的行動的変容が起きるというパターンと
なっている。つまり、精神科医という専門的立場からクライエントに対しての(強制承諾的)
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
「指示」は、クライエントにとってはもしかするとそれが残された最後のチャンスという切迫
した状況だったかもしれない。いずれにしても、「専門家」による指示の重みによって、クラ
イエントはこれまでの認知的行動的整合状態を崩壊させる行動、「嫌いな仕事を 15 分間す
る」ことに至った。さらにここでは、禁煙できない自分、事務仕事ができない自分という二つ
の否定的側面が「15 分間の事務仕事」という実践を通じて両者ともに肯定的に体験されてい
ることは、自己効力感(self-efficacy)の向上に寄与していることはいうまでもない。
3) 下意識に対する暗黙のメッセージ
この事例でのエリクソンによる指示が催眠性トランスのもとで行われたか否かによって、催
眠療法としての事例かエリクソン的な観点での認知行動療法としての事例かに分けられるにし
ても、「嫌いな事務仕事を 15 分間実践した」という事実そのものによって、それまでのクラ
イエントの日常的なあり方が明らかに崩れ、新しい現実への切り替えが起こったことは確かで
ある。こうした事実そのものに焦点を合わせるエリクソンの方法をここでは「現実転換」アプ
ローチと呼ぶものであるが、そうした行動上の事実のみによって望ましい認知的行動的変容が
実現されるのではなく、エリクソンによる指示、指示に基づく実際の行動という枠組みの中で、
下意識に対して何らかのメッセージが伝えられているという側面を見落とすわけにはいかない。
この点についての説明に先立って、以下のように暗示に関する吟味をあらかじめ行っておくこ
とにする。
従来の催眠誘導法には様々な方法があるがその多くは、腕が上昇するとか身体が揺れるなど
のように動作や姿勢に関する身体的な要素を用いて誘導を行うものである。一般的に知られて
いるそうした催眠誘導に対して、エリクソンは比喩や物語など様々な方法を駆使してクライエ
ントを直接トランス状態へと誘導を行った。そのいずれの方法にしても、催眠性トランス
(hypnotic trance)という変性意識状態(ASC: Altered State of Consciousness)を実現するこ
とがその目的である。そこでは、現実的な関心が低下するとともに理性的な思考能力が低下し,
象徴やイメージあるいは感覚的世界が優勢となる。催眠療法とはクライエントをこうした意識
状態に誘導することを前提とするアプローチであるが、本稿で扱っている身体心理療法とは、
そうした催眠性トランスといった変性意識状態を前提とするものではなく、あくまでも、「暗
示」あるいは「注意・無注意」という事柄を通じて下意識に暗黙のメッセージが伝えられると
いう側面に焦点をあてるものである。
たとえば、すでに紹介した「腕のぶら下げ」実験において、実験者が被験者の腕を持ち上げ
るために手を近づけていく際にしばしば奇妙なことが起きる。まるで磁石に引き寄せられたか
のように、被験者の腕が実験者の手の方に無意識のうちに寄ってきたり浮かび上がったりする
のである。こうした現象は思ったよりも頻繁に起きるため、「腕のぶら下げ」に関する実験研
究を進める際、一時期、「リラクセイション」と「身体の社会化」といった枠組み以外に催眠
との関連性を考慮する必要が生じたことがあった。しかし、こうした実験やエクササイズの場
は平明で日常的なものであり、催眠性トランスや何らかの変性意識状態との結びつきを見出す
ことはできず、結果的に催眠との関連性はほぼ却下されるに至った。したがって、無意識のう
ちに相手の手の動きに誘導されて「近寄ってきてしまう腕」という反応は、暫定的に、ある種
の(社会的な)条件付けの結果として起こっていると仮定することとなった。
そうした過程を経る中で結果的に浮かび上がってきたのが、暗示ということの本質に関する
問題であった。催眠誘導は暗示によって引き起こされるにしても、暗示そのものは催眠ではな
いという関係にある「暗示」とは一体何か―。ここではその詳細にはふれないが、一般的に述
べるならば、まず第一に、現象学的観点の出発点ともなったように、意識とは志向性をもつ働
きであること。第二に、意識の志向性によって意識化される部分が登場するとともに志向性の
対象外の領域に意識化されない部分が発生すること。第三に、意識化された領域に対するメッ
セージは意識化されるのに対して、意識の志向性の対象外の領域に対するメッセージは意識化
されないこと。第四に、意識化されない領域に対するメッセージは、意識化されないまま心的
内界に対して何らかの働きかけをすると考えられること、である。暗示という言葉は一般にか
なり曖昧なまま用いられているため、本稿では特にこの第四の特徴に注目して次のように定義
する。すなわち、「暗示とは、意識化されていない領域に与えられたメッセージが下意識に対
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札幌学院大学人文学会紀要
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して何らかの働きかけをするもの」である。もちろん、ここでの暗示の定義は、従来の用法に
異議を唱えるものではなく、本稿のテーマである身体心理療法の構成内容についてより的確な
記述をするためのものである。以下ではこの定義によるものを<暗示>と表記して意味上の混
乱を避けることにする。
さて、この定義に基づくならば、自己暗示という言葉によって知られる事柄として、たとえ
ば「私は毎日、全てにおいて良くなっていく」ことを唱えるよう指導したフランスの心理学者
E.クーエ(Emile Coue, 1857-1926) (63) に代表される言葉は「自己暗示」ではなくその働きの大
半は「自己明示」と呼ぶべきことになる。ただし、沈黙のうちに心の中で反復される内言
(inner speech)、あるいは音声を伴った朗誦のいずれにしても、それとは意識されないまま下
意識に対してさまざまなメッセージを与えることが考えられる。たとえば、「こんなに繰り返
しているからきっと元気になるに違いない」という肯定的なものから、「こんなことを繰り返
さなくてはならないほど、私はだめな人間だ」という否定的なものまでその内容もさまざまと
いえる。これらが意識化されるならば、意識による理知的な吟味の対象としてその現実的な妥
当性が検討されるのに対して、それらが意識化されることなく下意識にとどまるのならば、ま
さに<暗示>の定義に合致する。すると、前者の思いをもつ者はそのように下意識に受け止め
られて「元気になる」のに対して、後者の思いをもつ者は自己否定をさらに増幅させかねない
であろう。いずれにしても、こうした言葉が<暗示>として機能するためには、その前提とし
て、理知的な思考機能がある程度低下している何らかの変性意識状態か、あるいは以下に述べ
る「無注意」の必要性が指摘される。
意識と無意識、注意と無注意、そして、無注意によって無意識領域となる部分に与えられた
メッセージが下意識に対して何らかの働きかけをするとき<暗示>として作用していると定義
することによって、「身体心理療法における身体心理的で実際的な働きかけが、結果として<
暗示>として作用している」と極めて簡明に述べることができる。身体心理療法では、動作や
姿勢を含む身体的な事柄が登場しそうしたことを体験する過程が多く含まれているが、そうし
た体験を経る際、特に意識して行ったことではない事柄の中に身体心理的な<暗示>として働
く体験が数多く含まれているということである。たとえば、こちらから手を差し出して相手の
手をとるというだけの動作においても、明示的な意味としては「こちらに来てください」とか
「一緒にしましょう」とかであったとしても、手の差し出し方の乱暴さや姿勢や顔つきの冷た
さなどといったように、そのときの身体的動作や状態が暗黙のうちに相手を拒否するようなも
のであったなら、そうした否定的なメッセージが相手の身心に伝達し、無意識のうちに相手の
身心をこわばらせることになるだろう。このとき、こちら側からの無意識のメッセージを相手
が明確に認識し「少し失礼ではないですか」といったような意識レベルでの通常のコミュニケ
ーションに至ったとき、(仮にそうした指摘に対して自覚することができた場合に限り)「冷た
い態度ですみませんでした」という意識レベルでの相互循環的コミュニケーションへと状況が
転換されることもあるだろう。「身体は無意識の露頭」であることによって相互に意識化され
ないコミュニケーションが行き交うという状況を把握するためには、ここで定義する意味での
