【個人研究】 「状態」としての共感的理解の定義を再考する ─ロジャーズの記述の比較検討─ 小 林 孝 雄* Rethinking the Definition as a “State” of Empathic Understanding ─ A Comparison of Rogers’ Descriptions ─ Takao KOBAYASHI The purpose of this article is to examine the definitions of empathic understanding made by Rogers(Rogers, 1957. 1959. 1975). He defined empathic understanding (or being empathic) as a “state” at first, and later as a “process”. Some qualities of descriptions as follows were pointed out. The definition as a process includes descriptions about ‘to do’, but some descriptions express the actions that can not be directly realized. The definition as a state describes the quality of subjective experiences that can be directly realized in nature, but have problem how to realize ‘as if’ quality. The definition as a state is useful yet to consider realizing the therapists’ conditions. And the definition as a process is useful rather in clinical practices. にせよ、そもそも自らの主観的体験を言語化 1. 問題と目的 しようとした試みの結果、それぞれの時点に おける、ロジャーズ本人が満足する記述なり 本論の目的は、「共感的理解 empathic under- 定義が存在しているのだと考えられる。 standing」を、治療者の体験の「状態」として 読み手である他者が、ロジャーズの主観的 記述することの意義を再考することである。 体験を、その記述から推し量ろうとする場合、 ロジャーズ(Rogers,1975)は、「最近の定 読み手が正しくその体験( 「状態」なり「プロ 義」とした上で、共感を、「状態 state」という セス」)を理解することができる記述と、当の よりむしろ「プロセス process」として記述し ロジャーズ本人が満足できる記述とは、必ず たほうが、自ら満足できる、と述べている。 しも一致しない可能性があると考えられる。 以後、 「共感的理解」ないし「共感的ありよう」 また、ロジャーズの記述の読み方によっても、 は、「プロセス」であり、対人関係における 読み手に生じる理解には違いが生じることに 「ありよう being」である、というとらえ方を なるだろう。読み手である他者が、ロジャー されることが多く、「状態」ととらえることは ズの主観的体験を理解しようとする際、残さ 少なくなっているように思う。 れている記述の性質を正しくとらえ、自らの しかしながら、「状態」にせよ「プロセス」 ──────────────────── 主観的体験と照合しながら、記述と対話して いくことが必要であろう。 本論は、代表的なロジャーズの定義的記述 * こばやし たかお 文教大学人間科学部臨床心理学科 ─ 67 ─ 『人間科学研究』文教大学人間科学部 第 26 号 2004 年 小林 孝雄 を取り上げて検討し、読み手として、読み手 ある。 にとっての他者であるロジャーズの主観的体 ①他者の私的な知覚的世界に入り込み、完全 験を理解するためには、「状態」としての記述 が意義を持つとの考えを示すことを目的とす にくつろぐこと、を意味する。 ②瞬間瞬間、この他者の内部に流れる感じら る。 れた意味に対して、敏感 sensitive であるこ とが含まれる。恐れであれ、憤怒であれ、 2. 「プロセス」としての記述 やさしさであれ、困惑であれ何であれ、そ ロジャーズが、「共感」について、「定義」 の他者が体験していることに対して、であ として記述しているもっとも新しい(晩年の) ものである記述が、1975 年論文の記述である。 