ドヴォ研ノート - 名古屋市民コーラス

名古屋市民コーラス
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ドヴォルザーク研究会
ドヴォルザーク研究会
ドヴォ研ノート
第1号
平成23年4月26日(火)発行
「ドヴォ研ノート」発刊に寄せて
ドヴォルザーク研究会は2月25日に発足しました。参加メンバーは12名。発足以来会合を重ねて本日「ドヴォ研ノー
ト」第1号を発行することになりました。今後月1回を目途に発行していく予定です。当研究会では19世紀半ばにボヘミ
アで生まれたドヴォルザークの生涯を追い、その時代や風土を考察していきます。また名曲「スターバト マーテル」をい
ろいろな角度から研究していきます。これらの研究成果を「ドヴォ研ノート」で報告し、それが作曲家と作品の理解を深め
ることに繋がることを願っています。固い話題ばかりでは退屈しますので面白いエピソードなどを探して掲載できればと
思っています。皆様からの情報も大歓迎です。愛される「ドヴォ研ノート」を目指してメンバー一同頑張っていきますので
ご声援の程よろしく。
尚「ドヴォ研ノート」以外にも、私達は5月の特別練習時に学習会を計画しています。とっても有意義な企画を着々と
準備しておりますのでお楽しみに。
ドヴォルザークの生涯
[ドヴォルザーク研究会長
B.池田]
<幼少の時代、少年期>
アントニーン・レオポルド・ドヴォルザークは、1841年9月8日ボヘミアの
小さな村ネラホゼヴェスで、居酒屋(宿屋)兼肉屋を営むフランチシェクとそ
の妻アンナの間の9人兄弟の長男として生まれた。両親は敬虔なカトリック
信者であり、父フランチシェクは歌がうまくてヴァイオリンとツィターを演奏す
ドヴォルザークの故郷、ネラホゼヴェス村
るほどの音楽好きでもあった。
ドヴォルザークが幼少の頃は工業が著しく発展した時で、蒸気船がモルダウ川の航
行を開始したり、鉄道がウィーンから生家のネラホゼヴェスを経由してプラハへ開通して
いた。幼い時期に鉄道工事を間近に見て楽しんだ経験から、生涯、蒸気船や鉄道に特
別な興味を示すこととなったようである。
音楽好きであった父は、ドヴォルザークが6歳になるとすぐ、教室がひとつしかない小
学校のヨゼフ・シュピッツ先生のもとでヴァイオリンを習わせることにした。8歳になると教
会の少年聖歌隊員となり、更に翌年(9歳)には父が指揮する村のアマチュア小楽団で
ヴァイオリンを弾くようにもなった。10歳の頃には既にヴァイオリン演奏や歌唱の分野で
音楽的な才能を見せ始めた。この小さな村では教会で聖歌隊が厳粛なミサのあとに民
父のフランチシェク
謡を歌ったり、居酒屋で踊りに合わせて民謡を歌ったりするのであったが、小学生のア
ントニーン(ドヴォルザーク)もヴァイオリンでそうした民謡を弾いている。楽しく田舎の民
謡を聴いたり弾いたりしながらの中で育った幼年期であった。
父親はアントニーンが音楽的な才能を見せ始めたことを非常に喜び、その才能を伸
ばしてやろうとした。ただ、プロの音楽家にするつもりは毛頭なかったようで、アントニー
ンが13歳になると、肉屋の職人になるためと、ドイツ語を習得させるために隣町のズロ
ニツェの叔父のもとで2年間の修行をさせることにした。(ボヘミアは当時ハプスグルク帝
国の統治下であり、公式言語のドイツ語が出来ないと良い仕事が出来なかった。)
そしてアントニーンは職人としての資格を獲得した。叔父は子供がいなかった為、養
幼年時代のドヴォルザーク
育費を援助する余裕があったようだ。