<暗示>についての理解が身体心理療法の理論と実践には欠かせないものとなる。
なお、注意(attention)に関する認知心理学的研究には、たとえば、たくさんの人が集まっ
ている中から一人の人の声を聞き分けるといった「カクテル・パーティ現象 cocktail party
phenomenon」といった選択的注意という側面、レーダー画面を監視し続けるといった持続的注
意(ビジランス vigilance)という側面、そして、注意という心的活動の処理容量などの側面、
といった研究領域がある。特に、情報処理のための資源としての「注意」についてみると、人
はきわめて限られた範囲の情報にのみ注意を払う程度の「注意」能力しか持ち合わせていない
ため、無注意ということは必然ですらあり、それと同時に<暗示>的メッセージの発生も避け
られないものとなる。なお、近年、注意欠損障害(ADD: attention-deficit disorder)や注意
欠陥多動障害(ADHD: attention-deficit hyperactivity disorder: DSM-ⅢR から)といった診
断もなされるなど、心理臨床の領域にも「注意」に関わる問題が登場しあらためて注目すべき
テーマとなっている。
Ⅲ.無意識の世界と身体心理的関与
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
1.身体心理学的実践の本質的一回性と感性
日本国内においてかなり早い時期から身体心理学という言葉を用いていた原口(1982) (64) は、
身体の実際の有り様と無意識的な心的内容との相互関係を念頭においてこの術語を用いている
ように思われる。脳性マヒなど重度の障害をもつ児童を対象にして、成瀬悟策による動作訓練
ないし立川博の静的弛緩誘導法に基づいて呼吸や動作がより楽に自然にそして的確に行われる
ようにする実践を行う原口の記述に、身体心理的関わりの様子をうかがうことができる。「い
きの現象をめぐって」という原口(1986) (65) の論文において、児童の息が楽になっていく過程
は実はその児童と関わっている原口らとの関係の変化でもあるとして<関係としてのいき>と
いう理解を述べている。
(原口、1986 p.186 からの引用)
初回の状態: 全身的緊張が強く、とりわけ、躯幹部を後ろに反らせ、手足をつっぱる
パターンがかなり強固にみられる。仰臥姿勢をとらせただけでこのパターンが出現す
る。手でさわると激しく泣き叫ぶ。表情は極めて乏しく、追視もみられない。また手
足が非常に細い。全体に寝たきりの生活を送ってきた子どもに特有の慢性的緊張が著
しく、心的な活動性も不活発である。
訓練とその経過: 静的弛緩誘導法におけるブロック: はら、せなか、くびを中心に訓
練を進める。週一回2時間(但し途中で休憩を入れる)。所定のやり方でこれらの部位
に手をあてその広がりを誘導することによって、呼吸パターンが深くなるのがはっき
り感じられた。フーッと大きな息が入ってきて、腹部がゆったりした感じになる。こ
の際盛んに大きなあくびが出る。後ろへの反りもこの時全く出現しない。―こうした
変化は初回から生じ、その後若干の変動はあったものの一貫してみられた。訪問教育
担当の教師にも技法を指導し、家庭でやって貰ったところ、驚くほど緊張がとれたと
のことであった。…
そうした実践の場にいる原口がその都度の身体的反応や姿勢の有り様を手がかりにしながら
児童とふれあっている姿が想像される。児童のそのときの頭の向きや腕の伸び方、体幹のねじ
れ具合などの詳細な事実に合わせて、苦痛なのか楽なのか嫌いなのか好むのかを推測しつつそ
の子に関わっていくとき、その一瞬一瞬の関わり方がまさに身体心理学的実践そのものとなる。
解剖学に基づく筋肉骨格系の知識や呼吸に関わる生理学的な知識を下地にしながらも、事実と
してそこに居る子どもの身体的動作や姿勢の意味を感じつつ、語られないでいる本人の内的世
界の有り様を推測して働きかけていく過程―。
こうした身体心理的実践の本質は、動作訓練や静的弛緩誘導法といった理論と技法とにある
と考える立場とともに、どのような技法であっても、相手に触れた瞬間に不安や恐怖や疑心暗
鬼を起こさせずにそうした接触を相手に拒まれることなく進めていく、そうした技量にこそ本
質があると見る立場とが考えられる。理論とはそれがどのような理論であっても、平均的ある
いは理想的な状況において考えられた仮説体系であるから、それが現実の場にそのまま適用さ
れることは極めて考えにくい。実際は、その都度変化する相互の身体的あり方や相互の思いの
中で、そうした理論に基づく関わりをどのようにかして実現しようとする、その都度の実際的
関わりにおける技量にこそ、身体心理的実践の基盤があると見るべきであろう。
つまり、身体心理的関わりという実際的状況は、ある目的に沿った身体的な働きかけと相手
側の身体心理的反応という相互関係の中にあって、そうした一つ一つの働きかけそのものが、
次の述べるアフォーダンスという関わりの構造の故に、関わりの意味としては一定であったと
しても、実質はその都度様々に変異することになるからである。たとえば、相手に触れるため
に右手を差し出してみる。それに対して、相手は瞬間身を引いたとしたらどうしたらよいだろ
うか。それでも右手を突き出し続けるのか、それとも、こちらも動きを止めるのだろうか。そ
れにしても、動きを止めた後、空中に突き出たままの不細工な腕をどうするのだろうか等々。
このように文章で表現されたことを、様々な状況でいろいろな人に対して行ってみると、実に
多様なやりとりがあることに気づかされることになる。
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こうした二者の身体的関わりとは、姿勢や動きという物理的事実のみならず、そのようにし
て在る相手の身体的状態の意味や意図を推定し、そこに自らの目的に沿った仕方で身体的に関
わっていくという営みであるから、そうした関係を眺めるならば、本質的に「一回性」 (66) の
状況にあると考えざるを得ない。そうしてみると、身体心理学的実践とは、様々な理論や知識
を前提としながらも、その都度の実践はあくまでも身体心理的関わりについての、いわば「技
芸」(アートart )と呼ばれるべき関わりの詳細によって進められると言わざるをえない。
なお、ここでいうアートとは単に技術という意味ではなく、自己と他者の身体および変化す
る内面の状況の間にあって、身体的に問いかけ、相手からの反応の手応えを感じ、たとえば
「安らぎ」といった目的に沿った関わりを行おうとする「私」という者の総体としての関わり
方と在り方、というレベルでの言葉となるだろう。したがって、身体心理学的アプローチを志
す者は、身体心理的関わりに関する技芸としてのアートを深めていく必要があるが、それはと
りもなおさず、そこで何が起きているかを的確に感じとれるだけの「感性」を前提とする。
原口の記述を読む中で感じることは、技法の理論や位置づけはそれとして、児童に対してそ
うした身体的関与を行うに足るだけの感性とアートは、現場では必然であり当然のこととされ
るためなのか、その詳細は特に記述されないことである。固まった身体を緩めて楽に息ができ
るように導くという過程は、相手の不安や恐怖や、固まった身体に由来するその都度の痛みな
どと関わっていく高度な「アート」によってのみ可能となるにもかかわらずにである。いずれ
にしても、身体心理学的アプローチのこうした特性は、次に述べるように、ある状況への対応
ということがいわば一回的事態であることを示唆する「アフォーダンス affordance」の概念
に親しむことによってさらに理解を深めることができる。
2.アフォーダンスという無意識的な動作誘導
周囲にあるモノと身体的に関わる動作、たとえばつかむとか引くとか回すなどの行為は、単
に本人の意図や意識によって完結するものではなく、関わっていこうとする対象の現実的な様
態、たとえば、重いとか尖っているとか太いなどの実態によって影響される。ある物をつかも
うとしても太すぎて手に余るとか角が尖っていて躊躇するとか、対象の性質によっては当初意
図していた行為が不可能になり何らかの修正を強いられる。「つかむ」はずの取っ手が滑るた
めに「つかめない」などの事実によって、対象物の状態や性質は行為者に対して何らかの現実
的な対応を迫ってくる。そうした意味では、対象物はそれ自体の物的な形状や性質によってあ
る特定の動作や反応へと人を導くという特性を備えているため、予定されていた動作は修正さ
れ変位されるというプロセスが進行することになる。対象によるそうした誘導によって行為の
あ り 方 が 変 容 さ せ ら れ る 過 程 を 吟 味 す る 中 で 、 生 態 心 理 学 の J. ギ ブ ソ ン ( James J.