る。 ③一時的にこの他者の人生を生きること。評 この記述において、ロジャーズは、かつて 価を下すことをせずにその人生の中を繊細 (Rogers,1957.1959)「状態」として記述し に動き回ること。この他者が、ほとんど気 た共感的理解を、むしろ「プロセス」とした づいていない意味を感じる sensing こと、し ほうがふさわしいとして、 「共感的」ありよう、 かし、その人の気づきにまったくのぼって として記述している。 いない感じを明るみに出さないこと、なぜ はじめに、この 1975 年の記述を検討してみ たい。 ならそれはあまりに脅威でありうるから。 ④この他者の世界を、自分が新鮮な恐れのな まず、「プロセス」とは、オックスフォード い目で、どのように感じ sensing たのかを伝 現代英英辞典(第 4 版)によると、「1.series 達することが含まれる。 of actions or operations performed in order to do, ⑤常に、自分の感じ sensing の正しさについて、 make, or achieve something : 2.method, espe- この他者と検証すること。そして受け取っ cially one used in industry to make something : た反応に常にガイドされていること。自分 3.changes, especially ones that happen naturally は、その人にとって、その人の内的世界の and unconsciously :」という意味であるとい 信頼できる同伴者である。 う。 ⑥その他者の体験過程 experiencing の流れに含 筆者は、ロジャーズの 1975 論文における記 まれる、可能な意味を指し示すことによっ 述は、上記 1.の意に近いのではないかと考 て、その他者自身が、この便利で有用な照 える。つまり、そこで記述されていることは、 合先に焦点付けることを助け、その意味を 一連の行為や操作、という意味を持っている より豊富に体験すること、そして体験して のではないか。したがって、「初期の定義」と いるということにおいて前進することを助 当該論文で指摘されている、「状態」としての ける。 記述は、治療者の「体験の特質」であったの (Rogers, 1975) に対して、1975 論文における記述は、「行う こと」を述べている、といってよいのではな 読み手は、この記述によってロジャーズが いかと考える。「体験の特質」と「行うこと」 言わんとしたプロセスを、何とか推し量る作 との間には、大きな違いであるといえよう。 業を行う必要があるといえよう。しかしなが 実際の、「プロセス」としての定義は次のよ ら、本論では、読み手がその状態を理解でき うな記述である。(引用中の数字ならびに改行 るかどうか、という視点から、やや批判的に は、筆者が便宜的に用いたものである。) 検討してみたい。 共感的と表現できるようなありようで、他 者とともにいることには、いくつかの側面が 3. 「プロセス」としての定義を批判的 に検討する ─ 68 ─ 「状態」としての共感的理解の定義を再考する─ロジャーズの記述の比較検討─ 上記の番号に沿って、記述を検討してみた ところで、この記述で問題にしたいのは、 い。特に、主観的体験を記述したものである その sensitive である対象である。「他者の内部 この記述を、読み手が理解できるのか、読み に流れる」ものを、直接感知する五感をわれ 手自身再現することを試みることに寄与する われは持っていない。したがって、五感を通 のか、という視点で検討してみたい。 して得られる情報から、間接的に、小さな変 化を測ることしかできない、と考えるのが現 ①「他者の私的な知覚的世界に入り込み、完 実的であろう。あくまで、間接的に可能であ 全にくつろぐこと、を意味する。」 ることの表現である、と考えるべきであると まず、私的な(知覚的)世界に、他者が入 思う。 り込む、という表現は意味を理解できないと 考える。私的、という意味は、他者が入り込 ③「一時的にこの他者の人生を生きること。 むことができない、ということを意味として 評価を下すことをせずにその人生の中を繊 含んでいると考えるからである。個々人は、 細に動き回ること。この他者が、ほとんど それぞれの私的な世界に生きており、それぞ 気づいていない意味を感じる sensing こと、 れがそれぞれに入り込んだり、出たり入った しかし、その人の気づきにまったくのぼっ りすることはできないであろう。 