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こうしてアントニーンはズロニツェのドイツ市立実業補習学校に通い、校長のアン
トニーン・リーマンからオルガン、ピアノ、チェロ、音楽理論を学んだ。リーマンはドイ
ツ語の教師でもあり、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務めた他、舞曲や
教会音楽の作曲家としても知られた人であった。このリーマンこそ、ドヴォルザーク
の音楽の才能を開花させた恩人といえるであろう。ドヴォルザークは後にオペラ「ジ
ャコバン党員」の中にリーマンをモデルとした合唱指揮者ベンダを登場させ、彼に
ドヴォルザークの生家
敬意を表している。
15歳になると、教育熱心な父親は更にドイツ語を勉強させるため、北ボヘミアの
チェスカー・カメニツェのドイツ系の粉屋へ当時ボヘミアで恒常的に行われていた
交換ホームステイで行かせた。ここでアントニーンは1年間、同地の市立学校でドイ
ツ語を学ぶ傍ら、町の教会で合唱指導をしていたフランティシェク・ハンケ(オルガ
ニストで聖ヤコブ教会聖歌隊長)に出会い、和声とオルガン演奏の指導を受けた。
ところが父親が経済的な行き詰まりを起こしたため、アントニーンは肉屋の仕事を
手伝うように呼び戻され、将来の職業の選択を迫られた。父親は修行してきた肉屋
の仕事に就く事を望んでいた。しかしリーマンと叔父のズデニェクがアントニーンの
ズロニツェの町
音楽才能を生かしてプラハで本格的に勉強をしてみるべきだと父親に熱心に勧め
たため、「どうせ音楽家になるならば実用的で収入が安定したオルガニストにな
れ。」と条件をつけて渋々プラハ行きを同意した。こうしてアントニーンは居酒屋にも
肉屋にもならずに済み、プラハ・オルガン学校に進学することとなった。1857年16
歳のアントニーンは期待と希望に胸を膨らませつつ、農民の干草用の荷馬車(鉄
道より安かった)に揺られて、プラハへと旅立った。
[生涯班: S.矢口]
《参考文献》 「ドヴォルジャーク」 内藤久子 (音楽之友社)
「ドヴォルザーク」 クルト・ホノルカ
岡本和子 訳 (音楽之友社)
ドヴォルザークその時代
■
リーマン先生
①
チェコスロバキアの歴史
1993年1月1日、チェコ共和国とスロバキア共和国になるまでの両国の歴史は、他のヨーロッパの国々と同じように
複雑な時代を経て現在に至った。これから数回にわたって、チェコの大雑把な歴史を9世紀から振り返り、ドヴォルザ
ークの生きた19世紀までを描いてみたい。
[建国の推移]
レヒ王国(後のポーランド)
■ 1800年代以前のチェコの歴史
ボヘミア王国
支配する
(スラブ人による国家)
[9~13世紀] 9世紀、チェコ地域にスラブ
人によるモラビア王国(830~903年)が興り、
ビザンチン文化を摂取し急速に栄え、宗教
モラビア王国
衰退し、滅亡へ
[チェコ]
(9世紀)
においてはキリスト教が広まっていった。スラ
進出する
ハンガリー王国
マジャール人(後のハンガリー人) (マジャール人による国家)
[スロバキア]
ブ語によるミサ曲も歌われている。9世紀後
半には、レヒ王国を支配下に置き、その後マジャール人(後のハンガリー人)の進出により衰退し滅亡する。そしてチ
ェコはプシェミスル家によりチェコ諸族が統一され、ボヘミア王国を建国する。一方スロバキアは、モラビア王国を倒し
たマジャール人(後のハンガリー人)によって支配され、ハンガリー王国の一部となった。13世紀にモンゴルの侵入を