Gibson,1904-1979)は「アフォーダンス」(「環境が動物に提供するもの」佐々木他編 2001,
p.3-4) (67) という概念を提示した。そして、対象物や環境が全体としてある特定の動作(その
可能性、方向性)を人に「与えているafford」という観点を示し、行為者と対象との相補的な
関係を説いたのである。それは、従来、感覚に基づいて対象を認識し行為によって対象に関わ
っていくといったように、行為の主体側の観点のみから捉えられていたのが、行為の対象物か
らの「関与」を含めて同時的に把握されるべきであるという画期的な視点を提供するものであ
った。それと同時に、アフォーダンスによって導かれる反応は必ずしも意識化されるとは限ら
ず、無意識的な反応や反射的反応であり得ることが示唆された。実際、行為対象の不意の変化
や変容によって、あらかじめ予定していた行為は裏切られ、瞬間的に無意識のうちに何らかの
対応を誘導されることは日常的にもそれほど珍しいことではない。
ところで、行為の対象物が単なるモノではなく、意志や意図をもつ他の人間の身体だとした
らどうすべきなのだろうか。たとえば、握手のために差し出されてきた相手の右手が、急に握
りしめられて拳骨になっていったとしたら、同じく右手を差し出しつつある私はどうしたらよ
いのだろうか。途方に暮れて、手を差し出すのを停止するのだろうか。こちらも拳骨にするの
だろうか。あるいは、相手の拳骨をそのまま握るとか、相手の指を一本ずつ開こうとするのだ
ろうか。あまりにも瞬間的に起きるこうした変化に対して人は躊躇しそのことを十分意識化す
る暇もなく反応せざるを得ない。
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
もちろん、そうしたアフォーダンスによる「誘導」以前に、そうした変化や変容を関知する
ための感覚が開かれていなければ、行為対象からのアフォーダンスを受け取ることすらできな
い。したがって、アフォーダンスという理解を、身体心理学的アプローチから眺めるならば、
第一に「感覚が開かれていることの重要性」、第二に「その都度の対象側の変位に反射的に反
応すること」、第三に「変位への瞬間的な対処は必ずしも意識的意図的ではないこと」、とい
うことが挙げられよう。こうした特性は、平均的で理想的な状況の中でのみ主張されるに過ぎ
ない様々な「理論」では太刀打ちできない現実があることを明確に示し、身体心理療法におけ
る技芸(アート)の正当性ならびにその学問的重要性を示唆しているといえる。
さて、アフォーダンスのこうした内容に基づくならば、臨床心理学的な面談や身体心理的療
法の場面において、何気ない動作やわずかな姿勢の変化によって、クライエントないし参加者
側に或る一定の身体心理的反応を誘導することが原理的に可能であることが理解されるだろう。
それはもちろん一方通行ではあり得ず、反対に、相手の何気ない些細な動きや姿勢の変化など
によって面接者側が誘導されるということでもある。そこにはさらに「無注意」と<暗示>に
かかわる無意識化されたメッセージの問題も大きく横たわっている。そうした狭間にあること
を自覚しつつ、身体心理療法としての意味と目的を見失わずに身体心理的エクササイズなどに
よって相手と交流していくことが身体心理学的実践の骨子といえる。
3.体感心象と視覚的イメージとの質的差異
イメージ(image)という言葉は、たとえばフォーカシング(focusing)や 壺 イメージ療法とい
った心理療法のアプローチの中で頻繁に用いられていて、心理臨床におけるイメージの有用性
は広く認識されてきている。しかし、身体心理学的アプローチの立場から眺めるならば、イメ
ージという言葉の通念的な使用には大きな問題が付きまとっていると言わざるを得ない。とい
うのも、イメージという言葉は一般に「視覚的イメージ」「視覚心像 visual image」として
用いられているにもかかわらず、そうした視覚的イメージとは全く異なる「体感的心象」をも
つ人々が存在するために、「イメージ」という言葉と定義をめぐって混乱と誤解が生じる可能
性が高いためである。
1) 神経言語プログラミングと優先感覚チャンネル
たとえば神経言語プログラミング(NLP: Neuro Linguistic Programming) (68) というアプローチ
では、人間の情報処理チャンネルとしての感覚、たとえば、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・身体感
覚などには優先順位があり、どの感覚が優位にありどれがそうではないかは個々人によって大
きく異なっていることを基本的前提とする。そして、二者間のコミュニケーションについて、
両者の優先コミュニケーション・チャンネルが一致しているときに、最も効果的にメッセージ
が届くと考える。こうした観点は、元々、エリクソン催眠の有効性の研究に際して見いだされ
てきた知見であり、視覚的な人には視覚に対する働きかけを行い、体感的な人には体感的な働
きかけを行うことが効果的ということである。したがって、「イスに座っていることをイメー
ジしてください」といったような何気ない指示であっても、視覚優位の人は写真的・ビデオ的
・絵画的な「視覚的心像」をもつのに対して、体感優位の人は、腰を下ろしているイスの板の
堅さであるとか座面に当たる座骨の感じとか、そのイスの体感的な安定性であるとか様々な
「体感」についての内的感覚をもつことになる。したがって「イメージ」という言葉に伴う混
乱を避けるために、ここでは「体感心象」という言葉を用いて区別する。「体感心象」とは
「体感的な内容が記憶の中から呼び出されて心的に感じられているもの」であり、「体感」と
は「身体的な感覚を現時点で感じていること」を意味するものとする。
なお、神経言語プログラミングでは、視覚優位、聴覚優位…といったような単純な分類を前
提としているが、筆者による試行研究 (69) では、視覚イメージ優位といっても、その心的内容
が写真のように明晰なのか、ビデオのように動いているのか、絵画や墨絵やクレヨン画のよう
に平面的なのか、あるいは時間的に反復するのか、時間的に循環不能なのか等々といった様々
な相違が見いだされてきている。そのため、言葉を用いて内的イメージを伝えるということに
は、優先感覚チャンネルそのものの食い違いだけではなく、優先感覚チャンネル内での感覚属
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性の食い違いという二重のズレの可能性によって、感覚チャンネルの一致は原理的に困難であ
ることが把握されつつある。
そのため、心理臨床の面接という場面においても同様に、クライエントとカウンセラーの優
先コミュニケーション・チャンネルが対応しないという食い違いがかなり高い確率で起きるこ
とが考えられる。一般に、本人にとって優位ではないコミュニケーション・チャンネルとは、
定義上、無注意状態であるだけではなく、そうした情報様態を適切に扱う能力を持ち合わせて
いないということでもある。たとえば、「イスに座っている状況をイメージしましょう」とい
った単純な教示によってさえも、人によっては、視覚イメージよりもあるニオイの記憶、すな
わちイスやそのイスが(内的に在るとされる)場所にまつわる嗅覚的心象が現れたり、イスに座
っていた或る時の音が聞こえたりといった聴覚的心象が現れることがある。そうした多様な現
象に対応するためには、まず第一に「イメージ」が視覚的イメージのみには限定されないこと
を前提とすること、次に、「視覚的イメージ」の世界からこうした異なるチャンネルへの切り
替えといった心的操作を行うことが必須の課題となるが、現行の心理臨床の面接においてもこ
うした対応が十分になされているとは言い難い。
2) 身体感覚に基づく身体心理学的アプローチの意義
したがって、身体心理学的アプローチという方法は、こうした吟味から明らかなように、情
報の優先チャンネルが「身体感覚優位」であることを一つの前提とするアプローチであるとい
えるだろう。そのため、身体心理学的アプローチによって心理臨床的な援助を行う側は、当然
ながら、身体感覚優位であるか、あるいは感覚モードを身体感覚へと容易に切り替えることが
必要とされる。そして、仮に身体感覚が優位ではないのならば、身体感覚優位のクライエント
を理解することには原理的な困難がつきまとうことをあらかじめ理解し、そうした相違点を把
握することが必須となるといえる。
これまでの経験から述べるならば、ボディラーニング・セラピーの対象となってきた人々
の中には、普通の状況では感じとることが不可能なほどの微細な差異を感じとるほどに敏感な
身体感覚の持ち主、たとえば、「十数枚も重ねた布団の下に小さな豆があるために眠れなかっ
た」という童話の主人公のように過敏とさえいえるほどの身体感覚の持ち主が確かに存在して
いる。もちろん、そうした敏感さが妄想や幻覚ではないことを確認するためには、些細な事実
を一つ一つ積み上げていくという実証的態度が必要となるにしても、そうした身体感覚の敏感
さは何らかの特殊技能として生かせる道がないのであれば、日常的な生活にはほとんど不要で
あるばかりか、日常生活そのものを破綻させてしまう「障害」ともなりかねない。
というのは時代的には多数者であるだろう視覚優位、視覚イメージ優位の人々にはそうした
敏感な身体感覚そのものが理解を超えているため、場合によっては「妄想」とか「幻覚」とい
うラベルを貼り当てられるという社会的差別やそうした診断を下されることにもつながりかね
ない。その結果、極端な場合には心的な破綻、あるいは二次的に社会的な破綻をも引き起こし、
敏感であることのマイナス面が実体化する可能性も考えられる。実際、統合失調症状態を引き
起こすとされるダブルバインド状態について、こうした優先チャンネルに関する議論から指摘
される一つの可能性は、自らの姿勢や動作などの身体的側面から放たれる非言語的
(nonverbal)なメッセージには無自覚である親(など)の存在によって、家庭内にダブルバイン
ド状態が造り出され、そこにたまたま敏感な身体感覚をもつ子どもがいたのならば、そうした
子どもは自らの敏感さのゆえに破綻する可能性が高まるということである。統合失調症に関連
してサリヴァンが唱えた選択的不留意(selective inattention)という理解は、幼少時の家庭
環境における不快な状況に子どもが「注意を向けない」ことであり、そのように見えも聞こえ
もしないようにする心的操作によって、自らの存在を不快な状況そのものから切り離し、ある
いは、不快な状況の根底にひそむ論理的矛盾から自らの存在を切り離して防衛するものである。
こうした心的操作に成功するならば自らを破綻から救うことができるのであるが、皮肉なこと
に、そうした現実歪曲という一時的な心的操作そのものがその後の現実不適応状態を準備して
しまうということも考えられる。こう したことか ら示される ように、身体感覚へ焦点をあて
る身体心理学的アプローチの極限的な存在理由の一つは、身体感覚が敏感であることに伴うこ
うした心理的社会的破綻のメカニズムを明確に認識し、そうした被害を受けた一群の人々に対
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
して適切な支援を行うことにあるといえる。
4.催眠による下意識の探求と「隠れた観察者」
ア メ リ カ ・ ス タ ン フ ォ ー ド 大 学 心 理 学 科 催 眠 研 究 所 の 所 長 だ っ た E. ヒ ル ガ ー ド (19042001) (70) は、催眠現象 に関する様々な実験的研究を行い、スタンフォード催眠感受性尺 度
(SHSS: Stanford Hypnotic Susceptibility Scale)などの成果を得ている。ヒルガードはそう