ていない感じを明るみに出さないこと、な 入り込むことができないとするならば、完 ぜならそれはあまりに脅威でありうるか 全にくつろぐ、ことも不可能である。 ら。」 この表現は、そのままの表現としては意味 他者の人生を生きることは①同様に不可能 を理解できない表現で、「比喩」として成立す であると考える。比喩と考えるのが現実的で る表現である、と捉えるのが現実的ではない あろう。 かと考える。 他者が気づいていない、他者にとっての意 味を感じることは、それを直接感知する感覚 ②「瞬間瞬間、この他者の内部に流れる感じ られた意味に対して、敏感 sensitive である 器官を持たない以上、やはり②と同様、間接 的にのみ可能である。 ことが含まれる。恐れであれ、憤怒であれ、 他者の気づきにまったくのぼっていない感 やさしさであれ、困惑であれ何であれ、そ じを「感じる」ことが、いったい可能なので の他者が体験していることに対して、であ あろうか。たとえ可能であったとしても、や る。」 はり間接的にのみ、であろう。 まず、sense の意味を確認しておきたい。オ ックスフォード現代英英辞典第 4 版によれば、 ④「この他者の世界を、自分が新鮮な恐れの 動詞としての sense は、「become aware of ; ない目で、どのように感じ sensing たのかを feel :」とある。また、名詞としての sense は、 伝達することが含まれる。」 第一にいわゆる五感を通して世界を知ること これは可能であると考える。感じた内容が が 1.として記され、「2(a). appreciation or どのようなものであるかはともかく、感じた understanding of the value or worth of some- 内容を伝達することは、直接可能な行為であ thing :(b). consciousness of something ; るから、である。 awareness :」とある。 また、sensitive の意味としては、傷つきや ⑤「常に、自分の感じ sensing の正しさについ すいなどのほかに、とても小さな変化を測る て、この他者と検証すること。そして受け ことがきる、という意味もある。記述にある 取った反応に常にガイドされていること。 sensitive は、後者の意ではないかと考える。 自分は、その人にとって、その人の内的世 ─ 69 ─ 『人間科学研究』文教大学人間科学部 第 26 号 2004 年 小林 孝雄 界の信頼できる同伴者である。」 ーズがいわんとした主観的体験を理解するた その他者の世界について感じたことである めには、指摘したような表現の性質をもって から、当のその他者とともにその感じの正し いることを理解しておく必要があると思うの さを検証することは、可能なことであり、ま である。 た実際的なことであろう。 後半部、ある人の内的世界に、他者が同伴 4. それでは次に、状態としての記述について 者となることは不可能であろう。この表現は、 ①同様に比喩と考えるのが現実的ではないか 「状態」としての定義的記述 検討したい。 はじめに、状態 state とは、オックスフォー と考える。 ド現代英英辞典第 4 版によると、「1.condi⑥「その他者の体験過程 experiencing の流れに tion in which a person or thing is(in circum- 含まれる、可能な意味を指し示すことによ stances, appearance, mind, health, etc.)」である って、その他者自身が、この便利で有用な という。 照合先に焦点付けることを助け、その意味 先述のプロセスとの大きな違いは、行為や をより豊富に体験すること、そして体験し 操作でなくてもよいこと、そしてそれらの連 ているということにおいて前進することを 続ではなくある瞬間の記述でもよいこと、と 助ける。」 いう点であることを、はじめに指摘しておき 他者の内部に流れている体験過程を、直接 たい。 では、ロジャーズが定義的に記述した、 感知する感覚器官を私たちは持っていない。 したがって、そこに含まれている意味を、他 1959 年と 1957 年の記述を検討する。やはり、 者が「直接」知り、指し示すことはできない、 読み手がその主観的体験を理解できるか、そ と考える。五感によって感知できる情報から、 の体験を再現することに寄与するか、という 間接的に、他者の体験過程を感知することは 観点から、検討したい。 