受けたもののその後盛り返し、周辺の地域を領土化して東欧の大国へとなっていく。こうしてチェコとスロバキアは第1
次世界大戦後まで、別々の歴史を歩むことになる。
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[14~17世紀] 14世紀ボヘミアは神聖ローマ帝国の支配下に入る
が、プラハは東欧の学術文化の中心となって栄え黄金期を迎える。
中世ドイツ・フランス・イタリアの音楽を取り入れ、ボヘミア音楽文化が
花咲いた。また中欧最初の大学(現カール大学)やカレル橋が建設
されている。16世紀以降にハプスブルク家の支配下となる。
ハンガリーは16世紀始めから17世紀末、東方のオスマン帝国に
征服され、オスマン帝国領ハンガリーになる。しかし17世紀になると
オスマン帝国が衰退し始め、台頭してきたハプスブルク家の下、オー
ストリア領となる。
これにより、ボヘミア(チェコ)とハンガリー(スロバキア)は1918年
までの400年にわたって、ハプスブルク家(オーストリア)に支配され
ることになる。
[時代背景班: S.天野、B.池田]
14世紀中頃のヨーロッパ
《参考文献》 「世紀末とナショナリズム」 ジム・サムソン編 三宅幸夫 監修 (音楽之友社)/ 「世界歴史シリーズ」 (世界文化社)
「世界文化シリーズ」 (世界文化社) / 「ドヴォルザーク」 クルト・ホノルカ 岡本和子 訳 (音楽之友社)
「世界原色百科事典」 (小学館)
深読み
スターバト
この詩は、〔Stabat:立っていた
マーテル
mater:母〕、このあとに〔dolorosa :悲しみの〕
とつづき、「悲しみの聖母」として有名。十字架に架けられたイエスの足元で、聖母
マリアが、我が子の死を嘆く様を描いた詩である。
これまでに何百もの曲がつけられ、ドヴォルザークの曲もそのひとつ。
* 詩は聖書からとられたの?
誰か作者がいるの?
ミケランジェロ 「ピエタ」
聖書にはこの詩のような情景の記述はありません。
唯一「ヨハネ福音書」の第 19章 25 節に〔イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹、クロパの妻マリアと
マグダラのマリアとが立っていた。〕とのみ記されていますが、「悲しみ・嘆き」などの表現は有りません。他の三つの福
音書(マタイ・ルカ・マルコ)にはこのような記述はなく、イエスの処刑の場にマリアがいたかどうかは曖昧です。この詩
の作者はイタリアの修道士ヤコポーネ・ダ・トーディ(1306没)とされてきましたが、近年は確認できないとして作者不明
ともいわれています。ただし少なくとも、13世紀のフランシスコ会(彼もそれに属す)に起源を持つと考えられます。
* どうして聖書には はっきりと書かれていないことなのに、マリアの悲しみを讃える詩ができたの?
いい質問ですね。
キリスト教成立の始めから、(古代の豊穣神、女神に結び付くものと
して)聖母崇拝は自然に広まっていたようです。とりわけ中世には、飢
饉、疫病、戦争などの悲惨な現実から、〔聖母の嘆きに心をかたむ
け、そのかなしみの功徳にすがりたい〕と、マリアが十字架のそばに
たたずむ場面など「悲しみの聖母」をテーマとした芸術が大流行し
た、そういう時代背景のなかでこの詩もつくられたのです。
ジオット「ピエタ」
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* 「マリア崇拝は、けしからん」と言う時代や宗派もあったと聞くけど、
「スターバト マーテル」は教会ではどのように歌われているの?