した基礎研究の他に、後催眠暗示と無痛暗示を用いた極めて巧みな実験によって、人間の下意
識(subconsciousness)には「隠れた観察者hidden observer」 (71) と呼ぶ「自覚されない制御主
体」が存在することを突き止めた。
ここで後催眠暗示(post hypnotic suggestion)とは、比較的深い催眠状態で与えられる暗示
であって覚醒後には忘れているように暗示されるのであるが、覚醒した後、催眠誘導者がある
きっかけを与えると、被験者は催眠中に与えられた暗示を無意識のうちに実行してしまうとい
うものである。たとえば、催眠状態において誘導者は被験者に次のような暗示を与える―。
「覚醒した後で、私(催眠誘導者)が頭をかくと、あなたは窓を開けに行きます」「このことは
覚醒したときには忘れていますがその通りにします」といった内容である。その後、被験者は
催眠から覚醒し日常のやりとりが行われている最中に誘導者がふいに頭をかくと、被験者は何
気なく窓を開けに行くという展開が起きる。このように、後催眠暗示という暗示による無意識
的誘導が、覚醒後に可能であることから、人間の行動が「意識的主体的自我」によってのみ制
御されるのではなく、まさに暗示によっても誘導されうることを示す現象である。(ちなみに、
すべての人間が催眠誘導される訳ではなく、また、すべての人間が深い催眠状態に至るわけで
はない)。こうした後催眠暗示現象を適用することによって、「自覚されない制御主体」につ
いての知見を得ようとしたのが以下の実験であった。
後催眠暗示が可能な程度の被暗示性をもつ被験者に対して、ヒルガードは次の三つの実験的
操作を行った。1)「左手は痛くない」という無痛暗示を与えた。2)無痛暗示を与えた左手を、
手が切れるほどに冷たい冷水の中に漬けるように教示し、痛みの度合いを 10 段階で口頭で報
告するように教示した。3)そうした手続きに先立って、被験者は左手の痛みの度合いを無意識
のうちに右手が書き出すという自動書記(automatic writing)の暗示を与えられていた。そし
て、冷水に左手を漬けた被験者は、冷たさのために徐々に痛みが増してくる痛みの度合いを、
「…1…2…」というように口頭で報告しているとき、被験者本人が気がつくことなく右手はそ
のときの痛みの度合いを自動書記している、というのが実験状況である。その結果、口頭で報
告された痛みの度合いは比較的速く上昇して行くのに対して、右手が自動書記していった痛み
の度合いはそれほどに上昇せず、痛みの限界まで到達せずにいたことが確認されたのである。
この結果から、相互に異なった痛みの度合いを報告する「主体」が少なくとも二つ存在する
ことが主張された。そのうちの一つは被験者である「私」が感じている痛みを報告するところ
の「自覚される主体」すなわち「意識主体」であり、もう一方は、本人の痛みの自覚とは関係
のないところで痛みを感じて右手の自動手記によって報告している「自覚されない主体」とい
うものである。
ヒルガードが「隠れた観察者」と呼んだ驚くべき「自覚されない主体」の存在について、そ
の事実と特徴を明らかにするために、ヒルガードはさらに次のような実験状況を設定して研究
を行った。それは、1)物語を自由に創作して口頭で語り続けること、2)あらかじめ後催眠暗示
によって、右手は自覚することなくそうした物語を自動書記していくように暗示されたこと、
であった。その結果としては、被験者が物語を創作して口頭で語っていく最中、右手は自覚の
ないままにその物語の先駆となるような概要を記述していたというものだった。ここでも、異
なった内容を報告する主体が二つ存在し、そのうちの一つが「隠れた観察者」という「自覚さ
れない主体」だったのである。
こうした実験事実は、「自我」から成り立っている現代において、極めて重要な発見であっ
たはずであるが、専門的な領域でのみ取り上げられるに留まりその本質的な重大性は今日まで
見失われたままとなっている。
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
5.「自我」から成る文化と「私の中の無意識」とを結ぶ
故意に他者を殺傷した者は犯罪者として処罰を受けるのに対して、心神耗弱などによって本
人の責任を問えないような場合は、犯罪者として処罰を受けることはないという。処罰に関わ
るこうした規定が社会形成と維持に本質的な規定であるとしたら、「無意識のうちに」他者を
殺傷した者は犯罪者なのか否かという基本的問いが生じてくる。カミュによる小説『異邦人』
の中で「…太陽がまぶしかったら…」と人を殺めた主人公は、犯罪者なのだろうか、あるいは
そうではないのだろうか。こうした議論をさらに混迷に陥れるのがいわゆる多重人格 (72) の問
題である。精神病の診断基準をまとめたDSM-IV(1994-)から明確に精神疾患の一つとして取り
入 れ ら れ た 「 多 重 人 格 障 害 Multiple Personality Disorder 」 あ る い は 「 解 離 性 人 格 障 害
Dissociative Personality Disorder」では、複数の主体的自我が出現し、交代し、ときには
消滅する。かつては、演技的表出と見なされていた多重人格状態が脳波などの生体計測技術の
展開に伴って同一の人格と見なすことが困難となってきたこと等により、人格障害の一つとし
て認知されるに至った。
さて、多重人格状態での犯罪に関しては、論理的には、そうした犯罪行為を行った特定の人
格に限って、また、そうした人格が出現した際に限ってその責任を問い処罰を行うべきことに
なるが、それは一つしかない身体への刑罰とならざるを得ないから、他の人格部分も同罪とさ
れたことになる。いずれにしても、こうした問題から見えてくることは、現代社会は主体的に
思考し行動する(と見なされる)「自我」を一個人として認定し、そうした個人によって社会が
構成されているという認識のもとにあるということである。そのため、精神医学なり臨床心理
学なりにおいて社会的に許容されるのは、過去の出来事や事情などよって困難な状態に陥って
いる「自我」を、無意識界から訪れてくるらしい混乱や混沌から守り救い出すことなのであっ
て、まちがっても、無意識界や認知症が亢進したかのような無自覚の世界に陥れたりはせず、
「私」という主体的「自我」を喪失させまいとする。しかし、そうした大前提は多重人格の持
ち主には通用しないだろうし、ヒルガードが明らかにした「隠れた観察者」による制禦という
ことも、社会的な意味での違背とならざるを得ないのが現状である。
ところで、舞踏ダンスメソドを取り入れて展開されてきたボディラーニング・セラピーとい
う身体心理療法は、場合によっては憑依と見まがうほどの人格的変容状態が稀に起こったとし
ても、それを暗黒舞踏というパフォーミング・アートにおける芸術的表現の一端という、社会
的に承認される活動して位置づけるという概念操作を含む方法である。したがって、人格変容
などの非日常的な無意識的領域が出現したとしても、それを「病い」とか「異常心理状態」な
どの医療的ラベリング付けによって否定的に扱われることに対抗し、パフォーミング・アート
に現れた一つの「祝祭」として肯定的に位置づけることも可能にするものである。
なお、文化人類学的観点からこれに類似した「療法」の実例が報告されている。その一つ、
スリランカの地方文化圏では、たとえばノイローゼとか不登校とか腹痛などが問題化した場合、
ある状況においてはそうした問題は「悪魔が憑いた」というラベルによって把握され、家族や
親戚だけではなく村人達も総出で「悪魔祓い」 (73) という一つの祭りを行うことによって解決
を目指すことがあるという。ある特定の個人だけがそうした問題に見舞われたということでは
なく、「孤独な者に悪魔が憑く」という理解の下、共同体の多くの人間が関わる儀式が執り行
われ、夜を徹した踊りと過激なジョークによる哄笑という祝祭の中で人々は朝を迎え、悪魔は
祓われるのだという。そこでは、「悪魔が憑いた」というラベリングによる事態の認知的了解
を前提に、悪魔祓いの儀式の「体験」による身体心理的状況の変容、ならびに周囲の者の理解
と支援とによる社会的状況の変容、そうした多様な治癒的な変容が一つの儀式によって実現さ
れることが指摘されている。
ところで、さまざまな宗教的儀式や非日常的で特殊な身心状況に現れる心理的状況は、広く
「変性意識状態 ASC: Altered State of Consciousness」と呼ばれる。そうした状況では私と
いう意識主体はそうした制禦を失って、「空間感覚の喪失」「時間間隔の喪失」「主観-客観
の差の感覚の喪失」「言語感の喪失」「自己感覚の喪失」「恍惚感」「注意集中」「宇宙識」
「受動性」「一時性」(齋藤 1981, p.95-100) (74) といった、様々な感覚が生じることが指摘さ
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
意識的領域における
コミュニケーション
<指 導>
無意識的領域における
コミュニケーション
二者関係における支援者側の態度
■■■■■■■■■■
■■
知識などに基づく価値判断と介入
<カウンセリング>
■■■■■■
■■■■■
共感的理解を前提とする世界の共有
<セラピー>
■■■
■■■■■■■■■
理論的観点と技法に基づく介入
れている。上に示した「悪魔祓い」においても、日常的な意識状態や社会的状況がこうした祝
祭的時空の中で変性意識へと変容し、ユング的な意味での集合的無意識などの次元において体
験される何かが、結果的に治療的な機能を果たすといえる。また、悪魔祓いの儀式では下意識
的な何ものかが単に個人内界の事柄として孤立されずあくまでも共同体内部での出来事として
対処されるから、心理療法的な関わりが「下意識」「個人」「社会」を貫く大きなシステムと
して捉えられている。このことは、おおむね、一対一の面接場面によって構成されるカウンセ
リングという形式の特徴とその限界とを照らし出しているともいえよう。
Ⅳ.指導とカウンセリングとセラピーの間
人間の心の問題に対処する関わりは、心理臨床の世界では基本的にはカウンセリングという
形式をとり、問題を抱えている当事者本人と、様々な立場から支援的に関わるもう一人の人間
の存在という二者関係の構造となっている。臨床心理学的立場からの支援に関する議論と身体
心理療法の位置づけを明確にするために、そうした援助的二者関係のあり方を暫定的に次の三
つに分類する。
第一は<指導>ということであり、たとえば、教師やケースワーカーといった立場などで支
援的行為を行うとき、そこで行われるコミュニケーションは被支援者の「意識的領域」へ向け
て、「それは正しい」「あれは間違っている」「何々した方が良い」「何々はやめておくべ
き」といったような教示として与えられることが多い。このような「指導」ということが行わ
れるとき、指導する者にとっての善悪の判断なり物事の妥当性に関わる価値判断がなければな
らないし、教示内容の妥当性についての判断と立場について、必要ならばそのことを被支援者
に説明することも可能であるし可能でなければならない。したがって、こうした<指導>とい
う関わりを心理学的観点から捉えるならば、両者のコミュニケーションは相互に「意識的」な
ものであり、無意識的な示唆はその中心的機能となっていないことが特徴といえる。
それに対して、<カウンセリング>という二者関係は、たとえば、C.ロジャーズ(1957) (75)
の有名な記述にあるように、「セラピストはクライエントに対して、無条件の肯定的配慮
(unconditional positive regard) を し 、 ク ラ イ エ ン ト の 内 的 準 拠 枠 (internal frame of