可能であるかもしれない。しかし、いったい どこで感知するのであろうか、という疑問は (1)1959 年論文の記述 共感という状態、ないし共感的であること、 残る。感じ取る側の体験過程を頼りにするし は、他者の内的照合枠 internal frame of refer- かないのではないか。 記述の後半、他者が、他者自身の体験過程 ence を、正確さをもって、すなわちそこに付 に焦点付けるように手助けすることは、直接 与されている情緒的内容や意味とともに、あ 可能な行為と考えてよいのではないか。 たかもそのひとであるかのように、知覚する perceive すること。しかし、「あたかも、であ 以上、順に記述を検討してきた。この記述 るかのように」という条件を決して失わずに、 の特徴として指摘したいことは、(1)比喩が そうすること。すなわち、他者が感じる sense 含まれていること、したがって、どういうプ ように、痛みや喜びを感じ sense、それらの情 ロセスをその比喩が表現しているのかを理解 緒を引き起こしているものを、他者が知覚し する必要があるということ、(2)直接行うこ ている perceive ように、知覚する perceive こと、 とは不可能すなわち間接的にしか実現できな しかし、決して「あたかも」自分が痛んだり い行為が含まれていること、である。つまり、 喜んだりしている、ということの認識を失わ どういうプロセスであるか、を理解すること ないこと、を意味する。もし、この「あたか は、非常に困難な表現である、と考える。 も、かのように as if」という特質が失われる この記述に意味がないといっているのでは ない。読み手として、この記述から、ロジャ ならば、それは同一視のひとつの状態である。 (Rogers, 1959) ─ 70 ─ 「状態」としての共感的理解の定義を再考する─ロジャーズの記述の比較検討─ それは刺激が有機体に与えるときに意識され (2)1957 年論文の記述 るものである。」(Rogers, 1959) 共感(Empathy) 第 5 条件は、治療者が、クライエントが自 これは、知覚とは単なる感覚刺激に対する 分自身の体験に関して気づいていることにつ 感覚器官の反応だけでなく、過去の経験など いて、正確な共感的理解を体験していること、 も用いて、その刺激を発しているもの(物体 である。クライエントの私的な世界を、あた であれ人物であれ)を予測し認識する、とい かも自分自身の私的な世界であるかのように、 う意味をもたせている、と考える。 感じ取る sense こと、しかし、決して「あたか 辞書的な定義にせよ、ロジャーズによる意 も、かのように」という特質を失わないまま 味にせよ、知覚 perceive することは、私たち で、そうすること−これが共感であり、そし が直接可能な行為である、と言ってよいと思 てこれは治療に不可欠のようである。クライ う。つまり、「私的世界に入り込む」という表 エントの怒りや怖れや混乱を、あたかも自分 現のように、(表現として)不可能な行為では 自身のものであるかのように、感じ取ること、 ない。 しかも、自分自身の怒りや怖れや混乱を、そ さて、ここで検討したいことは、その知覚 こに混入 bound up in させないようにしたまま する対象についてである。他者の内的照合枠 で、そうすること、これが私たちが記述しよ というものは、知覚できる類のものであるの うとしている条件である。クライエントの世 か。 界が、治療者にとってこれほどの明確さを持 知覚の辞書的な意味からすれば、それが ったものとなり、治療者がその世界の中を自 「他者の内的」なものであるため、直接知覚す 由に動き回るようになると、治療者は、クラ ることはできないと考える。それを直接感知 イエントが明瞭にわかっていることについて する感覚器官をもたないから、である。 の治療者の理解を、コミュニケートすること ところで、「内的照合枠」とは、ロジャーズ ができ、クライエントがほとんど気づいてい の当該論文では、次のように記述されている。 ないクライエント自身の体験の意味を、言い 表すこともできる。(Rogers, 1957) 「この用語は、その個人が意識する可能性 のあるあらゆる経験を言う。つまり、意識に (3)記述の検討 はいってくる可能性のある感覚、知覚、意味、 ① 1959 年論文の記述 記憶などのすべてが含まれる。 まず、perceive の意味を確認する。オック この内的照合枠は、個人の主観的な世界で スフォード現代英英辞典第 4 版によれば、「1. あって、それを十分に知っているのは、当の become aware of(something / somebody); 本人だけである。