マリア崇拝の変遷についてはいずれ取り上げたいと思います、ご期待くださいね。
さて、この詩は始めからミサのために作られたのではなかったようで、大衆的な旋律を伴っ
たカンティクム(賛歌・聖歌)として普及しました。
受難週に〔聖母マリアのあわれみを記念する〕新しいミサ が導入されるに伴って、15 世紀
末にこの詩がミサのセクエンツィア(続唱)として用いられるようになりました。その後、教会でのミサの扱いはマリア信仰
をめぐる紆余曲折を経て、1727 年に教皇ベネディクトゥス 13 世により、「聖母マリアの七つの苦しみの祝日」(9 月 15 日)
に用いられるようになり現在に至ります。ローマ聖務日課書のなかでは、全体を3部分に分け、はじめの部分を晩課に、
Sancta mater istud agas 以下を朝課に、Virgo virginum praeclara 以下を賛歌に用いるとなっています。
今回はここまで・・・
《参考文献》
[作品班: A.三浦]
The New GROVE Dictionary of Music and Musicians-9/ 聖書の世界(自由国民社)/ 教会暦(教文館)/ 聖母マリア崇拝の謎(河出書房新社)
ラテン語
はじめのいっぽ
(1)ラテン語の概要、背景
ラテン語は、欧州のロマンス諸語(伊・仏・西・葡・ルーマニア)の「親」であり、ゲルマン語派(独、英他)やスラヴ語派
(露他)などの「親戚」です。ラテン語の起源は紀元前 12 世紀頃、今のローマ市内に住みついた印欧語族の一派にまで
遡ります。小さな集落の一方言が広く欧州で使われる言語の祖になった背景には、建都以来のローマの領土拡張と発
展があります。
ラテン語の形成にはギリシア文化が大きく寄与しています。ローマ人は紀元前 6,7 世紀頃エトルリア(古代イタリア半島
中部にあったとされる都市国家群)文化経由でギリシア文字と出会うと、それに手を加えて「ローマン・アルファベット」と
いう「文字」を作り上げました。これが現在も使われている「ローマ字」です。また、紀元前 2,3 世紀頃には、領土拡大に伴
って高度なギリシア文化(ギリシア变事詩、悲劇など)に直接触れることで、語彙の増加、文法の整理など、「言語」として
飛躍的な発展を遂げました。こうして紀元前 1 世紀頃には今に残るラテン語(「古典ラテン語」と呼びます)の基礎が確立
されました。またラテン語は、兵士や商人によってガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、スイス地方)やイベリア半
島、東欧に広がり、そこで土着の言葉と混じりつつ変化し、現在のロマンス諸国語の基ができていきます。西ローマ帝国
の滅亡(5 世紀)により肝心の「ラテン語を母国語とする国家」は消滅してしまいますが、しかしその後も、中世期はキリスト
教とともにミサ、宗教歌、宗教書などの形で受け継がれ、続くルネッサンス期には学術・教養の意味での地位を確立し、
現在に至ります。
この長い歴史の中で、「古典ラテン語」の中に各国の自国語式発音が混ざっていきました。これに対し、19 世紀末頃
から是正の必要性が唱えられ、学問の世界では古典期(紀元前 1 世紀頃)の発音に戻ろうとする動きが主流です。しか
しカトリック教会では、グレゴリオ聖歌の研究と共に発音もイタリア風にと提唱され、イタリア式を基礎とした「教会式(ロー
マ式)」発音が推奨されるようになりました。教会音楽もこれに倣うことになりましたが、長い間の慣習で、現在でもフランス
人は仏風、ドイツ人は独風、とそれぞれのお国式発音も聞かれます。「Stabat Mater」の中では、「virgo virginum」はイタ
リア式(ローマン・ラテン)では「ヴィルゴ ヴィルヂヌム」ですが、ドイツ式(ジャーマン・ラテン)だと「ヴィルゴ ヴィルギヌ
ム」です。(我々はイタリア式で歌います。)
ラテン語は死語とも言われていますが、ローマ・カトリック教会では今も使われていますし、我々が普段何気なく使っ
ている言葉にも姿を残しています。「午前」の「a.m.」(ante meridiem)、「追伸」の「p.s.」(post scriptum)、などがそれです。
こうしてみると死語というよりもむしろ「身近」といえるかもしれません。
[楽曲解説班: S.堀尾]
《参考文献》:大西英文「はじめてのラテン語」(講談社現代新書)/三ヶ尻正「ミサ曲ラテン語・教会音楽ハンドブック」(ショパン)
田中秀夫「羅和辞典」(研究社)
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