reference)に対して共感的な理解(empathic understanding)をすること」とされる。この内容
については、半世紀も過ぎた現在、国内外の心理臨床家の間でもそれぞれに同意や修正が語ら
れるのは時代的にも文化的にも当然のことと考えられるにしても、「クライエントの考え方に
沿ってクライエントを共感的に理解しようとする」ことによってクライエントに治療的な方向
での人格変容が生じるとロジャーズが考えていたのは歴史的事実である。いずれにしても、こ
の考え方に示されている要点は、第一に、カウンセリングとは指導ではないことであり、第二
に、クライエントに対する共感的理解を実現させるためには、言語化されない無意識的コミュ
ニケーション過程が介在すること、という二点である。カウンセラー側とすれば、面接の事後
に自らの内的過程を内省し自らの無意識的反応や行動を把握することによって、どの程度相手
の立場に立って共感的に理解できていたかを意識化することがある。したがって、カウンセリ
ングとは、そうした内省によって自らの無意識的反応を自覚する作業によって示される程度に
まで「無意識的なコミュニケーション」から構成されていると考えられる。こうした事情に基
づいて、図の<カウンセリング>の項目は、意識的領域および無意識的領域でのコミュニケー
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
ションという二つのゾーンにまたがって表示されている。
さて、図の第三番目の項目は<セラピー>であり、主に「無意識的領域でのコミュニケーシ
ョン」の側に偏る形で示されているが、その意味は<セラピー>の中心は「指導」ではないと
定義される点にある。<セラピー>が仮に意識領域への教示のみによって実現されるのならば、
心理療法という事柄自体の存在理由が消滅する。たとえば、「受動喫煙が問題となっているの
で喫煙をやめたい」「はい、やめる方が良いですね」「分かりました」という意識領域でのコ
ミュニケーションによるだけでは望まれている行動変容が直ちに起きる訳ではないという事実
によって<セラピー>という項目が必要となる。もちろん、認知療法などが、仮に単なるお話
や教示ないしは説得というアプローチだけで構成されているのならば、あえて「療法」と呼ぶ
までもなく単に「指導」と呼べば事足りる。しかし、そういう関わりだけでは、無意識化し自
動化した生活習慣や思考形式が直ちに変革されることは期待できない。たとえば、初期の論理
療法がいわば説得的なアプローチであったけれども、後に論理情動療法、そして論理情動行動
療法というように呼び換えられていったように、介入のあり方が「指導」的なものから、無意
識化した領域をも視野にいれることによって<セラピー>としてより効果的なものになったと
考えることもできよう。
なお、<指導><カウンセリング><セラピー>という三つの分類は、実はそれほど判然と
分けられるわけではなく、多くの心理療法はそれらの三つの「モード(様態)」の間を推移した
り、それらの組み合わせによって構成されると考えられる。それにもかかわらず、そうした分
類を示したのは、二つ目の<カウンセリング>という関わり方が、実は極めて独特な位置づけ
にあり、これを明確に位置づける必要があったためである。というのは、<カウンセリング>
は、<指導><セラピー>という視点を基本的に排除するという姿勢によって成立している可
能性が考えられるからである。
たとえば、滝沢(2006) (76) は、自らの臨床の出発点が知的障害児施設であったことを振り返
りながら、「心理臨床活動の中で大切なことは、クライエントの障害や症状が治るとか治らな
いということより、どれだけわれわれが相手の世界にコミット(自己投入)できるか、というこ
とが問題であるように思えてきた。」(同、p.23)と述べている。すでに示したように、ロジャ
ーズによって提起された「治療的なパーソナリティ変化についての必要にして十分な条件」は、
クライエントの個々の障害や特定の症状に直接的に介入して癒すのではなく、そうしたことが
起こる得るための基盤を整えることに焦点付けしたものと考えられる。すなわち、人格的成長
を促し、そうした成長によって結果的に問題解決に至る可能性を開くという点から明らかなよ
うに、問題となっている状況に直接的に介入することは中心的なテーマとはなっていない。実
際 、 非 指 示 的 カ ウ ン セ リ ン グ (nondirective counseling) な い し 非 指 示 的 心 理 療 法
(nondirective psychotherapy)を提起し、その後、クライエント中心療法(client centered
therapy)から人間中心的アプローチ(person centered approach)へとその立場をより明確にし
ていったロジャーズのカウンセリング理論から考えるならば、そうしたアプローチが<指導>
という位置づけにないことは当然といえる。
滝沢は続いて「臨床的に人間を理解するには、その人が生きている世界をあるがままに捉
える必要があるだろう。それは客観性を重視する行動科学的なアプローチとは異なり、その人
がリアルに受け取っている内的世界を理解することである」(同、p.35)と述べ、現象学的アプ
ローチの意義を示している。そうした現象学的な態度によってクライエントに接することを通
じて、その人が生きている世界をあるがままに捉えるという試みがそれなりに実現されていく
ことが予想されるが、その人が生きている世界を何らかの方法で「変容に導く」といった関係
性については特に述べられてはいない。
さて、こうした観点と比較してみるならば、身体心理学的アプローチと身体心理療法は、
「その人がリアルに受けとっている内的世界を理解すること」を前提としそうした理解に基づ
くべきことは言うまでもないが、理解ということに引き続き、具体的にどのように対処してい
くべきかという点に焦点付けをしていくから、<指導>でも<カウンセリング>でもなく明ら
かに三番目のカテゴリー<セラピー>の位置づけにある。また、身体心理的アプローチがその
独自性を特に発揮するのは、クライエントが広義での身体心理的困難や違和感や身心に関する
様々な疑問を抱えているときであり、そうした現実的問題が何らかの形で解決あるいは軽減さ
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
れることを望んでいることが多いためである。仮にそうした訴えに対して何からの形で応えて
いくことがなければ、あえて身体心理療法と称するほどのこともない。なお、身体心理療法は、
望ましい認知的行動的変化を目的として、身体心理的な体験を通じた関わり合いの中で適切な
メッセージを結果的に「下意識へ伝える」という働きかけを前提としていることからも、身体
心理療法は本稿で定義する意味での<セラピー>の区分にあるといえよう。
Ⅴ.ボディラーニング・セラピーによるアプローチ
身体心理療法が対象とする問題の一つは、身体的な悩みや苦しみに由来するものである。も
ちろん、内科や外科など医学的理由による身体症状は医療的措置を優先すべきことはいうまで
もない(このことは当然のこととして扱い、以下では特に繰り返すことはしない)。しかし、
多くのクライエントは病気や怪我などによる痛みに苦しむだけではなく、そうした痛みをもっ
ている自分自身に対する不全感や不安感によって苦しむことがある。したがって、身体心理的
学的アプローチによって、痛みそのものの苦しみと痛みをもつことについての苦しみが幾分な
りとも軽減することができるならば、それは文字通り、身体心理療法というアプローチの独自
性ゆえに面目躍如たるところといえる。また、身体的形状や身体的状態についての問題も、そ
のこと自体の日常生活上の困難さとともに、そうした身体的問題を抱えているという内的不全
感やそうした問題に対する社会的反応が二次的に心理的問題として浮かび上がってくることも
多い。身体心理療法はこうした身体心理的で独特な問題群へのアプローチを行うものとして一
定の意義をもつアプローチであるといえる。
ところで、すでに述べたようにミンデルによるプロセス志向心理学は、「夢身体」という
基本概念の元に、無意識の内容が夢のみならず身体面にも反映するという観点に立つ。藤見
(1999) (77) はそうした立場から、身体的な痛みが単なる身体的な現象としてのみあるのではな
く、そうした痛みに関わる体験や思いやイメージとの関連において捉えようとする。こうした
観点は本稿で提起している身体心理療法と同様に「無意識の露頭としての身体」を前提とする
ものといえる。しかし、痛みと心的内界との関連を探索していく過程を詳細に眺めてみるなら
ば、身体心理療法の一つであるボディラーニング・セラピーとは焦点のあて方がかなり異なる
ことが分かる。ボディラーニング・セラピーでは、身体的痛みそのもの、あるいは、そうした
痛みが発生している動作上あるいは姿勢上の特徴ないし問題そのものに対して、それらに対処
するための身体的関与方法や身体的技法を展開しているのに対して、プロセス志向心理学は身
体的状況そのものへの直接的対処には焦点付けしていない点である。「痛み」とは、1)医学的
治療対象としての痛み、2)習慣的な動作や姿勢、あるいは身体的形状や特徴に由来する痛み、
3)心的外傷体験などの内的問題が身体面に反映した痛み、といったように少なくとも三つの側
面が重複していることが考えられるが、ボディラーニング・セラピーは 2)の痛みと 3)の痛み
を視野に入れているのに対して、プロセス志向心理学のアプローチは主に 3)の痛みに焦点を
合わせていると考えられる。
さて、痛みに限らず何らかの身体的問題や不全感についての訴えや発見が、ボディラーニン
グ・セラピーの実践の場において確かに数多く行われてきている。たとえば、肩こりや首や腰
の痛みが改善された例、あるいはそうした痛みに伴う不全感が軽減された例、歯ぎしり用のマ
ウスピースが不要になった例、呼吸が楽になった例、眉間のシワがなくなり表情が一変した例
などなどである。それらのほとんどは、過去にあった何らかの身体心理的困難を発端とするこ
とが推測されるにしても、ボディラーニング・セラピーにおけるアプローチはそうした症状と
心的内界との関連を解明することよりも、まずは実際の身体心理的問題を一つ一つ探っていく
ことを基本としている。例えば、歯ぎしりの場合は歯科医が処方するマウスピースによって歯
が守られる訳であるが、ボディラーニング・セラピーのセッションにおいて、そうしたことの
不自然さとつらさが語られることによって、たとえば、顎を強く噛み締めないためのエクササ
イズを実際に体験することとなる。そうした体験そのものの意義と、そうした体験を通じて
「顎がゆるくあって、歯をきつく噛み締めなくても大丈夫」ということが体験され、同時に<
暗示>として作用するならば、マウスピースはほとんど不要となる。(極端な例ではあるが二
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
度としなくなったという報告がある)。もちろん、歯を強く噛み締めなければならない程のつ
らい体験や思いがかつてあっただろうことは推測されるけれども、すでに過去のこととして過
ぎ去ってしまっている場合は、単にこうした習慣性の「噛み締め」に過ぎなくなっていること
が多いようである。(なお、過去の体験が凄まじいものであったならば、「顎の噛み締め」と
いった問題のみが突出するということでは済まず、身体部位のそこかしこに様々な問題が見え
隠れするものである。)いま仮に「顎の噛み締め」という現実的問題がそれなりに軽減したと
するならば、クライエントの生きている日常生活がそのように変化したという意味で、一つの