他者は、それを共感的に推 notice; observe;」とある。ちなみに同辞典では、 し量る以外には、決して知ることができない notice は「be aware of; observe」、observe は ものである。しかも、そのようにしても、完 「see and notice; watch carefully」とある。 全に知ることはできない。」(Rogers, 1959) なお、当該論文において、ロジャーズは概 念の整理をしており、知覚 perceive について は以下のような記述が含まれている。 この記述から、筆者には、「内的照合枠」と は、主観的体験とほぼ同義のように思える。 仮にそう読みとるとすると、知覚の対象とな 「われわれ独自の定義として、次のように 述べておこう。すなわち、知覚とは、行為 っているものは、他者の主観的体験であると いうことになる。 (action)のための仮説ないし予見であって、 ─ 71 ─ ここで、検討を記述の先に進めてみたい。 『人間科学研究』文教大学人間科学部 第 26 号 2004 年 小林 孝雄 痛みや喜びを感じる sense ことは、私たちが直 える。 接できることである。またそれらの情緒を引 自分が感じ取っている私的な世界であるわ き起こしているものを知覚することも、私た けであるから、そこで怒りや恐れや混乱を感 ちが直接できることである、と言ってよいと じることは、 「直接」可能な行為であり、また、 考える。 自由に動き回ることも、「直接」可能なことと 「内的照合枠」に戻って考えると、「自分自 なる。 身の」内的照合枠は、直接知覚することがで したがって、この記述で表現されている内 きる、と言ってよいのではないか。一方「他 容は、直接可能であると考えてよいのではな 者の」内的照合枠は、直接知覚することは不 いか。 可能である。が、 「自分自身の」内的照合枠が、 「あたかも、他者のようであるかのように」不 ③「あたかも、かのように」の重要性 完全ながらもなることは、体験の特質として、 このように、1959 年の記述、ならびに 1957 比喩ではなく、直接可能な表現ではないかと 年の記述を検討してみた。それは、上述のよ 考える。 うに裏返して表現した、とでもいえるような つまり、この記述で表現されている内容は、 検討であったかもしれない。以下のようにま 直接可能であると考えてよいのではないか。 とめてみたい。 ② 1957 論文の記述 きるものである。その「内的照合枠」を、あ 自分自身の「内的照合枠」は、直接知覚で まず、クライエントの私的な世界を、直接 感じ取る sense ことはできない。それが、私的 たかも他者のそれであるかのようにすること は、可能な行為を表現していると考える。 な世界、の意味に含まれていることであるか 自分自身の「私的な世界」は、直接知覚で ら、である。しかし、この記述では、クライ きるものである。その「私的な世界」を、あ エントの私的な世界を直接感じ取る、とは記 たかも他者のそれであるかのようにすること 述されていない。「あたかも自分自身の私的な は、可能な行為を表現していると考える。 世界であるかのように」という条件がついて いる。 したがって、「プロセス」としての定義に含 まれていた、不可能な表現、比喩としての表 ところで、「自分自身の」私的な世界は、直 接感じ取る sense ことができる。これは直接可 現ではなく、直接実現可能な状態が表現され ている、と考える。 能なことである。この感じ取っている自分自 ところが、問題は、 「あたかも、かのように」 身の私的な世界が、不完全ながらも「あたか することは、どのようにして可能なのか、と もクライエントの私的な世界であるかのよう いうことが記述されていないという点である。 に」なることは、可能なことではないかと考 記述されている表現自体には、すでに不可能 える。 な表現は含まれていないと考えるのであるが、 直接感じ取ることができる、という表現に それを実際に実現する(「あたかも、かのよう 疑う余地がない対象は、自分自身の私的な世 にする」)ために、どのようにしたらよいのか、 界なのであるから、「クライエントの私的な世 については記述されていない。「状態」として 界を、あたかも自分自身の私的な世界である の「共感的理解」の記述は、そのような性質 かのように、感じ取ること」という、ロジャ のものである、と指摘したい。 