「現実転換」体験となる。こうした体験そのものが認知的行動的変化に向けて大きな意味をも
つことは、不協和理論およびエリクソン・アプローチにおいて述べた通りである。また、そう
した体験自体が新たに次のような認識と理解を育て次なる現実転換へのきっかけとなる―。す
なわち、「本来の問題が残ったままだとしても、日常を生きていくことが楽になるということ
がありうる」という理解である。そうした展開に向かう実践的なアプローチは、明らかに自ら
の「からだについて学ぶこと」を中心にするボディラーニング・セラピーの特長といえる。
クーエは「全てにおいて日々良くなっていく」ことを繰り返して唱えるという自己暗示の
方法を示したが、「そんなに繰り返さなければならないほど自分はダメだ」と思っている人や
そうとは自覚せずにそのような態度にある人の場合は、クーエの方法すらもマイナスの自己暗
示となる得ることにはすでにふれた。それに対して、ボディラーニング・セラピーにおいて身
体的問題が改善するという体験をした場合、それは単なる「暗示」ではなくそうした事実その
ものによって否定的な態度の根底が改められることが期待されるのである。(こうした実際の
体験によってなにがしかの認知的行動的変化が認められない場合は、アプローチの具体的方法
に何らかの見落としや問題があったのか、クライエントの体感的能力ないし現実把握機能に何
らかの困難があるのか、あるいはその両者の可能性を吟味することになるだろう。)
なお、ボディラーニング・セラピーによる極めて特異な事例としては、完全緘黙(かんも
く) 状態(その期間は定かでない)のため筆談でコミュニケーションを行っていた精神科ディケ
アへの通所者の一人が、竹内実花氏(日本ダンス・セラピー協会認定ダンスセラピスト)が指導
する 2 回ほどの「リラクセイション」プログラムを経て発声へ至ったという例がある。肩こり
なども含めて、身体的な訴えの大半は身体の使い方と習慣的動作に関する身体的問題が中心で
あるけれども、それと同時に社会性緊張といった心理的問題が伴っていることが多い。いずれ
の場合にも、以下に示すように「リラクセイション」ということが最も基本的な対処となる。
なお、ここでいう「リラクセイション」とは、しばしば、「身心のリセット」と感じられるほ
どの深い安らぎの体験を含むものであり、そうした内容が竹内による上記のような特異な効果
をもたらしていることが考えられる。そして、身心の深みにまで届くレベルでの「リラクセイ
ション」が実際に可能となるためには、まず第一の要件として、場そのものの安全性と安心感
を実現していくことが極めて実践的な課題として浮かび上がってくる。
1.豊かなリラクセイション状態の実現
たとえば、睡眠導入剤を服用しなければ眠られない(と認識している)人や、複数の見知らぬ
人がいるところでは決して眠れないような人が、横になって眠ってしまうほどの安心感、安全
感に満ちた「(心理的)リラクセイション」状態が実現されること。次に、問題となっている身
体部位に関する感覚を取り戻したり感覚を深めることができるほどの「(身体的)リラクセイシ
ョン」状態が実現されること。そして、ボディラーニング・セラピーとして蓄積してきた姿勢
や動作に関わる様々な身体的エクササイズの実施によって、問題となっている当該部位に動作
的体験的に関わること、以上の三点がボディラーニング・セラピーの出発点となる。なお、身
体的エクササイズの例としては、「立位での骨盤からの上体ぶら下げ」「同、上体のぶら上が
り」系列の腰感覚のための運動、座位での上体ぶら上げである「正し座」、上体の横倒しによ
る頭と首のぶら下げ運動、アゴの運動、完全呼吸法のエクササイズなど多々あるがまだ文章化
に は 至 っ て い な い 。 そ の う ち 、 「 腕 の 立 ち 上 げ 」 レ ッ ス ン に つ い て は 、 葛 西 (2002) (78) 、
Kasai(2004) (79) を参考にされたい。なお、こうした動作の目的は「運動」そのものにあるので
はなく、そうした動きの中で身体心理的な感覚を開いていくことに焦点が当てられている点は、
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
「センサリー・アウェアネスsensory awareness」 (80) のエクササイズが身体的な動作などを伴
いながらも「運動療法ではない」のと同様である。
このような身体心理的エクササイズの目的としては、1)「リラクセイション」の体験を通じ
て不要な筋緊張が持続している事実を体感すること、2)様々な身体動作や姿勢を体験すること
を通じて当該部位の感受性や制御能力を高めること、3)身体的問題が生活習慣と認識上の問題
から来ていることへの洞察に至ること、そして、4)しばしば家族や職場や学校などの文化的社
会的要因が潜在していることを学ぶこと、である。1)2)については身体的感性の豊かなクライ
エントの場合はそれほどの困難もなく到達できることも多い。しかし、3)の段階は、まさに認
知行動療法的観点を身体心理学的アプローチに取り込み、動作や姿勢の訓練を通じて、認知的
変容および体験を通じた行動変容とを実現していくことになる。さらに、4)の社会的要因には
家族関係や職場の状況や生活の状況などの現実の生活が関わる事柄が含まれるため、そこでの
現実的対処は最終的には「生き方の選択」として本人の価値観に関わる側面が強い。
なお、身体的症状が中心となって展開される例としては、たとえばあるクライエントがふと
「首の痛み」を訴えたならば、次のように対処が考えられていく。まず、「痛みそのもの」に
関して、a)身体的に痛みの部位を明確化すること、b)痛みが発生する身体的心理的あるいは社
会的状況を明確化すること、c)痛みの始まりの時期や強さや頻度などのパターンを明確化する
ことを目指して関わりを深めていくこと、である。ただし、こうした明確化を慌ただしく進め
るということではなく、そうした点が明確になるような関わりを適宜進めていくという主旨で
ある。次に、「痛みの意味」に関して、d)なぜそのように痛みが出てくると思うのか、e)痛む
ことによって何か実現されていることがあるのか、f)痛みが無くなる方が良いと思うのか、と
いった観点からクライエントの態度を把握するように努めることになる。この段階から、痛み
が単に身体的な痛みとして扱うだけで十分なのか、あるいは下意識からの何らかの信号である
可能性はどうかなど、その位置づけを探索する過程が始まる。それと同時に、そうした「痛
み」の階層性やあるいは「痛みを訴える行為」についての意味づけを行うことも場合によって
は重要な過程となる。というのは、a)から f)に至る事柄を把握するべくクライエントと関わ
っている間に、そうした痛みなどのきっかけが何らかのトラウマ的体験や出来事と結びついて
いる可能性もあるため、一定程度、精神医学的あるいは心理学的知見に基づいて症状に関する
仮説をたてておくことが必要となるからである。もちろん、そうした仮説はその妥当性を証明
するためのものであるよりも、その仮説の範囲外にあるもろもろの要因を逆に浮き彫りにする
ために道具的に利用するということでもある。
2.身体心理療法の「場」と A.マスローの五段階動機理論
すでに葛西・竹内(2002) (81) が述べているように、精神科ディケアでのプログラムでは「か
らだあそび」「リラクセイション」レベルでの内容がおおむね適切であり、「対峙」レベルで
の展開はそれほど中心におかれてはいない。その主な理由としては、ディケアの社会的位置づ
けとプログラム内容が、通所者がそこでの活動に参加することを通じて社会生活や家庭生活に
それなりに適応していくための準備や訓練を基本にしていることにある。したがって、自らの
問題などに遭遇する「対峙」という段階にさしあたり入る必要はないともいえる。もちろん、
どのようなプログラムにおいても、状況によっては「対峙」的な事柄が発生することがあるた
め、ボディラーニング・セラピーではそうした場合にも的確に対処する方法をあらかじめ用意
していることは重要なことである。いずれにしても、精神科ディケアに限らず一般のワークシ
ョップにおいても、安全な状況の中で楽しく体験できる「からだあそび」や、身心が十分に安
らぐことのできる「リラクセイション」は参加者からは非常に良い反応を得ていることもあり、
そうしたニーズに応えることには大きな意義があるといえる。「安全で安心であること」や
「(ダブルバインド的ではない)まともなコミュニケーション」が幼少時からどれほど重要なこ
とであったかはベイトソンの理論からもうかがい知ることができるように、「リラクセイショ
ン」のセッションは、理論的にもまた実践面においても、意外と言えるほどまでに重要な要素
を含むものである。以下では、ボディラーニング・セラピーのもっとも基本的な要素となって
いる「リラクセイション」を実現していくための要点について、そうした場に参加する人数が
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
1 名から 10 名前後といった小集団での場合について、動機面およびグループ・ダイナミック
スの側面から捉えておくことにする。
A.マスロー(Abraham Maslow,1908-1970) (82,83) が示した五段階動機理論の最も下の層にある
欲求は「生理的欲求physical need」と呼ばれ、それがある程度充足されるとその一つの上の
段階にある「安全欲求safety need」が登場することが説かれている(欲求階層説)。現実のセ
ッションにおいて、こうしたマスローの指摘は極めて妥当であって、疲れていたり空腹だった
り痛みがあったりする参加者にはまずそうした「生理的欲求」に対して的確に対応することが
なければ、基本的にセッションそのものが成立しないことが多い。「リラクセイション」なり
「ダンスセラピー」なり「動作法」なり「自律訓練」なり、そうした事柄や方法を指導する場
であるという社会的位置づけが固定化されればされるほど、「生理的欲求」レベルにある参加
者にとって、自分自身がその場にそぐわない存在であることを思い知らしめられ、その場は自
己否定的な体験をさらに増大させるための場に転化していくだろう。言い換えれば、参加者は
何々プログラムという社会的ラベルを名目上実現するための儀式に駆り出され、形だけの参加
者としての役割を担わせられることによって道具的に利用されるということである。
実際、現代生活では生活パターンが多様になり渾沌としているため、睡眠パターンや食習慣
にもばらつきが多く、セッションに参加できる程度に睡眠をとっているか食事をとっているか
を確認することは基本的な注意事項となっている。「きちんと眠れましたか」「食事はしまし
たか」という単純な質問に対して「いいえ」という答えは予想以上に多いものである。また
「どこか痛いところはありませんか」「具合は悪くありませんか」という問いかけることも基
本的な事柄となっている。もちろん、「痛い」「苦しい」といった答えがあれば、セッション
に参加するよりは診察や投薬などの処置を受ける方が先決となる場合もある。
こうした配慮は一見医療的な観点からの対処と理解されることが多いが、そうした意味だけ
ではなく、実はマスローの動機理論の観点を取り入れた的確な対処となっていて、それ自体が
身体心理療法によるアプローチの基本をなすものである。すなわち、マスローの動機説の下か
ら三番目の「所属と愛への欲求 belongingness and love need」とは、「他者との人間的で暖
かい関係の中に在ることを求める」というものであるが、こうした欲求レベルに至るためはそ
の一つの下の「安全欲求」(身心が損なわれないこと、および、事態の予測可能性と対処可能