ーズの表現よりも、「感じ取っている自分自身 ところで、そのように、「あたかも、かのよ の私的な世界を、あたかもクライエントの私 うに」するための表現が記述されていないに 的な世界であるかのようにすること」、という せよ、1959 年論文も 1957 年論文も、「体験の 表現の方が、現実的であるように筆者には思 特質」を記述したものであるから、共感的理 ─ 72 ─ 「状態」としての共感的理解の定義を再考する─ロジャーズの記述の比較検討─ 解を「する側」の、主観的体験の立場に一貫 はないだろうか。主観的体験の「状態」とし して立って記述を試みた、といえるのではな て、「共感的理解」を記述する意義が、ここに いか。その点で、「状態」としての記述は、共 あると考えるのである。 感的理解を「する側」の立場として、ロジャ ーズが記述しようとした主観的体験の特質を (2)実践の手がかりのために 理解するために、有用な記述であると言える のではないかと考える。 「プロセス」としての記述には、 「すること」 が記述されてあった。 一方、「プロセス」としての記述は、共感的 「共感的理解」という条件の実現を目指し 理解を「する側」の主観的体験の立場を、は ながらも、実践に携わる者は、日々の実践活 み出している、と筆者は考える。例えば、共 動を行わなければならず、その点では、「する 感的理解を「する側」が直接感じることがで こと」に関する記述は大きな手がかりとなる。 きない、「他者の体験過程」が持ち出されてい 本論では、定義や表現にこだわったが、ロ る点から、そう考えている。したがって、読 ジャーズという実践家のさまざまな記述は、 み手が、ロジャーズの主観的体験を理解する、 自らの実践の手がかりとして利用できるもの という観点からみて、定義の新旧に関わらず、 が豊富にあると思う。それは「状態」として 「状態」としての記述には、依然として意義が あると考える。 の記述についても同様のことが言えるであろ う。 「プロセス」としての定義が提出されたの 5. 「状態」ならびに「プロセス」とし ての記述をどう利用するか (1)治療者の「条件」の実現のために であるから、これまでの「状態」としての定 義は省みる必要がない、というわけではない だろう。先述したように、そのときそのとき 「共感的理解」は、「治療的人格変化の必要 で、ロジャーズ自身が満足する、自らの主観 十分条件」、あるいは治療者の「3 条件」、中 的体験に関する記述が残されていると考える 核条件、の一つとされ、その条件の実現が目 ならば、定義の新旧にこだわりすぎず、自ら 指されることが、有益であると考えられてい の臨床実践の支えとして利用できるものを、 る。しかし、実際に条件を実現するために 自らの体験と照合しながら吟味し、利用して 「具体的にどうしてよいかわからない」という いくことが現実的なのではないだろうか。(ま 批判が、クライエント中心療法学派の内外に た、それはロジャーズというひとりの実践家 はある(河合,1970.佐治他,1996.P.50.、 に限って言えることでもないだろう。) 諸富,1997.P.213. ) たとえば、定義的ではないものには、つぎ どう具体的に実現するか、は、他のロジャ のようなロジャーズの記述がある。 ーズの記述をたよりにするなどして、個々人 に課されている課題である部分が大きいのか もしれない。 このようなことを考え、文章にすることに よって、私のなかではっきりしてきたのであ しかし、先述のとおり、「状態」としての記 るが、セラピストの観点では、私は相手の内 述は、共感的理解を「する側」の体験の特質 的世界を仮定的に描写したり描いてみること を、「する側」の主観的体験の立場に立って記 によって、クライエントに対する私の理解を 述されたものである。 「あたかも、かのように」 検証し続けていけるのであろう。私のクライ をどう実現するのか、という大きな問題は残 エントにとって、このような応答は、それら っているものの、体験の特質の「状態」を、 が最善のものであれば、その瞬間のクライエ 詳細に記述していく作業により、その「状態」 ントの世界を構成する意味や知覚についての に至る方途を見いだすことが可能になるので 鏡に映し出された明瞭な像‐明確化を促し洞 ─ 73 ─ 『人間科学研究』文教大学人間科学部 第 26 号 2004 年 小林 孝雄 察を生み出す像‐となることを私は認知する ズの代表的な記述をとりあげ、「プロセス」と ことができるのである。(ロジャーズ,1986) しての記述と、「状態」としての記述それぞれ の性質と意義を検討した。 