性があること)と、さらその一つ下にある「生理的欲求」がある程度充足される必要があると
いうのがマスローの動機説の立場である。したがって、第三番目の「所属と愛への欲求」の段
階へと動機レベルが高まっていくためには、「きちんと眠れましたか」「具合の悪いところは
ありませんか」などの言葉がけによって、「生理的欲求」への配慮、「安全欲求」への配慮、
そして結果的に「所属と愛への欲求」への配慮がなされなくてはならない。こうした理解を欠
いた言葉がけは、その先にどのように優れた心理療法の数々が控えていたとしても、その出発
点において、心理療法としての援助の本質を見失っていると言わざるを得ない。
さて、たとえば「眠くはないですか」という言葉がけによって「眠いです」と答えが返って
きたとしたらどうすべきだろうか。参加者の大半がそうであれば、みんなで横になって休むと
いうことで良いだろうか―。例えば、「それでは少し休んでから始めましょう」といったよう
な配慮的な言葉がけを行うことによって、その場の目的として設定された社会的ラベル、たと
えば「リラクセイション」「ダンスセラピー」「社会的技能訓練(SST)」などの枠組みを一端、
凍結させることになったならば、それはささやかな「社会的暴挙」という位置づけにもなるだ
ろう。目的として設定されている内容を優先的に推し進めないという一種の反乱とも目される
からである。しかし、プログラムを指導する者が自らの責任において敢えてそうしたリスクを
引き受けることによって、小集団におけるリーダーシップ類型 (84) である、いわゆる、課題遂
行型リーダー(Performance)ではなく、関係維持型(Maintenance)の指導を行うことを、そうし
た行為によって暗黙のうちに「宣言」することでもある。(こうした選択や相手への問いかけ
といった行動が示すメッセージとは、おおむね「下意識によって受け取られる暗黙のメッセー
ジ」、<暗示>となる。)その場の名目上の位置づけを一時棚上げするという選択によって、
かえって参加者全体の集団凝集性を確保しメンバーからの肯定的な承認を受けることが可能と
なるのは一見、逆説的に聞こえる。しかし、そうした態度選択によって、その場が課題志向の
集まりではなく関係性を重視している集まりであることを明確化し、同時に「生理的欲求」
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
「安全欲求」「所属と愛への欲求」への配慮を明確化することができ、結果的に参加者からの
地位の承認を期待できるものとなる。
小集団におけるこのようなアプローチをグループ・ダイナミックスあるいは組織経営という
側面から捉えるならば、D.マクレガー(Douglas McRegor,1906-1964) (85) が説くように、報酬と
罰による組織管理体験である「X理論的」マネジメントではなく人間的な(humanistic)関係に
基づく「Y理論的」マネジメントの必要性という、経営行動科学的知見の基本とも通底するも
のである。企業の生産性や効率の実際を調査する目的で実施されたいわゆる「ホーソン研究」
に よ っ て 、 臨 床 心 理 学 者 ・ 産 業 社 会 学 者 で あ っ た G.E. メ ー ヨ ー (George E. Mayor,18801949) (86) は、企業の生産活動が企業内の非公式小集団によって担われるだけではなく、生産性
や能率のコントロールという事柄も会議室ではなく現場で働く人々の人間関係によって実現さ
れている実態を明らかにし、生産性に関する「人間関係論 human relations」研究の発端とな
った。
こうした理解を元に展開されたマクレガーのX理論・Y理論という二つのマネジメントシス
テムには、マスローの五段階動機理論が援用されていることはよく知られていることである。
下位の欲求である「生理的欲求」と「安全欲求」を前提にして、報酬と罰によって労働を動機
付けようとするX理論的システムでは、快を求め不快を避けることを動機付けの基本とするも
のである。それに対して、下から三番目の欲求からから最上層までの三つの欲求、すなわち、
心の通い合う人間的な関係を求める「所属と愛への欲求」、自らの価値が承認されることを中
心とする「自尊欲求 self-esteem need」、そして、現在の自分自身のあり方をさらに乗り越
えてより自分らしい自分を実現しようとする「自己実現欲求 self-actualizing need」という
人間的な欲求を前提とするY理論的システムでは、人は条件が整えば本来活動的であり自ら進
んで目的を追求していく存在と捉えていて、明らかに内発的動機付け(intrinsic motivation)
を基本としているマネジメントシステムとなっている。
身体心理療法は相手との身体的関与を含む「侵襲的ではない」(日本ダンス・セラピー協会
認定ダンスセラピスト倫理規定においてそのように要請されている)アプローチであるため、
相互的な信頼「ラポールrapport」の形成は必須事項である。それは、相手の手を取ったり肩
や背中に触れたりという日常的な範囲での身体接触に限定されていたとしても、相手とのラポ
ールが形成されていなければ、一方的で侵襲的な身体接触と見なされる可能性が常につきまと
っているためでもある (87) 。その点、X理論的なマネジメントシステムにおける人間関係は基
本的に権力上の関係として位置づけられるため、そうした権威的関係における身体接触は基本
的に「侵襲的」に体感され得るという問題点が指摘される。たとえば、竹内敏晴レッスンにお
いて展開されていた「からだほぐし」という優れた身体心理療法的体系が、「学校」という教
育現場に導入されたことは、学校という組織運営の根底を為す権力関係のゆえに(教員によっ
て「ほぐされる」子ども達という支配被支配関係)、「からだほぐし」本来の意味が実現可能
なのかどうかという深刻な問題を抱えているといえる。なぜならば、フリースクールと呼ばれ
る教育システムの一部を除けば、「学校」という制度の基本はおおむねX理論的な経営体系で
あって、賞罰に基づくマネジメントシステムであるためである。こうした例からも明らかなよ
うに、身体心理療法の場にあって指導を担当する側と参加する側とが作り出す「セッションと
いう社会的交流の場」とは、何らかの適切な方法によってY理論的なシステムとして実現され
るべきであることは、ラポールを基本とした侵襲的ではない関係を保証するための必須の条件
といえよう。それは、ロジャーズが言うところの「治療的な人格変容」をもたらすカウンセリ
ングの条件、「指導者は自己一致にあって、無条件の肯定的配慮をし、感情移入的理解をする
こと」を、基本的な組織理論およびリーダーシップ理論の側から捉えるものでもある。
3.「リラクセイション」「からだあそび」そして「対峙」へ
さて、身体心理療法の場において、「睡眠はとれていますか」といったように尋ねる穏やか
な言葉がけによって、少なくとも次のような三つのメッセージが(暗黙のうちに)伝えられるで
あろう。すなわち、1)相手の睡眠や不眠などを含む生理的欲求の状況について関心を抱いてい
ること、2)相手の生理的状況を視野に入れているということを伝えることによって、相手の
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札幌学院大学人文学会紀要
第 80 号
「安全欲求」に対して支援的であること、3)そうした言葉がけによって象徴されるような「所
属と愛への関係」に向かうおうとしていることの示唆、である。マスローやロジャーズといっ
た人間性心理学(humanistic psychology)の系譜に属する心理療法ならば、理論的観点の小異
はともかくとして、すでに示したロジャーズの「治療的なパーソナリティ変化についての必要
にして十分な条件」に込められている基本的な理解を含むことになる。そのため、「睡眠はと
れていますか」という一言が為されたとしても、単に眠剤投与と投薬量を決めるための医療的
関心に留まる場合から、人間性心理学の理論に根ざす心理療法としての実質を担うものとして
呼びかけられる場合まで、言語的表層には現れないいくつかのメッセージ・レベルを含むもの
として理解されねばならない。
ボディラーニング・セラピーによる身体心理療法のセッションでは、もちろん、こうした言
葉がけだけが単独に行われるのではなく、畳や絨毯などに腰を下ろして、「のんびりストレッ
チ」(筋肉両端の腱が緩み始まるまでに 30-50 秒ほどかかることから、穏やかにやや時間をか
けて行うストレッチ技法)や簡単な準備運動といった身体的なエクササイズが同時に進められ
ていく。一見、他愛のない日常的な話題を出し合いながらの準備体操的な動きであるために、
そこに身体心理療法としての実質がこめられているという重要性は、身体心理療法に携わった
体験のない場合にはそれほど簡単に見いだすことはできないようである。のんびりと身体的エ
クササイズを進めながら言葉がけを行うという展開の身体心理療法としての目的は、次の通り
である。まず、第一に、参加者の「生理的欲求・安全欲求・所属と愛への欲求」を徐々に充足
させていくための時間とそのために必要なコミュニケーションとを確保すること。第二に、そ
うしたやりとりの間にリラクセイションへの身心両面における下地が作り上げられていくこと。
第三に、緩慢に進められる身体的エクササイズに伴って日常的な身体速度が緩和されるととも
に、日常的な意識状態のあり方も同様に緩和されること。(日常とは異なる変性意識状態への
ささやかな移行が試みられること)。第四に、ボディラーニング・セラピーにおける三つの事
柄「からだがあたたまること」「こころがあたたまること」「関係があたたまること」が実際
に進行する中で、一つ一つの事実に基づきながらそうした事柄を説明することができること。
第五に、いくつかの身体的エクササイズを行う中で、ある特定の動作や姿勢が妙に上手な人が
存在することに気がつくことによって、新鮮な発見と驚きとそうした人に対するある種の敬意
とともに、人それぞれの独自性についての気づきと受容がわきおこる余裕を確保することがで
きること。第六に、そうした発見的展開の中で、新しい動きや仕草や姿勢などが参加者の中か
ら湧き起こるとき、それを受け入れて共有するのに十分な身心的余裕が生まれること。第七に、
場面の展開がそのように自在であることによって、参加者側からも場面状況に関与し変化させ
ることができるという意味での場面の制禦可能性(安全欲求に含まれる要素の一つ)が獲得され
ていくこと。第八に、必ずしも日常的ではないところの「創造的な」動きや姿勢、あるいはそ
うした在り方や関わり方が起きる状況が培われること(予想もしない展開の中で新鮮な感動や
大爆笑が起きることも多々ある)、である。
言葉がけと身体的エクササイズを穏やかに進めていく中で開始されるボディラーニング・セ
ラピーは、(状況が許すならば)次に「からだあそび」という局面へと進んでいく。そこでは、
より身体志向的なエクササイズが取り入れられているが、その目的は「からだがあたたまるこ
と」「こころがあたたまること」「関係があたたまること」という三つの事柄がさらに促進さ
れることにある。(なお、「からだあそび」に用いられるエクササイズの多くは、ボディラー
ニング・セラピーの実践を通じて新たに開発されたものである。)また、身体を動かしたり仕
草や姿勢を変えていく身体的な「あそび」ということが「日常的価値や方法に囚われないこ
と」「自在に展開されること」という方向で行われることによって、ロジャーズのクライエン
ト中心療法を子どもの遊戯療法の世界に展開したアクスライン(1947) (88) が示すように、より
創造的で自己成長的な場として実現されるべく様々に展開されていくことになる。