「プロセス」としての記述は、「すること」 また、佐治(1983)は、ロジャーズの「対 人関係的仮説検証過程」の解説の中で、つぎ が記述されている点で有用である一方、比喩 のような記述をしている。少々長いが引用す としての表現や、直接実現不可能な表現が含 る。「プロセス」としてのロジャーズの記述 まれていることが指摘された。 「状態」としての記述は、共感的理解を (とくに⑤⑥)に、関連する内容が、より具体 「する側」の主観的体験の立場に立ち、実現可 的に記述されていると思われる。 能な表現であることが評価できる一方、「あた 換言すれば、あなたの私的な意味の世界の かも、かのように」という特質をどう実現す 内部に対して、私の理解が正しいかどうか るかという大きな問題をもつことが指摘され (私の主観的知があなたの体験過程に照合して た。 そして、「共感的理解」という、主観的体験 マッチしているかどうか)を問うのである。 治療における技法といわれているものは、こ の特質の実現のためには、「状態」としての記 の照合の仕方、問いかけかた、あなたに仮説 述が、依然として意義があることが指摘され の検証に参加してもらうためにどのような私 た。 のあり方があるかを問うのである。私は単純 また、「状態」「プロセス」にかかわらず、 に、私の仮説(あなたがこうではないかと私 ロジャーズをはじめとする実践家の記述は、 が思っているもの)が正しいかどうかを問う 日々の実践のために利用する価値があること こともできるだろう。しかしこのやり方は、 が指摘された。 しばしばはなはだ不適当で、あなたの私的な 世界を指し示すのに向いていない。私はあな たの身振り、言葉、声の抑揚などを観察し聞 き感じ取って、これらにもとづいての推測を なし、その主観的検討の過程を相手に伝える。 クライエント中心療法と呼ばれるものの本 質は、あなたにとって心理的に、あなたの内 的なレファランスの枠組みを開示するのに安 全で報酬の多い場面を、治療者である私が準 備することである。この安全で報酬の多い物 を準備するといわれていること自体が、ここ での、対人関係の場における相互検証のあり 方の本質である。(p. 198) 以上のような例にあるような記述は、「する こと」として、実践のてがかりになるだけで なく、条件の実現を検討する上でも、意義が あると考える。 6. まとめ 本論では、「共感的理解」に関するロジャー 文献 河合隼雄 1970 「日本におけるロージァズ理論の 意義」 教育と医学 18(1) 諸富祥彦 1997 『カール・ロジャーズ入門‐自分 が“自分”になるということ‐』 コスモス・ラ イブラリー。 Rogers, C. 1957 The necessary and sufficient conditions of therapeutic personality change. Journal of Consulting Psychology, 21, 95-103. Rogers, C. 1959 A theory of therapy, personality, and interpersonal relations, as developed in the client − centered framework. In Koch, S. (Ed.) Psychology:A study of a science. Vol3. Formulations of the person and the social context. McGraw-Hill. p. 184-256. Rogers, C. 1975 “Empathic: an unappreciated way of being” The Counseling Psychologist, 5(2),2-10. Rogers, C. 1986 Reflection of feelings and transference. Person − Centered Review, 1(4), 375 − 377. (伊藤博・村山正治監訳 2001 『ロジャーズ選 集』 p. 152 ‐ 161.誠信書房。) 佐治守夫 1983 「クライエント中心療法の理論 的・実践的な展開」 佐治守夫・飯長喜一郎編 ─ 74 ─ 「状態」としての共感的理解の定義を再考する─ロジャーズの記述の比較検討─ 1983 『ロジャーズ クライエント中心療法』 p. 183-205. 有斐閣新書。 佐治守夫・岡村達也・保坂亨 1996 『カウンセリ ングを学ぶ』 東京大学出版会。 ─ 75 ─
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