このように「導入」「リラクセイション」「からだあそび」という展開に続いて、(状況的
に必要となるならば)、次に「対峙confrontation」の局面へと進んでいくことになる。そこで
は自己実現的な方向で、身体心理的な引っかかりや懸念に向き合うという展開が行われる。そ
の際、参加者本人にとってその場が「安全で安心であること・挑戦を試みることが受け入れら
れていること」といった基本的条件が整っている場合に限ってそうした展開へと向かうべきこ
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
とは当然のことである。それは、クライエントが何らかの「対峙」という局面を必要とすると
いうこと自体が、心的内界にそうした体験を必要とするほどに分離されていたり、ある種の統
合を失っていたりする部分が存在することを示唆しており、「対峙」という場面は心的内界へ
と向かう一つの挑戦となる得るためである。したがって、そうした内的問題と直接的に向き合
うことによって身体心理上の破綻へと至らないよう支えるためには、指導する側にとっては、
精神分析的知見なり心理学および臨床心理学的知見としてすでに示したような事柄への理解に
基づいた見通しとともに、身体的関与も含めて相手を支えるに足るだけの身体的準備、そして、
冷静な覚悟といった心的準備が極めて重要となることは言うまでもない。また、クライエント
にとってその時期にその場所でそうした対峙的体験へと進む必要性があるのか否かという判断
も同様に重要な点である。そして、このような対峙へと進み出る展開に際して、「暗黒なる舞
踏」という場において身心の内界へ降りたってきたという筆者の経験は、闇の中にかすかな光
を見つけ出すための手がかりを与えてきてくれた (89,90) 。ときには、痙攣的で発作的な自発動
が起き本人にとって衝撃的だったとしても、そうした反応は身体心理学的には正当であり誠実
な反応であり得るという位置づけを基本として、身体心理的な対処を行って支援することに向
かう。ボディラーニング・セラピーのこうした展開に関する事例の詳細については稿をあらた
めて述べることにする。
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追
記
ボディラーニング・セラピー(Body-Learning Therapy)は、葛西俊治および竹内実花氏による長年にわたる
理論的かつ実践的な検証に基づいて組み立てられたアプローチである。本稿ではその基本的な側面に限って
述べており、現場での実践に差し支える可能性のあるいくつかの要点に関する記述は避けている。また、
Kasai(1999) 「 A Butoh dance method for psychosomatic integration(身 心 統 合 の た め の 舞 踏 ダ ン ス メ ソ
ド)」 (2) および葛西・竹内(2002)「心身セラピーとしての舞踏ダンスメソド」 (9) に示されたアプローチが身体
心理療法的なのであって、暗黒舞踏ないしダンス一般がそのままで身体心理療法ないし心理療法としての位
置づけにあるとは考えていない。
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身体心理療法の基礎原理とボディラーニング・セラピーの視点 (葛西)
The Principle of Somatic Psychotherapy and the Viewpoint of Body-Learning Therapy
KASAI, Toshiharu
Somatic psychotherapy was initiated by W. Reich in the first half of the twentieth century when
he found "the muscle armor" phenomena that mental traumas made the human body into a rigid,
armored one characterized by shallow breathing. However, Freudian psychoanalysis utilized only
the mental and intangible dream analysis and free association while ignoring the visible bodily
outcomes carved by suppressed mental traumas. The history of body psychotherapy started
tragically in the academic sense but somatic factors in psychology have never been totally
discarded. A. Lowen's Bioenergetics, dance/movement therapy, sensory awareness, for example,
have shown the effectiveness of somatic psychotherapy by clarifying the mind-body interrelation:
The human body manifests the unconscious world. Because one of the most characteristic
psychosomatic problems has been found to be the rigidity of the body and the inability of deep
relaxation as Reich described, any practical somatic psychotherapy must be accompanied with
most effective relaxation method in any form.
By studying, experiencing and experimenting three distinguished psychosomatic approaches in
Japan such as 1) Takeuchi Toshiharu Lesson of recovering the authentic voice by working on
people's body, 2) Noguchi Taiso, a system of physical exercise pioneered by Michizo Noguchi
who regarded relaxation as decisive, and 3) Butoh dance, a Japanese avant-garde dance style
originated by Tatsumi Hijikata in 1950s, the author has confirmed that these approaches specialize
in relaxation, and that 1) even a simple relaxation task in Takeichi Lesson has been
experimentally found to be difficult for the most people because of the socially conditioned
unconscious bodily reactions, 2) Noguchi's utterly new body concept "the human body is a
leather bag in which bones, muscles, and viscera are all floating" is well perceived only when the
conscious control of the body is abandoned effectively, and 3) the suppressed traumas that have
been buried deep in the unconscious are most safely grasped when the socially avoided unusual
movements such as tremors, jerks, spasm, and so on are experienced as natural autonomic
movements in a therapeutic Butoh dance. The psychiatric and psychological studies related to the
key words were taken into account for a new practical somatic psychotherapy for integrating three
approaches above, and Body-learning therapy has been developed especially with cognitive
behavioral therapeutic approaches and with non-hypnotic suggestions toward the subconscious
world. Body-learning therapy, consisting of the bodily play phase, the relaxation phase, and the
confrontation phase, and with bodily movements and psychosomatic exercises, has been found
very pertinent to a wide range of people whose main complaints are psychosomatic.
Keywords: somatic psychology, Body-learning therapy, dance/ movement therapy, Butoh dance
method, ankoku Butoh, socially induced tension, labeling theory, cognitive
behavioral therapy, General Semantics, learned helplessness, double bind, trauma,
muscle armor, Bioenergetics, Ericksonian hypnosis, affordance, active imagination,
dissociative personality disorder, state dependent memory, post hypnotic suggestion,
hidden observer, altered state of consciousness, exorcism, need-hierarchy theory,
theory X theory Y, management behavioral science, bodily play, relaxation,
confrontation
(かさい としはる: 本学人文学部教授 臨床心理学科)
* http://ext-web.edu.sgu.ac.jp/kenkyuho/ ウェブサイト掲載版は正式版と頁数・行数が異なります。
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